手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の食の歴史9 寿司の歴史雑学1
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

 Mail marcoice4321@ybb.ne.jp
このページの最終更新日:   19.09.25
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「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents




 東京の鮨屋で座って食べるようになったのは明治30年頃から

 海苔 板海苔が出来た理由など 19.06.26追記

 明治時代中期には地方にも握り鮨が伝わっていた 高知県での調理授業集本に作り方が記載

 1643年刊『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部」の全文

 『卵百珍』海苔巻卵のレシピなど 熊本県水前寺海苔、浅草海苔の記述も複数あり

 『卵百珍』鮒鮓のレシピ

 『料理物語』「指身」の全原文

 『守貞謾稿』の出版本『類聚近世風俗志』上巻 第五編生業下「鮨賣」の全原文

 鯖街道 鯖漁獲量激減の福井県、『鯖街道』復活への取り組み開始

 有明海の海苔 日本で海苔の大量養殖生産が始まったのは昭和中期

 刺身の歴史


  酢は古墳時代~江戸時代まで堺が主産地。
 いずみ酢・タマノイ酢

  膾は奈良時代の万葉集にも記述がある

 江戸時代の百科事典 重宝記

 熟鮓 鮓、鮨、寿司の違いと『すし』の始まり。

 生成鮓 滋賀県の鮒ずし
  秋田県の「ハタハタずし」、
  くさり鮓 (和歌山、千葉、栃木)
  鯖なれずし (和歌山) 雀寿司 (和歌山、大阪)

 飯すし と 杮こけら すし 徳川将軍 御用達
  尾張の宿継鮎鮨 と 岐阜の御鮨街道

 鯖街道 と 鯖寿司 1200年以上 福井~京都

 棒ずし と 箱ずし 
  和歌山の鮎ずし (棒ずしと箱ずし) など。
  大阪岬町のアナゴの押しずし。
  大阪の箱ずし (元祖の福本ずし、完成させた吉野ずし、バッテラ)
  江戸の箱ずし

 桶詰ずし 富山県の鱒ずし

 海苔
  島根県の岩海苔、板海苔の発祥は東京・浅草、
  青森県の島海苔、大阪の海苔

 海苔巻き寿司  名飯部類と素人庖丁
  細巻、鉄火巻、かんぴょう巻、カッパ巻、新香巻、
  ちらし寿司


 稲荷寿司 大坂発祥の可能性
  信太寿司と信太煮、卯の花ずしの分布は北前船航路に
  助六ずし

 握り鮨 発祥説は2軒ある

 参勤交代の待機所だった増上寺に鮨を出前した
 江戸の老舗

 握り鮨は手づかみで食べるものだったか?
  浮世絵にみる真実

 各地のすし 
  三重県の「てこね寿司」と「牡蠣の寿司」 
  香川県の「押し抜き」 岡山県の「ばら寿司」
  長崎県の「角ずし」 鹿児島県の「酒ずし」

 寿司と茶の関係 
  「あがり」の由来は遊郭。鮨屋の湯呑が大きい理由など



   江戸時代の主な重要文献と著者   江戸時代に出版された主な菓子の専門書

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

   
 
 守貞謾稿  類聚近世風俗志

  寿司の歴史は守貞漫稿に頼る部分が多いので原文を示しておきます。

  【守貞謾稿】もりさだまんこう (「守貞漫稿」とも)   コトバンク 『喜田川守貞』 Wiki 守貞謾稿
   随筆。喜田川守貞 (砂糖商北川家。大坂の人、1810~?。1840年に江戸深川に定住) 著。30巻、後編4巻。
   1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗研究に
   不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行


  国立国会図書館デジタルコレクションでは、2017年時点で「守貞謾稿」および出版本の「類聚近世風俗志」があります。
  「類聚近世風俗志」は出版社によって、まとめ方が違うようで、「守貞謾稿」原文の記述場所は異なるようです。

  「皇都午睡」は3巻だけが、著作権切れを確認をしているので公開されています。

  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿.  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9


 明治末年に刊行された「類聚近世風俗志の原文。 原文に忠実にする為できる限り旧字を探して使いました。

  上巻 第五編生業下鮨賣

 三都とも自店或は屋體見世にて賣之あり 唯京坂に巡賣之者無江戸にても或は童子筥に納て肩之或は
  御膳駕籠等を擔ぎ賣る因曰京坂にては方四寸許の箱の押ずしのみ一筥四十八文は鳥貝のすし也又こけらずしと
  云は鷄卵やき鮑鯛と並に薄片にして飯上に置を云價六十四文一筥凡十二に斬て四文に賣る又筥ずし飯中椎茸を
  入る飯二段になりたり又淺草海苔巻あり巻ずしと云飯中椎茸と獨活を入る京坂の鮨普通以上三品を專とす而も
  異制をなす店も稀に有之又鮨には梅酢漬の生姜一種を添る赤き故に紅生姜と云 

  又江戸にても原は京坂の如く筥鮨飯年は之て握り鮨のみ握り飯の上に雞卵やき鮑まぐろさしみ海老のそぼろ
  小鯛こはだ白魚蛸等を專とす其他種々を製す皆各一種を握り飯上に置く巻鮨を海苔巻と云干瓢のみを入る
  新生姜古生姜ともに酢につけず蒻蓼と二種をそゆる又毛ぬきずしと云は握りずしを一つヾつくま笹に巻て押たり
  價一つ六文ばかり毛抜きずしの他は貴價の者多く鮨一つ價四文より五六十文に至る天保府命の時貴價の鮨を
  賣る者二百人を捕て手鎖にす其後皆四文八文のみ府命弛みて近年ニ三十文の鮨を製するものあり

  又因日京坂押之時及これを器に盛る必ず葉蘭を用ふ又音物に用ふ時鉢重筥等は三都とも用或は京坂籜褁にす
  江戸自食には同之音物には麁折を用ふ白杉板製の折也俗にさゝおりと云又因云文政中大坂道頓堀戎橋南に
  江戸の握り鮨を學び製し賣る今に至りて此一戸あり天保中尾の名古屋にも傅製之店を開く後世三都ともに
  此製を專用するとに成る歟



  又因云文政末か大坂心齋橋通大寶寺町南に福本と云鮨店を開く杮鮨の雞卵鮑鯛等厚く二分ばかりにして賣
  大いに行れ忽ち他店にて擬製之するあれども大に行れてず蓋此店在て後京坂の鮨店改革して同之也
  鮨製一變す

  又因曰江戸は京坂より諸小賈多く特に鮨蕎麥の二店大畧毎坊在湯屋髪結床も大畧毎坊在之此四戸所無を
  稀とすすしそば店に改て餅菓子店多し

  又因云京坂の鮨酢味強くすを良とす近年江戸の製酢味甚だ淡し鮨の本意を失す又天保末年江戸にて油揚げ豆腐
  の一方をさきて袋形にし木茸干瓢等を刻み交へたる飯を納て鮨として賣巡る日夜賣之ども夜を專として行燈に
  華表を書き號て稻荷鮨或は篠田鮨と云ともに狐に因ある名にて野干は油揚を好む者故に名とす最も賤價鮨
  尾の名古屋等従來有之江戸も天保前より店賣には有之歟 蓋 兩國等の田舎人のみを專らとす鮨店に従來有
  之歟也


  上巻 第五編生業下 「茶飯賣

 京坂に無之江戸にて夜二更後賣巡之茶飯と餡掛豆腐を賣る蓋此類に用ふるあんは葛粉醤油烹を云也
  天保以來江戸にて稻荷鮨と號け油あげ豆腐を中を裂き紙の如くなして内に飯を詰めてうるを始る是も茶飯と同じ荷也


   は別の良く似た美表に違う漢字ですがIMEでは出ません。「廃れて」の意味と思われますのでを当てました。
    も同様「なお」という意味。は「食へんに余」の文字。フォントの違いか旧字と思います。

    籜褁(たく-せき) の訓読みは「たけのかわ」weblio辞書によると「握り弁当」の意味のようです。
    は訓読みで「ふくろ」。つまり籜褁は時代劇でもよく見られる竹の皮です。

  「鷄=鶏にわとり、けい」「雞けい」の違いは色々推測しましたが、(書いている年代、出版時ミス、鶏と軍鶏など)
  一つの文に同じ物を示す物に漢字と平仮名で表記されている物もありますので、「鷄卵」「雞卵」はどちらも「鶏卵」で
  あって違いはないと思われます。

  「筥=箱」「賣=売」「賈=買」「擔=担かつ・ぐ」「專=専」「獨=独」「淺=浅」「價=値あたい」「稻=稲」「號=号ごう(呼び名)」
  「學=学」「麁=粗」「齋=斎」「寶=宝」「變=変」「麥=麦」「畧=略」「兩國=両国」「來=来」「云=言」「歟=か」
  「葉蘭はらん、バラン」「音物いんぶつ=進物、贈り物、贈答品」「府命=幕府の命令」


  下巻 第二十八編食類」にも長文があります。






 
 【酢】
  講談社 カラー完全版 『日本食材百科事典 99.05.20 初版
  朝日新聞 コトバンク 『「なます」 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
   https://kotobank.jp/word/%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%99-108455
  マルカン酢 『酢の歴史』 http://www.marukan.com/health/sub/history.html
  三井酢店 『お酢の歴史』 http://www.rakuten.ne.jp/gold/321su/history.html
  Nakagawa diet 研究会 酢の歴史・製造・健康の研究  http://www.geocities.jp/nakagawadk/sub4.htm

  ≪ 酢 ≫  Wiki 酢

  酢は最も古い調味料の一つで、紀元前5000年頃のバビロニア(メソポタミア南部、現在のイラクの辺り)で、ナツメヤシ・
  干しぶどう から造られたという記録や、古代エジプトではクレオパトラが酢に真珠を溶かして飲んだと言われ、
  旧約聖書にも登場しています。

  古墳時代の応神天皇の時代に、酒の造り方と前後して中国から伝わり、和泉の国 (大阪府堺市) で玄米酢が造られた
  と言われています。

  645年の大化の改新~平安初期までの律令国家制度の時代、『養老律令』には「造酒司」が酒と酢を造っていた事が
  記載されています。酢は、奈良時代には酢漬けや膾の調理に用いられていました。

  【養老律令】ようろう‐りつりょう
   律・令各10巻の古代の法典。718年(養老2)藤原不比等ふひとらが編纂を開始、757年(天平宝字1)藤原仲麻呂の
   提案で施行。大宝律令とほとんど同文。
   中世に律は大半散逸したが、他の文献から内容を推定でき、令は大半が令義解りょうのぎげなど注釈書の本文として残る。

  平城京跡から「酢」と書かれた木簡も出土しています。

  奈良時代の伊豆 (静岡県) 『伊豆国正税帳』には「酒」とある項に「酢分」という字があり、悪くなった酒を酢の代わりに
  使用していたと思われているようです。

  【正税帳】しょうぜい‐ちょう 大税帳。税帳。
   律令制に基づき、各国で毎年作成された決算報告書。租や正税の出挙すいこによる収入支出を記載し、中央の
   行政命令を実施した証拠にする。
   「四度の公文くもん(律令時代の国司の行政・財政報告の中で重要なもの四種の事)」の一種。


  平安前期の『延喜式』の「造酒司」の頁には、米酢 (玄米酢) の詳細な造り方が記載されており、具台的な製造法の記録
  としては最古の記録。

  平安時代の辞書と言われる『和妙抄わみょうしょう』で、酢は「苦からと記載されているそうです。
  詳しい造り方の記述は、三井酢店 『お酢の歴史』 http://www.rakuten.ne.jp/gold/321su/history.html のサイトをご覧ください。

  平安時代の酢は、玄米酒から造った褐色の玄米酢と、後に作られるようになった酒粕から造った飴色の黒っぽい
  粕酢 (糟酢) かすずが一般的だったようです。
  玄米酢は高価な調味料で、貴族のみが食事をする際や、薬の一種として使われました。


  室町時代 1489(長享3)年頃成立したと思われる「四条流包丁書」には、それぞれの魚に合った「合わせ酢」が
  記載されています。

  【四条流】しじょう‐りゅう (料理の四条流の他に築山・造庭法の一派の四条流があります。)
   宮中で用いる膳部料理の一流派。平安前期の藤原山蔭(四条中納言、824~888年)を祖とし、室町時代に成立。
   貴人の慶賀の日に鯉などを調理することを職掌とした。

  本膳料理の確立 日本料理の祖と、四条流  四条司家 包丁儀式「長久の鯉」  Wiki 四条流庖丁道


  テレビ大阪 ニュースリアル関西 『関西企業のチカラ 「堺 タマノイ酢 創業100年」』 16.09.27 放送

  ≪ 酢の種類と特徴 ≫  下記リンクサイトでご覧ください。

  酢は酒に酢酸菌を加えて発酵させてつくります。
  右画像は、タマノイ酢の黒酢つくりの行程の一つ。黒く見える液体が酒、その上に浮いている
  帯状に見えるベージュ色が酢酸菌です。

  酢の健康百科 『お酢の種類と有効成分比較』 http://www.健康酢.jp/300/ent331.html
  ミツカン酢 『お酢の種類』 http://www.mizkan.co.jp/k-plus/information/osu/kind.html



  ≪ いずみ酢 堺のタマノイ酢≫  Wiki タマノイ酢

  堺は古墳時代から江戸時代まで主な酢の生産地。江戸時代中期の大坂で書かれた1697年刊『本朝食艦』に
  製法が書かれています。製造には1年ほどかかったようです。

  1668 (寛文8) 年の手書本『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう(内容から大坂人が書いたと思います) の「酢方 別傅」にも
  作り方が書かれてあります。
  黒米飯を使用、全ての物を清浄にしておかないと、酢が朽ちるなど書かれてあります。

  1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』(著者は大坂の医師 寺島良安、出版地は大坂) 巻七十六「和泉・紀伊・淡路」では
  和泉国の土産とさん(産する物)に「」の記載などがあります。

  詳しい造り方の記述は、三井酢店 『お酢の歴史』 http://www.rakuten.ne.jp/gold/321su/history.html のサイトをご覧ください。

  【本朝食鑑】ほんちょう-しょっかん  本朝…日本の朝廷。日本のこと。(「本朝○○」というタイトルの本の著者などは、畿内に多い。)
   本草ほんぞう (植物を中心に薬用になる物)。幕府の侍医 随祥院元徳の子 丹岳野人見必大ひとみ-ひつだい 著。
   12巻。1697年(元禄10)刊。
   明の李時珍著「本草綱目」にならいつつも、実地検証を踏まえ、庶民の日常生活の食膳にのぼることが多く、
   食用・薬用になる国産の植物・動物に重点をおき漢文体で記した書。
   人見(平野、小野、野)必大が1692年(元禄5)に著した遺稿を、子の元浩が岸和田藩主 岡部侯の出版助成をうけ
   1697年に12巻10冊本として刊行した。
   出版元は不明や、江戸で出版されたというサイトもありますが、国立国会図書館デジタル化資料のサイトでは、
   「出版元、摂州(摂津国、大阪の北摂と兵庫東部)の平野屋勝左衛門」となっています。

  16世紀末期に『玉廼井たまのい』という商標が使用されるようになりました。
  江戸時代になると、堺から日本各地に製法が広まり、『いずみ酢』と呼ばれるようになり、元禄年間頃に寿司にも
  使われるようになりました。

  米酢の一種である玄米酢は褐色。(白っぽい米酢が作られてから) いずみ酢は『黒酢』『玄米酢』と言われます。

  1893(明治26) 年は、アメリカ・シカゴで開催されたシカゴ万国博覧会で名誉金牌賞を受け「名誉金牌 玉廼井」と
  いわれるようになりました。

  タマノイ酢 HP 『調理師・河田智子の酢マイルレシピ』 http://www.tamanoi.co.jp/recipes/

  1907 (明治40) 年、堺に5つあった製造元が集まってタマノイ酢は創業しました。
  1963 (昭和38) 年、世界初の粉末酢『すしのこ』を発売。家庭で簡単に寿司が作れるようになりました。
  1996 (平成7) 年、『飲む黒酢』を発売。当時、雑誌の「まずいものランキング」のNo.1に2回選ばれるなど評判は悪かった。
  その後、「体調が良い」飲んだ人のリピーターが増えた事で、『リンゴ酢』『うめ酢』など飲む酢のバリエーション商品を展開。






  現在は従業員約300人、年商100億円強。タマノイ酢では社内の活性化と社外で活躍する人材育成を目的として、5年間だけ
  正社員として働く制度、医師や調理師を育成する制度も導入。人事異動も煩雑で入社32年目で34回の異動辞令をもらった人も。

  播野勤 社長は、酢は歴史や作り方にあまり興味もないし、御存じないんだと思います。古くて保守的な産業の中から、
  ちょっと殻を破りたい。人を育てなくていいとなると、育てる力がなくなる

  タマノイ酢によると「酢は元気な酢酸菌がいて良い酢ができる。酢造りは人の経験が頼り」との事。

  堺で44年ぶりに酒蔵が復活 日本酒発祥の堺は江戸時代には100軒ほどの酒蔵がある有数の酒造りの町だった
 
 膾と刺身・お造り
  ≪ 膾なます  Wiki 膾

  6世紀前半の中国の詩文集文選』には「アザラケキヲサク」と読ませ、中国では火熱を用いない料理の意に
  用いています。

  【文選】もんぜん
   中国の周から梁に至る千年間の詩文集。体裁別・年代順に収録。30巻、のち60巻。梁の昭明太子(蕭統しょうとう)が、
   正統文学の優れたものを集大成することを意図して、文人の協力のもとに編。
   後世、知識人の必読書とされ、日本でも平安時代に盛行。

  【文選読み】もんぜん‐よみ
   文選をよむのに文字を音読し、さらに同じ文字を訓読する読み方。「蟋蟀」を「しっしゅつのきりぎりす」とよむ類。


  日本では、720年の『日本書紀』に「ナマスツクル」とあります。
  奈良時代に編纂された現存最古の歌集の『万葉集』には「ひしお酢に蒜搗ひるつき合かてて鯛願ふ…」と詠まれています。
   「酢味噌に 蒜ひる=ネギやニンニクの類を潰し混ぜて鯛を食べたい」というような意味。

  【万葉集】まんようしゅう
   (万世に伝わるべき集、また万よろずの葉すなわち歌の集の意とも)現存最古の歌集。20巻。
   仁徳天皇皇后作といわれる歌から淳仁天皇時代の歌(759年)まで、約350年間の長歌・短歌・旋頭歌せどうか
   仏足石歌体歌・連歌合わせて約4500首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持(奈良時代の歌人、717?~785)の
   手を経たものと考えられる。
   東歌あずまうた・防人歌さきもりうたなども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表す調子の高い歌が多い。


  平安初期の『日本霊異記』に「則ち膾机と小刀とを持ち出でて」という記述があり、
   (膾机なます-づくえ=膾を作る時に用いる まな板の事。)

  平安中期の『和名抄わみょうしょう』では「奈万須なます」があり、「細切完(肉)也」と解説しています。
  生切なますきの略、生肉なまししの転じたものとみられていますが、後世では、なまの材料に酢を加えた意味と考えられて
  います。

   ※ 古代の鱠は魚肉などを細かく切って盛るといわれ、現代の刺身との区別はつけにくいそうです。

  【日本霊異記】ほん‐りょういき、にほん‐れいいき 「日本国現報善悪霊異記」。霊異記
   平安初期の仏教説話集。3巻。僧景戒撰。
   奈良時代から弘仁(810~824)年間に至る朝野の異聞、殊に因果応報などに関する説話を漢文で記した書。

  【膾・鱠】なます
   ① 貝や獣などの生肉を細かく切ったもの。筏いかだ膾 (柳の葉を筏のような並べ、その上に鮎やスズキなどの細作りを
     盛ったもの) など。
   ② 細く切った魚肉を酢に浸した食品。
   ③ 人参などを細かく刻み、三杯酢・胡麻酢・味噌酢などであえた料理。(室町時代頃)

  【倭名類聚鈔】わみょうるいじゅしょう 略称、和名抄。順和名。
   日本最初の分類体の漢和辞書。源順 著。10巻本と20巻本とがあり、20巻本では、漢語を部門に類聚・掲出し、
   音・意義を漢文で注し、万葉仮名で和訓を加え、文字の出所を考証・注釈する。
   承平(931~938)年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進。

  【源順】みなもと‐の‐したごう(911~983)
   平安中期の歌人・学者。三十六歌仙の一人。梨壺の五人の一人として後撰集の撰に当たり、また万葉集訓釈(古点)の
   ことに従った。著「倭名類聚鈔」、家集「順集」。


 1643年刊『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部」の全文

 なまだれ〕は みそ一升に水三升入 もみ立、ふくろにて たれ候也
  たれみそ〕は みそ一升に水三升五合入せんじ 三升ほどになりたる時 ふくろに入 たれ申候也
  にぬき〕は なまだれに かつほを入、せんじ こしたる物也
  だし〕は かつほのよき所をかきて、一升あらば、水一升五分入 せんじ、あぢを すひみて あまみ よきほどに
  あげて吉、過ても惡候、二番も せんじ つかい候
  いりざけ〕は かつほ一升に むめぼし十五 二十入、古酒二升、水ちと たまりすこし入、一升にせんじ、こし
  さましてよし
  だし酒〕は かつほに鹽ちと入、新酒にて一あし 二あはせんじ、こしさましてよし
  しょうじんのたし〕は かんぺう こんぶ やきても入、ほしたで、もちごめ ふくろに入に候、ほしかぶら、ほし大根、
  右の内とりあはせよし
  しょうじんのいり酒〕は とうふをでんがくほどにきり あぶりて、むめぼし、ほしかぶらなど きざみ入、古酒にて
  せんじ候、又さけばかりに かげをおとしても よし
  わさび みそず〕とは わさびをおろし、みそをくわへ よくすりて、酢にて のべ申事なり
  しょうが みそず〕とは 右同前
  白ず〕とは けしに とうふを入、しほかげんして、すにて のべ候、しらあへには酢を入ず、よくすり候
  しもふり〕は たいをきどり にえゆへ入、やがて水にて ひやし候事也、しらめて といふも同事なり、又ゆがくとは
  何も ざつと ゆで候事也
  かげをおとす〕とは すましに たまりを すこし さす事也
  どぶ〕とは 何時も酒のかすを しぼりたるがよし、にごり酒は惡、

  【煎酒】いり-ざけ 広辞苑    大坂・新町の夕霧太夫
   ① 酒を煮つめたもの。
   ② 酒に鰹節・梅干・炒塩・醤油などを加えて煮つめて漉したもの。刺身・膾なますなどの味付け用。
     錦之裏 (山東京伝 作画の洒落本、1791年刊。大坂新町の名妓を描いたもの)―のにほひ。鼻をつらぬき

 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
  鱠部には次の前書きと、下記のメニューとレシピが載っています。
 惣而 なます盛や うすくなめに盛吉 客気に入てかゑらるゝは能物也 たく山にもるは百姓鱠と云て賤く あぐむ物也
  膳出す少前に あへるがよし 間候へば 魚白くはぜて 悪敷候 鱠の夾見は柚 蜜柑 金柑 九年甫 梨子 柿 葡萄
  又事によりては あかほうづきも よく候 あへやう魚に塩ふり酢入うをかきまぜ 其時 魚白み出て酢も白く成
  酒 だし 加減 此上の也 糠ぬた入申候も 加減後なり
  鯛鱠」「鰹鱠」「鯵鮎なま酢」「鮒鱠」「いわし鱠」「小鯛焼頭鱠伊勢なます (せいご、さより、きすこ)

  千葉大学 教育学部 研究紀要 第25巻 第2部 『古典料理の研究 (二) 料理塩梅集について』
   http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715150.pdf?id=ART0007458558


 1689(元禄2)年の料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』中川茂兵衛 著 出版地は京都。
  巻四魚類のなますの類には鯉鱠」「鮒鱠」「鮒もどき鱠」「生鼠ナマコ」「小鰯鱠などがあります。


 1695年刊の『本朝食鑑』には鱠はショウガ、タデ、芥子、ワサビなどをつけて酢を和して食べる
 刺身にもこの数品を用い、炒り酒を和して食べるとあるそうです。
  また多くの魚は新鮮なら生食できるが、鯖は例外。生食で最も多く紹介されているのは鰹のようです。
 駿豆・相武の産は味が浅く、肉は脆く、生食する方が上品であって、乾堅の場合は味がいまひとつで、やや薄い
  とあるそうです。
 京師は海から遠く、生鰹は到来しない。また紀州・勢州に多く獲れるといえ、都からはなれすぎているので
  鮮鰹は至り難い。そこでマナカツオの鱠を鰹の鱠に学び擬えて賞美している。ここから学鰹と名づけるのであろうか
  この記述から、京都ではカツオの代わりにマナガツオを食べていた事が分かります。

  【本朝食鑑】ほんちょう-しょっかん 
   本朝・・・日本の朝廷。日本のこと。(「本朝○○」というタイトルの本の著者などは、畿内に多い。)
   本草ほんぞう (植物を中心に薬用になる物)。幕府の侍医 随祥院元徳の子 丹岳野
   人見必大ひとみ-ひつだい 著。12巻。1697年(元禄10)刊。
   明の李時珍著「本草綱目」にならいつつも、実地検証を踏まえ、庶民の日常生活の食膳に
   のぼることが多く、食用・薬用になる国産の植物・動物に重点をおき漢文体で記した書。
   人見(平野、小野、野)必大が1692年 (元禄5) に著した遺稿を、子の元浩が岸和田藩主
   岡部侯の出版助成をうけ1697年に12巻10冊本として刊行した。

  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃


 1746年成立と言われる『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)
  この書は昔の文献や見聞きしたものを集めた部分と、独自の部分 (主に獣肉食の部分) があります。

  上巻 四 「飯・汁・膾・差躬」には次の前書きと、下記の魚類鳥類の膾の調理法とレシピが載っています。
   本法は魚を作り 酢をかけ 魚のはぜる程置て 其酢をしたみ妻を入 塩酢あんばいして かき和 もる也
  鯨 まぐろ 鰯 杯などは いり酢をかけ 其酢をすて 外の酢にてあへ出す
  生盛膾」「味噌酢膾」「ぬた膾」「青豆ぬた」「大豆ぬた」「あわび友和」「たで酢膾」「青酢膾白酢膾
  差躬膾」「沖膾」「水膾」「子和膾」「子色膾子膾」「伊勢膾」「あたため膾」「ふくめ鯛」「うずら成平膾
  鱗膾」「かせちひしほ」「雉子膾」「鴨生皮膾」「鰻膾焼骨膾」「はたき膾」「尾引膾」「鰯鱠」「洗鰯
  鯛皮付膾」「水和」「鯉の差躬」「かき鯛」「鮟鱇差躬鳥差躬」「鰹差躬」「洗鯉」「按鯛」「湯引鯨鰯
  貝膾」「雪膾」「山吹膾」「煎酒膾」「猪口膾背干膾笹かき膾酒浸のしもみ和交 続 き

  上巻 三 「漬物」の中から、レシピに「魚や鳥、膾」の記述があるものを抜粋 (料理というより保存法のようです)
  寒糠ぬかの法」「寒水」「玉子水の法」「五盃漬の法」「阿茶羅漬諸鳥漬様」「鮭はららこ漬様」「黒漬の法
  塩鳥の方鯛」「鰯粕漬」「鯨漬様」「青漬の方」「丹後鰤ぶりの法まぐろ漬」「鰹切漬」「鯖切漬
  きらず漬」「鮎糠漬」「鮭の甘漬まぐろ水漬

  この漬物以外に、上巻二「香の物」があり、「たくあん漬」「浅漬」「紫蘇漬」「森口漬」「近江漬」など多数あります。

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf


  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf
  NHK Eテレ 美の壺 『File.256 刺身』 13.10.27 放送
  朝日放送 キャスト 『大阪では昆布うどんが定番なの なんでやねん!?』 19.04.08 放送

  ≪ 刺身・お造り ≫  Wiki 刺身 (内容に一部問題がある事が指摘されており、偏った視点で書かれています。)

  コトバンク 作り身 『世界大百科事典内の作り身の言及』
  【刺身】より…生の魚貝類などを薄く,あるいは小さく切り,しょうゆ,煎酒(いりざけ)などをつけて食べる料理。
   作り身,お作りなどともいい,日本料理を代表する品目である。
   古く〈指身〉〈指味〉〈味〉〈刺〉などと書き,〈打身(うちみ)〉とも呼んだ。

 〈室町時代〉  コトバンク 『鈴鹿家記』  コトバンク 『刺身』

  「刺身」が完成したのは、調理や包丁が発達した室町時代頃と思われます。「刺身」という字が定着するまで「指身」
  「指味」「刺躬」など書き、「打身うちみ」とも呼ばれていました。

  「打身」は刺身より分厚く切り、また調理法が複雑だった為、室町時代末期には区別がつかなくなり、江戸時代には
  廃れたらしいです。 (Wiki 刺身 出典不明)

  江戸時代中期に書かれ、末期の1843年(天保14)刊された『貞丈雑記』では「うちみというはさしみの事也(なり)」と
  いっており、江戸時代中期頃には「打身」は廃れていたように思われます。

  【貞丈雑記】ていじょうざっき
   伊勢貞丈さだたけ著の故実書。16巻。(死後に弟子が校訂して) 1843年(天保14)刊。
   子孫が古書を読む便にと武家の故実に関する考証を、1763年(宝暦13)から没年の84年(天明4)まで、日々記載した
   雑録。

  『松屋筆記まつのやひっき』には「なますに刺身という名目おこり、製法も一種出来たるは足利将軍の代よりの事なるべし
  とあります。

  【松屋筆記】まつのやひっき
  コトバンク 『松屋筆記』  コトバンク 『小山田与清』 より
   江戸後期の随筆。120巻。小山田与清おやまだともきよ(武蔵の人、1783~1847)著。江戸後期の国学者。
   明治41年(1908)刊。文化末年(1818)から弘化2年(1845)ころまでの約30年間にわたり、古今の書物の記事を抜き
   書きし、考証・論評などを加えたもの。

  現在判明している「さしみ」の文献上の初出は、室町時代1399 (応永6) 年、京都の吉田神社の神官の鈴鹿家の日記で
  ある『鈴鹿家記すずかかき』の6月10日条に「指身 鯉イリ酒ワサビ」とある文のようです。

  室町時代中期の『康富記』の1448 (文安5) 年8月15日に「鯛、指身居之」とあります。
  「鯛の指身として、鯛なら鯛とわかるように、その魚のヒレをさしておくので、サシミ」とあるようです。

  【康富記】やすとみき
   権大外記の中原康富(1400頃~1457)の日記。15世紀前半の室町幕府・朝廷などに関する史料として貴重。


  醤油が普及する以前は、生姜酢や辛子酢、煎り酒(削り節、梅干、酒、水、溜まりを合わせて煮詰めたもの)など、
  なますで用いられる調味料がそのまま用いられたようです。

  室町時代 1489(長享3)年頃成立したと考えられる『四条流包丁書』には、具体的な料理法や、箸・膳の飾り方なども
  記載されており、当時の日本料理の素材や調理法を知る上で貴重な史料となっています。
  それぞれの魚に合ったワサビ酢・ショウガ酢・タデ酢など「合わせ酢」なども記載されています。

  『四条流包丁書』では、クラゲを切ったものや、雉や山鳥塩漬けを湯で塩抜きし薄切りしたものも刺身と称している
  そうです。しかし、これは江戸時代も同様です。

  1500 (明応9) 年、現在の山口県で、守護の大内義興が将軍職を追放された足利義稙を接待した記録があり、
  鯉、鯛、鱸、鰤、コチ、ハマチ、ボラなどの刺身が出されたようです。

  【大内義興】おおうち-よしおき (1477~1528)
   室町後期の武将。山口に拠って中国西部・九州北部を領し、足利義稙を擁して入京、管領代となり一時幕権をにぎる。
   明と交易して財力を豊富にした。


 〈江戸時代〉  Wiki 料理物語  佃煮、築地は、大坂の佃村の森一族が江戸に移り住んだ事から

  江戸時代になると、町民も刺身を食べられるようになりました。

  活鯛の出荷技術は大坂で確立かも?  鯨猟は江戸時代から盛んになった 漁法が紀州から広まった  鯨肉などの利用

  天正・慶長年間 (1592~1598) 年の大阪船場の遺跡から、多数の鯛の骨などが見つかっており、生簀に囲い養畜され
  出荷の都度、〆て出荷していた事が分かるそうです。

  1688 (貞享5) 年刊、井原西鶴の『日本永代蔵』に、天狗源内という鯨突きが正月10 日の西宮の恵比寿神社の例祭に
  参った帰りに舟のなかでまどろむと、「生舟の鯛を、腹に竹針を刺して生き返らせる方法」を恵比寿さまから告げられる
  話が載っています。

  江戸や関東で海魚が食されるようになったのは大坂や西日本の漁民が移住した事からになります。
  1575年頃 (天正年間の初期) までの江戸での漁法は一本釣りや四つ手網のような原始的な漁法ありませんでした。

  江戸の魚河岸は、摂津 (大坂) 問屋が支配し続けていた。

  大坂の佃村の漁民である森一族が德川家康の招きで江戸に移り住み、1613 (慶長18) 年に特権を得て漁業を開始。
  1630 (寛永7) 年~1644 (正保1) 年に渡り埋め立て工事を行い佃島を完成させます。
  また1616 (元和2) 年、大坂から江戸に下った大和屋助五郎が江戸の本小田原町に移り住み、活鯛の流通を始めとする
  魚問屋システムが確立してきます。

  寛永年間 (1688~1703年) に上方の商人たちが江戸に集まり問屋になる事を願い出て魚河岸は更に発展していきます。
  江戸の魚問屋は正徳年間(1711~1716年)、森一族の流を汲む摂津系 (屋藤左衛門・西宮甚左衛門・堺屋長兵衛) と
  大和屋助五郎) の4人の問屋のみが幕府への納魚請負人に指定されています。
  その後、任期が終わり、新たに選ばれる御用聞き問屋は摂津系が続いたそうです。

  詳しくは下記サイトにて。大和屋の出自については、芝教授が大坂としています。鈴与サイトには言及がありません。

  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃

  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf
  鈴与 魚河岸野郎 http://www.sakanaya.co.jp/history/index.html
   『大和屋助五郎の活鯛流通システム - 魚河岸野郎魚河岸四百年 大和屋助五郎の活鯛流通システム』
   http://www.sakanaya.co.jp/history/02_04.html


 
1623 (元和9) 年頃に成立したとみられる『醒睡笑』には、「振舞の菜は茗荷みょうがのさしみ……」とあるそうです。

  【醒睡笑】せいすいしょう
   咄本はなしぼん。安楽庵策伝作。8巻。作者が幼年時代から聞いていた笑話・奇談など1000話余を京都所司代 板倉
   重宗の所望によって、1623年(元和9)滑稽味を加えて書きおろし、28年(寛永5)献じたもの。
   寛永(1624~1644)年間に300話余を抄出した略本3冊を刊行。


 1643 (寛永20) 年に刊行された『料理物語』には、「第11章:指身:27種」の項目があります。

  【料理物語】
   料理書。著者未詳。1冊。1643年(寛永20)刊。
   魚・鳥・野菜などの料理の材料76種の名称と、それに適する料理を列記し、料理法を略述。
   有職故実の記述ではなく、庶民の日常食を記す。

  著者は未詳ですが、上方言葉で書かれており、江戸中期までの商業出版は京都のみ。大坂人または京都人が
  書いたと推測されています。後に類本、補完版などが出版されています。下記の文は最も記述内容が多い版。

  料理物語を実際に読んでみると、大坂人が、東海道を旅しながら各地の料理を聞き、武蔵国で書いたもので
  ある可能性が非常に高い事が分かりました。料理物語について

  1915 (大正4) 年刊の『雑芸叢書』は、江戸時代の19の専門書が1つの本として集められて出版されています。
  この中に収蔵されている『料理物語』は1665 (寛文4) 年の高橋清兵衛版で、元版より記述が追加された版。

  こちら「第十 膾之部」には、

 〔料理なます〕 たい、さゞえ、きすご、かれい、こゑびなど色々入、おろしなとくわへ仕候、いづれも なますは膳を出し
  ざまに あへてよし、しほかげん大事也、はほは一ど入て よきやうに ふんべつ有べし、二ど三どに入ては しだいに
  あやしくなり申候、きょくなき物也、けんは色々其時分のもの つくりしだいにをくべし

  〔鳥なます〕 何もつくり、鳥ばかり すにて いためて、其後 たい其外も入あへて出しよし、わさび くはへてよし…
  〔かんざうなます〕〔沖なます〕
  〔こいの子づけなます〕 こいを三枚におろし、みをうすくへぎ、かはをのけ、ほそくつくり候…

  〔ふななます〕〔このしろなます〕〔山ぶきあへ〕〔ひでりなます〕… 〔かはやきなます〕〔ぬたなます〕
  〔太郎助なます〕〔やきぼねなます〕 たいのうすみ ほねなど やきむしりとりて、田つくりいりて…

  [わさびあへ〕は がん、かも、同もゝけなどつくり、すにて しほ少しふりいため、其すをすて たいらぎ、あわび、たいなど
  入、わさびずにてあへ候、鳥いずれも仕り候… 〔水あへ〕はいりざけに すをくわへてよし…
  〔みかはあへ〕〔あをあへ〕

  〔〕は膾の種類で、それぞれ調理法が書かれてあります。塩加減が大事。いり酒、醤油、わさび、たで酢、からし酢、
  酒かす、生姜などが調味料として出てきます。
  けん (付け合せ) には大根。鳥は焼く、田作り、川エビ、キクラゲなどを加える膾もあります。


  「第十一 指身之部」 こちらは抜粋せず、全文原文のまま。 但し、平仮名ばかりなので、文字区分しやすいようにスペース を入れています。

 〔しもふり〕は たいをおろし、よき比にきどり、にえゆに入、しらみたる時あげ ひやし、つくりたゝみ候事なり、いり酒
  よし、からしなどもをく 〔かきたい〕たいを三まいにおろし、こそげて かさねもり候、いり酒よし、からしをく、けんは
  よりがつほ、くねんぼ、みかん、きんかん 〔小川たゝき〕なまがつほをおろし、よくたゝき 杉いたに付、にえゆをかけ
  しらめて、つくりたたみ候、右のかきだいにもり合せよし、こひにても仕候也、同いりざけ

  〔すゞき〕あをず、しやうがずにてよし 〔まながつほ〕いり酒 しやうがずにてもよし 〔くじら〕うすくつくりて にえゆをかけ、
  さんせう みそずにてよし 〔ふか〕かはひきつくりて、にゑゆをかけ よくしらめ、しやうがずにてよし、ざつと ゆがきてよし

  〔さめ〕是も ふか同前 〔こち〕かはをはぎ、うすくつくり候、しやうがず いり酒 たで酢にても 〔あんかう〕是も しらめて
  しやうがず 〔さはら〕いりざけ しやうがず 〔なまがつほ〕しらめてよし、そのまゝもつくる、からしず
  〔こい〕いりざけよし 〔ふな〕是も いり酒よし 〔あゆ〕是も いり酒よし 〔うなぎ〕白やきにして靑ずにてよし

  〔きじ〕丸ににして むしり、さんせう みそず吉 〔かもがん〕きじのごとく、又ほねぬきにしては、わぎりにして わさびず
  しやうが みそずよし 〔にはとり〕是も きじのこどく仕候 〔こがも〕きじのさしみに、たいのそぽろ ゆがき もり合せ、
  わさび みそずにて出しよし、けんに かたのり、きんかん、何も鳥むしりて

  〔むし竹子〕ねをきり かは共に たてにをき、せいろうにて よくむして色々にきり、しらずにて さしみによし、みるくひ、
  あはび、にがひ、又しいたけ、木くらげなども もり合よし 〔うきゝ〕しらめて しやうがず よし
  〔さゞい〕よなき、みるくひ、鳥がひ、たいらぎのわたなどは つくり ゆがきて、わさび みそずにてよし

  〔川ちしや〕よめがはぎ、あさつき、又は菊のはな、しやくやくのるいは いづれも すみそにてよし
  〔まがめ〕よく ゆにして むしり、しやうが みそずにてよし

  〔さかびて〕たい、あはび、たら、さけ、あゆのしほびき、からすみ、かぶらぼね、つる、がん、かも、右の内いかにも
  しほ めかきを取り合せ、つくり もり候、けん くねんぼ 其外さくしたい、だし酒かけてよし、

  「をく=置く」「しらめて=白らめて (湯引き)」「にゑゆ=煮え湯」「しやうがず=生姜酢」「靑ず=青酢」「さんせう=山椒」
  「くねんぼ=九年母 (ミカン科の香橘)」「なまかつほ=生カツオ」「かたのり=ムカデノリ科の海藻」「丸にに=丸煮に」
  「こひ=鯉」「あはび=あわび」「みるくひ=みるくい (ミルク貝)」「にがひ=煮貝」「鳥がひ=鳥貝」「よなき=夜泣き貝」
  「たいらぎ (玉珧)=平貝」「さゞい=サザエ」「川ちしゃ=川萵苣)」「よめがはぎ=嫁が萩 (キク科の嫁菜よめなの別称)
  「しやくやくのるいは=芍薬の類は」「さかびて=酒浸 (魚肉の切身などを、塩を加えた酒に浸すこと)」
  「しほめかき=塩目 (塩加減) 掻き?=ぬた? または 塩、芽掻き」「さくしたい=作りたい」

  「うきゝ=貝の種類?【海蛤・白蛤】うむき=ハマグリの古称。」「まがめ=野菜・豆類?」

  【蕪骨】かぶら‐ぼね 氷頭ひず
   鯨の上顎うわあごの軟骨を細く削って乾燥したもの。
   刺身のつまや、三杯酢などで酢の物にする。粕漬にした松浦漬は北九州の名産。


  東海・関東で本格的な漁業が行われるようになったのは、江戸時代中期頃に西日本の漁師たちが移住してからの事。
  綿花栽培が盛んになり、その肥料として小魚を獲る為に移り住みました。→おせち料理の「田づくり」の語源。

  江戸庶民が海魚を食べる事が一般になったのは、江戸時代後期になってからの事です。
  料理物語の膾・指身の料理法は、主に室町時代に上方で確立されたものです。

  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文


 1694 (元禄7) 年に刊行された『和爾雅』や1777 (安永6) 年以降に順次? 刊行された『和訓栞』には「魚軒(さしみ)」と
  あるそうです。

  【和爾雅】わじが
   辞書。貝原好古よしふる(貝原楽軒の長男。叔父 貝原益軒の養子なので福岡生まれと推測できます。1664~1700)著。
   8巻。1694年(元禄7)刊。「爾雅」にならって作ったもので、天文・地理など24門に分類して漢語を挙げ、意味・用法を
   注した。

  【和訓栞・倭訓栞】わくんのしおり (ワクンカンとも)
   国語辞書。谷川士清ことすが( 伊勢の医師 谷川順端の長子、京都に遊学、妻が京都人) 著。3編93巻。
   1777年(安永6)から1887年(明治20)にかけて刊行
   古言・雅語・俗語・方言の語彙を広く蒐集、語釈を加え、用例・出典を示して五十音順に配列。

  ※貝原好古が日本の民間の風俗や行事を季節ごとに紹介した1688年刊『日本歳時記』は京都日新堂で出版されており、
  当時の出版事情からも『和爾雅』も主に京都で出版されたものだと思われます。  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸


 1697 (元禄10) 年に刊行された『本朝食鑑』には、膾と刺身の違いが書かれているらしいです。

  【本朝食鑑】ほんちょうしょっかん 大坂で刊行 (岸和田藩の支援によって出版されたもの)
   本草書。人見必大著。12巻。1697年(元禄10)刊。明の李時珍著「本草綱目」にならいつつも、実地検証を踏まえ、
   食用・薬用になる植物・動物について漢文体で記した書。


 1689(元禄2)年の料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』中川茂兵衛 著 出版地は京都。
  巻四魚類の指身の類には「鰹の刺身」「鮎の差身」「鯉の水作り」「生鼠細切り」「小しじみ」があります。


  1712年の『和漢三才図会』には「肉塊細く切りたるを鱠と為す、大に切りたるを軒さしみと為す」とあります。

  【和漢三才図会】わかんさんさいずえ 江戸時代の図入り百科事典。寺島良安 (大坂の御城入医師) 著。105巻81冊。
   明の王圻おうきの「三才図会」にならって、和漢古今にわたる事物を天文・人倫・土地・山水・本草など天・人・地の
   3部に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。正徳2年(1712)自序、同3年林鳳岡ほか序。和漢三才図会略。


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)
  この書は昔の文献や見聞きしたものを集めた部分と、独自の部分 (主に獣肉食の部分) があります。

  上巻 四 「飯・汁・膾・差躬」多くの膾・さしみ類の料理名とレシピが載っています。 膾・他の差躬の記述
  「差躬は「さしみ」と読むようです。レシピなどから「湯引き」や「タタキ」なども含むようです。
 御差躬 鰹頭を取 北風の当る南風の当らぬ様にして 尾を上にして 壱時程 釣し置 扨さて かわきたる板にて
  庖丁も度々紙にてふき 少も水気なき様に作る也 なまくさけなく 酔事なし 煎酒にて古上げたるといゑり
  折ふしは からし酢にも この後に膾や刺身の付け合せになる「ツマ」や「ケン」が書かれています。

  下巻の「一式料理下」にも獣肉の料理法があり、「差身」「差躬」の記述があるものは
  「鹿 (女鹿 若鹿二才上也)」「猪 (瓜坊主小猪也)」、「カモシカ」「」「蛇膾」「カエル」。

  狸・狐・兎・狼・赤犬・牛などは「さしみ」の記述がありません。牛・豚・野牛・山鳥はオランダ食也の記述があります。

  下記リンクPDFの 中・下巻でご覧ください。現代文に翻訳されています。

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf

  初かつお 江戸ではカラシで食べていた、江戸時代のタタキは現在と違った料理だったなど
  高知県のカツオのタタキと、明治時代中期の高知の食文化が分かる書 色んな発見がありました。

  『黒白精味集』の刺身のつまには九年母が出てきます。

  【九年母】くねん-ぼ
   ミカン科の常緑低木。タイ・インドシナ原産。高さ3m。葉はミカンに似て大形。初夏。香気の高い白色五弁花をつける。
   果実は秋に熟し、大きさはユズに似る。皮が厚く、佳香と甘味とを有する。香橘こうきつ。香橙。くねぶ。


  東京史楽 『江戸の話 八』 11.12.26 配信 http://tokyosigaku.jugem.jp/?page=1&cid=4  Wiki 酒井伴四郎
  青木直己著 生活人新書 『幕末単身赴任 下級武士の食日記』 http://bakuren.itigo.jp/sakai.html

  幕末に江戸へ単身赴任した紀州和歌山藩の30石取りの下級武士である酒井伴四郎 (1833~?) の日記によると、
  鳩を食べたり、安いボラなどを買っており、鮭の切り身を買う事は珍しかったようです。


  幕末の喜多川守貞著『守貞漫稿』によると、
  「江戸にありて京坂に これなき生業」として、「刺身屋」「酒問屋」「菜屋 (そうざい屋)」が書かれてあります。
  「京坂にありて 江戸に これなき生業」として、「素襷いろ屋 (喪服の貸出)」「悉皆しっかい屋 (染め返しや洗い張りする)」
  など。

  京都・大坂に酒問屋があまり無いのは、造り酒屋が多く、直接買っていたからです。
  江戸に刺身屋 (屋台) ができたのは、醤油が普及した文化・文政 (1804~1818~1831) 年間以降の事です。
  惣菜屋は「振り売り」という売り歩きが中心。


 幕末の『守貞漫稿』 上巻 第四編生業上 「刺身屋

 鰹及まぐろの刺身を專らとし此一種を生業する者諸所に多し錢五十文百文ばかりを賣る麁製なれども料理屋より
  下直なる故に行る蓋沽魚の類少づヽ兼ね賣り或は鮮魚も格別下直の日は賣る

  カツオとマグロの刺身専門で商売する者は各所に多く居る。50~100文 (幕末で1250~2500円) 程度を売る粗製で
  あるが、料理屋より安値であるゆえに、売り魚の種類は少しずつ兼ね売り、鮮魚も格別安値の日は売る。

   鰹と鮪の刺身専門で商売する者が多い。少額を売る小商いであるが、料理屋より安値なので鰹・鮪以外の刺身も
   売る。格別に安く仕入れられた日は鮮魚もそのままで売る。という風に訳してみました。


 幕末の『守貞謾稿』 上巻 第五編 生業下 「鳥貝ふか刺身賣

 ふか●字歟 鮫の属也 ふか及び鳥貝ともに刺身に造り 酢味噌にて食す さしみうりの所荷 鰻蒲燒賣と相似たるが
  故にて略て圖らず 蓋 刺身賣には無火鉢 勿論也 買人 器を携へざる者には蚫殻に盛て賣

  「●字歟=鱶の字か (は鱶とは別の魚へんの字、IMEには未登録)」「略て圖らず=図は略する」「あわび=鮑」

 幕末の『守貞漫稿』 下巻 第二十八編 食類 「刺身

 京坂にては四時及び料理の精粗を択ばず専ら鯛を用ひ 他魚は用ふを甚だ略とす 京坂惣ての作り身斬目正しからず
  斬肉を乱に盛る 京坂にては鮪を下碑の食として中以上及び饗応にはこれを用ひず 又鮪を作り身にせず
  江戸は大禮の時は鯛を用ひ 平日これを用ひるを稀とす 平日は鮪を専らとす 包丁甚だ精巧にして斬目正しく 斬肉の
  正列に盛るを良しとす


  Wiki 刺身 には、下記のような一文が書かれてあります。 (16.12.13現在)

  幕末には、京阪は四季に関係なく鯛ばかりを使用している上、切り方から盛り付けまで乱雑である(『守貞漫稿』)と
   批判されるほどにまで差がついていた。 とあります。
  上記の文の訳した内容も専門的な料理知識が無いために適切でない、いつもの関東人特有の思い込みの訳です。
  また下の江戸での都合の悪い部分は訳されていません。

  江戸時代、鯛は超高級魚であり、鮪や鰹は下魚 (安物の魚)。「乱」=「乱れる」という意味ではありません。
  江戸では当時、高級ランクの食事にしか鯛が使えず、平素は鮪ばかり食べていたのです。


Wiki 刺身 19.05.28現在の記述の証拠



  やかたのオヤジ 日本料理職人の独り言 『「刺身」 割主烹従の意味』 02.09.21 配信
   http://ameblo.jp/garyuanyakata/entry-10280938026.html より抜粋

  『守貞漫稿』にある京坂の作り身が「斬目正しからず」とは薄造りやへぎ造りにすることですし、江戸の包丁が
   精巧で「斬目正しく」とは平造りにすることです。

  「薄造り」は、赤身魚と比べて弾力が強いフグやヒラメなどの白身魚に用いる、皿が見えるように薄く切る方法と盛付の事。
  「へぎ造り (そぎ造り)」は、鯛など身の引き締った白身魚に使われる手法で、寿司ネタを切るときに使われる方法。

  「平造り」は最も一般的かつ代表的な切り方で、主に鮪や鰹の赤身、鰤などの青物に用いられる方法。

  つまり、魚の身の締り具合で切り方と盛り付け方が違うわけです。「乱に盛る=飾って盛る (お造り)」です。
  「折り目正しく=魚のサクの身を切っただけで盛り方に工夫も飾りもない」事が、下の浮世絵で分かります。
  そういった専門知識を加え訳すと、下記のようになります。

  京坂では四季および料理の高級・下級に関係なく鯛ばかりを使用している。他の魚はあまり用いない。京坂の造りは
   平造りではない薄造りやへぎ造りである。盛付は瓦盛り、節盛りである。鮪は下賤な魚として中以上の高級な料理には
   用いないし、鮪を造りにはしない。
   江戸では大禮おおれい (大切な儀式) には鯛を用いるが、平素は用いない。普段は鮪ばかりを用いている。
   包丁使いは平造りで、盛付は単純な平盛を良しとする。 となります。

江戸の刺身

江戸の刺身

 部位や素材で切り方を変える

関西のお造り


  右から2枚目は江戸の刺身は、幕末の1857 (安政4) 年の『江戸名所百人美女 呉服ばなし』の一部分。


 鯛・ひらめには辛味噌あるひは わさび醤油を用ひ、まぐろ・鰹等には大根おろしの醤油を好しとす。
  夏は血水底に溜まる故に、江戸にては、葭簀あるひは硝子簾を敷きて、その上にさしみを盛る。江戸、刺身添へ物、
  三、四種を加ふ。糸切大根、同うど、生紫海苔、生防風、姫蓼。粗なる物には、黄菊、うご、大根おろし等を専らとす

  鯛やヒラメには辛味噌やワサビ醤油、鮪や鰹には大根おろしを加えた醤油で合うとされたようです。
  「防風ぼうふう」とは、中国原産のセリ科の多年草の薬用植物。根は解熱や鎮痛剤に使われる漢方生薬になります。
  「うご」とは海髪おごのり (紅藻類オゴノリ科の海藻の総称で、サラダや寒天の材料にする) の別称。


  この刺身の原文は上記の途中が省かれていたり、それ以外にも記述の長い文があります。
  抜けている部分を簡単に訳すと

  京坂では鮒などを刺身と言い、鯛などは作り身と言う。鯛は酢味噌またはワサビ醤油。
   ※卵百珍のレシピには色んなものが「…指身によし」と有ります。

  江戸は四季によって異なり冬は鮃を用い鮪類と2種並べて作り身と言った。4月初日以後初鰹を食べた。
  昔は高かったが、近年は値が下がった。鯛鮃には辛味味噌またはワサビ醤油を用い、鮪鰹等は大根醤油を好んだ。
  江戸には刺身専門の小さな店がある。

  三都とも洗いがあり、作り身刺身の類を冷水で洗い食べる。これは江戸も不列に盛る
  洗いには鱸すずきを好む。鯉の刺身も洗う。その他。総じて新鮮なるものは洗いにする事ができるなり。洗いは夏用。

  「不列に盛る」→単純な平盛ではない事を示しています。


 異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
 ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693

 1776 (安永5) 年の『ツンベルク日本紀行』「第二十章」日本人の食物 P.342~343から、魚の部分だけを抜粋

  例えば鯛Tayと言うのは和蘭人がsteen braasonと言っているものであるが、非常に高価であって、式日用又は
  宴会用としてとっておく。
  は私の知っている限りでは一番美しい魚である。は欧州でとれた一番大きな鰊と競争が出来る。
  は箱根付近でなければいないことは既に述べた。この鮭は欧州のと比すれば美しさに於いても質に於いても劣る。

  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465

 明治44年に執筆・出版された『東京年中行事』の
 『鯛の刺身よりも まぐろの刺身が美い』と云ふ、江戸ッ子の趣味はやはり田舎者の解するあたはざる不思議中の
  不思議で有る。  明治期の東京の食生活がよく分かる事が書かれてあります。

  「納豆さえあればおかずは要らない」などの発言の記述もあり、「高級な鯛は買えないので安いマグロの方が美味しい
  と思い込みたい」江戸ッ子の強がりで言っている事が分かります。
  食の歴史を調べると、戦後の高度経済成長期になるまでは、大阪と東京の食文化では遥かに差があります。
  東京がグルメを意識しだしたのは平成になってからと思われます。
  現在でも「牛肉より豚肉の方が美味しいから、関東の豚肉文化は劣っていない」的な発言をネットでも多く見かけます。
  大正時代に東京で書かれた下記の料理本 (上流階級が読む) などでは「肉=牛肉」という認識です。
  「豚肉は安いので、牛肉の次に用いられる」という事も書かれてあります。
  昭和8年に書かれた浅草経済学では牛鳥料理と出てきます。(豚肉がメインではない事が分かります。)

  【東京年中行事の著者】
   若月紫蘭 (本名は若月保治、1879~1962年、山口出身、東京帝大卒)

  又、同書には「東京は屋台が多くありましたが、土埃にまみれた椀やコップなどを気にせず飲食するので衛生観念が
  ないとしか思えないなども書かれてあります。
  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文など


 1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949

   (四) 浅草での特種料理の様々 P.238~241では、この本が書かれた昭和の初めに浅草には
  「ふぐ料理」「大阪寿司」「釜飯屋」「八ッ目鰻の特売店」などが近年出来た店とあります。
  また浅草にはスッポン専門店は無いが看板料理とする店は少なくない、鯛飯を売る店は1軒で需要が少ない。など
  と書かれてあります。

  江戸時代から東京への鯛の供給は主に千葉沖で獲れたものが出回っていました。江戸は物価が高く、大阪と比べ鯛の
  価格もかなり高かったとも思われるので、一般大衆における鯛の需要は少なかったのです。


  かつての関西では、原則として鯛などの海の物に限られているが、魚を切る事を「作り身」といい、それに接頭語を付けた
  「お造り」という言葉がうまれた。そして淡水魚の場合は「刺身」といったことが「守貞謾稿」に記されている。
  現在では異なっている。らしいです。

  幕末の刺身の違いをまとめる、京都・大坂では下級な料理でも高級な鯛を主に使い、値が安い鮪は下等なものとして
  安い料理以外には使う事はなかった。盛付にも工夫があった。(←後に「お造り」と呼ばれるように発展)
  一方、江戸では高級な鯛は滅多に食べられず、普段から下魚のマグロばかり食しているので、単純な切り方と盛り方しか
  していなかったのです。


  「平造り」は最も一般的かつ代表的な切り方なので、「薄造り」や「へぎ造り」もする上方の
  方が実際には包丁技術が進んでいたという事になります。
  同じ魚でも部位によって切り方を変え、同じ身でも切り方を変えるだけで食感や歯ごたえ、
  醤油の付き方が変わってきます。

  江戸にあった「刺身屋」「にぎり鮨屋」のほとんどは簡素な屋台なので、魚や部位・調理用
  途によって使い分けるだけの包丁の種類を用意するのは難しい。

  右はNHK「美の壺 刺身」で紹介されていた東京の超一流日本料理店の小山裕久さんが
  使い分ける刺身包丁の一部。

  刺身包丁・出刃包丁・薄刃包丁などの良く使われるものだけでなく、昆布包丁やタバコ包丁
  などの特殊な包丁も含め、各種包丁のほとんどが堺・大坂で誕生しています。
  江戸時代の堺では、現在ある包丁の種類のほとんどが、すでに出揃っていました。

  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』

  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海
  名物図会』全5巻は日本各地の名物を描いた絵本。巻の三の「堺庖丁」には山上珠四郎
  という包丁造り名人の店が描かれており、様々な形の包丁が売られている事が分かります。

  そもそも庖丁式 (食材に直接手を触れず、右手に庖丁、左手に箸を持ち、食材を祝の型や、
  法の型に切り分け並べる儀式) は、平安初期の京都で始まり、室町時代には四条流・
  生間流。大草流・進士流の料理流派が完成しているのです。






  『庖丁式が作られた理由』 著 稲葉敏明 http://www.ryoutei-meijiya.jp/houchou.pdf のP8より   『庖丁式』 藤原山蔭と各流派

  庖丁式の作法 庖丁式の庖丁の動きは、無駄がなく1本の庖丁で、魚を三枚に卸し、骨を切り、刺身まで切る。
  ここで庖丁に水をつけ、庖丁についた水を切る切り方など、庖丁の動きが全て入っており、しかも食材に手を
  触れないので、衛生的でもある。
  この庖丁式作法を学べば、現代日本調理に使われる庖丁の技法など、学ぶ必要は、無いくらいである


  NHK Eテレ 美の壺・選 『刺身』 13.10.27 放送  四条司家 包丁儀式「長久の鯉」
  テレビ東京 世界!ニッポン行きたい人応援団 『すき焼き”愛すフィンランド人ご招待』 18.12.03 放送

  日本料理の世界では「割主烹従かっしゅほうじゅう」という言葉があり、神様へ捧げる食材を切る庖丁師の権威が高かった
  事から、魚や肉を切ったりする人が一番偉い (料理長) とされており「割烹」という言葉ができました。
  但し関西風ウナギのかば焼きに関して言うと、捌くより焼きの方が難しいとされ調理長が焼き場を担当するようです。






  「庖丁式」と呼ばれる包丁の技法は、室町時代の京都で完成しています。
  客の前のカウンターで調理する「割烹」のスタイルなど和食の基本は江戸時代の大坂で完成したと言われています。

  ウナギの蒲焼き 関西風と関東風の境界線 江戸で鰻を蒸すようになった理由と時期など  昭和期も東京は飯がマズい所で有名だった

  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf

  上記サイトには、江戸時代などに書かれた1174冊の料理関連本や文献の一覧が載っています。
  庖丁式の流派の「大草」と書かれたの8冊、「進士流」4冊。「四条流」のタイトルが付くものだけでも40冊以上あります。
  「庖丁」というタイトルが付く文献も何十冊もあります。


 1917 (大正6) 年出版 『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955371

 1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)では
  八月の献立 P.160~161 「茄子の刺身」が載っています。
 茄子の皮を剥き、水に浸けて灰汁を抜いたうえ、二つ割にし、縦に二分くらいの厚さに切り、重ねて蒸籠に並べて
  五分間程蒸してから冷まして置きます。葱の白い部分を四つに裂いて一寸位の長さに切り、熱湯に入れて ざっと
  茹で、水に取って冷まします。両方を一つ器に盛り合せ、酢味噌を添えて出すのです。


  NHK Eテレ 美の壺 『 納涼 ! 日本の夏スペシャル 第三回「食」』 11.08.04 放送 / 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 13.07.18 放送
  名古屋テレビ放送 メ~テレ 武士ごはんランキング 江戸VS京都 一生に一度は食べたいSP 発見 ! 和食のルーツ 14.09.07 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『祇園祭の別名"鱧祭り"関西で鱧が愛されているワケ』 18.07.20 放送

  京都・大阪の夏の味覚と言えば鱧。現在も鱧の4割が京都で消費されているそうです。
  祇園祭・天神祭は別名「鱧祭り」とも言われ、祇園祭では「はも道中」という神事が行われます。
  豊臣秀吉に出された料理が記録された『輝元様聚楽御亭秀吉公卿成記』には、秀吉が鱧を食べていた記録があります。

  1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』(著者は大坂の医師 寺島良安、出版地は大坂) 巻の五十一 「江海 無鱗魚」の
  「海鰻」 和名「「波無」、俗名「波毛」では、炙って醤油を付けて食べると美味しい事やカマボコにする事などが書かれて
  あります。






  【鱧】 (古名はハム。ハミ(蛇類の総称)と同語源)
   ハモ科の海産の硬骨魚。体形はウナギ形で、全長2メートルに達するものがある。吻はとがり、口は大きく鋭い歯をもつ。
   背部は灰褐色、腹部は銀白色。体は滑らかで鱗がない。青森県以南の沿岸に産し、関西では、はも料理の材料として
   珍重。北日本では、アナゴのことを鱧というそうです。

  鱧は骨が多くすり身以外で食べる場合は、必ず習得に何年もかかる骨切りという高度な包丁技術が必要です。
  関西では少なくとも江戸時代中期以前から骨切りという技術が発達していた事は確実です。
  京都の八坂神社内にある中村楼の辻雅光さんによると、江戸・東京で鱧料理が広まらなかった理由の一つとして
  「骨切り技術が非常に粗くて骨が残るから」と言っています。←信憑性は不明ですが。

  現在でも和食の料理人は京都か大阪で修業しないと一流とは認められないようですし、江戸時代なんかはもっと差があった
  のは確実で、関西の方が圧倒的に料理技術が高かったのです。


  ウィキペディアは嘘や適当に書かれてある事も多く信用しすぎてはいけません。 関東発信情報は嘘まみれ
  特に東京人が書いた思われるものは、東京に都合の悪い情報が書かれてなかったり削除されていたり。
  逆に怪しい出典内容を持ち出してきて「天王寺蕪」「守口大根」など大阪関連の歴史を改変するような書き方になっています。
  (たぶん同一の「大阪にコンプレックスを持つ」東京人であるという事が簡単に推理できます)

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?

  佃煮、築地は、大坂の佃村の森一族が江戸に移り住んだ事から
  野沢菜・広島菜のルーツは天王寺蕪 ウィキペディアの否定説を検証
  東京都台東区浅草の鷲神社の由来 他の歴史を自社の歴史のように思わせている件、堺の大鳥神社との関係
  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件
  東京メディアの偏向報道 今や関東発信の情報は疑えというのが常識。嘘、ねつ造、紛らわしい東京発信情報。
  蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見!! カマボコの歴史
  醤油 淡口醤油の方が先、濃口醤油の製造法も上方の方が早くに普及していた事が判明。
  東京近郊の関東の歴史 東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、その川で食器や野菜を洗っていました。東京で近年の衛生観念が定着するのは1964年の五輪がきっかけ
  長命寺桜餅の発祥年が怪しい 嬉遊笑覧によると1800年代か100年のサバ読み?
  浅草名物の登場年数も通説と違う記述を発見 紅梅焼き・雷おこしも明治初期の登場か?

  語源由来辞典 『刺身』
  【意味】 刺身とは、新鮮な魚介類などを生のまま薄く切り、醤油やわさび、生姜などをつけて食べる料理。刺し身。
  サシミ。お造り。
  【語源・由来】 刺身は、室町時代から見られる語。 武家社会では「切る」という語を嫌っていたため、「切り身」ではなく
  「刺身」が用いられるようになった。
  「刺す」という表現は、包丁で刺して小さくすることからと思われる。 他の説では、魚のヒレやエラを串に刺して魚の種類を
  区別していたことから、「刺身」と呼ぶようになったとする説もあるがヒレやエラの部分は一般的に「身(肉)」と考えられて
  いないため、この説は考えがたい。
  魚以外の材料で「刺身」と呼ぶものには、「たけのこの刺身」「刺身こんにゃく」、「馬刺し」や「牛刺し」などあり、魚の刺身の
  切り方や盛り付け方、新鮮な生肉(身)などの意味から呼ばれるようになったものである。

  語源由来辞典 『お造り』
  【意味】 お造りとは魚の切り身。刺し身。主に関西で用いる
  【語源・由来】 お造りは、「つくり身」の「身」が略され、接頭語「お(御)」が付いた言葉で、元々は女性語である。
  武家社会では「切る」という語を忌み嫌ったことから、「刺身」の「刺す」と同様に、関西では魚を切ることを「つくる(作る・造る)」
  と言い、刺身は「つくり身」と言った。
  ただし、関西でも儀式料理では「刺身」が正式な呼び名で、淡水魚も「お造り(つくり身)ではなく「刺身」と呼ばれていた。
  現代では、「造る」という言葉の意味からか、きれいに盛り飾られた切り身や、尾頭付きの切り身を「お造り」と呼び、飾り気の
  ない切り身を「刺身」と呼ぶ傾向にある。

  日本語・言葉のページ  室町時代 「お」を付ける女房詞が宮中で誕生

  コトバンク 「刺身」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 より抜粋
  江戸後期から明治、大正となるにつれて、刺身の盛付けには天地人三才盛り、山と河など数々の盛り方の名称が
   できているが、これらは何人分かの盛り込みである。銘々盛りとしては、「つくり身」の名でボタン、バラ、ツバキなど
   数えきれないほどの種類がある。
  「洗い」はヒラメ、カレイ、タイなど新鮮な白身魚を薄くつくり、冷水で洗って盛り付ける。「平づくり」は平たく切ったつくりである。
  「細づくり」は細く切ったもので、「糸づくり」はさらに細くつくる。「湯びき」はさっと熱湯をかけてつくる。
  「松皮づくり」はタイを皮つきのまま身取りし、ぬれぶきんをかぶせて熱湯をかけ、皮に霜降りしてから水で冷やしてつくる。
  「湯ぶり」はすこし大きく切った材料を沸騰した湯に一切れずつ箸(はし)で挟んで浸し、すぐ冷水にとって冷やしたもの。
  「さいの目」と「あられ」は大きさの相違で、賽の目は2センチメートル角、あられは1センチメートル角程度につくる。
  「薄づくり」はフグ、コチ、ヒラメなどを用いる。なお、刺身をつくる場合には、切るといわずに「引く」といっている。
  植物性材料にも刺身のことばは使われている。ナスの刺身、こんにゃくの刺身などがそれである。


  日本文化いろは辞典 『刺身』 http://iroha-japan.net/iroha/B02_food/19_sashimi.html

  ≪ 江戸時代の刺身の盛り方 ≫

  刺身の盛り付け方は、もともと「一器一種」という決まりごとがありました。これは一つ器に数種の魚を盛り付けると、
  魚の匂いが 移り素材そのものの味を美味しく味わう事ができなくなるので、一つの器に一種類の魚しか盛らない
  という決まりごとです。
  しかし現在では数種の魚を一つの器に盛り付ける「盛り合わせ」が一般的となっています。

  盛り合せは元々、江戸時代末期、大衆に刺身文化が広まった頃、庶民が魚屋にお皿を持って行き、適当に盛り合わせ
  てもらったのが始まりであると言われています。

  また、刺身の盛り付けには「つま」が欠かせません。
  「つま」とは刺身に添える大根や大葉、海藻などの事をいい、盛り付けを美しく見せるために使われます。
  また「つま」には、盛り付けの他に、毒消し(口の中を洗う)という意味があります。刺身を口に運ぶ前に大根のつまを
  醤油を付けずに食べると、口中に残っている他の料理の味を消し、刺身の味を一層引き立たすという役割をします。


  ≪ 明治時代中期の高知のカツオの刺身 ≫

  1892 (明治25) 年出版 割烹授業日誌 第一輯 高知県尋常中学校女子部 編 出版地は高知県 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811753
   この書によると、鰹魚 (松魚かつお) の指身 (刺身) は醤油・おろし大根・シソで食べていたようです。
   カツオの刺身を酢に浸しカラシを付け昆布と大根で巻いた「嬉野うれしの」という料理やカツオ節を使った「鰹でんぶ」、
   また「握り鮨」「朧鮨」「散し鮨」の作り方も載っています。「ビフカツ」「オムレツ」「ビスケット」など洋食も載っています。
   但し、何故かカツオのタタキは載っていません。

  初かつお 江戸ではカラシで食べていた、江戸時代のタタキは現在とは全く違う料理だったなど
  高知県のカツオのタタキと、明治時代中期の高知の食文化が分かる書 色んな発見がありました。


  NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『既成の型を打ち破れ!』 15.01.13 放送

  ≪ 日本料理の盛付の器などが多彩になったのは、魯山人の影響 ≫

  「美の壺 刺身」の番組によると、フチが無い皿などに盛り付けるのは、北大路魯山人からだそうです。
  盛付だけでなく、日本料理の考え方・在り方などにも大きな影響を与えたようです。

  【北大路魯山人】きたおおじ-ろさんじん (京都生まれ、1883~1959) 本名、房次郎。
   陶芸家。はじめ書・篆刻で名をなし、のち料理・食器の研究にあたる。北鎌倉に窯を築き多彩な陶磁器を製作。

  20才で上京し全国各地を廻り骨董品を集め骨董品店を東京でオープン、開業直後の1920 (大正9) 年3月に株式大暴落が
  あり、骨董品が売れなくなりました。
  そこで、売り物の骨董品に料理を盛って提供。貴重な骨董品で食事ができると評判になり、名声を高め「魯山人」と名乗る
  ようになります。






  1924 (大正13) 年、42才頃に東京・千代田区の山王の森の一角に会員制の料亭「星岡茶寮」を開業。
  敷地3000坪余に数寄屋造りの建物を現在価値で2億円ほどかけて、10の客間と5つの茶室を持つ料亭に改修したものでした。
  芸者などの余興がある料亭ではなく、料理だけを楽しむ新しい料亭のスタイルでした。

  吉兆の創業者「湯木貞一」は若い時に訪れた印象を後に「料理だけを楽しむ空間になる。 松花堂弁当 と 吉兆
  それがすごく新鮮だった」と語っていたそうです。

  「星岡茶寮の会員にあらざれば、日本の名士にあらず」という言葉まで生まれ、吉田茂・犬養毅ら政治家や芥川龍之介・
  島崎藤村などの文豪ら一流の文化人が会員になっていました。

  右端の料理皿は、魯山人と交流があった名古屋の料亭に残る魯山人の「織部まな板鉢」という有名な作品だそうです。
  茶人の古田織部の名を借りたものと推測します。

  【古田織部】ふるた‐おりべ(美濃の人、1543~1615)
   安土桃山時代の茶人。茶道織部流の祖。名は重然しげなり。千利休の高弟。初め豊臣秀吉に仕えて同朋どうぼう
   秀吉の死後隠居し、茶道三昧の生活に入った。茶匠としての名声あがり、関ヶ原の戦には徳川方に功ありとして大名に
   復した。徳川家の茶道師範と称されたが、大坂夏の陣で陰謀を疑われ自刃。

  近年まで、堺・泉州のアナゴが名産地として全国的有名だった 養殖で復活へ
 
 江戸時代の百科事典 重宝記
  神戸女子大学 古典芸能研究センター 『近世の家政学―重宝記・料理本の世界』 2001.12.08
    http://www.yg.kobe-wu.ac.jp/geinou/07-exhibition3/06-ten_kase.html

 重宝記は江戸時代の百科事典といえる。

  日常生活に必要な知識を種類・項目別に集めてわかりやすく解説した、その名称が示すとおり「重宝」な書物であった。

  そこに記された知識は学芸・歴史・社会・風俗・故実・倫理・実用と多岐にわたり、江戸時代を通じて刊行された重宝記の
  種類は相当数になる。
  ことに元禄五年の『女重宝記』同六年の『男重宝記』刊行以後、様々な重宝記類が矢継早に刊行されるのである。

  その様は元禄十五年刊 都の錦 作の浮世草子『元禄太平記』に
  「すでに大坂において、家内重宝記が出来始めしより此かた、其類棟に充ち牛に汗するほどあり」と記されている。

  上記サイトには、江戸時代の各 重宝記や料理書などが解説されています。
  この重宝記各書が現代文に訳され一般公開されると、様々な発見がありそうです。
  これまでの通説が覆され文化の歴史が変わるのではないかと思います。

  【元禄太平記】げんろく-たいへいき
   浮世草子。都の錦 (本名 宍戸与一、1675~) 作。8巻8冊。1702 (元禄15) 年刊。伏見の夜船で。京・大坂の本屋が
   出版界の情況、作者・学者の評判等を語り合う筋で、一種の文化時評的性格を持つ。井原西鶴批判でも有名。

  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf

  KIRIN食生活文化研究所 発酵食品名鑑 『水産発酵食品』 http://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/ferment/fishery/

  上記、キリンのサイトには、味噌や酒、発酵すしなどが載っています。   江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸

  ≪ この寿司の情報は、主に下記の2つ資料を中心にして、広辞苑、Wiki 各テレビ情報、他のサイトなどを参照しています ≫

  京都と寿司・朱雀錦 (14) 寿司の歴史  http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-14.html
   上記リンク・サイトの参考文献は 『すしの辞典』 日比野光敏 (岐阜県出身、名古屋経済大学短期大学部教授) 著 2001/5 出版 /
   鮓・鮨・すし』 吉野曻雄 (東京都中央区日本橋出身、俳優) 著 1990/11出版。/ 『酢とすしの話』 中山武吉 著 2001/1 出版。
   ※ 参考文献はいつ誰が書いたのかが重要なので、ネットで調べました。↑

  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部
   この文庫本は、多くの本や雑誌の記事やエッセイなどを参考にして書かれた物なので、間違いと思える記述もあります。
 
 【熟 (馴) すし】
  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部 / 京都と寿司・朱雀錦 (14) 寿司の歴史
  歴史ミステリー 寿司に命をかけた男・華屋与兵衛の情熱人生! http://youtu.be/IrbM2thiOvI
  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「江戸に咲かせた食文化」 12.02.02 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『滋賀の郷土料理「ふなずし」クサくても愛される理由が!』 17.11.24 放送

  「すし」の言葉の起源は中国   を多く使うから「酢し」という説もあるけど。

   ← 関東に多かった。  ← 関西に多かった。 寿司 ←縁起を担いでつけた当て字。

  「」は紀元前5~3世紀の中国の『爾雅じが』という辞書に記され、「魚謂之鮨」←魚の塩辛の意味。

  「」は、紀元後1世紀末~2世紀の辞書『説文解字』で、魚の貯蔵品の事を意味する。
  2世紀頃に なれずし の意味に変わる。

  3世紀頃には「」と「」の意味が混同され、そのまま日本に伝わり、平安末期~江戸時代までは「」が多く使われて
  いたそうです。
  弥生時代に稲作と共に、中国や東南アジア辺りのアジア大陸から伝わったとも言われています。

  現在の酢を使用した寿司ではなく、発酵によって酸味を得るもので、『熟すし』『馴すし』と書きます。







  ≪ 熟れずし ≫ 琵琶湖の雑学

  奈良時代の木簡に書かれたすしは『熟すし』で、魚を飯や粟などのデンプン質の物と漬け込み、自然発酵。
  乳酸発酵の酸味が生じ魚の腐敗を抑え『旨味」が増加した保存食。乳酸菌による整腸作用もあると言われています。
  飯などは粥状のドロドロになるので、それを捨てて魚のみ食べます。

  塩漬け保存した魚介類とご飯を混ぜたもので、発酵食品なので手間と時間がかかる高級品
  滋賀県の琵琶湖の名産品として残っている『鮒ずし』が最も近いそうです。

  奈良時代の養老 (712年12月24日-724年3月3日までの元号) 律令が 718年に制定。の注釈書である令義解りょうのぎげ
  834年(承和1)から施行。10巻。(勅命によって清原夏野を総裁とし小野篁・菅原清公らが撰進。従来の諸説を取捨し、
  令の解釈を統一)に天皇への献上品と記されているのが最古の記録だそうです。
  あわび貽貝鮓などが記載されています。







  平安時代の「延喜式えんぎしき」という法令の細則には
   筑紫 (福岡県) の鮒鮓ふなずし、三河 (愛知県) の貽貝鮓いがいずし、讃岐 (香川県) の鯖鮓さばずし、備前 (岡山県) の
   雑魚鮓ざっこずし献上品として記されているそうです。

  【延喜式】えんぎしき 
   弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。
   50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、
   927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。

  【源五郎鮒】げんごろう-ぶな
   琵琶湖に産する大形のフナの一種。堅田かただの漁夫 源五郎が捕えて安土城主に献上したことから、この名を得た
   という。美味。膾なますなどにする。箆鮒へらぶなは、源五郎鮒の人工飼育品種。


  『穀物文化の起源(家永泰光、大正14年~昭和・平成期の農学者。九州東海大学教授 著、1982/01 出版 )によると

  すしの食材としては、鮎(あゆ)、鮒(ふな)、鮭(さけ)、雑魚(ざこ)、鰒(あわび)、貽貝(いがい)、海鞘(ほや)、鹿(しか)、猪(いのしし)の9種。
  食材では、淡水魚が中心で鮎が最も多いそうです。

  産地は、 大宰府(福岡)、豊前(大分)、豊後(熊本)、肥前(佐賀・長崎)、肥後(熊本)、筑後(熊本)、伊予(愛媛)、阿波(徳島)、淡路(兵庫)、
   備前(岡山)、美作(岡山)、大和(奈良)、河内(大阪)、播磨(兵庫)、丹波(京都・兵庫)、但馬(兵庫)、近江(滋賀)、紀伊(和歌山)、
   三河(愛知)、尾張(愛知)、美濃(岐阜)、伊勢(三重)、志摩(三重)、若狭(福井)、越中(富山)の25ヶ国。

  域的には西日本が圧倒的に多く、東日本では東海及び北陸の西側に限定され、関東以東には全く見当たらない

  下の水産大学校の論文P.162に.延喜式・主計の章に記された貢納すべき“すし”とその国々の表があります。

  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf

  延喜式』には滋賀県の熟れすしの原型になるつくり方が記されており、「フナずし10 石作るのに米1石、塩8石、味噌
  2石5斗」となっている。なれずしは保存食だとされ、塩と米に含まれる澱粉からの乳酸発酵で生じる乳酸の働きを使って
  魚の腐敗を防いでいる。当時のなれずしは今日のなれずしに比べ米の量が少なく、味噌を使っている。


  ≪ 江戸時代の主な料理書のすしの種類の記述 ≫


 1643年(寛永20)刊『料理物語』の1665 (寛文4) 年版より。著者はおそらく大坂
  「第一 海の魚之部第三 川魚之部」で「すし」の記述があるもの
  「」「眞鰹」「たら」、「」「あゆ」「ます」「さけ」「あめ (アマゴ)」「わたか」「わかさぎ」「うなぎ」「どぜう


 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
  鮨部には次の前書きと、下記のメニューとレシピが載っています。
  惣而 鮓は魚身うむは悪嫌ふ也 身しかりとするはよし 皆おもし加減也 鯛 鮭 まぶな おぼこ等の鮓如常無別儀
  鮒鮨漬方」「岐阜鮎鮓方」「塩鮎鮓仕よう」「一夜鮓方」「当座鮨の方」「茄子めうが鮓方鰯鮨漬やう
  当座鮨は季節によって、鯛・小鯛・鱒ます・鰆さわら・鰹かつお・鯔ぼら・きすこ・鯒こちなどを使った押し寿司です。


 1689(元禄2)年の料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』中川茂兵衛 著 出版地は京都。
  巻四魚類のの類には鮭の鮨」「鮎の鮨」「鮎の鮨 美濃漬」「白魚の鮨」「鰹の鮨」「鮒の鮨」「鮒の早鮨
  久しく置 鱈鮨」「鱈子籠の鮨」「鯛の鮨 
  ※ 別のサイトより転載。実本を見たわけではないので、「鮨」の字がこの字で通りなのかは確認できていません。


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)
  この書は昔の文献や見聞きしたものを集めた部分と、独自の部分 (主に獣肉食の部分) があります。

  下巻 六 「
  古来の鮓は魚と飯とを合せ くさると くされざるとの間を鮓と云て 少し酢めの付を好む者あり 当時 能よく 鮓と云は
  魚と飯と思ひ合 味の付たる所をよしとする也 依飯を洗て 少水気の有様に漬れば古法也 当時は飯を洗はず 一日
  二日にてくはるゝをよしとする也 尤物により古法の鮓吉 心付漬べし
  すばしり (ボラの稚魚) の鮓」「岐阜鮎鮓の法」「岐阜の塩鮎の鮓」「塩鮎鮓」「鮎子入鮓」「大魚鮓こけら
  当座鮓」「塩鯖の鮓」「ひょう(鮭とイクラの押し寿司)」「鰯の鮓」「小魚の鮓」「あわ飯鮓 (小鮎と粟入り飯)浅間鮓
  玉子の鮓」「海鼠ナマコの鮓」「竹子」「はやの鮓」「飯鮓 (塩鯖の押し寿司)小魚一夜鮓このしろの鮓
  押形鮓

 
 【生成ずし】
  京都と寿司・朱雀錦 (14) 寿司の歴史  http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-14.html
  画像のみ 日テレ 月曜から夜ふかし 13.04.17 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「にっぽん城下町めぐり⑩」』 14.02.06 放送
  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『何やらしてくれとんねん ! 「琵琶湖を巡って風流な俳句を詠め !」』 14.09.12 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『滋賀の郷土料理「ふなずし」クサくても愛される理由が!』 17.11.24 放送

  ≪ 生成ずし ≫  古代の成れずし (飯がドロドロになるまで長期発酵させたすし)

  鎌倉~室町時代頃になっと、熟ずしは貯蔵性よりも料理性 (味) が重視されるようになって、短期間の漬け込みで
  飯も捨てなくていい状態で食べられるようになります。鮮魚を漬け込んだものがほとんどで、鮎が最も多いそうです。

  この時代の記録や日記に登場するすしの多くは『生成すし』=『ナマナリナスシ』(日葡辞書)、もしくは『なまなれのすし』と
  呼んだようです。

  【生成り】き‐なり … 手を加えてないこと。特に、糸や布地などの、さらさないままのもの。


  ≪ 滋賀県 琵琶湖名物 ニゴロブナの鮒ずし ≫

  各地に残っている鮒鮨で最も有名なのが、滋賀県の琵琶湖名物。フナの内臓を取り除き、塩漬けにして陰干しします。
  樽に炊き上がったご飯と干したフナを空気が入らないように詰め込みます。空気が入ると雑菌が繁殖し腐ってしまいます。
  酸素が無くても生きていける乳酸菌と酢酸菌が繁殖し、1年ほど漬け込むと独特の酸味をもつ鮒鮓が出来上がります。






  桃山時代の朝鮮出兵の際、豊臣秀吉が九州に軍を進めた時、陣中見舞いとして長浜から鮒鮓が献上されています。
  秀吉が羽柴筑前守だった頃に長浜城主だった事があり、長浜の町人が五郎左衛門と甚六の2人を遣いとして、
  鮒鮓100匹を届けました。
  秀吉は感激し、普通なら町人には出さない朱印付の感謝状を特別に贈ったという記録が残っているそうです。

  江戸時代は幕府への献上品にもなっていました。

  現在はニゴロブナの減少などから高級品となっています。2017年、滋賀県内スーパーでの鮒ずし1匹 (1680円~、
  卵入りの子持ち2980円~)。商店での販売では1匹5600円の所も。
  鮒ずしが好きな年配の方は家庭でも作っており、家庭によって味が違うようです。
  滋賀県の調査によると、鮒ずしを食べた事がない滋賀県民も4割くらいいるそうです。


 1643年(寛永20)刊『料理物語』の1665 (寛文4) 年版 「第二十 萬聞書之部」に書かれた 一晩でつくる即席ずし

 夜ずしの仕様〕 あゆをあらひ、めしをつねの塩かげんより からうして、うほに入、草づとにつゝみ、庭に火をたき、
  つと共にあぶり、其うへを こもにて二三べんまき、かの火をたきたるうへに置、おもしを つよくかけ候、又は しらに
  まきつけ つよく しめたるよし、一夜に なれ候、しほうをはならず候


 1785年(天明5)刊の『萬宝料理秘密箱』前編 (いわゆる「卵百珍」) 著者は京都の器土堂主人。
 巻之五 川魚之部

 大津石塲鮒鮓の仕方 一寒の内に右ゑらはらわたをとり あたまを打ひしき 右塩を澤山にためて 両方より
  鮒を塩の上へおし付 よくよく ふなに塩付ほとにして 扨 黒米をば こわめしに焚 よくさまして喰かげんに
  塩を合セ 右めしをたくさんに漬るべし 又 初の程は押付を き廿日ほどすぎて押かろく七十日ほどして
  よく馴るべし 右のことくすれば翌年までも 又 夏秋の頃は なをなを風味よろしく骨を和かに一段とよし
  一手取肴又 進物にもよろし

 同早鮓の仕方 一凡酒一升に塩三合入レて焚 是に酢一合加へて 右酒くさき氣香を冷し 是にて飯を焚よく冷し
  右の内にて喰かげんの塩より すこしからめに合 右の鮒の塩を一時ほどしませて 扨 取いだし水にて ざつと洗ひ
  右の飯にて漬 二日ほどして 能なれるへし

  人文学オープンデータ共同利用センター 『「万宝料理秘密箱 卵百珍」レシピ一覧』
   http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C


  鮒 (ふな) ずしのアイスを開発している所があるようです。鮒ずしは発酵食品(菌が多い)ため、
  アイスの衛生基準をまだクリア出来ていない為、2012年現在では発売はされていないようです。

  2017年にカルビーから『ポテトチップス「鮒ずし味」』が発売されました。
  カルビーの♥JPNプロジェクト第2弾で、滋賀県庁とのタイアップ商品。滋賀県湖南市にあるカルビー湖南工場で製造。
  食べやすい鮒ずし味を目指して開発したので、独特の酸っぱさなどはマイルドになっているようです。


  ≪ 琵琶湖特有のイサザ ≫

  【魦】いさざ  いさざ=シロウオの別称で、別の魚。
   ハゼ科の淡水産の硬骨魚。琵琶湖の固有種で、冬の景物とされる。全長約8㎝。
   淡褐色。春、飴煮につくる。

  【魦鮨】いさざ-すし … 煮たイサザを飯にまぜた鮨。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびだせ ! えほん 新春SP 「雪景色の秋田で縁起もん探してスケッチ旅」』 13.01.03 放送

  ≪ 秋田県の鰰はたはたずし ≫

  冬季、産卵の為に秋田の海岸に押し寄せる鰰。鰰に塩をして、飯・野菜などと漬け込む
  熟れずしの一種。鮒ずしと同じような造り方だそうです。

  【鰰・鱩・燭魚】はた‐はた
   ハタハタ科の海産の硬骨魚。口は大きく体には鱗がない。
   背部は黄白色で、褐色の流紋がある。全長15センチメートル内外。
   北日本のやや深海に産し、11~12月産卵のため沿岸に群遊する時に漁獲。
   その季節によく雷鳴があるのでカミナリウオともいう。
   「しょっつるなべ」の材料とし、また、卵は「ぶりこ」と呼ばれ、賞味。沖鰺おきあじ
秋田名物 ハタハタ



  ≪ 和歌山県田辺市の「くさり鮓」 ≫  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部

  紀州名物の腐り鮓は、鯖や鯵、秋刀魚なとせを肩口から背割りして水洗いした後、塩を振って桶に入れて1ヶ月くらい放置。
  目や骨を取り除いた後、塩を振った御飯を握り固め塩出しした魚に詰める。酢は使わず自然発酵させます。
  葦の葉で巻いて再び桶詰め、重石を置き10月くらいなら5日で食べられるようになるそうです。

  【腐り鮓】くさり‐ずし くされずし
   熟鮓なれずしの一種。塩漬けにしたサバ・タチウオ・雑魚などの切身を飯の上にのせ、葦あしの葉で巻いて桶に詰め、
   おもしをかけて10日ほど置いたもの。和歌山県田辺地方の名産。なまなり。


  KIRIN食生活文化研究所 発酵食品名鑑 http://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/ferment/fishery/suisan_17.html
  -T'S すし BAR- 『関東のすし』  http://www.mirai.ne.jp/~hbnt/kanto.html

  ≪ 千葉県の「鰯のくさり鮓」 ≫

  これは千葉県・九十九里浜に伝わる伝統的な保存食でなれずしの一種。なれずし独特の香りから付けられた名前です。
   くさりずしは秋から冬にかけてイワシ漁の最盛期に、苦労して得た海の幸を保存する方法として生まれました。

   紀州の漁民が伝えたとも言われます。← たぶん徳川吉宗の頃、醤油職人などが千葉に移り住んだ事に由来。


  ≪ 栃木県の「鮎のくさり鮓 ≫

  鬼怒川上流の古習として伝わるナマナレ。上河内村では今も晩秋の羽黒さんの祭りに作られる。
   アユが少なくなってからは切り身をご飯に混ぜて漬け込むようになった。


  ≪ 鎌倉時代からの和歌山の鯖のなれずし ≫  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『和歌山湯浅ぶらり 秋の美味いもん旅』 14.10.25 放送

  和歌山県の湯浅醤油と県内随一の漁獲高を誇る漁港がある湯浅町。この町で800年以上食べ継がれている
  なれずしの起源は、鎌倉時代初期に平家の残党が塩サバと御飯が自然発酵している事を発見した事からだそうです。

  商店街にある創業120年の『つるや』では、酢を使わず、塩味がついた御飯と鯖を (葦の葉? で包み) 重しをして、
  自然発酵させたなれ寿しを販売しています。臭みもなく、鯖の美味しさが引き立っている寿司だそうです。






  俳優 三田村邦彦さんによると、出身の新潟県では鯵あじを使い御飯の代わりにおからを使用して作るものがあるそうです。
  おからを使った卯の花寿司


  ≪ 和歌山の雀すずめ寿司 ≫  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部

  元々、琵琶湖の鮒鮓ふなずしを応用して、和歌山で獲れた小鯛を背開きにし、そこへ寿司飯を詰める事で、全体がふっくらし
  ヒレがピンと張り雀のように見えた事から。作られ始めたのは江戸時代後期以降のようです。

  ※ 広辞苑によると、雀ずしは大坂の難波名物とあります。現在の寿司になった経緯や、どちらが先かは不明ですが、
    どちらも現在は押し鮨です。

  【雀鮨】すずめ‐ずし
   もと江鮒えぶな(上方でボラの幼魚の事)を開いて腹中にすし飯を詰め、その形を雀のようにふくらませた鮨。
   難波名物。 今は小鯛を用いて、棒ずしや押しずしにする。

  【鯔・鰡】ぼら
   ボラ科の硬骨魚。淡・鹹かん両水域にすむ。体は長くて円みを帯び、頭端は鈍い。
   胃壁は厚く、俗に臍へそまたは臼という。背部灰青色、腹部銀白色。全長約80㎝。
   世界各地に産し、養殖魚ともなる。秋に美味。卵巣を塩漬にして「からすみ」とする。
   出世魚とされ、3~4センチメートルの稚魚をハク、小形のものをオボコ・スバシリ、20~30㎝の

   ものをイナ、成長したものをボラ、またきわめて大きいものをトドなどという。名吉なよし。広義にはボラ科魚類の総称。
   講談社 カラー完全版 『日本食材百科事典】 愛知、九州が主産地。長崎の野母崎産のからすみが極上品。


  ≪ 大阪の老舗 小鯛の雀寿司 押しずし ≫  総本家 小鯛雀鮨 鮨萬 HP http://www.sushiman.co.jp/

  1653 (承應2) 年に鮮魚商として創業し、1781 (天明1) 年にすし店を開業した大坂の「すし萬」は、ボラの稚魚に
  ご飯を詰めた「雀鮨」を始め、後にボラを小鯛に変えた「小鯛雀鮨」が評判になり現在に継承。
  当初は桶詰でしたが、今では押し寿司になっています。
 
 【飯すし・杮すし】
  ≪ 飯いいずし  杮こけらずし≫  飯ずし … 御飯の量が多い。  杮すし … 薄く切った魚を乗せたすし。

  平安時代の『類聚倭名抄』や『延喜式』などに記されている「飯の種類」は、「強飯」、「炊飯かしきかて」、「黒米飯」、
  「油飯あぶらいひ」、「糒ほしいい」、「餉かれいい」、「糄米やきごめ」、「粔籹おこしごめ」、「頓食とんじき」、「姫飯ひめいひ」、
  「水飯」、「湯漬」、「饘かたかゆ」、「汁粥」、「漿こずみ」、「味噌水みそうず」、「望粥もちかゆ」、「薯蕷粥」などがありました。

  室町~安土・桃山時代にかけて、米は『蒸す、強飯こわめし』 → 『炊く、姫飯ひめめし』 と変化
  現在と同じご飯を食べる事が多くなりました。
  高価な鉄鍋や土鍋が普及し始めた事が大きな要因のようです。

  朝夕2回から1日3食が普通になり、酢も各地で作られ始めます。

  【強飯】こわ‐めし、こわ‐いい 蒸飯。赤飯。(御強おこわ ← 室町時代の宮中の女房言葉から )
   糯米もちごめを蒸したもの。多くは小豆を加え、祝賀に用いる。仏事には小豆を加えない白いもの、
   または黒豆を混ぜたものを用いる。

  【姫飯】ひめ‐いい ← 現在、日常食の御飯
   釜で炊いた飯。甑こしき (のちの蒸籠せいろうにあたる)で蒸した強飯こわいいに対し、
   やわらかく炊いた飯。ひめ。
蒸籠せいろう


  炊いた柔らかい御飯を食べることが普通になった事で、魚の腹に飯をたくさん詰め込み
  飯の量が多い『飯いいずし』と呼ばれるすしが登場。

  また、多くの飯の上に魚の切り身や乾物、野菜などを乗せた『棒すし』が登場
  『棒すし』の中で、魚の切り身を薄く切って乗せたものは『杮ずし』と呼ばれました。

  【杮鮓】こけらずし=【木屑こけら】とも書く。
   薄く切った魚肉などを飯の上にのせたすし魚の姿ずし (棒すし など)

  ※ 杮ずしの作り方を見ていると、柿の葉寿司のルーツのような気がします。
   ちなみに、このフォントでは『杮こけら』 と『柿かき』の漢字は、ほぼ同じに見えますが、かきは『』です。
か き           こけら



  ≪ 徳川将軍 御用達 尾張の宿継鮎鮨 ≫

  江戸時代、1603 (慶長8) 年、尾張 (愛知県西部) の郡代であった大久保長安が本巣郡
  馬場村の河原屋喜右衛門に命じて鮎鮨を調達させ、徳川家康、秀忠に献上したという
  記録が最初。

  家康がこの長良川で獲れた鮎を使った鮨を気に入った為、岐阜城から木曽川を越えて
  東海道まで道を整備。『御鮨街道』と呼ばれました。

  以後、鮎鮨を献上するのは尾張藩の所管となり、鮎を提供する岐阜県の長良川の鵜匠
  もその支配と保護を受けました。

  献上する鮎鮨は毎年5月から8月まで月5度、年20度、一荷4桶 (1桶鮎 大は10尾、
  小は20尾)、三荷ずつ。
  岐阜の城下町から幕府への献上は1619~幕末の1862年まで続きました。

  宿継とは、逓送ていそう (宿場から宿場へとリレー式に順々に送る) する事。 
  御用達のすし屋が出来て、鮎を本漬にしてから江戸に到着するまでの10日とし、
  鮨苗すしなえ (鮨に漬ける材料) を常備していました。




  【大久保長安】おおくぼ‐ながやす(甲州武田家の猿楽師の子といわれる、1545~1613)
   江戸初期の国奉行・金山奉行。石見守。忠隣より大久保姓を与えられる。
   徳川家康に仕え、関東の支配、信濃・甲斐などの十数カ国の支配に与り、また佐渡・石見・伊豆の金銀山開発に当たる。
   死後、所領没収。

  【尾州家】びしゅう-け 尾張家
   徳川氏三家の一つ。徳川家康の第9子 義直を祖とする。尾張・美濃および信濃の一部を領した。石高61万9000石。

  鮎鮓は、1643年刊『料理物語』に記述があり、1668年の『料理塩梅集』(大坂) と1746年成立の『黒白精味集』(江戸)では
  岐阜鮎鮓方とあるので、江戸時代中期には名物として広く知られていた事になります。

  リファレンス協同データベース
   http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000012934

  岐阜県図書館の『岐阜市史(通史編・近世)』には、「献上鮎鮨」として記載あり。
   また、岐阜県内では、岐阜から笠松にかけて街道があったので、笠松町の町史などをみると、『笠松町史(上巻)』
   (郷土:224.3/カ)、『ふるさと笠松』(郷土:224.3/フ)に「鮎鮨献上」について記述あり。


 ≪ 杮こけらずしの作り方の記述 ≫

  江戸時代の1643 (寛永20) 年刊で、庶民の日常食を記した『料理物語』では
  杮ずしの使用、さけをおろし、身をひらひらと大きにつくり、めしに塩かげんしてかき
   合わせ、其のままをしかけ申候計也とあります。

  料理物語は、儀式料理のレシピや作法が中心だった16世紀以前の料理書と大きく
  異なり、表現は簡潔で文章は格調高く、料理の網羅範囲も広い

  後書きには『武蔵国狭山に於いて書く』との記述があるが、上方言葉が使われており
  著者の詳細は不明。大阪出身で京都に住む商人が書いた。著名な料理人が後進の
  ために書いた。などと推定されているそうです。

  【料理物語】
   料理書。著者未詳。1冊。1643年(寛永20)刊。
   魚・鳥・野菜などの料理の材料76種の名称と、それに適する料理を列記し、料理法を
   略述。有職故実の記述ではなく、庶民の日常食を記す。

   江戸時代の出版事情 1643年出版なので、ほぼ間違いなく京都で出版されたもの。
奈良名産の柿の葉寿司


Wiki 料理物語



  ≪ 「生成ずし」の製造方法の進化 ≫  更に発酵期間を短くする方法が開発されます。

  1668年の『料理塩梅集』(塩見坂梅安 著 おそらく大坂人)、1689年の『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』(京都)
  という広く秘伝口伝・聞書の類等から料理に関する事柄を丹念に集めた料理百科にこうじを混和する方法が記載。

  このこうじを混和する方法は、現在の東北・北陸地方に広く見られる発酵ずし 「北海道・青森の飯いずし、
  秋田のハタハタずし、山形の粥ずし、富山・石川のカブラずし、福井のニシンずしなど」にも見られる技法だそうです。

  酢を混ぜる方法 (ともに出典文献、未確認)
  元禄年間頃から酢が寿司に使われるようになったようです。主に、酒粕から造られる粕酢が使われたそうです。
  酢を使って、1771年一晩寝かすという記述した文があるそうです。

  1802年の『名飯部類』に記述されている杮ずしの作り方として、精白米1升に水1升に塩5勺を加えて炊いた後、器に
  移して冷ます。その飯の上に薄く切った具を並べ、上から酢を振りかけるとあります。


  ≪ 上方 「杮こけらずし」の具体的な記述 ≫  名飯部類と素人庖丁

  1802年に大坂で刊行された『名飯部類』によると、杮ずしの上に乗せている具は、上等品では、鯛たい・鮑あわび・松菜。
  中等から下等品では、赤貝・三つ葉など。薬味は蓼たで・山椒・生姜を用いる。とあるそうです。

  【松菜】まつな
   アカザ科の一年草。西日本の海浜に自生。葉は鮮緑色で、短い松葉に似る。
   栽培して、若葉を味噌和え、または吸物の青実あおみとする。初秋、緑色の花を穂状につける。

  1803 (享和3) 年刊の『素人包丁』(大坂で刊行) には、上方の杮ずしの作り方として、身の切りつけから盛り方、箱ずしの
  押し箱、重石、小鯛と鯖の丸ずしまでの絵が、詳しくスケッチされているそうです。

  (個人的に) 読めない (訳せない) 字がいくつかあるのですが、
  素人庖丁では、「鯛の生すし」「鯛の浅草すし(海苔巻ずしの事)」「鯛押しずし」「のりすし」「雀すし」「丸ずし」の記述も
  あります。


  幕末頃に書かれ、明治末に出版された『守貞謾稿』の上巻 第五編、生業下の条には

  …京坂にて、方4寸 (12cm) 許ばかりの箱の押しずしのみ。 一箱48文は鳥貝のすし也。 叉、杮ずしと言うは
  鶏卵やき、鮑、鯛と並みんなに薄片にて飯上に置くを言う。 飯中椎茸と独活うどを入る。
  京坂の鮨普通以上三品を専もっぱらとす。 亦またも、異製をなす店も稀に有レ之。
  また、鮨には梅酢漬の生姜一種を添える。 赤き故に紅生姜と言う。 とあります。

  ※ この文で分かる京都と大阪の杮すしの特徴は、混ぜ御飯を使用、玉子焼き、鮑、鯛の高価な食材3品を使うのが
    定番の高級な寿司。紅ショウガは関西 (大阪の可能性が濃厚) での発祥品である事。

  【守貞謾稿】もりさだまんこう  Wiki 守貞謾稿
   (「守貞漫稿」とも)随筆。喜田川守貞著。30巻、後編4巻。
   1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。
   近世風俗研究に不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行。

   紅ショウガの天ぷら 豆腐百珍続編 (著者は大坂の曽谷学川) に「梅酢漬けの生姜」の記述を発見

 
 【鯖街道 】
  ≪ サバ街道 主に 福井県~京都を結ぶ物流の主要道路 ≫

  【若狭街道】わかさ‐かいどう
   京都から八瀬やせ・大原を経、途中越とちゅうごえ・朽木谷くつきだにを通って小浜おばま
   に至る道。
   古くからの要路で、若狭の鯖さばが京へ運ばれたので鯖の道とも呼ばれる。

  【若狭湾】わかさ‐わん
   福井県南西部から京都府北部にわたる日本海の大陥没湾。
   リアス海岸で湾岸の出入の変化に富み、国定公園に指定され、また良港がある。

  Wiki 鯖街道より


 鯖街道さばかいどうは、若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の嶺南に該当)と京都を結ぶ街道の総称である。
  主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートであったが、その中でも特に鯖が多かったことから、近年になって
  鯖街道と呼ばれるようになった。

  若狭湾で取れたサバは徒歩で京都に運ばれた。
  生サバを塩でしめて京都まで運ぶとちょうど良い塩加減になり、京都の庶民を中心に重宝されたといわれている

  夏期は運び手が多く、冬期は寒冷な峠を越えることから運び手は少なかったといわれる。しかし、冬に針畑峠を越えて
  運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて、特に美味であったとされている。運び人の中には冬の峠越えのさなかに
  命を落とす者もいた

  鯖街道によって、サバだけでなく多くの種類の海産物なども運ばれた。
  平城宮の跡や、奈良県明日香村の都の跡で発掘された木簡からは、若狭からタイの寿司など10種類ほどの海産物が
  運ばれたと推定され、鯖街道の起源は1200年以上、あるいは約1300年前と考えられている。

  また、現在の橿原市にある藤原宮跡から出土した木簡には塩の荷札が多数見つかり、鯖街道を利用して塩も多く
  運ばれたとみられている
  現代においても、小浜や国道367号沿線などには鯖寿司の製造を生業とした店が多数存在する。


  テレビ大阪 ニュースリアル関西 『「サバの町」復活へ 養殖のサバで、現代の"鯖街道"を!』 17.03.06 放送

  ≪ サバ激減の若狭湾 小浜市と大阪発祥の店が、本来の『鯖の街』復活を目指す ≫

  かつては大量に鯖が押し寄せた若狭湾でしたが、1974年以降に鯖の水揚げ量は激減。
  福井県全体で12607t→31t、うち小浜市では3580t→1tとなっており、現在取り扱っている鯖の9割はノルウェーなどの外国産。
  地元で消費される鯖もほとんどが外国産という状況になっています。






  2014年、クラウドファンティングという資金調達方式で、大阪市福島区に鯖料理専門店『SABAR』を1号店オープンさせた
  『鯖や』の右田孝宣 社長と小浜市が、2017年3月3日11時38分に連携協定を結び『鯖の街』復活を目指します。

  2016年から小浜市では『鯖復活プロジェクト』として、小浜市で獲れたた商品価値が無い小さな鯖の養殖を開始していました。
  その資金調達方式のアイデアとノウハウ提供などを右田さんに協力してもらう事になったようです。

  募集金額は1億1380万円(イイサバ万円)。1口2万5000円。募集開始は2017年3月8日。
  出資者特典としては、配当と5000円相当の食事券。


  ≪ 鯖ずし ≫  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部   Wiki きずし

  京都や大阪を中心に近畿でよく食べられているのが、鯖の姿寿司。
  「鯖の生き腐れ」という言葉があるように、「見た目は新鮮でも中身が腐っている」。傷みやすい魚であった為、
  若狭湾の猟師たちが釣たての鯖に浅塩を振りました。
  この塩鯖を好んだ京都人が寿司で味わったのが鯖の姿寿司の始まり。

  高知県の鯖の姿寿司は、60~70㎝の大型の鯖の内臓を取り除き、その腹の中にたっぷりの酢飯を詰め込みます。
  特大の姿寿司が大皿にドカンと乗って出てくる豪快な一品だそうです。


  読売テレビ ワケありレッドゾーン 『約15年間1ヶ月20匹のサバを食べる「サパシジェンヌ」』 16.10.23 放送

  2013年に『全日本さば連合会』を設立した池田陽子さんは、小学生の時に大阪名物「バッテラ」を食べて以来、鯖にはまり、
  大人になってから約15年間1ヶ月に20匹ほどの鯖を食べるサバ大好きで自称「サバジェンヌ」。普段は薬膳料理を広める仕事を
  しているそうです。
  池田さんのオススメの鯖寿司は、大阪府豊中市「彩食健味 鯖寿司あずみ」の焼き鯖寿司で煮た椎茸と甘酢薑入りの逸品。
  もう一つは岡山県新見市「伯備」のお祭り寿司で、珍しい尾頭付き、シャリはもち米で頭の部分が最も美味しいそうです。

  【へしこ】
   鯖さば・鰯いわし・烏賊いかなどを塩漬けにした後に糠ぬか漬けにした食品。福井県の郷土料理。

福井県のへしこ
福井県小浜市の焼きサバ寿司

大阪府豊中市の焼きサバ姿寿司

岡山県のサバの姿寿司


  青森県の「八戸前沖さば」、高知県の「土佐の清水さば」、佐賀県の養殖「唐津Qサバ」が池田さんのオススメのブランド鯖。
  福井県小浜市のノルウェー鯖使用の「福井缶詰 鯖味付缶詰」、静岡県沼津市「かねはち 駿河燻鯖油漬け 黒こしょう」缶などが
  番組でオススメ品として紹介されていました。

  徳島県には「鯖大師本坊」という寺があり、石川県穴水町には鯖を祀る神社があるそうです。

  佃煮、築地は、大坂の佃村の森一族が江戸に移り住んだ事から 築地市場の歴史
 
 【棒ずし と 箱ずし】
  毎日放送 魔法のレストラン 『なにわ発祥グルメ150年物語』 13.08.26 放送
  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『出雲大社~松江 縁結び旅』 14.07.19 放送 / 同 『紀ノ川~犬鳴山温泉へ』 14.11.22 放送
  名古屋テレビ放送 メ~テレ 武士ごはんランキング 江戸VS京都 一生に一度は食べたいSP 発見 ! 和食のルーツ 14.09.07 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『山梨県民の真実 海無し県 禁断のまぐろ愛!』 15.07.30 放送
  テレビ大阪 ニュースリアル 『堺の昆布&包丁 伝統の技と味を守れ』 15.10.13 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第1回 江戸のすし』 16.04.06 放送
  読売テレビ ワケありレッドゾーン 『約15年間1ヶ月20匹のサバを食べる「サパシジェンヌ」』 16.10.23 放送
  総本家 小鯛雀鮨 鮨萬 HP http://www.sushiman.co.jp/

  押し寿司は棒寿司 と 桶詰寿司、箱寿司に分かれます。

  なれずしが発展し杮ずしになり、更に進化したのが箱寿司。にぎり鮨が登場するまでの主流のすし。大坂ずしなども
  含まれます。

  1653 (承應2) 年に創業した大坂の「すし萬」はボラの稚魚にご飯を詰めた「雀鮨」をはじめ、ボラを小鯛に変えた
  「小鯛雀鮨」が評判になり、現在に継承。当初は桶詰だったが、今では押し寿司になっています。


  ≪ 棒ずし ≫

  魚のそのままの形を生かした棒状の姿ずし。魚は鯖さば・鮭さけ・鱒ます・秋刀魚さんま・鮎あゆ・鰻・鱧はも・穴子あなご
  などを使う。 酢で締めたり、たれ焼きにした魚をすし飯にのせ、ふきんや巻き簀で巻き固めたもの。

島根県出雲市の焼きさば寿し

和歌山県粉河町のモロコじゃこずし

京都市の錦市場のハモ寿司

岡山県のサバの姿寿司


  和歌山県の粉河町で、甘辛く煮た鮎を使用したすし。左側が棒ずし。
  右側が木枠の型にハメて押した箱寿司。出来上がりの形の違いです。

和歌山県粉河町 『なかむらの柿の葉すし本舗の鮎ずし』

和歌山県粉河町 『まる乕本店』の鮎の箱寿司


  大阪市中央区にある福喜鮨の小鯛棒すしは、小鯛を使用して手すきの白板おぼろ昆布を巻いたもの。
  江戸時代、堺市では昆布の加工業が発展。おぼろ昆布も堺市で作られていますが、衰退して職人が減少し高齢化。
  昆布は凹凸があるので、機械ではおほろ昆布を作れないそうです。
  2015年3月、昆布の老舗である郷田商店では昆布職人の養成所を開設ししました。現在5人が研修中。

大阪の小鯛棒寿し

 

寿司用の白板おぼろ昆布

 


  堺の包丁はプロの料理人向けシェア9割で、海外からの引き合いも多いですが、昭和の高度成長期に約300社あったのが、
  現在は75社へと激減。2015年10月、堺市が堺包丁職人養成道場を開講し、職人養成に乗り出しました。
  おぼろ昆布つくりには、専用の特殊な包丁が使われています。

  【朧昆布】おぼろ‐こぶ … 蒸した昆布を薄く細く削ったもの。おぼろ。とろろこんぶ。縮み昆布。

  【求肥昆布・牛皮昆布】ぎゅうひ‐こんぶ
   昆布の加工品の一種。蒸した昆布を砂糖・酢などに漬けてから乾燥させたもの。
   そのまま食べるほか、白身魚の求肥巻きや鯖の棒鮨に使う。竜皮昆布。


  ≪ 大阪の箱ずし ≫ 昭和初期の東京・浅草に大阪寿司店がかなりあった

  木枠にすし飯と具を重ねて入れ型を用いて押しずしにしたもの

  江戸中期、1712年の百科事典の一つ『和漢三才図絵』に箱寿司の作り方が記述。当時の唯一の資料だそうです。
  …一種有 二杮鮨者 一鯛鯧まなかつおあわびたこ 烏賊いかはまぐり等 X (薄切りのこと) 加之、
  以二紫蘇たけのこ木耳きくらげ一醸之最為二上品一と書かれてあるそうです。

  【和漢三才図会】わかんさんさいずえ 江戸時代の図入り百科事典。寺島良安著。105巻81冊。
   明の王圻おうきの「三才図会」にならって、和漢古今にわたる事物を天文・人倫・土地・山水・本草など天・人・地の
   3部に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。正徳2年(1712)自序、同3年林鳳岡ほか序。和漢三才図会略。

  【寺島良安】てらしま‐りょうあん(一説に現在の秋田~山形県の羽後うご生れ、生没年未詳)
   江戸中期の漢方医。号は杏林堂。大坂の御城入医師。法橋ほっきょう。和漢の学に精通。「和漢三才図会」105巻を著述。


  ≪ 浪曲 『清水次郎長伝』に登場するのは大坂押し寿司 ≫  創作の話ですが。

  幕末頃に活躍した清水次郎長。浪曲ろうきょく (= 浪花節 なにわ-ぶしの異称) 『清水次郎長伝』の最も有名なセリフ。
  森の石松が船の上で「食いねぇ、食いねぇ、寿司食いねぇ」というシーン。
  これは、淀川の三十石船 (京都と大坂を結ぶ定期船) で大阪の押し寿司をススメている場面だそうです。





  【清水次郎長】 しみず‐の‐じろちょう (1820~1893)
   幕末・維新期の侠客。駿河清水港の人で、本名 山本長五郎。
   任侠で有名となり、晩年富士山麓の開墾に力をつくした。講談・浪曲等に脚色。
清水次郎長



  京都と寿司・朱雀錦 (14) 寿司の歴史  http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-14.html
  江戸食文化紀行 -江戸の美味探訪- 『No.241 大坂の福本ずし』 http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no241.html

  ≪ 大阪箱寿司の元祖 福本ずし ≫

  幕末頃に書かれ、明治末に出版された『守貞謾稿』の巻之六、生業の条には
  上記の杮ずしの記述の後に心斎橋の福本ずしの記述があります。

  …文政末 (1829年) か、大坂心斎橋通大宝寺町南に福本といふ鮨店を開く。 
   杮鮨の鶏卵、鮑、鯛等厚く二分 (6㎜) ばかりにて之を売る。大いに行はれ、
   衆争ひて之を買ふ。 是、従来の製は極めて薄きを用ひし故也。

   同価にて初めて肴を厚く、味よき故に大ひに行はれ、たちまち他店にて
   之を擬製するあれども、大いにはれず、けだし、此店在て後、京坂の鮨店改革して之と同じ也。
   鮨製一変す 右の浮世絵は、長谷川貞信(1809~1879) 作 『浪華自慢名物尽 福本すし Wiki 長谷川貞信

  1990年の出版された吉野曻雄 著の『鮓・鮨・すし』によると、
  天保2年(1831)創業の大阪ずしの店蛸竹のご主人・故阿部直吉翁が語られたところによると、
   福本は明治24年(1891)に福ずしと代替りし、その後松島に軒店のきだなを出したが、永続きしなかった
   という。現在、心斎橋筋・大丸裏で盛業中の本福寿司は、代替りした福ずしである

  大阪寿司なら心斎橋の本福寿司HP http://www.hon-fuku.co.jp/
  図書出版 創元社 『カリスマ案内人と行く 大阪まち歩き 「第7回 アートなミナミを回遊する[前編] 心斎橋筋界隈いまむかし」』
   http://www.sogensha.co.jp/column/osakamachiaruki/2010/11/post-6-5.html
  国立国会図書館デジタルコレクション 『浪華自慢名物尽』 ←天満大根、大丸呉服店などの多数の浮世絵あり
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1304482?tocOpened=1

 浪華自慢名物尽

  毎日放送 水野真紀の魔法のレストラン 『なにわ「食」遺産クイズ』 13.08.26 放送
  NHK あさイチ 『大阪の真ん中 船場の"うまいもん"』 14.03.20 放送
  朝日放送 おはよう朝日です 『御堂筋80年で再発見 愛されグルメと伝統建築』 17.10.03 放送

  ≪ 大阪箱寿司の完成形 吉野鯗 ≫  大阪発祥、二寸六分の懐石 箱ずし

  現在の大阪の箱寿司は、明治20年代に大阪の船場にある吉野鯗の3代目 橋本寅蔵が完成させました。
  吉野鯗すしは1841(天保12)年に旅籠を営んでいた吉野家嘉助が寿司屋を起こしたのが始まり。現在7代目。






  押し寿司のネタといえば大衆魚のアジやサバが主流。(大阪では小鯛も有名ですが)
  寅蔵は二寸六分 (7.8㎝) 四方のヒノキの箱で、鯛や玉子などの高級なネタを使用し、懐石料理のように煮物、酢の物、
  炊き物、焼き物を一つの箱内に詰め込んだ寿司を完成させました。 割烹や懐石は大阪発祥です。






  小鯛を締める時は、塩と酢の他、砂糖を使う。塩より粒子が大きい砂糖で締める事で小鯛が脱水し過ぎず適度に
  締るそうです。箱寿司は御飯が乾燥しなくて酸化しない。
  7代目の橋本卓児さんによると、「シャリを美味しく食べてもらうのが大阪寿司の肝心なところ」。






  右端の包丁は箱ずしを切る為だけの専用の包丁だそうです。
   ※ 包丁といえば堺が歴史も古く有名で、現在も和食の料理人の9割ほどが堺の包丁を愛用しているとも言われます。

  大阪・淀屋橋・船場 箱寿司 吉野鯗HP http://www.yoshino-sushi.co.jp/
  e-food.jp 『箱寿司 | 大阪府・大阪』 13.08.22 配信 http://e-food.jp/travel/japan/hakosushi/

  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部 / 毎日放送 クイズ! 大阪理由学2 2012.11.07 放送

  ≪ 大阪のバッテラの由来 ≫

  明治24年、大阪市中央区の寿司店『すし常』が作った姿寿司がバッテラと呼ばれた店の元祖らしいです。
  当初は鯖ではなく、豊漁だった安いコノシロを2枚に開き、酢飯の上に乗せて布きん締めにした棒ずしでした。

  小型のポートの事をポルトガル語ではbateira と言います。
  大阪では幕末~明治にかけて、小舟の事を『バッテーラ』と呼ぶ事が流行りました。
  『すし常』で売られていたコノシロの姿寿司が小舟に似ていた事から、「バッテラ二隻おくれんか」などと客が注文するように
  なったのが始まり。






  やがて、コノシロが獲れなくなり鯖を使用湿度を保つ為に昆布が巻かれるようになりました。
  やがて木枠を使った現在の形の押し寿司になりボートの形ではなくなりますが、『バッテラ』という名称だけは
  受け継がれたそうです。

  バッテラ(押し寿司)は箱寿司の一種です。専用の木枠に白板昆布酢でしめた塩鯖酢飯の順にいれて
  形抜きします。
  この薄く削いだ白い昆布は北海道の松前から来ていたので、バッテラは『松前ずし』と呼ばれた事もあります。

  【バッテーラ】bateira ポルトガル語。
   (江戸から明治期の語)小舟。短艇。ボート。  Wiki 藤田茂吉
   藤田茂吉 (大分生まれ、1852~1892。慶応卒、東京の新聞記者・東京府会議員・衆議院議員) の
   1884 (明治17) 年9月刊、報知社から出版の文明東漸史大船并バツテイラ等ノ快船ヲ数十艘御造立有之

  【鮗】このしろ 他に漢字はいくつかあります。
   ニシン科の海産の硬骨魚。全長約25センチメートル。
   体はやや側扁し、背びれの最後の軟条は糸状にのび、尾部に達する。日本各地の沿岸に分布し、
   内湾にも入る。中等大のものはコハダ・ツナシといい、鮨の材料。
   日本各地、東京湾と三河湾でよく獲れる。


  Wiki コノシロ  講談社 カラー完全版 『日本食材百科事典】 1990.05.20 初版発行

  コノシロは日本になじみのある魚なので、多くの逸話が残っています。
  コノシロは飯の代わりになるほど大量に獲れたことから、「飯代魚」となったと伝わるそうです。
  焼き方が伝わる関西では焼いたり煮物などでも食されました

  戦国時代「子の城」に引っ掛けて端午の節句の祝い膳にも使われました。(日本食材百科事典

  関東では名前の由来の一つに「子の代」という話があり、『人を焼く臭い」と嫌われたので酢で〆てから和え物などで
  食べられました。 詳しくは、 Wiki コノシロ で、ご覧ください。

  武家社会では、「この城を焼く」に通じることや、切腹の際に出されるため、「腹切魚」と呼ばれて敬遠されます
  江戸時代、幕府によりコノシロは禁止されていたが、寿司にすると旨いため、コハダと偽って江戸の庶民は食しました。
   (但し、コハダは下魚扱い。コハダの江戸前寿司が広まったのは戦後のようです 新鮮!寿し本

  現在では、「子の代」「児の代」「娘の代」の当て字から子孫繁栄を祝って正月のお節に「コハダの粟漬け」が残っており、
  縁起の良い魚として扱われています。

  【鯯】さっぱ ハラカタ。拶双魚。 Wiki サッパ
   ニシン科の海産の硬骨魚。全長約20センチメートル。
   イワシに似るが、体高はやや大きい。北海道以南の産。惣菜用および鮨すしの材料。飯借り(ママカリ)。

  コノシロとよく似た魚で、岡山県名産のサッパの酢漬けは『ママカリ』と呼ばれます。
  美味しすぎて飯(ママ)が足りなくなり、飯を借りに走るという意味だそうです。


  ≪ 大阪 岬町 アナゴの押し寿司 ≫  NHK・大阪 えぇトコ 『"一日泉州"冬の旅 ~ 大阪 泉南地域 海の恵み ~』 14.02.28 放送

  大阪最南端で和歌山に接する岬町。5月5日に開催される多奈川地区の春祭りに振る舞われる郷土料理だそうです。
  寿し飯の上にタレを付けながら焼いたアナゴと甘辛く炊いた椎茸。錦糸玉子。笹の葉を敷き、2段になるように
  寿司桶の枠に詰め込みます。寿司押し器でおさえて3時間すれば完成。






  左から2枚目の木枠に高さがあるのは、昔は大量に作ったので、四角い寿司枠を10段ほど重ねて押せるように
  なっているからです。   近年まで、堺・泉州のアナゴが名産地として全国的有名だった 養殖で復活へ

  ≪ 江戸の箱ずし ≫  京都と寿司・朱雀錦 (14) 寿司の歴史  http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-14.html

  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃

  1753 (宝暦3) 年に改訂版として出版された『絵本江戸土産』。浮世絵師の西村重長が描いた挿絵「両国橋の納涼
  風景」には、小さい四脚台に「はこずし」と書いた行灯あんどんを立て、角形のすしを並べた通い箱を前に正座した
  すし売りに客が中腰で注文する様子が描かれています。

  1754 (宝暦4) 年の市村座の正月芝居『皐需曽我橘さつきまえうそがたちばな』の2番目の狂言の中で、坂東三八がすし売りを
  演じた時の「すし売りのせりふ」と題した版本があり、
  サアサア鮨めさい ~ やれ買えやれ買え坂東鮨、拙者がすしの御評判 ~ 

  このセリフの中には、鯉、鮒、鯵などの杮ずしなど、たくさんの寿司の名前が登場。
  中には語呂合わせの架空の寿司もあるそうです。

   ※ セリフは、上記の参照サイトに全文が載っているので、リンク先でご覧ください。

  1786 (天明6) 年版『嬉遊笑覧きゆうしょうらん』には、喜多川歌麿の「絵本江戸爵えどすずめ」があり、に日本橋の
  すし売り風景が描かれています。此処は屋台で箱ずし風の商品が大量並べられており、二枚の絵から古くから
  江戸には箱ずしがあったことがわかるそうです。

  ※ 上記サイトの嬉遊笑覧の記述は、他の文献との書き間違いと思われます。

  【嬉遊笑覧】きゆうしょうらん
   江戸後期の類書。喜多村信節のぶよ (江戸の人、1783~1856、国学者) 著。12巻、付録1巻。文政13年(1830)自序。
   部類を分け、和漢の書から特に近世の風俗習慣や歌舞音曲に関する事物を集めて叙述・考証したもの。

  【御膳箱鮨】ごぜん‐はこずし … 江戸時代、江戸本石町の伊勢屋八兵衛が売り出した上等の押鮨。御膳鮨。

  喜田川守貞 著の『守貞漫稿』には「江戸はいつの頃からか 押したる箱すしから 握りすしとなる」とあります。

  【守貞謾稿】もりさだまんこう (「守貞漫稿」とも)   コトバンク 『喜田川守貞』 Wiki 守貞謾稿
   随筆。喜田川守貞 (砂糖商北川家。大坂の人、1810~?。1840年に江戸深川に定住) 著。30巻、後編4巻。
   1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗研究に
   不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行


  ≪ 江戸時代の寿司の持ち帰り ≫


  『守貞漫稿

  因日京坂押之時及 これを器に盛る 必ず葉蘭を用ふ 又音物に用ふ時 鉢重筥等は三都とも用
  或は京坂籜褁にす 江戸自食には同之 音物には麁折を用ふ 白杉板製の折也 俗にさゝおりと云

  いつ頃からか、京・大坂では寿司を器に盛る時は必ずバランを用いた。三都 (京・大坂・江戸) とも贈り物にする時は、
  鉢や重箱を用いた。或いは京・大坂は籜褁にした。江戸で自分で食べる時にはこれ (籜褁か麁折?) と同じにした。
  贈り物にする時は麁折を用い、白杉板製の折箱である。俗に笹折という。

  籜褁「たくせき」は、時代劇でもよく見られる竹の皮です。

  葉蘭「はらん」「バラン」と読み=ユリ科の多年草で料理を乗せたり仕切りに使う緑の葉。
  音物「いんぶつ」「いんもつ」=意味は広辞苑によると「進物」「贈り物」。
  麁「あらい」=意味は「きめがあらい」「あらっぽい」「粗末である」。
  笹折「ささおり」=「笹の葉で食物を包んだもの」と「杉やヒノキを紙のように薄く削ったもの」の意味がありますが、
  文脈から後者の意味。つまり折折敷・剥折敷「へぎおしき」=略称「へぎ」の事。

  直訳では意味が分からないので、音物の解釈を「贈り物」だけでなく「持ち帰り」的な意味にすると、

  京坂では、器にバランを敷き寿司を乗せる習慣があった。江戸での持ち帰りは木製の笹折を使っていた。
  三都とも進物用にする場合は鉢か重箱を使っていた。



  ≪ 東京・浅草の大阪寿司 ≫ 昭和の初め頃に登場か


 1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949
  この書を読めば、当時の東京の有数の繁華街であり、江戸の伝統を残す浅草の食文化などを知ることができます。
  「東京ッ子」を自称する人は、読んでおくべき一冊でしょう。

  第三章 浅草食堂経済組織の変遷 第九、特種な料理を看板とする店  (四) 浅草での特種料理の様々 P.240

  ▽大阪寿司 大阪寿司は近頃、だんだんと認められるに至ったので、浅草区内には可なりあるようだが、其の
  中でも六区の初音館前の大阪寿司はもう四五年もやっているので、大分其の存在を認められ、日増しに客足が
  ついて行くようである。又可なり大仕掛けにやっているので、近き将来には繁昌もし、成功もするであろう。

  他には「ふぐ料理」「釜飯屋」「八ッ目鰻の特売店」などが近年 (昭和初期) に浅草に店が出来たようです。

 
 【桶詰ずし】 箱寿司の一種
  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部

  ≪ 富山県の鱒ますずし ≫

  1717 (享保2) 年、富山藩士で料理に精通していた吉村新八が、寿司米に適した越中米と
  地元の神通川をさかのぼってくる鱒を組み合わせて考案したと言われています。

  三代目の富山藩主 前田利興が気に入り、新八は「酢漬け役」という料理係に任命され、
  さらに研究を重ねてマス鮨を完成させました。

  当時の将軍 德川吉宗にも献上された事から、江戸でも富山名物として知られるように
  なったそうです。

  【徳川吉宗】とくがわ‐よしむね (1684~1751)初名、頼方。諡号、有徳院。
   紀州2代藩主 徳川光貞の4男。徳川第8代将軍(在職1716~1745)。

  紀州藩主となり、藩財政改革に手腕を発揮。将軍位を継いで享保の改革を行なった。米将軍と呼ばれる。

  新鮮な鱒を三枚におろし、皮や骨を取り除いてから、短冊たんざく形に3㎜ほどの厚さに切ります。
  塩を振って3~5時間寝かせ、塩・砂糖・他の調味料を混ぜた酢で洗います。
   (酢に混ぜる調味料の種類や量が味を決定するので、店や家庭での秘伝とされています。)

  桶に詰めた寿司飯の上に、酢で〆た鱒を並べ、重しで押して完成。

  昔は神通川で獲れた鱒だけを使っていたので、4~7月の間しか作られませんでしたが、上流にダムができ川の水が
  汚れてからは、外国産の輸入物の鱒なども使われるようになり、現在では年中作られています。
 
 【海苔】 
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『もうひとりの あなたがいた ! ~人生を左右する腸内細菌の秘密~』 13.04.18 放送
  テレビ東京 出没 !アド街ック天国 『東京・日本橋SP』 13.10.19 放送
  NHK・大阪 えぇトコ 『"一日泉州"冬の旅 ~大阪 泉南地域 海の恵み~』 14.02.28 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『なんと大阪湾で真冬ならではの海苔が養殖されていた』 15.01.14 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW  『島根衝撃のお雑煮事情』 15.02.19 放送
  テレビ朝日 林修の今でしょ!講座3時間SP 『東大教授が教える!天才家康の町づくり』 16.04.12 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第1回 江戸のすし』 16.04.06 放送
  テレビ東京 世界! ニッポン行きたい人応援団 『海苔を愛してやまない外国人 イギリスからご招待』 17.01.26 放送
  朝日放送 キャスト 『海苔がシート状なの なんでやねん!?』 19.03.04 放送

  東京すしアカデミー 連載企画 第5回 『日本人の知らない巻き寿司の歴史』 14..02.26 http://www.sushiacademy.co.jp/blog/7056
  京都と寿司・朱雀錦 (14) 寿司の歴史  http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-14.html
  ナナビ 『知られざる海苔トリビア』 14.06.52 配信 http://nanapi.jp/114815

  ≪ 日本人が海苔を食べていたのは古代から ≫  Wiki 海苔

  【海苔】のり
   ① 紅藻または緑藻などのうち、水中の岩石に着生する藻類の総称。
     特にアサクサノリ。近世以降、篊ひび (海中の干潟に立てる枝付の竹・粗朶・網の類) を用い養殖。
   ② アサクサクリなどを漉きかわかした乾海苔ほしのり。火にあぶって食べる。


  奈良時代初期の養老年間 (717~724年) に編纂された『常陸風土記』に登場しており、ヤマトタケルに関して
  次のような記述が見られます。
   古老の曰(い)へらく、倭武の天皇 海辺に巡り幸(いでま)して 乗浜(のりのはま)に行き至りましき。
   時に浜浦(はま)の上に多(さは)に海苔〔俗(くにひと)、乃理(のり)と云ふ〕を乾せりき。

  平城京跡から出土した木簡には、731 (天平3) 年に、隠岐から海苔・若布・烏賊いか・鰒あわびが調 (税の一つ) として
  収められた記録があります。

  733 (天平5) 年成立の『出雲風土記』においても、紫菜(むらさきのり)は、楯縫(たてぬひ)の郡(こほり)、尤(もと)
  も優(まさ)れりという記述があります。楯縫郡は現在の島根県出雲市内。

  大宝律令 (701年) が定められた時には高級品として既に海苔が朝廷に納められており、日本人は古くから海苔を
  食べていたことが分かります。

  平城京には、海草類を売る「にぎめだな」(和布店)、海苔や昆布を佃煮のように加工したものを売る「もはだな」(藻葉店)
  という市場も存在したそうです。 『甘海苔』や『紫海苔』などの種類分けがなされていました。



  ≪ 海藻を消化する腸内バクテリアを持つのは日本人だけ ≫

  AFP 『日本人がノリを消化できる理由を発見、仏研究』 10.04.08 配信 http://www.afpbb.com/articles/-/2716433?pid=5581732

  日本人の腸が海草に含まれる多糖類を分解できるのは、分解酵素を作る遺伝子を腸内に住む細菌が海洋性の
   微生物から取り込んでいるためだとする論文が、8日の英科学誌ネイチャー(Nature)に発表された。

   フランスの海洋生物学と海洋学の研究・教育機関「ロスコフ生物学研究所(Station Biologique de Roscoff)」の
   研究チームは、ゾベリア・ガラクタニボラン(Zobellia galactanivorans)という海洋性バクテリアが、アマノリ属の
   海草に含まれる多糖類を分解する酵素を持っていることを発見した。

   公開されているDNAのデータベースを調べたところ、ヒトの腸内に住むバクテロイデス・プレビウス(Bacteroides
   plebeius)という微生物が、 同じ酵素を作る遺伝子を持っていることが分かった。
   このバクテリアはこれまで、日本人の排泄物からしか見つかっていない。

   記録によると日本人は8世紀にはすでにノリを食べていたが、研究者らは、かつて日本人はノリを焼かずに食べて
   いたため、海草に住んでいたバクテリアからこの遺伝子を取り込んだものと考えている。

  海苔は緑黄色野菜といわれるほど栄養豊富でビタミン、
  ミネラルが豊富に含まれています。
  手巻き寿司などに使われるサイズの海苔を2枚食べる
  だけで、1日に必要なビタミンA・B1・B2は摂取できる
  そうです。

  海苔には乾海苔、焼海苔、味付海苔など種類があり
  ますが、海苔は熱で細胞壁が壊れて消化吸収が良く
 
  なるため、焼海苔は外国人でも消化することができるそうです。

  ※ 海苔だけじゃなく、トコロテンや寒天の材料となるテングサも海藻ですし、昆布、ワカメなども古くから食べています。


  ≪ 島根県出雲地方の最高級岩海苔 「十六島うっぷるい」海苔 ≫  和漢三才図会

  出雲市十六島地域で獲れる天然の岩海苔は、1300年前から珍重されており、100g 1万円の価格が付く超高級海苔。
  水分を残した1枚の大きな板海苔に加工し、木箱に入れて販売されています。

  江戸時代中期の1712年に大坂で刊行された百科事典『和漢三才図会』では「海苔の中で最も珍品である」と記され、
  最高の評価がされています。金と同等に扱われたそうです。

  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  島根県立古代出雲歴史博物館の専門学芸員 岡宏三さんによると
  江戸時代に出雲の神職さんが各地に布教で出掛けられた時に、持参したプレゼントの中に十六島うっぷるい海苔がありました。
   海苔が入っていた包み紙には『正月元旦雑煮の上に置いて食せば、その年は邪気が払われ無病息災で暮らせる』と
   書かれてあります。

  2017年現在、十六島海苔の漁師の家は18軒のみ。
  「島」と呼ばれる海苔が自生する岩場を代々個人所有で受け継いでいるいます。
  収穫は12~3月、天気が良くても海が荒れると収穫できません。






  この地方の雑煮は、カツオ出汁を使用し、島根産の糯米でつくった仁多餅が入ったシンプルなもの。
  十六島海苔を適度にカットし、超たっぷりの日本酒でもどす事で、海苔の風味が引き立ち、雑煮全体の味もまろやかに
  仕上がるのだそうです。

  【岩海苔】いわ‐のり
   紅藻類アマノリ属の食用海藻のうち、岩の上に生育するものの総称。冬から初春にかけて採取。


 1643年刊『料理物語』 「第二 磯草乃部」には下記の海藻類が挙げられています。

  〔昆布〕… 〔わかめ〕… 〔あらめ〕… 〔たがらめ〕… 〔青のり〕… 〔もづこ〕… 〔かぢめ〕… 〔とさか〕… 〔あまのり〕…
  〔あさ草のり〕…〔十六島たっふるひ〕… 〔かたのり〕… 〔みる〕… 〔おご〕… 〔しやうがのひぼ〕… 〔のろのり〕…
  〔ふじのり〕… 〔ひじき〕… 〔ほだはら〕… 〔ところてん〕… 〔のとのり〕… 〔はま松〕… 〔ゑんず〕… 〔めみゝ〕…
  〔につくわうのり〕…

 〔あさ草のり〕 ひや汁、あぶり肴、いろあかし 〔十六島〕 ひや汁、あぶりさかな、 くはしにも、雲州に在


 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
  「吸物部」 ※酒と一緒に食べるもの「肴」「吸物」、ご飯と一緒に食べる物「菜」「汁物」という違いがあります。

 品川のりの事 すましの吸物には 品川のり入候は 大悪也 いかんとなれば もり形見事なれば 生へゆへ
  磯くさし 煮過候へば どろどろ べたつき あしき故に上手は不用候 汁のあんばい あしくなる故か


  【桜海苔】さくら‐のり … 長崎県壱岐産の海苔。桜色で美味。浄瑠璃、出世景清「花にまがひの―」


  ≪ 板海苔は江戸時代の江戸・浅草のりが最初か? ≫  Wiki 海苔


 1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949
  この書を読めば、当時の東京の有数の繁華街であり、江戸の伝統を残す浅草の食文化などを知ることができます。
  「東京ッ子」を自称する人は、読んでおくべき一冊でしょう。

  第二章 浅草経済組織の変遷発達 (四) 享保以後に於ける仲見世の発達 P.42~

  浅草が仲見世を中心として発達したものであるにも拘らず、比較的仲見世に関する文献が少ないのは、果たして
  どう言う訳であろうか。最も水茶屋の茶吸女に対する読み物は、決して少なくないが、多くは創作で、その実情を
  描いたものが殆どないだから私は、これ等に付いて、比較的詳細な説明をして行こうと思うのである。


  (一) 手工業としての浅草海苔の製造 P.36~

  起源には2つの説があり、1つめの説は、名実ともに浅草で採取して浅草で製造し販売したから。
  2つめの説は、他所で採取した海苔を浅草で製造し販売した事から。

  つまり浅草茶屋町に住んで居た商人、四郎左エ門と言う者の祖先が、他所で採った海苔を浅草で製造し、浅草で
  売り出したから、其の名があるのだと主張するのである。とりわけ海苔を採取したと言う場所が、隅田川の下流
  ところがその後、砂礫の流沈するに従い、浅草近傍は勿論、築地方面に至るまで、陸地に変じたので、河口はだん
  だんと下へ下へとさがり今日の如く、品川沖に於いて採取されるようになったものと見なければならない。

  どちらが正しいかは簡単に断定する事はできない。としていますが、この著者は淡水と海水が適度に混和する事で
  海苔が生じるとすれば、(古地図の河口などの変遷など) 浅草に於いて採取したという説が正しいと言わねばならない。
  としています。

  何れにするも浅草海苔が、始め浅草に於て製造し、而かも、観音様に参詣する善男善女の土産品として、売り
  出したことは、何人も疑はざるところである。


 1645 (正保2) 年刊の俳諧書『毛吹草』(京都の松江重頼 編)に「葛西苔 是ヲ浅草苔トモ云」とあり下総 (千葉) 名物と
  して紹介しているようです。


 1666 (寛文6) 年刊の狂歌集『古今夷曲集ここんいきょくしゅう』 巻第九 雑下 P.152
  古今夷曲集 生白堂行風 編[他]  有朋堂書店、大正12年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977943/186

  武蔵なる浅草海苔は名のみなり お心ざしの ふか川のもの (詠み人は京都の僧 信海)

  【浅草】あさくさ … 東京都台東区の一地区。もと東京市35区の一つ。浅草寺の周辺は大衆的娯楽街。
  【深川】ふかがわ … 東京都江東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
  【大森】おおもり … 東京都大田区の一地区。もと東京市35区の一つ。

 1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻
  では「品川で製する浅草海苔は…下総の葛西海苔」とあります。


 1797年刊の『東海道名所図会』 巻六 武蔵 川崎  (京都の秋里籬島 編)
  名産 荒藺あらゐ海苔 大森辺より品川の沖にて取る也 世にこれを浅草
  海苔といふ むかしは浅草のほとりにても取りしにや
  この海苔を取は秋の彼岸より始りて春の彼岸に終る 霜月朧月など寒気
  凛冽なる時 取を最上とす板の上にて庖丁をもって精密にたたく それ
  より葦の簀へ紙を漉やうに汰ゆり流し莚むしろに双べ干乾かし畳重ねて
  浅草町の海苔問屋などへ売也 世の人 荒藺海苔あらいのりといふべきを
  浅草海苔といふは浅草も海藻の類に通ふにやあらん

  【東海道名所図会】とうかいどうめいしょずえ
   京都から江戸に至る東海道の名所・旧跡の図解説明書。秋里籬島編。
   6巻。1797年(寛政9)刊。挿絵は主として竹原春泉斎・北尾政美。

  「」=イグサ科の多年草で湿地に自生。イグサの事。

 

  行水や何にとどまる海苔の味 (其角)

  【宝井其角】たからい‐きかく (近江の人、1661~1707)
   江戸前期の俳人。本姓、竹下たけもと。母方の姓は榎本えのもと。号は宝晋斎など。江戸に来て蕉門に入り、
   派手な句風で、芭蕉の没後洒落風をおこし、江戸座を開く。蕉門十哲の一人。
   撰「虚栗みなしぐり」「花摘」「枯尾華」など。
   1707年刊の俳文・連句集「類柑子るいこうじ」は没後に遺稿を貴志沾洲らが其角追悼句を加え刊したもの。


  山本山によると、江戸中期は海苔をそのまま広げて乾かした「展延てんえん法」と呼ぶ方法で作られた海苔が
  食べられていたとされる。
  江戸時代の品川沖は江戸前海苔(品川海苔)の産地であった。江戸前寿司に利用されたかは定かではないが、
  餅に海苔を巻いた海苔巻き煎餅は「品川巻」と呼ばれ古くから名物となっている。また、浅草のりは希少な高級品
  となっている。

  【浅草海苔】あさくさ‐のり
   ① (江戸時代、隅田川下流の浅草辺で養殖したからいう)紅藻類ウシケノリ科の海藻。カキツモ。ムラサキノリ。
    薄い笹の葉形で、縁に著しいしわがある。全長5~30㎝、幅1~15㎝。生時は濃緑紫色、乾燥すると紫黒色。
    冬に採集、乾して食用。かつては東京湾内をはじめ、全国各地で養殖されたが、現在は絶滅危惧種。春
    幸田露伴(江戸下谷生れ、1867~1947)の辻浄瑠璃香料やくみは京に珍しき―紅葉おろし
   ② 乾海苔ほしのりの称。

  【葛西海苔】かさい‐のり
   葛西 (武蔵国の地名。今の東京都江戸川区の南部および葛飾区の江戸川と中川とに挟まれた地帯。
   現在、江戸川区南部の地名として残る) で採取した海苔。浅草海苔

東都名所『浅草』

歌川広重・南品川鮫州海岸

歌川重宣・江戸名所『品川沖汐干狩之図

葛飾北斎・東海道五十三次『品川』


  ※ 江戸時代以前から海苔の養殖をしていたと主張する説があるようですが、江戸になるまで関東では漁業といえるだけの技術さえなかった
    ようなので、江戸時代になってからと考えるべきでしょう。

  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』

  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、
  日本各地の名物を描いた絵本。巻の三には、江戸の浅草海苔 (品川で製する) を採取する様子が描かれており、
  葛西海苔や出雲の十六島海苔、富士海苔の文字も見られます。

  【品川】しながわ … 東京23区の一つ。もと東海道五十三次の第1の宿駅で、江戸の南の門戸。
  【品川巻】しながわ-まき … 海苔を巻いた霰餅あられもち。また、海苔を巻いたせんべい。

  神戸の「すまうら水産」の若林良さんによると、海苔を刈り取って、そのまま乾燥させた海苔は「バラ干し」と呼ばれます。
  板海苔が作られる以前は、このバラ干しでした。1754年の『日本山海名物図会』ではバラ干しが描かれているので、
  板海苔の誕生はこれ以降の事になります。

  ワカメを板海苔と同じシート状にすると、粘り気が出たり、分厚くてうまく乾燥しなかったりするそうで、海苔以外の海藻で
  シート状にするのは難しいようです。海苔は厚みが薄いのでシート状にする事が可能だったらしいです。

  寒天 100年間は伏見のみで生産、作り方は大阪・高槻から各地に広まった。(産業化の発祥)






  料理家の吉田麻子さんによると、江戸時代中期までは天然物だけで養殖ができかった為、収穫量が安定せず
  「博打草」などとも呼ばれており大変高価な食材でした。その為、小さな切れ端でも貴重な物でした。
  『日本山海名物図会』の右側の絵には子供が切れ端を掬う様子が描かれています。

  ウィキペディアか何かに「桃山時代から海苔を養殖していた」と主張している東京人の説が書かれているのを
  読んだ事がありますが、証拠や根拠は示されていませんでした。いつもの願望説と思われます。

  この切れ端をムダにしないように、紙漉きの要領を応用し、切れ端を寄せ集めて同じ大きさにしたのが板海苔の
  始まりのようです。

  【江戸前】えど‐まえ
   ①(芝・品川など「江戸前面の海」の意で、ここで捕れる魚を江戸前産として賞味したのに始まる。
    鰻うなぎでは浅草川(隅田川の河口近く)・深川産のものをさす)
   ②東京湾付近で捕れる魚介類の称。東海道中膝栗毛[発端]「―の魚のうまみに
   ③江戸風ふう。梅暦「―の市隠」

  江戸では、江戸時代中期まで上方のパクリ本を出版するのが主流でした。詳しくは江戸時代の出版事情

  江戸版は京都に比べて遅れた出版で、独自の板下文字と、安い紙 (浅草を中心に行われていた漉き返しの
  紙や粗悪な地の紙) が特徴。その代表的な店が、長谷川横丁の松会三四郎 (まつゑ) という浄瑠璃本屋。

  【浅草紙】あさくさ-がみ
   すきかえし紙の下等品。主におとし紙 (便所で使う紙) に用いる。
   江戸時代に、多く浅草山谷や千住辺から産出したという。

  【漉き返す・抄き返す】すき-かえす
   反故ほご紙 (書き損じたりした不用の紙) などを水中に浸して舂っき、煮溶かして漉いてふたたび紙に作る。

  このリサイクル紙を作る技術が応用され、板海苔を作ったと考えられています。

  学研科学創造研究所 『落語で発見! お江戸の科学 「紙の博物館」
   http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/haiken.html ←江戸時代の紙の原料と作り方
   http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/kaisetsu2.html ←すき返しの図解など






  単純に天日で乾かした物が「乾海苔」。七輪などで炙って乾かして保存した物が「焼き海苔」。
  上の浮世絵では徳利を持った子供と、遊女らしき人が海苔を七輪で炙っているシーンが描かれているので、基本的
  には調理 (食べる) 時に炙っていたと思われます。長期保存の場合は焼海苔にして売られていたかも知れません。

  板海苔が誕生してから、しばらくは手で細かく千切った「もみ海苔」にして食べられるのが主流だったそうです。
  海苔には、昆布と同じグルタミン酸・カツオ節などのイノシン酸・シイタケなどに含まれるグアニル酸の3つの旨味成分
  が含まれており、火で炙る事によって海苔の細胞膜が壊れて旨味と香が強くなり美味しくなります。


 1783(天明3) 年初出版の『豆腐百珍続編』(著者は大坂の曽谷学川と推測されている) 写本出版
  (著者ペンネームは浪華 酔狂道人)には「浅草海苔」と「のりまき鮓」の両方の文字が見られます。
  記述文は、この下の海苔巻寿司のところに


 1785年(天明5)刊の『萬宝料理秘密箱』前編 (いわゆる「卵百珍」) 著者は京都の器土堂主人。

 海苔巻卵の仕方 一たまごをなべにて丸焼にして焼きめのつかぬやうに やきて 扨 水前寺のりを しばらく
  水に浸て とりあげ よく水をふき 扨 板の上にひろげて寒晒の粉に葛の粉 半分合セ 右海苔の上にうすく
  蒔きて たまごの白味をすこしぬり 右の焼たまごをのせ ずいぶん巻〆て 扨 上を布に巻 せいろうにいれ
  むし冷して いかようにも きるへし 遣ひ方は前に同し 但し ほそくきりて指身にもよし

  【水前寺海苔】すいぜんじ-のり カワタケノリ。 カワノリ。
   (初め熊本市水前寺付近で見られたからいう) 淡水産の藍藻。
   清流の川底などに生え、体は円い単細胞から成り、粘液質により多数集まって塊状をなす。
   これを厚紙状に漉いて食用とする。

  ※水前寺海苔が川海苔の代名詞になっていたとすれば、熊本産とは限らないかも知れません。

 礒菜卵の仕方 一 是も茶人の秘方なり 此仕方は鍋に湯を煎し 新しきたまごを白味黄味ともに わりこみ
  そのまゝにて ゆがきて 扨 浅草苔をかけ 別にのぞき猪口に山葵しやうゆか 熬ざけかを入レて 出すべし
  但 又 汁次にしるを入レ たまごは小皿に入レ あさ草のりの粉は折形紙に包出すへし

 饘麥卵〆の仕方 一大麦をよく搗貫さて 石臼にて引わり中〆のふるいにてふるひ 落粉は去り小米の
  やうなるを米かすごとくにかして 飯のごとく焚て しばらくして水にて ざつと洗ひ 扨 昆布のだしをこしらへ
  すこし冷し汁椀にだし一はい にたまご一ツづゝの積りにして よくよくとき合セ 是に右わり麦を半分ほど入レ
  釡に入レむすべし 汁はすまし汁にて 又醬油しるのとろゝ汁なれば一段とよろし 加味はとうがらし 大根おろし
  青のりか ちんひか胡椒 の粉か 浅草のりか いづれ見合セ小皿にて入レ出す

 卵潮煎の仕方 一 昆布の溏油をこしらへ 焼塩にて加減し 外の鍋へ湯を煎し たまごを一ツ宛わりこみ 湯がきて
  丼に温酒を入レ 此中へ右のたまごを一寸漬て あみ杓子にてとり 上ケ器に入レ 右の溏油汁を入レて出すべし
  吸物には見合セ 浅草のりもよし

  この時代で、「昆布だし」「醤油」という記述から上方での料理法と推測できますので、上方でも浅草海苔が
  普通に入手可能だったと思われます。

  人文学オープンデータ共同利用センター 『「万宝料理秘密箱 卵百珍」レシピ一覧』
   http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C


 幕末の『守貞謾稿』 上巻 第五編 生業下 「乾海苔賣

 大略 中冬以後 春に至り賣之 乾海苔は今世 大森村を昌とす 然ども 尚 淺草海苔を通名とす 又之者
  江人 稀にして 多くは 信人也 彼國 雪深して 冬季産に煩しきを以て 出府して賣巡之圖の如き 筥を拐を
  以て擔賣あり 或は張籠に納て風呂しき褁みにして負もあり

  又 冬春の間 店賣も多し 蓋 他賣の兼賣多し 干物店 鰹節店を專とし 其他の店にも賣之 店賣の者は筥に
  十六葩の菊の記號を描く 是 官家に調進て矯る也

  「=盛ん」「江人=江戸人」「信人=信濃人」「出府=江戸府まで行く」「=箱」「=図」「=かたる」
  「圖の如き 筥を拐を=(図は、箱に手書き文字で「本場 大森村 干海苔」とあります。)

  「=担ぐ」「風呂しき褁みにして負もあり=風呂敷包にして背負うもある」「=花」「記號=記号」
  「官家かんけ=朝廷や公家、貴人の家」「いつわ=偽る」

  【大森】おおもり … 東京都大田区の一地区。もと東京市35区の一つ。

  【調進】ちょう-しん … ととのえ納めること。注文品をととのえて届けること。調達。

  現在、長野県は寒天の一大産地になっています。
  寒天 100年間は伏見のみで生産、作り方は大阪・高槻から各地に広まった。(産業化の発祥)



  ≪ 味付け海苔 ≫

  1849 (嘉永2) 年に創業した東京・日本橋にある山本海苔店が、1869 (明治2) 年に日本で初めて味付け海苔を考案
  したそうです。1964 (昭和40) 年には、日本初のドライブスルーも設置。






  文化の境界線となる事が多い三重県では、おにぎりに巻く海苔は家にある方を使うので、特に決まっていないという
  地域があります。

  1960年代までは海苔は高級品で瓶入りや缶入りで大きな容器で売られていました。
  広島県の「やま磯」が味付け海苔を小分けした「おかず海苔」という商品を販売した事から、一般家庭でも買いやすく
  なり広まったようです。
  また1720年には「朝めし海苔」という業界初の卓上用のカップ容器に入った商品を売り出し、さらに手軽に食べられる
  ようになったようです。


  ≪ 青森県大間町の島海苔 ≫  テレビ東京 所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ! 『隠れ名物』 16.01.29 放送

  下北半島の突端部分にある大間町。マグロで有名ですが、高値で取引される大都市へ出荷される為、地元では
  大間マグロの販売はほとんど無いそうです。

  昭和初期、漁師の妻たちがマグロの不漁に備えて副収入を得ようと始めたのが島海苔つくりでした。
  大間の対岸にある弁天島で干潮の2時間程度のみ採取できます。手つかずの無人島で荒波にもまれるため、他の
  地域より味が濃くなるそうです。






  新鮮なうちに洗って包丁で刻み、海苔簀のりすを敷いた木枠に流し入れ水分を切った後、乾燥させます。 ※「海苔干す」の季語は春。
  手作りなので市販の海苔と比べると分厚く噛み応えがあるそうです。
  以前は漁師の家の軒先に大量の板海苔が乾される光景が見られたそうですが、近年は温暖化の影響で収穫量が減少。
  わずかの量しか生産されなくなったので、親戚や知人と分け合ったり、販売されてもすぐに売り切れる為、大間町以外では
  流通しない隠れ名物となったそうです。


  ≪ 海苔の大量養殖生産が始まったのは昭和になってから ≫

  海苔の生態が分からず経験や勘を頼りにしていた為、海苔の生産が安定せず、多くの庶民が食べられない貴重な物だった
  そうです。

  江戸や大坂・京都と九州北部など一部を除き、全国的に板海苔 (海苔巻き寿司) を庶民が食べられるように
  なったのは、昭和中期以降という事になります。

  1949 (昭和24) 年『日本の海苔養殖の母』と呼ばれる英国人藻類学者のドリュー・ベーカー女史が、海苔の生態を発見。
  九州大学の瀬川宗吉 教授に海苔の生態に関するドリュー女子の論文が送られ、熊本県水産試験場の太田扶桑男 技師ら
  が、1953 (昭和28) 年に海苔養殖の技術の基礎を完成させました。

  下の画像【熊本県の海苔生産量】のグラフでは、海苔の生産量が増えた1955年から赤い棒グラフで示されています。

  熊本県西部宇土半島に位置する宇土うと市にある住吉神社では、1963年にドリュー女史の記念碑を建立して以来、
  毎年4月14日(2016年に熊本大地震がありました) にドリュー女史の功績を讃えた式典が開催され、全国から海苔養殖の
  関係者が参加しています。






  日本全国の海苔の約5割を有明海で生産しており、うち佐賀県が海苔生産量13年連続1位になっています。

  【有明海】ありあけ-かい
   九州北西部の、長崎・佐賀・福岡・熊本四県に囲まれた浅海域。潮汐の干満差が大きく、古くから干潟の干拓事業が
   進められた。筑紫潟。筑紫の海。

  Wiki キャスリーン・メアリー・ドリュー=ベーカー
  海苔産業情報センター 海苔ジャーナル・エクスプレス 『海苔よもやま 「ドゥルー女史』 http://www.j-nori.com/


  ≪ 大阪湾でも海苔を養殖しています ≫   大阪湾 水質が劇的に改善、豊かな海へ 多数のスナメリ生息確認

  大阪湾で海苔の養殖が始まったのは、意外と遅く1965 (昭和40) 年。養殖網の下に潜って刈り取るようにした天井が低い
  特殊な専用船を使用。大阪湾は汚いイメージがありますが、実は東京湾より遙かにきれい。水質が大幅に改善しています。
  大阪湾では12月末~3月末までが海苔の収穫期間。リン・窒素・カリウムが豊富なので大阪湾は豊かな漁場です。






  最盛期の1979年頃は70~80人軒ほどの海苔漁師がおり板海苔の年間生産枚数は約5000万枚。関西国際空港の建設で
  漁場が減少し、現在では、泉州地域の阪南市に3人だけで、年間の板海苔生産数は約300万枚。






  2015年1月現在、大阪湾の海苔が買えるのは浪速区日本橋にある河幸海苔店のみ。
  味付け海苔は399円、佃煮は615円 (各税込)





 
 【巻き寿司】
  朝日放送 キャスト 『海苔がシート状なの なんでやねん!?』 19.03.04 放送
  京都と寿司・朱雀錦 (14) 寿司の歴史  http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-14.html

  ≪ 巻き寿司の誕生 ≫  Wiki 海苔巻  Wiki 巻き寿司   巻き寿司の季語は夏。

  巻き寿司のルーツは、ご飯の外に魚を乗せ巻き、簾などで型をつける棒寿司だと言われているそうです。

  巻き寿司(まきずし)は、寿司の一種であり「巻物(まきもの)」、「海苔巻き(のりまき)」とも呼ぶ。
  一般的には、巻き簾上の海苔に酢飯を広げてその上に具(巻芯)を乗せて巻いた日本の料理を指し、太さの違いに
  よって「細巻」「中巻」「太巻」と各々違う呼び名がある

  近畿地方には「細巻き」がなかったことから名称の区別がなく、それらすべてを「巻き寿司」と呼んでいる
  巻き方は地方や店舗によって異なるが、断面が方形あるいは円形のものが多い。


  ≪ 海苔巻き寿司の誕生 発祥は江戸の可能性が高い? ≫

  海苔巻寿司は、1750~1776年の間に生まれ、1783年に一般化したと言われています。
  天明年間 (1781~1789年) に誕生したと言われます。← 新鮮!寿し本 より






  料理家の吉田麻子さんによると、1750年頃に押し寿司を殺菌効果がある笹の葉で巻いた「笹巻き寿司」が誕生。
  その後、食文化が発展するにつれて玉子の薄焼きで巻いた物など様々な巻寿司が登場し、その中の一つに
  海苔巻き寿司があったという事のようです。


 1776 (安永5) 年の料理書『献立部類集』(佐伯元明 著、江戸時代料理本集成、出版地等不明) には
 浅草海苔、すぐの皮叉は紙をすだれに敷きて飯を重ね、魚をならべ、右のすだれ木口よりかたく絞め巻きにして
  四角な内に入れよく重しかけ置くなりとあるようです。

  現時点で、海苔巻き寿司の調理法の記述の初見の文献と言われているようです。


 1783(天明3) 年初出版の『豆腐百珍続編』(著者は大坂の曽谷学川と推測されている) 写本出版
  (著者ペンネームは浪華 酔狂道人)には「浅草海苔」と「のりまき鮓」の両方の文字が見られます。

  豆腐百珍附録 十・ノリマキラズシ 紫菜巻のつ○まき腐滓きくず鮓といふ○○く 淺草紫菜のりに醋を少しうち
  尋常つねのりまき鮓の如くして 飯の代かハりに雪花菜を用るく鷄卵つ○ざに入す 香油ごまのあぶら 酒しふ
  豆油にて味つけ むしり紅魚たい 木耳きくらげ 粟子くりのはり さん椒の末


 1787年刊行の『江戸買物案内書七十五日』には、江戸市中には25軒ほど記載されており、すし屋メニューの一つに
  なっていたようです。
  その中の『志き嶋勝三郎』という店では、笹巻きずし、玉子巻、ゆば巻と並べて海苔巻ずしの名が書かれてるそうです。


 1802 (享和2) 年、大坂で刊行された『名飯部類』では
 巻ずし、浅草海苔を板上にひろげて前の如き杮すしの飯を置、加料かぐには鯛、鮑、椎茸、みつば、紫蘇芋の
  類を用ひ堅く巻く、布を水にてしめして、上に覆い、しばらくして切る。
  紀州和布わかめにて右のごとくして和布巻すしという関西巻き寿司の作り方の記述があります。
  その他、「杮ずし」「茶巾ずし」「鯖ずし」などの詳しい作り方も載っています。

 1803年、大坂で刊行された『素人庖丁』初編にも挿入絵付きで「杮ずし」の作り方などが紹介されています。
  著者の浅野高造は、1819 (文政2) 年に「(当世化粧容顔美艶考」という化粧の本も著しています。


 1893 (明治26) 年印刷 割烹授業日誌 第二輯 高知市士族 西野たつ・一圓とよ 編著 非売品 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811754
  明治時代中期、高知での尋常中学校での調理実習ノートを卒業生自身がまとめた書

  「卵の巻鮨」では浅草海苔の記述も見られます。また地方の食事情を知るのにあたり色々と発見がありました。
  高知県のカツオのタタキと、明治時代中期の高知の食文化が分かる書 色んな発見がありました。


  【名飯部類】めいはん-ぶるい コトバンク より
  江戸時代の料理書。著者名の記載はないが、大坂の医家、杉野権兵衛(ごんべえ)、あるいは杉野権右衛門
   (ごんうえもん)といわれる。1802年(享和2)大坂で刊行
   炊飯を扱った料理書は少なく、飯、粥(かゆ)、鮓(すし)など米の調理だけの専門書として本書は貴重である。
   例言に「古(いにしへ)には飯に魚鳥菌菜(きのこあをもの)を調匂(まぜあは)し、或(ある)ひは飯に和(あは)し炊くを
   包飯(はうはん)といひしとぞ、今其品類(そのしなじな)によりて部類(わかちるい)を追ひ名飯部類といふ、たとへは
   尋常飯(ただごとめし)、諸菜飯(しょなめし)、菽豆飯(まめめし)、染汁飯(そめめし)、調魚飯(うをめし)、
   烹鳥飯(とりめし)、名品飯(めいはん)等也(なり)」、「尋常飯は戸々朝食暮(いへいへあさめしゆふめし)に用ひ人々の
   よく慣習(てなれ)たるもの或ひは魚鳥菌菜の類を加搓(いれまじへ)せざるものをいふ。
   諸菜飯は菜蔬(あをな)の類一品を加するものを云(いふ)」とある。
   尋常飯が麦飯など18、諸菽豆(まめ)飯が赤小豆(あずき)飯など10、紫蘇(しそ)葉飯など菜蔬飯11、茶飯など染汁飯4、
   はまち飯など調魚飯14、鶏肉飯(けいはん)など烹鳥飯4、骨董(ごもく)飯など名品飯26、
   付録として河豚(ふぐ)雑炊など雑炊20、粥類10、こけらずしなど鮓類32の作り方が記述され、よい米を選ぶことが
   肝要だとしている。

  【素人庖丁】しろうとぼうちょう
  江戸時代の料理書。著者は浅野高造(こうぞう)で、3巻3冊。1803年(享和3)に第1冊、1805年(文化2)に第2冊、
   第3冊は15年後の1820年(文政3)に主として大坂で刊行された。
   内容は、第1冊が四季魚類(鱠(なます)、汁、小煮物、煮物、和(あ)え物、田楽(でんがく)、組肴(くみざかな))、
   四季精進(しょうじん)(膾、汁、煮物、和え物、取肴(とりざかな))、ひたし物類、吸口(すいくち)類など、以下、
   魚別料理と作り方、
   第2冊は雑魚、魚鳥飯、魚類粥雑炊(かゆぞうすい)、精進青物仕様、第3冊は四季混雑、精進酒菜(さかな)のこしらえ様で
   構成されている。
   序文に「此(この)書(しょ)は百姓家(か)、町家の素人に通じ、日用手りやうりのたよりともなるべきかと、献立の品々を分かち、
   俄(にわか)客の折から台所の友ともなるべきと心を用いた」、とある。
   町人の宴会や料理場の光景、潮干狩、船遊びなど一種の風俗画のような挿絵が多い。

  素人包丁 即席料理 上 1893 (明治26) 年版 出版は大阪の赤志忠雅堂 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849059
  素人包丁 即席料理 下 1893 (明治26) 年版 出版は大阪の赤志忠雅堂 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849060

  関西では、具材が一種類では寂しいので豪華な太巻きが好まれ、 江戸では、具材はすっきりと粋に細巻が好まれた
  ようです。 江戸前の握り寿司には細巻が、大阪寿司には中巻きや太巻きが添えられるようになりました。

  江戸時代の巻き寿司は、家でつくるものではなく、外売りで買う寿司でした。
  家庭で寿司を作るのが始まるのは、大正あたりと言われており、 主婦が金銭的にも
  時間的にも余裕が出て来る時代から。

  1910(明治43)年 江戸時代の握り寿司を考案した華屋与兵衛の創業「与兵衛すし」
  四代目当主の弟、小泉清三郎氏の著書「家庭鮓のつけかた」には、海苔巻・細巻が
  紹介されています。

  1963 (昭和38) 年、堺のタマノイ酢が、酢を粉末にした世界初の商品『すしのこ』を発売。



  ≪ 細巻 ≫ 江戸発祥

  板海苔を半分に切って作る細巻は江戸発祥のようです。鉄火とカッパ巻は四角く巻いて6つに切り、切り口が見えるように
  盛る。かんぴょう巻は丸く巻いて4つに切り、横に寝かせて盛り付ける。


  ≪ 鉄火巻 ≫ 江戸発祥  Wiki 鉄火巻

   鉄火巻の名前の由来は各説
  ・マグロの赤身の色が熱せられて赤くなった鉄に似ているからという説
  ・当時マグロを生で食べる習慣がなく、それをネタに使うことがとんでもないこと(まるで熱した鉄に触るようなもの)から
   「鉄火」と呼ばれるようになったという説
  ・昔、鉄火場(賭博場)で博打をしながら食べられる手軽な食事だったから(サンドイッチの語源と似ているのでより
   好まれる説)

  【鉄火巻】てっか‐まき … 鮨の一つ。マグロの生身を芯にして海苔で巻いたもの。

  ロケットニュース24 『赤か白か? 選べる長崎の鉄火巻き』 10.11.06 配信 より抜粋
   http://rocketnews24.com/2010/11/06/ (URL略)

 長崎独特の「白い鉄火巻き」には、ブリやハマチなどの白身の魚が多く使われている。長崎県鮨商生活衛生同業組合で
  副理事長を務める、「あけぼの寿司」の北村円(まどか)さんにお話を伺うと、白い鉄火巻きは長崎ではごく普通に受け
  入れられているそう。
  もともとマグロやカジキなど赤身の魚の水揚げが少なかった長崎では、ブリやハマチなど、コリコリとした歯ごたえのある
  魚が好まれてきた。


 幕末の『皇都午睡』三編 下之巻

  金とさへ聞ば鉄火も握り兼ぬと云 心よりか袁彦道の黨に素肌の者を鉄火博奕てつくわうち又鉄火とも呼よし
  東都にて味噌の中へ種々の加薬の入しを鉄火味噌と云は 京摂にて諸味の中へ大根生姜なと切込しを泥坊漬
  どろぼうづけと号るに同じ 芝海老の身を細末にし鮨の上に乗たるを鉄火鮨といへるは身を崩せしと云ふ 謎なるべし

  『皇都午睡』の続きには、江戸「泥坊=盗賊の異名」、京摂「泥坊=放蕩人の異名」とあります。

  【鉄火味噌】てっか-みそ
   炒り大豆を油でいためて赤味噌・トウガラシと練ったなめ味噌。ゴボウなどを加えることもある。また、落花生で作る。



  ≪ かんぴょう巻 ≫ 関西発祥? Wiki かんぴょう

 20世紀以後の主要な生産地は栃木県南部であり、日本の干瓢生産の8割以上を占めている。
  しかし、以前は関西が栽培の中心であった。

  〈鉄砲巻き〉
   海苔を半分に切って直径3cm程度に細巻きにした海苔巻き。乾燥させたかんぴょうを水で戻し甘辛く煮たものを使用。
   その黒い細身の姿から鉄砲巻きとも呼ばれる。食べるときは二等分に切り、さらに二等分もしくは三等分に切る。

  〈木津巻き〉きづまき
   寿司屋の符牒ふちょう(作業人同士の業界用語)で干瓢巻きのことを木津巻きというのには、下記のように諸説があるが、
   いずれもゆかりの地名から取っているとされる。

  1. 摂津国木津(現在の大阪市浪速区)が干瓢生産の発祥の地といわれ、また干瓢生産が
    盛んであったからである。

  2. 山城国から木津川を下り摂津の木津へ運ばれ、そこで誕生したのが干瓢巻。
    大正時代から昭和にかけて大阪の市場では山城の木津干瓢はブランドとなっていた。
    故に、関西では「干瓢のことを木津」とも呼んでいた。

  3. 1712年(正徳二年)に近江国水口藩から下野国壬生藩に(現在の栃木県下都賀郡
    壬生町)国替えになった鳥居忠英(1665~1716)が、干瓢の栽培を奨励したことが、
    今日の栃木県の干瓢生産の興隆につながっている。
    その水口藩内の産地が木津であった。


  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』
  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の
  『日本山海名物図会』全5巻は、日本各地の名物を描いた絵本。
  巻の二には摂列木津干瓢として大坂木津の干し干瓢作りが描かれています。


木津かんぴょう


  ちなみに大阪の木津市場は300年ほどの歴史がある市場です。 木津卸市場

  【干瓢・乾瓢】かん‐ぴょう … ユウガオの果肉を、細く薄く長くむいて乾した食品。栃木県の名産。

  1712年の『和漢三才図会』(著者は大坂の医師、寺島良安) 七十五巻「河内」の「志貴郡」には、
  守屋城郭旧地 在本村東西二村 今 干瓢之名物とあります。
  守屋は物部守屋で蘇我氏に敗れた飛鳥時代の豪族。
  志貴郡あたりは現在の藤井寺市を中心とした一帯。木ノ本村は八尾市南部あたりと思われます。

  栃木県での干瓢の生産は1711 (正徳1) 年に近江 (滋賀県) から夕顔の種を導入して栽培を開始した事から。


  ≪ きゅうり巻・カッパ巻 ≫ 「カッパ巻」と呼ぶのは東京。

  キュウリ自体は平安時代頃から栽培されていたようです。
  広辞苑によると『河童巻』とありますし、名前由来諸説も河童に関係しています。
  NHK歴史ヒストリアによれば、終戦直後のネタが入手できない時に東京で作られたそうです。


  ≪ 新香巻 ≫ 関西で考案?

  京都と寿司・朱雀錦 (14) 寿司の歴史のサイトによると、「新香巻は東京細巻の関西からの逆輸入」と
  ありますが、出典がよく分からないので、当サイトでは不明とします。


  だだ、守貞謾稿によると、特に「大根の糠漬け」は、江戸では「沢庵漬け」と呼んでいた事が分かります。
  関西では「香々」ですが。江戸時代中期の各料理本で「香の物」の作り方として紹介されています。


 1643年刊『料理物語』 「第二 青物之部

 …〔夕がほ〕 汁、さしみ、同みは玉づさに成 〔なすび〕 汁、さしみ、まろに、あへ物、かうの物、しぎやき、きりほして
  いろいろ…

  野菜も刺身のようにして、生で食べられていた事がわかります。下記は『青物之部』で「さしみ」の記述があるもの。

  〔ふ〕〔こんにゃく〕〔みょうが〕〔たんぽぽの花〕〔よめがはぎ〕〔すべりひゆ〕〔ちしゃ〕〔川ぢしゃ〕〔夕がお=干瓢の元〕
  〔なすび〕〔くこ〕〔にんにく〕〔ねぶか=ネギ〕〔ひともじ〕〔のびる〕〔たけのこ〕〔またたび〕〔ぼたんの花〕
  〔しゃくやくの花〕〔クチナシの花〕〔くはんぞうの花〕〔菊の花〕〔すもう取の花〕〔じゅんさい〕

  他、「なます」にして食べる野菜も複数記載されています。


 幕末の『守貞謾稿』 上巻 第五編 生業下 「漬物賣

 京坂にて云 淺漬は江戸も同名 又 同製之 又 三都ともに鹽糠を以て漬たる 上方のかうかう と云
  同製の物を江戸にて澤庵漬と云 品川東海寺の澤庵禪師 始て製之 故に名とす



  ≪ 関西での「巻き寿司」は、他では「太巻き」という ≫  恵方巻き、此花区発祥説があった。

  関東の太巻き寿司
   焼いた海苔を1枚。海苔の香ばしさを楽しめるが、破れやすく、湿気を含むとすぐにヨレヨレになるので、出来立てを
   楽しんだ。

   日経新聞の野瀬さんによると、元々は「海苔巻き寿司」と呼ばれていたが、関西で「巻き寿司」と呼ばれるようになり、
   関東では「細巻き」と区別する為、「太い海苔巻き」=「太巻き」となった。

  関西の太巻き寿司
   乾燥させた生海苔を1枚半使う。破れにくく、シイタケ・かんぴょう・玉子焼き・高野豆腐・
   きゅうりなど具だくさん。家庭で持ち帰って食べる事が多かった。
   関西の太巻きは、具だくさんで、口に入りきらない程の大きい巻き寿司を言います。
    (正直、食べづらいですが、見た目は豪華) 

  江戸にも『大巻』と呼ばれるものがあったようです。京都と寿司・朱雀錦 (14) 寿司の歴史によると
   海苔も1枚半が普通で、2枚も3枚も使って美しく(切り口を)巻き上げたもので、芯には、
    時にはいろいろと異なったものを使う場合もあるが、玉子、オボロ、干瓢、椎茸などは
    欠く事ができない。
近年多い太巻きの贅沢版


  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『関西と関東でナゼ違う? 意外な歴史を解き明かす!』 16.11.10 放送
  関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 『意外と知らない名前の秘密SP』 17.04.17 放送

  ≪ ちらし寿司 ≫ 関西発祥 Wiki ちらし寿司

  関西では古くから (時期不明ですが、上記のとおり酢飯は江戸時代中期頃に誕生) 祝い事の際、ゆっくりと時間をかけて
  味わうものとして作られました。その為、上に乗せる具材は酢で〆たものや火を通したものが用いられました。
  手の暇を惜しまず上品に仕上げるのが関西風のちらし寿司だそうです。この関西風のスタイルが全国的に広まりました。

  【散らし鮨】ちらし‐ずし 五目鮨起し鮨ばら鮨
   野菜や魚介などの具を酢飯の上に体裁よく並べた鮨。また、具をまぜたものもいう。

  東京のちらし寿司 (江戸前ちらし) は、明治時代頃に江戸前の鮨屋が考案したので、刺身など生の海鮮が使われました。
  江戸前のちらし寿司は、全国的に「海鮮丼」と呼ばれているものと、見た目はほほ同じですが、酢飯を使用。

  元々関西では「ばら寿司」と呼ばれていましたが、「ち~らし寿司な~ら、ちょいと 寿司太郎~」のCMなどの影響からか?
  ちらし寿司と言う事の方が一般的になっているようです。


 1892 (明治25) 年出版 割烹授業日誌 第一輯 高知県尋常中学校女子部 編 出版地は高知県 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811753
  明治時代中期の高知県の食文化が分かるこの書には、「握り鮨」「朧鮨」と「散し鮨」の作り方が載っています。
  散し鮨の材料は「上白米・卵・魚肉・干瓢・椎茸・出汁昆布・ゴボウ・砂糖・醤油・生姜・たくあん・カツオ節・橙

 1893 (明治26) 年印刷 割烹授業日誌 第二輯 高知市士族 西野たつ・一圓とよ 編著 非売品 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811754
  第一集とは異なり、高知での尋常中学校での調理実習ノートを卒業生自身がまとめた書
  「ぼら」「えび」「卵の巻鮨」では浅草海苔が使われています。「いなりすし」は大阪風と似たもの、
  「松魚かつおの生節すし」「かます鮨」が載っています。
  高知県のカツオのタタキと、明治時代中期の高知の食文化が分かる書 色んな発見がありました。

 
 【 稲荷寿司 】
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『違いが分かりづらいモノが多過ぎる件』 13.05.27 放送
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『食の方言は語る ! 関西食べ物ミステリー』 14.06.05 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『言葉は生きている! 進化する日本語』 14.08.22 放送
  テレビ東京 歴史の道 歩き旅 『女城主 直虎が活躍した地を目指す旅 愛知・豊川』 17.01.10 放送
  テレビ東京 朝の! さんぽ道 『馬車道・関内エリア 夏の横浜グルメ旅』 17.08.03 放送
  京都と寿司・朱雀錦 (14) 寿司の歴史  http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-14.html

  ≪ 稲荷寿司の形 ≫  Wiki 稲荷寿司

  いなり寿司が食べられ始めたのは江戸時代末期。中身は飯ではなく、オカラを詰めていた物でした。


 『守貞謾稿

 天保末年(旧暦1844年、新暦1844年2月~1845年1月)、江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸干瓢
  を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。(中略)なづけて稲荷鮨、或は篠田鮨といい、ともに狐に因ある名にて、
  野干(狐の異称)は油揚げを好む者故に名とす。
  最も賤価鮨なり。尾の名古屋等、従来これあり。江戸も天保前より店売りにはこれあるか。
  両国等の田舎人のみを専らとす鮨店に従来よりこれあるか。

  天保時代、江戸に稲荷鮨 (篠田鮨) という最も安価な鮨を売っているが、以前から名古屋にあった。
  江戸でもその前から売ってる店があったかも。名古屋や江戸のような田舎者のみ相手にする鮨店にあったかも。


  また『守貞謾稿』「茶飯賣」には、

 京坂にこれ無し。江戸にて夜に茶飯と餡かけ豆腐を売り歩く。餡かけ豆腐に用いる餡は葛粉醤油を煮たもの也。
  天保以来、江戸にて稲荷鮨と呼ぶ油揚げ豆腐の中を裂き、紙の如くなして中に飯を詰めて売る事を始めた。
  とあります。

  この葛は本葛ではなく、天保年間の小麦粉を発酵した澱粉で江戸の久餅が創製。それと同じ可能性が高いです。
  葛菓子の歴史 吉野葛の葛切、江戸の久寿餅、岐阜の水饅頭 など



日本経済新聞社の野瀬泰申さんによると

 関西
  狐の耳に見立てたので三角型になった。

 関東
  稲作の守り神である稲荷=稲の荷=俵型になった。

  関西では具が入った五目飯を詰めた三角形。関東では具が兩無いすし飯を入れ俵型にする。
  守貞謾稿では「キクラゲ・かんぴょうを刻んだ飯」とありますので、関西風ともいえます。

  ※ 現在、関西でも具の無い寿司飯の稲荷寿司や、ゴマだけを混ぜた寿司飯入りの稲荷寿司の方が多いような気がします。

  『すしの辞典』 日比野光敏 (岐阜県出身、名古屋経済大学短期大学部教授) 著 2001/5 出版によると、
  雑煮の餅の形 (関西は丸餅、関東は角餅) が異なるのと同様の分布で、滋賀県と岐阜県の境付近で分かれるそうです。

  【信太鮨】しのだ‐ずし 信太は広辞苑によると「篠田」とも書きます。 和泉市 信太の森
   狐は油揚を好むということから、信太の森 (大阪府泉北郡の旧村名。今は和泉市に属する) の狐の伝説によって
   命名されたという。稲荷鮨いなりずしの別名。

  【信太巻・信田巻】しのだ‐まき
   (油揚を用いるので、信太狐の伝説によって命名されたという)魚介・野菜・乾物などを刻み合わせて、
   油揚を袋状にした中に詰めたり、巻いたりしたものを甘く煮た料理。

  【信太の森】しのだ‐の‐もり
   大阪府和泉市信太山にある森。樟の大樹の下に、白狐のすんだという洞窟がある。葛の葉の伝説で有名。
   時雨・紅葉の名所。「篠田の森」とも書く。(歌枕) 源氏物語[若菜上]「この―を道のしるべにてまうで給ふ」

  大阪市内では昭和20~30年代頃まで、油揚げの上品な呼び方として「しのだ」が使われていたそうです。

  国立国会図書館レファレンス事例詳細 『「しのだ」の正しい漢字を教えてほしい
   http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000043247 より抜粋

 『料理用語事典』大滝緑・山口米子編著 真珠書院 2003では「信太」の表記を採用。
  『新版〈目からウロコ〉の日本語「語源」辞典』学研 2004では信太鮨」の説明があった。
  語源から判断すると「信太」が正しいが、一般的に多く使用されているのは「信田」であると考えられる。

  ※ 広辞苑の「信太巻」の由来と、守貞漫稿の記述の「木茸干瓢を刻み交へたる飯」← 具入りの関西風。これらを考慮すると
    大坂の信太巻 (信太寿司) が、名古屋で篠田寿司と呼ばれ江戸に伝わって「稲荷寿司」と呼ばれるようになった。と解釈できます。


  1852(嘉永5) 年の『近世商売尽狂歌合』(石塚豊芥子 著)の挿絵には、細長い
  稲荷ずしを、切り売りする屋台の様子が描かれています。

  1840 (天保10) 年創業の横浜にある「いなりの泉平」では、江戸時代からの細長い稲荷ずし
  1本270円で販売しています。

  昔は豆腐が今より大きかったので、いなり寿司に使う油揚げも大きったと思われます。


  【石塚豊芥子】いしづか-ほうかいし
1799-1862
   コトバンク
   江戸時代後期の考証家。寛政11年生まれ。江戸の辛子(からし)粉屋
   山東京伝,柳亭種彦らとまじわり,近世の文芸書や演劇・遊里関係書などの膨大な
   珍本(芥子屋(からしや)本)を収集。風俗研究や考証にすぐれた。
   文久元年12月15日死去。63歳。通称は鎌倉屋重(十)兵衛。別号に集古堂,からし屋,
   豊亭。著作に「岡場遊廓(ゆうかく)考」「歌舞妓(かぶき)十八番考」など。


  藤岡屋由蔵の日記『天言筆記』(明治成立)には飯や豆腐ガラ(オカラ)などを詰めて
  ワサビ醤油で食べるとあり、「はなはだ下直(げじき-値段が安いこと)」ともあるそうです。

近世商売尽狂歌合


横浜 泉平の稲荷寿司

  【藤岡屋由蔵】ふじおかや-よしぞう
1793-? 江戸時代後期の本屋。
   コトバンク
   寛政5年生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)藤岡の人。弘化(こうか)2年(1845)から江戸で古書店をいとなみながら,
   風俗や風聞をかきしるして御記録本屋とよばれた。文化元-慶応4年の「藤岡屋日記」で知られる。姓は須藤。


  「食のルーツ」なるほど面白事典 著者: 日本博学倶楽部 https://books.google.co.jp/books?id (URL略) より抜粋

 (略)…江戸で人気となったいなりずしだが、その発祥は、江戸とも、尾張名古屋ともいわれて、じつは定かではない。
  (略)…江戸に広まったのは天保の大飢饉のころとされる。
  だが(略)…当初のものと今とは中身が大きく違っていたということだ。

  『江戸風流「食」ばなし」(講談社)の堀和久氏によると、江戸後期の見聞録『さへづり草』のなかに「豆腐の油揚げに
  雪花菜(きらず)を包めたるもの」と記されているという。雪花菜とは「おから」のことである。
  つまり当初、油揚げの中身には、なんと、おからが詰められていたと書かれてあるのだ。

  (略)…江戸に広まった当時は、比較的手には入りやすい滋養のある食べ物として、おからが使われていたのである。

  (略)…定かではないが、天保年間(1830~44年)の終わりごろには、寿司飯を詰めたいなり寿司を売り歩く行商が増えた
  ようだ。夜には、提灯に赤で鳥居の絵を描いた屋台が、「おいなりさあん」といいながら両国界隈を中心に行商し、
  庶民から重宝がられた。
  中でも日本橋の十軒店(じっけんだな)に屋台を構えていた稲荷屋治郎右衛門のいなりずしが大評判だったという。

  ※ 広辞苑によると、天保年間は、江戸時代末期の1831年1月23日~1845年1月9日、太陰暦と太陽暦などの違いによるものでしょう。
   明治は1868年10月23日~なので、江戸末期の見聞録『さへづり草』とすべきでしょう。

   Wiki 堀和久
  江戸風流「食」ばなし 堀和久 著 (日本の歴史小説作家。福岡県北九州市生まれ。) 2000年12月08日発売、講談社。

  【さへづり草】 Wiki さへづり草 より
   俳人の加藤雀庵が天保年間~文久3年(1863年)までの約30年間に「見聞に任せて座右消閑にものしたるもの」を、
   明治43年(1910年)に、室松岩雄 編・雀庵長房 著「さへづり草 むしの夢」として一致堂書店より刊行したもの。

  【加藤雀庵】かとう-じゃくあん
1796-1875 江戸時代後期の俳人。
   コトバンク より
   寛政8年生まれ。江戸の人。烏亭焉馬(うてい-えんば)にまなび,狂歌もよむ。
   博識で知られ「さへづり草」などおおくの随筆をかいた。明治8年12月10日死去。80歳。本姓は田中。名は昶(きょし)。
   通称は弥四郎。別号に篠廼屋,白鴎,堤隣翁,千声など。狂名は藤の長房。


  【おから】 Wiki おから より
   「おから」は絞りかすの意味。茶殻の「がら」などと同源の「から」に丁寧語の「御」をつけたもので、女房言葉のひとつ。
   「から」は空に通じるとして忌避され、縁起を担いで、白いことから卯の花うのはな、主に関東)、
   包丁で切らずに食べられるところから雪花菜きらず、主に関西、東北)などと言いかえることもある。
   「おから」自体も「雪花菜」の字をあてる。
   寄席芸人の世界でも「おから」が空の客席を連想させるとして嫌われ、炒り付けるように料理することから「おおいり」
   (大入り) と言い換えていた。

  【切らず・雪花菜】きら‐ず。 おから。うのはな。
   (料理をするのに切る必要がないとの意。豆腐殻からが空からと通ずるのを嫌って言いかえる語という)豆腐のしぼりかす。
   浄瑠璃、堀川波鼓豆腐あきなふ商人の―、―と声高に売る辻占の耳に

  【雪花菜】せっか‐さい … 豆腐のかす。おから。きらず。

  【堀川波鼓】ほりかわなみのつづみ  Wiki 堀川波鼓
   浄瑠璃。近松門左衛門 作の世話物。1707年(宝永4)初演。
   前年の鳥取藩士大蔵彦八郎(小倉彦九郎)が、妹くらと妻たねの妹ふうとの3人で、妻敵めがたき宮井伝右衛門を
   京都堀川で討った事件を脚色。

  【卯の花】う‐の‐はな
   ① ウツギの花。また、ウツギの別称。夏。万葉集[17]「―は今そさかりと
   ② 襲かさねの色目。山科流では、表は白、裏は萌葱もえぎ。4~5月に用いる。
   ③ 豆腐のしぼりかす。おから。雪花菜きらず

  双牛舎類題句集 『夏 卯の花、うつぎの花』 http://sogyusha.org/ruidai/02_summer/unohana.html

  上記サイトの句集には江戸時代までの句が集められていますが、「卯の花」が「おから」の意味で使われたと
  思われる句は見当たりませんでした。ウツギの花を詠んだものと思われます。

  よしみ亭 『きらず(卯の花)』 http://www.yoshimitei.com/?page_id=61

 江戸時代、おからのことを関東では「卯の花」と言い換えていたのに対し、関西(特に京都)では「きらず」と呼んでいた
  そうです。現代において、おからの別称は全国的に「卯の花」と知られていますが、九州・大分や山陰・島根などの
  地域では今でも「きらず」が使われているそうです。
  店主は落語が大好きです。上方落語の中に「きらず」がキーワードになっている演目もあります。
  その一席が桂米朝の得意な「鹿政談」です。


 1643年刊『料理物語』 (著者は大坂人が濃厚、出版地は京都)
  第十四「吸物之部
 卯の花〕 いかのせのかたを すじかい十文字に こまかに きりかけ、又 大さ よきころに きりはなし、
  ゆにをして つまに のりなど入、だしに かげをおとし ふかせ、すひ合 出し候也

  「卯の花=おから」の意味ではなく、イカを使った料理名のようです。


 1746年成立の『黒白精味集』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)、
  上巻と下巻の十一は独自の記述ですが、この黒白精味集は、色んな人からの聞伝が多い。
  中巻と下巻のほとんどは『四季料理献立 (成立年など不詳、著者は江戸在住か?)』と、ほぼ同じ。
  どちらが先かは、千葉大学の紀要論文で明言されていませんが、四季料理献立の方が先と思われます。

  そのどちらにも掲載されている料理内容にも、上方での食材に使われている言葉が多数ありますので、
   (「薄醤油」「鮓」「せんば」「白味噌」「天王寺蕪」「葛」「かまぼこに鱧が最上」「鯛料理や蛸料理の記述が多い」など。)
  上方で出版された料理本などから、そのまま引用している可能性が高いと思われます。
  1668 (寛文8) 年の料理塩梅集りょうりあんばいしゅう大坂で書かれた物 (手書き本ですが、写本で伝わった)
  1689年に京都で刊行された『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』5巻。(著者は中川茂兵衛)なども参考に
  されたと思われます。

  『黒白精味集』 上巻「きらず漬」「きらず汁」「煎きらず
  「鰯半片汁」にはきらずを細に摺身等分よりいわし少き方よし…とあります。「卯の花」は見当たりません。


 1783(天明3) 年初出版の『豆腐百珍続編』(著者は大坂の曽谷学川と推測されている) 写本出版
  (著者ペンネームは浪華 酔狂道人)には「白花うのはな」と「きらず」の両方の文字が見られます。

  廿四 白花菽乳には、「うのはな とうふ」のフリガナが振ってあります。
  卅四 待○雪花菜には。「まち○○きらず」のフリガナが振ってあります。
  雪花菜の文字は卅三、卅五、卅七などの料理のレシピの中にも登場しています。

  豆腐百珍附録 十・ノリマキラズシ 紫菜巻のつ○まき腐滓きくず鮓といふ○○く 淺草紫菜のりに醋を少しうち
  尋常つねの のりまき鮓の如くして 飯の代かハりに雪花菜を用るく鷄卵つ○ざに入す 香油ごまのあぶら 酒しふ
  豆油にて味つけ むしり紅魚たい 木耳きくらげ 粟子くりのはり さん椒の末


 1785年(天明5)刊の『萬宝料理秘密箱』前編 (いわゆる「卵百珍」) 巻之三 卵之部 「卯花熬卵の仕方
   著者は京都の器土堂主人。

 一たまごを何ほどにてもわり 是もあらあらととき合セて 鍋の底へ焼豆腐を二ツほどならへしきて 煎て此上へ
  右のたまごをそろりとながし入 扨 遠火にて そろそろと煎て新しき和布を火どりて すぐにこまくして 細き すいのうにて
  ふるひて 扨 たまごを器にいれ此和布の粉をかけて薄醬油をかけ其上に卯の花ををき出すべし 是は去ル
  茶人の秘方の料理なり 卯の花は卯鳥の毒を消ものなり 但しなべの底の豆腐は用ひず

  豆腐百珍や卵百珍は、江戸でも出版されており、多数の写本や類本 (書き加えたもの) などが出版されており、
  上の内容は、本の巻末の記述より、寛政7 (1795) 年に追記され、京都と江戸で出版された版のものです。

  この記述から、江戸時代中期の京都では「卯の花」と呼んでいた事が分かります。

  人文学オープンデータ共同利用センター 『「万宝料理秘密箱 卵百珍」レシピ一覧』
   http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C


  ≪ 大正時代の東京では「雪花菜」と「卯の花」の両方が使われていた ≫

 1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)には
  「野菜入卯の花」「卯の花と葱の油炒」「酢入卯の花」「粟入卯の花」の献立が載っています。

 1918 (大正7) 年の『美味くて徳用御飯の炊き方百種』 (慶應大学医学部内 食養研究会 編&出版)
  P.141には「雪花菜きらず」の炊き方が載っています。
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933202

 1918 (大正7) 年出版の『応用家事教科書 上巻』(東京女子高等師範学校 教授の大江スミ子 著、東京寳文館 出版)
  「第二章 飲食物 第二節 日常食品」P.77~78には、「十二.雪花菜きらず」とあります。



  ≪ 卯の花ずし ≫ らかん寿司 松月 『すしの歴史』 http://rakanzusi.web.fc2.com/susinorekisi.htm

  上リンクの千葉県安房郡のらかん寿司のサイトによると、「卯の花ずし」には、
   伊予の丸ずし、広島県西部から山口県海岸部で作られるとうずし、石見のおまんずし、出雲のコノシロずし、備前三次や
    羽前新庄、羽後矢島のアユずしなど。 他には裏日本の海岸部に広くあり、材料はイワシかコノシロが多い。
    表日本でもイワシが捕れる所では作られる。とあります。  ※羽前うぜん=明治時代の山形の大部分。

  【卯の花鮨】うのはな‐ずし  広辞苑 & 語源由来辞典
   炒って味付けしたおからを飯の代りに用いた巻鮨・押鮨・握り鮨。
   炒って酢で味付けし握ったおからの上にイワシ、サンマ、コハダなどを乗せた寿司。

  情報を総合すると、おから=雪花菜で、大坂では元禄時代から、雪花菜を「きらず」と言っていた。
  卯の花ずし系が日本海側や西日本に多いことから、名古屋や江戸ではなく、大坂から北前船などを通じて
  伝わったと推測できます。

  ※ おからを米の代わりに使用したのが大坂発祥とは限りませんが、元禄時代におからは上方で売られていた事が、近松作品で分かります。

  青森に残る「けいらん」という南蛮菓子、山形の菓子は京都菓子技法が北前船で伝わっています。
  広島県北部の三次みよしは山陰と山陽を結ぶ交通の要所。愛媛にも卯の花系寿司がある事。
  名古屋には、守口漬けや土手煮などが大坂から伝わったという事実もあり、江戸も大坂から色んな文化が
  直接伝わっています。

  愛知県発祥の根拠としては、守貞謾稿尾の名古屋等、従来これあり。だけ。
  幕末頃の江戸発祥であれば「雪花菜」ではなく、「卯の花」となるはず。
  また、近隣県に「卯の花鮨」系の有名な鮨が残っていてもいい。

  信太巻の具として雪花菜 (おから) を使用した事も十分考えられますし、味付けも稲荷ずしとほぼ同じ。
  大坂で干瓢が多く生産されていたことから、安い寿司に干瓢を使っているのも自然な事です。

  「おから=卯の花」と、いつから呼んでいるのか(関西でも現在は「卯の花」というのが普通。)文献を見つける事は
  できませんでしたが、東京で江戸時代末期から「おから=卯の花」だとすれば、雪花菜きらずを油揚げに詰めたものが
  いなり寿司の発祥であるから、他の事も合わせ、大坂から名古屋・江戸に伝わった可能性が非常に高い。

  いなり寿司は、明治22年(1889年)、兵庫県姫路のまねき食品会社が、握り飯一辺倒だった駅弁12銭(現在の
  2千円~3千円ほど)に導入したのが全国に広がったきっかけのようです。

  【蕎麦鮨】そばずし … 飯のかわりに蕎麦切りを用いて作った鮨。


  ≪ 愛知県の『豊川稲荷』=『豊川閣 妙厳寺』 ≫

  お寺ですが、『豊川稲荷』と呼ばれ鳥居があります。
  四天王寺(大阪市)、宝山寺(大阪府八尾市)、信貴山朝護孫寺(奈良県)、鞍馬寺(京都市)、東福寺(東京)などにも鳥居があります。



 【豊川稲荷】とよかわ-いなり
  豊川市にある曹洞宗妙厳寺内の荼枳尼天だきにてん
  を祀った鎮守堂。15世紀中頃(1441年)、義易の創立。
  俗には平八狐を祀るという。
  東京赤坂にある豊川稲荷は、同区の大岡家邸内に
  あった祠を明治初年現地に移転して支院としたもの。



  ≪ 助六寿司 ≫

  稲荷寿司と関西風の巻き寿司を詰め合わせたものが一般的なので、芝居見物が盛んだった関西発祥の可能性が
  高いと思います。

  【助六鮨すけろく‐ずし
   稲荷いなり鮨と巻き鮨とを組み合わせた鮨。
   「揚げ」(油揚げ)と「巻き」(海苔巻き)からなるところから、遊女「揚巻」が登場する歌舞伎「助六」に因んでいう。

  【助六】すけろく
   ① 江戸中期、京都の男達おとこだて(任侠、侠客)の万屋よろず‐や助六
     宝永(一説に元禄)年間、島原の遊女 揚巻あげまき と心中、浄瑠璃・
     歌舞伎で直ちに脚色上演された。

   ② 歌舞伎十八番の一つ
     助六物の代表作「助六所縁江戸桜すけろくゆかりのえどざくら」の通称。
     2代 市川団十郎の当り狂言として上演、
     1716年(享保1)の「式例和曾我しきれいやわらぎそが」以来、江戸風の
     助六となる。
     花川戸助六、実は曾我の五郎が名刀 友切丸詮議のため吉原に
     出入、愛人 三浦屋の揚巻に横恋慕する髯ひげの意休に喧嘩を
     しかけ、ついに意休から刀を奪いかえす。

歌川芳艶 「花川戸助六之図」

 黒い着物が助六
   ③ 浄瑠璃の一流派で、河東節かとう‐ぶし一つ
     1717年(享保2)に江戸の初世 十寸見ますみ河東(1684~1725)が半太夫節から分派独立して創始。
     主に座敷芸として伝承。曲風は生粋の江戸風で優美華麗。代表曲「松の内」「水調子」「助六」。の一つ。
     本名題「助六所縁江戸桜」。1761年(宝暦11)初演。

   日本の伝統芸能 (一部、神楽、歌舞伎狂言、大阪の芸能)    江戸歌舞伎と浮世絵 春画
 
 【 握り鮨 】  
  テレビ東京 昔の人はスゴかった!! おかげですヒストリー!! 『江戸グルメ大革命! 寿司に命をかけた男』
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『江戸に咲かせた食文化』 12.02.02 放送
  水野真紀の魔法のレストラン 『なにわ「食」遺産クイズ』 13.08.26 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第1回 江戸のすし』 16.04.06 放送

  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃

  大阪商工会議所HP 「名庭太郎?家の味な一週間」の冊子
   http://www.osaka.cci.or.jp/syoku_osaka/food/magazine.html
  Wiki 華屋与兵衛 / Wiki 堺屋松五郎

 握りずし

  江戸時代後期1800年初頭に江戸 両国に住む華屋与兵衛 (福井県の若狭出身、1799~
  1858年) が売出したものが最初と言われています。

  それまで、すしと言えば手間がかかり高価なものでした。
  当時の江戸は屋台が多く出ている外食ブーム。

  高級すし店で働いていた与兵衛は庶民にもすしを味わってもらう為、試行錯誤していた。
  そんな折、1804年に中野又左衛門 (初代) が創業したミツカン (愛知県) の酢と出会う。
  財団法人 招鶴亭文庫に与兵衛と又左衛門との間に交わされた手紙が残っているそうです。

  ※にぎり鮨を売り出した年又は江戸前寿司が始まった年が、1822年または1824年なのかは説による。
  
  華屋与兵衛が最初に始めた、考案者、又はにぎり鮨を江戸に広めた人なのか? にも説があります。






  酢飯を握ってネタを乗せただけの早ずしを手桶に入れて売り歩いた。
  「安い、早い、旨い」で人気となり、のちに、屋台で提供するようになりました。

  当時、酒粕を原料にした安価な粕酢 (赤酢) を使ったと考えられています。
  右下に画像がありますが、無色透明に近い現在の酢とは違い、茶色っぽい色のようです。

  【粕酢・糟酢】かす-ず
   酒粕を原料とした醸造酢。江戸末期より製造が始まり、鮨によく用いる。

  【赤酢】あか-ず
   ① 酒粕から作る粕酢のうち色の濃いもの。特有のにおいがあり鮨用に好まれた。

  当初は煮貝などのネタで現在の2.5倍の大きさ、屋台主が握って置いてある寿司から
  客が選ぶスタイル。
  店主は屋台に座って握り、客は立ち喰い。で、現在とは正反対だったようです。

  与兵衛寿司は「妖術と いふ身で握る 鮨の飯」 という川柳や
   「こみあいて 待ちくたびれる与兵衛ずし 客も もろとも手を握りけり」 
   という歌が残っているほどの人気店。

  江戸前寿司 
   1824年頃、両国に住んでいた与兵衛が江戸湾 (芝浜) で獲れる新鮮なネタだけを
   握った店が始まり。殺菌の為、ワサビも使用するようになった。






 1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家)
  巻之十 (飲食)「松がすし・てんぷら あげもの」P.416~417

  文化のはじめ頃 深川六軒ぼりに 松がすしの出来て 世上すしの風 一変し
  それより前に日本橋きはの やたいみせにて吉兵衛と云もの よきてんふにし 出して
  より他所にも よきあげもの あまたになり 是また一変なり 文化 (1804~1015年)

  嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104






  堺屋松五郎 (堺出身という説あり、生没年不詳) 
   1830年、深川の安宅六間堀に松ヶ鮨を開店。
   『安宅 松ヶ鮨』とも呼ばれる。当時の江戸では寿司は押し寿司であり、握りずしは、
   華屋与兵衛と堺屋松五郎が始めたとする文献が多いそうです。という説もあります。

   江戸中で最も贅沢な寿司であるといわれる。歌川国芳による大判錦絵「縞揃女弁
   慶松の鮨」があり、描かれているのは握り寿司と押し寿司だそうです。
   江戸三大鮨店の『松が鮨』として評判になりました。

  江戸三鮨 与兵衛寿司松ヶ鮨毛抜鮓けぬきすし
    ↑詳しくはリンク先のウィキペディアで。

  【毛抜鮨】けぬき‐ずし
   握った鮨を一つずつ熊笹の葉で巻いて押したもの。笹鮨。笹巻鮨。
   洒落本、妓娼精子きしょうせいし (鶯蛙楼主人おうあろう-しゅじん 著、文化・文政頃?) には
   「―のやたい見せから坂をおりると雪の下」とある。

  【笹巻鮨】ささまき‐ずし … 小形の握り鮨を笹の葉で巻いたもの。笹鮨。笹巻。


  1834~1837年 (天保4~7年) に天保の飢饉が起こる。
   長雨・洪水・冷害によって起こった全国的な飢饉。米価が暴騰し、餓死する者が多く、
   幕府の救済した者は前後70万余人に及び、また、一揆・打ちこわしが各地に発生して
   幕藩体制の衰退が進んだ。

  1842~1844年 (天保12~14年)に老中 水野忠邦 が天保の改革を行う。
   勤倹を旨とし、風俗を矯正し、株仲間を解散、物価値下げを命じ、人返し令を発し、
   また江戸・大坂十里四方上知令を発するなど、幕政再建に努めたが、強権的な
   政治手法が大名などの反発を招き、忠邦は失脚した。江戸幕府三大改革の一つ。






  【水野忠邦】 みずの‐ただくに (1794~1851)
   江戸後期の幕府老中。唐津 (佐賀県の6万石) 藩主 忠光の子。越前守
   1817年(文化14)浜松に転封。大坂城代・京都所司代を経て老中。
   天保の改革を企てたが、強権的な政治手法が反発を招き、失脚し隠居謹慎。

  ※ 越前守。とありますが、この頃は官職を表すだけで、越前 (福井県) とは関係ないようです。
  くわしくは→ ヤフー知恵袋
  http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1447480009





  天保の改革では握り鮨も禁止されましたが、与兵衛などの寿司職人たちは鮨を握り
  続けた為、投獄され手鎖の刑 (手錠をはめられる)で、200人もの職人が処罰され
  ました。 一時期、江戸の街から鮨屋台が消える事になりました。







愛知県 半田市








粕酢の酢飯




トロは猫マタギと呼ばれた


軍艦巻き始めたとされる 銀座 久兵衛






ありえへん∞世界 より



  1852年には、そば屋が1~2町に一戸 (軒)、鮨屋の屋台は毎町に一戸と言われるほど、江戸中に広まっていたそうです。


  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『すしに恋して』 16.10.21 放送

  江戸の番付表『壽し屋見立』の行司欄に4つの寿司屋名があり、中央2つは「与兵衛寿し」と「松の寿し」。
  上記の江戸三鮨の毛抜寿しは東の前頭の6番目にランク付けされています。
  握り寿司を先に始めたのは与兵衛寿しは安くて旨い。松の寿しは松五郎は大坂から江戸に下り押し寿司で成功をして
  いたそうです。与兵衛から刺激を受け、高級ネタだけを使用する5000円という超高価な握り寿司を売り始めたようです。
  ライバル関係とも言える与兵衛寿しは技を磨き、松の寿しはネタにこだわり、売る演出でも客を感激させました。

番付表「壽し屋見立」

松の寿し

松の寿しの再現

江戸名物詩 「松の寿し」


  元 京都府立大学の特任教授の日比野光敏さんによると、
  松の寿しの松五郎は、一匹の鰻を選ぶのに100匹買う。二流品は一切使わず一流品ばかり揃えていた。
  『江戸名物詩』には玉子は金のようで、魚は水晶のように輝いていたという記述が残っています。
  『よしなし言』には私は技術が未熟なもので、飯の中に砂が混じっているかも知れません。先に刃の治療代を入れて
  おきます。として寿司の箱の中にお金を入れる演出をしていたそうです。

  『守貞漫稿』には、『白魚、コハダ、刺身、アナゴ、玉子、海苔巻、玉子巻』の文字が絵と共に書かれてあります。

  時代が進んで生魚を多く使う頃には1.5倍の大きさに変化したようです。
  最も人気のネタはコハダで8文(160円)、最も高価なのが玉子で16文。

  【守貞謾稿】もりさだまんこう (「守貞漫稿」とも)   コトバンク 『喜田川守貞』
   随筆。喜田川守貞 (砂糖商北川家。大坂の人、1810~?。1840年に江戸深川に定住) 著。30巻、後編4巻。
   1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗研究に
   不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行

  醤油は共用なので2度つけ禁止。客はお茶で手を洗って、店の暖簾で手を拭くのが江戸流の粋。
   「暖簾が汚れているほど、客が多くってよぉ、繁盛している証だべい」ってところでしょうか。 関東べい

  慶応年間 (1865~1868) から約150年続く『美家古壽司』の5代目 内田正さんによると、『酢飯・わさび・「仕事」をした鮨ネタ、
  煮きり醤油』を使うのが、この店の江戸前ずしの定義。仕込み8割、握り2割。コハダは酢で〆て酢を抜く『仕事』をするのに
  3日かける。『仕事』とは、昆布締め、煮きり醤油を使ったヅケなど『保存』と『旨味を凝縮させる』ための下ごしらえ。

  【煮切り】に‐きり
   料理で、酒や味醂みりんの旨み成分を利用するため、それらを煮立てたり火をつけたりしてアルコール分を除くこと。

  【煮詰め汁】につめ‐じる
   醤油と味醂をとろ火で煮詰めた汁。握り鮨の穴子・蛤はまぐりなどの上に塗るたれ。 ※ 通称「つめ」。






  読売テレビの秘密のケンミンSHOW15年7月30日の放送で、山梨県民の真実として。「まぐろの握りに甘いツメを塗るのが
  老舗寿司店では定番」と言っていましたが、江戸時代の江戸の屋台では先に握ったものを客が選ぶスタイル (現在の回転すしと同じ)
  です。推測ですが、ネタの乾燥防止という意味も含めて、アナゴ以外にも煮切りやツメを塗っていた屋台も多かったはず。


  大坂には文政年間 (1818~1831年)、名古屋には天保年間 (1831~1845) の中期から末期頃に握り鮨店があった


  ≪ 明治時代中期には地方にも握り鮨が伝わっていた ≫ 国民皆教育と標準語の制定学 明治の小学校の授業など

  尋常中学校は1886 (明治19) 年の中学校令により設置されました。下の書は高知県の尋常中学校での家庭科の調理
  実習授業での日誌。この頃の尋常小学校進学率は50%ほど。「尋常=普通」なので、現在と同じ中学生の授業内容。

  全国共通の教科書が使われるのは、1904 (明治37) 年に文部省発行の国定教科書が作られてからになりますので、
  日本全国に握り鮨が伝わっていたかは不明ですが、海に面して魚をよく食べる県では伝わっていた可能性がありそうです。


 1892 (明治25) 年出版 割烹授業日誌 第一輯 高知県尋常中学校女子部 編 出版地は高知県 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811753
  明治時代中期の高知県の食文化が分かるこの書には、握鮨の作り方が載っています。

  P.5~6 握鮨 用品 魚肉・飯・砂糖・酢・塩 醤油に砂糖少量を加え切身をその中に浸し置き、飯の尚 冷えざる
  物に酢および塩砂糖を加え肉を外部によそいて握りしものなり 散し鮨も載っています。
  朧鮨おぼろずし 魚肉・塩・酢・食紅 煎肉いりにくを細粉とし塩酢を和し更に煎詰めたるを取り食紅を加えて鰕肉
  えびのみの色に擬なぞらえ握り鮨の上に散らしかくるものなり
  但 朧鮨は鰕肉を用いるものなれば其肉の色に擬なぞらうなり

  「打蕎麦」の蕎麦出汁は、鰹節・出し昆布・醤油と水となっており、ここでもワサビの記述は見られません。
  カツオの刺身は醤油と大根おろしとシソ、「嬉野うれしの」というカツオ料理ではカラシが使われています。
  「芥子の練り方」はあるので、この時代に高知にはワサビが入手しづらかった思われます。

  下記「各地の寿司」で紹介している三重県紀北町の牡蠣の握り寿司では現在もカラシを使用しています。

 1893 (明治26) 年印刷 割烹授業日誌 第二輯 高知市士族 西野たつ・一圓とよ 編著 非売品 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811754
  第一集とは異なり、高知での尋常中学校での調理実習ノートを卒業生自身がまとめた書
  「鯛のさしみ」のみワサビの記述がありました。

  高知県のカツオのタタキと、明治時代中期の高知の食文化が分かる書 色んな発見がありました。


  1923年 (大正11年) の関東大震災により、東京の寿司屋の多くも壊滅。
  寿司職人が日本各地に移住し江戸前寿司店を始めました。


  ≪ 握り寿司の粋な食べ方? が広まったのは ≫

  昭和5年に『すし通』という本が出版されます。
  「鮨の通人」として小泉迂外という人や貴族院議員のK氏の食べ方が、写真入りで
  解説されています。この本の影響で「通」ぶる人が増えたのかも知れません。

すし通


  ≪ 鮨屋で座って食べるようになったのは明治30年頃から ≫

  東京・浅草での寿司屋元祖は明治初年に開業した花井鮨だったようで、寿司屋の全盛期は明治30年頃。
  この頃も江戸時代と同様に屋台での立食スタイルだったようです。
  料亭のように多くの資本を必要としない事から、寿司屋を開業する事が多かったようです。
  明治末期から競争が激しくなり、小料理や天ぷらなども兼ねる店が増えました。

  詳しくは国立国会デジタル図書館サイトにて無料公開されている↓の本をご覧ください。


 1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949
  この書を読めば、当時の東京の有数の繁華街であり、江戸の伝統を残す浅草の食文化などを知ることができます。
  「東京ッ子」を自称する人は、読んでおくべき一冊でしょう。

  第三章 浅草食堂経済組織の変遷 第三、浅草に於ける寿司屋の変遷 P.160~176 (三) 鮨屋の椅子と卓時代

  以上の如く寿司屋と言えば、必ず立ち食い屋で立食を以て常態の如く考えられていたものだ。
  殊に江戸ッ児などは、立食でなければ寿司を食った気持ちがしないと言う有様だった。だから、どこの店でも、立食を
  本旨とし、其の他のことを考えなかった。
  処が明治三十年頃、鮨清が、従来の型を破り、断然、これを廃し、卓腰掛けを設け、而も、一方に於いては、従来の
  如く屋台をおき、両道相通ずる方法で営業を始めるに至った。が、しかし、これが案外、時宜に適し、気の早い江戸ッ
  児は兎に角、腰掛けにゆっくりと腰をおろし、充分に味覚を味わいたい連中が、多かった為か、断然、人気を増するに
  至ったものである。

  つまり従来の立食主義を破り、卓腰掛けを断行し、これを普及宣傅したものが、即ち鮨清と言うことになるのだ。



  ≪ 握り寿司が広まった理由 ≫

  1945年 (終戦直後) 頃、飲食営業緊急措置令が発布され、食料は統制品として売買の制限が設けられ飲食業は
  商売しにくい状況になりました。
  東京の三長会『壽集成』(すし職人組合の回想録)によると、何度もGHQに陳情に行ったようです。

  GHQ (連合国軍総司令部) から、委託販売方式という制度が江戸前寿司にだけに許可されます。
  客が持参した米一合で、巻き寿司を含む握り寿司十カンと交換できる事が認められます。
  箱ずしは制度の対象外だったので、日本各地で握り寿司が広まる事になりました。

  1947 (昭和22) 年11月に寿し屋の営業が再開。当時の事を知る東京の鮨屋によると多くの行列ができたそうです。
  入手しにくくなったマグロや白身の海魚の代わりにマスやフナなど川魚がネタに使用されました。
  卵はおからを混ぜてボリュームを増し「おぼろすし」に、干瓢や椎茸を煮たものも握り寿司のネタに使用しました。

壽集成

鮨販売の許可木札

終戦直後の寿司の再現

寿司屋再開の当時の様子



  京都と寿司・朱雀錦 (14) 寿司の歴史  http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-14.html

  太平洋戦争が始まる直前、食料統制が厳しく多くのすし屋が営業をやめなければ成らなくなった。
   当時の東京市内の約3100店、屋台すし店約800店あった。 昭和22(1947)年の「飲食営業緊急措置例」は
   更なる決定打であった。

   これは、戦後の食料難により、飲食業を事実上禁止したものである。先の見通しが付かぬまま、多くのすし屋が
   不安な日々を送っていた。そこへ、起死回生の妙案が生れ、すし屋を救うことになった。

   それは、客が持参した米一合と、握りずし10個(海苔巻きを含む)と交換し、すし屋はタネ代と加工賃何がしかを
   得るという方法で、これは「飲食業」ではなく「委託加工制度」であると主張し当局に認めさせた。

   誰のヒントか不明だがこの方法を関西の人であるが東京で永い間手広く営業していた八木輝昌氏を中心とした
   有志のすし屋何人かが、当局と熱心に交渉し、許可を得、握りすし業だけは営業可能となった。

   他の業種の飲食店が闇でしか商売することが出来ない時に、いち早く正当に商売が出来るようになった。
   さらにこの委託加工制度の対象は握りずしに限られているため、全国のすし屋が営業するためには握り鮨組合に
   加入しなければならなかった。このため、東京中心の握りすしは全国に普及することになった。


  ≪ 生魚の流通 ≫

  江戸期における物流システム構築と都市の発展衰退 http://www.ymf.or.jp/wp-content/themes/yamagata/images/56_7.pdf
  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf
  鈴与 魚河岸野郎 http://www.sakanaya.co.jp/history/index.html
   『大和屋助五郎の活鯛流通システム - 魚河岸野郎魚河岸四百年 大和屋助五郎の活鯛流通システム』
    http://www.sakanaya.co.jp/history/02_04.html

  遠洋漁業が発達したのは大正時代  日本漁業概略 近代史 http://www.ipc.shimane-u.ac.jp/fishery/gairyakusi.pdf

  鮮魚の流通技術が発達し始めたのは昭和40年代になってから  水産物流通 http://www.shinkokai.co.jp/uogashi/ryutu.html

  全国的な高速道路網の整備や冷凍技術の進歩、大型スーパーの多店舗化などによる。

  日本経済と物流の歴史 http://www.trinet-logi.com/img/web_kogi_0409.pdf ← 戦後、1940年代以降の歴史

  鮭 (サーモン) の刺身が多く食べられ始めたのは80年代頃から 
   水産総合センターによると、流通手段が進化した事が要因。

  ※PDFサイトはリンクで開かない場合があるのでサイトの名で検索してください。
 
 参勤交代の待機所だった増上寺に鮨を出前した老舗
  NHK大阪 歴史ヒストリア 『参勤交代はつらいよ ~加賀百万石 お殿様の遥かな旅』 14.07.16 放送
  名古屋テレビ放送 メ~テレ 武士ごはんランキング 江戸VS京都 一生に一度は食べたいSP 発見 ! 和食のルーツ 14.09.07 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第1回 江戸のすし』 16.04.06 放送






  德川家の菩提寺として有名な増上寺。
  ここには 2代秀忠、 6代家宣、 7代家継、 9代家重、 12代家慶、 14代家茂 の歴代6人の将軍の墓があります。
  参勤交代で各藩の大名たちが江戸城に入城する際、増上寺が順番待ちの待機所となっていました。






  増上寺で待機中の大名が、1854年頃創業のおかめ鮨などから鮨のデリバリーを頼んでいました。
  おかめ鮨の5代目店主 長谷文彦さんによると

  地方の大名が「寿文字が食べたい」と言うと、三太夫が「こりゃ大変だ」とすし屋にデリバリーを頼んだ。
   注文を受けたすし屋は武家屋敷やお寺に鮨を出前した。
   鮨が2カンで1セットになった説の一つとして、大きすぎるので包丁で半分に切った事から。

  現在の寿司の3倍近くあったシャリの量、長旅で腹ペコの武士たちに受け、あっという真に広まったんだそうです。
   と、番組では言ってしましたが…。






  鮨が江戸の町民の間に広まるのが1830年頃。1834~1837年に天保の飢饉。1842~1844年に天保の改革で鮨屋が消える。
  1852年には蕎麦屋より鮨の屋台が多かった。

  幕末の1853 (嘉永6) 年7月、ペリーが黒船で浦賀に来航。
  幕府に開国を要求しますが、幕府にも大名たちにも経済的余裕はありません。
  欧米列強諸国に対抗すべく軍備の増強が必要と考えます。14代将軍の徳川家茂は、参勤交代の義務を緩和し、
  その係る費用を全国の海岸の防備に充てさせようとします。
  大名たちは3年に1度100日間だけ江戸にいればよい事になりました。

  大名行列には、殿様専用の風呂桶、お茶の先生や料理人も同行しています。

  この事は『昭徳院実紀』に「…参勤の年と江戸に住む日数を…緩めること…」と
  記載されています。

  また参勤交代は、各藩の江戸の下屋敷で準備を整えてから江戸市中に入るのが普通でした。

  1864 (元治1) 年、京都で禁門の変。 1865 (慶応1) 5月、家茂が上方へ出陣。
  1866年7月、大坂城で家茂が死去。 1867年10月、德川幕府消滅。

津山藩800人の大名行列の図より

  ※ この流れを考えると、番組の説明 (緑文字の部分) は正確さに欠けるので、そのまま鵜呑みにしない方がいいでしょう。

  どれだけの藩に広まったかは何とも言えないところ、参勤交代で広まったとする説は無理があると思います。
  各藩士の間では広まったのは確実と思われますが、殿様が食べる物を屋台から仕入れる可能性は低い。
  あっても回数は少ないはずです。

  浮世絵は誇張して描きますので、実際は絵より小さいと考えるべき。下の浮世絵もご覧ください。
  浮世絵の海老の大きさを考えてみれば、お分かり頂けるでしょう。


  ≪ 江戸・東京の屋台は汚かった ≫

  下の天ぷらの部分で、鍬形蕙斎 (1764~1824) 作の『近世職人尽絵詞』の一部分の画像がありますが、
  天ぷら屋台で武士が顔を隠して買っているのが描かれています。

  屋台は庶民のファストフード。武士が屋台で堂々と立ち食いするのは見っともなかったからと思われていますが、
  幕末に大坂から江戸を訪れた西沢一凰が著した『皇都午睡』では、江戸は土埃が酷く、立小便した水を撒き、尿を
  含んだ水が乾くとあまりにも臭いので手拭で口の周りを抑え毎日風呂に入りたがったという記述が見られます。

  明治44年の『東京年中行事』には、土埃が積もった食器などでも平気で飲食する東京人について書かれてあります。
  京都の暖簾は店内を隠すように上下に長く大きい暖簾、江戸は上下が短く横に長い暖簾を「粋」だとしていましたので、
  埃が入り放題だったと考えられます。 下記リンクの銭湯とトイレの雑学のページをよくご覧ください。

  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった
  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、その川で食器や野菜を洗っていました。東京で近年の衛生観念が定着するのは1964年の五輪がきっかけ


  ≪ 江戸時代、鮨は手づかみで食べるもの? ≫ 食の歴史雑学 奈良平安時代のページ『箸と楊枝』

  朝日放送のビーバップ!ハイヒール『江戸に咲かせた食文化』12年2月12日放送で、時代考証家の山田順子さん監修では、
  「屋台の鮨は手づかみで食べおり、食べた後にお茶で指をゆすぎ、暖簾で拭いていたそうで、暖簾が汚れている店ほど
  繁盛していると言われた。」と解説していました。

  下の浮世絵は左端は、歌川国芳1844年『縞揃女弁慶 松の鮨』。
  流行っていた上物の弁慶柄を着たかなり裕福な家の若い女性が、鮨とを乗せた皿を右手持っています。
  左手の折詰の木箱には江戸随一と言われていた「松の鮨」のラベルが描かれています。
  松の寿しは超高級寿司だったので、屋台ではなく持ち帰り寿司屋だったようです。

  下右側2枚は、歌川豊国(3代)1855年『見立源氏はなの宴』の全体図と、鮨桶の部分の拡大画像。
  遊郭にて光源氏に見立てた主人公を華やかに描いたもの。
  NHKの番組のナレーションでは「掌サイズの大きな握り、赤は海老、青はコハダ、黄色は玉子焼き?、楊枝も刺してあります」。
  番組で案内解説していた林綾野さんによると、こちらも「玉子焼きではなく、玉子で巻いた寿司」のようです。






  下画像は歌川国芳1846年頃『東都七福弁天 深川すさき弁天』で右下に描かれている鮨の部分を抜粋した画像。
  こちらにはおちょこを持つ女性と寄り添う子供の後ろ姿がメインで描かれています。(当店のHP容量の都合で割愛)
  注目部分して貰いたい部分は、楊枝が刺してある事と鮨との大きさ。楊枝が刺されたネタは海老。その下は白魚と玉子で
  巻いた鮨。

  テレビ東京のありえへん∞世界では、「江戸時代は現在の3~4倍で、一口サイズになったのは近世以降の事」。
  Eテレの番組では、江戸東京博物館・学芸員の眞下祥幸さんによると「1カンが現在の2~3カン分の大きさ」。

  【歌川国芳】うたかわ-くによし (1797~1861)
   浮世絵師。号は一勇斎・朝桜楼。初世 歌川豊国の門人。武者絵・風景画・戯画に長じた。
   月岡芳年・落合芳幾・河鍋暁斎など門人多数。

  【弁慶縞】べんけいーじま
   縞柄の一種。紺と浅葱、紺と茶などの2種の色糸を径たて・緯よこの双方に使用し、
   碁盤目の縦横縞としたもの。
   ※ 縞織物のうち、チェック柄の一種で天保年間 (1831~1845年) 頃、江戸で流行っていたそうです。

  【白魚】しら‐うお
   シラウオ科の硬骨魚。体長約10センチメートル。体は瘠型で半透明。春先、河口をさか
   のぼって産卵。
   日本の各地に産し、食用。シロウオ(素魚)は外観も習性も本種に似るが別種。
   広義にはシラウオ科魚類の総称。

  天保の改革 (1842~1844年) で、江戸の寿司屋台は消える事になりますが、国芳の作品の
  作画年度と内容を見ると、その期間はテイクアウトや出前で生き残っていたと
  推測できそうです。

  白魚は体長10㎝ほど、エビの大きさなどを鑑みると、鮨の大きさは7㎝以下と思われます。
  当時の楊枝は現在の爪楊枝より大きいです。 右下の画像は歯の手入れ用の楊枝
  和菓子を食べる時の楊枝に似たサイズのようにも思われます。

  右の画像左側は歌川国芳1859年『園中八撰花 松』、右は月岡芳年1888年『風俗三十二相
  むまそう』の各一部 (下に全体の画像あり) です。
  『むまそう=うまそう』で、月岡芳年が明治時代に師匠の歌川国芳の作品と同じ構図で描いた
  もの。天ぷらを楊枝で刺しています
  江戸末期と明治初期で約29年の開きがあり、天ぷらの違いが対比できる作品でもあります。






  これらの事から、天保の改革を機に鮨は小型化し始め、出前は楊枝で食べていた可能性が高い。
  またテイクアウトをして家庭で食べる場合は箸を用いていた。と考えられると思いますが、如何でしょうか?

  ※ 東京のテレビでよくありますが、江戸時代末期を江戸時代後期として、歴史を古く見せるような手法は止めましょう。
    ペリー来航の1853 (嘉永6) 年~1968 (慶応4) 年10月22日までは、幕末または江戸末期とするのが一般的です。

  回転すしの発祥 大阪の元禄寿司   箸と爪楊枝 歯磨きの習慣 歯磨きの習慣は奈良時代に伝来、江戸の楊枝屋
 
 【各地の寿司】 
  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部

  ≪ 関東のすし ≫ ↓のサイトでご覧ください。

  -T'S すし BAR- 『関東のすし』  http://www.mirai.ne.jp/~hbnt/kanto.html
  KIRIN食生活文化研究所 発酵食品名鑑 http://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/ferment/fishery/suisan_17.html

  テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『伊勢神宮』 13.09.21 放送 / 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW ! 『三重県の牡蠣寿司』 14.02.27 放送

  ≪ 三重県志摩町の「てこね寿司」 ≫

  てこね寿司は、伊勢湾の猟師たちが船の上で獲れたてのカツオを醤油ダレに漬け込み、日持ちするように酢を混ぜて
  おいた飯と手でこねるように混ぜて食べたのが始まり。
  漁師は重労働なので、砂糖を多く使用し煮立てた甘いめの醤油ダレだったそうです。






  現在、てこね寿司はアジやワラサ (小型のブリ) など、甘いめの醤油ダレに合う魚ならカツオ以外でも使用。
  観光客向けに作っている店では、甘さを控えている店もあるようです。

  【手捏ね鮨】てこね‐ずし
   すし飯に具を手で混ぜ込んで作った早鮨。特に、三重県の郷土料理として、鰹かつおを小さく切り味を付けてすし飯と
   混ぜ合わせたものが有名。


  ≪ 三重県紀北町の「牡蠣寿司」 ≫

  三重県南部に位置する紀北町では漁業が盛んで、川から淡水と熊野灘の海水が入り混じる白石湖では小ぶりながら
  旨味が凝縮した『渡利牡蠣』という牡蠣を養殖。但し、養殖場が小さいので地元の町と近隣の尾鷲市などでのみで
  消費されています。






  牡蠣を冷凍技術が無い時代に醤油・みりん・砂糖で甘辛く煮込み保存食として食べていました。
  それが正月や祭の日などハレの日に、握り鮨をつくる際にネタとして用いられるようになったと言われています。
  紀北町では一般家庭でも牡蠣寿司を握るのが珍しくないそうです。

  ワサビではなく、洋カラシを使用するのが特徴で、ワサビが入手しづらかったので洋カラシを使用したのが始まりと
  されています。その他の握り鮨は普通にワサビを使用しています。


  ≪ 香川県の鰆を使った「押し抜き」 ≫

  木型に詰めた寿司飯に甘辛く味付けしたタケノコ・フキ・干しシイタケ・ゴボウ・ニンジンなどを挟み込み、鰆さわら
  ソラマメを乗せ、更にしっかり押さえ付けてから木枠から抜いて完成。

  高松市周辺の農家では、田植えに入る前に「はるいお」という祝いをし、鰆でつくった様々な料理を田植えで世話になる
  人々に振る舞っていました。「いお」は、魚の昔の呼び方「いを」に由来し、春魚はるいを=鰆。
  当時、鰆は値の張る魚だった為、鰆を丸一尾買った事を近所に知らせる為、わざわざ玄関先に鰆の尾っぽを
  ぶら下げました。

  田植え前の時期、姑は嫁に鰆を持たせて里帰りさせ、嫁はそれで押し抜き寿司を作り、お土産にして嫁ぎ先へ戻る
  という習慣もありました。
  この押し寿司が甘いのと、雑煮に甘い餡子入りの餅を入れるのは、高価だった砂糖をふんだん使う事が贅沢だった
  時代の名残だそうです。


  ≪ 岡山県の贅沢すぎる散らしすし 「ばら寿司」 ≫

  温暖で災害が少ない岡山県は、酒造りに使われる大粒の備前米と、瀬戸内海の豊富な海の幸に恵まれた地域。
  ふんだんに具を使う事から「寿司一升、金一両」と言われ、祭りや大切な客のもてなしなど めでたい席には欠かせ
  ない贅沢なチラシ寿司。

  江戸時代前期、鳥取から転封になった池田光政 (1609~1682) が、あまりの贅沢さに驚いて倹約令を出し
  ばら寿司を禁止した時でも、村民たちは具を寿司飯の下に隠して食べたという話も残っているそうです。

  具の下ごしらえの調理にも手間がかかり過ぎたため、一時期はあまり作られなくなったそうです。
  それが復活したのは、山陽新幹線が開通後に地元の名産として取り上げられてから。

  【散らし鮨】ちらし‐ずし 五目鮨起し鮨散鮨ばら-ずし
   野菜や魚介などの具を酢飯の上に体裁よく並べた鮨。また、具をまぜたものもいう。


  幕末~明治初期の『皇都午睡』三編 上之巻

  茶粥と餅茶は食する者少なく粥といへば白粥しらかゆなり…おこし鮨をごもく又はちらし共云、

  上方では「起し鮨」、江戸では「五目鮨、散らし鮨」と呼んでいた事が分かります。



  ≪ 長崎県の室町末期からの「角ずし」 ≫

  起源は室町時代末期の1478年。領主であった大村純伊すみこれが、島原の有馬勢に攻め込まれ領地を失い
  ました。純伊は玄界灘の加唐島に逃れ、力を蓄えた6年後に領地を取り戻した時の祝いの時にできた寿司。

  喜んだ領民たちが、純伊を迎えようと御馳走の準備を始めましたが、急な事だったので食器が足りません。
  そこで、角形をしたせいろの「もろぶた」に炊き込んだ飯を広げ、魚や野菜を乗せて押し寿司にしました。
  それを兵士たちが担当で角切りにして手づかみで食べたという。

  この話から、祭りなどの祝いの際に四角いせいろ形の寿司を作り、角切りにして食べるようになり「角寿司」と呼ばれる
  ようになりました。

  現在、シイタケ・カンピョウ・タケノコ・フキ・カマボコ・白身の魚・錦糸玉子などが具として使われています。


  ≪ 鹿児島県の「酒ずし」 ≫

  鹿児島県では焼酎を男酒、地酒 (灰持酒) を女酒と呼びます。アルコール度数は14度くらいで、甘い酒。
  『薩摩寿司』とも呼ばれる『酒寿司』は酢を一切使わず、米1升に対し灰持酒を1升使い切るお酒たっぷりの寿司。

  元々、島津義弘が花見の宴会を開いた際、女中が残った料理と地酒を桶に入れて一緒に置いていたところ、
  翌朝良い香りが漂っていた事が酒寿司の始まりとされおり、島津家の花見雛祭りの御膳料理やもてなし料理として
  作られました。

  男尊女卑の気風が強かった薩摩藩では、女性が公然とお酒を飲むことが許されなかったので、この寿司を好んだ
  とも言われています。

  時代が進んだ昭和40年代には酒寿司を作る店が1軒もなかった事から、見直されて郷土料理として復活したそうです。
 
 【 寿司屋とお茶の関係 】
  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部

  江戸時代に繁盛した寿司屋台が忙しい為、何度もお茶を汲まなくてもいいように湯呑み
  茶碗を大きくしたそうです。その名残で、寿司屋の湯呑みは大きい。

  脂ののったネタを食べると、舌の上に脂が付き味蕾を覆ってしまうので、味がわかりにくく
  なります。
  お茶で脂分を溶かすように、熱い茶が出るそうです。

  ネタを味わうには、こまめに茶を飲んだ方がよいらしいです。
  また、茶に含まれるタンニンが口の中をさっぱりさせる。特に焙じ茶が良い。という説も。

  寿司屋ではお茶の事を「あがり」と言いますが、
  この言葉は、遊郭ゆうかくに由来するそうで、客が来ると、先ずお茶を出しました。

  「御茶を挽く (おちゃをひく)」 に通じ、縁起が悪いので、お茶を「上がり花」と呼んで
  いました。
   ↓
  遊女たちが「客が来た」と思いお茶を用意するが、客は別の遊女を指名したので、
  茶を引っ込める。
  それで、客がつかない事を「お茶を引く」と言いました。
  また、暇な時には、葉茶を臼にかけて粉にする仕事をした事から。という説もあります。

   遊郭の歴史 江戸新吉原遊郭には散茶太夫、埋茶女郎などの階級があった。






  寿司屋の茶は、現在は「寿司専用の粉茶」として植えられていますが、元々は価値の低い粉茶の有効利用から。

  お茶の製造過程で、茶葉の割れた粉茶というのが出来ます。( 紅茶でいうなら、ダスト。)
  味は普通の煎茶と変わらないが、粉茶は『ビンポー人が飲む茶』というイメージがあり、価格が安くても、ほとんど
  売れない商品でした。

  静岡の製茶業者が、その状況をもったいなく思い、茶を多く消費する寿司屋業界に売り込んだのが始まり。
  味は変わらないが、大量に作り置きが可能で、しかも半額以下。という事で寿司業界では、粉茶を使うのが定番になり、
  「アガリ=粉茶」となりました。
 

  天ぷらはカマボコ・天ぷらのページを新設したので移動しました。  田楽・おでんのページも新設し情報を集約しました。

「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
2009.02.17発売
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OSAKA HABIKINO IGA 5-9-6  MARCO POLO 取り扱い商品 : アイスクリーム / シャーベット / ザーネアイス / 生チョコアイス / スイートポテト / コーヒーなど
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