手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本文化の雑学5 日本の伝統行事4
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このページの最終更新日:   19.04.26
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  Page Contents



 江戸時代までは「七五三」は別の事を言っていた。 19.04.26追記


 11月 七五三 江戸の炬燵開き

 12月 冬至
     日本独自のクリスマス文化 不二家がクリスマスケーキを広めた。 クリスマスブーツは関西発祥
     胴上げは日本発祥? 江戸時代には大掃除の時に行われた


  【五節句・五節供】ご‐せっく 、ごせちく、ごせつ。
   毎年5度の節句。正月7日(人日)・3月3日(上巳)・5月5日(端午)・7月7日(七夕)・9月9日(重陽)の総称。

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 10月

 
 11月
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「百人一首の旅28 京都・一乗寺~三千院へ』 15.11.05 放送

  ≪ 七五三 ≫  Wiki 七五三

  奇数はめでたい数字として祝儀に用いる数とされています。
  男子は3歳と5歳、女子は3歳と7歳とに当たる年の11月15日に氏神に参詣する行事。七五三しめの祝い。

  起源は平安時代の宮中儀式「深曾木の儀」「着袴ちゃっこの儀」のようです。  Wiki 皇室の儀式

  【深除・深曾木】ふか‐そぎ
   3歳の髪置きののち、5歳までの間に、髪を切りそろえること。また、その祝い。かみそぎ。

  【袴着】はかま‐ぎ
   幼児に初めて袴を着せる儀式。古くは多く3歳、後世は5歳または7歳に行う。近世以降、陰暦11月に行うのが通例。
   公家・将軍家では多く正月の吉日に行なった。着袴ちゃっこ栄華物語花山]「御―のことあるべう

  【栄花物語・栄華物語】えいがものがたり Wiki 栄花物語  平安時代の11世紀末から12世紀初頭に完成。
   歴史物語。40巻。藤原道長の栄華を主とし、仮名文で編年体に記す。正編30巻は赤染衛門編とする説が有力で、
   宇多・醍醐天皇の代に筆を起こし、道長の死の翌年に至る。続編は堀河天皇の代、寛治6年(1092)2月に至る。
   前後15代200年。巻々に物語らしく題名をつける。世継よつぎ物語。

  【花山天皇】かざん‐てんのう(968~1008)名は師貞もろさだ。 冷泉天皇の第1皇子。
   平安中期の天皇(在位984~986)。中宮の死を悲しみ、藤原兼家・道兼にあざむかれて花山寺に入り出家。
   拾遺和歌集はその撰という。

  飛鳥時代創建の京都の三宅八幡宮の主祭神は農耕神の八幡大神。江戸時代に入ると農作物の虫除けが転じて、
  子供のかんの虫 (夜泣き) 封じとして、子育てにもご利益があるとされ、明治時代には600人の参拝客の行列が
  できたそうです。

  【八幡神】はちまん‐じん、やわたのかみ。
   八幡宮の祭神。応神天皇を主座とし、弓矢・武道の神として古来広く信仰された。

  三宅八幡宮の禰宜 井口憲明さんによると、七五三参りが始まったのは室町時代からだそうです。
  乳幼児の死亡率が高かったため、3歳まで無事成長したことを神様に感謝したことから。


  ≪ 江戸時代は「七五三」と言えば、食膳の形式だった ≫

  江戸時代後期に編集された『嬉遊笑覧きゆうしょうらん (1830年、江戸町年寄 喜多村彦右衛門の弟で 国学者喜多村信節
  きたむら-のぶよ 著。12巻) 』の巻十「飲食」には「…中世の書に五本立七本立といふ膳あり 今いふ七五三のこと…」と
  あります。

  この「七五三の膳」も、江戸時代には間違った膳の形式で認識していたようで、それについて詳しく解説されています。
  国立デジタル図書館公開の嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104 P.380~381をご覧ください。


  ≪ 子供の成長を祝う行事が「七五三」と言われるようになったのは明治時代以降 ≫

  明治神宮HP 『Q&A 七五三』 http://www.meijijingu.or.jp/qa/shinto/01.html

  平安時代中ごろ公家の間で三歳から七・八歳までの男女のお祝いの儀式が行われていたのが七五三の起源に
  なるようです。
  中世になりますと「髪置(かみおき)」といってそれまで髪を短くしておいたのを、男女三歳にして伸ばしはじめる
  儀式が行われました。
  その他にも「帯解(おびとき)」「髪立(かみたて)」「紐落(ひもおとし)」などの行事も行われたようです。

  時代が下るとこれらの儀式は武家社会でも行われ、また今日のような七五三詣は江戸時代からで、しかも江戸を
  中心にした関東地方に多く、関西ではあまり行われていませんでした。また五代将軍徳川綱吉の子徳松(とくまつ)君が
  お祝いをしたことから、それにあやかって一般庶民にも広まり、呉服問屋で子ども向けの商品を七五三詣で売り出して
  から盛んに行われるようになりました。しかしまだこの頃には「七五三」という呼び方はなかったようです。

  「七五三」の語が使われたのは明治時代からで、明治11年の『朝野新聞』に「大晦日に七五三の祝い」の記事が
  のっています。そして今のような賑わいになったのは意外にも大正時代からだそうです。   Wiki 朝野新聞

  関西では十三詣り 旧暦の3月13日前後 (新暦の3月13日から5月13日)に男女とも数え年13歳でおこなう祝いの方が
  盛んでした。

  【十三参り】じゅうさん‐まいり
   旧暦3月13日(今は4月13日)に、13歳の少年・少女が盛装して、福徳・知恵を授かるために、虚空蔵こくうぞう
   参詣すること。当日境内で13品の菓子を買って虚空蔵に供えた後、持ち帰って家中の者に食べさせる。
   京都嵯峨の法輪寺が有名。知恵詣。






  3才 (男女) 髪置き 頭髪を剃ることをやめて、髪を伸ばし始める儀式。
  5才 (男子) 袴着はかまぎ 袴の着用を許されたことを祝う儀式。
  7才 (女子) 帯解き 初めて大人用の帯を締めることを祝う儀式。






  【千歳飴】ちとせ-あめ 百菓辞典
   さらし水飴を煮詰めた引飴を、紅白に染め分けて細長い棒飴につくり、松竹梅・鶴亀などを印刷した長い手提げの化粧袋に
   入れたもの。引飴とは、飴を引き延ばし、気泡を入れながら、棒状に加工したもの。七五三の縁起物として買われる。
   棒飴の長さとねばりは、長寿を意味する縁起とも言われる。

  千歳飴は江戸時代中期頃に浅草の飴屋が考案したものと言われています。
  「千歳」は、千年、数え尽くせない多くの年という意味があり、万葉集にも詠まれた歌が複数載っています。


  ≪ とおりゃんせ ≫  Wiki 通りゃんせ

  神奈川県小田原市の菅原神社 (山角天神社) や、埼玉県川越市の三芳野神社が舞台であるという説があり、
  共に発祥の碑があります。

  ニフティ デイリーポータル『「通りゃんせ」発祥の地で歌詞の意味を探る』 http://portal.nifty.com/2009/02/26/a/
  おしえてねドットコム!『通りゃんせ』の二番 http://homepage2.nifty.com/osiete/s683.htm


  ≪ 大阪のオカンたち岩手県で七五三の着付け ≫  テレビ大阪 ニュースリアル 15.11.09 放送

  2011年の4月から年に数回、深夜バスで15時間かけて岩手県へ行き、陸前高田市や大船渡市内の仮設住宅に
  物資やお地蔵さん (これまでに8体) など届けています。

  毎年11月には、被災した子供たちに七五三の着付けを行い写真撮影会やビンゴ大会などを行っています。
  今回参加したのは大阪中心に関西の元気なオカンら14人。福井県からも、さばえ餅つき隊が餅を振る舞ったりしています。
  子供が笑顔になると、大人たちも元気になるので、七五三のイベントを恒例にしているそうです。






  堺市にある元気人間製造研究所の森重子 理事長によると、「阪神大震災の時は仕事が忙しくて被災地に行けなかった。
  罪の意識を感じていたので、東北が被災した時に行こうと思った。」

  復旧した三陸鉄道の観光列車を1両借り切り観光を楽しむ。単にボランティアだけではなく、観光が復活することが、被災地の
  復興に繋がるし、お互いに元気を与えたり貰ったりすることが大切と考えているようです。


  ≪ 雪隠参り ≫ 詳しくは、リンク先、コトバンクの解説をご覧ください

  【雪隠詣り】せっちん‐まいり … 生後3日または7日に、赤児をつれて便所の神に詣ること。関東・東北で広く行われていた。

  コトバンク 『雪隠参り 世界大百科事典内の雪隠参りの言及』


  ≪ 酉の市 ≫   東京都台東区浅草の鷲神社の由来 他の歴史を自社の歴史のように思わせている件

  【酉の市】とり‐の‐いち
  11月の酉の日に鷲おおとり神社(大鳥神社)で行われる祭。初酉の日を一の酉といい、順次に二の酉・三の酉と呼ぶ。
  特に東京下谷の鷲神社の祭は名高く、縁起物の熊手などを売る露店で浅草辺までにぎわう。おとりさま。酉のまち。

  【十六団子】じゅうろく-だんご
   3月16日と11月16日とに、団子を16個神に供える風習。東日本に多く、3月は神が山から田へ下りてくるのを迎え、
   11月は神が山へ帰るのを送るものという。


  ≪ こたつ開き ≫

  ライブドアニュース 『江戸時代の「こたつ」事情 設置する日が決まっていた?』 15.10.26 配信 より抜粋
   http://news.livedoor.com/article/detail/10751317/

 江戸時代の暖房器具は、こたつと火鉢
  江戸時代は、木や炭を燃やすことで暖を取った。そのため、暖房器具の代表は、囲炉裏(いろり)、こたつ、火鉢になる。
  農村の暖房器具は、主に囲炉裏だ。座敷に炉を切って(床の一部を四角に切り抜いて灰を敷き詰めて)は薪(まき)を
  燃やす。薪を置くスペースもあれば、室内で薪を燃やす広さもあるからだ。ところが、炎が大きく煙も出る囲炉裏は、
  江戸市中では使えない。
  江戸では代わりに、木炭や木炭を加工した炭団(たどん)を燃料とする、こたつや火鉢が暖房器具の主力となる。
  木炭は囲炉裏のように煙が出ることもなく、安定した火力を長く保てるという利点があった。

  こたつには、掘りごたつと移動可能な置きごたつがあった。掘りごたつは、今でいう掘りごたつと違い、部屋の床に
  炉を切って、その上にやぐらを載せて、布団をかぶせる(当初は小袖などの衣類をかぶせていた)もの。
  冒頭の絵を見れば分かりやすいだろう。夏は炉の上に畳などを載せてふさいでおく。
  炉ではなく火鉢の上にやぐらを置いたものが置きごたつで、持ち運びができるようになった。

  一方、火鉢は四角形や丸型のものがあり、金属製や木製、陶製などでつくられた。主に、こたつが家庭用だったのに
  対して、火鉢は接客用だったので意匠を凝らした調度品としても楽しめるものがつくられるようになった。
  時代劇などによく登場するのが「長火鉢」で、下に引き出しが付いたり、中に鉄瓶を置いて湯を沸かす五徳(ごとく)が
  置かれたりして、利便性を高めていった。

  こたつ開きは、旧暦十月の亥の日(いのひ)と決まっていた。
  さて、江戸時代はこたつを設置する(こたつ開き)日が、旧暦十月の亥の日と決まっていた。
  月日を十二支で表す旧暦では、十月は亥の月となるので、亥の重なる亥の日は「玄猪(げんちょ)」と呼ばれた。
  多産である猪(亥)にあやかり、子孫繁栄を願って”亥の子餅”を食べて祝ったという。

  また、亥は陰陽五行説で水に当たり、火災を逃れるとされるため、この日がこたつ開きとなったといわれている。
  江戸っ子はとても季節感を大切にしたので、この日まではどんなに寒くても、こたつを置かなかったのだとか。


  クリナップ 『江戸散策 第53回 炬燵を出すのは、十月初亥の日』 http://cleanup.jp/life/edo/53.shtml より抜粋

 旧暦の十月は初冬である。だんだん寒くなり、武家も町屋も冬支度をする。
  武家屋敷の「炬燵開き」は、十月の初亥の日(最初の亥の日)、町屋の一般庶民は、二番目の亥の日(12日後)と
  決まっていた。
  ここの差は身分からくるものだが、庶民はさほど不満はなかった。暖房には、木炭などの燃料費がかかるため、
  少し我慢するだけでその間は節約にもなるという側面もあったと思う。

  旧暦の十月の初亥の日は、2007年の場合は11月13日、次の亥の日は25日である。
  年によっては、新暦に換算すると12月にずれ込むこともあるだろうから、こんな年は寒くてたいへんだっただろう。

  「炬燵開き」がなぜ亥の日なのかは、一般的には次のように説明されている。
  旧暦では、月にも日にも十二支 (子、丑、寅、…) が割り振られている。十月は亥の月である。
  亥の日の亥(イノシシ)は、火(火難)を免れるという信仰があった。
  そこから亥の月の亥の日に火(暖房器具)を使い始めれば、その冬は火事にならないと信じられていたからである。
  なお陰陽五行説では、亥は「水性の陰」としてとらえられるため、火に勝つとされている。

  【亥の子】い‐の‐こ
   ① 陰暦10月上の亥の日。江戸時代にはこの日から火燵こたつを開いた。冬。 →亥の子の祝。
   ② 西日本で陰暦10月亥の日に行われる行事。収穫祭の類。田の神が去っていく日と信じられ、子どもらが石に
    縄を何本もつけ(あるいは縄を堅く固めた束で)、土を打って唱えごとをして回る。亥の子突き。亥の子槌づち

  【亥の子餅】いのこ‐もち … 亥の子の祝に食う餅。いのこのもちひ。能勢餅のせもち

  国会国立図書館デジタルコレクション 『絵本御伽品鏡』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2534308
   
  1739 (元文4) 年刊の絵本御伽品鏡 (画:長谷川光信、出版:千草屋新右衛門) 3巻がネット公開されています。
  大坂の風俗を描いたもので、「今宮戎」「亥の子餅屋」「天満の飴売り」などの絵を見る事ができます。

 1712年刊の和漢三才図会の「摂津」の主な記述項目(石高・地名・産するものなど)、北前船・菱垣廻船など海路の経由各地

  『和漢三才図絵』によると、亥の子餅は摂津能勢郡の木代村の門太夫という人が、毎年10月に家内潔斎をして
  作っていました。また門太夫の宅地内には「神石」という霊力を持った大石があったそうです。

 
 12月 冬至
  テレビ大阪 夕刊7ch 『冬至』 14.12.22 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポン・植物ミステリー』 15.09.10 放送

  ≪ 冬至 ≫






  【冬至】とう‐じ
   二十四節気の一つ。太陽の黄経が270度に達する時で、北半球では、正午における太陽の高度は一年中で最も低く、
   また、昼が最も短い。太陽暦では12月21日頃。日南至。






  【柚湯】ゆず-ゆ … 冬至の日、柚の実を刻んで入れた浴場。ひびやあかぎれを治すという。
  【桃湯】もも‐ゆ
   夏の土用中に桃の葉を入れて沸かした浴湯。汗疹あせもを治す効があるという。浮世風呂[2序]「残暑の―蹟篇あとへんなるべし」


  関西テレビ ワンダー 『みんなの?ギモン 「外国と日本のクリスマスの違いは?」』 16.12.02 放送

  ≪ クリスマスが広まったのは30年代 ≫ 日本独自のクリスマスの風習

  クリスマスの風習は米国から受けていますが、日本はキリスト教国ではない為、欧米諸国とは違った独自のイベントとして
  進化してきました。

  クリスマスケーキは1910 (明治43) 年11月に横浜で創業した不二家 (現:本社東京) が、その年の12月から売り出していました。
  フルーツケーキの周りを砂糖を加えた卵白のメレンゲで覆っていました。下画像は当時のケーキを復元したもの。

  終戦直後から数年は食料不足で小麦粉も砂糖も貴重なものでした。
  1950~52 (昭和25~27) 年頃に食糧統制が解除され砂糖なとが入手可能になり、日本中にケーキが普及していきました。

1910年不二家創業年のケーキ

昭和30年代後半

昭和40年代

昭和52年の不二家CM


  昭和30年代にイチゴのハウス栽培が始まり、昭和40年代に冷蔵ショーケースなどが普及した結果、イチゴを飾った
  生クリームのショートケーキが誕生しました。
  昭和30年代のケーキはスポンジ生地にジャムを挟んだバタークリームが普通でした。
  昭和50年代の不二家のCMで、生クリームのケーキが広く普及しました。


  ≪ クリスマスブーツに御菓子を入れるのは関西発祥 ≫

  日本独自のクリスマスブーツは、クリスマスの飾りを作る会社で働いていた小田明さんが、飾りのブーツにお菓子を
  入れる事を思いつき、1954 (昭和34) 年に大阪府東大阪市で浪花堂が創業。
  当時は入れるお菓子が貴重だったので、飴が少し入っていただけでしたが、子供達には大変喜ばれたそうです。
  全て手作業で年間通して10万個を製造しています。

  「発祥の地」を名乗る滋賀県草津市の近商物産は、1955 (昭和35) 年頃から製造開始しました。
  駅前のオブジェは、近商物産の創業者の「証拠はないけど、ワシが最初や」と言った事を受けて商店街の会長が
  作ったものだそうです。

昭和30年頃

東大阪市 浪花堂

滋賀県JR草津駅前

ケンタッキー


  ケンタッキーフライドチキンは、在日外国人が「七面鳥が手に入らないのでケンタッキーを食べる」と聞いた事がきっかけで
  1974 (昭和49) 年からキャンペーンを行って広まったそうです。

  1980年代後半~2000 (平成12) 年頃 (特にバブル時代) は、「クリスマス・イブはカップルで過ごすもの」と若者向けの
  雑誌で煽られ、レストランやシティホテルの予約は何ヵ月も前から予約しないと満席・満室という事がありました。


  関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『みんな?のギモン 「なぜ人は胴上げするのか?」』 16.12.09 放送
  レファレンス協同データベース 『江戸時代、年末の大掃除の煤払いが終わると胴上げをしたというのは本当か。』
   http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000115778

  ≪ 「胴上げ」の発祥は、善光寺の儀式か、新潟県の祝いの儀式から ≫  Wiki 胴上げ  Wiki 長尾政景

  胴上げの発祥は、江戸時代初期に記録がある長野市の善光寺の行事だとされています。
  『ワイショ、ワイショの掛声のもと、三度三尺以上祝う人を空中に投げ上げる』という記述で、宗教的な儀式で行われて
  いました。

  12月の2度目の申(さる)の日に、寺を支える浄土宗14寺の住職が五穀豊穣、天下太平を
  夜を徹して祈る年越し行事『御越年式』において、堂童子を胴上げをします。

  【善光寺】ぜんこう‐じ
   長野市にある単立宗教法人。天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とによって管理される。
   推古天皇朝に草堂を営んで三国伝来の阿弥陀如来像を本尊とし、642年今の地に
   堂宇を造営したと伝える。中世以後盛んに尊信された。
   現在の本堂は1707年(宝永4)の再建。

  【堂童子】どう‐どうじ
   ① 諸大寺で雑役に従う俗形の少年。枕草子[120]「―など呼ぶ声、山彦ひびきあひて」
   ② 宮中の大法会などで、花筥けこ (花かご、花を入れる仏具) を配る役。蔵人くろうど
    および五位以上の公家の子息がなった。


  新潟県糸魚川市能生地域では江戸時代初期から伝わる「裸胴上げまつり」(糸魚川市
  無形民俗文化財)があり、厄よけとして男衆がさらしの褌姿で、厄年の男性などを
  胴上げするという風習がある。

善光寺 御越年式


裸胴上げ祭

  新潟県南魚沼市の八坂神社では、毎年正月に前年結婚した婿を胴上げする「婿の胴上げ」が行われており、
  これは戦国時代の武将長尾政景が城下を繁栄させる為、他の地域から来た婿養子を祝って胴上げさせたことが
  始まりとされるそうです。


  ≪ 江戸時代は大掃除の時に「胴上げ」をしていた ≫

  京都市北区にある佛教大学で「祭について研究をしている」 八木透 教授によると、
  いくつかの記録やら伝承で江戸時代にはあったと言われていますよね。『神事とか仏事とか宗教的な意味合いがある
   現在でも日本各地のお祭りで胴上げをします。 『東都歳時記』などに大掃除中に胴上げする絵があります。
   胴上げをすることで、時間と空間をハレ (特別な) 状態にする。今まで普通の日常だったものが、特別な空間と時間に変わる
   んだと思います。
   江戸時代の人にとって、年越しは一念で大切な行事でした。年末の大掃除で一年間の汚れと厄を払い新年を迎える節目の
   儀式として"大掃除で胴上げ"をしていました。
   それが、何となく色んなお祝いで「いつでもやっていい」という風に一般化していったのでは無いでしょうか

  大掃除の時に胴上げが行われたのは、いつ頃かはっきりしないようですが、下記の絵が残っています。

  1779 (安永8) 年の『はつゑがほ』という書物に挿絵があるそうです。
  1811年 山東京伝、他の作、一陽斎 画 『豊国十二ヶ月 十二月煤掃』、
  1838年出版 『東都歳時記 三十八「商家の煤払い」』、1895 (明治28) 年出版『千代田之大奥 御煤掃

  国立国会図書館デジタル 『豊国十二ヶ月 十二月煤掃』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1304503
  国立国会図書館デジタル 『千代田之大奥 御煤掃』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1302681
  早稲田大学 古典籍総合データベース 『胴上げ 東都歳時記三十八「商家の煤払い」』
   http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05102/_p0022.jpg (URL略)

  江戸では、武家・商家関係なく行われたようです。大奥や大店などでは、煤払いが終わると、
  皆で胴上げをして羽目を外すという風習がありました。

  【煤掃き】すす‐はき 煤払い。煤取り。
   正月の神を迎えるために、屋内の煤ほこりを払い清めること。12月13日に行うところが多い。
   続猿蓑―やあたまにかぶるみなと紙」。

  【続猿蓑】ぞくさるみの
   俳諧集。2冊。沾圃せんぽが撰したものを芭蕉と支考が検討して成ったという。1698年(元禄11)刊。
   上巻に五歌仙と支考の「今宵賦」、下巻に蕉門209人の発句を集輯。俳諧七部集の一つ。
東都歳時記


  宗教行事 →  新年を迎える節目の儀式 → 喜びを表現する特別な時に行う → スポーツで多く行われる → 海外にも広まる


  朝日新聞デジタル 『奥羽応援団、勝利投手を胴上げ 第1回大会(1915)』 16.06.01 配信
   http://www.asahi.com/articles/ASH586SZKH58PTIL02L.html   Wiki 第1回全国中等学校優勝野球大会

  ≪ スポーツなどでの胴上げ ≫  Wiki 松竹ロビンス

  1915 (大正14) 年8月22日付の朝日新聞によると、
  第1回全国中等野球大会 (大阪豊中グラウンド、参加10校、現在の全国高校野球大会の前身) での
  8月20日に行われた準決勝 前評判が低かった秋田中が3 - 1で優勝候補だった早稲田
  実業に勝利し、奥羽応援団がグラウンドに入り勝利投手を胴上げしたのが野球での最初。
  決勝戦は延長13回で2-1とサヨナラで競り勝った京都二中(現・鳥羽)が優勝。
  秋田の選手らはグラウンドを去る際に「京都軍万歳!」と叫び、心根の優しさに「多くの
  人は泣いた」そうです。


  プロ野球における胴上げは、1950年セントラル・リーグ初代優勝チームとなった松竹
  ロビンスの監督・小西得郎がこの優勝時に選手一同にされたことが発祥とされるそうです。

  ちなみに甲子園歴史館によると、阪神タイガースの胴上げは1962年10月3日のリーグ
  優勝が最初。ファンがグラウンド内に入り当時の藤本監督が胴上げされました。





  京都大学の史料によると、京都大学の合格発表での胴上げの記録写真があるのは1986年。
  西山伸 教授によると、60年代の記事に胴上げはない。バブリーな時代に始まったと思われるようです。


  ≪海外にも広まる「胴上げ」 ≫  Wiki 胴上げ

  日本独自の風習と思われる「胴上げ」は、海外でも行われ始めました。

  「1927年、フランスのパリで群集が大西洋横断飛行に挑戦したアメリカ人女性に行った」という記録があるようです。

  東京にある國學院大学の新谷尚紀 教授によると、日本の胴上げを見た韓国でも行うようになっており、
  2002年の日韓W杯で、韓国チームが胴上げを行い、それをテレビで見た外国のサッカーチームでも行うようになった
  推測されるそうです。


  ≪ 大晦日 ≫  そばがきと年越し蕎麦 年越しそばの始まりは博多説など

  【大晦日】おお‐みそか … (各月の「三十日・晦日みそか」に対して)1年の最終の日。おおつごもり。おおとし。

  【除夜の鐘】じょや‐の‐かね … 除夜の夜半、正子の刻に諸方の寺々で、百八煩悩を除去する意を寓して108回撞く鐘。


  ヤフーニュース 『“仏教の教え“で中止を決断? 「除夜の鐘」にうるさいとクレーム』 16.12.08 配信
   http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161208-00010000-abemav-soci より抜粋

 大晦日の風物詩『除夜の鐘』。この音を聞かないと新年を迎えた気がしない、という人も多いかもしれない。
  しかし今、『除夜の鐘』を自粛する寺が出てきているという。

  東京・小金井市 にある、100年 以上の歴史を持つ『千手院』 。住宅街に囲まれており、近隣からの苦情で『除夜の鐘』の
  中止を決めた。7代目住職の足利正尊 氏さんは「家族で鐘つきをするのを楽しみにしていた方もおり、私の代で止めて
  しまうのは悲しい思いではあるが、致し方ないところです」と話す。

  静岡県牧之原市にある、450年以上の歴史を持つ大澤寺 も『除夜の鐘』をやめた。
  15代目住職の今井一光 さんは「夜中に鐘が鳴るということに非常に腹を立てた近隣の方からのクレームがありまして、
  それでやめました」と説明。しかし復活を望む声も強く、今井さんは昼に鐘をつく『除夕の鐘』(じょせきのかね)を始めた。
  「去年は120~130人 くらいが列になって並んでくれた。そういうような形でみなさんに認められつつあるところです」と
  教えてくれた。


  【朮祭・白朮祭】おけら-まつり
   京都八坂神社で大晦日から元旦にかけて行う神事。鑽火きりびで朮 (キク科の多年草、根は健胃薬、正月用の屠蘇散、若芽は食用)
   交えたかがり火を焚き、参拝者はその火を火縄に移して持ち帰り雑煮を煮る。

 
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