手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本文化の雑学 2 和歌・俳句・川柳
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

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  Page Contents




 和歌の種類「分類」 唯一現存する連歌所 大阪の杭全神社

 小式部内侍 和泉式部の娘、小倉百人一首にも選ばれている女房三十六歌仙の一人


  和歌とは 和歌四式 

  万葉集

  平安時代 国風文化と和歌の位置づけ

  平安時代 和泉式部

  平安時代 小倉百人一首
   競技かるたの聖地 平安神宮、八坂神社「かるた始め」

  平安時代 三十六歌仙

 俳句と松尾芭蕉 19.05.08

 女流俳人 加賀千代女

 川柳 発祥は大坂 川柳から見る江戸での嫁の立場 嫌な女房番付

 米国移民たちが残した川柳

 石川啄木 
  働いても暮らしが良くならないのは、浮気の所為? じっと手を見る。

  百人一首の風景 http://www.hyakunin.stardust31.com/index.html

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

  
 和歌
  テレビ大阪 開局30周年番組 百人一首の世界 12.12.31 (再放送) など

  ≪ 和歌・倭歌 ≫ わか  うた。やまとうた。みそひともじ。

  ① 漢詩に対して、上代から日本に行われた定型の歌。長歌・短歌・旋頭歌せどうか・片歌などの総称。
    狭義には31音を定型とする短歌。奈良時代には「倭歌」と書き、また「倭詩」といった。
  ② 和する歌。かえしうた。奈良時代に「和歌」と書くのはすべてこの意。
  ③ 詞章が①と同形式の31音を原則とする、舞の際の謡い物の総称。また、謡曲で舞の前後にかけて謡われる謡の一節。


  和歌は飛鳥時代 (6世紀末から7世紀前半) に農民たちが感情を表す為に詠んでいました。
  奈良から平安時代にかけて、庶民から貴族中心に詠まれるようになり枕詞、掛け詞などの技巧を凝らした和歌になって
  いきました。

 

  ≪ 和歌四式 ≫ わか‐ししき  歌経標式・喜撰式・孫姫ひこひめ式・石見女いわみのじょ式の4種の歌学書の総称。四家式。

  【歌経標式】かきょうひょうしき  浜成式
   日本最古の歌学書。和歌四式の一つ。藤原浜成撰。772年(宝亀3)成る。
   和歌の意義・起源を論じ、中国の詩論を模倣した歌病かへい7種・歌体3種をあげて、それぞれ例示し論じる。

  【藤原浜成】ふじわら‐の‐はまなり (724~790)
   奈良末期の歌人。不比等の孫。大宰員外帥。氷上川継ひかみのかわつぐの叛に座し解官。著「歌経標式(浜成式)」。


  【喜撰式】きせん‐しき
   歌学書。和歌四式の一つ。喜撰の著と伝えてこの名があるが、実は平安中期の作らしい。
   序に続いて歌の病・分類などを記述。倭歌作式。

  【喜撰】きせん、 喜撰法師
   平安初期、弘仁(810~824)頃の歌人。六歌仙の一人。山城国乙訓おとくに郡の人。
   出家して醍醐山に入り、のち宇治山に隠れて仙人となったと伝える。確かな作は「わが庵は」の歌1首のみ。


  【孫姫式】ひこひめしき
    歌学書。1巻。和歌四式の一つ。作者未詳。和歌の八病と長歌の歌体を説く。古今集以後の成立か。和歌式。


  ≪ 和歌童蒙抄 ≫ わかどうもうしょう

   歌学書。藤原範兼著。10巻。万葉以下諸歌集の歌を類聚して語釈・出典を記し、また、雑体・歌病かへい・歌合の判を説明。
   1118年(元永1)から27年(大治2)頃までに成るか。

  【藤原範兼】ふじわら‐の‐のりかね (1107~1165)
    平安後期の歌人・学者。刑部卿。のち、出家。著「和歌童蒙抄」など。

  ≪ 和歌山県の名称由来 ≫  地名由来辞典『和歌山県』 http://chimei-allguide.com/30/000.html / Wiki 和歌浦 / Wiki 紀伊国

  7世紀に国として成立した頃は、雨が多く森林が生い茂っている様相から「木国」と命名された。という説と、和歌山県北部は、
  有力豪族である紀氏が支配していた地域であるから「紀の国」というようになった。という説があるそうです。

  和歌山市の南西部あたりの景勝地は、奈良時代には「若の浦」や「弱浜(わかのはま)」と呼ばれていました。
  平安中期になると、高野山・熊野参詣が盛んになり、その帰りに「若の浦」に来遊することが多くなった。
  特に玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られ、歌枕に関わる和歌から「和歌浦」
  と称されるように。

  1585(天正13)年、豊臣秀吉が和歌浦から近い場所に築城。
  この辺りは「岡山」と呼ばれていましたが、「和歌山」と命名し、「和歌山城」。
 
 和歌三守
  【和歌三神】わか‐さんしん
   歌道を守護する三柱の神。流派により異なるが、柿本人麻呂・山部赤人・衣通姫や、
   住吉神 (大阪の住吉大社) ・ 玉津島神 (和歌山県の玉津島神社)・人麻呂など。

  【衣通姫】そとおり‐ひめ
   (美しい肌の色が衣を通して照り輝いたという)日本書紀で允恭天皇の妃、弟姫おとひめのこと。
    姉の皇后忍坂大中姫おしさかのおおなかつひめの嫉みを受け、河内国茅渟ちぬに身を隠した。
    後世、和歌の浦の玉津島神社に祀る。和歌三神の一神。そとおしひめ。古事記では天皇の女むすめの名とする。

  【弟姫・乙姫】おと‐ひめ  兄姫えひめ
   ① (姉妹の中の)妹の姫。  ② 年若い姫。 ③ 竜宮に住むという美しい姫。
 
 恋の歌集 万葉集 情報追加中
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『愛と欲望のラブソング 万葉集』 13.09.26 放送  など
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『万葉集de歌会始にゃ~』 14.01.11 放送
  テレビ東京 137億年の物語 ~宇宙が始まってから 今日までの全歴史~ 『奈良時代のサラリーマン』 13.11.23 放送


  ≪ 万葉集 ≫

  万葉集は時代によって、歌の傾向が大きく4つに区分できるそうです。






  【万葉集】まんようしゅう (万世に伝わるべき集、またよろずの葉すなわち歌の集の意とも)現存最古の歌集。20巻。
   仁徳天皇皇后作といわれる歌から淳仁天皇時代の歌(759年)まで、約350年間の長歌・短歌・旋頭歌せどうか
   仏足石歌体歌・連歌合わせて約4500首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持の手を経たものと考えられる。
   東歌あずまうた・防人歌さきもりうたなども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表す調子の高い歌が多い。

  【大伴家持】おおとも‐の‐やかもち (717?~785)奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。大伴旅人(665~731)の子。
   越中守を初め、中央・地方諸官を歴任、783年(延暦2)中納言。
   万葉集中歌数最も多く、その編纂者の一人に擬せられ、繊細で感傷的な歌風は万葉後期を代表する。

  【雑歌】ぞう‐か …和歌の分類の一つ。万葉集の一部の巻で、相聞・挽歌に属さない歌。

  【挽歌】ばん‐か … 死者を哀悼する詩歌。悼歌。哀傷歌。万葉集では相聞・雑歌とともに部立ぶだての基本。

  【大伴坂上郎女】おおとも-の-さかのうえのいらつめ 大伴旅人の妹、家持の叔母。 Wiki 大伴坂上郎女
   奈良時代の歌人。穂積皇子に愛され、その没後、大伴宿奈麻呂すくなまろに嫁し坂上大嬢おおいらつめを生む。
   歌は万葉集に多く見え、才気豊かに技巧的な作風を示す。さかのえのいらつめ。


  ≪ 万葉集時代 初期の歌 ≫

  【雄略天皇】ゆうりゃく‐てんのう
   記紀に記された5世紀後半の第21代天皇。允恭天皇の第5皇子。名は大泊瀬幼武おおはつせわかたける
   対立する皇位継承候補を一掃して即位。478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山
   古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵わかたける大王」に比定される。






  【額田王】ぬかた‐の‐おおきみ (生没年未詳)。 鏡王かがみのおおきみの女むすめ
   斉明朝 (皇極天皇の重祚で第37代655~661) から持統朝 (第41代690~697) の歌人。
   大海人皇子おおあまのおうじ(後の第40代の天武天皇)の寵を受けて十市皇女とおちのひめみこを生んだ。
   万葉集中の11首の歌は雄渾・優艶。


  ≪ 相聞そうもん 男女が詠み合う恋の歌

  【相聞】そう‐もん
   (消息を通じ合う意)万葉集の一部の巻に見える和歌の分類の一つ。広く唱和・贈答の歌を含むが、恋愛の歌が主。
   「あいぎこえ」ともよむ。「―往来」「―歌」

  奈良時代も「恋=セックス」で、恋愛は子孫繁栄に繋がる素晴らしい事とされていました。

  奈良時代の合コンは「歌垣うたがき」と呼ばれ、男女が山や市いちなどに集まって互いに歌を詠みかわし舞踏して遊んだ行事でした。
  歌垣は、平城京の朱雀大路で行われていたそうです。
  一種の求婚方式で性的解放が行われた。東国では「嬥歌かがい」という俗語で呼ばれていたそうです。






  【柿本人麻呂】かきのもと‐の‐ひとまろ (生没年未詳) 「人丸」と書いて「ひとまる」ともいう。
   万葉歌人。三十六歌仙の一人。天武・持統・文武もんむの3代の天皇 (673~707) に仕え、六位以下で舎人として出仕、
   石見国の役人にもなり讃岐国などへも往復、旅先(石見国か)で没。
   序詞・枕詞・押韻などを駆使、想・詞豊かに、長歌を中心とする沈痛・荘重、格調高い作風において集中第一の抒情歌人。
   後世、山部赤人とともに歌聖と称された

  【山部赤人】やまべ‐の‐あかひと (生没年未詳)
   奈良初期の万葉歌人。三十六歌仙の一人。古来、柿本人麻呂とともに歌聖と称。
   下級官吏として宮廷に仕えていたらしく、行幸供奉の作が多い。優美・清澄な自然を詠んだ代表的自然詩人。
   「田児の浦ゆ」の歌は有名。作歌年次736年(天平8)まで。後世、「山辺赤人」とも書く。


        





  「思ふにし 死にするものに あらませば 千遍ちたびそ我われは 死に返らまし
    恋い焦がれて死ぬというのならば、私は1000回も死を繰り返しているわ。

  「筑紫つくしなる にほふ児ゆゑに みちのくの かとり娘子おとめの 結ひし紐解く」 (陸奥国の防人の歌と推測されている)
    故郷の東北に美人の彼女がいるけれど、出張先の九州でイイ娘に出会ったので、今からスボンのチャックを下ろしちゃうよ。

  「みどり子の ためこそ乳母おもは求むと言へ 乳飲ちのめや君が 乳母おも求むらむ」 (作者未詳)
    赤ちゃんのために乳母を探すから 私のおっぱいは、アナタが吸いなさい。

  「人の見る 上は結びて 人の見ぬ 下紐開けて 恋ふる日そ多き」 (作者未詳)
    人目につくからブラはつけているけれど、下は脱いで、アナタを待っています。 (この時代も女性は「下着は脱がされるもの」という認識)


  ≪ 年下の大伴家持「年上キラー」 と 10才以上年上のバツイチの紀女郎 ≫

 
 
 
 
 





  「夢の逢ひは 苦しかりけり 覚おどろきて 掻き探れども 手にも触れねば」 (大伴家持 17才)
    夢の中でアナタに逢うのは辛すぎる 目が覚めて、どれだけ探しても その指先にすら触れられないのだから…。

  「かむさぶと 否いなにはあらず はたやはた かくして後のちに 寂さぶしけむかも」 (紀女郎 29才)
    「私なんて、もう おばあさんだもん」と拗ねているわけではないのよ。
    こうして若いアナタと付き合っていると、「後で寂しい思いをするんじゃないか」と 不安なの。

  「百歳ももとせに 老おい舌出でてよよむとも 我は厭いとはじ 恋は増すとも」 (大伴家持)
    百歳になって、舌が出て老いて腰が曲がってよぼよぼになっても、私はあなたを嫌ったりするわけないよ、恋は増す
    一方だから。

  【紀女郎】き‐の‐いらつめ 名は小鹿おしか。鹿人かひとの女むすめで安貴王の妻。生没年未詳。
  万葉歌人。大伴家持と歌を贈答。歌は技巧的。
  安貴王あき-の-おおきみのもとに嫁いでいた紀郎女ですが、夫との離別後に出会ったのが、10歳以上も年下で
  「年上キラー」の大伴家持だったそうです。

 【神さぶ】かむーさぶ
  こうごうしく見える。いかめしく厳粛である。年功を積んでいる。古びる。などの意味。
  男は老いることを「翁おきなさぶ」といったが、女は「嫗おうな、おむなさぶ」とは言わず「神さぶ」といった。


  ≪ 長文の嫉妬の歌 ≫

  「さし焼かむ小屋をやの 醜屋しこやに かき棄てむ 破薦やれごもを 敷きてうち折らむ 醜しこの醜手いこて
    さし交へて 寝らむ君ゆゑ あかねさす 昼はしみらに ぬばたまの 夜はすがらに この床とこ
    ひしと鳴るまで 嘆なげきつるかも
    焼いてしまいたい…オンボロ小屋を! 捨ててやりたい…二人が敷いているボロ布団を! 叩き折ってやりたい…
    汚らわしい女の手! その女と抱き合って寝ているアナタの所為で 一晩中ずっと、ベッドが軋むほど悶々としている私…。

  【長歌】ちょう-か ながうた
   和歌の一体。五七調を反復して連ね、終末を多く七・七とするもの。
   普通はその後に反歌を伴う。まだ5音・7音になりきらないものを含めて、万葉集に多く見え、平安時代以降衰微。

  【長歌行】ちょうか-こう
   連句の一体。48句すなわち表8句・裏16句・名残の表16句・名残の裏8句で1巻としたもの・


  ≪ 禁断の異母兄妹の恋 ≫  Wiki 但馬皇女

  第40代の天武天皇(65)にはそれぞれ3人とも母親が違う異母兄弟妹がいました。
  天武天皇は血統を守るため、長子の高市皇子(44) と、但馬皇女 (22) を無理やりに異母兄妹を結婚させます。
  しかし、但馬皇女(22)は、もう一人の異母兄の穂積皇子(26)と愛しあっていました。

  その事が発覚し、穂積皇子は地方へ左遷。但馬皇女は屋敷に幽閉され、二人の仲を引き裂こうとしました。
  当時、異母兄妹ならば結婚が可能でしたが、高官(太政大臣)の妻との不倫は許されないという倫理からのようです。

  【天武天皇】てんむ‐てんのう(~686)名は天渟中原瀛真人あまのぬなはらおきのまひと、また大海人おおあま
   第34代 舒明天皇の第3皇子。7世紀後半の天皇(在位673~686)。671年出家して吉野に隠棲、第38代の天智天皇の
   没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥の浄御原宮きよみはらのみやに即位する。
   新たに八色姓を制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。

  【八色姓】やくさ‐の‐かばね 八姓はっせい
   天武天皇が684年に整理再編した8種の姓。
   真人まひと ・ 朝臣あそみ ・ 宿祢すくね ・ 忌寸いみき ・ 道師みちのし ・ 臣おみ ・ 連むらじ ・ 稲置いなぎ
   この年から翌年にかけて実際に与えられたのは上位四姓で、序列は各氏祖先の皇室に対する親疎によっている。






 
 
 
 
 





  「秋の田の 穂向きの寄れる かた(こと)寄りに 君に寄りなな こちくありとも (穂積皇子を偲ぶ 但馬皇女 作の歌)
   秋の田んぼの稲穂が片方に傾くように、アナタに寄り添っていたい・・・ たとえ人がなんと非難しようとも

  「おくれ居て ひつつあらずは 追ひ及かむ 道の隈廻くまみ 標結しめゆへ我が背」 
   (穂積皇子が近江の志賀に左遷された時の但馬皇女 作の歌)
   一人残されて アナタのことを想っているよりは アナタを追いかけていきます。だから、道しるべを付けておいて
   下さい。

  「人言ひとごと しげみ言こち おのが世に 未だ渡らぬ 朝川あさかわ渡る」 (穂積皇子との密会が露見した際に詠んだ歌)
   人の噂が辛くても、いえ・・・それだからこそ あの人に会いたい一心で この冷たい夜明けの川を渡ります。

  「降る雪は あはにな降りそ 吉隠よなばり 猪養いかひの岡の 寒からまくに
   (但馬皇女が26才で亡くなった後、雪の降る日に但馬皇女の墓を遥かに見て作った穂積皇子の歌)
   あの人が眠る丘に降る雪よ あんまり強く降らないでくれ あの人が寒がるだろうから・・・。


  異母兄妹(高市皇子と但馬皇女)の結婚の記録が史実にはないそうで、万葉集の歌からの推測のようです。
  年の離れた長兄の高市皇子の屋敷で、但馬皇女は養われていただけ。との説があるそうです。
  また、番組では高市皇子(44) とありますが、広辞苑(下記↓)では42才で亡くなっています。

  【高市皇子】たけち‐の‐みこ(654~696)
   天武天皇の長子。壬申じんしんの乱に天武天皇に代わって軍を指揮。690年太政大臣となる。

  【壬申の乱】じんしん‐の‐らん
   第38代の天智天皇の死後、長子の大友皇子(第39代 弘文天皇)を擁する近江朝廷に対し、吉野にこもっていた
   皇弟の大海人皇子(天武天皇)が672年(壬申の年)の夏に起こした反乱。
   ※ 弘文天皇という称号は大友皇子の死後に付けられた諡号(戒名)です。
   1カ月余の激戦の後、大友は自殺、大海人は飛鳥浄御原宮に即位し、律令制が確立する端緒たんしょ(手掛かり)となった。

  番組「ビーバップ!ハイヒール」はフェリス女子学院大学の
  谷知子 教授の監修によるものです。

 【フェリス女学院】 横浜市中区。
  (Ferris はミッション本部総主事の名)キリスト教系の
  私立学校。アメリカ人女性宣教師キダー
  (Mary Kidder1834~1910)が、1870年(明治3)
  横浜のヘボン施療所で女子教育を開始。
  1950年横浜山手女学院をフェリス女学院と改称。
  65年大学開設。



  ≪ 役人が詠んだ歌 ≫


左の歌は
 地方に左遷されている役人が、次の春が来る
 頃には、奈良の都に戻して頂けませんか?
 と、上司に嘆願している内容。

右の歌は
 妻を絵に描く時間が欲しい。
 単身赴任で旅立つ私は、その絵を見て妻を
 思う事ができるのに。


  ≪ 貧窮問答歌 ≫

  【貧窮問答歌】ひんきゅうもんどうか
   山上憶良作の長歌。現存最古の歌集の万葉集 巻5に収める。貧窮の苦しさを問答の形で歌った長歌と反歌1首。
   生活に取材した特異な作品。

  【山上憶良】やまのうえ‐の‐おくら(660~733頃) 山上臣。
   飛鳥・奈良時代の万葉歌人。702年(大宝2)遣唐録事として入唐、707年(慶雲4)頃帰国。
   従五位下・伯耆守・東宮侍講、後に筑前守。豊かな学識を有し、「子等を思ふ歌」「貧窮問答歌」など現実的な人生社会を
   詠じた切実・真率な作が多い。「類聚歌林」を編む。

  【類聚歌林】るいじゅうかりん
   山上憶良編著の歌集。万葉集編纂の資料とされたが、現在は伝わらない。


  ≪ 東歌と防人の歌 ≫

  奈良時代の東国は静岡県・長野県より東の関東を中心とした地域。西国は畿内 (兵庫県の東部) より西の地域すべて。
  東歌は、万葉集編纂にかかわったとされる大伴家持が集めさせて、その中から優れた歌を選んだもの。

  【東・吾妻・吾嬬】あずま、あづま
  (景行紀に、日本武尊やまとたけるのみことが東征の帰途、碓日嶺うすひのみねから東南を眺めて、妃弟橘媛おとたちばなひめ
   投身を悲しみ、「あづまはや」と嘆いたという地名起源説話がある)日本の東部地方。
   ① 古くは逢坂の関以東、また伊賀・美濃以東をいったが、奈良時代にはほぼ遠江・信濃以東、後には箱根以東を
    指すようになった。
   ② 特に京都からみて関東一帯、あるいは鎌倉・鎌倉幕府・江戸をいう称。

  【東歌】あずまうた 万葉集巻14・古今和歌集巻20に載る東国の歌。方言が使われている。

  663年の白村江の戦で唐・新羅連合軍に敗れた後、日本を防衛する為に主に東国から大宰府に集められ防人としました。
  東国から集めたのは、故郷が遠いため脱走するおそれが低いからとも言われています。

  原文は他の和歌と同様に全て漢字で書かれています (ひらがな・カタカナが出来るのは平安時代) が、特徴的なのは
  カナと同様に漢字が表音 (当て字) として使われている事。
  大伴家持が当時の東国方言を正確に伝える為にそのまま掲載したそうです。

  方言 「うべこなわぬに恋ふなも たとつくのがなへ行けば こふしかるなも
  言葉 「うべこらわれに恋ふ らむたつつきながらへ行けば こひしかるらむ






  『100分でde名著』の解説は、万葉集の研究でも知られる佐佐木信綱の子で、歌人・国学者の佐佐木幸綱さん。
  万葉集には防人の歌は98首あり、大伴家持が防人たちに歌を提出されたそうです。
  当時、白村江の戦から100年くらい経過しており、防人を止めてもいいのではないか? という時代の雰囲気があったため、
  つらい歌が多く選ばれたのではないかと佐佐木さんは解説していました。

  【防人】さき‐もり (崎守さきもり、すなわち辺土を守る人の意)
   古代、多くは東国から徴発されて筑紫・壱岐・対馬など北九州の守備に当たった兵士。
   令には3年を1期として交替させる規定があった。万葉集[20]「国々の―つどひ船乗りて別るを見ればいともすべなし

  【防人歌】さきもり‐の‐うた 防人の詠んだ歌。また、その家族の作歌をも含めていう。
   天平勝宝7年(755)に召された防人の歌が万葉集巻20に集められ、巻14その他にも数首見える。
   東国方言を用い、親子・夫婦の哀別を歌った純情流露の作が多い。

  【佐佐木弘綱】ささき‐ひろつな(伊勢生れ、1828~1891)
   国学者・歌人。号は竹柏園なぎその。信綱・印東昌綱の父。足代弘訓あじろひろのりの門人。編著「日本歌学全書」。

  【佐佐木信綱】ささき‐のぶつな(三重県生れ、1872~1963)
   歌人・国文学者。東大卒。父弘綱の主宰した竹柏会を継ぎ、機関誌「心の花」を創刊。歌風は温和で平明。
   万葉集の研究でも知られる。歌集「思草」、著「日本歌学史」など。文化勲章。


  ≪下品な歌もたくさんある ≫

 
 



  は、汚れた川べりに住み、そこの魚を食べて生活しているような貧民の老婆を貶けなし、バカにした歌。
   この時代は川魚を食べるのが普通。貴族も鯉や鮒を食べていました。「刀首とじ=老女」

  は、「草」と、「わき毛=草」をかけて、平群さんが穂積さんの悪口を言ったもの。 

  儒教や仏教の教えがそれほど浸透していなかった頃、宴会などの歌会では、ふざけた「お題」を出して詠み合うこともあった。

 
 
 



  は、「う○こ」のお題で詠まれた低俗な歌ですが、「屎 そ」 と 「櫛 し」の音、言葉のシャレが掛っているんだそうです。

  【斎部・忌部】いんべ
   ① 古代の氏族の一つ。朝廷の祭祀に奉仕。伝承上の祖は天太玉命あまのふとだまのみこと
     姓かばねは連むらじ・首おびと (首長の意) など。連は天武天皇のときに宿祢すくねに昇格。
   ② 斎部氏の率いる品部しなべ。出雲・紀伊などに分布。

   名字の始まり 姓かばね とは? 古代の姓の種類 と 飛鳥時代の八色姓  日本人の名字のルーツ






  の、「わし !」は現代人には意味が分かりませんが、当時流行していたギャグの一つだと考えられています。

  は、下のエロ歌も詠んだ高橋虫麻呂さんが詠んだもの。右8行は長歌で説明のような前フリ+左2行が短歌(オチ)で
     ワンセットの和歌。上総の国 (今の千葉県の中央部) に、珠名というナイスバディの美人がいるが、男なら誰とでも
     屋外プレイをする淫乱女だよ。という内容。

  【高橋虫麻呂】たかはし‐の‐むしまろ
   奈良初期~中期の歌人。姓は連。作は万葉集に見え、多く「高橋連虫麻呂歌集」から取られ、伝説を詠じた点に
   特色がある。下級官吏として常陸国 (今の茨城県) に赴任、「常陸風土記」の撰にもあずかったと伝える。






  江戸時代頃まで、農耕の儀式として、豊作を祈願する祭などの際に、田畑でH (乱交?) する習慣がある地域もあった
  そうです。筑波山なので、茨城県あたり。

  【筑波山】つくば‐さん筑波嶺つくばね
   茨城県南西部にある山。標高877メートル。峰は二つに分かれ西を男体東を女体という。農業神として信仰登山が
   盛ん。「西の富士、東の筑波」と称せられ、風土記や万葉集の歌嬥かがい(東国で歌垣のこと) の記事などに名高く、
   古来の歌枕。
 
 平安時代
  【平安時代】へいあん-じだい 平安朝時代。
   桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府成立までの約400年の間、政権の中心が平安京 (京都) にあった時代。
   ふつう初・中・後の3期、すなわち律令制再興期・摂関期・院政期 (末期は平氏政権期) に分ける。

  平安時代になると遣唐使が廃止され、「ひらがな」や「桜の花見」など日本独特の文化が熟成されていきます。
  和歌は庶民から貴族のものとなり枕詞など技巧を凝らした歌に変化していきます。





  【国風文化】こくふう‐ぶんか
   平安中期から後期にかけて栄えた、優雅な貴族文化。
   遣唐使の廃止によって唐文化の影響が弱まると、仮名文字・女流文学・大和絵・寝殿造・浄土教芸術などとして開花した。

  住吉大社 211年創建、摂津国一の宮。遣唐使、一寸法師などの縁の地。






  蹴鞠、相撲、ひな祭り、などが宮中の行事として確立。また三十一文字の和歌、雅楽、十二単衣などが完成。
  葵祭、祇園祭天神祭生國魂祭などの祭も始まりました。






  【平仮名】ひらがな
   平安初期、漢字の草体から作られた草そうの仮名をさらにくずして作った音節文字。
   主に女性が用いたので女手おんなで と呼ばれ、はじめは種々の異体があった。「ひらがな」の称は後世のもの。

  【片仮名】 かたかな、 かたかんな
   (「片」は一部分の意)仮名文字の一つ。阿→ア、伊→イ、宇→ウ、久→ク、己→コのように漢字の一部を取って作ったもの。
   平安初期、漢文訓点に使って様々の字体があったが、院政時代 (11世紀末の白河上皇から、形式上は19世紀中頃の
   光格天皇まで続くが、実質的には鎌倉初期の後鳥羽上皇の時期まで ) にほぼ現行に近い形になった。
   現在では主に外来語や擬音語などの表記に用いる。

  【以呂波歌】いろは‐うた 色葉歌
   手習歌の一つ。音の異なる仮名47文字の歌から成る。
   「色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為うゐの奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず」。涅槃ねはん経第十四聖行品の
   偈げ「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の意を和訳したものという。
   弘法大師の作と信じられていたが、実はその死後、平安中期の作


  ≪ 貴族の和歌 ≫   方違神社 平安時代の堺の聖地、 日本語 言葉の伝播 京都・大坂から同心円を書くように言葉は広がった。 

  平安時代は和歌の才能は高く評価されました。歌には霊的な『言霊』が宿ると信じられていました。
  優れた歌は『手本』として書き写され、次々に回覧されすぐに宮中内に広まりました。


  【六歌仙】ろっ‐かせん
   古今集序に論評された、平安初期の6人の和歌の名人、すなわち在原業平・
   僧正遍昭・喜撰法師・大友黒主・文屋康秀・小野小町。

  Wiki 古今和歌集 Wiki 六歌仙
  Wiki 在原業平 Wiki 遍昭 Wiki 喜撰 Wiki 大友黒主 Wiki 文屋康秀 Wiki 小野小町

  京都の冷泉家で行われる棚機の歌会 即興の恋歌を詠み合い交換


  【在原業平】ありわら‐の‐なりひら(825~880) 阿保親王の第5子。
   平安初期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。世に在五中将・在中将という。「伊勢物語」の主人公と混同され、
   伝説化して、容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃の
   題材ともなる。

  【遍昭・遍照】へんじょう(816~890)俗名、良岑よしみね宗貞。 大納言 安世(桓武天皇の皇子)の子。
   平安初期の僧・歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。仁明天皇の寵を蒙り蔵人頭となったが、天皇崩御後出家、
   円仁・円珍に天台を学び、京都に元慶寺がんぎょうじを創設、僧正となる。流暢な歌を詠み、小野小町との贈答は有名。
   花山僧正。

  【喜撰】きせん 山城国乙訓おとくに郡の人。
   平安初期、弘仁(810~824)頃の歌人。六歌仙の一人。出家して醍醐山に入り、のち宇治山に隠れて仙人となったと
   伝える。確かな作は「わが庵は」の歌1首のみ。喜撰法師。

  【大友黒主・大伴黒主】おおとも‐の‐くろぬし 近江国大友郷の人。
   平安前期の歌人。六歌仙の一人。歌は古今集・後撰集に入り、謡曲・歌舞伎などの題材となる。

  【文屋康秀】ふんや‐の‐やすひで
   平安前期の歌人。六歌仙の一人。清和・陽成両天皇に歴仕。是貞親王家歌合の作者。
   その歌は古今集・後撰集にある。

  【小野小町】おの‐の‐こまち(生没年不詳) 出羽郡司 小野良真(篁たかむらの子)の女むすめともいう。
   平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。歌は柔軟艶麗。文屋康秀・僧正遍昭らとの贈答歌があり、
   仁明・文徳朝頃の人と知られる。絶世の美人として七小町などの伝説がある。


  【古今和歌集】こきんわかしゅう 古今集。   Wiki 古今和歌集
   八代集・二十一代集の第一。勅撰和歌集の始まり
   20巻。醍醐天皇の下命により、紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑撰。905年(延喜5)または914年(延喜14)頃成る。
   六歌仙・撰者らの歌約1100首を収め、その歌風は調和的で優美・繊麗。真名序・仮名序がある。
   当初、「続しょく万葉集」といった。

  【紀貫之】き‐の‐つらゆき(868頃~945頃)
   平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。醍醐・朱雀天皇に仕え、御書所預から土佐守、のち従四位下、
   木工権頭に至る。
   紀友則らとともに古今集を撰進。家集「貫之集」のほか「古今集仮名序」「大堰川おおいがわ行幸和歌序」「土佐日記」、
   「新撰和歌」(撰)など。

  【紀友則】き‐の‐とものり
   平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。宇多・醍醐天皇に仕え、大内記に至る。古今集撰者の一人。家集「友則集」。
   905年(延喜5)以後間もなく没、享年60歳位という。

  【凡河内躬恒】おおしこうち‐の‐みつね(生没年未詳)
   平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。宇多・醍醐天皇に仕え、古今集撰者の一人で、紀貫之・壬生忠岑と並称。
   家集「躬恒集」。

  【壬生忠岑】みぶ‐の‐ただみね(生没年未詳) 忠見の父
   平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。古今集撰者の一人。歌風温和。
   歌学書「和歌体十種(忠岑十体)」は偽作ともいわれる。家集「忠岑集」。


  ≪ 天皇や大臣が主催し、参加者を2組に分けて歌の優劣を競う歌合が度々開かれました ≫

  【歌合】うた‐あわせ
   人々を左右に分け、その詠んだ短歌を左右1首ずつ組み合わせて判者が優劣を判定し、優劣の数によって勝負を決する遊戯。
   その単位を一番といい、小は数番から大は千五百番に上る。平安初期以来、宮廷・貴族の間に流行。詩合に先立って起こる。






  【詩合】し‐あわせ
   左右に分かれて漢詩を作り、その詠詩を合わせて、判者に優劣の判定を請い、勝負を争うこと。
   また、その記録。959年(天徳3)に行われた十番詩合が最初。闘詩。

  Wiki 天徳内裏歌合 / Wiki 壬生忠見

  村上天皇が960(天徳4)年に開催した天徳内裏歌合てんとくだいりうたあわせでは、『忍ぶ恋』がお題。
  この時の平兼盛と壬生忠見 (摂津の国府に勤務) の勝負が有名。この時に詠んだ二人の歌は共に小倉百人一首に撰。

  勝った平兼盛は無職(7年間)→ 山城介すけ(山城国の副知事)に任命されました。
  負けた壬生忠見みぶのただみは、ショックのあまり食べ物を受け付けず死に至りました。(『沙石集』の記述)

  【沙石集】しゃせきしゅうさせきしゅう
   仏教的説話集。10巻。無住道暁著。1279~83年(弘安2~6)成り、加筆も行われた。
   仮名まじり文で通俗的に書かれ、説教の種本に利用される。
 絶世の美女 小野小町 書きかけ
  テレビ東京 アニメ 『超訳百人一首 うた恋い。』 2012.07.03~ 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「百人一首の旅1 小野小町 絶世の美女の苦悩と悲恋」』 15.04.23 放送 / Wiki 小野小町
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『教科書には描かれない"その後"の日本史に迫る!』 16.10.20 放送

  【小野小町】おの‐の‐こまち(生没年不詳) 出羽郡司 小野良真(篁たかむらの子)の女むすめともいう。
   平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。歌は柔軟艶麗。文屋康秀・僧正遍昭らとの贈答歌があり、
   仁明・文徳朝頃の人と知られる。絶世の美人として七小町などの伝説がある。

  【小野篁】おの‐の‐たかむら(802~852) 参議 岑守みねもりの子。 小野良真の父。小野小町の祖父
   平安前期の貴族・文人。遣唐副使に任命されたが、大使 藤原常嗣の専横を怒って病と称して従わず、隠岐おきに流され、
   のち召還されて参議。博学で詩文に長じた。「令義解りょうのぎげ」を撰。野相公。野宰相。

  【小野】おの
   古代の豪族。姓は臣。八色姓やくさのかばねで朝臣。
   近江国滋賀郡小野村より起こると伝え、山城国愛宕郡小野郷などに勢力をもつ。


  ≪ 小町と大伴黒主 ≫







  ≪ 深草少将との恋 ≫  Wiki 深草少将






  【深草】ふかくさ
   京都市伏見区北部の地名。鶉うずらや月の名所。土器・団扇などの産地。御陵が多い。(歌枕)

  【深草少将】ふかくさ‐の‐しょうしょう
   小野小町のもとに九十九夜通ったという伝説上の悲恋の人物。僧正遍昭あるいは大納言義平の子義宣かといわれるが不詳。

  【稲荷山】いなり‐やま
   京都市東山連峰の南端、深草山の北にある山。西麓に稲荷神社(伏見稲荷大社)がある。(歌枕)。伏見区 標高 約250m。

  【榻の端書】しじのはしがき
   (深草少将と小野小町とに代表される九十九つくも伝説で、男が百夜通うことをめざして毎夜車の榻に印をつけたが、
   九十九夜まで通って遂に死に、恋を果たさなかったことから)男の熱烈な恋にいい、また、恋愛のとかく遂げ難いことに
   たとえていう。

  【茅・萱】かや … 屋根を葺くのに用いる草本の総称。チガヤ・スゲ・ススキなど。小萱おがや

  広がれ環境ネット 小町カヤ愛護の会 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/cop3/net/net19.html

  【通小町】かよいこまち  古称、四位少将。
   能。古作を観阿弥改作、世阿弥補作。
   深草の四位少将が小野小町の許へ百夜通いをして最後の日に死んだ伝説により、
   少将の霊が死後も小町の成仏を妨げることを描く。


  e京都ねっと 『小野小町の足跡を訪ねて』 http://www.e-kyoto.net/rekisi/84
  ぼちぼちいこか 『深草の少将百夜通い』 http://shigeru.kommy.com/momoyogayoi.htm


  ≪ 桜の花を女性 (自分)に例えた小野小町 ≫  女性は桜の花と同じ

  「花の色は移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに

  「春の長雨が降っている間に、花の色は衰え色あせてしまった。恋や世間の諸々の事に思い悩んでいるうちに、
   私の美貌が衰えてしまったように」






  京都市山科区小野あたりに小野一族は住んでいました。991年に創建された随心院には、小野小町の化粧けわいの井戸や、
  貰った恋文などを祀った文塚などがあります。
  小倉百人一首に選ばれた上記の歌は、小町が晩年にこの地で詠んだものと言われています。

  小野小町は長らく結婚できず美貌も失われたと噂されていました。ある日、在原業平が小野小町を偶然目撃、その姿は
  ドクロでした。
  晩年、猟師と結婚するも先立たれ、一人で野山をさまよい孤独死したとされています。
  多摩大学の河合敦 客員教授によると、「美女が落ちぶれた伝説が各地に多くあります。『わざと貶めたい』という意図が
  あるのかも」。

  【七小町】なな‐こまち
   ① 小野小町伝説に基づく七つの能の総称。
     関寺小町・鸚鵡小町・卒都婆小町・通かよい小町・草子洗小町・雨乞小町(高安小町)・清水小町。
   ② 地歌・箏曲。京風手事物。光崎検校作曲。八重崎検校箏手付。①の曲名や伝説に基づく和歌を綴る。
 
 三十六歌仙

  【三十六歌仙】さんじゅうろっ‐かせん 藤原公任撰「三十六人撰」に基づく36人の代表的歌人。

  ・柿本人麻呂 ・紀貫之 ・凡河内躬恒おおしこうちのみつね ・伊勢 ・大伴家持 ・山部赤人 ・在原業平 ・僧正遍昭 ・素性法師






  ・紀友則 ・猿丸大夫 ・小野小町 ・藤原兼輔 ・藤原朝忠 ・藤原敦忠 ・藤原高光 ・源公忠 ・壬生忠岑 ・斎宮女御





  ・大中臣頼基 ・藤原敏行 ・源重之 ・源宗于むねゆき ・源信明さねあきら ・藤原仲文 ・大中臣能宣 ・壬生忠見






  ・平兼盛 ・藤原清正 ・源順したごう ・藤原興風 ・清原元輔 ・坂上是則 ・藤原元真 ・小大君こだいのきみ ・中務なかつかさ

  の総称。なお、平安後期以後、これにならって中古三十六歌仙・女房三十六歌仙などと称するものが数多く定められた。


  【藤原公任】ふじわら‐の‐きんとう(966~1041)
   平安中期の歌人。通称、四条大納言。のち出家。諸芸に長じ、詩・歌・管弦の三船の才を兼備。また故実に詳しく、
   書は古筆として珍重される。四納言しなごん ・中古三十六歌仙の一人。
   和漢朗詠集・拾遺抄などを撰。著「北山抄」「新撰髄脳」など。家集「公任集」。
 
 恋愛歌人 和泉式部
  テレビ朝日 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『和泉式部』 14.01.18 放送 より
  NHK 大阪 歴史ヒストリア 『和泉式部の恋多き生涯 ~平安王朝・女の生き方~』 14.02.26 放送

  ≪ 和歌で男を虜にした恋愛歌人 平安時代の「王朝の三才女」の一人 ≫ 紫式部、清少納言、和泉式部

  和泉式部と噂になったのは、皇族も含め名前がわかるだけで12人もいました。

  【和泉式部】いずみ‐しきぶ (生没年未詳)
   平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。大江雅致まさむね の女むすめ。和泉守 橘道貞の妻。小式部内侍の母。
   為尊親王・敦道親王 (師宮) の寵を受け、中宮彰子に仕え、再び藤原保昌に嫁すなど、情熱的な一生を送り、
   恋愛歌人として有名。「和泉式部日記」「和泉式部集」がある。






  下級貴族の娘に生まれた式部は、幼い頃より父親に教わって和歌の素養を身に付けます。
  当時、貴族の女性たちが手本としたのは古今和歌集。教養として20巻 1111首の歌を全て暗記するように努めたそうです。

  家族以外に顔を晒すのは はしたない とされ、御簾みす(=「スダレ」の敬語)を間に挟み他の男性と会話を交わすのが普通。
  その為、顔より歌の印象で付き合うかどうかを決めていました。






  和歌のやり取りで託す時は、色紙を使用し花などを添えて季節感を大切にしました。
  これらの工夫にも様々な思いが込められていました。

  【古今和歌集】こきんわかしゅう
   八代集・二十一代集の第一。勅撰和歌集の始まり。20巻。醍醐天皇の下命により、
   紀貫之きのつらゆき・紀友則・凡河内躬恒おおしこうちのみつね・壬生忠岑みぶのただみね撰。
   905年(延喜5)または914年(延喜14)頃成る。六歌仙・撰者らの歌約1100首を収め、
   その歌風は調和的で優美・繊麗。真名序・仮名序がある。
   当初、「続しょく 万葉集」といった。古今集。

  当時は『31文字の歌に魂を揺さぶる力がある』と考えられており、優れた和歌が詠めると
  注目され、それに応じて位の高い貴族とめぐり逢うことも出来ました。
  下級貴族にとって、和歌は生きる術でもありました。

  プライベートで交わされても、優れた歌は書き写され、手本として次々に回覧されるのが
  当たり前でした。


  ≪ 夫を思って詠んだ歌が宮中で評判に ≫

   式部が18才の時、下級貴族である橘道貞たちばな‐みちざね と結婚します。

  見えもせむ 見えせんと人を 朝ごとに 起きては向ふ 鏡ともがな  
   大好きな 大好きな道貞様 いつも御傍に居て見つめ合っていたい
   朝起きて向かう この鏡のように

  道貞は地方の国司となり、式部は1人都に残ります。夫に逢えない思いをたくさんの歌を詠み、
  感性豊かな歌は貴族の中で評判となっていきます。






  つれづれと 空ぞ見らるる思ふ人 天降り来ん 物ならなくに
   道貞様のことを思って 空ばかり見つめてしまいます 天から降りてくださることなど ありもしないのに

  歌人の馬場あき子さんによると
  落下傘か何かで降りてくるような歌い方をしたような人は他にはいない。そこに独特で大胆な感覚がある


  ≪ 皇位継承者 為尊親王と恋愛関係になったが死別した ≫

  第63代 冷泉天皇の皇子である弾正宮 為尊親王が式部の和歌の虜になり、積極的に求愛してくるようになりました。
  下級貴族の女性が皇族と恋愛関係になることは常識ではありえませんでした。

  平安時代は一夫多妻制で、夫は正妻と一緒に暮らしますが、他の女性の元へ通うことが普通でした。
  一方、女性は夫の帰りを待つだけ。他の男性と関係を持つと離縁され、妻の座を手放すと経済的に自立できない為、
  生きていく術を失うことになりました。






  夫の帰りを待ち、為尊親王の求愛に戸惑っていた式部ですが、ある日夫である道真が別の女性と結婚し一緒に
  暮らしている事を知りました。

  白浪しらなみ の夜にはなびく靡なび き藻のなびかじと思ふわれならなくに
   白波になびく藻のように 私の気持ちも揺れています 誰にもなびかない様な頑かたくなな女ではないのです

  為尊親王と恋愛関係になり、噂はまたたく間に宮中に広まります。夫とは絶縁状態になり、父からは勘当されて
  しまいます。

  人の見も 恋にはかへつ 夏虫の あらはに燃ゆと 見えぬばかりぞ
   せっかく この世に生まれてきたのに 恋の炎に身を滅ぼしてしまいました まるで、炎の中で燃え尽きる
   夏虫のように
  身分違いの恋愛だった為、為尊親王は皇位継承権を剥奪され、1年後に25歳で病にかかり死去。


  ≪ 橘の花の出会い 為尊親王の弟 師宮とも恋愛関係になったが死別した ≫

  1003(長保5)年4月為尊親王が亡くなった4ヵ月後の事。為尊親王の御付の少年が花が咲いた橘の枝を持って
  庭先に現れました。4つ下の弟宮である師宮そちのみや敦道親王の使いで訪ねてきたと言います。

  橘の花は、古今和歌集の1首 五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする を意図したもの。
  亡くなった兄を私と共に忍びませんか? という敦道親王からの誘いを意味していました。

『和泉式部日記』

 

 

  受け取った式部は薫る香に よそふるよりは 時鳥 聞かばや同じ 声やしたると
  橘が薫る季節に鳴くホトトギスを師宮に見立て アナタの声がお兄様と同じか聞いてみたい との歌を詠みました。

  ホトトギスは黄泉の国からやって来て、亡くなった人の声で鳴くと信じられており、亡きお兄様の声が聞きたい と、
  為尊親王を偲ぶ意味にも解釈できるように詠んでいたそうです。

  【杜鵑・霍公鳥・郭公・時鳥・子規・杜宇・不如帰・沓手鳥・蜀魂】ほととぎす (鳴き声による名か。スは鳥を表す接尾語)
   カッコウ目カッコウ科の鳥。カッコウに似るが小形。山地の樹林にすみ、自らは巣を作らず、ウグイスなどの巣に産卵し、
   抱卵・育雛を委ねる。鳴き声は極めて顕著で「てっぺんかけたか」「ほっちょんかけたか」などと聞こえ、昼夜ともに鳴く。
   夏鳥。古来、日本の文学、特に和歌に現れ、あやなしどり・くつてどり・うづきどり・しでのたおさ・たまむかえどり・
   夕影鳥・夜直鳥よただどりなどの名がある。

  師宮は 同じ枝で鳴くホトトギスは、兄と声が同じなのは当然でしょう との歌を返し、後に式部の元を訪れ恋愛関係に
  発展しました。

  しかし、師宮の乳母めのとが「あんな身分が低く、評判の悪い女と付き合う事はなりませぬ。今でも他の男たちがたくさん
  通っていると噂でございます」と、猛反対。

  ある夜、師宮は乳母が止めるの聞かず、式部の元を訪れます。式部の屋敷前には別の牛車が止まっており、
  師宮は屋敷に入る事すら出来ませんでした。

  式部は、師宮が訪れる事が無くなった事に悩み、多くの貴族たちが『願掛け』で訪れている琵琶湖近くの石山寺に参り
  7日間籠ることにしました。
  間もなく、師宮の 後に残されて辛い いつ帰ってくるのか という内容の手紙が都から届きました。

  山を出でて 暗き道にぞ たどり来し 今一たびの 逢ふことにより  文を読んだ式部は都へと急ぎ戻ります。
   仏様に守られた山を出て この煩悩に満ちた人の世に戻って参りました もう一度アナタにお会いする為に

  冬の夜の 目さへ氷に 閉ぢられて
   明かしがたきを 明かしつねかな

   冷え切った冬の夜 池の水が氷るように
   アナタが恋しくて流した泪までが凍り
   この目も閉ざされてしまいました
   早くアナタの温かさに包まれたい

  1003(長保5)年12月 和泉式部は師宮の館に
  使用人の名目で迎え入れられます。
  身分に差があるので、表向きは召使ですが、
  実際は正室に等しい扱いでした。

  師宮の正室は、プライドを傷つけられ館を出て
  いきました。

  愛人(和泉式部)が正室を追い出す大スキャン
  ダルに世間は騒然となりました。

  1007(寛弘4)年10月 師宮が病死します。
『和泉式部日記』






  捨てはてんと 思ふさへこそ 悲しけれ 君に馴れにし 我が身と思へば
   亡き宮様に愛され 親しく馴染んだこの身体からだ 出家して一本の髪を失うのも堪らなく悲しくて とても
   出来ません

  【和泉式部日記】
   一条天皇の長保5年(1003)4月から翌年正月までの、和泉式部の師宮 敦道親王との恋愛事件を書き記した日記。
   1巻。


  ≪ 宮中女官へ ≫

  師宮の死から1年後、関白の藤原道長に和歌の才能が認められ、一条天皇の皇后 中宮彰子(道長の長女)の女房
  として仕えます。華々しい恋愛遍歴で有名だった和泉式部が宮中に上がると、男たちは大騒ぎし『時の人』となりました。






  ある時、宮中の廊下で和泉式部から貰った扇を見せびらかしている男がおり、通りかかった道長が、その扇に
  うかれ女の扇と書きました。

  【浮かれ女】うかれ‐め … 管弦・歌舞をなし、また色を売る女。遊女。

  男出入が激しい女として和泉式部をからかっていた所に、和泉式部が通りかかります。
  式部はその扇を手に取ると歌を1首書き、扇を戻し何事もなかったように去っていきました。

  越えもせむ 越さずもあらん 逢坂の関守ならぬ 人なとがめそ
   誰と付き合おうと私の勝手です 夫でもない道長様に つべこべ言われる筋合いは
   ございません



  埼玉学園大学の服藤早苗 特任教授によると、
  雇い主の道長に とっさに反論できたのは和歌だったからです。和歌の世界というのは、
  男女・身分関係なく実力主義。だから、和泉は時の権力者の道長とも対等に渡り合えた。
  それは和泉式部が歌人として認められていた事を示すのではないかと思います。
  和泉式部の恋に関する和歌のセンスは、紫式部も高く評価していたそうです。

  【紫式部】むらさき‐しきぶ(生没年未詳) 藤原為時の女むすめ
   平安中期の女房。女房名、藤式部、のち紫式部。源氏物語の「紫の上」と父の官位「式部丞」による名という説が有力。
   藤原宣孝のぶたかに嫁したが、まもなく死別。のち上東門院(一条天皇の中宮彰子)に仕え、その間、道長ほか殿上人
   から重んじられた。中古三十六歌仙の一人。著作は「源氏物語」のほか、「紫式部日記」「紫式部集」など。


  ≪ 和泉式部 と 藤原保昌 ≫

  和泉式部の元には宮中の男達から恋文が多数届きますが、興味本位の浮ついたものばかり。

  宮中に上がって1年余の後、道長の家臣で、20才ほど年上で50才過ぎの藤原保昌に求婚されます。下級貴族でしたが
  大金持ちだたそうです。

  当時は40才から老人。で30才を過ぎると女性は『紅葉の下葉』と言われ、老後を考えると結婚するのが最良の選択だそうです。

  しかし、和泉式部は断ろうと、「結婚したければ、天皇家に生えている梅の枝を取ってきて」と無理な注文をつけました。

  保昌は宮廷に忍び込みますが、弓矢をバンパン射かけられました。それでも梅の枝を取ってくる事に成功。
  このエピソードは祇園祭の山鉾の一つ、保昌山に描かれているそうです。





  保昌は丹後の守に任命され、京都北部の宮津に式部と共に移りました。
  夫の保昌は仕事で京都と宮津を行ったり来たりの生活。式部は再び夫を寂しく待つ身の上となります。
  やがて、保昌が式部の元を訪れる事も無くなりました。

  黒髪の 乱れも知らず うち臥せば まづかきやりし 人ぞ恋しき (この歌は、初めて結婚した時の事を思い出して詠んだもの)
   あまりの悲しさに 髪が乱れるのも構わず泣いていた私 そんな時 道貞様が抱き起して 髪をそっと掻きやり
   なだめてくれた

  ≪ 貴船神社を訪れた時の逸話 ≫

  和泉式部は貴船神社を訪れ、暗闇でホタルの群れを見て歌を詠みます。

  もの思えば 沢のホタルも わが身より あくがれ出づる 魂かとぞみる
   あまりに思い悩むと、人の魂は身体から抜け出るという 
   このホタルは私の魂なのだ

  【貴船神社】きぶね‐じんじゃ
   京都の貴船町にある元官幣中社。二十二社の一つ。
   祭神は闇龗神くらおかみのかみ 、また高神・罔象女神みずはのめのかみ
   ともいう。古来、祈雨・止雨の神として尊崇される。

  和泉式部は夫婦和合の祈祷を貴船神社で行いました。
  この事を聞き付けた保昌は、神社の陰に隠れて見ていました。

  老年の巫女の祈祷をした後、鼓を打ち、衣服をかき上げ、陰部を
  あらわにして陰部を叩き、3度円を描くように歩いて「このように
  なさいませ」と言いました。

  式部が顔を赤らめ返事をしなかったので、巫女は
  「御祈祷の一番大事なところなのに、どうしてしないの」と言いました。

  
『沙石集』

  式部は長い間考えた末に「神様の見る目が恥ずかしい。夫に忘れられた身とはいえ、この身を捨てるようなマネは
  できません」と言いました。
  それを見た保昌は「ワシはここにおるで !」と叫び、その場から式部を連れて帰りました。

  もし、式部が、陰部を出し、叩いて、3回まわっていたら、保昌に愛想を尽かされていたことだろう。

  【沙石集】しゃせきしゅうさせきしゅう
   仏教的説話集。10巻。無住道暁著。1279~83年(弘安2~6)成り、加筆も行われた。
   仮名まじり文で通俗的に書かれ、説教の種本に利用される。


  ≪ 小倉百人一首に選ばれた和泉式部の和歌 ≫

  晩年、60才前後。病に侵された和泉式部が死が近い時に詠んだ歌が小倉百人一首に選定されている歌です。

  あらざらむ この世の外の思ひでに 今一たびの 逢ふこともがな ← 名歌が撰された小倉百人一首の中の名歌として知られる。
   この世の最後の思い出に もう一度アナタに逢いたい

  当時、仏教ではこの世の煩悩を捨てないと極楽へ行けないと考えられていました。
  それでも死に際に、極楽よりも人の世の愛を選んだ。

  【小倉百人一首】おぐら‐ひゃくにんいっしゅ 小倉山荘色紙和歌。小倉百首。
   歌集。藤原定家(鎌倉前期の歌人、1162~1241)撰。宇都宮頼綱(蓮生)撰説もある。
   第38代の天智天皇(626~671)から第84代の順徳天皇(1197~1242)の時代に至る
   約600年間の百人の歌人の歌各1首を撰したもの。
   二条家で重んぜられ、近世以後歌ガルタとして普及。
   単に「百人一首」(ヒャクニンシュともよむ)と呼ばれたが、近世以降「新百人一首」など
   と区別して「小倉」の2字を冠する。



  ≪ 和泉式部のお墓 ≫

  日本各地に和泉式部の墓と言われる所は21ヶ所。和泉式部の墓は、京都の新京極にある誠心院が最有力。
  誠心院に残る話では、当時 女性は普通極楽に行けないと言われていましたが、式部の晩年に、この寺の高僧に
  救いを求めます。

  くらきより 冥き道ぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月 (← 実際には20代の頃、仏教の高僧に宛てて詠んだ歌)
   私は今 煩悩の闇の中で迷っております このままだと、更に暗い闇の中に入って行ってしまいそうです 
   どうか進むべき道を 仏様の慈悲深い光で照らしてくださいませ

  その時、捧げた上記の和歌をきっかけに極楽往生を遂げ、この誠心院に葬られたとされています。






  和泉式部の数奇な人生は、死後に仏教を広める説話として語れました。熊野信仰を広める為に『熊野比丘尼』と呼ばれる
  尼たちが諸国を巡り男性遍歴を重ねた和泉式部でも仏にすがる事で極楽往生を遂げる事ができたとの説話を
  語り伝えました。

  各地の墓は、こういった和泉式部の説話を広めた比丘尼たちの墓や、和泉式部の説話にあやかろうと建てられた
  供養塔だったそうです。

  【熊野比丘尼】くまの‐びくに
   近世、熊野三所権現の縁起を語り諸国を勧進かんじんした尼僧。のちには歌をうたい、また色を売る者ともなった。
   歌比丘尼。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿縦断622㎞の旅 ~㉛京都・福知山から兵庫の県境へ~」』 14.12.11 放送

  ≪ 和泉式部の娘 小式部内侍 も才能にあふれた歌人 ≫ Wiki 小式部内侍 などより Wiki 女房三十六歌仙

  女房三十六歌仙の一人。父は橘道貞、母は和泉式部。母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕した。
  そのため、母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになった。

  母同様恋多き女流歌人として、藤原教通・藤原定頼・藤原範永など多くの高貴な男性との交際で知られる。
  教通との間には静円、範永との間には娘をもうけている。万寿2年、藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に
  20代で死去。

  【小式部内侍】こしきぶ‐の‐ないし(生年未詳~1025)
   平安中期の歌人。橘道貞の女むすめ母は和泉式部。一条天皇の中宮上東門院に仕え、母が丹後へ行った
   留守中の即吟「大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天の橋立」 (小倉百人一首) で名高い。

  小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があったため、歌合に歌を詠進することになった小式部内侍に対し、
  四条中納言の藤原定頼が
  「丹後のお母さん(和泉式部は当時、夫の任国である丹後に下っていた)の所に、代作を頼む使者は出しましたか。
  使者は帰って来ましたか」などと意地の悪い質問をしました。






  その時、小式部内侍は即興で「大江山~天橋立」と詠み、
  大江山を越えて、近くの生野(京都府亀岡市内の古地名)へと向かう道のりですら行ったことがないので、まだ母のいる
   遠い天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていませんという意味の歌。

  「行く野・生野」「文・踏み」の巧みな掛詞を使用したその当意即妙の受け答えが高く評価され、以後小式部内侍の歌人
  としての名声は高まったという。なお、「ふみ」と「橋」は「道」の縁語。

  藤原定頼は、当時歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにもかかわらず、狼狽のあまり返歌も出来ず
  に立ち去ってしまい恥を掻いたという。

  小式部内侍の逸話は、上記の「大江山」の歌のエピソード、また教通との恋のエピソードを中心に、『十訓抄』や
  『古今著聞集』など、多くの説話集に採られている。
  また『無名草子』にも彼女に関する記述があり、理想的な女性として賞賛されているそうです。

  【藤原俊忠】ふじわら-の-としただ (1073~1123)  権大納言 藤原忠家の子、道長の孫。  コトバンク
   平安末期の歌人。公卿。従三位権中納言兼大宰権帥。和歌は『金葉集』以下の勅撰集に二九首選入されており、
   家集に『権中納言俊忠卿集』がある。俊忠は俊成の父、定家の祖父であり、古筆能書家として尊敬された。
   父忠家と『類聚歌合』を書いた。保安4年(1123)歿、53才。






  【藤原俊成】ふじわら‐の‐しゅんぜい(1114~1204) 俊忠の子、定家の父
   (名はトシナリとも)平安末期の歌人。皇太后宮大夫。法名、釈阿。五条三位と称。千載集の撰者。
   歌学を藤原基俊に学び、俊頼を尊敬、両者の粋をとり、清新温雅な、いわゆる幽玄体の歌を樹立した。
   御子左みこひだり家の基を築く。歌は新古今集以下勅撰集に四百余首載る。
   家集「長秋詠藻」、歌論書「古来風躰抄こらいふうていしょう」など、ほかに歌合の判詞が多い。

  【藤原定家】ていか / さだいえ(1162~1241) 俊成の子。いわゆる小倉百人一首の撰者で有名。 藤原道長の子孫
   鎌倉前期の歌人。京極中納言などと呼ばれた。新古今集(共撰)・新勅撰集を撰。歌風は絢爛・巧緻で、新古今調の
   代表。家集「拾遺愚草」のほか歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌之大概」など。
   源氏物語・古今集・土佐日記などの古典校勘の業に従い、日記に「明月記」がある。
   書風は、後世、定家流と呼ばれ、江戸の茶人に珍重された。
 
 小倉百人一首
  テレビ大阪 開局30周年番組 百人一首の世界 12.12.31 (再放送)

  小倉百人一首は鎌倉時代前期に朝廷に仕えた京極中納言 歌人でもある藤原定家(1162~1241)が飛鳥~鎌倉時代に
  活躍した人の中から、一人一首ずつ和歌を選び (男性79人、女性21人。恋の歌が約43首、季節の歌が32首ほど) 親戚の
  宇都宮頼綱の為に、京都の小倉山の山荘で選んだ和歌集。所縁の地の8割が近畿地方。
  江戸時代に『歌かるた』として民衆に親しまれました。





  【小倉百人一首】おぐら‐ひゃくにんいっしゅ 小倉山荘色紙和歌。小倉百首。
   歌集。藤原定家(鎌倉前期の歌人、1162~1241)撰。宇都宮頼綱(蓮生)撰説もある。
   第38代の天智天皇(626~671)から第84代の順徳天皇(1197~1242)の時代に至る約600年間の百人の歌人の
   歌各1首を撰したもの。二条家で重んぜられ、近世以後歌ガルタとして普及。
   単に「百人一首」(ヒャクニンシュともよむ)と呼ばれたが、近世以降「新百人一首」などと区別して「小倉」の2字を冠する。






  興福寺の桜を巡る騒動と伊勢大輔     奈良県の天香山神社と天の蚕の生原旧跡 持統天皇の百人一首・撰の歌 
  京都の冷泉家で行われる棚機の歌会 即興の恋歌を詠み合い交換

  【冷泉】れいぜい
   御子左みこひだり家の藤原定家の流れを伝えた和歌の師範家の一つ。藤原為家の子の為相ためすけを祖とする。
   鎌倉末~南北朝期に保守的な二条家、革新的な京極家に対して、比較的自由な歌風を主唱。
   のち、上冷泉・下冷泉の両流に分かれ、現在まで続く。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅23』 15.10.01 放送
  テレビ東京 日曜ビッグ 『世界! ニッポン行きたい人グランプリ 「ドド~ンと3人ご招待SP」』 16.01.10 放送
  NHK大阪 おはよう関西 『京都 八坂神社で「かるた始め」』 16.01.04 放送

  ≪ 競技カルタの聖地 近江神宮 ≫  Wiki 競技かるた  Wiki 近江神宮

  滋賀県大津市にある近江神宮は1940 (昭和15) 年に大津京の跡地に創建されました。
  主祭神は小倉百人一首の第一首目を詠んだ天智天皇。境内にある近江勧学館では毎年1月に競技カルタの全国大会が
  開かれ、日本一を決める名人戦とクイーン戦が行われます。

  競技カルタを題材とした少女漫画「ちはやふる」で広く知られ、2015年7月には1週間ほど映画のロケが行われたそうです。






  2015・2016年のクイーン戦を連覇した坪田翼 六段は東京東会の所属。

  【大津宮】おおつ-の-みや
   天智天皇・弘文天皇の皇居。667~672年。今の大津市内にあった。
   近江 (淡海) 大津宮。滋賀大津宮。滋賀宮。滋賀 (志賀) の都。

  一般社団法人全日本かるた協会 http://www.karuta.or.jp/


  ≪ 八坂神社の年始「かるた始め」奉納 ≫

  京都の八坂神社では1月3日午後1時から、能舞台で百人一首の団体「日本かるた院本院」により平安装束でのカルタ
  始めが奉納されます。「日本かるた院本院」は、競技性よりも文化的側面を重視する団体。






  【祇園社】ぎおん-の-やしろ / 【八坂神社】やさか‐じんじゃ(1868年(慶応4)改称) 二十二社
   京都市東山区祇園町北側にある元官幣大社。
   876年(貞観18)、藤原基経が自邸を壊して牛頭ごず天王のために精舎を造営寄付し、祇園精舎に因んで
   称したもの)で祇園社は、京都の八坂神社の旧称。
   祭神は素戔嗚命すさのおのみこと ・奇稲田姫命くしなだひめのみこと・八柱御子神。例祭の祇園会のほか、
   特殊神事に白朮おけら祭がある。
  【柿本衆】かきのもと‐しゅう
   鎌倉初期、和歌に範をとって優雅な連歌を作る人々の称。有心うし衆。柿本の衆。

  【栗本衆】くりのもと‐しゅう
   鎌倉初期、俳諧連歌を作る人々の称。無心衆。栗本の衆。
 
 和歌の種類
  テレビ大阪 開局30周年番組 百人一首の世界 12.12.31 (再放送)
  NHK Eテレ 100分de名著 『松尾芭蕉 「おくのほそ道」①~④ 13.10.02~13.10.23 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 近畿国宝めぐり 高野山の紅葉を目指せ 年末総集編』 13.12.26 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅29』 15.11.12 放送

  漢詩 中国の古典の歌。漢文(漢字だけの文章)のもの。中国から伝わり日本でも詠まれた。

  和歌 飛鳥時代から始まった日本独自の歌。万葉集、古今和歌集、百人一首などに残る。長歌、短歌も含む。
      飛鳥時代は奈良や南大阪などを中心に、農民が感情を表現する為に詠んでいた。奈良時代には日本中で詠まれ、
      平安時代になると貴族中心の文化になっていった。

  短歌 和歌の中で、五・七・五・七・七 の五句体の定型詩の事。

  連歌 短歌の上の句の 五・七・五 と、下の句の 七・七 を別々の人が詠む。100句で1作品とされる。
      鎌倉~江戸時代に流行。明治初期に廃れる。

  俳諧 和歌は風流や雅などを追及したものだった。
      江戸時代になり、和歌の中で、滑稽・世俗的な物を中心に詠まれたものが、俳諧。俳諧連歌。

  俳句 俳諧連歌の上の句(発句)である 五・七・五 だけが独立したもの。俳句と呼ばれるようになったのは明治時代。

  川柳 俳句と同じ 五・七・五 の形式だが、季語を入れたりする形式にとらわれず、より世俗的で庶民が楽しめる
      17文字の句のこと。
      江戸時代中期に柄井川柳が開催したコンテストが人気だった事から、後に「川柳」と呼ばれるようになった。





  【漢詩】かん‐し からうた。中国の古典詩。
   一句四言・五言または七言を主とし、平仄ひょうそく ・押韻などの規則があり、古詩・楽府がふ・絶句・律詩・排律などの
   種類がある。

  【和歌・倭歌】わ‐か うたやまとうたみそひともじ
   漢詩に対して、上代から日本に行われた定型の歌。長歌・短歌・旋頭歌せどうか・片歌などの総称。
   狭義には31音を定型とする短歌。奈良時代には「倭歌」と書き、また「倭詩」といった。
   和する歌。かえしうた。奈良時代に「和歌」と書くのはすべてこの意。万葉集【百人一首】

  【短歌】たん‐か みじかうた
   ① 和歌の一体。長歌に対して、五・七・五・七・七の五句体の歌。
     記紀歌謡末期・万葉集初期の作品に成立、古今を通じ最も広く行われ、和歌といえば短歌を指すに至った。
   ② 近代詩歌の一ジャンル。五・七・五・七・七からなる定型の詩。


  ≪ 日本で現存する唯一の連歌所 杭全神社 ≫  Wiki 杭全神社   桃山時代の「接ぎ木の祖」は坂上田村麻呂の子孫

  大阪市平野区にある杭全くまた神社は、文献に残る初の征夷大将軍 坂上田村麻呂の孫である坂上当道まさみち
  牛頭天王より神託をうけて862年に創建。
  本殿は永正年間 (1504~1520年) に建てかえられ、国の重要文化財にしてされた物の中では、大阪市内最古の木造建築。
  こちらに日本で唯一の現存する連歌所があるそうです。

  大阪の難読地名として有名な『杭全 (くまた)』の由来として有力な説は、古代に渡来人がこの辺りに住み、自分たちの土地を
  他と区別する為に「杭を全まったく (すべて) 打った」という事からだそうです。

  連歌は鎌倉時代~江戸時代に流行しましたが、明治時代の初めに行われなくなり、日本各地にあった連歌所も無くなり
  ました。

  杭全神社の連歌所は鎌倉時代につくられたのが最初で、現存の建物は江戸時代の1708年に再建されたもの。
  現在も毎月、法楽連歌会が催されているそうです。






  江戸時代始め1609 (慶長14) 年に作られた連歌の巻物も残されています。
  連歌から、現在使われている言葉がいくつも生まれました。

  藤江正謹 宮司によると、連歌では花の句を大切にし、一番の招待客に花の句を詠ませるようにするそうです。
  これが「花をもたせる」(相手に名誉や栄光を与える) という言葉の発祥。

  連歌100句を4つに分け、初折・二の折・三の折・名残の折といい、心残りがあるという意味の「名残惜しい」という言葉や
  最後の句を「挙句」といい、「挙げ句の果て」(最後の最後、結局) という言葉などが派生したそうです。

  【連歌】れん‐が  つらねうた続歌つづけうた
   和歌の上句と下句とに相当する五・七・五の長句と七・七の短句との唱和を基本とする詩歌の形態。
   万葉集巻8の尼と大伴家持との唱和をはじめ、古くはこの短歌合作の形すなわち短連歌がもっぱら行われたが、
   院政期頃から多人数または単独で長・短句を交互に長く連ねる形すなわち長連歌(鎖連歌)に発達、中世・近世に
   わたって流行した。
   長連歌は第1句を発句ほっく、次句を脇わき、第3句を第三、最終句を挙句あげくといい、句数により歌仙・四十四よよし
   五十韻・百韻・千句・万句などの形式がある。
   百韻を基準とするが、百句を通じて意味を一貫させるのではなくて、連続する2句の間の付合つけあいや全体の変化
   などを楽しむ。

  【和歌三神】わか‐さんしん
   歌道を守護する三柱の神。
   流派により異なるが、柿本人麻呂・山部赤人・衣通姫そとおりひめ や、住吉神・玉津島神・人麻呂など。


  【俳諧・誹諧】はい‐かい ・・・ おどけたわむれ滑稽。下学集「俳諧、ハイカイ、戯義」
   俳諧歌の略。「俳諧の連歌」の略。俳句(発句)・連句の総称。広義には俳文・俳論を含めた俳文学全般を指す。

  【俳諧の連歌】はいかい‐の‐れんがはいかい-れんが
   連歌の一体。古く座興の言い捨てとして行われていたが、室町末期、山崎宗鑑・荒木田守武らの頃から盛んになった
   卑近・滑稽を旨とする連歌。
   江戸時代に入って、貞門ていもん・談林だんりん・蕉風しょうふうなどの諸流が起こった。後には「俳諧」とのみいった。

  【俳諧三神】はいかい‐さんじん
   (和歌三神に擬していう)山崎宗鑑・荒木田守武・松永貞徳の称。

  【山崎宗鑑】やまざき‐そうかん(~1540頃)
   室町後期の連歌師・俳人。俳諧の祖。足利将軍に仕え、後に剃髪して宗鑑と号し、山城国山崎に住む。
   有数の連歌師であったが、俳諧連歌に重きをおき、俳諧独立の機運を作った。編「新撰犬筑波集」。

  【荒木田守武】あらきだ‐もりたけ(伊勢内宮の祢宜、1473~1549)
   室町末期の俳諧連歌作者。その作「守武千句」は、山崎宗鑑の「犬筑波」と共に、俳諧が連歌から独立する機運を起こし、
   後世俳諧式目の規範となった。また「世中百首(伊勢論語)」の詠がある。

  【松永貞徳】まつなが‐ていとく(京都の人、1571~1653)
   江戸初期の俳人・歌人。名は勝熊、号は長頭丸・逍遊軒など。細川幽斎に和歌を、里村紹巴じょうはに連歌を学んだ。
   和歌や歌学を地下じげの人々に教え、狂歌も近世初期第一の作者。「俳諧御傘ごさん」を著して俳諧の式目を定め
   貞門俳諧の祖となる。花の下宗匠。門人に北村季吟らの七哲がある。編著「新増犬筑波集」「紅梅千句」など。
 
 俳句と松尾芭蕉
  NHK Eテレ 100分de名著 『松尾芭蕉 「おくのほそ道」①~④ 13.10.02~13.10.23 放送
  読売テレビ ten. 『日本史上最高の俳諧師 松尾芭蕉と大津の関係に迫る』 18.10.31 放送

  【俳句】はい‐く  ・・・ 俳諧の句こっけいな句
   五・七・五の17音を定型とする短い詩。連歌の発句ほっくの形式を継承したもので、季題や切字きれじをよみ込むのを
   ならいとする。
   明治中期、正岡子規の俳諧革新運動以後に広まった呼称であるが、江戸時代以前の俳諧の発句を含めて呼ぶこともある。
   短歌と共に日本の短詩型文学の二潮流。定型・季題を否定する主張もある。

  【松尾芭蕉】まつお‐ばしょう (伊賀上野に生まれ、1644~1694) 藤堂良精の子。
   江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月軒・風羅坊など。良忠(俳号、蝉吟)の
   近習となり、俳諧に志した。
   一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、
   談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。
   その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、大坂難波の旅舎に没。
   句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」など
   がある。







  ≪ 松尾芭蕉と奥の細道 ≫

  江戸時代初期、江戸は上方とは比べようもないほど文化レベルが低く、中期の元禄になっても関西文化圏出身という
  だけで、高い教育文化水準があり格が上と見られていました。

  松尾芭蕉 (三重県出身) は29才で江戸へ出て句会に参加し頭角を表します。有名になり35才頃に独立。
  37才で深川 (当時、寂しい場所で俳諧を極めるには良い場所だったそうです) に住み芭蕉庵を営み、隠遁生活を
  始めます。






  そんな江戸から見ても東北 (みちのく) は、辺境の土地であり旅をするにはかなりの危険が伴うとされていました。

  松尾芭蕉の『奥の細道』は、1689 (元禄2) 年3月27日~9月6日の150日間、東京深川~奥州各地、北陸を巡り、
  岐阜大垣まで約600里2400㎞の旅をし詠んだ俳諧紀行。
  西行や能因が訪れた名所旧跡などを辿るのが目的だったとされていますが、幕府による外様大名 (仙台藩など) の
  隠密調査に関わっていたという説もあります。

  【西行】さいぎょう (1118~1190 俗名、佐藤義清のりきよ。法名、円位。 藤原秀郷の9世孫。
   平安末・鎌倉初期の歌僧。鳥羽上皇(74代天皇1103~1156)に仕えて北面の武士 (院中を警護した武士のエリート職)。
   23歳の時、無常を感じて僧となり、高野山、晩年は伊勢を本拠に、 陸奥・四国にも旅し、河内国の弘川寺で没。
   述懐歌にすぐれ、新古今集には94首の最多歌数採録。家集「山家さんか集」。

  【能因】のういん (988~) 俗名、橘永愷ながやす
   平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。藤原長能ながとうに和歌を学び、これが歌道師承の先例
   剃髪して摂津古曾部に住み古曾部入道と称す。奥州行脚を試みた。
   私選集「玄々集」、歌学書「能因歌枕」、家集「能因集」。

  松尾芭蕉 (46才) と従者の曾良そらは深川から千住まで船に乗り、「行春や 鳥啼魚とりなきうおの 目は泪」という別れの
  句を詠んで、ここから本格的な旅が始まると考えていました。






  4月1日栃木県の日光東照宮を参詣し「あらたうと 青葉若葉の日の光」「あらたうと=大変尊い、家康と家康がもたらした
  太平の時代は尊い」という句を詠みます。
  曾良は二荒山 (黒髪山) を見て、「剃り捨て 黒髪山に衣更ころもがへ」髪を剃って僧侶の姿となり、これまでの生活を捨てて
  旅に挑むという決意を現した句を詠みました。
  裏見の滝では、芭蕉が「暫時しばらくは 滝に籠るや 夏の初はじめ」と詠み、滝で身を清めて旅に出る決意を現しました。

  芭蕉を研究している俳人の長谷川櫂さんによると、芭蕉は『奥の細道』に旅後も死ぬまで
  推敲を重ねて手を入れ続けました。

  『奥の細道』は芭蕉の死後、弟子である向井去来によって1702年に刊行されました。
  400字詰原稿用紙で30枚程度の短い文。
  曾良の「奥の細道随行日記」と異なる部分も多く、芭蕉の世界感を表した紀行文風の創作と
  考えた方が良い。


  【河合曾良】かわい-そら (信濃の人、1649~1710)
   江戸中期の俳人。芭蕉に師事、「鹿島紀行」「奥の細道」の旅行に随伴、常に師を助け、その愛重を受けた。
   壱岐勝本に客死。著 「奥の細道随行日記

  【向井去来】むかい-きょらい (長崎生まれ、1651~1704) 名は兼時、字は元淵。別号、落柿舎など。
   江戸中期の俳人。蕉門十哲の一人。京都に住み、堂上家に仕え、致仕後、嵯峨に落柿舎を営んで芭蕉を招き。
   凡兆とともに「猿蓑さるみの」を撰。その作風は蕉風しょうふうの極致に達した。俳論「旅寝論」「去来抄」など。
   「去来抄」は去来の芭蕉随聞記的資料で1702~04年に成立、1775 (安永4) 年に刊。

  朝日新聞 14.09.01 朝刊 『文化の扉』


  晩年は滋賀県にすみ、生涯で詠んだ句の約1割の89句を大津で読んでいます。「おくの細道」の旅を終えた翌年には
  弟子の一人が所有する幻住庵に4ヵ月ほど滞在し、その時の生活などを記したのが『幻住庵記』。






  大阪市中央区の御堂筋沿いに芭蕉が病に倒れて没した場所として石碑が残っています。
  「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」の句は、この地で詠まれたと言われています。

  遺体はすぐに遺言通りに、滋賀県の大津市に運ばれ、義仲ぎちゅう寺にて埋葬されました。
  平安時代末期に近江国の栗津の原の戦いで戦死した木曽義仲の墓のすぐ隣に芭蕉の墓があります。
  芭蕉は義仲を敬愛していたので、生前もよく訪れており、芭蕉が愛用したと言われる杖などもあります。


  【松永貞徳】まつなが‐ていとく(京都の人、1571~1653)
   江戸初期の俳人・歌人。名は勝熊、号は長頭丸・逍遊軒など。細川幽斎に和歌を、里村紹巴じょうはに連歌を学んだ。
   和歌や歌学を地下じげの人々に教え、狂歌も近世初期第一の作者。「俳諧御傘ごさん」を著して俳諧の式目を定め
   貞門俳諧の祖となる。花の下宗匠。門人に北村季吟らの七哲がある。編著「新増犬筑波集」「紅梅千句」など。

  【新増犬筑波集】しんぞういぬつくばしゅう … 松永貞徳の付句集。2冊。1643年(寛永20)刊。「油糟」「淀川」の総称。

  【松永尺五】まつなが‐せきご(貞徳の子、1592~1657)
   江戸初期の儒学者。名は昌三。藤原惺窩の門人。藤門四家の一人。仕官せず京都に私塾春秋館・講習堂・尺五堂を開く。
   門下に木下順庵・貝原益軒らを輩出。著「尺五先生全集」など。


  【小林一茶】こばやし‐いっさ (信濃柏原の人、1763~1827)名は弥太郎、信之とも称。
   江戸後期の俳人。別号、俳諧寺。15歳で江戸へ出、俳諧を二六にろく庵竹阿に学んだ。俗語・方言を使いこなし、
   不幸な経歴からにじみ出た主観的・個性的な句で著名。
   晩年は郷里で逆境のうちに没。作「おらが春」「父の終焉日記」「七番日記」「我春集」など。

  【俳諧歌】はいかい‐か ざれごとうたはいかいうた
   滑稽味を帯びた和歌の一体。万葉集の戯笑歌の系統をひき、古今集巻19に誹諧歌として多くの作を収める。
   鹿都部真顔が1808年(文化5)頃から主張した狂歌の作風。天明調狂歌の方向を是正するため、古今集以来の俳諧歌に
   依拠しようとしたもの。

  【鹿都部真顔】しかつべ‐の‐まがお(「鹿津部」とも書く) (江戸の人、1753~1829)
   江戸後期の狂歌師・黄表紙作者。通称、北川嘉兵衛。別号、狂歌堂・四方歌垣。戯作名、恋川好町。
   戯文を恋川春町に、狂歌を四方赤良(大田南畝)に学ぶ。

  【西鶴大矢數】さいかく-おおやかず
   俳諧集。井原西鶴著。5冊。延宝8年 (1680) 5月、大坂生玉社で1日に4000句の俳諧を詠み、翌年に刊行した独吟集。大矢数。
 
 【 江戸時代の女流俳人 加賀千代女 】
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ~小京都めぐり⑫ 石川「金沢城下町」~』 2013.07.11 放送 / Wiki 加賀千代女

  江戸時代の数少ない女流俳人 加賀千代女は生涯1700もの句を詠んだと言われています。
  もっとも有名なのは 『朝顔や(に) つるべとられて もらい水

  「朝、井戸に水を汲みに行ったら、釣瓶(縄や竿の先につけて井戸の水を汲み上げる桶おけ。また、その装置)に朝顔のツタが絡まっていた。
  朝顔にも小さな命を感じて、ツタを外すことなく、自分は他の井戸で水を汲んだ」 後に教科書にも記載された句。

  朝顔を多く歌っていることから、出身地の松任市(現・白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいます。
  1494年に創建された白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館があります。






  【加賀千代女】かが-の-ちよじょ (加賀国 松任まつとうの人、1703~1775)
   石川県の加賀国松任(今の白山市)で、表具師 福増屋六兵衛の娘として生まれた。
   一般庶民にもかかわらず、幼い頃から俳諧をたしなんでいたという。
   江戸中期の女流俳人。剃髪後、素園と号。著「千代尼句集」「松の声」。千代女。千代尼。
 
 川柳せんりゅう
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『時空を超える!深イイ川柳 ~17文字に隠された日本人の魂~』 13.03.07 放送 などより

  現在でも川柳は年間100以上のコンテストが開催される程の人気。
  中でも第一生命 主催のサラリーマン川柳は26回目となる2013年度の応募総数は3万490句。








  1830年刊の『嬉遊笑覧』巻三「書畫」には、元禄の初め頃から前句付けが起こり、下の句を出して、上の句を多くの
  人に考えさせ賞金を与えた事や川柳の事が書かれてあるので、下記の出典は『嬉遊笑覧』や『世事談』などの記述
  からと思われます。

  ≪ 川柳の元は、大坂が発祥 ≫

  元禄時代の大坂で、前句付連歌合とも言えるようなコンテストが行われ始めた。
  下の句(七・七)を決めたお題を出し、その題に繋がる上の句(五・七・五)を考え応募するコンテスト。
  応募料は12文(約400円)で、最優秀な句として選ばれると、賞金500文(1万6000円)貰えるという仕組み。

  ギャンブル的な要素もあり、大坂で大流行となる。その後、日本各地の大都市にも広まります。






  【前句付】まえく‐づけ
   七・七の短句に五・七・五の長句を付ける俳諧の一分野。
   例えば「斬りたくもあり斬りたくもなし」に「盗人を捕へて見ればわが子なり」と付ける。
   元禄1688~1704年頃から庶民間に大流行。のちの川柳はこれを母胎とする。

  【連歌合】れんが‐あわせ
   歌合うたあわせを模した連歌の勝負形式。作者を左右に分け、その詠んだ句を判者が批評し、優劣勝負を定めるもの。


  ≪ 川柳の語源は、江戸で大人気となった前句付点者の柄井川柳の名前 ≫  Wiki 川柳

  【柄井川柳】からい‐せんりゅう(江戸浅草の人、1718~1790)
   江戸中期の前句付まえくづけ点者。1757年(宝暦7)「川柳評万句合」を発行、他の点者を圧倒する名声を得た。
   その撰句を川柳点、のちには単に川柳と称した。

  【川柳】せんりゅう
   (川柳点の略から)前句付まえくづけから独立した17字の短詩。江戸中期、明和(1764~1772)ごろから隆盛。
   発句とは違って、切れ字・季節などの制約がない。多く口語を用い、人情・風俗、人生の弱点、世態の欠陥等をうがち、
   簡潔・滑稽・機知・諷刺・奇警が特色。江戸末期のものは低俗に堕し、狂句と呼ばれた。

  【古川柳】こ‐せんりゅう ・・・ 江戸中期に柄井川柳によって確立された古典的な川柳。明治後期に復興したものに対していう。

  【川柳点】せんりゅう‐てん、せんりゅうでん ・・・ 柄井川柳が前句付に施した評点。また、その選句。略して「川柳」とも。






  大坂で始まった前句付のコンテストは江戸でも盛んに開かれましたが、最も人気だったのが柄井川柳が点者を務めたもので、
  1回で1万句以上集まるコンテストでした。
  他の点者が風景を詠んだ美しい句を選ぶのに対し、川柳は人の感情が表現された句を好んで選んだので、多くの人が
  共感できた。川柳が選んだ句は「誹風柳多留」という本になりベストセラーになった。
  その中に「孝行の したい時分に 親はなし」と、諺にもなった句があります。

  【誹風柳多留】はいふう-やなぎだる 柳樽。 川柳集。167冊。
   呉陵軒可有ごりょうけんあるべし ら編。1765~1840年(明和2~天保11)刊。
   初代 柄井川柳(24編まで)以下5代に至る代々の川柳評 万句合まんくあわせの中から主として選び集めたもの。

  【万句合】まんく‐あわせ
   江戸時代、前句付を中心とする雑俳の句会。また、その選者が前句の刷物を配布して付句を募集し、勝句を一枚刷形式に
   印刷して頒布したものをもいう。
   宝暦(1751~1764)から寛政(1789~1801)頃まで行われ、初代川柳評の万句合勝句刷は「柳樽」の底本。


  ≪ 江戸川柳から見る江戸の女性(嫁)の立場 ≫

  川柳から、当時の江戸庶民の生活の様子を伺い知ることができます。
  ※ 以降は、江戸の事であって、他の地域も同じ事情とは限らない。江戸でも年代によって事情がかわります。(江戸時代後半の事情と推測)

 ①
 ②
 ③
 ④
 ⑤






  ① 「抱いた子に たたかせてみる 惚れた人
   女性から告白するのは「はしたない」とされていました。そこで女性たちは親戚や近所の
   子供を抱き、意中の男性の傍に近づきます。抱いた子に男性の体を叩かせて、その反応と
   話のきっかけを作る。
    ※ 大正~昭和中期頃?は、好きな男性の前にハンカチをわざと落として、それを拾った
      男性から「お嬢さん、ハンカチを落としましたよ」と声をかけられ、話のきっかけを掴んだ。
      というのと同じ。

  ② 「惚れたとは 女の破れ かぶれなり
   「自分から男性に告白するのは、嫁に行き遅れた破れかぶれの女だけだ」と詠まれた句。

  ③ 「裸でと いえば娘は おかしがり
   恋愛は自由でしたが、恋愛と結婚は別のもの。結婚は仲人が取り持つお見合い結婚が
   普通でした。結婚には女性の家が嫁入りの支度金を用意するのが通例。
   器量良し(美人)であれば「支度金無しでも嫁に貰いたい」という申し出があり俗に「裸嫁」と
   言われていました。(資産も荷物も何も持たずに、体一つで嫁に行ける事)




  ④ 「姑の ひなたぼっこは 内を向き
   家の内側を向いて日向ぼっこをする句に秘められているのは、嫁が家事をサボっていないかチェックする為であり、
   嫁イビリを表現したもの。
   良い嫁の条件は、自分の親以上に舅や姑に尽くし、家事をこなす事とされていました。
   特に支度金を持たず嫁入りした裸嫁はだか-よめは、舅や姑にきつく当られる事が多かったそうです。

  ⑤ 「寺参り うれし涙を 嫁こぼし
   姑が寺参りに出かけると夜遅くまで帰ってこない(寺参り・・・歌舞伎や芝居などを楽しむ事が実態)ので、姑に怒られる
   事がない。姑が居ないので、夫と情事では大胆になれ、その時に嫁がこぼす声という意味も含まれているそうです。

 ⑥
東慶寺
 ⑦
 ⑧
 ⑨






  ⑥ 「渡し守 しらんといふは なさけなり
   嫁イビリに耐えかねた女性たちは、隙をみて嫁ぎ先の家から逃げ出します。目指すのは江戸
   から約50㎞離れた鎌倉にある幕府公認の縁切り寺。
   その為には六郷ろくごう川(多摩川の下流)を渡らなければなりません。

   追手が迫ってきて、嫁は川岸の葦などに身を潜めます。追手である夫や姑が、渡し守(船頭)に
   「女が来なかったか?」と訪ねますが、事情を察している渡し守は「知らない」と嘘を言います。
   六郷川を渡ってしまえば、もう追っては手出しできない事になっていました。

  【縁切寺】えんきり‐でら  Wiki 縁切寺
   夫の不身持や強制結婚に苦しんで駆け込んだ女性を助け、前夫はもちろん、その他から何らの
   異議を言わせない特権を有する寺。鎌倉の東慶寺など。縁切尼寺。かけこみ寺

  【東慶寺】とうけい‐じ
   鎌倉市山ノ内にある臨済宗の寺。
   1285年(弘安8)北条時宗の妻 覚山尼の創建。離縁を欲する妻女がこの寺に入り、足かけ3年
   過ごせばそれを許されたので、縁切寺・駆込寺として知られた。



   後醍醐天皇の皇女 用堂尼の入寺以後 松ヶ岡御所・松岡尼寺とも称され、寺格の高い尼寺であったが、
   1905年(明治38)から僧寺となった。

  ⑦ 「二度目には 娘で通る 渡し船
   鎌倉の東慶寺で3年間修行すると、縁切り寺法により正式に女性からの離婚が認められていたので、江戸へ戻る渡し船に
   乗る時には、以前 嫁いだ黒歴史はチャラにできる。

  ⑧ 「女房を 大切にする 見苦しさ
   江戸っ子は、自分の嫁を褒める事、大事にしている事を自慢するのは恥だという風潮がありました。
   江戸っ子で川柳学会専務理事の尾藤一泉さんによると、「むしろ人前では妻を貶けなすのが江戸の文化」だったそうです。
    「川柳」という名は、代々先代の遺言で引き継がれ、現在は15代目の「脇屋川柳」さん。

  ⑨ 「しうと女に 気に入る嫁は 世が早し
   しうと女(姑)たちが気に入る嫁というのは、働き過ぎて早死にする(過労死)と思わせるほどの嫁だった。

  ※ 江戸での結婚率は人口に対し50~60%くらいで一生独身が多い。また離婚率は50%ほどで半数が離婚。再婚も多かった。
    但し、数字は推測らしいので、正確でありません。(年代による違いもあるでしょう。)


  ≪ 大人の川柳 「破礼ばれ句 ≫

  「其の腰で 夜も竿さす 筏いかだ乗り」という破礼句を詠んだのは、「」さんですが、浮世絵師の葛飾北斎のペンネーム






  蒼鷺のホームページ 『川柳秘語解説 「破礼句」』 http://www.geocities.jp/aosagi18/senryuhigokaisetu.html
    ↑ 愛知県豊田市の事も詳しく載っているサイト

  日テレ 世界で一番受けたい授業 『江戸時代のベストセラーから見る 驚きの新歴史 !』 15.04.11 放送

  ≪ 江戸では何でも番付を作りランク付けするのが流行った ≫

  1700年代に相撲の番付が作られ、それ以降 何でもランク付けしていました。
  1枚4文 (100円ほど) と手軽な価格だったので、話のネタとして買う人が多かったそうです。











  江戸時代の化粧 江戸時代後期のファッション雑誌 『都風俗化粧伝』の内容    元妻の復讐 『うわなり打ち』という風習、最古の記録は平安中期。
 
 米国移民たちが残した川柳

  ≪ 米国に移民した日本人たちの川柳 ≫  Wiki リトル東京 / Wiki 日系人の強制収容

  米国在住のサニー関という日系子孫が、移民した日本人たちの川柳などをまとめた「北米川柳道しるべ」により、
  当時の移民の苦難が分かります。

  1884年 日本から北米大陸への移住が始まる。カリフォルニアが多かったようです。

  1885年 日本人漁民チャールズ・カメこと茂田浜之助がカリフォルニア州ロサンゼルスのダウンタウン地区1番街340番地に
   日本食店カメ・レストランを開店以降、25世帯の日系人が居住、日系児童の為の学校も出来、これがリトルトーキョー発祥の
   基礎となります。

  1896(明治29)年、日本と米国の定期航路が開設され、農民や没落士族の若者たちが「アメリカン・ドリーム」を夢に
   新天地の米国を目指しました。






  ※ 背景としては、米国カリフォルニアでのゴールドラッシュがブームあったと思われます。

  【ゴールド‐ラッシュ】gold rush 
   新しく発見された金産地に多数の人々が殺到すること。特に、19世紀半ばの米国カリフォルニアでの現象をいう。

  移民した日本人の土地の取得は禁止されていましたが、米国で生まれた子供は米国の市民権を得る事ができました。

  1905年 「リトルトーキョー」、「小東京」と云う名称が一般的になる。1907年 小東京の人口が3万人を超えます。
  1924年 日露戦争で日本が勝利した頃から起こりつつあった日本人排斥の流れの中、政府が排日移民法を制定。
   日本からの移民が禁止。






  1941年12月8日、日本軍のマレー半島上陸、ハワイ真珠湾攻撃によって日米の太平洋戦争が勃発。

  米国大統領令9066号が発令され、1942年 2月下旬からカリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸
  沿岸州と準州のハワイからは一部の日系アメリカ人と日本人移民約120,000人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられます。






  日系人たちは、戦時転住局によって砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られた「戦時転住所」と呼ばれる全米10ヶ所の
  強制収容所に順次入れられることになりました。許されたのは手荷物2つのみ。
  強制収容所の建設工事が間に合わなかったため、一部の人は一時的に16ヶ所に設けられた「集結センター」に収容され、
  いくつかは体育館や競馬場の馬舎でした。

  リトル東京から日系人の姿は消え、ゴーストタウン、スラム化したとされる。この頃から黒人の居住者が増加。
  「コブラ・クラブ」等、黒人ジャズクラブが20店舗以上開店したそうです。

  収容所では最低限の食事の支給がありました。但し、食料などは基本的には自給自足でまかなう事が求められており、
  強制収容所内における食生活(全ての食事は食堂で行われた)の多くは強制収容所内の農場で獲れた作物が
  あてられていました。

  何も知らない小さな子供たちは、食事を与えられることに慣れてしまいます。
  そんな子供たちの姿を案じ、日本人の尊厳を取り戻すため、収容所内に日本庭園を造ったり、日本の伝統行事を
  行ったりもしました。






  収容所に居る日本人に会いに来る米国人もおり、面会所での人種を超えた交流は心の支えの一つになっていたようです。

  1943年2月10日、全米の日系人強制収容所において、「出所許可願」という名のアンケート用紙が配られました。
  約85%の日系人が米国に忠誠を誓い、米軍に約33,000人の日系二世が志願。日系部隊はヨーロッパの最前線に配備され、
  半数以上が生きて帰ることがありませんでした。戦果は現在でも、米国内で高く評価されています。

  しかし、ツール・レイク収容所では3000名の二世が米国に忠誠を誓わず、徴兵に応じたのは僅か59名で、徴兵に応じた
  家族は他の収容者から邪険に扱われるという事もあったようです。






  1945年 第二次世界大戦の終結に伴い、この年の暮れまでに強制連行された112,000人の内、25,000人がリトルトーキョー、
  あるいは、その周辺地区に戻ることになりました。

  日系移民の歴史HP 『忠誠登録』 http://www.pioneerhonor.jp/pioneer/us/chusei.html  Wiki 第442連隊戦闘団
 
 石川啄木
  読売テレビ 超時空バラエティ 目撃 ! タイムトラベール 14.03.23 放送

  「はたらけど はたらけど 猶(なお) わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」 一握の砂 より 
   で有名な歌人 石川啄木。

  ≪ 啄木は妻に浮気がバレている事を知らずに死んだ為、後に世間に浮気のことを広く知られてしまった ≫

  1905(明治38)年、19才で処女詩集を出版した年に、中学時代から交際していた堀合節子と結婚。

  【旧制 中学校】 尋常中学校 じんじょう‐ちゅうがっこう
   旧制で、高等普通教育を授けた修業年限5年(第二次大戦末期は4年)の男子中等学校。
   1886年(明治19)中学校令により開設。





  1909(明治42)年の事、啄木はローマ字で日記を書いていました。
  ある日、妻が啄木のローマ字日記を開いて見ています。 内容の一部には

  「予は妻・節子以外の女を恋しいと思ったことはある。他の女と寝てみたいと思った
   こともある。そして予は寝た。他の女と寝た。ミツ、マサ、キヨ、ミネ、ツル、ハナ、
   アキ、名を忘れたものもある。しかし、それは妻 節子と何の関係がある?」など
  浮気の事もRomaziで書いてありました。

  少し焦ったものの、節子は「私にはローマ字なんてチンプンカンプンです」と言っていたので、
  内容はバレていないだろうと思いました。
 


  26才で亡くなった啄木は「自分の死後、この日記は燃やすように」と遺言しました。しかし、節子はその日記を保管していた為、
  後に出版される事になりました。

  実は、節子はローマ字を読むことが出来ていたのです。この事を啄木は死ぬまで知らなかったそうです。

  【石川啄木】いしかわ‐たくぼく(岩手県生れ、1886~1912) 名は一はじめ
   歌人。与謝野寛夫妻に師事。社会思想にめざめ、和歌の革新を志し、口語をまじえた3行書きで生活感情をゆたかに盛る。
   歌集 1910年(明治43)刊の「一握の砂」、1912年(明治45)刊の「悲しき玩具」のほか詩・小説・評論など。

  【一握の砂】いちあくのすな
   石川啄木の歌集。1910年(明治43)刊。従来の短歌形式にとらわれず、生活に即した感情を平易に自由に表現した
   革新的な歌集。「東海の小島(こじま)の磯の白砂(しらすな)に われ泣きぬれて 蟹とたはむる …
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