手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の歴史雑学7 江戸時代1 
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このページの最終更新日:   18.09.22
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江戸時代の雑学3 江戸時代の雑学4 明治・大正時代1 明治・大正時代2
昭和時代の雑学1 昭和時代の雑学2 江戸時代の文献記述 東京付近の歴史 沖縄の歴史
 
  Page Contents



 遊女の歴史と吉原遊郭 平安時代の大坂の遊女 江口の君 (野崎観音中興の祖)

 京都・島原の吉野太夫  大坂・新町の夕霧太夫 新町花街の画像追加
 江戸・吉原の高尾太夫

 江戸時代の化粧 18.02.04追記 最も化粧するのは大坂、江戸の化粧事情は?
  江戸時代後期のファッション雑誌 『都風俗化粧伝』の内容 江戸の遊郭で流行った笹色紅。

 大奥 上臈、御中臈に支払われた給与の内訳


 徳川氏 (江戸幕府) の略系図

 江戸時代の主要街道

 実の子(伊達正宗)を毒殺しようとした義姫

 江戸時代に色んな髪型ができた


 大奥 書きかけ

 桂昌院 「玉の輿」の語源とも
  女性で最高の地位 (皇族を除く) を得た将軍の生母 

 江戸の火事の真実
 江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた
  ~ 時代劇で見る 江戸の町は嘘ばっかり!~


 江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

  江戸時代は江戸が中期以降最も人口が多かったわけですが、文化・経済の中心は京都・大坂で、庶民の生活レベルも
  上方の方が遥に豊かでした。

  テレビなどで流布されている「江戸が豊かで一番繁栄していた」「江戸が一番清潔で治安も良かった」←嘘。
  各種文献や史料をちゃんと読むと、これらが嘘である事が分かります。

  北前船・廻船、堺船などの起点となり、物流と情報の集散地であった大坂には舶来品・薬・米・各地の産物・銀・銅などが
  集まり、各地の大名で大坂商人から借金をしていない藩は稀でした。
  つまり、大坂マネーで日本の経済は動いていたのです。

  また、言葉・文化・技術などの多くも京・大坂を中心とした上方から日本各地に伝わり、中期以降において各地で特産品
  などが作られるようになりました。 詳しくは食の歴史6 江戸時代1のページ 三都の違いなど、各ページで確認してください。
  大坂が圧倒的に治安も良く豊かで清潔だった事も分かります。

  ちなみに庶民の生活レベルでは、明治・大正・昭和初期でも大阪の方が東京より上です。
  東京が追い付いてくるのは戦後の高度経済成長期頃からと思われます。

  おすすめサイト 歴史の雑学が色々と載っています。
  株式会社まぼろし 歴史雑談録 http://rekishi.maboroshi.biz/about/
  歴史研究所 『日本史』 http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
  NAVER まとめ 『再現された江戸時代の日本人の食事』 http://matome.naver.jp/odai/2134329123090279301
  こはにわ歴史堂のブログ http://ameblo.jp/kohaniwa/  ← 朝日放送 コヤブ歴史堂「こはにわ先生」の浮世博史さんのブログです。
  株式会社 井筒 企画 お祭り大好き 『江戸時代 -時代衣装あれこれ-』 http://www.iz2.co.jp/jidai/edo.html

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 徳川氏の略系図
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸幕府の確立』 14.09.19 放送 / 同 『江戸時代・近世の経済と産業』 14.10.03 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『やっぱりコワかった!? オンナの歴史』 17.05.11 放送





  【徳川家康】とくがわ‐いえやす 幼名、竹千代。初名、元康。(1542~1616) 松平広忠の長子。
   徳川初代将軍(在職1603~1605)。今川義元に属したのち織田信長と結び、ついで豊臣秀吉と和し、
   1590年(天正18)関八州に封じられて江戸城に入り、秀吉の没後伏見城にあって執政。








  江戸時代、大坂には長崎からの砂糖などの貿易品が堺船で独占的に運ばれ、輸入薬原料の9割も扱っていました。
  国内の様々な産物が北前船で集まり、国内で流通する米の4割ほどが大坂で取引されており『天下の台所』と呼ばれて
  いました。

  また、島根県の石見銀山をはじめ西日本中心に産出されていた銀は大坂で精錬され、日本からの主要輸出品となって
  おり、住友の銅吹所では銅を精錬し最盛期の1700年頃には銅の生産量世界一を誇りました。

  『東の金遣い(4進法)、西の銀使い(10進法)』という言葉あるように江戸は金貨、大坂は銀貨が主に遣われており、
  両替商は大坂に多くありました。日本各地の大名は大坂商人から借金して藩の財政を賄っていました。

  江戸時代の大坂は圧倒的な経済都市であり、日本経済は大坂マネーで回っていたと言ってもいいくらいです。

  大坂は文化物流拠点として、堺船 (-長崎)、北前船 (-西日本~日本海側、北海道・青森あたりまで)、菱垣廻船や
  樽廻船 (-太平洋側、江戸まで)、三十石船など(-京都) などへ物資や文化を集配するハブ港として機能していました。


  味と食の雑学6 江戸時代の食文化1   家康が作らせた江戸甘味噌   江戸の夏の名物 甘酒


  ≪ 豊臣を滅ぼす為に、名古屋城を含め15の城を築城した ≫

  1612年(慶長17) 名古屋城の天守が完成。



  【天下普請】てんか-ぶしん
   江戸初期に、江戸城・大坂城・名古屋城とそれらの城下町建設など、天下様(将軍)の命令で諸大名に分担させて
   行われた普請。

  【普請】ふしん
   元は、禅寺で大衆 (多くの人) を集めること。また、人を集め堂塔の建築などの労役に従事してもらうこと。
   転じて一般に、建築・土木の工事。






  1614年 名古屋城が完成。           Wiki 大坂陣
  (慶長19年11月) 『大坂 冬の陣』 
  家康は豊臣氏を滅ぼそうと謀り、方広寺の鐘銘事件を口実として大坂城を攻めたが、城が堅固で落ちず、翌月いったん
  和議を結んだ。

  1615年夏(慶長20年5月) 『大坂 夏の陣』 徳川家康が豊臣氏を滅ぼした戦い。
  徳川方が冬の陣の和議条約を守らず大坂城の内濠をも埋めたので、大坂方の将士は憤激のあまり豊臣秀頼を擁して
  再び兵を挙げたが、家康・秀忠の大軍に破られて、秀頼・淀君以下自刃した。

  1616年 家康の第9子 義直が名古屋城に入城し、御三家筆頭の尾張 初代藩主となる。

  国土交通省HPに掲載されている『江戸首都論』 (著者は東京生まれの大石学 東京学芸大学教授、歴史考証家)
 
 江戸時代の主要街道 東海道
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「にっぽん城下町めぐり ~国宝犬山城の桜をめざして~1 彦根城~柏原宿』 14.03.06 放送 / 広辞苑
  テレビ東京 所さんの学校では教えてくれない そこんトコろ 『老舗のお宝ハンティング!!』 14.04.18 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸幕府の確立』 14.09.19 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「百人一首ゆかりの地めぐり4 三条大橋~大津・蝉丸神社』 15.05.14 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸時代の経済と産業の発達』 19.09.27 放送

  日本の街道の整備は飛鳥・奈良時代の持統天皇から。東北から九州まで総延長6300㎞の広い道路を整備し、全ての
  道は奈良の藤原京が起点となっていました。また室町時代にも街道が整備されました。

  江戸時代に宿場町が作られ、宿場町の管轄車には旗本などが選ばれたようです。

  【五街道】
   江戸時代、江戸日本橋を起点とした五つの主要街道。東海道・中山なかせん道・日光街道・甲州街道・奥州街道の称。
   幕府の道中奉行が管轄。

  【東海道】

   ① 奈良時代の律令制下で定められた方行政区画『五畿七道の一つ』
     山城・大和・摂津・河内・和泉の畿内5カ国と東海・東山・北陸・山陰・山陽・
     南海・西海の七道。
     東海道は、畿内の東、東山道の南で主として海に沿う地。
     伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・
     上総・下総・常陸の15カ国の称。

   ② 江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋から西方沿海の諸国を経て京都に上る街道。
     幕府はこの沿道を全部譜代大名の領地とし五十三次の駅を設けた。

   御茶壺道中と「ズイズイズッコロバシ」   歌川広重 東海道五十三次


  大名の参勤交代は道が平坦な東海道が主に利用されたそうです。中山道は峠が多いため。

 1712年刊の和漢三才図絵の「摂津」の主な記述項目(石高・地名・産するものなど)、北前船・菱垣廻船など海路の経由各地




   【東海道名所記】とうかいどうめいしょき
   仮名草子。浅井了意あさい‐りょうい (京都の本性寺の住職) 作。6巻。1660年(万治3)頃刊。
   楽阿弥という僧が江戸見物をして連れになった若者と名所・旧跡を訪ね、狂歌を詠じつつ、東海道を京に上るという筋。
   「東海道中膝栗毛」などに影響を及ぼした。

東海道・中山道の西の起点・京 三条大橋 東海道・中山道の東の起点・江戸 日本橋

  【東海道名所図会】とうかいどうめいしょずえ
   京都から江戸に至る東海道の名所・旧跡の図解説明書。秋里籬島編。6巻。1797年(寛政9)刊。
   挿絵は主として竹原春泉斎・北尾政美。

  【東海道中膝栗毛】とうかいどうちゅうひざくりげ 本称「道中膝栗毛」または「膝栗毛」。
   滑稽本。十返舎一九作。初版本は初編から8編までに発端を加えて18冊。1802~09年(享和2~文化6)刊。発端のみ14年刊。
   弥次郎兵衛と喜多八が随所に失敗や滑稽を演じつつ東海道・京・大坂を旅する道中記。のち20年にわたり続編を出す。

  【十返舎一九】じっぺんしゃ‐いっく (駿府生れ、1765~1831)本名、重田貞一。
   江戸後期の戯作者。大坂に行き、近松余七と号して浄瑠璃作者となり、1793年(寛政5)江戸に出て戯作に従事し、
   滑稽本を得意とした。作「東海道中膝栗毛」「江之島土産」など。


  【中山道・中仙道】 五街道の一つ。
   江戸日本橋から板橋へ出て、上野こうずけ
   信濃・美濃などを経て、草津で東海道に
   合流し、京都に至る。69宿。

  【甲州街道】 五街道の一つ。
   江戸日本橋から甲府を経て下諏訪に至る
   街道。下諏訪で中山道に合する。甲州道中。

  【日光街道】 五街道の一つ。
   江戸時代の江戸から日光に達する街道で、
   宇都宮で奥州街道と分かれる。千住・草加
   など23宿があった。日光道中。

  【奥州街道】 五街道の一つ。
   江戸千住から奥州白河に至る街道(奥州
   道中)。一般には陸奥三厩みうまやまでの
   街道を指す。

  【羽州街道】うしゅう‐かいどう 秋田道。
   奥州街道の現福島県伊達郡桑折こおりから
   分岐して羽州地方を経て青森に至る近世の
   脇往還わき‐おうかん (脇道のこと)。

  【三国街道】みくに‐かいどう
   中山道の高崎から三国峠を越え、越後に
   至る街道。現在の国道17号線。三国通り。




  【北国街道】ほっこく‐かいどう
   北陸道と中山道を連結する街道。信濃国追分で中山道と分かれ、小諸・長野を過ぎて直江津で北陸道に合する。

  【北国路】ほっこく‐じ
   中山道関ヶ原・鳥居本宿から琵琶湖東岸・日本海岸を経て陸奥に至る街道。

  【伊勢街道】
   伊勢神宮への参詣道の称。東海道の日永ひなが (今、四日市市)から南下する道と、関せきから南下する道とが特に
   重要で、後者を伊勢別街道とよぶ。参宮街道。

  【熊野街道】
   熊野三社への参詣道。東の伊勢からと、西の紀伊からの二つがある。京都方面からの熊野参詣はふつう紀伊経由。

  【京街道】 大坂街道とも。
   大坂京橋に発し、守口・枚方・淀・伏見の4宿を経て京都に入り、大和大路となる街道。

  【山陰道】 五畿七道の一つ。せんいんどう。古称、そとものみち。
   丹波・丹後・但馬たじま・因幡いなば ・伯耆ほうき・出雲いずも・石見いわみ・隠岐おきの8カ国。
   現在の中国地方・近畿地方の日本海側。また、これらの各地を通ずる街道。

  【西国街道】
   京都から西へ向かう街道。九条通から久世橋で桂川を渡り、淀川北岸の高槻・茨木を経由し、兵庫県西宮市で山陽道と
   合する。

  【山陽道】 五畿七道の一つ。
   播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の8カ国。また、これらの諸国を通ずる街道。











  【箱根の関】はこね-の-せき
   江戸時代初めに設置された、東海道の箱根山中の関所。三島・小田原の両宿の中間にあり、箱根宿の東方の入り口で、
   北は芦ノ湖に面し、南は山を負い、要害の地。小田原藩主が預かり、特に入鉄砲出女の取締りが厳重であった。

  【新居の関・荒井の関】あらい-の-せき
   1601年(慶長6)徳川氏が浜名湖の湖口の西(今の静岡県浜名郡新居町)に置いた関。

  【今切】いまぎれ
   静岡県西部、浜名湖が海に続く湖口。1498年(明応7)大地震で砂州が切れて海とつながる。江戸時代に渡船が通い、
   今切の渡または荒井の渡といった。関所があり、特に女人の往来を取り調べた。

  【入鉄砲出女】いりでっぽう-でおんな
   江戸幕府が、江戸に入る鉄砲と江戸から出る女性を箱根などの関所で特に厳重に改めたこと。
   謀反を警戒して武器の流入と諸大名の妻女の脱出を防ぐため行った。






 1712年刊の和漢三才図会の「摂津」の主な記述項目(石高・地名・産するものなど)、北前船・菱垣廻船など海路の経由各地


  NHK Eテレ 高校講座 世界史 『明代の中国 ~東西文化の交流~』 14.09.05 放送

  ≪ 明 (中国) で、アジアを中心とした初めての世界地図が描かれる ≫

  【坤輿万国全図】こんよばんこくぜんず … 中国最初の世界地図。1602年、マテオ=リッチが北京で刊行。
   実物は 高さ 約 170㎝ × 横幅 約 400㎝ の大きさ。

  【マテオ‐リッチ】Matteo Ricci (1552~1610) 漢名、利瑪竇りまとう
   イタリアの宣教師。イエズス会士。1582年マカオに着き、中国で布教して西欧文化を紹介。徐光啓らと親交を結ぶ。
   北京で没。著「天主実義」「幾何原本」など。

坤輿万国全図の日本の部分 『日本海』の表記が見られます。


  この地図は欧州で書かれていたものをマリオ・リッチが漢字に直し、アジアを中心に
  描いた地図。日本にも輸入されました。

  『亜細亜』『日本海』『赤道』という単語は、欧州の言葉を中国語に翻訳して16世紀後半に
  作られた言葉だそうです。

   ※マテオ・リッチが書いた現物ではないので、上記の地図は日本で文字を書き直した物かも知れません。
    しかし、16世紀後半には、欧州や中国でも『日本海』と使われていたようなので、
    近年の韓国の「『日本海』を『東海』『韓国海』などに替えろ」という主張は世界的に通用しません








  1570年頃、欧州で書かれていた日本の地図はもっと漠然とした図でしたが、天正遣欧使節団が欧州に行った事で
  日本列島らしい形に描かれるようになりました。

  【天正遣欧使節】てんしょう‐けんおうしせつ
   天正10年(1582)ヴァリニャーノの企画により、九州のキリシタン大名大友宗麟・有馬晴信・大村純忠がローマに
   遣わした使節。伊東マンショ・千々石ちぢわミゲルを正使、中浦ジュリアン・原マルチノを副使とし、教皇グレゴリウス
   13世に謁見、同18年帰国。
 
 実の子を毒殺しようとした義姫
  TBS 世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリー 『日本の歴史悪役10人』 12.06.13 放送 /  / Wiki 伊達正宗 など より

  【義姫】よしひめ (1548~1623) 出羽国(山形・秋田両県の大部分)の戦国大名 最上義守の娘。
   最上義光の2歳下の妹にあたる。伊達輝宗の正室で、伊達政宗の母。米沢城の東館に住んだことからお東の方とも
   呼ばれた。出家後は保春院

  義姫は実子であり長子の正宗を嫌っており、弟の小次郎ばかり可愛がり、跡継ぎにしようとしていた。  Wiki 義姫
  1590年(天正18)、義姫自身が毒入りの膳を政宗に差し出す事件が起こったとされてきた。
  政宗は毒を口にしたが、解毒剤のおかげで難を逃れたという。この件により母子の対立は頂点に達し、政宗は弟
  小次郎を自ら斬殺したと伝わる。

  ただし、この毒殺未遂の根本史料は伝わっておらず、話が詳細に伝わるのは江戸時代の記録「治家記録」など
  によるもので、治家記録では食事をする前に御膳番衆が企みを見抜き、政宗はそのまま帰宅したとされているが、
  これについても否定的な見解があり、この混乱期の政情については諸説あるのが現状である。

  兄 義光の死後、後任の大名が来るので、身を寄せていた最上城を明け渡さなくてはならなくなり、義姫は行き場を
  失った。1623年(元和9)、正宗は義姫を仙台城に迎え入れる。

  手紙のやり取りや仙台城に迎え入れられた際、二人が交わした和歌の内容や、政宗の発言からして、晩年には
  義姫・政宗母子は完全に和解していたとみられる。






  【伊達政宗】だて‐まさむね(1567~1636) 輝宗の子。
   安土桃山・江戸初期の武将。父の跡を継ぎ覇を奥羽にとなえたが、1590年(天正18)豊臣秀吉に服属。
   幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼せきがんとなったことから後世独眼竜と呼ばれた。
   のち関ヶ原の戦および大坂の陣に功をたて仙台62万石を領した。また、その臣 支倉はせくら常長を海外に派遣。

   ※ 正宗の独眼竜に関しては、右目が碧眼だった為、義姫が嫌った。という説も聞いたことがあります。


  関西テレビ NMBとまなぶくん 『歴史芸人が教える おもしろ歴史雑学!! ウソ? ホント? 戦国武将の真実」』 15.05.08 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅20 「宮城県・仙台市~多賀城市へ」』 15.09.03 放送

  ≪ 伊達正宗 ≫

  江戸時代、仙台藩は62万石。加賀の前田家、薩摩の島津家に次ぐ3番目の石高。初代藩主が伊達政宗。

  「生まれながらにして、片目が不自由だったというイメージを持たれると、五体満足に生んでくれた母親に申し訳ない」
  として、肖像画や銅像など後世に形が残る物には、両目が開いている状態のものを描かせたそうです。

  合戦中に「じゃまだから」という理由で、味方の軍勢を敵もろとも射撃し、壊滅させた事がある。
  50億円相当の茶器を落としそうになったが、ぎりぎりキャッチできた。しかし、自分を慌てさせたという事で、
  茶器をその場で叩き割った。






  正宗の墓である瑞鳳殿は1637年に2代目藩主の伊達忠宗によって建てられました。昭和6年に国宝に指定。戦災で焼失し
  昭和54年に再建。
  再建前の昭和49年の発掘調査で、実際に正宗の遺骨がある事を確認。保存状態がよく、落馬で骨折した跡が確認され
  史実と一致しました。推定身長159.4㎝、骨と髪のDNA鑑定から血液型はB型だったと判明しました。

  仙台味噌と宮城県の製塩事業の始まり  仙台駄菓子、 江戸の米市場の1/3を仙台藩の米が占めていた事もあった。← 政宗が行ったもの。
 
 遊女の歴史と吉原遊郭
  NHK大阪 歴史ヒストリア 『花魁 の真実 ~江戸・吉原遊郭の光と影~』 13.01.23 放送
  動画 → http://v.youku.com/v_show/id_XNjQwNzkxODQw.html?from=y1.2-1-87.3.2-2.1-1-1-1 中国のYOUKUという動画サイトです。

  OldPhotosJapan.com 『明治・大正・昭和の古い写真・各地の遊郭』 http://www.oldphotosjapan.com/ja/
   http://www.oldphotosjapan.com/ja/%e3%82%ab%e3%83%86%e3%82%b4%e3%83%aa/prostitution/ 

  毎日放送 ちちんぷいぷい 『南光と美術館にいこう! 「天才絵師たちの肉筆浮世絵  大阪市立博物館 "肉筆浮世絵展"」 15.05.14 放送

  遊郭や遊女に関する記述は、幕末の「守貞謾稿」下巻と「皇都午睡」三編の考証随筆に多く書かれています。

  1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家)
  巻之九 「娼妓」 嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
   その事象について書いてある各書から、その部分を抜き出して収集した本。


  ≪ 遊女 ≫

  「ゆうじょ」と呼ばれるようになったのは、安土・桃山時代に遊郭が公許されてからの事で、それ以前は「うかれめ」「あそびめ」
  「たわむれめ」などと呼ばれていたようです。

  1028~1092年『栄華物語』の「松のしつえの巻」に「…江口のあそび ふたふねばかり参り…」と出てきます。
  『嬉遊笑覧』には「江口」の事が登場する各書の部分が集められています。

  【栄花物語・栄華物語】えいがものがたり
   歴史物語。40巻。藤原道長の栄華を主とし、仮名文で編年体に記す。正編30巻は赤染衛門編とする説が有力で、
   宇多・醍醐天皇の代に筆を起こし、道長の死の翌年に至る。続編は堀河天皇の代、寛治6年(1092)2月に至る。
   前後15代200年。巻々に物語らしく題名をつける。世継よつぎ物語。

  遊女・遊郭年表 759~1798年 http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/history/yuujyo.htm
  遊女・遊郭年表1800~1958年 http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/history/yuujyo2.htm

  平安時代中期頃、江口 (大阪市東淀川区)、蟹島(大阪市淀川区加島)、神崎 (兵庫県尼崎)は遊女の里として栄えました。
  江戸時代の1796 (寛政8) ~1798 (寛政10) 年に刊行された摂津名所図会に『江口里』がありますので、長らく続いた遊里の
  ようです。

  【遊女記】 コトバンク より
   平安末期の漢文体の短文。漢文学者大江匡房が,江口や神崎の遊女たちの様を書き記したもの。それによると,
   当時西国から京への交通の要所にあたる神崎川には江口,神崎,蟹島などの遊里が発達していた。
   遊女たちは小舟に乗って通行する舟に近づき客をとるが,その数は水面が見えなくなるくらい多く,客は故郷や家族のことを
   忘れて遊んだという。卿相から庶民まで客の階層は広く,なかには関白藤原道長,権大納言頼通らに愛される者もあった。

  【傀儡子記】くぐつき コトバンク より
   大江匡房(まさふさ)が芸能を記録した晩年の著。1巻。成立年不詳だが,寛治年間(1087‐94)以降の成立であろう。
   平安時代の人形回し傀儡(くぐつ)の生活,風俗等を記したもので,風俗史,芸能史の貴重な資料。
   傀儡子(傀儡)は,元来は人形を操って生計を立てる芸人を指していたようだが,日本では同時に歌舞,売媚などもする
   遊女のようなものであった。
   本書によれば,彼らは水草を追って移動する流浪の徒であり,男は弓馬を使って狩猟し,弄剣の伎を見せ人形を舞わせ
   手品めいたこともする。
   女は厚化粧を凝らし倡歌淫楽して媚を売る。生活は不安定であるが,流浪生活ゆえ課役徴税は受けない。

  【大江匡房】おおえ‐の‐まさふさ (1041~1111)
   平安後期の貴族・学者。匡衡の曾孫。江帥ごうのそちと称。後冷泉以下5代の天皇に仕え、正二位権中納言。
   また白河院の別当として白河院政を支えた。著「江家次第」「本朝神仙伝」「続本朝往生伝」など。
   その談話を録した「江談抄」がある。

  【江口の君】えぐち-の-きみ
   江口にいた遊女。特に、西行と歌を詠み交わしたとされる遊女 妙たえ (鎌倉時代の
   説話集『撰集抄せんじゅうしょう』)、普賢菩薩と化現したところを性空上人が見たという
   遊女 (1252年成立の『十訓抄じっきんしょう』・1212~15年の『古事談』) を指す。
   この説話によって白象に乗る遊女の姿を普賢の図とする。

  【江口】
   ① 大阪市東淀川区の地名。神崎川が淀川の本流から分かれる所。
   昔は、西海と京都との航路上の河港で、遊女もいて繁昌した。
野崎観音(慈眼寺)の中興の祖

   ② 能。観阿弥 作の原曲を世阿弥が改作した鬘物。江口の遊女が西行と歌を詠み交わしたこと、遊女が普賢菩薩の
   化身であったという伝説などを脚色する。

  【加島】かしま
   大阪市淀川区加島付近、神崎川の河口にあった地。古く要港神崎の対岸で、遊女の町として知られる。
   更級日記(1020~1058)「―見て鳴戸の浦に漕がれ出づる心はえきや磯のあま人

  1796 (寛政8) 年~1798 (寛政10) 年に刊行された『摂津名所図会』巻の参「東生郡・西成郡」に江口の君の事が
  書かれてあります。


  神奈備 『江口の君堂(寂光寺)』 http://kamnavi.jp/dk/egutinokimi.htm ←『遊女記』などが載っています。
  十三のいま昔を歩こうブログ 『西行と江口の君堂』 09.11.05 配信 http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-347.html

  遊女・江口の君と野崎参り  平安末期のキーマン西行  人形芝居の始まり西宮戎神社


  一休禅師地獄太夫図は明治18~22年頃に河鍋暁斎(下総国1831~1889)が
  描いたもの。
  一休さんに教えを乞いに来た堺の遊女「地獄太夫」が一休宗純 (室町時代1398
  ~1481)と、三味線を持った骸骨と共に踊っている様子が描かれています。

  米国の実業家ウェストン氏の浮世絵の肉筆画 (直筆の一点物) コレクション
  (豊国の時世粧百姿、歌麿、北斎の美人画など) が、日本で初公開
  (大阪市立美術館で~2015年6月21日まで公開) された130点のうちの一つです。

  地獄太夫は、桃山時代に堺の遊郭に実在した遊女で、一休禅師地獄太夫図
  というタイトルで多くの絵師が描いているようです。(画像検索すれば、複数あります。)

  真言宗 福仙寺 (下関市) 『15) このボードの画は 丸山応挙の写し 『一休禅師と地獄太夫』』
   http://www.navitown.com/fukusenji/news/news.cgi?mode=dsp&no=18&num=


  ≪ 遊郭の始まり ≫ Wiki 遊郭 より

 権力の統制と保護を受け、遊廓として1箇所に集められるのは、近世以降のこと
  である。豊臣秀吉の治世に、遊廓を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が
  願い出を秀吉にしており許可を得ている。

  今の大阪の道頓堀川北岸にも遊廓がつくられた。その5年後の天正17年(1589年)
  には、京都・二条柳町に遊廓が作られた。

  1589年(天正17)に秀吉によって開かれた京都の柳原遊郭をもって遊郭の始まりと
  する説もある
  大阪と京都の遊廓は寛永(1624~1644)年に新町(新町遊廓)と、1640年(寛永17)
  に朱雀野(島原遊廓)に移転した。
 一休禅師地獄太夫図 (1885~1889頃)


  大坂の新町遊廓京都の島原遊廓江戸の吉原遊廓は、三大遊廓と呼ばれて大いに栄えた。
  新町の夕霧太夫、島原の吉野太夫、吉原の高尾太夫などは名妓と言われ、有名である。

  この他にも江戸時代には、全国20数箇所に公許の遊廓が存在した。
  最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原ができた頃には300軒近い遊女屋があったと言われている。

  【遊郭・遊廓】ゆう‐かく
   多数の遊女屋が集まっている一定の地域。色里いろざと。いろまち。くるわ(曲輪・郭・廓)。遊里。傾城町けいせいまち
   明治以後、貸座敷営業が許可された地域。

  【恋郭・恋廓】こい-ぐるわ … 遊里・遊郭。 【恋商人】こい-あきびと … 遊女・女郎。 【娼妓】しょう-ぎ … 公認された売春婦。

  【新町】しん‐まち  Wiki 新町遊郭
   大阪市西区新町橋の西にあった遊里。寛永(16241644)年中、幕府から新たに地を賜って一郭を開き、諸方の遊女を
   集めたのを起原とする。京の島原、江戸の吉原とともに日本三郭の一つ。

  【島原】しまばら Wiki 島原 (京都)
   京都市下京区の西部、西新屋敷と称して遊郭のあった地。
   1640年(寛永17)六条三筋町からここに遊郭を移し、当時起こった島原の乱に因んで生じたという俗称。

  【丸山】まるやま  Wiki 丸山 (長崎市)
   長崎の遊里。江戸時代には、京都の島原、大坂の新町、江戸の新吉原とならんで繁栄した。

  丸山遊女の生活 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/20465/KJ00005098122.pdf

  Wiki 中村遊廓
  Inukai's Home Page 『旭廓沿革史』 http://www.geocities.jp/toshiyoshi66jp/naka/yukaku1.htm
   名古屋に遊里ができたのは、遠く慶長年間にまでさかこぼる。慶長15年(1610)名古屋城築城に集まるおびただしい
    数の男たちへの必要から、徳川家康が許可したのが現在の本町と長者町筋の間、南北には広小路と蒲焼町に
    囲まれた一帯の最初の遊里であった。 

  『守貞謾稿』によると、幕末頃の官許の遊女町地域は全国で25ヶ所。(東北地域の記載はありません。)


  ≪ 慈悲深い女性として描かれる 京都島原の吉野太夫 ≫  Wiki 吉野太夫 より抜粋 16.05.14

  吉野太夫は京都の太夫に代々伝わる名跡であり、初代から数えて10代目まであったと伝えられています。

  初代の吉野太夫は安土桃山時代の人物で、本阿弥光悦などの文化人と交流があったとされており、現代においては
  吉川英治作の「宮本武蔵」における登場人物として知られています。
  末代の吉野太夫は寛文期もしくは延宝期(1670年代頃)の人物であったとされているそうです。

  2代目 吉野太夫 (京都生まれ、1606~1643。本名:松田徳子) は、六条三筋町(後に島原に移転)「七人衆」の筆頭の
  太夫。夕霧太夫、高尾太夫とともに寛永三名妓といわれるそうです。命日の8月25日(新暦10月7日頃) は吉野忌として
  俳句の季語にもなっています。

 幼少のころに禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、禿名は林弥(りんや)といった。
  14歳で太夫になる。和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、さらに書道、茶道、香道、華道、
  貝覆い、囲碁、双六を極めたという。

  また太夫18人の絢爛豪華な衣装を纏う集いの中、寝床から寝乱れ姿で出てきたにもかかわらず圧倒的な存在感を
  放ったといわれるほどの美貌を備えていた。

  才色兼備を称えられ国内のみならず、遠くは明国にまで「東に林羅山、西の徳子よし野」と聞こえていると言わしめる
  ほど名を知れ渡らせ、馴染み客には後陽成天皇の皇子で近衛信尹の養子である関白近衛信尋や、豪商で、当時の
  文化人の一人である灰屋紹益がいた。寛永8年(1631年)、退廓・紹益と結婚。時に26歳。
  寛永20年(1643年)に死去、38歳であった。

  吉野はまた、慈悲深い女性として時代を経てなお賛辞されている。

  井原西鶴の好色一代男に吉野太夫の話が出てくるそうです。

  【好色一代男】こうしょくいちだいおとこ
   浮世草子。井原西鶴作。8巻8冊。1682年(天和2)刊。浮世草子の最初で、好色本の始祖。
   主人公世之介1代の色欲生活に関する短い説話を連ね、大坂・江戸・京都などの女色・男色の種々相を活写。

  【好色一代女】こうしょくいちだいおんな
   浮世草子。井原西鶴作。6巻6冊。1686年(貞享3)刊。女主人公の長い生涯の中に女性の淪落の経緯を叙したもの。

  歴史くらぶ 『吉野太夫 関白と豪商が身請けを競った、諸芸を極めた稀代の名妓』 http://rekishi-club.com/?p=5167
  戦国武将列伝Ω 『吉野太夫とは~よしのたゆうは美貌だけではない優秀な女性だった』 http://senjp.com/yoshinotayuu/

  関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『関西今昔ウォーカー 「大阪・西区新町の今昔ぶらり歩き」』 17.02.10 放送

  ≪ 浄瑠璃など多くに描かれた 大坂新町の「夕霧太夫」 ≫ Wiki 夕霧太夫

  大坂新町には江戸時代中期の元禄年間には800名を超える遊女がいたそうです。
  『守貞謾稿』下巻によると、天保十四年刊の本の内容を記載しており、太夫以下遊女686人+芸子349人=合計1035人。

  一説によると現在の京都市左京区嵯峨の近く生まれ。京の島原にある「扇屋」の太夫となり、のち「扇屋」の移転にともない
  大坂の新町の太夫となりました。容姿秀麗、才気煥発、諸芸に優れた名伎として名をはせました。
  病により20代で亡くなり、命日の旧暦1月7日 (新暦2月27日頃) は「夕霧忌」として俳句の春の季語にもなっています。

改正増補 国宝大阪全図

零標 大阪新町・細見之図

摂津名所図会

明治10年創業の廣井堂

  零標みをづくし大阪新町細見之図は1757 (宝暦7) 年 浪華藪人〔編〕・播摩屋佐兵衛〔出版〕。
  摂津名所図会は1796~1798 (寛政8~7) 年に刊行。改正増補 国宝大阪全図は1863 (文久3) 年。

  【夕霧】ゆうぎり 名は照。(1654~1678) 没齢は、22才または27才説もあります。
   江戸前期の名妓 (有名な芸妓、すぐれた芸妓)
   大坂新町扇屋城四郎兵衛の抱え。藤屋伊左衛門との情話は戯曲などに脚色。

  【夕霧伊左衛門】ゆうぎり-いざえもん
   吉田屋の遊女 夕霧と藤屋伊左衛門との情話を主題とする作品群の通称。
   浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡(1712年、近松門左衛門)」「傾城阿波鳴門けいせい-あわのなると(1768年、近松半二と他の合作)」
   「廓文章くるわ-ぶんしょう」などが有名。


  【夕霧阿波鳴渡】ゆうぎり-あわのなると
   浄瑠璃。近松門左衛門 作の世話物。1712年 (正徳2) 初演。
   名妓 夕霧と藤屋伊左衛門との悲恋およびその子をめぐる悲劇を描く。上の巻「吉田屋」の段が名高く、改作の「廓文章」は
   歌舞伎にも上演。

  夕霧阿波鳴渡
 年の内に春は来にけり一臼(うす)に。餅(もち)花開く餅搗(つき)の賑々はしや九軒町。嘉例の日取吉田屋の。庭の竈(かまど)
  難波津の。歌の心よ蒸籠(せいろう)の湯気の大杵(ぎね)。おろせの長兵衛が。大汗で。やあえい。中居の万が臼取のさっ。
  やあえい。さっやあえいさっ。さっさ搗け
  ハッア木遣で搗きゃれな。先づ恵方棚神の棚鏡(かがみ)とる遣手(やりて)衆の。顔に取粉(とりこ)の面白いとて妓(よね)衆の笑ひ。
  禿(かぶろ)が手折る柳の枝の。春も近づく。年も近づく。やがて廓(くるわ)も谷の戸も。出でて初音の。鶯の。羽(はね)づくろひの
  君も有り。正月買(かい)の。大々尽(だいだいじん)。太夫様より附届。門(かど)を売る声山草や。ちょっと祝ひましょ裏白譲葉(ゆずりは)
  (ごまめ) でござんせの春永(はるなが)に。いよしも変らぬ御見(げん)まで。逢瀬を契る餅は杵。搗いて離れぬお客を祝ひ。
  臼へ入れます。益々全盛。座敷は善哉(ぜんざい)。庭には節季候(せきぞろ)こりゃ又めでたい。揚屋の餅搗。
  紋日の長持お客に太鼓持。こりゃ又にぎ〜女郎衆に鑓持。お家は金持。代々福々。松吹くふく松風や松売る。
  声こそ。恋風の。其の扇屋の。金山(かなやま)と。名は立上(のぼ)る夕霧や秋の末よりぶら と。寐たり起きたり面(おも)痩せて。
  薬も日数降る雪の。重(おも)らぬ先(さき)の養生と。勤(つとめ)も心まゝなれど。深き好(よしみ)の吉田屋は。足許軽(かろ)き道中や。


  【傾城・契情】けいせい
   平安時代頃は「美人」の意味。江戸時代は「遊女」、近世では特に太夫をさす。

  【錦之裏】にしきのうら
   洒落本。山東京伝 作・画。1冊。1791年(寛政3)刊。夕霧伊左衛門の情話をもととし、夕霧の伊左衛門に対する真情を描く。
   「娼妓絹麗しょうぎきぬぶるい」「仕懸文庫しかけぶんこ」と共に絶版を命ぜられた。

  【仕懸文庫】しかけ-ぶんこ … 遊里で、遊女の着物を入れて運ぶ手箱。

  Tenyu Sinjo.jp 『新町遊廓の仕組み』 ← 新町遊郭の事が詳しく書かれてあります。島原や吉原より新町の揚屋は豪華だっようです。
   http://tenyusinjo.web.fc2.com/sinmatiyukaku/5sinmatisikumi/sinmatisikumi.html

  大阪大坂)新町細見之図 澪標」に「京の女郎に江戸吉原の張りをもたせ、長崎丸山の衣裳を着せて、大坂新町の揚屋で
  遊びたい」と書いている箇所がある。

大正11年 新町演舞場

昭和10年代

昭和30年頃

昭和50年代後半


  時代とともに変化していきますが、昭和50年代後半頃までは花街として料亭やお茶屋が残っていたそうです。
  女優 中村玉緒さんの祖父にあたる初世 中村雁治郎さんの生誕地の碑が新町にあります。

  【中村雁治郎】なかむら-がんじろう (大阪の人、1860~1935)。 2世 雁治郎は初代の次男(1902~1983)
   3代中村翫雀の子。和事の名人として上方歌舞伎の王座を占めた。

  カフェブームがあった2000年頃、南船場の次に注目され、飲食店や小さな雑貨・ブティックなどが事務所ビルやマンションの
  一階部分に出来ました。

  大阪あそ歩 『上本町駅(近鉄難波線・大阪線⑤ )大阪中が泣いた! 名妓・夕霧の墓へ』
   https://www.osaka-asobo.jp/course_station/295.pdf
  Tenyu Sinjo.jp 『夕霧太夫』 http://tenyusinjo.web.fc2.com/sinmatiyukaku/7yugiri/yugiri.html
  厳選! 深読み・政治 外交 経済 = 「韓国の横暴を考える」ブログ 『最大の遊郭街・新町 伝説の夕霧太夫「命とりの床上手」=福嶋敏雄』
   13.06.15 配信 http://blog.livedoor.jp/dara920-ballad_rb/archives/29378410.html


  ≪ 吉原の「高尾太夫」 ≫  Wiki 高雄太夫  Wiki 紺屋高尾 (落語)

  吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名されました。
  何代続いたかは諸説あるそうですが、堀野書廛(1783-1842)の『高尾年代記』では、三浦屋の高尾は10代としています。

  【高尾】たかお
   江戸吉原の三浦屋四郎左衛門抱えの遊女。前後11人ある。
   初代は子持高尾と称し、寛永 (1624~1645) 頃の人。
   2代は万治高尾・仙台高尾・石井高尾などと称し、容姿艶麗、和歌と書を巧みにした。
    (歴代のうち最も有名で、仙台藩主・伊達綱宗との事件が、伊達家の御家騒動絡めて浄瑠璃や歌舞伎の作品に登場)
   5代の西条高尾は京都島原の名妓 春との献酬で有名。(←落語の紺屋高尾のモデルとされるようです)
   10代の榊原高尾 (越後高尾) は、姫路藩主 榊原政岑 (1713頃~1743年) に落籍 (身請け) され、政岑は隠居を命ぜられた。
   世俗に伝える仙台侯の遊興は、戯作者がこの事件を付会したものという。

  【高尾懺悔】たかお-ざんげ
   歌舞伎舞踊。長唄。本名題「高尾懺悔の段」。1744年 (延享1) 初演。
   初世 杵屋新右衛門 作曲。傾城高尾の亡霊が、在りし日の追懐、今の地獄の責苦を語る。
   のち荻江おきえ節 (明和年間1764~1772年に長唄から分派し歌舞伎を離れた座敷芸となった)に移曲。
   富本節・清元節でも、のちに同じ趣向の曲が作られる。

  【伽羅先代萩】めいぼくせんだいはぎ
   (伽羅は伊達綱宗が伽羅きゃらの下駄で吉原に通ったという巷説により、先代萩は仙台名産の萩に因む)
   ① 歌舞伎脚本。5幕。奈河亀輔作の時代物。1777年(安永6)初演。仙台の伊達騒動を鎌倉の世界に脚色し、遊女高尾の
     吊つるし切り、奸臣のお家横領の計画、乳人めのと政岡の忠義などに仕組む。先代萩。
   ② 人形浄瑠璃。松貫四ほか合作の時代物。と同じ題材を脚色。1785年(天明5)初演。


  ≪ 吉原遊郭 ≫

  【吉原】よしわら Wiki 吉原遊郭
   江戸の遊郭。1617年(元和3)市内各地に散在していた遊女屋を江戸城に近い日本橋
   葺屋町ふきやちょうに集めたのに始まる。
   明暦の大火1657年3月2~4日に全焼し、千束日本堤下三谷さんや(現在の台東区千束)に移し、
   新吉原と称した。北里・北州・北国・北郭などとも呼ばれた。(異称、ありんす国)
   売春防止法(1956年制定、翌年施行)により遊郭は廃止。


  新吉原遊郭は、田んぼしか無い場所に作られ、当時の遊郭では2万坪という最大の広さ。
  周囲に水路を張り巡らせ城郭のように隔絶した地域でした。
  出入り口は吉原大門のみで、これより中に入ると、身分や地位は全く関係のない場所とされていました。現在のテーマ
  パーク的なもの。その為、敷地内では籠の使用は禁止、武士も刀を吉原大門で預けなければなりません。




  身分に関係なく集まれるので、昼間は狂歌会などか開かれ、武士・商人・絵師などの交流が行われました。
  新吉原以降、出身の田舎言葉では、通じない、田舎臭いなどの差し障りがあったので、吉原言葉「ありんす言葉」が
  作られたようです。

  美人画の浮世絵師 喜多川歌麿 (巨大美人画3部作 「雪月花」) 山東京伝、歌川豊国など

  【吉原言葉】よしわら‐ことば
   江戸吉原の遊女などが奴詞やっこ言葉をまねて用いた特殊な言葉。里言葉。ありんす(「あります」の丁寧な言い方)。

  【土手節】どて-ぶし
   江戸時代の流行唄はやりうた。江戸吉原に通う人が土手 (吉原の入り口の土手、吉原土手) で唄ったのに始まるといい、
   1670 (寛文10) 年頃から流行。元禄太平記土手節うたうてゆく所へ

  【元禄太平記】げんろく-たいへいき
   浮世草子。都の錦 (本名 宍戸与一、1675~) 作。8巻8冊。1702 (元禄15) 年刊。伏見の夜船で、京・大坂の本屋が
   出版界の情況、作者・学者の評判等を語り合う筋で、一種の文化時評的性格を持つ。井原西鶴批判でも有名。





  吉原の中央大通りは「仲之町」と呼ばれ、江戸町民の老若男女が花見を楽しめるような演出もしていました。
  春になると、咲いた桜を持ってきて植え、散る前には桜の木を撤去。一年中、様々な演出や仕掛けで客を楽しませていたそうです。





  【江戸桜】えど‐ざくら
   ① (江戸に多かったからいう)染井吉野 (エドヒガンとオオシマザクラの雑種とされ、江戸染井の植木屋から売り出された
     という) の別称。
   ② 江戸時代に流行した白粉おしろいの名。また、その発売店の名。

  【江戸の水】 … 江戸時代の戯作者 式亭三馬。(1776~1822)が売り出した白粉下おしろい-した用の化粧水。

  【岡場所】おか‐ばしょ   Wiki 岡場所
   江戸にあった私娼ししょう地の称。官許の吉原 (公娼) 以外の許可なく非合法に営業する売春宿、深川・築地・品川・新宿など。

  【青楼】せい‐ろう (昔、中国で青漆を塗ったからいう)
   美人のいる楼。揚屋あげや。女郎屋。妓楼。江戸では官許の吉原を私娼街と区別していう場合が多かった。

  【阿万が飴】おまん-が-あめ 広辞苑
   天保 (1830~1844) の頃、江戸市中に流行した飴売りで、女の身ぶり声色こわいろをつかって
   呼び売りをしたもの。


  ≪ 貞享・元禄年間 新吉原通いは上方商人が占めていた ≫

  三田村鳶魚によると、吉原では1668年頃から魚油で灯篭をつけ始め、徐々に明るくなり吉原は夜の街になっていったようです。
  江戸には上方からの下り油(綿実油)と関東の地油(サンマなどの魚を搾った油)があり、油は米よりも遥かに高価でした。
  江戸時代中期になると、吉原通いは金持ちである上方商人が占め、上方の文化が吉原にも広まります。
  宝暦年間 (1751~1764) の末から、大坂の景気が一時悪くなったようです。
  これ以降、吉原遊郭は大衆化し始めたと思われます。


  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205

  この書には江戸の芸者や遊女に関する事が多く書かれてあります。

  『江戸のさまざま』P.323~「上方の商人」によれぱ、1月10日と10月20日の2回のゑびす講 (戎祭) が開かれていた
  そうです。10月20日の方は「誓文払い」という行事ですが、三田村鳶魚によると実質は戎祭と同じもの。

  元禄 (1688~1704年) 版の吉原草摺引 (遊女評判記) に正月廿日ゑびすこう、あげやのゑびすこうは、外にするもあり
  十月廿日、ゑびすこうちうやとあるそうです。江戸で10月20日のゑびす講を行っていたのは、上方商人だけなので、江戸
  商家の年中行事には1月のゑびす講しか載っていない。

  貞享 (1684~1688) ・元禄以降、新吉原通いは財力に富んだ上方商人が占め大名や旗本が通う事がなくなった。
  その為、新吉原では10月20日のゑびす講が大物日(重要な日) になった。という事が書かれてあります。
  また、元禄6年の金銀貸流通高1323万4058両と言われる時に、上方商人は諸大名に対し12~1300万両の債権を持って
  いたと推量され、上方商人は圧倒的な財力を持った天下の有力者。とも書いてあります。

  同書の「麦湯の女」、
  吉原があかるくなると内は闇 といふ川柳もあるが、八百八町の夜が深けるまで賑ふやうになると江戸が亡ほろびた、
  蝋燭ろうそくは太閤様の時からと聞いて居るが、菜種綿實わたざねの油と魚油ぎょゆ、吉原が寛文八年(1668年)から
  散茶女郎の店頭に魚油の烟けむりが黒々と起ち、遂に夜の世界になり果てた。
  其角が吉原ばかりが暗くないのを感じたのも、其處に太夫だいふといふものゝ無くなる豫備よびだつたのを知るや否や。
  下り油、地油、文化の恵みは何よりも燈火が先きであろう、二度喰ふ飯が三度になつたのも燈火のお蔭さまである、
  江戸の人間も段々に宵張よいばりの朝寝坊になる、八百八町は夜も眞夜中まで賑ふ、といふのも燈油の供給が多く
  なつたからである、さうして暗さが減じた、しかし米一升より油一升が遙に高かつたことを忘れてはならぬ、文化の恵みは
  決して安價なものではない、其の高い油を費して麥湯の女の元氣の好い笑ひ聲ごえを聞く。…(昭和三年五月)


  1804 (享和4) 年刊の『吉原青楼年中行事』2巻の著者は十返舎一九。
   下巻に「餅つきの圖」と題して見開き2ページに渡って、吉原での様子が描かれています。
   こちらに描かれている餅は丸餅です。


  1917 (大正6) 年9月 『一国一奇風俗噺』(風俗研究会 編、東京府 日本書院)
   この書には各地の変わった風習が記載されており、正月や祭に関する事が多いです。下記リンクでご覧ください。
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956041  P.1~「背中合の松飾
   文化文政頃より、元日の花魁道中で禿に押絵の立派な大羽子板を持たせているのと、仲の町のお茶屋では揃って
   青簾を掛けるのは吉原のみ。というような事が書かれてあります。


  1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949
   この書を読めば、当時の東京の有数の繁華街であり、江戸の伝統を残す浅草の食文化などを知ることができます。
   「東京ッ子」を自称する人は、読んでおくべき一冊でしょう。
   第二章 浅草経済組織の変遷発達 (一一) 維新前に於ける吉原土手 P.54~など各所に吉原の事がでてきます。



  ≪ 遊女の格 ≫

  遊女の最高位は「太夫」。 太夫の次は吉原では「格子太夫」、大坂の新町では「天神」と呼ばれました。

  吉原では年々大衆化が進み江戸時代中期以降に「太夫」クラスは消滅。その下の「散茶」が最上位に。
  次が「埋茶」クラスで最下級は「局」。
  江戸時代後期の1800年頃以降に「花魁」というクラスが誕生し、吉原の最高位の遊女として位置づけられました。

  【大夫・太夫】たゆう
   ① 五位の通称。正しくはタイフとよむ。平家物語[九]「―敦盛とて生年十七にぞなられける」
   ② 伊勢の御師おし(伊勢神宮神職で、年末に暦や御祓おはらえを配り、また参詣者の案内や宿泊を業とした者。
     伊勢ではオンシという。)に付ける称号。
   ③ 芸能者の集団の長または主な者。 →能太夫。
   ④ 浄瑠璃の語り手。三味線引きに対していう。芸名にも添え、「某大夫」「某太夫」という。
   ⑤ 万歳まんざい(神楽歌、地歌、端歌物など)の語り手。才蔵さいぞう(鼓打ち)に対していう。
   ⑥ 最上位の遊女。 ⑦ 歌舞伎の女形おんながた

  【五三】ご-さん
   寛文年間 (1661~1673年) 頃まで、京都島原で揚代が53匁であったからいう。遊女第1位、太夫の異称。五三の君。
   色道大鏡五三、三八、天神、囲とて

  【三八】さん-ぱち
   揚代が銀38匁だったからいう。島原に一時あった遊女の階級。太夫の次、天神の上に位した。

  【囲女郎・鹿恋女郎】かこい-じょろう
   遊女の階級の一つ。太夫・天神に次ぐもの。きんごカルタで、14点で止めるのを「かこう」といい、初め揚代が銀14匁
   だったのでこの名がついた。かこい。きんご。京都島原の遊女

  【大格子】おお-ごうし江戸吉原の格の高い遊女屋。 ※ 江戸時代の1匁は小判1両の1/60。
            
  【河岸見世】かし-みせ小格子こごうし
   江戸吉原の遊女屋の階級。遊郭周囲のお歯黒溝(黒く濁って、お歯黒の液かねのようだったからいう)に面した、
   格式の低い店。

  ※ 女郎じょろうは、上臈じょうろう(身分の高い女官)が転じたもの。元々「若い女性」や「身分がある女性」を指したようです。
    1682 (天和2) 年刊の井原西鶴の浮世草子 好色一代男さる御所型の御女郎様たち
    広く女性の事を意味するようになり、女性の名前の下に付けて軽い敬意や親しみを表す語として使われました。
    後に遊女の意味に。

  【格子太夫】こうし-だゆう江戸吉原で太夫の次。散茶女郎の上位の遊女。

  【格子女郎】こうし-じょろう
   (もと表通りに面した格子の中に控えていたからいう) 太夫に次ぎ、局つほね太夫の上に位した女郎。江戸吉原
   大坂の新町では天神職のものをいう。

  【散茶造】さんちゃ-づくり
   元禄 (1688~1704) 以後、江戸吉原の普通の妓楼の構造。
   風呂屋の造り方を用い、局見世つぼねみせを広く構え、大格子をつけ、庭も広くとり、妓夫台きゅうだいを暖簾のれんの側に
   置いたもの。

  【散茶女郎】さんちゃ-じょろう
   江戸吉原の遊女の階級の一種。太夫。格子につぐ女郎で、埋茶うめちゃの上位。
   安永 (1772~1781) 頃、太夫・格子が廃絶した後。最上位となり、呼出し昼三付回しなどと別れた。

  【呼出し】よひだ-し
   ① 吉原で太夫・格子の位が無くなって以後、散茶の中から出た最高位の遊女の称。張見世をせず、仲の街で客に
    あったのでいう。細見では入山形に星をつけて示す。
   ② 深川の遊里で、子供茶屋 (江戸深川の「陰間かげま茶屋」=男色茶屋の事) に抱えられていて、呼び出されて
    茶屋で客に接する男娼。 Wiki 日本における同性愛  Wiki 陰間茶屋  Wiki 通和散

  【昼三】ちゅうさん  (昼夜で揚代が三分さんぶであったからいう。「中三」とも書く)
   江戸吉原で、太夫・格子女郎の無くなった宝暦 (1751~1764) 以後、最高位の女郎の称。古くは散茶女と呼んだ。

  【分の女郎】わけ‐の‐じょろう
   大坂新町の遊郭にあった花代 銀五分の下級女郎。後には位はそのままで、花代は高価になった。

  同時代であるかは分かりませんが、それでも大坂新町の下級女郎が銀五分、江戸吉原の最上位の昼三が三分なので、
  大坂の遊郭の方が格がかなり高かったと言えます。

  【埋茶造】うめちゃ‐づくり
   埋茶女郎を置いた遊女屋の見世造り。散茶女郎の見世造りを改造し、大格子の内を局座敷に仕立て、わずかに庭を
   つけた建築。

  【埋茶女郎】うめちゃ‐じょろう   (「梅茶女郎」とも書く)
   江戸吉原に、寛文 (1661~1673) あるいは正徳 (1711~1716) ごろからおかれた下級遊女。
   散茶女郎より下であるところから、散茶を埋めた(薄めた)と戯れて名づけられた。

  【細見】さいけん
   享保(1716~1736)年間に初めて作られ、毎年刊行された妓楼や遊女の名を明細に記した江戸吉原の案内書。
   『吉原細見』。

  【伏玉】ふせたま
   江戸の私娼街で、自宅に私娼を抱えておき、客を上げること。また、その私娼。 呼出し

  【局女郎】つぼね-じょろう 端女郎はし-じょろう
   江戸時代、遊郭の最下級の女郎。表に長押なげしを付け、内に3尺の小庭を設け、間口9尺、奥行2間または6尺の局に
   いたからいう。

  【慳貪女郎】けんどん-じょろう … 江戸の下等な遊女。けんどん

  【お‐あん‐なんし】
   (格子の中から吸いつけ煙草を出して「おあんなんし」というところから)下等の女郎。

  【お‐あん‐なんす】
   (「おあがりなんす」の転)「食う」「飲む」などの尊敬語。遊子ゆうし (家を離れて他郷にある人) 方言「一つおあんなんせ」

  【端女郎】はし-じょろうはした-じょろう … 江戸時代の公娼で、下級の遊女。見世女郎。局つぼね女郎。はし。
   ※端女・端者はしため=召使の女、女中などの意味。端童はしたわらわ=召使の子供。端金=わずかな金銭。

  【轡女郎】くつわ-じょろう … 近世、京都島原の遊女のうち、端女郎の次で、最下級の女郎。

  【轡屋・忘八屋】くつわ-や … 遊女屋の異称。轡=馬の口に咥えさせる馬具。

  【亡八・忘八】ぼう-はち (仁義礼智忠信孝悌の八つを失った者の意)
   ① 遊女を買うこと。 ② くるわ。遊女屋。また遊女屋の主人。

  遊女のランク http://www.geocities.jp/pink_pink_shampagne/iran.html ← 吉原遊郭の事が色々と載っています。

  けいせい色三味線 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554537 (国立国会図書館デジタルコレクション・サイトにて無料公開、但し草書体)

  【けいせい色三味線】けいせいいろじゃみせん 傾城色三味線
   浮世草子。5巻5冊。江島其磧きせき作。1701年(元禄14)八文字屋刊。京・江戸・大坂・鄙ひな・湊みなとの各巻より成り、
   各巻それぞれに島原・吉原・新町・伏見撞木町・室津などの遊女の名寄なよせと、5章の小話とを添えたもの。

  【名寄せ】な‐よせ … いろいろな名称を寄せ集めること。また、それを書きしるしたもの。

  【八文字自笑】はちもんじ‐じしょう (?~1745)
   江戸中期の浮世草子作者・版元。安藤氏。通称、八左衛門。作者江島其磧を迎えて、その作になる役者評判記や
   浮世草子などを自笑の名で出版。一時其磧と不和となったが、和解後、両人連名で多くの浮世草子を出版した。

  【江島其磧】えじま‐きせき(1666~1735、京都大仏餅屋の主人。)
   江戸中期の浮世草子作者。初め権之丞と称し、のち庄左衛門を襲名。井原西鶴に私淑、
   八文字屋自笑の名義または共同名で役者評判記・浮世草子(いわゆる八文字屋本)を発表。
   作「けいせい色三味線」「風流曲三味線」「傾城禁短気」「世間子息気質」「世間娘容気」など。


  ≪ お茶と遊女 ≫   新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部

  寿司屋ではお茶の事を「あがり」と言いますが、この言葉は遊郭ゆうかくに由来するそうで、客が来ると先ずお茶を
  出しました。

  「御茶を挽く (おちゃをひく)」に通じ、縁起が悪いので、お茶を「上がり花」と呼んでいました。

   → 遊女たちが「客が来た」と思いお茶を用意するが、客は別の遊女を指名したので茶を引っ込める。
    それで、客がつかない事を「お茶を引く」と言いました。
    また、暇な時には、葉茶を臼にかけて粉にする仕事をした事から。という説もあります。


  ≪ 遊女の揚代 ≫

  江戸時代は貨幣価値が時期によって変化しています。 江戸時代の貨幣価値と物価表 http://www.teiocollection.com/kakaku.htm
  江戸時代に幕府が発行した小判は10種類  詳しくは Wiki 小判

  前期 慶長小判 1両 (銀50匁)=10万円  中期 享保小判 1両 (銀60匁) =8万円  後期 万延小判 1両 (150匁) =5万円

  【慶長小判金】けいちょう‐こばんきん
   1601年(慶長6)~95年徳川政権が発行した小判金。縦2寸3分5厘、横1寸3分、重量4匁7分6厘、千分中純金846.1。
   円内に桐紋、上部に「壱両」、下部に「光次」(花押)の極印がある。

  【享保金】きょうほう‐きん
   江戸幕府が享保10年(1725)以後に鋳造した大判金・小判金。金位は慶長金と同じく、「久竹」の極印ごくいんあるもの。

  【万延金】まんえん‐きん
   江戸幕府が万延元年(1860)以降鋳造した金貨。大判・小判・二分金・一分金・二朱金がある。

    Wiki 小判   Wiki 慶長小判   Wiki 享保小判   Wiki 万延小判

  揚代は遊女のクラスや場所、時期、時間帯などによって変動が大きいので、一言でいうのは難しいそうです。
  下記のサイトを参考にしてください。

  ヤフー知恵袋 『女郎さんと遊ぶには現代の金額でいくら位必要でありんすか?』
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1314677173

  Wiki 揚げ代
   天保14年刊の大坂新町の細見「妻志留志」には「太夫六十九匁、天神三十三匁(朝より暮時迄、尤も昼仕舞と云ふ、
    十五匁。暮より亥刻迄、尤も宵仕舞と云ふ、二十二匁五分。太鼓より朝まで、尤も泊りと云ふ、十五匁。
    花といふ時、一切四匁三分)。芸子二十七匁(花と云ふ時、一切三匁)。太鼓持(揚屋十六匁、茶屋十四匁)。
    鹿子位送り女郎二十七匁二分(昼仕舞十二匁、一夜揚十七匁六分、宵仕舞十三匁六分、泊り六匁四分、一切一匁六分)。
    同芸子(昼揚二十二匁、夜揚十三匁六分、一切一匁六分)。同店女郎二十二匁(泊り七匁、一切三匁)。
    門出揚屋(太夫銀三両、引舟銀二両、天神同断、芸子同断)。同呼屋(送り女郎銀一匁、店女郎同断)。
    和気十二匁(但し店遊びは六匁)。
    尤も右の通の直段定は酒料とも也。但し見世遊び一座切等は、酒料別の定め也。」とある。

   ※ 天保14年=江戸時代末期の1843年

  【天保銭】てんぽう‐せん  Wiki 天保通宝
   ① 天保通宝の俗称。天保6年(1835)以降鋳造した楕円形の銅銭。裏面には「当百」の文字を記す。
     1枚を100文(実際には80文)に通用したが、明治以後は8厘となり、明治24年(1891)廃止。当百銭。百文銭。
     田山花袋、東京の三十年「あの小僧、寒いのに可哀相だ。―でも呉れてやれ」
   ② (1銭に満たない意から)時勢におくれた人や知恵の足りない人をあざけっていう語。
   ③ 旧陸軍大学校卒業の軍人が胸につけた徽章の俗称。形が天保銭に似るからいう。


  ≪ 理想の恋人 ファッションリーダーのスーパーウーマンだった花魁 ≫

  江戸中期頃の勝川派の浮世絵師 勝川春好「江戸三幅対」は江戸中期の明和~天明期(1764年~1788年)頃の江戸の
  三大スターを描いた作品。歌舞伎役者の市川団十郎、横綱の谷風、扇屋の遊女・花扇。

  但し、化粧やファッションは上方で流行したものが江戸で伝わったもののようです。

  ※ 江戸中期に吉原では太夫が消滅。花魁は宝暦年間 (1751~1764) 以降に作られた吉原遊女の最上位。


  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205

  『江戸時代のさまざま』P.289~ 「夏の大阪」に   大正11年に大阪を見聞し下記を書いたようです。
  享保 (1716~1736) の大阪女の風俗が著しく江戸の嗜好を誘つたやうに…」
  P.296~「暮れ行く大阪」には先づ大阪女が目醒めて全日本の女が氣が附くことになるのであろう。
  「此の店 (高島屋) へ集う人数は日曜等の休日には四萬を越し、平日も三萬と聞いたが、東京よりも規模が大きく、
  人の数も多い、呉服ではない百貨店にもせよ、此の外に三越白木大丸等がある。京の着倒れ大坂の喰倒れ
  といふのも昔の言葉で、今日の大阪は着倒れであり、又た喰倒れでもあるのか。」などとあり、
  江戸時代~は京坂、大正時代は大坂が流行の発信地でした。

  【三田村鳶魚】みたむら‐えんぎょ (東京生れ、1870~1952)
   江戸の風俗・文学の研究者。名は玄竜。。「未刊随筆百種」などを編纂。
   著書「大奥の女中」「江戸雑話」、輪講記録「膝栗毛輪講」など。

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?







  【花魁】おいらん  の(「おいらん」の由来)は1830年刊の『嬉遊笑覧』巻之九に書かれてあります。
   (妹分の女郎や禿かぶろなどが姉女郎をさして「おいら(己等)が」といって呼んだのに基づくという)。 娼妓。女郎。
   江戸吉原の遊郭で、姉女郎の称。転じて一般に、上位の遊女の称。江戸以外では最上位の遊女を大夫太夫たゆう
   という。

  【花魁道中】おいらん‐どうちゅう
   遊女が盛装して郭中を練り歩いたこと。江戸吉原では正月または八朔はっさく (8月1日)に行う。
   吉原名物の花魁道中は、お供も数人引き連れ、厚手の着物や内掛け、20本ほどの簪かんざしなど総重量20㎏を纏って、
   外八文字を踏んで練り歩く。

  【島原道中】しまばら‐どうちゅう
   京都の島原遊郭における行事。毎年4月21日、郭中かくちゅう全盛の大夫が、盛装で髪を横兵庫・福わげ・二枚櫛・
   花簪はなかんざしなどの古風に結い、黒塗三本歯の下駄をはいて、外八文字を踏んで練り歩いたもの。


  ≪ 吉原の八朔の行事 ≫  小学館 Web日本語 『第23回 八朔と吉原』 http://www.web-nihongo.com/wn/edo/23.html/

  厚さが少し和らいだ旧暦の8月1日、1590年から、江戸では武士(旗本など)たちが登城して将軍にお目見えする『八朔』の
  儀式がとり行われていました。 (詳しくは、上記リンク先の小学館のサイトでご覧ください)

  1920 (大正9)年に書かれた『古今吉原大全ここんよしわらたいぜん』によると    Wiki 白無垢

 元禄年間(1688~1703)に、遊女の高橋がひどい高熱の病気をおして馴染(なじ)みの客を迎えるのに白無垢の小袖で
  出たことから、その姿のあでやかさに皆が感賞し、以来、吉原の遊女はこぞって白無垢を着るようになった。

  【八朔】はっ‐さく … 旧暦8月朔日ついたちのこと。この日、贈答をして祝う習俗がある

  【八朔の雪】はっさく‐の‐ゆき。  八朔の白無垢八朔の白妙しろたえ
   吉原の風習で、八朔の日に遊女が全員白無垢しろむくを着たさまをいう語。


  ≪ 遊女は容姿だけでなく、内面も磨く必要があった ≫

  吉原の遊女は27歳で引退します。遊女のほとんどは親が居なかったり、家族を養う為に働いたりする貧しい暮らしをしていた
  人たちの出身。裕福な男に身請けされて妻や愛人になり、一日も早く遊女から足を洗うのが夢や希望でした。
  その為には美しさと教養に磨きをかける事が必要でした、

  茶道・華道・香道・三味線・歌・琴などの芸事にも通じていなければ一流ではなく、囲碁や将棋などで客の相手する事も必要。
  和歌など文芸もマスターして、特に大切だったのは人の心を動かす「美しい文章」で手紙を書けることだったそうです。

  【女衒】ぜ‐げん …(「衒」は売る意)江戸時代に、女を遊女に売ることを業とした人。判人はんにん

  遊女評判記などが出版され、「楊貴妃のよう…」「かぐや姫のよう…」「…名君」など、それぞれの遊女の特徴と賛美が
  記されているそうです。







  ≪ 花魁はチームとして、自分の後継者を育てる事も重要だった ≫

  江戸後期の浮世絵師 渓斎英泉けいさい‐えいせん(1790~1848)が描いた「新造出しの図」から、その事が分かるそうです。
  七里という花魁が育てた妹分 七人ななひとという花魁のデビューのための花魁道中の様子。

  先頭はデビュー前の「振袖新造」(10代の前半) 呼ぶ七船・七橋という二人の若い遊女。次に花魁を補佐する「番頭新造」の
  七政・七濱という二人。
  そして「新造」から新しく「花魁」になった七人という妹分の花魁。最後に一番格が高い花魁の七里。

  それぞれ「七」という名前、着物や小物に桔梗文があしらわれている事から「チーム七里」としてのグループだったと
  目されています。

  【禿】かぶろ … 上級の遊女に使われる10歳前後の見習いの少女。 【振袖新造】 … 振袖を着ている若い遊女。 【新造】

  【新造】しん‐ぞう
   ① 20歳前後の女。嫁入り前の若い女。⇔ 年増。
   ② 新妻にいづま。若妻。転じて、下級武士や上層の町人の妻女の敬称。
    近世前期、新しく出た遊女。勤めに出て間もない遊女
    (「新艘」とも書く)近世後期、遊里で、「おいらん」と呼ばれる姉女郎に付属する若い遊女の称。
     出世して座敷持・部屋持となるものもあり、新造のまま終わるものもあった。





  ≪ 花魁と恋仲になる為のプロセス ≫

  初めて遊郭を訪れた遊客は、まず仲之町に軒を連ねる「引手茶屋ひきて‐ぢゃや」(遊客を妓楼に案内する茶屋、中宿)に行きます。
  ここで花魁を紹介されます。遊客は財布を預けさせられます。(「夢の場所」で現実を忘れて。という事らしい)
  そして茶屋で客を見極めて、その客に見合った花魁を紹介する事になります。

  茶屋の裏手にある遊女屋を訪れ、二階の「引付部屋」という所で花魁を待ちます。花魁が居る一流の遊女屋は大きく100人
  以上が働いていました。

  「初会」・・・ 花魁と初めて会うためには、太鼓持ちや芸者を呼び宴会を催さなければなりません。
         下座に座り、花魁が来るのを待ちます。
         お供のものを引き連れて上座に座った花魁は、客に話掛ける事もありません。花魁には客を選ぶ権利があったので、
         ふさわしいか? を見定める儀式のようなもの。

  「裏を返す」・・・ 初会から数日後、遊客が二回目に訪れる事。
            初会と同じように宴会を開き、花魁に気に入られると、花魁の横の上座に
            座り酌をして貰えます。
            ですが、まだ名前も呼んでもらえる事はなかったそうです。

  「馴染み」・・・ また数日後、花魁の部屋に通されると「馴染み客」として認められ、
           花魁の態度は一変。今でいう「ツンデレ」。
           ここまで早くても3回は通わなくてはならないのでした。
           客の名前入りの箸袋を渡されると、恋人・夫婦のように振る舞えるように
           なります。夜が更けて床入りするまでに、使う費用は200万円ほど
           かかったそうです。


  こうして花魁と馴染みになったものの、他の遊女と遊んだ事がバレると、花魁の付き人たちから女装させられたり、
  イタズラされたり、辱めを受けます。浮気は最も許されない事とされていました。

  吉原の決まり事や しきたりは、「理想の恋」を味わって貰うための様式だったそうです。


  ≪ 資料に残る 遊女の事件簿 ≫

  江戸吉原の遊女の記録や日記は残っておらず、その様子を伺い知る事ができるのは浮世絵や裁判記録や幕府の秘密
  報告書、随筆類など外から見た遊郭の様子のようです。
  遊女自身の直筆の物が残っていない原因として、吉原は江戸時代だけでも19回も全焼しているからだ と推測されています。

  ちなみに浅草寺も18回焼けており、現在は大阪城や名古屋城と同じく鉄筋コンクリート造りで再建されています。

  浄閑寺じょうかん-じ





  吉原の近くの三ノ輪(荒川区南千住)にある浄閑寺には、遊郭の関係者が多く葬られてきました。
  江戸時代の災害で亡くなった人や遊女が投げ込まれるように葬られたことから「投げ込み寺」とも呼ばれたそうです。
  供養塔には「生まれては苦界くがい 死しては浄閑寺」という言葉刻まれています。


  ① 「ふくの場合」 1684年 御仕置裁許帳 (江戸前期の裁判記録 900件の判例のうち、20件ほどに遊女に関する記録がある)より






  はるは、2歳の娘ふくを11年前に養子に出したが、ふくは実母のはるによく会いに来ていました。
  しかし3年前から姿を見せなくなり、はるは養父の権衛門に何度も聞いたが「屋敷奉公に出しているから」などと言うばかり。
  町奉行所に訴えたところ、ふくは吉原に居る事が判明しました。
  権衛門が15年の年季契約で、ふくを遊女屋に4両で売っていたのでした。

  養子を勝手に遊女にする事。10年以上の年季奉公に出す行為は禁止していた為、権衛門は牢に入れられ、
  ふくは実母の元へ帰る事ができました。

  当時、自分の娘に会えない、所在不明だという事があれば、真っ先に調べてみる場所が吉原だったと推測されています。


  ② 「松の井の場合」 1808年 御仕置例類集 (江戸後期の判例記録)より






  若い遊女 松の井は、無職の鉄五郎と恋仲になった。思うように会えないので二人は吉原からの逃亡を計る。
  松の井は遊女屋の二階から台所の庇に火を投げつけ、その騒動と煙に紛れて逃げようとしました。しかし簡単に捕まった。

  この事件があった時、「鉄五郎は熟睡していて知らなかった」と、松の井は証言する。
  鉄五郎は計画した事だけを罪に問われ手鎖50日の刑だけで済んだが、松の井は島流しの刑となった。


  ③ 「黛の場合」 1855年 松平乗全関係文書 (幕末、幕府が極秘で集めた報告書)より






  14歳の遊女 黛は幼くして両親と生き別れたので、無事ならば会いたいと常に願っていました。

  安政の大地震に襲われた時、吉原も全焼しました。焼け出された黛は、自分の櫛や簪かんざしなどの持ち物を売り、
  30両分の瀬戸焼の行平ゆきひら鍋1160個を購入し被災者に配りました。この功徳によって両親に会えるかも知れない。
  と考えたからでした。


  ≪ 皇都午睡 より≫

  幕末の考証随筆『皇都午睡』は、大坂の書店主・浄瑠璃作家の西沢一鳳が、京・大坂・江戸の違いなどを書いた物。
  主に言葉の違いや浄瑠璃関連が詳しく書かれてあります。三編中之巻に遊郭の事が多く書かれてあります。

  三編上之巻に、1791(寛政3) 年の江戸の人口 (幕府調査 宗門人別帳より) 記述では、吉原遊郭内で関連の仕事に
  従事する者は8940人となっています。  江戸の人口100万人は本当か? 寛政時代の江戸の人口 2億61万3000人もいた?

  三編中之巻 「吉原の女郎は意気張強く客を振るというは遥に昔の事にて、中々ふる事はなし…
   幕末には大衆化していた事が分かります。

  三編上之巻 「東都の婦人は京摂かみがたより見れば、遙に威勢強く中分以下の暮しを見るに、京摂に云う…
   一方、庶民の女性は男より気が強かったようです。いわゆる「カカァ天下」で美人だと勿論、ブスだと技をしつけ奉公に
   出すので小娘のうちから気が強い。下女などは江戸生まれは珍しいが、近在から来て江戸を見習うので、我が身を
   省みず自然と大きな事を言うので憎まれる。というような事も書かれてあります。


  マイナビウーマン 『歴史にまなぶ 女子の事情』 14.09.10 配信 http://woman.mynavi.jp/article/140910-7/

  ≪ 性欲を満たすために行く場所ではなかった!? 意外と知られていない吉原の実態 ≫ 著者:堀江宏樹 角川文庫版「乙女の日本史」

 みなさまごきげんよう、歴史エッセイストの堀江宏樹です。江戸時代を扱った作品に
  しょっちゅう出てくるのが遊郭、そして吉原ですよね。
  でも吉原は一般男性にとって、日常的な存在ではありえませんでした。
  「ただの」風俗街と考えたら大間違いなのです。
  吉原とは非日常性がウリの「愛と性のテーマパーク」だったんですね。

  吉原という街が江戸幕府の公認を得て、江戸に生まれたのは1617年のこと。

  徳川家康が幕府を江戸に置くまで、関東一円は小さな村が点々とあるだけの田舎でした。
  江戸を政治の中心地にふさわしい街にするため、街では土木工事がつねに行われ
  つづけたのです。

  全国から職人男性に大量に流入したため、男女比率が7:3に近かった時代もあるのが
  江戸の街でした。しかし、相手の女性が見つからない「非モテ」男性のための場所
  として、吉原が出来たのではないのです。

  実は、最初期の吉原はおそろしく格式が高かったのですね。庶民の男性など、お店に
  入れすらしません。

  吉原のシステムでは、お客は目当ての遊女と男女の仲になるためには最低3度は
  通わねばなりませんでした。
  しかも一度、指名したら別の遊女に鞍替えは御法度。現在のホストクラブと同じく、
  永久指名制なわけですよ。もし遊郭に「浮気」がばれたら、手ひどいお仕置きがまって
  いました。もちろん、お客に、です(笑)。

  面会の一度目、2度目は本当に遊女の顔を見るだけです。しかも、遊女が上座。
  ほとんどしゃべりもしません。それでも正規のお花代を遊郭に支払わねばなら
  なかったのですね。
  さらに、遊郭が用意した芸者や盛り上げ役の太鼓持ちとよばれる男性芸人などにも
  ご祝儀という名のギャラを払わねばなりませんでした。

  つまり、吉原とは性欲を満たすために行く場所ではなかったのです。
  吉原とは、「恋」とはなにかを経験するために行く場所だったのですね。

  一般女性には到底着られないような極彩色の衣裳と、何本もカンザシを指した
  どハデな髪型(ちなみにカンザシの数は関東と関西では異なり、江戸・吉原の
  太夫は12本、京都の色街・島原の太夫は8本)をした、天女のような美女と、
  理想化された恋愛の幻想を楽しむための場所だったのです。

  吉原の遊女の話とは厳密には違うのですが「東の吉原、西の島原」とうたわれた、
  京都の島原の人気遊女・野秋(のあき)のすばらしさとその理由を、井原西鶴は
  次のように書いています。

  野秋は顔だけでなく肌が美しい。また行為の最中、情熱的である。切ない声をあげ、
  焦らしのテクニックで客を夢中にさせる。しかし全てが終わると、しつこくせず、
  「さようなら」と美しい声で別れの情緒を完璧に演出する……とかなんとか。
  遊女ってホントに理想の女を演じる女優だったのですね。

  ホントは不感症の遊女のほうが多かったともいわれていますね。当時は女性が
  セックスでエクスタシーに達すると即・妊娠すると考えられ、それは遊女にとって
  最大の恥だと考えられていたことも、不感症とは無縁ではないでしょう。






  江戸初期は関西の文化水準は関東の比ではないくらいに高く、美女は関西に在り、とまでいわれていたのですが、
  吉原の遊女には、東北地方の貧しい農民の娘が売られてくることが多かったせいで、丸顔の女性が多かったとか。
  当時の丸顔というのは、硬い玄米や食物を幼児の頃から頬張っていたため、顎の筋肉が発達したイメージです。

  また、「~でありんす」などの、吉原の遊女言葉は、彼女たちの御国訛りを消すための工夫でした。

  ちなみに江戸初期、吉原の遊女と「床入り(男女の仲になること)」するためにかかる経費は、現代の価値で安くて
  数百万円か、ヘタすればその倍ほどかかりました。
  要するに金も暇もあれば、女のワガママが好物だと言い張れるほど、オトナの男の器がタメされる場所が吉原だった
  のでございます!

  【幕末・明治時代】日本の古き良き時代の写真集 1~Japan in the 19th century~ http://youtu.be/MsgcLwNTjB0
  【2ch雑学】明治・大正時代の写真を披露するよPhotos of Japan about 100 years ago http://youtu.be/Dfpk0VqEvz8
  日本の古い町並み写真集(戦前絵葉書)/Vintage Postcards of Japan Cityscape http://youtu.be/xtHlAQb0kaM


  マイナビウーマン 『歴史にまなぶ 女子の事情』 14.09.12 配信 

  ≪ 恋愛は究極の贅沢品だった!? 男性が高いお金を払ってでも吉原に通い続けた理由 ≫

 そもそも、吉原がなぜ江戸に作られたか……という理由のひとつにあげられるのは、「徳川家康の死」なんですね。
  吉原の原型とも言うべき大遊郭街は、駿府(現在の静岡県)に、徳川家康御公認というカタチですでに存在して
  いたのです。

  家康はいったん江戸幕府の初代将軍となったあと、すぐ隠居、駿府で暮らしていました。家康は「健康オタク」で、
  死ぬ寸前まで老いてもピンピンしていたので、実はこっそり遊びにいっていたか、遊郭から遊女たちを呼んでいた
  とかは……想像するしかありませんが(笑)、とにかく家康の死をきっかけに駿府から江戸に遊郭街と関係者は
  引越しをしたわけでした。
  それは秩序というものを乱す可能性がある遊郭街を幕府が監視下に置き、もっと厳密にコントロールするため
  だったとも思われます。

  まぁ、吉原という名になる前……たとえば何時から高圧的な営業をしていたかはわかりませんが、金も暇もあれば、
  女のワガママが好物だと言い張れるほど、オトナの男の器がタメされる場所が吉原だった……というのは、家康様
  御公認というあたりからもなんとなく透けて見える気がいたします。

  しかし、江戸時代の女性は、基本的に性的に自由だったのですね。既婚者の場合、見つかると夫から殺されて
  しまったりもしたので「こっそりと」ですが、婚外恋愛に勤しむ人妻もおりましたし、処女性に価値があまりなかった
  ので、若い未婚のお嬢さんとも深い仲になることもできました。

  でもそれって、ただの「遊び」ですよね。江戸時代前期の男女比率は男性:女性が7:3で、複数の女性を妻にする
  男性もいるため、4割以上もの男性が生涯の伴侶を見つけられないわけです。
  また、複数の妻がいるからといって、彼女(たち)が身も心も惹かれ合う「運命の相手」というわけでもないのですね。

  江戸初期の吉原のお客は、もっとも金まわりもよければ、地位も高かった武士たちです。彼らは政略結婚中心で
  正妻とは結ばれます。側室も持てますが、それは正妻の公認した女性に限られ、しかも「自分の好み」で選べる
  というより、政治的なかけひきで部下や上司の関係者の女性に来てもらう……というイメージが強いのですね。
  つまり男女生活もビジネスの延長線上だった、と。

  だからこそ、そういうのとは無縁の純粋な恋愛をしたい!……と思うのなら、男性同士のシリアスな愛である衆道
  (男色)に走るか、あとは吉原で大金を出して、愛の幻想を買うしかなかった……のであります。実にしょっぱい。

品川の月 1788(天明8)年頃 147×319㎝
吉原の花 1791~92(寛政3~4)年頃 187×257㎝



  美人画の浮世絵師 喜多川歌麿 (巨大美人画3部作 「雪月花」) 山東京伝、歌川豊国など

深川の雪 1802~1806(享和2~文化3)年頃 199×341㎝
 

 
 

  江戸時代、恋愛は普通に生きていたら手に入らないものでした。究極の贅沢品=恋愛なのです。
  だからこそ、吉原で恋愛の幻想を買う。悲劇の愛の主人公を演じたいと思ったのでしょ。それゆえ吉原に通う
  男性のことは、「風流な人」なんて意味で数奇者(すきもの)と呼ばれたりしました。現代のように「エッチな人」という
  意味ではありません!

  ちなみに17世紀中盤、吉原も江戸を襲った大火事(明暦の大火)に見舞われ、壊滅状態になってしまいまいました。

  現在の浅草あたりに遊郭関係者の生き残りが移動してビジネスを再開、これが歴史的には「新吉原」と呼ばれる
  街のはじまりです。
  ちなみに「新吉原」になってから時代がたつにつれ、遊女のお花代は下落していきました。同時に上流武士たち
  から、新興成金に相当する商人たちが遊女たちのお得意さんになっていったことも無縁ではないでしょう。
  商人はコストパフォーマンスにこだわりますもんね(笑)。

  ちなみに性欲を発散させたいだけの男たちは「岡場所」といわれる、非公認の遊女たちが集った板橋、品川などに
  あった宿屋街や、銭湯にいた背中を流す(という触れ込みの)湯女(ゆな)という職業の女性たちを一晩の相手に
  していました。

  最下級の遊女は「夜鷹(よたか)」と呼ばれ、夜闇に紛れ、男たちと寝ました。
  なんと一度の行為は、かけソバ一杯の値段(現代なら四百円ほど)。ホントに食べることに困った熟女や老女が
  やっていたとも。

  前回、「愛の幻想」を売っていた(京都の島原遊郭の)野秋という人気遊女を紹介しましたが、彼女たちには想像も
  できない苦労が、下級の遊女たちにはあったことは間違いありません。


  画像 毎日放送 ちちんぷいぷい 『南光さんと美術館へいこう! 「肉筆浮世絵展」』 15.05.14 放送
  画像 テレビ東京 美の巨人たち 『葛飾応為"光と闇"を追い求めた伝説の絵師』 16.04.23 放送

  niftyニュース 14.09.14 配信 (ネタ元 : マイナビウーマン)  http://news.nifty.com/cs/item/detail/mnwoman-20140914-mw3726181/1.htm

  ≪ 吉原の遊女は28歳で自由の身に!? 吉原を出された遊女の意外なその後とは? ≫

 吉原のハイクラスな遊郭の遊女たちは、豪華な衣裳やかんざしで美しく着飾っていましたが、それらをふくめ、身の
  回り品の多くがなんと自腹でした。
  借金の返済など進むわけがありません。「落籍(らくせき)」といって、遊女を妻や妾にできる制度がありましたが、
  それには莫大な金がかかりました。

  それでも仕事を続けて27~28歳になれば、年季があけて自由の身になれたのですね。
  しかし大半の遊女は性病や堕胎、ストレスなどで肉体を蝕まれ、若くして死んでしまいました。

  1816 (文化13) 年、初世 歌川豊国が描いた江戸の女性美24枚の連作  時世粧百姿図じせいそうひゃくしず  ワタリガニを食べています


  ※ 当時の品川は海の近くで品川港は古くから関東の主要港の一つ。幕末に来日したハリスは品川港の開港を要求しました。

  年季明けの元遊女は、関係者(スタッフ)として遊郭経営に携わりつづける場合もあれば、お客と恋愛結婚して、
  堅気の身分に戻る女性もいました。

  「吉原ちょっといい話」として、落語にもなっているのが「幾代餅」のエピソード。お金はないけれど、誠実な米屋の
  清蔵と恋仲になった幾代太夫(いくよだゆう)と呼ばれる遊女がいました。

  吉原の遊女には階級があり、そのトップが「太夫(たゆう)」なんですね。幾代が現役時代につとめた「太夫」という
  称号は最高クラスの遊女にしか与えられませんでした。
  吉原に1,500~2,000人ほどいた遊女の中でも「太夫」は、なんと3~5名程度でした。

  恋人の男に、自分を落籍させるだけの甲斐性がないので(笑)、幾代太夫は年季が明けるまで立派につとめを果たし、
  二人は晴れて夫婦になりました。
  その後、二人は餅屋を経営することなり、その時売ったのが「幾代餅」です。
  焼いた餅にあんをまぶした、あんころ餅のようなものですね。

  太夫を引退した幾代は、今でいえば「会いに行けるアイドル」。雲の上の女だった幾代が、自分のために餅を焼いて
  くれると感動した客が殺到したそうです。

  「幾代餅」といわれるお菓子は幾代と夫の死後も売れ続け、両国エリアの名物となりますが、商標登録などなかった
  当時、類似品が多発しました。
  お互いが「われこそ元祖だ!」と言い合うようになり、明治時代になる前に自滅していったとか……。

  ちなみに幾代が勤めた「太夫」の位を持つ遊女のお花代は超高額だったこともあり、吉原の大衆化が進む中で、
  18世紀半ばには消滅してしまいました。
  なお遊女を指す「花魁(おいらん)」という言葉が出来たのは、「太夫」などスーパーハイクラスな遊女が
  消えた後のことです。

  【幾代餅・幾世餅】いくよもち 百菓辞典
   元禄時代に売り出された江戸名物菓子のひとつ。切り餅を焼いて小豆あんをまぶしたもの。
   吉原の遊女の幾代が、車力頭だった喜兵衛に身請けされて夫婦となり、元禄17年(1704)、両国橋に小松屋という
   菓子屋を開き、幾代の名をつけた餅を、自ら焼いて1つ5文で売り出したところ評判となり、店が繁盛した。
   この話は、落語や滑稽本の題材になっている。


  マイナビウーマン 『歴史にまなぶ 女子の事情』 14.09.15 配信 http://woman.mynavi.jp/article/140915-10/

  ≪ 幕府の接待先が吉原見学ツアー!? 江戸幕府と吉原のイケない密接な関係 ≫

 吉原には大歓楽街のイメージがあります。でも、それだけの街というわけでもありませんでした。
  もともと吉原は上流武士でも遊べる、格式高い色街でした。
  しかし、物価は上昇しても武士のサラリーは江戸時代初期に決まった金額に固定され、武士は必然的に貧しくなって
  いきました。その一方、自分の才覚一つでいくらでも儲けられた商人たちが吉原の上客になっていったのです。
  ところが、そうなってもやはり江戸城関係者はステイタスの高さから、吉原ではモテました。

  江戸城関係者と吉原の関係は、そういうお客様とお店の関係だけに終わりません。
  実は江戸城内の「御煤払(おすすばらい、つまり大掃除のこと)」や「御畳替」に例年、吉原は専属の畳職人を提供
  していたのですね。また、1639年、第三代将軍・徳川家光の娘が尾張藩主に嫁ぐ際にも吉原はスタッフを100人派遣、
  嫁入り道具を運ばせてもいます。

  江戸時代、町人たちにとっては幕府の課す労役をすることが、今日の税金のかわりだったわけ
  ですが、現金を幕府に奉納することも当然ながら(?)行われていたんですねえ。
  いわばこれは、江戸に暮らす市民としての「義務」です。

  しかし、それ「以上」の、現在でいう収賄みたいなことも吉原から幕府に対しては行われていました。
  「御年頭献上(ごねんとうけんじょう)」がそれです。その名のとおり、毎年の一月にはけっこうな額の献金までして
  いました(現代ではアウトな行為です)。吉原内で多少、アレなコトがあっても御役人を踏み込ませたりせず、目を
  瞑っていてくださいましね、という約束がわりの献金でした。

  幕府と吉原の密接すぎる関係はそれだけに終わりません。「暴れん坊将軍」こと徳川吉宗(八代将軍)の息子・
  家重(九代将軍)は、吉原の名門遊郭「三浦屋」の経営の娘・お千瀬の方(おちせのかた)を、なんと信頼していた
  家臣の勧めで側室として大奥に迎え入れているのです。

  お千瀬の方自身、やはり遊郭で育った女だけあって、男をコントロールする技術に長けていたようです。
  あまりにお千瀬の方だけがベタ惚れされ、愛されていることに激怒した別の側室が、ついにお千瀬と家重が愛し
  合っている所に押しかける事件を起こすなど、すったもんだも起きました(その側室は、座敷牢に幽閉されて
  しまいました)。それでも、お千瀬の方は、趣味の歌などを詠んで涼しい顔で大奥ですごし続けたわけです。

  また吉原には、高貴な女性も足を踏み入れることはあったようですよ。ビックリして
  しまうのは、天璋院こと篤姫の時代のできごと。
  薩摩(鹿児島県)出身の篤姫ですが、京都の近衛家という最高のステイタスを持つ
  公家の養女となった上で、第十三代将軍・徳川家定と結婚しました。
  徳川時代の将軍は皇族か、五摂家といわれる、特に高い身分の公家の娘としか
  結婚しないという慣例があったからです。
  そういう縁があり、江戸城の篤姫の元を、近衛家からある女性が尋ねてやって
  きます。

  村岡局(むらおかのつぼね)という人ですが、彼女の江戸滞在中の接待先のひとつ
  として幕府が用意したのが、なんと!
  吉原見学ツアーだったのですね。この記述、村岡局本人の旅行日記にあるので
  間違いありません。
 葛飾応為 吉原格子先之図


  ちなみに、リッチな商家の有閑マダムが情緒を楽しみに吉原を訪れるというようなことも、絵巻物などを見ている
  限り、なかったとはいえないようです。そもそも桜が満開になる季節となると、吉原の目抜き通りには桜の木が
  移植されてきました。
  基本的には吉原の門はひとつだけで、遊女が変装して逃げ出すことを警戒するため、女性の出入りには厳しめ
  のチェックがなされていましたが、この春の時期を中心とする年に何回かは、一般女性たちも吉原を比較的自由に
  散策することができたのです。

  しかし……もっとも権威ある公家に仕える、高貴な女性である村岡局が、いったい何を吉原でしたのか……というと、
  それは「大食い」なんですね!

  村岡局は、豪快に飲み食いするのが特技でした。自分をもてなしてくれた人に対して、できるかぎりの礼を尽くそう
  としたゆえの行為でしょうが、複数の遊郭をめぐった時も、高位の遊女たちを前に大食いしてみせたのだそうです(笑)。
  遊女たちの反応は村岡局の日記には書かれてはいませんが、おそらく圧倒されてしまったのではないでしょうか。

  あるいは「美しさを売る女」である遊女たちを目にした、「知恵で生きたキャリア女」村岡局は、熾烈なマウンティング
  バトルを仕掛けたのかもしれませんよね……。

  新吉原図鑑 『「吉原芸者は色を売らなかった」って、これもパクリ本の常套句です。』 
   http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2729/saiken/yoshiwara-geisya.htm

  【岡場所】おか‐ばしょ    Wiki 岡場所
   江戸にあった私娼ししょう地の称。官許の吉原 (公娼) 以外の許可なく非合法に営業する売春宿、深川・築地・品川・
   新宿など。

  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『 関西仏像ミステリー ~異形の神や仏たち~』 15.03.05 放送


 新宿区の太宋寺には、江戸時代に岡場所があった
 名残りが残されています。

 お堂の中に閻魔大王の像の隣に奪衣婆の像が安置
 されており、着物を剥ぎ取る → 色町では、客の着物
 を脱がせる事は商売繁盛する事として信仰の対象と
 なりました。

 現在でも新宿界隈で水商売をする女性が参拝して
 いるそうです。

  【奪衣婆】だつえ-ば 葬頭河しょうずか、そうずかの婆。奪衣鬼。
   三途さんずの川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取り、衣領樹えりょうじゅの上にいる懸衣翁けんえおうに渡すという鬼婆。
   十王経に見える。

  【湯女】ゆな
   ① 昔の温泉宿で入浴客の世話をした女。
   ② 江戸時代、市中の湯屋にいた遊女。風呂者。風呂屋女。遊女を置いた湯屋は
   『湯女風呂』といった。

  江戸時代の銭湯は湯が冷めるのを防ぐため、湯船への入り口は板で覆われて狭く
  (柘榴ざくろ口)、火事を起こさない為に灯りも限られていた事から、かなり暗かった
  ようです。



  ≪ 夜鷹と蕎麦屋台 ≫  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第4回 江戸のそば 16.04.26 放送

  歌川国貞 (1786~1864) 神無月はつ雪のそうか 1817年頃

 この浮世絵は江戸と思われます。タイトルからする
 と、江戸でも『そうか』という言い方もしていたと考え
 られます。もしくは、上方を描いたものかも?

 3枚の連作ですが、雪の違いなどから彫師が違う
 ようです。

 屋台のそば屋は、夜の9時頃から明け方くらいまでが
 営業時間で、屋台を担ぎ客を求めて移動します。

 また、屋台のそば屋 (うどん屋) は、衛生上、温かい
 ものだけを提供していました。(ざる蕎麦は無し)。
 『夜鳴き蕎麦・夜鳴きうどん』の季語は冬。

  江戸の蕎麦屋台 など、そばの歴史

  【夜鷹】よ‐たか
   夕刻から活動して飛びながら虫を捕食する渡り鳥の事。そこから、夜歩きをする者のたとえになり、
   夜間、路傍で客をひく下等の売春婦 (辻君つじぎみ。夜発やほち、やほつ。など。) を、江戸では「よたか」と呼んだ。

  【惣嫁・総嫁】そう‐か
   上方で、路傍で売淫する最下級の淫売婦。1682 (天和2) 年刊の好色一代男3]「京大坂にありし―といふ者」。

  【上町物】うえまち-もの
   大坂の上町 (東横堀以東の高台) 付近の妾や私娼。1693 (元禄6) 年刊の西鶴置土産―の手かけぐるひ」。

  【楊枝店】ようじ‐みせ (※ 本来は楊枝屋の事を言いますが)
   江戸、浅草寺境内にあった床見世とこみせ(簡易店舗)で、楊枝やお歯黒の材料などを売り、ひそか売色(売春) もした。

  【柳屋】やなぎ-や
   ① 明和・安永(1764~1781)頃、江戸浅草観音境内の楊枝店。お藤という美人がいたことで名高い。
   ② 江戸にあった紅屋べにや。あづまなまり―の紅粉べにをぬりて

  【三十振袖四十島田】さんじゅう-ふりそで-しじゅう-しまだ
   娘盛りを過ぎた女が年不相応に若づくりをすることをあざけっていう語。
   夜鷹などの売春婦の形容にも用いる。

  【江戸芸者】えど‐げいしゃ … 江戸の町芸者。吉原の郭くるわ芸者に対して、町方に散在していたものをいう。

  【曖昧宿】あいまい-やど あいまい屋、あいまい茶屋
   表向きは料理屋などに見せかけた、売春婦を置いている店。達磨だるま

  【銘酒屋】めいしゅ‐や … 明治時代、銘酒を飲ませることを看板にし、裏面で私娼を抱えて営業した店。  Wiki 銘酒屋

  【いろは茶屋】いろは‐ぢゃや
   ① 江戸谷中やなか感応寺前にあった水茶屋。後には私娼をおき、岡場所となった。
   ② 大坂道頓堀にあった水茶屋、後に芝居茶屋。48軒あったのでこの名がある。


  【御歯黒溝】おはぐろ‐どぶ
   (黒く濁って、お歯黒の液かねのようだったからいう)江戸吉原遊郭のまわりの溝。
    樋口一葉、たけくらべ御歯黒溝に灯火うつる三階の騒ぎも手に取る如く

  【樋口一葉】ひぐち‐いちよう(東京生れ、1872~1896)本名、奈津。
   小説家。和歌を中島歌子に学び、小説は半井なからい桃水に師事、のちに「文学界」同人と親交。
   小説「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などのほか、文学性高い多くの日記を残した。

   江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった


  【東雲節】しののめ-ぶし
   明治後期の流行歌。1899 (明治32) 年、名古屋旭新地の東雲楼の娼妓がストライキを起して廃業した後に起こった
   という。ストライキ節
   斎藤緑雨さいとうりょくう(伊勢生まれの作家、1867~1904)、半文銭サイショネの磯節や、ナントショーの東雲節や、
   天下のこじきも之を諳誦あんしょう


  ≪ 明治5年の芸娼妓解放令 ≫  Wiki 芸娼妓解放令

  【娼妓解放令】しょうぎ-かいほう-れい コトバンク 『娼妓解放令』 より
   明治5年太政官布告 295号。人身売買禁止令ともいわれる。娼妓,芸妓その他の隷属的奉公人の人身解放に関する
   布告の俗称。
   明治5 (1872) 年7月のマリア・ルーズ号事件に際し,ペルー側から日本にも娼妓という名の奴隷がいると指摘され,
   急遽この布告を発布して表面をとりつくろおうとしたもので,実質的には雇主側の脱法のための口実を官憲が認め
   たため,娼妓を解放するにはいたらなかった。

   【マリア‐ルース号事件】広辞苑
   苦力クーリー輸送をめぐる外交事件。1872年(明治5)、横浜に寄港したペルー船マリア‐ルース号(Maria Luz)の中国人
   苦力輸送に対し、日本政府は、これを奴隷貿易であるとして苦力の解放を命じ、ペルー政府と紛争になるが、ロシア
   皇帝の仲裁裁判で日本側が勝利。これがきっかけで同年、芸娼妓解放令が出される。

  【芸娼妓解放令】げいしょうぎ-かいほう‐れい コトバンク 『芸娼妓解放令』 より
   《「人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件」の通称》芸妓・娼妓・
   奉公人の人身売買の禁止などを定めた太政官布告。明治5年(1872)発令。明治31年(1898)廃止。
   娼妓解放令。人身売買禁止令。

  【クーリー】coolie イギリス・苦力
   もとインド・中国の下層労働者の呼称。転じて、東南アジア諸地域の肉体労働者。クリー。


  ≪ 避妊具 ≫

  NAVERまとめ 『昔の避妊法が凄まじいwww』 http://matome.naver.jp/odai/2137757063957060401

  相模ゴム工業 『コンドームの歴史』 https://www.sagami-gomu.co.jp/condom/history/ より抜粋

  1874 (明治7) 年 避妊具、性病予防具としての本格的なコンドームが出現しました。
  1909 (明治42) 年 溶剤に溶かしたゴムを成形し、国産コンドームの第1号が出現しました。
  この頃はまだ遊興が目的であり、品質的には大変おそまつなものであったようです。その後「敷島サック」等が次々と
  売り出されました。


  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『はじまりは大阪にあり! 世界を驚かせた発明秘話』 16.11.03 放送
  森下仁丹 『森下仁丹百年物語』 http://www.jintan.co.jp/special/museum/story/index01.html

  ≪ 日本に初めて、本格的に輸入された コンドームの「和名」は? ≫

  予防医学を大切に考えていた森下博 (大阪淡路町1丁目の森下南陽堂) が、梅毒・淋病を
  予防するためにフランス製の男性用避妊具を輸入し『やまと衣きぬ』の名前で販売しました。

  この広告 (たぶん新聞広告) に「本品はルーデサックと同じく諸 梅毒淋病の~手軽く防ぐ
  衛生必要の珍品なり」「品質は天然の人性ひとはだと少しも異なる事なく伸縮自在薄く透明
  人造皮膚製 1コ包3銭、6コ包15銭、郵送可能な事などがとあります。


  ルーデサック Roed zak (オランダ語) = コンドーム Kondom (ドイツ語)。

  ※ すでにコンドームがあり「ルーデサック」として知られていたが、品質はあまり良くなかったと推測できます。

  創業者・森下博は、1869 (明治2) 年11月3日、広島県沼隈郡鞆町ぬまくまぐんともちょう (現・福山市) に生まれます。
  15才で大阪へ出て医者だった叔父の家に身を寄せ、心斎橋の舶来小間物問屋「三木元洋品店」で丁稚奉公を開始します。

  25才の1893年 (明治26年) 2月11日、薬種商「森下南陽堂」を大阪市東区淡路町 (現・中央区) に設立。

  郵便による通信販売も可能だったので大ヒットしました。その儲けと、1900 (明治33) 2月11日に販売した梅毒新剤「毒滅」
  の儲けを資金とし、仁丹を開発する事ができたそうです。

  1905 (明治38) 年2月11日 銀粒の「仁丹」の前身となる「赤大粒仁丹」を発売。

  1902年(明治35年)8月25日には店舗も手狭になった淡路町から東区道修町1丁目(現・中央区)

  【仁丹】じんたん … 甘草・桂皮などを成分とする粒状の口中清涼剤、商標名。

   野村ホールディングス・日本経済新聞社 まなぼう 『明治時代の「1円の価値って どれくらい?』 
    http://manabow.com/zatsugaku/column06/
   明治30年代頃の1円=2万円くらい 1銭が200円くらいの価値だったようです。
 
 江戸時代に色んな髪型ができた 
  NHK大阪 歴史ヒストリア 『花魁 の真実 ~江戸・吉原遊郭の光と影~』 13.01.23 放送

  ≪ 日本髪 ≫ にほん‐がみ

  日本在来の女の髪型の総称。丸髷・島田髷・桃割ももわれ・銀杏返いちょうがえしなどがある。

  【前髪】まえ‐がみ ぬかがみ。ひたいがみ。向髪。
   ① 童男または婦人の額上の毛を束ねたもの。 ② 元服以前の童男の称。 
   ③ 額に垂れ下がる髪

  【髷】まげ、わげ
   髪を頂につかね、髻もとどりを結った上部を後方へ折り曲げ、さらに前へ折った所の名。
   転じて一般に、髪をつかねて結ったもの。

  【鬢】びん … 頭の左右側面の髪。

  【髱】たぼ (江戸) つと (京都)
   ① 日本髪の後方に張り出た部分。髷まげ・鬢びん・前髪とともに結髪構成の主要部分をなす。
     形状により種々の名がある。たぼがみ。たぶ。
   ② 若い女性の称。

  【髻】もと‐どり …(「本取」の意)髪を頭の頂に束ねた所。また、その髪。たぶさ。



  【元結】もと‐ゆい、もとい。もっとい 紙捻こうひねり
   髻もとどりを結ぶ細い緒。昔は組紐または麻糸を、近世は髷まげに趣向をこらして水引元結と称する紙縒こより製のもの
   を用いた。

   白元結しろもと-ゆい … 髪に白い紐をつけるのは、本来は武家の女性の習慣から。


  ≪ 遊女の髪型が一般庶民にも広がった ≫ 江戸は髪結い代が安くて丁寧だった

  江戸時代は300程の髪型があり、その多くは美しさを磨く必要があった遊女たちが考案したものです。
  髪型が複雑になっていくと「女髪結」という専門職ができ、やがて大坂や江戸の町に出て、遊女の最新の髪型を庶民に
  伝えました。






  【兵庫髷・兵庫曲】ひょうご‐わげ (まげ)
   髪を頭頂の後ろに集め、高く輪に結って根元をねじ巻いて頂上に突き出させたもの。
   摂津兵庫の遊女から起こるという。慶長(1596~1615)以来広く行われ、のち遊女の間に横兵庫・
   立兵庫などが流行。

  【勝山】かつやま  勝山髷。勝山結び。
   女の髪の結い方。髪を後頭部で束ねて末を細くし前へ曲げ大輪を作ったもの。横からこうがい
   (髪飾りの一種)を挿す。
   江戸初期、承応・明暦の頃、吉原の遊女の勝山が結い始めたものという。のちこれから丸髷まるまげ
   生じた。

  【島田髷】しまだ‐わげ (まげ
   (島田の遊女の結い始めたものといい、また、寛永(1624~1644)頃の歌舞伎役者 島田万吉または
   花吉・甚吉の髪の風から起こるとも、あるいは「しまだ」は「締めた」の転訛ともいう)女の髪の結い方。
   時代により変化したが、前髪・鬢びんを張り出し、髷の中ほどを元結で締めて撥ばちの形にするなどの
   結い方がある。主に未婚の女が結う。また、婚礼に結う風習となっている。
   高島田・文金島田・つぶし島田・投げ島田・奴島田など、種類も多い。
こうがい


  【唐人髷】とうじん-まげ
   江戸末期から流行した少女の髪の結い方。桃割れと銀杏返しを一緒にしたような形で、中央の元結もとゆいをかける所を
   髪で十文字にかけたもの。

  【桃割れ】もも‐われ
   16、7歳位の少女の髪の結い方。左右に髪を
   分けて輪にして後頭上部で結び、鬢びん
   ふくらませたもの。明治・大正期に行われた。
 
 【銀杏返し】いちょう‐がえし
  女の髪の結い方。髻もとどりを二分し、左右に
  曲げてそれぞれ輪を作り毛先を元結で根に
  結んだもの。
  江戸中期から行われ、明治以降は中年向きの
  髪型となった。
 

  【達磨返し】だるま-がえし
   女の髪の結い方。髪をひねって髱たぼの中に押し入れ簪かんざしで止めたもの。
   江戸の粋人の年増に多く行われた。

  藤間京之助 オフィシャルHP 『ステキ日本髪・本館』 http://www.geocities.jp/kyonosuke_f/sutekinihongami.html

  川柳 発祥は大坂。 川柳から見る江戸での嫁の立場 嫌な女房番付


  『皇都午睡』三編
   「自由の足る中に自由なるを江戸に限って値の安き物は湯と髪月代なり、他に安き物を云えば…
   「江戸前結床は別に安いと云は丁寧なり、首筋耳の穴まで細き剃り刀にて自在に剃なり…

   江戸は魚が大坂より3~4割高く他の物も高いが、銭湯代と髪結い代は安い。
   江戸の髪結い代は安いといえど非常に丁寧である。垢もフケも無いようにまですき、油を付けてすき結う。
   上方の髪結い代とは雲泥の差があるので、上方も安くあるべき…文は男の髪型に続く。

  江戸は空っ風が舞うので、毎日風呂に入らないといけない。などの事も書かれてあります。
  江戸庶民は土方や大工職人など汗を書いたり汚れたりする職業の人も多かったようです。

   江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった



  毎日放送 ちちんぷいぷい 『きょうの☆印 「兵庫県立歴史博物館 ミニチュア展」』 15.04.30 放送

  ≪ 江戸時代の男の髪型も色々あった ≫

  『皇都午睡』三編 上記の髪結いの続き
   上方も安くあるべきだが、男は時々流行の髪型があって一概には言えない。
   武家は色々と古風な髷もあるが、(江戸) 町人はほとんどが銀杏ばかり、上方の如く丸髷二つ折りなど見当たらない。

   「上方にても今のんこという髷珍しく江戸に本田髷は屋敷方に適々見受ける計り也

  兵庫県姫路市の県立歴史博物館で「美似ミニ the NIPPON」と題して、大阪のフィギュアメーカー海洋堂に収蔵された生活
  用品のミニチュア・コレクション250点の展示会が~15年6月14日まで開催されました。






  ミニチュアで再現された江戸時代の商店の看板、髪型、農機具や職人の道具類から昭和時代のものまで展示されてた
  そうです。


  日本テレビ ザ!鉄腕!DASH!『DASH島&DASH海岸 海スペシャル』 13.12.08 放送 など より

  ≪ 江戸時代の整髪料 ≫

  【鬢付け油】びんつけ‐あぶら
   髪油。菜種油などと晒木蝋さらし-もくろう(脱色したハゼノキの果皮から採った脂肪でロウソクなどの材料にもなる)に
   香料をまぜて製した固練りの油。主に日本髪で、おくれ毛を止め、髪のかたちを固めるのに用いる。固油。

  【伽羅の油】きゃら‐の‐あぶら
   鬢付け油の一種。もと、ロウソクの溶けたものに松脂まつやにを混ぜて練ったもの。
   のちには大白唐蝋・胡麻油・丁子・白檀・竜脳などを原料とした。
   正保・慶安(1644~1652)の頃、京都室町の髭の久吉ひさよしが売り始めて広まった。

  【真葛】さね‐かずら。ビナンカズラ。サナカズラ。
   名マツブサ科の常緑蔓性低木。山地に自生、また観賞用にも栽植。葉は厚く光沢があり、長楕円形。
   初夏、葉腋に淡黄色の花を開く。秋、美しい紅色の実を多数球状につけ、漢方生薬五味子ごみしの代用とした。
   別称、美男葛びなん‐かずら。 茎の粘液は製紙用または鬢付油の材料







  ≪京都市東山区 安井金比羅宮 櫛祭くしまつり 古代~現代までの女性の髪形を再現

  1961 (昭和36) 年に、京都市内の美容関係者らが、櫛に感謝し供養することを目的として櫛塚を建立し始めた祭。
  2014年で54回目。毎年9月の第4月曜日開催。

  古墳時代~現代までの様々な髪形を結い上げた40人あまりの女性らが、東山区の安井金毘羅宮の境内で式典をした後、
  祇園周辺を練り歩きます。

  櫛祭り・京都・写真集HP  http://kimagurecp.kitunebi.com/komagaisameba/kushimaturi.html
  動画 → 安井金比羅宮 櫛まつり 時代風俗行列 2012年 http://www.youtube.com/watch?v=ehl3zAZkR2A
 
 江戸時代の化粧
  【紅粉】こう‐ふん … べにとおしろい。脂粉。化粧。
  【紅白粉】べに‐おしろい … べにとおしろい。転じて、化粧。

  【紅】べに (古くはヘニとも)
   紅花から採った赤い色の色素。花弁を干した散花、または搗ついてから干して固めた餅紅もちべに
   から析出する。食品の着色料、染料、頬・唇・爪などの化粧用に使う。

  【紅皿】べに‐ざら
   紅を溶かすのに用いる小皿。皿に紅を塗りつけておき、指先で溶いて口紅に用いる。

  【紅差指】べにさし‐ゆび
   (紅をつける時に使うことからいう)くすりゆびの異称。べにつけゆび。〈日葡辞書〉

        紅皿
 
  歌舞伎公式総合サイト 歌舞伎美人 『江戸時代のファッションリーダーに学ぶ』 http://www.kabuki-bito.jp/special/naganuma/15/no3.html

 江戸時代の化粧とは、未婚・既婚やその女性の身分などが一目でわかってしまうものでした。その代表的な例が
  お歯黒です。当時の女性は、結婚が決まると歯を黒く染め貞節をあらわした、とされています。

  また、江戸中期以降には、子供を授かると眉を剃ることが定着したようです。髪型も、貴賎を問わず下げ髪だった
  平安時代とは変わり、さまざまな形の結髪が誕生しました。

  そんな江戸時代のファッションリーダーといえば、もちろん歌舞伎俳優です。彼らは、芝居を通じて常に町方庶民の
  流行を先導してきました。

  髪型や化粧の方法をとってみても、同様のようで、化粧品の宣伝文句に人気の歌舞伎俳優が愛用しているという
  謳い文句を付けたり、俳優の名前が付いた化粧品が販売されたりしていました。
  また、路考髷(ろこうまげ)や平九郎鬢(へいくろうびん)など歌舞伎俳優の髪型が次々に流行するので、髪結い
  (かみゆい)は、常に人気俳優の髪型を敏感にキャッチしていなければなりませんでした。

  テレビ朝日 林修の今でしょ ! 講座 2SP 『時代劇からの定番エピソードから学ぶ歴史の新事実 五番勝負』 15.11.10 放送

【鶯眉】うぐいす‐まゆ
 ① 江戸時代、奥女中の描いた眉。眉を細く剃りつけて、
  中にこね墨をさしたもの。16~17歳から行う。
 ② 江戸時代、公武家で生まれた女子の額に白粉で描
  いた眉。

 箸と爪楊枝 歯磨きの習慣 浮世絵にある江戸の楊枝屋



  【御歯黒・鉄漿】お‐はぐろ 
   (女房詞)歯を黒く染めること。鉄片を茶の汁または酢の中に浸して酸化させた褐色・悪臭の液(かね)に、五倍子ふし
   粉をつけて歯につける。
   古く上流の女性の間に起こり、平安中~後期頃から公卿など男子も行い、のち民間にも流行して、室町時代には女子
   9歳の頃これを成年の印とした。
   江戸時代には結婚した女性はすべて行なった。かねつけはぐろめ。日葡辞書「ヲハグロスル」。

  【真菰墨】まこも‐ずみ
   黒穂くろぼ菌が寄生して肥大したマコモの芽を乾したもの。絵具・眉墨とする。中国などで食用。菰角こもづの

  【真菰・真薦】ま‐こも
   イネ科の大形多年草。沼沢に大群落をなして自生。高さ1~2メートル、葉は線形。秋、茎頂に約50センチメートルの穂を
   出し、上部に雌花、下部に雄花をつける。
   葉はむしろとし、果実と若芽は食用。かつみ。かすみぐさ。こも。伏柴。ワイルド‐ライスと呼ぶがイネとは異なる。

  【鶯糠】うぐいす‐ぬか … 鶯の糞を精製した化粧糠。美顔料として用いた。


  テレビ東京 美の巨人たち 『喜多川歌麿の深川の雪』 16.01.16 放送

  ≪ 江戸後期の1800年頃、江戸で流行った笹色紅 ≫ 16.05.14

  老中 松平定信の寛政の改革 (1787~1793) から逃れて、栃木の豪商・善野の家に身を寄せている時に描いたとされる
  大型の肉筆の美人画三部作の一つ『深川の雪』、歌麿最晩年の1802~1806(享和2~文化3)年頃の作品。
  描かれている女性の全ての下唇が緑に着色されています。

  ポーラ文化研究所の村田孝子さんに
  よると、
  江戸時代の紅はベニバナから作ら
  れたのが中心でした。
  紅を何度も繰り返して濃く塗ると、
  緑色に発色してくるんです。
  それを『笹色紅』と言いました。
  非常に高価な紅を多く使わないと、
  笹色にならないので、何気なく使う
  のが、"粋"だった。
  笹色紅を実際に塗ると、少し緑色がかった玉虫色のようです。


  【笹色】ささ-いろ … 濃い紅が乾いて黒色を帯びて青く光る色。

  【十九文屋】じゅうくもん-や
   江戸で玩具・櫛・香箱などを19文均一で売った露店。安物屋。十九文見世。
   「十九文」 … 十九文屋で売る品物の意味から、安物、あまり値打ちがないもの。
   胆大小心録その弟子どもがたんとあれど、どれとつても―」。

  十九日じゅうくにち=江戸の俗語で「愚か者」。(十九文屋で売られる値打ちが無い物の意から)。

   美人画の浮世絵師 喜多川歌麿 (巨大美人画3部作 「雪月花」) 山東京伝、歌川豊国など


  日テレ 世界で一番受けたい授業 『江戸時代のベストセラーから見る 驚きの新歴史 !』 15.04.11 放送 など

  ≪ 江戸時代後期の 都風俗化粧伝みやこ-ふうぞく-けわいでん


 1813(文化10)年 京都の堀川で書かれた化粧やファッションに関する美容指南書。
 佐山半七丸 著、 速水暁斎 画。

 江戸時代は約265年ありますので、時代や地域によって髪型や化粧の仕方に流行があったと思われ
 ますが、都風俗化粧伝によると、当時は現代と正反対で『目が大きいのは見苦しい』とされ、目を
 小さく見せる化粧が流行ったそうです。

 当時は現代のように電燈が無かったたので、夜は行燈の明かりだけで室内は薄暗かった。
 遊女や芸妓・芸者などは顔を明るく見せるために白塗りをしていましたが、化粧が上手くいくと紙を
 顔に当て顔拓を取って次から化粧する時の参考にしたとも言われています。

  【けわい】
   (「気配」と当て字)主に聴覚や直感により、それと感ぜられる様子。雰囲気。そぶり。きざし。品格。
   源氏物語[末摘花]世にめづらしき御―のもりにほひ来るをば

  【けはひ付く】けわい‐づ・く
   それらしい様子になる。栄華物語[木綿四手]ひげなども、少し―・かせ給へる」  コトバンク 栄華物語

  【化粧・仮粧】けわい … けしょう。おつくり。田植草紙髪けづり―する」  コトバンク 田植草紙






  WOMAN EXCITE 『江戸時代のメイクも、目元が決め手?』 13.11.26 配信
   http://woman.excite.co.jp/article/beauty/rid_E1384234128106/pid_2.html

  西尾市岩瀬文庫コレクション 『<当世化粧>容顔美艶考』 ← 容顔美艶考の画像などがあります
   http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/kaforuda/40iwase/collection/1905tousekesyou/tousekesyouyougan.html

  容顔美艶考ようがんびえんこう 1819年(文政2)並木正三 遺伝、 浅野高造 補著。
   『女粧ます鏡(じょしょうますかがみ)』の別名でも知られ、江戸時代の女性に大変よく読まれた本。

  【並木正三】なみき‐しょうぞう(大坂の人、1730~1773)
   (初世)歌舞伎脚本作者。京坂第一の歌舞伎作者とうたわれ、構想は雄大、筋も複雑で、浄瑠璃の影響が大きい。
   また、回り舞台など舞台機構に新生面を開いた。代表作は「けいせい天羽衣」「宿無団七時雨傘しぐれのからかさ」など。


  ≪ 三都で最も化粧をするのは大坂 ≫


  『皇都午睡』三編

  「家土産に…婦人は国所により、士農工商によりて…結様衣服の好み風俗容義大同小異の違あり…
   男は三都やどの遠国でも風俗は変わらないが、女性は国や身分などで服の好みや風俗が異なる。
   違わないところは、互いを嘲り笑う事。などという事が書かれてあります。次の文に続きます。

  「九州長崎辺の婦人は5、60歳まで眉毛を剃らず、又関東の女は上方の男の如く立ちながら小便するなどの事を
  京坂の女に噂すれば、腹筋をよらせ…

  ちなみに「皇都午睡」や「守貞謾稿」によると、江戸は京坂と比べてトイレ事情が良くなかったようで、「皇都午睡」に
  よるとトイレの構造上の問題で上方の男でも困るのに、上方の女性はさそさぞ困るべしと書かれてあります。
  また上州信州でも女性が立ち小便する事が書かれてあります。

  世界一清潔と言われている江戸の実体は臭かった 最も清潔なのは京と大坂

  「女の髪は将軍家の奥女中の風儀は格段の…町方の髪は…おおかた丸髷で勝山の小さく押へたる様なり…
  鬢も上は小さく…鬢付を多く付けず 月に三度計り髪を洗うを習わしとしている 簪かんざしなども短く薄手にて甚だ
  質素なり…化粧は至って薄く目立たぬをよしとす…

  上記の文を簡単にいうと、江戸女性の髪型は丸髷を小さくしたもので鬢付はあまり付けない。
  簪は上方が鼈甲の大きく厚い物を差しているが、江戸では木櫛が専らであって非常に質素な髪型である。
  化粧は薄化粧を良しとした。

  「惣躰あたまのかけ物…京江戸とも一体化粧は薄き方なり 大坂ほど化粧する所は他国にては珍らし…

  京も江戸も御所や屋敷の女性は老女に至るまで化粧をしているが、町家の婦人は薄化粧した人もいるが、
  大半の人は化粧をしない。遊女でも京江戸は目立たぬようにするのを風儀とした。
  江戸の女は質素であるゆえ、格別ブサイクだと、少し暗い場所だと老女と間違えるように見える。
  大坂ほど化粧をするところは他にはないが、浄瑠璃などの劇場で簪が多いのは目障りだし、鏡を取り出し
  自慢らしくする事は見苦しい。

   「東都の婦人は京摂かみがたより見れば、遙に威勢強く中分以下の暮しを見るに、京摂に云う…

  江戸時代の大坂には、米は流通量の4割・輸入薬の9割・砂糖も独占的に取扱い、世界の1/3あったといわれる銀が
  集まり製錬しており、銅の吹き替え量は世界一など、富の多くが大坂に集まり、諸大名は大坂商人から多額の
  借金していました。
  室町時代後期より、日本は大坂・堺マネーで回っていたと言ってもいいくらいで、それだけ大坂の庶民の暮らしは他と
  比べて圧倒的に豊かだったようです。

  また、商家 (旦那は遊興し、女将と番頭が取り仕切る事が多かった) が多いため、女性が表に出る機会も多かった
  ので化粧する事が必須だったと思います。それで、上記のように京・大坂で化粧本が多く書かれたと推測できます。

  江戸っ子とは? その実態 三都の気質の違い、江戸女性の特徴など


  『江戸のさまざま』 三田村鳶魚 著、昭和4年刊 「江戸の女のお化粧」 P.459 から抜粋して再編集

  江戸時代の1847(弘化3)年の堀田甚兵衛記には江戸の女の化粧について
  妓婦遊女の如くに白粉おしろいの薄きを学びしが、歌舞伎より出でたる鼻上のみ厚化粧をするをよしとすとある。

  嘉永(1848~1855)中に書いた皇都午睡では江戸のお化粧を論じて(上記の文)…上方目玉で眺めて、殊更に
  説明してもいるが、文化文政の話がなく近年の状況を見て書いているだけだ。

  守貞漫稿(天保嘉永の間の随録)では、江戸の近年、淡化粧になりしは、天保府中に美服及高価の諸物を厳禁す、
  此時自ら白粉を用ふる者これなきは、人目に立つを厭へる也江戸白粉の粧、文化頃は甚だ濃く、近年平日素顔
  多く、又ハレ普段ともに白粉を粧もあり、又式正にも素顔もあり。所詮近年は淡粧を専とす、然れども濃粧もあり、
  人々随意、唇紅も准とある。

  水野忠邦が行った天保の改革(1842~1844)の影響で薄化粧になったのだろうが、薄化粧は文化文政時代にもある
  ヤボな屋敷方は濃く、イキナ町風は薄いのだ、遊女、殊に芸者などは厚化粧の極彩色を嫌った。

  女子の襟への白粉を厚く付けるのは上方風俗にて、文政8年頃より始まる。
  江戸は正しく上方風を学んだらしいが、早化粧のためよりも鼻筋襟元をよく見せるためだったらしい。

  江戸は地女(花柳界に対して一般婦女をいう)のきたない所だと云われてきたのに、人情本が出てくる頃は
  綺麗な女が多くなった。文化文政の際から白粉や化粧料が多く売り出された。それは何故だろう…思えば江戸の
  黄金時代と思われた時、先ず第一に婦女を光らせた事、文化の恩恵は人間を美しくするのにあったと思う。

  明治時代になって大きな姿見が普及。明治初めの化粧法は江戸時代の文化文政期の化粧の延長上に過ぎない。

  【人情本】にんじょう-ぼん
   文政(1818~1830)初年頃から明治初年まで行われた小説の一種。
   江戸市民の恋愛生活を描いた風俗小説で、洒落本から転じ、読本よみほんをやわらげた色調を加える。
   体裁は中本ちゅうぼん。為永春水が大成。中本。泣本なきほん。粋書。


  長文でグダグダと書いてあり、皇都午睡への反論をしているようで出来ていない内容になっています。まとめると

  江戸の文化が花開いた黄金期である文化文政(1804~1831年)になって、多くの化粧品が売り出された。
  早化粧の方法を上方から学んだ。武家風・金持ち風は厚化粧。町風は薄化粧。花柳界は厚化粧を嫌った。
  厚化粧はヤボだとバカにしていた。
  江戸庶民は上方と比べ生活に余裕がない人が多かったので化粧したくても出来なかったというのが正直な所だと
  思います。

  1818年頃から江戸の一般女性にも美しい人が多くなった。 結局厚化粧が増えたためと思われます。
  (江戸庶民の姓月が豊かで贅沢になり厚化粧が増えたため) 天保の改革(1842~1844)によって禁止された。

  弘化(1845~1848)には、襟元や鼻上など一部だ厚化粧することになった。
  嘉永(1848~1855)には、全体的に薄化粧が多くなったが、濃い化粧もおり人それぞれで違うようになった。
  景気が悪くなってきたので、薄化粧になってきたと思われます。

  嘉永7年(安政1年)11月に安政の大地震が起こります。(4日に東海道、5日に南海道)、安政2年10月2日に江戸
  地震で各数千人規模の死者が出たとされています。


  ≪ 「東男に京女」という言葉 ≫

  文政になるまで江戸の一般女性は化粧をほとんどしなかった為に、鳶魚曰く「江戸の地女は汚いと云われてきた」。
  西沢一鳳が書いているように、江戸女は世間を知らず、気が強く、わが身を顧みず大きな事を言うので憎まれる。
  というように、性格的にも難があったようです。 「皇都午睡」江戸女は気がきつい
  根底には都への憧れがあった事から、願望で生まれた言葉です。


  読売テレビ かんさい情ネットten. 『Go!Go!若一調査隊 「秋の京都"おみやげの代表格"あぶらとり紙の意外なルーツとは?』 14.11.05 放送
  テレビ朝日 見る人が見た ! 『しきたりの多い舞妓の世界を現役力士が見た!!』 15.01.01 放送

  ≪ 白粉の下地には油を塗る事でキレイになる ≫  京都の「あぶらとり紙」の秘密 金箔と舞妓さんの関係

  芸者や舞妓の化粧は、日本髪を結う時に塗る鬢びん付け油に似たものを顔に塗っていました。
  あぶらを下地に塗ることで、肌の凹凸がなくなり、つるんとしたキレイな仕上がりになります。

  【白粉下】おしろい‐した … おしろいのつきやのびをよくするために、下地に塗るクリーム・化粧水など。






  芸者や芸妓がいる花街は江戸時代からの文化ですが、最盛期は昭和初期です。(昭和のページをご覧下さい。)

  【白粉】お‐しろい (「お白い」の意)
   化粧に用いる白い粉。粉白粉・水白粉・煉白粉・紙白粉・固形白粉などがある。
   原料は炭酸鉛(鉛白)であったが、鉛毒のため1935年販売禁止。今はタルク・カオリンなどを用いる。

  【鉛中毒】えん‐ちゅうどく
   なまりによる中毒。急性では激烈な胃腸炎の症状を呈し、ショックを起こし、死亡することがある。
   慢性では貧血、鉛疝痛せんつう(腹痛)、歯ぐきの変色、便秘、神経麻痺などを起こし、小児では脳炎様症状を呈する。
   活字・鉛管など鉛をあつかう作業、または鉛を含んだ白粉の常用などが原因。なまり中毒。

  【白粉花】おしろい‐ばな
   オシロイバナ科の多年草。熱帯アメリカ原産で、江戸初期に渡来。高さ60~70センチメートル。茎の分岐点には膨れた
   節がある。
   夏から秋に数花ずつ集まり咲き、花(本来は萼)の形は漏斗状で微香があり、色は黄・紅・白など、しぼりのものもある。
   果実は球形で堅く黒熟、中の白粉状の胚乳をおしろいの代用にした。オシロイグサ。夕化粧。

  【白粉臭い】 … おしろいの香りがする。転じて、水商売らしい。あだっぽい。


  テレビ大阪 かがくdeムチャミタス! 『時間の不思議に迫る』 17.06.04 放送   時の展覧会 日本人が時間に正確になったきっかけ

  ちなみに大正時代まで入浴や化粧など美容に費やす1日の時間は合計3時間30分とされています。
  (1920年開催 『時の展覧会』の集録本「誌上時展覧会」より)

  この時の博覧会は人気を博し、これ以降、日本人は時間に正確という国民性が出来上がっていったそうです。
 
 徳川家光
  
 【 江戸で最も華やかな大奥の実態 】 書きかけです。
  NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『大奥の秘密 ~"出世の花道"を生きた女たち~』 10.06.09 放送
  テレビ東京 女たちの裏日本史 『大奥 其の二 「女3000人! 禁断の園 幕府乗っ取り計画」』 10.10.25 放送
  テレビ東京 超歴史ロマン 戦国~大奥~幕末ミステリー完全決着SP!! 12.12.17 放送
  NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『愛と悲しみの大奥物語』 16.05.06 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『裏ネタ解禁! 日本歴史ワイドショー 「ベールに包まれた謎多き大奥の世界」』 16.07.08 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『教科書には描かれない"その後"の日本史に迫る!』 16.10.20 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『やっぱりコワかった!? オンナの歴史』 17.05.11 放送

  歴史秘話ヒストリアによると、最新の研究では下記とは異なる部分もあるようです。年代による違いもあるようです。


  ≪ 大奥 ≫

  大奥は、将軍の跡継ぎを作る為、三代将軍 家光の乳母である春日局が作った
  世俗とは切り離された女性のみの完全階級社会。
  家光は、実は祖父である家康と春日局の子であったという説もあります。

  【春日局】かすが-の-つぼね (1579~1643) 父は明智光秀の重臣 斎藤利三。
   名は福。稲葉佐渡守正成の妻。稲葉正将 (のちの小田原城主) らを生み
   離別、大奥に入る。
   德川家光を乳母として育て、その地位を堅固にし、大奥を統率。
   江戸湯島に天沢寺 (のち麟祥院) を建立。

  この大奥のシステムは、秀吉の大坂城の御奥のシステムを参考にしたとも
  言われます。

  江戸城は『表』と呼ばれる幕府政庁があり、『中奥』は将軍の居住場所で
  現在の官邸の役割。

  『中奥』と『大奥』との間に『御錠口おじょうぐち (御鈴廊下)』が男子禁制の境界線
  となっており、将軍が大奥に渡る時には鈴が鳴らされました。

  大奥の敷地面積は約6000坪、野球グラウンド2面分ほどの広さがありました。



  1000~2000人以上の女たちが暮らし、大奥の最盛期は3000人。
  将軍の妻子や側室、女中などが暮らす、男子禁制の女性だけの空間。
  大奥に続いて『長局』という奥女中の寄宿舎があり、上級の女中は個人部屋を与えられ使用人も使っていました。


  ≪ 大奥の始まり ≫  書きかけ、番組内容の検証中    桂昌院 (お玉) 「玉の輿」の語源とも







  ≪ 御鈴廊下おすず-ろうか

  ドラマでよく見る将軍が中億から大奥入りする時に、使う
  将軍専用の御鈴廊下に女中が並んでいた設定は嘘だった
  ようです。

  最新の研究によると、御鈴廊下の幅は2.7mしかないので、
  両脇に女中たちが正座して並ぶと通路は窮屈。
ドラマ設定では

実際の御鈴廊下の幅だと

  その為、女中たちの挨拶は大奥の広間で行われたと考えられるようになっています。

  将軍は夕方までにその日の夜の相手を決めなければなりませんでした。
  指名された御中臈は御年寄の前で全裸になり、武器や手紙などを隠していないかチェックを受けます。
  その後、入浴や化粧、着付けなどに3~4時間費やされます。夜の8~10時の間に性行為が行われました。


  ≪ 御台所の生活 ≫

  将軍の正室は『みだいどころ』と呼ばれ大奥で最上位ですが、側室でも次期将軍を産むと実権を握れるので、表の政治の
  中枢である老中なども巻き込み、ドロドロの確執が常にあったようです。






  朝、御台所は目覚めても、係の者が起床時間を告げにくるまで床から出る事はできない。
  洗髪すると、髪を乾燥させる為、半日ほど髪を拡げたまま寝ていなければならない。

  魚の身をほじるのが みっともないとされ、一口食べる度新しい魚に取換える為、同じ御膳が10食分用意されていました。
  御台所の排泄物は他人に見せられないので、一生分、約18mの穴が掘られていました。


  ≪ 大奥の役職 ≫ 書きかけ

  大奥の役職は21種類14ランク。将軍に会える『御目見得以上』はごくわずかで、
  旗本の娘などから選ばれました。

  最上級は 『御年寄』(幕府の『老中』に当る)が取り仕切り、その実務のトップは『大奥総取締』と呼ばれました。
  『中年寄 』『御客会釈』

  『御中臈』は将軍の夜の相手をする人や、御台所の世話係もいました。
  御中臈→側室、御中臈→御年寄へと出世コースが分かれます。
  将軍に選ばれた御中臈は側室コースになりますが、他の御中臈から嫉妬を受け、裏では「汚れた方」と呼ばれました。
  対して、将軍のお手付きが無い御中臈は「御清おきよの方」と言われていました。

  『御坊主』は『御伽坊主おとぎぼうず』とも言われ、頭を坊主にし男装をした将軍の雑用係。『御小姓』も男装。

  『御表使』『御祐筆』などから下は専門職。
  『御次』は大奥の道具を管理する係。歌舞音曲で主人を楽しませる役目もありました。
  『御錠口』 『御切手』
  『呉服之間』は将軍や御台所の衣裳を担当する役職。
  『御三之間』は上臈などの世話係。

  【上臈】じょう‐ろう
   江戸幕府大奥の職名。御殿女中の高級の者。多くは堂上家とうしょう‐け(公家の家格の称。狭義には、公卿に列することの
   できる家柄をいう)が当たった。






  『御目見得以下』は下級武士の娘などで『御仲居』『御火之番』『御使番』など。
  『御末』が一番下で庶民の娘から選ばれ力仕事を担いました。
  御末は御目見得以上の視界に入ってはいけないとされていた為、廊下などで出くわすと、ほふく後進して視界から出る
  ようにしなければなりませんでした。

  身分が低い女中でも将軍の『お手つき』となり寵愛を受けると御中臈にランクアップできました。
  跡継ぎの将軍を生む事になれば、大奥のトップとして君臨する事も可能でした。

  大奥は将軍や御台所のプライベート空間であり、政治の中枢に触れる事がある場所だったので、全ては最高機密とされ
  大奥内で起こった事は決して口外してはなりませんでした。

  それでも大奥勤めは、一流の所作や礼儀作法を学べるので、良い花嫁修業と考えられていました。
  奉公している期間中に見合いをして、結婚退職する女性もいました。
  町娘の間では、大名屋敷に勤め出世しながら上がりを目指す『奥奉公出世雙六』が流行っていたそうです。


  ≪ 大奥での給与はいくら ? ≫  ㈱ 大陸書房 「お金」 おもしろ雑学 中江克己 著 1992年5月 初版発行

  『大奥総取締』という役職が最大の権力者で現在に換算すると年収2000万円。
  『御目見得以下』の末端は『御末』で年収60万円。

  東京大学史料編纂所 本郷和人 教授によると、当時の江戸市中で働く庶民の女性の平均年収は30万円ほどだそうです。

  実際の支給は 『上臈』の場合 御切米 100石 御合力金 100両 15人扶持 炭や薪、油、五菜銀 200匁
   『御中臈』では 御切米  12石 御合力金   40両   4人扶持 炭や薪、油、五菜銀 24匁 2分。

  御切米は給料として渡される米で、年2回(5月と10月)に分けて支給されました。
  御合力金は、衣服代として毎月支給。 
  扶持は米の事 (男は1日5合。女は1日3合)で、毎月現物支給。
  五菜銀は味噌や塩などを購入する金。 ← 五菜は韮にら・薤らっきょう・山葵わさび・葱ねぎ・藿まめの総称。が語源。

  【匁・文目】もん‐め
   江戸時代、銀目ぎんめの名。小判1両の60分の1。(「文目」と書く)銭ぜにを数える単位。銭1枚を1文とした。

  歴史ヒストリア 2010年6月9日放送 & 同2016年5月6日放送によると、

  トップの『御年寄』クラスで年収3000万円+300坪の屋敷が支給されました。
  中間クラスの『御次』で年収1000万円。『呉服之間』の女中で年収800万円。
  『御末頭』で年収15両 (300万円)+米5石(750㎏) で、下級武士とほぼ同じ待遇。

  老後、30~40年ほど大奥で勤務すると、給料の7~8割ほどの年金が貰えました。
  退職後は江戸城の側の屋敷で共同生活をするという選択肢もあったそうです。

  ※ 時期や現在換算の仕方などによって、かなり差が出ています。

  ヤフー知恵袋 『江戸時代で言う、1両、銀1匁、1銭、1円、1文は、今で言う何円ぐらいですか?』 のベストアンサーによると
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1050832160 

   江戸時代の金銭の価値を現在に換算するのは説によって大きく変わる。
   江戸時代初期~中期1772年頃  金1両=10万円   銀1匁=1800~2000円   銭1文=25円
   江戸時代中期~後期1854年頃  金1両=8万円    銀1匁=1400円         銭1文=20円


  ≪ 新人いじめ ≫

  新人が入ってくると、まず全裸で身体検査が行われますが、その際 先輩たちが満足するまで全裸で踊らされる『新参舞』や
  部屋の掃除を終えた証として火鉢に梅の花を描く習慣がありましたが、火鉢の灰に新人の顔を押しつけて笑って愉しんで
  いたそうです。(テレ東 歴史ミステリー)

  東進ハイスクール講師の金谷俊一郎さん (関テレ NMBとまなぶくん) によると、新参舞は大晦日に行われたそうです。






  御年寄 (大奥の決定機関、2~3人) 同士の権力争いや、寵愛を受けている側室や御中臈への嫉妬などが耐えませんでした。
  悪い噂を流されたり、裾を踏んで倒されたりなどの嫌がらせは日常茶飯事の世界。時には食事に毒を盛られる事もありました。






  妊娠中の側室を転ばせて流産させるようにも庭には転びやすいように石を置いたり、草履の鼻緒がちぎれるように細工したり
  する事もあったそうです。
  歴代最多55人の子供をもうけた11代将軍家斉の側室の一人だったお梅の方は妊娠中に庭で転び流産、そのショックで自害。
  家斉の将軍在任期間は約50年での側室は16人、寵愛を受けた御中臈は40人以上。

  ある日、同じ部屋に住む上司のイジメに耐えかねた若い女中が、一の側長局の西にある井戸に身を投げて亡くなります。
  その後も、この井戸で投身自殺する女中が絶えず、12人が命を落としました。


  ≪ 矢島局と飛鳥井の対立 ≫  Wiki 矢島局  Wiki 顕子女王

  4代将軍・徳川家綱の乳母・矢島 VS 京都から輿入れの御台所・浅宮顕子付きの上臈・飛鳥井との対立







  ≪ 大奥の文化の発達 ≫

  4代将軍 家綱の将軍就任は11歳。まだ幼い将軍の為、女性たちの関心は側室競争や跡継ぎ問題よりも、美や趣味などへの
  関心が強くなります。

  江戸市中から豆腐が無くなると言われるくらい豆乳風呂が流行りました。
  着物は呉服の間で作られる事が多かったが、針が1本でも無くなると一大事の大騒動に発展します。

  金魚など空前のペットブームとなり、中でも人気だったのは猫で、猫の結納なども行っていたそうです。
  上臈の飼い猫の子供を貰う事で親しくなるなど、出世の手段として利用されていました。






  外出できるのは寺参りの時だけで、寺参りを名目にして帰路で芝居などを楽しんだ。門限は夕方の4時だったそうです。


  ≪ 大奥のスキャンダル1 『江島・生島事件』の真相 ≫ Wiki 江島生島事件  書きかけ

  貧しい御家人の娘として生まれた『みよ』(後の江島) は大奥に奉公後、気遣いと頭の良さで、とんとん拍子に出世。
  大奥に入ってから5年目、1709年 (みよ29才) の時に御表使から大抜擢され、出産をひかえた『お喜世の方』 (後の月
  光院) 付きの上臈になります。

  【江島・絵島】えじま (1681~1741)
   7代将軍 德川家継の生母 月光院に仕えた大奥の大年寄 (奥女中の取締役)。
   山村座の芝居を愛好し、俳優 生島新五郎と交際があったなどを咎められ、1714 (正徳4) 信州高遠に流刑、
   関係者数十名も処罰された。維新後、歌舞伎・舞踏劇・小説に脚色。

  第6代将軍 家宣の頃、大奥内では正室の天英院と、側室ですが跡継ぎを生んだ月光院の派閥争いがありました。

  【徳川家宣】とくがわ‐いえのぶ(甲府藩主 徳川綱重の長子、1662~1712)
   徳川第6代将軍(在職1709~1712)。初名、綱豊。綱吉の養子。
   新井白石・間部詮房まなべあきふさを登用して政治の刷新を志すが、在職3年で没する。諡号しごう、文昭院。

  天英院は名門公家出身。 (五摂家の一つ、近衛家の娘 Wiki 近衛熙子 1666~1741) 。京都の公家文化。
  正室ですが、生んだ子2人を亡くした為、跡取りがなかった。

  月光院は元加賀藩士で浅草唯念寺の住職勝田玄哲。
  後に4代将軍徳川家綱の乳母の矢島局の養子であった矢島治太夫の養女に迎えられ、大奥に女中として奉公。
  家宣の側室となり、7代将軍の家継の生母として大奥内の実権を握る事になります。

  1713 (正徳3) 年、家宣が無くなった為、わずか4歳の家継が将軍となります。
  しかし、幼い上に病弱だったので、尾張藩主 吉通と、紀州藩主 吉宗が次期将軍候補として名前が挙がっていました。

  【徳川家継】とくがわ‐いえつぐ (1709~1716)
   徳川第7代将軍(在職1713~1716)。家宣の3男。諡号しごう、有章院。

  江島・生島事件では、当時大奥の実権を握っていた月光院の右腕である大奥取締役の江島が不義密通の罪をきせ
  られ月光院・江島派1500人が追放されます。月光院は大奥から吹上御殿へと移動させられました。

  このスキャンダルの真相は、大奥での勢力を回復したい天英院と、御三家筆頭の尾張有利を巻き返したい吉宗が
  仕組んだ『でっち上げ事件』とも言われています。

  『兼山麗沢秘策けんざんれいたくひさく』には「不義密通事件」という記述がないそうです。

  【兼山秘策】 コトバンク より
   金沢の儒者青地兼山,麗沢兄弟がその師室鳩巣から寄せられた書簡を編んだもので《兼山麗沢秘策》として世上に
   流布した。1711‐31年(正徳1‐享保16)の書簡を収める。全8冊。
   鳩巣の学問,思想を直接伝える貴重な資料であるが,その内容は当時の幕政,江戸市中の風聞,世評,交友関係等
   多方面にわたっており,正徳・享保期の社会情勢と,それに対する著者の意見がうかがえる。






  【生島新五郎】いくしま-しんごろう (1671~1743)
   江戸中期、山村座の歌舞伎俳優。奥女中の江島との密通が発覚し、三宅島へ流罪、山村座は廃絶になった。
   この事件は明治以後、歌舞伎その他に脚色された。

  コトバンク 『絵島・生島事件』 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

 絵島事件(一件)ともいう。江戸大奥女中の乱行事件。7代将軍徳川家継(いえつぐ)の生母月光院(6代将軍家宣(いえ
  のぶ)の側室 左京局(さきょうのつぼね))に仕えた大年寄(大奥女中の総頭で表向きの老中に匹敵する地位)の絵島(江島。
  1681―1741)と当時名代(なだい)の歌舞伎(かぶき)役者生島新五郎(いくしましんごろう)との恋愛沙汰(ざた)が露顕して
  罪を得たというもの。

  その背後には、幼少の将軍家継を擁立して権勢を振るう月光院や新参の側用人(そばようにん)間部詮房(まなべあきふさ)、
  儒臣新井白石(あらいはくせき)らに対する、譜代(ふだい)の大名・旗本や6代将軍家宣の正室天英院らの反感があったと
  いわれている。

  事件は、1714年(正徳4)正月12日に、絵島らが月光院の名代(みょうだい)として上野の寛永寺(かんえいじ)および芝の
  増上寺(ぞうじょうじ)に参詣(さんけい)したおり、その帰途に木挽町(こびきちょう)の芝居小屋山村座に遊び、帰城が
  夕暮れに及んだことに端を発する。

  2月2日、その行為をとがめられて、絵島は同僚宮路(みやじ)ともども親戚(しんせき)に預けられ、目付、大目付、町奉行(まち
  ぶぎょう)の糾問(きゅうもん)を受けることになった。このとき梅山、吉川らの女中7人も押込(おしこめ)となっている。

  3月5日、評定所(ひょうじょうしょ)の判決が下り、絵島は死一等を減じ遠流(おんる)とされ、月光院の願いによって高遠
  (たかとお)藩主 内藤清枚(きよかず)・頼卿(よりのり)父子に預けられることになり、身柄は信州高遠(長野県伊那市)に
  移された。
  罪状は、その身は重職にありながら、御使、宿下(やどさがり)のときにゆかりもない家に2晩も宿泊したこと、誰彼(だれ
  かれ)となくみだりに人を近づけたこと、芝居小屋に通い役者(生島新五郎)となれ親しんだこと、遊女屋に遊んだこと、
  しかも他の女中たちをその遊興に伴ったことなどである。

  相手の生島は三宅(みやけ)島に流罪、絵島の兄の白井勝昌(かつまさ)は死罪に処せられた。
  ほかにも旗本、奥医師、陪臣、呉服師とその手代、座元、役者、商人などの連座するもの多数に上り、その刑罰も死罪、
  流罪、改易、追放、閉門、遠慮に及び、大奥女中は67人が親戚に預けられた。

  この後、絵島は高遠の囲屋敷で27年の歳月を過ごし、1741年(寛保1)に61歳の生涯を閉じ、生島はその翌年に赦(ゆる)
  されて江戸に帰った。

  【徳川実紀】とくがわ‐じっき
   家康から10代家治に至る間の和文の編年体実録。江戸幕府が大学頭林述斎を総裁として成島司直もとなおらに編纂
   させたもの。1809年(文化6)起稿、43年(天保14)完成。全516巻。
   なお、本書に次いで家斉から慶喜までの実録を編纂した「続徳川実紀」があるが、未完成。


  ≪ 8代将軍 吉宗による 大奥のリストラ ≫

  大奥での決定が表舞台の政治にも大きな影響を与えるようにもなっていました。
  この時、大奥では天英院が絶大な権力を持っていました。

  八代将軍吉宗の頃には、幕府予算の多くが大奥に使われ財政危機になっており、『器量良し(美人)は嫁ぎ先にも困らない』
  という理由をつけて、多くの女性を大奥から追放し、財政改革を行ったりもしました。
  兼山秘策によると、追放されたのは天英院派の女中約500人でした。

  【徳川吉宗】とくがわ‐よしむね(紀州2代藩主徳川光貞の4男、1684~1751)
   徳川第8代将軍(在職1716~1745)。初名、頼方。紀州藩主となり、藩財政改革に手腕を発揮。将軍位を継いで享保の
   改革を行なった。米将軍と呼ばれる。諡号、有徳院。


  ≪ 性生活 ≫

  将軍以外の男性と通じれば、一族まで死罪という重い掟がありましたが、寺の若い僧や芝居役者たちと御中臈たちが逢瀬を
  楽しんだり、風紀が乱れていました。

  大奥の女性は30歳になると、将軍の夜の相手ができなくなる『お褥しとね下がり』という決まりがありました。

  同性愛も多かったようで、いわゆる大人のおもちゃなども発達。

  『野口文書 とら宛 まつ書状
  「寝てはゆめ おきてはうつつ すこしも わするるひをば御座なく候 恋しき こがれし 御かた様へ 大ばかより」のように
  奥女中同士が交わしたラブレターの内容も残っています。

  【肥後芋茎】ひご‐ずいき  Wiki 肥後ずいき
   肥後(熊本県)に産する蓮芋はすいもの葉茎を乾したもの。食用、また淫具として用いる。
    ※ 江戸時代は、肥後細川藩の参勤交代時のお土産にもされたようです。

  【四つ目屋】よつめ‐や
   江戸両国にあった淫薬・淫具専門の薬屋。四つ目屋忠兵衛といい、四目結よつめゆいを紋とし、黒い提灯を
   出していた。最も有名な薬は長命丸。
    ※ 元々、小間物屋が淫薬・淫具なども売っていた為、女性の利用が多かったらしいです。

肥後ずいき
  
  逆に、江戸城以外の江戸市中近辺は男性だらけ、遊郭などが発達しますが、江戸時代の遊郭利用者数は、大坂 (商売で
  諸国から人が集まる) が最も多かったようです。規模としては新吉原が最大。庶民にとって遊郭で遊ぶ事はステータスな
  事だったのです。
  遊郭に通う為には、それなりのお金が必要な為、江戸では庶民文化として春画、湯女がいる銭湯、夜鷹と呼ばれるフリーの
  売春婦が多かったようです。

  落語の舞台を歩く 『落語「四つ目屋」の舞台を歩く』 http://ginjo.fc2web.com/95yotumeya/yotumeya.htm
  とらっしゅのーと プログ2009.07.25 『おとなのおもちゃ in 江戸~「四つ目屋」の店先を覗いて見よう~』 http://trushnote.exblog.jp/11588813/


  ≪ 大奥のスキャンダル2 『延命院事件』 ≫

  Wiki 延命院

 徳川家斉の時代、西の丸大奥の御中臈・梅村の部屋方であった「ころ」という奥女中が、大奥に入る以前から延命院の
  元歌舞伎役者の僧侶日潤と交際し、日潤が奥女中と密接な関係を作る手助けをした。
  享和年間この寺に来山した日道は美貌の持ち主で幕府の奥女中らと関係を持ったことから寺社奉行脇坂安董に摘発され、
  享和3年(1803年)死罪に処せられた。日道は「日月享和政談」(河竹黙阿弥)での延命院「日当」のモデルとなった。
  「ころ」と日潤の関係も、のちに発覚して捕えられ、「ころ」は大奥を追われた。


  コトバンク 『延命院事件』 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

 江戸・日暮里(にっぽり)延命院の住職日道(にちどう)の女犯(にょぼん)事件をいう。延命院は慶安(けいあん)・承応(じょうおう)
  (1648~55)のころ、日長の開基にかかる、日蓮(にちれん)宗の京都・妙顕寺(みょうけんじ)の末寺(東京都荒川区西日暮里に
  現存)で、幕府や水戸徳川家の信仰を得た。日道はもと役者であったが、寛政(かんせい)年間(1789~1801)に延命院の
  住職となった。

  その美貌(びぼう)をもって法談、祈祷(きとう)に事寄せ、また通夜と称して世間の婦女子や大奥はじめ御三家(ごさんけ)、
  大名家の女中らを誘致し、姦淫(かんいん)に及んだ。1803年(享和3)、日ごろの不行跡が露顕し、寺社奉行(ぶぎょう)脇坂
  淡路守安董(わきざかあわじのかみやすただ)の摘発を受け、7月29日に日道は斬罪(ざんざい)、関係のあった婦女子も
  押込(おしこめ)、叱(しかり)などそれぞれ処罰された。

  また納所(なっしょ)の柳全(りゅうぜん)も新吉原五十軒道の源太郎の母親と密通したかどで、晒(さらし)のうえ寺法によって
  裁かれた。
  後日この事件は小説にされ、『観延政命談(かんえんせいめいだん)』と題し、貸本屋を通して世上に流布した。

  のち河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)によって7幕の世話物『日月星享和政談(じつげつせいきょうわせいだん)』(日道は劇化に
  さいし日当(にっとう)とされ、通稱「延命院日当」)に脚色され、1878年(明治11)東京・新富座(しんとみざ)で5世尾上(おのえ)
  菊五郎の日当で初演された。


  ≪ 大奥のスキャンダル3 『知泉院・感応寺事件』 ≫  Wiki 専行院 書きかけ

  上記の延命院とほぼ同じ内容の事件。
  江戸幕府11代将軍徳川家斉の側室の一人、美代(専行院)が父親の日啓が住職を務める千葉市川の知泉院に大奥の
  女中を紹介し、祈祷と称して姦淫を行っていた事件。寺社奉行の阿部伊勢守正弘によって摘発された事件。






  家斉死去後は、お美代の方は落飾し専行院と号して二の丸に居住しました。家斉の遺言を老中らと共謀して偽造。
  老中首座の水野忠邦は天保の改革を開始し、老中3人は罷免。お美代の方 (専行院) には罪を科すことができなかった
  ようです。

  NEWSポストセブン 『徳川家斉 40人の側室に55人の子を産ませた裏に破戒坊主』 10.12.19 配信
   http://www.news-postseven.com/archives/20101219_8135.html

 江戸時代・将軍家の女の園「大奥」の内実は「一切他言無用」と厳しく秘密保持されていた。
  おまけに、これだけの規模と歴史を有する“役所”にもかかわらず、公式文書や議事録、関係者の回顧録、一級と認めら
  れる歴史書が驚くほど少ない。だが、それでも大奥の噂はひっきりなしに城下へ流れてきた。
  実際に大スキャンダルが起こったこともある。その代表例を紹介しよう。

  人間の煩悩は色欲だけにとどまらない。ここに金や出世が絡みドロドロの醜聞絵巻を繰り広げたのが「智泉院・感応寺
  事件」だ。
  『大奥学』(新潮文庫)や『面白いほどわかる 大奥のすべて』(中経出版)などの著者、東京大学史料編纂所の山本博文
  教授はいう。

  「1841年に大御所家斉が逝去すると、それを待ちかねたように、老中水野忠邦は感応寺の取り潰しを命じます。
  同時に住職の日啓も女犯の罪で遠島を命じられました」

  日啓は智泉院の元住持で、家斉が最も寵愛したお美代の方の実父だった。
  お美代の養父は御小納戸頭取の中野清武、2人の父は娘の美貌と才知を見込んで1806年に、彼女を大奥へ送り込んだ。

  作戦は大成功した。というのも家斉は稀代の好色将軍だったからだ。彼は15歳で最高位に就き69歳で死んだが、なんと
  40人の側室に55人もの子を産ませた。しかも家斉は、12代家慶に家督を譲った後も大御所として実権を手放さなかった。

  お美代の方は家斉の第36子で加賀藩に嫁いだ溶姫や広島藩主の正室となる末姫をなし、大奥での勢力を拡大していく。
  養父武清は2000石に加増され、日啓も並々ならぬ法力を持つと評判をとる。無論、娘のプロパガンダが功を奏したのだ。

  山本教授も眉をひそめる。
  「日啓は30数年にわたって大奥の信仰を集め、複数の女中と密通していたようです。彼はそれだけで満足せず、お美代を
  通じて家斉に働きかけ、廃寺だった感応寺を復興させ住職に収まります」

  感応寺は将軍家を筆頭に諸大名の絶大な信仰と喜捨を受け、大伽藍を誇った。
  大奥女中との女犯は日啓のみならず孫の日尚も倣っていたというから、あきれた破戒坊主どもだ。


  ≪ 恵光院殿 『桂川てや』 ≫  Wiki 桂川てや

  将軍家付の奥医師の長女として生まれた『てや』。幼名は『阿勢登おせと』。
  父は病気がちで仕事を休みがち、兄は若く修業中の為、家計は苦しかった。

  家計を助けるため、1840 (天保11) 年頃、12歳で大奥勤めを始めます。

  11代将軍 家斉の正室 広大院は歴代の中でも最も権力が強かったといわれる人物。
  50年以上その側近として勤めている上臈御年寄の花町に引き立てられ、わずか1年、
  13歳で御中臈にスピード昇進し広大院の世話係を務めていました。


  『桂川家の記録』には「五十年に此かた二なき よき心立」とあり、「50年にひとりの逸材」と言われています。

  大奥での権力者に目を掛けて貰い、他人がうらやむほど順風満帆の出世街道を進むてやでしたが、16歳の冬『てやから
  実家の母親への手紙』には「こんどは ほんとうの やど下がり (退職) を御めで度致し候 初めからのやく束 ゆへ どふぞゝ
  はやくゝ」とあり、実家に戻りたいと願っていました。

  1844 (天保15) 年5月10日早朝、大奥長局の花町とてやが住む部屋の近くの高級女中が住む部屋から出火。
  てやは広大院を探して走り回り、大奥の外で女中に背負われた無事の姿を見つけます。
  しかし、花町の姿が見当たりません。広大院に見てくるように言われ、てやは火の手が上がる大奥へと探しに戻りました。

  逃げてきた女中と出会い、その時にてやが残したとされる言葉が『幕府役人による風聞書』に書かれています。
  「主人の御意は重いものです。故に私は花街様の所へ行き、焼死ぬつもりです。手燭てしょくを握る死骸が見つかったら、
  それは私であると皆様にお伝えください。

  この火事で花町を含め奥女中の死者は40人以上おり、手燭を握りしめた遺体もありました。
  てやが葬られた上行寺の過去帳には、てやの諡号が『恵光院殿』と記録されています。
  『院殿』とは将軍や御台所だけに付けられる最上級の法号 (戒名)。「大奥女中の鑑」として将軍家から贈られました。

  唯一の大奥女中の肖像画とされるものは、てやの父親が後に絵師に描かせたもの。
  肖像画の右には「恵光様」という文字と、その下に「幼名阿勢登様」と書かれてあります。


  ≪ 最後の大奥総取締 瀧川 ≫







  ≪ 天璋院・篤姫と皇女・和宮  姑と嫁の対立≫   Wiki 天璋院  Wiki 和宮親子内親王



  【天璋院】てんしょう-いん (1836~1883) 篤姫。 コトバンク デジタル大辞泉 より
   江戸幕府第13代将軍徳川家定の正室。幼名は於一(おかつ)。薩摩藩島津家一門に生まれ、島津斉彬の養女(篤子(あつこ)
   と改名)となり、近衛家の養女(敬子(すみこ)と改名)を経て御台盤所(みだいばんどころ)となる。家定の死後、落飾して
   天璋院と称した。

  【徳川家定】とくがわ‐いえさだ(1824~1858) 家慶いえよしの4男。
   徳川第13代将軍(在職1853~1858)。病弱で政務は阿部正弘らに任せる。継嗣なく、没後にいわゆる将軍継嗣問題が起きた。
   諡号、温恭院。

  【和宮】かず‐の‐みや(1846~1877)仁孝天皇の第8皇女。孝明天皇の妹。
   親子ちかこ内親王。江戸幕府14代将軍家茂の夫人。天皇家との融和を求める幕府の強い要請により、1862年(文久2)家茂に
   降嫁。江戸開城その他に隠れた功がある。家茂の没後、落飾して静寛院宮と号した。

  【徳川家茂】とくがわ‐いえもち(1846~1866) 紀州藩主斉順なりよりの長子。
   徳川第14代将軍(在職1858~1866)。初名、慶福よしとみ。紀州藩主。のち将軍の位を継ぎ、公武合体のため和宮と結婚。
   大坂城で第2次長州征討の軍を統督中に病没。諡号、昭徳院。


  明治時代になると勝海舟45才と篤姫32才はデートをよくしていたそうです。
  連れ込み旅館で、勝海舟が湯上りの篤姫に浴衣の着方を教えたという記録もあるようです。
   (浴衣は庶民の部屋着だった為、大奥で生活していた篤姫は着たことがなかった)

  【勝海舟】かつ‐かいしゅう (江戸生れ、旗本の子。1823~1899) 名は義邦。通称、麟太郎。海舟は号。
   安房守であったので安房と称し、のちに安芳と改名。
   幕末・明治の政治家。海軍伝習のため長崎に派遣される。咸臨丸を指揮して渡米。帰国後、海軍操練所を設立、軍艦奉行と
   なる。幕府側代表として江戸城明渡しの任を果たし、維新後、参議・海軍卿・枢密顧問官。伯爵。
   著「海軍歴史」「陸軍歴史」「開国起原」、自伝「氷川清話」など。

   歴史ミステリー 江戸は〇〇世界一!!  http://youtu.be/jga-jqCTsB8 ← 史実を誇張している部分もありますが。
   歴史ミステリー 徳川吉宗VS大奥!! http://youtu.be/jO0BklchHuw
   歴史ミステリー 女3000人!!禁断の園・大奥の幕府乗っ取り計画 http://youtu.be/Oeik_3AIHoA
   歴史ミステリー 篤姫は知っていた!大奥に入った和宮は替え玉だった http://youtu.be/ntFtat2ST9M
  
  桂昌院 女性で最高の地位 (皇族を除く) を得た将軍の生母
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅 京都・北区~下京区へ』 16.09.29 放送

  【桂昌院】けいしょういん (1627~1705) 名は宗子。 京都の八百屋仁左衛門の子。
   二条家の家司本庄宗利の養女。德川幕府5代将軍綱吉の生母
   もとは3代将軍家光の側室お万の方の腰元だったが、みずからも家光の側室となって徳松 (のちの綱吉) を生む。
   綱吉が5代将軍になったのを機に江戸城三の丸へ。「三の丸様」と呼ばれた。京都や奈良をはじめ、
   各地の寺社へ寄進したことで知られる。綱吉に請うて護国寺を建立。






  【永光院】えいこういん (1624~1711) 通称はお万の方。  参議・六条有純の娘。
   江戸時代の女性、江戸幕府3代征夷大将軍・徳川家光の側室。


  朝日新聞 夕刊 『京ものがたり 「綱吉の母と西陣・今宮神社」』 14.06.03 原文ママ

  ≪ 再び担がれる「元祖・玉の輿 ≫

 いつの世も、女性にとって結婚と出産は一大事。ときに人生をぐらつかせ、ときに全てをきらめかせる。
  だからこそ、「乗ってみせるわ玉の輿」。そう願う女性は多い。
  薫風さわやかな5月の昼下がり。京都・西陣の今宮神社には、若い女性の姿が目についた。
  お目当ては「玉の輿お守」。うそのような本当のお守りを求め、いま全国から女性たちがやってくる。

  何しろここは、別名「玉の輿神社」なのだから。
  いわれはこの方、桂昌院にある。德川幕府3代将軍家光の側室して、5代将軍綱吉の実母。大奥に影響力を持ち、従一位
  という女性の最高位まで上り詰めた人だ。
  もとは西陣の八百屋の娘、お玉さん。その成功ぶりから、いわゆる"玉の輿に乗る"という言葉の護憲になったという説も
  あるくらい。ちなみに家光の乳母春日局は従二位だから、出世具合は半端じゃない。

  今からさかのぼること約300年。信心深い桂昌院は、いくさや飢饉で荒れ果てていた今宮神社に社領百石を寄進して再建
  した。いわば中興の祖だ。その桂昌院が再び表舞台に登場することになったのは十数年前。
  平安時代から続く「今宮祭」に活気が薄れ、地元に危機感が広がっていた。
  そこに飛び出した「玉の輿みこし」のアイデアに、神社も動いた。女子大生たちが担ぎ手になり、ほかのみこしとともに巡幸
  する。

  『乗るなら乗っとこ 玉の輿 ワッショイ ワッショイ
』 こんな囃子が盛り上げる。
  「なんや、あれ」。最初は眉をひそめた沿道の人たちにも、いつしか浸透していった。「玉の輿お守」もこの流れ。
  「若い女性の心にストライクだったのでしょうね」。宮司の佐々木従久 (60) はいう。

  美人だが嫉妬深く下卑で小ずるくて…。 小説や映画のなかの桂昌院は、ろくな描かれ方をされていない。
  「実際は、質素だけど信仰心の厚いご両親から、しっかりと作法を身につけられた。派手なことはなさらず、努力と辛抱の
  お方だった」。
  桂昌院とゆかりの深い護国寺 (東京都) の図書室主事、小野妙恭 (90) は、古書を読み解きその人となりにこう迫る。

  愛するわが子綱吉は、家光の4男。ふつうならば、将軍への道遠く険しい。だが、巡りめぐって「上様」に。人生、何があるか
  わからない。10代で江戸城へ入り、二度と京都へ帰ることはかなわなかったが、いつもふるさと西陣を気にかけていたという。
  いま再び、今宮神社の役に立っていることをどう思うだろうか。玉の輿を願う女子たちに、「結婚してからが努力と辛抱よ」。
  遠く天上で、そうほほえんでいそうだ。 (谷辺晃子)


  ≪ 京都 今宮神社名物 あぶり餅 ≫

  平安時代から参拝客に食べられている。
  一口サイズにちぎった餅に黄な粉をまぶして竹串に刺し、炭火であぶって甘い白みそをかけて食べる。参拝客に愛されている。
 
 江戸の火事の真実
  ≪ 火事と喧嘩は江戸の華 ≫  Wiki 江戸の火事 / 大坂 最大の大火

  江戸は大火事が多くて火消しの働きぶりが華々しかった事と、江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が多かった
  事をいった言葉。

  江戸時代の大火は、金沢 3、大坂 6、京都 9、江戸 49回で、江戸が突出して多い。

  1657年の「明暦の大火」、1772年の「明和の大火」、1806年の「文化の大火」を 江戸の三大大火と呼ぶそうです。

  【明暦の大火】めいれき‐の‐たいか
   明暦3年正月18~20日、江戸城本丸をはじめ市街の大部分を焼き払った大火事。焼失町数400町。死者10万人余。
   本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼せがきに焼いた振袖が空中に舞い上がったのが原因といわれ、俗に振袖火事と称した。
   災後、本所に回向えこう院を建てて死者の霊を祀った。

  【目黒行人坂の大火】めぐろぎょうにんざか‐の‐たいか 明和の大火
   明暦の大火と並称される江戸の大火。明和9年(1772)2月29日、目黒行人坂大円寺から出火、麻布・飯倉から下町に
   延焼し、神田・下谷・浅草・千住に及び、翌日ようやく鎮火。延焼距離は6里(24キロメートル)に達し、死者・行方不明
   1万9000人。


  江戸の大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数え、1601年からの100年間で269回、
  1701年からの100年間で541回、
  1801年から1867年までの67年間で986回となり、人口の増加による江戸の繁栄に比例して、
  火事の回数も増加していった。

  特に嘉永3年(1851年)から慶応3年(1867年)までの17年間では506回もの火事が発生して
  いるが、これは江戸幕府の権力低下による治安の悪化が大きく影響しているとされる

  江戸の火事の原因としては、放火(火付け)が多く記録されている。
  当事の放火犯は、「火付」「火附」「火を付候者」「火賊」などと記された


  火事が起きると、大工・左官・鳶職人などの建築に従事するものは復興作業により仕事が増えるため、中には火事の
  発生や拡大を喜ぶものもいた。

  江戸の独特な気象条件として、冬の季節風である、北または北西方向からの、極めて乾燥した強風(からっ風)が
  あげられる。江戸の火事のうち大火となったものの多くは、冬から春にかけて雨が降らず、北西風や北風が吹き続け
  乾燥したときに発生した。


  ≪ 火消 ≫ Wiki 火消

  江戸には官民による消防組織として、定火消・大名火消・町火消がありました。

  【火消組】ひけし‐ぐみ
   江戸幕府が明暦の大火の翌年1658年(万治1)に組織させた定じょう火消の組。
   火消役(寄合旗本)一人の下に与力よりき6騎、同心30人で組織した。

  【定火消】じょう‐びけし
   江戸幕府の職名。若年寄に属し、旗本・御家人を主任として、江戸市中の防火および非常警備をつかさどった。
   与力6騎、同心30人、火消人夫若干がこれに属し、役屋敷に居住。1658年(万治1)初めて4組を置く。火消役。

  【大名火消】だいみょう‐ひけし … 江戸時代、大名が課役として江戸の藩邸から出した火消。町火消に対する。

  【町火消】まち‐びけし
   江戸で、幕府の定火消、大名火消以外に、町人が自治的に設けた自衛消防組織。
   1718年(享保3)町奉行大岡忠相の主導により設置。いろは四十七組(のち四十八組)に編成。
   その人足を鳶とびの者または鳶という。


  ≪ 江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた ~ 時代劇で見る 江戸の町は嘘ばっかり!~ ≫

  「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられたサムライと庶民365日の真実」 古川愛哲 著 (講談社+アルファ新書)
  という本があるそうです。
  読んだ人の感想を綴ったブログが複数ありますが、その中から下記リンクの方の感想を一部抜粋。

  高瀬事務所なんとなくブログ http://takase-fp.at.webry.info/200903/article_10.html  

 古川愛哲(ふるかわあいてつ)先生は、1949年神奈川県生まれの放送作家、雑学研究家。

  テレビでも映画でも時代小説でも、江戸時代の江戸の生活の描写が嘘800であることに、
  このままでは嘘が真実になってしまう!という危機感を持った著者が、本当のことを書き留めて
  おこうと書き出した面白い本だ。

  本の目次は、以下のとおり。
   はじめに 「チャンバラ」は大正時代に生まれた
   第一章 これが本当の江戸庶民の生活   第二章 ビジネスに行政 これが本当の江戸社会
   第三章 嘘かまことか これが江戸の現実  第四章 時代劇の英雄たちの現実  
   第五章 江戸の歳時記の現実  第六章 関東平野に残る江戸の現実

  時代劇で見る世界と本当の江戸の町の生活は、随分違っていたようだが、大正時代、昭和時代に
  捕物帳を書いたり時代劇を作った人は英国の探偵小説や西部劇を参考にしたというのは、
  言われてみると確かによく似ている。


  なるほどと思うことが多いが、特に印象に残ったのは、72ページの「江戸の華、火事に隠された真実」、75ページ
  「生類憐みの令は悪法か?」、113ページの「困窮を極めた鬼平の生活』などだ。

  大工の年収は年間26両程度・約780万円程度で、神田の裏店の家賃が四畳半二間で銀120匁・約48万円で、
  衣食住に光熱費・交際費・諸経費でほとんど残らなかったらしい。

  一方、日本橋・京橋に住む大商人は間口一間・奥行き二十間で 36平米位の住宅を1000両・約3億円で作って
  住むのが相場だったという。

  で 不景気で生活できない人が増えると 町奉行所は、いろは四十八組の町火消しに命じて整然と放火をさせ
  都市計画に沿って再建を進めたというから驚きだ。  結局 江戸の町の火災は景気回復対策と格差是正対策を
  兼ねた、経済政策であり社会政策も兼ねていたらしい。

  続きは、上記リンクのブログで。また「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」で検索すると、他にも感想を
  書かれている人のブログがあります。

  【火事場見廻役】かじば‐みまわりやく
   江戸幕府の職名。江戸市中に火事のあった際に、大名屋敷街の巡視、町火消の指図・監察をする役。
   若年寄支配。多く寄合・小普請の者が命ぜられ、御使番の兼帯もある。


  大正時代というのは、江戸時代の事を覚えている人が少なく、大阪が日本最大の経済都市だった時代。
  大阪への対抗心から「東京を良く見せよう・大きく見せよう・歴史を古く見せよう」と史実とは違ういわゆる『トンデモ本』
  などが多く書かれたようです。
  で、現在もこの都合の良い部分を取って情報を流布しているのが東京メディアと東京の歴史学者などです。
  その為、東京メディアの影響力が強い地域では、正しい歴史認識をしていない人の割合が異常に多いと思われます。

  国立国会デジタル図書館のウェブ上で公開されている考証文献がありますので、ぜひ原文を確認してみて下さい。
  幕末の京・大坂・江戸、また明治末の東京の様子が書かれている一級文献です。
  全文を読むと、都合の良い部分だけを引用して「江戸・東京だけを良く見せる」という歴史歪曲している事がお分かり
  頂けるはずです。

  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?

 
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