手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本歴史の雑学8 江戸時代2
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このページの最終更新日:   20.08.29
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  Page Contents



 朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん

 蘭学の適塾 緒方洪庵が設立し、大村益次郎や福沢諭吉らを輩出

 日本人が勤勉になったのは明治中期以降の事

 春画 京都では2016年2~4月に開催。上方の春画の特徴。
  2015年東京で日本初となる本格的な春画展が開催。女性に人気。

 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸 黄表紙とは漫画の原点?
  江戸時代中期まで、江戸では京坂のパクリ本が横行

 歴史も恥も知らない日テレ・スタッフ またも嘘の歴史歪曲

 和算と寺子屋 日本の庶民の学問レベルは非常に高かった
  1775年のツンベルク日本紀行の育児法と学校の様子の記述

 江戸の人口100万人は本当か? 寛政時代の江戸の人口 2億61万3000人もいた?

 元妻の復讐 『うわなり打ち』という風習、最古の記録は平安中期。江戸の嫌な女房番付。


 徳川綱吉 犬公方

 日本のホラーは江戸時代に確立① 奇異雑談集

 「凧」 19.05.16追記
  江戸っ子の上方への対抗意識から 「イカ」→「タコ」と呼ばれる
  ようになった。

 江戸時代の実情 武士の真実


 江戸歌舞伎と浮世絵 ゴシップ誌『女意亭有噺』 春画

 お江戸の恋愛事情 好色=恋、
  寺子屋の教科書は手紙、 恋愛結婚=浮気結婚? 

 吉宗が命じた日本地図 かなり正確な地図が発見される

 江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった
 東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文


  江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

 おすすめサイト 歴史の雑学が色々と載っています。
  株式会社まぼろし 歴史雑談録 http://rekishi.maboroshi.biz/about/
  歴史研究所 『日本史』 http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
  NAVER まとめ 『再現された江戸時代の日本人の食事』 http://matome.naver.jp/odai/2134329123090279301
  こはにわ歴史堂のブログ http://ameblo.jp/kohaniwa/  ← 朝日放送 コヤブ歴史堂「こはにわ先生」の浮世博史さんのブログです。

  江戸時代の重要文献と著者

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 徳川綱吉
  【徳川綱吉】とくがわ‐つなよし(1646~1709)幼名、徳松。諡号 常憲院。 家光の4男。母は桂昌院。
   徳川第5代将軍(在職1680~1709)。上州館林藩主から宗家を継ぐ。
   越後の高田騒動を親裁し、堀田正俊を大老に任じ、譜代大名・旗本・代官の綱紀を粛正、天和の治と称される善政を
   実現した。
   治世の後半には側用人牧野成貞・柳沢吉保を重用、服忌ぶっき令や生類しょうるい憐みの令を出し、社会の文明化を
   推進したが、人民を苦しめ、犬公方いぬくぼうとあだ名された。

  【生類憐みの令】しょうるいあわれみ‐の‐れい
   徳川5代将軍綱吉の発布した生類愛護の触書の総称。捨て子・捨て病人の禁止から、牛・馬・犬・鳥・魚介類などの動物の
   虐待・殺生の禁止までに及んだ。違反者は厳罰に処せられたため、綱吉は犬公方と呼ばれた。1709年(宝永6)廃止。






  【服忌】ぶっ‐き … 服(喪服を着る)と忌(けがれを忌む)。親族が死んだ時、一定期間自宅に謹慎すること。

  【服忌令】ぶっき‐れい
   服忌の日数などを定めた規定。徳川5代将軍綱吉が1684年(貞享1)生類憐みの令とともに制定。
   1736年(元文1)吉宗の時代に条文が確定され、明治維新まで続く。死や血を忌避する観念の定着に大きな役割を果たした。

  朝日新聞 14.07.21 朝刊 『文化の扉』



  生類憐みの令以降、江戸での食犬文化が無くなったと思い込みたい人もいるようですが、江戸時代の肉食事情
  よく読んで正しい認識をもちましょう。

  江戸時代のペットブーム 大坂(上方)から、江戸へ そして全国に広まった。 現在、錦鯉が日本より海外でブーム。
  江戸時代中期の大坂にあったバードカフェ 孔雀茶屋

  朝日新聞 16.03.10 発行によると、「動物虐待容疑で逮捕・書類送検、過去最多63人 警察庁」とあり、統計がある2010年
  以降で最多だったようです。

  東京都では個人情報保護という名目で、他県では開示しているペット虐待情報で黒塗り文が多く、実態が把握しづらい
  ようです。
  Business Journal 『 残酷な犬猫虐待が多発!下半身切り取り、性の対象、頭部に刃物刺す、エアガンで撃ち抜く…』15.06.09配信
   http://biz-journal.jp/2015/06/post_10270_3.html  議会の情報開示なども遅れている東京の隠ぺい体質


  【赤穂事件】あこう‐じけん   Wiki 浅野長矩 Wiki 吉良義央
   元禄14年(1701)3月14日、勅使馳走役の赤穂藩主浅野長矩が、江戸城松之廊下で指南役の吉良義央きらよしなかを斬りつけ、
   即日切腹・改易を命じられた事件と、翌年12月14日、47人の赤穂義士が吉良義央邸を襲撃して義央の首級をあげた事件
   との併称。演劇や文学作品に脚色。

  この赤穂事件の裏には、高品質の赤穂の塩の製法を吉良家が取り入れようとして断られるという事件があります。詳しくは下記サイトで

  塩 『忠臣蔵と塩について』 http://sio1.net/chusingura/  ← 塩について詳しいサイト 兵庫県 赤穂の塩
 
 江戸時代の出版
  成蹊大学文学研究科 文献学共通講義 『2011 第9回 大坂の出版 江戸版の開始 17 世紀の大坂と江戸』
   http://www.mmjp.or.jp/seishindo/seikei_kinsei/bunkengaku2011_09.pdf
  成蹊大学文学研究科 文献学共通講義 『2014 第9回本屋仲間の存在価値』 
   http://www.book-seishindo.jp/bunken2014/kyotu_2014A-09.pdf


  ≪ 室町時代頃 ≫

  中世に、一寸法師・浦島太郎・酒.呑童子・雪女・猿源氏などの物語絵本が描かれた御伽草子や奈良絵本が登場した
  事により、平安時代の物語が古典に格上げされます。

  【御伽】お‐とぎ
   ① 非現実的な話。夢物語。のちに子供に聞かせる昔話や童話の意味で、御伽話。
     1903年(明治36)に御伽話を組み込んだ児童劇の御伽芝居が上演される。
   ② 室町時代以後、大名の夜の話相手をする僧体の人を御伽坊主。元々、お通夜で夜通し経を読む僧侶の事。
     戦国・江戸時代、主君の側にいて話相手をつとめること。また、寝室にはべること女性のこと。

  【御伽草子】おとぎ-ぞうし
   広義には、室町時代を中心に行われた同類の短編小説の総称。作者は多く未詳。
   空想的・教訓的・童話的な作品群。よく時代思想と世相を反映。
   狭義には、享保(1716~1736)頃の大坂の書肆しょ‐し(本屋)渋川清右衛門の刊行した「文正草子」「鉢かづき」以下
   23編の称。






  【奈良絵】なら‐え
   室町末期から江戸時代にかけて、奈良の東大寺・興福寺などの絵仏師が、注文や売品として大量に描いた絵画。
   後には京の町絵師も作画。御伽草子などに取材し、明るい彩色の絵巻物や冊子本(奈良絵本)が作られた。

  【奈良絵本】ならえ‐ほん
   奈良絵を挿絵とした一種の絵本。室町末期から江戸中期にかけて作られ、内容は「源氏物語」「住吉物語」などもあるが、
   御伽草子、舞の本を主とし、横本が多い。金泥・銀泥を用いた豪華な大形美本もあり、棚飾り本・嫁入り本とされた。


  ≪ 桃山時代~江戸時代初め 日本初の木製活字本 ≫1596年12月16日)改元、慶長20年7月13日(1615

  【慶長活字】けいちょう‐かつじ
   慶長年間 (1596~1615) に新たに作られた大形の木製活字。慶長勅版本はこの活字で印刷。

  【慶長勅版本】けいちょう‐ちょくはんぼん
   慶長年間、後陽成天皇の勅命によって印行された日本最初の木製活字本。
   「新刊錦繍段」「日本書紀神代巻」「職原鈔」や四書などがある。慶長勅版。

  【嵯峨本】さが‐ぼん
   慶長(1596~1615)後半から元和(1615~1624)にかけて、本阿弥光悦またはそれに類する筆跡を版下とし、美麗な表紙・
   料紙を用いて出版された書籍の総称。豪商角倉すみのくら素庵が京都の嵯峨において出版したとされる。
   多くは伊勢物語・徒然草・観世流謡本など平仮名まじりの木活字による国文学書で、本文・挿絵ともに近世版本の源流
   となった。


  ≪ 江戸時代の本屋の分類 ≫

  江戸時代初期、平易な仮名文字を使って書かれた『仮名草子』という本が登場。(短編小説などが多い)

  江戸時代中期、1682年(天和2)刊行の井原西鶴 作「好色一代男」によって仮名草子と一線を画した本『浮世草子』が登場。
  仮名草子と比べて徹底した書き下ろしの現代小説で、遊里や諸国噺が題材。
  元禄太平記によると、当時は「西鶴の双子」「好色本」と呼ばれていました。

  以来、元禄 (1688~1704) ・ 宝永 (1704~1711) ・ 正徳 (1711~1716) ・ 享保 (1716~1736) ・ 元文 (1736~1741) ・
  寛保 (1741~1744) ・延享 (1741~1744) ・ 寛延 (1748~1751) ・ 宝暦(1751~1764)・明和(1764~1772)頃まで
  約80年間にわたる上方を中心とした町人文学

  【浮世草子】うきよ‐ぞうし 浮世本
   江戸時代の小説の一種。1682年(天和2)刊行の井原西鶴作「好色一代男」によって仮名草子と一線を画して
   以来、宝暦(17511764)・明和(17641772)頃まで約80年間上方を中心に行われた町人文学。
   遊里・劇場を中心とし、町人の情意生活を写した好色物・町人物・三味線物・気質物かたぎものなどのほか、
   武家物・怪談物・裁判物など多くの種類がある。西鶴の諸作や八文字屋本が有名。

  【井原西鶴】いはら-さいかく (大坂の人、1642~1693) 本名、平山藤五。
   江戸前期の浮世草子作者・俳人。西山宗因の門に入って談林風を学び、矢数俳諧で一昼夜2万3500句の記録を立て、
   オランダ西鶴と異名された。師の没後、浮世草子を作る。
   作品はよく雅俗語を折衷、物語の伝統を破って、性欲・物欲に支配されて行く人間性をいきいきと見せ、元禄前後の
   享楽世界を描いた好色物、義理堅い武士気質を写した武家物、町人の経済生活を描いた町人物などに特色がある。
   作「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」
   「本朝二十不孝」「西鶴織留」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。

  【好色本】こうしょく‐ぼん
   色欲生活(恋愛の事)を題材として書いた本。元禄(1688~1704)時代を中心に行われた浮世草子の一種。
   作者には井原西鶴西沢一風江島其磧きせきらがあり、西鶴の「好色一代男」「好色一代女」などはその代表作。
   好色物。

  【浄瑠璃】じょう‐るり
   ① 〔仏〕清浄しょうじょう・透明の瑠璃。法華経[序品]「―の中に」
    三味線伴奏の語り物音楽の一つ。
     室町末期、無伴奏(時に琵琶や扇拍子)で語られた「浄瑠璃姫物語」が始まりで、広く他の物語に及ぶ。
     江戸時代の直前、三味線伴奏が定着し、人形芝居と、後には歌舞伎とも結合して庶民的娯楽として大いに流行する。
     初期には金平きんぴら節・播磨節などの古浄瑠璃が盛行、義太夫節・半太夫節・河東節・大薩摩節・一中節・豊後節・
     宮薗節・常磐津節・富本節・清元節・新内節などの流派が次々に派生した。
     なかでも元禄時代、竹本義太夫・近松門左衛門らによる人形浄瑠璃の義太夫節が代表的存在となり、
     浄瑠璃は義太夫節の異名ともなっている。

  貞享 (1684~1688) 年頃、大坂の竹本義太夫が人形浄瑠璃を創始。
  元禄時代に大人気となり、浄瑠璃本が登場し、最も平易な本なので広まった。

  当時の本屋は一般的に、高尚な物之本を扱う店と、平易な草紙・浄瑠璃本を扱う店に分かれていたようです。
  ただし両方売る店もあった。

  【物之本】もの-のほん … 仏書・漢籍・医学書・古典文学などの堅い内容の本。学問的な書物。 
   書林書肆しょ‐し物之本屋書物屋

  【唐本】とう-ほん … 中国からもたらされた書籍。中国の版本を輸入販売する専門店が、唐本屋

  【経師】きょう-じ … 経典の書写をする人または僧。経巻の表具をする職人。書画や屏風・ふすまなどの表具をする職人。

  【草紙・冊子・草子・双紙・双子】そう-し … 仮名文の書、物語・日記・歌書。絵を主とした小説 (多く短編)。
   草紙屋草子屋

  【浄瑠璃本】じょうるりーぼん
   各種の浄瑠璃、特に義太夫の詞章ししょう (詩歌や文章、歌謡曲、浄瑠璃の文章) をしるした本。浄瑠璃本屋


  京都大坂江戸 での出版状況 ≫

  江戸時代初期は、本を出版する商業出版の本屋は京都と決まっており、200軒を超えていました。

  【嵯峨本】さが-ぼん 角倉本
   慶長 (1596~1615) 後半から元和 (1615~1624) にかけて、本阿弥光悦またはそれに類する筆跡を版下とし、
   美麗な表紙・料紙を用いて出版された書籍の総称。
   京都の豪商 角倉素庵すみのくら-そあん (1571~1632) が京都の嵯峨において出版したとされる。多くは伊勢物語・
   徒然草・観世流謡本など平仮名まじりの木活字による国文学書で、本文・挿絵ともに近世版本の源流となった。

  【光悦本】こうえつ-ぼん
   嵯峨本のうち、光悦が自ら版下を執筆し、意匠を凝らした料紙に印刷したもの。広義には嵯峨本と同様。

  【本阿弥光悦】ほんあみ-こうえつ (京都の町衆、1558~1637)
   安土桃山・江戸初期の芸術家。家業の刀剣の鑑定・研磨をよくすると共に、書を尊朝法親王に学び、
   寛永三筆の一人。また、蒔絵意匠も考案し、楽焼にも秀で、茶道をたしなむ。

  【角倉素庵】すみのくら‐そあん(1571~1632)
   江戸初期の京都の豪商・学者・書家。了以の長男。名は与一。諱いみな、玄之はるゆきのち貞順。藤原惺窩の門人。
   書を本阿弥光悦に学んで一家を成す(角倉流)。父 (角倉了以) の朱印船貿易・土木事業に協力。
   嵯峨本(角倉本)の刊行に関与。


  江戸時代中期  元禄 (1688~1704)

  大坂では寛文・延宝 (1661~1681年) 頃、心斎橋などに24軒の本屋が確認されていますが、1660年代まで出版は
   していなかったそうです。
   「豊臣の残党が本をつくることを警戒したから」などの説があるそうですが、出版が行われていなかった理由は
   不明だそうです。

  1673 (寛文13) 年、井原西鶴の俳諧『生玉万句』が、現在確認されている大坂での最初の出版物
  その後も、井原西鶴、西沢一風が大坂の出版を牽引していきます。

  【西沢一風】にしざわ‐いっぷう大坂の書肆しょし、1665~1731)名は義教、通称九左衛門。別号、与志・朝義など。
   江戸前期の浮世草子・浄瑠璃作者。浮世草子の大衆化に功があった。
   浄瑠璃「北条時頼記じらいき」、浮世草子「新色しんしき五巻書」「御前義経記」、
   著「今昔操年代記いまむかしあやつりねんだいき」など。


  京都でも井原西鶴の浮世草子が出版され、西鶴を個人的に慕って学んだ江島其磧が八文字屋と組んで多くの
   浮世草子などを出版。

  【江島其磧】えじま‐きせき京都大仏餅屋の主人、1666~1735) 初め権之丞と称し、のち庄左衛門を襲名。
   江戸中期の浮世草子作者。井原西鶴に私淑、八文字屋自笑の名義または共同名で役者評判記・浮世草子
   (いわゆる八文字屋本)を発表。
   作「けいせい色三味線」「風流曲三味線」「傾城禁短気」「世間子息気質」「世間娘容気」など。

  【八文字屋】はちもんじ‐や
   江戸時代の京都の出版書肆しょし。主人は歴代、八左衛門を名乗る。
   元禄頃から明和頃までに出版された浮世草子類や役者評判記など娯楽読物がここで多く出版されたので、
   それらを総称して、「八文字屋本」と言う。

  【八文字自笑】はちもんじ-じしょう (生年未詳~1745)、安藤氏。通称、八左衛門。
   江戸中期の浮世草子 作家・版元。作者 江島其磧を迎えて、その作になる役者評判記や浮世草子などを
   自笑の名で出版。一時 其磧と不和となったが、和解後、両人連名で多くの浮世草子を出版した。

   大仏餅 鎌倉時代は奈良の名物
    江戸時代は京都の名物で京阪で流行り、のちに江戸でも流行。京都にあった奈良の大仏以上のサイズの2つの大仏。

  江戸では出版活動が芽生え始めるが、1657年の明暦の大火で江戸市中の大半が焼かれ停滞しました。
   明暦~元禄 (1655~1704) 頃まで、江戸での開版かいはん (新しく版木を掘り出版する事)・
   刊行されたものは『江戸版』と呼ばれます。 ※ 「京版」という呼び方はないそうです。

  コトバンク 『松会版』
  松会本ともいう。江戸時代、江戸の「松会」氏が刊行した書物の総称。松会の読み方は明らかでないが、一般に「しょう
  かい」とよばれている。1653年(承応2)松会市郎兵衛門板の『まんねんこよみ大さつしよ』を最古とする。
  本姓は木村または加藤氏で、松会の文字を冠する書肆(しょし)名に、市兵衛、衛、吉右衛門、朔旦(さくたん)、三左衛門、
  三四郎などがある。他の書店が版木を買い求めて印刷刊行した例もある。
  コトバンク 『松会市郎兵衛』
  コトバンク 『松会三四郎』
  江戸出版業の初期(17世紀半ば)から享保年間(1716~36)まで約200点を刊行した江戸の有力書肆。「松会」の読みは
  「まつえ」とも。初め市郎兵衛と称し,延宝(1673~81)以降は三四郎と称した。号は松会堂。
  元禄以後の『武鑑』に御書物師として記される如く,幕府御用を務めた。刊行書は『武鑑』と仏書,儒書,往来物,仮名草子など
  だが,仮名書きと挿画を多く用いた点に特色があり,その絵入本は今日珍重されている。ことに延宝ごろには菱川師宣を
  起用し,のちにその絵本類も刊行した。

  菱川師宣が寛文年間から風俗画や挿絵を描いて人気となり、それまで挿絵は、無名の「絵師」の仕事だったが、
  名前を出してその名声で本が売れるようになりました。

  【菱川師宣】ひしかわ‐もろのぶ(安房の人、生年未詳~1694。70才超えで没) 俗称、吉兵衛。友竹と号した。
   江戸前期の浮世絵師。浮世絵の元祖とされる。寛文(16611673)年間江戸に出て、肉筆画や版画、
   特に版本の挿絵を次々に制作し、浮世絵の新領域を開拓した。
   作は絵本「美人絵尽」、版画「吉原の躰」、肉筆画「見返り美人図」「北楼及び演劇図巻」など。

  【菱川派】ひしかわ‐は
   菱川師宣に始まる浮世絵の一派。子の師房、婿の師永、門人の(古川)師重・師平・和翁らが出たが、
   師宣の没後、急速に衰えた。

  江戸版は京都に比べて遅れた出版で、独自の板下文字と、安い紙 (浅草を中心に行われていた漉き返しの
  紙や粗悪な地の紙) が特徴。その代表的な店が、長谷川横丁の松会三四郎 (まつゑ) という浄瑠璃本屋。

  江戸で出版されていたのは、京坂の本をそっくり真似る重版じゅうはんや、模倣したり・挿絵を加えたり・
  外題を変えるだけの類板るいはんという海賊版でした。
  その為、18世紀初頭まで、江戸の本が上方で売られる事はありませんでした。


  幕末の『守貞謾稿』下巻 第五編 生業下 「還魂紙賣

  江戸にては淺草紙と云 今は千住驛邊に製之 大坂は高津新地にて
  漉返し紙は紙屑を再び漉成也 價 大略 百枚百文 蕢にて擔ひ巡る圊紙 鼻紙等に用ふ 京坂にて賣巡るは近年也

  「うまや=駅」「=辺り」「還魂紙かんこんし=漉返し紙 (還魂=死者の魂のよみがえること。反魂はんごん。)」

  「あじか=笊ざるのような容器 (原文では「竹」冠の字ですが、守貞謾稿では「草」冠と「竹」冠の字が間違っていたり、
  「草」冠が抜けている字が時折みられます。文脈などから誤字である事が判明しています。)

  「圊紙=青紙 (元、青花紙でツユクサの花汁で染めた紙の事で、友禅など染物の下絵描きに使われた物から転じて、
  下絵やメモなど、使い捨てとして使用された紙の事だと思います。)

  【蕢】あじか … 土・草・野菜などを運ぶのに用いる具。炊け・葦または藁などで造り、形は「ざる」に似る。

  【漉返し・抄返し】すき-がえし 宿紙しゅくし 還魂紙かんこんし
   本来は、供養目的で故人の書状をすきかえして作った紙。のち反故紙などをすきかえして作ったものをいう。

  【浅草紙】あさくさ-がみ
   すきかえし紙の下等品。主におとし紙 (便所で使う紙) に用いる。江戸時代に、多く浅草山谷や千住辺から産出したという。

  【西洞院紙】にしのとういん-し
   江戸時代、京都の西洞院川畔で漉いた紙の総称。主にすきかえしの紙。

  【湊紙】みなと‐がみ
   和泉国大鳥郡湊村(現、堺市)原産の漉返しの紙。壁の腰張り、襖の下張りなどに用いる。

  【漉き返す・抄き返す】すき-かえす
   反故ほご紙 (書き損じたりした不用の紙) などを水中に浸して舂っき、煮溶かして漉いてふたたび紙に作る。
     リサイクル紙

  学研科学創造研究所 『落語で発見! お江戸の科学 「紙の博物館」
   http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/haiken.html ←江戸時代の紙の原料と作り方
   http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/kaisetsu2.html ←すき返しの図解など


  コトバンク 『紙漉重宝記』
  1798年(寛政10)に、石見(いわみ)国遠田村(島根県益田市)の篤農家国東治兵衛(くにさきじへい)が著した
  製紙の解説書。大坂で出版された。農家に副業として紙漉きを勧めるため、原料の刈取りから製品の出荷に
  至るまでを詳細に図解した啓蒙(けいもう)書で、当時の画家靖中庵丹羽桃渓(せいちゅうあんにわとうけい)の
  漫画風挿絵が多数入っている。現代までに復刻版も多く、海外でも翻訳されている。


  ≪ 元禄時代 百科事典の重宝記が上方(特に大坂)で多く出版される ≫

  【本朝食鑑】ほんちょう-しょっかん
   本朝・・・日本の朝廷。日本のこと。(「本朝○○」というタイトルの本の著者などは、畿内に多い。)
   本草ほんぞう (植物を中心に薬用になる物)。幕府の侍医 随祥院元徳の子 丹岳野人見必大ひとみ-ひつだい著。
   12巻。1697年(元禄10)刊。※6月上旬に出版の記述あり。
   明の李時珍著「本草綱目」にならいつつも、実地検証を踏まえ、庶民の日常生活の食膳にのぼることが多く、
   食用・薬用になる国産の植物・動物に重点をおき漢文体で記した書。
   人見(平野、小野、野)必大が1692年 (元禄5) に著した遺稿を、子の元浩が岸和田藩主岡部侯の出版助成をうけ
   1697年に12巻10冊本として刊行した。
   出版元は不明や、江戸で出版されたというサイトもありますが、国立国会図書館デジタル化資料のサイトでは、
   「出版元、摂州(摂津国、大阪の北摂と兵庫東部)の平野屋勝左衛門」となっています。岸和田は大阪の泉州地域です。
   本朝食鑑の末尾には摂陽 平野屋勝左衛門 開版」と書かれてあり、広辞苑では「開版=新しく版木を彫ること。
   出版すること。」とありますので、大坂で出版された事は間違いないでしょう。


  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf
  神戸女子大学 古典芸能研究センター 『近世の家政学―重宝記・料理本の世界』 2001.12.08
   http://www.yg.kobe-wu.ac.jp/geinou/07-exhibition3/06-ten_kase.html ← 江戸時代の各 重宝記や料理書などが解説されています。

 重宝記は江戸時代の百科事典といえる。

  日常生活に必要な知識を種類・項目別に集めてわかりやすく解説した、その名称が示すとおり「重宝」な書物であった。

  そこに記された知識は学芸・歴史・社会・風俗・故実・倫理・実用と多岐にわたり、江戸時代を通じて刊行された重宝記
  の種類は相当数になる。
  ことに元禄五年の『女重宝記』同六年の『男重宝記』刊行以後、様々な重宝記類が矢継早に刊行されるのである。

  その様は元禄十五年刊 都の錦 作の浮世草子『元禄太平記』に
  「すでに大坂において、家内重宝記が出来始めしより此かた、其類棟に充ち牛に汗するほどあり」と記されている。

  【元禄太平記】げんろく-たいへいき
   浮世草子。都の錦 (本名 宍戸与一、1675~) 作。8巻8冊。1702 (元禄15) 年刊。伏見の夜船で。京・大坂の本屋が
   出版界の情況。作者・学者の評判等を語り合う筋で、一種の文化時評的性格を持つ。井原西鶴批判でも有名。

  1692年の女重宝記と1693年の男重宝記の著者は判明しており、苗村丈伯なむらじようはく(近江の人、1674~1748) で
  京都に住んだ医師・仮名草子作者。

  1695(元禄8)年に京都で出版された『永代重宝記宝蔵』の増補版(1760年に京都で出版)は、ネットで一般公開されて
  います。この本は草書体で書かれてあるので、専門家でないと訳すのが難しいですが、そろばんの計算方法や漢字の
  部首やつくり部分と筆の持ち方などで書き方を詳しく解説してあります。
  その他、料理や農工業・医薬などの専門知識まであり、生活に必要なマニュアル本となっています。

  1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』(編者は羽後生まれ、一説に大坂の人と言われる大坂の医師 寺島良安)も
  百科事典の一つ。 Wiki 和漢三才図会
  105巻あり、天文学・風水・暦、中国~インドの地理や人物、日本各地の地理・神社仏閣や由来、人体解剖図、
  漁具・農具・武具、官位・刑罰、船・乗り物、昆虫や動植物とその食した時の効能など、ありとあらゆる物が載っています。

  【和漢三才圖會】わかんさんさいずえは、日本の類書(百科事典)。正徳2年(1712年)成立。
   編集者は大坂の医師 寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭された
   ことが編集の動機であった。

  これら重宝記が刊行された事によって、日本各地でも上方の豊富な知識や技術を取り入れる事が可能になりました。


  ≪ 江戸では、京坂のパクリ本が横行 ≫

  1698 (元禄11) 年、江戸のパクリ本に手を焼いていた大坂の本屋が「重板・類板を停止する禁令の発布」を
  大坂町奉行に請願。
  京都でも京都の町奉行に請願しており、京坂の本屋が連携したと考えられるそうです。

  1698年末に大坂京都町奉行から重板・類板を停止する旨の触書が出ます。
  これで不正をした者を内部的な制裁だけでなく、奉行所での処罰の対象とさせる事が可能になりました。
  同時に町奉行の許可を得て本屋が同業者団体としての『仲間』『』を結成しました。

  講は組合の意味で、自主的に行司(京都では行事という)を互選、代表者として内部を取り仕切るほか、
  奉行所やその実施機構である町役人(大坂では惣年寄という)との調整役を担いました。

  江戸では、通町とおりちょう組と、中通なかどおり組とが、すでに十七世紀中に存在したという記録はありますが、
  まだ単なる任意な団体でした。

  ※東京メディアおよび関東人が書いているサイトやウィキペディアなんかでは大坂人が著したり大坂で刊行された
  『本朝食鑑』や『和漢三才図会』の記述を、江戸で出版された事にして、江戸発祥や江戸であった文化のように
  主張している事がよくあります。関東では現在でも関西の歴史・文化のパクリをしているのです。

  元禄 (1688~1704年) 文化というのは京・大坂の上方を中心とした文化であって、江戸や各地の都市に町人文化が
  花開くのは、元禄より100年ほど遅い文化・文政 (1804~1831年) 頃です。
  それまでは上方と、江戸および地方都市との文化レベルの差は非常に大きい事を認識しておく必要があります。
  歌舞伎の演目なども大坂での初演があった50~70年後くらいに江戸で書き直して上演されている事も多いようです。

  江戸でも上流階級は上方言葉を使っていた 上野公園の鶯は、京都の訛の無い鳴き声の鶯の子孫


  ≪ 本屋仲間の結成の推奨 江戸での自前本が増加 ≫

  幕府は基本的に徒党を組むような株仲間を結成することは禁止する政策をとってきました。
  しかし、8代将軍の德川吉宗の享保の改革によって、享保年間の1720年代に積極的に仲間組織を結成する
  事を奨励しました。

  この頃の江戸の書物屋は、地元の店と京都の本屋の「支店」(江戸店えど-だな)からなっていました。

  江戸店は京都の意向に従って重板類板対策に目を光らせていたが、江戸育ちの店には重板はよくないが、
  類板は仕方ないという意見が強かった。そのため1730年代には上方と江戸で争いが起こりました。

  本屋が仲間をつくって活動したのは、事業を独占する意図よりも、重板・類板対策が最大の目的でした。
  京都の仲間行事は、類板対策に負われることになったそうです。

  18世紀半ば、江戸でも自前の刊行本が増大し、出版権が問題になってきました。
  1750年頃に、ようやく江戸でも重板類板を制度的に整備しました。
  その結果、江戸の本が上方でも売れるようになり、江戸の刊行本が全国的に商圏を拡大する事ができました。

  【徳川吉宗】とくがわ‐よしむね(1684~1751)初名、頼方。諡号、有徳院。 紀州2代藩主徳川光貞の4男。
   徳川第8代将軍(在職1716~1745)。紀州藩主となり、藩財政改革に手腕を発揮。将軍位を継いで
   享保の改革を行なった。米将軍と呼ばれる。

  【享保の改革】きょうほう‐の‐かいかく
   徳川8代将軍吉宗がその治世(1716~1745)を通じて行なった幕政の改革。
   倹約の励行、武芸の振興、年貢増徴、定免制の実施、株仲間の公認、町人による新田開発の奨励、
   上米制・足高制・公事方御定書の制定、目安箱の設置、養生所の設立、医学・洋学の奨励などの政策で
   幕藩体制の建直しをはかった。江戸幕府三大改革の一つ


  ≪ 都市間をまたいだ複数の店での共同出版 ≫

  江戸時代後期になると、新本の刊行コストなどの問題から、複数の店が資金を出しあって刊行する事が
  増えます。
  京都と大坂と江戸という都市間をまたいで、それぞれが資金を出し合い、その地での販売権を持つという事も
  行われました。

  この形態の出版本は『相板あいはん』または『相合板あいあいはん」と呼ばれ、このような複雑な販売形態は
  日本でしか見られないそうです。

  主板元となる店が、相合の店に対して板賃という配当をし、刷り部数に応じて支払います。
  主板元が勝手に刷るのを監視するために「留板とめいた」といって板木を数枚預かっておき、増刷のさいは
  各自の留板を集めないと刷れないというシステムでした。

  大坂の本屋仲間では、それぞれの権利もまんべんなく記帳し、その移動も管理していました。


  テレビ大阪 和風総本家 『開局35周年特別企画 世界のニッポン先生 』 17.03.09 放送

  ≪ 江戸時代に流行った草双紙 ≫

  【草双紙】くさ‐ぞうし
  ①江戸時代の通俗的な絵入りの読物。表紙の色や製本のしかたによって、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻ごうかんなど
   と呼ばれて時代を追って発展。体裁は、享保(1716~1736)以後、だいたい大半紙半截はんせつ二つ折の中本形、
   1冊5丁で数冊を1部とするのが定型となっていた。
  ②合巻の別称。  ③通俗的な読物。


  【赤本】あか‐ほん
  ①江戸中期に刊行された草双紙くさぞうしの一種。遅くとも宝永(1704~1711)には存し、享保
   (1716~1736)頃盛行。形は半紙半截はんせつ、1冊5丁。赤色の表紙を用いた
   桃太郎・猿蟹さるかに合戦などのお伽噺とぎばなしを題材とし、絵を主とした子供向きのもの。
   初期のものには、やや小型で「赤小本」といわれるものがあり、また、ままごと遊びや雛祭用の
   ためにこれをさらに小さくした「ひいな本」もある。
  ②草双紙の総称。
  ③赤色を主とした極彩色の表紙の少年向き講談本。
  ④俗受けをねらった低級な安い本。

  【黒本】くろ‐ほん
   草双紙くさぞうしの一種。黒い表紙のついた中本ちゅうほん形で、5丁を1冊とし、数冊を1部とする。
   赤本に次いで延享・寛延(1744~1751)の頃江戸で盛行。内容は前後してはやった青本と
   ほぼ同じ。黒表紙。

  【青本】あお‐ほん
  ①草双紙くさぞうしの一種。赤本に次いで、黒本と前後して江戸中期に流行した萌葱もえぎ
   表紙のもの。
   多く歌舞伎または浄瑠璃・歴史・伝記物の梗概を材料とし、5丁を1冊、数冊を1部とする中本形。
  ②草双紙の総称。

  【黄表紙】き‐びょうし
   江戸時代の草双紙の一種。赤本・黒本・青本に次いで安永(1772~1781)頃から文化
   (1804~1818)初年にわたって行われた黄色表紙のもの。
   粗悪な半紙半截はんせつの二つ折の紙5丁を1巻とし、多くは2巻から3巻を1部とする。
   表紙の題簽だいせんも、絵に工夫をこらしたものが多い。
   内容は洒落と諷刺を織り交ぜたもので、従来の子ども向けの草双紙から大人向きの
   読物となった。恋川春町の「金々先生栄花夢」が先駆で、作者としては朋誠堂喜三二・
   山東京伝らが有名。






  黄表紙は江戸時代は1冊10ページ程、かけそば1杯分の価格だったので、人気作は1万部以上売れたと推測されています。
  現在は古書価値が加わり3冊1セットで38万円もの価格が付いている本もあります。

  ノーベル賞受賞者20名を輩出した超名門 米国のウィスコンシン大学のアダム・カーン教授 (53歳) は、
  高校時代に埼玉に2年留学、京都大学大学院留学中に崩し字の読み方を学び、漫画や黄表紙に興味を持ちました。
  ハーバード大学院を卒業、講談社でインターンとして翻訳にも携わり、現在も年に3回来日し古書店で江戸時代の文学や
  草双紙などを購入。個人で2000冊の日本文化に関する書を所蔵、漫画も2500冊以上読み、それらを大学で授業しています。






  日本人以上に日本文化に精通しているカーン教授は、「黄表紙は近代漫画の原点」になったと考えています。

  黄表紙には「豆腐小僧」という妖怪がよく登場し、豆腐屋の看板に書かれたり、根付にもなる程の大人気キャラクターでした。
  また「艶二郎」というナルシストの金持ちドラ息子などのキャラクターは手ぬぐいに描かれる人気だったそうです。
  現在の漫画のキャラが人気になるとグッズ展開されるのと同じだからだそうです。

  【合巻】ごう‐かん
   江戸後期、文化(1804~1818)以後に流行した草双紙くさぞうしの一種。従来の黄表紙が5丁を1冊、数冊で1部としていた
   製本を合冊して1冊としたもの。それを1部1編として、長いものは数十編に及ぶ。
   各ページ絵入りの読物で、素材・表現ともに実録・読本よみほん・浄瑠璃・歌舞伎などの影響が著しい。
 
 日本のホラーは江戸時代に確立① 奇異雑談集 きい-ぞうたん-しゅう
  ≪ 仮名草子 ≫かな‐ぞうし
   室町時代の物語、草子(絵を主とした小説)の後をうけ、浮世草子の先駆をなす江戸初期の短編小説の一体で、
   擬古文体の平易な仮名文で書かれた、啓蒙・娯楽・教訓の物語・小説。「恨の介」「伽婢子」の類。

  【剪灯新話】せんとう-しんわ 中国(明)の短編小説   Wiki 剪灯新話
   1378年頃成立の中国の文語体の短編小説集。明の瞿祐くゆうの作。4巻。神異怪奇談を収める。
   浅井了意の「伽婢子」はその多くを翻案したもの。「牡丹灯籠」の原話も含む。

  【恨の介】うらみのすけ 仮名草子
   慶長・元和(1596~1624年)頃成立。作者未詳。2冊。幕府の旗本と禁裏の女房との密通事件をモデルにした恋愛物語。
   中世小説の伝統をひくが、よく近世初期の時代相を反映する。

  【因果物語】いんが-ものがたり 仮名草子
   1661(寛文1)年刊。鈴木正三しょうさん(三河の人、もと幕臣)作。片仮名本3巻は仏法唱導の怪異譚
   のち増補した6巻の平仮名本には文学的性格が加わる。

  【伽婢子・御伽婢子おとぎぼうこ 仮名草子
   1666年(寛文6)刊。浅井了意(京都の本性寺の住職)作。13巻。
   中国の小説「剪灯新話」の翻案などから成る怪異談・奇話68話を収録。

  【怪談全書】かいだんぜんしょ 仮名草子
   1698(元禄11)年刊。林羅山編作。5巻。全32話。中国の志怪・伝奇書「捜神記」などから抄訳。

  【林羅山】はやし‐らざん 名は忠・信勝。僧号、道春。(京都の人、1583~1657)
   江戸初期の幕府の儒官。 藤原惺窩せいか(冷泉家の出身、播磨生れ。近世儒学の開祖)に朱子学を学び、
   家康以後4代の侍講となる。また、上野忍ヶ岡に学問所および先聖殿を建て、昌平黌しょうへいこう
   (儒学の学校。昌平坂学問所、江戸学問所)の起源をなした。
   多くの漢籍に訓点(道春点)を加えて刊行。著「本朝神社考」「春鑑抄」など。

  【本朝】ほん-てう、ほんちょう。 自国(日本)の朝廷の事。転じて日本の事。
   ※ 書籍名に「本朝」が付く場合、上方の著者が多いようです。

  Wiki 鬼子 / 座敷浪人の壺蔵 あやしい古典文学の壺  http://home.att.ne.jp/red/sronin/_koten/0323isekozo.htm など より

  ≪ 奇異雑談集 ≫ きい-ぞうだん-しゅう

   江戸初期1687(貞享4)年の刊の随筆集6巻。1573(天正1)年頃の成立、江州(滋賀県の近江国)佐々木氏に
   仕えた中村豊前守の子が編。中国の「剪灯新話」などからも4話を集めた諸国の怪談30話。

  ・ 伊勢の浦の小僧

 室町時代の応仁の乱(1467~77)で大徳寺は戦火に見舞われ、僧たちは散り
  散りになった。そのうちの一人、牛庵も隣国を流浪していた時、伊勢にある
  浜辺の漁村に立ち寄った。
  小さな庵いおりの縁側に腰をかけて休んでいると、庵の主人が出てきて牛庵と
  雑談を交わした。庵の主人は、小僧にお茶を持って来させた。

  茶を運んできた小僧は五体満足なものの、顔は異形のものだった。
  牛庵が小僧の顔を見ていると、主人は「この小僧はエイの子でしてな」と、
  出生を語りだした。

  この麓の漁村にいた若い漁師が大きなエイを釣り上げ、家に持って帰った。
  仰向けに置いたエイの生殖器が、まるで人間の女のようだったため、
  見ているうちにムラムラときて、漁師は思わずエイを犯してしまった。


  人の女としているのと変わらなかったんだそうで、情が移り殺すには忍びない
  ので、海に帰してやりました。

  それから10ヶ月ほど経ったある晩のこと、その若い漁師の夢に美女が現れ、
  「あなたの子供が生まれました。子供を磯に置いていきます」と言いました。

  翌朝、磯に行って探してみると、岩陰に赤子がいる。それを私が弟子として
  引き取り、ここに住まわしているのです。今年で十八になります。


  ≪ 浮世草子 ≫うきよ‐ぞうし 浮世本。江戸時代の小説の一種。 俳句と松尾芭蕉

   1682年(天和2)刊行の井原西鶴 作「好色一代男」によって仮名草子と一線を画して以来、
   宝暦(1751~1764)・明和(1764~1772)頃まで約80年間上方を中心に行われた町人文学
   遊里・劇場を中心とし、町人の情意生活を写した好色物・町人物・三味線物・気質物かたぎものなどのほか、
   武家物・怪談物・裁判物など多くの種類がある。西鶴の諸作や八文字屋本が有名。

  【八文字屋】はちもんじ‐や
   江戸時代の京都の出版書肆しょし。主人は歴代、八左衛門を名乗る。
   元禄頃から明和頃までに出版された浮世草子類や役者評判記など娯楽読物がここで多く出版されたので、
   それらを総称して、「八文字屋本」と言う。

  【元禄】げんろく 
   江戸中期、東山天皇朝の年号。
   貞享5年9月30日(1688年10月23日)改元、元禄17年3月13日(1704年4月16日)宝永に改元。

  【元禄文化】Wiki 元禄文化
   17世紀終わり頃から18世紀初頭にかけて、元禄時代を中心として、主に京都・大坂などの上方を中心に
   発展した文化である。
   特色として庶民的な面が濃く現れているが、必ずしも町人の出身ばかりでなく、元禄文化の担い手として
   武士階級出身の者も多かった。上方から発生し、朱子学、自然科学、古典研究が発達した。
   尾形光琳らによる琳派、土佐派などが活躍、野々村仁清、本阿弥光悦 等による陶芸が発展、
   音楽では生田流箏曲、地歌の野川流が生まれ、また義太夫節や一中節などの新浄瑠璃や長唄が生まれた。
   下記の災害によって、元禄文化は終焉。

  【元禄文化】広辞苑
   元禄年間を中心として、俳諧・小説・演劇などで町人文学が上方を中心に一つの頂点に達した時期の
   文学の総称。

  【元禄太平記】 浮世草子。都の錦作。8巻8冊。1702 (元禄15) 年刊。
   京都の伏見の夜船で、京・大坂の本屋が、出版界の情況、作者・学者の評判等を語り合う筋で、一種の
   文化時評的性格を持つ。

  江戸前期の元禄時代の文化は上方を中心に町人文化が花開きます。
  元禄の三大作家は、松尾芭蕉(俳諧)・井原西鶴(浮世草子)・近松門左衛門(浄瑠璃)。

  浄瑠璃 (文楽など) も大阪を中心に関西で発展した

  【井原西鶴】いはら-さいかく (大坂の人、1642~1693) 本名、平山藤五。
   江戸前期の浮世草子作者・俳人。西山宗因の門に入って談林風を学び、矢数俳諧で一昼夜2万3500句の
   記録を立て、オランダ西鶴と異名された。
   師の没後、浮世草子を作る。作品はよく雅俗語を折衷、物語の伝統を破って、性欲・物欲に支配されて行く
   人間性をいきいきと見せ、元禄前後の享楽世界を描いた好色物、義理堅い武士気質を写した武家物、
   町人の経済生活を描いた町人物などに特色がある。
   作「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」
   「本朝二十不孝」「西鶴織留」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。

  【松尾芭蕉】まつお‐ばしょう(伊賀上野に生まれ、1644~1694)名は宗房。号は「はせを」と自署。
   別号、桃青・泊船堂・釣月軒・風羅坊など。藤堂良精の子。
   江戸前期の俳人。良忠(俳号、蝉吟)の近習となり、俳諧に志した。
   一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、
   談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、
   大坂難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、
   主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。

  【近松門左衛門】ちかまつ‐もんざえもん(越前の人、1653~1724)本名、杉森信盛。
   江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎脚本作者。平安堂・巣林子そうりんしなどと号。
   歌舞伎では坂田藤十郎と、浄瑠璃では竹本義太夫と提携。竹本座の座付作者。狂言本二十数編、
   浄瑠璃百数十曲を作り、義理人情の葛藤を題材に人の心の美しさを描いた。
   作「出世景清」「国性爺合戦」「曾根崎心中」「心中天の網島」「女殺油地獄」「けいせい仏の原」など。






  近松門左衛門は武士でしたが、大坂で浄瑠璃に魅せられて脚本家に転身。仇討など『時代物』を多く描きました。
  51才の時。1703(元禄16)年4月7日に大坂の曽根崎で心中事件が起こり、大坂の町はこの話題で持ちきりに
  なりました。

  門左衛門は事件を基に脚色を加え、事件から3週間ほどで『曽根崎心中』を書き上げました。
  人形浄瑠璃で人気を博し、歌舞伎でも演じられ、300年以上経った現在でも演じられています。

  それまでの浄瑠璃は歴史上の偉人が主役一般的でしたが、『曽根崎心中』以降は普通の町人を主役にした
  ものを多く描きました。門左衛門は生涯で浄瑠璃100編以上、歌舞伎30編ほどの脚本を手がけました。

  【元禄地震】げんろく‐じしん Wiki 元禄地震
   元禄16年11月23日(1703年12月31日)に南関東に起こった大地震。震源は房総半島野島崎沖。
   マグニチュード7.9~8.2。小田原・江戸を中心に倒壊家屋2万戸、死者約5000人。ケンペル「日本誌」にも記述。

  【宝永地震】ほうえい‐じしん 
   宝永・・・元禄17年3月13日(1704年4月16日)改元、宝永8年4月25日(1711年6月11日)正徳に改元。
   宝永4年10月4日、東海地方から四国・九州にかけての地震。震源は東海沖・南海沖の二つと考えられる。
   マグニチュード8.4。東海道・紀伊半島を中心に倒壊6万戸、流失2万戸、死者約2万人。

  【宝永大噴火】ほうえい-の-だいふんか Wiki 宝永地震 / Wiki 宝永大噴火
   歴史に残る富士山三大噴火の一つ。平安時代延暦19年〜21年(800年〜802年)の「延暦の大噴火」、
   貞観8年(864年)の「貞観の大噴火」。そして、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた宝永の噴火は、
   現在までにおける歴史上最後の富士山の噴火となっている。


  ≪ 江戸時代の百科事典である『重宝記』が大坂で次々に刊行 ≫

  元禄5年の『女重宝記』、同6年の『男重宝記』刊行以後、様々な重宝記類が矢継早に大坂で刊行されました。
  詳しくは、食の歴史雑学6 江戸時代1のページ 歴史考証によく使われる主要文献

  文化レベルの違いは食文化に最も現れてきますので、上方と江戸との違いは食の歴史雑学の各ページをご覧ください。
 
 「凧」は 江戸っ子の上方への対抗意識から 「イカ」→「タコ」と呼ばれるようになった。
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ~小京都めぐり⑨ 鳥取「倉吉の城下町」~』 2014.01.02 総集編の放送
  読売テレビ ten. 『正月の風物詩"凧あげ"その歴史とは!?』 17.01.11 放送
  TBS この差って何ですか? 『たこ揚げは元々たこではなくいかだった!! ではなぜたこに?』 18.04.24 放送

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?
  江戸でも上流階級は上方言葉を使っていた 上野公園の鶯は、京都の訛の無い鳴き声の鶯の子孫

  凧揚げは元々、紀元前の中国では「占い」や「軍事目的」で揚げられていたそうです。中国では「紙鳶しえん」と呼ばれて
  いたそうです。後に貴族の遊びとして定着。それがアジア各地に広まりました。

  江戸川大学 社会学部 斗鬼正一 教授によると、
  日本には8世紀頃に伝わり、平安時代は「紙鳶しえん」と呼ばれ貴族の間で広まりました。
  江戸時代になって庶民の遊びとして流行し「紙鳶しえん」に脚が付き重りの役割で回転せず長時間飛ばせるものとなり
  ました。この足が脚が付いてイカに似ているので「紙鳶いかのぼり」と呼ばれるようになりました。

  【凧】たこ いか。いかのぼり。
   細い竹を骨として紙をはり、糸をつけて風力によって空高く揚げる玩具。古くは春の行事とするところが多かった。
   現在は多く正月の遊び。

  【紙鳶・凧】いか
   (形が烏賊いかに似るからの名。関西地方でいう)凧 。いかのぼり。
   好色一代男に「紙鳶のぼせし空をも見ず」が記述がある。

  【好色一代男】 こうしょくいちだいおとこ
   浮世草子。井原西鶴。(大坂の人1642~1693)作。8巻8冊。1682年(天和2)刊。浮世草子の最初で、好色本の始祖
   主人公世之介1代の色欲生活に関する短い説話を連ね、大坂・江戸・京都などの女色・男色の種々相を活写。

  倉吉市にある倉吉凧イカ 「凧工房」の主人 黒川哲夫さんによると、
  凧は平安時代末期に中国から伝来し関西方面に広まった。「海のイカが飛んでいるようだ」という事でイカ (紙鳶・凧)
  と呼ばれるようになりました。

  【倉吉】くらよし
   鳥取県中部の市。中世、山名氏の城下町として発達。江戸時代は陣屋町。
   かつては倉吉絣かすり・稲こき千歯せんばの産地、今は広い商圏をもつ地方中心都市。人口5万3千。






  江戸時代、江戸に凧が伝わると、江戸では上方に対抗して「タコ」と呼ぶようになりました。江戸の文化の広がりに
  伴い全国的に「タコ」と呼ばれるようになりましたが、鳥取県の倉吉では「倉吉イカ」として現在でも呼ばれているようです。

  江戸時代初期に大名行列に紙鳶が落下する事が多発し、1646年に幕府から「紙鳶禁止令」が出され、脚を8本にして
  凧と呼び換える屁理屈で禁止令を逃れた。という説もあるようです。江戸川大学 社会学部 斗鬼正一 教授の説。

  しかし、名前を変えただけで許されるほど甘い時代ではないと思いますが…。
  上方と江戸では多くの呼び方の違いがありますので、これらがどのように呼び名が変わったのかも説明できないと、
  斗鬼正一教授の説が正しいとは言えないでしょう。

  例えば関西の「ビフカツ」に対し、2017年に東京では「牛かつ」と呼んで提供する料理がプチブームになっています。
  わざわざ名称を変える必要がないほどの違い。というか違いがあるのかも不明なレベルです。
  ちなみに明治大正時代に東京で出版された各料理書でも「ビフカツ」「トンカツ」に関しては「牛肉のカツレツ」「豚肉のカツ
  レツ」ですが、ビーフステーキは「ビフカツ」となっています。大正時代は東京でも肉といえば牛肉を意味したようです。







 1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家)
  巻之六 (兒戯)「いかのぼり・たこ・からすだこ
  嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104 P.128 参照

  いかのぼり【和名抄】に辣色立成云、…いかのぼりは畿内にての名なり 明暦二年丙申正月六日跡々より
  御法度被仰付候 通町中にて 子供たこのぼり堅あげさせ申間敷候 尤商売にも拵申間敷候

  和名抄=倭名類聚鈔わみょうるいじゅうしょう 日本最初の分類体の漢和辞書。承平 (931~938年) 中撰進。
  明暦2年=1656年。

  関東にてたこと云ふ【物類呼称】云 西国にてたつふうりぅ 唐津にてたこと云 長崎にてははたと云ふ
  上野及信州にてたかといふ 奥州にててんぐばたといふ 何れも雅名にはあらず

  「いかのぼり」が正式名で、「たこ」など地方での呼称は俗称だったようです。


 幕末~明治初期の『皇都午睡』三編には、上方と江戸の言葉の違いが各所に多く書かれています。
  上之巻 「茶鑵やくわんをやかん、菓子くわしをかし、一貫くわんを一かん、芝居を志ばや…紙鳶をたこ…」


 幕末の『守貞謾稿』 下巻 第二十五編 遊戯 「紙鳶」  「鳶=とび (タカ科の鳥))

  文字によれば鳶形を本とする歟 或は形によらず高く飛ぶを鳶に比するの意歟 正字は凧
  京坂にては いかのぼりと訓じ 下略して いかと云
  江戸 俗は たこと云 尾縄を垂る形ち烏賊及び蛸に似たる故の名歟…

  大坂では「飛ばす」と言い、主に二月に行い、初午の日が最も盛んに行われた。
  江戸では「揚げる」と言い、早春に行い一月十五~十六日の2日間が最も盛んに行われた事などが書かれてあります。


 1911 (明治44) 年出版の『東京年中行事』上の巻 P.62~P63 「紙鳶」、P.270~P.271「玉川の紙鳶會
  この本では、漢字に全て「ふりがな」が振ってあります。

  出てくる「紙鳶」の漢字のほとんどには「たこ」のふりがなが振ってあります。
  「玉川の遊園地で、九州紙鳶會たこくわいの闘紙鳶はたつぶらかしと云って、お互いに紙鳶たこの糸を…
  「奴凧」「とんび凧」という凧の種類も書かれてあります。

  有名俳人の句も7つ書かれてあり、注目すべきは
  葛飾や江戸をはなれぬ凧 (いかのぼり) 其角 ← 凧と書いて「いかのぼり」と読ませています。
  凧きのふの空のありどころ 蕪村 ← 与謝蕪村(摂津の人、1716~1783)が「凧」を使っています。

  江戸時代中期、大坂でも「凧」が使われていた。明治末期の東京でも「紙鳶」という漢字が残っていた。という事が
  分かります。

 1917 (大正6) 年9月 『一国一奇風俗噺』(風俗研究会 編、東京府 日本書院) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956041
  この書には各地の変わった風習が記載されており、正月や祭に関する事が多いです。下記リンクでご覧ください。
  P.54「紙鳶會たこかいの奇觀きくわん 肥前」「お祝の凧揚げ 土佐」があります。


  ※ 全国的に「タコ」と呼ばれるようになったはっきりした年代は不明です。
   早くても江戸後期、たぶん明治中期から始まる標準語の教科書で広まったものと考えられます。

  大阪歴史博物館の伊藤廣之 副館長によると、大阪や京都などでは戦前頃まで「紙鳶」と呼んでいたそうです。

  上田万年による『標準語』の制定 標準語が教えられ始めたのは、いつから?
  鳥取県の倉吉淀屋と大坂淀屋の復活、そして両家が幕末に消えたわけ

  【凧会】たこ-え
   互いに凧をあげて相手の凧の糸を切り合う遊び。長崎では「はたあげ」と称し、年中行事の一つ。
  
 江戸時代の実情 武士の真実
  日本テレビ 世界一受けたい授業 『ベストセラー作家の特別授業 小説を書く時に発見 ! 驚きの事実とは ?』 13.10.26 放送
  テレビ朝日 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『風雲 ! 大江戸武士道』 14.04.20 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『動揺する江戸幕府 ~内憂外患への対応~』 13.10.25 放送

  ≪ 江戸時代劇でよく描かれる『切 (斬) 捨御免きりすてごめん』はウソ ≫

  江戸時代の中期頃になると戦が無い太平の世の中になります。
  当時の武士の刀は、現代の警察官が持つピストルと同じ感覚で、簡単に使う事は許されませんでした。

  時代劇でよく描かれる斬捨御免は滅多に無く、一生刀を使わない武士がほとんど。

  もし、斬捨御免を名目に刀を抜けば、相手を仕留めないと切腹。また目の前で相手に刀を抜かれた時に逃げ出したり、
  巻き込まれるのを恐れ逃げ出したりした場合も『士道不覚悟しどうふかくご』として、切腹させられる可能性がありました。






  刀を抜くという行為は武士にとってかなりの覚悟が必要とされましたが、武器を持つと試してみたいと思う心も同時に
  持ち合わせており、酒に酔って、つい刀を抜いてしまい親友を斬ってしまったという事件が鸚鵡籠中記
  書き残されています。

鸚鵡籠中記

元禄世間咄風聞集




  【鸚鵡籠中記】おうむ-ろう-ちゅうき
    (鸚鵡の口まねのように題材をえらばず見聞をそのまま書いた記録の意)朝日重章(1674~1718)の日記。37冊。
   貞享元年(1684)8月29日から享保2年(1717)12月29日まで。自身の生活・藩情から世相・風俗・芸能関係までを記す。
   著者は尾張徳川藩の中級藩士(150石)で、御畳奉行に進む。通称、文左衛門のち定右衛門。


  ≪ 大食いも出世の手段 ≫

  『元禄世間咄風聞集』によると、庄田安照という武士が大喰いで有名になり、德川家光に食べっぷりが見たいと言われ
  披露する事になります。柿を100コ食べましたが種ごと食べていたので、将軍に「種は出せよ」と直々に注意されました。

  なんて事のない話ですが、戦国時代のように武勇で出世する事ができない時代、一芸を磨く事が必要。『大喰い=豪快』を
  アピールし、出世を狙う武士も多かったそうです。
  将軍様 直々に声をかけてもらう事は武士にとっては最高の誉れ、庄田安照の家系は幕末まで保たれた事が確認されて
  いるそうです。


  ≪ チョンマゲが2本付いていて笑われた武士が居た ≫

  髷が結えなくなると武士は隠居する決まりがありました。その伝統は現在の相撲業界にも残っています。
  上田三左衛門は髷が結えなかったので、カツラの髷を使用していました。ある日、上司の家に挨拶にいった折、落ちている
  カツラを発見。

  自分の物だと思い、とっさにカツラを拾い頭に乗せました。しかし、それは他人のカツラだった為、髷が2本に。
  本人は気づかず、町を歩いたので皆から奇妙な目で見られたという事です。


  ≪ 武家の二男・三男は努力しなければ出世できなかった ≫

  江戸時代になるまでは、実力がふある者が家督を継ぐのが普通でしたが、無駄な争いを無くす為に長男が家督を継ぐと
  決められました。

  江戸時代の武家の二男や三男は、長男に男の子が生まれると、長男に何かあってもその子供が跡継ぎになるので、
  二男は土間で飯を食わされるなど、一気に格下げの扱いを受けたそうです。
  そして結婚も出来ぬまま肩身の狭い立場で『厄介叔父』と呼ばれて一生を終えます。






  それを避けるには、学問や剣術の腕を上げたりして、跡継ぎのいない武家の婿養子になるしか武士としての出世は
  ありませんでした。もしくは、家を出て町人や農民の養子になる道しか残されていませんでした。


  ≪ 江戸時代の一揆は穏やかだった ≫

  江戸時代の百姓一揆は、静かに大勢で領主の元に行って「年貢をまけてください」と言っただけで武力闘争などは
  ありませんでした。
  領主側も闘争になると家臣に死者も出るし、大勢の百姓を殺すと、領民たちが逃げて行ってしまうからです。

  また百姓一揆があったことを幕府に知られると、統治できていないとして、御取り潰しになる可能性もあったので、
  双方とも穏便に済ませたかった。
  年貢を下げて貰う事を要求する事は死罪だったので、年貢を下げる代わりとして首謀者が罪を負わされて斬られたそうです。






  1840年に幕府が発令した三方領地替の命に反対して出羽の庄内藩が起こした一揆は、「夢の浮橋」という絵巻に始まりから
  終わりまで描かれています。

  大商人から農民、小作人など領民のほとんどが話し合いを重ね、幕府に領地替えの撤回を訴えました。
  幕府の要人などが乗った籠に訴えかけることを駕籠訴かごそと言い、当時の老中 水野忠邦の駕籠の前に正座して頭を下げ
  直訴状を出している様子も描かれています。






  百姓のシンボルである蓑と笠を着用し、六所神社などで何度も大規模な寄合を重ね訴えました。この時、暴動や騒乱に
  ならぬよう注意事項を書いた高札を立て、太鼓を鳴らすと声を上げるなど、軍隊のように規律を守って行っていたようです。
  結果、1841年に三方領地替は撤回となりました。  川越藩、庄内藩、長岡藩の三方領地替


  ≪ 幕末の旗本は武士として役に立たなかった? ≫

  金に困った武士たちは先祖伝来の鎧や兜を質に入れたり売払ったりしていました。幕末にペリーの黒船が来航した時、
  幕府は旗本に戦の準備の号令をかけます。
  多くの旗本が急いで古道具店に鎧兜を買いに走り購入したものの、鎧の付け方がわからなかったそうです。






  【旗本】はたもと
   江戸時代の旗本は。将軍直属の家臣のうち、知行高が1万石未満の直参で御目見おめみえ以上の格式があった者。
   御目見以下 (将軍と直接会えない身分) は、御家人と言った。

  【赤合羽】あか‐ガッパ … 赤い桐油紙で作ったカッパ。江戸時代に武家の下部しもべなどが用いた。

  東京近郊の関東の歴史 東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった

  ≪ ミリオンセラー作家 百田尚樹さん ≫

  朝日放送の人気長寿番組「探偵! ナイトスクープ」(関東圏以外の全国ネット) の放送作家。50才で小説家に転身。
  デビュー作の「永遠の0」は320万部の大ミリオンセラー。2013年に本屋大賞を受賞。
  小説を1冊書くに当たり、200~300冊の文献類を徹底して調べるそうです。






  ※ コヤブ歴史堂の解説は、大阪の名門 四天王寺中学・高校の歴史の先生がしていました。

  こはにわ歴史堂のブログ http://ameblo.jp/kohaniwa/ ← 朝日放送 コヤブ歴史堂「こはにわ先生」の浮世博史さんのブログです。
  
 江戸歌舞伎と浮世絵
  ≪ 落語、江戸浄瑠璃も上方から ≫  日本の伝統芸能と上方の芸能 雅楽、能楽、上方歌舞伎、大阪の芸能など

  【浄瑠璃狂言】じょうるり‐きょうげん ・・・ 浄瑠璃節を用いて演ずる歌舞伎狂言。義太夫狂言。

  【江戸浄瑠璃】  江戸で生まれた浄瑠璃。
   ① 18世紀初め以前に江戸で発生した浄瑠璃の流派の総称。薩摩節・土佐節・永閑節・外記げき節・半太夫節・
     河東節など。
   ② 18世紀中葉以降に、上方地方で発生した豊後節から、江戸で派生した4流派(新内節・常磐津節・富本節・
     清元節)の総称。
   ③ 義太夫節の浄瑠璃のうち、18世紀後半以降に江戸で作られたもの。

  【薩摩浄雲】さつま‐じょううん(堺の人、一説に京都または紀州の人。1595~1672)
   江戸前期の浄瑠璃太夫。初名、熊村小平太、また虎屋次郎右衛門とも伝えられ、のち薩摩太夫と改め、
   剃髪して浄雲と称した。
   寛永(1624~1644)の頃江戸に下り、操り芝居を興行、杉山丹後掾と並んで、江戸浄瑠璃の開祖とされる。

  【杉山丹後掾】すぎやま‐たんごのじょう (京都の人、生没年不詳) 名は七郎左衛門。
   江戸前期の浄瑠璃太夫。滝野検校について浄瑠璃を習得、慶長末江戸に下り、操り芝居を起こし、
   1652年(承応1)京都に帰り、受領して天下一丹後掾 藤原清澄と称す。
   軟派の旗頭で硬派の薩摩浄雲と並び、江戸浄瑠璃を代表。その曲風は子の江戸肥前掾に継承。

  【鹿野武左衛門】しかの‐ぶざえもん(大坂生れ、1649~1699)
   江戸前期の噺家。本姓、志賀氏。座敷仕形噺の上手といわれ、江戸落語の祖
   筆禍事件を起こし、晩年 伊豆大島に遠島となる。作「鹿野武左衛門口伝咄」「鹿の巻筆」など。

   朝日新聞 13.04.10 朝刊




  【堺町】さかい-ちょう
   東京都中央区牡蠣殻町の北にあった町。江戸時代に歌舞伎・浄瑠璃。操芝居などがあり繁盛した。


  ≪ 江戸歌舞伎と浮世絵 ≫    NHK大阪 Eテレ にっぽんの芸能 『古典芸能玉手箱 「浮世絵」』 13.10.25 再放送

  当時、歌舞伎は一日がかりで楽しむ最大の娯楽だった為、歌舞伎の座は早朝から賑わっていました。
  座の中では少しのおしゃべりや飲食も可。
  地方から来た人は、お土産として役者の浮世絵 (1枚が当時の蕎麦2杯分4~500円程度の価格) を何枚も買って
  帰ったそうです。

  実際にあった事件は数ヵ月後には、歌舞伎や文楽となって上演されました。浮世絵と共に当時の世相を知るマスコミの
  ような役割もありました。江戸で作られた浮世絵の40%くらいは、歌舞伎関連の絵だったそうです。





  【江戸狂言】 えど‐きょうげん
   江戸独特の歌舞伎狂言。歌舞伎十八番の荒事や河竹黙阿弥によって完成された生世話物きぜわもの
   (写実的演出のもの) がその代表。

  【荒事】あら‐ごと
   歌舞伎で、怪力勇猛の武人や超人的な鬼神などによる荒々しく誇張した隈取りなどの演出様式。また、その狂言。
   初代 市川団十郎。(1660~1704)が創出、江戸歌舞伎の特色となった。

  【河竹黙阿弥】かわたけ‐もくあみ (江戸の人、1816~1893)本姓 吉村、のち古河。幼名、芳三郎。
   作者名、勝諺蔵・柴晋輔ほか。
   歌舞伎脚本作者。5世 鶴屋南北に師事し、2世河竹新七を襲名。作劇技巧にすぐれ、詞藻豊か。生世話物を
   得意とし、明治の新社会劇 散切物ざんぎりものや新史劇 活歴物かつれきもの を始めた。
   「船弁慶」など松羽目物まつばめもの (舞踊劇) にも新境地を開く。
   作「三人吉三廓初買」「白浪五人男」「島鵆月白浪しまちどりつきのしらなみ」など。





  【中村座】なかむら‐ざ
   歌舞伎劇場。江戸三座(中村座・市村座・森田座)の一つ。 山村座を加えて江戸四座という。
   1624年(寛永1)猿若(中村)勘三郎が江戸中橋に創立、初め猿若座と称したが、51年(慶安4)堺町(後の人形町)に
    移り中村座と改称。
   1842年(天保13)猿若町に移り、明治になって都座・猿若座と改称。ついで浅草鳥越に移り、また中村座・鳥越座と
    変わったが
   1893年(明治26)焼失、廃座。

  【江戸看板】えど‐かんばん
   劇場看板の一種。鳥居派の絵、勘亭かんてい (肉太で丸みを帯びる)。の字によって
   書かれた江戸三座の看板。
   江戸時代末期から、興行の看板や番付に用いた独特の書体として用いた、歌舞伎の
   勘亭流、寄席文字、相撲文字を「江戸文字」と称する。

  【江戸団扇】えど‐うちわ
   江戸特産のうちわ。
   初めは白紙をはっただけだったが、のち墨絵・紅絵・漆絵などを施したものもできた。

  【江戸瓦】えど‐がわら
   長屋などに用いた、屋根瓦の下等品。

   ※ 江戸は火事が頻発したので、瓦の屋根を早く普及させる必要があった。
   従来より薄くて軽い瓦が生産されました。


  ≪ 浮世絵 ≫うきよ‐え 江戸絵吾妻錦絵東錦絵春画

   江戸時代に発達した民衆的な風俗画の一様式。肉筆画も行われたが、
   特に版画において独自の美をひらいた。

   桃山時代から江戸初期に流行した肉筆の風俗画・美人画を母胎とし、17世紀後半
   (延宝~元禄)の菱川師宣 (安房の人、生年未詳~1694) によって版本挿絵
   として様式の基礎がつくられた。






   1765年(明和2)には鈴木春信 (江戸の人、1725~1770) により多色刷版画(錦絵)が創始されて、黄金期を迎えた。
   その主題は遊里や芝居の情景、美女・役者・力士などの似顔絵を中心とし、歴史画や風景・花鳥に及ぶ。

   作家としては、ほかに、鳥居清信・西川祐信・鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重などが名高く、
   19世紀後半からヨーロッパの美術へも影響を及ぼした。


  【浮世絵類考】うきよえ-るいこう
   浮世絵師の伝記を集めた書。大田南畝原撰。寛政初年1789年頃の成立。写本。
   笹屋邦教・山東京伝・式亭三馬・渓斎英泉・斎藤月岑げっしんらが補記・追考を加える。浮世絵研究の基本的文献。


  【鳥居清信】とりい‐きよのぶ (大坂の人、1664~1729)俗称は庄兵衛。
   江戸中期の浮世絵師。鳥居家初代。父 清元と共に江戸に移り、菱川師宣もろのぶの画風に独自の工夫を加えて
   一派をたてた。
   芝居の看板絵・番付絵を専門の職とし、また墨摺絵や丹絵の版画による役者絵・美人画にもすぐれた。

  【西川祐信】にしかわ‐すけのぶ (京都の人、1671~1750)自得斎・文華堂とも号。
   江戸中期の浮世絵師。西川派の始祖。狩野永納・土佐光祐に学び、また、江戸浮世絵の影響を受けながら、
   京畿の風俗や美人を典雅な様式で描き出し、京都における浮世絵を発達させた。
   絵本「百人女郎品定しなさだめ」など。

  【助六】すけろく
   ① 江戸中期、京都の男達おとこだて (任侠、侠客) の万屋よろず‐や助六
     宝永(一説に元禄)年間、島原の遊女 揚巻あげまき と心中、浄瑠璃・歌舞伎で
     直ちに脚色上演された。

   ② 歌舞伎十八番の一つ
     助六物の代表作「助六所縁江戸桜すけろくゆかりのえどざくら」の通称。
     2代 市川団十郎の当り狂言として上演、
     1716年(享保1)の「式例和曾我しきれいやわらぎそが」以来、江戸風の助六と
     なる。花川戸助六、実は曾我の五郎が名刀 友切丸詮議のため吉原に出入、
     愛人 三浦屋の揚巻に横恋慕する髯ひげの意休に喧嘩をしかけ、
     ついに意休から刀を奪いかえす。

    歌川芳艶 「花川戸助六之図」

         黒い着物が助六

   ③ 浄瑠璃の一流派で、河東節かとう‐ぶし一つ
     1717年(享保2)に江戸の初世 十寸見ますみ河東(1684~1725)が半太夫節から分派独立して創始。
     主に座敷芸として伝承。曲風は生粋の江戸風で優美華麗。代表曲「松の内」「水調子」「助六」。の一つ。
     本名題「助六所縁江戸桜」。1761年(宝暦11)初演。

  【助六鮨すけろく‐ずし
   稲荷いなり鮨と巻き鮨とを組み合わせた鮨。
   「揚げ」(油揚げ)と「巻き」(海苔巻き)からなるところから、遊女「揚巻」が登場する歌舞伎「助六」に因んでいう。






  【忠臣蔵】ちゅうしんぐら仮名手本忠臣蔵」の略称。
   赤穂四十七士の敵討、元禄15年12月14日(1703年1月30日)夜、赤穂藩士 (兵庫県南西部) 47人が、江戸の本所
   松坂町の吉良義央きらよしなか (通称、上野介) 邸を襲って、主君 浅野長矩ながのり (内匠頭たくみのかみ) の仇を
   報いた事件。を主題とする浄瑠璃・歌舞伎狂言の総称。

  【佐野川市松】(1722~1762)
   1741年(寛保1)江戸中村座の俳優 初代の佐野川市松が紺と白とを交互に置いた碁盤縞を並べた文様を用いた
   事から「市松模様」と呼ばれるようになった。市松編み、市松染。
   「市松」とは、(童名に多いところから)男児の通称とされていました。

  【8世 市川団十郎】(1823~1854)屋号、成田屋
   市川系宗家の歌舞伎俳優。初代の市川団十郎(1660~1704)は、荒事師あらご-としの開祖
   市村座の舞台で生島半六に殺された。8代目は、7代目の子。美貌で人気があったが自殺。

  ※ 浮世絵は、歌舞伎、春画ともう一つ、子供絵というのも多かったそうです。
    「子供絵」は、子供の為の絵というのと、子供を描いたものがあり、後者は子供の可愛らしさを愛でる為の
    もので、ロリコン的な意味も含まれると、解釈している事もあるようです。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『東京・歌舞伎座リニューアル後初の襲名披露・中村鴈治郎』 15.04.10 放送

  ≪ 歌舞伎座 ≫  書きかけ  京都の南座と香川県の金丸座










  日テレ 世界で一番受けたい授業 『江戸時代のベストセラーから見る 驚きの新歴史 !』 15.04.11 放送

  ≪ 江戸時代のゴシップ誌 女意亭有噺にょいてい-ありばなし

  江戸で書かれた『女意亭有噺』は歌舞伎役者のプライベートなどが、まるで見た来たかのように赤裸々に細かく
  書かれているそうです。






  佐野川市松の場合
  佐野川は夜 いつも家に居ないので、毎日毎日夫婦喧嘩。妻のおとみは、何かというとカミソリを出して「死んでやる 死んで
   やる」と言って騒ぎます。あんなにも美しい女房を家に置い泣くのも無視してて出ていくのは、他に良い事があるに違いない
   と書かれています。
 
 【春画】 性に対しておおらかだった江戸時代
  【春画】しゅん‐が ・・・ 男女の秘戯を描いた絵。おそくずの絵。枕絵。笑い絵。わ印。枕草紙。

  江戸時代は春画とは言わず、上記のような呼び方で主に「笑い絵」と呼ばれたようです。

  肉筆画は贅沢品として嫁入り道具の一つ。
  豆版 (縦9㎝×横13㎝) は、版画で印刷されたポストカードのような物で、町人らが携帯して見せ合っていました。

  ザイーガ 12.05.31 『江戸時代のエロ絵本、「春画」に全裸の描写が少ない理由とは?』  
   http://www.zaeega.com/archives/53922790.html より、抜粋

  ≪ 春画に全裸の描写が少ない理由とは ≫ 画像と全文は、上記リンク先の ザイーガさんのブログ記事をご覧ください。

 春画は特に江戸時代に流行した性風俗(特に異性間・同性間の性交場面)を描いた浮世絵の一種。
  当時春画は自慰行為に用いる他に、夫婦が一緒に見て笑ったり女性を誘惑するときにも使われていたそうです。

  浮世絵研究の第一人者・白倉敬彦氏によると、扉もない、鍵もない開放的な家屋に住んでいた人々も、セックスシーンを
  人に見られるのは抵抗があったそうで、屏風や衝立で覗かれるのを防いでいたそうです。

  江戸時代、夜這いは容認されていました。春画は夜這いに失敗した男、寝取られ亭主も多く描かれており、
  それで笑いをとっていたそうです。

  オナニーも盛んだったそうで、絵柄には男より女のケースが圧倒的に多いそうです。その際には張型をはじめ当時の
  アダルトグッズが用いられており、実際江戸と大坂には「四ツ目屋」というアダルトグッズ専門店があり、
  大いに賑わっていたそうです。

  さてそれでは、春画に全裸のセックスシーンが少ないのはなぜか?実はこれにはカラクリがあります。

  「春画は女性ファンが多いうえ、江戸みやげの定番。版元が呉服屋とタイアップして、登場人物に最新モードを
  着せました。だから脱がない」のだそうです。 春画にはファッション雑誌やカタログの役目もあったそうです。

    ※「四ツ目屋」は、江戸時代1の大奥のところに、詳しいサイトをリンクしてあります。

  朝日新聞 14.03.17 朝刊 『文化の扉』 より



  毎日放送 ちちんぷいぷい 『かくも深遠なる春画の世界』 15.11.12 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『春画展が関西初開催』 16.02.18 放送

  ≪ 日本初の本格的な春画展 ≫

  東京都文京区の永青文庫 15年9月19日~12月23日。18才未満は入場不可。

  大英博物館では大好評を博した日本の春画展ですが、近代の日本ではタブー視されてきた為、日本では引き受ける美術館が
  なかったそうです。
  細川護煕 元首相が理事長を務める永青文庫が開催を決定。小さな美術館ですが、2ヵ月弱の入場者が10万人以上となり、
  永青文庫では開館以来、最多の来場者数となる盛況ぶり。特に女性 (20~50代) が多いそうです。






  国際日本文化研究センターの早川聞多 教授によると、
   明治時代に西洋文化が入って来るまでの日本では『性』に対して、「わいせつ」という考えはなく、とてもオープンでした。
   『性』は出産につながるものなので、どちらかといえば「めでたい」ものと表現されていました。
   肉筆の春画は、「ぜいたく品」とみなされ、嫁入り道具のひとつだったほどです。
   また、春画は笑絵わらいえとも言われ、人々の空想をユーモラスに描いたものが多いのです。
   笑絵の中で"笑いの対象"となっているの「男」。春画を見て「男をクスッと笑う」ことが女性に人気となっているのかも。

  細川護煕 永青文庫理事長によると、
   江戸時代は街で春画を広げて売っていても女性が平気で買いに来るんですって。
   ほとんどの春画がオールヌードではないところがいい。絵師は「着物」や「かんざし」で、その人物の身分や境遇を描いて
   いて、そこから"想像の世界"が広がる。

  来場した女子大生らの感想は、
   日本を代表する浮世絵師たちが才を凝らしたというか、芸術的にもすばらしい作品がいっぱいあったので。
   エロ本みたいではなく、おしとやかというか、パッと見て激しくない。でも細かいところまで工夫を凝らしている。


  ≪ 上方笑い絵 (春画) の特徴 ≫

  2016年2月6日~4月10日に京都市左京区の細見美術館 で関西初の春画展か開催されました。
  東京で話題になった春画だけでなく、上方の絵師が描いた作品が集められているのが東京とは違うところ。

  現在確認できている最大サイズの春画『相愛の図屏風』蹄斎北馬ていさい- ほくば (江戸生まれ、葛飾北斎の門人1770~1844)
  作の展示も京都限定。『相愛の図屏風』は長崎県平戸の大名家に伝わっていたもの。
  偕楽園 (1842年に造園された水戸市とは別、平戸市内にある) という別荘で飾られていた屏風。

  蹄斎北馬「相愛の図屏風」と礼楽思想 ―近世の思想空間からみる春画―    Wiki 蹄斎北馬
   http://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/2015_09_19_02_Suzuki.pdf

  京都展での監修を担当した石上阿希さんは、日本で初めて「春画」をテーマにした論文で博士号を習得。
  石上さんによると、上方の春画の特徴として、絵だけではなく文章などもよく読み、楽しい春画を作っていたのが、
  江戸とは違うところ。上方の春画には笑いを求める独特の魅力があると言います。






  当時の女性の心得・作法を記し教科書とされた『女大学宝箱』を、絵の隅々・文章まで徹底的にパロディー化した春本
  月岡雪鼎つきおか-せってい (近江生まれ、1726~1786) 作 『女大楽宝開おんなだいらく-たからべき』は宝暦年間 (1751~1764) の
  後期頃に出版されています。

   Wiki 月岡雪鼎にある
  また後年には江戸に移ったともいわれるは、雪斎の養子である月岡芳年が歌川国芳に学んだ事などから。

  上方の春画は単にエロだけではなく、江戸以上に笑いや風刺を軸にしているのが特徴のようです。
  上記資料 朝日新聞『はじめの春画』では喜多川歌麿(1753~1806)の頃よりセリフが急増したようなので、
  読み物的になったのは上方→江戸へと伝わったと思われます。

  女子用往来物をパロディにした作品のひとつとして知られる月岡雪鼎 挿入画の『女貞訓下所文庫をんなていきんげじよぶんこ』は
  1768 (明和5) 年に刊行されたようです。女子用往来物とは、女性教育に使われた教科書 (往来=手紙)。

  近代デジタルライブラリー 『女大学宝箱』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754904 ←画像あり
  インターネットミュージアム 『春画展』 http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=viewphoto&id=775&c=4 ←画像あり

  国際日本文化研究センター 『絵師月岡雪鼎と艶本』 ←上方の春画の解説
   http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/niso/2007-06-01/s001/s004/pdf/article.pdf

  スローネット 浮世絵春画Q&A 『第12回 古典のパロデイー』
   http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/ukiyoe_qa/200911041128-4000003.html

  OLIVE 『江戸時代の教科書「女子用往来物」は現代教育の先駆けだ!?』 15.11.10 配信
   http://olive.bz/art/mix/cef1dc419f3cf14f0c84de52b0233e9b?genck=1

  【女大学】おんなだいがく
   女子の修身・斉家の心得を仮名文で記した書。貝原益軒 (筑前福岡藩の本草学者、1630~1714) 著「和俗童子訓」の
   巻5「教女子法」をもとに書肆が益軒没後に改竄・刊行したもの。
   封建道徳で一貫し、江戸時代に女子一般の修身書として広く用いられた。享保 (1716~1736) 年間刊。

  【女今川】おんないまがわ   コトバンク『沢田きち』
   今川状に擬し、女の訓戒となることを漢字交り仮名文で記した往来物。沢田きち 著。
   1700年(元禄13)刊。女子の習字用として盛んに用いられた。

  【今川状】いまがわ‐じょう
   今川了俊が弟仲秋に書き与えた制詞家訓。23カ条。手習塾の教科書の一つとして盛んに用いられた。今川壁書。

  【今川了俊】いまがわ‐りょうしゅん(1326 ~1414頃)名は貞世さだよ。剃髪して了俊。 範国 (駿河今川氏の初代当主) の子。
   室町前期の武将・歌学者。足利義詮・義満に仕えて遠江守護・九州探題となる。また、冷泉為秀に師事し、歌学に堪能。
   著「難太平記」「二言抄」「落書露顕」「言塵集」など。


  古文書ネット 『女大学とは』 http://komonjyo.net/onnadaigakutoha.html

 女大学は、江戸時代の初等教育用の教科書である往来物(おうらいもの)の一種です。
  往来物は現在七千種ほど存在が確認されているが、そのうち約一千種が女子用のものであると言われています。

  「女大学」は、著者不明です。貝原益軒(江戸期の儒学者、教育思想家)の『和俗童子訓』巻5の「女子に教ゆる法」を
  基に綴られたと言われますが、著者を益軒とする確証はありません。
  最古の版本は、1716年(享保元)大坂柏原清右衛門、江戸小川彦久郎合梓(ごうし)の『女大学宝箱』と言われています。

  『女大学宝箱』だけでも明治初年までに11版を重ねましたが、18世紀後半以降になると、挿絵や頭書きを改めて「女大学」を
  冠した多様な改定本、『女大学教文庫(おしえぶんこ)』『女大学操鑑(みさおかがみ)』といった類が数多く刊行されました。


  ≪ 春画の鑑賞ポイント ≫

  石上さんが春画鑑賞のポイントして注目して欲しいと挙げるのは、髪の毛と陰毛を表す版画技術。
  見事に曲がりくねった毛を緻密に表現しており、江戸時代の彫り師の執念や情熱が陰毛に表現されているようで面白い。

  番組でインタビューした来館客の中に版画の仕事に携わっている人がおり、その人によると、「現在の版画のどんな技術を
  駆使しても再現するのは難しいという技術がいくつもある」という事を紹介していました。
  当時の彫り師の技術は相当ハイレベルだったそうです。
  
 【 江戸の恋愛事情 】
  朝日新聞 13.01.22 朝刊 『広告特集 「江戸ノベルズ 第12号」』 


  左上の錦絵の解説  「生嶋新五郎之話」
   正徳4年、7代将軍 徳川家継の生母 月光院に仕えていた大奥御年寄の江島たちず、寛永寺・増上寺への
   代参の帰りに、木挽町の芝居小屋「山村座」に立ち寄り、遊興したとして後にとがめられた。
   左が生嶋新五郎、右が江島。

  「新撰東錦絵 生嶋新五郎之話」 月岡芳年・作(国立国会図書館デジタル化資料から)

    
 この部分の文章です。
    


  【好色本】こうしょく‐ぼん
   色欲生活(恋愛の事)を題材として書いた本。元禄(1688~1704)時代を中心に行われた浮世草子の一種。
   作者には井原西鶴・西沢一風・江島其磧らがあり、西鶴の「好色一代男」「好色一代女」などはその代表作。好色物。

  【西沢一風】にしざわ‐いっぷう(大坂の書肆しょし←本屋、1665~1731) 名は義教、通称九左衛門。別号、与志・朝義など。
   江戸前期の浮世草子・浄瑠璃作者。浮世草子の大衆化に功があった。
   浄瑠璃「北条時頼記じらいき」、浮世草子「新色しんしき五巻書」「御前義経記」、著「今昔操年代記いまむかしあやつりねんだいき
   など。

  【江島其磧】えじま‐きせき(京都の大仏餅屋の主人、1666~1735) 初め権之丞と称し、のち庄左衛門を襲名。
   江戸中期の浮世草子作者。井原西鶴に私淑、八文字屋自笑の名義または共同名で役者評判記・浮世草子
   (いわゆる八文字屋本)を発表。
   作「けいせい色三味線」「風流曲三味線」「傾城禁短気」「世間子息気質」「世間娘容気」など。

  【八文字屋】はちもんじ‐や
   江戸時代の京都の出版書肆しょし。主人は歴代、八左衛門を名乗る。
   元禄頃から明和頃までに出版された浮世草子類や役者評判記など娯楽読物がここで多く出版されたので、
   それらを総称して、「八文字屋本」と言う。

  【往来物】おうらい‐もの
   鎌倉・室町時代から明治・大正期に至るまで、初等教育、特に手習所用に編集された教科書の総称で、
   数千種つくられたといわれる。
   「往来」は消息往来の意で、平安末期の「明衡めいごう往来」「高山寺本古往来」などを先駆とし、書簡文の
   模範文例であったが、中世以降は教科書的なものとなり、「庭訓ていきん往来」「商売往来」「百姓往来」など、
   庶民教育に重要な役割を果たした

  【消息往来】しょうそく‐おうらい
   消息文の慣例語句を集め示した往来物。室町初期のものなど多くの類書がある。
   近世には高井蘭山編、1793年(寛政5)刊が流布。

  ※ 広辞苑の解説では分かりにくい。「往来」を簡単に言えば、「行ったり来たり」の意味ですが、上で解説されている
    「手紙のやりとり」の事

  【曾根崎心中】そねざき‐しんじゅう
   浄瑠璃。近松門左衛門 作の世話物。
   元禄16年(1703)4月、大坂内本町の醤油屋
   平野屋の手代 徳兵衛と北の新地の天満屋
   の遊女お初とが曾根崎天神の森で情死した
   事件を脚色、翌月初演。
   世話浄瑠璃最初の作品。
   1953年、宇野信夫の脚色・演出で歌舞伎化
   された。

  【江島】えじま(1681~1741) 絵島とも。
   7代将軍徳川家継の生母 月光院に仕えた
   大奥の大年寄(奥女中の取締役)。
   山村座の芝居を愛好し、俳優 生島新五郎
   と交際があったことなどを咎められ、
   1714年(正徳4)信州高遠に流刑、
   関係者数十人も処罰された。
   この事件は明治以後、歌舞伎・舞踊劇・
   小説に脚色。



  【生島新五郎】いくしま‐しんごろう(1671~1743)
   江戸中期、山村座の歌舞伎俳優。奥女中の江島との密通が発覚し、三宅島へ流罪、山村座は廃絶となった。

  【和事】わ‐ごと ・・・ 歌舞伎劇で、男女の恋愛・情事の演出様式。また、その場面。
          ※ 柔和な表現の和事は上方歌舞伎の特色です。
  【荒事】あら‐ごと
   歌舞伎で、怪力勇猛の武人や超人的な鬼神などによる荒々しく誇張した演出様式。その狂言。
   初代 市川団十郎が創出、江戸歌舞伎の特色となった。

  【実事】じつ-ごと
   歌舞伎劇で、分別のある人物が身近な事件写実的に演ずること。


  ≪ 曽根崎心中は、大坂での事件。 近松門左衛門は大坂 道頓堀の竹本座の座付作者です ≫

  この新聞広告は主に「江戸を舞台にした」小説のPRの為に、朝日新聞の広告局が企画・制作しています。
  文は法政大学 社会学部教授の田中優子さん。2014年4月から法政大学の総長に就任される方です。

  大きいタイトルが『お江戸の恋愛事情』、そして見出しは『江戸の事件』ですから「江戸時代」というより、「江戸」
  という地域を指す言葉の意味として受け取られるのが普通。文内にも「大坂」の文字はありません。






  歴史や文学に詳しくない人、大阪の地名を知らない人達なら、確実に近松門左衛門や曽根崎心中は「江戸の文化」だと
  思うような編集の仕方です。

  こういう事が、東京の情報発信ではよくあります。江戸の食文化を紹介する時に必ず持ち出される豆腐百珍
  「本朝食鑑などの書物はどちらも大坂で書かれたものです。  江戸時代の重要文献と著者、リンク

  また元禄文化というのは、上方中心の文化の事を言います。  浄瑠璃 (文楽) も大阪を中心に関西で発展した

  【元禄文学】 
   元禄年間を中心として、俳諧・小説・演劇などで町人文学が上方を中心に一つの頂点に達した時期の文学の総称。

  【元禄大平記】   浮世草子。都の錦作。8巻8冊。1702年(元禄15)刊。
   伏見の夜船で、京・大坂の本屋が、出版界の情況、作者・学者の評判等を語り合う筋で、一種の文化時評的
   性格を持つ。






  【曽根崎】そねざき
   大阪市北区の一地区。もと曽根崎新地 (北の新地) の遊里があり、その南側を蜆川しじみがわが流れていた。

  【曽根崎天神】そねざき-てんじん 大阪市北区曽根崎2-5-4
   大阪の曽根崎、蜆橋の北にある、元郷社。祭神は菅原道真。少彦名神。露の天神お初天神

  臭い褌の洗濯を依頼する事は人妻への求愛行為

  大坂に1万人以上のスリがいたというのは本当か? ←これも「嘘」、検証の結果、「スリ1万人」と記述があるのは江戸の事情を記した文献。
  江戸っ子とは? その実態 3都の気質の違いなど
  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
  関東の藤原氏の重要神宮 中臣 (藤原) 氏の関東発祥説は嘘、中臣氏の先祖神を最初に祀ったのは東大阪の牧岡大社
  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?
  江戸でも上流階級は上方言葉を使っていた 上野公園の鶯は、京都の訛の無い鳴き声の鶯の子孫

  ≪ 嘘まみれの「パクリCITY 東京」? ≫  「嘘吐きは泥棒の始まり」という諺もありますが。

  ヤフー知恵袋 『東京の番組は大阪の番組のパクリばかりなんですか?』 
   http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1465403879
  ROCKET NEWS24 11.06.26  『ありえへん世界』が『探偵! ナイトスクープ』を丸パクリしようとした!? 放送作家が激怒
  togetter 11.06.26 『百田尚樹先生、テレビ東京の「ありえへん世界」スタッフによる盗作行為に対して怒る!』 
   http://togetter.com/li/154208

  朝日放送の有名番組「探偵!ナイトスクープ」で取材されたお店にスタッフが再び行ったところ、テレビ東京の
   「ありえへん世界」スタッフが後日取材に訪れ、同じネタをお店の店主に要求していたことが発覚。

  Infoseek楽天 14.03.26 『東京のパクリ企業にみる特徴 ~1分でわかる大阪人の言い分~』 
   http://news.infoseek.co.jp/article/infoseek_2014032601

  大阪の広告表現はオリジナリティに溢れている。東京嫌いな大阪はどこかのパクリを匂わせる表現は少なく、
   大阪人が笑えばいいような関西ローカルの広告物が多い。

   いちいち説明が要る回りくどい表現を避けた「それがなにか、メリットはなにか」が明確な表現が目立つ。
   何年もずーっと変わらない広告もある。時空の止まった広報物に多くの大阪人はなんとも思わないのかと
   思うとやや怖い。

   良くいえば不朽の名作ともとれるが、関西人しか愛させない表現は一つ違えば戯れ言。関西人から笑いを
   取れても日本で天下は取れないだろうと広告を志した私は東京を目指した。そして上京し気がついた。

   情報の上流である東京には、パクリ企業が点在している。独創的な関西よりもダサいし、犯罪だ。
   競争社会の東京で流行ものを絡ませ息を続ける。東京でしがみつく無能な起業家にみられる傾向だ。
   服、加工食品、家電製品、ネットメディア。どう見ても人気商品のパクリな製品は多い。

   物だけではなく、表現にも多い。模倣というより「こう撮影しておけばカッコよく映る」みたいな手法で作った
   表現は、フォーマットのパクリといえる。ダサい。 続きはリンクサイトで。


  大阪の毎日放送 せやねん! 15.08.15 放送 の中で、トミーズ雅さんは
   「せやねん!でやった写真とか取り上げた事を2週間後の全国ネットでやってたりすんねん。
    ぜっ~たい、パクっとんぞ。」

  これ以外でも、こういう話は度々聞くことがあります。
  東京から来たタレントが、東京のテレビの裏事情を語る事も珍しくありません。


   都道府県別統計とランキングでみる県民性 万引き認知件数 [ 2010年第一位 香川県 ] http://todo-ran.com/t/kiji/13999 

  ≪ 万引き件数ダントツNo.1の東京 ≫ このサイトのコメントも、東京のワースト隠しの文と採れます。

  全国の万引き認知件数は146,544件で、人口1万人あたり年間11.49件認知されている計算になる。
   全国で最も万引きが多いのは香川県で、人口1万人あたり16.76件。以下、東京、兵庫、京都、岡山と続いている。
   香川県で万引き認知件数が多い理由として、大型店舗の多さ、万引きの通報しやすさがあげられている。

   一方、万引きが最も少ないのは大阪府で人口1万人あたり7.73件。刑法犯認知件数や重要犯罪認知件数、
   性犯罪認知件数で1位になっている大阪が最下位とは意外な結果だ。

  件数では東京がダントツに多く、ネットでも『傘は天下の廻り物』と言って、傘を盗む事は当たり前と書き込んでいる
  都民も見かけます。
  東京五輪2020のエンブレム・デザインのパクリ疑惑がある佐野研二郎 氏も東京出身で多摩美術大学卒、
  多摩美大教授。ネットでは、多摩美大生の何人かの卒業制作もパクリ認定されていました。など。


  ≪ 東京は利権まみれで隠ぺい体質 ≫

  東京の情報は、都合の悪い事は隠ぺいする傾向があります。
  東京は2020年の五輪の各問題や築地市場移転問題などで分かる通り、最も利権にまみれて情報操作が多い都市です。

  フジテレビ 新報道2001 『築地から豊洲新市場への移転問題』 16.09.11 放送

  衆議院議員から三重県知事となり『改革派知事』として紹介される事が多い 北川正恭さん。
  (現在は早稲田大学の名誉教授) 調べによる『議会改革度調査 都道府県議会ランキング』は
  情報公開のランキング2015。
  兵庫県1位 (7)、鳥取県2位 (1)、大阪府3位 (17)、東京都35位 (43)、45位和歌山県 (46)、
  最下位46位山口県 (44)。 熊本県は震災の為除外、()内は2014年の順位。

  詳しくは、下のリンク先で。また市町村議会ランキングもあります。
  政令市では堺市1位、京都市2位、神戸市3位、新潟市4位。(上位4市は2014年と同様)。


  北川教授によると、都庁はもっと酷い(情報公開しない)~//~説明責任が全く果たせていないから、こういう問題が起こる。
  議会のあるべき姿、議会の基本条例ができていない

  早稲田大学マニフェスト研究所 議会改革度調査2015 都道府県議会ランキング http://www.maniken.jp/gikai/2015rank_ken.pdf

  議員NAVI 『【速報】芽室町議会が連続1位、都道府県トップは兵庫県。「議会改革度調査2015」ランキング 早稲田大学マニフェスト研究所調べ』
  16.06.08 配信 http://www.dh-giin.com/article/20160608/5907/

  23区 千代田区議会がトップ 
   一方、300位以内は2議会のみ。千代田区議会が総合226位となり、23区内で1位となった。ただ、23区のうち総合300位
   以内に入ったのは、千代田区議会と板橋区議会のみで、2議会ともに昨年より順位を落としている。
   全国的にみて、23区の議会改革は遅れている現状にある。


  ≪ 歴史を知らない東京のTVスタッフ ≫  日本テレビ 月曜から夜ふかし 2時間SP 『日本三大都市問題』 14.10.13 放送



 大阪の紹介で、「この街は『関ヶ原の戦い以来、東京に
 追いつけ追い越せ』 その一念でやってきた。
 故に三大都市という考え自体あまりない」とナレーション。

 その直前には、『名古屋が歴史教科書に載っている』と
 主張する名古屋市民に対して
 「お前ら もう一度 教科書をちゃんと読め !」。

 関西人からすれば、関東人に対して「お前もな !!」と
 ツッコミたいところ。

  現実は、関ヶ原の戦い以降~江戸時代も文化の下流にあったのは東京 (関東)。
  大正時代も日本一の経済力と最新文化の発祥地である大阪に対抗心を必死で燃やしてきたのが東京という都市です。
  『文化は西から』という言葉がある事すら知らないんでしょうか?

  江戸時代に関西地方を江戸幕府が「上方」と呼んだのが始まり。逆に「江戸下くんだり」という言葉もできました。
  江戸は上方 (関西) と比べると田舎地方だったのです。


  ≪ 「大阪が東京に対抗して~」はウソ。 現実は、東京が大阪に対抗心を燃やして必死 ≫

  東京人が「大阪が東京に対抗して…」と言うのは、韓国人が「日本は韓国に嫉妬しているニダ」というのと
  全く同じ心理。史実を見ていけば、『東京が大阪に対抗して』必死なのがよく分かります。

  毎日のように、嘘やねつ造、時には創作までして他所を貶すのに、東京の客観的な事実を指摘されて腹が立つのは
  韓国人と同じですよ。間違った歴史認識で語るのは止めましょう。

  「江戸時代以降または明治以降、東京が何でも一番凄かった。」「東京は大阪より治安がいい。」などと、
  思い込んでいる人は、歴史やデータを詳しく検証すれば、上っ面の情報に騙されている事が分かるはずです。

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?


  ≪ 大大阪時代 ≫ 大正後期から昭和初期にかけて、大阪市が大大阪 だい-おおさか と呼ばれていた時代のこと。

  明治末期~昭和初期の大阪は日本最大の商業・工業の都市でした。
  経団連に勤務しながら、1万冊以上の社史を研究している村橋勝子さんによると
  東京の企業は『組織』で動く、大阪の企業は『人』が動かす。という違いがあり、この頃に会社を興すには、
   東京より大阪に出て来る事が多い






  江戸・東京の良いイメージと正反対なのが史実・実体です。ついでに、北海道・横浜・京都・沖縄なども黒歴史がけっこう
  あります。

  例えば、横浜は幕末に開港し外国人居留区ができ、洋風文化の良いイメージがありますが、明治~昭和初期などでは
  羅紗綿らしゃめん←(西洋の水夫が綿羊を船中で飼育して犯すという俗説から、西洋人の妾になった日本女性を卑しめて
  いう語)が多く、終戦直後はGHQが多く駐留し多くの女性がレイプされ、それを防止する為、売春施設が多く作られました。
  また、大正時代には関東大震災直後に、不逞朝鮮人団体との戦闘があったとの新聞記事もあり、横浜は怖いイメージの
  都市でした。

  70年代~の雑誌・テレビメディアによって、現在の良いイメージが作られた場合が多い。印象操作と洗脳によるものです。

  大阪市の変遷 http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/05kinki/27100_osaka.htm   沖縄の歴史
  Wiki 都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位   Wiki 大大阪時代

   【大阪市の区の変遷】  Wiki 大阪市

 1889年 大阪府下4区を大阪市とし市制施行。
 1920年 (大正9)  人口 1,252,983人。

 1925年 第2次市域拡張。西成郡と東成郡を編入。
 1925年 (大正14) 人口 2,114,804人。
 1925年~1932年統計で 大阪市が東京市の人口を上回る。
 1930年 (昭和5)  人口 2,453,573人。
 1932年10月1日 港区から大正区、東成区から旭区を分区して
       15区に。
 1935年 (昭和10) 人口 2,989,874人。
 1943年 分区して7区を設置し22区となる。

 1955年 第3次市域拡張。中河内郡と北河内郡の一部を編入。
 1956年 政令指定都市に移行。
 1974年 分区して26区に。
 1989年 東区と南区を合併し中央区、北区に大淀区を編入し、
       24区に。

  大阪府 1894km² 882万人 / 大阪市  225.2 km² 227 万人
   【東京市の区の変遷】  Wiki 東京市

 1889年 東京府下15区を東京市とし市制施行。
 1920年 (大正9)  人口 2,173,201人
 1923年 関東大震災で人口流出。

 1925年 (大正14) 人口 1,995,567人。

 1930年 (昭和5)  人口 2,070,913人。
 1932年10月1日 周辺5郡82町村を東京市に編入し35区に。

 1935年 (昭和10) 人口 5,875,667人
 1943年 東京都制法により、東京府と東京市が合併し
       東京都を設置。

 1956年 首都圏整備法で東京一極集中政策を開始。




  東京都 2187km² 1258万人 / 23区内 623.0 km² 895 万人

  1935 (昭和10) 年の人口密度は大阪市が1位、東京市は6位です。

  大阪市の場合は独自の事情により区の変遷を行っていますが、1932年、東京市は人口で抜かれた大阪市に対抗して
  市域を拡張したものとも見る事ができます。
  何故なら、大正時代の大阪は東京より人口が少ない時でも日本一の経済都市であり、文化も最先端だったからです。
  「江戸しぐさ」を筆頭に、東京の歴史改ざんが始まったのが大正時代。

  関西の交通関連 1911年日本で最初の消防車の導入、1917年日本初の霊柩車が誕生、1919年日本初の自動車教習所が誕生。(全て大阪市)

  大正~戦前に東京で書かれた『東京アップ、大阪・関西ディスカウント』の内容記事がある文献は鵜呑みにせず
  検証するべきです。以下をご覧になれば、歴史の真実がお分かり頂けるでしょう。

  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸、江戸時代中期まで、江戸では京坂のパクリ本が横行
  東征伐、熊襲征伐と三韓征伐 古墳時代の大和政権から見た蝦夷人の性質、この時代の蝦夷は関東も含む。
  関東の藤原氏の重要神宮 中臣 (藤原) 氏の関東発祥説は嘘、中臣氏の先祖神を最初に祀ったのは東大阪の牧岡大社
  江戸しぐさ ← 都民も認める 創作・でっち上げの江戸文化。 江戸の治安システム 江戸の治安は良かったのか?
  江戸の火事の真実 江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた ~ 時代劇で見る 江戸の町は嘘ばっかり!~
  明治時代のアイドルとミスコン 竹本綾之助、洗い髪のお妻 、松旭斎天勝、末弘ヒロ子  凌雲閣は大阪の方が先
  街頭ラジオ塔 日本初は大阪天王寺公園。各地で保存の動き。「大阪より早くラジオ放送を開始したい」とした東京
  キャバレーの歴史 キャバレー、カフェーなども大阪の商法を東京が真似て劣化させた。
  バブル時代 大バコのディスコ・ブームは大阪のマハラジャから
  東京湾の実態 東京・関東の水は安全? 千葉県の江戸川水系ヤバすぎ。日本で最も汚い一級河川は綾瀬川。
  公害苦情受理件数で見る 汚い県、うるさい県、臭い県はどこ?
  パンダ王国関西 東京上野のパンダが生まれた時は「列島中赤ちゃんパンダブーム」と言うが、和歌山のパンダの事は報道しない東京メディア。
  東京メディアの偏向報道  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件
  日本の伝統芸能 (一部、神楽、歌舞伎狂言、大阪の芸能)  ビールの「大瓶」「小瓶」の呼び方 大阪と東京の違い
  日本語 言葉の伝播 京・大坂から円を書くように日本各地へ広まった。
  蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見! 紀文のサイトにも作為的な嘘。
  着ぐるみ製造会社が多い大阪 また月曜から夜ふかしの嘘発見。
  伊藤ハムのポールウインナー 関西だけでしか普及していない理由 (東京の業界圧力) と 60年代の大阪のホットドッグ復活
  肥満が最も少ないのは三重県? 日テレの番組を検証してみた結果、目がテン!に?

   新吉原図鑑 『「吉原芸者は色を売らなかった」って、これもパクリ本の常套句です。』 
    http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2729/saiken/yoshiwara-geisya.htm
 
 『うわなり打ち』という風習
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『哀・貴族Ⅱ』 14.09.21 放送
  テレビ東京 ありえへん∞世界 『知られざる江戸時代の文化や風習を徹底取材!』 14.12.23 放送

  ≪ 後妻打ちは平安時代にはすでにあった ≫

  後妻打ちの最古の記録は権記に記載されている平安時代中期の大中臣輔親おおなかとみ-の-すけちかの話だそうです。

  権記 (藤原行成の日記) によると
  1010年2月18日。ウチの忠光が血相を変えてきて言う。「鴨院の西の対の屋敷で、エライ騒ぎです!」。聞けば、藤原教通の
   手下が女30人を引き連れ、屋敷にいきなり乱入して暴れまわっている…と言う。 
   どうやら、教通さんの乳母の「蔵の命婦みょうぶ」の差し金らしい。どうやら、そこに大中臣輔親が住み着いた事がきっかけ
   らしく、輔親の元嫁の「蔵の命婦」が嫉妬して暴徒を送り込んだようだ。家の中は、もうメッタメッタに壊されていた。






  妻の蔵命婦は藤原道長の五男・藤原教通の乳母であり、輔親も同様に乳母父として仕えた。

  【権記】ごんき
   権大納言 藤原行成の日記。991年(正暦2)から1011年(寛弘8)に至る。その後は死没の前年26年(万寿3)まで、
   わずかに逸文が残る。藤原道長の時代を知る重要史料の一つ。

  【藤原行成】ふじわら‐の‐ゆきなり、(名はコウゼイとも。972~1027)
   平安中期の書家。権大納言。その筆跡を権蹟ごんせきといい、小野道風・藤原佐理すけまさとともに三蹟と称され、
   俊賢・公任・斉信とともに四納言しなごんと称す。後世、その書法を世尊寺せそんじ流という。日記に「権記ごんき」がある。
   真跡と伝えられるものに「白氏詩巻」「本能寺切」など。

  Wiki 後妻打ち  Wiki 大中臣輔親  Wiki 藤原行成

  鎌倉初期の仏教説話集の『宝物集』、 鎌倉時代から南北朝時代に成立したと考えられる軍記の『源平盛衰記』、
  室町時代頃の『昔々物語』などにも「後妻打ち」が記されているそうです。

  鎌倉時代には北条政子が夫の源頼朝の愛人の家を襲撃したという話が残っています。


  ≪ 江戸時代のうわなり打ち ≫

  江戸時代までの離婚は、男の方が一方的にできる立場でした。『うわなり』=『後妻』で、離縁された元妻が友達を
  引き連れて、再婚した男の家を襲撃するという風習がありました。江戸時代のうわなり打ちは奇襲ではなく、
  あらかじめ行く事を伝えていたようです。






  【後妻・次妻】うわ‐なり【嫡妻・前妻】こなみ
   ① 最初の妻に対して後にめとった妻。めかけにもいう。のちぞい。ごさい。古事記[中] 「うわなりが魚な乞こはさば
   ② 「後妻嫉妬うわなりねたみ」の略。先妻または本妻が後添いの妻をねたむこと。
   ③ 怨霊

  【後妻打】うわなり‐うち
   本妻や先妻が後妻をねたんで打つこと。相当打。騒動打。
   室町時代、妻を離縁して後妻をめとった時、先妻が親しい女どもをかたらって後妻の家を襲う習俗があった。

  【嫐】うわなり
   歌舞伎十八番の一つ。1699年(元禄12)江戸中村座の「一心五界玉」で初代市川団十郎が初演。
   男一人に女二人の嫉妬の所作しょさで、筋はその時に応じて定められる。

  臭い褌の洗濯を依頼する事は人妻への求愛行為
  江戸時代の化粧 江戸時代後期のファッション雑誌 『都風俗化粧伝』の内容  川柳 発祥は大坂。 川柳から見る江戸での嫁の立場・嫌な女房番付
 徳川吉宗 書きかけ
  NHK Eテレ 知恵泉 『時代を変えるリーダーとは? 「徳川吉宗」』 14.05.20 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「にっぽん城下町めぐり⑦ 和歌山」』 14.01.16 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「にっぽん城下町めぐり 兵庫 明石」』 13.11.21 放送

  【徳川吉宗】とくがわ‐よしむね (1684~1751)初名、頼方。諡号、有徳院。 紀州2代藩主 徳川光貞の4男。
   徳川第8代将軍(在職1716~1745)。紀州藩主となり、藩財政改革に手腕を発揮。将軍位を継いで享保の改革を行なった。
   米将軍と呼ばれる。


  ≪ 吉宗は生まれてすぐに城門に捨てられた ≫






  【契約親】けいやく‐おや 替親取親拾親。   詳しくは→ コトバンク 『拾い親』
   虚弱な子を育てる一種の呪まじないとして、またその子の将来の後見を頼む意味で立てる仮親。







  ≪ 象をベトナムから連れてきた ≫

  1729年の春、「象が見てみたい」と思った吉宗はベトナムから象を輸入。長崎から江戸まで西国街道や東海道を
  約2ヵ月かけて歩かせました。象と対面した吉宗は「思ったより小さいのう」と落胆し、売払うことにしました。
  しかし、買い手が付かなかったため、自ら飼育。象の糞を利用した薬を販売しエサ代を稼ぐことにしたそうです。






  上↑は1970年大阪万博の際にタイからやってきた20頭の象の行進。20頭の象を運ぶ手段が無かったので、8月3日に
  神戸港を出発し大阪府吹田市の万博会場まで約40㎞を1泊2日かけて一般道を歩いて移動しました。
  沿道は埋め尽くすようにずらっーと数千人~数万人の人だかりが出来ていたようです。

  江戸時代後期の大坂にあったバードカフェ 孔雀茶屋 江戸は「花鳥茶屋」 動物の見世物興業


  【山田朝右衛門・山田浅右衛門】やまだ‐あさえもん
   江戸中期以降、代々、将軍の刀のためし斬りを本職とし、また死罪執行のとき斬首役をも引き受けた浪人。
   世に首斬朝右衛門と称。初代は1700年頃の人。 江戸では人肝を干した薬が売られていた

  Wiki 山田浅右衛門 より抜粋
  将軍徳川吉宗の前で山田浅右衛門吉時が試し斬りをし、吉宗がその刀を手にとって確かめるということがあったという。
  これが前例となり、浪人である山田浅右衛門家が御様御用を務める慣習になってしまった。
  幕府瓦解後、8代山田浅右衛門吉豊とその弟山田吉亮は「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕し、引き続き処刑
  執行の役割を担った。
  1870年(明治3年)には弁官達により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止され、山田浅右衛門家の大きな
  収入源が無くなった。

  
 徳川吉宗が命じた日本地図
  ≪ 全国測量の地図原図 広島で初の確認 ≫  朝日新聞 14.05.09 夕刊 原文ママ

 江戸時代の享保年間(1716~36)に全国を測量して作製された日本地図の測量原図が広島県立歴史博物館(福山市)に
  寄託された古地図の中から見つかった。
  同博物館が明らかにした。文献などから江戸時代の8代将軍徳川吉宗が命じて作られたものとみられる精度の高いもので、
  現物が確認されたのは初めてという。同博物館では「江戸時代の測量法を知る貴重な資料」としている。


この原図は、福山市出身のメリルリンチ日本証券
元会長の守屋寿さん(72)から同博物館に寄託された
日本の古地図のコレクションの中に含まれていた。

測量原図は縦152㌢、横336㌢で、縮尺は21万6千分の1。
北海道の南部から種子島までの範囲だ。
地点間の見通しで位置を確定する当時の測量法
「望視交会法」の見通し線が書かれている。

日本地図は江戸時代に6回作られたとされ、4回目までの
地図は各地の地図の寄せ集めで、正確さが乏しかった。


  江戸幕府の古文書などを集めた内閣文庫に残る「諸国見通目録」に、5回目の地図は、吉宗の命を受けて全国を測量して
  作製されたという記録がある。

  同博物館によると、「諸国見通目録」に記されている見通し地点と、今回の測量原図に書かれた地点が一致していたという。
  伊能忠敬(1745~1818)が全国を測量して作製した正確な地図は19世紀初めに作られた。

  正確な測量法 川村博忠・東亜大学客員教授(日本地図史)の話
   伊能忠敬が作った地図の100年ほど前に、かなり正確な測量方法を使って地図を作り上げた証拠が見つかった。
   幕府が日本地図を作っていく歴史を知る上で、大変貴重な発見だ。
 
 江戸の人口100万人説は本当か?
  テレビ東京 決着! 歴史ミステリー 『かぶき者SP 伊達&慶次  江戸は世界一』 
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『近世の経済と産業』 14.10.03 放送
  NHK Eテレ 知恵泉 『時代を変えるリーダーとは? 「徳川吉宗」』 14.05.20 放送
  日本テレビ 所さんの目がテン! 『江戸時代の「長屋暮らし」を体験』 18.04.01 放送

  ≪ 江戸の人口は世界一? ≫  Wiki 江戸の人口

  色々な説がありますが、定説では、江戸中期 德川吉宗(在職1716~1745)の享保時代に最も人口が多く100万人と
  されています。
  この根拠となるのは吉宗が1726 (享保11) 年に行ったとされる人口調査で、諸国の総人口が2654万人。

  この調査記録は、明治時代に出版された吹塵録に記載されています。

  江戸町民が約50万人。他藩の武家屋敷は機密事項につき調査できないので不明。
  この江戸の武士の人口を推定で50万人として、江戸の総人口100万人としているのです。

  【吹塵録】すいじんろく
   勝海舟が編纂した江戸幕府の財政資料集成。皇室・田制・外国通商などの各部に分けて編纂、1890年(明治23)刊。






  1786年 ドイツのベルリンが14.7万人 1801年 フランスのパリが54.8万人 (テレビ東京によると1802年 67万人)
  1801年の英国ロンドンが86万人。
  1721年 江戸は約100万人 (テレビ東京『歴史ミステリー』によると1725年 112万人) 全て推定

  江戸中期、第8代将軍の德川吉宗が人口やなどの農業生産量などの調査を行っています。
  『吹塵録』によると、1726 (享保11) 年、当時の日本の人口は2654万人。 
  江戸町民は50万人。(江戸の武家人数は調査できないので不明。← 江戸100万人説が生まれた原因)。

  日本テレビ 所さんの目がテン! では武家65万人・町人60万人 計125万人が江戸の人口として紹介しています。






  江戸の住居分布では町人が住んだ地域は武家地の1/5。庶民の人口密度は現在の東京の約4倍の6万人/㎢と、
  超過密な状態でした。
  農家や漁師の二男や三男など地方で食い詰めた人々が豊かな暮らしを求め江戸に出てきて、棒手振などで商売を行い
  わずかな日銭を稼いでいました。庶民は狭い長屋住まいが普通で、4畳半1間に4人家族が住む場合もありました。


  ≪ 寛政時代の江戸の人口 2億61万3000人もいた。 町民57万4000万人、武士2億3万8000人 ≫


 1911 (明治44) 年の『東京年中行事』上の巻 P.1~3 「江戸と東京

  元禄年間の如きは、八萬の旗本 百萬の商人、諸侯の従臣を併せて人口 百五十萬乃至ないし二百萬、

  上記記述を検証すると、日本の総人口3200万人、町人(商人・職人など) 6%で計算すると、町人人口は192万人。
  江戸には半分以上の商人が集まっていた事になります。
  元禄は商人が多い大坂を中心に上方で文化が華開いた時代。江戸の数字はかなり盛っている事がわかります。


 幕末の皇都午睡』三編上

  家づとに寛政三亥年五月 御勘定奉行より江戸宗旨人別書の写しを借り出しあり
  江戸町数 千六百七十八丁 家数 十万八千軒 人数 五十三万五千七百十人他に 出家二万六千九十人
  山伏三千八十一人 禰宜九百人 此他に吉原廓中八千九百四十人 総人数合せて五十七万四千七百廿一人

  右の他に武家人数二億三万八千三百九十人 総都合して二億零六十一万三千百十一人
  右は宗旨御帳面表 確かに在江戸の人別也…

  寛政3年の幕府統計 江戸町数1678丁、家数10万8000軒、人口53万5710人、出家 (僧侶) 2万6090人
  山伏3081人、禰宜 (神職) 900人、吉原遊郭8940人 総人数 57万4721人。 ← 江戸宗旨人別より
  他に、武家人数2億3万8390人 総合計 2億61万3111人。

  (続きは、この人数から江戸での1日の米の量を推計しています)

  元禄年間 京町奉行所の写しを見たるに京都町数 千八百四十七丁 家数 四万五千八百七十七軒とあれば
  其御百余年を経る間に新地追々建続き既に天明八年の大焼の頃 凡町数 二千有余と見えたなれば
  又々町数家数も増減あるべし 江戸の人別帳は寛政三年なれば 今年迄六十年になれり 是又町数家数
  いか程ふえたるやらん 計り難し

  元禄の京都の幕府統計 町数1847丁、家数4万5877軒。

  元禄年間(1688~1704年)、享保11年=1726年、寛政3年=1791年

  【天明の大火】てんめい-の-たいか
   天明8 (1788) 年1月晦日の京都の大火。1424町が焼け、皇居・二条城なども類焼。焼失家屋3万7000。

  【宗門改役】しゅうもん‐あらため‐やく
   江戸幕府の職名。宗門改をつかさどった。1640年(寛永17)大目付井上政重が任じられたのが初め。
   のち大目付・作事奉行各1名が担当。初めは吉利支丹御支配・吉利支丹奉行などと称した。
   1792年(寛政4)廃止。宗旨改役。

  【宗旨人別帳】しゅうし-にんべつちょう  【宗門人別帳】しゅうもん-にんべつちょう
   江戸時代、村ごとに宗門改の結果を記した帳簿。1戸ごとに戸主・家族・奉公人の名前・年齢・檀那寺などを
   記載し戸籍簿の役割をも果たした。宗門人別改帳・宗門改帳または宗門帳などともいう。
   1671年(寛文11)制度化して毎年作成され、1871年(明治4)戸籍法制定により廃止。

  宗門人別帳に基づき、寺が檀家に対して身分保証を行い発行する「宗門手形」または「寺請状」・「寺請証文」
  などの証文制度があり、その証文は庶民の婚姻・旅行・奉公などの際に必要としました。

  町人の数はかなり正確だと思われます。但し武士の2億3万8390人はあり得ない数字です。
  2億を減らしてみれば、江戸の人口は61万3111人。宗門人別帳には載らない流れ者・出稼ぎ・旅人などを加えると、
  江戸には常時70万人くらいの人口であったのではないか? と思いますが、如何でしょうか?。

  【寺請】てら‐うけ
   江戸時代、庶民がキリシタンをはじめ幕府禁制の宗教・宗派の信徒ではなく檀家であることを、その檀那寺に証明
   させた制度。キリシタン根絶後も民衆統制制度として存続。

  【寺請状】てらうけ‐じょう
   寺請を証明して、檀家に対して身分保証を行なった証文。宗門人別帳にもとづいて発行され、庶民の婚姻・旅行・
   奉公などに際して必要とされた。寺手形。宗旨手形。寺請証文。寺証文。宗旨証文。



  ≪ 江戸・東京は数字を盛って大きく見せるのが常 ≫

  『皇都午睡』では下女などは江戸生まれは珍しいが、近在から来て江戸を見習うので、我が身を省みず自然と
  大きな事を言うので憎まれる。というような事も書かれてあります。

  すでに幕末頃には江戸人のいう事は信用に足りない事が知られています。詳しく→ 江戸っ子とは? その実態


  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 P.309 「上野廣小路の天新

  東京名物の一たる天麩羅と云へば…毎晩の上り高は大抵が二十圓とはチト屋台店としては嘘のやうだが、
   こゝらが矢張 東京の東京たる所で有ろう。
  他にもP.271「初鰹」でも、江戸っ子が語る由来などが紹介されていますが、それはまあ御勝手として置いて
  おいて」「真偽をよそにしてもなどの言葉が交り、筆者は江戸っ子の言う事を信用していない事がわかります。

  【東京年中行事の著者】
   若月紫蘭 (本名は若月保治、1879~1962年、山口出身、東京帝大卒)  Wiki 若月紫蘭
   教育者・記者・劇作家・演劇研究家・浄瑠璃研究家・翻訳家など多方面で活躍しました。

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?
  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん


  ≪ 実際には ≫

  飢饉の度に京・大坂・江戸などの都市に農村から人が流入。享保の改革や
  寛政の改革など、何度か旧里帰農令きゅうりきのうれい (人返し) が出されましたが、
  ほとんど効果が無く、時代が進むにつれ地方から都市に人が流入し、
  都市の人口は増え続けたようです。

  江戸時代の武士の比率は7%前後と言われ、武士が最も多い江戸では
  5人に1人が武士だとも言われます。

  江戸時代中期以降、樽廻船で上方から酒が江戸へ運ばれますが、この量は
  時代が下るほどに増加していきます。

  江戸末期1824年に出版された江戸買物独案内えどかいもの‐ひとり‐あんないには
  『江戸の町が大きくなりすぎた為、この本を書いた』とあります。

  1855 (安政2) 年、安政江戸地震の死者は約7000人 (推定)。

  1862年の第3次コレラ流行での江戸の死者は7万300人 (推定)。

  1868 (慶応4-明治1) 年、明治天皇の東京行幸の約3300人が京都から移住。

  1871 (明治4) 年7月の廃藩置県と四民平等で、結婚・居住・職業の制限が
  廃止になり、他府県への移住が可能になりました。

  同年に戸籍法が太政官布告で制定。

  1872年、戸籍法にのっとり人口調査が行われます。
  江戸より広い面積の東京府の人口は85万9345人。下記サイトより

  1873年の調査で88万7332人と、データでは東京府の人口は右肩上がりに
  増加しています。

  1889 (明治22)年 の東京府は135万4400人。大阪市は47万2247人。
  1881年から現在と同じ地域になった大阪府のデータは不明。
  1907 (明治40) 年、東京府251万0500人、大阪府205万1568人。


  江戸時代の総人口を3200万人・武士階級7%と仮定すると224万人の武士が居た事になります。
  「武士」と書くと男の侍だけをイメージしますが、武士の子女も含まれるので「武家」と書くのが妥当です。
  武家とすれば半数以上は子女がいる事も想像でき、武士 (侍) は多くても112万人となります。
  江戸詰めの武士のほとんどが単身赴任。江戸に武士が60万人居たとすれば、その半数が居た事になります。
  大きな藩では京や大坂などにも藩邸を持っており、例えば佐賀藩などは長崎の警護にも多くの藩士を出しています。

  つまり、各藩藩士の半数以下の人数で国元の行政や治安警護などが回るでしょうか?
  現在の都道府県の各県庁職員の何割が地元で働いているか? などを考え合わせれば分かるでしょう。
  武士の半数である60万人が江戸に集まっていた可能性は低いと思います。

  人口・面積・密度 『旧東京府の人口推移 1872年~1943年』 http://demography.blog.fc2.com/blog-entry-885.html
  人口・面積・密度 『横浜市の人口・世帯数の推移 1889年~2016年』 http://demography.blog.fc2.com/blog-entry-360.html
  人口・面積・密度 『大阪市の人口・世帯数の推移 1889年~2016年』 http://demography.blog.fc2.com/blog-entry-367.html
  人口・面積・密度 『大阪府の人口推移 1907年~2014年』 http://demography.blog.fc2.com/blog-entry-334.html

  明治維新の戦争で人口が流出したという説がありますが、上野寛永寺で行われた戦争はわずか半日。
  福沢諭吉などは戦争の最中でも動じないで慶応義塾に居ました。
  また江戸庶民は幕府側の彰義隊を応援していたようなので、何万にも流出があったとは考えにくい。

  『江戸しぐさ』を推奨する団体によると、「明治政府が江戸っ子を大虐殺した」としていますが、そんな事実は一切なく、
  多くの人から完全に否定されています。

  戊辰戦争や幕府の崩壊で武士の移動はかなりありますが、明治政府が江戸を東京と改め首都にした事で、東京に人口が
  流入する方が多かったとも言えます。(但し、こういうのはデータがなく、人口が減ったとも言えるし、増えたとも言える推測の域をでないもの)

  例えば、開港前の横浜の人口は400人程度でしたが、幕末1859年に開港してから10年で2万人まで増加し、その後も
  人口増加を続けました。絹の輸出に伴い関連事業により、関東全域で人口が急激に増加しています。

  ※ これら全てを鑑みると、江戸中期の江戸の人口は最大でも75万人と推測するのが妥当だと思います。


  テレビ朝日 林修の今でしょ!講座3時間SP 『東大教授が教える!天才家康の町づくり』 16.04.12 放送

  東京大学の本郷教授 (千葉県出身) によると、統計がありましてね、
  1720年の江戸の人口が約100万人、ロンドンは約90万人。NHKでは1801年のロンドン人口86万人。

  林修 当時 (江戸の人口が) 世界最高ですか?
  本郷 (大英帝国の首都の人口より) 勝ってる。でもまあ、統計のない、どっか凄い町が
  あるかも知れないから、あの『世界一』って言い切っちゃうのは、どうかなぁとは思います
  けど、世界一である可能性が相当に高い。それくらい江戸の町っていうのは繁栄していた
  という事になるわけです。
  


  本郷教授の話の内容の受け取り方にもよりますが、以前言われていた「江戸は人口世界一」と豪語して時期に比べ、
  少しトーンダウンしたように思います。もっと詳しく検証してみようとする研究者がいないのが不思議です。

  江戸時代の人口が70万であれ、100万以上であれ、日本一の人口を誇っていたのは間違いないのですが、歴史は
  できるだけ史実を付きとめていくことが大切です。

  しかし、東京や関東の学者は、関東の歴史を少しでも古く、少しでも大きく見せようとする傾向にあり、歴史を歪曲
  しています。
  鎌倉幕府の成立年を1185年にしようとしていますが、ネットでのいくつかの議論を見てみると、1192年の説をとって
  いる人の方が多く、説得力がありました。

  東京近郊の関東の歴史 東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった

  東京は人口が日本一多かったのは事実ですが、幕末期においても庶民の文化レベルでは京・大坂には及んでいない
  事が多くの一級史料にて確認できますので、「江戸が一番繁栄していた」という勘違いはしないようにしましょう。

  この本郷教授は、近年多くのテレビで活躍されていますが「東京は水の都だった」とか「鎌倉幕府が1185年開府」とか
  「江戸はこんなに凄かったんです!!!」とか、歴史を拡大解釈して東京を必死で持ち上げている学者の筆頭のようです。

  「東京や関東の歴史が凄い」と紹介しないと、テレビ視聴率や本の販売部数が上がらないなどという背景があるにせよ、
  東京の皆さん、いつまでも韓国のように妄想願望歴史を垂れ流すのはやめましょう。
  自らのイメージアップや利益を得る為に、嘘を吐いてまで他を貶す、他所の歴史をパクるのは犯罪と同様の行為です。

 
 和算と寺子屋
  テレビ東京 決着! 歴史ミステリー 『かぶき者SP 伊達&慶次  江戸は世界一』
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『近世の学問と文化』 14.10.10 放送
  日テレ 世界で一番受けたい授業 『江戸時代のベストセラーから見る 驚きの新歴史 !』 15.04.11 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『"くずし字"を解読する講座が人気』 15.04.02 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『学校に行こっ! 「京都・洛北高校」』 15.05.25 放送

  古今集仮名序に手習の初めに学ぶとある歌。(奈良時代には文字を書く練習が行われていた事が分かります。
  王仁の歌とされる「難波津の 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」の「花」は梅だそうです。

  この歌は小倉百人一首の競技大会の最初に詠まれる慣例があるそうです。

  【王仁】わに 和邇吉師わにきし
   古代、百済からの渡来人。漢の高祖の裔で、応神天皇の時に来朝し、「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらしたという。

  【難波津】なにわ‐づ
   難波江の要津。古代には、今の大阪城付近まで海が入りこんでいたので、各所に船瀬ふなせを造り、
   瀬戸内海へ出る港としていた。

  平安時代、筑前国筑紫郡大宰府 (福岡県太宰府市) に府学という学校が置かれました。

  【足利学校】あしかが-がっこう
   中世の足利 (栃木県南西部、足利市の発祥の地) にあった高等教育機関。「坂東の大学」とも称せられ、儒書・仏書を
   講述。室町初期に栄え、一旦衰微。上杉憲実が儒書・領田を寄付し保護・統制。以後、戦国大名の保護を受けた。
   郷学校として1872(明治5)年まで存続。施設の一部は史跡として現存。


  ≪ 江戸時代の学問 ≫  江戸でも上流階級は上方言葉を使っていた 上野公園の鶯は、京都の訛の無い鳴き声の鶯の子孫

  江戸時代は学問が大衆化し、庶民も高い教育水準を持っていました。特に数学は高等で世界的にもハイレベルでした。

  【和算】わ‐さん
   日本古来の数学。江戸時代に関孝和その他の俊才を生み、方程式論に相当するもの、円周率、曲線図形の面積や
   曲面に囲まれた立体の体積を求めることなどに独自の発達を示したが、明治になって輸入された西洋数学に圧倒された。
   和算の名称は、この頃に洋算に対して作られたもの。

  【算法統宗】さんぽうとうそう
   明(中国)の数学者 程大位の著。1593年(万暦21)頃刊。17巻。算盤による計算法を扱う。
   和算の実用的な面に強い影響を与えた。「塵劫記」は、これを日本の実情に合わせて平易に解説したもの。






  【塵劫記】じんこうき
   日本で最初の算術書。吉田光由著。1627年(寛永4)成る。中国の数学を日本に適応するように改めた平易な入門書。
   明治末まで、同類の版本が約300種刊行され、算術書の異名となった。

  【吉田光由】よしだ‐みつよし(京都の山城嵯峨の人。1598~1672)
   江戸初期の和算家。「算法統宗」(中国の明の数学者)の文義を翻案して「塵劫記」を著した。

  【関孝和】せき‐たかかず(生地不詳、1640頃~1708)通称 新助。
   江戸中期の和算家。点竄てんざん術(筆算式の代数学)を考案し、方程式論・行列式論などを創始、また、幾何学を研究。
   関流を創始。著「大成算経」「括要算法」「発微算法」など。

  和算は、商売や田畑の面積を測ったり土木工事など実用的な事だけでなく、高度なパズルを考える娯楽としても楽しまれた
  ようです。


  画像 テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『山陰の小京都 山口・萩の旅』 14.10.18 放送 同 『究極のふぐ 本場 下関の旅』 15.01.10 放送

  ≪朱子学を正式とし、他の学問を禁止 ≫ 特に現代の関東人の考え方にも強く影響している?

  徳川家康が京都から林羅山を呼び朱子学を幕府の官学として位置づけました。
  侍講とは簡単に言うと天皇や将軍などの家庭教師。

  江戸時代は朱子学以外に陽明学や蘭学に加え、専門研究の本草学などが学ばれました。
  多くの場合、どちらの儒学も学んでいますし、加えて蘭学など他の学問を学ぶ人も多かったようです。

  また朱子学と陽明学は同じ儒教から派生した学問ですが、よく対比される学問のようです。詳しくは各リンクサイトで。

  知命立命 心地よい風景 『朱子学と陽明学の違い、日本陽明学とは!』 14.10.16 配信
   http://shutou.hatenablog.com/entry/2014/10/16/051837

  ホンシェルジュ 『朱子学とは。概要や考え方を簡単に紹介』 18.12.23 配信 https://honcierge.jp/articles/shelf_story/7109

  朱子学は「知識の学問」で、上下関係を重視し差別があるのは当然。官僚社会によって社会秩序を統制。
  富裕層や権力者にとって都合の良い統治社会を築く考え方。

  陽明学は「心の学問」で、権威に盲従するのではなく、自己の正義感によって自己責任で行動しなければ、
  人の心を洞察する事ができないという考え方。欠点としては自己正義が間違っている場合に秩序を乱す事。

  【朱子学】しゅし‐がく
   南宋の朱熹しゅきが、北宋以来の潮流に基づいて大成した儒学の体系。
   世界を構成する気にはそこに必ず存在根拠・法則としての理があるととらえ、理気世界観(理気論)をうち立てた。
   人間においては前者が気質の性、後者が本然の性であり、本然の性は理にほかならないとして程頤ていいによる
   性即理の命題を奉じて、不純な気質を変化させることによるこの理の自己実現を課題とした。
   方法として、格物致知・居敬窮理・主一無適など。こうして自己修養を遂げた人物が為政者となる(修己治人)ことで、
   天下泰平が実現すると説き、社会の礼教化を推進した。理としての規範や名分を重視するところから、以後、元代・
   明代・清代を通じて現行秩序を支える体制教学とされ、朝鮮王朝・ベトナムや江戸時代の日本にも導入された。
   日本では藤原惺窩・林羅山・木下順庵・室鳩巣・山崎闇斎・古賀精里・柴野栗山・尾藤二洲らが朱子学派と呼ばれる。


  【代表的な朱子学派とされる学者たち】 広辞苑に記述がある人物
   日本では藤原惺窩 (令泉家・京都の僧、近代儒学の開祖) ・林羅山木下順庵 (京都の人、加賀藩儒→綱吉の
   侍講) ・室鳩巣 (江戸の人、木下順庵の門下、加賀藩儒→吉宗の侍講) ・山崎闇斎 (京都の僧) ・古賀精里
   (佐賀藩士、寛政の三博士の一人、昌平黌教官) ・柴野栗山 (高松の人、寛政の三博士の一人、昌平黌教官、
   寛政の異学の禁を松平定信に建議) ・尾藤二洲 (伊予の人、寛政の三博士の一人、昌平黌教官) らが
   朱子学派と呼ばれます。

  1593 (文禄2) 年、家康が伏見にいる時に藤原惺窩を呼び、足利学校から第九世庠主・三要元佶を呼び、西笑承兌、
  天海、金地院崇伝らも呼びました。
  林羅山は1605 (慶長10) 年に伏見に呼び出され、1607 (慶長12) 年から駿府で家康に仕えました。

  【林羅山】 はやし‐らざん (京都の人、1583~1657)
   江戸初期の幕府の儒官。名は忠・信勝。僧号、道春。藤原惺窩せいかに朱子学を学び、家康以後4代の侍講となる。
   また、上野忍ヶ岡に学問所および先聖殿を建て、昌平黌しょうへいこうの起源をなした。多くの漢籍に訓点(道春点)を
   加えて刊行。著「本朝神社考」「春鑑抄」など。

  【昌平黌】しょうへい‐こう
   江戸幕府の儒学を主とした学校。林羅山が上野忍ヶ岡に創設した家塾(後に弘文館)に始まる。
   1690年(元禄3)将軍綱吉が孔子廟先聖殿とともに弘文館を湯島昌平坂に移し、大成殿(聖堂)を造営して林家
   当主に主宰させた。
   1797年(寛政9)幕府直轄の学問所となり、主に旗本・御家人の子弟を教育した。昌平坂学問所。江戸学問所

  【寛政異学の禁】かんせい‐いがくのきん
   松平定信による寛政の改革の諸政策の一つ。1790年(寛政2)、定信が林大学頭に宛てて出した、朱子学を正学とし
   昌平黌しょうへいこうでの異学教授を禁止する旨の諭達をいう。97年幕府は昌平黌を林家から接収、幕府直轄の昌平坂
   学問所に改め、教学政策を推進。

  水戸藩では徳川光圀が中国から儒学者の朱舜水を招き水戸学という学派ができます。
  朱子学を追及していった結果、将軍より天皇の方が格や権威が上という考え方に行きつき、尊王攘夷思考になります。
  徳川御三家とは言え、将軍は吉宗以降、吉宗の子孫である御三卿が独占、水戸藩からの将軍は最後の慶喜のみ輩出。
  御三家筆頭の尾張家からは将軍輩出はなく、同じ徳川でありながら一枚岩ではなく、それぞれ敵対心とけん制し合って
  いる感情も持ち合わせていました。それは徳川に限らず古今東西において権力争いは身内からのケースが多いです。

  【水戸学】みと‐がく
   江戸時代、水戸藩で興隆した学派。儒学・国学・史学・神道を基幹とした国家意識を特色とし、藩主徳川光圀の
   「大日本史」編纂に由来するが、特色ある学風を形成したのは寛政(17891801)年間以降。藤田幽谷・会沢正志斎
   らが代表的人物。尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。

  【陽明学】ようめい‐がく
    明の王陽明が唱えた儒学。初め朱子学の性即理説に対して心即理説、後に致良知説、晩年には無善無悪説を
   唱えた。朱子学が明代には形骸化したのを批判しつつ、明代の社会的現実に即応する理をうち立てようとして興り、
   やがて、経典の権威の相対化、欲望肯定的な理の索定などの新思潮が生まれた。
   日本では、中江藤樹・熊沢蕃山、また大塩平八郎(中斎)らに受け入れられた。王学。心学。

  【代表的な陽明学派とされる学者たち】 広辞苑に記述がある人物
   日本では学派としての系統はなさないが、中江藤樹 (近江の人、日本の陽明学派の祖) ・熊沢蕃山 (京都の人、
   岡山藩主に仕える) ・三輪執斎 (京都の人) ・佐藤一斎 (美濃の人、林家の塾頭で昌平黌教官) ・大塩中斎 (大塩
   平八郎、大坂奉行所の与力) ・佐久間象山 (信州松代の兵学者) ・高井鴻山 (信濃の豪農で文人) らが奉じた。
   その他、明治維新で活躍した新政府軍の吉田松陰 (長州藩士で佐久間象山に学び松下村塾を開き幕末・明治の
   指導者を生むが安政の大獄で刑死)、高杉晋作 (長州藩士で松下村塾で学ぶ)、西郷隆盛 (薩摩藩士) らも、陽明
   学の影響を強く受けているようです。

  【松下村塾】 しょうか‐そんじゅく
   吉田松陰が叔父玉木文之進の後を受け継いで1856年(安政3)から主宰した私塾。
   58年藩許を得た。山口県萩市に遺址がある。高杉晋作・久坂玄瑞・前原一誠・伊藤博文・品川弥二郎らを輩出。






   朱子学派も陽明学派も代表的な学者の出身地を見ると、西日本の人が多いわけですが、朱子学派は幕府に
   重用されて江戸在住になっています。

  コトバンク 寛政異学の禁 https://kotobank.jp/word/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E7%95%B0%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A6%81-49005

  台湾人が語る日本人と韓国・中国人の違い。
  
 https://www.youtube.com/watch?v=coxLaCc10z4  https://www.youtube.com/watch?v=elLWWzaQJFk
  『日本人はなぜ中国人、朝鮮人とこれほど違うのか』などの著者である台湾人作家で拓殖大客員教授でもある
  黄文雄さんは「中国韓国は儒教、日本は仏教文化圏…日本人はまじめで誠。中国韓国人は騙す嘘吐き、中華思想を
  持っているので自己中心的、相手が何を言おうと聞く耳をもたない」

  ※一般的に儒学と言えば朱子学の事です。 

  【儒学】じゅ‐がく
   孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。諸子百家の一つ。後漢に五経などの経典が権威をもち儒家が重用されるに
   及んで、他から抜きんでた。南北朝・隋・唐では経典の解釈学が進み、また礼制の普及・実践が見られた反面、哲理面で
   老荘の学や仏教に一時おくれをとった。宋代に宋学が興って哲理面で深化し、特に朱子学による集大成がなされた。
   やがて朱子学が体制教学化するにつれ、明代中葉以降、王陽明を始め朱子学の批判・修正を通じて多くの儒家による
   学理上の革新が続き、清末の共和思想に及ぶ。
   日本には応神天皇の時に「論語」が伝来したと称されるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。


  ≪ 東日本、特に東京は朱子学の考え方の影響が強く残っている ≫

  幕府の官学と位置づけられた学問なので、幕府側が多かった東日本は朱子学の影響が強く、維新を起こした
  外様大名が多かった西日本、特に武士が少なく民衆の自治が進んでいた大坂や奈良 (自由都市の今井町と、興福
  寺領) は陽明学と似た価値観の方が強いと思われます。

  奈良時代から道昭・行基 (共に河内の僧) によって、西日本、特に大坂は政府に頼らず民衆自らが公共の為にも
  率先して行うという価値観が長年の間に根付いています。東日本は統治者などにやって貰う事が多い。

  では、陽明学の影響が強く受けた維新側が新政府を作って東京を首都にしたのに朱子学の影響が強く残っている
  のはおかしいと疑問を持つ人もいると思います。

  幕末から諸外国の脅威、諸外国と対峙する必要が出てきます。明治以降は天皇を中心とした富国強兵が進められ、
  国民全体に勤勉さや秩序強化、命令系統が絶対の軍おいては上下関係が江戸時代より厳しく統制されます。
  江戸時代にあった身分区別は無くなったものの、官僚支配には変わらないので上下関係区別は残っているのです。

  日本人が勤勉になったのは明治中期以降の事
  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?

  現在、東京一極集中是正の一案として官庁の地方移転も実施検討されていますが、中央官僚が地方移転を
  嫌がる大きな一つの要因として、官による民衆の支配のしづらさがあると思います。
  特に大阪は官力より民力が強い歴史がありますので、大阪移転は最も嫌なようです。

  京都と東京は中華思想 (首都から近い方が偉いという考え方) も持っているようで、朱子学の影響も残っており、
  いわゆる県民性の違いに現れてくるのでしょう。


  日本の文化の歴史を辿れば、ほとんどの物が関西発祥。関西と関東との違いが出てくるのは、技術や物資が不足して
  関西のようにできなかった事が原因。また関東発祥の物も関西人が江戸に下って始めた物が多い。
  農業・漁業・学問などあらゆる事が関西から伝わっているわけです。近代の日本初も大阪や神戸に多い。

  江戸時代の出版事情 中期までの江戸の出版は京・大坂の本のパクリ

  幕府が正学とした儒学から派生した朱子学は上下関係を最も重視しており、支配者にて都合の良い学問。
  1790年に松平定信が「寛政の異学の禁」を出して、他の学問を禁止する令を出しました。
  この事によって、幕府方の多い東日本では朱子学の影響力が強くなったようです。

  江戸ッ子とは? その実態 3都の気質の違いなど、江戸の名物は悪口、悪口を言わない江戸ッ子はいない。

  江戸時代後期の1800年~江戸の文化が華開いた文化文政頃にエセの江戸ッ子 (主に関東から流入してきた) によって
  「将軍様のお膝元の江戸が一番」という考え方が生まれたようです。現在でも「東京が一番」と考えている都民はかなり
  多いようです。メディアの変更情報やドラマを見て「何でも大都会の東京が一番いい」と信じ憧れて上京している人が
  ほとんどなので仕方がない面もありますが。

  豊かな文化に発展してくると、自信を持ち始め、自分たちが一番だと思い始める。で、次に劣等感を払拭するするため
  過去の歴史も都合の良いように歪曲解釈し流布を始める。
  明治以降、東京市は政府によって最先端の物を投資され発展しますが、明治中期以降に大阪市が逆転します。
  明治後期~昭和初期の経済と文化の最先端であった大大阪時代についても東京メディアは一切言わないので
  知らない人が多いようですし、江戸時代も大阪が圧倒的な経済都市であった事も簡単にしか言わない。

  「大阪に伝授して貰った」「関東大震災の時、大阪に助けてもらった」などの史実を知ると、朱子学では世話を受けた方
  (東京) が下の立場になるので「大阪には頭が上がらない」という考え方になります。
  そうすると「東京が一番なんだぁ」と自慢できなくなり、悪口も言えなくなります。

  「東京が一番」だと、長らく疑わず信じてきた人は、それが歴史歪曲やデータ改ざん・情報操作によるもので真実とは
  異なると知ると、それまでの価値観や思想思考・プライドなどが崩壊するので「知りたくない」「信じたくない」という心理に
  陥る事になります。「東京が凄い」と更に大きな声で連呼して、そう思い込みたいという人もいます。

  上記の思考は、自身を客観的に観れないのであれば、中華思想と朱子学の影響をより強く受けている韓国を見れば
  理解できるでしょう。大阪=日本、東京=韓国と置き換えても全て当て嵌まりますから。

  関東では何でも思い込み御都合解釈をする人が多いように感じます。良い事・優れた事では「関西」とあるのに
  「関東」の事だと思い込む。また悪い事・劣っている事が「関東」とあるのに「関西」だと脳内変換し流布する。

  →江戸時代の犯罪 大坂に1万人以上のスリがいたというのは本当か? 文献では江戸の事でした。

  江戸時代の埼玉には入間詞という不思議な逆さ言葉があったようです。嬉遊笑覧でも紹介されています。
  史料が少なく解明されていない謎の言葉のようですが、思い込み御都合解釈から出来たものではないかと思えます。
  この埼玉南部の入間郡辺りは、奈良時代に新羅や高麗からの移民を集めた地域です。

  【入間詞】いるま‐ことば / 入間様いるま‐よう
   埼玉県入間地方にあったとされる、言葉の順序を逆にし、また、意味を反対にする言葉遣い
   狂言には、入間川「昔から入間様と言うて、逆言葉を遣ふと聞いた
   入間川を渡る大名が入間詞を面白がり、入間の某に持物を残らず与えるが、最後に欺いて取り返す。
   などと描かれています。


  読売テレビ ten. 『大阪の近代化に貢献した 中之島界隈 「偉人たちの銅像」を調査』 16.02.11 放送
  読売テレビ ten. 『日本の知性を支えた一大拠点 大阪北浜「適塾」を調査』 18.07.25 放送

  ≪ 日本の近代化を牽引した逸材を多く輩出した蘭学の適塾 ≫

  岡山の備中の武家に生まれた緒方洪庵が江戸・長崎で学び、江戸時代末期の1838 (天保9) 年に大坂で開いた
  蘭学塾が適塾。元は瓦町に在りましたが手狭になった為、過書町 (現在の大阪市中央区北浜) に移転。
  適塾は「適々斎塾」=「自分の心にあてはるところを楽しむ」という洪庵の考え方を表した塾名だそうです。

  【緒方塾】おがた-じゅく
   緒方洪庵が1838年 (天保9) から62年 (文久2) まで、初め大坂瓦町に、のち過書町 (現、中央区北浜) に開いた
   蘭学塾。福沢諭吉・大村益次郎らを輩出、洋学教育に巨大な足跡を印した。

  主に語学 (オランダ語) を学ぶ塾で、常時、塾生30人ほどが適塾の2階で寝食を共にしながら、「ヅール・ハルマ」
  という1冊の蘭和辞書を中心として学びました。オランダ語を学ぶ過程で各自が興味がある西洋の様々な事を
  学ぶ場であったようです。

  適塾の門下生は1000人を越え、大阪大学の源流になったと言われています。
  成績が特に優秀だった塾生は洪庵に代わって塾頭として塾生の指導にあたりました。
  塾頭を務めたのは大村益次郎 (23才で入塾し1年で塾頭に) と福沢諭吉の2人。






  作家の若一光司さんによると、司馬遼太郎と話をしていた時に「人間的に一番きれいな立派な人は緒方洪庵。
  あれだけ人の為にきれいな心で生きた人はいない」と評していたそうです。

  【緒方洪庵】 おがた‐こうあん (備中の人、1810~1863)
   江戸後期の蘭医。名は章。適々斎と号。
   江戸に出て、坪井信道・宇田川榛斎に蘭学を学び、さらに長崎に遊学、大坂に医業を開き、緒方塾を設けた
   種痘を施行。のち幕府に招かれ、奥医師兼西洋医学所頭取・法眼。門下に大村益次郎・橋本左内・大鳥圭介・
   福沢諭吉らを輩出。著訳書「病学通論」「扶氏経験遺訓」など。






  大阪市中央区にある緒方ビルが、洪庵が英国で開発された種痘を用いて天然痘の蔓延を防ぐ除痘館の跡地。
  適塾と共に洪庵の史料などが残っています。「病学通論」は日本語で書かれた最初の病理学の総論書。
  適塾は洪庵の自宅も兼ねていたので、妻の八重は13人の子供を育てながら寮母として洪庵や塾生を支えました。






  【大村益次郎】おおむら‐ますじろう (周防出身、1825~1869)
   陸軍の創立者。初め村田蔵六と称。緒方洪庵に蘭学・医学を学ぶ。長州藩の軍事指導者として長州征討・
   戊辰戦争に活躍。1869年(明治2)兵部大輔。フランス式軍制を採用し、近代軍隊の創出を進めたが、守旧派に
   より暗殺。
   京都で襲撃を受け右足に重傷を負ったのが元で敗血症で亡くなりますが、遺言により、大阪市北区の龍海寺に
   ある緒方洪庵・八重夫妻の墓の隣に足塚を建てさせました。

  【福沢諭吉】ふくざわ‐ゆきち(大阪生まれ、1834~1901) 豊前中津 (大分県、奥平氏10万石の城下町) 藩士の子。
   思想家・教育家。緒方洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行して3回
   欧米に渡る。
   維新後は、政府に仕えず民間で活動、1868年(慶応4)塾を慶応義塾と改名。明六社にも参加。
   1882年(明治15)「時事新報」を創刊。独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。
   著「西洋事情」「世界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。


  ≪ 江戸時代末期頃の超ハイレベルの数学が残されている ≫  Wiki フレデリック・ソディ  Wiki ソディの6球連鎖

  1822年 神奈川県の寒川神社には奉納された絵馬には、ノーベル化学賞を受賞した英国のフレデリック・ソディが
  1936年に発表した『六球連鎖の定理』とほぼ同じものが描かれています。

  岩手県南部、仙台藩の支藩であった一関は田村氏の城下町で陸羽街道の要地として商業が発達。
  一関市には浪速神社などに67の算額さんがく (文政頃に図形の問題と答えを書いて寺社へ奉納した絵馬) が現存
  しており、観音寺には数え年13才の佐藤亀蔵が考えた高度な図形の問題が残されています。






  【文化・文政時代】ぶんか‐ぶんせい‐じだい(1804~1818~1831)
   徳川第11代将軍 家斉の治下の後半期、文化・文政年間を中心とした時代。化政期
   綱紀こうき弛み風俗頽廃たいはい(規律がゆるみ、不健全な気風になった)。
   江戸市民は遊楽を事としたが、町人芸術は爛熟の極に達し、小説(山東京伝・式亭三馬・曲亭馬琴)、戯曲(鶴屋南北)、
   俳諧(小林一茶)、浮世絵(喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎)、西洋画(司馬江漢)、文人画(谷文晁)などに
   すぐれた作家を輩出した。また地方文化も盛んとなった。

  ノーベル賞受賞者を2人 (湯川秀樹・朝永振一郎) 輩出したちょう名門進学校である京都府立洛北高校の文化研究部の
  部員の自宅にあった江戸時代の数学の本『簒法朁古車さんぽうさんこしょ』には、『明暦四年正月新版、文化十三年正月補剌
  浪華書林』とあるので、1658年に初版されたものを、1816年に内容を補足して大坂で出版されたものと思われます。






  味噌焼きをつくる原材料の計算方法や酒・油の売買、両替の計算方法など色々な計算法が書かれてあるようです。
  『くずし字』で書かれてあるので、専門家でないと解読が難しい。

  大阪府枚方市にある市立宿鍵屋しゅくかぎや資料館では「くずし字講座」が開設されており、20人ほどの募集に対し
  50人ほどの応募があるそうです。1回1時間半ほどですが、1回では理解しきれないので連続講座になっているそうです。


  ≪ 寺子屋と就学率 ≫  Wiki 寺子屋   Wiki 足利学校

  江戸時代は日本全国の多くの庶民階級にまで学問が広まった時代。寺子屋以外にも学問を教える所は色々ありました。
  上方などの商家では、丁稚でっちなどに教えていたようです。(教えないと仕事にならないので。)

  『摂陽奇観』(摂陽=摂津国)には、1752 (宝暦2) 年には「大坂寺子屋二千五百軒余、凡七万五千人」とあるようです。
  江戸時代中期の大坂には寺子屋が2500軒以上あり、7万5000人ほどが就学していたとみられますが、当時の大坂の
  人口は30~40万人と推測されており、就学している子供の数が7万5000人はちょっと多過ぎするように思います。
  江戸時代の数字は適当な場合が多いのですが、それほど多くの子供たちが寺子屋に通っていたと推測できます。

  現在、寺の数では1位愛知県・2位が大阪府・3位 兵庫県・4位 滋賀県・5位 京都府で、江戸時代も関西に多く寺が
  あった事から、寺子屋を開く寺が多かったであろうとも推測できます。

  【手習所】てならい‐どころ
   江戸時代の初等教育機関。手習いのほか、素読・算盤そろばん・漢籍・謡曲・裁縫なども教えた。

  【東百官】あずま‐ひゃっかん
   ①室町末期から、関東武士が京都朝廷の官名に擬して用いた私称。伊織・多門・左膳・頼母・求馬・左内・兵馬の類。
   ②江戸時代に行われた子供の手習い本で、①の名などを集めたもの。

  【寺子屋】てらこ‐や
   室町中期~明治初頭、武士・僧侶・神宮・医者その他の有識者が主に庶民の子供を対象に開いた私設の教育機関。
   読み・書き・算盤の初歩学習を行なった。寺。寺屋。
   広津柳浪、女子参政蜃中楼「初めは―と云つて規則も何も立たない所へあがるのさ」


 国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  翻訳され出版された1941 (昭和16) 年版の『ツンベルク日本紀行』(翻訳 山田珠樹、東京市神田の奥川書房 出版)
  1776 (安永5) 年に書かれた日本旅行記です。

  異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
  ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693

  「第十七章」日本の風俗習慣 P.305から抜粋

  育児法 日本人が子供育てる方法を見たが、私はに非常に満足に感じた。日本人はその偉人たちの英雄的行為を
  歌いながら子供たちを眠につかせるのである。物の分かる齢になると、日常目見せしめている模範となる行為によって、
  道徳の実践的教訓を施して訓戒するに止る。決して子供を打つことはない。
  文化を誇る欧州の国民が、哲学者たちの賢明なる注意を他にして、その子供たちに盛に加える、この非人道的にして
  かつ恥ずべき刑罰法を、私は日本滞在中見たことがなかった。

  学校 一般に公開されている学校があって、そこで読み書きを教える。
  私は学校に度々入って行ったが、いつも長くそこに止まっていることは出来なかった。それは子供が同時に声を揃えて
  読むので、その騒々しさは言語に絶するからである。

  ちなみに、ツンベルクは大坂を日本で最も賑わっている土地で、日本におけるパリと称しています。

  【ツンベルク】Carl Peter Thunberg (1743~1828、スウェーデンの植物学者・医学者)
   シーボルト以前の日本研究の第一人者。リンネに学ぶ。オランダ東インド会社に入り、1775年(安永4)長崎オランダ
   商館医として来日、翌年出国。著「ヨーロッパ・アフリカ・アジア旅行記」「日本植物誌」。ツンベリー。




江戸時代は史料の5倍程度あったと推定されているようです。



  江戸時代の就学率 江戸時代末期1850年頃の就学率は推定で85%。

  長野県は江戸時代の寺子屋の数が一番多く、明治時代の就学率は日本一という情報もあります。
  1793年のフランスでの就学率は1.4% 1837年の英国での就学率は20% (すべて推定)

  ※ フランスのデータとは50年も開きがあるので、比較するのはどうかと思いますが、
    日本の教育水準がかなり高かった事は事実のようです。

  【足利学校】あしかが‐がっこう
   中世の足利にあった高等教育機関。
   「坂東の大学」とも称せられ、儒書・仏書を講述。
   室町初期に栄え、一旦衰微。
   上杉憲実が儒書・領田を寄付し保護・統制。
   以後、戦国大名の保護を受けた。
   郷学校として1872年(明治5)まで存続。
   施設の一部は史跡として現存。

  【藩学】はん‐がく  藩学校。藩校。
   江戸時代、諸藩が、その藩の子弟を教育するために
   設けた学校。

  【郷学校】ごう‐がっこう  地方の学校。 郷学。郷校。郷黌。
   江戸時代、藩校の分校や庶民および藩士の教育のため、
   領主または民間の有志が設立した学校。
   幕末から明治初年にかけて増加し、1000校にのぼり、
   明治期の小学校設立の母体の一つとなる。
   閑谷黌しずたにこう(岡山)・含翠堂がんすいどう(大坂)・
   延方学校(水戸)・石和いさわ教諭所(甲州)などが有名。

  【私塾】し‐じゅく 私設の塾。
   江戸時代には重要な教育機関で、主に市井しせい
   (「市中の人」「一般市民」の意味。)の儒者が、
   後には国学者・洋学者も任意に開設。
   幕臣・藩士の子弟を教育した「家塾」も含めていう。
   学制以降、漸次学校制度に改編されたものもある。
   現在では学習塾・算盤塾・書道塾の類。
   二葉亭四迷(江戸生まれ、1864~1909)、明治20~22年
   発表の浮雲
   「隣家のは芝辺のさる―へ入塾することに成ツた


  【学問所奉行】がくもんじょ‐ぶぎょう
   江戸幕府の職名。寺社奉行の次席で、大名中から任じ、昌平坂学問所をつかさどったが実質は伴わない。
   1862年(文久2)創設。64年(元治1)廃止。

  【昌平黌】しょうへい‐こう
   江戸幕府の儒学を主とした学校。林羅山が上野忍ヶ岡に創設した家塾(後に弘文館)に始まる。
   1690年(元禄3)将軍綱吉が孔子廟先聖殿とともに弘文館を湯島昌平坂に移し、大成殿(聖堂)を造営して林家
   当主に主宰させた。
   1797年(寛政9)幕府直轄の学問所となり、主に旗本・御家人の子弟を教育した。昌平坂学問所。江戸学問所

  【弘道館】こうどう‐かん
   水戸にあった藩校。1841年(天保12)藩主徳川斉昭なりあきの創設。水戸学の淵叢えんそう尊王攘夷を鼓吹
   斉昭が設立の趣旨を述べた「弘道館記」がある。佐賀藩・彦根藩などにも同名の藩校があった。


  ≪ 明治時代になって、女子教育が開始 ≫ 国民皆学 明治の小学校の授業、標準語ができたのは?

  明治に入ると1872年「学制」が公布され、教育機関の整備や女子教育も進められます。79年(明治12)教育令の
  制定により廃止。1910年頃に男女とも就学率100%になります。  明治の女子教育 津田梅子と山川捨松

  【京都町組小学校】きょうと‐まちぐみ‐しょうがっこう
   1869年(明治2)京都市中の65番組に64校を組織した、初等程度の郷学的教育機関。
   他の地方で作られた類似施設の手本となり、学制発布後は徐々に小学校に再編された。

  1870年(明治2-3) ヘボン施療所キダー塾 ⇒ フェリス女学院大学
  1872(明治4-5)年に文部省により設立された官立の女子教育機関の名称。「官立女学校」とも。⇒ お茶の水女子大学
  1872年 新英学級及女紅場 ⇒ 京都府立鴨沂高等学校(日本で最初の高等女学校とされている)

  【師範学校】しはん-がっこう
   小学校・国民学校の教員を養成した旧制の学校
   1872年(明治5)から東京に設立。1886年師範学校令により、高等・尋常に分け、各府県に尋常師範学校を設置。
   第二次大戦後の学制改革で学芸大学や国立大学の教育学部に改編。

  【教科書検定制度】きょうかしょ-けんてい-せいど
   民間で著作・編集した教科書の内容を文部科学大臣が審査し、合否を決定する制度。
   1886年(明治19)の小学校・中学校令で制定され、国定制になるまで存続。
   第二次大戦後は1947年の学校教育法で定められ、現在まで継続。

  【尋常小学校】じんじょう-しょうがっこう
   旧制の小学校で、初等普通教育を施した義務教育の学校。
   1886年(明治19)に初めて設置。満6歳で入学、修業年限は4年、1907年から6年。

  尋常中学校も1886年(明治19)に設置、1899年以後は単に中学校となる。
  旧制中学校は修業年限5年の男子中等学校のこと。

江戸時代の寺子屋
明治37年の尋常小學讀本


就学率の変化


  江戸時代の寺子屋では、子供達が思い思いの場所に座り、先生が個別に教えて廻るスタイルでしたが、現在のように
  先生と向き合い大勢の生徒が机を並べる授業スタイルは明治時代から始まりました。これを一斉教授 (または一斉授業)
  と言います。日本全国で同じ内容の授業が行われる事になりました。

  【一斉教授】いっせい-きょうじゅ 一斉授業
   学級の全員を対象として同一の内容を同時に教授する学習指導の形態。
   個人教授・グループ学習・習熟度別学習に対していう。


  【教科書事件】きょうかしょ-じけん 教科書疑獄事件
   1902年(明治35)に起こった、小学校の教科書の採択をめぐる贈収賄事件。
   県知事・県視学・師範学校長など100名以上が有罪になり、これをきっかけに国定教科書制度が導入された。

  【国定教科書】こくてい-きょうかしょ
   国あるいは国の定める機関が著作・発行し、各学校での使用が義務づけられる教科書。
   1903年(明治36)小学校教科書の国定制度が定められ、1943年から師範学校・中等学校でも国定に改められた。
   戦後は1949年から検定制。

  1904 (明治37) 年、文部省著作の国定一期『尋常小學讀本』を発行。国が定めた最初の共通した小学校の教科書
  上田万年が制定した『標準語 (共通語)』が、この教科書と唱歌で発音で教えられるようになりました。

  2019年、日本人の読解力の低下が再び問題に


  ≪ 日本は昔から子供を大切にする国だった ≫

  室町時代~安土・桃山時代にかけ、宣教師たちが西日本を中心に訪れていますが、「日本では子供を大切にする」という
  事を多くの外国人が書き残しているらしいです。

   ※ 当時、欧米では子供は労働力と考えられていたようですが、日本では家の跡継ぎという感覚だった。
    江戸時代は、子供を描いた錦絵が多くあります。(子供を愛でるロリコン的感覚もあったようですが)

  【赤子養育仕法】あかご‐よういく‐しほう
   江戸後期の人口増加政策の一つ。堕胎・間引きの罪を教諭し、養育費を補助するもの。仙台藩・会津藩などの例が著名。

  コトバンク 『赤子養育仕法』
  江戸中期以降進行する農村荒廃への対応として行われた人口の維持・増加政策の一つ。
  1767年(明和4)江戸幕府は「出生之子取扱之儀御触書(おふれがき)」を出し、出生の子を産所で殺すことを禁じたが、
  諸藩も堕胎(だたい)、陰殺を禁ずるとともに、産子養育のための産着料や養育料を与えるなどの方策を講じた。
  会津、仙台、秋田、鹿児島など九州、および東北地方の諸藩がとくにこの仕法に熱心で、藩政改革の一環として実施
  されている。
  この思想は明治維新後も存続し、1869年(明治2)2月には日田(ひた)県(現大分県)知事松方正義(まつかたまさよし)
  のもとで、貧児・捨て子を収容する養育館が設立されている。
  養育館は、当時の咸宜園(かんぎえん)塾長広瀬林外(りんがい)(淡窓(たんそう)の養子、旭窓(きょくそう)の子)の建策
  といわれ、その経費は日田の豆田(まめだ)、隈(くま)両町や、在方(ざいかた)の豪農商の寄付で賄われた。
  しかし、1873年10月には資金が行き詰まり、廃館となった。


  ≪ 識字率 ≫ Wiki 識字率 より

  室町時代 1443年に朝鮮通信使一行に参加して日本に来た申叔舟は「日本人は男女身分に関わらず全員が
   字を読み書きする」と記録し、

   また幕末期に来日したヴァーシリー・ゴローニンは「日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を
   知らない人間は一人もゐないと述べている。

   これらの記述には誇張があると思われるが、近世の日本の識字率は実際にかなり高く、江戸時代に培われた
   高い識字率が明治期の発展につながったとされる。

  【ゴロウニン】 Vasilii Mikhailovich Golovnin ゴローニン。(ロシアの海軍軍人。1776~1831)
   ディアーナ号艦長として世界周航に出、1811年(文化8)国後くなしり島に上陸、箱館・松前に監禁され、
   翌々年 高田屋嘉兵衛の斡旋により釈放。著「日本幽囚記」。


  朝日放送 キャスト 『今日から働き方改革関連法施行 日本人が勤勉になったのは』 19.04.01 放送

  ≪ 日本人が勤勉になったのは明治時代中期以降の事 ≫

  江戸時代は時計が普及していないので鐘で時間を知らせていましたが、電気も無く灯に使う油も貴重なので、日が昇ると
  働き、日が沈むと仕事を終えるのが普通でした。
  時代や地域や藩、身分によって人々の生活は大きく違いますが、東京大学の武田晴人 名誉教授によると、農民も職人も
  自分で働き方を決めるのが普通だったようで、現代のように猛烈に働くという事は無かったようです。





  日本人が時間に正確で勤勉になったのは近代の事です。明治になって諸外国と対峙する事になりますが、日本人の
  労働者はだらだらしていると外国人に指摘された事もあり、明治政府が明治33年頃に二宮金次郎が勤勉の手本に
  しました。また大正6年に「時の展示会」が開催されるまでは時間への概念が低かった。
  東京大学の武田晴人 名誉教授によると、昭和の戦後、焼け野原になった日本では働く人を褒めたたえるしかなかった。

  時の展覧会 日本人が時間に正確になったきっかけ、大正時代の東京で開催
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朝日放送 2011.06.23
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読売TV 2011.06.19
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