手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本歴史の雑学 2 飛鳥・奈良時代
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

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このページの最終更新日:   20.02.14
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  Page Contents



 関西最大の急勾配がある暗峠 奈良時代に作られた大阪―奈良の直線最短の道

 日本最古の本格的寺院「元興寺」 現存する飛鳥時代の瓦、国宝の五重小塔 20.01.28追記

 帝都を凌ぐ繁栄だった大阪 摂津・河内の奈良時代

 関東の藤原氏の重要神宮
  中臣 (藤原) 氏の関東発祥説は嘘、中臣氏の先祖神を最初に祀ったのは東大阪の牧岡大社
  江戸時代中期の総合百科事典である『和漢三才図会』には、鹿島神宮に中臣氏の先祖神が
  祀られていない事が判明。

 色の表示区分 仏教の伝来により「黄」「紫」という色の呼び名が出来たなど 20.02.10追記

 東大寺・大仏 伝説の100mの高さの七重の塔は実在した、大仏の螺髪の正確な数が計測された

 蘇我氏1  飛鳥時代の最有力豪族 稲目と馬子。 日本最古の本格的仏教寺院に残る飛鳥時代の瓦。

 蘇我氏2 蝦夷と入鹿 

 乙巳の変と大化の改新  百済滅亡 白村江の戦い

 6~7世紀の朝鮮半島との関係 磐井の乱と新羅の金属馬具。 

 近畿の結界 日本最強聖地で結ぶ五芒星とレイライン

 春日大社 絵馬の原型となったとされる壁絵『絵馬板』

 正倉院宝物  など画像追加 

 奈良には隠れた『アスカ』の地上絵があった? 石上麻呂の呪詛か?

 物部氏 古代の有力豪族  大伴氏 万葉集に歌を多く残す家系


 飛鳥京  聖徳太子

 藤原氏の略系図 春日大社興福寺 などの関連情報

 藤原京

 五畿七道の図 と 平城京

 役行者 修験道の祖、女人禁制のルーツ

 吉備真備 と 遣唐使

 日本人で唯一の三蔵法師 霊仙三蔵法師

 奈良時代の役人 位階と給与


 日本国内の生産量の約95%を占める 奈良墨

 東大寺 奈良の大仏と正倉院宝物、蘭奢待とは? 運慶と快慶

 道鏡 民間人で天皇になろうとした史上唯一の人物
  大阪府八尾市の東弓削遺跡で新発見「由義宮」跡か

  日本三悪人説はねつ造だった? 史料によると悪人説は後世の創作 ?


 「日本」と呼ばれるルーツは東大阪市にあった

 「にっぽん」と「にほん」という呼び方は、いつ生まれたのか?

 万葉集

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  歴史に関しては、大阪の歴史と雑学ページ、日本の食の歴史のページも参照して下さい。

  おすすめサイト 歴史の雑学が色々と載っています。 
  株式会社まぼろし 歴史雑談録 http://rekishi.maboroshi.biz/about/
  歴史研究所 『日本史』 http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
  株式会社 井筒 企画 お祭り大好き 『奈良時代 -時代衣装あれこれ-』 http://www.iz2.co.jp/jidai/nara.html
  倭人伝・倭国伝 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun-mokuji.htm
    ↑ 中国の各古文書の倭人伝の原文と和訳があります。
  位階官人俸禄表 http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kani-houroku.html
  こはにわ歴史堂のブログ http://ameblo.jp/kohaniwa/  ← 朝日放送 コヤブ歴史堂「こはにわ先生」の浮世博史さんのブログです。

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1


  Wiki 太田亮  コトバンク『太田亮』
   大正・昭和期の歴史学者 内務省考証官補、同省嘱託などを経て立命館大学教授。氏族制度の研究で知られる。
   奈良県吉野郡下市出身 1884~1956 
   日本國誌資料叢書は下記12巻のみで「山城」や「大和」などは無いようです。但し、氏族関係や古代史の本は多数出版あり。

  日本國誌資料叢書 信濃 大正13年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←長野県の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982145
  日本國誌資料叢書 越後・佐渡 大正13年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←新潟県の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982135
  日本國誌資料叢書 摂津 大正14年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←大阪府・兵庫県東部の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982141
  日本國誌資料叢書 河内 大正14年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←大阪府の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982136
  日本國誌資料叢書 和泉 大正14年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←大阪府の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982137
  日本國誌資料叢書 近江 大正14年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←滋賀県の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982138
  日本國誌資料叢書 丹波・丹後 大正14年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←京都府北部・兵庫県の一部の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982140
  日本國誌資料叢書 武蔵 大正14年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←埼玉県・東京都の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982142
  日本國誌資料叢書 甲斐 大正15年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←山梨県の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982143
  日本國誌資料叢書 尾張 大正15年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←愛知県の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982144
  日本國誌資料叢書 三河 大正15年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮)
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982139
  日本國誌資料叢書 遠江 昭和2年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←静岡県の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176478

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 近畿の結界
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『痛快 ! 関西古代ミステリー 最先端科学が解き明かした歴史秘話』 14.10.16 放送




  畿内の大五芒星 - Google マップ    Wiki 五芒星  Wiki レイライン
     ↑
  グーグルマップ上に描かれた五芒星とレイラインがご覧頂けます。


日本には多くの霊峰や神社があるので、
その中から都合の良い場所だけ抜き
出していくと、仮説がいくらでも作れます。

しかし、この五芒星とレイラインに登場する
場所は、日本を代表する聖地が多く含まれ
ています。


   偶然とみるか、意図されているとみるか、信じるか、信じないかはアナタしだい。






  【籠神社】こ‐の‐じんじゃ 元伊勢
   京都府宮津市大垣にある元国幣中社。祭神は天之水分神あまのみくまりのかみ・天火明命あまのほあかりのみことほか。
   丹後国一の宮。宮司家の「海部氏系図」は国宝。こもり神社。

   ※ 海部氏の家系図は、日本最古の家系図と言われています。

  【伊勢神宮】いせ‐じんぐう
   三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称、神宮。皇大神宮(内宮ないくう)と豊受とようけ大神宮(外宮げくう)との総称。
   皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代みたましろは八咫鏡やたのかがみ。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿を
   造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造ゆいつしんめいづくりと称。三社の一つ。二十二社の一つ。
   伊勢大廟。大神宮。

  【伊弉諾神宮】いざなぎ‐じんぐう
   兵庫県淡路市多賀にある元官幣大社。祭神は伊弉諾尊。多賀大明神。淡路国一の宮。

  【熊野坐神社】くまのにます‐じんじゃ
   和歌山県田辺市本宮町にある元官幣大社。祭神は家都御子神。本宮。今は熊野本宮大社と称。熊野三社の一つ。

  【伊吹山】いぶき‐やま
   滋賀・岐阜両県の境にある山。標高1377メートル。山中薬草に富む。石灰岩の採取地。

  ※ 伊吹山のヤマトタケル伝説はウィキペディアか、下のサイトなどでご覧ください。

    Wiki 籠神社  Wiki 伊勢神宮  Wiki 伊弉諾神宮  Wiki 熊野本宮大社  Wiki 伊吹山  Wiki ヤマトタケル
    Wiki 出雲大社  Wiki 大山(鳥取県)  Wiki 玉前神社  Wiki タマヨリビメ

  日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の伝説 http://www.ds-j.com/nature/ibuki/Information/old-story/yamatotakeru.htm

  【出雲大社】いずも‐たいしゃ  いずものおおやしろ。杵築大社。
   島根県出雲市大社町杵築きづき東にある元官幣大社。祭神は大国主命。
   天之御中主神あまのみなかぬしのかみ・高皇産霊神たかみむすびのかみ・神皇産霊神かみむすびのかみ・宇麻志阿志軻備比古
   遅命うましあしかびひこじのみこと・天之常立神あまのとこたちのかみを配祀。
   社殿は大社造たいしゃづくりと称し、日本最古の神社建築の様式。出雲国一の宮。

  【大山】だい‐せん
   鳥取県西部にある複式火山。中国地方第一の高峰。標高1729メートル。大神岳おおかみのたけ。伯耆富士ほうきふじ

  【玉前神社】たまさき‐じんじゃ
   千葉県長生郡一宮町にある元国幣中社。祭神は玉埼神(玉依姫)。上総国一の宮。9月13日の裸祭りが有名。

  【玉依姫】たまより‐びめ
   ① 記紀神話で綿津見神の女むすめ。鵜草葺不合尊うがやふきあえずのみことの妃で、神武天皇・五瀬命等の母
   ② 賀茂建角身命かもたけつのみのみことの女。火電神ほのいかずちのみことと婚し、賀茂別雷神かもわけいかずちのみことを生む。
   ③ 身に神霊を宿す女の通称。魂の憑よる姫。巫女みこ
 
 飛鳥時代
  【継体天皇】けいたい‐てんのう 名は男大迹おおど。 彦主人王ひこうしのおおきみの第1王子。
   第15代 応神天皇の5代の孫という。 記紀に記された6世紀前半の第26代の天皇。

  高槻市の今城塚古墳 2003年、日本最大規模の埴輪群が発掘されました。継体天皇陵説が有力。


  【飛鳥時代】あすか‐じだい 推古時代。6世紀末~7世紀末頃。

  奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝前後の時代。もとは美術史の時代区分で、推古朝を中心に仏教渡来から
  平城遷都まで広く含めたが、今では政治史や文化史でも6世紀末から7世紀前半までとするのが普通。

  【欽明天皇】きんめい‐てんのう (~571)名は天国排開広庭あめくにおしはらきひろにわ。 継体天皇の第4皇子。
   記紀に記された6世紀中頃の天皇(第29代、在位~571)。
   即位は539年(一説に531年)という。日本書紀によれば天皇の13年(552年、上宮聖徳法王帝説によれば538年)、
   百済くだらの聖明王が使を遣わして仏典・仏像を献じ、日本の朝廷に初めて仏教が渡来(仏教の公伝)。

  【聖明王】せいめい‐おう(~554) 聖王
   百済の第26代の王(在位523~554)。
   538年(一説に552年)、欽明天皇の時、釈迦仏金銅像・経論などを送り、仏教を伝えたとされる。後に新羅と戦って敗死。

  【百済】くだら。ひゃくさい。はくさい。(~660年 31代で滅亡。)
   古代朝鮮の国名。三国の一つ。4~7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。
   4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗しひ城(現、忠清南道扶余)に遷都。
   その王室は中国東北部から移った扶余ふよ族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、
   儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅しらぎの連合軍に破れ滅亡。

  【馬韓】ばかん
   古代朝鮮の三韓の一つ。五十余の部族国家から成り、朝鮮半島南西部(今の全羅・忠清二道および京畿道の一部)を
   占めた。4世紀半ば、その一国伯済国を中核とした百済によって統一。

    Wiki 欽明天皇  Wiki 敏達天皇  Wiki 推古天皇   Wiki 百済  Wiki 馬韓

  【敏達天皇】びだつ‐てんのう(538~585)
   名は訳語田渟中倉太珠敷おさだのぬなくらのふとたましき。 欽明天皇の第2皇子。
   記紀に記された6世紀後半の天皇(第30代、在位572~585)。

  【推古天皇】すいこ‐てんのう(554~628)名は豊御食炊屋姫とよみけかしきやひめ
   また、額田部ぬかたべ皇女。
   欽明天皇の第3皇女。母は堅塩媛きたしひめ(蘇我稲目の娘)。 第30代 敏達天皇の皇后
   記紀に記された6世紀末・7世紀初の天皇。最初の女帝(第33代 在位592~628)。
   崇峻天皇暗殺の後を受けて大和国の豊浦宮とゆらのみやで即位。後に同国の小墾田宮おはりだ
   のみやに遷る。聖徳太子を摂政とし、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布などを行う。


 ≪ 飛鳥京 ≫ あすか‐きょう   Wiki 飛鳥宮跡

  6世紀末~7世紀末に奈良県の飛鳥地方に置かれた都の総称。豊浦宮・小墾田宮・飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮など。

  【飛鳥文化あすか‐ぶんか
   飛鳥時代の文化。7世紀前半の推古朝時代が中心。
   日本最初の仏教文化として北魏や六朝の文化的影響のもとに展開、法隆寺に代表される遺品を残す。

  奈良県高市郡の飛鳥宮遺跡



  【豊浦宮】とゆら‐の‐みや
   第33代 推古天皇の初めの皇居。 遺称地は奈良県 高市郡 明日香村 豊浦。

  【小墾田宮】 おはりだ‐の‐みや 小治田宮。
   第33代 推古天皇の皇居の一つ。 伝承地は奈良県高市郡明日香村。
   第35代 皇極天皇も一時皇居とし、奈良後期にも行在所となる。

  【飛鳥岡本宮】 あすか‐の‐おかもと‐の‐みや
   第34代 舒明天皇
   第37代 斉明天皇 (舒明天皇の皇后。天智・天武天皇の母。第35代 皇極天皇と同一人物、2回即位した女帝) の皇居の一つ。

  【舒明天皇】じょめい‐てんのう(593~641)名は息長足日広額おきながたらしひひろぬか
   また田村皇子。 
   押坂彦人大兄おしさかひこひとのおおえ皇子(敏達天皇の皇子)の第1王子。
   飛鳥時代の天皇。皇居は大和国飛鳥の岡本宮。(第34代、在位629~641)

  【飛鳥板蓋宮】 あすか‐の‐いたぶき‐の‐みや 
   飛鳥岡本宮、斉明天皇の後のちの飛鳥岡本宮も同じ場所に営まれたらしい。
   第35代 皇極天皇 (第37代 斉明天皇の皇居)。
   奈良県 高市郡 明日香村 岡の飛鳥浄御原宮と想定される宮跡(史跡「伝飛鳥板蓋宮跡」)
   の下層の遺構がそれに当たると考えられる。


  【飛鳥川原宮】あすか‐の‐かわら‐の‐みや
   第37代 斉明天皇の皇居の一つ。伝承地は奈良県高市郡明日香村、川原寺付近という。

  【飛鳥浄御原宮】あすか‐の‐きよみはら‐の‐みや
   第40代 天武 ・ 第41代 持統天皇 夫妻の皇居。672年天武天皇が造営して都とし、694年持統天皇は藤原宮に遷る。

 ≪ 難波宮 ≫ なにわ‐のみや

  【難波宮】なにわ‐の‐みや
   ①古代、大阪市中央区法円坂の一帯にあった皇居の総称。(飛鳥時代、前期難波宮)
   孝徳天皇の645年(大化1)より造営。天武天皇の陪都としても使用。686年(朱鳥1)焼失。
   ②聖武天皇の皇居の一つ。(奈良時代、後期難波宮)

  【難波長柄豊碕宮】なにわ‐の‐ながらのとよさき‐の‐みや
   孝徳天皇の造営した難波宮の正称。第二次大戦後の発掘で、大極殿跡その他を発見。

  古墳時代にも大阪に皇居が置かれていました。

  【難波大隅宮】 なにわ-の-おおすみ-の-みや 第15代 応神天皇。伝承地は大阪市東淀川区大桐5
  【難波高津宮】 なにわ-の-たかつ-の-みや 
   第16代 仁徳天皇が難波に都を移した最初の天皇とされている。


 ≪ 大津宮≫ おおつ‐の‐みや 近江(淡海)大津宮。滋賀大津宮滋賀宮。  Wiki 近江宮

  第38代 天智天皇 ・ 第39代 弘文天皇の皇居。
  667~672年、今の大津市内にあった滋賀(志賀)の都。


  【天智天皇】てんじ‐てんのう。てんち‐てんのう (626~671)名は天命開別あめみことひらかすわけ
   また葛城かずらき中大兄なかのおおえ。 舒明天皇の第2皇子
   7世紀中頃の天皇(第38代在位668~671)。
   中臣鎌足と図って蘇我氏を滅ぼし、ついで皇太子として大化改新を断行。
   661年、母 斉明天皇の没後、称制。
   667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位。庚午年籍を作り、近江令おうみ‐りょう
   制定して内政を 整えた。

  【天武天皇】てんむ‐てんのう(~686)名は天渟中原瀛真人あまのぬなはらおきのまひと
   また大海人おおあま。 舒明天皇の第3皇子
   7世紀後半の天皇(第40代、在位673~686)。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の
   没後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年、飛鳥浄御原宮に即位する。
   新たに八色姓やくさのかばねを制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。







  【信楽宮・紫香楽宮】しがらき-の-みや
   聖武天皇の離宮。742(天平14)造営。その跡は、今の滋賀県甲賀市信楽町黄瀬きのせまたは宮町付近とされる。甲賀宮。

  【壬申の乱】じんしん‐の‐らん
   天智天皇死後、長子の大友皇子(第39代の弘文天皇)を擁する近江朝廷に対し、吉野にこもっていた皇弟の大海人皇子
   (天武天皇)が672年(壬申の年)の夏に起こした反乱。
   1カ月余の激戦の後、大友は自殺、大海人は飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやに即位し天武天皇。
   律令制が確立する端緒となった。

  【大友皇子】おおとも‐の‐おうじ(648~672) 天智天皇の第1皇子。
   名は伊賀とも。671年天皇没後、近江朝廷の中心となったが、翌年壬申の乱に敗れて自殺。
   1870年(明治3)に弘文天皇(在位671~672)と追諡ついしした。
   「懐風藻」所収の作品は堂々としていて、日本における漢詩の起りとされる。
 
 物部氏
  【物部】もの‐の‐べ
   ① 大和政権で、軍事・警察・裁判を担当した品部しなべ (世襲的な職業)。
   ② 律令制で、刑部省囚獄司・衛門府・東西市司いちのつかさに属し、刑罰を担当した下級官人。

  【伴部】とも‐べ
   律令制の官庁の下級役人の一種。品部しなべ・雑戸ざっこを指揮・管理する。 下役人。とものみやつこ。はんぶ。
   主殿寮とのもりょうの殿部とのもりとのべ など各種あり、多く世襲的に特定の仕事を行なった。


  ≪ 物部氏 ≫

  【饒速日命】にぎはやひ‐の‐みこと
   記紀神話で、天孫降臨に先だち天より降り、長髄彦ながすねびこの妹 三炊屋姫みかしきやひめを妃としたが、
   神武天皇東征の時、長髄彦を誅して天皇に帰順したという。物部氏の始祖と伝える。

  【長髄彦】ながすねびこ
   神話上の人物。神武天皇東征のとき、大和国生駒郡鳥見とみ地方に割拠した土豪。
   孔舎衛坂くさえのさか (生駒山を河内から大和へ越える山道。
   神武天皇の兄である五瀬命いつせのみことの戦傷の地) で天皇に抵抗、饒速日命に討たれた。

  【物部氏】もののべ‐し
   古代の大豪族。姓かばねは連むらじ
   饒速日命にぎはやひのみことの子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴氏と共に最有力となって、
   族長は代々大連おおむらじに就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子および
   皇族らの連合軍と戦って敗死。律令時代には、一族の石上いそのかみ・榎井えのい氏らが朝廷に復帰

  Wiki 物部 より

 河内国の哮峰(現 大阪府交野市か)に神武天皇よりも前に天磐船により大和入りをした饒速日命を祖先と
  伝えられる氏族である。饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。
  穂積氏、熊野国造とは先祖を同じくする同族とされる。

  元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。
  5世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。
  物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、盟神探湯の執行者ともなった

  物部氏は528年継体天皇22年に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられた。
  これを鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)は宣化天皇の元年の7月に死去している。

  物部麻呂が史書に現れるのは、天武天皇元年(672年)壬申の乱の終局である。
  物部麻呂は大友皇子(弘文天皇)の側にいた。戦争での活躍は伝えられないが、大友皇子が敗走して
  723日に自殺するまで、物部連麻呂は一、二の舎人とともに最後までつき従った。

  天武天皇5年(676年)10月10日、大乙上物部連麻呂は大使となって新羅に赴いた(小使は山背百足)。
  この頃 新羅と日本は使者の往来を頻繁に行っており、11月3日には入れ違いで金清平らが新羅から来日、
  23日には高麗(高句麗復興をめざす亡命政権)の使者を送って新羅の金楊原が来日した。
  麻呂は翌年21日に新羅から帰国した。

  敗者になった麻呂が、天武天皇に起用された理由は、最後まで従った忠誠を評価されたためではないかと言われる。
  また、同族の朴井雄君が大海人皇子側で勲功を挙げた事で物部一族への処分が軽微に留まったとする意見もある。
  雄君はこの年6月に亡くなって死後に氏上と認められた。


  【物部尾輿】もののべ‐の‐おこし (生没年未詳)
   第29代の欽明天皇朝の大連。任那みまなに対する政策をめぐって大連 大伴金村を失脚させ、
   また日本に仏教伝来の際は蘇我稲目に反対し、排仏を主張したという。

  【任那】みまな、にんな。
   4~6世紀頃、伽耶かや諸国 (朝鮮半島南東部にあった国々) の日本での呼称。562年新羅により併合される。
   実際には同諸国のうちの金官国(現、慶尚南道金海)の別称だったが、日本書紀では4世紀後半に大和政権の
   支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。
   この任那日本府については定説がないが、伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和政権の使節団を指すものと考えられる。

  【物部守屋】もののべ‐の‐もりや (~587) 尾輿の子。
   敏達・用明天皇朝の大連。仏教を排斥して蘇我氏と争い、塔を壊し仏像を焼く。
   用明天皇の没後、穴穂部あなほべ皇子を奉じて兵を挙げたが、蘇我氏のために
   滅ぼされた。

  【穴穂部皇子】あなほべ‐の‐みこ (生年不詳殻~587)  欽明天皇の皇子。
   母は蘇我稲目の娘 小姉君。
   兄が敏達天皇 (在位572~585、欽明天皇の第2皇子)。 聖徳太子の叔父。
   敏達天皇が崩御後、蘇我馬子の推す大兄皇子(用明天皇)が即位、皇位を望み
   物部守屋と結託したが、蘇我馬子に殺された。


  【用明天皇】ようめい‐てんのう (~587)名は橘豊日たちばなのとよひ。 欽明天皇の第4皇子。 聖徳太子の父
   記紀に記された6世紀末の第31代の天皇(在位585~587)。 皇后は穴穂部間人あなほべのはしひと皇女。
   皇居は大和国磐余いわれの池辺双槻宮いけのべのなみつきのみや。 在位中は蘇我馬子と物部守屋が激しく対立


  ≪末裔の石上氏 ≫ 石上氏  Wiki 丁未の乱  Wiki 用明天皇  Wiki 石上神宮  Wiki 山辺の道  Wiki 布都御魂

  720年の『日本書紀』に記載されている神宮は、伊勢神宮と石上神宮(物部氏末裔の石上氏)のみ。
  日本書紀には、石上神宮は崇神天皇7年 (紀元前91年) 創建で、日本最古の神社とされています。

  石上神宮の拝殿は平安時代の1081 (永保1) 年に造営され、現在は国宝に指定されています。
  この拝殿の中は何人も入れない「禁足地」であり本殿があります。

 

 

山辺の道

『高橋』さんの始まりの地


  崇神天皇は第10代、景行天皇は第12代。

  【石上神宮】いそのかみ‐じんぐう
   奈良県天理市布留町にある元官幣大社。祭神は布都御魂大神ふつのみたまのおおかみ。二十二社の一つ。
   布留社ふるのやしろ。所蔵の七支刀が著名。

  【韴霊・布都御魂】ふつ-の-みたま (フツは断ち切るさまをいう)
   日本神話で、天照大神 (および高木神) の神慮により、神武天皇が熊野の人高倉下たかくらじから受け、国土を平定した
   という霊剣。石上神宮の祭神。

  【山辺の道】やまのべ‐の‐みち … 奈良市から奈良盆地の東縁を初瀬はせ街道まで南北に通ずる約35キロメートルの古道。

  【七支刀】しちし‐とう
   奈良県天理市石上神宮所蔵の鉄剣。全長75センチメートル。
   左右交互に3本ずつの両刃の分枝が出ており、中央先端の刃とともに7本になる。
   銘文により4世紀後半、百済で造られたことがわかる。日本書紀に見える七枝刀ななつさやのたちはこれに当たる。

  石上神宮から古道『山の辺の道』で繋がる『布留の高橋』という橋。
  万葉集の中の歌で詠まれている橋で、この近辺に住んだ人が『高橋』を名乗り、全国に『高橋さん』の名字が広まった
  そうです。

  【内膳司】ないぜん‐し、うちのかしわでのつかさ。
   律令制で、宮内省に属し、天皇の食事の調理・試食をつかさどった役所。
   長官は二人で奉膳ぶうぜんといい、高橋・安曇あずみ両氏の者が任ぜられ、他氏が長官の場合は内膳正ないぜんのかみ
   ないぜんのしょうを称した。その下に典膳・膳部などがいる。

  奈良県東京事務所情報発信課 『奈良まほろば館 「最古の古道「山の辺の道」を歩こう!!」』
   http://www.mahoroba-kan.jp/sightseeing_details8.html
 
 大伴氏
  ≪ 大伴氏 ≫ 万葉集に多くの歌を残す家系  Wiki 大伴氏

  大伴氏(おおともうじ)は、日本の古代氏族。氏の呼称は平安時代初期に淳和天皇の諱を避けて伴氏に改称。
  姓はもと連、のち八色の姓の制定により宿禰、平安時代中期以降は朝臣。

  天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは同族関係とされる(一般には佐伯氏を
  大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)。

  古来の根拠地は摂津国・河内国の沿岸地方であったらしく、河内国には大伴金村の「住吉の宅」があり、
  『万葉集』でも「大伴の御津の浜」「大伴の高師の浜」と詠われている。

  住吉はヤマト王権の重要な港であった住吉津が所在したところであるし、「御津」は難波津、「高師」は現在の大阪府
  高石市一帯のことであることから、摂津から和泉にかけて拠点を所持していたことは、5世紀から6世紀にかけて外交・
  外征面において、大伴氏はヤマト王権では重要な役割を果たしていたものと考えられる。

  一方で、遠祖・道臣命が神武東征での功労により大和国高市郡築坂邑に宅地を与えられたとの『日本書紀』の記述や
  大伴氏の別業が同国城上郡跡見荘にあったこと等により、のちに根拠地を大和国の磯城・高市地方に移したものと
  想定される


  【大伴】おおとも
   古代の豪族。来目くめ部・靫負ゆげい部・佐伯部などを率いて大和政権に仕え、大連おおむらじとなるものがあった。
   のち伴とも氏。

  【大伴金村】おおとも‐の‐かなむら (生没年未詳)
   大和政権時代の豪族。第25代の武烈天皇から欽明天皇に至る5代の間、大連おおむらじとして権勢を張ったが
   対朝鮮政策につまずいて失脚。

  【大伴御行】おおとも‐の‐みゆき (~701)
   古代の豪族・官人。安麻呂の兄。壬申の乱に天武天皇を助けて功あり、累進して大納言に至る。
   『竹取物語』中の人物で、かぐや姫に求婚する一人、大伴大納言のモデルとなった。

  【大伴安麻呂】おおとも‐の‐やすまろ(~714)  長徳の第6子。旅人の父。
   古代の豪族・官人。壬申の乱に戦功あり、大納言に任命され、大宰帥・大将軍を兼ねた。万葉集に歌を収める。

  【大伴旅人】おおとも‐の‐たびと (665~731) 安麻呂の子、家持の父。
   奈良時代の歌人。大宰帥だざいのそつとして筑紫へ下り、山上憶良と交わり、大納言となり帰京、翌年没。
   歌は万葉集に多く見え、文人的な風流の作が多い。

  【大伴坂上郎女】おおとも‐の‐さかのうえのいらつめ 、さかのえのいらつめ。 旅人の妹、家持の叔母。
   奈良時代の歌人。穂積皇子に愛され、その没後、大伴宿奈麻呂すくなまろに嫁し坂上大嬢おおいらつめを生む。
   歌は万葉集に多く見え、才気豊かに技巧的な作風を示す。

  【大伴家持】おおとも‐の‐やかもち (717?~785) 旅人の子。 万葉集の編纂者
   奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。越中守を初め、中央・地方諸官を歴任、783年(延暦2)中納言。
   万葉集中歌数最も多く、その編纂者の一人に擬せられ、繊細で感傷的な歌風は万葉後期を代表する。


  【久米部・来目部】くめべ 大久米部・大来目部 おおくめべ
   大和政権の親衛軍の一つ。神話・伝説に活躍の様が描かれる。統率者は久米氏、のち大伴氏。

  【天久米命】あまのくめ‐の‐みこと
   天孫降臨の時、天忍日命あまのおしひのみことらと刀や弓矢を持って先駆したという神。久米直くめのあたいらの祖とする。
 
 蘇我氏 1 稲目と馬子
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびだせ!えほん 「奈良県明日香村」』 13.11.31 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『東アジアノ動乱と国家建設』 14.05.16 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『飛鳥時代のピラミッド !? 権力者・蘇我氏の墓か』 14.08.13 放送
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『痛快 ! 関西古代ミステリー 最先端科学が解き明かした歴史秘話』 14.10.16 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅9 「奈良県・吉野~藤原宮跡」』 15.06.18 放送
  朝日放送 ナゾ解き飛鳥 大化の改新 古代史上最大のクーデター 15.07.20 放送

  Wiki 蘇我氏

  渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、王権の職業奴属民としての役割を担って
   いた渡来人の品部の集団などが持つ。 
   当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。

   また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。
   これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も
   有ったと推察される。


   6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われている。蘇我氏が政治の実権を掌握した
   時代以後、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもうかがわれる。

  ≪ 蘇我氏のルーツと稲目と馬子 父子 ≫  Wiki 蘇我稲目  Wiki 蘇我馬子  Wiki 欽明天皇

  堺女子短期大学の水谷千秋 教授によると、蘇我氏のルーツには3つの説 (渡来系、大阪河内、奈良葛城) があり、
  以前は仏教伝来に関して渡来人の技術者を多く採用したことから渡来系と見られていましたが、現在は奈良が有力
  だそうです。

  当時、東アジアでは仏教は普遍的な文化基盤となっており、仏教が入っていなかった日本だけが異端だった。
  蘇我氏だけが仏教の受け入れを主張するような状況でした。

  蘇我氏は、武内宿祢の子孫の豪族 葛城氏 (奈良県葛城市) 系を汲むと自ら主張していたそうで、隣の橿原市曽我
  (上の竹内街道の図を参照) に移り、蘇我を名乗ったようです。

  曽我にある宗我坐宗我都比古そがにいます-そがつひこ神社の北西謙友 宮司によると、蘇我氏の始祖を名乗った人が
  ここに住み着いて、のち蘇我馬子が社殿を造り、始祖の蘇我石川宿祢を祀ったのが創建とされます。
  かつては付近に「そが」姓を名乗る家が多く存在していました。

  【蘇我稲目】そが‐の‐いなめ(~570)
   飛鳥時代の豪族。第28代の宣化せんか天皇・第29代の欽明きんめい天皇 両朝の大臣おおおみ物部尾輿もののべのおこし
   と対立して、仏教受容を主張、仏像を向原むくはら の家に安置して向原寺(後の豊浦とゆら寺)としたという。

  蘇我稲目は自分の娘たちを欽明天皇に嫁がせて、仏教を日本に受け入れる事で力をつけます。

  【欽明天皇】きんめい‐てんのう (~571)名は天国排開広庭あめくにおしはらきひろにわ。 継体天皇の第4皇子。
   記紀に記された6世紀中頃の天皇(第29代、在位~571)。
   即位は539年(一説に531年)という。日本書紀によれば天皇の13年(552年、上宮聖徳法王帝説によれば538年)、
   百済くだらの聖明王が使を遣わして仏典・仏像を献じ、日本の朝廷に初めて仏教が渡来(仏教の公伝)。


  【蘇我馬子】そが‐の‐うまこ(~626) 稲目の子。蝦夷の父。
   第30代の敏達天皇以下4代 (用明・崇峻・推古) の大臣。仏法興隆に尽力
  一方、物部守屋を討滅、また、崇峻天皇を暗殺。






  【敏達天皇】びだつ-てんのう (538~585) 名は訳語田渟中倉太珠敷おさだ-の-ぬなくら-の-ふとたましき  欽明天皇の第2皇子。
   記紀に記された6世紀後半の第30代天皇 (在位572~585)

  馬子は対立する物部守屋を倒しましたが、当時は力を持っている者の首を放置すると災いが降り注ぐと信じられて
  いたので、四天王寺を建てて鎮魂した。という説もあるようです。

  崇峻天皇に豚が献上された時、「この豚のように自分の嫌いなアイツの首をハネ落としてやりたい」と言いました。
  馬子は、それが自分の事を指していると考え、家来を遣わして崇峻天皇を暗殺します。

  そして馬子の姪にあたる推古天皇を即位させ、聖徳太子を摂政として、30数年間の政権を築きました。
  馬子は敏達天皇時代から50年以上、大臣おおきみとして権力をふるっていた事になります。

  【崇峻天皇】すしゅん‐てんのう (~592)
   記紀に記された6世紀末の第32代の天皇(在位587~592)。欽明天皇の皇子。名は泊瀬部はつせべ
   皇居は大和国倉梯くらはしの柴垣宮。蘇我馬子の専横を憤り、これを倒そうとして、かえって馬子のために暗殺された。

  日本書紀では、馬子を武略と弁才に長けていた (駆け引きがうまく言葉が巧み) 優れた人物として好意的な描かれ方を
  しているそうです。崇峻天皇の暗殺に関しても淡々と記してあるだけだそうです。

  【飛鳥大仏】あすか-だいぶつ
   奈良県高市郡明日香村の安居院あんこ-いんにある銅造の釈迦如来坐像。
   法興字(飛鳥寺)の金堂本尊として609年鞍作止利が制作したという。

  【鞍作止利・鞍作鳥】くらつくり-の-とり (生没年未詳)  渡来人の司馬達等しば-たつとの孫。
   飛鳥時代の仏師。日本の仏工の祖といわれる。彫刻・金工に秀でた。飛鳥寺の釈迦像 (飛鳥大仏) や、
   623年の法隆寺金堂の釈迦三尊像が現存し、その厳格端正な作風を知ることができる。鳥仏師。止利仏師。


  ≪ 蘇我稲目の墓 都塚古墳 ≫

  2014年8月 奈良県の明日香村にある1500年前の都塚古墳は、全体に四角い古墳で石を階段状に積み上げたが
  ピラミット型の古墳と判明。このような墳丘の形状をしたものは日本では初めて。






  今回発見したのは一部ですが、1辺41mで5段以上の石を積み上げた高さ4.5m以上の巨大古墳だと推測されるようです。
  一番大きな石で30t。鎌倉時代に盗掘に遭って埋葬品などは残っていませんが、日本では珍しい石棺があります。

  朝鮮半島の高句麗に似たようなピラミッド状の古墳があり、高句麗と関係が深かった
  蘇我稲目の墓だと推測されています。稲目の妻が高句麗出身。

  【高句麗・高勾麗】こうくり(~668) 高麗こま
   古代朝鮮の国名。三国の一つ。紀元前後、ツングース系の朱蒙しゅもう(前58~前19)の
   建国という。中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、4~5世紀広開土王・
   長寿王の時に全盛。
   都は209年頃より国内城(丸都城)、427年以来 平壌。唐の高宗に滅ぼされた。
   内部に壁画を描いた多くの古墳を残す。



  ≪ 蘇我馬子の墓 石舞台古墳 ≫

  盛り土が失われ巨大な石室がむき出しの石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされ、都塚古墳の近くにあります。
  当時、二上山は神聖な山として崇拝されており、夏至の日には古墳の中から二上山の山頂の間に沈む太陽が見られます。






  【石舞台古墳】いしぶたい‐こふん
   奈良県高市郡明日香村島庄にある7世紀の古墳。巨大な横穴式石室が露出。方墳または上円下方墳とされる。
   一説に蘇我馬子の墓

  石舞台古墳は自由に見学できます。下の空洞になっている所にも出入り可能です。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 伊勢・夫婦岩への道③ 奮闘編』 14.02.25 放送
  読売テレビ ten. 『奈良 2つの小さな"五重塔"知られざる謎』 19.01.15 放送

  ≪ 日本最古の本格的寺院 飛鳥時代の瓦 ≫

  飛鳥時代、蘇我馬子が創建した飛鳥寺。平城京に移ってからは元興寺。世界文化遺産。3つの国宝があります。
  創建年には諸説あるようですが、飛鳥時代の596年に作られた瓦 (行基葺) が建物の一部に残っているそうです。

  【元興寺】がんごう-じ (がんごじ、がごし)
   奈良市にある寺。718年 (養老2) 飛鳥寺 (法興時) を平城京に移してからの称。南都七大寺の一つ。
   奈良時代は三論・法相の教学の一方の中心として栄えたが、平安後期以降は智光の住房であった極楽坊 (房) が
   信仰の中心となる。現在は観音堂系譜の寺 (芝新屋町、華厳宗) と極楽坊系譜の寺 (中院町、真言律宗) とがある。

  【飛鳥寺】あすか-でら 法興時
   奈良県高市郡明日香村にあった寺。現在は旧地に飛鳥大仏を本尊とする真言宗の安居院あんごいんがある。
   596年、蘇我馬子が創建した日本最初の本格的寺院。718年平城京に移して元興寺と称して後は、元元興寺とも
   呼ばれた。






  禅室に使われている材木を調べた結果、法隆寺よりも古くに伐採された6世紀後半の材木が使われている事が判明。
  国宝の極楽堂の柱も奈良時代のもの。






  奈良時代には京都の東寺の五重塔より更に高い60mの五重塔があったとも言われています。
  国宝に指定されている五重塔は11塔で、うち5mほどの五十小塔が2塔あり、奈良の海龍王寺と元興寺にあります。

  元興寺の五十小塔は、聖武天皇が鎮護国家のため国分寺建立を命じた際に、各地に建てる五重塔の見本として
  この五重小塔が作られたのではないか? という説が有力なようです。
 
 聖徳太子  Wiki 聖徳太子  この項目は書きかけです。
  テレビ東京 世界遺産 三大迷宮ミステリー 13.03.09 放送 より
  テレビ東京 137億年の物語 ~宇宙が始まってから 今日までの全歴史~ 『日本人気質をつくった偉人 聖徳太子』 13.11.16 放送
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『聖徳太子 ~新しい国づくり~』 14.04.23 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『東アジアの動乱と国家建設』 14.05.16 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅27 鳥取砂丘~鳥取市・国府町へ』 15.10.29 放送

  【聖徳太子】しょうとく‐たいし(574~622) 
   用明天皇の皇子。母は穴穂部間人あなほべのはしひと皇后。名は厩戸うまやど
   厩戸王・豊聡耳とよとみみ皇子・法大王・上宮太子うえのみやのみことも称される。
   内外の学問に通じ、深く仏教に帰依。推古天皇の即位とともに皇太子となり、
   摂政として政治を行い、冠位十二階・憲法十七条を制定、遣隋使を派遣、
   また仏教興隆に力を尽くし、多くの寺院を建立、「三経義疏さんぎょうぎしょ」を
   著すと伝える。なお、その事績とされるものには、伝説が多く含まれる。

  近年の歴史の研究によると、聖徳太子は実在の人物であったかは不明のようです。
  実在しなかったという証拠もないようです。

  推古天皇の摂政をした厩戸皇子を元に、日本書記を編纂した藤原不比等が伝説を
  加えて「聖徳太子」というカリスマのヒーローを作ったとも言われています。

  聖徳太子の墓と言われるものが大阪府太子町にあるようですが、宮内庁管轄の為、
  天皇陵と同様に調査が進んでいません。

  長らく聖徳太子と言われていた右の絵は聖徳太子でない事も判明しています。
  また源頼朝、足利尊氏、西郷隆盛などの肖像画も本人ではないらしいです。

  聖徳太子と父母が同じ弟は来目皇子で、墓は大阪府羽曳野市の塚穴古墳とされています。




  Wiki 聖徳太子 / Wiki 橘寺 / Wiki 冠位十二階 / Wiki 十七条憲法

  聖徳太子 生誕の地とされるのは奈良県高市郡明日香村。この近くににある天台宗の寺院の橘寺たちばなでら があり、
  聖徳太子の建立七大寺の1つとされています。正式名は「仏頭山上宮皇院菩提寺」。

  寺院は太子が父親の用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わっています。

  【用明天皇】ようめい‐てんのう(~587)  欽明天皇の第4皇子。
   記紀に記された6世紀末の天皇。聖徳太子の父。皇后は穴穂部間人あなほべのはしひと皇女。名は橘豊日たちばなのとよひ
   皇居は大和国磐余いわれの池辺双槻宮いけのべのなみつきのみや。在位中(在位585~587)は蘇我馬子と物部守屋が激しく
   対立。

  史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房
  (橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見だそうです。






  橘寺には角髪を結った16才の聖徳太子像や、室町時代に描かれた「聖徳太子絵伝」などがあります。

  【角髪・角子・鬟・髻】み‐ずらびんずら、びずら。(ミミツラ(耳鬘)の約という)古代の男の髪の結い方。
   頂の髪を中央から左右に分け、耳のあたりでわがねて緒で結び耳の前に垂れたもの。奈良時代には少年の髪型となる。
   後世の総角あげまきはその変形。






  「日本」と呼ばれるルーツは東大阪市にあった


  ≪ 穴穂部間人皇女 ≫ あなほべ-の-はしひこ-ひめみこ  聖徳太子 (厩戸皇子) の母

  欽明きんめい天皇と蘇我稲目の女むすめ 小姉君おあね-のきみとの女むすめ






  テレビ東京 歴史ミステリーによると テレビ東京 歴史ミステリー 『聖徳太子はいなかった?』 http://youtu.be/cAowZZu3DXo

  聖徳太子の母親は「穴穂部間人」「間人」はしひと=胡人(ペルシャ=トルコ)を意味するそうです。
  出羽三山神社を開いた聖徳太子の従兄弟の蜂子皇子の肖像画は色が黒く日本人離れしている。
  太子の側近 秦河勝 はたのかわかつ も渡来人 (ペルシャ人、インド人説もあるようです) という記述があり、京都太秦
  うずまさ を領地にし、疫病の蔓延を治める事を目的に祇園祭が始まった。ペルシャ語の魂「ギャーン」 が変化した
  らしいです。






  聖徳太子の母親はペルシャ人という説を
  簡単に検証してみましょう。

  穴穂部間人がペルシャ人を意味するとすれば
  母親の小姉君がペルシャ人であり、祖父の稲目もペルシャ人
  という事にな.るはずです。

  まず、第31代 欽明天皇と小姉君の子は、穴穂部皇子、
  穴穂部間人皇女、泊瀬部
はつせべ(後の第32代 崇峻天皇)
  の3人


  名前と関係があるとすれば、次のように考える事になります。

  満知 と 韓人(3韓のいずれか)の女性の間に生まれた子 → 韓子。

  韓子 と 高句麗人の女性との間に生まれた子 → 高麗。
  高麗 と ○○との子 → 稲目。

  稲目 と ペルシャ人との間に生まれた子 → 間人 
    ではなくて、小姉君。あれ?
 

  名前は血筋ではなく、別の意味で付けられたものでしょう。
  現在と同じように、規則制があったわけでもないはずです。

  地名に由来して名を付ける事は多いようですが、全てで外国の
  地名が関係ないのは明らか。
  と、すれば、出来事に由来しているかも知れません。

  例えば、生まれた年に、ちょうど異国の人が朝廷に訪れていた。
  とか?

  ※ この時代は、異母兄妹、おじと姪ならば結婚が可能だった
    そうです。
  (平安期に体が弱い子が出来る事が分かり、近親婚は禁止に。)


  コトバンクの日本大百科全書(ニッポニカ)の解説で、
  穴穂部がありました。 ↓

  コトバンク『穴穂部』  Wiki 武内宿禰

  【穴穂部】あなほべ
   日本古代に大和朝廷によって設けられた名代(なしろ)の一つ。
   《日本書紀》では,雄略天皇のとき,兄の穴穂皇子(安康天皇)のために設定したという。皇子の宮は穴穂宮であって,
   この宮の経営のため,宮号を冠して設定された部民であろう。
   《正倉院文書》のなかに現存する721年(養老5)の〈下総国葛飾郡大嶋郷戸籍〉に,孔王部(あなほべ)を姓とする
   ものが546人にも上り,一郷全体を覆っている。これは,5世紀代に,東国に設けられた名代が,族長のもとの共同体を
   分割せず,そのまま部民に編成し,族長を介して,ミツギ(調),エタチ(役)を貢納させた古い体制をのこしているものと
   思われる。

  【名代】な‐しろ
   大化(645~650)前代の皇室の私有民。諸国の国造くにのみやつこの民の一部を割さいて、皇族名をつけ、
   その租税を皇室関係の経費とする。子代こしろとの別は未詳。御名代みなしろ

  【子代】こ‐しろ
   大化改新前の皇室の私有民。諸国の国造くにのみやつこの民の一部を割さいてその租税を皇室に納入させたもの。
   はじめ個々の皇族名を付したが、のち壬生部みぶべという名称に統一。子代部こしろのべ。御子代みこしろ

  【武内宿祢】たけうち‐の‐すくね
   大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。
   孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があった
   という。子孫と称するものに葛城・巨勢・平群へぐり・紀・蘇我の諸氏がある。

  日本書紀の記述では「世の遠人」、古事記には「世の長人」と記されており、長寿だったと
  考えられていますが、記述どおりだと、在官期間は240年以上になるそうです。
  その為、何代かの世襲と考えられているようです。


  明治22年~昭和初期まで、色んな紙幣にも描かれていました。また、教科書にも載せられており知らない国民はいなかった。

  【宿祢】すく‐ね
   ① 古代、重臣に対する敬称。武内宿祢の類。
   ② 姓かばねの一種。八色姓やくさのかばね の第3位。連むらじの姓を持っていた朝廷豪族中の有力な諸氏に与えた。
     大伴宿祢の類。

  【八色姓】やくさ‐の‐かばね 八姓はっせい
   天武天皇が684年に整理再編した8種の姓。
   真人まひと朝臣あそみ宿祢すくね忌寸いみき道師みちのしおみむらじ稲置いなぎ
   この年から翌年にかけて実際に与えられたのは上位四姓で、序列は各氏祖先の皇室に対する親疎 (親しい人と疎遠な人)
   によっている。

  1796 (寛政8) 年~1798 (寛政10) 年に刊行された『摂津名所図会』巻の参「東生郡・西成郡」には、佃住吉神社、御幣島の
  次に武内宿祢墳の事が書かれてあります。


  名字の始まり 姓かばね とは? 古代の姓の種類 と 飛鳥時代の八色姓  日本人の名字のルーツ

  【推古天皇】すいこ‐てんのう (554~628)
   記紀に記された6世紀末・7世紀初の第33代天皇(在位592~628)。最初の女帝欽明天皇の第3皇女。
   母は堅塩媛きたしひめ(蘇我稲目の娘)。名は豊御食炊屋姫とよみけかしきやひめ。また、額田部ぬかたべ皇女。
   第30代の敏達天皇 (欽明天皇の第2皇子、在位572~585) の皇后。
   崇峻天皇暗殺の後を受けて大和国の豊浦宮とゆらのみやで即位。後に同国の小墾田宮おはりだのみやに遷る。
   聖徳太子を摂政とし、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布などを行う。






  【悲田院】ひでん‐いん 悲田寺悲田所
   貧窮者・病者・孤児などを救うための施設。聖徳太子が難波に建てたというが確かでなく、723年(養老7)興福寺に
   置かれた。また、730年(天平2)光明皇后が施薬院と共に平城京に設置したと伝える。
   その後平安京や諸国にも置かれたらしく、10世紀ごろまで存続した。

  【三福田】さん‐ぷくでん (仏教用語)
   供養すれば福徳を得ることのできる三つの対象。敬田きょうでん(三宝)・恩田(父母)・悲田(貧苦者)、
   または報恩福田(父母)・功徳福田(三宝)・貧窮福田(貧苦者)。

  【遣隋使】けんずい‐し
   大和政権から隋へ派遣された使節。日本側の記録では推古天皇時代の607年・608年に小野妹子ら、
   614年に犬上御田鍬らと計3回だが、中国側の記録では600年にも派遣されている。6回派遣されたとする説もある。

  Wiki 推古天皇  Wiki 悲田院  Wiki 遣隋使  Wiki 小野妹子  Wiki 犬上御田鍬  Wiki 冠位十二階   Wiki 十七条憲法

  【小野妹子】おの‐の‐いもこ (生没年未詳)
   飛鳥時代の官人。遣隋使となり607年隋に渡り、608年 隋使の裴世清はいせいせい
   (隋末・唐初の官人) とともに帰国。
   608年 隋使・留学僧らとともに再び隋に赴く。隋では蘇因高そいんこうと称した。
   609年帰国。墓誌の出土した毛人えみしの父。

  【犬上御田鍬】いぬかみ‐の‐みたすき (生没年未詳)
   飛鳥時代の官人、最初の遣唐使。614年隋に使し、630年唐に赴き632年帰国。


  【冠位十二階】かんい‐じゅうにかい
   冠位の最初のもの。603年に聖徳太子・蘇我馬子らが制定した冠による位階。
   冠名は儒教の徳目を参考にして徳・仁・礼・信・義・智とし、おのおのを大・小に分けて十二階とした。
   各冠は色(紫・青・赤・黄・白・黒)とその濃淡で区別、功労によって昇進。蘇我氏は皇室と共に授ける側にあった。






  【十七条憲法】じゅうしちじょう‐けんぽう
   604年、聖徳太子制定とされる17カ条の道徳的規範。
   官人への訓戒で、和の精神を基とし、儒・仏の思想を調和し、君臣の道および諸人の則るべき道徳を示したもの。


  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『なぜ その色なのか調査した件』 14.05.26 放送
  TBS この差ってなんですか? 『赤信号はアカ 緑信号はアオ なぜ緑色の信号を青信号と呼ぶ?』 17.04.18 放送

  ≪ 仏教の伝来により、色の表示区分が増えた ≫

  色彩心理学研究の慶應義塾大学の鈴木恒男 名誉教授によると、
  日本書紀 (奈良時代の720年に成立) の古代の記述には白・黒・赤・青の4つの色の表現しかなく、それぞれの下記の
  風景に由来します。
  太陽が出て明るくなった朝~昼間や雪景色の「しろし=白」、日が暮れて暗くなった夜間の「暗し=黒」、夜明けや夕方
  の風景「明かし=赤」、青い空や水の「淡し=青」。

  仏教が伝来した飛鳥時代の538年頃に、僧侶の袈裟の色を表す為、赤色の区分が細分化され、黄と紫の区分が誕生
  しました。







  ≪ 日本で紫が元も高貴な色とされる理由 ≫

  冠位十二階では紫が最高の位の色とされ、現在も僧や相撲の行司など最高の位にある人の袈裟や着物などで紫色を
  身に着ける習慣が残っています。

  古代、紫に染色する為には貝の内臓から採れる分泌物を使用しており、2000コの貝から1gしか採れない超貴重なもの
  だった為、日本では紫色が最も高貴な色に位置づけられました。逆に冠位十二階で最も低いとされたのは黒色でした。


  ≪ 「緑」表示の誕生は、江戸時代の1800年代頃 ≫

  江戸時代後期に、染色の技術が発達し、様々な色の着物が作られた事から、青と緑色の区別が必要となり、「みずみ
  ずしい」を語源として「瑞々しい=緑」という言葉が使われるようになったそうです。
  但し、あまり浸透せず、明治時代に輸入され始めた緑色のリンゴは「青リンゴ」と名付けられ、1930 (昭和5) 年にできた
  信号機の緑色も青信号と呼ばれるようになったそうです。

  ※ 文献での確認はしていませんが、平安時代には十二単の襲コーデがあったので、「もも」や「もえぎ」などの色の呼び
  名はあったのではないて゜しょうか? また、昭和の頃、緑色ではなく、青色の信号があったように記憶しています。

  【襲】かさね重ね 衣服を重ねる事
   古事記では、【襲】おすい、おすひと記され、頭からかぶって衣裳の上をおおう衣服の名。
   枕草子には、「おそい棟などに、ながき枝を葺きたるやうにさしたれば」と上着の事も言った。

  【襲の色目】かさね‐の‐いろめ
   衣の襲の色合い。女房の表着うわぎ ・五衣いつつぎぬ・単ひとえなどのかさなった色合い。
   直衣のうし・狩衣かりぎぬ・下襲したがさねなどの表裏の地色の配合。紅梅・桜・桔梗など、季節によって着用する色が
   一定していた。

  テレビ東京 KIMONO (着物) ~世界を魅了! 華麗なる日本の美 14.11.30 放送
  NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『きもの 千年のトキメキ』 17.01.13 放送 など

  ちなみに、元禄 (1688~1704) 年間に宮崎友禅斎によって、京都で友禅染が完成したとされています。

  江戸時代中頃に、京や大坂などの裕福な商家の女性たちが豪華な着物を着ることが増え、1683 (天和3) 年に金糸など
  の刺繍や鹿の子絞りの着物を庶民が着る事を禁止する御触れが出されました。
  この事を受けて、扇に絵を描く絵師の宮崎友禅斎が着物に絵を描くようになり、友禅染が誕生。

  1856年、イギリスの科学者のウィリアム・パーキンがマラリアの特効薬の研究中に、偶然に薬品を混ぜて紫色が出来る
  事を発見し、世界初の化学染料「モーブ」が誕生。
  その後、次々と化学染料が発明され占領の大量生産が行われ、日本でも幕末~明治初め頃から輸入が始まりました。

  1874 (明治7) 年、京都の友禅染の名人であった広瀬治助が化学染料を使った型友禅染を完成させ、豪華な染の着物
  が安くなりました。


  朝日放送 キャスト 『日本だけなぜ? 緑色なのに「青信号」』 19.10.21 放送

  日本は赤の対比として青 (緑も含む) という言い方をしてきました。信号の国際規定では緑・黄・赤の3色に決まっているそうです。
  1930 (昭和5) 年、東京の日比谷交差点に日本初の信号機 (米国製) が設置されました。この頃の日本の法令上は「緑色信号」。
  ところが新聞各社が「青信号」と報道した事から「青信号」と呼ぶのが定着し、1947 (昭和22) 年には、法令上も「青信号」と表記。






  番組によると、13世紀以前のヨーロッパでも青と緑が曖昧だったようです。専門的にはグルーGrueと言うそうです。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『近畿国宝めぐり 高野山の紅葉を目指せ⑤』 13.10.03 放送 / Wiki 膳部菩岐々美郎女

  ≪ 膳部菩岐々美郎女かしわで-の-ほききみ-の-いらつめ (~622年) 膳夫姫芹摘姫せりつみひめ聖徳太子の妻

  6世紀から7世紀に伴造とものみやつことして活躍した豪族・膳氏の出身で、膳臣傾子(加多夫子とも、かしわでのおみかたぶこ)の娘
  妹に聖徳太子の弟 久米王の夫人となった膳比里古郎女がいます

  598年(推古天皇6年3月、奈良県桜井市にある七つ井戸は、飛鳥時代には寺川という きれいな水が湧き出し、川となって
  流れ出ていたそうです。
  ある日、そこを太子 (27才) 一行が通りかかりました。民衆太子の方に集まってきましたが、一人の娘だけが太子の方を
  見ず芹を摘んでいました。






  太子は、その娘に声をかけますと、娘は「母が病の為、芹せりを摘んでおりました。太子様をお見送りできず申し訳ありません」
  と応えました。太子は「母親思いの良い娘」だと感心し(本当は美人だったので一目惚れ?)妻にする事にしました。

  聖徳太子の妃となった膳夫姫は四男四女を生んだが、そのうちの舂米女王つきしねのひめみこは異母兄である山背大兄王の
  妃となりました。聖徳太子には信頼され、太子は「死後は共に埋葬されよう」と言ったと伝えられます

  622年(推古天皇30年)、聖徳太子と共に病となり、太子が亡くなる前日(旧暦2月21日)に亡くなりました。
  聖徳太子の墓所である磯長陵しながりょう大阪府南河内郡太子町にある叡福寺の北古墳)に合葬されたそうです






  【伴造・友造】とも‐の‐みやつこ
   大和政権に奉仕した品部しなべ(世襲的な職業を通じて隷属した人民の組織)の統率者。
   朝廷付近に住む品部を統率して出仕する家柄は、一般に造みやつこの姓かばねを持つ。

   ※膳部・・・宮中の食の飲食を担当する職業。    「日本」と呼ばれるルーツは東大阪市にあった

  大阪府HP 最古の官道“竹内街道”ルネッサンス構想推進協議会 http://www.pref.osaka.jp/doroseibi/kakusyusesaku/saikonokandou.html

 ≪ 日本最古の官道 竹内街道 ≫ たけのうち-かいどう  Wiki 竹内街道

  613年(推古天皇21年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道おおじを置く」と日本書紀に記されている
  日本最古の「官道

  大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26kmの街道で、
  かつては丹比道たじひみちと言われました。

  現在、羽曳野市の白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までの区間は、そのほとんどの区域が国道166号に指定されて
  います。

  大阪府HP 竹内街道・横大路~難波から飛鳥へ日本最古の官道(大道)~1400年活性化事業
   http://www.pref.osaka.lg.jp/doroseibi/rekishikaidou/saikonokandou1400.html



  テレビ大阪 OSAKA1番らばー 17.09.16 放送

  ≪ 奈良時代に作られた大阪―奈良の直線最短の道 関西最大の急勾配がある暗峠 ≫

  関西で最も急な勾配 (最大斜度40%) の坂道がある暗峠くらがりとうげは、奈良時代に難波と平城京を最短で繋ぐ奈良
  街道の一部として、ほぼ一直線の山道で開かれました。特に大阪側の2㎞が急な坂道。
  奈良時代に来日した鑑真和上 (688~763) も、この道を越えて平城京に入ったそうです。

  現在は御堂筋から東へ向かう国道308号線の一部 (長堀通→東大阪 約14㎞行くと暗峠の入り口) 。






  江戸時代には松尾芭蕉 (1644~1694) が「菊の香に くらがり登る 節句かな」と詠んだ句もあります。
  20~30軒の旅籠があり、伊勢参りブームの時は1日7万人の人が行き交ったとも言われています。
  参勤交代でも通行される道だったので、頂上付近の石畳みは、ぬかるみで滑らないようにと大和郡山藩が設置したもの。






  現在は峠の集落に12世帯があり、「峠の茶屋すえひろ」が1軒あります。
  脚力自慢の自転車愛好家や、健康志向のシニア層などが峠を訪れるそうです。

 
 6~7世頃の朝鮮半島との関係
  NHK福岡 ETV特集 『発見! 謎の金銅製馬具 ~古代日本と朝鮮半島の交流史~』 14.05.10 放送

  ≪ 磐井の乱 ≫  Wiki 磐井の乱  Wiki 継体天皇  Wiki 任那  Wiki 任那日本府

  古墳時代の6世紀前半、古くから朝鮮半島との交流で栄えた北部九州一帯を支配していた有力豪族の磐井が大和
  政権に対し反旗を翻しました。
  当時、朝鮮半島では新羅が任那 (伽耶) を攻撃。継体天皇は任那を救援する為に新羅に出兵するつもりでしたが、
  磐井が妨害し計画が中止になりました。

  【磐井の乱】いわい‐の‐らん
   527年、第26代の継体天皇の時代に、筑紫の国造 磐井(石井)が北九州に起こした叛乱。
   大和政権の朝鮮経営の失敗によって、負担の大きくなった北九州地方の不満を代表したものと見られ、新羅と通謀
   したともいう。物部氏らによって平定。

  日本書紀には「新羅が磐井に賄賂を贈ったので、磐井が反逆した」というような事が書かれてあります。
  大和政権は物部氏ら数万の兵を送り、2年かがりで乱を鎮圧しました。

  「12月 筑紫君 葛子は、父の罪に連座して誅 (処刑) されるのを恐れ、糟屋 (玄界灘に面した地方) 献上したので、
  屯倉を設置した」とあります。

  近年になって、福岡県古賀市からの糟屋の屯倉と思われる鹿部田淵ししぶ-たぶち遺跡が発見されました。
  多くの倉庫が建てられたと思われる規則正しい柱の跡や港湾施設があったと推測されています。

  【屯倉】み-やけ、 とんそう。 (ミは接頭語。ヤケはヤカ(宅・家)の転、屋舎・倉庫の意)
   ① 大和政権の直轄領から収穫した稲米を蓄積する倉。転じて、その直轄領。官家・屯家・屯宅・三宅などとも書く。
     宣化紀河内国の茨田郡まむたのこおりの屯倉の穀もみを運ばしむ
   ② (「官家」と書く)大和政権が朝鮮南部の各地に建てて管轄させたという官府。うちつみやけ。
     雄略紀(前田本)[院政期点]「百済の国は日本の国の官家ミヤケと為て所由ありくること遠久ひさ
   ③ 朝廷。応神紀屯倉の船の、枯野と名づくるは







  大和政権側の『九州脅威論』のようなものが背景にあったとも推測されるようです。

  大阪府高槻市にある今城塚古墳は継体天皇の御陵とみられ、今城塚古代歴史館の森田克行 館長によると、
   磐井を脅威だと継体天皇は思っていたと思います。列島を支配しようとしていた大和政権からすると、力を蓄えられると
    統一的な政策が打てなくなりますので、より中央政権的な考え方があったのではないかと思います。 

  【岩戸山古墳】いわとやま‐こふん
   福岡県南部の八女やめ市の人形原にある前方後円墳。長さ135メートルで、九州では屈指のもの。
   筑後国風土記逸文が伝える6世紀の磐井の墓とされる。石人・石馬が多数出土。

  【継体天皇】けいたい‐てんのう 名は男大迹おおど
   記紀に記された6世紀前半の第26代の天皇。彦主人王ひこうしのおおきみの第1王子。応神天皇の5代の孫という。

  【伽耶・伽倻】かや 加羅。/ 【任那】みまな、にんな (日本での呼称) (~562)
   4~6世紀頃に朝鮮半島南東部にあった国々。諸小国全体をいう場合もあり、特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)を指す
   場合もある。
   日本書紀では4世紀後半に大和政権の支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。この任那日本府については
   定説がないが、伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和政権の使節団を指すものと考えられる。562年新羅により併合。

  大阪府高槻市の今城塚古墳 2003年、日本最大規模の埴輪群が発掘されました。継体天皇の御陵という説が有力


  ≪ 6~7世紀の日本と朝鮮諸国の関係 ≫

  朝鮮半島では新羅と百済が激しく対立していました。
  大和政権は任那 (朝鮮では「加耶」)諸国を支配下に治め、百済とも親しい交流がありました。

  【高句麗・高勾麗】こうくり 古代朝鮮の国名。三国の一つ。
   紀元前後、ツングース系の朱蒙の建国という。中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、4~5世紀広開土王・
   長寿王の時に全盛。都は209年頃より国内城(丸都城)、427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。
   内部に壁画を描いた多くの古墳を残す

  【百済】くだら、ひゃくさい。はくさい。 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4~7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。(~660)。
   4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗しひ城(現、忠清南道扶余)に遷都。
   その王室は中国東北部から移った扶余ふよ族といわれる。
   高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。
   唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。

  【新羅】しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。
   前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧しら国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。
   6世紀以降伽(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。

  ※ 上記、広辞苑では高句麗がツングース系となっていますが、高句麗は中国系、新羅がツングース系で現在の
    朝鮮・韓国人のルーツの可能性が高いようです。(ツングースは、大きな括りであって多数の民族がいます。)

   中国の宋書によると、「朝鮮半島三国のうち、新羅だけ言葉が通じない」と書かれているそうです。
   韓国にはツングース系エヴェンキ人のワイ族の文化がいくつか残っています。

  【宋書】そうしょ
   二十四史の一つ。南朝の宋(420~479)の正史。帝紀10巻、志30巻、列伝60巻。
   487年、南朝の梁(502~557)の沈約しんやくが斉の武帝の勅を受けて撰、翌年成る。


  ≪ 日本の古墳から新羅の金銅製の馬具が出土 ≫

  新羅は大和政権と激しく対立していたので、九州の磐井、関東などの有力豪族を味方につける為に馬具を送ったと考え
  られます。

  福岡県北西部で玄界灘に面する古賀市の船原ふなばる3号古墳から新羅の装飾馬具が出土。
  磐井の乱の後、建てられた大和政権の糟屋の屯倉からわずか4㎞の距離にある事も注目されています。

  その馬具の埋められ方が雑だったため、発掘に携わる九州大学の田中良之 教授は、
  ずっと大和政権から睨まれている所なんですよ、この北部九州は。新羅との関係を疑われたらヤバイので、一時的に
   埋めて、掘り返されることが無かった。とも考えられます。新羅と倭国という緊張関係にある中で外交努力をして
   いるから、馬具が入ってきたと理解していいと思います。 と話します。






  その他、群馬県の綿貫観音古墳からは新羅系の金銅製の「杏葉」という馬具が出土。
  三重県の高茶屋大塚古墳からも馬具が出土するなど、日本各地で、新羅との交流があった事を示す品があるそうです。

  関東学院大学の田中史生 教授によると
  5世紀以来の新羅の外交の仕方の一つで、地域の有力豪族たちに影響力を与える『軍事的な連係』『新羅とのつながり』を
   示すモノとして、単に高価なモノをプレゼントされたという以上の政治的なメッセージが入ってくる可能性はあります。
   倭の豪族たちと個別に関係を結んで、倭の外交に影響力を与えようとしたと思います。

  福岡県古賀市役所 『船原古墳遺物埋納坑』 http://www.city.koga.fukuoka.jp/bagu/


  ≪ 新羅討伐の出兵計画 と来目皇子 ≫  Wiki 来目皇子  Wiki 塚穴古墳 (羽曳野市)  Wiki 久米氏


 大和政権が鉄の供給を頼っていた任那を新羅が併合した事で、聖徳太子の弟の
 来目皇子くめのみこを指揮官とする2万5000人を福岡北部の糸島市に送り込み、
 新羅出兵の準備を進めました。

 来目皇子が病死したため派兵計画は中止になりました。
 糸島市の地名の「久米くめ」は、来目皇子にちなんだものと言われ、皇子は久米神社に
 祀られています。

 【久米部・来目部】くめべ 大久米部・大来目部 おおくめべ
  大和政権の親衛軍の一つ。神話・伝説に活躍の様が描かれる。
  統率者は久米氏、のち大伴氏。

  【天久米命】あまのくめ‐の‐みこと
   天孫降臨の時、天忍日命あまのおしひのみことらと刀や弓矢を持って先駆したという神。久米直くめのあたいらの祖とする。

   ※「直あたい」は古代の姓の一種で国造くにのみやっこ(古代の世襲の地方官、大化の改新後は郡司)に多い。

  来目皇子の御陵は、古市古墳群に属する大阪府羽曳野市はびきの3丁目の塚穴つかあな古墳とされています。


  ≪ 朝鮮半島の前方後円墳 ≫  Wiki 東城王  Wiki 朝鮮半島南部の前方後円形墳

  日本では3世紀中頃に前方後円墳が多く作られています。朝鮮半島 (百済があった) 南西部からもいくつかの前方後円墳が
  発見されましたが、これは6世紀初め頃に作られたものだけ。
  百済王権を支えた九州 (筑紫国) の倭人 (大和政権) の墓であったと推測されています。

  日本の古墳文化が朝鮮半島 (韓国) に伝わったもの
  韓国の前方後円墳から出土した甲冑などは、大阪の黒姫山古墳で出土した形と同じ。
  古墳の内部は、朝鮮半島の古墳に見られないが、北九州に見られる古墳と同じ特徴がいくつもあります。






  日本にいた百済の王子が百済の東城とうせい王の死後に百済に戻りますが、筑紫国軍司士500人が随伴した記述が
  日本書紀にあります。
  これらの事から6世紀初頭、大和政権が百済を実質的に支配下に置いていた事が分かります。


  ≪ 隋書 倭国伝 636年 ≫

  新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
   新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。

  新羅も百済も日本を大国だと認め朝貢していた可能性があります。

  【隋書】ずいしょ
    二十四史の一つ。隋代を扱った史書。本紀5巻、志30巻、列伝50巻。
   特に「経籍志」は魏晋南北朝時代の図書目録として貴重。の魏徴らが太宗の勅を奉じて撰。636年成る
   志30巻は656年に成り、後に編入。
 
 蘇我氏 2 蝦夷と入鹿
  ≪ 蘇我蝦夷 と 聖徳太子一族を根絶やしにした 蘇我入鹿 ≫  Wiki 蘇我入鹿  Wiki 山背大兄王

  622年に聖徳太子、628年に推古天皇が世を去った後、権力を欲しいままにしたのは蘇我蝦夷・入鹿の父子でした。
  629年、蝦夷は有力な皇位継承者である山背大兄王 (聖徳太子の子) を排し、舒明天皇をたてます。
  642年、舒明天皇崩御の次は皇極天皇 (舒明天皇の皇后) を即位させ、実権を握っていました。

  【蘇我蝦夷】そが‐の‐えみし(~645) 馬子の子。入鹿の父。
   推古・舒明・皇極3代の大臣。自分の墓を陵と称し、子の入鹿に紫冠を授けて大臣に擬したといわれる。
   乙巳の変で入鹿が討たれた時、自邸を焼いて自刃。

  蝦夷・入鹿は皇居を見下ろす甘樫丘に邸宅を築き、宮殿を意味する『宮門みかど』と呼ばせました。
  蝦夷・入鹿は宮中の天皇の元にはほとんど出向かず、他の大臣や豪族たちも蘇我氏の邸宅にご機嫌伺いに
  訪れるようになっていきました。

  【甘樫丘・甘檮岡・味橿丘】あまかし-の-おか 、うまかし-の-おか
   奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘。允恭天皇 (5世紀中頃古墳時代の第19代天皇) が
   姓氏の混乱を正すため探湯を行ったとされ、また付近に蘇我蝦夷・入鹿 父子の邸が
   あったという地。

  【探湯】くかたち
   神明裁判の一種。古代、裁判上、真偽正邪を裁くのに神に誓って手で熱湯を探らせたこと。
   正しい者はただれず、邪よこしまな者はただれるとする。


  【蘇我入鹿】そが‐の‐いるか(~645)通称は鞍作。 蝦夷の子。 
   飛鳥時代の豪族。皇極天皇の時代、国政を掌握し山背大兄王を殺したが、乙巳の変で中大兄皇子 (天智天皇) ・
   中臣鎌足 (藤原鎌足) に滅ぼされた。






  【舒明天皇】じょめい-てんのう (593~641) 名は息長足日広額おきながたらしひひろぬか、田村皇子。
   飛鳥時代の天皇(第34代、在位629~641)、皇居は飛鳥岡本宮。
   第30代の敏達天皇の皇子 押坂彦人大兄おしさかひこひと-の-おおえ皇子の第1皇子。

  【皇極天皇】こうぎょく‐てんのう / 斉明さいめい天皇 と同一人物 (594~661) 2回天皇の座に就いた女帝
   7世紀前半の第35代天皇(在位642~645)。茅渟王ちぬのおおきみの第1王女。第34代の舒明天皇の皇后。天智・天武
   天皇の母。名は天豊財重日足姫あめとよたからいかしひたらしひめ、また宝皇女。皇居は飛鳥の板蓋宮いたぶきのみや。孝徳
   天皇に譲位。のち、再び天皇となって第37代の斉明天皇(在位655~661) となる。

  【山背大兄王】やましろ‐の‐おおえ‐の‐おう(~643)
   聖徳太子の子。母は蘇我馬子の女むすめ刀自古郎女とじこ-の-いらつめ。皇位継承の有力候補だったが、蘇我蝦夷えみし
   は王を退け、舒明天皇を立てた。643年蘇我入鹿の兵に攻められ、斑鳩いかるが寺で一族とともに自殺。


  ≪ 蘇我蝦夷・入鹿の墓か? ≫

  2015年1月に明日香養護学校の改修工事の際に大きな遺跡 (一辺約50mの四角形の古墳の一部) が発見され、
  小山田古墳と名付けられて舒明天皇が最初に葬られた墓ではないか? という発表がされました。






  しかし、近くに菖蒲池しょうぶいけ古墳があり、日本書紀の記述にある蘇我蝦夷・入鹿 父子の双墓ならびばかではないかと
  推測されるようになりました。
  一辺約30mの四角形の菖蒲池古墳から発見された石室に眠る貴人が誰なのか議論はなされていなかったのですが、
  小山田古墳が発見され、2015年になってから蘇我入鹿の墓と言われるようになりました。

  日本書紀の皇極天皇元年にこの年 蘇我蝦夷 大臣が、双つの墓を作った。一つは大陵おおみさぎと呼び大臣 (蝦夷)
  の墓、一つは小陵こみさぎと呼び、入鹿の墓である。死して後に人を労させまいと望んでのことであると記述があります。

  蘇我蝦夷は自分たちの墓を天皇と同じ「陵みささぎ」と呼ばせ、大勢の臣民を工事に当らせていた事がわかります。
  天皇以上の権力を持っていた蘇我氏に危機感を感じた中臣鎌足らによって乙巳の変が起こり、蘇我氏の嫡流は645年
  に滅亡します。


  ≪ 乙巳の変・大化の改新には、入鹿のいとこも加わっていた ≫

  乙巳の変の首謀者である中臣鎌足によって、仲間に引き入れられました。

  【蘇我石川麻呂】そが-の-いしかわまろ (~649) 蘇我倉山田石川麻呂。 馬子の孫。
   大化の改新に参加。孝徳天皇即位の初め、右大臣に任命されたが、のちに讒言
   されて自殺。

   歴史ミステリー 捏造された日本書紀!  http://youtu.be/QePBCT_IxGc

 
 乙巳の変、大化の改新 
  TBS 世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリー 『日本の歴史悪役10人』 12.06.13 再放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『近畿国宝めぐり 「高野山の紅葉を目指せ5 奈良おふさ観音~音羽山観音寺」』 13.10.03 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『近畿国宝めぐり 「高野山の紅葉を目指せ6 奈良御破裂山~世尊寺」』 13.10.10 放送
  テレビ東京 137億年の物語 ~宇宙が始まってから 今日までの全歴史~ 『日本人気質をつくった偉人 聖徳太子』 13.11.16 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびだせ!えほん 「奈良県明日香村」』 13.11.31 放送
  朝日放送 ナゾ解き飛鳥 大化の改新 古代史上最大のクーデター 15.07.20 放送

  ≪ 談山神社 ≫

  【乙巳の変】いっし‐の‐へん (乙巳の年に起きたからいう)
   645年(大化1)中大兄皇子が中臣鎌足らと謀り、蘇我入鹿・蝦夷を討滅し、権力を奪った政変。

  乙巳の変の黒幕としては、その後に皇極天皇から譲位された弟の軽かる皇子 (孝徳天皇 在位645~654) という説なども
  あるようですが、中臣鎌足は中大兄皇子より前に別の皇子にも接近していた事や、後の大出世から考えると鎌足が
  首謀者だと考えられます。

  宮中で行われた蹴鞠の会で中大兄皇子の靴が脱げ、それを鎌足が拾った事が二人の出会いとされています。
  絵巻には靴が脱げた中大兄皇子をあざ笑う蘇我入鹿も描かれています。

  中大兄皇子と鎌足は、640年に隋から帰国した南淵請安という僧の私塾で儒学も学んでいます。

  接近した二人は、奈良県桜井市にある談山神社の裏山で密談を繰り返したと言われており、
  その場所には『御相談所』という石碑が建てられています。
  乙巳の変で写される絵巻は談山神社に伝わるもの。

  【談山神社】だんざん-じんじゃ 多武峰大明神、 多武峰社。
   奈良県桜井市多武峰にある元別格官幣社。祭神は藤原鎌足。
   鎌足の子 定慧じょうえが聖霊院・妙楽寺を建立したのが起源。境内には室町時代の
   建築にかかる日本唯一の木造の十三重塔がある。



  ≪ 乙巳の変 ≫ Wiki 乙巳の変

  以前は『大化の改新』として教えられてきた蘇我入鹿の殺害事件ですが、近年はこれを『乙巳の変』と呼び、『大化の改新』は
  以後に行われた政治改革を指すようになっています。

  645年6月12日。古代最大のクーデーターと言われる乙巳の変は、飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやで皇極天皇の御前で行われ
  ました。

  甘樫丘にある邸宅で政務を行い宮中にはほとんど顔を出さなくなっていた蘇我入鹿は、高句麗・新羅・百済の朝鮮三国の
  使者が来日して謁見する儀式を行うという事で宮中に呼び出されます。
  入鹿が所持している刀を取り上げる事にも成功。(この時、朝鮮の使者が本当に居たのかは不明)

  蘇我石川麻呂が上表文 (天皇に奉る文書) を読み上げたタイミングで、蘇我入鹿に切りかかるという計画でしたが、
  実行役の佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田二人はビビッてなかなか切りかかりません。
  声がうわずる石川麻呂の様子から、入鹿は不穏な気配を感じ取っており「なぜ震えるのか」と問いました。
  石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」と答えます。そこで中大兄皇子が自ら入鹿に切りかかりました。






  入鹿の首は600mほど飛んだとされ、現在、飛鳥板蓋宮があったされる場所から少し離れたところに、蘇我入鹿首塚が
  建てられています。

  もう一カ所、入鹿の首が飛んできたとの伝承の残る場所があり、その茂古森もうこのもりには、気都和既きつわき神社が
  建てられています。
  気都和既神社によると、中臣鎌足が飛鳥板蓋宮で暗殺した蘇我入鹿の首に追われて、ここまで逃げ込み、「もう来ぬだろう」
  といったことに由来すると伝わるそうです。

  皇極天皇が「これは一体何事か?」と尋ねると、息子の中大兄皇子が「入鹿は自分が天皇になろうとしている」と答えたそうです。
  中大兄皇子は兵を集めて蘇我の邸宅へ攻めようとします。
  他の皇子や豪族たちのほとんどが中大兄皇子が従ったため、邸宅に居た入鹿の父 蘇我蝦夷は6月13日に自宅に火を放ち
  自害しました。

  【皇極天皇】こうぎょく‐てんのう (594~661)名は天豊財重日足姫あめとよたからいかしひたらしひめ、また宝皇女。 茅渟王の第1王女
   7世紀前半の女帝(第35代、在位642~645)。舒明天皇の皇后。天智・天武天皇の母。皇居は飛鳥の板蓋宮いたぶきのみや
   弟の孝徳天皇に譲位。のち重祚して斉明天皇(第37代、在位655~661)。
   656年飛鳥の岡本宮に移る。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、その地に没す。


  ≪ 大化の改新 ≫ Wiki 乙巳の変 / Wiki 大化の改新

  【大化改新】たいか‐の‐かいしん 大化新政。大化革新。
   大化元年(645)夏、中大兄皇子(のちの天智天皇)を中心に、中臣(藤原)鎌足ら革新的な豪族が蘇我大臣家を滅ぼして
   開始した古代政治史上の大改革。
   孝徳天皇を立て都を難波に移し、翌春、私有地・私有民の廃止、国・郡・里制による地方行政権の中央集中、戸籍の作成や
   耕地の調査による班田収授法の実施、租・調・庸など税制の統一、の4綱目から成る改新の詔みことのりを公布、
   古代東アジア的な中央集権国家成立の出発点となった。
   しかし、律令国家の形成には、壬申の乱(672年)後の天武・持統朝の改革が必要であった。

  【孝徳天皇】こうとく‐てんのう (596?~654)名は天万豊日あめよろずとよひ、またかる皇子。茅渟王の第1王子
   7世紀中頃の第36代の天皇(在位645~654)。大化改新を行う
   皇居は飛鳥より難波長柄豊碕宮なにわのながらのとよさきのみやに移す。

  【天智天皇】てんじ‐てんのう(626~671)名は天命開別あめみことひらかすわけ、また葛城かずらき中大兄なかのおおえ。 
   舒明天皇の第2皇子
   7世紀中頃の第38代の天皇(在位668~671)。中臣鎌足と図って蘇我氏を滅ぼし、ついで皇太子として大化改新を断行
   661年、母 斉明天皇の没後、称制。
   667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位。庚午年籍を作り、近江令を制定して内政を整えた。

  【藤原鎌足】(614~669) 藤原氏の祖。中臣鎌子、中臣鎌足。
   中大兄皇子をたすけて蘇我大臣家を滅ぼし、大化改新に大功をたて、内臣うちつおみに任じられた。

  【中臣】なかとみ
   古代の氏族。天児屋根命の子孫と称し、朝廷の祭祀を担当。はじめ中臣連むらじ、後に中臣朝臣あそん
   さらに大中臣朝臣となる。中臣鎌足は藤原と賜姓され、その子孫は中臣氏と分かれて藤原氏となった。

  【大祓】おお‐はらえ中臣の祓。みそぎはらえ。おおはらい。
   古来、6月と12月の晦日つごもりに、親王以下 在京の百官を朱雀門前の広場に集めて、万民の罪や穢けがれを祓った神事。
   現在も宮中を初め全国各神社で行われる。大祓に読み上げる祝詞のりとは、古くは中臣氏が読み上げた。






  鎌足は、南淵請安という僧から中大兄皇子と共に儒学を学んでいますが、旻という僧からも学んでいます。
  蘇我入鹿も旻から学んでおり、旻は「生徒の中で入鹿が最も優れている」と評していたそうです。

  大化の改新で始められた多くの事は、実は蘇我入鹿がやろうとしていた事を、鎌足らが代って行ったというのが
  実際のところのようです。

  【南淵請安】みなみぶち-の-しょうあん (生没年不詳)
   飛鳥時代の学問僧。608年に隋に渡り、640年帰国。中大兄皇子・中臣鎌足らに儒学を授けた。

  【旻】みん、びん (~653)
   飛鳥時代の渡来系学僧。608年小野妹子に従って隋に留学、632年帰国。
   大化の改新の際、高向玄理とともに国博士くにはかせ (国学の教官、律令制では諸国に置かれた) となり、制作を立案。

  【高向玄理】たかむこのくろまろ (~654)
   飛鳥時代の官人・学者。渡来系の子孫で、黒麻呂とも書く。608年小野妹子に従って隋に留学。
   帰国後、大化の改新で僧 旻と共に国博士として政策を立案。654 (白雉5) 年、遣唐押使となり唐で没。

  ≪ 蹴鞠 ≫  Wiki 蹴鞠  Wiki 難波頼経  Wiki 飛鳥井雅経

  【蹴鞠】け‐まり 鹿革で製し、蹴って遊ぶまり。奈良時代、仏教と共に中国から伝わったとされる。
   昔の貴人の遊戯。庭上で、数人が革沓かわぐつをはき、鞠を懸りの木の下枝より高く蹴上げることを続け、また受けて地に
   落とさないようにするもの。
   その場を鞠壺まりつぼまたは鞠庭まりにわといい、7間半四方が本式で東北隅には桜、東南に柳、西南に楓、西北に松を植え、
   四本懸りと称する。平安末期以後盛んに行われ、飛鳥井あすかい・難波なんば両家が師範。






  【飛鳥井雅経】あすかい-まさつね (1170~1221) 氏は藤原。難波頼経の子。
   鎌倉初期の歌人。飛鳥井を称する。和歌・蹴鞠をよくした。「新古今集」撰者の一人。家集「明日香井和歌集」。
 
 百済滅亡 と 天智天皇
  ≪ 白村江の戦い ≫  Wiki 白村江の戦い  Wiki 斉明天皇  Wiki 天智天皇

  【白村江の戦】はくそんこう‐の‐たたかいはくすきのえ(スキは古代朝鮮語で村の意)
   663年、白村江(朝鮮南西部を流れる錦江河口の古名。今の群山付近)で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との
   間に行われた海戦。
   日本は、660年に滅亡した百済の王子 豊璋を救援するため軍を進めたが、唐の水軍に敗れ、百済は完全に滅んだ。

  白村江の戦い後、日本は唐との国交が断絶し、遣唐使が再開されるのは、第42代の文武天皇時代、702 (大宝2) 年6月。
  実際に再開したのは前天皇の持統天皇と言われています。(孫の文武天皇に譲位した後も政治に関わっていました。)

  【基肄城】きい‐じょう
   佐賀県三養基みやき郡基山町から福岡県筑紫野市にわたってあった古代の朝鮮式山城。白村江の戦で敗れた後、
   大宰府を防備するために築城。土塁や石塁、礎石群の大規模な遺構がある。






  【斉明天皇】さいめい‐てんのう(594~661)
   7世紀中頃の第37代の天皇(在位655~661)。第35代の皇極天皇の重祚ちょうそ。弟の孝徳天皇の没後、
   飛鳥の板蓋宮いたぶきのみやで即位。翌年飛鳥の岡本宮に移る。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、その地に没す。
   49才で皇極天皇として即位し、62才で斉明天皇として2度目の即位、天智天皇・天武天皇の母。

  【朝倉宮】あさくら‐の‐みや 朝倉行宮。
   朝倉橘広庭宮あさくらのたちばなのひろにわのみやの略称。斉明天皇の行宮あんぐう (「行幸ぎょうこう=外出」の時の仮の宮居)。
   661年百済救援のため滞在中、天皇がここで没した。伝承地は福岡県朝倉市山田、一説に同市須川。木丸殿きのまろどの

  【天智天皇】てんじ‐てんのう。てんち‐てんのう (626~671)名は天命開別あめみことひらかすわけ 、また葛城かずらき中大兄なかのおおえ
   舒明天皇(第34代)の第2皇子。7世紀中頃の天皇(第38代在位668~671)。
   中臣鎌足と図って蘇我氏を滅ぼし、ついで皇太子として大化改新を断行
   661年、母 斉明天皇(第37代)の没後、称制。
   667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位。庚午年籍を作り、近江令おうみ‐りょうを制定して内政を整えた。

  Wiki 天智天皇
  百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図った。
  百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)斉明天皇が崩御した。

  その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制したが、天智天皇2年7月20日(663年8月28日)に白村江の戦いで大敗
  喫した後、
  同6年3月19日(667年4月17日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、翌同7年1月3日(668年2月20日)、漸く即位した。

  同年2月23日(668年4月10日)には、同母弟・大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。

  しかし、同9年11月16日(671年1月2日)に第一皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、同10年
  10月17日(671年11月23日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。

  中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか
   存在する。

   日本初の正確な時計 飛鳥の漏刻 は水の雑学のページに移動しました。
 天武天皇と持統天皇  日本の基礎をつくった叔父と姪の夫妻  書きかけ
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『痛快 ! 関西古代ミステリー 最先端科学が解き明かした歴史秘話』 14.10.16 放送
  NHK 歴史秘話ヒストリア 『古代日本 愛のチカラ よみがえる持統天皇の都』 15.06.10 放送

  ≪ 律令とは? ≫  簡単に言うと古代の法律。

  【律令時代】りつりょう‐じだい
   日本史上の時代区分の一つ。律令国家が存続した時代。政治法制上では、大和時代と摂関時代との間、社会経済上
   では大化前代と荘園時代との間。大化改新後から奈良時代・平安初期までの約3世紀にわたる。

  【律令国家】りつりょう‐こっか
   古代国家の一形態で、律令を統治の基本法典としたもの。
   巨大な官人群を擁し、人民に班田収授によって一定面積の耕地を保証する代りに、戸籍につけて租・調・庸・雑徭ぞうよう
   など物納租税や徭役労働を課し、個別人身支配を徹底した。日本では隋・唐にならって7世紀半ばから形成され、
   奈良時代を最盛期とし、平安初期の10世紀頃まで続いた。

  【律令】りつ‐りょう
   律と令。律は刑法、令は行政法などに相当する中央集権国家統治のための基本法典。
   律も令も古代中国で発達、隋・唐時代にともに完成し、日本をはじめ東アジア諸国に広まった。

  【律令格式】りつりょう‐きゃく‐しき
   律と令と格(律令の改正)と式(律令の施行細則)。古代中央集権国家の基本的諸法典の総称。


  ≪ 天武天皇と持統天皇の白鳳時代 ≫

  【天武天皇】てんむ‐てんのう(~686)名は天渟中原瀛真人あまのぬなはらおきのまひと、また大海人おおあま。 舒明天皇の第3皇子
   7世紀後半の第40代天皇(在位673~686)。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、
   翌年の673年、飛鳥の浄御原宮きよみはらのみやに即位する。
   新たに八色姓やくさのかばねを制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。

  【持統天皇】じとう‐てんのう(645~702)名は高天原広野姫たかまのはらひろのひめ、また鸕野讃良うののさらら。 
   第38代の天智天皇の第2皇女。7世紀末の女帝、第41代天皇(在位690~697)。第40代の天武天皇の皇后
   天武天皇の没後、称制。息子である草壁皇子没後、即位。皇居は大和国の藤原宮。孫の文武天皇に譲位後、太上天皇と
   称す。


  ≪ 大海人(天武天皇) と 讃良(持統天皇) の婚姻 ≫

  Wiki 里中満智子 大阪市出身の漫画家 里中満智子さんの持統天皇を描いた『天井の虹』

  皇太子の中大人皇子 (天智天皇) と、大海人皇子は、第34代の舒明天皇と第37代の斉明天皇 (第35代の皇極天皇と同一)
  と父母を同じくする兄弟。

  645年に中大兄皇子が中臣鎌足らと謀り、蘇我入鹿・蝦夷を討滅した乙巳の変の後の649年に、蘇我石川麻呂を攻めて
  自害に追い込みます。
  蘇我石川麻呂は中大兄皇子の妻である造媛みやつこひめの父親でした。造媛は父の死を嘆き、それが元となって病死します。






  657 (斉明3) 年、中大兄皇子と造媛の娘である讃良 (13才) は、父の中大兄皇子の命令で叔父に当る大海人皇子へと嫁ぐ
  事になります。
  また、中大兄皇子は、大田皇女・大江皇女・新田部皇女の3人の娘 (合計4人) も大海人皇子に嫁がせています。


  ≪ 壬申の乱じんしん‐の‐らん  Wiki 壬申の乱

   天智天皇死後、長子の大友皇子(弘文天皇)を擁する近江朝廷に対し、吉野にこもっていた皇弟の大海人おおあま皇子
   (天武天皇)が672年(壬申の年)の夏に起こした反乱。
   1カ月余の激戦の後、大友は自殺、大海人は飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやに即位し、律令制が確立する端緒となった。

  【大友皇子】おおとも‐の‐おうじ(648~672)名は伊賀とも。諡号 弘文天皇。 天智天皇の第1皇子
   671年天皇没後、近江朝廷の中心となったが、翌年壬申の乱に敗れて自殺。
   1870年(明治3)に弘文天皇と追諡ついしした(第39代在位671~672)。
   「懐風藻」所収の作品は堂々としていて、日本における漢詩の起りとされる。


  ≪ 飛鳥浄御原宮 ≫ あすか‐の‐きよみはら‐の‐みや

   第40代 天武 ・ 第41代 持統天皇夫妻の皇居。 672年天武天皇が造営して都とし、694年、持統天皇は藤原宮に遷うつる。






  【白鳳時代】はくほう-じだい
   日本文化史、特に美術史の時代区分の一つ。飛鳥時代と天平時代 (奈良時代の平城京時代) との中間。
   7世紀後半から8世紀初頭まで。
   中でも壬申の乱(672年)後の天武・持統朝では、天皇の権威が確立し、律令の制定、記紀編纂の開始、万葉歌人の輩出、
   仏教美術の興隆など、初唐の文化の影響の下に、力強い清新な文化を創造した。






  【飛鳥池遺跡】あすか‐いけ‐いせき
   奈良県明日香村にある7世紀後半の官営工房跡。金・銀・ガラスなどの宝飾品、鉄製品・銅製品・漆製品などを生産した。
   富本銭とその鋳型や「天皇」の文字を記した木簡なども発見。

  【富本銭】ふほん‐せん
   古代の銅貨。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から大量に出土。「日本書紀」天武天皇12年(683年)の
   記事に見える、日本で初めて鋳造された銅銭に当たるとする説がある。


  ≪ 律令政治の始まり ≫  NHK Eテレ 高校講座日本史 『平城京の時代』 14.05.23 放送

  【飛鳥浄御原律令】あすか‐きよみはら‐りつりょう 浄御原令。
   天武天皇が681年に編纂を開始、持統天皇が689年に施行した法典。律は完成せず、令のみ22巻。
   大宝律令の基礎となった。

  【大宝律令】たいほう‐りつりょう
   律6巻・令11巻の古代の法典。大宝元年(701)刑部おさかべ親王・藤原不比等ら編。ただちに施行。
   天智朝以来の法典編纂事業の大成で、養老律令施行まで、律令国家盛期の基本法典となった。
   古代末期に律令共に散逸したが、養老律令から全貌を推定できる。

  【班田収授法】はんでん‐しゅうじゅ‐の‐ほう
   律令時代に行われた、土地国有原則に基づく耕地の配分・用益法。
   大化改新以後、唐の均田法にならい、満6歳以上の男子に2段、女子にその3分の2、
   奴および婢にそれぞれ3分の1を基準とする口分田くぶんでんを、6年ごとに
   作成される戸籍に基づいて配分し(班田)、終身用益を許し死ねば国家に収める
   (収公)こととした。
   班田は奈良時代を通じて行われたが、10世紀初めにはほとんど廃絶。班田法。


  【養老律令】ようろう‐りつりょう
   律・令各10巻の古代の法典。718年(養老2)藤原不比等ふひとらが編纂を開始、757年(天平宝字1)藤原仲麻呂の
   提案で施行。大宝律令とほとんど同文。中世に律は大半散逸したが、他の文献から内容を推定でき、令は大半が
   令義解りょうのぎげなど注釈書の本文として残る。

  【伝馬】てん-ま
   逓送ていそう (送る事) 用の馬。律令制では、駅馬とは別に、各郡に5匹ずつ飼わせ、公用旅行の官人に使わせた。
   戦国時代以降は宿駅に備えさせて幕府・領主の公用に使い、江戸時代には民間の輸送にも従った。
 
 藤原京
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『近畿国宝めぐり 「高野山の紅葉を目指せ5 奈良おふさ観音~音羽山観音寺」』 13.10.03 放送
  NHK 歴史秘話ヒストリア 『古代日本 愛のチカラ よみがえる持統天皇の都』 15.06.10 放送

  ≪藤原京≫ ふじわら‐きょう  Wiki 藤原京

   第41代 持統天皇の694年から、第42代 文武天皇を経て、第43代 元明天皇の710年(和銅3)に平城京へ移るまで、
   3代16年の奈良県橿原市高殿たかどのを中心とするの都。
   大和三山に囲まれた地域を占め、東西は八坊(約2.1㎞)、南北は十二条(約3.2㎞)の条坊制によって碁盤目ごばんめ
   ように分けられていた。
   最大 東西は約5.3㎞、南北は約4.8㎞で、平城京や平安京を凌ぐ規模だったと言われています。





  ≪ 遣唐使の復活 ≫

  663年に百済の王子を救うために唐と新羅の連合軍と戦った『白村江の戦い』に敗れて以降、唐との国交は断絶した
  ままでした。
  702年の文武天皇の時代、持統天皇が中心となって遣唐使を復活させ、粟田真人などを唐へ向かわせました。

  【粟田真人】あわた-の-まひと (~719)
   奈良時代の官人・学者。大宝律令の制定に加わり、701~704年 (大宝1~慶雲1) 遣唐使として渡唐。
   帰国後、正三位中納言。


  ≪ 奈良高市郡明日香村 野口王墓 ≫  Wiki 野口王墓




  【草壁皇子】くさかべ‐の‐おうじ(662~689)日並知皇子ひなみしのみこともいう。
   天武天皇の皇子母は持統天皇
   文武・元正天皇の父。681年皇太子に立ったが、天武天皇死後は母の持統
   天皇が継ぎ、皇子はまもなく没。
   後に岡宮御宇天皇おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみことと追尊。

  【文武天皇】もんむ‐てんのう(683~707)名は珂瑠かる
   草壁皇子の第1王子母は元明天皇
   律令国家確立期の天皇(第42代、在位697~707)。大宝律令を制定。

  【元明天皇】げんめい‐てんのう(661~721)名は阿閉あべ。 天智天皇の第4皇女
   草壁皇子の妃
   奈良前期の女帝(第43代、在位707~715)。文武・元正天皇の母。
   都を大和国の平城(奈良)に遷し、太安万侶おおのやすまろらに古事記を撰ばせ、
   諸国に風土記を奉らせた。

  Wiki 草壁皇子  Wiki 文武天皇  Wiki 元明天皇

  奈良県の天香山神社と天の蚕の生原旧跡 持統天皇の百人一首・撰の歌


  ≪ 元明天皇・元正天皇 (母娘)時代 古事記・日本書紀の編纂 ≫

  【古事記】こじき ふることぶみ
   現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼ひえだのあれが天武天皇の勅に
   より誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶おおのやすまろが元明天皇の
   勅により撰録して712年(和銅5)献上。
   上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみことまで、

   中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、
   神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。

  【日本書紀】にほん‐しょき
   六国史りっこくしの一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。
   神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。
   720年(養老4)舎人とねり親王らの撰。日本紀。

  【元正天皇】げんしょう‐てんのう(680~748)名は氷高ひだか。 草壁皇子の第1王女母は元明天皇
   奈良時代前期の女帝(第44代、在位715~724)


  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『1300年の美と技術 世界遺産 薬師寺の「水煙」』 13.09.25 放送 
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『薬師寺 東塔 瓦に刻まれた秘話』 13.10.04 放送 / Wiki 薬師寺

  ≪ 奈良県の世界遺産の薬師寺。国宝の東塔が約60年ぶりに解体修理 長野県との絆を発見

  1300年前に作られた塔の先(水煙)が間近で見られました。東塔水煙降臨展 ~2013/11/30まで。






  現在修理で3万4千枚の瓦が取り外されていますが、その中から文字が刻まれた瓦が多く見つかりました。
  4800枚の瓦に個人や企業の名前が刻まれた瓦と、長野県の小・中・高の308校の名前が刻まれた瓦。

  寺で経緯を調べてみると、戦後間もない昭和26年の瓦の葺き替えの際、資金が足りなく寄付を募った。
  当時、奈良の教育委員会が親交の深かった長野県の教育団体に寄付を依頼。
  長野県では、県内で1人5~10円を募り、全体で数十万円も寄付されたそうです。






  【薬師寺】やくし‐じ 奈良市にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つ。
   680年天武天皇の発願以後、持統・文武朝を通じて藤原京に造営されたが、平城遷都後、現在地に移る。
   730年(天平2)造立の三重塔(東塔)を始め、金銅薬師三尊像・金銅聖観音像・吉祥天画像など白鳳・天平時代の
   すぐれた仏教美術品を蔵す。
 
 藤原氏   Wiki 藤原氏
  TBS 世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリー 『日本の歴史悪役10人』 12.06.13 再放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『近畿国宝めぐり 「高野山の紅葉を目指せ5 奈良おふさ観音~音羽山観音寺」』 13.10.03 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『近畿国宝めぐり 「高野山の紅葉を目指せ6 奈良御破裂山~世尊寺」』 13.10.10 放送
  テレビ東京 137億年の物語 ~宇宙が始まってから 今日までの全歴史~ 『日本人気質をつくった偉人 聖徳太子』 13.11.16 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびだせ!えほん 「奈良県明日香村」』 13.11.31 放送

  【天児屋命・天児屋根命】あまのこやね‐の‐みこと
   日本神話で、興台産霊こごとむすひの子。
   天岩屋戸の前で、祝詞を奏して天照大神の出現を祈り、のち、天孫に従ってくだった
   五部神の一人で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀をつかさどったという。
   中臣・藤原氏の祖神とする。

  【五伴緒神・五部神】いつとものお‐の‐かみ
   日本神話で、瓊瓊杵尊ににぎのみことに従って天から降った五神。
   天児屋命あまのこやねのみこと ・ 太玉命ふとたまのみこと ・ 天鈿女命あまのうずめのみこと
   石凝姥命いしこりどめのみこと ・ 玉祖命たまのおやのみこと の総称。

奈良県桜井市の談山神社

  【中臣】なかとみ
   古代の氏族。天児屋根命の子孫と称し、朝廷の祭祀を担当。はじめ中臣連むらじ、後に中臣朝臣あそん、さらに大中臣
   朝臣となる。中臣鎌足は藤原と賜姓され、その子孫は中臣氏と分かれて藤原氏となった。

  【大祓】おお‐はらえ中臣の祓。みそぎはらえ。おおはらい。
   古来、6月と12月の晦日つごもりに、親王以下 在京の百官を朱雀門前の広場に集めて、万民の罪や穢けがれを祓った神事。
   現在も宮中を初め全国各神社で行われる。 大祓に読み上げる祝詞のりとは、古くは中臣氏が読み上げた。

  中臣氏は大阪府高槻市・茨木市一帯の三嶋あたりを代々の所領地としていたそうです。
  藤原鎌足の墓は談山神社に移葬されたと考えられてきましたが、1934年に発見された高槻市の阿武山古墳から発見された
  貴人の遺骨が、近年の研究から藤原鎌足である事がほぼ確実視されるようになりました。

   大阪府高槻市にある藤原鎌足の墓 鎌足の遺骨と死因につながる怪我の跡  Wiki 大中臣氏  Wiki 藤原鎌足

  【阿武山古墳】あぶやま-こふん
   大阪府高槻市と茨木市の境にある7世紀の墳墓。1934年石室内の夾紵きょうちょ (奈良時代に唐から伝来した漆工技法)
   棺から、玉枕や金糸などとともに男性の遺体を発見。藤原鎌足の墓とする説もある。

  【藤原鎌足】(614~669) 藤原氏の祖。中臣鎌子、中臣鎌足。
   中大兄皇子をたすけて蘇我大臣家を滅ぼし、大化改新に大功をたて、内臣うちつおみに任じられた。

 藤原氏の略系図
 
 


【藤原不比等】ふひと(659~720) 鎌足の次子。光明皇后の父。
 奈良時代の貴族。右大臣。大宝律令の制定に加わり、
 養老律令の制定を指導して律令制度の確立に努めるとともに、
 藤原氏隆盛の基礎をつくった。藤原氏四家の祖

【藤原武智麻呂】むちまろ(680~737) 不比等の長子南家の祖
 左大臣。正一位。仲麻呂(恵美押勝)はその子。

【藤原房前】ふささき(681~737) 不比等の次子北家の祖
 聖武天皇に仕え内臣、また参議として信頼が厚かった。

【藤原宇合】うまかい(694~737) 不比等の第3子式家の祖
 遣唐副使・常陸守・西海道節度使より参議・式部卿兼大宰帥に
 至る。万葉集・懐風藻等に作品がある。
 常陸風土記完成に関係したか?。

【藤原麻呂】まろ(695~737) 不比等の第4子京家の祖
 参議。持節大使として陸奥の蝦夷征討に尽力したが、疫病で没。







  ≪ 藤原氏 ≫  Wiki 藤原氏

  【藤原広嗣】ひろつぐ(~740) 式家 宇合の子。
   奈良時代の貴族。大宰少弐。麻呂の没後、吉備真備・僧玄げんぼうを除き藤原氏の勢力を挽回しようとして、
   大宰府で挙兵したが敗れ、肥前で斬。藤原広嗣の乱

  【藤原仲麻呂】(706~764) 南家 武智麻呂の子。
   光明皇后・孝謙天皇に信頼されて紫微内相しびないしょう(皇后宮職の長官で大臣クラス)となり、橘奈良麻呂ら反対派を
   倒して政権を掌握。
   女婿の大炊王が即位し淳仁天皇になると、官制を改め太保(右大臣)となり、恵美押勝えみのおしかつと改名して
   太師(太政大臣)正一位に進んだ。僧 道鏡が孝謙上皇に重用されると、これを除こうとして挙兵し敗れ、近江で殺された。

  【藤原百川】ももかわ(732~779) 式家 宇合の第8子。初名、雄田麻呂。
   参議。右衛門督・式部卿・中衛大将。称徳天皇の没後、道鏡を追放し光仁天皇を擁立、藤原一族の勢力回復に尽くす

  【藤原種継】たねつぐ (737~785) 式家 宇合の孫
   奈良時代の貴族。中納言。
   桓武天皇に信任され、権勢を振るって皇太子早良さわら親王と対立。造長岡京使として遷都を強行したが、暗殺された。

   藤原薬子 律令政治から格式政治へ
  【藤原薬子】ふじわら‐の‐くすこ (~810) 式家 種継の女むすめ
   平安初期の女官。自分の娘を安殿親王あてのみこ(平城天皇)嫁がせたが、
   平城天皇(在位806~809、病により嵯峨天皇に譲位)と不倫関係になり、
   寵愛され、兄 仲成とともに政治を動かした。
   天皇譲位後の平城へいぜい上皇の復位を企て失敗して自殺。


  【藤原良房】(804~872) 北家 冬嗣の次男。諡号しごう 、忠仁公。世に白河殿・染殿大臣という。
   平安初期の貴族。文徳天皇即位後、外戚として勢力を得、人臣として初めて太政大臣、また、女むすめの明子あきらけいこ
   生んだ清和天皇(9歳)即位後、皇族以外で人臣として初めて摂政。「続日本後紀」を撰上。

  【藤原明子】あきらけいこ(829~900) 良房の女むすめ。染殿后。五条后。
   文徳天皇の女御となり、清和天皇を生む。清和・陽成天皇よりそれぞれ皇太后・太皇太后の尊号を受ける。

  【藤原時平】(871~909) 基経の長子。
   平安前期の貴族。宇多・醍醐両天皇に仕え、累進して左大臣。天皇の信任厚い菅原道真を大宰権帥に左遷し、政界に
   おける藤原氏の地位を確立。「延喜格式」「三代実録」を撰上。その死は道真の祟りによるという説が流布した。

  【藤原師輔】もろすけ(908~960) 北家 忠平の子。通称、九条殿道長の祖父
   平安中期の貴族。子の兼通・兼家、孫の道長が関白を継承し、摂関家の祖となる。著「九条年中行事」、日記「九暦」など。

  【藤原兼通】(925~977) 師輔の子。道長の伯父
   弟 兼家と関白を争い、太政大臣となる。

  【藤原兼家】(929~990)大入道前関白、また東三条殿と称す。 師輔の子。 道隆道長の父
   兄 兼通と関白を争い、花山天皇を欺いて退位させ、外孫一条天皇を即位させた。摂政太政大臣。

  【藤原道綱母】(936?~995?) 藤原倫寧ともやすの女むすめ
   平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。長能ながとうは弟、菅原孝標たかすえむすめは姪。

   藤原兼家の室となり、右大将 道綱を生む。「拾遺集」以下の作者で、「蜻蛉かげろう日記」を著す。

  【藤原道隆】(953~995)中関白という。 兼家の長子。道長の兄
   女むすめ定子は一条天皇の皇后。一条天皇の時、摂政関白となった。職を子の伊周これちかに譲ろうと図るが、
   死後、弟 道長に奪われた。

  【藤原道長】(966~1027) 兼家の第5子。
   平安中期の貴族。御堂みどう関白・法成寺入道前関白太政大臣と称されるが、正式には関白でなく内覧の宣旨を得たのみ。
   法成寺摂政とも。藤原氏極盛時代の氏長者うじのちょうじゃ
   長女 彰子は一条天皇の皇后となって後一条・後朱雀両天皇を生み、次女 妍子は三条天皇の皇后、
   3女 威子は後一条天皇の皇后、4女 嬉子は後朱雀東宮の妃。法成寺を造営。自筆本の日記「御堂関白記」が伝わる。

  【藤原定子】(976~1000)一条天皇の皇后。990年(正暦1)入内し、中宮。 道隆の女むすめ。 
   1000年(長保2)道長の女、藤原彰子が中宮に立ったために皇后となり、一代二后の先例となった。
   定子に仕えた清少納言は「枕草子」にその才気を記した。

  【中宮】ちゅう‐ぐう
   ①内裏。禁中。②皇后・皇太后・太皇太后の称。三后。③平安初期、皇太夫人の別称。④皇后の御所。また、皇后の別称。
   ⑤皇后と同資格の后きさき新しく立后したものを皇后と区別していう称。

  【藤原 彰子】 しょうし / あきこ(988-1074) 道長の長女。上東門院
   第66代 一条天皇の皇后(号は中宮)。
   第68代 後一条天皇・第69代 後朱雀天皇の生母(国母)、女院といい、のち大女院などとよばれた。

  【藤原頼通】よりみち(992~1074)道長の長子
   宇治関白。後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇52年間の摂政・関白。
   のち太政大臣、准三宮。
   1052年(永承7)、宇治川畔にある別荘を寺として平等院を創建し閑居。
   翌年、鳳凰堂を造立。

  【藤原頼長】よりなが (1120~1156) 忠実の次子。藤原道長の子孫
   平安後期の貴族。左大臣。学問を好む。父 忠実の庇護を得て兄 忠通と対立、
   氏長者となる。
   鳥羽上皇の信任を失い、崇徳上皇によって勢力を挽回しようと保元の乱
   起こしたが、敗死。世に宇治左大臣・悪左府という。日記「台記」。


  【藤原信頼】(1133~1159)藤原道長の子孫
   平安末期の貴族。右衛門督。後白河上皇に厚遇され、同じく上皇の信任厚い藤原通憲と対立、
   源義朝らと平治の乱を起こしたが、平清盛に攻められ、六条河原で斬首。

  【藤原定家】ていか / さだいえ(1162~1241) 俊成の子。いわゆる小倉百人一首の撰者で有名。 藤原道長の子孫
   鎌倉前期の歌人。京極中納言などと呼ばれた。新古今集(共撰)・新勅撰集を撰。歌風は絢爛・巧緻で、新古今調の代表。
   家集「拾遺愚草」のほか歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌之大概」など。源氏物語・古今集・土佐日記などの
   古典校勘の業に従い、日記に「明月記」がある。書風は、後世、定家流と呼ばれ、江戸の茶人に珍重された。

  【藤原頼嗣】よりつぐ(1239~1256)九条頼嗣。藤原道長の子孫の九条家
   鎌倉幕府の第5代将軍。1244年(寛元2)
 
 春日大社と興福寺
  日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著 / 広辞苑
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 近畿の国宝めぐり 総集編SP』 13.01.02 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『明治維新』 13.11.08 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 西国三十三所めぐり 奮闘編⑦』 14.01.22 放送
  NHK Eテレ 100分de名著 『万葉集4 「独りを見つめる」』 14.04.23 放送
  テレビ東京 出没!アド街ック天国 『茨城県・鹿島市』 16.01.09 放送

  ≪ 春日大社 ≫    春日大社公式サイト http://www.kasugataisha.or.jp/

  奈良市春日野町にある元官幣大社。祭神は武甕槌命たけみかずちのみこと ・斎主命いわいぬしのみこと(経津主命)・
  天児屋根命あまのこやねのみこと ・比売神ひめがみ

  藤原京から移ってきた平城遷都710年(和銅3)後まもなく藤原氏により現在の地に創建され、以後長くその氏神として尊崇された。






  春日大社は藤原氏の氏神を祀る神社で、荘園の国司として多くの藤原一族が各地に派遣された為、日本全国に約1000社
  あります。
  武甕槌命が白鹿に乗って現れた伝説から、神鹿しんろくとされ、奈良公園の鹿の由来とされます。
  この神鹿は茨城県の鹿島神宮からやってきたとも言われています。

  武士の棟梁として有名な清和天皇系の河内源氏3代目 源 (八幡太郎) 義家が赤糸縅大鎧(国宝)を奉納。
  当時は紅花で染めた糸を使用していたので真っ赤。飾鎧なので、兜などの装飾細工にはミノムシ、アブや花など当時の職人の
  遊び心も繁栄されているそうです。
  この時代の鎧は他にも現存していますが、修理などが施されているので、当時のままなのは、この大鎧だけだそうです。





  【武甕槌命・建御雷命】たけみかずち‐の‐みこと 広辞苑
   日本神話で、天尾羽張命あめのおはばりのみことの子。経津主命ふつぬしのみことと共に天照大神の命を受けて出雲国に下り、
   大国主命を説いて国土を奉還させた。国譲り神話。鹿島神宮はこの神を祀る。

  【武甕槌命・建御雷命】たけみかずち‐の‐みこと
   古事記では、伊弉冉尊いざなみ‐の‐みことが、火の神の迦具土神かぐつち‐の‐かみ(火産霊神ほむすびのかみ)を産み、
   それが元で焼死した。伊弉諾尊いざなぎ‐の‐みことは、母を焼死させたとして、火の神を切った。
   その際、剣にほとばしった血から生じた神。

  【赤糸縅】あかいと‐おどし
   鎧よろいの縅(「緒通し」の意。「縅」は国字、もと「威」と当てた)の一種。茜あかね染めの組糸でおどす。
    ※ 鎧の部品を赤い糸 (当時は紅花で染めた)で、繋いだもの。


  春日大社 特別展 『刀剣と甲冑』 ~2014年2月26日まで 
  朝日新聞 13.12.04 朝刊 『第2大阪 古都ナビ 黒韋威矢筈札胴丸 』 より抜粋、再編集

  全国に17領ある国宝の鎧のうち、3領が春日大社にあります。今春、南北朝時代の鎧が1千ヵ所の大修理を終えて公開。
  楠木正成 奉納と伝わる「黒韋威矢筈札胴丸 くろかわおどし-やはすざね-どうまる」は、「胴丸」と呼ばれる鎧のうち、
  胴、兜、大袖の3点が揃った一式のものとしては最古級とされます。

  裾にあたる草摺くさずりは8枚に分かれており、下級武士の鎧だった胴丸を、その動きやすさから上級武士も採り入れ、
  兜、大袖と合わせて身に付けるようになったといいます。

  兜の内側、頭を支えるクッション材を外すと、内側に「大」の一文字が出てきたのです。岡山県の林原美術館所蔵の
  重要文化財の胴丸にも同じ文字があり、両方とも奈良の甲冑師の工房で作った事を示す刻銘とみられます。


  式年造替で、20年に1度の国宝の本殿特別公開 2015年4月1日~5月31日まで  毎日放送 ちちんぷいぷい 15.04.30 放送

   春日大社では2015年3月27日式年造替の為、神様が本殿から仮御殿に移られた事もあり、国宝の本殿を特別公開しました。
   普段、神職と皇族の方々しか入れない『雲井の橋』の奥にも入れ、絵馬の原型となったとされる壁絵『絵馬板』が見られました。






  本殿が建てられている場所は向かって左側が低く高低差があります。「神様の土地に手を加えてはいけない」ので、
  土地を均さず、建物の土台に井桁いげたを加えて水平にする建て方をしているそうです。


  ≪ 興福寺 ≫ こうふく‐じ 奈良県の幻の柿 御所柿 信長がお取り寄せした柿。 興福寺の桜を巡る騒動と伊勢大輔

  奈良市にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つ。藤原鎌足の遺志により夫人の鏡王女が山城国山科やましなに創建した
  山階寺やましなでらが起源で、藤原京に移って厩坂寺うまやさかでらと称し、さらに平城京に移されたとされているが、

  実際には藤原不比等が8世紀初頭に現在の地に開創。以来藤原氏の氏寺、大和国領主として僧兵を擁し、久しく盛大をきわめた。
  東金堂・南円堂・北円堂・三重塔・五重塔などがあり、貴重な文化財多数を存する。





  以来 藤原氏の氏寺、大和国領主として僧兵を擁し、久しく盛大をきわめた。東金堂・南円堂・北円堂・三重塔・五重塔などがあり、
  貴重な文化財多数を存する。明治時代の廃仏毀釈により、多くの仏像が売られたり、燃やされたり、壊され廃棄させられた。






  【南円堂】なん‐えんどう
   奈良興福寺の南西隅にある日本最大の八角円堂。813年(弘仁4)藤原冬嗣が父親の冥福を祈って建立。摂関家氏寺信仰の中心。
   西国三十三所第9番の札所。寺内の一つのお堂が札所なのは、非常に珍しいそうです。
   毎年10月17日にだけ開扉しており、不空羂索観音菩薩像が見られるそうです。






  【一乗院】いちじょう‐いん
   奈良興福寺の門跡寺院。970年(天禄1)定昭の創立。大乗院とともに摂関家の子弟が入室して重きをなす。
   明治維新の際、廃院。

  【大乗院】だいじょう‐いん
   奈良興福寺の門跡。1087年(寛治1)隆禅の創立。12世紀末から摂関家の子弟が入室し、一乗院に次ぐ門跡となった。
   明治維新の際、廃院。「大乗院寺社雑事記」1450年(宝徳2)より1527年(大永7)に至る大乗院門跡尋尊・政覚・経尋の
   3代の日記など中世史料が多く伝わる。


  ≪ 関東の藤原氏系の重要神宮 ≫  Wiki 鹿島神宮 Wiki 香取神宮 Wiki 布都御魂

  奈良時代の東国は静岡県・長野県より東の関東を中心とした地域。西国は畿内 (兵庫県の東部) より西の地域すべて。

  720年の『日本書紀』に記載されている神宮は、伊勢神宮と石上神宮(物部氏末裔の石上氏)のみ。
   元々の神宮が付くのは、この2社のみ

  927年撰進(967年施行)の『延喜式』神名帳では伊勢神宮と、藤原氏所縁の鹿島神宮、香取神宮が3社のみが「神宮」と
  なっています。石上神宮は『延喜式』では「石上坐布都御魂神社」との記載。

  これは平安時代に藤原氏の権力が強くなって石上神宮が外され、鹿島・香取の両神宮を東国支配の拠点とした為と
  考えられます。特に鹿島神宮は軍神と崇められる「武甕槌神」を主祭神として祀った事も大きい。

  しかし、平安時代は神宮より、近畿にある二十二社 (伊勢神宮と石上神社含む) の方が重要な神社でした。
  神社の格付けは官幣 (大社・中社・小社) と国幣 (大社・中社・小社) 。
  「神宮」は格ではなく称号、社格は神宮も大社に含まれます。明治時代の鹿島神宮は社格は官幣大社です。
  天皇と強い外戚関係にある氏族を祀った神社が「神宮」と名乗っているようです。

  また鹿島神宮の方が 香取神宮より古いようです。春日大社は鹿島神宮と全くの同格 (官位及びの昇格年など) ですが、
  二十二社に入ってるので重要視されていました。

  日本の重要神社 二十二社とは   浅草寺の創建について)






  【鹿島神宮】かしま‐じんぐう
   茨城県鹿嶋市宮中にある元官幣大社。祭神は武甕槌神 (建御雷神)たけみかずちのかみ。経津主神ふつぬしのかみ
   天児屋根命を配祀。古来軍神として武人の尊信が厚い。常陸国一の宮。

  鹿島神宮の創建は神武天皇元年とされ、関東で最古の神社と言われる事もあるようです。
  鹿島神宮にある大太刀の「布都御魂剣」は奈良時代頃に作られたと考えられている複製品ですが、刀剣としては
  最古級なので国宝に指定。本物は石上神宮にあります。

  ウィキペディアによると、鹿島神宮の社領は500石で、徳川家康によって1500石加増され江戸時代には2000石になりました。

  江戸時代中期の『和漢三才図会』の記述がある各社の社領(伊勢神宮は記述無し)では、日光東照宮が1万4713石でトップ。
  昔からある神社では、石清水八幡宮が7040石、出雲大社5000石、上賀茂神社2700石、住吉大社2167石、安房大社2000石
  などがあります。藤原氏の力が衰えてから徳川家康が関東に所領を持つまでは、畿内の大社より重要視されていなかった
  事が所領の規模からも分かります。

  【韴霊・布都御魂】ふつ-の-みたま (フツは断ち切るさまをいう)
   日本神話で、天照大神 (および高木神) の神慮により、神武天皇が熊野の人 高倉下たかくらじから受け、国土を平定した
   という霊剣。石上神宮の祭神。

  高倉下は、神武天皇の東征中に出会った物部氏の祖先神である饒速日命にぎはやひのみことの御子で、尾張連の祖。
  布都御魂の剣は、高倉下が建御雷神から直接授かったものです。

  石上神宮の拝殿は平安時代の1081 (永保1) 年に造営され、現在は国宝に指定されています。 石上神宮
  この拝殿の中は何人も入れない「禁足地」であり本殿があります。この禁足地から「布都御魂剣」が発見されているようです。





  鹿島神宮と香取神宮に地震を起こす大鯰の頭を押さえる鎮石と言われる「要石」があり、2つは地下で繋がっていると
  されており、利根川河口を隔てて両神社が建てられています。

  【香取神宮】かとり‐じんぐう
   千葉県香取市にある元官幣大社。祭神は経津主神ふつぬしのかみ(斎主命)。古来、鹿島神宮と共に軍神として尊崇された。
   下総国一の宮。

  経津主神の「フツヌシ」は「祀主いわいぬし」という意味で、鹿島の神の斉主 (祭主) だったと考えられています。
  その為、両神社は一体として語られる事が多い。

  「中臣氏の関東発祥説」は嘘を読む前に、当時の時代の背景や流れを把握しておきましょう。
  知りたい一部分だけを簡単に知ろうとすると騙されやすい。だからテレビやウィキペディアの誤情報に騙されるのです。


  ≪ 各氏族が東国へ進出 ≫ Wiki 安倍文殊院  東京付近の関東の歴史

  奈良時代後半から平安時代にかけて、各氏族の東国への本格的な進出が始まります。
  例えば、東北に「阿部 (安部)」姓が多いようですが、「アベ」姓の発祥は奈良県桜井市で安倍文殊院に祀られている
  安倍倉梯麻呂に由来します。近畿から東北に進出。

  倉梯麻呂は左大臣 (当時の政治のトップ) 。安倍文殊院は645年頃建てられた広大な安部寺の一部。
  文殊院西古墳は倉梯麻呂の墓とされており、キトラ古墳、高松塚古墳、石舞台古墳などと並び全国で7件しか指定
  されていない特別史跡古墳の一つ。
  安陪晴明が天文観測を行ったという言われる場所や、安部仲麻呂の歌碑などもあります。






  その後、九州は中国地方にも進出。違う漢字を使う事でそれぞれ区別。福岡県~大分県に多い「安倍」。
  大分県に集中するのが「安辺」。福岡県に集中するのが「安陪」。

  【安倍倉梯麻呂・阿倍倉梯麻呂】あべ‐の‐くらはしまろ (生年未詳~649) コトバンク
   7世紀前半の官人。阿倍内麻呂と同一人物で摩侶とも記す。推古朝の大夫阿倍鳥の子で,『公卿補任』には大鳥大臣と
   号したとある。
   推古32 (624) 年蘇我馬子の命を受け,葛城県を譲与するよう奏請。推古の死後には蘇我蝦夷と後継天皇を決める会議を
   共催し,田村皇子(のちの舒明天皇)を擁立。
   大化1 (645) 年の乙巳の変 (大化の改新) 後,左大臣に就任した。なお娘の小足媛が孝徳妃となって有間皇子を生み,
   橘娘が天智妃となって飛鳥皇女,新田部皇女を生んでいる。大化4年四天王寺 (大阪市天王寺区) に仏像4体を安置して
   霊鷲山を作り,また『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』には斉明朝に百済大寺造寺司となったとある。


  ≪ 小野氏は滋賀県大津市が発祥の地 ≫  Wiki 尊卑分脈  Wiki 小野篁  Wiki 小野小町

  その他の貴族も同様です。「小野小町の東北出身説」も「中臣氏の関東発祥説」と同様の勘違いによる嘘です。

  近江国滋賀郡小野村 (現在の滋賀県大津市小野) に、孝昭天皇の末裔が住み着き、地名の「小野」を名乗ったのが始まり。
  大津市小野には小野妹子の墓と言われる唐臼山古墳があります。
  奈良時代に遣唐使として小野妹子が選ばれて以降、小野一族から多くの外交官を輩出しました。

  【孝昭天皇】こうしょう-てんのう
   記紀伝説上の第5代の天皇。第4代の懿徳いとく天皇の第1皇子。名は観松彦香植稲みまつひこかえしね






  【小野】おの
   姓氏の一つ。古代の豪族。姓は臣。八色の姓で朝臣。近江国滋賀郡小野村より起こると伝え、山城国愛宕郡小野郷
   などに勢力をもつ。

  平安前期の小野小町は出羽郡司である小野良真 (篁) の娘ではないかと言われています。
  小野良真は、『尊卑分脈そんぴぶんみゃく(室町時代初期 1377~1395年に編纂)』には小野篁の息子とありますが、
  小野小町の生誕地も含め、はっきりとした確証の記述ではないとも言われています。

  国司は中央から諸国に赴任させた地方官。
  郡司は国司の下で郡を治めた地方官で地方の有力者が任命される事が多かったようです。
  尊卑分脈の記述が正しければ、秋田県湯沢市の生誕説が有力となりますが、小町は後宮女官だった可能性が高い
  事などから考えると、秋田県生まれの育ちの女性が女官に成れる可能性は非常に低いです。

  嫡流系は畿内に在住しており、一時的に派遣されただけで、また都に戻るのが普通。
  傍流が土着の地方豪族となっていくわけですが、家柄制度が基本なので、地方豪族が都の要職に就く事はほとんど
  ありえません。

  平安時代は京都市山科区小野あたりに小野一族は住んでいました。991年に創建された随心院には、小野小町の
  化粧けわいの井戸や、貰った恋文などを祀った文塚などがあります。

  【国造】くに-の-みやつこ (「国の御奴」の意)
   古代の世襲の地方官。ほぼ1郡を領し、大化改新以後は多く郡司となった。
   大化改新以後も1国一人ずつ残された国造は、祭祀に関与し、行政には無関係の世襲の職とされた。

  【小野篁】おの-の-たかむら (802~852) 参議  岑守みねもりの子。
   平安前期の貴族・文人。遣唐副使に任命されたが、大使 藤原常嗣の専横を怒って病と称して従わず、隠岐に流され、
   のちに召還されて参議。博学で詩文に長じた。「令義解りょうのぎげ」を撰。野相公。野宰相。

  小野道風 (平安中期の書家、894~966) は醍醐・朱雀・村上の3人の天皇に仕え和様の基礎を築いた人で、小野篁の孫。
  道風の兄の小野好古 (884~968) は山陽道捕使に任命されて藤原純友も追討し、参議。
  参議という役職は朝廷の会議に出席する中納言に次ぐ重要職で普通8人。(都に定住している事になります。)

  小野小町は、京都在住の小野一族の主流派の家出身と考えるのが一般的だと思います。


  ≪ 「中臣氏の関東発祥説」は嘘 ≫ Wiki 常陸国風土記  Wiki 牧岡神社 Wiki 大中臣氏

  中臣氏の関東発祥説というのがあり、その根拠は鹿島神宮の祭神が建御雷神・天児屋根命だからのようです。

  中臣氏の先祖神は天児屋根命であり、天孫降臨の従者の一人。
  建御雷神は藤原氏 (朝廷) が、軍神として最重要視しただけであり、中臣 (藤原) 氏との血縁関係はありません。

  713年の詔に基づき、養老年間 (717~724) に撰進された『常陸風土記』。
  藤原不比等の3子 (鎌足の孫) で、常陸守に任命された藤原宇合 (694~737) が編纂に関与したと思われています。

  『常陸風土記』には「天地あまつちの初め高天原に天つ神が会合して降した神が香島天之大神である」とあります。

  【常陸風土記】ひたち‐ふどき
   古風土記の一つ。1巻。常陸国11郡のうち、河内(逸文あり)・白壁(のちの真壁)の2郡を欠く9郡の地誌。
   713年(和銅6)の詔に基づいて養老(717~724)年間に撰進。文体は漢文による修飾が著しい。常陸国風土記

  神話の森 『日本の神話 「口訳・常陸国風土記」』 http://nire.main.jp/rouman/sinwa/hitatihudoki.htm

  『常陸風土記』の「八、香島郡 霰ふる香島の国 鹿島の神」」には
  淡海の大津の大宮(天智天皇在位668~671の御世)に初めて使ひを遣はして、神の宮を造らせた。
   とあるので、鹿島神宮の創建は大化の改新後という事になりそうです。
   但し、それ以前の古墳時代から祀られていたと思われる記述もあります。
  毎年七月に、舟を造って、津の宮(霞ヶ浦浜の分社)に奉納してゐる。そのいはれは、昔、倭武の天皇の御世に、
  天の(香島)大神が、中臣の巨狭山命に、「今、御舟を仕へまつれ」とおっしゃった。これが舟の奉納の始まりである。

  コトバンク 『大鹿島命おおかしまのみこと』 朝日日本歴史人物事典の解説
  中臣氏の伝説上の先祖。『日本書紀』垂仁天皇25年の条に,5人の重臣(五大夫)のひとりとして,阿倍臣,和珥臣,物部連,
  大伴連らの先祖と共に現れている。『皇太神宮儀式帳』(804年成立)は,倭姫による天照大神伊勢神宮鎮祭の際,
  この五大夫が御送駅使に任じられたと記さる。
  『尊卑分脈』所載藤原氏系図の垂仁天皇代に「国摩大鹿嶋命」がみえる。
  その子に「巨狭山命」があるが,これは『常陸国風土記』に出てくる「巨狭山命」である。おそらくこのオオカシマの名は,
  常陸の鹿島(茨城県)に関連のある名で,常陸の卜部を通し中臣氏の系譜中に取り込まれたものと思われる。

  【垂仁天皇】すいにん‐てんのう 崇神天皇 (第11代の天皇) の第3皇子。
   記紀伝承上の天皇 (第11代の天皇)。名は活目入彦五十狭茅いくめいりびこいさち

  【卜部】うら‐べ
   古代、諸国の神社に属し、卜占ぼくせんを職務とした神官。
   律令制下で神祇官に属したものもあり、代々世襲してト部氏を称し、後世、学者も輩出。
   ※ 役職から派生した姓なので、各地のト部氏間に血縁関係はないと思われます。

  コトバンク 『中臣部』
  中臣氏の部曲(かきべ)。『日本書紀』天智(てんじ)天皇10年(671)三月条に「常陸(ひたち)国、中臣部若子貢(たて
  まつ)る」とある。『常陸国風土記(ふどき)』には、己酉(つちのととり)年(649年=大化5)「大乙上中臣□子、大乙下
  中臣部兎子(うのこ)」らが天(あめ)の大神(おおかみ)の社(やしろ)(鹿島(かしま)神宮の祭神)、坂戸(さかと)社、沼尾
  (ぬまお)社(両社とも鹿島神宮の摂社)をあわせて香島の天の大神といい、この神の鎮座する神郡香島郡の建郡を
  伝え、また746年(天平18)3月に常陸国鹿島郡の中臣部20戸が中臣鹿島連(むらじ)と改氏姓していることからも
  (続日本紀(しょくにほんぎ))、常陸の中臣部は中臣氏の斎(いつ)く鹿島神宮の祭祀(さいし)に携わっていた部曲で
  あることがわかる。
  なお中臣部は常陸のほか美濃(みの)、下総(しもうさ)、下野(しもつけ)、越前(えちぜん)、越中(えっちゅう)、筑前(ちく
  ぜん)、豊前(ぶぜん)にも設定されていた。

  常陸国の「中臣部なかとみべ」という神官の職の人たちが中臣氏を名乗ったのは746年なので、鎌足(614~669)年より
  後の事。鎌足の先祖である中臣氏は大中臣氏と藤原氏(鎌足の子孫)という事になります。

  Wiki 大中臣氏

  畿内の中臣氏 (鎌足も含む) が神官の長で、諸国の中臣部は配下であり、鎌足とは血縁が無かったと思われます。
  鎌足以後の藤原氏が関東・東北利権を有利にする為に常陸国の中臣部の卜部氏を取り込んだと解釈できます。


  『日本の神様読み解き事典』の「鹿島大神」によると、第三十六代孝徳天皇のとき、中臣鎌子が海上国造と
  那賀国造から地を割かせて神郡を置き、この大神のあることから香島郡と命名したという。のち藤原氏によって
  建御雷神が代位された となっています。

  同書「香取神宮」にはまた建御雷神・経津主神の両神とも、中臣(藤原)氏の氏神で、春日大社の主祭神の
  一神でもある。おそらく、鹿島神宮・香取神宮ともに、藤原氏が東国(関東・東北)経営の守護神として尊崇して
  きたもので、朝廷から特別に遇された神宮でもあった。 と書かれてあります。

  同書「春日大社」には社伝によると、奈良時代前期の元明天皇和銅二年(709)、平城京の造営に際し。右大臣
  藤原不比等が鹿島の神(建御雷命)を氏神と崇め、天皇の御為に春日の三笠山に遷宮し、地名から春日大明神と
  称したのに始まる

  春日大社の創建は、『皇年代記』と1234年の『古社記』の記述から768年の旧暦11月9日のようです。

  日本の神様読み解き事典 柏書房 1999年初版、著者は川口謙二 (東京生まれ、1923~1999年法政大卒)
   神奈川県教育丁文化財保護課主幹、横浜市文化財総合調査会などの団長など。
  この500ページ以上の事典では、色々と細かい神様や神社についても解説がありますが、不思議な事に何故か「石上
  神宮」と「牧岡ひらおか神社 (旧官幣大社で、河内の国一宮) という重要な神社の単独のまとめ解説がありません。


  つまり鹿島神宮の元々の祭神は、常陸風土記によると「高天原から下った香島天之大神」で、後に藤原氏によって
  建御雷神に代位され、その後に天児屋根命 (江戸時代中期の和漢三才図会に記述はありませんので、それ以降という
  事になります。) も配神されたのです。

  天児屋根命を祀る旧大社格は、鹿島神宮などを除くと、東大阪市の牧岡神社 (旧官幣大社) と春日大社の2社。
  春日大社の第三殿の祭神となっている天児屋根命と第四殿の祭神の比売神は牧岡大社から勧請されたもので、
  牧岡 (平岡あるいは枚岡) 神社は「元春日社』とも言われています。

  春日大社の第一殿の祭神である建御雷神は鹿島神宮、第二殿の祭神の経津主命は香取神宮から勧請。
  元々、鹿島神宮に天児屋根命が祀られていたとすれば、牧岡大社からではなく、鹿島神宮から勧請しているはずです。

  牧岡神社 (河内の国一宮) は神武即位前3年、中臣氏の祖の天種子命あめのたねこのみことが、天皇の命で神津岳の頂に
  祖神の天児屋根神を祀ったの創建のようで、中臣の先祖神の天児屋根命を最初に祀った神社の可能性が高いです。
  第一殿が天児屋根命。建御雷神も祀っていますが、第四殿なので後に祀られたものと思われます。


  1712年の『和漢三才図会』(著者は大坂の医師、寺島良安) 六十六巻「上野・下野・常陸・上総・下総・安房」の
  「常陸」には、鹿島大明神 鹿島郡 祭神 武甕槌神

  同巻 「下総」には、香取大明神 香取郡 祭神一座 濟主イハヒヌシ ノナリ 一名 經津主

  同書 七十三巻「大和」の「○上ソウノカミ ノ」には、
   春日社 三笠山麓春日 祭神四座 第一 武甕槌命、 第二 經津主命、
   第三 天児屋根命 ト部 中臣 藤原 諸氏之祖也、 第四 姫太神 高皇産霊尊ノ女むすめ瓊瓊杵尊之母神

  同書 七十五巻「河内」の「河内郡」には、
   平岡大明神 在生駒山麓 祭神四座 天児屋根命 ○不合尊 大国主神 天照太神
   若宮一座 天押雲命 天児屋根命之子ナリ 

  となっており、江戸時代中期において、中臣氏の先祖神である天児屋根命は鹿島香取の両神宮には祀られていない
  事が判明しました。

  『和漢三才図会』は様々な事が乗っている江戸時代の総合百科事典で105巻81冊あり、江戸時代に書かれた書の中で
  最も多岐に及ぶ記述で、時代考証文献の中でも最も信頼性が高い書です。(間違いが無いとは言えませんが)
  「地の部」と呼ばれるカテゴリーでは、日本各国の神社仏閣 (石領や由来なども) が非常に詳しく載っています。


  【枚岡神社】ひらおか-じんじゃ 広辞苑
   東大阪市出雲井町にある元官幣大社。枚岡連の族が祖神である天児屋根命・比売神ひめがみ (女神や配偶神の事)
   祀ったのに起こり、のち、武甕槌たけみかずち。斎主いわいぬしの2神を併祀したという。河内国一の宮。

  鹿島神宮が東国経営の為の守護神社であった事を裏付けるように、末社が関東~東北にかけて多く存在しており、
  平安時代中期の貞観年間(859~877)には宮城~福島の海岸寄りの街道の一区画に38社もあったという記録が残されて
  おり、その内の数社は『延喜式の神名帳』にも記載されています。


  中臣鎌足の生誕地にも異説が多数あり、白河天皇(在位1072~1086)時代に成立した『大鏡』には常陸国鹿島(茨城県
  鹿嶋市)の記述があるようです。
  1377~1395年に編纂の『尊卑分脈』では、鎌足の母親は大伴氏の大伴智仙娘 (奈良県明日香村に墓・円墳) があります。

  DonPancho 『大原の里 「中臣鎌足生誕の地&その母・大伴夫人が眠る里」』 http://www.bell.jp/pancho/travel/asuka-ji/ohara_no_sato.htm
  Don Pancho 『新飛鳥路巡り 「大原の里」』 http://www.bell.jp/pancho/travel/asuka-ji/ohara_no_sato.htm
  伝承によると、中臣鎌足の生誕地は奈良県明日香村小原。

  中臣氏は代々神祇官で祭祀を司っていた家系なので、関東を本拠地にしている可能性はまずありません。
  藤原氏の東国進出利権の正当性を高めるために、関東本拠地説を後に作ったと考えるべきでしょう。
  また、古代~平安時代までは妻問婚つまどいこんという婚姻形態であり、母親の実家で出生し養育されます。
  中臣鎌足の母親は大伴智仙の娘とされていますので、奈良で生まれたとみるべきべしょう。 Wiki 妻問婚

  【大鏡】おおかがみ
   歴史物語。3巻本・6巻本・8巻本がある。著者未詳。白河院院政期の成立か。
   文徳天皇から後一条天皇まで14代176年間の歴史を紀伝体にし、藤原道長の権勢を叙述する。
   大宅世継おおやけのよつぎ・夏山繁樹なつやましげきという2老人が対談し、若侍が傍で批評するという構想。世継の翁が物語。

  Wiki 神八井耳命  Wiki 多氏  Wiki 多坐弥志理都比古神社 (奈良県磯城郡田原本町にある神社)

   大阪府高槻市にある藤原鎌足の墓 鎌足の遺骨と死因につながる怪我の跡  Wiki 大中臣氏  Wiki 藤原鎌足

  【阿武山古墳】あぶやま-こふん
   大阪府高槻市と茨木市の境にある7世紀の墳墓。1934年石室内の夾紵きょうちょ (奈良時代に唐から伝来した漆工技法)
   棺から、玉枕や金糸などとともに男性の遺体を発見。藤原鎌足の墓とする説もある。


  摂津国一の宮は住吉大社。他に摂津国の旧官幣大社は生國魂神社と水無瀬神宮。
  和泉国一の宮は大鳥神社で、大阪の旧官幣大社は牧岡神社を含めて5社だけのようです。 Wiki 大鳥大社
  その大鳥神社は、中臣氏の一族であった大鳥連がその祖神を祀ったのが始まり。(大鳥連祖神=天児屋命)

  官幣=政府保護で明治以降は宮内省から奉献。一の宮というのは、各国で第1位の格がある神社で最初に参詣する神社。
  国幣=現在で言うと都道府県の知事が奉献した神社で、官幣より格下になります。

  武蔵国一の宮は、埼玉県さいたま市大宮の氷川神社 (旧官幣大社)。

   関東の鷲おおとり神社と、堺市の大鳥神社の関係。 日本各地に残る民間伝承の稲作の起源伝説との関係

  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『奈良にも深刻な問題があった件』 13.04.17 放送






  奈良は景観法により、興福寺の五重塔より高い建物を建てられず、地面を掘れば遺跡が発掘されるのが常なので、
  大きな建物が建てられません。その為、ホテルやショッピングモールなどの巨大施設は建設できません。
  観光客は年間3300万人いますが、飲食店数は日本で最下位。


  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『旧石器時代から縄文へ ~環境の変遷と日本列島~』 13.04.19 放送

  ≪ 縄文時代から、奈良県は日本中の物が集まる先進地域だった ≫

  地面を掘れば遺跡が出てくるのは奈良だけではなく、古くから発展した大阪の南河内や京都も同様。

  縄文遺跡が関東や東北で多く発掘されているので、縄文時代は東日本の方が
  人口が多かったという説がありますが、人は同じ地域に続けて住む傾向がある。
  寺社仏閣やそれに類する歴史史跡が発掘されるとその下は掘れないので、
  縄文時代の遺跡が発掘され難いのです。

  橿原神宮近くで縄文遺跡が発見され、東北文化の土器や新潟県など限られた
  場所でしか採れないヒスイを加工したの宝飾品が出土した事から、これまでの
  通説は覆されました。
  東西交流は活発だった。奈良県橿原はその接点で、当時から日本中の物が
  集まる地域だった。という認識が最新です。

 
 役行者 修験道の祖
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『近畿国宝めぐり 「高野山の紅葉を目指せ8 奈良・吉野 金峯神社~龍泉寺」』 13.10.24 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『走れ!ギモン調査部 「背景に何が!? "女人禁制"のナゾ」』 18.05.11 放送 / Wiki 役小角

  【役行者】えん‐の‐ぎょうじゃ 役小角えんのおづの・えんのしょうかく。役の優婆塞うばそく

   7世紀後半から8世紀にかけての山岳修行者。修験道(山伏)の祖。伝説や
   謎だらけの人物。たくさんの弟子がいた。大和国南葛城郡の出身、葛木山に
   住んで修行、金峰山きんぶせん・大峰山・高野山・箕面山など吉野から摂津、
   近畿一帯の山々を踏破し開拓。

   699年、韓国連広足からくにのむらじひろたりの讒ざん(敵意ある悪口を言って人を
   おとしいれること)によって伊豆に流された。

   「続・日本書紀」の699年(文武天皇3)5月24日の条くだりによると 
   弟子の所為で、「世俗を惑わす妖言を吐いた」という理由で伊豆への流刑に
   あう。701年(天宝元年)、68歳で許されて都へ戻る。


忍者の兵糧丸
   同年6月7日、摂津国の箕面山から昇天。(肥前国の平戸から入唐したなどの説もある)
   この流刑期間中に富士山を踏破開拓したとも言われる。
   平安中期以降に様々な伝説が作られていった。1799年(寛政11)、光格天皇の勅旨で神変大菩薩しんぺい-だいぼさつ
   諡号される。

  【大峰】おおみね 大峯
   奈良県吉野郡十津川の東の山脈。最高峰は八剣山(仏経ヶ岳)1915m。重畳して和歌山県熊野に及ぶ。
   修験道の根本霊場。

  【大峯奥駈道】おおみね-おくかけ-みち
   吉野~熊野を結ぶ約87㎞の尾根道 (谷と谷との間の山地突起部の連続の道、山の稜線)

  【大峰入】おおみね‐いり、みねいり
   修験者が大峰に入って修行すること。 熊野から入るのを「順の峰入」、吉野から入るのを「逆の峰入」という。


  ≪ 女人結界にょにん‐けっかいのルーツ ≫ 仏教と神事が合わさった日本的な発想のようです。

  女人決壊とは、霊場の一定区域を限って信仰上けがれ多いものとして女性の入るのを禁ずること。

  佛教大学の川内教彰 教授によると、「神社の場合は、とにかく清浄性重視で"死"と"血"の穢れを特に忌避する。
  そういったもので穢すと自然災害や祟りがくると考えられていました。仏教には"血盆経"という経典があり、女性が
  お産であったり、月の障りであったり流す血が巡り巡って聖なるものを穢す。…」この血盆経は尼僧が広めたそうです。

  金峯神社から500m行くと青根ヶ峰の女人結界の碑が建っており、昭和45年まで女性は、この先は立ち入り禁止でした。
  さらに進むと五番関の女人結界門があり、こちらの先の道は現在でも女性の立ち入り禁止。
  (差別ではなく、危険が多い道だからです)






  この辺りで修行していた役行者を心配して、母親が様子を見に来ていました。ある日、母親が大蛇に威嚇され前に進め
  なくなる事がありました。そういう出来事があった為、山のふもとに小さな小屋を建て、母親とはそこで会うようにしました。
  現在「母公堂」として奉られています。
  しかし、それでも母親はしばしば役行者の後を追ってきます。
  母親が危険な地に足を踏み入れないように結界門を作り「女人禁制」にしました。

  明治時代に欧米の影響によって高野山などは女人禁制が解除されました。






  石上神宮の拝殿は平安時代の1081 (永保1) 年に造営され、現在は国宝に指定されています。
  この拝殿の中は何人も入れない「禁足地」であり本殿があります。






  権禰宜の市村健太さんよれば、「神様が静まっている場所に足を踏み入れてはならない神聖な土地。どういった事で女人
  禁制などが始まっているのか歴史の部分を鑑みてもらう必要があるのかなと思いますね。」

  【石上神宮】いそのかみ‐じんぐう
   奈良県天理市布留町にある元官幣大社。祭神は布都御魂大神ふつのみたまのおおかみ。二十二社の一つ。
   布留社ふるのやしろ。所蔵の七支刀が著名。

  鹿島神宮に布都御魂剣のレプリカがある事などから考えると、
  奈良時代、藤原氏によって布都御魂剣を奪われないように土中を隠し禁足地としたのが始まりとも推測できます。

  関東の藤原氏の重要神宮  石上神宮 泉佐野市 大峰山より早くに開山された「日本最古の霊場」大阪府の犬鳴山は女人OK
  
 奈良時代 五畿七道 と 平城京
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『聖武天皇・行基 ~大仏はなぜ造られたか~』 14.05.07 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『平城京の時代』 14.05.23 放送

  【奈良時代】なら-じだい
   平城京すなわち奈良に都した時代。元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の7代七十余年間 (710~784)。
   美術史では白鳳時代を奈良時代前期、この時代を後期として、天平時代ともいう。奈良朝。

  【白鳳時代】はくほう-じだい
   日本文化史、特に美術史の時代区分の一つ。飛鳥時代と天平時代との中間。7世紀後半から8世紀初頭まで。
   中でも壬申の乱(672年)後の天武・持統朝では、天皇の権威が確立し、律令の制定、記紀編纂の開始、万葉歌人の輩出、
   仏教美術の興隆など、初唐の文化の影響の下に、力強い清新な文化を創造した。

  【天平時代】てんぴょう-じだい
   奈良時代後期、すなわち平城(奈良)に都のあった710(和銅3)から平安遷都の794(延暦13)までの時代を指す。
   文化史、特に美術史で、天平年間を最盛期と見ての呼び方。





  【五畿七道】ごき-しちどう Wiki 五畿七道 元は、四畿で河内が、河内と和泉に分けられました。
   古代日本の律令制における、広域地方行政区画。北海道、沖縄を除いた日本列島の事。
    東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道

  【畿内】
   中国の古制で、王城を中心とする四方500里以内の特別行政区。
   日本では歴代の皇居が置かれた大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国。 奈良、京都南部、大阪、兵庫東部 の事。



710年に藤原京から平城京へ遷都


聖武天皇の時代に平城京
から恭仁京 → 難波宮 →
紫香楽宮 → 平城京へと
都を移しました。



784年、桓武天皇の時に
平城京から長岡京へ遷都。
794年に長岡京から平安京
へ遷都。


 ≪ 平城京 ≫ へいじょう‐きょう   Wiki 平城京
   第41代 元明天皇の710年(和銅3)に藤原京から移って、第50代 桓武天皇の784年(延暦3)に長岡京に移るまでの都。
   奈良の都。

   京域は今の奈良市から大和郡山市に及び、主要部(左京・右京)は、東西は約4.3キロメートル、南北は約4.8キロメートル。
   南にある羅生門 (羅城門) が平城京の入り口。広さは東京ドーム513コ分。唐の長安城を手本に当時の最新技術を持って
   作られた都市。
   朱雀門より北端中央を平城宮とし、その南面中央から南下する朱雀大路の東側を左京、西側を右京、左京の東側への
   張り出し部分を外京と呼ぶ。




   各京は縦横に走る大路によって碁盤目ごばんめ のように区切られ、左京・右京とも東西は各4坊(外京は左京五坊から七坊まで)、
   南北は各9条(外京は一条から五条まで)としたが、右京は北端に半条の幅の北辺坊ほくへんぼうを張り出していた。
   都が長岡京(京都南部)、ついで平安京(京都市)に移ると、京域の大半は田園となり、外京の跡のみが中世に門前町
   として残った。


  【元明天皇】げんめい‐てんのう(661~721)名は阿閉あべ。 天智天皇の第4皇女。草壁皇子の妃。  Wiki 元明天皇
   奈良前期の女帝(在位707~715)。文武・元正天皇の母。
   都を大和国の平城(奈良)に遷し、太安万侶おおのやすまろらに古事記を撰ばせ、諸国に風土記を奉らせた。

  平城京に遷都する事は藤原不比等が中心になって進めた
  ようです。
  文武天皇と不比等の娘の間に生まれた首おびとの皇子
  (のちの聖武天皇)は、皇族同士の子でなかったので
  継承権は低かった。

  そこで不比等は自ら中心となり遷都を進める事で藤原氏の
  勢力拡大を計りました。


  【藤原不比等】ふひと(659~720) 鎌足の次子。光明皇后の父。
  奈良時代の貴族。右大臣。大宝律令の制定に加わり、養老律令の制定を指導して律令制度の確立に努めるとともに、
  藤原氏隆盛の基礎をつくった。藤原氏四家の祖


  【平城宮】へいじょう‐きゅう (ナラノミヤとも)
   元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武の諸天皇の宮城。
   宮域は平城京の北端中央を占め、一辺が約1.1キロメートルの方形の主要部と、その東側に東院とういんと呼ばれる
   東西約0.3キロメートル、南北約0.8キロメートルの張り出し部がつく。
   宮域内の内裏・大極殿・朝堂院や諸官庁の遺構は、1959年以来、発掘調査が続けられ、何度もの改築の跡が認められている。





  平城宮の中は大内裏と呼ばれ、大極殿などがある。平城京の大極殿は、平城京遷都1300年を機に2010年に復元したもの。
  道路脇の溝に捨てられた汚物は川の水で流される仕組みであったが、想定量より汚物・排泄物が多かったため流れず、
  悪臭が酷かった。長岡京に遷都した大きな理由の一つとして、この悪臭の酷さも原因と考えられているそうです。

  【大極殿】だいごく‐でん、ダイギョクデンとも。 旧称、大安殿おおやすみどの
   古代、大内裏だいだいりの朝堂院(八省院)の北部中央にあった正殿。殿内中央に高御座たかみくらを置く。
   ここで天皇が政務を執り、または賀正・即位などの大礼を行なった。
   平安京のは東西11間、南北4間。碧瓦で棟の両端に金銅こんどうの鵄尾しびがあり、前方の東西に蒼竜・白虎の二楼を置く。
   丹楹粉壁たんえいふんぺき 。1177年(治承1)焼失、再び造営されなかった。

  【朱雀門】すざく‐もん
   平城京・平安京大内裏の外郭十二門の一つ。宮城南面中央にある正門。
   朱雀大路から宮城に入る入口。
   唐の都、長安の皇城門の名を踏襲。もと大伴門おおとももん とも称した。南門。

  【羅城門】らじょう‐もん / 【羅生門】らしょう‐もん
   平城京・平安京の正門。朱雀大路の南端にあり、北端の朱雀門と遥かに相対する。
   平城京の羅城門跡は奈良県大和郡山市来生らいせにあった。
   平安京では東寺の西にあり、二重閣の瓦屋造、屋上に鵄尾しびを置く。
   南北に各5階の石段があった。


  【朱雀大路】すざく‐おおじ
   平城京・平安京の朱雀門から羅城門までの南北に通ずる大路。この大路の東を左京、西を右京とした。
   平城京では幅が約100m。平安京では幅28丈(約84m)、長さ1293丈(約3879m)。

  貴族は大内裏の近くに大きな屋敷を持ち、下級な役人になるほど大内裏から離れた狭い土地に住んでいました。
  羅城門の近くから、朱雀門までは歩いて1時間以上の距離があったそうです。
  朱雀大路では朝から夕方まで市が立ったり、歌垣 (歌を詠み合う男女の交流の会、現在の合コン) の会場になったり
  しました。

   ※ いくつもの皇居を移転したり、持っていたりする古代の天皇は何人もいますので、くわしくは下のリンクサイトでご覧ください。

  おすすめサイト 陵墓探訪記 http://ryobo.fromnara.com/index.html ←  陵墓およびその史跡の画像など多数あります。
 
 帝都を凌ぐ繁栄だった大阪
  『日本国誌資料叢書』の注意点
  当ページの冒頭にリンクしてある全12巻 (12ヵ国) あります。「序」に各国の紹介が書かれてありますが、
  どこの国も過剰気味なリップサービスを含んだ紹介文になっていますので、ある割り引いた認識をする必要があります。
  特に武蔵の「序」に関しては鵜呑みにしないで史実と付き合わせた方がいいでしょう。

  読売テレビ ten. 『「大化の改新」の舞台 難波宮 歴史と全貌を大調査』 20.02.12 放送

  ≪ 平城京より繁栄していた摂津国 ≫ 【津国】つ‐の‐くに … 摂津国せっつのくにの正名。







  日本國誌資料叢書 摂津 大正14年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←大阪府・兵庫県東部の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982141

  其の繁栄 東京を凌がんとする大阪市と、日本第一の開港場たる神戸市とを有する当国は、過去に於いても現在の
  如く最も重要なる位置を各時代時代に占めて居たのである。

  …応神天皇は此国大隅宮に高楼営みて入船出船の繁栄を眺め給ひ、…聖天子仁徳は更に一歩を進めて此国に都
  せられるに至った。此地が種々の意味に於いて優秀であるばかりでなく、大陸経営に最もよい地であるからに違ひない。

  …惜むべし崩御の後 住吉皇子の反乱があって都は又も大和に復ったが、其後に於ても難波や武庫の繁栄は帝都
  以上であったらしい。離宮に大郡小郡、三韓館に唐館、さいは貴族名家の別邸などが大阪湾頭を飾り立てて居た
  のであった。

  中古の初め 孝徳天皇は再び此地に都せられた。しかして我国史中 特筆大書すべき大化改新の勅が此地から発せ
  られたのである事を注意せねばならぬ、その後 都は他に遷ったが、なお永く別都としての施設を有し、都と同様
  摂津職によって治められて居たのである。都が平安に移ってからも その繁栄は衰えない…。

  …武家が勢力を得る時代に至っても此国の地位は依然たるものであった。源家の元祖源満仲は此国 多田に住み、
  初めて武家の世とした平相国 (平清盛) は此国 福原に居を占め、遂には都をも遷したのである。

  平清盛が築港運河等の事業、豊臣秀吉が大坂城、石山本願寺などがあった。
  徳川時代には契沖、近松門左衛門、井原西鶴を輩出して文芸の中心となり、天下の経済力を掌握して300諸侯の
  財政を左右した。

  …我国史中において、斯くの如く優秀なる地位を失はなかった国が他に見出す事が出来ようか。
  この点に於いては山城も武蔵も一歩を此地に譲らなければならないと思ふ。しかも其 発達は日に付に天下の耳目を
  聳動しつつあるのである。

  【聳動】しょうどう … 恐れ動くこと。驚かし動かすこと。「世人の耳目を―する」 【耳目】じもく … 注意、注目

  応神天皇…第15代、仁徳天皇…第16代、孝徳天皇 (第36代、在位645~654年) 飛鳥から難波長柄豊碕宮に移す。

  【摂津職】せっつ-しき
   律令制の官司の一つ。難波宮が置かれ外交の要地でもあった摂津国の行政をつかさどった。793年(延暦12)廃止。

  【武庫泊】むこ-の-とまり
   兵庫県の武庫川河口附近にあった古代の港。武庫津。武庫浦。

  【福原】ふくはら
   1180年(治承4) 平清盛が安徳天皇 (第81代) を奉じて一時 新都とした地。今の神戸市兵庫区。
   公家たちの反対が多く、半年で京都に復帰。


  平安時代 最大級の港湾だった『渡辺津』  摂津・河内・和泉の国府など
  難波の宮 飛鳥時代にあった前期難波宮、奈良時代にあった後期難波の宮





  ≪ 河内国は都の一部と目されていた ≫  「河内序」より 旧漢字を新漢字に変換して抜粋してあります。  水都 大阪


  日本國誌資料叢書 河内 大正14年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮)  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982136

  つまり畿内の内 天孫種によつて最も早く開拓されたのは此國であると云はねばならぬ。次いで安寧帝が此国
  片塩浮穴宮に都せられて以来、允恭帝丹北柴離宮に、継体帝樟葉宮に於いて天下を知ろしめされた、
  これ此国のよいにもよるが、又総べての意味に於いて優れた国であったからに違ひない。
  それのみでない模範的女性として仰ぎ奉る幡梭皇后は此国日下の方である。

  又 上古の権臣 物部氏の本居は当国であった、蘇我氏も其祖石川麻呂は此国の人、稲目は此国向原に家居して
  居た、中臣氏もその氏神 牧岡神社がある事によって此国と至大の関係のある事がわかろう。
  その他大学者 王仁、王辰爾、その後裔なる文氏、船氏等 何れも当国に住んで居たのである。

  当時 大和を東と云ふに対し、当国を西と云った、これ広義に於ける帝都の西の部分なるを意味して居たものと
  考へる事が出来る、従って当国は都の東部なる大和と同様、その国名に大字を冠するのが常であった。

  その後 奈良朝に至っても当国 由義宮を以て西都とせられた。かくの如く此國はしばしば帝都となり、
  又 帝都の一部となったのみならず、気候温和で土地が肥沃である為か、面積の狭いのに十数郡を置かれてあった
  事は、他に類例を見ない所であって、当国が如何に繁栄の地であったかが窺われる。

  続きには、源義家など河内源氏3代や南北朝時代の楠正成や和田一族、幕末の天誅組など、各時代で尊王派の
  忠臣の士が多かった事が書かれてあります。  明治維新の魁 天誅組

  安寧天皇…第3代の天皇 允恭天皇…第19代の天皇、継体天皇…第26代の天皇

  河内職かわち-しき
   令外官。称徳天皇の河内由義宮行幸のために重要地化した河内国の特別行政職。769年に設置、770年に廃止。
   河内大夫 (河内職の長官。定員は一人。相当官位は正五位上。)


  「日本」と呼ばれるルーツは東大阪市 (日下) にあった  日本最古の官道 竹内街道
  松原市 反正天皇 (第18代) の皇居があった? 阿保町は阿保親王(在原氏の祖、業平などの父)の住居があったことから
  道鏡 民間人で天皇になろうとした史上唯一の人物 大阪府八尾市の東弓削遺跡で新発見「由義宮」跡か


  1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』(著者は大坂の医師 寺島良安、出版地は大坂) 巻七十五「和泉・紀伊・淡路
  和泉 舊モトハ河内國也 元正天皇 霊亀二年四月割河州大鳥日根出泉三郡置○和泉國

  奈良時代の716 (霊亀れいき2) 年4月に河内国を割って、大鳥・日根・出泉の3郡を置いて和泉国とした。
  類聚国史 (892年成立、菅原道真 編、200巻) に初見される。以上3郡は昔いわゆる茅渟の海のほとりである。
  和泉という名は神宮皇后が新羅征伐の時、地中より泉が湧き出て甘く味が良い清水だったので地名を付けた。
   というような事が書かれてあります。

  江戸時代の河内は15郡、和泉は3郡。郡数は奈良時代からほとんど変わっていないと思われます。


  日本國誌資料叢書 和泉 大正14年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←大阪府南部の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982137

  ≪ 和泉国も最重要歴史を持つ国の一つ ≫

  【茅渟宮】ちぬ‐の‐みや
   ① 允恭いんぎょう天皇(記紀に記された5世紀中頃の第19代の仁徳天皇の第4皇子)の離宮。大阪府泉佐野市上之郷の
    辺という。
   ② 奈良時代、第44代の元正天皇(位715~724年)の頃の海の離宮。和泉宮。今の大阪府和泉市府中町付近にあった。
    奈良時代前半にはこの離宮を中心に和泉監いずみげんという特別行政区を置く。

  和泉監いずみ-げん
   茅渟宮造営管理のために重要地化した和泉国の特別行政職。716年に設置、740年頃停止。
   和泉正 (和泉監の長官。定員は一人。相当官位は正六位下。)
 
 奈良には隠れた『アスカ』の地上絵があった?
  読売テレビ OSAKA仰天ヒストリー 諸説あり !! 第2弾 『関西の名所に諸説あり!! 「奈良にはナスカもびっくりの地上絵があった!?」』 14.09.14 放送

  【大和三山】やまと‐さんざん
   奈良盆地南部にある三つの山。古代の藤原京を囲み、北に耳成みみなし山、東に香具かぐ山、西に畝傍うねび山がある。

  ≪ 奈良県橿原市にも地上絵が存在する? ≫

  番組では「マユツバ」として否定されていましたが、ミステリーとして面白いので珍説を紹介。

  この珍説を唱えるのは、数々の歴史上の謎を研究し著書があるサイエンス・エンターテイナーの飛鳥昭雄さん。

  柏原市木原の東方に孤立してある標高140mの小山があります。きれいな円錐形で『耳が無い頭』に見えたことから耳成山と
  名付けられたと言われています。

  藤原京 (694~710) 跡地には、29ヵ所もの春日神社が密集しており、本殿の向きを線で結んでいくと、耳成山を頭部に見立てて、
  剣と盾を持った人間が浮かび上がってくるのです。






  この春日神社を作り続けたのは物部氏の嫡系で、左大臣まて上り詰めた石上麻呂。
  藤原不比等との政争に敗れ、都が平城京(710~784)に移された後も藤原京の守護として残されました。

  飛鳥さんは、陰陽道では人の形を使って呪術を行う事から、政争で敗れた石上麻呂が藤原氏を呪うための呪詛として
  春日大社を造り続けた。その剣の先は平城京に向いている呪詛だと言います。

  【陰陽道】おんよう‐どう
   古代中国の陰陽いんよう五行説に基づいて天文・暦数・卜筮ぼくぜい・卜地などをあつかう方術。
   大宝令(701年、刑部おさかべ親王・藤原不比等ら編) に規定があり、陰陽寮がおかれたが、次第に俗信化し、
   宮廷・公家の日常を物忌・方違えなどの禁忌で左右した。平安中期以後、賀茂・安倍の両氏が分掌。

  【春日神社】かすが‐じんじゃ 春日大社
   奈良市春日野町にある元官幣大社。祭神は武甕槌命と ・斎主命 (経津主命) ・ 天児屋根命 ・ 比売神。
   平城遷都後まもなく藤原氏により現在の地に創建され、以後ながくその氏神として尊崇された。
   二十二社の一つ。三社の一つとも称す。






  734年 近畿地方 (京都・兵庫東部の丹波国) で大地震が発生。 735年~ 天然痘が流行し、当時の3割の人が死んだと
  されます。
  737年 藤原不比等の跡継ぎ4人の子 (それぞれ摂関家の祖) が相次いで亡くなります。これらの災難が相次いで起こります。

  この呪詛を返す為に奈良の大仏を造った。証拠として大仏はちょうど地上絵の巨人の剣の先の方向を向いており右手で
  呪詛返し。だそうです。

  【奈良の大仏】なら‐の‐だいぶつ
   東大寺大仏殿にある同寺の本尊。華厳経の教主 毘盧舎那仏びるしゃなぶつの金銅坐像で、高さ14.85メートル。
   聖武天皇の発願により749年(天平勝宝1)鋳造完了。752年開眼供養。
   その後1180年(治承4)・1567年(永禄10)兵火にあい改鋳され、台座蓮弁の一部などだけが当初のもので、胴身の一部は鎌倉、
   頭首は元禄時代のもの。


  読売テレビ かんさい情ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「梅田の と真中に鎮座する2尊のお地蔵様の謎とは…?」』 14.02.19 放送

  ≪ 仏像の向きは「西」か「南」と決まっている ≫

  「西」は極楽浄土がある方向。  梅田の地名と2つの地蔵尊の関係

  「南」は中国の価値観の影響を受け「位の高い人は南を向き、
  下々の者は北を向く」とされている事から。

  ※ 平城京、平安京なども、この考えに沿って造られています。
    たぶん、太陽や天体の動きによる風水的な考えから。
  

 


  ≪ 物部氏の嫡系である石上氏 ≫ Wiki 石上麻呂   Wiki 春日神社   Wiki 耳成山

  686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)が本宗家の地位を得た。
  石上の姓はもと物部守屋の弟である贄子が称していたが、のちに守屋の兄・大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を
  継いだとする説がある。 石上神宮

   石上麻呂は朝臣の姓が与えられて、708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位の位階を贈られた。

  息子の石上乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。
  また宅嗣は文人として淡海三船と並び称され、日本初の公開図書館・芸亭を創設した。
   石上氏は宅嗣の死後公卿を出すことはなく、9世紀前半以降中央貴族としては衰退した。

  【石上麻呂】いそのかみ‐の‐まろ(640~717) 
   物部氏の嫡系の貴族。元明・元正天皇の頃、正二位左大臣。
   竹取物語中の人物で、かぐや姫に求婚する一人「石上中納言」のモデルとなった人物。

  【石上宅嗣】いそのかみ‐の‐やかつぐ(729~781) 麻呂の孫。乙麻呂の子。 
   奈良末期の貴族・文人。中国古典に通じ、書をよくし、大納言に進む。
   旧宅を阿閦寺あしゅくじとし、寺内に漢籍を置いて芸亭うんていと称、日本の図書館の始め

  
 奈良時代の役人 位階と給与
  テレビ東京 137億年の物語 ~宇宙が始まってから 今日までの全歴史~ 『奈良時代のサラリーマン』 13.11.23 放送
  位階官人俸禄表 http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kani-houroku.html

  【大宝】たいほう、だいほう
   第42代 文武天皇朝の年号。対馬より金の献上による改元。
   文武天皇5年3月21日(701年5月3日)改元、大宝4年5月10日
   (704年6月16日)慶雲に改元。

  【大宝律令】たいほう‐りつりょう 律6巻・令11巻の古代の法典。
   大宝元年(701)刑部おさかべ親王・藤原不比等ら編。ただちに施行。
   天智朝以来の法典編纂事業の大成で、養老律令施行まで、律令国家
   盛期の基本法典となった。
   古代末期に律令共に散逸したが、養老律令から全貌を推定できる。

  【養老】ようろう
   第44代 元正天皇朝の年号。霊亀3年11月17日(717年12月24日)養老
   の滝命名に因んで改元、養老8年2月4日(724年3月3日)神亀に改元。

  【養老の滝】
   岐阜県 養老郡 養老川上流にある滝。養老山地東側の断層崖に位置し、
   高さ約32m、幅約4m。
   元正天皇が自ら行幸し「美泉以て老を養ふべし」として命名。

  【養老律令】 律・令各10巻の古代の法典。
   718年(養老2)藤原不比等らが編纂を開始、757年(天平宝字1)藤原
   仲麻呂の提案で施行。大宝律令とほとんど同文。
   中世に律は大半散逸したが、他の文献から内容を推定でき、
   令は大半が令義解りょうのぎげ など注釈書の本文として残る。

  【位階】い‐かい (地位・身分の序列・等級の意)
   朝廷の官人の地位・序列を示す身分標識。603年の冠位十二階に始まり、
   次第に細分され、大宝・養老の官位令で親王・内親王の四階(一品いっぽん
   ~四品)、諸王の十四階(正一位~従五位下)、諸臣の三十階
   (正一位~少初位下)に整備。
   姓かばねと異なって個人に授与され、功労によって昇進、その位階に
   相当する官職に任じた。

  【正一位】しょう‐いちい
   ① 律令制で、諸王および諸臣の位階の最上級。また、神社の神階の
   最高位。
   ② 稲荷神社の異称。

  【初位】しょ‐い、そい
   律令制の最下級の位階。八位の下。大少上下の別があった。




  五位までが王や貴族と呼ばれる人たちで100~200人。六位以下の下級役人は1万~2万人。






  平城京跡などから多くの木簡もっかんが出土したり、正倉院の書物から、奈良時代の役人の
  生活も色々と分かっています。
  これらの木簡や実物大に再現した遣唐使船などは「平城宮跡資料館」に展示されています。
  賃金は米とお金で支払われたそうで、市場での売買も「和同開珎」を使って取引されたそうです。

  【富本銭】ふほん‐せん
   古代の銅貨。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から大量に出土。
   「日本書紀」天武天皇12年(683年)の記事に見える、
   日本で初めて鋳造された銅銭に当たるとする説がある。

  【和同開珎】わどう‐かいちん、わどう‐かいほう (「珎」は「珍」の異体字)
   和銅元年(708)に発行したという、皇朝十二銭のうち最初の銅銭および銀銭。
   全国数カ所で鋳造されたらしく、長門(山口県)などで遺物が発見された。
   和銅2年、銀銭は廃止。奈良時代を通じて畿内地方に流通。形は唐の開元通宝を模倣。

  奈良時代の役人の最も重要な仕事は、租・庸・調という税の徴収でした。
  奈良時代は木簡にたくさんの文字を書いて事務処理を行っていました。









  【租】田租でんそ。・・・ 年貢。税金。みつぎ。
   律令制の現物納租税の一種。口分田・位田・職田しきでんなど私的用益を許した田から収穫の一部を現物納させたもの。
   率は大化改新後おおむね田1段につき1束5把、収穫の約3%。租の大半は諸国に納められて正税しょうぜい と呼び、
   毎年 出挙して利稲を国郡の費用とした。

  【出挙】すい‐こ ・・・ (「出」は貸付、「挙」は回収の意) 古代の利子付き消費貸借
   国が行う公出挙く-すいこは、春に官稲を農民に貸し付け、秋に3~5割の利稲と共に回収。
   名目は営農資金であったが、奈良中期から利稲収入を目的とする租税的色彩を強めた。
   寺社や貴族・豪族の行う私出挙し‐すいこは、稲のほか銭や物も貸し、年5~10割の利子を公認された。

  【庸】よう  律令制の現物納租税の一種
   大化改新では、仕丁・采女の衣食用として1戸につき布1丈2尺・米5斗。
   大宝律令制定後は、唐の制度にならって毎年10日間の歳役の代納物とし、成年男子一人につき布2丈6尺または
   米6斗。奈良・平安時代を通じては、布1丈4尺または米3斗が一般。

  【仕丁】し‐てい、し-ちょう、じ-ちょう
    律令制で、諸国から徴集されて、中央官庁および封戸ふこ主である親王家・大臣家・寺社の雑用に従事した者。

  【采女】うねめ、うねべ
   古代、郡の少領以上の家族から選んで奉仕させた後宮の女官。律令制では後宮十二司の水司(水回り仕事)・膳司
   (調理の仕事)に配属。

  【後宮十二司】こうきゅう‐じゅうにし
   律令制の後宮 (宮中奥向きの殿舎)で、事務を分掌した
   ・内侍司ないしのつかさ ・ 蔵司くらのつかさ ・ 書司ふみのつかさ ・ 兵司つわもののつかさ ・ 闈司みかどのつかさ ・ 薬司くすりのつかさ
   ・殿司とのもづかさ ・ 掃司かもりづかさ ・ 膳司かしわでのつかさ ・ 水司もいのつかさ ・ 酒司みきのつかさ ・ 縫司ぬいのつかさ の総称。

  【歳役】さい‐えき  養老令で定められた強制的な無償労働
   都で土木事業などに使役するため、正役として、正丁に年間10日間、次丁に5日間、課する。
   日数を延長することも認められ、これを留役といった。ただし実際にこの労働を課したことはなく
   その代納物を庸として布や米で徴収した。

  【調】ちょう (「徴」と通ずる) 律令制の現物納租税の一種
   大化改新では田の面積に応ずる田調と戸ごとの戸調とがあった。
   7世紀末から唐の制度にならって成年男子の人頭税とし、繊維製品・海産物・鉱産物など土地の産物を徴収した。
   分量は、例えば麻布・栲布たえのぬの (クワ科の梶の木などの繊維で織った布) の場合に一人当り2丈8尺。
   ほかに調副物ちょうのそわりつものという付加税もある。





  同じ「字」が無数に書かれた木簡があり、これは「字」の練習をしていたもの。木簡は薄くなるまで削って (消しゴムがわり)
  再利用されていました。






  位が高い貴族は平城宮 (内裏) の近くに広い土地を支給され住んでいましたが、下級になるほど平城宮から離れた狭い
  土地を支給され、毎朝4時に起きて徒歩1時間かけて出勤していました。勤務は昼までと決まっていましたが、夕方まで
  サービス残業する事も多かった。

 

 

 

長屋王家木簡


  下級役人の勤務評定を記した木簡が残っています。「初位下 髙屋連家麻呂たかやのむらじ-いえまろ 50歳」の場合は6年
  勤務して成績は「中」。評価が高いと出世できたそうです。

  また藁人形と同じような「呪」に使われたであろう木片の人形も出土しており、心臓の辺りに金属片が刺さっているそうです。
  両目の部分に小さな木が突きさされた人形もあります。

  平城京や厳しい役人の階級社会なども、遣唐使によってもたらされた唐の情報から習ったもの。
  でも下級役人たちも、待遇改善の為に要求書を提出したりしていました。
  奈良時代の役人生活は、現在のサラリーマンとあまり変わらないようです。

  1986年、奈良そごう百貨店建設の折、建設予定地 (平城京朱雀門近くにあったの長屋王の邸宅跡) から5~10万点にのぼる
  多量の「木簡」が発掘されました。
  その木簡から、「ひしお」「粕漬」「醤漬」などの文字があり、現在発見されている漬物の最古の記録とされています。

  【長屋王】ながや‐おう(684~729)
   天武天皇の孫。高市皇子たけちのみこの子。724年(神亀1)正二位左大臣に進み、藤原氏に対抗したが、藤原氏の陰謀により
   自害させられた(長屋王の変)。

  コトバンク 『長屋王家木簡』
  旧平城京跡の奈良市二条大路南で1986年に発見された長屋王邸跡などから出土した11万点の木簡。

  平城京資料館HP http://heijo-kyo.com/rekishikan.html 
 
 吉備真備 と 遣唐使
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『近畿国宝めぐり 「高野山の紅葉を目指せ5 奈良おふさ観音~音羽山観音寺」』 13.10.03 放送 / Wiki 吉備真備

  ≪ 吉備真備きび‐の‐まきび のクモ伝説 ≫

  23才の頃、学者として唐に渡った真備は非常に優秀だったので、唐の皇帝に気に入られおり、18年間も日本に帰る事が
  出来なかった。そんな真備に嫉妬していた唐の役人たちは、何とか失敗をさせて殺してしまおうと企んでいました。
  ある日、唐の役人たちは真備に「この漢詩を読んでみろ」と暗号文のような漢詩を差し出した。
  読めなかった真備は目を閉じ観音様に助けを求めたところ、天井から一匹の蜘蛛が下りてきて漢詩の上を這いました。
  その蜘蛛が張った糸筋をたどると、その漢詩を読む事ができました。





  奈良県の妙法寺は、735年に真備の帰国を祝って、息子の善覚律師が建立し、そのエピソードから妙法寺の観音様は
  「クモ観音」と呼ばれ現在でも地元の人たちに親しまれているそうです。






  【吉備真備】きび‐の‐まきび (695~775) 本姓は下道しもつみち真吉備。奈良時代の官人・文人。世に吉備大臣という。
   717年(養老1)遣唐留学生として入唐、735年(天平7)帰国。「唐礼」「大衍暦経」などを持ち帰る。
   橘諸兄に重用されたが、のち九州に左遷。その間、遣唐副使として再び渡唐。恵美押勝の乱平定に貢献。
   正二位右大臣に累進。編著「私教類聚」「刪定さんてい律令」など。

  【橘諸兄】たちばな‐の‐もろえ (684~757) 父は敏達天皇4世の孫、美努みぬ王。母は県犬養三千代あがたいぬかいのみちよ
   光明皇后の異父兄。奈良時代の貴族。はじめ葛城かずらき王と称したが、のち母の姓を継ぎ橘諸兄となる。
   藤原不比等の4子が相次いで病没した後、大納言となり、さらに右大臣・左大臣に進んだが、藤原仲麻呂に政治の実権
   を握られた。

  【橘奈良麻呂】たちばな‐の‐ならまろ (721~757) 橘諸兄の子。
   奈良時代の貴族。参議。諸兄の没後、藤原仲麻呂を除こうと企てたが、密告により発覚し、拷問されて横死おうし
   (事故・殺害など、思いがけない災難で死ぬこと。不慮の死。非業の死)。


  ≪ 遣唐使 ≫ テレビ東京 137億年の物語 ~宇宙が始まってから 今日までの全歴史~ 『奈良時代のサラリーマン』 13.11.23 放送

  【唐】とう(618~907) 中国の王朝李唐
   隋の次にできた王朝。唐国公の李淵(高祖)が隋の3世恭帝の禅譲を受けて建てた統一王朝。都は長安。
   均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令制度が整備され、政治・文化が一大発展を遂げ、世界的な文明国となった。
   20世哀帝の時、朱全忠に滅ぼされた。

  【後唐】・・・中国五代の一国。都は洛陽。(923~936)
  【南唐】・・・中国五代十国の一つ。都は金陵(南京)。(937~975)






  【遣隋使】けんずい‐し
   大和政権から隋へ派遣された使節。日本側の記録では推古天皇時代の607年・608年に小野妹子おののいもこら、
   614年に犬上御田鍬らと計3回だが、中国側の記録では600年にも派遣されている。6回派遣されたとする説もある。

  【遣唐使】けんとう‐し 入唐にっとう使
   国際情勢や大陸文化を学ぶために、十数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節。
   大使・副使らふつう五、六百人が数隻の船に分乗して、2、3年がかりで往復した。
   630年犬上御田鍬いぬかみのみたすき が派遣されたのが最初。唐末の戦乱のため、894年(寛平6)菅原道真の提議により廃止。

  平安時代初期の僧 空海 (弘法大師、讃岐の人 774~835) は、吉野で水銀を発見するなどして、留学費 (現在に換算すると
  1億円くらいと推定)を工面して、自費留学で入唐したと言われています。

  8世紀の奈良時代、日本は遣唐使で朝貢しますが、唐の臣下ではなく独立国の立場で、新羅に朝貢を求め、渤海と交流を持ち
  唐を牽制しながら、律令国家体制作りを進めました。

  【渤海】ぼっかい(698~926)
   8~10世紀、中国東北地方の東部に起こった国。高句麗の遺民ともいわれる
   大祚栄が靺鞨族を支配して建国。
   唐から渤海郡王に封ぜられ、その文化を模倣し、高句麗の旧領地を併せて栄え、
   727年以来しばしば日本と通交。
   15代で契丹に滅ぼされた。都は上京竜泉府(黒竜江省寧安市)以下の5京があった。

  【大祚栄】い‐そえい(~719)
   渤海国の建国者。高王(在位698~719)。高句麗人説と靺鞨人説とがある。
   唐の則天武后の時、松花江上流の粟末靺鞨族の支配者となり、698年自立して
   震国王と称。713年唐より渤海郡王に封ぜられ、国号を渤海と改めた。

 
 東大寺 奈良の大仏
  テレビ東京 『世界遺産 “三大迷宮”ミステリーⅡ』 13.09.20 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten.  『1250年の時を越え・・・正倉院宝物殿 奇跡の美』 13.11.01 放送 
  NHK奈良 Eテレ 『日曜美術館 荘厳なる天平の祈り ~第65回 正倉院展~』 13.11.03 放送
  朝日放送 『正倉院宝物を写す 明治維新の立体写真』 13.11.04 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポンの至宝 正倉院』 14.01.16  放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「奮闘編 伊勢・夫婦岩を目指す旅①」』 14.02.24 総集編 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten.  『時を越えた天平の美 第66回正倉院展』 14.10.31 放送

  ≪ 東大寺 ≫ とうだい‐じ 

  奈良市にある華厳宗総本山。別称、金光明四天王護国之寺・大華厳寺・城大寺・総国分寺。南都七大寺の一つ。

  745年(天平17)聖武天皇により創建、本尊は「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏るしゃなぶつ
  751年(天平勝宝3)大仏殿(金堂)完成、翌年開眼供養を行い、754年に唐 僧鑑真がんじんにより日本で最初の戒壇院を
  設立、日本三戒壇の一つ。9世紀には広大な荘園と僧兵とを有して寺勢を誇った。
  草創以来の堂舎として法華堂・転害門てがいもん・経庫および正倉院を残し、天平時代作の仏像を蔵し、また、鎌倉時代
  再興の南大門の仁王は運慶・快慶の合作。現存の大仏殿は江戸中期の再興で、世界最大の木造建築






   Wiki 聖武天皇  Wiki 光明皇后  Wiki 悲田院

  【聖武天皇】しょうむ‐てんのう 名は首おびと(701~756)。 文武天皇の第1皇子。
   奈良中期の第45代天皇(在位724~749)。光明皇后とともに仏教を信じ、全国に国分寺・国分尼寺、奈良に東大寺を建て
   大仏を安置した。

  【光明皇后】こうみょう‐こうごう 藤原安宿媛あすかべひめ。光明子とも。(701~760)  不比等ふひとの女むすめ。孝謙天皇の母。
   聖武天皇の皇后。長屋王事件後、729年(天平1)臣下からの最初の皇后となる。
   仏教をあつく信じ、悲田院・施薬院を設けて窮民を救った。

   ※ 大阪の堺市南部と和泉市に跨る「光明池」は光明皇后生誕の地という伝説に由来。
     岸和田市にある久米田寺周辺は「久米田古墳群」に指定されており、その中に「光明(光明皇后)塚古墳」があります。

  【悲田院】ひでん‐いん 悲田寺。悲田所。
   貧窮者・病者・孤児などを救うための施設。聖徳太子が難波に建てたというが確かでなく、723年(養老7)興福寺に、また、
   730年(天平2)光明皇后が施薬院と共に平城京に設置したと伝える。
   その後平安京や諸国にも置かれたらしく、10世紀ごろまで存続した。

  724年に聖武天皇が即位した頃、飢饉や大地震などの天災が続き、737年には聖武天皇を支えた藤原四兄弟が天然痘で
  次々死亡します。仏教の力で人々の心を鎮めて、平和な鎮護国家を作りたいとの思いから、741 (天平13) 年3月24日
  『国分寺建立の詔』。743 (天平15) 年10月に大仏造立の詔を発します。

  【鎮護国家】ちんご-こっか
   仏法によって国家を鎮定し守護すること。このために法華経・金光明経・仁王般若経などを読誦どくじゅ、とくしょう
   (声を出して読むこと)し、また種々の修法を行う。






  【国分寺】こくぶん‐じ
   741年(天平13)聖武天皇の勅願によって、五穀豊穣・国家鎮護のため、国分尼寺と共に国ごとに建立された寺。
   正式には金光明四天王護国之寺という。奈良の東大寺を総国分寺とした。

  【国分尼寺】こくぶん‐にじ
   聖武天皇の勅願によって、国分寺とともに国ごとに建立された尼寺。
   正式には法華滅罪之寺と称し、法華経を講じさせ、奈良の法華寺を総国分尼寺とした。

  【浅草寺】せんそう‐じ    Wiki 浅草寺  Wiki 坂誥秀一
   東京都台東区浅草にある聖観音宗(天台系の一派)の寺。山号は金竜山。本坊は伝法院。628年、川より示現した観音像を
   祀ったのが始まりと伝え、円仁・源頼朝らの再興を経て、近世は観音霊地の代表として信仰を集めた。浅草あさくさ観音。

  都から遠く離れ仏教が伝わりにくい関東において国分寺より100年以上も早く仏教寺院が建てられる事は考えにくい。
  浅草寺自体が飛鳥時代に創建したとは名言していないにも関わらず、「飛鳥時代に創建」という言い方に替えられています。

  浅草寺創建年代考 坂詰秀一 (考古学者。立正大学名誉教授・元学長(第27代)、品川区立品川歴史館館長。武蔵野文化協会会長) 著 ‎1970
   http://repository.ris.ac.jp/dspace/bitstream/11266/3080/1/KJ00000189612.pdf
  によると、創建は平安時代中期頃のようです。


  ≪ 奈良の大仏 ≫  Wiki 東大寺盧舎那仏像  Wiki 国分寺 

  当時の日本の推定人口600万人ですが、延べ260万人が大仏造立に携わったとされています。
  大仏に使用された金は440㎏で、東北で産出されたものが使用されてたそうです。
  奈良時代の金の産出地は東北が主で、後の平安時代の奥州藤原氏 平泉 (岩手県南部) の黄金文化に繋がります。






  【奈良の大仏】
   東大寺大仏殿にある同寺の本尊。華厳経の教主 毘盧舎那仏びるしゃなぶつの金銅坐像で、高さ14.85メートル。
   聖武天皇の発願により749年(天平勝宝1)鋳造完了。752年開眼供養。
   その後1180年(治承4)・1567年(永禄10)兵火にあい改鋳され、台座蓮弁の一部などだけが当初のもので、胴身の一部は
   鎌倉、頭首は元禄時代のもの。奈良時代から残る台座の部分には、使用された金の部分が現在も残っているそうです。






  【行基】ぎょうき(河内の人、668~749)
   奈良時代の僧。道昭に師事。畿内を中心に諸国を巡り、民衆教化や造寺、池堤設置・橋梁架設等の社会事業を行い、
   行基菩薩と称された。初め僧尼令違反で禁圧されたが、大仏造営の勧進に起用され、大僧正位を授けられる。

  堺市にある日本最大のピラミッド 日本最古で最大の土塔 727年に行基によって造営、奈良と堺にしかない巨大土塔
  日本最古のため池 大阪狭山市、行基によって造られたもの


  【東大寺大仏殿】
   最も有名な大仏殿、751年(天平勝宝3)完成。その後1180年(治承4)・1567年(永禄10)に焼け、
   現在の建物は1708年(宝永5)に再建。

  東大寺大仏殿は世界最大級の木造建築ですが、創建当初は更に大きく現在より幅が
  30m大きかった。また大仏殿の東西には高さ100mほどの七重の塔 (現存なら世界一
  高い木造建築) があったそうです。現在10万枚ほどの瓦が使用されているようです。

  大仏殿の前にある金銅八角燈籠は創建時に作られたものが現存。

  奈良の大仏は、平安時代に源平の争いの中で平家の焼き討ちに遭い炎上。鎌倉時代
  初期の僧 重源 (1121~1206) らによって再建。

金銅八角燈籠

  【大仏開眼供養】だいぶつ‐かいげんくよう
   大仏の完成に際して開眼会を開き供養すること。
   752年(天平勝宝4)東大寺の盧舎那るしゃな仏開眼供養はきわめて盛大で、使用された遺品は正倉院に奉納。
   中国、インド、ベトナムなどの外国も含め1万人の僧侶が参列したらしいです。

  12世紀前半の成立と考えられる日本最大の古代説話集『今昔物語集』に東大寺を造る行事の良弁僧正と云ふ人とあります。

  【良弁】ろうべん、りょうべん (689~773、近江または相模の人)
   奈良時代の僧。日本華厳宗の第2祖。義淵に法相を、新羅僧審祥に華厳を学ぶ。華厳教学の弘通と東大寺建立に尽力し、
   初代別当となり、僧正に任。2歳の時、母と桑畑にいて鷲にさらわれ、二月堂下の杉(良弁杉)におかれ、義淵に育てられた
   との伝説がある。金鐘行者。金鷲菩薩。


  大仏開眼1250年慶讃法要





  テレビ東京 『世界遺産 “三大迷宮”ミステリーⅡ』 13.09.20 放送 
   PANDORA (韓国の無料動画サイト) 世界遺産 “三大迷宮”ミステリー 『奈良の大仏 造立の謎』  82分20秒頃~115分08秒まで
    http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ref=em_over&ch_userid=codeno001&prgid=49087252&linkskip=

   大仏餅 鎌倉時代は奈良の名物。 江戸時代は京都の名物で京阪で流行り、のちに江戸でも流行。京都にあった奈良の大仏以上のサイズの2つの大仏。

  関西テレビ ゆうがたLIVEワンダー 『これぞ古代ロマン 東大寺600年前に"七重塔"』 15.11.20 放送

  ≪ 東大寺 七重の塔は600年前まで実在していた ≫

  2015年11月、奈良東大寺の大仏殿の東西に1塔ずつあったとされる七重塔 (推定70~100m) のうち、東塔の基礎跡を発見。
  室町時代に描かれた「東大寺縁起」の絵に描かれていたものの、伝説とされていました。今後、5年がかりで調査をする予定。
  東大寺では、「全体像が把握できれば、塔の再現もあり得る」としています。

  平安時代末期1180年の源平の合戦で焼き討ちに遭い焼失。再建後、1362年に落雷で再び焼失。

室町時代の「東大寺縁起」

東大寺・東塔跡

大阪万博

 


  その七重の塔を再現したものが万博にありました。古河パビリオンとして建てられ、万博終了後に東大寺に移築するという
  話が持ち上がりましたが、エレベーター付のコンクリート製だった為、文部省から待ったがかかり実現せず。
  塔最上部の装飾 (相輪そうりん) だけが記念として東大寺に保存されています。

  ちなみに、京都の東寺の五重塔の高さは約55m、通天閣103m、神戸ポートタワー108m。

  産経フォト 『東大寺東塔10年かけ発掘へ 14世紀焼失、再建見据え』 15.07.07 配信
   http://www.sankei.com/photo/story/news/150707/sty1507070018-n1.html


  NHK・大阪 歴史ヒストリア 『春はすぐそこ! 世界遺産SP 秘められた日本人のドラマ』 14.03.12 放送

  ≪ 江戸時代の大仏再興 ≫   Wiki 公慶

  戦国時代の1567 (永禄10) 年には松永久秀らの争いに巻き込まれ炎上、翌年に再建しようとする武将が現れますが
  資金難で挫折。応急処置程度のできでした。






  1691 (元禄4) 年、僧の公慶が7年かけ全国を行脚し1万1千両 (約10円) の資金を集めて再興しました。
  東大寺にある公慶像の左目は赤く、過労による充血を表したものだそうです。くわしくは、リンクの東大寺のHPで。

  華厳宗大本山 東大寺 『東大寺 公慶上人』 http://www.todaiji.or.jp/index/koke/koke.html


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『Today's voice 「大仏の髪の毛 螺髪の謎」』 15.12.03 放送

  ≪ 奈良の大仏の髪の毛は492コと判明 ≫

  大仏の髪の毛である「螺髪」1つのサイズはおよそ、直径22㎝、高さ21㎝、重量1200g。上から見ると、右巻き。
  「螺=巻き貝」の事で、悟りを開いた仏陀の特徴とされています。

  平安時代に寺の歴史などを記した「東大寺要録本願章第一」には、「天平勝宝元年(749年)12月~同3年6月、
  螺髪を966個つくった」とあるそうです。
  また江戸時代の再建する為に書かれた勧進帳にも記述があり、奈良時代752年の開眼供養当時から966個あるとされ、
  平安時代以降、その数が定説となっていたと考えられるそうです。

  東大寺でも966個は無く500個前後と思っており、訪れる修学旅行生らの質問が増えたことなどから、
  2015年7月大仏の大きさなどをレーザー光で計測したことがある東京大学の研究チームに正確な数の計測を依頼。






  レーザー測定し3Dで大仏像を浮かび上がらせ数えたところ、現存するのは483コ+欠損9コ=総数492コと判明しました。

  計測した東京大学生産技術研究所の大石岳史 准教授の感想は、
   奈良時代の大仏の頭部が現在より大きく、螺髪が小さかったと言われていますが、計算上物理的に966コは乗らない。
   なぜ966コ造られたと文献に書かれてあるのか、「966」という数字が持つ意味を東大寺さんと一緒に研究していきたい
   と思います。

  【螺髪】ら‐ほつ … 仏像の頭部の髪の様式。螺状をした多くの髪が並ぶもの。螺髻らけい。らはつ。

  【白毫】びゃく‐ごう  Wiki 白毫
   仏の眉間にある白い毛。光を放つといわれ、仏像では水晶などをはめてこれを表す。如来と菩薩の仏像の額にある物です。
   仏の三十二相の一つとして、眉間白毫相みけんびゃくごうそうと呼ぶ。

  朝日デジタル 奈良の大仏、髪の量半分だった レーザー解析で定説覆る 15.12.03 配信
   http://www.asahi.com/articles/ASHD24DYBHD2UTIL01R.html
 
 東大寺 正倉院
  テレビ東京 『世界遺産 “三大迷宮”ミステリーⅡ』 13.09.20 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten.  『1250年の時を越え・・・正倉院宝物殿 奇跡の美』 13.11.01 放送 
  NHK奈良 Eテレ 『日曜美術館 荘厳なる天平の祈り ~第65回 正倉院展~』 13.11.03 放送
  朝日放送 『正倉院宝物を写す 明治維新の立体写真』 13.11.04 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポンの至宝 正倉院』 14.01.16  放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「奮闘編 伊勢・夫婦岩を目指す旅①」』 14.02.24 総集編 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten.  『時を越えた天平の美 第66回正倉院展』 14.10.31 放送

  ≪ 奈良時代の貴族女性の化粧 ≫

  当時の中国ではふくよかな女性が美人とされており、日本もその影響を受けていました。
  正倉院収蔵物の鳥毛立女屏風とりげりつじょ‐の‐びょうぶなどから、古代のメークに詳しい日本メークアップアーチスト学院
  五十嵐公子 主任講師が読売テレビの林マオ アナウンサーで再現したのが下の画像です。






  『赤化粧』と言われる奈良時代の化粧は、『花鈿かでん・よう鈿』と呼ばれる緑のポイント化粧。額には花の模様を描きます。


  ≪ 正倉院 宝物殿 ≫

  1日の来場者数が世界一の正倉院展。毎年秋に開催されますが、9000点の宝物があるので、1度では展示しきれず
  10年に1度しか見れない展示物もあるので、毎年盛況なんだそうです。
  当時の国内外の一級品が集められており、これらの保存状態が非常に良い (世界的に珍しい事) のが特徴。






  正倉院宝物9000点のうち、聖武天皇が愛用した品々は約600点。756年、光明皇后が東大寺に寄贈した事で残っています。
  螺鈿紫檀五絃琵琶 らでん-したん-の-ごげんびわは、現存するのが唯一で、現在でも音を奏でられるほど保存状態が良い。

  【螺鈿】ら‐でん
   夜光貝・鮑貝あわびがいなどの貝殻を板状に成形し、文様に切って木地・漆地の面にはめ込み、または貼り付け、
   漆を塗り研ぎ出す技法。中国唐代に盛行し、日本にも伝えられ、とくに平安時代以降に多様な発展を遂げる。
   一般に厚貝を用いたものを螺鈿、薄貝を用いたものを青貝あおがいという。また貝殻で飾ることを貝摺かいすりともいう。





  御床 おんどこはベッドの事で、2台。この2台のベッドカバーを覆うシーツも収められている事から、2台の御床をくっ付け
  ダブルベッドとして使用されていたと推測されています。





  正倉院正倉は校倉造あぜくら-づくり(部材を横に組んで壁を作った倉)で向って左から南倉、中倉、北倉に分かれており、
  それぞれ2段になっています。
  南倉は、大仏開眼法要に遣われた道具類 / 中倉は、武器や東大寺の道具類
  北倉は、主に聖武天皇の遺品が納められていました。





  朝日新聞 13.11.06 朝刊 大阪版 『古都なび 宝物編 正倉院開封図』 など  Wiki 正倉院

  1230年(寛喜2)に盗賊に鏡8面などを盗まれた事があるそうですが、50年程前まで
  宝物は正倉院にそのまま保管されていました。
  現在は、東西に二棟の宝庫があり、西の蔵は天皇の勅使が来ないと開けられず、
  年一回「正倉院開封の儀」を秋に行い開庫され、正倉院展が開催。

  現在は、毎年秋に正倉院展が開催されていますが、昔は不定期。東大寺には
  江戸時代末期の1833年(天保4年)の正倉院開封時の様子を記録した
  「正倉院開封図」が残っています。

  この時の開封は140年ぶりとなるので、次回の為に儀式を細かく記録する必要が
  あったそうです。


  この図は右下と真中がめくれるようになっており、その下にも絵が描かれてあり、仕掛け絵のようになっています。
  描かれた人は649人。天皇の代わりに派遣された勅使、東大寺の別当など立場ごとの並び順や部屋の場所、
  どのトイレを使うかまで描かれています。






  【正倉院】しょうそう‐いん  奈良東大寺大仏殿の北西にある木造大倉庫。宝庫や経巻を収納した聖語蔵しょうごぞうなどがある。
   宝庫は、校倉あぜくらを二つ南北に並べ、中間を板倉でつなぎ、寄棟よせむね造瓦葺きの大屋根をかける。
   南北32.7メートル、東西9メートル、高さ14メートル、床下2.5メートルで、内部は北・中・南の3倉に分かれる。
   聖武天皇の遺愛品、東大寺の寺宝・文書など7~8世紀の東洋文化の粋9000点余を納める。
   古くは庁院西双倉ならびくら・三倉みつぐらとも称した。

  古櫃こき
   1250年前に光明皇后が宝物を納める箱として使ったそうで、湿度を一定に保つ効果があった為、宝物が現存していると
   考えられています。
   この頃より、日本人は大切な物を箱にしまう。という性質を持っていたそうで、そのおかげで、保存状態が良い。
   また、宝物を入れいた箱自体も優れた物なので、宝物となっています。






  檜和琴ひのき-の-わごん
   大和琴やまと-ごととも呼ばれる6弦の琴。仏様に音楽を届ける為に装飾が施されたもの。琴は日本独自に発展した楽器。

  投壺とう-つぼ
   奈良時代頃、中国や日本の貴族の中で流行っていたダーツのような物。矢を投げて壺の中に入れるゲーム。






  正倉院の宝物は時代の最先端の技術で映像に残されてきました。最初は明治5年、横山松三郎という人が二眼カメラで3D撮影。






  その写真は、日本での初めての文化財の写真の一つとして国の重要文化財に指定されています。
  当時の調査は干支にちなんで「壬申検査」と呼ばれています。






  平螺鈿背円鏡へい-らでん-はい-の-えんきょう
   正倉院に納められている鏡の20面の中で最も華やかな鏡。イランで採掘される青いトルコ石、アフガニスタンの紺色の
   ラピスラズリ、中国やミャンマーで摂れる赤い琥珀などアジア各地の材料を使用し唐で作られたものと考えられているそうです。
   当時の唐(中国)は、50ヶ国から遣唐使などが集まる世界で最先端の国でした。
   鏡は霊力が宿ると思われており、権力の象徴として儀式などにも使われました。

  鳥毛帖成文書屏風とりげ-じょうせい-ぶんしょ-の-びょうぶ
   聖武天皇が執務室に立てていたとみられる6扇のうちの2扇が出展(2013年)されています。
   東晋(魏に代わって、その権臣の司馬炎が建てた王朝265~420)の書家 王羲之おう‐ぎし(307?~365?) の筆使いに
   ならい、日本の雉や山鳥の羽根を貼って16の文字に仕立ててあります。

  第一扇 『種好田良昜以得穀 君賢臣忠昜以至豊
   種がよく田がよければ実りがよい。 君子が賢く家臣が忠義ならば国が豊かになる。

  第四扇 『父母不愛不孝之子 明君不納不益之臣
   父母は、親不孝な子を愛しはしない。 賢い君主は、益の無い家臣を受け入れたりはしない。






  漆金薄絵盤うるしきんぱくえ-の-ばんは底に「香印座」と書かれているので、御香を供えるための台座と考えられています。






  黒漆塗香印押形盤くろうるしぬり-こういん-の-おしがたばんに粉末の御香を入れ、フタを被せて裏返し、この押形盤から外す事で
  一筆書きのような文様の御香ができます。
  これに火をつけると燃え尽きるまで約8時間。(御香は、時間を計る事にも使われていました)

  法華寺の依頼で、漆金薄絵盤の台座を2年がかりで複製模造を製作した美術院 国宝修理所の技師 高田明さんによると、
  一枚一枚の文様が美しく見えるように一段目と四段目なども大きさが違っているなど、非常に計算されて作られている事に
  驚いたそうです。






  【法華寺】ほっけ‐じ 法華滅罪之寺。氷室ひむろ御所。
   奈良市にある真言律宗の尼門跡。741年(天平13)頃、光明皇后が大和国分尼寺として父の藤原不比等の家を
   喜捨創建したと伝える。
   総国分尼寺でもあった。現在の本堂は1601年(慶長6)豊臣秀頼の再建。本尊十一面観世音立像は平安初期の優作。
    ※この国宝 十一面観世音立像は、光明皇后の姿を映し出したものとされています。






  鯨鬚金銀絵如意げいしゅ-きんぎんえ-の-にょい
   セミクジラのヒゲで作られた如意 (背中を掻くための孫の手) は、説法や法会の仏教儀式の際、天皇や僧が威厳を
   示す為に持つようになった仏具。金や銀で絵が描かれています。
   和歌山県の太地町立くじらの博物館 学芸員 中江環さんによると、セミクジラはプランクトンなどを食べるので
   歯は一本も無く、代わりにヒゲ板という器官があります。古くから からくり人形のバネや靴べらなど色んな工芸品に
   活用されてきました。セミクジラの上アゴのヒゲは最長3mほどになり、水に濡らす事で曲げるなどの加工が可能。

  黒柿蘇芳染金銀絵如意箱くろがき-すおうぞめ-きんぎんえ-の-にょいばこ
   鯨鬚金銀絵如意を入れておく箱で、金で花の絵柄が描かれてあります。
   奈良国立博物館 学芸部長の西山厚さんによると、日本人は昔から箱が好き。奈良時代は国家として美しい物・良い物
   創り残そうとした日本の歴史上もっと輝いていた時代なので良い物がたくさん残されています。

  【黒柿】くろ‐がき カキノキ科の常緑高木。
   台湾・フィリピン産。葉は短柄互生、革質、長楕円形または披針形。
   材の心部は黒色、緻密で黒檀と同様に家具の材料・銘木とする。

  【蘇芳・蘇方・蘇枋】すおう
   マメ科の小高木。インド・マレー原産の染料植物。古くから重要な赤色 (煎じ汁で染めた黒みを帯びた紅色) 染料とされた。






  木画紫檀碁局 もくが-したん-の-ききょく 囲碁盤。美しい装飾と碁石入れは亀の形になっています。碁石にも絵が描かれています。







  ≪ 薬 ≫   朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポンの至宝 正倉院』 14.01.16  放送 http://dai.ly/x19t0ki

  病気がちだった聖武天皇の為に集めた60種類の大量の薬も奉納されています。
  当時貴重で高価だった薬ですが、正倉院に奉納された後も必要であれば、取り出して使用されていたそうです。







  ≪ 夾纈染め ≫

  【夾纈】きょう-けち
   古代の染色法の一つで、「板締いた‐じめ染め」とも呼ばれます。
   凹凸の模様を彫った2枚から数枚の薄板で固く原糸や布を挟んで染料または抜染剤をかけて文様を作ること。

  この染色は、日本では奈良時代だけ (平安時代には廃れており継承されていない) に使用された難しく手間のかかる
  方法だったそうです。

  麟鹿草木夾纈屏風りんろく-くさき-きょうけち-の-びょうぶ






  夾纈を現代に甦らせた人が京都におられ、江戸時代から続く染師の5代目で、日本古来の草木染めの第一人者である
  吉岡幸雄さん。復元の手掛かりとなったのが、インドや中国から出てきたたくさんの夾纈染の版木。
  版木には無数の穴があいており、木の釘で栓をする事で染めたい色の部分だけを染色。






  道具は全て、吉岡さんの手づくり。左右対象の版木に二つ折りにした布を挟む。それをいくつもの添え木で上下に挟み
  紐で締め上げて固定し染色。この紐の締め加減で色のにじみ方が変わり非常に難しい技法だそうです。


  ≪ 正倉院宝物の顔『蘭奢待』とは ≫

  東南アジア原産の香木。木の皮を薄く削り加熱して香を楽しんだもの。この香を楽しめるのは権力者の象徴と考えられ、
  足利義政、織田信長、明治天皇が切り取った跡があります。
  切り取った場所に名前を書いた紙を貼ってあったので、その事が分かるそうです。

  【蘭奢待】らんじゃ‐たい
   聖武天皇の時代、中国から渡来したという名香。東大寺正倉院宝物目録には黄熟香とある。
   「蘭奢待」の字には「東大寺」の3字が隠されているという。別名、東大寺。

  【蘭麝】らん‐じゃ ・・・ 蘭の花と麝香の香り。また、よい香り。平家物語 「蘭麝の匂に引きかへて香の煙ぞ立ちのぼる」


 
 

  特に織田信長は、武力でのし上がった為、文化人としても見られたい欲求があり、この蘭奢待に執着したという
  エピソードが残っています。
  1574 (天平2) 年、信長が東大寺に正倉院の開封を要求。東大寺は「勅封ちょくふうの為、宮中の許可なく開封は厳禁」
  として断ります。
  東大寺からの返事を受けた4日後、信長は天皇の勅使を連れて訪れ、正倉院を開封させます。
  そして連れて来た仏師に蘭奢待を切り取らせました。

  正倉院展などの開催など管理を行う奈良国立博物館の職員は、普段手袋やマスクをして作業を行っているそうですが、
  蘭奢待に触れる作業があった時には、皆さん、一斉にマスクを外して香を嗅いだそうです。
  奈良国立博物館の西山厚 学芸部長によると、キツイ匂いではなく、深いところから静かに立ってくるような心が
  癒される香だそうです。

  【蘭奢待】らんじゃ‐たい
   聖武天皇の時代、中国から渡来したという名香。東大寺正倉院宝物目録には黄熟香とある。
   「蘭奢待」の字には「東大寺」の3字が隠されているという。別名、東大寺
 
 東大寺 南大門
  ≪ 南大門 ≫ 南大門とは寺にある南側の正門の事。東大寺の南大門は日本最大。

   鎌倉時代に再興された南大門にある対になった二体の仁王像 (金剛力士像) は運慶・快慶の合作。






  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「にっぽん城下町めぐり2 奈良大和郡山市」』 13.11.28 放送

  ≪ 鎌倉時代、日本を代表する仏師 運慶と快慶 ≫ 

  【慶派】けい‐は 康尚 → 定朝 → → → 康慶 → 運慶 / 快慶
   平安後期より江戸時代に至る仏師の一系統。定朝に始まる仏師の正系をつぐ奈良仏師の出で、平安末~鎌倉初期に
   康慶・運慶・快慶らが出現して栄え、七条仏所を形成。この派の仏師は多く名前に「慶」の字を用いた。

  【康尚】こうしょう
   平安中期の仏師。定朝の父(または師)。
   藤原道長発願の法成寺の仏像など、990年(正暦1)から1020年(寛仁4)の間、造仏に携わったとみられる。

  【定朝】じょうちょう (~1057) 平安中期の仏師である康尚の子(または弟子)。
   1022年(治安2)法成寺金堂の諸像造立の功により仏師として初めて法橋ほっきょう(僧の位の一つ)に叙せられ、
   その後、興福寺の造仏で法眼ほうげん(僧位で法橋の一つ上)に進んだ。平等院鳳凰堂本尊阿弥陀像は現存する
   唯一の作例。王朝貴族の好みにかなった豊麗な日本的様式を創造、定朝様として長く日本の仏像の典型となった。

  【康慶】こうけい 生没年未詳。
   平安末~鎌倉前期の仏師。運慶の父。奈良仏師康朝の弟子。快慶の師。法眼。
   1188年(文治4)~89年、興福寺南円堂の不空羂索ふくうけんじゃく観音・四天王・法相六祖などを造像。
   1196年(建久7)の東大寺の伎楽面に作銘がある。

  【運慶】うんけい(~1223) 定朝の玄孫げんそん(孫の孫)である康慶の子。
   鎌倉初期の仏師。写実的で力強い様式をつくり上げ、その系統は鎌倉時代の彫刻界を支配した。
   代表作は興福寺北円堂の諸仏や快慶 (康慶の弟子) らと合作した東大寺南大門の仁王像など。

  【快慶】かいけい 生没年未詳、1183~1236年(寿永2~嘉禎2)の生存が確認できる。
   鎌倉前期の仏師。康慶の弟子。法名は安阿弥陀仏。法橋のち法眼に叙せられる。
   繊細な感覚による写実的表現にすぐれ、運慶と技を競った。
   運慶と共作した東大寺南大門の仁王像をはじめ、同寺の地蔵菩薩像・僧形八幡像など、安阿弥様と呼ばれる
   多くの優作を残す。




  兄弟弟子と言われますが、対照的な作風。そして豪快な作風の運慶は子だくさん、繊細な作風の快慶は一生独身だったそうです。
 
 道鏡
  TBS 世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリー 『日本の歴史悪役10人』 12.06.13 放送

  病を患っていた孝謙上皇の看病役として宮中に入り込む事ができた道鏡は、上皇を色欲でたらし込み、またたく間に
  出世し権力を握りました。「座ると足が3本あった」という下ネタの伝説があります。

  道鏡が孝謙上皇に重用されると、これを除こうとして藤原仲麻呂が挙兵したが敗れ、近江で殺されました。
  769年、豊前ぶぜん国にある宇佐八幡神宮の神官が「道鏡が次の帝に就くべきだ」という御神託があったと知らせてきたと
  主張し、一般の民間人の立場であるのに、天皇の座に就こうとしました。






  帝が宇佐神宮に勅使(和気清麻呂)を出して確認したところ、「皇族以外は帝に就いてはいけない」との真逆の御神託を
  受けました。
  称徳天皇(孝謙上皇)崩御の後、道鏡は失脚し、藤原百川らによって下野国へ流罪となりました。

  【道鏡】どうきょう (河内の人、700年頃~772) 奈良時代の僧。弓削ゆげ氏。
   宮中に入り看病に功があったとして孝謙天皇(一度退位して上皇となり、もう一度天皇となって称徳天皇と称した)に
   信頼され、太政大臣禅師、ついで法王。
   宇佐八幡の神託と称して皇位の継承を企てたが、藤原一族の意をうけた和気清麻呂わけのきよまろに阻止され、
   天皇死後、下野しもつけ国 (栃木県) 薬師寺の別当として左遷、同所で没。

  【孝謙天皇】こうけん‐てんのう(第46代、在位749~758) /
   奈良後期の女帝で「高野天皇」とも呼ばれ、第46代と第48代の2回天皇に即位。
   第45代の聖武天皇の第2皇女。母は光明皇后。藤原仲麻呂・道鏡を重用。
   藤原仲麻呂が擁立した淳仁じゅんにん天皇(第47代、在位758~764。第40代の天武天皇の孫)に譲位するが、
   仲麻呂失脚により廃位し淡路国に配流した為、称徳天皇として帝に復権。道鏡を信任して法王の位を授けた。

  【称徳天皇】しょうとく‐てんのう(第48代、在位764~770) 名は阿倍あべ (718~770)


  【宇佐神宮】うさ‐じんぐう 宇佐八幡。豊前国一の宮。
   大分県 宇佐市 南宇佐にある元官幣大社。祭神は、応神天皇 ・ 比売神ひめがみ ・ 神功皇后。社殿は八幡造の代表。
   全国の八幡宮の総本社で、古来尊崇された。

  【和気清麻呂】わけ‐の‐きよまろ(備前出身、733~799)。本姓、磐梨別公いわなすわけのきみ
   奈良時代の官人。道鏡が宇佐八幡の神官と結託して皇位を望んだ時、勅使として
   宇佐八幡の神託を受け、阻止。
   道鏡の怒りを買い、名を別部穢麻呂わけべのきたなまろと改めて大隅 (鹿児島県東部) に
   流されたが、道鏡失脚後召還されて、光仁 ・ 桓武天皇に仕え、平安遷都に尽力。
   民部卿・造宮大夫・従三位。護王神社に祀る。

  【宇佐使】うさ‐づかい、うさのつかい
和気清麻呂

   古代から近世にかけて、天皇の即位や国家の大事に際し、宇佐神宮に奉告し幣帛を奉った勅使。
   769年(神護景雲3)和気清麻呂が神託を授かった話は有名。

  【光仁天皇】こうにん‐てんのう 名は白壁しらかべ。(709~781)  天智天皇の皇孫。施基しき親王の第6王子。
   奈良後期の第49代の天皇 (在位770~781)。藤原百川らにより擁立され、和気清麻呂を召還して改革を行う。

  朝日新聞 14.05.05 朝刊


 左の切れている部分の補足

  そして、続日本書紀が桓武天皇の治世下で編纂されたことから、「桓武天皇が自らの出自である天智天皇系の皇系の
  正当性を主張し、天武天皇系である前王朝の称徳をおとしめるために、事件を創作した 可能性が高い」と結論づける。


  ≪ 大阪府八尾市の東弓削遺跡が「由義宮」か? ≫ 毎日放送 MBSニュース 17.08.21 放送

  2017年夏、道鏡にゆかりがある東弓削遺跡で新たに建物の堀立柱穴や人工河川の跡が
  発掘されました。これまでに由義寺の塔の跡なども確認されています。
  今回の発掘の結果、まだ明確に所在が判明していなかった称徳天皇が造営した離宮
  「由義宮ゆげのみや」の一部である可能性が非常に高いようです。
  付近からは、奈良時代の和同開珎や須恵器や土師器なども発見されており、八尾市立
  歴史民俗資料館で8月21日~27日まで展示されました。

  【弓削部】ゆげ-べ …大和政権で、弓の作製を担当した品部。


  【和気氏】わけ
   古代の氏族。記紀上の第11代の垂仁すいにん天皇の皇子 鐸石別命ぬてしわけのみことの裔と伝える。のち医薬を業とした。

  【和気広虫】わけ‐の‐ひろむし(730~799) 清麻呂の姉
   奈良時代の女官。法均尼。清麻呂の事に座して備後に流されたが、後に赦され、正四位上典侍となった。

  【半井】 … 和気氏流の医家。

  【半井卜養】なからい‐ぼくよう(堺の人、1607~1678)
   江戸初期の俳人・狂歌師。幕府の御番医師。松永貞徳の門。和歌・連歌・狂歌に名高く、「卜養狂歌集」がある。
 
 日本人で唯一の三蔵法師 霊仙三蔵法師
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ニッポン城下町めぐり 国宝 犬山城の桜をめざして①』 14.03.06 放送

  「三蔵法師」と言えば西遊記に出てくる唐の僧 玄奘げんじょう三蔵法師が有名ですが、
  経・律・論の三蔵に精通した僧の事を言い、唐の皇帝から授与される僧の最高位のこと。
  諸説あるそうですが、世界で11人(中国人6人、インド人4人、日本人1人)しか居ないらしいです。

 ≪ 霊仙りょうぜん三蔵法師 ≫

  滋賀県米原市出身の霊仙法師は、804年に遣唐使として唐に渡り、皇帝の相談役として活躍。
  その功績を認められ「三蔵法師」の位を賜わりますが、寵愛を受けた為、死ぬまで帰国を
  許されなかったそうです。一説には、霊仙法師の活躍を妬んだ集団に毒殺されたとか。
  史実が残っていないため、教書などには載る事はないのだそうです。







  ※ 大阪藤井寺市出身? とも言われる遣唐使の井真成い-の-まなりも、中国で「優秀だった」という評価の記録だけですが、近年発見されました。

  【玄奘】げんじょう (602~664)玄奘三蔵三蔵法師
   唐代の僧。法相宗・倶舎宗の開祖。河南の人。629年長安を出発し、天山南路からインドに入り、ナーランダー寺の
   戒賢らに学び、645年帰国後、「大般若経」「倶舎論」「成唯識論」など多数の仏典を翻訳。玄奘以前の訳を
   旧訳くやくとし、玄奘以後の新訳と区別する。
   「大唐西域記」はその旅行記。「西遊記」はこの旅行記に取材したもの。

  上記の三蔵法師、国師、大師は唐の場合で、三蔵法師は唐の皇帝だけが授与できる位だったそうです。
  下の「国師」の解説は日本国内の場合。(広辞苑より)

  【国師】こく‐し
   ① 奈良時代の僧官。諸国に分置し、その国の僧尼を監督し、これに経を講じたもの。のち講師こうじと改称。
   ② 朝廷から国家の師表たるべき高僧におくられた称号。
 
 奈良墨
  画像 テレビ東京 所さんの学校では教えてくれない そこんトコロ ! 『日本の老舗 大集結SP』 14.03.07 放送
  朝日新聞 13.12.17 夕刊 『天下逸品 「磨かれし煤 特筆の黒」』 より、原文ママ

  ≪ 日本国内の生産量の約95%を占める 奈良墨 ≫ 

 墨の香や奈良の都の古梅園 明治の文豪、夏目漱石が俳句に詠んだ古梅園こばいえん(奈良市)は天正5(1577)年から
  続く奈良墨の老舗。風格ある町屋ののれんをくぐると、墨匠が作業に打ち込んでいた。

  薄暗い採煙蔵で200の小さな炎が揺らめく。素焼きの土器に注いだ菜種油を燃やし、覆いに
  たまった煤すすをハケで集める。
  「植物油の煤でつくる油煙墨ゆえんぼくは粒子が細かく、墨色に深みがあります」と採煙担当の
  國岡正幸さん(34)。

  煤は溶かした膠にかわと混ぜて香料を入れる。墨をすったときの香りが立ちこめる作業場では、
  墨匠が墨の塊を延ばし、足で踏んで光沢が出るまで練り上げて型に入れていた。
  16代目の松井晶子 社長(34)は
  「現在でも自家製の煤にこだわっています。伝統の技法を守っていきたい」と話す。

  奈良墨の名声を高めた油煙墨は、室町期に興福寺の子院だった二諦坊にたいぼうで、持仏堂の
  天井の煤を集めて膠と混ぜてつくったのが始まりと伝わる。

  「経典を広める寺院では写教が盛んでした。経典を学ぶときも自ら写してテキストにしました。
  寺では墨は欠かせない道具の一つ。
  仏都奈良で製墨業が栄えたゆえんです」と興福寺の多川俊映 貫首(66)。

  硯すずり、紙、筆とともに「文具四宝」と珍重された墨。普及には仏教と並んで、律令制も大きな
  役割を果たした。
  宮内庁正倉院事務所の飯田剛彦 保存課調査室長(45)は「文章が大量に作成され、墨の消費が
  増えました」と説明する。

  正倉院には国内最古とされる墨15挺ちょうが納められている。
  「大仏開眼会で用いられた墨は長さが50㌢以上あります」
  墨のほか、天皇の自筆から下級官吏のメモまで奈良時代の大量の書籍や文書も残る。

  聖武天皇が31歳で筆をとった「雑集ざっしゅう」は中国の詩文140首余りを書写したものだ。
  「早く林に還かえりたい」 「生あるものは皆死ぬ」といった文書が並び、無常観が漂う。

  21㍍を超える長大な書巻には、およそ2万の文字が整然と連なる。
  奈良国立博物館の西山厚 学芸部長(60)は「細く鋭く美しい筆跡で、震える線でさえ、針金の
  ような強さと硬さがある。誰にも真似できない字です」と絶賛する。

  聖武天皇はすべての動物と植物がともに栄える世の中をめざし大仏を造立した。
  「理想の国家を心から願ったのでしょう。巻首から巻末まで張り詰めた文字からは尋常
  ならざる精神力が読み取れます。書はどんな肖像画よりその人に迫ることができるのです」

  「書は人なり」という。墨はいにしえの人の重いをも後世に伝え続ける。 (文・青山祥子)


  【奈良墨】なら‐ずみ
   油煙で製した奈良産の墨。上等の墨の一種。今は菜種油に灯心をひたし点火して油煙を採る。

  【奈良紙】なら‐がみ
   奈良県大和平野南部から産出した楮こうぞ製の極めて薄く柔らかな和紙。やわやわ。









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