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【 鎌倉時代 】 1192頃~年1333年(元弘3)頃 武士が台頭した時代 |
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【鎌倉時代】かまくら‐じだい
源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、1333年(元弘3)北条高時の滅亡に至るまで約150年間の称。
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≪ 清和源氏 ≫
清和天皇から出て源氏を賜った氏で、
一般に源氏と言えば。清和源氏の事。
紅白試合・・・源平試合からきています。
≪ 河内源氏 ≫ 詳しくは大阪 南河内で。
頼信が河内源氏の祖で、孫の(八幡太郎)
義家が有名。
頼朝、新田氏、足利氏、武田氏など有名
戦国大名の多くは河内源氏の血脈です。
彼らの本名は『源』姓になり、朝廷から位
などを授かる場合 (新田義貞なら源義貞)
と記されます。
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テレビ東京 たけしのニッポンのミカタ ! 『~消えてからではおそい!? ニッポン絶滅危機を追え ! 2~』 13.06.21 放送 などより
現在の歴史の教科書の内容は、我々が習ってきた内容と異なるものが増えているそうです。
新発見や新説の方が有力になり、はっきりしない物は教科書に載せられないらしいです。(※ 見解は教科書の出版社により異なる)
【源頼朝】 みなもと‐の‐よりとも (1147~1199)
鎌倉幕府初代将軍(在職1192~1199)。武家政治の創始者。義朝の第3子。平治の乱に伊豆に流されたが、
1180年(治承4)以仁王の令旨を奉じて平氏追討の兵を挙げ、石橋山に敗れた後、富士川の戦に大勝。鎌倉にあって
東国を固め、幕府を開いた。弟の範頼・義経をして源義仲、続いて平氏を滅亡させた。その後守護・地頭の制を定め、
右近衛大将、92年(建久3)征夷大将軍となった。
【足利直義】 あしかが‐ただよし (1306~1352年)
南北朝時代の武将。尊氏の弟。兄と共に建武政権に叛き、幕府を開いてその実権を握ったが、尊氏の執事 高師直と
争い、尊氏と不和を生じた。観応の擾乱じょうらんで武家方の分裂をひき起こし関東に下ったが、鎌倉で毒殺された。
三条殿。錦小路殿。
仁徳天皇陵 → 大仙陵古墳。 日本最古の貨幣 和同開珎 → 富本銭。
聖徳太子の実在の有無。 武田信玄の肖像画など。 鎌倉幕府の成立は1185年に変わっています。
京都の神護寺にあった肖像画が「源頼朝と代々伝えられてきた」為、頼朝像とされてきた画は1995年に足利直義
(尊氏の弟) ではないかとの新説があった為、はっきりしないとか。
NHK Eテレ 高校講座日本史 『鎌倉幕府の誕生』 14.06.27 / 同 『承久の乱と執権政治』 14.07.04 放送
日本の鎌倉武士が台頭した時代。武家政権の基礎が確立しました。公家の領地であった荘園を鎌倉幕府の地頭たちが
武力を背景に侵略していきました。
【荘園・庄園】しょう‐えん
平安時代より室町時代にかけての貴族・寺社の私的な領有地。
奈良時代に墾田などを起源として出現したが、平安時代には地方豪族の寄進による荘園形成が盛んとなり、全国的に
拡大、不輸不入権も認められるに至った。
鎌倉幕府の守護地頭制によって次第に武家に侵略され、南北朝の動乱以後、急速に衰退に向かい、豊臣秀吉の時、
太閤検地によって最終的に廃止された。荘。
【地頭】じ‐とう
鎌倉・室町幕府の職名。1185年(文治1)源頼朝が、行家・義経を捕らえる名目で、勅許を得て各地の荘園・公領に置いた職。
御家人が任命され、荘園・公領内の警察・刑事裁判権をもち、次第に在地領主として成長した。
承久の乱以前に任命されたものを本補地頭、以後のものを新補地頭という。
【下地中分】したじ‐ちゅうぶん
荘園の領家・地頭の紛争を、下地の折半という形で解決する方法。鎌倉後期にひろく行われた。
鎌倉時代の武士は自ら畑を耕す半農生活でした。
特に武士の勢力が強い東国では、狩りで得たウサギ、猪、鹿、クマ、狸などの鳥獣を食べていたらしいです。
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精進料理の発達 |
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NHK大阪 歴史ヒストリア 和食はどうしておいしくなった !? ~時代の主役たちが育んだ食の遺産~ 14.11.26 放送
≪ 精進料理 ≫ 仏教の発達と共に、肉食をしない精進料理が流行った。
鎌倉時代、宋に渡った留学僧たちが禅宗と共に精進料理の調理法なども持ち帰り、日本の精進料理が発達します。
その中でも精進料理を広める事に熱心だったのが、日本の曹洞宗の開祖である道元でした。
【道元】どうげん(京都の人、1200~1253) 号は希玄。諡号は承陽大師。 内大臣源(土御門)通親の子か。
鎌倉初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。比叡山で学び、のち栄西の法嗣に師事。
1223年(貞応2)入宋、如浄より法を受け、1227年(安貞1)帰国後、京都深草の興聖寺を開いて法を弘めた。
1244年(寛元2)越前に曹洞禅の専修道場永平寺を開く。 著「正法眼蔵」「永平広録」など。
【宋】そう (960~1276)
中国、後周の将軍 趙匡胤ちょうきょういんが建てた王朝。
汴べん(開封)に都し、文治主義による官僚政治を樹立したが、外は遼・西夏の侵入に悩まされ、内は財政の窮迫に苦しみ、
1127年 金の侵入により9代で江南に逃れた。これまでを北宋といい、以後、臨安(杭州)に都して、9代で元に滅ぼされる
までを南宋という。
道元は10代半ばで仏門に入り、宋からの帰化僧の栄西の元や、各寺で修行を重ねました。
当時の仏教界は、民衆を救う事も忘れ、悟りを求める本来の姿とはかけ離れていたおり堕落していました。
1223年、新たな仏教を体得する為 24才の時に宋へと留学します。
道元が乗った船が宋の港に着いた時、ある年老いた典座の僧と出会います。その老典座は、日本の船が着いたという事で
「おいしいと評判の日本のシイタケ」を手に入れようと港にやって来たのでした。
【典座】てんぞ、てんざ … (ゾは唐音)禅寺で、食事などの事をつかさどる役僧。六知事の一つ。
【六知事】ろくちじ
〔仏〕禅寺で、寺院の事務をつかさどる知事の六つの役職。
都寺つうす・監寺かんす・副寺ふうす・維那いな・典座てんぞ・直歳しっすいのこと。両序のうち東序の僧が当たる。
「用が済んだら、すぐ寺に戻り食事の準備をしなければ」という典座に、
道元は「食事の支度ぐらい他の者に任せたら如何です。台所仕事など、何故それほど心に懸けられるのですか?」
典座は「アナタは修行の本質というものを ご存じない」と言い立ち去って行きました。
中国仏教では、すでに典座の心得が定められ、精進料理もかなり発達していました。
肉を使わずに、肉の味や食感を似せる様々な調理法や多彩な味付けが発達していました。
道元も修行の一環として精進料理の調理法の技術も学びました。
宋に来てしばらく経ったある日、港で出会ったあの老典座が道元の元を訪れました。
「私は典座の職を退き、故郷へ戻ります。旅立つ前にアナタにご挨拶しようとやって
参りました。」
道元は「仏道における修行の本質とは、一体なんなのでしょうか?」 出会った時から
答えが出ない疑問を訪ねます。
典座は「仏道修行とは日々の暮らしそのものである。」
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道元は 『座禅や読経と同じく、食事を作る事も食べる事も、尊い修行である』という事に気づきます。
1227年、宋での約5年に渡る修行の後、帰国します。
道元たち禅僧が持ち帰った調理技術は、これまで味付けをしていなかった日本の料理に『おいしさへの革命』を
もたらしました。
しかし、日本の典座たちは、料理作りに真面目に取り組む事をしていませんでした。
道元は著書『典座教訓』の中で「食事に対する態度は実に嘆かわしい。どうしたらよいものか。」と書き残しています。
日常の行いに真摯に向き合う事こそ、修業であり、悟りに繋がると強く説きました。
1244年に道元が禅の修行道場として開いた福井県にある曹洞宗の大本山となっている永平寺に、その教えは現在も
残っています。
【永平寺】えいへい‐じ
福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の大本山。山号は吉祥山。
1244年(寛元2)道元の開山。波多野義重の創建。初め大仏寺と称したが、2年後に永平寺と改称。
道元没後、その門流の内紛のために荒廃したが、寂円(1207~1299)門流によって維持され、江戸時代には大本山となった。
【曹洞宗】そうとう‐しゅう
禅宗の一派。中国で洞山良价とうざんりょうかいと弟子の曹山本寂によって開かれ、日本では、道元が入宋して如浄からこれを
伝え受けた。只管打坐を説く。永平寺・総持寺を大本山とする。
【只管打坐・祗管打坐】しかん‐たざ … 禅宗で、余念を交えず、ひたすらに坐禅をすること。
永平寺には『典座寮』と呼ばれる厨房があり、大きな回転釜で朝は230人分の玄米粥を炊いているそうです。
食事関係を全て取り仕切る典座の三好良久さんの元で修行僧たちが精進料理を作っています。
生のゴマから1日かかりで作るゴマ豆腐、絹さやとニンジンの白和えなど、肉を使わなくとも手間暇をかけて栄養価が
高い料理になっています。
道元の『典座教訓』では、「米一粒たりとも無駄にしてはならない」 「米や野菜を人間の目のように大切に扱いなさい」
など、食材に感謝と敬意を持ち、無駄なく調理するべきと、調理人の心得と共に繰り返し説かれているそうです。
味付けも『六味ろくみ』という道元の教えを引き継いでいます。
甘い ・ 苦い ・ しょっぱい ・ 辛い ・ 酸っぱい ・ 淡い = 淡いとは薄味の意味で、野菜が本来持っている味を大切にする事。
また、道元は『赴粥飯法ふしゅくはんほう』という著書で、食べる人の心得を説いています。
「食べる時は肘をつかない」「音をたてて食べない」など、現代にも通じる食事の作法の数々を書き残しており、
「これらを厳格に守ることが悟りそのものである」としているそうです。
「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を多角的に徹底検証してみた件
『守貞謾稿』にある上方と江戸との味付けの違いの記述も追加
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醤油の発祥、和歌山県の由良 |
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テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『和歌山湯浅ぶらり 秋の美味いもん旅』 14.10.25 放送
≪ きんざんじ味噌 と 醤油 ≫ ヤマサ醤油 http://www.yamasa.com/soydoc/history/history03.html Wiki 金山寺味噌 など
日本におけるしょうゆの発祥は、鎌倉時代といわれています。
1254年、鎌倉時代の禅僧、覚心 かくしん が中国から持ち帰った径山寺きんざんじ 味噌の製法を紀州由良(現:和歌山県
日高郡由良町)の人たちに教えていたのですが、ある時、仕込みの間違いか、水分の多い「味噌」が出来上がってしまった
のです。
この余分な水分、みその上澄み液をなめてみるととてもおいしく、食物の煮炊きに適していることがわかりました。
以後、わざと水分の多い径山寺味噌をつくるようになり、いまの「溜(たまり)しょうゆ」に近いものが生産されるように
なったということです。
別の説では空海(弘法大師)が唐の金山寺 きんざんじ から持ち帰った。 関西淡口醤油と醤油データ 醤油とソースの関係
2008年3月20日、和歌山県岩出市の根来寺の旧境内から、約430年前の金山寺味噌が見つかったそうです。
しょうゆ発祥の地 和歌山県湯浅町の金山寺味噌としょうゆ
【径山寺味噌・金山寺味噌】きんざんじ‐みそ
(中国の径山寺の製法を伝えたので、この名があるという)嘗味噌なめみその一種。大豆と大麦の麹こうじに塩を加え、
これに細かく刻んだ茄子・瓜などを入れ、密閉して熟成させたもの。和歌山県有田郡湯浅町の名産。熟成後、
砂糖や水飴などで調味することがある。
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茶の栽培が本格的に始まる 当時は抹茶が飲まれました。 |
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≪ お茶が宋から伝わり、茶の栽培が普及 ≫ お茶の歴史・雑学 麦茶は平安時代から
1211年、宋 (中国) からの帰国僧である栄西が、茶に関する日本で最初の書「喫茶養生記」を著し源実朝に献じた。
【栄西】えいさい、ようさい(岡山備中の人、1141~1215)明庵と号。
日本臨済宗の祖。比叡山で学び台密に長ずるが、禅学の衰微を嘆いて1168年(仁安3)・87年(文治3)と2度入宋、
虚庵懐敞きあんえしょうに臨済禅を受け、博多に聖福寺、京都に建仁寺を建立して禅宗の定着に努めた。著「興禅護国論」。
また、宋から茶種をもたらして栽培し、「喫茶養生記」を著す。
平安時代に中国から伝わっていた茶ですが、日本各地での茶樹栽培が普及し、本格的にお茶が飲まれるようになったのは
鎌倉時代後期。当時の最高級品は京都の栂尾とが茶でした。煎茶は江戸時代になってから。
室町時代になると茶の作法を重んじる『茶の湯』が流行します。『亭主』と呼ばれる主催者が、客に茶をふるまう『茶会』が
頻繁に開かれました。しかし、この頃の『茶の湯』は、本膳料理を食べる事が主で、『茶』は添え物程度でした。
【慕帰絵】ぼき‐え
本願寺3世の覚如かくにょ(鎌倉後期の浄土真宗の僧、1270~1351)の伝記を描いた絵巻。10巻。
1351年(観応2)の制作。覚如の子、慈俊(従覚)の撰。絵は藤原隆昌・隆章筆。巻1・7は1482年(文明14)の補作。
西本願寺蔵。
【村田珠光】むらた‐しゅこう、じゅこう (1423~1502)
室町時代の茶湯者。奈良称名寺の僧となり、のち京都に住む。大徳寺の一休に教えを乞い、禅味を加えた点茶てんちゃ
(抹茶をたてる事) 法を始めた。 侘茶の祖といわれる。
【書院茶】しょいんちゃ はてなキーワード http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F1%B1%A1%C3%E3 より
広間の書院に天目茶碗や唐物茶入など、中国渡来の豪華な茶道具を台子に飾った茶の湯の式をいいます。
【侘茶】わび‐ちゃ
茶の湯で、東山時代 (室町中期、1483年将軍 足利義政が、今の銀閣寺に移って以降の時代) に流行した書院茶に
対して、村田珠光以後、桃山時代に流行し、簡素静寂の境地を重んじたもの。千利休が完成したといわれる。
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葛菓子の歴史 |
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毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅41 坂上是則・参議雅経、世界遺産の吉野山へ』 16.02.18 放送
吉野葛本舗 黒川本家 『吉野本葛』 http://yoshinokuzu.com/sub1.html
葛辞典 葛について 『吉野本葛と吉野葛の違い』 2008.05.01 配信 http://kudzujiten.blog40.fc2.com/blog-category-3.html
≪ 葛の由来 ≫
「葛」の語源は、奈良県南部吉野郡の国栖くずと言われ、国栖には国栖人と呼ばれる土着民がいて、自生していた
蔓草を食用にしていたことから、その蔓草を「くずかずら」から転じ「くず」と呼ぶようになったと言われているそうです。
蔓草は葛草とも書き、「かずらぐさ」「つるくさ」「まんそう」とも読みます。
【国栖・国樔・国巣】く-ず、くに-す 広辞苑
古く大和国吉野の山奥にあったと伝えられる村落。また、その村民。
在来の古俗を保持して、奈良・平安時代には宮中の節会・大嘗会に参加。宮中承明門外で贄にえ (貢物) を献じ、
笛を奏し、口鼓を打って風俗歌を奏することが例となっていた。
葛の根は漢方薬として、葉は家畜の飼料、蔓は布の繊維、花は二日酔いの薬として古くから利用されてきたようです。
奈良時代編纂の万葉集[10]「国栖らが春菜つむらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ」など、多数の歌が
詠まれています。
【葛】くず (奈良県国栖くずの地名に因むという) 広辞苑
マメ科の大形蔓性の多年草。山野に多く、蔓の長さは10メートル以上にも達する。葉は大きく、裏面は白っぽい。
秋、葉腋に花穂をつけ、紫紅色の蝶形花を総状に咲かせ、花後、平たい莢さやを生ずる。
根は肥大し、生薬の葛根かっこんとして漢方で解熱・発汗・鎮痙剤に用い、また、葛粉を採る。
蔓の繊維をとって葛布くずふを織り、また蔓で行李などをつくる。秋の七草の一つ。アメリカなどで帰化植物となる。
くずかずら。「葛」「葛の花」「葛の葉」はの季語は秋。万葉集[14]「箱根の山に延ふ―の」
≪ 吉野本葛と吉野葛、葛粉の代用品の違い ≫
吉野本葛は葛の根から採れたデンプン100%を寒水に晒して精製したもの。原材料名は「葛でん粉」または「くず粉」。
吉野葛は、葛粉を主原料とし、自然工法で採取したサツマイモのデンプンを加えた物。
原材料名は「葛でん粉・甘藷かんしょでん粉」となります。
普及品は葛粉の代用として、ジャガイモなどのデンブンを用いています。 葛粉を使わないものは「葛類代用品」に
なります。
上記の3種は価格が違うので、原材料名を確認する事が必要です。
≪ 葛菓子「葛切り」は鎌倉時代に中国から伝わった ≫ Wiki 葛切り
鎌倉時代、宋 (中国) に留学していた僧が点心として持ち帰った記録があり、これが葛菓子の最初とされているようです。
下記の辞典や色んなサイトの情報から推測すと、
葛切りの元になる「水繊」と呼ばれた点心は、まだ透明ではなく白色。煎酒 (酒を煮つめた) ものに浸けて食べて
いたようです。
室町時代中期頃には、垂れ味噌や黒砂糖の蜜につけて食べるようになった。
16世紀中頃から宇陀市で葛粉が多く製造されるようになった。江戸時代初期に『吉野晒し』という高品質の葛粉の
作り方を確立。
江戸時代中期に現在と同じ葛切りや、葛餅 (葛饅頭) などの和菓子が完成し、吉野葛の知名度が全国的に
知られるようになった。
※ 透明が保てるのは55℃以上に加熱して起こる糊化こっかという現象によるもの。葛粉は他より透き通った透明に近い。
しかし冷えると白く濁ります。他のデンプン粉でも起こる現象です。その為、賞味期限10分。詳しくは↓下のサイトで。
生涯葛道「葛塾」 『葛粉の糊化・老化』 http://nakasyun.com/kuzujyuku/?p=935
【葛切り】くずきり 百菓辞典
くず粉をよく沸騰させたお湯でこね。薄く流して固め、めん類のように細く切り、冷やして、黒蜜につけて食べる。
水仙羹ともいう。鎌倉時代に中国から伝わった点心のひとつ、水繊であったらしい。
【水仙羹】すいせん-かん 百菓辞典
葛切りの別称。茶道の点心として、短冊型で白色と黄色の2色を出すことから、花の色が似ている水仙に見立てて
つけたという説がある。
【水繊葛切・水仙葛切】すいせん-くずきり 百菓辞典
葛粉を練って、油をひいた銅鍋に入れて煮、固まったところで細く切り、酒にひたして食べる。点心。
細かく切るために「水繊」という。
また、くちなしの実などで黄色に染めたものと、染めていない白いものを盛り合わせたものが、水仙の花のようであるため、
「水仙」ともいう。
【水繊・水煎・水蟾】すい-せん 広辞苑
葛粉を練り、冷やして細く切り、黄白2色を交えて水仙の花に似せたもの。垂れ味噌・煎酒いりざけ・砂糖蜜をつけて食べる。
室町時代に行われた。※江戸時代の複数の料理書に水仙のレシピが書かれてあります。
【水繊鍋】すいせん-なべ 広辞苑
薄く平たい方形または長方形の青銅もしくは銅製の鍋で、内部に白鑞しろめ (合金の一種) をひいたもの。
水繊を作るのに用い、鉉つるがある。
江戸時代前期1643年刊『料理物語』に記述がある「くずぞうめん」「すいせん」「垂れ味噌」などの作り方
1643年刊『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部」の全文 煎り酒のレシピがあります。
【煎酒】いり-ざけ 広辞苑 大坂・新町の夕霧太夫
① 酒を煮つめたもの。
② 酒に鰹節・梅干・炒塩・醤油などを加えて煮つめて漉したもの。刺身・膾なますなどの味付け用。
錦之裏 (山東京伝 作画の洒落本、1791年刊。大坂新町の名妓を描いたもの) 「―のにほひ。鼻をつらぬき」
※②の醤油は江戸時代になってから使用されたもの。
≪ 吉野の本葛が本格的に和菓子などで使用されるようになったのは江戸時代中期から ≫ Wiki 鍵善良房
吉野地方は良質の水と寒冷な土地であった為、葛粉の風味・粘り・透明感を活かす『吉野晒し』という製法を確立。
この製法ができたのは、江戸時代初期 (1615年) 頃のようです。宇陀市付近に吉野葛の老舗が多い。
京都の和菓子 『くずきり・葛切り とは?』 http://kyoto-wagasi.com/season_summer/kuzukiri.html
上記サイトによると、現在のような葛切りの発祥は、京都市東山区祇園商店街にある鍵善良房 (享保年間1716~
1736年頃もしくは1695年の創業) だそうです。
江戸時代中期の元禄年間(1688~1704年)に、現在とほぼ同様の和菓子が京都で上流階級向けに発展しました。
江戸時代の砂糖と薬 江戸時代に発達した甘味1 江戸時代に発達した甘味2
≪ 葛餅 と 久寿餅 ≫ Wiki 葛餅
【葛餅】くず‐もち 「くずまんじゅう」の別称。 広辞苑
葛粉または小麦粉・生麩粉などを熱湯でこね、型に入れて蒸した菓子。冷やして黄粉きなこや糖蜜をかけて食べる。
【葛饅頭】くず‐まんじゅう 広辞苑
葛粉と砂糖などを練った生地で、餡を包んだ饅頭。多く、包んだあと蒸し、冷やして食べる。
百菓辞典の記述を要約すると、葛餅は別称『葛練り』で葛粉を水で溶いて火にかけ、型で冷やし固めたものを切り、
黄な粉と糖蜜をかけて食べる。 ※ 久寿餅の記述はありません。
現在は、小麦デンプンに葛粉、小麦粉を混ぜて水で溶き、木枠に流して蒸す。
葛饅頭は砂糖を加えた葛練りで餡を包んだ透明の饅頭。別称『水仙饅頭』。夏の季節菓子。
餡の色によって『水牡丹』などの名が付けられる。
【葛桜】くず‐ざくら … 葛まんじゅうを桜の葉で包んだ菓子。暑中、冷やして食べる。 広辞苑
日本経済新聞 『「くず餅」東と西で別モノ?(謎解きクルーズ)奈良・吉野が本家 原料、良質で豊富 関東は葛使わず小麦発酵し製造』 15.03.28 配信
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO84578370Z10C15A3AA1P00/ より抜粋
『関西でよく見かけるのは葛粉から作る「葛餅」だ。1870年創業の井上天極堂(奈良県
御所市)に作り方を聞くと「葛粉に砂糖と水を加え、火にかけてよく練っていくと、透明に
なりとろみがつく」。
葛粉の原料となるクズはマメ科の多年草で、全国の森に広く分布している。
奈良県吉野産は特に良質だとされ、同地域で加工した粉は「吉野葛」として知られる。
一方関東のくず餅は小麦を乳酸菌で発酵させた小麦でんぷんで作る。
1805年創業の船橋屋(東京・江東)は代表的なメーカーだ。青木優海さんによると
「小麦の配合や発酵期間は店によって異なるが、当社は450日かける」と作り方を
説明する。
独特の発酵臭や酸味を除くため、何度も水洗いした小麦でんぷんに湯を加え、蒸して
作る。独特の食感は発酵という工程があってこそだ。
和菓子唯一の発酵食品ともいわれるという。
葛を使っていないのになぜ「くず餅」という名前がついたのだろうか。
同社がある東京都の東部などはかつて下総国葛飾郡と呼ばれた。良質な小麦の
産地であることを生かし、庶民の菓子として作られた。青木さんによると、地名から
「葛餅」としたものの、関西に同じ名称の菓子があり紛らわしいので「くず餅」や
「久寿餅」の表記にしたという。
江戸時代に洪水で水に漬かった小麦を食べる工夫がルーツという説もある。
池上池田屋(東京・大田)は発酵した小麦を水で洗って火を通す調理法で作り始めた。
教えたのは焼酎の発酵技術を持つ九州出身の旅人だった。
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関東の久寿餅
葛餅を桜の葉で包んだ葛桜
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同店の池田健二さんによると、近くの池上本門寺に関係がある久遠寺にちなんで「久遠餅」と名付けたが、見よう見まねで
書き写したら「久寿」に変わり「くず餅」として定着したという。 残っている資料が少なく、発祥には諸説ある。
ただ東西の「くず餅」の起源が全く異なるのは間違いなさそうだ。
小麦でんぷんで作るくず餅は東京を中心とした地域に限定され、全国的には葛粉を使ったくず餅のほうが多い。
近年、葛粉のみで作る店は少ない。時間がたっても食感を維持できるようゲル化剤を含ませたり、サツマイモから作る
かんしょでんぷんを使ったりする商品も目立つ。
葛粉が高価なのは、クズの採取や加工に手間がかかるからだ。クズは栽培に向かないため、今でも大半は天然ものを
採取する。根をつぶし、水で洗って不純物を取り除き、下に沈殿したでんぷんを取り出し、日陰干しで乾燥させるという
工程が必要だ。
井上天極堂の岡本さんは「本来のもちっと感はゲル化剤では再現できない」と話す。』
他の説では、天保年間の頃の話で、糊屋を営む久兵衛という男がいました。
小麦粉を糊の代用として使用する事もありました。ある日、納屋に置いてあった小麦粉が雨に濡れてしまった。
樽に移し水に溶いて放置していました。
次の年に飢饉に見舞われ放置していたものを見てみると、小麦粉が発酵し樽の底にデンプンが溜まっていました。
火を通せば食べられるだろうと思い、蒸したところ見た事のない餅になった。これを配って村人たちを救いました。
久兵衛の『久』と、長寿の願いを込めた「寿」を合せて、その餅を『久寿餅』と呼ぶ事にしたそうです。
【葛飾】かつしか (古くはカヅシカ)
① 下総国の郡名。もと隅田川以東の地の汎称。江戸川を境に葛西・葛東といい、江戸初期、下総葛飾郡・武蔵葛飾郡と
称し、のち変遷して、東京・千葉・埼玉に3分された。葛餝。勝鹿。
② 東京都23区の一つ。荒川(荒川放水路)と江戸川に挟まれた工業・住宅地区。
幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下「茶飯賣」
『京坂に無レ之 江戸にて夜二更後 賣ニ巡之一 茶飯と饀掛豆腐を賣る 蓋 此類に用ふる あんは葛粉醤油烹を
云也。 天保以來 江戸にて稻荷鮨と號け 油あげ豆腐を中を裂き 紙の如くなして内に飯を詰めてうるを始る
是も茶飯と同じ荷也』
売り歩く「振売り」で、当時最も安価な稲荷鮨を売っている事から考えても、高価な本葛を使っているとは考えにくい。
なので、この葛は本葛ではなく、上記の小麦粉を発酵した澱粉と同じ可能性が高いです。
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【葛餅】くじむち 百菓辞典
沖縄の葛餅。唐芋 (さつまいも) から取った真白い澱粉を水で溶いて、砂糖を加えて炊き、型に入れて固まったものを
角切りにして、黄な粉をまぶしたもの。
≪ 水饅頭 ≫ 読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『47都道府県全国おやつ博覧会』 14.07.20 放送
【水饅頭】みず-まんじゅう 百菓辞典
吉野葛にわらび粉、砂糖を混ぜ、水に溶かし、強火で半透明になるまでじっくり炊く。
これをちょこほどの小さな型に流し込み、十円玉くらいの大きさに丸めた餡を入れ、
5~6分せいろで蒸し、冷たい水で冷やす。
明治時代に岐阜県大垣市で、菓子屋の夏場対策として創製されたという。
冷たい井戸水で冷やして食べるため、この名がついた。
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【 室町時代の食文化 】 1338~1573年頃 京都の僧侶を中心とした食文化の発達 |
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NHK Eテレ 高校講座 日本史 『室町幕府の創設』 14.07.18 放送 / 同 『室町時代の交易と文化』 14.07.25 放送 NHK Eテレ 高校講座 世界史 『明代の中国 ~東西文化の交流~』 14.09.05 放送
NHK大阪 歴史ヒストリア 和食はどうしておいしくなった !? ~時代の主役たちが育んだ食の遺産~ 14.11.26 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「百人一首の旅25 あやめ池~興福寺」』 15.10.15 放送
【南北朝時代】なんぼくちょう‐じだい
1336年(延元1・建武3)後醍醐天皇が大和国吉野に入ってより、92年(元中9・明徳3)後亀山天皇が京都に帰る
までの57年間。南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)とが対立抗争した。
それ以前の建武政権期を含めていうことも多い。
【室町時代】むろまち‐じだい
足利氏が政権を握り京都室町に幕府を開いた時代。1392年(明徳3)南北朝の合一から、1573年(天正1)第15代
将軍義昭が織田信長に追われるまでの約180年間を指す。その後期すなわち応仁の乱後を戦国時代とも称する。
また、南北朝時代(1336~1392)を室町時代前期に含める説もある。
≪ 室町幕府の成立 ≫
2度に渡る元寇襲来などで弱った鎌倉幕府が楠木正成、新田義貞、足利尊氏らによって滅ぼされると、後醍醐天皇が
建武の新政を行います。しかし、わずか2年半ほどで後醍醐天皇と足利尊氏が対立し、尊氏が室町幕府を開きます。
皇室は南北朝に分裂し、南北朝時代と言われます。
【足利尊氏】あしかが‐たかうじ(1305~1358) Wiki 足利尊氏
室町幕府 初代将軍(在職1338~1358)。初め高氏。後醍醐天皇の諱いみな尊治の1字を賜って尊氏と称した。
元弘の乱に六波羅を陥れて建武新政のきっかけをつくったが、のち叛いて光明天皇を擁立し、征夷大将軍となり、
室町幕府を開いた。
【室町幕府】むろまち‐ばくふ 足利氏が京都に開いた幕府。
尊氏が1336年(建武3)建武政府を京都から逐って1338年に創始。
3代将軍義満の頃には実質的に朝廷の権力をも吸収して最盛期を迎えたが、やがて無力化し、
群雄割拠の戦国時代を招き、第15代義昭に至って織田信長に滅ぼされた。足利幕府。
≪ 室町時代は懐石料理、饅頭 まんじゅう 、麺類などの軽食類も考案された時代 食文化が大きく変化 ≫
日本で初めて「醤油」の文字が文献に現れたのは室町時代で、室町中期には「醤油」と呼ばれる液体調味料があった。
この時代頃には、海水を煮詰めた「水塩」というものを調味料として使用していたらしいです。唐辛子が明 (中国) から渡来。
≪街道や海上交通が整備され、全国の物資の流通が盛んになる ≫
室町時代、武士の権力は絶対的なものになり、兵や物資を移動させるため、各地をつなぐ街道や海上交通も急速に整備
されるようになりました。
室町時代初期頃までに成立した『庭訓往来』には、越後 (新潟県) の塩鮭、周防 (山口県) の鯖、筑紫 (福岡県) の米、
宇賀 (北海道) の昆布などが記されており、全国各地の特産物が盛んに流通するようになった事が伺えます。
【庭訓往来】ていきんおうらい コトバンク 『庭訓往来』 → 『応永年間(1394~1428)ころの成立か』
初学者の書簡文範例として、1年の各月の消息分を集めた往来物。文体は擬漢文体。
著者は玄恵とも伝えるが未詳。南北朝時代から室町初期に成り、近世末期まで広く使われた。
【往来物】おうらい‐もの
鎌倉・室町時代から明治・大正期に至るまで、初等教育、特に手習所用に編集された教科書の総称で、数千種つくられた
といわれる。「往来」は消息往来の意で、平安末期の「明衡めいごう往来」「高山寺本古往来」などを先駆とし、書簡文の
模範文例であったが、中世以降は教科書的なものとなり、「庭訓往来」「商売往来」「百姓往来」など、庶民教育に重要な
役割を果たした。
【玄慧・玄恵】げんえ、げんね(京都の人、1279~1350)
鎌倉後期・南北朝時代の学僧。一説に虎関師錬の弟。
天台・禅・宋学を究め、足利尊氏・直義に用いられ、
建武式目の制定に参与。
「太平記」「庭訓往来」の著者に擬せられる。
【虎関師錬】こかん‐しれん(京都の人、1278~1346)
鎌倉末~南北朝時代の臨済宗の僧。
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東福寺海蔵院に居り、詩文に長じ、五山文学の先駆者の一人。
著「元亨釈書」「済北集」など。海蔵和尚。
室町時代、昆布や鰹節が普及し始めた事で、料理の下味の基本としてダシを使う事が普通になったと考えられるそうです。
江戸時代、昆布は主に北前船寄港地と関西でしか消費されていませんでした。合せ出汁は大坂で完成したと言われています。
≪ 日本 と 明 (中国) との交流が再開 ≫
1368年、中国では、朱元璋が元を北方に追いやり、明みん(1368~1644、明朝の第3代永楽帝が南京から北京へ遷都)が成立。
1392年、朝鮮では、李成桂が高麗に代わって朝鮮王国を建国 (1392~1910、李氏朝鮮。1897年に国号を大韓帝国に改める)。
1910年(明治43)日本に併合されて、27代519年で滅んだ。国教は朱子学(儒学)。都は漢城(現ソウル)。
【明】みん (1368~1644)
中国の王朝の一つ。朱元璋(太祖)が他の群雄を倒し、元を北に追い払って建国。
成祖の時、国都を南京から北京に遷し、南海諸国を経略、その勢威はアフリカ東岸にまで及んだ。
中期以後、宦官の権力増大、北虜南倭ほくりょなんわに悩まされ、農民反乱が続発し、李自成に北京を占領され、17世で滅亡。
明は朝貢形式でないと貿易を行わないとする海禁政策を実施します。
【海禁】かい‐きん …(下海通蕃の禁の略)明・清代、民間の海外渡航・海外貿易などに制限を加えた政策。
平安時代の894年(寛平6)菅原道真の提議により遣唐使が廃止されて以来、500年もの間、日本と大陸との正式な交流は
ありませんでした。室町時代初期、日本の経済の発展と共に文化 (能や猿楽などの芸能) も発達。
貨幣は国内では鋳造されず、中国から輸入した銅銭を使用しており、明の海禁政策の影響で銅銭が不足し、経済が
停滞し始めました。
【足利義満】あしかが‐よしみつ(1358~1408、初代将軍 尊氏の孫、2代将 軍義詮の子)
室町幕府第3代将軍(在職1368~1394)。南北朝内乱を統一し幕府の全盛期を築く。明みんに入貢、勘合貿易をひらく。
北山に山荘を営み、金閣をつくる。法名、道有、のち道義。北山殿。
わずか11才で室町幕府3代将軍に就任した足利義満は
明との貿易再開を目指します。
明からの要請を受け倭寇鎮圧を実行。
国内では南北朝の合一に成功します。
【倭寇】わ‐こう(「倭」は日本・日本人、「寇」は賊・外敵の意)
豊臣秀吉の禁止で消滅。
13~16世紀、朝鮮・中国の沿岸を掠奪した海賊集団に
対する、朝鮮・中国側の呼称。
14~15世紀には北九州周辺の海民と朝鮮人が中心。
明の嘉靖(1522~1566)の頃頂点に達する
16世紀の倭寇では、中国人の密貿易者が主だった。
明朝では南倭(南方の倭寇の侵略)と称し、
北虜(明を悩ませた北方のモンゴル族)とともに
北虜南倭と言い「二大患」とした。
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1401年、室町幕府が明へ使者を送ります。1402年、明からの使者を京都の北山第きたやまだいに迎え入れます。
義満は明から日本国王と認められ、日明 (勘合貿易) が始まりました。
日本からは扇・屏風・蒔絵などの工芸品、刀剣などを輸出。明からは絵画・生糸・絹織物・砂糖・書籍・陶磁器などが
入ってきました。これらは「唐物からもの」と呼ばれ、室町文化に影響を与えました。
【勘合】かん‐ごう
中国の明朝みんちょうが他国との通交の際、正式の使船の証として発行した割符わりふ。
日本との間では倭寇や私貿易をおさえるため、「日本」の2字を分け、室町幕府に「本」字の勘合100通を与え、遣明船が
それぞれ所持して入明し、寧波・北京で底簿(台帳)と照合検査された。明船は「日」字の勘合を所持するものとされた。
【三浦】さん-ぽ
李朝の世宗の時に定めた日本と朝鮮との通商港、すなわち乃而浦ないじほ (薺浦、慶尚南道熊川コモガイ)・富山浦ふさんぽ
(釜山プサン)・塩浦えんぽ (:慶尚南道蔚山ウルサン) の総称。
【三浦の乱】さんぽ-らん
1510年、朝鮮の三浦で日本・朝鮮間の貿易に対する朝鮮王朝の圧迫に抵抗して起こった日本人の暴動事件。
名古屋大学 伊藤信博 『室町人の嗜好 – 古記録からみる室町時代の食文化』 http://urakamizaidan.or.jp/hp/jisseki/2012/vol21urakamif-13ito.pdf
≪ 米の食べ方が変化 ≫
平安時代の『類聚倭名抄』や『延喜式』などに記されている「飯の種類」は、「強飯」、「炊飯かしきかて」、「黒米飯」、
「油飯あぶらいひ」、「糒ほしいい」、「餉かれいい」、「糄米やきごめ」、「粔籹おこしごめ」、「頓食とんじき」、「姫飯ひめいひ」、
「水飯」、「湯漬」、「饘かたかゆ」、「汁粥」、「漿こずみ」、「味噌水みそうず」、「望粥もちかゆ」、「薯蕷粥」などがありました。
室町~安土・桃山時代にかけて、米は『蒸す、強飯こわめし』 → 『炊く、姫飯ひめめし』 と変化。
現在と同じご飯を食べる事が多くなりました。
高価な鉄鍋や土鍋が普及し始めた事が大きな要因のようです。
朝夕2回から1日3食が普通になり、酢も各地で作られ始めます。 酢の歴史
酢は古墳時代の応神天皇の時代に、酒の造り方と前後して中国から伝わり、和泉の国 (大阪府堺市)
で玄米酢が造られていたと言われています。江戸時代も堺を中心とした関西が一大産地でした。
【強飯】こわ‐めし、こわ‐いい 蒸飯。赤飯。(御強おこわ ← 室町時代の宮中の女房言葉から )
糯米もちごめを蒸したもの。多くは小豆を加え、祝賀に用いる。仏事には小豆を加えない白いもの、
または黒豆を混ぜたものを用いる。
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蒸籠せいろう
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【姫飯】ひめ‐いい
釜で炊いた飯。甑こしき (のちの蒸籠せいろうにあたる) で蒸した強飯こわいいに対し、やわらかく炊いた飯。
焼き田楽は室町時代。煮込み田楽 (おでん) は江戸時代。 田楽・おでんの歴史 日本全国 おでんの定番5品など、豆腐百珍の田楽各種メニュー、各地のおでん、ちくわぶ
≪ 麩ふの伝来 ≫ 株式会社いとふ|麩の歴史 http://www.itofu.jp/history/index.html
室町時代初期、明(中国)との勘合貿易に伴い麩が伝来。
小麦のことを「麺(めん)」と呼び、その小麦の「筋(すじ)」という意味で「小麦たんぱく」は「麺筋(めんちん)」と呼ばれて
いました。
「ひき割り小麦」を水で練り、十分にこねてから水の中で洗い「小麦でんぷん」と「小麦たんぱく」 に分離していました。
当時の麸は高価で、麺筋を玉にとり、大きな釜でゆで上げて食べられていたのが多く、 他に煎麸(いりふ)、炙麸(あぶりふ)
として用いられていた。
1543年(天文12年)、火縄銃が鹿児島県南部大隅諸島の種子島に伝わる。
1549年(天文18年)、キリスト教イエスズ会のフランシスコ・ザビエル(1506-1552)が来日。
1550年頃、勘合貿易で砂糖の輸入が活発になります。
振売ふりうり (棒手売) 木桶、木箱、カゴを前後に取り付けた天秤棒を振り担いで商品やサービスを売り歩く商売が存在。
この形態の商売は、江戸時代に最盛期を迎えます。
1563年(永禄6)、イエズス会士のルイス・フロイスが来日。信長、秀吉と親交を持ち、布教史「日本史」などを執筆。
1587年(天正15年) 6月18日、豊臣秀吉が宣教師追放令を発布。
ポルトガル人による日本人を奴隷として貿易が行われていた為。
詳しくは 歴史を読む 『かくも忌まわしき人間虐待』 http://sound.jp/sodaigomi/dorei/japan/nihon.htm
【雑掌奉行】ざっしょう‐ぶぎょう
室町時代、将軍が大名の邸に赴いた際、その家で将軍に饗する酒宴の費用をつかさどらせた臨時の職。
饗餉きょうしょう諸式奉行。
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日本式の饅頭の誕生 |
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毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅25 奈良あやめ池~興福寺』 15.10.15 放送
≪ 日本の饅頭の発祥地、奈良市・林神社 ≫
JR奈良駅の近くにある漢國かんごう神社は飛鳥時代に推古天皇の命により創建されたと言われています。
その漢國神社境内に、小さな社の林りん神社があります。
室町時代に宋から渡来した僧侶・林浄因りん-じょういんを祀り、饅頭の発祥地となっています。
林浄因は京都の建仁寺で修業をしていましたが、都会での生活に疲れ奈良へ移り住んだそうです。
中国の饅頭マントウは中身が肉や野菜。仏教では肉食を禁じている為、中身を小豆に替えて作り、販売もしていた。
これが日本の饅頭の始まりとされています。
日本で結婚し、子孫繁栄の為に紅白の饅頭を作り埋めたとされる饅頭塚が林神社の境内にあります。
毎年、浄因の命日である4月19日に饅頭祭が開催され、全国の菓子屋が饅頭を奉納します。
梅木春興 宮司によると、
「林浄因の子孫は奈良にもいらっしゃいますが、本家の方は京都に移り住み、さらには江戸へ移って商いを始められた」。
京都には林浄因の子孫が営んだ饅頭屋は残っていませんが、京都市中京区に由来となる饅頭屋町という地名が残ります。
現在、林浄因から数えて34代目の子孫が営む塩瀬総本家という饅頭屋が東京にあります。
【饅頭・蛮頭】マン-トウ 百菓辞典
中国の蒸しまんじゅうで、あんを入れないもの。マントウの起源は、中国の三国時代 (200年ごろ)、諸葛孔明が、
中国南部を平定して蜀に帰る途中、暴風雨のため荒れて渡れない濾水 (ろすい) という川を前に、当時の言い伝え
(49人の人頭をいけにえに川へ流すと川が治まる) に従い、牛や羊の肉を入れて小麦粉をねり、蛮頭 (蛮人の頭) 大に
作って川に流し、川を鎮めたことによると伝えられている。
後、蛮頭 (マントウ) と音が同じ饅頭の文字になった。
【饅頭】まん-じゅう
小麦粉・米粉・そば粉などでつくった皮で餡を包んで蒸して作る菓子。
暦応 (1338~1342) 年間、中国から帰化した林浄因が奈良で始めた奈良饅頭を始めとする。 広辞苑
饅重、万頭、蛮頭、曼頭、万十とも表記する。小麦粉に甘酒またはふくらし粉などを加えてこね、中に餡を包んで蒸して
作る菓子。建仁寺の2世竜山禅師が、中国から暦応4 (1341) 年帰国の際、同伴した宋の林浄因 (りんじょういん。後、
塩瀬と改姓) が帰化し、奈良の塩瀬で始めた奈良饅頭が最初とされる。
別な説によると、仁治2 (1241) 年宋から帰国し、博多に承天禅寺を建立した聖一国師が、布教の途中、茶店の主人
栗波吉右衛門に、酒麹で作る酒饅頭の製法を伝えたと言われている。 百菓辞典
【酒饅頭】さか-まんじゅう 百菓辞典
小麦粉に酒種を加えてこね、小豆餡を包んで蒸したもの。鎌倉時代後期、聖一国師によって伝えられたといわれる。
1367年、南北朝時代の僧侶・素眼によって著された『新札往来』に「砂糖饅頭」の記述が現れる。
【饅頭屋本】まんじゅうや‐ぼん
室町末期、奈良の歌人・歌学者で菓子商(塩瀬の祖)の饅頭屋宗二(林逸1498~1581)が刊行した本。
饅頭屋本節用集のほか、漢籍がある。
【酵・白糟】しら-かす
白い酒かす。特に、これで作った甘酒。また、饅頭の皮を製するもとに用いる。〈倭名類聚鈔[16]〉
江戸時代幕末の『守貞謾稿』下巻 第二十八編食物「饅頭」 小文字の部分は守貞謾稿出版社の注釈
「今世 世人口碑に傅ふ所 饅頭の始めは林和靖の裔 林淨因と云もの 建仁寺の儈龍山禪師 入宋の時 往來し
南都に住し姓を鹽瀬と改め 饅頭を製し賣る 是 皇國饅頭の始め也
延竇中 食類に名ある物を云る書に鹽瀬の頭を載たり 又 元祿 江戸名物にも茅場町鹽瀬 山城守饅頭とあり
是 實に林氏の裔歟 未レ詳
今世 江戸靈巖島に鹽瀬山城の大掾 藤原忠次と云あり 林氏鹽瀬々々と暖簾に記せり 一家二姓に似たり
又 同のれんに大日本第一本御饅頭家と題せり 然れ共 今世は當戸の製を賞せず 却て他戸諸店に名ある者多し
又 世事談には上畧 林淨因云々 奈良に住し 氏を鹽瀬と更め 製二饅頭一是を奈良饅頭と云 中略 京に於て製レ之
烏丸鹽瀬の祖也云々 始め右と同文意也 京師 是に名ある者 未レ聞レ之 追書すべし」
「又 古は饅頭に菜を合せ食す也 生大根、とさか、梅こと尺素往來に云り 號て酢菜と云
此風を元弘様と云と也 古きこと也
或は山椒粉 肉桂末 胡椒末を汁に加へ饅頭に合せ食すと云 號けて粉切物とも云
或は辛粉等と用ふこと 蕎麥條に詳か也 又 異名に十字と云ことあり
圖の如くきりめを入れ食す故也」
「古は饅頭店の招牌に木馬を出し「あらうま」と云 意を表す謎也
或書に元祿以來 此看板廢す由を云り 今も河内國石川郡竹内峠街道の上の太子への
追分の隅に角屋と云 鎌屋に概四百年の古物と云傳て 形古雅なる木馬を出せり
大坂島の内 大寶寺町四丁目の餅屋にも下圖の招牌を出す 世俗 馬の餅屋と云也
舊女の假面をかけたるは福面と通はすの意ならん
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圖=図
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今世 存する者 上の二所のみ 其他に無二見聞一也 大坂松屋町筋牢屋前 猿屋と云る饅頭店には木彫の猿の
古物を出す 是は家號に因て也 今も在レ之
古は諸國ともに餅饅頭店には用レ之也 今は看板 或は暖簾に誌せり」
「 鹽=塩」「 賣=売」「 當=当」「 號=号」「 麥=麦」「 祿=禄」「 廢=廃」「 傳=伝」「 舊=元」「 假=仮」 江戸時代の饅頭
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本膳料理と料理流派の確立 |
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読売テレビ かんさい情ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「高級弁当の代名詞 松花堂弁当の誕生秘話」』 14.04.02 放送
NHK大阪 歴史ヒストリア 和食はどうしておいしくなった !? ~時代の主役たちが育んだ食の遺産~ 14.11.26 放送 関西大学 学術リポジトリ 日本料理の歴史 熊倉功夫 「なにわの食文化」 Wiki 熊倉功夫
https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/2922/1/KU-0200OP-20090324-02.pdf
≪ 武士たちの権力の誇示 と 本膳料理の確立 ≫ Wiki 本膳料理
【本膳料理】ほんぜん-りょうり
正式な日本料理の献立て。室町時代に武家の礼法と
ともに確立し、江戸時代に内容・形式ともに発達した。
本膳(一の膳)・二の膳。三の膳から成り、最も鄭重ていちょう
(礼儀正しく丁寧) な場合には、さらに与の膳・五の膳
を供する。
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一汁三菜 ・ 一汁五菜 ・ 二汁五菜 ・ 二汁七菜 ・ 三汁七菜 ・ 三汁九菜 ・ 三汁一一菜 などの種類がある。
鎌倉時代の武家の「椀飯」という正月に御家人から将軍に料理を献上する儀式的な料理が本膳料理の起源。
当初は鯉一匹など簡単な物でした。
一汁三菜は家庭料理の基本となり、また懐石料理になっていきます。他の料理は、もてなし饗宴用。
日本料理研究の熊倉功夫 (林原美術館館長、国立民族学博物館名誉教授) さんによると、
御飯と一緒に食べれば「汁」「菜」、酒と一緒に食べれば「吸物」「肴」になる。
「汁と吸物」「菜と肴」は厳密には少し違うようですが、酒の方に区別されると一汁三菜には入らないそうです。
幕末の『守貞謾稿』 下巻 第二十八編 食類 「吸物」
「すいものは古は羹と云也 今製 吸物二品あり 味噌吸物と澄し吸物 是は飯に合せず酒肴に用レ之」
【羹】あつ-もの (熱物あつものの意)
菜・肉などを入れて作った熱い吸物。(平安時代初期成立の仏教説話集『日本霊異記[上]訓釈』)
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江戸時代の『黒白精味集』には「香の物」と「漬物」が分かれて書かれており、はっきりとした区別は分かりませんが、
レシピなどを見ると、香の物は味を重視、漬物は調味料や干物と同じカテゴリーに分類されて主に保存重視のような
気がします。
神戸松陰女子学院大学 1975年紀要論文 『家政学よりみた江戸時代 (八)』 下はURLは長いので略、PDFをダウンロードする必要があります。
https://shoin.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&
『鎌倉時代北條氏は質素な食生活にあまんじ,京都の風に染まなかった。饗応にも,執権が味噌をなめて客にすすめた話が
あるように,極めて簡素なものであった。世俗立要集に「武家肴ノスエヤウ」に,うちあはび,うめぼし,くらげをすえて「承久以後
武家ノ肴ノスエヤウヲミルニ如此」とある。』
この話は、吉田兼好の著書 1310~1311年の『徒然草』第215段に書かれた五代執権・北条時頼 (1227~1263)の逸話。
コトバンク 『世俗立要集』 承久は順徳・仲恭・後堀河天皇朝の年号で1219~1222年
Wiki 北条宣時 ヤフー知恵袋 『鎌倉幕府五代執権・北条時頼には多くの伝説・逸話があると聞きます。教えてください』 より抜粋
『ある夜、一門の若者(北条宣時)が訪ねて来た時、酒を飲もうということになりましたが、「召使いを起こしてはかわいそうだ」と
言って、若者に「台所に行って、食後の食器に味噌のついているのがあるはずだから取っておいで」といいつけ、
その味噌を肴に二人で酒を飲んだという話が徒然草に書かれています(昔は食器は洗わずに次の食事のときにまた使った
ので、味噌が残っていた)。』
上記の様に、鎌倉幕府では質素倹約を旨としていたので、鎌倉時代の関東において食文化は発達しなかったようです。
室町時代になり京都に幕府が開かれると、公家文化も融合し料理の品数も増え、料理自体にも派手な工夫が凝らされる
ようになりました。つまり、本膳料理の起源は鎌倉。発祥は京都という事になります。
【椀飯・埦飯】おうばん 「椀に盛ってすすめる飯」の事。→ 「饗宴」という意味に。
① 平安時代、公卿が殿上に集会した時、一人または数人に命じて衆人を饗応させたこと。
② 鎌倉・室町時代、宿将・老臣が毎年正月元日・2日・3日・7日・15日などに、将軍を自分の営中に招いて盛宴を張ったこと。
【椀飯振舞】おうばん‐ぶるまい
(「大盤振舞」は当て字)江戸時代、民間で、一家の主人が正月などに親類縁者を招き御馳走をふるまったこと。
転じて一般に、盛大な饗応。
当時、武士たちも儀礼や行事を重視するようになり、権力を誇示する為に「饗宴 (もてなしの酒盛り)」において、豪華な料理を
振る舞う事は重要な事でした。『御成おなり』という行事は、主君が家臣の屋敷を訪れ、もてなしを受ける特別な饗宴でした。
【御成】お-なり … 皇族・摂家・将軍などの外出・来着の尊敬語。
【御成切】おなり-きり … 碁石ほどの大きさに平たく作った亥の子餅。紙に包んで将軍などから臣下に与えた。
【亥の子】い-の-こ
① 陰暦10月上の亥の日。江戸時代にはこの日から火燵こたつを開いた。
② 西日本で陰暦10月亥の日に行われる行事。収穫祭の類。田の神が去っていく日と信じられ、子供らが石に縄を
何本もつけ (あるいは縄を堅く固めた束で)、土を打って唱えごとをして回る。亥の子突き。亥の子槌づち。
【十日夜】とおかん-や
10月10日の夜。東日本で、この日、刈入れが終わって田の神が山へ帰るとして祭る。
西日本の「亥の子」とともに重要な農村行事。
【亥の子の祝い】いのこ-の-いわい
陰暦10月上の亥の日の亥の刻 (:現在の午後10時頃) に「亥の子餅 (能勢のせ餅)」を食う行事。
万病を除くまじないとも、また猪は多産であるから子孫繁栄を祝うためともいう。
宮中には摂津能勢地方の村々から餅が献上された時代もある。いのこもちの祝。玄猪げんちょ。厳重げんちょう。
厳祥げんじょう。
関西大学で戦国史を研究する天野忠幸さんによると、御成は
「普段食べられない物が並んでいるとかを、主君がそういう物を用意させた事で、非常に権威が上がる。
家臣も豪華な料理を用意した事で財力・教養・風流さをアピールする事ができる絶好の場だった。」
『御成』が普及すると、『本膳料理』と呼ばれ、料理の形式が確立するようになります。
一人前の料理を「膳」に乗せ、個々に提供。
これまで食べる時は、匙 (スプーン) も使用していましたが、箸だけで食べるような作法に変わります。
膳の皿の数にも細かな決まりが生まれ、縁起が良いとされる奇数を基本とし、饗宴の格式が上がると膳の数を増やす
形式が出来上がります。
更に、主君に気に入られようとする武士たちによって、豪華さを競い『御成』の規模も大きくなっていきました。
御成の為に屋敷を改築や新築する武士もいたそうです。体面を重んじる武士にとって御成を成功させる事は極めて
重要なことでした。
この複雑に発展した本膳料理は、専門に調理するプロの料理人たちが請け負う事が多くなります。
室町時代中期頃になると、優れた調理技術を持ち競い合う料理人たちの中で「大草流」「進士流」などの料理の流派が
確立していきました。
戦国時代には、武士たちがよく『湯漬け』を食べていた事が知られています。
『日本料理の歴史』の著者 熊倉功夫さんによると、
「本膳料理に汁が付かない料理は『湯漬け』で、書物には『芳飯』と書かれています。『かざりめし』とも言い、ご飯の上に
具を並べて湯をかける。」
※ 丼物やフリカケ (細かく切って乗せたレシピもあるので)、ひつまぶしなどのルーツとも言えそうです。
【芳飯・苞飯】ほう-はん
器に盛った飯の上に種々の煮物をのせ飯を見えなくして汁をかけたもの。「法飯」とも書く。〈日葡辞書〉。
桃山時代、紹鴎によって、豪華に成り過ぎた『茶の湯』の料理が見直され、一汁三菜を基本とした『懐石』という考えが
出来ます。弟子の利休らによって確立していきます。
江戸時代になると、本膳料理はさらに料理の内容や形式が発展していきました。
芝居見物が盛んになり、芝居の幕間に食べる弁当として本膳料理を簡素化し考案されたのが幕の内弁当という説が
一般的です。松花堂弁当は懐石の考えを汲んだ物と言われています。
松花堂弁当 と 吉兆 茶懐石の流れを汲む松花堂弁当は昭和初期に、吉兆の創業者 湯木貞一が作った。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 西国三十三所めぐり 奮闘編⑩』 14.01.27 放送
日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著 / Wiki 四条流庖丁道 など より
『庖丁式が作られた理由』 著 稲葉敏明 http://www.ryoutei-meijiya.jp/houchou.pdf
≪ 日本料理の守護神 磐鹿六雁命 いわかむつかりのみこと ≫
四道将軍の一人 大彦命の後裔として記紀神話に登場し、食膳を司った高橋氏の祖。
711 (和銅4) 年、景行天皇が東国を巡行した折、白蛤を鱠なますにして献上、天皇が大いに喜ばれ膳職かしわでの-つかさ
(宮中の会食の料理の担当)となった。
720 (養老1) 年8月に磐鹿六雁命が病死した事を成務天皇が悲しみ、六雁命の子孫代々に膳食長を務めるように命じた。
以降、律令制で宮内省に属す内膳司うちのかしわでのつかさ / ないぜん‐しは、高橋・安曇あずみ両氏の者が任ぜられた。
四条流では、磐鹿六雁命を日本料理の祖とし、藤原山陰を日本料理の中興の祖としている。
【四道将軍】 しどう‐しょうぐん 記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍。古事記は西道を欠く。
北陸は大彦命おおひこのみこと、 東海は武渟川別命たけぬなかわわけのみこと、 西道(山陽)は吉備津彦命きびつひこのみこと、
丹波(山陰)は丹波道主命たにはのみちぬしのみこと。
≪ 四条中納言 藤原山蔭 しじょう-ちゅうなごん-ふじわら-の-やまかげ824-888年≫ 料理人(包丁)の守護神
宮廷や貴族社会の冠婚葬祭などの儀式・習慣が完全に確立した室町時代初期に四条・大草流などが生まれました。
庖丁ほうちょう道の伝統を現在に伝える四条流は15世紀末 (1489年頃)に「四条流庖丁書」を完成。
江戸時代初期に秘伝書の相伝形式を整え、鯉・鶴・雉などを捌く庖丁式を完成。
天明年間(1781-1789)頃、大草流と共に盛んになっていた四条流は、京都の四条流が家元になり、現在(1999年時点)で
東京の四条武徳さんが40代家元。
四条家は、平安時代の藤原房前(681~737、藤原摂関家の一つ北家の祖)の子 藤原魚名の系統。
その子孫 藤原家成 (1107~1154) が四条大宮に居を構えた事から。同子孫の羽林隆秀 (四条隆秀) という説も。
(大宮、山科、西大路、鷲尾、油小路、櫛笥、八条など姓も同族) 藤原家の系略図
藤原山蔭正朝は大宰府赴任のとき、息子が海に落ちたが亀に助けられた。以前、亀は山陰に助けられた事がある。
この亀の恩返し物語は「十訓抄」(1252年の説話集)、「沙石集」(1279~83年の仏教的説話集)、
「源平盛衰記」(軍記物語)に記され、中世に広く広まっていた。
大宰府から戻った後、摂津国(大阪府茨木市)に総持寺を建て、その子を如無と名付け僧にした。
現在、山陰が料理人の神として祀られている。
※ 日本の神様 読み解き 辞典 と ちちんぷいぷいでは、内容が少し異なっています。ちちんぷいぷいでは総持寺の住職に直接
話を伺っています。今昔物語集 (日本最大の古代説話集。12世紀前半の成立と考えられるが、編者は未詳) に書かれて
あるものからの出典の話と思われます。
『藤原高房が、淀川の橋のたもとで漁師たちが捕えている亀を助けた。翌朝、子の山陰が船から川へ転落し行方不明に、
すると昨日助けた亀が背に山陰を乗せて現れます。高房は亀に感謝し仏像を造立しようと思いますが、叶わないまま他界。
父の意志を継ぎ、山陰が879年に総持寺を創建。亀に乗った観音様を御本尊とした。(今昔物語集)』
【四条流】しじょう‐りゅう
宮中で用いる膳部料理の一流派。平安前期の藤原山蔭を祖とし、室町時代に成立。貴人の慶賀の日に鯉などを調理する
ことを職掌とした。
≪ 庖丁式の流派 ≫
四条流 (1116~1185年頃、藤原魚名の子孫、四条隆秀) 日本料理大全 (明治31年出版)
生間流 (1196年頃、藤原山蔭正朝の直系である小野田兼廣が源頼朝に仕えた事から) 式法秘書 (明治34年出版)
大草流 (1380年頃、大草三郎左衛門が足利義満の料理人として仕えた事から) 郡書類聚
進士流 (1380年頃、大草流の話が出てくる文献に進士流の記述があり、大草流と同門と思われる) 郡書類聚
薗流 (1600年頃、別堂入道基氏が百日間、鯉を切って練習した『百日鯉』の話が有名になり流派の誕生) 日本料理大全
薗部流 (1630年頃、薗部新兵衛が四条隆重より庖丁式の伝授されて発祥した流派) 日本料理大全
1600年代後期に庖丁式は全盛期と思われ、その後、進士流・薗流は仕えていた大名や公家の消滅により無くなる。
1700年代に大草流は継承者の突然死によって、弟子たちが他の流派に移った事で消滅。
現在、文献の解読などにより復活。
四条流は薗部流が継承を引き継ぎ、四条流として現在まで伝わる。
1881 (明治14) 年、生間流は桂宮薨去により、家来悉皆御暇となり消滅するが、文献を弟子が受け継ぎ、現在まで継承。
1887 (明治20) 年、本家にあたる宮中の高橋家は、時代の流や数々の事件などにより消滅。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅33 京都上京区・荒神口~滋賀大津・祟福寺跡』 15.12.10 放送
≪ 節分祭 発祥の神社 吉田神社の境内にある山蔭神社 ≫ 節分 落花生をまくのは意味が無い Wiki 藤原山蔭
清和天皇時代の859年に平安京 (794~1868年まで日本の首都) の守護神として創建。厄除け、開運の神様として有名。
吉田神社境内には、創建に貢献した藤原山蔭 (824~888) を料理・飲食の神として祀る山蔭神社があり、毎年5月8日に
生間流式庖丁の技を奉納します。
吉田神社の神職である土屋晴義さんによると、
「2月の節分祭の行事の発祥のお宮でございまして、元々、宮中内でひっそりとやっていた追儺式というお祭りでした。
それを吉田家という神職家が表に出して始めたのが、現在広まっている節分祭なんですね」。
【吉田神社】よしだ-じんじゃ
京都市左京区吉田神楽岡町にある元官幣中社。奈良の春日神社を藤原氏が勧請したもの。
吉田神道の本拠地となり、大元宮が設けられた。二十二社 (国家の重大事、天変地異に奉幣使を立てた神社) の一つ。
NHK Eテレ 美の壺・選 『刺身』 13.10.27 放送 四条司家 包丁儀式「長久の鯉」
刺身は神様に供えるものとして始まり、奈良・平安時代には宮中では食されていました。
庶民に広まったのは、醤油が普及した江戸時代だそうです。但し一部の地域では、それ以前から庶民にも食されています。
室町時代 1489(長享3)年頃成立したと考えられる「四条流包丁書」には、具体的な料理法や、箸・膳の飾り方なども記載
されており、当時の日本料理の素材や調理法を知る上で貴重な史料となっています。それぞれの魚に合った「合わせ酢」
酢と膾 酢は古墳時代~江戸時代まで堺が主産地。 膾は奈良時代の万葉集にも記述がある 膾と刺身の歴史 室町中期の日記に記述がある
≪ 上方では、茶を沸かした水を当てる闘茶 や 素材の産地当てが流行った ≫ 茶の歴史雑学のページ1
文献によると、四条流、大草流、進士流という3つの流派が料理を創作し、味覚競争までしていたそうです。参照 Wiki 闘茶
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刺身を一口食べて産地を当てる などのゲームなども行われ
ており、茶道の源流とも言われるゲーム。
闘茶は中国から伝わり、日本で独自に発展しました。
← 「闘茶」競争では、お茶を淹れた水が「淀川だの」
「宇治川の水だの」と当てると賞品も貰えたそうです。
ちなみにアメリカで最初の料理教室は19世紀に出来た
ボストン料理学校だそうです。
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【闘茶】とう‐ちゃ… 南北朝・室町時代、茶会で本茶・非茶などを判別し、茶の品質の優劣を競った遊戯。
【十服茶】じっぷく-ちゃ / 【回茶】かい-ちゃ (孔子の門人 顔回が一を聞いて十を知ったということに由来)
茶の湯で、茶の味を飲み分ける遊び。4種の茶を飲んで、茶の種類を当てること。
四種十服茶といって、多くは10服飲む。貢茶こうちゃ。
関西テレビ ワンダー 『みんなの?ギモン 「お雑煮 白みそとおすましの境界線は?」』 16.12.16 放送
≪ 上方では白味噌雑煮がスイーツとして食べられていた ≫ 日本各地の雑煮 関西白みそ雑煮文化の境界線
【白味噌】
黄白色の味噌。米麹こめこうじを多く用い、甘味に富む。京都産の西京(西の都。京都の異称)味噌などが有名。
神戸女子短期大学の安原美帆講師によると
大豆の2倍の米を使い、塩の量が少ないので保存性が低い為、流通の範囲が限られて
いました。
白みそは室町時代の文献によるとスイーツのような感覚で食べられていたそうです。
江戸時代など京都市内から運べる限界地点まででしか消費されておらず、
現在の白みそ文化文化圏は一般的に、畿内 (一部除く) と徳島や香川 (高松市) など
四国の一部の地域と言われているようです。
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番組では文献の名前が示されませんでしたが、『山内料理書』の記述です。
鈴鹿医療科学大学 保健衛生学部 医療栄養学科 『正月雑煮の材料についての一考察』 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000037060
室町時代16世紀に制作された『酒飯論絵巻』には色んな餅を作っているシーンが描かれています。 Wiki 酒飯論絵巻
餅の種類など、詳しくは下記のサイトで↓当時の米の種類や酒造りなども書かれています。
名古屋大学 伊藤信博 『室町人の嗜好 – 古記録からみる室町時代の食文化』
http://urakamizaidan.or.jp/hp/jisseki/2012/vol21urakamif-13ito.pdf 酒造りは室町時代後期頃に大きく変化
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【団子が普及し、茶店が登場】 |
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≪ 団子 ≫
古くは縄文時代、クヌギやナラの実(どんぐり)はアクが強いため、食べるためにいったん粉にして水にさらしました。
アクが取れた粉状のものを土器などで焼き、団子にして食べていたようです。
現在の団子のルーツは奈良時代に中国から伝来した唐菓子からくだものの団喜。
平安時代中期の新猿楽記に記述があり、室町時代には各地に名物団子が登場します。
江戸時代中期には庶民の間でも普通に食べられるようになったようです。
【団子】だんご 百菓辞典
うるち米粉 (新粉) などを水でこね、丸めて蒸すか、ゆでたもの。
普通は竹串に刺し、あんや黄な粉、ゴマ、砂糖をつけたり、磯部にしたり、焼いて甘辛しょうゆをつけたり、
そのしょうゆにカタクリを入れてくずあんにしたものを塗ったりする。
竹串に刺す個数は2~5個までで、元来は1串5個5文で売られていたのが一般的だったが、明和 (1764~1772) に
四文銭ができたため、1串4個で4文が一般化し、1串4個が多くなった。唐果物の団喜に由来するといわれ、
全国的なものから特定の地域だけで食べられるもの、季節にしたがって作られるものなど、種類は多い。
【団喜】だん-き 百菓辞典
唐菓子のひとつ。中国から伝わったもので、今の団子にあたる。 唐菓子 (8種の唐菓子と14種の果餅) の解説。
また、今のシューマイのようなもので、中にあんを入れるという説もある。
コトバンク【だんご(団子)】より
…〈団子〉の語は《新猿楽記》に見え,おそらくこれが初見と思われるが,室町期には多く見られるようになり,
〈団粉〉とも書かれた。やがて各地に名物だんごが現れてくるが,連歌師宗長(そうちよう)が昔から有名だとしている
東海道宇津谷(うつのや)峠の十だんごや京都の御手洗(みたらし)だんごがそのはしりともいうべきものであった。
だんごの名はまるい形から起こったが,平たくした場合には,草餅,柏餅など餅と呼ぶことが多い。…
【新猿楽記】しんさるがくき
漢文で書かれた芸能往来物。藤原明衡の著と見られる。1058~65年(康平1~治暦1)ごろ成立か。1巻。
冒頭に稲荷祭などに行われた猿楽を詳記し、それを見物する一家族に仮託して、当事の風俗を述べる。
事物の名称を列記した学習書でもあり、風俗史・演劇史上重要な文献。
【宗長】そうちょう(駿河の人、1448~1532)
室町後期の連歌師。別号、長阿。宗祇の高弟。師の没後、隠棲して柴屋軒と号す。連歌集「壁草」、著「宗長手記」など。
【十団子】とお‐だんご
駿河国宇津谷うつのや峠の麓で売った名物の団子。小さく、色は白・黄・赤の3種で、10個ずつ竹串に貫く。とおだご。
江戸時代中期の1682年(天和2)刊の井原西鶴の好色一代男[7]「―売る女さへ美しく見えて」
【宇津の山】うつ‐の‐やま
静岡市丸子と志太郡岡部町との境にある山。その山路が東海道の宇津谷うつのや峠。(歌枕)
画像 毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅25』 15.07.30 放送
≪ 御手洗団子 ≫ Wiki みたらし団子
鎌倉時代、後醍醐天皇が行幸の際、御手洗池で水を掬おうとしたところ、1つ大きな泡が出、続いて4つの泡が出てきた
逸話による説がある。この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様を表して
いる。この団子が池の名前から「御手洗団子」となった。
境内の店で売られていた串団子が名物となり、これが「御手洗団子」となった説。
加茂みたらし茶屋では砂糖醤油の葛餡かけを発案したともされる。一番上の団子が少し大きく、連続している他の4個の
団子と距離が置かれているが、これは串に刺さった団子を人間の体に模していて、一番上は頭で残りの4個は四肢を
表わす物だという。
【賀茂御祖神社】かもみおや‐じんじゃ 通称、下鴨神社 (上賀茂神社に対する)。
京都市左京区下鴨にある元官幣大社。祭神は賀茂別雷命かもわけいかずちのみことの母の玉依姫命たまよりびめのみことと
外祖父の賀茂建角身命かもたけつのみのみこと。本殿は流造ながれづくりの代表。葵祭あおいまつりは名高い。
二十二社の一つで、山城国一の宮。
【御手洗川】みたらし‐がわ
神社の近くを流れて、参詣者が手水ちょうずを使い口をすすぎなどする川。みたらし。
源氏物語[葵]「かげをのみ―のつれなきに」
【御手洗詣で】みたらし‐もうで
毎年7月、土用の丑の日、京都の下鴨神社の御手洗川に足をつけ無病息災を祈る行事。
【後醍醐天皇】ごだいご‐てんのう(1288~1339)名は尊治たかはる。 後宇多天皇の第2皇子。
鎌倉末期・南北朝時代の天皇(在位1318~1339)。親政を志し、北条氏を滅ぼして建武新政を成就。
まもなく足利尊氏の離反により吉野入りし、南朝を樹立したが、失意のうちに没す。
【御手洗団子】みたらし‐だんご
竹串に米粉で製した数個の団子を刺し、砂糖醤油餡をからめたもの。
御手洗詣での時、京都下鴨神社糺ただすの森で売ったのが最初という。
【御手洗祭】みたらし‐まつり
京都の北野天満宮で7月7日に行う祭。神宝松風の硯と、清水を盛った角盥つのだらいに梶の葉を添えたものを神前に
供える。北野の御手水おちょうず。
【北野天満宮】きたの‐てんまんぐう
京都市上京区馬喰町にある元官幣中社。主祭神は菅原道真。10世紀中頃の創建。例祭8月4日(11世紀半ばまでは5日)。
八棟造やつむねづくりの現社殿は、慶長年中、豊臣秀頼の造営で、最古の権現造。二十二社の一つ。北野天神。北野神社。
テレビ大阪 かがくdeムチャミタス! 『大阪の名物和菓子 人気の秘密!』 20.02.09 放送
大阪市淀川区の喜八洲総本舗、本店は十三駅の所にある有名な和菓子店。特に店頭で焼きながら販売しているみたらし
団子は、俵型の団子で焼き方も指定できます。
現在のみたらし団子のタレは砂糖を加えた醤油味です。関西では昆布ダシを使う事が多く、関東ではダシ無しorカツオ
ダシを使っているそうです。
≪ 茶店は室町時代から ≫
コトバンク茶店世界大百科事典 第2版の解説
『茶を供して客を休息させる店。日本では中世後半に旅行者や参詣人を対象として街道筋や寺社門前などに発生したと
思われ,《東寺文書(とうじもんじよ)》には1408年(応永15)11月に京都の東寺南大門前に一服一銭の茶を売る者のあった
ことを示す記録がある。
初めは床几(しようぎ)の上に茶道具を置き,求めに応じて茶を点(た)てていたが,やがて菓子や酒食を供し,給仕女を
置くような店ができて遊興的色彩を加え,多様な形態の茶屋を分化するようになった。』
【教王護国寺】きょうおうごこく‐じ 一般には、東寺とうじという。
京都市南区九条町にある東寺真言宗の総本山。平安京の鎮護として794年(延暦13)の遷都直後に創建。
823年(弘仁14)空海に勅賜され、真言密教専修の道場となった。
真言七祖像・東寺百合文書など多数の文化財を所蔵。俗称、弘法さん。
【東寺百合文書】とうじ‐ひゃくごうもんじょ
東寺に伝来した古文書群のうち、近世、前田綱紀つなのりが寄進した100の桐箱に整理保存された古文書。
現在、94箱ある。東寺領荘園を中心に、中世社会経済史料の宝庫とされる。
Wiki 茶屋
『室町時代の1400年頃になると、東寺の門前などで参拝客に茶湯一杯を銭一文で供する「一服一銭」などが生まれ、
これらを通して一般人にも喫茶が広まっていった。この「一服一銭」が茶屋の原型となるが、当初は縁日などに茶道具を
持ち込んでの立売が基本で店舗を持たないものであった。
1403年(応永10年)の『東寺百合文書』には「南大門前一服一銭請文」があり、門前への出店には制限があった。
また、東寺の「弘法さん」は一服一銭が店を開いたことが市の始まりであるといわれている。
室町時代中期、1500年(明応9年)頃の『七十一番職人歌合』では僧形の者が座ったままで抹茶を供しているが、
安土桃山時代の『洛中洛外図』などでは立売の姿が描かれている。
また、16世紀の『富士見図屏風』と『釈迦堂春景図屏風』では、小腹を満たすための串刺しの焙り餅のようなものを商って
いる様子も描かれている。
後には社寺の門前に小屋がけをするようになり、このような掛茶屋は「一銭茶屋」と称されるようになった。
社会が落ち着いた江戸時代には宿場町を中心に各地に水茶屋などとして広まり、また女性店員が給仕するようになって
いった。』
≪ 色んな餅が作られた ≫
室町時代16世紀に制作された『酒飯論絵巻』には色んな餅を作っているシーンが描かれています。 Wiki 酒飯論絵巻
餅の種類など、詳しくは下記のサイトで↓
名古屋大学 伊藤信博 『室町人の嗜好 – 古記録からみる室町時代の食文化』
http://urakamizaidan.or.jp/hp/jisseki/2012/vol21urakamif-13ito.pdf
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戦国時代 |
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≪ 欧州では大航海時代が始まる ≫
【東方見聞録】とうほうけんぶんろく
(Il Milione イタリア)マルコ=ポーロの作とされる旅行記。1271~95年中央アジア・中国の紀行で、ジパング(日本)に
関する記述もあり、ヨーロッパ人の東洋への関心を高めた。
【マルコ‐ポーロ】Marco Polo(ヴェネツィアの人、1254~1324)
イタリアの商人・旅行家。1270年末、再度元げんへ行く宝石商の父・叔父に伴われて出発、74年フビライに謁して任官、
中国各地を見聞、海路インド洋・黒海を経て95年帰国。
ジェノヴァとの海戦に敗れて捕らえられ、その獄中で「東方見聞録」を口述し、ヨーロッパ人の東洋観に大きな影響を与えた。
【ジパング】Zipangu
「東方見聞録」に見え、日本を指すと考えられる地名。中国の東1500浬かいりの海中の島で黄金に富むという。
ジャパンはこの語が転化したもの。
【大航海時代】だいこうかい‐じだい
15世紀から17世紀前半にかけて、ヨーロッパ人が新航路を開拓、新大陸に到達し、活発な海外進出が諸国に起こって、
西欧の政治・経済に重大な影響をもたらした時代。発見時代。
NHK BS歴史館 『シリーズ日本の転換点② 東京遷都㊙大作戦』 13.10.17 放送 NHKのHP 『NHKスペシャル 歴史・紀行 「京都御所 ~秘められた千年の美~」』 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0101/
動画 MioMio NHKスペシャル 京都御所 秘められた千年の美 - 15.01.01 http://www.miomio.tv/watch/cc139066/
FC2動画 『01072001271』 http://video.fc2.com/content/20150101VahDGcTW/&otag=1&tk=TmpFME5qUXlNVFE9
≪ 戦国時代 ≫ 応仁の乱(1467~77)以降
【応仁の乱】おうにん‐の‐らん
応仁元~文明9年(1467~77)足利将軍家および管領かんれい畠山・斯波
両家の相続問題をきっかけとして、東軍 細川勝元 と 西軍 山名宗全とが
それぞれ諸大名をひきいれて京都を中心に対抗した大乱。
京都は戦乱の巷となり、幕府の権威は全く地におち、社会・文化を含めて
大きな時代の画期となった。応仁文明の乱。
【後土御門天皇】ごつちみかど‐てんのう(1442~1500)名は成仁ふさひと。
後花園天皇の第1皇子。
戦国時代の天皇。在位中に応仁の乱が起こった。(在位1464~1500)
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≪ 後柏原天皇に朝食を提供した商人 川端道喜 ≫ 京都が約100年間にわたり荒れ果てた時代。
1467年に応仁の乱が勃発し京都の町は荒廃。日本各地で戦乱が続き戦国時代に突入します。天皇の地方領地からの
収入も途絶え、帝ですら日々の食事に困窮するようになります。自らが筆をとった書を大名に与え、その礼を生活の足しに
していた天皇もいたそうです。
第104代の後柏原天皇 は21年間も即位の礼を行う事ができませんでした。
【後柏原天皇】ごかしわばら‐てんのう(1464~1526)名は勝仁かつひと。 後土御門天皇の第1皇子。
戦国時代の天皇。1500年(明応9)践祚したが、財政逼迫のため21年(永正18)に即位。(在位1500~1526)
そんな後柏原天皇を見かねた京都の商人 川端道喜が毎日 朝食用の餅を献上するようになります。
1869 (明治2) の東京遷都まで、約330年続いたそうです。
(↑上、画像左端) 京都御所の南の塀にあるくぐり戸のような小さな門は道喜が通うために作られ、『道喜門』と呼ばれる
ようになります。
【川端道喜】かわばた-どうき (生年未詳~1592)
安土・桃山時代の京都の商人。もと中村氏。のち渡辺弥七郎。餅・粽ちまきを製造販売。
京餅座の権利をもち洛中洛外の餅屋を支配、役銭やくせん (農・工・商に課した税金) を徴収した。
現在も京都で店を構える川端家には絵巻物があり、御所は桧皮ひわだの屋根には雑草が
生えまま、塀の壁も崩れたまま放置され、当時の天皇の窮状の様子が描かれています。
これらの修繕は京都の町衆が行いました。この様な状態は100年ほど続きました。
【後奈良天皇】ごなら‐てんのう(1496~1557)名は知仁ともひと。 後柏原天皇の第2皇子。
戦国時代の天皇。1526年(大永6)践祚せんそしたが、財政逼迫のため36年(天文5)に即位。
日記「天聴集」。(在位1526~1557)
【正親町天皇】おおぎまち‐てんのう(1517~1593)名は方仁みちひと。 後奈良天皇の第2皇子。
戦国時代の天皇。1557年(弘治3)践祚。60年(永禄3)即位。在位中、信長・秀吉の
国内統一が進展。(在位1557~1586)
【天文法華の乱】てんぶん-ほっけのらん
天文5年(1536)、比叡山延暦寺の僧徒らが京都の法華宗徒を襲撃した事件。
日蓮宗21寺が焼き払われ、洛中はほとんど焦土と化した。天文法難。
天皇の生活や朝廷を救ったのが、豊臣秀吉 (1537~1598) でした。
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秀吉は天皇や朝廷との関係と深め、天下統一を円滑に済ます正統性の根拠を示す狙いがありました。
関白になった1588 (天正16) 年には、各大名を引き連れた全長2㎞に渡る行列で御所に参内。
『御常御殿』と呼ばれる贅を極めた最大の建物を御所の中に建設。焼失後、德川幕府が再建します。
【後陽成天皇】ごようぜい‐てんのう(1571~1617)名は周仁かたひと、初め和仁かずひと。
安土桃山・江戸初期の天皇。正親町天皇の皇子誠仁さねひと親王(陽光院)の第1王子。正親町天皇の猶子。
古文孝経・日本書紀神代巻などの古典を刊行(慶長勅版)。(在位1586~1611)
「剣客商売」道場 『聚楽第行幸の行幸行列のコース』 http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/gyoretu.htm
【聚楽第】じゅらく‐だい
(ジュラクテイとも)豊臣秀吉が京都に営んだ華麗壮大な邸宅。1587年(天正15)完成し、翌年 後陽成天皇を招き、
諸大名に秀吉への忠誠を誓わせた。
のち、秀次に譲り、その死後破却。大徳寺唐門・西本願寺飛雲閣などはその遺構と伝える。
≪ 南蛮貿易 ≫ NHK Eテレ 歴史にドキリ 『フランシスコ・ザビエル ~キリスト教の伝来・ヨーロッパとの交流~』 14.09.03 放送
1547年、ザビエルが41才の時、マラッカ (マレーシア) にいたヤジロウ(アンジロー)と出会たのが日本布教に来るきっかけ。
1549年に鹿児島へやってきます。主に西日本を中心に各地を布教。日本での布教の大変さを嘆く手紙も多く残している
そうです。
【ザビエル】 Francisco de Xavier 漢名は方済各。シャビエル。ザベリヨ。(1506~1552)
日本に渡来した最初のイエズス会士。スペインのナバラ王国の貴族。1541年東洋伝道のためインドからマラッカ
などを遍歴、1549年(天文18)鹿児島に来日、平戸・山口など日本各地に伝道。1551年離日、中国に入ろうとして
広東付近で病没。列聖。「インドの使徒」の号を追贈。
室町末期から主にポルトガル・スペインの船(南蛮船)との間に(南蛮)貿易が始まる。
実質的には日中間の中継貿易。銀などを輸出し、生糸・絹織物などを輸入した。
日本には、パン・カステラ・金平糖・ボタン・グラス・カルタなどが入ってきました。
江戸時代、徳川幕府の鎖国令まで続きます。(1635年(寛永12)の海外渡航禁止令と1639年のポルトガル船来航禁止令)
1636年(寛永13年)ポルトガル商人の為に、長崎市の海を埋め立て出島を作り、41年に平戸にいたオランダ人を移転させる。
南蛮貿易などを通じた食品の輸入が本格化すると、新大陸(南北アメリカ大陸)の食材がもたらされます。
ジャン・クラッセ (Jean Crasset) の『日本西教史』には「日本人は、西洋人が馬肉を忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む。
牛乳も飲まない。猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書かれているそうです。
別府大学短期大学部紀要 1994年 『南蛮料理書についての一考察』 江後迪子 著
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/tk01302.pdf?file_id=4199
『次に卵について述べる。日本人が卵を食べるようになったのは室町時代末期に南蛮菓子が伝えられたことによると
いわれている。しかし,当時養鶏は広く行われたわけではなく,卵は貴重な食品であった)。
卵料理がはじめて料理書にみられるのは,江戸時代になって『料理物語』(1643)に7種の卵料理がみられることによる。』
毎日放送 水野真紀の魔法のレストラン 『ドB級グルメ対決 ! 名古屋 VS 広島 ㊙発見』 13.05.13 放送 より 名古屋めし
織田信長は焼き味噌が大好物で戦の時には必ず食べていた。愛知県三河地方出身の徳川家康も八丁味噌を愛し、
名古屋に味噌文化が根付いた。らしいです。
名古屋名物の一つ「ミソカツ」のルーツは、豚の串カツに味噌ダレをつけた事から。
南蛮菓子と和蘭陀菓子の系譜 中川清 著 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17291/spffl058-05.pdf
≪ 戦国時代の農民と町民の食事 ≫
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鯉料理が好物だった細川勝元 |
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朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『管領家 細川ファミリー全盛期ヒストリー』 14.03.30 放送
≪ 細川勝元は、的確なグルメ コメントで周囲を圧倒した ≫
室町幕府 細川 管領家 息子 政元は本気で天狗になろうと禁欲した。娘 洞松院はブサイクという理由で…。
細川氏は清和源氏の流れを汲む足利家の支族の一つで、義季が三河国額田郡 細川に住んで氏とした。
室町幕府の三管領の一つを務めた名門の家柄。室町時代は足利家に次ぐ権力を誇った。
【細川勝元】ほそかわ‐かつもと(1430~1473)
室町時代の武将。3回にわたって管領となり、第8代将軍 足利義政の継嗣、
畠山家の内紛にからんで応仁の乱を起こし、東軍の主将として西軍の
山名宗全と争った。竜安寺を創建。
【三管領】さん‐かんれい、さん‐かんりょう。三管。三職。
管領は、室町時代の職名。将軍を補佐して幕府の政務を総轄した。
鎌倉幕府の執権に当たる役職。初めは執事と称した。
管領に補せられる家柄は、足利氏一門の斯波しば・細川・畠山の三家。
塵塚物語ちりづか-ものがたりの「細川勝元と淀鯉料理の事」より →
和食が生まれた室町時代、茶をどこの水で沸かしたか当てる闘茶も
よく行われ、食材の産地を当てて一流とされていました。
この頃には、もう和食の本質が確立していたようです。
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【塵塚物語】 kotobank http://kotobank.jp/word/%E5%A1%B5%E5%A1%9A%E7%89%A9%E8%AA%9E
室町時代の説話集。奥書には1552年 (天文21) 成立,藤原某の作とあり,また69年(永禄12)の序文があるので
このころの成立と考えられる。
上代以降,おもに鎌倉・室町時代の重要人物の人格・逸話や,徳政などの歴史的な事柄に関する話65編を収録する。
記載内容は厳密性を欠き,近世的な感覚による叙述もみられ,その信憑性は低いが,中世の風俗や慣習を多く伝える。
【四職】し‐しき
室町幕府四職は、侍所さむらいどころの所司に補せられた山名・一色・京極・赤松の四家をいう。四殿衆。四職衆。の一家
【山名宗全】やまな‐そうぜん(1404~1473)名は持豊。
室町中期の武将。嘉吉かきつの乱に赤松満祐を討ち、その旧領を得て一族で山陰・山陽9カ国の守護職を併す。
後に細川勝元と結託して畠山氏に当たったが、将軍義政の妻 富子がその子 義尚を託したことから、足利義視を
擁する勝元と対抗し応仁の乱を起こした。西軍の主将。戦乱半ばにして陣中に没。
この頃には既に大坂・淀川の鯉は有名だったようです。後に長野の佐久の養殖鯉のルーツになった説もあります。
また、江戸時代は、琵琶湖~淀川に至る、滋賀・京都・大坂の鰻も有名でした。 淀川の鯉と鰻 大阪のマムシ飯
特に京都の宇治川の鰻や鰻鮨は、「宇治丸うじまる」と呼ばれ、山城宇治の特産品でした。
宇治橋は646年に、道登どうとうという僧によって架けられた日本最古の橋とも言われています。
現在の宇治橋は平成8年に架け替えられたもの。
日本最古の橋である宇治橋 秀吉が橋の「三の間」から水を汲み茶会を開催、現在は宇治茶まつりで。 近年まで、堺・泉州のアナゴが名産地として全国的有名だった 養殖で復活へ
1922 (大正11) 年の『四五日の旅 名所囘遊』(福井県出身・東京在住で日本初のプロ旅行作家とも言われる松川
二郎 著、東京市の裳文閣 出版、日本各地の旅行記) ※ 原文の旧字はできるだけ現代字に換えてあります。↓
四五日の旅 名所囘遊 1922(大正11)年 裳文閣 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964429 ※1925年の有精堂書店 版もあり
「大阪見物」p.325「食倒れと言われるだけに、大阪には矢張り甘うまいものが多い。料理法にすぐれているのも一つ
だが、海に臨み川に枕のぞみ山に近くて、一つは材料の豊富なことも興あずかっていよう。
東京者が羨ましがる第一は川魚料理である。川魚料理は東京にもあるけれど、大阪ほど盛んでなく甘うまくもない、
殊に橋下ましたに纜ちゃっ船へ行って食う所に一種特別の趣もある。…」
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【 戦国時代の忍者の知恵 兵粮丸と戦メシ 】 |
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NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『戦国プロフェッショナルたち ~己の腕で乱世を生きる~』 13.09.25 放送
読売テレビ ワケあり! レッドゾーン 『戦国時代の飯を再現して食べまくる男』 17.06.04 放送
テレビ大阪 二代目和風総本家2時間SP 『意外と知らない!? 戦国武将学』 20.02.06 放送
≪ 忍者の起源と誕生 ≫
古来より紀伊半島一帯は山岳信仰の聖地とされていました。それらを踏破開拓したのは役行者 (役小角) と言われています。
三重県西部、名張なばり市にある赤目四十八滝 (大小の滝が多数) は、神が宿る場所として山伏の修行の場となっていました。
山伏たちは厳しい自然環境に身を置く事で、並はずれた身体能力や火、薬草など様々な知識も獲得していきました。
伊賀地方だけでも五十を超える集落があり、山に隔てられたわずかな土地や水利権を巡って互いに武装し争いが
頻発する地域でした。伊賀 (三重県) と甲賀 (滋賀県) は接した一帯。こうした環境の元、伊賀と甲賀の人たちは
山伏の技や知識を戦いの技へと進化させていきました。
戦国時代の初め、9代将軍 足利義尚が六角氏討伐の為、突如 8千の軍勢で伊賀に攻め入りました。
幕府軍は伊賀と甲賀の人々から思わぬ逆襲を受け、本陣に戻り逆襲の機会を狙っていました。
『甲賀二十一家由来』という書によると、伊賀甲賀勢は、義尚が滞在する屋敷への夜襲をかけ、将軍の寝所まで忍び込んで、
義尚に手傷を負わせました。
『淡海 (近江) 温故録』には、「伊賀と甲賀の忍びたちは、幕府の大軍を神のような働きで悩まし、その名は日本中に高まった」
とあります。
この名も無き山里の民たちが幕府軍を蹴散らした戦いは、戦国大名たちにも強い衝撃を与える事となり、こぞって忍者を採用
する事になりました。
徳川家康は伊賀の服部はっとり衆、武田信玄は甲賀の透波すっぱ衆、上杉謙信は伊賀と甲賀の混成の軒猿のきざる衆など。 江戸時代に、完成した忍術の数々をまとめた『万川集海ばんぜんしゅうかい』という書が、甲賀の里に保存されています。
武器の作り方も詳しく載っており、とりわけ重要なのは薬草を使った薬の知識でした。
歴史研究家の河合敦さんによると、忍者の事は「素っ破スッパ」と呼んでおり、敵の情報を知らせるのが主な役目だったので、
話題性のある情報を見つけて公表する事を「スッパ抜く」と言うようになったのだとか。
「ヤマカン」は武田信玄の軍師として有名な山本勘助から。直感力に優れた武将だったので、当てずっぽうで物事を決める
「山本勘助」 → 「山勘」 → 「ヤマカン」となったそうです。
「スッパ」は「透波」と「素っ破」で漢字表記が異なっていますが、昔は色んな当て字が使われますので気にしなくてもいいです。
使う漢字がある程度決まってくるのは明治時代以降の事になります。
≪ 兵粮丸ひょうろう-がん ≫
忍者たちは、食べ物にも独自の知恵を活かしていました。その一つが兵粮丸で、忍術書『老談集』によると 直径1㎝ほどの
兵粮丸を1日5~7個食べるだけで、1日分の充分な栄養を摂れるそうです。
はと麦、蓮はすの実、うるち米、山芋、シナモン、朝鮮人参、もち米、氷砂糖を練った物で、敵地に長期滞在する際に食べたもの。
江戸時代初期に戦国時代の戦い方や陣中の食糧などが書かれた『軍術要綱』には、兵粮丸の作り方が何種類か書かれて
あり、『武将メシ』を研究している永山久夫さんによると、一番美味しくて腹持ちが良いのは、糯米粉・蕎麦粉。カツオ節を合せ
水を加えて中くらいの梅の実の大きさに丸め、10~20分ほど蒸して乾燥させて黄な粉をまぶしたものだそうです。
上の画像のは、現代人にも食べやすく少しアレンジを加えた麦粉・小麦粉・蕎麦粉・すり胡麻・砂糖・きな粉で作ったもの。
味は甘い。お腹の中で膨らむので2コ食べれば十分なようです。戦国時代は砂糖では無く蜂蜜などを使っていたそうです。
芋の茎縄は、乾燥させた里芋の茎で縄をなって、味噌汁で煮込み乾燥させたもの。
2時間くらい煮込み2週間ほど天日で乾燥させ、食べる時は湯を注ぎ3分ほど待つ。戦国時代のインスタント食品。
普段はロープとして使い、兵粮丸や干し飯などの兵糧が尽きた時の非常食の一つして食べられるよう考えたもの。
水が無い時は、水渇丸すいかつがんという種を抜いた梅干しを丸めて乾燥させた物を見て、「酸っぱい」事を想像し、出てきた
唾液を飲んで一時的に喉を潤していました。食べると水が欲しくなるので、水渇丸は見るだけ。
画像の赤い部分は糸で、首から吊り下げて携帯していたそうです。
※ 戦国時代、足軽の兜は煮炊きする鍋の代わりに使用されたり、腰紐は味噌を含んだ干瓢かんぴょうで作っていたなどの
工夫があったようです。
【足利義尚 】あしかが‐よしひさ (1465~1489)のち義煕よしひろと称す。義政の子。母は日野富子。 足利氏の略系図、足利尊氏の素顔
室町幕府第9代将軍(在職1473~1489)。近江の六角(佐々木)高頼討伐の陣中に没。
【役小角】えんのおづの、えんのしょうかく / 役行者えん‐の‐ぎょうじゃ 役行者 修験道の祖、女人禁制のルーツ
7世紀後半から8世紀にかけての山岳修行者。修験道(山伏)の祖。伝説や謎だらけの人物。たくさんの弟子がいた。
大和国南葛城郡の出身、葛木山に住んで修行、吉野から摂津など近畿一帯の金峰山きんぶせん・大峰山・高野山・箕面山
なども踏破し開拓。
続・日本書紀の699年(文武天皇3)5月24日の条くだりによると
「弟子の所為で、「世俗を惑わす妖言を吐いた」という理由で伊豆への流刑にあう。701年(天宝元年)、68歳で許されて
都へ戻る。同年6月7日、摂津国の箕面山から昇天。」(肥前国の平戸から入唐したなどの説もある)
この流刑期間中に富士山を踏破開拓したとも言われる。
平安中期以降に様々な伝説が作られていきました。
1799年(寛政11)、光格天皇の勅旨で神変大菩薩しんぺい-だいぼさつと諡号されました。
ちなみに、日本最古の霊場は、役行者が661年に開いた大阪府泉佐野市の犬鳴山で、奈良の大峰山より早く開山された
と言われているそうです。
泉佐野市 犬鳴山、多宝塔3名塔の一つ慈眼寺の最小の多宝塔、日本唯一の「枕の神社」日根神社
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【 三好長慶が、将軍 足利義輝を接待した最も盛大な『御成』の記録 】 |
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NHK大阪 歴史ヒストリア 和食はどうしておいしくなった !? ~時代の主役たちが育んだ食の遺産~ 14.11.26 放送
東京都千代田区にある国立公文書館には、室町時代に最大規模と言われる『御成』が行われた記録が残っています。
『三好筑前守義長朝臣亭江御之成記』によると、1561 (永禄4) 年3月30日に、三好長慶・義興よしおき 親子が第13代
将軍の足利義輝を招いて饗宴を行いました。
【三好長慶】みよし‐ながよし(1522~1564)
戦国時代の武将。管領 細川晴元の臣。1549年(天文18)晴元らと戦って勝ち、将軍足利義輝をいただいて権勢をふるった。
晩年は、その臣 松永久秀に圧倒された。
【足利義輝】あしかが‐よしてる(1536~1565)
室町幕府第13代将軍(在職1546~1565)。義晴の子。初め義藤と称す。
三好・松永氏に圧迫され、松永久秀らに攻められて殺された。
三好家ゆかりの地、徳島県の藍住町で食文化研究家の江後迪子さんと、和食料理人の大塚計次さんが資料を基に
当時の料理の一部を再現。当時の御成の本膳料理は進士流が手掛け、費用は80貫=現在換算で800万円だったそうです。
画像の料理で 1人前らしいですが、こんなにあっても興された料理の一部だそうです。
記録によると合計で17膳もの本膳料理が用意されていました。
西日本各地から選りすぐりの高級食材や珍味を集め、イルカやクジラなどの肉もありました。
再現の為、材料を集めるのに1週間、調理に2日かかったそうです。
まだ醤油は普及していなかったらしく、味付けは主に塩、酒、酢など。ダシが使われたと考えられています。
味噌を作る時に、大豆を搾って出てくる汁を醤油の代りとして使用したらしいです。雑煮もありました。
【醤油】しょう‐ゆ したじ。むらさき。
旨味うまみと鹹味からみとを有し、特有の香気をもつ褐色の液汁。大豆と小麦とで作った麹こうじと食塩水とを原料として醸造する。
あへまぜ (野菜の和え物) は、シイタケ、ニンジン、大根、三つ葉を大豆の搾り汁で味付けした物。
試食した水野真紀さんによると「お酢の味が柔らかいなます。なますと煮物の間のような味わいですね。」との感想。
料理の品数や質は異なるものの、お供の分を含めて1000人前以上の本膳料理を用意されました。
本膳料理を食べた後は「酒宴」が開かれ、座敷から臨む庭には舞台が設けられ、能が演じられ、夜を徹して宴は続きました。
徳島県三好市池田町の食べられない「サラダ」
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【 沖縄の冊封使歓待料理 さっぽうし かんたいりょうり 】 |
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≪ 琉球王国 ≫ NHK Eテレ 高校講座日本史 『室町時代の交易と文化』 14.07.25 放送 沖縄の歴史
13世紀頃の沖縄本島は、北山ほくざん、中山ちゅうざん、南山なんざんの3つの勢力があり、領土の拡大と貿易の利権を巡って
激しく争っていました。
北山王国の拠点であった今帰仁なきじんグスクの遺跡から、中国の青磁や白磁、高麗やベトナムなどの磁器が出土。
1429年、中山王国が三山を統一し、琉球王国が建国。
当時、明は海禁政策 (中国人の海外渡航を禁じた) をしていた為、明は琉球に代行貿易を期待し、大型船や外交スタッフ
などを提供しました。
明から絹織物や陶磁器を輸入し、東南アジアや日本、朝鮮 (1392年李成桂が高麗に代わって建て、対外的には朝鮮国と
称す)に販売。
東南アジアからは象牙や香木などを仕入れ明などに販売するなど、東アジアの中継ぎ貿易の重要拠点となって琉球王国は
莫大な富を築きます。
【琉球】りゅうきゅう
沖縄(琉球諸島地域)の別称。古くは「阿児奈波」または「南島」と呼んだ。15世紀統一王国が成立、日本・中国に両属の
形をとり、17世紀初頭に島津氏に征服され、明治維新後琉球藩を置き、1879年(明治12)沖縄県となる。
【琉球処分】りゅうきゅう‐しょぶん
1872年(明治5)の琉球藩設置から1879年の廃藩・沖縄県設置にいたる明治政府の一連の措置の総称。
形式上、日清両属だった琉球王国はこの過程で滅亡し、日本に併合。
【沖縄】おきなわ
日本最南端の県。沖縄本島をはじめ琉球諸島を含む。県庁所在地は那覇市。面積2274平方キロメートル。
人口136万2千。全11市。太平洋戦争の激戦地となり、敗戦の結果、アメリカが施政権を行使。
1952年4月、自治体琉球政府がおかれたが、その施政の範囲には制限があった。
1972年5月15日、米軍基地の存続など問題を残し施政権は返還。
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政府インターネットテレビ 2008/12/25 『沖縄の食文化を探る~食の歴史』 16分17秒の番組
(沖縄県が制作) http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg2328.html
『琉球料理を語るには、450年の歴史を持つ琉球王国の宮廷料理を抜きにすることはできません。
この映像では、その宮廷料理の中から、中国からやってくる冊封使をもてなすための「冊封使歓待料理」を取り上げ、
紹介します』
≪ 冊封使 さっぽうし ≫
中国(明)の皇帝が属国の国王に対し、その即位を認める文書を与える。その際、中国から派遣される使者を「冊封使」
という。
冊封使が琉球にはじめて訪れたのは、1396年の北山王・攀安知(はんあんち)の時とも、1404年の武寧(ぶねい)王
の時ともいわれています。1866年の最後の琉球王 尚泰(しょうたい)まで約500年間で24回行われたそうです。
冊封使の一行は総勢400人にもおよび、琉球に約半年間滞在しました。
冊封使の任務は、先代王の葬儀である諭祭(ゆさい)と、新国王の即位式である冊封をおこなうことでした。
当時、明の属国になると国の安泰だけでなく、貢物をすると、明からはその何倍ものお返しを貰えたそうです。
鹿のアキレス腱、ツバメの巣、ナマコ、フカヒレなどの高級食材や、鹿肉、豚、ジュゴンの肉なども使用していたそうです。
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政府インターネットテレビ
日本政府が運営しているHPです。
食の安全や暮らしの安全、子育て
などの情報番組があります。
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鹿のアキレス腱
ナマコ
アヒル料理
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NHK Eテレ グレーテルのかまど 『沖縄スイーツ』 14.07.16 再放送 / 同 『南国スイーツ』 15.01.07 再放送 など
≪ ポーポー ≫
琉球料理研究家の安次富あしとみ順子さんによると、宮廷料理『東道盆トゥンダーブン』の前菜のような形で、つけ汁をつけて
食べていたのが起源。昭和初期くらいまで各家庭にポーポー鍋というフライパンのようなものがあった。
ポーポー原材料は小麦粉とサラダ油。クレープのような焼き菓子。生姜を入れラード、白みそ、砂糖で作る油みそを入れたり、
生地に卵黄と黒蜜を加え厚みがあるパンケーキ風の物、全粒粉のポーポーなどのバリエーションがあります。
那覇など都市部ではあまり食べなくなったようです。読谷村の楚辺では現在でも、一般家庭でおばあ達が焼いているそうです。
東海テレビ おしろツアーズ3 『絶対生きたくなる ! おもしろ名城旅』 11年12月放送 / 14.01.19 再放送
≪ アグー豚 と さつまいも ≫ Wiki アグー / Wiki サツマイモ
中国から渡来したとされる豚を起源とする一品種。
通説では琉球で豚が飼育されるようになったのは14世紀末に当時の明から」琉球へ中国系の豚が伝来したのが起源と
されている。
近年伊江島の具志川貝塚(弥生時代後期)から豚の骨が発掘されており当時から琉球では豚が飼育されていたことが
明らかとなっている。アグーがいずれの系統につながるものなのか正確な起源は不明である。
アグーという名称は、粟国島に由来するのではないかとする説がある。
サツマイモの原産は南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方とされる。
スペイン人或いはポルトガル人により東南アジアに導入され、ルソン島(フィリピン)から中国を経て1597年に宮古島へ伝わり、
17世紀の初め頃に琉球、九州、その後八丈島、本州と伝わった。アジアにおいては外来植物である。
中国(唐)から伝来した由来により、特に九州では唐芋とも呼ばれる場合が多い。
【琉球芋】りゅうきゅう‐いも ・・・ (琉球から渡来したからいう)サツマイモまたはジャガイモの異称。
≪ 泡盛 ≫ 国王から許可された40軒ほどしか作る事を許されず、明や薩摩の使者をもてなす接待酒だった。 Wiki 泡盛
酒の蒸留技術は14世紀後半から15世紀頃にシャム国(現在のタイ)から琉球に伝えられた。それとともにタイ米、貯蔵用の
甕などがもたらされ、現地の気候と、黒麹菌の導入などの改良により新たな蒸留酒、泡盛が誕生したと考えられている。
1460年、第一尚氏王統の尚泰久王が朝鮮に使者を派遣し、このとき朝鮮国王・世祖に天竺酒を贈っている。
天竺酒の製法について、「桄榔樹の漿、焼きて酒を成す」と記されているので、サトウヤシ(桄榔)を原料としたヤシ酒
(蒸留酒)と考えられる。
1534年、明からの冊封使・陳侃が琉球に赴いたときの記録『陳侃使録』に、「南蛮(南番)酒」のことが記されており、
この南蛮酒は暹羅(タイ)からもたらされたものであり、醸法は中国の露酒であると記されている。
米を原料とした蒸留酒が沖縄でいつ造られるようになったのかは定かではないが、東恩納寛淳が「泡盛雑考」
(1941年)等の論考で、タイの「ラオロン」が起源ではないかと推測して以来、この説が有力である。
泡盛は、15世紀から19世紀まで、奉納品として中国と日本の権力者に献上されていた。日本へは、島津氏を通して
徳川幕府に献上されたが、公式には『徳川実紀・駿河記』の慶長17年(1612年)に『琉球酒』として登場する。
その後、『焼酒』の名を経て寛文11年(1671年)以降、『泡盛』となって今に至る。
≪ 日本古来の言葉が残る沖縄 島によって言葉が違う ≫ 琉球王国を築いたのは河内源氏だった 沖縄の歴史
外国語のように聞こえる沖縄の言葉ですが、古事記に記載されている日本古来の言葉
「あきづ (とんぼ)」→「あーけーじゅ (沖縄)」や「とじ (妻)」→「とぅじ」などとして沖縄に残っています。
沖縄の言葉は、日本古来の言葉が残りつつ、独自の発展を遂げた言語として成立してきた。と考えられているそうです。
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