手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の食の歴史6 江戸時代4 後期・魚
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

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このページの最終更新日:   20.03.02
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「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents





 鰹のタタキは塩辛だった 

 日本の食の歴史・雑学の江戸時代の2ページを、19.11.08に8ページに分割し、
 画像や情報を追記しながら再編集しました。 各ページURLも変更になりました。

 他のページも情報量が多過ぎるので、分割・再編集などを行う予定にしています。


 江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

 卵、牛乳、砂糖については日本のアイスの歴史 各ページをご覧ください
 大阪と関西の食文化のページも 日本の食文化を語る上で必須です

 江戸時代の魚 大阪湾や琵琶湖水系の魚は名産品で有名   活鯛の出荷技術は大坂で確立かも?

 初かつお 江戸ではカラシで食べていた

 鰹のタタキは現在とは全く違った料理だった アジのタタキとカツオのタタキの違いの通説と検証

 句に読まれる初鰹  江戸時代後期に関東でマグロの漁獲量が増えるが

 刺身 京坂と江戸の違い 京坂は鯛の消費が多く「お造り」という飾り盛り 江戸は鮪が多く単純な平盛

 江戸風天ぷら くわしくはカマボコと天ぷらの歴史ページで  寿司の歴史と雑学1 刺身

 江戸時代末期頃の魚売り 京・大坂・江戸
  京都は鮮魚が少ない 堺が尼崎の2倍の価格 大坂には広島の牡蠣船が来る 大坂はナマコ禁止
  江戸は江戸前が一番だがカツオやマグロは小田原沖から 江戸は白魚と貝類が多い

 高級中国料理には、日本の海産物が必需品 乾しナマコ・乾しアワビ・フカヒレを輸出

 鰻の蒲焼 関西発祥の可能性が高い ウィキペディアの江戸発祥説の誤魔化し内容を各文献などで検証

 幻のアオウナギ 大阪・中之島にも生息する 画像あり

 埼玉の浦和が「かば焼きの発祥」を主張 根拠が薄すぎ

 蒲焼の関西風と関東風の境界線  関東で蒸すのは鰻の質または職人の質が低いからだった

 明治時代の高知県での家庭での焼鰻

 うな重・うな丼 江戸発祥? 大阪の「まぶし」が伝わった可能性が高い

 ナマズとスッポン
  江戸のナマズは江戸時代中期に出現? 西日本のナマズとは異なる?
  スッポンを好んで食べるのは大坂

 江戸の運河と日本初の鰻とスッポンの養殖 すぐに静岡県浜松に移転

 フグ トラフグの生息域は瀬戸内海~大阪湾 豊臣秀吉によって禁止

 江戸時代から大阪が最もフグを消費 現在は6割を消費

 明治時代に伊藤博文がフグ食を解禁 きっかけは山口県下関の春帆楼

 各地のフグ料理  東京のフグ料理 2012年から規制緩和


  NAVER まとめ 『再現された江戸時代の日本人の食事』 http://matome.naver.jp/odai/2134329123090279301
  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf

   江戸時代の主な重要文献と著者   江戸時代に出版された主な菓子の専門書

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 【 江戸時代の魚 】
  朝日放送 ざこば親子の田舎へ行こう3 『~長寿の国・長野の旅~ 佐久市』 13.06.15 放送
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『管領家 細川ファミリー全盛期ヒストリー』 14.03.30 放送
  朝日放送 西川きよしの おしゃべり あるき目です 『大阪湾で美味しい魚が獲れるワケ』 14.09.03 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『なぜ「サミット」? 堺とアナゴの関係は? なるか?「名産」復活!』 17.12.08 放送

  ≪ 茅渟ちぬ 黒鯛の俗名はチヌ ≫  Wiki 大阪湾

  大阪府南部の和泉国にあたる地域の古称。血沼。千沼。千渟。智努。
  古称の「茅渟の海」は、日本神話の神武東征において、神武天皇の兄の五瀬命が矢を受けて負傷した際に、
  傷口をこの海で洗ったことから血沼(ちぬ)の海と呼んだことが由来となっているそうです。
  大阪湾南部の泉州沖に黒鯛が多く生息している事から、黒鯛は「チヌ」とも呼ぶようになったようです。

  【茅渟海】ちぬ‐の‐うみ
   和泉国と淡路国との間の海の古称。現在の大阪湾南部に当たる。和泉灘。

  【茅渟宮】ちぬ‐の‐みや
   ① 允恭いんぎょう天皇(記紀に記された5世紀中頃の第19代の天皇。仁徳天皇の第4皇子。倭の五王のうち
   「済」に比定される。)の離宮。大阪府泉佐野市上之郷の辺という。
   ② 奈良時代、第44代の元正天皇(位715~724年)の頃の海の離宮。
   今の大阪府和泉市府中町付近にあった。奈良時代前半にはこの離宮を中心に和泉監いずみげんという特別
   行政区を置く。和泉宮。






  泉州沖のアナゴも昭和中期頃まで有名だったようです。北大路魯山人が書いた『春夏秋冬料理王國』(昭和35年
  発行)に「穴子のうまいのは堺近海が有名だ。…」とあります。   Wiki 北大路魯山人
  2017年11月4日には第1回あなごサミットが堺で開催され、日本全国の有名なアナゴ専門店が集結しました。

  その他、タコやキジハタなど大阪湾の魚や淀川の川魚も旨い事で昔から有名でした。






  1552年成立の室町時代の説話集『塵塚物語ちりづか-ものがたり』の「細川勝元と淀鯉料理の事」に書かれてあります。
  また現在有名な長野県の佐久鯉は18世紀から養殖を始めたもので、日本で一番うまいと言われた淀川の鯉を
  連れてきたという説があるそうです。  鯉料理が好物だった細川勝元 的確なグルメ コメントで周囲を圧倒した。

  【佐久市】さく
   長野県東部、佐久盆地にある市。もと陣屋町・宿場町。岩村田・中込・野沢などの集落がある。
   農産物集散地で水田養鯉は有名。電子工業が立地。人口10万。


  大阪府立中之島図書館 http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/75_food.html
  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf

  ≪ 活鯛の出荷技術は大坂で確立かも? ≫

  天正・慶長年間 (1592~1598) 年の大阪船場の遺跡から、多数の鯛の骨などが見つかっており、生簀に囲い養畜され
  出荷の都度、〆て出荷していた事が分かるそうです。

  1688 (貞享5) 年刊、井原西鶴の『日本永代蔵』に、天狗源内という鯨突きが正月10 日の西宮の恵比寿神社の例祭に
  参った帰りに舟のなかでまどろむと、「生舟の鯛を、腹に竹針を刺して生き返らせる方法」を恵比寿さまから告げられる
  話が載っています。

  1712 (正徳2) 年の『和漢三才図会』の巻第二十三 「魚猟具」には、様々な漁の方法と網などの漁具が載っていますが、
  その中に「竹」かんむりに「御」の漢字で「いけす」の絵と解説が書かれてあります。鳥を獲るための方法も各種あります。

  【和漢三才圖會】わかんさんさいずえは、日本の類書(百科事典)。正徳2年(1712年)成立。 Wiki 和漢三才図会
   編集者は大坂の医師 寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭された
   ことが編集の動機であった。

  文政 (1818~1831) の初年に石州 (現在の島根県西部にあった石見国) 濱田 (松平氏5万石) の幕臣中川顯允が
  書いた石州の地誌『石見外記』の「石見の農村の生活」の三月に「櫻鯛は泉州を名産とし、石見の産は人知らず」と
  あります。

  桜の咲く春頃に獲れる鯛は最も鯛が美味しい時期で「桜鯛」と呼ばれています。現在は瀬戸内海産が有名です。

  江戸の漁業および江戸・関東における魚の流通システムは、大坂の摂津系問屋が確立して仕切っていました。
  鯨猟は江戸時代から盛んになった 漁法が紀州から広まった  鯨肉などの利用


  ≪ 江戸時代の魚 ≫

  江戸時代の物価早見表 http://www.teiocollection.com/kakaku.htm 
  江戸時代の魚の格付け http://fudoumyooo.fc2web.com/syun/kaisetu_syun/edojidai.html

  このサイトは2002年12月14日の日本経済新聞掲載記事を元に書かれてあります。
  マグロ、フグなど現在の高級魚は江戸時代は下魚。

  この格付けは1746 (延享3) 年頃に江戸で編集された『黒白精味集』から。

  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃
  江戸時代から鮭が有名な新潟県村上市 江戸時代に世界初の鮭の自然孵化増殖を成功

  当時の物流事情や文化の違いを鑑みると、地域によって格付けが違っていた可能性もあります。

  全国共通の認識としては、料理書のほぼ全てで海魚の筆頭に書かれてあるのは鯛。川魚の場合は鯉であり、
  これらが高級魚のトップとして江戸時代以前からも知られていました、

  【魚は鯛】うお-は-たい
   魚類中、一番味のよいのは鯛であるように、その類の中で最もすぐれているものの意。
   尤之双紙もっとものそうし(1632年刊、斎藤徳元 作)「人は武士 柱は桧 魚は鯛 小袖は 紅梅花は三吉野」。

  【斎藤徳元】さいとう‐とくげん (岐阜城主織田秀信の臣、1559~1647)
   江戸初期の俳人。名は元信。別号、帆亭。関ヶ原の戦に敗れ、江戸に出て連歌を業とし、俳諧に遊んだ。
   著「誹諧初学抄」のほか、仮名草子「尤之双紙もっとものそうし」など。


  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』

  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、
  日本各地の名物を描いた絵本。巻の一は目次と銀山と銅山での採掘の様子など。

  巻の二は、京都の茶、奈良御所の柿、美濃の吊し柿、摂津木津の干瓢、紀伊の蜜柑、近江かぶら、尾張大根など。

  巻の三は、日光の膳椀作り、仙台の馬市、越前福井の石橋、樟脳作り、讃岐の平家蟹、池田炭、堺包丁、越前紙、
  江戸の浅草海苔、京都西陣織、漆の採取、大坂の根本平野飴、天王寺かぶら、豊後の河太郎 (河童)、大坂瓦、
  赤穂の塩、薩摩大島の黒砂糖、大坂の米市、蝋つくりの様子など。

  巻の四は、住吉大社の宝市、大和の三輪素麺、伊予の牛蒡、松前昆布、加賀の笠、天王寺の牛市、安芸の市、
  有馬の籠細工、伊吹山のもぐさ、河内の団扇、仙台や肥後、播磨、美濃などの紙子、大坂天満の松茸市、
  河内道明寺干飯など。

  巻の五は、あわび、鮎、淀川の鯉、近江の瀬田うなぎ、しじみ漁、尼崎の貝、たこ壺漁、海人あま漁、尼崎のかますご漁、
  アカエイとナマコ漁、鯨の置網漁と銛突漁の様子などが描かれています。

  ※ 草書体なので、個人的に何が書いてあるのか判明できなかった物は割愛してあります。


 異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
 ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693

 1776 (安永5) 年の『ツンベルク日本紀行』「第二十章」日本人の食物 P.342~343から、魚の部分だけを抜粋
  例えば鯛Tayと言うのは和蘭人がsteen braasonと言っているものであるが、非常に高価であって、式日用又は
  宴会用としてとっておく。
  は私の知っている限りでは一番美しい魚である。は欧州でとれた一番大きな鰊と競争が出来る。
  は箱根付近でなければいないことは既に述べた。この鮭は欧州のと比すれば美しさに於いても質に於いても劣る。

  「第八章」和蘭商館から江戸参府 1776年3月4日~6月25日 P.125~129から抜粋
 大阪の宿 宿の工舎も非常によく、又全くよい待遇をうけた。…食膳にアブラメ 【アイナメのことか】という肉の多い
  魚をだされたが、私は非常に美味だと思った。 【】は翻訳者の注釈です。


 
 【初カツオ】
  ≪ かつお ≫ Wiki カツオ  Wiki 押送船

  鰹は古くから食べられており、身が堅いという意で堅魚(かたうお)に由来。

  鎌倉時代、吉田兼好の『徒然草』(1310~1331年に著)には
  鎌倉に住む老人が「わたしたちの若かった時代では身分の高い人の前に出るものではなく、頭は下層階級の者も
  食べずに捨てるような物だった」と語った事を紹介しています。
  兼好は、下魚であるカツオが、身分の高い人の食卓にまで上がってる事を嘆いています。

  『御湯殿の上の日記』や『多聞院日記』では鯉・鮭・鯛・鱸すずき・鱈たらの名前の出現数は多く、よく食べられていた
  事が分かりますが、鰹やマグロ (小型のシビ含む) は少ないそうです。
  つまり江戸時代初期まで、平時において公家や武家にはほとんど食されていませんでした。
  しかし戦国時代は鰹節が「勝魚」として縁起を担いだ武士たちに重宝されています。

  【御湯殿の上の日記】おゆどの-の-うえ-の-にっき    Wiki 御湯殿上日記
   清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。禁中の日常や女房詞などを知る好史料。
   1477(文明9)から1826年(文政9)までのものが現存。

  【多聞院日記】たもんいん-にっき
   奈良県の興福寺の学侶で多聞院主の英俊ほかの日記。46冊。1478年(文明10)から1618年(元和4)に至る。
   室町後期~安土桃山・江戸初期の重要史料。原本は散逸。


  ≪ 江戸時代、生カツオをカラシでも食べていた ≫

  現在の東京都に属する伊豆七島の一つ三宅島 (都心から南方約200㎞) に流された英一蝶と、友人の宝井其角が
  詠んだ歌があります。

  英一蝶 「初鰹芥子がなくて涙かな」  宝井其角 「初鰹芥子があって涙かな」 からし酢と思われます。記述

  【英一蝶】はなぶさ‐いっちょう (京都の人、1652~1724)
   江戸中期の画家。狩野安信に学び、やがて独自の軽妙洒脱な画風を創始。俳諧もよくした。はじめ多賀朝湖と
   称したが、幕府の忌諱に触れ三宅島に遠島、赦免後に英一蝶と改名。作「布晒舞ぬのさらしまい図」。

  【宝井其角】たからい‐きかく (近江の人、1661~1707)
   江戸前期の俳人。本姓、竹下たけもと。母方の姓は榎本えのもと。号は宝晋斎など。江戸に来て蕉門に入り、
   派手な句風で、芭蕉の没後洒落風をおこし、江戸座を開く。蕉門十哲の一人。撰「虚栗みなしぐり」「花摘」「枯尾華」など。

  現在も山葵ワサビの主な生産地は長野県と静岡県で、江戸時代は入手できる地域は限られていたようです。
  ワサビの代用として洋カラシを使って寿司や蕎麦を食べる習慣が残っている地域が現在でもあります。


 1695年刊の『本朝食鑑』には「鱠はショウガ、タデ、芥子、ワサビなどをつけて酢を和して食べる
  「刺身にもこの数品を用い、炒り酒を和して食べる」とあるそうです。
  また多くの魚は新鮮なら生食できるが、鯖は例外。生食で最も多く紹介されているのは鰹のようです。
  「駿豆・相武の産は味が浅く、肉は脆く、生食する方が上品であって、乾堅の場合は味がいまひとつで、やや薄い
  とあるそうです。
  「京師は海から遠く、生鰹は到来しない。また紀州・勢州に多く獲れるといえ、都からはなれすぎているので
  鮮鰹は至り難い。そこでマナカツオの鱠を鰹の鱠に学び擬えて賞美している。ここから学鰹と名づけるのであろうか
  この記述から、京都ではカツオの代わりにマナガツオを食べていた事が分かります。

  【本朝食鑑】ほんちょう-しょっかん 
   本朝・・・日本の朝廷。日本のこと。(「本朝○○」というタイトルの本の著者などは、畿内に多い。)
   本草ほんぞう (植物を中心に薬用になる物)。幕府の侍医 随祥院元徳の子 丹岳野
   人見必大ひとみ-ひつだい 著。12巻。1697年(元禄10)刊。
   明の李時珍著「本草綱目」にならいつつも、実地検証を踏まえ、庶民の日常生活の食膳に
   のぼることが多く、食用・薬用になる国産の植物・動物に重点をおき漢文体で記した書。
   人見(平野、小野、野)必大が1692年 (元禄5) に著した遺稿を、子の元浩が岸和田藩主
   岡部侯の出版助成をうけ1697年に12巻10冊本として刊行した。

  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃

 1746年成立と言われる『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)

  上巻 四 「飯・汁・膾・差躬」多くの膾・さしみ類の料理名とレシピが載っています。
  「差躬は「さしみ?」と読むようです。レシピなどから「湯引き」や「タタキ」なども含むようです。

  御差躬 鰹頭を取 北風の当る南風の当らぬ様にして 尾を上にして 壱時程 釣し置 扨さて かわきたる板にて
  庖丁も度々紙にてふき 少も水気なき様に作る也 なまくさけなく 酔事なし 煎酒にて古上げたるといゑり
  折ふしは からし酢にも


  下巻 八 「
  辛子酢の法 摺鉢へ飯を少入すりて 扨さて からしを入すり 酢にて のべたるがよし 魚によし
  思召得格別也 秘事也

  中巻 六 「肴 鮓」には5つの鰹のたたきのレシピが載っています。

  鰹のたゝき 鰹皮を少も入れず ゑら 頭 大骨を去り 能よく たゝき 塩三分一入て鉢に入 紙にて蓋をして 日なたへ
  出し置 紙ふたを取り一日に四五度かき廻し申候 暑の中は十日斗にて 能なれ申候 青木殿法

  鰹のたゝき 横田殿法」「鰹のたゝき 宮城殿法」「江の嶋鰹のたゝき 岩本院殿法」「小鰹のたゝき 松下殿法
  あり、その多くのレシピでは頭と内臓、骨などを取って塩を振ってたたいて日なたで干すようです。
  現在の生食している「鰹のたたき」とは異なります

   

  鰹切漬 かつを を作り 塩を付次第 付てならべ 魚の見へぬほど糀を入 かろき押をおく也という料理もあります。



  ≪ 鰹のタタキは発酵調味料のカツオの塩辛の事だった? ≫ 20.02.22 現在、当サイトだけの情報


 1799 (寛政11) 年刊の『日本山海名産図会』 (著者は木村蒹葭堂・画は蔀関月 どちらも大阪の人、出版地も大坂)
  巻之四「堅魚かつを」では鰹節の表記は「乾魚」となっています。

  土佐・阿波・紀州・伊予・駿河・伊豆・相模・安房・上総・陸奥・薩摩で獲れる事などが書かれてあります。
  相模・土佐・紀州が多く、次に鎌倉・熊野が多い。
  土佐と薩摩が名産として味厚く肉肥え鰹節にも生食しても美味しい。阿波・伊勢はこれに次ぐ。
  駿河・伊豆・相模・武蔵産は味が浅く肉はもろい。生食に良いが鰹節では味が薄い。
  安房・上総・奥州は是に次ぐ。

  三月の初めより中旬までを初カツオとして専ら生食をする。5月までを春節として上品な鰹節にする。
  8月までを秋節という。続いて釣り方や漁の仕方が詳しく書いてあります。

  鰹節は下の図にもあるように、浜に揚げるとすぐに頭を落し内臓と背骨を取って2枚おろしする事などが
  書かれてあります。漁と鰹節造り合わせて5枚の絵が描かれています。 

  鰹魚のタヽキといふ物あり 即 醓なり 勢刕 紀劦 遠江の物を上品として 相劦小田原これに亞ぐ 画像
  又奥劦棚倉の物ハ色白くして味他に越すそ 即 國主の貢献とするところなりとぞ

  「」=「ひしお」=鰹の塩辛で発酵調味料 「勢刕」=勢州=伊勢 「亞ぐ」=次ぐ

 人文学オープンデータ共同利用センター 『日本山海名産図会』 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249892/

  【醤・醢】ひ‐しお
   ① もとは大豆のちに小麦を主材料とした発酵調味料。現在の味噌・醤油の原形。なめみそとしても用いた。
    宇津保物語[吹上上]「酢、―、漬物皆同じごとしたり」
   ② 魚・鳥の肉の塩漬。肉醤ししびしお。しおから。史記抄「醯は―醤はみそなり」






 1803 (享和3) 年に初編、1805 (文化2) 年に二編、1820 (文政3) 年に三編の計3冊、大坂で刊行された
  『即席料理素人庖丁』著者は浅野高造。通称は『素人庖丁』。
  この第一巻 (初編) に「たゝき」を発見。下記の明治版では下巻のP.77に載っています。

  カツオとは書かれていませんが、魚肉 (棒鱈?) を小さく切り、ざっと茹煮してさき叩き鉢に入れて蒸し生姜
  などで食べる事が書かれてあります。(手書きの旧字なので、草書体を間違いなく読むスキルがないので全文は理解できませんが)

  素人包丁 即席料理 上 1893 (明治26) 年版 出版は大阪の赤志忠雅堂 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849059
  素人包丁 即席料理 下 1893 (明治26) 年版 出版は大阪の赤志忠雅堂 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849060


  カツオのタタキは時代によって変化。あるいは地域によって別の料理の事を言っていたのかも知れません。


  TBS この差ってなんですか? 『外国人が分からない日本の差 SP』 17.04.18  放送

  ≪ アジのタタキとカツオのタタキの違い ≫ 一般的な通説ですが・・・

  鰺は小骨が多く骨を抜くのが面倒なので、包丁で細かく叩き切る=アジのタタキ。

  新宿調理専門学校の大山喬之さんによると、カツオはまず藁を使って身の表面を焼き臭みを取ります。
  身をスライスした後に塩やポン酢などの調味料をかけながら、馴染ませるようら手で叩く=カツオのタタキと解説。






  アジのタタキは江戸時代の小鳥類を食べる時に同じ方法を用いています。
   (但し小鳥類は生で食べずその後に火を通し調理するので「タタキ」という名の料理名ではありません)


  江戸時代中期のタタキの調理法で出てくる 日なたで乾す&よく叩く (包丁で切る) のは、魚の寄生虫対策の
  意味合いもあったのではないでしょうか。

  上記のカツオのタタキの調理法は明治26年の高知県の尋常中学校の割烹の授業で教えられています。↓


 1893 (明治26) 年印刷 割烹授業日誌 第二輯 高知市士族 西野たつ・一圓とよ 編著 非売品
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811754

  この第二集も高知県の尋常中学校での家庭科の調理実習授業での日誌ですが非売品となっており、
  発行者や印刷書などが前年に出版された第一集とは異なっています。
  和田寅太郎という人が教え、第3回卒業生18名 (西野とよ 含む) と第4回卒業生6名 (一圓とよ 含む) の
  実名が書かれており、彼女たちの授業ノートをまとめた事が書かれてあります。卒業生自らが主になって
  本にしたものです。

  松魚かつをのたゝき 鰹450目・食塩1合5勺・酢1合・醤油5勺 先ずカツオを四節よふしにおろし薄塩を
  為し 金串を刺して其の場合 上肉うえのみとなる所は少しく 下見したのみとなる部分は久しくふすべ 終れば
  刺身となし 而しかして又 食塩をほどよく散り 酢及醤油を混じたるものを注ぎかくる也

  この時代、高知では鯛の刺身はワサビ、カツオの刺身はカラシで食べていたようです。

 1892 (明治25) 年出版 割烹授業日誌 第一輯 高知県尋常中学校女子部 編 出版地は高知県
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811753

  消費量ダントツの高知県では1600年以前から生カツオを食べていた?
  高知県のカツオのタタキと、明治時代中期の高知の食文化が分かる書 色んな発見がありました。


  江戸時代中期の『黒白精味集』のカツオのタタキのレシピを見ると、現在のものとは異なります。
  サルボウのタタキのレシピも載っているので抜粋して画像を張り付けましたが、サルボウは貝なので骨は無いです。
  「タタキ」という調理法は、小骨を細かく包丁で叩き切る事だけを目的としていない事が分かります。

  江戸時代の高知県土佐でカツオのタタキの食べ方の記述があればはっきりするのですが、元々は漁師料理だと
  思われますので、土佐では身を藁焼きにして食べる方法はかなり昔からあった可能性が高いです。

  江戸時代後期~明治時代初期の間に、土佐での食べ方が「カツオのタタキ」として名前がついて、現在と同じ料理と
  して確立し、明治時代以降に全国的に広まったと思います。


  ≪ 句に詠まれる初鰹 ≫

  【初物七十五日】はつものしちじゅうごにち … 初物を食えば、75日生きのびるという意。

  「鎌倉を生て出でけむ初鰹」 松尾芭蕉 (伊賀上野生まれ、1644~1694)。
  「目には青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)」 山口素堂 (甲州の人、江戸へ下り葛飾風の祖。1642~1716)。
  「大勢の 中へ一本 松魚かな」 服部嵐雪 (江戸湯島生まれ、1654~1707)
  「初鰹 観世太夫が 端居かな」 与謝蕪村 (摂津の人、1716~1783)

  『万句合』の1761年の句には「初鰹 むかでのよふな ふねに乗り」とあり、相模湾や東京湾付近で獲れたカツオが
  押送船で運ばれていた様子が詠まれています。

  『万句合』の1777年の句「初鰹俄かに安くなるさかな」と詠まれるように鮮度落ちが激しく、鮮度が落ちると価格も低下。
  『柳多留』では「恥ずかしさ医者に鰹の値が知れる」腐敗して食中毒を起こしていた事もわかります。

  【万句合】まんく‐あわせ  川柳 発祥は大坂。 川柳から見る江戸での嫁の立場 嫌な女房番付
   江戸時代、前句付を中心とする雑俳の句会。また、その選者が前句の刷物を配布して付句を募集し、勝句を一枚刷
   形式に印刷して頒布したものをもいう。
   宝暦(1751~1764)から寛政(1789~1801)頃まで行われ、初代川柳評の万句合勝句刷は「柳樽」の底本。

  【誹風柳多留】はいふう-やなぎだる 柳樽。 川柳集。167冊。
   呉陵軒可有ごりょうけんあるべし ら編。1765~1840年(明和2~天保11)刊。
   初代 柄井川柳(24編まで)以下5代に至る代々の川柳評万句合まんくあわせの中から主として選び集めたもの。

  但し、多くの江戸庶民がカツオを食べられるようになったのは19世紀なってからです。


  1911 (明治44) 年出版の『東京年中行事』上の巻 P. 271~「初鰹

  前半は長文を書いてもあまり意味が無いので、簡単に略します。ふりがなは原文に付いている物のまま

  昔の初鰹は旧暦4月の上旬が獲れ始めで4~500目を若魚を初鰹と言ったが、現在は1貫目ほどの古背鰹が
  初鰹の名前で台所に上がっている。

  続きから原文。旧漢字もそのまま。

  例へ一張羅を布子ぬのこぶち殺して了しまつても、走りの初鰹はつものに舌鼓うたぬと云つては 江戸ッ子の肩身が
  狭めえや と あつて、時あつては一片の魚軒さしみに千金も抛なげうつて了ふと云ふは決して珍しからず。

  天明の頃に石町こくちょうの富豪 富林治左工門ぢざゑもんが渡邊某に御馳走した初鰹はつがつをの走りは、一尾の
  あたひが二兩三分であつたと云へば、一兩で二俵の米が買へたと云ふ時代のことだから、今の相場にして一尾が
  ざつと三十圓えん。それから次第に初鰹の價が下がつて来たと云ふが、それでも天保時代に初鰹の握壽司にぎりずし
  一片ひときれが天保錢一枚で丁度 百文。
  百文と云ふと たつた拾錢じやないかと云ふ人もあろうが、丁度 其頃 百文あると、晝飯ひるめし食つて立派な芝居を
  見て一日ゆつくり遊べたと云ふから、初鰹の値段が大抵 想像が出來ぬでもない。

  其頃はまだ今のやうな交通機關の便利がない時代のことで有るから、所々方々から花のお江戸をめがけて陸と
  云はず海と云はず、初鰹が盛んに飛んで來るものゝ、鎌倉から馬の背を泳いで來るのが一番早いので、本場と
  云へば必ず鎌倉と決まつて居つて、今でこそ大抵 目方で相場が決まることになつて居るが、其頃は大ざつぱの
  眼分量で、八尾宛づゝの一株で幾ら いくらと云ふ間もあらばこそ、羽が生えて江戸中を飛歩いたもので有る。

  と云ふのは抑そもそもう云ふ理わけなんだらう。初鰹と江戸ッ子、何う云ふ處ところにどんな因縁と來歴が有る
  ので有らう、と江戸ッ子ならぬものには 先づ其 疑問が起る。俳人に云はせたり、其道の通つうに説かせたら、
  さぞ勿體もったいない理屈もあらう、議論もあらうが、それはまあ御勝手として置いて、さて江戸ッ子の語る所に
  よると斯んなことも有るさうな。

  今は昔 天文六年の夏、北條氏綱が相州小田原の近海で小船を浮べて、酒酌み交はしつゝ鰹釣を見給たま
  折も折、ソラリと船の中へ跳おどり込んだは小さからぬ鰹の一尾、勝負にかつを は疑もない目出度めでたさ、早速
  料理して家運を祝さうとあつたに たがはず、程なく上杉朝定を討つて見事な勝利を得たが源もとで、其後は戦の
  首途かどでのお肴には必ず鰹を用ゐたと云ふ歴史的な意味もあれば、初鰹の捕れ初める時期になると、海月くらげ
  に似た烏帽子えぼうしの様なものがポカリ ポカリと濱邊かいへんへ浮いて來る。

  これが即ち鰹の烏帽子と云ふもので、初鰹に限つて之を頭の先に戴いたゞいて居る所から、元服の烏帽子えぼし
  そつくりだと云ふので、何時いつしか鰹のことを烏帽子魚えぼうしうおと云ふ様になり、鰹と勝男かつをと音の似通にかよ
  所から、武家時代このかた次第に珍重するやうになつたのだとは、眞僞しんぎをよそにしても、満更まんざら
  關係かんけいのないことでも有るまじく、兎に角 漸次しだいに斯んな意味も加わつて愈いよいよもてはやされたもので、
  それが引つゞいて今となつても本當ほんとうの江戸ッ子の間には難有ありがたがられて居るので有らう。

  天文6年=1537年、 天明=1781~1789年、 天保=1831~1845、 天保銭=1835 (天保6) 年以降鋳造の銅銭。
  明治44年=1911年  一俵=4斗=40升=約72.15ℓ。

  【北条氏綱】ほうじょう-うじつな (1487~1541) 早雲の長子。
   戦国時代の武将。小田原城主。扇谷上杉氏を攻めて武蔵・両総に勢を張った。箱根早雲寺に葬る。

  【扇谷】おうぎがやつ   上杉氏 藤原北家の支流から武家へ
   扇谷上杉氏。鎌倉扇谷に住んだので氏とした。上杉重顕に始まる。山内上杉氏と対立。
   1546年 (天文15) 朝定の時、北条氏康 (氏綱の長子、1515~1571) と戦って敗れ、滅亡した。


  江戸庶民が初鰹を珍重するようになったのは、1800年頃からのようです。
  1812年に歌舞伎役者の中村歌右衛門が一本三両で購入した記録があるそうです。

  「女房子供を質に入れても初鰹」という川柳も有名です。

  鰹が獲れるのは、静岡県に近い神奈川県の小田原沖。獲れた魚を江戸へ輸送するための速船「押送船」で
  運ばれました。1803年の記録では、関東全体で64隻の押送船があったようです。
  生のカツオは高価なので、庶民が普通に食していたのではなく憧れの食べ物だったようです。






  但し、幕末頃になると、初鰹を食べるブームが無くなり値崩れしたようです。
  たぶん、マグロが多く食べられるようになり、カツオの地位が落ちたからだと思います。  刺身・お造りの歴史

  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf

  ≪ マグロの漁獲量が増える ≫

  マグロは延享年間 (1744~1748年) 頃に、紀州 (和歌山) の漁師が千葉県南部の房総半島の布良村 (館山市) に移住し
  延縄漁業を始めた事から、江戸で食べられるようになりました。
  多くの庶民が食べられるようになったのは、カツオと同様に1800年頃以降の事です。

  明治初期には製氷会社が作られており、鮮魚の流通事情は格段に良くなりますが、静岡・神奈川・千葉の3県の漁獲量が
  減ります。逆に東京の人口は急増していった為、東京では鮮魚が入手しづらくなったようです。
  1905 (明治38) 年に石油発動機付き鮮魚運搬船が初めて建造されたりして、1909年以降に漁獲量が増加します。
 
 【刺身 京坂と江戸の違い】
  東京史楽 『江戸の話 八』 11.12.26 配信 http://tokyosigaku.jugem.jp/?page=1&cid=4  Wiki 酒井伴四郎
  青木直己著 生活人新書 『幕末単身赴任 下級武士の食日記』 http://bakuren.itigo.jp/sakai.html

  ≪ 幕末の下級武士の実情 ≫  刺身・お造りの歴史 刺身は室町時代 「指身」「差身」「打ち身」など違い

  幕末に江戸へ単身赴任した紀州和歌山藩の30石取りの下級武士である酒井伴四郎 (1833~?) の日記によると、
  鳩を食べたり、安いボラなどを買っており、鮭の切り身を買う事は珍しかったようです。

  江戸時代から鮭が有名な新潟県村上市 江戸時代に世界初の鮭の自然孵化増殖を成功

  江戸では鯛は高級なのでほとんど食べられず、下魚扱いされていたマグロ、イワシ、ドジョウ、ウナギ、ボラ、コノシロ
  などが庶民のおかずでした。江戸での刺身は専らマグロ。高価な饗宴料理の時に鯛が出る。
  上方での刺身は鯛が多く、マグロは中以上の饗宴料理では用いられなかった事が『守貞謾稿』に書かれてあります。

江戸の刺身

江戸の刺身

関西のお造り

 部位や素材で切り方を変える


  右から2枚目は江戸の刺身は、幕末の1857 (安政4) 年の『江戸名所百人美女 呉服ばなし』の一部分。
  刺身庖丁など多くの各種包丁は堺や大坂で誕生したものです。


 類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412

 幕末の『守貞漫稿』 下巻 第二十八編 食類 「刺身

 京坂にては四時及び料理の精粗を択ばず専ら鯛を用ひ 他魚は用ふを甚だ略とす 京坂惣ての作り身斬目正しからず
  斬肉を乱に盛る 京坂にては鮪を下碑の食として中以上及び饗応にはこれを用ひず 又鮪を作り身にせず
  江戸は大禮の時は鯛を用ひ 平日これを用ひるを稀とす 平日は鮪を専らとす 包丁甚だ精巧にして斬目正しく 斬肉の
  正列に盛るを良しとす

 京坂では四季および料理の高級・下級に関係なく鯛ばかりを使用している。他の魚はあまり用いない。京坂の造りは
  平造りではない薄造りやへぎ造りである。盛付は瓦盛り、節盛りである。鮪は下賤な魚として中以上の高級な料理には
  用いないし、鮪を造りにはしない。
  江戸では大禮おおれい (大切な儀式) には鯛を用いるが、平素は用いない。普段は鮪ばかりを用いている。
  包丁使いは平造りで、盛付は単純な平盛を良しとする。 

  刺身・お造りの歴史 刺身は室町時代 「指身」「差身」「打ち身」など違い。ウィキペディアの歪曲解釈を検証


 東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32

 明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 P.321~323 「納豆賣
  著者は若月紫蘭 (本名は若月保治、1879~1962年、山口出身、東京帝大卒。教育者・記者・劇作家・演劇研究家・浄瑠璃研究家・翻訳家)

 …『鯛の刺身よりも まぐろの刺身が美い』と云ふ、江戸ッ子の趣味はやはり田舎者の解するあたはざる不思議
  中の不思議で有る。  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文


  東京は明治時代に人口が急増した結果、江戸時代末期より、食文化が貧しくなっていったようです。

  明治時代の東京は華やかな首都としての歴史が語られますが、一方で二極化が進んでいました。
  明治20年代半ばの東京の下層社会の探訪記である『最暗黒の東京』(松原岩五郎 著、岩波文庫) という本が
  明治26年に出版されています。  明治時代、残飯屋というのがあった  Wiki 松原岩五郎


  「納豆の味が分からないと江戸ッ子ではない」「おかずが要らない」という事なので、明治時代は納豆を非常に
  多く食べていた事が分かります。(その分、食文化の発展が遅れるという事にも繋がります)
  立派な商家も役人の家でも、汚い身なりの納豆売りを邸内に招き入れ、「腐った豆を旨い」と言う。
  というような事が書かれてあります。

  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。


 
 【江戸風 天ぷら】
  江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- no.19「てんぷら屋」 http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no19.html   Wiki 天麩羅 など より

  ≪ 天ぷら ≫  くわしくはカマボコと天ぷらの歴史ページ

  江戸時代から天ぷらの人気は高く「江戸の三味」の一つであった。
  奈良~平安時代に米の粉などを衣にした唐揚げのようなものが伝来。

  徳川家康は鯛の天ぷらの食べ過ぎで死亡した説。
  当時の天ぷらは、京都で流行っていた「つけ揚げ」というもので、現在のから揚げに近い
  そうです。

  1669年(寛文9年)の『食道記』に「てんふら」という名称で文献上に初めて登場。
  天ぷらは平田萬里遠の『近世飲食雑考』によると、17世紀末にポルトガルから伝来した
  料理だそうです。


  江戸の街頭に天ぷら屋の屋台店が出始めたのは1785年 (天明5年) 頃らしいです。

  東日本では小麦粉を衣として纏わせ揚げたもの。ゴマ油を使用していたので現在より少し黒っぽい。
  西日本では魚のすり身を素上げしたもの(じゃこ天や薩摩揚げなど)が魚の天ぷら。

  江戸風の天ぷらが大阪に伝わったのは明治時代と言われています。
  逆に関西の職人が上京し、塩をつけて食べる野菜揚げの綿実油の天ぷらが東京にも広まったそうです。
  日本各地に天ぷらが広まったのは、大正時代の関東大震災で職人が各地に移住した事から。(江戸前寿司と同じ)

  カマボコと天ぷらの歴史 江戸の天ぷら 「天ぷら」と名付けたのは山東京伝? 江戸の天ぷらは大坂人が始めた? 

歌川広重 東都名所の一部

深川江戸資料館

天ぷらの素材

江戸時代の再現

  【江戸前】えど‐まえ
   (芝・品川など「江戸前面の海」の意で、ここで捕れる魚を江戸前産として賞味したのに始まる。
   鰻うなぎでは浅草川(隅田川の河口近く)・深川産のものをさす)
   ① 東京湾付近で捕れる魚介類の称。東海道中膝栗毛[発端]「―の魚のうまみに」  ②江戸風ふう。梅暦「―の市隠」


  ≪ 西洋小麦粉 ≫ 株式会社いとふ|麩の歴史 http://www.itofu.jp/history/index.html

  1800年(寛政12年)幕府が西洋の小麦とその生産法を入手。
  1859年(安政6年)、開港と共に最初の「精白小麦粉」が輸入されました。それまでの小麦粉は粒子も粗く色も黒い、
  全く別物と言ってもよいほど違っていたようです。小麦から作られる麩は高価なものだったそうです。

 
 【江戸時代末期頃の魚売り】 
  ≪ 魚売り ≫ 京都・大坂・江戸


 『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「鮮魚賣」「枯魚賣」 枯魚こぎょ=干した魚、ひもの。

  「鮮魚賣
  三都とも俗に肴屋と云 (魚売りの絵あり、解説→) 泉堺の魚賣 攝尼ヶ崎 亦 同

  「枯魚賣
  同枯魚を俗に鹽もの乾物とも云 鮮魚のみうるあり 或は枯魚を兼て賣るあり 京都と江戸の魚賣如此大坂にも
  此もあれども專ら鮮魚のみを賣る者は大坂在住の者に非ずて泉の堺より來る者と攝の尼ヶ崎より出る者也

  京坂 食用の鮮魚は堺より出るを上品とし美味とし價も他に倍す 堺尼ともに夜中彼所に魚市を行ひ未明より發して
  大坂に至り專ら市民得意の家に訪ふのみ 或は得意無之者は市中を呼び行く これを俗に「ふりうり」と云也
  賈も准之 得意ある魚賣は五節及び土神祭祀等の日は僕兩三人を供して魚寵二三荷を持巡る 江戸には如
  者は無之 僅の魚數を持巡る

  又 大坂 三四月には鯛及び蛸甚だ多く價廉にして 味美也 俗此節を魚島と云 當節呼聲 平日より華かに高く呼ぶ
  其詞に曰「たいや たい なまだそまたひー」と呼び行也 又 尼堺より出る者 夏月には衆賈一様の襦袢を着す
  地 白木綿に紺の大名縞也 其他色を無用者

  「=商い」「=当」「=声」

  江戸の魚賣は四月初松魚賣を盛也とす二三年前は初て來る松魚一尾二三兩に至る 小民も爭て食
  近年如此昌ること更に無之 價一分二朱 或は二分ばかり也 故に魚賣も其勢太だ衰へて見ゆ

  漁村より諸魚を三都の市に漕す魚籠 京坂は橢圓形 濶く 江戸は狭し (江戸の初鰹売りと、カゴの絵と解説あり)

  江戸にて白魚及び むきみ賣は圖の如き筥に盛り携ふ 上圖の半臺の上にも置之者あり
  緣の左右各二所を穿て水ぬきに備へたり 白魚は江戸隅田川の名物とす 細かき網を以て救ひ捕る 夜は篝して
  之 白魚賈は二十五尾を一ちょぼと號け唱ふ 後考 二十尾を一ちょぼと云
  むきみは蛤、あさり、さるぼう等の介殻を去りたるを云 江戸深川に此介を漁する者甚だ多し… 以下、長文なので略

  「松魚かつお=鰹」「=争」「橢圓形=楕円形」「濶く=広く」「=図」「=箱」「=台」「=縁」「=貝」
  「穿うがつ=穴をあけて」「かがり=薪に火を付けて明かりを灯す」「後考こうこう=未詳の事柄を後日考え直す」


  続きの文を含めて、主要な部分をざっと訳し要約すると

  京坂では堺と尼崎から魚を売りに来ていたが、堺産の物が上等で美味しく、尼崎産の約2倍の価格した。
  魚市場でセリで行われ、未明より出発して大坂の得意先の家に売った。得意先が無い魚売りは街中を売り歩いた。
  イベントがある日は多く売れる。江戸には、こういった習慣はない。

  大坂では3~4月にタイとタコが大量で安く売られ美味しい (旬の時期)。魚売は元気よく声を出して売っている。
  尼崎・堺に関わらず、魚売は決まった同じ商い衣装を着ている。

  江戸は4月に初カツオを売る時が最も盛り上がる。2~3年前までは1尾で2~3両の値が付き、大衆が争うようにして
  食べた。しかし近年は初鰹ブームが去って、一分二朱~二分の安値になり、魚売の勢いが衰えたように見える。

  江戸隅田川で獲れる白魚は名物で、夜も明かりを灯して漁をする。20匹を1ちょぼ という単位で名付けている。
  京坂には白魚が無く、たまに白魚の乾物がある程度。

ゆで蛸が黒門市場発展きっかけ

カツオの時期

江戸の白魚


  深川ではハマグリ・アサリ・サルボウなどの貝の漁が盛んで、剥き身にして売る。
  バカ貝 (むき身=あおやぎ、貝柱=あられ、小柱) は、剥き身より貝柱が賞賛され高価で、偉い人も食べる。
  京坂ではハマグリ・トリガイ・赤貝はあるが江戸に比べて高価。ハマグリを剥き身で売る事はなく、バカ貝・サルボウ
  貝はない。貝類は江戸が非常に多く、京坂は少ない。

  牡蠣は三都ともにあるが、江戸は安価。
  大坂では牡蠣が獲れないので、11~2月に広島から船で売りに来る。川岸に船を停泊することは幕府の許可がある。
  牡蠣を剥き身にして売ったり、船内で牡蠣飯など調理した商品を売る。

  しじみは、京坂では貝のままと、煮て貝殻を取り去った剥き身を売る。江戸では貝殻を取り去った売り方は無い。

  大坂ではナマコを売ったり食すことは厳禁。
  中国・オランダの輸入品を扱う長崎の公設市場では、昆布を一番として取り扱っているが、ナマコも売っていた。
  昔、中国でナマコが少なくなったので、一時的に食べる事が禁止された。その習慣か現在も続いている。
  京と江戸ではナマコ禁止が無いので、堂々と売られている。

  大坂の雑喉場市場は江戸の市場ほどではないが、それなりに大きい市場である。堺と尼崎から売りに来ている。
  堺は近海で獲れるので魚が肥えて美味。尼崎は少し遠くから売りに来るので魚が劣り、堺の半額の価値である。
  塩魚・乾物魚類は新靱町に市場がある。

大坂へ来る広島のカキ船

「浪花名所図会」・雑喉場市場

江戸は小田原から


  江戸は本材木町の新場の魚市場では近海の魚が美味とされ、小田原などの遠くから来る魚は劣るとされている。
  塩魚・乾物魚類は日本橋南辺四日市という所に市場がある。

  近年まで、堺・泉州のアナゴが名産地として全国的有名だった 養殖で復活へ

  江戸前が美味いと言われるのは、単純に小田原沖などで獲れた魚より新鮮だったからで、近年は全く関係ないです。



  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf

  ≪ 京都の鮮魚事情 ≫

  京都には大坂から、手漕きの高速の今井船で淀川を遡上し伏見へと運ばれ、陸路で京都まで運ばれていました。
  旧暦の6~9月の夏季は鮮魚腐るのが早いので途絶えていたようです。


  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『キリスト教禁止と鎖国』 19.09.20 放送

  ≪ 高級中国料理は、日本の海産物が必需品だった ≫

  江戸時代初期、中国から最も輸入したのは生糸でした。日本からの輸出品は工芸品などもありましたが、金・銀・銅
  などが主流でした。生糸の輸入を制限して金や銀の流出を抑えるために、養蚕業や製糸業の育成と輸出品の開発
  が必要でした。養蚕製糸業の育成は成功し幕末から明治初期にかけて欧米向けの最も主要な輸出品となります。






  金・銀に代わる輸出品の一つが俵物と呼ばれる海産物でした。番組解説は、東京大学史料編纂所の山本博文 教授。
  乾した水産物を俵に入れて輸出したので「俵物」と呼ばれます。乾しナマコ (イリコ)、乾しアワビ、フカヒレの3品を輸出。
  当時の中国 (清1616~1912の女直族=満州族が建国) では、「日本産が一番」と評され、宮廷料理には欠かせない
  高級食材となっていきました。

  【俵物】たわら-もの、ひょうもつ
   ① 俵詰めなした物。米や水産物。
   ② 近世、長崎貿易の水産輸出物。煎海鼠いりなまこ・乾鮑ほしあわびの2品。のち鱶鰭ふかひれを加えた。
 
 【鰻の蒲焼き】 関西発祥の可能性が高い
  鰻の蒲焼きは江戸の郷土料理とされていますが、その料理法は上方で誕生したと思われる史料の方が多く残っています。

  関東発信の情報は、複数の文献記述や証拠で整合性が取れていない。肝心な所の証拠は示さないのが特徴です。

  Wiki 蒲焼 は、年代を誤魔化していたり、都合の悪い事は書かず、意図的に江戸発祥説に仕立ており非常に悪質です。
  このような誤魔化しの情報歪曲は、東京メディアおよび東京人が書いたウィキペディアやブログ、東京企業HPにも
  よくある事なので鵜呑みにしないようにしましょう。一つのデータや主張に惑わされず、多角的総合的に調べましょう。


  ≪ 鰻の調理記述は奈良時代が文献初出 ≫

  鰻は大昔から食べられていたそうですが、文献には713年(和銅6年)に書かれた『風土記』の
  記載が最初らしいです。
  江戸時代になるまで、割かずに串焼きで味付けは塩のみ。
  その姿から「蒲の穂焼き」と言われました。

  【蒲】がま  (古くはカマ)ガマ科の多年草。
   淡水の湿地に生える。高さ約2m。葉は厚く、長さ1m以上、幅約2㎝、編んでむしろを製する。
   雌雄同株。夏、約20㎝のろうそく形の緑褐色の花序(穂)をつける。これを蒲団ふとんの芯に
   入れ、また、油を注いでろうそくに代用、火口ほくち(火をうつし取るもの)を造る材料とした。



  ≪ 江戸時代に蒲焼が誕生 ≫  Wiki 蒲焼18.03.01現在 内容と比べて見てください。誤魔化しが多い事が分かります。

  江戸時代前期の1643年(寛永20)刊の『料理物語』「第三 川魚之部」には 
  うなぎ〕なます、さしみ、すし、かばやき、杉やき、さんせうみそやき、此外色々とあります。
   料理物語は上方(大阪人の可能性が高い)で書かれたもの。  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸

  この寛永20年頃に成立したと推測される『大草家料理書』(詳細不明) には「宇治丸のかばやき」の記述があるようです。
  「大草」は庖丁式の流派で、室町時代1380年頃に足利義満の料理人として大草三郎が仕えた事が始まり。
  「宇治丸うじまる」=京都の宇治川で獲れる鰻の事で山城国宇治の特産品。

  1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
  曳物部」には「うなぎ焼き 肴にても尤用 うなぎは大骨取 よくすり ひしほかけ置 成程 醤油こめ熬いり
  裏表よく焼過たる程がよし 又山椒みそ付て焼もおなじ 必十人の九人は生焼尤嫌物也

  すり身にして、醬と醤油又は山椒味噌で味付けをして焼いて食べていたと思われます。
  但し、すり身にするのは、『蒲焼」ではなく「杉焼き」「山椒味噌焼き」の料理法の可能性が高い。

  【蒲焼】かば-やき
   ウナギ・ハモ・ドジョウなどを開いて骨をとり、串に刺すなどして、たれをつけながら焼いた料理。
   もとウナギを縦に串刺にして丸焼にした形が蒲がまの穂に似ているからいう。


  1694 (元禄7) 年、京都の町医者である山岡元隣やまおか-げんりん著の『増補ぞうほ和歌食物本草わか-しょくもつ-ほんぞう
  には、焼いたウナギは山椒味噌や醤油で食べる事を勧める内容が書かれているそうです。

   Wiki 蒲焼には1723年(享保8年)出版の山岡元隣著『増補食物和歌本草』の中…とありますが、
   Wiki 山岡元隣コトバンク山岡元隣には
   1631~1672年、江戸時代前期の俳人・仮名草子作者で町医者とあります。

  和歌形式で記された食物本草書の成立について https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/14/14-03.pdf
   上記サイトのP.52では、増補食物和歌本草は1694年、1715年、1723年の三種が確認できとありますので、
   初版年の1694年とするのが普通です。


Wiki 蒲焼 19.05.23現在の記述の証拠




  ※また Wiki 蒲焼には
  1700年頃に出された『江戸名所百人一首』の絵札に深川八幡社と鰻売りの露天が描かれて
  おり、絵には露天の行燈に名物の大かばやきと記されている。
  これは古代からの調理法と区別するために、現在と同じ調理法の物を大かばやきと名乗った
  ものである
   
  とありますが、 Wiki 近藤清治や知足美術館などによれば 芝居絵本『(神社仏閣) 江戸名所
  百人一首』は浮世絵師 近藤清治が描き1728(享保13)年に刊行されたもの。
  「めいぶつ 大かばやき」の文字が描かれているだけ。深川八幡社を紹介するための絵であり、
  調理法などは書かれていません。

  江戸の方が先だと印象操作したいが為に、本の刊行年も誤魔化している事が分かります。

  下の『日本山海名物図会』のように鰻一匹を丸ごと焼いているのではなく、『江戸名所百人一首
  に描かれているのはカットした切り身を串に刺して焼いているもの(串焼き状)です。
  また、この絵の中には蒸す為の蒸籠などは見当たりません。

  でも「大かばやき」と書いてあるじゃねぇか!! → 「江戸ッ子とは? その実態」をご覧ください。
  江戸ッ子というのは、自分たちや物事を大きく見せたり、自分に都合の良い思い込みだけで
  物を語る人達である事が複数文献で確認できます。(他から信用されていない)

  江戸名所百人一首と、神社仏閣 江戸名所百人一首とは内容は同じものです。
江戸名所百人一首


拡大


  調べれば簡単に見つかる情報なので、江戸の方を古く見せたい (江戸発祥と主張するため) 意図的の可能性が高い。
  この様に歪曲した記述だけでなく、もっと悪質な手口も多数発見しています。

  
   は、「蒲の穂焼き」であって、「蒲焼き」ではありません。


 1830 (文政13) 年刊の『嬉遊笑覧』巻十上「飲食」 P.395
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104

  【新増江戸鹿子】(寛延四撰) 深川鰻名産なり 八幡宮門前の町にて多く売る云々 池の端 鰻 不忍池にて
  取にあらず 千住尾久の辺より取来る物を売なり 但し深川の佳味に不及といへり 此頃迄いまだ江戸前うなぎ
  という名をいはず 深川には安永頃いて うやといへるが高名なり

  元禄=1688~1704年、 宝永=1704~1711年、
  寛延=1748~1751年、 安永=1772~1781年 天明=1781~1789年

  【耳袋】に濱町河岸に大黒屋といへる鰻屋の名物ありといへり 天明頃の事にや これらや御府内にて うなぎやの
  初めなるべし 京師も元禄頃迄 よき町には かばやき なかりしにや …

  【耳袋・耳嚢】みみぶくろ
   随筆。根岸鎮衛やすもり著。10巻。1814年 (文化11) 成る。立身して勘定奉行・江戸町奉行などを勤めた著者が、
   巷説・奇談・教訓話などを書き留めたもの。

  【御府内】ご-ふない
   江戸城を中心として、その四方、品川大木戸・四谷大木戸・板橋・千住・本所・深川以内の地。
   地図では、その境界線を朱で書いたので、これを御朱引き内という。


 1830 (文政13) 年刊の『嬉遊笑覧』巻十上「飲食」 P.396 すっぽん

  宝永7年草子【伽羅女】に新地堀江の料理茶屋にて鰻のかばやき 丸鼈スッポンまいる云々 難波にては
  うなぎと並び行れたり  宝永7年=1710年


  元禄頃になると京都では町の中心部にも鰻の蒲焼屋があった。宝永年間には大坂の料理屋では鰻のかばやき
  とスッポン料理が普通に食べられた。江戸では天明頃になってから江戸の中心部に鰻屋ができた。

  つまり、京都や大坂の方が江戸より100年も早く鰻屋が広く普及している事になります。


  ≪ ナマズ ≫ 『嬉遊笑覧』のP.395~396

  『日東魚譜』や『増補総鹿子』の記述によれば、もともと江戸にはナマズが居なかったが、江戸時代中期の享保
  14年9月に井頭から水が溢れ出した事があり、この時からナマズが現れ、享保年間 (1716~1736年)に多く増えた。
  西国のナマズと色や形が異なり、関東では下層階級のみが食べるので、売るのは稀である。


  ≪ スッポン ≫ 『嬉遊笑覧』のP.396

  『寛永料理集』(寛永=1624~1645) =『料理物語』に載っている真亀の吸い物や刺身の真亀はスッポンの事。
  大坂では好んで食べていた。京都では元禄 (1688~1704) になるまで食べる人は稀。
  江戸では現在 (1830年頃) ではスッポンは鰻より高価な物になっているが、寛延・宝暦 (1748~1764) まではナマズや
  獣肉類より下品な物 (スッポン煮売りは獣肉売りと並んであった) とされていたようなので、鰻屋ではスッポンを売らない。

  ※寛永料理集は1643 (寛永20) 年刊の『料理物語』の事で、大坂人が書いた可能性が高いと思います。
  また、江戸ではスッポンを捌く技術がなかったが、江戸時代後期にちゃんとしたスッポン料理を提供する事が可能に
  なったので、高価な食材になっていったとも推測できます。

  江戸の運河と日本初の鰻とスッポンの養殖 すぐに静岡県浜松に移転



  コトバンク 『雲風子林鴻』
  コトバンク 『堀江林鴻』
  けんてーごっこ 『蒲焼検定』 http://kentei.cc/q/4551190/
  コトバンク 『遠藤元閑』
  早稲田大学図書館 『茶湯献立指南. 巻之1-8 / 遠藤元閑 編 http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo09/wo09_00624/index.html
  国立国会図書館デジタルコレクション 『茶湯献立指南 5巻』

  ≪ 江戸時代中期に現在とほぼ同じ調理法が確立 ≫

  1689 (元禄2) 年の『合類日用料理指南書抄ごうるいにちよう-りょうりしょう』(中川茂兵衛、出版地は京都)は多くの料理が
  載っていますが、「蒲焼」の文字の記述は見られないようですが、「焼き鳥が料理として記載された最も古い文献
  とも言われており、焼き鳥は串に刺して焼き、醤油のタレにつける事が書かれてあるようです。

  1692~96年頃の堀江林鴻 (雲風子林鴻、近江の人)作 浮世草子 『好色産毛』には、
  京都四条河原付近での夕涼みを描いた絵に、露天で行う鰻売りが見受けられ、その掲げる行燈には「鰻さきうり・同かば
  やき」と記されている。そうです。

  1696 (元禄9) 年、遠藤元閑えんどう-げんがん(名古屋藩医の家生まれの茶人)編、『茶湯献立指南』(初版の出版元は京都・
  山岡四郎兵衛。その横に江戸の前田屋徳兵衛の名がありますが、この時代の江戸での出版は京坂のパクリ本の可能性が
  高いです。
  五巻一鰻まん うなぎかばやき うなぎは大なるにあく事なし 背よりたち開き 二処串にさしあふるべし 醤油をかける
  八寸の時はこんがりと焼くべしとあります。

  「八寸」はっすん=懐石料理の口取り。鉢肴。(膳で酒の肴として最初に出す少量多種の盛り合わせ)

  背開きの記述に関しては、上方および (現在ある名古屋の老舗でも) 腹開きらしいので、江戸で出版するにあたり記述を
  変えた可能性も当時の出版状況からありえる事です。 詳しくは→ 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸

  江戸で出版されていたのは、京坂の本をそっくり真似る重版じゅうはんや、模倣したり・挿絵を加えたり・
  外題を変えるだけの類板るいはんという海賊版でした。あまりに酷い状況だったので1698年に大坂と京都から訴えられて
  います。1730年代には上方と江戸での争いも起こっています。都市間を跨いだ出版は1750年以降のようです。

  また元禄時代、江戸では上方からの下り醤油が主流で高価なもの。下魚である鰻に使われていたかは疑問です?


  1712 (正徳2) 年の『和漢三才図会』(著者は大坂の御城入医師の寺島良安、出版地は大坂) の
  巻第五十 「河湖 無鱗魚」の「鰻鱺うなぎ 宇奈木」 には薬効や生態が書かれてあり、最後の方には、

  滋賀県(江列)の熱田、京都(城列)の宇治の鮓が大変美味しいと有名だが、間違って糯米を使うと鮓にならない。
  静岡県東部の伊豆(豆州)の三島明神の前にある小川に幾千万の鰻がいるが、俗に三島明神が遣わした魚と言われている。
  真鰻は背中に黄色い線があり最も美味。但し、大きい物の味は良くない。蟹喰鰻は口の中が赤く小さい蟹を食べるので
  名がある。

  というような事が書かれてあります。琵琶湖水系の鰻の鮓が美味しい事で有名だった事が分かります。
  続いて、一番最後に蒲焼が書かれてあります。以下、原文↓。

  馥燒(カハヤキ) 用中分鰻鱺(サイ)テ四五叚(ツチ)テ醬油或未醬(ミソ)ヲ
   味甘香(カフハシク)ナリ
  或 有(ヒタメ)蓼酢多食ヘハ之煩悶 伹得鰻肉膨(スレハナリ)於腹中

  (カタカナ)は文中にあるフリガナ、」「」「は文中にある記号で、読み方の「返り点」です。
  =フク、良い香がする。香気が強い。香。などの意味。 =浸 ヒタ・す。 煩悶はんもん=もだえ苦しむこと。

  (香が良い)かば焼き 中くらいの鰻を裂いて腸を去り切る。(間隔をあけた)四、五箇を串で貫き醤油あるいは味噌を付けて
  炙って食べると、味は甘く香ばしく美味しい。
  あるいは蓼(たで)酢に浸して食べる者も居るが、多く食えば鰻の肉が酸によって腹の中で膨張し、もだえ苦しんで死に至る。


  ※「馥燒(カハヤキ)」と「味甘香」という記述と、「醬油 或 未醬」という記述が重要になります。

  著者は大坂在住。醤油の方が先に書かれてあるので、大坂では醤油のタレが一般的だった事が分かります。
  炙り焼きした時に香が良いのは、味噌よりも醤油ですから、「馥燒」は基本的に醤油のタレの事を記述したものと思います。
  甘味がある事から砂糖か味醂、水飴などの甘味料がタレに含まれている可能性が高いです。

  味噌の記述があるのは、醤油が普及していなかった地域では味噌味の蒲焼を食べていたからに過ぎないでしょう。
  蓼酢で食べる人も少なくなかった。醤油が普及する前、刺身は酢で食べており、鰻の生を蓼酢で食べる人がいたのかも
  知れません。上記の1668年の料理塩梅集必十人の九人は生焼尤嫌物也10人中9人は生焼けを最も嫌う物である。
  という記述から、少なからず生焼け又は生で食べていた人がいる事を示しています。
  死に至るのは酢の酸ではなく、鰻の生き血に含まれる毒が危険だという事が現在では判明しています。


  厚生労働省HP 『自然毒のリスクプロファイル:魚類:血清毒 「有毒種: ウナギ目魚類(ウナギ、マアナゴ、ウツボなど)」』
   https://www.mhlw.go.jp/topics/syokuchu/poison/animal_det_06.html より抜粋

  中毒症状 ウナギの新鮮な血液を大量に飲んだ場合、下痢、嘔吐、皮膚の発疹、チアノーゼ、無気力症、不整脈、衰弱、
   感覚異常、麻痺、呼吸困難が引き起こされ、死亡することもあるといわれている。
  化学的性状 ウナギ毒およびマアナゴ毒は、いずれも60℃、5分の加熱で完全に毒性を失う。


  1796 (寛政8) 年~1798 (寛政10) 年に刊行された『摂津名所図会』巻の参「東生郡・西成郡」には
  名産 鰻鱺魚うなぎ 野田村より出る 美味よ○て 一名 ○○鰻と称したとあります。
  「長富鰻」と書かれてあるように見えますが草書体ではっきり読めないので、読める方は原文を確認してください。

  テレビ大阪 かがくdeムチャミタス 『水都大阪 中之島におでかけ』 19.06.02 放送

  満潮時になると、海水が逆流して大阪市中央区の中之島あたりまで海水が
  川を遡ってきます。水晶橋の袂には堰が設置されて満潮時に水を溜め、
  干潮時に堰を開き水を海へ戻すフラッシュ放流というのが行われていた
  そうです。川に溜まった土砂やゴミなどを海へ流す役割でした。

  鰻は海で生まれ成長し川を遡り淡水で生活しますが、淡水域まで行かず、
  海水と淡水が交わる汽水きすい域に留まっている鰻がいます。

  堺市堺区にある「うなぎミュージアム&カフェ 雑魚寝館」の亀井哲夫 館長によると、
大阪中之島にも生息するアオウナギ

  同じ汽水域に生息していても餌や環境などでアオくならない場合も多いようです。
  アオウナギは細い顔・白い腹・青みがかった背中が特徴だそうで、滅多に見つからないそうです。







  醤 油 濃口醤油も上方発祥の可能性が高い。淡口醤油・生醤油・溜醤油なども料理によって使い分けていた

  公益財団法人 知足美術館 (新潟市) 『近藤清春』
  国立国会図書館デジタルコレクション 『神社仏閣 江戸名所百人一首』のサムネイル2頁目の番号26
  国立国会図書館デジタルコレクション 『料理網目調味抄』

  1730(享保15)年に出版された京都の茶人嘯夕軒宋堅しゅうゆうけん-そうけん料理網目調味抄りょうり-もうもく-ちょうみしょう』の
  二巻 魚之部に…一度焼てあつき酒を数編かくれば油とれ皮もやはらきてよし又焼時酒醤数事付焼へし
  蒲焼きが登場し醤油や酒を使ったものが記されており、味は現在の味に近かった。と推測されています。
  四巻には「鰻が江州 (滋賀県) 瀬田の名物で鮓にする」などと書かれてあります。

  J-STAGE 『一般社団法人日本家政学会研究発表要旨集 「江戸時代の料理書にみる煮物料理における調味料の変化」』
  著者 青山学院女短大 松本美鈴 2007年 (社)日本家政学会 59回大会発表
  料理網目調味抄』(1730)では,たれ味噌,たまり,煎り酒の記載はみられず,しょうゆと酒を組み合わせた
  調味が多くみられた.砂糖使用の初見は,『合類日用料理抄』(1689)の「煮大豆の方」においてであった.


  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』の三巻のサムネイル番号20
  コトバンク 『日本山海名物図会』

  右の図は、リンクの国立国会図書館デジタルコレクションのサイトで公開されていますので、
  大きな画像で確認して下さい。

  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会
  三巻の大坂の米市と題した絵の中で、船上で「かバやき」と書かれた看板と鰻が焼かれているのが
  描かれています。
  五巻では、「瀬田鰻…風味よし」として名物として描かれています。他の地域の鰻は書かれて
  いません。

  1785 (天明5) 年、京都の器土堂きどどう著の『万宝料理秘密箱まんぽう-りょうり-ひみつばこ
  (通称、『卵百珍』)にも、現在に近い鰻の蒲焼きが載っているようです。

  ウィキペディアが引用していた東京のうなぎ店のサイトでは「日本山海図会の絵が鰻を割いたものか
  分からない」というような事が書いてありますが、絵をアップで見てみると、どう見ても蒲の穂焼きでは
  ありません。その太さや目の位置から鰻を腹開きにしているようにも見えますが、解釈次第。
  4本の串のような物が見られますが、串が鰻に刺してあるとは断言できない微妙な絵となっています。
  しかし、客の皿には 3切れの切身が乗ってある事が分かります。

日本山海名物図会

  上記の1668年の『料理塩梅集』に大骨を取る事が書かれてあり、鰻を割いてから焼く方法が確立されているであろう
  100年後に「かば焼き」の看板を出しているのに裂かずに丸ごと焼くことはありえないでしょう。


  NHK タイムスクープハンター スペシャル 『緊急指令!守れ秘伝の味 』 14.01.02 放送

  ≪ 鰻の蒲焼きと醤油 ≫ ※ ドラマの人名や設定などはフィクションです。

  鰻の蒲焼きと、そのタレの醤油を主題にドラマ風に語られた番組によると、1777(安永6)年の元日を舞台にしています。
  大坂のうなぎ屋の次男の勘太郎が、江戸本郷で鰻の蒲焼き屋台を始めるが上方醤油にこだわった為、江戸の人々に
  受け入れられず一向に売れない。

  大坂では30~40年前から鰻を腹開きにし「醤油をうすくし 魚にかけ 少しあぶって (国立国会図書館より資料)史料名は提示無。
  蒲焼きの棒手売りがあったそうです。「江戸で鰻を開くようになったのも最近のこと。江戸はずいぶんと遅れている」という
  テロップが入ります。





  番組では「醤油をうすくし 」=淡口醤油 (上方には淡口醤油しかないとも思い込んでいる) として解釈しているようですが、
  淡口醤油は色が白っぽいだけの事。普通に解釈すると、醤油に酒や味醂などを加える事を示しています。

  出汁は関東はカツオ節だけ、大坂は昆布とカツオ節の合せ出しが基本で他にもシイタケやサバ節など色々と使用します。

  うすくち醬油 → ×薄口、淡口。 醤 油 濃口醤油も上方発祥の可能性が高い。淡口醤油・生醤油・溜醤油なども料理によって使い分けていた
  同量に含まれる塩分は淡口の方が若干多い。ですが、淡口醤油は使う量が少なくてすむので、結果として塩分摂取は少ない。
  詳しくは→ 醤油の塩分濃度と、料理に使う醤油の量からの検証






  そこへ友人の仙吉が日本橋まで行って買ってきた最高級の関東醤油『野田醤油』。「これまで関東醤油は(上方からの)
  下り醤油に比べたらひどいものだったが、こんなに味に深みがある地回り物は初めてだ」として野田醤油を使い味醂などを
  加えたタレを開発し、繁盛に繋がる。というドラマの内容です。このドラマの間に関東醤油の普及や味醂などの説明が入ります。






  色々なテレビやサイトなども「関東の地廻り醤油が普及したのは品質向上したから」という説明がなされていますが、
  品質が向上したという証拠の文献記述は提示された事はありません。
  千葉の醤油が台頭した本当の理由 実際は幕府から千葉のメーカーだけが優遇される命令が出たから (田沼時代の賄賂政治時代の奇妙な一致事項)

  江戸の庶民が甘辛い味を好んだ事がはっきりしているのは、江戸で醤油が大量に使用されるようになった1800年代。
  詳しくは→ 江戸も江戸中期までは薄味だったかも知れない?


  東京都立図書館 『6. 江戸前大蒲焼番附』

  ≪ 蒲焼が江戸庶民の味に定着し始めたのは江戸時代末期頃か? ≫

  当時は脂の多い魚は傷みやすいので下魚げざかな扱い。
  江戸名物と言えば、どじょう鍋・アナゴ・ウナギ。江戸時代前期は西日本ほど漁業技術が発達してなかったので、
  川や浅瀬で採れるものがよく食べられたのだと推測できます。

  鰻の場合は、隅田川や深川近辺で獲れた鰻を「江戸前」とし、それ以外は「旅鰻」と呼ばれて区別されていたそうです。

 
 
歌川広重 東都名所高輪廿六待遊興之図 





  【歌川広重】うたかわ ひろしげ (江戸の定火消同心の子。1797~1858)
   江戸末期の浮世絵師。本姓、安藤。一遊斎・一幽斎・一立斎と号。
   歌川豊広の門人。詩情豊かな風景版画の連作に名をなし、また花鳥画にも新境地を開いた。
   作「東海道五十三次」「名所江戸百景」など。

  鮪のトロも脂の「アブ」、猫でも食べず、跨いで通る「猫またぎ」などと呼ばれていました。秋刀魚は食用ではなく、
  脂を採る為の魚だったようです。鰻蒲焼きも1匹16文 (約320円) と安く庶民に広まりました。


  朝日放送 キャスト 『研究室生まれのウナギ・・・歴史でみる身近さ』 19.06.24 放送

  江戸買物独案内えどかいもの‐ひとり‐あんない (江戸末期1824年刊) は、『江戸の町が大きくなり
  すぎた為、この本を書いた』とあり、『いろは…』で目次が作られ、菓子屋・鰻屋・呉服屋・
  わらじ屋・ロウソク屋など2500店以上、各店の住所や商品と代金も書かれていました。
  大坂で出版されたようです。

  このガイドブックとも呼べる『江戸買物独案内』には江戸の鰻の蒲焼店が22店舗掲載。
  現物を確認していないので詳しい事は言えませんが、朝日放送が映し出している
  ページでは大和屋・尾張屋・大坂屋・春木屋の4つの店舗の名前があります。


  東京都立図書館 『6. 江戸前大蒲焼番附』によると
  1848(嘉永1)年刊の江戸の飲食店紹介本『江戸名物酒飯手引草』に90軒の鰻屋が掲載。
  1852(嘉永5)年の鰻屋の見立番付『江戸前大蒲焼』には約200軒掲載され、その他にも多数の鰻屋があったと思われる
  ようです。


  ≪ 埼玉県の浦和が鰻の蒲焼の発祥地を主張 ≫ 根拠が薄すぎて話になりません。

  2018年6月3日の毎日新聞によると、浦和のうなぎを育てる会 (浦和の鰻専門店20店が登録) が文化10年の『会田真言家
  文書』に、「毎年、浦和から赤坂の紀州の江戸藩邸に鰻を献上していた事が記されているので、全国に先駆けて、鰻の
  蒲焼がふるまわれていことがうかがえる」として、「かば焼き発祥は浦和」とPRしているそうです。

  ここでも、関東人特有の「飛躍解釈」と「言ったもん勝ち」精神が発揮されているようですね。(韓国の起源主張などと同じ思考です)

  ちなみに、草加せんべい発祥のおせんさんの話は、埼玉県草加市のサイトによると昭和に創作された物だそうです。
  詳しくは、下記の 米が原料の煎餅も関西が先だった 当店のサイトが文献記述を発見 をご覧ください。


  関西テレビ 報道ランナー 『東西で異なるうなぎの調理法 境界線はどこ?』 17.08.04 放送

 ≪ 蒲焼き 関西風と関東風の境界線 ≫

  〈関西風〉 腹開き、地焼き 商人文化で腹を割って話す事から腹開き
  〈関東風〉 背開き、地焼き&蒸す 武士文化で切腹を連想させる腹切を嫌った事から。

  「腹開き」と「背開き」の違いでの理由として、上記のような説明をなされる事がよくありますが、個人的な意見としては
  それほど関係ないと思います。
  関西と比べ、江戸ではウナギ・ドジョウ・カツオ・マグロなど限られた種類の魚だけが主に食べられていたので、
  ウナギの捌き方に理由があるようにも思えますが、カツオやマグロも背開きしていたのかと?

  魚の捌き方は腹開きが普通。しかし、ウナギは背開きした方が形が崩れにくいそうです。
  江戸ではウナギの蒲焼きは蒸す行程が含まれるので、蒸すと身が柔らかくなり形が崩れやすい。
  それが主な理由だと推測します。

  大阪の相愛大学の前垣和義 教授によると、
  関東は平野が広く、川の流れが穏やかなので、泥が溜まりやすい。そうするとウナギも
  泥臭くなる。これを消す為に蒸しの工程を入れて臭いを取るようになったそうです。

  東京は関東大震災以後になって近代都市が整備されます。
  それ以前は埃が酷い都市だった事が、多数の文献に書かれています。

  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文など
  東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた

  また、関東の方は魚より食肉文化が多かった為、江戸では軍鶏を好んで食べるなど
  歯ごたえのある物を好む傾向にあったようです。でもウナギは柔らかく調理した。

  それらを鑑みると、ウナギの泥臭さを取る為に蒸したという説は説得力があります。
  関西の琵琶湖水系のウナギは、京都は宇治丸と呼ばれ、淀川のウナギは室町時代
  にはすでに名物となっており、非常に品質が高い事で知られていました。
  そのウナギの品質による差による調理法の違いであった事は容易に推測できます。
  この事を裏付ける記述がある本を見つけました。



 愛知県豊橋市内の鰻店の焼き方

  江戸は水が貴重であった事から茹でるより蒸す料理法の方がよく使われていたとも思われます。
  蕎麦も江戸中期までは蒸し蕎麦でした。(蕎麦の場合は、蒸した方が風味が良いようです。)

  もう一つ考えられるのは、蒸す方が簡単に柔らかく仕上げられる。焼きだけで柔らかくするには熟練の技術が必要。
  江戸は屋台が多く (店主1人だけで働くことが多いため) 熟練の技術の継承をしなかった可能性も高い。


  関テレの調査によると、その静岡県西端の浜松市内の鰻屋では約7割が関東風 (背開き、蒸し工程あり)。
  西隣の愛知県豊橋市では、23軒中、東西折衷 (背開き、地焼きのみ) が12軒で約5割。関東風6軒、関西風3軒。

  『羽子吾』の若大将によると、「関東・関西の2人から教えて貰って良いとこ取りしました。形が崩れにくい関東の
  背開き、柔らかくて美味しいかも知れないですけど、蒸しちゃうと脂が落ちてウナギの歯ごたえとかなくなっちゃう
  ので、焼きのみ」。
  名古屋市を含む西にある創業100年以上老舗では完全に関西風になるようです。(他の番組などでも確認しています)

  ウナギの蒲焼きは『串打ち三年、裂き八年、焼き一生』と呼ばれるほど、特に焼く工程は難しいと言われています。
  蒸さずに表面はパリっ! 中はふんわり焼き上げるため、何度もタレを付けては焼きを繰り返します。
  安いウナギを美味しく食べるのに蒸した方がよく (蒸すのも大きさなどによって時間や温度を変える必要があるようです)
  ウナギの本来の味を堪能するには、熟練の職人がいる関西風の焼きだけで勝負する老舗で味わった方が良い
  と言えるでしょう。最終的には好みですけどね。

  現在もてはやされている「外側パリっ、中はふわトロ」の食感は、元々関西人が好んだ食感と言われています。

  近世、ウナギで有名な静岡県浜松市で養殖が始まったのは、下記にある通り、明治時代に東京の業者によって
  始められます。


  ≪ 浅草で鰻を蒸し始めたのは明治初年頃、質の悪い鰻だったため ≫


  1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949

  第二、浅草に於ける鰻料理の発達 (五) 何時から蒸し鰻が由来したか
  …困り切った揚句、苦し紛れにやったことが、成功の端緒となり、流行の魁となることは、決して少なくない。
  今日でこそ鰻を蒸すことが江戸ッ子料理の特徴であり、長所でもあり、誇りでもあるかのように考えられているが、
  昔時は決して蒸しにかけたものではない。否、蒸しにかけることを以て、却って愚劣な方法となし、詰らないことと
  考えられていたものだ。だから質のいい鰻に対しては、蒸しにかけないが、質の悪い鰻に限って蒸したものである。

  何故なら元来、蒸し鰻の由来は、明治初年頃のことで、しかも、お堀鰻がお茶の水の聖堂、今の聖橋の所に
  あった堰へ流れ落ちて来るのを捕獲したものがあったが、しかし、ここの鰻は、妙に皮が固くて物にならない所から、
  困った揚句、一計を図らし、焼いた上に、又蒸しにかけると、鰻はすっかり軟かくなる。…それが案外、評判がよく
  他の江戸前鰻と、異ならなくなった。…これがそもそも蒸し鰻の由来である。…

  この書を読めば、当時の東京の有数の繁華街であり、江戸の伝統を残す浅草の食文化などを知ることができます。
  「東京ッ子」を自称する人は、読んでおくべき一冊でしょう。

  (六) 鰻の焼き方と蒸し方では、2つの方法がある事が書かれています。
   仮蒸し 焼き立ての鰻を蒸し箱に入れ、鰻の熱を利用して蒸す方法で一般的に行われる方法。
   生蒸し 焼かない鰻を生のまま蒸しにかけて、その後に焼く方法。職人技が必要でなく、手間もかからないので
    一時期は流行ったが、食味を損なうので、生蒸しをする店はほとんどないようである。元祖は新吉原

  上記の泥臭い鰻だから説はこの本には書かれていませんが、いずれにしても浅草では質が良くない鰻を
  食べるために蒸すという工夫したようです。

  この本では新吉原では手間を惜しんだ職人が多く大抵が生蒸しだったと事が書かれてありますが、その出典は
  書かれていません。著者の推測である可能性もあります。

  この本が書かれたのは昭和初期であり、大正時代頃に道が舗装されるまでの東京は埃が酷かったので環境が
  大きく異なっていますので、著者の推測であるとすれば、その環境の違いを鑑みているかは不明なので、現時点
  において、この本の記述を鵜呑みにしない方がよいかも知れません。他の裏付け情報が必要と思います。



  ≪ 明治時代中期 高知の家庭での鰻の焼き方 ≫

 1892 (明治25) 年出版 割烹授業日誌 第一輯 高知県尋常中学校女子部 編 出版地は高知県 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811753

  尋常中学校は1886 (明治19) 年の中学校令により設置されました。この書は高知県の尋常中学校での家庭科の調理
  実習授業での日誌。この頃の全国の進学率は50%ほど。「尋常=普通」なので、現在と同じ中学生の授業内容。

  全国共通の教科書が使われるのは、1904 (明治37) 年に文部省発行の国定教科書が作られてからになります。
  国民皆教育と標準語の制定学 明治の小学校の授業など

  この書のP.14~15に「焼鰻」のレシピと調理法が書かれてあります。鰻の蒲焼風の家庭料理です。
  汁の材料は、醤油2合と白砂糖25匁のみ。醤油に砂糖を溶かしたタレを沸かしておき、まずフライパンの上で鰻を焼き
  時々木の板で押して肉が縮まないようにする。そして鰻に金串を刺し汁を注ぎながら蓋をして焼く。

 
 【うな重・うな丼】

  ≪ 江戸発祥? うな丼 (うな重) ≫ Wiki 鰻丼  丼・ひつまぶしのルーツは芳飯と思われます。

  うな丼を最初に考案したのは、堺町 (現在の東京人形町) 芝居小屋の主人である大久保今助と言われています。
  芝居小屋の入場料などの金勘定が忙しく、大好物の蒲焼きを食べに行くことができなかったので、出前を頼む事にしました。






  しかし、冷めると蒲焼きは美味しくない。そこで炊き立てご飯の上に蒲焼きを乗せる事で保温
  葺屋町(堺町の隣町)にある大野屋が「元祖鰻めし」という看板で売り出したのが最初だそうです。
   ※日本各地にある堺町や栄町は、大阪の堺商人が活躍した町の名前だそうです。 Wiki 堺

  【堺町】さかい-ちょう
   東京都中央区牡蠣殻町の北にあった町。江戸時代に歌舞伎・浄瑠璃。操芝居などがあり繁盛した。

  『貞享江戸鹿子』(貞享=1684~1688年) には、江戸の大坂町や堺町などにカラクリ人形師が居た事が書かれて
  あります。江戸の日本橋あたりに大坂や堺から移住者が多かったと思われます。


  1852(嘉永5)年『江戸前 大蒲焼番付』の「東の前頭」として掲載されていた 『浅草 前川』で江戸時代の出前のうな重を
  番組用に特別再現。この前川さんは創業200年以上の老舗。







  『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上「鰻飯

  京坂にて「まぶし」 江戸にて どんぶり」と云 鰻丼飯の略也 京坂にては生洲等にて兼賣
  江戸にては右の名ある鰻屋には不之 中戸以下の鰻屋にて兼之 或い專

  上記の記述より、鰻飯 (鰻丼) は高級な鰻屋では売られず、中流以下の庶民の店で売られていた事が分かります。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『生中継 大阪・西淀川区 淀川の天然うなぎ』 13.07.17 放送
  日本テレビ 満天☆青空レストラン 『大阪編 「伝統野菜 毛馬きゅうり・淀川 天然うなぎ』 14.07.19 放送
  ちちんぷいぷい 番組で紹介した"淀川産天然うなぎの食べられるお店に関する問い合わせ"
   http://ez.mbs.jp/tv/puipui/info/archives/2013/07/17/53570.shtml
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『ノゾキミ 新春SP 福袋に目玉商品を 阪神百貨店』 13.01.04 放送
  大阪商工会議所HP 「名庭太郎⼀家の味な一週間」の冊子のPDF http://www.osaka.cci.or.jp/syoku_osaka/food/magazine.html
  大阪市ゆとりとみどり 振興局/ 財団法人 大阪観光コンベンション協会 『大阪食の基礎知識』 
   http://www.osaka-info.jp/ja/taberu/taberu_data/taboo10.html

  ≪ 大阪の鰻 ≫

  現在、淀川の天然鰻が注目を浴びています。鰻は江戸時代にも琵琶湖水系の鰻が最も評価が高かった。
  特に滋賀の「瀬田鰻」、京都の「宇治丸」などは江戸で書かれた文献にも登場し全国的に最も有名でした。

  1830 (文政13) 年刊の『嬉遊笑覧』巻十上「飲食」宇治丸は鰻の鮓にて古く名高きものなり

  大阪の野菜類は京野菜より評価が高く、現在日本各地で特産となっている多くの野菜の元になっています。
  また大阪湾で獲れる鯛や鱧、穴子なども有名で、淀川の鯉は室町時代に細川勝元が絶賛するなど、
  明治以降の近代化が進み大阪が工業都市として発展するまで、農産物・魚介類なの産品は最も評判が高かった
  事が、各種文献などから分かります。各ページをご覧ください。






  大阪の伝統のうな重は「マブシ」から 「マムシ飯」に言葉が変化し、上の画像のように ご飯の間に鰻を挟んだものです。
  江戸時代中期の1713 (正徳3) 年創業の料理屋「柴藤」が、ご飯とご飯の間に鰻を挟んで蒸す料理を考案したもの。

  蒲焼きが温かいご飯の間 (ま) で蒸すから「まむし」といわれたり、あるいは、ご飯が鰻にまぶしてあるので「まぶし」
  といわれたようです。これが評判になり、屋形船で提供していました。

  江戸のうな丼のルーツ再現とほぼ同じなので、時代的に大坂の方が早く、大久保今助が堺出身の可能性が高いので、
  大坂から伝わったものと考えるのが自然です。


  四五日の旅 名所囘遊 1922(大正11)年 裳文閣 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964429 ※1925年の有精堂書店 版もあり
  1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949

 1922 (大正11) 年の『四五日の旅 名所囘遊』(福井県出身・東京在住で日本初のプロ旅行作家とも言われる松川
  二郎 著、東京市の裳文閣 出版、日本各地の旅行記) ※ 原文の旧字はできるだけ現代字に換えてあります。

  「東京見物」P.9 又 宿屋の飯ばかりを食って東京は食物くいもののまずい所だなどと利いた風なことを言うと、
  此方はかまはないが言う者が笑われます。食物の中で東京名物として、普遍的なものは鰻と天ぷらと寿司であろう。

  「大阪見物」p.325食倒れと言われるだけに、大阪には矢張り甘うまいものが多い。料理法にすぐれているのも
  一つだが、海に臨み川に枕のぞみ山に近くて、一つは材料の豊富なことも興あずかっていよう。
  東京者が羨ましがる第一は川魚料理である。川魚料理は東京にもあるけれど、大阪ほど盛んでなく甘うまくもない、
  殊に橋下ましたに纜ちゃっ船へ行って食う所に一種特別の趣もある。

  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん ← 重要



  TBS 世界ふしぎ発見 ! 『五輪開催都市 TOKYO すべての始まりは江戸にあった』 14.04.26 放送
  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『加賀100万石の参勤交代』 14.07.16 放送
  静岡県水産技術研究所 浜名湖分場 浜名湖体験学習施設「ウォット」HP 『ウナギ』 http://www.orange.ne.jp/~ulotto/unagi.htm
  服部中村養鼈場HP 『スッポン服部の歴史』 http://www.hattori-suppon.co.jp/about/history/index.html

  ≪ 江戸の運河と、日本初の鰻とスッポンの養殖 ≫  Wiki 小名木川 Wiki 横十間川

  1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳)に目を
  付けました。
  しかし江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がり船がしばしば座礁するため、大きく
  沖合を迂回するしかありません。そこで小名木四郎兵衛に命じて運河を掘削させたのが、小名木川。

  1659年、德山重政と山崎重政(両名、翌年に本所奉行に任命)によって開削させたのが、横十間川。
  これらの運河や河川改修によって江戸に食糧などが運びやすくなりました。





  1830年頃、隅田川(当時は荒川)等で採れる白魚や鯉・ウナギを長州毛利家に納めることを主な生業としていた深川の
  川魚商の權次郎をルーツとする㈱ 服部中村養鼈場がスッポンと うなぎ養殖の元祖だそうです。

  明治時代になり、服部倉治郎(1853~1920年)が同社を設立。東京の運河の水を使用し、明治初期にスッポンの養殖に
  成功。同じく、1879 (明治12) 年に深川でウナギの幼魚を育成したのが鰻の養殖の始まりとされています。

  川魚商として大日本水産会水産伝習所(現在の東京海洋大学)の実習場に資材を納めるようになりました。

  商用で関西方面に出向くことの多かった倉治郎は、途中の静岡県浜名湖周辺が深川に似てより温暖であることである
  ことに気付き、浜名湖でのスッポンの養殖の可能性について、大日本水産会水産伝習所の村田所長に相談します。
  すると愛知県一色村(現在の愛知県幡豆郡一色町)の愛知県立水産試験場の中村正輔 のアドバイスを受けるように
  助言されます。

  1899 (明治22) 年、中村正輔(1876~1960年)の尽力で、浜名郡舞阪村吹上(現在の浜松市西区舞阪町)にある那須田
  又七所有の土地を購入。
  1900 (明治23) 年、倉治郎は、6.5haの養殖池を造成しスッポンの養殖を開始しますが事業を軌道に乗せるのは困難でした。

  倉治郎は、中村の水産試験場での研究結果を応用し、大量のウナギをスッポンと並行して養殖することで事業の安定と
  拡大に成功しました。この成功から、ウナギとスッポンの養殖は、東京から静岡へと移ります。

  ナマズとスッポン 江戸のナマズは江戸時代中期に出現? 西日本のナマズとは異なる? スッポンを好んで食べるのは大坂


  江戸時代末期1860 (安政7) 年に書かれた紀州藩の参勤交代の時のガイドブック『御道中御道割川河』の著者は
  人見宗覚。この書には各地のオススメの名物名所が書かれてあり、静岡県浜名郡の新居では、名物に焼き鰻が書かれて
  あります。

  【新居の関・荒井の関】あらい-の-せき
   1601年(慶長6)徳川氏が浜名湖の湖口の西(今の静岡県浜名郡新居町)に置いた関。
   この関所では箱根などと同じく、特に女人の往来を取り調べていました。(『入鉄砲出女』)


  値段の明治大正昭和風俗史によると
  1965 (昭和40) 年頃、もりかけ (蕎麦) 50円、カレーライス 120円、うな重 400円。

  毎日放送 ちちんぷいぷい 15.07.24 放送

  ≪ 現在、鰻に最もお金をかけているのは近畿地方 ≫

  総務省家計調査で2013年1世帯当たりの鰻に支出する金額は、近畿地方が最も多い。
  2018年は鰻の稚魚漁が大激減しており、絶滅に近いとも心配されているようです。

 
 【フグ食】 書きかけ
  FOOD LIBRARY  OSAKA FOOD CULTURE http://www.kuidaore-osaka.com/jp/ ← 大阪の食文化について書かれたサイトです。

  TBS ニッポンの出番 『外国人が発見! 驚きのニッポンin金沢』 15.03.24 放送
  TBS 世界ふしぎ発見! 『移転まで268日!築地 春夏秋冬 完結編』 16.02.23 放送
  テレビ東京 世界!ニッポン行きたい人応援団 『錦鯉&フグを愛してやまない小学生 ポーランドからご招待!』 16.08.11 放送
  関西テレビ ワンダー 『大阪の人はフグが好き? 理由をギモン調査』 17.01.20 放送 など

  ≪ フグ食 ≫

  トラフグの生息域は本州中部以南 (主に瀬戸内海近辺、大阪湾は東の端になるようです) に多く、縄文時代から食して
  きました。

  豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に下関に立ち寄った時、家臣らがフグを食べて死んだためにフグ食禁止令を出し、江戸時代
  以降も公然と食べるのを禁止していた藩が多くありました。
  武士階級は食べる事を禁止されていましたが、庶民の間ではそれなりに食べられていたようです。
  江戸時代の各料理書にも載っています。

  特に大阪湾ではフグが大量に獲れていた事と、武士の割合が最も少ない地域だった為、フグ食は日常的だったようです。

  江戸でも庶民の間ではフグ食が行われており、いくつかのフグ専門料理店のサイトによると、フグの異称である『鉄砲』は
  元々、フグを公然と食べる事ができなかった江戸で使われていたフグの隠語で、あるサイトによると俳諧や浮世絵、
  落語にも多く登場するそうです。
  どのサイトも同じコピペで出典が書かれていないので、調べると広辞苑の【鉄砲・鉄炮】で1つ発見しました。

  【鉄砲・鉄炮】てっぽう
   ⑤ (あたれば死ぬからいう)河豚ふぐの異称。梅暦「おくまが―で死ぬといふはとんだ落し話だ

  『梅暦』は、江戸時代末期1832~33 (天保3~4) 年に刊行された『春色梅児誉美しゅんしょくうめごよみ』という人情本の略称。
  4編13冊。作者の為永春水は江戸の人であり、物語の設定場所も江戸の町です。
  この事からも江戸でも庶民の間で食べられていた事が分かります。

  【為永春水】ためなが‐しゅんすい(江戸の人、1790~1843) 本名、鷦鷯(佐々木か)貞高。金竜山人・狂訓亭主人などと号。
   江戸後期の戯作者。初め貸本屋・講釈師、後に式亭三馬につき「春色梅暦」「春色辰巳園」などを書いて名声を得、
   人情本の作風を確立。風俗壊乱で罰せられ、翌年没。


 1689(元禄2)年の料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』中川茂兵衛 著 出版地は京都。
  目次には五巻「薬の類」には河豚の毒消しがあります。
  入手した同書の書面画像では、この部分が欠落していましたので、具体的に何が書かれているかは不明です。


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) 上巻四「汁 味噌 すまし
  この書は、過去の料理本や聞き書きを集めた本ですので、上方で書かれた料理書の内容がかなり多いと思われますが
  江戸独自の料理も掲載されており、下のフグ料理がどこでよく食べられていたものかは分かりません。

  河豚もどき 鰯 鮟鱇の干皮 加州 (加賀・金沢) の黒皮入て吉 干ふの皮一入よく 皮を引湯煮して切
  どぶ汁にして岩茸を入 吸口 ねぎ又は山升の粉よし 茂魚 かさご 赤魚アコウなど 皮むきにしてよし

  河豚汁 ふぐを能よく洗 皮をむき切て深き鉢へ入 酒をたつぷりとかけ二時三時置て 扨さて 赤みそをうすく立煮立
  右の鰒ふぐ 酒共に打込煮る也 又どぶ汁の時は留粕をすり 其内へふくを入置 中味噌に立 粕共に入て煮る也
  此時は大根のわ切入ても吉 其時は大こん先へ入 煮へたる時 ふぐを入候也 吸口 ねぎ


 1802 (享和2) 年に大坂で刊行された『名飯部類』は江戸時代唯一の炊飯専門書。

  【名飯部類】めいはん-ぶるい コトバンク より
  江戸時代の料理書。著者名の記載はないが、大坂の医家、杉野権兵衛(ごんべえ)、あるいは杉野権右衛門
  (ごんうえもん)といわれる。1802年(享和2)大坂で刊行
  炊飯を扱った料理書は少なく、飯、粥(かゆ)、鮓(すし)など米の調理だけの専門書として本書は貴重である。

  例言に「古(いにしへ)には飯に魚鳥菌菜(きのこあをもの)を調匂(まぜあは)し、或(ある)ひは飯に和(あは)し炊くを
  包飯(はうはん)といひしとぞ、今其品類(そのしなじな)によりて部類(わかちるい)を追ひ名飯部類といふ、たとへは
  尋常飯(ただごとめし)、諸菜飯(しょなめし)、菽豆飯(まめめし)、染汁飯(そめめし)、調魚飯(うをめし)、
  烹鳥飯(とりめし)、名品飯(めいはん)等也(なり)」、「尋常飯は戸々朝食暮(いへいへあさめしゆふめし)に用ひ人々の
  よく慣習(てなれ)たるもの或ひは魚鳥菌菜の類を加搓(いれまじへ)せざるものをいふ。
  諸菜飯は菜蔬(あをな)の類一品を加するものを云(いふ)」とある。

  尋常飯が麦飯など18、諸菽豆(まめ)飯が赤小豆(あずき)飯など10、紫蘇(しそ)葉飯など菜蔬飯11、茶飯など染汁飯4、
  はまち飯など調魚飯14、鶏肉飯(けいはん)など烹鳥飯4、骨董(ごもく)飯など名品飯26、
  付録として河豚(ふぐ)雑炊など雑炊20、粥類10、こけらずしなど鮓類32の作り方が記述され、よい米を選ぶことが
  肝要だとしている。

  禁じられていたフグ食を大坂では公然と行われていた事が名飯部類の記述から分かります。


  【てっさ・てっちり】 語源由来辞典
   てっさは、「鉄の刺身」を略して、「鉄」を促音化した語。 てっちりも同様に、「鉄のちり鍋」を略し、「鉄」を促音化
   した語である。
   ふぐには猛毒があり「当たると死ぬ」という意味から、ふぐを「鉄砲」と呼び、略称として「鉄」とも呼ばれたことから、
   このような呼称が生まれた。

  【ちり】 ちり鍋
   鍋料理の一種。魚介・豆腐・野菜などを鍋に入れて水
   または昆布だしで煮て、ポン酢醤油などをつけて食べる。

  「てっちり」「てっさ」は大阪発祥の料理と言われています。
  大阪で「フグ鍋」がいつから「てっちり」と呼ばれたのかなど、
  もう少し調べてみる必要がありそうです。

てっちり

山口県下関の春帆楼 本店


  ≪ 明治時代中期、伊藤博文がフグ食を山口県で解禁 ≫

  フグか解禁されたのは、1888 (明治21) 年に伊藤博文 [長州藩士で総理大臣・枢密院議長・貴族院議長 (いずれも初代) などを
  歴任した] が山口県下関の春帆楼しゅんぱんろうでフグを食べたのが、きっかけでした。
  今まで食べた事のない美味な魚料理が出てきました。女将に魚の名前を訪ねたところ、「本来食べてはいけないフグでございます」
  と渋々答えました。海が荒れており総理大臣に出せる魚がなかったので、仕方なく出したとして謝りました。

  江戸時代から長州藩 (山口県) でもフグ食は禁止されていました。庶民はこっそり食べていたとは思います。
  伊藤博文は「こんな美味いものが食べられないのは、もったいない」として、知事に働きかけ、山口県だけにフグ食が公に解禁
  しました。


  ≪ フグ消費量6割の大阪 ≫   大阪湾でフグの稚魚を放流   フグの消費は大阪で6割 てっさ、てっちりは大阪発祥

  下関市立大学の濱田英嗣 教授の調査により、全国で流通しているフグの約6割が大阪で消費されていることが判明しています。

  現役の板前で60年以上フグを研究し私設の『ふぐ博物館』(大阪府岸和田市)を開く北濱喜一さん(89)によると、
  昭和初期頃は全国的にフグは海禁されておらず大阪でも禁止されていましたが、フグ料理店があり警察なども黙認していた
  そうです。昭和10年に販売許可の申請していた記録もあるそうです。

  昭和23年、大阪府が全国初のフグの取扱に関する条例となる『ふぐ販売営業取締条例』を制定。






  『毎日グラフ』昭和25年9月10日号に大阪でのフグ料理店の写真が多数掲載されており、別上ふぐ汁25円、ふぐ汁15円、
  ふぐさしみ50円、ひれ酒70円とメニューが書かれた写真も載っています。当時、うどん1杯が15円。

  『づぼらや』の西島湛弘 相談役によると、
  昭和30年代は、日本で獲れるフグの50%以上がづぼらやで消費されていたそうです。
  大量仕入れ大量販売によって、格安で提供できていた。

  ポン酢は元々、江戸時代にオランダから長崎に入ってきたと言われ『ポンス』と呼ばれていました。(諸説あり)
  本来は『柑橘系の果汁+酢=ぽん酢』ですが、昭和30年代に愛知県半田市のミツカンが醤油を加えた味付けポン酢を
  『味ぽん」として商品化し全国に広まりました。


  ≪ 地方のフグ料理 ≫  Wiki 河豚の卵巣の糠漬け

  金沢は気候から発酵食品が進んだ地域と言われています。金沢市金石、大野地区では、その卵巣を2年以上にもわたって
  塩漬けおよび糠漬けにする事で、毒素を消失させ珍味として販売しています。
  新潟県佐渡市には河豚の卵巣の粕漬け、福井県高浜町に塩や酒かすに漬け込んで毒を抜いた珍味「福のこ」という似た
  料理があるそうです。







  ≪ 東京・浅草のふぐ料理店 ≫ 昭和の初め頃に登場


 1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949

  第三章 浅草食堂経済組織の変遷 第九、特種な料理を看板とする店  (四) 浅草での特種料理の様々 P.240

  ▽ふぐ料理 浅草にもふぐ料理が、最近出来ることは出来たが、何に分にも臆病な私には、試味するの勇気
  もないので、何事も書くことが出来ない。ただ其の存在を証明するのみである。

  他には「大阪寿司」「釜飯屋」「八ッ目鰻の特売店」などが近年 (昭和初期) に浅草に店が出来たようです。
  また浅草にはスッポン専門店は無いが看板料理とする店は少なくない、鯛飯を売る店は1軒で需要が少ない。など
  と書かれてあります。
  同書「大阪寿司は浅草区内にかなりあった」との記述文



  ≪ 東京で「フグ販売」の規制緩和 ≫

  東京は全国でフグの取扱が最も厳しく規制されていたようです。都条例の改正により2012年10月からフグ専門の調理師が
  いなくても毒を取り除いた『身欠きフグ』の取り扱いが可能になりました。
  フグ料理チェーンの子会社 長崎ファームなど、九州の会社が身欠きフグの販売を行っているそうです。

  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件






  さて、東京メディアである日テレの検証は本当なのか? ねつ造偏向報道ではないのか? 
  ブログでは、関西人と関東人で全く違う見解をしています。それぞれ主張が違うので反対意見を持つ人がみた場合は納得いかない程度の
  根拠しか載せてないないサイトがほとんどです。 という事で、色々と調べてみました。 ある1つのデータを見れば答えは出るんですけどね。

「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
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