手づくり アイスの店 マルコポーロ
豆製品などの雑学・情報
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   20.02.29
・・お知らせ・・
 ザーネアイスはドイツ規格の「生クリーム・アイス」、世界一濃厚なアイスクリームです。

  ≪ ザーネアイス お取り寄せ  アイスの基礎知識

   ザーネアイス3種類のセットが基本のセットです。

   ご注文の確認より4日以降の御届けになります。

  1セット 4900 円 (保冷梱包、代引き手数料、クール便送料、税など全て込み価格)
   関東・信越・九州は1セット5010円になります。 お取り寄せのページ



  ≪ 天然100%シャーベットもお取り寄せ (季節によって変わります) ≫

   抹茶、ココナッツ、ブラックベリーなど

 お取り寄せ&地方発送はヤマト運輸の送料などが大幅にアップしたので、4月2日から価格変更に
 なりました。

ザーネアイス
(ドイツ規格の「生クリームのアイス」)


シャーベット (ソルベ)

ガナッシュ
(高級な生チョコの極上アイス)


LINEで送る

水の雑学1 海・河川 水の雑学2 水道関連 水の雑学3 下水関連 茶の知識・雑学1 Cha 茶の知識・雑学2 Tea
酒の雑学1 Sake 酒の雑学2 Beer・Wine 酒の雑学3 Liqueurs コーヒーの雑学 Coffee お取り寄せ order
卵・乳製品・砂糖 大豆製品1 豆腐 ジュース・飲料の雑学 飲料・食材  INDEX
 

  Page Contents

  納豆、豆腐など豆製品の情報を集めているページです。   味噌は調味料のページをご覧ください。




 江戸の淡雪豆腐ができたのは享保年間 発祥年代の誤魔化しが判明

 豆腐百珍にある大坂発祥の豆腐メニュー

 明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文

 京都の祇園豆腐  豆腐百珍  絹漉豆腐は上方発祥、 堺の名物に豆腐があった

 江戸の笹之雪豆富と淡雪豆腐

 浮世絵に描かれた豆腐田楽と南禅寺豆腐  おから 雪花菜きらず、卯の花 17.10.19追記

 納豆 納豆に砂糖を入れる人が多いランキングと、その由来と科学的な解説

 大豆製品 豆腐の歴史

 「ひろうす」と「がんもどき」 どちらも、元々豆腐で作られたものではなかった。 17.10.19 追記

 佐賀県嬉野のとろける湯豆腐 とろくっけん、ビックリするばい

 納豆 京都の納豆発祥説   世界の発酵菌研究者も視察する 大阪の納豆メーカー

 岩手県の雪納豆、栃木県の最高級納豆   水戸納豆が有名になり始めたのは明治時代 

 豆腐の価格の推移と大豆価格の推移   納豆 日本での発祥は秋田県

 奈良県 野迫川村の昔ながらの高野豆腐  鳥取県の豆腐ちくわ

 福井県 坂井市の巨大油揚げ

 中国貴州省の色々な豆腐 少数民族の豆腐、納豆のルーツ「ナットン」。


  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 
 大豆製品の歴史
  TBS いっぷく ! 『このままじゃ もったいない遺産 「 豆腐の知っておくべき事実」』 15.02.11 放送
  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「江戸に咲かせた食文化」 12.02.02 放送
  NHK Eテレ 美の壺・選 『File319 京の豆腐』 15.09.20 放送






  まめプラス 『大豆の歴史 「7-1.豆腐の始まり」』 http://www.mameplus.jp/soybean/index8.html

  豆腐は中国で生まれたものですが、いつ頃から食べられていたかについては確かな記録がありません。~略~
   わが国へ豆腐が伝えられた経緯についても定説がありません。よく、奈良時代に遣唐使らによって伝えられた、
   とされていますが、唐の制度を真似たはずの奈良朝から平安朝にかけての文献にも、豆腐についての記述が
   出てこないので定かではないのです。

   わが国の豆腐についての最初の文献は、1183年の奈良春日若宮の神主中臣祐重が書いた日記が最初とされています。
   さらに50余年おくれて、日蓮上人の手紙(1239年)に豆腐の記述があります。この手紙の中に「すりだうふ」の名が
   出てきますが、
   この「すりだうふ」とは一体何であったのかもわかっていません。しかし、この頃から我が国では豆腐が食べられ始めて
   いたことが想像されます。

  ※ 大豆製品に関する情報は上記サイトが詳しいと思いますので、続きは、リンク先でご覧ください。

  平安時代の奈良春日若宮の神主の『中臣祐重日記』の1183 (寿永2) 年1月に「唐符とうふ」とあるのが、文献におけ
  「豆腐」の初見という説もあるようです。






  グリコ 『大豆のお話 「大豆の歴史」』 http://www.ezaki-glico.net/daizu/history.html

  日本で広く栽培が始まったのは鎌倉時代以降のようです。
   その頃には仏教が広く普及しており、その影響で肉食が禁止されていたため、身体に必要なたんぱく源を味噌や納豆から
   得ていました。また、戦(いくさ)に出かける侍や農民たちの栄養食・保存食としても大豆製品が欠かせませんでした。


  ≪ 室町時代 ≫

  室町時代頃から庶民も食べられるようになり、主な食べ方は汁物の具と田楽 (焼き豆腐)。
  『おかべ』は宮中女官の女房言葉で『御壁』の意味。室町時代に『御』を付けて、水を『お冷』などと呼ぶようになりました。

  1420 (応永27) 年成立の有職故実書『海人藻芥あまのもずく』恵命院宣守 著に、内裏では食物に異名を付ける事などが
  書かれてあるようです。これが女房詞が使われていた事を示した書のようです。

  1474 (文明6) 年頃に成立したと考えられる室町時代の日常語の国語辞書『節用集』に「白壁 豆腐の異名」という事が
  記載されています。


  ≪ 江戸時代 ≫


 1643年刊『料理物語』 「第七 青物之部」の豆腐の料理法として下記の記述があります。

  たうふ〕 汁、でんがく、うどん、ふはふは、こほり、いせだうふ、ろくじょう、茶や、きじやき

  【饂飩豆腐】うどん-とうふ … 八杯豆腐の古称。 

  【凍り豆腐】こおり-どうふ … 高野豆腐の別称。 記述されているのは、下記『豆腐百珍』にある料理です。(画像あり)

  【伊勢豆腐】いせ-どうふ
   豆腐料理の一種。水気を切った豆腐・おろした山芋 (伊勢芋)・鯛のすり身・卵白をよく混ぜて型に流して蒸したもの。
   餡をかけ、おろし生薑しょうが・山葵わさびなどを添える。

  【雉焼豆腐】きじやき-どうふ
   約6㎝四方、厚さ2㎝の豆腐に塩をつけて焼き、燗酒をかけた料理。きじやき。

  料理物語の著者は不明ですが、当時の商業出版は京都のみ。上方言葉が使われており、料理内容などから
  大坂人が東海道を旅して情報を収集し、武蔵国で書いた物と推測できます。

 『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部

  白ず〕 とは けしに とうふを入、しほかげんして、すにて のべ候、しらあへには酢を入ず、よくすり候


 『料理物語』 「第十二 煮物之部

  いせどうふ〕 は山のいもをおろし… 〔とうふふわふわ〕 だしたまりにて… 〔れうりどうふ〕は ねりみそに だしくわへ…
  とうふ玉子〕 とうふをすり… 〔ふののつぺいとう〕は ふをあぶらにてあげ…


 1764 (宝暦14・明和元年) 刊の『料理珍味集』(著者は博望子はくぼうし、出版地は京都)
   書の冒頭には、宝暦13年末、華文軒主人の文字が書かれてあります。1749年の『料理山海郷』の続編で、
   料理山海郷では園趣堂主人のペンネームを使っています。

  くずし文字なので、全文を訳さないとはっきりとは分かりませんが、巻乃一には「白田楽 胡麻と味噌」「唐田楽
  田楽のように油を引いて味噌を付けて焼いたもの」「小倉田楽 揚げ豆腐を切って煮た粒小豆を付け串に刺して
  醤油を付けて炙ったもの」が書かれてあります。

  巻之二に「煮田楽」があり「・・・田楽 小切 串にさし 油をひいて 白みそ付 やき・・・ 湯・・・串ともに入・・・」の
  ような事が書かれてあります。時間がある時にちゃんと旧字と一字ずつ対比させて訳したいと思います。

  この本は各地の珍味を集めたものですが、白味噌が使われているので京都周辺で食べられていた料理と断定
  できます。まだ現在のような煮込み田楽とは異なる物のような気がします。

  巻乃一 「雲掛豆腐」「恵駒豆腐」、巻乃二 「茶屋豆腐」「合湯豆腐」「蒲鉾豆腐」「汾豆腐」「安倍豆腐」
  巻乃三 「青海豆腐」「松笠豆腐」「冷湯豆腐」「芋豆腐」「伊勢豆腐」「異国湯葉」、巻乃四 「玉子湯葉」
  「松木豆腐」の豆腐関連の料理名があります。


 1782年の『豆腐百珍』と1783(天明3) 年初出版のと『豆腐百珍続編』(著者は大坂の曽谷学川と推測されている)
 その写本出版 (著者ペンネームは浪華 酔狂道人、年代不明ですが江戸時代に出版された版)

  「とうふ」「豆腐」「菽腐」「豆乳」「菽乳」「」「」と書いて全て「とうふ」のフリガナがあります。 // 「菽=まめ」


  江戸時代初期に豆腐は『慶安の御触書』で、ゼイタク品として食べるのを禁止されます。

  【慶安御触書】 けいあんの おふれがき
   慶安2年(1649年)、幕府が農民に対して出したと伝える御触書。ただし、同年には出ていないとする説が有力。
   32条と奥書とにより成り、年貢を納めるために守るべき心構えを説き、幕府の農民観を示すものであった。


  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「江戸に咲かせた食文化」 12.02.02 放送
  NHK Eテレ 美の壺・撰 『File319 京都の豆腐』 15.09.20 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい!おいしい浮世絵 『第7回「京都の豆腐料理』 16.05.17 放送
  コトバンク 『日本大百科全書 (ニッポニカ) の解説「豆腐百珍」』
   https://kotobank.jp/word/%E8%B1%86%E8%85%90%E7%99%BE%E7%8F%8D-1568260
  公益財団法人 大阪府学校給食会 『おさつパン』 http://oskz.com/goods/bread/bread-323.html
  日本獣医生命科学大学 食品科学科 『食のいま 「第51号:豆腐百珍 (その1)」』 http://www.nvlu.ac.jp/food/blog/blog-051.html/

  ≪ 京都の祇園豆腐 ≫   Wiki 祇園豆腐  Wiki 都名所図会 16.05.22

  【祇園豆腐】ぎおん‐どうふ (京都八坂神社楼門前の二軒の茶屋で売ったからいう)
   田楽豆腐に似たもの。薄く切って串に刺した豆腐を焼き、薄味噌で煮て、麩粉をかける。

  【八坂神社】やさか‐じんじゃ
   京都市東山区祇園町北側にある元官幣大社。祭神は素戔嗚命すさのおのみこと・奇稲田姫命くしなだひめのみこと・八柱御子神。
   例祭の祇園会のほか、特殊神事に白朮おけら祭がある。二十二社の一つ。もと祇園社と称し、1868年(慶応4)改称。

  祇園神社の楼門の前、参道を挟んで東には中村屋、西には藤屋と、参拝した人が休憩する茶屋がありました。
  神社社殿造営の際に、公費で改築された店で、「二軒茶屋」と称されました。
  江戸時代、2つの茶屋で売られた豆腐料理が評判となり、「祇園豆腐」と命名されたようです。

1780年の都名所図会「八坂神社」

二軒茶屋 中村楼



 二軒茶屋 中村楼の木の芽田楽


  現在も同じ場所で営業している二軒茶屋中村楼は、室町時代中期頃の創業で約450年続いています。
  明治時代には料亭になっており、新島襄・八重夫妻も訪れました。 京都で最初のフレンチコースを出した中村楼

  12代目当主 辻雅光さんによると、
  境内一面に出店が立ち並んでおりまして、お客様を引き付ける為、赤前だれをした仲居さんが包丁の音を響かせる
   豆腐切のパフォーマンスをしていました

  このパフォーマンスをしていた様子などは、1864年刊の『花洛名勝図会』の「二軒茶屋」の項目に記載があります。

  『木の芽田楽』に塗られている木の芽みそは、白味噌・酒・味醂・卵黄・炒りゴマ・木の芽 (山椒)・青菜 (現在はホウレン草)
  などを擦り合わせた『青寄せ』。これを炭火で少し焦がすと、中村楼の木の芽田楽独特の緑色がでます。

  その後、各地で祇園豆腐の看板を掲出する店が出て、江戸では明和 (1764~1772) 頃、湯島 (東京都文京区東端の地区)
  に有名な祇園豆腐屋があったらしいです。


  幕末の考証随筆『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「祇園豆腐

 世事談曰 ぎおんどうふは京祇園 樓門の東西の兩茶屋を二軒茶屋と云 京水茶屋の始也
  此茶屋 昔の製は豆腐を薄く切て 味噌の稀汁タレシル 今云たまり也 を以て煮之 麩粉コガシノコ 京坂にて江戸にて
  はったい こがしと云 を其上に 點ず今の製は異也といへども美也 是倣ひて 江戸大坂 所々に此名あり云々

  二軒茶屋は中村屋 藤屋と云て 今も有之 昔は水茶屋也し歟 又 豆腐田楽を名物とす中居女に金一分を
  與ふれば豆腐を種々の曲ぎりをする也 江戸は淺草藏前にぎおんどうふ店あり大店也
  又 京都南禪寺前の湯豆腐も名物也 江戸大坂ともに同名を冐す物

  「世事談=1734 (享保19) 年刊 『本朝世事談綺』菊岡沾凉 (表具師・俳人、伊賀上野生まれ、江戸神田在住)」
   Wiki 菊岡沾凉  コトバンク 「菊岡沾凉」

  「テン、つける、ともす=点」「=ならう」「=与える」「おか=冒す」



  ≪ 天明時代 大坂で『豆腐百珍』が書かれ、江戸でも百珍本ブームに ≫  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸

  1772 (明和9) 年、『普茶料理抄』が京都の西村市郎右衛門から発行されています。 Wiki 豆腐百珍 Wiki 曽谷学川

   1782(天明2) 年、100種類豆腐料理の調理方法を解説した料理本『豆腐百珍とうふひゃくちんが、大坂の春星堂 藤屋善七
  という版元から刊行されました。豆腐田楽は14種類紹介されています。
  著者はペンネームなので、はっきりしないようですが、大坂で活躍した篆刻家てんこくか (ハンコ屋さん) の曽谷学川そだに-がくせん
  と言われています。






  それが江戸へ下り人気を博し、江戸庶民も日常的に豆腐を食べるようになりました。
  1783年出版の『豆腐百珍続編』も同著者。豆腐百珍と続編を合せて、278種類の豆腐料理レシピが載っているそうです。
  また、1788年には『豆腐百珍余録』」(別著者による「豆華集」が改題・出版された) などの続編が刊行されました。

  ※ テレビやネットでも、「江戸で出版された豆腐百珍」として、まるで江戸で書かれたように思わせる紹介をしている事が多いです。
    卵百珍や、コンニャク百珍など百珍本は色々書かれましたが、著者のほとんどは京都と大坂の人です。
    他の関西発祥文化でも、まるで江戸・東京の文化であったように錯覚させる紹介や番組構成が多いので、騙されないようにしましょう。

  『豆腐百珍続編』によると、「豆腐カステラ」など34種は大坂発祥のようです。

  豆腐百珍の田楽の再現は、江戸料理研究家の福田浩さんによるもの。
  豆腐百珍に載っている『葛くず田楽』は、葛餡をかけ砕いた豆腐を乗せて焼いたもので、通称『祇園豆腐』と言われています。
  『たまご田楽』は卵入りの醤油ダレを塗り焼いたもので、ワサビとケシの実がトッピングされています。

豆腐百珍の田楽の再現

豆腐百珍の葛田楽 (祇園豆腐)

豆腐がゆ

こおり豆腐


  豆腐百珍続編に載っている『豆腐がゆ』と、豆腐百珍の『こおり豆腐』の再現は中村楼の辻雅光さんによるもの。
  『豆腐がゆ』は、米粒に見立てて絹ごし豆腐を5㎜くらいに細かく切り、出汁入りの葛湯で仕立てたもの。
  『こおり豆腐』は、絹ごし豆腐を寒天で固め、よく冷やして黒蜜をかけてデザートとして食べるもの。

  田楽・おでんの歴史 日本全国 おでんの定番5品など、豆腐百珍の田楽各種メニュー、各地のおでん、ちくわぶ

  江戸時代、都市部では日常に食べられますが、地方の農村では「ハレの日」しか食べられない御馳走だったそうです。
  当時の豆腐1丁は、現在の2~4倍ほどの大きさがあったとも言われています。


  ≪ 絹漉豆腐は上方発祥、 堺の名物に豆腐があった ≫

  江戸時代前期頃、堺名物の「紅葉豆腐」が最も評価が高かったようです。

  幕末頃、上方の豆腐は色が真っ白で柔らかい。絹漉豆腐が一般的に売られていました。
  京都の豆腐店の8代目店主入山貴之さんによると、京都では木綿豆腐を「白」と呼ぶそうです。
  絹漉は夏だけで作られ、この店では寒天を使って固めます。和菓子の関連で、京都では寒天が入手しやすかったようです。

  ちなみに寒天は1780年頃まで京都の伏見でのみ作られていました。大阪の高槻で商業的大量生産され全国に広まります。
  ところてん 寒天の歴史

  江戸の豆腐は固くて真っ白ではなく、味も劣っていた。柔らかい豆腐としては汲み豆腐 (おぼろ豆腐) がありました。


  幕末の考証随筆『守貞謾稿』下巻 第二十八食類 「豆腐

 昔は豆腐に紅葉の形を印す 今も江戸にては印之 京坂は菱形を印せり 是は豆腐製筥に其形を彫たる也

  天和三年印本の堺鑑云 紅葉豆腐のと何國にも豆腐あれども別して當津のを勝れりと古人より云 傅へり紅葉と
  云名を加へたるは堺の櫻鯛にも劣らぬ味なれば とてかく云るなり 花に對する楓の縁語なるへし 又或人の云
  此豆腐を人のかうやうにと祝ひて付たる名とも云り 買様と紅葉と音便なる故歟

  今豆腐の上に紅葉を印す詞に就て形を顯すなるべし 買用も通てよし云々 買様 紅葉の音便より付し事本なるべく
  昔は堺を名物とせし歟 今製は人不之 今製京坂柔かにて色白く味美也 江戸剛くして色潔白ならず味劣れり
  然も京坂に絹漉豆腐と云は特に柔にて同價也 きぬこしに非るも持運には器中水を蓄へて浮べて振ざる様に
  携へざれば忽壊れ損ず 江戸は水なくても崩るゝ事稀也 江戸にも汲豆腐と云ば柔か也 京坂普通製に似たり
  蓋 きぬこし常に有之 くみ豆腐別製也需あれば製

  京坂小形也 京都一挺以下賣ず 大坂半挺も賣る 一挺價十二銭 半挺六文也
  江戸は大型也 豆腐製 箱堅一尺八寸 横九寸也 用之製て十挺或は十一挺に斬り 一挺五十六文或は六十文に
  賣る 四半挺より賣之也 焼豆腐 油揚豆腐とも五文也


  誤訳があるかも知れませんが、文脈などから考えて、ザックリと訳すとこんな感じ

  1683 (天和3) 年の『堺鑑』という本によると、豆腐はどこの国にでもあるけれど、堺の紅葉豆腐はどこより勝って
  いると昔から言われた。桜鯛にも劣らない味なので紅葉と言った。花に対する楓とような語である。
  また或る人は、この豆腐を人々が買うようにと良い名前を付けたとも言う。その両方からの名前か。

  現在、豆腐に紅葉の形を印すのは上記のそれからきている。昔は堺の名物としていたのか。
  現在作られている京都・大阪の豆腐は色が白く美味しい。江戸の固くて色が真っ白ではなく味も劣っている。
  その様に京都・大阪にある絹漉し豆腐という物は特に柔らかで上記の評価に値する。
  絹漉豆腐ではない豆腐も、水を入れた器に浮かべて振れば、たちまち形が崩れる。

  江戸の豆腐は水が無くても滅多に崩れる事はないが、京都・大阪で一般的な豆腐に似た汲み豆腐という柔らかな
  物がある。(京都・大阪では?) 絹漉し豆腐が常に売られている。(江戸では?) 汲み豆腐はオーダーメイドである。

  京都・大阪では小形。京都では一丁以下では売らないが、大阪では半丁でも売る。
  一丁の価格は十二銭。半丁で六文。
  江戸は大形。約54.5㎝×約27.3㎝の箱で作り、56~60文で売る。10~11丁にカットして使う。
  1/4丁から売り、焼豆腐・油揚豆腐とも5文である。


  【木綿豆腐】もめん‐どうふ
   豆乳に凝固剤を加えて固め、上澄み液を除き成型した豆腐。型箱に敷く木綿の布目が表面につくからいう。

  【絹漉し豆腐】きぬごし‐どうふ
   濃い豆乳と凝固剤を型箱の中に入れ、上澄みをとらずに全体をかたまらせた豆腐。
   絹で漉したかのように、きめこまかく滑らかなのでいう。きぬごし。ささのゆき

  【朧豆腐】おぼろ‐どうふ 寄せ豆腐。汲豆腐。おぼろ。
   豆腐の固まりかけのもの。苦汁にがりを加えてから、桶か椀に汲み取って、そのまま固まらせたもの。

  有限会社 久保食品『豆腐の種類について』 http://www.kubosannotofu.co.jp/type.html
   朧豆腐は全ての豆腐の基本・原点となるそうです。

  『堺鑑さかいかがみ』は1683年に書かれた堺で最初の地誌。刊行は1864年。


  幕末の考証随筆『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「豆腐賣

 三都とも扮無レ異桶制小異あり 京坂豆腐 一價十二文 半挺六文 半挺以上を賣る 燒豆腐 油あげとうふ ともに
  各二文

  江戸は豆腐 一價五十餘文より六十文に至り 豆價の貴賤に應ず 半挺或は四半挺以上を賣る京坂 價 半價
  四分一價也 燒豆腐 油揚豆腐 各五文 蓋 京坂豆腐小形 江戸大形にて價 相當す
  又 京都にては半挺を賣ず一挺以上を賣る

  因記す 天保十三年二月晦日 江戸の市中に令す 江戸箔屋町 豆腐屋與八豆腐 價廉に賣る故に官より賞
  古來 豆腐筥 制堅一尺八寸 横九寸なるを以て製之 是を十或は十一に斬分て一挺と號けるを例とす
  與八のみ是を九挺に斬て 價五十二文に賣る 他よりは四文廉也 云々 當時 價五十六文にて 與八のみ形大にして
  五十二文に賣る故に賞


 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
  豆腐部には「とうふの仕方」「よせたうふの方」「白煮とうふ方」「焼とうふ」「丸山湯とうふ」「たうふの煎物
  「白葛豆腐」「おぽろとうふ」「ふき味噌とうふ」「薯蕷豆腐」「丸とうふ」「たうふの糟漬やう」「八盃豆腐方」の
  レシピがあります。

 とうふの仕方 一丁に大豆三合四勺入 是は江戸の大也 一箱は四丁にして間にしきりして 二丁にも用也…とあり、
  江戸では大きい一丁が作られていた事が分かります。

 「丸山湯とうふ」の「丸山」が、もし地名だとすれば、長崎の遊里 (島原・新町・新吉原の3大遊里に次いで繁栄した) かも
 知れません。

  千葉大学 教育学部 研究紀要 第25巻 第2部 『古典料理の研究 (二) 料理塩梅集について』
   http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715150.pdf?id=ART0007458558


  日本豆腐協会 豆腐の歴史「7. 江戸で評判だった豆腐料理屋」  http://www.tofu-as.com/tofu/history/08.html
  豆腐百科 『豆腐の歴史 「日本の豆腐の歴史」』 http://toufu.kaki01.com/2009/08/post_1.html
  豆腐料理の豆富 笹乃雪  『いわれ』 http://www.sasanoyuki.com/iware/

  ≪ 江戸にも絹漉し豆腐はあった? 笹之雪 豆富 ≫   Wiki 豆腐

  現在の東京都台東区根岸にある豆腐料理の店『笹乃雪』の初代 玉屋忠兵衛が絹ごし豆富 (縁起をかついで、初めて
  「豆富」と名付けた店だそうです。何県だったか忘れましたが「豆富」の文字がつく豆腐屋が多い所があったと思います)
  を、江戸で初めて売った店としています。

  1672 (元禄4) 年、後西天皇 (在位1654~1663年) の親王のお共をして京から江戸に移り住み、絹越し豆富を作り、
  豆富茶屋を開いたのが、最初だそうです。
  親王がこの豆富を好み「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と賞賛し「笹乃雪」と名付けた事から、屋号としました。
  その時に賜った看板は、現在の店内に掲げてあるそうです。

  喜多川守貞が『守貞謾稿』を書いたのは、31才の時に大坂から江戸に在住して14年くらい経った頃~。
  元禄から続くこの店の豆腐の事を知らない筈はありませんが、『笹乃雪』に言及した記述は見られません。

  『笹乃雪』のサイトには当時の製法そのままに、井戸水とにがりを使用した昔ながらの豆富の味をご賞味くださいませ。
  とありますので、『守貞謾稿』が言うように「汲豆腐」とするべきでしょう。

  【笹の雪】ささ-の-ゆき
   ① 豆腐料理の一種。温めた絹ごし豆腐に葛餡をかけてもの。江戸下谷根岸の名物。他の意味は全く関係ないので省略。

  「いっぱいは女房も食た笹の雪」 「盛換も茶碗もつもる笹の雪」という川柳が残っているそうです。

  【川柳】せんりゅう
   (川柳点の略から)前句付まえくづけから独立した17字の短詩。江戸中期、明和(1764~1772)ごろから隆盛。
   発句とは違って、切れ字・季節などの制約がない。多く口語を用い、人情・風俗、人生の弱点、世態の欠陥等をうがち、
   簡潔・滑稽・機知・諷刺・奇警が特色。江戸末期のものは低俗に堕し、狂句と呼ばれた。

   川柳 発祥は元禄時代の大坂。 川柳から見る江戸での嫁の立場 嫌な女房番付など


  ≪ 江戸にも絹漉し豆腐はあった? 淡雪豆腐 ≫  コトバンク 『泡雪豆腐』

  『日本豆腐協会』のサイトによると
  両国橋の東詰に2件の淡雪豆腐屋があり、相撲見物の客でにぎわっていました。淡雪豆腐はにがりを使わずに固めた
   豆腐で、口の中でとろける食感が雪のようであることから、この名前がついたのです。
   この2軒の淡雪豆腐屋が、赤穂浪士の討ち入りで繁盛したという話が残されています
   四十七士が吉良上野之介を討ち取り、芝の泉岳寺へ引き上げたとき、両国橋にはそれを見ようと野次馬が集まりました。
   その野次馬たちに、淡雪豆腐が飛ぶように売れたということです。 (出典不明)

  『豆腐百科』のサイトによると、この2軒は日野屋と明石屋という店。また近くの回向院にも2軒あった (年代不明ですが、
  文脈からすると滝沢馬琴の名が出てくるので1800年頃、出典は不明) そうです。

  【泡雪豆腐・淡雪豆腐】あわゆき-とうふ
   ① 泡雪のように軽くて柔らかい特製の豆腐。
   ② 鹹目からめ (塩味を濃くした) に煮た豆腐の上に摺藷すりいもをかけた料理。また、①の豆腐に葛餡をかけた料理。

  江戸城松之廊下での斬り付け事件が1701 (元禄14年3月14日)、赤穂浪士の討ち入り1703年1月30日(元禄15年12月14日)。

  淡雪豆腐がどのような形をしていたか不明ですが、守貞謾稿がいう『汲豆腐』は、主に淡雪豆腐の事を言っているのでは
  ないか? と思います。
  色んな解説を読むと、成型出来ない朧豆腐と四角く成型できる絹漉し豆腐の中間くらいのような物の印象を受けます。

  淡雪豆腐ができたのは享保年間


 1830 (文政13) 年刊の『嬉遊笑覧』巻十上「飲食」 P.395
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104

 【総鹿子増補】に淡雪豆腐 両国橋東詰日野や東次郎 享保の初 浅草並木町西側にわずかなる豆腐有て 初めて
 製しければ 人も もてはやさで いつしか跡なくなりぬ 其の後 湯島切通し山田屋権兵衛と この日野や 同時に売初
 いずれも繁昌せし 中にも日野やも稲荷神感有て よりますます繁昌する事をうらやみ 隣の土舟屋 看板暖簾 万の
 道具まで粉はしく拵こしらへ根元本家などなど知らぬ人を欺あざむく云々

 赤穂事件は1701 (元禄14) 年3月14日に発生、吉良邸への討ち入り事件は1703 (元禄15) 年1月30日 (旧暦では12月14日)。
 総鹿子増補の記述が正しければ、淡雪豆腐の誕生は享保年間=1716~36年なので、元禄時代には淡雪豆腐は存在して
 いない事になります。
 上記の討ち入り後に淡雪豆腐屋が繁昌したという話は、後に脚色して書かれた本からの出典と思います。

 土舟屋という店では、看板や暖簾や様々な道具など細かい所まで偽装して本家か元祖を名乗っていたと読み取れます。



  ≪ 滝沢馬琴の旅行記に出てくる豆腐の記述 ≫ 滝沢馬琴

  1803 (享和3) 年刊の滝沢馬琴の京坂旅行記『羇旅漫録きりょまんろく』巻之中「七十六 京地の酒摟」には、
  京都では塩気が薄く甘い白味噌を田楽にも使っているので、江戸人の口には合わない。という事であり、豆腐では
  なく白味噌が合わないと書いてあるのです。

  『羇旅漫録』は、銭湯へ行く以外の外出は1年で21回しか外出しなかったという記録も残る馬琴が、36才の時に生涯で
  1度の京坂旅行した記録。旧暦の5月9日に旅立ち、名古屋17日・京都24日・大坂10日間滞在、道中合せ76日間の旅。
  名古屋・京都・大坂で見聞した事が書かれています。

  生洲は高瀬川を…。…白味噌なり。赤味噌に○○。白味噌といふ○の塩気うすく甘ッたるく しお○ら○や○○ず。
  田楽へも この白味噌を○○○申ゑ 江戸人の口には食ひづらし。…
  ○の部分は当て嵌まる字を解析中。
  (明治に出版された物を参照しましたが、草書風旧仮名字が交っており不明な字があり原文を正確に書くのが難しいです)

  この記述部分には、京都は若狭・近江・大坂から魚が集まるが魚類に乏しい土地であり、料理は江戸人の口に合わない。
  続いて祇園豆腐は真崎の田楽に及ばない。茶店の大きさ、大仏餅の事が書かれてあります。

  滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった


 『豆腐百珍』の一番最初に『一・木の芽田楽』とあり、尋常品の部類なので、かなり有名です。

  幕末の考証随筆『守貞謾稿』上巻 第二十八編 食類 「豆腐田樂

 豆腐を細長く斬て串を貫ける形の田樂法師の持る具に似たるを以て名とする也 世事談… (中略)
  京坂の田樂串は股あるを二本用ふ 江戸は無股を一本貫く也

  京坂は白味噌を用ひ 江戸は赤味噌を用ふ 各砂糖を加へ摺る也 京坂にては山椒の若芽をみそに摺り入る
  江戸は摺り入れず上に置く也 木の芽田樂と云 江戸 夏以後は からし粉を煉って上に置く







  テレビ大阪 和風総本家 『開局35周年特別企画 世界のニッポン先生』 17.03.09 放送  Wiki 豆腐小僧

  江戸時代後期、江戸で出版された黄表紙には「豆腐小僧」という妖怪が多く描かれ、キャラクターグッズも作られました。


  ≪ さいの目に切った豆腐を入れた汁の異名 ≫

  【博打汁】ばくち‐じる … 豆腐を采の目に切って実とした汁。  采さい=賽子・骰子 さいころ

  コトバンク 『博打汁』
   豆腐などを賽(さい)の目に切って入れた汁。博打に賽を使うところからの名。
   俳諧・新増犬筑波集しんぞういぬつくばしゅう(1643年刊、京都の松永貞徳の付句集。「油糟」「淀川」の2冊。)
   淀川「打やみて後もこはるるばくち銭 碁会の汁やはたご成らん ばくち汁と付たり


  ≪ 浮世絵に描かれた豆腐田楽と南禅寺豆腐 ≫

  喜多川歌麿が働く女性をテーマに描いた1798~99年『婦人手業拾二工ふじん-てわざ-じゅうにこう』シリーズの『祇園豆腐』。
  上の女性は豆腐の切り方から八杯豆腐を作っている様子、下の女性は団扇を持っているので豆腐田楽を焼いている所
  ではないか? と推測できるようです。

  【八杯豆腐】はちはい‐どうふ 広辞苑
   細く薄く切った豆腐を、水4杯・醤油2杯・酒2杯などの割合にまぜ合わせた汁で煮た料理。また、その豆腐。
   古くは、饂飩うどん豆腐と呼んだ。

  豆腐百珍の記述は上記の広辞苑とは異なり、水6杯・醤油1杯・酒1杯の割合で葛のとろみを付けた汁。豆腐百珍「八十一」
  木綿豆腐を (つゆと絡みやすいように) 細く切ったものを入れ、大根おろしを乗せる。(中村楼で再現)

  ※ 広辞苑の八杯豆腐レシピは、江戸でのレシピと思われます。
    上方では「はっぱい-どうふ」と言います。江戸は濃い味付けを好んだ事。
    江戸時代、葛は畿内を中心とした西日本だけで消費された事が理由です。 葛餅と久寿餅

  歌川豊国 1801~03年頃の『豆腐田楽を作る美人』。画の右下に切り揃えて串を刺した木綿豆腐が、水気を切るために
  木の棚の上に何段にも積み重ねられています。

  中村楼では豆腐田楽に使う木綿豆腐は固いめに作ってもらったものを使用しているそうです。
  浮世絵と中村楼の豆腐田楽を比べてみても、ほとんど同じものに見えます。

祇園豆腐

上 八杯豆腐、 下 田楽


豆腐田楽を作る美人

南禅寺豆腐屋 とうふ屋三郎兵衛 市川九蔵


  歌川国貞 1838年 『とうふ屋三郎兵衛 市川九蔵』は、天保年間に江戸の市村屋で上演された歌舞伎「とうふ屋三郎兵衛」
  の一場面。江戸時代末期には、京都の南禅寺豆腐が江戸でも知られていた証拠と言われています。






  豆腐専門誌の西尾俊治 編集長によると、
 京都は『水の都』とも言われ、名水があちこちにあるんです。南禅寺辺りも良い水があります。それで豆腐は7~8割が水。
  水の良さは豆腐にとって非常に重要な要素なんですね。

  豆腐は元々貴族や僧侶の食べ物でした。寺が多かった京都などは、室町時代から庶民も食べられるようになりました。
  豆腐店が多く切磋琢磨が行われた事から、京豆腐は名物になっていったそうです。

  【南禅寺】なんぜん‐じ
   京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の本山。山号は瑞竜山。1291年(正応4)亀山上皇の離宮を無関普門に賜い禅林
   禅寺としたのに始まり、足利義満の時、五山を超える寺格に列した。江戸初期、崇伝が金地院を移入して再興。

  Find Travel 『京都にある南禅寺周辺の名物豆腐料理を堪能!おすすめ店9選』 http://find-travel.jp/article/12861


  ≪ 豆腐百珍に書かれてある大坂発祥の豆腐メニュー ≫


 1783(天明3)年初出版の『豆腐百珍続編』(写本) 「作腐家新品目

 「紅とうふ」「加色ごしきとうふ」「志べ菽乳とうふ」「○そ志べ」「延志へ」「そだ豆腐」「玳瑁環ちくさとうふ 大中小
  「全やき」「全油煠あげ」「ヒリヤウヅ」「稀うすやき」「焦○ぼろ」「カステイラ」「あ川やき」「雪片腐」
  「うどん菽腐とうふ」「紅うどん」「加色ごしきう○む」「華様はなとうふ」「むすび豆乳」「志○むす○」「ねぢ菽腐とうふ
  「花須腐」「玉あら○」「志ら玉」「花王ぼたんとうふ」「うず巻とまきとうふ」「紅うずまき」「加色ごしきうず巻」
  アンペイ加料かやく」「霜降」「いさご豆腐」「金橘きんかんとうふ」「尾上焼」

  右の品目ハ近来 大坂の上町 天満 同市場 その他 ○○にて製々賣る ○○各々このみに隨したがひ新製
  日々に出いでく 益々妙なり其その便てよりの家ところにて枯ひ需むべし

  「ひろうす」と「がんもどき」 (豆腐の) ヒリョウズは豆腐百珍以前にも記載があります。

  大阪のカマボコの一種 夏の食べ物 アンペイ



  ≪ 日本各地に豆腐屋ができたのは、大正時代以降 ≫

  日本全国に豆腐屋が広まったのは大正時代~昭和初期らしいです。この頃は移動販売が中心で、『ピープー』という独特の
  笛の音を聞いて豆腐屋が廻ってきた事を知り、主婦たちや子供が鍋などを持って買いに行くのが普通だったようです。

  また、豆腐や味噌は各家庭で手づくりする事も珍しくありませんでした。






  しかし、1960 (35) 年に51596軒あった豆腐製造事業所は、その後年間500軒ペースで廃業し2013年には8518軒に減りました。
  (厚労省調べ)
  1960年代以降、スーパーマーケットの出店に圧されたのが事が主な要因です。


  ≪ おから ≫

  【おから】 Wiki おから より
   「おから」は絞りかすの意味。茶殻の「がら」などと同源の「から」に丁寧語の「御」をつけたもので、女房言葉のひとつ。
   「から」は空に通じるとして忌避され、縁起を担いで、白いことから卯の花(うのはな、主に関東)、
   包丁で切らずに食べられるところから雪花菜(きらず、主に関西、東北)などと言いかえることもある。
   「おから」自体も「雪花菜」の字をあてる。
   寄席芸人の世界でも「おから」が空の客席を連想させるとして嫌われ、炒り付けるように料理することから「おおいり」
   (大入り) と言い換えていた。

  【切らず・雪花菜】きら‐ず。 おから。うのはな。
   (料理をするのに切る必要がないとの意。豆腐殻からが空からと通ずるのを嫌って言いかえる語という)豆腐のしぼりかす。
   浄瑠璃、堀川波鼓豆腐あきなふ商人の―、―と声高に売る辻占の耳に

  【雪花菜】せっか‐さい … 豆腐のかす。おから。きらず。

  【堀川波鼓】ほりかわなみのつづみ  Wiki 堀川波鼓
   浄瑠璃。近松門左衛門 作の世話物。1707年(宝永4)初演。
   前年の鳥取藩士大蔵彦八郎(小倉彦九郎)が、妹くらと妻たねの妹ふうとの3人で、妻敵めがたき宮井伝右衛門を
   京都堀川で討った事件を脚色。

  【卯の花】う‐の‐はな
   ① ウツギの花。また、ウツギの別称。夏。万葉集[17]「―は今そさかりと」
   ② 襲かさねの色目。山科流では、表は白、裏は萌葱もえぎ。4~5月に用いる。
   ③ 豆腐のしぼりかす。おから。雪花菜きらず

  双牛舎類題句集 『夏 卯の花、うつぎの花』 http://sogyusha.org/ruidai/02_summer/unohana.html

  上記サイトの句集には江戸時代までの句が集められていますが、「卯の花」が「おから」の意味で使われたと
  思われる句は見当たりませんでした。ウツギの花を詠んだものと思われます。

  よしみ亭 『きらず(卯の花)』 http://www.yoshimitei.com/?page_id=61

  江戸時代、おからのことを関東では「卯の花」と言い換えていたのに対し、関西(特に京都)では「きらず」と呼んでいた
   そうです。現代において、おからの別称は全国的に「卯の花」と知られていますが、九州・大分や山陰・島根などの
   地域では今でも「きらず」が使われているそうです。
   店主は落語が大好きです。上方落語の中に「きらず」がキーワードになっている演目もあります。
   その一席が桂米朝の得意な「鹿政談」です。

  【豆乳】とう-にゅう 百菓辞典
   豆腐を作るとき、砕いた大豆に水を加え、沸騰してできる白濁液。古くから牛乳や母乳の代用として用いた。
   豆のご。ソイミルク (Soymilk)。


 1643年刊『料理物語』 (著者は大坂人が濃厚、出版地は京都)
  第十四「吸物之部
 卯の花〕 いかのせのかたを すじかい十文字に こまかに きりかけ、又 大さ よきころに きりはなし、
  ゆにをして つまに のりなど入、だしに かげをおとし ふかせ、すひ合 出し候也

  「卯の花=おから」の意味ではなく、イカを使った料理名のようです。


 1746年成立の『黒白精味集』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)、
  上巻と下巻の十一は独自の記述ですが、この黒白精味集は、色んな人からの聞伝が多い。
  中巻と下巻のほとんどは『四季料理献立 (成立年など不詳、著者は江戸在住か?)』と、ほぼ同じ。
  どちらが先かは、千葉大学の紀要論文で明言されていませんが、四季料理献立の方が先と思われます。

  そのどちらにも掲載されている料理内容にも、上方での食材に使われている言葉が多数ありますので、
   (「薄醤油」「鮓」「せんば」「白味噌」「天王寺蕪」「葛」「かまぼこに鱧が最上」「鯛料理や蛸料理の記述が多い」など。)
  上方で出版された料理本などから、そのまま引用している可能性が高いと思われます。
  1689年に京都で刊行された『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』5巻。(著者は中川茂兵衛)なども参考に
  されたと思われます。

  上巻「きらず漬」「きらず汁」「煎きらず
  「鰯半片汁」にはきらずを細に摺身等分よりいわし少き方よし…あります。「卯の花」は見当たりません。


 1783(天明3)年初出版の『豆腐百珍続編』(著者は大坂の曽谷学川と推測されている) 写本出版
  (著者ペンネームは浪華 酔狂道人)には「白花うのはな」と「きらず」の両方の文字が見られます。

  廿四 白花菽乳には、「うのはな とうふ」のフリガナが振ってあります。
  卅四 待○雪花菜には。「まち○○きらず」のフリガナが振ってあります。
  雪花菜の文字は卅三、卅五、卅七、他 多数の料理レシピの中に登場しています。


 1785年(天明5)刊の『萬宝料理秘密箱』前編 (いわゆる「卵百珍」) 巻之三 卵之部 「卯花熬卵の仕方
   著者は京都の器土堂主人。

 一たまごを何ほどにてもわり 是もあらあらととき合セて 鍋の底へ焼豆腐を二ツほどならへしきて 煎て此上へ
  右のたまごをそろりとながし 入扨遠火にて そろそろと煎て新しき和布を火どりて すぐにこまくして 細き すいのうにて
  ふるひて扨たまごを器にいれ此和布の粉をかけて薄醬油をかけ其上に卯の花ををき出すべし 是は去ル
  茶人の秘方の料理なり 卯の花は卯鳥の毒を消ものなり 但しなべの底の豆腐は用ひず

  豆腐百珍や卵百珍は、江戸でも出版されており、多数の写本や類本 (書き加えたもの) などが出版されており、
  上の内容は、本の巻末の記述より、寛政7 (1795) 年に追記され、京都と江戸で出版された版のものです。

  この記述から、江戸時代中期の京都では「卯の花」と呼んでいた事が分かります。関西では「きらず」と「卯の花」の
  両方の呼び名が使われており、「卯の花」の呼び名の方が新しい言葉である可能性が高いと思います。

  人文学オープンデータ共同利用センター 『「万宝料理秘密箱 卵百珍」レシピ一覧』
   http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C


  ≪ 大正時代の東京では「雪花菜」と「卯の花」の両方が使われていた ≫

 1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)には
  「野菜入卯の花」「卯の花と葱の油炒」「酢入卯の花」「粟入卯の花」の献立が載っています。

 1918 (大正7) 年の『美味くて徳用御飯の炊き方百種』 (慶應大学医学部内 食養研究会 編&出版)
  P.141には「雪花菜きらず」の炊き方が載っています。
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933202

 1918 (大正7) 年出版の『応用家事教科書 上巻』(東京女子高等師範学校 教授の大江スミ子 著、東京寳文館 出版)
  「第二章 飲食物 第二節 日常食品」P.77~78には、「十二.雪花菜きらず」とあります。

 
 奈良県 高野豆腐
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 近畿国宝めぐり ~高野山の紅葉を目指せ11 秋の高野詣 最終回~』 13.11.14 放送

  「凍み豆腐」「凍り豆腐」などとも呼ばれる「高野豆腐」。発祥は和歌山県の真言宗の聖地 高野山。
  鎌倉時代、調理を担当していたある僧が豆腐を外に置き忘れてしまった。翌朝見てみると冬の日だったので、
  豆腐は凍っていました。
  それを温めて食べてみたところ、弾力のある食感に驚き、高野山では精進料理として親しまれるようになりました。






  江戸時代、商業的に作ろうということになり、野迫川村の大岡という庄屋が高野豆腐の製法を教えて貰った。
  最盛期には約130軒の製造工場があったそうです。
  高野山一帯の山地は寒暖差があるので、夜間-10℃まで冷え込む季節に一晩 外に干して凍らせて凍り豆腐を作って
  いましたが、昭和26年の台風の影響で、動力源として使用していた水車などが軒並み壊滅し大きな被害を受け、凍り豆腐
  作りは途絶えてしまいました。






  2004年、一度途絶えた凍り豆腐づくりを復活させるため「高野豆腐伝承館」を建設。昔ながらの凍り豆腐を「伝承凍とうふ」
  として製造販売。現在販売されている一般的な高野豆腐は、保存の為、凍らせた物を湯煎し乾燥させたもの。
  ここで販売されているものは、乾燥工程の前の凍らせたままの状態なので、調理すると出汁や煮汁がよく浸み込み、
  食感もモチモチ感が強いそうです。





  【高野豆腐】こうや‐どうふ  凍り豆腐。凝こごり豆腐。しみ豆腐。
   寒中に豆腐を小形に切って屋外で凍らせた後、乾かしたもの。もと高野山で製したからいう。
   現在は普通より固く作った専用の豆腐を切って冷凍し、解凍脱水乾燥させて作る。


  『豆腐百珍』では、尋常品の部類「十二・凍とうふ」「十三・速成凍豆腐」があるので、江戸時代中期には
  広く普及していました。レシピ解説の中に「又 高野とうふ ともいふ」という記述があります。

  幕末の考証随筆『守貞謾稿』上巻 第二十八編 食類 「氷豆腐

 大きさ圖の如し 寒風夜製之 多く紀の高野に製す故に 京坂にて かうや豆腐とも云
  近年 播州の高野にても製之を多く 京坂に出せり 同文なれども播は「たかの」と訓に書也

  「=図 (当サイトにて掲載は省略)」「播州=播磨国、現在の兵庫県南西部


  【六条豆腐】ろくじょう‐どうふ
   (京都六条の人が初めて製したからという)乾豆腐の一種。豆腐に塩をまぶし天日で乾燥したもの。かんなで
   削って吸物の実や酢の物に使う。山形県の特産。精進節。六浄豆腐。鹿茸豆腐。

 
 【 豆腐の価格の推移 】
  フジテレビ FNNスーパーニュース 13.09.17 放送

  何十年もほとんど価格変化がない「物価の優等生」と知られる卵と牛乳。
  そして豆腐も価格変動の少ない食品だそうです。

  番組作成のグラフによると、豆腐1丁当りの平均価格 (東京23区) は
  2007年から右肩下がり。逆に、輸入大豆の平均価格は上昇中。

  輸入大豆が値上がると、それにつられて国産大豆の価格も値上がる
  そうです。

  2013年、近畿豆腐油揚販売協議会に所属する18社を中心に10月から
  15年ぶりに、約20%値上げを決定。

  中部・東海地方の豆腐メーカーも11月以降、他の地域にも値上げが
  広まるそうです。


  豆腐類だけではなく、大豆を原料にする醤油や味噌、納豆もコストが増加し、全国味噌工業協同組合連合会では
  「企業努力だけでは、コスト上昇を吸収できない状態」として値上げを検討。






   ただし、小売店やスーパー、豆腐を使用する料理店などでは、実売価格を上げにくいのが現状らしいです。
 
 京都の湯葉  書きかけ
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『連続転勤ドラマ 辞令は突然に・・・「京都府」』 13.07.25 放送 より 

  京都には湯葉専門の製造会社が20社以上あり、創業128年ななる『ゆば庄』が昭和12年に生湯葉を商品化したそうです。










 
 鳥取県 豆腐ちくわ
  朝日放送 朝だ ! 生です旅サラダ 『加藤茶 鳥取の旅』 14.01.11  / Wiki とうふちくわ

  鳥取県東部で食されている郷土料理で、メーカーは各社は鳥取市にあるようです。
  鳥取城主池田光仲が、庶民に質素倹約を強いるため、ちくわの原料にたんぱく質源として豆腐を混ぜさせたことによって
  生まれたと言われています。

  幕末の1865 (慶応1) 年、「ちむら」の初代 千村清次郎が因幡元魚町で、とうふちくわを製造。
  木綿豆腐:白身魚=7:3の割合。

  番組で紹介されていた「かろや商店」では、材料の70%以上が水分を絞った豆腐、残りが魚のすり身。






  蒸してから表面を軽く焼くようです。普通のちくわより柔らかい食感で、カトちゃんの試食によると、甘い感じがするそうです。
  鳥取では手でちぎって そのまま食したり、ショウガ醤油、わさび醤油をつけて食べるのが一般的。炒め物などにもするそうです。

   公益社団法人 鳥取県観光連盟HP 『とうふちくわ』 http://www.tottori-guide.jp/828/829/830/836/8430.html
  
 福井県 坂井市の巨大油揚げ
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『サクサクわかる日本の仏教 ~もし仏教の宗派が大学のサークルだったら~』 12.06.30 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『坂井市に住む福井県民は「油揚げ1枚定食」!?が大好き』 12.08.16 放送 / 
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『マツコにとれたてを食べさせてあげたい件part3』 13.07.15 放送 より

  福井県は浄土真宗の信仰が厚い地域。年に数回 村の中で集まる報恩講 (浄土真宗最大の法要) という行事があり、
  大豆を多く栽培していた福井県では精進料理に油揚げが多く使われていた。
  当時は油揚げが御馳走だったため、段々巨大化していったそうです。






  坂井市の人里から少し離れた場所に谷口屋という豆腐店があり、白山の地下水を使用した通常の16.2枚分の大きな
  油揚げを作っています。
  県内のスーパーでも買う事が可能で、坂井市内では、谷口屋の巨大油揚げを1枚丸ごと使用したメニューを置いている
  蕎麦屋もあるそうです。
  谷口屋ではレストランを併設し、揚げたての「油揚げ一枚定食」を提供。平日でも行列ができるくらい人気だそうです。






  和食に革命をもたらした道元と永平寺の精進料理 様々な調理技術と味付けが始まった。食事の心得と作法も説いた。

  【浄土真宗】じょうど-しん-しゅう
   浄土門の一派。浄土三部経を所依とする。阿弥陀仏の他力本願を信ずることによって
   往生成仏できるとし、称名念仏は仏恩報謝の行であるとする。
   親鸞を開祖とし、浄土宗より出て一派をなした。
   本願寺派・大谷派・仏光寺派・高田派・木辺きべ派・興正派・出雲路派・山元派・
   誠照寺派・三門徒派の十派に分かれる。門徒宗。一向宗。真宗。

  【親鸞】しんらん(1173~1262)綽空・善信とも称した。見真大師。
   鎌倉初期の僧、皇太后宮大進日野有範の長子。
   浄土真宗の開祖。慈円、のちに法然の弟子となる。

   1207年(承元1)念仏弾圧により越後に流され、この間、愚禿と自称して非僧非俗の生活に入る。
   のちの恵信尼を妻にしたのはこの頃とされる。
   1211年(建暦1)赦免され、晩年に帰京するまで久しく常陸国稲田郷など関東にあって信心為本などの教義を以て
   伝道布教を行う。著「教行信証」「唯信鈔文意」「浄土文類聚抄」「愚禿鈔」など。
 
 佐賀県嬉野のとろける湯豆腐
  読売テレビ クチコミ新発見 ! 旅ぷら 『小林綾子&藤田朋子 佐賀県・嬉野温泉』 14.09.21 放送

  嬉野市にある豆腐専門店『佐嘉さが平川屋』は2010年に古民家を移築して開店。
  こちらで食べられる湯豆腐は嬉野温泉の水を使用。






  嬉野温泉特有の弱アルカリ性の湯が、豆腐のタンパク質を溶かすので、加熱して10分後には豆腐が形がなくなるほどに
  溶けてしまいます。『とろくっけん』とは佐賀弁で『とろけるからね』という意味だそうです。  佐賀県の嬉野茶

 
 ひろうす と 雁もどき
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『ヒミツのごちそう 「静岡県富士市の甘い味付がんも」』 13.04.11 放送
  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『真冬の京都ぶらり旅』 14.02.08 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『キッチンぷいぷい木曜日 「缶詰アレンジ カニ缶でひろうす」』 15.01.29 放送






  【飛竜頭】ひりょうず、ひろうす (ポルトガル語 filhos から。「飛竜子」とも書く)   Wiki がんもどき
   ① 粳米うるちまいと糯米もちごめとの粉を等分に混ぜて練り合わせ、ゆでて油で揚げた食品。
   ② がんもどきの関西での異称。ひりゅうず。

  『ひろうす』の語源は、ポルトガルのフィリョース(ポルトガル語版)(filhós、小麦粉と卵を混ぜ合わせて油で揚げたお菓子)で
  あるといわれている。

  【雁擬き】がん‐もどき 飛竜頭ひりょうず。がんも。
   (雁の肉に味を似せたものの意)油揚げの一種。昔は麩を油で揚げたもの
   今はつぶした豆腐とすり下ろしたヤマノイモを混ぜ合わせ、針牛蒡・木耳きくらげなどの具を混ぜて丸め、油で揚げたもの。


  南蛮菓子と和蘭陀菓子の系譜 中川清 著 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17291/spffl058-05.pdf
  別府大学短期大学部紀要 1994年 『南蛮料理書についての一考察』 江後迪子 著
   http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/tk01302.pdf?file_id=4199

  江戸時代初期に刊されたと推測されている『南蛮料理書(著者、成立年不明)』には菓子類33種・料理11種類・
  その他2種の計45種が紹介されており、「たまごそうめん」「ういろうもち」などとともに「ひりょうす」の記述があるようです。

   


 『南蛮料理書』江戸時代初期頃 (著者等不明)には
  糯米の粉を蒸して練り、摺り鉢にあけ、とき卵を加え、すってかたい糊くらいにし、油で揚げる。
   砂糖を練って一度浸し、その上に金平糖をかける。口伝がある


 1689 (元禄2) 年 京都で刊行された坂上庄兵衛・中川茂兵衛ら 著 『合類日用料理抄
  麦の粉か米の粉」をふかせる。卵の黄身をすり鉢で摺り「それを油にて上ケ候。右の粉一升に玉子七つほど入(れ)
   さたう(砂糖)のせんし(煎じ)たるに浸(ひたし)ておく。
   右のさたうの煎(せんじ)やうは氷さたう一斤に水一升入(いれ)七分の内ニせんじ申候。油にてあげ申候時は
   大さじにてすくひ鍋へ入あげ申候。形も其さじの内手心にていろいろに成(り)申候


 1784 (天明4) 年、『卓子式』という調理と献立の事典が豊前 (福岡東部~大分北部) 在住の著者によって
 書かれています。 【卓子】たく-し … 机。テーブル。食卓。卓。  普茶料理 (萬福寺) と 卓袱料理


 1787 (天明7)年刊行の『紅毛雑話』  紅毛こうもう … 赤毛という意味で江戸時代はオランダまたはオランダ人の事
  飛龍頭(ひりうづ)此邦にて云、油揚の飛龍頭は、『ポルトガル』(国の名)の食物なり。其製左の如し。
   ひりうづは彼国の語のよしなり。粳米粉(うるこめのこ)糯米粉(もちこめのこ)各七合。
   右水にて練合せ、ゆで上げ油揚にしたる物なり

 1799 (寛永11) 年、長崎通詞楢林重兵衛の口述を筆記した『楢林雑話』には、
  ヒロウスと云(う)菓子、うるち、粉、卵にてねり、団子の如くして、油揚げにして、蜜をかけて食す、沙糖を
   かくるもよしとあり、この頃の「ひりよう」あるいは「ヒロウス」は、揚げ菓子だったそうです。

  上記の「ひりょうず」は菓子の作り方。


 1746年成立の『黒白精味集』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)、主に他聞した料理とレシピを集めたもの。
  中巻 五 唐料理
  飛龍す 生麩へ 豆腐をしめて摺合也 合に くき物也 能々すり合て 牛房のせん 木くらげせん 麻の実など
   かき交つみ切 油上にして 煮物 二の汁 吸物らも用ゆ 又 豆腐をしめ 小麦の粉を摺合 粉を入る法も有り
   拵安し 又 生麩を あめを引くごとくにして しめとうふを合 湯煮するあり ※ せん=千切り

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf


 1782 (天明3) 年の『豆腐百珍』(著者は大坂の曽谷学川と推測されている、出版元も大坂)
  尋常品 十九・ヒリヤウヅ 豆腐 水をしぼり よくすり 葛の粉つなぎに入れ 加料かやくに皮牛蒡の針 銀杏
   木耳きくらげ 麻子 小骰さいの のにはやき 栗子か 慈姑くわいか 一品入れるべし
   加料も油○炒いりつけ 麻子は後に入れ とうふに包み大小冝○に隨したがひ 亦 油にて煠○ 又 うどんの粉
   ころも ふかくか尤よし
   ○り酒 おろし山葵 或は白醋に山葵の針おくか 又は田楽にして青味噌に罌栗けしをぬ
   ヒレウヅ一名や豆腐卷けんともいう
   ▲白醋は罌栗をぬりて よくすり 豆腐を少しすり入れ醋を入る○ 甘さを好むときは大白たいはくの沙糖さとう
   入るべし 又 豆腐のかわりに葛粉を入るるもよし
   ▲青○楚は〇楚をよくすり青粉をすり混る○

 1783(天明3)年初出版の『豆腐百珍続編』によると、「豆腐カステラ」など34種は大坂発祥のようです。
  佳品 卅五・胡桃くるみヒリヤウヅの記述もあります。


 1785年(天明5)の『萬宝料理秘密箱』(通称「卵百珍」、著者は京都の器土堂の主人)には
  巻四 卵の部 長﨑卵飛龍頭の仕方 一たまご凡十ほどをわり あらあらととき 扨 まんぢうの粉を此中へ
   小盃に二はい入 加味は木耳の線ぎり 焼栗の賽きり 粒さんせう 黒ごま 雁か鴨か鳩かを細作りにして
   入箱か鉢かに入むすべし 此間に胡麻のあぶらを煎し金の杓子にて右むしたる たまごをすくいあげ 鍋へいれ
   ざつと揚べし 遣ひ方はすぐにわさひ醬油をかけて出すも一段とよしいづれ前に同しとあります。


 幕末1853 (嘉永6) 年に完成、以後加筆し、明治末年「類聚近世風俗志」の名前で刊行された『守貞漫稿』には、
  飛龍子 京坂にて『ひりやうす』 江戸にて『がんもどき』と云 (中略)
   牛房ごぼう、笹掻、麻の実等を加へ油物にしたるを云(後略)


 幕末の『皇都午睡』三編上 (著者は大坂の西沢一鳳軒、1801~1852、西沢一風の玄孫)
  油揚を胡麻揚、飛龍臼ひりょうず揚物を天麩羅または金麩羅とも


 『素人庖丁』は、1803年に第1冊、1805年に第2冊、1820年に第3冊が刊行。著者は浅野高造、出版地は大坂。

  精進料理で有名なのは、福井県の永平寺と京都の大徳寺。 和食に革命をもたらした道元と精進料理 道元の永平寺



  ≪ 甘い雁もどき ≫

  静岡県東部の富士市周辺では、大量の砂糖を入れた甘い雁もどきが、「おやつ」として、「おかず」として両用途で
  食べられています。富士市内では6社が味付けがんもを製造販売。
  近年では味付けがんもをパンに挟んだ「がんもイッチ」も発売しているそうです。






  水分を抜いた木綿豆腐を潰して、ニンジンやゴマなどを入れ、大量の砂糖を加えて成形。
  低温で揚げた後、高温で外側をキツネ色に揚げる。






  静岡県豆腐油揚商工組合の理事 佐野由久さんによると
  いつ誰がどういう形で、作られたかは分かりません。仏事でお葬式とか法事とかで精進料理の一環として100年ほど
   前から食べられていた 記録が残っています。昭和40年頃からは、仏事だけでなく日常的に食べられるようになりました。

  ※ 「ひろうす」も「がんもどき」も時代と共に大きく変化したようです。
    富士市のは、御菓子からおかずへ変化する過程の名残のようで興味深いです。
    江戸時代末期から明治時代頃に、豆腐を主体とした甘くない「おかず」と変化したと推測できそうです。
    大阪の南河内のスーパーでは、小さいサイズが「ひろうす」、大きいサイズのものが「がんもどき」として売っています。(メーカーの違いかも)
   
 納豆
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『茨城問題 今、水戸の人々の気持ちが沈んでいる件』 13.09.02 放送
  フジテレビ 珍 日本セキララMAP 13.12.26 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『マツコにとれたてを食べさせてあげたい件PART8』 14.01.27 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『1県限定SP 最下位上等! 茨城県 本当はイイとこあんだっぺ夜露死苦SP』 14.02.13 放送
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『そのうまさにはワケがある! おいしさを科学する!』 16.02.04 放送

  ≪ 納豆 ≫  大別すると、調味料の納豆と、現在の納豆と同じものと2種類あります。

   ① 蒸し大豆に麦と麹を加えて発酵させ、塩水に漬け重石おもしをして熟成させたのち、香辛料を加えて乾し上げた食品。
     古来もっぱら寺院で行われたもので、塩辛納豆・浜納豆・大徳寺納豆・寺納豆・唐納豆などの称がある。

   ② よく煮た大豆を藁づとなどに入れて適温中に置き、納豆菌を繁殖させて作った食品。
     粘り気が強いので糸引き納豆と呼ばれ、今日普通に納豆というのは、この種のものを指す。
     現在は、蒸し大豆に直接納豆菌を散布して発酵させたものが多い。

  【寺納豆】てら‐なっとう
   寺院で製造する納豆。歳暮に檀家へ贈る。臨済宗の京都市大徳寺 (鎌倉時代末期頃創建) の一休納豆、
   静岡県大福寺の浜名納豆などは有名。

  日本での納豆の発祥は約900年前の平安時代の秋田県横手市という説が最も有力です。


  ≪ どうやら 納豆の消費量は、胸の大きさとあまり関係がないようです ≫

  大豆に含まれるイソフラボンが、体に良い事は事実のようですが、納豆を多く消費している東北・関東圏と、納豆を最も
  食べない近畿圏。バストサイズの図詳しくは日本の雑学 その他のページでは、相関関係が全くないように思われます。






  【イソフラボン】 isoflavone 分子式C15H10O2 フラボンのフェニル基の位置の異なる異性体。
   大豆胚芽に多く含まれるフラボン族化合物の一種。天然には多くの誘導体が存在する。
   女性ホルモンのエストロゲンに似た作用があり、骨粗鬆症や更年期障害に用いられる。

  ※ 1世帯当たりの納豆支出額は、統計局 家計調査 平成24年度
     1世帯当たりの納豆消費量は、総務省 家庭調査 平成23~25年度の平均。






  アジアで高い評価を受ける大阪の中小企業の水浄化システム 納豆菌で汚水ろ過 2025年万博招致にも強み


  ≪ 納豆に砂糖を入れるのは、旨味を簡単に増やす為だった ≫

  新潟県の内陸部などでは、料理に砂糖を大量に使用するそうですが、納豆にも砂糖を入れるそうです。
  日経電子版「列島あちこち食べるぞ!B級ご当地グルメ」による「納豆に砂糖をかける人が多いランキング」では、
  1位新潟県、2位北海道、3位山形県・沖縄県、5位秋田県、6位宮城県、7位長野県、8位福井県、9位青森県、10位奈良県。

  全国納豆協同組合連合会の松永進 専務理事によると、
  「寒い地方では気温が低いため、大豆の発酵が遅くなり糸引きがよくなかった。そこで砂糖を入れる事によって納豆の
   糸引きが良くなる。そうすると口当たりが滑らかになり、納豆が美味しく食べられる。」






  東北大学の坂井信之 准教授による科学的観点からの解説だと、
  食べる前に納豆をよくかき混ぜて粘りを増やすのは、ネバネバが増すほど舌に触れる面積が増加し旨味成分が伝わり
  美味しく感じられるようにする為。
  砂糖を入れると、納豆菌により糖が納豆のネバネバ成分 (ホリグルタミン酸) に変化するので、旨味が増すそうです。

  全国納豆協同組合連合会調べによる「納豆に入れるものランキング」では
  1位添付のタレ、2位ネギ、3位からし、4位醤油、5位卵。


  ≪ 岩手県 雪納豆 ≫

  一般には出回らない手づくり納豆。西和賀町で作られている雪納豆は、7時間かけて茹で上げた大豆を朴ほお(日本固有種で山地に
  自生するモクレン科の落葉高木)の葉と藁苞わらづと(藁を編んでつくる容器)に包み、温かいうちに雪に埋め、二晩寝かせれば完成。
  塩を少量入れてかき混ぜれば糸がたくさん引くそうです。







  ≪ 京都の納豆発祥説 ≫   読売テレビ OSAKA 仰天ヒストリー 諸説あり !! 第2弾 『関西の日本初に諸説あり』 14.09.14 放送

  京都北部の京北地方にある常照皇寺じょうしょうこうじには、同寺の開祖である光厳法皇の生涯を描いた絵巻物があり、
  その中に納豆が出てきます。

  現在から約650年前の南北朝時代、覇権争いで出家を余儀なくされた光厳上皇は出家をして法皇となり、常照皇寺で貧しい
  生活を送っていました。
  そんな姿に同情した村人が藁に包んだ煮豆を献上。村人の心遣いに感動した法皇は大切に食べる事にしました。
  ある日、藁を開けると煮豆は糸を引ひき腐っていましたが、食べてみたところ煮豆より美味しかった。
  これを村人に伝えたのが、京北地方での納豆の始まりらしいです。






  京北地方の伝統の納豆の食べ方として伝わるのが「納豆もち」。きな粉を敷いた上に焼いた餅を丸く広げ、塩であえた
  納豆を包んだもの。正月の三が日の祝い餅として、男性が作る物と決まっている (女性は正月は家事を休む) そうです。

  【南北朝時代】
   1336年(延元1・建武3)後醍醐天皇が大和国吉野に入ってより、92年(元中9・明徳3)後亀山天皇が京都に帰るまでの57年間。
   南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)とが対立抗争した。それ以前の建武政権期を含めていうことも多い。

  【光厳天皇】こうごん‐てんのう(1313~1364)名は量仁かずひと。 後伏見天皇の皇子。
   鎌倉末期の天皇(在位1331~1333)。元弘の乱で後醍醐天皇の笠置落ち後、鎌倉幕府の申入れをうけ、後伏見上皇の
   院宣により践祚。建武新政で廃されたが、1336年(建武3)足利尊氏の奏請で弟の光明天皇を即位させ、院政を開始。
   のち出家。


  ≪ 栃木県 高級納豆 大天元 ≫

  通常、納豆に使用されることのない宮城県産の最高級
  大粒大豆をしようした逸品。
  1本 300gで2000円(14年1月現在)

 


  ≪ 茨城県 水戸納豆 ≫ 小粒納豆発祥

  水戸市内で最も古い創業125年の「天狗納豆」 ㈱笹沼五郎商店の五代目社長 笹沼寛さんによると

  茨城県で納豆が好かれるようになったきっかけは、明治22年に当社が商売として、水戸で初めて納豆を売り始めた事が
   きっかけと聞いて おります。当時全国的に納豆は大粒の大豆が主流だったんですが、茨城水戸では小粒の大豆が
   主流でした。 弊社 初代創業者 笹沼清左衛門が、水戸駅の開通の年に水戸の土産品として納豆を売り始めたら、
   他県では今まで見た事のない小粒の 納豆という事で、口コミで爆破的に水戸の納豆が名声を上げたっていうのが、
   強い要因かなと思います。






  茨城県内の納豆製造業者は47社あり日本一多い。東京のスーパーは平均15種類の納豆に対し、茨城では37種類置いている
  スーパーも。水戸京成百貨店では、地元の名産品コーナーに、菊水ゴールド納豆 金箔入り 90g 630円があるそうです。







  ≪ 茨城県水戸市 そぼろ納豆 ≫

  納豆と切干し大根を醤油ベースの秘伝のタレに漬け
  こんだもの。
  天狗納豆の製品で、番組ではお茶漬けをオススメ
  していました。

  水戸市では2013年に7年ぶりに消費額1位になりまし
  たが、2014年は2位に転落。
  納豆を使用した色んな料理が登場しているようです。
 

  ≪ 水戸納豆をフランスへ売り込み開始 ≫

  2015年1月、茨城県工業技術センターが開発した特別な粘らない納豆菌を使用した『豆乃香』という統一ブランドを作り、
  フランスの食の見本市に出展。フランスのメーカー7社へ売り込みを開始しました。






  【納豆烏帽子】なっとう‐えぼし
   室町末期以来の侍烏帽子の異称。
   巾子形こじがたの正面の「まねき」と呼ぶ部分が、経木きょうぎを三角に折り曲げ、底に紙を貼って作った寺納豆の
   曲物まげものに似ているからいう。


 幕末の考証随筆『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「納豆賣

 大豆を煮て室に一夜して賣之 昔は冬のみ 近年夏も之 汁に煮 或は 醬油をかけて
  京坂には自製するのみ 店賣も無之歟 蓋 寺納豆とは異也 寺納豆 味噌の属也

 再出 此賣り巡るものは濱名納豆及び寺納豆と云て 毎冬 三都とも寺より曲者にて旦家に賜る 納豆とは別製也

  「濱名=浜名」「旦家=檀家」
  「曲者=曲物 (「曲者 くせもの」では意味が通じないので、「曲物 まげもの」の誤字) だと思います

  【寺納豆】てら-なっとう
   寺院で製造する納豆。歳暮に檀家へ贈る。京都市大徳寺の一休納豆、静岡県大福寺の浜名納豆などは有名。

  【曲物・綰物】わげ-もの、まげ-もの
   桧ひのき・杉などの薄く削りとった木材を円形に曲げ、合せ目を樺・桜の皮などで綴じて作った容器。桧物ひもの


 明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 P.321~323 「納豆賣」  昭和期も東京は飯がマズい所で有名だった
   解説するのが面倒な旧漢字は、現代漢字または原文のふりがなを付けるか、ひらがなにしてあります。

 冬の朝でも夏の朝でも、丁度 朝飯時分前から遅きは八時九時頃までにかけて、背中に赤ん坊を背負つた
  垢だらけの女や、髭ぼうぼうとして死にさうな様な声の爺さんが、片手に小さな藁苞 幾つも引提げ、横町から
  横町へと抜け歩いて『納豆、納豆』と泣き出しさうな声で呼んであるく。

  初めて東京へ来たものには、其姿は如何どうしても乞食としか思へない程、納豆賣に限つて瀟酒しゃんとした
  身形みなりをしたものが無いのは不思議である。然らば賤しい身形をした彼等の得意先と云ふものは、やつぱり
  貧しい暮しをしてるものばかりかと云ふと、決して左様で無いのみか、寧ろそれが非常に反対で有るから
  いよいよ以つて不思議と云はざるを得ぬ。

  彼等の得意先のうちには、立派な商家もある、お役人様の邸もある、門構すこぶる厳めしい家で有つても、
  なほ彼等を呼入れるものが少なくないから面白い。
  邸の内などで遊んで居る坊ちやんや嬢ちやん迄が、納豆 納豆の振れ声を聞き付けるが最後、一目散に家内へ
  駈け込んで、『お母様 納豆を買つて頂戴、納豆を買いましせう』と、しがみつくと、『あゝ買つて上げますよ』と
  言つて、ニコニコしながら、通り過ぎた汚い納豆賣を一丁も二丁も先から呼戻さす様な例は決して珍しくない。

  時々こんな様を見ると、東京に慣れない人々はその不思議さが いよいよ たまら無くなつて、一体あれ程までに
  女や子供の欲しがる納豆なるものは そもそも 如何どんなもので有ろう。
  豆の字があるからには如何どうせ豆には違ひない。食べられるものだろう、一つ食べて見たいものだと思つて
  聞いて見ると、地方から出た人は大抵『あんな豆の腐つたものが食はれるものか、第一 持つて来る奴の風は
  何だい』と云ふ。

  けれど江戸子に聞いて見ると『あんな おいしいものは有りやしませんわ、あれさへあれば おかずなんか何にも
  入りませんよ』と云ふ。

  いよいよ兎に角 食つて見て疑うたがひが晴らしたいと云ふ気になる。遂に好奇心にかせられて 汚い女を呼び
  寄せて、皿を片手に箸でいぢくつて見ると、成程 腐つたも腐つた、どうして此様に腐らかしたのだろうと思ふ程
  腐つた豆だ。
  箸にかけて見ると白い糸が二尺も三尺も引張るほど腐つて居る。けれども ちっとも悪臭があるではない、
  よもや死にはすまいと、まるで毒でも喰ふつもりで口に入れて見ると、まづいまづい!
  少しも甘味うまみが無いのみか、ずるずるするのが馬鹿に気持ちが悪い。

  どうしても咽喉を通らんのでポイと吐き出すと、宿のお神さんが、『之がおいしい様でなくては江戸ッ子では有り
  ませんわ』と云つて からからと打笑ふ。
  どうして あんなに糸を引くかと問ふと『あの糸の長いほどか 上等の納豆なんで御座いますよ、糸の短いのは
  まだ充分に出来ないので、お味がまづいんでさあ』と云つて、とんでもない事を答へる。

  何でも此 糸の長い奴を暖い飯の上に置いて食べるのは非常に甘うまいもので、江戸ッ子や久しく都の風に
  吹き荒されたものゝ、到底 忘るゝことの出来ない一種の味ださうだ。
  『鯛の刺身よりも まぐろの刺身が美うつくしい』と云ふ、江戸ッ子の趣味はやはり田舎者の解かいする能あたはざる
  不思議中の不思議で有る。

  【東京年中行事の著者】
   若月紫蘭 (本名は若月保治、1879~1962年、山口出身、東京帝大卒)  Wiki 若月紫蘭
   教育者・記者・劇作家・演劇研究家・浄瑠璃研究家・翻訳家など多方面で活躍しました。

 
 大阪の納豆メーカー 実は大阪の納豆出荷額全国3位
  ≪ 大東市の小金屋食品 ≫  テレビ大阪 夕刊7ch 『大阪発の納豆 教育現場や世界が注目!?』 14.03.20 放送

  納豆の消費量が非常に少ない事で有名な大阪ですが、大阪の納豆生産の出荷額は、茨城県・埼玉県に次ぐ3位。
  大阪府東部の大東市にも納豆を作っているメーカーがあります。

  14年3月20日、大東市立三箇小学校では、この小金屋食品(創業から20年の奮闘)をモデルにした劇が上演されました。
  小田村直昌 校長(都銀の支店長経験もある公募校長)によると、
  「企業でも学校でも 良くないのは閉鎖性。地元の中小企業さんの劇をつくって観劇することは非常に大事だと思います」






  この会社では、藁に潜む納豆菌だけによる昔ながらの自然発酵のみで生産する方法で納豆を作っています。
  近年の日本食ブームで、海外からは出汁の旨味成分や納豆菌も注目されるようになってきました。






  2年前から中国や韓国の企業から自国での生産の問合せがあり、番組で取材した日は米国、ロシア、グルジアなど
  6ヶ国9人の発酵菌研究者たちが視察に訪れました。

  ※ 何故、大阪の納豆企業に?  → MICE誘致で、国際会議が増加する大阪 という背景があるようです。
  
 中国の南西部 納豆のルーツ 貴州省 の色んな豆腐 
  豆腐は、奈良時代に中国から伝来したと言われています。
  江戸時代の江戸でブームになった事で有名な『豆腐百珍』(様々な豆腐料理の調理法を解説した本)は、
  1782年(天明2年)に大坂で出版されました。

  中京テレビ 宮根誠司と考える! ニッポンの食の未来 『中国・貴州省 大豆と生きる少数民族の知恵』 13.07.15 放送 / 広辞苑 より

  17の少数民族が暮らす貴州省は納豆のルーツとも言われているそうです。
  貴州省の中心都市 貴陽の人々の胃袋を支える大きな『紅辺門農貿市場』にはたくさんの食材を扱う店があります。
  その中には豆腐専門店も幾つかあり、画像の店では、30種類くらいの様々な豆腐が売っています。






  豆油鶏 (ドウ ユー ジー)  ガーゼで包んだ堅めの豆腐。
  豆腐果 (ドウ フー クオ)  焼き豆腐。
  豆腐干 (ドウ フー カン)  豆腐を干したもの。






  合群路 (ごうぐんろ) という貴州一の繁華街。道路脇の張胖子美食広場 (ちょうばんこ びしょくひろば) の屋台の一つでは
  『恋愛豆腐果 (リエン アイ ドウ フー クオ)』という料理があり、昔、お金の無い若いカップルがよく食べていたので名付けられた
  そうです。焼き豆腐に唐辛子の味噌和えを詰めた料理で、辛いけど食べ応えのあるボリューム。






  雷家豆腐団子 (レイ ジャア ドウ フー ユアン ズー) 豆腐に野菜を詰めて油で揚げたもの。
  豆腐干炒芹菜 (ドウ フーカン チャオ チン ツァイ)  干した豆腐とセロノの炒め物。

  貴州名物の『豆腐の桶売り』 (江戸時代に最盛期を迎えた振売りのように) は、天秤棒の両端に桶を取り付け歩き
  売りするスタイル。
  片方の桶には『豆腐脳 (ドウ フー ナオ)』と呼ばれる柔らかい『おぼろ豆腐』、もう一方には各種調味料を入れた桶で、
  その場で簡単に好みの味付けをしてくれます。

  【朧豆腐】おぼろ-とうふ
   豆腐の固まりかけのもの。苦汁にがりを加えてから、桶か椀に汲み取って、そのまま固まらせたもの。寄せ豆腐。汲豆腐。







  ≪ 貴州省の少数民族 プイ族 ≫

  貴陽から南西方向に車で3時間の山の中に住むブイ族の高蕩村の人口は900人。
  石灰岩に覆われたカルスト地形で、家は屋根から壁も全て石造り。屋根は木の桟に直接、石を乗せただけ。
  しかし、きっちり積み重ねてある為、雨漏りは一切ないそうです。
  痩せた土地でも育つ大豆を多く食べるようになった。昔から大豆を育てるのは女性の仕事と決まっているそうです。





  【カルスト地形】
   (Karst ドイツ スロヴェニアのカルスト地方に見られることから)石灰岩台地で、カレンフェルト(鋸歯きょし 状の地形)・
   ドリーネ(擂鉢すりばち状の窪地)・石灰洞などが発達する特有な地形。石灰岩の表面が溶解浸食を受けやすいこと、
   雨水は主に割れ目に沿ってしみ込み、周囲の岩石を溶解しやすいことなどが原因となってできる。
   山口県の秋吉台はその好例。






  蒸した大豆を袋に入れ、藁のようなもので包み重しを置いて4日間発酵。その後、塩と酒を加えて完成。
  保存食として発達した為、腐らないように塩を多く使用。一粒でもかなり塩辛いそうです。調味料的に使用したり、野菜と
  和えたりして食し、『ナットン』と呼んでいます。
  この中国南部の『ナットン』が日本やアジア各地の納豆の起源という説があるそうです。


  ≪ 貴州省での最大の少数民族 ミャオ族 ≫  日本人のルーツの一つとも言われるミャオ族





  ミャオ族の村は貴州省内に幾つか点在するそうです。貴陽から南東へ車で5時間。
  580人ほどが住む郎徳上寨 ろうとくじょうさい という村を取材。
  吊脚楼と呼ばれる高床式木造家屋などの伝統文化も多くあり、客人を招待する儀式では、蘆笙(ルウション)という伝統楽器で
  演奏し、『道止め』 村の入り口で酒を勧めて迎える儀式。石階段を数段上がる度に12回焼酎を飲まされます。
  元気で健康なお年寄りが多い村として知られているそうです。毎日、野菜と豆腐をたくさん食べる事が健康の秘訣らしいです。






  村には代々引き継いできた豆腐屋が1軒あり、そこへ毎日買いに行くそうです。
  加熱前に大豆をすり潰し豆乳を搾る『生搾り製法』。山で採れる石膏を凝固剤として昔から使用しています。
  ゆっくり固まり滑らかな豆腐を作る事ができる。
  取材リポーターの篠山輝信さん曰くもの凄く美味しい。今まで飲んだ中で世界一の豆乳です






  お年寄りの楽しみは皆で集まり食事をする事。様々な豆腐料理があるそうです。
  右端の画像は血豆腐 (シュエ ドウ フー) 大豆を潰して豚の血を加え燻製にしたもの。モチモチ食感で甘いそうです。






  貴州大学 生物化学栄養研究所 所長の郁建平 教授によると
  標高が高い貴州省には森林が多く空気や水がきれい。貴州の人々は豆類、特に大豆をよく食べています。
   他の食事とバランス良く食べている事が、元気で健康な理由だと思います

  ※ちなみに「寨」←日本では「とりで、サイ」 (塞) と読む。『足止め』儀式は、部外者から村を守る為の知恵と推測
   できますが、如何でしょうか?

  ※ 東日本の方言『塩っぱい』は江戸時代の東海道中膝栗毛(1802~09年) 十返舎一九(駿府生まれ1765~1831)作
    にも多く登場。広辞苑によると『塩辛い』より俗語的な表現の言葉。

  【俗語】 俚言りげん 標準となる口語に対して、それと異なる方言や卑俗な言葉。さとびことば。
  【雅語】 雅言がげん 正しくよいことば。洗練された言語。歌や文章に用いられて来た、洗練された文字言葉。
     
 
水の雑学1 海・河川 水の雑学2 水道関連 水の雑学3 下水関連 茶の知識・雑学1 Cha 茶の知識・雑学2 Tea
酒の雑学1 Sake 酒の雑学2 Beer・Wine 酒の雑学3 Liqueurs コーヒーの雑学 Coffee お取り寄せ order
卵・乳製品・砂糖 大豆製品1 豆腐 ジュース・飲料の雑学 飲料・食材  INDEX
おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
2009.02.17発売
Link Free http://marco4321ice.web.fc2.com/ 
OSAKA HABIKINO IGA 5-9-6  MARCO POLO 取り扱い商品 : アイスクリーム / シャーベット / ザーネアイス / 生チョコアイス / スイートポテト / コーヒーなど
inserted by FC2 system