手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の食の歴史6 江戸時代1 初期・概要
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

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このページの最終更新日:   20.07.11
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「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents




 日本の食の歴史・雑学の江戸時代の2ページを、19.11.08に8ページに分割し、
 画像や情報を追記しながら再編集しました。 各ページURLも変更になりました。

 他のページも情報量が多過ぎるので、分割・再編集などを行う予定にしています。


 江戸時代の概要 将軍一覧・幕藩体制など

 江戸時代を知る上での注意点 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

 江戸時代の主な重要文献と著者 参照した文献の原文を公開しているサイトへのリンクあり
  いつ? どこの人が書いたのか? どこで出版されたのか?  ← 重要

 江戸時代の三都 京・大坂・江戸 三都を表す諺 京都 江戸時代も都  江戸 発展は大坂や上方のおかげ
  近江商人  江戸は水不足で不衛生な都市

 三都の比較をした文献内容 『皇都午睡』『守貞漫稿』『江戸時代のさまざま』

 「自由都市」堺 室町後期~江戸時代前期まで最先端の経済都市

 江戸時代も大阪は圧倒的な経済都市 明治~昭和初期の文化も最先端だった
  「天下の台所」で物流の中心、日本を回していた大坂マネー、大坂の橋の多くは町民が私財を投じて架橋
  江戸時代の野菜の評価は大坂野菜>京野菜、日本各地の特産野菜も堺・大坂から
  流行ものが溢れる浪花の町 ペットブーム・園芸ブームも大坂から。文楽にカラクリ人形劇・クジャク茶屋

 街道と宿場の整備 街道沿いの各地の宿場が発展
  東海道・中山道の西の起点は京の三条大橋~東の起点は江戸の日本橋 東西の重要な関は箱根と大井川

 江戸時代 初期の農民のくらし 時代・身分・藩・地域によって大きく異なる格差があった
  越後長岡藩の農民の正月  色んな職業があり資源を無駄にしないリサイクル社会だった

 蕎麦 都市では「後段」という区分で軽食や団子などと同じ分類でオヤツの扱い

 德川幕府が二条城で後水尾天皇に饗した料理 徳川秀忠の朝廷に対する横暴

 沢庵漬け 沢庵和尚と徳川家光 香の物と漬物は別物 『守貞漫稿』の「漬物売」の記述内容

 料理物語 庶民の為の初めての料理専門書 日本中で最もよく読まれた料理書

 外国から伝わり、日本料理になった普茶料理と卓袱料理
  京都の萬福寺の普茶料理と木魚の原型となった開梆
  長崎に伝わった卓袱料理→京・伏見・大坂・江戸でも食されるようになった 石川県のオランダ煮

 中華料理と中国料理の違い

 卵、牛乳、砂糖については日本のアイスの歴史 各ページをご覧ください
 大阪と関西の食文化のページも 日本の食文化を語る上で必須です
 「にっぽん」と「にほん」という呼び方は、いつ生まれたのか?

   江戸時代の主な重要文献と著者  江戸時代に出版された主な菓子の専門書

  NAVER まとめ 『再現された江戸時代の日本人の食事』 http://matome.naver.jp/odai/2134329123090279301
  神戸女子大学 古典芸能研究センター 『近世の家政学―重宝記・料理本の世界』 2001.12.08
   http://www.yg.kobe-wu.ac.jp/geinou/07-exhibition3/06-ten_kase.html
  神戸女子大学の上記サイトには、江戸時代に出版された百科事典にあたる各『重宝記』と、料理本が紹介されています。

  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf
  農林水産省 食料産業局食文化・市場開拓課和食室 『日本食の歴史』 http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/rekishi.html

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。

  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」
  無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品)
   http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/
 毎日放送 ちちんぷいぷい 13.12.05 放送


  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 江戸時代の概要    東京近郊の関東の歴史
  テレビ東京 開運 ! なんでも鑑定団 13.08.06 放送 / テレビ東京 L4 YOU ! 『ニッポン再発見!世界に誇る「和食」の魅力』 13.12.12 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸幕府の確立』 14.09.19 放送 / 同 『江戸時代・近世の経済と産業』 14.10.03 放送






  【江戸時代】えど-じだい
   徳川家康が1600 (慶長5) 関ヶ原の戦で勝利を占め、03年幕府を江戸に開いた頃から、1867 (慶応3) 徳川慶喜の
   大政奉還に至るまで約260年間の称。徳川時代。





  【徳川家康】 とくがわ‐いえやす (1542~1616)  家康が作らせた江戸甘味噌 江戸の夏の名物 甘酒
   徳川初代将軍(在職1603~1605)。松平広忠の長子。幼名、竹千代。初名、元康。
   今川義元に属したのち織田信長と結び、ついで豊臣秀吉と和し、1590年(天正18)関八州に封じられて江戸城に入り、
   秀吉の没後伏見城にあって執政。
   1600年(慶長5)関ヶ原の戦で石田三成らを破り、03年征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた。
   将軍職を秀忠に譲り大御所と呼ばれた。
   1607年駿府に隠居後も大事は自ら決し、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、幕府260年余の基礎を確立。
   諡号しごう 、東照大権現。法号、安国院。





  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい!おいしい浮世絵 第6回「東海道名物」 16.05.10 放送
  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『きもの 千年のトキメキ』 17.01.13 放送
  テレビ東京 歴史の道 歩き旅 ~渡辺徹が静岡県富士市から静岡市までを歩き旅 由比宿~ 16.05.11 放送
  江戸 人々の暮らし http://youtu.be/J02Z3hPG7yM

  ≪ 幕藩体制 ≫

  江戸時代は幕藩体制が敷かれ、下の画像参照 日本全国の重要な地域は「天領」と呼ばれる幕府直轄地、
  徳川御三家 (尾張・紀伊・水戸) などの親藩 (松平氏)、譜代大名 (関ヶ原の合戦以前からの徳川の家臣) と
  外様大名 (前田家の加賀藩・島津家の薩摩藩などの大きな藩が有名) が統治しました。

  街道の主要な宿場町は旗本 (大名ではない将軍直属の家臣) が管理している事が多かったようです。
  奈良の興福寺 (藤原氏の菩提寺) 領や各地の寺社領、堺と奈良の今井町は実質的に町民の自治地域とされました。

  【幕藩体制】ばくはん-たいせい
   近世日本社会の仕組を、江戸幕府と藩という封建領主制の在り方からとらえた歴史学上の概念。
   小農民で構成される村を、最高の領主となった幕府と、幕府から領地を与えられて軍役に服する大名とが支配し、
   小農民から主として米年貢を徴収することで成り立っている封建社会の体制をいう。

  【藩】はん
   ① 江戸時代の大名の領地・組織・構成員などの総称。
   ② 1868 (明治1) 年 旧幕府領に府・県を置いたのに対し、旧大名領を呼んだ公称。1871年の廃藩置県で廃止。




  【親藩】しん‐ぱん
   江戸時代、徳川家の近親が封ぜられた藩。三家である尾張・紀伊・水戸をはじめ、越前家など家門に列する諸藩。

  【譜代大名】ふだい‐だいみょう
   江戸時代の大名の家格の一つ。関ヶ原の戦以前から徳川氏の臣であったもの、およびその家格に準ぜられたもの。

  【外様大名】とざま‐だいみょう
   江戸幕府で、徳川氏の家門またはその本来の家臣でなく、主として関ヶ原の戦後に臣従した諸大名。表大名。

  【天領】てん‐りょう
   ① 天子 (天皇) 直轄の領地。
   ② 江戸幕府直轄の領地の俗称。幕領。※江戸時代の天領は幕府領を指す事が一般的です。


  ≪ 庶民文化の発展は上方が元禄頃、江戸や地方都市は文化文政頃 ≫

  元禄年間は1688~1704年、文化年間は1804~1818年。

  江戸前期の元禄時代の文化は上方を中心に町人文化が花開きます。
  元禄の三大作家は、松尾芭蕉(俳諧)・井原西鶴(浮世草子)・近松門左衛門(浄瑠璃)。






  文化によって異なりますが、最先端の上方と比べ江戸は50~100年ほど遅れて文化が華開きます。
  上方の人間が江戸で下ったり、上方で書かれた本によってなどに文化が伝わったのです。

  【元禄文化】Wiki 元禄文化
   17世紀終わり頃から18世紀初頭にかけて、元禄時代を中心として、主に京都・大坂などの上方を中心に
   発展した文化である。
   特色として庶民的な面が濃く現れているが、必ずしも町人の出身ばかりでなく、元禄文化の担い手として
   武士階級出身の者も多かった。上方から発生し、朱子学、自然科学、古典研究が発達した。
   尾形光琳らによる琳派、土佐派などが活躍、野々村仁清、本阿弥光悦 等による陶芸が発展、
   音楽では生田流箏曲、地歌の野川流が生まれ、また義太夫節や一中節などの新浄瑠璃や長唄が生まれた。
   下記の災害によって、元禄文化は終焉。

豊臣期大坂図屏風
都鄙図巻

1683年の禁令

友禅

  1688 (貞享5・元禄1) 年刊の井原西鶴作『日本永代蔵』には近頃、都では色々な工夫で着物を美しくし贅を尽くす
  ようになった。このままいくと、豪華な着物が普段着になるかも知れない。と京都の町民の様子が書かれています。

  豊臣秀吉の桃山時代には陶芸・漆工・染織などの工芸技術が著しく進歩していました。
  2006年にオーストリアのエッゲンベルク城で見つかった『豊臣期大坂屏風図会』は大坂城下を描いた屏風図ですが、
  大根の担ぎ売りをする人も庶民と思われる女性らも描かれており、武士も含め色鮮やかな柄物の派手な着物を着て
  いる事が分かります。しかし、この頃は金糸を使った高価な着物は町民の手には届かないと思われます。

  1683 (天和3) 年、「金糸などの刺繍 鹿の子絞りを禁止とする」禁令が町民に向けて出されます。
  『日本永代蔵』刊行は1688年ですが、6巻6冊あるので、この禁令が出る前の様子が書かれたもののようです。

  京都で扇絵師として活躍していた宮崎友禅が着物に絵を描き、それを多色染で模様を表現する事を始め、元禄年間に
  友禅染が誕生したと言われています。

  1877 (明治10) 年頃、京都の友禅染職人の広瀬治助によって科学染料での友禅染が完成し、着物の価格は1/10程度
  まで安くなりました。型抜き染などの技法も誕生して量産化で更に価格が下がり庶民らも手が届くようになったようです。

  【元禄文化】広辞苑
   元禄年間を中心として、俳諧・小説・演劇などで町人文学が上方を中心に一つの頂点に達した時期の文学の総称。

  【元禄太平記】 浮世草子。都の錦作。8巻8冊。1702 (元禄15) 年刊。
   京都の伏見の夜船で、京・大坂の本屋が、出版界の情況、作者・学者の評判等を語り合う筋で、一種の文化時評的
   性格を持つ。

  【宮崎友禅斎】みやざき-ゆうぜんさい
   江戸前期~中期の、友禅染の完成者とされる僧形の扇絵師。伝歴・作品など確実なことは不明。宮崎友禅。

  【文化・文政時代】ぶんか‐ぶんせい‐じだい(1804~1818~1831)
   徳川第11代将軍 家斉の治下の後半期、文化・文政年間を中心とした時代。化政期
   綱紀こうき弛み風俗頽廃たいはい(規律がゆるみ、不健全な気風になった)。
   江戸市民は遊楽を事としたが、町人芸術は爛熟の極に達し、小説(山東京伝・式亭三馬・曲亭馬琴)、戯曲(鶴屋
   南北)、俳諧(小林一茶)、浮世絵(喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎)、西洋画(司馬江漢)、文人画(谷文晁)などに
   すぐれた作家を輩出した。また地方文化も盛んとなった。


  NHK Eテレ 高校講座 世界史 『明代の中国 ~東西文化の交流~』 14.09.05 放送

  ≪ 明 (中国) で、アジアを中心とした初めての世界地図が描かれる ≫

  【坤輿万国全図】こんよばんこくぜんず … 中国最初の世界地図。1602年、マテオ=リッチが北京で刊行。
   実物は 高さ 約 170㎝ × 横幅 約 400㎝ の大きさ。

  【マテオ‐リッチ】Matteo Ricci (1552~1610) 漢名、利瑪竇りまとう
   イタリアの宣教師。イエズス会士。1582年マカオに着き、中国で布教して西欧文化を紹介。徐光啓らと親交を結ぶ。
   北京で没。著「天主実義」「幾何原本」など。

坤輿万国全図の日本の部分 『日本海』の表記が見られます。


  この地図は欧州で書かれていたものをマリオ・リッチが漢字に直し、アジアを中心に
  描いた地図。日本にも輸入されました。

  『亜細亜』『日本海』『赤道』という単語は、欧州の言葉を中国語に翻訳して16世紀後半に
  作られた言葉だそうです。

   ※マテオ・リッチが書いた現物ではないので、上記の地図は日本で文字を書き直した物かも知れません。
    しかし、16世紀後半には、欧州や中国でも『日本海』と使われていたようなので、
    近年の韓国の「『日本海』を『東海』『韓国海』などに替えろ」という主張は世界的に通用しません








  1570年頃、欧州で書かれていた日本の地図はもっと漠然とした図でしたが、天正遣欧使節団が欧州に行った事で
  日本列島らしい形に描かれるようになりました。

  【天正遣欧使節】てんしょう‐けんおうしせつ
   天正10年(1582)ヴァリニャーノの企画により、九州のキリシタン大名大友宗麟・有馬晴信・大村純忠がローマに
   遣わした使節。伊東マンショ・千々石ちぢわミゲルを正使、中浦ジュリアン・原マルチノを副使とし、教皇グレゴリウス
   13世に謁見、同18年帰国。

 
 【江戸時代の歴史を知る上での注意点】
  ≪ 江戸時代以降は歴史歪曲が多い ≫ 特に関東発信の情報は疑え!!

  各ページの上記に記してある文献 (国立国会デジタル図書館にて無料で公開&ダウンロードも可能) などを読んで
  みると、これまでテレビ番組やウィキペディア、○○業界、企業や一般の歴史サイトなどで広く流布されてきた通説
  「江戸が凄かった」「○○は関東発祥」「江戸の方が大坂より進んでいた」などの情報を文献や史料などで検証した
  結果、これらのほとんどに事実を大幅に歪曲し正反対の事が流布されている事を突き止めました。
  意図的に歪曲解釈したりデータ改ざんした悪質なケースも多いです。

  東京では、江戸時代の幕末においても、大坂が一番繁栄していたという史実を隠し、江戸が一番繁栄して
  いた事にしたいようです。そう思い込んでいる関東人が多いです。

  下記リンク意外にも、まだまだ怪しい事などはたくさん見つけています。
  「当サイトの検証を反論してやろう」くらいの気持ちで、通説が正しいか? 検証が正しいか? ぜひ確認してみてください。
  これらを調べていくと、様々な真実が見えてくると思います。

  江戸時代から昭和初期に書かれた時代考証によく使われる文献の各著者からは江戸ッ子の言う事は信用して
  いないと思える記述が色々と発見できます。

  弥生時代 『化学する古代ロマン 進む「文理融合型」の考古学』 渡来したガラス玉のDNA解析の結果、
   東日本は陸路 中国・朝鮮経由。 西日本は海路 インド・東南アジアと判明しました。
  東征伐、熊襲征伐と三韓征伐 古墳時代の大和政権から見た蝦夷人の性質、この時代の蝦夷は関東も含む。
  東京近郊の関東の歴史 東京一帯は、元々朝鮮半島から渡来人を集めた開拓地だった
  関東の藤原氏の重要神宮 中臣 (藤原) 氏の関東発祥説は嘘   浅草寺の創建 実際は平安時代中期
  『本当はすごい! 東京の歴史』著者 田中英道 東北大学名誉教授の出身地は東京。江戸時代に偽書とされている書から出典
  国土交通省HPに掲載されている『江戸首都論』 (著者は東京生まれの大石学 東京学芸大学教授、歴史考証家)






  江戸しぐさ ← 都民も認める 創作・でっち上げの江戸文化
  江戸の治安システム 江戸の治安は良かったのか? 江戸は江戸時代中期頃まで辻斬が横行し非常に治安が悪かった
  江戸ッ子とは? その実態。江戸名物は「悪口」、江戸ッ子は日本一他所や他人の悪口を言う気質だった
  江戸の人口100万人は本当か? 寛政時代の江戸の人口 2億61万3000人もいた?
  大坂に1万人以上のスリがいたというのは本当か? ←これも「嘘」、検証の結果、「スリ1万人」と記述があるのは江戸の事情を記した文献。
  東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた  大阪市と東京市の区の変遷
  東京のおでんが全国に広まったきっかけ  ← 東京人の願望だっぷりの妄想説
  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件
  東京は味覚音痴が2~3割いる? 塩分味覚チェック 東京VS青森 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人 (東京で調査)
  東京の蕎麦屋の「生そば」と書かれた暖簾には意味はない 実はほとんどが二八蕎麦だった
  昭和期も東京は飯がマズい所で有名だった






  東京メディアの偏向報道   議会の情報開示なども遅れている東京の隠ぺい体質
  パンダ王国関西 東京上野のパンダが生まれた時は「列島中赤ちゃんパンダブーム」と言うが、和歌山のパンダの事は報道しない東京メディア。
  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸。1750年頃までの江戸での出版は上方で書かれた本のパクリばかりだった
  江戸の火事の真実 江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた ~ 時代劇で見る 江戸の町は嘘ばっかり!~
  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
  東京湾の実態 東京・関東の水は安全? 千葉県の江戸川水系ヤバすぎ。日本で最も汚い一級河川は綾瀬川。
  公害苦情受理件数で見る 汚い県、うるさい県、臭い県はどこ?
  蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見!! カマボコの歴史。
  千葉の醤油 ヒゲタ醤油が1697年に濃口醤油を作ったとする年代などが怪しい件
  野沢菜・広島菜のルーツは天王寺蕪 ウィキペディアの否定説を検証
  刺身・お造りの歴史 刺身は室町時代 「指身」「差身」「打ち身」など違いウィキペディアの「刺身」での記述の間違いを発見

  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん ← 超重要
  「にっぽん」と「にほん」という呼び方は、いつ生まれたのか?  「日本」と呼ばれるルーツは東大阪市にあった
  日本語 言葉の伝播 京・大坂から円を書くように日本各地へ広まった。
  江戸時代も大坂が圧倒的な経済都市で文化の発祥地
  江戸時代の化粧 江戸時代後期のファッション雑誌 『都風俗化粧伝』の内容、最も化粧するのは大坂
  伊藤ハムのポールウインナー 関西だけでしか普及していない理由 (東京の業界圧力) と 60年代の大阪のホットドッグ復活
  街頭ラジオ塔 日本初は大阪天王寺公園。各地で保存の動き。「大阪より早くラジオ放送を開始したい」とした東京
  キャバレーの歴史 キャバレー、カフェーなども大阪の商法を東京が真似て劣化させた。
  バブル時代 大バコのディスコ・ブームは大阪のマハラジャから


  ≪ 江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた ~ 時代劇で見る 江戸の町は嘘ばっかり!~ ≫

  「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられたサムライと庶民365日の真実
  古川愛哲 (1949年神奈川県生まれの放送作家、雑学研究家) 著 (講談社+アルファ新書) という本が
  あるそうです。

  テレビでも映画でも時代小説でも、江戸時代の江戸の生活の描写が嘘800であることに、
  このままでは嘘が真実になってしまう!という危機感を持った著者が、本当のことを書き
  留めておこうと書き出した本だそうです。

  当サイトの管理人は読んではいませんが、読んだ人のブログ↓があるので、参照して下さい。
  高瀬事務所なんとなくブログ http://takase-fp.at.webry.info/200903/article_10.html  

  また多くの都民すら認める「江戸しぐさ」という大嘘のでっち上げも近年まで信じられてきたようです。
  『皇都午睡』『江戸時代のさまざま』『東京年中行事』『四五日の旅 名所囘遊』などを読めば
  分かりますが、江戸ッ子や東京の実態は、通説とは正反対の残念なものだったので、「江戸しぐさ
  のような歴史歪曲や捏造が盛んに行われたのではないでしょうか。



 1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949
  この書を読めば、当時の東京の有数の繁華街であり、江戸の伝統を残す浅草の食文化などを知ることができます。
  「東京ッ子」を自称する人は、読んでおくべき一冊でしょう。

  第二章 浅草経済組織の変遷発達 (四) 享保以後に於ける仲見世の発達 P.42~

  浅草が仲見世を中心として発達したものであるにも拘らず、比較的仲見世に関する文献が少ないのは、果たして
  どう言う訳であろうか。最も水茶屋の茶吸女に対する読み物は、決して少なくないが、多くは創作で、その実情を
  描いたものが殆どないだから私は、これ等に付いて、比較的詳細な説明をして行こうと思うのである。


  東京オリンピックと日本人のアイデンティティー 2018年 江戸川大学 斗鬼正一 名誉教授
   https://edo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=803&item_no=1&page_id=13&block_id=21

  「欧米人にどう観られるか?」を強く意識し、特に東京では衛生・清潔・美化、秩序・マナー・犯罪、看板設置などに対し、
  意識改革のキャンペーンや取締りなどが行われました。
  上記リンクの論文を読めぱ、1960年代当時の日本、主に東京の実態が分かります。



  ≪ 騙しの手口 ≫  意図的に情報歪曲している場合は様々な方法を使っています。

  東京発信情報の特徴は「結論ありき」。思いたい言いたい結論に合う情報だけを抜粋し、結論とは正反対、または
  結論に導けない情報の方が多数あったとしても無視している事があります。

  「自分を良く見せる」「我田引水のため」「間違っていても自分は悪くない」為に平気で嘘を吐く。相手を悪く言う。
  嘘を吐いたり悪口を言うと罪悪感が残るので、必死で理由を探す。その過程で無理やり理由を付けたり、解釈を
  曲げたりするのです。こういう事をやり過ぎると脳内で言葉の意味などが勝手に変換される。
  江戸時代に武蔵国にあったという不思議な逆さ言葉の入間詞もこういう事からできたのではないでしょうか?

  【入間詞】いるま‐ことば / 入間様いるま‐よう
   埼玉県入間地方にあったとされる、言葉の順序を逆にし、また、意味を反対にする言葉遣い
   狂言には、入間川「昔から入間様と言うて、逆言葉を遣ふと聞いた
   入間川を渡る大名が入間詞を面白がり、入間の某に持物を残らず与えるが、最後に欺いて取り返す。
   などと描かれています。

  東日本と西日本、特に東京と大阪の物の考え方や価値観の根本違いは、江戸時代の朱子学の影響力の差のように
  思います。武士が少なく古くから繁栄し続けている大阪は劣等感もなく最も朱子学の影響を受けていません。

  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん ← 超重要


  現在ではネットの普及でかなり知られてきたようですが、全国放送では東京にとって都合の悪い情報はあまり報道されて
  いません。大阪の悪い事は積極的に報道する姿勢が見られます。

  都合の悪い事でもどうしても報道しなければならない場合は、東京または南関東の一部の地域限定の事であっても、
  「日本は●●」という言い方で日本全体の問題として伝え、大阪だけの悪い情報なら「大阪は●●」と大阪限定の問題の
  ように報道しています。  東京メディアの偏向報道   歴史も恥も知らない日テレ・スタッフ  またも嘘報道。
  大坂に1万人以上のスリがいたというのは本当か? 検証の結果、文献記述に1万人のスリがいるのは江戸でした。
  江戸ッ子とは? その実態江戸の名物は悪口、悪口を言わない江戸ッ子はいない。江戸女は気が強いなど
  滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった

  逆に大阪や関西限定で良い事・優れた事はできるだけ報道せず、どうしても報道しないといけない場合には「日本は○○」と
  日本全体を讃美。東京だけで優れた事があると積極的に報道し「東京は○○」と東京だけを讃美しています。

  ① 情報の出典は言わずに、結論だけを何度も繰り返す。 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸
   (「何度も大きな声で言えば嘘も本当になる」という思考があるようです。)

  ② 出典情報のごまかし。初版出版年、著者の出身または在住所、出版刊行地などを記載せず、上方で書かれた
   本を、江戸で書かれた本の内容のように見せかける。上方文化のパクリ。

  ③ 都合の良い部分だけを抜粋。全体の文章を通して読めば正反対の事が書かれてあるにもかかわらず、一部の
   文章または一部の文献の記述部分だけを取り上げて、江戸が良いように思える結論を広める。

  ④ 『江戸』という言葉を混同させて使う。 「江戸時代」と「江戸 (東京の前の地名)」とを、どちらも「江戸」として
   上方の歴史を江戸であった事のように思わせる。上方文化のパクリ。

  ⑤ 江戸 (東京) の悪い史実・実態は大阪に押し付ける。 データの改ざんなど。 東京メディアの偏向報道


  江戸の食文化 ~江戸に学ぶ食の楽しみ~ 20.07.01 ユーチュープにアップロード https://www.youtube.com/watch?v=2E7P74xdqLo






  上記動画は公益財団法人 味の素食の文化センターの設立30周年記念として特別公開講座を行った時のもの。
  「江戸の料理文化とその展開」として国士舘大学の原田信男 教授が江戸時代の食について講義。
  「歌舞伎と見る江戸の食」堀越一寿 歌舞伎大向弥生会副会長の動画もアップされています。

  この講義だけ見ると上記②と④の事が行われている事が確認できます。

  まず江戸時代の事なのか江戸(地名)の事なのか、タイトルからして判明できません。どちらもという事ですが
  内容のほとんどが江戸(地名)であったかのように錯覚させる手法は、関東の定番の手法となっています。

  原田教授が13.豆腐百珍と料理本の展開の所で、「豆腐百珍というまあ料理本が出版されるですが、これは江戸の
  後期天明の時期です。まさに飢饉が30万人東北で死んだと言われる時期に江戸では豆腐百珍という本が出版されて
  大ヒットを飛ばした…」

  東北という地名を出しているので、江戸も地名です。
  豆腐百珍の著者は大坂人であり版元は大坂。この事に触れず、この言い方では江戸が版元として出版した
  ものと思い込みます。少なくとも「江戸でも出版された」と言うべきでしょう。

  このような例はいつもの事ですが、関西人からすると本当に気持ち悪いのでパクリ手法は止めて頂きたい。


  ≪ 情報に騙されやすい関東人 ≫

  関東の人たちは、他の多くの資料で否定されても、自分たちの都合の良いデータ
  だけは信じる傾向にあるようです。
  東京マスコミやネットの嘘・ねつ造・誤魔化しによる ご都合イメージではなく、多角的な
  データと史実から総合判断するようにして下さい。

  歴史を知らない南関東人 センター試験5教科受験率で突出して低い。本当の東京の歴史

  朝日放送のビーバップ!ハイヒール『だからあなたは騙される!身近に潜む疑似科学』
  16年5月6日放送より、明治大学 科学コミュニケーション学部の石川幹人 教授が
  解説する番組では、理論の飛躍、数字の目くらまし などで騙される事が解説されています。
  中途半端に知識のある人が最も騙されやすい。

  物事を一面だけから見ていると本質を見失う。一度、別の角度から考えてみる事。
  人間は何でも都合よく考えちゃう。『信じたい』という気持ちが、真実を押し隠す。
  人間は自分勝手な生き物

  見せかけの数字にダマされる。← これもよくある事です。

  朝日放送のビーバップ!ハイヒール『ブラックマーケティング 脳は簡単に騙される』
  19年11月28日放送では、脳科学者の中野信子さんも「騙されないと思っている人、
  自分が賢いと思っている人ほど騙されやすい」と言っています。

  脳内物質の「アドレナリン」「ドーパミン」「オキシトシン」「セロトニン」などによる感情変化を
  利用した商売も昔からあり、色の刺激による感情変化など、こういった事にも思考が左右
  されています。これらの商法を「ニューロマーケティング」と呼ぶそうです。

  ブームが起こるのは、深く物事を考えず周囲と同調する行為。
  脳は基本的に負荷を下げようとし、消費エネルギーを少なくする事を選択するので、自分で
  吟味する事なく、誰かがした選択を受け入れる方が楽なので流行が起こる。
















  関東人は何事においても常に自分たちが「上」「一番」「正しい」という思い込みを持って思考する傾向が強い。
  また自分たちが言われたくない事を先に相手の事として言えば世間に通用すると思っているようです。
  「数が多いと勝てる」「数が多いほど正義」と考える傾向も関東と韓国に共通しています。

  東京では相手を見下す際や口ケンカの時に「かっぺ」とよく言うようですが、それは本人が一番言われたくない言葉
  であるので、そう言えば相手も自分と同様の価値観なので、ひるむと思っているようです。面白いですね。






  右の大阪の人と韓国の人がすごく似ている性格だということは間違いないと、2016年放送のテレビ朝日のモーニング
  ショーで解説していた『"県民性ナンバーワン戦略研究所"の矢野新一 所長』は1949年東京生まれの神奈川県立横浜
  平沼高校卒、専修大学経営学部卒の典型的な東京脳思考の人です。

  史実や情報などを検証していくと、韓国と東京は習慣や思考などが非常によく似ている事が判明しています。

  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん ← 超重要


  ≪ 韓国と東京が似ている歴史的理由 ≫

  弥生時代、東日本は中国や朝鮮半島との交流があった。西日本は東南アジアとの交流があった。
  古墳時代、大阪を本拠としていた大和朝廷と敵対していた新羅や中国北部の北斉との交流があった。
  奈良~平安時代、新羅や高句麗からの移民を関東に集めて開拓地とした。関をおいて西日本と居住地を区別。
  百済人は近畿を中心に西日本や東北にも住まわせています。
  百済と高句麗は新羅とは別民族で、それらを滅ぼした新羅→李氏朝鮮→朝鮮・韓国へと繋がるのです。
  江戸時代の江戸には朝鮮人または中国人がいたと推測される記述もあります。

  弥生時代 『化学する古代ロマン 進む「文理融合型」の考古学』 渡来したガラス玉のDNA解析の結果、
   東日本は陸路 中国・朝鮮経由。 西日本は海路 インド・東南アジアと判明しました。
  東京近郊の関東の歴史 東京一帯は、元々朝鮮半島から渡来人を集めた開拓地だった
  東征伐、熊襲征伐と三韓征伐 古墳時代の大和政権から見た蝦夷人の性質、この時代の蝦夷は関東も含む。

  関東人と韓国人の思考の基本が似ているのは、劣等感と朱子学の影響が強いため
  朱子学というのは上下関係を何より重視しているので、上の立場である方が全てにおいて優位であるという思考です。

  経済的にも文化的にも関西が上だった時代が圧倒的に長く、現在でも関東の1/3ほどの人口しかいない関西の方が
  ノーベル賞受賞者や超一流のスポーツ選手の輩出が多いし、中小企業の技術力も高い事は知られていますし、江戸
  時代から何でもあったと言われている大阪は人や物を見る目が高い事でも知られています。
  東京が大阪に劣等感が無いのであれば、偏向報道や歴史歪曲・データ改ざんなどは行わないはずですね。

  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん ← 超重要
  江戸ッ子とは? その実態、3都の気質など ← 重要


  ≪ 歴史をより正しく知る為に必須な情報 ≫ 下記の史実を知らないと歴史解釈を間違えます。

  ① 江戸時代中期1750年頃までの江戸での出版は上方のパクリ  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸

  ② 江戸ッ子は見栄を張りデカイ事を言う。江戸の名物は悪口。  江戸ッ子とは? その実態、3都の気質など

  ③ 東京は朱子学思考。  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん

  ④ 文献の批判を行う事。 2012年6月7日放送のBS歴史館「古代史ミステリー 邪馬台国の魅力に迫る」の番組の
   中で、静岡文化芸術大学の磯田道史 准教授が「史料批判を我々の業界 (歴史学界) では言っている」と発言して
   いましたが、史料批判とは、誰が何のために、どのような目的で書を書いているのか? というのを徹底的に
   調べて、書かれてある内容が正しいか? どうか? を選別してから信じたり引用したりする事のようです。

  ⑤ できるだけ複数の文献や史料とすり合わせる。
   江戸時代を知る為の本は色々とありますが、最も多く引用されているのは『守貞漫稿』です。
   しかし、守貞漫稿に書かれてある記述の全てが正しいとは限りません。なので、他の別で書かれた文献や史料と
   合せて、歴史的な流れや他の文化の歴史と合わせ総合的に何がより正しいのか考えて判断する必要があります。

  柄が織り込まれた一枚の布があったとしましょう。「その柄がその時代の文化を表した物」だとして、縦糸はそれぞれの
  文化の歴史を色づけた物、横糸は様々な事に影響を与える大きな事柄 (貿易・政策・災害・技術革新・物品の普及など)。

  海外との貿易または異国人の渡来での持込みがなければ、日本に無い植物が勝手に生えてくる事はありませんし、
  陸上生活の動物が存在する事もありません。電気が発明される以前に電球は存在しません。

  一つの物の歴史 (縦糸) だけを見て、正しいように解説されている事でも、他の事柄の歴史 (縦糸) と横糸を合わせると
  間違っている事 (図柄) が見えてきます。
  布に表された図柄に一部だけ違和感がある異なる色が存在 (例えば、全体が海の青い色なのに、一つの部分だけが
  赤になっている) している場合は、その違和感がある赤はおかしい可能性が非常に高い事が分かります。

  当サイトの情報が正しいとは限りませんので、上記リンクしてある文献などもご自分で直接読んでみて下さい。


  関西テレビ 報道ランナー 『若者の"読解力"がピンチ? なぜ低下? 実態を調査!』 19.12.12 放送

  ≪ 日本人の「読解力の低下」 ≫ NHKはニュース配信が消えるのが早いそうなので、産経新聞サイトもリンクしておきました。

  NHK NEWS WEB 『国際学力調査 日本 課題の読解力で15位 前回より下がる』 19.12.03 配信
   https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191203/k10012200591000.html

  世界各国の15歳の学力を測る国際学力調査の結果が公表されました。日本の子どもは科学と数学はトップレベルを
  維持しましたが、課題とされている読解力は前回より低い15位でした。専門家は「今の学校は英語や道徳など新たな課題が
  山積し、読解力の育成が難しくなっている」と指摘しています。「PISA(ピザ)」と呼ばれるこの国際学力調査は、OECD=
  経済協力開発機構が世界の15歳を対象に科学と数学、それに読解力を測定するため、3年に一度実施しています。
  去年の調査には世界79の国と地域から、日本の高校1年生を含む、60万人の子どもが参加し、その結果が公表されました。
  日本の子どもの結果は、科学が529点で前回の2015年の時と比べて、順位は3つ低い5位、数学は527点で順位は1つ低い
  6位で、いずれも順位は下げましたがトップレベルでした。

  産経新聞 『【主張】国際学力調査 情報に溺れない読解力を』 19.12.04 配信
   https://www.sankei.com/life/news/191204/lif1912040005-n1.html

  今回の国際学力調査で問題となったのは「読解力」。2000年調査で8位、2003年調査で14位。2006年の調査では15位。
  この2003、2006年では科学的リテラシー・数学的リテラシーも低下しており、これを受けて「ゆとり教育」が廃止になりました。

  2018年調査で、読解力が「ゆとり教育」の時と同様の15位になった事を、文科省は「SNS普及による短文コミュニケーションで
  長文離れがおき、文章から情報を探し出す力が落ちたのでは」と分析しているようです。

  国立情報学研究所の新井紀子 教授は「文章のキーワードだけを抽出して読む"AI読み"が原因で、大体こういう話だろうなと
  読んだ気になっている」と解析しています。
  同教授によると、新聞や教科書に出てくる文章を正確に読解できない子供が中学卒業時点で3~5割近くいるそうです。






  ところが、OECD 国際成人力の調査によると、読解力の低下は子供だけでなく、25-34才をピークとして、高齢になるほど
  読解力が落ちていき、50-54才と16-19才がほぼ同等の読解力となっています。

  【読解】どっ‐かい … 文章を読んでその意味を理解し、解釈すること。「―力」

  2011年に国立情報学研究所が立ち上げた「ロボットは東大に入れるか」というテーマのプロジェクトにおいて、東大入試合格を
  目指して人工知能を開発したロボット 愛知県に本社を置くデンソー製) に大学入試を受けさせた結果、国公立を含む7割の
  大学で、合格率80%という結果。
  しかし、AIは研究改良を続けても、読解力の向上は見られず、東大合格は難しいというのが現状。
  つまり、人間がAIに勝てる分野は「読解力」なので、今回の読解力の低下は非常に問題視されているのです。






  新井紀子教授によると、読解力を鍛えるには日本昔話を読む事。
  難しい文章にチャレンジしても、分からない所を理解しないまま飛ばすので、結局、キーワードだけで理解するAI読み
  になるので、難しい文章はそれなりに読解力が付いてからにした方が良いようです。

  ロボスタ 『【美しいフォルム】DENSO「東ロボ手くん」は温かさを感じる回答代筆ロボットアーム』 17.10.03 配信
   https://robotstart.info/2017/10/03/ceatec-denso-01.html

  江戸時代の文献は現代字とは異なりますので、訳されたものを読んだ方がいいと思いますが、原文も書かれてある
  本を選んだ方が良いでしょう。

 
 【江戸時代の主な重要文献と著者】
  ≪ よく引用される江戸時代の考証文献 ≫

  文献引用前に江戸時代の出版事情を知っておく必要があります。
  江戸時代初期から100年近くは京都での出版がほとんど、大坂では元禄年間になってから出版が始まります。
  江戸では初期から出版がなされていたものの、江戸時代中期まで京坂で出版された本をタイトルや一部変えて
  出版するのが普通だったようです。

  出版された刊行本と、手書きで写された写本というのがあります。
  江戸時代後期になると、三都の出版元がお金を出し合って刊行する本が増えてきます。出版も数年後に再版する
  場合も多いですので、初版のデータが重要になってきます。
  「いつ」「どこの誰が」「どのような意図で」「どこで出版されたか」が、とても重要です。

  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸 1750年頃までの江戸の出版は上方本のパクリがほとんど。

  「国立国会デジタル図書館」や「人文学オープンデータ共同利用センター」などでは、著作権が切れた昔の
  文献がネットで公開されており無料ダウンロードも可能なので、できるだけリンクしておきました。
  一部を抜き出して歪曲解釈する御都合情報が溢れているので、原文を確認してから歴史を語りましょう。
  東京 (学者・メディア・一般人も) が、よくやっている事です。歪曲解釈に騙されると恥をかくのはアナタですから。


  【日本永代蔵】にっぽん‐えいたいぐら
   浮世草子。井原西鶴作。6巻6冊。1688年(貞享5)刊。各巻5章、30話。町人たちの致富に対するたくましい意欲と
   盛衰の物語。町人物の初め。

  【井原西鶴】いはら‐さいかく (大坂の人、1642~1693)
   江戸前期の浮世草子作者・俳人。本名、平山藤五。西山宗因の門に入って談林風を学び、矢数俳諧で一昼夜2万
   3500句の記録を立て、オランダ西鶴と異名された。師の没後、浮世草子を作る。作品はよく雅俗語を折衷、物語の
   伝統を破って、性欲・物欲に支配されて行く人間性をいきいきと見せ、元禄前後の享楽世界を描いた好色物、義理
   堅い武士気質を写した武家物、町人の経済生活を描いた町人物などに特色がある。
   作「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」「本朝
   二十不孝」「西鶴織留」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。広辞苑

  『嬉遊笑覧』などで、江戸時代中期の元禄頃の考証に井原西鶴の作品から引用される事が多いようです。

  【西沢一風】にしざわ‐いっぷう (大坂の書肆しょし、1665~1731)
   江戸前期の浮世草子・浄瑠璃作者。名は義教、通称九左衛門。別号、与志・朝義など。浮世草子の大衆化に功が
   あった。浄瑠璃「北条時頼記じらいき」、浮世草子「新色しんしき五巻書」「御前義経記」、著「今昔操年代記いまむかし
   あやつりねんだいき」など。)

  【重宝記】ちょうほうき 江戸時代のマニュアル・ハウツー実用本 多くは大坂で刊行。

  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf
  神戸女子大学 古典芸能研究センター 『近世の家政学―重宝記・料理本の世界』 2001.12.08
   http://www.yg.kobe-wu.ac.jp/geinou/07-exhibition3/06-ten_kase.html ← 江戸時代の各 重宝記や料理書などが解説されています。

 重宝記は江戸時代の百科事典といえる。

  日常生活に必要な知識を種類・項目別に集めてわかりやすく解説した、その名称が示すとおり「重宝」な書物であった。
  そこに記された知識は学芸・歴史・社会・風俗・故実・倫理・実用と多岐にわたり、江戸時代を通じて刊行された
  重宝記の種類は相当数になる。
  ことに元禄五年の『女重宝記』同六年の『男重宝記』刊行以後、様々な重宝記類が矢継早に刊行されるのである。
  その様は元禄十五年刊 都の錦 作の浮世草子『元禄太平記』に
  「すでに大坂において、家内重宝記が出来始めしより此かた、其類棟に充ち牛に汗するほどあり」と記されている。

  1692年の女重宝記と1693年の男重宝記の著者は判明しており、苗村丈伯なむらじようはく (近江の人、1674~1748) で
  京都に住んだ医師・仮名草子作者。これら重宝記は京都や大坂で刊行されたもののようです。

  各種の重宝記が訳されて一般公開されると、これまでの通説を覆すような発見が多くできそうな気がします。


  【元禄太平記】げんろく-たいへいき
   浮世草子。都の錦 (本名 宍戸与一、1675~) 作。8巻8冊。1702 (元禄15) 年刊。伏見の夜船で。京・大坂の本屋が
   出版界の情況。作者・学者の評判等を語り合う筋で、一種の文化時評的性格を持つ。井原西鶴批判でも有名。広辞苑

  【都の錦】みやこのにしき (1675~?) コトバンク『都の錦』
   江戸時代中期の浮世草子作者。姓,宍戸,また八田。名,光風。通称,与一。号,鉄舟。ほかに梅薗堂などを名
   のった。播磨国佐用郡の神官であったが,のち大坂に上り西沢一風の世話で『元禄曾我物語』 (1702) を著わし,
   2年間に数部の浮世草子を出した。
   元禄16 (03) 年立身を願って江戸に下ったが無宿改めのために捕えられ,薩摩の山ヶ野金山に送られた。その後
   脱走するが捕えられ入牢,出所後薩摩鹿籠金山に移され,宝永6 (09) 年大赦により放免。大坂に戻り再び作家生活を
   おくったが,その後の消息は不明。作品は衒学的傾向が強い。代表作『元禄大平記』 『沖津白波』 『当世智恵鑑』 。


  【本朝食鑑】ほんちょうしょっかん、ほんちょうしょくかがみ
   本草書。人見必大著。12巻。1697年(元禄10)刊。明の李時珍著「本草綱目」にならいつつも、実地検証を踏まえ、
   食用・薬用になる植物・動物について漢文体で記した書。 広辞苑
   医家の人見必大(ひとみひつだい)が1692年(元禄5)に著した遺稿を,子の元浩が岸和田藩主岡部侯の出版助成を
   うけ,97年に12巻10冊本として刊行した。庶民の日常生活の食膳にのぼることの多い国産食物に重点をおき,実地
   検証したものに限って品目を撰定,品名も従来の食物本草書にみるような漢名中心を排し,和名中心としている。
   コトバンク『人見必大』
   出版元は不明 (早稲田大学サイト) や、江戸で出版されたというサイトもありますが、国立国会図書館デジタル
   資料のサイトでは、出版元、摂州(摂津国、大阪の北摂と兵庫東部)の平野屋勝左衛門」となっています。岸和田は
   大阪の泉州地域です。
   本朝食鑑の末尾には摂陽 平野屋勝左衛門 開版」と書かれてあり、広辞苑では「開版=新しく版木を彫ること。
   出版すること。」とありますので、「摂陽=摂津」。大坂で出版された事は間違いないでしょう。
   人文学オープンデータ共同利用センター 『本朝食鑑』 元禄10年版? http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249595/
   本朝食鑑1 刊年不明 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557332
   本朝食鑑2 刊年不明 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557333
   本朝食鑑3 刊年不明 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557334

  【人見必大】ひとみひつだい (1642~1701)
  コトバンク『人見必大』
   江戸前期の本草学者,食物研究家。幕府の侍医随祥院元徳の子。小野必大が本来の氏名で,中国風に野必大とも
   名乗った。先祖が源頼朝から人見姓を与えられたとの伝承により,人見姓を通称とした。千里,丹岳とも号した。
   食生活が豊かになり,食物と健康の関係に関心が集まった元禄期に,本格的な食物本草の書『本草食鑑』(1697)を
   刊行した。
   同書は多数の食品を健康への良否を中心に解説し,民間行事や民間伝承の紹介も多く民俗学的にも重要視されて
   いる。延宝1(1673)年,禄300石を継ぎ,幕府の医官として波乱なく過ごした

   父親の人見玄徳必は、小児科医で、はじめ朝廷につかえ,寛永14年将軍徳川家光の娘千代姫の病気治療のため,
   江戸におもむいた。コトバンク『人見玄徳』

   父は京都の朝廷、子は岸和田藩なので、京か大坂の人の可能性が高い。また1860年の紀州藩の参勤交代時の
   各所の名所案内として『御道中御道割川河』を記した紀州藩士は人見宗覚。


  【和漢三才図会】わかんさんさいずえ
   江戸時代の図入り百科事典。寺島良安著。105巻81冊。明の王圻おうきの「三才図会」にならって、和漢古今にわたる
   事物を天文・人倫・土地・山水・本草など天・人・地の3部に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。正徳2年
   (1712)自序、同3年林鳳岡ほか序。和漢三才図会略。 広辞苑
   編集者は大坂の医師 寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭された
   ことが編集の動機であった。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  【寺島良安】てらしま‐りょうあん (羽後生れ、生没年未詳、大坂の御城入医師)
   江戸中期の漢方医。号は杏林堂。法橋ほっきょう。和漢の学に精通。「和漢三才図会」105巻を著述。広辞苑
   ※ 羽後生まれとなっていますが、和漢三才図会には東北の記述は非常に少ないので、育ちは大坂かも知れません。

  〔 和漢三才図会 〕

  地の部巻64~80には日本各国の郡や神社仏閣を合わせた由来や歴史などが書かれてあり、ざっと読めば日本の
  歴史など凡そが把握できる内容記述となっています。昔の郡名・寺社の石高や縁起、当国で産する物など。
  和漢三才図会の各地の記述から主要項目をピックアップ 史実発見や町おこしのネタの手がかりになるかも。


  【本朝世事談綺】ほんちょうせじだんき 1734 (享保19) 刊、著者は菊岡沾涼
   『守貞万稿』に「世事談に・・・」とある世事談=本朝世事談綺の事です。
  本朝世事談綺 1巻 天保7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557384 草書体です。

  【菊岡沾涼】きくおかせんりょう (伊賀上野の人、1680~1747)  Wiki 菊岡沾凉
  コトバンク『菊岡沾涼』
   江戸中期の俳人。伊賀上野(三重県)の人で,のち江戸に住む。飯束三悦の実子で,菊岡行尚の養子となる。別号,
   崔下庵,南仙斎など。俳諧においては,芳賀一晶について南仙,内藤露沾について沾涼,と号した。点者としての活躍も
   注目されるが,『綾錦』『鳥山彦』に俳人の系譜などを整理し,譬喩俳諧批判におよんだことは有名。俳壇的野心を
   持ちあわせると同時に,和漢の学に通暁した人。『江戸砂子』などの地誌や考証書もある。
   <参考文献>島田筑波「金工菊岡光行」(『島田筑波集』上)


  【日本山海名物図会】全5巻   コトバンク 『日本山海名物図会』
   1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画のは日本各地の名物を描いた絵本。
  日本山海名物図会 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2606906


  【日本山海名産図会】全5巻 コトパンク 『日本山海名産図会』
   関月 (大坂で活躍した浮世絵師) 画。木村蒹葭堂 (大坂の酒屋業) 序。撰者は蒹葭堂ともいうが不詳。
   《日本山海名物図会》再板(1797年)のあとをうけて1799年大阪の塩屋長兵衛を板元として刊行。
   各国の農林水産,酒造,陶器,織物などを図説したもの。
  人文学オープンデータ共同利用センター 『日本山海名産図会』 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249892/


  【嬉遊笑覧】きゆうしょうらん
   江戸後期の類書。喜多村信節のぶよ著。12巻、付録1巻。文政13年(1830)自序。部類を分け、和漢の書から特に
   近世の風俗習慣や歌舞音曲に関する事物を集めて叙述・考証したもの。 広辞苑
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104

  【喜多村信節】きたむら‐のぶよ (江戸の人、1783~1856)
   江戸後期の国学者・考証家。節信ときのぶとも称した。庭筠いんてい・静斎・静舎などと号。博覧強記で、風俗や雑事を
   考証した。著「嬉遊笑覧」「瓦礫雑考」「庭筠雑考」など。広辞苑


  【皇都午睡】みやこのひるね、こうとごすい
   三編 (上之卷・中之卷・下之卷)、執筆は幕末嘉永年間 (1848~1855) で、1883 (明治16) 年10月頃の出版。
   ネットで探しても、2019年10月現在、三編しか見当たらず、くわしい事は読んでみるしかありません。
   著者の西沢一鳳が江戸を見物し、三都の言葉の違いなどが詳しく書いてあり、三田村鳶魚や柳田國男など民俗学
   研究の考証に引用されています。
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9

  【西沢一鳳軒】にしざわ‐いっぽうけん (大坂の書肆、西沢一風の玄孫。1801~1852)
   江戸後期の歌舞伎脚本作者・戯作者。別号、狂言綺語堂・李叟など。晩年には著述に没頭。
   著「伝奇作書」「皇都午睡」など。 広辞苑
  コトバンク 『西沢一鳳』
   江戸後期,上方の歌舞伎狂言作者,考証家。通称正本屋利助ほか。号は李叟,狂言綺語堂ほか。俳名秋声庵蒼々,滄々。
   西沢一風の曾孫として大坂の演劇書肆の家に生まれ,家業のかたわら歌舞伎脚本の代作を楽しむが,天保2(1831)年
   以降は番付に狂言作者として名前を出し,大坂を中心に3代目中村歌右衛門らのために筆を執り,「花魁莟八総」など
   関与した作品は100を超える。創作の才には乏しく,むしろ長く劇界に携わった経験と文献を豊富に有する環境とを
   生かして著述した『皇都午睡』(1850),『伝奇作書』(51),『脚色余録』(同)ほかの演劇の考証随筆に見るべきものが多い
   Wiki 西沢一鳳

  1928 (昭和3) 年に出版された『郷土読本』(信濃教育会 編、出版 長野県 大日方利雄) P.105~118にも
  『三都の比較』として『皇都午睡』の言葉の違いの部分だけが抜粋されて掲載されています。
  郷土読本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109335


  【守貞謾稿】もりさだまんこう   Wiki 守貞謾稿
   (「守貞漫稿」とも)随筆。喜田川守貞著。30巻、後編4巻。1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を
   整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗研究に不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行。 広辞苑
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412

  類聚近世風俗志の「緒言」=まえがきの部分
   「未完や記入漏れ、誤字は訂正したけど漏れている場合も多い。文法などは改めていない。送り仮名なども
   不完全であり誤読の恐れがあるので読者は注意してください」というような事が書かれてあります。

  【喜田川守貞】きたがわもりさだ (大坂の人1810~?、31才頃から江戸に定住)
  コトバンク『喜田川守貞』
   江戸後期の風俗史家。本姓石原,名は庄兵衛,別に尾張部守貞と称し,季荘,舎山,月光庵と号した。喜田川は北川の代字
   かという。
   大坂に生まれ,商売で江戸に往来したようで,天保8(1837)年には江戸深川に仮寓したと思われる。11年9月以降は江戸に
   定住して砂糖を商う北川家を嗣ぎ,京,大坂,江戸3都の人情風俗を比較しながら記録する『守貞漫稿』を起筆した。
   これがのちに35巻の稿本として完成するが,その記述は嘉永6(1853)年にまでおよぶ大部なもので,明治41(1908)年『類聚
   近世風俗志』として刊行されている。


  〔 皇都午睡と守貞漫稿の注意点 〕

  【注意点】

  よく引用されますが、どちらも私見で書いている内容なので、具体的な内容が少ない物に関しては全て鵜呑みにしないで、
  歴史の流れや複数の文献で判断するべきです。
  特に江戸時代後期頃になると、様々な物が発展していきますので、1人の見聞随筆だけで断定するには無理があります。

  『皇都午睡』三編には、何度も「江戸は広い」「江戸は大きい」と出てきます。
  14ページくらいに、著者が勘定奉行まとめの幕府資料を見て「江戸人口2億人以上」で驚くも信用してしまっているような
  記述があるからだと思います。(印象操作に嵌っている?)

  著者は大坂の書店主の西沢一鳳。主に浄瑠璃や歌舞伎の脚本や文献を収集し、晩年は主に演劇の時代考証を主と
  しました。京・大坂・江戸の言葉の違いなどにも触れています。
  こちらは守貞謾稿に比べ、長文と同様の内容が散見されるため、原文を出して引用するのは大変です。
  当サイトが参照したものにはページ数が書いてありませんので、冒頭の書き出しを少し書いてあります。

  『守貞謾稿』には「=専もっぱ-ら」と「けたし(まさしく、確かに、もしや) =たぶん訓読みする際に読まない置字
  よく登場しますが、著者 喜田川守貞の口癖みたいな物と思われますので、それほど強い意味と捕えない方が良さそうです。
  「=か」もよく登場します。守貞自体があまり詳しく知らない場合の「かも知れない?」の意味で使われています。

  喜田川守貞も西沢一鳳も大坂生まれですが、江戸と上方の違いを見る視点がかなり違うように思います。

  喜田川守貞は「京坂は○○であるが、江戸はこうだ」という 江戸の住人としての視点。江戸擁護の文もあります。
  西沢一鳳は「江戸 (東都) は○○であるが、上方はこうだ」という 大坂人としての視点の書き方をしています。

  一部の記述は簡単に訳してあります。誤訳もあると思いますので、上記リンク先で原文を確認して下さい。
  原文にある旧字の読み方や解説等は当サイトの抜粋部分に残しておきますので、訳する時に参照して下さい。

  『嬉遊笑覧』は、事柄に対して、様々な文献の記述を書きだして集めた物。だいたい古い文献の順から書いてあるよう
  ですが、ほとんどの文献は何年とは書いてありません。文献事で区切らず続きで書かれており編者の個人的な意見も
  混じっているところもあるので、その点に注意が必要です。


  【江戸時代のさまざま】
   博文館 昭和4年2月発行、タイトル通りですが、特に江戸の事について書いてあります。
   考証文献としてふさわいくらい詳しく書いてありますが、『皇都午睡』や『東京年中行事』などともに江戸・東京人に
   とっては見たくない信じたくない事実が書かれてあるので、あまり引用されていないようです。
   ですが、『守貞万稿』なども含め、書かれてある事は他の文献や史料などとも辻褄が合います。
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 1929 (昭和4年) 刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  江戸年中行事 三田村鳶魚 1927 (昭和2年) 刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464045/1

  【三田村鳶魚】みたむら‐えんぎょ (東京生れ、1870~1952) 江戸ッ子研究の第一人者とも言われています。
   江戸の風俗・文学の研究者。名は玄竜。「未刊随筆百種」などを編纂。著書「大奥の女中」「江戸雑話」、輪講記録
   「膝栗毛輪講」など。 広辞苑
  コトバンク 『三田村鳶魚』
  東京八王子に,三田村善平の次男として生まれた。新聞記者、僧侶などを経て自由民権運動に入り、明治末年から
  江戸風俗・文学・芝居などの研究に専心。江戸の政治、風俗、文学、文化のすべてにわたって研究し、膨大な業績を
  残した。


  【東京年中行事】1911 (明治44) 年に執筆&出版。著者は若月紫蘭
   明治末期の東京の様子が書かれてあります。
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465

  【若月紫蘭】わかつきしらん (本名は若月保治、1879~1962年、山口出身、東京帝大卒)
   コトバンク『若月紫蘭』
   1879-1962明治-昭和時代の劇作家,演劇研究家。明治12年2月10日生まれ。41年「万朝報」の記者となり,大正10年
   「人と芸術」を創刊。翌年新劇研究所を設立した。のち東洋大教授。昭和37年7月22日死去。83歳。山口県出身。
   東京帝大卒。本名は保治。著作に「古浄瑠璃(じょうるり)の新研究」,戯曲集「滅び行く家」など。

   教育者・記者・劇作家・演劇研究家・浄瑠璃研究家・翻訳家など多方面で活躍しました。 Wiki 若月紫蘭


  ≪ 地誌・名所図会 ≫  Wiki 名所図会より  書きかけ

  1682~1686年の『雍州府志ようしゅうふし(山城国=京都南部の総合的・体系的な地誌)』


  名所図会(めいしょずえ)は、江戸時代末期に刊行された江戸畿内をはじめとして諸国の名所旧跡・景勝地の由緒
  来歴や各地の交通事情を記し、写実的な風景画を多数添えた通俗地誌

  秋里籬島の『都名所図会』以降、多くの類書が作られており、名所図会ブームともいえる状況があった。

  都名所図会(安永9年(1780年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
  大和名所図会(寛政3年(1791年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
  和泉名所図会(寛政8年(1796年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
  摂津名所図会(寛政8年(1796年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
  東海道名所図会(寛政9年(1797年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎ほか・画
  伊勢参宮名所図会(寛政9年(1797年)刊) 著者不詳、蔀関月・画
  河内名所図会(享和元年(1801年)刊) 秋里籬島・著、丹羽桃渓・画
  木曽路名所図会(文化2年(1805年)刊) 秋里籬島・著、西村中和・画
  江戸名所図会(天保7年(1836年)刊) 斎藤月岑・著、長谷川雪旦・画
  尾張名所図会(天保15年(1844年)刊) 深田正韶・著、小田切春江・画
  善光寺道名所図会(嘉永2年(1849年)刊) 豊田利忠・著画、小田切春江・補画

  東海道名所図会 上冊 1910(明治43)年 東京 吉川弘文館 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765194/142
  東海道名所図会 上冊 1910(明治43)年 東京 吉川弘文館 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765195
  江戸名所図会 1834-1836 (天保5~7) 年 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2607785


  ≪ 外国人の滞在記・旅行記 ≫

  【ツンベルク日本紀行】(翻訳 山田珠樹、東京市神田の奥川書房 出版)
   1776 (安永5) 年に書かれた日本旅行記。翻訳され出版された1941 (昭和16) 年版です。
  異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
  ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693

  【ツンベルク】Carl Peter Thunberg (1743~1828、スウェーデンの植物学者・医学者)
   シーボルト以前の日本研究の第一人者。リンネに学ぶ。オランダ東インド会社に入り、1775年(安永4)長崎オランダ
   商館医として来日、翌年出国。著「ヨーロッパ・アフリカ・アジア旅行記」「日本植物誌」。ツンベリー。

  異国叢書[第6] ケンプエル江戸参府紀行:上巻 を所収 1927 (昭和2) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876448
  異国叢書[第9] ケンプエル江戸参府紀行:下巻 を所収 1929 (昭和4) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1195335
  異国叢書[第5] ヅーフ日本回想録&フィッセル参府紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179830
  ペルリ提督 日本遠征記 1912 (明治45) 年 東京の大同館 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992335

  外国人の滞在記は「どこを見て書いたのか」などが重要になってきます。江戸参府の場合は長崎出島出発で
  下関辺りから船で瀬戸内海を渡り大坂から東海道を歩いて江戸まで辿りつきますので、書かれた内容は
  そのルートで見たものがほとんどという事になります。

  幕末になると、幕府によって外国人の行動範囲は制限されますので、江戸の町は幕府にとって都合の良い部分だけを
  案内していると考えるべきで、それらだけを見て書いている記録は割り引いて考える必要があります。


  ≪ 食関連の文献 ≫   江戸時代に出版された主な菓子の専門書

  〔 元禄時代より前の重要な料理書 〕

  千葉大学教育学部紀要に掲載 (農林省食品総合所の「古典料理の研究」)による選出では

  『庖丁秘密』、『1643 (寛永20) 年 料理物語 著者は大坂の可能性が高い 最重要書』、『庖丁書録』、
  『1668 (寛文8) 年 『料理塩梅集 塩見坂梅庵 著、大坂の可能性が高い』『新版料理献立集』、
  『1674 (延宝2) 年 江戸料理集 江戸 (他のサイトによると古今料理集のアレンジ版らしいです。)』の6書だそうです。

  下リンクの国文学研究資料館のリストには、江戸時代に書かれた料理・飲食関連の文献は1200弱ほどあります。
  これらが現代訳されて公開が進めば、食の歴史は更に早まる可能性が高いです。
  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf

  以前に書かれた記述とほぼ似たような内容の本も多く、重要な本は限られてくるようです。
  最も重要な本が、庶民向けとして始めて書かれた料理専門書と言われる『料理物語』です。

  【料理物語】
   料理書。著者未詳。1冊。1643年(寛永20)刊。
   魚・鳥・野菜などの料理の材料76種の名称と、それに適する料理を列記し、料理法を略述。
   有職故実の記述ではなく、庶民の日常食を記す。 江戸時代の代表的な最も重要な料理書の一つ「料理物語」
  東京都立図書館デジタルライブラリー 『1.料理物語』
  http://www.library.metro.tokyo.jp/digital_library/collection/the8/tabid/1988/Default.aspx
  1915 (大正4) 年出版 国書刊行会出版 雑芸叢書. 第一 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1869566 に収蔵されている
  『料理物語』1664(寛文4)年 高橋清兵衛版 コマ番号175~187 P.320~345


  1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著
   (写本=出版されず手書きで内容を写した本。言葉と内容、出版状況などから大坂で書かれたと推測しています。)根拠

  『料理塩梅集には、「ねぶか=関西でのネギの意味」「なすび」。江戸時代、笊 (ざる) の事「いかき」と言うのは主に
  上方と東北地方での称。「白味噌と赤味噌の合味噌」「鰹と昆布の合出汁」など上方の料理法などもよく登場します。
  塩気の無いカマボコが食されるとすれば、生産地の大坂であって京都ではない。
  うけいり味噌仕方 上件の味噌合にする うけいりとは かまぼこの塩の不入を云也…
  また、小菜中菜汁之事 京葉汁無別儀には京のちやこ女が…いふはとあり、著者が京都人であれば、このような
  記述は書かないと思われます。「ちやこ=ちゃこ (飯盛り女、旅宿や料理屋の女中) の事」。
  この本は刊行 (出版) 本ではない事。大坂での初の出版は1673年の生玉万句と言われています。
  それ以前に全国に流通する本の出版は京都のみで行われていました。現在まで料理塩梅集複数冊残っている
  という事は多く写本されていたからで、それだけ価値がある本が京都で書かれていれば出版されているはずですから。

  農林省食品総合研究所によると、写本が確認されているのは4点。玉里文庫本 (鹿児島大学付属図書館、美濃判、島津
  斉彬の蔵書印あり)、加賀文庫本 (東京都中央図書館、美濃判、元禄3年の写本)、狩野文庫本 (東北大学付属図書館、
  半紙判)、石泰文庫本 (「料理聞書」のタイトルで元禄3年写本)。他に「料理聞覚」タイトル本あり。

  当サイトでは、農林省食品総合研究所が玉里本を翻刻した歴史研究発表『古典料理の研究(二)-料理塩梅集について-
   (千葉大学教育学部研究紀要 第25巻 第2部に収監されています。) を基本的に参照しました。
  千葉大学 教育学部 研究紀要 第25巻 第2部 『古典料理の研究 (二) 料理塩梅集について』
   http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715150.pdf?id=ART0007458558


  〔 元禄時代以降の料理書など 〕

  1689 (元禄2) 年初版の『合類日用料理指南書抄』(中川茂兵衛、京都で出版 坂上庄兵衛、他)
   人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 『合類日用料理指南書抄』 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249511/


  1732 (享保17年) の『満金産業袋はんきんすぎはひぶくろ』(三宅也来 (京都人と推測されています) 編、出版地は京都か大坂)
   コトバンク『萬金産業袋』


  1746年成立の『黒白精味集』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) 見聞きしたものを集めた書。
   数少ない獣肉に関する調理レシピなどが多く書かれた書です。獣肉の部分は、この本のオリジナルと思われています。
   中巻と下巻のほとんどは『四季料理献立 (成立年など不詳、著者は江戸在住か?)』と、ほぼ同じ。
   どちらが先かは、千葉大学の紀要論文で明言されていませんが、四季料理献立の方が先と思われます。
   千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 『黒白精味集』
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf


  1749年 (寛延2) 刊の『料理山海郷』と、1764年 (宝暦14・明和元年) 『料理珍味集』(京都の園趣堂主人、京都で出版)
   コトバンク 『料理山海郷』 https://kotobank.jp/word/%E6%96%99%E7%90%86%E5%B1%B1%E6%B5%B7%E9%83%B7-1607487
  江戸時代の地方料理書。1749年(寛延2)刊。著者は博望子(はくぼうし)。諸国の名物珍味が書かれているが、分類
  整理はされていない。桑名時雨蛤(くわなしぐれはまぐり)から菊葉酒(きくようしゅ)まで230の料理が書かれている。
  『料理珍味集』も同じ著者によって1764年(宝暦14)に『料理山海郷』の後編として出版された。長崎打鯛(うちだい)から
  玉子蕎麦切(そばきり)まで230の料理法が記されていて、両書とも巻の一から五まで。
  山海郷の名にふさわしく産地名のついた料理が多いが、珍味集にとくに顕著である。尾張(おわり)(愛知県)の「きしめん」
  も、『料理山海郷』によると、かなり今日のものに近いことがわかるなどして興味深い。
   ※ 博望子のペンネームが園趣堂主人です。
  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 『料理山海郷 1750年版』 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200021979/
  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 『料理珍味集』 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249537/


  1751(寛延4) 年の『蕎麦全書』 日新舎友蕎子 (江戸在住) 著
   江戸時代における唯一の蕎麦の専門書。


  1782(天明2)年初出版の『豆腐百珍』と『豆腐百珍続編』(著者は大坂の曽谷学川と推測されている) 写本出版
  (著者ペンネームは浪華 酔狂道人すいきょうどうじん)  Wiki 豆腐百珍 Wiki 曽谷学川
  1783年出版の『豆腐百珍続編』も浪華 酔狂道人 著。

  1788年の『豆腐百珍余録』は、別著者による「豆華集」が改題・出版されたもの。

  豆腐百珍 1782(天明2)年 醒狂道人何必醇 集、藤屋善七 出版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536494
  豆腐百珍続編 1783(天明3)年 醒狂道人何必醇 集、北尾善七 [ほか4名] 出版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536546
  豆腐百珍余録 1784(天明4)年? 何必醇 著 (手書き写本) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536674

  ※『豆腐百珍余録』は1784年または1788年出版? 醒狂道人何必醇かひつじゅんで1人? 醒狂道人と何必醇は別人?
   豆腐百珍系は大ベストセラーの為、微妙に異なるバージョンがあって、曖昧な点も多いようです。

  1785年(天明5)の『萬宝料理秘密箱』(通称「卵百珍」、著者は京都の器土堂の主人)
  人文学オープンデータ共同利用センター 『「万宝料理秘密箱 卵百珍」レシピ一覧』  このサイトは豆腐百珍などの多く古文献データがあります。
   http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C


  1786(天明5) 年の『諸国名産大根料理秘伝抄しょこくめいさんだいこんりょうりひでんしょう』(著者は不明だが器土堂の主人と
  思われる)・『大根庖丁物切方之秘傳だいこんほうちょうものきりかたのひでん』出版は京都の西村市郎右衛門[ほか5]
  平安 (京都3名)・大坂・東都 (江戸)・伊州 (伊賀=三重県西部) が出版。
  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536547
  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249502/


  1789 (寛政1) 年の『甘薯百珍』(著者は大阪の珍古楼主人が輯=集めたもの、大坂で出版)
   甘薯百珍 1816(文化13)年の大坂書林版  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9893271 <


  江戸時代は本草学の研究が進みました。「医食同源」という事で本草学書にも食に関する記述が普通にあります。

 
 【江戸時代の三都  京・大坂・江戸】 幕末まで大坂一番繁栄していました
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸幕府の確立』 14.09.19 放送 / 同 『江戸時代・近世の経済と産業』 14.10.03 放送
  読売テレビ ten. 『日本の原風景が残る「日本民家集落博物館」を調査』 17.07.26 放送
  TBS 水トク! 林修の歴史ミステリー 『新説! 德川埋蔵金 東京湾に眠る黄金を探せ!』 17.11.15 放送
  日本テレビ 所さんの目がテン! 『江戸時代の「長屋暮らし」を体験 18.04.01 放送
  関西テレビ 池上彰の関西人が知らないKANSAI 19.01.19再放送
  江戸 人々の暮らし http://youtu.be/J02Z3hPG7yM
  江戸食文化紀行 -江戸の美味探訪- 『No.271 食い倒れ』 http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no271.html
  故事ことわざ辞典 『京の着倒れ、大阪の食い倒れ』 http://kotowaza-allguide.com/ki/kyounokidaore.html

  ≪ 江戸時代も幕末においても、引き続き、京坂が学問・知識・技術・文化最先端 ≫

  テレビなどは大坂を取り上げず江戸ばかりの情報を流すので、江戸が最先端だと思い込んでいる人が多いよう
  ですが、上方と比べ江戸というのは人口が多いだけで情報の遅れた田舎の大都市にすぎなかったのです。





  日本各地の特産品は京都・大坂を中心とした上方から技術などを取り入れて出来た物が多いです。
  学問は京都から、庶民の生活に関する知識や物資などは大坂で刊行された重宝記類の本と、北前船・菱垣廻船・
  樽廻船など当時物流の主流であった廻船によって伝わりました。





  ≪江戸時代 三大都市を表す言葉 と 各地を指すことわざ≫

  京都の「着倒れ」
  西陣織などの呉服産業、京都のお洒落なファッション文化などから。着るものに金をかけすぎて財産をなくすこと。

  大坂の「食い倒れ」
   天下の台所として、米をはじめ多くの物資が集まった事などから。飲食に金をかけすぎて財産をなくすこと。

  江戸の「呑み倒れ」  江戸の呑み倒れ 江戸時代中期以降 酒が貧乏徳利で大量に消費された。
  最大の人口を誇り、特に酒の消費が多かった事から。酒に金をかけすぎて財産をなくすこと。
  また、江戸は「買い倒れ」という言葉もあります。独身男性が多く、遊郭や湯女、夜鷹など売春関連が多かった。
  江戸で男女比が同じくらいになったのは、江戸時代の末期頃のようです。


京の着倒れ 大坂の喰倒れ 江戸の呑倒れ 歌川豊国(三代目)画  『魚づくし』組本社刊





  1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家) 巻十上 (飲食)「倒れ喰
   嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104 P.454 参照
  俗諺に独活の喰倒れといふはもとさにあらず【元禄曾我物語 (1702年刊、京都の都の錦 著)】に「実にまこと京は
  着てはて大坂は食て果るとかや」云々 此をとりたるなり

  これにならって、他県・他国(主に近隣)との対照的な違いを指したことわざがあります。
   「阿波の着倒れ、伊予の食い倒れ」  「因幡の食い倒れ」  「越後の食い倒れ、上州の着倒れ」  「江戸の食い倒れ」 
   「尾張の食い倒れ、美濃の差し倒れ」  「関東の食い倒れ」  「関東の食い倒れ、上方の着倒れ」
   「紀州の着倒れ、水戸の飲み倒れ、尾張の食い倒れ」  「桐生の着倒れ、足利の食い倒れ」  「堺の食い倒れ」  「信濃の食い倒れ」
   「下総の食い倒れ、常陸の着倒れ」  「備前の着倒れ、因幡の食い倒れ、作州の家倒れ」

  三都の気質の違い 江戸ッ子とは? ほぼ現在言われているのと近い都府民気質のようです。


  ≪ 京都 ≫

  平安時代からの都。東京では江戸首都論を唱える人がいますが、江戸時代の文献では「京」「洛陽」「京師」などの
  言葉が使われており、また天皇の居住地が都 (「首都」は明治以降に使われる言葉) であると見做すのが慣例である
  事から、江戸時代の首都は京都です。

   国土交通省HPに掲載されている『江戸首都論』 (著者は東京生まれの大石学 東京学芸大学教授、歴史考証家)

  江戸時代の京都の人口は約30万人ほどと言われており、江戸・大坂の次に人口が多かったようです。
  現在の日本では首都という定義が明確に法律で定められていないので、現在の首都が「京都」だと主張する京都人も
  いるようですが、現在の首都は東京です。

  【京師】けい-し … (「京」は大、「師」は衆の意) みやこ。首都。京都。平家物語「―の長吏」

  室町時代の応仁の乱以降、豊臣秀吉が朝廷・御所を復活させるまでの約100年間は低迷していましたが、
  それでも京都の街自体はある程度復活しており他の地域よりは遥かに高い文化を維持していたようです。

  江戸時代初期~中期までの約100年間、全国で買える正式な出版はほぼ京都でのみ刊行されていました。
  着物産業の中心地で友禅も誕生するなど伝統工芸品や学者も多く学問や出版など文化が発展。
  江戸時代の食関連では和菓子と煎茶などを誕生完成させました。
  刺身や京懐石など和食のイメージがありますが、鮮魚は川魚が中心で海魚は少ない。
  懐石や割烹、出汁文化の完成など、和食を完成させたのは大坂です。

  Wiki 京都市内の通り

  秀吉が作った「御土居」と呼ばれる土壁と堀の内側、下記の3区がいわゆる桃山時代の『京都』です。

  【上京】かみ‐ぎょう … 京都北部の御所を中心とする一帯の地。かつて貴族が多く住んだ。
  【中京】なか‐ぎょう … 京都を上・中・下の三つに分けた中央部。丸太町辺から四条辺までをいった。
  【下京】しも‐ぎょう … 京都の二条通以南の称。中小の商人が住んだ。

お土居
 
NHKの歴史秘話ヒストリアによる聚楽第の天守閣のCG再現





  【聚楽第】じゅらく‐だい (近年、『じゅらくてい』と呼ぶ方が多いそうです。)
   (ジュラクテイとも)豊臣秀吉が京都に営んだ華麗壮大な邸宅。
   1587年(天正15)完成し、翌年 後陽成天皇を招き、諸大名に秀吉への忠誠を誓わせた。のち、秀次に譲り、その死後
   破却。大徳寺唐門・西本願寺飛雲閣などはその遺構と伝える。

  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん ← 超重要
   代表的な朱子学者には京都出身者が多く、江戸で将軍の侍講や昌平黌で教官を務めました。
   京都も朱子学的な考え方が強い地域と言えるでしょう。その為、どこに住んでいるとかで上下関係を決めるような思考
   をする人が京都市内にはまだまだ多く存在するようです。また都人というプライドも高い。東京に近い価値観です。
   金沢も京都のようにプライドが高い事で知られていますが、京都から代表的な朱子学派の学者を招いています。

  【上方】
   明治維新以前、京都に皇居があったため、京都およびその付近、また、広く畿内地方を呼びならわすようになった称。

  【上方筋】  (奈良・京都・大阪・滋賀・兵庫)
   江戸幕府で、畿内(大和・山城・河内・和泉・摂津)および近江・丹波・播磨の8カ国を一つの地方区として称したもの

   江戸首都論を唱える人もいるようですが、幕府も京都を首都と認めていたわけです。


  ≪ 伏見 ≫

  現在は京都市の伏見区となっていますが、江戸時代は京とは別の都市として認識されていました。
  大坂から京都への物資を運ぶ重要な中継点となっていました。






  【伏見】ふしみ … 京都市の南部の区。もと豊臣秀吉がつくった城下町。酒造業が盛ん。

  【伏見船】ふしみ‐ぶね …江戸時代、伏見から淀川筋を大坂辺まで往復した15石積みの貨客船。

  【伏見城】ふしみ‐じょう
   京都市伏見区東伏見山に豊臣秀吉が1592年(文禄1)から築いた城。96年地震で倒壊、木幡山に移して再建。
   京都の関門を占めた。後に江戸幕府が廃棄、その遺構は大徳寺・西本願寺・豊国神社などに移されて現存。

  【伏見奉行】ふしみ‐ぶぎょう
   江戸幕府の職名。遠国おんごく奉行の一つ。老中の支配に属し、伏見にいて、その地の民政、木津川の船舶を管理。
   伏見廃城前は近江・丹波の幕府直轄地の民政を行い、訴訟を裁断した。

  【稲荷山】いなり‐やま
   京都市東山連峰の南端、深草山の北にある山。西麓に稲荷神社(伏見稲荷大社)がある。(歌枕)






  【油掛】あぶらかけ
   京都市伏見区南部の町名。近世、宇治川から京への経由地として賑わい、東西に上・中・下に分かつ。
   浄瑠璃、鑓の権三重帷子「ハテ三栖が端か―か、そろそろ京へなりとも上らふ」


  ≪ 江戸 ≫

  「将軍のおひざ元」と呼ばれ、政治の中心。武家屋敷が建ち並び、享保(1716~1736)以降は100万の人口を誇った。
   (現在、実際の人口は70~75万人という説が有力のようです。明治10年頃の東京は江戸より広くて人口は90万人。)

  「江戸 八百八町」と言っても 808町だったわけではなく、数の多い事を「八」で表現する習慣があったからです。
  徳川家康は質素倹約の食事を家訓として残しため、元禄になるまで将軍の食事でも一汁二菜程度だったそうです。

  江戸は日本一人口が多かったのですが、関東では江戸の一極集中。
  上方は京、伏見、大坂、堺、奈良の今井町など江戸より進んだ都市が多数点在しており、日本の最先端文化を享受
  していた人口は関東より多い事を知っておく必要があります。






  街づくりの為に各地から、男が集まったので男の比率が高く、恋愛も女性に選ぶ権利があった。
  蕎麦や握り寿司などのファスト・フードの屋台の外食が流行ったのも男の数が多かったからです。
  「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるくらい火事が多かったようです。火事の原因の多くは放火らしいです。

  京都など関西では火事が飛び火し難い屋根の造りでした。
  また西日本のお金持ちの屋敷では「うだつ」という装飾を兼ねた防火壁・小柱を屋根取り付けました。
  「うだつが上がらない」は出世できないなどの意味がありますが、お金持ちほど大きな「うだつ」を取り付けた
  事からの由来。下の画像は愛媛の内子町八日市・護国地区のの重要伝統建造物郡保存地区の建物の「うだつ」。






  江戸の人口100万人は本当か? 寛政時代の幕府記録では江戸の人口 2億61万3000人もいた?
  言葉の伝播 日本列島アホ・バカ分布図  大阪市と東京市の区の変遷
  江戸の治安システム 江戸の治安は良かったのか?
  江戸の呑み倒れ 江戸の人口。 江戸時代中期以降 酒が貧乏徳利で大量に消費された。 江戸の嫁事情   江戸の火事の真実

  江戸時代、最も人口が多かったのは江戸ですが、中期まで辻斬りが横行し治安は悪く、火災 (多くは放火が原因) も
  多く、幕末も土埃が舞い小便臭が漂う日本一臭い都市でした。明治期も公衆トイレが少なく土埃が舞わなくなるのは
  関東大震災後の帝都復活以後の事です。現在も東京が最も臭い都市のようです。

  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
  公害苦情受理件数で見る 汚い県、うるさい県、臭い県はどこ?


  江戸の発展は上方 (特に大坂のおかげ) 

  上方の文化は元禄年間、江戸や各地の文化が発展した文化文政年間なので、ザックリ言うと100年、上方の方が
  進んでいた事になります。

  上方からの移住者によって江戸は発達
  江戸の文化が発達したのは大坂・京・伊勢・近江など、幕府が呼んだ上方 (上方筋) の人間が移住した事が大きい。
  約40万人と言われる二番目の人口の大坂が、最も治安が良く最も清潔で、庶民生活も豊かで文化も最も発展して
  いました。
  江戸の銀座の最初の責任者は堺の湯浅作兵衛や摂津の豪商末吉勘兵衛などと言われています。銀座の発祥は堺
  大坂の末吉橋は秀吉時代に末吉孫左衛門が自費で架けたもの。末吉家は征夷大将軍の坂上田村麻呂の子孫。

  庶民の生活レベルも大坂・京都の方が高い
  江戸時代~大正時代に書かれた各時代考証文献を読むと、大坂 (大阪) と江戸 (東京) では庶民の生活水準に
  大きな差があった事が分かります。

  江戸で裕福だったのは上方出身者 (本当の江戸ッ子の祖)
  元禄年間頃に江戸に移住した江戸城近くに住んだのが本当の江戸ッ子 (芝ッ子・神田ッ子)。
  大坂や堺からの商人などは日本橋あたり住んだようです。堺町や大坂町という町名が江戸時代にはありました。
  文化文化頃に誕生したのが自称江戸ッ子で、このエセ江戸ッ子は関東からの移住者が多かった。
  現在言われている江戸ッ子=このエセ江戸ッ子です。実態を改竄して良いイメージに仕立てて語られています。

  三都の気質の違い 江戸ッ子とは? ほぼ現在言われているのと近い都府民気質のようです。悪口を言わない江戸ッ子はいない

  江戸時代の三大商人は大坂商人・近江商人・伊勢商人と言われています。特に近江と伊勢は江戸で成功
  江戸ッ子が自慢した江戸の豪商は紀伊国屋文左衛門 (紀州の人)、奈良屋茂左衛門で共に1700年代前期の人。

  関東大震災では大阪と京都を中心とした関西が主に支援
  関東大震災では大阪と京都を中心に関西の市民が東京などで無償の炊き出しなどの民間の復興支援をしました。
  大正時代に被災あった東京市が最初に支援を求めて緊急の無線電話をしたのは大阪市のようです。
  また横浜港では停泊中だった大阪商船籍の各船が多くの市民を船に乗せて避難させた記録が残っています。

  東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
  江戸でも上流階級は上方言葉を使っていた 上野公園の鶯は、京都の訛の無い鳴き声の鶯の子孫
  川柳 発祥は大坂。 川柳から見る江戸での嫁の立場 嫌な女房番付 大阪のお笑い文化 上方落語 大坂の落語家が江戸へ落語を伝えた。
  佃煮、築地は、大坂の佃村の森一族が江戸に移り住んだ事から 
   江戸や関東の魚の流通システムを確立したのは大坂商人。魚河岸の問屋は大坂の摂津系問屋が牛耳っていました。
  江戸の天ぷら 天ぷら」と名付けたのは山東京伝? 江戸の天ぷらは大坂人が始めた?

  元禄からの本物の江戸ッ子は上方からの移住者のようで、西澤一鳳や三田村鳶魚らが言う見栄っ張りで悪口を
  言うのが好きな自称「江戸ッ子」は文化年間頃から江戸に移住した関東人のようです。


  ≪ 近江商人 ≫

  【近江商人】おうみ‐あきんど
   近江出身の商人。室町時代に東海・北陸方面と京都を結ぶ商業活動を中心に発祥し、江戸時代には伊勢商人と
   共に多くの成功者を出した。江商ごうしょう

  【伊勢商人】いせ‐しょうにん
   江戸時代、近江おうみ商人と並んで活躍した、伊勢(特に松坂)出身の商人。三井・三越などが伊勢商人です。

  【近江どろぼう 伊勢こじき】
   近江・伊勢の商人が江戸に入って、商魂たくましく勤勉・倹約に努めて財産を築き各方面の商権を握ったのに対し、
   近江商人の抜け目なさ、伊勢商人の倹約さを、江戸っ子がやっかみ半分にののしって言ったことば。
   伊勢乞食・・・「伊勢参宮の人々に憐みを乞う乞食」の事から。
   江戸に多きものは伊勢屋 (江戸に移住した伊勢商人) 稲荷に犬の糞といわれるまでに繁栄したからいう。






  近江商人発祥の地は近江八幡・高島・日野・東近江の4ヶ所。東近江のうち五個荘は近江商人では唯一の農村地区で、
  農閑期の副業として行商を行った最後発の地域。現在、重要伝統建造物群保存地区にしていされています。

  近江商人の哲学では『三方よし』①売り方よし ②買い方よし ③世間よし 『始末して、きばる
  「売り手も買い手も喜び、世間に貢献しなければならない」という考え方です。
  始末しまつ=布きれや糸くずでも利用して小物を作るなど無駄を無くす事。きばる=頑張る。
  その他、近江商人の家には多くの家訓を残していたようです。
  近江商人は麻布まふ・呉服などが主力商品でした。
  高島屋のルーツは高島の近江商人。行商 → 呉服店 (京都) →高島屋 (大阪難波)。日本中にFCで展開して90年代は日本で
  最も知られるブランド1位というアンケートもありました。
  轆轤を回して椀など木工工芸品を作る木地師も平安時代の東近江が発祥です。


  江戸は水不足 土埃も相まって、様々な生活に影響があったようです。  世界一を誇る江戸の水道

  江戸は土埃が舞う土地で、土埃が収まったのは関東大震災の後に道路が整備された以降のようです。

  当時、世界一の水道を敷設していた江戸ですが、埋め立て地なので井戸を掘っても海水しか出ず、人口も多かった
  ので、節水を心掛けないといけなかったようです。江戸の井戸は水道を水源としたもので有料。

  江戸では火事が多く (火事の原因の多くは放火だったようです)、火事が発生すると風が強いので大火になります。
  番組によると、約260年での江戸での大火の発生は90件以上におよび、3年に1度の割合で江戸の町は燃え建て直しが
  行われていました。

  水不足の為、家屋を壊して延焼を防ぐ破壊消化が行われたので、江戸の長屋は非常に簡素な造り。
  大工職人が多く花形の職業でした。不況になると、町奉行が付け火をさせていたらしいです。  江戸の火事の真実

  江戸の長屋の庶民は一汁一菜+タクアン (香の物) が基本。食事の最後に食器に湯か水を入れ、タクアンで食器を
  拭うようにして食べます。
  その後、改めて水で洗う事なく、それぞれのお膳に片付け、次の食事の時もそのまま使用するのが普通だったようです。

  東京で現在のような衛生観念が浸透するのは、1964年の東京五輪が決まってからだったようです。
  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、その川で食器や野菜を洗っていました。  公害苦情受理件数で見る 汚い県、うるさい県、臭い県はどこ?






  東京学芸大学の大石学 教授によると、江戸の長屋は豊かではなく、皆で協力・共有して助け合っていた社会

  江戸町民の2/3は棟割長屋に住んでいました。4.5畳1間+土間に家族4人が暮らす事も普通でした。
  幕末の『守貞漫稿』上巻 第二編「家宅」の記述でも、庶民の住まいは上方の方が広く豪華だった事が分かります。
  また、同じ畳の広さでも、1尺の長さが関西の方が関東より長いサイズでした。

  【京間】…関西地方の建物などの尺度は、1間=6尺5寸。 【江戸間・田舎間】…関東の尺度では1間=6尺。 


  ≪ 幕末頃の京・大坂・江戸の三都の比較 ≫


  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  幕末の考証随筆『皇都午睡』三編上之巻 江戸見物旅行をした後に書いたものです。ページ番号の記載なし。

  【西沢一鳳軒】にしざわ‐いっぽうけん (大坂の書肆、西沢一風の玄孫。1801~1852)
   江戸後期の歌舞伎脚本作者・戯作者。別号、狂言綺語堂・李叟など。晩年には著述に没頭。
   著「伝奇作書」「皇都午睡」など。

 東都の婦人は京摂かみがたより見れば、遙に威勢強く中分以下の暮しを見るに、京摂に云う…

  江戸時代、米、砂糖・薬などの輸入品・銀・銅の輸出品 (当時は米本位制・銀本位制) が集まった大坂が最も豊か。
  諸国の各大名も大坂商人からの借金で藩政を賄っており、日本は大坂マネーで回っていました。
  江戸庶民の暮らしは、京・大坂の中流以下の暮らしだった事が分かります。

  テレビやネットなど東京発信情報ではでは「江戸は治安がよく、世界で最も清潔」という事が常に流布されていますが、
  考証文献各書の史実では、最も生活水準が高く、最も治安が良く、最も清潔だったのは大坂なのです。
  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった


  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412

  【喜田川守貞】きたがわもりさだ (大坂の人1810~?、31才頃から江戸に定住)
  コトバンク『喜田川守貞』
   江戸後期の風俗史家。本姓石原,名は庄兵衛,別に尾張部守貞と称し,季荘,舎山,月光庵と号した。喜田川は北川の代字
   かという。
   大坂に生まれ,商売で江戸に往来したようで,天保8(1837)年には江戸深川に仮寓したと思われる。11年9月以降は江戸に
   定住して砂糖を商う北川家を嗣ぎ,京,大坂,江戸3都の人情風俗を比較しながら記録する『守貞漫稿』を起筆した。
   これがのちに35巻の稿本として完成するが,その記述は嘉永6(1853)年にまでおよぶ大部なもので,明治41(1908)年『類聚
   近世風俗志』として刊行されている。

 幕末の『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「京師商賈」「三都生業不同の事 京の盛なる者

 京師は海遠く船便ならざるが故に自ら商賈は坂江に及ばず 唯 呉服賈のみ江坂に肩を比する歟
  又 工にも西陣を第一とす 蓋 諸賈に組合仲間ありといへども余不之 聞之ことあらば追書すべし

 西陣織殿 第一は呉服所と號け 官家 武家の諸服調進を職とする者 數戸 各巨家にして也る
  同 業の精及妙ある者 染物 紅

  「坂江」「江坂」は「坂=大坂」「江=江戸」


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「大坂商賈」「三都生業不同の事 大坂の盛なる者」 上巻 第七編 「貨幣

 諸國の産物を始め來舶の諸物も一たび當虡に漕せざれば速に金銀と換え難く 小價の物は他國にても金に換えれ
  ども大價に至りては 必ず當地を速也とす 又 當時諸國の多少を知ること當所を一とす故に元價を定むるも當所にあり

  日本各地の産物および輸入した全ての物も大坂に持って来なければ、速やかに金銭に換える事は難しい。
  少額の物なら各地で換金できるが、多額になる大商いでは必ず大坂に来なければ素早く換金できない。
  また、各地の情報を知るのも大坂が一番である。それは、大坂には相場の価値基準を決定する場所があるからである。

 豪富子錢家 巨賈元商 子錢家 俗に金貸と云 かねかしと訓ず 元商を問屋と云 同 業に妙ある者

 兩替屋 …三都中行 大坂を盛也とす 京師 及 江戸次之… ※両替屋は現在の銀行に当ります。

 京坂今世兩替屋敷 大坂 今世 兩替屋の戸數 大略 二百餘戸 定數無之…

 子錢家 俗に金貸と云 息を取て金銀をかす業とする者 三都とも多しと雖ども 大坂は特に豪富多きが故に 諸國の
  大名當所の富民に借用せざる家 甚だ稀也 亦 京都及び江戸にもあれども大坂には及ばす

  大坂には富豪が多く、日本各地の大名で大坂の富豪商人から借金をしない大名は非常に珍しい。
  利息を取って金を貸す商人は京都や江戸に多くあるといっても、大坂には及ばない。

  江戸時代は江戸は金の小判 (大名や一年のツケ払いの慣習) と銭幣 (庶民) が中心に使用されました。
  佐渡など東日本には金鉱山が多かった。
  西日本は生野銀山や石見銀山など銀鉱山が多く、商売が活発な大坂では銀が使われていました。
  当時は世界的に銀本位制で、幕末頃に金本位制に変わったようです。

  【十人両替】じゅうにん‐りょうがえ
   江戸時代、幕府の為替用達、幕府公金の出納、諸大名の資金融通を勤めた、大坂における大両替商10名の称。
   実人員は変動した。十人組。  日本史上最大の豪商とも言われる淀屋


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「江戸商賈」「三都生業不同の事 江戸の盛なる者

 工商ともに京坂より多しと雖も 商法大坂の如く大行なる者少し 唯 酒問屋のみ大坂に無き所也

 都ての小賣店 食店 武家調用之商人 及 雇夫の長 酒問屋

  【大行・大形】おお-ぎょう … ① 規模が大きいこと。大じかけ。 ②誇大。


 江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
 昭和4年刊の『江戸のさまざま』P.289「夏の大阪」、P297「暮れ行く大阪」、P.322「上方商人」など

  【三田村鳶魚】みたむら‐えんぎょ (東京生れ、1870~1952) 江戸ッ子研究の第一人者とも言われています。
   江戸の風俗・文学の研究者。名は玄竜。「未刊随筆百種」などを編纂。著書「大奥の女中」「江戸雑話」、輪講記録
   「膝栗毛輪講」など。

  上方商人の威力が かう (吉原の高級遊女を) まで江戸に加はつて、軽視することを許さなかつたもの、全く財力
  からであつて元禄六年の金銀貸流通高は千三百二十三萬八千四百五兩と云はれる時に、彼等は諸大名に對して
  千二三百萬兩の債権を持つて居らうと推量させた、上方商人は江戸の遊女町で優勢だつた位のものではない、
  實に天下の有力者なのだ。

  紀文奈良茂を豪奢がる江戸が何で話にならう、一體東京に住む人間はアキマヘンのである。
  成金振りの凄しさを見物するのなら、大阪でなければならぬ、但し見せ附けられて、胸が悪ぐなつたり、歯が浮いたり
  することは覚悟して出掛けて貰はう
  大阪が賑はしいと流行物が江戸へ抛下なげくだされる、江戸ばかりでなく東京になつても屡ゝしばしば大阪の後塵を拜をが
  ませられる、昔江戸ッ子が僅に鼻息を荒くし得たのは、寶暦の末から大阪の經濟状態が宜しくなかつた爲である、
  景氣さへよければ何時でも上方風が關東を拭捲くらずに居ない

  流行に関しても大阪は古い文化も捨てないので感心する。東京女が慌てて大阪を模倣するのも拠無い話。
  何でも大阪の文化・流行が江戸や東京へ伝播する。先ず大阪女が目覚めて全国の女が気づく事になるのであろう。
  高島屋も東京より規模が大きく人の数も多い、他に三越・白木・大丸などがあり、京の着倒れは昔の事で、今日の
  大阪は着倒れでもあり、食い倒れでもあるのか。

  大正11年頃に大阪見物に来た三田村鳶魚は、大阪ディスりも加えながら、悔しいけど大阪の凄さを認めざるおえない
  という趣旨の事を書いてあります。
  同書で「悪口を言うのは江戸名物、悪口を言わない江戸ッ子はいない」と書いている鳶魚自身も東京生まれ在住だけ
  あって悪口を忘れない所が同書の面白いところです。

  紀文 … 紀伊国屋文左衛門 (江戸時代中期の豪商、紀伊の人、幕府御用達の材木商、豪遊したことで有名、~1734)
   1754 (宝暦) 年の『日本山海名物図会』(大坂で出版) には、「江戸四日市の蜜柑市」が描かれ、蜜柑市は江戸が
   最も盛んな事が書かれてあります。紀伊国屋文左衛門が紀州ミカンを大坂から江戸に運んだ船の帆柱が
   和歌山県加太の淡嶋神社にあります。
  奈良茂 … 4代目奈良屋茂左衛門 (材木商、日光社殿の修理で富を積み、紀伊国屋文左衛門と並称される、~1714)

  ちなみに、どちらも1700年代初めで江戸を代表する豪商 (元は上方商人) で仲が悪かったようです。
  遊郭で遊んでいた紀伊国屋文左衛門は、奈良屋茂左衛門が雪見酒を楽しんでいたの見つけ、通りにお金をバラ撒き
  騒ぎを起こして情緒を損ねました。
  その仕返しとして奈良屋茂左衛門は年末に年越しそばを買い占めた。という逸話があるようです。

  白木 … 白木屋 (東京発祥の百貨店で、大正時代~昭和初期に関西に店舗展開していました。)
  大丸・高島屋・そごうなどは大阪発祥のデパートです。

  滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった

  【紀国屋文左衛門】きのくにや‐ぶんざえもん (紀伊の人~1734)
   江戸中期の豪商。。幕府御用達の材木商・町人として巨万の財を積み、豪遊して紀文大尽と称せられたが、晩年落魄
   らくはく (落ちぶれる事) したという。物語や歌舞伎に脚色された。

  【奈良屋茂左衛門】ならや‐もざえもん 江戸深川の材木商。通称、奈良茂。
   ①(4代)神田勝豊。号は安休。日光社殿の修理で富を積み、紀国屋文左衛門と並称。(~1714)
   ②(5代)名は広。弟勝屋とともに先代より多額の遺産を受け、驕奢きょうしゃ (贅沢) を極めたという。(1695~1725)

 
 【堺・大坂】
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『時々、大阪のニュースをお伝えすることにした件 PART2』 14.01.27 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 西国三十三所めぐり 奮闘編⑧』 14.01.23 放送
  テレビ東京 137億年の物語 『鉄砲伝来の物語 その2 ~日本は銃大国だった !?~』 14.07.19 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびたせ ! えほん 「ちんちん電車が走る街 大阪府堺市でえほん旅」』 14.07.24 放送

  ≪ 堺 ≫  江戸時代前期までは日本で最先端の経済都市  大阪の雑学 堺・泉州

  室町時代の堺は摂津国の3村と和泉国2村の5つの村が環濠を作って自治をしていました。この時代、世界でも珍しい
  都市です。明 (中国) や琉球などとの貿易で栄え、新しい物を日本にもたらせ、自治都市(「黄金の都市」とも
  呼ばれていました。
  紹鴎や千利休らによって侘び茶が完成し、江戸時代初期まで経済と文化の中心地でした。中心地は徳川の天領。
  金魚や酢なども堺でほぼ生産されていました。織田信長や豊臣秀吉の軍使資金も堺商人が多く提供していたよう
  です。






  現在の堺区は、江戸時代には幕府の直轄領であり堺主要貿易港のため堺奉行が設置されていました。
  長崎の出島から輸入品を国内に持ち込むのは、堺商人が有する堺船が独占していました。
  桃山時代に堺商人らが豊臣秀吉によって大坂に移転させられ、徐々に経済の中心地が大坂に移っていき、元禄
  年間頃には大坂 (摂津国) が経済と庶民文化の中心となっていました。

  【堺】
   大阪府の市。政令指定都市の一つ。大阪湾東岸、大和川河口を隔てて大阪市の南に隣接。
   室町時代、商人の自治による環濠都市を形成、明みんとの貿易港として繁栄した。
   現今、臨海部は堺・泉北せんぼく工業地域で、南部の丘陵地には住宅団地が多い。人口83万1千。

  堺観光ガイド 「堺の歴史」 http://www.sakai-tcb.or.jp/about_sakai/2.html
  公益法人 堺観光コンベンション協会 堺観光ガイド 『ものの始まり なんでも堺』 http://www.sakai-tcb.or.jp/about_sakai/1-2.html

  「ものの始まり なんでも堺」←大げさだと思うでしょ? でも古墳時代から発展してきたので、本当に発祥が多い。

  包丁・鉄砲 江戸時代の堺では現在ある包丁の種類のほとんどが、すでに出揃っていました。
  出刃包丁・刺身包丁・薄刃包丁なども堺で誕生。品質の高さを幕府が認めも他の産地と区別する為に極印
  「堺極」を附して全国に専売する事が認められていました。特に煙草包丁は日本で唯一の生産地でした。
  現在、国の伝統工芸品にも指定されており、和食職人の約9割が堺の包丁を愛用しているとも聞いた事があります。

  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』
  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は
  日本各地の名物を描いた絵本。巻の三の「堺庖丁」には山上珠四郎という包丁造り名人の店が描かれており、
  様々な形の包丁が売られている事が分かります。

  堺は刃物製造の鉄加工技術を活かし、国産の火縄銃の製造 → 大阪市内の玉造でもその技術を活用していた
  そうです。近年、安い中国産が多く輸入されるまで、自転車製造の街としても有名でした。

  【堺奉行】さかい-ぶぎょう 堺検断さかい-けんだん
   豊臣時代および江戸幕府の職名。堺の市政と和泉一国の政務とを管理し、訴訟を断罪し、港湾・船舶・荷物の
   事務をつかさどった。堺政所

  【堺船】さかい‐ぶね …江戸時代、長崎から唐物を積んで来た堺の船。


  江戸期における物流システム構築と都市の発展衰退 http://www.ymf.or.jp/wp-content/themes/yamagata/images/56_7.pdf
  日本経済と物流の歴史 http://www.trinet-logi.com/img/web_kogi_0409.pdf ← 戦後、1940年代以降の歴史

  読売テレビ ten. 『大阪の近代化に貢献した中之島界わいの「偉人たちの銅像」を調査』 16.02.11 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『大阪の地名の謎』 16.06.03 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『神様になった日本人』 17.01.26 放送
  テレビ大阪 OSAKA1番らばー 『水の都 水上散歩 橋から見える大阪の歴史』 17.09.16 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『有栖川有栖が選ぶ 大阪幻坂ランキング』 17.11.19 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸時代の経済と産業の発達』 19.09.27 放送
  大阪市東淀川区役所 『中島大水道跡(なかじまだいすいどうあと)』 http://www.city.osaka.lg.jp/higashiyodogawa/page/0000028111.html

  ≪ 大坂 ≫ 江戸時代は圧倒的な経済都市、 また大正時代を中心に日本一の経済都市

  大坂湾は奈良・平安時代には遣唐使の出帰港であり、日本最大の港として栄えており、外国人の宿泊館や貴族の
  別宅が並んでいました。江戸時代前半から堺商人の船株などを借りて堺を凌ぐ経済都市へと発展。
  なにわ (現在の大阪府下全域の称) の中心地が堺から大坂へと北上した事になります。

  【大阪・大坂】おおさか
   ① 京都と共に二府の一つ。摂津国の一部、河内・和泉2カ国の全部を管轄。面積1894平方キロメートル。人口881万7千。
   全33市。(大阪府)
   ② 大阪湾の北東岸、淀川の河口付近にある市。府庁所在地。近畿地方の中心都市。政令指定都市の一つ。
   阪神工業地帯の中核。古称、難波なにわ。室町時代には小坂おさか・大坂といい、明治初期以降「大阪」に統一。
   仁徳天皇の高津宮が置かれて以来、幾多の変遷を経、明応(1492~1501)年間、蓮如が生玉いくたまの荘に石山御坊を
   置いてから町が発達、天正(1573~1592)年間、豊臣秀吉の築城以来、商業都市となった。
   運河が多く、「水の都」の称もある。人口262万9千。(大阪市)

  【大坂城代】おおさか‐じょうだい
   江戸幕府の職名。5~6万石以上の譜代大名を任命。大坂城に駐在して近畿を警備、城下の治安を守り、また近畿以西の
   諸大名の動静を監視。

  【大坂町奉行】おおさか‐まちぶぎょう
   江戸幕府の職名。老中の支配に属し、旗本から選任されて与力・同心が付属。大坂に在勤して市政・訴訟をつかさどり、
   城代・定番と議して非常の警備にあたった。
   1722年(享保7)以後は上方支配を京都町奉行と二分し、河内・和泉・摂津・播磨4カ国の訴訟や幕領の租税徴収をも
   担当。東西各一人が月番交替で訴願を受理。

  OK Wave 「江戸時代の大阪の武士」http://okwave.jp/qa/q2154397.html に、少し詳しい武士の内訳(奉行、与力などの数などが書かれています)
  江戸時代の大坂は天領 (徳川幕府の直轄地) で、大坂城には、小大名が代わる代わる赴任。
  時期によりますが、大坂の人口40万人、そのうち武士の数は全体で2000人程度だったようです。それだけ治安が良かった。

  「大坂」が「大阪」と書かれるようになったのは江戸時代からで、「大阪」に定着したのは明治10年頃だそうです。
  一般的に江戸時代は大坂、明治以降は大阪と使い分ける人が多いようです。






  大坂は「天下の台所」と呼ばれ、各藩の蔵屋敷がおかれ、日本中から米や農産物・魚介類などが集まり、銀・銅の製錬所
  (「銀座」の名称の発祥は堺)、砂糖や薬などの輸入品取扱いの独占権、両替商など豪商が集まった圧倒的な経済・商業・
  物流の中心となりました。

  江戸時代初期には、日本史上最も金持ちと言われる淀屋がありました。  日本史上最大の豪商とも言われる淀屋
  江戸時代のほぼ全ての諸藩は、大坂商人から借金する事で藩政を賄っていました。
  幕末にも新政府、徳川方ともに大坂商人から多額の金を借りていましたが、動乱で返済せず踏み倒したので、多くの大坂の
  豪商が潰れました。明治期になると薩摩藩士の五代友厚らが大阪経済の復興に尽力しました。






  大陸書房 「お金」おもしろ雑学 中江克己 著 1992.05.04 初版

   御用金は幕府などが米価の安定を計ったりする名目で、半ば強制的に豪商や町人に金銀を差し出させたもの
  (幕府らの借金)。1761(宝暦10)年12月16日に最初の幕府の御用金調達がありました。

  大坂の米相場を操作する目的で、大坂の富豪ら205人に170万3000両を割り当てました。集まったのは70万両しか
  なかったので、幕府の米価の引き上げは一時的に高騰したものの、すぐ元に戻り失敗だったそうです。

  1806 (文化3) 年3月に江戸町民と幕府直轄領各地の農民らに初めて御用金を命じます。集まったのは42万5876両。
  1813 (文化10) 年7月に大坂の富裕町民から56万両、9月に江戸富裕町民から17万両を御用金として集めました。
  大坂の2倍以上の人口があった江戸ですが、大坂の方が3倍以上の金を出すだけの財力があった事が分かります。

  【御用金】ごよう‐きん … 江戸時代、幕府・諸藩が財政窮乏を補うため臨時に御用商人などに賦課した金銭。

  「銀座」の発祥地は各説があるようですが、堺 (現在の堺東商店街あたり?) が最も有力なようです。
  徳川家康が1612(慶長12)年に江戸に銀座を開設しますが、この差配を任されたのは摂津国の豪商 末吉勘兵衛で、
  鋳造と検査の責任者は大黒定是じょうぜでした。2人とも堺の銀座で活躍していた実績によって抜擢されたようです。

  Wiki 大黒定是 では
  慶長6年(1601年)、徳川家康和泉堺の銀吹き職人である南鐐座の湯浅作兵衛に大黒常是を名乗らせたのが
  始まりであった。常是という名称は豊臣秀吉により堺の南鐐座の銀細工師に与えられたものであった。
  家康の命により摂津の豪商末吉勘兵衛と後藤庄右衛門は、慶長6年5月(1601年)の大黒作兵衛常是の伏見銀座
  取立てを建議した。後藤庄右衛門は後藤庄三郎光次の隠居後の名称であるとする説と別人とする説がある。
  書かれています。






  【十人両替】じゅうにん‐りょうがえ
   江戸時代、幕府の為替用達、幕府公金の出納、諸大名の資金融通を勤めた、大坂における大両替商10名の称。
   実人員は変動した。十人組。

  【銀替】かね‐がえ … 両替屋。1688年刊日本永代蔵[1]「―の手代」

  【掛屋・懸屋】かけ‐や
   江戸時代の金融業者。幕府の掛屋と諸藩の掛屋とがあった。前者は淀川治水費割賦銀の徴収を請け負った鴻池
   善右衛門・白山安兵衛両名。後者は諸藩の大坂蔵屋敷の蔵物売却代銀を預かり、諸藩の金融にも応じた。
   銀掛屋。御掛屋。

  【鴻池】こうのいけ
   江戸時代、大坂の富商。山中鹿介の子とされる新六(1570~1650)が始祖。 清酒のはじまりと言われます。
   自醸の上酒を江戸へ輸送、のち海陸運送業を創め、大名貸・両替業にも従事し、大坂随一の豪商となった。

  コトバンク 『大坂商人』
  画像 テレビ大阪 かがくdeムチャミタス! 『大阪城におでかけ 最新スポット続々登場!』 18.06.17 放送

  江戸時代の大坂商人は大名財政の死命を制するほどの強大な実力を持っていたそうです。
  石山本願寺の寺内町として発展し、1583 (天正11) 年の秀吉の大坂城の城下町となり、
  安土・平野・堺などの畿内の商人が集められました。
  当時の広さは西は阪神高速1号環状線あたり、東はJR環状線の京橋~玉造あたりを含む
  日本最大の敷地面積が大坂城下でした。
  1619 (元和5) 年、徳川幕府の天領 (直轄地) となり、大坂城を再建し伏見商人を大量に
  移住させました。1665年、落雷により徳川時代の天守閣が焼失。
  以降1931 (昭和6) 年の三代目が完成するまで天守閣はありませんでした。


  1710年には問屋5355軒以上、仲買1万1108軒、職人9747軒となっており、「商人哲学」も完成していようです。


  公益財団法人 関西・大阪21世紀協会 『なにわ 大坂をつくった100人」 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/index.html

  ≪ 大坂の橋事情 ・ 大坂では町民が公共の為に私財を投じる気風があった ≫

  江戸時代は「浪華八百八橋」と呼ばれていましたが実際には200ほどで9割以上は町民が自費で架けたもの。
  2019年現在の大阪市内の橋の数は884本もあるようです。各市が管理している橋の面積では大阪市 約700,000㎡で
  京都市 約320,000㎡、神戸市 約250,000㎡ で圧倒的。

  大阪を中心とした畿内では、道昭・行基 師弟 (共に河内の人) の飛鳥時代から政府に頼らず、地元の民衆が私財を
  投じたり、溜池造りや橋梁架設などの公共事業に無償で参加した事例が多数あります。
  道頓堀や淀屋橋、中島公会堂、昭和の大阪城や岸和田城の復興も市民の寄付で建てられた事などが有名です。
  当店 (羽曳野市) の横にも立派は石碑が建っていますが、こちらも溜池を作るのに尽力した村民の碑らしいです。

  心斎橋筋商店街公式HP 『歴史資料館 心斎橋の変遷 (年表) http://www.shinsaibashi.or.jp/histories/chronology.html

  江戸時代、大坂の橋はほとんどが「町橋」といって、町人達が費用を懐から出し
  合って架橋、管理するものであった。
  公儀橋は街道筋の重要拠点や、大坂城への直接の連絡口にあたる12橋。
  江戸時代の、大坂三郷には200近くの橋が架かっていたので、それを維持できた
  町人の豊かさがうかがわれる。

  【大坂三郷】おおさか-さんごう 大坂中。
   江戸時代、大坂市中を三つに分けた南組・北組・天満組のこと。各組に惣会所が
   置かれ、惣年寄らが事務を行なった。


  淀屋橋は淀屋、心斎橋は岡田心斎 (1575~1639)、末吉橋は坂上田村麻呂の末裔で豪商だった末吉孫左衛門が豊臣
  秀吉によって大坂の町の開発などのため、大阪城近くの船場へ移住するように言われました。新しい屋敷から大坂城へ
  登城するには東横堀川を渡らねばなりません。便利になるように家の前に自費で橋を架けたそうです。






  【末吉吉安】すえよし‐よしやす (名は吉康とも書く、通称、孫左衛門。摂津平野の生れ、1570~1617)
   江戸初期の貿易家。朱印状を受け、呂宋ルソン・シャムなどに朱印船(末吉船)を派遣。大坂の陣の功によって
   河内2郡の代官に任じられる。
   末吉家は平安時代の坂上田村麻呂の子孫だそうです。現在の末吉家当主は32代目(2017年現在)。
  木接太夫 桃山時代に接ぎ木の技術を確立した坂上頼泰 (坂上田村麻呂の子孫で秀吉に仕えた武将)

  【淀屋】よどや
   江戸時代の大坂の豪商。本姓、岡本。初め材木商、のちに糸割符いとわっぷの権利を獲得し、諸大名の蔵元となる。


  『皇都午睡』三編には江戸に大川といへば…江戸前にも橋々ありて橋相●に多けれ共 土地の廣き割には川すくなく
  橋もすくなし 又三都の内 大坂ほど橋数の多き所は他國には珍らしかるべしとあります。

  実際には江戸の方が橋の数は300ほどあったようで、ほとんどは幕府が作った公儀橋です。
  橋の数は多いものの目立つ様な大きな橋が少なかったと思われます。



  大阪市淀川区にある『さいの木神社』には、澤田久左衛門・西尾六右衛門・一柳太郎
  兵衛の3人の庄屋が神様として祀られています。

  この地域は大雨が降るたび淀川の氾濫による水害が頻発していました。
  1673年、治水工事を幕府に直訴すると全額農民負担という事で許可が出ました。

  多くの費用がかかり、不作続きで苦しかった事から多少の補助を幕府に嘆願しました。
  すると幕府は工事の許可を取り消しました。


  1678年、3人は私財を投じて治水工事を強行、多くの村人も参加し1㎞近い水路を完成させました。
  淀川の氾濫は治まりましたが、幕府の許可を得なかったという事で出頭を命じられます。
  3人はそれに抗議する為、江戸の方を睨みながら自害したそうです。
  その後、幕府は補助金を出し2年後に中島大水道が完成しました。

  Kyow竹島猫22 『さいの木神社、中島大水道と、動いた幕府』 12.11.23 配信 https://ameblo.jp/kyow2525s/entry-11410835515.html

  明治3年、天王寺の逢坂 (現在の国道25号線の一部) は急勾配で苦労する場所だったので茶臼山観音寺の住職で
  ある静明という尼さんが坂を切り崩してなだらかな坂にする事を提案。賛同者の町民の寄付によって行われました。


  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『美味しくて面白い! 野菜から大阪が見えてくる』 15.12.03 放送

  江戸時代の野菜の評価は 大阪野菜 > 京野菜。   野菜の雑学 大阪 なにわの伝統野菜

  実は大阪の「なにわ」は「菜庭」「魚庭」とも字が充てられ、
  古来から近代化する時代まで、野菜も水産資源も豊富。
  日本の葱の発祥は大坂、江戸時代は多くの種類の野菜が
  名産でした。干瓢も大阪の木津が一大産地でした。
  また淀川の鯉や鰻も日本一と称えられていました。


  現在では約140種類の野菜が食されていますが、日本原産の野菜は20種類程度しかなく、色んな時代に外国から
  持ち込まれて改良したものがほとんどです。
  江戸時代になるまで、海外との交易の港は大阪湾で堺商人が交易をしていました。また長崎出島に伝わった物も
  堺船で直接に堺・大坂に運ばれてくるので、あらゆる物が堺・大坂から日本各地に広まったのです。

  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、日本
  各地の名物を描いた絵本。名物として木津の干瓢、天王寺蕪、天満の松茸市、根本平野飴、道明寺干飯などが
  紹介されています。

  1765年頃の『浪花茶里八景』には、「土肥へ地栄へにんじん大根のよきはいふに不及」とあり、大坂の野菜の品質
  が高い事を示しています。

  1833 (天保4) 年成立『摂陽奇観』 浜松歌国 (大坂の木綿問屋の子、随筆家・歌舞伎作者。1776~1827) 著には
  「浪花茶里八景」と題して、大坂の著名な茶屋や社寺などの行楽地の記述があり、名産として「難波のにんじん」など
  藍や麦など難波を代表する作物は多岐に渡っていた事が示されているようです。

  江戸時代、野沢温泉村にあった寺の住職が四天王寺を訪れた時、天王寺蕪の種を持ち帰ってた事から野沢菜が誕生。
  日本のネギの発祥は大阪。京都の九条ネギは大坂から伝わり、大坂の農民が江戸砂村に移住してネギを栽培した事から。
  東日本の白ネギは中国から伝わったとしているサイトもありますが、その伝来の由来や年代などの詳細は書かれていません。ネギは地域によって変化する野菜。
  関西青ネギ、関東白ネギ もう諸説は不要、決定的な記述を発見!! 関西は青ネギなのに江戸時代は「根深ネブカ」と言った。その謎が判明。
  野沢菜・広島菜のルーツは天王寺蕪 ウィキペディアの否定説を検証・また関東人による歪曲解釈説だった






  名古屋名物の守口漬けは大阪の守口大根が伝わったもの。現在、守口大根は岐阜県長良川流域で作られています。
  奈良漬けの白瓜は、奈良街道の大坂の起点だった玉造の玉造黒門越瓜しろうりが使われていました。

  きゅうりの断面が德川家の葵の紋に見える事から、武家ではきゅうりを食べなかったそうです。

  また大坂は川魚・海魚・鴨なども評判も高かった。各種製品技術もトップレベルです。

  御茶壺道中と「ズイズイズッコロバシ」  近年まで、堺・泉州のアナゴが名産地として全国的有名だった 養殖で復活へ


 1712年の『和漢三才図会』七十四巻「摂津」の土産 (著者は大坂の医師、寺島良安)
 和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂 下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  大坂は天下の大湊ゆえ、万物は交易によって絶えることなく市が開かれるといえども産しない物も皆産するが如し

  活鯛の出荷技術は大坂で確立かも?  桜鯛は泉州が名産

 1776 (安永5) 年に書かれた『ツンベルク日本紀行』(長崎オランダ商館医でスウェーデンの植物学者・医学者)
  「第八章」和蘭商館から江戸参府 1776年3月4日~6月25日
 異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
 ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693

  大阪 大阪は日本の五大帝都の一つであって将軍に直属しているここには長崎と同じ行政が施かれている。
  奉行が二人居て、互いに交代し、交代にこの町及び幕府に住んでいる。海に挑み同時に全国の中央に位置を占めて
  いるものだから、日本中で最も又賑やかな場所となったのである。商品は各地からこの地に集まり、かつよい値に
  売れる。製造者及商人にして富めるものは、ここであらゆる投機の方法を試みることが出来る。
  往来に臨む家の地階は仕事場又は店となっていて、その美術的な陳列は観客を惹きつける。…
  この土地にはあらゆる種類の享楽機関があるので、富裕な人が群れをなしてここに住居を定めている
  この人たちが金を使い工任が工作に従い商人が活動するので、大阪は日本の巴里(パリ)になっている。



  ≪ 流行ものが溢れる浪花の町 ≫

  江戸時代の文化の最先端は大坂・京都です。明治末期~昭和中期も大阪発の文化が多い。
  現在では金魚の名産地として奈良県大和郡山市が有名ですが、1724年以降で盛んになったもの。
  金魚は室町時代に中国から堺に伝わり、江戸時代中期も堺が主産地でした。






  ペットブーム 大坂(上方)から、江戸へ そして全国に広まった。 現在、錦鯉が日本より海外でブーム。 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸
  カラクリ人形芝居や、人形浄瑠璃 (文楽など) も大阪を中心に関西で発展した

  下記の画像は1796~1798年に刊行された『摂津名所図会』より カラクリ人形劇とクジャク茶屋
  大日本名所図会. 第1輯第5編 『摂津名所図会』 大正8年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959908

  1662 (寛文2) 年 大坂の道頓堀で竹田近江が官許を得てからくり仕掛けの芝居を興行。 Wiki 竹田近江
  大坂のからくり芝居は非常に有名な名物だったようで、オランダ商館長一行が江戸参府する際は大坂に立ち寄り銀の
  精錬所を必ず見学したそうですが、カラクリ人形芝居を観る事多かったそうです。
  カラクリで動く人形で芝居を見せるもので、人が人形を操る人形浄瑠璃 (文楽) とは別の物です。

竹田の機捩戯場 カラクリ人形劇

大坂・下寺町辺りにあったクジャク茶屋


  動物見世物と舶来鳥獣  http://www2.otani.ac.jp/~tmatsu/2002bunka/0012203/chapter01.html
  見世物興行年表 寛政七年(1795)~寛政九年(1797)三 http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/52013841.html
  コトバンク 『孔雀茶屋』
  コトバンク 『花鳥茶屋』

  孔雀くじゃく茶屋は現在の天王寺区と浪速区の下寺町あたりにあったようです。常設の檻の中で孔雀を飼育し、見せて
  いた事が分かります。現在で言う「バード・カフェ」みたいな店が江戸時代中期には既に存在していた事になります。

  上記の各サイトの情報をまとめると、動物類を見世物としては最も古くからあり、芸を仕込んで見せていた様ですが、
  しだいに珍しくなくなり、寛政年間 (1789~1801) 頃には、常設の茶屋が大坂と江戸にでき、眺めてのんびりお茶を
  飲む程度になったようです。
  大坂の孔雀茶屋は天保年間 (1831~1845) 頃までには無くなっていたそうです。(明治25~28年の『浪華百事談』)

  江戸は浅草・両国・上野山下などでは珍しい様々な鳥を飼育した「名鳥茶屋」や「花鳥茶屋」があり、入場料は16文。

  1801 (寛政13年・享和元年) 年に大坂を訪れた大田南畝の著書『蘆の若葉』には
  孔雀茶屋といへる暖簾かけたる大きなる茶屋あり。たちいりてみるに、錦雞、白鷴、灰鶴(マナヅル)・孔雀(二雄三雌)
  などあり。大きにひろき籠にいれたり。高麗雉かへる。籠のうちに黄楊の木などうへてかくれ所とす。籠の前なる欄の中
  に羊をかひ置り。奥のかたに池あり。杜若・菖蒲・萍蓬(カハホネ)処えがほなり。葦簀張の茶屋、たてつゞけて人々いこふ。
  江戸の花鳥茶屋に似たり。それより西寺町を過て、寺の裏門にいたる。とあるようです。

  虎の見世物は1648年に京都、1675年に大坂、1852年に江戸 (但し偽物で大猫という説が有力か) 、1830年に名古屋
   (虎ではなく豹)。1861年に横浜で大人気に。
  オランダ船などによって長崎の出島に渡来したゾウ・ヒクイドリ・ラクダ・豹・虎などが見世物になったようです。

  最も人気だったのがラクダで、大根の葉や茄子、サツマイモを餌として観客に販売。
  ラクダとヒクイドリは珍しいというだけではなく、病気除けなどとして「触れると御利益がある」という触れ込みだったようで、
  幼い子供連れが多かったそうです。
  クジラは1734年に江戸、1766年に大坂。アシカは1792年の大坂で曲芸をして可愛いと評判になっていたそうです。

 
 【街道と宿場の整備】
  テレビなどでは、江戸時代の街道と宿場の整備によって、情報や物流が発展したように思わせる報道を
  している事がよくありますが、明治期に鉄道が開通するまで情報と物流の中心は船です。

  江戸時代で最も重要な項目は北前船なのですが、江戸はあまり関係なく、堺船・樽廻船・菱垣廻船など重要な船便は
  大坂が拠点となっていましたので、東京では報道したくないようです。大坂が一番繁栄していた史実が分かるから。


  ≪ 街道 ≫

  『日本書紀』の613年(推古天皇21年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道おおじを置く」と記されている
  大阪・難波~奈良・桜井市 (飛鳥) までの竹内街道 (丹比道) が日本最古の「官道が作られます。

  奈良時代には藤原京 (694~710) を中心として、各地への街道が作られ五畿七道の区分が確立されていきました。

  室町幕府によって、各地街道の整備も進み貨幣経済の発達とともに物流が活発になり、様々な文化も発展します。
  戦国時代に入ると戦と関係がないと思われる僧だけが各大名領地をある程度自由に行き来できるような事態になります。

  豊臣秀吉が全国統一を果たした事で、各大名たちが京や大坂・堺などの先進地域から商人や技術者を呼び寄せ、
  自身の城下町の基礎を築いていきます。
  例えば、黒田官兵衛は大分の中津に姫路や京都・福岡から。前田利家は石川の金沢に京都や愛知から。
  徳川家康は大阪や堺など畿内から技術者や商人を集めた記録などがあります。

奈良時代 8世紀中頃

江戸時代 18世紀頃


  江戸時代になると徳川幕府によって各街道に宿場町が設置され、江戸時代中期頃には菱垣廻船・北前船・樽廻船など
  海上の交通網も確立されていきます。

  江戸・日本橋を拠点とした5つの主要街道が整備されます。最重要街道は京都の三条大橋までの東海道。

  【五街道】
   江戸時代、江戸日本橋を起点とした五つの主要街道。東海道・中山なかせん道・日光街道・甲州街道・奥州街道の称。
   幕府の道中奉行が管轄。  江戸時代の主要街道 東海道五十三次の宿駅一覧など

東海道・中山道の西の起点・京 三条大橋 東海道・中山道の東の起点・江戸 日本橋

  各街道に宿場町が設置され庶民が旅行するのも自由になりますが、江戸時代後期以降になってからの事で、特に
  農民の場合は、村の代表として一部の人が選ばれ、お伊勢参りに一生に一度行けるか行けないか程度でした。
  特に女性の場合は東日本から西日本へ旅行する際には関所で厳密に調べられるので大変だったようです。

  静岡県を流れる安倍川や大井川は橋を架ける事が禁じられました。主に外様の大大名が多い西国を警戒したもの。
  大坂城や尼崎城、姫路城なども主に西国大名を警戒監視する拠点としていたようです。

  【安倍川】あべ-かわ
   静岡県西部を流れる川。静岡・山梨県境の安倍峠に発源し、駿河湾に注ぐ。長さ51キロメートル。

  【大井川】おおい-がわ
   静岡県中部、駿河・遠江の境を流れる川。赤石山脈に発源し、駿河湾に注ぐ。長さ168キロメートル。
   江戸時代には、架橋・渡船が禁じられ、旅人は必ず人足を雇って肩車または輦台れんだいで渡った。

府中 安倍川
輦台

大井川

薩摩藩の参勤交代経路


  【箱根の関】はこね-の-せき
   江戸時代初めに設置された、東海道の箱根山中の関所。三島・小田原の両宿の中間にあり、箱根宿の東方の入り口で、
   北は芦ノ湖に面し、南は山を負い、要害の地。小田原藩主が預かり、特に入鉄砲出女の取締りが厳重であった。

  【新居の関・荒井の関】あらい-の-せき
   1601年(慶長6)徳川氏が浜名湖の湖口の西(今の静岡県浜名郡新居町)に置いた関。

  【今切】いまぎれ
   静岡県西部、浜名湖が海に続く湖口。1498年(明応7)大地震で砂州が切れて海とつながる。江戸時代に渡船が通い、
   今切の渡または荒井の渡といった。関所があり、特に女人の往来を取り調べた。

  【入鉄砲出女】いりでっぽう-でおんな
   江戸幕府が、江戸に入る鉄砲と江戸から出る女性を箱根などの関所で特に厳重に改めたこと。
   謀反を警戒して武器の流入と諸大名の妻女の脱出を防ぐため行った。

  大名の妻女は諸国の大名が反乱しないように、徳川幕府による人質となっていましたので生涯江戸在住になります。
  江戸における大名の上屋敷・下屋敷などの敷地内は現在の大国の大使館や領事館と同じく治外法権で、町奉行などの
  幕府の役人の管轄外でした。
  豊臣秀吉時代も似たような政策を行っており、大坂城近隣の大名屋敷に住まわせていました。

  江戸に店を出した各国の大店も、それぞれ出身地の言葉や習慣で生活してするのが基本だったとも言われています。

  九州から江戸へ向かう場合は、瀬戸内海を船を使い大坂まで出て、京都へは街道の陸路か淀川から船で伏見を経由し、
  東海道を陸路で行くのが基本だったようです。
 
 【 江戸時代 初期の町民、農民の暮らし 】
  農業の雑学事典 ㈱日本実業出版 1990年6月30日発行 藤岡幹恭 編著 など より

  1石 いっこく = 米150㎏ = 1日約1400kcal×365日 = 1人分の食い扶持。

  江戸時代初期の人口2000万人に対し、水田250万haで、米の収穫量は340万人分しかなかった。  
  一般庶民は芋、麦、豆、稗ひえ、粟あわ、黍きび が主食だった。米は神様に供えるもの、ハレの日に食べられる存在。

  日本人が米をたっぷり食べられるようになったのは、大正時代で、昭和初期に国民一人当たりの年間供給量は140㎏を
  超えるようになります。

  農業技術も向上と、朝鮮や台湾で稲作を推奨し、「準内地米」として大量に国内に投入した結果によるものです。
  東南アジアからも米を輸入。明治末期には干ばつで大幅に米不足があったようです。
  大正時代は台湾に砂糖生産と近代工場を建設し潤沢な供給がありました。

  江戸 人々の暮らし http://youtu.be/J02Z3hPG7yM より




  慶安御触書 には、「酒や茶を買って飲んではいけない」など衣食住の細かい事が書いてありましたが、農機具の発展と
  共に農業生産高が増加したので、実際には暮らし向きが安定し、酒などを買って飲んだり、農繁期には伊勢参りなどを
  する余裕があったそうです。

  【慶安御触書】 けいあんの おふれがき
   慶安2年(1649年)、幕府が農民に対して出したと伝える御触書。
   32条と奥書とにより成り、年貢を納めるために守るべき心構えを説き、幕府の農民観を示すものであった。
   ただし、同年には出ていないとする説が有力。

  朝日放送 キャスト 『今日から働き方改革関連法施行 日本人が勤勉になったのは』 19.04.01 放送

  ≪ 江戸時代の庶民の働き方 ≫

  江戸時代は時計が普及していないので鐘で時間を知らせていましたが、電気も無く灯に使う油も貴重なので、日が昇ると
  働き、日が沈むと仕事を終えるのが普通でした。
  時代や地域や藩、身分によって人々の生活は大きく違いますが、東京大学の武田晴人 名誉教授によると、農民も職人も
  自分で働き方を決めるのが普通だったようで、現代のように猛烈に働くという事は無かったようです。





  日本人が時間に正確で勤勉になったのは近代の事です。明治になって諸外国と対峙する事になりますが、日本人の
  労働者はだらだらしていると外国人に指摘された事もあり、明治政府が明治33年頃に二宮金次郎が勤勉の手本に
  しました。また大正6年に「時の展示会」が開催されるまでは時間への概念が低かった。
  東京大学の武田晴人 名誉教授によると、昭和の戦後、焼け野原になった日本では働く人を褒めたたえるしかなかった。


  ≪ 伊勢参り ≫

  江戸時代の末期1830年(文政13)は、年間約500万人が参拝。
  2010年に過去最高の883万人。20年に一度の式年遷宮(内宮10月2日、外宮10月5日)がある2013年は8月末で約835
  万人、年間1300万人と推定。
  農村では村人たちがお金を出し合い旅費を作り、村の代表を伊勢参りに送り出しました。
  お金を出した人、道中で伊勢参りの旅人に施しをした人も、参詣した人と同様に御加護が得られると信じられていた
  ようです。
  また、江戸時代は熊野詣や四国八十八所のお遍路などの旅もブームになりました。

  お伊勢参りの西の出発点 大阪 玉造稲荷神社 と、旅行代理店業のルーツ 浪花講  江戸時代の旅行 お伊勢参りブームなど

  【補足】
   農業の雑学事典による内容江戸の人々の暮らしの内容 と突き合わせると矛盾しているように思えませんか?

    豊臣秀吉が行った太閤検地、江戸幕府が行った検地などで、日本全国の農地はほぼ把握出来ているように思え
   ますが、土地による米の収量にも大きな差があったりします。

   大名行列の規模は石高で定められていたので、実際より多く石高を申請していた見栄っ張りな藩もありましたし、
   逆に新田開発や技術革新や貿易など石高が増えたのに幕府に申請しない藩もありました。
   江戸時代の藩の石高は実際のところ充てになりません。

   日本全体でみると江戸時代の中期の元禄(1688~1704)文化の頃はかなり余裕のある暮らしができていたようです。
   享保17年(1732)、イナゴなどによる害で近畿以西をおそった大飢饉。餓死は1万人以上と推定される。
   幕府は被害のない地方から救援米を送らせたので江戸でも米価が高騰。
   天保4~7年(1834~1837)長雨・洪水・冷害によって起こった全国的な飢饉もあります。

   京都や大坂は安土桃山時代以降、江戸では江戸時代中期頃からは、割と豊かな生活を営んでいました。

   幕府の天領は重要な土地を接収した所が多く、元々豊かな地域であり、年貢や税も少なかった。
   全国的にみると、文化が早く伝わり温暖な気候で交易も多かった西日本の方が豊かだったようです。

   東北地方はNHKのドラマ 「おしん」 にも描かれているように、江戸時代は飢饉が多く、昭和中期頃まではかなり
   貧しかった。但し、東北でも北前船との交易があった地域は文化の伝わり方も早く豊かだったようです。
   川沿いに内陸へと物資と文化が伝わります。
   各藩は最先端の上方から学者や識者や技術者や商人などを招き入れ、学問や特産物の開発・生産に力を入れ
   ました。ほとんどの藩は主に大坂商人からの借金で藩政を賄っていました。

  江戸時代は約 265年間、年代による。地域による。藩の財政、身分による。などで、
  現代の格差以上の違いがあったのです。

  文献史料の「いつ」「どこで」「誰が」などの情報が非常に重要になります。
  これを誤魔化して、江戸が日本一進んでいたような印象を作り上げ流布するので、関東人の歴史解釈がおかしくなり
  関西人と関東人との無用な言い争いが発生する原因になっています。
  日本の伝統的な物はほとんどが関西発祥。東京を含め関西と異なる文化は「技術がない」「物資がない」なとで
  地方に応じたカスタマイズがなされた結果、亜流の文化となったのです。関東人は勘違いしないように。


  粒々辛苦錄 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555373  粒々辛苦錄 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555374
  郷土読本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109335

  ≪ 農民でも土地を持つものと持たない物では、大きな生活の差があった ≫

  『粒々辛苦錄』の「越後の農村生活」(年代および著者不明、越後長岡藩での農民の生活の記録)

  1928 (昭和3) 年に出版された『郷土読本』(信濃教育会 編、出版 長野県 大日方利雄) P.349~362に、
  この書の農民の正月行事の部分だけが収録されています。

  「木綿の糸」「鮭塩引」(江戸時代中期の北前船で河内の木綿や瀬戸内海の塩が伝わった) などの記述内容から
  1800年以降の可能性が高いです。

  元日の食事では、庄屋など上農夫は豪華ですが、田畑を持たない水呑百姓は米が混じるのは稀で粟稗麥類を
  食べていたようです。上農夫は清酒を用いる事もあるが、貧民以外は濁酒を造って春酒とする。

  七日は七種粥を祝ひ休む。關東筋にてはする所 稀なりと云ふとあります。
  江戸時代の関東で七草粥を食べる風習はなかったという事です。

  新潟県 江戸時代後期の越後長岡藩の農民の正月の食事内容など 貧富の差が大きい
  仙台味噌と宮城県の製塩事業の始まり 江戸の米市場の1/3を仙台藩の米が占めていた事もあった。


  ≪ 色んな職業があり、リサイクルで無駄の生活を送っていたので、ゴミも少ない。世界一清潔 ! ≫

  上記にある近江商人の始末 (関西人のできるだけ無駄をなくするという考え方) が典型的です。
  江戸庶民も貧しかったので1着の着物を長く着るような工夫などもなされました。

  「世界一清潔な都市」と流布されている江戸の実態は日本で最も臭い都市だったようです。
  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった

  テレビ東京 決着! 歴史ミステリー 『かぶき者SP 伊達&慶次  江戸は世界一』 
  読売TV ズームイン !! なるとも ! 『黒ちゃんの 江戸時代 仰天エコ生活』 放送日不明 など より
  日本テレビ 所さんの目がテン! 『江戸時代の「長屋暮らし」を体験 18.04.01 放送






  江戸の人口は世界一?
  1725年の時は112万人。 1801年の英国ロンドンが86万人、1802年のフランスのパリで67万人 (すべて推定)
  江戸では、徳川 300年 (実際は265年ほど)など、適当に多めにいう事が多かったようなので、充てにはなりません。
  色んな説がありますが、明治時代の東京で90万人弱なので、実際のところ、1700年代の江戸は70~75万人くらい
  のようです。 江戸の人口100万人は本当か? 寛政時代の幕府記録では江戸の人口 2億61万3000人もいた?
  三都の気質の違い 江戸ッ子とは? ほぼ現在言われているのと近い都府民気質のようです。江戸ッ子は昔からデカイ事を言う


  江戸の就学率 1850年頃の就学率は推定で85%。
   長野県は江戸時代の寺子屋の数が一番多く、明治時代の就学率は日本一という情報も
   あります。江戸時代の寺子屋は史料の5倍程度あったと推定されているようです。

   1793年のフランスでの就学率は1.4% 1837年の英国での就学率は20% (すべて推定)

   ※ フランスのデータとは50年も開きがあるので、比較するのはどうかと思いますが、
   日本の教育水準がかなり高かった事は事実のようです。


  和算と寺子屋 日本の庶民の学問レベルは非常に高かった 朱子学と陽明学
  江戸の治安システム 江戸の治安は良かったのか?  世界に誇る江戸の水道
  江戸時代の化粧 江戸時代後期のファッション雑誌 『都風俗化粧伝』の内容、最も化粧するのは大坂
  東京近郊の関東の歴史 東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。

  日本は昔から子供を大切にする国だった。
  室町時代~安土・桃山時代にかけ、宣教師たちが西日本を中心に訪れていますが、
  「日本では子供を大切にする」 という事を多くの外国人が書き残しているらしいです。
  ※ 当時、欧米では子供は労働力と考えられていたようですが、日本では家の跡継ぎという感覚だった。
  江戸時代は、子供を描いた錦絵が多くあります。(子供を愛でるロリコン的感覚もあったようですが)






  おちゃない
   髪の毛を買い集める職業。落ちた髪の毛は、髪文字/髱かもじという付け毛 (エクステ) にされ、日本髪を結う時に
  使われました。武士は禿げると隠居しなければならないので、付けちょんまげがあったようです。

  鋳掛屋いかけや 壊れた鍋、かまなどの銅や鉄器の修理屋さん。昭和の戦後物資が少ない時代頃まであったようです。

  こういう商売の服装や籠の形など商売のスタイルは上方 (京坂) と江戸では少しずつ違っていました。






  東京の1857年創業、榮太樓總本舗の「梅ぼ志飴は、良質な砂糖を使った飴だったので、芸者さん達が飴を水で溶いて、唇の艶出しに使ったそうです。

     

  さぬき市歴史民俗資料館 『昔の生活道具(むかしのせいかつどうぐ)』 http://ew.sanuki.ne.jp/rekimin/mukasinodougu.html

  様々な道具なども『和漢三才図会』に描かれ解説もあります。

 
  【 蕎麦 】
  関西テレビ 大阪24区 マニアッ『区』大調査!! 12.06.16 放送
  テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『美味しい日本橋SP』 13.10.19  放送
  NHK Eテレ 先人たちの底地から 知恵泉 『人を動かす極意 「長谷川平蔵」』 14.11.11 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『長野県民ヒミツのごちそう 『高遠そば」』 14.12.04 放送
  NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 「保科正之」前編 14.12.02 / 後編 14.12.09 放送
  読売テレビ 関西ネットten. 『Go! Go! 若一調査隊 「年越しそば その意外な事実が明らかに」』 14.12.24 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅34 「長野県松本市 城山公園~伊和神社、源宗于」』 15.12.17 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第4回 江戸のそば』 16.04.26 放送
  TBS この差って何ですか? 『意外な事実が! なぜそばにだけそば湯があるのか?』 18.01.16 放送
  テレビ大阪 大阪人の新常識 OSAKA・LOVER 『そばは東京ではなく大阪のものだった!?』 18.09.15 放送
  朝日放送 キャスト 『そばの後にそば湯を飲むの なんでやねん!?』 19.05.20 放送
  大阪・上方の蕎麦 『そばきり初期の歴史 「ソハキリ」初見からの年表』 http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/index.html
  奈良の食と農 | 特集「農力のあるヒト」②-土のように-  http://www.pref.nara.jp/norinbu/portal/special-2.html
  Wiki 砂場(蕎麦屋) /  江戸そばの源流 「大阪・上方の蕎麦」 http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/1-1.html


  ≪ 蕎麦 ≫ Wiki 蕎麦がき Wiki 蕎麦  詳しくは 麺類1うどんと素麺の歴史雑学 と 麺類2 蕎麦歴史雑学

  肥沃で豊かな土地では米や綿花を栽培、水が少ない地域では小麦や野菜など、より価値が高い物を栽培します。
  蕎麦は豊かな土地でも栽培できますが痩せた土地でも育つので、米や麦が採れない貧しい土地の主食でした。

  東ヨーロッパのある国の地方では、麦が手に入らない為、そば粉で作ったクレープ(ガレット Galette)が主食。
  1614年の大坂の冬陣での大坂城内の様子を淀君の侍女おきくが語った『おきく物語』に、蕎麦粉をクレープの
  ように焼いて戦飯として食べていたという記録があるそうです。

長野県伊那市の高遠



大坂の陣で大坂城内の蕎麦焼き


  蕎麦の色は、田舎に行けば行くほど黒くなる。食糧不足の山間では、少しでも多くの量を食べようと鬼殻を外さずに
  入れるので、鬼殻の量に応じて黒さが増すのだそうです。

  現在では、主食となる米や小麦の作付の方が多いので、蕎麦の価値が上がっています。

  蕎麦の伝来は5世紀の古墳時代頃だと推測されているようです。
  日本で最初にそばを栽培したのは、滋賀県の伊吹山の麓という説があります。
  年越し蕎麦を食べるようになった理由、そばがき

  麺類では小麦粉を使った素麺やうどんが平安時代以前から日本で食べられていましたが、蕎麦は長らく「そばがき」
  という団子状の物を食べていました。(小麦粉と異なり、蕎麦粉100%では麺状にしづらいなど)






  「そば切り」という麺状になったのは1574年の長野県『信濃史料』に記述があり、信州発祥が定説となっています。
  但し、室町時代に「そば切り」の記述に関する文書は各地にあるようです。


  ≪ 御前ごぜん蕎麦 ≫

  御前蕎麦というのは、ソバの実の中心部分をのみを使用した一番粉(更科粉・御前粉) だけで作った真っ白な蕎麦の事を
  言うようですが、広辞苑によると、卵らん切(=卵麺らんめん : そば粉またはうどん粉を鶏卵でこねて作った麺類)なども
  含む上等なそばの事のようです。

  【更科蕎麦】さらしな‐そば
   ソバの実の中心部分のみを碾いて作った、白くて上品な香りの蕎麦。長野県の更科産とは限らない。


  ≪ 日本初の蕎麦屋 ≫

  大阪西区新町公園界隈は、大阪城築城の際、砂利置き場となったので俗称として『砂場』と呼ばれていました。
  そこに、日本初の蕎麦屋 「砂場 いずみや」 「津の国屋」などがあったそうです。






  蕎麦屋の老舗としては、砂場は更科・藪とあわせて3系列が並べられることが多いそうです。 
  1584年に存在した蕎麦屋「砂場」 否定説の検証 豊臣秀吉の大坂城築城背景
  大阪がうどん文化になったのは、うどん入り茶碗蒸しが原因?
   大坂の苧環蒸し (うどん) → 江戸の小田巻蒸し (うどん・蕎麦) へと変化、鍋焼きうどんも大坂→江戸


  ≪ 東北に蕎麦切りが伝わったのは保科正之から ≫

  徳川家に保護されていた武田信玄の次女の見性院が、武田家再興の為に武田家縁の女中を徳川秀忠に会わせ、
  生まれた子が会津藩の祖と言われる保科正之(徳川秀忠の4男)。
  養育した見性院の計らいもあり、正之は保科家の養子となり信濃高遠藩2万5000石の藩主となります。
  その後、山形藩20万石 → 会津藩23万石の藩主となり、保科正之の人柄に惚れた職人たちが勝手に付いていき、
  高遠そばも伝わりました。

  【保科正之】ほしな‐まさゆき(1611~1672)諡号は土津霊神はにつれいじん。 徳川秀忠の四男。保科氏の養子。 Wiki 保科正之
   江戸前期の会津藩主。会津23万石に封じられ、将軍家綱を補佐。社倉を建て領民を保護。
   儒学を好み山崎闇斎を招き、また吉川惟足これたるの神道説を学び、その伝授を得た。

保科正之

信州高遠藩→山形藩→会津藩


信州・味噌と辛味大根で食べる


  現在のような麺タイプの蕎麦が全国的に広く庶民に食べられるようになったのは江戸時代初期の17世紀頃。

  庶民でも白米を主食にしていた京・大坂・江戸などでは、うどんや蕎麦は団子などと同じく軽食の扱いです。
  食に関する文献のほとんどが、この三都で出版されている事もあり、それらの文献では「後段」という部門に分類。

  【後段】ご-だん
   ② 江戸時代、饗応の時、食後に他の食物を出したこと。また、その食物。
   ↑宴会での〆やデザートの事です。食の各文献には麺類や餅類、粥系が多く書かれてあります。


  ≪ 蕎麦湯を飲む風習 ≫ 製麺技術が低かったため、腹痛を起こさないようにした生活の知恵。

  蕎麦に麺毒というのがある考えられていた為、食後に蕎麦湯を飲むようになったのが始まり。また蕎麦の茹湯に溶けた
  蕎麦の栄養も無駄にしないようにした貧しかった信州の生活の知恵です。江戸では蕎麦を食べる時に味噌汁も飲んで
  いたようですが、これが伝わり蕎麦湯を飲むように変わったようです。






  西日本では早くに製麺技術などが発達していたので、大きな蕎麦殻が麺に混じる事は少なかったようです。
  なので、麺毒の事を書いている本朝食鑑の著者 (大坂の人) は蕎麦湯を試した事がないとも書いてあります。
  石臼の普及だけではなく、細かく粉をふるう為に使っていたのは布で、綿花栽培は西日本が中心であった為、東日本では
  木綿が入手しにくかったという事情も関係していると思われます。


  ≪ 江戸時代中期頃の江戸の蕎麦 ≫

  醤油は上方では元禄(1688~1704年)頃には庶民の間に広まり、蕎麦なども醤油ベースで食べていた記述が
  ありますが、江戸では文化・文政(1804~1831年)になるまで醤油は広く普及していませんでした。

  1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』(塩見坂梅庵 著) では、
  上方では、蕎麦は茹でて出していた事、昆布出汁の醤油汁で食べていた事が分かります。

  1746年の『黒白精味集』(編者の江戸川散人 孤松庵養五郎) では、江戸では蒸し蕎麦だったようです。

江戸は二八蕎麦屋台が多い

江戸は二八蕎麦屋台が多い

江戸・味噌とカツオ出汁

江戸・蒸し蕎麦


  「料理塩梅集」「黒白精味集」の蕎麦の記述全文と蒸し蕎麦の再現など
  鬼平犯科帳のモデル 長谷川平蔵 池波正太郎の小説にある「平蔵が軍鶏鍋が好物だった」というのは創作。史実には一切残っていない。
   ただし、小説に登場する軍鶏鍋屋の『五鉄』のモデルとなった東京の日本橋人形町の鶏料理店『玉ひで』は1760年創業なので、当時も軍鶏鍋は食べられていた。
  鴨南蛮そば 葱の歴史 京都の「九条ねぎ」も江戸のねぎも大坂がルーツ と 鴨なんばの謎
  東京の蕎麦屋の衝撃的?な真実が判明 「生そば」の文字に意味はない?

  蕎麦の汁と薬味は味噌+辛味大根。江戸時代中期の1660年頃の上方では醤油が普及していたので、醤油+合せ出汁。
  1750年頃の江戸は醤油が高価なので、味噌ベース+カツオ出汁。1640年頃『料理物語』に記述がある上方と同じ。
  蒸し蕎麦は水不足などの理由で江戸で誕生したものと推測できそうです。蒸蕎麦の方が茹で蕎麦より香が良いようです。

  詳しくは 麺類1うどんと素麺の歴史雑学 と 麺類2 蕎麦歴史雑学 の各ページをご覧ください。
 
 【德川幕府が後水尾天皇を二条城で接待した料理】
  NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『美しき夫婦の物語 ~後水尾天皇と和子 愛の奇跡~』 14.09.17 放送
  朝日新聞 14.11.25 夕刊 『つれづれ彩時記 「北川央 大阪城通天閣館長の豊臣秀頼の再評価」』 

  ≪ 徳川家の姫が天皇家へ嫁ぐ ≫

  1607 (慶長12) 年、第2代将軍 德川秀忠と正室の江の間に和子 (5女 かずこ) が誕生します。 ※ 長女は豊臣秀頼に嫁いだ千姫。
  関ヶ原合戦で勝利した徳川家康が江戸幕府を開いたものの、西国中心に豊臣家の息がかかった外様の有力大名が
  反旗を翻す可能性がありました。

  徳川家康が将軍に就任した1603年当時、毛利宗瑞書状などによると、同時に豊臣秀頼が関白に就任するという
  噂が飛び交っていたそうです。 豊臣秀頼 大坂の陣で滅びるまで秀頼が成人すれば天下人になると思われていた
  これが実現していれば、秀吉が作った武家関白制によって豊臣が公家と武家の両方を掌握できる事になったでしょう。
  この当時、秀忠の評判は良くなく秀頼は評価が高い、德川には豊臣に政権が戻るという危機感が強くあったようです。






  将軍は秀忠ですが、実際は駿府 (静岡県) にいた家康が幕府を動かしていました。家康は和子を後水尾天皇に嫁がせ、
  德川の地を引く男子を天皇に即位させ、以後、天皇家の威光を借りることで大名たちを従え、徳川が支配者であり
  続けられると考えます。

  【徳川秀忠】とくがわ‐ひでただ(1579~1632)諡号、台徳院。 家康の3男。
   徳川第2代将軍(在職1605~1623)。家康が定めた諸法度に基づき、一門・譜代を含む39大名を改易するなど、
   大名・朝廷・寺社の統制を強化、幕府創業に尽力。

  1614年 和子が8才の時、11才年上の後水尾天皇に入内じゅだい (嫁入り) させることが決まります。
  同年、大坂冬の陣が勃発。翌年、大坂夏の陣。1616 (元和2) 年に家康が死去するなどで、和子の入内は延期されて
  いきました。

  その間に、後水尾天皇は宮中の女性の間に皇位継承者と成りえる男児ももうけていました。
  秀忠は激怒し、様々な言いがかりをつけて天皇の側近を処罰。天皇から女性や子供も引き離しました。

  【後水尾天皇】ごみずのお‐てんのう(1596~1680)名は政仁ことひと。法名、円浄。
   後陽成天皇の第3皇子。江戸初期の第108代の天皇(在位1611~1629)。
   徳川秀忠の娘和子(東福門院)を中宮としたが、幕府の公家圧迫に反発して
   1629年(寛永6)明正天皇に譲位。以後4代51年にわたり院政。
   洛北に修学院離宮を造営。

  【東福門院】とうふく‐もんいん(1607~1678)
   後水尾天皇の中宮。名は和子。徳川秀忠の女むすめ。明正天皇の母。
   1620年(元和6)入内、24年(寛永1)中宮となる。

   ※ 和子 (かずこ) は濁音が入っている為、宮中に習慣にそぐわないので、和子 (まさこ) と呼び換える
     ようになったようです。
後水尾天皇 東福門院和子







  後水尾天皇が出家して譲位をほのめかしている事が幕府にも伝わると、秀忠は藤堂高虎を宮中へ送り込みます。
  高虎は「幕府のする事にこれ以上逆らうと、帝を島へ流し、その責を負って自分は切腹する」と公家たちを恫喝します。
  公家たちは天皇を説得し、譲位は行われず、1620 (元和6) 年、和子が入内する事になりました。

  【藤堂高虎】とうどう‐たかとら(近江の人、1556~1630)    大阪造幣局の雑学と藤堂高虎 「出世払い」の語源など
   安土桃山・江戸前期の武将。浅井長政・羽柴秀長らに仕え、秀吉に召され宇和島城主となり、文禄・慶長の役に従う。
   秀吉没後は徳川氏に属し、関ヶ原・大坂の戦功により伊勢・伊賀32万石に封。築城にすぐれる。

  公家と武家の確執が広がる中、入内した和子は、宮中の女性に着物をプレゼントしたり、武家に伝わる文化『能』の会を
  開催するなどして公家と武家との親睦を図るように努力します。


   ≪ 二条城行幸 ≫ ※ 行幸ぎょうこう (天皇が外出する事)

  1626 (寛永3) 年、和子20才の時、幕府は徳川の城であった京都の二条城に後水尾を迎え、両家の親密さを世間に
  知らしめる為 二条城行幸を行います。






  二条城 (京都市中京区) の二の丸庭園はゴツゴツとした岩で武家らしい力強さを演出した造りですが、(現在は一般開放
  されていない) 反対側から見ると、奥行きがある解放的な雰囲気で、こちら側から庭を望めるように行幸御殿が建て
  られました。(現存していない。)

  【二条城】にじょう‐じょう
   ① 1569年(永禄12)織田信長が足利義昭のために築いた将軍邸。義昭の京都脱出後は誠仁さねひと親王(陽光院)の
    御所となったが、本能寺の変で焼失。京都市上京区に二重堀石垣の埋没が確認されている。
   ② 京都における徳川氏の城郭。京都市中京区にある。徳川家康が京都の警衛並びに上洛時の宿所として1602年(慶長7)
    起工し、翌年竣工。維新後、離宮。のち京都市に移管。


  ≪ 行幸中に饗された料理 ≫

  行幸が催された時の料理は、『七五膳十九献立巻』という絵巻に書き残されています。






  絵巻の長さは20mもありますが、これでも行幸中5日間のうちの2日分のさらに一部の料理内容だそうです。
  京都橘大学の猪熊兼勝 名誉教授によると、
  「部屋いっぱいに御三方が並びまして、和食の料理史上 最大のおもてなしだった。」

武家風の御膳

武家風        公家風

公家風の御膳


  この時の献立の中に「かすてら」があり、文献上で「カステラ」の初見。公家風と武家風の両方の料理が提供されました。


  ≪ 朝廷の権力を奪う幕府 ≫

  幕府は公家諸法度を発布し、天皇が政治に関わらないようにします。天皇が高僧に紫衣しえを与える慣例も、事前に
  幕府の許可を必要としました。
  また、『細川家史料』によると「他の女官が身ごもった皇子たちは殺された」とあり、幕府は天皇の実権を奪っていきました。






  【禁中並公家諸法度】きんちゅう‐ならびに‐くげ‐しょはっと
   1615年(元和1)徳川家康が天皇と公家の守るべき法を定めたもの。全17条。以心崇伝らが起草。
   第1条に天子は学問を第一とすべきことを述べ、以下に公卿・寺家の席次・任用・衣服などを定めた。
   公家諸法度。禁中方御条目。

  【紫衣事件】しえ‐じけん
   1627年(寛永4)将軍 徳川家光の時、皇室から大徳寺・妙心寺の僧に賜った紫衣を、幕府が法規を楯に奪い、
   幕命に従わない妙心寺の単伝・東源、大徳寺の沢庵・玉室らを罰した事件。

  1626 (寛永3) 年、後水尾天皇と和子の間に待望の男子 高仁すけひと親王が生まれますが、1628年に病死。
  1629年に後水尾天皇は娘の興子内親王に譲位。秀忠は「隠岐へ (後水尾天皇を) 島流しする」と激怒しますが、
  和子の「天皇様も苦労されている」という手紙を見て、譲位を承認。

  明正天皇が誕生しますが、女帝は生涯独身で子供は産まない決まりなので、徳川家の血を引く天皇は出来なくなりました。

  【明正天皇】めいしょう‐てんのう(1623~1696)
   江戸初期の天皇(在位1629~1643)。後水尾天皇の第2皇女。名は興子おきこ。母は東福門院和子。

  【江月宗玩】こうげつ‐そうがん(1574~1643) 堺の茶人 津田宗及の子。    沢庵漬け 沢庵和尚と徳川家光
   江戸初期の臨済宗の僧。大徳寺住持。別号は欠伸子。紫衣しえ事件に際し、沢庵・玉室宗珀とともに江戸に下ったが
   処罰を免れた。小堀遠州らと親交を結び、大徳寺 (京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山) 竜光院内に茶室孤篷庵を開く。


  朝廷から見た徳川は敵。一方、朝廷を復興させ幕府を開かなかった豊臣秀吉は「尊皇の功臣」として、徳川幕府が
  破壊した豊臣廟 (秀吉の墓) を明治天皇が明治13年に復興しています。
  また明治から続く現日本政府が公式に使用している『五七桐』の紋は豊臣の家紋です。
  (豊臣家は子孫が絶えているので使用しやすいという事も理由の一つだと思われますが)
 
 沢庵漬け
  テレビ東京 137億年の物語 ~宇宙が始まってから 今日までの全歴史~ 『奈良時代のサラリーマン』 13.11.23 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい お正月SP 『昔の人は偉かった 日本小京都めぐり総集編 「兵庫 "出石の城下町"」』 14.01.02 放送

  ≪ たくあんのルーツ ≫

  奈良時代の須々保利すずほり漬け … 大根と米こうじを使用した料理で、たくわん漬けの
  ルーツ。平城宮から発掘された木簡や延喜式に記述があるそうです。


  ≪ 沢庵和尚 と 徳川家光 ≫

  但馬たじまの城下町出石いずし (兵庫県北部の豊岡市、但馬牛や出石そばでも有名。
  小京都とも呼ばれます)にある宗鏡すきょう寺は1392年 (南北朝が合一した年) に
  創建されましたが、時代とともに廃れ、取り壊しが検討されていました。
  江戸時代の1616年、沢庵和尚が再興しました。



  宗鏡寺の住職 小原宗久さんによると、
  一つの説ではありますが、沢庵和尚は、3代将軍の德川家光に非常に厚遇を受け、(家光は) 何かにつけて沢庵和尚の
   ところにご相談に行かれていた。 

  家光 「何を食べても美味しくない」  沢庵 「では、ごちそうしましょう」という事で、(家光を) 朝早く寺に招きましたが、
  夕方遅くまで待たせた後、湯漬けと大根の漬物を出します。

  沢庵 「農民たちは朝から晩まで働いて、こういう物を食べている。働いて、お腹を減らすことが、ごちそうになる」と
  将軍を諭しました。 家光 「これを沢庵漬けと呼ぼう」。
  これ以降、江戸を中心に関東でも沢庵漬けが広まる事になりました。






  宗鏡寺では 糠、塩、昆布、柿の皮、ミカンの皮、唐辛子など、昔ながらの製法で近所の子供たちと漬けているそうです。
  これを「たくあん」と呼ぶと、沢庵和尚を呼び捨てする事になるので「菜器さいき」と呼んでいます。

  【沢庵】たくあん(但馬の人、1573~1645) 諱は宗彭そうほう
   江戸初期の臨済宗の僧。諸大名の招請を断り、大徳寺や堺の南宗寺等に歴住。
   紫衣事件で幕府と抗争して1629年(寛永6)出羽に配流され、1632年赦されてのち帰洛。
   徳川家光の帰依を受けて品川に東海寺を開く。
   書画・俳諧・茶に通じ、その書は茶道で珍重。著「不動智神妙録」など。

  【沢庵漬】たくあん‐づけたくわん
   漬物の一種。干した大根を糠ぬかと食塩とで漬けて重石おもしでおしたもの。沢庵和尚が
   初めて作ったとも、また「貯え漬」の転ともいう。


  【徳川家光】とくがわ‐いえみつ (1604~1651)幼名竹千代。諡号、大猷院。 秀忠の次男。乳母、春日局。
   徳川第3代将軍(在職1623~1651)。幕府の統治機構や参勤交代の制などを定め、キリシタン禁制を強化し、
   鎖国令をしき、諸侯を威圧して徳川氏隆盛の基礎を確立。

  水が貴重だった江戸では食事の最後に飲み水を茶碗に入れ、たくわんで食器を拭くよう
  にして食べていました。そして、そのまま食器は洗わず箱に直していました。

  鎌倉時代の『徒然草』に書かれた五代執権・北条時頼 (1227~1263)の逸話にも食器を
  洗っていなかったと思われる記述があります。

  また明治44年出版の『東京年中行事』では屋台の食器に付いた土埃なども気にせず
  飲食をしている事が書かれ有ります。東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文



  東京中央漬物 『漬物アラカルト』 http://www.c-z.jp/chie_takuwan.html より抜粋

  葉を除いて丸干しした大根を塩糠にしたものを、上方では「香々」といい、江戸では「沢庵漬」という。
  江戸の庶民は自分ではたくあんを漬けることは少ない。江東区深川江戸資料館に江戸時代の八百屋(当時は青物屋と
  呼ばれていた)が再現されている。店頭には大樽に入れられた沢庵漬がおかれ、干した大根が売られていた。
  今と違って冷蔵庫も無く、旬の野菜しか置かれていなかった。

  上記サイトには、たくあん漬の由来や、各地のたくあん漬がなどが載っています。

  【小堀遠州】こぼり‐えんしゅう(近江国の人、1579~1647)
   江戸前期の茶人・造園家。名は政一。宗甫・孤篷庵と号。豊臣氏および徳川氏に仕え、作事奉行・伏見奉行を勤仕。
   遠江守であったので遠州と称。茶道を古田織部 (千利休の高弟) に学び、遠州流を創め、徳川家光の茶道師範
   和歌・生花・建築・造園・茶具の選択と鑑定に秀でた。


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) の上巻
  「香物の法」には、高菜漬、奈良漬、青瓜漬、森口漬 (守口漬)、近江漬、浅漬などと共に宅庵漬のレシピがあります。

  同書には二「酢・酒・香物」と、三「納豆・醤・糠味噌・漬物・干し物・貯物」とあり、香物と漬物は区別されています。
  はっきりした区別や違いの理由は書かれていませんが、レシピなどを見ると、
  香物は香や味を重視してそのまま食べるもの。漬物は貯蔵目的が主で、または料理に加えたりするものが多いです。


 幕末の『守貞謾稿』 上巻 第五編 生業下 「麹賣

 米製の麹を賣る 專ら中秋以後 冬に至り賣之 是 當季 茄子の糀漬を製す家多きを以て也
  麹筥 京坂より小形にして粗製也

  「當季=当季」「=箱」


 幕末の『守貞謾稿』 上巻 第五編 生業下 「漬物賣

 京坂にて莖屋 くきやと訓ず 昔は大根等の莖漬をうりし也 今世は莖のみに非ず 蘿根 蕪菜等の鹽一種を以て
  漬たるを くきと云 又 大根の根葉ともに細かに刻みて鹽漬刻み莖と云 蘿根全體のまゝ漬けるを長漬といふ

  瓜 茄子等の鹽糠二種をもつて 不日に淺漬とす 大根の葉を去り乾て枯て 後に鹽糠をもつて漬たるを香々と云
  香の物とも云 原は香物は漬物の惣名也 鹽漬 糠づけ 粕漬ともに賣之 粕漬 三都ともに奈良漬と云
  又 江戸にては漬物屋と云 漬物の惣名を香の物 又 かこかう とも云

  鹽漬を鹽押と云 瓜 茄子 大根 菜等を押す 蓋  全體大根の長漬不之 刻莖を江戸にて大坂漬と云
  彼地の製を傅たるか 蕪 亦 大なる物なし 故に不

  近年 冬 大坂より天王寺蕪を漬け 京都より水菜を漬て 江戸の知音に賜る者多し 賈物には稀なり
  水菜類は壬生菜または糸菜とも云 江戸にて二品ともに賞

  京坂にて云 淺漬は江戸も同名 又 同製之 又 三都ともに鹽糠を以て漬たる 上方のかうかう と云
  同製の物を江戸にて澤庵漬と云 品川東海寺の澤庵禪師 始て製之 故に名とす

  江戸は諸香物及び煮豆 嘗物味噌の類をも兼ね賣る 煮豆を三都ともに座禪豆と云 又 三都ともに なめものに
  さくらみそ 金山寺みそ等あり 金山も禪寺の名 又 江戸に鐵火みそと云もうる 京坂に所無也 鐵火は博徒の
  異名也…

 又 因曰 京坂は毎冬 味噌と香々は自家に製之 香々 江戸に云たくわん也 江戸は各居 壘地なき故に歟
  自家製之事稀也 專ら味噌 巨戸は一二樽を買 中以下は百文 二百文と 大小戸とも毎時買之 又 澤庵は 年用を
  計りて 城北煉馬村の農家より買之 毎冬 煉馬農人 江戸得意の家に來り 明年所用の澤庵漬を樽数を問ひ 又
  價を取て 其戸の人数を計り 毎時 馬を以て澤庵を送る

  因曰く 江戸京橋北に川村與兵衛と云 香物店あり 近年 諸漬物を薄くきり 數品を交へ折に納め賣之 音物 片物
  等に用ふ所也 甚美にして蒸菓子折に似たり 小折 百四十八文ばかり 中折 大折 准之 此他 三都とも此製を見ず

  菜の鹽押し 澤庵漬 茄子鹽押 同酒粕漬 同大根 又は 大根 薑の梅酢漬 梅干漬 同紫蘇らつきやう漬等の外に
  嘗味噌 及び 煮豆をうる


  「=茎」「蘿根=大根の事」「=塩」「全體=全体」「=ぬか」「=源」「=総」「傅たる=付けたる」
  「知音=知人」「=買」「澤庵禪師=沢庵禅師」「嘗物なめもの=塩辛、嘗め味噌など」「鐵火=鉄火」
  「 (るい、とりで) =塁」「塁地なき長屋が多い」「しょうが=生姜」

  守貞謾稿『味醬』の記述  守貞謾稿『味噌賣』の記述  守貞謾稿『鹽辛賣』の記述

  【蘿蔔】ら-ふく …大根の漢名。
  【蘿蔔・清白】すず-しろ … (清白菜すずしろなの意) ダイコンの別称。春の七草の一つ。

  【香香】こう-こ … (コウコウの下のウが脱落) こうのもの。漬け物。

  【香の物】こう-の-もの
   野菜を塩。糠味噌などに漬けた食品。つけもの。こうこ。新香しんこ、しんこう (新しい香物、新漬け、御新香おしんこ)。

  【天王寺蕪】てんのうじ‐かぶら
   カブの一品種。大阪市天王寺原産。大形で、やや扁平で肩が張り、皮・肉ともに白く千枚漬・粕漬などにする。

  【壬生菜】みぶ-な (京都市中京区壬生の原産)
   水菜の代表的な一品種。縁に切れ込みが無く、大きい株となる。漬物などにする。季語は春。

  野沢菜・広島菜のルーツは天王寺蕪 ウィキペディアの否定説を検証した結果、非常に悪質な出典方法だった。(東京人が書いたと思われます)
  刺身・お造りの歴史  ウィキペディアの「刺身」での記述の嘘。(こちらも、同一の東京人が脳内妄想たっぷりで含んで書いたと思われます)
  稲荷寿司 愛知県の豊川稲荷発祥説は嘘。守貞謾稿の都合の悪い部分はカットなど、他の文献などからも検証、大坂発祥の可能性が高い

 
 【江戸時代の代表的な最も重要な料理書の一つ「料理物語」】
  ≪ 元禄時代より前の重要な料理書 ≫

  千葉大学教育学部紀要に掲載 (農林省食品総合所の「古典料理の研究」)による選出では

  『庖丁秘密』、『1643 (寛永20) 年 料理物語 著者は大坂の可能性が高い 最重要書』、『庖丁書録』、
  『1668 (寛文8) 年 『料理塩梅集 塩見坂梅庵 著、大坂の可能性が高い』『新版料理献立集』、
  『1674 (延宝2) 年 江戸料理集 江戸 (他のサイトによると古今料理集のアレンジ版らしいです。)』の6書だそうです。


  TBS 所さんのニッポンの出番! 『二歩変人が知らないニッポンを発掘 日本のラーメンはナゼうまいのか?』 14.04.22 放送
  TBS 所さんのニッポンの出番! 『日本のショッピングモールで発見 たくさんある食感を表す言葉がスゴイ!』 15.05.12 放送

  ≪ 江戸時代の代表的な料理書の一つ「料理物語」が出版される ≫  Wiki 料理物語

  「サクサク」「ふわふわ」「ねっとり」など食感を表す言葉は日本が最も多い。


  1915 (大正4) 年出版 国書刊行会出版 雑芸叢書. 第一 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1869566 に収蔵されている
  『料理物語』1664(寛文4)年 高橋清兵衛版 コマ番号175~187 P.320~345

  1643年刊『料理物語』の「第十二 煮物之部

 …〔とうふふわふわ〕だしたまりにて、ひとあはふたあはにてはや出し候事也… 〔とうふ玉子〕とうふをすり、口なし
  にて うすうすそめ、くずのこを少くわへ、だしたまりにて玉子のふわふわのごとくしていだし候、ほん玉子のごとくなり…
  ころころ〕ことりをたゝき、せんばのごとくざつとにて、うちあげをき、かまぼこをよくすり、むくろじほどにして、かの鳥
  にて こかし、だしたまりかげんしてにて出し候


  「第十六 さかなの部

 玉子ふわふわ〕玉子をあけて、玉子のかさ三分一だしたまり、いりざけをいれ、よくふかせて出し候、かたく候へば
  あしく候、いなのうすとりのもゝけなどをいれ候へば、のぶすまともいふ…

  「もゝけ=鳥臓ももき、ももげ、むむき、もむき、(平安時代はモモギで、鳥の内臓の事) 」と思います。

  【野衾】の-ぶすま
    叩いた小鳥の肉と鯛の身をざっとゆで、鮑あわびを薄くへぎ、袋のようにしたものと共に煮た料理。
   ② ムササビの異称。(物類称呼)

  「ふわふわ」「ころころ」とあるので、江戸時代初期には、食感を表す擬音が使われていた事が分かります。

  現在でも擬音語・擬態語を最も多用するのは大阪人である事はケンミンSHOWでも取り上げられていました。
  「せんばのごとく」は、船場煮 (大阪船場で食べられていた汁物、すましの潮汁) の事だと思います。
  「せんば」は料理名として、江戸時代の他の料理本にも登場しています。

  「第一 海の魚之部」「第九 汁之部」「第十 鱠之部」「第十一 指身之部」「第十二 煮物之部」「第十三 燒物之部」では
  「鯛」が筆頭に書かれてあります。

  「第二 磯草之部」では「昆布」、「第四 鳥之部」では「〔鶴〕汁、せんば、さかびて…」と関西の食材や料理法が筆頭に
  書かれています。


  料理物語は、儀式料理のレシピや作法が中心だった16世紀以前の料理書と大きく異なり、表現は簡潔で文章は格調高く、
  料理の網羅範囲も広い
  後書きには『武蔵国狭山に於いて書く』との記述があるが、上方言葉が使われており、著者の詳細は大阪出身で
  京都に住む商人が書いた。著名な料理人が後進のために書いた。などと推定されているそうです。

  江戸でも上流階級は上方言葉を使っていた 上野公園の鶯は、京都の訛の無い鳴き声の鶯の子孫







  【料理物語】
   料理書。著者未詳。1冊。1643年(寛永20)刊。
   魚・鳥・野菜などの料理の材料76種の名称と、それに適する料理を列記し、料理法を略述。
   有職故実の記述ではなく、庶民の日常食を記す。

  東京都立図書館デジタルライブラリー 『1.料理物語』 
  http://www.library.metro.tokyo.jp/digital_library/collection/the8/tabid/1988/Default.aspx

 江戸時代初期の代表的な料理書。従来の形式的な作法を主としたものではなく、料理材料や 調理法を簡潔では
  あるが具体的に書いたものとしては最も古い。著名な書であるにもかかわらず、 著者については定説がない。
  内容は二十の部に分けられ、海の魚、磯草、川魚、鳥、獣、きのこ、青物の七部については、 材料名とその料理
  名のみをあげ、八項目から以下、汁の部、なますの部などは代表的な料理法 を具体的に、最後は万聞書の部
  として、その他の関連事項を記している。
  海の魚から青物の食材のもとに列記された料理名は、八項目以降の料理法を参照することで大要がつかめる
  ようになっている。この様式は以後の料理書の編集に大きな影響を与えた。
  提示は巻頭部分で、鯛の料理名として「はまやき 杉やき かまぼこ なます しもふり」 などがあげられている。
  刊本には異版も多く、広く流布したことが伺える。


  著者は未詳ですが、上方言葉で書かれており、江戸中期までの商業出版は京都のみ。大坂人または京都人が
  書いたと推測されています。 くわしくは  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸
  後に類本、補完版などが出版されています。下記の文は最も記述内容が多い版。


 1915 (大正4) 年刊の『雑芸叢書』は、江戸時代の19の専門書が1つの本として集められて出版されています。
  この中に収蔵されている『料理物語』は1665 (寛文4) 年の高橋清兵衛版で、元版より記述が追加された版。
  1915 (大正4) 年出版 国書刊行会出版 雑芸叢書. 第一 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1869566 に収蔵されている
  『料理物語』1664(寛文4)年 高橋清兵衛版 コマ番号175~187 P.320~345

  「第二十 萬聞書之部」に続き書かれている巻末の最終部分を抜粋。

 右料理の一巻は、庖丁きりかたの二法によらず、唯人作次第の物なれば、さして定りたる事はなく候へ共、
  先いにしへより聞つたへし事、けふまで人の物語をとむるにより、料理物語と名付侍る也、遠國名所名所の珍物
  幾千萬ならむ、又明日は聞事見る事もあらむ、おかしく出來る事は書そへてんかし、山野河海の魚鳥も無一物より
  出來たる無盡蔵、雨露のやしなひに生ずる かたちは様々かぎりなき事なれば、誰かぞへ計がたし、又うるはしきを
  失念も有なん、只あらましごと、春のながめ旅の空、つれづれのあまり筆にまかせ侍りき、然共毎■は くはしくしは
  しらず、存知の方に口傅を■尋らるべき者也、武州狭山書

  は、はっきりしないか欠けて読めない文字が書かれていたと思われますので、この部分は原版そのままを
  書いてあると推測できます。

  〔ひのうどん〕〔いせどうふ〕〔はまななつとう〕〔たこのするがに〕などの土地名が付いた料理名も出てきます。
  日野=滋賀県、伊勢=三重県、浜名=静岡県南西部県、駿河=静岡県中央部。

 
 【外国から伝わり、日本料理になった 普茶料理と卓袱料理】
  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『夏の京都 水辺散策 納涼めぐり旅 黄檗普茶&宇治抹茶』 15.07.25 放送
  読売テレビ ten. 『異国情緒あふれる文化を堪能! 萬福寺の魅力に迫る』 17.11.15 放送

  【長崎料理】ながさき‐りょうり
   戦国時代から江戸初期の寛永の頃までに、中国人・ポルトガル人・スペイン人が長崎に伝え、次第に日本化した
   異国趣味の料理。てんぷら・卓袱しっぽく料理・普茶ふちゃ料理など。


  ≪ 普茶料理 ≫  Wiki 普茶料理

  【普茶】ふ-ちゃ … (フサとも) ひろく一般大衆に茶を饗すること。

 江戸時代初期の1654年、中国(現在の福建省)の禅僧 隠元隆琦が来日。
  1661年には山城国宇治(京都府宇治市)に萬福寺を開き、禅宗の一つである黄檗宗の開祖となった。

  隠元は、中国式の禅文化を日本に伝えるとともに、インゲンマメ、孟宗竹、スイカ、レンコンなど、さまざまな品を
  日本へもたらした。その時一緒に伝わった当時の「素菜」(スーツァイ、いわゆる中国式の精進料理)が普茶料理である。
  「普茶」とは「(あまね)く衆人にを施す」という意味であり、法要や仏事の終了後に僧侶や檀家が一堂に会し、
  煎茶などを飲みながら重要事項を協議する茶礼に出された食事が原型となっている。






  日本の精進料理とは異なり、葛と植物油を多く使った濃厚な味、一つの卓を4人で囲む形式が特徴である。
  代表的な普茶料理に胡麻豆腐、精進うなぎがある。






  萬福寺は中国の明朝時代の様式を多く取り入れた寺。お経も『梵唄ぼんばい』という唐音とういんという中国語の経をよむ。
  この普茶料理は元々、法要の後に参加した檀家などに振る舞いの料理として出していたそうです。
  中国式の精進料理といわれる普茶料理のコース1人前8060円(要予約、拝観料500円込み)が味わえます。
  下リンクの萬福寺のサイトによると、普茶弁当 (要予約、3000+税) などもあるようです。

  こちらには木魚の原型と言われる『開梆かいばん』があり、食事などの合図に木棒で叩きます。

  【魚梆】ぎょほう  コトバンク
   仏教,とくに禅宗で用いる鳴物(楽器)の一種。魚梆(ぎよほう)(開梆(かいばん)),飯梆(はんぱん),梆(ほう),
   魚鼓(ぎよこ∥ぎよほう)ともいう。
   木製で口に珠をくわえた長魚の形(主に鯉)をしており,寺院の食堂(じきどう)などに魚が泳いでいるようにつってある。

  【魚鼓】ぎょ‐く … 内部を刳くった魚形の木製仏具。禅寺などで吊し、諸事の知らせに打ち鳴らす。魚板。

  【木魚】もく‐ぎょ  Wiki 木魚
   読経・念仏の際に叩いて鳴らす仏具。木製で、円形・中空、魚鱗を彫刻したもの。先端を布や革で包んだ桴ばちで打つ。
   宋代に始まり、もとは魚形の板。木魚鼓。

  『精進うなぎ』は、豆腐と山芋を擦り合わせたものを板海苔に乗せ、包丁で筋目を付けて
  油で揚げます。それに甘辛いタレをつけて焼き、鰻の蒲焼き風に仕立てたもの。

  『かまぼこ もどき』は、長芋(白い部分)に、食紅で着色した天ぷら粉を付けて揚げたもの。
  『鰻もどき』『唐揚げもどき』など大豆製品を使った『もどき料理』が有名です。

  【普茶料理】ふちゃ‐りょうり (普茶が終わって料理を出したからいう)
   中国式の精進しょうじん料理。油と葛粉を多く用いるのを特徴とする。
   大皿に盛って出し、各人取り分けて食べる。宇治の黄檗おうばく山万福寺の開祖が中国
   から伝えたので黄檗料理ともいう。


  【万福寺】まんぷく‐じ
   ① 中国福建省福清市黄檗おうばく山にある禅寺。789年草創で臨済禅の大道場。17世紀隠元が黄檗宗を開く。
   ② 京都府宇治市にある黄檗宗の本山。山号は黄檗山。1661年(寛文1)明の僧 隠元の開山。
     江戸中期まで代々中国僧の住持で、伽藍・食事も中国風。鉄眼の翻刻した大蔵経の版木6万枚などを所蔵。

  黄檗宗の教えは臨済宗と同じですが、建物などが全て中国の明朝様式の為、明治時代に臨済宗と区別されました。
  およそ4万坪の敷地に20以上の建物があり、集様な建物や回廊・額など23件が国の重要文化財に指定されいます。

  【隠元】いんげん(明の福建省福清の人、1592~1673)
   ① 日本黄檗おうばく宗の開祖。名は隆琦りゅうき。1654年(承応3)日本に渡来。
   山城国宇治に黄檗山万福寺を創建。語録・詩偈集など開版されたもの多く、
   その書は茶席の掛軸として珍重される。諡号しごうは大光普照国師など。
   ② 隠元豆の略。(隠元が明から日本に持ち込んだ豆のこと)

  黄檗山萬福寺HP 『普茶料理について』 http://www.obakusan.or.jp/fucha/



  1761 (宝暦11) 年、『八僊卓燕式記』という調理・献立の作法辞典が、長崎在住者と思われる著者によって書かれています。
  1772 (明和9) 年、『普茶料理抄』が京都の西村市郎右衛門から発行されています。
  1784 (天明4) 年、『卓子式』という調理と献立の事典が豊前 (福岡東部~大分北部) 在住の著者によって書かれています。

  【卓子】たく-し … 机。テーブル。食卓。卓。


  ≪ 卓袱料理 ≫  Wiki 卓袱料理  卵百珍に見える「長崎」の付く料理 醤油の普及は江戸より長崎の方が早かったと思われます。

 1655 (明暦1) 年頃、長崎で料亭「吉田屋」が創業し、1889 (明治22) 年に「富貴楼」と改称。 (富貴楼HP)

 中国料理や西欧料理が日本化した宴会料理の一種
  長崎市を発祥の地とし、大皿に盛られたコース料理を、円卓を囲んで味わう形式をもつ。
  和食、中華、洋食(主に出島に商館を構えた阿蘭陀、すなわちオランダ)の要素が互いに交じり合っていることから、
  和華蘭料理わからんりょうりとも評される。

  日本料理で用いられている膳ではなく、テーブル(卓)に料理を乗せて食事を行う点に特徴がある
  献立には中国料理特有の薬膳思想が組み込まれていると考えられている

  1689年(元禄2年)に唐人屋敷が整備されるまでは、中国人と日本人が市中に雑居しており、互いに招きあい、
  食事をする機会も多かったと考えられている。
  また、海外から運ばれた砂糖や香辛料、オランダ語が語源とされるポン酢など、出島を拠点に行われたポルトガルや
  オランダなどとの貿易によってもたらされた食材の影響も少なくない。

  ポルトガル由来の南蛮料理、南蛮菓子は卓袱料理の発展の下地となり、出島に居住するオランダ人と交流する機会の
  あった江戸幕府の役人を通してオランダの食文化が少しずつ長崎に広まっていった。このような異文化の交流の中から、
  卓袱料理の形態が生まれたと言われている

  長崎に伝わった南蛮料理や中国料理にアレンジが加えられて日本料理化され、長崎独自の料理に変化した
  やがて接待・宴会の際に日本化した舶来の料理を自宅に取り寄せるようになり、それらの仕出し料理を専門とする
  料理屋はやがて料亭に成長していった。

  文化・文政期頃には江戸で一大ブームになる。 ※文化 (1804~1818年)+文政 (1818~1831年)=「化政年間」

  ひとりひとりに膳が出されるのが普通であった当時の人々にとっては、一つのテーブルを囲んで大皿で食べるという
  中国式のスタイルは物珍しかったという。
  江戸古典落語に登場する「百川」は卓袱料理屋として創業したと伝えられる。
  また、江戸だけではなく京都、宇治、大坂といった関西地方の都市でも卓袱料理と普茶料理が食されていた。

  江戸や京都で流行した卓袱料理は次第に廃れていくが、後に長崎で復興する
  1900年代には、現在の卓袱料理の様式と献立が成立する
  しかし、1950年代には南蛮料理・中国料理の様式を保つ卓袱料理が反時代的と批判を受ける。

  【卓袱】しっ‐ぽく (唐音)
   ① 中国で食卓の被いのこと。転じて、その食卓の称。卓袱台。
   ② そば・うどんの種たねに松茸・椎茸・蒲鉾・野菜などを用いた料理。しっぽこ。  ③ 卓袱料理の略。

  【卓袱料理】
   江戸時代、長崎地方から流行し始めた中国料理の日本化したもの。
   主として肉・魚介類を用いた各種の料理を大皿に盛って食卓の上に置き、各人取り分けて食べる。長崎料理

  【和蘭商館・阿蘭陀商館】オランダ-しょうかん
   江戸時代、貿易のため日本におかれたオランダ東インド会社の支店。
   1609年 (慶長14) 41年 (寛永18) 長崎の出島に移転。

  【和蘭正月】オランダ-しょうがつ
   太陽暦の正月を祝う賀宴。江戸時代長崎の出島蘭館のオランダ人や通詞つうじらが行った。
   江戸では寛政6年閏11月11日(1795年1月1日)に芝蘭堂で蘭学者 大槻玄沢が賀宴を開いたのが始まり。

  【大槻玄沢】おおつき-げんたく (仙台藩医、1757~1827) 名は茂質しげかた。磐水と号。
   江戸後期の蘭学者・藩医。江戸に出て杉田玄白・前野良沢に医学・蘭学を学び、ついで長崎に遊学。
   江戸に蘭学塾芝蘭堂しらんどうを設立。著「蘭学階梯」「重訂解体新書」など。

  【唐人踊】とうじん-おどり
   唐人の衣裳をつけ、鉄鼓、胡弓などの中国楽器に合わせて唐人唄「かんかんのう…」を歌いながら行う一種の踊り。
   江戸後期、文政の頃、長崎の中国人から伝えられ、江戸・大坂で流行。看看踊かんかんおどり←「かんかんのう…」の歌詞から。


  1764年 (宝暦14) 刊の地方の料理を集めた本『料理珍味』(京都の園趣堂主人、京都で出版) に「八方菜」があります。
  ちゃんと訳せるスキルを持ち合せていないので大まかですが、栗・長芋・牛蒡・椎茸・銀杏・麩など8種類に味を付け豆腐、
  うどん粉を漉し入れ、昆布だしの醤油にて葛を使う事などが読み取れます。
  現在の八宝菜とは具がかなり異なります。


  ≪ 茶碗蒸し ≫

  日本茶碗蒸協会 『茶碗蒸しの歴史』 http://www.chawan-mushi.jp/chawanmushi/

  1689年(元禄2年)、長崎(現在の長崎県長崎市館内町)に唐人屋敷が設けられ、
  唐人料理から卓袱(しっぽく)料理が生まれました。
  その献立の一つであったのが茶碗蒸しだそうです。
  伊予松山の藩士であった吉田宗吉信武は、出入りしていた長崎の肥後屋敷で初めて
  茶碗蒸しを食し、こんなに美味しい料理があるかと感動し、1866年(慶応2年)、宗吉は
  「吉宗(よっそう)」の屋号で長崎県長崎市万町に茶碗蒸しと蒸し寿司の専門店を開業した
  そうです。


  福岡県の筑豊地区では茶碗蒸しに餅を入れるそうです。江戸時代後期の大坂ではうどんを入れた苧環蒸しが
  登場しました。苧環蒸しは幕末頃に江戸に伝わり蕎麦を入れる小田巻蒸しへと変化しました。

  南蛮菓子と和蘭陀菓子の系譜 中川清 著 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17291/spffl058-05.pdf
 
 【オランダ煮】
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『加賀地方に住む石川県民は「ナスの煮浸し」の事を「オランダ煮」という !?』 14.09.04 放送

  ≪ オランダ煮 ≫

  石川県の加賀地方では『ナスの煮浸し』を『オランダ煮』と呼ぶそうです。






  石川県金沢市の北陸大学 未来創造学部 日本文化史専攻の長谷川孝徳 教授によると
  長崎の出島から伝わった油で揚げたり、炒めたりした食材を煮る西洋の調理法の事を『オランダ煮』と言っていました。
   江戸時代中期頃、調理の仕方が似ているナスの煮浸しの事も含め、加賀藩領内で言われ始めたらしい。
   何故、加賀地方だけにその言い方が残っているのか? 『ナスの煮浸し』だけを『オランダ煮』と呼ぶのか? は不明だそうです。

  【和蘭焼】オランダ-やき
   白身魚に塩をふって卵白を塗り、卵黄の薄焼を張りつけてあぶった料理。紅毛焼。

 
 【中華料理と中国料理】
  TBS この差ってなんですか? 『外国人が分からない日本の差 SP』 17.04.18  放送

  ≪ 中華料理と中国料理の違い ≫

  江戸時代、清の料理人たちが長崎の出島で四川や広東料理を振る舞っていました。日本の料理人たちが学び、
  日本各地に店を出しますが、日本人向けにアレンジした中国料理を提供するようになります。
  その際、中国一帯は「中華圏」と呼ばれていたので、「中華料理」という形で言っていたそうです。

江戸時代の出島

明治時代以降

中国建国以降に中国料理

中華料理は日本人向けアレンジ


  明治時代以降、外国人が日本本土に居住する事が可能になると、中華圏の人たちが「四川料理」「広東料理」などと
  名乗り店を出しました。

  1949年に中華人民共和国が建国された事により、四川や広東、北京などと名乗っていた料理店が「中国料理」と呼び
  換えるようになったそうです。

  中華料理の方が名称として古く、日本人向けにアレンジした料理。日本人経営者が多い。
  中国料理の名称は戦後の昭和24年以降から使われ始めたもので、本場の味を提供する店が多い。

  最も異なるのはギョーザで、中華料理では御飯に合うように、具を変え、焼く事でパリパリという食感を出しおかず
  にもなる。中国料理の餃子は、水餃子であり主食として食べられているもの。


 1939 (昭和14) 年出版 小資本開業案内 商店界編輯部 編 誠文堂新光社 (東京・神田) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262951
  P.399 「支那料理店の開業手引

  ひと口に支那料理店とは言うものの、本格的なものに在っては、いわゆる北京料理と称えるものもあれば、
  或は広東風と呼ぶものもある。しかし、ここではそうした純然たる支那料理店を商売するものではなく、
  いわゆる日本風のお手軽る支那料理を指して言うものである。

  中華人民共和国が建国される以前、日本では中国の事を「支那」と呼んでいました。



  朝日放送 キャスト 『中華料理に天ぷらがあるの なんでやねん!?』 19.06.03 放送

  ≪ 中華料理と中国料理の料理名の付け方 ≫  中国の揚げ物の分類と中華料理の天ぷらとの関係

  ウェスティンホテル大阪にある中国料理「故宮」の王憲生 料理長によると
  日本の天ぷらと同じものは中国には無く、中国料理の場合は粉の付け方によって料理名が分類されています。
  中国の酥炸が日本の天ぷら (精進進揚げ&江戸前天ぷら)に近いようです。西洋料理でいうフリッター系の揚げ物。






  中国・薬膳料理研究家の宮武衣充さんによると、中国と日本は料理名の付け方のルールが異なる。
  中国は材料や調理方法を具体的に並べて料理名にする。
  日本は出来上がった料理のイメージから料理名を付ける事が多い。

  中国料理の揚げ物の大別。
  但し中国料理は北京・上海・四川・広東の四大料理がありますので、地域によって下記の分類とは異なる事もあります。
  粉もそれぞれ片栗粉や小麦粉だけとは限らず、片栗粉と小麦粉とを混ぜたり、その配合によっても仕上がりが変わります。

チンジャオロース

フカヒレのスープ

上海焼きそば

両面焼きそば


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