手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の食の歴史6 江戸時代 菓子・甘味1
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   20.02.12
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「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents





 日本の食の歴史・雑学の江戸時代の2ページを、19.11.08に8ページに分割し、
 画像や情報を追記しながら再編集しました。 各ページURLも変更になりました。

 他のページも情報量が多過ぎるので、分割・再編集などを行う予定にしています。


 江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

 卵、牛乳、砂糖については日本のアイスの歴史 各ページをご覧ください
 大阪と関西の食文化のページも 日本の食文化を語る上で必須です

 「菓子」とは元々は「くだもの」の事だった 和歌山県海南市の橘本神社

 1911年(明治44)刊 東京年中行事の 「水菓子屋」(果物屋) の記述文

 奈良・平安時代 中国から伝わった唐菓子  おこし・おこし米 粟おこし 岩おこし 雷おこし

 鎌倉時代に饅頭が伝わった 「饅頭切手」 商品券は大坂発祥かも

 室町時代 奈良吉野の本葛 色んな餅がつくられる みたらし団子

 南蛮菓子 南蛮菓子をルーツにして変化した菓子などは多い

 カステラの歴史 江戸時代の京都ではワサビ醤油や味噌汁の具に

 江戸時代に出版された主な菓子の専門書

 京都で和菓子 (上生菓子) が誕生 和菓子のまとめ新聞記事

 三大和菓子処と三大銘菓 金沢の和菓子 松江の和菓子

 江戸時代の砂糖と和菓子の関係 味噌餡 → 塩味小豆餡 → 砂糖入り小豆餡

 粽と柏餅 柏の葉が「カシワ」と呼ばれるように定められたのは江戸時代中期

 江戸時代を通じて長くよく食べられた牛蒡餅

 大仏餅 京都発祥の求肥で作られた大福餅の高級品

 あんびん餅・腹太餅・鶉餅・大福餅

 ぎんつばときんつばの関係と違い

 江戸の菓子店の数 江戸時代中期100年で約4倍に増加

 「にっぽん」と「にほん」という呼び方は、いつ生まれたのか?


  NAVER まとめ 『再現された江戸時代の日本人の食事』 http://matome.naver.jp/odai/2134329123090279301
  神戸女子大学 古典芸能研究センター 『近世の家政学―重宝記・料理本の世界』 2001.12.08
   http://www.yg.kobe-wu.ac.jp/geinou/07-exhibition3/06-ten_kase.html
  神戸女子大学の上記サイトには、江戸時代に出版された百科事典にあたる各『重宝記』と、料理本が紹介されています。

  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf
  農林水産省 食料産業局食文化・市場開拓課和食室 『日本食の歴史』 http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/rekishi.html

   江戸時代の主な重要文献と著者   江戸時代に出版された主な菓子の専門書

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  異国叢書[第6] ケンプエル江戸参府紀行:上巻 を所収 1927 (昭和2) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876448
  異国叢書[第9] ケンプエル江戸参府紀行:下巻 を所収 1929 (昭和4) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1195335
  異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
  ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693
  異国叢書[第5] ヅーフ日本回想録&フィッセル参府紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179830
  ペルリ提督 日本遠征記 1912 (明治45) 年 東京の大同館 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992335

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 【「菓子」とは元々は「くだもの」の事だった】  フルーツの雑学
  【菓子】か‐し
   (「菓」はくだものの意)常食のほかに食する嗜好品。昔は多く果実であったが、今は多く米・小麦の粉、餅などに砂糖・
   餡あんなどを加え、種々の形に作ったものをいう。和菓子と洋菓子とに大別。これに対して果実を水菓子という。

  【 橘 】たちばな、きつ。  Wiki タチバナ
   食用柑橘かんきつ類の総称。ときじくのかくのこのみ。万葉集にも登場します。
   ニホンタチバナの別称。カラタチバナ (唐橘、カラタチ) の別称。

  古事記、日本書紀には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香
  木実 (時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った(永遠の命をもたらす)霊薬を持ち帰らせたという話が
  記されている。

  【田道間守】たじまもり 記紀伝説上の人物。 広辞苑 & 百菓辞典
   4世紀頃、垂仁天皇の勅で常世国とこよのくにに至り、非時香菓ときじくのかくのこのみ(橘orダイダイ)を得て10年後に
   帰ったが、天皇の崩後であったので、香菓を山陵に献じ、嘆き悲しんで陵前に死んだと伝える。
   常世国は朝鮮半島か中国の江南地方と考えられる。奈良市の西方、西の京跡にある垂仁天皇東陵の中に、
   陪塚のひとつとして残っている。果物は、水菓子と呼ばれ、菓子の祖先と考えられているため、田道間守を
   菓租として祭っている。

  【香の菓】かく-の-このみ、かく-の-み
   (かおりのよい果実の意) タチバナの実。万葉集[18]「時じくの―」。


  関西テレビ 報道ランナー 『各地で続々! "ユニーク条例" 町おこしの新たな戦略』 18.08.17 放送

  ≪ 和歌山県海南市の橘本神社 ≫

  日本書紀や古事記に記されている約1900年前に田道間守が常世の国から持ち帰った非時香木実を植えた場所が
  和歌山県北西部の海南市辺りだそうです。






  海南市の橘本きつもと神社に橘が植えられており、日本の大手菓子メーカーの多くが菓子と由緒がある神社として
  寄付などを行っているようです。

  【枳・枸橘・枳殻】から‐たち
  (「唐たちばな」の略)ミカン科の落葉低木。中国の原産で、普通生垣として栽培。高さ約2メートルで、よく分枝し、
  とげが多い。樹皮は緑色。葉は複葉、葉柄に翼をもつ。春の末、葉に先立ち、白色5弁の小花を開く。
  秋、芳香ある実が黄熟するが食べられない。未熟の実を乾し健胃剤とする。臭橘。きこく。花は春。
  万葉集[16]「―のうばら刈りそけ倉建てむ

  【唐橘】から‐たちばな
   ① (中国から渡来したタチバナの意)カラタチのこと。
   ② ヤブコウジ科の常緑小低木。関東以南に分布。夏、葉のつけ根に白色5裂の小花を数個開く。果実は球形、
    赤熟。白熟・黄熟する種もある。庭木として植栽。タチバナ。コウジ。ササリンドウ。

  797年撰進の『続日本紀』の聖武天皇紀の725 (神亀2) 年11月「播磨直弟兄はりまのあたいのおとえめが、始めて甘子を
  唐国より持ち帰り、朝臣虫麻呂がその種を植えて実らせた」との記述。 甘子=柑橘類


  【菓子】か-し 百菓辞典
   語源は ① 江戸時代以前は、果物のことを水菓子または木菓子と呼び、果物が歌詞の祖先であるとする説と
   ② 古くは、果物のことを菓 (このみ) と言ったらしく、この言葉から派生して菓子と呼ばれるようになったと推定
   されている説とがある。
   「いにしへ菓子といふは 今のむし菓子干菓子の類をいふにはあらず 多くはくだものを菓子といふなり
   …『貞丈雑記
   「菓」の文字は、艸 (そう) と果との組み合わせからなり、果が音を表す (形声文字)。
   果の字源は、木の枝に果実がなっている状態の象形、艸しくさかんむりの原形であり、植物を示している。
   したがって、元来「菓」はくだものを意味している。
   現在では、常食以外の嗜好品を指してね菓子と総称するが、その範囲非常に広く、ジャンルはあいまいである。
   西欧には、「菓子」に対応する包括的な言葉は無く、ケーキやクッキー、キャンディーなどを一括して表現する
   ことはできない。日本のお菓子は、お茶受けとしての発達と、おやつとしての発達があるため、間食・軽食的な
   側面をも持っている。

  【貞丈雑記】ていじょう-ざっき
   伊勢貞丈 著の故実書。16巻。子孫が古書を読む便にと武家の故実に関する考証を、1763 (宝暦13) から
   没年の1784年 (天明4) まで、日々記録した雑録。1843年 (天保14) 刊。

  【伊勢貞丈】いせ-さだたけ (江戸の人、1717~1784)。名はテイジョウとも。安斎と号。
   江戸中期の故実家、幕臣。博覧宏識で公武の故実に通じ、特に武家故実の研究に一時期を画した。
   著 「貞丈雑記」「安斎随筆」など。


 幕末の『守貞漫稿』上巻 第四編 生業上 「栗餅店

 此店 常に稀にして…(略)…因云 今世 菓子と云は砂糖にて製したる物を云 本来は菓子 木の實ともに一物也
  といへども 砂糖製の類を專ら くわし と云により 京坂にて桃柿梨栗の類を「このみ」と云
  江戸にては此類をみづくわしと云 水菓子也

  右の糖製の類は別名を命じて可ならん歟と覺ゆ 今世 右の類甚だ多く文書の上にては年を經 地を異にす時
  其實の違ふ事 甚多し

  「=実」 「=経」「=か」「=覚」  果物は、上方=「木の実」、江戸=「水菓子」と呼ぶようになった。

  【水菓子】みず‐がし … 果物のこと。正岡子規、くだもの「くだもの類を東京では―といふ」


 幕末の『守貞漫稿』下巻 第二十八編 食類 「菓子

 古は桃 柿 梨 栗 柑子橘の類の凡て菓實を菓子と云こと勿論也 今世は右の菓實の類を京坂にて和訓を以て
  くだものと云 江戸にては水ぐわしと云也 是 干菓子 蒸菓子等の製ありて此類を唯に菓子とのみ云事になりしに
  より對之て菓實の類は水菓子と云也
  世事談 曰 乾菓子は本草に出たる所の白雪糕に基き製之 中古 有平糖 金平糖の類を渡す倣之て敷品の
  干菓子を製すと也…

  「中古=中世」 「本草=本草書」  日本での金平糖製造は大坂が始まりの地です。

   【白雪糕】はくせつ-こう … 粳米・糯米の粉に蓮の実の粉、白砂糖などをまぜて製した干菓子。

  「世事談=1734 (享保19) 年刊 『本朝世事談綺』菊岡沾凉 (表具師・俳人、伊賀上野生まれ、江戸神田在住)」
   Wiki 菊岡沾凉  コトバンク 「菊岡沾凉」



  【干菓子・乾菓子】ひ‐がし
   生菓子に対する、水分の少ない和菓子の総称。粔籹おこし・落雁らくがん・煎餅せんべいの類。

  江戸時代中期1712年刊の『和漢三才図会』には、トロピカルフルーツ類も多数書かれてあります。

  【オランダ苺】オランダ‐いちご  日本のイチゴの始まり
   バラ科の多年生果菜。いわゆるイチゴ。南米チリ産の一種が改良され、ヨーロッパで栽培されて世界に広まった。
   天保(1830~1844)年間にオランダから渡来。ランナーと呼ぶ匍匐ほふく枝を出し繁殖。白色の五弁花をつけ、果実は
   鮮紅色。生食され、またジャム・ジュースの原料。1899年(明治32)福羽逸人によって育成された福羽やダナーなど
   多くの栽培品種がある。


  ≪ 明治時代以降 ≫


 1911年(明治44)刊『東京年中行事』下の巻P.209 「水菓子屋

 水菓子屋の店先は秋から冬にかけてが見物みもので有る。
  お盆過頃から、縁喜えんぎを善くする爲に殊更 有りの實と呼ばるゝが現はれ出してから、ついでは色も艶も
  美しい林檎、バナゝ、赤茄子、少し後れては色紫の透き通つたやうな葡萄が飾られ、之についでは栗 柿 蜜柑
  と云つたやうに、水菓子屋の店頭は次第に黄金に紅くれなゐに色づき出して、十一月 十二月ともなれば、千紫せんし
  萬紅ばんこう見るから眼も覺むるやうな眺を呈するに至り、晩秋初冬の果物屋は、所謂 田舎物の驚くものゝ
  一つに數かぞふべきもので有る。

  バナナの商業的輸入の始まりは、1903 (明治36) 年4月に台湾から神戸に来たのが始まりとされています。
  1937 (昭和12) 年頃にバナナ船が軍に使用される事となり入荷は減少、戦後になるまで非常に高価な果実でした。

  1936 (昭和11) 年、レモン・オレンジ・メロン・グレープフルーツなどの果実を日本で初めて輸入販売したとされる
  のが、大阪の木村商店です。


 
 【奈良・平安時代】
  テレビ東京 137億年の物語 ~宇宙が始まってから 今日までの全歴史~ 『奈良時代のサラリーマン』 13.11.23 放送
  フジTV 爆笑!アカン警察 『歴史上の食事で健康になれるのか 第2弾』 13.03.03 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『Go! Go! 若一調査隊 「うどん発祥を巡って新展開 奈良県が新たに名乗り!」』 15.09.09 放送

 ≪ 唐菓子 ≫ からくだもの、とうがし  Wiki 唐菓子  唐菓子 (8種の唐菓子と14種の果餅) の解説。

  唐(中国)から伝来した菓子。
  八種(やくさ)の唐菓子と 十四の果餅があったが、詳細が不明なものもあるようです。
  もち米、うるち米、麦、大豆などの粉をこね、油であげたものが多い。
  九州・四国地方に多く伝わったといわれる。文字や読み方には諸説があり、果餅のうち、索餅むぎなわ餛飩こんとん
  餺飩ほうとう麺類のようなものであり、菓子とは違うのではないかという説もある。百菓辞典






  【唐果物・唐菓子】から‐くだもの  Wiki 唐菓子
   米粉・小麦粉などにあまずらを加え、花・虫・縄などの形に作って油で揚げた菓子。
   奈良時代、唐から製法が伝えられた。とうがし広辞苑

  【椿餅】つばい-もちい、つばい-もち
   もち米の粉に、あまづらをかけて、丸く固め、椿の葉2枚で包んだ餅。
   つばきもちの古語。「桧破子 (ひわりご) 、御酒 (みき) 、椿餅など奉り給へり」平安中期の『宇津保物語』。

  【神饌菓子】しんせん-がし 百菓辞典
   神様に供える菓子で、伊勢神宮、春日大社、八坂、下鴨、上賀茂神社などの神饌菓子が知られている。
   唐菓子の餢飳ぶと梅枝ばいしなどが用いられる。

 
 【おこし】
  大阪商工会議所HP 「名庭太郎⼀家の味な一週間」の冊子 http://www.osaka.cci.or.jp/syoku_osaka/food/magazine.html
  テレビ大阪 ニュースリアル 15.10.13 放送  日本テレビ 新春シューイチ 19.01.01 放送
  テレビ大阪 二代目 和風総本家 2時間SP 『雷おこしはナゼ浅草名物に?』 20.02.06 放送

  ≪ 粟おこし ≫  Wiki おこし  Wiki 雷おこし

  中国伝来の「おこし」は、日本では粟や稗で作られた庶民の食べ物でした。
  江戸時代の1752 (宝暦2) 年創業の大坂の「二ツ井戸津の清」が、米を材料に使い
  板状にするなど改良をし販売。この米でつくった「粟おこし」は大ヒットしました。

  江戸の『雷おこし』は江戸時代後期の1795年(寛政7年)、焼失した雷門の再建を機に
  露天商が縁起物として売り始めたのが発祥とされ東京名物の土産物として知られます
  しかし、昭和8年出版の『浅草経済学』では明治初期に店ができた事が書かれています。
  近年では海外の観光客向けにキャラメル・アーモンド味、メープルココナッツ味なども
  売られているようです。

  【粔籹】おこしこめ 百菓辞典
   単に「こめ」ということがある。唐果物 (からくだもの) の果餅のひとつ。
   米の粉を原料に、蜜と水でこね、油で揚げたもの。後の「おこしごめ」
   「おこし」の原形であるといわれている。

  【粔籹・興し】おこし 起こし
   糯米もちごめや粟などを蒸した後、乾かして炒ったものを水飴と砂糖とで固めた菓子。
   胡麻・豆・クルミ・落花生・海苔などを加える。
   百菓辞典より概要 シンプルな粔籹おこしごめに、胡麻などを加えて「おこし」になった。

兵庫県西宮市の老舗岩おこし


東京・浅草 常盤堂雷おこし本舗

  【起こし】おこし 百菓辞典 百菓辞典
   おこしだねに、ごま、豆、くるみ、落花生、のりなどを加えて水あめに混ぜ、砂糖をまぶしたもの。おこしごめ。
   大阪の陣に豊臣方の真田幸村が「引き起こし」といって、弱った軍兵に与えた栄養食から「起こし」の名前に
   なったと言われている。

  【粟おこし】あわ-おこし 百菓辞典
   粟でつくったおこし。大阪の名物。粟をむして乾燥させ、黒砂糖を加えて、型に入れて固めたもの。

  【岩起こし】いわ-おこし …普通のおこしと異なり、あめで堅く固めたもの。 百菓辞典

  【雷おこし】かみなり-おこし 百菓辞典
   浅草雷門で売っているおこし。内容は普通のおこしと変わらないが、食べてももたれないのが特徴という。
   もたれないのは、磯部鉱泉の水を使っているためと伝えられている。

  江戸時代後期に創業したとする浅草の常盤堂雷おこし本舗の穂刈久米一さんによると、1795年に三代目雷門が再建
  した時に創業したそうです。「おこし」という言葉は「街をおこす」「家をおこす」などの縁起が良い言葉で「起こし」は縁起が
  良い菓子。大坂の街の発展では「掘りおこし、岩起こし」という言葉があり、浅草も雷門の再建で街の復興を祝う事から
  雷おこしを作ったらしいです。






  ところが、下記の『浅草経済学』には「雷おこし」は明治時代の初め頃に売り出された事が書かれてあります。
  にぎり鮨 (おかめ鮨の説) や、おでん (林修さんの説) が全国に広まった事、牛鍋からすき焼きに変わった説、
  関東が豚肉文化になった説など、多くの事で東京人は証拠を示さず思い込みを語る人たちである事が分かります。
  創作で話を作り上げ史実のように語るのです。

  この事は幕末~昭和初期に書かれた『皇都午睡』『江戸時代のさまざま』『東京年中行事』などを読めば
  分かりますが、各著者からも江戸ッ子・東京人の言う事は全く信用されていません。
  『江戸しぐさ』は「東京を良く見せようと」して捏造し流布した事は、東京人の願望説流布の典型的な嘘吐き事件です。

  また1830 (文政13) 年刊の『嬉遊笑覧』巻十上「飲食」 では両国橋の土舟屋という店が創業を古く見せて騙している
  事が書かれおり、現在の『日本豆腐協会』のサイトも東京の淡雪豆腐の発祥を100年ほど早く見せかける記述文を
  載せています。  江戸の淡雪豆腐ができたのは享保年間 発祥年代の誤魔化しが判明

  その他、東京は色んな誤魔化しだらけ。当サイトの各ページをご覧ください。


  江戸時代前期の1643年(寛永20)刊の『料理物語』「第十八 菓子之部」にも〔おこし米〕が書かれています。

  〔おこし米〕 よくいにんを よくほし、引わり米のごとくにして、きつね色にいり、さて さとうに水をくはへ ふかせ、
  にえ候時 かさに少づつ さたうを取わけ、よくいを少づつ入まぜ、ぼんにあけ候へば、かたまり候が よきかげん
  也、いくたびにも かさに取わけ仕りてよし、だうみやうじにても いたし候

  「よくい-にん=薏苡 仁 (ハトムギの種子)」「だうみやうじ=道明寺 (粉)」

  他に書かれている菓子類

  〔玉子ぞうめん〕のレシピには白砂糖の記述があります。〔おこし米〕〔ごぼうもち〕〔くずやきもち〕〔くずもち〕
  〔わらびもち〕〔ゆきもち〕〔すぎはらもち〕〔くこもち〕〔うこぎもち〕〔ちまき〕〔さゝもち」〔御所様もち〕
  〔近衛殿■もち〕


  江戸時代の幕末『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類「粔米

  おこしこめ古来より之有 和名抄に粔籹 蜜を以て米を和える。或いは粔籹は餅米を煎って水飴にて捏ね固め
  竹筒等に搗籠つきこめ押出し製す云々…江戸摸製して売りし店うれども行れず

  和名抄に粔籹があり製していたが、今世は糯米を蒸して日に晒し糒とする。後に水飴と砂糖で練り箱に入れて
  冷まし、拍子木の形に切る。糒のままの物を江戸で田舎おこしと言い、これを作るのが多い。

  享和・文化 (1801~1804~1818年) 頃から、大坂道頓堀二つ井戸辺に津の國屋清兵衛がこれを売り始めた。
  最初は小商いだったが、現在では近国西国で有名になるまでに繁昌した。
  この店では、粳米を蒸して糒にし、これを挽いて小米糒にし、飴と上質な琉球黒砂糖又は出島糖を加えて作る。
  なので石のように固い。名付けて「栗の岩於古志いわおこし」と言う。

  近年、京坂の粔籹は必ずこれを作る。江戸でも近年摸製して売る店があるがこのようには作らず。

  1800年初めに大阪で岩おこしが誕生し、ほとんどの店がこれを作った。
  江戸でも真似して売り出しているが、同じ作り方ではない。といった内容のようです。


  『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「岩起賣

  粔籹米の一種也 粔籹 おこしごめ と訓ず 故に假字して起と云 岩は剛堅を云なり 大坂道頓堀二井戸西に
  津の國屋 清兵衛 專ら製之賣て 今世 名物となり 冬月毎日 所用の黒糖 大約 ニ三百斤黒糖を用ふること槪
  海内一とす 製之場 粗造酒に似たり 丈夫數人を以て製之…

  岩起こしは、粔籹米の一種である。なので仮字をして「起こし」という。岩は堅いことを云う。
  大坂道頓堀で、津の國屋 清兵衛だけが作っていたが、現在では名物となった。冬季に毎日使用する黒砂糖は
  2~300斤で、日本一の使用量だろう。製造工場では、酒造所に似て、力が強そうな男を数人雇って造る。

  非常に貧しい時代に作り始めたが、京坂より西日本諸國にも売り出すようになった。わずか二代で大きな富を得た。
  他店でも真似して偽物を作り始める者が非常に多くなった。本物と同じように箱に梅鉢の記号を描いており、
  価格も同じく、小形を2文半、大形を4文で売った。

  専属で小売りをしてくれる者には価格を下げた卸価格で売った。道を売り歩く者は全て専属の者だけである。
  この「傅売」は、俗に言う「受売り」の事である。

  「=仮」「がい=概(おおむね、大体)」「海内かいだい=(国内、天下)」「=数」「漸く=ようやく」「=わずか」
  「=にせ」「=箱」「記號=記号」「眞僞=真偽」「=百 (道)」
  「ふ、いつかしづ=(大切に世話をする)」「傅賣受売り=(専属の) 小売り」

  「梅鉢」の記号というのは菅原道真に関係しています。 大阪名物のおこしのパッケージに菅原家の梅の家紋がある理由


  ≪ 浅草の雷おこしは明治の初め頃から売り出されたもの ≫

  1933 (昭和8) 年6月出版の『浅草経済学』( 石角春之助 著、東京市浅草区の文人社 )
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949
  この本は浅草の大衆文化を記述したもので、浅草通を自称する著者が主に浅草名物の店の移り変わりなどの
  歴史を書いているものです。主に明治頃からの事が書かれてあります。

  第二章 浅草経済組織の変遷発達 (四) 享保以後に於ける仲見世の発達 P.42~
  浅草が仲見世を中心として発達したものであるにも拘らず、比較的仲見世に関する文献が少ないのは、果たして
  どう言う訳であろうか。最も水茶屋の茶吸女に対する読み物は、決して少なくないが、多くは創作で、その実情を
  描いたものが殆どないだから私は、これ等に付いて、比較的詳細な説明をして行こうと思うのである。

  第二章 浅草経済組織の変遷発達 「第三、資本主義完成への浅草」P.113~114
  昔から仲見世には、さまざまな名物が売り出されている。例えば浅草餅、はぢき豆、はぢき人形、紅梅焼き、
  雷おこし などなど無数にある。しかし、その中でも最も有名でもあり、しかもまた。最も長く続いたものは、
  浅草餅と、紅梅焼きと、雷おこしであろう。雷おこしは今日なお素敵な人気を博している。

   以下は、記述内容を要約しました。
  明治10年頃に、仲見世で「はじき豆」が売り出されるが、「紅梅焼き」が売り出されるとこちらが人気になり、
  明治中期には「紅梅焼き」店の評判娘がきっかけで更に人気が高まり、娘の有無に関わらず売れた。
  「雷おこし」は「紅梅焼き」より長期的に人気があり、現在の浅草名物では最も売れる商品となっており、
  地方からの人たちは必ずこれを買うようだった。1日2~3000人以上の客がある。
  ここの売り子たちは孤児院などから、成績の良い娘らを選んで雇う事になっているという事だ。

  【弾け豆】はじけ-まめ
   ① ソラマメを炒めるなどして弾けさせたもの。はじきまめ。 ② ソラマメの異称。

  【紅梅焼き】こうばい-やき 百菓辞典
   小麦粉に米の粉を混ぜ、卵、砂糖を加え、こねて固め、薄く延ばして、梅の花形に抜き、油を引いた鉄板の上で
   焼いたせんべい。安政時代、浅草寺の境内にあった梅林堂が焼いて売り出したものと言われている。

  安政=江戸時代末期の1855~1860年

  浅草の名物として、最も古いのが、矢張り雷門の紀文せんべいである。紀文せんべいは現在 郵便局の隣りに
  なっているが、ここは確か明治初年からの家である。殊に雷おこしがない以前は、この紀文せんべいが、最も
  人気があり、又 浅草へ来た人は、必ずこれを土産として買って帰ったものである。浅草名物としては、これも
  また有名なものの一つである。

  上記のように、浅草では明治初年に「紀文せんべい」が売り出された後に「雷おこし」が登場した事が書かれて
  あります。

 
 【饅頭は鎌倉時代に伝わった】
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅25 奈良あやめ池~興福寺』 15.10.15 放送

  ≪ 日本の饅頭の発祥地、奈良市・林神社 ≫  饅頭の発祥地、奈良市・林神社 饅頭屋「塩瀬」

  JR奈良駅の近くにある漢國かんごう神社は飛鳥時代に推古天皇の命により創建されたと言われています。
  その漢國神社境内に、小さな社の林りん神社があります。
  室町時代に宋から渡来した僧侶・林浄因りん-じょういんを祀り、饅頭の発祥地となっています。






  林浄因は京都の建仁寺で修業をしていましたが、都会での生活に疲れ奈良へ移り住んだそうです。
  中国の饅頭マントウは中身が肉や野菜。仏教では肉食を禁じている為、中身を小豆に替えて作り、販売もしていた。
  これが日本の饅頭の始まりとされています。

  梅木春興 宮司によると、
  林浄因の子孫は奈良にもいらっしゃいますが、本家の方は京都に移り住み、さらには江戸へ移って商いを始められた

  【饅頭】まん‐じゅう (ジュウは唐音)
   小麦粉・米粉・そば粉などでつくった皮で餡あんを包んで蒸して作る菓子。暦応(1338~1342)年間、中国から帰化した
   林浄因が奈良で始めた奈良饅頭を始めとする。狂言、栗焼「―羊羹などではござりませぬか」


  テレビ大阪 大阪人の新常識OSAKA・LOVER 18.09.15 放送

  ≪ 何故、小豆が肉の代わりに使われたのか ≫ 書きかけ

  大阪学院大学短期大学部の土井茂桂子 准教授によると、赤は魔除けの色だったから。








 『守貞謾稿』下巻 第二十八編 食物 「饅頭

 まんぢうと訓ぜり 本草蒸餅の附方には饅頭餅とも云て 蒸餅の類とす餅中に餡あるを饅頭と云
  異邦には獣肉を餡とする由なれども 皇國は古より此製を聞ず蓋 昔は菜饅頭 砂糖饅頭の二製あり 七十一番職人
  蓋 歌合に證あり 何時より歟 菜饅頭は廢れて 今は砂糖饅頭のみ也

  今の饅頭 表は小麥粉を皮とし中に小豆饅を納る 小豆は皮を去り砂糖を加ふ 砂糖に白黒の二品あり 白を白饅と
  云 黒をくろあんと云ふ

  「あかし=証」「=廃」 上記『農畜産業振興会』のサイトでは「白を白餡と云ひ」とありますが、当サイトが参考に
  した『近世風俗志 (守貞謾稿)』版では「白を白饅と云」となっています。

  次は、塩瀬饅頭の始まりが書かれていますが略します。  饅頭の発祥地、奈良市・林神社 饅頭屋「塩瀬」

 大坂は高麗橋通三丁目 虎屋大和大掾 藤原伊織なる者 諸國名ありて頗る巨店也 饅頭出島白さとう製一つ 價
  五錢也 虎屋饅頭と稱し 大坂も諸所 此店ありと雖ども虎屋製に非れば 客に饗し或は贈物等には他製を用ふる
  ことを耻づる也

  文政中 城西大手筋と云處に此店を開き東雲堂と號し 饅頭大にて價十文 精製也 是は大手まんぢうと稱し 人にも
  贈り 客にも呈し行れしが 虎屋の盛なるに及ばず 天保末に亡ぶ菓子も製せし也

  又 江戸は何れの菓子屋にも專ら饅頭を製す 大坂は虎屋のみ菓子と饅頭を賣る 其他は專ら菓子屋と饅頭屋は
  別戸に賣ることとす 其製は專ら三錢也 往々二錢の物もあり ともに黒餡也 上巳の節は一文饅頭を賣る店あり

  「頗る=すこぶる」「=値」「=唱え」「雖ども=いえども」「=恥」「=所」
  「何れ=いずれ」  一錢=一文

 因伝 虎屋饅頭切手と云 手券は饅頭 十を一とす 百員を贈るには切手十枚を以てす 江戸は定數無
  數の外は印行し饅頭の數等は筆にて書加る也 多くは饅頭切手を用ひず菓子切手也
  大坂も虎屋の外は切手ある店は無  ※虎屋伊織⇒鶴屋八幡は、この下に画像あり

  又 京坂は饅頭を竹皮に包む 江戸は紙袋に納む音物にも京坂折詰稀とす 江戸は折詰多し

  「=数」「音物いんぶつ、いんもつ=(進物・贈り物)」 到来物とうらいもの=(他から贈って来たもの。もらいもの。)
  「=塩」「ひな=都から離れた田舎」

 江戸饅頭店數戸ありといへども 各大概四文を常とす
  昔は諸国ともに菜饅頭廢し 其後は鹽饅頭と云て 小豆饅に鹽を加へたり 小豆も皮を去ざる者多し 今も江戸の
  江戸橋等に賣之店あり 鄙人食之のみ 近世は鄙といへども皆専ら砂糖饅頭也 文化以來 漸々如此也

  続いては、昔は饅頭に野菜を合せスパイスを加えた汁で食べていた事が書かれています。
  また昔の饅頭店は全国的に、看板代わりに「あらうま」という木彫りの置物を出しており、現在は河内国石川郡の
  店と大坂之内にある店の二軒でしか、この置物を使っていない。現在、一般的なのは看板と暖簾。


 花饅頭 世事談曰 本所囘向院の前 伊勢屋と云 見世にして山城屋三右衛門と云者 享保十年秋より賣始る云々

  米饅頭 同書曰 根元は淺草金龍山聖天宮の梺の鶴屋也 慶安の頃…およねが万十と云…今は亡くなるて無

  蕎麥饅頭 江戸近年の製なるべし そば粉を以て皮とし 舶來霜糖を以て小豆饀を製し精製する也 形 小にて價也

  薯蕷饀頭 じやうよまんじうと云 京坂近年の製なるべし 饀同前 上製也 山のいもを以て皮とす 以上二品は茶客
  專用する所なれど奢侈の時なる故に凡の時にも食

  朧饅頭 始め製する時 皮を厚くし蒸て後 薄く表皮をむきされば皮はだ 羅紗の如くになる 是を おぼろ萬十と云
  江戸には製之こと甚だ稀也
  京坂市民 先祖年忌佛事の時 引菓子粗なるは虎屋の五文萬十を計り 美をなす者 此 朧萬十を用ふ 價二分許の
  大形上製にて白赤黄等を交るもあり 多くは白と黄のみ也 杉赤みの柾目板を敷き 其上に此萬十 七つ或は十許を
  置き杉原紙にて包之也 蓋 巨戸は折詰等にするもあれども多くは紙包み也

  「世事談=1734 (享保19) 年刊 『本朝世事談綺』菊岡沾凉 (表具師・俳人、伊賀上野生まれ、江戸神田在住)」
   Wiki 菊岡沾凉  コトバンク 「菊岡沾凉」

  「囘向院えこういん=回向院 (東京都墨田区両国にある浄土宗の寺)」「見世=店」「享保十年=1725年」
  「=餡」「薯蕷じょうよ、しょよ=(長芋まはた山芋の漢名) → 上用饅頭」「奢侈しゃし=(おごり、ぜいたく)」

  米饅頭は、およねという才女が作り始め名物になったが、亡くなって今は無い。

  高級な饅頭としては、江戸は「花饅頭」「蕎麦饅頭」。上方は「薯蕷 (後に上用とも) 饅頭」「朧饅頭」があった。
  蕎麦饅頭と薯蕷饅頭は江戸時代末期頃から作られ始め、来客用の饅頭だけど、ちょっと贅沢する時にも食べた。

  【米饅頭】よね-まんじゅう 百菓辞典
   米粉で作った皮であんを包んだもので、大福餅に近い。江戸時代の慶安門館(1648~52)に、浅草待乳山聖天
   宮門前の鶴屋という菓子店が売り出したのが始まりとされる。江戸の人気菓子。

  【薯蕷饅頭】しょよ‐まんじゅう、じょうよ-まんじゅう
   ヤマノイモの根をすり、少量の糝粉しんこを加えて皮とし、餡あんを包んで蒸した饅頭。上用じょうよう饅頭

  【朧饅頭】おぼろ‐まんじゅう … 上皮をむいた饅頭。おぼろ。

  【朧饅頭】おぼろまんじゅう 百菓辞典
   表面の皮をむいて、中に餡がうっすら見える饅頭。始め皮を厚くして蒸し、蒸し上がった後に、表皮を薄くむきとる。
   このため皮肌がラシャのようになる。
   『守貞漫稿』によると、(江戸時代) 京坂で引菓子として用いられたが、江戸で作られる事は稀であった。

  【引菓子】ひき‐がし … 祝儀または仏事などに、引物として出す装飾菓子。


  【饅頭怖い】まんじゅうこわい
   落語。若い連中が自分の怖いものを白状し合っていると、仲間内の嫌われ者が「饅頭が怖い」というので、皆で
   饅頭を与えるが、すっかり食われてしまう話。

  Wiki 饅頭
  茶饅頭 基本は小麦粉、黒砂糖、膨張剤を用いた生地に餡子を包んだ饅頭だが、各地にさまざまなバリエーションがある。
  利休饅頭(大島饅頭)、温泉饅頭、薄皮饅頭などとも呼ばれ、観光地(特に温泉街)でのおやつやお土産にも好んで用いられる。








  テレビ大阪 大阪人の新常識OSAKA・LOVER 18.09.15 放送

  ≪ 「饅頭切手」 商品券は大坂発祥かも ≫ 上に『守貞漫稿』の記述

  1863年に創業した鶴屋八幡は、前身となった店が「虎屋伊織」。その虎屋伊織で「饅頭切手」というものを饅頭の引換券
  として発行したのが商品券の始まりの可能性が高いようです。1793年の饅頭切手が残っているようです。
  虎屋伊織の跡継ぎがいなくなって途絶えさせるのが勿体ないと言う事から、菓子の製法などを引き継いだようです。






  現在の鶴屋八幡の本店は中央区の今橋にあります。
  1796-1798年刊の『摂津名所図会』4巻のタイトルでは「虎屋春繭店」と書かれてありますが、絵の上の看板には「虎屋大和
  大掾 御菓子所 藤原伊織」と書かれてあります。この店は中央区の高麗橋にありました。

  詳しくは 鶴屋八幡HP 『鶴屋八幡の歴史』 https://www.tsuruyahachiman.co.jp/history/index.html

 
 【室町時代】
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅41 坂上是則・参議雅経、世界遺産の吉野山へ』 16.02.18 放送
  吉野葛本舗 黒川本家 『吉野本葛』 http://yoshinokuzu.com/sub1.html
  葛辞典 葛について 『吉野本葛と吉野葛の違い』 2008.05.01 配信 http://kudzujiten.blog40.fc2.com/blog-category-3.html
  生涯葛道「葛塾」 『葛粉の糊化・老化』 http://nakasyun.com/kuzujyuku/?p=935
  京都の和菓子 『くずきり・葛切り とは?』 http://kyoto-wagasi.com/season_summer/kuzukiri.html

  ≪ 葛餅 ≫  葛菓子の歴史 吉野葛の葛切、江戸の久寿餅、岐阜の水饅頭 など

  奈良県の国栖くずには国栖人と呼ばれる土着民がいて、自生していた蔓草を食用にしていたことから、その蔓草を
  「くずかずら」から転じ「くず」と呼ぶようになったと言われているそうです。

  鎌倉時代に点心の一つとして「葛きり」の食べ方が伝わり、室町時代以降に食べられました。
  江戸時代初期1615年頃に『吉野晒し』という高品質の葛粉の作り方を確立。
  江戸時代中期に現在と同じ葛切りや、葛餅 (葛饅頭) などの和菓子が京都で完成。






  奈良・吉野の本葛は近年になるまで関西でのみ消費されました。奈良以外でも葛が採取できる地域もあります。
  葛の栽培が難しいようで、現在でも自生しているものから採取。

  葛粉の安価な普及品は、ジャガイモのでんぷんで代用されて作られています。
  本葛は冷えると白く濁るので、透き通った葛餅はジャガイモや小麦などのデンブンが使われていると思われます。

  【葛】くず (奈良県国栖くずの地名に因むという) 広辞苑
   マメ科の大形蔓性の多年草。山野に多く、蔓の長さは10メートル以上にも達する。葉は大きく、裏面は白っぽい。
   秋、葉腋に花穂をつけ、紫紅色の蝶形花を総状に咲かせ、花後、平たい莢さやを生ずる。
   根は肥大し、生薬の葛根かっこんとして漢方で解熱・発汗・鎮痙剤に用い、また、葛粉を採る。
   蔓の繊維をとって葛布くずふを織り、また蔓で行李などをつくる。秋の七草の一つ。アメリカなどで帰化植物となる。
   くずかずら。「葛」「葛の花」「葛の葉」はの季語は秋。万葉集[14]「箱根の山に延ふ―の

  【葛切り】くずきり 百菓辞典
   くず粉をよく沸騰させたお湯でこね。薄く流して固め、めん類のように細く切り、冷やして、黒蜜につけて食べる。
   水仙羹ともいう。鎌倉時代に中国から伝わった点心のひとつ、水繊であったらしい。

  【水繊・水煎・水蟾】すい-せん 広辞苑
   葛粉を練り、冷やして細く切り、黄白2色を交えて水仙の花に似せたもの。垂れ味噌・煎酒いりざけ・砂糖蜜をつけて
   食べる。室町時代に行われた。※江戸時代の複数の料理書に水仙のレシピが書かれてあります。

  【葛餅】くず‐もち 「くずまんじゅう」の別称。 広辞苑
   葛粉または小麦粉・生麩粉などを熱湯でこね、型に入れて蒸した菓子。冷やして黄粉きなこや糖蜜をかけて食べる。

  関東の久寿くず餅は小麦粉を乳酸菌で発酵させた小麦粉でんぷんで作ったもの。
  発祥には色々な説があり、ネーミングも各説があります。実際のところ、関西の葛の代用品でしょうね。


  ≪ 色んな餅が作られた ≫  Wiki 酒飯論絵巻

  室町時代16世紀に制作された『酒飯論絵巻』には色んな餅を作っているシーンが描かれています。
  餅の種類など、詳しくは下記のサイトで
  名古屋大学 伊藤信博 『室町人の嗜好 – 古記録からみる室町時代の食文化』
   http://urakamizaidan.or.jp/hp/jisseki/2012/vol21urakamif-13ito.pdf



  1400年頃に茶店が登場します。   餅の原型「しとぎ」 餅の神様を祀る小野神社、豊前・豊後の名の由来、伏見稲荷大社縁起など

  NHK Eテレ グレーテルのかまど 『幸田文の花見だんご』 14.03.14 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅25』 15.07.30 放送

  ≪ みたらし団子 ≫ Wiki みたらし団子   室町時代 団子が普及し、茶店が登場 みたらし団子、十だんご

  【御手洗団子】みたらし‐だんご
   竹串に米粉で製した数個の団子を刺し、砂糖醤油餡をからめたもの。御手洗詣での時、京都下鴨神社糺ただす
   森で売ったのが最初という。

下鴨神社の御手洗川

下鴨神社の御手洗団子
江戸時代から4つに

近年の三色団子


  【団子】だんご 百菓辞典
   うるち米粉 (新粉) などを水でこね、丸めて蒸すか、ゆでたもの。
   普通は竹串に刺し、あんや黄な粉、ゴマ、砂糖をつけたり、磯部にしたり、焼いて甘辛
   しょうゆをつけたり、そのしょうゆにカタクリを入れてくずあんにしたものを塗ったりする。
   竹串に刺す個数は2~5個までで、元来は1串5個5文で売られていたのが一般的だった
   が、明和 (1764~1772) に四文銭ができたため、1串4個で4文が一般化し、1串4個が
   多くなった。唐果物の団喜に由来するといわれ、全国的なものから特定の地域だけで
   食べられるもの、季節にしたがって作られるものなど、種類は多い。


  屋台の代金は四文・八文と4の倍数の理由 江戸期の1コイン・システム

 
 【南蛮菓子】
  NHK・大阪 歴史ドリームチーム 『仰天推理 本能寺の変』 14.01.29 放送
  テレビ東京 137億年の物語 『鉄砲伝来の物語2~日本は銃大国だった!?』 14.07.19 放送

  【南蛮菓子】なんばん‐がし
   ポルトガル・スペイン・オランダなどの諸外国から渡来した菓子、すなわち金米糖コンペイトー・ボーロ・カルメラ・
   カステラなどの総称。

  別府大学短期大学部紀要 1994年 『南蛮料理書についての一考察』 江後迪子 著
   http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/tk01302.pdf?file_id=4199

  江戸時代初期に刊されたと推測されている『南蛮料理書(著者、成立年不明)』には菓子類33種・料理11種類・
  その他2種の計45種が紹介されているようです。

  『南蛮料理書』にある南蛮菓子のうち,現在まで受け継がれている菓子としてはかすていら,かるめいら,くじら餅,
   卵素麺,金平糖,有平糖,ぽうろ,羊滴,饅頭などがあげられる。一方,その姿を消してしまったものも多い。
   日本に定着した南蛮菓子は九州地域に多くみられる。『南蛮料理書』以外のものも含めると長崎かすてらをはじめ
   として熊本のかせいた,福岡の卵素麺,カスドース,佐賀・長崎のボーロなど全国的にみてその種類の多さは
   特徴的である。これは南蛮船が長崎・平戸をはじめ九州に多く渡来したことに起因するものと考えられる。
   また臼杵の郷土料理「黄飯・かやく」も南蛮の名残りを伝えているとすれば,『南蛮料理書』のもたらした影響は
   少なからず現在に受け継がれているといえる。

コンペイトー

関西のひろうす

大阪天満宮の御供鯨餅

青森県のけいらん


  室町時代~江戸時代初期にかけてヨーロッパから伝わった南蛮菓子は、大坂から北前船などで各地に伝わります。
  江戸時代には広く作られていた「鯨餅」は東北各地に残り北海道で「ベコ餅」となり、「けいらん」は青森県でわずかに
  残っています。関西の「ひろうす」も北九州の「鶏卵素麺」もルーツは南蛮菓子のようです。

  北海道「べこ餅」と東北「くじら餅」の関係   青森県 「けいらん」は江戸時代より前に渡来した菓子
  「ひろうす」と「がんもどき」 どちらも、豆腐で作られたものではなかった。


 1697(元禄10) 年の人見必大 著、大坂で出版された 『本朝食鑑』には

 我が国で近時(ちかごろ)南蛮菓子というのがある。十のうち八・九は麪(こむぎこ)を材料とし、砂糖・飴糖・丁字・
  肉桂の類を加えて乾菓子にするが、種類は多数ある。もともとこれは南蛮国から伝わった製法であろうか。
  凡そ中華・韓国・蛮夷の人達は、常に麪菓(むぎこのかし)を好んで食べ、平日(ひごろ)の嘗翫としているが、
  我が国の人は常に嗜むわけではない

  小麦粉製の菓子は、南蛮菓子が伝わって以降~江戸時代中期頃までに発展したものである事が分かります。

 『守貞謾稿』によると、金平糖は文化年間以前は、大坂でのみで製造されていました。

 
 【カステラ Castellaの歴史】
  テレビ東京 137億年の物語 『なぜ日本に鉄砲が伝えられたか?』 14.07.12
  テレビ東京 ありえへん∞世界 『ありえへん江戸時代の風習 「知られざる江戸時代の文化や風習を徹底取材!」』 14.12.23 放送
  TBS あさチャン! 『あさトク 「大行列! 今人気の"レトロパン"」』 16.10.18 放送

  トンデモない一行知識の世界 OLD 『最中の吸い物おいしそうです』 2008.03.15 配信 http://tondemonai2.web.fc2.com/284.html
   このサイトには、カステラに関する多数のサイトにリンクしています。

  京都新聞 『にっぽん食探見 カステラ上 江戸時代にはわさび添え』 http://kyoto-np.jp/kp/rensai/shoku/040714.html
  京都新聞 『にっぽん食探見 カステラ下 南蛮菓子から和菓子へ』 http://kyoto-np.jp/kp/rensai/shoku/040721.html
  京都の和菓子ドットコム 『京都の美味しい 南蛮菓子 カステラのお菓子』 http://kyoto-wagasi.com/nanban/kasutera.html
  文明堂東京 『カステラの歴史』 http://www.bunmeido.co.jp/museum/history/    Wiki カステラ
  松翁軒 『長崎カステラの歴史』 http://www.shooken.com/rekishi/

  ※ これらのサイトと広辞苑、堺船の記述などから、独自に組み直してありますので、上記サイトと異なる見解部分もあります。

  カステラは室町時代末期 (戦国時代) の天正年間(1573-
  1592年)にポルトガルから伝来しました。

  原型であるポルトガルの「パン・デ・ロー」は、現在の日本の
  カステラとは違い丸い形で、食感はスポンジケーキに近い
  そうです。

  江戸時代初期には、既に「かすてら」の名は、名古屋にも
  広まっていたとの記録があるそうです。


  江戸前期には、、ポルトガル人から教えをうけたという日本人が長崎でカステラを作り始め、当時は長崎の出島だけで
  貿易を行っていた事、輸入品の唐物は堺船が独占して運んでいた事など物流を考えると、長崎 → 堺 → 大坂 → 京都。
  大坂から菱垣廻船で江戸へと作り方が伝わったと考えられます。

  江戸前期の京都では、「虎屋」をはじめとする菓子屋で「かすていら」や「有平糖」など多くの南蛮菓子が作られ、和菓子
  とともに御所に納められていました。

  【有平糖】アルヘイ‐とう。 アルヘイ。アリヘイ糖。(alfeloa ポルトガル)(砂糖菓子の意) 広辞苑 & 百菓辞典
   安土桃山時代に伝来した南蛮菓子。砂糖に飴を加えて煮詰め、棒状とし、または花や果実に模して着色したもの。
   金花糖とも呼ばれ細工菓子として人気が高く、現在でも工芸菓子によく使われる。

  【有平棒】アルヘイ‐ぼう
   (有平糖に似ているからいう)床屋の看板に用いる赤・白・青のらせん模様の棒。

  めずらしい異国の菓子というだけでなく、和菓子の世界にも大きな影響を与えていきました。
  餡とカステラ生地の組み合わせで作られる人形焼きなどは、そういった菓子の一つだと考えられるらしいです。

  江戸時代中期には現在の長崎カステラの原型に近いものが作られています。
  1712年『和漢三才図会』には、砂糖2斤、卵8個、小麦粉1升と記されています。

  【和漢三才図会】わかんさんさいずえ 江戸時代の図入り百科事典。寺島良安 著。105巻81冊。
   明の王圻おうきの「三才図会」にならって、和漢古今にわたる事物を天文・人倫・土地・山水・本草など天・人・地の
   3部に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。正徳2年(1712)自序、同3年林鳳岡ほか序。和漢三才図会略。

  【寺島良安】てらしま‐りょうあん(現在の秋田~山形県の羽後うご生れ、生没年未詳)
   江戸中期の漢方医。号は杏林堂。大坂の御城入医師。法橋ほっきょう。和漢の学に精通。「和漢三才図会」105巻を著述。

  新井白石の『西洋紀聞』には、カステラに触れられた所があり、カステラはイタリアに近い国で生まれた菓子が日本に
  伝わったものと書かれているらしいです。

  【西洋紀聞】せいようきぶん
   新井白石の著。3巻。屋久島に渡来したイタリア人宣教師シドッチを白石が訊問したときの応答を記録したもの。
   1715年(正徳5)頃成る。西洋諸国の歴史・地理・風俗、天主教(カトリック教)の大意とその批判などを記述。

  【新井白石】あらい‐はくせき(江戸生れ、1657~1725)名は君美きんみ。字は済美。通称、勘解由。
   江戸中期の儒学者・政治家。木下順庵門人。6代将軍 徳川家宣、7代 家継の下で幕政を主導した(正徳の治)。
   朝鮮通信使への応対変更、幣制・外国貿易の改革、閑院宮家 創立などは主な業績。
   公務に関する備忘録「新井白石日記」や「藩翰譜」「読史余論」「采覧異言」「西洋紀聞」「古史通」「東雅」
   「折たく柴の記」などの著がある。

  菓子製造の盛んだった大坂・江戸を中心にカステラの日本化と、
  カステラを焼くための炭釜の改良が進められ、「加須底羅」
  「粕底羅」「加寿天以羅」「カステイラ」など、多くの料理書
  にも登場するようになり茶会などでも提供されました。

  江戸時代はすり鉢のような器で生地をこね、丸い火鉢のような
  器で焼いていたようです。

  その一方で、カステラは鶏卵・小麦粉・砂糖といった栄養価の
  高い材料の使用から、江戸時代から戦前にかけて結核などの

  消耗性疾患に対する一種の栄養剤としても用いられていました。
  第14代将軍、徳川家茂(在職1858~1866)は、カステラが大好物だったらしいです。

  江戸幕府は、外国の使節にカステラなどの菓子でもてなすことが多く、幕府が京都の勅旨を接待する際に、カステラが
  出されていたとの記録があり幕末の日米和親条約締結でペリー提督を迎えたもてなしの席でも、本格的な日本料理と
  ともにカステラがデザートとして登場しています。

  佐久間象山の記録によると、「菓子はカステイラ アルヘイに候所皆大悦の様子にて残り候を紙にて包み申候」とあり、
  日本の用意したデザートが喜ばれた様子がうかがえます。
  その頃には、「かすていら」という名が一般に定着し、南蛮菓子と呼ばれることは少なかったようです。

  【佐久間象山】さくま‐しょうざん(信州松代まつしろ藩士、1811~1864)(ショウザンは一説にゾウザンとも)名は啓ひらき
   通称、修理。象山は号。
   幕末の思想家・兵学者。。儒学を佐藤一斎に学び、また、蘭学・砲術に通じ、海防の急務を主張。
   1854年(安政1)門人吉田松陰の密航企画に連座し、幽閉。のち許され、64年(元治1)幕命によって上洛、
   攘夷派の浪士に暗殺された。著「海防八策」「省録せいけんろく」など。

  広く庶民がカステラを食べられるようになったのは幕末近くのようです。(長崎、上方、江戸ではもっと早くに庶民に普及
  していた可能性が高い) それでもまだ高級品で、もてなしの席や進物として利用される事が多かったそうです。


  ≪ 江戸時代 ありえへんカステラの食べ方 ≫  番組では文献の出典情報は示されていません。

  ありえへん∞世界の番組では「江戸時代のカステラは甘くなく、江戸ではわさび醤油を付けたり、みそ汁の具として
  食べていた」とありましたが、ネットで調べると わさび醤油や吸い物に入れて食べていた記録があるのは京都のようです。






  幕末、京都油小路三条の菓子屋、「萬屋五衛門」。当時のお店のチラシに「大根おろしや、ワサビ醤油をかけて、食べると
  美味しいよ」と書かれているそうです。(「かすてら 加寿底良」明坂英二 講談社 1991年という本からの出典。)


  ≪ 長崎カステラ ≫

  長崎カステラの特徴である水飴の使用は、明治時代以降の西日本で始められたと言われ、これにより現在のしっとりとした
  食感となりました。
  西日本では、原型のパウンドケーキのようなさっくりとした感触が好まれなかった為らしいです。

  伝来当時、平戸藩松浦家において、南蛮菓子としてカステラが宴会に出された時、その味に馴染めず、包丁方(料理人)が
  カステラを砂糖蜜で煮たという逸話もあり、これが上述の平戸名産「カスドース」の原型になったという説もあります。

  明治初期、初めて洋食に出合った人々は、見慣れないケーキをカステラのようなものと呼んだことが数々の記録に残って
  おり、この当時はカステラは西洋菓子の代名詞となっていたようです。

  明治から大正時代、カステラは文学者たちにも大いにもてはやされるようになりました。
  西条八十、北原白秋、芥川龍之介、幸田露伴など多くの作家の作品にカステラが登場しています。

  近代には水飴の使用が普及して、和菓子らしい風味をそなえるようになり、ガスオーブンや電気釜の使用で、以前より楽に
  安定してカステラが焼かれるようになりました。
  こうした改良により各地に広まり、第二次世界大戦後の大量生産によって一般に普及したものと推測されるそうです。

  東京堂出版 『百菓辞典』 平成9年8月30日 初版 山本侯充 編

  【カステラ】 加須底羅、加寿天以羅 百菓辞典
   安土・桃山時代の天正年間(1573-1592年)に、ポルトガル人によって長崎に伝えられた南蛮菓子のひとつ。
   名前の由来には多数あり、スペイン語説、オランダ語説、ポトガル語説がある。
   日本のカステラは長崎で独自に進化、『五、三焼き』と言われ、卵黄5、卵白3と卵黄の割合を多くし、粉を少なくする方が
   美味しい。とされる。

  【シベリア】 英 SIberia 百菓辞典
   カステラで、ようかんか黒あんをはさみ、三角に切った菓子。
   大正時代末期頃から売られるようになった。名前の由来は
   ① 菓子シベリアの断面が、シベリア凍土をすくい取った時の状態に似ているからという説と
   ② シベリアの大雪原を走るシベリア鉄道をイメージしたものだとする説がある他、
   ③ カステラは黄土であり、④ ようかんまたは黒あんは黒竜江であるともいわれる。
   古川緑並ふるかわ-ろっぱ (東京生まれ、1903~1961.声帯模写や喜劇俳優で舞台や映画・
   ラジオで活躍) の『ロッパ悲食記』に「ミルクホールの硝子器に入っているケーキは、シベリア
   と称する、カステラの間に白い羊羹を挿んだ、三角型のもの。(黒い羊羹のもあった)…」。


  【ビスケットの日】 百菓辞典
   2月28日。安政2年 (1855) 2月28日に長崎の蘭医 柴田方庵がビスケットの製法を伝えたといわれ、これを記念して
   同日をビスケットの日としたもの。
 
 【江戸時代に出版された主な菓子の専門書】
  テレビ東京 歴史の道 歩き旅 『渡辺徹が静岡県富士市から静岡市までを歩き旅 吉原宿』 16.05.09 放送
  南蛮菓子と和蘭陀菓子の系譜 中川清 著 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17291/spffl058-05.pdf

  ≪ 江戸時代に出版された主な菓子の専門書 ≫

  【南蛮料理書】なんばんりょうりしょ
   江戸初期頃(成立年等 不明)スペイン・ポルトガルから伝わった料理・菓子が掲載。
   かすてほうろ(カステラ)、あるへいと(有平糖)など。

  【古今名物御前菓子秘伝抄】ここんめいぶつごぜんがしひでんしょう 著者不明。京都京極五条橋書林梅村水玉堂 刊
   1718 (享保3) 年刊の菓子専門書。菓子のみを専門に扱った料理書としては本書がもっとも古い
   「あるへいとうの方」から「白飴の方」まで一〇五項目にわたって菓子の作り方が記されている。

  【長崎夜話草】ながさきやわぐさ 長崎の商家に生まれ育った天文学者 西川如見にしかわ じょけん
   1719 (享保4) 年。「長崎土産物」には、「唐菓子色々」に続いて「南蛮菓子色々」として14 種類が挙げられている。

  【古今名物御前菓子図式】 京都風雅亭および長谷川良陽 撰著。
   1761 (宝暦10) 年刊。 上下2巻。南蛮菓子、パンなども載っている日本初の菓子製法の専門書
   蒸菓子、干菓子、羊羹、飴、粽類など計95種の製菓法および各菓子形状着色模様図を記載。
   1840 (天保11) 年、内容はそのままに『古今新菓子大全』として書名だけ改め再刊行。

  【餅菓子手製集】もちがしそくせきしゅせいしゅう  十返舎一九 編。
   1813(文化10)年刊。餅、饅頭、羊羹、飴など75種の江戸風製菓法を記述する。

  【菓子話船橋】  大坂から江戸に進出した深川佐賀町の『菓子商船橋屋』の主人(織江と号す)が表した菓子の製法書。
   1841(天保12) 年、芝区神明前『甘泉堂書店』 和泉屋市兵衛 刊行。
   練羊羹が主で、蒸菓子、乾菓子など77種の製法を記載。初心者用のレシピ本

  【鼎左秘録】ていさひろく 著者は国華山人(近江出身で丹波国綾部藩の医師 西川国華)。
   1852(嘉永5)年12月。京都三条柳馬場東角 堺屋仁兵衛の出版。
   青物砂糖漬類を主とし、餅、飴、乾菓子類の製法計53種

  【名菓雛形揃】めいか-ひながた-ぞろえ
   刊年等不明の江戸時代の菓子見本帳。様々な棹物や蒸し菓子の絵が彩色で描かれそれぞれの銘が記されている。
   このように彩色された見本帳は、菓子屋などの心覚えとして作られたものではなく、菓子屋から客の元へ届けられて
   菓子注文の参考とされたと考えられる。


  ≪ 各料理本にもレシピが書かれてあります ≫

  元禄年間(1688~1704年)頃に、京都で和菓子 (茶道で使われる「上生菓子」) が誕生しており、1700年代から
  菓子の専門書が多く書かれるようになったようなので、この頃に菓子の種類が増え、都市部で広く食べられる
  ようになったと思います。


 1643年(寛永20)刊『料理物語』の1665 (寛文4) 年版 「第十八 菓子之部」に登場するもの

  〔玉子ぞうめん〕〔おこし米〕〔ごぼうもち〕〔くずやきもち〕〔くずもち〕〔わらびもち〕〔ゆきもち〕〔すぎはらもち〕
  〔くこもち〕〔うこぎもち〕〔ちまき〕〔さゝもち〕〔御所様もち〕〔近衛殿■餅〕

  「は原文のまま」 ※黒白精味集には「近衛殿雪餅」と「雪餅」のレシピ記述があります。

  〔玉子ぞうめん〕のレシピには白砂糖の記述があります。 福岡県の鶏卵素麺 (卵そうめん) という菓子 料理物語などの記述

  これらの作り方の中に、黄色=クチナシの実の汁、青色=ヨモギの汁、豆の粉が使われています。


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) 見聞きしたものを集めた書。

  中巻 七「後段 麺類 菓子
  「栗切」「葛切」「水泉」「鶏卵 (南蛮菓子)」「すゝり団子」「葛餅」「牛蒡餅」「鳥餅」「御所餅」「酒香餅
  「生姜餅」「砂糖餅」「杉原餅」「枸杞クコ」「葛水餅」「色葛餅

  中巻 七「餅菓子 茶菓子 干菓子 糖
  「饅頭」「葛饅頭」「葛餅」「やうかん」「雪餅」「近衛殿雪餅」「大仏餅」「宮餅」「胡麻餅」「御所餅」「きんとん
  「草餅」「朧月夜」「千代餅」「いぬま餅」「山升餅」「さつき餅」「椿餅」「麩餅」「なた豆餅」「かぼちゃ餅
  「より水」「笹巻」「墨形」「鯨餅」「杏餅」「柿団扇子」「糖巻餅」「くるみ餅」「ゑんとう餅」「栗の粉餅
  「わらび餅」「早餅」「竹の皮餅」「羽二重餅」「水干餅」「寒晒餅」「玉子素麺」「蜜漬の法」「かすていら
  「精進かすていら」「小麦餅」「けんひ焼」「巻入餅」「水巻」「おこし米」「りん餅」「かるめろ」「藤の実
  「ぼうろ」「砂糖大豆」「砂糖榧かや」「軽焼」「あるへい」「牛皮糖」「水肥糖」「五雲子糖」「大豆糖」「水糖
  「煉糖」「上り糖」「甘酒糖」「常の糖の法」「新坂蕨餅わらびもち」「浮団子」「蒸柿」「甘干の法」などのレシピが
  書かれています。

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf



静岡県富士市

山形県置賜地方

滋賀県の羽二重糯
滋賀県の羽二重糯

  山形県置賜地方 (米沢市など) では、少なくとも明治時代以前から味噌餅を食べていたそうです。

  【糯米・糯】もち‐ごめ … 糯稲もちいねからとれる米で、粘りが強く餅や赤飯とするもの。もちよね。
  【粳】うるち … 炊いた時、糯米もちごめのような粘りけをもたない、普通の米。うるごめ。うるしね。うるちまい。
  【羽二重餅】はぶたえ‐もち … ①羽二重のように滑らかに搗ついた餅。 ②求肥ぎゅうひ菓子の一種。

  餅の原型「しとぎ」 餅の神様を祀る小野神社、豊前・豊後の名の由来、伏見稲荷大社縁起など

 
 【江戸時代中期 京都で和菓子が誕生】
  ≪ 元禄時代、京都で和菓子が誕生 ≫  朝日新聞 14.03.31 朝刊 『文化の扉』 / Wiki 和菓子

  江戸時代の元禄年間(1688~1704年)に、現在とほぼ同様の和菓子が京都で上流階級向けに発展しました。
  この頃くらいに菓子は果物 (水菓子) から、現在と同じ菓子を指すようになったようです。

  【和菓子】わ-がし 百菓辞典
   明治時代以降、多くの洋菓子が日本に伝わったことで、この概念が生まれた。
   一説によると「和製菓子」「日本菓子」「邦菓」などの呼び方があり、「和菓子」という呼び方が定着したのは、
   大正末期から昭和初期頃だといわれている。日本固有のものだけでなく、中国から伝わった唐菓子や、
   南蛮菓子などの日本化したものも含む。

  【御菓子司】おかし-つかさ 百菓辞典
   菓子を司る所。「司」は。「担当する、その任にあたる、とり行う」の意。
   菓子屋 (和菓子屋) のことであるが、慣用的に、駄菓子屋と区別して生菓子などの菓子店をいう。

  【主菓子】おも-がし 百菓辞典
   茶事 (茶道) での用語で和菓子の上生 (練り切り、求肥、雪平などの高価で上等なもの) のこと。

  上生じょうなま ⇔ 並生なみなま (団子や餅菓子など)

  【素餅屋】すもちや 百菓辞典
   生並屋 (なみなまや=大衆的な和生菓子店) のこと。京都では、こう呼ばれている。

  【練切・煉切】ねり‐きり
   ① 練切餡の略。漉餡こしあんに、求肥ぎゅうひまたは蒸して裏漉うらごししたヤマノイモまたは微塵粉みじんこなどを加えて、
    練り上げたもの。
   ② 練切餡を着色して、餡玉あんだまを包み、さまざまな形に加工した生菓子。

  【茶巾絞り】ちゃきん‐しぼり
   蒸したりゆでたりしてすりつぶした材料を、茶巾(または布巾)に包んで絞り、絞り目をつけたもの。
   サツマイモ・ユリネ・クリ・アズキなどを用いる。


  南蛮菓子と和蘭陀菓子の系譜 中川清 著 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17291/spffl058-05.pdf

  万治2年(1659年)「ふり売り」を免許する商品と、それに対する札金(免許料)が定められた。
  雑貨、小間物、食料品等の商品別に、ふり売り札が分類されているが、「南蛮菓子」などの安い商品は、「跡々より
  札なしに御被成候分」と定められていた。

  朝日新聞 14.03.31 『はじめての和菓子』


  【附子】ぶす
   狂言。主あるじが「砂糖を附子という大毒だ」とだまして外出する。太郎冠者・次郎冠者は、主の留守に食い尽くし、
   「主の大事な品物をこわしたので附子を食べたが死ねない」と言いわけする。

  【附子】ぶし、ぶす
   トリカブトの塊根または子根をとって乾した生薬。漢方で興奮・鎮痛・代謝亢進のために用いる。
   主成分はアコニチン。猛毒がある。

  【付子・附子・五倍子】ふし
   ウルシ科の落葉小高木の白膠木ぬるでの若芽・若葉などに生じた瘤状の虫癭ちゅうえい(植物体に昆虫が産卵・
   寄生したため異常発育をした部分)。
   タンニン材として女性が歯を黒く染めることや、薬用・染織用・インク製造などに供した。生五倍子。

  【和菓子の日】6月16日 百菓辞典
   和菓子の良さを見直そうと、昭和54年 (1979) に設定された。この日が選ばれたのは次の故事による。
   平安時代、嘉祥元年 (848) の夏、仁明天皇が神前に菓子を供え、疫病除けを祈ったと伝えられている。
   江戸時代には、嘉祥の賀儀と呼ばれ、嘉定通宝16枚で菓子を求めて食べることが行われていたらしい。
   これらのことから、古来、6月16日に嘉祥菓子を賞味すると、「健康・幸運を招き、災いを祓う」といわれている。
   また、江戸時代に、御所のお祝いで、伊賀餅や桔梗餅など、7種の菓子を食べたという記録がある。

  【嘉祥】か‐しょう ・・・ よろこばしいことの前触れ。めでたいしるし。瑞祥。
   平安前期、仁明・文徳天皇朝の年号。848年7月16日~851年6月1日。

  【嘉祥】か‐じょう かぞう嘉定嘉通嘉祥喰
   陰暦6月16日に疫気をはらうため16個の餅や菓子を神に供えて後に食べる行事。
   年号の嘉祥、あるいは中国南宋から輸入された嘉定通宝に由来する名称ともいう。
   その略称「嘉通」を「勝つ」の語呂に合わせて喜んだという。
   江戸時代には、総登城した大名・旗本に将軍から菓子を賜う式があり、民間では銭16文を家人に与える風俗が
   あった。

  【毬餅】いが‐もち … しんこ餅で餡あんを包み、その外面にもち米をつけて蒸した菓子。


  上の朝日新聞のまとめ記事に1693 (元禄6) 刊行の『男重宝記』は、この時代の男性が知っておくべき知識・教養を
  まとめ、当時大流行したハウツー本。そのなかで、菓子は章まで立てられ、約250種類の名前が紹介されている
  あります。

  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf
  神戸女子大学 古典芸能研究センター 『近世の家政学―重宝記・料理本の世界』 2001.12.08
   http://www.yg.kobe-wu.ac.jp/geinou/07-exhibition3/06-ten_kase.html ← 江戸時代の各 重宝記や料理書などが解説されています。

 重宝記は江戸時代の百科事典といえる。

  日常生活に必要な知識を種類・項目別に集めてわかりやすく解説した、その名称が示すとおり「重宝」な書物であった。

  そこに記された知識は学芸・歴史・社会・風俗・故実・倫理・実用と多岐にわたり、江戸時代を通じて刊行された重宝記
  の種類は相当数になる。
  ことに元禄五年の『女重宝記』同六年の『男重宝記』刊行以後、様々な重宝記類が矢継早に刊行されるのである。

  その様は元禄十五年刊 都の錦 作の浮世草子『元禄太平記』に
  「すでに大坂において、家内重宝記が出来始めしより此かた、其類棟に充ち牛に汗するほどあり」と記されている。

  【元禄太平記】げんろく-たいへいき
   浮世草子。都の錦 (本名 宍戸与一、1675~) 作。8巻8冊。1702 (元禄15) 年刊。伏見の夜船で。京・大坂の本屋が
   出版界の情況。作者・学者の評判等を語り合う筋で、一種の文化時評的性格を持つ。井原西鶴批判でも有名。

  1692年の女重宝記と1693年の男重宝記の著者は判明しており、苗村丈伯なむらじようはく(近江の人、1674~1748) で
  京都に住んだ医師・仮名草子作者。

  1712年の『和漢三才図会』(著者は大坂の医師、寺島良安)も百科事典で、天文・気象・人体解剖学・朝廷の官位役職・
  各道具類・衣服類・芸能・地理(日本各地および中国など隣国まで)・動物・植物・石の種類などありとあらゆる事が
  詳しく書かれてあります。105巻。 この書は明 (中国) の「三才図会」を参照しています。



  NHK Eテレ グレーテルのかまど 『新春を祝う和菓子』 15.01.09 放送
  テレビ大阪 大阪人の新常識OSAKA・LOVER 18.09.15 放送

  ≪ 和菓子の見本帳 ≫

  上記の大阪・鶴屋八幡で使われている約200年前の江戸時代後期の『菓子絵図帳』とその実物菓子。
  着物の行商など、特注品の御用聞きの場合、絵に描いた見本帳で取引をしていたようです。






  京都では和菓子屋さんが年始のお菓子の見本を持ち、御贔屓にしてくれる御客の元を訪れてオーダーを聞く御用聞きの
  文化が残っています。






 
 【三大和菓子処と三大銘菓】
  NHK Eテレ 美の壺・撰 『File264 金沢の和菓子』 13.01.16 放送
  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『神話の国 「出雲大社~松江」 縁結び旅』 14.07.19 放送
  NHK・大阪 松江 歴史秘話ヒストリア 『すごいぞ! 国宝 松江城』 15.10.28 放送

  ≪ 三大和菓子処 ≫  京都 ・ 石川県 金沢 ・ 島根県 松江 だそうです。

   金沢の和菓子  日本三大和菓子処 金沢の和菓子 福梅、長生殿、福徳せんべい、金花糖







  松江の和菓子  山川・朝汐本舗 風流堂 HP 『松平不昧公』 http://www.furyudo.jp/culture/matsudaira/ より抜粋

  日常に根付いた茶の湯の文化のある松江。
  その起源は、江戸時代後期の大名茶人として知られている松平不昧 公の影響が大きいと言われています。
  宝暦元年(1751)江戸生まれ。明和四年(1767)17歳で松江藩の藩主となり、出羽守 治郷(はるさと)と称しました。
  18歳で茶道に入門し、19歳で禅の道に入ります。

  「不昧ふまい」という号はこのときに授かります。不昧公が松江藩主になった頃、藩の財政は困窮を極めていました。
  倹約につとめ、財政の立て直しに力を入れました。






  城下町の風情を色濃く残す松江では、松江藩七代目藩主 松平治郷以来の茶の湯の文化が日常の暮らしの中に
  深く息づいています。また、松江は和菓子の1世帯あたりの購買量が日本一とも言われています。

  「不昧流」といういう流派があるくらい茶人として知られていたそうです。松江では日常から抹茶を楽しむ文化があるそうです。
  「いづもナンキン」という島根県指定の天然記念物の金魚も不昧が愛したもの。
  「割子そば」も不昧が紅葉狩りの時に、野外で「割子」という弁当箱に入れた蕎麦を食べた事から根付きました。

  1798~1847 (寛政10~文化14) 年頃の『不昧公茶会記』という献立が記された書が残っているようです。

  【破子・破籠】わり-ご (割子割籠とも書く)
   ヒノキの薄い白木で折箱のように造り、内部に仕切りを設けて、かぶせふたにした弁当箱。また、それに入れた食物。
   平安時代934~935年の土佐日記「今日―持たせてきたる人」。954~975年の蜻蛉日記[上]「―などものして」

  【破子蕎麦】わりご-そば  出雲そば割子そば
   段重ねにした漆塗の小さな破子に少しずつそばを入れ、薬味とつゆをかけて食べるもの。


  ≪ 日本三大銘菓 ≫ NEVERまとめ 『日本三大銘菓』 13.06.26 配信 http://matome.naver.jp/odai/2136903339951137901

  日本三大銘菓として挙げられるのは 新潟県 長岡 大和屋の「越の雪」、 石川県 金沢 森八の「長生殿」
  島根県 松江 風流堂の「山川」、あるいは「越の雪」「長生殿」と福岡県 博多 松屋菓子舗の「鶏卵素麺」です。

   場合によっては四つ全てを三大銘菓として扱うケースもあるようです。
 
 【江戸時代の砂糖と和菓子】
  独立行政法人 農畜産業振興会 『江戸時代の砂糖食文化 「2.江戸時代の砂糖と和菓子」』 http://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html

  ≪ 江戸時代の砂糖と和菓子 ≫

  今日、和菓子と砂糖といえば、小豆餡の材料として広く用いられているが、江戸時代の初めまでは餡といえばもっぱら
   味噌味や塩味であった。

   鎌倉時代に禅僧の間食として伝えられた饅頭は、前回述べたように、すでに室町時代には砂糖を材料とするように
   なったが、嘉永6年(1853)の『近世風俗志守貞漫稿)』の「饅頭」の項によれば 昔は菜饅頭・砂糖饅頭の二制あり。
   何時よりか菜饅頭は廃れて、今は砂糖饅頭のみなり。今の饅頭、表は小麦粉を皮とし、中に小豆餡を納る。
   小豆は皮を去り砂糖を加ふ。砂糖に白黒の二品あり。白を白餡と云ひ、黒をくろあんと云ふ。(中略)
   昔は諸国ともに菜饅頭廃し、その後は塩饅頭と云ひて小豆餡に塩を加へたり。(中略)近世は鄙といへども皆専ら砂糖
   万十なり。文化以来、やうやうかくのごとくなり。 とあり、  ひな=田舎。

   江戸時代の初めには菜饅頭と砂糖饅頭の二つの系統であったものが、塩饅頭を経て19世紀初めの文化
   年間に入るともっぱら砂糖饅頭が普及していったことが分かる。

   日本最初の菓子製法書である享保3年(1718)の『古今名物御前菓子秘伝抄』によれば、当時すでに羊羹は小豆と
   白砂糖を材料とする砂糖羊羹であったが、柏餅は煮てすり潰した小豆に塩を加えた塩餡の餅であった。

   一説には17世紀の中頃の正保年間に創製された当初は味噌餡であったという。
   前述の『近世風俗志守貞漫稿)』によれば、幕末の柏餅には砂糖入り小豆餡が用いられているが、虎屋文庫
   中山圭子氏によれば、柏の葉の裏表で小豆餡と味噌餡とを区別していたという。

   文化・文政期の戯作者であった滝沢馬琴の日記によれば、文政11年(1829)の端午の節句には「つるや」に柏餅を
   注文しているが、翌年からは黒砂糖を購入して自家製の柏餅を350~360個も作るようになったことがわかる。

   天保4年(1833)の日記によれば、前年黒砂糖を購入した小松屋の砂糖の値段が200文近くに値上がりしたため、
   下女を近所の紀伊国屋に遣わして1斤当り172文で2斤買わせている。

   今日、饅頭・羊羹・柏餅とともに小豆餡の欠かせない大福餅は、「鶉焼(うずらやき)(鶉餅(うずらもち))」あるいは
   「腹太餅(はらふともち)」という大ぶりな餡入りの餅がもととなって江戸で考案されたといわれている。
   その創製は明和8~9年(1771~72)とも寛政年間ともいわれているが、もともと鶉焼も腹太餅も小豆の塩餡であった
   という。    あんびん餅・腹太餅・鶉餅・大福餅

 
 【粽と柏餅】
  フジTV 爆笑!アカン警察 『歴史上の食事で健康になれるのか 第2弾』 13.03.03 放送
  NHK Eテレ グレーテルのかまど 『"端午の節句"のかしわ餅』 15.05.02 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポン・植物ミステリー』 15.09.10 放送
  NHK Eテレ グレーテルのかまど 『"端午の節句"笹ちまき』 16.05.04 再放送
  テレビ大阪 ニュースリアル関西 『6年めのピーチ 新たに新潟就航 なぜ?』 18.03.01 放送

  ≪ チマキとカシワ餅 ≫  粽と柏餅に関する考察

  【粽・茅巻】ち‐まき
   (古く茅ちがやの葉で巻いたからいう)端午の節句に食べる糯米もちごめ粉・粳米うるちまい粉・
   葛粉などで作った餅。
   長円錐形に固めて笹や真菰まこもなどの葉で巻き、藺草いぐさで縛って蒸したもの。季語夏 。
   平安時代の延喜式粽科糯米二石日別二升五合」。
   平安時代の伊勢物語人のもとよりかざり茅巻おこせたりする返事に」。

菰粽の図

道喜粽 (現在主流の形)

道喜粽 (現在主流の形)

江戸スタイルの柏餅



 幕末の『守貞謾稿』下巻 第二十四編 夏冬 「粽荓柏餅」  「=餅」

 京坂にては男兒生まれて 初の端午には親族及び智音の方に粽を配り 二年目よりは柏餅を贈ること 上巳の菱餅と
  載の如し 粽は葭に圖の如く新粉を付け 其表を菰の葉を以て包蒸す 此粽は菰を解去り 砂糖を付け食す也

  京師 菰粽道喜と云り 菓子工に製する物は砂糖入り菰粽以て圖の如く無串に作り 表に笹葉を包み蒸す號て道喜粽
  と云 大内にも調達す
  大坂にて粽を賣るに 表一圓丸太材矢來を造る店あり 豊島やの白酒に比すべし  御所の道喜門とは

  江戸にては初年より柏餅を贈る 三都とも其製は米の粉をねりて圓形扁平となし 二つ折となし 間に砂糖入 赤豆餡を
  挟み柏葉大なるは一枚を二つ折にして包蒸す
  江戸にては砂糖入味噌餡をも餡にかへ交る也 赤豆餡には柏葉 表を出し 味噌は裡を出して標とす

  清朝粽子と云 一名角黍 彼國にも今日食之…

  「男兒=男児」「智音ちいん=親友、知人、恋人など」「上巳じょうし=(桃の節句・雛祭り)」「=図」
  「=真菰まこも=(イネ科の大形多年草)」「道喜どうき=(京の餅屋の元締め)」「=号 (名称、呼び名)」
  「大内おおうち=(御所・皇居・内裏)」「=円」「=裏」「=印、記」


 明治44年執筆出版の『東京年中行事上の巻柏餅と粽」の記述には 全文は 端午の節句 チマキとカシワ餅の歴史で。

 餅屋 餅菓子屋 團子屋では、三月のお節句の草餅がすむと、櫻の葉につゝんだ櫻餅を賣出し、
  それがすむと 今度は柏の葉につゝんだ小豆餡と味噌餡の柏餅を賣出す。…
  とあるので、明治年間の東京には味噌餡の餅が普通にあったようです。


  1643年(寛永20)刊『料理物語』の1665 (寛文4) 年版 「第十八 菓子之部

 さゝもち〕 うるの米を上白にして、よく こにはたき、三段に こをとる也、一ばんは さつと はたき、まづ ふるひ、
  其こは のけ候、二番めに よくはたき、こまかにふるひ候、扨水にてこね、ちいさく玉にして なべに入 にる、
  ふきふがりて 又 しづむまで ゆで候、あげて うすにて よくつきて色々にちぎる、黄にはくちなし、靑はよもぎの汁
  入よし、靑まめのこ、くでん有之、ゆのこと


  公益財団法人 味の素食の文化センター 『錦絵アーカイブス 「東海道五十三次 二川へ2里半」』
   http://www.syokubunka.or.jp/archives/nishikie/detail/post-84.html
  とらやHP 『歴史上の人物と和菓子 「土御門泰邦と安倍川餅」』 https://www.toraya-group.co.jp/gallery/dat02/dat02_056.html

  【柏餅】かしわ‐もち
   円形扁平状のしんこ餅の上に餡をのせ、二つに折るように包み、カシワの葉で包んだもの。
   5月5日の節句の供物とする。季語夏。
   1904 (明治37) 年刊 正岡子規の竹乃里歌五月五日には柏餅とて槲かしわの葉に餅を包みて祝ふ事

  柏餅の登場は寛永年間 (1624-1644) の頃と言われています。百菓辞典
  静岡県湖西市にあった白須賀宿の名物だったようです。

  1660(万治3)年頃刊された浅井了意 (京都の本性寺の住職)の仮名草子『東海道名所記』には、「猿が馬場、
  柏餅こゝの名物なり。あづきをつゝみし餅、うらおもて柏葉にて、つゝみたる物也」と記されています。

弥生時代2~3世紀頃

炊ぐ葉が「柏」の語源

カシワ餅に使われていた葉

静岡県浜松市の大かしわ餅


  Wiki 柏餅 ← 15.05.10現在、下記のように修正がなされていました。

  柏の葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、「子孫繁栄(家系が途切れない)」という縁起をかついだ
  ものとされる。端午の節句に柏餅を食べるという文化は、元々は江戸で育まれたものである。
  柏餅が登場したのは、徳川九代将軍家重(在職1745~1760)から十代将軍家治(在職1760~1786)の頃。参勤交代で
  全国に行き渡ったとされている。

  日本最初の菓子製法書である享保3年(1718)京都京極五条橋書林梅村水玉堂 刊の『古今名物御前菓子秘伝抄
  によれば、当時すでに羊羹は小豆と白砂糖を材料とする砂糖羊羹であったが、柏餅は煮てすり潰した小豆に塩を加えた
  塩餡の餅であった。

  1760(宝暦10)年に、京都の公家の土御門泰邦が東下した折りに書いた紀行『東行話説』では道中名物を試食した作
  として知られますが、この柏餅は口には合わなかったらしく酷評されているそうです。

  カシワがブナ科の柏となったのは、江戸中期以降の事。それまでは色んな種類が「かしわ」と呼ばれていました。
  平安時代は「コナラ」が「カシワ」と呼ばれていたようです。
  詳しくは→ 端午の節句 チマキとカシワ餅の歴史 日本の伝統文化2 4~6月のページで


  株式会社 寿限無 『柏餅の由来』 http://www.geocities.jp/jugemfoods/yurai4.html
   ジオシティーズは2018年10月で閉鎖になったので、このサイトも他へ移転している可能性があります。

  柏餅の原型は、平安時代の「葩餅(はなびらもち)」、奈良時代の「伏兎(ふと)」に
  当たると言われている。とありますが、

  【伏兎】ふと … 油で揚げた餅。平安時代の食品。〈倭名類聚鈔]〉 広辞苑
  なので、「伏兎」と「柏餅」は別物と考えた方がよさそうです。

京都の花びら餅

  【花弁餅・葩餅】はなびら‐もち
   餅または団子の一種で花弁の形をしたもの。
   特に、薄い円形の求肥ぎゅうひを二つ折りにした間に、牛蒡ごぼうの蜜漬、白味噌、
   小豆の汁で染めた菱形の求肥を挟んだものが著名で、茶道の初釜はつがまに用いる。

  【御焼餅】おやき‐かちん
   (女房詞)宮廷で、正月の祝いに用いた餅。白く円い餅に菱形の赤い餅をはさみ、その中に白味噌のついたゴボウの
   小片を入れて包み、半円形として焼いたもの。

  この葩餅も柏餅のルーツというより、この下に書いている牛蒡餅のルーツのような気がします。
  植物の葉で餅を包むのは、平安時代の「つばい餅」がルーツと言われています。

  【椿餅】つばい-もちい、つばい-もち
   もち米の粉に、あまづらをかけて、丸く固め、椿の葉2枚で包んだ餅。
   つばきもちの古語。「桧破子 (ひわりご) 、御酒 (みき) 、椿餅など奉り給へり」平安中期の『宇津保物語』。


  ≪ 新潟県の笹団子 ≫

  【笹団子】ささ-だんご 百菓辞典
   米粉にヨモギをつき砕いて入れ、蒸してから小豆あんを入れて団子にし、熊笹の葉で
   包み、両端をイグサでくくる。俵型。
   新潟名物で、福島にも見られる。福島では「ほいど巻」と呼ばれている。

  笹には殺菌作用があるので、上杉謙信が戦の携帯食にしていたとも言われているそう
  です。本来は粒あんですが、新潟県の大阪梅田のアンテナショップでは関西向けとして
  特別に、こしあんの笹団子も売られています。
新潟県の笹団子

 
 【牛蒡餅】   餅の原型「しとぎ」 餅の神様を祀る小野神社、豊前・豊後の名の由来、伏見稲荷大社縁起など
  日テレ 世界で一番受けたい授業 『江戸時代のベストセラーから見る 驚きの新歴史 !』 15.04.11 放送
  南蛮菓子と和蘭陀菓子の系譜 中川清 著 http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17291/spffl058-05.pdf

  ≪ 牛蒡餅 ≫

  1643年の『料理物語』にも書かれており、江戸時代を通して長く食べられた餅菓子の一つ。

  【餅菓子手製集】もちがしそくせきしゅせいしゅう  十返舎一九 編。
   1813(文化10)年刊。餅、饅頭、羊羹、飴など75種の江戸風製菓法を記述する。







  ゴボウは滋養強壮に良いとされ江戸時代によく食べられたそうです。江戸時代の料理本にもよく出てきます。
  再現された牛蒡餅の味は甘味もあって美味しいとの事。

  ※ 『江戸風てんぷら』は、江戸時代はゴマ油で揚げていたようです。胡麻揚げ。上方は綿実油。

  【牛蒡餅】ごほう-もち 百菓辞典
   ① 平戸市の名物菓子。もち米を挽き、砂糖を加えて蒸したもので、黒砂糖と白砂糖の2種類がある。
   ② ごぼうをゆで、叩いて細かくし、すり鉢ですって、米粉と砂糖を加えてよく混ぜ、適当な大きさに丸めてゆで、
    ゴマ油で揚げた後、砂糖液の中に入れて煮るか、砂糖密に2~3日漬ける。江戸初期からある菓子

 
 【大仏餅】   餅の原型「しとぎ」 餅の神様を祀る小野神社、豊前・豊後の名の由来、伏見稲荷大社縁起など

  ≪ 大仏餅 ≫  桃山時代~明治時代に 京都には2つの大仏があった。 

  京都東山区の東福寺は、奈良の東大寺の「東」、興福寺
  の「福」をとって東福寺としました。

  鎌倉~明治時代には、奈良の大仏と同じ高さ15mの
  大仏がありましたが、1881 (明治14) 年の火災で焼失し、
  現在は左手だけが存在。

  【東福寺】とうふく‐じ
   京都市東山区にある臨済宗東福寺派の大本山。
 
   1236年(嘉禎2)九条道家の創建。開山は円爾えんに。京都五山の一つ。
   無準師範画像や同墨蹟、明兆筆の聖一国師像・五百羅漢図などの古美術、宋版本を蔵。古来紅葉の名所。


  また、桃山時代、1586 (天正14) 年着工の方広寺には、
  秀吉が作らせた高さ19mの木像大仏がありました。
  10年後に大地震で倒壊。
  その後も再建、被災を繰り返し1973 (昭和48) 年3月の
  焼失以降、再建されず、現在に至っているようです。

  【方広寺】ほうこう‐じ
   京都市東山区にある天台宗の寺。別称、大仏殿。
 
   1586年(天正14)豊臣秀吉の発願によって着工。開山は古渓。6丈の木像大仏を安置した大仏殿があったが、
   焼失。秀頼が鋳造した梵鐘の銘に「国家安康」の文字があったことが、徳川家康によって大坂冬の陣の口実とされた。

  Wiki 東福寺  Wiki 方広寺  Wiki 京の大仏  Wiki 東大寺盧舎那仏像

  奈良の大仏は、平安時代に源平の争いの中で平家の焼き討ちに遭い炎上。鎌倉時代初期の僧 重源 (1121~1206) ら
  によって再建。戦国時代の1567 (永禄10) 年には松永久秀らの争いに巻き込まれ炎上、翌年に再建しようとする武将が
  現れますが資金難で挫折。1691 (元禄4) 年、僧の公慶が全国を行脚し資金を集めて再興しました。


  【大仏餅】だいぶつ-もち 広辞苑コトバンク などより

  奈良名物のものは東大寺にまつわり、鎌倉時代から伝わる。鎌倉時代の豪傑 朝比奈三郎が、力づけに餅を食べて
  東大寺の梵鐘ぼんしょうをついたところ、その鐘の音が三日三晩にわたって南都全域に鳴り響いていたという伝説がある。
  いまの奈良の大仏餅は求肥餅。

  江戸時代、1682 (天和2) 年成立の山城国 (京都府) の地誌『雍州府志ようしゅうふし』や、1734 (享保19) 年の
  『本朝世事談綺ほんちょう-せじだんき』(著者は江戸在住の菊岡沾凉) によると、京都の誓願寺門前や方広寺大仏殿前の
  餅屋で売り出したのが最初。
  江戸初期から京都名物の一つに数えられ有名な店があった。餡を包んだ餅の上に大仏の像を焼印で押したものだった。

  また1686年(貞享3)刊された井原西鶴の『好色一代女』には大坂天満の大仏餅とある
  京坂地方で流行、のちに江戸に及び、浅草・下谷したやなどでも流行。

  滝沢馬琴(1767~1848)が江戸の羽二重もちに似て餡をうちにつゝめり,味ひ甚だ佳なりとしているように、
  大福餅の高級品というべきものだったようである。





京都・方広寺名物

奈良名物の大仏餅

 


  【大仏餅】だいぶつ-もち 百菓辞典
   京都の誓願寺や方広寺の大仏殿の前で、寛永年間(1624~44)に売り出された名物餅。
   江戸ではこれにならって、天明(1781~89)の頃浅草で売り出され、繁盛したという。
   餅であんを包み、上面に大仏の焼き印を押したもの。

  【誓願寺】せいがん‐じ
   京都市中京区にある浄土宗西山深草派の総本山。初め奈良にあり、665年天智天皇の勅願により恵穏の開基と
   伝える。後に京都に移り、13世紀初め蔵俊の時、法然に帰依して浄土宗となり、次いで西山派円空の入寺以降
   深草派の中心となった。豊臣秀吉が現地に移建。

  【江島其磧】えじま‐きせき京都大仏餅屋の主人、1666~1735) 初め権之丞と称し、のち庄左衛門を襲名。
   江戸中期の浮世草子作者。井原西鶴に私淑、八文字屋自笑の名義または共同名で役者評判記・浮世草子(いわゆる
   八文字屋本)を発表。作「けいせい色三味線」「風流曲三味線」「傾城禁短気」「世間子息気質」「世間娘容気」など。


 『守貞漫稿』下巻 第二十八編食類「求肥」によると、寛永の頃、江戸に求肥を作る者がおらず、京都の求肥飴の
  職人である中島浄雲を呼び寄せて求肥屋を始めた。その末裔が、神田鍛治町の丸屋播磨である。

  寛永年間=1624~1645年

  【求肥】ぎゅう‐ひ … (唐から渡った時、「牛皮」という文字を忌んで「求肥」と改めたという)求肥飴の略。

  【求肥飴】ぎゅうひ‐あめ
   白玉粉を蒸し、あるいは水とあわせて熱を加え、これに白砂糖と水飴とを加えて練り固めた、柔軟で弾力ある菓子。
   求肥糖。求肥。牛皮。


 『守貞漫稿』下巻 第二十八編食類「」には、
  世事談には、「京の誓願寺が始まりで、江戸では大仏餅を真似て浅草で作り始めた」と書かれてある。
  幕末頃には伊賀餅・さつさ餅・餡餅・栗餅などの多くの餅ができた。
  世事談には、「牡丹餅は安物なので折詰にならない」と書かれてあるが、現在は良い物があるので折詰 (土産用)に
  する事もある。牡丹餅は徒然草 (鎌倉時代1310~1331年) にも書かれてある。
  江戸の餅屋の始まりは芝三田町鶴屋。幾世餅の始まりは元禄17年に両国橋西詰で始めた店。
   などが書かれてあります。

  「世事談=1734 (享保19) 年刊 『本朝世事談綺』菊岡沾凉 (表具師・俳人、伊賀上野生まれ、江戸神田在住)」
   Wiki 菊岡沾凉  コトバンク 「菊岡沾凉」

  【幾代餅・幾世餅】いくよもち 百菓辞典
   元禄時代に売り出された江戸名物菓子のひとつ。切り餅を焼いて小豆あんをまぶしたもの。
   吉原の遊女の幾代が、車力頭だった喜兵衛に身請けされて夫婦となり、元禄17年(1704)、両国橋に小松屋という
   菓子屋を開き、幾代の名をつけた餅を、自ら焼いて1つ5文で売り出したところ評判となり、店が繁盛した。
   この話は、落語や滑稽本の題材になっている。

  静岡市の名物「安倍川餅」  東北の和菓子  お萩と牡丹もちの違い 本当は恐ろしい起源

 
 【あんびん餅・腹太餅・鶉餅・大福餅】   餅の原型「しとぎ」 餅の神様を祀る小野神社、豊前・豊後の名の由来、伏見稲荷大社縁起など
  TBS はなまるマーケット 『縁の下の力持ち 日本一を多く持つ埼玉県』 13.08.19 放送

  ≪ 埼玉県に残る塩大福 『塩安便あんびん』(腹太餅) ≫

  埼玉県久喜市では、現在でも砂糖を一切使わない塩餡の大福が販売されています。簡単に言うと、大型の塩餡大福。
  他に山形県の赤湯温泉などでも売られているようです。






  【腹太餅】はらぶと‐もち … 皮が薄く、小豆餡を塩のみで調味して入れた大形の餅。 広辞苑

  ※1830年の『嬉遊笑覧きゆうしょうらん』によると、「あんひんは餡餅の音なり」とあり、「あんびん餅=はらぶと餅」で、
   文政頃には江戸ではなくなり、現在では『塩あんびん』というのが、埼玉県などに残っています。
   詳しくは、コトバンク 『あんびん餅』で。 また「安便あんびん」は広島の方言としても残っているようです。

  【鶉焼】うずら-やき。 鶉餅うずら-もち 広辞苑
   餅菓子の名前。皮薄く塩餡などを入れた餅を焼鍋の上で焦げ目をつけて焼く。
   1802~1809年刊のち20年にわたり続編があった十返舎一九作の江戸から京坂への道中記
   東海道中膝栗毛[4] 「こちらの鶉焼はいくらだの

  【鶉焼】うずら-やき 百菓辞典
   和菓子の銘で、11月の菓子。ぎゅうひで小豆のこしあんを包み、左右をつまんでうずらの形にし、
   上部に一筋の焼き目を入れる。

  【鶉餅】うずら-もち 百菓辞典
   うるち米を水でこね、蒸してついたもので、塩餡を包、卵形にまるめたもの。
   鶉のような丸く膨れていることから、この名がついた。

  【大福餅】だいふく-もち 百菓辞典
   餅菓子の一種。生菓子。薄い餅の皮で、小豆のあんを包んだもの。
   大福餅はうずら餅の変化したもので、昔は腹太餅とも言われ、塩あんであり、昼食の代用としても
   食べられていた。
   元来は、その年に収穫した初めての米をついて、塩あんを包み、神前に供えて収穫の感謝をしたことに始まる
   という説がある。腹が太いと福々しく見えることから、大福餅と呼ばれるようになったといわれている。

 
 ぎんつば と きんつば の違い
  東京堂出版 『百菓辞典』 平成9年8月30日 初版 山本侯充 編 、 広辞苑

  【鍔・鐔】つば
   刀剣の柄つかと刀身との境目に挟み、柄を握る手を防護するもの。古くは「つみは」。
   平たくて中央に孔をうがち、これに刀心を通し、柄を装着して固定する。円形・方形その他大小種々ある。

  小豆菓子の「ぎんつば」「きんつば」の「つば」は、この刀の鍔に由来します。元々、刀の鍔のように円形だった為。
  京都の銀つば焼き (米粉) → 江戸で金つば焼き (小麦粉)。

  【銀鍔焼】ぎんつば‐やき
   粳米うるちまいの粉を練って小豆餡あずきあんを包み、油をひいた金属板の上で焼いたもの。
   江戸時代の天和・貞享(1681~1688)年間に京都で売り出され、金鍔焼の元祖といわれる。

  【金鍔焼】きんつば‐やき
   京都で流行した銀鍔焼が享保 (1716~1736) 年間に江戸に伝わり、米粉から小麦粉に変化。
   水でこねた小麦粉を薄くのばして小豆餡あずきあんを包み、刀の鍔のように円く平たくし、
   油をひいた金属板の上で焼いた菓子。
   文化・文政(1804~1830)の頃になってから江戸で流行。
   今は、四角く切った餡を、小麦粉を薄く溶いた液につけ、平鍋で焼く。

  江戸っ子が銀より金を好んだため (江戸=金貨主体、上方=銀貨主体) だったので、
  「きんつば」と呼ばれるようになったと言われている。

   戦国時代は金箔より銀箔の方が高級品だった


  ※ この説はたぶん後付けの嘘の可能性が高い。 何故なら、江戸庶民が金貨 (小判) を手にする機会は少ないかったようです。
   江戸庶民はツケが一般的。ツケがチャラになるので火事を喜んだ。という記述もあるらしいので。
   金閣寺、安土城、秀吉の茶室、寺の内装など、金を使った建物などは関西の方が圧倒的に多いです。

  銀鍔の方が、米粉を使っているので、皮が白っぽい。という説もあるようです。
  が、これが逆の場合だったとしたら、「関西は関東に対抗して…」という説明になるのでしょうね。(笑)






  世界的に金本位制になるのは、幕末~明治時代初期頃で、日本でもそれに合わせました。それまでは銀の方が多く流通。
  文政頃に江戸庶民が多く使っていたのは4文銭。屋台の多くは4文銭の倍数の価格が付いていました。 四文銭

 
 【江戸の菓子店】
  ≪ 江戸の菓子店の数 ≫   下のリンクサイトをご覧ください
  江戸食文化紀行 -江戸の美味探訪- 『No.34 江戸の菓子屋』 http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no34.html

  1689年の江戸市中の菓子屋は江戸城付近に49軒。 
  1787年頃は218軒で江戸城の東側の日本橋を中心とする地域にあったそうです。

  1824年、『江戸買物独案内』という江戸の買い物ガイドが書かれ、御一人様でも安心して買い物に出掛けられるように
  なりました。但し、江戸の買い物ガイドなどは、これ以前にも書かれています。






  江戸買物独案内えどかいもの‐ひとり‐あんない (江戸末期1824年刊) は、『江戸の町が大きくなりすぎた為、この本を
  書いた』とあり、『いろは…』で目次が作られ、菓子屋・鰻屋・呉服屋・わらじ屋・ロウソク屋など2500店以上、
  各店の住所や商品と代金も書かれていました。大坂で出版されたようです。

  ※最も人口が多く江戸100万人といわれる江戸中期より、江戸末期の方が人口が増えていると思われます。↑

  【最中】も‐なか
   (形が「最中の月=陰暦の十五夜、満月」に似ているからいう)和菓子の一つ。糯米もちごめの粉をこねて薄く延ばし、
   円く切って焼いて皮とし、これを2片合わせた中に餡あんを詰めたもの。今は種々の形に作る。

 

  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件






  さて、東京メディアである日テレの検証は本当なのか? ねつ造偏向報道ではないのか? 
  ブログでは、関西人と関東人で全く違う見解をしています。それぞれ主張が違うので反対意見を持つ人がみた場合は納得いかない程度の
  根拠しか載せてないないサイトがほとんどです。 という事で、色々と調べてみました。 ある1つのデータを見れば答えは出るんですけどね。

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