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日 本
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【JAPAN・日本】
江戸時代頃、「にっぽん」以外に「にふぉん」「じっぽん」などと言う人が多く居た為、それを聞いた
外国人から、フランス語では「ジャポン」→英語「ジャパン」に変化したらしいです。
4世紀に統一国家が成立し、それ以後、大和・奈良・平安各時代を経て、鎌倉幕府の創立となり、
政権は公家を離れて武家に移り、室町幕府に引き継がれる。
ついで織田・豊臣(安土桃山)政権が生まれ、さらに江戸幕府265年間を経て明治維新により
武家政権が終わり、やがて立憲君主国となる。明治の日清・日露、大正の第一次大戦に
より台湾・樺太を領有、朝鮮を併合、南洋群島を統治して全領土は約67万平方キロメートルに
達したが、太平洋戦争に敗れ明治以降の新領土のすべてを喪失、ほぼ江戸末期の原形に復した。
面積37万7800平方キロメートル。人口1億2777万(2005)。
北方領土、竹島など日本が主張する日本国領土は、歴史および証拠資料から鑑みても、
全て日本固有の領土です。
「にっぽん」と「にほん」という呼び方は、いつ生まれたのか? 「日本」と呼ばれるルーツは東大阪市にあった
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古代の氷室 |
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まなライブラリー氷の文化史日本氷業史・氷室文献雑録 『龍谷大学 都祁氷室に関する一考察』 05.03.31
http://www.manabook.jp/iceman-library09kawamura.htm まなライブラリー氷の文化史日本氷業史・氷室文献雑録 『北陸大学 金沢の氷室と雪氷利用』 2004
http://www.manabook.jp/iceman-library08takei.htm
NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『「春はあけぼの」の秘密 ~清少納言 悲しき愛の物語~』 14.04.02 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『和田ちゃんの そんなん初めて食べました 「泡で食べるかき氷」』 15.05.26 放送
関西テレビ 報道ランナー 『かき氷のルーツを調査』 18.08.10 放送
【古墳時代】こふん‐じだい
北海道・沖縄を除く日本列島で壮大な古墳の多く造られた時代。
弥生やよい時代についで、ほぼ3世紀後半から7世紀に至る。ただし、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代
以降も存続。畿内を中心として文化が発達した時期で、大和政権の成立・発展と密接な関係がある。
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日本の文献に氷の食用とされたであろう記述が登場するのは、『日本書紀』の「仁徳天皇62年の条」。
額田大中皇子ぬかたのおおなかつひこのかみが、現在の奈良県天理市辺りで鷹狩りの最中に氷室ひむろを
発見し、その氷を天皇に献上したという記録があります。
Wiki 仁徳天皇 Wiki 額田大中皇子
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【仁徳天皇】にんとく-てんのう 名は大鷦鷯おおさざき。第16代天皇。 応神天皇の第4皇子。
記紀に記された5世紀前半の天皇。難波に都を移した最初の天皇。租税を3年間
免除したなどの聖帝伝承がある。倭の五王のうちの「讃」または「珍」とする説がある。
【日本書紀】にほん‐しょき 日本紀。30巻。
六国史りっこくしの一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。
神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で
記述した編年体の史書。720年(養老4)舎人とねり親王らの撰。
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≪ 飛鳥・奈良時代 ≫
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孝徳天皇の時代、氷の朔日に朝廷から群臣に氷を賜った事を記述した『太政官符』があるらしいです。
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【孝徳天皇】こうとく-てんのう (596?~654)
7世紀中頃の天皇。茅渟王の第1王子。大化改新を行う。皇居は飛鳥より難波長柄豊碕宮に移す。
(在位645~654) 難波宮跡に重要施設 新宮殿跡か
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長屋王の屋敷跡の発掘調査で、都祁氷室から氷が運び込まれた事が分かる木簡が出土しました。
上記の『日本書紀 「仁徳天皇」』の闘鶏つげ氷室説話の「つげ」は「都祁」「都介」とも書きます。
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奈良県山辺郡都祁村内で氷室と推定される遺構が発掘され、奈良県天理市福住町や古代都祁郷中心地の都祁村で
同じような摺鉢状をした大型穴が多数発見されました。
奈良時代は氷を削ったという記録は現時点では発見されていないので、かき氷があったかは不明。
氷室神社の大宮守人 宮司によると、飲み物の中に氷を入れて冷やす「氷水ひみず」という使い方をしたようです。
※平城宮跡から見つかった木簡は多くあり、まだ全部は解明されていません。 平城宮跡から発見された木簡
【長屋王】ながや‐おう(684~729) Wiki 長屋王
天武天皇の孫。高市皇子たけちのみこの子。724年(神亀1)正二位左大臣に進み、藤原氏に対抗したが、藤原氏の
陰謀により自害させられた(長屋王の変)。
≪ 氷室神社 ≫
奈良市にある平安時代に創建された氷室神社の祭神は闘鶏稲置大山主命つげ-の-いなぎ-おおやまぬし-の-みことで、
奈良時代に初めて氷室を作ったとされ、氷の神様として祀られています。
また冷蔵庫の守り神としても信仰を集めています。
※ 稲置いなぎ=八色の姓で1番下の8位。奈良時代の下級役人の姓かばね。
名字の始まり 姓かばね とは? 古代の姓の種類 と 飛鳥時代の八色姓 日本人の名字のルーツ
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天宝宝字4年、東大寺の役人が市場で氷を購入していた記録があり、民営の氷室があったと推測されています。
井上薫 著 「都祁の氷池と氷室」、大阪歴史学会ヒストリア1979年 より。
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『延喜式』に、近畿5ヵ国に官営の氷室が21室設けられ、皇族の身分等によって氷の利用期間や量が決め
られていた記述があるようです。
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【延喜式】えんぎ-しき
弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。50巻。
905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。
967年(康保4)施行。
【氷の朔日】こおり-の-ついたち / 氷室の朔日
旧暦6月1日。昔、氷室を開いた日。この日、霰あられ餅や炒り豆などを食う。
≪ 氷室 ≫ ひ‐むろ
氷の貯蔵庫の事で、洞窟などで冬に降った雪や氷を保存。氷室は主水司の管轄でした。
奈良時代には氷室守ひむろもりという氷室の番人を表す職があった事が記されており、明治時代まで続く大切な職業でした。
平安時代の延喜式によると、「帝の氷は4月11日から9月30日まで運ぶ」と書かれているそうです。
京都市の北部の西賀茂氷室町から平安京に氷が運ばれていました。
周りの山々から冷気が入り込む天然の冷蔵庫のような地形をしており、すり鉢のような窪みの山の斜面に氷室が
作られました。
およそ直径5m、深さ3mの穴を掘り、中央に柱を建て雨風を防ぐ屋根が付けられました。
湿気で氷が溶けないように大量の炭が敷かれ、内部を乾燥させる工夫がなされました。
山の斜面を掘って作られた氷室は一年中温度変化が少なく、夏まで氷を保存する事が可能でした。
秋、稲刈りが終わった田んぼ。冬に水を撒いて氷を作り、また水を撒いて氷を作る。という作業を繰り返し氷を厚くし
良質の氷を作りました。
京都市北区にある『わら天神宮』。831年に宮中で使う氷の氷室を造る際、石川県から職人を招きました。
その際、職人の要望により石川で安産・子授けの神様として祀られていた『木花開耶姫命このはなさくやひめのみこと』を
分祀したのが始まりだそうです。
【主水司】しゅすい-し、もんど-の-つかさ、もいとりの-つかさ
律令制で、宮内省に属し、供御の水・粥・氷室のことをつかさどった役所。
古事記[下]「―に駈使つかはえし吉備の国の児島の仕丁」
【仕丁】し-てい、じ-ちょう、し-ちょう、つかえ-の-よほろ
律令制で、諸国から徴集されて、中央官庁および封戸ふこ主である親王家・大臣家・寺社の雑用に従事した者。
【供御】く-ご、ぐ-ご、く-ぎょ
天皇の飲食物をいった語。また、上皇・皇后。皇子、さらに武家時代の将軍についてもいう。
鎌倉時代~戦国時代へと年代が下るにつれて、官営の氷室の運営が難しくなり、15世紀になると、宮中への進氷の
機会は4月1日と6月1日あたりに限定されるようになってきたそうです。
1467~77年に応仁の乱がおこりますが、それ以降、豊臣秀吉が宮中を支援するまでの約100年間、京の都は荒れ
放題でした。天皇ですら日々の食事に困るようでした。 応仁の乱後、天皇は食事にも困窮 御所の道喜門とは
≪ 氷の保存 ≫ 日本テレビ 月曜から夜ふかし 『日光の天然氷』 13.05.21 再放送
栃木県の日光の天然氷造りでは、大量のオガクズの山の中に氷を入れる昔からの伝統方法で保管しています。
気温が上がれば、当然溶け始めるのですが、溶け出した水分をオガクズが吸収し、それを発散(蒸発)させる作用で
氷の表面が乾燥するので溶けにくくなるようです。
藁 (むしろ など) や新聞紙、段ボールなどの紙類・紙製などもオガクズと同様の効果が得られると思います。
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飛鳥・奈良時代 牛乳と砂糖 |
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【飛鳥時代】あすか‐じだい
奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝(在位592~628)の時代。
もとは美術史の時代区分で、推古朝を中心に仏教渡来から平城遷都まで広く含めたが、今では政治史や文化史
でも6世紀末から7世紀前半までとするのが普通。
【奈良時代】なら‐じだい
平城京すなわち奈良に都した時代。元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の7代七十余年間(710~784)。
美術史では白鳳時代を奈良時代前期、この時代を後期として、天平時代ともいう。奈良朝。
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日本で最も古い牛乳に関する記録は645年 (大化元年) 高麗からの帰化人である
善那ぜんなが、牛乳を加工したクリームのようなものを孝徳天皇に献上。 Wiki 善那
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【孝徳天皇】こうとく-てんのう (596?~654)
7世紀中頃の天皇。茅渟王の第1王子。大化改新を行う。皇居は飛鳥より難波長柄豊碕宮に移す。
(在位645~654) 難波宮跡に重要施設 新宮殿跡か
1986年、奈良そごう百貨店建設の折、建設予定地 (平城京朱雀門近くにあったの長屋王の邸宅跡) から5~10万点に
のぼる多量の「木簡」が発掘されました。
その中に「牛乳持参人米七合五夕」という記述がありました。
牛乳を持参した者に、米七合五勺を与えた。という事から、当時は牛乳を愛飲していたと考えられています。
また「ひしお」「粕漬」「醤漬」などの文字があり、現在発見されている漬物の最古の記録とされています。
【長屋王】ながや‐おう(684~729) Wiki 長屋王
天武天皇の孫。高市皇子たけちのみこの子。724年(神亀1)正二位左大臣に進み、藤原氏に対抗したが、藤原氏の
陰謀により自害させられた(長屋王の変)。
平安時代 (794~1192年) 末期以降、牛乳に関する記録は見つかっていないそうで、仏教思想の普及による
四つ足を食する事を嫌う習慣になっていったからと、考えられているようです。
ところが面白い事に、その仏教の開祖であるお釈迦様は、苦行を続け倒れた時に牛乳粥を食べて一命を
取り留めた。とインドでは伝えられているとか。
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藤原不比等らによって制定された『大宝律令』で、官制の乳戸にゅうこという一定数の
酪農家が都の近くに集められ、皇族用の搾乳場が定められました。
歴史ミステリー 捏造された日本書紀!「大化の改新はなかった!?」
http://youtu.be/QePBCT_IxGc 藤原家の略系図など 奈良時代の役人 位階と給与など
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【藤原不比等】ふじわら-ふひと(659~720) 奈良時代の貴族。鎌足の次子。
右大臣。光明皇后の父。大宝律令の制定に加わり、養老律令の制定を指導して律令制度の
確立に努めるとともに、藤原氏隆盛の基礎をつくった。藤原氏四家の祖。
【大宝律令】たいほう‐りつりょう 律6巻・令11巻の古代の法典。 Wiki 大宝律令
大宝元年(701)刑部おさかべ親王・藤原不比等ら編。ただちに施行。
天智朝以来の法典編纂事業の大成で、養老律令施行まで、律令国家盛期の
基本法典となった。
古代末期に律令共に散逸したが、養老律令から全貌を推定できる。
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関西テレビ MNB48とまなぶくん 『教科書で習った歴史は間違っていた!? 驚き満載の新説・日本の歴史』 14.09.19 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅09 「奈良・吉野~藤原宮跡」』 15.06.18 放送
奈良大学 昭和56年紀要論文 『日本古代の蘇と酪』
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN00181569-19811200-1003.pdf?file_id=1070
≪ 牛乳五味 ≫ 百菓辞典 Wiki 醍醐
涅槃経ねはん-ぎょう より 乳、酪らく、生酥なまそ、熟酥じゅくそ、醍醐だいご
『牛より乳を出し。乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出すがごとし。醍醐最上なり』
蘇は飛鳥時代から、不老長寿や美容食として食べていたと考えられています。
奈良時代にも、最も貴重な食品であった為、天皇やごく一部の高級貴族しか口に出来ませんでした。
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歴代5人目の女性天皇となる元正天皇の時代、牛乳を煮詰めて作る「蘇(酥)」を朝廷に献上させる
『貢蘇の儀』を七道諸国に命じます。
乳戸が置かれていた畿内と飛騨・志摩・陸奥・出羽以外の諸国に当番制で貢上こうじょうさせていた
そうです。
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【元正天皇】げんしょう-てんのう (680~748) 草壁皇子の第1王女。母は元明天皇 (第43代)。
奈良時代前期の女帝 (第44代、在位715~724)。名は氷高ひだか。
【蘇 (酥)】そ 広辞苑
牛または羊の乳を煮つめて濃くしたもの。煉乳。酪。民部省式「凡そ諸国―を貢る」
※『凡そ』=『およそ』、(言葉的意味は「だいたい」などですが、昔の法文で条々の初めに置き発語として用いるので、
この場合はあまり意味のない言葉と思われます。)
酪や蘇がどの乳製品に当るか、はっきりと分かっておらず、学者によって説が分かれるようです。
奈良大学論文によると、中国の文献『斉民要術』などの記述による作り方の実験の結果、
酪=発酵乳 (ヨーグルト)、生蘇=水分が多い無糖煉乳 (エバミルク)、蘇=濃縮乳かバター。詳しくは上記リンク先で
【民部省】たみ-の-つかさ、みんぶ-しょう
律令八省の一つ。主計寮・主税寮を管轄し、戸籍・租税・賦役など全国の民政・財政を担当。
【五畿七道】ごき-しちどう Wiki 五畿七道 元は、四畿で河内が、河内と和泉に分けられました。
古代日本の律令制における、広域地方行政区画。北海道、沖縄を除いた日本列島の事。
東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道
下記の画像の『飛鳥の蘇』は、奈良県橿原市の『みるく工房飛鳥』が飛鳥時代の製法で作り販売しているもの。
昭和62年から牛乳を12時間煮詰めてつくる製法で再現しているそうです。80g1080円 (2015年現在)。
画像 毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅25 奈良あやめ池~興福寺』 15.10.15 放送
≪ 砂糖の伝来 ≫
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唐の僧 鑑真和上によって、砂糖が中国から伝えられました。持参品として
「石蜜・蔗糖五百余斤、蜂蜜十斛および甘蔗八十束」との記録があります。
当時は高価なものなので、薬として使用されました。
【石蜜】せき‐みつ コトバンク 『石蜜』
① 氷砂糖の別称。 ② 蜜蜂が岩間に貯えた蜜。
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【鑑真】がんじん(688~763)揚州江陽県(江蘇省)の人。
唐の学僧。日本の律宗の祖。戒律・天台教学等を習学。入唐僧 栄叡ようえいらの請により暴風・失明などの苦難を
おかして753年(天平勝宝5)来日、東大寺に初めて戒壇を設け、聖武上皇以下に授戒。
のち戒律道場として唐招提寺を建立、大和上だいわじょうの号を賜う。
淡海三船おうみのみふねに、その来日の顛末を記した「唐大和上東征伝」がある。過海大師。唐大和上。
この石蜜は江戸時代初期の1603年『日葡辞書』には「凝固した蜜。また、氷砂糖」の意味で記されているようです。
江戸時代中期に大坂の御城入医師である寺島良安により編集された『和漢三才図会』には「石蜜ハ則チ白沙糖也。
凝結シ餅魂ヲ作リ石ノ如シ」とあり又「氷餹こおりさとうハ堅ク白ク氷ノ如シ」との記述や「氷餹20万斤、白沙糖250万斤」
「黒沙糖が太寃たいわんなどから輸入されている」という記述があるので、氷砂糖と白砂糖、黒砂糖が区別されていたと
考えられるそうです。
詳しくは→ 独立行政法人農畜産業振興機構 氷砂糖の歴史 https://sugar.alic.go.jp/tisiki/ti_0310.htm
【和漢三才図会】わかんさんさいずえ
江戸時代の図入り百科事典。寺島良安著。105巻81冊。明の王圻おうきの「三才図会」にならって、和漢古今にわたる
事物を天文・人倫・土地・山水・本草など天・人・地の3部に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。
正徳2年(1712)自序、同3年林鳳岡ほか序。和漢三才図会略。
エーザイ 薬の博物館 『正倉院に伝わる薬物60種のリスト 種々薬帳』 http://www.eisai.co.jp/museum/herb/familiar/shujuyakucho.html
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奈良の東大寺 正倉院の宝物。「東大寺献物帳」の中の一巻、
「種々薬帳」に献納した60種類の薬物名などが列記されており、「蔗しょ糖」(砂糖)が
記されています。 |
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≪ 水あめ ≫
朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『食の方言を探れ! 関西 食べ物ミステリー』 13.08.01 放送
TBS 中居正広の金曜日のスマたちへ 『ひとり農業「ヘルシーな麦芽水飴とは?』 14.03.07 放送
【飴】たがね
(握り堅める意)「あめ」の古名。「糖」「餳」とも書く。一説に、餅。日本書紀の神武紀「水無しに たがね を造るべし」
元々、飴と言えば『水あめ』で薬や神様へのお供え物として造られていたようです。
正倉院に収蔵されている古文書に『阿米あめ』という記載があり、飴を意味していると考えられています。
この事から8世紀前半には日本で飴が作られていた事が分かります。
水あめ 麦芽水飴つくり ひやしあめ 主に関西圏だけに残る飲料 大阪 飴ちゃん文化 と チンドン屋 飴の歴史
平安時代の『倭名類聚抄』水飴の記述があり、市販されていたことを示す記録もあります。調味料として使用されて
いたようです。
室町~安土桃山時代に麦芽糖を使った固形の飴が作られます。
室町時代には飴の行商が始まり、糖粽とうそう(飴色をした、もち米のちまき)や地黄煎ぢおうせん(地黄の根や茎を加え
た飴)が売られていたようです。
中世~江戸時代にかけて、夏の暑気払いとして「あめ湯」や「甘酒」が飲まれました。どちらも季語は夏。
【飴湯】あめ-ゆ
水飴を湯に溶かし少量の肉桂にっけい (シナモン) を加えたもの。腹薬や暑気払いの夏の飲み物とされる。
江戸時代になって、関西から砂糖を使った固形の飴の作り方が伝わり、各地で様々な飴が作られ、多くの庶民が
食べられるようになりました。
【麦芽】ばくが
大麦を発芽させたもの。多量のアミラーゼを含み、ビール・ウィスキー・水飴の製造に用いる。モルト。
【麦芽糖】ばくが-とう
澱粉に麦芽中のアミラーゼを作用させて得られる二糖の一つ。
白色針状の結晶で、水に溶けやすく、希硫酸と煮ると、加水分解して葡萄糖となる。マルトース。
【葡萄糖】ぶどう‐とう
D‐グルコースのこと。分子式 C6H12O6 葡萄・イチジク・柿などの果実や蜂蜜など、および人体の血液中にも一定量が
含まれる単糖の一種。
自然界に広く分布し、澱粉でんぷん・グリコーゲン・セルロース・蔗糖・乳糖などの構成成分をなす。
水に溶けやすく、還元性をもつ。
京あめ綾小路 『日本の飴の歴史』 http://www.ayanokouji.co.jp/ohanashi.html
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平安時代 794~1192年頃 |
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【平安時代】へいあん-じだい 平安朝時代。
桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府成立までの約400年の間、政権の中心が平安京 (京都) にあった時代。
ふつう初・中・後の3期、すなわち律令制再興期・摂関期・院政期(末期は平氏政権期)に分ける。
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薬師寺の僧・景戒が著した『日本霊異記』は、日本で最初に書かれた仏教の説話集。
その中に「卵を日常的に食べていた男が肉が焼けただれ落ちるなどして死んだ」という話が
載せられており、以後、江戸時代まで卵は一般的に食べられている食材ではなかったようです。
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【日本霊異記】にほん‐りょういき、にほん-れいいき Wiki 日本霊異記
平安初期の仏教説話集。3巻。僧景戒撰。奈良時代から弘仁(810~824)年間に至る朝野の異聞、殊に因果応報
などに関する説話を漢文で記した書。詳しくは「日本国現報善悪霊異記」。霊異記。
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『延喜式』に諸国から進貢される菓子の中に甘葛が記載。 Wiki 延喜式
8世頃の史料には、薩摩や駿河の産物として記載されているようです。
東は越後、伊豆、西は備前、備中、大宰府なども朝貢しています。
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『延喜式』に蘇の作り方が記載。「作蘇之法 乳大一斗 煎得蘇大一升」。
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【延喜式】えんぎ-しき
弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。50巻。
905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。
967年(康保4)施行。
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源順(みなもとのしたごう)が編纂した辞書。『倭名類聚抄』によると鶏卵は「とりのこ」と
呼んでいたようです。 Wiki 和名類聚抄
※ 鶏卵を「飼い子 (かいご)」と呼ぶ「卵 和名加比古」説もありましたが、
蚕 (かいこ)が「白彊蠶 和名加比古」 の事 という説も見つけました。
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【倭名類聚鈔】わみょうるいじゅしょう 略称、和名抄。順和名。
日本最初の分類体の漢和辞書。源順著。10巻本と20巻本とがあり、20巻本では、漢語を32部249門に類聚・掲出し、
音・意義を漢文で注し、万葉仮名で和訓を加え、文字の出所を考証・注釈する。
承平(931~938)年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進。
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宮中医官である鍼博士 丹波康頼 撰による日本現存最古の医学書、『医心方』に
「乳は全身の衰弱を補い、通じをよくし、皮膚をなめらかに美しくする」との効用と解説が記されている
そうです。
皇族、藤原氏などの貴族の間で飲乳が広がり、余った牛乳は「蘇」を作るのに使われました。
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【医心方】いしんほう、いしんぼう
現存する日本最古の医書。丹波康頼撰。30巻。984 (永観2) に成る。 Wiki 医心方
巣元方の「諸病源候論」など主に隋唐の医書による。
【丹波康頼】たんば-の-やすより (渡来人の子孫で、丹波国天田郡の人、912~995)
平安中期の宮廷医。鍼博士、左衛門佐兼丹波介になる。隋・唐の医薬書を抜粋編述した「医心方」30巻は現存する
日本最古の医書。
NHK・大阪 歴史ヒストリア 『「春はあけぼの」の秘密 ~清少納言 悲しき愛の物語~』 14.04.02 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅72・73 京都市北区~東山区へ』 16.08.18 放送 など
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清少納言(966年頃~1025年頃)の随筆 『枕草子』四十二段に Wiki 清少納言 Wiki 枕草子
「あてなるもの…削り氷けずりひに甘葛煎あまづら入れて…」と記されています。
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【清少納言】本名未詳 (諾子なぎこという説がある)。生没年未詳。(966年頃~1025年頃) 清原元輔の娘。
(「清」は本姓 清原の略。「少納言」は宮中での呼称)平安中期の女房。中古三十六歌仙の一人。
和漢の学に通じた才女で、紫式部と並び称せられ、一条天皇の皇后 定子 (976~1000年、関白 藤原道隆の娘)
に仕えて寵遇を受けた。「枕草子」の作者。家集「清少納言集」。
【枕草子】まくらのそうし 清少納言枕草子。清少納言記。
平安中期の随筆。清少納言作。最終的成立は1000年(長保2)以後か。雑纂形態の本と類纂形態の本とがある。
作者が中宮の定子に仕えていた頃を中心に、外なる事物、情意生活、四季の情趣、人生などに関する随想・見聞を、
歌枕類聚・「物は」類聚・日記回想などとして記す。
鋭い写実と才気煥発の筆致は紫式部の源氏物語とともに平安文学の双璧とされる。 意外な? 清少納言の実像
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↓木にくっついている細い蔦が甘葛です。 右側は氷室。
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あてなるもの(上品で心ひかれるもの)としている平安時代の超ゼイタクなスイーツ、甘葛煎の蜜がかかった かき氷。
※ かき氷 ← 昭和30年代まで、「氷水」(「こおりみず」、「こおりすい」)と呼ばれていました。
麦茶 平安時代は『麦湯』。江戸時代には『麦湯』を売る屋台があり、夏の暑気払いとして飲まれていた。
≪ 甘葛 あまづら ≫ 「あまかつら」「あまかづら」の略。
常春樹(木のツタ)の樹液を煮詰めた物で、奈良時代~平安時代の甘味料。ブドウ系統のツタと考えられています。
ツタの糖度が高くなる1~3月に採取した樹液を糖度計ではかると14.6度。煮詰めたものは75度前後の甘さになるようです。
ハチミツがと80度くらいの甘さ。
【甘葛】あまずら、あまづら。
① ツタの古名。
② 今のアマチャヅルに当たるといわれる蔓草の一種。また、その蔓草からとった甘味料。甘葛煎あまずらせん 。味煎みせん。
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奈良時代の天平10年の正倉院文書 『駿河国正税帳』には「味葛煎弐斗納缶弐口、口別一斗」の記載があり、
あまづらが国内で生産され税として収められていた事が分かります。
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平安時代の『延喜式』には薩摩や駿河の産物として記述され、東は越後国、伊豆国、西は大宰府、備前国、
備中国など20ヵ国からも毎年貢納されていました。
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奈良女子大学大学院人間文化研究科(博士前期課程) 国際社会文化学専攻 文化史総合演習 成果報告
『奈良の都で食された菓子』 http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/kodai_kashi/nara_kashi.html
詳しくは、食の歴史2のページ 清少納言の『枕草子』に記された 「削り氷」 氷室と甘葛 甘葛の作り方 をご覧ください。
蜂蜜の歴史などについてははちみつのページをご覧ください。
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鎌倉時代~南北朝時代 |
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【鎌倉時代】かまくら‐じだい
源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、1333年(元弘3)北条高時の滅亡に至るまで約150年間の称。
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平安末期頃から、武士の勢力が強まり、牛より馬が重宝されるようになると、
『貢蘇の儀』が廃れるようになります。
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【南北朝時代】なんぼくちょう‐じだい
1336年(延元1・建武3)後醍醐天皇が大和国吉野に入ってより、92年(元中9・明徳3)後亀山天皇が京都に帰るまでの
57年間。南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)とが対立抗争した。それ以前の建武政権期を含めていうことも多い。
饅頭.net 饅頭の歴史 http://www.饅頭.net/history.htm
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南北朝時代の僧侶・素眼によって著された『新札往来』に「砂糖饅頭」の記述が現れます。
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饅頭の発祥地、奈良市・林神社 饅頭屋「塩瀬」奈良→京都→江戸
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室町時代 |
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【室町時代】むろまち‐じだい
足利氏が政権を握り京都室町に幕府を開いた時代。1392年(明徳3)南北朝の合一から、1573年(天正1)第15代将軍
義昭が織田信長に追われるまでの約180年間を指す。その後期すなわち応仁の乱後を戦国時代とも称する。
また、南北朝時代(1336~1392)を室町時代前期に含める説もある。
1401年、室町幕府が明へ使者を送ります。1402年、明からの使者を京都の北山第きたやまだいに迎え入れます。
足利義満は明から日本国王と認められ、日明 (勘合貿易) が始まりました。
【足利義満】あしかが‐よしみつ(1358~1408、初代将軍 尊氏の孫、2代将 軍義詮の子)
室町幕府第3代将軍(在職1368~1394)。南北朝内乱を統一し幕府の全盛期を築く。明みんに入貢、勘合貿易をひらく。
北山に山荘を営み、金閣をつくる。法名、道有、のち道義。北山殿。
室町時代に入ると飴の行商が始まり、糖粽とうそう(飴色をした、もち米のちまき)や地黄煎ぢおうせん(地黄の根や茎を加えた飴)が
売られていたようです。
慶應義塾大学 学術情報リポジトリ 『博物誌史料としての「お湯殿の上の日記』
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN10079809-20060930-0033.pdf?file_id=10485
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宮中女官の『御湯殿上日記』の文明17年3月13日に『さたう』(砂糖)の記述があり、これが日記での初出。
室町時代の砂糖は高級品だったので、上流階級での贈答品として持ちいれられたそうです。
以後、度々「砂糖」の記述が出てきます。
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【御湯殿の上の日記】おゆどののうえのにっき Wiki 御湯殿上日記
清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。禁中の日常や女房詞などを知る好史料。
1477(文明9)から1826年(文政9)までのものが現存。
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公家の三条西実隆の記した『実隆公記』によると、
京都を訪れた大内義興の家臣・竜崎道輔が手土産に砂糖一桶と茶碗を携えていました。
1540年には大友義鑑から京都の大館晴光などへ白砂糖が贈られています。
大内氏 (室町時代の周防の守護大名)、大友氏は中国との貿易が知られる大名です。
薩摩の島津氏、土佐の長宗我部氏は琉球経由の海外貿易の中で砂糖を入手していたと
推定されるそうです。
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【実隆公記】さねたかこうき Wiki 実隆公記
三条西実隆の日記。1474年(文明6)から1536年(天文5)まで63年間に及び、応仁の乱後の政治・社会・文化の貴重な
史料。漢文。巻子106巻などの自筆本が現存。
【大内義興】おおうち-よしおき (1477~1528) Wiki 大友義鑑 Wiki 大館晴光
室町後期の武将。山口に拠って中国西部・九州北部を領し、足利義稙を擁して入京、管領代となり一時政権を握る。
明と交易して財力を豊富にした。
≪ 室町末期から主にポルトガル・スペインの船(南蛮船)との間に(南蛮)貿易が始まる ≫
実質的には日中間の中継貿易。銀などを輸出し、生糸・絹織物などを輸入しました。江戸初期の鎖国により断絶。
日本には、パン・カステラ・金平糖・ポーロ・カルメラ・ボタン・グラス・カルタなどが入ってきました。
室町時代末期 (いわゆる戦国時代1467~1568年頃)、南蛮貿易で外国との貿易を行っていた堺から大坂に水あめの
原料となる米、麦、砂糖が集まり飴作りが盛んになりました。
飴の製造は、うるち米を砕いて煮つめ、麦芽を加えて冷湯に入れ、混ぜ合わせてデンプンを糖化させ、そしてこれを
もう一度沸騰させ、布で濾して作る方法になりました。
【大友宗麟】おおとも‐そうりん(1530~1587)
戦国時代の武将。名は義鎮よししげ。豊後の府内におり、九州のうち6カ国守護となる。
キリシタンに帰依して、南蛮貿易を盛んにした。
別府大学短期大学部紀要 1994年 『南蛮料理書についての一考察』 江後迪子 著
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/tk01302.pdf?file_id=4199
『まず砂糖について述べる。わが国では砂糖は輸入された時代を経た後,慶長年間になって製糖法が伝えられたと
されている。しかし,『南蛮料理書』の当時はまだ輸入砂糖の時代で,貴重な砂糖を使う調理法は,一般にはまだ
受入れられなかったと考えられる。』
『次に卵について述べる。日本人が卵を食べるようになったのは室町時代末期に南蛮菓子が伝えられたことによると
いわれている。しかし,当時養鶏は広く行われたわけではなく,卵は貴重な食品であった)。
卵料理がはじめて料理書にみられるのは,江戸時代になって『料理物語』(1643)に7種の卵料理がみられることによる。』
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安土・桃山時代 |
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【安土桃山時代】あづち‐ももやま‐じだい
織田信長・豊臣秀吉が政権を握っていた時代(1573~1598年)。
または信長入京の1568年(永禄11)から関ヶ原の戦で徳川家康が勝利した1600年(慶長5)まで。織豊しょくほう時代。
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ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの文書に、織田信長にポルトガル菓子のコンフェイト(Confeitos)を
献上した記述があります。
コンフェイトはケシ粒を砂糖で包んだ物、ジャムなどフルーツの砂糖漬けなど保存食全般を指す物だった
そうです。江戸時代の日本の砂糖漬けの元になりました。また金平糖の語源にもなりました。
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【フロイス】Luis Frois (ポルトガル出身のイエズス会士、1532~1597)
1563年 (永禄6) 来日。織田信長・豊臣秀吉らと親交。滞日中140通余りの日本通信を本国に送り、また49年 (天文18)
以降の布教史「日本史」を執筆。日本二十六聖人の殉教を目撃し、長崎で没。
【コンペイトー】confeito ポルトガル
(「金米糖」「金平糖」と当てる)菓子の名。氷砂糖を水に溶かして煮詰め小麦粉を加えたものに、炒った芥子けしや
胡麻などを種に入れ、かきまわしながら加熱して製する。周囲に細かいいぼ状の突起がある。
井原西鶴作1688年刊の浮世草子日本永代蔵[5]「これも南京より渡せし菓子―の仕掛」
【有平糖】アルヘイ‐とう アルヘイ。アリヘイ糖。
安土桃山時代に伝来した南蛮菓子。砂糖に飴を加えて煮詰め、棒状とし、または花や果実に模して着色したもの。
大阪 飴ちゃん文化 と チンドン屋 飴の歴史 大阪のコンペイトウ ミュージアム・日本での金平糖生産は大坂から カステラの歴史
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この年以降、宮中における『甘葛』の記載が見られなくなったようです。
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【伴天連追放令】バテレン‐ついほうれい
1587年(天正15)豊臣秀吉が九州平定の直後、筑前箱崎で発した禁止令。
キリシタンを禁じ、バテレンを20日以内に国外追放することを命じた。実効力は少なかった。
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宮中女官の『御湯殿上日記』の天正9年6月1日に『こほりさたう』の記述があり、文献上の日本初。
同年の砂糖の記述は1月9日「しろきさたう」、2月8日「さたう」、7月10日「しろきさたう」、8月17日 『こほりさたう』、11月4日「さたう」の計6ヵ所。
江戸時代の1685 (貞享2) 年頃になると、普通の砂糖の献上は見られなくなり、氷砂糖ばかりになります。
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【御湯殿の上の日記】おゆどの-の-うえ-の-にっき Wiki 御湯殿上日記
清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。禁中の日常や女房詞などを知る好史料。
1477(文明9)から1826年(文政9)までのものが現存。
慶應義塾大学 学術情報リポジトリ 『博物誌史料としての「お湯殿の上の日記』
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN10079809-20060930-0033.pdf?file_id=10485
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天正12年、新しく金沢城主となった前田利家に、倉谷四ケ村から六月朔日に氷を献上するようになった
という文書が残されており、1693 (元禄6) 年に金沢城に氷室が作られるまで毎年献上していました。
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金沢城の氷室は、平安時代などに畿内に設置された氷を保存するものではなく、雪を保存していたものなので、
正確には一般的に他の地域で「雪室」「雪穴」と呼ばれるものでした。
江戸時代、加賀藩から将軍家への氷の献上が行われていた事などから、儀式としてかかわっていた金沢だけが特別に
「氷室」と呼称するようになったと考えられるそうです。
【氷の朔日】こおり-の-ついたち / 氷室の朔日
旧暦6月1日。昔、氷室を開いた日。この日、霰あられ餅や炒り豆などを食う。
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外国の宣教師が、貧民の幼児を集めて牛乳を飲ませる乳児院を長崎に建てましたが、
キリシタン弾圧で廃止されました。
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独立行政法人 農畜産業振興機構 『砂糖 江戸時代の砂糖食文化』 http://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html
コトバンク 『糸荷廻船 「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」』
≪ 糸荷廻船いとに-かいせん ≫ 堺・大坂糸荷廻船
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慶長年間に始まった糸荷廻船は、生糸など長崎での輸入品を堺へ独占的に運んだ船の事。
江戸時代に幕府が堺の3535艘そうの船株を公認。砂糖を積んだ船は「堺船」と呼ばれました。 長崎から陸送する場合は糸荷宰領さいりょうの仲間が独占し、砂糖は大坂の唐薬種問屋に運ばれました。
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江戸時代の薬 輸入薬原料の約9割を大坂・道修町で取り扱っていた 堺船と砂糖 江戸時代には、輸入品を長崎から堺や大坂に運ぶ独占的な権利を与えらました。
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江戸時代 初期 |
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【江戸時代】えど‐じだい
徳川家康が1600年(慶長5)関ヶ原の戦で勝利を占め、03年幕府を江戸に開いた頃から、1867年(慶応3)徳川慶喜の
大政奉還に至るまで約260年間の称。徳川時代。
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キリスト教イエズス会によって日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』が長崎で出版され、
「卵 Tamago」「飼い子 Caigo」「鶏の卵 Qeiran」と書かれているそうです。
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【日葡辞書】にっぽじしょ (Vocabvlario da Lingoa de Iapam) Wiki 日葡辞書
日本イエズス会が長崎学林で1603年(慶長8)に刊行した日本語‐葡萄牙ポルトガル語の辞書。翌年補遺刊行。
ポルトガル式のローマ字で日本語の見出しをつけ、ポルトガル語で説明をつけた。
文例をあげ、当時の標準語である京都語と九州方言との差にも注意し、歌語・文語などを注する。総語数3万2293。
ドミニコ修道会によるスペイン語訳「日西辞書」(Vocabvlario de Iapon 1630年マニラ刊)のほか
パジェスによる仏訳「日仏辞書」(1868年パリ刊)がある。
≪ 德川家康が、氷室の節句を定める ≫ 日本の伝統行事
平安時代から宮中で行われていた5節句などの年中行事を推奨したとされています。氷室の節句も特別な日と制定
されました。なお、節句を祝う習慣などが庶民に広まったのは江戸時代後期~末期頃。
【氷の朔日】こおり-の-ついたち / 氷室の朔日
旧暦6月1日。昔、氷室を開いた日。この日、霰あられ餅や炒り豆などを食う。
【氷室の節句】ひむろ-の-せっく
江戸時代、旧暦6月1日に、旧臘 (客臘かく-ろう。「臘」は陰暦12月) の雪水で製した折餅または氷餅などで祝って食した
行事。
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舟橋秀賢の日記『慶長日件録』の慶長11年6月1日に「戊戌、斎了、伏見へ行、巳刻、前大樹御対面、
従濃州伊吹山、氷令進上、於御前各賜之、今朝禁中へ御進上云々」との記述があります。
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公家の儒学者で公卿の船橋秀賢が伏見へ行き、前大樹 (德川家康) に挨拶に出向いた時、濃州 (美濃国の異称、現在の
岐阜県) の伊吹山の氷の献上があり、御前で氷を頒賜され、朝には禁中 (朝廷・御所) へ献上していた。
コトバンク 船橋秀賢
つまり、氷の朔日の日、天皇へ献上する為に伊吹山の氷を京都に持って来させ、残りを家臣らに配ったという事のようです。
【大樹将軍】たいじゅ-しょうぐん
[後漢書・馮異伝] (諸将が功を誇る中で馮異ふうい一人が大樹の下に退いて誇らなかった故事から) 後漢の将軍 馮異の
敬称。転じて、将軍または征夷大将軍の異称。
【徳川家康】 とくがわ‐いえやす 幼名、竹千代。初名、元康。(1542~1616) 松平広忠の長子。
徳川初代将軍(在職1603~1605)。今川義元に属したのち織田信長と結び、ついで豊臣秀吉と和し、
1590年(天正18)関八州に封じられて江戸城に入り、秀吉の没後 伏見城にあって執政。
【伊吹山】いぶき‐やま
滋賀・岐阜両県の境にある山。標高1377メートル。山中薬草に富む。石灰岩の採取地。
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『德川実記』や『駿府政事録』によると、慶長17~19年の6月1日に出仕した多くの家臣たちに氷を配った
事が記述されています。
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【徳川実紀】とくがわ‐じっき Wiki 徳川実紀
家康から10代家治に至る間の和文の編年体実録。江戸幕府が大学頭林述斎を総裁として成島司直もとなおらに編纂させた
もの。1809年(文化6)起稿、43年(天保14)完成。全516巻。
なお、本書に次いで家斉から慶喜までの実録を編纂した「続徳川実紀」があるが、未完成。
【駿府政事録】すんぷ-せいじろく Wiki 駿府政事録 より
慶長16年(1611年)8月1日~元和1年(1615年)12月29日までの、駿府城における漢文で記した政治録・日記。全9巻。
ほぼ同様の内容のものとして、別に『駿府記』がある。
幕府御金改役の後藤庄三郎光次の著作と記載があるが、儒学者の林羅山という説もある。
毎日放送 水野真紀の魔法のレストランR 『大阪・黒門市場VS京都・錦市場』 14.11.03 放送
関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『京都・錦市場の今昔ぶらり歩き』 17.03.07 放送
≪ 京都・錦市場 地下水利用の保冷貯蔵庫 日本で京都御所とココにしかない「降り井戸」 ≫
1615年、江戸幕府から『魚問屋』として認可されたのが、
錦市場の始まり。の辺りは豊富な地下水があり、御所に
近い事から店が集まり市場へと発展していきました。
地下水は現在でも多くの店で利用されています。
現存する京都最古の寿司店『伊豫又いよまた』は、1617年
の創業、現在の店主で20代目。
日本には京都御所と伊豫又にしかない「降り井戸」が
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あります。江戸時代は幕府公認の魚仲買人で、冷蔵庫が普及する昭和の戦前まで、鮮魚の保冷庫として使われていました。
地下のスペースは夏場でも地下水の冷気で10℃前後に保たれるそうです。
NHK Eテレ 高校講座 日本史 『動揺する江戸幕府 ~内憂外患への対応~』 13.10.25 放送
奄美が好きホームページ 『砂糖黍を広めた直川智』 http://amami7.com/sunaokawati.html
≪ 奄美大島の黒砂糖 ≫ 奄美の歴史
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薩摩国大島郡(鹿児島県の奄美大島)の直川智すなお かわち が黒砂糖の製造に成功。
中国福建省で製糖技術を習得。
サトウキビを秘かに持ち帰り、大和浜西浜原で初めて黒糖を作りました。
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【奄美大島】あまみ‐おおしま
鹿児島県、大隅諸島・とから列島とともに薩南諸島の一部をなす奄美諸島で大島を主島とし、奄美大島と呼ぶ。
海岸には隆起珊瑚礁があり、サトウキビを栽培。奄美群島。
国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
コトバンク 『日本山海名物図会』
1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『 日本山海名物図会』全5巻は、日本各地の
名物を描いた絵本。 巻の三には 薩摩大島黒砂糖が描かれています。
「甘藷やサトウキビをよく炊いて石灰を加える。百姓これを多くつくりて」などが書かれてあるようです。
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沖縄 黒砂糖 |
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【琉球】りゅうきゅう
沖縄(琉球諸島地域)の別称。古くは「阿児奈波」または「南島」と呼んだ。
15世紀統一王国が成立、日本・中国に両属の形をとり、17世紀初頭島津氏に征服され、明治維新後 琉球藩を置き、
1879年(明治12)沖縄県となる。
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琉球王国では、儀間真常ぎましんじょうにより、中国から黒砂糖の製造法が伝わり、琉球の特産品と
なっていきました。
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※ 歴史ミステリー 琉球王国の祖は源氏だった?http://youtu.be/BGwfk2KE3Qc 源氏の主流 河内源氏 Wiki 儀間真常
【黒砂糖】くろ‐ざとう …まだ精製してない茶褐色の砂糖。甘蔗汁をしぼって鍋で煮詰めたままのもの。黒糖。
朝日放送 朝だ ! 生です旅サラダ 13.03.09 放送 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『今夜は沖縄県 一県限定SP』 14.05.29 放送 冊封使歓待料理
NHK Eテレ Rの法則 『全国女子高校生図鑑 沖縄編』 16.06.08 放送 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『沖縄県民 熱愛グルメ「ぜんざい 仰天の常識』 16.07.21 放送
「汁粉」と「善哉」 関西のぜんざい、関東ではおしるこ 呼び方なぜ違う、汁粉の江戸発祥説は嘘
≪ 沖縄のぜんざいは金時豆を使った「かき氷」 ≫ 沖縄のぜんざい
1910年代 (明治末期~大正)、主に大阪の大正区、神戸、横浜の鶴見区などの紡績工場や日雇い労働として出稼ぎ
移住が始まりました。
1913年に県会議員となった太田朝敷は女子教育と沖縄の中心産業である精糖業を振興。
第一次世界大戦 (1914~1918) 大戦景気によって砂糖の相場は高騰し、砂糖成金と呼ばれる人が出るほどの好景気が
沖縄におとずれます。
しかし、1920 (大正9) 年をピークに砂糖の国際相場は、キューバなどの農業振興国の供給増と、欧州の需要縮小などに
より暴落。
日本国内の精糖業は台湾 (日清戦争後1895~太平洋戦争後1945の期間は日本領) に圧され、太田が思ったような結果
にはなりませんでした。
1920年代は砂糖相場は下落したまま回復せず、1929 (昭和4) 年には世界恐慌により、日本も巻き込まれ昭和恐慌という
深刻な不景気に。
沖縄での「ぜんざい」は、かき氷。沖縄食文化推進協議会の田崎聡 会長によると、
「沖縄で冷たいぜんざいが広まったのは戦後のことだと思います。集団就職で大阪に渡った沖縄の人達が、再び沖縄に
戻ってくる時に、大阪から温かいぜんざいを食べる文化を持ち帰ったのがきっかけ。
その後「ぜんざい」という名前の小豆から金時豆に代って、氷を乗せて暑い沖縄でも親しまれるようアレンジを加えたことで
沖縄県民の間に定着していったんだと思います。」
【太田朝敷】おおた-ちょうふ(1865~1938) コトバンク より
明治-昭和時代前期の新聞経営者、政治家。
尚泰王18年4月8日生まれ。慶応義塾にまなぶ。明治26年沖縄最初の新聞「琉球新報」の創刊にくわわり、
大正2年主筆。昭和5年社長。県会議員,首里市長をつとめ、また沖縄県海外協会副会長として移民事業を推しすすめた。
昭和13年11月25日死去。74歳。著作に「沖縄県政五十年」。
沖縄の歴史 現在、米軍の基地問題で揺れている沖縄。多くの人が知らない本当の歴史。大阪との関係も深いので調べてみました。
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江戸時代の卵料理 |
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TBS 所さんのニッポンの出番! 『二歩変人が知らないニッポンを発掘 日本のラーメンはナゼうまいのか?』 14.04.22 放送
TBS 所さんのニッポンの出番! 『日本のショッピングモールで発見 たくさんある食感を表す言葉がスゴイ!』 15.05.12 放送
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江戸初期の代表的な料理専門書『料理物語』に「玉子ふわふわ」などの卵料理が掲載。
作者は未詳ですが、上方出身者が武蔵国へ旅行した時に書いたもの。(内容から大坂人の可能性が高いです)
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【料理物語】
料理書。著者未詳。1冊。1643年(寛永20)刊。
魚・鳥・野菜などの料理の材料76種の名称と、それに適する料理を列記し、料理法を略述。 Wiki 料理物語
有職故実の記述ではなく、庶民の日常食を記す。
東京都立図書館デジタルライブラリー 『1.料理物語』
http://www.library.metro.tokyo.jp/digital_library/collection/the8/tabid/1988/Default.aspx
江戸時代初期の約100年ほどの商業出版は、京都だけで行われていました。 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸
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いわゆる『卵百珍』と呼ばれる卵料理の専門書 『萬宝まんぽう料理献立集』『萬宝料理秘密箱』前編が
出版されました。著者は京都の器土堂きどどう主人。
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この江戸時代中期には、有名な『豆腐百珍』が上方で出版され江戸へ下り人気を博しました。
この他、多くの百珍本の著者は京都・大坂の人で、「○○堂主人」というのはペンネームで、当時流行っていたようです。
天明年間頃の百珍本ブーム
【天明の飢饉】
1782年~1787年(天明2~7年)に起こった大飢饉。特に同3年浅間山噴火の影響でおきた冷害による奥羽地方の飢饉は
多数の餓死者を出し、このため各地に一揆・打ちこわしが起き、幕府や諸藩の支配は危機に陥った。
【守貞謾稿】もりさだまんこう (「守貞漫稿」とも) コトバンク 『喜田川守貞』 Wiki 守貞謾稿
随筆。喜田川守貞 (砂糖商北川家。大坂の人、1810~?。1840年に江戸深川に定住) 著。30巻、後編4巻。
1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗研究に
不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行。
幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「湯出鷄卵賣」
「鷄卵の水煮を賣る 價 大 約廿文 詞に「たまごたまご」と云 必ず二聲のみ 一聲も 亦 三聲も云ず
因云 四月八日には鷄とあひるの玉子を賣る 江俗言 傅ふ今日 家鴨の卵を食する者は中風を不レ病の呪と
京坂無二此事一也」
鶏卵の水煮は大きい物で約20文の価格。売り言葉は「たまご、たまご」に2回繰り返すだけで、1回でも3回でも無い。
四月八日にはニワトリとアヒルの卵を売る。江戸の俗言に「アヒルの卵を食べる物は、体の一部が麻痺する病気に
かかるという呪いがある」とされるが、京都・大阪には、そういう俗言はない。
「聲=声」 卵のコレステロールは気にしなくてもよい 最新の科学的調査では、逆に食べた方が良いとの結果
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江戸時代の牛乳と砂糖 江戸時代の砂糖と薬 江戸時代に発達した菓子・甘味1 |
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テレビ東京 137億年の物語 『南蛮貿易と出島の物語』 14.08.16 放送
NHK Eテレ 高校講座 日本史 『キリスト教 禁止と鎖国』 14.09.26 放送 など
≪ 長崎の出島 ≫ 公の外国との唯一の貿易場所
【出島】でじま
長崎市南部の町名。1636年(寛永13)ポルトガル商人を置くために造成した約4000坪の
扇形埋立地。ポルトガル船渡航禁止後、41年平戸にいたオランダ人を移転させた。
鎖国中の日本唯一の貿易地。
【唐人屋敷】とうじん‐やしき … 江戸時代、長崎に設けた中国人の居留地。
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≪ 乳牛の飼育の再開 ≫
1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』巻三十七「畜類」の「牛」の条には「牛乳」に「ボウトル」のフリガナがあります。
このボウトルは「番語の名に保宇止留」と書かれてあります。中国(明)での漢字を日本語読みで充てたものと思われます。
明治5年の『西洋料理通』では「ボートル」=「バター」です。ボートルはオランダ語でバターの事だと思われます。
東日本 (箱根の関から以東) には馬が多く牛は少ない。西日本には牛が多く馬が少ない。京では天皇皇后は牛車である。
市中の米や薪などの運送や農耕にも牛を使っている。東日本では牛に代わって馬を利用している。など書かれてあります。
また、牛から作られる製品の記述もあって、「酪・酥・醍醐・乳腐(乳餅)」の造り方や薬としての効能などの解説が書かれて
あります。
「羊」の条には「乳○」○の漢字は「温」の旧字の横に「月」、フリガナで「ケイジ」とあります。
「…羊ノ乳ヲ番語ニ名ク二介伊辞ケイジト一」 ※二一は読みの返り点、ケイジはフリガナです。
1607年に明 (中国) の王斤らが撰した「三才図会」を参照しているので、その書に「介伊辞」とあり、日本語発音で「ケイジ」と
して書いたのではないか? と個人的に推測します。ちなみに和漢三才図会にも誤字などが見られます。
1883 (明治20) 年5月出版の『日本・西洋・支那三風料理滋味之饗奏』 (編 大阪の伴源平、出版 大阪の赤志忠雅堂、
調理 自由亭和洋主人) には「牛乳=ギウニウ」「牛酪=バタ」と、それぞれフリガナがふられてあります。
この頃、店でバターやビールを手造りしていたようでレシピが書かれてあります。
同書の牛酪バタの製法 同書のビール醸造法 同書のレモン水製造法
大正6年の『三百六十五日毎日のお惣菜』(著、江戸生まれの桜井ちか子、東京で出版)、上流階級向け家庭料理本
でも「バター」は「バタ」の記述が多いようです。この本では「肉=牛肉」との認識しているようです。
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8代将軍 徳川吉宗が、オランダ人商館長に馬の医療用として牛乳の必要性を教えられ、
インドから白牛3頭を輸入して千葉県の安房郡嶺岡で飼育を始め、白牛酪 (バター) を造らせました。
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【徳川吉宗】とくがわ‐よしむね (1684~1751)初名、頼方。諡号、有徳院。 紀州2代藩主 徳川光貞の4男。
徳川第8代将軍(在職1716~1745)。紀州藩主となり、藩財政改革に手腕を発揮。
将軍位を継いで享保の改革を行なった。米将軍と呼ばれる。 Wiki 徳川吉宗
【享保の飢饉】きょうほう‐の‐ききん
享保17年(1732)、イナゴなどによる害で近畿以西をおそった大飢饉。餓死は1万人以上と推定される。
幕府は被害のない地方から救援米を送らせたので江戸でも米価が高騰、翌正月に江戸で最初の
打ちこわしが起きた。
【享保の改革】きょうほう‐の‐かいかく
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徳川8代将軍吉宗がその治世(1716~1745)を通じて行なった幕政の改革。
倹約の励行、武芸の振興、年貢増徴、定免制の実施、株仲間の公認、町人による新田開発の奨励、上米制・足高制・
公事方御定書の制定、目安箱の設置、養生所の設立、医学・洋学の奨励などの政策で幕藩体制の建直しをはかった。
江戸幕府三大改革の一つ。
『明治事物起源』の「牛乳の始」には、上記の享保(1716~1736)に3頭だったものが、寛政8(1796)年には7千余頭に
増え、同年の正月に白牛洛を売り広める事を命じたとはこの事である。
慶應1 (1865) 年に雉子橋内に厩うまやを設置し、将軍家が飲む牛乳や酪以外は残らず部下に販売した。
明治1 (1868) 年には民部省の主管に属し、雉子橋内には10頭、嶺岡には400頭の白牛を飼っていた。
というような事が書かれてあります。
1908(明治41)年刊『明治事物起源』第十類「飲食」牛乳の始の全原文
1703(元禄16)年の本草書『食物和解大成しょくもつわげたいせい』(著者「浪華 馬場幽閑」と記述があるので、出版地は大坂)は
元禄11年刊『日用食性大全』の増補版。食物和解大成巻之上「食合類」の「越瓜しろうり」に「牛乳」の文字があるものの、
この本はツボ治療法など中国文献を参考にしている医学書であり、ざっと見たところ他に「牛乳」の文字が見当たらないので、
牛乳の飲用が一般的ではないが、ごく稀に治療として飲用した事もあったのでは? 程度だったと、個人的に思います。
国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
コトバンク 『日本山海名物図会』
1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、日本各地の
名物を描いた絵本。巻の四には大坂・天王寺の牛市が描かれています。巻の二には仙台の馬市が描かれていますが、
どちらも労働力の為に売買されていたと思われます。
≪ 江戸時代の砂糖 ≫ Wiki 砂糖
一般社団法人 日本家政学会 『江戸時代の料理書にみる煮物料理における調味料の変化』 08.02.26 公開の論文によると、
調査した江戸時代の料理書36書の中で、砂糖を調理に用いたレシピの初見は1689(元禄2)年の『合類日用料理抄』
(著者は中川茂兵衛、出版地は京都)の「煮大豆の方」だったそうです。
上方では元禄頃から庶民が砂糖を用いることが可能だったようです。
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元禄10年、長崎会所設立に際して、幕府御用の御菓子屋であった大久保主水と虎屋織部に対して、
砂糖を元値段で買い取ることが許されました。当時の輸入品の主力は砂糖・織物・生糸でした。
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【長崎会所】ながさき-かいしょ
江戸時代、長崎貿易の事務および会計をつかさどった役所。
清国およびオランダとの貿易をつかさどった長崎町民の自治団体で、長崎奉行の所管。
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大坂で刊行された百科事典『和漢三才図会』に「石密・白砂糖・黒砂糖・氷砂糖」の記述。
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薩摩産の黒砂糖が、大坂の薩州問屋を経て販売開始されます。
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江戸時代中期に大坂の御城入医師である寺島良安により編集された『和漢三才図会』には「石蜜ハ則チ白沙糖也。
凝結シ餅魂ヲ作リ石ノ如シ」とあり又「氷餹こおりさとうハ堅ク白ク氷ノ如シ」との記述や「氷餹20万斤、白沙糖250万斤」
「黒沙糖が太寃たいわんなどから輸入されている」という記述があるので、氷砂糖と白砂糖、黒砂糖が区別されていたと
考えられるそうです。
詳しくは→ 独立行政法人農畜産業振興機構 氷砂糖の歴史 https://sugar.alic.go.jp/tisiki/ti_0310.htm
【和漢三才図会】わかんさんさいずえ
江戸時代の図入り百科事典。寺島良安著。105巻81冊。明の王圻おうきの「三才図会」にならって、和漢古今にわたる
事物を天文・人倫・土地・山水・本草など天・人・地の3部に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。
正徳2年(1712)自序、同3年林鳳岡ほか序。和漢三才図会略。
現在と同じような氷砂糖は、明治初期に大阪で作られ、明治16年に静岡県の鈴木藤三郎が氷砂糖製造法を確立。
コトバンク 『糸荷廻船 「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」』 独立行政法人 農畜産業振興機構 『砂糖 江戸時代の砂糖食文化』 http://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html
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元文4年、大坂商人が堺株 (糸荷廻船を運営する権利を堺商人が独占して受けていた) を借りて糸荷廻船に
参加するようになり、荷揚げ量は堺から大坂中心に変わっていきました。
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吉宗は琉球からサトウキビを取り寄せ、江戸城内で栽培させ砂糖の国産化を奨励。
それを受け、高松藩主 松平頼恭がサトウキビ栽培を奨励し、和三盆の開発に成功。 Wiki 松平頼恭
天保年間の1830年頃には、国産白砂糖の6割を生産するまでになったようです。
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【和三盆】わ‐さんぼん
結晶の細かい上質の砂糖。白下しろした糖を圧搾し、繰り返し揉もんで白くし、乾燥させてふるったもの。
和菓子の材料として用いる。香川・徳島の名産。
【白下】しろ‐した (白砂糖を製する下地の意)
サトウキビの絞り汁のアクを抜き、煮詰めた黄褐色の半流動物。蔗糖結晶と糖蜜が混合した含蜜糖。白下糖。
これを圧搾して繰り返し揉んで糖蜜を取り除いたものが和三盆。
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寛延2年、国内の金銀の流出を防ぐため貿易半減令が出されます。
当時、日本からの主要輸出品は銀で、大坂で製錬されていました。
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この頃、砂糖が輸入量の1%を占めていました。
輸入砂糖は大坂の堺筋の砂糖荒物仲買中間が作った3つの講 (組合) が支配しており、大坂から江戸など
全国各地に運ばれました。
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宝暦6年頃に書かれた佐賀の「鶴屋」に伝わる『菓子仕方控覚』の砂糖漬けでは白砂糖のみが書かれて
いますが、1785 (天明5) 年の『柚珍秘密箱』では黒砂糖を使用し仕上げのみ白砂糖を用いるとあります。
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江戸時代に発達した菓子・甘味1 江戸時代に発達した菓子・甘味2
江戸時代の薬 輸入薬原料の約9割を大坂・道修町で取り扱っていた
堺船と砂糖 江戸時代には、輸入品を長崎から堺や大坂に運ぶ独占的な権利を与えらました。サトウキビの栽培は静岡・愛知・大阪でも行われていました。
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江戸時代 後期 江戸時代に発達した菓子・甘味2 |
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天明6年、樽廻船が増えたので、江戸における砂糖問屋が「住吉講」を称するようになりました。
海上交通の神様を祀っている住吉大社を信仰して付けた講 (組合組織)。
江戸では佃島に住吉神社があります。
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菱垣廻船 幕府公認で始まった大坂~江戸間の定期輸送船で主に幕府・諸藩の荷物を運んだ船。
樽廻船 江戸時代中期頃から大坂・灘~江戸間の民間の定期船の一種。灘からは専ら酒樽を輸送しました。
住吉大社 211年創建、摂津国一の宮。遣唐使の出港地、一寸法師などの縁の地。住吉踊は、江戸で流行った「かっぽれ」「常盤津節」の起源
佃煮、築地は、大坂の佃村の森一族が江戸に移り住んだ事から 江戸の漁業および江戸・関東における魚の流通システムは、大坂の摂津系問屋が確立して仕切っていました
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紀州や讃岐などの国内産白砂糖が大坂に送られ、各藩の蔵屋敷や唐薬種問屋が引き受け取り扱いました。
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大坂での砂糖の取引量は輸入糖430万斤と国産糖2320万斤、合わせて2750万斤(1万6500トン)になり、
幕末の1865年にはその2倍となっていました。
1833年、天保の大飢饉の発生。
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江戸時代の薬 輸入薬原料の約9割を大坂・道修町で取り扱っていた
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加賀藩の氷室 |
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NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『参勤交代はつらいよ 加賀百万石 お殿様の遥かな旅』 14.07.16 放送
NHK Eテレ 趣味どきっ! 『おいしい浮世絵 第5回「江戸のおやつ」 16.05.03 放送
まなライブラリー氷の文化史日本氷業史・氷室文献雑録 『北陸大学 金沢の氷室と雪氷利用』 2004
http://www.manabook.jp/iceman-library08takei.htm
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天正12年、新しく金沢城主となった前田利家に、倉谷四ケ村から六月朔日に氷を献上するようになった
という文書が残されており、1693 (元禄6) 年に金沢城に氷室が作られるまで毎年献上していました。
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金沢城の氷室は、平安時代などに畿内に設置された氷を保存するものではなく、雪を保存していたものなので、
正確には一般的に他の地域で「雪室」「雪穴」と呼ばれるものでした。
江戸時代、加賀藩から将軍家への氷の献上が行われていた事などから、儀式としてかかわっていた金沢だけが特別に
「氷室」と呼称するようになったと考えられるそうです。詳しくは、上記リンク先でご覧ください。
【氷の朔日】こおり-の-ついたち / 氷室の朔日
旧暦6月1日。昔、氷室を開いた日。この日、霰あられ餅や炒り豆などを食う。
1908(明治41)年刊『明治事物起源』第十類「飲食」の「氷水屋の始」(著者は石井研堂)
「…今日の売水の起源につきて、少し所見を陳ずべし。
江戸年中行事六月一日 加州候の雪献上の事あり、駒込の氷室に囲ひおける水塊を、将軍家に献上するにて、
其余り分を、通行人に施すを例としたりければ、態々わざわざ加州邸に往ゆきて、其恵に興あづからんとする者も多く、
婦女幼童のよく暗記せる日なりといふ。」
加賀藩から将軍家に氷が献上される際、庶民にも御裾分けする慣例があったので、特に女性や子供が楽しみにして
いた事が分かります。
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最大2000人とも言われる日本一の大名行列の100万石の加賀藩。1日平均40㎞の移動で江戸まで13泊14日の日程でした。
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歌川国芳 『逢身八壊 湯しま暮雪』は、大奥の女中が献上された氷を持っているところを描いたもの
だそうですが、大奥は男子禁制なので、想像で描いたもの。
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【歌川国芳】うたかわ-くによし (1797~1861)
浮世絵師。号は一勇斎・朝桜楼。初世 歌川豊国の門人。武者絵・風景画・戯画に長じた。
月岡芳年・落合芳幾・河鍋暁斎など門人多数。
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冷や水売り |
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NHK Eテレ 趣味どきっ! 『おいしい浮世絵 第5回「江戸のおやつ」 16.05.03 放送
web日本語 棚橋正博 『第41回 冷や水売りと白玉』 13.05.23 配信 http://www.web-nihongo.com/edo/ed_p041/
気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録 『冷や水売り(江戸の歳時記)』 http://wheatbaku.exblog.jp/11683080/
≪ 江戸時代は気温が低かった ≫ 読売テレビ ウェークアップぷらす 『東京の最高気温の変化』 16.05.14 放送
右の画像は1870年代~2010年代までの10年毎との東京の6月上旬の最高気温の
変化を表したグラフ。
明治初期の1870年代で24.5℃、1900年代が最も低く24.3℃くらい。2000年代が最高で
26.3℃くらい。2010年代が26.1℃くらいになっています。
140年間で2℃近くの上昇。江戸時代は小氷期とも言われていますので、さらに気温が
低かったと考えられています。 花見の歴史、花見弁当など
1843~46年頃の歌川広重『江戸名所圖會 飛鳥山』には花見重詰めに刺身が描か
れています。当時の3~4月は現在の1~2月の気温と同じくらいと言われています。
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≪ 水売り ≫ コトバンク 『水売り』世界大百科事典 第2版 より
『水を入れた桶をてんびん棒などで担いだり荷車に積んで飲料用の水を売り歩く商売をいう。日本では水屋ともいった。
水道が普及する以前は,水はもっぱら井戸に頼るしかなかったが,水質の悪い所や井戸に遠い家では水を1荷いくらで
水売から買った。
明治のころ,東京の下町あたりではだいたい1荷1銭くらいで朝夕2回定期的に買う家が多かったようである。
井戸の便のよい家でも,涸水時には水が濁るので水こし用の甕を台所において使ったし,またふだんでも洗顔後の水を
まき水に使うなど水をたいせつに扱っていた。』
前東京都水道局中央支所長 随筆 『水売り』 http://www.jdpa.gr.jp/siryou_html/14html/14_essay1.pdf
大阪などでも上水道が完備されるまで、水事情が良くない地域では水売りがありました。
明治期の河川の水はとてもきれいであって、水屋は水舟で大川 (今の中の島東突端) まで出るか、四つ橋付近で、
汲みこんで帰り、一荷 (2斗入り桶 2個)で 8厘前後で売られていたそうです。
とくに中津川の下流 (逆川、六車干屋川など) 朝日橋付近での汲み水は上水と称して一荷で2厘ほど高値でした。
安政5年 (1858)以降、明治10年、19年、23年などのコレラの流行で井戸水が使えなくなり、水売りが流行りました。
中津川は淀川の支流の一つで、1910年に治水工事で埋め立てられて「中津」の地名だけが残っています。
明治初期の1円が現在の2万円くらいの価値、1厘は約20円くらい。
大阪市 『まぼろしの中津川 消えた中津川・長柄運河』
http://www.city.osaka.lg.jp/kita/cmsfiles/contents/0000038/38804/04.pdf
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江戸は湿地帯や海を埋め立てたので、どこを掘っても海水しか出ないので井戸水に頼る事ができません。
『御用達町人由緒』という記録に「江戸水悪敷」(江戸は水が悪い) と残されています。
その為、江戸市中の地下には木製の水道管が張り巡らされました。
そして『水売り』という商売がありました。 世界に誇る江戸の水道
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『御用達町人由緒』は調べましたが詳細不明。1590 (天正18) 年開設とされる小石川上水の事が Wiki 神田上水
書かれてあり、「先祖 宇津左衛門五郎忠義五男 初代 大久保藤五郎忠行 後改主水」ともあるので、 Wiki 大久保忠行
大久保忠行 (生年未詳~1617年) 以降に書かれたもの。但し、「江戸水悪敷」は上水を作る時の事だと思います。
この『水売り』は後に、砂糖や白玉を入れた夏のスイーツへと発展していきます。
砂糖の歴史や樽廻船などの物資流通、他の食文化〈 例えば「醤油の庶民への普及」は大坂では元禄年間(1688~1704年)
以前でしたが、江戸では文化・文政 (1804~1818~1831年) でした。
キッコーマン HP 『しょうゆの歴史を紐解』 http://www.kikkoman.co.jp/soyworld/museum/history/hishio.html
、 下記の史料などから考察すると、江戸で砂糖入りの冷や水売りが流行したのは、他の食文化と同様に1780年以降
ではないか?と個人的に推測しています。
≪ 江戸・東京の歴史は嘘だらけ ≫ 東京付近の関東の歴史 Wiki 大大阪時代
東京メディアの全国ネットで、歴史学者が出てきて『江戸は凄い!!』なんていう番組が昔から多く放送されており、ネットでも
それらを真に受けた記事を書いているサイトが多数存在します。
関西の歴史を東京の歴史のように見せかけたり、東京の歴史を大盛りし改竄した嘘が大量に流布され続けています。
東京の良いイメージは大阪や関西の史実をパクったもの。大阪の悪いイメージは東京の史実を押し付けたものが多い。
江戸や関東発祥とされる物の多くも、文献などを確認した結果、関西発祥の可能性の方が高い物がいくつもあります。
江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!
江戸時代の主な重要文献と著者 江戸時代に出版された主な菓子の専門書
蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見!! カマボコの歴史。紀文のサイトにも嘘
米が原料の煎餅も関西が先だった 当サイトがレシピ原文発見!! 鰻の蒲焼 関西発祥の可能性が高い。ウィキペディアの意図的な悪質内容の手口記述
「汁粉」と「善哉」 関西のぜんざい、関東ではおしるこ 呼び方なぜ違う、ぜんざいの発祥は島根県、汁粉の東京発祥説はもちろん嘘
千葉の醤油 1697年に濃口醤油を作ったとする年代が怪しい件。淡口醤油・生醤油だけじゃなく濃口醤油も関西発祥の可能性が極めて高い
愛知県の食文化・「ういろう」
史実では大坂が圧倒的な先進経済都市であり、江戸は文化的に80~100年ほど遅れています。
大正後期~昭和初期は東京市を人口でも上回っていた大阪市がまだまだ日本一の経済都市でした。
1980年代でも大阪企業が新しい商法を始め、東京に進出するという構図が主流でした。
当サイトの日本の食の歴史雑学の各ページ、日本の歴史雑学の各ページなどを見て正しい歴史認識を持ちましょう。
「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件 江戸ッ子とは? その実態、江戸の名物は悪口、悪口を言わない江戸ッ子はいない。江戸女は気が強いなど
江戸・東京は土埃がかなり酷かった事が多数の一級史料・文献に書かれていますが、ほとんど語られません。
何故か? 江戸・東京は悪臭が漂う不衛生な町であった史実が知られ広まると、良いイメージを作り上げた江戸の歴史や
印象がガラっと変わってしまう (嘘がバレる) からです。
明治44年刊の『東京年中行事』には、東京は屋台が多く氷店の屋台もありましたが、土埃にまみれた椀やコップなどを
気にせず飲食するので衛生観念がないとしか思えないなどと書かれてあります。 東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文など 江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
≪ 江戸時代中期 ≫
元禄文化は上方を中心とした文化です。江戸など地方都市の独自文化が開花するのは、約100年後の文化・文政以降。
1689 (元禄2) 年の『合類日用料理指南書抄ごうるいにちよう-りょうりしょう』(中川茂兵衛、出版地は京都)は秘伝や口伝・聞書
などから、料理に関する事を丹念に集めた江戸時代の料理百科とも言われています。
『第二巻の餅之類』に「寒晒の餅・かんざらし、白玉粉」という項目があるようです。(原文は読んでいないので未確認ですが)
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元禄9年刊の井原西鶴の浮世草子『万の文反古』に『冷や水売り』の記述があるそうです。
江戸でも出版されましたが、物語の舞台は大坂高津 (大阪市中央区高津) です。
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【万の文反古】よろず-の-ふみほうぐ
浮世草子。井原西鶴作。5巻5冊。1696年 (元禄9) 刊。17編の書簡体小説集。西鶴文反古。
コトバンク 『万の文反古』 の各解説をまとめると、
1696年(元禄9)1月、西鶴の第四遺稿集として門人 北条団水(だんすい)が5巻5冊に編集し、京都・上村平左衛門、
大坂・雁金屋庄兵衛(かりがねやしょうべえ)、江戸・万屋(よろずや)清兵衛より刊行。
大坂・高津の片辺りで張貫(はりぬき)の女人形をつくる職人が、材料の紙くずのなかからみつけだしたという趣向で、
大半は中下層町人の現実生活の一状況を書簡という独特で有効な設定によって切り取り,恥多い人間の真実の姿を
浮かび上がらせるという巧みな方法が駆使されている。
【井原西鶴】いはら-さいかく (大坂の人、1642~1693) 本名、平山藤五。
江戸前期の浮世草子作者・俳人。西山宗因の門に入って談林風を学び、矢数俳諧で一昼夜2万3500句の
記録を立て、オランダ西鶴と異名された。師の没後、浮世草子を作る。
作品はよく雅俗語を折衷、物語の伝統を破って、性欲・物欲に支配されて行く人間性をいきいきと見せ、
元禄前後の享楽世界を描いた好色物、義理堅い武士気質を写した武家物、町人の経済生活を描いた
町人物などに特色がある。
作「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」
「本朝二十不孝」「西鶴織留」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。
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寺島良安の『和漢三才図会』に、冷や水を入れるのに使われた錫製の水飲み用
茶碗などの容器は、「白鑞びゃくろう、しろめ」と呼ばれる錫すずと鉛なまりの合金に
よって作られていた事が記されています。
また真鍮などでも作られ、金属の器に口を付ける事で冷たさを感じられたようです。
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【和漢三才図会】わかんさんさいずえ
江戸時代の図入り百科事典。寺島良安著。105巻81冊。明の王圻おうきの「三才図会」
にならって、和漢古今にわたる事物を天文・人倫・土地・山水・本草など天・人・地の
3部に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。
正徳2年(1712)自序、同3年林鳳岡ほか序。和漢三才図会略。
【寺島良安】てらしま‐りょうあん(現在の秋田~山形県の羽後うご生れ、生没年未詳)
江戸中期の漢方医。号は杏林堂。大坂の御城入医師。法橋ほっきょう。和漢の学に
精通。「和漢三才図会」105巻を著述。
江戸『誹風柳多留』には「ぬるま湯を 辻々で売る 暑いこと」という川柳もあるので、
実際には汲んでから時間が経ち、温くなった水も売られていました。
また1768 (明和) 5年頃の『万句合』に収録された川柳には「水売の砂糖なんだか
知れぬなり」と詠まれたものもあり、江戸時代の中期の江戸ではまだ砂糖が
上方や長崎より砂糖が行き渡らなかったと思われます。
【誹風柳多留】はいふうやなぎだる Wiki 誹風柳多留
川柳集。167冊。呉陵軒可有ごりょうけんあるべしら編。1765~1840年(明和2~天保11)刊。
初代 柄井川柳(24編まで)以下5代に至る代々の川柳評万句合まんくあわせの中から
主として選び集めたもの。柳樽。
【柄井川柳】からい‐せんりゅう(江戸浅草の人、1718~1790)
江戸中期の前句付まえくづけ点者。1757年(宝暦7)「川柳評万句合」を発行、
他の点者を圧倒する名声を得た。その撰句を川柳点、のちには単に川柳と称した。
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【万句合】まんく‐あわせ
江戸時代、前句付を中心とする雑俳の句会。また、その選者が前句の刷物を配布して付句を募集し、勝句を一枚刷
形式に印刷して頒布したものをもいう。
宝暦(1751~1764)から寛政(1789~1801)頃まで行われ、初代川柳評の万句合勝句刷は「柳樽」の底本。
川柳 発祥は大坂。 川柳から見る江戸での嫁の立場 嫌な女房番付
江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸 1750年頃までの江戸での出版は上方のパクリ本が基本 堺船と砂糖 江戸時代には、輸入品を長崎から堺や大坂に運ぶ独占的な権利を与えらました。サトウキビの栽培は静岡・愛知・大阪でも行われていました。
≪ 葛水 「葛砂糖」 ≫ 葛湯を冷やして夏に飲まれていたもの。
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平賀源内の滑稽読物の一種で (小説) 『根南志具佐』に「葛水も冷たいところへ心をつけてのもてなし」
と出てきます。
葛水は「葛砂糖」とも呼ばれ、季語は夏。葛粉と砂糖を湯で溶いたもの。
幕末に徳川家茂が大坂城で一橋慶喜に用意しており、家臣たちに振る舞った記録があります。
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【根南志具佐・根無草】ねなしぐさ
談義本。天竺浪人(平賀源内)作。前編5巻5冊は1763年(宝暦13)刊、後編5巻5冊は69年(明和6)刊。
俳優の死を題材とし、地獄と娑婆しゃばに託して当時の世相を滑稽・諷刺をもって描いたもの
【平賀源内】ひらが‐げんない(讃岐高松の人、1728~1779) Wiki 平賀源内
江戸中期の博物学者・戯作者。名は国倫くにとも。鳩渓・福内鬼外・風来山人などと号。蘭学・物産学・本草学を研究、
初めて火浣布かかんぷを織り、寒暖計を模製し、鉱山を開発、またエレキテル(摩擦起電機)を自製。のち戯作に没頭。
浄瑠璃「神霊矢口渡」、談義本「風流志道軒伝」「放屁論」は有名。乱心して人を殺傷、獄中に没。
ほかに著「物類品隲ぶつるいひんしつ』
コトバンク 『根南志具佐』 コトバンク 『荻野八重桐(初代)』 コトバンク 『荻野八重桐(2代)』
物語の主人公となる歌舞伎役者2世荻野八重桐が1751 (宝暦1) 年に上方から江戸へ下り、1763 (宝暦14) 年に38才で
隅田川で誤って溺死した事件を基に平賀源内が江戸に居た頃に初めて書いた小説。
源内は長崎留学や京坂で学び1756 (宝暦6) 年に江戸へ出ます。のち仕事や遊学などで、高松→江戸→川越→秋田→
長崎→江戸と移動しています。
問題の葛水の文が出てくる場面で、荻野八重桐が上方に居た頃か江戸に居た頃かは、読んでないので分かりませんが、
江戸時代の葛は吉野で産する事がほとんどで、ほぼ上方のみで消費されていました。
幕末の『守貞謾稿』の「茶飯賣」には、江戸にて餡かけ豆腐に用いる餡は葛粉醤油を煮たもの也とあります。
これは本葛ではなく、天保年間の小麦粉を発酵した澱粉で江戸の久餅が創製。それと同じ可能性が高いです。
葛菓子の歴史 吉野葛の葛切、江戸の久寿餅、岐阜の水饅頭 など
平賀源内 一緒に飲んでいた町人を殺してしまい自殺しようとしたが、部屋を片づけていると勘違で殺人した事に気づいた
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『四時交加しじのゆきかい』の6月(旧暦)の絵の下の段の右端に、冷や水売りが描かれています。
著作と絵は紅翠齋北尾子 (北尾重政) 、文は山東京伝が書いたようです。
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国立国会図書館デジタルコレクション 『四時交加 2巻』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2534277 サムネイル表示で 12 の画像。
≪ 枇杷葉湯売り ≫ 17.04.06追記
【山東京伝】さんとう‐きょうでん(江戸生まれ、1761~1816)
江戸後期の戯作者・浮世絵師。本名、岩瀬醒さむる。俗称、京屋伝蔵。住居が江戸城紅葉山の東方に当たるので山東庵、
また、京橋に近いので京伝と号した。京山の兄。初め北尾重政に浮世絵を学び北尾政演まさのぶと号、のち作家となる。
作は黄表紙「御存商売物ごぞんじのしょうばいもの」「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」「心学早染草」、
読本「桜姫全伝曙草紙」「昔話むかしがたり稲妻表紙」、洒落本「通言総籬つうげんそうまがき」など。
【北尾重政】きたお‐しげまさ (江戸の人、1739~1820) Wiki 北尾重政
江戸後期の浮世絵師。北尾派の祖。号は紅翠斎・花藍など。
錦絵や肉筆画で美人画を能くし、京伝・馬琴などの戯作に挿絵を描いた。
幕末の『守貞謾稿』には、京都と大坂は売り歩くのを専らとし、江戸では橋の上に擔筥 (担箱) を
置いて、呼び売りするのを専らとしていました。
大坂の (振売りの) 元店は天満にあり、売り詞に「御存 本家 天満 難波橋 朝田 枇杷葉湯 云々」
と云う という事が書かれてあります。 |
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右画像は明治末期に『守貞謾稿』が『類聚近世風俗志』として出版されたもの。「第五編生業下 枇杷葉湯賣」の記述部分。
≪ 白玉入り砂糖水 ≫
コトバンク 『水売り』世界大百科事典 第2版 より
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文化10年6月、江戸森田座初演の常磐津で、日照りが続いて水が乏しくなると、特定の井戸と契約している
水屋が1荷100文ぐらいで売りさばいたり、砂糖を入れた冷水や白玉・ところてん(心太)も売る風俗を舞踊化
したものが演じられました。
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【常磐津節】ときわず‐ぶし
浄瑠璃の一流派。広義の豊後節の一つ。1747年(延享4)宮古路豊後掾の高弟、初世常磐津文字太夫が創始。
風紀上の理由で禁止された豊後節から脱して、義太夫節に近い格調ある芸風を目指した。歌舞伎の舞踊劇の音楽としても
多く用いられる。代表作に「関の扉と」「戻駕もどりかご」「将門まさかど」「乗合船」など。
【常磐津文字太夫】ときわず‐もじたゆう(初世は京都の人、1709?~1781)
常磐津節の家元。宮古路豊後掾の高弟で前名は宮古路文字太夫。師とともに江戸に下って活躍したが、1736年(元文1)の
豊後節禁止ののち常磐津に改姓し、常磐津節を創始。
住吉大社 211年創建、摂津国一の宮。住吉踊は、江戸で流行った「かっぽれ」「常盤津節」などの起源
江戸末期1846年頃の歌川国芳の団扇絵『名酒揃 志ら玉』には、紅色が付いた
寒晒し白玉を取り鉢に移している女性が描かれています。
この団扇絵は『名酒揃い』という酒の宣伝広告用に描かれたものの一つ。
「志ら玉」という商品名がついた酒の宣伝用うちわ絵。
他にも酒の商品名にかけた絵をいくつか描いています。
【歌川国芳】うたかわ-くによし (1797~1861)
浮世絵師。号は一勇斎・朝桜楼。初世 歌川豊国の門人。武者絵・風景画・戯画に長じた。
月岡芳年・落合芳幾・河鍋暁斎など門人多数。
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【白玉粉】しらたま‐こ
糯米もちごめを洗い水に漬けたのち水切りし、水を加えながら磨砕し、水にさらし、乾燥させたもの。季語は夏。
以前は寒中に作ったので、寒晒し粉ともいう。
『守貞謾稿』の「心太賣ところてん売り」の条を訳してみると、(誤訳御免)
京坂では心太を晒した物、寒天を煮たものを「水飩すいとん」と言い砂糖をかけて食べていたようです。心太1文、水飩2文。
江戸では寒天と寒天を煮たものどちらも「寒天」と呼び、うどん粉で作った団子を味噌汁で煮たものを「水飩」と言った。
二品とも間違いである、本来は水で煮た粉団子を冷やして食べるものを「水飩」と言う。
現在の冷やし白玉という物は水飩に近い。
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天保9年刊の『東都歳事記』の5月(旧暦)『盛夏路上の図』に、冷や水・ところてん・白玉餅などを売っている
様子が描かれています。
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国立公文書館 『盛夏路上の図』 http://www.archives.go.jp/exhibition/summerpopup_22/summerpopup_22_0101.html
【東都歳事記】とうとさいじき コトバンク 『東都歳事記』 より
近世後期における江戸および近郊の年中行事を月、順に配列し,略説した板本。斎藤月岑(げつしん)編。長谷川雪旦・雪堤
父子の挿絵入り。半紙本5冊。1838年(天保9)江戸の須原屋茂兵衛,同伊八刊。
後編を予定していたが未刊に終わった。1829年(文政12)の第3清書本が残っているが,30年ころ刊行を期していたらしく,
のち加筆を進めた。
《増補江戸年中行事》(中本1冊,絵入り,1803初板)を基本資料としており,近世末の最も詳しい年中行事の文献である。
【斎藤月岑】さいとう‐げっしん(江戸神田雉子町の草分け名主1804~1878)
幕末の著述家。名は幸成。和漢の学を修め、博覧強記で、「武江年表」「東都歳事記」「声曲類纂」など著述が多い。
「江戸名所図会」は祖父幸雄が撰し、父幸孝が補修、月岑が校刊した。
漫談家の宮田章司さんによると、物売りの声というのは売っているものをイメージしながら声を出しており、商品によって
それぞれ特有の節があったそうです。
「え~ 冷やっこい! 冷やっこい!!」と売り歩いていました。
夏場は瓜やスイカなども好んで食べられ、スイカ売りは「すいか~ すいか~ 水は毒でござります」という売り言葉を
使っており、冷や水売りとはライバル関係にあったと想像されるようです。
≪ 浮世絵に描かれた江戸の「冷や水売り」 ≫
下の画像は絵をトリミングした一部分です。下記のリンク先で浮世絵のフル画像が見られます。
高輪廿六夜待遊興之図
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松竹梅名残島台
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四季之内 両国夜陰光景
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當盛六花撰 紫陽花
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【歌川国貞】うたがわ-くにさだ (1786~1864) 号は一雄斎。五渡亭・香蝶楼。
初世 豊国の高弟、後、師名を継いで 2世豊国と自称したが実は3世、
国貞時代に、「偐紫にせむらさき田舎源氏」の挿絵をはじめ多くの傑作を残した。
【歌川広重】うたがわ‐ひろしげ。(1797~1858) 本姓、安藤。一遊斎・一幽斎・一立斎と号。
江戸末期の浮世絵師江戸の定火消同心の子。歌川豊広の門人。詩情豊かな風景版画の連作に名をなし、
また花鳥画にも新境地を開いた。作「東海道五十三次」「名所江戸百景」など。
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幕末の喜多川守貞の『守貞謾稿』では、京と大坂では「砂糖水売」と呼ばれて1杯6文で売られていた事が
記されています。白玉入りは売られていなかったようです。
江戸・京坂の三都とも白玉は乾物屋で売られていた事も別の部分で記述があります。
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幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「冷水賣」
「夏日 淸冷の泉を汲み白糖と寒晒粉の團とを加へ 一椀四文に賣る 應レ求て 八文十二文にも賣るは 糖を多く
加ふ也 賣詞 “ひやつこひ ひやつこひ”と云
京坂にては 此荷に似たるを路傍に居て賣る 一椀 大概六文 粉團を用ひず白糖のみを加へ 冷水賣と云ず
砂糖水賣と云」
「團=団子」「應=応」
幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「白玉賣」
「米粉を曝し製したるを寒晒しと云 乾て (正方形を斜上から見たの図) 此ごとく刻めり 是は三都ともに乾物等にて賣レ之也
白玉は寒晒粉を水を以て煉レ之 丸レ之て 湯烹にしたるを云 白糖をかけて食レ之 或は冷水に加レ之 又た 汁粉
加レ之と雖ども 陌上 專ら冷水に用るを專として夏月賣レ之
昔は全白を專とする歟 今は紅を交へて斑玉をなす者あり 價 百顆 二十四文ばかり」
「曝さらし=晒し」「煉り=練り」「雖ども=いえども」「陌上=百上 (幅の広い道の上)」「歟=か」「價=値」「顆=粒」
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とらや 『菓子資料室 「歴史上の人物と和菓子 徳川家茂と葛水・黄金水の砂糖水』 11.09.16
https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/127/
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『続徳川実紀』第四篇の『昭徳院殿御在坂日次記』によると、
6月21日、徳川家茂が、京都から大坂に到着した一橋家の徳川慶喜に葛水を用意していたそうです。
家茂が7月3日に乗馬を行なった際にも「残暑強候ニ付」として馬場の役人や手綱を引く者にまで
葛水を与えました。その後も度々、葛水が家臣達に与えられたそうです。
また「霊薬」とされていた黄金をきれいな水に浸して、火にかけ金を溶かしだしたという「黄金水」に
砂糖を加えた砂糖水なども砲術訓練や剣術試合の際に家臣たちに与えていたそうです。
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【徳川家茂】とくがわ‐いえもち(紀州藩主斉順なりよりの長子、1846~1866)
徳川第14代将軍(在職1858~1866)。初名、慶福よしとみ。紀州藩主。のち将軍の位を継ぎ、公武合体のため
和宮かずのみやと結婚。大坂城で第2次長州征討の軍を統督中に病没。諡号、昭徳院。
【葛湯】くず‐ゆ
葛粉に砂糖をまぜ、熱湯を注いでかきまぜた食物。主として幼児・病人に用い、また、体が温まるので冬に用いる。季語は冬。
この葛湯を冷やしたものが葛水で季語は夏。
≪ 冷や水の価格 ≫
淑徳大学 小澤弘 客員教授によると、守貞謾稿の記述と同じで
砂糖入り白玉は1杯当りの価格は、4文 (80円、幕末頃100円)。
砂糖無し・白玉無しの1杯が4文という説もあります。
砂糖の量や白玉が増やすと、8文、12文になりました。
時代により一文の価値が変わったり、換算する方法により変わります。
四文銭が出回り、屋台の価格は4文、8文などの倍数でした。
≪ 屋台の御代が四文・八文と4の倍数の理由 ≫ 1コイン・システム。
寛永通宝は、1636 (寛永13) 年~幕末の1860 (万延1) 年まで鋳造されていた
代表的な銭貨。1768 (明和5) 年以降に四文銭が作られます。
【四文銭】しもん-せん
寛永通宝のうち、1768年 (明和5) 以降鋳造の真鍮銭と、1860年 (万延1) 以降
鋳造の精鉄銭、および63年 (文久3) 以降鋳造の文久永宝の称。
いずれも1枚が4文 (明治維新直後には2厘) に通用した。
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四当銭しとうせん・当四銭とうしせんともいい、また、普通の寛永通宝より大きく裏に
波紋があるので波銭 (浪銭) なみせんともいった。
明治初期の1円が現在の2万円くらいの価値、1厘は約20円くらいです。
【四文屋】しもん-や
江戸後期、4文均一の品物を商った大道だいどう商人。屋台で食物を売るのが多かった。
1文=20円くらいの価値。四文銭が広く普及していたので、屋台では四文銭の倍数の価格が付いていました。
幕末頃、かけそば16文=320円くらい。タネもの (きつね蕎麦など具入り) 24文=480円くらい、天ぷらそば32文=640円くらい。
ひやしあめ 主に関西圏だけに残る飲料
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江戸時代 末期 |
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1860年代
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アメリカ軍艦 ポーハタン号に乗り込んだ新見豊前守、小栗豊後守などの遣米使節団を護衛する為に随行した
咸臨丸に乗船した柳川当清やながわとうせいの(渡米)『航海日記』にアイスクリームが初めて記述されます。
アメリカ上陸の歓迎会がフィラデルフィア号で開かれ、その際に食べた様子を
『 珍しきものあり。氷を色々に染め、物の形を作り、これを出す。味は至って甘く、口の中に
入るるに たちまち溶けて、誠に美味なり。 これをあいすくりんという」 と記している。
※ 咸臨丸(かんりんまる) にて渡米した人の中には、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎などがいました。
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【咸臨丸】かんりん‐まる
1857年(安政4)江戸幕府がオランダに発注・購入した軍艦。原名ヤパン号。蒸気機関を備える。全長163フィート。
60年遣米使節 新見正興の随行艦として、日本人操艦による最初の太平洋横断に成功。
【新見正興】しんみ‐まさおき(1822~1869)
江戸末期の旗本。外国奉行となり、幕府初の遣米使節正使として1860年(万延1)アメリカに渡航。
【小栗上野介】おぐり‐こうずけのすけ(1827~1868)
幕末の旗本。名は忠順ただまさ。1860年(万延1)通商条約批准交換のため渡米。のち外国奉行・勘定奉行・軍艦
奉行等を歴任。フランス公使ロッシュと結んでその援助を受け、製鉄所を起工するなど軍制改革に尽くしたが、
徳川慶喜の恭順に反対して辞職。新政府軍により処刑。
≪ 民間初の乳牛飼育と搾乳・販売 ≫ 横浜
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横浜で前田留吉が民間人として初めて乳牛の飼育と搾乳を始める。
※ 参考書および参考サイトにより微妙に年が異なっていました。1863年、1861-1864年、1866年。
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【前田留吉】まえだ-とめきち (上総出身、1840~?) コトバンク 『前田留吉』 を参照
幕末-明治時代の実業家。1861(文久1)年、横浜でオランダ人に搾乳法と牧畜を学んだ。
1863 (文31)年に独立し神奈川県太田村に日本人として始めて搾乳所を開いた。
1874 (明治7) 年、アメリカの牛乳業界を視察し、1877 (明治10) 年に東京神田猿楽町で洋牛を飼育し、牛乳店を開業した。
1908(明治41)年刊『明治事物起源』第十類「飲食」の「牛乳の始」 著者は
石井研堂 (1865~1943、福島県郡山出身、小学校教員後、明治18年に上京し少年誌などの編集・執筆、明治文化研究家)
※漢字は現代の漢字に直してあります。
著者の知っている範囲で書いた内容のようなので、この本の記述内容の全てが正確な史実とは限りません。
上代牛乳 将軍家飲料 前田留吉の搾取行 搾乳天覧 東京の牛乳業 哺乳器 コンデンスミルク
「本邦古代、牛酪を至尊に進めし事、氏に明なり。近代にては、享保中、徳川氏、房州嶺岡に白牛を放養せしめて、
牛酪製法を命じ、其頃 僅に三頭なりしが、寛政八年に至りて、七千余頭に至れり。
武江年表に、寛政八辰年正月、白牛酪売弘うりひろめの事を命じ給ふとあるは即ちこれなり。
下りて慶應元年に至り、雉子橋きじばし内なる今の仏国ふらんす公使官邸内に厩うまやを設け、茲ここにて牛乳を搾り酪を
製し、宮本主膳主、尾島主殿正、塩谷豊後守等 相継いで之が主幹となり、将軍家飲料の外は、悉ことごとく部下に
販売し居りしが、明治元年 民部省の主管に属し、当時 雉子橋内には十頭、嶺岡には四百頭の白牛を飼養したりといふ。
千葉県長生郡関村 平民農 前田留吉といへる者、何か一ト儲けせん事を思ひ立ち、横浜に至りて貸座敷の水汲となり、
次いで同書 前田橋側に屠牛場を設けたる和蘭人スネル氏に雇はれて牛の飼養方を担当し、傍ら牛乳搾取を始めて
一合四銭に販売し、次いで慶應二年八月中、同所の露木清兵衛なる者より、金三十円を借り入れ、太田町八丁目に
牧場を起して、日本牛六頭を購入し、始めて牛乳搾取営業を開きたり。
之を本邦に於る牛乳搾取営業者の初めとす。
当時 横浜は勿論、東京に於ても、未だ此種の営業なかりしかば、其売行き非常にして、益々営業拡張を感じたる折しも、
都合ありて民部省管 雉子橋内の牧場に雇はるゝことゝなりたり。
同省に於ては、爾来 雉子橋内の改造拡張し、尚ほ房州嶺岡の牧場よりも数頭の乳牛を移して、専ら乳汁を搾取せしが、
其後 築地に牛馬会社なるもの起りしかば、乳牛をば総て こゝへ払下げたり。
※「爾来じらい=それより以降、その後」 「天覧てんらん=天皇が御覧になること」
明治二年四月十四日、牛乳搾取の模様 天覧あらせられるべき御沙汰あり。
即ち 白牛 五頭を宮城きゅうじょう内に牽ひき入れ、吹上御門内に於て天覧あらせ給ふ。此時 搾取の任に当りたるは、
前記の留吉なりしといふ。
是より先、明治元年、英国人某なるもの、横浜八十八番館(今の九十八番)の一部を牧場まきばに充て、搾取業を開き、
米国産の乳牛 六頭を飼養して、非常の利益を占めしかば、留吉は再び一戸の営業を開かんとて、明治三年二月中、
牛馬会社を辞し、芝区西久保に引移り、天徳寺てんごくじ前に牧場を開き、日本牛 二十頭を購入して搾取を開業し、
一般の需要に応じたるも、当時の飲用者は、高等官及び外国公使館員位に過ぎざりし事ぞ。
これ独力を以て東京に斯業このぎょうを開きたる始なるべし。
四年六月版(雑誌三号)に、哺乳器販売の広告あり。図あり方今の物に同じ。「乳母いらず」上等品一両二分より、
中等器 三文二朱より、下等品 二分よりと 価を附記せり。其 不廉なるにても、当時 頗すこぶる珍品なりしを知る。
※「方今ほうこん=ちょうど今。ただ今。現今。目下。」 「不廉ふれん=値段の安くないこと。高価」
五年五月〔同四十五号附録〕に牛乳育児法を掲げ、中にいふあり。『遠郷えんきょうの田舎などにて、牛乳の生汁なき時は
「コンデンス、ミルク」とて、ブリキの曲物に入たる牛乳の製したるものあり、(原注、近来西洋より多く持来れり、最寄の
唐物屋などにて求むべし)云々』とあり。」
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MANAしんぶん 味探検食単随筆 氷食論もしくは氷室論03 『夏の風物詩、氷旗に見る天然氷の歴史』 2003.09
http://www.manabook.jp/essay-ice-himuro04.htm
1908(明治41)年刊 『明治事物起源』第十類「飲食」の「氷水屋の始」 (著者は石井研堂)
≪ 函館氷の販売、 店頭販売の始まり ≫
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「ボストン氷」と呼ばれた輸入氷があったようです。
医療用や生鮮食品の保存用として輸入されており、高価だったそうです。
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明治4年夏5月5日、横浜の氷会社の中川嘉兵衛 (1817年愛知県生まれ) が氷を格安で店頭販売。
明治5年5月7日付の『東京日日新聞』に「氷室会社売出しの氷」という記事も掲載されました。
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明治5年12月から旧暦 (太陰暦) を改め、新暦 (太陽暦) が採用されます。
1872年、旧暦の明治5年12月3日 → 新暦の明治6年1月1日としました。
『明治事物起源』第十類「飲食」の「氷水屋の始」では、雑誌の明治5年44号の記事などを引用し、中川嘉兵衛が
氷を売り出す7、8年前から非常に苦心して販売にこぎ着けた事を書いています。
富士山頂から氷を採り出したもの途中で全て溶けてしまい、関東の山奥の人と契約して冬季に氷を保存し春になって
運び出そうとしたが失敗。北海道に製氷場を建て、大きな氷の塊を造ったりもしたそうです。
明治4年5月5日以降、様々な工夫を凝らしてようやく販売に至ったそうです。広告を出し数ヵ所で販売されました。
それまで東京府下での氷の一般販売は行商が普通で、店を開いて販売するのは極めて稀な事だったようです。
明治5年4月には佐藤終吉が中川嘉兵衛と組んで、北海道の函館で天然氷を切出し、東京の築地・新富町の氷室まで
船で運び、近日中に店を開いて売る予定があるという話が記録されているそうです。
6月には氷塊を運んだ経験を活かし、氷詰めにした鱒を運び、「箱館(函館)氷」を広めようとしたようです。
明治44年の『東京年中行事』 「神棚と井戸」記述原文
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食の雑学 日本食文化の歴史、調味料の雑学など
大阪の雑学 大阪の歴史と雑学 大阪と関西の食文化、江戸時代、暖簾の色で業種が分かったなど
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