手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本歴史の雑学 3 ~平安時代1
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~弥生・古墳時代 飛鳥・奈良時代 平安時代の雑学1 平安時代の雑学1 お取り寄せ order
鎌倉~室町時代 戦国~桃山時代 江戸時代の雑学1 江戸時代の雑学2 日本の歴史・雑学  INDEX
江戸時代の雑学3 江戸時代の雑学4 明治・大正時代1 明治・大正時代2
昭和時代の雑学1 昭和時代の雑学2 江戸時代の文献記述 東京付近の歴史 沖縄の歴史
 
  Page Contents



 京都の祭 時代祭

 鳥獣人物戯画 日本の漫画のルーツとも言われる

 鵜飼 京都の女性鵜匠と、人工孵化に成功 (1300年の歴史で初めての出来事)

 京都の祭 葵祭 斎王代の選考基準は? 

 蝦夷 アテルイと坂上田村麻呂

 藤原敦忠 死後、予想通り、妻と部下デキちゃった 当時の貴族の事情がよく出ている話

 藤原兼通 弟の兼家 (道長の父) を死に際に左遷したエピソード


 藤原薬子 律令政治から格式政治へ

 菅原道真 
  道真の怨霊伝説、道真=天神となった由来、
  「くわばら、くわばら」という呪文の由来。

 平将門
  早合点してしまう性格だった。

 藤原道長
  世界記憶資産に登録された御堂関白記は後世に残さないでほしい。
  と、遺言したものだった。

 清少納言
  枕草子には自虐ネタも盛り込まれていた。

 平安時代の貴族のファッション

 更科日記の作者 菅原孝標女
  源氏物語に心酔する 元祖 「オタク女子」だった。

 平安時代のかぐや姫 藤原千古 と
  歌人 待宵の小侍従の㊙ファイル


 教科書には絶対載らない藤原道長の子孫
  藤原師通、忠実

 藤原頼長 
  大秀才、ガチホモ、悪の左大臣、保元の乱の首謀者? その実態は??
  平安時代と鎌倉時代のイケメンの違い



 絵巻 源氏物語絵巻

 平安時代のキスは何と呼んだ ?


 恋愛歌人 和泉式部


  歴史に関しては、大阪の歴史と雑学ページ、日本の食の歴史のページも参照して下さい。

  おすすめサイト 歴史の雑学が色々と載っています。
  株式会社まぼろし 歴史雑談録 http://rekishi.maboroshi.biz/about/
  歴史研究所 『日本史』 http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
  倭人伝・倭国伝 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun-mokuji.htm
   ↑ 中国の各古文書の倭人伝の原文と和訳があります。
  こはにわ歴史堂のブログ http://ameblo.jp/kohaniwa/ ← 朝日放送 コヤブ歴史堂「こはにわ先生」の浮世博史さんのブログです。

  日本の歴代装束の画像サイト
  株式会社 井筒 企画 お祭り大好き 『各種時代風俗行列 -時代衣装あれこれ-』 http://www.iz2.co.jp/jidai/fuzoku.html

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 平安京
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『桓武天皇 ~平安京の誕生と人々のくらし~』 14.05.21 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『平安京の時代』 14.05.30 放送
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『摩訶不思議な関西遷都ミステリー』 14.10.16 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅18 大和郡山市~奈良市内へ』 15.08.20 放送


 ≪ 長岡京 ≫ ながおか‐きょうながおか-の-みやこ。 Wiki 長岡京  Wiki 桓武天皇

   第50代 桓武天皇の初めての都。784年(延暦3)平城京から移ったが、遷都を首唱した藤原種継が暗殺されたり
   したため、794年平安京に移った。
   宮域の中心は、京都府 向日むこう市にあり、長岡京市 ・ 京都市 ・ 乙訓おとくに郡 大山崎町まで広がっていた。





  【桓武天皇】 かんむ‐てんのう(737~806) 光仁天皇の第1皇子。母は高野新笠。
   奈良後期~平安初期の天皇(第50代、在位781~806)。柏原天皇とも。名は山部やまのべ
   坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣、794年(延暦13)都を山城国宇太に遷した(平安京)。

  【藤原種継】たねつぐ (737~785) 式家 宇合の孫
   奈良時代の貴族。中納言。桓武天皇に信任され、権勢を振るって皇太子 早良さわら親王と対立。
   造長岡京使として遷都を強行したが、暗殺された。

  桓武天皇の右腕として活躍した藤原種継が暗殺された事件で、桓武天皇の弟である早良親王に疑いがかけられます。
  淡路島に島流しとされますが、早良親王は無実を訴えて絶食。淡路島に着く前に船内で亡くなりました。
  その後、桓武天皇の身辺で不幸や天変地異などの不吉な事が相次ぎます。






  陰陽師に占わせた結果、早良親王の祟りであると出ました。
  皇太子の地位にあった早良親王は非常に優れた才能を発揮していた人物でした。桓武天皇がその才能を疎み、
  自分の皇子を皇太子にする為の策略だったと推測されています。
  桓武天皇の次に即位したのは、平城天皇で、桓武天皇の第1皇子。

  早良親王を位を上げた崇道天皇と追号し、806年に崇道天皇社を創建し祀ることにしました。
  崇道天皇社の宮司さんによると、春秋の彼岸参りは、早良親王の御霊を慰める為に始まったと言われているそうです。

  【早良親王】さわら‐しんのう(750~785) 光仁天皇の皇子。
   同母兄 桓武天皇の即位とともに皇太子となる。785年(延暦4)藤原種継暗殺事件に連座して廃され、淡路に配流
   される途中で死亡。怨霊として祟ったとされ、800年、崇道すどう天皇の尊号が追贈された。






  【彼岸会】ひがん‐え
   彼岸の7日間に行う仏事。平安初期から朝廷で行われ、江戸時代には庶民の間に年中行事化した。

  【平城天皇】へいぜい-てんのう (774~824) 名は安殿あて。 桓武天皇の第1皇子。
   平安初期の天皇(第51代、在位806~809)。奈良帝ならのみかどとも。病により嵯峨天皇に譲位し上皇。
   尚侍 藤原薬子の変により落飾らくしょ (貴人が髪をそりおとして出家すること)。

  【薬子の変】くすこ-の-へん
   810年(弘仁1)、平城上皇に寵愛されていた藤原薬子が兄 仲成らと共に平城遷都および上皇の重祚を謀った事件。
   嵯峨天皇 (第52代、在位809~823、桓武天皇の皇子) 派のために仲成は処刑され、薬子は自殺。

  重祚ちょうそ … いったん位を退いた天皇が、再び位につくこと。  彼岸の始まりと、墓地や畦道にヒガンバナが咲いている理由


  【平安時代】へいあん-じだい 平安朝時代。
   桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府成立までの約400年の間、政権の中心が平安京 (京都) にあった時代。
   ふつう初・中・後の3期、すなわち律令制再興期・摂関期・院政期(末期は平氏政権期)に分ける。


 ≪ 平安京 ≫ へいあん‐きょう  Wiki 平安京

   第50代 桓武天皇の794年(延暦13)に長岡京から移って、1868年(明治1)に東京へ移るまでの都。今の京都市の中心部。






  遷都は仏教による政治介入を無くす事も大きな目的だったので、平城京から平安京への寺院の移転は認められず、
  新たに西寺と東寺を建立。




  【平安宮】へいあん‐きゅう (タイラノミヤとも)
   平安京の宮城(大内裏)。京の北端中央にあって、宮域は東西が二坊、南北が二条半にわたり、
   大極殿・朝堂院は南部の中央に皇居(内裏)はその東北に位置した。
   摂関期に入るころからたびたび火災に遭い、皇居も摂関の私邸を里内裏として用いる場合が多く、
   院政期(11世紀末の白河上皇の頃始まる)から荒廃した。

  京都市中京区にある内野児童公園が平安時代の平安京の大極殿があった場所だそうです。

  【土御門殿】つちみかど‐どの 高倉殿。土御門東洞院殿。
   ① 京都の土御門京極の西にあった藤原道長の邸。京極殿・御堂殿ともいった。しばしば里内裏となった。
    京都の土御門北、東洞院東にあった邸。伏見・花園天皇以後、里内裏となり、
     北朝の光厳天皇が御所としてから長く皇居となった。今の京都御所の地

  【里内裏】さと‐だいり
   平安京内裏の外に、臨時に設けられた皇居。多くは、摂政・関白などの外戚がいせきの家をあてた。
   里内さとだいりだい 。今内裏。

  【光厳天皇】こうごん‐てんのう(1313~1364)名は量仁かずひと。 後伏見天皇の皇子。
   鎌倉末期の北朝1代(在位1331~1333)天皇。元弘の乱で後醍醐天皇の笠置落ち後、鎌倉幕府の
   申入れをうけ、後伏見上皇の院宣により践祚。建武新政で廃されたが、
   1336年(建武3)足利尊氏の奏請で弟の光明天皇を即位させ、院政を開始。のち出家。

  【京都御苑】きょうと‐ぎょえん
   京都市上京区にある公園。京都御所・仙洞御所・京都迎賓館などを囲む。
   京都御所周辺の公家屋敷などを撤去・整備し、1883年(明治16)より宮内省所管。
   1949年(昭和24)開放され、現在は環境省所管。


  【京都御所】きょうと‐ごしょ 京都皇宮
   京都市上京区にある旧皇居。 後小松天皇(南北朝末期・室町
   初期の第100代天皇。
   在位1382~1412)以来、明治天皇の東京遷都までの内裏。
   現在の建物は、1790年(寛政2)に江戸幕府老中の松平定信が
   古式によって造営、炎上後、1855年(安政2)再建。東に建春、
   西に宜秋、南に建礼、北に朔平の4門があり、紫宸殿清涼殿
   など古式のまま現存。

  【大内裏】だい‐だいり、タイダイリ とも 宮城。宮。
   皇居である内裏を中心として、その周囲に政務や儀式を行う
   朝堂院ちょうどういん、諸官庁などを配置した一郭。
   大化改新以後、官制の整備に伴って拡充。
   平城京・平安京では京の北端中央に位置した。

  【内裏】だい‐り
   天皇の住居としての御殿。御所。皇居。禁裏。禁中。禁闕。
   大内。紫庭。

  【内裏様】だいり‐さま
   ① 内裏、特に天子の尊称。② 内裏雛を丁寧にいう語。

  【内裏雛】だいり‐びな  大内雛おおうちびな
   雛人形の一種。3月の雛の節句に飾る。
   天皇・皇后の姿をかたどって作った男女一対の人形。

   ひな祭 起源は平安時代、庶民に広まったのは江戸時代。
平安京の大内裏



  794年桓武天皇により京都に都が定められて以降 73代に渡る歴代天皇が京都で暮らしました。
  京都御苑の中に京都御所があります。建礼門をくぐり正面にあるのが紫宸殿で、ここで公務が行われました。

  平安時代の天皇は、紫宸殿の北西にある清涼殿を居所とし寝起きをしました。

  【紫宸殿】ししん‐でん (シシイデンとも。古くは「紫震殿」とも書いた)
   平安京内裏だいりの正殿。もと朝賀・公事くじを行う所であったが、大極殿だいごくでんの荒廃・焼失後は即位
   などの大礼を行なった。
   南面して設けられ、9間の母屋の四方に廂ひさしがあり、殿の中央やや北寄りに玉座を設け、
   その東には御帳台みちょうだい、北には賢聖障子けんじょうのそうじがある。
   北廂から廊で清涼殿に通じ、南廂には階きざはしがあって前庭に通ずる。
   階の左右に左近さこんの桜、右近うこんの橘がある。今の京都御所のは1855年(安政2)の造営。
   南殿なでん。前殿。正殿。正寝。

  【清涼殿】せいりょう‐でん (セイロウデンとも)
   平安京内裏の殿舎の一つ。天皇の常の居所で、四方拝・小朝拝・叙位・除目じもく・官奏などの
   公事くじも行なった。
   近世は常御殿つねごてんを常の座所とし、清涼殿は儀式にだけ用いられた。
   紫宸殿の北西、校書殿きょうしょでんの北にある。
   東面した9間四面の入母屋造で、身舎もやの南5間を昼の御座ひのおましと称し、帳台がある。
   南東隅は石灰壇いしばいのだんで、毎朝、神宮・内侍所以下 御拝の所。
   その他、夜の御殿・萩の戸・弘徽殿の上御局こきでんのうえのみつぼねなどがある。
   枕草子[142]「清涼殿の御前に、掃部司の、畳を敷きて



  辰の刻 (朝7~9時)に起床し身支度を整えると、まず白い漆喰で塗り固められた石灰壇いしばいだんと呼ばれる場所に
  行って、伊勢神宮の方向に座り、神 (天照大神) への祈りを捧げました。
  白い漆喰は地面を表しており、地面に座って祈りを捧げる事が神に対する最大の敬意を表すものとされていました。





  鎌倉時代に記された御所での規則書の『禁秘抄』の冒頭には、「禁中の作法 先ず神事が大切である」と
  書かれてあります。

  【禁秘抄】きんぴしょう
   宮中の行事・故実・慣例・事物などを91項目にわたって漢文で記述した書。順徳天皇著。2巻または3巻。
   承久(1219~1222)年間成る。禁中抄。建暦御記。順徳院御抄。






  石灰壇の脇に一脚の朱塗りのテーブルがあります。ここで天皇は食事を摂りました。食事は神事であり公務でした。
  史料を元に再現した平安時代の天皇の食事では、約30皿におよぶ豪華な料理が並べられています。

  毎日のように食卓に並ぶ料理の一つがアワビで、関東や東海地方で獲れたものを乾燥させて運んでいました。

  信州大学の佐藤全敏 准教授によると
   天皇は律令国家ができる前から各地を征服。支配していって服属させて貢がれる物。
    それを毎日食べてみせる事によって、全国各地をくまなく統治支配している事を体現していたということになります。

  ≪豊臣秀吉は平安時代の大内裏跡に聚楽第を建築した ≫  Wiki 京都市内の通り

  京都には欧米などに見られる首都を囲む城壁が無かったため、秀吉が周囲23㎞の「御土居お-どい」と呼ばれる
  土壁と堀を作りました。その内側がいわゆる『京都』。
  後に掘は埋められましたが、現在、その部分は永年の間に地盤が下がり低くなっています。

  【上京】かみ‐ぎょう … 京都北部の御所を中心とする一帯の地。かつて貴族が多く住んだ。
  【中京】なか‐ぎょう … 京都を上・中・下の三つに分けた中央部。丸太町辺から四条辺までをいった。
  【下京】しも‐ぎょう … 京都の二条通以南の称。中小の商人が住んだ。



NHKの歴史秘話ヒストリアによる聚楽第の天守閣のCG再現





  【聚楽第】じゅらく‐だい (近年、『じゅらくてい』と呼ぶ方が多いそうです。)
   (ジュラクテイとも)豊臣秀吉が京都に営んだ華麗壮大な邸宅。
   1587年(天正15)完成し、翌年 後陽成天皇を招き、諸大名に秀吉への忠誠を誓わせた。
   のち、秀次に譲り、その死後破却。大徳寺唐門・西本願寺飛雲閣などはその遺構と伝える。
 平安時代    平安時代の食文化
  読売テレビ かんさい情ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「日常よく使うこれらの言葉の語源は●●だった!」』 14.06.25 放送
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『藤原道長 ~貴族の政治とくらし~』 14.05.28 放送
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『紫式部・清少納言 ~国風文化の誕生~』 14.06.04 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『平安京の時代』 14.05.30 放送 / 同 『摂関政治と国風文化』 14.06.06 放送











  【国風文化】こくふう‐ぶんか
   平安中期から後期にかけて栄えた、優雅な貴族文化。
   遣唐使の廃止によって唐文化の影響が弱まると、仮名文字・女流文学・大和絵・寝殿造・浄土教芸術などとして
   開花した。

  【上代様】じょうだい‐よう
   平安中期に行われた和様の書風。すなわち小野道風・藤原佐理すけまさ・藤原行成ゆきなりらの書風。






  蹴鞠、相撲、ひな祭り、などが宮中の行事として確立。また三十一文字の和歌、雅楽、十二単衣などが完成。
  葵祭、祇園祭天神祭生國魂祭などの祭も始まりました。






  【上代仮名】じょうだい‐がな … 平安時代に用いた、漢字の草体に近い仮名。  ※ 「上代」は「昔「太古」などの意味。

  【平仮名】ひらがな
   平安初期、漢字の草体から作られた草そうの仮名をさらにくずして作った音節文字。
   主に女性が用いたので女手おんなで と呼ばれ、はじめは種々の異体があった。 「ひらがな」の称は後世のもの。

  【片仮名】 かたかな、 かたかんな
   (「片」は一部分の意)仮名文字の一つ。阿→ア、伊→イ、宇→ウ、久→ク、己→コのように漢字の一部を取って作った
   もの。平安初期、漢文訓点に使って様々の字体があったが、院政時代 (11世紀末の白河上皇から、形式上は19世紀
   中頃の光格天皇まで続くが、実質的には鎌倉初期の後鳥羽上皇の時期まで ) にほぼ現行に近い形になった。
   現在では主に外来語や擬音語などの表記に用いる。

   方違神社 平安時代の堺の聖地  住吉大社 211年創建、摂津国一の宮。遣唐使、一寸法師などの縁の地。


  ≪ 和歌 ≫  日本語 言葉の伝播 京都・大坂から同心円を書くように言葉は広がった。 

  平安時代は和歌の才能は高く評価されました。歌には霊的な『言霊』が宿ると信じられていました。
  優れた歌は『手本』として書き写され、次々に回覧されすぐに宮中内に広まりました。

  天皇や大臣が主催し、参加者を2組に分けて歌の優劣を競う歌合が度々開かれました。






  960(天徳4)年の天徳内裏歌合では、勝った平兼盛は無職(7年間)→山城介すけ(山城国の副知事)に任命されました。
  負けた壬生忠見は、ショックのあまり食べ物を受け付けず死に至りました。
  
 京都 葵祭 と 祇園祭
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『平安絵巻を再現 きょう 葵祭』 14.05.15 放送
  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『新緑の古都・京の街ぶらり』 14.04.26 放送
  テレビ東京 人気急上昇ウオッチ ~今ご当地でコレが人気SP 『2014年上半期 YAHOO! 検索 「京都府」の人気急上昇ワード』 14.08.15 放送
  テレビ大阪 ニュースリアル 『京都・下鴨神社の流鏑馬神事・「葵祭」の安全祈願』 16.05.03 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『GW 特選 水辺の涼スポット 葵祭「御禊の儀」』 16.05.04 放送

  京都の三大祭 京都市内で行われる 葵祭 (賀茂神社 5月)、 祇園祭 (八坂神社 7月)、 時代祭 (平安神宮 10月)


  ≪ 葵祭 ≫ あおい‐まつり  三勅祭の一つ。賀茂祭。北祭。 祭礼は、昔は陰暦4月の中の酉の日、今は5月15日。

  祇園祭より古く、約1400年前に五穀豊穣を祈って行ったのが始まりとされます。
  京都下鴨神社および上賀茂神社の本祭。4月の中の申さるの日に行われ国の祭として行われ 古来、祭といえば
  葵祭を意味しました。
  冠や牛車ぎっしゃ・桟敷の御簾みすなどを葵鬘あおいかずらで飾ったからいう。葵は『賀茂葵』と呼ばれフタバアオイの別称。

下鴨神社「流鏑馬神事」

上賀茂神社「御禊の儀」

 



  斎王代・勅使らが行列して御所から下鴨・上賀茂とめぐり、祭典・東遊あずまあそび・走馬の儀があります。






  【御生・御阿礼】み‐あれ
   ① 神または貴人が誕生・降臨すること。
   ② 京都の上賀茂神社で、葵祭の前3日、すなわち4月の中の午の日(今は5月12日)の夜に行われる祭。
     阿礼と称する榊さかきに神移しの神事をいとなむ。賀茂のみあれ御阿礼祭。 転じて、賀茂神社の称

  【賀茂神社】かも‐じんじゃ
   上賀茂神社 (賀茂別雷かもわけいかずち神社) および 下賀茂神社 (賀茂御祖かもみおや神社) の総称。賀茂社。
   賀茂神社は山城国(京都府)の地主神。

  京都新聞 『葵祭』 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/aoi/saioudai.html 京都の祭の起源や歴史などが多くあります。

  ≪ 斎王・斎王代の始まり ≫

  始まりは平安時代の初期。810(弘仁元)年、嵯峨天皇は伊勢神宮の斎王にならって、賀茂の社にも斎王を置いた。
   この初代斎王、有智子内親王から鎌倉時代はじめの礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで、約400年にわたって
   賀茂の斎王は続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府との政変=承久の乱で途絶えてしまった。

   以後葵祭は勅使は出るものの、斎王が復活することはなかった。

   それを昭和28年に祭の復活後、行列を華やかに盛り上げるため、葵祭行列協賛会などの努力で、斎王代を中心
   にした女人列を加えて今日に至っているのである。斎王代は民間の未婚の女性が選ばれることになっている。


  ≪ 葵祭の斎王代の選考基準と決められ方 ≫ 斎王代=斎王の代理の事。

  【斎王】いつき‐の‐みこ、さい‐おう
   即位の初め、伊勢神宮や賀茂神社に奉仕した未婚の内親王または女王。
   斎いつき (潔斎して神に仕えること。また、その人で、大切に育てられる事)






  葵祭行列保存会 会長で、京都橘大学の猪熊兼勝 名誉教授によると

  斎王代の選考基準は昭和31年に決まり、翌年から
  実施しているそうです。
   ・行儀作法ができている。 ・着物を着なれている。
   ・長時間正座できる。 ・おしとやか。
   ・京都に関わりがある。 ・未婚である。

  一般公募はしておらず、茶道の「三千家」(表千家、
  裏千家、武者小路千家)が毎年1人を推挙し、保存会が
  決定。(ダメ出しをした事はない)

  歴代の斎王代は、京都の老舗や京都の有名企業の
  お嬢さんが務める事が多く、母子2代で斎王代になった
  人もいます。

  祭の衣装は保存会などで用意しますが、発表会見など
  で着る着物は自前のものが必要。

歴代の斎王代

  大阪の今宮戎の福娘を務めた事がある毎日放送の古川圭子アナウンサーによると、
  「お祝いをたくさん頂くので、お返しが大変」だとか。

  第59代の斎王代を務めた 太田梨紗子さん (京都市上京区在住、和菓子店、北野天満宮御用達「老松」の
  お嬢さん 20才) の特技は「今様」。



1986年に取材された「今様」の様子





  【今様歌】いまよう‐うた  今様=流行、はやり。という意味。 Wiki 今様  Wiki 梁塵秘抄
   平安中期から鎌倉初期にかけて流行した新様式の歌。
   七五しちご調4句のものが代表的で、和讃や雅楽の影響から起こる。白拍子しらびょうし・遊女などが歌い、
   宮廷貴紳にも愛誦された。1180年頃成立の「梁塵秘抄りょうじんひしょう」に集大成。

  【梁塵秘抄】りょうじんひしょう
   今様歌謡集。後白河法皇編著。「梁塵秘抄」10巻と「梁塵秘抄口伝集」10巻。両者の巻1の抄出と梁塵秘抄巻2
   および口伝集巻10だけ現存。現存本でも法文の歌、4句の神歌など560余首ある。

  今様は、後白河法皇は熱中しすぎて喉を傷めたという記録が残っているそうです。
   天皇が皇位を譲ると上皇。上皇が出家すると法皇と呼ばれます。


  関西テレビ ゆうがたワンダーLIVE 15.04.13 放送 / テレビ大阪 ニュースリアル 16.04.12 放送

  2015年 第60代は、京都の電子部品メーカーの創業家の
  生まれで、現在は東京のLCC航空会社 スカイマークの客
  室乗務員を務める白井優佐さん (26才) が選ばれました。

  2016年 第61代は山科区出身の西村和香さん (26才) で
  350年以上続く京漆器の老舗の長女。
  母親の和美さんは第25代の斎王代で、母娘2代の選出は
  5組目。


  平成になってからの歴代斎王代 第34代山田陽子さん ~ 第59代 太田梨紗子さんのプロフィールは
  京都新聞 『葵祭』 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/aoi/saioudai.html に載っています。

  葵祭-2014 『京都御所』行列出発  http://www.youtube.com/watch?v=XsAL_LAqeWU


  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『コンチキチン響く♪夏の風物詩祇園祭』 14.07.15 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『祇園祭 よみがえる幻の鉾に密着』 14.07.25 放送
  関西テレビ アンカー 『夏を彩るコンチキチン』 14.07.16 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『49年ぶりに復活 祇園祭 後祭で山鉾巡行』 14.07.24 放送
  テレビ大阪 夕刊7ch 『復活 49年ぶりに !! 「後祭」山鉾巡行』 14.07.24 放送
  関西テレビ ゆうがたLIVEワンダー 『祇園祭 過去に中止も』 15.07.17 放送


  ≪ 祇園会 ≫ ぎおん‐え 祇園御霊会。祇園祭。   朝日新聞 朝刊 『文化の扉』 14.06.30 

  京都の八坂神社の祭礼。869年から行われている。昔は6月7日から14日、今は7月17日から24日まで行う。
  山鉾やまぼこ巡行などは有名。

  ※ 下にNHKスペシャルの動画の内容と動画へのリンクがあります。



  【八坂神社】やさか‐じんじゃ
   京都市東山区祇園町北側にある元官幣大社。祭神は素戔嗚命すさのおのみこと ・奇稲田姫命くしなだひめのみこと
   八柱御子神。例祭の祇園会のほか、特殊神事に白朮おけら祭がある。二十二社の一つ。
   もと祇園社と称し、1868年(慶応4)改称。

  京都祇園祭2013(山鉾巡航)~ダイジェスト! http://www.youtube.com/watch?v=kg9IBGqZSaM






  ≪ 「祇園祭の謎」 ≫

  2014年7月23日に放送されたNHKスペシャルの動画 (FC2のサイト 73分) を発見。
  ※ FC2動画は1日2時間以内であれば、サイト登録無しで見れるようですが、動画が削除される事も早いようです。
    NHKのサイトによると、初回放送とあるので、いつか再放送がある可能性も高いです。

  三越の三井家、松坂屋の伊藤家も、安土桃山時代には京都に店があったようです。

  番組内容 NHKスペシャル 『中継 京都 祇園祭 千年の謎』 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0723/

  古都1000年の祭、祇園祭。7月の京都市内には、33基の山(やま)や鉾(ほこ)と呼ばれる、山車が並び立つ。
   目を引くのは山鉾を飾る、絢爛豪華な「懸装品(けんそうひん)」。しかもその多くは、数百年前に海を渡って
   京都へやってきた東西の一級の美術品だ。

   16世紀ベルギーで織られた国宝級のタペストリー、「世界に一枚」といわれる17世紀ムガール帝国の掛物、
   サファヴィー朝の王侯貴族の金銀入りじゅうたん・・・世界中から集まった貴重な宝の数々、「動く美術館」とも
   称される。しかし、そうした至宝たちは、なぜ、どのような物語を経て、京都にたどり着いたのか。
   記録はほとんど残されておらず、すべては「謎」に包まれてきた。

   番組では、祭の熱気が頂点に達する7月23日の「宵山」の夜を生中継しながら、「山鉾の至宝」に秘められた
   謎を解いていく。

   VTR部分では、ミステリーハンターに扮する女優・栗山千明が時空を越える旅をしながら、懸装品の謎に挑む。
   また「日本一の金持ちと権力者が集まる」といわれた、16~17世紀の京都の洛中図を3次元CGで再現する
   など、祇園祭に秘められた知られざるドラマを描く。海外からやってきた至宝たちの謎をひも解き、
   封建時代の歴史の「定説」をくつがえす、京都の驚くべき姿、物語の数々、さらには世界の覇者たちの
   栄枯盛衰の歴史に迫る。


  ≪ 2014年の祇園祭、150年ぶり大船鉾 と 49年ぶり後祭の復活 ≫






  朝日放送 キャスト 『中国人留学生が「時代祭体験」』 16.10.24 放送

   ≪ 時代祭は明治中期に始まった新しい祭 ≫ 16.11.02追記


  1895(明治28) 年に平安神宮が創建されたのち、神宮の管理と保存のための市民組織として平安講社が作られ、
  その記念事業として「祭り」が始められました。
  祭りを盛大にするため、東京奠都以前の京都の風俗を遡る時代行列が提案され、「時代祭」と呼ばれるようになりました

  約2000人が平安~明治時代の衣装を着て、京都御所~市役所
  を通り、三条大橋を渡り、平安神宮まで約4.5㎞のコースを行進。
  12時から行進開始し2時間半ほど歩きます。
  後列が平安神宮に到着するのは3時半頃。

  2016年10月22日に開催された時代祭には外国人留学生20人が
  参加。白い衣装で常盤御前や巴御前、小野小町などの先導役
  を務めました。


  行列参加には主に大学生が参加し、午前7時に平安神宮に集合し衣装に着替えます。日当は6700円だそうです。

  時代祭 2012年10月22日 / 京都いいとこ動画  http://www.youtube.com/watch?v=qmyzRCv_8jQ


  ≪安井金比羅宮 櫛祭くしまつり

  1961 (昭和36) 年に、京都市内の美容関係者らが、櫛に感謝し供養することを目的として櫛塚を建立し始めた祭。
  2014年で54回目。毎年9月の第4月曜日開催。
  古墳時代~現代までの様々な髪形を結い上げた40人あまりの女性らが、東山区の安井金毘羅宮の境内で
  式典をした後、祇園周辺を練り歩きます。

  櫛祭り・京都・写真集HP  http://kimagurecp.kitunebi.com/komagaisameba/kushimaturi.html
  安井金比羅宮 櫛まつり 時代風俗行列 2012年 http://www.youtube.com/watch?v=ehl3zAZkR2A

  nippon.com 『【日本の祭り】全国お祭りMAP』 http://www.nippon.com/ja/features/h00010/
   ↑ 日本の有名な祭など、(各国語で日本の情報を紹介しているサイト)
 
 鵜飼 京都の女性鵜匠と、人工孵化に成功 (1300年の歴史で初めての出来事)
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『ノゾキミ 「京の風物詩"鵜飼" 女性鵜匠 歴史が動く」』 14.07.09 放送 / Wiki 鵜飼

  古くは古事記や日本書紀に記述もある鵜飼。日本以外では中国や欧州でも行われて
  いました。

  鵜飼は、現在 岐阜県・愛知県・京都府・愛媛県・大分県・福岡県など11府県、13箇所で
  行われています。

  和歌山県有田市と島根県益田市を除く全国11か所すべての鵜飼は、茨城県日立市
  (旧十王町)の伊師浜海岸で捕獲した野生のウミウを2~3年ほど調教してから使用
  します。


  鵜の寿命は野生では5~6年、飼育下では15~20年。鵜飼では10年ものの鵜が多用されています。
  ウ科 カツオドリ目に属する大形の水鳥で、全長48-100cm、 ペリカンと同じ仲間。

  【鵜飼部】うかい‐べ
   大和時代、鵜を使って魚を捕らえ、朝廷に貢納することを世職とした品部しなべ。大化改新後も宮内省大膳職に所属。


  ≪ 2002年 京都の女性鵜匠が誕生 ≫ 関西初、全国で3人目  Wiki 長良川鵜飼

  長らく女人禁制だった鵜匠の世界。2002年に京都の宇治の鵜匠に入門した澤木万里子さんは全国で3人目、
  関西では初の女性鵜匠となりました。
  今では、宇治を代表する鵜匠の一人となり、2014年には8年ぶりに入った新米の鵜の調教も担当。
  野生の鵜は気性が荒いので慣れるまで怪我が絶えないようです。

  2014年現在、女性鵜匠は日本中で6人。京都には澤木さんに憧れて9年前に入門した江崎洋子さんの2人の
  女性鵜匠がいます。

  鵜の世話は1年中しなければなりませんが、鵜飼は夏場の3ヶ月間だけショーとして行うだけなので、鵜匠だけでは
  生計が成り立ちません。澤木さんは普段は宇治市観光協会で広報活動などの仕事をしています。







  ≪ 2014年、京都で鵜の人工孵化が成功 ≫ (1300年の歴史で初めての出来事)

  最も有名なのは、岐阜県の岐阜市と関市の長良川河畔における御料鵜飼で、宮内庁式部職の9人の鵜匠 (世襲制) が
  います。この皇室などに献上する為に始まったとされる長良川の鵜飼の歴史が約1300年
  長良川だけが国家公務員が行う鵜飼です。

  その約1300年の歴史の中で、鵜飼に使われている鵜が卵を産んだという記録は無いそうです。
  2014年6月29日未明、京都宇治川の鵜飼で、3個の卵のうち1つからヒナが孵化(体長9.5cm、体重54g)。






  公益社団法人宇治市観光協会HP 『宇治川の鵜のヒナが誕生しました!』 http://www.kyoto-uji-kankou.or.jp/topics/2014/u-hina.html
  朝日新聞 「宇治川の鵜飼」のウミウにひな誕生 鵜匠らが会見 http://www.youtube.com/watch?v=3KEXNrsazIg

  【宇治川】うじ‐がわ
   京都府宇治市域を流れる川。琵琶湖に発し、上流を瀬田川、宇治に入って宇治川、京都市伏見区淀付近に至って
   木津川・桂川と合流し、淀川と称する。網代あじろで氷魚・鮎を捕った「宇治の網代」や宇治川の合戦で名高い。

  【長良川】ながら‐がわ
   岐阜県中央部を流れる川。鵜飼で有名。美濃・飛騨・越前の境の大日岳に発源し、岐阜市街を経て濃尾平野を南流、
   三重県桑名市の東で伊勢湾に注ぐ。長さ166キロメートル。

  岐阜市役所HP 『ぎふ長良川鵜飼』 http://www.city.gifu.lg.jp/11730.htm
   
 蝦夷
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『平安京の時代』 14.05.30 放送

  ≪ 「蝦夷」と呼ばれた東北の先住民 ≫  Wiki 蝦夷  Wiki アテルイ 

  岩手県奥州市の埋蔵文化財調査センターに蝦夷えみし」と、律令政府から呼ばれた人たちの資料が展示されています。
  出土品から、蝦夷も野蛮とか未開ではなく、律令社会の人々と変わらない生活をしていたと推測されるそうです。

  東征伐、熊襲征伐と三韓征伐 古墳時代の大和政権から見た蝦夷人の性質
 

 

 

789年の巣伏の古戦場跡


  【蝦夷】 えみし → 後に「えぞ
   「えみし」と言われるのは、古代の奥羽から北海道にかけて住み、言語や風俗を異にして中央政権に服従
    しなかった人びと。「えぞ」は、北海道の古称。蝦夷地。

  【阿弖流為・阿弖利為】アテルイ (~802)
   平安初期、北上川流域を支配した蝦夷の族長。789年大和朝廷軍を破る。802年征夷大将軍坂上田村麻呂に降り、
   河内国杜山で斬殺された。


  ≪ 日本最初の征夷大将軍 坂上田村麻呂 ≫  Wiki 坂上田村麿

  大和朝廷の律令政府は東北へと支配地域を広げますが、それに抵抗した最も有力な部族長がアテルイでした。
  3回にわたり蝦夷と律令政府軍との戦いが行われました。

  789年、岩手県奥州市の巣伏すぶせで、アテルイの蝦夷軍と、朝廷軍の最初の戦いが行われます。朝廷軍は1000人
   以上の死者を出し大敗北。
  801年、律令政府の桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍として3度目の蝦夷討伐遠征を行います。

 

胆沢城の中心部の1/100模型

志波城跡

 


  田村麻呂は胆沢地域の蝦夷を制圧し、支配の拠点となる城柵じょうさくを築きました。塀と溝で囲まれた胆沢城は46万㎡
  (東京ドーム9つ分)の広さ。中心部の政庁では儀式なども行われ、役所では税の徴収も行われました。
  アテルイは、何度か朝廷軍を追い返すものの、巨大な胆沢城を目にし降伏する事になります。都に連れて行かれた
  アテルイは大阪で処刑されることになりました。

  【坂上田村麻呂】さかのうえ‐の‐たむらまろ (758~811)
   平安初期の武人。征夷大将軍となり、蝦夷征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立。

  【征夷大将軍】せいい‐たいしょうぐん
   ① 平安初期、蝦夷えぞ征討のために派遣された将軍。797年(延暦16)坂上田村麻呂が任命されたのが初の確かな例。
   ② 源頼朝以後、鎌倉・室町・江戸幕府にいたる武家政権の首長の称号。

  【胆沢城】いさわ‐じょう
   802年(延暦21)陸奥鎮定のために坂上田村麻呂の築いた城。のち鎮守府を置く。岩手県奥州市水沢区に城跡がある。

  更に田村麻呂は、803年に盛岡市に志波城の城柵を築きます。広さは東西、南北とも800m以上あり、胆沢城を凌ぐ
  東北最大級の城柵でした。こうして、蝦夷も律令国家に組み込まれていきました。

  【志波城】しわ‐じょう
   蝦夷鎮定のため坂上田村麻呂により803年(延暦22)に築かれた城柵。遺跡は盛岡市の太田方八丁遺跡といわれる。
   のち徳丹城(岩手県紫波郡矢巾やはば町徳田)に移る。

  日本人の名字のルーツ 小野、あべ、高橋、わたなべ、鈴木、佐々木、○藤 難読名字 など。 何故 東北に安陪さんが多いのか?
 
 藤原薬子
  ≪ 弘仁貞観 時代 ≫ こうにん‐じょうがん‐じだい

   美術史上の時代区分の一つ。弘仁~貞観(859~877)を中心とする平安前期約100年間の称。
   大陸芸術の摂取と同時に、日本独自の様式の形成へ向かい、密教の興隆により重厚で神秘的な仏像・仏画が
   多く作られた。後の藤原時代に対する平安時代の区分。

  【藤原薬子】ふじわら‐の‐くすこ (~810) 藤原の式家 種継の女むすめ。 Wiki 藤原薬子
    平安初期の尚侍ないし‐の‐かみ (内侍司の女官。もと従五位相当、後に従三位相当) 。
    自分の娘を安殿親王あてのみこ (平城天皇) 嫁がせたが、平城天皇(病により弟の嵯峨天皇に譲位)と不倫関係
    になりに寵愛され、兄 仲成とともに政治を動かした。天皇譲位後の平城上皇の復位を企て失敗して自殺。

  【平城天皇】へいぜい‐てんのう (774~824)名は安殿あて。奈良帝ならのみかどとも。 桓武天皇の第1皇子。
   平安初期の天皇(在位806~809)。病により嵯峨天皇に譲位。尚侍 藤原薬子の変により落飾。







  ≪ 薬子の変 ≫ くすこ‐の‐へん
   810年(弘仁1)、平城上皇に寵愛されていた藤原薬子が兄 仲成らと共に平城遷都および上皇の重祚を謀った事件。
   嵯峨天皇派のために仲成は処刑され、薬子は自殺。

  【重祚】ちょう‐そ … (ジュウソとも。「祚」は位の意)いったん位を退いた天皇が、再び位に即くこと。復辟。再祚。復祚。

  嵯峨天皇は令外官として蔵人所 (810年)、検非違使 (816年頃) らを設置。薬子の変は、蔵人頭を使い藤原薬子らを
  捕え制圧しました。この藤原薬子の変は、平安京が1000年続く都へとなった大きな事件だったそうです。
  また、平城京があった奈良には東大寺や興福寺などの大寺院が残っていたので、京都へ都が移った後も廃れ
  ませんでした。






  【蔵人所】くろうど‐どころ
   天皇に近侍し、伝宣・進奏・儀式その他宮中の大小の雑事をつかさどる役所。平安初期に創設。
   頭とう ・五位蔵人・六位蔵人・出納すいとう
   雑色ぞうしきなどの職員があり、名誉の職とされた。897年(寛平9)総裁として蔵人所別当を置き、左右大臣が兼職。

  【検非違使】けびい‐し 略して、「使」とも。
   平安初期から置かれ、京中の非法・非違を検察し、追捕・訴訟・行刑をつかさどった職。令外りょうげの官の一つ。
   今の裁判官と警察官とを兼ね、権限は強大であった。後に、国郡や伊勢神宮・鹿島神宮などにも置かれた。

  【検非違使別当】けびいし‐の‐べっとう
   検非違使庁の長官。公卿のうち、衛門府・兵衛府の督かみから任ずるのを例とし、その命令は庁宣または検非
   違使庁下文くだしぶみと称し、権威があった。


  ≪ 律令政治から格式政治へ ≫  Wiki 令外官

  唐から取り入れた中央集権国家統治のための律令制度でしたが、時代が進むつれ実際とはかけ離れ形骸して
  いきました。嵯峨天皇は、律令を修正・補足したきゃく とその施行上の細則を定めたを編纂。

  【嵯峨天皇】さが‐てんのう (786~842) 名は神野かみの。 桓武天皇の皇子。  Wiki 嵯峨天皇
   平安初期の天皇(在位809~823)。「弘仁格式」「新撰姓氏録しょうじろく」を編纂させ、漢詩文に長じ、
   「文華秀麗集」「凌雲集」を撰進させた。書道に堪能で、三筆の一人。

  【律令格式】りつりょう‐きゃく‐しき
    律と令と(律令の改正)と(律令の施行細則)。古代中央集権国家の基本的諸法典の総称。

  【弘仁格】こうにん‐きゃく
   701年(大宝1)から819年(弘仁10)までの補足法令集(詔勅・官符を集めたもの)。10巻。
   平城天皇の時代、藤原内麻呂・菅野真道らに勅して撰定させ、のち嵯峨天皇の時、藤原冬嗣らに勅して
   続修させた。散逸したが、「弘仁格抄」が残存。弘仁式は、弘仁格と同時に撰進させ同じ編者で40巻。
   
 菅原道真  道真と大阪 藤井寺市 菅原氏は古墳作りの土師氏の系統、道明寺、菅生天満宮(道真由来の国宝)など
  日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『京都の地名サスペンス! 怖~い地名 ベスト7』 11.11.19 放送
  TBS 世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリー 『日本の歴史悪役10人』 12.06.13 放送
  NHK Eテレ 日曜美術館 『神々を彩る美 神社の宝』 13.04.28 放送
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『菅原道真』 13.08.25 放送 / 広辞苑

  【菅原道真】 すがわら‐の‐みちざね (845~903) 菅公かんこう。菅丞相かんしょうじょう。菅家かんけ。 
   平安前期の貴族・学者。是善の子。

   五歳にして和歌を詠み、十二歳で漢詩をものにした神童であったと言われ、藤原氏以外は出世しないといわれる
   藤原氏全盛期において学才があまりにも優れていたので、宇多天皇(在位887~897)に仕えて信任を受け、
   文章博士・蔵人頭・参議などを歴任。894年(寛平6)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議。
   第60代 醍醐天皇の時、右大臣となったが、901年(延喜1)藤原時平の讒言により大宰権帥だざいのごんのそち
   左遷され、同地で客死。
   書をよくし、三聖の一人。「類聚国史」を編し、「三代実録」の撰に参与。詩文は「菅家文草」「菅家後集」に所収。
   死後、種々の怪異が現れたため御霊ごりょう として北野天満宮に祭られ、のち学問の神として尊崇される。







  ≪ 北野天神縁起きたのてんじん-えんぎ

  9巻、長さ81mに及ぶ日本最大級の絵巻。菅原道真の伝記や北野天満宮の由来・霊験を描いたもの。
  祖本は鎌倉時代に成立。国宝。






  菅原道真の生涯を描いた絵巻は大胆な構成の絵で知られ、様々な場面が描かれています。
  左から2枚目の画像は、「幼い頃より『優秀』の誉れ高い道真は学問ばかりで弓など引けまい」と眺めていましたが、
  何度やっても的の真ん中に的中し、女性たちは憧れの目で眺めているシーン。

  3枚目の画像のシーンは山の上に立って「京に帰りたい」と道真が願っている場面で、山裾にいる鹿と比べ道真が
  巨大に描かれている事から「道真が神になった」重要な場面と捉える人も多いようです。

  【北野天満宮】きたの-てんまんぐう 北野天神。北野神社。
   京都市上京区馬喰町にある元官幣中社。主祭神は菅原道真。10世紀中頃創建。例祭8月4日(11世紀半ばまでは5日)。
   八棟造やつむねづくりの現社殿は、慶長年中、豊臣秀頼の造営で、最古の権現造。二十二社の一つ。

  【菅原道真 公と天神縁起】 
   怨霊伝説と道真公の詳しい年譜が、右のリンク先サイトに載っています。 http://www.ffortune.net/symbol/rei/mitizane.htm

  Wiki 菅原道真 / Wiki 昌泰の変

   ≪ 昌泰の変 ≫(しょうたいのへん)

  901年(昌泰4年)1月、左大臣 藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣 菅原道真を大宰権帥として大宰府へ
  左遷し、道真の子供や右近衛中将 源善らを左遷または流罪にした事件。

  菅原道真 著した漢詩文集、12巻。平安前期の900年(昌泰3)成立した『菅家文草』によると、
   『882 (元慶 ガンキョウ・ゲンケイとも 6) 年、上司である大納言を中傷する匿名の詩が流布された。この詩の出来栄えが
    良過ぎた為、大納言はその漢詩作者が、文章博士の役職にある私ではないかと疑った、
    私は恥ずかしく思う。・・・』  自慢の部分

  賢さを少し自負していた道真は、他の貴族からの嫉妬も受けて好かれていなかったそうです。
  道真の能力を恐れていた藤原時平らは、その詩をきっかけに「道真が娘婿を皇位につけようとしている」として、
  道真を降格、大宰府に左遷しました。

『菅家文草』
『菅家後集』
  【讒言】ざん‐げん
   人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって、
   (目上の人に)その人を悪く言うこと。また、その言葉。

  【文章博士】 もんじょう‐はかせ
   古代の大学で詩文と歴史とを教授した教官。当時の学問に
   おけるトップの立場。
   728年(神亀5)に定員一人を置き、834年(承和1)に紀伝
   博士を併合して定員二人とする。
   平安後期以降は菅原・大江・藤原三氏による寡占。

   Wiki 懐石

  ≪ 菅家後集で、「旅人」(私)に例えたのは
     懐石に関係ある ≫

  「懐石」が料理に結び付く経緯は諸説あるそうで、修行中の
  禅僧が寒さや空腹をしのぐ目的で温石を懐中に入れたこと
  から、客人(旅人)をもてなしたいが食べるものがなく、
  せめてもの空腹しのぎにと温めた石を渡し、客の懐に入れて
  もらったとする説をかけたものだそうです。



  【菅家後集】 かんけこうしゅう 漢詩集。菅原道真 著。1巻。903年(延喜3)成立。
   道真が没するに臨み、紀長谷雄きのはせおに贈ったもので、大宰府に貶へんせられた後の詩46首を収める。


  ≪ 大阪市東淀川区に淡路という地名があるわけ ≫

  京を離れて福岡の大宰府に行きたくなかった道真は、淀川流域各地を立ち寄り、わざと
  ゆっくり船を進めていました。(道真 33才くらいの頃)
  当時、淡路あたりは淀川の中州。(たぶん、わざと) 淡路島と勘違いして、立ち寄った事が
  地名の由来。

  道真が寄り道した淀川流域には○○天神という菅原道真 公を奉った神社が多くあります。
  菅家文草や菅家後集には、帰京への期待を込めた詩が多く残っているそうです。

  大阪市の福島も元は「鹿鬼がき島」と呼ばれていましたが、地元民からのもてなしに
  感動した道真が「福島」の名を名乗るように勧めたました。


 

  ≪ 怨霊伝説 ≫ 日本三大怨霊の一人 (菅原道真、平将門、崇徳天皇) Wiki 清涼殿落雷事件 / Wiki 藤原時平

  道真の政敵 藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王
  (時平の甥・延喜23年(923年)薨去)、次いで、その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年
  (925年)卒去)が次々に病死。

  延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言 藤原清貫をはじめ朝廷
  要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。

  これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
  子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。


  【清涼殿落雷事件】 この事件がきっかけで、道真は天神として奉られるようになった。

  930年(延長8)、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる
  清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。

  ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから
  凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した。

  この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に
  胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった

  藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、
  清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷を操ったということとなり、
  道真が雷神になったという伝説が流布する契機にもなった。

  【藤原時平】(871-909)
   関白 藤原基経の長男であり、若くして栄達するが、父の死の時点ではまだ年若く、
   宇多天皇は親政をはじめ、皇親である源氏や学者の菅原道真を起用した。
   醍醐天皇が即位すると道真とともに左右大臣に並ぶが、次第に対立し道真を
   遂に讒言して大宰府へ左遷させた。
   政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳の若さで死去した。
   その早すぎる死は怨霊となった道真の祟りと噂された。
   時平の死後、藤原北家の嫡流は弟の藤原忠平とその子孫へ移った。





『大鏡』

  【藤原定国】(866-906) 公卿。藤原北家良門流、内大臣・藤原高藤の長男。
   醍醐天皇の外叔父。官位は従三位・大納言。泉大将
   昌泰4年(901年)に発生した昌泰の変では、蔵人頭・藤原菅根とともに醍醐天皇に対して「天下之世務以非為理」と
   奏上(天皇に申し上げること)して、菅原道真が失脚するきっかけを作り、昌泰の変の後には道真の後任として
   右近衛大将に任ぜられている。

  【藤原菅根】すがね(856-908) 平安時代前期の貴族・学者。藤原南家、右兵衛督・藤原良尚の四男。
   延喜8年(908年)正月には参議に任じられ公卿に列するが、同年10月7日に雷に打たれて卒去。享年53。

  【源光】ひかる(845年~913年) 藤原時平と結託し菅原道真を失脚させた張本人の一人。公卿。
   延喜13年(913年)鷹狩に出た際に、不意に塹壕の泥沼の中に転落して溺死。遺体が上がらなかった
   ことから、世人はこれを道真の怨霊の仕業として畏れ慄いたと伝わる。


  ≪道真の怨霊を恐れるあまり、祈祷中に死んだ藤原保忠 ≫ Wiki 藤原 保忠 / Wiki 大鏡

  【藤原保忠】 やすただ(890- 936
   平安時代前・中期の公卿。藤原北家、左大臣・藤原時平の長男。官位は正三位・
   大納言。八条大納言・八条大将・賢人大将と称された。

  一生の大半を父に讒言され、大宰府に左遷された菅原道真の怨霊に怯えながら
  過ごす事となる。
  保忠が病床に伏せ、祈祷のため僧侶に薬師如来の読経をさせた途中、宮毘羅
  大将 くびら-の-たいしょうの名前が出た事を聞いところ、近衛大将である自分を縊る
  読んでいるのだと思い、恐怖の余り気絶してしまったという

  結局、保忠は大臣の位を目前にしながら47歳で早逝してしまい、他の時平の子も
  同様に短命であった。時平が菅原道真を無実の罪に陥れた報いであると噂された。

  【大鏡】 おおかがみ 歴史物語。3巻本・6巻本・8巻本がある。著者未詳。
   白河上皇の院政期 (1086~1129年) 頃の成立?。
   文徳天皇もんとく(在位850~858)から後一条天皇(在位1016~1036)まで14代
   176年間の歴史を紀伝体にし、藤原道長の権勢を叙述する。
   大宅世継おおやけのよつぎ夏山繁樹なつやましげきという2老人が対談し、若侍が傍で
   批評するという構想。世継の翁が物語。
『大鏡』


  【縊る】くび-る … 首をくくる。くびれる。 / 【縊死】い-し … 自分でくびをくくって死ぬこと。首くくり。首つり。 
  【縊殺】い‐さつ … しめ殺すこと。

  北野天神縁起絵巻によると、「道真の怨霊により死んだ者は、地獄でも紅蓮の炎に焼かれる」と
  思われていたようです。


  日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著/ 広辞苑 などより

  ≪ 天神信仰は古代からあった。「天神=道真」と同一視されるようになった経緯 ≫

  元々、天神や地神信仰は日本各地にあった古代の土着民間信仰が始まり。
  大和政権での『天神』は高天原に誕生した天津神あまつ-がみの総称。
  初めから地上で葦原の中つ国 (日本) に誕生した神々を国津神 (地祇ちぎ)という。

  両方合わせて『天神地祇八百万神てんしん-ちぎ-やおよろず-の-かみ

  道真は『天満天神』と呼ばれ、天満宮の御祭神。日本で初めて人間から神になった
  人物と言われています。

  道真の怨霊を恐れる風潮が強まったため、天皇の詔勅をもって京都の北野にあった天神祠の傍らに霊廟を建て、
  天満大自在天などとしてその霊を慰めた。

  流刑にあって没した貴族の怨霊を祀る事を御霊ごりょう信仰と天神、雷神などの信仰があった北野天神社で古代信仰と
  道真信仰が結びつきやがて、本来の古代の天神信仰は薄れていき、北野天神社は北野天満宮となって統一化され、
  日本各地に道真の天満天神の天満宮が広まった。


  ≪ 災難を避ける為の呪文『くわばら』の語源』 ≫

  雷鳴の時、落雷を避ける呪文。また、一般に忌わしいことを避けるためにも言う。

  道真没の四十数年後、京都では疫病が流行し落雷や火災が相次いでいた。
  都の人々は、道真の怨霊の祟りであろうと恐怖の只中にあった。

  京都各所には多くの落雷があったが、唯一落雷の無い場所があった。それが道真の領地と
  なっていた桑原の地。(桑の樹が多くあったのが由来)
  その事を知った人々は、雷雲が出て雷が鳴り出すと「桑原、くわばら」と呪文のように唱えた。

  京都市中京区桑原町は、京都地方裁判所のある場所。


  別の説では、雷神があやまって農家の井戸に落ちた時、農夫は蓋をして天に帰らせなかった。
  雷神は、「自分は桑樹を嫌うから、『桑原、くわばら』と唱えるならば再び落ちまい」と答えたとの伝説に基づくという。



  【野見宿祢】のみ‐の‐すくね
   天穂日命あまのほひのみことの子孫。日本書紀に、出雲の勇士で、垂仁天皇の命により当麻蹶速たいまのけはや
   相撲をとって勝ち、朝廷に仕えたとあり、また、皇后の葬儀の時、殉死にかえて埴輪の制を案出し、
   土師臣はじのおみの姓かばねを与えられたという。

  【土師】はじ
   (ハニシの約)大和政権で葬式・陵墓・土器製作などを担当した氏。大阪府藤井寺市土師ノ里。
   埼玉など関東にも古墳や埴輪の技術を伝えた。

  【菅原】
   姓氏の一つ。野見宿祢の子孫といわれ、もと土師氏。土師古人のとき本拠大和国添下郡菅原の地名によって
   菅原宿祢となり、後に朝臣となる。代々文章道をもって朝廷に仕えた。

  【菅原清公】きよただ(770~842)
   (名はキヨトモ・キヨキミとも)平安前期の貴族・学者。文章生もんじょうしょうとなり、若くして入唐、新知識を得て
   朝廷の儀式の改善に当たり、文章博士に進んだ。「凌雲集」「文華秀麗集」などの撰者の一人。

  【菅原是善】これよし(812~880) 清公の子。道真の父
   平安前期の貴族・学者。幼くして家学に従い、文章博士などを経て参議。「文徳実録」の撰に参与し、
   また「東宮切韻」などを著す。

  【菅原文時】ふみとき(899~981) 道真の孫
   平安中期の貴族・学者。家学である紀伝道で有名となり、源為憲・大江匡衡らの文人もその添削を頼んだ。
   従三位・文章博士。菅三品かんさんぼん(三位に叙せられたからいう、菅原文時の異名)。

  【菅原孝標女】たかすえ‐の‐むすめ (1008~没年未詳) 平安中期の文学者・歌人。父 孝標は道真の5代の孫
   母は歌人 藤原倫寧ともやすの女むすめ。母方の伯母は「蜻蛉日記」の作者 藤原道綱の母。
   少女時代から多感、32歳のとき祐子内親王(後朱雀天皇の皇女)に仕え、橘俊通に嫁した。
   夫の病死後「更級日記」を書く。「夜の寝覚ねざめ」「浜松中納言物語」などもその作とされる。
 
 藤原敦忠
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『こんな貴族もおったのにゃ ~哀・貴族編~』 13.08.18 放送 より

  ≪ 自分の死後、妻と部下が関係を持つ事を心配していたら、その通りになった ≫

  菅原道真を左遷し、祟りにより39才の若さで死んだとされる藤原時平の三男。

  『大鏡』

  播磨守の藤原文範さんは、中納言・藤原敦忠様に仕えて
  いましたが、敦忠様は奥さんに、
  「オレって、めっちゃ短命の家系やねん。だからオレも、
  もうじき死ぬと思うわ。で、オレが死んだら、お前は
  絶対に、文範のヤツとくっつくんやろな…」と、常々
  言っておられたそうです。


  奥さんは「ありえへんわ!」とキレぎみの返事。それでも「あの与から見とくで、間違いなく文範とヤるわ!」とか言って
  おられました。その後、ホンマに「その通り」になりました。

  当時の中納言という役職は能力が無い人に与えられたそうで、いわば閑職のようなもの。
  役職としては中納言の方が上ですが、地方長官 (○○守) の方が、税金をピンハネしたりして実際の実入りは
  良かったそうです。
  この話は、「身分より経済力」という考え方が生まれた時代のあるある話で、当時の貴族の事情がよく分かる話
  そうです。

  【大鏡】おおかがみ
   歴史物語。3巻本・6巻本・8巻本がある。著者未詳。白河院院政期(1086~1129)の成立か。
   文徳天皇(在位850~858)から後一条天皇(在位1016~1036)まで14代176年間の歴史を紀伝体にし、藤原道長の権勢を
   叙述する。
   大宅世継おおやけのよつぎ・夏山繁樹なつやましげきという2老人が対談し、若侍が傍で批評するという構想。世継の翁が物語。
 
 平安時代の関東
  歴史ミステリー 関東に謎の日本王国があった? http://youtu.be/eX2--1T383g

  ≪ 古墳時代 ≫  東征伐、熊襲征伐と三韓征伐 古墳時代の大和政権から見た蝦夷人の性質、この時代の蝦夷は関東も含む。

  【埼玉稲荷山古墳】さきたま‐いなりやま‐こふん 東京付近の関東の歴史

   埼玉県行田市の埼玉古墳群中の前方後円墳。5世紀後半の雄略天皇世と推定される人名(加多支鹵わかたける 大王)を
   含む115文字から成る金象嵌ぞうがんによる銘文のある鉄剣が出土。






  大和政権が、古墳造りの一族である大阪の土師はじ氏 (藤井寺市) を派遣し、地方の豪族に技術を提供し関係を
  結んだとされています。ちなみに土師氏は菅原道真の先祖にあたる一族。

  この当時、地方の豪族は大和政権に服従するだけではなく、中国(北斉)や、大和政権と対立する朝鮮半島の新羅との
  交流もあったようです。九州では、新羅との関係があった磐井の乱が起こります。

  川崎市宮前区の町『馬絹まぎぬ』には、古墳時代の後期に建設された馬絹古墳があり、朝鮮半島からの影響が
  みられるそうです。 Wiki 馬絹


  ≪ 奈良時代 朝鮮半島との所縁が深い関東 ≫ 埼玉南部、神奈川、東京の一帯

  五畿七道では、関東は東海道の東の端と、東山道の一部でした。

  666年に高句麗の使者として高麗若光こま-の-じゃっこうが来日。668年、唐と新の連合軍によって高句麗が滅亡。
  703年、文武天皇より高麗若光が高麗王の氏姓を賜り従五位に叙せられた。(続日本書紀より)

  687年と690年に新羅人を関東に移住させた記録があり、758年には帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を
  武蔵国の空いた場所に移し新羅郡を設置しました。

  716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗から渡来系遺民1799人を武蔵国の一部に移したことに
  より高麗郡 (埼玉県の日高市、飯能市など) を設置。高麗若光が郡司となった。(高麗神社の社伝等)

  この時、高麗若光一族が京都から船で大磯に辿り着き、大磯から泰野あたりの地を開拓。この一帯を流れる川は
  「韓川からかわ=金目川」と呼ばれ、『神奈川』の語源になったという説もあります。
  平塚市には「高麗」という地名が残っています。

  幡羅はたら郡(埼玉県の深谷市、熊谷市)も高句麗からの移民が住んだ地で、埼玉県南部は新羅 (現在の朝鮮・
  韓国系)、高句麗 (満州系?) との縁が深い。

  【 高麗郷 】こま-ぐん  Wiki 高麗郡
   奈良時代 716年、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗から渡来系遺民1799人を武蔵国の一部に
   移したことにより高麗郡を設置。
   設置時の郡域は現在の日高市と飯能市の一部であり、律令制下では小郡に分類されていた。
   『倭名類聚抄』には高麗郷(現在の日高市高麗本郷付近)・上総郷(現在の飯能市北東部)の二郷の名が
   記されている。
   郷名から高麗郷には旧高句麗の遺民が、上総郷には上総国からの移民が配置されたものと考えられている。
   中世以降郡域が東側の入間郡・比企郡方面に拡大し、江戸時代には鶴ヶ島市・日高市全域および川越市・
   飯能市・狭山市・入間市のそれぞれ一部を含む地域となり、入間川が入間郡との境界となっていた。

  【 新座郡 】にいくら-ぐん  Wiki 新座郡
   天平宝字2年(758年)8月24日に、朝廷は帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の空いた場所
   に移した。これが新羅郡の始まりという
   これより前、武蔵国には持統天皇元年(687年)と4年(690年)にも新羅人が移されていた
   宝亀11年(780年)には新羅郡の人沙良、真熊らに広岡造の姓を賜った。この後いつ改称されたかは不明だが、
   平安時代の『延喜式』には「新座郡」と記録されており、『和名類聚抄』では新座と書いて「にひくら」と読ませる
   ようになった。その郷は志木郷と余戸で、ごく小さな郡であった。

  【文武天皇】もんむ‐てんのう(683~707)名は珂瑠かる。 草壁皇子の第1王子。母は元明天皇。
   律令国家確立期の天皇(在位697~707)。大宝律令を制定。

  泰野エイト会 http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/kanagawa/index1.html


  ≪ 坂東=(現在の)関東 ≫

  平安時代初期の『関東』は「逢坂の関 (滋賀県大津市南部にある、東海道の坂)より東の地」なので、
  滋賀県大津市より東は全て関東です。

  12世紀前半の成立したとされる日本最大の古代説話集である今昔物語集によると、899年に設置した足柄
  (神奈川県南西部)碓氷(群馬県)関より東を坂東ばんどう」と呼びました。
  この坂東八州が、現在の関東とほぼ同じ地域です。

  関を置いた後も、現在の埼玉県、東京都、神奈川県が重なる地域には朝鮮半島からの入植者が増えました。

  【坂東八箇国】ばんどう‐はっかこく 関八州
   現在の関東地方をなす8国、すなわち相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野。

  【坂東平氏の始まり】
   桓武天皇(第50代、在位781~806)の皇子 葛原かずらわら親王の孫 高望たかもち王が平姓を賜り、桓武平氏が始まる。
   平安中期に、高望王の子である平国香 (~935) ら桓武平氏が坂東に下り、将門貞盛らが関東に威を振るった。


     桓武 平氏の略系図

【桓武天皇】(737~806) 柏原天皇とも。
 奈良後期~平安初期の天皇。光仁天皇の第1皇子。
 母は高野新笠。名は山部やまのべ
 坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣、
 794年(延暦13)都を山城国宇太に遷した(平安京)。
 (在位781~806)


【平高望】たかもち 。高望王。生没年未詳。桓武平氏の祖
 桓武天皇の皇子 葛原親王の孫。高見王の子。
 889年(寛平1)平の姓を賜り、従五位下上総介に
 任ぜられた。

  【平国香】( ~935) 高望の子。平安中期の武将。常陸大掾。甥の将門に殺された。

  【平維衡】これひら (生没年未詳)。 貞盛の子。
   平安後期の武将。平致頼むねより・源頼信・藤原保昌と共に四天王と称。子孫は伊勢国で、伊勢平氏として繁栄。

  桓武平氏の嫡流は高望王-国香の系列である関東に下った坂東平氏ですが、国香の孫の維衡の子孫が伊勢
  (三重県) で繁栄し、のちに清盛らが京都で政権を握った事から、一般的に「平氏」と呼ばれるのは、伊勢平氏です。

  【坂東八平氏】ばんどう‐はちへいし
   (平氏の末流で、平安後期以降、関東地方に根を張った武士団の総称。
   八氏の数え方については、中村・秩父・千葉・上総・三浦・大庭おおば ・梶原・長尾の諸流とするものを始め、
   諸説がある。

  【承平天慶の乱】じょうへい‐てんぎょう‐の‐らん
   承平・天慶 (931-947) 年間に起こった平将門が関東でおこした反乱と、藤原純友が瀬戸内海でおこした
   反乱の総称。


  ≪ 都人から見た関東の様子 ≫

  菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女が書いたとされる『更級日記』(1020~1059年の約40年間の回想録)
  によると、
   今の東京都心あたりを旅していた作者が、「草がボーボー茂ってるだけでおもしろくも何ともない」との
   感想を書き残しており、都住まいの貴族からしてみると関東はまさに未開の土地だったようです。

  他の文献でも、京の都では、田舎(関東)の人たちがしゃべる行為は「言う」ではなく「さえずると表現されており、
  何を言っているのか全く分からなかったそうです。

  『平家物語』(1219~1243の間に成立)に「声は坂東声で候ひつる」という記述があり、また木曽 (岐阜県) 出身の
  源義仲も言葉の訛り・着物・作法・性格まで徹底的にコケにされて描かれているそうです。
  対して「今は鎌倉にいるとはいえ源頼朝は都で育っただけあって、普通の人間らしい」と書かれています。

  【坂東声、坂東訛り】 … 坂東人に特有の音声。坂東人の訛声、だみごえ 。

  【四阿・東屋・阿舎】あずま‐や東国風のひなびた家の意
   ① 四方へ檐のきを葺きおろした家屋。寄棟よせむねあるいは入母屋いりもや造。正倉院文書「草葺―一間」
   ② 四方の柱だけで、壁がなく、屋根を四方に葺きおろした小屋。庭園などの休息所とする。亭ちん
    国木田独歩、夫婦「庭へ出て吾妻屋あずまやに行つて見たが」
   ③ 催馬楽さいばらの曲名。 ④ 源氏物語の巻名。宇治十帖の一つ。

   
 平将門
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『平将門』 13.08.18 放送 より  Wiki 平将門

  【平将門】 たいら‐の‐まさかど (~940) 平安中期の武将。相馬小二郎 と称した。高望の孫。
   父は陸奥の鎮守府将軍 良持 (または良将と書く)。

  上京し、摂政・関白 太政大臣 藤原忠平(880~949)に仕えて検非違使を望むが成らず、憤慨して関東に帰郷。
  935年から下総国、常陸国に広がった関東の平氏一族の抗争から、伯父の国香を殺して近国を侵し、関東諸国を
  巻き込む争いへと進んだ。その際に常陸の国府を襲撃して、印鑰いんやく(官印と官庁の倉庫のかぎ)を奪った。

  939年(天慶2)居館を下総猿島さしまに建て、文武百官 (あらゆる部署の役人) を置き、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗
  して「新皇」を自称し、関東に威を振い東国の独立を主張したことによって、朝敵となった。
  940年、新皇即位後わずか2か月たらずで平貞盛・藤原秀郷らによって、現在の茨城県南西部の坂東市で討伐された。
  (承平天慶の乱

  死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。その霊魂が信仰された。

  【将門記】しょうもん-きまさかど-き
   天慶の乱(平将門まさかどの反乱)の顛末を記した軍記。和臭を帯びた漢文体。1巻。乱の直後に成立。
   一説に940年(天慶3)、東国に住した僧徒の作という。独立した軍記物の初め。






  【承平天慶の乱】じょうへい‐てんぎょう‐の‐らん
   承平・天慶(931-947)年間に起こった平将門藤原純友の反乱。

  奈良時代の「藤原広嗣(~740)の乱」以来、約200ぶりの大反乱で、京都の人たちはかなり恐怖したそうです。

  【藤原純友】ふじわら‐の‐すみとも(~941) 
   平安中期の地方豪族。伊予 (愛媛県) の。純友は西国で海賊討伐を命ぜられていたが、939年自ら海賊を率いて
   朝廷に反抗、各国衙や大宰府を襲ったが、941年に追討軍に殺された。

  【平貞盛】さだもり 生没年未詳。 平安中期の武将。国香の子。
   父が将門に殺されたとき、ただちに官を捨てて京都から国に帰り、常陸大掾となり、940年(天慶3)、下野の押領使
   藤原秀郷と力を合わせて将門を下総猿島に討った。のち鎮守府将軍に任ぜられ、世に平将軍という。

  【藤原秀郷】ひでさと 生没年未詳。 俵(田原)藤太とも。平安中期の下野の豪族。
   左大臣 藤原魚名の子孫といわれる。下野掾・押領使。940年(天慶3)平将門の乱を平らげ、功によって下野守。
   弓術に秀で、三上山の百足むかで退治などの伝説が多い。


  ≪ 四等官しとうかん

  律令制で、諸官司の幹部の四等級の官、すなわち
  長官・次官・半官・主典。
  官司によってその文字を異にする。四部官。

   【掾】じょう 
   国での3番目に偉い役職
   (判官 じょう ほうがん、はんがん とも読む。)

   (「丞」の音から)律令制の四等官しとうかんの第3位。
   次官すけの下、主典さかんの上に位する。
   事務上の過誤の摘発、公文書の審査、宿直の割当て
   などを担当。

   官司によって文字を異にし、神祇官では「祐」、太政官
   では「少納言」「弁」、省では「丞」、弾正台では「忠」、
   使では「判官」、職・坊では「進」、寮では「允」、司では
   「佑」、近衛府では「将監」、衛門府・兵衛府・検非違使
   などでは「尉」、内侍司では「掌侍」、大宰府では「監」、
   鎮守府では「軍監」、国では「掾」(大国では大少の別あり)
   郡では「主政」と記す。検非違使の尉は単に判官
   ともいう。

  【押領使】おうりょう‐し   Wiki 令外官
   平安時代、兵を率いて国内の凶徒を鎮圧する、
   令外 りょうげ(「令の規定以外」の意、臨時の官。

  【常陸】 ひたち … 今の茨城県の大部分。常州 じょうしゅう


  【下野】しもつけ (シモツケノ(下毛野)の略)。 … 今の栃木県。野州やしゅう

  【下総】しもうさ しもつふさ。北総 ほくそう。 … 今の千葉県の北部および茨城県の一部。

  【検非違使】 けびい‐し
   平安初期から置かれ、京中の非法・非違を検察し、追捕・訴訟・行刑をつかさどった職。略して、「使」とも。
   令外の官の一つ。今の裁判官と警察官とを兼ね、権限は強大であった。
   後に、国郡や伊勢神宮・鹿島神宮などにも置かれた。

  【坊】 春宮坊 とうぐう‐ぼう の略。
   律令制以後明治維新前まで、皇太子に奉仕し、その内政をつかさどった官司。
   職員に大夫だいぶ・亮すけ・大少の進じょう・大少の属さかんなどがあった。
   区画されたまち。市街。都城制の1区画。4町四方の称。/ 鎌倉時代になると 僧侶の住居。転じて、僧侶。

  【東宮・春宮 】とうぐう 皇太子の宮殿。皇太子の称。はるのみや。
   東方は春に配し、万物生成の意を含み、また、易で東を震とし、震は長男であり、かつ昔はその宮殿が
   皇居の東にあったからいう。

  【寮】りょう、つかさ 
   役人の住む所。また、令制の役所の一種。多くは省に付属した。役所。官庁。官職。役目。役人。官吏。

  【陰陽寮】おんよう‐りょう、 おんみょう-りょう おんようのつかさうらのつかさ
   律令制で、中務なかつかさ省に属し、天文・気象・暦・時刻・卜占ぼくせんなどをつかさどった役所。
   陰陽頭のもとに、陰陽博士・暦博士・天文博士・漏刻博士などで編成。

  【衛府】えふ
   近衛府・衛門府など、奈良・平安時代に禁裏 (宮中。皇居。御所の事) の警備を
   つかさどった役所の総称。

  【六衛府】ろくえ-ふ (リクエフとも)
   平安初期以降、左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六つの衛府。
   811年(弘仁2)以前は衛門・左右衛士・左右兵衛・中衛府の六府。六府。六衛。
   諸衛しょえい

  【幕府】ばくふ
   ① (もと将軍が戦場にあって幕中で事を治めたからいう) 将軍の居所または陣営。
   柳営りゅうえい
   ② 近衛府の唐名。転じて、近衛大将の居館の称。
   ③ 武家政治の政庁。また、武家政権そのものをいう。

  【令外官】りょうげ-の-かん … 律令制下、令に規定された以外の官。



  【東百官】あずま‐ひゃっかん
   ① 室町末期から、関東武士が京都朝廷の官名に擬して用いた私称。伊織・多門・左膳・頼母・求馬・左内・兵馬の類。
   ② 江戸時代に行われた子供の手習い本で、①の名などを集めたもの。


『将門記「藤原忠平への手紙』

『将門記』

『平治物語』





  【平治物語】へいじ‐ものがたり 作者未詳。古来、保元物語ほうげんものがたりと同一作者かとも言われてきた。
   鎌倉初期の軍記物語。3巻。成立は保元物語の後、平家物語より前。
   平治の乱(平治元年(1159)12月に起こった内乱。藤原通憲(信西)対藤原信頼、平清盛対源義朝の勢力争い)の
   顛末てんまつを描いたもの。


  ≪ 将門の性格 ≫

  上司である藤原忠平へ送った手紙には、国司を襲った事に対し、一応謝罪しているものの、最終的には自分の
  強さを自慢する内容になってしまいました。正義感は強かったが、早合点してしまう性格。
  頼られ、弱い者を助けるが、相手を倒した後によく話を聞くと、頼ってきた方が悪かった。

  平貞盛を破った時、貞盛の妻を捕えた。将門が貞盛の妻に対面した時には、部下によって服を剥がされ乱暴を
  受けた後であった。
  将門は「無礼があってはならない」と部下を叱り、貞盛の妻に服を着せると、敗走した貞盛の行方を遠まわしに
  尋ねる和歌を詠んだ。「よそにても 風の便りに 吾そ問ふ 枝離れたる 花の宿りを」。

  それに対し、貞盛の妻も「夫の居場所は本当に分からないんです」という内容がこもった和歌を返した。
  「よそにても 花の匂いの散りくれば 我が身わびしと 思ほえぬかな」。

  このやり取りを見た関東武士たちは「さすが都に居た事のある人たちは雅である」と感嘆し場が和んだそうです。


  ≪ 将門の怨霊伝説 ≫

  常陸の国(茨城県)で藤原秀郷に討たれた将門は、京都において晒し首になった。この刑罰は、平将門が史上初。
  晒し首を見た藤六左近とうろく-さこんという歌詠み (面白い事をいう芸人のような職業) が、ダジャレのような詩を
  詠んだところ、将門の生首が笑い出した。
  その後、将門の首は関東へ飛び、もの凄い音がして首が落ちてきた。という伝説が関東でできる。

   ※ 番組内の解説の こはにわ先生によると、
  首をされているのを不憫に思った将門の部下が、首を盗んだ。首の番人は、罪を問われる事になるので、
   藤六左近と組んで怨霊話をでっち上げ、その噂が広まると関東の人たちが噂に乗じ、首が飛んできたという
   伝説を作ったのではないか? という説があります。


  ≪ 将門の首塚 ≫  Wiki 平将門の首塚 などより

  晒し首になって、3日目の夜、将門の首は舞い上がり関東へ向って飛んでいき、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた
  とされています。また伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされているそうです。

  その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外にある首塚で、住民は長らく将門の怨霊
  苦しめられてきたという。
  1307年(徳治2)、諸国を巡っていた層が首塚の上に板碑を建立し、日輪寺を芝崎道場に改宗し、将門の「体」が
  訛って「神田」になったという神田明神の別当(僧官)として将門信仰を伝えてきました。

  江戸時代、日輪寺は浅草に移転させられますが、現在も神田明神とともに首塚を護持しています。

  1923年(大正12)9月1日の関東大震災によって首塚そのものは損壊したました。
  周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われました。
  仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こった事で、将門の祟りが
  省内で噂されることとなり、動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊しました。

  1926年(昭和2)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われました。

  また、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が
  相次いだため計画を取り止めた。という事件もあります。

  現在、近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っているそうです。
 
 藤原兼通
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『こんな貴族もおったのにゃ ~哀・貴族編~』 13.08.18 放送

  ≪ 弟が死に際の自分の屋敷を素通りし、天皇に「関白にしてくれ」と頼んでいた ≫

  関白 藤原兼通が危篤だった時、弟の外出した事を知り、「最後くらい見舞いにくるのだろう」と思い部屋を片付け
  させていました。しかし、兼通の屋敷を素通りし、弟の兼家は宮中に出勤。

  兼通は最後の力を振り絞り、正装して宮中に出勤。宮中に着くと、兼通が死んだと思い込んでいた兼家が「関白にして
  下さい」と円融天皇に頼んでいる最中でした。兼通は関白に藤原頼忠を任命し、弟を職から外し左遷しました。




  【藤原兼通】(925~977) 師輔の子。道長の伯父
   弟 兼家と関白を争い、太政大臣となる。

  【藤原兼家】(929~990)
   大入道前関白、また東三条殿と称す。師輔の子。
   道隆(長子)、道兼(第4子)、道長(第5子)の父
   兄 兼通と関白を争い、花山天皇を欺いて退位させ、
   外孫一条天皇を即位させた。摂政太政大臣。

『大鏡』



  【藤原頼忠】よりただ (924~989) 藤原実頼の二男。
   円融天皇(在位969~984)・花山天皇。(在位984~986)の関白で、後に太政大臣となる。
   藤原兼家との政争に敗れて、一条天皇の即位とともに関白を辞し、失意のうちに死去。

  【藤原実頼】さねより (900~970) 藤原忠平の長子。 師輔の兄、兼通・兼家 兄弟の伯父。
   平安中期の歌人。醍醐・朱雀・村上・冷泉の4朝に仕え、関白太政大臣・摂政。天徳4年内裏歌合の判者。
   小野宮大臣とも呼び、清慎公と諡おくりなす。家集「清慎公集」。

  兄の兼通が年功序列で先に関白になりましたが、兼家の方がやり手で出世が早かったそうです。
  左遷された兼家ですが息子の道兼 (第4子961~995七日関白・粟田関白) と共に花山天皇を欺き退位・出家させ
  ました。兼家は一条天皇を即位させ、摂政太政大臣になり、道長 - 頼通と藤原家全盛時代へと繋がります。

  天皇との外戚関係を築けなかった頼忠は失脚。
  
 藤原道長 
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 13.06.19 放送 /  Wiki 藤原道長 / Wiki 御堂関白記
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『藤原道長』 13.09.01 放送 より
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 13.06.19 放送 より
  産経ニュース 遣欧使節資料が世界記憶遺産に 藤原道長の自筆日記も ユネスコ
   http://sankei.jp.msn.com/life/news/130619/trd13061911300007-n1.htm

  【藤原道長】みちなが(966~1027)「法成寺摂政」 兼家の第5子。

   平安中期の貴族。「御堂みどう関白」「法成寺入道前関白太政大臣」と称されるが、正式には関白でなく内覧
   (摂政関白に準ずる職) の宣旨せんじ (命令)を得たのみで、一度として関白となっておらず、
   御堂関白記の名称は後世付けられたものである。

   藤原氏の極盛時代の氏長者うじのちょうじゃ。長女 彰子は一条天皇の皇后となって後一条・後朱雀両天皇を生み、
   次女 妍子は三条天皇の皇后、3女 威子は後一条天皇の皇后、4女 嬉子は後朱雀東宮の妃。法成寺を造営。

  摂政・・・女性天皇または成人していない天皇の場合に代わって政務を行う役職。

  関白・・・(関あずかりもうす意)、成人の天皇を補佐して政務を執り行なった重職。令外の官。太政大臣の上の役職だが
    兼務する事も多い。天皇に伝える前に、自分の意見で政治を取り計らう事ができた。






  【御堂関白記】みどうかんぱく-き
   998年(長徳4)から1021年(治安1)に至る33歳から56歳にかけての日記。もと36巻。
   14巻の自筆本と12巻の古写本が現存する。2013年6月に世界記憶遺産に登録される。

  御堂関白記は、意味不明な文章や、誤字・文法的誤りが多く、解釈が難しく、藤原摂関家の藤原忠実による『殿暦』、
  藤原師通による『後二条師通記』にも見られる事だそうです。

  日記はあらかじめ日付けだけを先に記してあり、その日が来たら内容を書くという形式だったため、書ききれない日は、
  次の日の蘭の下になだれ込むように書いてあります。

  生前、道長が「この日記だけは後世に残さないで欲しい」と遺言したのが、この「御堂関白記」。
  そこには、道長自身が恥じる内容を記している事も多かったかららしいです。

  世界記憶遺産に登録された背景には、世界中を探しても権力者が日記を残しているのは珍しい事で、しかも
  自筆となると、10~11世紀では世界で唯一の現存するものだから。


  ≪ 道長は物忘れが酷く、またホラ話を知ったかぶりし返答した事も日記に書きこんだ ≫

  役人を呼び付けたが言う事を忘れてしまう。という事が度々あったようで、御堂関白記には、物忘れをしないように
  メモ書きが多くあるそうです。
  また、五男の教通のホラ話に対して知ったかぶりで答えてしまい、その事を日記に書いた。

『権記』

 
『御堂関白記』
『御堂関白記』





  ※ 「そういえば、生前、俺は『僕が死んだら この日記だけは残さんといてね』って言ってわ。子孫は全然覚えてなかったんやな。
    もう どうしようもないわなぁ・・・世界に公開されてしもうたもん」 と、道長さんは思ってはるのかも知れませんね。


  ≪ 道長は晩年、1日に念仏を17万回唱えた ≫

   隠居する1年くらい前 (55歳くらいの頃)、1021年(寛仁5) 9月1日から、念仏を唱えた事を記しているようです。
   最高で17万回 (← たぶん適当)。
   権力争いを勝ち抜いてきたので、敵が多かった事や糖尿病 (確認される日本最古の糖尿病患者)を患っていた
   事から、念仏を唱えたらしいです。

  【権記】ごんき 藤原道長の時代を知る重要史料の一つ。
   権大納言 藤原行成(972~1027)の日記。991年(正暦2)から1011年(寛弘8)に至る。

  【土御門殿】つちみかど‐どの 
   ① 京都の土御門京極の西にあった藤原道長の邸。京極殿・御堂殿ともいった。しばしば里内裏となった。
   ② 京都の土御門北、東洞院東にあった邸。伏見・花園天皇以後、里内裏となり、北朝の光厳天皇が御所として
     から長く皇居となった。今の京都御所の地。高倉殿。土御門東洞院殿。

  【一条天皇】(980~1011)名は懐仁やすひと。 円融天皇の第1皇子。
   平安中期の天皇。(在位 986~1011)

  【藤原教通】ふじわら の のりみち 摂政太政大臣・藤原道長の五男。
   1064年(康平7)、兄・頼通から藤原氏長者を譲られ、娘の歓子が後冷泉天皇の皇后となるが、歓子に皇子は
    誕生しなかった。
   1068年(治暦4)に後冷泉天皇が重篤となり、藤原氏と関係が疎遠な後三条天皇の即位が確実となる状況下で
    東宮傅であった教通が関白となる。


  ≪ 藤原道長の直筆の日記が2013年6月に世界記憶遺産に登録 ≫  Wiki 世界の記憶 (世界記憶遺産)

  2013年6月には、日本の象徴である富士山が世界文化遺産に登録されましたが、世界記憶遺産というものには国宝の
  「御堂関白記」」(京都市の陽明文庫所蔵)と、同じく国宝の「慶長遣欧使節関係資料」」(仙台市博物館所蔵)が登録
  されました。日本は合計3件になりました。

  福岡県田川市などが推薦した「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」が2011年(平成23年)に初登録されて以来。




  【世界遺産条約】(Convention Concerning the Protection of the World Cultural and Natural Heritage) Wiki 日本の世界遺産

  1972年にユネスコで採択された条約。正式には「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」。
  各国が世界的に貴重な自国の文化遺産・自然遺産を報告し登録すること、各国の拠出による世界遺産基金を設けて
  遺産の保護にあてることなどを規定。






  【具注暦】ぐちゅう‐れき Wiki 具注歴
   奈良・平安時代に流行した暦本(太陰暦)。
   漢文で、歳位・星宿・干支・吉凶などを具つぶさに注す。日ごとに空白2~3行を設けて日記を記すようにしたものもある。
   室町時代以後、庶民は代りに仮名書きの伊勢暦 (神宮歴) 三島暦などを用いた。

  田川市 『山本作兵衛 炭坑記録画・記録文書 ユネスコ「世界記憶遺産」登録』 http://www.y-sakubei.com/
 
 清少納言  追加は書きかけ
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『清少納言』 13.08.11 放送 より
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『関西 山岳ミステリー』 13.08.08 放送 より (土蜘蛛と源頼光の画像のみ)
  NHK・大阪 歴史ヒストリア 『「春はあけぼの」の秘密 ~清少納言 悲しき愛の物語~』 14.04.02 放送




  【清少納言】本名未詳 (諾子なぎこという説がある)。生没年未詳。(966年頃~1025年頃) 清原元輔の娘。
   (「清」は本姓 清原の略。「少納言」は宮中での呼称)平安中期の女房。中古三十六歌仙の一人。
   和漢の学に通じた才女で、紫式部と並び称せられ、一条天皇の皇后 定子 (976~1000年、関白 藤原道隆の娘)
   に仕えて寵遇を受けた。「枕草子」の作者。家集「清少納言集」。

  【清原元輔】きよはら‐の‐もとすけ (908~990年)
   平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。深養父の孫。清少納言の父。琴にも巧妙。従五位上、肥後守に至る。
   梨壺の五人の一人として後撰集を撰。家集「元輔集」。

  【清原深養父】きよはら‐の‐ふかやぶ
   平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。房則の子、元輔の祖父。内蔵大允。従五位下。家集「深養父集」。

  清少納言の清原家は天武天皇の皇子 舎人親王とねりしんのう の孫小倉王・貞代王らが清原姓を許されたのに始まり、
  和歌の名門の家系。
  周防国の国司として赴任する父親に連れられ、山口県防府市で4年間育つ。都から遠く離れていましたが、父から
  和歌や文学の英才教育を受け、素養あふれる女性として成長しました。

  981年頃、清少納言(推定15~16才頃)、陸奥守・橘則光と結婚し、翌年に則長を産むが998頃までに離婚。
  990年、24才頃に父親の元輔が他界。

  993年頃、清少納言(27~28才頃)、才能を聞き付けた関白藤原道隆から「宮中で、娘の定子の教養係をして欲しい」
   と依頼が届き、冬頃から宮中に勤務。当時の女房は十代から宮中勤めをする事が多かったので、清少納言はかなり
   遅れた宮廷デビューだったそうです。






  【藤原道隆】ふじわら‐の‐みちたか (953~995) 兼家の長子。
   平安中期の貴族。女むすめ定子は一条天皇の皇后。一条天皇の時、摂政関白となった。
   職を子の伊周これちかに譲ろうと図るが、死後、弟 道長に奪われた。中関白という。


  ≪ 清少納言はカツラだった ? ≫

   枕草子 (平安中期の随筆。清少納言作。最終的成立は1000年以後とも)  
   83段と278段に地毛では無くカツラである事をカミングアウトしているそうです。いわゆる『自虐ネタ』を書く事によって、
   親近感や書いてある他の事柄に信憑性を持たせる。という狙いもあった。と推測されているようです。





  ≪ 贈り物の無い地方からの手紙は興ざめ ≫

  地方からの手紙の主は、有力貴族である父親の配慮によって役職をもらい地方へ下った下級貴族たち。
  「ご機嫌伺いの手紙をよこすのであれば、地方の特産物くらいは付けてくるのが筋でしょ。」という事らしいです。







  ≪ 殺されかかった時に、下半身をモロ出しにして助かった ≫  古事談 より

  晩年、清少納言は出家をしており尼になっていました。
  源頼光が配下の武士を約20人を送り込み、清少納言の兄 清原致信を殺害した時、同じ場所にいた清少納言も男と
  間違われ殺されかかった。「鬼形法師」と言われる男のような顔立ちの為、下半身を見せて女である事を証明し助かり
  ました。白昼堂々の事件だったそうです。

  ※ この話は「女の才はかえって不幸を招く」という中世的な思想が影響して、鎌倉時代に落魄らくはく 説話
    (落ちぶれた話) として書かれたものなので、創作の可能性もあるようです。




  【 古事談 】 こじだん
   説話集。6巻。源顕兼編。鎌倉時代1212~15年(建暦2~建保3)に成る。
   王道后宮・臣節・僧行・勇士・神社仏寺・亭宅諸道の6部に分け、平安中期までの史実・有職故実・伝説を記す。

  【 源頼光 】 みなもと‐の‐よりみつ (948~1021年)
   平安中期の武将。満仲 (912~997年、摂津 多田源氏の祖)の長男。
   摂津などの国司を歴任。左馬権頭。勇猛で、大江山の酒呑童子征伐の伝説や土蜘蛛伝説で知られる。
   源頼光の四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)。
 
 平安時代の貴族のファッション
  NHK・大阪 歴史ヒストリア 『「春はあけぼの」の秘密 ~清少納言 悲しき愛の物語~』 14.04.02 放送
  株式会社 井筒 企画 お祭り大好き 『平安時代 -時代衣装あれこれ-』 http://www.iz2.co.jp/jidai/heian.html

  清少納言の枕草子は、およそ300章。うち1/3は日記、残りは心の向くままに書いたとされる随筆の部分で構成され
  ています。

  当時の宮中の女性がステキだと感じた平安文化の記録で、その中でもまず目に付くのがファッションに関する記録
  だそうです。衣装に関しての記録は、紫式部日記「表着はおしわたして蘇芳すおう (赤紫系の色) の織物なり」や
  更科日記にも残っています。

  「しろき御ぞどもに くれなゐのからあや 夢の心ちぞする」 
   白い着物の上に 紅色の唐綾 (唐織の綾) を羽織っていらっしゃる
   それはもう美しくて夢を見ているような気持ちになる

  「大納言殿の 御なをし むらさきのいろ をかし
   大納言様の紫のお召し物は とても趣おもむきがあって素敵







  ≪ 季節を身にまとう 女房装束 十二単 ≫

  十二単と言っても、実際は十二枚着る事が決まっていたわけでは無く、6、7枚~10数枚
  までで、季節や人によって着る枚数が違いました。重さは20㎏ほどあるようです。

  歴史ヒストリアで清少納言を演じた上原多香子さんが、京都市下京区にある平安時代の
  装束などを復元している風俗博物館で十二単を着た感想では、
   9枚でも思ったほど重くないですね、不思議と…。ただ、身動きは全く取れないです

  【女房】にょうぼう、にょうぼ
   女官の部屋の事。平安時代、禁中・院中でひとり住みの房(部屋)を与えられた
   高位の女官。上臈じょうろう・中臈・下臈に大別。
   また貴族の家に仕える女。宮中の清涼殿内の一室で女房の詰めている所を
   「台盤所だいばん‐どころ」「女房侍にょうぼう‐の‐さぶらい」と言った。
   室町時代には、婦人。女。妻。など広い意味で女性に使われるようになった。


  【台盤】だいばん
   食物を盛った器をのせる台。4脚、横長の机状で、朱または黒の漆塗り、上面は縁が高くなっている。






  【十二単】じゅうに‐ひとえ。 【十二御衣】じゅうにのおんぞ (衣服の尊敬語。お召しもの。)
   後宮奉仕の女房の服装の称。肌着の単ひとえと張袴はりばかまの上に数領の袿うちき(五衣いつつぎぬ・打衣うちぎ
   表着うわぎなど)を重ね、その上に唐衣からぎぬと裳をつける服装。
   内々には表着・打衣を略し、張袴を生袴きのはかまに代えた。





  【襲】かさね重ね 衣服を重ねる事
   古事記では、【襲】おすい、おすひと記され、頭からかぶって衣裳の上をおおう衣服の名。
   枕草子には、「おそい棟などに、ながき枝を葺きたるやうにさしたれば」と上着の事も言った。

  【襲の色目】かさね‐の‐いろめ
   衣の襲の色合い。女房の表着うわぎ ・五衣いつつぎぬ・単ひとえなどのかさなった色合い。
   直衣のうし・狩衣かりぎぬ・下襲したがさねなどの表裏の地色の配合。紅梅・桜・桔梗など、季節によって着用する色が
   一定していた。






  上の衣の襲の画像は、京都市伏見区で古代の染色技術の復元に取り組んでいる染織史家の吉岡幸雄さんが
  天然素材だけで平安時代の色を再現し、代表的な四季の襲にしたもの。
  春=山桜、初夏=菖蒲しょうぶと杜若かきつばた、秋=紅葉、冬=梅。それぞれイメージした色合い。

  毎日放送 ちちんぷいぷい 『若旦那は何代目 ? 京都・高倉通』 14.09.10 放送

  ≪ 平安時代の衣装体験ができる店 ≫

  京都市中京区二条通にある平安装苑 弥栄では十二単衣を
  製作しており、平安装束の貸衣装や着衣体験ができます。

  平安時代そのままでは着るのが大変なので、着やすいよう
  にアレンジしているそうです。装束体験は要予約で2万円~。

 
 紫式部 源氏物語
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『藤原道長 ~貴族の政治とくらし~』 14.05.28 放送 / 同 『紫式部・清少納言 ~国風文化の誕生~』 14.06.04 放送
  Wiki 紫式部 / Wiki 源氏物語

  源氏物語は平安中期1008年頃~書かれました。







  【紫式部】むらさき‐しきぶ(生没年未詳) 藤原為時の女むすめ
   平安中期の女房。女房名、藤式部、のち紫式部。源氏物語の「紫の上」と父の官位「式部丞」による名という説が有力。
   藤原宣孝のぶたかに嫁したが、まもなく死別。のち上東門院(一条天皇の中宮彰子)に仕え、その間、道長ほか殿上人
   から重んじられた。中古三十六歌仙の一人。著作は「源氏物語」のほか、「紫式部日記」「紫式部集」など。

  【源氏物語】げんじものがたり 平安中期の長編物語。紫式部の作。

   宮廷生活を中心として平安前・中期の世相を描写し、全編を桐壺・帚木ははきぎ・空蝉うつせみ・夕顔・若紫・末摘花・
   紅葉賀・花宴・葵・賢木さかき・花散里・須磨・明石・澪標みおつくし・蓬生よもぎう・関屋・絵合・松風・薄雲・槿あさがお
   少女おとめ・玉鬘たまかずら・初音・胡蝶・蛍・常夏とこなつ・篝火かがりび・野分・行幸みゆき・藤袴・真木柱・梅枝・藤裏葉・
   若菜(上下)・柏木・横笛・鈴虫・夕霧・御法みのり・幻・匂宮・紅梅・竹河・橋姫・椎本しいがもと・総角あげまき・早蕨さわらび
   宿木・東屋・浮舟・蜻蛉かげろう・手習・夢浮橋の54帖に分かつ。

   幻まで前編とし、主人公光源氏を中心に藤壺・紫の上など幾多の才媛を配して、その華やかな生涯を描く。
   幻のあとに、光源氏の死を暗示して本文はないという雲隠の巻名が伝わる。匂宮・紅梅・竹河の3帖は後編への
   連鎖をなす。

   後編の橋姫以下の10帖は、光源氏のあとを受けつぐ薫・匂宮に宇治の八の宮の姫君たちを配して、複雑な人間関係を
   写したもので、特に宇治十帖と称する。構想上は、前編を藤裏葉までと若菜以下とに二分し、全編を3部に分けて
   見ることが多い。近現代の作家などによる現代語訳や、アーサー=ウェーリーの英訳その他外国語訳もある。

  興福寺の桜を巡る騒動と伊勢大輔 中宮彰子が起こした桜事件と紫式部の後輩女官 伊勢大輔
 
 更科日記などの作者 菅原孝標女は「オタク女子の元祖」だった
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙ファイル~ 『菅原孝標女』 14.03.08 放送 より




  【菅原孝標女】 すがわら‐の‐たかすえ‐の‐むすめ (1008~ ) Wiki 菅原孝標女
   平安中期の文学者・歌人。父孝標は道真の5代の孫。
   母は歌人 藤原倫寧ともやすの女むすめ
   母方の伯母は「蜻蛉日記」の作者 藤原道綱の母。
   少女時代から多感、32歳のとき祐子内親王(後朱雀天皇の皇女)に仕え、
   橘俊通に嫁した。夫の病死後「更級日記」を書く。
   「夜の寝覚ねざめ」「浜松中納言物語」などもその作とされる。

『更科日記 50段』

  【更級日記】さらしな‐にっき
   菅原孝標女の日記。1巻。寛仁4年(1020)9月、13歳の時、父の任国 上総を出発したことに筆を起こし、
   康平元年(1058)夫 橘俊通と死別した頃までの追憶が流麗な筆致で書かれている。夢の記事が多い。

  【浜松中納言物語】 はままつ-ちゅうなごん-ものがたり
   平安後期の物語。菅原孝標女の作とされる。現存5巻(首部に欠巻がある)。
   二つの主題から成り、浜松中納言と継父の娘の大君おおぎみとの愛と、中納言が唐土に渡ってちぎった唐の母后の
   異父妹で吉野にいる姫との悲恋物語とを収める。浜松。御津みつの浜松。

  【菅原孝標】
    1017年に上総へ赴任し1020年帰京、1032年に常陸へ赴任し1036年に帰京。大学頭・文章博士には任官しなかった。


  ≪ 源氏物語オタクだった ≫

  天穂日命あまのほひのみことの子孫 → 野見宿祢のみ‐の‐すくね土師氏 → 菅原清公 → 菅原是善 →
  菅原道真 → (略) → 菅原文時 → と、代々文章博士もんじょう‐はかせ (学問のトップ) を出している名門の家柄で
  「ええトコのお嬢さん」育ち。

  子供の頃、姉や母親などが語る源氏物語の内容を所々聞いているうちに暗記してしまう程だった。
  源氏物語を読みたくて、こっそり自宅に等身大の薬師仏の像を造り、手洗いもして
  「物語のおほく候ふなる、あるかぎり見せ給へ」と額を擦りつけて御祈りをしていました。
  また、源氏物語を読めば、絶世の美女になれると思っていた。


  ≪ 憧れの宮中勤めを始めたが、理想と違い初日なのに早退した ≫ 『更科日記 50段』

  32才で祐子内親王に仕える為、宮中に上がる事になりました。この歳まで源氏物語に嵌り、月や花を愛でる以外
  何もしていないニート生活。

  前夜は着ていく着物を8枚の菊重ねをコーディネートし、憧れの宮仕えでの生活にワクワクしていたようです。
  現実は源氏物語に出てくるような楽しい事はなく、知り合いも無し。落胆し悲しい気持ちで宮中を抜け出しました。

  【菊襲】きく‐がさね … 女房が秋着用する装束。襲かさねの色目。上に蘇芳匂5枚、下に白3枚を重ね着るもの。

  【蘇芳匂】すおう-の-におい
    上を濃い蘇芳 (マメ科の小高木。インド・マレー原産の染料植物) の赤紫系の色に、下を薄い蘇芳色にしたもの。


  ≪ イケメンに「春と秋のどっちがいい?」と聞かれ、男が引くほど友達と揉めた ≫ 『更科日記 62段』

  この62段の文章は、入試にもよく取り上げられるほどの美しい文章らしいですが、平安時代の習慣を知れば、
  見方が変わってくるそうです。
  「春が好きか? 秋が好きか?」という話題を切り出す事は、「話題も尽きてきたので、お開きにしましょう」という合図。
  それなのに、歌を詠みあってまで言い合いをしたので、源資通すけみちは二人を取り成すのに苦心した。という事
  らしいです。

『更科日記 62段』





『更科日記 78段』


  晩年は、源氏物語に熱中し過ぎた事を後悔し「もっと別の生き方があったのに…」と日記に記しています。『更科日記 78段』
  
 平安時代のかぐや姫 藤原千古 と 歌人 待宵の小侍従 の㊙ファイル
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙ファイル~ 『こんなナデシコもおったのにゃ~』 14.03.02 放送 より

  藤原実資の娘 千古ちづる

  道長と同じ藤原北家の藤原実資の日記の中に書かれて
  ある事。

  幼い千古が左手の人差し指をネズミに噛まれ流血。
   医者の和気相成わけ-の-すけなりに相談したところ、
   「甘草かんぞうを煮て、その汁を付けるか、猫の
   ウンコを焼いて、その灰をつけるかですね」
   と言われた。甘草を煎じて、その汁を傷口に付けた
   ところ、猫のウンコを使うことなく、痛みが和らいだ



  【藤原実資】ふじわら‐の‐さねすけ (957~1046)
   平安中期の貴族。参議 斉敏の第4子。祖父実頼の養子となり、従一位右大臣に進む。
   実頼とともに有職故実に詳しく、いわゆる小野宮流の祖とされる。
   小野宮右大臣ともいい、「小野宮年中行事」などを著す。日記は「小右記」。

   【小右記】しょうゆうき (オウキとも) 野府記やふき
   小野宮右大臣藤原実資の日記。61巻。977年(貞元2)(現存本文は982年)より1032年(長元5)
   に至る。藤原道長が権勢を極めた当時の世相や宮廷の儀式・故実などを詳細に記録。

  【和気わけ氏】・・・ 古代の氏族。垂仁天皇の皇子 鐸石別命ぬてしわけのみことの裔と伝える。のち医薬を業とした。

  【甘草】かんぞう。あまき。あまくさ。
   マメ科の多年草。中国北部に自生。高さ約1メートルで全体粘質。羽状複葉。夏、淡紫色の蝶形花を穂状につける。
   根は赤褐色で甘根・甘草と呼び、特殊の甘味をもつ。漢方生薬として鎮痛・鎮咳剤によく使われ、また、醤油などの
   甘味剤とされた。

   うどんの発祥地は奈良? 平安時代の藤原実資の日記に春日大社で振る舞っていた記述


  ≪ 待宵の小侍従まつよい-の-こじじゅう と 後白河法皇 ≫

  【小侍従】こじじゅう (生没年未詳、1121~1202年? 頃)
   平安末期の歌人。石清水八幡宮別当の紀光清の女むすめ。贈答歌に巧みで、源三位頼政など多くの歌人と
   交渉があった。
   「待つ宵にふけゆく鐘の声聞けばあかぬ別れの鳥はものかは」の歌により、「待宵の小侍従」と呼ばれた。
   家集「小侍従集」1巻。

  【別当】べっ‐とう … 本官のある者が臨時に別の職に当たる意。後に「専任の長官」の称となる。

  【紀氏】
   古代の豪族。武内宿祢たけのうちのすくねの子の紀角宿祢き-の-つの-の-すくねが祖という。紀伊国を本居とする。
   姓は臣おみ。八色姓で朝臣。のち詩人・歌人を輩出。






【古今著聞集】ここんちょもんじゅう
  鎌倉時代の説話集。20巻30編。橘成季撰。
  1254年(建長6)成る。
  今昔物語集・宇治拾遺物語・江談抄・十訓抄などの
  説話をも採り入れ、日本の説話を題材別に分類収録。

【後白河天皇】ごしらかわ‐てんのう(1127~1192)
  平安後期の天皇。鳥羽天皇の第4皇子。
  名は雅仁まさひと 。(在位1155~1158)
  即位の翌年、保元の乱が起こる。
  二条天皇に譲位後、5代34年にわたって院政。
  1169年(嘉応1)法皇となり、造寺・造仏を盛んに行い、
  今様を好んで「梁塵秘抄」を撰す。

  【保元の乱】ほうげん‐の‐らん
   保元元年(1156)7月に起こった内乱。皇室内部では崇徳上皇と後白河天皇と、摂関家では藤原頼長と忠通との対立が
   激化し、崇徳・頼長側は源為義、後白河・忠通側は平清盛・源義朝の軍を主力として戦ったが、崇徳側は敗れ、
   上皇は讃岐に流された。この乱は武士の政界進出の大きな契機となったといわれる。

  平安時代の恋愛は、歌や楽器の腕前や評判を頼りに女性の家に夜這いするのが普通。
  夜這いしても部屋が暗いので顔がよく見えない場合もありますが、小侍従の方は分かっている (香や声でで変わる
  場合もある) ので、遊び人の後白河法皇が忘れていた可能性が高い。

  ※ この時代、天皇や関白であっても、宮中では下級の貴族とも改まった感じではなく普通に会話していた事が分かります。
    和泉式部も下級貴族の娘ですが、道長の目の前で扇子に歌を書いて、当時の絶対権力者である道長に反論しています。
 
 藤原道長の子孫の㊙ファイル
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『藤原ファミリー』 14.02.16 放送

  【藤原時代】 877年頃~1192年頃
   日本史、特に美術史の時代区分の一つ。弘仁・貞観(810~877)時代に続く、平安時代中期・後期の称。藤原氏が
   摂政・関白として政権を掌握。
   文化の諸分野でこれまでの唐の影響を脱し優美な和様が主流になり、いわゆる国風文化が展開。摂関時代。


  ≪ 藤原師通は、離縁した嫁に呪い殺された? ≫ 藤原氏の略系図

  【藤原師通】もろみち (1602~1099) コトバンク
   平安時代後期の廷臣。別称,後二条殿。師実の子。母は右大臣源師房の娘麗子。
   永保3 (1083) 年内大臣,寛治8 (94) 年父の跡を継いで関白,氏長者となった。
   人材の登用に努め,白河法皇の院政を非難した。




  【台記】たいき

   (台は大臣の総称「三台」による)宇治左大臣 藤原頼長 (師通の孫) の日記。12巻。
   1136年(保延2)頼長17歳に始まり、1155年(久寿2)保元の乱の前年に及ぶ。記事は生彩に富み、宮中の儀式を詳記。
   槐記・宇槐記・宇左記・宇治左府記・治相記ともいう。

  平安時代は、貴族同士の結婚は政略結婚が普通。たくさんの藤原さんがおり藤原家同士で地位や財産の奪い
  合いがありました。

  師通は、妻の全子ぜんしの父親である藤原俊家が亡くなった為、結婚しているメリットが無くなり全子を離縁し、
  藤原良綱の娘と再婚。全子も藤原信長と再婚しますが、自分を捨てた師通を恨みます。

  呪詛の一つの方法として、死んだ人を召還しお願いする。
  この場合、全子は父親の絵を描かせて、父親を召還し、願いを叶えてもらう呪詛を行った。


  ≪ 藤原忠実は、祖母に頼んで白河法皇の妾を譲ってもらった ≫

  【藤原忠実】ただざね (1078~1162) 師通の長男。
   平安末期の貴族。氏長者 ・関白・摂政。日記は「殿暦」。知足院殿。
   長子の忠通と不和で、次子の頼長を偏愛した。





  【今鏡】いまかがみ
   歴史物語。藤原為経(寂超)の著。10巻。1170年成るか。
   「大鏡」の後をうけて、1025~1170年(万寿2~嘉応2)、後一条天皇から高倉天皇まで13代
   146年間の本紀・列伝・拾遺を老女の話す体にした書。続世継。小鏡。つくも髪の物語。

  【白河天皇】しらかわ‐てんのう (1053~1129)名は貞仁さだひと。六条帝とも。後三条天皇の第1皇子。
   平安中期の天皇。1086年(応徳3)譲位、上皇となり、初めて院政を開き、堀河・鳥羽・崇徳の3代43年に
   わたって実権をにぎった。1096年(永長1)出家して法皇となる。(在位1072~1086)

  若くして師通の跡継ぎになった忠実は仕事(政治)上の失敗が多く、法皇にもよく怒られていたそうです。
  この時代、主君のお手付きの女性を頂くということは非常に光栄なこと。→ 主君に対する「ごますり」の
  意味も大きかった。
 
 藤原頼長
  NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『"悪の華"は平安京の夜に開く ~キケンな貴公子、藤原頼長~』 12.05.23 放送
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『藤原ファミリー』 14.02.16 放送

  【藤原頼長】よりなが (1120~1156) 忠実の次子。
   平安後期の貴族。左大臣。学問を好む。父 忠実の庇護を得て兄 忠通と対立、氏長者となる。
   鳥羽上皇の信任を失い、崇徳上皇によって勢力を挽回しようと保元の乱を起こしたが、敗死。
   世に宇治左大臣・悪左府という。日記「台記」。

  【台記】たいき
   (台は大臣の総称「三台」による)宇治左大臣 藤原頼長 (師通の孫) の日記。12巻。
   1136年(保延2)頼長17歳に始まり、1155年(久寿2)保元の乱の前年に及ぶ。記事は生彩に富み、宮中の儀式を詳記。
   槐記・宇槐記・宇左記・宇治左府記・治相記ともいう。


  ≪ 勤勉で優秀な藤原頼長の朝廷改革 ≫ Wiki 藤原頼長

  頼長は京都府宇治市の平等院鳳凰堂 (1052年、藤原頼道が創建) の近くで育ちます。5月生まれだったため
  幼名は菖蒲若あやわか。飼い猫が病気になった時、千手観音像を描き、毎日一心に祈り続ける優しい子でした。

  また少年の頃は忠実の命に従わず馬にまたがって山野を駆け巡ったが、落馬して一命を失うほどの目に遭い心を
  入れ替えて学問に励むようになったと、台記には記されています。

  この頃、父の忠実は失脚し宇治での隠居生活。忠実は長男の忠通と不和で次子の頼長を偏愛し、藤原北家
  (道長・頼道)の栄光の時代をよく聞かせていたようです。幼い頃より優秀だった頼長は一族の期待を集めている存在でした。






  当時の平安京は強盗や殺人が多く荒れ放題。治安を悪化させているのは、本来 都を警備するはずの武士たちでした。
  この武士たちを取り締まるべき朝廷の貴族たちは和歌を詠んだり、儀式を行うだけで、問題解決に取り組む者はおらず、
  遅刻や欠席も当たり前緩み切った官僚たちばかりでした。

  朝廷に上がった頼長は、これらを改善するため、漢籍かんせき(中国の書物)で法律や歴史書などを学び読破した
  書数は1030巻。入浴 (当時は蒸し風呂) 中にも若い貴族たちに漢籍を朗読させ暗記に努め「日本一の大学生
  だいがくしょう」と言われました。誰しもが認める博識の頼長でしたが、和歌や漢詩などの文学系は不得意だったそうです。


  ≪ 台記には色んな事が書かれており、記録魔だった ≫

  貴族の常識として、日食や月食は不吉の前兆として戸を閉め切り一日中祈祷して
  いましたが、頼長は平気で戸を空けっぱなしで過ごしていました。

  陰暦9月9日の菊の節句 (重陽ちょうよう) の日に、長生きを願って飲む菊酒 (菊の花を
  浸して飲む味醂の一種)も頼長だけが飲まなかった。


  中国から贈られたオウムが話すの観察し分析したり、男女の密通の噂や人妻が殺されたなど。
  現代の週刊誌のような感じバラエティに富んだ日記だったそうです。


17才で内大臣、30才でトップの左大臣(左府)にまで昇り
つめます。
律令を守るという原点に返って、緩み切った朝廷改革を
始めます。

 「律」・・・刑罰のあり方を記す刑法。 
 「令」・・・政治にまつわる詳細な規律。 

  台記には「きちんと刑罰を下すべきです。国家の大事件で、道理を曲げるべきではない」との記述しています。

  ・会議はきちんと行う事。 
    朝廷の方針は公卿 (三位以上の官僚) の会議で決められるものでしたが、当時は会議は行われていませんでした。
  ・出勤簿を提出する事。
    上日じょうにち (朝廷への出勤記録)は毎日1日に提出すると決められていましたが、それも守られていませんでした。
    頼長は、この記録を昇進の評価基準と定め、厳しく提出を求めました。
  ・「律」による厳格化。
    朝廷は、犯罪を犯す武士や僧兵の武力を恐れ、軽い処罰しか与えていなかった。それが治安の悪化の原因だった。


   ≪ 「悪左府」と呼ばれるようになった出来事 ≫

  頼長は必死で改革を進めようとしますが、長年に渡った貴族社会の腐敗体質は簡単に良くなりません。そこで実力行使に出ます。
  遅刻した貴族の家を焼き払った (今鏡より)。 許可なく斬り合いをした家来の腕を斬り落とした (台記より)。
  下記する鳥羽上皇の近臣 藤原家成の邸宅を破壊する事件も起こしています。

  但し『』には、「悪い」という意味だけなく、「激しい」「猛々しい」、「恐ろしいほどに優れている」という意味でも
  使われていました。


  ≪ 藤原頼長は、自身の日記に男色を綴った ≫

  当時の貴族の婚姻は親同士決める政略結婚。頼長に限らず男色は貴族社会に
  広まっていました。男同士の方が口説き落としにくいので、「恋愛のかけひきを
  より楽しめる」みたいな感覚だった。




『台記』

  恋愛祈願の為に僧侶に祈願を頼んだり、何度も恋文を送ったりしており、お目当ての貴族との恋愛が成就すると
  「本意を逐ぐ 喜ぶべし 喜ぶべし 成す所を知らず」と、日記に書いていました。

  貴族たちの男色は政治上の仲間を増やすという目的もありました。日記というのは、自分の子孫たちが見る為に
  書いていたものですが、「努力をしていい男を獲得した」という自慢の為にこういう事も書いていたそうです。

  ※ 戦国時代も多いですが、男色関係になった部下は、『自分の思い通りに動いてくれ、裏切らない』 という事が
    背景にあるようです。






  頼長が男色関係を築いたのは鳥羽上皇の近臣である若い下級貴族たち。「下級貴族が出世するのは朝廷の秩序を乱す」
  とも考えていたそうです。彼らが力を持ち始めていたので、勢力を切り崩し味方につけておく必要がありました。

  日記の『台記』に記された『讃』=讃岐の国司 藤原隆季。『美』=美濃の国司 藤原家明などが相手でした。
  名前が判明している7名の貴族のうち、4名が上皇の近臣で、いずれも藤原家成 (藤原北家の魚名流) の親族だそうです。
  下級貴族たちも、摂関家筆頭の名家出身である頼長と特別な関係を持つことで出世が期待できると考えていた。

  また、武士や随身たちとも男色関係を結び、最も寵愛した随身は秦公春はた-の-きみはる。この公春に命じ、暗殺をさせます。
  「今夜、不祥 (不吉) の雲あり 公春に命じて之を殺さしむ 天に代わって之を誅す」と書き残しています。
  その暗殺の対象となった者は、恩赦で放免された殺人犯などの重罪人たちでした。

  1153 (仁平3) 年、頼長34才の時、秦公春を病で失います。公務を休んで墓の前で夜を明かします。
  身分の低い愛人の墓を訪ねる事自体考えられない事で、朝廷内では非難するような噂が流れますが、
  それでも公春の墓に通い続けたそうです。


  ≪ 平安時代と鎌倉時代の随身 ≫

  清少納言は『枕草子』に「いみじう美々しうて をかしき君たちも 随身なききは いろ白々し」と記しています。
  「どんなに美しい貴族でも、随身が居ないと寂しいものだ」という意味で、
  平安時代は、「たくましく美形の随身を連れてこそ、立派な貴族だ」と思われる価値観がありました。






  鎌倉時代の13世紀中頃、藤原信実が平安時代から鎌倉時代の随身9人の姿を描いた随身庭騎絵巻
  ずいじん-ていき-えまき1巻で、平安時代の頼長の男色相手の一人とされる秦兼任はた-の-かねとう と、鎌倉時代の随身を
  比べるとかなりタイプが違います。時代で違うイケメンの基準の差。

  【随身】ずいじん、ずいしん 武器を持ち護衛する役職、現在のSP (警察) のようなもの。
   平安時代、貴人の外出の時の護衛として、勅宣によりつき従った近衛府の舎人とねり。弓箭きゅうせん(弓と矢)・
   簶胡やなぐい(矢を入れて携帯する容器)を負い、剣をおびる。その人数には一定のきまりがあった。

  【氏長者】 うじのちょうじゃ 【氏上・氏長・氏宗】 うじのおさ、うじのかみ、うじのこのかみ
   氏の首長。大化改新以後は朝廷によって任命されるようになり、平安時代にかけては一族の宗家として、氏人を
   統率して朝廷に仕え、祖神の祭祀や叙爵じょ‐しゃく(爵位を授けられること) 推薦・処罰などをつかさどった。
   平安初期には宣旨によってまたは氏長者という称を源・平・藤・橘の諸氏に賜ったが、室町時代以後は藤原氏の
   摂関となった者および源氏の征夷大将軍となった者だけがこれを称した。


  ≪ 兄・忠通との確執 と 朝廷転覆の首謀者とされた藤原頼長 ≫

  忠通は跡取りが無かったため、弟の頼長を養子にしますが、のちに息子が生まれたため、実子に跡を継がせようとし、
  父の忠実が忠通の氏長者の地位をはく奪し頼長に与えます。
  その結果、忠通 VS 父の忠実+頼長 の対立が深まりました。

  1155 (久寿2) 年、頼長は天皇を補佐し政務を代行する内覧ないらん(摂政・関白に準ずる役職)という地位に就いて
  いました。近衛天皇(在位1141~1155)が17才で崩御した直後、朝廷内に頼長を陥れる噂が広まります。

  「天皇が若くして死んだのは 何者かが愛宕山の天狗像の目にクギを打ち、呪いをかけたためだ。
   その呪いをかけた者は頼長と忠実である」

  その噂を打ち消すため弁明の書状を出しますが、頼長は新しく帝になった後白河天皇に内覧から外され失脚。
  これらは、頼長の反対勢力である忠通を含む貴族たちの策略でした。

  1156 (保元1) 年7月8日、忠通たちが、頼長の邸宅を捜索し、邸内に居た僧侶を逮捕。
  頼長に「後白河天皇を呪い殺す祈祷をさせた疑い」をかけます。
  すぐさま主だった貴族が朝廷に集まり会議で「頼長の流罪」を決定。

  その策略に勘付いた頼長は雇っていた武士 (1000人ほど) を京都に集めます。
  この動きは権力争い崇徳上皇と後白河天皇にも伝わり宮中も二分。



  【崇徳天皇】すとく‐てんのう (1119~1164)名は顕仁。崇徳院は諡号。 鳥羽天皇の第1皇子。
   鳥羽上皇より譲位させられ、新院と呼ばれる。 日本三大怨霊の一人とされます。
   保元の乱に敗れ、讃岐国に流され、同地で没す。(在位1123~1141)

  【後白河天皇】ごしらかわ‐てんのう (1127~1192)名は雅仁。 鳥羽天皇の第4皇子。
   即位の翌年、保元の乱が起こる。二条天皇に譲位後、5代34年にわたって院政。
   1169年(嘉応1)法皇となり、造寺・造仏を盛んに行い、今様を好んで「梁塵秘抄」を撰す。(在位1155~1158)


  ≪ 保元の乱 ≫

  【保元の乱】ほうげん‐の‐らん
   保元元年(1156)7月に起こった内乱。皇室内部では崇徳上皇と後白河
   天皇と、摂関家では藤原頼長と忠通との対立が激化し、崇徳・頼長側は
   源為義、後白河・忠通側は平清盛・源義朝の軍を主力として戦ったが、
   崇徳側は敗れ、上皇は讃岐に流された。
   この乱は武士の政界進出の大きな契機となったといわれる。


  7月10日、両軍が睨みあう中、頼長の陣営で軍議が開かれました。
  武士たちは定番の戦法であった「夜討ち」を進言しますが、朝廷の名誉を大切に思う頼長は「天皇家が国を二分する
  戦いで卑怯な戦法は出来ない」として、武士たちの主張を退けます。

  しかし、その夜。後白河天皇側が夜討ちを掛けてきました。


  頼長軍は総崩れになり、本陣からの脱出を謀りますが、その途中で頼長は流れ矢を受けます。深手を負った頼長は
  死を覚悟し奈良に潜んでいる父の忠実の元へ向います。

  瀕死で忠実の潜む館に辿りつきますが、開門されず、父からこう言われます。
  「面会はならん!! 誇り高き摂関家の長ならば 矢に射られるような不運な目に遭うはずがない。
   わしの目の届かぬ所に去れ。

  頼長は悔しさのあまり、その場で舌を噛み切ったと伝えられいるそうです。数日後、頼長は奈良市北部の般若寺の
  近くにて37才で死去。埋葬されましたが、本人確認の為、掘り返されたまま放置されたそうです。

  ※ 上記の忠実の言葉は保元物語からの出典につき、「創作されたもの」と推測されます。

  【保元物語】ほうげん‐ものがたり
   鎌倉初期の軍記物語。3巻。作者は平治物語と同一人かとされてきた。
   成立は平家物語(1219~1243の間に成立)以前。和漢混淆文で、源為朝を中心に保元の乱の顛末を描く。


  ≪ 頼長が死の3年前に日記『台記』に残した言葉 ≫




  京都市上京区の相国寺に頼長の首塚と伝えられる墓が
  あるそうです。
 

 私が死んだ後、もし、魂があるとするなら、朝廷の政治を行う場に
 いるつもりです。
 もし、私のことが恋しいと思った時には、朝廷の議場に来なさい。
 天皇の為に仕事に励むことで、私の恩に報いなさい。
 豪華な衣服や家来の数を望んだりせず、忠実に仕事に励み、
 それによって人に嘲られることを恥じてはなりません。
 努めなさい。努めなさい。
 
 絵巻
  テレビ東京 開運! なんでも鑑定団 13.12.03 放送

  絵巻は文字が読めない人も楽しめるように絵を描いたのが始まり。絵のサイズは肩幅と同じ60㎝ほどが基本になり、
  場面ごとに開いて読み、読み終わると、その部分を巻き取り、次の場面を開く。読み方が基本のようです。

  平安時代は貴族の恋愛話、武士が台頭した鎌倉時代以降は、立身出世、恩返し、怪物退治などの物語が描かれる
  ようになりました。

   源氏物語絵巻



  【絵巻】え‐まき
   巻物に絵を描き、繰り拡げてゆくことによって次々と変化する画面を鑑賞させるもの。
   内容は、経典の絵解き、作り物語、説話文学、高僧伝、社寺の縁起、儀式の記録など
   多種多様。多く画面に詞章を書き添え書体の美しさをも鑑賞。

   8~9世紀に中国の画巻がかんの形にならい、10~12世紀に独得の構成力を持つ絵巻
    芸術を創出。
   12世紀は黄金期で、源氏物語絵巻・信貴山縁起絵巻・伴大納言絵巻・鳥獣戯画などの
    傑作を残す。

   13~14世紀には宗教的な教化の手段として寺社の縁起、高僧伝などの絵巻が多量に作られたが次第に形式化し、
   15世紀以降、お伽草子に受け継がれた。古代・中世には多く「…絵」と称され、「絵巻」「絵巻物」の用語は近世に出現。

  【源氏物語絵巻】げんじものがたり‐えまき
   源氏物語の各帖から物語の要点となる情景や情緒豊かな場面をぬき出して絵画化し、対応する本文の一節を
   詞書として添えた絵巻。平安時代以後、各時代を通じ各種の制作が行われ、現存遺品の種類も多い。
   中でも12世紀前半に宮廷絵師により分担制作されたと見られる彩色絵巻(徳川美術館・五島美術館分蔵)は最も古く、
   かつては藤原隆能作と伝えられ、隆能源氏と通称。

  【源氏の間】 … 近江国石山寺にあって、紫式部が琵琶湖上の月に対して、源氏物語を執筆したという室。

  奈良絵本・御伽草子は、鎌倉・桃山時代の雑学ページ   浮世絵江戸時代の雑学のページ
 
 平安時代のキスは何と呼んだ ?
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 近畿の国宝めぐり 総集編SP』 13.01.02 放送
  excite ニュース 14.01.10 配信 http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20140110/E1389293817823.html

  「はたして平安時代の人はキスをしたのか?」NHK大河ドラマ時代考証に目からウロコ

  時代考証担当のスタッフが調べたところ、平安中期の天台宗の学僧・源信に
  よる『往生要集』に「ウ」(「烏」に「欠」を組み合わせた漢字)という言葉が
  出てくることがわかった。
  これは「鳥が互いにクチバシを突き合う」意味で、まさしくキスを指す。

  《「いはんやウ抱(うほう。ウは前出の「烏」に「欠」を組み合わせた字)
  (接吻して抱き合うこと)して婬楽せんをや」。
    (岩波書店『日本思想大系 源信』三八頁)

  とすると平安時代すでにキスはあったということになる。


  しかし、九歳で比叡山に入った日本史上屈指の学僧源信はいかにしてこの言葉を知り、わざわざ自著に使ったのだろうか》
    続きは、上記リンクサイトで

  キスが記述されている最も古い文献は平安時代で「口吸う」。「接吻」は明治時代に「キス」が和訳されたもの。
 
 鳥獣人物戯画  16.10.18追記中、書きかけ
  テレビ東京 美の巨人たち 『鳥獣人物戯画』 前編 15.10.25 / 後編 15.11.01 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『ニュースな人 「"鳥獣人物戯画"国宝はなぜ入れ替わった?」』 16.10.13 放送

  Wiki 鳥獣人物戯画
  鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)は、京都市右京区の高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物。国宝。鳥獣戯画とも呼ばれる。
   現在の構成は、甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻からなる。
   内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、嗚呼絵(おこえ)に始まる戯画の集大成といえる。
   特にウサギ・カエル・サルなどが擬人化して描かれた甲巻が非常に有名である。一部の場面には現在の漫画に用いられている効果に
   類似した手法が見られることもあって、「日本最古の漫画」とも称される。
   成立については、各巻の間に明確なつながりがなく、筆致・画風も違うため、12世紀-13世紀(平安時代末期-鎌倉時代初期)の幅の
   ある年代に複数の作者によって別個の作品として制作背景も異にして描かれたが、高山寺に伝来した結果、鳥獣人物戯画として
   集成したものとされる。
   現在は甲・丙巻が東京国立博物館、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託保管されている。

  朝日新聞 14.07.28 朝刊 『文化』


  【覚猷】かくゆう(1053~1140) 源隆国の子。  Wiki 覚猷
   平安後期の天台座主・画僧。四天王寺別当・園城寺長吏などを歴任し、鳥羽上皇の厚遇を得て鳥羽離宮内の証金剛院に住み、
   鳥羽僧正と称された。
   仏教図像の研究をし、醍醐寺蔵「不動明王立像」などの本格的仏画のほか、諷刺的な戯画にも巧みであったと伝えられ、
   「鳥獣戯画」の作者の一人に擬せられる

  【高山寺】こうざん‐じ
   京都市右京区にある真言系の単立寺院。山号、栂尾とがのお山。平安中期から存したが、
   明恵が中興後信仰を集め、茶園・紅葉により知られた。鳥獣戯画絵巻などのほか、文書典籍にも
   貴重な蔵品が多い。

  【明恵】みょうえ (紀伊の人、1173~1232) 諱は高弁。
   鎌倉前期の華厳宗の僧。高雄山の文覚もくがくらに師事、出家。華厳・密教を学ぶ。
   後に栂尾に高山寺を営み、華厳宗中興の道場とし、また栄西が将来した茶樹を栽培。
   著に法然の浄土宗を批判した「摧邪輪ざいじゃりん」など。


  【高山寺本古往来】こうざんじぼん‐こおうらい
   高山寺所蔵の往来物。表題欠落のため、所蔵場所に因む名で呼ばれる。1巻。平安末期成立。
   56通の書状から成り、現存最古の往来物。


  ≪ 甲巻の入れ替わりが正式に判明 ≫  書きかけ 16.10.18

  鳥獣人物戯画で最も有名な甲巻は、幅60㎝ほどの和紙を23枚を繋げて1つの絵巻物として作成されています。
  糊で繋いであるため100年ほど経つと剥がれ、一時期はバラバラになっていた時代があるそうです。
  また前半と後半の2本の絵巻物になっていた時期もあるようです。
  何十年も前から絵の順序の入れ替わりが指摘されていましたが、2016年10月の修理の際に京都の文化財保存修理『岡墨光堂
  おかぼっこうどう』の岡岩太郎さん (44) が確認。







  現在10枚目の次にある11枚目の位置が不自然。11枚目と23枚目を横に繋ぎ透過して見ると、和紙を作る時に付いたハケの一本の
  線が浮かび上がり2枚続いている事が分かりました。
  いつ絵の順番が入れ替わったのか正確には不明のようですが、様々史料から推測すると室町後期以降の戦乱期頃らしいです。

  2016年現在、九州国立博物館で特別公開 (~11月20日) が開催されています。

  NAVERまとめ 『国宝ネタで遊びまくる!「鳥獣戯画作成キット」が楽しすぎ』 15.11.13 配信
   http://matome.naver.jp/odai/2143684118552698901 
  国宝に認定されている「鳥獣戯画」を元ネタにして遊べる「鳥獣戯画作画キット」で時間を忘れて遊ぶ人が多数。

  うろんげ 鳥獣戯画作画キットbeta http://gigamaker.jimdo.com/ ←無料でオリジナル鳥獣戯画を作れるようです。詳しくはサイトで。


  ≪ 室町時代には植物が擬人化され、江戸時代初期には食物が擬人化の中心に ≫

  名古屋大学 伊藤信博 『室町人の嗜好 – 古記録からみる室町時代の食文化』
   http://urakamizaidan.or.jp/hp/jisseki/2012/vol21urakamif-13ito.pdf

  室町時代の絵巻では、植物が擬人化されたものが多くあるようです。
  江戸時代初期には、梅と竹との争いを描いた植物を擬人化した『月林草』という物語があるそうで、擬人化は植物から、
  食物が中心になっていくそうです。
  この書では、畑で取れる食材を季節に併せて、大麦、小麦、麩、牛蒡、唐芋、芋の葉、芋茎、大根、蕪菜、蒟蒻、苣、
  土筆、蕗、茗荷、白瓜、アブラナ科の葉、茄、漬物、独活の芽、京菜、梅干などが記されているようです。


  ≪ 植物や機械まで、擬人化して呼ぶのは関西特有 ≫

  近年アニメやゲームでは機械なども擬人化する事が珍しく有りませんが、この様に擬人化する事は古くからの関西人
  特有の感覚でした。

  ↓の画像は、たこやきレインボーが大阪の咲くこの花館を訪れた時のもの。
  植物管理スタッフの田中さんがウリ科のアルソミラの種の事を「この子たち」と呼んでいます。
  たこ虹のメンバーらが「この人強烈や」と言っている相手はクロユリ。






  関西テレビの新実アナ(京都出身)は大阪天満宮の盆梅展の中継で白加賀(樹齢150年)を紹介されて「このコがじゃない、
  この方が…150年間歴史を見続けてきた梅がまさに、この方と」人間扱い。

  他、バイク屋さんなんかも原付スクーターに「このコ」って言っているのも聞いた事あります。飴ちゃん、お芋さん。など
  植物や愛着を感じる物 (機械類でも) に対して、人間と同じように呼ぶのが普通になっており、ツッコミ文化がある大阪
  なのに、植物に「このコ」と言ってもサラっと会話に溶け込み違和感を感じないようなっています。


  ≪ 江戸時代に流行した鳥羽絵が流れを汲むとされる ≫

  大阪で活躍した耳鳥斎が鳥羽絵の代表的な絵師として知られ、江戸の有名浮世絵師たちにも耳鳥斎の影響を受けました。

  【鳥羽絵】とば‐え  Wiki 鳥羽絵  Wiki 耳鳥斎
   (平安後期の画僧、鳥羽僧正覚猷が戯画に長じていたと伝えられるのでいう)江戸時代に流行した滑稽な戯画。
   多く略筆で軽妙なもの。人物の手足を長く誇張して描く特徴を持つ。

  江戸時代の漫画『鳥羽絵』 大坂で活躍した戯画作家 耳鳥斎  日本最古のTVアニメ 「モグラのアバンチュール」 と 鉄腕アトムの秘話
  茶の歴史・雑学ページ 鎌倉時代後期の最高級品は京都の栂尾とが茶、最古の形式を残す四頭茶会とは? など
 
 
 
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朝日放送 2011.06.23
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プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
2009.02.17発売
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