【京都御所】きょうと‐ごしょ 京都皇宮。
京都市上京区にある旧皇居。 後小松天皇(南北朝末期・室町
初期の第100代天皇。
在位1382~1412)以来、明治天皇の東京遷都までの内裏。
現在の建物は、1790年(寛政2)に江戸幕府老中の松平定信が
古式によって造営、炎上後、1855年(安政2)再建。東に建春、
西に宜秋、南に建礼、北に朔平の4門があり、紫宸殿・清涼殿
など古式のまま現存。
【大内裏】だい‐だいり、タイダイリ とも 宮城。宮。
皇居である内裏を中心として、その周囲に政務や儀式を行う
朝堂院ちょうどういん、諸官庁などを配置した一郭。
大化改新以後、官制の整備に伴って拡充。
平城京・平安京では京の北端中央に位置した。
【内裏】だい‐り
天皇の住居としての御殿。御所。皇居。禁裏。禁中。禁闕。
大内。紫庭。
【内裏様】だいり‐さま
① 内裏、特に天子の尊称。② 内裏雛を丁寧にいう語。
【内裏雛】だいり‐びな 大内雛おおうちびな。
雛人形の一種。3月の雛の節句に飾る。
天皇・皇后の姿をかたどって作った男女一対の人形。
ひな祭 起源は平安時代、庶民に広まったのは江戸時代。
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平安京の大内裏
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794年桓武天皇により京都に都が定められて以降 73代に渡る歴代天皇が京都で暮らしました。
京都御苑の中に京都御所があります。建礼門をくぐり正面にあるのが
紫宸殿で、ここで公務が行われました。
平安時代の天皇は、紫宸殿の北西にある
清涼殿を居所とし寝起きをしました。
【紫宸殿】ししん‐でん (シシイデンとも。古くは「紫震殿」とも書いた)
平安京内裏
だいりの正殿。もと朝賀・公事
くじを行う所であったが、大極殿
だいごくでんの荒廃・焼失後は即位
などの大礼を行なった。
南面して設けられ、9間の母屋の四方に廂
ひさしがあり、殿の中央やや北寄りに玉座を設け、
その東には御帳台
みちょうだい、北には賢聖障子
けんじょうのそうじがある。
北廂から廊で清涼殿に通じ、南廂には階
きざはしがあって前庭に通ずる。
階の左右に左近
さこんの桜、右近
うこんの橘がある。今の京都御所のは1855年(安政2)の造営。
南殿
なでん。前殿。正殿。正寝。
【清涼殿】せいりょう‐でん (セイロウデンとも)
平安京内裏の殿舎の一つ。天皇の常の居所で、四方拝・小朝拝・叙位・除目
じもく・官奏などの
公事
くじも行なった。
近世は常御殿
つねごてんを常の座所とし、清涼殿は儀式にだけ用いられた。
紫宸殿の北西、校書殿
きょうしょでんの北にある。
東面した9間四面の入母屋造で、身舎
もやの南5間を昼の御座
ひのおましと称し、帳台がある。
南東隅は石灰壇
いしばいのだんで、毎朝、神宮・内侍所以下 御拝の所。
その他、夜の御殿・萩の戸・弘徽殿の上御局
こきでんのうえのみつぼねなどがある。
枕草子[142]「
清涼殿の御前に、掃部司の、畳を敷きて」
辰の刻 (朝7~9時)に起床し身支度を整えると、まず白い漆喰で塗り固められた石灰壇
いしばいだんと呼ばれる場所に
行って、伊勢神宮の方向に座り、神 (天照大神) への祈りを捧げました。
白い漆喰は地面を表しており、地面に座って祈りを捧げる事が神に対する最大の敬意を表すものとされていました。
鎌倉時代に記された御所での規則書の『
禁秘抄』の冒頭には、「
禁中の作法 先ず神事が大切である」と
書かれてあります。
【禁秘抄】きんぴしょう
宮中の行事・故実・慣例・事物などを91項目にわたって漢文で記述した書。順徳天皇著。2巻または3巻。
承久(1219~1222)年間成る。禁中抄。建暦御記。順徳院御抄。
石灰壇の脇に一脚の朱塗りのテーブルがあります。ここで天皇は食事を摂りました。食事は神事であり公務でした。
史料を元に再現した平安時代の天皇の食事では、約30皿におよぶ豪華な料理が並べられています。
毎日のように食卓に並ぶ料理の一つがアワビで、関東や東海地方で獲れたものを乾燥させて運んでいました。
信州大学の佐藤全敏 准教授によると
「天皇は律令国家ができる前から各地を征服。支配していって服属させて貢がれる物。
それを毎日食べてみせる事によって、全国各地をくまなく統治支配している事を体現していたということになります。
」
≪豊臣秀吉は平安時代の大内裏跡に聚楽第を建築した ≫ Wiki 京都市内の通り
京都には欧米などに見られる首都を囲む城壁が無かったため、秀吉が周囲23㎞の「御土居
お-どい」と呼ばれる
土壁と堀を作りました。その内側がいわゆる『京都』。
後に掘は埋められましたが、現在、その部分は永年の間に地盤が下がり低くなっています。
【上京】かみ‐ぎょう … 京都北部の御所を中心とする一帯の地。かつて貴族が多く住んだ。
【中京】なか‐ぎょう … 京都を上・中・下の三つに分けた中央部。丸太町辺から四条辺までをいった。
【下京】しも‐ぎょう … 京都の二条通以南の称。中小の商人が住んだ。
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NHKの歴史秘話ヒストリアによる聚楽第の天守閣のCG再現↓
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【聚楽第】じゅらく‐だい (近年、『じゅらくてい』と呼ぶ方が多いそうです。)
(ジュラクテイとも)豊臣秀吉が京都に営んだ華麗壮大な邸宅。
1587年(天正15)完成し、翌年 後陽成天皇を招き、諸大名に秀吉への忠誠を誓わせた。
のち、秀次に譲り、その死後破却。大徳寺唐門・西本願寺飛雲閣などはその遺構と伝える。