手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本文化の雑学 5 日本の伝統行事1
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このページの最終更新日:   20.01.29
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日本文化の雑学  INDEX
 

  Page Contents



 雛祭りの起源 女性のための古社 和歌山市 淡嶋神社

 和歌山県 熊野速玉大社の「吉兆」 節分に飾る縁起物


 1月 正月 鏡餅、門松なのに中央に竹が飾られている理由など
  1911 (明治44) 年の東京年中行事「具足餅と鏡餅」
  成人式 書きかけ

 2月 節分 豆まきの作法と手順 落花生では豆まきにならない 恵方巻き
  節分祭発祥の吉田神社 追儺という宮中儀式 → 民間では豆まきになった

 3月
  東大寺の『御水取り』 奈良時代から関西の春を告げる行事
  ひな祭 起源は平安時代、庶民に広まったのは江戸時代。
  雛あられ 東日本人は本当の雛あられを食べた事がない?


  【五節句・五節供】ご‐せっく 、ごせちく、ごせつ。
   毎年5度の節句。正月7日(人日)・3月3日(上巳)・5月5日(端午)・7月7日(七夕)・9月9日(重陽)の総称。

  【晴】ハレ 百菓辞典
   正式、おおやけ、晴れがましいこと。民族的な場合「ハレ」と片仮名表記する。

  1917 (大正6) 年9月 『一国一奇風俗噺』(風俗研究会 編、東京府 日本書院)
   この書には各地の変わった風習が記載されており、正月や祭に関する事が多いです。下記リンクでご覧ください。
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956041

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

  TBS 所さんのニッポンの出番! 15.05.12 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポン・植物ミステリー』 15.09.10 放送

  ≪ 日本の特性 ≫

  日本の伝統文化の多くは隋や唐など、中国から伝わったものが多いですが、これら全てが中国発祥の文化では無く、
  アジア各地の文化が一旦中国に集まり、留学生や留学僧を通じ、アジア各国に伝播されていったようです。

  中国から伝わったのが、日本独自の文化として発展熟成していきます。
  四季がはっきりした国であり、古代から自然と共に生きてきた日本人の知恵と工夫。
  『言霊』や『八百万の神々』という考え方。






  『五穀豊穣』『無病息災』『子孫繁栄』といった人間の基本的な願い。
  他国と大きく違うのは、『子孫繁栄』を非常に強く重視してきた事のように思えます。昔から子供が大切にされてきました。

  『自分たちの世代より、次の世代が豊かであるように』と、多くの人が努力してきた結果が、現在の日本の繁栄に繋がって
  います。

  先人の知恵と努力への尊敬と感謝を持ち、受け継いできたのが、日本伝統行事です。


  ≪ 文化は関西から ≫

  「文化は西から」という言葉もあるわけですが、関東と関西で文化が異なる理由はある程度はっきりしてきました。
  有史以来~昭和時代までの1600年以上のいずれの時代においても大阪・京都から文化が全国に配信されています。
  関東では関西から伝わった文化を真似るわけですが、技術や素材や物資不足などによって同じようにできず、
  どちらか言うと簡略化した文化が形成されます。

  つまり、東西が異なるほとんどの文化に於いて、関西の方が古くからか、または正しいという事です。

  江戸時代の1800年頃から江戸が文化的繁栄を成したので自信を強め、江戸が一番と思い込みますが、実際の生活では
  まだまだ上方に及ばない貧しい生活をしていた庶民の鬱憤を晴らす事から、他所の悪口を言うようになりました。
  明治に首都となり更に自信を深めますが、すぐに東京は大阪に抜かれ、横浜港も神戸港に抜かれます。
  江戸時代の事を知らない世代が多くなった大正期に江戸の歴史改変 (代表的なのは「江戸しぐさ」) が多くなり、いわゆる
  トンデモ本 (東京の歴史をよく見せるように歪曲した歴史解釈や嘘) というのが多く書かれたようです。

  戦後、放送法による東京キー局制度や出版の東京一極集中化などによって、メディアの影響力が強くなる70年代以降~
  現在まで、東京に都合の良い事ばかりを流布してきたのです。で、異なる文化においても関東の方が正しいと思い込んで
  しまう訳です。

  当サイトの各ページと上記にリンクしている各歴史考証文献を読んでみましょう。いかに嘘が多いか分かるはずです。


  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205

  『江戸時代のさまざま』P.289~ 「夏の大阪

  紀文奈良茂を豪奢がる江戸が何で話にならう、一體東京に住む人間はアキマヘンのである。
  成金振りの凄しさを見物するのなら、大阪でなければならぬ、但し見せ附けられて、胸が悪ぐなつたり、歯が浮いたり
  することは覚悟して出掛けて貰はう
  大阪が賑はしいと流行物が江戸へ抛下なげくだされる、江戸ばかりでなく東京になつても屡ゝしばしば大阪の後塵を拜をが
  ませられる、昔江戸ッ子が僅に鼻息を荒くし得たのは、寶暦の末から大阪の經濟状態が宜しくなかつた爲である、
  景氣さへよければ何時でも上方風が關東を拭捲くらずに居ない

  江戸時代中期の江戸の豪商、紀伊国屋文左衛門(紀伊出身)と奈良屋茂左衛門(上方系商人)だけでは比べものに位
  大阪には豪商が多かった。明治になっても東京は大阪に後れをとる事がしばしばある。
  大正時代の現在の大阪の金持ちぶりも凄い。宝暦(1751~1764)末に大坂の景気が悪かった時以外は上方の流行が
  関東を席巻するのが常である。

  享保 (1716~1736) の大阪女の風俗が著しく江戸の嗜好を誘つたやうに

  P.296~「暮れ行く大阪」には先づ大阪女が目醒めて全日本の女が氣が附くことになるのであろう。
  此の店 (高島屋) へ集う人数は日曜等の休日には四萬を越し、平日も三萬と聞いたが、東京よりも規模が大きく、
  人の数も多い、呉服ではない百貨店にもせよ、此の外に三越白木大丸等がある。京の着倒れ大坂の喰倒れといふ
  のも昔の言葉で、今日の大阪は着倒れであり、又た喰倒れでもあるのか
  などとあり、江戸時代~は京坂、大正時代は大坂が流行の発信地でした。

  【三田村鳶魚】みたむら‐えんぎょ (東京生れ、1870~1952)
   江戸の風俗・文学の研究者。名は玄竜。「未刊随筆百種」などを編纂。 大正11年に大阪を見聞し上記を書いたようです。
   著書「大奥の女中」「江戸雑話」、輪講記録「膝栗毛輪講」など。

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?

 
 1月
  NHK BS歴史館 『シリーズ日本の転換点② 東京遷都㊙大作戦』 13.10.17 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポン・植物ミステリー』 15.09.10 放送

   ≪ 江戸時代の人は初詣をしなかった!年末年始の雑学30 ≫ は下記のサイトでご覧ください。

  ガジェット通信 14.01.01 配信 http://getnews.jp/archives/486235

  日本の食の歴史3 飛鳥~平安時代の食文化 箸・御節の起源・七草粥の始まりなど。






  御屠蘇 おとそ 平安時代から続く奈良の屠蘇散。昔ながらの本物の屠蘇酒。  江戸庶民の正月のうんちく
  御節料理の起源は神饌  千葉県の香取神宮での変わった神饌。

  【餅】あも 百菓辞典
   「あまい」の意と言われている。もちの異称。あんもとも言う。

  【餅】もち 百菓辞典
   もちいい (糯飯) の約されたもの。もち米を蒸し、臼でついて、種々な形に作ったもの。正月や節句などの祝いごとに
   作ることが多い。古来、餅は「神霊の宿るもの」として、正月をはじめ、神事・祭りなどあらたまった日の食べ物。
   おいしくてたくさん食べられる意味で「一合雑炊 二合粥 三合飯に 四合鮨 五合餅ならだれでも食う」という言葉がある。
   (一合=180ml)。もち (糯)、おかちん、あも。

  【かちん・おかちん】 百菓辞典
   搗ち飯 (かちいい) が転じたもの。搗ち飯の音便が「かちん」。「おかちん」は、女性言葉で餅のこと。
   「搗ち」とは「つく (搗く)」ことを意味する。(餅などを) 搗くことを、古語では「かつ」と言った。

  餅の原型「しとぎ」 餅の神様を祀る小野神社、豊前・豊後の名の由来、伏見稲荷大社縁起など


  ≪ 鏡餅 ≫  Wiki 鏡餅 ← くわしくは  日本各地の雑煮   銅鏡の魔鏡現象と太陽信仰との関係

  神様にお供えする餅とお酒は、自分たちが食べるよりも優先的に作られてきたので、古代から作られてきました。
  鏡餅は平安時代中期の源氏物語にも記述があるそうです。

  【御供餅】おそなえ-もち 百菓辞典
   年始、神仏にそなえる餅。また、祭礼等にそなえる餅。鏡餅。
   正月の場合、「くもち (苦餅)」 といって12月29日に餅をつくことをさける風習がある。

  【鏡餅】かがみ‐もち
   平たく円形の鏡のように作った餅。大小2個を重ね、正月に神仏に供え、または吉例の時などに用いる。
   古くは「餅鏡」。かがみ。おそなえ。おかざり。円餅。

  【餅鏡】もちい‐かがみ … かがみもち。新年。源氏物語[初音]「―をさへとりよせて」

  橙の実は、2~3年の間木から落ちず (果樹の色はオレンジから緑に戻るそうです) 成り続ける事から、
  『代々だいだい続く』とされ、『橙ダイダイ』と呼ばれるようになりました。

  シダは、新しい葉が前年に出た葉の間から出ます。葉が落ちずに次の葉が生える縁起物が良い植物。
  ユズリハは、春に若葉が出たあと、前年の葉が譲るように落葉するので、子孫繁栄の象徴とされました。

  これら縁起の良い植物を飾る事で、『代々 家が譲り受け継がれて、栄えますように』という願いが込められたもの。






  雑煮の起源は定かではなく諸説あります。室町時代には武家の宴会では必ず一番初めに酒の肴さかなとして雑煮が
  振舞われていたそうです。
  東日本が角餅になったのは、江戸の人口が増えすぎたので、鏡餅をカットしたのが始まりという説があります。

  【橙】だい‐だい(ダイは「橙」の中国音の転訛)
   ミカン科の常緑低木。幹は高さ3メートルほどで、葉は卵形、透明な小油点を有し葉柄に翼を持つ。
   初夏、葉のつけ根に白色5弁の小花をつける。
   果実は冬に黄熟するが、翌年の夏に再び緑色にもどるので回青橙の名がある。暖地に栽培。
   皮は苦味健胃薬、果実は正月の飾りにも使用。
   オレンジ・サンボウカン・ナツミカンは同類、また臭橙かぶすはこの一種。

  JA愛知東 『奥三河の農耕儀礼 「果樹の話5・橙と注連飾り」』 http://www.ja-aichihigashi.com/nou/noukou/121.html

  橙は不思議な果実だ。民俗学書を読むと、一般の果実は実が熟すと落下してしまうが、橙は落下せずに年越し
   をし、四~五年も木になっている実があるという。
   なかには、七年間の長期にわたり実っているものもあり、毎年少しではあるが果実が肥大するという。
   橙は一本の木に新旧の実が付き、冬になると文字通りダイダイ色になり、夏には青い色に再び戻る不思議な植物である。

  【羊歯・歯朶】し‐だ
   シダ植物のうちシダ類と呼ばれる最も進化し、大形の葉をつける類の総称。特に、ウラジロをいう。
   種類が多く、世界に約1万種ある。茎は多く地中にあり、そこから葉と根を生ずる。葉は単葉または4~5回羽状複葉。

  【譲葉・交譲木・楪】ゆずり‐は
   ユズリハ科の常緑高木。高さ6メートル内外。若い枝と葉柄は紅色を帯びる。葉は長楕円形で厚く、雌雄異株。
   4~5月頃、緑黄色の小花を総状につける。楕円形の核果は11月頃熟して暗緑色となる。新しい葉が生長してから
   古い葉が譲って落ちるので、この名がある。
   葉を新年の飾物に用いる。新年。枕草子[40]「―のいみじうふさやかにつやめき


  ≪ 安土・桃山時代から 天皇に餅を献上していた川端家に伝わる鏡餅 ≫

  応仁の乱後の約100年の間、京都は悲惨な状態になり、宮中は財政難に陥りました。
  御所もボロボロ、天皇は食事にも困る有様でした。これらを支えたのが京都の町衆でした。






  【川端道喜】かわばた-どうき (生年未詳~1592)     応仁の乱後、天皇は食事にも困窮 御所の道喜門とは
   安土・桃山時代の京都の商人。もと中村氏。のち渡辺弥七郎。餅・粽ちまきを製造販売。
   京餅座の権利をもち洛中洛外の餅屋を支配、役銭やくせん (農・工・商に課した税金) を徴収した。


  ≪ 正月は丸餅が正解、角餅は縁起が悪い ≫

  【鏡開き】かがみ‐びらき 鏡割り。(「開き」は「割り」の忌み詞) 広辞苑
   ① 正月11日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事。
     近世、武家で、正月に男は具足餅 (正月に甲冑に供えた鏡餅) を、女は鏡台に供えた餅を正月20日(のち11日)
     に割って食べたのに始まる。
   ② 祝い事に酒樽のふたを開くこと。鏡抜き。   日本各地の雑煮

  【鏡開き】かがみ‐びらき 百菓辞典
   1月11日、鏡餅を砕き、しるこに作って祝うこと。元来は、武家の風習。
   刃物で切ることを忌み、砕く方法をとったもの。

  【具足鏡開き餅】ぐそく‐かがみびらき‐もち … 具足餅を切り割って食べること。武家の年中行事。


 幕末の『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類「

  世事談曰 正月の餅を鏡と云は其状の似たるを以て稱す 鏡餅を割りて祝ふを鏡開き云 具足に備へたる鏡餅は
  斬殺の詞を忌て刃を入れず引缺く故に 是をかき餅と云 今は片餅を都て缺餅と云々

  「となえたたえ=唱える、讃える」「引缺く=引欠く・引掻く」

  「世事談=1734 (享保19) 年刊 『本朝世事談綺』菊岡沾凉 (表具師・俳人、伊賀上野生まれ、江戸神田在住)」
   Wiki 菊岡沾凉  コトバンク 「菊岡沾凉」


  1804 (享和4) 年刊の『吉原青楼年中行事』2巻の著者は十返舎一九。
  下巻に「餅つきの圖」と題して見開き2ページに渡って、吉原での様子が描かれています。
  右は一部をトリミングした画像です。丸餅が描かれています。

  江戸時代の江戸でも武家や吉原では角餅ではなく丸餅を食べていた事か分かります。
  貞享 (1684~1688) ・元禄以降、新吉原通いは財力に富んだ上方商人が占め大名や
  旗本が通う事がなくなりました。

  宝暦 (1751~1764) の末に不景気になって上方商人が通う事が減ってから、新吉原の品格は
  年々落ちて太夫などの上級の遊女格がいなくなりますが、戎祭など上方の風習が続けられて
  いたようです。

  遊女の歴史と吉原遊郭  江戸商家や吉原でも戎祭が行われていた

吉原青楼年中行事

  角餅というのは、人口が多い江戸の長屋に住む為に大量生産する工程で生まれたものです。

   日テレ 月曜から夜ふかし の「落花生で豆まきする地域」へのメッセージを真似ると (2月の所に画像あり)
  ※ あなた達がいいなら それでもいいですが、そもそも鏡餅とは太陽信仰の丸い鏡から由来しており、
    餅ならどんな形でもいいというものではありません。
    角餅、すなわち刃物で切るという忌み行為を行った餅を元日から食べるのは「縁起が悪い」というしかありません。
    でも、皆さんが それでもいいのなら 来年も角餅でどうぞ。  銅鏡の魔鏡現象と太陽信仰との関係






  【お欠き】お-かき (欠き餅の女性言葉が一般化したもの。) 百菓辞典
   ① 固くなった正月のお供え餅を刃で切ることを忌み、手で欠き割ったことから、欠き餅の名前がついた。
     欠いたものをよく乾燥させ、焼いたり、揚げたりする。
   ② 現在では、餅 (なまこ餅が多い) を薄く切って乾燥させ、弱火でゆっくり焼、焦げ目をつけたもの。
     これを掻き餅と表記することがある。

  【霰・霰餅】あられ、あられ-もち 百菓辞典
   米菓の一種。餅をさいの目にに小さく切って煎ったもの。鏡餅を砕いたものもあられ (玉あられともいう) になる。


 1911 (明治44) 年の『東京年中行事』上の巻P.45~47「具足餅と鏡餅」 (著者は山口県出身)

  具足餅と云ふのは其昔し武家の具足櫃ぐそくびつの上に飾つたもので、今でも上流の家には行はれて居る。
  例の三方に似て四方に穴のある供饗くぎやうの上に、四方に紙を布き垂れ、裏白うらじろと讓葉ゆづりはとを
  四隅に置いて、其上に紅白の輪取わどりの餅を、更に其上へ紅白の菱餅五枚を重ねて、其上の中央には喰積くひつみ
  と同じやうに、水引で結へた松の小枝を、橙に差し込んで置く。

  今では具足櫃の代りに大抵 此 供饗を左の違ひ棚の下に飾り、之と併ならんで左方には三組の土器かはらげを重ねた
  三方を置き、其前の下の段には、三方の上に引渡しと云つて、熨斗のしと勝栗かちぐりと昆布を載せたのを置き、
  其左方には雑煮の膳、右方には鯛の鰭ひれを飾ることになつて居る。
  此外にも二通りの飾り方が有れど、要するに此飾り方を今少し簡略にしたに過ぎないもので有る。

  【具足餅】ぐそく‐もち
   戦国時代以後、正月に甲冑に供えた鏡餅。正月20日(のち11日)にこれを食べて祝賀する。鎧餅。

  【具足櫃】ぐそく‐びつ
   当世具足を納めておく、やや縦長の櫃ひつ。多くは漆塗りで定紋じょうもん付き。

  【具足】ぐ‐そく
   ①十分に備わっていること。揃っていること。「円満―」
   ②伴うこと。同行すること。また、引き連れる家来。
   ③携帯品。所持品。道具。調度。宇治拾遺物語[2]「子孫どもに家の―どもおほせ持たせて」
   甲冑かっちゅう。特に、当世具足とうせいぐそくの略。
   ⑤強飯こわめしに添える盛物。
   ⑥連歌の素材。連理秘抄「―少なくするするとしたる句」

  【当世具足】とうせい‐ぐそく
   鎧よろいの一種。室町末期以来行われたもので、歩兵用の胴丸どうまるの形を受けて胴を
   鉄板製とし、兵器の変化に応じて身体をおおうため各部の小具足を増加すると共に、
   戦国時代の個人意識の発達につれて、その形は非常に複雑化した。
   古来の鎧に既に「具足」の名があるので、区別するため「当世」の字が冠せられたが、後には
   当世具足だけを具足と呼ぶようになった。

  【当世兜】とうせい‐かぶと
   戦国時代以来、槍・鉄砲の攻撃に即応して形成された兜。当世具足に付属する。
   これに対して、室町時代以前の構造のものを昔兜むかしかぶとという。

具足櫃


当世具足

  けれども鏡餅の方になると、左の違棚ちがひだなでなくて、右の違棚に飾るのが本當ほんとうで有つて、具足餅と同じく
  供饗の四方へ紙を敷き垂れ、裏白と讓葉を四隅に出し、中に尺二寸の鏡餅を据え、其上に小さい紅白の菱餅
  五枚宛づゝを三組程 縦に併ならべて置き、更に其上へ今一段小さい菱餅を同じく五枚宛重ねて併べて置く。

  けれども此は最も儀式ばつた鏡餅の飾り方で有つて、簡單なものになると裏白の上に白の鏡餅二つを重ねて、
  其の上に馬尾藻ほんだはら、串柿、橙、干するめ なんどを置き、昆布を長く垂らして飾り立て、丁度 鏡餅と蓬莱ほうらい
  と一處しょになつたやうなものを飾るのが普通で有る。

  鏡餅は八咫鏡に擬して作つたもので有つて、或は齢を固むるの意より歯固めとも云ひ、古來 元日には必ず之を
  飾つて神を祭つたもので、菱餅は後世に至りて、鏡に對たいし、劔けんに擬して作つたもので有ると云ふ。

  東京にては鏡餅は一般に大だいなるを貴たつとび、二升取り 三升どり など云つて、一個に数升を費し、非常に
  大きく作つたものが もてはやされる。

  【八咫鏡】やた‐の‐かがみ まふつのかがみ。やたかがみ。  Wiki 八咫鏡
   (巨大な鏡の意三種の神器の一つ。記紀神話で天照大神が天の岩戸に隠れた時、石凝姥命
   いしこりどめのみことが作ったという鏡。天照大神が瓊瓊杵尊ににぎのみことに授けたといわれる。
   伊勢神宮の内宮に天照大神の御魂代として奉斎され、その模造の神鏡は宮中の賢所かしこどころ
   奉安される。神代紀[上]「中つ枝には八咫鏡を懸とりかけ

  福岡県糸島市の伊都国歴史博物館に所蔵されている伊都国遺跡から出土した『内行花文鏡』が
  『八咫の鏡』と似ているという記述があるとも言われているようです。

  詳しくは日本の歴史ページ1 銅鏡の魔鏡現象と太陽信仰との関係




  ≪ 「門松」なのに、竹が中央に飾られる理由 ≫  Wiki 門松  Wiki 三方ヶ原の戦い

  古来より、冬でも枯れず常緑の松は神が宿るとされ、『祀まつる』の語源とも言われます。新年に飾るのは松だけでした。

  戦国時代の1572年、三方ヶ原の戦いで、德川 (松平) 家康は武田信玄に大敗します。
   (「家康は逃げる馬上で脱糞した」事も有名。) 翌1573年の正月、信玄から家康に手紙が届きます。

  『松枯れて 竹たぐひなき あしたかな』 
  「松平家康が滅んで、武田 (「武=竹」にかけて) 家は他に類を見ないほど安泰である」との内容。






  激怒した家康は手紙と共に、竹を切って突き刺した門松を信玄に送りつけました。
  その手紙では『松枯れで たけだくびなき あしたかな』 「松は枯れず、武田の首は無くなってしまう」と返しました。

  江戸時代、德川家の繁栄にしたがい、日本各地で現在のような竹を中央に飾る門松が広まりました。
  武田信玄ゆかりの山梨県甲府の武田神社では、竹の先を斜めに切り落とさない門松が飾られます。

  ※ 武田家が滅びた後、武田家ゆかりの家臣らは徳川家に属して、武田家復興を願いながら活躍します。

  【門松】かど‐まつ
   新年に、歳神としがみを迎える依代よりしろとして家々の門口に立てて飾る松。松飾り。飾り松。立て松。新年。
   堀河百首[冬]「―をいとなみたつるその程に春明けがたに夜やなりぬらん


  ≪ 日本で太陽暦1月1日が正月元日になったのは明治初期 ≫

  【和蘭正月】オランダ‐しょうがつ
   太陽暦の正月を祝う賀宴。江戸時代長崎の出島蘭館のオランダ人や通詞らが行なった。
   江戸では寛政6年閏11月11日(1795年1月1日)に芝蘭堂で蘭学者 大槻玄沢が賀宴を開いたのが始まり。

  【太陽暦】たいよう‐れき 陽暦。⇔ 太陰暦。 日本では明治5年12月から採用。
   地球が太陽の周囲を1公転する時間を1年とする暦。すなわち1回帰年を時の単位とする暦。
   代表的なものはグレゴリウス暦で、365日を1年と定め、4年ごとに閏日を置き、100年ごとに閏日を省き、
   また、400年ごとに閏日を省くことをやめる。

  【元旦】 … 1月1日(元日)の午前中のみ。

  【初夢】 … 元日の夜に見る夢。また、正月2日の夜に見る夢。古くは、節分の夜から立春の明けがたに見る夢。

  【書き初め】かき‐ぞめ 吉書きっしょふではじめ
   新年に初めて文字を書くこと。古来、正月2日に、吉方えほうに向かってめでたい意味の詩歌などを書いた。


  ≪ 七草粥 ≫  七草粥 年の節句の始まり「人日の節句」 東北・鹿児島の変わった七草粥

  平安前期の第58代 光孝天皇(在位884~887)が若い頃に詠んだ 「君がため・・・」の歌から、七草粥のような物も食べていた
  と推測されています。
  その皇子の第59代 宇多天皇 (在位887~897) が、芹を粥に入れて食べる習慣を宮中に広めたとも言われているそうです。

  「七種の節句」「七草の祝」「若菜の節」などと言われ、旧暦の正月7日に、春の七草を入れて炊いた粥かゆを食べる風習。
  平安時代、若菜を食べる事で1年の健康を願っていました。
  七草が邪気を払い「無病息災」を願う。正月料理の飲み過ぎ、食べ過ぎに対して、胃をいたわる。など
  として現在にも受け継がれています。






  Wiki 七草がゆ には 農文協から出版された日本の食生活全集を元に作成した、大正から昭和初期にかけての時代の
   1月7日に食されていた各地の料理の一覧があります。地域によって七草はそれぞれ

  『粒々辛苦錄』の「越後の農村生活」(年代および著者不明、越後長岡藩での農民の生活の記録)によると、
  江戸時代の関東では七草粥の風習はほとんど行われていなかったようです。

  【望粥・餅粥】もち‐がゆ
   正月15日に食べる小豆粥。後世は餅粥の意に取り、餅を入れた粥をいう。これで年占としうらをする地方が多い。


  ≪ 東北地方に残る「餅花」 ≫ 奈良の一部などでも風習が残っているようです。 熊野速玉大社の「吉兆」

  【餅花】もち-ばな 百菓辞典
   小正月(1月15日)の飾り物。わらや木の枝に餅や団子を刺して、イネの花のように作った
   もの。神棚や家の内外に飾る。まゆ玉と同じで、秋の豊かな収穫を祈るためのもの。
   農業の豊作祈願。

  【繭玉】まゆ-だま 百菓辞典
   小正月(1月15日)の飾り物。餅花と同じで、養蚕が盛んになるにしたがって、まゆの豊作
   祈願としてまゆの形に作り、餅花と一緒に飾ったもの。
   また、地域によっては、全てまゆ形に作るところもある。


  【生業木】なりわい‐ぎ
   (北陸地方で)小正月の飾り物の木。稲穂・繭玉まゆだま・果実などを木の枝につけ屋内に飾る。めおさし。餅木。
   木団子。繭玉。餅手鞠。餅花。

  【餅花煎】もちばな‐いり
   正月の餅花を貯えておき、2月の涅槃会ねはんえに煎って供物とするもの。正月の餅をあられのように切っても用いる。

  新潟県 江戸時代後期の越後長岡藩の農民の正月の食事内容など 貧富の差が大きい


  ≪ 戎祭 ≫    戎神社の総本社 西宮戎神社 人形芝居の始まり  関西の文化 十日戎と大阪締め

  主に西日本の戎神社で商売繁盛を祈願し、毎年1月9日・1月10日・1月11日に開催されています。
  兵庫県の西宮戎神社と、大阪の今宮戎神社が盛んで有名。

  【恵比須・恵比寿・夷・戎・蛭子】えびす (エビス(夷)と同源)
   七福神の一つ。もと兵庫県西宮神社の祭神蛭子命ひるこのみこと
   海上・漁業の神、また商売繁昌の神として信仰される。風折烏帽子かざおりえぼしをかぶり、鯛を釣り上げる姿に描く。
   3歳まで足が立たなかったと伝えられ、歪んだ形や不正常なさまの形容に用い、また、福の神にあやかることを願って
   或る語に冠し用いたともいう。

  【恵比須講・夷講】えびす‐こう
   商家で商売繁昌を祝福して恵比須を祭ること。親類・知人を招いて祝宴を開く。
   旧暦11月20日に行う地方が多いが、1月10日・1月20日・10月20日に行うところもある。中世末に始まり、江戸時代に盛行。

  【七福神詣で】しちふくじん‐もうで …新年に七福神の社寺を巡拝して福徳を祈ること。しちふくまいり。

  【恵比須祭】えびす‐まつり … (西日本で)不漁のとき、間直まんなおし(げん直し) のために催す酒盛り。


  ≪ 角松などを焼く儀式 ≫

  【左義長・三毬杖】さ‐ぎちょう どんど焼。さいとやき。ほっけんぎょう。ほちょじ。おにび。三毬打。
   (もと、毬打ぎっちょうを三つ立てたからという)小正月の火祭りの行事。宮中では正月15日と18日に吉書きっしょを焼く儀式。
   清涼殿の東庭で、青竹を束ね立て、毬打3個を結び、これに扇子・短冊・吉書などを添え、謡いはやしつつ焼いた。
   民間では正月14日または15日(九州では6~7日)長い竹数本を円錐形などに組み立て、正月の門松・七五三飾しめかざり
   書ぞめなどを持ち寄って焼く。
   その火で焼いた餅を食えば、年中の病を除くという。子供組などにより今も行われる。
   徒然草―は、正月に打ちたる毬杖を真言院より神泉苑へ出して焼きあぐるなり

  【道祖土焼】さいと‐やき さいのちょう。さいとうばらい。せえとんび。どんど焼。
   小正月に行う道祖神の火祭。関東・中部・北陸地方でいう。


  ≪ 秋田の行事 ≫

  【かま‐くら】
   秋田県横手地方での小正月の行事。
   子供たちが雪で室むろを作り、水神を祭り、15日の朝、その前で火を焚いて鳥追いの歌を歌う。

  【生剥】なま‐はげ
   (「なま」は「なもみ」の意)秋田県男鹿半島地方などで、正月15日夜の行事。青年数人が大きな鬼面をかぶり、蓑みのを着、
   木製の刃物・幣束・桶・箱などを携え、家々を訪れて酒食の饗応を受け、祝言を述べる行事。なもみ剥ぎ。

  【なもみ】 … 火にあたりすぎて、腕や脚などにできる斑。不精者の象徴とされる。


  【餅間】もち‐あわい
   東日本で、正月7日か8日から14日あるいは16日までをいう。餅あい。餅中もちなか。松あいさ。季語は新年。

  【松植えの節句】まつうえ-のせっく
   (東海地方で) 正月20日をいう。この日、神社の境内や山地に松を植える。
 
 成人式  書きかけ
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『今年も新成人が誕生した件』 14.02.03 放送
  毎日放送 VOICE 『20歳の門出"成人式"3年後は18歳成人どうなる?』 19.01.14 放送
  朝日放送 キャスト 『平成最後の成人式"熱唱"に"階段のぼり"も』 19.01.14 放送

  子供が大人として認められる『元服』という儀式は、平安時代~江戸時代頃は11~17歳頃に行われていました。
  現在の『成人式』は終戦直後の1946年に埼玉県の蕨市で「若者を励まそう」と始まった『青年祭』が起源とされています。
  1948年に『成人の日』が制定され、日本各地で成人式が行われるようになりました。

  外国でも様々な成人祝いや儀式が行われていますが、日本のように国内で一斉に自治体主宰で『式』という形で
  行う国は珍しいようです。






  2000年代頃から各地で派手な衣装を着るような新成人も見かけられるようになり、特に北九州や沖縄などは派手な
  だけではなく『荒れた成人式』として有名ななっています。
  テレビやネットなどで取り上げられる事が恒例となった為、一部の地域を除いて2010年代後半からは以前のような
  落ち着いた成人式に戻っています。

  民法が改正され2022年から成人年齢が20歳から18歳に引き下げられます。
  18歳時に成人式を行う事には、大学受験のセンター試験の時期と重なるなどで反対意見の方が圧倒的に多いようです。






  成人式のあり方を定めた法律はないので、開催時期や式の内容などは各自治体に委ねられています。
  京都市では18歳成人になると、和装 (支度が大変など) の機会が減る事を懸念しており、20歳時に『20歳の集い』という
  呼び方で現在の20歳成人式を続ける案を検討しているようです。
 
 2月
  NHK ニューステラス関西 13.02.01 放送 / テレビ大阪 夕刊7ch 『究極 ! 恵方巻きにまつわる"伝説"』 14.01.31 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『豆まきについて調査した件』 15.02.02 放送
  テレビ大阪 夕刊7ch 『節分』 15.02.03 放送
  関西テレビ アンカー 『各地で「鬼は外 福は内」 節分 1000人で食べる"恵方巻き"』 15.02.03 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅33 京都上京区・荒神口~滋賀大津・祟福寺跡』 15.12.10 放送
  日本テレビ 世界一受けたい授業 『村上龍 先生の「日本人なら知っておきたい伝統行事の素晴らしさ」』 16.11.12 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『ルーツを知れば面白い ニッポンの雑学SP』 18.02.16 放送

  ≪ 節分 ≫  Wiki 節分

  年に4回ある季節の変わり目の日が節分で、旧暦での年の変わり目でもある立春の前の日の『豆まき』など行事だけが
  現在でも残り広く行われています。

  【節分】せつぶんせちぶん
   季節の移り変わる時、すなわち立春・立夏・立秋・立冬の前日の称。特に立春の前日の称
   この日の夕暮、柊ひいらぎの枝に鰯いわしの頭を刺したものを戸口に立て (『邪気を払う』)、
   鬼打豆と称して炒いった大豆をまく習慣がある。

  【節分祭り】せつぶん-さい … 立春の前夜または当日、社寺で行われる祭儀。


  ≪ 節分祭 発祥の神社 吉田神社 ≫  藤原山蔭と四条流  Wiki 藤原山蔭

  清和天皇時代の859年に平安京 (794~1868年まで日本の首都) の守護神として創建。厄除け、開運の神様として有名。
  吉田神社境内には、創建に貢献した藤原山蔭 (824~888) を料理・飲食の神として祀る山蔭神社があり、毎年5月8日に
  生間流式庖丁の技を奉納します。

  吉田神社の神職である土屋晴義さんによると、
  2月の節分祭の行事の発祥のお宮でございまして、元々、宮中内でひっそりとやっていた追儺式というお祭りでした。
   それを吉田家という神職家が表に出して始めたのが、現在広まっている節分祭なんですね

  【吉田神社】よしだ-じんじゃ   吉田神社HP http://www.yoshidajinja.com/
   京都市左京区吉田神楽岡町にある元官幣中社。奈良の春日神社を藤原氏が勧請したもの。
   吉田神道の本拠地となり、大元宮が設けられた。二十二社 (国家の重大事、天変地異に奉幣使を立てた神社) の一つ。






  【追儺】つい‐な、なやらい 「鬼遣らいおにやらい」とも。   Wiki 追儺
    宮中の年中行事の一つ。大晦日の夜、悪鬼を払い疫病を除く儀式。
   舎人とねりの鬼に扮装した者を、内裏の四門をめぐって追いまわす。大舎人長が鬼を払う方相氏ほうそうしの役をつとめ、
   黄金四つ目の仮面をかぶり、黒衣朱裳を着し、手に矛・楯を執った。
   これを大儺たいなといい、紺の布衣に緋の抹額まっこうを着けて大儺に従って駆けまわる童子どうじを小儺しょうなとよぶ。
   殿上人は桃の弓、葦の矢で鬼を射る。
   古く中国に始まり、日本には8世紀初め頃、文武天皇(在位697~707)の時に伝わったといわれ、社寺・民間にも行われた。
   近世、民間では、節分の行事となる。
   954年の蜻蛉日記鬼遣らい来ぬる、とあれば」。1008年の紫式部日記滝口も追儺なやらい果てけるままに」。

  【四条流】しじょう‐りゅう
   宮中で用いる膳部料理の一流派。平安前期の藤原山蔭を祖とし、室町時代に成立。貴人の慶賀の日に鯉などを調理する
   ことを職掌とした。

  All About 『【暮らしの歳時記】冬の行事・楽しみ方(12~2月) 節分のいろは~由来』 http://allabout.co.jp/gm/gc/220741/
  甘春堂 『京の祭礼と行事(番外編) 節分と豆まきの由来』 http://www.kanshundo.co.jp/museum/saijiki_yogo/setubun01.htm


  関西テレビ 報道ランナー 『もうすぐ節分 和歌山・吉兆つくり』 20.01.24 放送

  ≪ 熊野速玉大社の「吉兆」 ≫

  節分の縁起物「吉兆」は家に飾ると幸福が訪れるとされています。柳の枝に飾りやカラフルな餅花を取り付けます。
  和歌山県新宮市の熊野速玉では1000本ほど作り、1月24日から参拝者らに販売しています。






  【吉兆】きっちょう … よいことの起こるしるし。吉事の前兆。吉徴。

  【餅花煎】もちばな‐いり
   正月の餅花を貯えておき、2月の涅槃会ねはんえに煎って供物とするもの。正月の餅をあられのように切っても用いる。


  ≪ 豆まきの風習 ≫

  節分の日は、旧暦 (太陰暦) の大晦日に当ります。現在でも、中国などでは『春節』と呼び一年で最も大切な祭日と
  なっています。豆まきで厄や鬼を追い払い、清い新年の神様を迎える風習。
  関東では成田山新勝寺での豆撒きが有名です。






  農作物に影響をもたらす寒さ → 農作物の疫病 → 病気など災いを鬼に見立てて家から追い出す。というように変化。
  鬼は鬼門の方角とされる丑虎 (北東) からやって来るので、丑 (牛) の角を生やし、虎柄のパンツを履いています。

  【太陰暦】たいいん‐れき 陰暦。
   太陰月を基として作った暦。すなわち1太陰月に基づいて、1カ月を29日あるいは30日とし、1カ年を12カ月としたもの。
   今日でもイスラム暦で使われる。広義には太陰太陽暦を含めていう。

  【新勝寺】しんしょう-じ 通称、成田不動
   千葉県成田市にある真言宗智山派の大本山。山号は成田山
   940年 (天慶3) 寛朝 (916~998) が神護寺じんごじ (京都高雄の真言宗の寺、平安初期は和気氏の氏寺) 護摩堂の
   本尊不動明王を奉じて平将門の乱平定を祈り、平定後 堂宇を建てたという。元禄年中、現在の地に移建。

  作家の竹田恒泰さん (明治天皇の玄孫やしゃご) によると、豆撒きの由来は『古事記』にあるそうです。
  イザナギが黄泉の国にイザナミを迎えにいった時、イザナミとの約束を破り姿を見てしまった事から追われる事になります。
  この際にイザナギが追っ手に投げつけたのが桃の実。桃の実の霊力を豆に授けて代わりに撒くようになった。

  桃は中国の神仙思想で長寿など霊力を持った果実とされており、奈良県桜井市の纏向遺跡からは大量の未成熟な桃の実が
  発見されて、卑弥呼または巫女が儀式に使っていたと考えられています。  邪馬台国の最有力候補地の纏向遺跡

  【神仙思想】しんせん‐しそう
   中国古代の神秘思想。山東省の神山信仰に端を発し、不老長寿の薬を求め、煉丹術を生んだ。
   太平道・五斗米道ごとべいどうなどにも影響を与え、道教の中にとりこまれた。

  桃太郎伝説では、鬼門の反対にある裏鬼門の申 (猿)・酉 (鶏)→雉・戌 (犬) が、お供になっています。
  未 (羊) は当時日本に居なかった事から、西半分 (陽)に当たる犬が選ばれたようです。

  また、竹田恒泰さんによると、浦島太郎伝説は古事記の海幸彦・山幸彦の話に起源があるそうです。
  京都の825年創建の浦嶋神社が有名で、浦島太郎伝説は実話という見方もあります。(竜宮城は青森にあった説もあります)


  江戸川大学の斗鬼正一 民俗学コース教授による『豆まきの作法と注意点』 地域によって異なります。

  ・ 鬼は夜に忍び込んでくる為、豆まきは夜に行うのが望ましい。
  ・ 一家の主人が鬼を家から追い出す主役なので、お父さんが鬼役になるのは間違い。
  ・ 中国で五穀の一つの大豆は、特に強い霊力を持つ豆と考えられてきた。
    落花生は魔除けにならない
  ・ 厄を豆に付けて捨てるので、豆が芽を出すと縁起が悪い。芽が出ないように炒った
    大豆を使うこと。
  ・ 「鬼は外」と「福は内」を交互に口に出してはいない。


   落花生で豆まきする地域は北日本と九州に多いようです。昭和30年頃から始まったようです。







① 家の全ての窓と扉を開放。
② 奥の部屋から順番に「鬼は外」と言って豆を戸外に撒き、撒き終った部屋から
  窓や扉を閉める。
③ 戸締りをして玄関から奥の部屋へと「福は内」と言って室内に豆を撒く。
④ 数え年 (満年齢+1) の数の豆を食べる。
  「福は内」で室内に撒いた豆を食べた方がいい。
  『物忌み』(飲食をつつしみ身体を浄め不浄を避け諸神を祭る。縁起をかつぐ。
  などの意味の風習) として神聖な時間を表現する為に無言で食べたり、過ごしたりする。

  豆まきの行事をする人は、約37% (2014年 マイボイスコム調べ)


  ≪ 節分の日にイワシを食べる風習は西日本 ≫

  竹井恵美子 『「節分の食」今昔』『大阪学院大学通信』31-11 2001 P.136-137 によると
  節分の日に節分イワシ、あるいは年越しイワシと呼んで行事食としてイワシを食べる風習は、近畿と中国・四国地方に
  多いもので、関東ではあまり行われなかった。


  ≪ 大阪船場発祥 恵方巻き ≫  恵方巻き なんと、此花区発祥説があった。  海苔と海苔巻き寿司 巻き寿司は江戸発祥、希少な大阪海苔。

  恵方巻きには諸説ありますが、大阪中央区の船場発祥という認識が一般的。
  江戸時代から船場を中心とした関西だけの習慣でしたが、1989年、セブンイレブンが広島で試験発売。
  1990年から全国的に売り出した事で、現在では多くの地方でも食べられているようです。

  ① その年の恵方を向く。 ② 無言で願い事を念じながら食べる。 ③ カットしてない巻き寿司1本を食べきる

  恵方の神様と向き合い、無言は豆まきの風習と同じく『物忌み』から。海苔で福を巻き込むので切るすると縁起が悪い。

  ※ こういう ご飯系の習慣が広まるのには、主婦の「毎日のメニューを考えるのは大変なので、決まっている方が楽でいいわ」
    的な事が背景にあるような気がします。 最も重要なのは、海苔の消費と寿司屋を儲けさせる事のようです。






  【恵方 えほう 「吉方」とも書く。
   古くは正月の神の来臨する方角。のちに暦術が入って、その年の歳徳神(としとくじん )=恵方神(えほうがみ)のいる方角。

  【船場】せんば
   大阪市の中央部、東西をかつての東・西横堀川、北と南を大川および長堀川によって囲まれた南北に長い長方形の地。
   北浜や御堂筋などを含む問屋街・金融街。





 
 3月
  関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『関係者困惑「お水取り」がピンチ!?』 17.02.10 放送

  ≪ 奈良・東大寺の御水取り ≫

  奈良時代から行われている東大寺の伝統行事『修二会』は、2017年 (3月1~14日間) で1266回になります。
  関西では、この御水取り行事が終了した頃より、冬の寒さが無くなる目安とされています。

  【御水取り】お-みず-とり
   東大寺二月堂の行事。3月 (もとは陰暦2月) 13日未明、堂前の若狭井わかさいの水を
   汲み、加持し、香水とする儀式。修二会しゅにえの行事の一環。季語「春」。

  御水取りの松明たいまつとして僧侶が担ぐ竹は長さ約6m、重さ約60㎏になります。
  太さもある程度決まっており、3年以上かけて竹を選出するそうです。
  約40年前から竹を供給している京都府京田辺市では、イノシシによる竹の子の食害が発生
  しており、条件に合う真っ直ぐな竹が育たなくなっているという問題が発生しています。



  NHK Eテレ 美の壺・選 『File.301 ひな人形めぐり』 15.03.01 放送
  朝日放送 おはようコールABC 『おきトク 「ひなまつりを楽しむ おススメ情報」』 15.03.02 放送
  NHK ニューステラス関西 『船場伝統のひな祭り』 15.03.03 放送
  TBS 世界ふしぎ発見 ! 『北陸新幹線開業 ! 前田家加賀百万石 北陸三都物語』 15.02.28 放送

  ≪ 中国 草餅の節句 ≫ 百菓事典 より

  周の幽王の頃、3月3日の曲水の宴に、草餅を献上する人がいた。幽王はたいへん喜び、宗廟に献じたところ、
  国は太平になったという伝説があり、3月3日の雛の節句には、草餅を祖霊に供えるようになったと言われている。


  ≪ ひな祭り ≫  桃の節句。  徳島県 独自の遊山箱 大正~昭和初期 子供たちの為に作られた愛情が詰まった重箱

  3月3日の上巳じょうしの節句に、女児のある家で幸福・成長を祈って雛壇を設けて雛人形を飾り、調度品を具え、
  菱餅・白酒・桃の花などを供える行事。雛遊び。ひいなまつり。ひなえ。






  平安時代、節句の折に『形代かたしろ』を身代りにし穢れを払う風習がありました。(流し雛の起源)。

  また宮中での子女の『ひゐな遊び』が、江戸時代になって (現在と同じ) 雛段の様式が出来ました。
  庶民にも伝わり、雛人形を買えない家庭でもできるだけ豪華なように見せる為、工夫を凝らしたので、日本中で様々な
  雛人形があるようです。

  近年まで、子供が幼くして亡くなる事が多かったので、端午たんごの節句、七五三や十三詣りなど、子供の成長を祝う
  行事がありますが、雛祭も、子供(女の子)の成長を願う親の思いが多く込められた儀式の一つとして発展しました。

  【雛遊び】ひいな‐あそび
   雛人形に種々の調度などを供えて飾ること。平安時代から貴族の子女の遊び。ひなあそび。雛事。

  【雛合】ひいな‐あわせ
   物合ものあわせの一つ。雛人形を持ち寄って、その優劣を争う。中務集七夕の絵の中宮の雛合に

  【中務】なかつかさ
   平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。
   醍醐天皇の皇弟 中務卿 敦慶親王の王女。母は伊勢。天暦・天徳歌合の作者。家集「中務集」がある。

 

 

明治40年頃の押絵ひな掛け軸

大正・昭和時代の土雛


  左に雌雛 右に雄雛 が日本の元々のスタイル。京都では現在でもこの並びを継承しています。
  雄雛は天皇陛下、雌雛は皇后陛下を模ったとも言われています。
  関東に多いスタイルは昭和初期に西洋化の並びスタイルに並び変えたものだそうです。

  【七五三】しち‐ご‐さん
   男子は3歳と5歳、女子は3歳と7歳とに当たる年の11月15日に氏神に参詣する行事。七五三しめの祝い。

  【十三参り】じゅうさん‐まいり
   旧暦3月13日(今は4月13日)に、13歳の少年・少女が盛装して、福徳・知恵を授かるために、虚空蔵こくうぞうに参詣
   すること。当日境内で13品の菓子を買って虚空蔵に供えた後、持ち帰って家中の者に食べさせる。京都嵯峨の法輪
   寺が有名。知恵詣。

  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿国宝めぐり④ 淡嶋神社から根来寺を目指せ」』 13.01.02 総集編 放送
  テレビ大阪 ニュースリアル 『天気予報』 15.11.19 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『この度の旅 「和歌山・加太編」』 16.03.03 総集編 放送
  読売テレビ ten. 『和歌山・友ヶ島の戦跡 今も残る京阪神を守る砦』 19.08.14 放送
  読売テレビ ten. 『人形供養で有名 女性の信仰を集める1700年の古社 淡嶋神社の歴史と魅力に迫る』 19.08.21 放送

  ≪ 雛祭りの起源 女性のための古社 和歌山市 淡嶋あわしま神社 ≫

  和歌山市加太にある淡嶋神社が雛祭りの起源の地だそうです。起源を含めると1700年の歴史になるようです。
  友ヶ島にゆかりがある神功皇后が島の御祭神であった少彦名神を崇めていました。
  およそ1600年前の古墳時代、孫にあたる仁徳天皇が友ヶ島の対岸に少彦名神を祀る社を移し、淡嶋神社を創建。

  友ヶ島は4つの島 (沖ノ島・神島・虎島・地ノ島) からなり、淡路島と紀伊半島の間にあって、太平洋から大阪湾へ入る
  航海の要所。明治~昭和時代、外国船の大阪湾への侵入を阻止するため、淡路島の由良・和歌山県友ヶ島・加太に
  多くの砲台が置かれました。特に由良と友ヶ島には国内一級の軍事要塞が作られ紀淡海峡防衛が行われていました。
  これらの施設跡は観光スポットになっています。

  淡嶋神社の前田智子 宮司によると、少彦名神 (スクナ祭り) が「ヒナ祭り」へとなっていったそうです。
  仁徳天皇が加太に社を移した3月3日に奉納された雛人形の一部を3隻の小舟に乗せて、女性の幸せを祈願し
  海に流す神事が行われています。この小舟を海まで担ぐのは女性のみ。

  【少彦名神】すくなびこな‐の‐かみ、すくなひこな-の-かみ
   日本神話で、高皇産霊神たかみむすひのかみ(古事記では神産巣日神かみむすひのかみ)の子。
   体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当たり、医薬・禁厭まじないなどの法を創めた
   という。

  【淡島】あわしま
   ① 日本神話で伊弉諾尊いざなぎのみこと・伊弉冉尊いざなみのみことが生んだという島。(← 淡路島の事だと言われています)
   ② 日本神話で少彦名神がそこから常世に渡ったという島。
   ③ 和歌山市にある淡島神社。祭神は少彦名神。各地に分祀。婦人病に霊験があるとされる。また神の名を針才
    天女とも伝え針供養が行われる。加太かだ神社。淡島 (粟島) 明神。あわしまがみ。
   ④ ③のお札や神像を入れた厨子を負って、その由来を語りながら門付けをした遊行者。淡島願人。淡島殿。

  【淡島物】あわしま-もの
   淡島の信仰や淡島願人の風俗をとりいれた歌舞伎踊作品の総称。
   「粟島園生竹そのうのたけ」「関東小六後雛形のちのひながた」など。

  日本発祥の地 兵庫県南あわじ市の自凝島神社 自凝島 (淡路島)






  年間20~30万体が供養されています。参拝時間は午前9時~午後5時まで。羽子板・お面など顔がある物であれば
  奉納が可能ですが神社に持参する事が条件で郵送は不可。奉納料は決まっておらず奉納者の気持ちで、別途焼却料
  が必要になる場合もあるようです。供養後一定期間、境内に飾られて後にお炊き上げされます。

  紀州德川の10代藩主・徳川治宝が雛蔵を建立、古くからの雛人形などが安置されています。
  宝物殿には、江戸時代中期に紀州徳川家が姫の初節句に奉納した雛人形などが多数展示されています。
  心霊番組などで取り上げられる髪の毛が伸びる人形などは、宝物殿の地下に安置されているようです。

江戸時代中期の紀州徳川家





大阪道修町の少彦名神社


  少彦名神は医学の神様として信仰されおり、薬種問屋が多く有った大坂道修町に1780年に少彦名神社が創建され
  神農祭が11月22~23日に行われています。

  淡嶋神社では婦人病などで悩む女性が病気平癒を願って下着を持参して奉納。遷使殿せんしんでんは神使のカエルが
  祀られていて恋愛祈願ができます。

  江戸時代中期に紀州ミカンなどを大坂から江戸へ運び、幕府御用達の材木商として江戸でトップレベルの豪商に
  成りあがった紀州商人の紀伊国屋文左衛門 (~1734年) が、江戸へミカンを運んだ船の帆柱があり、この柱の穴を
  くぐると願いがかなうとも言われています。

婦人病回復祈願、下着を奉納

恋愛祈願、神使を祀る遷使殿

紀伊国屋文左衛門の船の柱

兵庫、東光寺の人形供養


  兵庫県西宮市の門戸厄神 東光寺では、40年ほど前から毎年11月19日に人形供養の法要が行われています。
  ひな人形・日本人形・ぬいぐるみなど1万体以上集まるそうです。

  捨てられない ぬいぐるみをリサイクルして外国へ寄贈する支援会
  江戸時代は輸入薬をほぼ独占。多くの医薬品会社の発祥地、大阪船場道修町
  橘=菓子の起源 日本で初めて橘が植えられた場所と推定される和歌山県海南市


  ≪ 流し雛 ≫  京都の下賀茂神社 (左) と 鳥取県 (右画像) が有名。




  【雛流し】ひな‐ながし
   3月3日の夕方、紙などで作った雛人形を川や海に流すこと。祓はらえの形代を流したことに由来する行事。雛送り。
   川や海に流す雛人形=流し雛。雛はもと人形ひとがたとして、神送りするものであった。


  ≪石川県 加賀100万石 前田家「眞龍院」のひな人形 ≫

  加賀藩は金沢城内に御細工所を作り工芸技術を確立。
  その技術を広く藩内に広めた事で、金沢は伝統工芸で有名になりました。

   ※ 江戸時代は加賀米は品質が劣るとされたので、工芸品に力を注いだのかも知れません。
     加賀の伝統工芸は京都の職人が前田家に招かれて技術を伝えた物が多いようです。

  【加賀米】かが-まい
   加賀国産の米。品質が劣るとされた。西鶴織留一つ釜の―に、はしらかし汁、鰯菜いわしさいも同じやうにすわりて」。

  【西鶴織留】さいかく-おりどめ
   浮世草子。北条団水編。6巻6編。
   井原西鶴の未完成の「本朝町人鑑」と「世の人心」を合わせて、その没後1694 (元禄7) 年に刊行。

  【走らかし汁】はしらかし-じる
   ざっと煮ただけで、手軽にこしらえた汁。また、味噌を入れただけで実のない汁。

  兼六園 (1818~1830年に創設) 内にある成巽閣は13代藩主の前田齊泰なりやすが、母親の眞龍院の為に加賀の工芸の
  粋を集めて建築した御殿。『かわいらしい』をテーマに、小さなもの、愛らしい物を集めてあるそうです。






  12代藩主の齊廣が、妻の眞龍院に贈った『次郎左衛門雛』と、ひな人形用の御輿『梨子地梅鉢紋唐草蒔絵雛道具』も
  成巽閣で展示されています。

  【加賀蒔絵】かが-まきえ
   金沢で発達した蒔絵。江戸前期に五十嵐道甫が基を開く。蒔絵の諸技法を駆使した精巧な作風が特徴。

  【五十嵐道甫】いがらし-どうほ (生年不詳~1678)
   江戸前期の蒔絵師。通称、忠三郎。五十嵐信斎 (室町時代の蒔絵師。五十嵐派の祖。足利義政に仕えた名工) の後裔。
   京都に住む。前田利常に招かれ金沢に赴き、加賀蒔絵の基を開いた。


  ≪ 大阪船場 旧家のひな人形 ≫ (2015年の船場のおひなまつり 2月27~3月4日春の船場博覧会 入場無料)

  2015年のひな祭では、船場の旧家に伝わる3家の雛人形が初めて一斉公開されました。
  江戸時代末期に貿易商として財を築いた芝川家では、大正~昭和初期頃に購入した関西と関東の雛人形が並べて展示。
  船場で証券業を営んでいた新井家のは珍しい豪華な御殿雛。昭和初期に新井家の当主が孫に贈った物。




  船場の少彦名神社では茶道具が多く揃えられた雛人形のセット。現在の宮司 別所俊顕さんの祖母が、明治末期に
  神社に嫁いだ時に持参してきたもので、お茶屋の娘だったそうです。飾られたのは50年ぶり。

  大阪の押し寿司を完成させたと言われる吉野寿司では、60年ほど前からミニチュアの『ひな寿司』を限定販売しているそうです。




  ※ 大阪府藤井寺市でも古くからの雛人形を公開している御宅があります。


  ≪ 静岡県 稲取 ≫

  キンメダイで有名な港町。こちらでは雛人形を飾る『つるし飾り』という風習があります。素戔嗚神社や役所、温泉旅館でも
  飾られます。稲取で最も古い『つるし飾り』と言われているのが、黒田益之さん宅に伝わる江戸時代末期のもの。






  黒田さんによると「うちの過去帳を見ると、幼い子がよく亡くなっている。無念だと思う。そういう思いがこの中にこもっている。」
  つるし飾りは縁起の良い奇数の糸と、縁起を担いだ飾り物を1つの糸に奇数コ付けます。






  最も多い猿は『厄がさる』ように。次に多いのが三角。桃は『不老長寿』など。
  三角は女性が厄年に斬る長襦袢の模様に使われており、薬入れの袋も三角が多かったそうです。

  ※ 江戸時代、1765~1840年の川柳を選び集めた誹風柳多留はいふうやなぎだるには「三角はめでたい薬袋なり」とも記されて
    おり、正月の屠蘇袋の異称でもありました。(広辞苑より)


  ≪ 愛知県三河郡足助あすけ町の土人形 ≫

  江戸時代頃から、足助は尾張と信州を結ぶ街道として栄えました。春になると街道の店々などがお雛様を飾り街を彩ります。






  足助の付近は良質な粘土に恵まれ瓦の産地として有名。土人形は欠けると、田んぼの土に戻し、また新しい土で作るサイクル。
  昭和20年代には三河地方の農村歌舞伎が流行り、娯楽の少ない時代に歌舞伎は子供たちの憧れでした。
  子供たちの為に、ヒーロー・ヒロインなど歌舞伎の登場者を模した土人形が多く作られたました。

  粘土で作られた土雛や土人形は祝いの品として親戚が贈る風習があり、これら全ての土人形を雛段に飾るのが普通だそうです。






  寒暖の差が大きい足助では粘りがある良質な竹が育ちます。神谷武さんは、その竹だけを使用して2ヵ月かけて雛人形一式を
  作りあげました。神谷さんが子供の頃には遊ぶものといえば竹しかなく、竹を加工して水鉄砲や竹とんぼを作っていたそうです。


  ≪ 和歌山県 南紀勝浦ビッグひなめぐり展 ≫  読売テレビ かんさい情報ネットten. 15.02.25 放送

  那智勝浦町で開催された『ビッグひなまつり展』では、
  2011年の台風12号の被害を受けた街を盛り上げようと
  開催したものだそうです。

  町内だけではなく、県外からも集まったおよそ1万3300体の
  ひな人形を展示。(2015年2月25日~3月3日)。


  【雛荒し】ひな‐あらし … (中国・四国地方で)3月3日の雛祭の供え物を、子供たちがもらい歩くこと。
  【雛の使】ひな‐の‐つかい … 3月の節句に、雛を調度とともに乗物にのせて親類へ遣わす使い。


 [ひな菓子] 広辞苑 / 東京堂出版 洋菓子・和菓子・デザート 『百菓辞典』 平成9年8月30日 初版 山本侯充 編

  ≪ 引千切ひきちぎり

  宮中の祝事に用いていたもので「いただき餅」が起源。京都では白餅かヨモギ餅を丸いスプーンの形に作り、
  柄のところを引き千切ったようにし、スプーンの窪みの部分に餡を乗せる。
  近年、餅に着色したり、餡の替わりに金団きんとんを乗せる事もある。

  【戴餅】いただき‐もち … 糝粉しんこを円く平たくしてくぼめ、小豆餡あずきあんをのせたもの。4月8日の灌仏会に用いた。

  【灌仏会】かんぶつえ
   4月8日に釈尊の降誕ごうたんを祝して行う法会。降誕会。仏生会。竜華会。花祭。
   花で飾った小堂(花御堂はなみどう)を作り、水盤に釈尊の像(誕生仏)を安置し、参詣者は小柄杓で甘茶
   (正しくは五色の水)を釈尊像の頭上にそそぎ、また持ち帰って飲む。日本には中国から伝わり、
   606年に元興寺 (596年創建の飛鳥寺を718年に平城京に移してからの称。
   南都七大寺の一つ) で行われたのを最初とし寺院・宮廷・民間の行事として広まる。

  毎日放送 ちちんぷいぷい 『リアル世界くん 「台湾で流行しているもの」』 13.02.08 放送
  日本テレビ 世界一受けたい授業 『村上龍 先生の「日本人なら知っておきたい伝統行事の素晴らしさ」』 16.11.12 放送

  ≪ 菱餅ひしもち 百菓辞典 など

  菱の実を粉にして作った餅。雛の節句に供える餅。
  江戸時代頃は、草餅の間に白餅を挟んだ2色3段の菱形に切った餅。
  明治時代頃から、桃の花を表す紅・雪を表す白・草を表す緑の3色を重ねる事が定着したようです。
  また、地方によって (白・青・紅・緑・黄) の5色の菱餅を飾るそうです。

  【菱・ 芰】ひし 
   ヒシ科の一年生水草。池沼・河川に自生。根は泥中にあり、葉は菱形で水面に浮き、
   葉柄は浮嚢状にふくらむ。夏、白色4弁の花を開き、鋭い角状の突起のある堅果を
   結ぶ。種子は食用。
   「ひしの花」は夏、「ひしの実」は秋 が季語。万葉集[7]「君がため浮沼うきぬの池の
   菱採ると

  台湾の夜市では菱の実を蒸した物が売られており、2013年の為替換算で300g 約250円。
  ナッツのようなもの。



  関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『みんなの?ギモン 「なぜ? 東西で違う"ひなあられ"」』 17.03.03 放送
  All About 『ひなあられ、東西で違うってホント?』 https://allabout.co.jp/gm/gc/220646/

  ≪ 雛あられ ≫  Wiki 雛あられ  Wiki ポン菓子   雛祭りの起源 女性のための古社 和歌山市 淡嶋神社

  大別すると西日本の関西風「もち米 塩・しょうゆ味が基本」と、東日本の関東風「うるち米 砂糖味のみ」になります。

  関西風はあられ餅。砂糖味・糖衣したもの・海苔塩・チョコでコーティングしたものなどバリエーションが豊富。
  関東はポン菓子を糖衣着色した米粒大のものが基本。( 「あられ」ではないので、「雛ポン」です。)

  【雛霰】ひな‐あられ
   3月3日の雛祭に供えるあられ。蒸した糯米もちごめを乾して煎り、砂糖をかけて熱しながらほぐして乾かしたもの。






  日本おかきせんべいソムリエ協会 田澤秀樹 理事長によると
  ルーツには諸説ありますが、平安時代の「ひいな遊び」で、外に持って出る際の携帯食として、菱餅などを砕いて作った
  お菓子が雛あられの起源。

  平安時代頃の雛人形は紙などで作ったもの。地方の一般庶民の間では昭和の戦後以降に現在と同じ雛人形が広まった
  ようです。
  江戸時代の上方ではお人形さんごっこをする抱き人形なども雛人形としていたようで飾り雛の中古店は少なかった。
  江戸では現在と同じく飾り雛のみで、雛段に飾る調度品の中古店も多かったようです。
  大正時代頃の豪商の家には雛人形は段飾りの豪華なものが残っています。

  【雛遊び】ひいな‐あそび
   雛人形に種々の調度などを供えて飾ること。平安時代から貴族の子女の遊び。ひなあそび。

  【菱餅】ひし‐もち
   ① 菱の実を粉にして作った餅。 ② 菱形に切った餅。紅・白・緑の3色を重ねて、雛の節句に供える。ひしがたもち。春

  大阪府池田市にある (関西での雛あられの定番となっている) おかきメーカー『とよす』の豊洲牧子さんによると
  とよすでは、昭和30年頃から5色の雛あられを発売。昭和40年頃に当時人気だったチョコレートをコーティングしたあられを
  開発し追加。






  関東風の由来は江戸時代。「(江戸では糯米の流通が少なかった) 米を炒って作った爆米はぜという菓子」、
  「日頃からお釜に残ったご飯粒を干して保存しておき、その干し飯をあぶって作った」。これらを『雛あられ』として食べたなど
  諸説があるようです。

  赤は「魔除け」、白は「清純さ」、緑は「長寿」を願ったもの。(諸説あり)。とも言われているようです。意味は後付けのようですが。

  【粶・爆米・葩煎】はぜ
   糯米もちごめを炒って爆ぜさせたもの。紅白などに染め分けて、雛の節句などの菓子用にする。
   近世には、年賀客に出したり、蓬莱ほうらい台の下に敷いたりした。〈日葡辞書〉






  1946 (昭和21) 年、日本での最初のポン菓子機は福岡県北九州市で誕生しました。

  京都市右京区にある大正12年創業の京あられ・おかきの店『鳴海屋』では、東西の雛あられを製造販売。
  昭和35年頃に関西風、昭和53年頃にポン菓子機を導入したのがきっかけで関東風も製造開始したそうです。

  現在食べられている雛あられが庶民に広く普及したのは昭和30年代の頃と推測できそうです。

  北海道小樽市の『オタル製菓』が販売するものは「角型のおかき」といった見た目ですが、花林糖かりんとう (小麦粉に砂糖を
  加えて油で揚げて乾燥させたもの) で作られているそうです。
  関西での「かりんとう」は黒砂糖で糖衣された「黒かりんとう」が一般的です。

  新潟県では長岡市の『越後製菓』の雛あられが主流のようです。関西風とほぼ同じあられですが、隠し味にマヨネーズを
  使ったものがあり好評だそうです。

  愛知県では関西風と関東風が混在。名古屋市の『吉松』では円柱形の雛あられを販売し、うっすら甘くミルク煎餅に似た
  味のようです。
  ミルクせんべいは、練乳を挟んで食べる大阪の駄菓子。東京などではあまり見かけられないようです。

  NAVERまとめ 『地方のひな祭り!個性豊かなローカル雛菓子まとめ』 https://matome.naver.jp/odai/2139023072374444701

  大阪のデパートでは関東風の雛あられなども売っているので、他の都市でもデパートに行けば色んな雛あられを入手する
  事ができると思います。

  赤は「魔除け」、白は「清純さ」、緑は「長寿」を願ったもの。(諸説あり)。とも言われているようです。意味は後付けのようですが。


  【五色豆】ごしき-まめ 百菓辞典
   京都の名物。着色した豆で、5色あるためにこの名がある。五色は宮中五節句の色、
   五行の思想に基づくもので、赤は火、黄は土、白は金、黒は水、緑は木を表す。
   黒は忌み嫌われることから、褐色に換える場合もある。
   青えんどう、白えんどうを煎って、砂糖の衣がけしたの。赤、黄色は食用着色料、
   茶色は肉桂末、緑色は青海苔をまぶすなどして作る。
   応仁の乱以後、後土御門天皇の頃、比叡山の高僧 傅戒国師真盛上人が、茶菓子
   として作ったもので、初めはえんどうの煎豆を粉砕して丸めていたが、砂糖が使える
   ようになってから、現在の形になったもの。


  【十六団子】じゅうろく-だんご
   3月16日と11月16日とに、団子を16個神に供える風習。東日本に多く、3月は神が山から田へ下りてくるのを迎え、
   11月は神が山へ帰るのを送るものという。
 
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