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【 飯 】 |
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≪ 江戸時代 ≫
【守貞謾稿】もりさだまんこう Wiki 守貞謾稿
(「守貞漫稿」とも)随筆。喜田川守貞(砂糖商北川家。大坂の人、1810~?。1840年に江戸深川に定住) 著。30巻、
後編4巻。1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗
研究に不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行。
江戸時代の幕末『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類「飯」
「今三都ともに皆各粳米を釜中に炊き更に他穀を交えず鄙は米のみの飯を食す所もあれども多くは麦を
交えて食す。粳一種の釜飯を俗こめのめし又は しろめしとも云。赤粳に對す言う也。…」 鄙ひな…都を離れた田舎
赤粳に対して、粳米のみで炊いた飯を「米の飯」「白飯」と言うとあり、赤粳うるちは赤米と思われます。
田舎では米のみを食べる所があるけども、多くは麦を混ぜ、例として麦7割・米3割 (割合は決まっていない) 混ぜる。
三都では麦を混ぜる人もいるが稀であり、麦飯を食べる時はとろろ飯で青のりか、大根おろしや薬味を加えた鰹節の
出汁をかける。などと書かれてあります。
【赤米】あか-ごめ
① 外来の下等米の一品種。小粒で味は悪いが、炊くとよく増えるので、貧しい人々の間で広く用いられた。
大唐米たいとうごめ。唐法師とうぼし。1686年 井原西鶴の好色一代女[4]「よそは皆―なれども、此方は播州の天守米」
② 古くなって赤みを帯びた下等米。 ③ 赤みを帯びた古代米
【天守米】てんしゅ-まい … 城の天守にたくわえておく米。城米。転じて、上等の米。
【糅飯】かて‐めし … 米に他のものをまぜてたいた飯。かて。
京坂は昼に飯を炊き、夕食に2~3種のおかず。但し、大きな商家は日に2回飯を炊きます。
江戸は朝に飯を炊き、昼に1種類のおかず。
近世後半における百姓の米の消費量とその地域性 http://hist-geo.jp/img/archive/179_043.pdf
埼玉県HP 『埼玉県の麦類について』 https://www.pref.saitama.lg.jp/a0904/komemugidaizu/mugi.html
『昭和30年代頃まで、埼玉の日常食は押麦に白米を混ぜた麦ごはんが一般的でした』
埼玉で小麦の栽培が盛んになったのは昭和になってから 麦王 権田愛三
江戸時代の幕末『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類「飯」
「…平日の飯 京坂は午食 俗に云ひる ひるめし或は 中食と云ひ炊レ之 午食に煮物或は魚類又は味噌汁等 二三種を
合せ食す
江戸は朝に炊き味噌汁を合せ晝と夕は冷飯を專とす 蓋 晝は一菜をそゆる菜蔬 或は魚肉等必ず午食に供す 夕飯は
茶漬に香の物を合す
京坂も朝飯と夜食には冷飯茶 香之物也 蓋 三都とも右には概略にて 其専多きもの也
巨戸大店には三時飯を炊ぎ 三時菜汁を合すもあり 然れども夫は稀也 右に云物を專とする也 又 三食の内 二炊し
一食冷飯を用ふもあり 小戸と云ども時によりて必らす一炊に非ず
又 京坂は右の如く手炊を專とずるが故に 冬日は朝夕に冷飯を茶漬にして食するに冷にして良ならず 此故に宿茶に
鹽を加へ冷飯を再炊し粥となして專ら食レ之 號て 茶かゆと云 或は これに さつま芋を加ふもあり 又 宿飯なき朝は
粳を炊くに水を甚だ多くし 白がゆとして食すもあり 白糜には しほを加へず
江戸は大概 朝炊なる故に粥を食せず 幼より不レ食レ之 故に適々病床にても食レ之 得ざる人多く 然も京坂にて
食レ之を強ちに吝とのみ思へども 京坂にては幼年より食レ之 故に儉のみに非ず 好レ之食す者も多し 蓋
其始めは儉より出て 今は漸に馴れて好レ之者ならん
又 京坂は未刻比に八ッ茶と號けて所謂點心を食す 蓋 短日には不レ食レ之 永日の比は專ら食レ之 多くは茶漬飯を
食すもあり 江戸にては三時の外に例として食すこと無レ之
又 冬日の朝飯冷飯を味噌汁を以て再炊雑炊とするもあり稀也 江戸人は かゆより雑炊を食す人あり…」
「晝=昼」「蔬=ショ、ソ、あおもの」「鹽=塩」「號=号 よびな」「糜=粥かゆ」「儉けん=慎ましい」「吝=けち」
「漸=ようやく」「刻=12時」「比=頃」「所謂=いわゆる」「點心てんしん=点心 (軽い食事、ブランチ)」
「短日たんじつ=冬の昼間の短い日」「永日えいじつ=日中が長いこと、特に春」
【五色茶漬】ごしき‐ちゃづけ … 江戸時代に、5種の菜および香の物を添えて供した茶漬け飯。
江戸時代の幕末『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類「「粥」
「…茶かゆは專ら冷飯に煎茶を多くし塩を加へ再炊するもの也…」
茶がゆは煎茶を多く入れて塩を加えて炊き直したもので、さつま芋などを加えた物もある。京坂では昼に飯を炊くので
冬の日の朝夜は冷や飯を茶漬けで食べるのには冷たいので、茶がゆにして食べていた。
余りの御飯が無い時の朝は白粥を炊いた。
白粥は茶かゆに対する言い方で、水を多くして炊いた物で塩は加えない。
江戸では朝に飯を炊くので、粥を食べる習慣がなく、味噌汁で炊き直したおじや (京坂では雑炊) を食べる。
白粥は病気の時でも食べない人が多い。京坂では幼少の頃より食べ馴れているので、好きな人もいる。
幕末~明治初期の『皇都午睡』三編 上之巻
「茶粥と餅茶は食する者少なく粥といへば白粥しらかゆなり 正月の雑煮も上方の莖立くぎたてにて菜を入れたる
すましなり 餅に小餅なく大方 切餅にて 味噌雑煮を大坂雑煮と云ふ 小豆粥は砂糖を皿に入て出し岡入おかいれに
して喰ふ也 お錺餅をお備へ、油揚を胡麻揚、飛龍臼ひりょうすを鴈もどき、味噌汁をおみおつけ、醤油を下地したぢ、
すましをお志たじ…」
江戸では茶粥や餅茶を食べる人が少なく、白粥ばかり食べていた事が分かります。
また江戸での食用油は菜種油ではなく、胡麻油が一般的だった事も分かります。
「莖=茎」「錺=飾」「鴈=雁がん」「志=し」 「岡入=傍おか入で、「別添え」という意味だと思います」
【下地】したじ
広辞苑の⑤ (味つけのもとの意で) 醤油。また出し汁など。「割―」
明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文
炊飯は、平安時代の『和名抄』では「かしき-かて」と読み、雑炊類の古称の事。
【炊ぐ】かし・ぐ (室町時代まで清音) … 米・麦などを煮または蒸して飯とする。めしを炊たく。
『守貞謾稿』上巻 第五編生業下の「御鉢いれ賣」
「京坂にては「おひついれ」 江戸にては「おはちいれ」 ともに飯器を納る畚を云 冬月 飯の冷ざるに備ふ品也
古くよりあるには非るべし 京坂は飯器に應じて橢圓に製造す」
「畚ふご、もっこ、あじか、もっこう= (竹や藁で編んだ運搬する具など)、江戸は図があり円形」
「應じて=応じて」「橢圓だえん=楕円」
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江戸時代後期の1802 (享和2) 年には江戸時代唯一の炊飯専門書『名飯部類』大坂で刊行されており、上方では
混ぜご飯や雑炊など多くのバリエーションで白米を食していた事が分かります。
江戸時代中期の各料理本にも多数の飯の食べ方が記載されています。
麦茶は平安時代から飲まれていました。江戸時代の茶は抹茶またはほうじ茶が普通で、1738(元文3)年に京都の
永谷宗七郎ながたに-そうしちろう (のちに宗円、1681~1778) が煎茶の製法を開発。
全国的に煎茶が飲まれるようになったのは明治時代。 煎茶と茶漬け
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大坂では混ぜご飯のバリエーションが豊富 |
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≪ 大坂では混ぜご飯のバリエーションが豊富 ≫
江戸時代後期の1802 (享和2) 年に大坂で刊行された『名飯部類』は江戸時代唯一の炊飯専門書。
【名飯部類】めいはん-ぶるい コトバンク より
『江戸時代の料理書。著者名の記載はないが、大坂の医家、杉野権兵衛(ごんべえ)、あるいは杉野権右衛門
(ごんうえもん)といわれる。1802年(享和2)大坂で刊行。
炊飯を扱った料理書は少なく、飯、粥(かゆ)、鮓(すし)など米の調理だけの専門書として本書は貴重である。
例言に「古(いにしへ)には飯に魚鳥菌菜(きのこあをもの)を調匂(まぜあは)し、或(ある)ひは飯に和(あは)し炊くを
包飯(はうはん)といひしとぞ、今其品類(そのしなじな)によりて部類(わかちるい)を追ひ名飯部類といふ、たとへは
尋常飯(ただごとめし)、諸菜飯(しょなめし)、菽豆飯(まめめし)、染汁飯(そめめし)、調魚飯(うをめし)、
烹鳥飯(とりめし)、名品飯(めいはん)等也(なり)」、「尋常飯は戸々朝食暮(いへいへあさめしゆふめし)に用ひ人々の
よく慣習(てなれ)たるもの或ひは魚鳥菌菜の類を加搓(いれまじへ)せざるものをいふ。
諸菜飯は菜蔬(あをな)の類一品を加するものを云(いふ)」とある。
尋常飯が麦飯など18、諸菽豆(まめ)飯が赤小豆(あずき)飯など10、紫蘇(しそ)葉飯など菜蔬飯11、茶飯など染汁飯4、
はまち飯など調魚飯14、鶏肉飯(けいはん)など烹鳥飯4、骨董(ごもく)飯など名品飯26、
付録として河豚(ふぐ)雑炊など雑炊20、粥類10、こけらずしなど鮓類32の作り方が記述され、よい米を選ぶことが
肝要だとしている。』
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関東では赤飯に煮ても形が崩れにくい「ささげ」が使われました。「腹が割れない」と武家の縁起をかついだもの。
禁じられていたフグ食を大坂では公然と行われていた事が名飯部類の記述から分かります。
【素人庖丁】しろうと-ぼうちょう
『江戸時代の料理書。著者は浅野高造(こうぞう)で、3巻3冊。1803年(享和3)に第1冊、1805年(文化2)に第2冊、
第3冊は15年後の1820年(文政3)に主として大坂で刊行された。
内容は、第1冊が四季魚類(鱠(なます)、汁、小煮物、煮物、和(あ)え物、田楽(でんがく)、組肴(くみざかな))、
四季精進(しょうじん)(膾、汁、煮物、和え物、取肴(とりざかな))、ひたし物類、吸口(すいくち)類など、以下、魚別料理と
作り方、第2冊は雑魚、魚鳥飯、魚類粥雑炊(かゆぞうすい)、精進青物仕様、第3冊は四季混雑、精進酒菜(さかな)の
こしらえ様で構成されている。
序文に「此(この)書(しょ)は百姓家(か)、町家の素人に通じ、日用手りやうりのたよりともなるべきかと、献立の品々を
分かち、俄(にわか)客の折から台所の友ともなるべきと心を用いた」、とある。
町人の宴会や料理場の光景、潮干狩、船遊びなど一種の風俗画のような挿絵が多い。』
素人包丁 即席料理 上 1893 (明治26) 年版 出版は大阪の赤志忠雅堂 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849059 素人包丁 即席料理 下 1893 (明治26) 年版 出版は大阪の赤志忠雅堂 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849060
上巻のP.64に「関東煮かんとうだき」を発見。
FOOD LIBRARY OSAKA FOOD CULTURE http://www.kuidaore-osaka.com/jp/ ← 大阪の食文化について書かれたサイトです。
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【 握り飯 】 |
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日本テレビ 月曜から夜ふかし 『違いが分かりづらいモノが多過ぎる件』 13.05.27 放送
朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『食の方言は語る ! 関西食べ物ミステリー』 14.06.05 放送 関西テレビ NMBとまなぶくん 『言葉は生きている! 進化する日本語』 14.08.22 放送 テレビ大阪 がくやdeムチャミタス! 『日本最古のおにぎり』 17.10.15 配信
≪ にぎり飯 ≫ ※ 色んな説があるので、ココで紹介する物のが必ず正解とは限りません。
おにぎりや、弁当は海外でも見られる事がありますが、基本的に日本独自の文化。中国などでは冷めたご飯を食べる
習慣がありません。
粘りがあるジャポニカ種の米だからこそ、おにぎりが握れ、冷めても柔らかい食感である事から日本で発達した米飯文化。
現在、中国の一部や韓国ではジャポニカ米が作付されています。
1987年に石川県の中能登町の杉谷チャノバタケ遺跡の竪穴式住居後から約2000年前
頃のおにぎりと見られる化石が発掘されました。
この「チマキ状炭化米塊」は現在見つかっている「最古のおにぎり」なので、発見した
6月18日が「おにぎりの日」と決められました。
食用ではなく、お供え物または魔除けなどの目的で置かれていたと推測されています。
上記のように弥生時代に起源があり、「握飯にぎりいい」と言い蒸した米を握ったもの。
空気に触れる表面積が最も少ない○型だったと考えられています。
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最も一般的な説として、関西から西日本では俵型で「おにぎり」、東海~関東は三角型で「おむすび」と言います。
「おむすび」は京都の宮中の女房詞が発祥とされています。
東京近郊では「おにぎり」と呼ぶようですが、上方の言い方が伝わったもの。 日本語 言葉の伝播 蝸牛考の検証調査結果
言葉の広まりを考えると、「にぎりいい」の次に「おむすび」の方が古くに伝わり、「にぎり飯」に「お」を付けた「おにぎり」
という言葉は、その後に日本各地に広まったと考えられると思います。
【屯食】とん‐じき、(トジキとも)
① 強飯こわめし(糯米もちごめを蒸したもの)を握りかためて卵形にしたもの。
平安時代、禁中または貴人の饗宴の際、庭上に並べて主に下臈げろうなどに賜ったもの。
源氏物語[桐壺]「―、禄のからびつども」
② 公家で、握り飯の称。安斎随筆「屯食。ドンシキとよむ、是ニギリメシの事なり」
【安斎随筆】あんさいずいひつ
公卿・武家の有職故実などに関して考説した伊勢貞丈(江戸の人、幕臣。1717~1784。武家故実の研究家)の随筆。
30冊または20冊。
≪ 関西の俵型 ≫
日本経済新聞社の野瀬泰申さんによると
江戸時代、芝居見物が盛んだった上方。芝居の幕間で食べられる幕の内弁当が大坂で発展し、
弁当箱に入りやすい形の俵型が大坂で誕生。
関西では、お葬式の時に違う形のおにぎりを作る習慣があり、三角型のおにぎりは縁起が悪い
とされました。
※ ネットで調べてみると、この風習は現在では廃れていますが、関西だけではなく
中部地方~九州にかけて広くあったようです。
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≪ 関東の三角型 ≫ 日本には9つの言語があった
「御結び」とも呼ばれ、神聖な山の形を模したのが始まりという説もテレビ番組で聞いた事がありますが…。
名古屋大学 大学院 文学研究科の町田健 教授によると、
室町時代の宮中の女性たちが、水 → おひや、 握り飯 → おむすび、 鰹ぶし → おかか など、色々なものを
「お」を付けて丁寧に呼び換えたそうです。
江戸時代、8代将軍の德川吉宗 (在職1716~1745) が、道中で立ち寄った神奈川県の川崎の宿場町で、三角型
おにぎりが3つ振る舞われました。
これが德川の「葵の紋」を模したものであった事から、吉宗が気に入り、以降関東で三角型が広まるようになりました。
明治時代、国定教科書が改定された際、さるかに合戦の挿絵のおにぎりが丸から三角に変更された為、三角型の
おにぎりが全国に知られるようになりました。 幕末の守貞漫稿の「握り飯の記述」
1918 (大正7) 年の『美味くて徳用御飯の炊き方百種』 (慶應大学医学部内 食養研究会 編&出版)のP.180「握飯」
では「…なお飯に程よく塩をまぜ小さく鶏卵形に握りさっと焼胡麻をかけたり、握り飯を焼いて遠足用に用ふることも
ある。」 握り方については三角に握る事は書かれておらず、鶏卵形=俵型となっています。
現在、コンビニのおにぎりが普及した為、全国的に三角形のおにぎりが主流になりつつあります。
おにぎりに使用する海苔は三重県を境に関西が味付け海苔、関東が焼き海苔。
三重県では、どちらかに決まっておらず、その時に家にあるものを使うそうです。
稲荷寿司は、関西が三角、関東が俵型。関東が俵型になった本当の理由。
海苔 板海苔・味付け海苔も東京発祥。全国的に板海苔が食べられるようになったのは昭和中期以降。
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【 幕の内弁当 】 |
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NHK Eテレ 美の壺 『File252 弁当』 13.07.21 放送 / Wiki 幕の内弁当
≪ 幕の内弁当の江戸発祥説 ≫
NHKの美の壺では、江戸で生まれた弁当として「幕の内弁当」を紹介。『喜多川守貞「守貞謾稿」 (江戸時代後期) 』
のテロップ。一口で食べられるようにしたのが江戸のこだわりとして、守貞謾稿に書かれた内容を再現。
18㎝四方の箱に、俵型おにぎりが10コ、玉子焼き、カマボコ、焼き豆腐などが入っていたようです。
これを1日に何度かに分けて食べていました。
蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見!! カマボコの歴史
※紀文(東京)のHPのカマボコの歴史の記述にも嘘を発見。
幕の内弁当は本膳料理の流れを汲むとされます。本膳料理 (起源は鎌倉武士の風習) の発祥は室町時代の京都です。
昭和初期に大阪の吉兆が考案した高級弁当の代名詞 松花堂弁当は懐石の流れを汲むものです。
※ 時代的に幕の内弁当は関西の方が早いので、守貞謾稿の内容を持って「江戸独自のこだわり」と紹介するのはおかしい。
(この時代の江戸の握り寿司は大きい事も考慮すると) 品数が多く、ひと口で食べられるような工夫は、むしろ関西の
料理法です。俵型のおにぎりなので、上方から江戸に伝わったと考えるべき。
守貞謾稿は、1853年頃に一応完成とあるので江戸末期とするのが普通。
また、上記の歌舞伎の絵は歌川豊国 1817年作 江戸堺町の「中村座内外の図」ですが、絵には幕の内弁当は描かれて
いないようです。フタをした重箱が置いてあるのは見られますが、観客の多くが手にしているのは大皿。
『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類 「握飯」
「にぎりめし古はどんしきと云 屯食也 今俗或はむすびと云 本女詞也 今世は掌に鹽水を付て握レ之
三都とも形定なしと雖ども京坂は俵形に製し黒胡麻を少し蒔ものあり 江戸にては圓形或は三角等徑一寸五分許
厚五六分にするもの多し胡麻を用ふること稀也 多くは握て後に炙レ之もあり 江戸今製掌に握り製し或は木形を
以て押し製す 又江戸芝居觀者の中食に專ら握り飯を用ふを例とす 炙製にして菎蒻燒豆腐芋蒲鉾玉子燒等を合す…」
「江戸の芳町萬久という店で作って売る。名付けて「幕の内」と言う。
芝居小屋によっては、萬久から取り寄せて観客に売る小屋もある。
現在は芝居小屋が浅草にあるが、堺町に芝居小屋があった頃より萬久の「幕の内」は芝居用だけではなかった。
病気見舞いや贈り物、ちょっとしたお出かけの際の弁当としても用いられた。 笹折入りで一人前100文である。」
「雖=(いえども)」 「鹽=塩」 「圓=円」 「徑=径」 「儉=約やか、(つづまやか、つましい) 手軽る」
「辨當=弁当」 「1寸=3.03㎝」 「笹折=笹の葉で包んだ物」 「幕末で4文=100円くらい」
明治41年発行 國學院大學出版部 類聚 近世風俗志 下 版 ですが、印刷ミスでなければ「どんしき」と書かれてあります。
上記の安斎随筆でも「どんしき」と書かれてあります。
「幕の内」と言えば歌舞伎芝居から来ているように思われていますが、元々は花見遊山がルーツと思います。
『守貞謾稿』下巻 第三十三編追補
「昔は花見遊山には幕を用ふ 幕を用ひず略したるは男子は羽折 婦女は上着の小袖を脱ぎて これを幕に代る…
今は三都ともに花見遊山の徒の幕及び衣服を掛て假幕とするを見ず」
「假幕=仮幕」 幕が無い場合は衣服を脱いで幕の代わりにしていました。
【花見小袖】はなみ‐こそで … 花見に婦女の着る小袖。酒宴の時、枝に掛けわたして幕とした。 【花見幕】はなみ‐まく … 花見の宴に張る幕。 【行厨】こう-ちゅう … 弁当。わりご (主にヒノキ製の弁当箱)。箪食たんし(竹製の弁当箱)。
江戸時代初期に桃山時代の花見を描いた『花下遊楽図屏風かかゆうらくずびょうぶ』などに幕を張って、その中で弁当を
食べる様子があります。
たぶん、この幕を張った中で食べる弁当→「幕の内」。当時は「遊山弁当」などと呼んでいたのかも知れませんが。
江戸時代末期頃は「花見重詰め」と呼ばれていたらしいです。
庶民が花見で飲食をするようになったのは、上方で桃山時代頃。江戸では江戸時代中期の吉宗の時代からです。
江戸の花見 幕の内弁当の登場よりも早く、花見弁当の前身である花見重詰めが登場。刺身も入っていた。
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明治22年(1889年)、兵庫県姫路のまねき食品会社が、握り飯一辺倒だった駅弁12銭(現在の2千円~3千円ほど)に
導入したのが全国に広がったきっかけのようです。
ちなみに『皇都午睡』三編上によると、江戸では芝居の事を「志ばや」と呼んだようです。
江戸と上方の言葉の違いを色々と書いてありますが、ざっと見たところの個人的な感想では、江戸で使われていた言葉の
方が (6対4くらい) で、現在使われている言葉に多くあるような印象。どちらも残っている場合と、どちらも使われなくなった
言葉もあります。
上方と江戸の違いの例
「油揚げ-胡麻揚げ」「味噌汁-おみおつけ」「醤油-下地」「すまし-おしたじ」「蕪かぶら-株」「隠元豆-藤豆」
「はつのみ-まぐろ」「「味ない-まづい」、「番菜ばんざい-惣菜そうざい」「すり身-はんぺん」「浄瑠璃-義太夫」
「下駄げた-足駄あしだ」「一文なし-四文なし」「四文銭-大銭」「一文銭-小銭」「南瓜-唐茄子」「煎付いりつけ-煮付け」
「焚合たきあわせ-味煮うまに」「水菜-糸菜」、他の色んな部分に多くの違いが書かれています。
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【 江戸の庶民の正月 】 たぶん江戸後期頃のようです。 |
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≪ 江戸の正月 うんちく ≫ NHK 新春!テレビが見つめたニッポンの正月60年 13.01.01 放送
角松
葉を付けたままの竹を飾る。年中葉が茂っている松や竹を『繁栄する』にかけて、縁起物として葉を落とさずに飾っていた。
羽根突きの羽根は、蚊を食べるトンボの翅に見立てたもの。蚊が多かったので、『一年間、蚊に刺されないように』との
おまじない。
凧売り 子供たちがお年玉代わりに凧をかって貰うことが多かった。
宝船の版絵 年末~1月2日の期間だけ売りに来る。「おたからおたから」と呼んで宝船の版画を売り歩いた。
1枚4文。江戸っ子は初物が大好き。良い初夢をみるために、正月二日の日に枕の下に敷いて寝ました。
幕末頃の上方では、この風習は廃れていました。
お節料理
雑煮・・・餅と小松菜だけ。黒豆・・・まめまめしく健康に働けますように。
いわしの田作り・・・五穀豊穣を願う。塩鮭の切り身が付くと御馳走になる。
(江戸では鮭が一般的、関西は鰤ぶり 、お金持ちは鯛)
元旦にやらない方が良いと言われた事。
掃除、火を使う料理、風呂を焚く。江戸は大風が吹く季節、諸大名も
江戸城に集まっているので火事を避ける為だそうです。
風呂は大きな商家に家族用のある家もあったが、手代や丁稚、一般の
庶民は銭湯にいくのが普通でした。
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「凧」 江戸っ子の上方への対抗意識から 「イカ」→「タコ」と呼ばれるようになった。 大阪と東京の銭湯 初湯など 江戸時代から鮭が有名な新潟県村上市 江戸時代に世界初の鮭の自然孵化増殖を成功
江戸時代前期の1643年(寛永20)刊の『料理物語』「第十七 後段之部」
「〔ざうに〕は中みそ又すましにても したて候、もち、とうふ、いも、大こん、いりこ、くしあわび、ひらがつほ、
くきたち など入よし、」
『守貞謾稿』下巻 第二十三編 「春時」には、正月の風習や遊びなど様々な事が書かれてあります。
「元日二日三日諸国ともに雑煮を食ふ …江戸は切餅を焼き小松菜を加へ鰹節を用ひ醤油の煮たし也 塩鯛裡白の
ことなし…」
大坂は室町時代からの白味噌仕立てに丸餅・小芋・焼豆腐・大根・干し鮑の五品が入った雑煮が普通。
そして、鯛を用意していました。
江戸は鰹だしの澄まし汁で具は切餅と小松菜のみ。鯛を食べる事はない。初日の出を拝もうと高輪と深川に集まった。
という事などが書かれてあります。
「福茶 京坂にては元旦先づ若水を以て手水をつかひ 次に大福と号けて烹花の茶に梅干と昆布一辺を入て飲…
江戸にてはおゝぶくと云ず福茶と云…」
京坂では元日の朝にだけ、梅干と昆布を一片ずつ入れた大福茶と名付けた茶を、家の主人以下全員が飲む。
江戸では福茶と言い、元旦に限らず1月1~3・6・7日、11月の15・16日など年に数回飲む。飲む時間帯は夜食前が多い。
乾物屋で四銭で売られている 甲州梅 (紀州に比べて小粒) ・大豆・山椒を2~3粒ずつのセットを釜に投じて食べる。
昆布は使わない。
【大服茶・大福茶】おおぶく-ちゃ
元旦に若水の湯に梅干、後に黒豆・山椒などを入れて飲む茶。その年の邪気を払うという。
※大服は薬や茶など一服よりも多い量の物を言います。
【福茶】ふく-ちゃ
昆布・黒豆・山椒・梅干などを入れた茶。大晦日・正月・節分などに縁起を祝って飲む。
明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文 御屠蘇 平安時代から続く奈良の屠蘇散。昔ながらの本物の屠蘇酒。 明治44年出版の東京年中行事の「屠蘇」の原文 正月 鏡餅、 門松なのに中央に竹が飾られている理由、元日から角餅は縁起が悪い? 日本各地の雑煮 関西白みそ雑煮文化の境界線
明治44年の東京年中行事「雑煮・太箸・重詰」の原文
1911 (明治44) 年の東京年中行事「具足餅と鏡餅」
新潟県 江戸時代後期の越後長岡藩の農民の正月の食事内容など 貧富の差が大きい
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東京史楽 『江戸の話 八』 11.12.26 配信 http://tokyosigaku.jugem.jp/?page=1&cid=4 Wiki 酒井伴四郎
青木直己著 生活人新書 『幕末単身赴任 下級武士の食日記』 http://bakuren.itigo.jp/sakai.html
≪ 幕末の下級武士の実情 ≫ 刺身・お造りの歴史 刺身は室町時代 「指身」「差身」「打ち身」など違い
幕末に江戸へ単身赴任した紀州和歌山藩の30石取りの下級武士である酒井伴四郎 (1833~?) の日記によると、
鳩を食べたり、安いボラなどを買っており、鮭の切り身を買う事は珍しかったようです。
江戸では鯛は高級なのでほとんど食べられず、下魚扱いされていたマグロ、イワシ、ドジョウ、ウナギ、ボラ、コノシロ
などが庶民のおかずでした。江戸での刺身は専らマグロ。高価な饗宴料理の時に鯛が出る。
上方での刺身は鯛が多く、マグロは中以上の饗宴料理では用いられなかった事が『守貞謾稿』に書かれてあります。
≪ 江戸時代の人は初詣をしなかった!年末年始の雑学30 ≫
ガジェット通信 14.01.01 配信 http://getnews.jp/archives/486235
【元旦】・・・1月1日の午前中の事。 Wiki 旧正月
ちなみに、大名屋敷の門構えというのは、大名の格によって造りが違っていたそうです。 そんな細かい時代考証をできる人は非常に少なくなってきているので、
時代劇をつくるのも難しくなっているそうです。
≪ 補足 ≫
時代考証家の山田順子さんは人気ドラマ「JIN」を監修した人で、ビーバップ・ハイヒール『江戸に咲かせた食文化』の回でも解説をしていました。
ビーバップ(大阪の朝日放送制作)を見た人は、江戸が元禄時代からグルメだったと勘違いした人も多いと思います。
豆腐百珍に関しても、江戸で書かれたように錯覚した人も多いでしょう。ちょっと、何だかなぁ・・。という印象を受けましたね。
「JIN」のモデルになったとされる日本が誇る世界的な名医 華岡青洲は、和歌山県出身であり、江戸や関東とは全く関係ありません。
行政機関であろうと、メディアであろうと、知識人であろうと、関東人の発する情報には気をつけた方が良いでしょう。
「東京上げ、大阪下げ」の一極集中政策の報道の影響を受けていますからね。
Wikiの書き込み内容にも気を付けましょう。(明らかにおかしい部分も見受けられる事がいくつかあります。)
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【 江戸時代後期に発達した食文化 】 |
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朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「江戸に咲かせた食文化」 12.02.02 放送 / Wiki 豆腐百珍 など より テレビ東京 出没!アド街ック天国 『美味しい東京・日本橋SP』 13.10.19 放送 /
NHK タイムスクープハンター スペシャル 『緊急指令!守れ秘伝の味 』 14.01.02 放送
名古屋テレビ放送 メ~テレ 武士ごはんランキング 江戸VS京都 一生に一度は食べたいSP 発見 ! 和食のルーツ 14.09.07 放送
朝日放送 キャスト 『「ナス」と「ナスビ」呼び方が2つあるの なんでやねん!?』 19.07.15 放送
ビバ江戸 ! http://www.viva-edo.com/syokubunka.html
大阪府立中之島図書館 http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/75_food.html
日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県) 芝恒男 名誉教授・農学博士
http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf
江戸時代の料理名にみる "なんばん"、"おらんだ"
https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience1995/30/4/30_355/_article/-char/ja/
上記のPDFの研究史料『江戸時代の料理名にみる"なんばん""おらんだ"』サイトによると、
江戸時代前期の1643年(寛永20)刊の『料理物語』(著者は大坂人である可能性が高い、出版地は京都) と比べ
江戸時代後期の1803年(享和3)に第1冊、1805年(文化2)に第2冊、第3冊は15年後の1820年(文政3)計3巻3冊の
『素人庖丁』(著者は浅野高造、出版地は大坂) で比較すると、油脂・卵・小麦粉・ネギ・唐辛子などの使用率が
かなり高くなっているようです。
江戸の食文化が本当に発達し始めたのは、2回の飢饉を経た江戸後期~江戸末期のようです。
江戸で独自の「外食」産業が盛んになったのは、文化~文政年間。19世紀初頭(1800年~1830年くらい)の頃。
≪ 江戸時代の人気のおかず番付 ≫ 京都で「番菜」、江戸で「惣菜」
江戸時代後期には、多くの料理に関する本が出版されています。
江戸の庶民の食べていた御惣菜ランキングは『日々徳用倹約料理角力取組』という
見立番付に東の大関(精進方)は八杯豆腐、西の大関(魚類方)は、めざしいわし。
詳しくは上記の「ビバ!江戸」のサイトでご覧ください。 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸
幕末の1859年(安政6)には江戸料理茶屋が184店の番付が掲載されているそうです。
『有名料理屋番付 即席会席御料理』は江戸庶民のグルメガイド。
大坂でも『浪華松野尾茶店之図引札』『難波料亭仙一方引札』など多くの書物があるようです。
江戸中期の1772年『普茶料理抄』などは京都。各『重宝記』なども大坂で多く出版されました。
詳しくは中之島図書館 『おおさかページ ~大阪資料と古典籍~』の上記リンクURLで確認してください。
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難波料亭仙一方引札
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江戸食べ物事情 - NPO法人ミュゼダグリ http://www.musee-d-agri.org/e_tyasai/ety_mue/02.html
江戸料理「八百善」HP 「八百善伝え書き」 http://www.yaozen.net/history/history_04.html
≪ 旬の味覚を先取り 野菜の促成栽培 ≫ 鴨南蛮そば 葱の歴史 京都の「九条ねぎ」も江戸のねぎも大坂がルーツ
初物を食えば75日生き延びるという意味の『初物七十五日』という言葉があります。
京都では1580年代には促成栽培が行われていました。古代ローマでも促成栽培が行われていたらしいです。
江戸での野菜の促成栽培は寛文年間 (1661~1672年) に、砂村 (現在の江東区) で始められたそうです。 当時の促成栽培方法は生ごみを土に埋める事で生じる発酵熱を利用したそうです。7月の夏野菜が5月に食べられる。
ちなみに、番組司会のハイヒールの話ではバブル当時、大阪の北新地では金粉の乗った茶漬けが1杯10万円であったとか。
ナスは奈良時代以降、温暖地である西日本を中心に栽培されてきました。
なにわの伝統野菜に指定されている「泉州水ナス」は平安時代から栽培、「鳥飼ナス」は戦後に一時絶滅しましたが
近年復活。主に府下南部の南河内で栽培されている「大阪ナス」は、なにわ特産品に選定されており、大阪は茄子
栽培が盛んだったと思われます。
江戸時代になって、静岡県駿府に隠居した徳川家康が茄子を鉄火味噌という料理で食し、東日本での茄子栽培を
推奨する命令が発せられて茄子栽培が始まったようです。
※ 砂村は、江戸時代初期に大坂の農民が多く移り住み、ネギの作り方を教えた村で、後に千住ネギなど関東各地に種が運ばれ植えられた
ようです。また、京都の九条ネギも大坂から伝わったもので、日本のネギの発祥は大坂です。
京都府の立命館大学の食マルジメント学部の鎌谷かおる准教授および朝日放送の番組によると、
江戸時代中期の元禄年間頃は茄子は幕府の法令によって5月からしか販売できない決まりがあったらしいです。
家康が好んだ茄子の鉄火味噌に目を付けた江戸の商人が農家と連携して茄子の促成栽培を推進したようです。
障子に油を塗って雨を弾く仕組みの促成栽培方法が出来ます。(現在のビニールハウスと同様の効果)
番組ではこの促成栽培が始まった時期については触れていませんので、追って調べる必要がありますが、
江戸の食文化が開けた文化文政頃ではないかと、現時点では推測しています。
静岡県清水産の「折戸なす」の初物の茄子1コは1両 (だいたい10万円くらい) の価格が付いた記録があるようです。
しかし、時代が下ると共に作り過ぎて価格が下落し、最終的には1コ2文 (60~70円) くらいで茄子が売られるように
なりました。初カツオも同様にブームの一時代を過ぎれば、流通が増え価格が大きく下落していきます。
ビニールハウス栽培の魁
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長屋王邸跡から出土した木簡
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鷹は愛鷹山説
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語呂合わせで「ナス」に
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茄子の呼び方は長屋王 (684~729年) 邸跡から出土した木簡に「奈須比」とあり、関西で言う「なすび」が本来の名称。
江戸で商人が茄子を売り出す時に「物事を成す」という言葉を利用して売り出した際に語呂合わせで末尾の「ビ」を
取って「ナス」とした事から「○○ナス」という呼び方になったそうです。。
「一富士、二鷹、三茄子」という縁起言葉の元々は、静岡県駿河で言われていた時の鷹は鳥の鷹ではなく、愛鷹山を
地元の人たちが「鷹」と呼んでおり、高いものの象徴として言われていたという説があるそうです。(諸説あり)
【一富士、二鷹、三茄子】いちふじ-にたか-さんなすび
縁起の良い夢を順に並べていう語。特に、新年の初夢にこれらを見ると縁起が良いとしていう。
駿河の国の諺で、一説に駿河の名物を言うという。
【愛鷹山・足高山】あしたか-やま
静岡県の富士山南東の火山。最高峰は越前岳で標高1504メートル。
「一富士、二鷹、三茄子」の言葉が全国的に広まる際に、駿河国の諺でしか通用しない「愛鷹山」→「鳥の鷹」に変化
していったのではないか? と推測できそうですね。
現在の「ナスビ」派は画像右の紫色の地域、北海道と、富山・岐阜・三重より西の地域。
「ナス」派は赤色で東北から愛知までの東日本と、岡山・高知・山口と北部九州。
緑色は「ナスビ」と「ナス」の両方が拮抗している地域。(朝日放送調べ)
北海道や富山などは北前船で関西の影響が強かった為に「ナスビ」派。
西日本で「ナス」派の地域は、昭和の戦前まで茄子の栽培が少なかった地域で、
戦後になって栽培し始めた為、東京の言い方がメディアなどで伝わった為だそうです。
賀茂ナスが有名な京都が拮抗しているのは、生産だけではなく、都だったので様々な
地域から人が集まり消費地としての側面も強かったのではないか? などが考えられる
ようですが、はっきりとした理由は不明のようです。
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関西「ナスビ」・関東「ナス」
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後日、あらためて江戸時代などの各文献で調べてみようと思っています。
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【江戸の超高級料亭「八百善」】 Wiki 八百善 |
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江戸料理「八百善」HP 「八百善伝え書き」 http://www.yaozen.net/history/history_04.html
≪ 江戸の超高級料亭「八百善」の超高級茶漬け ≫
1717年頃に創業した八百膳。現在は東京を離れ神奈川県の鎌倉市で『割烹屋 八百膳』として営業中。
江戸後期の寛政年間 (1789~1801) の見聞を記した『寛天見聞記 (成立年、著者ともに不詳)』によると、
高級料理店『八百善』では、主人自らが最高級の越後米を一粒ずつ選り分け、最高級の玉露を使い、注文を受けてから
早飛脚を使って、多摩川の清流水を汲みに行かせ、促成栽培のナスとウリの漬物の茶漬け2杯12万円で提供して
いた事が話題になったそうです。
1822 (文政5) ~1835 (天保6) 頃、『料理通 (江戸流行料理通)』 初編~4 編 八百善 著、江戸和泉屋市兵衛 出版など
にも記されています。
≪ 将軍の為に作った八百善の丼 ≫
江戸の料亭を格付けした『御料理献立競おりょうりこんだてくらべ』という番付は、八百膳が勧進元 (興行主、発起世話人) の中心。
【勧進元】かんじん-もと 広辞苑
① 勧進相撲。勧進芝居などの興行主。 ② 事を発起してその世話をする人。
御成之記おなりのき (皇族・摂家・将軍などの外出・来着の尊敬語の記録) 1821 (文化4) 年1月18日付けの記録によると
11代将軍の家斉が跡継ぎの家慶を連れて、八百善を訪れて丼を食べたそうです。
その時の特別な御丼が鯛真薯の賽の目切り丼だそうです。(特別に再現したのが鯛真丈丼の画像↓)
【徳川家斉】とくがわ‐いえなり(1773~1841)諡号、文恭院。 三卿の一橋治済はるさだの子。
徳川第11代将軍(在職1787~1837)。松平定信を老中に任じて寛政の改革を行なったが、定信失脚後は文化・文政
時代を現出。
【徳川家慶】とくがわ‐いえよし(1793~1853)諡号 、慎徳院。 家斉の次男。
徳川第12代将軍(在職1837~1853)。老中 水野忠邦に命じて、いわゆる天保の改革を断行。
【糝薯・真薯】しん‐じょ
魚・鳥・蝦などの肉のすりみに、すった山の芋・粉類を加えて調味したもの。蒸しまたはゆでて使う。
10代目当主の栗山善四郎さんによると、
江戸時代から伝わる料理のお昼の部のコース料理 (要予約 3240円) に使用されている椀は、葛飾北斎が八百善に贈った
絵を、江戸の塗り師が写し取り、器に描いたものだそうです。
【葛飾北斎】かつしか‐ほくさい (江戸本所に生まれ、1760~1849) もと川村氏、のち一時中島氏。 Wiki 北斎漫画
江戸後期の浮世絵師。葛飾派の祖。初め勝川春章の門に入り、春朗と号し、のち宗理・画狂人・戴斗・為一いいち・卍など、
画風と共にしばしばその号を変えた。
洋画を含むさまざまな画法を学び、すぐれた描写力と大胆な構成を特色とする独特の様式を確立。
版画では風景画や花鳥画、肉筆画では美人画や武者絵に傑作が多く、「北斎漫画」などの絵手本や小説本の挿絵にも
意欲を示した。代表作「富嶽三十六景」。
また、勝海舟が天璋院 篤姫や和宮内親王も八百善に連れてきたことがあるそうです。(講談社 『海舟語録』に記述があるらしいです)
明治時代になると勝海舟45才と篤姫32才はデートをよくしていたそうです。
連れ込み旅館で、勝海舟が湯上りの篤姫に浴衣の着方を教えたという記録もあるようです。
(浴衣は庶民の部屋着だった為、大奥で生活していた篤姫は着たことがなかった)
【勝海舟】かつ‐かいしゅう (江戸生れ、旗本の子。1823~1899) 名は義邦。通称、麟太郎。海舟は号。
安房守であったので安房と称し、のちに安芳と改名。
幕末・明治の政治家。海軍伝習のため長崎に派遣される。咸臨丸を指揮して渡米。帰国後、海軍操練所を設立、軍艦
奉行となる。幕府側代表として江戸城明渡しの任を果たし、維新後、参議・海軍卿・枢密顧問官。伯爵。
著「海軍歴史」「陸軍歴史」「開国起原」、自伝「氷川清話」など。
【天璋院】てんしょう-いん (1836~1883) コトバンク デジタル大辞泉 より
江戸幕府第13代将軍徳川家定の正室。幼名は於一(おかつ)。薩摩藩島津家一門に生まれ、島津斉彬の養女(篤子
(あつこ)と改名)となり、近衛家の養女(敬子(すみこ)と改名)を経て御台盤所(みだいばんどころ)となる。
家定の死後、落飾して天璋院と称した。篤姫。
【和宮】かず‐の‐みや(1846~1877)親子ちかこ内親王。 仁孝天皇の第8皇女。孝明天皇の妹。
江戸幕府14代将軍家茂の夫人。天皇家との融和を求める幕府の強い要請により、1862年(文久2)家茂に降嫁。
江戸開城その他に隠れた功がある。家茂の没後、落飾して静寛院宮と号した。
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【江戸には茶店も飲食店も多く接客も丁寧】 |
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幕末の考証随筆『皇都午睡』三編には
「京摂に目馴れ物は江戸の市中商人店と並び居る茶店なり 京の三條通寺町通 大坂にて堺筋松屋町筋といふ様なる
通筋には五軒七軒も有り其のさま…娘女郎は綺麗に拵らへ 客毎に始めは素湯に香煎を入れ次にお煮花とて相應の
茶を汲出て 客あしらいは世事よく殊に馴たる物なり 神社佛院の門前などなせば京摂にも有て珍らしくもあらねど…」
寺社の門前町であれば京摂にも茶店があって珍しいものではないけれど、街中の通りに5~7軒も茶店があるのは
京摂では見慣れない。
【香煎】こう-せん
① 麦・米などを炒って挽いた粉。砂糖を混ぜてそのまま、あるいは水や湯で練って食べる。また、菓子の材料に用いる。
はったい。いりむぎ。麦こがし。
② 山椒や薬草の粉などを調合したもの。湯をそそいで飲む。香煎湯。
麦茶は平安時代から飲まれていました。江戸時代の茶は抹茶またはほうじ茶が普通で1738(元文3)年に京都の
永谷宗七郎ながたに-そうしちろう (のちに宗円、1681~1778) が、煎茶の製法を開発。
全国的に煎茶が飲まれるようになったのは明治時代。 煎茶と茶漬け
「貸食屋などし年々の流行あれば…などと書出しては際限なし 此余そばや居酒屋始め名代の鮨屋てんぷら屋など
数へる時は一丁内に半分余は食物屋なり 余が三都の見立に食の第一に見立しが 中々食物是程に自在なる所は
見ぬ 唐土にも有まじと思はるゝなり」
西沢一鳳は江戸の飲食店名を具体的に挙げて、飲食店の多さを書いています。また、店員の接客の良さも
絶賛しています。
ただ、江戸の飲食物の物価は一部を除いて京都1.5~2割高、大坂の3~4割高だったようです。
その為、旅人は先ず安いものから食べ始めるという事も書いてあります。
※ 接客態度に関しては、江戸では朱子学が推奨されていたので、上下関係がはっきりしていた事。
また、歌麿が茶店の看板娘を浮世絵に描き、人気となった娘たちは高慢になっていき、1793 (寛政5) 年には
浮世絵に名前を入れてはならないという『町娘の名前禁止令』が出されたという経緯も影響していると思います。
朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん
朱子学を突き詰めた水戸学 (朱子学を推奨した徳川光圀の水戸藩) では将軍より天皇の方が偉いという考え方に
なり、明治維新に繋がる原因の一つとも言われる事があります。
江戸でランキングを付ける番付表が流行ったり、江戸ッ子および現在の東京人が、自分や東京の方が偉い凄いと
マウントを取りたがるのも朱子学の影響と、背景に劣等感があるためです。(韓国人と同様の心理です。)
江戸の物価が高かったのは、『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「二十四組」に書かれてある事が原因のようです。
大坂の二十四組 (幕府推奨の私制) と、江戸の十組 (幕府が決めた官制の組合仲間) とでの独占交易によるもの。
幕府公認の菱垣廻船での取引の事だと思います。
≪ 滝沢馬琴の京坂評 ≫
1803 (享和3) 年刊の滝沢馬琴の京坂旅行記『羇旅漫録きりょまんろく』。京都24日間、大坂10日間、名古屋17日間滞在。
巻之中「六十五 京師の評」
「京の良きもの三ッ 女子。加茂川の水。寺社。 あしきもの三ッ 人気の吝嗇。料理。舟便。」
「人気じんき、にんき=世間の評判・地域の気風」「吝嗇りんしょく=出し惜しみ、ケチ。本の文字は嗇とは少し違います。
「回」の部分が「面」ですがIMEでは出力できません。ただ、文脈を考えると吝嗇でいいと思います。」
巻之下「百四 大坂市中の總評」
「大坂の良きもの三ッ 良賣オホアキヒト 海魚 石塔 あしきもの三ッ 飲水カモ 鰻鱺ウナギ 料理」
「良賣=良い商売人」
料理に関していうと、「白味噌の塩気が感じられず甘い」と言って祇園豆腐などを酷評しています。
江戸深川生まれなので、濃い塩味が好みのようです。
京都の舟便と大坂の飲水に関して言うと、巻之中「八十五 淀の洪水」に、7月24日に雨の中、伏見から大坂へ下る
船に乗っています。旧暦だと梅雨の時期になるので、道中および京坂滞在中も雨や洪水の記述が多いです。
悪い部分の具体的な記述が無いようなので、思い込みの評でしょう。
鰻は京と江戸が良く、大坂と名古屋が口に合わないようです。
滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった
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【開国】 |
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TBS 『世紀末ワイドショー ザ・今夜はヒストリー』 12.06.13 再放送 / テレビ東京 『世界遺産 "三大迷宮"ミステリーⅡ』 13.09.20 放送
NHK Eテレ 高校講座 日本史 『開国』 13.11.01 放送 / 同 高校講座 日本史 『動揺する江戸幕府 ~内憂外患への対応~』 13.10.25 放送
NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『今こそ知りたい! ジョン万次郎 日本開国前夜 驚きの舞台裏』 13.11.06 放送
【大黒屋光太夫】だいこくや‐こうだゆう 名は幸太夫とも (伊勢の人、1751~1828)
江戸後期の船頭。1783年1月(天明2年12月)米を江戸に廻漕中難船、アリューシャン列島アムチトカ島に漂着、その後
ロシアに滞留、女帝エカテリーナ2世に謁見、92年(寛政4)ラックスマンに伴われて帰国、見聞を具申。
「北槎聞略ほくさぶんりゃく 」はその記録。
【中浜万次郎】なかはま‐まんじろう ジョン万次郎。(土佐国の漁夫の次男、1827~1898)
幕末・明治の語学者。1841年(天保12)出漁中に漂流、アメリカ船に救われ米国で教育を受け、51年(嘉永4)帰国。
土佐藩、ついで幕府に仕え、翻訳・航海・測量・英語の教授に当たる。のち開成学校教授。
【マシュー・ペリー】Matthew Calbraith Perry ペルリ。漢字名、彼理。(1794~1858)
アメリカの海軍軍人。1853年7月(嘉永6年6月)日本を開港させるため東インド艦隊を率いて浦賀に来航、大統領の親書を
幕府に提出。翌年江戸湾に再航、横浜で日米和親条約を結ぶ。後に下田・箱館に回航。帰国後「日本遠征記」3巻を刊行。
【日米和親条約】にちべい‐わしん‐じょうやく
1854年(安政1)神奈川で、アメリカ全権使節ペリーと幕府全権林大学頭あきら 以下4名との間に締結・調印された条約。
アメリカ船の下田・箱館寄港、薪水食糧の購入、漂着アメリカ人の保護、片務的最恵国条款などを定めた。神奈川条約。
≪ 大坂港が開港されず、横浜港が開港した理由 ≫
日米和親条約の定めに基づき米国のハリスが下田駐在総領事として来日。
米国側の要求では下田・箱館・大坂・長崎・平戸・江戸・品川の開港を要求。横浜は含まれていませんでした。
幕府目付の岩瀬忠震 (後に外国奉行) が、大坂開港は絶対阻止し横浜を開港すべきという意見書を老中首座で外務
専任の堀田正睦に提出。
当時の大坂は水陸両面で交通の要所であり経済の中心地。
大坂が開港すると江戸が衰退し大坂だけが発展するのではないかという懸念が強かったそうです。
また、大坂には西国の雄藩の武家屋敷が多く、上方で外国との貿易を許すと勝手に貿易し、手をつけられなくなるという
懸念も強かった。
幕府はハリスの合意を得ないまま、横浜を開港することに決定し、なし崩しのまま開港を既成事実化していきます。
ちなみに当時、現在の横浜駅の場所は海でした。
詳しくは、下記リンクにて
横浜税関 『横浜開港150年の歴史』 http://www.customs.go.jp/yokohama/history/hatten.pdf
日本銀行神戸支店 『神戸港の質的変貌』 13.11.20 http://www3.boj.or.jp/kobe/kouhyou/report/report131120.pdf
【ハリス】Townsend Harris (1804~1878)
アメリカの外交官。1856年(安政3)最初の駐日総領事、のち公使。幕府との間に日米修好通商条約・貿易章程を締結。
著「日本滞在記」。
【日米修好通商条約】にちべい‐しゅうこう‐つうしょう‐じょうやく
1858年(安政5)神奈川で、アメリカ駐日総領事ハリスと下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震ただなりとの間で締結調印
された条約。
公使・領事の交換、下田・箱館のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市、貿易の自由などを決めたが、
領事裁判権を定め、また関税自主権がないなど、日本に不利な点が多かった。
【安政五カ国条約】あんせい‐ごかこくじょうやく
江戸幕府が、安政5年6月(1858年7月)、米・蘭・露・英・仏の5カ国との間に結んだ修好通商条約の総称。
箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5港の開港を約した。勅許を待たず調印されたので、安政の仮条約と称することもある。
【安政の大獄】 あんせい‐の‐たいごく
安政5年から翌年にかけて大老井伊直弼が政争の反対派らに下した弾圧事件。
将軍継嗣問題で、井伊が紀州の徳川慶福(家茂)を第14代将軍として擁立し、また勅許を得ずに安政五カ国条約に調印した
ことを、一橋慶喜を推す一橋派が批判、これに対し井伊が同派の公卿・諸大名らを罰し、梅田雲浜・吉田松陰・頼三樹三郎・
橋本左内ら多数の尊王攘夷派人士を投獄・処刑。
【井伊直弼】いい‐なおすけ(彦根藩主、1815~1860)
幕末の大老。掃部頭。徳川家茂を将軍の継嗣とし、また勅許を待たずに諸外国と条約を結び、反対派を弾圧したので
(安政の大獄)、1860(安政7)年3月3日の雪の朝、水戸・薩摩浪士ら18人に桜田門外で殺された。
【五品江戸廻令】ごひん‐えどまわし‐れい
1860年(万延1)外国貿易開始による市場の混乱を防ぐため幕府が出した流通統制令。
雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の5品は産地から江戸に廻送し、その国内需要を充たした上で輸出させた。
≪ 日本各地の幕末~大正期の写真 ≫ 下記リンク先、ユーチューブ動画でご覧下さい。オススメ !! 吉原遊郭
【幕末・明治時代】日本の古き良き時代の写真集 1~Japan in the 19th century~ http://youtu.be/MsgcLwNTjB0
【2ch雑学】明治・大正時代の写真を披露するよPhotos of Japan about 100 years ago http://youtu.be/Dfpk0VqEvz8
日本の古い町並み写真集(戦前絵葉書)/Vintage Postcards of Japan Cityscape http://youtu.be/xtHlAQb0kaM
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