手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の食の歴史8 昭和・平成時代1
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   20.02.17
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「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents




 カレーの歴史雑学ページを新設し情報を集約し大幅に追記や画像を増やしました
  関東が豚肉文化になった理由などもカレーページに情報を追加し再編集してあります。

 このページのカレー関連の情報は、一部を残して削除しました。19.11.19
 このページも分割し再編集を予定しています。

 ガスコンロの普及と四日市市の土鍋の関係 四日市市の「萬古焼」の土鍋が国内生産約8割

 大阪は合鴨肉の生産トップだった 1980年頃まで国内シェア70%、2019年に東京進出

 大阪に集中している魔法瓶製造会社 象印・タイガー・ピーコックなど

 1990~2014年の主な人気スイーツの変遷

 昭和50年代後半 東日本 (主に関東内陸部?) に素麺が普及

 スーパーマーケットが急増した年代は? 2010年代以降、店舗数は減少中

 食品サンプル 大阪から日本各地に広まった

 1960年代 
  東京などでは白御飯にウスターソース、ウスターソース+砂糖+湯のスープが流行った
  ガス冷蔵庫が普及、チョコレートの輸入自由化、懸賞ブーム

 1950年代 新調理家電が続々と登場し、洋食化が始まる

 1970年代 日中国交正常化で、中華料理も家庭に進出

 戦後の闇市と震災孤児 闇市で人気だったカストリ、バクダン、栄養シチューとは?

 ミシュラン2016年度 関西版 三ッ星が14店に増加、タコ焼き店が初掲載。

 ちょっとだけ洋食化した1975年頃が最強の食事 最新研究による、その理由

 1964年の東京オリンピック ゴミ出し方式の変化、生野菜を食べる習慣が広まる。

 日本初、医・食・農のプロがつくる弁当ブランド「からだデリ」 ← 15.01.04に情報追加

 主婦連合会 戦後~70年代の日本は、現在の中国と似たような食偽装が多発。

 象印マホービン 『おべんとうと弁当箱のはなし』展  (大阪市・期間 2014.09.04~2015.04.20 )

 三重県の高校生レストラン「まごの店」が開発に協力したご飯釜が人気

 松花堂弁当 と 吉兆  茶懐石の流れを汲むのが松花堂弁当。本膳料理の流れを汲むのが幕の内弁当


 江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

 卵、牛乳、砂糖については日本のアイスの歴史 各ページをご覧ください
 大阪と関西の食文化のページも 日本の食文化を語る上で必須です

 敗戦直後の「米よこせ」デモと食料メーデー

 インスタント・ラーメンの歴史 日本の即席めんメーカーが初のアフリカ進出
 ラーメンの簡単な歴史

 東京がグルメになったのはバブル1980代以降 大阪の企業が本社を東京に移し始めてから

 京都・大阪・神戸 京阪神人こそ本当の世界一のグルメ 異論は一切認めない !! その理由とデータ

 関東ローム層で江戸時代まで関東は不毛の土地だった
  北関東は高度経済成長期まで、東北より貧しかったかも。
  80年代に魚の流通技術が向上し、サーモンが刺身で食べられるようになった。

 高校生 国際料理コンクール2013で、日本が初優勝 !! 三重県立 相可高等学校

 日本人、特に大阪府民はフルーツをもっと食べよう フルーツに含まれるビタミン類と活性酸素との闘いの動画

  大阪産業デザインの変遷 http://osakadc.jp/the_transition_of_design_in_osaka_v2_s.pdf ←1900年以降の生活用品の画像多数あり。

  農林水産省 食料産業局食文化・市場開拓課和食室 『日本食の歴史』 http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/rekishi.html

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

  カマボコ・天ぷらの歴史・雑学のページ 昭和初期の東京での野菜の天ぷらの呼び方 キャベツも胡麻油で揚げ物に
  お好み焼きは戦前から日本中に広まっていた 発祥は東京の可能性あり (但しネーミングのみ?)  駄菓子屋が下町に多かった理由
  東京は飯がマズい所で有名だった


  ≪ 昭和初期は電気の時代の幕開け ≫

  昭和12年に大阪西区四ツ橋に大阪市立電気科学館がオープン。
  この頃、家庭内に電灯が普及し、扇風機やラジオも広く普及し始めたそうです。






  大阪市立電気科学館 日本初のプラネタリウムがあった

 大阪市と東京市の区の変遷
  大阪市の変遷 http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/05kinki/27100_osaka.htm
  Wiki 都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位

  ≪ 1873 (明治6) 年の都道府県人口トップ10 ≫

  1位新潟県144万人、2位兵庫県131万人、3位愛知県122万人、4位広島県113万人、5位東京府109万人
  6位千葉県104万人、7位福岡県103万人、8位大阪府101万人、9位静岡県97万人、10位熊本県95万人


  ≪ 1925 (大正14年) の都市人口 ≫

  1925年の人口トップ4では 大阪市 211.5万人、東京市 199.6万人、名古屋市 76.9万人、京都市 68.0万人


  ≪ 大阪市と東京市の区の変遷と人口 ≫

   【大阪市の区の変遷】  Wiki 大阪市

 1889年 大阪府下4区を大阪市とし市制施行。
 1920年 (大正9)  人口 1,252,983人。

 1925年 第2次市域拡張。西成郡と東成郡を編入。
 1925年 (大正14) 人口 2,114,804人。
 1925年~1932年統計で 大阪市が東京市の人口を上回る。
 1930年 (昭和5)  人口 2,453,573人。
 1932年10月1日 港区から大正区、東成区から旭区を
      分区して15区に。
 1935年 (昭和10) 人口 2,989,874人。
 1943年 分区して7区を設置し22区となる。

 1955年 第3次市域拡張。中河内郡と北河内郡の一部を編入。
 1956年 政令指定都市に移行。
 1974年 分区して26区に。
 1989年 東区と南区を合併し中央区、北区に大淀区を
      編入し、24区に。

  大阪府 1894km² 882万人 / 大阪市  225.2 km² 227 万人
   【東京市の区の変遷】  Wiki 東京市

 1889年 東京府下15区を東京市とし市制施行。
 1920年 (大正9)  人口 2,173,201人
 1923年 関東大震災で人口流出。

 1925年 (大正14) 人口 1,995,567人。

 1930年 (昭和5)  人口 2,070,913人。
 1932年10月1日 周辺5郡82町村を東京市に編入し
      35区に。面積を7倍近くに拡大
 1935年 (昭和10) 人口 5,875,667人
 1943年 東京都制法により、東京府と東京市が合併し
      東京都を設置。

 1956年首都圏整備法で東京一極集中政策を開始。




  東京都 2187km² 1258万人 / 23区内 623.0 km² 895 万人

  昭和10年/1935年の市 人口ランキング Source: 国勢調査 http://demography.blog.fc2.com/blog-entry-6687.html

  ≪ 東京市が5郡82村を編入し面積を7倍近く増やした昭和10年の国勢調査 ≫ 日本の総人口 6925万4148人

  1935(昭和10)年の人口密度トップ25のうち、人口10万人以上を抜粋すると、(人口密度・人口・面積k㎡、四捨五入あり)
  関西圏の人口密度が高い事が分かります。また県庁所在地より上位や、現在過疎が進んでいる市でも上位にランクインして
  いたりします。

  1位 大阪市 (16151・299.0万人・185.1)4位 神戸市 (11119・91.2万人・82.0)、5位 函館市 (11036・20.7万人・18.8)
  6位 東京市 (10667・587.6万人・550.1)、11位 浜松市 (9102・13.3万人・14.7)、12位 堺市 (8971・14.1万人・15.75)
  15位 札幌市 (8132・19.7万人・24.17)、17位 金沢市 (7925・16.4万人・20.7)、 21位 名古屋市 (7221・108.1万人・150.0)
  23位 新潟市 (6670・13.5万人・20.2)、25位 大牟田市 (5734・10.5万人・18.3)

  2位 福井 (15456・7.5万人・4.9)、3位 那覇市 (12761・5.1)、7位 甲府市 (9996・8.3万人・8.3)、8位 尼崎市 (9885・7.1万人・7.2)
  9位 青森市 (9710・9.3万人・9.6)、10位 岸和田市 (9360・3.9万人・4.1)、13位 尾道市 (8207・3.1万人・3.8)
  14位 八王子市 (8150・5.9万人・7.3)、16位 若松市 (8035・4.6万人・5.8)、18位 高松市 (7916・8.7万人・11.0)
  19位 首里市 (7880・1.9万人・2.5)、20位 前橋市 (7338・8.7万人・11.9)、22位 戸畑市 (7019・6.8万人・9.7)
  24位 一宮市 (6431・5.3万人・8.3)

  34位 横浜市 (5193・70.4万人・135.6)、35位 長崎市 (5151・21.2万人・41.1)、44位 広島市 (4438・31.0万人・69.9)
  54位 京都市 (3744・108.1万人・288.7)、64位 福岡市 (3233・29.1万人・90.1)、66位 仙台市 (3143・22.0万人・69.9)

  【首都圏】しゅと‐けん
   東京都を中心とした地域。1956年首都圏整備法で定めた、関東地方に山梨県を加えた1都7県。
   東京都を超えた枠組みで整備に関する計画などを立てることを目的として構想。


  ≪ 横浜市と主要都市の比較 ≫

市面積  人 口  人口密度   GDP    Wiki 域内総生産順リスト
 東京23区 623.0 km² 895 万人 14,818 人/km² 92兆 4000億 円 世界 1位
 横浜市 437.5 km² 369 万人 8,500 人/km² 12兆 6000億 円  (東京域内に含む)
 大阪市 225.2 km² 227 万人 11,960 人/km² 18兆 7000億 円 世界 7位
 名古屋市 326.4 km² 200 万人 6,990 人/km² 11兆 8000億 円 世界 18位
 福岡市 343.4 km² 150 万人 4,450 人/km² 6兆 8000億 円 世界 51位
 上海市 5,299 km² 1870 万人 世界 10位
 北京市 1,368.3 km² 2019 万人 世界 13位
 ロンドン 1,577.3 km² 979 万人 世界 5位
 ニューヨーク 789.4 km² 818 万人 50兆円(世界2位) 世界 2位


   ※日本の都市の人口とGDPは 日本テレビ 月曜から夜ふかし 14.10.13 放送 より、他はウィキペディア各都市の記述 より

 
 松花堂弁当 と 吉兆
  読売テレビ かんさい情ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「高級弁当の代名詞 松花堂弁当の誕生秘話」』 14.04.02 放送

  高級弁当の代名詞「松花堂弁当」は懐石料理の流れを汲み、昭和初期に吉兆の創業者 湯木貞一が開発したもの。
  幕の内弁当は、本膳料理の流れを汲むもので、江戸時代に芝居の合間に楽しむものとして考案されたという説が
  あります。







  ≪ 松花堂昭乗 ≫ Wiki 松花堂昭乗

  【松花堂昭乗】しょうかどう‐しょうじょう (堺生れ、1584~1639)俗姓は中沼、名は式部。別号は惺惺翁・滝本坊。
   江戸初期の学僧・書画家。京都の石清水八幡の社僧。阿闍梨法印。書は御家流、次いで空海の法を修め、
   寛永 (1624~1645年) の三筆の一人。書風を滝本流(式部流・松花堂流)という。
   また、水墨画や彩色画に巧みで、和歌・茶道をたしなみ、晩年、男山に茶室松花堂を建てて幽栖。






  晩年の昭乗が京都府八幡市の石清水八幡宮の中に、2年ほど住んだ狭い草庵の名が松花堂。
  わずか2畳の広さですが土間や暖炉、茶室が備わった空間です。
  千利休の「究極のわびさびを具現化した建物。明治初期に松花堂庭園に移築され、京都府の指定文化財になって
  います。すぐ近くに京都吉兆の松花堂店があります。






  昭乗は農家が種入れとして使っていた4器をヒントにこの形の器を作り、絵具箱や煙草盆として使用していました。

  近現代・系図ワールド『吉兆・湯木家系図』 http://kingendaikeizu.net/kittyou.htm    Wiki 湯木貞一 Wiki 吉兆 Wiki 松花堂弁当

  ≪ 吉兆の創業者 湯木貞一 と 松花堂弁当の誕生 ≫

  【湯木貞一】ゆき-ていいち (神戸生まれ、1921~1997)
   料亭経営者。大阪・京都・東京に料理店「吉兆」を展開。
   日本料理の向上と発展に寄与。
   1988年、料理界で初の文化功労賞を受賞。

  湯木家は元広島藩士。明治維新で祖父が武士を廃業し
  かき船を始めて関西に移住しました。


  1901年、貞一は神戸市花隈(現・中央区花隈)の鰻料亭「中現長」(現存せず)の跡取り息子として誕生。

  24歳の時、松平不昧著『茶会記』を読み、茶道に目覚め、茶懐石を料理に取り入れ、料理の品格を高めたいという
  志を立てます。しかし、貞一の目指す料理と実家の料理とは路線に異なりがあったことなどから次第に確執が深まり、
  30歳の時に家出同然で独立。

  1930年、大阪市新町(現西区新町)にカウンターのみの割烹料理屋「御鯛茶処 吉兆」を創業。1937年に畳屋町に移転。

  1933(昭和8年)年頃、松花堂弁当が誕生。

  1936年頃、茶道を本格的に習い始める。これが縁となって財界の重鎮であり茶人でもあった小林一三、松永安左エ門、
  畠山一清らと知己となる。

  1945年、大阪大空襲で店舗を消失し、兵庫県芦屋市の自宅で「芦屋吉兆」を開店。

  1946年、大阪市の平野町に出店。 1946年、大阪市高麗橋に高麗橋本店を出店。 1948年、京都嵐山に出店。 
  1956年、大阪市船場に出店。 1961年、東京の銀座に出店。

  1979年・1986年・1993年の東京サミットで他の有名料亭をさしおいて日本料理担当に選ばれたことで、世界的に知ら
  れる存在となりました。






  1991年、息子や娘婿たちを暖簾分けの形で独立させ、長男が本吉兆 (高麗橋)、長女の婿が東京吉兆、次女の婿が
  京都吉兆、三女の婿が船場吉兆、四女の婿が神戸吉兆を継承した。

  1997年 湯木貞一が95才で逝去。

  2007年、船場吉兆の偽装問題が発覚し、2008年、船場吉兆は廃業。


  ≪ 松花堂弁当 茶会で客人をもてなす懐石料理の流れを汲む弁当 ≫

  1933年(昭和8年)頃、貴志家の大阪(桜宮)邸内の茶室「松花堂」で茶事が催された折、湯木貞一に、松花堂昭乗が
  絵具などに使用していた器で茶懐石の弁当をつくるようにと命じたのが始まり
  (昭和8年「西田幾多郎日記」 太田喜二郎「絵茶會記」より)。 

  貞一は、西洋のオードブルの雰囲気も加え、和食と洋食の融合ができるのではないか? とも考えたらしいです。
  しかし、料理の器を乗せると高さが足りないので、弁当箱にできるように深さを設け、フタをつける事で重ねられ配膳が
  しやすい形に改良。

  十字形の仕切りがあることで、見た目が美しいだけでなく、互いに味や匂いが移らず、四つの料理を別々の料理人が
  同時に調理できるので調理する時短にも繋がりました。

  その後、毎日新聞が<吉兆前菜>として取り上げたことで話題となり、松花堂弁当の名が広まった。
  湯木は、他家から松花堂弁当の依頼を受けると、その都度貴志家への挨拶を怠らなかったという。

  【松花堂弁当】
   十文字の仕切りをした方形の縁高ふちだかに、料理を盛り込んだ弁当。松花堂昭乗がこの器を用いたという。
   略式の会席料理・懐石に使用。


  ※ 会席料理は、懐石料理とは別物です。懐石料理は大阪発祥です。
   会席料理は多くの人が集まる時に食べる会食を意味します。元々、本膳料理を簡略化した料理でしたが、後に
   懐石料理の良さなども取り入れ、酒の席で楽しむ豪華な料理へと発展。


  ≪ 幕の内弁当は、本膳料理の流を汲む弁当れ ≫  Wiki 本膳料理 Wiki 幕の内弁当

  【本膳料理】ほんぜん-りょうり

   正式な日本料理の献立て。室町時代に武家の礼法と
   ともに確立し、江戸時代に内容・形式ともに発達した。

   本膳(一の膳)・二の膳。三の膳から成り、最も鄭重ていちょう
   (礼儀正しく丁寧) な場合には、さらに与の膳・五の膳
   を供する。
 
   一汁三菜 ・ 一汁五菜 ・ 二汁五菜 ・ 二汁七菜 ・ 三汁七菜 ・ 三汁九菜 ・ 三汁一一菜 などの種類がある。

  鎌倉時代の武家の「椀飯」という正月に御家人から将軍に料理を献上する儀式的な料理が本膳料理の起源。
  当初は鯉一匹など簡単な物でした。

  室町時代、京都に幕府が開かれた事により、公家文化も融合し、料理の品数も増え、料理自体にも派手な工夫が
  凝らされるようになりました。

  室町時代中期頃になると、複雑に発展した本膳料理を専門に調理する「大草流」「進士流」などの流派が確立。

  江戸時代中期になり、さらに料理の内容や形式が発展。
  芝居見物が盛んになり、芝居の幕間に食べる弁当として本膳料理を簡素化し考案されたのが幕の内弁当という
  説が一般的ですが、その他の説も多数あります。

  桃山時代に上方では庶民が行厨 (弁当の事) を持って花見をする事が始まりました。江戸は中期の吉宗の頃から。
  花見の際には幕を張って場所を確保し、その中で飲食をしていましたので「幕の内弁当」の語源は、花見からだと
  思います。 上方と江戸の花見 「花下遊楽図屏風」や行厨など

  俵型のお握りに黒ゴマを振るのは上方である事は、幕末の『守貞漫稿』第二十八編「食類」P.416~417「握り飯」に
  書かれてあります。江戸では木型で押して握り飯を作る事もしていたとも書かれてあります。
  江戸の芳町の萬久が「幕の内」と名付けた弁当を売り出したことが書かれてありますが、これが発祥とも明記して
  おらず、芝居が堺町にあった頃は芝居用のみではなく病気見舞いの贈り物などとしても折詰めの弁当が用いられた
  事が書かれてあります。(非常に前後関係が分かりにくい文章になっています)

  手前板前 『松花堂弁当と幕の内弁当』 http://temaeitamae.2-d.jp/top/t6/j/japanfood.serve04.html 
   こちらのサイトには和食および和食の作り方に関する情報が多数載っています。

  大阪産業デザインの変遷 http://osakadc.jp/the_transition_of_design_in_osaka_v2_s.pdf ←1900年以降の生活用品の画像多数あり。

  テレビ大阪 夕刊7ch 『貴重 日本人の食を支えた弁当箱の由来と歴史』 14.09.04 放送

  ≪ 象印マホービン 『おべんとうと弁当箱のはなし』展 ≫ 大阪に集中している魔法瓶製造会社

  大阪市北区にある象印の「まほうびん記念館」で、2014年9月4日~2015年4月20日の期間中、各年代の弁当箱などが
  展示されます。入場は無料ですが、予約が必要だそうです。

 

安土桃山時代の行厨

江戸時代

昭和時代


 【一銭洋食・壱銭洋食】いっせん-ようしょく 百菓辞典
  お好み焼の原形。1銭 (1延の100分の1) で食べられる洋風の食べ物の意。メリケン粉 (小麦粉にキャベツを加えて
  水で練り、鉄板で焼く。洋食扱いされたのは、オイル焼きにし、ソースで味付けするためといわれる。
  駄菓子屋が下町に多かった理由

  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『正式名称物語』 15.09.24 放送

  1954 (昭和29) 年、大阪市西成区の「旭創業」の創業者 渡部輝夫が弁当用の醤油入れ「ランチャーム」を発売。

  当時は市販の弁当に付いている醤油入れは陶器だった為、しばしば割れる事があり、
  コストも高いものでした。

  試行錯誤の結果、使い捨てが出来るポリ容器の醤油入れを開発。
  「ランチャーミングなお供として愛されるように」という事で名付けました。

  ちなみ、弁当や刺身に使われる緑色の草を模したような仕切りはバラン。
  スーパーで売っているパックされた刺身の下に敷かれているシートは、ドラキュラ・マットが
  正式名称だそうです。

 
 食品サンプル 大阪から日本各地に広まった
  読売テレビ かんさい情ネットten. 『ノゾキミ 「外国人が"クール"と感動する関西の日常風景」』 14.12.16 放送
  朝日放送 キャスト 『特集 「食品サンプル」職人養成作戦』 15.05.15 放送    Wiki 食品サンプル

  1917 (大正6) 年11月、京都の島津製作所に勤務していた土田兎四郎、西尾惣次郎らが、保健食料理模型を
  製作し、衛生試験所などに納めたという記録が現在確認されている最古の記録。

  1923 (大正12) 年11月1日、東京の白木屋が茅場町に二階建て食堂を作った際に、人体・生物模型技師していた
  須藤勉がロウやパラフィンなどの混合物製の食品サンプルを製作。

  1932 (昭和7) 年6月1日、弁当屋を営んでいた岩崎瀧三が大阪市北区老松町に「食品模型岩崎製作所」を創業。
  現在広まっている食品サンプルの発祥とされています。「㈱いわさき」が日本各地に広めたようです。

  岩崎瀧三の出身地である岐阜県郡上八幡市に食品サンプルの生産が広まり地場産業に発展。
  現在、郡上八幡市が生産量日本一になっています。


  ㈱いわさき 『いわさきの歴史』 http://www.iwasaki-ts.co.jp/corporate/about/

  1939 (昭和14) 年、第二次世界大戦が勃発すると、食品サンプルの原材料であったパラフィンが軍事利用を目的
  として統制品目となり、民間企業による入手が困難となりました。

  1970年代に入ると合成樹脂による食品サンプルが製造されるようになります。

  近年は写真が手軽になったので飲食店での需要が少なくなっていました。
  しかし、この数年、キーホルダーなどの雑貨として人気が高まり、外国人観光客の大阪土産として需要が急増し、
  商品を発注しても1ヵ月前後かかるので品薄になる商品もあります。






  大阪市中央区にある道具屋筋の食品サンプルを取り扱う「デザインポケット」などでは、外国人向けの食品サンプル
  づくり体験も大好評。

  食品サンプルの製造の主流は、ほとんどが個人企業の職人さんの手づくり。一人前になるには15年かかるとも言われ、
  現在の職人さんは50~60代が中心で、後継者不足になっています。

  日本食品サンプル普及協会では、10年後に職人がいなくなるのではないかという危機感があり、2015年に日本初の
  食品サンプル職人養成学校を開講。初級者コースは、1日5時間×週2日、3ヵ月間。授業料は60万円。4人が受講し
  ました。現役の職人が講師となり、細かいところまで手取り足取り教えてくれるそうです。

  ㈱デザインポケット 『日本食品サンプル協会 「食品サンプル制作技術者養成スクール」』 http://designpocket.co.jp/index_top.php
 
 敗戦直後の「米よこせデモ」と食料メーデー
  NHK Eテレ NHK高校講座 日本史 『敗戦と占領・戦後改革』 13.02.15 放送
  NHKスペシャル 『カラーでよみがえる東京 ~不死鳥都市の100年~』 14.10.19 放送 / TBS ものづくり日本の奇跡 15.03.28 放送

  【ポツダム宣言】
   1945年7月26日、ドイツ東部、ブランデンブルク州の州都のポツダムにおいてアメリカ合衆国・中華民国・イギリス
   (後にソ連が参加)が日本に対して発した共同宣言。
   降伏を勧告し、降伏条件と戦後の対日処理方針とを定めたもので、軍国主義的指導勢力の除去、戦争犯罪人の
   厳罰、連合国による占領、領土の制限、日本の徹底的民主化などを要求。
   日本ははじめこれを無視したが、原子爆弾の投下、ソ連の参戦により同年8月14日受諾し、太平洋戦争が終結。
   8月15日が終戦日。






  【GHQ】ジー‐エッチ‐キュー (General Headquarters)
   特に、日本を占領した連合国軍総司令部。初代最高司令官(SCAP)はマッカーサー。
   占領政策を推進し、戦後改革を行なった。対日講和条約発効とともに廃止。

  【対日講和条約】たいにち‐こうわ‐じょうやく  サン‐フランシスコ講和条約
   第二次世界大戦の終結と国交回復について日本と連合国との間に結ばれた条約。
   1951年9月サン‐フランシスコで調印、翌年4月28日発効、占領が終結。
   米ソ対立を背景に日米安全保障条約が同時に調印されたことなどから、連合国55カ国のうち初め48カ国だけが
   参加し、全面講和は成らなかった。のち中国国民政府(台湾)・インド・ビルマなどとも条約調印。






  Wiki 女性解放運動 / Wiki 教育基本法 / Wiki 特別高等警察 (秘密警察) / Wiki 財閥解体 / Wiki 農地改革

   ≪GHQによる五大改革≫

  第一次世界大戦後、戦勝国は敗戦したドイツに対し多額の賠償を請求しましたが、それがドイツのナチス党を生み、
  再び世界大戦に突入する事態になった事を反省し、第二次大戦の敗戦国には、賠償金請求よりも、武装解除と
  民主化をすすめる事になりました。





  GHQは日本に対し、昭和21~23年頃にかけて、戦前・戦中にあった軍国主義になる元を廃止し、民主化すすめる
  改革を行いました。






  テレビ大阪 和風総本家 『日本のロングセラーを支える職人 ~今も愛され続ける名品たち~』 12.01.26 放送
  テレビ東京 ものづくり日本の奇跡 15.03.28 放送

  ≪ 闇市と戦災孤児 ≫

  【闇市】やみ‐いち … 闇取引の品物を売る店が集まっているところ。闇市場。ブラック‐マーケット。

  戦後、海外の戦地や中国や朝鮮などから多くの日本人が引き揚げてくると、戦時中以上に食糧事情は苦しくなり
  ました。大都市部では、食べられる物は雑草でも煮て食べていました。
  政府はイモや豆などを主食として配給しましたが、成人男性に必要なカロリーの半分以下の量に過ぎず、配給が
  滞る事も多かった。






  都市部の人たちは着物などを食料と物々交換するために農村へ出かけました。その買い出し列車には人が満杯
  でした。屋根に上る人の姿も見られます。しかし、この行為も違法で、苦労して米を手に入れて戻って来ても駅で
  没収されてしまう事もありました。

  都市部に食糧があったのは闇市。闇市とは、政府に認可されていない市場の事で、戦後各地にたくさんできました。
  米・食用油・砂糖を中心に食料がが人気の商品ですが、履けない様な靴の半分や煙草の吸殻を集めたものまで
  何でも売れたそうです。

  下の東京の地図は、オレンジの部分は焼け野原となった地域、赤の点は主な闇市があった場所。
  1947年、「われ判事の職にありヤミ買いできず」と日記に記し、東京地裁の山口良忠 判事が栄養失調で死亡。
  「食糧統制に死の抗議」として新聞が記事にしました。






  米国軍からの横流し品・出所が分からないもの・盗品・焼け野原の瓦礫の中から拾ったゴミのようなものまで何でも
  あったそうです。

  小学校教師の初任給が約400円、1日の食費が7円だった当時、梅干し1コ、魚の小さな切り身が1切れがそれぞれ
  10円。あんみつ15円、オレンジジュースや茶碗一杯の白米が30円もしました。生きたニワトリ1羽80円。スーツは2000円。
  闇市での価格は法外とも言えるほど高かったそうですが、それでも買い求めるしかなかったようです。

  食料を積んだトラックからこぼれたトウモロコシを拾う人たちの姿も映像に残されています。

  やがて闇市には料理を提供する屋台なども登場します。すいとん10円、栄養シチュー10円、やきとり3本10円。
  東京の闇市で人気が高かったのは栄養シチューで、米軍基地から出た残飯に水を加え煮込んだものでした。
  大阪の闇市でも、安い料理に使われている肉は猫の肉や犬の肉という噂がありました。






  日本各地でサツマイモや雑穀を原料とした焼酎が作られ「カストリ焼酎 (粕取り焼酎が語源)」と呼ばれました。
  カストリに工業用アルコールを混ぜた違法酒も売られており、「バクダン」と呼ばれ命に係わるほど極めて粗悪な
  品質の酒でした。
  1946~1949年頃、粗悪な紙に印刷されたエロ・グロ大衆娯楽誌は粗悪酒のカストリにかけて「カストリ雑誌」と
  呼ばれたようです。

  1950年代の東京 川にゴミを捨て、汚れた川で食器や野菜を洗っていました。  戦後爆破的に売れた合成清酒とは?
  お好み焼きは戦前から日本中に広まっていた 発祥は東京の可能性あり (但しネーミングのみ?

  Wiki 残飯シチュー  Wiki カストリ  Wiki カストリ雑誌
  関西じゃりン子チエ研究会 『今明かされる「ばくだん」の真実 ★「カストリ」と「バクダン」
   http://www.jarinko.com/monograph/bakudan.htm

  1948年2月の厚生省「全国孤児一覧調査」などによると、混血孤児・引き揚げ孤児・残留孤児なども含め戦災孤児の
  総数はおよそ12万人。
  第二次大戦による日本人の死者は300万人ほど。親戚や知り合いに引き取られた子供は孤児数に含まれないので、
  実際に両親を亡くした子供の数は調査の何倍にもなりました。






  身寄りがない戦災孤児たちは、生きて行く為に人が多い都市の駅近くに集まったいたので「駅の子」とも言われました。
  物乞い、靴磨き、モク拾い(タバコの吸い殻を集めて包なおして売る。やがてタバコの味を覚え吸う子供も珍しくなかった。)
  チャリンコ(少年スリ)、オキビキ(荷物の持ち逃げ)、タタキ(強盗)、ノビ(窃盗)、カツ上げ(ゆすり)などの
  犯罪に手を染める子供たちもいました。

  孤児施設に収容(「狩り込み」と言われた)されますが、駅に戻った方が食料も手に入りやすく(窃盗などで)、自由として
  施設を逃げ出す事も多かったそうです。


   ≪ 米よこせ運動 と 食料メーデー ≫  戦後その時代 『食料メーデー』 http://www.sengosonojidai.com/1946/008.html

  1945年11月1日正午に日比谷公園大広場に集まりデモを行う呼びかけのチラシが配布されました。
  主催は日本国民党で、タイトルは「餓死対策國民大會」。GHQへ直接訴える事を呼びかけました。

  東京では、世田谷、京橋、目黒などで食料を求めるデモが発生。大阪では主婦たちによる『米よこせデモ』が発生
  するなど。
  1946年 (昭和21) 5月1日、11年ぶりにメーデーが復活。日本全国で125万人が参加。
  東京の皇居前の広場は人民広場と呼びかえられ、50万人が参加して大会が開かれ、生活苦を訴えるプラカードが
  掲げられました。






  とりわけ食糧を求める声は切実で、5月19日には食糧メーデーが決行されました。
  宮城前広場(皇居前広場)で行なわれた食糧メーデーは『飯米獲得人民大会』と呼ばれ、デモは暴徒化する様相を
  呈していました。

  この会場には、「国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね、ギョメイギョジ」と記された
  プラカードが持ち込まれ、東京地検はこれを天皇への誹謗と解し、所持者の松島松太郎をすぐさま不敬罪で起訴
  しました。





  また、徳田球一を代表とするデモ隊が坂下門に迫り、天皇との会見を要求し、さらには吉田茂の組閣本部に坐り
  込みました。このために吉田内閣は組閣断念を決意しましたが、翌20日のマッカーサーの『暴民デモ禁止声明』で
  デモは屈伏させられました。

  【食糧メーデー】しょくりょう‐メーデー
   1946年(昭和21)5月19日、皇居前広場で開かれた飯米獲得人民大会の通称。深刻な戦後食糧危機のさなか、
   約25万人が参加し、吉田内閣の組閣に反対したが、マッカーサーの警告で運動は収束。


  ≪ 敗戦の焼け野原&食料不足の一方で、こんな逞しい姿も ≫ 画像は白黒フィルムをNHKがカラーで再現したもの。

  下の左端画像は1945年10月の東京都台東区で撮られた個人映像。
  戦後直後に撮影された映像には、敗戦したにも関わらず戦時中には見られなかった (戦争からの解放感から)
  笑顔が多く映し出されています。






  【石焼き芋】 百菓辞典
   焼いた砂利の中に埋め込んで焼いたサツマイモ。石焼き芋のひき売りは、第二次大戦後、食糧統制が解除された
   昭和20 (1945) 年代後半に、元祖と言われる三野輪万蔵が、東京で始めたのが最初と伝えられる。

  1946年1月1日に米軍が皇居前で撮影したカラーフィルムには、晴着に身を包み新年を迎える人々が写っています。
  1946年春、上野では戦火から逃れた御輿をかつぐ祭りの様子がフィルムに収められています。
  1947年頃~ベビーブーム。いわゆる戦争を知らない戦後生まれの「団塊の世代」。この世代から受験戦争が始まります。
  1947年、大阪で日本初の焼肉店 『食道園』が開業。






  1948年、ノザキのコンビーフ発売。1950年、桃屋の『江戸むらさき』発売。

  その後、米国から食糧支援が支援が食料問題は解決化へ向かい、1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、米国からの
  特需があり日本は好景気へと向かいます。
  そして、1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博などの特需もあり、昭和の高度経済成長を経て80年代
  バブル期へ。


  ≪ 魚群探知機で食糧事情の改善を ≫  書きかけ。

  1946年、長崎の古野清孝・清賢 兄弟が音響測深機を改良し、魚群探知機を試作。1948年に販売。
 
 【1950年代】 東京より大阪の方が、はるかに食文化レベルが高かった時代
  読売テレビ かんさいネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「ポールウインナーはなぜ関西ソウルフードなのか !?」』 14.09.10 放送
  NHK大阪 えぇトコ 『ハルカス麓で「昭和」を探そう!~大阪・阿倍野』 14.10.24 放送
  テレビ東京 日曜ビッグバラエティ 「昭和平成ヒット商品全部見せます! PART4」 15.05.17 放送
  TBS ニッポンの出番 『知られざるニッポン再発見! なぜ日本人は居酒屋が好きなのか?』 15.03.24 放送
  テレビ東京 池上ワールド 『日本をつくった人 伊藤博文』 15.09.27 放送
  テレビ東京 日曜ビッグバラエティ 「昭和平成ヒット商品全部見せます! PART5」 15.11.29 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『はじまりは大阪にあり! 世界を驚かせた発明秘話』 16.11.03 放送
  かまぼこのピンからキリまで 岡田稔 (鈴広蒲鉾工業株式会社) 1983年
   https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience1968/16/3/16_168/_article/-char/ja/

  ≪ 戦後の食糧統制の緩和 ≫

  1950 (昭和25年) に戦後の食糧統制が緩められ、一部の食料品の自由販売が再開されました。
  1950年のキューピーマヨネーズ1瓶160円、1951年の雪印牛乳1瓶10円。
  冷蔵庫が普及していないので、買い物は毎日するのが普通でした。


  ≪ 伊藤ハムのポールウインナーが関東では売られていない理由 ≫

  関西では伊藤ハムが1934 (昭和9) 年に販売開始したポールウインナーが売れており、関東進出を考えます。
  セロファンで包んだポールウインナーは冷蔵庫に入れなくても衛生保存が可能でした。

  1950~1951 (昭和25~26) 年頃、関東では魚肉ソーセージが普及し始めており、食肉加工業界から「箱根の関を
  越えるな !!」という要請が伊藤ハムにあったそうです。
  下記の資料からすると、関東では魚肉ソーセージの大量生産が始まる直前だったようです。

  1951 (昭和26) 年、西南開発が日本初となるアジ類を原料とした魚肉ソーセージ「スモークミート」を販売。 (同社HPより)
  翌年、明治屋と提携し、「明治屋のスモークミート」として全国販売を開始。

  上記リンクの「かまぼこのピンからキリまで」という資料によると、
  昭和28年頃から本格的工業生産の始まった魚肉ソーセージは.当時の原爆実験による放射能汚染マグロの
  発生の影響で,マグロの消費者ばなれがおこり,価格が低下した際にマグロの利用法として始まった。
  当時はマグロ,カジキが主原料であり,きわめて美味であった。マグロの人気が回復するにつれ,サメ,アジ,イカ
  など安価な原料に変わり,品質も低下していった。
  戦後漁獲量が多かった東支那海の底曳網漁業も昭和30年頃になると不振になり, 全国的に深刻な原料魚難に
  おちいった。

  1960年代に入り、ポールウインナーが関西では学校給食に採用され大ヒット。大阪市内ではホットドッグにして車の
  移動販売がありました。要請が緩和され関東での販売を開始しますが、安価な魚肉ソーセージには勝てませんでした。






  1950年代の東京ではコロッケ1個5円、魚肉ソーセージ1本30円で魚肉ソーセージは御馳走でした。
  魚肉ソーセージより高価な御馳走として人気があったのがハムカツだそうです。後にチーズ入りハムカツも登場。
  ハムカツは関西でも見かけますが、あまりメジャーな食べ物ではありません。関東の食文化です。

  伊藤ハムのポールウインナー 関西だけでしか普及していない理由と 60年代の大阪のホットドッグ復活


  1950年半ばから高度経済成長期に入り、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が『三種の神器』と呼ばれ、様々な家電も発売されます。
  この時代は日を追う事に生活の質が向上、西洋式が採り入れられていきました。






  1930年に東芝が国産初の電気冷蔵庫を発売。米国GE製を模倣したもの。
  1948年にミキサーが発売され、50年代には野菜ジュースがブームになりました。
  1955年にポップアップトースターが発売され、朝食に食パンを食べるようになりました。
  1955年、東芝が日本初の自動式電気釜の炊飯器を発売。
  1959年には東芝が電気ゆで卵器を発売。1000円(現在の価値で約2万円)

  【高度成長】こうど-せいちょう
   急激な経済成長。特に1955~73年の時期の日本経済をいう。

  【神武景気】じんむ-けいき
   1956年から翌年にかけての好景気。日本はじまって以来という意味で名付けられた。

  【岩戸景気】いわと-けいき
   1958年から61年にかけて旺盛な設備投資に導かれて生じた好景気。
   神武景気を上回る好況という意味を込めて名付けられた。

   有明海の海苔 日本で海苔の大量養殖生産が始まったのは昭和中期

  1950 (昭和25) 年に食肉自由化。
  肉が高価だった1955年頃まで、ザリガニは貴重なタンパク源でした。近所の池で子供達が
  獲ったザリガニをカレーに使用する地域 (関東など) もあったそうです。

  1950年代後半にカレーは家庭料理として浸透していました。オリエンタルの即席カレーが
  販促用グッズとしてスプーンをプレゼントした事が成功、まだ物資不足だった日本で売上げ
  と知名度を急速に伸ばしました。

  


  ≪ 1958年以降、自転車が普及し、出前や配達で使われるようになる ≫ Wiki 昭和モダン  Wiki モボ・モガ

  1950年代前半頃の東京の画像。自転車には年間1台200円(現在の価値で約8400円)の税金がかかった事から、
  リアカーや振り売りの行商が多かったようです。自転車1台15000円 (現在の価値で約55万円)






  大阪市内では、1951年頃には自転車での配達が主流だったようです。下の画像は昭和初期 (1930~40年代頃の
  阿倍野) 阿倍野区昭和町は大正~昭和初期に区画整理され、住宅地になりました。
  下の住宅は昭和8年に建てられたもので、国の登録有形文化財に指定されています。現在は飲食店として利用。

  隣接する堺市は、明治時代から自転車産業が盛んで圧倒的シェアを誇っていました。 
  下の画像から、大阪では戦前から自転車がかなり普及していた事がわかります。 登録有形文化財の数 京阪神がトップ3






  大阪(上の画像) と 東京(下の画像)を見比べ、大正時代の大阪では繊維系の商社が多く創業していた事なども
  勘案すると洋服が広く普及したのも大阪の方が早かったと思われます。但し、
  但し、大正~昭和初期の都心では文化の変わりが早かったので、2~3年違うと洋服の普及率はかなり変化が
  あったとも思われます。 戦後1950年代、女性の下着ブームは大阪から発信

  1936 (昭和11) 年、レモン・オレンジ・メロン・グレープフルーツなどの果実を日本で初めて輸入販売したとされるのが、
  大阪の木村商店です。






  昭和初期 (上は1928年・昭和3年) の東京銀座の様子。 同年、資生堂アイスクリームパーラーが開店。 
  昭和初期に洋風ファッションをした人たちをモダンボーイ・モダンガールを略した「モボ・モガ」と呼びました。
  昭和初めの東京・浅草のカフェー・喫茶店事情 銀座は下品でデタラメなので繁昌、浅草は上品ぶるのでダメ。
  Wiki 資生堂パーラー






  【デリバリー サービス】 delivery service 百菓辞典
   デリバリーは配達の意。出前のこと。そば屋、すし屋などの出前は、昭和48 (1973) のオイルショックによって、
   有料化したり廃止されたりしたが、昭和50 (1975) 代以降の宅配ブームや、昭和60年 (1985) 代に入って、
   米国のビザデリバリーサービスの進出などの刺激によって、活性化した。


  ≪ 家庭用電機冷蔵庫の普及 ≫

  50年代の冷蔵庫は、2ドアの木製。上段に氷の塊 (1貫目3.75㎏が約30円、現在価値で590円) を入れ、その溶けた
  冷気で下の段に入れた食品を保冷するクーラーボックスのようなものでした。その為、主婦は毎日買い物に出掛け
  ました。

  一般社団法人 家庭電気文化会 『家電の昭和史冷蔵庫』 http://www.kdb.or.jp/syouwasireizouko.html

  1961年、冷凍食品が保存できるフリーザー付きの1ドアの冷凍冷蔵庫が発売される。
  1964年以降、東京五輪を機に、様々な冷凍食品が開発されるようになる。
  1965年、冷蔵庫の一般家庭の普及率が50%を超える。
  1969年、冷凍室を独立させた2ドアタイプの冷凍冷蔵庫が本格的に普及。
  1975年、冷凍冷蔵庫がほぼ一家に一台まで普及する。

  1960年の家電普及率は、白黒テレビと洗濯機が約45%でしたが、電気冷蔵庫10%、電気掃除機8%。

  1958 (昭和33) 年に自転車税が撤廃され、東京などでは空前のサイクリングブームが訪れます。
  1日400円の貸し自転車でのサイクリングが大流行しました。

  1960年代後半になると、御用聞きや蕎麦屋の出前、クリーニング店の配達なども自転車が普通になりました。

  大阪産業デザインの変遷 http://osakadc.jp/the_transition_of_design_in_osaka_v2_s.pdf ←1900年以降の生活用品の画像多数あり。


  ≪ ビアガーデン・居酒屋チェーン・回転すし店が誕生 ≫

  1953 (昭和28) 年、大阪梅田の大阪第一生命ビルディングで、日本初の屋上ビアガーデンがオープン。
  1956 (昭和31) 年、横浜に養老乃瀧がオープンし、食券制を導入し大繁盛。これが居酒屋チェーンの始まり。 居酒屋






  1958年、大阪に世界初の回転すし店『元禄寿司』1号店がオープン。


  NHK チコちゃんに叱られる 『おでんの「でん」は豆腐』 20.02.07 放送

  ≪ ガスコンロの普及と四日市市の土鍋の関係 ≫

  ガスコンロが家庭に広く普及したのは昭和30年代。ガスの火力は急激な温度変化をもたらすので、全国各地で作って
  いた。それまでの土鍋は底が割れたりすることが多かったそうです。






  1959 (昭和34) 年、三重県四日市市の銀峯陶器の3代目が、アフリカ南部の国ジンバブエで採掘されるリチウム鉱物の
  ペタライトを混ぜる事で空炊きしても割れない土鍋を開発し1960年頃から販売。これがヒットして四日市市の窯元が
  相次いでペタライトを使用した事で、現在は土鍋生産の国内シェア約80%になっているそうです。詳しくは中日新聞で。

  中日新聞 『三重ブランドストーリー 6月 萬古焼 (上) 時代に合わせ変化』 19.06.02 配信
   https://www.chunichi.co.jp/article/feature/miebrand/list/CK2019060202000224.html

  【万古焼】ばんこ‐やき
   元文(1736~1741)年間、伊勢桑名の豪商沼波弄山ぬなみろうざんが始めた陶器。赤絵に秀で、文様に異国趣味が
   著しい。古万古・弄山万古という。のち江戸で焼いたものを江戸万古、明治以後四日市付近のものは大正万古
   という。その他桑名万古・松阪万古などの系統がある。


  ≪ スーパーマーケットの登場 ≫  Wiki スーパーマーケット

  1952年、京阪電鉄が運営する京阪ストアの大阪市内の旧京橋駅に開店した「京阪スーパーマーケット」が、店舗に
  「スーパーマーケット」や「モール」という言葉を日本で初めて使った。
  1953 (昭和28) 年、東京港区赤坂の神宮前駅に紀ノ国屋がオープン。日本初のセルフ業態を導入したスーパーマーケット。
  1955年頃には日本全国で約40店のスーパーマーケットが開店。
  1957年に中内功が大阪の千林商店街にダイエーの前身「主婦の店・大榮」をオープン。2015年にイオンの完全子会社化。
  1959年、三重県四日市市で創業した岡田屋がスーパー業務のマルオカを設立。
   (のちに合併で1699年大阪本社のジャスコを設立。1983年に東京へ本社移転。2001年イオンとなり千葉本社。)






  しかし、多くの人はセルフサービス式の買い物には馴染めませんでした。
  1960年代、バスを改造した移動スーパーで各団地などに出かけPR。各地で商店街との揉める事もしばしば。

  

1955 (昭和30) 年

1957年 紅茶ティーバック

 


  当時のニュース映像によると、
  動くスーパーマーケットが団地を狙ってやってくるという知らせに驚いたのは地元の商店街。
   人が一生懸命この町で街作りをして…一言も挨拶なしに抜き打ちでくるってことは、極端に言うと泥棒みたいな
   話だよねほーら来たぞ!と、赤羽台団地では商店街の旦那方が待ち構えていました。
   自由経済ですからね、弱い者が駆逐される。これはきまっているんですな
   決まっているって…我々も生活しているんです ついに交渉決裂。
   赤羽台団地の皆様方、卵・野菜・果物・パン類など他の3割安
   さて、奥様方の評判は?  魅力を感じるくらい安いとは思わないですね 

   Wiki 赤羽台団地
    1962(昭和37)年、東京23区内初の大規模団地として北区に日本住宅公団が造成した公団住宅。






  当時は評判が良くなく、開店してはすぐ閉店するスーパーマーケットが多かったので、
  『スーッと現れて、パーッと消える』と揶揄されていたそうです。

  それでも1960年代前半には特売品やクーポン付の新聞折込チラシを始めるなどで2080店に増加。
  大型スーパーやデパートでは主に子供達をターゲットした集客イベント合戦を行い1970年には約12000店まで増加し
  1970年代には欠かせない店になっていきました。

  ※テレビ東京では70年代に約12000店としていましたが、下の経産省調査のグラフでは1982年で約4500店舗ほど。

  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、汚れた川で食器や野菜を洗っていました。
  団地とニュータウン 堺の金岡団地が最初、 大阪の千里ニュータウンが日本初。


  但し、1970年代くらいになるまで、地域や家庭により生活環境が大きく違っています。
  1964年10月1日に東京-新大阪の新幹線が開通。10月10日に東京五輪が開幕し、東京と大阪の人の行き来が
  増加します。
  東京五輪までは、大阪の方が文化も庶民の平均的な生活レベルも東京より遥に高かったようです。

  1956年に大阪の堺市に金岡団地が建設され、1962年に大阪に千里ニュータウンができ、日本各地に団地のニュー
  タウンが建設されていきます。60年代の団地のイメージは洋式生活を送る人が多く、『団地族』と呼ばれ庶民の憧れ
  だったようです。掃除機が広く普及したのは1965年頃。


  毎日放送 おとな会 向上委員会 オトナ度ちょい増しTV 『オトナなら"スーパー"でええもんを買おう』 16.09.21 再放送

  ≪ 1990年代後半、スーパーの急増 ≫

  下の左端の画像は、経済産業省・経済センサス活動調査 商業統計調査による『日本全国のスーパーマーケットの
  店舗数』1982年から2012年の3年毎の棒グラフ。

  グラフから大まかに数値を読み取ると、1994年7500店舗→1997年19500強の店舗数に激増。
  1995年以降と言えば、バブル崩壊の余韻が冷めて経済低迷を感じ始めた頃。

  1999年の2万軒を超えたあたりがピークで、2007年、2012年は明らかに店舗数が減っています。
  コンビニで生鮮食品を扱ったり、ドラッグストアで食品を扱ったりなど、競合店が年々増えた事が主要因とされます。

  2016年現在、国別のスーパーマーケット数1位は中国、2位は米国、日本は4位のようです。






  ≪ 近年、『高質スーパー』が注目されているようです ≫

  競合店が増え、経済状況や生活スタイル・嗜好・価値観の変化で多様化した消費者ニーズ。
  これに応えられる独自路線を確立したスーパーだけが生き残れる時代になってきたようです。

  品揃えが多彩で高級スーパーとして有名な東京の成城石井。元々は東京の成城にあった果物店で、1976年にスー
  パーマーケットをオープン。
  以降ほぼ店舗数を減らすことなく右肩上がりに増え続け、2015年6月現在で日本全国に125店舗 (うち関西21店舗)。

  東京の麻布十番にあるナニワヤでは、高級ローストビーフ (100g1000円~) が人気。(テレビ東京 昭和・平成ヒット商品4より)

  大阪の野田新橋筋商店街にある『ビッグビーンズ福島店』では調味料約100種類・醤油50種類以上を品揃え。
  兵庫の芦屋の『グランド・フード・ホール』では一流シェフが作った惣菜類が売り、できたてのピーナッツバターの販売も
  あるそうです。
 
 【食品偽装と主婦連合会】 
  ≪ 主婦連の結成 ≫  Wiki  主婦連合会 / Wiki 奥むめお  / しゅふれん (主婦連合会) HP / 日本主婦連合会 (大阪) HP

  奈良県橿原市HP 橿原市消費生活センター  http://www.city.kashihara.nara.jp/shoko/syouhi/kurasizyohou_1.html#07
  テレビ東京 開局50周年特別企画 『池上彰のJAPANプロジェクト 日本の底力スペシャル 第一部、第二部』 14.11.09 放送

  戦前の消費者運動は、消費生活協働組合運動(明治10年代の初頭)が始まりです。

  1900年(明治33年)には産業組合法が交付され、生協の「購買組合」としての活動が認可されるにいたりました。
   日露戦争後の物価上昇と米の不作による米価暴騰から生活を防衛するために多くの組合が設立された時代です。

  第二次世界大戦後、消費者は生活用品の欠乏、ヤミ物資、売り惜しみ、有害商品、不良生活用品に悩まされました。
  これらに対抗するために立ち上がった消費者、特に大都市で物不足と物価の高騰に悩んでいた消費者によって、
  運動組織が形成されるようになりました。

  戦後の1940年代~70年代前半頃、日本では食の偽装などの事件が多くありました。 
  特に東京で多かったようです。のサイトで確認して下さい。

  現代禁書目録 『三一書房 1969.07.31 出版 「うそつき食品」 』
   http://禁書.net/%e3%81%86%e3%81%9d%e3%81%a4%e3%81%8d%e9%a3%9f%e5%93%81/


  1945年10月 東大阪市の主婦たちが「米よこせ(風呂敷)デモ」を行い
  「鴻池新田主婦の会」を結成。

  19487月には、「大阪主婦の会」の会員が「牛肉不買運動」によって、
  牛肉の公定価格を要求しました。

  この運動がきっかけとなって、東京では大阪主婦の会に協調して
  「不良商品追放運動」が繰り広げられました。

  1948年に10本中8本で火が付かないという不良マッチ事件がありました。
  当時はライターは一般的でなく、マッチを擦ってガスコンロに火を付けて
  いたので、主婦にとってもマッチは欠かせなかったのです。


  19489月に 奥むめお氏 (福井市出身) が、「不良マッチ退治主婦大会」を東京で開催。
  「おしゃもじとエプロン」をシンボルに「主婦連合会(主婦連)」が誕生。

  1949年、大阪では「関西主婦連合会」を設立。

  1950年代以降、食品の偽装が相次ぎ、主に主婦の皆さんが家族の健康を守る為に消費者運動を活発に行いました。






  1956年、全国消費者団体連絡会が設立。1957年の初の全国消費者大会では、消費者主権確立のための「消費者宣言」が
  採択されました。

   ※ しゅふれん と 日本主婦連合会 は、違う団体だそうです。(ややこしくて、よく分かりません。)


  ≪ たくあん着色料問題 ≫

  1953 (昭和28) 年に人工着色料オーラミン の使用が禁止になります。

  【オーラミン】auramine … 黄色の塩基性染料。木綿・レーヨン・絹・羊毛などの染料に用いる。

  主婦連合会の休憩室でいつものように会員の主婦たちが集まってお弁当を食べていたところ、弁当箱のフタにたくあんの
  黄色がべったり付着しており、疑問に感じて調べ始めた事でした。






  「自分の住んでいる地域のたくあんを持ち寄りましょう」という事で、東京中のたくあんを取集し、主婦会館の4階にある日用品
  試験室で検査。薬学科で学んだ高田ユリさんがリーダーとなり本格的な成分分析を主婦連の皆さんが自ら調査。
  その結果、衣服を染めるためのオーラミンという人工染料が検出。このデータ分析結果を持って国会に乗り込み改善を要求
  しました。






  Wiki 伊勢たくあん によると、
  三重県の伊勢地方でつくられていた伊勢たくあんも、戦後は1947年(昭和22年)公布の食品衛生法で使用禁止と
  なるまではオーラミンを使用していた。出荷先は、大阪が40%、京都が35%、神戸が15% だった。 と書いてあります。

  ※ 岸信介が首相だったのは1957~1960年なので、テレビ東京の番組は年代順ではなく、色んな映像を参考にして再現ドラマを構成してあるようです。


  ≪ 1954年 有毒黄変米事件 ≫  Wiki 黄変米 より、文を抜粋

  【黄変米】おうへんまい 広辞苑
   カビの寄生によって黄色に変質した有毒米。カビの酒類により肝障害・腎障害・神経障害・貧血等の中毒をおこす。

  戦後の食糧難の時代に外国から大量の米が輸入され、国民への配給が行われていた。
   1951年12月にビルマ(現 ミャンマー)より輸入された6,700トンの米を横浜検疫所が調査したところ、1952年1月13日
   に約1/3が黄変米である事が判明し、倉庫からの移動禁止処分が取られた。

  厚生省により、黄変米が混入している輸入米は配給に回さない事が決められましたが、輸入米から次々と基準を
  超える米が見つかり在庫が貯まりました。






  処分に困った農林省は基準を緩和して配給に回す計画を立てましたが、朝日新聞にスクープされ市民活動が活発に
  なりました。政府は配給を強行、配給に回されなかった米も加工品材料として出荷しようとしました。

  直後、厚生省の主導で黄変米特別研究会が組織され、東京大学医学部の浦口健二助教授などが黄変米の高い
  毒性が解明。世論の強い反発のため黄変米の配給は継続できなくなり、同年の10月には黄変米の配給が断念
  されました。

  当時のTVニュースでは東京で配給になったアメリカ加州 (カリフォルニア) 米をハツカネズミに与えたところ、約6
  時間で死んでしまったという事件が起こりました。

  また、東京では肉にうさぎ肉が混ざっていたり、東京や大阪などで、七味唐辛子からダニが発見され、八味唐辛子に
  なりました。などのニュースがあったそうです。 この当時、肉は竹の皮に包んで売られている事も普通だったようです。


  ≪ 1955年のヒ素ミルク中毒事件 ≫


  ≪ 1956年 中性洗剤ライポンFが発売 ≫

  この時代、野菜に付着した農薬も問題になっていました。
  日本初の台所用洗剤として、食器だけでなく生野菜や果物も洗えるとして、ライオン㈱が
  中性洗剤のライポンFを発売。厚生省の推奨品として広く普及しました。

  1958年には冷蔵庫の脱臭剤であるキムコが発売開始。
  1960年の家電普及率では、電気冷蔵庫が約10%、電気掃除機が約8%。
  1960年代には掃除グッズが浸透し、食品に限らず衛生全般に関心を持つようになりました。



  ≪ 東京五輪前の摘発 ≫

  東京オリンピックと日本人のアイデンティティー 2018年 江戸川大学 斗鬼正一 名誉教授
   https://edo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=803&item_no=1&page_id=13&block_id=21

  「欧米人にどう観られるか?」を強く意識し、特に東京では衛生・清潔・美化、秩序・マナー・犯罪、看板設置などに対し、
  意識改革のキャンペーンや取締りなどが行われました。
  上記リンクの論文を読めぱ、当時の日本、主に東京の実態が分かります。は一部抜粋。

 粗悪品,インチキ商品,飲食店 当時ホテルや飲食店のサービスは低質で,消費者利益保護といった考え方は
 ほとんど存在しなかったため,インチキ商品,粗悪品,不当表示などが氾濫していた。たとえば1964年9月にも混ぜ物
 をした牛乳が「国辱になりかねぬ薄い牛乳」と指弾されている(読売新聞,1964年9月3日)。
 1964年2月21日の朝日新聞社説「商業道徳を高めよう」では,このような粗悪品や見本と違うものを売りつけたりすれば,
 外国人の「日本の評判は一度に落ちてしまう」と危惧,アメリカでは消費者の利益擁護が進んでおり,「アメリカ政府を
 見習うべき」と主張している。具体的には牛肉缶詰が実は馬肉,天然果汁と称するジュースが実はブドウ糖,外国人とは
 あまり関係がなさそうなものでも,魚の名がウソとか,不動産広告の駅から10分が実は徒歩ではなく車だったなどといった
 例を挙げている。バーなどの飲食店でも,料金表が無い店を一掃しようと警察の査察班が目を光らせ「ビシビシ検挙」が
 行われた。


  ≪ 1960年代 嘘つき缶詰 ≫   関東の鉄道 山手線、東京駅、日本初の整列乗車の背景、関東私鉄の闇

  1960年9月4日の毎日新聞によると、『レッテルは牛、中身は鯨肉 有名会社の缶詰を偽装 都内、近県に流す』の
  記事。(番組内では、言及していませんが、新聞記事を見ると、千代田区にあった食研というメーカーのようです。)






  主婦連合会は独自に食品などの成分分析などを行い、厚生省や、国会にまで押しかけ総理大臣に直接法整備の
  改善を訴えました。
  当時を知る元厚労省 食品保健部の髙谷さんによると、『ここはおかしいから直したらどうだ』と主婦連に呼びつけ
  られました。子供を守らなきゃ、というのがあったんじゃないかと思いますよ。






  70年代前半ニュースでは、田中角栄 総理大臣に直接食偽装を訴えている主婦連合会の人たちの様子があります。

  【田中角栄】たなか-かくえい (新潟県生まれ、1918~1993)
   1972~74年首相・自民党総裁。日中国交正常化を実現。政策として打ち出した「日本列島改造論」は狂乱物価を招く。
   ロッキード事件で実刑判決を受けたが、その後も政界で隠然たる影響力をもった。

  池上さんによる解説では、缶詰の中に当時の食品問題が凝縮されていた。『牛肉のうま煮』の『うま』は『旨』ではなく
  『馬』だったなんて事も。チェックする機関がなかったので、日本も食品偽装なのが当たり前の時代だった。

  1962年 景品表示法 (公正競争規約) の公布。 パッケージなどに商品の名前・原材料名・内容量などを表示する規定。
  1964年 果汁などの試験法の改善。 1967年 ジュースの定義を明確化。






  1970年 東京都 食品機動監視班 (食品Gメン) が発足。
  Gメン=Government Men (直訳「政府の男」で、警察以外の政府の取締官を意味)
  東京では現在40人の食品機動監視班が活動。スーパーマーケットなどで流通業に立ち入り調査をしています。
  年間約5000品目を収集し調査。

  2009年 消費者庁が発足。

  日本全国の食品Gメンが見つけた食品問題数 (厚労省調べデータ) によると、
  1975年に8627件 → 2012年には960件 (問題検出数は抜き打ちでの全調査数の0.06%以下) にまで低下し非常に高い
  安全が確保されています。

  【公害対策基本法】こうがいたいさく-きほんほう
   公害防止に関する施策の基本を定めた法律。1967年に成立。事業者や国・地方公共団体の責務を明らかにし、
   国民の健康保護、生活環境の保全を目的とする。1993年、環境基本法に吸収され廃止。


  ≪ 2000年以降 ≫  毎日放送 ちちんぷいぷい 『中国 "期限切れ肉" 問題 続報』 14.07.24 放送

  (財務省貿易統計による金額ベースによるデータ) 
  中国産の輸入食料品は、1990年 6.1%  2006年 16.4%  2013年 速報値で 13.6% (8700億円)。半数は野菜類。

  2008年に冷凍ギョーザ事件 (中国で製造した冷凍ギョーザに殺虫剤の成分混入しており、兵庫県・千葉県で10人が
  中毒症状) 農薬が混入した冷凍インゲンで、東京の主婦が被害など。


 
 

  中国ではCIQ(中国 国家質量監督検験検疫総局) という組織が食品の品質を一元管理。
  不祥事が多発している事から、近年は法改正を重ね検疫検査が強化されているらしいですが、
  個々の食品については輸入企業がCIQと合同で自主的に検査・管理するしかないのが
  現状だそうです。

  日本での輸入品チェックは、厚生労働省 食品安全部 輸入食品安全対策室によると
   ・過去に違反があった業者については毎回検査を行う。
   ・異臭カビなど異変があった場合は検査を行う。
   ・輸入が倭の企業が自主的に検査を行う。


  朝日新聞デジタル 『マックとファミマ、鶏肉商品一部販売中止 期限切れ報道』 14.07.22 配信
   http://www.asahi.com/articles/ASG7Q571RG7QULFA01K.html

  ≪ 2014年のマクドナルドとファミマの『汚肉ナゲット』事件 ≫

  日本マクドナルドは22日、人気メニュー「チキンマックナゲット」の販売を一部店舗で中止したと発表した。
  仕入れ先の中国の食品会社が、使用期限の切れた鶏肉を使っていた疑いが強まったためだ。ファミリーマートも
  同日、この会社から仕入れた「ガーリックナゲット」などの販売を取りやめた。






  いまのところ、両社とも健康被害は確認されていないとしている。中国での報道によると、疑惑が浮上したのは
  米食品会社OSIグループで中国・上海の食品会社「上海福喜食品」。期限を半月過ぎた鶏肉を使った事例も
  確認されているという。

  マクドナルドは2002年から、ファミマは今月から取引を始めたという。

  マクドナルドは、国内で使うナゲットの2割をこの会社から仕入れ、関東(東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城、群馬、
  栃木)と甲信越(山梨、長野、新潟)、静岡の1都10県の1340店で販売していた。このうち代替できる在庫が
  なかった約500店で一時販売をやめた。

  同社は、仕入れ先をタイなどの食品会社に切り替え、23日までには販売を再開するとしている。
  ファミマは、約1万店で扱っていた「ガーリックナゲット」と、東京都内中心に10店においていた「ポップコーンチキン」
  の販売をやめた。

  マクドナルドは「お客様にご不便をおかけし、ご不安な気持ちにさせたことは申し訳なく思っている」(同社PR部)と
  している。

  ※ キムチ、韓国海苔、養殖ヒラメなどの韓国産も衛生問題が浮上していますので、こちらも気をつけましょう。

   東京の蕎麦屋の衝撃的?な真実が判明 「生そば」の文字に意味はない?
 
 【1960年代】 東京が大阪にようやく追いつき始めた時代。
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『長寿企業に学ぶ 逆転の発想』 14.11.27 放送
  テレビ東京 ものづくり日本の奇跡 15.03.28 放送
  テレビ東京 日曜ビッグバラエティ 「昭和平成ヒット商品全部見せます! PART4」 15.05.17 放送
  フジテレビ スーパーニュース 15.11.06 放送
  毎日放送 せやねん! 『メチャ売れ!! 『サトウの切り餅いっぽん』 15.11.07 放送
  テレビ東京 日曜ビッグバラエティ 「昭和平成ヒット商品全部見せます! PART5」 15.11.29 放送
  テレビ大阪 ニュースリアル関西 『関西企業のチカラ 「堺 タマノイ酢 創業100年」』 16.09.27 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『ビフカツの本場は神戸やで !? 兵庫県民の真実』 17.01.05 放送
  テレビ東京 日曜ビッグバラエティ 「昭和平成ヒット商品全部見せます! PART7 日本人って やっぱりスゴイSP」 17.05.21 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『甘いもの好き集まれ! スイーツの甘~い秘密』 17.02.02 放送

  1960年、池田内閣が国民所得倍増計画を決定。  Wiki 国民所得倍増計画

  【池田勇人】いけだ‐はやと (広島県生れ、1899~1965)
   政治家。京大卒。大蔵官僚を経て、吉田茂に知られ、自由党に入り、各省大臣を歴任。自由民主党総裁。
   1960~64年首相。高度経済成長政策を推進。


  ≪ サラダ油を使った洋食が家庭に普及 ≫  ウスターソース  江戸時代の海上物流 北前船

  江戸時代の初期に大阪 (河内) にて本格的な綿花栽培が始まり、畑の肥料とする北海道のニシンが北前船に
  よって大量にもたらされた事により、18世紀以降には西日本各地に綿花の栽培が広まります。
  西日本では綿実油が広まっていたと思われますが、東日本では綿花栽培に適しない気候であり江戸などは胡
  麻油でした。

  昭和30年代にサラダ油を使った洋食料理を普及させるキャンペーンが行われました。
  昭和31年には、合理的で栄養価が高い新しい調理法を知らせる為、キッチンカーで日本各地で洋食の調理
  指導を行っていました。都内では毎日どこかで行われていたそうです。

  日清精油が発売したサラダ油の当時の広告では、御中元用の缶入りが400~2000円。当時、大卒の初任給が
  1万2000円。

  コロッケが各家庭で作られウスターソースも広く普及。女優の五月みどりが歌う『コロッケの唄』のレコードも
  発売されました。今日もコロッケ 明日もコロッケ これじゃ年がら年中 コロッケ コロッケ

  東京などではウスターソースに砂糖を加えて湯で割ったソーススープや、ウスターソースライスなども食べられ
  たそうです。かけるだけで洋食を食べているように感じる「魔法のソース」という感覚だったようです。

  ちなみに関西ではピラフやチャーハンにウスターソースをかける人が多いですが、大正時代から普及していたので、
  上記のようなソーススープやソースライスで食べていた事は無いと思います。

  百菓辞典「フルーツサラダ」 より抜粋
   サラダの語源は、ラテン語の変化した南仏方言で「塩味のつけられた (もの)」といわれる。






  1950 (昭和25) 年 に戦後の食糧統制が緩められ食肉も販売自由化されていましたが、戦中戦後に養豚業が衰退
  していた為、食肉需要に追い付かず、1960 (昭和35) 年の東京では豚肉の価格が高騰し、牛肉を上回る価格が付く
  事もあったようです。
  ちょうど、その頃に羊肉などを混ぜたプレスハムが商品化され、以前の1/3価格で販売されました。

  昭和35年 各100gの価格 (現在の価値換算値) 豚肉70円 (約980) 、牛肉60円 (約830)、ハム44円 (約460) 。
  トンカツは高嶺の花となった為、代わりにハムカツが食べられました。

  関西でもハムカツはありますが、関東のようなメジャーな食べ物ではありません。

  ウスターソースは明治中期頃に国産ソースが発売されおり、ビフカツ (ビーフカツレツ) やコロッケも明治期には食べら
  れていました。

  明治初期にホワイトソースのクリームコロッケが伝わりましたが、白御飯に合うように「肉じゃが」に衣を付けてフライに
  するジャガイモが中心のコロッケに改造されていきました。
  フランス料理のコートレットを作る時に生パン粉 (日本独自) を付けて揚げるようにアレンジしたのが日本式カツレツ。






  【カツレツ】cutlet ← フランス語でコートレット
   豚肉・牛肉・鶏肉などの切り身に小麦粉・溶き卵・パン粉をつけて、油で揚げた料理。カツ。

  東京や横浜でも明治期にビフカツが食べられていましたが、東日本ではトンカツが人気となっていったようです。
  また明治・大正時代に東京で出版された各料理本には牛肉のステーキは「ビフテキ」と紹介されています。

  上記、関東で豚肉が高騰した時、牛肉文化に戻る可能性があったにも関わらず、戻らなかったのは、庶民が
  より安い肉 (ハム) を求めたからです。

  東西の丼の違い 牛肉の卵とじ丼は関西では「他人丼」、東京では明治時代「開花丼」ですが大正時代は別の名前で呼ばれていた
  カレーに牛肉を入れるか、豚肉を入れるか 関東が豚肉文化の理由 大正時代の豚肉料理研究『田中式豚肉料理』

  大正時代に東京で出版された料理本などの記述によると、全国で最も消費されているのは牛肉。「肉=牛肉」の認識。
  「豚肉は安いので、牛肉の次に用いられる」という事も書いてあります。
  東日本などが「肉=豚肉」となったていったの大正時代~昭和初期頃からです。

  2016年頃から、東京ではビフカツを「牛かつ」として売り出す飲食店が増えているそうです。

  アジも干物からアジフライとして多く食べられるようになりましたが、干物のように解しながら食べず丸かぶりした為、
  小骨が喉に刺さる事が多発しました。

  1962 (昭和37) 年、冷凍のエビフライが発売されましたが、衣が80%以上という小麦粉の塊のような製品が多く販売
  され、1977 (昭和52) 年に「冷凍エビフライ衣替え論争」が業者と消費者の間で勃発。結果、衣は全体の50%以下に
  定められるようになりました。


  ≪ 明治期は鶏肉が最も高価だった ≫

  牛肉の歴史 - 相州牛推進協議会 [相州牛公式サイト] 牛肉の歴史 ← 牛肉の歴史に詳しいサイトでおすすめ
   https://www.soshugyu.com/%E7%89%9B%E8%82%89%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98/

  戦後昭和史 『牛肉・豚肉・鶏肉の値段の推移』 https://shouwashi.com/transition-meat.html

  岡山県畜産史 第2編 各論 第4章 養鶏の発達 第2節 養鶏の展開
   2.採肉養鶏の発展  (1)明治・大正時代の採肉養鶏
  http://okayama.lin.gr.jp/tosyo/history/2-4-2-21.htm

  食べ物ちょっと雑学 - 日本の西洋料理index 『鶏肉は高級食材だった! 』
   http://seiyouryouri.yokohama/alacart/chicken.html


  上記の岡山県畜産史のサイトに明治20年頃と思われる? 石川県が各府県の鶏肉の価格を調査した結果を一部
  抜粋 (大阪・兵庫・岡山・広島・東京の5府県のみ) した表が載っています。
  鶏肉600g当りの平均値だと兵庫県の26.5銭、広島県21銭、大阪府16.8銭、岡山県と東京府が10銭。
  高価なのは若鳥肉で、安価なのは廃鶏肉。大正期の岡山県では名古屋や高松から鶏を仕入れ大阪に出荷。
  牛肉は北海道18銭が最も高く、広島県が4銭で最も安い。

  東京ではあまり良い鶏肉が流通していなかったと思われますので、これも豚肉文化になった理由の一つかも知れません。


  ≪ 鶏卵・鶏肉・ケチャップの低価格化 ≫  オムライス発祥 大阪の北極星

  1960 (昭和35) 年以降、米国からブロイラーという現在主流の鶏の品種が導入し養鶏のゲージ飼いが進み産業化
  され、(たぶん70年代頃から) 価格が大幅に下がりました。
  この事により家庭でも卵料理が人気となり、オムライスが子供たちの好きな料理となりました。






  名古屋で蟹江一太郎が1908 (明治41) 年にケチャップを発売。650g入り20銭前後 (現在換算で約3000円)。
  1914 (大正3) 年に愛知トマトソース製造合資会社を設立 (のちのカゴメ)。
  戦後に進駐軍がトマトの栽培を促進。昭和中期にはビニールハウス栽培も盛んになりトマトの価格も下がって
  いました。

  1955 (昭和30) 年にスパゲッティが発売され宣伝カーで実演販売していた事もあり、日本独自のケチャップ味の
  パスタ 「スパゲッティ・ナポリタン」も家庭で手軽につくれる洋食として広く普及しました。
  当初は箸で食べていましたが、口の周りがケチャップで真っ赤になる事から、フォークも家庭で使われるように
  なります。

  昭和30年代後半は洋食の普及にともない洋式のテーブルマナーの特別講習が学校や会社で盛んに行われた
  そうです。


  読売テレビ ten. 『大阪生まれの「河内鴨」"食"で大阪に人を呼ぶ』 19.04.16 放送

  ≪ 大阪は合鴨肉の生産トップだった ≫

  江戸時代は大坂や河内で獲れる鴨が最上品でした。鴨を捕獲する方法が他と異なっていた事が下記の文献に
  描かれています。
  江戸時代の評判が背景にあったので、明治時代からの合鴨も養殖も河内が盛んになっていったと推測できます。

  捕鴨の様子と捕熊の様子 1799年刊『日本山海名産図会』より、鴨は大坂・河内が上品、熊の胆は加賀・新潟・出羽が上品

  1980年頃まで国産合鴨の生産シェア70%以上が大阪の河内鴨だったようです。
  大阪河内の畜産業、特に鶏肉の生産は1975年頃に急激に落ち込んでいます。鶏肉などの輸入が増加したからの
  ようです。現在売られている合鴨肉の9割が輸入品、国内産は1割。






  河内鴨は関西圏の料理店でしか消費されていませんでしたが、2019年に飼育から販売までを唯一自社で行って
  いる松原市にある明治3年創業のツムラ本店が「大阪に人を呼ぶため」に東京への出荷を決意。

  刺身でも食べられる鮮度と品質を保つため1日200羽までしか捌かないと決めているので流通量は少量。
  新規の飲食店との契約は半年待ちのようです。東京では数店の高級フレンチのみで味わえます。

  東京にはモモ肉を出荷しますが、最高級の胸 (ロース) 肉は大阪近辺でのみ販売。まずモモ肉で河内鴨の美味し
  さを知ってもらい、更に美味しい合鴨を味わうために大阪に来てほしいという思いからのようです。






  最高のロース肉を出荷するために無農薬の餌を与えで、通常より25日長い75日間飼育してから出荷。
  その為、鴨の運動量が増えるのでモモ肉は硬くなります。レストランでは美味しく調理する事が可能ですが、一般
  家庭では調理するのが難しいため油で揚げたコンフィに加工して、松原市のふるさと納税の返礼品やネットで販売。
  繊細な素材の肉質を損なわいようにして、コンフィへの加工はするのは難しく、引き受けたのは宮崎県の加工業者
  のみだったようです。


  ≪ 奇妙な洋食も生み出された ≫

  フルーツを料理に積極的に取り入れたレストランがが登場し、オレンジのシチューなどがメニューあったそうです。






  主婦の友の付録『お惣菜向きの洋食の作り方 三百種』という本には、料理研究家らが考案した「きゅうりのシチュー
  「牛乳入り生マグロのぶつ切り」「豚肉の林檎煮」「どじょう入りトマトシチュー」「干物のポテト詰め」などの料理レシピが
  掲載されていました。


  ≪ 1960年 旭化成がサランラップを発売 ≫






  1930 (昭和5) 年に国産初の電気冷蔵庫を東芝 (720円、小さな家が買えるほどの価格) が発売しますが、
  1960年の冷蔵庫普及率は約10%。

  東芝は1931年に国産初の真空掃除機 (110円、現在価値で約90万円) も発売。どちらも米国GE社を模倣したもの。
  どちらも高価すぎたため、ほとんど売れなかったようです。
  掃除機の普及率は狭い団地住まいが増えた1967年に約50%。

  1953 (昭和28) 年1月、シャープが販売した14型テレビTV3-14Tが国産初 (市販品では) の白黒テレビ。

   タルタルソース ハンバーグ・ユッケ・焼き餃子との関係

  東芝未来科学館 『1号機ものがたり』 http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/ichigoki/index_j.htm
  やっぱり○ニッポン製 『ニッポンはじめて物語 「国産初の白黒テレビ」』 http://www.nipponsei.jp/hajimete/hajimete05_01.html


  ≪ ガス冷蔵庫 ≫  Wiki 冷蔵庫

  昭和30~40年代 、国産のTG55型などのガス冷蔵庫を東京ガスや大阪ガスなどが販売していました。
  モーターを使用していないので、電気冷蔵庫より音が静かで故障も少なかったそうです。

  レファレンス協同データベース 『ガス冷蔵庫に関する質問の答え 東京・小平市にある「ガスミュージアム」に問い合わせた結果』
   http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000023490
   ・1928 (昭和4) 年、販売目的としてガス冷蔵庫の輸入始まる
   ・1949 (昭和24) 年、国産品の開発始まる
   ・1951 (昭和26) 年、大阪ガスに国産品100台が納品される
   ・昭和30年代 (1955年~) に広く普及
   ・昭和40年代 (1965年~) も東京ガスで販売していた

  うちの母の話によると、1960年当時、大阪市の天王寺区に住んでいた義兄 (母の姉の夫) の家ではガス冷蔵庫を購入。
  ローンで買う事が可能だったので、近所の家のほとんどが同時期に購入したそうです。

  東京ガス 『ガス・ミュージアム「収蔵品で見るガス器具の歴史」』 http://www.gasmuseum.jp/collection/equipment/
  関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター 『なにわの食文化 ―「天下の台所」からみる日本食―』
   http://www.kansai-u.ac.jp/Museum/naniwa/publication/book32.pdf
  北名古屋市歴史民俗資料館 『昭和オールディーズS20-S40年代 「電気冷蔵庫」』
   http://www.carayoko.com/oldies/shikatu25.html
  JP PRESS 『食の研究所 「溶けゆく氷を使っていた大正・昭和の冷蔵庫」』 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44419?page=4


  ≪ チョコレートの輸入自由化 ≫

  1960年にカカオ豆・ココアバターの輸入自由化があり、明治製菓マーブルチョコレート、森永製菓エンゼルパイ、
  グリコのアーモンドチョコレートなどが60年代に発売されます。






  バレンタインデーのチョコは1932年に神戸のモロゾフが発売したのが日本初。
  1958年に東京の伊勢丹が日本で初めてバレンタインのセールを開催。

  元々はバレンタイン司祭に祈りを捧げる日でしたが、14世紀頃から恋人にプレゼントや、プロポーズをする日になった
  というのが有力な説のようです。

  【バレンタイン‐デー】St. Valentine’s day   Wiki バレンタインデー
   2月14日。269年頃殉教死したローマの司祭、聖バレンタインの記念日。この日に愛する人に贈り物をする。
   日本では1958年頃より流行し、女性から男性にチョコレートを贈る習慣がある。


  ≪ 60年代前半は懸賞ブーム ≫

  ロッテガムの懸賞広告は朝日新聞1961年1月20日、森永コーラスの懸賞広告は朝日新聞1961年4月16日のもの。






  1960年、江崎グリコが板チョコの技術を応用したワンタッチカレーを発売。名糖がホームランバーを発売。
  1962年、東洋水産がマルちゃんラーメンの元祖『ハイラーメン』を発売。
  1963年、堺のタマノイ酢が、酢を粉末にした世界初の商品『すしのこ』を発売。
  1965年、新潟県のサトウ食品工業が、レトルトもち『越後もち』という板餅を発売。1950年の創業当時は白玉粉を製造。






  寿司の歴史雑学3 酢 いずみ酢、堺のタマノイ酢 古墳時代~江戸時代中期まで、酢のほとんどは堺で作られていました。酒も酢も日本では堺が最初に製造。
  日本独自のクリスマス文化 不二家がクリスマスケーキを広めた。 クリスマスブーツは関西発祥
 
 【 1964 (昭和39) 年 東京オリンピック での生活の変化 】   幻の東京開催予定 日本万博
  ≪ 東京五輪を機に、日本人の様々な意識や生活が変化した ≫

  東京オリンピックと日本人のアイデンティティー 2018年 江戸川大学 斗鬼正一 名誉教授
   https://edo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=803&item_no=1&page_id=13&block_id=21

  「欧米人にどう観られるか?」を強く意識し、特に東京では衛生・清潔・美化、秩序・マナー・犯罪、看板設置などに対し、
  意識改革のキャンペーンや取締りなどが行われました。
  上記リンクの論文を読めぱ、当時の日本、主に東京の実態が分かります。


  TBS ひるおび 『五輪は第2の開国 1964年の東京五輪で生活に変化』 13.09.16 放送
  テレビ東京 開局50周年特別企画 『池上彰のJAPANプロジェクト 日本の底力スペシャル 第一部、第二部』 14.11.09 放送

  東京がガラリと変化したのは東京オリンピックがきっかけでした。東京では競技場やホテル、道路などのインフラ
  整備の建設ラッシュ。
  国家レベルの集中投資をしたおかげで、東京は日本最大の一極集中都市へと変貌していきます。
  「宇宙中継」と呼ばれた衛星中継が始まり、オリンピックを観戦するためにカラーテレビも普及し始めます。






  ホテルニューオータニが建設される際、バスルームの軽量化と施工期間の短縮、見た目やメンテナンスが簡単
  という事で、世界で初めてユニットバス方式を採用。また、旅館では脚付きのテーブルとイスのセットが置かれる
  ように決められました。
  また、外国人でも分かるように図で設備や場所を示すピクトグラムも日本で考案された世界初の表示方式。






  大正1年から販売されている福岡県の博多銘菓「ひよ子」が進出し、「東京ひよ子」として販売開始。

  【首都圏】しゅと‐けん
   東京都を中心とした地域。1956年首都圏整備法で定めた、関東地方に山梨県を加えた1都7県。
   東京都を超えた枠組みで整備に関する計画などを立てることを目的として構想。


  ≪ 1964年開催の東京オリンピックを機会に、都民の衛生意識も向上 ≫

  1950年代の東京 川にゴミを捨て、汚れた川で食器や野菜を洗っていました。
  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文

  1959年に東京五輪開催が正式に決定。
  オリンピックに備え、東京都衛生局は食中毒や伝染病を出さないように旅館やホテルの一斉指導を行いました。
  オリンピック開催前の1週間は首都美化総点検習慣を実施し、『首都美化はオリンピックの一種目』とした
  『首都美化総点検カード』などを都民に配りました。また携帯灰皿となる吸殻入れも配布。






  1930年代のゴミの回収は週に1回程度で、曜日や時間なども不定期だったそうです。
  回収者が鳴らす鐘の音を聞いて、主婦は急いでゴミ (特に生ごみ) を捨てに行きました。

  都内の歩道には7000個のポリエチレン製のゴミ箱を設置し、「ごみを無くしてきれいな東京を」と道行く人に呼び
  かけました。
  それまで街角に設置されていたのは↓の様な木製のゴミ入れが普通で、大八車によるゴミ収集が行われていました。






  1960年、東京都で杉並をモデル地区に「ごみ容器による定時回収(容器収集)」を実施。
  1961年、新方式(容器回収)を開始 ※1961年から3ヵ年計画で特別区全域で実施。セキスイがポリペール発売。
  1962年、初めて家庭用のゴミをプラスチック製のフタ付ゴミ容器に入れて所定の場所に出しておき、小型のゴミ
  収集車で回収するという方式になりました。
  セキスイ社製の45ℓポリペールは当時の価格で1800円 (現在の価値に換算するには×5~10倍)。非常に高価で
  したが、景気が良かった事もあり、一般に広く普及したそうです。

  この頃、大阪では路上ゴミ箱はコンクリートで囲った中に入れていたようです。

  積水化学工業 (本社大阪) 『プラスチック製ゴミ容器』 ← 発売当初の東京都のゴミ処理事情
   https://www.sekisui.co.jp/aboutsekisui/products/s01about_5d/1240092_19518.html
  路地とごばこと岸和田 岸和田市教育委員会 http://kishibura.jp/blog/umeda/110622text_gonbako.pdf ←昭和のコンクリート製街角ゴミ箱
  大阪産業デザインの変遷 http://osakadc.jp/the_transition_of_design_in_osaka_v2_s.pdf ←1900年以降の生活用品の画像多数あり。

   関東の鉄道 山手線、東京駅、日本初の整列乗車の背景、列車内にゴミが散乱、関東私鉄の闇   東京の利権問題 2020年五輪招致賄賂疑惑


  ≪ 多くの国民が「生サラダ」を食べるようになった ≫

  日本オリンピックアカデミーの元理事だった上智大学 師岡文男 教授によると
  外国人が生野菜 生サラダを食べるということで、高原レタスなどを栽培し始めたのは東京オリンピック頃だったと
  思います。 当時の日本では、野菜を生で食べる習慣はあまりなかった。覚えているのは、フレンチドレッシングの
  作り方が新聞広告に 載ったこと。この事がきっかけで生野菜サラダが広まりました。

 
 
1964年オリンピック開催期間中に日清精油 ㈱ サラダ油の広告






  魏志倭人伝には 『倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣』とあり、
  倭の地は温暖で冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。という記述があります。


  江戸時代前期1643年刊『料理物語』 「第七 青物之部」 江戸時代にも野菜や花を生で食べていたと思われます。

  上方言葉と料理内容から、大坂人が上方を中心として~東海~埼玉あたりの食文化を見聞して書いているようです。

  野菜も刺身のようにして、生で食べられていた事がわかります。下記は『青物之部』で「さしみ」の記述があるもの。
  花は「さしみによし」「はもさしみによし」との記述も見られるので、刺身の付け合せとしても用いられたようです。

  〔ふ〕〔こんにゃく〕〔みょうが〕〔たんぽぽの花〕〔よめがはぎ〕〔すべりひゆ〕〔ちしゃ〕〔川ぢしゃ〕〔夕がお=干瓢の元
  〔なすび〕〔くこ〕〔にんにく〕〔ねぶか=ネギ〕〔ひともじ〕〔のびる〕〔たけのこ〕〔またたび〕〔ぼたんの花〕
  〔しゃくやくの花〕〔クチナシの花〕〔くはんぞうの花〕〔菊の花〕〔すもう取の花〕〔じゅんさい〕

  他、「なます」にして食べる野菜も複数記載されています。

  「よめがはぎ=嫁が萩 (ヨメナの別称)」「ひともじ=一文字 (女房詞。昔、ネギを一字の「き」と言った事から)」
  「すもう取草=スミレ又はメヒシバなどの別称」


  江戸時代前期1643年刊『料理物語』 「第十六 さかなの部」 さかな=肴

  〔ひやし物〕 大こん、うり、なすび、はす、くわい 〔りんご〕 もゝ、すもゝ、あんず、くり、なし、此外
  いろいろ時の景物よし

  調理法としては、冷やす事しか書かれていないので、冷やして生のまま、塩か味噌などで食べたと思われます。
  但し、クワイや栗は蒸すか茹でないと食べにくいと思いますが、瓜やナスなどは水分を取るのに生でも食べます。

  大阪泉州特産の水ナスは、手でナスを握ると水のような果汁が大量に溢れだします。
  栽培農家の人によると「子供の頃は喉が渇くと、水を飲む代わりに、よく畑の水ナスをもいで、そのまま齧った」
  そうです。

  飲み水が確保しづらい時代、水の代わりにキュウリやウリを齧って水分補給していたとも言われています。

  「景物けいぶつ=四季折々の季節物」  泉州水なす 平安時代から栽培されてきた伝統野菜

  1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)
  P.127~128 六月の献立 「キャベジのサラド
  キャベジを五分位に切り極くざっと茹で、笊に揚げてよく水を切り、次の軽便ソースをかけて食べるのです。
  ≪軽便ソース≫ 酢と醤油とを同量にして、胡椒少量とカレー粉と砂糖とを適宜に加えて一度煮立てて
  置き、冷めてから用いるのです。
   軽便けいべん=「手軽に」「簡単に」の意味で明治~大正時代によく使われている言葉です。

  江戸時代頃には野菜栽培の肥料として人糞などが使われていたので、葉野菜類は寄生虫防止の為に火を通して
  食べる事が普通でした。明治時代には一部、葉野菜を生のままで食していたようです。

  1888 (明治21) 年 『軽便西洋料理法指南 : 実地応用 一名・西洋料理早学び
   (マダーム・ブラン 述・[]、 洋食庖人 著編、出版地 東京) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849016
  P.38 「サラダの盛附け方」では、サラダの葉を1枚ずつ洗て水気を切る事のみ書かれてあります。
  P.37~38「サラダ、ソース拵こしらへよう」では、小麦粉と牛乳でホワイトソースを作り、卵の黄身・塩・コショウ・砂糖・
  カラシを加え、サラダの油で延ばし西洋酢を入れて粘りを調整する。
  また、ほとんどの場合は酢・油・塩・コショウでサラダ用のソースを作る事が書かれてあります。

  化学肥料を使うようになって生食が可能になりますが、東京五輪までは全国的にみると以前の習慣で生食する率が
  少なかったようです。

  ちなみに当管理人の母親によると、大阪市内ではオリンピック以前から生キャベツのなどのサラダ食べていた。
  四国出身の義姉 (父の兄嫁・管理人の伯母の一人) は生サラダを食べる習慣が無かったそうです。







  1963年、奈良県の三笠産業 (1912年創業、樽の注ぎ口の栓「呑口」の製造業) が世界初となるプラスチック製の『GS王冠』
  発明し特許取得。全国から注文が殺到し爆発的にヒットしました。

  きっかけは取引先が倒産したため、新たな商品の開発をする必要がありました。
  当時のビンの栓は金属製で、栓抜きで空けると曲がってしまい2度と使いものになりませんでした。

  1973年のオイルショックで原材料が入手できず倒産の危機に陥ります。しかし、それを乗り越え1979年にブルオープンキャップを
  開発。その後もキャップ一筋で改良を続け様々なビン・キャップを開発。2014年現在、シェア3割・年間売上95億円の企業に。

  1969年、日本冷凍食品協会が発足。
 
 【大阪に集中している魔法瓶製造会社】
  テレビ大阪 OSAKA一番らばー 『魔法瓶 日本の食卓を変えた 象vs虎』 17.09.16 放送
  テレビ東京 所さんの学校では教えてくれない そこんトコロ! 『東京の街はナゼこうなった?』 19.02.15 放送
  テレビ大阪 やさしいニュース2 『大阪が生んだガラス工芸の逸品 天満切子』 19.03.18 放送
  テレビ大阪  かがくdeムチャミタス! 『アイデア勝負の水間鉄道!』 19.09.15 放送

  江戸時代、オランダ人から製法を学んだ長崎のガラス職人が、大坂天満宮の参道でガラス工場を始めた
  のが、大阪のガラス産業の始まり。日本でのガラス産業は長崎に次いで大阪が2番目に古い。

  江戸時代後期に伊能忠敬が日本地図を完成させますが、愛用した望遠鏡は眼鏡職人だった岩橋善兵衛 (和泉の人、
  1756~1811年) が作った望遠鏡の一つ。現在国宝指定されています。
  現在、国産眼鏡の生産シェア95%を誇る福井県の鯖江市は、明治時代中期に大阪の眼鏡職人を呼び寄せ、農家の
  副業として始めたのがきっかけなので、江戸から明治にかけて大阪では食器以外にも眼鏡などのガラス産業が
  盛んだった事が分かります。

  伊能忠敬愛用の望遠鏡 (国宝) を作った岩橋善兵衛 大阪府貝塚市の人

  1796 (寛政8) 年~1798 (寛政10) 年に刊行された『摂津名所図会』巻の四上「大坂中」に伏見町 (京都の伏見からの
  移住者が多かった) の高麗 (小間) 物屋が描かれています。
   ※ 江戸時代の「高麗物こまもの」や「唐物からもの」は、朝鮮半島や中国だけではなく、外国から輸入した舶来品全般を
   まとめて言ったものです。
  看板には「異国新渡奇品珍物物類」と書かれてあり、右下には木魚の原型である開梆かいばん、オランダから伝わった
  エレキテルなどが描かれており、左上にはガラス製のグラスやビンなども描かれています。テレビ大阪が参照画像として
  使っていましたが、輸入品店なので大坂で作られた物ではなく舶来品の可能性が高いです。

天満宮の大阪ガラス発祥の碑

摂津名所図会

伊能忠敬愛用の望遠鏡

明治時代の福井県鯖江市


  1933年に創業した天満切子という町工場が、20年ほど前に天満切子というガラス製品を完成させました。
  江戸切子や薩摩切子などに比べると、切子の歴史は浅いようです。
  天満切子のグラスの底は他の切子と同じV字彫りし、菊の模様などを彫ります。側面はU字型のカマボコ彫りし、
  側面に底の模様を映り込ませるのが特徴。

  全国魔法瓶工業組合 『日本のまほうびん』 http://mahobin.org/episode.html
  家電Watch 『魔法瓶の歴史と今 ~大阪・天満の象印「まほうびん記念館」を訪れる』
   https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/column/212454.html

  ≪ 100年以上、大阪で繰り広げられている魔法瓶会社の開発争い ≫

  1908年に魔法瓶が日本に輸入されます。ドイツのテルモス(サーモス)社のステンレス魔法瓶で寒暖壜かんだんびんという
  キャッチフレーズで売られたようです。

  1910年には、イトーキ (当時の大阪の伊藤喜商店) の創業者の伊藤喜十郎氏が、東京の鉄砲店に試験的に並べられていた
  魔法瓶を見つけ、これを大々的に宣伝。1911年には名妓を起用した魔法瓶の宣伝や、「保温保冷24時間保証真空瓶」の名称
  によって、広く認知されるようになりました。

国産第1号の魔法瓶

象印の2代目社長

大阪にあった魔法瓶製造会社

天満切子


  1912 (明治45) 年、電球の専門家で日本電球に勤務していた八木亭二郎が大阪で国産の魔法瓶が初めて製造。
  八木魔法器製作所を設立。これを機に魔法瓶を作る会社が大阪に乱立しました。
  最も多い時期には53社もありました。
  魔法瓶の内部はガラス瓶を二重構造にして合せて空間を真空にして、銀メッキを施します。ガラスとガラスの間が
  真空構造になっている為、内側の熱が外に逃げるのを防ぐ効果があり、戦前までは水筒として使われてました。

  1948 (昭和23) 年、象印 (大阪市北区天満) にあるが卓上用の魔法瓶第1号となるポットペリカンを発売。
  戦後の復興で豊かになると卓上のホットが売れるだろうという事で開発したようです。

  1956 (昭和31) 年、タイガー (大阪府門真市) が親指1本でフタが開く形状の魔法瓶グランポットを発売。
  象印はポットを傾けるだけでお湯が注げる形状の注ぎ口を持つ魔法瓶を発売。

  象印は傾けるだけで湯が注げる魔法瓶を発売し、戦後に象印とタイガーが売上を伸ばしました。
  卓上魔法瓶が使いやすく進化していった事で、1958 (昭和33) 年に発売された日清のチキンラーメンなど即席
  ラーメンの普及にもつながったようです。

左、タイガーのグランポット

右、象印のポットペリカン

象印のオートフラップ付きポット

昭和38年の各社の月産高


  1963 (昭和38) 年の魔法瓶会社の月産高の1位は象印マホービン、2位がタイガー魔法瓶工業。3位はエベレスト
  という会社。4位がグロリア、5位がピーコック。

  1967 (昭和42) 年、エヴェレストが業界初の花柄のポットを発売。象印やタイガーなども相次いで花柄の製品を発売。
  エベレストの花柄ポット1号を生み出した工業デザイナーだった坂下清さんは28才の時に渡米し10年かけ米国の
  暮らしを調査しており、その時代の米国の家庭には花柄の製品がごく自然にあったそうです。
  当時、着物の柄は日本人女性にとって憧れだった事もあり、京都の着物職人に以来して図柄を完成。
  これ以降1970年代は日本の家庭の台所は電子ジャーやテーブルクロスなど花柄の商品が大ブームとなりました。

  エヴェレスト印のポットはナショナル魔法瓶という会社で大阪府堺市堺区にあったようですが、
  魔法瓶メーカー・リンク集 http://www.hir-net.com/link/elect/thermos.html サイトからリンクされているEVEREST(ナショナル
  魔法瓶工業(株))の http://www.everest-1948.co.jp/ へは、2019年10月現在繋がりません。
  タウンガイド堺 『ナショナル魔法瓶工業(株)』 http://sakai.town-guide.net/shop/s/index.php?id=K00013807 のページは空白に
  なっています。

坂下清さん

エベレストの花柄ポット第1号

ピーコックの回転式ポット第1号

70年代頃のタイガーのCM


  1968 (昭和43) 年、孔雀印で知られるピーコック (大阪市福島区) の先代の山中雅文が回転する卓上魔法瓶を発売。
  こちらも花柄を採用し、第ヒットとなりました。
  当時の特許使用料は当時で年間1億円ほどだったようですが、ピーコックは業界発展の為に特許使用料を1/5に
  抑えたため、各社も回転式を販売するようになりました。

  2017年現在存在する魔法瓶メーカーは8社のみで、うち6社が大阪に本社を置く会社になっています。
  象印・タイガー・ピーコック・オルゴ・グロリア・不二製作所。残り2社はドイツのサーモス社と新潟県燕市の金属加工のSUS
  という会社で、ステンレス製の魔法瓶を製造しています。

 
 【1970年代】 カラーテレビが普及し、東京一極集中化が進み始める時代
  読売テレビ かんさい情ネットten. 『大阪万博40年以上の時を経てよみがえった幻の芸術作品とは !?』 14.06.18 放送
  日本テレビ ヒルナンデス 『ヒットの法則 ! とことん調査するンデス ! 「ミスタードーナッツ㊙裏側 ! 夏の新作スイーツ」』 14.07.14 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『ダイエーの店舗名消滅へ 「ダイエーの歴史」』 14.09.25 放送
  テレビ東京 日曜ビッグバラエティ 「昭和平成ヒット商品全部見せます! PART4」 15.05.17 放送
  テレビ東京 日曜ビッグバラエティ 「昭和平成ヒット商品全部見せます! PART5」 15.11.29 放送

  60年代後半頃から、お菓子がブームとテレビっ子が増え運動不足となり子供達の肥満が問題になりました。
  学校での体育の授業が過激になっていき、すり傷が増え赤チン(マーキュロクロム液)が大ヒットしました。
  しかし、水銀騒ぎなどで1973年7月に各メーカーが製造を中止。
  赤チンの復活の声を受け、現在は東京の三栄製薬だけが月に3000本ほど生産しているそうです。


  ≪ 70年代にファストフード系チェーン店が登場 ≫   日本万国博覧会 (大阪万博)

  1970年、大阪万博においてケンタッキーフライドチキンが初出店。UCC缶コーヒーやプレーンヨーグルトなども出展。
  UCC上島珈琲 (兵庫県神戸市が本社) は、1969年(昭和44年)に世界初のミルク入り缶コーヒーを発売。






  1971 (昭和46) 年、マクドナルド1号店が東京・銀座にオープン。2時間待ちの行列ができました。
  ハンバーガー80円(現在換算352円)、マックシェイク120円(現在換算528円)
  「日本マクドナルド」「日本「トイザらス」などの創業者の藤田田氏(1926~2003)は大阪市生まれ、東大卒。Wiki 藤田田

  1971年、大阪府箕面市にミスタードーナッツの1号店がオープン。2号店は大阪市都島区。 Wiki ミスタードーナッツ
  2年後には日本全国で50店舗を展開。大阪のダスキン (創業者は鈴木清一氏は愛知県碧南市生まれ、1911~1980) が
  運営。






  1972年、レジ袋が開発され、全国のスーパーに広まりました。
  日中国交正常化により、チンゲン菜などの野菜が輸入され、中華料理の調味料などが販売され始めます。

  1973 (昭和48) 年はオイルショック。原油価格の高騰により、紙が無くになるという噂がたち、トイレットペーパー
  などを買い占めようとする人たちがスーパーマーケットに殺到しました。

  同年、公害による水産物の汚染問題が深刻化し、魚の売上が激減。スーパーマーケットは産地表示を開始。

  1974年にケンタッキーキャンペーンした事から、クリスマスにフライドチキンを食べる文化が根付きました。

  1978年、ダイエー (中内功が1957年に大阪・千林で「主婦の店」を創業) がプライベートブランドを発売。
  流通革命と価格破壊の安売りで急成長し、1980年に小売企業界初の年間売上1兆円を達成。

  【オイルショック】 石油ショック
   1973年、第4次中東戦争の際、アラブ産油国がアメリカやオランダなどのイスラエル支持に対抗して原油の減産や
   値上げを行い、世界経済に大きな影響を及ぼしたこと (第1次)。
   1978年のイラン革命による原油価格の急騰 (第2次)。
 
 【1975年の食事が最強?】
  日本テレビ 世界一受けたい授業 『1975年の食事が最強!? 最新研究で判明 スーパー和食』 15.04.25 放送

  ≪ ちょっとだけ洋食化した1975年の食事が健康にいいバランス ≫

  東北大学 大学院の都築毅 准教授の研究によると、1975 (昭和50) 年頃の食事は現在より1.2倍のカロリーを摂取して
  いたが、太っている人は近年よりも少なく、糖尿病リスクは1/5、ガンを抑える効果もあったとしています。
  ちょっとだけ洋食化した和食が最強の『スーパー和食』としています。





  高度経済成長期に入った1960年代は、御飯の量が多くタンパク質は魚中心でおかずの品数が少ない塩分を多く
  摂取する食事をしていました。
   (下の画像では麦入りの御飯になっています。上の摂取カロリー画像から、60年代の初めの日本全体の平均的な食事だと推測できます。)






  日本人の総摂取カロリー (厚労省のデータをもとに番組で作成した表) によると、1960年から摂取カロリーは増え続け、
  1975年をピークに右肩下がりにカロリーの摂取量は大幅に減っていきます。

  1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博によって、食が多様化。家庭でも洋食メニューを取り入れた食事を
  食べるようになり、3世代揃って食事するので、現代のように個食ではなく、多くの品を少しずつ食べる事が普通でした。

  都築 准教授が岡山県立大学との共同研究で行ったマウスの実験研究は、色々な年代の食事を与えたマウスでの比較。






  60年、75年、90年、現代 (2000年代) の食事をそれぞれ食べていたマウスの内臓脂肪比較では、75年が最も少なく、
  現代が最も多かった。
  このマウス実験の結果は、成人男性の肥満率の多さとも連動しており、糖尿病リスクや肝癌の発生数とも連動して
  いました。






  1975年の食事が現代の食事と異なる3つの特徴は、

  ① おかず1品内に入っている食材の数が多く、色々な食材から少しずつ栄養を摂取していました。
   例えば、豚汁で8つの食材、おからの炒り煮も8つの食材が使われているなど。

  ② 大豆料理 (五目豆、おからの炒り煮、高野豆腐など) と、卵料理が多く、資質が少ない良質なタンパク質を摂取して
   いました。
   2000年以降に世界から食材が多く輸入され、特に現代は脂質を多く含んだ肉類からタンパク質を摂取する事が多く
   なりました。

  ③ 味噌や醤油、みりんなどの発酵調味料をよく使用していました。
   現代は洋食化が進み、味噌汁などを飲む回数が減っています。


  ≪ 少量多品目を食べよう。肉よりも大豆製品や卵料理からタンパク質を摂取。出汁を使って塩分を控える ≫

  「少し前までは卵をたくさん食べると、血液がドロドロになるなど色々言われていましたが、現代ではそれが間違い
  と分かりました。」 「卵は1日1~2コは食べて欲しい。年齢は年を取ったほど食べて欲しいと思います。」

  卵のコレステロールは気にしなくてもよい  厚労省の摂取制限から削除。 むしろ1日1~2コ、年配者ほど食べた方が良い。 卵の雑学。






  味噌は何千もの成分が含まれている発酵調味料で栄養価も高い、『がん』『脳卒中』を防御し美肌効果も期待でき
  るので味噌汁は1日2杯くらい。「1日3杯程度であれば塩分の取り過ぎによる高血圧にはならないであろう」と言わ
  れていますが、塩分が気になる人には出汁を活用する事で味噌や醤油などの塩分を控える事ができます。






  醤油の濃口・淡口に関係なく、出汁を使う事で醤油の使用量を少なくすることが可能で、番組の出汁の有り無しの
  飲み比べによると、出汁有は、醤油の使用量が1/4で済む結果になっています。

  淡口醤油の方が塩分含有量は多いが、使用量は少なくて済むので、結果として濃口醤油よりも塩分摂取量も少ない
   関西の合せ出汁との組み合わせがポイント
  東京は味覚音痴が2~3割いる? 塩分味覚チェック 東京VS青森 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人 (東京で調査)

  栄養バランスを分かりやすく表した図『ドベネックの桶』は、必要な栄養素を桶の板に見立て、その板の高さを
  必要な摂取量とし、桶に溜まっている水を栄養効果としています。

  バランス良く栄養素を摂取できていれば、多くの水を貯める事が可能ですが、1つでも栄養素が必要より不足して
  いると、その足りない栄養素の板の部分から水がこぼれます。
  つまり栄養素のバランスが悪いと摂取した栄養素の効果は少なくなり、肥満や成人病のリスクが高まるのです。






  少量ずつ多品目食べる事が重要なので、おにぎり2コを食べるなら、おにぎり1つにをサンドイッチに変える。
  牛丼の大盛りを食べるより並盛にして、サラダなどのサイドメニューを追加するなどで、外食でも組み合わせ
  次第でスーパー和食に近づける事ができます。


  テレビ東京 世界!ニッポン行きたい人応援団 『そうめんを愛してやまない米国人をご招待!』 17.06.15 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『秘密のそうめん祭り 埼玉県冷や汁そうめん』 17.08.24 放送 など

  ≪ 昭和50年代後半 東日本 (主に関東内陸部?) に素麺が普及 ≫

  素麺は「日本最古の麺」とも呼ばれ、平安時代から食べられています。伸ばす製法が確立したのは鎌倉時代だ
  そうです。
  主に西日本で生産され、特に奈良の三輪素麺 (日本最古) ・兵庫の揖保の糸 (全国シェア約40%) が有名です。
  九州北部の島の方が三輪素麺より昔から食べていたとも言われています。

  沖縄では15世紀の琉球王朝時代からソーメン・チャンプルーが食べられていたと言われているようです。
  台湾からビーフン (米粉麺) 文化が入ってきた時に、保存食であった素麺を代用して、焼そうめん (チャンプルー) が
  出来たと考えられているそうです。

  石川県金沢市では江戸時代後期には70軒の製造業者があり素麺産地の一つとなっていました。
  北前船関連で、西日本から北陸や東北には江戸時代中期頃に素麺が伝わったと推測できます。

  埼玉県の獨協大学 地理学社会科教育 秋本弘章 教授によると、
  昭和50年代後半から、お中元などの贈答品として、西日本の生産品であった素麺が
  東日本でも広く食べられるようになった。

  埼玉県北部では、冷や汁にそうめんを入れて食べるそうです。秋本教授によると、
  冷や汁は鎌倉時代から全国的に食べられていた夏の料理。埼玉県は古くからの
  小麦の産地でうどんを食べる習慣があり、冷や汁もご飯や麦飯にかけるのではなく
  うどんや冷や麦にかける文化が根付いていたので、冷や汁とそうめんの組み合わせも
  定着していった。


  埼玉の冷や汁では、味噌+砂糖 (多め) を水で溶き、それに夏野菜各種を加えた物。ダシと豆腐は入れない。

  砂糖の普及が遅かった東日本の内陸部では、砂糖が大量に入手可能になった大正時代または戦後以降に
  大量の砂糖を使用する傾向があります。

  1712 (正徳2) 年の『和漢三才図会』(著者は大坂の医師 寺島良安、羽後生まれ) の巻第六十七 「武蔵・相模・
  伊豆」の「武蔵の土産とさん(当地で産する物)」には、「素麺 久我」とあり、久我で素麺を作っていたようです。

 
 【 2008年はインスタント・ラーメンが誕生して50年 】 インスタント麺の歴史が色々載っていますので、おすすめ。
  日経トレンディー・ネット 08.09.24 http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080818/1017681/

  今年2008年は、インスタントラーメンが生まれて50年になる。

 1958年(昭和33年)8月25日、日清食品が発売した"チキンラーメン"が記念
  すべき最初のインスタントラーメンだ。

  以来、インスタントラーメンは著しい進化を遂げた。
  本特集では、半世紀に渡る、その進化の歴史を振り返り、これからのインス
  タントラーメンにスポットを当てる。

  Wiki インスタントラーメン

  ※  中国の清の時代に、麺類を油で揚げる製法が開発され伊府麺と呼ばれ広がる。
     1953年(昭和28年) 村田製麺所の村田良雄が屈曲麺製法を発明し特許を取る
     1955年 松田産業(現・おやつカンパニー)が製品化(売れなかったので砕いたのがベビーラーメン)
     1958年 安藤百福がチキンラーメンを販売(爆発的に売れた)。

  テレビ大阪 ニュースリアル 『特集 「老舗麺メーカー逆転の戦略」』 15.12.22 放送

  1945年創業の兵庫県たつの市にあるイトメン㈱は1958年の10月頃にインスタントラーメンを販売しました。






  現在50種類・年間5000万食の即席めんを販売しシェアは約0.9%。販売地域は西日本の一部地域。
  近畿圏では地元の兵庫県西部の一部地域のみ、大阪や神戸では販売されていないようです。


  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『ラーメン不思議発見!ラーメンと日本人にまつわる謎を解き明かす』 11.12.22 放送






  戦争中にも食料が少なかった事に加え、昭和20年の戦後すぐは各地で米の凶作、大陸からの引揚者などで
  人口が増えた事などから、日本は深刻な米不足になりました。日本政府は米国に食糧支援を要請。
  米国から小麦が供給されます。この事が日本の食に大きな影響をもたらしました。 給食の歴史お好み焼きの歴史






  闇市で小麦を使った料理が評判になる。うどんを作った余りの粉から中華そばが誕生。安くて、旨くて、腹もちが
  良いと、たちまち人気に。
  1958年(昭和33)、大阪の日清食品がチキンラーメンを販売すると、家庭で簡単に中華そばが味わえるという事で
  大ヒット。それに伴い「南京そば」「中華そば」「拉麺」の呼び名が「ラーメン」と一般的に統一されるようになった。






  「ラーメンと愛国」などの著者 速水健朗さんによると、ラーメン店のスタイルが変化し始めたのは1980年代の半ば
  (バブル時代)頃からGDP世界一になり、近年のグルメブームの幕開け(イタリアン、俗に言うイタ飯が最もブームで
  したね)。






  ラーメンが注目されたのは、伊丹十三監督のタンポポ(客が来ないラーメン店の主人が、ラーメンを学び再建する
  物語)という映画。テレビ東京のTVチャンピオンなどの影響が大きかったようです。

  ラーメン好きの客がこだわりを求めた結果、店側もこだわりを主張し始めた。味へのこだわりを持つ店が普通になる。
  次に店主のキャラクターが注目され、TVで取り上げられた店主の店は行列のできる人気店となっていった。

  近年の人気店に共通する点は3つ。

  ・こだわりのアピール
  ・店主のメッセージ  東京の「九州じゃんがら」という店が元祖のようです。
   塾の経営を支える為にラーメン店を開業。塾の教室に掲げていた人生訓やポエムなどをラーメン店にも飾った。
  ・和を打ち出す店   東京の麺屋武蔵が、平成8年にWスープを開発。そして日本独自の「和」を意識した「麺屋」
   という屋号、店内装、メニューなどもWスープと共に全国に広まったそうです。
   Wスープ・・・別々のスープを2つ作り(例えば魚介スープと豚骨スープ)、この2つをブレンドしたスープの事。

  中国やアジア、欧米でも日本のラーメンは人気






  中国語では拉麺(ラーメン)は、「麺をのばす」という作業の意味。拉麺という料理はありません。
  熊本県発祥の味千ラーメン(当店の近所にあります)は中国に570店舗以上を展開しかなり有名だとか、海外の
  店舗総数は約700軒。

   ※ 結局、バブル時代は特にメディアに操られていた時代だったわけです。ネットが広まった現在でも、たいして変わりませんが…。
      餃子の王将(京都)なども中国に出店し、水餃子が普通で、余ったら焼く程度だった焼き餃子も、日本式焼き餃子は少し高価でも
      売れているようです。ちなみに、大阪王将は、餃子の王将とは別会社です。    世界の日本食

  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿縦断500㎞の旅25  大阪・池田市の久安寺へ」』 14.10.30 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『大阪に注目が集まる体験型修学旅行を徹底調査!」』 16.06.30 放送

  ≪ 日清食品の発祥地 大阪府池田市 ≫  Wiki インスタントラーメン発明記念館  Wiki 安藤百福発明記念館 (横浜)

  日清食品発祥の地にあるインスタントラーメン発明記念館。1999(平成11)年11月21日に開設。
  開館9:30~16:00、定休日は火曜日(祝日の場合は翌日が休館)。2012年に延べ入場者数400万人を達成。
  管理・運営は日清食品関連団体の(公財)安藤スポーツ・食文化振興財団。
  入館料は無料。体験工房は有料ですが、学校行事での集団体験の場合は教育の一環として無料体験が可能です。






  中学生の修学旅行先は関西が35%でトップ。東京が20.1% (関東は3.2%)、九州が16.5%、東北が6.4%。Jタウンネット調べ
  京都・奈良に比べて歴史的観光資産が少ない大阪ですが、大阪では体験型修学旅行が年々人気になっています。






  大阪での修学旅行先ベスト5は、大阪城・海遊館・通天閣・USJ、そしてインスタント発明記念館だそうです。

  横浜にある安藤百福発明記念館 (カップヌードル ミュージアム) は2011(平成23)年9月17日に開設。
  管理・運営は日清食品ホールディングス株式会社、ならびに公益財団法人安藤スポーツ・食文化振興財団の共同。
  入館料は、高校生以下は無料ですが、大人は500円。

  インスタントラーメン発明記念館 http://www.instantramen-museum.jp/jp/
  カップヌードル ミュージアム http://www.cupnoodles-museum.jp/about/index.html


  朝日新聞 13.05.22 / 13.05.31 朝刊 より、2回の記事から抜粋し、まとめ直してあります。   日本のアフリカ農業援助 (ケニア、タンザニアなど)

  ≪ 日清の即席麺 アフリカ進出、地産地消で自立後押し ≫ 日本の即席麺メーカーがアフリカに進出するのは初めて。

  日清食品ホールディングスは13年5月21日、ケニアで9月から即席麺を売り始めると
  発表した。すでに、現地の焼き肉料理「ニャマチョマ」味の即席麺などを開発した。
  日本の即席麺メーカーがアフリカに進出するのは初めて。

  同社の陸上部にはケニア出身者が多く在籍。貧しく十分な昼食をとる事ができない子供たちの為、
  小学校に無償でチキンラーメンを食べて貰う社会貢献活動を目的として2008年に進出。

  日清によると、ケニアでは汁に入った麺を食べる習慣がなく、まず焼きそばのような汁のない
  即席麺で普及をねらう。

 
  ケニアなど東アフリカには麺類を食べる伝統がなく植民地時代にスパゲティが少々食べられる程度。

  2009年頃、インドネシアの食品会社がサウジアラビアで生産した即席麺を1袋30ケニアシリングで販売し、現在
  ではスーパーに専用売り場が設けられるまでに人気となった。
  ケニアは近年10年の成長率が年3~5%台で右肩上がり、女性の就業率が高まった事、電気の普及率は2割と
  低くガスも高価なので炭火がまだ一般的。

  日清は国立大学のジャモ・ケニヤッタ農工大と提携し合弁会社を設立。即席麺作りを実習する講座を始めた。
  当初は社会貢献援助が目的だったが、有望な市場としてビジネスを展開する事になった。
  ケニア人自らが技術を習得し地元の農業や食糧供給の自立を目指す。

  味は「ニャマチョマ」と「チキン」の2種類。麺に小麦粉の全粒粉や雑穀のソルガムを練り込み、現地で不足しが
  ちなビタミンやミネラルなどの栄養分を補えるようにした。
  調理に使う水は日本の半分に設定し、どんぶりが無くても皿に盛って食べられるようにした。

  値段は1袋 30~40ケニアシリング(約35~45円)。1人あたりの名目国内総生産が約800ドル(約8万円)の
  ケニアでは「高級食」だが、日清は「経済成長が続いており、即席麺を食べる文化を根づかせたい」(広報)と話す。
  日清の海外進出は16ヶ国目。
  
 【1980年代】
  【半生菓子】 百菓辞典 より抜粋
   スポンジをチョココーティングした半生ケーキは1981年頃から量販品が登場。
   ショートケーキは明治30年代 (1897~) 頃から普及。同書「ショートケーキ」より抜粋
   生クリームは昭和20年代後半から、生クリームの生産が始まったといわれている。同書「生クリーム」より抜粋

  【いちご大福】 百菓辞典
   大福餅の餡のなかに、いちごを丸ごといれたもの。昭和61年 (1986) 頃ブームとなる。
   作り始めたのは、東京都新宿区の和菓子屋「玉屋」の大角和平。
   ゆでた赤えんどうを餅に入れた「いちご豆大福(150円)」として昭和60年 (1985) 2月発売。
   話題を呼び、全国的にいちご大福ブームとなる。

 
 東京がグルメになったのは、バブル (1980年代後半~90年代初頭、イタ飯(イタリアン)が人気で増えた) 以降。
  2ちゃんねるのまとめサイトなんかを見ていると、関東人が地方の事をバカにするような
  つまらないスレッドを建ている事がよくありますが、
  歴史系と食文化では、20~30年前までは、京阪神を中心とする近畿や福岡、長崎など
  北九州の方が豊かだった事を忘れてはいけませんよ。

  東京のグルメが急速に発展したのは、バブル頃に大阪企業の多くが東京本社に
  移した事からです。

  大阪の歴史と食 ←1500年間くらいは大阪が日本の経済文化の中心でした。
  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文



  画像 関西テレビ NMBとまなぶくん 『甘いもの好き集まれ! スイーツの甘~い秘密』 17.02.02 放送

  ≪ 1990~2014年の主な人気スイーツの変遷 ≫

  1990年…ティラミス、1992年…タピオカ、1993年…ナタデココ、1994年頃…パンナコッタ、1997年…ベルギーワッフル
  1999年…生チョコ、2004年…マカロン、2006年…生キャラメル、2011年…パンケーキ、2014年…かき氷

  イタリアン・ブームで流行ったのが、ティラミス&マスカルポーネチーズと、パンナコッタ。
  ベルギーワッフルは専門の小さな屋台で売るマネケンという専門店が多数出店していました。
  マカロンはマリー・アントワネットが主人公の映画に登場して脚光を浴びました。 Wiki 生キャラメル
  生キャラメルはタレントの田中義剛さんが経営する北海道の牧場の商品として人気になったと覚えています。
  パンケーキは2010年にハワイの人気店エッグスンシンクスが東京・原宿に一号店を出店した事がきっかけ。
  2008年説もあります。
  かき氷は海外の有名どころのアイスチェーン店の出店が一通り終わり、アイスクリームの最新情報が無くなった事
  などから、夏のスイーツとしてテレビ局が取り上げ、様々な特徴を持たしたかき氷が作られています。






  上の画像にはありませんが、1998年前後にスムージーがブーム。当店でもこの頃にアイスを入れたオリジナル
  レシピのスムージーを10数種類ほど販売していました。

  【スムージー】smoothie 広辞苑
   (口当りが滑らか(スムーズ)の意)凍らせた果物・野菜などを牛乳・ヨーグルトとともにミキサーで攪拌かくはんして
   とろりとさせた冷たい飲物。

  【ミル‐フィーユ】mille-feuille フランス 広辞苑
   (「千枚の葉」の意)フランス風菓子の一つ。層になるように作ったパイ生地を薄く伸ばして焼き、カスタード‐クリ
   ームや果物などを挟んで重ねたもの。ミルフィユ。

  【ティラミス】tiramisu イタリア 広辞苑
   イタリアのデザート菓子。コーヒー風味のシロップをしみ込ませたスポンジ‐ケーキなどにマスカルポーネ‐チーズで
   作ったクリームを重ね、ココアをふりかけたもの。

  【タピオカ】tapioca … キャッサバの塊根から製した澱粉。食用または飼料とする。 広辞苑

  【ナタ‐デ‐ココ】nata de coco スペイン 広辞苑 フィリピンの食品。  Wiki ナタデココ
   (ココナッツのクリームの意)ココナッツ果汁とミルクを酵母菌で発酵させた、弾力のある寒天状の食品。

  【パンナ‐コッタ】panna cotta イタリア 広辞苑
   (煮た生クリームの意)生クリームに砂糖などを加え、ゼラチンで固めたイタリアのデザート。

  【マカロン】macaron フランス 広辞苑
   卵白・粉末アーモンド・砂糖でつくる小さな円形の洋風干菓子。生地にさまざまな風味や色をつけて焼き、ジャム・
   クリームなどを2枚の間に挟む。マコロン。

  「クッキーとビスケット」・「ホットケーキとパンケーキ」 の違いなど ホットケーキ・パンケーキブームは3度目


  ≪ ミシュランガイドなどの評価も2017年にヤラセ発覚で信用度が低下 ≫

  2011年現在、フランスのタイヤメーカー、ミシュラン社が発行しているグルメ・ガイド いわゆるミシュラン・ガイド
  23ヶ国29地域判があるそうです。ミシュランガイド東京・横浜・湘南2012年版の三ッ星は17店舗が獲得 (最高数)。
  2013版の三ッ星は15店舗、2014年度版では14店舗、ミシュランガイド東京2015版での三ッ星は12店舗と、
  減少傾向になっています。 2016年版では13店舗が獲得。

  【世界の恥】ミシュランガイドソウル版でヤラセが発覚! https://www.youtube.com/watch?v=8u1PDDT-6U0






  マイナビ ニュース 10.10.19  http://news.mynavi.jp/news/2010/10/19/072/index.html ナレ氏は以下のような発言もあります。

  世界には三つ星レストランは90店しかありません。そのうち12店が京都、大阪、神戸から選ばれています。
  これほど美味しく素晴らしい料理を出している京都、大阪、神戸のシェフ、料理人の方々は賞賛に値します。

  読売テレビ かんさい情ネットten. 『ミシュラン関西版にたこ焼き店が初掲載』 15.10.21 放送

  2016年度ミシュランガイドのストリートフードの「ビブグルマン」手頃な価格で良質な食事ができる店として掲載する
  カテゴリーで、関西版には「たこやき」店が11軒掲載されました。東京版にはラーメン店が掲載されています。
  2016年度、関西では14店舗が三ッ星を獲得。






  たこ焼き店の掲載について、日本コナモン協会の林晃正 事務局長によると、「無難な店の選択」。

  ミシュランガイドも韓国版が初めて出版された際に、星を得た店が「ミシュランガイドに相談した」という暴露記事が
  出た事により、「星は金で買える」と言われて信用度は大きく低下しました。

  特に日本人は権威商売に弱いと言われており、モンドセレクション審査への出品点数も日本企業が圧倒的に多く、
  こちらも「金で買える賞」と言われています。 また日本独自の特保も一部の商品認定で批判されており、
  食べログなども含め、これらの情報を信じている人を、日本最大のネット掲示板2ちゃん系ではよくバカにされてる
  のが実情です。

  ≪ 東京のグルメは異様 ≫  東京は飯がマズい所で有名だった

  東京では世界の130ヶ国以上の料理が食べられるそうです。また地価が異様に高いので、飲食店での価格は
  高い割に内容は残念な事が多い。
  地方の方が安くて美味しい物が食べられます。『高価=良い物』とは限らない。

  世界最大の東京・築地市場 (東京の魚の9割を取り扱う) には、高値が付くため日本各地からも高級食材が
  集まりやすいのは確かですが、少量しか採取できないもの、鮮度が保たれないものなどは産地で消費されます。
  また、古くから物流の拠点や消費が多かった大阪の市場にしか入荷しない食材も多いようです。(高級な白身魚
  に多い)。






  色んな食の情報を総合すると、東京では超一流店も多くあり、一見『世界一のグルメの街』に見えますが、日常の
  庶民の食生活のレベルはさほど高くないようです。

  2016年夏、都知事選により東京初の女性知事が誕生しました。小池東京都知事就任で明らかになってきたのが、
  築地から豊洲への移転問題。土壌汚染や工事費の増加、豊洲市場の維持費 (移転前稼働費で1日700万円、
  移転後は1400万円必要とか)。
  築地の老朽化は深刻で雨漏りが激しかったり、空調設備が無いなど、刺身など生鮮生食を扱うには酷い環境で
  ある事も広く報道されるようになりました。

  2016年9月現在、毎日のように豊洲市場移転問題は報道され、どうなるか分かりませんが、いずれにしても東京の
  食材コストの増加は避けられず、他県から見れば高価格の割に内容が伴わない食メニューが増加する事は必至
  です。

  東京にう○こ味のカレー専門店 14.5%が行きたい 東京 カエルの活造り  東京 男性器を食べるイベント
  東京は味覚音痴が2~3割いる? 塩分味覚チェック 東京VS青森 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人 (東京で調査)
 
 京都、大阪、神戸人こそ、本当のグルメ
  確かに、2013年の東京版ミシュランの方が星をもらったレストランの数は多いのですが、
  飲食店の数が違いますし、味だけではなくサービスも評価の対象。

  東京は世界で最も多くの国の料理 (約130ヶ国) を楽しめますし、最高級レストランも多い。
  大阪は大衆的な価格の店が多いという違いがあります。
  京阪神では一般家庭での普段の食事にはケチる事は少ない。

  大阪商工会議所HP 『大阪・食の誘惑 「名庭太郎⼀家の味な一週間」』 の冊子のPDF 
   http://www.osaka.cci.or.jp/syoku_osaka/food/magazine.html

  こちらのサイトでは、「食の都・大阪推進会議」「食の都・大阪スタイル宣言」
  「大阪発祥の食の名品」 など大阪の食に関する情報がPDFで、ご覧いただけます。


  ≪ 大阪は『つろく』を価値観とする ≫   東京は飯がマズい所で有名だった

  長谷川幸延 『たべもの世相史・大阪』(毎日新聞社 発行) より

  「いくらいい材料を旨く食べさせるにしても、その価がそれにつろくするのでなければ、
  大阪の舌とふところは 承知しないのである」

  「つろく」…大阪の古い言葉で「釣り合う」という意味。

  旨いのが当たり前の大阪では、美味しいだけでは誰も振り向いてくれない。
  『食べる値打ちがあること』、『値打ちのある美味しさであること』を重視し、
  『大阪の食』は鍛えられ洗練されてきたのです。


  ≪ 和食の基礎および文化の牽引、「天下の台所」など歴史が証明 ≫
    詳しくは 大阪と関西の食文化  調味料のページ などをご覧ください。


  ≪ 料亭は東京より大阪の方が圧倒的に多い ≫

 
 総務省の平成16年度「事業所・企業統計」調査によると、
 料亭:大阪406、東京240。人口比だと、大阪は東京の約2.5倍
 ほど料亭がある。

 料亭は遊行飲食となり、日本料理店など一般の飲食店の数には
含まれない。

  江戸時代、商人が商売相手をもてなすために、大阪では料亭の文化が発達。
   喫茶店は商業の町なので、サラリーマンの休憩や商談で使われたので多い。

  ※ 大阪には、ミシュランの調査員レベルでは入店できない料亭も多いようです。

  ミシュランの韓国ソウル版が2016年に初めて出ましたが、三ッ星を貰う為に
  「ミシュランからアドバイスを貰った」という暴露ニュースが流れ、ネットでは
  「金しだいで取れるモンドセレクション同じ」という意見も多くありました。
  ミシュランも、いわゆる権威商法になってきたようです。


  ≪ 4年に一度開催する『食博覧会・大阪』 ≫

  1985 (昭和60) 年、大阪府・大阪市が一体ととなって 第1回の「食博覧会・大阪」が開催。
  主催は、食博覧会実行委員会・㈶大阪21世紀協会・㈳大阪外食産業協会。


  ≪ 2008年、大阪は日本で唯一 デリスに参加しています ≫

  デリスはフランス南東部の都市リヨンが提唱し、世界19都市が加盟する美食都市ネット
  ワーク。


  ≪ 関西人の方がパンの消費量が多く、高級なパンを買う傾向にある ≫
  教えて!食べ物ランキング 2012 ~グルメランキング 都道府県ランキング主要都市別 消費量
   http://www.japan-rank.com/article/192903241.html

  2008~2010年の平均データでは、消費量No.1は京都市、次に神戸市。
  都市レベルのベスト10には 堺市、大阪市など近畿が圧倒的な結果になっています。

  パンだけではなく、1990年頃までは、ランチにかける金額も関西の方が上でした。
  80年代はDC (デザイナーズ・キャラクター) ブランドが流行し、東京ではファッションに
  金をかける方が多かったようです。
   関西に8枚切の食パンがない理由と、各地の消費DATA


  ≪ 近畿では高価なウイスキーが売れる傾向 ≫
  朝日新聞 2012年2月22日 サントリービア&スピリッツ 萩野義明常務 より

  2011年の国内の酒類販売量は前年より1%減少したが、サントリーの国産ウイスキー
  の販売量は近畿で5%増加。しかも、高級ウイスキーの占める割合は23%と、
  全国の16%より高かった。
  「昔から近畿では良い物であれば高くても売れる傾向がある。高級ウイスキーの
  販売に力を入れ近畿の国産ウイスキーの販売量を3年で2倍に増やしたい」と意気
  込む。


 








【デリス・レストランウィーク
   2012@食の都・大阪】

  朝日新聞 2012.02.23 朝刊 より

 
これぞ天下の台所

  「大阪らしい料理」として料理コン
 テストで入賞した品々を大阪府内の
 飲食店で食べられるイベントが
 2月24日~3月11日まで 開催。

 かつて天下の台所として繁栄した
 商都の食文化を盛り上げようと、
 大阪商工会議所などが力を入れる。
  価格は単品380円からフルコース
 1万5千円まで。

 問合せ 大商流通・サービス産業部
       06-6944-6493

 http://www.osaka-
  info.jp/drw2012/

 デリスはフランス南東部の都市リヨン
 が提唱し、世界19都市が加盟する
 美食都市ネットワーク。
 2008年に日本で唯一、大阪市が加盟。

  ≪ しかし、アイスクリームは東京を中心とする関東に大きく負けています ≫ 大阪と関西の食文化

  人口当たりのケーキ屋の数は神戸市が日本一。 都市別アイス購入額
  でもアイスにかける金額は下から5番目で少ない。大阪市は下から4番目

  日本のアイスの発祥は横浜。寒い地域の方が暖房温度が高い傾向にあるので、冬場のアイスの消費が伸びます。
  大阪や関西はソフトクリームがいち早く普及していた (大阪万博で日本中にソフトクリーム・ブーム) 為。
  ソフトクリームとコーンの圧倒的トップシェアを誇る日世は大阪の会社です。
  ウイスキーの消費量は東京がトップらしいです。
 
 牛肉の消費量は西高東低、豚肉の消費量は東高西低
  幕末に開港した中で、(外国人向けとして) 牛肉の屠殺は神戸だけに許可されました。
  開港に関して、「江戸は幕府中心地、堺は古墳を外国人に荒らされるかも」という懸念があった為、横浜と
  神戸に決まったらしいです。

  明治初期の関東の牛肉不足と「松阪牛」ブランドの誕生。

  カレーの歴史雑学ページを新設し情報を集約し大幅に追記や画像を増やしました
  関東が豚肉文化になった理由などもカレーページに情報を追加し再編集してあります。


  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『食の方言を探れ!  関西 食べ物ミステリー』 13.08.01 放送 など より

  ≪ 西日本=牛肉  東日本=豚肉 になった理由 ≫ ← ※ 関東人が思い込んでいる理由なんですけどね。

  1872年(明治4年)の新聞雑誌に載った「じゃんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」。
  明治になって牛鍋 (すき焼き) などで牛肉を食する文化が日本中に広まりました。『肉=牛肉』の認識。






  東京・関東では、できるだけ安い肉を選ぶ人が多かったので牛肉ではなく豚肉文化になった。

  関西の串カツ・・・関東では串揚げの事で、串カツと言うと豚肉の串揚げの事を指す。
  関西の生レバー・・・関東ではレバ刺し。

  明治・大正時代は鶏肉が最も高価だった 豚肉なのに「焼き鳥」の謎、昭和前期は東京でも人気。ホルモン
  東京は味覚音痴が2~3割いる? 塩分味覚チェック 東京VS青森 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人 (東京で調査)
  ウナギの蒲焼き 関西風と関東風の境界線 関東の鰻は泥臭いので蒸すようになった


  ≪ 大阪の豚まんにカラシが付いている理由 ≫   肉まんにカラシが付く境界線 駅前コンビニで調査

  蓬莱の店内で豚まんを食べていた客が、皮にも味の変化がほしい。という事で、たまたまテーブルに据え置きして
  あった調味料のうち、カラシをつけて食べたのが始まり、カラシをつけて食べる人が多かった為、
  昭和42年頃から、蓬莱では持ち帰り用の豚まんにも無料でカラシを付けるようになった。





  本場の中国(チャイナ)では黒酢を付けるらしい。(地域などにもよる)
  山口県や九州では酢醤油をつけて食べる事が多いそうです。関東では肉まんの味が濃いので何もつけない。

  カレーの歴史雑学ページを新設し情報を集約し大幅に追記や画像を増やしました
  関東が豚肉文化になった理由などもカレーページに情報を追加し再編集してあります。






  1960年前半までのカレーは大人用で辛く、子供用には味付けを変えて作ったり、ハヤシライスをしたりと、家庭で
  カレーを作る時は、かなり手間がかかっていました。

  1963 (昭和38) 年、ハウスが甘口のバーモントカレーを発売し、2軒に1軒で消費されるくらいの大ヒット商品に
  なります。
  バーモントカレーを基準として、大人は辛味を増す為にウスターソースをかけ、辛いのが苦手な人や子供は生卵
  を混ぜて辛味をマイルドにするような食べ方が増えたと思われます。


  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『食の方言を探れ!  関西 食べ物ミステリー』 13.08.01 放送

  この番組は、毎週 専門家や研究家 (カシコブレーン) を講師によんで、物事の歴史などの解説をクイズと再現ドラマで
  行います。
  今回の『食の方言を探れ! 関西 食のミステリー』での講師は、日本経済新聞社 特別編集委員の野瀬泰申さん。
  大阪で見たウスターソースのパッケージに天ぷらの写真が印刷されていた事から、ローカルな食文化に興味をもち、
  日経のHPで10年以上『食べ物 新日本奇行』という連載を持ち、それをまとめた『天ぷらにソースをかけますか?』の
  著書も出しています。

  食べ物 新日本奇行 http://waga.nikkei.co.jp/play/map/sosu/map.html






  ※ 基本的に 『関東人目線である事』 → 関東豚肉文化の説明がおかしい。を考慮して見るべき。
   専門家だからといっても (特に東京目線の情報はケンミンショーも含め) 全てを鵜呑みにしてはいけません。

  もっというと、日経新聞というのは、東京の三井系から始まった経済新聞で、『大阪 (関西) 大嫌い』を前面に出して
  記事を書いている記者(この人では、ありません)がいる新聞社です。
  『大阪のまいど1号』などの記事を読めばわかります。
  最近では 『中国や韓国の経済が絶好調なので投資をしよう』などのデタラメ記事を書いていたので
  2ちゃんねる系では、叩かれている新聞の一つです。その他の問題は Wiki 日本経済新聞 でご覧下さい。

  大阪嫌いには理由があって、産経新聞社が大阪発祥である事。
  三井系グループ中核事業の銀行、商社などが関西進出がなかなかうまく行かなかった。(それぞれ強い関西系
  企業がある為) なども知っておくべきで、多少の関西コンプレックスがあるようです。

  三井住友銀行は対等合併ですが、(後に名前がくるほうが) 住友の方が社内の力関係では優位にたった合併
  だったりします。例えば大正時代、三井銀行は、急成長した鈴木商店を救済せず潰していたりします。

  関西発祥の財閥  鈴木商店、三菱財閥、住友財閥。 江戸時代中期 三井も松坂屋も京都に店があった。

  関東、関西に関わらず、新聞、TVなどメディアも全体に信用されなくなっています。もちろんネット情報も。

 
 関東に歴史が少ないのは、関東ローム層のせい 平安時代頃の関東
  ≪ 関東ローム層とは ≫

  関東地方の台地や丘陵を覆っている赤褐色の粘土化した火山灰層。
  何層かの軽石層をはさむ。更新世・完新世に箱根・古富士・男体・赤城・榛名はるな・浅間などの各火山から
  噴出したもの。

  早川由紀夫のブログ http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-273.html より

  赤土とも言われる関東ロームは、関東平野の西にある富士山や浅間山が噴火して降り積もった火山灰だと
  ふつう説明される。しかし、それは間違いだ。ほんとうは、河原の砂泥や畑の土が春の強風で巻き上げられて
  風下に降り積もってできた。つまりホコリだ。

  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。


  ≪ 関東で穀物が作られ始めたのは ≫ Wiki 野火止用水 Wiki 新田 Wiki 関東ローム層

  それまで原野や雑木林だった関東平野が開拓されたのは江戸時代。
  徳川家康による玉川上水や、1655年、川越藩が野火止用水などで農業用水を確保し、
  新田を開発。埼玉では、水が多く必要な水田は無理なので、関東における小麦栽培
  拠点となった。(現在は、県面積中に河川が占める割合が日本一らしいです。)

  だが、下総 (主に千葉県) などでは、利根川の水害などにより大規模な干拓の失敗
  などもあり、関東平野の本格的な干拓・農地化は第二次世界大戦後だったようです。

  現在では農業技術の進歩や、土壌の改良によって米なども作れますが、水の問題
  だけではなく粘土層の為、肥沃な土地とは言えません。それが最も分かるのが、ネギ。
  ネギは地域による独自性を残しやすい野菜の一つと言われています。



関東の食文化
  ネギと言えば関西など西日本では万能な青ネギ(葉ねぎ)。江戸時代中期に関西で改良された事が判明。
  『和漢三才図会』に書かれてありました。
  大阪では1度買ったネギは根の部分を残し、プランターに植えるとTVで紹介されていましたが、事実です。
  ネギはすぐに生えてきますから。ちょっと必要な時に便利。

  関東で葱といえば、白い部分の多い白ネギ(根深ねぎ、関西では東京ネギと言う)の方が良く利用されるとか。
  普通に育てると、固いネギしか育たないので、土寄せをして日の当らない部分を多くした物しか栽培できない
  のです。大坂の農民が江戸砂村に作り方を教えた物。

  日本では1975年に都市人口が非都市人口を逆転し、人口の都市集中化が加速。それまで人口が少ない県で
  あった千葉や埼玉が急速な人口増加により地方都市を抜き、現在のような人口の多い県になった。

  背景には、農業から工業、商業への移行 (高度経済成長) と、テレビの普及による東京一極集中政策の影響が
  あります。

  ちなみに、京都の九条ネギ、東京のネギなども大阪から伝わったものです。
  築地も江戸初期に大坂の佃村の人たちが移住してから始まりました。それまで関東では原始的な漁しかでき
  なかった。

  関西青ネギ、関東白ネギ もう諸説は不要、決定的な記述を発見!! 関西は青ネギなのに江戸時代は「根深ネブカ」と言った。その謎が判明


  ≪ 魚の流通 ≫

  魚に関していうと、関西では瀬戸内海という温暖な海が近く、北前船などで早くから流通
  ルートが確立していた為、温暖な瀬戸内海や九州など西日本で獲れる高級魚は、
  京阪神で消費されていました。

  鶴橋と言えば、在日朝鮮・韓国人が多く焼肉の町としてのイメージが強いですが、実は
  魚の町でもあります。
  戦後すぐ闇市ができ、それが発展。近鉄電車では現在でも伊勢湾で水揚げされた魚を運ぶ
  「鮮魚」専用列車を運行しています。 

  西日本の高級魚が生きたままで、東京へ運ばれるようになったのも、流通技術が進化した
  15~20年くらい前からです。
  現在では、東京の築地市場は世界一の取扱量になっています。


近鉄電車の鮮魚列車

  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf

  鈴与 魚河岸野郎 http://www.sakanaya.co.jp/history/index.html
   『大和屋助五郎の活鯛流通システム - 魚河岸野郎魚河岸四百年 大和屋助五郎の活鯛流通システム』
    http://www.sakanaya.co.jp/history/02_04.html

  江戸期における物流システム構築と都市の発展衰退
   http://www.ymf.or.jp/wp-content/themes/yamagata/images/56_7.pdf

  遠洋漁業が発達したのは大正時代 
  日本漁業概略 近代史 http://www.ipc.shimane-u.ac.jp/fishery/gairyakusi.pdf


  鮮魚の流通技術が発達し始めたのは昭和40年代になってから
  水産物流通 
http://www.shinkokai.co.jp/uogashi/ryutu.html

   全国的な高速道路網の整備や冷凍技術の進歩、大型スーパーの多店舗化などによる。

  日本経済と物流の歴史 http://www.trinet-logi.com/img/web_kogi_0409.pdf ← 戦後、1940年代以降の歴史

  鮭 (サーモン) の刺身が多く食べられ始めたのは80年代頃
    水産総合センターによると、流通手段が進化した事が要因。

  農林水産省 食料産業局食文化・市場開拓課和食室 『食材の流通と変化』
   http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/syokuzai.html


  毎日放送 ちちんぷいぷい 13.02.26 放送 より





  鮭やサーモンは赤身ではなく、本当は白身魚。例えば川魚のヤマメはサクラマスの陸封型。
  (川に留まるとヤマメ、海に出たものは大きく成長し餌の色素で身が赤くなり、サクラマスと呼ばれる。
  ヤマメとサクラマスは同じ魚なのです。)
 
 日本人、特に大阪人はフルーツをもっと食べよう  香川、徳島県民はもっと野菜を食べましょう。
  欧米ではワインを飲む事が多いので、フルーツの消費量が多くなるが、ワイン分を除いても、
  日本はフルーツの消費量が少ない。先進国では最低クラスの果物摂取量らしいです。

  ※ 特に大阪はフルーツの消費量がワースト5に入るので、もっとビタミンの 宝庫である
   果実を 食べよう。
   美肌と健康にフルーツは良いのです。天然のビタミンは人工のビタミンとは違うのです。

  2000年頃の8月に放送された 「たけしの万物創世紀」より、フルーツのビタミンの部分だけ
  抜粋。約6分26秒の動画を Youtubeにアップしました。CGで分かりやすくビタミンの働きを
  教えてくれます。

  老化の原因となる活性酸素 VS ビタミンたちの闘い。
   http://youtu.be/R61gWrILtlA?list=PL1BNLySOWBI0HTB0aAEhmi0224e9ubTCf


VS


  1人1日当り 果物供給量の国際比較 2005年

   FAO STAT Food Balance Sheets からのDATA →

   注) データの数字には、皮や芯など廃棄部分も含まれています。
    イタリア、フランス、イギリスの場合、約半数がワイン用のブドウ。
    アジア3ヶ国は、1割弱がワイン用ブドウを含んだ数字。

   平成18年国民健康・調査によると 
   日本人の場合 1日当りの果物類摂取量(廃棄分除く)107.5 g
   特に20~30代は、食べる目安の約1/3 しか摂取していない。
イタリア 629 g 韓  国 170 g
フランス 507 g 中  国 153 g
イギリス 370 g 日  本 149 g
アメリカ 325 g  (単位 g/日)

 日本人の食事バランスガイドによる
 1日に食べる果物の目安は200g


  ≪ 日本でのビタミンの研究 ≫

  【鈴木梅太郎】すずき‐うめたろう(静岡県生れ、1874~1943)
   農芸化学者。東大教授。1910年(明治43)世界にさきがけてビタミンB1の抽出に成功、オリザニンと命名。文化勲章。

  随想 日本でのビタミン研究の流れ 『鈴木梅太郎博士 ビタミンB1発見100周年に寄せて』 
   https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu/50/9/50_684/_pdf

  日本テレビ 月曜から夜ふかし フルーツSP 12.11.26 放送






  1人当たりの年間果物購入量 1975年 50㎏ → 2007年 28㎏  青森県の深刻なリンゴ問題
  1世帯当たりのミカン購入量  1980年 55㎏ → 2011年 11㎏

  青森県では、リンゴ栽培を放棄したリンゴ畑が1年間に東京ドーム30個分に達するそうで、リンゴの害虫や病気などが、
  他のリンゴ農園に広がる心配が問題になっているそうです。
  リンゴはジュースなど加工品として買い取られると、大幅な安値になるので農家の儲けは少なくなる。
 
 高校生 国際料理コンクールで、日本が初優勝 !!
  朝日放送 LIFE ~夢のカタチ~ 『2人の高校生料理人 目指せ! 世界大会初優勝』 13.10.19 放送

  ≪ 高校生の国際料理コンクール2013が9月27日に開催され、三重県立 相可高校が優勝 ≫

  三重県多気町にある県立 相可高校は、同校調理クラブが土日限定で運営する高校生レストラン「まごの店」で有名。
  まごの店は平成14年10月26日、五桂池ふるさと村「おばあちゃんの店(農産物直営施設)」の食材を利用した、
  相可高校食物調理科生徒が運営する調理実習施設としてオープンしました。
  全国からお客さんがやってきて、味も値段も好評でメディアにも多く取り上げられています。






  この調理クラブ最大のイベントは、年に一度開かれるオーストラリア調理師連盟主催の高校生国際料理コンクール。
  過去6回出場し、4年連続で総合2位という素晴らしい成績。






  2013年に日本で初開催され、会場は相可高校ともあって、今年は優勝を目指します。参加は6ヶ国9チーム。
  開催の約2ヶ月前、顧問の村林新吾 教授が選んだ2名の代表とサポートは 調理クラブ部長の岡本なつ美 さんと、
  料亭への就職が決まっている佐野竜也 くん。サポート役の監督として同クラブの卒業生である佐々木智子 先生。






  テーマは「肉」を使った創作フレンチで、60分以内に2名1組で、4種類以上の調理法で1皿をつくる。
  普段は和食中心に指導を受けている2人は名古屋の中部国際空港内にあるフレンチ・レストランの名店「クイーン・アリス」の
  料理長 永宮裕之さんの特別指導も受けました。

  金賞は3チームで最高点のチームが優勝となります。結果、 日本 (2013年初優勝)、台湾 (2011、2012年の優勝校)、
  オーストラリアの高校。

  審査員の一人、辻調理師専門学校の西洋料理技術顧問の杉山忍 さんの評価は
  「非常に上手に優しく丁寧に肉を焼いており、美味しかった」


  2013年高校生国際料理コンクール http://www.mie-c.ed.jp/houka/gakka/syokutyou/image13/isscc/setumei.pdf
  ヤフーニュース 13.09.28 配信 「高校生レストラン」の三重・相可高校、「高校生国際料理コンクール」優勝 /三重
   http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130928-00000001-minkei-l24

  テレビ東京 人気急上昇ウオッチ 今ご当地でコレが人気SP 『2014年上半期 YAHOO! 検索 「三重県の人気急上昇ワード』 14.08.15 放送

  ≪ 「鋳物で作ったごはん釜」で炊いたご飯が「まごの店」で人気 ≫

  「まごの店」のスタッフでもある調理クラブの部員と、顧問教諭である村林新吾先生の提案を基に三重県桑名市の桑原鋳工㈱が
  開発したご飯釜。鋳物特有の熱伝導率の良さで、ふっくら甘く早く炊き上げる事ができるそうです。






  まごの店で出している「烏賊御飯」などが人気で、この釜で炊いたご飯の美味しさが口コミで広がっているそうです。

  高校生レストラン「まごの店」HP http://jr2uat.net/mago/mago.htm
  桑原鋳工 ㈱ HP 『ごはん釜』 http://www.kuwaharacc.net/rice-cooker/
 2013年 和食が世界無形文化遺産に登録されました。
  朝日新聞 2013.10.23 朝刊 より抜粋 / 読売テレビ かんさい情報ネットten. 13.10.23 放送
  関西テレビ FNNスーパーニュース アンカー 13.12.05 放送

  ≪ 「和食」無形文化遺産登録へ ≫ 13.12.04 正式に決定しました。(無形文化遺産、国内22件目)

  文化庁は22日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に推薦していた「和食」について、事前審査をする
  ユネスコの補助機関が「登録」を勧告したと発表した。
  同庁によると補助機関が「登録」を勧告して覆った例はなく、12月にアゼルバイジャンで開かれる政府間委員会で
  正式に登録が決まる見通しだ。

  【 和食 = WASHOKU とは 】

  1. 多様で新鮮な食材を使い、持ち味をいかす   2. バランスがよく、健康的な食生活をつくる
  3. 自然の美しさを表現する            4. 年中行事とかかわっている

   ※ 京都の老舗料亭「菊乃井」の村田吉弘さんが中心になり、 京都の料理人、京都府も文化遺産登録へと働きかけてきました。






  日本の食文化への理解が深まることや、文化の多様性や人類の創造性を示すことにつながると期待する。

 【 ユネスコの三大遺産事業 】

  「世界遺産」 遺跡や自然が対象 / 「世界記憶遺産」 文書や絵画が対象 / 
  「無形文化遺産」 芸能や祭り、伝統工芸技術などを対象とする。 国内からは21件が登録(~2012年)。

  これまでに、料理・食文化では「フランスの美食術」「地中海料理」「メキシコの伝統料理」
  「トルコのケシケキ(麦かゆ)の伝統」の4件が登録されている。






  日本経済新聞社 13.10.22 配信 「和食」を無形文化遺産に ユネスコの事前審査通過
   http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2203Q_S3A021C1CR8000/

  東京新聞 13.10.10 「和食」を無形文化遺産に 12月に登録審査の発表
   http://www.tokyo-np.co.jp/article/living/life/CK2013101002000192.html?ref=rank
 
 【日本初、医・食・農のプロがつくる弁当ブランド「からだデリ」】
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『循環器病研究センターがお弁当ビジネスに参入」』 14.11.27 放送

  2014年11月27日、大阪府吹田市にある独立行政法人 国立循環器病研究センターが開発した減塩の病院食メニュー
  『かるしおレシピ』などを基に『からだデリ』というお弁当のブランド化を決定。
  現在400品ほどあるレシピを弁当・惣菜業者に販売する事になりました。

  宅配・給食業者向けレシピ インターネット配信 初期費用86万4000円 + 月2万円の利用料。






  『軽塩 (かるしお)』とは  日本人の塩分摂取量 都道府県別データあり

  毎日1400食分の病院食を担う国立循環器病研究センターの臨床栄養部の調理師・栄養士たちが考案。

  高血圧治療ガイドラインで定められた塩分量1日6g (日本人平均の塩分摂取量は先進国でダントツに多い11g) を守りつつ、
  『塩分を減らしても美味しい』ではなく、『少ない塩分だからこそ、美味しい』という素材のうまみを最大限に引き出す
  調理法で作る。


  軽塩で美味しい調理法の例

  ① 『八方だし』(だし汁に醤油・味醂などで薄味をつけたもので、主に野菜の煮物用) で下茹でする事で、
    少しの調味料でも美味しく仕上がる。
    素材全体に薄く味が活き渡っているので旨味を引出し、結果として味付けに使う調味料が少なくて済む。
  ② 『とろみ』をつける
    調味料の濃度が薄くても、『とろみ』が口の中全体に味を広げる。
  ③ 『大根おろしタレ』で かさ増し
    大根おろしがタレを残さず吸い込んで、最小限のタレが具材に無駄なく絡む。 などの減塩調理法があるそうです。


  ニフティ ニュース 14.11.30 配信 『日本初、医・食・農のプロがつくる弁当ブランド「からだデリ」販売開始  より抜粋
   http://news.nifty.com/cs/economy/economyalldetail/thepage-20141130-113013/1.htm

  調理支援システムなどの開発を行う「グローカル・アイ」(本社・大阪市西区)はこのほど、
  医・食・農のプロがつくる健康づくりごはん、お弁当ブランド「からだデリ」(からだに
  デリシャス)の販売開始について会見を開いた。

  国立循環器病研究センター、全国国立病院管理栄養士協議会などと連携し、全国の病院で
  提供している、献立やレシピに基づく弁当ブランド「からだデリ」を立ち上げ、さらに全国11
  事業パートナーを通じて121日から大阪府、東京都など4都府県を皮切りに販売を開始
  するというもの。


  同時に順次全国へ広げていく予定で、国立病院など全国164の施設とネットワークシステムを構築し、塩分や
  脂質の量だけでなく、味にも配慮したレシピを提供。

  一般消費者にも病院食を食べられるようにデジタル化し、配信する。これは日本初のユニークな取り組みだ。

  ※ 全文はリンク先でご覧ください。

  全国の御当地コロッケの多くは、大阪府で作られていた  全国のご当地カレーの多くは大阪の食品会社が製造していた

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明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
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