手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の食の歴史6 江戸時代の砂糖と薬
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このページの最終更新日:   19.11.16
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「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents





 日本の食の歴史・雑学の江戸時代の2ページを、19.11.08に8ページに分割し、
 画像や情報を追記しながら再編集しました。 各ページURLも変更になりました。

 他のページも情報量が多過ぎるので、分割・再編集などを行う予定にしています。


 江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

 卵、牛乳、砂糖については日本のアイスの歴史 各ページをご覧ください
 大阪と関西の食文化のページも 日本の食文化を語る上で必須です

 奄美大島で黒砂糖の製造に成功

 長崎出島でのオランダとの交易 野菜類や菓子類が伝わる 糸荷廻船

 堺船と砂糖 海外との交易品は堺船で運ばれた 固形飴も上方から各地に伝わる

 国内でのサトウキビの栽培 静岡以西の太平洋側や瀬戸内海地域で広く栽培

 北九州の方が江戸より白砂糖が入手しやすかった?

 砂糖の工芸菓子 飴細工は元禄頃から

 冷や水売り 江戸時代後期の江戸では白玉入りスイーツへと進化

 本草学 江戸時代に盛んに研究された

 鍼灸治療 もぐさなどが庶民の治療の中心

 薬種問屋が集まる大坂・道修町 流通する薬の9割が道修町に集まっていた

 民間療法・救民妙薬 水戸光圀が本にまとめさせ大正時代まで読まれていた

 江戸では人肝を干した薬が売られていた

 カエル・ヘビ・虫なども売られていた 金粉も薬として飲んでいた

 ミイラやユニコーンの角も輸入し薬としていた

 各地の薬 富山の薬売 三重の金粒丸

 華岡青洲 世界初の全身麻酔手術を成功

 緒方洪庵 天然痘の蔓延を予防した日本の『近代医学の租』


  NAVER まとめ 『再現された江戸時代の日本人の食事』 http://matome.naver.jp/odai/2134329123090279301
  神戸女子大学 古典芸能研究センター 『近世の家政学―重宝記・料理本の世界』 2001.12.08
   http://www.yg.kobe-wu.ac.jp/geinou/07-exhibition3/06-ten_kase.html
  神戸女子大学の上記サイトには、江戸時代に出版された百科事典にあたる各『重宝記』と、料理本が紹介されています。

  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf
  農林水産省 食料産業局食文化・市場開拓課和食室 『日本食の歴史』 http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/rekishi.html

   江戸時代の主な重要文献と著者   江戸時代に出版された主な菓子の専門書

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  異国叢書[第6] ケンプエル江戸参府紀行:上巻 を所収 1927 (昭和2) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876448
  異国叢書[第9] ケンプエル江戸参府紀行:下巻 を所収 1929 (昭和4) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1195335
  異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
  ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693
  異国叢書[第5] ヅーフ日本回想録&フィッセル参府紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179830
  ペルリ提督 日本遠征記 1912 (明治45) 年 東京の大同館 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992335

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 【奄美大島で黒砂糖の製造に成功】
  奄美が好きホームページ 『砂糖黍を広めた直川智』  http://amami7.com/sunaokawati.html
  NHK Eテレ 美の壺・選 『奄美大島 大島紬』 13.10.13 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『動揺する江戸幕府 ~内憂外患への対応~』 13.10.25 放送

  ≪ 黒砂糖の製造に成功 ≫ 飴の歴史 大阪の飴ちゃん文化

  1610年(慶長15年) 薩摩国大島郡(鹿児島県の奄美大島)の直川智 すなおかわち が黒砂糖の製造に成功。
  中国福建省で製糖技術を習得。サトウキビを秘かに持ち帰り、大和浜西浜原で初めて黒糖を作った。

  【黒砂糖】くろ‐ざとう
   まだ精製してない茶褐色の砂糖。甘蔗汁をしぼって鍋で煮詰めたままのもの。黒糖。






  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』
  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、日本各地の
  名物を描いた絵本。巻の三には薩摩大島黒砂糖が描かれています。
  「甘藷やサトウキビをよく炊いて石灰を加える。百姓これを多くつくりて」などと書かれてあるようです。

  卵、牛乳、砂糖については日本のアイスの歴史 各ページをご覧ください 日本のアイスの歴史1のページに、江戸時代の水売り

  【奄美大島】あまみ‐おおしま
   鹿児島県、大隅諸島・とから列島とともに薩南諸島の一部をなす奄美諸島で大島を
   主島とし、奄美大島と呼ぶ。海岸には隆起珊瑚礁があり、サトウキビを栽培。奄美群島。

  【大島紬】おおしま‐つむぎ
   鹿児島県奄美大島並びに鹿児島市周辺から産出する紬。織締めによる細かい
   絣かすりが特徴。土産のティーチキと称する植物の煮出し液と泥中の鉄塩とで焦茶色に
   染めた泥染が伝統的技法。
   今は藍や多色の糸遣いをした藍大島・色大島もある。模造品に対して本場大島とも。


 
 【 長崎出島でのオランダとの交易】 長崎県から貿易品を堺・大坂に運んだ 1700年頃、大坂は銅の生産量世界一
  テレビ東京 137億年の物語 『南蛮貿易と出島物語』 14.08.16 放送
  関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『関西今昔ウォーカー 「大阪・松屋町の今昔歩き」』 16.09.23 放送

  ≪ 南蛮貿易の生糸や砂糖を長崎から独占的に運んだ堺商人 ≫

  南蛮貿易で活躍したのは堺商人で火縄銃も日本各地に広めました。
  江戸時代には、輸入品を長崎から堺や大坂に運ぶ独占的な権利を与えられ堺船または堺糸荷廻船と呼ばれました。

  【出島】でじま
   長崎市南部の町名。1636年(寛永13)ポルトガル商人を置くために造成した約4000坪の
   扇形埋立地。ポルトガル船渡航禁止後、1641年平戸にいたオランダ人を移転させた。
   鎖国中の日本唯一の貿易地。

  【堺船】さかい‐ぶね … 江戸時代、長崎から唐物を積んで来た堺の船。

  1639年にポルトガル船の入港を禁止、オランダだけと貿易する事になります。
  船員個人が商品を持ち込み、長崎商人や堺商人などと取引を行いました。


  日本に至来したオランダ船は1621~1847年 (227年間) で700隻以上ですが、フランス革命の影響で1795~1813年の間は
  僅か数隻でした。時代により交易の方法は異なりますが、1698年からは長崎会所が一括して司りました。

  【紅毛人】こうもう‐じん
    江戸時代、オランダ人をよんだ語。ポルトガル人・スペイン人を南蛮人とよんだのに対していう。また、広く西洋人のこと。

  の左2枚の画像は、日本人との商談を行った部屋で『カピタン部屋』と呼び、長崎商人たちがオランダ人に賃貸し、
   賃料は年間1億円ほどでした。
   ここには商人だけでなく、役人も招かれ、肉料理などを含むオランダ料理が振る舞われたりしました。






  出島にはオランダ人以外にも中国人やインドネシア人 (給仕したり、楽曲を奏でたりする召使として) も居住していました。
  オランダ人が出島に持ち込んだ物は、牛・豚・七面鳥などの家畜類、バドミントンなどのスポーツ、ビリヤード、楽器類など
  の娯楽品があります。

  【オランダ東印度会社】オランダ‐ひがしインドがいしゃ
   1602年、東洋貿易振興のために創設されたオランダの拓殖株式会社。
   喜望峰・マゼラン海峡間の貿易権、条約締結権、軍事権を与えられ、政府の厚い保護を受けた。1799年解散。

  【和蘭商館】オランダ‐しょうかん
   江戸時代、貿易のため日本におかれたオランダ東インド会社の支店。1609年(慶長14)平戸に設置、
   41年(寛永18)長崎の出島に移転。






  主な輸入品は、砂糖と生糸、ラシャと呼ばれる織物や絨毯ですが、荷物の緩衝剤 (クッション) として箱に詰めていた
  オジギソウ やクローバーなどの草花、ガラス瓶や器、地球儀なども脇荷物のような形で伝わります。

  クローバーは日本名で『白詰草しろつめくさ』と言いますが、『荷物を詰める』ための草からの意味が由来だそうです。
  別名、オランダゲンケ。
   ※ 赤詰草 (レッドクローバー) も白詰草と同様にヨーロッパ原産のマメ科。こちらは明治時代に牧草として日本に伝わり自生。

  またパンやイチゴなどの果物や、クレソン、アスパラガス、パセリなどの野菜、ワッフルなどの菓子類や西洋の調理方法。
  象(将軍への献上品)や オランウータン、ハリネズミなどの動物類もオランダ経由で伝わりました。

  【オランダ苺】オランダ‐いちご (※ 日本のイチゴの原点です)
   バラ科の多年生果菜。いわゆるイチゴ。南米チリ産の一種が改良され、ヨーロッパで栽培されて世界に広まった。
   天保(1830~1844)年間にオランダから渡来。ランナーと呼ぶ匍匐ほふく枝を出し繁殖。白色の五弁花をつけ、
   果実は鮮紅色。生食され、またジャム・ジュースの原料。1899年(明治32)福羽逸人によって育成された福羽や
   ダナーなど多くの栽培品種がある。

  アスパラガス … 和蘭雉きじ隠し、クレソン … オランダ芥子からしセロリ … 和蘭三葉・塘蒿、パセリ … 和蘭芹

  1775年の『ツンベルク日本紀行』P.384では、長崎市内外の庭園でパセリやアスパラなど様々な植物が栽培されている
  事が書かれてあります。

  ほぼ毎年、出島のオランダ商館長を筆頭に商館員や長崎の役人などが随行する150~200人で、大名行列と同じく
  江戸参府を行いました。通算170回。

  一行は長崎~下関を陸路で歩き、船で兵庫または大坂に渡り、東海道を進んで江戸に至ります。
  幕府はオランダ商館から『風説書』という報告書を受け取り、世界の情勢を知る事が出来ました。
  蘭学を通じ世界の学問や技術も得ました。

  【阿蘭陀風説書】オランダ‐ふうせつがき
   近世、長崎入港のオランダ船がもたらした海外情報。1641年(寛永18)より1859年(安政6)まで、毎年オランダ商館長より
   長崎奉行を通じて幕府に提出。オランダ通詞が翻訳し、幕府はこれによって海外事情を知ることができました。






  当時、日本の最重要輸出品は世界の1/3の産出量を誇っていた銀でした。
  兵庫県朝来市の生野銀山 (平安時代807年から採掘、室町時代以降に本格的に採掘、歴代の政府の直轄地) や、島根県
  大田市大森の石見いわみ銀山 (または大森銀山、2007年世界遺産に登録) をはじめ西日本中心に産出され、
  大坂で精錬されていました。

  大阪・長堀川沿いの住友鰻谷邸に銅吹所を作り、船で銅鉱石を運び込み、銅を製錬していました。 Wiki 大坂銅吹屋
  最盛期の1700年頃には銅の生産量で世界一を誇りました。  長堀通り 日本最大の床面積地下街など






  オランダ商館の江戸参府の帰途には、大坂の製錬所を見学するのが恒例で、大坂ではカラクリ人形芝居も見物していました。
  江戸参府の全工程は約3ヵ月かかったそうです。その他の日本から輸出品は有田焼、九谷焼など日本の工芸品でした。

   カラクリ人形芝居も大坂の名物だった  (文楽とは異なる)

  江戸初期に日本の船が海外に渡航し交易する場合は、幕府から朱印状という許可書を得た船に限られ、御朱印船と
  呼ばれました。1631年以降には、奉書という海外渡航許可書が発行され奉書船と呼ばれます。

  【朱印船】しゅいん‐せん
   近世初期、朱印状によって海外渡航の許可を得た船。徳川家康のころ、安南・呂宋ルソンなど東南アジア諸国との
   貿易に活躍。角倉船すみのくらぶね・末次船・末吉船など。御朱印船。

  【奉書船】ほうしょ‐ぶね
   朱印状のほかに、江戸幕府老中から長崎奉行にあてて出された奉書によって海外渡航を特許された船。
   1631年(寛永8)に始まり、33年からは奉書船以外の海外渡航は禁止された。

  【糸荷廻船】いとに-かいせん    コトバンク 『糸荷廻船 「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」』 

 江戸時代に生糸をはじめ長崎輸入品を、独占的に堺や大坂に積み登せた廻船。

  堺糸荷廻船、堺・大坂糸荷廻船ともいい、同じく長崎から陸送する場合は糸荷宰領さいりょうの仲間が独占した。
  糸荷廻船は、幕府が慶長けいちょう年間(1596~1615)に堺の35艘そうの船株を公認して始まったと伝えられているが、

  18世紀初めの定数は35艘。その後長崎貿易と堺の衰退により14艘にまで減ったが、

  1739年(元文4)から大坂商人が堺の船株を借りてこれに参加するようになり、水揚げは大坂中心に移っていった。
   陸送か廻船によるかは荷主(五か所本商人)の選択に任されたが、運賃は廻船が割安であった。隻数には増減があり、

  1775年(安永4)ごろは20艘、幕末開港期には11艘で、いずれも船株上では堺船であった。
 
 【 堺船と砂糖】 長崎県から貿易品を堺・大坂に運んだ
  慶應義塾大学 学術情報リポジトリ 『博物誌史料としての「お湯殿の上の日記』
   http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN10079809-20060930-0033.pdf?file_id=10485

  ≪ 室町時代の日明貿易で砂糖が輸入される ≫

  室町幕府3代将軍の足利義満(在職1368~1394、没年は1408年)によって1403年頃から日明貿易が始まります。
  一時期中断しますが、6代将軍の足利義教(在職1429~1441)によって復活。
  室町時代の1485年、宮中女官の『御湯殿上日記』の文明17年3月13日に『さたう』(砂糖)の記述があり、
  これが日記での「砂糖」の初出。

  【御湯殿の上の日記】おゆどののうえのにっき    Wiki 御湯殿上日記
   清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。禁中の日常や女房詞などを知る好史料。
   1477(文明9)から1826年(文政9)までのものが現存。

  室町~安土桃山時代に麦芽糖を使った固形の飴が作られます。
  室町時代には飴の行商が始まり、糖粽とうそう(飴色をした、もち米のちまき)や地黄煎ぢおうせん(地黄の根や茎を加え
  た飴)が売られていたようです。


  ≪ 堺商人の貿易によって砂糖が大坂にもたらされ飴作りが行われた ≫

  砂糖は室町時代末期頃、堺商人とポルトガルやスペインとの南蛮貿易 (実際は日中間の中継貿易) が始まり、
  1550年頃、日明(勘合)貿易が活発になり、更に砂糖の輸入が盛んになりました。






  堺から大坂に水あめの原料となる米、麦、砂糖が集まり飴作りが盛んに行われるようになりました。

  飴の製造は、うるち米を砕いて煮つめ、麦芽を加えて冷湯に入れ、混ぜ合わせてデンプンを糖化させ、そしてこれを
  もう一度沸騰させ、布で濾して作る方法になりました。

  【大内義興】おおうち-よしおき (1477~1528)    Wiki 大友義鑑  Wiki 大館晴光
   室町後期の武将。山口に拠って中国西部・九州北部を領し、足利義稙を擁して入京、管領代となり一時政権を握る。
   明と交易して財力を豊富にした。

  【大友宗麟】おおとも‐そうりん(1530~1587)
   戦国時代の武将。名は義鎮よししげ。豊後の府内におり、九州のうち6カ国守護となる。
   キリシタンに帰依して、南蛮貿易を盛んにした。

  南蛮菓子として安土時代に伝わった金平糖は江戸時代中期までは大坂でのみ製造されていたようです。
   大阪 飴ちゃん文化 と チンドン屋 飴の歴史  大阪のコンペイトウ ミュージアム・日本での金平糖生産は大坂から


  テレビ東京 137億年の物語 『南蛮貿易と出島物語』 14.08.16 放送
  関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『関西今昔ウォーカー 「大阪・松屋町の今昔歩き」』 16.09.23 放送
   コトバンク 『糸荷廻船 「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」』

  ≪ 南蛮貿易の生糸や砂糖を長崎から独占的に運んだ堺商人・糸荷廻船 ≫

  南蛮貿易で活躍したのは堺商人で火縄銃も日本各地に広めました。
  江戸時代には、輸入品を長崎から堺や大坂に運ぶ独占的な権利を与えられ堺船または堺糸荷廻船と呼ばれました。
  慶長年間に始まった糸荷廻船は、生糸など長崎での輸入品を堺へ独占的に運んだ船の事。
  江戸時代に幕府が堺の3535艘そうの船株を公認。砂糖を積んだ船は「堺船」と呼ばれました。
  長崎から陸送する場合は糸荷宰領さいりょうの仲間が独占し、砂糖は大坂の唐薬種問屋に運ばれました。

  下の画像は長崎の出島です。






  独立行政法人 農畜産業振興機構 『砂糖 江戸時代の砂糖食文化』 http://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html

 江戸時代に長崎に来航する唐船・オランダ船によって輸入された砂糖は、生糸などの輸入品を大坂に回送する
  糸荷廻船で大坂の唐薬種問屋に運ばれた。当時、砂糖を積んだ船は「堺船」と呼ばれたという。

  元禄10年(1697)の長崎会所設立に際して、幕府御用の御菓子屋であった大久保主水と虎屋織部に対して、砂糖を
  元値段で買い取ることが許された。
  その額は寛延2年(1749)の貿易半減令の翌年には金660両(現在の価値でおよそ数千万円)分となった。

  またその量は2万7650斤(16.59トン)であり、同年の輸入量全体の約1%であった。それ以外の長崎会所で貨物本
  商人に落札された輸入砂糖は、大坂の唐薬種問屋から砂糖荒物仲買仲間の手を経て、江戸をはじめ全国に運ばれた。

  大坂堺筋の砂糖荒物仲買仲間は一番組(戎講)・二番組(大黒講)・三番組(三社講)の3グループに分かれており、
  それぞれ仲間から選出された世話役によって支配されていた。
  また天明元年(1781)には輸入品の流通統制と安定供給とを目的として株仲間となったが、その数は江戸時代の終わり
  には200軒におよんだ。

  別府大学短期大学部紀要 1994年 『南蛮料理書についての一考察』 江後迪子 著
   http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/tk01302.pdf?file_id=4199

 まず砂糖について述べる。わが国では砂糖は輸入された時代を経た後,慶長年間になって製糖法が伝えられたと
  されている。しかし,『南蛮料理書』の当時はまだ輸入砂糖の時代で,貴重な砂糖を使う調理法は,一般にはまだ
  受入れられなかったと考えられる。砂糖,甘酒,飴などの入らない甘味のない菓子は「あさいなちまき」「ういろう餅」
  「かうれん」[からすみ][よりみつ]の5種である。『古今名物御前菓子秘伝抄』(1761)にある「ういろう餅」は砂糖が
  用いられているが「あさいなちまき」および「よりみつ」には砂糖が用いられていない。
  『南蛮料理書』の当時は砂糖を用いない「ういろう餅」であったものが,次第に砂糖を用いるようになったのかも
  しれない。


 国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  翻訳され出版された1941 (昭和16) 年版の『ツンベルク日本紀行』(翻訳 山田珠樹、東京市神田の奥川書房 出版)
  1776 (安永5) 年に書かれた日本旅行記です。

  「第二十三章」日本の農業 P.380~381から抜粋

  砂糖 砂糖楓 (Acer saccharinum) は日本に産する楓ではないと思う。又 この土地では未だ栽培もされていない。
  通訳の話によると、日本人は、日本の近くの島に産する木の莖から砂糖を搾りとることを知っているそうである。
  この砂糖はかなり甘い。然し褐色をしていて、厭な味がある。砂糖がもし必要欠くべからざる物品の一つとすれば、
  日本人がかかる必要品として外国に供給を仰がねばならぬものは、この砂糖だけである。
  その他は衣食に必要なものは全て、なお その上に贅沢品まで国内に持っているのである。

  奄美大島や琉球 (沖縄) のサトウキビから産する黒砂糖の事を示していると思われ、下記のように日本本土で
  サトウキビ栽培が盛んになるのは江戸時代の後期以降のようです。

  【ツンベルク】Carl Peter Thunberg (1743~1828、スウェーデンの植物学者・医学者)
   シーボルト以前の日本研究の第一人者。リンネに学ぶ。オランダ東インド会社に入り、1775年(安永4)長崎オランダ
   商館医として来日、翌年出国。著「ヨーロッパ・アフリカ・アジア旅行記」「日本植物誌」。ツンベリー。

  異国叢書[第6] ケンプエル江戸参府紀行:上巻 を所収 1927 (昭和2) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876448
  異国叢書[第9] ケンプエル江戸参府紀行:下巻 を所収 1929 (昭和4) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1195335
  異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
  ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693
  異国叢書[第5] ヅーフ日本回想録&フィッセル参府紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179830



  ≪ 江戸時代に固形の飴が登場、上方から各地に伝わる ≫


  1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』(著者は大坂の医師 寺島良安、出版地は大坂) 巻の百五 「造醸」の「
  (モヤシ)諸米熬煎而成 古人寒食多食

  飴はたくさんの米と麦のモヤシか穀物の芽と一緒にして焦がすように煮て造る。昔の人は寒食の日によく食べた。
  飴の病気に対する効能や詳しい製造法が書かれ、水飴は軟膏薬として使われたような事が書かれてあります。

  摂津の平野、山城の伏見が有名で大坂で多く造る。豊前 (福岡&大分) の小倉 (北九州市) の膠飴は琥珀色に似ている。
  出羽の庄内 (山形県) と豊前の小倉、肥前の唐津 (佐賀県) では、少し粘る白色の半生の飴を多く作る。
  飴の糟は貧しい人が食べる。というような事が書かれてあります。

  固形の飴が登場し、「ブランド」飴が出現するようになりました。
  京都・東福寺門前の「菊一文字屋」、大阪の「平野あめ」が有名どころで、これが江戸に伝わり「下りあめ」と称される
  ようになりました。

  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』
  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、
  日本各地の名物を描いた絵本。巻の三には、天王寺平野町の根本平野飴作りの様子が描かれています。
  2~3回捩じった棒状の飴が書かれてあります。

  【千年飴】せんねん-あめ
   現今の千歳飴。江戸の風俗として、子供が初めて宮参りする時、必ずこれを買い、親戚・知己ちき (親友や知人) に
   配った。元禄・宝永 (1688~1744) の頃、浅草の飴売七兵衛の命名に基づくという。

  【阿万が飴】おまん-が-あめ 広辞苑
   天保 (1830~1844) の頃、江戸市中に流行した飴売りで、女の身ぶり声色こわいろをつかって呼び売りをしたもの。


 
 【国内でのサトウキビの栽培】
  Wiki 砂糖 、 人類と砂糖の歴史 :: Science@Sugar http://www.sugar.or.jp/health_k/0701.shtml

  ≪ 江戸時代後期、サトウキビの栽培は静岡・愛知・大阪でも行われていた ≫

  江戸時代にはいると、海外からの主要な輸入品のひとつに砂糖が上げられるようになります。
  1739年以降に、德川吉宗が琉球からサトウキビを取り寄せ、江戸城内で栽培させ砂糖の国産化を奨励。


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「大坂商賈

 追書 砂糖のこと昔は紅毛より齎來るを出島白 淸より來たるを三盆頂番並白と云 外に氷砂糖あるのみ 又
  黒砂糖も齎來る皇國にては薩の黒糖あるのみ 是も琉球及同近島に産すのみ 官に蔗種を傅ふ

  寛政中 是を市民に命じ始て皇國に種ゆ 乃ち余 北川祖父及び外に三人都て四人豫之駿遠の間に弘之種
  法製蔗法を農民に教授す 速に種之夫より西方に傅ふ 西方にて土佐國 早く製之ことを得る

  今世は蘭淸の糖を用ふるは極上製菓のみ 其他專 和製を用ふ
  今世 譛は白糖を多く産し 又 常民とす 國用 七八分用之 阿次ぎ 駿遠 又次之泉を下とす
  黒糖 薩地 琉製の次とす 土次之 紀は又次之 泉亦其次とし 尾参遠駿等を下品とす

  「堺筋の砂糖中買及び木綿屋」 堺筋は南北の名也 砂糖中買は二百餘戸あり 各皆 白黒及び和製來舶ともに
  商ふ 糖中買 戎講一番組 大黒講二番組 大茂組 大森組 富又組 永代講ト云 三番組

  「北堀江郷の南河岸」 南堀江郷の南北の河岸に和製砂糖問屋及び藍玉問屋あり

  前に云如く 糖も來舶は平野町邊唐物問屋に漕し 又 琉球及薩の諸島産の黒糖は當所に在る薩州藏屋敷に漕し
  中間各入札にて買之 故に問屋なし 文政此迄は西濱に薩摩問屋ありて琉球産の那覇と云 黒糖は皆こゝに來り
  又 大島 徳の島 嘉界も往々こゝに漕し 藏やしきには 大島以下の貢物のみにて 那覇は入らざりしが 大坂町人
  出雲屋孫右衛門と云人の謀にて 全く藏邸に漕し問屋を廢す

  堀江の問屋に漕す砂糖は 讃州 阿州 泉州等の産也 各産所を分ち 或は兼るもあり 土州は藏邸に全く漕す
  紀州も同上と雖も家老の采邑に産する物は當所の問屋に漕す

  「紅毛こうもう=オランダ」「=清 (中国)」「駿=駿河 (静岡中部)」「=遠江 (静岡西部)」
  「=尾張 (愛知西部)」「=三河 (愛知東部)」「泉州=和泉 (大阪南部)」「紀州=紀伊 (和歌山)」
  「=土佐 (高知)」「讃州=讃岐 (香川)」」「阿州=阿波 (徳島)」「薩地=薩摩 (鹿児島)」
  「大島=奄美大島」「徳の島=徳之島 (鹿児島の奄美諸島)」「嘉界=喜界島 (奄美諸島)」「琉球=沖縄」

  「=もたらす」「=後」「都て=とて」「=よ、あらかじめ」「=余」「=廃すたれ」「當所=当所」


  高松藩主松平頼恭がサトウキビ栽培を奨励し、天保期には国産白砂糖のシェア6割を占めるまでになりました。
  また、高松藩はこのころ和三盆の開発に成功し、高級砂糖として現在でも製造されているそうです。

  19世紀にはいると砂糖のかなりは日本国内でまかなえるようになりました。
  天保元年~3年(1830~1832年)には、大坂での取引量は輸入糖430万斤+国産糖2320万斤、合計2750万斤
  (1万6500トン)となり、さらに幕末の慶応元年(1865年)にはその2倍となっていました。

  【三盆】さんぼん 百菓辞典
   三盆白とも言う。主成分は蔗糖であるが、灰分、転化糖が多く、独特の風味がある。上等の砂糖。
   白砂糖をさらに精製脱色して、純白の結晶にしたもの。京風打ち物など、和菓子に珍重される。
   最初は中国から輸入した (唐三盆) が、後、享保 (1716~36) 頃から日本でも作られるようになった (和三盆)。

  【和三盆】わ-さんぼん 徳島県 (阿波) や香川県 (讃岐) でとれる最高級の砂糖。 百菓辞典
   普通の砂糖より香りが良い。加工せず、そのまま押し固めて、打ち物、押し物などにする。
   生産は四国地方で、砂糖きびの煮汁を煮詰めた後に、冷やして「白下糖 (しろしたとう) を作り、霧をかけながら
   くり返し研ぎ、糖蜜を抜いて結晶させ三盆糖をつくる。この結晶体をお盆の上でもみ混ぜ、粒子を細かくして乾燥した
   ものである。
   研ぐ時使う桜の木の大の研漕 (とぎぶね) を通称「盆」と呼び、盆の上で3回研ぐことからこの名がついた。

和三盆


沖縄のさとうきびジュース

伊勢の生姜糖


  【白下】しろ‐した (白砂糖を製する下地の意)
   サトウキビの絞り汁のアクを抜き、煮詰めた黄褐色の半流動物。蔗糖結晶と糖蜜が混合した含蜜糖。白下糖。
   これを圧搾して繰り返し揉んで糖蜜を取り除いたものが和三盆。

  【生姜糖】しょうがとう 百菓辞典
   砂糖を板状に固めた素朴な菓子。しょうが風味。  江戸時代のお伊勢参りブーム

 
 【北九州の方が江戸より白砂糖が入手しやすかった?】
  独立行政法人農畜産業振興機構 氷砂糖の歴史 https://sugar.alic.go.jp/tisiki/ti_0310.htm

  ≪ 江戸時代中期には、氷砂糖・白砂糖・黒砂糖があった ≫

  1712年に大坂の御城入医師である寺島良安により編集された『和漢三才図会』には「石蜜ハ則チ白沙糖也。
  凝結シ餅魂ヲ作リ石ノ如シ」とあり又「氷餹こおりさとうハ堅ク白ク氷ノ如シ」との記述や「氷餹20万斤、白沙糖250万斤
  「黒沙糖が太寃たいわんなどから輸入されている」という記述があるので、氷砂糖と白砂糖、黒砂糖が区別されていたと
  考えられるそうです。 「太寃=台湾」の事です。

  【黒砂糖】くろ‐ざとう
   まだ精製してない茶褐色の砂糖。甘蔗汁をしぼって鍋で煮詰めたままのもの。黒糖。
   黒砂糖を精製した物が白砂糖

  【粗糖】そ‐とう
   甘蔗の茎を圧搾した汁に石灰乳を加え、不純物の大部分を除去した糖液から結晶させたままの、精製していない蔗糖。
   糖分96パーセント。
    
  【精糖】せい‐とう … 粗糖を溶解して不純物を除いて脱色し、濃縮して結晶させた白砂糖。精製糖。粗糖

  【三温糖】さんおん‐とう … 黄褐色の車糖くるまとう。上白糖などを精製した後に残った糖液をさらに数回煮詰めて作る。


  独立行政法人 農畜産業振興会 『江戸時代の砂糖食文化 「3.江戸時代の砂糖飴と砂糖漬」』 http://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html

 天明5年(1785)の『柚珍秘密箱ゆうちんひみつばこ』の「柚砂糖漬仕方」によれば、ユズを黒砂糖の蜜に10日間とひと晩の
  2度漬けた後の仕上げのみに白砂糖の蜜が用いられている。

  これに対して、長崎に隣接した佐賀の丸ぼうろの老舗である「鶴屋」堤家に伝わる宝暦6年(1756)頃の『菓子仕方控覚』の
  「砂糖漬仕方」によれば、蜜には白砂糖のみが用いられており、江戸よりも白砂糖の入手が容易であったことがうかがえる。

  【柚珍秘密箱】 … 京都の器土堂 著。
   西村市郎右衛門(京都で開業した浮世草子作者。蕉門の俳書を時流に先がけて多く出版した版元)など、他5人が出版。

  同サイトによると、1794 (寛政6) 年に紀州・讃岐から国産の白砂糖が大坂に入荷して取り扱うようになります。

  守貞謾稿では大坂 (砂糖が集まっていた) で黒砂糖を用いて作っていた物を、江戸では白砂糖を使っていた物もあるので、
  黒砂糖と白砂糖の使用の違いだけで結論付けるのは論として弱いと思います。
  ちなみに、上記サイトの『』の文は北九州市立大学の教授が書かれているので、多少の地元贔屓目もあるように思います。

  しかしながら、1800年代になるまで、江戸より北九州の方が白砂糖を入手しやすかった可能性が高いの事実のようです。
  1768 (明和) 5年頃の『万句合』に収録された川柳には「水売の砂糖なんだか知れぬなりと詠まれたものを見つけました。
  1700年代の江戸では砂糖ではない別の甘味料で甘味をつけた水売も多かったと推測されます。
  1800年代になると、浮世絵に砂糖を盛り上げてある絵も描かれています。
 
 【砂糖の工芸菓子】
  京都若菜屋 『工芸菓子 「霜降の宴」』 http://www.wakanaya.co.jp/WakanayaFiles/pages/art-sweets.html
  出雲国 松江 御菓子司 彩雲堂  『工芸菓子』 http://www.saiundo.co.jp/2kogeigashi.html

  ≪ 飴細工 ≫

  【飴細工】あめ‐ざいく
   ① 白飴で、人・鳥・獣・草花などの形を作ったもの。
   ② 転じて、外観ばかり美しくて内容がつまらないものをののしっていう語。
    浄瑠璃、女殺油地獄「よい女房にいかい疵、見かけばかりでうまみのない―の鳥ぢや」

  【女殺油地獄】おんなころしあぶらのじごく
   浄瑠璃。近松門左衛門作の世話物。1721年(享保6)初演。大坂本天満町の油商河内屋の次男与兵衛が、放蕩して借銭に
   苦しめられ、豊島屋てしまや七左衛門の妻お吉に無心を言いかけ、これを殺害するに至ったことを脚色。後に歌舞伎化。


  ≪ 工芸菓子 ≫

  【工芸菓子】こうげい-がし フランス語でピエス・モンテ piéce montée  百菓辞典
   和菓子では花鳥や盆栽・果実等がよく作られ、洋菓子では建物が多い。
   菓子素材を使って、工芸品のように仕上げたもの。祝いの席の雰囲気を盛り上げるために飾られたり、宴席の演出用に
   用いられる。素材はしん粉・金果糖(和)、マジパン・グラスロワイヤル・チョコレート(洋)などを用いる。

  室町時代は白砂糖が高価だったので、白砂糖を用いて作った菓子は上等品で、主君や貴人に献上するための菓子でした。
  工芸菓子は干菓子細工として京都で作られていました。
  雲平細工ともいわれ、花や鳥などを実物のようにつくり飾るため、飾り菓子ともいわれるようになりました。

  【献上菓子】けんじょう-がし コトバンク「デジタル大辞泉の解説」 より
   主君や貴人など身分の高い人に差し上げる菓子。
   室町時代、白砂糖を用いて作った上等な菓子。白砂糖の使用は身分の高い者だけに限られていたため、
   一般の雑菓子(ぞうがし)に対していう。

  【雲平】うん‐ぺい
   粉砂糖に微塵みじん粉をまぜ、水・湯でこねつけたもの。雲平生地。雲平生地で製した干菓子(=「雲平糖」とも)。

  【有平糖】アルヘイ‐とう アルヘイ。アリヘイ糖。
   安土桃山時代に伝来した南蛮菓子。砂糖に飴を加えて煮詰め、棒状とし、または花や果実に模して着色したもの。

  江戸時代の元禄(1688~1704)、享保(1716~1736)頃、飾り菓子は献上菓子や大奥のための菓子として使われました。
  四季の草花を中心に果実、鳥や虫、小動物などが模され、鑑賞菓子として発達。

  元治(1864~1865)、慶応(1865~1868) の頃、砂糖が出回るようになって有平糖や打ち物に色彩や形状の変化を加え、
   一部飾り菓子風のものがみられるようになり、献上菓子の需要が大幅に増え、特に細工菓子が好んで用いられるように
  なりました。

  明治初期に純白の砂糖が使えるようになってから、初めて今日のような有平による技術を施した飾り菓子ができるように
  なりました。


  NHK Eテレ 美の壺・撰 『File264 金沢の和菓子』 13.01.16 放送

  ≪ 金沢で作られている金花糖 ≫






  【金花糖】きんか‐とう … 砂糖に水を加えて煮詰め、白っぽくなるまですり、魚や動物をかたどった木型に流して固めた菓子。



  朝日放送 西川きよしの おしゃべり あるき目です 『和菓子の人間国宝』 16.01.04 放送

  ≪ 大阪の「食の人間国宝」「現代の名工」 本松葉屋の工芸菓子 ≫

  大阪市天王寺区桃谷にある創業88年の本松葉屋の西尾智司 会長 (70) は、数多くの工芸菓子を製作しており、
  平成9年に食品分野における最高技術者に与えられる『フードマイスター「食の人間国宝」』の農林水産大臣賞を受賞。
  平成17年には総理大臣から与えられる『現代の名工』の黄綬褒章も受賞。






  材料は「雲平生地」と言い、砂糖10に対して寒梅粉(餅粉)3~4の割合を混ぜて練り上げたもの (干菓子と同じような原料) と
  白餡など。土台以外は全て食用素材なので食べる事ができます。

  パーツは金型で抜いた後、木型や専用の木棒などで形を整え乾燥させます。
  組み立てる際はパーツのくっ付ける部分に蒸気を当て、柔らかく戻して貼り付けます。

  西尾さんによると、工芸菓子の作り方などは見せず教えず (職人個人の企業秘密) 、出来上がってから、初めて
  みんなに見せるのが普通だそうです。しかし、西尾さんは若い人の育成の為、作り方などを教えています。

  【寒梅粉】かんばい-こ 百菓辞典
   もち米を蒸して乾燥させ、白焼きにしてから粉末にした焼き微塵みじん粉を、さらに細かくふるったもの。
   梅の花の季節に作られたものが良質であるとされるため、この名がある。
   らくがんや豆菓子、和菓子のつなぎに使われる。

 
 【冷や水売り】
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 『おいしい浮世絵 第5回「江戸のおやつ」 16.05.03 放送
  web日本語 棚橋正博 『第41回 冷や水売りと白玉』 13.05.23 配信 http://www.web-nihongo.com/edo/ed_p041/
  気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録 『冷や水売り(江戸の歳時記)』 http://wheatbaku.exblog.jp/11683080/

  ≪ 水売り ≫  コトバンク 『水売り』世界大百科事典 第2版 より

 水を入れた桶をてんびん棒などで担いだり荷車に積んで飲料用の水を売り歩く商売をいう。日本では水屋ともいった。
  水道が普及する以前は,水はもっぱら井戸に頼るしかなかったが,水質の悪い所や井戸に遠い家では水を1荷いくらで
  水売から買った。
  明治のころ,東京の下町あたりではだいたい1荷1銭くらいで朝夕2回定期的に買う家が多かったようである。
  井戸の便のよい家でも,涸水時には水が濁るので水こし用の甕を台所において使ったし,またふだんでも洗顔後の水を
  まき水に使うなど水をたいせつに扱っていた。

  前東京都水道局中央支所長 随筆 『水売り』 http://www.jdpa.gr.jp/siryou_html/14html/14_essay1.pdf
  大阪市 『まぼろしの中津川 消えた中津川・長柄運河』 http://www.city.osaka.lg.jp/kita/cmsfiles/contents/0000038/38804/04.pdf

  大阪などでも上水道が完備されるまで、水事情が良くない地域では水売りがありました。
  明治期の河川の水はとてもきれいであって、水屋は水舟で大川 (今の中の島東突端) まで出るか、四つ橋付近で、
  汲みこんで帰り、一荷 (2斗入り桶 2個)で 8厘前後で売られていたそうです。
  とくに中津川の下流 (逆川、六車干屋川など) 朝日橋付近での汲み水は上水と称して一荷で2厘ほど高値でした。
  安政5年 (1858)以降、明治10年、19年、23年などのコレラの流行で井戸水が使えなくなり、水売りが流行りました。
  中津川は淀川の支流の一つで、1910年に治水工事で埋め立てられて「中津」の地名だけが残っています。
  明治初期の1円が現在の2万円くらいの価値、1厘は約20円くらい。


  ≪ 冷や水売り ≫

  1840~43年 歌川広重 『東都名所 高輪廿六夜待遊興之図』 は屋台が多数見られ、超有名な絵です。
  日本食文化の醤油を知る 『江戸の外食文化』 http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-16.html

高輪廿六夜待遊興之図





  1689 (元禄2) 年の『合類日用料理指南書抄ごうるいにちよう-りょうりしょう』(中川茂兵衛、出版地は京都)は秘伝や口伝・聞書
  などから、料理に関する事を丹念に集めた江戸時代の料理百科とも言われています。
  『第二巻の餅之類』に「寒晒の餅・かんざらし、白玉粉」という項目があるようです。(

  1696 (元禄9) 年刊の井原西鶴 (大坂の人) の浮世草子『万の文反古よろず-の-ふみほうぐ』に『冷や水売り』の記述が
  あるそうです。江戸でも出版されましたが、物語の舞台は大坂高津 (大阪市中央区高津) です。

  1712 (正徳2) 年刊、寺島良安の『和漢三才図会』に、冷や水を入れるのに使われた錫製の水飲み用茶碗などの容器は、
  「白鑞びゃくろうしろめ」と呼ばれる錫すずと鉛なまりの合金によって作られていた事が記されています。
  また真鍮などでも作られ、金属の器に口を付ける事で冷たさを感じられたようです。

  1765~1840年(明和2~天保11)刊、江戸の『誹風柳多留』には「ぬるま湯を 辻々で売る 暑いこと」という川柳もある
  ので、実際には汲んでから時間が経ち、温くなった水も売られていました。

  1768 (明和) 5年頃の『万句合』に収録された川柳には「水売の砂糖なんだか知れぬなりと詠まれたものを見つけ
  ました。江戸では砂糖ではない別の甘味料で甘味をつけた水売も多かったと推測されます。

  漫談家の宮田章司さんによると、物売りの声というのは売っているものをイメージしながら声を出しており、商品によって
  それぞれ特有の節があったそうです。
  え~ 冷やっこい! 冷やっこい!!と売り歩いていました。
  夏場は瓜やスイカなども好んで食べられ、スイカ売りは「すいか~ すいか~ 水は毒でござります」という売り言葉を
  使っており、冷や水売りとはライバル関係にあったと想像されるようです。


  ≪ 江戸時代後期頃から江戸では白玉入り砂糖水が売られる ≫

  はっきりした事は不明ですが、江戸で文化が華開く文化年間の1800年頃以降に登場したと思われます。

  幕末の喜多川守貞の『守貞謾稿』では、京と大坂では「砂糖水売」と呼ばれて1杯6文で売られていた事が
  記されています。白玉入り冷や水は売られていなかったようです。
  江戸・京坂の三都とも白玉は乾物屋で売られていた事も別の部分で記述があります。


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「冷水賣

  夏日 淸冷の泉を汲み白糖と寒晒粉の團とを加へ 一椀四文に賣る 應求て 八文十二文にも賣るは 糖を多く
  加ふ也 賣詞 “ひやつこひ ひやつこひ”と云
  京坂にては 此荷に似たるを路傍に居て賣る 一椀 大概六文 粉團を用ひず白糖のみを加へ 冷水賣と云ず
  砂糖水賣と云

  「=団子」「=応」


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「白玉賣

  米粉を曝し製したるを寒晒しと云 乾て (正方形を斜上から見たの図) 此ごとく刻めり 是は三都ともに乾物等にて賣之也
  白玉は寒晒粉を水を以て煉之 丸之て 湯烹にしたるを云 白糖をかけて食之 或は冷水に加之 又た 汁粉
  之と雖ども 陌上 專ら冷水に用るを專として夏月賣
  昔は全白を專とする歟 今は紅を交へて斑玉をなす者あり 價 百顆 二十四文ばかり

  「さら=晒し」「煉り=練り」「雖ども=いえども」「陌上=百上 (幅の広い道の上)」「=か」「=値」「=粒」


  1813 (文化10) 年6月、江戸森田座初演の常磐津で、日照りが続いて水が乏しくなると、特定の井戸と契約している
  水屋が1荷100文ぐらいで売りさばいたり、砂糖を入れた冷水や白玉・ところてん(心太)も売る風俗を舞踊化したものが
  演じられました

  江戸末期1846年頃の歌川国芳の団扇絵『名酒揃 志ら玉』には、紅色が付いた寒晒し白玉を取り鉢に移している
  女性が描かれています。

名酒揃 志ら玉

松竹梅名残島台

四季之内 両国夜陰光景

當盛六花撰 紫陽花


  上の画像は絵をトリミングした一部分です。下記のリンク先で浮世絵のフル画像が見られます。

  1851年 歌川豊国(三世)『松竹梅名残島台』 舞台での役者を描いた絵で、白砂糖が描かれています。
  東京古典会 平成28年度古典籍展観大入札会 http://www.koten-kai.jp/catalog/index.php?cPath=2100 真ん中あたり

  1851年 歌川豊国(三世)『東都名所 四季之内 両国夜陰光景
  味の素 食の文化センター http://www.syokubunka.or.jp/archives/nishikie/detail/post-114.html

  1854年 歌川豊国(三世)『當盛六花撰 紫陽花』 背景の紫陽花は歌川広重。
  国立国会図書館デジタルライブラリー http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1311165


  ≪ 暑気払いで飲まれたもの ≫

  夏の暑気払いとして「麦茶・麦湯 (平安時代から)」「枇杷葉湯びわようとう (ビワの葉などを煎じた薬茶)」などが飲まれ
  ました。江戸では甘酒もよく飲まれていたようです。

  weblio辞書 『枇杷葉湯』 http://www.weblio.jp/content/%E6%9E%87%E6%9D%B7%E8%91%89%E6%B9%AF 三省堂 大辞林
  薬の名。枇杷の葉・肉桂・甘茶などを細かく切ってまぜあわせたものを煎(せん)じた汁で,暑気払い急性の下痢など
  に用いた。京都烏丸の本店で売り出したが,江戸では宣伝用に路上などで往来の人にただでふるまった。

  【甘酒・醴】あま‐ざけ 広辞苑、百菓辞典
   米の飯と米麹こうじとを混ぜて醸かもした甘い飲料。または、酒粕を溶かし甘味をつけた飲料。
   古くは、夏の飲み物であり、夏の季語。ひな祭に使われる事が多い。白酒しろざけ


 とらや 『菓子資料室 「歴史上の人物と和菓子 徳川家茂と葛水・黄金水の砂糖水』 11.09.16
   https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/127/

  「葛水 (葛粉と砂糖を水で溶いた物」) は、大坂を中心に上方だけで売られていたと思います。
  『続徳川実紀』第四篇の『昭徳院殿御在坂日次記』の幕末の1865年によると、
  6月21日、徳川家茂が京都から大坂に到着した一橋家の徳川慶喜に葛水を用意していた記録があるそうです。

  【葛湯】くず‐ゆ
   葛粉に砂糖をまぜ、熱湯を注いでかきまぜた食物。主として幼児・病人に用い、また、体が温まるので冬に用いる。
   季語は冬。この葛湯を冷やしたものが葛水で季語は夏。

 
 【本草学】
  エーザイ 内藤記念くすり博物館 『1.身近な生活にある薬用植物 正倉院に伝わる薬物60種のリスト種々薬帳
   http://www.eisai.co.jp/museum/herb/familiar/shujuyakucho.html

  ≪ くすりの歴史 ≫

  昔は砂糖や茶なども薬として扱われました。
  奈良時代、756 (天平勝宝8年) 年6月21日に光明皇后が60種の薬物を東大寺大仏に献納した際の
  目録が正倉院にあります。一般的に『種々薬帳しゅじゅやくちょう』と呼ばれています。


  うち約40種類が正倉院に現存しているそうです。詳しくは上記エーザイのサイトで。

  宮内庁 『正倉院 種々薬帳』 http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000010569 ←大きめの 画像が見れます。

  中外製薬 『くすりの歴史 「日本人とくすり」』 https://www.chugai-pharm.co.jp/ptn/medicine/history/history002.html
  平安時代 都(みやこ)には、東西二つの市(東市司は現在の京都駅近く西本願寺辺り、西市司は西七条市部
  町辺り)があり、東市に薬を商う「薬廛(やくてん)」がありました。取り扱われた薬は、国産の薬草類の他、宋や
  インドから輸入されたものもあったようです。この時代は市に出入りできるのは上流階級の人々のみだったので、
  庶民は身近な草などを使うほかは呪術などに頼るしかありませんでした。
   続いて、鎌倉時代~江戸時代の簡単な薬の歴史が書かれてあります。

  【典薬寮】てんやく‐りょう
   律令制で、宮内省に属し、宮中の医療・医薬・薬園・乳牛などをつかさどった役所。くすりのつかさ。

  【薬司】やく‐し
   後宮十二司の一つ。医薬の事をつかさどる役所。尚薬・典薬・女孺にょじゅなどの職を置いた。くすりのつかさ。

  【後宮十二司】こうきゅう‐じゅうに
   律令制の後宮 (后・妃などが住み、女官の奉仕する、宮中奥向きの殿舎) で、事務を分掌した内侍司ないしのつかさ
   蔵司くらのつかさ・書司ふみのつかさ・兵司つわもののつかさ・闈司みかどのつかさ・薬司くすりのつかさ・殿司とのもづかさ・掃司かもりづかさ
   ・膳司かしわでのつかさ・水司もいのつかさ・酒司みきのつかさ・縫司ぬいのつかさの総称。

  Wiki 富山の売薬
  薬種商の始まりは室町時代とされる。中原康富の『康富記』(1455年)の1453年5月2日(6月17日)の条に「諸薬商買の
  千駄櫃申し間事談合とするなり。薬売るもの施薬院相計る所なり。」と書いてある。また、『御府文書』には1460年に
  京都の四府賀興丁座の中に薬品類を商いする商人がいたことが記されている。

  【康富記】やすとみき 中原康富記。
   権大外記の中原康富(1400頃~1457)の日記。15世紀前半の室町幕府・朝廷などに関する史料として貴重。


  テレビ東京 何でも鑑定団 13.10.06 再放送

  ≪ 本草学は江戸時代に最も発展 ≫  Wiki 神農本草経  Wiki 本草綱目

  【本草学】ほんぞう‐がく 中国に由来する薬物についての学問。

  薬物研究にとどまらず博物学の色彩が強い。本草書がまとめられるようになったのは漢代と推定される(神農本草)が、
  500年頃、陶弘景により「神農本草経」「神農本草経集注」が大成され、以後、唐・宋にかけて知識が補われたが、
  明末に李時珍が最も完備した「本草綱目」を完成した。

  本草学は奈良時代に日本へ伝えられ、「本草和名」などが現れましたが、江戸時代の初め1607 (慶長12) 年、林羅山が
  長崎で『本草綱目』(1578年成り、96年刊。日本でも版行) を入手し、駿府に滞在していた徳川家康に献上しました。

  【本草和名】ほんぞうわみょう
   日本最古の本草書。本草約1025種を掲げて注記。2巻。深江(一説に深根)輔仁が醍醐天皇の勅を奉じて撰。
   918年(延喜18)頃成る。輔仁本草。

  【林羅山】はやし‐らざん(京都の人、1583~1657)名は忠・信勝。僧号、道春。
   江戸初期の幕府の儒官。藤原惺窩せいかに朱子学を学び、家康以後4代の侍講となる。また、上野忍ヶ岡に学問所
   および先聖殿を建て、昌平黌しょうへいこうの起源をなした。多くの漢籍に訓点(道春点)を加えて刊行。
   著「本朝神社考」「春鑑抄」など。

  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん

  これを基に家康が本格的に本草研究を進める契機となり、江戸時代に本草学は最も盛んとなり、貝原益軒の「大和本草」、
  稲生若水の「庶物類纂」、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」が現れ、さらに西洋博物学の影響も加わって、多くの人が
  その発展に寄与しました。

  1671 (寛文11) 年著・1684 (貞享1) 年刊の『庖厨備用倭名本草』は江戸時代最初の本草書とも言われています。
  著者は肥前生まれで長崎に私塾を作り儒学を教え、1658年に京都で医師として朝廷の信任が厚かった
  向井元升むかいげんしょう。加賀藩家老の依頼で藩主の為に医食類についてまとめた物を、順庵木貞幹という人が
  編集して刊行したもの。

  【本朝食鑑】ほんちょうしょっかん
   本草書。人見必大著。12巻。1697年(元禄10)刊。明の李時珍著「本草綱目」にならいつつも、実地検証を踏まえ、食用・
   薬用になる植物・動物について漢文体で記した書。


  【貝原益軒】かいばら‐えきけん(福岡の人1630~1714)
   江戸前期の儒学者・教育家・本草学者。名は篤信。
   損軒とも号。
   筑前福岡藩儒。松永尺五・木下順庵らを師とし、朱子学
   を奉じたが、晩年「大疑録」を著し朱子学への疑問を
   表明。
   著書は膨大で、特に教訓書は身分を越えて受容され、
   大きな影響を与えた。
   他に「慎思録」「大和本草」「益軒十訓」「養生訓」など。

 
  【大和本草】やまと‐ほんぞう
   和漢の本草1362種を収録・分類し、解説した書。貝原益軒著。日本で最初の本格的な本草書
   16巻・付録2巻・諸品図3巻。1709年(宝永6)刊。   画像の中の文字「ウニコウル」はユニコーンの事。実際にはイッカクの牙

  【養生訓】ようじょうくん
   貝原益軒著の江戸時代の代表的な養生書。養生の法を和漢の事跡と自らの体験に基づき平易な和文で述べる。
   8巻。1713年(正徳3)成る。


  【和漢三才図会】わかんさんさいずえ
   江戸時代の図入り百科事典。寺島良安著。105巻81冊。明の王圻おうきの「三才図会」にならって、和漢古今にわたる事物を
   天文・人倫・土地・山水・本草など天・人・地の3部に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。正徳2年(1712)自序、
   同3年林鳳岡ほか序。和漢三才図会略。

  【稲生若水】いのう‐じゃくすい(江戸生れ、1655~1715)名は宣義のぶよし。のち稲とう若水と改名。
   江戸中期の本草学者・医師。京都で活躍。加賀藩主 前田綱紀に仕える。
   著「庶物類纂しょぶつるいさん」1738年(元文3)完成。1000巻。さらに47年54巻を増補。

  【庶物類纂】しょぶつるいさん
   本草学の諸説を集めた書。加賀藩主前田綱紀つなのりの命で、稲生いのう若水編、362巻まで成る。あとを徳川吉宗の命で
   丹羽正伯らにより、1738年(元文3)完成。1000巻。さらに47年54巻を増補。

  【松岡恕庵】まつおか‐じょあん(京都生れ、1668~1746)名は玄達。怡顔斎いがんさいと号。
   江戸中期の本草学者。稲生若水に師事。著「用薬須知」「桜品」「梅品」「菌品」など。

  【小野蘭山】おの‐らんざん(京都の人、1729~1810)名は職博もとひろ
   江戸後期の本草学者。松岡恕庵に学び、幕命により江戸の医学館で本草学を講じ、諸国に採薬旅行。
   著「本草綱目啓蒙」「広参説」「飲膳摘要」など。

  【本草綱目啓蒙】ほんぞうこうもく‐けいもう
   小野蘭山が「本草綱目」をもとに日本の本草について講義したものを、その孫・門人などが整理し出版した書。48巻。
   1803~06年(享和3~文化3)刊。方言資料としても貴重。

  ハチミツを研究して、「蜂のウンコと違う」と大和本草書で発表した貝原益軒  Wiki 貝原益軒
  庶民の園芸ブーム、ペットブーム の兵庫県の接ぎ太夫。 朝顔ブーム、ペットブームは大坂から。 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸


  江戸時代にも多くの伝染病が猛威を振るいましたが、まだ医学は発達していなかった為、医者はそれほど信用されず
  市販の売薬や漢方、または迷信などに頼る事が多かったようです。
  実際に効果があるか分からない動物の干物や黒焼きなども薬として飲まれていたようです。
  『病は気から』という言葉があるように、プラシーボ効果 (思い込み) で治った場合もあった事でしょう。

 
 【鍼灸治療】
  ≪ モグサは江戸時代初期に量産され始めた ≫

  モグサの研究(11) 産地について(2)織田隆三 著 - ‎1999   http://acupuncture.jp/dspace/bitstream/10592/17230/1/0693.pdf

 モグサが産業的に生産されていたことを確認できるのは江戸時代の初期である。その頃は主に美濃(岐阜県)と近江
  (滋賀県)で造られていた。
  江戸期の後半になると主産地は北陸の越前(福井県)越中(富山県)越後(新潟県)へ移り、天保の頃は越前が
  主産地だったかと思われる。

  明治時代初期には富山県が最大の産地になっていた。福井、石川、新潟三県がこれに続いたが岐阜、滋賀両県は
  衰退していた。
  昭和の始め頃には新潟県が国内第一の産地になった。現在高級モグサは殆どすべて新潟県で造られている。

  【艾】もぐさ (燃え草の意) →ヨモギの異称。
   ヨモギの葉を乾かして製した綿のようなもの。これに火を点じて灸治きゅうじに用いる。

  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「犬山城の桜をめざして①彦根城~柏原宿」』 14.03.06 放送

  江戸時代の中山道道中、柏原かしわばらの宿場町には伊吹山産のもぐさを扱う店が10軒ほどあったそうです。






  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』
  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、日本各地の
  名物を描いた絵本。巻の四には伊吹艾草の採取や天日干ししている様子など描かれています。
  また巻の三では樟脳 (クスノキの幹・根・葉を蒸留) を釜で炊いている様子や、晒蝋などが描かれています。

  樟脳は凍傷や打撲傷・リウマチなどに使用されますが、歌舞伎の狐火 (燃やして青い炎) の演出にも用いたようです。
  (樟脳火→のちに綿に焼酎浸して火を付ける方法の焼酎火へと変化)
  晒蝋さらしろう (白蝋はくろう) は他 (たぶん薩摩) で作られた蝋を京・大坂で晒して白蝋にしたような事が書かれてあります。


  ≪ 鍼灸治療、按摩も江戸時代に庶民に広まった ≫

  鍼灸師 もぐさちゃんによる整骨院でのお話 14.07.08 ブログ配信 http://ameblo.jp/gussan1979/entry-11890759957.html

  江戸時代では「鍼灸医」とは、鍼灸療法で治療する漢方医のことをあらわします。鍼灸も按摩と同じように飛鳥時代に
  中国から伝わってきましたが、按摩同様、庶民にとって身近な治療になるのは、江戸時代に入ってからのはなしになります。
  現代の鍼灸師とは違い、外科や内科のようなおおがかりな治療を引き受けることも文献を読んでいくとそのように記載
  してあります。

  この時代、町医者は往診が普通であり、治療費はものすごい額だったそうです。その反面、鍼灸医は気軽に通えて
  町医者よりもリーズナブルだったそうです。
  奉公人であっても主人の許可を受けずに通えたために、鍼灸医が庶民の健康を支えてたともいえます。


  読売テレビ ten. 『大阪の地名と歴史的有名人との意外な関係とは!?』 18.01.31 放送

  ≪ 平安時代から続く鍼灸院 大阪の中野鍼 ≫

  大阪市東住吉区の近鉄電車針中野駅から約200mの場所にある中野鍼。
  平安時代初期、弘法大師空海が布教中に宿を借りたお礼として当時最新の技術だった「鍼術」「ツボを示す像
   (遂穴偶像すいけつぐうぞう)」「金の針」を授けたようです。
  明治時代は、この「中野鍼」鍼灸院に多くの人が「中野鍼まいり」として遠方から訪れたそうです。






  大阪市東住吉区 近鉄針中野駅名の由来は平安時代から続く有名な鍼灸院の名前から

 
 【 薬種問屋が集まる 大坂・道修町 】
  ≪ 桃山時代の薬 ≫

  【定斎】じょうさい、じょさい
   桃山時代に大坂の薬種商 定斎が、明人の薬法を伝えて製し始めたという煎薬。
   夏期の諸病に効があるという。

  【定斎屋】じょうさい‐や
   売薬行商の一種。夏に、一対の薬箱を天秤棒てんびんぼうでかつぎ、薬箱の引出しの鐶かん
   ならしながら売り歩く行商人。じょさいや。定斎売り。

  【是斎薬】ぜさい‐ぐすり … 定斎屋が売り歩く、暑気あたりに効があるという薬。



  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿縦断の旅24 道頓堀~豊中」』 14.10.16 放送
  関西テレビ ワンダー 『関西今昔ウォーカー 「大阪・道修町の今昔ぶらり旅」』 17.01.13 放送

  ≪ 江戸時代、薬の原料のほとんどを大坂道修町で取り扱っていた ≫

  【道修町】どしょう-まち
   大阪市中央区の船場にある町。江戸時代より薬種問屋街として発展。  Wiki 道修町

  大阪市中央区にある「薬の街」として有名な道修町は、桃山時代に豊臣秀吉が堺・平野・伏見・近江などから商人を
  大坂に呼び寄せた際、薬卸業者を現在の道修町一帯に集めたのが始まり。

  江戸時代になると、道修町の薬卸問屋が輸入した薬の原料を検査・販売できる特権を得たため、薬原料の全国の
  流通量の約9割を取り扱っていたとも言われているそうです。

  江戸時代中期の1780年に創建された少彦名神社では、日本の医薬の神である少彦名神すくなびこな-のかみと、中国の
  医薬と農業の神である神農炎帝しんのう-えんていを祀っています。

  【少彦名神】すくなびこな‐の‐かみ
   日本神話で、高皇産霊神たかみむすひのかみ(古事記では神産巣日神かみむすひのかみ)の子。
   体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主命と協力して国土の経営に当たり、医薬・禁厭まじないなどの法を創めた
   という。   雛祭りの起源 女性のための古社 和歌山市 淡嶋神社 少彦名神を最初に祀った神社






  【神農】しんのう
   中国古伝説上の帝王。三皇の一人。姓は姜きょう。人身牛首、民に耕作を教えた。五行の火の徳を以て王となった
   ために炎帝という。百草をなめて医薬を作り、5弦の琴を作り、八卦を重ねて六十四爻こうを作る。神農氏。

  【神農祭しんのう-まつり
   漢方医が冬至の日に医薬の祖として神農氏を祀り祝うこと。
   大坂道修町では少彦名神社の祭りをいう。← 11月22・23日に行われます。

  神社の左側建物は、「くすりの道修町資料館」10:00~16:00、休 日・祝、入館無料があります。

  少彦名神社 くすりの道修町資料館 『道修町の歴史』 http://www.sinnosan.jp/dosyoumathi-rekishi.html
  田辺三菱製薬史料館 『道修町ミュージアムストリート』 https://www.mtpc-shiryokan.jp/map/
  大阪中心 The Heart of Osaka Japan- 大阪市 中央区 オフィシャルサイト 観光・イベント総合情報ポータルサイト 『道修町ミュージアムストリート』
   http://osaka-chushin.jp/news/31448

  日本の製薬会社の最大手の武田薬品工業に塩野義製薬、田辺三菱製薬など、大手&中堅の医薬品会社の多くは
  大阪が発祥です。現在でも道修町一帯に製薬会社のビルが残っていますが、東京に本社を移した会社も多くあります。


 1803 (享和3) 年刊の滝沢馬琴の京坂旅行記『羇旅漫録きりょまんろく』。京都24日間、大坂10日間、名古屋17日間滞在。
  巻之下「百四 大坂市中の總評

 大坂に賣藥店多し。首より上の妙藥。腰より下の妙藥なといふ 招牌を出しをく 見世いくらもあり…

  「招牌しょうはい=看板の事」「をく=置く」「見世=店」


  カレーの歴史雑学 日本初の国産カレー粉発売は1903年で道修町のハチ食品。 ちなみに東京のS&B食品は1950年の発売です。

 
 【民間療法・救民妙薬】
  テレビ東京 出没!アド街ック天国 『茨城県・水戸市』 19.02.23 放送
  小さな資料室 『資料496 『救民妙薬』序並びに目録』 http://www.geocities.jp/sybrma/496kyuuminmyouyaku.html
  水戸商工会議所 『光圀公 水戸藩 「救民妙薬」』 http://mito.inetcci.or.jp/110iitoko/mitohan/mitohan_de44d83d.html

  ≪ 救民妙薬きゅうみん-みょうやく   Wiki 人中黄  日本での食人の記録

  1693 (元禄6) 年に出版された『救民妙薬』は、水戸藩主の徳川光圀が侍医の穂積甫庵(鈴木宗與)に命じてまとめ
  させた家庭医学書。中国の『神農本草経』『本草綱目』などの影響も多く見られます。

常盤神社 義烈館

水戸家の史料

救民妙薬

救民妙薬の虫歯の対処


  江戸時代は大坂の道修町に薬種問屋が集まり、輸入した薬を扱う特権を得ていた事もあり、日本に流通する薬の大半
  を取り扱っていました。輸入薬は高価だった事もあり、特に上方や江戸と一部の都市を除くと、地方の農民が手に入れる
  のはほぼ無理な状況。

  その為、入手しやすい薬草などを用いた民間療法で、庶民でも病気や怪我を直す方法を『救民妙薬』という本にして
  まとめさせました。この書は水戸藩以外でも読まれるようになり、明治・大正には出版本となり全国的に利用されました。

  光圀が藩内を見回っていた時に、庶民が病気や怪我をしても薬を入手したり医者の治療を受けられないことを知り
  作られたものです。
  身近にある野山の草木などの薬草や動物など手に入りやすい物を利用して薬を作る民間薬処方397種の使用法と
  日常の健康法などをまとめたもので、藩内のみならず藩外の人々にも読まれて、明治・大正時代には活字本となって
  出版されました。

  蚕の糞、鼠の糞、黄牛の糞、猫の糞、馬糞、竹の虫糞、兎の糞、牛の糞、童子の大便 (人糞) なども薬として紹介されて
  いるようです。
  人糞や人肉を用いた民間療法 (迷信) も、中国からの書物『神農本草経』『本草綱目』などで伝わったものと考えられて
  います。

  【徳川光圀】とくがわ‐みつくに (1628~1700)頼房の3男。
   江戸前期の水戸藩主。字は子竜、号は梅里。彰考館を置いて「大日本史」の編纂に着手し、湊川に楠木正成の墓碑を
   建立。明の遺臣朱舜水を招く。権中納言となり水戸黄門と呼ばれた。晩年、西山荘に隠棲し、西山隠士と称す。義公。
   コトバンク 徳川光圀 https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80-19100


  ラウンジPure 『No.159 日本における人肉食』 http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/kaiki2/159jinnikusyoku.htm

  ≪ 江戸では人肝を干した薬が売られていた ≫

  人膽にんたんは精力を増すという古来の伝説を信じて、江戸時代には盛んに行われたのだが、今でも内々乾燥した
  やつを売買している者がある。その価格は一個何百円(現在では何十万円)というもので、昔首斬り役を務めた何某家
  には、まだゴロゴロ保存されているという。人膽とは肝のことで、すなわち肝臓のことを指す。乾した人膽とは、人間の
  肝臓を乾燥させたもののことである。

  江戸時代に首斬り役を務めた家とは、山田浅右衛門の家と推測される。山田浅右衛門は、処刑された罪人の死体で、
  新しい日本刀の試し斬りをするという仕事をしていた。
  山田は死体から肝臓を取り出し、軒先に吊るして乾燥させ、これを適度に分けて「人胆丸」という薬として販売していた。
  この薬は当時、正当な薬として認められており、山田家はこの商品の販売で巨大な富を築いていたという。

  明治40年(1907年)の、9月から10月にかけて、東京朝日新聞(現・朝日新聞)で、「諸国悪もの食ひ」という小さなコー
  ナーが30数回に渡って連載されていた時期があった。これは日本各地の変わった食べ物を紹介するコーナーで、虫など
  を食べるような、いわゆるゲテモノ食いの食文化を紹介するコーナーだった。その中において、人間の死体を食うという
  記事がいくつか載されたことがある。

  明治40年10月7日 「脳味噌の黒焼き」<東京・日暮里>  明治40年10月9日「火葬場の焼餅やきもち」<東京>
  明治40年10月14日「乾した人膽にんたん」<東京>  明治40年10月15日「死人の脂あぶら」<周防 = 山口県>

  これらも、梅毒や難病に効くという迷信から発した事件です。

  【山田朝右衛門・山田浅右衛門】やまだ‐あさえもん
   江戸中期以降、代々、将軍の刀のためし斬りを本職とし、また死罪執行のとき斬首役をも引き受けた浪人。
   世に首斬朝右衛門と称。初代は1700年頃の人。

  Wiki 山田浅右衛門 より抜粋
  将軍徳川吉宗の前で山田浅右衛門吉時が試し斬りをし、吉宗がその刀を手にとって確かめるということがあったという。
  これが前例となり、浪人である山田浅右衛門家が御様御用を務める慣習になってしまった。
  幕府瓦解後、8代山田浅右衛門吉豊とその弟山田吉亮は「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕し、引き続き処刑
  執行の役割を担った。
  1870年(明治3年)には弁官達により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止され、山田浅右衛門家の大きな
  収入源が無くなった。



  ≪ カエルや蛇が薬としても売られた ≫


 『守貞漫稿』上巻 第五編 生業下 「赤蛙賣」 薬として、柳虫は (金魚や小鳥の) 餌として売られた。

 あかがひる 柳蟲を賣る 小筥等に納れ風呂敷裏にて負來る 京坂の赤蛙は枯れたるを賣る 柳蟲は活るを賣る
  江戸は赤蛙 柳蟲 まむし等 皆活るを賣り 買人あれば忽ちに裂之 殺て賣る
  京坂はまむしを賣ず 此賈 京坂は特に稀也 江戸にても多からず 又 皆 薬餌に食す也

  「枯れたる=干物」「柳蟲=柳虫 (ボクトウガ科の蛾の幼虫、現在は釣り餌)」「忽ち=たちまち」「まむし=へび」

  【赤蛙】あか‐がえる
   ① カエルのうち、背が赤褐色で中形の一群の総称。ニホンアカガエル・ヤマアカガエルなど。平地や山間の湿地にすみ、
    背は暗褐色の斑点があるが、種や生息地によって色を異にする。かんの薬とされる。山蛙。
   ② アカガエル科の両生類の総称。世界に広く分布、種類も多い。多くは水辺にすむが、樹上または地上にも見出される。
    害虫駆除に重要。また、食用ともなる。のほか、トノサマガエル・ツチガエル・ウシガエルなど。

  【疳】かん
   ① 漢方で、小児の神経症の一種。夜間、発作的に泣きだしたり(夜泣)、恐怖の夢を見たり、ひきつけたりするもの。
   疳の虫。
   ② 小児が胃腸を害して体が痩やせ腹がふくれる病気。 ③ 皮膚または粘膜上の小さな腫物。

 『守貞漫稿』上巻 第五編 生業下 「螽蒲燒賣」 螽=蝗=イナゴ(バッタ)

  いなごを串にさし 醬をつけて やきて賣之 春の物也 又 童子の賣多し 提手桶に納れ携ふ 提桶は江戸にて
  岡持と云

  イナゴの蒲焼きは、駄菓子感覚で食べられていたようです。



  ㈱ 大陸書房 「お金」 おもしろ雑学 中江克己 著 1992年5月 初版発行
  NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『ヒット作の生み出し方 「蔦屋重三郎」』 14.05.27 放送

  ≪ 金粉を薬として飲んでいた ≫

  『南総里見八犬伝』で知られる滝沢馬琴。若い頃、山本宗洪という医者の弟子となって
  医者を目指した事もあったそうです。
  作家活動は30才を過ぎてからで、日本初の専業作家とも言われます。 滝沢馬琴

  『馬琴日記』に、「奇応丸箔、之を掛る。箔十枚分也。ひる後かけ終る」という一説
  があります。当時の丸薬には金箔や銀箔をかける事があり、湿気を防ぐのと、見かけを
  良くする効果がありました。

  『金は温まる』という考え方があり、風邪をひいた時には小判を削って金粉にして飲む
  ことは珍しくなかったようです。


  【曲亭馬琴】きょくてい‐ばきん (江戸深川の生れ、1767~1848)本名、滝沢興邦、のち解とく
   別号は蓑笠さりつ漁隠・著作堂主人など。
   江戸後期の戯作者。山東京伝に師事し、1791年(寛政3)黄表紙「尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん」を発表。
   以後、勧善懲悪を標榜、雅俗折衷の文をもって合巻ごうかん・読本よみほん を続々発表。
   代表作「椿説ちんせつ弓張月」「俊寛僧都島物語」「南総里見八犬伝」「近世説美少年録」など。


  ≪ 汚れた小判はクリーニングされた ≫  ㈱ 大陸書房 「お金」 おもしろ雑学 中江克己 著 1992年5月 初版発行

  色あせた布を染め直す色揚げは知られていますが、江戸時代の人々は汚れた大判や小判もピカピカに磨く事を好みました。
  大判・小判の金貨を造っている金座では、色揚げ師が最終工程で金貨を仕上げます。

  金座に汚れた小判を持って行くと、色揚げ師が、洗浄・縄タワシで磨き・梅酢をかけ炭火で焼き直し・洗浄・乾燥して
  新品のようにピカピカにしてくれたそうです。

  ※ 当時アジアでは銀本位制、欧米でも江戸時代後期~末期頃に金本位制に移行しつつあり、明治時代に日本も金本位制に移行。
 
 【ミイラを輸入し薬に】
  木乃伊薬 - 残虐の日本史 - 七花舎  http://shichikasha.info/stories/1/chapters/18
  本当に、ミイラは万能薬だったのか - サマンサ日記 http://www.i-apple.jp/samantha/2010/10/post_2282.html

  ≪ 江戸時代 木乃伊 (mirra ポルトガル語) を輸入し、薬として飲んでいた ≫ 色んな説があるようです。

  ミイラが薬として重宝がられることになるのは、12世紀の中東にルーツがあり、中世の
  ヨーロッパでも貴重な薬とされていたそうです。

  日本ではエジプトのミイラを輸入し、粉末にして薬として飲んでいた。  
  オランダ船から60体のミイラを持ちこんで売られた記録があるそうです。
  エジプトやミャンマーで人工的に作られたミイラは防腐材を塗られており、その主成分に
  蜜蜂のプロポリスが使われており、滋養強壮や胃腸薬として効くとされ、実際効果もあった。
  と言われています。


  日本では、安土・桃山時代の文禄年間(1573-1596)に輸入されましたが、当時は高価だったため、ほとんど
  売れなかったようです。

  江戸時代、延宝 (1673-1681)、天和年間(1681-1684)頃
  赤坂の生薬屋「大坂屋」から、「赤坂蜜人」(あかさかみつじん。蜜人はミイラの意)なるミイラ薬も販売された。
  この薬は廉価だったのでよく売れ、大坂屋は財を得たが、そのミイラ薬は実は松ヤニだったというのが通説。


  ≪ イッカクやサイの角なども薬の原料 ≫  テレビ東京 何でも鑑定団 13.10.06 再放送

  1671年にオランダが伝説の創造の動物ユニコーンの角を徳川家光に献上したようです。
  貝原益軒著『大和本草』には「ウニコウル」の効能として解毒・解熱・火傷・麻疹などに効くなどと書かれてあります。
  鮫の皮で擦り砕いて1回に1分 (約0.4g) ほど水で飲用。妊婦には用いてはならない。






  江戸時代末期~幕末1804~1861年の間にウニコウルを約1.7トン輸入した記録が残っているようです。
  実際のところ「ウニコウル」はユニコーンの角ではなく、イッカクの牙やサイの角でした。
  江戸時代の価格では同じ重さなら金の10倍もしたそうです。
  鑑定団によるイッカクの牙丸ごと1本の価格鑑定評価は350万円。
 
 【各地の薬】
  テレビ東京 昭和・平成ヒット商品5 『家庭の医学の変遷をミレバ 乗り越えてきたピンチの歴史がワカル』 15.11.29 放送

  ≪ 富山の薬売 ≫

  Wiki 富山の売薬
  富山で薬種商が始まったのは16世紀中頃、越中に薬種商の唐人の座ができたことである。17世紀初期から中頃にかけて
  丸剤や散剤を製薬する専業店が現れる。開業当時は薬種販売のみを行い、それから製薬業に移ったと思われる。
  1639年に加賀藩から分藩した富山藩は多くの家臣や参勤交代、江戸幕府から命じられた委託事業(手伝普請など)、生産性の
  低い領地といった要因で財政難に苦しめられていた。そこで富山藩は本家の加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために
  産業を奨励した。その一つに製薬(売薬商法)があった。
  17世紀終期、富山藩第2代藩主・前田正甫が薬に興味を抱いて合薬の研究をし、富山では最も有名な合薬富山反魂丹(はん
  ごんたん)が開発された。これが富山売薬の創業とされることが多いが、実際はこの頃、既に反魂丹は存在しており、生産の
  中心地は和泉国(現在の大阪府)であった。
  1690年に江戸城で腹痛になった三春藩主の秋田輝季に正甫が反魂丹を服用させたところ腹痛が驚異的に回復した、とされる
  「江戸城腹痛事件」という巷談がある。このことに驚いた諸国の大名が富山売薬の行商を懇請したことで富山の売薬は有名
  になった、とするが、この腹痛事件に史料的な裏付けは無い。ともあれ正甫は領地から出て全国どこでも商売ができる「他領
  商売勝手」を発布した。さらに富山城下の製薬店や薬種業者の自主的な商売を保護し、産業奨励の一環として売薬を奨励した。
  このことが越中売薬発生の大きな契機となった。

  1960年には薬事法が改正され、医薬品配置販売業が法文化されて事業所や家庭に置き薬制度が普及しました。
  この1960年代 (昭和30年後半~40年前半)、東京では薬局店が急増し、安売り合戦も始まったようです。






  【置き薬】おき‐ぐすり
   家庭に常備しておく薬。特に、あらかじめ所定の薬を家庭に置き、巡回する販売員が使った分だけ代金と引き換えに補充する
   しくみの家庭薬。富山の薬売りによるものが有名。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「伊勢・夫婦岩への道⑤」』 11.10.06 放送
  テレビ東京 137億年の物語 『日本最初の観光、お伊勢参りとは何か?』 13.12.28 放送

  ≪ 三重県伊勢の「金粒丸」 ≫

  江戸時代に創業した「太好庵」が明治まで、伊勢参りの高価な土産物として販売していた薬。
  原材料は漢方薬で様々な効能が書かれてありますが、主に滋養強壮の効能があったようです。






  2011年現在、村林未知生さん(79)で18代目だそうですが、当時の資料などが色々と保存されています。

  ≪ 三重県伊勢の「満金丹」 ≫






  伊勢での最大の楽しみはお土産でした。江戸時代に爆発的に売れたお土産が水あたり、食あたりに効くとされる
  『満金丹まんきんたん』という薬。仁丹のような清涼感がある香だそうで、現在でも参道のおはらい町で売られています。
 
 【華岡青洲 世界初の全身麻酔手術を成功】
  TBS 世界が絶賛 ! 泣ける日本人 『本当にいた! JIN - 仁 華岡青洲』 12.12.23 放送

  「青洲がいなければ、医学は50年遅れていたであろう
  そう世界から称賛される江戸中期の医師 華岡青洲は、米国シカゴにある人類への
  貢献度が高かった人を称える資料館 国際外科学会「栄誉館」に、その功績が展示
  されています。

  【華岡青洲】はなおか‐せいしゅう 名は震。(紀伊の人、1760~1835) Wiki 華岡青洲
   江戸後期の外科医。古医方を学び、後に漢・蘭医方を折衷し、外科学の改善に
   功があった。麻酔剤を案出し、世界初の全身麻酔下での乳癌摘出手術に成功。







  南朝方の和田正之(楠木氏の一族)が後醍醐天皇の崩御後に河内国石川郡中野村華岡(現・大阪府富田林市)に
  住居を構え、「華岡」に改姓したことが華岡家の始まりとされる。

  1782~1785年の間 京都などで医術を学んだ青洲は、故郷の和歌山県 紀の川市で医者をし、猫を実験台にて
  麻酔薬の研究をしていました。
  1785(天明5)年、姉?妹?の於勝おかつ が乳ガンで亡くなります。当時、乳房は女性の急所、乳房を切り取る事も
  出来ず、乳ガンは不治の病でした。
  麻酔薬が完成していれば、手術をし妹を助ける事ができたかも知れない。青洲は寝る間も惜しむように研究に没頭。

  そんなある日、猫での実験が成功。数日後、母の於纏おつぎ妻の加恵の二人ともが自分の体を使った人体実験を
  自ら申し出ます。
  母親の体を使って隠密裏に最初の人体実験が行われましたが、まだ人体に麻酔薬を使用するには危険が大きかった
  ため、極少量のマンダラケを加えただけの、効き目が強い睡眠薬程度の薬でした。

  【曼陀羅華】マンダラゲ
   熱帯アジア原産、ナス科の一年草の朝鮮あさがお。特に種子に猛毒があり、スコポラミン・アトロピンなどの原料と
   なる。

  【烏頭】ウズ
   ヤマトリカブトの根茎。烏からすの頭に形が似るのでこの名がある。小さいものを附子ぶしという。中枢神経毒のアコ
   ニチンを含む。






  研究を重ねたものの、危険を承知の上で、妻 加恵を被験者として初めて麻酔薬の本格的な人体実験が行われました。
  どちらも配合や量を間違えると命に関わる毒草、マンダラケ8 : ウズ2 の割合だったそうです。
  麻酔薬を飲んだ加恵はしばらく苦しみ、その後3日間こん睡状態が続きました。
  麻酔薬の効果はありましたが、完成とは言えない結果でした。

  更に改良を加え「痛仙散つうせんさん」と名付けた麻酔薬で、加恵を使った2度目の実験が行われました。
  青洲が予想した通り、薬を飲んで2時間ほどで麻酔にかかり5~6時間の間その状態が続き加恵は目を覚ましました。
  今回の実験は成功でした。しかし、最初の実験で加恵は視力に異変が起きていた為 (青洲には黙っていました) 、
  目が見えなくなってしまいました。

  2年後の1804年、実験から体調を崩していた母 於纏が亡くなりました。
  その数日後、青洲の噂を聞いてきたという男が訪ねてきました。
  男の母親は乳ガンで多くの医者に見せたが、「乳は女のおなごの命、刃やいばは入れられん」と言われ、治療もされず
  薬さえ貰えない状態。「どうせ死ぬのなら名医の手にかかって死にたい」との母親の言葉で手術を頼みに来たのでした。

  1804 (文化元) 年10月13日、痛仙散を使用した全身麻酔の乳ガン摘出手術が初めて行われ、手術は成功。

   ※ Wiki 華岡青洲の妻 によると、
   実際には、親族が自ら次々と実験体に名乗り出ており、実母や妻に限った話ではない。
   あくまで本作は小説であり、実母と妻の役割と美談を強調した創作である。とあります。






  この全身麻酔手術の成功はまたたく間に日本全国知れ渡り、青洲の診療所 春林軒は患者で溢れ、入門者が毎日の
  ように訪れたそうです。
  1835年、76歳で亡くなった青洲は「ただ思う事は 今まで治せなかった病気を 治すことだけである」との言葉を残して
  います。

  華岡家の9代目にあたる五十嵐由香里さんは、北海道札幌市のいとう整形外科美容院で
  麻酔科医長をされているそうです。
  青洲を意識して麻酔科の医師になったわけではなく、偶然だそうです。

  ※ この番組で気になる点。

  他にも「泣ける日本人」を数人取り上げて出身地を大きく字幕で書いていましたが、
  VTR時間が最も長い華岡青洲に限り「紀州」はあるものの、
  「・・・二人の魂は身を寄り添うように郷里に眠っている」で〆られており「和歌山」という
  言葉は全く無し。「和歌山」の文字が出てくるのも小さい文字(上の画像)だけ。
  関西に対する偏向報道的な意図が感じられます。まあ、東京メディアによくある事なので…。

  右の画像を見て下さい。「加恵 68歳で永眠 (1869年)」の字幕スーパーがあります。
  字幕通りだとすると、加恵さんが生まれたのは1801年という事になり、年代の辻褄が
  合いません。はて?

 
 【緒方洪庵 天然痘の蔓延を予防した日本の『近代医学の租』】
  読売テレビ ten. 『大阪の近代化に貢献した 中之島界隈 「偉人たちの銅像」を調査』 16.02.11 放送
  読売テレビ ten. 『日本の知性を支えた一大拠点 大阪北浜「適塾」を調査』 18.07.25 放送

  岡山の備中の武家に生まれた緒方洪庵が江戸・長崎で学び、江戸時代末期の1838 (天保9) 年に大坂で開いた
  蘭学塾が適塾。元は瓦町に在りましたが手狭になった為、過書町 (現在の大阪市中央区北浜) に移転。
  適塾は「適々斎塾」=「自分の心にあてはるところを楽しむ」という洪庵の考え方を表した塾名だそうです。






  【緒方洪庵】 おがた‐こうあん (備中の人、1810~1863)
   江戸後期の蘭医。名は章。適々斎と号。
   江戸に出て、坪井信道・宇田川榛斎に蘭学を学び、さらに長崎に遊学、大坂に医業を開き、緒方塾を設けた
   種痘を施行。のち幕府に招かれ、奥医師兼西洋医学所頭取・法眼。門下に大村益次郎・橋本左内・大鳥圭介・
   福沢諭吉らを輩出。著訳書「病学通論」「扶氏経験遺訓」など。

  【緒方塾】おがた-じゅく
   緒方洪庵が1838年 (天保9) から62年 (文久2) まで、初め大坂瓦町に、のち過書町 (現、中央区北浜) に開いた
   蘭学塾。福沢諭吉・大村益次郎らを輩出、洋学教育に巨大な足跡を印した。

  大阪市中央区にある緒方ビルが、洪庵が英国で開発された種痘を用いて天然痘の蔓延を防ぐ除痘館の跡地。
  適塾と共に洪庵の史料などが残っています。「病学通論」は日本語で書かれた最初の病理学の総論書。
  適塾は洪庵の自宅も兼ねていたので、妻の八重は13人の子供を育てながら寮母として洪庵や塾生を支えました。

  日本の近代化を牽引した逸材を多く輩出した蘭学の適塾

  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件






  さて、東京メディアである日テレの検証は本当なのか? ねつ造偏向報道ではないのか? 
  ブログでは、関西人と関東人で全く違う見解をしています。それぞれ主張が違うので反対意見を持つ人がみた場合は納得いかない程度の
  根拠しか載せてないないサイトがほとんどです。 という事で、色々と調べてみました。 ある1つのデータを見れば答えは出るんですけどね。

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よーいドン !
関西TV
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