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日本神話による農耕の始まり 古事記、日本書紀 より |
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日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著
NHK Eテレ 100分de名著 『古事記』 全4回、(解説 三浦佑之 立正大学教授) 13.09.04、09.11 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ニッポン城下町めぐり⑧ 三重松坂』 14.01.23 放送
≪ 記紀神話の神々の系図① ≫
天之御中主神 あめのみなかぬしのかみ → 高御産巣日神 たかみむすびのかみ → 神産巣日神 かみむすびのかみ →
(8代略) →伊邪那岐命 ・ 伊邪那美命 → 天照大神 → 天之忍穂耳命 あめのおしほみみのみこと →
邇邇芸命 ににぎのみこと (天孫降臨 伝説)
【天之御中主神】 高天原の主宰神で、最初の神。
古事記で、天地開闢かいびゃく(世界の初め)に出現したとされる別天神こと‐あまつかみ。
別天神は、天之御中主神 ・ 高御産巣日神 ・ 神産巣日神 ・ 宇摩志阿斯訶備比古遅神
うましあしかびひこじのかみ・天之常立神あまのとこたちのかみの称。
日本書紀には一行しか記されていないそうです。
【高皇産霊神・高御産巣日神・高御産日神・高御魂神】別名、高木神たかぎのかみ 。
古事記で、天地開闢の時、高天原に出現したという神。天御中主神 ・ 神皇産霊神と共に
造化三神の一神。天孫降臨の神勅を下す。鎮魂神として神祇官八神の一神。
【神産巣日神・神皇産霊神】
記紀神話で天地開闢の際、天御中主神・高皇産霊神たと共に高天原に出現したと伝える神。
造化三神の一神。女神ともいう。
【伊弉諾尊・伊邪那岐命】いざなぎ‐の‐みこと(古くはイザナキノミコト)
日本神話で、天つ神の命を受け伊弉冉尊と共に日本の国土や多くの神を生み、山海・
草木をつかさどった。
【伊弉冉尊・伊邪那美命】いざなみ‐の‐みこと
伊弉諾尊の配偶女神。火の神を生んだために死に、夫神と別れて黄泉国よみのくにに
住むようになる。
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【淡島】あわしま 雛祭りの起源 女性のための古社 和歌山市 淡嶋神社
① 日本神話で伊弉諾尊いざなぎのみこと・伊弉冉尊いざなみのみことが生んだという島。(← 淡路島の事だと言われています)
② 日本神話で少彦名神がそこから常世に渡ったという島。
③ 和歌山市にある淡島神社。祭神は少彦名神。各地に分祀。婦人病に霊験があるとされる。また神の名を針才
天女とも伝え針供養が行われる。加太かだ神社。淡島 (粟島) 明神。あわしまがみ。
④ ③のお札や神像を入れた厨子を負って、その由来を語りながら門付けをした遊行者。淡島願人。淡島殿。
【古事記】 こじき。ふることぶみ。 現存する日本最古の歴史書。3巻。
稗田阿礼ひえだのあれが天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶おおのやすまろが
元明天皇の勅により撰録して、712年(和銅5)献上。
上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみことまで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、
下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、
天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。
古事記は、江戸時代に本居宣長が訳すまで、ほとんど読まれていなかったそうです。
【天地開闢】てんち‐かいびゃく
(天地はもと混沌として一つであったのが分離したものとする中国古代の思想から)世界の初め。
【稗田阿礼】ひえだ‐の‐あれ
天武天皇の舎人とねり(下級官人) 。記憶力がすぐれていたため、天皇から 帝紀(天皇の系譜の記録) ・
旧辞(神話・伝承の記録または口誦されたもの) の誦習しょうしゅう(よみ習うこと) を命ぜられた。
【太安万侶】おお‐の‐やすまろ( ~723)
奈良時代の官人。民部卿。勅により、稗田阿礼の誦習した帝紀・旧辞を筆録して
「古事記」3巻を撰進。1979年、奈良市の東郊から遺骨が墓誌銘と共に出土。
【本居宣長】もとおり‐のりなが (伊勢 松坂の人、1730~1801)
江戸中期の国学者。京に上って医学修業のかたわら源氏物語などを研究。
賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。
古事記伝は、古事記の注釈書。44巻。1767年(明和4)頃起稿、1798年(寛政10)完成。
1822年(文政5)刊行終了。
国学の根底を確立した労作で、今日でも古代史・古代研究の典拠。
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本居宣長
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≪ 五穀と農耕を示した神話① ≫
古事記 では
高天原たかまがはら (天照大神が支配していた天上の神の国) を追われた須佐之男は地上に下りる途中に腹が減り、
食物を司る神の大宜都比売神おおげつひめ-の-かみの住まいを訪れた。
奥の部屋に入った大宜都比売は、様々な御馳走で須佐之男をもてなした。
「しかし、何故、こんなにご馳走が用意できるのだろう ?」と、奥の部屋を覗くと、大宜都比売が鼻や口、尻など
から食物を出していたのだった。
須佐之男 (伊弉諾尊の子。天照大神の弟で、海原の国を統治) は不浄な物を食べさせられたと怒り、大宜都比売を
切り殺してしまった。すると、大宜都比売の死体の 頭から蚕かいこ、 両目から稲、 耳から粟あわ、 鼻から小豆、
陰部から麦 が生えてきた。 神産巣日神かみむすびのかみが、これを取って種子とした。
【大宜都比売神】おおげつひめ-の-かみ 大宜津、大気都、大気津 などとも書く。五穀、食物の主宰神。
イザナギ、イザナミの子。「宜け」 ・・・「御膳みけ」の「け」で「うけ」ともいい、食物の総称の意味。
古事記では、粟の国 (阿波) ・・・ 徳島県を大宜都比売ともいう。
日本書紀では保食神うけもち-の-かみとされ、五穀の神とされる。
日本書紀 では
天照大神に命じられて、月読尊つきよみ‐の‐みこと (伊弉諾尊の子。天照大神の弟で、夜の国を統治)が葦原の中つ国
あしはら-の-なかつ-くに=日本に、保食神の様子を見にいくと、口から色々な食物を吐き出したので、「けがらわしい」と
怒って保食神を殺してしまう。
日本書紀では、天照が、月読の行為を怒って仲違し、昼と夜を分け持ち、別々に住むようになった。とされる。
その後、天熊大人あめのくまうしという者を遣わして様子を見させると、保食神の死体から、粟・稗ひえ・稲・麦・大豆・小豆・
牛・馬・蚕が化生していた。天熊大人が、これらを献上すると、天照大神は大いに喜ばれて、穀物の種子とされた。
※ 「死」は「新たな物を産む為」の元になる事を表したもの。
「死」…自然採取で生活していた縄文生活が終焉。 「種を得る」…農耕生活の弥生時代が始まる事を示した
神話だそうです。また、神の死体から穀物が化生する神話は諸外国にも見られるらしいです。
【日本書紀】にほん‐しょき 日本紀。
奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。
神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い
漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人とねり 親王らの撰。
【六国史】りっ‐こくし
奈良・平安時代の朝廷で編集された六つの国史。
日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録(文徳実録)・
日本三代実録(三代実録)の総称。
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日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著
山陰放送 開局60周年記念特別番組 『古代ロマン 歴史の源流 出雲 目には見えない宝もの』 13.08.31 放送
NHK Eテレ 100分de名著 『古事記』 全4回、(解説 三浦佑之 立正大学教授) 13.09.04、09.11、09.18、09.25 放送
≪ 五穀と農耕を示した神話② ≫
2013年は日本で最重要な二大神社、伊勢神宮 (天照大神) が20年ぶり、出雲大社 (大国主命) が60年ぶりの遷宮が
重なる年です。
【遷宮】せん‐ぐう
神社の本殿の造営修理に際し、神体をうつすこと。本殿から権殿かりどのにうつすのを仮殿遷宮(あるいは仮遷宮)、
権殿から本殿にうつすのを正しょう遷宮という。遷座。みやうつし。
【出雲大社】
島根県出雲市大社町杵築きづき東にある元官幣大社。出雲国一の宮。いずものおおやしろ。杵築大社。
祭神は大国主命。天之御中主神あまのみなかぬしのかみ・高皇産霊神たかみむすびのかみ・神皇産霊神かみむすびのかみ・
宇麻志阿志軻備比古遅命うましあしかびひこじのみこと・天之常立神あまのとこたちのかみを配祀。
社殿は大社造たいしゃづくりと称し、日本最古の神社建築の様式。
葦原の中津国の出雲 (島根県の東部) に降り立った須佐之男は、簸川 (肥ひの川) の川上に住む老夫婦 (足名椎・
手名椎) と若い娘が泣いているのに出くわした。大きな大蛇が暴れ村人は苦労していた。
その老夫婦には八人の娘がいたが、ヤマタノオロチに喰われてしまい、最後に残った末娘 (クシナダヒメ) も狙われて
いると言う。
大蛇オロチは、八つの頭に八つの尾を持ち、体には苔やヒノキ、杉が生え、谷を八つ、尾根を八つも渡るほどの巨大な
長さをしている怪物。
オロチを退治したら、娘を嫁にくれるという約束をして、須佐之男は老夫婦に強い酒を用意するように命じる。
八つの大きな樽に、それぞれ八つの頭を突っ込み酒を飲みほしたオロチは酔って眠ってしまった。
そのチャンスに、須佐之男は次々とオロチの首を切っていき、見事に退治した。
【素戔嗚尊・須佐之男命】すさのお‐の‐みこと
日本神話で、伊弉諾尊いざなぎのみこと の子。天照大神の弟。
凶暴で、天の岩屋戸の事件を起こした結果、高天原たかまのはらから追放され、出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣
あまのむらくものつるぎ(草薙の剣)を得、天照大神に献じた。
また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。
約束どおりクシナダヒメを娶り家を建てた。(その場所が須佐神社) 家を建てている際に空には八重の雲がわき立ち、
須佐之男は成婚歌を詠む。『八雲やくも立つ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを』
「八雲たつ」・・・出雲の枕言葉になった。「八重垣やえがき」幾重にも作った垣 (囲い)。
【夫籠み・妻籠み】つま‐ごみ ・・・ 夫婦が一緒に住むこと。また、妻をこもらせること。
以上は稲作の始まりを意味する神話とされます。
ヤマタノオロチ・・・大きな暴れ川を象徴し、退治する事は治水の意味。
クシナダヒメ・・・田んぼ。
スサノオは大宜都比売から作物の種を得ている。
【奇稲田姫・櫛名田姫】くしなだ‐ひめ(クシイナダヒメとも) 稲田姫。(← 田んぼの神様)
出雲国の足名椎・手名椎の女むすめ。素戔嗚尊すさのおのみことの妃となる。
【足名椎・脚摩乳】あしなずち
記紀神話で出雲の国つ神大山祇神おおやまつみのかみの子。
簸川ひのかわの川上に住んだ。妻は手名椎てなずち。娘 奇稲田媛は素戔嗚尊と結婚。
【八岐大蛇】やまた‐の‐おろち 八俣大蛇。
記紀神話で、出雲の簸川にいたという大蛇。頭尾はおのおの八つに分かれる。
素戔嗚尊がこれを退治して奇稲田姫を救い、その尾を割いて天叢雲剣を得たと
伝える。島根県の東部を流れる斐伊川をそれに擬する。
【斐伊川】ひい-かわ
鳥取・島根県境の船通山(標高1142メートル)中に発源し、宍道しんじ湖西端に注ぐ川。
下流部は天井川。八岐大蛇やまたのおろち伝説で知られる。長さ75キロメートル。
「下戸」は水田耕作地帯に多い病原体に対抗ために進化した結果か!? 理化学研究所が発表
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【大国主命】おおくにぬし‐の‐みこと
日本神話で、出雲国の主神。素戔嗚尊すさのおのみこと の子とも6世の孫ともいう。
少彦名神すくなびこなのかみと協力して天下を経営し、禁厭まじない・医薬などの道を教え、国土を天孫 瓊瓊杵尊に譲って
杵築きずきの地に隠退。今、出雲大社に祀る。
大黒天と習合して民間信仰に浸透。大己貴神おおなむちのかみ・国魂神・葦原醜男・八千矛神などの別名が伝えられるが、
これらの名の地方神を古事記が「大国主神」として統合したもの。日本書紀には大物主神と同一と見なす記述もある。
関東の鷲おおとり神社と、堺市の大鳥神社の関係。 (日本各地に残る民間伝承の稲作の起源伝説との関係)ヤマトタケル白鳥伝説
日本の稲作が実際に渡来した経緯は、諸説が語られており はっきりしないそうですが、米のDNA解析によると、
南方アジア原産ではないか。と言われているようです。
日本最古の神社 美輪山 大神神社 と 纏わる神話 大神神社は「酒の神」としても祀られています。祭神は神武天皇の妃の父親 大物主神。
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神話時代の食事の量は決められていた? |
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【雑学】古代の日本の謎と不思議 ㈱日東書院 1991年7月10日発行 佐治芳彦 著
日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著
朝日放送 朝だ !生です旅サラダ 『西岡徳馬 宮崎県 高千穂・飫肥の旅』 13.10.19 放送 などより
古代(神話時代)には、天ノ益人法により、食事の量とHの回数が決められいてた?
古事記や日本書紀に登場するニニギノミコトの時に定められたとされる天ノ益人法を
実践する事は人間にとって天津御業 アマツ ミワザ とされていた。
区 別 |
年 齢 |
主食(玄米) |
Hの回数 |
ワラワ (童) |
7才まで |
5勺-1合 |
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ウナビ (幼年) |
8~13才 |
2合 |
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イカシ (少年) |
14~20才 |
3合 |
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なすべからず |
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ハヤリ (青年) |
21~30才 |
4合 |
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1日おき |
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マスラ (壮年) |
31~50才 |
5合 |
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2日おき |
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ス ゲ (初老) |
51~70才 |
4合 |
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5日おき |
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マスゲ (中老) |
71~90才 |
3合 |
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7日おき |
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チ ヌ (大老) |
91~110才 |
3合 |
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9日おき |
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マチヌ (白老) |
111~150才 |
3合 |
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心のまま |
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サ キ (寿老) |
151才以上 |
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※1合=180ml、女子は7割、
病弱者は8割を食す。と定められていた。
天ノ益人 アメノマスヒトとは
中央政府から派遣された代官。
天津御業 とは 神様的な奥儀、秘儀。
天津= 「天の」「天道=大自然の
御業= 「神様の行い」を敬った言い方
ニニギノミコト とは
古事記では
天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能 邇邇芸命
あめにぎしくににぎし あまつひこひこほの ににぎのみこと
日本書紀では
天津彦彦火 瓊瓊杵尊
あまつひこひこほの ににぎのみこと
などと書かれている天皇の祖先神
← 神話時代の人は、超長生きしていたのですね。
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魏志倭人伝
「其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少諍訟。
其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國、國有市、
交易有無、使大倭監之。」
そこの人々は長寿で、あるいは百年、あるいは八、九十年を生きる。そこの風俗では、国の高貴な者は皆、四、
五人の婦人、下戸(庶民)はあるいは二、三人の婦人を持つ。婦人は淫乱ではなく、嫉妬をしない。窃盗をせず、
訴訟は少ない。
そこでは法を犯せば、軽い罪は妻子の没収、重罪はその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は各々に差別や序列があり、
互いに臣服に足りている。租賦を収めている。邸閣(立派な高楼)の国があり、国には市があり、双方の有無とする
物を交易し、大倭にこれを監督させている。
【瓊瓊杵尊・邇邇芸命】ににぎ‐の‐みこと 天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎのみこと Wiki 天孫降臨
日本神話で天照大神の孫。天忍穂耳尊あまのおしほみみのみことの子。
天照大神の命によってこの国土を統治するために、高天原から日向国の高千穂峰に降り、大山祇神の女むすめの
木花之開耶姫このはなのさくやびめを娶めとり、火闌降命ほすそりのみこと ・火明尊ほあかりのみこと・
彦火火出見尊ひこほほでみのみことを生んだ。
火闌降命(火照命ほでりのみこと)… 海幸彦うみさちびこ。
彦火火出見尊(火遠理命ほおりのみこと)… 山幸彦やまさちびこ。海幸山幸神話で海宮に赴き海神の娘と結婚。
鵜葦草葺不合尊うがやふきあえず-の-みことが生まれ、その子の 神日本磐余彦天皇かんやまといわれびこ‐の‐すめらみことが
即位して神武天皇になる。
【天孫降臨】てんそん‐こうりん
記紀の神話で、瓊瓊杵尊が高御産巣日神(高皇産霊尊)たかみむすひのみこと・天照大神の
命を受けて高天原から日向国 (宮崎県)の高千穂に天降ったこと。
【天壌無窮の詔勅】てんじょうむきゅう‐の‐しょうちょく
(日本書紀神代紀一書による)天孫降臨の時、天照大神が皇孫、瓊瓊杵尊に賜った
という神勅。
邇邇芸命が吾田あたの笠紗かささの岬で、絶世の美女 木花之開耶姫(木花之佐久夜比売)
と出会いナンパし、姉が居る事も知り求婚。
大山祇神(大山津見神)は、喜び二人の娘を多くの献上品とともに邇邇芸命の元へと
送りだした。しかし、姉の尊磐姫(石長比売命)いわながひめは容姿が醜かったので親元に
送り返され、木花之開耶姫とだけ婚姻した。
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宮崎県 高千穂 高天原
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【高千穂峰】たかちほ‐の‐みね
宮崎県南部、鹿児島県境に近くそびえる火山。霧島火山群に属する。天孫降臨の伝説の地。標高1574メートル。
頂上に「天あまの逆鉾」がある。
【高千穂宮】たかちほ‐の‐みや
彦火火出見尊ひこほほでみのみことから神武天皇に至る3代の皇居。
宮崎県西臼杵郡高千穂町・同県西諸県にしもろかた郡の東霧島山などの諸説がある。
古事記によると、大山祇神は
『「娘二人を奉ったのは理由がある。石長比売を奉ったのは、二人の
間に生まれた御子は雨が降っても風が吹いても石のように永久に
生命があるようにと考え、また木花之佐久夜比売を奉ったのは、
木の花(桜と解釈される)の栄ゆるが如く御子も栄えるようにという
理由からである。
だが、今、石長比売を返され、木花之佐久夜比売 一人を止められた。
だから、天つ神の御子の寿命は木の花のように はかないものになる
であろう」と申された。
今でも天皇の御寿命が短いのはその為である・・・・・・・・。』
【海幸 山幸 神話】
日本神話の一つ。彦火火出見尊(山幸彦)が兄の火照命(海幸彦)と
猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求めるため
塩椎神しおつちのかみの教えにより海宮に赴き、海神 豊玉彦神の娘
豊玉毘売とよたま‐ひめと結婚。
釣針と潮盈珠しおみちのたま・潮乾珠しおひのたまを得て兄を降伏
させたという話。
天孫民族と九州南部の隼人はやと族との闘争の神話化とも見られる。
また仙郷滞留説話・神婚説話・浦島伝説の先駆をなすもの。
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天界の子孫が山の神の娘と結婚した事で、 山の神の力を得た子彦火火出見尊が生まれる。
次に彦火火出見尊が海の神の娘と結婚した事で海の神の力を得た子鵜葦草葺不合尊が生まれる。
天と、地上の山と海の両方の力を得た事により、万物の力を獲得した天皇が誕生する。というのが神話の流れです。
この話が浦島太郎伝説のルーツという説もあります。
【大山祇神社】おおやまつみ‐じんじゃ
愛媛県今治市大三島町宮浦にある元国幣大社。祭神は大山祇神。全国にある重要文化財の甲冑のうち約7割強を所蔵。
伊予国一の宮。大三島神社。三島大明神。
阿波と古事記 第一篇「はじめ国生み」(阿波古事記研究会) http://youtu.be/C8PzQFQX6Jc
古事記に記された日本が出来るまでの神話 http://youtu.be/9sNf1ZPtPv4 / 神武天皇のお話1 http://youtu.be/aQ1YjnNODYo
日本テレビ 月曜から夜ふかし 90分SP土曜版 『山梨県 VS 静岡県 富士山の表はどっちだ対決』 13.01.05 放送
フジTV ほこ×たて 『富士山 絶景対決 静岡県 VS 山梨県』 13.06.23 放送 / 毎日放送 知っとこ! 13.06.29 放送
NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『春はすぐそこ!世界遺産SP~秘められた日本人のドラマ』 14.03.12 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅 お正月傑作選』 16.01.14 放送
≪ 富士山が世界遺産に登録 2013年6月22日 ≫
木花之開耶姫(木花之佐久夜比売)は、後世、富士山の神と見なされ、浅間大社(静岡県富士宮市宮町にある
元官幣大社)に祀られる。
同名の神社が各地にあり、山梨県笛吹市一宮町(甲斐国一の宮)、静岡市宮ケ崎町のものが有名。
699年、韓国連広足からくにのむらじひろたりに陥れとれて伊豆に流された役行者が富士山を開山したと言われています。
平安時代には多くの修験者が登山しました。
紀元前27年創建とされる浅間大社には、戦国時代に武田信玄が奉納したと言われる信玄桜があります。
徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利したお礼として浅間大社に30余棟の社殿を造営したそうです。
女人禁制の霊山だったので、江戸時代に女性が登れたのは二合目まで。代わりに富士山の名所が再現されたミニチュア版の
富士塚というのが関東中心に200ほど造られました。
江戸時代末期1832(天保3)年9月27日(旧暦)、たつ という女性が男装をして小谷三志らの力を借りて女性初の登頂に成功。
【富士山】(不二山・不尽山とも書く) 芙蓉峰ふようほう 。富士。
静岡・山梨両県の境にそびえる日本第一の高山。
富士火山帯にある典型的な円錐状成層火山で、美しい裾野を引き、頂上には深さ220メートルほどの火口があり、
火口壁上では剣ヶ峰が最も高く3776メートル。
史上たびたび噴火し、1707年(宝永4)爆裂して宝永山を南東中腹につくってから静止。箱根・伊豆を含んで
国立公園に指定。立山(富山県の南東部、北アルプスの北西端に連なる連峰) ・ 白山(石川・岐阜両県に
またがる成層火山)と共に日本三霊山の一つ。
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初期の歴代天皇 と 神宮の始まり |
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日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著
NHK Eテレ 100分de名著 『古事記』 全4回、(解説 三浦佑之 立正大学教授) 13.09.04、09.11 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった にっぽん城下町めぐり 福知山』 13.12.19 放送 など より
≪ 記紀神話の神々の系図② ≫ 歴代の天皇表 Wiki 神武東征
邇邇芸命 ににぎのみこと → 火遠理命 ほおりのみこと (山幸彦) → 鵜葦草葺不合尊 うがやふきあえず‐の‐みこと →
神武天皇 (初代天皇) → 綏靖すいぜい天皇(2代) → 安寧あんねい天皇(3代) → 懿徳いとく天皇(4代) →
孝昭こうしょう天皇(5代) → 孝安こうあん天皇(6代) → 孝霊こうれい天皇(7代) → 孝元こうげん天皇(8代) →
開化かいか天皇(9代) → 崇神すじん天皇(10代) → 垂仁すいにん天皇(11代) → 景行けいこう天皇(12代) →
成務せいむ天皇(13代) → 仲哀ちゅうあい天皇(14代) → 以上、記紀伝承上の天皇(広辞苑では)
応神おうじん天皇(15代) → 仁徳にんとく天皇(16代) → 履中りちゅう天皇(17代) → 反正はんぜい天皇(18代) →
允恭いんきょう天皇(19代) → 安康あんこう天皇(20代) → 雄略ゆうりゃく天皇(21代) →
(略)→ 今上きんじょう天皇(当代の天皇、125代)
【始馭天下之天皇・御肇国天皇】はつくにしらす‐すめらみこと
はじめて造った国を統治される天皇の意。すなわち神武天皇、また崇神天皇をいう。神武紀「始馭天下之天皇」。
崇神紀「御肇国天皇」
【倭の五王】
中国の文献『宋書倭国伝』に見える、5世紀に南朝の宋に朝貢した5人の倭国王。
讃(賛)・珍(弥)・済・興・武で、仁徳・反正・允恭・安康・雄略天皇に比定されるが、讃を応神または履中、
珍を仁徳にあてる説もある。
【火遠理命】・・・ (書紀の古訓ではホノヲリノミコト) → 彦火火出見尊ひこほほでみのみことの別名。
【応神天皇】おうじん 名は誉田別ほむたわけ。 仲哀天皇の第4皇子。
記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。
倭の五王のうち「讃」にあてる説がある。
【日本書紀】にほん‐しょき 日本紀。30巻。
六国史りっこくしの一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。
神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。
720年(養老4)舎人とねり 、親王らの撰。
≪ 神宮と斎宮の始まり ≫ 祭政分離 Wiki 神宮 / Wiki 大社 / Wiki 笠縫邑
日本書紀によると、
崇神天皇(10代)の御代に皇居と神居とが分けられ(祭政分離)、天照大神を大和の笠縫邑かさぬいのむら
(遺称地が奈良県磯城郡にある)に祀られた。
勅により、皇女 豊鍬入姫命とよすきいりひめ‐の‐みことが、天照大神に仕える斎宮になった。
疫病の流行による百姓の流離りゅうりや動揺の原因が、天照大御神と倭大国魂やまと-の-おおくに-たま
(土地の神様)を合祀していることにあるとして、磯堅城しかたきの神籬を立てて祀らせた。
これが斎宮の始まり。
【神籬】ひもろぎ
(古くは清音)往古、神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に常磐木ときわぎを植えめぐらし、
玉垣で囲んで神聖を保ったところ、後には、室内・庭上に常磐木を立て、これを神の宿る所として
神籬と呼んだ。
現在、普通の形式は、下に荒薦あらこもを敷き、八脚案やつあしのつくえを置き、さらに枠を組んで中央に榊さかき
の枝を立て、木綿ゆうと垂しでとを取り付ける。
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神籬
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【斎宮】さい‐ぐう 斎王。いつきのみや。
伊勢神宮に奉仕した皇女。天皇の名代として、天皇の即位ごとに未婚の内親王または女王から選ばれた。
記紀伝承では崇神天皇の時代に始まるとされ、後醍醐天皇の時代に廃絶。
【元伊勢 皇大こうたい神社】 Wiki 籠神社 (元伊勢籠神社)
垂仁天皇(11代天皇26年、紀元前3年? 前5年? 頃に)の皇女 倭姫命やまとひめ‐の‐みことが、豊鍬入姫命に
代わって斎宮となります。
紀元前59年創建と言われる籠この神社(皇大神社)に天照大神の祠ほこらを丹後(京都府福知山市大江町)に移し
祀ったことから、伊勢神宮のルーツと言われる神社。元伊勢大神宮とも呼ばれる。伊勢神宮の外宮もこの辺りに
あったという伝説がある。主祭神は、丹後・丹波を開拓した彦火明命ひこほあかり-の-みこと。
岩戸山は夏至の日に山頂に日が沈み、ピラミッドのようなきれいな山の形からパワースポットとされています。
4年ほど皇大神社で祀っていたが、倭姫命やまとひめ‐の‐みことは、安置できる場所を求めて大和・近江・美濃などを巡った。
伊勢の五十鈴川上に来た時、神託を受け、天照大神の祠ほこらを祀った場所が伊勢神宮。
倭姫命は、景行天皇(12代)の時、甥の日本武尊やまとたけるのみことの東国征討に際して草薙剣くさなぎのつるぎを授けたという。
Wiki 元伊勢 ← 倭姫命が廻った各地が載っています。
【日本武尊・倭建命】やまとたける‐の‐みこと 本名は小碓命おうすのみこと。別名、日本童男やまとおぐな。
古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、天皇の命を奉じて熊襲くまそを討ち、のち東国を鎮定。
往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水はしりみず の海では妃弟橘媛おとたちばなひめの犠牲によって
海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野のぼので没したという。
【籠神社】この‐じんじゃ
京都府宮津市大垣にある元国幣中社。祭神は天之水分神あまのみくまりのかみ・天火明命あまのほあかりのみことほか。
丹後国一の宮。宮司家の「海部氏系図」は国宝。こもり神社。
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神宮 伊勢にある内宮と外宮を中心とした125社の総称 (正称)。 |
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日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著
朝日放送 キャスト 『金トク お得な伊勢志摩の旅 「まわりゃんせ」で満喫』 13.09.06 放送
NHK Eテレ 100分de名著 『古事記』 全4回、(解説 三浦佑之 立正大学教授) 13.09.04、09.11 放送
テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『 20年に一度の大祭 伊勢神宮』 13.09.21 放送 / 朝日新聞 2013.09.23 朝刊
フジTV 金曜プレステージ 『池上彰の緊急スペシャル』 13.10.04 放送
テレビ東京 137億年の物語 『日本最初の観光、お伊勢参りとは何か?』 13.12.28 放送
【伊勢神宮】 正称、神宮。
三重県伊勢市にある皇室の宗廟。皇大神宮(内宮ないくう)と豊受大神宮(外宮げくう)を中心とした125社の総称。
(神宮といえば、本来は伊勢神宮の事をさします。)
20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造ゆいつしんめいづくりと称。
三社の一つ。二十二社の一つ。伊勢大廟。大神宮。式年とは決まった年の事。
【式年遷宮祭】しきねん‐せんぐう‐さい
式年遷宮では内宮、外宮、14の宮の社殿、橋や板垣、鳥居なども造り替える。神宝など1576点も新調して新正殿に
納めるそうです。正殿を造り替えるのは、常に瑞々しさを尊ぶ神道の「常若とこわか」という考えから。
持統天皇が在位した690年に始まったとされ、1300年以上の歴史。戦国時代には120年以上途絶え、世界大戦の
敗戦で4年延期があった。
第62回目の遷宮行事は2005年5月に用材のヒノキの切り出しの安全を祈る「山口祭」から始まり、2013年10月の
「遷御せんぎょの儀」まで。
内宮は10月2日の午後8時から始まり (昼すぎには一般の参拝は中止)、外宮は10月5日に行われます。
その他の宮60社も建て替えられるそうです。
遷宮費用は伊勢神宮の自己資金と全国からの寄付金で賄い、朝日新聞によると総額570億円、フジTV調べでは550億円。
【神宮祈年祭】じんぐう‐きねんさい
伊勢神宮で行われる祈年祭。古くは2月12日に行われたが、1877年(明治10)以後は2月17日を祭日とし、
午前に豊受大神宮(外宮)、午後に皇大神宮(内宮)で奉幣の儀が行われる。
慶光院清順 戦国時代、荒廃していた伊勢神宮を見かねて129年ぶりに式年遷宮を復活させた尼僧 伊勢神宮舞楽 「延喜舞」
≪ 内宮 ≫ 皇大神宮の祭神は天照大御神、天照皇大神宮。御霊代みたましろは八咫鏡やたのかがみ。
三重県伊勢市五十鈴川上にある神宮。古来、国家の大事には勅使を差遣、奉告のことが行われた。
【天照大神・天照大御神】あまてらす‐おおみかみ
伊弉諾尊いざなぎのみことの女むすめ。高天原たかまのはらの主神。皇室の祖神。大日貴おおひるめのむちとも号す。
日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。
伊弉諾尊が黄泉の国から逃げ帰った時、死の国の穢れを払う為、左目を洗われた
時に化生した神。右目は、月読神。
鼻を洗われて化生したのが建速須佐之男神で三貴神といわれる。
伊弉諾尊が三貴神の誕生を大いに喜ばれて、自らの首飾りの玉の緒をといて、
その珠(御倉板挙之神みくらたのかみ)を与えながら、天照大神には「汝なんじが命みこと
は高天原を知 (治) しらせ」と言われ次に「月読神には夜を、建速須佐之男神には
海原を知らせ。」と申しつけられた。
【皇大神、皇太神】こう‐たいじん、すめおおかみ。
最高の神の称。もっぱら天照皇大神に用い、熱田・賀茂その他の神にも稀に用いた。
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【皇大神】すべら‐おおんかみ … 天照大神をいう語。 / 【皇大神】すめ‐おおかみ … 皇室の祖先神の敬称。
≪ 外宮 ≫ 豊受大神宮の祭神は豊受御大神、豊受大神宮。豊受宮とゆけのみや・度会宮わたらいのみや
伊勢市山田原にある神宮。もと丹波国 真井原まないはらにあったのを、5世紀後半の第21代の天皇である雄略
ゆうりゃく天皇の代(478年)にこの地に遷したと伝える。(内宮のより482年後)
ある晩、天皇の枕元に天照大神が立たれ「自分一人では不便で食事も安らかにできないので、丹波国 比沼真奈井
にいる吾が御饌みけの神、等由気とゆけ大神を呼び寄せ給たまえ」と申されたので、天皇は驚き目覚め、丹波国から
伊勢の度会わたらい (三重県南東部の地) の山田の原に遷宮し、大宮を建てて鎮座なされた。
【豊受大神】とようけ‐の‐おおかみ 豊宇気毘売・豊受姫とようけびめ神。とよゆうけのかみ。
伊弉諾尊の孫、和久産巣日神わくむすびのかみの子。食物をつかさどる神。
この神を、豊宇迦之売神 (豊宇賀能売神) とようかのめかみ、保食神うけもちのかみ、古事記に出てくる大宜都比売神
おおげつひめのかみなどと同一視されています。
豊宇賀能売神は、丹波国 (京都府、一部は兵庫県) 真奈井の神話は「丹後国 (京都府の北部) 風土記」に出てくる
「天の羽衣伝説」に関連。
丹後国 丹波郡 比治理ひじりの比治山頂にある真奈井で、天女8人が水浴中、一人の天女の羽衣を老夫婦が隠した。
そのため、天女はこの老夫婦の家に止まり、万病に効用がある酒を造って老夫婦を富ましめたが、十余年後に家を
追われ、天にも帰れず漂泊の末、奈具なぐ村に至った。
この地で、悲しむ心が静まり「我が心なぐしくなりぬ」と言い奈具村に永住し鎮守されたのが奈具社。
天女が穀物などの神、豊宇賀能売神とようかのめのかみ。 老夫婦は和奈佐という名前で、阿波国 (徳島県) の
神人集団 (神様に使える人達) と 解釈されている説もあるようです。
※ 参照した資料によって、神様および地名の名称が多少異なっています。
フジTV 金曜プレステージ 『池上彰の緊急スペシャル』 13.10.04 放送 より
≪ 神宮では、神様の食べ物はほぼ自給自足 ≫
天照大御神の食事は1日2回で、外宮で作られており、『日別朝夕大御饌祭「常典御饌」の神饌』と言います。
日別 … 毎日 常典… 決まった規則、常の掟
戦後、GHQにより国家神道が廃止され、伊勢神宮も民間の宗教法人の一つになりました。
伊勢市の1/4を占める山は伊勢神宮が所有しており、建材のヒノキなどが植えられています。
【神饌菓子】しんせん-がし 百菓辞典
神様に供える菓子で、伊勢神宮、春日大社、八坂、下鴨、上賀茂神社などの神饌菓子が知られている。
唐菓子の餢飳ぶと、梅枝ばいしなどが用いられる。 唐菓子からくだもの
【神宮神田】じんぐう-しんでん
約2000年前からずっと変わらず、神饌の為の米作りをここでしているそうです。3ヘクタールで収獲量は年間15トン。
万一の為に必要量より多く収獲し保存。5人の神宮技師の職員が管理しています。白衣を着用し禊をして手足を
清めてから作業に当ります。お供えする御飯おん-いいは、この神田のお米を蒸したご飯。
お下がりは神職の皆さんが頂くそうですが、神様にお供えする状態と同じ物を食べる事は無いそうです。
【斎田】さい-でん
神に供える米を栽培する田。御供田こくうでん。神饌しんせん田。いつきた。
野菜や果物は神宮御園みそのという専用の農園で約70種類を栽培しています。
塩は海岸近くにある御塩焼所みしおやきしょという場所で、海水から作られた堅塩かたしおをお供えし、火は木をこすり
合わせて起こしたものを使用。
【堅塩・固塩】かた‐しお、きた-し 堅くかたまった塩。固形の塩。 ⇔ 【沫塩・白塩】あわ‐しお 精製した塩。食塩。
古墳時代の応神天皇の時代に、中国から酒と酢の造り方が、和泉の国 (大阪府堺市) に伝えられたと言われています。
特に酢は、江戸時代になるまで堺が主産地で、江戸時代に「いずみ酢」(玄米酢・黒酢)が日本各地に伝わりました。
【神今食】じん‐ごん‐じき、 かむいまけ、じんごじき。
古代の宮中神事の一つ。6月・12月の11日月次祭つきなみのまつりの夜、神嘉殿に天照大神を祭り、天皇がみずから
旧穀を忌火いみびで調理した神膳を供え、自らも食し、神と共寝する。
【新嘗祭】にいなめ‐さい、 にいなめまつり。しんじょうさい。= 勤労感謝の日
天皇が新穀を天神地祇てんじん‐ちぎ (天神=天津神、地祇=国津神、つまり八百万の神々の事) にすすめ、また、
親しくこれを食する祭儀。古くは陰暦11月の中の卯の日に行われた。
近時は11月23日に行われ、祭日の一つとされたが、現制ではこの日を「勤労感謝の日」として国民の祝日に加えた。
天皇の即位後に初めて行うものを、大嘗祭だいじょうさいという。
令和の大嘗祭の斎田に選ばれた京都府南丹市の斎田
【膳殿】かしわ‐どの … 神宮などで、膳部を調える所。大嘗祭の時、神饌を調理する所。
【膳・膳夫】かしわ‐で (古代、カシワの葉を食器に用いたことから)
① 飲食の饗膳きょうぜん(御馳走のお膳)。供膳。
② 饗膳のことをつかさどる人。料理人。古事記「櫛八玉神を膳とし、天の御饗を献りし時に」
③ (「膳部」と書く)大和政権の品部しなべで、律令制では宮内省の大膳職・内膳司に所属し、朝廷・天皇の食事の
調製を指揮した下級官人。長は膳臣かしわでのおみと称し、子孫の嫡系は高橋朝臣。かしわべ。
【朝臣】あそみ、あそん … (この場合の意味は) 三位以上の人の姓の下、四位の人の名の下につける敬称。
【高橋】
古代の豪族。大和政権に仕えた膳臣かしわでのおみの嫡系で、後に高橋朝臣の姓を賜り、代々内膳司に仕えた。
【膳司】かしわで‐の‐つかさ
①古代、宮中で饗膳をつかさどった役所。律令制では大膳職と内膳司。
②律令制の後、宮十二司の一つ。食事・酒・餅・菓子などをつかさどった。
③斎宮十二司の一つ。食事調進をつかさどった。
④春宮坊とうぐうぼうに属す主膳監しゅぜんかん(春宮の食事を調進し、試食をつかさどった役所)
【槲の窪手・柏の葉椀】かしわ‐の‐くぼて
食物を盛るために、カシワの葉を細い竹針で縫い合わせて製した器物。
後世では大嘗祭だいじょうさいの神饌しんせん(お供え物)などに用いる
※ 伊勢神宮の参拝者は、江戸時代末期1830年頃が500万人。2010年が過去最高の883万人で、2013年は8月末で835万人。
伊勢神宮だけではなく、伊勢志摩の鳥羽水族館やミキモト真珠島、志摩スペイン村なども旅行される方は、近鉄の「まわりゃんせ」
というスーパー パスポート 大人9500円、子供5200円(2013年現在)が、かなり お得らしいです。
フジTV 金曜プレステージ 『池上彰の緊急スペシャル』 13.10.04 放送
テレビ東京 所さんのそこんトコロ! 『神社の鳥居の鳥とは?』 13.10.06 再放送
朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『神様になった動物たち ~狐・猿・鹿に百足…なぜ崇められる!?』 15.09.17 放送
関西テレビ 報道ランナー 『女人禁制のナゾ』 18.05.11 放送
※ 正殿でのお参りは、個人的なお願いをするべきではないそうです。日本全体の繁栄をお願いする場所。
石段より上は撮影禁止。
元々、皇族および天皇から許可された人だけが参拝する事が可能だった特別な場所だからです。
個人的なお願いは、正殿の裏手にある荒祭宮あらまつりのみやという場所でするそうです。
鳥居は天照大神が天の岩戸にお隠れになった時、ニワトリの鳴き声で神様を呼び起こしたという神話に基づき、
「神鶏じんけい」と呼び、神聖な鳥とされていました。
ニワトリの止まり木として作られた物が発展し、現在のような鳥居になったそうです。その名残りで熱田神宮には
ニワトリがいます。また、伊勢神宮の遷宮の儀は、神官が「カケコー」などニワトリを真似た声を発して始まります。
鳥居を通る時は、一礼をし、端を通るのが基本。真中は神様がお通りになる為、空けておく必要があります。
遷宮の儀
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石上神宮
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※ 石上神宮など、他にもニワトリがいる神社は多数あります。
日本の神様読み解き辞典(柏書房) には鳥居の起源・語源説が12説も紹介されています。
【鳥居】
神社の参道入口に立てて神域を示す一種の門。左右2本の柱の上に笠木をわたし、その下に柱を連結する貫ぬき
を入れたもの。
伊勢神宮や鹿島神宮の神明鳥居を基本として、明神鳥居・山王鳥居・三輪鳥居・両部鳥居などがある。
※ 朱あかい鳥居は稲荷神社(五穀をつかさどる倉稲魂うかのみたまを祀ったもの)が有名です。
【宇迦御魂・倉稲魂・稲魂】うか‐の‐みたま … 食物、殊に稲をつかさどる神。「うかたま」「うけのみたま」とも。
【熱田神宮】あつた‐じんぐう
名古屋市熱田区にある元官幣大社。熱田大神を主神とし、相殿に天照大神・ 戔嗚尊・日本武尊・
簀姫命みやすひめのみこと・建稲種命たけいなたねのみことを祀る。神体は草薙剣くさなぎのつるぎ。
神社の雑学 イチョウの木が多いわけ 本職とアルバイトの巫女さんの見分け方 「君が代」のルーツと「さざれ石」
720年の『日本書紀』に記載されている神宮は、伊勢神宮と石上神宮(物部氏末裔の石上氏)のみ。
↑ 元々の神宮が付くのは、この2社のみ。
平安時代に藤原氏の権力が強くなって、石上神宮が外され、伊勢神宮と藤原氏所縁の香取神宮・鹿島神宮が
延喜式に記載されています。しかし、平安時代の重要神社は、神宮より畿内の二十二社 (伊勢神宮は含む) の
方です。神宮は天皇家およびその近親を祀った称号にすぎず、社格では大社と同じです。
近世に創建された明治神宮、平安神宮、橿原神宮よりも、歴史がある大社の方が格は遥かに高い。
関東の皆さんは御都合解釈し間違った歴史認識を吹聴流布した論を信じている人が多く、その為関西人との
論争が絶えません。どちらが正しいかは、過去文献や史料を自ら直接調べて確かめた方がいいでしょう。
色々と調べると、関東説は歪曲解釈した嘘説だらけのようです。当サイト各ページで確認してみて下さい。
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顔の部位のパーツの名称は、稲の部位と深い関係がある? |
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朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『日本語ミステリー 秘められた古代人からのメッセージ』 14.04.17 放送
言葉の由来には諸説あります。
以下の説は、奈良大学の木村紀子 名誉教授によるものです。
奈良時代に書かれた『古事記』や『日本書紀』にある言葉は、それ以前から使われていた
ものが多く、1~3文字程度の短い単語の多くは『原始日本語』と呼ばれる古くからの言葉で
太古からあったと考えられます。
例えば「ヤマ」「カワ」「ウミ」「ハナ」「キ」「クサ」「モノ」など
≪ 顔の部位は「稲」から名付けられた ≫ 「なにわ」の語源 魚庭、浪速、浪花、浪華
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身体の部位を示す言葉は、縄文時代以前から現在まで変わらず使われ続けている言葉だそうです。
顔のパーツと、植物 (特に稲) のパーツを示す言葉と発音が同じ。稲作が始まって以降、稲は特別に大切な作物でした。
『自然があってこそ、人間がある』という当時の人たちの思いが込められているのではないか? と、考えられるそうです。
頬は「ホ (穂)」×2、耳は「ミ (実)」×2と、顔に2つあるものは同じ音を重ねた言葉になっています。
また「根が正直」「息の根を止める」など、心や命など目に見えない大切な物を「根」に例えているそうです。
大阪府立 近つ飛鳥博物館 『古墳時代のくらし』 http://www.chikatsu-asuka.jp/?s=child/14life 「下戸」は水田耕作地帯に多い病原体に対抗ために進化した結果か!? 理化学研究所が発表
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餅の原型 しとぎ |
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朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『食の方言を探れ! 関西 食べ物ミステリー』 13.08.01 放送
関西テレビ 報道ランナー 『ギモン調査部 「日本人はなぜお餅を食べる?」』 18.01.26 放送
≪ 餅の記述 ≫
正月のお雑煮を始めとして日本人に欠かせない食べ物となっている餅。
ご飯と比べ栄養価が高いので、ダイエットを気にする現代人の消費量は減っているようですが、総務省の家計調査2014~
2016年 (2人以上の世帯を対象) の一世帯当たりの平均購入量は年間2400g、平均的な切り餅50gなら48個を消費して
います。
稲作が始まった頃より、日本人は米に霊力を感じ特別な存在として大切に思ってきました。
「白い」というも神聖な物として扱われね大きな要因だと思われます。その象徴が餅であり神様に献上する為に、自分たちが
食べる事よりも優先的にお供えの餅が作られたようです。
日本書紀(奈良時代720年に編纂)に「われ今まさに八十平瓮をもちて、水無しにして飴を造らむ」という一節があります。
【瓮】もたい … 水や酒を入れる器。 ※ 八十は「やそ」で、数が多い事を示していると思われます。
【飴】たがね
(握り堅める意)「あめ」の古名。「糖」「餳」とも書く。一説に、餅。日本書紀の神武紀「水無しに たがね を造るべし」
大阪 飴ちゃん文化 と チンドン屋 固形の飴を作ったのは大阪、広告代理店の元祖といわれるチンドン屋
この「たがね」が餅だという説もありますが、同時代の豊後国風土記に「餅」の文字がある事から、日本書紀のは「水あめ」で
あると思われているようです。
【豊後風土記】ぶんご‐ふどき 豊後国風土記。 豊後=大分県の大部分
古風土記の一つ。1巻。713年(和銅6)の詔に基づき奈良中期に撰進された豊後の地誌。8郡の分の抄本が残る。
701年の『大宝律令たいほうりつりょう』の「大宝令」に「主菓餅しゅかへい二人、菓子を掌つかさどり、雑餅を造る」とあります。
『正倉院文書』に含まれている、737年の『但馬国正税帳』には「煎餅いりもちい」「大豆餅まめもちい」という餅の加工品の
記述があり、「餅」を「もちい」と読むようになったのは、餅飯(もちいい)からときた読み方と推測されているようです。
日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著
≪ 餅菓子の神様を祀る 小野神社 ≫
餅や餅菓子の製造業者が信仰する小野神社は滋賀県大津市の琵琶湖西岸にある志賀町にあります。
創建年ははっきりしていませんが、小野妹子が先祖を祀るために為に建てたものとされています。
主祭神は天足彦国押人命と、その7世の孫にあたる米餅搗大使主。
5世紀前後の第15代目の応神天皇の時代に、粢しとぎ(餅の原型)を初めて作ったので「米餅搗しとぎつぎ」の姓を賜った
とされています。
小野神社では毎年11月2日に粢祭が古来の形式で行われています。
餅米の新米を2日ほど水に浸しておき、杵と臼でつき固めた生餅(粢)を藁苞わらづとに納めたものと、青竹の筒に入れた
酒と、ハチミツ・生栗・蕎麦の実を神前に供えます。祭当日は多くの餅関連業者が参詣します。
小野神社の氏子総代の田中勉さんによると、「(供えられた後の粢は)魔よけとして置いてある(保管)していますが、
食べない」そうです。
平安時代などには、小野神社が餅や菓子の商人の位である「匠」「司」などの免許を授与していたようです。
【小野】おの
姓氏の一つ。古代の豪族。姓は臣。八色姓やくさのかばねで朝臣。
近江国滋賀郡小野村より起こると伝え、山城国愛宕郡小野郷などに勢力をもつ。
【小野妹子】おの‐の‐いもこ (生没年未詳)
飛鳥時代の官人。遣隋使となり607年隋に渡り、翌年隋使の裴世清はいせいせいとともに帰国。
同年隋使・留学僧らとともに再び隋に赴く。隋では蘇因高そいんこうと称した。609年帰国。墓誌の出土した毛人えみしの父。
Wiki 小野神社 (大津市)
Wiki 米餅搗大使主
『米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)は、孝昭天皇 (記紀伝承上、第5代目の天皇) 第一皇子の天足彦国押人命から
7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命とされる。
応神天皇にしとぎを作って献上したとの伝承があり、小野氏、春日氏、柿本氏らの祖となり、小野氏の祖神を祀る小野神社
などで祀られている。』
≪ しとぎ ≫ 「粢」「糈」という漢字は平安時代の文献に登場します。
東北などでは、現在も「しとぎ餅」という名前の餅が販売されています。
【粢・糈】しとぎ
神前に供える餅の名。古くは米粉を清水でこねて長卵形としたものを称したが、後世は、糯米もちごめを蒸し、少し舂ついて
餅とし、楕円形にして供えた。しとぎ餅。〈平安時代前期の承平年間(931~938)撰進の倭名類聚鈔[13]〉
コトバンク 『粢/糈 シトギ』 世界大百科事典 第2版の解説
『生米を水にひたしてやわらかくし搗(つ)き砕いて作った食べ物。〈しろもち〉〈からこ〉〈おはたき〉〈なまこ〉などと地方によって
呼称は違うが,粢は《和名抄》や《新撰字鏡 (昌泰(898~901)年間に成立)》にも見えている古語である。
《和名抄》に〈祭餅也〉とあるように,一般には神祭の供え物(神饌)の一種に用いられているが,東北地方では米粢のほかに
粟粢,稗粢があり,日常の食べ物になっていた。粢は火を用いないで調理する点で古い食べ物と考えられ,現在の餅に先行
するものではないかと推定されている。』
餅の語源は「腹持ちが良いから」「丸くて平たい満月を望月もちづきと言い、それに似ているから」など多数あるようです。
【餅】あも
「あまい」の意と言われている。もちの異称。あんもとも言う。 百菓辞典
(「あまい」の意という)「もち」の異称。子どもや女性が用いた語。あんも。〈日葡辞書〉 広辞苑
【餅搗】あも‐つき 広辞苑
① (上方語)もちつき。
② 房事のたとえ。浄瑠璃、義経千本桜「離座敷は隣知らず、―せうとをかし」
【餅】もち 百菓辞典
もちいい (糯飯) の約されたもの。もち米を蒸し、臼でついて、種々な形に作ったもの。正月や節句などの祝いごとに
作ることが多い。古来、餅は「神霊の宿るもの」として、正月をはじめ、神事・祭りなどあらたまった日の食べ物。
おいしくてたくさん食べられる意味で「一合雑炊 二合粥 三合飯に 四合鮨 五合餅ならだれでも食う」という言葉がある。
(一合=180ml)。もち (糯)、おかちん、あも。
【かちん・おかちん】 百菓辞典
搗ち飯 (かちいい) が転じたもの。搗ち飯の音便が「かちん」。「おかちん」は、女性言葉で餅のこと。
「搗ち」とは「つく (搗く)」ことを意味する。(餅などを) 搗くことを、古語では「かつ」と言った。
日本各地の雑煮 銅鏡の魔鏡現象と太陽信仰との関係 日本の伝統行事 1月鏡餅など
日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著 相模女子大学 日本語日本文学科 山田純 准教授の論文 『「餅の的」と連想 : 『豊後国風土記』田野条の読解を通して』
https://ci.nii.ac.jp/naid/110009593326 / https://ci.nii.ac.jp/els/contents110009593326.pdf?id=ART0010050188
≪ 豊後風土記に見える「餅」と豊後国、豊前国の名前の由来 ≫
豊後風土記の速見郡田野の条くだりに「化為レ餅 片時之間 ~ 後分二両国一 以二豊後国一為レ名」という文があります。
相模女子大の山田准教授の論文では
「白鳥が飛来して、餅に変化し、次いで芋草に変化した。これを景行天皇に報告したところ、その豊かな芋草は吉兆である
から豊国と名付けよと命じられた。」と説明されています。続きや詳しくは、上記リンクのPDFでご覧ください。
神様読み解き辞典には
「昔この地の百姓が水田を多く拓き、たくさんの収穫を得るようになった。やがて心奢るようになり、餅を的にして矢を射た
ところ、餅の的は白鳥になって南へ飛び去ってしまった。すると穀物を粗末にした罰が当たり、百姓は衰えて死に田畑は
荒廃してしまった。という趣旨の事が記されている。豊後国の話は悲劇で終わっている…。」とあります。
【景行天皇】けいこう‐てんのう
記紀伝承上の第12代目の天皇。垂仁天皇の第3皇子。名は大足彦忍代別おおたらしひこおしろわけ。熊襲くまそを親征、
後に皇子日本武尊やまとたけるのみことを派遣して、東国の蝦夷を平定させたと伝える。
Weblio辞書『芋草』
①イエツイモ (里芋の古名)、 ②イモ (食用となる地下茎・塊根類の総称)、 ③イモグサ (コブナグサの別称。
イネ科の一年草)、 ④イモグサ (ドクダミの別称。ドクダミ科の多年草、薬用植物)
豊後(大分県大部分)と豊前(福岡県東部と大分県北部)は、古来より豊かな土地であったため「豊国」という名が
付けられたそうです。
神様読み解き辞典では、伏見稲荷神社(もと「伊奈利いなり社」時代の)縁起に同様の伝説がある事を紹介しています。
「秦中家忌寸はたのなかつへいのきみの遠祖・伊呂具いろぐの秦公はたのきみは裕福で、ある日、餅を的にして矢を射たところ、
餅は白鳥となって飛び去り、山の峰に降りた。白鳥の降りた場所に稲が生えたので、そこに社を建てて稲荷社としたと
伝えられる。」
【稲荷山】いなり‐やま
京都市東山連峰の南端、深草山の北にある山。西麓に稲荷神社(伏見稲荷大社)がある。(歌枕)
NHK Eテレ 100分de名著 『古事記』 全4回、(解説 三浦佑之 立正大学教授) 13.09.25 放送 日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著 など より
≪ ヤマトタケルの白鳥伝説 ≫ 堺市大鳥神社 / 羽曳野市 Wiki 羽曳野市
記紀伝承上の第12代天皇 景行天皇の第二の皇子で、ヤマトタケルこと=小碓命おうすのみこと(本名)は古事記「倭建命」、
日本書紀「日本武尊」と書かれ全く別の人格のように記されているそうです。
詳しい伝説などは Wiki ヤマトタケル をご覧ください。
東国征伐の帰途、近江伊吹山の神を討とうとして山の神の毒気に当り瀕死で、伊勢の能褒野のぼの(三重県鈴鹿市)に
辿りつき没したという。
小碓命の魂は大白鳥になって空に旅立ち、奈良の御所市 → 羽曳野市軽里 → 最後に降り立った場所が堺の大鳥神社。
その大白鳥が羽根を曳ひき摺ずったとされるのが羽曳野市です。
大鳥神社は旧官幣大社で和泉国の一の宮。 東京など関東にある鷲おおとり神社などの総本社です。
主祭神は日本武尊と大鳥連祖神 (中臣氏の先祖である天児屋命と同一視されています)。
≪ 他の白鳥伝説 ≫
【白鳥処女説話】はくちょう‐しょじょ‐せつわ
世界的に分布する説話の一型。白鳥などの動物が若い女性の形であらわれ、人間の男性がその衣を奪って
強制的に妻とするが、女性は衣をとり返し、動物に復帰して飛び去るもの。日本の羽衣はごろも伝説はその一つ。
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【古墳時代】 |
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日本テレビ 所さんの目がテン! 『歴史研究会 古墳時代の暮らしを体験』 19.11.10 放送
≪ 国内で鉄の生産が可能になり、鉄の加工技術も向上 ≫
和歌山市の岩橋千塚古墳群は大小様々の約500基の古墳があり、県立紀伊土記の丘として管理されています。
この当時は文献がほとんど無いので、出土した多様な形の埴輪などから生活の様子を推測する事になります。
古墳時代は国内で鉄の生産が可能になり、加工技術が発達したため大型の建造物が造られました。
≪ 「蒸す」調理が始まる ≫
庶民の住居は縄文時代と同じく竪穴式住居ですが、室内の隅に竈が設けられ煙を屋外から排出する機能が
備わっていました。昭和まで使われていたのとほぼ似たような形状の竈だったようです。
古墳時代中期に大陸や朝鮮半島から伝わった調理器具で蒸す調理が始まりました。
竈に水を入れた土器を設置し、その上に穴の開いた土器を乗せ、布に包んだ食材をその中に入れてフタをします。
この蒸す調理器具を「甑こしき」と言います。
【甑】こしき
①米などを蒸すのに用いる器。瓦製で、形は円く、底に蒸気を通ずる穴がある。のちの蒸籠せいろうにあたる。
播磨風土記 (奈良時代に編纂) 「阜おかの形も―・箕み・竈かまどどもに似たり」 →甑そう。
②小形の溶銑炉の俗称。
番組では、米を蒸すのは古墳時代から始まり平安初期まで蒸すという方法で食べていた。
平安時代になり弥生時代と同じく米を炊くという調理方法に戻ったと解説していました。
米を蒸すという方法は、すでに弥生時代には存在していたとも思われますので、古墳時代に主流になったと考えるべき
でしょう。伊勢神宮の神饌の飯は蒸し飯です。
国学院大学 (東京) 文学部の青木敬 准教授によると、「古墳時代中期から400年以上にわたって蒸したお米を主食にして
いたというのは、日本の食文化の歴史を考える上で大きな謎というふうにされているんです。海の向こうから渡ってくる人々
や技術、そういった中でこしきは最先端の調理器具で、一種の憧れのようなものを持っていたのではないか? とも推定できる。」
また、古墳時代は様々な種類の米を栽培しており、米の種類ごとや魚や肉などを布に包み入れるので、取り出す時間を
変える事だけで、一度に複数の食材を調理できる事も蒸すという調理が主流になった大きな要因だそうです。
蒸すのは火加減をそれほど気にしなくても良く簡単に調理できるという利点もあります。
1830 (文政13) 年刊の『嬉遊笑覧』巻十上「飲食」 P.379 「飯」より、中略して抜粋。全文はリンク先で。
嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
「【橘姫巻】…こはいひは古の常の飯なれど粥をいふ故にそれに対して かくいへるなるべし
【海人藻芥】に公家御膳飯は強飯也…【資○王日記】に明応十年正月條諸社ノ遥拝ノ後三献アリ次ニ
オコハ次に比目…ひめは今世の常の飯とみえたり…」
明応10年は戦国時代にあたる1501年ですが、正月に神社を参拝した後の正式な宴会ではお酒の膳の後に、
おこわが出され、次に比目(姫飯=現在と同じ御飯) が出されていたようです。
この事から嬉遊笑覧の著者である喜多村信節は「ひめは今世の常の飯とみえたり…」と書いています。
江戸時代の文献では「中古 (の時代)」=平安時代を指す事が多いので、「今世」=室町時代以降を指すと
思います。
しかし、公家の儀式的な饗応の膳であったとすれば伝統を重視した膳の可能性もあるので、庶民なども含め
日常と異なる可能性もあるでしょうから、嬉遊笑覧の内容だけでは室町時代 (戦国時代) 以降から、姫飯を
食べていたと断定しない方がいいと思います。
【三献】さんこん
正式な饗応の膳で、酒肴を出し三つの杯で1杯ずつ飲ませて膳を下げることを一献といい、それを3回くりかえすこと。
式三献しきさんこん
【嬉遊笑覧】きゆう-しょうらん
江戸後期の類書。喜多村信節のぶよ (江戸の人、1783~1856) 著。12巻、付録1巻。 文政13年 (1830) 自序。部類を分け、和漢の書から特に近世の風俗習慣や歌舞 音曲に関する事物を集めて叙述・考証したもの。
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名古屋大学 伊藤信博 『室町人の嗜好 – 古記録からみる室町時代の食文化』 http://urakamizaidan.or.jp/hp/jisseki/2012/vol21urakamif-13ito.pdf
平安時代の『類聚倭名抄』や『延喜式』などに記されている「飯の種類」は、「強飯」、「炊飯かしきかて」、「黒米飯」、 「油飯あぶらいひ」、「糒ほしいい」、「餉かれいい」、「糄米やきごめ」、「粔籹おこしごめ」、「頓食とんじき」、「姫飯ひめいひ」、 「水飯」、「湯漬」、「饘かたかゆ」、「汁粥」、「漿こずみ」、「味噌水みそうず」、「望粥もちかゆ」、「薯蕷粥」などがありました。
室町~安土・桃山時代にかけて、米は『蒸す、強飯こわめし』 → 『炊く、姫飯ひめめし』 と変化。
現在と同じご飯を食べる事が多くなりました。高価な鉄鍋や土鍋が普及し始めた事が大きな要因のようです。
「蒸す=糯米もちごめ=強飯=おこわ」 「炊く=うるち米=姫飯=現在と同じ御飯」。という違いがあります。
室町時代の16世紀に制作された絵巻『酒飯論絵巻』には色んな餅を作っている様子が描かれています。
どちらが正しいのか? ← 米の種類による調理の違いと、地域によって混在していた可能性があります。
「姫飯」が飯の一部として載っている「倭名類聚抄」は931~938年、「延喜式」は927年に撰進であり、平安時代が794~
1192年の約400年間とすれば、平安時代の中期はまだ炊いた飯が一般的では無かったと言えますので、「平安初期まで
蒸す」という解説は間違っていると言ってもいいでしょう。
さらに時代が下った江戸時代に新田開発が奨励され東日本でも稲作が盛んになってきます。
まだ詳しく調べていませんが、東日本では糯米より、うるち米の栽培が多かったようです。
あられ 関東では糯米が少ないので、「欠き餅=あられ餅」がなく、雛あられはうるち米を使った「はぜ米」になった
当サイトでは室町時代以降に主食の米は「蒸す→炊く」へ変化した説を採用する事にしました。
≪ 古墳時代の食料 ≫
海に近い和歌山では船や網を使った漁法が発達し様々な種類の魚を獲っており、(刺身的な) 生食をしていた可能性が
あるそうです。
刀子とうすと呼ばれる鉄製の刃物があったので、縄文時代の黒曜石のナイフと比べ格段に調理しやすくなっています。
【刀子】とう‐す
古代の小型の刀。携帯して食事・皮はぎなどのほか、木簡を削るのに用いた。中央アジア・中国で発達、青銅・鉄製などがある。
日本にも入り、紐小刀ひもがたなのほか、正倉院には装飾の華麗なものや数本の刀子を一つの鞘さやに収めたものが残る。
味付けは塩が基本のようですが、魚を塩漬けにして発酵させた魚醤ぎょしょうも造られていたので、これを付けて食べて
いたようです。
応神天皇の時代に堺に酢と酒の作り方が中国伝わったとされています。江戸時代になるまで酢は堺が主産地でした。
【応神天皇】おうじん-てんのう 名は誉田別ほむたわけ。第15代天皇。 第14代の仲哀天皇の第4皇子。 記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。
倭の五王のうち「讃」にあてる説がある。 酢 酢は古墳時代~江戸時代まで堺が主産地。
古墳時代は、麻類の繊維で出来た布から作った衣服を着ており、奈良時代は、楮こうぞや科しなの繊維で作った衣服の
ようです。 絹の生産と古墳~奈良時代の他の布の素材 呉服が伝わった大阪池田市の呉服神社
綿花の栽培は江戸時代初期に大阪の河内から西日本に広まります。
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