手づくり アイスの店 マルコポーロ
味と食の雑学2 ~縄文・弥生時代
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

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このページの最終更新日:   20.06.09
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~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents

  旧石器時代から、縄文時代・弥生時代・神話時代 (古墳時代) の食文化




 考古学や分子生物学は近年20年で進歩 最新研究や発見で、これまで通説が大きく変わっている

 大阪湾沿岸発祥の蛸壺漁 タコ壺漁が繋いだモーリタニアと日本との絆

 2014年1月、奈良県御所市の秋津遺跡から、弥生時代前期の玄米が発見される。


 卵、牛乳、砂糖については日本のアイスの歴史 各ページをご覧ください
 大阪と関西の食文化のページも 日本の食文化を語る上で必須です

 旧石器時代 17.11.07追記
  黒曜石の分布、狩猟生活の獲物は大型哺乳類。
  日本最古の住居跡は大阪の藤井寺市で発見。
  北海道や福井で、世界最古となる加熱調理跡が発見される。

 縄文時代  縄文人=先住日本人
  土器の出現。東北の亀ヶ岡式土器文化圏。
  縄文時代後期の最先端は奈良県橿原市だった。
  東京の大森貝塚では食人をした痕跡。

 弥生時代
  中国大陸から稲作が伝来。弥生式土器。
  福岡県板付遺跡の水田跡には足跡の遺跡も発見。

 弥生時代 『化学する古代ロマン
  進む「文理融合型」の考古学』
  渡来したガラス玉のDNA解析。
  東日本は陸路 中国・朝鮮経由。 西日本は海路 インド・東南アジア。

 弥生時代から世界一の農業技術を持っていた
  2~3世紀頃の卑弥呼などの豪族の食事の再現。



  倭人伝・倭国伝 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun-mokuji.htm
   ↑ 中国の各古文書の倭人伝の原文と和訳があります。

  農林水産省 食料産業局食文化・市場開拓課和食室 『日本食の歴史』 http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/rekishi.html

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 
 旧石器時代
  NHK 和食が世界遺産? ~おいしい日本 1万5千年の旅~ 13.01.02 放送 
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『旧石器時代から縄文へ ~環境の変遷と日本列島~』 13.04.19 放送 / 各 Wikipedia / 広辞苑 などより
  テレビ東京 137億年の物語 『人類とマンモス』 14.01.18 放送 / NHK Eテレ 高校講座 日本史 『旧石器時代から縄文』 14.04.02 放送

  ≪ 旧石器時代 ≫  Wiki 旧石器時代 / Wiki 最終氷期

  日本では縄文式の土器が発見される以前の人類最古の時代。石器を使ったと考えられる約260万年前から土器などが
  作られ生活が変わったとされる新石器時代 (縄文時代) 約1万年前まで。

  この頃は氷期であり、日本列島の気温は現在より7~8℃も低く、現在のシベリア並みの気温だったそうです。
  雪が降り、氷河が出来て陸地に水分が留まった事から、海面は現在より100~120mほど低く、北海道は大陸で繋がって
  いたと考えられています。





  【最終氷期】さいしゅうひょうき
   およそ7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期のことである。
   この時期は氷期の中でも地質学的、地理学的、気候学的にも最も詳しく研究されており、気温や、大気・海洋の状態、
   海水準低下により変化した海岸線など緻密な復元が進んでいる。

  【旧石器時代】きゅうせっき‐じだい 人類史上で最古の時代
   ほぼ地質学上の更新世にあたり、人類は、今日絶滅し、もしくは生息地をかえた動物とともに住み、打製石器や骨角器を
   用いたが、まだ土器を作らず、採集・狩猟・漁労だけによって食糧をえていた。
   通常、前・中・後期に3区分される。日本では、縄文時代の前の時代がほぼこれにあたる。






  ≪ 黒曜石 ≫ こくよう-せき 黒曜岩 Wiki 黒曜石

  火山岩の一種。灰色ないし黒色で、半透明、ガラス光沢に富む。断口は貝殻状。流紋岩質のものが多く、割れた面が薄く
  尖っているので、刃物、矢じりなどの石器として使われていたようです。

  黒曜石は特定の場所でしかとれず、日本では約70ヶ所以上が産地として知られいますが、良質な産地はさらに限られており、
  後期旧石器時代や縄文時代の代表的産地でも北海道~九州北部まで各地にあります。

  黒曜石の構成成分は産地によって違うので、どこの黒曜石がどこまで伝えられていたか?が分かるそうです。
  それによると、旧石器時代から日本中での交流があった事がわかります。


  【大分県の姫島は国の天然記念物に指定 (2007年)】 Wiki 姫島の黒曜石産地

   姫島の黒曜石は、その独特の色によって産地の識別が容易であり、東九州を中心に、中国地方や四国地方をはじめ、
   鹿児島県種子島から大阪府に至る広域で使用が確認されている。


  【高原山 黒曜石 原産地 遺跡群】たかはらやまこくようせきげんさんちいせきぐん Wiki 高原山黒曜石原産地遺跡群

   栃木県の高原山に存在する旧石器時代の遺跡群である。
   この遺跡は当時の北関東の森林限界を400mも超える標高1,500m近い高地にある。
   また高原山は黒曜石だけではなく、更新世末期当時の関東地方東部で使用されることの多かった石刃製ナイフの
   原料となる珪質頁岩を含む緑色凝灰岩の産地でもある。
   那珂川支流荒川にある高原山の基盤である第三紀中新世の緑色凝灰岩の露頭から採取された石器を
   旧石器人が古鬼怒川沿いに南は房総半島の嶺岡山地の間約200km以上にも及ぶ長い領域の間を移動しながら
   使用していたと推定されている。


  【東京都 伊豆諸島の神津島こうづしま Wiki 神津島

   本島は、840年(承和7年)に伊豆国賀茂郡上津嶋として名が現れる。採掘は縄文時代まで続いた。
   神津島では、砂糠崎さぬかさきや沢尻湾、ほか恩馳島で黒曜石が産出し、後期旧石器時代から石器の材料として採取され、
   大量に本州に送られた。

   その流布範囲は広く、東は東京都、西は静岡県西部、さらに内陸部の山梨県北杜市の横針前久保遺跡にまで達し、
   半径約180kmまで拡がっていた。(NHKの番組では、三重県にまで伝わっている)
   これは同時に旧石器時代の人々が船を使っていたことを示す貴重な間接証拠でもある。

   旧石器時代でも、神津島は離島だったようで、この時代の船の遺跡は発見されていないそうですが、イカダのようなもので
   運ばれたのではない? と推測されているようです。







  ≪ 狩猟生活の獲物 ≫  人類とマンモス 世界の食のページ

  長野県の塩尻湖の遺跡などから、ナウマンゾウやオオツノシカなどの大型の獣を狩っていたと推測されています。






  マンモスは人類が食糧だけでなく、毛皮は服、骨は武器、住居、アクセサリーにも使われたそうで、1頭仕留めれば約1ヶ月分の
  食糧になった。
  人類と同じくアフリカで誕生したと思われ、マンモスを追って人類はアフリカからアジア、アメリカ大陸を移動したと考えられて
  います。
  マンモス絶滅には色んな説があるようですが、人類の狩猟によって絶滅した可能性が高くなっています。

  日本列島各地に生息していたのはムカシマンモスという種類。東京の上野にある国立科学博物館にある歯の化石は滋賀県で
  発掘されたもの。マンモスの牙は前歯が発達したものだそうです。





  【はさみ(はざみ)山遺跡】 Wiki はさみ山遺跡
   1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に、大阪府藤井寺市で発見された遺跡。
   旧石器時代から近世までの各時代の遺構や遺物が見つかった複合遺跡。
   1986年(昭和61年)の発掘調査で、現在発見されている内では、日本最古の住居跡だと知られています。
   後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになったそうです。


  読売新聞 13.04.11 http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20130411-OYT1T00049.htm?from=ylist

   世界最古の調理跡発見、魚など水生生物加熱か

  北海道や福井県で出土した約1万5000~1万1800年前(縄文時代草創期)の土器から、魚などを加熱調理したと
   みられる世界最古の痕跡を発見したと、英ヨーク大学や新潟県立歴史博物館などの研究チームが11日付の英科学誌
   ネイチャーに発表する。
 
 縄文時代 (新石器時代)
  NHK 和食が世界遺産? ~おいしい日本 1万5千年の旅~ 13.01.02 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『旧石器時代から縄文へ ~環境の変遷と日本列島~』 13.04.19 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『旧石器時代から縄文』 14.04.02 放送
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『縄文時代と弥生時代』 14.04.09 放送

  【新石器時代】しんせっき‐じだい
   石器時代中、新しい時代。打製石器とともに磨製石器が普及し、土器も作られる。
   生活は農耕・牧畜が主となり、定着化が進み、集落や墓地が形成される。
   土器・磨製石器をもちながら、採集狩猟社会にとどまる地域もあり、日本の縄文時代はこれに当たる。

  【縄文時代】じょうもん‐じだい
   縄文土器を指標とする時代。土器の変化によって草創・早・前・中・後・晩の6期に分け、放射性炭素年代によると、
   紀元前1万年前後に始まり、前4世紀頃まで継続して、弥生やよい時代と交代します。






  【竪穴住居】たてあな‐じゅうきょ
   地面を掘り、その上方に屋根をかけた半地下式の住居。深さ50~100㎝前後。平面は直径3~10m程度の円形、
   または隅丸の長方形を基本とする。炉やかまどを備え、柱穴を掘り、周囲に排水溝のあるものが多い。
   日本では縄文・弥生・古墳時代に広く行われた。

  日本の縄文土器の文様は多種多様で、縄文文化の時代差や地域差を識別する基準になる。手づくりで概して
  厚手。ほとんど煮炊き用。のちには他の用途のものも次第に出現。時代差・地域差が大きい。

  縄文式の土器は西アフリカ(マリ、ナイジェリア)から、また南米の北西部エクアドルからもわずかに出土しているそう
  です。これは、日本の縄文人が持ち込んだと見られており、当時から船を使い移動していた形跡の一つ。

  縄文前期(今から7~8000年前)
  主に竪穴たてあな住居から成る集落を構成し、採集・漁労・狩猟の採取経済の段階にあり、農耕の存否については
  議論があります。遺跡・遺物は北海道の千島から沖縄まで分布している。

  特命リサーチ200x 『謎の土器に隠された古代日本人ミステリー』  http://youtu.be/5lyDTVzYrs4
  特命リサーチ200x 『日本の海底遺跡(古代文明) 』 
   http://www.youtube.com/watch?v=Bc5I0qQ9wgU&feature=share&list=PL76Xo2mxGTdG-mjwD8x-OIYdZ_r0ibtGw
  歴史ミステリー 青森の海底遺跡 http://youtu.be/K_YhbsTWq7k
  縄文人の生活再現(長野県富士見町井戸尻考古館) http://youtu.be/kAOLxAxo-Q4
  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf

  ≪ 地球規模の気温の変化による変化 ≫

  縄文時代になると氷期から温暖な気温へと変化してきます。陸地の氷河が溶けて海面が上昇。(関東では埼玉にも海があったそうです。)
  大阪は5~6世紀頃まで中心に河内湖があり、江戸時代頃までに多くが埋め立てられて、各年代で土地が利用されて
  きたので、古代の遺跡が発掘されにくい。

  日本海にも暖流が流れ込むようになり、日本海側では大雪が降る事とブナの森林が出来ました。
  大型の動物は減り、普通の鹿などの中型動物が狩猟のターゲットになります。それに伴い狩猟道具変化し、弓矢などが
  作られます。

  縄文時代は東日本の方が人口が多かった? サケ・マス論

  ≪ 土器の出現による生活の変化 ≫






  土器の発明により、火を使って調理できるようになり、今まで食べられない物(灰汁をとる事が可能なのでドングリなど)も
  食べる事が可能になりました。土器が縦長の形をしているのは横からも火を受けやすくする為の工夫。

  また、物を入れる器として運搬や、貯蔵する事で発酵食品が生まれるなど。
  住居の中心に、火をくべておく囲炉裏のようなものが常時設置されるようにもなりました。

  縄文人の食文化を世界中の民族と比較し研究している 国立民族学博物館 小山修三 名誉教授に
  よると、縄文式土器は1万5千年前、日本で生まれた世界で最も古い土器の一つで、煮炊きする事が
  可能になり、小さい食材や出汁をとるなど食の革命が起きた。
  メニューは果物、栗のクッキー、牡蠣や干したアサリのスープなど。


  塩づくりの土器は高温の火にかけて使用するので、模様をつけない簡素な使い捨ての土器だったそうです。












  日本テレビ 所さんの目がテン! 『歴史研究会 歴史研究会特別編 縄文~昭和まで暮らしの変化を一気見~』 19.03.24 放送

  縄文考古学者の岡村道雄さんによると、茂みや岩場に潜り込みエサを待つイワナの習性を利用して、ワナ仕掛けて
  おく事で魚を「拾う」と表現できるほどに簡単に捕獲する事ができたそうです。






  捕獲した動物や魚、採取した木の実や山菜類を黒曜石を割って作ったナイフでブツ切にして、土器でゴッタ煮状態で
  煮て食べていました。塩以外での味付けはしなかったようです。魚などから出汁が出るので割と美味しいようです。


  ≪ 亀ヶ岡式土器 ≫ かめがおかしき‐どき  Wiki 亀ヶ岡石器時代遺跡 / Wiki 遮光器土偶

  縄文時代晩期の東北地方の土器の総称。精緻な美しい文様と変化に富む器形で著名。
  青森県つがる市木造きづくりの亀ヶ岡遺跡による命名。

  このうち、目が大きく手が小さい人間型の土器は女性を表したものとされ「遮光器土偶」と呼ばれています。
  普通の人間の形を逸脱した極めて特徴的な形態から、一部では宇宙服を着用した宇宙人の姿を模ったものであると
  いう説。
  (古代宇宙飛行士説)、東北地方で広く信仰されたアラハバキ神であるという説、古代シュメールの女神イシュタル説も
  提唱されているそうです。

  青森県 三内丸山遺跡は、約5500~4000年前の縄文時代の大規模集落遺跡です。
  漆塗りの皿(写真のは復元した物)が出土した事から、盛付けや見た目を楽しみ、縄文時代から、現代の和食に繋がる
  食文化を持っていたと考えられています。縄文土器は出土した現物。






  宮城県 東松島の里浜貝塚では6000年前の地層から、頭を落としたフグの骨が大量に見つかり、調理していた事
  伺えます。
  当時の集落では一つの季節では食べきれないほどのアサリの貝殻も出てきた事から、むき身にして保存していました。
  保存食、出汁、他の村との交易品に使用されたと推測できます。





  三内丸山遺跡は陸奥湾から内陸方向に約4㎞なので、海魚の骨が出てくるのは当然の事ですが、海岸線から内陸に50㎞
  離れた秋田県の池内遺跡からはブリやサバの骨が出土しています。
  魚の頭の骨の数が少ない事から、頭を落とし内臓を取った塩干物などの加工をして運ばれたと思われています。


  ≪ 沖縄でも亀岡式土器と糸魚川産の翡翠が出土 ≫

  日本経済新聞 17.01.24  『沖縄に東北の縄文土器初発見 広域な交流の証し』 より抜粋
   https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24HC1_U7A120C1CR8000/

  縄文時代晩期(三千~二千数百年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」とみられる土器片が、沖縄県
  北谷町の米軍返還地にある平安山原B遺跡で出土したと24日、同町教育委員会が明らかにした。
  沖縄での発見は初めてで、西日本でも出土は限られている。製作地や沖縄に運ばれた背景を巡り、大きな議論を
  呼びそうだ。
  北谷町では、縄文時代にアクセサリーとして重宝された、新潟県の糸魚川産の縄文時代晩期の翡翠も別の遺跡
  から出土。
  2009~10年の発掘調査で、沖縄のグスク時代(11~15世紀ごろ)の耕作土の地層から出土。同じ層からは、縄文
  時代晩期に相当する約2500年前の沖縄の土器も多く見つかっている。見つかった土器片はこの頃に持ち込まれ、
  沖縄の土器と一緒に埋まっていたとみられる。グスク時代の耕作の際に沖縄の土器と一緒に入った可能性が
  高いという。


  ≪ 縄文時代も先進だった奈良県 ≫

  近年まで、縄文時代の遺跡が多く発掘されていたのは東北で、縄文時代は東日本が進んでいたと考えられていましたが、
  奈良県橿原市の橿原神宮付近から縄文時代の土器が多く発見され、その中には亀ヶ岡式土器と同じ形のものや
  遮光器土偶の一部も発見。東北の土器を真似て橿原で作られたものと推測されています。






  さらに、新潟県などの限られた場所でしか採れない糸魚川産ヒスイを使った装飾品も出土しました。
  この事から、この橿原一帯は、日本の東西の文化が集まってきた地域と考えられるようになっています。

  【橿原遺跡】かしはら‐いせき
   奈良県中部、奈良盆地南部の橿原市にある、近畿の縄文時代晩期を代表する遺跡。多数の土器・土製品・石器・
   動物遺体などが出土。また橿原市には歴代御陵・橿原神宮・藤原宮址など史跡が多い。

  奈良県橿原市HP 『かしはら探訪ナビ 橿原市の縄文時代の詳細』
   http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/mukashi_iseki/joumon_shousai.html

  橿原公苑の陸上競技場前に設置された橿原遺跡の案内板 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-4/2010_0809.htm


   ≪ 貝塚 ≫ Wiki 貝塚   5~6世紀の大阪の中心には大きな湖があった。

  縄文時代の貝塚は、日本列島ではおよそ2500個所発見されており、その4分の1近くが東京湾の東沿岸一帯に
  残されている。中でも千葉県下に集中しており、とりわけ千葉市内は分布密度が高く世界最大の貝塚密集地帯
  なっている。

  【貝塚】かい‐づか
   人が食した貝の殻が堆積した遺跡。全世界に分布するが、日本の縄文時代のものが数も多く、内容も豊か。
   土器・石器とともに埋葬人骨や各種の自然遺物が出土し、生活や環境復元資料として重要。

  ※ 縄文時代は東日本の方が人口が多かった。という説などもありますが、大阪南部には貝塚市というのが
   あります。
    大阪は関東と比べ、古くから埋め立てをし発展してきた土地なので、古すぎる遺跡を発見するのが困難という事も
   考慮にいれる必要があります。また、昭和の古いデータに基づいているようです。
   例えば、東京もデータ的には活断層が少ないですが、理由は発展しすぎて土を掘って調べる事ができないからだ
   そうです。

   遺跡発掘などに関わった詳しい人に直接聞いた話だと、関東はアルカリ性の土壌のため、骨や貝などが残りやすい
   そうです。西日本でも縄文時代の遺跡は多数見つかっているが、土器とかだけなので話題になりにくいらしいです。

  【津雲貝塚】つくも‐かいづか
   岡山県笠岡市にある縄文時代後期の貝塚。大正年間の発掘で多数の人骨が出土したことで著名。

  東日本では鮭が遡上してきたので人口が多かった説があるようですが、縄文時代より遙か昔から日本に鯉が生息
  していた事が判明しており、西日本の縄文時代から食べていた後も出土していますので、この説は疑わしくなって
  きています。

  神奈川県 錦光園 『豆知識 鯉の分布』 http://www.nextftp.com/kinkouen/web/mame-bunpu.htm
  日本最古といわれる鯉の化石は、長崎県の壱岐島の新生代第3紀中新世(2500万年前~500万年前)の地層
  から発見されました。また、約200万年前に堆積したといわれる滋賀県の古琵琶湖層や縄文時代の住居跡・貝塚
  などからも鯉の骨が多数出土しています。このことから、鯉は、中国からの移入だと思われていましたが、現在
  では、国内において天然に分布していたと考えられています。


  ≪ 縄文時代の東京の貝塚から人骨片が出土 ≫ 詳しくは 肉のページ 日本での食人の記録

  【大森貝塚】おおもり‐かいづか
   東京都品川区大井6丁目付近(大森駅の北側)にある縄文時代後期・晩期の貝塚。1877年(明治10)E.S.モースが
   発見・調査。

 大森貝塚 (東京都品川区)でも、住民の墓地とは別に、貝殻捨て場には獣畜と同様に細かく砕いた人骨が発見されて
  いることから、食人行為が自然に行われていたものと推測される。

  縄文時代後期は寒冷化に伴う環境の変化により、木の実、動物などの食料が減少した時代である。
  さらに東京、神奈川一帯では箱根山の噴火や富士山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、
  それに伴い急激な人口減少が起きている。

  そのため東京、神奈川では縄文時代晩期の遺跡はほとんど見当たらない。
  その際、寒冷化に伴う食料資源の減少が少ない海産物を中心に食料の確保をしたため、この貝塚ができたとされる。


  ≪ 考古学や分子生物学は近年20年で進歩 ≫  最新研究や発見で、これまで通説が大きく変わっている

  【竹田学校】全リスト
   https://www.youtube.com/playlist?list=PLlZKROf1QRyFB-IgASo_KSopzH5j6BxYq

  これまで通説だった事が近年の考古学や分子生物学の発展と研究によって覆った事がたくさんあります。
  上リンク記の竹田恒泰さん解説の『竹田学校』のシリーズでは、分子生物学でのDNA解析などによって分かった
  日本人の起源や稲作について分かり易く解説されています。← 超オススメ

  【竹田学校】歴史・岩宿時代編①~世界最古の磨製石器は日本製~
  【竹田学校】歴史・岩宿時代編②~日本人は最初から日本人~
  【竹田学校】歴史・縄文時代編⑬~縄文海進と日本列島の豊かさ~
  【竹田学校】歴史・縄文時代編⑭~世界最古の土器は「縄文土器」~
  【竹田学校】歴史・縄文時代編⑮~縄文都市「三内丸山遺跡」~
  【竹田学校】歴史・縄文時代編⑰~日本文化圏だった朝鮮半島~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑤~500年さかのぼった弥生時代~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑦~畑作農耕と水田農耕~日本に奴隷制度出来なかった理由
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑫~「渡来人」とは何者か?~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑬~「朝鮮人」とは何か?~ 
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑮~縄文文化から弥生文化へ~
    などが、オススメですが動画を全部見た方が理解しやすいでしょう。

 
 弥生時代
  NHK Eテレ ETV特集 『人間国宝 弥生の謎に挑む』 08.02.17 放送 (14.05.11 再放送)
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『縄文時代と弥生時代』 14.04.09 放送
  NHK Eテレ 高校講座日本史 『縄文時代の終わりから弥生時代』 14.05.02 放送

  最新の研究結果、ほとんどの弥生系渡来人は朝鮮半島に渡った縄文人 (日本人) だった

  【竹田学校】全リスト
   https://www.youtube.com/playlist?list=PLlZKROf1QRyFB-IgASo_KSopzH5j6BxYq

  これまで通説だった事が近年の考古学や分子生物学の発展と研究によって覆った事がたくさんあります。
  上リンク記の竹田恒泰さん解説の『竹田学校』のシリーズでは、分子生物学でのDNA解析などによって分かった日本人の
  起源や稲作について分かり易く解説されています。← 超オススメ


  【弥生時代】 やよい‐じだい
   縄文時代の後、古墳時代の前の時代。その開始の指標を弥生土器の出現とする考え方と、稲作の開始とする考え方とがある。
   紀元前8~7世紀前後から後2~3世紀頃まで。
   大陸文化の影響を受けて水稲耕作や金属器の使用が始まり、銅剣・銅矛・銅鐸どうたくなどの青銅器と共に鉄器も用いられる。
   普通、前・中・後の3期ないしⅠ~Ⅴの5期に分ける。






  弥生式土器は、縄文式土器と比べ、厚みが薄く丈夫なのが特徴。

  【弥生土器】
   1884年(明治17)東京、本郷弥生町の貝塚で発見されたからこう名づける。弥生時代の土器。弥生文化の指標とされる。
   煮炊き・貯蔵・食事に使用。

  【黍】きび 百菓辞典
   イネ科の一年草。東南アジア原産。弥生時代に、中国から伝来した穀物。「うるち」と「もち」がある。


  広報いずみさの 『いずさの昔と今 第246回』 16.06月号 http://www.city.izumisano.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/35/20160610.pdf
  邪馬台国大研究・ホームページ 『博物館巡り「関西大学博物館」』 http://inoues.net/museum/kandai_univ2.html
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『世界が愛したニッポン』 16.06.09 放送
  TBC東北放送 これが東北魂だ ニッポン人はやっぱりたこが好き 18.01.28 放送

  ≪ 大阪湾沿岸発祥の蛸壺漁、 和歌山・大阪・瀬戸内海東部の沿岸地域で製塩も活発化 ≫

  世界で消費量の約3割・世界一タコを食べている日本人。その関わりは遅くとも弥生時代。
  弥生時代の大阪湾沿岸(兵庫県明石~大阪府泉州地域)および瀬戸内海沿岸各地の
  遺跡からタコ壺が出土しており、その量などから大阪湾沿岸地域が発祥とされています。

  タコ壺漁は、タコが岩穴に潜む習性を利用したもので、明石や泉佐野の湊遺跡からは、
  弥生時代~平安時代くらいまでのタコ壺が出土しており、湊遺跡の場合は、奈良時代頃
  まではイイダコ漁が主体で、平安時代後期頃からマダコ漁に変化していったと見られて
  います。


  兵庫県明石市はマダコの水揚げが日本一で、淡路島との間の明石海峡は潮の流れが速いため、太い引き締まった身を
  持つタコが獲れるため、昔から全国に知られています。
  都道府県別消費量や支出金額では大阪府と香川県が全国トップで、瀬戸内海沿岸県の消費量が多い傾向にあります。
  各地域で明石焼き・たこ焼き・タコ飯などが名物となっており、タコに関する風習や逸話なども多く残されています。

  また、大阪湾・和歌山~瀬戸内海東部沿岸の弥生時代中期からは、専用の製塩用土器も多く見つかっており塩づくりも
  盛んだった事がわかります。
  平成22年5月大阪でも「泉だこ」を地域団体商標として登録して泉州産ブランドのタコをPRしています。

  東北でのタコ漁は籠網漁なので、瀬戸内海より歴史は古くないと推測できますが、現在はタコの水揚げが多くなっています。
  宮城県南三陸町の志津川では昭和30~40年代にタコの大豊漁があり、東京の築地市場に出荷。
  東京では「西の横綱・明石、東の横綱・志津川」と呼ばれたそうです。2017年11月に60年ぶりの大豊漁があり町が沸いています。
  それでも日本全体でのマダコ漁獲量は減っているようです。

  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』
  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、
  日本各地の名物を描いた絵本。巻の五の蛸壺漁の様子がて描かれています。「章魚たこ」の字が充てられています。

  タコの年間購入金額 総務省家計調査平成23~25年の平均額 (ケンミンショー 『大阪SP第2弾』 15.01.29 放送より)
  1位 大阪市 1827円、2位 堺市 1825円、3位 奈良市 1696円、4位 京都市 1653円、5位 神戸市 1637円 全国平均 1250円。

  御影の醸造家で行われていた新酒披露の儀式 「初揚の蛸の足」

  大阪府の泉州地域にある弥生時代中期の大規模な池上曾根遺跡ではし尿や下水を流す環濠システムが確立されていた
  そうです。これが現在発見されている下水道の起源のようです。
  邪馬台国の最有力候補である3世紀の奈良県桜井市の纏向遺跡では水を使用したトイレが作られていました。

  【池上曾根遺跡】いけがみそね-いせき
   大阪府和泉市・泉大津市にある弥生時代の大集落遺跡。濠を巡らす住居域と、その周囲の墳墓などから成る
   付帯施設域とがある。

  宇都宮市 『世界と日本の水道・下水道の起源』
   http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/013/818/kinensi06.pdf


  ≪ タコ壺漁が繋いだモーリタニアと日本との絆 ≫

  2000年頃からアフリカ西部に位置するモーリタニアからのマダコ輸入が始まり、2015年には
  輸入量の35%ほどを占め第1位。

  1960年にフランスから独立したモーリタニアは人口約300万人、国土の9割が砂漠。
  平均月収は日本円換算で約7000円という貧国。日本政府は漁業支援する事にしました。
  上質のマダコが多数生息していると確信した海外漁業協力財団の中村正明さん1人による
  モーリタニアでのタコ壺漁の普及プロジェクトでした。
  水産物輸出の約86%がタコになり、モーリタニア主要産業にまで発展し、漁師の収入は
  公務員の約5倍にもなりました。


  東日本大震災の時、モーリタニアの漁師らから4570万円の寄付があり、月収の1/4を寄付してくれる人も居ました。
  中村さんへの感謝から、子供に「ナカムラ」という名前を付ける漁師が多くいるそうです。
  また、モーリタニア政府は、日本の海洋マグロ船団を排他海域に入れ漁を行う事を許可するほどの感謝を示してくれています。


  ≪ 稲作の始まり ≫

  縄文時代との大きな変化は、大陸から稲作が伝わった事。およそ2500年前頃、中国大陸から渡ってきた人々が
  稲作と九州北部に伝えます。
  弥生時代は縄文時代と比べて平均気温が1.5℃下がった事で樹木の種類が変化し、これまで受けてきた自然の
  恵みが得られにくくなりました。その為、大陸から伝わった稲作を受け入れたと考えられています。

  人々は山野から平野の方に移動。一年を通じ集団で作業する事が増えるため指導者が必要になり、
  環濠集落ができ国へと発展していきます。
  住居は竪穴式住居になり、米を蓄える高床式倉庫なども作られました。

  【環濠集落】かんごう-しゅうらく 環溝集落 (集落は聚落とも書く)
   周囲に濠ほりをめぐらした集落。弥生時代のものは稲作文化の一環として大陸から伝来。
   南北朝。室町時代にも自衛の目的から発達。大和地方に多い。


  【竪穴住居】たてあな‐じゅうきょ
   地面を掘り、その上方に屋根をかけた半地下式の住居。深さ50~100㎝前後。平面は直径3~10m程度の円形、
   または隅丸の長方形を基本とする。
   炉やかまどを備え、柱穴を掘り、周囲に排水溝のあるものが多い。日本では縄文・弥生・古墳時代に広く行われた。

  【高床】たか‐ゆか
   地面に柱を立て、高く張った床。弥生時代には倉庫にこの床が多く、この形式の建物を高床式と呼ぶ。






  佐賀県の菜畑遺跡は現在発見されている中では、日本で最も古く水稲耕作が行われた痕跡が出土しています。
  この頃は、磨製石器で木材を削って作った木製の農具で農作業を行っていました。

  【菜畑遺跡】なばたけ-いせき
   佐賀県唐津市にある縄文時代から弥生時代の遺跡。
   縄文晩期後半の水田跡・炭化米・農耕具などが1980年代に発見され。水田稲作開始の論議をよんだ。

  福岡県の板付遺跡 (縄文時代晩期から弥生時代後期) からは縄文時代になかった水田の跡が発見され、大陸からの
  渡来人が稲作文化を持ち込んだと推測されます。
  弥生土器や農機具だけではなく、当時の水田の中の足跡も残っており、裸足で農作業していた事が分かります。

  【板付遺跡】いたづけ‐いせき    Wiki 板付遺跡
   板付にある弥生時代の遺跡。日本で最初に発見された環濠集落遺跡。住居跡・墳墓とともに水田跡を発見。
   初期稲作文化の解明に重要。

  【打製石器】だせい-せっき … 石を打ち欠いてつくった石器。主に石器時代の遺物。
   
  【磨製石器】ませい-せっき
   研磨して作った石器。新石器時代以降に使われる。ただし、磨製石器の技術は旧石器時代後期にすでに出現。
   日本では上門・弥生時代に盛行。
   斧の形をした石斧せきふは、新石器時代には世界各地で普及していました。






  やがて鉄製の道具も伝わり、農作業が効率的になった事で稲作が広まります。
  同じ頃、青銅器も伝わりますが、こちら農具には使われず、剣や鉾・銅鐸が作られ、銅鐸は主に祭祀に利用されたと
  考えられています。

  【青銅】せいどう ブロンズ、唐架ねからかね、錫すず青銅。
   銅と錫との合金。各種あり、鋳造用のほか、鍛練材・圧延材にも用いられ、亜鉛・鉛などを加えて古来美術・貨幣に
   つくられた。機械の部品にもしばしば用いられ(砲金)、さらに燐りんを加えた燐青銅、金銀を加えた鐘青銅、
   特殊な鏡青銅などがある。真鍮に次ぐ日常に関係深い銅合金。

  【青銅器時代】せいどうき-じだい
   考古学上の時代区分の一つ。青銅器を使用し始めた時代で、石器時代についで出現し、鉄器時代に先行。
   日本では弥生時代に大陸から鉄器・青銅器をほぼ同時に学んだため、独立した青銅器時代はなかった。

  【銅鐸】どう‐たく
   弥生時代の青銅器の一種。釣鐘を扁平にした形で、上方に半円形の鈕ちゅうがある。本来内部に舌ぜつを吊るし、
   ゆり動かして音を出したもの。次第に大形化し、装飾が多くなり、鳴りものの機能を失う。
   高さ十数㎝前後から130㎝以上のものまであり、装飾には原始絵画のあるものがあって有名。
   西日本で製作され、祭器として用いた。


  ≪ 水田稲作の広まり ≫

  近年の研究では今まで出土した土器の種類で縄文と弥生の時代区分されてきましたが、平成25年に、国立歴史
  民俗博物館が福岡雀居遺跡の土器を放射性炭素年代測定法(炭素14)で調べたところ、弥生時代は500年早まり
  約3000年前からとなったようです。そして水田稲作の始まりから弥生時代に区分されるようになったようです。

  九州に伝わった稲作は250年間ほど九州だけで行われました。起源前となるB.C.5世紀に稲作は西日本に全域に
  広まり、B.C.4世紀に東北、B.C.3世紀になって関東・甲信越・北陸へと広まったようです。

  詳しくは【竹田学校】歴史・弥生時代編⓾~弥生人は「渡来人」?「在来人」?~|竹田恒泰チャンネル2
   https://www.youtube.com/watch?v=KNUJ6wvPxs0

  【竹田学校】全リスト
   https://www.youtube.com/playlist?list=PLlZKROf1QRyFB-IgASo_KSopzH5j6BxYq

  【竹田学校】歴史・縄文時代編⑱~稲作に興味を持たない縄文人~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑤~500年さかのぼった弥生時代~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑥~半島に先行した日本の稲作文化~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑦~畑作農耕と水田農耕~日本に奴隷制度出来なかった理由
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑧~稲作は大陸から直接伝わった~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑨~稲の遺伝子からわかる伝来経路~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑮~縄文文化から弥生文化へ~ などが関連の解説動画です。


  ≪ 国の形成 ≫

  その後、渡来人は大阪平野にも進出。時代が下ると共に人口が増え、渡来系と縄文系との
  争い発生したと思われる形跡も兵庫県神戸市の新方しんぽう遺跡から発見されました。
  17ヵ所の石じりが刺さった縄文系の人の骨が発掘されたのです。

  ※ 縄文時代には見られなかった争いが、稲作の普及と共に始まりますが、上記の発掘だけで
    弥生系と縄文系の争いがあったとは限りません。

  鳥取県の青谷上寺地遺跡2~3世紀からも100体のほどの人骨が発見され、刀や弓などの傷が
  見られました。土地や水を巡って縄文人・弥生人関係なく、集落同士の争いが発生していました。

  紀元前1世紀頃までには、争いに勝った集落が負けた集落を従え、国という形が成立していました。

  だだ日本全体でみると、この頃争った形跡が発見されたケースは少ないようです。

  【吉野ヶ里遺跡】よしのがり‐いせき
   佐賀県神埼かんざき郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる、旧石器時代から中世に至る遺跡。
   1986年以来の発掘で弥生時代の大規模な環濠集落跡や墳丘墓などを発見。魏志倭人伝の記述との関係でも注目された。

  日本人のルーツの一つ 弥生系渡来人  中国の「斉」から。
  「下戸」は水田耕作地帯に多い病原体に対抗ために進化した結果か!? 理化学研究所が発表

  NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 和食はどうしておいしくなった !? ~時代の主役たちが育んだ食の遺産~ 14.11.26 放送
  テレビ大阪 がくやdeムチャミタス! 『日本最古のおにぎり』 17.10.15 配信

  1987年に石川県の中能登町の杉谷チャノバタケ遺跡の竪穴式住居後から約2000年前頃のおにぎりと見られる化石が
  発掘されました。この「チマキ状炭化米塊」は現在見つかっている「最古のおにぎり」なので、発見した6月18日が
  「おにぎりの日」と決められました。
  食用ではなく、お供え物または魔除けなどの目的で置かれていたと推測されているそうです。

  2014年1月、奈良県御所市の秋津遺跡から弥生時代前期の水田跡から玄米11粒が発掘。
  保存状態が良い事から、当時の品種やコメ作りの解明に繋がると期待されているそうです。






  【秋津洲・秋津島・蜻蛉洲】あきず‐しま
   名大和国。また、本州。また広く、日本国の異称。あきずしまね。あきずね。
   (もと御所ごぜ市付近の地名から。神武天皇が大和国の山上から国見をして「蜻蛉の臀となめの如し」と言った伝説がある)
   古事記そらみつやまとの国をあきづとふ」。  枕言葉「大和やまと」にかかる。万葉集うまし国ぞ あきづ 大和の国は

  古代の日本の別名各種および、大和=倭國=邪馬台の解説 (和漢才図絵)  原文あり
  「にっぽん」と「にほん」という呼び方は、いつ生まれたのか?  「日本」と呼ばれるルーツは東大阪市にあった


  日本テレビ 所さんの目がテン! 『歴史研究会 歴史研究会特別編 縄文~昭和まで暮らしの変化を一気見~』 19.03.24 放送

  古代の米はタンニン系の赤色色素を含む赤米類が多かったようです。番組のは紫黒米と呼ばれるもの。
  赤米に関する事はは→ Wiki 赤米 でご覧ください。






  この時代は米を炊いていたようで、古墳時代頃から甑こしきという調理甕が伝わり、米を蒸す方法が主流になっていったようです。
  下の黒い物が紫黒米を甕で炊いたものです。食感はモチモチしているようなので糯米系かも知れません。






  
 弥生時代 『化学する古代ロマン 進む「文理融合型」の考古学』  朝日新聞 13.12.02 朝刊 『科学』 より原文ママ
  遺跡から出た遺物の形や様式などを観察して議論してきた考古学で、化学によるアプローチが進んできた。
  遺物の化学組成を調べたり、骨のアミノ酸を分析したりすることで新たな仮説が生まれ、議論が深まっていく。
  文理融合型の考古学により、古代日本人の生活が明らかになりつつある。

  東京理科大の中井泉教授らは、化学分析に特殊な蛍光X線分析装置を開発した。試料にX線を当てて発生する
  蛍光X線を分析することで、試料に含まれる元素の種類や濃度が分かる。


  ≪ X線でガラスの由来分析 ≫ 西日本は東南アジア経由東日本は大陸・朝鮮半島経由

  日本の弥生時代の遺跡や古墳時代の古墳などから、直径1㌢以下のガラス玉(ビーズ)でできた装飾品が数多く見つかる。
  この時代には国内でガラスは作られておらず、海外からもたらされたものと考えられる。だが、どこから運ばれてきたのか
  分かっていない。

  簡素なつくりのガラス玉は、ガラス容器とは違って装飾や様式の特徴から素性を推測するのは困難だ。
  中井さんらは、化学分析により、日本の古代ガラスの由来を明らかにすることを狙っている。

  ガラスは作られた地域によって、元素の組成が異なる。蛍光X線分析装置で国内外の古代のガラスを比較すれば、
  どの地域のガラスが古代の日本に渡ってきたのかが分かる。

  中井さんらは、これまでに日本各地の100以上の古墳や遺跡から出土したガラスビーズや、東大寺や平等院鳳凰堂などに
  保管されている文化財を分析した。さらに、トルコ、シリアなど西アジア地域や、ラオスやベトナムなどの東南アジア地域の
  遺跡の出土品も調べて、結果を突き合わせた。

  西日本で出土するビーズの多くは、アルミニウムを多く含む「アルミナソーダ石灰ガラス」だ。分析の結果、インドや東南
  アジア地域の遺跡から見つかるガラスと、微量成分までよく一致した。ガラスの着色に用いられる顔料の成分も一致した。

  中井さんらは「日本の古代ガラスは、海上交易によって東南アジアや南アジアから運ばれた可能性が高いことが、
  科学的に実証できた。西アジアのガラスが『陸のシルクロード』を通って伝わってきたルートとは別に、
  『海のシルクロード』を使って世界とつながっていた古代の人々の姿が浮かび上がってきた」と話す。

  中井さんの装置は、小型のスーツケースに入れて持ち運びできる。出土品は文化財として博物館などに大切に保管されて
  いる場合もあり、借り受けて日本に持ち帰れない場合も多い。そのため、化学分析を行うには、出土品を傷つけることなく、
  現地で計測できる装置が必要という。





  ≪ アミノ酸から食生活推定 ≫

  アミノ酸を分析することで、古代日本人の食生活に迫ろうとする研究も進んでいる。
  人間や動物の体は食べ物によってつくられる。体を構成する元素の多くは食物由来だ。東京大の米田穣教授らは、
  アミノ酸に含まれる窒素に注目した。窒素は食事によって体内に取り込まれて蓄積する。
  骨から得た窒素の同位体N15とN14の比率を調べることで、食生活を推定できないかと考えている。

  米田さんらは、長野県の縄文時代の栃原岩陰遺跡から出た人骨や動物の骨からコラーゲンたんぱく質を抽出。
  そこから得たアミノ酸の一種、グルタミン酸とフェニルアラニンの窒素同位体の比率を調べた。

  米田さんによると、栃原岩陰遺跡は規模が大きく、多くの人々が暮らす社会だったとみられる。大量の食糧が必要なため、
  不安定な狩猟生活ではなく、このエリアでは農耕が始まっていたのではないかとの説がある。

  アミノ酸の分析結果をみると、淡水性のカワシンジュガイと、人間を含む陸上動物とでは窒素同位体比が大きく異なって
  いた。人間が食物を陸上生態系に依存していたことを示す結果だという。また、人間の同位体比の値は、シカやウサギ、
  イノシシなど草食性に近い動物より、肉食性に近いキツネとほぼ同じ値だった。これは人間が肉食を中心にした雑食性活
  だったことを示しており、たんぱく源の5~割を陸上動物から得ていたと推測できる。

  米田さんは「農耕生活が中心なら、草食動物に近い値を示したはずだ。この地域では農耕はまだ未発達だったのでは
  ないか」と、従来の説に疑問を投げかける。

  従来の考古学的な研究と、最新の化学研究の融合により、古代の日本人の姿がよりいっそう明らかになりつつある。


  Wiki 栃原岩陰遺跡
  栃原岩陰遺跡(とちばらいわかげいせき)は、長野県南佐久郡北相木村で1965年に発見された縄文時代早期の岩陰
  遺跡である。所在地は北相木村字東栃原上ノ段。1987年(昭和62年)国の史跡に指定された。
  栃原岩陰遺跡は、10体以上の縄文時代早期の人骨が出土したことで知られる。土器、石器、骨角器、食料にしたと思われる
  多数の動物(江戸後期から近代に絶滅したニホンオオカミを含む哺乳類、爬虫類、淡水魚など)の骨なども出土しており、
  縄文時代早期の衣食住の研究に非常に多くの資料を提供している。遺物のなかで、骨製の釣針縫い針の精巧さは類を見ず、
  当時の人々の技術水準の高さを物語る。また海から遠く離れたこの遺跡から、サメの歯の加工品やタカラガイ類も出土している


  教科書の定説が覆る トルコから人類最古の神殿と定住の跡

   1万1千年前のギョベクリ・テペ遺跡とハサンケイフ遺跡 農耕や牧畜より、定住が先だった
 
 弥生時代から日本は世界一の農業技術を持っていた
  【雑学】古代の日本の謎と不思議 ㈱日東書院 1991年7月10日発行 佐治芳彦 著 などより

  静岡県の登呂遺跡の発掘調査の結果。
  高低差を利用して田から田へと水を流す農業土木技術は㎜単位の計算で整地されていた
  そうです。このような技術は中国や朝鮮半島などでは発見されていないらしい。

  弥生時代後期、筑紫平野(福岡県南部と佐賀県東部)から後漢(中国25~220年)へ
  米を輸出していたとの事です。

  縄文時代から野生種を栽培種へと品種改良を行っていたらしく、焼畑農業 (藁を燃やした
  灰によるアルカリで、土壌の酸性化を防ぐ)などの知恵により、弥生時代には1本の稲穂に
  50~60粒の籾を結実させていたそうです。

  中世のヨーロッパでも1本の小麦に7~8粒しか実を付けられなかったらしく、焼畑農業の
  理論も17世紀になってから導入したようです。


  ≪ 日本のお通夜で飲み食いする習慣は弥生時代から ≫

  3世紀前半の晋(中国265~420)で編纂へんさんされた『魏志倭人伝(中国の魏の史書。晋の陳寿撰)
  によると、当時の倭国(日本)の風習では「喪主 もしゅ は哭泣 こつきゅう して、他人は
  歌舞 かぶ 飲食する」という事が書かれているそうです。

  ≪ 大陸からの稲作文化と共に食犬文化も伝来 ≫

  魏志倭人伝(3世紀)には、日本には牛馬がいなかったことが明記されている
  ただし「近親者の死後10日ほどは肉を食べない」ともかかれており、肉食は
  行われていました


  ≪ 醤 ひしお  醤油のルーツとされる調味料

  当時の醤は材料別に、「魚醤(うおびしお)」「肉醤(ししびしお)」「草醤(くさびしお)
  「穀醤(こくびしお)」の四種類に大別され、その中でも米・小麦・大豆などを原料とした
  穀醤が、醤油や味噌の原型と考えられています。

  中心的な醤は、魚介類を主な原料とした「魚醤」と考えられており、秋田県
  「しょっつる」や、香川県の「いかなご醤油」、能登地方の「魚汁 いしる 」なども
  魚醤がルーツと言われています。 






  ※ 縄文人を復元した顔が、2014年に直木賞を受賞した黒川博行さん (愛媛県生まれ、3才から大阪育ち羽曳野市在住、65才) と完全に一致 !!







  これまで、弥生渡来人が朝鮮半島から来たという説が語られていましたが、中国の「斉」から来たようです。
  日本人のルーツの一つ 弥生系渡来人   「下戸」は水田耕作地帯に多い病原体に対抗ために進化した結果か!? 理化学研究所が発表

  また、ベトナムに近い中国南部の江南地方からも似た頭蓋骨が見つかっており、日本人と東南アジアの少数民族が
  近いDNAを持っている事も2014年に発見されたようです。

  百済亡命時に朝鮮半島の百済人が日本に多数やってきた事は事実ですが、現在の韓国・朝鮮人の先祖である新羅
  とは別人種。DNA解析によると、日本人と韓国人は別の人種である事が判明しています。

  ≪ 弥生時代 2~3世紀頃の豪族の食事 ≫  フジTV 爆笑!アカン警察 『歴史上の食事で健康になれるのか 第2弾』 13.03.03 放送

   邪馬台国 纏向遺跡などの最新研究 卑弥呼は殺された?
  日本経済新聞 18.09.05  『邪馬台国を見晴らす楼閣 唐古・鍵遺跡』
   https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34967850U8A900C1AA2P00/?n_cid=SPTMG002





  魏志倭人伝 
  「倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。
   其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。

   倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。屋室があるが、父母兄弟は寝室を別とする。
   朱丹を身体に塗り、中国の白粉を用いるが如きである。飲食には御膳を用い、手で食べる

   死ねば、棺(かんおけ)はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、
   服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が水中で
   水浴び(禊だと思うが、原文の入浴に従った)をする。練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。






  赤米は祭事用に食べられていたようです。古代の酒はどぶろく、かなりアルコール度が高いようです。

  大阪高槻市で日本最大の埴輪群出土 
   別の古墳からは年号(青龍3年、西暦235)入りとしては日本最古の銅鏡が5枚発見。
   卑弥呼が魏に使者を遣わして銅鏡を送られたのは239年。

   大阪府和泉市 弥生時代、甲子園15コ分の広大な大集落 池上曾根遺跡。 『いずみ』の由来、泉井上神社

  ≪ おやき ≫

  長野県北部の小川村では、縄文時代の遺跡から『おやき』の原型になったものが発見されています。

  日清製粉グループ 小麦粉の歴史・文化 
   http://www.nisshin.com/entertainment/encyclopedia/flour_04.html

  弥生時代の中期頃には、水田耕作とともに麦類が畑作生産されていました。
   私たちの祖先は、小麦を重湯(おもゆ)のようにして食べていたそうです。
   その後 お粥や、粉にして平焼きにして食べるようになり、紀元前2,000年頃には今の
   パンに似た食べ物をつくるようになりました。

  【弥生時代】農・業・革・命!(講習動画) http://youtu.be/Xb0zFcuTx4I

 
「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
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よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
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2009.02.17発売
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OSAKA HABIKINO IGA 5-9-6  MARCO POLO 取り扱い商品 : アイスクリーム / シャーベット / ザーネアイス / 生チョコアイス / スイートポテト / コーヒーなど
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