日本テレビ 所さんの目がテン! 『歴史研究会 歴史研究会特別編 縄文~昭和まで暮らしの変化を一気見~』 19.03.24 放送
縄文考古学者の岡村道雄さんによると、茂みや岩場に潜り込みエサを待つイワナの習性を利用して、ワナ仕掛けて
おく事で魚を「拾う」と表現できるほどに簡単に捕獲する事ができたそうです。
捕獲した動物や魚、採取した木の実や山菜類を黒曜石を割って作ったナイフでブツ切にして、土器でゴッタ煮状態で
煮て食べていました。塩以外での味付けはしなかったようです。魚などから出汁が出るので割と美味しいようです。
≪ 亀ヶ岡式土器 ≫ かめがおかしき‐どき Wiki 亀ヶ岡石器時代遺跡 /
Wiki 遮光器土偶
縄文時代晩期の東北地方の土器の総称。精緻な美しい文様と変化に富む器形で著名。
青森県つがる市木造きづくりの亀ヶ岡遺跡による命名。
このうち、目が大きく手が小さい人間型の土器は女性を表したものとされ「
遮光器土偶」と呼ばれています。
普通の人間の形を逸脱した極めて特徴的な形態から、一部では宇宙服を着用した宇宙人の姿を模ったものであると
いう説。
(古代宇宙飛行士説)、東北地方で広く信仰されたアラハバキ神であるという説、古代シュメールの女神イシュタル説も
提唱されているそうです。
青森県 三内丸山遺跡は、約5500~4000年前の縄文時代の大規模集落遺跡です。
漆塗りの皿(写真のは復元した物)が出土した事から、盛付けや見た目を楽しみ、縄文時代から、現代の和食に繋がる
食文化を持っていたと考えられています。縄文土器は出土した現物。
宮城県 東松島の里浜貝塚では6000年前の地層から、
頭を落としたフグの骨が大量に見つかり、
調理していた事が
伺えます。
当時の集落では一つの季節では食べきれないほどのアサリの貝殻も出てきた事から、むき身にして保存していました。
保存食、出汁、他の村との交易品に使用されたと推測できます。
三内丸山遺跡は陸奥湾から内陸方向に約4㎞なので、海魚の骨が出てくるのは当然の事ですが、海岸線から内陸に50㎞
離れた秋田県の池内遺跡からはブリやサバの骨が出土しています。
魚の頭の骨の数が少ない事から、頭を落とし内臓を取った塩干物などの加工をして運ばれたと思われています。
≪ 沖縄でも亀岡式土器と糸魚川産の翡翠が出土 ≫
日本経済新聞 17.01.24 『沖縄に東北の縄文土器初発見 広域な交流の証し』 より抜粋
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24HC1_U7A120C1CR8000/
『縄文時代晩期(三千~二千数百年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」とみられる土器片が、沖縄県
北谷町の米軍返還地にある平安山原
B遺跡で出土したと24日、同町教育委員会が明らかにした。
沖縄での発見は初めてで、西日本でも出土は限られている。製作地や沖縄に運ばれた背景を巡り、大きな議論を
呼びそうだ。
北谷町では、縄文時代にアクセサリーとして重宝された、新潟県の糸魚川産の縄文時代晩期の翡翠も別の遺跡
から出土。
2009~10年の発掘調査で、沖縄のグスク時代(11~15世紀ごろ)の耕作土の地層から出土。同じ層からは、縄文
時代晩期に相当する約2500年前の沖縄の土器も多く見つかっている。見つかった土器片はこの頃に持ち込まれ、
沖縄の土器と一緒に埋まっていたとみられる。グスク時代の耕作の際に沖縄の土器と一緒に入った可能性が
高いという。
』
≪ 縄文時代も先進だった奈良県 ≫
近年まで、縄文時代の遺跡が多く発掘されていたのは東北で、縄文時代は東日本が進んでいたと考えられていましたが、
奈良県橿原市の橿原神宮付近から縄文時代の土器が多く発見され、その中には
亀ヶ岡式土器と同じ形のものや
遮光器土偶の一部も発見。
東北の土器を真似て橿原で作られたものと推測されています。
さらに、
新潟県などの限られた場所でしか採れない糸魚川産ヒスイを使った装飾品も出土しました。
この事から、この
橿原一帯は、日本の東西の文化が集まってきた地域と考えられるようになっています。
【橿原遺跡】かしはら‐いせき
奈良県中部、奈良盆地南部の橿原市にある、近畿の縄文時代晩期を代表する遺跡。多数の土器・土製品・石器・
動物遺体などが出土。また橿原市には歴代御陵・橿原神宮・藤原宮址など史跡が多い。
奈良県橿原市HP 『かしはら探訪ナビ 橿原市の縄文時代の詳細』
http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/mukashi_iseki/joumon_shousai.html
橿原公苑の陸上競技場前に設置された橿原遺跡の案内板 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-4/2010_0809.htm
≪ 貝塚 ≫ Wiki 貝塚 5~6世紀の大阪の中心には大きな湖があった。
縄文時代の貝塚は、日本列島ではおよそ2500個所発見されており、その4分の1近くが東京湾の東沿岸一帯に
残されている。中でも千葉県下に集中しており、とりわけ
千葉市内は分布密度が高く世界最大の貝塚密集地帯に
なっている。
【貝塚】かい‐づか
人が食した貝の殻が堆積した遺跡。全世界に分布するが、日本の縄文時代のものが数も多く、内容も豊か。
土器・石器とともに埋葬人骨や各種の自然遺物が出土し、生活や環境復元資料として重要。
※ 縄文時代は東日本の方が人口が多かった。という説などもありますが、大阪南部には貝塚市というのが
あります。
大阪は関東と比べ、古くから埋め立てをし発展してきた土地なので、古すぎる遺跡を発見するのが困難という事も
考慮にいれる必要があります。また、昭和の古いデータに基づいているようです。
例えば、東京もデータ的には活断層が少ないですが、理由は発展しすぎて土を掘って調べる事ができないからだ
そうです。
遺跡発掘などに関わった詳しい人に直接聞いた話だと、関東はアルカリ性の土壌のため、骨や貝などが残りやすい
そうです。西日本でも縄文時代の遺跡は多数見つかっているが、土器とかだけなので話題になりにくいらしいです。
【津雲貝塚】つくも‐かいづか
岡山県笠岡市にある縄文時代後期の貝塚。大正年間の発掘で多数の人骨が出土したことで著名。
東日本では鮭が遡上してきたので人口が多かった説があるようですが、縄文時代より遙か昔から日本に鯉が生息
していた事が判明しており、西日本の縄文時代から食べていた後も出土していますので、この説は疑わしくなって
きています。
神奈川県 錦光園 『豆知識 鯉の分布』 http://www.nextftp.com/kinkouen/web/mame-bunpu.htm
『日本最古といわれる鯉の化石は、長崎県の壱岐島の新生代第3紀中新世(2500万年前~500万年前)の地層
から発見されました。また、約200万年前に堆積したといわれる滋賀県の古琵琶湖層や縄文時代の住居跡・貝塚
などからも鯉の骨が多数出土しています。このことから、鯉は、中国からの移入だと思われていましたが、現在
では、国内において天然に分布していたと考えられています。
』
≪ 縄文時代の東京の貝塚から人骨片が出土 ≫ 詳しくは 肉のページ 日本での食人の記録
【大森貝塚】おおもり‐かいづか
東京都品川区大井6丁目付近(大森駅の北側)にある縄文時代後期・晩期の貝塚。1877年(明治10)E.S.モースが
発見・調査。
『大森貝塚 (東京都品川区)でも、住民の墓地とは別に、貝殻捨て場には獣畜と同様に細かく砕いた人骨が発見されて
いることから、食人行為が自然に行われていたものと推測される。
縄文時代後期は寒冷化に伴う環境の変化により、木の実、動物などの食料が減少した時代である。
さらに東京、神奈川一帯では箱根山の噴火や富士山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、
それに伴い急激な人口減少が起きている。
そのため東京、神奈川では縄文時代晩期の遺跡はほとんど見当たらない。
その際、寒冷化に伴う食料資源の減少が少ない海産物を中心に食料の確保をしたため、この貝塚ができたとされる。
』
≪ 考古学や分子生物学は近年20年で進歩 ≫ 最新研究や発見で、これまで通説が大きく変わっている
【竹田学校】全リスト
https://www.youtube.com/playlist?list=PLlZKROf1QRyFB-IgASo_KSopzH5j6BxYq
これまで通説だった事が近年の考古学や分子生物学の発展と研究によって覆った事がたくさんあります。
上リンク記の竹田恒泰さん解説の『竹田学校』のシリーズでは、
分子生物学でのDNA解析などによって分かった
日本人の起源や稲作について分かり易く解説されています。←
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などが、オススメですが動画を全部見た方が理解しやすいでしょう。