手づくり アイスの店 マルコポーロ
調味料などの雑学1 塩・味噌・しょうゆ
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   20.02.22
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「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~弥生・神話時代1   奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents





 このページは只今、分割整理中です。 19.11.15にマヨネーズ・ソースなどを調味料2ページに移動
 カレーとお好み焼きはそれぞれ新設ページを作って情報追加再整理中です、後日このページの
 関連情報を移動し削除予定です。


  日本人はWHO推奨の2倍量の塩分を摂取

 兵庫県 赤穂の塩  江戸時代中期の「最上の塩」との記述。
  忠臣蔵の事件の裏には、吉良家が赤穂の塩の製法を盗もうとした背景があった。

 2014年8月 食塩不使用のカレーが発売される

 「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件
  多角的徹底検証 『守貞謾稿』にある上方と江戸との味付けの違いの記述

 塩分味覚チェック 東京VS青森
  東京は味覚音痴が2~3割いる? 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人 (東京で調査)

 味噌 味噌の雑学 各県のみそ汁   江戸っ子に好まれた 江戸甘味噌

 2015年の味噌のトレンド 真っ白な西京味噌、注目のおかず味噌。

 おかず味噌 金山寺味噌、鉄火味噌など

 西日本人「全否定」!! 東日本定番の『生味噌おにぎり』

 仙台味噌と宮城県の製塩事業の始まり 江戸の米市場の1/3を仙台藩の米が占めていた事もあった。

 大塩平八郎の好物だった 大阪 米赤だし味噌

 1643年刊『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部」の全文

 醤油 「醤油」の文字初出は、室町時代「節用集」

 千葉の醤油 1697年に濃口醤油を作ったとする年代などが怪しい件

 関西の淡口醤油 醤油の色んなデータ、千葉の醤油が主流になった怪しい理由

 砂糖は、日本のアイスの歴史ページで  酢は、寿司の歴史・雑学ページで  味醂 元々は高級酒として飲まれていました。

  「江戸時代から東京が一番すごい」と思い込んでいる人は、下記リンクの文献が国立国会図書館デジタル
  コレクションのサイトで公開されているので、読んでおいた方がいいでしょう。
  東京メディアおよびウィキペディアを含む東京人が書いたサイト内容と、史実は全く違う事が一級史料から
  確認できるはずです。

  江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

  江戸時代の主な重要文献と著者   江戸時代に出版された主な菓子の専門書

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 【 塩 】 Salt 1日平均 6gの塩が適量らしいが、日本人の食塩の摂取量は、ほぼ倍の11g。 Wiki 塩   藻塩づくり
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『寒いときに気をつけたい脳卒中』 14.12.04 放送 などより

  ≪ 日本人は、世界で最も塩分を摂取している国民 ≫

  日本人が塩味が好きな理由は、米を主食にしてきたから。という説があります。
  米にはカリウムが多く含まれており、米ばかり食べていると血中のカリウムが増える。
  それを抑える働きをするのが、塩(ナトリウム)だとか。

  しかし、庶民の主食が米になったのは、江戸時代頃のはず。それまでは麦、稗(ひえ)、
  粟(あわ)、豆、芋などの割合が多かったはず。
  米を主食にしている国の多くが塩分を摂り過ぎているのだろうか? という疑問も。

  京都光華女子大学 健康科学部 健康栄養学科の廣田孝子 教授によると、
  「日本の伝統料理は『発酵文化』、味噌や醤油、漬物など塩分が多いんです。」

  WHO (世界保健機関) の2013年のガイドラインでは、食糧摂取量は1日5g未満。
  日本の成人の平均は10.4g

  肉食が多い西洋人の場合、肉そのものに『うまみ成分』がついているので、塩分が
  少なくてもおいしく食べられるのだそうです。

  日本食も『旨味成分』が多く含まれている出汁を上手に使うと、塩分を減らす
  事が可能です。


  ※ 現代の日本では米の消費量が年々減少しているのに、それでも塩分は摂り過ぎています。
   なぜ???
   それは、濃い味付けのファストフードやスナック菓子を多く食べるようになったからです。


  ≪ 寒い地方の人が、塩分の濃い味を好む理由 ≫  都道府県別1日の食塩摂取量など

  寒いと血管が収縮し、体から熱が奪われるのを防ごうとするが、血管収縮が
  おこると、血圧が下がる。てっとり早く血圧を上げるのが塩分だからだそうです。
  冬になると野菜類が取れなくなったりして、食べる物に困らないように塩蔵品
  などの保存食が発達した為。


  ≪ 塩分摂取が多いと、短気になる? ≫

  塩分の多い食事を摂っている人は、高血圧が原因で脳卒中や心臓病などの病気
  になりやすいだけでなく、短気な性格になりやすい。

  織田信長は、暴君とも呼ばれる事があるほど、少しの事で激高する性格だったと
  言われており、原因は塩分の濃い食生活にあったと、言われていますが、
  せっかちな性格の人は、食事もガツガツと早く食べるので味わう暇がない。
  だから、元々濃い味付けが好きになりやすい傾向にあるのです。




 大阪の老舗昆布店が教える
 簡単なダシの取り方・昆布の選び方

1日にとる食塩の目安
2010年版 日本人の摂取基準
男性 女性
6~7才 6.0g 未満 6.0g 未満
8~9才 7.0g 未満 7.0g 未満
10~11才 8.0g 未満 7.5g 未満
12才以上 9.0g 未満 7.5g 未満




  東北などの寒い地域は、西日本より甘いめの味が好きなのは、寒いから糖分を必要とするというだけではなく、
  気温が低いと甘味は感じにくくなります。 
  もう一つの大きな理由は、他の地方より、砂糖が手に入りにくい時代が長く、砂糖は貴重品、甘い物への憧れなどの
  意識が残っているからだそうです。バナナやパイナップルなどに憧れた時代の菓子も各地にあります。


  ≪ 「良い塩梅」という言葉あるように、和食の味の決め手は塩加減が最重要 ≫

  懐石料理の後の方に出される薄味のお椀物の清汁(すましじる)の塩加減は
  0.7%の塩分がベストなのだとか。血液の塩分濃度とほぼ同じだそうですよ。


  ≪ 伝統のある老舗料亭や旅館などに見られる 玄関前の盛り塩のルーツ ≫

  塩は魔よけ、厄払いにも使われます。ケチで難クセをつけるような客が帰ったら、「塩まいとけ !!」なんていう事にも
  なります。盛り塩はそれだけではなく、客を呼び込む為の習慣からきたものです。

  昔の中国皇帝は、大勢いる側室の家を訪ねるのに牛車を使っていた。
  皇帝がなかなか訪ねてくれない事に悩んだ側室の一人が、牛に塩を与えないようにと、牛の世話係に言っておき、
  自分の家の玄関に塩を盛っておいたのです。
  すると、塩分の足りない牛は、彼女の家の前の塩を舐めるのに懸命で、言う事をきかず動かなくなった。
  仕方なく、皇帝は彼女の家を訪問しなくてはいけなくなった。

  大抵の植物にはほとんど塩分が含まれていないので、草食動物は塩が大好物。
  鳥は塩分を体外に出さないような仕組み、尿にほとんど塩分は含まれていないそうな。
  でも、インコ類は塩土を与えなければなりませんし、鶏も塩を与えた方が良いとか。


  ≪ 無塩ドットコムの食塩不使用カレー ≫

  2013年の冬に開設されたサイト。運営者自身の経験から、減塩・無塩料理の研究を
  重ねた減塩・無塩食品の専門店があるそうです。

  全国から減塩・無塩の商品を取り寄せ、200種類以上の商品があり、うち40~50の商品が
  無塩食品。2014年8月に独自に開発した日本初の食塩を全く使わないチキンカレー
  (2食1145円) を販売。


  毎日放送ちちんぷいぷいのパネラー陣 (桂南光、堀ちえみ、廣田遥、ピーコ 敬称略) によると
  「スパイシーで美味しいけど、頼りない味と感じる人もいるだろう」との事。


  塩の消費量2008年 http://todo-ran.com/t/kiji/11731   都道府県別1日の食塩摂取量など

  1位 青森、 2位 山形、 3位 秋田、 4位 長野、 5位 岩手、 6位 新潟、 7位 福井、 8位 島根、 9位 福島、10位 石川
  38位 静岡、 39位 東京、 40位 京都、 41位 神奈川、 42位 愛知、 43位 大阪、 44位 沖縄、 45位 三重、
  46位 兵庫、 47位 奈良

   ※ 都市部は外食や中食 (弁当や総菜の購入) 機会が多い事、地方は大家族の割合が高い。なども考慮に入れて判断してください。

  野菜に含まれるカリウムには、ナトリウムを体外に排泄する効果があるので、
  塩分過多と感じている人は、もっと野菜を食べましょう。


  広報いずみさの 『いずさの昔と今 第246回』 16.06月号 http://www.city.izumisano.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/35/20160610.pdf

  ≪ 製塩作りは弥生時代中期から活発化 ≫

  大阪や瀬戸内海沿岸各所の弥生時代の遺跡からタコ壺の土器がたくさん出土しており、タコ壺領は大阪湾が発祥とされています。
  それらの遺跡の内、大阪湾~瀬戸内海東部沿岸と、和歌山の遺跡からは専用の製塩用土器も多く見つかっており塩づくりも
  盛んだった事がわかります。
 
 兵庫県 赤穂の塩
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「にっぽん城下町めぐり④ 兵庫 赤穂」』 13.12.12 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『極上素材をゲットし究極の鍋を作れ! 昔ながらの塩作りを体験!』 14.03.21 放送

  兵庫や広島、四国辺りの瀬戸内海は、四国山地と中国産地に挟まれた雨の少ない地域なので天日乾燥での塩つくりに
  適した気候の地域。

  713 (和銅6) 年の詔に基づいて撰進された地誌の一つで、現在の兵庫県南西部の播州地域の『播磨国風土記』には
  塩代の塩田廿千代を奉りき 名 塩代田有りという記述があります。

  同じ詔に基づいて養老年間 (717~724) に撰進された、現在の茨城県の『常陸国風土記』では「塩を焼きて業とす」と
  あり、古代からの焼き藻塩の製塩方法でした。

  赤穂がある播州地域では、少なくとも奈良時代には塩田による進んだ製塩方法が行われていた事が分かります。

  【赤穂】あこう  Wiki 浅野長直
   兵庫県南西部の市。旧称、仮屋または加里屋。赤穂城は1615年(元和1)池田政綱の築城。
   のち、1661年、浅野長直が入城し城下町を整備、孫 長矩ながのりのとき除封。かつては瀬戸内海沿岸最大の製塩地
   人口5万2千。

  赤穂は東側に隣接する相生市で西国街道と赤穂街道がつながっており、赤穂市坂越さこし辺りは、江戸時代の参勤交代を
  行う大名が立ち寄り明治時代まで、塩を全国に運ぶ拠点にもなりました。






  【赤穂事件】  Wiki 浅野長矩 Wiki 吉良義央
   元禄14年(1701)3月14日、勅使馳走役の赤穂藩主 浅野長矩が、江戸城松之廊下で指南役の吉良義央きらよしなかを斬りつけ、
   即日切腹・改易を命じられた事件と、翌年12月14日、47人の赤穂義士が吉良義央邸を襲撃して義央の首級をあげた事件
   との併称。演劇や文学作品に脚色。

  この赤穂事件の裏には、高品質の赤穂の塩の製法を吉良家が取り入れようとして断られるという事件があります。

  塩 『忠臣蔵と塩について』 http://sio1.net/chusingura/  ← 塩について詳しいサイト


  ≪ 赤穂の塩 ≫

  江戸時代に高い品質を誇った赤穂の塩は、揚浜式を更に改良した入浜式という製塩方法で大量に塩をつくる事ができ、
  赤穂藩は豊な藩でした。

  石川県では、揚浜式での製塩を500年ほど前から現在も続けているそうです。

  【揚浜】あげ‐はま
   塩田の一種。満潮面より高い海浜の砂上に海水をまいて天日により水分を蒸発させ塩をとる。

  【入浜】いり‐はま
   満潮面より低い海岸に海水を流入して行う製塩法。揚浜を改良したもので、江戸初期から行われた。






  ① 海水を塩田に均等になるように撒く塩かけ作業。 ② 海水が蒸発しやすいように塩田の砂をならす。
  ③ 海水が蒸発し、塩分が付着した砂を沼井ぬいという装置に入れ、再度 海水で洗い流す事で、塩分の高い塩水を作る。
  ④ こうして出来た 海水の約6倍の塩分濃度に濃縮したかん水をかき混ぜながら煮詰めて塩を作ります。
  ⑤ 素人と職人が作る塩では、かなり違いができるようです。

  【鹹水】かん‐すい … しおからい水。海の水。淡水。製塩の原料にする、食塩を多量に含んでいる水。






  【塩味饅頭】しおみ-まんじゅう 百菓辞典
   製塩の盛んであった赤穂 (兵庫) 名物の饅頭。
   寒梅粉と砂糖を混ぜた皮で、塩味のきいた小粒あんを包むもので、木型を使って作る。

  赤穂市立海洋科学館では、塩づくり体験ができるようです。詳しくは下記リンク先で

  赤穂市立海洋科学館HP http://www.ako-kaiyo.jp/  赤穂市立歴史博物館HP http://www.ako-rekishi.jp/


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) の上巻一「

  「煎塩」「氷塩取様」「弐度焼塩」「花塩取様」「塩水せんじ様」のレシピが書かれてあります。
  にが塩取様 塩俵を立にして十四五日置けば 苦塩たり至極の塩に成也 塩は播州あかふ上也 讃岐塩もよし
  やき塩は播州より 森和泉守殿 献上也 箱塩あり つと塩有 同事也 献上塩也 最上の焼きしほ也

  同書の上巻四「汁 味噌 すまし
  潮煮の法 潮は播州明石浦に拾間程の間 明石より流出る川水の潮境有 此所の塩あんばい最上也
  此水にて鯛を煮候を潮煮と云 外の潮は潮からくして 水入候 とても潮あらくして喰えず


 幕末の『守貞謾稿』下巻 第二十八編 食類 「」P.417 鹽=塩

  今世 諸國の海濱製之と雖ども播の赤穂を上品とす 又 江戸に漕す物は阿州多し 齋田鹽と云 阿の齋田專ら作也
  世事談云 燒鹽は天文年中 洛上鴨畠枝村 藤太郎と云者 泉州湊村に住居し 紀州雜賀鹽を土壺に入れ燒反し 諸國に
  出す 壺鹽屋藤太郎と云 承應三年甲午 女院御所より於ほけなくも天下一の號を時の奉行 石河氏に命じて賜る 又
  延寶七年 鷹司殿下より折紙状を給ふ 呼名は伊織と號す 猿丸太夫の末裔也と云 傅ふ云々
  江戸近濱には行徳に製

  「雖ども=いえども」「阿州=阿波の国=徳島県」「齋田=斎田 (神に供える米を栽培する田、御共田・神饌田)」
  「天文てんぶん=(1532~1555年)」「=京都」「=雑」「=焼」「承應じょうおう=承応 (1652~1655年)」
  「女院御所にょういん-ごしょ=女性皇族の居所」「延寶えんぽう=延宝 (1673~1681年)」「泉州=大阪府南部」

  「←原文では、この漢字の「旧字体の平仮名」、現在の仮名では「お」、おおけ=(「分相応に大きい」という意味)」
  「鷹司たかつかさ=藤原氏の五摂家の一つ、室町の鷹司に邸があった事から、近衛家と藤原兼平の時より分離」
  「=号 (よびな)」「猿丸太夫=平安初期頃の三十六歌仙の一人」「傅ふ=いつ-う? 、かしず-う (世話係、後見)」
  「行徳ぎょうとく=千葉県市川市の一地区、製塩で有名」

  「世事談=1734 (享保19) 年刊 『本朝世事談綺』菊岡沾凉 (表具師・俳人、伊賀上野生まれ、江戸神田在住)」
   Wiki 菊岡沾凉  コトバンク 「菊岡沾凉」


  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』
  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、日本各地の
  名物を描いた絵本。巻の三には赤穂の塩を名物として紹介、塩づくりの工程が1つの絵に描かれています。

  江戸時代中期、北前船の瀬戸内海での積荷は色々とありますが、塩が最も主要品でした。
  この瀬戸内海の塩が大量に供給されるようになって、特に北陸や東北の日本海側で塩蔵品が発達する事になります。
   江戸時代の海上物流 北前船

 
 【 「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件 】
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『関西人の薄味アピールを検証してみた件』 13.11.04 放送

  東京の問題には一切触れず、他の都道府県のアラ探しをしてバカにするナレーションで面白おかしく紹介するバラエティー番組。
  日テレの「月曜から夜ふかし」。他県のことが分かって役に立つこともあります。

  2013年の11月と12月の総集編で「関西の薄味アピール問題」を取り上げていました。
  さて、東京メディアである日テレの検証は本当なのか? いつもの東京メディアお得意の嘘・ねつ造の偏向報道ではないのか? 


  ≪ 番組内での問題提起と結論 ≫  昭和期も東京は飯がマズい所で有名だった 特に浅草

  関西人の「薄味アピール」には、「関西(薄味)は洗練され本質が分かる。関東(しょっぱい)田舎者で何も分からない」という
  根深いニュアンスが含まれているのだ。」

  「関西人 それは関ヶ原の戦いに敗れ 首都が東京に移っても 心のどこかで関東の人間を見下している人達」
  ↑ 関西人が関東人を見下す最大の理由は、東京メディアが常に偏向報道をしており、その創られたイメージで語る人たちが多いからです。






 「我慢ならない関西の薄味アピールを検証していこう」
  用意したのは全国的に人気のカップうどん。関東と関西で味を変えている。スープの色は関東が濃く、関西は薄い。
  しかし、塩分を計ってみると なんと、関西の方が塩分が高いではないか。
  関西人御用達の淡口しょうゆのラベルには、濃口しょうゆより しょっぱいと明記されている。

  大阪研究家で、相愛大学(大阪)人文学部の前垣和義 特任教授に色の違いを聞く。
  違いは江戸時代から、江戸(東京)ではカツオ節が主体でダシを取るため、鰹の色や臭いが出るので、醤油で隠していくので
   濃口を使った。
   上方は昆布でダシを取る昆布は色や臭いが出ない。これが濃い江戸、淡い上方との違いが出てきた背景の一つ

  ※ ちなみに、「しょっぱい」は関東方言で、「塩辛い」が:現在でも標準語です。






  「我々関東人は京都に憧れ過ぎだが、京都人はダシとは全く関係ないパン購入量1位、コーヒーに使う金額1位である…」など。
  京都人に関東の蕎麦を食べさせて感想を聞く。というVTRに続きます。






  「我々は最後に言いたい。赤身魚より白身魚の方が偉い訳でもなく、かつおだしより昆布だしの方が偉い訳でもない。
  濃い味より薄い味の方が 偉い訳でもない。 関西人も関東人もウマいと思うものは変わらない。
  今後、薄い味だというのは、一切やめて頂きたい」

  J タウンネット 13.11.07 配信 『グルメ 東京都 マツコ、関西人を「バカ舌」と揶揄 薄味のつもりが「塩分濃い」』 
   http://j-town.net/tokyo/gourmet/blog/011177.html  ← 番組内容を書いているサイトがありました。

 食文化について関西人がことあるごとに口にする「上方は薄味やさかい、関東の食べ物は塩辛くてよう食べられへん」。
  これが真実なのか検証したのが、2013年11月4日(月)放送の「月曜から夜ふかし」(日本テレビ系)だ。大阪出身のMC村上信五は、
  次のように語る。「おいしい、イコールちょっと薄い。これでずっと育ってきた。薄さの中の旨みを気づけへんおたくら関東人、
  可哀そうでんな~

  そこで番組は全国発売のカップうどんを調査した。メーカーは関東と関西で味を変えていて、関東向けの方が汁の色が濃い。
  ところが塩分濃度を測定すると、関西の方が高かったのだ。醤油も同様だ。つゆの色が濃いから塩辛いというわけではない。
  しかし番組スタッフが京都の人たちに関東のソバを食べてもらい、「関東の方が塩分濃度は低い」と説明しても、なかなか
  理解してもらえない。

  「あっ、辛いです」「濃いっていうんですか、しょっぱい感じがする」「色がね、パッと見たときにちょっと濃いそうだなって。
  京都の色はもっと薄い」「薄い方がおいしそうに見えるね」

  そんな関西人に容赦はしないマツコ・デラックス。
  「こんな繊細な味で味覚を感じるほど、高度な食文化と舌を持っていますって言いたいんでしょ。でも、実際はああじゃないですか。
   バカ舌はあなたたちじゃないですか

  塩分濃度が高いことは知っていました、悲しいです...としょぼくれた村上を見て、マツコは「関東の調理法はみんな茶色くなる。
  品の良さみたいなものは関西の方があると思うの」と大人のフォローをしていた。

  ただ、関東の方が出汁の味が薄く味が単純なので、醤油の味がまろやかにならず、塩分が薄くても辛く感じるのは間違っていない
  という説もある。そのあたりのメカニズムまで、できれば突っ込んで欲しかった。


  11月の放送の実証は突っ込み所が多すぎます。 
  ・ メーカー名を明らかにしていない。 ・ 実験の過程が全く放送されていない。 ・湯 の量やつゆの素の入れ方で大きく変化する。
  ・ 実験の結果が正しいか? メーカーに確認をしていない。 ・ 1つのメーカーのカップうどんを調べただけ、など。

  小学生レベルの実験で結論を出しており、何ら検証になっていない。「結論ありき」の情報操作の疑いがある。


  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『日本全国の大問題 年末総決算スペシャル後半戦 「関西人 薄味アピール問題』 13.12.24 放送

  ≪ 11月4日の番組内容を見た関西人の反応 ≫






  皆さ~ん、完全に騙されていますよ !! これがTV偏向報道の怖さです。と、個人的に思ったので、詳しく調べてみました。

  数年前からネットのブログでもインスタント麺の塩分について書いている人が多く居ますが、関西人と関東人で全く違う見解を
  しています。
  それぞれ主張が違うので反対意見を持つ人が見た場合は、納得いかない程度の根拠しか載せてないないサイトがほとんどです。


  ≪ カップうどん メーカーの情報による検証 ≫

  【日清食品 (大阪発祥)】

  日清食品 製品ラインナップ 日清のどん兵衛  http://www.nissinfoods.co.jp/product/lineup/brand_3.html

  まず、番組の検証の被検体となったと推測される日清のどん兵衛「きつねうどん」を調べてみました。
  2013年12月現在、4種類ありました。

  画像が多いとHP容量が増えるので、分割して必要な部分だけ載せています。
  全体は、上記リンク先メーカーHPで確認して下さい。

 
 北のどん兵衛 北海道
 内容量     94 g
 (うち麺   74 g )
 エネルギー 414 kcal
 ナトリウム  2.3 g
 (麺・かやく 0.8g /
  スープ 1.5g)
 お湯の目安  390 ml
 食塩相当量  5.8 g
 どん兵衛 液体つゆ仕上
 内容量    114 g
 (うち麺   74 g )
 エネルギー 432 kcal
 ナトリウム  2.6 g
 (麺・かやく 0.9g /
  スープ 1.7g)
 お湯の目安  390 ml
 食塩相当量  6.6 g
  どん兵衛 
 内容量     96 g
 (うち麺   74 g )
 エネルギー 422 kcal
 ナトリウム  2.4 g
 (麺・かやく 0.8g /
  スープ 1.6g)
 お湯の目安  410 ml
 食塩相当量  6.1 g
  どん兵衛 西
 内容量     95 g
 (うち麺   74 g )
 エネルギー 412 kcal
 ナトリウム  2.5 g
 (麺・かやく 0.9g /
  スープ 1.6g)
 お湯の目安  410 ml
 食塩相当量  6.4 g



北のどん兵衛 北海道

どん兵衛 液体つゆ仕上

 どん兵衛 

どん兵衛 西


  麺・かやくとスープの重さの違い、必要とするお湯の量など、それぞれ微妙に違うので、このデータからスープの塩分濃度だけを
  出すのは無理。カップ全体の食塩相当量で判断するしかありません。

  どん兵衛のきつねうどん 東日本の液体仕上げ 6.6g、 西日本 6.4g、 東日本 6.1g、 北海道 5.8g
  どん兵衛の天ぷら蕎麦  東日本の液体仕上げ 6.6g、 西日本 6.4g、 東日本 6.4g、 北海道 6.1g

  このデータを見ると、番組でのスープの塩分濃度検証は完全に正しいとは言えませんが、カップ全体だと 
  通常の「どん兵衛のうどん」では関西の方が食塩相当量が多い。蕎麦では東西の食塩相当量は6.4gで同じ。


  【東洋水産 (関東発祥)】

  東洋水産 マルちゃん 商品ラインナップ https://www.maruchan.co.jp/aka-midori/lineup/akaikitsune.html

  「赤いきつね うどん」「緑のたぬき 天そば」ともに、2013年12月現在、東向け、関西、西向けの
  各3種類ずつありました。

  西向けは割愛していますので、西日本の方は上記リンク先のメーカーHPで確認して下さい。

 
 緑のたぬき蕎麦 東向け
 内容量    101 g
  (うち麺    72 g )
 エネルギー  486 kcal
 ナトリウム   2.5 g
 (麺・かやく 0.9g /
  スープ 1.6g)
 食塩相当量  6.4 g
 (麺・かやく 2.3g /
  スープ 4.1g)
緑のたぬき蕎麦 関西 
 内容量    101 g
  (うち麺    72 g )
 エネルギー  485 kcal
 ナトリウム   2.4 g
 (麺・かやく 0.8g /
  スープ 1.7g)
 食塩相当量  6.1 g
 (麺・かやく 2.0g /
  スープ 4.1g)
赤いきつね 東向け  
 内容量     96 g
  (うち麺    74 g )
 エネルギー  425 kcal
 ナトリウム   2.5 g
 (麺・かやく 1.0g /
  スープ 1.5g)
 食塩相当量  6.4 g
 (麺・かやく 2.6g /
  スープ 3.8g)
 赤いきつね 関西
 内容量     95 g
  (うち麺    74 g )
 エネルギー  430 kcal
 ナトリウム   2.3 g
 (麺・かやく 0.9g /
  スープ 1.4g)
 食塩相当量  5.8 g
 (麺・かやく 2.2g /
  スープ 3.6g)



緑のたぬき蕎麦 東向け

緑のたぬき蕎麦 関西

赤いきつねうどん 東向け

赤いきつねうどん 関西


  赤いきつねうどん  東向け 6.4g、 西向け 6.1g、 関西 5.8g
  緑のたぬき天そば 東向け 6.4g、 西向け 6.4g、 関西 6.1g

  こちらは麺・かやくと、スープの食塩相当量が内訳で表示されているので、うどんの場合は関西の方がスープの食塩
  相当量も少ない。日清食品のどん兵衛とは、逆の結果になりました。

  ※ 「うどんツユ」より「そばツユ」の方が味が濃いのが普通です。味が濃い方が蕎麦の香が際立つ事と、小麦麺は
    塩分を含むからです。
    同じ小麦麺の場合は、素麺のような細い麺の方が、ツユが麺に絡みやすいので薄味に仕上げます。

  ちなみに、2013年のネットでカップうどん販売量では、塩分が少ない東洋水産の方が一番売れていました。


  ≪ ナトリウムと食塩相当量(塩分量)の関係 ≫ ナトリウム量 ≠ 食塩相当量(塩分量)

  ナトリウムとは、食塩に含まれる成分の一部であり 「ナトリウム量」=「塩分量」ではありません。
  またナトリウムは食塩だけではなく、旨味調味料などにも含まれています。

  ナトリウム量の表示だけの場合は、塩分に置き換える計算式があります。

  ナトリウム (Na) 量g × 2.54 = 食塩相当量g 
   ( ナトリウム量が ㎎ 表示の場合は × 2.54 ÷ 1000 = 食塩相当量g で計算 )

  ※ 食塩相当量は、食品に含まれるナトリウム (Na) が、全て 食塩(NaCl) から出てくるものと仮定して計算するものです。
   「2.54」という数字は、原子量の重さ ナトリウム(Na) 22.990、カルシウム(Cl) 35.453 から導き出されたもので、
   ClはNaの1.542倍の重さです。

   Naの重さを「1」とすると、Clの重さは約「1.54」 食塩(NaCl)は、Na の「1」 + Cl の「1.54」 = 2.54 の重さになります。


  ≪ 大阪 と東京 を代表する うどん店 のつゆの塩分比較 ≫  昭和期も東京は飯がマズい所で有名だった 特に浅草

  日本テレビ 所さんの目がテン! 『知識の宝庫!目がテン!ライブラリー 大阪うどん うす味の謎』 01.10.28 放送
   http://www.ntv.co.jp/megaten/library/date/01/10/1028.html

  東京の蕎麦屋の「生そば」と書かれた暖簾には意味はない 実はほとんどが二八蕎麦だった





  これに関しては、東京人の「一番、しょっぱい店を選んだ出来レース」という反論もあるようですが、これが元々の
  江戸の味であり、(この下で≪ 食文化の歴史からの考察 ≫で解説します)その事を知らないのは、東京へ
  移住してきた地方出身者の発言ですね。

  また、これを放送したのは、東京メディア、どちらも日テレ。
  これがおかしいなら、「月曜から夜ふかし」の内容も否定するべきですが…。 守貞謾稿「江戸は醤油たっぷりで塩味を付ける」の記述


  ≪ ネットにあった おでんのレシピによる検証 ≫  日本各地の水の硬度

   味の素 「おでんレシピ」 
   http://park.ajinomoto.co.jp/recipe/corner/standard/oden?search_word=%E3%81%8A%E3%81%A7%E3%82%93#special11800


  味の素(東京の企業)のレシピだと、関東風おでんの方が、塩分が0.1g 多い

  ニッスイHP 「おでん レシピ」 http://www.nissui.co.jp/recipe/item/00195.html




 キッコーマンや紀文などもニッスイのレシピと
 似ていますので
 ニッスイのレシピで見てみましょう。

 関東風おでん】
 エネルギー 551Kcal 塩分 5.2g

 関西風おでん】
 エネルギー 549Kcal 塩分 5.4g

 このレシピでは
 関西の方が塩分0.2g多い

 しかし、レシピ画像左下の塩の量を確認。

 関東は 適宜てきぎ・・・適当、お好みで。
 関西は 小さじ1/3 (2g) と明記。


 【スプーン1杯の塩の重さ】



 関東風のおでんのレシピの塩分 5.2g の中に
 塩 (適宜) は含まれているのでしょうか?
 含まれているなら、何gを想定しているのか?
 という疑問が出てきます。

 東西の差は、わずか  0.2g
 関西の塩小さじ1/3は 2.0g
 1人当り
 全体が5.4g中、塩1.0gの割合は大きい。

 関東レシピだと、塩を少量加えたら、
 関西より塩分が増える可能性が高い。

  キッコーマン HP 「ホーム・クッキング レシピ おでん」
   http://www.kikkoman.co.jp/homecook/search/select_search.html? (URL略)

  紀文 HP 「おでん教室 基礎」 http://www.kibun.co.jp/knowledge/oden/basics/howto/

  そもそも、こういったレシピは西日本風でも東日本風でも人口が多い関東人の嗜好に合うレシピが公開されて
  いるのが普通なので、西日本人がレシピ通りに作ると、塩辛ったり、甘ったるくで、食べられない場合がほとんどです。
  また外食・中食で売られている惣菜類の多くは保存や広い嗜好に合わせるようにしている為、家庭より濃い味付けが
  普通になっています。(味が薄いと「味が無い」とクレームを言われるためや、全国チェーンの場合は一律の味付け)

  当サイトのページ おでん 関東のちくわぶ、全国おでんMAP、おでんと関東煮など、 味の基本のページ も参照して下さい。
  蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見!! カマボコの歴史
  伊藤ハムのポールウインナー 関西だけでしか普及していない理由 (東京の業界圧力) と 60年代の大阪のホットドッグ復活
  東京の蕎麦屋の「生そば」と書かれた暖簾には意味はない 実はほとんどが二八蕎麦だった


  ≪ 醤油の塩分濃度と、料理に使う醤油の量からの検証 ≫

  キッコーマンHP 「しょうゆ」  http://www.kikkoman.co.jp/products/list.html?cat=K0505

  大さじ1杯15mlに含まれる塩分量 
   キッコーマン 濃口しょうゆ 2.4g / キッコーマン 淡口しょうゆ 2.8g / ヒガシマル 淡口しょうゆ 2.7g

  近畿での醤油使用割合 濃口 71%、淡口 29% / 関東甲信越地方 濃口 92%、淡口 6%、他 2%
    この下の「しょうゆ」のところで確認して下さい。

  次に、近畿で使用されている淡口しょうゆ のうち最も使用されているであろう ヒガシマル醤油のサイトを見てみます。

  ヒガシマル醤油 HP 「知る・楽しむ」  http://www.higashimaru.co.jp/enjoy/index.html









 淡口しょうゆ の方が、料理をつくる際に使用量が少なくて
 済み、濃口しょうゆ より、塩分が低くても美味しい。

 と、調理実験の結果を述べています。


  日本テレビ 世界一受けたい授業 『1975年の食事が最強!? 最新研究で判明 スーパー和食』 15.04.25 放送

  ≪ 出汁を使う事で塩分を控えめに出来る ≫ こちらも日テレの番組

  東北大学 大学院の都築毅 准教授の研究によると、1975年頃の食事は現在より1.2倍のカロリーを摂取していたが、糖尿病
  リスクは1/5、ガンを抑える効果もあったとしています。ちょっとだけ洋食化した和食が最強の『スーパー和食』としています。






  醤油の濃口・淡口に関係なく、出汁を使う事で醤油の使用量を少なくすることが可能で、番組の出汁の有り無しの飲み比べに
  よると、出汁有は、醤油の使用量が1/4で済む結果になっています。

   続きは、ちょっとだけ洋食化した1975年頃が最強の食事 最新研究による、その理由

  ※『出汁文化と和食は、江戸時代の大阪 (割烹、懐石なども発祥) で完成』したと言われます。
    醤油自体の塩分の含有量ではなく、料理に使う醤油の量によって塩分消費量が変わるのです。

  日本初、医・食・農のプロがつくる弁当ブランド「からだデリ」 大阪府吹田市の国立循環器病研究センターが開発した減塩の病院食メニュー 軽塩レシピのコツ


  中部放送 健民+県民ニッポン健康井戸端会議 『濃い味大好き青森県民 短命日本一を考える!』 17.01.02 放送

  ≪ 塩分味覚チェック 東京VS青森 ≫ 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人 (東京で調査)

  炭酸飲料水とインスタントラーメン購入額全国1位。
  飲酒量1位、喫煙率2位、濃い味大好きなどで短命全国1位
  の青森県民と東京都民の塩分味覚チェックをTBS系の
  名古屋本社のテレビ局が実験調査。

  濃度0.1%の塩水と真水を飲んで、食塩水を当てる実験。
  東京の正解率80%、青森県の正解率はわずか30%。

  都民の20%、青森県民は70%が塩分が感じにくい

  という結果になりました。サンプル数などが示されていないので、この結果がどれだけ正確なものかは不明ですが、
  塩分は慣れがあって、塩分の濃い味を食べ続けていると塩気が感じられなくなって、どんどん濃い味になっていくそうです。

  青森県では、ダシを使って味覚を満足させ減塩になげる『だし活』という運動を始めたそうです。

  番組概要は gooテレビ番組 『健民+県民 ニッポン健康井戸端会議』 http://tvtopic.goo.ne.jp/program/tbs/70782/1024894/


  テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『美味しい日本橋SP』 13.10.19 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『都会の深夜に奮闘 昼夜逆転 ! 真夜中の仕事人』 15.01.14 放送
  関西テレビ 胸いっぱいサミット! 『話題のニュースで賛否激論! 勝谷&増田が付き場の"今"を調査!』 16.11.05 放送

  ≪ 食文化の歴史からの考察 ≫ 代々の江戸ッ子は、江戸の味が濃いと自認しています。

  当サイトの日本の食の歴史各ページ も参照して下さい。   東京は飯がマズい所で有名だった 特に浅草

  有史以来、最も繁栄してきた近畿地方。特に江戸時代には、天下の台所と呼ばれた大坂には日本中の食材が集まってきました。
  一方、関東は、近畿と比べると歴史も浅いし、寒い。保存食が発達。納豆に代表される発酵食品、塩蔵食品(塩辛い)を食べる
  ことが多いので当然、塩分を多く摂る食事内容になります。

  東京日本橋には、そんな江戸時代の味を現在にも残す店がたくさんあります。
  江戸末期の1850(嘉永3)年創業の弁松総本店は、日本初の折詰料理専門店で『江戸から続く甘辛の濃い味』が売りです。






   仕出し弁当 日本橋 弁松総本店 HP http://www.benmatsu.com/namirokulp/

 薄口がもてはやされる時代の中で、異彩を放つ弁松の濃ゆい味。これは、創業当時から変わらぬ
  味です。

  この味の理由は、「もともと日持ちさせるために濃くした」「肉体労働に耐えられるようカロリーを
  高くするために濃くした」「砂糖が高価な時代に江戸っ子は見栄を張って沢山入れた」
  「江戸っ子は中途半端な味ではなくはっきりとした味を好んだ」などと言われています。

  江戸庶民が舌鼓を打った味を、現代でどうぞお楽しみください。
  創業約160年、甘辛く・濃ゆい江戸日本橋の味を守り続ける、知る人ぞ知る日本初の仕出し弁当
  専門店です。


  1924(大正13)年創業の東京日本橋 お多幸本店では、真っ黒な汁の濃い味の「純関東風おでん」が売られています。




  テリー伊藤さんの実家で、お兄さんが経営する店として有名な築地場外にある玉子焼き店『丸武』。
  築地移転問題で訪れた漫才師の『ますだおかだ』の増田さんに玉子焼きを振る舞い「関西と比べて味が濃いいでしょ」と
  言っていました。それを受けて食べていた増田さんも「濃いめなんですね」と答えていました。

  1803 (享和3) 年刊の滝沢馬琴の京坂旅行記『羇旅漫録きりょまんろく』巻之中には、(名古屋は巻之上、大坂は巻之下)
  京都では塩気が薄く甘い白味噌を田楽にも使っているので、江戸人の口には合わない。という事が書かれて
  あります。

  滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった


  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい!おいしい浮世絵 『第7回「京都の豆腐料理』 16.05.17 放送 / 広辞苑

  ≪ 江戸時代 『豆腐百珍』の「八杯豆腐」のレシピの違い ≫  豆腐百珍、卵百珍、祇園豆腐など

  江戸時代の中期に色んな料理法を書いた百珍本ブームがありました。その先駆けとなり、最も有名な『豆腐百珍とうふひゃくちん
  大坂の曽谷学川そだに-がくせんが著者と言われています。他の百珍本も京・大坂で書かれたものが多い。
  それら百珍本は江戸へ下り人気を博します。江戸では多くの類版が出版されたようです。

  上方のレシピ 水6杯・醤油1杯・酒1杯の割合で葛のとろみを付けた汁。豆腐百珍「八十一」
  江戸のレシピ 水4杯・醤油2杯・酒2杯の割合にまぜ合わせた汁。広辞苑
  江戸も中期は薄味だったかも? 江戸時代中期の八杯豆腐の江戸レシピ

  同じ八杯の量でも上方の方が、薄味になっている事が分かります。
  薄味でも葛のとろみを付ける事で、汁が豆腐に絡みやすくなっています。
  木綿豆腐を細長く切っているのも、つゆを絡みやすくする工夫です。
  つゆが絡みやすいほど、薄味でいいのです。

  当時、本葛 (奈良の吉野葛が有名) は畿内だけで消費されており、江戸には無かった事は、
  江戸の久寿餅の由来をみれば明らかです。  葛餅と久寿餅
  ただ、江戸末期頃は葛 (本葛かどうかは不明) を入手できた可能性もありますが…。


  江戸時代中期までの商業出版は、上方で書かれたものを、江戸ではタイトルや挿入絵などを少し変えただけの本、つまり
  江戸ではパクリ本の出版が主流だった為、全国で販売する事ができませんでした。   江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸


 京坂は薄味で素材の味を大切にする。江戸は甘辛く濃い味で素材の味が損なわれる。
 江戸では醤油で塩味を付けていた という事が記されています。

 幕末の『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「料理茶屋」   守貞謾稿『漬物賣』の記述  昭和期も東京は飯がマズい所で有名だった

  割烹店を云 料理と云は萬事を計り調ふを云也 今俗は唯 食類を製するの名とす
  今世 三都ともに士民奢侈を旨とし 特に食類に至りては衣服等と異にして 貴賤貧福の差別なきが如し 而て
  三都自ら異なる所あり

  京坂は美食と雖ども 鰹節の煮だしにて 是に諸白酒を加へ醤油の鹽味を加減する也 故に淡薄の中に其物の
  味ありて是を好とす

  江戸は專ら 鰹節だしに味琳酒を加へ 或は砂糖を以て代醤油を以て鹽味を付る故に 口に甘く旨しと
  雖ども 其物の味を損すに似たり
  然れども 従來の習風となり 今は味りん 或は さとうの味を加へざるを好まず 用之て 京坂の食類 更に美味
  ならずと云

  又 京坂の人は 江戸にて甘味を用ふを たるしと云て 忌之て 美食とせず
  各互 己れが馴れたるを善とし 馴ざるを不善とする

  而巳 余 大坂に生まれ 三十歳にて江戸に下り住み 今年 四十四 既に十五年を江戸に住す故に 兩地の可否を
  辦ずることを得る 必ず自己の口に合ずと云て 強て論ずること勿れ

  【諸白】もろ-はく
   掛米かけまいと麹こうじの両方に精白米を用いて醸かもした酒。江戸時代は上質の酒の総称であった。

  現在の食類は衣服と違って、身分や貧富によって差別はない。しかし、三都で異なる部分もある。
  京都と大阪は美食といえども、カツオ出汁に上質の酒を加えて塩加減を整える。ゆえに薄味で食材の味があり
  これを好む。
  江戸はカツオ出汁に味醂か砂糖を加える。醤油で塩味を付けるので、甘くて美味しい。
  とはいえ、それは食材の味を損なうのと同じ事。
  しかし、昔と違って、現在は味醂や砂糖を加える事を好まなくなった。その事で上方の味は美味しくないと言う。
  上方の人は、江戸が甘味を入れるのは甘ったるくて食べられないと言う。
  お互いに馴れた味を良いとし、馴れない味を悪いとする。
  私は大阪に30年、江戸で15年近く住むので両地の比較を論ずる資格がある。
  自分の口に合わないからと言って、偉そうに論ずる事はあってはならない。

  この後、「料理屋の技術を言う時は、上方より江戸の方が勝っている。江戸より上方の方が劣っている
  「上方は濱焼といって鯛を丸ごと出す。江戸も昔は同じだったが、文化文政より三枚おろしにしてから焼く筏焼
  「上方は料理の出し方が良くない」などと長文で、江戸を必死に擁護しています。

  料理法は京都の四条流などが早くから完成させ、割烹スタイルは大阪で始まったもの。
  「浜焼」と「筏焼」は違う料理のスタイルです。冷蔵庫の無い時代は、尾頭付きの丸ごとが新鮮で上質され、
  特に、鯛は高級魚の筆頭なので、丸ごと出すスタイルが高級膳。
  江戸流通している鯛は千葉沖で獲れたものがほとんどだった為、鮮度が低かったようです。(京都も鮮魚が乏しい地域)
  その為、腐りやすい頭などは落してあるのでしょう。

   詳しくは、当サイトの食の歴史雑学の各ページを参照してください。歴史は一部分だけを見て判断すると必ず間違います。
   各年代通して、その時代の背景なども見ておかないと、より正しい判断はできません。

  喜多川守貞 (砂糖商家であって料理人ではない) の調理技術による指摘は見当外れです。
  守貞があまり料理に詳しくないことは、刺身の記述などでも間違った解釈をしている事で分かります。

  【浜焼】はま‐やき
   ① 魚介類を浜辺で焼くこと。また、その料理。
   ② 鯛などを塩竈しおがまの中に入れて蒸焼にすること。または塩焼にした料理。塩浜焼。

  【筏焼き】いかだ-やき
   ワカサギシラウオなどの小魚を数尾横に並べて串を打ち、いかだ状にして焼いた料理。

  【尾頭付】おかしら‐つき … 尾も頭もついたままのさかな。神事・祝事などに用いる。「鯛たいの―」

  コトバンク 尾頭付き
  日本では干魚よりも鮮魚を尊重し,ことに尾頭付きといって全形をそなえたものを喜び,切身をいやしむ風が強い。
  ことに吉事の際に縁起ものとして全形のものを望む。


  四五日の旅 名所囘遊 1922(大正11)年 裳文閣 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964429 ※1925年の有精堂書店 版もあり

 1922 (大正11) 年の『四五日の旅 名所囘遊』(福井県出身・東京在住で日本初のプロ旅行作家とも言われる松川
  二郎 著、東京市の裳文閣 出版、日本各地の旅行記) ※ 原文の旧字はできるだけ現代字に換えてあります。

  「東京見物」P.9 又 宿屋の飯ばかりを食って東京は食物くいもののまずい所だなどと利いた風なことを言うと、
  此方はかまはないが言う者が笑われます。食物の中で東京名物として、普遍的なものは鰻と天ぷらと寿司であろう。

  「大阪見物」p.325食倒れと言われるだけに、大阪には矢張り甘うまいものが多い。料理法にすぐれているのも
  一つだが、海に臨み川に枕のぞみ山に近くて、一つは材料の豊富なことも興あずかっていよう。
  東京者が羨ましがる第一は川魚料理である。川魚料理は東京にもあるけれど、大阪ほど盛んでなく甘うまくもない、
  殊に橋下ましたに纜ちゃっ船へ行って食う所に一種特別の趣もある。


  ≪ 江戸も中期までは薄味だったかも? ≫

 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) の中巻五「煮物
  この書は、他の文献 (上方で書かれた物) や、聞き書きに、独自の記述を加えて編集出版されたもののようです。

  八盃豆腐 醤油一盃 水七盃入 久敷煮成 又 水へ醤油少入 塩梅して煮立 豆腐細く切置 汁煮立て入れ
  一あわ煮て出す 鍋へ水を入置 直に とふふを煮立 後に醤油少入 塩梅して出す 手前之法也

  養五郎の個人的なレシピとして記載されている八杯豆腐には、8杯のうち1杯のみに醤油が使われており、
  ほぼ上方のレシピと同様であり、江戸時代後期の江戸レシピとは異なっています。

  文献を現代訳した千葉大学紀要によれば、孤松庵養五郎がどのような人であったか知る手がかりはないが、
  序文の中に、中年になってから料理に精進し、見聞するところを書き集めたとある。序文の内容や料理技術の解説が
  詳細なところからみて、かなり練達の料理人と考えられる。

  個人的に歴史の流れを鑑みて推測すると、養五郎は料理屋の料理人。当時、料理屋に通う町人と言えば金持ちの
  商人が中心で、江戸には伊勢・近江・堺・大坂など上方の商人が多く進出したので、薄味だった。
  江戸前期の後半頃から飢饉の度に東北や関東からの人口流入が増え、東日本出身者が江戸に増えていきます。
  文化年間 (1804~1818年) 以降に江戸文化が開花し、醤油も広く普及。砂糖も安価で入手しやすくなった。
  この事で、醤油や砂糖を多く使い東日本出身の庶民好みの濃い味に変化していった。
  江戸時代中期で、同様の江戸でのレシピと確実に分かる記述が他の文献であれば、この推測が裏付けられるかも
  知れません。
  幕末頃になると砂糖を加えるのを好まなくなり、上方の味は口に合わないと言うようになった。


  1803 (享和3) 年刊の滝沢馬琴の京坂旅行記『羇旅漫録きりょまんろく』巻之中には、(名古屋は巻之上、大坂は巻之下)
  京都では塩気が薄く甘い白味噌を田楽にも使っているので、江戸人の口には合わない。という事が書かれて
  あります。

  滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった
  東京の蕎麦屋の「生そば」と書かれた暖簾には意味はない 実はほとんどが二八蕎麦だった

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf



  ≪ 実際の塩分消費量では ≫   財団法人塩事業センター  http://www.shiojigyo.com/a080data/img/sessyuryou23.pdf



戦後の高度成長以降、様々な生活様式・時代の大きな変化がありました。
冷蔵庫・TV・車・エアコンなどの普及。

工業生産された画一の食料品と食品の流通革命、スーパーマーケット
コンビニなどで全国で同じ味の商品が購入できる。

チェーン店の全国展開も普通となり、味覚の画一化が進んできました。

東京一極集中化による、大阪企業の本社が東京へ移転。
関西の薄味が東京にも普及する大きなきっかけになりました。

食塩の過剰摂取の危険性と減塩を勧める健康志向情報。

その他、様々な要因により、日本人全体の食事が減塩の方向へと
進んできているのです。

← 厚労省の1人当たり・1日の食塩摂取量の推移を見ればわかる通り
  塩分摂取が目に見えて減り始めたのは平成12年から。

 関西の薄味とダシ文化が、日本中に普及したからです。

  そもそも カップうどん、おでん などは毎日食べるものではなく、その中の1品だけを調べて結論を述べるのも おかしな話です。

  多くの家庭で飲まれている味噌汁の塩分を調べるべき。和食の煮物の塩分を調べる必要もあるよ。
  県内でも地域によって食文化が異なるから…。統計学から言うと最低1万のサンプルを取らないと意味がないよ。など
  論争のタネ(言い訳)が絶えず、納得いかない人も多いでしょう。

  しかし、次に示すデータならば、どうでしょうか?
  最初からこのデータを提示すればよいのですが、前述したとおり、多角的な検証も必要なのです。

  厚生労働省 平成22年国民健康・栄養調査報告  http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/eiyou/h22-houkoku.html
   第5部 都道府県別結果  http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/eiyou/dl/h22-houkoku-11.pdf

  左から、肥満者(男性、20~69歳)、野菜摂取量(男性、20歳以上)、野菜摂取量(女性、20歳以上)
       食塩摂取量(男性、20歳以上)、食塩摂取量(女性、20歳以上)。 野菜と食塩の摂取量は g / 日





                                  
食塩摂取量 少ない順
食塩摂取量 多い県
関東地方 1都 6県
近畿地方 2府 4県
男 性 女 性
1 沖縄  9.5 1 沖縄  8.1
2 佐賀 10.9 2 徳島  9.2
3 香川 11.0 香川  9.2
4 大阪 11.1 4 佐賀  9.3
大分 11.1 5 大阪  9.5
6 山口 11.2 6 岡山  9.6
熊本 11.2 福岡  9.6
8 徳島 11.3 熊本  9.6
宮崎 11.3 大分  9.6
10 4県あり 11.4 10 4県あり  9.7
男 性 女 性
36 3県あり 12.4 38 宮城 10.7
39 宮城 12.5 福井 10.7
栃木 12.5 長野 10.7
長野 12.5 41 山形 10.8
島根 12.5 群馬 10.8
43 山形 12.7 43 青森 10.9
44 福井 12.9 茨城 10.9
45 青森 13.0 鳥取 10.9
福島 13.0 46 福島 11.1
47 山梨 13.3 47 山梨 11.2
男 性 女 性
20 東京 11.7 27 東京 10.1
26 千葉 12.0 30 神奈川 10.3
30 神奈川 12.1 34 千葉 10.5
33 埼玉 12.2 埼玉 10.5
36 茨城 12.4 37 栃木 10.6
群馬 12.4 41 群馬 10.8
39 栃木 12.5 43 茨城 10.9
平均 12.2 平均 10.5
男 性 女 性
4 大阪 11.1 5 大阪  9.5
10 滋賀 11.4 14 京都  9.8
14 京都 11.5 16 奈良  9.9
兵庫 11.5 20 兵庫 10.0
30 奈良 12.1 27 滋賀 10.1
36 和歌山 12.4 30 和歌山 10.3
平均 11.7 平均  9.9

  男女とも近畿は全国平均より食塩摂取量が少ない、逆に関東は全国平均より多い。西日本は少ない傾向にあり東北はやはり多い。
  雪の降らない所ほど塩分摂取量が少ない傾向。和歌山は南紀と言われ温かい県ですが、熊野地方は寒い。京都も日本側は寒い。
  北海道は都市部の人が開拓で移住したので、言葉も含め東北と異なる。と推測できます。

  男性の食塩摂取量 全国平均 11.8g/日、女性の食塩摂取量 全国平均 10.1g/日

  但し、近畿はナトリウムを排出するカリウムを含むであろう野菜の摂取量が少ない傾向にあります。

  厚生労働省 『二十一世紀における第二次国民健康づくり運動 「健康日本21(第二次)分析評価事業 平成24年国民健康・栄養調査」』
   http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/kenkounippon21/eiyouchousa/kekka_todoufuken.html


  下の表は2012 (平成24) 年の調査結果です。北海道と西日本が少ない傾向にある事が一目瞭然です。
  右の表上はBMI値のグラフ、肥満度が高いほど赤く塗られています。


BMIの平均値


野菜摂取量の平均値


  たばこ塩産業 塩事業版 『塩・話・解・題21 東海大学海洋学部非常勤講師橋本壽夫食塩摂取量の変遷その2』
   http://www.geocities.jp/t_hashimotoodawara/salt6/salt6-06-12.html


  ≪ 結論 ≫  塩分や糖分の大半は調味料 (味付け) によって摂取します。より

  「味が濃い≠塩分摂取量が多い」「塩分摂取量が多い=味が濃い」
  スパイス系の濃さは塩分とは関係がない場合があります。

  食塩の摂取量だけで言っても、関西の薄味は正しい。 事になります。

  (偏向報道でなければ、日テレ『月曜から夜ふかし』のスタッフは、食べても塩分の違いすら分からない味覚オンチだらけで
  あるという事ですね。また日本の正しい歴史も知らないようですし、調査能力もかなり低いです。)

  出汁の旨味成分が塩分の代用になるのですが、この旨味成分を塩分として感じてしまう味覚障害 (本人は味覚に自信満々)
  の関東人が「関西の方が味が濃い」と流布している場合も多いようです。

  また今度は、関西が薄味になった理由として「ケチな大坂商人は濃い味のおかずにすると、使用人が米をたくさん
  食べる事になるので薄味にした。」という事を流布していた東京メディアの放送も見かけました。← 韓国人並の発想です。
  2018年のNHKの番組「チコちゃんに叱られる! でも、やってました。

  メディアを含め東京人は「大阪=ケチ」という印象を植え付けようと必死ですが、大阪は飛鳥時代から政府に頼らず
  私財を投じて、時には死罪を覚悟して公共の為に尽くした事例は多数あり、関東大震災などでの無償の援助や寄付文化
  も存在します。
  一方、東京や東北では、政府や誰かにして貰うのが当たり前という感覚が強く、公共の為に自腹を切るという感覚が
  あまり無いというのが史実です。江戸時代から見栄を張る為だけには金をかける傾向があります。

  NHK チコちゃんに叱られる! 『なぜ関東の味は関西よりも濃い?』 18.08.24 放送

  ≪ 関東の味付けが濃いのは徳川家康のせい ≫

  番組冒頭で「関西と比べて東京の味の特徴ってなーに?」と聞かれて、長嶋一茂さんが「関西り方が素材がいいのね、
  素材の味を活かすのが関西風で、東京はセンスが良くない 食の」と答えていましたが、これが正解です
  上記の『守貞漫稿』にも同じ事が書かれてありますし、他の複数の文献でも分かります。






  『武士メシ』などの著書がある食文化史研究家の永山久夫 (福島県出身、東京在住) さんによると「関東の味付けは
  德川家康のせい」だそうです。
  永山さんの論を簡単にまとめると、江戸は一から街づくりが行われたため全国から労働者が集まり、効率的な労働の
  ために塩分補給が必要で、1日に玄米飯1升(茶碗に18杯分) 食べていた。佃煮や大根の塩漬けなど濃い味付けの
  おかずが食べられていた。その後、白米が食べられるようになった。






  人口が増えて生活排水によって、江戸湾の養分が増加し魚介類が美味しく成長し刺身が流行。
  濃口醤油が誕生し、魚×白米×濃口醤油で江戸前すしが誕生。
  一度、濃い味に慣れてしまうと、なかなか元に戻れない。その味を代々受け継いで、今でも関東では濃い味付けが
  残っている。

  関西は丁稚奉公が多く、丁稚は給料無しの代わりに食事付きの住み込み。
  濃い味のおかずを出すと、ご飯を食べすぎるため味を薄くしていた。やがて関西に薄味が定着した。という解説。






  上記の永山さんの解説は正しい部分もありますが、ツッコミ要素もたくさんあります。
  関東人はテレビなどで証拠を提示せず適当な思い込みなどを史実や真実のように流布し、それを聞いた関東人たちが
  更にSNSなどで説を検証する事なく拡散しています。こうして歪曲説が広まるのです。本当に面倒な人たちです。

  この解説程度で徳川家康の所為とするなら、家康に領地替えをさせた豊臣秀吉の所為と言う事もできます。
  庶民の食生活が分かる江戸時代の料理本などを複数見ていますが、佃煮に注目して読んでいないので結論付けられ
  ませんが、まだ佃煮が書いてある部分は見つけていません。

  そもそも、江戸や関東で本格的に漁業が始まるのは江戸時代中期で、小魚は田畑の肥やしとして獲るのが目的。
  佃煮は佃村出身の漁民や大名たちが食べていた可能性は高いですが、江戸時代初期から広く江戸庶民が口に
  できたものではありません。

  関西の薄味は完全に思い込みで、最も商家が多かったのは大坂ですが、次に商家が多かったのは江戸です。
  江戸の商家の多くは上方出身ですけど。

  主食である米を食べすぎない=常日頃から食事制限して、生活や労働ができますか?
  白米だけの御飯は主食にしていたのは江戸だけではないんですよ。
  また関西は淡口醤油だけを使っていると思っている関東人が居るようですが、江戸時代から様々な醤油があり
  料理によって使い分けていました。濃口醤油の発祥も上方です。

  大坂は江戸時代中期に全国のほとんどの物が集まり、大坂にないものはない。という事が『和漢三才図会』に
  記されています。色んな野菜も川魚・海魚、鴨なども大坂で産するものは全国的にトップの品質であり、量も
  豊富。調理関連の道具や技術もトップだったので「大坂は食い倒れ」と呼ばれていたんですよ。
  大坂の物価を1とすれば、京都は1.2倍、江戸は1.5倍という事が文献にも書かれてあります。

  『守貞漫稿』には、江戸は一汁一菜、上方は一汁二菜が基本である事が書かれてあります。
  『皇都午睡』では、江戸庶民の生活は上方の中流以下がほとんどである事が書かれてあります。

  江戸は米は十分に手に入りましたが、魚や野菜は他の地域と比べると入手しづらかったというのが真実です。
  大坂は全国に流通する米の4割以上が集まり、米の価格相場を決定する場所があったわけで、江戸以上に
  米も入手しやすかった。基本となる料理本のほとんどが上方で書かれています。

  上記の塩分摂取量の平均値グラフを見れば、東日本は味付けが濃く、西日本は薄味です。
  日本全体の味付けの違いは、肉体労働者と商人との違いでは説明できないわけです。
  気温とダシ文化などの食糧の豊かさに関係すると考えるべきです。
  詳細は当サイトの各ページをご覧ください。

  歴史情報を正しく知るためには、下記の4点を抑えておく必要があります。

  江戸時代を知る上での注意点 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!
  江戸ッ子とは? その実態 江戸の名物は「悪口」、日本一他所の悪口を言う地域民性
  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん
  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸 1700年代中期頃までの江戸での出版は上方の本の丸パクリが普通


  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?
  月曜から夜ふかし 歴史も恥も知らない日テレ・スタッフ、またも嘘報道    東京近郊の関東の歴史
   こちらのページでは東京の偏向報道や嘘、パクリの実体がわかるページへのリンクがあります。
  江戸の火事の真実  江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた ~ 時代劇で見る 江戸の町は嘘ばっかり!~
  お江戸の恋愛事情 大坂の文化が江戸文化のように扱われている証拠。「月曜から夜ふかし」の大阪下げの嘘。
  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
  東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、汚れた川で食器や野菜を洗っていました。
  整列乗車は東京の地下鉄が最初 その自慢できない背景とは。
  東京メディアの偏向報道 今や関東発信の情報は疑えというのが常識。嘘、ねつ造、紛らわしい東京発信情報。
  還付金詐欺に弱いのは本当に大阪だけ ? 実は平成24年度のデータだと、東京の「還付金詐欺」の被害件数は大阪の4倍という事実。
  東京湾の実態 千葉県の江戸川水系ヤバすぎ。日本一汚いのは綾瀬川。セシウムだけじゃなく、韓国と同じような糞尿性大腸菌だらけの海だった。
  公害苦情受理件数で見る 汚い県、うるさい県、臭い県はどこ?
  肥満が最も少ないのは三重県? 日テレの番組を検証してみた結果、目がテン!に?
  東京の蕎麦屋の衝撃的?な真実が判明 「生そば」の文字に意味はない?
  江戸の淡雪豆腐ができたのは享保年間 発祥年代の誤魔化しが判明
  「汁粉」と「善哉」 関西のぜんざい、関東ではおしるこ 呼び方なぜ違う、ぜんざいの発祥は島根県、汁粉の江戸発祥説は嘘。

  ウィキペディアなどネットでも嘘やねつ造を平気で書き込む東京人 韓国人のような事は止めましょう!!
  刺身・お造りの歴史 刺身は室町時代 「指身」「差身」「打ち身」など違いウィキペディアの「刺身」での記述の間違いを発見
  野沢菜・広島菜のルーツは天王寺蕪 ウィキペディアの否定説を検証
  蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見!! カマボコの歴史
  東京都台東区浅草の鷲神社の由来 他の歴史を自社の歴史のように思わせている件、堺の大鳥神社との関係
  関東の藤原氏の重要神宮 中臣 (藤原) 氏の関東発祥説は嘘、中臣氏の先祖神を最初に祀ったのは東大阪の牧岡大社
  浅草寺の創建 創建年と創建者が判明 (文献記述発見)
  長命寺桜餅の発祥年が怪しい 嬉遊笑覧によると1800年代か100年のサバ読み?
  浅草名物の登場年数も通説と違う記述を発見 紅梅焼き・雷おこしも明治初期の登場か?


  ≪ 情報に騙されやすい関東人 ≫

  関東の人たちは、他の多くの資料で否定されても、自分たちの都合の良いデータ
  だけは信じる傾向にあるようです。
  東京マスコミやネットの嘘・ねつ造・誤魔化しによる ご都合イメージではなく、多角的な
  データと史実から総合判断するようにして下さい。

  朝日放送のビーバップ!ハイヒール『だからあなたは騙される!身近に潜む疑似科学』
  16年5月6日放送より、明治大学 科学コミュニケーション学部の石川幹人 教授が
  解説する番組では、理論の飛躍、数字の目くらまし などで騙される事が解説されています。
  中途半端に知識のある人が最も騙されやすい。






  「物事を一面だけから見ていると本質を見失う。一度、別の角度から考えてみる事。人間は何でも都合よく考えちゃう。
  『信じたい』という気持ちが、真実を押し隠す。人間は自分勝手な生き物」   コラーゲン、摂取しても無駄? 疑似科学

  上っ面の情報 (1つのカップ麺の塩分量が多い、淡口醤油の方が塩分含有量が多い → 関西の方が塩分を多く摂っている。)
  という願望と思い込みだけで主張する事が多い都民。また東京メディアの情報を鵜呑みにしてしまう関東人。 

  しかし、多くの情報を集め詳しく内容を見ていけば、それが間違いである事が分かります。
  だから、『関東は本質が分からない田舎者』と思われてしまうのです。


  ≪ 歴史を勉強していない南関東人 ≫

  右の画像は2012年に発表された2011年度センター試験 センターリサーチ結果 41万6902名。
  5教科受験者数の都道府県別成績ランキング、5教科受験率などの内訳をまとめ人が
  ネットに書き込んでいた一覧をキャプチャーしたものの一部。

  東京が平均点では1位ですが、よく見てみると (分かりにくい まとめですが) 5教科受験者数では
  大阪の方が多い。(筆記 )の下にある○%が5教科を受験した人の割合。

  5教科受験率 1位東京29%、2位神奈川29%、6位千葉32%、9位の埼玉30%
  14位群馬50%、21位茨城59%、32位栃木59%。 ※ 順位は平均点。

  3位奈良68%、4位大阪64%、5位京都63%、7位和歌山80%、8位兵庫62%、10位滋賀74%

  他の地域で、5教科受験率が60%より下回るのは、31位高知54%、42位山梨55%、22位静岡57%の3県のみ。

  南関東の受験者は、3教科受験者が多く、歴史を含む5教科受験数が少ない
   =歴史を勉強していない人が突出して多いという事が分かります。

  歴史は物事の流れ。それを知らないと、都合の良い一部分だけを切り取って主張する嘘情報に気づかない。
  『木を見て森を見ず』という事になり、正しい判断ができなくなるのです。

  ※ 関西ローカルの人気番組は、東京圏を除いた日本各地でも放送されているものがいくつかあります。

  関西テレビ 火曜日もちゃちゃ入れマンデー 15.04.14 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『日本人なら知っておきたい! お茶王国 静岡県民の真実』 15.07.02 放送

  ≪ 大阪VS東京 味オンチが多いのは? ≫  関西テレビ 火曜日もちゃちゃ入れマンデー 15.04.14 放送

  牛肉とお茶の2つについて、高級品と安価品を大阪と東京の街頭で各40人に食べ比べてもらった結果。






  肉の違いが分かるか?  大阪と東京の調査結果をみると、大阪の方が正解率は高かったもののほぼ同じくらいで
  誤差の範囲。特徴的なのは、年配の人たちの多くが、脂身が少ない安い肉の方が美味しく感じたようです。






  肉より繊細なお茶の場合 大阪の方が正解率が高く、東京では自信満々なのに間違える人が多かったようです。
  味に拘る大阪でも40人中14人が不正解。京都 (宇治市) や静岡など茶処の人たち達からは笑われそうな結果とも
  言えます。(京都市はコーヒー消費量が日本一ですが。)

  ケンミンSHOWでは、東京在住歴12年~38年の静岡県出身者たちによると、東京ではお茶の淹れ方や味が
  分からないと証言していました。






  京都vs静岡 おいしい茶はどっちだ対決
  愛媛vs和歌山 おいしい「みかん果汁100%ジュース」はどっちだ対決
  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文
  東京の蕎麦屋の「生そば」と書かれた暖簾には意味はない 実はほとんどが二八蕎麦だった


  ≪ 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人?≫ 東京で調査  塩分味覚チェック 東京VS青森

  livedoor NEWS 『甘味や苦み認識できない日本人が約30% 味覚障害の可能性も』 17.02.28 配信
   http://news.livedoor.com/article/detail/12733256/

 グルメな時代だが、だからといって味覚が研ぎ澄まされているとは限らない。「旨み」が分かる繊細な味覚を持つと
  いわれてきた日本人にも、今、危険信号が点滅しているらしい。日本人の3人に1人に味覚障害の可能性があることが、
  歯科医師の調査で分かった。
  小学1年~中学3年生の349人を対象に、東京医科歯科大学のグループが2014年に実施した調査によると、酸味、
  塩み、甘み、苦みの基本4種類の味覚のうち、どれかが認識できない子どもが約30パーセントにのぼったが、これは
  子どもだけに限定した問題ではないことも分かってきた。
  歯科医師の塩原康弘氏が味覚のチェックテストを成人80人に実施したところ、3人に1人に味覚障害の可能性がある
  数値が得られたという。
  そこで、塩原氏が代表理事を務める味覚振興協会(東京)では、独自の味覚テストを実施して、高い“味覚力”を
  もつ人を「味覚マイスター」に認定する制度をスタートした。
  濃度の異なる4種類のテスト液で“味覚力”を数値化、“4以上”の平均スコアを獲得した人を「味覚マイスター」に認定する。
  味覚力が低下している原因の1つに、口腔内の雑菌や汚れがあるという。かすかな味の違いを感じにくく、濃い味
  つけのものを好むようになり、高血圧など生活習慣病の原因へと結びつくリスクも高まる。また、食生活の変化で亜鉛
  不足が味覚障害に結びついている可能性もあるのだそうだ。
  一般的に、ファストフードやインスタント食品、惣菜などに多く含まれているフィチン酸などの食品添加物は、亜鉛の
  吸収をさまたげることが指摘されている。味覚のテスト、チャレンジしてみる?


  関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 「チョコミント味のアイスが関西では売れない!?」 14.11.24 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 「日本人を多数派と少数派に分類してみる件」 15.10.26 放送

  ≪ ミント味のアイスを好まない関西人 ≫

  関西テレビによるグリコ (大阪本社) の取材では、「関西ではミント味のアイスが売れない」という内容。

  日テレ「月曜から夜ふかし」による東京で100人にチョコミント味のアイスの好き嫌いを調査した結果、嫌い派が57人でしたが、
  その嫌い派の多くは関西出身者。大阪で取材した結果でも、ミント味のアイスを大多数が否定。
  嫌い派に多い意見としては、「ブルー系色は食べ物の色ではない」「歯磨き粉みたいだから」「味を混ぜるな」。

  東京のAISSY㈱の鈴木隆一 代表は、「チョコミントは甘さとスッキリの2つの要素があり、関西はソース文化なので甘さが残る
  『甘いんだったら後味に残ってくれ』という感覚があり、2つの要素があるのが耐えられないんじゃないか」と分析しました。






  好みは人それぞれですが、嫌い派の意見の方が味覚の観点から判断すると正常です。

  ブルー系は自然色ではないので、食欲減退色である事は知られています。
  ミントアイスのミント味は、自然に抽出したものを人工的に濃縮したもの。または人工香料で作り出したものの為、
  自然界にある味とは異なっており、刺激が強くなっています。

  味覚や感受性が優れた人には、刺激が強い味や香は受け入れられません。これは『辛味=痛み』も同じ。
  ミント菓子については依存症があるとも言われています。
 
 味噌
  テレビ東京 開運!なんでも鑑定団 『珍獣の牙に仰天鑑定 !?』 13.10.06 再放送
  テレビ東京 L4 YOU ! 『ニッポン再発見!世界に誇る「和食」の魅力』 13.12.12 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『2013全県民に年末感謝2時間SP』 13.12.19 放送
  NHK Eテレ 地球ドラマチック 『"食"を科学する! ~人はなぜ調理するのか~ 「米国WGBH 2012年制作 CAN I EAT THAT」』 14.11.29 放送
  日本テレビ 世界一受けたい授業 『1975年の食事が最強!? 最新研究で判明 スーパー和食』 15.04.25 放送
  NHK 趣味どきっ! 『きょうから発酵ライフ 「みそ」』 16.05.25 放送

  神戸女子大学 古典芸能研究センター 『近世の家政学―重宝記・料理本の世界』 2001.12.08
    http://www.yg.kobe-wu.ac.jp/geinou/07-exhibition3/06-ten_kase.html

  神戸女子大学の上記サイトには、江戸時代に出版された百科事典にあたる各『重宝記』と、料理本が紹介されています。

  1689(元禄2)年初版、1792(寛政4)年に再版された料理百科である合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょうは、
  広く秘伝口伝・聞書の類等から料理に関する事柄を丹念に集めて再編成したもの。京都で出版。

  御前ごぜん味噌 (徳島県の米麹味噌)、参河さんが(三河みかわ国、愛知県東部)味噌の作り方などが翻訳されています。
  (と、言っても、難しい言葉で書かれています)


  ≪ 味噌の歴史と分布 ≫

  中国から伝わった当初の穀醤こくびしおは、豆味噌系ひしおくきと呼ばれるものでした。
  奈良時代に大伴家持 (717?~785年)によって編纂された万葉集[16]には「醤酢に蒜ひる搗きてて鯛願ふ…」と
  詠まれています。 ※ 「搗く=つく」、棒の先で押し潰す事。

  酢味噌に蒜ひる=ネギやニンニクの類を潰し混ぜて鯛を食べたい」というような意味。

  【醤】ひしお
   ① もとは大豆のちに小麦を主材料とした発酵調味料。現在の味噌・醤油の原形。なめみそとして用いた。
    平安中期の宇津保物語[吹上上]「酢、―、漬物皆同じごとしたり
   ② 魚。鳥の肉の塩漬。肉醤ししびしお。しおから。史記(紀元前91年に完成した中国の歴史書)の注釈本で、室町時代中期の
    1477年 (文明9) 成立の史記抄(かゆに酒をまぜて発酵させたもの) は―醤はみそなり

  【肉醤・醢】しし-びしお
   肉で製したひしお。乾肉を刻み、麹または塩に浸しならして製するという。しおからの類。〈931~938年の倭名類聚鈔[16]〉

  右の画像2枚目は味噌の分布図

  黄色の部分が米味噌 (米麹+大豆) 地域、
  赤の名古屋周辺が豆味噌 (大豆麹+大豆) 地域。
  緑の九州は小麦味噌 (小麦麹+大豆) 地域。

  東京農業大学の前橋健二 准教授によると、
  濃尾平野は高温多湿で、水分が多く日持ちが悪い
  米味噌には適さないので、豆味噌が残った。
  

  また、織田信長や徳川家康が豆味噌を好んだからとも言われています。

  前橋 准教授によると、日本は稲作だから米を使ったので米味噌が主流になった。南の方 (九州など) は小麦が採れるから、
  米の代りに小麦で味噌をつくるようになったそうです。

  上記の広辞苑の【醤】の解説から考えると、味噌麹は豆→小麦→米と変化したと思われます。
  米味噌に比べて麦味噌の方がクセがある。九州などでは麦味噌の方が好まれたから、米に移行しなかったと推測できます。


 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
  味噌の部には「上々味噌方」「五斗味噌」「白味噌方」の詳しい作り方が書かれてあります。
  白味噌と赤味噌を合せて中味噌 (合せ味噌) に仕立てて調理に使う料理がいくつか掲載されています。


 1689(元禄2)年の料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』中川茂兵衛 著 出版地は京都。
  巻一の味噌之類には「御膳味噌(米麹が多い徳島の味噌)」「三河味噌」「早作味噌」「直味噌」「麹味噌
  「たうこ味噌」などの記述があるそうです。
  御膳味噌は大豆に白米を糀にして使うレシピがあり、麦類は使われていないようです。


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) 上巻一「味噌の法
  多くは上方で書かかれ本などを書き写したもの。

  「七日味噌」「上白味噌 (さぬき塩が使われています)」「五斗味噌」「八斗味噌」「石州味噌 (島根県西部)
  「常の味噌」「下味噌」「白味噌」「玉味噌」「料理味噌 (常の味噌に黒米と飯と糀を加えて混ぜ置いたもの)
  「甘味噌の法」「名護屋味噌 (佐賀県北部)」「中白味噌」が載っています。

  買味噌 神田田町 辻与兵衛の味噌 諸大名のみそや也 あか味噌一入よしとあり、高級な白味噌は大名でも
  江戸では買えなかった事が分かります。
  また味噌大豆には上州 (群馬県) の豆良し事も書いてあります。


 幕末の『守貞謾稿』 上巻 第五編 生業下 「麹賣

  米製の麹を賣る 專ら中秋以後 冬に至り賣之 是 當季 茄子の糀漬を製す家多きを以て也
  麹筥 京坂より小形にして粗製也

  「當季=当季」「=箱」


 幕末の『守貞謾稿』下巻 第二十八編 食類 「味醬」 醬=醤  味噌賣の記述

  今俗 味噌の字を用ふは非也 味醬は三代實錄に見へ 又 延喜式 神名帳 齋宮寮の條に味醬一斗二升云々
  和名抄に高麗醬は美蘇云々 俗用 味醬 二字 味宜未何則 通俗文に有末●莢醬者搗末の義也

  今世 京坂の市民 毎冬 自製する者多し 其法 大豆一斗 米麹▲▲ 鹽▲升 早春より食之盛夏後の食料には
  鹽▲升を多くす 粗に搗製し桶に蓄へ食毎に雷盆にて摺て汁とす
  江戸に赤味噌 田舎味噌を買食し 自製する者無

  「實錄=実録。三代実録=六国史の一つ、901年撰進、清和・陽成・光孝の3天皇の時代の約30年の史書、50巻」
  『or読み取れず」「=つ-く、かち」「←原文のまま」

  続いて、上方の味噌屋の看板の事が書かれてありますが、当サイトでは略します。その続きは金山寺味噌の記述


  味噌の種類などは下記のサイトが詳しいようです。

  KIRIN食生活文化研究所 発酵食品名鑑 『味噌』
   http://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/ferment/miso/index.html  ← 各地の味噌の特徴に詳しい
  南日味噌醤油 ㈱ 『全国味噌MAP』 http://www.nannichi.co.jp/bunrui.html   ← 全国の味噌が一目でわかるサイト
  みそ全国マップ - 味噌のことなら miso.tv http://www.miso.tv/home/new_page_2.htm  ← 味噌についての雑学が多いサイト
  全国味噌工業協同組合連合会 HP http://zenmi.jp/ ← 統計や工業的な連絡先など中心のサイト


  ≪ 味噌・醤油を作る為に働く菌たち ≫  和食を支えるオリゼたち 日本にしか居ないアスペルギルス・オリゼ。

  まず、麹菌が穀物のデンプンをブドウ糖に変化させます。次にテトラジェノコッカス・ハロフィラスという しょうゆ・みそ乳酸菌が、
  (テトラはギリシャ語で「4」の意味、顕微鏡で見ると4つずつくっ付いているから) ブドウ糖を食べて乳酸を出します。
  乳酸は味の締りを出して酸味を付けたり味を整えるので、味噌の味を決める菌だそうです。
  しょうゆ・みそ酵母が発酵をし味噌の香をつくるそうです。

  しょうゆ・味噌の乳酸菌と酵母は塩に強く、他の菌が死ぬ塩分であっても増殖できる
  という特性があります。

  【麹・糀】こうじ
   米・麦・豆・麩ふすま・糠ぬかなどをを蒸して、これに麹菌 (麹カビ) を繁殖させたもの。
   麹菌はデンプンを糖に変える。味噌の製造に用いる麹は、米・小麦・大豆。

  【酵母】こうぼ イースト Yeast
   出芽によって繁殖する円形もしくし楕円形の微細な単細胞の菌類の総称。

   アルコール発酵を営む子嚢菌類のサッカロミセスが主体で、ほかに担子菌類・不完全菌類に属するものがある。
   酒の醸造やパン製造に欠かせない。


  ≪ 同じ米味噌なのに色が違う理由はメイラード反応によるもの ≫  Wiki メイラード反応

  メイラード反応とは、肉などを焼いて出来るコゲた時に生じる褐色色素『メラノイジン』や、『香気成分』を発生させる化学
  反応の事。20世紀初頭のフランスの科学者ルイ・カミーユ・メヤール (← 英語発音でメイラード) が発見した事から。






  肉の成分の一つタンパク質はアミノ酸の分子で構成されています。熱を加える事で、アミノ酸は糖と化学反応を起こし
  結合し、新しいメラノイジンという分子を構成。この分子が、こんがりとした色と香ばしい風味をもたらしているのです。
  コーヒー豆やカカオを焙煎した時に香ばしく美味しくなるのも、このメイラード反応です。

  味噌が熟成する時にも同じようなメイラード反応がおこります。
  寒い地域は発酵するスピードが遅いので熟成期間が長くなります。するとメイラード反応がしっかり起こるので色が濃く
  なります。
  仙台は経済難だった為、味噌をつくるのに必要な米麹の量を通常の半分にしたので、更に発酵に時間がかかりました。

  食を科学する 人はなぜ調理をするのか タマネギは切るだけで化学反応をおこしている など  仙台味噌と宮城県の製塩事業の始まり


  ≪ 江戸時代の本朝食鑑「味噌」の記述 ≫

  鎌倉時代の1254 (建長6) 年成立の説話集『古今著聞集ここんちょもんじゅう』[18]には、「昨日見しほふしごの稲の夜の程に
  味噌水みそうず (味噌汁の雑炊) までになりにけるかな」とあります。

  江戸時代に植物の研究が盛んになり、数多くの本草学者が本を出版しています。
  『食と健康』について書かれた本では、人見必大の本草食鑑と、貝原益軒の大和本草・養生訓などが有名です。

  【本草和名】ほんぞう-わみょう 日本最古の本草書
   本草約1025種を掲げて注記。2巻。深江(一説に深根)輔仁が醍醐天皇の勅を奉じて撰。918年(延喜18)頃成る。
   輔仁本草。

  江戸時代中期に大坂で書かれた本朝食鑑には「味噌は、我が国で毎日用いる汁である」「胃に入って元気を運び、
  血の巡りを良くする」「腹下しを止め、四肢を強くする」「病後のやせ衰えを良くする」などの効果と書かれてあります。

  前橋健二 准教授によると、本朝食鑑には現代の科学でも証明できるような事が書かれてあるそうです。

  【本朝食鑑】ほんちょう-しょっかん 
   本朝・・・日本の朝廷。日本のこと。(「本朝○○」というタイトルの本の著者などは、畿内に多い。)
   本草ほんぞう (植物を中心に薬用になる物)。幕府の侍医 随祥院元徳の子 丹岳野
   人見必大ひとみ-ひつだい 著。12巻。1697年(元禄10)刊。6月上旬に出版の記述あり。
   明の李時珍著「本草綱目」にならいつつも、実地検証を踏まえ、庶民の日常生活の食膳に
   のぼることが多く、食用・薬用になる国産の植物・動物に重点をおき漢文体で記した書。
   人見(平野、小野、野)必大が1692年 (元禄5) に著した遺稿を、子の元浩が岸和田藩主
   岡部侯の出版助成をうけ1697年に12巻10冊本として刊行した。
   出版元は不明や、江戸で出版されたというサイトもありますが、
   国立国会図書館デジタル化資料のサイトでは、

   「出版元、摂州(摂津国、大阪の北摂と兵庫東部)の平野屋勝左衛門」となっています。岸和田は大阪の泉州地域です。
   本朝食鑑の末尾には摂陽 平野屋勝左衛門 開版」と書かれてあり、広辞苑では「開版=新しく版木を彫ること。
   出版すること。」とありますので、大坂で出版された事は間違いないでしょう。


  【貝原益軒】かいばら‐えきけん(福岡の人、1630~1714)
   江戸前期の儒学者・教育家・本草学者。名は篤信。
   損軒とも号。
   筑前福岡藩儒。松永尺五・木下順庵らを師とし、朱子学を
   奉じたが、晩年「大疑録」を著し朱子学への疑問を表明。
   著書は膨大で、特に教訓書は身分を越えて受容され、
   大きな影響を与えた。
   他に「慎思録」「大和本草」「益軒十訓」「養生訓」など。

  【大和本草】やまと‐ほんぞう
   和漢の本草1362種を収録・分類し、解説した書。
   貝原益軒著。日本で最初の本格的な本草書
   16巻・付録2巻・諸品図3巻。1709年(宝永6)刊。
 

  ハチミツを研究して、「蜂のウンコと違う」と大和本草書で発表した貝原益軒  Wiki 貝原益軒


  ≪ 味噌汁も飲もう ≫   腸内細菌は、アナタの体型や人生まで左右する? 「もう一人のアナタ」です。

  東京の順天堂大学医学部で日本初の便秘外来を設立した小林弘幸 教授によると、味噌汁を飲む事で腸内環境が良くなる。
  味噌のメラノイジンは、腸内の善玉菌を増やし悪玉菌を減らす効果があるそうです。

  国立がん研究センターが1981年に発表した『みそ汁摂取と胃がんリスクの関係』は、全国40歳以上の男性122,261名、
  女性142,853名を対象とし、13年間調査したもので、味噌汁を毎日飲む人は飲まない人より、胃がんでの死亡率が低くなる。

  胃がん死亡率 飲まない人 男性0.2559%・女性0.1136%。 飲む人 男性0.1719%・女性0.0778%。※1%の違いもありませんが…。






  同センター2004年発表の乳がん相対リスクは40~59歳の女性21,852名を10年間調査したもの。
  乳がん発生率 1日1杯未満の人を1とすると、1日3杯以上飲む女性は0.6と減少。

  小林弘幸 教授によると、味噌が発酵する過程で脂肪酸エチルという物質ができます。これが発がん性物質の活動を抑えたり、
  正常細胞から癌細胞に突然変異する事を抑えるそうです。
  但し、味噌汁には1杯で1.5gくらいの塩分が含まれているので、摂り過ぎには注意。1日3杯まで


  東北大学 大学院の都築毅 准教授の研究によると、1975 (昭和50) 年頃の食事は現在より1.2倍のカロリーを摂取していたが、
  糖尿病リスクは1/5、ガンを抑える効果もあったとしています。ちょっとだけ洋食化した和食が最強の『スーパー和食』としています。






  現代では肉類からタンパク質を摂取する事が多くなっていますが、1975年頃は『大豆』『卵』からタンパク質を摂取する
  食事メニューだったようです。
  「少し前までは卵をたくさん食べると、血液がドロドロになるなど色々言われていましたが、現代ではそれが間違いと
  分かりました。」「卵は1日1~2コは食べて欲しい。年齢は年を取ったほど食べて欲しいと思います。」

  味噌は何千もの成分が含まれている発酵調味料で栄養価も高い、『がん』『脳卒中』を防御し美肌効果も期待できるので
  味噌汁は1日2杯くらい。
  「1日3杯程度であれば塩分の取り過ぎによる高血圧にはならないであろう」と言われていますが、塩分が気になる人
  には出汁を活用する事で味噌や醤油などの塩分を控える事ができます。

  続きは、ちょっとだけ洋食化した1975年頃が最強の食事 最新研究による、その理由
  日本初、医・食・農のプロがつくる弁当ブランド「からだデリ」 軽塩レシピのコツ


  関西テレビ ゆうがたLIVEワンダー 『業界イチオシ・スクープ 「ジャパン味噌プレス」』 15.07.20 放送

  ≪ 味噌の業界誌『ジャパン味噌プレス』が仕掛ける『みそまる』つくり体験 ≫

  日本全国に大小合わせて2000種類以上発行されている業界誌。横浜市にあるトランタンネットワーク新聞社で2014年3月に
  若い世代から味噌の魅力をPRしようと、三十路の編集長 藤本智子さんが味噌の業界誌『ジャパン味噌プレス』を創刊。
  月1回、5万部の発行。

  藤本さんはギャル系の服の販売員をしており、不摂生な生活で肌がボロボロになったので、肌に良い物を探しているうちに
  辿り着いたのが味噌でした。今では自宅に50種類の味噌を常備して味噌の研究も行う味噌ソムリエになるほどハマったそうです。






  自ら「ミソガール」のコスプレで各地の食のイベントで味噌をPRし、戦国時代に携帯した『味噌玉』を現代風にアレンジした
  『みそまる』つくり体験は非常に人気が高いんだそうです。

  みそまるの作り方は簡単。好みの市販の味噌に、好みの乾燥食材を混ぜ合わせ、市販の味噌1パックで約30食分でき、
  冷蔵で1週間、冷凍保存すると約1ヶ月くらいの間 美味しく食べられる保存が可能です。

  【味噌玉】みそ‐だま玉味噌たまみそ
   大豆を煮てつきつぶし、玉状にしたもの。これを藁わらで包んで乾燥、麹菌を繁殖させ味噌をつくる。

  みそまる普及委員会 『みそまるレシピ』 http://misomaru.com/recipi.html
  オレンジページnet 『みそまる』 http://www.orangepage.net/ad/2015cooking_healthy/miso/


  都道府県別統計とランキングで見る県民性 『味噌消費量2008年』 http://todo-ran.com/t/kiji/11495 より

  ≪ 総務省の家計調査  県庁所在地の二人以上の世帯の購入額  全国平均 7301g≫


  味噌の購入量は、東北地方から北陸地方が上位で、近畿が最も少なく、中国・四国地方が少ない傾向にあります。

   1位 長野県 11901g、 2位 秋田県 10463g、 3位 青森県 9800g、  4位 富山県 9541g、  5位 宮崎県 8989g
   11位 北海道 8238g、 27位 愛知県 6739g、 36位 東京都 6209g、 37位 沖縄県 6022g、 41位 京都府 5108g
   43位 滋賀県 4788g、 44位 奈良県 4781g、 45位 兵庫県 4558g、 46位 大阪府 4382g、 47位 和歌山県 3258g

  ※ 食の歴史を鑑みると、味噌の消費量が少ない地域ほど醤油の普及が早い傾向にあったと考えてもよさそうです。
    (地域により例外もある)


  ≪ 日本全国 定番みそ汁 ≫  日本各地の雑煮


 幕末の『守貞謾稿』 下巻 第二十八編 食類 「
  昔は汁の物と云 蓋 今製 汁に二品あり 味噌汁と すまし汁也 味噌汁は味噌製 勿論也 味噌に數品あり
  別に云 すましは醬油製を云也
  又 今俗 京坂はすまし及みそ汁ともに露と云也 女詞なるべし
  江戸にて露と云はすまし也 味噌汁をおみそつけと云也 又 京坂にては「おつけ」とのみ云ことあり


 幕末の『皇都午睡』三編上 (著者は大坂の西沢一鳳軒、1801~1852、西沢一風の玄孫)
  「…味噌汁をおみおつけ、醤油を下地、すましをおしたト、金山寺の類を嘗物…」

  【御御御付け】おみ-おつけ … 味噌汁の丁寧な言い方。 ※ 江戸では「おみおつけ」と言っていました。


 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
  昆布とカツオの合せ出汁、白味噌と赤味噌の合せ味噌 (中味噌)、昆布出汁の澄まし汁などのレシピが書かれてあります。
  「鳥澄汁方」「又鳥すまし汁」「冬鯛南蛮汁方」『夏鱸すずきすまし方」「たらすまし方」など。

  すまし汁なので、庶民の料理に醤油が使われていた事が分かります。


 幕末の『守貞謾稿』 下巻 第二十八編 食類 「吸物
  すいものは古は羹と云也 今製 吸物二品あり 味噌吸物と澄し吸物 是は飯に合せず酒肴に用

  【羹】あつ-もの (熱物あつものの意)
   菜・肉などを入れて作った熱い吸物。(平安時代初期成立の仏教説話集『日本霊異記[上]訓釈』)

  日本料理研究の熊倉功夫 (林原美術館館長、国立民族学博物館名誉教授) さんによると、
  酒と合わせるのが「肴」と「吸物」、ご飯と合わせるのが「菜」と「汁」。


 

北海道 タチ (タラの白子)

青森県 食用菊

山形県 納豆汁


宮城県 仙台麩

茨城県 納豆

千葉県 イワシのつみれ

神奈川県 青首大根


長野県 根曲りタケノコ

新潟県 もずく

富山県 団子入り

静岡県 しったか (貝)


愛知県 アサリの赤ダシ

三重県 アオサの赤ダシ

大阪府 酒粕汁

岡山県 黄ニラ


  【赤出し】あか‐だし … 赤味噌仕立ての汁物。
   もと、桜味噌(牛蒡ごぼう・生薑しょうがなどを切り込んでまぜ、甘味を加えた なめ味噌)をすって魚肉などを入れた
   大阪天満の味噌汁のこと。

  【糟汁・粕汁】かす‐じる … 酒の糟をすって加えた味噌汁。実みには塩鮭・塩鰤しおぶり・野菜などを用いる。

  粕汁は冬場。岡山の黄ニラは高級食材らしいです。京芋はサトイモ。

  1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)
  P.225に十二月の献立として「かす」が載っており、魚は塩鮭を使用また代わりに塩鰤ぶりでも同じ作り方とあります。

広島県 チヌ (黒鯛)

福岡県 柚子胡椒を入れる

宮崎県 京イモ

沖縄県 島豆腐・巨大みそ汁



  ≪ 2014年の日本一のオススメ 最強の『西京白みそ「雪」』 ≫

  2014年10月に開催された 第57回 全国味噌鑑評会で農林水産大臣賞に輝いた6つ味噌の中で、ジャパン味噌プレスが
  最もイチオシなのが、京都の ㈱ 西京味噌が特別に製造した『西京白みそ「雪」』。
  『西京白みそ「京丹波」』という商品名で300g 545円、京阪神のデパートなどで購入可能。






  普通より、米を多く使い大豆も倍以上と、原料を贅沢に使用し、熟成期間を約20日間(通常4~6ヶ月間)と短くした事で
  白さが増しています。仕込みは昔ながらの手作業。甘酒のような香で、あっさりとした関西人好みの味わいのようです。

  みそ健康づくり委員会 『味噌鑑評会』 http://miso.or.jp/competitive/2014  (URL 略)


  ≪ 2015年のオススメ 『おかず味噌』 ≫

  日本での「おかず」味噌の起源は鎌倉時代。1254年、鎌倉時代の禅僧 覚心かくしんが、
  中国から径山寺味噌を持ち帰ったのが始まり。
  味噌の製法を紀州由良(現:和歌山県日高郡由良町)に伝え製造されました。

  平安時代に空海(弘法大師)が唐の金山寺きんざんじから持ち帰ったという説もあります。

  この径山寺味噌の上澄み液が煮炊きに適している事が分かり、溜まり醤油に近いものが
  製造されるようになります。(日本での穀物醤油の起源)。

  江戸時代中期、德川吉宗が8代将軍になった時に、地元の紀州の人たちを千葉に呼び寄
  せた事から、千葉でも作られ始めたと考えられ、現在、和歌山・千葉の両県で 径山寺味噌
  は特産品になっています。


  【径山寺味噌・金山寺味噌】きんざんじ‐みそ
   (中国の径山寺の製法を伝えたので、この名があるという)嘗味噌なめみその一種。大豆と大麦の麹こうじに塩を加え、
   これに細かく刻んだ茄子・瓜などを入れ、密閉して熟成させたもの。和歌山県有田郡湯浅町の名産。
   熟成後、砂糖や水飴などで調味することがある。






  ジャパン味噌プレスで取り上げうち、特に読者から反響が大きかった『おかず味噌』3つは、
   岐阜県の㈱天狗の『飛騨の肉みそ』130g 702円は、「飛騨牛」と納豆を食べて育てた「なっとく豚」を使った肉味噌。
   ミートボールのような風味。
   長野県の酢屋亀本店の『老舗みそ屋のカレーみそ』490円は、ドライカレーのような味わい。
   和歌山県の丸新本家㈱の『オリーブ金山寺味噌』463円は、イタリアンのような感じなので、白ワインと一緒に味わう
   のがオススメだそうです。


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) 上巻三「納豆 醤 糠味噌」には
  「金山寺味噌」のレシピが2種類載っています。うち1つは一瀬治左衛門という人の方法。


 幕末の『守貞謾稿』下巻 第二十八編 食類 「味醬」 金山寺味噌・桜味噌

 金山寺味噌 三都とも有之▲▲金山禪寺より造り始むと云 意にて名とす 虚實 詳ならず
  大豆に麥麹を合せ砂糖 或 蜜を和して甘くす 茄子 紫蘇 生薑等を交へたり

  櫻味噌 大坂堀江阿彌陀池前 及井池に賣之店あり 自家にて製し賣る也 往々近年は江戸も來る也
  製金山寺と相似たり

  鯛味噌 近年 大坂淡路町八百源一名二重と云 割烹店にて製之賣り 江戸にも漕して一二戸傅賣の店あり
  常の米麹味噌に鯛肉を磨交へ製したる物也

  寺納豆 是も味噌の一種なるべし 麥麹のみそに砂糖を交へず 茄子 蕃菽 生薑等を加へ熟せり 三都とも毎冬
  菩提より旦那に贈るのみ用之 他不之 專ら寺にて製之也 本名 濱名納豆なれども寺用專らなる故
  に寺納豆と云

  銕火味噌は江戸 平日用の味噌に牛房 生姜 蕃菽 するめ等を加へ胡麻油を以て煎りつめたる也
  なめもの屋にて賣

  「←原文のまま」「=禅」「虚實=嘘実」「=麦」「生薑=生姜」
  「てつ、くろがね=鉄」「牛房こぼう=牛蒡」「=蛮 (夷などの意味)」「まめ=豆」ですが、
  「蕃菽ばんしゅく=トウガラシ」右の文字でも「蕃椒ばんしょう=トウガラシ」
  「蕃茄ばんか=トマト」「蕃藷ばんしょ=サツマイモ」「蕃柘榴ばんしろう=グァバ」

  【桜味噌】さくら-みそ … 牛蒡。生姜などを切り込んでまぜ、甘味を加えたなめ味噌。

  【鯛味噌】たい-みそ … 火を通したタイの身を味噌に擂りまぜ、砂糖や水飴などで調味したもの。

  【寺納豆】てら-なっとう
   寺院で製造する納豆。歳暮に檀家へ贈る。京都市大徳寺の一休納豆、静岡県大福寺の浜名納豆などは有名。

  【鉄火味噌】てっか-みそ
   炒り大豆を油でいためて赤味噌・トウガラシと練ったなめ味噌。ゴボウなどを加えることもある。また、落花生で作る。

  【嘗物】なめ-もの
   嘗味噌・塩辛・ひしお など、半固形体に調製した食品。→ 現在の味噌屋  守貞謾稿『鹽辛賣』の記述


 幕末の『守貞謾稿』の第五編生業下「醬油賣」「鹽賣」「嘗物賣」では「江戸にては酒も兼賣るあり」とあります。


 幕末の考証随筆『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「納豆賣

 大豆を煮て室に一夜して賣之 昔は冬のみ 近年夏も之 汁に煮 或は 醬油をかけて
  京坂には自製するのみ 店賣も無之歟 蓋 寺納豆とは異也 寺納豆 味噌の属也

 再出 此賣り巡るものは濱名納豆及び寺納豆と云て 毎冬 三都とも寺より曲者にて旦家に賜る 納豆とは別製也

  「濱名=浜名」「旦家=檀家」
  「曲者=曲物 (「曲者 くせもの」では意味が通じないので、「曲物 まげもの」の誤字) だと思います

  【寺納豆】てら-なっとう
   寺院で製造する納豆。歳暮に檀家へ贈る。京都市大徳寺の一休納豆、静岡県大福寺の浜名納豆などは有名。

  【曲物・綰物】わげ-もの、まげ-もの
   桧ひのき・杉などの薄く削りとった木材を円形に曲げ、合せ目を樺・桜の皮などで綴じて作った容器。桧物ひもの


 幕末の『皇都午睡』三編 下之巻

  金とさへ聞ば鉄火も握り兼ぬと云 心よりか袁彦道の黨に素肌の者を鉄火博奕てつくわうち又鉄火とも呼よし
  東都にて味噌の中へ種々の加薬の入しを鉄火味噌と云は 京摂にて諸味の中へ大根生姜なと切込しを泥坊漬
  どろぼうづけと号るに同じ 芝海老の身を細末にし鮨の上に乗たるを鉄火鮨といへるは身を崩せしと云ふ 謎なるべし

  『皇都午睡』の続きには、江戸「泥坊=盗賊の異名」、京摂「泥坊=放蕩人の異名」とあります。
  『広辞苑』にも、泥棒・泥坊の意味の一つとして「放蕩人」と記されています。

  【榧味噌】かや-みそ … 炒ったカヤの実をきざみ、味噌の中にすりまぜ、砂糖をくわえたもの。 味噌賣の記述

  【榧】かや
   イチイ科の常緑高木。幹の高さ約20m、周囲3mに達する。葉は扁平線状、革質で厚く、先端は鋭い。雌雄異株。
   4月頃開花。実は広楕円形で、核は食用・薬用とし、また油を搾る。材は堅くて碁盤などをつくる。〈下学集
   下学集は室町時代の1444年成立の国語辞書。



  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 新春4時間SP 『生味噌おにぎりの真実 アリ? ナシ?』 17.01.05 放送

  ≪ 西日本人「全否定」!! 東日本定番の『生味噌おにぎり』 ≫

  北関東や東北では、おやつとして食べられている生の
  味噌を表面に塗っただけのおにぎり。具は一切なし。

  食べる習慣が無い地域民からすれば、素手で味噌を
  そのまま塗り付けるだけという衝撃的な食べ物でした。

  一般社団法人 おにぎり協会代表の中村祐介さん
  よると

  味噌おにぎりが食べられるようになったのは戦国時代あたりかなぁ、と思っております。山間部が多い長野県を
   境目に東日本では昔から家庭の中で味噌を作る文化が強かったんですね。
   そもそも東日本と西日本では味噌に対しての認識の違いがあって、『東日本 味噌=保存食、おかず』として
   食べる習慣があったんですね。
   一方『西日本 味噌=調味料』として味噌汁や調味料として存在するものととらえられていました。
   更に、東日本では寒い気候で、雪国になると外に出る事が出来なくなってしまいます。なので、保存が利く味噌
   という物を調味料だけではなくて、おかずとしても食べられるようになっていったのかなぁ、て、考えています。
   また、東日本は米処も多く、自然と生味噌おにぎりが定着していったんだと思います。

  戦国時代、一般庶民が米を食べられる機会は少なかったので、戦食だと考えられます。
  何故、具として中に入れず、焼かないのに表面に塗っているのか? という疑問が湧いてきます。
  気温? 保存? のどちらかの理由だと推測する事もできそうですが、単に焼く手間を惜しんでいるだけかも知れません。
  群馬県の味噌まんじゅうは、元々ふかした小麦粉の饅頭を食べており、後に味噌ダレを付けるようになったそうです。

  富山・岐阜・長野南部・愛知・静岡以西では見た事も無いおにぎり。
  せめて焼きおにぎりにするなど一工夫してあってもいいのではないか? という意見が番組では見られました。


 『守貞謾稿』上巻 第五編生業下の「味噌賣

 店にては三都ともに在之 擔ひ巡る賣は定扮なし 淺き箱 三五重に納む 此賣 京坂のみにて未 江戸に見ず
  價十二文 十六文 廿四文 卅二文 四十八文 百文許以上を數箇籜に褁み箱に納め巡る 蓋 嘗味噌等とは別賈に
  して唯 汁製の味噌のみを賣る 京坂は糀みそのみ食之 特に麹多きを料理味噌と云 饗客等には用
  此二品を賣る 味噌製造の巨戸より奴僕を出し賣る也 故に陌上に呼す專ら得意の戸に問のみ

  「=担かつぐ」「扮ふん、はん、よそおう=装」「=浅」「=数」「=三十」「=訳さない置き字」
  「たく、たけのかわ=竹の皮」「せき、ふくろ(この場合)包み」「ひゃく、はく、みち= 百 (道)」「陌上=百上 (広めの路上)」

  味噌店は三都とも有る。江戸では未だに見た事がないが、京坂では箱を担いで売り歩いているが装束は決まって
  いない。大きな味噌製造店から売り子を出しているので、得意先の家だけに路上から御用聞きするだけである。
  嘗め味噌とは別の味噌汁用味噌との二品を売る。
  京坂では米麹の味噌だけを食べ、特に麹が多い高級な味噌を料理味噌 (調味料) と言い客に御馳走するときは
  これを用いる。


 『守貞謾稿』上巻 第五編生業下の「笊味噌漉賣

 笊 籠 味噌こし 柄杓 杓子 水嚢 箒 等の類を賣る詞に「ざるや みそこし」と云 或は 柄杓一種を賣るあり
  又 水嚢一種を携へ 或は賣之 或は損を補ふ者あり


 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集』 後段部 麺類の蕎麦切方では「いかき」 (ざる) という言葉が出てきます。

  【笊籬】い-かき
   竹で編んだ籠かご。ざる。物類呼称「畿内及奥州にて、―、江戸にて、ざる」

  「料理塩梅集」「黒白精味集」の蕎麦の記述全文と蒸し蕎麦の再現など蕎麦関連
  有明海の海苔 日本で海苔の大量養殖生産が始まったのは昭和中期

 
 【 江戸 甘味噌 】
  テレビ東京 L4 YOU ! 『ニッポン再発見!世界に誇る「和食」の魅力』 13.12.12 放送 / Wiki 江戸甘味噌 などより

  徳川家康が、地元 「三河の八丁味噌のうま味」と、憧れだった 「京都の白味噌の甘さ」を兼ね備えた味噌を開発する
  ように命令したのが始まり。

  江戸甘味噌は、塩加減や甘さ加減が京都の白味噌と同じ。普通の辛味噌(仙台味噌、信州味噌)に比べ麹は2倍。
  熟成期間は9~14日程度と短い反面、塩分が少ないことから夏期には10日間程度しか保存できず、製造はもっぱら
  江戸市中の味噌蔵で行なわれていました。

  当初は贅沢品でしたが、鮮度の良い味噌である事などから江戸では大変に好まれて、最盛期は6割のシェアをしめ、
  味噌田楽・どじょう汁など江戸料理に広く使われるようになりました。






  第二次世界大戦中には贅沢品と見なされて製造が禁止されます
  1951年には統制が解除されたものの、その間に東京を中心とした関東地方の市場を信州味噌が席巻したため江戸甘味噌の
  生産量は減少していきました。

  2003年、東京都味噌工業共同組合の申請により、東京都の地域特産品に認定されましたが、加工味噌としての需要の他は、
  特定の料理店などにごく少量納入されているのみだそうです。

   株式会社 あぶまた味噌 HP 『江戸甘味噌』 http://abumata.com/edoamamiso

  KIRIN食生活文化研究所 発酵食品名鑑 『味噌』
   http://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/ferment/miso/index.html  ← 各地の味噌の特徴に詳しい
  南日味噌醤油 ㈱ 『全国味噌MAP』 http://www.nannichi.co.jp/bunrui.html   ← 全国の味噌が一目でわかるサイト

  毎日放送 せやねん! 『現役復帰! 浅田真央 (24) 選手「土手煮」が好きマネー』 15.05.23 放送
  関西テレビ ワンダー 『みんなの?ギモン 「お雑煮 白みそとおすましの境界線は?」』 16.12.16 放送

  ≪ 白味噌 ≫

  黄白色の味噌。米麹こめこうじを多く用い、甘味に富む。京都産の西京(西の都。京都の異称)味噌などが有名。

  神戸女子短期大学の安原美帆講師によると
  大豆の2倍の米を使い、塩の量が少ないので保存性が低い為、流通の範囲が限られて
  いました。
  白みそは室町時代の文献によるとスイーツのような感覚で食べられていたそうです。

  江戸時代など京都市内から運べる限界地点まででしか消費されておらず、
  現在の白みそ文化文化圏は一般的に、畿内 (一部除く) と徳島や香川 (高松市) など
  四国の一部の地域と言われているようです。


  文献初出の雑煮は白味噌の雑煮です。  日本各地の雑煮 関西白みそ雑煮文化の境界線など  滝沢馬琴


 1803 (享和3) 年刊の滝沢馬琴の京坂旅行記『羇旅漫録きりょまんろく』巻之中には、(名古屋は巻之上、大坂は巻之下)

  廿六 名古屋の評判 名古屋ハ魚肉に冨たる所なり…蒲焼の風味 京江戸にハおとれり…

  七十六 京地の酒摟 生洲ハ…鰻鱧ウナギハ若狭より來るもの多し。志の色ども油つよく江戸前にハおとれり…
  白味噌という かの塩氣うすく甘ッたるく しを からふやからず 田楽へもこの白味噌をつか●申ゑ 江戸人の口にハ
  食ひがたし…その●ハ江戸人の口にあわず

  「ふやからか● の部分は、この字で合っているか? はっきり分かりません、判読しにくい文字が多数。」
  「鰻鱧ウナギと、フリガナが付いていますが、大坂編では鰻鱺ウナギとなっています。鱧=はも。なので違い不明。
  フリガナは出版社が付けたと思いますが。」

  京都では塩気が薄く甘い白味噌を田楽にも使っているので、江戸人の口には合わない。という事が書かれて
  あります。

  京都と大坂の料理の味が江戸人には合わない名古屋の鰻の蒲焼きの味は京・江戸より劣るなどの記述。

  大坂・名古屋は海の鮮魚に恵まれているけど、海鮮が乏しい京の方が鰻は旨い。鰻は江戸が一番。としています。
  ちなみに、大坂淀川の鯉や鰻は室町時代末期から美味しいとの評判がありました。
  京都は宇治丸と異名されており、琵琶湖から淀川にかけての鰻の評判は高かった。

  江戸の蕎麦や鰻などが旨いと書いている本は、江戸在住者の著でしか見かけません。

  滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった



  ≪ 赤味噌 ≫

  赤褐色に仕上げた味噌。辛口と甘口とがある。田舎味噌(麦麹むぎこうじで製した、色の
  赤黒く辛い味噌。)・仙台味噌・江戸味噌の類。

  【八丁味噌】はっちょう‐みそ岡崎味噌三州味噌
   愛知県岡崎市八丁(現、八帖町)から産出されはじめた味噌。大豆と塩を原料とした
   暗褐色の堅い辛口味噌で、旨味と渋味に特徴がある。
   ※ 岡崎城から八丁離れた味噌蔵で作っていた事から。


  【岡崎市】おかざき-し
   愛知県中部にある市。德川家発祥の地で、江戸時代は本多氏5万石の城下町。
   東海道五十三次の一つ。産業は紡織・自動車工業など。人口36万4千。

  【信州味噌】・・・ おもに長野県で生産される、色の淡い辛口のみそ。

  【仙台味噌】・・・仙台を中心に東北地方で製する赤味噌の一種。赤褐色の辛口味噌。
 
 【 仙台味噌 と 宮城県の製塩事業の始まり 】 
  NHK Eテレ 知恵泉 『トップは発想せよ ! 伊達正宗』 前編 14.04.01 / 後編 14.04.08 放送

  ≪ 厳しい経済事情から生まれた仙台味噌 ≫  Wiki 伊達正宗

  戦国時代末期、伊達正宗 (18才) が、父 輝宗から家督を譲られた時の伊達家の領土は山形県の米沢市一帯でした。
  宿敵の蘆名氏など周囲の大名に戦を仕掛け福島県一帯にも領土を拡大。23才の頃には120万石になっていました。

  1590 (天正18) 年6月、秀吉に命じられ領土を返還し宮城県付近の60万石ほどに国替え減封されます。
   与えられた領土は前年に大規模な一揆あたり、戦乱で荒廃した土地や湿地が多い地域でした。

  【伊達政宗】だて‐まさむね(1567~1636) 輝宗の子。
   安土桃山・江戸初期の武将。父の跡を継ぎ覇を奥羽にとなえたが、1590年(天正18)豊臣秀吉に服属。
   幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼せきがんとなったことから後世独眼竜と呼ばれた。
   のち関ヶ原の戦および大坂の陣に功をたて仙台62万石を領した。また、その臣 支倉はせくら常長を海外に派遣。






  1600 (慶長5) 年の関ヶ原の戦いの際に、徳川家康に50万石を加増してもらう約束で東軍になり、会津を拠点とする
  西軍の上杉氏を東北に釘づけします。功績があったものの、家康が与えたのはわずか4万石の加増だけでした。


  ≪ 江戸に米を売り、新田開発で実質100万石に ≫

  1601 (慶長6) 年、62万石の大名となった正宗は岩出山から「千代せんだい」に居城を移し、「仙台」と改め町づくりを
  始めます。
  生産力が上がらない土地に加え、德川幕府から江戸城築城の普請など経済的負担を強いてきます。
  3万人ほどの大家臣団を持つ伊達家は給与である米の支払いにも困るようになりました。






  そうした中、味噌をつくるのに必要な米麹の量を、通常の半分にして生まれたのが仙台味噌です。
  仙台駄菓子も、質素で粗末な材料を使いながらも、派手に見せるような工夫がなされて出来たものだそうです。






  財政難を解決する為、正宗が打ち出したのが新田開発でした。しかし土木工事や防風林を植えるなどの多くの労働力が
  必要。そこで、家臣には米の代わりに荒地であったが通常の2倍の耕作地を与える事にします。4~5年の間は労役を
  免除し新田開発に集中させました。
  結果、家臣の所得は倍増。藩は支出の抑制につながりました。この時に、大崎平野も米処になったのです。






  その頃、幕府が開かれ人口が急増していた江戸では食糧供給が追いつかず、米の需要が高まっていました。
  正宗は貞山堀ていざんぼりなどの運河や河川、港を整備し、藩内で収穫した米を石巻に集積し江戸へと送りました。
  米を売って財源をつくり、新田開発の費用に充てるを繰り返した結果、江戸時代中期頃の仙台藩は実質100万石に
  なっていたそうです。後に、仙台藩の米は江戸の米市場の1/3を占めるようになります。

  東北大学附属図書館 企画展 第四部 仙台藩の食と名産品
   http://www.library.tohoku.ac.jp/collection/exhibit/sp/2005/list4/list4_2005.html
  このサイトでは仙台で書かれた本や、仙台の事を書いた本などが紹介されています。

  [仙台味噌] 「仙台味噌」は、仙台米と並んで、江戸の食文化に大きな影響を及ぼした。濃厚な旨味と深い香りを
  持った赤褐色の辛口味噌は、甘口の「江戸甘味噌」と並んで、江戸っ子の人気を二分した。
  現在でも「仙台味噌」の名は赤味噌の代名詞ともなっている。  仙台味噌の歴史は、藩祖伊達政宗の時代まで遡る
  ことができる。
  政宗が仙台の地に城を築くと、城内に大規模な味噌工場「御塩噌蔵」が設けられた。この御塩噌蔵の御用味噌屋で
  あった真壁屋市兵衛が、寛永3年(1626)に初めて「仙台味噌」の看板を掲げ味噌の販売を始めたと伝えられている。
  仙台味噌の名が江戸において知られるようになるのは、17世紀半ば以降のことである。当時の江戸には三千人を
  こえる仙台藩士が常駐していたため、大井の仙台藩下屋敷では、御塩噌蔵と同じ方法で味噌の醸造が行われていた。
  やがてこの味噌は、余剰生産分を江戸の味噌問屋が買い請け、「仙台味噌」として販売するようになる。このことから
  「仙台味噌」の名は江戸中に広まり、大井の仙台藩下屋敷は「味噌屋敷」とも呼ばれた。

  味噌醤油仲間留帳 文政11年(1828)~ 仙台城下での味噌製造が盛んになると、製造工程の近い醤油業者と
  ともに「味噌醤油仲間」が結成された。仲間の掟を取り決めた『味噌醤油仲間留帳』には、仲間への加入・脱退、負担金
  などのほか、材料の仕入先や値段などについても細かく規定されており、味噌の品質と価格の安定に大きな役割を
  果たした。仲間の結成は明和元年(1764)より以前に遡るとみられるが、現存する仲間掟は文政11年(1828)以降の
  ものである。


  ≪ 慶長奥州津波 と 仙台藩の製塩事業の始まり ≫  Wiki 慶長三陸地震  Wiki 川村重吉 (孫兵衛)

  1611 (慶長16) 年、東北一帯を地震と大津波が襲います。東日本大震災より深く内陸まで津波が押し寄せたようです。
  これは奥州全体に深刻な被害をもたらしました。
  伊達家の歴史書『正宗君記録引證記』によると、大地震と津波で領内の死者1783人とあります。






  農地の放棄は重罪でしたが、農民の中には命がけで土地を離れる者も多くいました。
  正宗は「田畑を放棄した罪を許すので、安心して帰ってきてほしい」という立札をたて、領民を呼び戻し、津波で浸水した
  海岸を積極的に復興するように努めました。

  海岸部は潮風などで耕作に適しないのと大津波の被害を受け、海沿いの土地は塩田にする事にしました。
  当時、仙台藩は塩田に適した土地があったにも関わらず、塩は作らず他藩から高値で購入していたのです。






  長州 (毛利氏) 出身の浪人であった川村孫兵衛を抜擢し、製塩事業を任せます。
  孫兵衛は、赤穂藩で行われていた (潮の満ち引きを利用し大量の塩を抽出する) 入浜式という最新の製塩技術を導入。

  製塩が行われた場所には塩を焼くための大きな釜が置かれたことから、地名に「釜」という文字が残されています。
  津波から50年後の地図『田村右京亮知行割絵図』には「」という地名が多く散在している事から、早くに製塩事業が
  根付いたと考えられます。

  ※ 慶長年間 (1596~1615年) の地震は、四国、近畿、九州でも起こり、主に太平洋側の日本各地に大きな被害がありました。
    詳しくは、Wiki 慶長大地震
 
 【 大塩平八郎の好物だった 大阪 米赤だし味噌 】
  テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『~600店の巨大商店街 大阪・天神橋筋~』 14.03.08 放送
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『大塩平八郎 ~庶民の反乱~』 14.11.05 放送

  ≪ とりゐ味噌 ≫ 北区天満宮より南、天神橋筋商店街  大塩平八郎と江戸時代の大坂の武士

  江戸時代中期の1688(元禄1)年創業の老舗「とりゐ味噌」の赤だし用の米味噌は、大塩平八郎の好物だったそうです。
  熟成する事で、上品な香りの赤い味噌になっています。現在は高級料亭でも使用されています。






  【赤出し】あか‐だし ・・・赤味噌仕立ての汁物。
   もと、桜味噌(牛蒡ごぼう・生薑しょうがなどを切り込んでまぜ、甘味を加えた なめ味噌)を
   すって魚肉などを入れた大阪天満の味噌汁のこと。

  【大塩平八郎】おおしお‐へいはちろう (1793~1837) 
   死後に尊んでつけた称号(諱)は正高、のち後素としもと。号は中斎。
   家塾を洗心洞と名づけた。大坂天満(一説に阿波)生れ。著「洗心洞箚記」「古本大学
   刮目」など。
   江戸後期、大坂町奉行所の与力で陽明学者だった大塩平八郎は、天保の飢饉(天保
   4~7年)の時、救済を町奉行に請うが、入れられず蔵書を売り払い窮民を救った。
   1837年(天保8)2月、大坂に救民・幕政批判の兵を挙げ、敗れて潜伏後、放火して自殺。



 
 江戸時代前期の調味料
  「なまだけ」や「たれみそ」は味噌に水を加えて漉したもの。
  「いり酒」は、しょうゆが普及する江戸時代中期まで、刺身や膾などの生もの料理に多く使用されてきました。


 1643年刊『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部」の全文

  なまだれ〕は みそ一升に水三升入 もみ立、ふくろにて たれ候也
  たれみそ〕は みそ一升に水三升五合入せんじ 三升ほどになりたる時 ふくろに入 たれ申候也
  にぬき〕は なまだれに かつほを入、せんじ こしたる物也
  だし〕は かつほのよき所をかきて、一升あらば、水一升五分入 せんじ、あぢを すひみて あまみ よきほどに
  あげて吉、過ても惡候、二番も せんじ つかい候
  いりざけ〕は かつほ一升に むめぼし十五 二十入、古酒二升、水ちと たまりすこし入、一升にせんじ、こし
  さましてよし
  だし酒〕は かつほに鹽ちと入、新酒にて一あし 二あはせんじ、こしさましてよし
  しょうじんのたし〕は かんぺう こんぶ やきても入、ほしたで、もちごめ ふくろに入に候、ほしかぶら、ほし大根、
  右の内とりあはせよし
  しょうじんのいり酒〕は とうふをでんがくほどにきり あぶりて、むめぼし、ほしかぶらなど きざみ入、古酒にて
  せんじ候、又さけばかりに かげをおとしても よし
  わさび みそず〕とは わさびをおろし、みそをくわへ よくすりて、酢にて のべ申事なり
  しょうが みそず〕とは 右同前
  白ず〕とは けしに とうふを入、しほかげんして、すにて のべ候、しらあへには酢を入ず、よくすり候
  しもふり〕は たいをきどり にえゆへ入、やがて水にて ひやし候事也、しらめて といふも同事なり、又ゆがくとは
  何も ざつと ゆで候事也
  かげをおとす〕とは すましに たまりを すこし さす事也
  どぶ〕とは 何時も酒のかすを しぼりたるがよし、にごり酒は惡、

  【煎酒】いり-ざけ 広辞苑    大坂・新町の夕霧太夫
   ① 酒を煮つめたもの。
   ② 酒に鰹節・梅干・炒塩・醤油などを加えて煮つめて漉したもの。刺身・膾なますなどの味付け用。
     錦之裏 (江戸の山東京伝 作画の洒落本、1791年刊。大坂新町の名妓を描いたもの)―のにほひ。鼻をつらぬき
   ※ いり酒は室町時代から用いられており、広辞苑②の解説の「醤油」は、醤油が普及してからのレシピです。

 
 しょうゆ
  しょうゆ情報センター 『万能調味料 しょうゆの歴史』  https://www.soysauce.or.jp/rekishi/index.html / Wiki 醤油
  北伊醤油 『しょうゆの豆知識 「資料 江戸時代醤油の味」』 http://park11.wakwak.com/~kitai/Kitai_Shoyu/MAME/reference-4.html
  名大システム 古典籍内容記述的データベース 『〈世宝大成〉万金産業袋』 http://info.nul.nagoya-u.ac.jp/cgi-bin/wakan/wa.cgi?i=2332
  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf
  ヤマサ醤油 http://www.yamasa.com/soydoc/history/history03.html

  ≪ 溜まり醤油も、淡口醤油も、生醤油も、濃口醤油も 関西発祥 ≫

  日本におけるしょうゆの発祥は、鎌倉時代の和歌山といわれています。
  1254年、鎌倉時代の禅僧、覚心かくしんが中国から持ち帰った径山寺きんざんじ 味噌の製法を紀州由良(現:和歌山県
  日高郡由良町)の人たちに教えていたのですが、ある時、仕込みの間違いか、水分の多い「味噌」が出来上がってしまった
  のです。

  鎌倉時代の正応年間 (1288~1293年) に、和歌山県の湯浅で、「径山寺味噌からできた醤油を岩佐という人が近隣に
  販売した」という伝承があるようです。

  室町時代後期 (戦国時代) の成立と思われる国語辞書の『文明本節用集』に「漿油 シヤウユ」の記述。

  【文明】ぶんめい
   戦国時代、後土御門天皇朝の年号。応仁3年4月28日 (1469年6月8日) 改元。文明19年7月20日 (1487年8月9日)
   長享ちょうきょうに改元。

  1535年の『鹿苑日録』に「漿油を子ねサス (仕込む)」という記述。
  1559年の『言継卿記』に「シヤウユウ」という言葉が使われ、小桶に入れて贈り物にしたとの記述があるようです。

  【鹿苑日録】ろくおん-にちろく
   鹿苑院 (京都の相国寺内に設けられた修禅道場) の歴代僧録の日記 (1487~1651年) を集めたもの。

  【言継卿記】ときつぐきょうき コトバンク『言継卿記』 より
   山科言継の日記。1527年から1576年に至る。原本37冊が残る。言継は当時窮乏していた朝廷の費用調達などに奔走した。
   皇室経済をはじめ,公家の窮乏生活や地方豪族の台頭,医療関係のことなどが記され,戦国時代の貴重な記録。

  【山科言継】やましな‐ときつぐ(1507~1579)  Wiki 言継卿記
   戦国時代の公家。内蔵頭くらのかみ・御厨子所みずしどころ別当として皇室経済の維持に努める。
   故実・音楽に通じていた。日記「言継卿記」。

  1580年、日本で最初の醤油屋と思われる玉井醤が味噌・醤油業を始めたと言われ、
  1588年には、紀州から100石 (約18000 ℓ) のたまり醤油が送られた事が記録に残っているそうです。
  一方、関東では醤油は伝わっていたものの、製造には至らず、上方から運ばれてきたものを「下り醤油」として
  珍重していました。

  1597 (慶長2) 年、安土桃山時代の国語辞書『易林本節用集えきりんぼん‐せつようしゅう』(平井易林が刊行、京都のようです。)
  にあるのが「醤油 シヤウユ」という文字の文献初見のようです。
  それ以前の1568年に「長印房へ醤油を持参した」という記録もあるようです。


  【節用集】せつよう‐しゅう (セッチョウシュウとも)
   室町時代に成立した国語辞書。日常語の用字・語釈・語源を示し、イロハ順に配列。通俗簡易で検索に便利であったので
   江戸時代にかけて広く行われ、ことばの読み方から漢字を求めるイロハ引き実用辞書の総称ともなった。
   「伊京集」・饅頭屋本・黒本くろもと本・易林本などがある。

  2008年3月20日、和歌山県岩出市の根来寺の旧境内から、約430年前の金山寺 (径山寺) 味噌が見つかったそうです。

   しょうゆ発祥の地 和歌山県湯浅町の金山寺味噌としょうゆ





  この余分な水分、みその上澄み液をなめてみるととてもおいしく、食物の煮炊きに適していることがわかりました。
  以後、わざと水分の多い径山寺味噌をつくるようになり、いまの「(たまり)しょうゆ」に近いものが生産されるように
  なったということです。

  別の説では空海(弘法大師)が唐の金山寺きんざんじ から持ち帰った。というのがあります。

  幕末でも江戸では「金山寺(味噌)」を「嘗物」と呼んでいたようです。(幕末の『皇都午睡』 三編上)
  【嘗物】なめ-もの … 嘗味噌・塩辛・ひしおなど、半固形体に調製した食品。

  関東で最古の醤油メーカー ヒゲタ醤油が1697年に濃口醤油をつくった? ← 他の史料とは一致しない、さらに最近では1640年と主張しはじめる


  ≪ 醤油の種類 ≫   NHK あさイチ 『基本の調味料シリーズ しょうゆ』 18.05.30 放送

  東京では江戸時代から「醤油」の事を「下地」、「すまし (汁)」を「おした」と呼んでいました。(幕末の『皇都午睡』 三編上)

  【下地】したじ … ⑤ (味つけのもとの意) 醤油。また、出し汁など。「割―」。広辞苑






  小麦と大豆の配合率による違い
   白醤油は小麦の配合率が高い。淡口醤油は米が加わった高級品。たまり醤油再仕込み醤油は大豆の配合が高い。
   色が薄いほど料理の素材の味や香や色がより活かされ、色が濃いほど醤油自体の旨味が強くなる傾向がある。

  丸大豆と脱脂加工大豆による違い
   多くの醤油は大豆を粉砕して油を搾った後の脱脂加工大豆が使われており、麹菌の酵素で分解されやすい為、短期間で
   旨味の強いコクがある醤油に仕上がる。
   丸大豆を使用すると、大豆油が含まれているため、マイルドな味わいに仕上がる。
   脱脂加工と丸大豆の両方を使ったり、その配合を変える事でも味は変わります。

  なま醤油
   普通の醤油は火入れして殺菌と発酵を停止させています。火入れすると「火香ひが」というローストフレーバーが付くので
   香が強くなる。生醤油は火入れしていないので香が弱い。

  しょうゆソムリエの高橋万太郎さんによる使い分けでは、
  脱脂加工醤油 (一般的な醤油) は、白身魚の刺身や、あっさり系の煮物などで、少量使う。
  丸大豆醤油は、マグロなど赤身魚の刺身、ステーキなどで、たっぷりめに使う。
  生醤油は、卵がけ御飯や大根おろし、またチャーハンなど調理する際に火を入れると香が引き立つ。






  醤油の等級 旨味成分であるアミノ酸の多さが基本とする。
   東京の日本醤油技術センターでは、醤油に含まれている窒素の量を機械で分析測量を行っています。
   窒素量を調べる事で、JAS規格で定められている旨味成分であるアミノ酸の量がわかるので、JAS等級が決まるそうですが、
   アミノ酸の量が多くても発酵がうまくできていない物や、人工のアミノ酸液を加えた物など、機械では判別不可能な要素が
   存在しているので、必ず複数の醤油官能検査員によって、色や風味などをチェックしているそうです。
   その結果「標準」「上級」「特級」の3等級に分けられ、「特級」の基準値よりも更にアミノ酸が1割以上多いものは「特選」、
   2割以上多いものは「超特選」と名乗って良い事になっているそうです。

  年に1回、日本全国の5800人近くいる官能検査員の内、数十名が集まり、全国しょうゆ品評会が開催され、日本一の醤油を
  決定しています。2017年は北海道、山形、福島、広島の4つの醤油が受賞。
  受賞しても宣伝に使ってはいけない決まりがあるそうです。
  しょうゆ情報センターのHP https://www.soysauce.or.jp/fair にて、歴代の受賞結果も公開されているそうです。






2006-2008年 しょうゆ消費量








  九州の濃口醤油は、水飴やカラメルを加えて作った甘口の醤油が一般的。


  ≪ 醤油の歴史 ≫

  1645年刊の『毛吹草』の1638年の記録に「泉州和泉の醤油が名産として流通していた」という記録があるそうです。
  1712(正徳2) 年の『和漢三才図会』にも堺の土産として記述があります。(下記に記述してあります。)

  【毛吹草】けぶきくさ
   1645年刊。京都の裕福な撰糸商人の松江重頼の俳諧論書。    Wiki 毛吹草  Wiki 松江重頼

  酢や酒の醸造も中国から堺に伝わり、古墳時代~江戸時代まで長らく堺が主産地となっていました。


  キッコーマン HP 『しょうゆの歴史を紐解』 http://www.kikkoman.co.jp/soyworld/museum/history/hishio.html より

 江戸時代になり人々の生活や食生活も豊かになるにつれ、しょうゆは各地で工業的に生産され売られるようになって
  きましたが、はじめは上方ものがはばをきかせていました。

  江戸の初期、上方しょうゆは米の3~4倍はする高価な商品でしたが、堺や大坂から船で大量に江戸に送られ、
  関東しょうゆの倍近くの値段で売られていたという記録もあります。
  そのころの江戸はまだ発展途上にあり、食生活を含めた文化の中心は上方だったのです。

  江戸時代中期を過ぎると、関東の常陸・下総・上総・相模などで、しょうゆづくりがさかんになり大きく発展します。
  味も江戸の人々の嗜好に合わせて、今日の濃口しょうゆに近いものが生産されるようになりました。

  元禄時代(1688~1704年)に上演された近松門左衛門の浄瑠璃に「うどんと切麦、汁は同じ醤油」とか「吸口は、
  何を、醤油か」「いやさっと薄味噌で」などとあるように、大坂の町人衆の間ではすでにしょうゆは日用品でした。

  しかし、しょうゆが江戸の調味料として広く一般に使われるようになるのは、文化・文政期(1804~1831年)
  なってからのことでした。

  1697年(元禄10年)刊行の『本朝食鑑』には「等量の大豆と大麦で麹をつくる」とありますが、

  1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』では「大麦麹と小麦麹の二種があり、市販されているのはみな小麦を
  原料にしている」と記されています。それまでの大麦にかえて小麦を使うことで、より江戸の人々の嗜好に合った、
  今日の濃口しょうゆに近いものとなりました。

  1732(享保17年)の三宅也来みやけ-やらい編の『満金産業袋はんきんすぎはひぶくろ』には、小麦を使ったもののみを紹介。

  慶安年間 (1648~1652年) 頃、米一升が26文。下り醤油は一升78~108文と、江戸庶民にとってはとても高価な物でした。

  享保年間 (1716~1736年) 頃、江戸に入荷するのは醤油のうち、7~8割は上方からの下り醤油でした。
  1821年頃になると、江戸での入荷量は享保年間の10倍に増え、千葉の銚子や野田の「地廻り醤油」の割合が98%に。

  【和漢三才圖會】わかんさんさいずえは、日本の類書(百科事典)。正徳2年(1712年)成立。 Wiki 和漢三才図会
   編集者は大坂の医師 寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭された
   ことが編集の動機であった。 本朝食鑑は、上記の味噌のところで解説、出版元はこちらも大坂 (摂陽)。

  コトバンク『萬金産業袋』 によると、
   江戸時代の商品学書。六巻六冊。著者の三宅也来(みやけやらい)の伝は不明だが、本文中にしばしば京都に
   実在した職人名や店舗名があげられているので京都の人らしい。1732年(享保17)刊…。 17.11.21追加

  『和漢三才図会』も、『満金産業袋』も上方で書かれ出版されていたものなので、濃口しょうゆも関西で
  作られていたという事です。1643年の料理物語も1697年の本朝食鑑も著者は大坂人と思われます。


  1730年頃までは、江戸での出版はオリジナルが少なく、ほとんどは京坂で書かれた本のパクリでした。
   江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸  関東の地廻り醤油が台頭した本当の理由は賄賂政治をうまく利用したからかも?


 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
  味噌の部には「醤油方」「二番醤油方」「醬方」があり、大豆と大麦が原料の作り方しか載っていません。
  但し、料理法には「うすくち醤油」と「生醤油」が記載されており、どちらも同書が文献初出

  千葉大学 教育学部 研究紀要 第25巻 第2部 『古典料理の研究 (二) 料理塩梅集について』
   http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715150.pdf?id=ART0007458558


 1689(元禄2)年の料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』中川茂兵衛 著 出版地は京都。
  巻一の醤油の類には「醤油の方」「酒醤油の方」「溜乃方」「味噌醤油」があります。
  淡口醤油を使った調理法と、生醤油を使った調理法の記述があります。
  「醤油の方」では大豆と大麦が原料ですが、味噌の類きんざんじ?醤の方」では小麦と大豆が原料で、
  レシピの中に大麦の文字は見られません。


 1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』編者は大坂の医師の寺島良安、版元および出版地は大坂。
  百五巻 造醸類 (酒・果子・鹽・酢・醤油之類)「醤油」では、豆油たまり・大麦の醤油・小麦醤油の造り方があります。
  「… 二番醤油味最レリ 市鄽之醤油皆用小麥也用 大麥味不ナラ…」

  二番醤油は味が最も劣っている。市店の醤油は皆小麦の醤油を使っている。大麦の醤油は味が良くない。

  「=店」

 同書の地理の部は日本各地の郡や土地の由来、寺社仏閣、距離、土産 (その国で産するもの) などが書かれてあります。
 各国の土産で「醤油」の記述があるのは「摂津国」のみ七十四巻「摂津」の土産。

 六十六巻「上野・下野・常陸・上総・下総・安房」の中から、現在の千葉県を構成する3国の「土産」を抜粋
  上総 鯛(大瀧浦より多く出す)、鮑アハヒ(大瀧浦、最大)、蛤(自東金)、紅花(長南)、石
  下総 苔ノリ(葛西)、紬ツムキ(結城・中山)、三度栗
  安房 木綿、苔ノリ(小湊)、浪子ナミコ(蜆貝に似る)、○「糸+刃」ヒモノリ、眼黑鰹メクロカツヲ

 七十四巻「摂津」の土産
  實綿ミワタ、繰綿、木綿、古衣フルギ、鯛、イヒダコ、鮮魚問屋(雑喉場)、鹽魚問屋(新靱町)、穀類問屋(北濱)、藥種(道修町)
  材木問屋(横堀・長堀)、干鰯ホシカ問屋トイヤ、燈トモシ油、酒(伊丹・池田)(兵庫)醤油(堺)、傘カラカサ、瓦(大坂)、西瓜(鳴尾)
  大根(都倉・椋橋)、人参(鹽町)、切炭(池田)、蕪菁カブラナ(天王寺)、○鐵フチカネ(針の下地)、鍋釜(道頓堀)、銅吹屋、船大工(天満)
  碇鍛冶、飴(大坂)、鳥貝(尼崎)、香附子(住吉)、團扇ウチワ(長町)、細大根(天満)

  大坂は天下の大湊ゆえ、万物は交易によって絶えることなく市が開かれるといえども産しない物も皆産するが如し。
  ことごとく記す事はできない。という事がかかれあります。

 七十六巻「和泉・紀伊・淡路」の和泉国の土産
  金紗キンシヤ、撰○絹、鐵炮テツハウ、朱座シユサ(柳町)、白粉ヲシロイ(小西)、尻切履シキレ(櫻町)、傘カラカサ、庖刀ホウチウ
  (舳松)、鯛、金魚(以上は堺津で多く出す)、湊神、壺焼シホヤキ鹽、花鹽(松村)、雞卵トリノコ(阿間川)、白炭(横山)、壺(蜂田)
  クシ(近木)、笊イカキ(富木)、箕ミ(上村)、鰈カレイ(岡田)、煙艸タハコ(新田)

  堺は摂津国3村と和泉国2村の2国で構成されていた地域です。なので「摂津国」と「和泉国」の両方に記述あり。

  千葉で上方にはない新しい製法が誕生していたとしたら、和漢三才図会において特筆されているはずです。
  現在の千葉県を構成する上総国・下総国・安房国を含め、他国全ての土産でも「醤油」の記述はありません。
  つまり、上の「醤油」記述は摂津国での醤油造り法を書いていると考えるのが普通です。


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) 上巻一「醤油の法
  料理名特徴だけ書いておきます。 この書は他の文献から引用したり聞き書きなどを集めたもの。

  「大豆五斗 小麦と米糀」「大豆一斗 引き割大豆と餅米、その他レシピ複数あり」「糀弐斗 吉良家の味噌
  「大豆壱斗 麦と米糀、餅米」「甘醤油の方 大麦と引き割小麦、餅米」「大麦七升 引き割大麦、小麦
  「白醤油 大麦、小麦」「当座醤油 大豆を引き割って皮を捨て、糀、大豆糀、三十日で作れる
  「溜りの法 3種類のレシピがあります

  大豆壱斗のレシピに「手前の方也 (編者の江戸散人 孤松庵養五郎の方法)」が載っており、大麦が使われていますが、
  小麦は使われていません。

  1746年の黒白精味集では小麦だけを使ったレシピは大豆五斗のみ。
  1732年の満金産業袋 (著者が京都人で、大坂などで出版) では小麦を使ったものだけが紹介されている事を
  考えると、濃口醤油の製造法の普及も上方の方が何十年か早かったと思っていいでしょう。

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf


 1782年の『豆腐百珍』と1783(天明3) 年初出版のと『豆腐百珍続編』(著者は大坂の曽谷学川と推測されている)
 その写本出版 (著者ペンネームは浪華 酔狂道人、年代不明ですが江戸時代に出版された版)

  「とうふ」「豆腐」「菽腐」「豆乳」「菽乳」「」「」と書いて全て「とうふ」のフリガナがあります。 // 「=まめ」

  豆腐 (色々な種類のものがありますが) の場合は、商品名や料理名として出てくるので気にしなくてもいいですが、
  しょうゆは、レシピ内に書かれたもので、下記のように色々な文字で書かれてあります。
  1730年代頃、醤油の原料配合 (大麦麹→小麦麹) が変わっていますので、記述文字の違いに意味があれば、
  下記のような醤油の種類の違いがあったのかも知れません。

  「醤油」、「うす醤油=淡口醤油」、「豆油しょうゆ=たまり醤油」、「うす豆油=薄いたまり醤油」、「濃醤こくしょう

  卵百珍に見える「長崎」の付く料理 醤油の普及は江戸より長崎の方が早かったと思われます。


 幕末の『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類 「醬油

 昔は無之 足利氏の庖丁大草家の書等に醬油と云こと無之 垂味噌を用ひたり 垂味噌は今世 田舎にて
  用ふ たまりのこと也 溜也 味噌溜の上也 味噌の上を凹にし笟を納れ置き溜る所を汲取る故に名とす

  醬油の名 庭訓往來 及下學集に未之 節用集に始て有
  大坂には製之家諸所有之 御堂の後河内屋 南久太郎町河六 大寶寺町奈良屋等
  江戸は大坂よりも買漕し 又近國にても製し出す 下總の野田町 常陸土浦等より出る物 上製也

  豆油 (タマリ) と訓ぜり 今も尾三遠濃等の國は溜を專用し醬油を用ひず

  「← 現在ではこの文字か?」 「=宝」 「=総」
  「=尾張」「=三河」「=遠江」「=美濃」 中部・東海地方の国を示した物だと思います。

  上記の画像「地域で見る醤油の嗜好性」の中部 (静岡含む) と一致しています。
  幕末にこの地域で濃口醤油が普及していなかった事を考えると、東北地方では明治以降まで醤油類が無かったと
  推測できます。(一部地域を除く、他の食文化の歴史を考察してみると)

  「庭訓往來ていきんおうらい=南北朝時代~室町初期に成立。手紙 (消息文) を集めたもの。
   書簡の文範例として、近世末期まで広く使われた。
  「下學集かがくしゅう=室町時代の国語辞書、2巻。著者は未詳、1444年成立」
  「節用集せつようしゅう=室町時代に成立した国語辞書。江戸時代に実用辞書の総称となった」

  守貞謾稿には、上記のとおり、「垂味噌=たまり」と簡単に説明されていますが、江戸時代前期の料理物語では
  下記のように「たまり」と「垂味噌」の両方の記述があるので、別物として区別されているようです。


  テレビ東京 L4 YOU ! 『ニッポン再発見!世界に誇る「和食」の魅力』 13.12.12 放送 / Wiki 行徳塩田

  ≪ 千葉の醤油 ≫

  関東で千葉県の野田や銚子が栄えたのには川運が大きく関係しているそうです。
  原料の大豆は茨城県から利根川を使って運ばれ、小麦は群馬県・千葉県のものが使用されました。
  野田から江戸川を下ることで、約半日で江戸までしょうゆなどを運ぶ事ができました。






  塩は江戸川の河口の千葉県市川市の行徳で塩が作られており、江戸に近いことから、幕府は塩造りを奨励しました。
  その名残として行徳地区には「塩」にちなんだ地名がつけられています。






  味醂 元々は高級酒として飲まれていました。千葉県流山市発祥の白みりん


  ヒゲタ醤油 『ヒゲタ醤油 創業400周年』 http://www.higeta.co.jp/400/index.html   Wiki ヒゲタ醤油
  コトバンク『田中玄蕃(初代) たなか-げんば』
  国立科学博物館 技術の系統化調査報告 第10集 2008年3月19日 に含まれている 『醤油製造技術の系統化調査 小栗朋之』
   http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/040.pdf
   著者の小栗朋之という人は、2000年にキッコーマンの取締役で同姓同名の人がいます。

  ≪ 「1640年に関東で濃口醤油が造られた」という根拠を示さない情報の流布 ≫

  まず、1640年に関東で濃口醤油が造られたと記しているサイトがいくつか
  ありますが、どれも出典は書かれていませんでした。
  右画像を見れば分かる通り、他の情報には具体的な文献などが書かれています。
  右画像は↓のサイトより
  しょうゆ情報センター 『歴史』 https://www.soysauce.or.jp/knowledge/history
  Wiki醤油
  主張するなら根拠や証拠となる出典を一般公開すべきでしょう。

  当サイトが醤油の歴史を調べ始めた2012年頃には「1640年に関東で濃口醤油が
  作られた」という事はネットでは見当たらなかったように思います。


  それからも度々調べて追記していますが、上記を発見したのは2018年になってから。
  それ以前から書かれていたとしても早くても1~2年前、当サイトが「濃口醤油は関東発祥ではない」と
  1697年説を否定して以降だと思います。ウィキペディアの「醤油」の内容も大幅に書き変わり1640年説が載っています。

  上記の2008年の『醤油製造技術の系統化調査』論文にも、1640年に濃口醤油が作られた事など書かれてないです。

  1640年は江戸川と利根川をつなぐ工事が完成した年のようです。千葉から江戸日本橋へ水運が繋がったようです。
  1643年刊の『料理物語』の著者は上方人であり埼玉まで行って書いてありますが、もちろん濃口醤油の記述はありません。
  1645年 (1700説あり) 紀州から浜口家の先祖が銚子に移り住み浜口義兵衛が醤油づくりを始めた年。後のヤマサ醤油。


  ≪ 関東で最古の醤油メーカー ヒゲタ醤油が1697年に濃口醤油をつくった? ≫

  1616 (元和2) 年、下総国海上飯沼村 (千葉県銚子市) の名主の田中玄蕃 (第3代) が、摂津国西宮 (兵庫県西宮市) の
  酒造家である真宜さなぎ九郎右衛門から、関西の溜まり醤油の製法を伝授され、醤油の醸造を開始。(ヒゲタ醤油の創業)
  江戸本船町にある真宜の支店で販売する事になりました。

  1697 (元禄10) 年、田中玄蕃 (第5代) が、原料に小麦や米麹を配合するなど製法を改良して濃口醤油の基礎を作った。
  「初めて醸法を現今のごとき関東醤油とせり」と云うと伝えている。(出典は、1909年の田中直太郎 醤油沿革史)

  上記リンクの4つサイトの情報をまとめると、このようになりますが、コトバンクと他とは大きく異なる部分があります。
  コトバンクによると、1616年にヒゲタ醤油を創業したのは石橋源右衛門と名乗っており、1655 (承応4) 年に田中玄蕃 (初代)
  と改名。江戸本船町にある真宜の支店で販売」というのはコトバンクのみでの記述なので、コトバンクの方が詳しいです。

  2017年11月現在、コトバンクの「田中玄蕃」(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説) は、初代・9代・10代・12代があります。

  『本朝食鑑』では濃口醤油が作られていたという記述はありません。刊行されたのは、1697年(元禄10年)ですが、
  書かれたのは1692年 (元禄5) 以前です。 本朝食鑑は、上記の味噌のところで解説、出版元は大坂 (摂陽)。

  1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』では、原料を小麦に換えたものばかりなので、濃口醤油と同じです。

  元禄年間(1688~1704年)頃の出版状況では『和漢三才図会』などの百科事典も含め、マニュアル本である『重宝記』の
  各本は大坂や京都で出版されたものが日本各地に流通。   江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸
  1730年代頃まで、江戸で出版された本は、ほとんどが上方のパクリ本なので、江戸の本は上方では売られていません。

  江戸時代の初め、大阪の河内で綿花栽培が本格的に始まり、畿内や瀬戸内海など綿花栽培が可能な地域に広まります。
  江戸時代の初期~中期頃、水田や綿花栽培の肥料となるイワシが静岡~千葉あたりで大量に獲れた事から西日本の
  漁民らが移り住み、イワシを西日本へ送りますが、関東でも水田開発が進みイワシの地元消費が増えます。
  中期の18世紀 (1700年~) 西日本では北前船を通じて北海道のニシンを田畑の肥料として輸入しています。
  18世紀は千葉→上方への情報はなく、上方→千葉への情報のみあったと考えられます。

  濃口醤油の発祥がヒゲタ醤油であったとすれば、田舎の一つの醤油屋が作った新製法が関東では広まらず、
  評価が高く (千葉の情報も伝わりにくい) 上方の醤油の製法が、わずか15年の間で全て小麦のみを使ったものに
  置き換わるでしょうか? そもそも、いつ、どのようにして千葉の醤油造り方が上方に伝わったのでしょうか?

  まず、1666年に作られた淡口醤油も、原料は大麦ではなく小麦なので、醤油の原料に小麦を使ったのは関西の方が
  先である事が断言できます。

  ヒゲタ醤油が製法を換えたと主張する証拠史料は他のサイトによると『玄蕃日記(言及はありません) と思われますが、
  公開されていないようですし、田中玄蕃についてもヒゲタ醤油の記述の方が正確とは思えません。
   (下記リンクの通り、関東発信の情報の多くは願望・思い込みの結論ありきで都合に合わせて歪曲解釈される傾向にあります。)

  コトバンク『田中玄蕃(9代)』
  1740-1811 江戸時代中期-後期の醤油(しょうゆ)醸造家。元文5年生まれ。
  下総(しもうさ)成田村(千葉県)の西村家から同飯沼村の田中家養嗣子としてはいる。江戸の市場を支配していた
  関西の薄口醤油に対抗して関東風の濃口醤油の品質向上と増産につとめ,田中家を隆盛にみちびく
  苗字帯刀をゆるされた。文化8年6月15日死去。72歳。名は通喬(みちたか)。

  コトバンク『田中玄蕃(10代)』
  1778-1849 江戸時代後期の醤油(しょうゆ)醸造家。安永7年生まれ。9代玄蕃の長男。
  下総(しもうさ)飯沼村(千葉県銚子市)で家業をつぐ。上野(こうずけ)(群馬県)高崎藩の御用達をつとめ,苗字帯刀はもと
  より,右筆(ゆうひつ)次席格の特別待遇をあたえられた。百路と号して江戸の文人ともまじわり,「玄蕃日記」をのこした
  嘉永(かえい)2年4月4日死去。72歳。名は貞矩(さだのり)。字(あざな)は敬夫。


  初めて醸法を現今のごとき関東醤油とせりと言ったですが、書かれた原文を見てみないと、この訳が正しいか
  は判明できません。ヒゲタ醤油がネットで原本を一般公開すればはっきりする事ですけどね。

  また出典が10代目玄蕃の『玄蕃日記』であったとすれば、5代目が言ったというのは直接聞いたのではなく伝承・又聞きの
  類なので正確ではない可能性もありますが…。

  【現今】げん-こん … いま。いまの時代。この節。当今。 【ごと】…同じく。のように。

  更に噛み砕いて現代訳にすると、初めての醸造法を現在と同じような関東の醤油とするとなりますが不自然な訳です。
  初めて醸法を関東醤油とせりであれば初めての醸造法を関東醤油とするとなり、これなら問題はありません。

  しかし、現今のごときという言葉が挟まれています。現在と同じようにという意味をどう解釈するか。
  現今のごとき=「現在主流である上方からの下り醤油」を意味していると解釈するのが妥当だと思います。

  この時代は漢文形式で書かれている文献も多く、一・二点や返り点を正しく訳さないと意味が変わってきます。
  庶民の日記なので漢文ではなく草書体で書かれたものだと思います。しかし草書体でも漢文のように文の前後を入れ
  替えたり、単語や文字を補わないと素直な意味に受け取れない文章も多々存在します。
  現今のごとき醸法を初めて関東醤油とせりと言ったの順番だと下記の訳になり自然な文になります。

  現在の時代の (下り醤油と) 同じ醸造法を始めて、関東の醤油とする

  ※「初めて」と「始めて」では意味が変わるではないか!! とツッコミが入りそうですが、江戸時代に書かれた各文献の原文を
  いくつか見てみれば分りますが、この時代では同じ名称でも複数の異なる漢字が使われており、現在のように厳密に意味と
  使う漢字が定まっているわけではありません。大正時代や昭和初期でも旧漢字が使われています。

  日本語の仮名遣いや文法は、本居宣長が著した1776 (安永5) 年刊の『字音仮字用格じおん-かなづかい』などによって初めて
  整理されたと言われていますが、仮名遣いや漢字が現在と同じになるのは1946 (昭和21) 年に『現代的仮名遣い』に改正
  されてからです。 言葉の雑学1 本居宣長

  例えば、使用の仕方が逆ですが、幕末の『守貞謾稿』(昭和9年、京都の更生閣書店版)上巻 第五編 生業下 「鼠取藥」では
  …京坂での賣詞に「猫いらず鼠とりぐすり」云々 江戸も始めは同詞…と書かれています。
  現代の漢字では江戸も初めとなるはずです。

  【仮名遣】かな‐づかい
   仮名を用いて国語を表記する法。特に、同じ語に2種以上の仮名による表記がある場合、そのいずれによるべきかのきまり。
   平安中期以前の表記に準拠するものを歴史的仮名遣、発音のままに表記するものを表音 (発音) 式仮名遣という。
   現代仮名遣 (1946年に内閣告示により一般化、1986年に改正) は、歴史的仮名遣をもとに現代の発音による区別を
   加味したもの。

  関東の地廻り醤油が台頭した本当の理由は賄賂政治をうまく利用したからかも?

  幕末の豆腐の製造において、京・大坂の豆腐は品質が高いが、江戸の豆腐は固く真っ白でなく味も劣っているとあります。
  「色潔白ならず」という事は、大豆の皮を完全に取り除く技術が普及していなかった事を意味しています。

  小豆の漉し餡も作れなかったので、江戸での汁粉は関西と異なり、小豆の粒があっても汁気があれば「汁粉」と呼ぶように
  なったと考えてもいいでしょう。「お汁粉」という言葉は江戸時代初期の京都で使われてた事を発見。  ぜんざいとお汁粉


  『守貞謾稿』下巻 第二十八食類 「豆腐

 昔は豆腐に紅葉の形を印す 今も江戸にては印之 京坂は菱形を印せり 是は豆腐製筥に其形を彫たる也
  (中略) 全文は豆腐のページで、
 今豆腐の上に紅葉を印す詞に就て形を顯すなるべし 買用も通てよし云々 買様 紅葉の音便より付し事本なるべく
 昔は堺を名物とせし歟 今製は人不之 今製京坂柔かにて色白く味美也 江戸剛くして色潔白ならず味劣れり
 然も京坂に絹漉豆腐と云は特に柔にて同價也 きぬこしに非るも持運には器中水を蓄へて浮べて振ざる様に
 携へざれば忽壊れ損ず 江戸は水なくても崩るゝ事稀也 江戸にも汲豆腐と云ば柔か也 京坂普通製に似たり
 蓋 きぬこし常に有之 くみ豆腐別製也需あれば製


   1912 (明治45) 年出版の『革命来の米界』 (野城久吉 著、東京の商業通信社 出版) には
   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803806
  当時の物価と米価、人口と作付面積、鉄道の延長距離など数字データなども書かれてあります。

  「二十四、麦の供給力」P.217~
  年々関西から東京へ輸入する裸麦は十四五萬俵もあるとか云う事であったのに、本年は十四五萬俵乃至
  二十萬表の大麦を関東から関西へ輸出したと云う事である。

  【裸麦】はだか-むぎ
   オオムギの主要な一変種。果実と頴えいとが離れやすいのでこの名があり、離れにくいものは皮麦かわむぎ
   呼ぶ。西日本に多く栽培する。

  P.221「麦産額及輸出入高表」 明治35年~44年までのデータ収穫高から3年を抜粋
   三十五年度 大麦 8.146.047石  裸麦 6.325.082石  小麦 3.954.479石
   三十九年度 大麦 9.445.153石  裸麦 6.957.932石  小麦 3.962.176石
   四十四年度 大麦 9.385.818石  裸麦 7.505.811石  小麦 5.009.840石

  小麦は大麦の半分以下しか収穫されていない事が分かります。裸麦も大麦に含めると1/3~1/4程度。
  裸麦が主に西日本で栽培されていたとすれば、関東は主に大麦の栽培となります。
  小麦は日本中栽培されていたので、関東で栽培される小麦の割合はもっと低くなります。

  小麦は加工しないと食用に適さないので、小麦加工品は古くから素麺・うどん・煎餅・カステラなどが西日本で普及
  していた事から考えると、小麦は西日本の方が多く栽培していたと思います。

  麦飯は小麦ではなく大麦を使用します。  埼玉の小麦の歴史



  画像は NHK タイムスクープハンター スペシャル 『緊急指令!守れ秘伝の味 』 14.01.02 放送
  国立科学博物館 技術の系統化調査報告 第10集 2008年3月19日 に含まれている 『醤油製造技術の系統化調査 小栗朋之』
   http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/040.pdf 
   著者の小栗朋之という人は、2000年にキッコーマンの取締役で同姓同名の人がいます。

  上記の研究報告では醤油の歴史、近代の製造技術の変遷、海外への輸出などの事が書かれてあります。

  野田では永禄年間 (1558~1569年) に飯田市郎兵衛が醤から豆油をとり精澄させることを発見し、甲斐の武田勢に
  自家醤油を納めたという伝承がある。
  下総市川では1574年に近江国から田中喜兵衛 (釜屋) が移住し、醤油づくりを始めたという伝承がある。ようです。

  …江戸へ送られた関西の醤油は、下総などの関東醤油に比べて品質が優れており、上方から下ってきた所謂
  「下り醤油」として歓迎された。事実1726年の江戸への入荷量13万2829樽のうち、下り醤油は10万1457樽と76.4%を
  占め、値段も2倍近くしていたとい云う記録がある。(出典は、1909年の田中直太郎 醤油沿革史)






  このように関西、関東の醤油で大きな差が生じた理由は、関西では1686年以前より、酒づくりの応用と思われるが、
  諸味を袋に入れてその上に石を置いて醤油を搾っていた。しかし、関東でこの搾汁法を採用したのは25年後の正徳
  年間(1711~1715)で、それまでは諸味の中へ簀を円形にして立て、その中に溜まった醤油を汲み取っていた諸味
  混じりの醤油で、「澄んだ醤油」ではなかったからだと云っている。(出典は辰野醤油協同組合)

  …田中玄蕃の「初めて醸法を現今のごとき関東醤油とせり」と言ったという記述の内容は、従来の溜りの製法を、
  今日の濃口醤油の製法である大豆と小麦の両者を使う方法に、この時切り替えたのではないかと考えられている。

  つまり、淡口醤油で有名な兵庫県の辰野 (龍野) 醤油組合の主張である関西と同じ搾汁法を1710年代に採用し
  後に原料も関西と同じ小麦に替えた事によって、関東の濃口醤油が誕生したと考えると、上記したコトバンク 『田中
  玄蕃(9代)1740-1811』の記述と年代も無理なく合致します。

  「濃口醤油が関東人の好みだったから、それが関東誕生したので広まった」という解釈とも矛盾があります。
  関東の濃口醤油誕生の1640年説、1697年説からすると80~30年後になる1726年の江戸での関東醤油のシェアは
  23.6%にすぎません。
  関東人好みの醤油であり、しかも価格が半額であれば、生活が豊かでは無かった江戸庶民なので、すぐに大ヒット
  し、少なくとも30年もあれば製造の拡大が可能であり、もっと多くのシェア拡大があったはずです。


  ≪ 関東で本格的に醤油が作られ始めたのは、江戸時代中期頃? ≫

  年代的にみると、紀州藩主の徳川吉宗が将軍になって、紀州(和歌山県)から しょうゆ職人を呼び寄せた事から、
  1716年(享保元年)以降で、千葉のしょうゆ造りが盛んになったと思われます。
  金山寺味噌、くさり鮨も和歌山から伝わっていますし、ヤマサ醤油も和歌山発祥のようです。

  【徳川吉宗】とくがわ‐よしむね 紀州2代藩主徳川光貞の4男。初名、頼方。(1684~1751)
   紀州藩主となり、藩財政改革に手腕を発揮。将軍位を継いで徳川第8代将軍(在職1716~1745)享保の改革を
   行なった。米将軍と呼ばれる。諡号、有徳院。

  国立科学博物館 技術の系統化調査報告 第10集 2008年3月19日 に含まれている 『醤油製造技術の系統化調査 小栗朋之』では
   著者の小栗朋之という人は、2000年にキッコーマンの取締役で同姓同名の人がいます。

  あとがきで…1550年の多聞院日記の記録には唐味噌の製法として大豆と小麦(大麦)が等量使われており、
  銚子の第5代田中玄蕃は、真宣より伝授された醸造法を1697年頃に「初めて醸法を現今のごとき関東醤油とせり」と
  云うと伝えている。1712年の和漢三歳図会では、大麦で仕込んだ醤油は小麦に較べて味が劣ると云っている。
  このように情報は断片的でその経緯を詳しく知ることは困難であるが、1726年頃たまりタイプの「下り醤油」が江戸で
  持て囃されていたものが、100年後の1820年代になると「関東地廻り醤油」が江戸市場を制覇した事実より、
  関東の醤油業者が江戸の住人をはじめ多くの人々の嗜好にあった醤油づくりに励んだ結果、小麦を多く使った
  よりフレーバーに富んだバランスの取れたおいしい醤油が生まれ育ってきたと考えられる。…と書いてあります。

  何度も書いているように『和漢三才図会』の著者は大坂の御城入り医師である寺島良安。頁は見開きの数
  66巻「上野・下野・常陸・上総・下総・安房」44頁、67巻「武蔵・相模・伊豆」72頁、74巻「摂津」59頁、75巻「河内」30頁。
  76巻「河内・紀伊・淡路」51頁、京都は72巻の本・末の2巻で寺社仏閣の記述が多いため分割。73巻「大和」となって
  おり、記述量は圧倒的に畿内の事。そして摂津のみに醤油の土産が書かれてある事から、1689(元禄2)年の
  『合類日用料理抄』(中川茂兵衛 著 出版地は京都) などの記述を知らなくても、1732年の『満金産業袋』(京都での
  刊行の可能性が高い) からの出典もしているので、どう考えても大阪で小麦を原料とした醤油が一般的になって
  いった事が理解できるはずです。
  1726年頃たまりタイプの「下り醤油」← 下り醤油がたまり醤油と言及してますが、その出典はありません。
  第5代田中玄蕃の1697年に初めて濃口醤油が作られたと思い込んでいるので解釈が歪むのです。

  このように妄想や思い込みで言及して流布するのは関東人の特徴なので騙されないように気を付けましょう。

  草加市 『草加せんべいの歴史と現在』 http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1403/010/010/020/01.html

  草加市のサイトの「草加せんべい」の解説では、 米が原料の煎餅も関西が先だった レシピ原文発見!!
   観光マップまどで紹介される茶屋でおせんさんが始めたという話は昭和時代に作られた物語。
   醤油が普及し始めた幕末から焼いた煎餅に醤油が塗られるようになった。と書かれてあります。
   また埼玉県のさいたま市では、2018年に「鰻の蒲焼の発祥地は浦和」と主張しています。

  濃口醤油の製造が一般的になるのは、は上方で1700~1710年頃までに、関東では1750~1770年代以降の
  可能性が高いでしょう。

  幕末から現在においても、関東では歴史を古いように見せたりする歴史歪曲が日常に行われています。
  特にウィキペディアの記述には注意が必要。意図的な情報操作が行われているページが多数あります。
  出典先のリンクがあっても、都合の悪い事は転載せず、妄想を膨らませて書かれていない事を書いていたりします。
  「江戸ッ子とは? その実態」←自分や江戸を良く見せる為に話を盛る気質・性分の県民性がある事が分かります。

  東京の蕎麦屋の衝撃的?な真実が判明 「生そば」の文字に意味はない?
  蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見!! カマボコの歴史
  刺身・お造りの歴史 刺身は室町時代 「指身」「差身」「打ち身」など違い、ウィキペディアの「刺身」での記述の間違いを発見
  野沢菜・広島菜のルーツは天王寺蕪 ウィキペディアの否定説を検証
  鰻の蒲焼 関西発祥の可能性が高い、ウィキペディアの悪質な歪曲情報操作を解説
  江戸の淡雪豆腐ができたのは享保年間 発祥年代の誤魔化しが判明
  「汁粉」と「善哉」 関西のぜんざい、関東ではおしるこ 呼び方なぜ違う、ぜんざいの発祥は島根県、汁粉の江戸発祥説は嘘。
  東京都台東区浅草の鷲神社の由来 他の歴史を自社の歴史のように思わせている件、堺の大鳥神社との関係
  関東の藤原氏の重要神宮 中臣 (藤原) 氏の関東発祥説は嘘、中臣氏の先祖神を最初に祀ったのは東大阪の牧岡大社
  東京近郊の関東の歴史 浅草寺の創建の年代なども嘘
  江戸の火事の真実  江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた ~ 時代劇で見る 江戸の町は嘘ばっかり!~
  お江戸の恋愛事情 大坂の文化が江戸文化のように扱われている証拠。「月曜から夜ふかし」の大阪下げの嘘。
  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 世界一清潔は嘘。糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
  東京メディアの偏向報道 今や関東発信の情報は疑えというのが常識。嘘、ねつ造、紛らわしい東京発信情報。

  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『ニッポンの底力! 技と心の老舗企業列伝』 13.01.17 放送 より

  ≪ ヒゲタ醤油の凄い技術 ≫

  ヒゲタ醤油が発見した特殊な酵素を羊に注射し、ネットを被せて1ヶ月ほど放牧。すると、まるでセーターを脱ぐようにきれいに
  羊の毛がするっと抜けるそうです。 ヒゲタしょうゆ 『研究開発への取り組み』 http://www.higeta.co.jp/company/kenkyu.html






  ヒゲタ醤油とヤマサ醤油との関連は下リンクのブログに詳しく書かれてあります。
  殿の気まぐれ散策日記 http://arida.wakaayu.net/bb/hamaguchi.htm
 
 【 関西・兵庫県で淡口しょうゆが作られる 】    
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびだせ!えほん 兵庫県龍野町』 13.12.05 放送 / Wiki ヒガシマル醤油  Wiki うすくち龍野醤油資料館
  テレビ大阪 夕刊7ch 『新春シリーズ 「和食」 ①大阪うどんだし』 14.01.06 放送

  ≪ うすくちの町 兵庫県 たつの市 龍野町 ≫

  兵庫県の南西部の龍野町は、龍野藩5万3千石の城下町。武家屋敷や白壁の土蔵が残り、播磨の「小京都」とも呼ばれています。
  ここに本社を置く、ビガシマル醤油 ㈱は、淡口しょうゆの代表的なメーカー。
  「うどんスープ」の他、「ちょっとぞうすい」「ちょっとどんぶり」と言った粉末の調味料も人気で、関西で知らない人はいません。






  うすくち龍野醤油資料館もあり、入場料は10円。
  龍野は軟水が湧くので、上質な淡口しょうゆが製造できます。日本各地の水の硬度 関西は軟水。千葉は硬水。






  ヒガシマル醤油HP 『うすくち龍野醤油資料館』 http://www.higashimaru.co.jp/enjoy/museum/
  龍野うすくち醤油博物館 - Ne http://www.ne.jp/asahi/zoo/affe/dai/2005/1/katasibo/syoyu.htm

  ちなみに清酒の場合は中硬水 (含まれるミネラル成分も重要) が適していますが、発酵する気温なども関係するので、
  江戸時代の関東ではほとんど作られていませんでした。江戸では甘酒が作られました。  甘酒は夏の飲み物
  また現在「酒処」と言われている新潟は軟水なので作られていません。
  明治30年、広島の西条で『軟水による改良醸造法』が完成し、軟水地域でも清酒が作られるようになります。
  日本三大酒処の一つ 広島県西条町 軟水での清酒造りの発祥地、名物「美酒鍋」

  日本経済新聞 12.12.08 http://www.nikkei.com/article/DGXNASIH29006_Z21C12A1AA2P00/

  ≪ うすくちしょうゆ 関西で生まれた理由 ≫

 関西人が東京でうどんを食べたら、黒いつゆに驚いたというのはよく聞く話。
  逆に関東出身の記者は15年前に大阪に住み始めた時、透き通ったうどんだし汁のおいしさに感動した。

  そのだし汁に欠かせないのが色の淡いうすくちしょうゆ。
  兵庫・龍野(現たつの市)生まれのうすくちの歴史と関西の食文化との関係を探った。

  まず訪れたのがたつの市のヒガシマル醤油(しょうゆ)。1580年ごろ創業のうすくちしょうゆのトップメーカーだ。
  取締役営業連絡部長の大谷正幸さんに造り方を教えてもらった。

  「しょうゆの原料は大豆、小麦、塩ですが、うすくちはコメが加わる。甘酒を入れるためです。それ以外はこいくちと
  大きくは変わりませんが、各工程で色をつけない工夫をしています」 麹(こうじ)に塩水を加えてもろみを造る工程。
  塩分濃度を高め、発酵の進行を緩やかにする。「(色をうすくする)コストは相当かけている」 (大谷さん)

  続いて同社の旧社屋を改装した「うすくち龍野醤油資料館」を訪れた。大豆を煮る釜やコメを蒸して甘酒にするための
  釜など、過去に使われていた道具が並ぶ。
  「麦をいる時間を短くするなど、色をうすくする工夫は昔から行われていました」と館長の沢勤さん。

  うすくちしょうゆが生まれた経緯は? 資料館の年表には1666年「淡口(うすくち)醤油を円尾孫右衛門が造り出し」
  とある。そこから龍野全体に広がったという。

  円尾は龍野でしょうゆ造りをしていた人物だが、いかに技術を確立したかは分かっていない。
  「龍野を流れる揖保川の伏流水はミネラル分の少ない軟水。それでしょうゆを造ったら(発酵が緩やかになり)通常
  より色の淡いものができた。それが京都などで喜ばれ、さらに色をうすくする工夫を加えたのでは」と大谷さんは見る。

  甘酒を加え始めたのは19世紀初め。酒造業を兼業していたなごりなど、理由にはいくつかの説がある。
  その中に京料理によく使われるみりんと合うからというものもあり、需要地の好みに合わせた可能性は高い。

  「日本の味 醤油の歴史」という本の編者で神戸大学教授の天野雅敏さんにも、うすくち誕生の背景について聞いた。

  「円尾家の史料では1690年に『す(澄)み醤油』という言葉が登場するので、確かに17世紀末にはうすくちは誕生して
  いたのでしょう」。さらに「その前には濁り酒と異なる『澄(すみ)酒』と呼ばれた清酒が生まれている
  清酒同様、うすくちという新しいしょうゆは歓迎されたと思われます」と話す。 今も関西の和食の料理人にとって、
  うすくちは欠かせない存在。

  なにわ料理研究家の上野修三さんは「日本料理は素材の持ち味を最大限に生かす食材第一主義。邪魔しない
  うすくちはそれに合う」と話す。煮物だけでなく、昆布だしを加えて白身魚の刺し身じょうゆとしても使っている。
  「もっと家庭でも使ってほしい」と、レシピ集「淡口しょうゆで仕上げるとびきりの和食」を監修・刊行した。  

  ここで疑問が。
  うすくちは色とともに香りも抑えている。それを使った関西のだし汁がよい香りがするのはどうしてだろう

  それに答えてくれたのが、東京から神戸まで東海道の各都市のうどんだし汁について調べた関西福祉科学大学教授
  の的場輝佳さん。
  「関東のだし汁はこいくちを使うため、しょうゆの香りが前面に出る。一方、関西は昆布や削り節などだしの香りが
  残るので、だしがきいていると感じるのです」。

  需要は漸減傾向というが、今もうすくちしょうゆが関西の食文化を支えていることを実感した。


  ≪ 江戸期の料理本にみる うす色しょうゆの料理への使われ方 ≫

  関西のうす味・うす色食文化の形成と うすくち醤油の利用に関する研究 (第1報) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10814645

  2004年の日本調理科学会誌 VOL.37 に掲載された関西の女子大・女子短大などの女性教授らのグループの研究発表。

  上記論文の内容を参照

  1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著に文献初出。
  淡口醤油が考案されたと言われる1666年と時期が一致。
   キンカンを柔らかく煮る。丸豆腐を焼いてからかける。麩は煮しめて油で揚げる。塩鰯と大根は煮る。
   たいらぎは付けて焼く。柚餅子に詰める餅と米の粉に付ける。に使われているようです。
  また、同書に生醤油も文献に初出。黒豆を煮るのに用いられていたそうです。

  1689(元禄2)年初版、1792(寛政4)年に再版された料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう
  淡口醤油は牡蠣の和え物。生醤油は柚餅子に用いられていた。

  1693年の龍野の円尾家の帳簿に、販売を目的とした醤油の生産が行われていた事が推測される。

  享保年間 (1716~1736) には、同家の帳簿には、京都・大坂・江戸に出荷した記録がある。

  1780年、幕府が京都の市場にて、他國醤油売問屋21軒を認め、龍野の醤油の京都進出が更に盛んになる。

  1916 (大正5) 年の『京都醤油史蹟』に京都に於て最も需要多き薄口醤油の製出にあり…元来、龍野産淡口醤油は
  我國各地産醸造地に於て 之れが研究を重ねつつあるも 何れも未だ龍野産に勝れたる製品の醸出せられたるを
  聞かず…と書かれているそうです。


  江戸期の料理本にみる うす色しょうゆの料理への使われ方 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jisdh/21/4/21_4_327/_article/-char/ja/

  2011年の日本食生活学会誌 Vol.21 No.4 に掲載された研究史料のようです。詳しい内容は上記サイトで。

  内容をまとめると、 料理物語の「いり酒」のレシピ

  関西では「うすしょうゆ」「きしょうゆ」「その他のしょうゆ」の使い分けがされている。
  「うすしょうゆ」は煮物への使用が約半数で、調理過程で多く使われている。関西では汁物と煮物に多く使われている。
  「きしょうゆ」は煮物の調理後や和え物にかけられたりしている事が多い。きしょうゆの風味を活かす使用法。
  「いり酒」は、しょうゆが普及する江戸時代中期まで、刺身や膾などの生もの料理に多く使用されていた。

  上記の研究対象は、出版年が200年の差があり、また上方で書かれた文献をそのまま写した内容が多い『黒白精味集』
  なども含まれていますが、上記のまとめ (結論) とは、差異がないと思われます。
 
 【 上方の醤油の生産が衰退した理由 】
  NHK タイムスクープハンター スペシャル 『緊急指令!守れ秘伝の味 』 14.01.02 放送

  ≪ 鰻の蒲焼きと醤油 ≫ ※ ドラマの人名や設定などはフィクションです。

  鰻の蒲焼きと、そのタレの醤油を主題にドラマ風に語られた番組によると、1777(安永6)年の元日を舞台にしています。
  大坂のうなぎ屋の次男の勘太郎が、江戸本郷で鰻の蒲焼き屋台を始めるが上方醤油にこだわった為、江戸の人々に
  受け入れられず一向に売れない。

  大坂では30~40年前から鰻を腹開きにし「醤油をうすくし 魚にかけ 少しあぶって (国立国会図書館より資料)
  蒲焼きの棒手売りがあったそうです。「江戸で鰻を開くようになったのも最近のこと。江戸はずいぶんと遅れている」という
  テロップが入ります。

  番組では「醤油をうすくし 」=淡口醤油 (上方には淡口醤油しかないとも思い込んでいる) として解釈しているようですが、
  淡口醤油は色が白っぽいだけの事。普通に解釈すると、醤油に酒や味醂などを加える事を示しています。

  出汁は関東はカツオ節だけ、大坂は昆布とカツオ節の合せ出しが基本で他にもシイタケやサバ節など色々と使用します。
  うすくち醬油 → ×薄口、淡口。






  そこへ友人の仙吉が日本橋まで行って買ってきた最高級の関東醤油『野田醤油』。「これまで関東醤油は(上方からの)
  下り醤油に比べたらひどいものだったが、こんなに味に深みがある地回り物は初めてだ」として野田醤油を使い味醂などを
  加えたタレを開発し、繁盛に繋がる。というドラマの内容です。このドラマの間に関東醤油の普及や味醂などの説明が入ります。

  鰻の蒲焼 関西発祥の可能性が高い 日本の食の歴史と雑学 江戸時代2のページ。


  この時代、江戸の長屋住まいの庶民の正月料理は雑煮と御屠蘇お-とそとしてみりんを飲む程度だったそうです。
  お節が普及するのは江戸後期以降です。

  【味醂・味淋】み‐りん
   蒸した糯米もちごめと米麹とを焼酎またはアルコールに混和して醸造し、滓かすをしぼり
   とった酒。甘味があり、主に調味用。

  【屠蘇散】とそ‐さん 屠蘇。 屠蘇延命散とそ-えんめい-さん  奈良の屠蘇酒
   魏の名医 華佗かだの処方という、年始に飲む薬。
   山椒さんしょう・防風・白朮びゃくじゅつ・桔梗ききょう・蜜柑みかん皮・肉桂にっけい皮などを調合し、
   屠蘇袋に入れて酒・みりんに浸して飲む。一年の邪気を払い、寿命を延ばすという。
   日本では平安時代から行われる。

  【屠蘇袋】とそ‐ぶくろ
   屠蘇散を入れ、酒・みりんに浸して屠蘇酒を作る袋。紅絹もみ(紅花で染めた絹布)を
   三角形に縫って作る。大晦日に井戸の中に吊しておき、元旦に屠蘇酒に用いた。
テレビ大阪 おとな旅あるき旅
『旅始め ! 冬の古都奈良めぐり』
14.01.11 放送






  番組では 関東はカツオ節を使うので濃口醤油、関西は昆布で出汁を取るので薄口醤油が好まれた。と解説が入ります。

  ※ 「薄口しょうゆ」は正確には「淡口」と書きます。次に関西は昆布だしと淡口醤油の組合せしか無いように思わせる
  番組の説明でしたが、江戸時代中期までには大坂でカツオ節と昆布の合わせ出汁文化が完成しています。

  カツオ節は、平安時代の承平年間(931~938)にまとめられた日本最初の分類体の漢和辞書である倭名類聚鈔
  堅魚煎汁、加豆乎以呂利」とあります。現在のカツオ節に近いものが最初に造られたのは紀州(和歌山県)です。
  江戸時代初期の料理本の多くは上方で書かれていますが、カツオ出汁の方が多く登場しています。

  【鰹色利・鰹煎汁・堅魚煎汁】かつお‐いろり … 鰹節を作る時のゆで汁もしくは蒸し汁を煮詰めたもの。調味料として用いる。

  【色利・煎汁・以呂利】いろ‐り … カツオ節または大豆を煎じた煮出し汁。煮物の調味に用いる。

   また、醤油も淡口だけを使っていたのではありません。たまり醤油、濃口醤油、生醤油などもあります。
  上方からの下り醤油は江戸初期の頃は、たまり醤油でした。

  上記(キッコーマンHPより) してある通り、1712年の和漢三才圖會(大坂の寺島良安 著)では売れれているものは
  みな小麦を原料にしている」という事からしても、番組および下記のヤマサ醤油HPの内容「小麦を多用した香り高い
  「こいくちしょうゆ」が・・・」には説得力はありません。






  もう一点、「江戸っ子は甘辛い味を好んだ=濃口醤油」とありますが、これも誤解させる表現で、辛さは淡口や濃口とは
  関係ありません。淡口の方が塩分が高いので、醤油単体で使う場合は淡口の方がわずかに塩辛い。

  しかし、調理する時に出汁などに入れる醤油の量や割合で、塩辛さが変わるのです。
      (↑ ここを理解できていない関東人が多いようです

  1821年に上質な関東醤油が台頭というのも誤解を生む表現。江戸中期には人口100万を超えていた(実際には70~75万と推測)
  とも言うので、それ以降人口の際立った増加はありません(明治の戸籍では90万人)が、1725年に約13万樽の消費に対し、
  人口がほぼ変わらない1821年に10倍近くの125万樽の消費。実は江戸100万人説は嘘。

  品質が向上したのが主な要因ではなく、関東での醤油生産が増えて上方の「下り醤油」より安く買えたので普及した。
  また、1800年頃からの外食ブーム、江戸末期になると女性の割合も増えているので料理する人が増えた。
  と考えるのが普通だと思いますが ?

  守貞謾稿「江戸は醤油で塩味を付ける」の記述 によると、醤油を大量に使用した濃い味付けです。
  江戸は上方に比べて、砂糖と醤油の入手が難しく高価で憧れの調味料。文政期以降に入手しやすくなったので、大量に
  消費するようになったと考えられます。

  堺船と砂糖 江戸時代には、輸入品を長崎から堺や大坂に運ぶ独占的な権利を与えらました。大阪・愛知・静岡でもサトウキビの栽培がされていました。
  江戸の人口100万人は本当か? 寛政時代の幕府記録では江戸の人口 2億61万3000人もいた?
 
 【 千葉の醤油が台頭した本当の理由 】
  ≪ 関東醤油の台頭 ≫  ヤマサ醤油 http://www.yamasa.com/soydoc/history/history03.html より  『』 引用

 京都・大阪では、18世紀も半ばを過ぎると、他国のしょうゆが入りはじめ、京都・大阪のしょうゆ醸造業は衰退していきます。
  これ以後、関西のしょうゆ市場は竜野を中心に、紀州湯浅、小豆島の醸造業者が支えていくことになります。
  一方、江戸においては、「下りしょうゆ」の割合が落ちて、近郊の地廻りしょうゆが爆発的に勢力を伸ばしていきます。
  関東地廻りしょうゆの中心的産地は、銚子、野田、そして土浦でした。

  銚子では宝暦四年(1754)、野田では天明元年(1781)にそれぞれ造醤油仲間が結成され、以後生産量を着実に
  増加させていきます。

  小麦を多用した香り高い「こいくちしょうゆ」が、新鮮な「江戸前」の魚介類の調理にピッタリで、上方文化の伝統を離れて
  江戸独自の食文化を形成しつつあった、江戸の人々の支持を得たことが大きな要因ともなったのです。
  しかし世間的評価の点では、依然、下りしょうゆが長年の名声を保ち、「極上しょうゆ」として最上位にランクされ、
  地廻りしょうゆはいま一歩低く見られる傾向がありました。

  ところが、江戸も末期の元治元年(1864)、名実共に「地廻りしょうゆ」が「下りしょうゆ」の上に立つ出来事が起きます。

  この年、幕府はインフレを抑えるため、諸商人に現行の3~4割の価格引き下げを厳命します。

  銚子と野田のしょうゆ醸造家は、「しょうゆは品質を落としたり、量をごまかしたりできないので、値を下げれば経営
  できなくなってしまう。」と申し立てたところ、幕府は「もっともだ!」として、「次のものは品質が特に優良なので
  最上しょうゆとして、特別に値下げをするに及ばず。」と、現行価格で販売することが許可されたのです。
  この恩恵に浴したのは、銚子のヤマサ、ヒゲタ、ヤマジュウ、ジガミサ、野田のキッコーマン、キハク、ジョウジュウ
  の七銘柄だけでした。

  銚子と野田の造醤油業者はこれで力を得、「関西が極上なら関東はその上を行く最上!」が絶好の宣伝文句になり、
  以後、関東こいくちしょうゆが全国の市場を制覇していくことになるのです。

  ヤマサ醤油7代目当主濱口梧陵 私財を投じて和歌山の村民を助けた 「稲むらの火」物語
  ヤマサ醤油 HP 『教科書にものった「稲むらの火」』 http://www.yamasa.com/enjoy/history/inamura/ / Wiki 濱口梧陵

  ※上記の文を読んでも、「上方の極上しょうゆ」より、「千葉の地回りしょうゆ」の品質が優れている理由が
    全く分かりませんね。

  1754年に銚子で造醤油仲間ができたのに、同じ千葉県の野田では1781年と開きがあるのでしようか? 
  奇妙な一致が見られます


  ≪ 賄賂政治時代 ≫  田沼意次 たぬまおきつぐ(1719~1788年)

  江戸中期の幕府老中。9代将軍家重の小姓を経て側用人となり、遠江とおとうみ相良さがらの城主に取り立てられ、側用人、
  老中として幕政の実権を握る時代が2回あります。宝暦(1751~1764)年間と 天明(1781~1789)年間にかけての時期。

  【田沼時代】たぬま‐じだい
   田沼意次が側用人・老中として幕政の実権を握った宝暦(1751~1764)年間から天明(1781~1789)年間にかけての
   時期の称。貿易振興・蝦夷地開発・新田開発など経済政策による幕政の積極的打開を意図したが、賄賂政治と批判され、
   天明飢饉や江戸打ちこわしにより失敗に終わった。






  【田沼意次】たぬま‐おきつぐ(1719~1788)
   江戸中期の幕府老中。9代将軍家重の小姓を経て側用人となり、遠江とおとうみ相良さがらの城主に取り立てられ、
   1772年(安永1)老中。子の意知おきともと共に田沼時代を現出。

  ※ 現在は歴史上の人物の見直しが行われ、田沼意次も有能な人だったという説があります。

  参考 NHK タイムスクープハンター 『 賄賂 談合 江戸の闇を暴け! 』 13.04.06 放送






  また、千葉の醤油が躍進した1864年は幕末。1867年に大政奉還されるので、幕政が安定していない賄賂などが最も横行した
  時期です。

  品質よりも政治的にうまく立ち回り、宣伝が上手だった結果、千葉の醤油が躍進していったのではないでしょうか?
 
 各地の醤油製造のはじまり 書きかけ
  国立科学博物館 技術の系統化調査報告 第10集 2008年3月19日 に含まれている 『醤油製造技術の系統化調査 小栗朋之』
   http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/040.pdf
   著者の小栗朋之という人は、2000年にキッコーマンの取締役で同姓同名の人がいます。

  上記の研究報告では醤油の歴史、近代の製造技術の変遷、海外への輸出などの事が書かれてあります。


  ≪ 醤油造りの近代化と、品質の規格化 ≫

  明治後期以降になると、醤油の製造は科学的管理や工場での生産が始まり、近代化・工業化していきます。
  1920 (大正9) 年以降になると過当競争が始まったようです。

  1940 (昭和15) 年に物価統制の一環として、政府が醤油にも規格と販売価格の指定を設けました。


  ≪ 海外への輸出 ≫

  江戸時代初期の1647年に、オランダ東インド会社が長崎の出島から台湾商館へ搬送したのが最初のようです。
  江戸時代中期の1737年に、オランダ本国に送られたのがヨーロッパへの輸出の始まり。フランスなどにも伝わりました。

  1906 (明治39) 年、日本醤油㈱が朝鮮の仁川に工場を建設したのが、海外での醤油生産の始まり。
  その後、中国や東南アジア各地に工場を建設し醤油の生産を行いますが、1945 (昭和20 )年8月、太平洋戦争での
  敗戦によって全てGHQなどによって接収され消滅。

  1972 (昭和47) 年、米国にキッコーマンが工場を建設して、海外での生産が復活しました。
  2008年頃になると、海外での生産量は国内生産の1/4にあたる年間20万キロリットル以上になっているそうです。
 【 手づくり しょうゆ 醸造所】
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『酒井藍の密着まるまる1日 醤油造りのお仕事』 13.11.15 放送

  日本にはおよそ1500のしょうゆメーカーがあるそうです。
  和食を支えるオリゼたち 日本にしか居ないアスペルギルス・オリゼとは、米麹の事。
  10軒しかない種麹屋が酒、しょうゆ、味噌など4000軒を支え、和食の味を決める大きな役割を果たしています。

  ≪ 和歌山県 カネイワ醤油本店 ≫  カネイワ醤油本店 HP http://www.kaneiwa.net/



















  ≪ 京都市 マルワサ 澤井本店 ≫  NHK NHKスペシャル 『和食 千年の味のミステリー』 13.12.15 放送 














  澤井醤油本店 HP http://www.s-shoyu.com/sawai/

  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『利休を訪ねて ~ひと味違う堺を再発見旅~』 13.12.07 放送

  ≪ 堺市 日本で唯一の大樽の製造所 藤井製桶所 と その樽をつかった醤油店 雨風 ≫

  酒や醤油の醸造に使用する大きな桶や樽を日本で作っているのは、1920年創業の藤井製桶所だけだそうです。
  この大きな桶は30年、醤油用など形を小さくすると150年も使用できるらしいです。






  江戸時代の1689(元禄2)年創業の 糀屋雨風HP http://www.amekaze-sakai.com/


 『守貞謾稿』上巻 第五編生業下の「樽買

  酒醬等の空樽を專とす 故に樽買と云 空筥櫃をも買
  毎日 拐と錢とを携出て「たるはござい ござい」と云巡る 買集て 明樽問屋に賣る 問屋より醬油樽は製造の家に賣り
  酒樽明櫃等は其便に應て賣

  樽もリサイクルされていた事が分かります。

 
 
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朝日放送 2011.06.23
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