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江戸や地方の文化がようやく華開いた時代 |
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【徳川家重】とくがわ‐いえしげ(1711~1761)諡号、惇信院。 吉宗の長子。
徳川第9代将軍(在職1745~1760)。言語不明瞭で、側用人 大岡忠光だけがそれを理解できたという。
【徳川家治】とくがわ‐いえはる(1737~1786)諡号しごう、浚明院。 家重の長子。
徳川第10代将軍(在職1760~1786)。田沼意次おきつぐを老中に登用し、田沼時代を現出。
【徳川家斉】とくがわ‐いえなり(1773~1841)諡号、文恭院。 三卿の一橋治済はるさだの子。
徳川第11代将軍(在職1787~1837)。松平定信を老中に任じて寛政の改革を行なったが、
定信失脚後は文化・文政時代を現出。
【文化・文政時代】ぶんか‐ぶんせい‐じだい(1804~1818~1831)
徳川第11代将軍 家斉の治下の後半期、文化・文政年間を中心とした時代。化政期。
綱紀こうき弛み風俗頽廃たいはい(規律がゆるみ、不健全な気風になった)。
江戸市民は遊楽を事としたが、町人芸術は爛熟の極に達し、小説(山東京伝・式亭三馬・曲亭馬琴)、戯曲(鶴屋南北)、
俳諧(小林一茶)、浮世絵(喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎)、西洋画(司馬江漢)、文人画(谷文晁)などに
すぐれた作家を輩出した。また地方文化も盛んとなった。
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本居宣長 古事記を広め、日本の五十音図を整理した偉人 |
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毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ニッポン城下町めぐり⑧ 三重松坂』 14.01.23 放送
NHK Eテレ 歴史にドキリ 『杉田玄白・本居宣長 ~江戸時代の学問~』 14.10.22 放送
≪ 国学の四大人 ≫
古事記・日本書紀・万葉集などの古典の、主として文献学的研究に基づいて、特に儒教・仏教渡来以前における日本固有の
文化および精神を明らかにしようとする学問が国学。
近世学術の発達と国家意識の勃興に伴って起こり、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤とその門流によって確立
された。
【荷田春満】かだ‐の‐あずままろ (京都の伏見稲荷社の祠官。1669~1736) 羽倉氏。
江戸中期の国学者・歌人。古典・国史を研究して復古神道を唱道、また、子弟を教育。弟子 賀茂真淵は万葉研究を、
甥 荷田在満は有職故実研究を継承。
著「春葉集」「万葉集僻案抄」「万葉集訓釈」「創学校啓」「日本書紀訓釈」「出雲風土記考」など。
【賀茂真淵】かも‐の‐まぶち (静岡県の遠江 岡部郷の人、1697~1769) 岡部氏。号は県居あがたい。
江戸中期の国学者・歌人。荷田春満に学び、江戸に出て諸生を教授。古典の研究、古道の復興、古代歌調の復活に没頭。
8代将軍吉宗の子 田安宗武に仕えて国学の師。本居宣長・荒木田久老・加藤千蔭・村田春海・楫取魚彦かとりなひこらは
その門人。
著「万葉集考」「歌意考」「冠辞考」「国歌論臆説」「語意考」「国意考」「古今和歌集打聴」など。
【平田篤胤】ひらた‐あつたね (秋田の人、1776~1843)はじめ大和田氏。号、気吹舎いぶきのや ・真菅乃屋ますがのや。
江戸後期の国学者。本居宣長 没後の門人として古道の学に志し、復古神道を体系化。
草莽そうもうの国学として尊王運動に影響大。著「古史徴」「古道大意」「霊能真柱たまのみはしら」など。
≪ 日本語の仮名遣い&文法を整理した 本居宣長 ≫
本居宣長が注釈し解説するまで、古事記はあまり知られてなかったそうです。
【本居宣長】もとおり‐のりなが (伊勢 松坂の人、1730~1801)
江戸中期の国学者。京に上って医学修業のかたわら源氏物語などを研究。
賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。
古事記伝は、古事記の注釈書。44巻。1767年(明和4)頃起稿、1798年(寛政10)完成。
1822年(文政5)刊行終了。国学の根底を確立した労作で、今日でも古代史・古代研究の
典拠。
日本神話による農耕の始まり 古事記、日本書紀
本居宣長 古事記を広め、日本の五十音図を整理した偉人
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日本のホラーは江戸時代に確立② 上田秋成 と 鶴屋南北 |
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毎日放送 ちちんぷいぷい 『近畿国宝めぐり 昔の人は偉かった総集編SP 姫路城~鶴林寺を目指せ』 13.01.02 放送
≪ 日本各地にある「皿屋敷の怪談」の元は、兵庫県の姫路 播州皿屋敷 ≫ Wiki 皿屋敷 Wiki 姫路城
今から450年程前の室町時代末期、永正年間(1504~1520年)の事、姫路の9代目城主 小寺則職の補佐役 青山鉄山が
藩の乗っ取りを計画。その事に気付いた城主の家来が、自分の愛人であったお菊を鉄山の屋敷に奉公人として送り込んだ。
しかし、お菊は密偵である事を 鉄山の同士 町坪弾四郎ちょうのつぼ-だんしろうに気付かれ「黙っていてやるから、俺のもの
になれ」と迫られる。
お菊が言いなりにならないので、弾四郎は家宝の皿を隠し、その罪をお菊に負わせた。
そして、自ら、お菊を切り殺し庭の井戸へ放り込んだ。
後に、姫路城主がその事を知り、自分の毒殺計画を阻止して犠牲になったお菊の為に、生前のお菊が毎日参っていた
十二所神社 (928年創建) の敷地内にお菊を祀る神社を建てました。
その井戸は「お菊井」と呼ばれ、姫路城の敷地内に現存しています。 ※現存の姫路城ができる以前の話です。
【播州皿屋敷】ばんしゅうさらやしき 兵庫県 姫路が劇の舞台。
浄瑠璃。為永太郎兵衛ほか合作の時代物。1741年(寛保1)初演。皿屋敷の巷説に細川家のお家騒動をからませる。
【番町皿屋敷】ばんちょうさらやしき 江戸が劇の舞台。
岡本綺堂 作の戯曲。1916年(大正5)初演。家宝の皿を割って真情をためした恋仲の腰元お菊を、青山播磨が殺す。
新歌舞伎の代表作。
朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 『世界を震撼させるジャパニーズ・ホラーの原点』 13.08.02 放送
松岡正剛の千夜千冊 『雨月物語 上田秋成』 http://1000ya.isis.ne.jp/0447.html
≪ 日本ホラーの原点 上田秋成 「雨月物語」うげつ-ものがたり ≫
江戸時代後期、上田秋成によって書かれた雨月物語は、日本文学史上最高のホラーとして、後世の大作家 芥川龍之介、
谷崎潤一郎、三島由紀夫なども絶賛し大きな影響を受けました。
妖怪作家の水木しげるも「雨月物語を漫画化するのが生涯の夢」と語っていたそうです。
雨月物語で最も有名なのが「吉備津の釜」
湯を煮立たせた釜で吉凶を占う吉備津の釜で、吉備津神社 (岡山県、釜鳴神事で知られる) の宮司は娘の結婚を占ったが、
音が鳴らず結果は凶と出た。しかし、容姿が残念な娘にとっては二度とないかも分からない縁談話。
両親は占いの結果を無視し娘イソラの縁談を進める。
イソラは正太郎という男と結婚し、慎ましく献身的な妻であったが、正太郎の浮気が発覚。
手切れ金をイソラに工面させるが、正太郎はその金を持って浮気相手の袖と駆け落ち。
信じていた夫に裏切られたイソラは衰弱していく。
一方、袖も原因不明の病にかかり体調を崩し病死。そして・・・。 各あらすじは Wiki 雨月物語 で。
夫婦の絆を描いた「浅茅が宿あさち-が-やど」は、最も読まれた話だとも言われています。
「菊花の約ちぎり」では男同士の絆 (男色も匂わせる) を描き、「夢応の鯉魚むおう-の-りぎょ」では不思議な夢オチ系の話
など、よくある怪談作品の話のパターンが多く詰まっており、雨月物語は日本のホラーの原点とも言われています。
【上田秋成】うえだ‐あきなり(大坂の人、1734~1809)
江戸後期の国学者・歌人・読本作者。本名は東作。
幕臣の加藤宇万伎に師事。万葉集・音韻学にも通じ、国学者の本居宣長 (伊勢松坂の人、1730~1801) と論争。
著「雨月物語」「春雨物語」「胆大小心録」「癇癖談くせものがたり」「藤簍冊子つづらぶみ」など。
【雨月物語】うげつものがたり 読本よみほん。上田秋成 作。5巻5冊。
1768年(明和5)成稿、76年(安永5)刊。「白峰」以下日本・中国の古典から脱化した怪異小説 9編から成る。
【吉備津神社】きびつ-じんじゃ
岡山県吉備津にある元官幣中社。祭神は大吉備津彦命。釜鳴神事てで知られる。備中国の一宮。吉備津宮。
広島県福山市新市町にある同名神社 (備後国の一宮) は分社。
関西テレビ FNNスーパーニュース アンカー 『金曜のギモン? 怪談は夏に聞くもの?』 13.08.23 放送 など より
≪ 「怪談は夏」のイメージを定着させたのは、四谷怪談を描いた鶴屋南北 ≫ Wiki 鶴屋南北 / Wiki 四谷怪談
兵庫県姫路市にある県立 歴史博物館には、江戸時代の妖怪絵巻、怪談本などが多く展示されていたそうです。
特別企画展 博物館 おばけやしき -Haunted Museum- 平成25年7月13日(土)~9月1日(日)
江戸時代は大衆娯楽として妖怪文化が花開き、色んな妖怪を作って楽しんだ。
夏になると暑い為、芝居小屋は暇になりました。そんな時、まだ駆け出しの歌舞伎の脚本家だった鶴屋南北が脚本を任される
機会を得ました。歌舞伎の仕掛けを盛り込み、人々を怖がらせる怪談狂言を上演したところ、人気に。
特に東海道四谷怪談は仕掛けが複雑で無茶な部分もあり、役者が大怪我などを負う事もあった。それを逆に「曰くつき」として
大々的に宣伝し人々の話題となり、爆発的にヒットしました。この事から「夏=怪談狂言」が定着し、現在に至ります。
【鶴屋南北(4世)】つるや‐なんぼく(江戸の人、1755~1829)/ 3世までは俳優。
歌舞伎脚本作者。別号、姥尉輔うばじょうすけ。
4世の鶴屋南北は、大おお南北といわれ、初世 桜田治助の門に入って桜田兵蔵といい、のち沢兵蔵・勝俵蔵と改名。
1811年(文化8)南北の名を襲つぎ、舞台構成の奇想と煽情的な作風が時代に迎えられた。
「天竺徳兵衛韓噺てんじくとくべえいこくばなし」「お染久松色読販おそめひさまつうきなのよみうり」「東海道四谷怪談」など、傑作が多い。
≪ 『幽霊に足が無い』とされるのは円山応挙の絵の影響 ≫ 大阪府守口市の来迎寺 江戸時代の幽霊の足跡
江戸時代の中期、円山応挙が描いた『幽霊図』は当時大変有名になりました。この事から『幽霊は足が無い』という
イメージが日本人に定着したと言われているそうです。
【円山応挙】まるやま-おうきょ (丹波の人、1733~1795) 通称、主水もんど
江戸中期の画家。円山派の祖。狩野派の石田幽汀 (明石生まれ、1721~1786)に学ぶ。
外来の写実画法の影響を受け、精細な自然観察に基づきつつ、装飾性を合わせ持つ新たな様式を確立。平明で情趣的な
画風は、新興町人層に支持を受け、のちに京都画壇に大きな影響を与えた。 作 「藤図屏風」「雪松図屏風」など。
≪ 怪談を聞くと寒いと感じる理由 ≫
関西テレビのアンカーによる愛知医科大での実験によると、
怖い映像を見た時の体温の変化では手の平などの表面温度は
低下します。 しかし、体の内部の温度は逆に上昇。
怖いと感じると、脳が体温を上昇させる命令を送るのですが、
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脳が求める温度と、実際の温度上昇との差がある為、寒く感じます。
体を温める指令と同時に、熱を逃さないようにする指令も出す為、血流が下がり血管収縮が起こります。
つまり、体の内部に血液を溜め体内を優先して温める為、手の先など体の末端や体表面では血液量が低下し、体温も
下がる事になるのです。この脳反応現象は、寒い場所に居る時や風邪をひいて発熱する時の反応に似ているそうです。
【怪談噺】かいだん‐ばなし
幽霊や妖怪の登場する落語。初代 林屋正蔵は鳴物・照明などを用いて好評を博した。
三遊亭円朝の「怪談牡丹灯籠」「真景累ヶ淵しんけい-かさねがふち」が有名。
【林屋正蔵】はやしや‐しょうぞう(江戸の人、1781~1842) 落語家。5代目以降「林家」。
(初代)林屋派の祖。初代 三笑亭可楽の門に入り、道具入り怪談を創案。
【三遊亭円朝】さんゆうてい‐えんちょう (江戸の人、1839~1900)落語家。 初代 橘家円太郎の長子。
人情噺に長じ、「塩原多助」や怪談「牡丹灯籠」「真景累ヶ淵」など自作が多い。
大阪のお笑い文化 上方落語 大坂の落語家が江戸へ落語を伝えた。
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【江戸思草】えどしぐさ ← 都民も認める 創作・でっち上げの江戸文化 |
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『「江戸しぐさ」とは?
さて、「江戸しぐさ」とは? に関しては、現在「江戸しぐさ」
普及の中心的役割を担っている「NPO法人江戸しぐさ」
という団体のHPにて次のように定義されています。
「江戸しぐさ」は、江戸商人のリーダーたちが築き上げた、
上に立つ者の行動哲学です。
よき商人として、いかに生きるべきかという商人道で、
人間関係を円滑にするための知恵でもありました。
江戸時代は、260年以上もの間、戦争のない平和な時代が
続きました。
その平和な安心な社会を支えたのが「江戸しぐさ」という
人づきあい、共生の知恵です。
一見したところ、もっともらしい定義ですよね。
「傘かしげ」「こぶし腰浮かせ」などの個別のしぐさを
ご存知の方もいらっしゃると思います。 ところが、です。
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この「江戸しぐさ」、原田氏による徹底検証が暴いたその実態は、
“偽史であり、オカルトであり、現実逃避の産物として生み出されたものである。” というのです。
なんとも不穏でありながら、それでいて実体を知りたいという欲に駆られる題材だと思いませんか?
その実態とはどのようなものなのか。』
続きは → ジセダイ 『トンデモな「江戸しぐさ」を検証』 14.08.25 配信 http://ji-sedai.jp/editor/blog/post_116.html でご覧ください。
≪ 『江戸しぐさ』が嘘という検証 ≫ ウィキペディアか、NAVERまとめ なとでご覧ください。↓
Wiki 江戸しぐさ
『文献で確認できる限りで「江戸しぐさ」という語の初出は1981年の読売新聞の「編集手帳」で
紹介されたものであり、2004年、また翌2005年にも 公共広告機構(現・ACジャパン)で
江戸しぐさが取り上げられた。
企業の研修や学校などにおける教育でも使用され、小学校の道徳の題材にも使われている。
また、2012年 (平成24年) 度から、育鵬社(フジテレビ系列) が公民の教科書に取り入れている。
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小林和雄は戦後の風俗の退廃を憂い、芝三光・うらしまたろうと称し、社会教育団体「江戸の良さを見なおす会」として
江戸講を復活させ、弟子の越川禮子・和城伊勢に江戸しぐさを伝授した。
1999年、芝の病没のあと、越川が門外不出の秘儀であった江戸しぐさをマスメディアに公開して流布させたのである。』
NAVERまとめ 『偽史・大型お笑いトンデモ「江戸しぐさ」』 14.09.22 配信 http://matome.naver.jp/odai/2137388996067006901
↑ 色々とリンク先がまとめされています。
『「良いマナーだったら多少のでっち上げは構わない」で良いんでしょうか?
「江戸しぐさ」の主張内容→「明治政府による江戸っ子狩りで江戸っ子はアメリカインディアンやベトナムのソンミ村の
ように虐殺されましたが、 勝海舟が一部(万人単位)を地方に逃がしましたので、辛うじて「江戸しぐさ」は秘伝として
残りました』
Togetter 『「江戸しぐさ」三度消滅物語(明治維新での江戸っ子狩り、国家総動員法、高度経済成長)』 http://togetter.com/li/536189
このサイトには 「お笑いネタとしか思えない(当事者たちは真顔)捏造された「江戸しぐさ」の出鱈目・矛盾ぶり」
との意見が多数あります。
日本テレビ NEXT ピース 『今日から使える江戸思草で、仕事も人生も思い通り !!』 13.03.10 放送
https://www.youtube.com/watch?v=-JQ5AfXXGX4
とりあえず、↑リンク先 の前編 と後編のユーチューブ動画で 『江戸しぐさ』が紹介された日テレの番組をご覧ください。
文章化は厳禁なのに、8000以上のしぐさが継承。GHQが江戸思草を研究などツッコミ所がいくつかありますが、
問題点は Wiki 江戸しぐさ に書かれていてます。
【日葡辞書】にっぽじしょ(Vocabvlario da Lingoa de Iapam)
日本イエズス会が長崎学林で1603年(慶長8)に刊行
した日本語‐葡萄牙ポルトガル語の辞書。翌年
補遺刊行。
ポルトガル式のローマ字で日本語の見出しをつけ、
ポルトガル語で説明をつけた。
文例をあげ、当時の標準語である京都語と九州方言
との差にも注意し、歌語・文語などを注する。総語数
3万2293。
ドミニコ修道会によるスペイン語訳「日西辞書」
(Vocabvlario de Iapon 1630年マニラ刊)のほかパジェ
スによる仏訳「日仏辞書」(1868年パリ刊)がある。
【今日】こん‐にち … 本日。このひ。きょう。〈日葡辞書〉。
「こんにちはお日柄もよろしく」
「こんにちは」の語源⇒ 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/ko/konnitiwa.html
【迂闊】う‐かつ
① 回り遠くて、実情にあてはまらないこと。迂遠。
② 注意の足りないこと。うっかりしているさま。
③ 大まかで、気の大きいこと。〈日葡辞書〉
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【笠森お仙】かさもり‐おせん(江戸谷中やなかの笠森稲荷境内の水茶屋の娘。1751~1827) Wiki 笠森お仙
御家人 倉地甚左衛門の妻。美人の評判高く、明和年間(1764~1772)頃には浮世絵に描かれて人気となった。
お仙にまつわる巷説は、山東京伝の合巻「笠森娘錦笈摺かさもりむすめにしきのおいずり」や河竹黙阿弥の歌舞伎
「怪談月笠森」などの題材。
番組の内容が全て間違いという訳ではありません。事実に嘘を交えられると、嘘に気づかなくて鵜呑みにしてしまう
人がいる事。歴史を改ざん・ねつ造する事は大問題です。東京メディアは嘘も多く、『印象操作』という手法をよく
使っています。
「江戸時代の殺人事件は年間1件あったか無かったか程度」
↑ どう考えても嘘と分かるのに、それを放送する日テレの報道姿勢も大問題。
NAVERまとめ 『TV・マスコミの嘘』 15.10.05 配信 http://matome.naver.jp/odai/2141174857447183301
朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『実録 江戸事件簿 ~犯罪で見る江戸の真実~』 16.12.08 放送
≪ 明治初めの東京の牢屋の絵 ≫
右は、「江戸時代の牢屋の絵」として、「牢屋不足で死刑が乱発。混雑のストレス
解消の為、牢屋では猫を飼う事が許されていた」と番組内では紹介されました。
番組内では『参考画像』として使用した程度の為、文献は示されませんでした。
調べてみると『暁斎画談 明治三年の「東京府獄屋とうきょうふ-ごくや」』という文献の
ようです。
下記のサイトをご覧ください。
Art & Bell by Tora 「江戸時代の罪と罰 @国立公文書館」 14.11.27 配信
http://cardiac.exblog.jp/d2014-11-27/
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【河鍋暁斎】かわなべ‐きょうさい(下総古河生れ、1831~1889)
幕末・明治前期の画家。初め狂斎と号。狩野派の画風に浮世絵風を加え、筆墨の活気に富んだ作風を形成。
戯画や諷刺画が得意。
1842~1844年 (天保12~14年)に老中 水野忠邦のが天保の改革の違反者や、幕末頃は明治維新関連で多くの
逮捕者が出ています。
歴史REALWEB 『第4回 河鍋曉斎が入獄した理由』 14.12.02 配信 http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/42201030.html
河鍋暁斎の筆禍事件と春画――暁斎評価の変遷との関わりにおいて http://www.academia.edu/14849490/ (URL略)
【筆禍】ひっ‐か … 発表した論説・記事が官府や社会の忌諱に触れて、災難または制裁を受けること。
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江戸の治安システム 江戸の治安は良かったのか? |
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朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『実録 江戸事件簿 ~犯罪で見る江戸の真実~』 16.12.08 放送 鈴与 魚河岸野郎 http://www.sakanaya.co.jp/history/index.html
『大和屋助五郎の活鯛流通システム - 魚河岸野郎魚河岸四百年 大和屋助五郎の活鯛流通システム』
http://www.sakanaya.co.jp/history/02_04.html
≪ 江戸の町には死体が至る所に放置されていた ≫ Wiki 氏家幹人
国立公文書館に勤務し『古文書に見る江戸犯罪考』など多数の著作がある氏家幹人さん
によると、江戸時代はよく言われる平和な『天下泰平』の世の中ではなかったそうです。
武士たちは人を斬る感覚を忘れないようにと、しばしば辻斬りという無差別殺人を行って
いました。犠牲者の遺体は、家族など引き取り人が来るまでその場に放置されおり、
江戸時代初期の江戸の町には死体があちらこちらに転がっていたそうです。
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辻斬りで捕まった武士の刀が「20~30人斬っても刃こぼれしない」と評判になり、そのブランドの刀が大ヒットした
そうです。
水戸藩主の水戸光圀も『玄桐筆記』に、13才の時に辻斬りをしていたという記録があるそうです。 Wiki 水戸光圀 Wiki 辻斬
江戸時代の江戸の前期の70~80年間くらいは、戦国時代の気風が色濃く残っており、治安は悪かったようです。
江戸で辻斬りが最も横行したのは寛永年間 (1624~1645年) 頃。1629 (寛永6) 年、幕府が辻斬りを取り締まる為の
辻番所を設置。元文年間(1736~1741年)までに930ヶ所あったそうです。
【辻番】つじ-ばん
① 江戸時代、江戸市中の武家屋敷の辻々に大名・旗本が自警のために設けた番所。辻番所。
② ①に勤務して、街路警備に当った人。
【自身番】じしん-ばん
江戸時代、江戸市中警戒のために各町内に設けた番所。地主ら自身が、後には家主たちが交替でここに詰め、
町内の出来事を処理した。
飢饉や大火などで亡くなった人たちも道端に放置されていました。
平安時代の京都でも轆轤町あたりに死体が放置されていました。(後に髑髏どくろ町→轆轤ろくろ町に町名が変更。)
深夜の遠吠えfile20・江戸の治安はよかったか http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai3/nagai3-20.html
≪ 江戸の治安について ≫
『江戸のことを書いた本には、警察機構や治安について、まるで判でも押したかのように、
「三十名に足りない人数で治安を維持していたのだから、驚異的である。江戸がいかに平和であったか、また
町々の自治がいかに行き届いていたかの証拠であろう」 という意味の解説がなされている。
筆者は本当だろうかと思う。江戸の治安はそんなによかったのだろうか。
江戸時代も後期になると、江戸の人口は100万を越えていたと推定されている。
この大都市江戸の治安を守るのは、主として町奉行所の役目である。
大雑把に言うと、北町奉行所と南町奉行所のふたつがあったが、隔月交代であり、地域を分割担当していた
わけではない。
南北町奉行所にはそれぞれ、与力25人、同心120人がいたが、実際に市中を巡回して犯罪の捜査や逮捕に
あたる定町廻同心や臨時廻同心は、両奉行合わせても24名でしかない。
もちろん、24人ではとても手が足りないから、同心が私的に雇った岡っ引などが動員されていたのだが、それに
しても100万都市の治安を守るのに「パトロール警官」が24人というのはあまりに少ない。』
続きはリンク先で、けっこう重要な情報が書かれてあります。
≪ 江戸の治安の仕組み ≫ ヤフー知恵袋 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1015361435
『江戸の行政。治安はボランティアで成り立っていました。なぜ、120万人の治安が24人の与力、同心で
守れたか。まず行政の仕組みを理解しなければならない。
【町奉行】
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武士と僧侶以外の町人五十数万人の行政トップ機関 290人(そのうちの与力、同心が24人)
行政の方針を示したり、大きな違反事件を取り締まったり凶悪事件を裁いたりするだけ。最高裁の役目
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【町年寄】
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民間のトップ機関、奉行の方針を民間に伝達、人別帳制作、住民登録の集計、不動産登記、商人、
職人の統制、町人の紛争の調停など実務の大部分を町名主にさせて監督した。
高裁の役目 奈良屋、樽屋、喜多村の3家の世襲。
幕府からの報酬は無し、江戸開府の時もらった土地を貸して家賃を経費に充てた。
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【町名主】
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町年寄の実務を実際にやったのは町名主であった。江戸末期には280人、専業で大半が世襲だった。
町人の揉め事は町名主の屋敷の玄関先で調停される事が多く、町奉行まで持ち込まれる事はまず
無かった。簡易裁判所の役目。
報酬は町人が払った地代や家賃の中に含まれる「町入用」(ちょうにゅうよう:町会費のようなもの)から
払った。
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【大家】
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地主や家主から報酬をもらって、借地や借家の管理をするのが本業。
5人1組で「5人組」をつくり1ヶ月づつ交代で自身番に詰めて、末端の行政を行った。
自身番は町会事務所、公民館、派出所、消防署、町内の溜まり場であった。
担当した大家の仕事は、お上からの伝達、人別帳制作、不動産登記、揉め事の仲裁、留置した罪人の
見張り、道路の掃除、修繕、夜回り、火の番、捨て子、行き倒れの処理。
簡易裁判所の前の相談所みたいな役目、2万人の大家が5人組を組織。
当番の1ヶ月はこれだけ多忙なのに、無報酬つまりボランティアであった。
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【町火消】 |
本職は鳶
火事の時に集まって消防隊を組織する。鳶の他、町内の力仕事、井戸掃除、どぶさらい、正月の飾り
つけなどの雑用係り。
また外部から来た歓迎できない者から町内の者を命がけで守った。11組に分けられ1万人が活躍した。
火事出動の際には手当てが出た。普段は鳶職としての収入。町内のために働いたので「町入用」から
わずかな報酬をもらった。命がけで働く割には手当ては少なく、ボランティアに近い。
しかし、女性にはもてる、若者はあこがれる、年寄りから頼りにされるなど、生きがいがあった。
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つまり、2万人の大家が役場、1万人の町火消が警察、消防、便利屋をやって行政が成り立っていた。
ほとんどボランティアであったのにシステムが継続できたのは、現代のように、子供でも「世の中で一番大事なのは
お金」と言う世界には理解でない、お金ではない大事なものが当時の社会を動かすエネルギーだったからである。』
【江戸町奉行】えど‐まちぶぎょう
江戸幕府の職名。老中の支配に属し、江戸市中の行政・司法・警察などをつかさどった。三奉行の一つ。
属吏に与力・同心があった。南・北二奉行所(一時は3カ所)があり、月番交替で訴願を受理。
当時は単に町奉行といった。
【町与力】まち‐よりき
町奉行の支配下にある与力。同心を指揮して犯罪者の逮捕・裁判、判例調査、牢屋・町火消の監督・指揮、
市中の警戒など市政全般を担当。
定員は南北両町奉行所各25名で御家人または奉行の家臣より選ばれ、八丁堀の組屋敷に住んだ。
【同心】どう‐しん
④ 江戸幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭・書院番頭などの配下に属し、与力よりきの下にあって庶務・警察の
事をつかさどった下級の役人。
【江戸町年寄】えど‐まちどしより
江戸町奉行の命をうけ、名主を統率し、市中の取締り・自治をつかさどった町役人。
館(奈良屋)・喜多村・樽屋の3氏が世襲。
江戸の住居分布では町人が住んだ地域は武家地の1/5。庶民の人口密度は現在の東京の約4倍の6万人/㎢と、
超過密な状態でした。
農家や漁師の二男や三男など地方で食い詰めた人々が豊かな暮らしを求め江戸に出てきて、棒手振などで商売を
行いわずかな日銭を稼いでいました。庶民は狭い長屋住まいが普通で、4畳半1間に4人家族が住む場合もありました。
江東区深川江戸資料館の米澤繁さんによると「物を持たない事を誇りにしていた」そうです。 ← 江戸庶民の強がり。
【八丁堀】はっちょう‐ぼり
① 東京都中央区の一地区。慶長(1596~1615)年間舟入場としてつくった掘割の名に起こり、のちその北岸の
町名となった。江戸時代には与力・同心の居住地。「―の旦那」
② 与力出身の加藤千蔭の異名。八丁堀に居住した。
③ 江戸神田の今川橋のかかった掘割。また、その辺の町名。江戸の文学には「神田の」を冠して、仮作の変人・
奇人の住所として用いることが多い。東海道中膝栗毛[初]「神田の―辺に独住の弥次郎兵衛といふのふらく者」。
※ 江戸100万人と言いますが、その説では半数が武士。江戸の町4/5を占める武家屋敷内は治外法権、寺社は寺社
奉行の管轄。町奉行の取り締まり対象は、江戸の町の1/5、庶民50万人に対してです。
江戸時代の牢屋は収容しきれず満杯であった様子の絵も残っています。その為、現在では軽罰程度の犯罪でも
死刑と定められていました。
【十人組】じゅうにん‐ぐみ
江戸初期、慶長(1596~1615)の頃から、近隣10戸を一組として組織した自治機関。
キリシタン・牢人取締り、年貢納入・治安維持などに連帯責任を負った。
【五人組】ごにん‐ぐみ
江戸幕府が村々の百姓、町々の地主・家主に命じて作らせた隣保組織。
近隣の5戸を1組とし、火災・盗賊・浮浪人・キリシタン宗徒等の取締り、また婚姻・相続・出願・貸借等の立会と
連印の義務、納税・犯罪の連帯責任を負わせたもの。
「大家は借家人の親も同然」という言葉がありますが、借家人が旅行や結婚する時には大家の許可が必要でした。
借家人が犯罪を犯すと、大家も連帯責任として罪を問われる場合があり、島流しにされたケースもあるそうです。
≪ 江戸時代の戸籍制度 ≫
【寺請】てら‐うけ
江戸時代、庶民がキリシタンをはじめ幕府禁制の宗教・宗派の信徒ではなく檀家であることを、その檀那寺に
証明させた制度。キリシタン根絶後も民衆統制制度として存続。
【寺請状】てらうけ‐じょう
寺請を証明して、檀家に対して身分保証を行なった証文。宗門人別帳にもとづいて発行され、庶民の婚姻・
旅行・奉公などに際して必要とされた。寺手形。宗旨手形。寺請証文。寺証文。宗旨証文。
【宗旨人別帳】しゅうし-にんべつちょう 【宗門人別帳】しゅうもん-にんべつちょう
江戸時代、村ごとに宗門改の結果を記した帳簿。1戸ごとに戸主・家族・奉公人の名前・年齢・檀那寺などを
記載し戸籍簿の役割をも果たした。宗門人別改帳・宗門改帳または宗門帳などともいう。
1671年(寛文11)制度化して毎年作成され、1871年(明治4)戸籍法制定により廃止。
≪ 町奉行・火付け盗賊改の非公認の協力者 岡っ引 ≫ Wiki 岡っ引
【岡っ引き】おかっ‐ぴき
(オカヒキの促音化)江戸時代、捕吏の手引きとして罪人の探索・捕縛にあたった人。
町同心の手先。目明かし。
岡っ引きは比較的罪の軽い罪人を同心たちが私的に雇い、悪党のネットワークを利用して
情報収集にもあたらせました。
岡っ引きが牢に入れられた場合、囚人たちから「ウンチを食べさせられる」などのリンチが
行われたようです。
ウンチを口に入れられ、叩き板というので背中を叩かれるそうです。それで飲み込んでしまう。
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江戸名物は「悪口」、江戸ッ子は日本一他所や他人の悪口を言う気質だった
江戸町奉行の拷問から、江戸ッ子の代表的な悪口「糞をくらへ」が生まれたそうです。
江戸の場合
南町・北町奉行所には与力が各25騎、同心が各100人配置されていたが、警察業務を執行する廻り方同心は南北
合わせて30人にも満たず、人口100万人にも達した江戸の治安を維持することは困難であったため、同心は私的に
岡っ引を雇っていた。岡っ引が約500人、下っ引を含めて3000人ぐらいいたという。
大坂の場合
一般の町民が内密に役人から命じられて犯罪の密告に当たった。
江戸とは異なり、犯人の捕縛に携わらず、密告専門であった。
地方の場合
江戸では非公認な存在であったが、それ以外の地域では地方領主により公認されたケースも存在している。
例えば奥州守山藩では、目明しに対し十手の代わりに帯刀することを公式に許可し、かつ、必要経費代わりの現物
支給として食い捨て(無銭飲食)の特権を付与している。
また、関東取締出役配下の目明し(道案内)は地元町村からの推薦により任命されたため、公的な性格も有していた。
【関東取締出役】かんとう‐とりしまり‐しゅつやく
江戸幕府が1805年(文化2)に創設した職名。関東八州(水戸領を除く)の幕領・私領を巡回、警察の任にあたった。
八州廻はっしゅうまわり。
【関東八州】かんとう‐はっしゅう … 相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の8カ国。関八州。
≪ 江戸だけに設置された火付盗賊改 ≫ Wiki 火付盗賊改方
『明暦の大火以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を
設けることにし、「盗賊改」を1665年(寛文5年)に設置。その後「火付改」を1683年(天和3年)に設けた。
一方の治安機関たる町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改方は番方(武官)である。この理由として、
殊に江戸前期における盗賊が武装盗賊団であることが多く、それらが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では
手に負えなかった。
また捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、これらを武力制圧することの
出来る、現代でいう警察軍として設置されたものである。』
【火付盗賊改】ひつけ‐とうぞく‐あらため 単に「加役」とも。
江戸幕府の職名。江戸市中・近在を巡回して、放火犯・盗賊・博徒の逮捕・取締りをつかさどった。先手組の加役。
火方ひかた。盗賊火付改。
【火事場見廻役】かじば‐みまわりやく
江戸幕府の職名。江戸市中に火事のあった際に、大名屋敷街の巡視、町火消の指図・監察をする役。
若年寄支配。多く寄合・小普請の者が命ぜられ、御使番の兼帯もある。
【勘定奉行】かんじょう‐ぶぎょう
江戸幕府の職名。老中の支配で、幕府直轄地の代官・郡代を監督し、収税、金銭の出納など幕府の財政および
領内農民の行政・訴訟をつかさどる。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つ。勘定頭。
【寺社奉行】じしゃ‐ぶぎょう
武家時代、寺社に関する人事・雑務・訴訟の事をつかさどった職。
江戸幕府では三奉行の第一で、奏者番そうしゃばんの中から選ばれて兼任し、将軍に直属。
寺社・神職・僧侶の管理・訴訟、寺社領の人民の支配や訴訟、連歌師・楽人・検校などに関する事をつかさどった。
定員4名が慣例で、老中・若年寄と同じく月番制。
【槍奉行・鑓奉行】やり‐ぶぎょう
① 武家時代に槍を持つ一隊を預かる職。長柄ながえ奉行。
② 江戸幕府の職名。老中の支配。長柄同心・八王子千人同心頭を管轄。
【八王子千人組】はちおうじ‐せんにんぐみ
江戸幕府の職名。武田氏の遺臣や浪人などが槍奉行の支配に属して八王子に在住し、甲州口を警衛し、また
交替で日光社参・江戸火消役をつとめた者。同心100人をもって1組とし、10組あったからいう。八王子千人同心。
八王子千本槍衆。
≪ 武家では犯罪被害などを隠蔽した ≫
江戸市中の4/5の面積を占めていた大名屋敷は、現在で言う外国の大使館と似たような存在。
幕府が直接手を下せない治外法権の地域。盗みに入られたり、事件があっても大抵の場合は不名誉として公表
しません。
氏家幹人さんによると、「当主が妾に殺され、家臣がその妾を成敗 (斬る) する」ような事件などはよくあったようです。
当主が、殺されたり、突然死するなどは「武家にあるまじきこと」として、家の取り潰しになりました。
その為「跡継ぎを決めてから当主の死亡を公表する」のが通例で、屋敷内での事件は家ぐるみで隠ぺい工作が行わ
れました。
≪ 妻が不倫をした場合、妻敵討ちは無罪 ≫
参勤交代で国元と江戸を行ったり来たりして、武士は家を長期留守にする事がよくあった
ので、武家の妻が不倫する事も日常だったそうです。
浮気を見つけて、妻と相手を斬り殺しても『妻敵めがたき討ち』と言って無罪とされてました。
但し、妻を殺してしまうと、「寝取られ夫」「短気者」との悪い評判がたつので、実際は示談が
行われ、『首代くびだい』という慰謝料で済ませる場合が多かったようです。
幕府も示談を推奨しており、7両2分 (現在価値で80万円ほど) の相場がありました。
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江戸の火事の真実 江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた ~ 時代劇で見る 江戸の町は嘘ばっかり!~
上記のヤフー知恵袋の回答は出典が明らかではありませんので、どこまで真実か検証していませんが、広辞苑の
5人組、10人組の内容などと併せて考えると、町民自身が町の治安維持に努めていた事が分かります。
武士の場合は藩の規律に従う事が最優先。
江戸の火事の真実や、江戸にだけ火付け盗賊改が置かれた事などから、江戸は日本で最も治安が悪いと
言えます。
大坂は40万人 (堺などを含まない) と推定され、江戸時代は2番目に人口が多く、各地の商人が出入しており、
最大の経済都市であるにも関わらず、武士の割合は最も少なかった。大阪の武士は約2000人。
【大坂町奉行】おおさか‐まちぶぎょう
江戸幕府の職名。老中の支配に属し、旗本から選任されて与力・同心が付属。大坂に在勤して市政・訴訟を
つかさどり、城代・定番と議して非常の警備にあたった。
1722年(享保7)以後は上方支配を京都町奉行と二分し、河内・和泉・摂津・播磨4カ国の訴訟や幕領の租税
徴収をも担当。東西各一人が月番交替で訴願を受理。
これら事から日本一治安が良かったのは大坂と考えるのが普通だと思います。
≪ 江戸は世界一清潔な都市だった ≫ ← 完全なウソ!
幕末の「守貞謾稿」「皇都午睡」、明治末の「東京年中行事」および「江戸町触れ」などの超一級史料などから
江戸は世界一清潔な都市どころか、日本一臭い町であるという事実が分かりました。
簡単に言うと、江戸・東京の名物と言われるほど塵 (土埃) がかなり酷く、風が強いので屋台や電車の中も埃まみれ。
江戸時代は火事が多いので家風呂はなく、埃にまみれているので毎日風呂に入るので、銭湯が多かった。
江戸では尿を肥料に使い始めたのは幕末頃になってから。その為、トイレに尿を貯める事はしなかったので、
地面に浸み込んでいるのが普通だった。また小便所が無かったので立ちションも多かった。
風で土埃が舞うので水を撒きますが、水道水は有料のなので立ちションの尿が混ざった溝の水を撒くので、
乾燥すると、悪臭が町中に広まっていたようです。また犬猫などの死体も放置されたままだったようです。
「江戸に多きは稲荷に犬の糞」という言葉残るように、犬の糞もゴロゴロしていたと思われます。
各文献の記述文献などを書いてありますので、詳しくは下記リンクでご覧ください。
【銭湯・トイレの雑学のページ】
江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
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長谷川平蔵 |
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テレビ朝日 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『長谷川平蔵』 13.10.06 放送
NHK Eテレ 高校講座 日本史 『幕政改革』 14.10.17 放送
NHK Eテレ 先人たちの底地から 知恵泉 『人を動かす極意 「長谷川平蔵」』 14.11.11 放送
スカイツリーがある墨田区、江戸時代は『本所』と呼ばれ、18世紀になり農村だった所を開発したニュータウンのような
場所でした。幕府公認である遊里である岡場所が点在していました。
『本所の鐵てつ』と呼ばれた有名な遊び人『鐵三郎』が長谷川平蔵でした。30才で家督を継ぎますが、その後も歌舞
伎役者のような服装で遊郭に通い詰めて、父親が貯めた財産を使い果たしました。(京兆府伊記事より)
長谷川家は400石取りの家柄だったそうです。
【岡場所】おか‐ばしょ … 江戸にあった私娼地の称。官許の吉原以外の、深川・築地・品川・新宿など。 Wiki 岡場所
【長谷川平蔵】はせがわ‐へいぞう 名は宣以のぶため。(1745~1795)
江戸中期の400石の旗本。1787年(天明7)火付盗賊改ひつけとうぞくあらため加役。
90年(寛政2)老中 松平定信の命で人足寄場を創設。火付盗賊改として犯罪人逮捕や裁判に敏腕を発揮。
平蔵は31才の時に将軍の警護を担う書院番に任じられると、一転して真面目に仕事に励みました。 Wiki 長谷川平蔵
【書院番】しょいん‐ばん
(もと江戸城本丸白書院紅葉の間に勤番したからいう)江戸幕府旗本の軍事組織。
若年寄に属し、営中の警備、将軍の扈従こしょう、儀式の事をつかさどった。
【天明の飢饉】てんめい‐の‐ききん
1782(天明2)~1787(天明7) 年に起こった大飢饉。特に同3年浅間山噴火の影響でおきた冷害による奥羽地方の
飢饉は多数の餓死者を出し、このため各地に一揆・打ちこわしが起き、幕府や諸藩の支配は危機に陥った。
1783年、長野・群馬にまたがる浅間山が大噴火。火山灰が降り注ぎ農業に大きな被害をもたらします。
1786年、天災による社会不安で幕府内の勢力を失い老中の田沼意次が失脚。
1787 (天明7) 年、平蔵41才頃 長年の不作により飢饉が都市部にも波及し米価が高騰。全国の都市で打ちこわし
が発生。
特に江戸では町民たちが市中の米屋のほとんどを襲い、幕府は強い衝撃を受けました。『天明の打ちこわし』。
江戸町奉行が鎮圧に向かいますが、群衆は5000人ほどになっており手が付けられない状態でした。
【田沼意次】たぬま‐おきつぐ(1719~1788)
江戸中期の幕府老中。9代将軍家重の小姓を経て側用人となり、遠江とおとうみ相良さがらの城主に取り立てられ、
1772年(安永1)老中。子の意知おきともと共に田沼時代を現出。
【田沼時代】たぬま‐じだい
田沼意次が側用人・老中として幕政の実権を握った宝暦(1751~1764)年間から天明(1781~1789)年間に
かけての時期の称。貿易振興・蝦夷地開発・新田開発など経済政策による幕政の積極的打開を意図したが、
賄賂政治と批判され、天明飢饉や江戸打ちこわしにより失敗に終わった。
老中には松平定信が抜擢され、田沼政治を否定し、第8代将軍の徳川吉宗の政治を理想として改革を行います。
【松平定信】まつだいら‐さだのぶ 奥州白河の藩主。(1758~1829) 三卿の田安宗武の子。第8代将軍 徳川吉宗の孫。
江戸後期の幕府老中。老中の職につき寛政の改革を断行。
また、和歌・絵画に長じ、「花月草紙」「宇下人言うかのひとごと 」「集古十種」などの編著がある。隠居して楽翁と
号す。
Wiki 松平定信
【三卿】さん‐きょう 御三卿。
徳川氏の支族たる田安・一橋・清水の三家の家格。尾張・紀伊・水戸の三家の次席で、宗家に嗣子のない時は
宗家を継承する資格を有した。
【寛政の改革】かんせい‐の‐かいかく
松平定信が1787年(天明7)から93年(寛政5)までに行なった幕政の改革。倹約令・棄捐きえん令・七分金積立・
人返し・人足寄場・異学の禁等の諸政策で、田沼時代に深まった幕藩体制の危機を乗り切ろうとしたもの。
江戸幕府三大改革の一つ
幕府は打ちこわしを鎮圧する為、戦の際に先陣を務める部隊で
ある御先手組を出動させます。
これを率いていたのが長谷川平蔵でした。
【先手組】さきて‐ぐみ
江戸幕府の職名。若年寄の配下、組頭の支配。
弓組と鉄砲組とがあり、与力・同心が付属。
江戸城本丸諸門の警衛をつかさどり、将軍他行の際に警固に
あたり、また、火付盗賊改として市中を警戒した。
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暴徒を次々と取り押さえ打ちこわしは鎮圧しましたが、経済の停滞から社会不安が広まり、強盗殺人などが頻発
しました。
また全国で100万人ほどが犠牲となった天明の大飢饉により、農村が荒廃。
江戸には関東の貧しい農民が村を捨て大量に江戸に流れ込み、家も職も無く、行商や物乞いでその日暮らしを
する無宿人が増加。それにともない犯罪も増加する一方でした。
治安回復の為、幕府は凶悪犯を取り締まる火付盗賊改方を設置し、打ちこわしの取り締まり実績がある平蔵を
長官に抜擢。
格上の町奉行との違いは特になく、競って犯罪を取り締まる役職。ただ、火盗改の方が江戸町を出て捜査にあたり
易かったようです。また、火盗改は独自の裁量で拷問を行う事が許されていました。
【火付盗賊改】ひつけ‐とうぞく‐あらため 火方ひかた。盗賊火付改。単に「加役」とも。 Wiki 火付盗賊改方
江戸幕府の職名。江戸市中・近在を巡回して、放火犯・盗賊・博徒の逮捕・取締りをつかさどった。
先手組さきて‐ぐみ (江戸城本丸諸門の警衛をつかさどり、将軍他行の際に警固) の加役。
≪ 格下の長谷川平蔵が活躍しすぎて、治安維持の本職 江戸町奉行は「大へこみの由」 ≫
長谷川平蔵は、在職中の8年間に大物犯罪者を次々逮捕するなど約150件の事件を解決。
若い頃は、吉原に入れ込み親の金を遣い果たすなど素行不良の やんちゃ時代の経験と人脈があった為、活躍
できたと見られています。平蔵は罪人たちが使う↓の様な隠語が理解できたと言われています。
厳しい拷問して自白させる事は可能でしたが、平蔵は「ぶったり叩いたりして責めはしない。拷問をかけずに自然と
白状させる仕方がある」として慈悲深く接する事で、犯罪人の心を開かせる方法を取りました。
Wiki 真刀徳次郎 Wiki 葵小僧 Wiki よしの冊子
【よしの冊子】
老中、松平定信が眼明かし (スパイ) を使って、部下の素行・活躍を監視し、その報告をさせた物。監査報告書。
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ある盗賊を移送する時、平蔵は手ぬぐいを用意し「日中
引かれてくるのも切ないだろう」と、市中の人々に顔を
見られないように頬被りさせた。という逸話が残っています。
また吉原の大物盗賊である播磨屋吉右衛門を捕えた時の
事、吉右衛門は体が弱っていたので、吉右衛門の手下の
者を同じ牢に入れ看病させました。
これら温情がある扱いが罪人たちにも広まり、平蔵の屋敷
に自首してくる者も多かったそうです。
罪を償った後、平蔵の配下として働いた者もいました。
但し、関東一円で盗みを重ねた葵小僧だけは厳しく、すぐに
処刑を実行しました。
武家屋敷に盗みに入った際、女中などがいるとレイプ。
被害に遭った武家は不名誉として公にしなかったので、
犯行を重ねました。
貧しくて仕方なく犯行を行った者と、人道に外れた犯行を
行った者とをしっかり区別して扱ったそうです。
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≪ 相場を操作しデフレを勧め、江戸を混乱させたのは 人足寄場の設立の為 ≫ Wiki 加役方人足寄場
1789 (寛政1) 年老中の松平定信が無宿者 (江戸時代の戸籍簿である人別にんべつ帳から外れた人たちで、犯罪者
予備軍だった) 対策として出稼ぎを制限し、旅費や補助金を与えて帰郷させる旧里帰農令 (人返し令 : 江戸・京・
大坂などの都市へ集中した農民を帰郷させた政策) を発令します。
長谷川平蔵は失業者・犯罪者の自立支援の為、現在の職業訓練所にあたる『寄場起立』提案しますが、
定信が「金がかかり過ぎる」という理由で反対。平蔵は相場を操作し人足寄場設立の為の資金を工面しました。
よしの冊子 より
『近頃、銭が高値になり、物価が下がるデブレになったのは、平蔵の仕業との噂がある。
役所名義で10万両ほど銭を買い占めデフレにしたらしい。その上この間、奉行所に江戸中の商人を呼び付け、
奉行と平蔵が「デフレになったが心配するな ! むしろ、もっと物価を下げて、デフレを進めろ ! 」と命令したという。』
定信は、平蔵とは正反対の真面目な性格。 平蔵の活躍は認めていたが、罪人と親しくする態度の平蔵のやり方を
嫌っており、出世させませんでした。「平蔵は金儲けの為に相場を操作し、金に汚い奴だ」と誤解していたようです。
【人足寄場】にんそく‐よせば
江戸時代、無宿者や刑期満了者を収容して労役させた所。火付盗賊改加役長谷川平蔵の建議により、1790年
(寛政2)老中松平定信が江戸石川島および常陸国筑波郡上郷村(現、茨城県つくば市)に設けた。
Wiki 加役方人足寄場 によると 大阪、箱館(現在の函館市)にも設置されたようです。
1790年 江戸石川島に人足 (力仕事に従事する者の意味) 寄場を設立し20人が入所しました。平蔵自らが無宿人
たちに人足寄場の趣旨を語り、その後も月に7日は寄場に通って見守ったそうです。
人足寄場では、大工・左官・屋根葺き・ロウソク作り・紙漉き・服の仕立てなど様々な手業 (技術) が習得できる用意
があり、『勝手次第』として自分で習得したい手業てわざを選択する事が可能でした。
寄場で作られた商品は江戸市中で販売され、材料費などの2割を差し引いた残りの8割が人足達の給料として積み
立てられました。
出所時には、積み立てた給料の他、仕事に必要な道具を与え、就職先も斡旋。店舗や住まいまで用意する事も
ありました。きめ細かい平蔵の配慮により軌道に乗った人足寄場では、毎年200人ほどの人たちが技術を身に付け
社会復帰していくようになりました。
1795 (寛政7) 年、長谷川平蔵は50才で死去した後も、
人足寄場は規模を拡大し、明治時代まで続きました。
松平定信は、
「人足寄場によって犯罪が少なくなった。
全て平蔵の功績である」と言葉も残しています。
この人足寄場の社会復帰システムは当時の世界でも
珍しく、近代的な仕組みとして高く評価されています。
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NHK Eテレ 先人たちの底地から 知恵泉 『人を動かす極意 「長谷川平蔵」』 14.11.11 放送
≪ 長谷川平蔵が「軍鶏鍋を好んで食べた」 というのはウソ ≫ Wiki 玉ひで
軍鶏鍋は池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』に登場するだけで、史実には「平蔵が軍鶏鍋を食べた」という記録は
一切残っていないそうです。
小説に登場する軍鶏鍋屋の『五鉄』は、東京の日本橋人形町で1760年から続く老舗鶏料理店『玉ひで』がモデル
だそうです。
【池波正太郎】いけなみ‐しょうたろう(東京生れ、1923~1990)
劇作家・小説家。長谷川伸に師事。新国劇の脚本を書く傍ら時代小説を執筆。
作「鬼平犯科帳」「剣客商売」などのシリーズ、「真田太平記」など。
≪ 平蔵は捜査に協力した町人に蕎麦を振る舞った ≫ 江戸中期の江戸の蕎麦は味噌仕立てのタレ汁
よしの冊子には「平蔵が捜査に協力した町人にそばを振舞い、町人が感激して平蔵の評判が上がった」との記述が
あるそうです。
かわず会館 『鬼平犯科帳の犯科帳』 http://www.h2.dion.ne.jp/~you3/oniheimain.htm
大江戸四方山話 虚構の中の真実 『長谷川平蔵〜人を信じ、人を活かす』 http://おおえど.com/his1-4.html
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江戸時代の犯罪 |
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≪ 江戸時代の刑罰 ≫
1712 (正徳2) 年の『和漢三才図会』の巻第二十二 「刑罰」には、流罪・斬罪ざんざい・磔はりつけ・梟首ごくもんなどが
載っています。
【和漢三才圖會】わかんさんさいずえは、日本の類書(百科事典)。正徳2年(1712年)成立。 Wiki 和漢三才図会
編集者は大坂の医師 寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭された
ことが編集の動機であった。
朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『実録 江戸事件簿 ~犯罪で見る江戸の真実~』 16.12.08 放送
今回のカシコブレーンは、国立公文書館に勤務する氏家幹人 (1954年福島県生まれ、東京教育大学文学部卒業。
日本近世史専攻) さん。 Wiki 氏家幹人 によると、近世に関する著書を数多く書いています。
≪ 大坂のスリは全員○○! 1万人もスリが居た? ≫ 「1万人以上のスリがいたのは江戸」だった
番組の中では、カミソリで腰にぶら下げた巾着 (財布) を切り、銭を抜き取る巾着切が横行。
「当時、スリ (巾着切) の数はとても多く、大坂の人口が30万人に対し、1万近くもいたという」とありました。
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大坂の町奉行は、スリ被害を抑える為に、スリの元締めと
交渉し、スリたちに水色の頭巾を被せる事に成功。
市中に「水色の頭巾を被った物はスリなので、気をつける
ように」という御触れも出しました。
大坂のスリは自ら水色の頭巾を被ったので、大坂町人の
被害は減ったそうです。
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この御触れの内容を知らない金持ちの旅行客を狙ったため、スリたちは稼ぐのに困らなかったとしています。
しかし、1万にもいるスリが、旅行客だけを狙ってやっていけるはずはない。と思ったので調べてみる事にしました。
ネットで調べられる範囲で検証したところ、その情報は嘘の可能性が高く、1万人以上のスリが居たのは江戸である
事が判明。
【検証開始 「巾着切」と「ちぼ」】
江戸時代のスリは『巾着切』と呼ばれましたが、関西や西日本では『ちぼ』と呼ばれていたようです。
【巾着切り】きんちゃく-きり
往来の人の懐中物などをすりとる物。すり。ちぼ。
1688 (貞享5) 年刊の井原西鶴作『日本永代蔵』[4]「―も集まれば」。
下記のサイトで、その部分の文を見つけました。但し、原文ではないので、「巾着切」と書かれていたのかは判断できません。
日本歴史地名大系ジャーナル 『第75回 敦賀【つるが】』 13.02.08 配信
http://japanknowledge.com/articles/blogjournal/howtoread/entry.html?entryid=84
『越前の国敦賀の港は、毎日の入船判金一枚ならしの上米ありと云へり、淀の川舟の運上にかはらず、万事の問丸
繁昌の所なり、殊更秋は立つづく市の借屋目前の京の町、男まじりの女尋常に其形気北国の都ぞかし、旅芝居も爰を
心かけ、巾着切も集まれば、今時の人かしこく、印籠ははじめからさげず』
【ちぼ】 …(西日本で)すり。巾着切り。 Wiki スリ によると京阪神が「ちぼ」。
コトバンク 『ちぼ』
大辞林 『すり。巾着きんちやく切り。 「侍に合ふて物いふ間に-引いた/浄瑠璃・新版歌祭文」
「『-』の意味を問ふて『掏摸すり』と云ふ事を知ると/思出の記 蘆花」
世界大百科事典内のちぼの言及 【すり(掏摸)】より
…往来,車中などの混雑した場所で,他人の懐中物などを盗みとること,およびその盗みを行う者。
〈きんちゃく切り〉〈ちぼ〉などとも呼ぶ。
〈すり〉は〈摩(すり)〉で,体をすりつけるように寄せて盗む意などといい,〈掏摸(とうぼ)〉は手さぐりで物を
さがし取る意で,中国の刑法典にこの種の盗人の呼称として用いられていた。…
【新版歌祭文】しんぱんうたざいもん
浄瑠璃。近松半二作の世話物。1780年(安永9)初演。
新版歌祭文は大坂竹本座で初演された(お染久松)の事。大坂東堀瓦屋橋通の油屋太郎兵衛の娘お染と丁稚久松との
情死の巷説ならびに、これを脚色した作品群の通称。
『摂陽奇観』浜松歌国 (大坂木綿問屋生まれ、歌舞伎作者,随筆家。1776~1827) 巻四十六には、「或日チボ四人、
道頓堀・島之内辺を騒がし」とあります。
江戸時代中期頃、井原西鶴 (大坂の人) 作品では「巾着切」が登場、ほぼ同時期の近松半二 (大坂の人) の作品は大坂で
「ちぼ」と呼んでいた事がで分かります。
「巾着切」はカミソリを使う者、「ちぼ」はスリとして分けて呼ばれていた可能性も出てきました。
明治時代の小説家 徳冨蘆花 (肥後・熊本生まれ、1868~1927) が「ちぼ」を知らなかったようなので、熊本あたりでは
使われていなかった言葉ですが、明治時代でも「ちぼ」が使われていた可能性がある事が分かりました。
コトバンク 『巾着切り』
〔巾着を切って金銭を盗んだところから〕 掏摸すり。「-の上前をはねなければ三度の御膳が戴けないと/坊っちゃん 漱石」
夏目漱石 (江戸牛込生まれ、東大卒、1867~1916) 作の『坊ちゃん』(1906年「ホトトギス)に発表した田舎の中学に赴任した
江戸っ子教師が主人公の小説) の5巻に
「世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並にしなくちゃ、遣りきれない訳になる。巾着切の上前をはねなければ
三度のご膳戴けないと、事が極まればこうして、生きてるのも考え物だ。」とありますので、
明治39年の東京では「巾着切」が使われていた事が分かります。
【テレビ内容の出典を確認】
日テレの世界一受けたい授業のように、番組が独自に改竄や付け足しをしていないか調べてみました。
氏家氏が書いた内容のままである事が下記の通り判明しました。
① シミルボン https://shimirubon.jp/reviews/1675769
氏家幹人 著 『古文書に見る江戸犯罪考』 祥伝社 出版2016年10月 のレビュー投稿 16.11.21により抜粋
『笑ったのは、曲淵甲斐守という旗本が大坂町奉行時代に巾着切(スリ)対策で行ったこと。巾着切に、今後は浅黄色
(水色)の木綿の頭巾を被って稼業を行うように申し渡すとともに、町々には、浅黄色の頭巾を被った奴はスリだから
注意するようにとの触れを出したらしい。』
② 紀伊國屋書店 『古文書に見る江戸犯罪考』 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784396114848 の本の内容説明より抜粋
『信憑性の高い史料を基に、江戸時代の犯罪と刑罰について、わかりやすく紹介したのが本書である。』
【その情報の元となる文献は?】
番組では、情報の元となる文献の名前は一切公表されていなかったので、検索してみました。
下記のサイトなどから情報を得ましたので、確認してください。
文献名は③のサイトなどから『諺芥集げんかいしゅう』と『東贐あずまのはなむけ』の2冊が確認できました。
③ 洋泉社 歴史総合サイト 歴史REALWEB 『第3回 町奉行と巾着切 「曲淵甲斐守の素敵な奇策」』 14.11.04 配信
http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/41724944.html
④ 桃象の観劇書付ブログ 【用語解説】 巾着切 (きんちゃくきり) 16.11.23 配信
http://ameblo.jp/peo-momozo/entry-12222023574.html
⑤ リュートの適当にっき 『氏家幹人「大江戸残酷物語」 洋泉社(2002/06発売)を読んだ感想』 16.09.09 配信
http://yaplog.jp/neutralerstadt/archive/484
⑥ Matimulog archive 『国立公文書館・罪と罰特別展 2014/12/13』
http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2014/12/archive-e576.html
⑦ 塩哲の空即是色 日々の徒然日記 http://blog.goo.ne.jp/shiotetsu_2011/e/a7f24e978bbaac1b7bc8e3f188f8686e
『諺芥集げんかいしゅう』とは?
①のサイトによれば、「著者および成立年が定かではない」とありますが、
⑦のサイトによると「成立年不詳、全5冊、北川狂歌堂旧蔵」と書いてあります。
この「北川狂歌堂旧蔵」は、鹿都部真顔の号 (ペンネーム) の事です。 Wiki 鹿津部真顔
【鹿都部真顔】しかつべ‐の‐まがお(江戸の人、1753~1829)
(「鹿津部」とも書く)江戸後期の狂歌師・黄表紙作者。通称、北川嘉兵衛。
別号、狂歌堂・四方歌垣。戯作名、恋川好町。戯文を恋川春町に、狂歌を四方赤良
(大田南畝)に学ぶ。
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右の画像が諺芥集です。グーグルで画像検索すれば、一番上にこの画像が表示されるので『画像表示』をクリック。
文字が読み取れる大きさで表示されます。
草書体のくずし字なので、何が書いてあるのか全文の詳細は分かりませんが、それでも漢字は読み取りやすく、
③、⑦のサイトには、ある程度の内容が書かれてあります。
諺芥集に○が3つ付いている事が分かります。それぞれ別の事が書かれて有ります。
1つの目の○には「京都所司代・板倉勝重が博打で負けた分を訴えがあれば、所司代が取り返す」という事が書かれて
いるようです。
2つ目の○の部分が、今回検証している「大坂の巾着切」について書かれてある部分。③のサイトに2/3ほどが訳されて
あります。
「去る明和の比(ころ) 曲淵甲斐守殿大坂町奉行の節 巾着切一統に木綿の浅黄色頭巾を着せ渡世仕候様に被申渡
(もうしわたさる) 又町々へは 浅黄頭巾かぶり候ものは巾着切に候間 油断不可致と触流し有之候と也」
↓ 現代訳
「大坂町奉行時代、景漸は巾着切一同に、これからは木綿で拵えた浅黄頭巾、すなわち浅葱色(あさぎ色=水色)の
頭巾をかぶって「渡世」(スリの稼業)を行うように申し渡したという。しかるのち大坂の町々に対して、
『今後、浅黄色の木綿頭巾をかぶった者を見かけたら、巾着切だと思って油断するな』と御触れを出した」
ここまで見ると、氏家氏が書かれてある事が正しいように思えます。しかし、これからが検証の本番。
【「諺芥集」には、「大坂に1万人も巾着切がいた」とは書かれていない】
上記の原文は4行目の半分までが訳されてあり、残り1行半「右自下の~」読めませんが、「1万人の巾着切が居た」という
事は書かれていないと思います。「巾着切が1万人居た」という事が書かれてあるのは東贐という文献の方です。
【「東贐」とは、江戸の事を書いた文献】
③と④のサイトに詳しく書かれてありますが、『東贐あずまのはなむけ』は、1805 (文化2) 年に海保青陵が、江戸藩邸で
勤務することになった加賀国金沢藩士の富永権蔵のために書いた「江戸での生活マニュアル」だそうです。
「江戸中ニハ 万ヲ以テ数ヘルホドアル也」 「巾着切ハ仲間アリテ 何カ其党ノ礼法モ極リテ居ルモノ也」
↓ 現代訳
「巾着切は、両国・浅草・上野・湯島・芝神明などに多く、その数は江戸全体では一万人以上だ」
「人数が多いだけではない。彼らには同業組合のようなものがあって、作法や掟が定められている」
「巾着切ハ風俗別也 知レルヨフニシタルモノ也 青梅島ノチヽブキヌノ裏ノヌノコヲ一ツ着テ 懐中ニハ何モ無シ」 ↓ 現代訳
「江戸では(1万人以上の巾着切が)ひと目で巾着切と知れる身なりをしている。彼らはみな、表が青梅縞(青梅地方で
産する縞織物)で裏地が秩父絹の布子(木綿の綿入れ)を着し、懐中には何も所持していない」
「巾着切ニ懐中ナドヌカレテモ金ハヤラネバナラヌ也 金ハヤルユヘニ中ニケ様々々ノ印形トカ書付トカアル コレハ是非
取戻サネバナラヌトイフ事アルモノ也 此時ハ髪結処ヘ頼ム事也 何カ手ヅルアリテ印形書付ケカヘル也 然レ共髪結
同類トイフニハアラズ」 ↓ 現代訳
「彼らは盗んだ金は絶対に返してくれないが、どうしても必要な書付(書類)や印形(印または印を押した文書)は取り戻す
方法がある。どのような? そのようなときは髪結床(床屋)に頼めばよい。髪結床は巾着切の仲間ではないが、
彼らには手蔓があって、髪結床を窓口にして印形や書付は取り戻せる」
【海保青陵】かいほ‐せいりょう(丹後 宮津藩家老の子、1755~1817)名は皐鶴こうかく。通称、儀平。 Wiki 海保青陵
江戸後期の儒学者・経世思想家。諸国を遊歴して、君臣関係を商いの取引関係になぞらえ、藩営専売論を説くなど、
実用的な学問を提唱した。著「稽古談」など。
1万人以上の巾着切が居たと明記されているのは、江戸だという事が分かります。
但し、実際に数えたわけではないので「万を超えるくらいたくさんいる」と原文あるように「万」は多いという比喩数字です。
つまり、氏家さんは諺芥集の「大坂の巾着切の浅黄頭巾」と記述と、東贐の「江戸市中に万を超えるほど」の記述を
くっ付けて、「大坂に1万人のスリがいた」と捏造したのではないでしょうか? それとも他の文献に記述があるのでしょうか?
番組では、江戸の巾着切については一切触れられていません。
コトバンク 『飴売』
扮装(ふんそう)に趣向を凝らし余興を添えて市中を売り歩く飴屋は江戸時代に始まる。
元禄・宝永(1688年―1704年)のころ江戸浅草の七兵衛が千年(歳)飴を売り出したことが《還魂紙料》にみえ,1770年代に
浅黄頭巾(ずきん)に袖無(そでなし)羽織で,日傘(ひがさ)に赤い絹をたらし,鉦(かね)を鳴らして歌い歩く飴売りの話が
《耳袋》にある。
Wiki 根岸鎮衛 によると
耳袋は勘定奉行・南町奉行などを歴任した根岸鎮衛が佐渡奉行(1785年)から30年以上に渡って書いたもの。
江戸では、浅黄頭巾を被っていたのは飴売りだったようです。
Wiki スリ より抜粋
『明治以前はスリは町人全盛の大坂に多く、技量の点でも上方がスリの本場であったが、明治維新となり、東京に人口が
集中し、スリの恐れた武士の帯刀が禁じられ、富豪が増え、上方から東京に所がえするものがおおくなり、
明治20年(1887年)頃、秀奴の子分の地蔵の栄のまた子分の巾着屋の豊が東京市中のスリを統合して組織化し、
京阪のスリは非常に多く東京に集まった。
当時、スリには「箱師」(電車内専門)、「ボタハタキ」(縁日や劇場など人混み内専門)、「違い」(路上ですれ違いざまに
する)の3種があった[1]。警察が彼らを情報屋として利用することもあったため、明治末期まで取り締まりは比較的
緩かった[1]。』
上記の記述にも疑問が出てきます。
[1] 国会国立図書館 『新聞集成明治編年史. 第十三卷、(林泉社、1936-1940)』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920436/268
には、『掏摸絶えず 大名生活の大親分 東京市中に千五百徘徊』というタイトルの記事があり、東京に1500人以上の
スリがいた事など、東京の事しか書かれていません。
と、いう事は、ウィキの下にある 『明治・大正・昭和歴史資料全集. 犯罪篇 下卷』有恒社 (東京)、1932-1934からの
出典である可能性が高いです。リンクされている
この全集の『仕立て屋銀次』の記事、国会国立図書館 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920457/22 左側のP39の真ん中あたり。
明治42年6月26日の東京日日新聞 『乾皃襲撃の噂』
「~京阪地方より出京する掏摸も一旦は必ず銀次の元に至りて渡りを付け居る位にて掏摸の根拠地と稱せらるゝ大阪神戸
邊に至るも遍く親分として立てらるゝ大勢力家なりと。」
京阪のスリが東京に来た時に銀次の元に挨拶した事と、阪神地域がスリの本拠地である事が書かれてある事が分かり
ました。
【「大坂の浅黄頭巾」の話は本当か? 「諺芥集」とは、どういう本なのか? 】
諺芥集に書かれた内容に戻ります。
⑥のサイトでは、頭巾の話が「板倉所司代の逸話」と勘違いされているようですが、それ以外のサイトでは、諺芥集の
内容にそれほど疑問を持たれていないようです。
まず、諺芥集が書かれた時期をある程度特定してみましょう。この本は黄表紙という分類の本で、作者が鹿都部真顔と
なると1776~1829年の間だと推測できます。
黄表紙の最初の代表作と言われるのが、恋川春町 (1744~1789) の「金々先生栄花夢きんきんせんえいがのゆめ」で1775
(安永4)の刊。鹿都部真顔 (1753~1829)は恋川春町の弟子なので、諺芥集は早くても1776年以降になるはずです。
諺芥集に出てくる1つ目の○の部分の「京都所司代 板倉勝重」の逸話。板倉勝重は江戸時代初めの人です。
Wiki 板倉勝重 によれば、史料が多く残っており、名奉行として知られたようです。
【板倉勝重】いたくら‐かつしげ(三河生れ、1545~1624)
江戸初期の譜代大名。伊賀守。徳川家康に仕え、駿府および江戸町奉行。1601年(慶長6)京都所司代。
勝重の長子である重宗 (1586~1656) は京都所司代となり、在職35年の間に民政に力を注ぎました。親子で有名。
次に書かれている2つ目の○の部分が「大坂奉行 曲淵景漸の大坂の浅黄巾着」の逸話。
Wiki 曲淵景漸 によると
曲淵景漸まがりぶち-かげつぐ(旗本、1725~1800)は、41才の時の1765 (明和2) 年に大坂西奉行に抜擢され、1769 (明和6)
年に江戸北町奉行に就任。約18年に渡って江戸の町奉行を務めた。名奉行として庶民の人気が高かったそうです。
大坂の町奉行だったのは4年間という事になります。
③のサイトには、江戸の巾着切の服装が書かれてありますが、「浅黄頭巾」は出てきませんので、大坂の話である可能性は
高いと思われます。
しかし、諺芥集が、洒落や風刺を織り交ぜた読物である黄表紙として書かれている事と、江戸時代初期の人物の次に
書かれてある事、著者が江戸在住であり大坂の様子を実際に見て書いたものではない事などから、創作を交えて書いた
事も否定できないとも思われます。
巾着切の頭巾は目立つので、江戸に聞こえるほどの話であれば、確実に大坂でも話題になっていたでしょう。
この時代、多くの出版がなされていた大坂において「浅黄頭巾」の事が書かれた文献があっても良いはずなのですが…。
現時点では、そういった記述がある文献をネットでは見つけられませんでした。
テレビ大阪 和風総本家 『開局35周年特別企画 世界のニッポン先生 』 17.03.09 放送
【黄表紙】き‐びょうし 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸
江戸時代の草双紙の一種。赤本・黒本・青本に次いで安永(1772~1781)頃から文化
(1804~1818)初年にわたって行われた黄色表紙のもの。
粗悪な半紙半截はんせつの二つ折の紙5丁を1巻とし、多くは2巻から3巻を1部とする。
表紙の題簽だいせんも、絵に工夫をこらしたものが多い。
内容は洒落と諷刺を織り交ぜたもので、従来の子ども向けの草双紙から大人向きの
読物となった。恋川春町の「金々先生栄花夢」が先駆で、作者としては朋誠堂喜三二・
山東京伝らが有名。
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色々と推測できますが、「大坂にスリは浅黄色の頭巾を被った」「大阪神戸がスリの本拠地」といった記述が
あるのは江戸・東京であって、大阪で書かれた文献の記述を発見するまで、事実かどうかは不明とします。
なぜなら江戸っ子というのは、推測や思い込みで物や他所を決めつけて批評・批判したり、大げさに言う体質がある
からです。
ノーベル賞受賞者20名を輩出した超名門 米国のウィスコンシン大学のアダム・カーン教授 (53歳) は、
高校時代に埼玉に2年留学、京都大学大学院留学中に崩し字の読み方を学び、漫画や黄表紙に興味を持ちました。
ハーバード大学院を卒業、講談社でインターンとして翻訳にも携わり、現在も年に3回来日し古書店で江戸時代の
文学や草双紙などを購入。個人で2000冊の日本文化に関する書を所蔵、漫画も2500冊以上読み、それらを大学で
授業しています。
日本人以上に日本文化に精通しているカーン教授は、「黄表紙は近代漫画の原点」になったと考えています。
黄表紙と言うのは、創作が多く入った漫画的読み物で、信憑性が非常に低い内容なので史実とするのは間違い
という事です。1冊10ページ程度、かけそば1杯分という安価な大衆娯楽本だったのです。
つまり、氏家幹人氏は、史実 (一級史料) と創作 (三級史料) との区別がない歴史観を流布する残念な人だという事です。
江戸名物は「悪口」、江戸ッ子は日本一他所や他人の悪口を言う気質だった
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大津絵 |
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毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびだせ! えほん 「滋賀県大津市」』 13.11.21 放送 / Wiki 大津絵 / Wiki 岩絵具
東海道、逢坂関の西側に位置する近江国追分(髭茶屋追分)を発祥の地とする。寛永年間(1624- 1644年)の頃に
仏画として描かれ始めた。当初は信仰の一環として描かれたものであったが、やがて世俗画へと転じ、
加えて18世紀ごろより教訓的・風刺的な道歌を伴うようになった。
江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となった。文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる
代表的画題が確定し、一方で護符としての効能も唱えられるようになった(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は
子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。画題は増え続け、幕末には最盛期を迎えたが、画題の簡略化に伴って
減少し、現在では百余種とされる。
僧の恰好をした鬼が描かれているのが特徴的で、これは「偽善者」を現す風刺画。岩絵の具より粒子が細かい
泥絵の具を使用。安く大量に描く必要があったため、当時高価だった青色の絵の具は使用しなかったそうです。
現在でも1枚ずつ手描き。
【大津絵】
① 近世初期より近江国大津の追分・三井寺辺で売り出された民衆絵画。庶民の礼拝用の略体の仏画から
始まり、元禄の頃から諷刺をまじえた明快な戯画風のものが登場し、道中土産として世に迎えられた。
代表的な画題は鬼の念仏・槍持奴・藤娘・瓢箪鯰ひょうたんなまず ・座頭と犬など。追分絵。
② 歌舞伎舞踊。長唄の「藤娘」、清元の「奴」、両者かけあいの「座頭」などが現存。
河竹黙阿弥 作の「大津絵」は襖ふすまの絵が抜け出して踊る趣向。
【大津絵節】おおつえ‐ぶし
江戸末期の流行唄はやりうた。弘化・嘉永(1845~1855年)の頃から全国的に流行。
大津絵の画題をよみ並べた歌詞から起こった。
【大津脚絆】おおつ‐きゃはん
白木綿・浅葱あさぎ木綿・雲斎木綿の脚絆で、飛脚または宰領などの用いたもの。近江国大津から製出。
【大津馬】おおつ‐うま ・・・ 近江国大津の宿駅から、上り下りの東海道に人や荷を乗せた馬。
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時代を先取りした江戸時代の上方絵師 書きかけ |
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NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『"のたりのたり"といきましょう 与謝蕪村 俳句と絵画を極める』 14.07.30 放送
テレビ大阪 奇跡の江戸絵師 ~筆一本で未来に挑む~ 15.03.28 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「百人一首の旅17 壬生忠見 守口市~大阪・天満橋へ」』 15.08.13 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『南光さんと美術館にいこう! 「同時代を生きた天才 若冲と蕪村展 (滋賀 ミホ・ミュージアム)」』 15.08.13 放送
朝日放送 おはよう朝日です 『生誕300年 若冲の京都 KYOTOの若冲 展 ~11/13』 16.10.22 放送
≪ 1716年生まれの同い年 京で近所に住んでいた 蕪村と若冲 ≫ Wiki 伊藤若冲 Wiki 与謝蕪村
同時代、京都で1㎞と離れていない所に住んでいた蕪村と若冲。共通の友人も多く、同じ人から作画の依頼も受け
ていますが、若冲 (京都・錦市場生まれ) と蕪村が直接的な交流があったとする記録が一切見つかっていないそう
です。
【与謝蕪村】よさ‐ぶそん(摂津の人、1716~1783) 本姓は谷口、のちに改姓。別号、宰鳥・夜半亭・謝寅・春星など。
江戸中期の俳人・画家。幼時から絵画に長じ、文人画で大成するかたわら、早野巴人はじんに俳諧を学び、正風
しょうふうの中興を唱え、感性的・浪漫的俳風を生み出し、芭蕉と並称される。著「新花つみ」「たまも集」など。
【伊藤若冲】いとう-じゃくちゅう (京都の人、1716~1800) 名は汝鈞じょきん。斗米庵とも号。
江戸時代中期の画家。初め狩野派を学び、のち宋・元・明の古画を模し、光琳風を研究、動植物画に写生的な
装飾画体を創案。特に鶏の絵に優れる。
上 蕪村の山水図屏風1782年、下 若冲の像と鯨図屏風1797年
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円山応挙
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≪ 3D絵師 円山応挙 ≫ Wiki 円山応挙
『幽霊は足が無い』とされたのは、応挙が描いた幽霊図からとされています。
【円山応挙】まるやま-おうきょ (丹波の人、1733~1795) 通称、主水もんど
江戸中期の画家。円山派の祖。狩野派の石田幽汀 (明石生まれ、1721~1786)に学ぶ。
外来の写実画法の影響を受け、精細な自然観察に基づきつつ、装飾性を合わせ持つ新たな様式を確立。平明で
情趣的な画風は、新興町人層に支持を受け、のちに京都画壇に大きな影響を与えた。 作 「藤図屏風」「雪松図
屏風」など。
【池大雅】いけ‐たいが、いけのたいが(京都の人、1723~1776) 名は無名ありな。九霞山樵・霞樵・大雅堂などと号。
江戸中期の文人画家。日本文人画の大成者。明清代の文人画を柳沢淇園に学び、祇園南海にも感化された。
やまと絵や西洋画の表現をも取り入れ、のびやかな描線と明快な色彩による奥深い空間表現を確立。書にも
すぐれた。作「十便帖」「楼閣山水図屏風」など。妻、玉瀾ぎょくらんも画家。
【文人画】ぶんじん‐が
本来、文人が余技として描いた絵。中国では古くから技巧性よりもその気韻・風雅を尊んだ。明末、董其昌
とうきしょうらがそれらのうち山水画を一つの系譜にまとめて南宗画なんしゅうがを標榜してからは、文人画は南宗画
(中国山水画二大流派の一つ )とほぼ同義になり、日本では江戸時代に入って職業画家たちによって独特の
発達を遂げた。
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鳥羽絵 マンガ絵 |
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NHK Eテレ 日曜美術館 『風景の叙情詩人 広重の“東海道五十三次”』 16.06.05 放送
関西大学 『耳鳥齋の版本挿絵における作風展開』 http://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/48/kiyo4801.pdf
↑大坂で活躍した絵師などの名前が多数書かれてあります。
≪大阪・上方で流行し、北斎・広重も取り入れた鳥羽絵の技法 ≫
大阪府立中之島図書館 『江戸のまんが「鳥羽絵(とばえ)」と「耳鳥斎(じちょうさい)」』
https://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/38_tobae.html
『鳥羽絵は江戸時代中期に大坂で流行った滑稽な絵である。手足が異様に細長く、
目は黒丸か「一」文字に簡略化され鼻も低く大きな口を持ち、誇張と動きがある。
この誇張と動 きは、現代の漫画にも通じるものがあり鳥羽絵はその後、北尾政美の
『略画式』や葛飾北斎 の『北斎漫画』などを経てG.ビゴ-の時局風刺雑誌『トバエ』
やポンチ絵へと続いて行 く。
「トバエ」という言葉が「漫画」を意味する言葉として大正期まで使われていたこと
からもその影響力の大きさが窺える。
鳥羽絵は版本の形で大坂から瞬く間に全国に広がっていった。描かれるテ-マが
主として庶民の生活に向けられていたため、庶民は受け入れやすく軽妙で面白おか
しい描写に笑い転げたのではないだろうか。世界に類を見ないといわれる「マンガ」
文化を持つ日本だが、案外こんな頃から培われて来たのではないかと思える。』
【耳鳥斎】にちょうさい (大坂の人、?-1802/03) コトバンク より
江戸時代中期-後期の画家。
はじめ酒造業,のち骨董(こっとう)商をいとなむ。覚猷(かくゆう)風の戯画を得意とし,
扇絵,絵本で好評を博した。
享和2/3年死去。通称は松屋平三郎。作品に「絵本水や空」「画話耳鳥斎」など。
Wiki 耳鳥斎 より抜粋
大坂の浮世絵師・戯画作者の耳鳥斎にちようさい (1751以前?~1803年頃) が安永~
天明期を最盛期として活躍した。
耳鳥斎の絵は、とりわけ大正期から第二次世界大戦にかけて人気が高く、画風が
一見稚拙で素人風にも見える事からか、贋作が数多い。
【鳥羽絵】とば‐え Wiki 鳥羽絵
(平安後期の画僧、鳥羽僧正覚猷が戯画に長じていたと伝えられるのでいう)
江戸時代に流行した滑稽な戯画。
多く略筆で軽妙なもの。人物の手足を長く誇張して描く特徴を持つ。
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1780年刊 繪本水也空
1805年刊 畫本古鳥圖賀比
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【覚猷】かくゆう(1053~1140) 源隆国の子。 Wiki 覚猷
平安後期の天台座主・画僧。四天王寺別当・園城寺長吏などを歴任し、鳥羽上皇の厚遇を得て鳥羽離宮内の
証金剛院に住み、鳥羽僧正と称された。
仏教図像の研究をし、醍醐寺蔵「不動明王立像」などの本格的仏画のほか、諷刺的な戯画にも巧みであったと
伝えられ、「鳥獣戯画」の作者の一人に擬せられる。
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錦絵・浮世絵 江戸発祥 Wiki 浮世絵 |
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【浮世絵】うきよ‐え
① 江戸時代に発達した民衆的な風俗画の一様式。肉筆画も行われたが、特に版画において独自の美をひらいた。
桃山時代から江戸初期に流行した肉筆の風俗画・美人画を母胎とし、17世紀後半(延宝~元禄)の菱川師宣によって
版本挿絵として様式の基礎がつくられ、さらに1765年(明和2)には鈴木春信により多色刷版画(錦絵)が創始されて、
黄金期を迎えた。その主題は遊里や芝居の情景、美女・役者・力士などの似顔絵を中心とし、歴史画や風景・花鳥に
及ぶ。作家としては、ほかに、鳥居清信・西川祐信・鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重などが
名高く、19世紀後半からヨーロッパの美術へも影響を及ぼした。
② 春画しゅんが。
【菱川師宣】ひしかわ‐もろのぶ(安房の人、~1694)
江戸前期の浮世絵師。俗称、吉兵衛。友竹と号した。浮世絵の元祖とされる。
寛文(1661~1673)年間江戸に出て、肉筆画や版画、特に版本の挿絵を次々に制作し、浮世絵の新領域を開拓した。
作は絵本「美人絵尽」、版画「吉原の躰」、肉筆画「見返り美人図」「北楼及び演劇図巻」など。
【錦絵】にしき‐え
1765年(明和2)に鈴木春信らによって創始された華麗な多色刷浮世絵版画。
以後、浮世絵版画の代表的名称となり、春信はじめ鳥居清長・喜多川歌麿・歌川豊国・
葛飾北斎・歌川広重らすぐれた作者と彫師・摺師との協力のもとに主題と技法の幅をひろげ、
広く世に迎えられた。江戸絵。吾妻錦絵。東あずま錦絵。
樋口一葉、たけくらべ「いつか話した―を見せるからお寄りな、いろいろのが有るから」
【鈴木春信】すずき‐はるのぶ(江戸の人、1725~1770)
江戸中期の浮世絵師。絵暦えごよみの制作を契機に多色刷木版画の技術を開発、錦絵を完成。
見立ての趣向をきかせた抒情的な美人画に独自の境地を開く。
【絵暦】え‐ごよみ
① 絵のある暦。絵入暦ともいい、歳徳神としとくじん・太歳神たいさいじん・大将軍たいしょうぐん
以下の暦神の図や干支・星辰の吉凶を記したもの。
② 絵で意味をあらわした暦。
文字を解さないでもわかるように、絵で農事などの暦日を示したもの。
【南部暦】なんぶ‐ごよみ 判じ絵
もと南部 (南部氏の旧領地の通称。青森・岩手・秋田3県にまたがる。特に、盛岡をいう) などで
作った、文字が読めなくてもわかるように、すべて絵で月日・農事の季候をかいた一枚暦。
例えば正月には注連縄しめなわ、5月には早苗取をかいたが、絵で音を表しただけの謎解き
めいた表現もある。絵暦。南部絵暦。盲暦。
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絵暦
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平賀源内 |
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NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『 「平賀源内」』 前編 14.03.04 / 後編 14.03.11 放送
NHK Eテレ 高校講座 日本史 『近世の学問と文化』 14.10.10 放送
NHK Eテレ 歴史にドキリ 『歌川広重 ~江戸時代の町人文化・浮世絵~』 14.10.15 放送 NHK Eテレ 日曜美術館 『風景の叙情詩人 広重の“東海道五十三次”』 16.06.05 放送
朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『教科書には描かれない"その後"の日本史に迫る!』 16.10.20 放送
【平賀源内】ひらが‐げんない(讃岐高松の人、1728~1779) Wiki 平賀源内
名は国倫くにとも。鳩渓・福内鬼外・風来山人などと号。 江戸中期の博物学者・戯作者。
蘭学・物産学・本草学を研究、初めて火浣布かかんぷを織り、寒暖計を模製し、鉱山を開発、またエレキテル(摩擦
起電機)を自製。のち戯作に没頭。浄瑠璃「神霊矢口渡」、談義本「風流志道軒伝」「放屁論」は有名。
乱心して人を殺傷、獄中に没。ほかに著「物類品騭ひんしつ」。
平賀源内は歩数計・竹とんぼなども発明、キャッチコピーやCMソング・土用の丑の日などを考えたアートディレクター
のような事もしていました。また、日本初のオナラを研究した専門書「放屁論」も出版。
晩年、ある屋敷の建設を依頼され予算の半額ほどで建てられる設計図を書きあげます。
知り合いの町人と盛り上がり酒盛りをして2人は熟睡。目を覚ますと大切な設計図が見当たりませんでした。
源内は町人が盗んだと思い込み、勢い余って刀で殺傷。町人を殺してしまった事で切腹自害をしようとしますが、
あまりの部屋の散らかり様では見っともないと掃除をはじめました。すると、設計図を発見。
勘違いで殺人を犯してしまった事に気づきます。
≪ 錦絵を更に多色刷りにできるアイデアを考案 ≫
【紅絵】べに‐え
浮世絵版画の初期的技法の一種。墨摺の上に紅を主としてていねいな筆彩を加えたもの。享保(1716~1736)
前後に行われた。漆絵うるしえを含めていうこともある。紅摺絵べにずりえのこと。
【紅摺絵】べにずり‐え
浮世絵版画の技法の一種。紅と緑を主とする色数の少ないもの。延享元年(1744)から明和(1764~1772)初年
にかけて流行し、奥村政信・石川豊信などが秀作を遺した。紅絵べにえとも呼んだが、今は区別する。
【紅絵売】べにえ‐うり
江戸中期、寛保から明和にかけて、江戸で美人・役者・武者などの紅絵(紅摺絵)を細竹にかけ並べて売り歩いた
行商人。
版画である浮世絵は、一点物の肉筆画とは違い消耗品扱い。
ポスターやポストカードのような物なので、多くの人に買われました。
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出版プロデューサー 蔦屋重三郎 と 作家たち |
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NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『ヒット作の生み出し方 「蔦屋重三郎」』 14.05.27 放送
テレビ朝日 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『痛快 ! 江戸は笑いとHの天国・知識人編』 14.06.15 放送
NHK Eテレ 高校講座 日本史 『近世の学問と文化』 14.10.10 放送
≪ 蔦屋重三郎 ≫
【蔦屋重三郎】つたや‐じゅうざぶろう(江戸生まれ、1750~1797)本名、喜多川柯理。号、耕書堂など。
蔦屋の主人。蜀山人(大田南畝)・山東京伝ら江戸の狂歌師・戯作者と親しく、喜多川歌麿・十返舎一九・曲亭
馬琴らも一時その家に寄寓。通称、蔦重つたじゅうまたは蔦十。自らも狂歌・戯文を作り、狂名は蔦唐丸つたのからまる。
≪ 揉め事は「ちんちんの大きさで勝負しろ」と言って解決した太田南畝 (四方赤良) ≫
上野で花見をした時、仲間2人が歌の事で揉めており、南畝の提案で解決した話。これを聞いた江戸庶民は
「これは名裁き」と評しました。江戸後期(寛政の改革の後)の江戸町の様子が窺える逸話。
封建社会にあっても、エロ話やバカげた話がもてはやされる気風が存在していました。
【大田南畝】おおた‐なんぽ(1749~1823)別号、蜀山人・四方赤良よものあから・寝惚ねぼけ先生。
江戸後期の狂歌師・戯作者。幕臣。名は覃たん。学は和漢雅俗にわたり、性は洒落・飄逸、
世事を達観して時勢を諷刺、天明調の基礎をなした代表的狂歌師。
狂詩文にもすぐれ、山手馬鹿人の名で洒落本も書いた。
著「万載狂歌集」「徳和歌後万載集」「鯛の味噌津」「道中粋語録」「一話一言」など。
随筆「半日閑話」は世相巷談を写した「街談録」を含む。別人の文章も混入。
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『半日閑話』
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【浮世絵類考】うきよえるいこう
浮世絵師の伝記を集めた書。大田南畝原撰。寛政初年成立。写本。
笹屋邦教・山東京伝・式亭三馬・渓斎英泉・斎藤月岑げっしんらが補記・追考を加える。浮世絵研究の基本的文献。
【鳥居清長】とりい‐きよなが(江戸の人、1752~1815)俗称、白子屋市兵衛。
江戸後期の浮世絵師。鳥居清満の門に学び、初めは鳥居風の役者絵を描いたが、次第に美人画に移り、大判の
いわゆる清長風の美人画を完成。流麗な描線と明快な色調で天明の浮世絵界を風靡。
【十返舎一九】じっぺんしゃ‐いっく(駿府生れ、1765~1831)本名、重田貞一さだかず。
江戸後期の戯作者。大坂に行き、近松余七と号して浄瑠璃作者となり、1793年(寛政5)江戸に出て戯作に従事し、
滑稽本を得意とした。作「東海道中膝栗毛」「江之島土産」など。
【曲亭馬琴】きょくてい‐ばきん 滝沢馬琴 (江戸深川の生れ、1767~1848)本名、滝沢興邦、のち解とく。 曲亭馬琴
別号は蓑笠さりつ漁隠・著作堂主人など。
江戸後期の戯作者。山東京伝に師事し、1791年(寛政3)黄表紙「尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん」を
発表。以後、勧善懲悪を標榜、雅俗折衷の文をもって合巻ごうかん・読本よみほん を続々発表。
代表作「椿説ちんせつ弓張月」「俊寛僧都島物語」「南総里見八犬伝」「近世説美少年録」など。
【東洲斎写楽】とうしゅうさい‐しゃらく (閲歴・生没年など未詳)
江戸後期の浮世絵師。
徳島藩主 蜂須賀侯のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛と
伝えるが不明。
1794~95年(寛政6~7)の10カ月間に140種ほどの
役者絵と相撲絵を集中的に残すだけで、その後の消息を
絶つ。似顔表現を利かした強烈な個性描写が特色。
【葛飾北斎】かつしか‐ほくさい (江戸本所生まれ、
1760~1849)江戸後期の浮世絵師。
もと川村氏、のち一時 中島氏。葛飾派の祖。
初め勝川春章の門に入り、春朗と号し、のち宗理・画狂人・
戴斗・為一いいち・卍など、画風と共にしばしばその号を
変えた。
洋画を含むさまざまな画法を学び、すぐれた描写力と大胆な
構成を特色とする独特の様式を確立。
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版画では風景画や花鳥画、肉筆画では美人画や武者絵に傑作が多く、「北斎漫画」などの絵手本や小説本の
挿絵にも意欲を示した。代表作「富嶽三十六景」。
米国のLIFE誌で、『この1000年で最も重要な功績を残した世界の100人』に選ばれた唯一の日本人が北斎。 葛飾応為
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美人画の浮世絵師 喜多川歌麿 山東京伝 葛飾応為 |
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NHK大阪 歴史ヒストリア 『花魁 の真実 ~江戸・吉原遊郭の光と影~』 13.01.23 放送
NHK大阪 歴史ヒストリア 『大発見! 歌麿の最高傑作 ~巨大美人画に秘められた真実~』 14.03.06 放送
NHK Eテレ 高校講座 日本史 『近世の学問と文化』 14.10.10 放送
テレビ東京 美の巨人たち 『喜多川歌麿の深川の雪』 16.01.16 放送
≪ 美人画の浮世絵師 喜多川歌麿 ≫
【喜多川歌麿】きたがわ‐うたまろ(1753~1806)本姓、北川。
江戸中・後期の浮世絵師。喜多川派の祖。鳥山石燕に学び、初め豊章とよあきと
称した。美人画の分野で大首絵おおくびえの様式を創案、浮世絵の黄金期をつくった。
「画本虫撰えほんむしえらみ」など狂歌絵本も制作。
当初はうだつの上がらない町絵師だった歌麿が飛躍するようになったのは、吉原に出入り
するようになった事がきっかけ。
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吉原で遊女と遊んでいたわけではなく、当時 吉原で催されていた「狂歌会」というのに参加する為でした。
狂歌会は武士や商人・町民・遊女など身分の立場を気にすることなく、それぞれが可笑しな恰好で滑稽な短歌を
詠み合う会でした。
当時、多様な身分の人たちが一堂に会することは吉原の狂歌会しかなかったので、ブームになっていたそうです。
歌麿は、この狂歌会の文化を伝えるため、狂歌とその題材を絵にしてまとめた豪華本の「狂歌絵本」を製作。
歌麿が描いた「画本虫撰」は後に「世界一美しい絵本」と称えられました。
歌麿の肉筆画 巨大美人画3部作 「雪月花」は、栃木の豪商 善野喜兵衛の招きにより、栃木市で描いたもの。
品川の月 1788(天明8)年頃 147×319㎝ |
吉原の花 1791~92(寛政3~4)年頃 187×257㎝ |
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最晩年の作で集大成とも言える深川の雪には、以前描いた美人がと同じポーズの女性が何人か描かれています。
また、この作品には雲がかかっており、柱と床の接合部は全て女性や椀が乗った盆で隠されおり、「夢の世界」を
描きたかったのではないか? という見方もあるようです。
江戸で流行った笹色紅とは? 深川の雪に描かれた全ての女性の下唇は緑色に描かれている。
深川の雪 1802~1806(享和2~文化3)年頃 199×341㎝
しかし、松平定信が寛政の改革を行い、贅沢に傾いた人たちを弾圧し、身分秩序を再び強固なものにしようと
しました。狂歌ブームは一気に下火になり、吉原も寂れていきました。
【狂歌】きょう‐か
諧謔・滑稽を詠んだ卑俗な短歌。万葉集の戯笑ぎしょう歌、古今集の誹諧歌の系統をうけつぐもので、鎌倉・
室町時代にも行われ、特に江戸初期および中期の天明頃に流行した。えびすうた。ざれごとうた。ひなぶり。
へなぶり。
【夷歌】えびす‐うた (「夷振ひなぶり」の「夷」の誤読に基づく語) 鄙振・夷振・夷曲ひなぶり。
① 奈良・平安時代 未開の民の歌。みやびな歌に対して、田舎くさい歌。洗練されていない歌。
② 江戸時代 狂歌の異称。
【狂歌の摺物】きょうか‐の‐すりもの
狂歌を知人に分かつために刷った木版の色紙形一枚絵。明和(1764~1772)から文化(1804~1818)頃に
かけて行われた。
【寛政の改革】かんせい‐の‐かいかく 江戸幕府三大改革の一つ。
松平定信が1787年(天明7)から93年(寛政5)までに行なった幕政の改革。
倹約令・棄捐きえん令・七分金積立・人返し・人足寄場・異学の禁等の諸政策で、
田沼時代に深まった幕藩体制の危機を乗り切ろうとしたもの。
【松平定信】まつだいら‐さだのぶ(1758~1829) 三卿の田安宗武の子。
江戸後期の幕府老中。奥州白河の藩主。老中の職につき寛政の改革を断行。
また、和歌・絵画に長じ、「花月草紙」「宇下人言うかのひとごと」「集古十種」などの
編著がある。隠居して楽翁と号す。
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歌麿は寛政の改革に抗うように、美人画を次々と描くようになり、大評判を得ることになりました。
特に吉原の花魁たちを題材にした「当時全盛美人揃」シリーズでは、女性の膝上に焦点をあて女性のしぐさの
美しさを強調した画期的な作風です。
また「青楼十二時 続」シリーズでは、遊女の一日を二時間ごとに描き、生身の遊女の美しさも表現。
歌麿の浮世絵に描かれた「当時三美人」は 冨本豊ひな、難波屋きた、高しまひさ。
描かれた町娘たちは人気となり、高慢な態度になっていったそうです。寛政5年、町娘の名前禁止令。
寛政8年、判じ絵禁止令。 江戸女性の気質についての文献記述
【判じ絵】はんじ‐え … 文字・人・物などを他のものにまぎらしてかきこみ、それを探させる趣向の絵。
≪ 「江戸っ子の中の江戸っ子」 として知られる浮世絵師 山東京伝 ≫
深川の質屋に生まれた山東京伝は、浮世絵師として活躍しながら煙草屋も経営していました。2度の結婚をしまし
たが、いずれも身請けした普通の遊女クラス。京伝も寛政の改革で手鎖50日の刑を受けています。
京伝が後輩の曲亭馬琴に遊女について語った言葉が、曲亭馬琴の「伊波伝毛乃記」に残されているそうです。
「遊女にも賢あり才あり かつ人の妻となりて貞実なるもの多し おおよそ身を花街に売るものは 或いは親の為にし
或いは兄弟の為にせざるは稀なり これ孝悌にして 身を万客に任するもの あに憐まざらんや」 曲亭馬琴
遊女にも賢く才能のある。妻になれば貞淑な者も多い。身を売るのも両親や兄弟の為というのは珍しくない。
多くの客に身を任せるのも家族の為である。そんな姿をどうして憐あわれだと思わずにいられようか。
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【山東京伝】 さんとう‐きょうでん(1761~1816)
江戸後期の戯作者・浮世絵師。本名、岩瀬醒さむる。
俗称、京屋伝蔵。 戯作者・小説家の山東京山の兄。
住居が江戸城紅葉山の東方に当たるので山東庵、
また、京橋に近いので京伝と号した。
初め北尾重政に浮世絵を学び北尾政演まさのぶと号、
のち作家となる。
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作は黄表紙「御存商売物ごぞんじのしょうばいもの」「江戸生艶気樺焼えど-うまれうわきのかばやき」「心学早染草」、
読本「桜姫全伝曙草紙」「昔話むかしがたり稲妻表紙」、洒落本「通言総籬つうげんそうまがき」など。
※ 東京の日本橋人形町は、江戸時代は「堺町」。日本各地にある堺町や栄町は、大阪の堺商人が活躍した町の名前だそうです。
【北尾重政】きたお‐しげまさ (江戸の人、1739~1820)
江戸後期の浮世絵師。北尾派の祖。号は紅翠斎・花藍など。
錦絵や肉筆画で美人画を能くし、京伝・馬琴などの戯作に挿絵を描いた。(1739~1820)
【山東京山】さんとう‐きょうざん(1769~1858)
江戸後期の戯作者。本名、岩瀬百樹。京伝の弟。稗史はいし小説の著述を業とし、考証随筆なども試みた。
作「復讐かたきうち妹背山物語」「教草女房形気」、著「歴世女装考」など。
江戸の天ぷら 「天ぷら」と名付けたのは山東京伝? 江戸の天ぷらは大坂人が始めた?
毎日放送 ちちんぷいぷい 『南光さんと美術館にいこう! 「ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎 (神戸市立博物館)」』 14.06.05 放送
テレビ東京 美の巨人たち 『葛飾応為 「夜桜美人図」』 16.04.23 放送
≪ 葛飾北斎の三女 葛飾応為 ≫ 夜桜美人図 →
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南沢等明という絵馬の絵師に嫁いぎ離縁されました。それ以外の応為の生涯については、ほとんどわかって
いません。北斎にずっと「オーイ! オーイ!」と呼ばれていたので、『お栄えい』ではなく画家としての名前は『応為
おうい』になったそうです。
北斎に 「(美人画にかけては) 自分の娘には叶わない」と言わしめたほどの画力。
晩年の北斎の作は、応為が描いたのではないか? という説もあるようです。
北斎仮宅之図
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1844~48年頃 三曲合奏図
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吉原格子先之図
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北斎 と 応為
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吉原格子先之図には、提灯が3つ描かれていますが、左から『栄』・『応』・『為』が一文字ずつ書かれています。
江戸時代末期頃、歌川広重の東海道五十三次にも見られるように、奥行きのある絵が描かれており、西洋画法が
採り入れている事が分かります。
右端画象の左は北斎『二美人』の一部、右は応為『夜桜美人図』の一部。
美術史家の安村敏信さんによると、「北斎は応為ほど光に敏感ではなかった。光と闇を極めたのが応為 (お栄)」。
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三都の気質の違い 江戸ッ子とは? |
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【江戸っ子・江戸っ児】えどっ‐こ
江戸で生まれ江戸で育った者。はじめ日本橋・神田あたりで生まれ育った者にいった。
普通は、金銭に淡白で威勢がいいなどの含みで用いる。東京で生まれた者にもいう。江戸者。
【東絡げ】あずま-からげ
着物の裾をからげて帯にはさむこと。あずまおり。あずまばしょり。謡曲、融とおる「―の潮衣」
慶應義塾大学 田中 克佳 「江戸っ子」の人間像とその実体 http://ci.nii.ac.jp/els/110007409417.pdf (URL略) Wiki 堺
≪ 自称「江戸ッ子」は、本当の「江戸ッ子」にも嫌われていた ≫ 詳しくは上記↑リンク先で。
江戸時代末期の化政 (文化1804~1818、文政1818~1831) 頃、「宵越の金は持たない」などで知られる江戸ッ子
気質が誕生しますが、これらは金も身分も影響力もない地方から移り住んだ者たちが強がりで言った事から。
彼ら自称「江戸ッ子」は誰にも相手にされないので、田舎者が江戸にやってくると、から威張りしたそうです。
元禄時代から3代以上江戸城近くに住み続けているのが本当の江戸ッ子。
他に神田ッ子、芝ッ子などで、江戸時代から区別されていたようです。
江戸ッ子の中の江戸ッ子と言われた山東京伝や、式亭三馬の浮世風呂などの滑稽本には、自称「江戸ッ子」の
悪口がさんざん書かれているそうで、自称「江戸ッ子」たちは滑稽本 (小説) などを読まないから書けたと、
「江戸ッ子」研究の三田村鳶魚は考えていたそうです。
【三田村鳶魚】みたむら-えんぎょ (東京生まれ、1870~1952) 名は玄竜。
江戸の風俗・文学の研究者。「未刊随筆百種」などを編纂。
著書「大奥の女中」「江戸雑話」、輪講記録「膝栗毛輪講」など。
江戸庶民が言った上方への悪口 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸 川柳 発祥は大坂。 川柳から見る江戸での嫁の立場・嫌な女房番付
山東京伝らの本来の江戸っ子も地方への悪口を黄表紙 (洒落と諷刺を織り交ぜたもので、従来の子ども向けの
草双紙から大人向きの読物) と呼ばれる本などに書いています。
江戸時代中期以降、江戸の町が大きくなり江戸っ子たちも自負心が強くなった事。上方への劣等感も同時に持ち
合わせていた。
庶民の主な娯楽は「酒」以外には「川柳を詠む」「番付」「貸本を読む」などお金のかから無いものが多い。
これらで、他人や他所の批評や悪口を言うのが好きだったとも思えます。
【江戸雀】えど‐すずめ … 江戸市中のことを何でも知っていて、よくしゃべる者の称。
≪ 幕末の考証随筆 『皇都午睡』 より≫ 三編
【皇都午睡】こうとごすい、みやこのひるね Wiki 西沢一鳳 コトバンク 『西沢一鳳』
時代考証随筆。西沢一鳳 著 (大坂の書店主)。三編 (上之卷・中之卷・下之卷) 明治16年.10月出版。
主に浄瑠璃や歌舞伎の脚本や文献を収集し、晩年は主に演劇の時代考証を主としました。
京・大坂・江戸の言葉の違いなどにも触れています。
【西沢一鳳軒】にしざわ‐いっぽうけん (大坂の書肆、1801~1852) 西沢一風 (井原西鶴以後の代表的な浄瑠璃作者) の曾孫。
江戸後期の歌舞伎脚本作者・戯作者。別号、狂言綺語堂・李叟など。一風の玄孫。晩年には著述に没頭。
著「伝奇作書」「皇都午睡」など。
皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
郷土読本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109335 のP103~118に皇都午睡「三都の比較」の部分が掲載されています。
『郷土読本』は昭和3年に編集された本なので、下記より現代文に近くて読みやすいです。
≪ 三都の違い ≫
「京都より大坂は人数多く 大坂より江戸は格別に人数多き繁昌なる所もゆえ 諸事人の心の我雑なると騒々敷は
理の当然也と知るべし…」
京都は長袖 (公家や僧侶をあざけて言う語) と職人が多く、男女ともに体は華奢で、作法があって行儀が良く上品で和やか。
大坂は商人が多く、ただ我雑で華やかに陽気な事を好み、任侠 (弱きを助け強気をくじく) の気風もある。
江戸は格段に人が多く繁昌している都市なので、我雑で騒々しいのは当然の事である。土地が広く人も多いので
惰弱な所もある。武家が多く、表向きの立派を好み、気性強気と思えば根もない。打ち解けやすい所もある。
武蔵国の人は活達にして強気。例えば、負けても屈せず再戦し大手柄を立てようとの心意気がある。
原文の「花車=華奢きしゃ」「我雜 (我雑) がざつ …だふん「がさつ」の意味?」
「京と大坂と一夜の船のあるにさへ…三十石の乗合毎度此論を聞く事となり され共 京の者 物静かにそろそろと
大坂をなじる 又大坂は頭に血多く口やかましく大音にて罵るゆえ先 大坂者が勝た様に聞ゆるなり」
略した…の部分には、京都と大坂での物の名称の違いや、物売りの声が違う事などが書かれてあります。
東京の人にかかれば、京も大坂も一つ国のように思っている。三十石船に京と大坂の者が乗りあわせたら、
毎度その事について口論しているのを聞かされる。京の者は物静かに大坂をなじる。大坂の者は頭に血が上り
口やかましく大声で罵る。なので、口論では大坂の者が勝ったように聞こえる。
【三十石船】さんじっこく-ふね
積載能力が米30石相当の和船。特に、江戸時代、荷物と客とをのせて、大坂・伏見の淀川を往来した過書船を指す。
≪ 江戸ッ子の特徴 ≫
「東都に江戸ッ子なしと昔より云…」
両親とも江戸ッ子の子は稀で1割、真の江戸っ子は成長すると江戸に住まない。
片親の他国交りは3割、残りは6割は他国よりの移住者。
江戸生まれではない田舎の子も成長すると「おらぁ江戸ッ子だ、おらぁ江戸ッ子だ」と言うので、何とも答える言葉が
ない。
「江戸は侠気の強き土地にて…」
江戸は侠気が強い土地なので、物を頼まれれば命がけでも世話をする気質の、血の気が多い江戸っ子は昔は
いたが今はいない。
大坂にも昔は「浪花男」と称し、血の気が多い者がいて、薄情な者を京者と言っていたが、それも居なくなった。
江戸は土地も広ければ男気強い。上方野郎の毛ぜえろく と糞おろし悪口を言い江戸っ子の気性を見せる事は、
それなりの銭がいる事だったので、天保以来この悪口は流行らなくなった。
上方衆は物言いが優しいなどと褒めて、何なりと奢らせる算段。中々利口な物となった。
このような事は人知れず、京都へ祝儀を持って習いにいった者がいると思う。
「江都は日本國中の集會の大都會なれば…田舎者始めて…江戸の土地自慢する者…」
江戸は大都会なので、大通り所々に通行人が集まっている。田舎者が初めて訪れて、この人通りを見ると、年に
1度か2度の大法会でもあるのかと尋ねると言うのも最もである。
≪ 江戸言葉 ≫ 江戸言葉 江戸っ子が言った上方への悪口など 「にっぽん」と「にほん」という呼び方は、いつ生まれたのか?
「江戸は日本国の人の寄場にて言葉も関八州の田舎在郷の訛をよせて自然となりし物ゆえ江戸詞と言いて甚だ
少なし其内古風を守り丁寧の詞も有り 大体 京摂の詞を詰て短かく言ならはせし也…」
江戸の言葉は関東の田舎の訛が集まって自然に形成されたものであるので、江戸 (独自) の言葉というのは
非常に少ない。昔のままの丁寧な言葉もある。多くは京と摂津の言葉を短く言ったものである。
三都の者ほど訛るものはなし。
京都が上京と下京で少し言葉が変わっている。
大坂でも五畿内の言葉が集まっているので三郷で大同小異ある。安治川辺りの者は四国九州中国の言葉に
馴れ、上町玉造の者は大和・伊賀・伊勢の言葉が移り、堺の者は紀州・和泉の言葉に通じており、天満の者は
丹波丹後の言葉も混ざっている。
「三都と詞をわけて云時には 江戸詞ハ耳立聞え 京坂とハさまで替りたる詞もなし 是ハ詞の延縮 引か放すといふ
計の違ひなれば也
江戸とても尊き人々にハ 聊も 詞ハ替りたる事なき者也 いはバ 文通書状に書送るに江戸なれバとて訛を入て 書
送る事 有まじ それにて通る所を見れバ 江戸詞とハ 中分より下賤げせんの詞也
然しかとしたる書籍にも記しるさざれども 事をかゝず…」
三都と言葉を分けていう時には、江戸言葉は耳障りに聞こえる。京坂とあまり変わる言葉はない。
これは言葉の発音を伸ばすか短くするかの違いである。
江戸の上流階級の人々の言葉は京坂とはあまり変わりない。言わば、書状などを江戸に送るからと言って訛を
入れて書き送る事はない。それでも通じる事からすれば、江戸言葉とは中流以下の下賤な者が遣う言葉である。
確かな書籍に記されていないが、このような例を挙げるのに困らない…。
「聊=いささか」「然しかと→ 確しかと (文脈から、この字の意味だと思います)」
この中流以下の江戸ッ子たちが「にっぽん」を短く しゃべった事から→「にふぉん」→「にほん」という言葉が
できました。
「江戸にて濱側はまかはを河岸かしと云ふ 川岸かょぎしの畧語勿論なり 大坂にて川岸がんぎとも云ふ 是…
扠 江戸で日本橋にほんばしと走り 大坂にて日本橋にっぽんばしと叮嚀にいふ 江戸ハ短かく詰て云を是とする所
なれバ日本橋通と云を また畧し通とおりと計りにて通用させ通二丁目三丁目と呼來れり 諸事ヶ様に詰ていふ
土地なるゆゑ京攝者かみがたものの愚痴なる詞に根から葉から どふもこふも腹が立てたって忌々敷いまいましうて
怪躰屎けたいくそが惡ふて腸が●にゑくり返つてなる事ちやないなどヽ長たらしく詞をつゞけて いへバ 直に口
真似をして笑ハるヽ事也
十遍舎が膝栗毛にも京談と唱へて むりむたいに長くいはせて京攝者の氣の長きを誹れり 講釋 噺家なども 皆
是を出して笑ひをとれり 誰しも始の内ハ所贔屓ところひいきにて あの様にむりに長く云ずと もの事なりと思ふが
習より馴るとやら後にハ成程 詞の埒早く走る別にて 附合ふとなしに詰て走る也…」
上方に比べて、江戸は言葉を短く詰めて言う。江戸は全てにおいて (自分たちが分かるだけで) 略しすぎている。
上方の者がその事に愚痴をこぼすと、大げさに言葉を長くした口真似をして笑いバカにした態度なので、
腹が立ってしかたがない。
十辺舎一九が東海道中膝栗毛で「京都の話し方」として、無理強いして長い言葉を言わせて、上方人の気長な
性格を貶している。講談や落語家なども皆、この話を持ち出して笑いをとっている。
後の文を要約すると、 続きの原文は 「にっぽん」と「にほん」という呼び方は、いつ生まれたのか? の所で。
江戸は言葉は略しているが、世間一般では通用しない。しかし、言葉を略しているばかりではなく、上方より
丁寧に長く言う言葉もある。
流行語は日々変化して、日本各地で地域でし通用しない言葉もあるが、上方の鶏をかしわと言うようななどの
洒落た言い方は、江戸では決してしない。
猪や鹿肉を上方では山鯨と異名しているが、江戸ではモモンジィ、モモンガァと言う。
江戸では文化が開けてから、牡丹や紅葉などと呼ぶことになった。
「畧語=略語」「扠=さて」「叮嚀ていねい=丁寧」「● (漢字が出力できず) =煮」
「怪躰屎=卦体糞 (卦体は「算木の占いの結果から「縁起が悪い」となり→「いまいましい、腹が立つ」などの意に)
糞は、その意味を強めるために付ける。現在、関西では「けったくそ悪い」に変化していますが、ほとんど使われ
ない言葉になっています」
「十遍舎=十辺舎一九 (駿府生まれ、1765~1831)、大坂で浄瑠璃作家、1793年江戸に行き戯作者となる」
「膝栗毛=東海道中膝栗毛 1802~1809年刊、18冊、江戸~京坂への道中記」
「氣=気」「誹=そしる (悪くいう、けなす)」「講釋こうしゃく=講釈 (明治以降は講談)」「埒=らち」
1911 (明治44) 年の『東京年中行事』上の巻P.241「櫻餅と櫻鍋」 (著者は山口県出身)によると、
「…これと同時に櫻の名に因んだ食物と云へば、季節ものではないが櫻鍋の名が思ひ出させる。
何のことはない馬肉鍋のことで、語源は何處に在るか知らぬが、『咲いた櫻に何故 駒つなぐ』の俗謠ぞくえうから
出たものだとも謂いふ。
成程 馬肉鍋とか馬鍋とか云ふよりは、恐ろしく品がよく聞えて、名を聞いた丈だけでは『何だらう、一つ喰つて
見ようか』と云ふ氣にもならされる。こんなことは矢張 東京でなければ聞かれぬことで有る。」
≪ 江戸の女性は気が強い ≫ 川柳 発祥は大坂。 川柳から見る江戸での嫁の立場 嫌な女房番付
「東都の婦人は京摂かみがたより見れば、遙に威勢強く中分以下の暮しを見るに、京摂に云う…」
庶民の女性は男より気が強かったようです。いわゆる「カカァ天下」で「亭主より女房の方一段上位にて」
「女房に威勢を奪われ亭主は多く譲りがち也」などとあります。
美人だと勿論、ブスだと技をしつけ奉公に出すので小娘のうちから気が強い。
下女などは江戸生まれは珍しいが、近在から来て江戸を見習うので、我が身を省みず自然と大きな事を言うので
憎まれる。というような事も書かれてあります。
世間を知らない女は世界に土地と言えば江戸ばかり。京都も大阪も同じ所。長崎も四国も全て上方者と思っている。
江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった 明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文
江戸時代の化粧 最も化粧したのは大坂、江戸の化粧事情は?
「徳島は四国なのか関西圏なのか」の話。阿波ラジ#11 https://www.youtube.com/watch?v=3Z4F888cHl0
パーソナリティ 「徳島は言葉が岡山でイントネーションは大阪。…もっと徳島らしい事を言うていかんわけですよ
だから関西と間違えられるんですよ。でも何故かね東京の人ってね 「めっちゃ美味しいけんな」って言うてもね
「めっちゃ」のとこだけしか見てないから、アホやら (笑) …「いっちょも おもんないなぁ」と言っているのに
「おもんないなぁ」の方で、「あっ大阪の人だぁ」って 何言うとんの…徳島県民が一番うんざりしとるメンドクサイ事」
明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 P.320~321 「鬼灯賣」より後半部分のみ抜粋
「縁日は素より…此香を嗅ぎ此店を見ると、東京の女は小娘と云はず四十女と謂はず、『一つ頂戴な』と直ぐに
駆け出したくなるのだ。
勿論 上流階級の女には見られぬ事で有るが、一般中流以下の女や下町の女になると、三十女でも五十女でも、
どんな立派な風をして居らうが、電車の中で有うが、公会の席で有らうが甚しきは学校に於てさへ、所嫌わず
年を選ばず、口を歪めたり、釣上げたり、尖らかしたり、への字なりにしたり、ヒヨツトコ面の御面相を平気の
平左で、木戸銭なしに見せびらかして居るのが眼につく。
それで人の聞いて嫌がるものを朝から晩まで絶え間なしに何故キユウキユウやつているかと聞くと『酸漿ほうづきを
鳴らしてると肩が張らなくつて善いと謂いひますよ』と澄ましたもの。
本当に汝あなたも肩が張りませんかと聞き返すと『ゑゝ』と云つたきりで、後は例のキユーキユーで誤魔化す。
彼等は唯 習慣の威力に圧せられて、恥とも何とも思はず 此を鳴らして居るのだけれども、一旦暮れと了しまふと
蛇が来るからと云つて直だだちに これを鳴らす事を止めて了ふと云ふのは面白い。」
≪ 江戸ッ子は京都女性に憧れていた ≫
上記は『羇旅漫録』巻之中 36才の馬琴が上方への旅行した時の道中記 「六十五 京師の評」には
「京の良いもの三つ、女子。加茂川の水。寺社。」とあります。
上方の公家文化に対し、関東は無骨で野蛮な武士文化であり、江戸時代末期になるまで大きな文化の差があった
ので、特に男が多い江戸では京女性に対する憧れが強かったようです。「東男に京女」という言葉も江戸で作られた
ものです。
下記の三田村鳶魚の『江戸さまざま』には元禄の頃にできた言葉のようです。
元禄年間というのは、江戸時代の文化が開花した事で知られていますが、これは上方文化の事です。
大坂を中心とした上方商人が圧倒的な財力で武家を押しのけて力を持っていた時代です。
江戸時代 江戸(政都)と大坂(商都)の違い 江戸と大坂の財力の差 大坂は圧倒的な経済都市
江戸を含め日本各地の都市の文化が花開くのは、上方より100年遅れた文化文政時代以降の事です。
明治なって新政府の東京への投資が進み横浜も急速に発展しますが、明治後期~昭和初期にかけて大阪・神戸が
再び関東より優位に立ちます。この頃も大阪が日本一の経済都市であり、道頓堀が日本の流行発信地でした。
大正11年に大阪見物に訪れた三田村鳶魚の『江戸さまざま』にも書かれてあるので読んで確認してください。
【曲亭馬琴】きょくてい‐ばきん 滝沢馬琴 (江戸深川の生れ、1767~1848)本名、滝沢興邦、のち解とく。
別号は蓑笠さりつ漁隠・著作堂主人など。
江戸後期の戯作者。山東京伝に師事し、1791年(寛政3)黄表紙「尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん」を発表。
以後、勧善懲悪を標榜、雅俗折衷の文をもって合巻ごうかん・読本よみほん を続々発表。
代表作「椿説ちんせつ弓張月」「俊寛僧都島物語」「南総里見八犬伝」「近世説美少年録」など。
滝沢馬琴 1年でお手伝いが7人も辞めるなど、引き籠りの変人だった?
東征伐、熊襲征伐と三韓征伐 古墳時代の大和政権から見た蝦夷人の性質、この時代の蝦夷は関東も含む。
江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
昭和4年刊の『江戸のさまざま』
≪ 江戸ッ子とは ≫
P.431~「江戸ッ子」
「江戸ッ子といへば今日の人たちは大變たいへんに興味を持つて聞くらしい、綺麗さつぱり流れ川で尻を洗つた
真似を真似を持主として、其の風采ふうさいを快く相望するらしいが、一體 (一体) 江戸ッ子といふ言葉は如何なる
人間を指して云ふのか、先づ それよりも何時から何處どこから云ひ出したらうか、我等は、或る時それを頻しきり
に氣にした。
やがて當あたる秋 八幡祭のせりふに『ちつと古いが江戸ッ子だわ』とあるのを見附けた、是は鶴屋南北の書いた
文化七年の脚本だ、…
… 元禄の諸國咄には『都女郎に江戸男』、寶永(宝永)の御入部伽羅女には『江戸男の器量よく聟むこにとつて
の事』とあつて、江戸ッ子とは云はずに江戸男といふ、同じことでも江戸男では何だか不景氣だ、モツト時代の
若い處(所)で探して見やう。
爲永春水の梅暦には大い威張つた處で、『東ッ子だぞ』と書いて居る、あづまッ子と口の中で繰返して思はず
失笑した、惠の花には『繒土ゑどッ子』と書き、又また『繒土氣質勇壯いきみはだなら富者株だんなかぶ』などゝ
出掛けたものゝ、東男と書いてアヅマツコとも讀(読)ませて居る、處女をとめ七種くさの『氣のきいた江戸ッ子、
しかもいやみなしで、梅幸が大工の六三を人品じんぴんでするやうな』は悪くない氣持ちもするが、『かみがた者
でも吾妻ッ子の氣性に合た私』などは何たる事だ、江戸ッ子と吾妻ッ子とチャンポンに取雜(雑)ぜた處は、誠に
以て恐入らせられて了ふ、脚本の方では文化の半に新しがらない言葉を、天保に出版した人情本が使ひこな
せない、確に芝居より二十年近く遅れて居る。…
…中本は文政に鮮やかな江戸ッ子を用ゐたとは云へ、脚本より新しい譯わけではない。
それではと芝居の方を眺める、…見當(当)つたのでは寛政度のものだけで、それより前のがない、暫く寛政
以来としても江戸ッ子は芝居から發(発)生したやう思はれる、それより前に他の何物にも江戸ッ子といふ言葉を
傳つたへたのがない、しかもツラネの中から此の言葉が生れたとすれば、荒事の副産物らしくもある、説明なしに
江戸男や吾妻ッ子では用が辨(弁)じないのも知れやう。 ※用を弁じない=仕事を済ませない。用を足さない。
さて實際(実際)に江戸ッ子と自稱(自称)する人間が現はれたのは。文化の末のことであつて、芝居よりは勿論
遅れて居り、中本と略々時を同じくし、或は些少きせう先立つて居た…疑ひもなく明和安永(1764~1772~1781年)の
江戸に知られた通り者、渠きょのおぞう吉五郎、金看板勘九郎一輩の風尚ふうしょうが影響したからである、
※風尚=その時代の好み
江戸ッ子の空威張り、例の啖火たんか(啖呵)を切るだけなのは、通り者の流俗の末を受けたからに他ならぬ、
同じ男立おとこだての狂言でも寛政(1789~1801年)から際立つた相違を見せる、それが江戸ッ子と切つても
切れない因縁をなした。民衆と接近する密度は芝居ほど緊しいものはあるまい。」
長いので、ザックリ要約すると、
大正時代の人たちは、「江戸ッ子」はさっぱりとした性格で気前が良く潔い姿を想像し期待しながら興味津々に
聞くようだが、江戸ッ子ってどういう人たちなのか? 先ず「江戸ッ子」の出典を探して見よう。
天保3~4(1832~33年)刊の人情本『春色梅暦はるいろうめごよみ』には大々的に「東ッ子だぞ」と書いている。
他の本も「吾妻ッ子」とか書いており、文化(1804~1818年)の中頃には新しいとは言えない言葉であるのに
天保に出版された中本ちゅうほん(人情本の異称)が使いこなせていないので笑った。芝居より20年くらい遅れて
いる。
芝居を調べると寛政(1789~1801年)以前に「江戸ッ子」の言葉が見当たらないが、芝居から派生した言葉の
ようだ。(江戸歌舞伎の)荒事の連つらね(荒事での名乗りなどの長台詞)の中の言葉から生まれた副産物の
ようでもある。人情本と同時期または少し先立って始まったようだ。
明和から安永(1764~1781年)に江戸で人気だった通り者(有名人)吉五郎や勘九郎の好み(気高い様子)が
影響した。
江戸ッ子の空威張りやタンカを切るだけなのは、彼ら役者の仕草が流行し、その流行の末端の影響を受けた
からに他ならない。
男伊達(男立)という任侠の狂言も寛政から大きく変化した。それが江戸ッ子気質に密接に影響している。
芝居ほど民衆と密接な関係にあるものはないだろう。
【東っ子】あずま‐っ‐こ …江戸っ子。江戸の人の自称する語。
【東育ち】あずま‐そだち
江戸で育ったこと。それを誇りにしていう語。梅暦「品やさしきはおのづから―の隅田川」
【春色梅児誉美・春色梅暦】しゅんしょくうめごよみ 【梅暦】うめ‐ごよみ=「春色梅暦しゅんしょくうめごよみ」の略称。
人情本。為永春水作。4編12冊。1832~33年(天保3~4)刊。美男子丹次郎と深川芸者米八との恋愛を描く。
明治まで丹次郎が美男子の代名詞に使われるほど流行。人情本を確立した作品。
時代背景を補足して、更に簡潔に解説書すると、
1770年代頃に活躍した江戸歌舞伎の人気役者の芝居でのカッコイイ振る舞いから始まった。
1800年代に江戸の文化が華開き、自信を持ち始めた江戸在住の田舎者たちは、芝居影響を
強く受けて真似て江戸ッ子を自称し始めた。
但しカッコだけ付けて中身が伴っていないのに、自ら「江戸ッ子はカッコイイ!!」と言いふらした。
その実態とは正反対の自称「カッコイイ」のイメージを、大正時代以降の人達は持っている
のである。
江戸の火事の真実 江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた
「江戸の歴史は大正時代にねじ曲げられた」という本が出版されていますが、江戸人が歴史
改ざんを始めたのは、江戸ッ子の気質から考えて文化文政頃と思ってもいいようです。
他所・他人を嘘を吐いてでも悪く言い、自分の事は非常に良いように言う
この伝統気質が現在の東京人にも受け継がれていると考えて間違いないでしょう。
東京メディアの偏向報道 今や関東発信の情報は疑えというのが常識。嘘、ねつ造、紛らわしい東京発信情報。
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≪ 江戸名物は「悪口」、江戸ッ子は日本一他所や他人の悪口を言う気質だった ≫
P.345~「江戸ッ子の使ふ悪態の解説」
「江戸ッ子の使ふ悪態の解説と云うふと少し大人ぽいやうな名になつて居りますが、本當ほんとうは「糞をくらへ」
と云ふのが、今日の話の題なのであります、江戸ッ子の悪態と言ひますると二ッ三ッ位は少くとも解釋かいしゃくを
せぬと不釣合のやうでありますが、下手な長談議は御迷惑のことでもありますから、氣を利かした積りで一ッに
しました、さうして「糞をくらへ」と云ふ言葉を解かうかと思ふのであります。
悪態といふものは江戸ッ子にくつゝいたもので、悪態を言わない江戸ッ子と云ふものは殆ほとんどありませぬ、
江戸ッ子が悪態か、悪態が江戸ッ子かと云ふ程でありまして、苟いやしくも八さん、熊さんたるものは必ず悪態を
言ったのであります、
江戸ッ子が八百八町の名物であり、日本の名物であるならば、悪態はそれと押並んで江戸の名物であり、昔の
日本の名物でなければなりませぬ、さうして此 江戸ッ子と云ふものは機智きちに富んで居りましたから、悪態の
語彙ごいと云ふものは随分豊富なものでありました、「糞をくらへ」と云ふ言葉は其豊富な中でも最も耳立つた言葉で
ありますから、私は江戸ッ子の使った悪態の標本として此の「糞をくらへ」を選んで、さうして其その語釋ごしゃくをしやう
と思うのであります…」
続きは「糞くらへ」がどのように誕生したのか推理しています。慶長17年、江戸町奉行の米津勘兵衛が、旗本奴
(不良旗本) の頭である山中源左衛門を白状させる為の拷問から起こった言葉ではないか。などと書いてあります。
【悪態・悪対】あく‐たい … わるくち。悪罵。あくたれ口。洒落本、辰巳婦言「きれい尽しのせりふにて―もなく」
【悪態を吐く】あくたいをつく … 悪口を言う。
【糞を食らえ】くそをくらえ
①やけを起こしたり、相手の言動をののしりかえしたりして言う語。糞食らえ。
②くしゃみをした時、魂が飛び出すのをふせぐといって、まじないに唱えた言葉。誹風柳多留[10]「くしやみすりや
―も道具なり」
江戸庶民が言った上方への悪口 江戸時代の出版事情京・大坂・江戸 川柳 発祥は大坂。 川柳から見る江戸での嫁の立場・嫌な女房番付
P.719~「タアケ」
「江戸ッ子の口慣れた悪對(悪対)にタアケといふのがある、此タアケはタハケを訛つたのだ、俚言集覧には、愚按
ぐあん、俗言に馬鹿といふに同じ、戲樂けらく(戯楽)を極むるは卽俗言の馬鹿を盡つくす也、田分又堕馬髺と書かくは
非也。言いふにも足らぬ事也とあるのは、如何にも仰せまでもなく間違だが、江戸ッ子の悪對と引放して、タハケが
田分たわけで、田分で馬鹿阿呆と解せられた事もあつたのを見落とせない…」
続きを踏まえて要約すると、
江戸ッ子がよく言う悪口「タアケ」は「タワケ」が訛ったもので、「バカ」「アホウ」と同じ意味。「タワケ」の語源は「田分
け」ではないが、「田分け」が馬鹿という意味でも通用した事は寛政12年の写本に書かれてある。
【田分け】た‐わけ … 田地を分け与えて分家を出すこと。
【戯ける】たわ・ける 〔自下一〕 たは・く(下二)
①みだらな行いをする。古事記[下]「伊呂妹いろも軽の大郎女に―・けて」
②たわむれる。ふざける。「―・けたことを言うな」
③馬鹿・愚か者になる。〈日葡辞書〉
≪ 滝沢馬琴は京坂旅行記で悪口を書いたので、西沢一鳳に叱られた ≫
P.289「大阪の春」、P297「暮れ行く大阪」、P.322「上方商人」など
大正11年頃に大阪見物に来た三田村鳶魚は、大阪ディスりも加えながら、悔しいけど大阪の凄さを認めざるおえ
ないという趣旨の事を書いてあります。
同書で「悪口を言うのは江戸名物、悪口を言わない江戸ッ子はいない」と書いている鳶魚自身も東京生まれ在住
だけあって悪口を忘れない所が同書の面白いところです。
また、滝沢馬琴が書いた京坂見物の旅行記『羇旅漫録きりょまんろく』での京坂の悪口だと思いますが、
「蜀山人の大阪見物は享和元年で、馬琴は二年であつた。さうして馬琴は西沢一鳳から大いに叱られる種子を
蒔いた、それも其の筈、著作堂一夕話は随分嬉しくないものである。我々も…」 P.291~
蜀山人=大田南畝。 西沢一鳳=皇都午睡の著者。 著作堂=滝沢馬琴のペンネームの一つ。
一夕話=ある晩に語った話→ 羈旅漫録の一説と思われます。
他所を悪く言うのが江戸ッ子の特徴なので、事実とはかけ離れ大げさに京都や大阪の事を悪く書いていたので
しょう。文化・文政以降の江戸ッ子および東京人が他所・他人を評した文献や書籍などの分析は、この事を踏ま
える必要があるでしょう。
例えば「大阪人はケチ」「大阪人は下品」などという事も、テレビやいくつかの本で書かれているのを見たことが
ありますが、これらは客観的根拠を示さず、願望を言葉にして江戸時代末~現在まで東京が流布しているもの。
史実・事実では東京の方がケチで下品であるという一級文献の記述やデータが多数あるのです。
≪ 江戸ッ子は何故 悪口が好きなのか? ≫
江戸とは地方のから集まった人たちが多く、新しい街なので文化も遥に遅れていました。
江戸時代中期以降、上方からの移住者により、様々な物資・文化・システムが持ち込まれ、1800年代になり
江戸流文化が華開いた事から、人口も日本一多いなどで、江戸人である事に自信をつけ始めます。
江戸に定住した地方出身者の多くは貧しくその日暮らし。日本一の大都会に住む事だけが自慢で、心の拠り所。
劣等感が強いので、自分より後に江戸に出てきた地方民をバカにしますが、貧しいのでお金をかけずヤセ我慢
する事を、美徳という価値観に置き換えていきました。
娯楽は酒を飲む事と噂話。番付表が多く売れたのは、自分を評価する立場に置くことで偉くなった様に錯覚できる
から。
上方のように自虐で笑いをとる事はせず、江戸では他所や他人を貶す他虐で笑いをとる文化になっていきます。
江戸や武家では朱子学が推奨されたので、江戸に限らず武家文化の強い影響を受けた地域は、上下関係意識が
強く、見栄を張る文化になっていきました。 (韓国も朱子学が基本の為、上下関係が厳しく見栄を張る文化)
ストレス発散の為に、他所や他人の悪口を言ったり批評好き。自分の間違いは認めず、反論できなくても、捨て
台詞を言わないと気が済まない。そして、都合の悪い事は見なかった知らなかったと言い聞かせ、都合の良い事
だけを集めて願望を事実のように思い込む。
これが、三田村鳶魚たちが言う 自称「江戸ッ子」たちの真実です。
そして、大正時代に歴史改ざんが行われ、現在もそれを持ち出して嘘歴史などを流布しています。
それをやり過ぎて誰にでも分かる嘘を吐いてしまいバレたのが「江戸しぐさ」です。
「林修の今でしょ講座」などTVによく出ている東京大学の本郷和人 教授は拡大解釈で「江戸」や『德川将軍」を
必要以上に持ち上げる傾向が強いので、彼の解説は鵜呑みにしない方がいいでしょう。
朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん
蘭学の適塾 緒方洪庵が設立し、大村益次郎や福沢諭吉らを輩出 江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!
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江東区深川江戸資料館の米澤繁さんによると「物を持たない事を誇りにしていた」そうです。 ← 江戸庶民の強がり。
矢野新一さんは、ケンミンSHOWなど多く番組で県民性を紹介していますが、地元からみてもおかしな解説が多い
ようです。プロフィールは1949年東京生まれ、神奈川県立横浜平沼高校卒、専修大学経営学部 卒。
ネットでは、『エセ研究家』との評判も書き込まれている人物のようです。完全に東京脳の思考をしている人だと
思われます。
例えば、江戸時代の江戸っ子が評した言葉などを解説に用いていたりしますが、その江戸っ子がどういう人達で
あったのか? などの歴史的背景などを全く理解していないようです。
東京と大阪 人間観察モニタリング調査
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歌川派 |
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毎日放送 ちちんぷいぷい 『南光さんと美術館にいこう! 「肉筆浮世絵展 (大阪市立美術館)」』 15.05.14 放送
日本テレビ 平成浮世絵パラダイス 16.06.22 放送
≪ 浮世絵界の人気門下 「歌川派」 ≫
【歌川派】うたがわ‐は
江戸後期の浮世絵の一派。豊春を祖とし、特にその弟子 初世豊国に至って好評を博し、以後 豊広・国貞・国芳・
広重・月岡芳年・豊原国周ら多くの有名絵師を輩出、浮世絵界に君臨した。
【歌川豊春】うたがわ‐とよはる (1735~1814)
浮世絵師。歌川派の始祖。号は一竜斎。狩野派を学び、また、特に西洋の透視画法による浮絵をよくし、
門下に豊国・豊広を出した。
1816 (文化13) 年、初世 歌川豊国が江戸の女性美を描いた24枚の連作『時世粧百姿図じせいそうひゃくしず』の肉筆画。↑
品川の女性たちが手づかみで食べているのはワタリガニ (ガザミ) のようです。
※ 時世粧=流行の装い、当世 (今様) の姿。
【歌川豊広】うたがわ-とよひろ (?~1829) 号は一柳斎。
豊春の門人。美人画を得意とした。門下に広重を出す。
【歌川豊国】うたがわ-とよくに (初世 1769~1825) 号は一陽斎。
役者の舞台姿が得意。多くの弟子を育てて、歌川派の隆盛に貢献。
2世 (1802~1835) 初名、豊重。号は、一龍斎。後素亭、初世の養子。
3世は歌川国貞。
【歌川国貞】うたがわ-くにさだ (1786~1864) 号は一雄斎。五渡亭・香蝶楼。
初世 豊国の高弟、後、師名を継いで2世 豊国と自称したが実は3世、
国貞時代に、「偐紫にせむらさき田舎源氏」の挿絵をはじめ多くの傑作を残した。
【歌川国芳】うたがわ-くによし (1797~1861) 号は一勇斎・朝桜楼。
浮世絵師。初世 歌川豊国の門人。武者絵・風景画・戯画に長じた。
月岡芳年・落合芳幾・河鍋暁斎など門人多数。
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【歌川広重】うたがわ‐ひろしげ。(1797~1858) 本姓、安藤。一遊斎・一幽斎・一立斎と号。
江戸末期の浮世絵師江戸の定火消同心の子。歌川豊広の門人。詩情豊かな風景版画の連作に名をなし、
また花鳥画にも新境地を開いた。作「東海道五十三次」「名所江戸百景」など。
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歌川国貞 と 歌川国芳 |
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NHK 趣味どきっ! 旅したい!おいしい浮世絵 『特別編 歌川国芳と国貞』 16.05.31 放送
日本テレビ 平成浮世絵パラダイス 16.06.22 放送
葛飾北斎・国重・国房・広重などは、江戸時代の後期~幕末頃のほぼ同時期に活躍した江戸を代表する浮世絵師。
それらの作品は、米国のボストン博物館に多く所蔵されています。
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歌川広重 東海道五十三次 |
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NHK Eテレ 歴史にドキリ 『歌川広重 ~江戸時代の町人文化・浮世絵~』 14.10.15 放送
テレビ東京 歴史の道 歩き旅 『渡辺徹が静岡県富士市~静岡市までを歩き旅』 16.05.09~16.05.13 放送
NHK Eテレ 日曜美術館 『風景の叙情詩人 広重の“東海道五十三次”』 16.06.05 放送
【歌川広重】うたがわ‐ひろしげ。(1797~1858) 本姓、安藤。一遊斎・一幽斎・一立斎と号。
江戸末期の浮世絵師江戸の定火消同心の子。歌川豊広の門人。詩情豊かな風景版画の連作に名をなし、
また花鳥画にも新境地を開いた。作「東海道五十三次」「名所江戸百景」など。
歌川広重は36才で『東海道五十三次 (保永堂版)』を初めて描きました。瞬くまに評判となり人気を博したため、
生涯で20種類以上の東海道のシリーズを描いているそうです。
【東海道名所図会】とうかいどうめいしょずえ
京都から江戸に至る東海道の名所・旧跡の図解説明書。秋里籬島編。6巻。1797年(寛政9)刊。
挿絵は主として竹原春泉斎・北尾政美。
【東海道中膝栗毛】とうかいどうちゅうひざくりげ 本称「道中膝栗毛」または「膝栗毛」。
滑稽本。十返舎一九作。初版本は初編から8編までに発端を加えて18冊。1802~09年(享和2~文化6)刊。
発端のみ14年刊。弥次郎兵衛と喜多八が随所に失敗や滑稽を演じつつ東海道・京・大坂を旅する道中記。
のち20年にわたり続編を出す。
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テレビ東京 美の巨人たち 『ロートレック 「ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ」』 13.11.30 放送 NHK Eテレ 歴史にドキリ 『歌川広重 ~江戸時代の町人文化・浮世絵~』 14.10.15 放送
≪ 明治時代 欧州を魅了した花魁と浮世絵 ≫
明治時代、日本人が近代化を進め江戸時代の風俗を忘れかけ
ようとしていた頃、欧州では江戸文化ブームが起こりました。
その中心となっていたのがフランス。
作家で美術評論家のエドモン・ド・ゴンクール(1822~1896)
が「歌麿」という研究書を出版しました。
「青楼の画家 Outamaro」として、「天女を創り出した」と
評しています。
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【青楼】せい‐ろう (昔、中国で青漆を塗ったからいう)
美人のいる楼。揚屋あげや。女郎屋。妓楼。江戸では官許の吉原を私娼街と区別していう場合が多かった。
同時期、画家のゴッホは浮世絵を油絵で「花魁(英泉による)」という題で模写しています。
「西洋では娼婦は卑しいとされているが、日本の花魁は気高い。」とゴッホは感じて
いたそうです。
【フィンセント・ファン・ゴッホ】 Vincent van Gogh (1853~1890)
後期印象派の画家。オランダ生れ。晩年はフランスで活動。激しい色彩と縦長の筆遣いに
よる表現主義的な絵を描く。作「ひまわり」「アルルの寝室」など。
【アンリ・トゥールーズ=ロートレック】 Henri de Toulouse-Lautrec (1864~1901)
フランスの画家。南仏生れの貴族。モンマルトルの盛り場ムーラン‐ルージュに出入りし、
パリの風俗を生き生きと描出。石版によるポスターも作る。
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「日本かぶれ」と言われる
ロートレックの日本コレクション
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判じ絵 16.12.01 |
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読売テレビ ten. 『若一調査隊 「江戸時代の"なぞなぞ" "判じ絵"の魅力に迫る!』 16.09.28 放送
【判じ絵】はんじ‐え … 文字・人・物などを他のものにまぎらしてかきこみ、それを探させる趣向の絵。
判じ絵は平安時代からあったとされていますが、多く描かれ庶民に大流行したのは江戸時代の後半頃のようです。
判じ絵ばかり描かれた物は、当時『絵考え』と呼ばれてました。現在でも読み方が判明していない絵も多数ある
そうです。
江戸の浮世絵に見られるような多色刷りは、上方ではあまり流通せず1色刷りの単純な物が多かったそうです。
文字を読めない人も多くいた江戸時代、地図に絵で地名を示した地図判じ絵は大人気だったそうです。
【奈良団扇】なら-うちわ 禰宜ねぎうちわ
江戸時代、奈良で作られた古雅な楕円形の団扇。もと春日大社の社人しゃにんが作ったもので、判じ物の絵などが
描いてある。
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滝沢馬琴 (曲亭馬琴) |
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テレビ朝日 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『滝沢馬琴の怪しい生活』 14.05.11 放送
NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『ヒット作の生み出し方 「蔦屋重三郎」』 14.05.27 放送
作家業だけで生計を立てた日本初のプロ作家。
【曲亭馬琴】きょくてい‐ばきん (江戸深川の生れ、1767~1848)本名、滝沢興邦、のち解とく。
別号は蓑笠さりつ漁隠・著作堂主人など。
江戸後期の戯作者。山東京伝に師事し、1791年(寛政3)黄表紙「尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん」を発表。
以後、勧善懲悪を標榜、雅俗折衷の文をもって合巻ごうかん・読本よみほん を続々発表。
代表作「椿説ちんせつ弓張月」「俊寛僧都島物語」「南総里見八犬伝」「近世説美少年録」など。
「神の旅に出る」は、10月の神無月(神様が出雲大社に集まる) に事に、自分の旅立ちを重ねたもの。近所の知り
合いの家だったそうですが。
弟子志願者には「不安定な仕事なのでやめとけ」と断っていました。
『琴』の名を与えた者にも作家修業をさせなかったので、結局、全員が馬琴の元を去っていきました。
銭湯へ行く以外の外出は1年で21回 (参拝7、買い物6、葬式2、長女宅4、知人宅2) 。
1年でお手伝いさんが7人 (まさ、たい、せき、かね、もと、まき、まさ) も辞めた。
糞尿とナスの物々交換で、「ナスが少ない!」と怒り出し、大トラブルに発展した。との記録も残っているそうです。
【南総里見八犬伝】なんそうさとみはっけんでん 里見八犬伝。八犬伝。
読本よみほん。曲亭馬琴作。全9輯106冊。1814~42年(文化11~天保13)刊。
室町時代、安房の武将里見義実の女むすめ伏姫ふせひめが八房やつぶさという犬の精に感じて生んだ、仁・義・礼・
智・忠・信・孝・悌の八徳の玉をもつ八犬士が、里見氏勃興に活躍する伝奇小説。主潮は勧善懲悪。
滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった
【北静廬】きた‐せいろ(1765~1848)
江戸後期の随筆家。名は慎言ちかのぶ。江戸随一の博識と称された。著「梅園日記」「静廬俗考」など。
※ この頃、上方&江戸 (地方は分かりません) が、『○○堂主人』というペンネームが流行っていたと思われます。
例えば↓馬琴は著作堂とも名乗っていました。
1785年(天明5)に『萬宝まんぽう料理献立集』『萬宝料理秘密箱』前編が出た。著者は京都の器土堂きとどうの
主人。前書の目録題に「卵百珍」とあり、後書の再版の見返しに「一名玉子百珍」とあり、ともに卵百珍といわれた。
同年に『鯛百珍料理秘密箱』も器土堂の著作で刊行された。鯛料理100種が書かれている。
1789年(寛政1)には『甘藷いも百珍』が出た。著者は大坂の珍古楼主人。
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江戸時代のペットブーム |
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朝日放送 キャスト 『ご当地キャラ"驚異の進化"』 19.03.05 放送
朝日放送 キャスト 『商売繁盛といえば招き猫なの なんでやねん!?』 19.11.18 放送 NHK Eテレ 知恵泉 『日本人と動物の交友録』 20.01.03 放送
朝日放送 キャスト 『犬といえばポチ 猫といえばタマなの なんでやねん!?』 02.02.10 放送
≪ 飛鳥・奈良時代 ≫
文献に残る名前の付いた飼い犬は、聖徳太子の飼い犬の「雪丸」だそうです。
奈良の王寺町の達磨寺に石像が設置され、王子町のマスコットキャラクターになっています。
猫は仏教の経典をネズミから守る為に中国から輸入されたと言われています。各地の寺で飼われました。
≪ 平安時代の猫ブーム ≫
NTTグループ ファイナンス・カードTrace 『ペットのはじまり』 ← 簡単な日本のペットブームの歴史 Wiki 寛平御記
https://www.ntt-card.com/trace/backnumber/vol11/index.shtml より
『平安時代には貴族の間で猫を飼うことが大流行。宇多天皇が書いた「寛平御記」には、飼い猫への愛が綴られて
おり、貴人たちも、猫を「手飼いの虎」と呼び、大変可愛がっていたそうです。』
【宇多天皇】うだ‐てんのう(867~931)名は定省さだみ。 光孝天皇の第7皇子。
平安前期の天皇(在位887~897)。菅原道真を挙用、藤原氏をおさえて政治を刷新。897年(寛平9)譲位後、寛平
法皇という。亭子院ていじのいんのみかど。「寛平御遺誡かんぴょうのごゆいかい」は皇子(醍醐天皇)のために記されたもの。
『平安時代に活躍した一条天皇は大の猫好き。清少納言の「枕草子」によると、一条天皇は飼っていた猫の出産の
際に、乳母を付け、出産後には「産養い」と呼ばれる祝宴を設けたといいます。しかも、東三条院詮子(=一条
天皇の母)、左大臣藤原道長、右大臣藤原顕光といった最上級の人物によって執り行なわれたそうです。』
『枕草子』には「天皇のおそばに飼われている御猫は位を授けられて命婦のおとどと名付けられている」
【一条天皇】いちじょう‐てんのう (980~1011)名は懐仁やすひと。 円融天皇の第1皇子。
平安中期の天皇(在位986~1011)。
『源氏物語画帖』には、猫の首輪に紐でつないでいる様子が描かれています。まだ猫は貴重な動物だったため
逃げないように飼っていたそうてず。
知恵泉によると、1602年に幕府を開く前の徳川家康が、猫を繋ぐことを禁じるお触れを出した。
背景には急激な都市化が進み、ネズミの食害が社会問題となっていたからだそうです。
この事によって猫の数が増えたようです。とは言え明治時代でも全国的には希少だったようです。
NAVERまとめ 『【平安時代の】宇多天皇が猫好きすぎてヤバイ【猫ブログ】 』 http://matome.naver.jp/odai/2139027691598380601
くるねこ大和 猫、まんが。『寛平御記』 http://blog.goo.ne.jp/kuru0214/e/880bdda170dd3e8ebb3d598b0cfbe8b1
世の中に昔語りのなかりせば 『黒猫愛でる宇多天皇』 http://noh-and-kyogen.com/yononaka/neko/uda.html
≪ 戦国時代の洋犬ブーム ≫
NTT Trace 『ペットのはじまり』 より
『戦国時代にはポルトガル船の来航によって、海外から洋犬が輸入されるようになりました。
将軍や大名たちはこぞってポインターやグレイハウンドといった大型犬を飼い、自身の権力誇示に利用していたそう
です。』
読売テレビ かんさい情ネットten. 『金魚すくい日本一! 子ども名人に密着』 13.08.19 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「にっぽん城下町めぐり 奈良大和郡山市」』 13.11.28 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ~小京都めぐり⑨ 鳥取「倉吉の城下町」~』 14.01.02 総集編の放送
読売テレビ かんさい情ネットten. 『「鯉に恋」しちゃいました! 密着! ニシキゴイ♥外国人』 15.04.08 放送
日テレ 世界で一番受けたい授業 『江戸時代のベストセラーから見る 驚きの新歴史 !』 15.04.11 放送
テレビ大阪 かがくdeムチャミタス 『金魚のヒミツを大調査』 19.07.14 放送
≪ 江戸時代のペットブーム ≫
江戸時代のペットブーム本は、主に大坂(摂津・和泉)人が書いているようで、ペット飼育は上方から江戸へ、そして
全国に広まったようです。
≪ 金魚は室町時代~江戸時代中期頃まで堺が産地 ≫
1502年に中国から堺に和金が伝わったのが日本の金魚の始まり。和金はフナが突然変異して赤くなったもの。
金魚すくいに使われている金魚です。琉金は中国から琉球 (沖縄) を経由して日本に伝わりました。
日本には現在、約40種類の品種がいて、右端は金魚研究家の根来ねごろ央ひろしさんが東錦を改良して作り出した
世界で唯一の金魚で、これがTV初公開の映像のキャプチャー画像です。
金魚研究家 根来央さん
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琉金
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東錦
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世界で唯一の金魚
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ほとんどの金魚は黒っぽい色で生まれ、生後1~2ヶ月頃から体の色が変化し始めます。
金魚も体に塩分を含んでいるので、水1リットル当たり5グラムの塩を入れると、金魚は体内と水槽の水との塩分
濃度との浸透圧調整に体力を使わなくても使わなくて済むそうです。
ミカンで水道水に含まれるカルキを中和できるそうです。ビタミンCが塩素と化学反応して中和できるそうで皮だけ
でもOKだそうです。
≪ 江戸時代初期~中期の豪商「淀屋」の金魚 ≫ Wiki 淀屋 Wiki キンギョ コトバンク 安達喜之
江戸時代前期、金魚を飼うのは大名など一部の富裕層の趣味でした。
日本史上最大の豪商とも称される大坂の淀屋の金持ちぶりの記録が残されています。
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元禄時代に記された淀屋の記録には
『屋敷を百間四方に構え、大小書院は全て金張り、庭には泉水や
大樹珍木が配置され、夏座敷と称される部屋にはビードロの格子を
立てて、天井もビードロ張りにして、清水を湛えて金魚を放っている』と
あります。
天井にガラスの水槽を作り、金魚を鑑賞していた。という事らしいです。
【淀屋辰五郎】よどや‐たつごろう (淀屋 5代 広当。~1717)
通称、三郎右衛門。江戸中期の大坂の豪商。豪奢を極め、茨木屋の
遊女玉菊(一説に吾妻)のために家産を傾け、1705年(宝永2)闕所
(財産没収・追放)の処分を受けたという。小説・浄瑠璃・歌舞伎など
の素材となる。
天下の豪商 淀屋
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1712 (正徳2) 年の『和漢三才図会』(著者は大坂の医師 寺島良安) の巻第七十六 「和泉・紀伊・淡路」の「和泉
國土産」には酢・白粉・鯛・鉄砲・庖丁・傘からかさなどと共に金魚が挙げられており、「堺で多く産出された」と記述
があります。
他国の土産に金魚の記述は見当たらないので、江戸時代後期になるまで金魚の主産地は堺と考えていいでしょう。
1748(延享5)年に出版された金魚の飼育書である『金魚養玩草きんぎょそだてぐさ』(著者 和泉の安達喜之あだちよしゆき、
出版者 丹波屋理兵衞)が書かれてから庶民がペットとして飼う事が増えます。
また江戸中期の金魚研究家 安達喜之 著には『金魚秘訣録』などがあります。
化政文化期(文化・文政年間1804~1830年)には、現在の三大養殖地(奈良県大和郡山・愛知県の弥富町・東京
都の江戸川)で大量生産・流通体制が確立し、金魚の価格も下がったことから本格的な金魚飼育が庶民に普及し、
品評会なども開催されるようになりました。
幕末になると金魚ブームが起こり、上の画像のような『金魚玉』と呼ばれる小さなガラス鉢に入れ、風鈴のように
軒先に吊るす事も流行ったようです。
≪ 日本最古・日本一と言われる金魚の大養殖地 奈良県大和郡山市 ≫ Wiki 柳澤吉里
大和郡山は1580年に筒井順慶が郡山城を築城した後に城下町として発展していきます。3代目城主は豊臣秀長
(秀吉の弟)。1724年 甲斐国 (山梨県) から来た柳澤吉里が19代目の郡山城主となり、趣味の金魚を持ち込み
郡山で養殖が始まったとされています。明治時代初期 仕事を失った武士たちも内職として金魚の養殖を行った
そうです。
現在、大和郡山市では年間約6千万匹の金魚を生産しており、金魚すくい用の和金などの全国シェアは4割ほど。
小さな和金=小赤、少し大きめの和金=姉金と呼び、ポイ破りのトラップとして、大き目の姉金を少し入れておく
そうです。
【大和郡山】やまと‐こおりやま
奈良県北部の市。もと柳沢氏15万石の城下町。近世以降、金魚の養殖で有名。人口9万2千。
奈良県大和郡山市 『全国金魚すくい選手権大会』 http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kingyo/
『全国金魚すくい選手権大会は平成7年から大和郡山市で、毎年8月に開催されています。
≪ 猫のシッポは東西で違う ≫ 江戸時代後期の大坂にあったバードカフェ 孔雀茶屋 江戸は「花鳥茶屋」
おかべたかしの編集記 『「東西でネコの尻尾が違う」が「フルタチさん」で検証された話』
http://okataco.hatenablog.com/entry/2017/02/22/085613
『「東のネコ」は、先端が曲がった「カギ尻尾」が多い。「西のネコ」は、尻尾がまっすぐが多い。この違いは「猫又
(ねこまた)」という化け猫伝説に由来しているとされています。』
【猫股・猫又】ねこ‐また
猫が年老いて尾が二つにわかれ、よく化けるといわれるもの。(鎌倉時代の) 徒然草「奥山に―といふものありて」
国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
翻訳され出版された1941 (昭和16) 年版の『ツンベルク日本紀行』(翻訳 山田珠樹、東京市神田の奥川書房 出版)
1775 (安永4) 年に書かれた日本旅行記です。
異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693
「第十八章」P.315から抜粋
「この国に唯一の用のない動物がいる。それは犬である。日本人は犬を迷信で養っている。
猫は女子の遊道具となる。女子は猫の経路を愛で、或いは趣味の心から飼っているのである。」
【ツンベルク】Carl Peter Thunberg (1743~1828、スウェーデンの植物学者・医学者)
シーボルト以前の日本研究の第一人者。リンネに学ぶ。オランダ東インド会社に入り、1775年(安永4)長崎
オランダ商館医として来日、翌年出国。著「ヨーロッパ・アフリカ・アジア旅行記」「日本植物誌」。ツンベリー。
欧米ではハンティングの相棒として犬は不可欠の存在。日本の場合は鷹狩が主流で、江戸時代中期の「生類
憐みの令」の1684年まで犬は鷹の餌として大名屋敷などで飼われていました。
鷹1羽あたり年間100匹の犬が餌として犠牲になっていたそうです。 徳川綱吉 犬公方のまとめ記事
「生類憐みの令」は動物愛護など綱吉が下した116件ほどの法令の総称として使われる語です。
そのうち42件が犬に関する法令だったようです。
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INPC 『錦鯉を知る』 http://www.japan-nishikigoi.org/japanese/history.html
≪ 錦鯉は文化・文政年間1804~1830年 新潟県の山古志村から ≫ Wiki コイ 錦鯉は日本の国魚に指定されています。
現在知られている「錦鯉」は、今から約200年前(1804~1830)の文化・文政時代に新潟県の旧・山古志村(現・
長岡市)・小千谷市で食用鯉の突然変異種として誕生しました。これを育てたのが始まりです。
新潟県では棚田を利用して鯉を育ててきました。↓錦鯉の原点と言われているのが『浅黄あさぎ』と呼ばれる品種。
【錦鯉】にしき‐ごい 色鯉。花鯉。変り鯉。
コイの飼育改良品種。色彩や斑点が美しい。新潟県古志・魚沼両郡の山村産のものが1914年(大正3)に東京で
開かれた大正博覧会に出品されて有名になった。
日本では大正博覧会から愛好家が増えましたが、近年は低迷。変わって現在では、外国人が購入量の8割ほどを
占めるようになり、30ヵ国以上に輸出。
錦鯉を含めた鑑賞魚の輸出高は右肩上がりに増加し、2014年は30億円を超える市場になっています。
1993年に第1回オランダ錦鯉品評会が開かれて欧米で人気となりました。欧米では、観賞魚というよりペットとして
飼う人が多く5~10万円が売れ筋。
アジアでは、錦鯉を買うのがステータスなので数百万円もするものも購入されるようです。最出荷期の春には1日に
1万匹ほどが出荷されます。
輸出先 1位は香港 2位のオランダではホームセンターなど国内約200店で錦鯉を販売。 3位はタイ。(2014年度 財務省
「貿易統計」)。英国ではNishikigoiテレビがありネットで世界中に情報発信。海外の錦鯉の雑誌記者やバイヤー、愛好家
などが多く新潟県を訪れています。
庫本高志のどぶねずみ王国 『養鼠家と狂歌師のコラボ』 http://takashikuramoto.blogspot.jp/2014/01/blog-post_14.html
庫本高志のホームページ 『江戸時代の鼠ガイドブックを解説』
http://www.anim.med.kyoto-u.ac.jp/Kuramoto/contents/Yoso-tama-no-kakehashi.htm
京都大学 『実験用シロネズミの起源』 http://www.kyoto-u.ac.jp/static/ja/news_data/h/h1/news6/2012/120817_2.htm
≪ ネズミもペットとして飼われていた ≫
江戸時代の明和年間(1764~71年)、「鼠」をペットとして
飼育することが大坂で流行しました。
1775(安永4)年には『養鼠玉のかけはし』という飼育法を
教えるガイド本。上巻34ページ、下巻14ページからなる
小冊子が発行されました。
作者は春帆堂主人(大坂島之内の松原町の春木幸次)。
大坂の他、江戸でも出版されています。
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1787(天明7)年 京都で出版された珍玩鼠育草ちんがんそたせてぐさ(著者 定延子・他、出版者 銭屋長兵衛)には、
どんな色のネズミを掛け合わせると、どんな色柄の子供が生まれるなどの遺伝情報が書かれていたそうです。
当時、飼われていたネズミは『コマネズミ』で、ハツカネズミの変異種。『パンダねずみ』などとも言われます。
【独楽鼠・高麗鼠】こま‐ねずみ
舞鼠まいねずみの俗称。ハツカネズミの飼養変種。白色で、平面をくるくるまわる習性がある。
愛知県西尾市岩瀬文庫コレクション 『犬狗養畜伝』
http://www.city.nishio.aichi.jp/nishio/kaforuda/40iwase/collection/2002kenkuyoutiku/kenkuyoutikuden.html
≪ 大坂の愛犬家が書いた犬狗養畜伝けんくようちくでん ≫ Wiki 暁鐘成
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著者は大坂の読本作家・浮世絵師の暁鐘成あかつきのかねなり
(摂津、1793~1861)。
幕末期の大坂における出版界では最も人気のある戯作者。
自宅で鹿を飼育していたことから、鹿廼家などと号。
江戸時代唯一の犬の飼育専門書『犬狗養畜伝』には、
愛らしい犬たちの挿絵入りで、病気や寄生虫、ケガなどの治療法、
自家製の犬の薬、餌の与え方など飼い方の諸注意のほか、
繰り返し犬に対する愛護の心を説いています。
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≪ 江戸で流行った愛玩用の「狆」 ≫ Wiki 狆
戦国~江戸時代頃に伝わったペキニーズを改良したものと言われているそうです。
徳川綱吉の時代、江戸城で座敷犬、抱き犬として飼育されました。
また、吉原の遊女も好んで狆を愛玩しました。江戸時代、狆は犬とは別の生き物として考えて
いたとも言われています。
【狆】ちん
イヌの一品種。小形で体高約25㎝。顔は平たくしゃくれ、目は丸く大きい。体毛は絹糸状。黒と白、
白と茶とのまだらが多い。中国からの品種をもとに、江戸時代に作出。愛玩用。ちんころ。
【柴犬】しば‐いぬ
日本犬の一品種。小形・短毛で耳は立ち、巻尾。毛色は多く赤褐色。本来はウサギなどの狩猟犬。
天然記念物。しばけん。
犬公方 徳川綱吉と生類憐みの令 江戸時代の肉食事情 江戸では犬が居ないと言われた
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葛飾北斎 作 『美人愛猫図』 享和~文化年間(1801~1818)に描かれた肉筆画。2015年に大阪市立美術館で ↗
米国の実業家ウェストン氏のコレクションが日本初公開されたうちの一つ。
しめこ (東京のウサギ鍋の事) NHK タイムスクープハンター 『明治うさぎバブル』 13.04.06 放送
≪ 東京のうさぎバブル と 〆子鍋 ≫
明治初め、東京府でもカナリアやコマネズミを飼うことが流行。
中でも、うさぎは人気となり『兎番付』を作り、投機目的で売買する「うさぎバブル」が発生。
奸商かんしょう という不正な手段で利益を得る悪徳商人や詐欺師なども現れるほどに加熱し、東京府に苦情が
殺到しました。
明治6年1月に『兎会集会』禁止条例を発布。だが、4月にはウサギの売買価格が元で親子ケンカの末の殺人
事件にまで発展する事ありました。
6年12月、ウサギ所有の届け出義務。1羽につき毎月1円の課税。無届は1羽につき2円の罰金が課せられました。
するとバブルが一気に崩壊。
投機目的でウサギを所有していた者たちは、料理小屋や屋台のしめこ鍋屋に売ったり、殺処分して不法投棄したり、
東京の流行物として地方で高く売りつけようとする者もいたそうです。
明治38年の『風俗画報』の記事では、ウサギバブル時にはウサギ1匹 600円 (現在価値560万円) で取引されて
いた事が載っているそうです。
excite ニュース 04.12.16 http://www.excite.co.jp/News/bit/00091102924411.html
『代表的な儲かった話といえば、「もらった1つがいウサギに台所のクズ野菜を与えて飼っているうち、10匹ほどの
子を産んだ。毛は刈り取って布団の中綿にし、肉はみそ漬けにして食べ、皮は油を抜いて子供のチャンチャンコに」
といったもの。異常な経済状況が長続きしないのは世の常で、このブームもあっという間に終息、ウサギ税も6年余り
で消滅したそうだ。』
朝日放送 キャスト 『商売繁盛といえば招き猫なの なんでやねん!?』 19.11.18 放送
≪ 招き猫の発祥は東京の今戸神社 ≫
朝日放送 キャスト 『犬といえばポチ 猫といえばタマなの なんでやねん!?』 02.02.10 放送
≪ 犬がポチ、猫がタマとなったのは? ≫
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江戸時代の園芸ブーム |
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木接太夫 桃山時代に接ぎ木の技術を確立した坂上頼泰 (坂上田村麻呂の子孫で秀吉に仕えた武将)
≪ 庶民の花見 ≫ 花見の歴史 ソメイヨシノの起源に新説、上野に原木候補がある?
庶民が花見をするようになったのは江戸時代。京・大坂では桃山時代から行われていたようで、庶民の花見を
描いた屏風絵が残っています。漆塗り&蒔絵の装飾を施した花見など行楽用の豪華な弁当箱も作られました。
朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『聞いて美味しい 野菜の話 ~知られざるその神秘に迫る~』 12.12.13 放送
江戸食文化紀行 『江戸の美味探訪 No.142 菊見と菊の花のさしみ』 http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no142.html
≪ 江戸時代 朝顔の品種改良にみられるハイレベルな園芸技術 ≫ Wiki 古典園芸植物 Wiki アサガオ
江戸時代は草花を研究する本草学が盛んで多くの本草書が書かれました。
寛永年間 (1624~1645) には椿、元禄年間 (1688~1704) は楓やツツジ、享保年間 (1716~1736) には菊、
寛政年間 (1789~1801) にはタチバナ、文化年間 (1804~1818) には朝顔、
文政年間 (1818~1831) には万年青おもとと松葉菊、弘化年間 (1845~1848) には花菖蒲と菊、
嘉永年間 (1848~1855) には小万年青こおもとと朝顔が流行りました。
コトバンク 『花壇地錦抄』
『…水野元勝の《花壇綱目》(1681)は180あまりの花を取りあげる。以降,貝原益軒の《花譜》(1698),伊藤三之丞(伊兵衛)の
《花壇地錦抄》(1695)と続き,江戸時代を通じ70におよぶ園芸書が書かれる。安楽庵策伝の《百椿集》(1630)をはじめ,
ツツジ,キク,サクラ,ボタン,ウメ,アサガオ,ハナショウブ,ナデシコなど花の専門書が出版され,さらにモミジ,カラタチ
バナ,オモト,マツバラン,セッコクなど葉を観賞の対象とした多数の品種を成立させた。…』
1630年刊の『百椿集ひゃくちんしゅう』 京都誓願寺竹林院の住持である安楽庵策伝あんらくあん‐さくでん(1554~1642)著。
収集した椿を記したもの。安楽庵策伝は浄土僧・茶人・笑話作者。落語の祖ともいわれる。
1681年刊の『花壇綱目かだんこうもく』 園芸家の水野元勝みずの-もとかつ著
日本最初の園芸書。花卉かき 200余種についてその形状や栽培法を記述したもの。
※ 水野元勝の詳細は不明ですが、東京学芸大学大学院 教育学研究科の君塚仁彦 教授によれば、
「著者の水野元勝は大阪の住人であるが、『花壇綱目』刊行の背景には、上方における園芸文化の伝統と商業都市
大坂の繁栄とがあったものと考えられる」と指摘しています。
江戸時代の元禄年間 (1688~1704) に菊は広く庶民の間に普及し、今日に見られる日本独自の多くの品種が生まれて
きます。
1695年刊の『花壇地錦抄かだんちきんしょう』 江戸染井村で数代にわたって園芸を営む3代目伊藤伊兵衛いとう-いへい 著。
一家は造園,花卉(かき)栽培についての見識技量にすぐれ、当時流行した園芸植物の種類を図説記載した多くの著作を
残した。250種あまりの菊が紹介されています。
1692年には、日本最初の園芸植物の図説書『繍枕きんしゅうまくら』を松会まつえ三四郎の店から刊行しています。
1697年刊の『花譜かふ』 筑前福岡藩の儒学者・本草学者 貝原益軒かいばら-えきけん(1630~1714)著。
花の咲く植物だけ集めた書籍。
菊の記述は、18ページに渡って、培養土・苗分け・鉢への植え替え・わき芽切り・篠竹結付・防虫・花壇の耕し方・
肥やしの与え方・花壇設置場所・日照・水やりなどを、中国の書物からの引用と、日本の慣習の両方から記しています。
また貝原益軒は日本最初の農業書と言われる宮崎安貞(筑前国糸島郡女原村)の「農業全書」(1697)の完成にも
大きく関わっています。
後期になると庶民の間にも園芸ブームが起こります。
この頃、オランダなど外国から伝わった西洋野菜 (トマトやタマネギ、キャベツなど) の多くは観賞用として栽培されていました。
西洋野菜が一般的に食されるようになるのは明治時代。生野菜のサラダを食べる習慣が日本中に広まるのは1964年の
東京五輪がきっかけ。
朝顔は日本を代表する園芸花の一つですが、朝顔の花には見えないような花の形を持つものなど、現在に見られる
ほとんどの品種が江戸時代に作られたようです。
花を愛でる文化は世界中にありますが、日本のように朝顔市、ホウズキ市など一種類の花の販売展示会に多くの人が
集まるのは珍しいようです。
【本草学】ほんぞう‐がく
中国に由来する薬物についての学問。薬物研究にとどまらず博物学の色彩が強い。
本草書がまとめられるようになったのは漢代と推定される(神農本草)が、500年頃、陶弘景により「神農本草経」
「神農本草経集注」が大成され、以後、唐・宋にかけて知識が補われたが、明末に李時珍が最も完備した「本草綱目」を
完成した。
日本へは奈良時代に伝えられ、「本草和名」などが現れたが、江戸時代に最も盛んとなり、貝原益軒の「大和本草」、
稲生いのう若水の「庶物類纂」、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」が現れ、さらに西洋博物学の影響も加わって、多くの人が
その発展に寄与した。
【本草和名】ほんぞう-わみょう 日本最古の本草書。
本草約1025種を掲げて注記。2巻。深江(一説に深根)輔仁が醍醐天皇の勅を奉じて撰。918年(延喜18)頃成る。
輔仁本草。
【本朝食鑑】ほんちょう-しょっかん 本朝・・・日本の朝廷。日本のこと。
本草ほんぞう (植物を中心に薬用になる物)書。幕府の侍医 随祥院元徳の子 丹岳野人見必大ひとみ-ひつだい 著。12巻。
1697年(元禄10)刊。
明の李時珍著「本草綱目」にならいつつも、実地検証を踏まえ、庶民の日常生活の食膳にのぼることが多く、
食用・薬用になる国産の植物・動物に重点をおき漢文体で記した書。
人見(平野、小野、野)必大が1692年(元禄5)に著した遺稿を、子の元浩が岸和田藩主 岡部侯の出版助成をうけ1697年に
12巻10冊本として刊行した。
出版元は不明や、江戸で出版されたというサイトもありますが、国立国会図書館デジタル化資料のサイトでは、
「出版元、摂州(摂津国、大阪の北摂と兵庫東部)の平野屋勝左衛門」となっています。
※ 「本朝○○」などのタイトルが付く本は、上方出身者の著作に多いです。
また江戸での出版は1730年頃まで上方のパクリがほとんどだっようです。
【貝原益軒】かいばら‐えきけん(福岡の人1630~1714)
江戸前期の儒学者・教育家・本草学者。名は篤信。
損軒とも号。
筑前福岡藩儒。松永尺五・木下順庵らを師とし、朱子学を
奉じたが、晩年「大疑録」を著し朱子学への疑問を表明。
著書は膨大で、特に教訓書は身分を越えて受容され、
大きな影響を与えた。
他に「慎思録」「大和本草」「益軒十訓」「養生訓」など。
【大和本草】やまと‐ほんぞう
和漢の本草1362種を収録・分類し、解説した書。
貝原益軒著。日本で最初の本格的な本草書。
16巻・付録2巻・諸品図3巻。1709年(宝永6)刊。
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Wiki 貝原益軒 ハチミツを研究して、「蜂のウンコと違う」と大和本草書で発表した貝原益軒
≪ 朝顔の栽培ブームは江戸時代後期 大坂・京都・江戸が中心 ≫
コトバンク 『日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 「アサガオ」』 全文は長いので抜粋。詳しくはリンク先で。
『観賞用として栽培するようになったのは平安時代と推察されるが、一般に広まりだしたのは江戸時代に入ってからである。
江戸初期の園芸書である『花譜(かふ)』(1694、貝原益軒)や『広益地錦抄(こうえきちきんしょう)』(1719、伊藤伊兵衛)には、
色違いの品種もみられるが花色数はまだわずかであった。渡来当初のアサガオは青色であったと思われ、
平安末期の『平家納経』や鎌倉時代の『掃墨(はいずみ)物語絵巻』には青花が描かれている。
江戸中期になると、数十種の花色と実を結ばない重弁の品種が育成され、趣味家の間で栽培される園芸植物として
急速に発達した。
初回の流行は大坂が中心で、そのようすは『牽牛品類(けんごひんるい)図考』(1814、峰岸正吉)に奇品38品の彩色図と
166品の記載、『花壇朝顔通』(1816、壺天堂(きてんどう)主人)に37品の彩色図、『牽牛花水鏡(あさがおみずかがみ)』
(1818、秋水茶寮主人)に奇花47品と奇葉46品が記載されていることで知られる。
2回目の流行期の嘉永年間には、江戸を中心に大坂、京都でも広く栽培された。
大坂の穐叢園(しゅうそうえん)主人の『朝顔花併(はなあわせ)』
(1853)には奇花41品の彩色図、江戸・入谷(いりや)の成田屋留次郎の『三都一朝(さんといっちょう)』
(1854)には江戸、大坂、京都での供進会入選花86品の彩色図、幸良弼(こうりょうひつ)の『都鄙秋興(とひしゅうきょう)』
(1857)には奇花123品の彩色図が記載されている。
ちなみに現代に伝わる歳時「入谷の朝顔」は、成田屋を中心としたこの地の朝顔師に端を発した。
その後変化アサガオは、明治35年ごろに嘉永をしのぐ流行をみせたが、この間に大輪アサガオの栽培が普及し、
文化年間には直径が最高4寸(1寸は約3センチメートル)であったのが、明治以降大きさが競われるようになると7寸を
超えるようなものも現れ、現在は尺 (しゃく) 咲きの時代になりつつある。
こうしてニホンアサガオは、大輪花を観賞する大輪アサガオと、変化のある花形を観賞する変化アサガオの2大別に発達した。
現在は大輪アサガオが一般的に栽培され、変化アサガオはごく限られた人々の間で消滅寸前の状態で栽培されているに
すぎない。日本独自の園芸植物であるアサガオは、海外では品種も少ない。』
世界でも最も多い (1500種以上の) 朝顔の品種の種を多く保存している九州大学理学部。
その多くの品種は江戸時代に誕生しました。
染色体機能研究室 仁田坂英二 講師 (朝顔博士) によると
「アサガオは元の種が分からないくらいまで変化した変異体が多い。こういった『出物』 (「獅子咲」「采咲牡丹」「枝垂石化
柳采咲」などの品種) と呼ばれる変異体は、雄しべ・雌しべが退化したり無かったりするため種ができません。」
江戸時代に品種改良され種が作られない品種が誕生しました。それが現在でも残っているのは、メンデルの法則で説明
できます。
劣性遺伝子が2つ揃った時にだけ、見た目が変異する変異種が誕生します。(これは種ができない品種)。
しかし、その兄弟の中に劣性遺伝子は1つしか持たない個体も存在し、これらは見た目は通常の朝顔と同じ形であり種も
できます。
この劣性遺伝子1つを有する兄弟の子 (次の世代) に、また劣性遺伝子が2つ揃う変異体を生み出す可能性が高いのです。
江戸時代にはDNAという概念は無かったので、株ごとに種をとれば変異体を生み出せる事を観察と経験から得ていたと
考えられるそうです。
【メンデルの法則】メンデル‐の‐ほうそく
メンデルが1865年に発表し、近代遺伝学の基礎となった遺伝の法則。生物の形質の相違は遺伝因子によって決定され、
交雑によって生じた雑種第1代には、優性形質だけが現れ劣性形質は潜在する(優性の法則)、雑種第2代には、優性形質を
現すものと劣性形質を現すものが分離してくる(分離の法則)、それぞれの形質が無関係に遺伝する(独立の法則)という
三つの法則がある。メンデリズム。
【朝顔合せ】 … 種々の朝顔を持ち寄り、花や葉を品評すること。
【朝顔煎餅】 … 元禄の頃、江戸の名物であった朝顔の花の形のせんべい。
【朝顔染め】 … 紺や紫で大形にぼかし染めにした染模様。元禄頃に流行。
1960年に来日したスコットランド人の植物学者 ロバート・フォーチュンは
『幕末日本探訪記 - 江戸と北京』の中で、「日本人は生来の花好きである」
「日本の (植物研究の) 文化レベルは我が国よりずっと勝っている」
と記述しているそうです。
英国などヨーロッパでは、園芸は貴族だけの趣味とされ、日本のような庶民の趣味ではなかった
からです。
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菊の栽培文化 平安時代から、江戸時代には地方の大名から庶民まで流行った
倉敷市自然博物館HP 『文学作品に登場する植物たち』 http://www2.city.kurashiki.okayama.jp/musnat/plant/bungakusakuhin/index.html
このサイトには『出雲風土記』『古事記』『日本書紀』~江戸時代の 40弱の書物に登場する植物が一覧にまとめられています。
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日本地図の作成 伊能忠敬 と 間宮林蔵 |
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NHK・京都 Eテレ 知恵泉 『最先端を手に入れろ 伊能忠敬』 前編 13.12.17 / 後編 13.12.24 放送 などより
テレビ朝日 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『痛快 ! 江戸は笑いとHの天国・知識人編』 14.06.15 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿縦断622㎞の旅 ~㉛京都・福知山から兵庫の県境へ~」』 14.12.11 放送
テレビ大阪 かがくdeムチャミタス! 『アイデア勝負の水間鉄道!』 19.09.15 放送
伊能忠敬の功績には、大坂人も関わっています。
≪ 最初の日本地図 ≫
【行基図】ぎょうき-ず
奈良時代、行基が作ったといわれる最初の日本地図。現物は存在せず、江戸初期までの日本全図の総称となった。
【行基】ぎょうき (河内の人、668~749)
奈良時代の僧。道昭に師事。畿内を中心に諸国を巡り、民衆教化や造寺、池堤設置・橋梁架設等の社会事業を行い、
行基菩薩と称された。初め僧尼令違反で禁圧されたが、大仏造営の勧進に起用され、日本初の大僧正位を授けられる。
【長久保赤水】ながくぼ‐せきすい (常陸の人、1717~1801)
江戸中期の地理学者。名は玄珠。通称、源五兵衛。。水戸藩の侍講。地図・地誌の作製につとめた。
著「改正日本輿地路程全図」「地球万国山海輿地全図説」など。
≪ 精確な日本地図を作成した 千葉県の偉人 伊能忠敬 ≫ 55才~71才まで 総距離4万㎞を歩いた。
【伊能忠敬】いのう‐ただたか (上総生れ、1745~1818)通称、勘解由かげゆ。
江戸後期の地理学者・測量家。下総 佐原の伊能氏に婿養子に入り、酒造業等に専念。
隠居後、高橋至時に天文暦学を学び、幕府に出願して蝦夷をはじめ全国を測量し、日本最初の実測地図「大日本沿海輿
地全図」(伊能図)を作製、「輿地実測録」とともに献上。
現在の千葉県の中央部の上総国に生まれた忠敬は18歳の時に、親の言付けで造り酒屋の伊能家の婿養子になります。
忠敬はガムシャラに働き、当時、家業が傾きつつあった伊能家を村一番の商家へ押し上げます。
少年時代から天文学者になる夢を持っており、仕事が終わると、毎晩のように特別に取り寄せた天文書で勉強していました。
50才の時、家督を息子の景敬かげたかに譲り隠居を宣言。身一つで江戸浅草へと向かいました。
51才の時、19才年下の高橋至時(幕府天文方のトップに抜擢された最先端の天文学者)に、頭を下げ弟子入りを願い出ます。
一介の商人が天文方のトップに弟子入りするのは前代未聞の事でした。周りは全国から集められた優秀な若者ばかりです。
【高橋至時】たかはし‐よしとき (家は大坂の定番同心、1764~1804)通称、作左衛門。号は東岡。
江戸後期の天文暦学者。麻田剛立に天文暦学を学び、各種観測器械を工夫、実測。幕府天文方となり、寛政暦を完成。
昼夜を問わず学問に打ち込み、難解な専門書を読破していく
忠敬は、蓄えを崩し最新の観測装置を購入し自宅に設置
しました。
師匠である高橋至時と天文談義をしていても、夕方になると
あわてて帰宅し、天体観測に没頭したそうです。
至時は忠敬の熱意に感心し、「推歩先生」と呼ぶように
なりました。
推歩すいほ=星の動きを計算すること。
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忠敬は「地球の大きさを正確に知りたい」と思うようになります。
いつ見上げても位置が変化しない北極星を基準し、離れた2ヶ所から北極星を見ると、それぞれ角度が異なります。
この角度と2ヶ所の距離を計算することで、地球一周の距離が割り出せると思いました。
しかし、当時は多くの藩の領地を横断することは許されません。
忠敬は「江戸から蝦夷地までの地図を作る」という名目で幕府に許可を願い出ます。
その頃、蝦夷地には開国を迫るロシアの船がやってくる事件が相次いでおり、幕府にとっても蝦夷地の地図が一刻も早く
必要な状態でした。
1800(寛政2)年、56才から仲間5人と地図作りの全国行脚を開始。海岸線の場合、杖先方位盤という
装置を使い観測地点ごとの距離と角度を測ります。
そして各地点から見える目印(山などの)方角も記録し、更に星を観測して精度を高めました。
忠敬の測量記録『雑録』には、測量結果が非常に細かく記されています。
家族は、体が丈夫ではない忠敬の身を案じて測量の旅に出る事を賛成していませんでした。
長男の景敬から身を気遣う内容の手紙が送られてきますが、忠敬は「誰も成し遂げたことのない
日本国中を測量する仕事を与えられたことは まことに天命というべきだ」として理解を求めました。
そんな中、逆に長男が病死。長女のイネは、天命をかけた仕事に向き合う忠敬に心配をかけない
ように、手紙で「大病を患っている」とだけ報告しました。
その手紙を受け取った忠敬ですが、「測量が終わり次第、来年の二月には帰るつもりです」と伝え、
家には帰らず測量を続けました。
まもなく、幕府天文方の手紙によって、長男の死を知ることになりました。
その後、忠敬は長女イネを気遣う手紙(200通以上)を頻繁に出しています。
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第一次測量は東北でしたが、この時はまだ道具類が充実していない為、歩幅を基準にして計っていたそうです。歩幅は一歩69㎝。
一歩が同じ歩幅で歩けるように訓練をしたそうです。
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測量を初めて12年、九州の島原に居た時、弱音を
吐露しています。
「歯はほとんど抜け落ち、一本きりになってしまった。
奈良漬も食べることができない。」
イネは、栄養がつくようにと玉子65個、柔らかい蕎麦、
歯の薬などを送っています。
「玉子のおかげて咳が減りました」と感謝を書いた
手紙も残っています。
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1813年、69才の時、九州の五島列島の測量に取り掛かった頃、忠敬を支えて続けていた副隊長の坂部貞兵衛が43才で病死。
忠敬は「鳥が翼を落としたのも同然」と嘆きました。忠敬自身も体力の限界を感じ、後継者の必要性を強く思うようになります。
幕府と緊張関係にあった藩が測量情報を盗もうとしていました。地図は重要機密ですが、忠敬はあえて自分の技術を教える
ことにしました。
「西洋と比べれば100年、200年単位で遅れていた学問。それに追いつく為には、広く知識を共有すべき。と思っていたから」と
推測されています。
忠敬も含め6人で測量の旅を開始しました。測量機器も
全て自分たちで運び、72歳までは船は使わず陸路を
歯を食いしばりながら歩いた。
広島県の浦島測量図が描かれた頃には100人単位に
なっており、広島藩など、各測量地の藩からも支援が
あったそうです。
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江戸に戻った忠敬は測量結果を基に日本地図の作成を開始。
環境があまりにも厳しい蝦夷地(北海道)西部の測量は手つかずのままでした。
≪ 望遠鏡作りの名手 岩橋善兵衛 ≫
伊能忠敬が使用した測量機器類は、国宝にしていされ伊能忠敬記念館にあります。その内の一つで忠敬が愛用した
望遠鏡は岩橋善兵衛が作ったもの。
(左から3枚目は、善兵衛ランド所蔵の大阪府指定の重要文化財、右端が忠敬愛用の国宝↓)
岩橋善兵衛 (和泉の人、1756~1811年) は、現在の大阪府貝塚市の魚屋の次男として生まれました。
手に職を付けるため、レンズ磨き技術を習得し眼鏡作り職人となりました。当時の眼鏡は主に老眼鏡だったようです。
幼少期より星を見るのが好きだったので、自分が磨いたレンズを使い望遠鏡を量産するようになりました。
本体の筒の部分が木製や竹製の望遠鏡が多かったそうですが、善兵衛は軽くて加工しやすい和紙と漆で幾重にも
重ねた物を作っていました。
貝塚市立の善兵衛ランドは予約不要で入場料無料。日~火曜日は9時~17時、木~土曜日は9時~21時45分まで開館。
大阪府下に3台しかない口径60㎝の反射望遠鏡が設置されており、日中には太陽のプロミネンス (周りのガス層) の動き
までも観測する事ができます。 貝塚市 江戸時代の望遠鏡作りの名手 岩橋善兵衛ランド
現在、国産眼鏡の生産シェア95%を誇る福井県の鯖江市は、明治時代中期に大阪の眼鏡職人を呼び寄せ、農家の
副業として始めたのがきっかけ。 日本で圧倒的なシェアを誇る眼鏡の街 福井県鯖江市
≪ 北海道の測量を手掛けた 間宮林蔵 ≫
咳が酷くなり寝込む事も多くなった忠敬に対し、蝦夷地の測量をかってでたのが、間宮林蔵です。
かつて、測量中の忠敬と出会い技術と熱意に心服(心からつき従い尊敬)していた一人でした。最新の機械を与え、
林蔵の測量を応援しました。
忠敬は「君の行く道は想像を絶するほど厳しい。行け間宮(倫宗) その任務を務めて国家の役に立つのだ」と書き残して
います。
間宮林蔵は5年の歳月をかけて、蝦夷地の測量を完成。病床の忠敬の元に日本すべての測量結果が揃いました。
しかし、1818(文政元)年、伊能忠敬は地図の完成を見届けることができず、74才で他界。
【間宮林蔵】まみや‐りんぞう (常陸の人、1775~1844)名は倫宗ともむね 。
江戸後期の探検家、幕府隠密。伊能忠敬に測量術を学び、幕命によって北樺太を探検。
1809年(文化6)、後の間宮海峡を発見。シーボルト事件を幕府に密告したとされる。著「東韃紀行」。
【大日本沿海輿地全図】だいにほん‐えんかいよちぜんず 伊能図。
日本最初の実測日本沿岸地図。伊能忠敬が作製。1800年(寛政12)幕命で北陸道・蝦夷地東南沿岸の実測を開始、
17年を費やして全国を測量。忠敬の死後、1821年(文政4)高橋景保が全国の測量図を完成して幕府へ献上した。
【高橋景保】たかはし‐かげやす (1785~1829)通称、作左衛門。高橋至時の長子。
江戸後期の天文・地理学者。天文方兼書物奉行。満州語・ロシア語にも通達。伊能忠敬の測量を監督、その地図を修成。
シーボルトに洋書と交換に日本地図を与えた罪に問われ、獄死。
左側が伊能忠敬が作成した日本地図(北海道は、弟子の間宮林蔵)。
右の赤い日本地図は人工衛星から見た日本列島。重ねると、ほぼ同じ。
【麻田剛立】あさだ‐ごうりゅう (豊後杵築きつき藩の儒学者 綾部絅斎けいさいの子、1734~1799)名は妥彰やすあき。
江戸中期の天文暦学者。藩医となり、後に脱藩して大坂に住み暦学を研究。高橋至時 ・ 間重富はその弟子。
【間重富】はざま‐しげとみ (大坂の質商、1756~1816)長涯と号。
江戸後期の天文暦学者。麻田剛立に入門、西洋の天文暦学を研究。望遠鏡や種々の観測機器を作り、天体観測上に
画期をなした。のち幕府に召されて寛政改暦に当たった。
【シーボルト】 Philipp Franz von Siebold (ドイツの医学者・博物学者。1796~1866)
1823年(文政6)オランダ商館の医員として長崎に着任、日本の動植物・地理・歴史・言語を研究。
また鳴滝なるたき塾を開いて高野長英らに医術を教授し、実地に診療。
1828年 帰国の際、荷物の中に国禁の地図等が発見され、翌年に国外追放、多くの洋学者が処罰された(シーボルト事件)。
1859年(安政6)再び来航、幕府の外事顧問となる。1862年(文久2)出国。著「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」など。
【高野長英】たかの‐ちょうえい (陸奥水沢の人、1804~1850)名は譲、のち長英。
江戸後期の蘭学者。長崎でシーボルトに蘭学を学び、江戸で町医者を開業。三河田原藩の家老 渡辺崋山の蘭学研究を
助け、「夢物語」を著し幕府の対外政策を批判、1839年(天保10)永牢。
獄舎に放火させ脱獄、沢三伯と変名して諸国に潜伏。江戸で自刃。医学・理化学・兵書を多く訳述。
【関東取締出役】かんとう‐とりしまり‐しゅつやく
江戸幕府が1805年(文化2)に創設した職名。関東八州(水戸領を除く)の幕領・私領を巡回、警察の任にあたった。
八州廻はっしゅうまわり。
【関東八州】かんとう‐はっしゅう … 相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の8カ国。関八州。
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華岡青洲 世界初の全身麻酔手術を成功 |
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TBS 世界が絶賛 ! 泣ける日本人 『本当にいた! JIN - 仁 華岡青洲』 12.12.23 放送
「青洲がいなければ、医学は50年遅れていたであろう」
そう世界から称賛される江戸中期の医師 華岡青洲は、米国シカゴにある人類への貢献度が
高かった人を称える資料館 国際外科学会「栄誉館」に、その功績が展示されています。
【華岡青洲】はなおか‐せいしゅう 名は震。(紀伊の人、1760~1835) Wiki 華岡青洲
江戸後期の外科医。古医方を学び、後に漢・蘭医方を折衷し、外科学の改善に
功があった。麻酔剤を案出し、世界初の全身麻酔下での乳癌摘出手術に成功。
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南朝方の和田正之(楠木氏の一族)が後醍醐天皇の崩御後に河内国石川郡中野村華岡(現・大阪府富田林市)に住居を構え、
「華岡」に改姓したことが華岡家の始まりとされる。
1782~1785年の間 京都などで医術を学んだ青洲は、故郷の和歌山県 紀の川市で医者をし、猫を実験台にて麻酔薬の研究を
していました。
1785(天明5)年、姉?妹?の於勝おかつ が乳ガンで亡くなります。当時、乳房は女性の急所、乳房を切り取る事も出来ず、
乳ガンは不治の病でした。
麻酔薬が完成していれば、手術をし妹を助ける事ができたかも知れない。青洲は寝る間も惜しむように研究に没頭。
そんなある日、猫での実験が成功。数日後、母の於纏おつぎと妻の加恵の二人ともが自分の体を使った人体実験を自ら申し出ます。
母親の体を使って隠密裏に最初の人体実験が行われましたが、まだ人体に麻酔薬を使用するには危険が大きかったため、
極少量のマンダラケを加えただけの、効き目が強い睡眠薬程度の薬でした。
【曼陀羅華】マンダラゲ
熱帯アジア原産、ナス科の一年草の朝鮮あさがお。特に種子に猛毒があり、スコポラミン・アトロピンなどの原料となる。
【烏頭】ウズ
ヤマトリカブトの根茎。烏からすの頭に形が似るのでこの名がある。小さいものを附子ぶしという。中枢神経毒のアコニチンを含む。
研究を重ねたものの、危険を承知の上で、妻 加恵を被験者として初めて麻酔薬の本格的な人体実験が行われました。
どちらも配合や量を間違えると命に関わる毒草、マンダラケ8 : ウズ2 の割合だったそうです。
麻酔薬を飲んだ加恵はしばらく苦しみ、その後3日間こん睡状態が続きました。
麻酔薬の効果はありましたが、完成とは言えない結果でした。
更に改良を加え「痛仙散つうせんさん」と名付けた麻酔薬で、加恵を使った2度目の実験が行われました。
青洲が予想した通り、薬を飲んで2時間ほどで麻酔にかかり5~6時間の間その状態が続き加恵は目を覚ましました。
今回の実験は成功でした。しかし、最初の実験で加恵は視力に異変が起きていた為 (青洲には黙っていました) 、
目が見えなくなってしまいました。
2年後の1804年、実験から体調を崩していた母 於纏が亡くなりました。
その数日後、青洲の噂を聞いてきたという男が訪ねてきました。
男の母親は乳ガンで多くの医者に見せたが、「乳は女のおなごの命、刃やいばは入れられん」と言われ、治療もされず
薬さえ貰えない状態。「どうせ死ぬのなら名医の手にかかって死にたい」との母親の言葉で手術を頼みに来たのでした。
1804 (文化元) 年10月13日、痛仙散を使用した全身麻酔の乳ガン摘出手術が初めて行われ、手術は成功。
※ Wiki 華岡青洲の妻 によると、
実際には、親族が自ら次々と実験体に名乗り出ており、実母や妻に限った話ではない。
あくまで本作は小説であり、実母と妻の役割と美談を強調した創作である。
この全身麻酔手術の成功はまたたく間に日本全国知れ渡り、青洲の診療所 春林軒は患者で溢れ、入門者が毎日のように
訪れたそうです。
1835年、76歳で亡くなった青洲は「ただ思う事は 今まで治せなかった病気を 治すことだけである」との言葉を残しています。
華岡家の9代目にあたる五十嵐由香里さんは、北海道札幌市のいとう整形外科美容院で麻酔科医長を
されているそうです。
青洲を意識して麻酔科の医師になったわけではなく、偶然だそうです。
※ この番組で気になる点。
他にも「泣ける日本人」を数人取り上げて出身地を大きく字幕で書いていましたが、
VTR時間が最も長い華岡青洲に限り「紀州」はあるものの、
「・・・二人の魂は身を寄り添うように郷里に眠っている」で〆られており「和歌山」という
言葉は全く無し。「和歌山」の文字が出てくるのも小さい文字(上の画像)だけ。
関西に対する偏向報道的な意図が感じられます。まあ、東京メディアによくある事なので…。
右の画像を見て下さい。「加恵 68歳で永眠 (1869年)」の字幕スーパーがあります。
字幕通りだとすると、加恵さんが生まれたのは1801年という事になり、年代の辻褄が
合いません。はて?
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≪ 和歌山県の名称由来 ≫ 地名由来辞典『和歌山県』 http://chimei-allguide.com/30/000.html / Wiki 和歌浦 / Wiki 紀伊国
7世紀に国として成立した頃は、雨が多く森林が生い茂っている様相から「木国」と命名された。という説と、和歌山県
北部は、有力豪族である紀氏が支配していた地域であるから「紀の国」というようになった。という説があるそうです。
和歌山市の南西部あたりの景勝地は、奈良時代には「若の浦」や「弱浜(わかのはま)」と呼ばれていました。
平安中期になると、高野山・熊野参詣が盛んになり、その帰りに「若の浦」に来遊することが多くなった。
特に玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られ、歌枕に関わる和歌から
「和歌浦」と称されるように。
1585(天正13)年、豊臣秀吉が和歌浦から近い場所に築城。この辺りは「岡山」と呼ばれていましたが、「和歌山」と命名し、
「和歌山城」。
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北前船の豪商 高田屋嘉兵衛、銭屋五兵衛 |
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NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『高田屋嘉兵衛』 前編 14.09.16 放送 / 後編 14.09.23 放送
兵庫県 淡路島 洲本市 高田屋嘉兵衛公園 ウェルネスパーク五色 『高田屋嘉兵衛物語』 http://www.takataya.jp/nanohana/kahe_abstract/kahe.htm
北海道 函館市 公式観光情報 はこぶら 『箱館高田屋嘉兵衛資料館』 http://www.hakobura.jp/db/db-view/2009/04/post-98.html
Wiki 高田屋嘉兵衛
≪ 高田屋嘉兵衛 ≫ 日露交渉で国際事件を解決した民間人 書きかけ
【高田屋嘉兵衛】たかたや‐かへえ(淡路の人、1769~1827)
江戸後期の海運業者。一水夫から身を起こして北前船交易に活躍、のち幕府の御用船頭。択捉えとろふ航路を開くなど、
幕府の蝦夷地経営に関わる。
1812年(文化9)露艦に捕らえられたが翌年帰国、ゴロウニン釈放など日露間の折衝に当たった。
【ゴロウニン】 Vasilii Mikhailovich Golovnin ゴローニン。(ロシアの海軍軍人。1776~1831)
ディアーナ号艦長として世界周航に出、1811年(文化8)国後くなしり島に上陸、箱館・松前に監禁され、
翌々年 高田屋嘉兵衛の斡旋により釈放。著「日本幽囚記」。
郷土読本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109335 のP187~204に『事実文編』「高田屋嘉兵衛」の一部分が掲載されて
います。明治前期頃に出版されたこの本によると、高田屋嘉兵衛は尾張の出身で兵庫に行き巨船を造り松前で商う
などと書かれてあります。この本と編者の五弓雪窓などの解説が郷土読本に記されてあります。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅31 「石川県・金沢港~金沢市・猿丸神社へ」』 15.11.26 放送
≪ 銭屋五兵衛 ≫ 加賀を代表する豪商
石川県金沢市の大野湊緑地公園内に銭屋五兵衛記念館があります。史料やゆかりの品々を展示し平成9年に開館。
当館主任の米田志津子さんは五兵衛から6代目の子孫。
五兵衛は39才で質流れの古い船を一隻購入し海運業を始めます。加賀米を売り、その儲けで各地の特産物を仕入れ、
他所で販売。200隻を所有し『海の百万石』と呼ばれ加賀を代表する豪商にまで成長します。
【銭屋五兵衛】ぜにや-ごへえ (加賀宮越の人、1773~1852) 【銭屋】ぜにや … 両替屋、銭両替。
江戸後期の豪商。北前船主として活躍。回米・米相場で巨富を築く。
晩年、河北潟かほくがた埋立工事を行って漁民の怨みを買い、罪を得て獄中で病死。
2~3月頃に、加賀の北前船関係者は金沢から徒歩で大坂まで行きます。冬の期間、大坂の川縁で停泊してあった船に
荷物を積み、瀬戸内海を通り下関を回り、日本海を北上し蝦夷地 (北海道・松前や江差) へ向かいます。
秋になって大坂へ戻る1年1航海だったそうです。1隻1航海での儲けは1000両 (換算すると約1億円) だそうです。
当時、食糧難になっていた加賀藩を救うため、五兵衛は河北潟に230haの広大な新田開発を計画します。
1851 (嘉永4) 年から湖だった河北潟の埋立工事を行います。工事現場で魚が浮き上がったり、魚を食べた人が死ぬと
いう事件がおきました。 Wiki 銭屋五兵衛によると、石灰が原因だったようです。
「銭屋が毒を流した」という噂が広まり、五兵衛は捕われ獄中80才で病死。
五兵衛の家族の女・子供たちは親類預かりとなり、家名は断絶、財産没収の処分が下されました。
【加賀米】かが-まい
加賀国産の米。品質が劣るとされた。西鶴織留「一つ釜の―に、はしらかし汁、鰯菜いわしさいも同じやうにすわりて」
【西鶴織留】さいかく-おりどめ
浮世草子。北条団水編。6巻6編。
井原西鶴の未完成の「本朝町人鑑」と「世の人心」を合わせて、その没後1694 (元禄7) 年に刊行。
【走らかし汁】はしらかし-じる
ざっと煮ただけで、手軽にこしらえた汁。また、味噌を入れただけで実みのない汁。
北前船の石川県銭屋五兵衛記念館 http://www.zenigo.jp/
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江戸時代の旅行 お伊勢参りブーム |
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≪ 江戸時代中期 東海道の旅 ≫
【東海道名所記】とうかいどうめいしょき 仮名草子。浅井了意作。6巻。
1660年(万治3)ごろ刊。楽阿弥という僧が江戸見物をして連れになった若者と名所・旧跡を訪ね、狂歌を詠じつつ、
東海道を京に上るという筋。「東海道中膝栗毛(1802~1809)」などに影響を及ぼした。
【浅井了意】あさい‐りょうい(京都の本性寺の住職。~1691) 号、瓢水子・松雲。
江戸前期の仮名草子作者。内典・外典に通じ、仏書の国字解に従事。著「可笑記評判」「東海道名所記」
「伽婢子おとぎぼうこ」など。
≪ 江戸時代中期の東北への旅 ≫ NHK Eテレ 100分de名著 『おくのほそ道 「第1回 心の世界を開く」 13.10.02 放送
江戸時代初期、江戸は上方とは比べようもないほど文化レベルが低く、中期の元禄になっても関西文化圏出身という
だけで高い教育文化水準があり格が上と見られていました。
松尾芭蕉 (三重県出身) は29才で江戸へ出て句会に参加し頭角を表します。有名になり35才頃に独立。
37才で深川(当時、寂しい場所で俳諧を極めるには良い場所だったそうです) に住み芭蕉庵を営み、隠遁生活を始めます。
そんな江戸から見ても東北 (みちのく) は、辺境の土地であり旅をするにはかなりの危険がともなうとされていました。
松尾芭蕉の『奥の細道』は、1689 (元禄2) 年3月27日~9月6日の150日間、東京深川~奥州各地、北陸を巡り、
岐阜大垣まで約600里2400㎞の旅をし詠んだ俳諧紀行。
松尾芭蕉 (46才) と従者の曾良そらは深川から千住まで船に乗り、「行春や 鳥啼魚とりなきうおの 目は泪」という別れの句を
詠んで、ここから本格的な旅が始まると考えていました。
4月1日栃木県の日光東照宮を参詣し「あらたうと 青葉若葉の日の光」「あらたうと=大変尊い、家康と家康がもたらした
太平の時代は尊い」という句を詠みます。
曾良は二荒山 (黒髪山) を見て、「剃り捨て 黒髪山に衣更ころもがへ」髪を剃って僧侶の姿となり、これまでの生活を捨てて
旅に挑むという決意を現した句を詠みました。
裏見の滝では、芭蕉が「暫時しばらくは 滝に籠るや 夏げの初はじめ」と詠み、滝で身を清めて旅に出る決意を現しました。
芭蕉を研究している俳人の長谷川櫂さんによると、芭蕉は『奥の細道』に旅後も死ぬまで推敲を重ねて手を入れ続けました。
『奥の細道』は芭蕉の死後、弟子である向井去来によって1702年に刊行されました。400字詰原稿用紙で30枚程度の短い文。
曾良の「奥の細道随行日記」と異なる部分も多く、芭蕉の世界感を表した紀行文風の創作と考えた方が良い。
【松尾芭蕉】まつお‐ばしょう (伊賀上野に生まれ、1644~1694) 藤堂良精の子。
江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月軒・
風羅坊など。良忠(俳号、蝉吟)の近習となり、俳諧に志した。
一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて
深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。
その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、大坂難波の旅舎に没。
句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」
「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。
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【河合曾良】かわい-そら (信濃の人、1649~1710)
江戸中期の俳人。芭蕉に師事、「鹿島紀行」「奥の細道」の旅行に随伴、常に師を助け、その愛重を受けた。
壱岐勝本に客死。著 「奥の細道随行日記」
【向井去来】むかい-きょらい (長崎生まれ、1651~1704) 名は兼時、字は元淵。別号、落柿舎など。
江戸中期の俳人。蕉門十哲の一人。京都に住み、堂上家に仕え、致仕後、嵯峨に落柿舎を営んで芭蕉を招き。
凡兆とともに「猿蓑さるみの」を撰。その作風は蕉風しょうふうの極致に達した。俳論「旅寝論」「去来抄」など。
「去来抄」は去来の芭蕉随聞記的資料で1702~04年に成立、1775 (安永4) 年に刊。
≪ 江戸時代後期の東海道の旅 ≫ 広辞苑、コトバンク など
【東海道名所図会】とうかいどうめいしょずえ
京都から江戸に至る東海道の名所・旧跡の図解説明書。秋里籬島編。6巻。1797年(寛政9)刊。
挿絵は主として竹原春泉斎たけはら-しゅんせんさい (大坂の浮世絵師、生没年未詳)・北尾政美きたお-まさよし
(江戸の浮世絵師、1764~1824)。
【秋里籬島】あきざと-りとう、あきさと-りとう (京都の人、生没年未詳) 名は舜福、字は湘夕、通称は仁左衛門。
江戸中・後期の読本作者・俳人。日本各地を取材旅行し、読本や名所図会を著した。また、和歌・俳諧を能くし、
博学を以て世に呼ばれる。
【東海道中膝栗毛】とうかいどうちゅうひざくりげ 本称「道中膝栗毛」または「膝栗毛」
滑稽本。十返舎一九作。初版本は初編から8編までに発端を加えて18冊。1802~09年(享和2~文化6)刊。発端のみ14年刊。
弥次郎兵衛と喜多八が随所に失敗や滑稽を演じつつ東海道・京・大坂を旅する道中記。のち20年にわたり続編を出す。
【十返舎一九】じっぺんしゃ‐いっく(駿府生れ、1765~1831)本名、重田貞一さだかず。
江戸後期の戯作者。大坂に行き、近松余七と号して浄瑠璃作者となり、1793年(寛政5)江戸に出て戯作に従事し、
滑稽本を得意とした。作「東海道中膝栗毛」「江之島土産」など。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「伊勢・夫婦岩をめざす道 奮闘編①」』 14.02.24 総集編の放送
≪ 旅行代理店のルーツ浪花講 ≫ 大阪 玉造稲荷神社
江戸時代、玉造稲荷神社は浪花講の登録を行っていた為、お伊勢参りの西の玄関口として起点となっていました。
【浪花講】なにわ-こう 玉造稲荷神社 HP 『浪花講』 http://www.inari.or.jp/shamusho/naniwakou.html などより
江戸時代に街道と宿駅制度が整えられた事により、旅が身近なものになりました。しかし、街道での事件・事故、
旅籠屋での「ぼったくり」、「相部屋」等の不安などがあり安全に旅をするのは難しかった。
玉造に拠点をおき、全国に行商していた唐弓弦師・松屋甚四郎とその手代 源助は、行商の経験から旅人に安全で
信頼のおける旅を提供しようと文化元年(1804)に旅籠の組合である「浪花組」(世話人:松屋甚四郎 発起人:まつ
屋源助 ※天保12年(1841)に「浪花講」と名を改める)を立ち上げました。
この浪花講が指定する優良旅籠屋や休憩所では、「旅人の賭け事・遊女を買う事・酒を飲んで騒ぐ事」等を禁止し、
浪花講の看板を軒先に掲げることにより旅人への目印とし、不良旅籠屋等と見分けがつくようにしました。
旅のガイドブックである『浪花講定宿帳』等を発行し、旅人は定宿帳に記載された街道を歩き、鑑札を宿で提示する
ことにより安心して宿をとる事も出来ました。この組織は全国的に広がり、現在の協定旅館・ホテルのルーツと
なったそうです。
「浪花講」講元であった松屋甚四郎の創業地には現在、玉造稲荷神社の分社・東雲稲荷神社が建っています。
【講】こう
① 仏典を講義する法会。最勝王講。法華八講など。
② 仏・菩薩・祖師などを讃嘆する法会。
③ 神社を祭り、または参詣する同行者で組織する団体。二十三夜講・伊勢講・稲荷講・大師講の類。
④ 一種の金融組合または相互扶助組織。頼母子たのもし講・無尽講の類。
NHK大阪 歴史ヒストリア 『参勤交代はつらいよ ~加賀百万石 お殿様の遥かな旅』 14.07.16 放送
日テレ 世界で一番受けたい授業 『江戸時代のベストセラーから見る 驚きの新歴史 !』 15.04.11 放送
≪ 各地のガイドブックなども出版 ≫
各藩の大名行列で江戸までに架かる日数は、茨城県の下妻1万石の井上氏で2泊3日が最短。石川県の加賀藩
前田氏が16泊17日。最長は鹿児島県の薩摩藩島津氏で船も使い40日ほどかかりました。
同行する家臣たちの楽しみは各地の名所と名物で、和歌山県の紀州藩士が記した『御道中御道割川河』には、
それらが記載されています。
【参勤交代】さんきんこうたい
江戸幕府が諸大名および交代寄合の旗本に課した義務の一つ。
原則として隔年交代に石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に居住して将軍の統帥下に入る制度。
初め期限は定まっていなかったが、1635年 (寛永12) 外様大名の、1642年 譜代大名の交代期限を定めた。
産経ニュースWEST 『これが参勤交代マニュアルだ!隊列は持ち物は土産は…紀州藩』 2013.08.03 配信
http://www.sankei.com/west/news/130803/wst1308030034-n1.html
『江戸時代の参勤交代で、紀州藩の“マニュアル”とみられる小冊子が和歌山市内の民家で見つかり、同市立
博物館に寄贈された。同博物館は「関所を通過する際の注意事項などが詳しく記されており、当時の紀州藩を
知ることができる貴重な資料」としている。
同市内の男性会社員が今年6月、自宅で書物を整理していた際に見つけ、7月上旬に同博物館に寄贈した。
「御道中御道割川河」と題された全59ページの小冊子で、縦12・6センチ、横17・5センチ。巻末の記述から、
安政7年(1860年)に「人見宗覚」という人物が筆写したとみられるが、紀州藩との関わりは不明という。
小冊子は、文化10年(1813年)に紀州藩の10代藩主・徳川治(はる)宝(とみ)が、参勤交代で和歌山から
江戸に向かった際のことについて挿し絵入りで詳細に記述。
大坂、伏見、大津など通過した地名のほか、静岡の焼鰻など土地の名物や土産物の書き込みもある。
また持ち物についても鉄砲や弓、矢などの装備品を細かく記し、かごの警護の仕方や隊列の組み方なども
挿し絵入りで紹介。川を渡る際の橋の位置や関所を通過する際の注意点なども記載されている。
さらに「人々は紀伊の『紀』の字さえ見れば大切に扱ってくれた」「関所の役人が、通過の際に土下座した」など、
当時の徳川御三家の威光を感じさせる記述もあり、同博物館の佐藤顕学芸員(34)は「当時の藩士たちが
藩主を誇らしく思っていたことが分かる興味深い資料」と指摘。
「同年代の資料と比較するなどして研究を進めていきたい」と話している。』
※ 人見宗覚は、岸和田藩の援助で出版された1697年に刊した『本朝食艦』を著した人見必大と関係があるかも知れません。
1810 (文化7) 年、江戸浅草で出版された『旅行用心集』(八隅芦菴やすみろあん編著) には、旅行に必要な持ち物、
日記の書き方、疲れに効くツボ、蛇や獣に襲われないように草鞋のうらに牛糞を塗って歩け。など事細かに旅行の
注意点が書かれていました。
電脳版・京都観光情報館 「旅行用心集」61ヶ条 http://www.eonet.ne.jp/~meisyo/edo.html ← こちらのサイトに内容が書かれています。
永福関東講えいふくかんとうこうは出版年不明、出版は江戸の菊屋幸三郎。
※ 菊屋幸三郎は代々続く屋号のようなもの。永福は東京杉並区の地名。
≪ モグサは江戸時代初期に量産され始めた ≫
モグサの研究(11) 産地について(2)織田隆三 著 - 1999 http://acupuncture.jp/dspace/bitstream/10592/17230/1/0693.pdf
『モグサが産業的に生産されていたことを確認できるのは江戸時代の初期である。
その頃は主に美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)で造られていた。
江戸期の後半になると主産地は北陸の越前(福井県)越中(富山県)越後(新潟県)へ移り、天保の頃は越前が
主産地だったかと思われる。
明治時代初期には富山県が最大の産地になっていた。福井、石川、新潟三県がこれに続いたが岐阜、滋賀両県
は衰退していた。
昭和の始め頃には新潟県が国内第一の産地になった。現在高級モグサは殆どすべて新潟県で造られている。』
【艾】もぐさ (燃え草の意) →ヨモギの異称。
ヨモギの葉を乾かして製した綿のようなもの。これに火を点じて灸治きゅうじに用いる。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「犬山城の桜をめざして①彦根城~柏原宿」』 14.03.06 放送
江戸時代の中山道道中、柏原かしわばらの宿場町には伊吹山産のもぐさを扱う店が10軒ほどあったそうでする
≪ 鍼灸治療、按摩も江戸時代に庶民に広まった ≫
鍼灸師 もぐさちゃんによる整骨院でのお話 14.07.08 ブログ配信 http://ameblo.jp/gussan1979/entry-11890759957.html
『江戸時代では「鍼灸医」とは、鍼灸療法で治療する漢方医のことをあらわします。鍼灸も按摩と同じように飛鳥
時代に中国から伝わってきましたが、按摩同様、庶民にとって身近な治療になるのは、江戸時代に入ってからの
はなしになります。
現代の鍼灸師とは違い、外科や内科のようなおおがかりな治療を引き受けることも文献を読んでいくとそのよう
に記載してあります。
この時代、町医者は往診が普通であり、治療費はものすごい額だったそうです。その反面、鍼灸医は気軽に
通え町医者よりもリーズナブルだったそうです。
奉公人であっても主人の許可を受けずに通えたために、鍼灸医が庶民の健康を支えてたともいえます。』
大阪府東住吉区ある中野鍼 平安時代からある鍼灸院で、近鉄「針中野」駅名の由来にもなった鍼灸院
テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『 20年に一度の大祭 伊勢神宮』 13.09.21 放送
フジTV 金曜プレステージ 『池上彰の緊急スペシャル』 13.10.04 放送
テレビ東京 137億年の物語 『日本最初の観光、お伊勢参りとは何か?』 13.12.28 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「伊勢・夫婦岩をめざす道 奮闘編③」』 14.02.26 総集編の放送
≪ 伊勢参り ≫ 伊勢神宮 日本人の総氏神様
お伊勢参りは町民や農民にとって一生に一度の楽しみとされていました。この伊勢参詣を広めたのが御師と
呼ばれる人たちが「お伊勢様を参るとあらゆる御利益がある」と、日本各地で御札などを配って広めました。
【御師】おし
① 祈祷に従う身分の低い神職または社僧。
② 伊勢神宮の神職で、年末に暦や御祓おはらえを配り、また参詣者の案内や宿泊を業としたもの。
伊勢ではオンシという。
伊勢では美味しい食事や居心地の良い宿を提供。伊勢参詣を行った人たちが、お伊勢参りでの楽しい旅行体験を
語る事で広まりました。
伊勢参りは農民でも旅をする事が許されていたため、各村には伊勢神宮に参る事を目標とした伊勢講が作られ、
旅行資金を貯めたりしました。
現在のツアーガイドと同じく、御師が旗を持って参詣者の道案内を行っていたので、団体旅行の始まりとも言われます。
参詣の時期は決まっていませんが、春に多かったようです。
東海道中膝栗毛にも記載がある旅館の麻吉は、江戸時代当時の面影を現在に残す唯一の旅館として知られています。
【伊勢講】いせ-こう 伊勢太太 (代代) 講。太太だいだい講
伊勢神宮を信仰する人々団体。室町時代初期より各地に成立。
毎月一定の日に集まり飲食し、平生より醵金きょきんして交代で、あるいは総員で伊勢参宮をし、太神楽たいかぐらを
奉納した。
【伊勢の御縁日】いせ-の-ごえんにち
伊勢神宮の縁日。月日は一定しないが、京都では1月・7月・12付の16日で、伊勢講を催した。
江戸時代の末期1830(文政13)年は、年間約500万人が参拝。推定人口
3000万人の頃。1日に18万人が参詣した記録も残っているそうです。
2010年に過去最高の883万人。
20年に一度の式年遷宮(内宮10月2日、外宮10月5日)がある2013年は
8月末で約835万人、年間1300万人と推定されています。
また、江戸時代は熊野詣、四国八十八所のお遍路などの旅もブームに
なりました。
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【歌川広重】うたがわ‐ひろしげ。(江戸の定火消同心の子、1797~1858)本姓、安藤。一遊斎・一幽斎・一立斎と号。
江戸末期の浮世絵師 歌川豊広の門人。詩情豊かな風景版画の連作に名をなし、また花鳥画にも新境地を
開いた。作「東海道五十三次」「名所江戸百景」など。
江戸~伊勢神宮は約500㎞で15日かかりました。日の出と共に出発し、日暮れまでに宿場町に着かなければ危険
だったりするので、現代より速い速度で歩いていたようです。1日30㎞以上歩くのが普通だったようです。
奈良県の宇陀市あたりで、伊勢表街道 (緩やかな道で遠回り) と、伊勢本街道(峠が3つあり険しいが近い) に分か
れる道もありました。
【伊勢街道】いせ-かいどう 参宮街道。
伊勢神宮への参詣道の称。東海道の日永ひなが (今の四日市市) から南下する道と、関せきから南下する道とが
特に重要で、後者を伊勢別街道と呼ぶ。
【伊勢道】いせ-みち … 伊勢の内宮・外宮間の50町を1里としたことから、距離の遠いことにいう。
町内でお金を出し合って代表者が旅したり、自分の代わりに飼い犬を連れて行って貰ったり、お金のない人は柄杓
ひしゃくを持ち行き、先々で人々に水・米・食事などの施しを受けながら旅行する事も可能だったようです。
旅行代金を工面した者や施しをした者も、参拝した者と同様に神様の神徳を得られると考えていたからだそうです。
伊勢での最大の楽しみはお土産でした。江戸時代に爆発的に売れたお土産が水あたり、食あたりに効くとされる
『満金丹まんきんたん』という薬。仁丹のような清涼感がある香だそうで、現在でも参道のおはらい町で売られています。
現在人気の赤福餅も江戸時代から売られていました。また生姜糖は、神様への供物の一つに生姜があり、軽くて
日持ちもする事から良く売れました。伊勢名物で各地に広まりました。
【生姜糖】しょうがとう 百菓辞典
砂糖を板状に固めた素朴な菓子。しょうが風味。
NHK 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第6回「東海道名物」』 16.05.10 放送
≪ 香川県の金毘羅参りも人気だった ≫ 京都の南座と香川県の金丸座 Wiki 金刀比羅宮
【金毘羅・金比羅】こんぴら (梵語 Kumbhra 鰐魚の意)
① 仏法の守護神の一つ。もとガンジス河にすむ鰐わにが神格化されて、仏教に取り入れられたもの。
蛇形で尾に宝玉を蔵するという。薬師十二神将の一つとしては宮毘羅くびら大将または金毘羅童子にあたる。
② 香川県の金刀比羅宮ことひらぐうのこと。
※ 全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮。主祭神は大物主命、(相殿あい‐どの)崇徳天皇。
右の画像は、歌川広重 作 1843~47年 『東海道五十三次之内 府中 あへ川遠景』の一部。
白装束に赤い天狗の面を背負うのが、金毘羅参りの定番の装束だったそうです。
【金毘羅船】こんぴら‐ぶね
金毘羅の参詣客のための乗合船。大坂などから丸亀・多度津の間を往来した
【金毘羅船船】こんぴら‐ふねふね
香川県の民謡。琴平町を中心に歌われたお座敷唄。軽快で明るい曲調。
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世界の民謡・童謡 『お座敷遊び・お茶屋遊びの曲 金比羅船々こんぴらふねふね』 ←のサイトに歌&遊び方の動画リンクあり
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/minyo/konpira.htm
『金刀比羅宮(ことひらぐう)とは、香川県仲多度郡琴平町の象頭山に鎮座する神社。「こんぴらさん」の呼称で
親しまれ、金毘羅宮、琴平宮とも書かれる。海上交通の守り神として信仰されており、境内の絵馬殿には航海
の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。江戸時代中期に入ると全国の庶民の間で「金毘羅参り(こんぴら
まいり)」が盛んに行われ、伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだったと伝えられている。』
♪金毘羅船々(こんぴらふねふね) 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州(さん
しゅう)那珂の郡(なかのごおり) 象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現(こんぴら だいごんげん) 一度まわれば♫
讃岐うどんの史料に初めて登場したのは元禄年間『金刀比羅宮祭礼図屏風』で、この頃、日本全国の各地の寺社の
門前町にうどん店が出来たと思われています。 香川県のうどんの歴史
毎日放送 ちちんぷいぷい 『熊野古道奮闘編①~③』、『伊勢・夫婦岩の旅 奮闘編①~⑤』 14.02.10~02.28 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅19』 15.08.27 放送 など
≪ 和歌山県の熊野詣 ≫ 熊野三社と八咫烏、平安時代の神輿など
熊野詣では平安時代中期に貴族の間で参拝ブームがありました。
京都の城南宮 (方角の神様) で身を清め、熊野詣の道中安全を祈願し出発したそうです。
【城南宮】じょうなん‐ぐう
京都市伏見区にある神社。祭神は神功皇后・大国主命・国常立尊。その祭礼に行われた流鏑馬やぶさめは有名で、
承久の乱に、後鳥羽上皇はこの行事に託して関東追討の兵を徴集した。7月20日に例祭、10月に神幸祭(餅祭)がある。
【熊野三社】くまの‐さんしゃ 熊野三山。三熊野みくまの。
熊野坐神社・熊野速玉神社・熊野那智神社の総称。熊野別当が現地で統率した。
【熊野三所権現】くまの‐さんしょ‐ごんげん 熊野ゆや権現。
熊野三社の主祭神として祀られる本宮の家都御子神けつみこのかみ、新宮の熊野速玉神、那智の夫須美ふすみ神の三所。
京都の城南宮
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熊野本宮大社
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熊野速玉大社
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熊野那智大社
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江戸時代はお伊勢参りに行く際も立ち寄る人が多かったようです。
伊勢神宮~那智の滝までは、日の出から日の入りまで1日40㎞を歩くと5日間で到達する距離。
街道を人が連なってる姿をさして『アリの熊野詣』という言葉できるくらい参拝者が多かったようです。
【熊野詣で】くまの-もうで
熊野三所権現に参拝すること。愚管抄[4]「白河院 (平安中期の天皇・在位1072~1086、上皇1086~1129) の御時、
御―といふこと始まりて、度々まゐらせおはしましける」
【愚管抄】ぐかんしょう
鎌倉初期、日本初の史論書。慈円 (僧・天台座主、四天王寺別当。藤原忠通の子、1155~1225) の著。7巻。
神武天皇 (記紀上の初代の天皇) から順徳天皇 (在位1210~1221) までの歴史を仏教的世界観で解釈し、
日本の政治の変遷を道理の展開として説明。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびだせ! えほん 「野崎観音スケッチ旅』 16.05.26 放送
≪ 大阪府の野崎参り ≫ Wiki 慈眼寺 (大東市)
大阪府北東部の大東市野崎にある創建から約1300年経つ曹洞宗・慈眼寺の俗称は『野崎観音』。
平安時代中期の一条天皇時代 (在位986~1011年) に、江口の遊女が再興したと伝えます。
境内には少し変わった十六羅漢像や、お染久松の塚などもあります。
鎌倉時代、江口の君は普賢菩薩の化身という伝説が作られ、後に婦人病から女性を守る仏様として信仰を集めました。
【野崎参り】のざき-まいり
野崎観音に参詣すること。江戸時代に隆盛。5月(陰暦4月) 1日~10日無縁経を修する法会があり、陸路で向かう客と
水路で向かう客とが悪口を応酬し合う奇習でも有名。浄瑠璃、1721年初演女殺油地獄「―の屋形船、卯月なかばの初暑さ」
↑ 「ふり売りケンカ」といい、口喧嘩に勝てば縁起が良いとされました。 Wiki 女殺油地獄
大坂から最も近い田舎として、船でも徒歩でも日帰りできる距離だったので、多くの人が参拝に訪れました。
大阪市鶴見区と東大阪にまたがる徳庵は上方落語の「野崎参り」にも登場する参道で、徳庵から船に乗りました。
徳庵商店街は道を挟んで大阪市と東大阪市になります。その商店街内の道は、昔は川で野崎参りの船が行き交いました。
徳庵名物の別品べっぴん餅は、黄な粉をまぶした餅の上に大豆の甘い餡が乗っています。
のざき観音(慈眼寺)HP http://www.nozakikannon.or.jp/
世紀末亭 集成! 読む上方落語 486演目 『野崎参り』 http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug124.htm
春團治 野崎詣り https://www.youtube.com/watch?v=POPSbHkNmeA ← ユーチューブ動画 『野崎参り 落語』で検索
落語 野崎参り
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徳庵名物の別品餅
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野崎観音 (慈眼寺)
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十一面観世音菩薩
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昭和10年、東海林太郎が歌う『野崎小唄』♪野崎まいりは~♫ がヒットし、全国的に野崎が有名になりました。
【東海林太郎】しょうじ-たろう (秋田県生まれ、1898~1972) … 流行歌手。「赤城の子守歌」「国境の町」などがヒット。
野崎小唄 東海林太郎 https://www.youtube.com/watch?v=ojMb1huJBOc
現在は、毎年5月1~8日に野崎駅から参道の両側に300軒もの露店が並び、大勢の参拝客で賑わいます。
境内特設舞台では、大道芸、太鼓、津軽三味線ライブ(無料)等が日替わりで行われるそうです。
【江口】
① 大阪市東淀川区の地名。神崎川が淀川の本流から分かれる所。
昔は、西海と京都との航路上の河港で、遊女もいて繁昌した。
② 能。観阿弥 作の原曲を世阿弥が改作した鬘物。江口の遊女が西行と歌を詠み
交わしたこと、遊女が普賢菩薩の化身であったという伝説などを脚色する。
【江口の君】えぐち-の-きみ
江口にいた遊女。特に、西行と歌を詠み交わしたとされる遊女 妙たえ (鎌倉時代の
説話集『撰集抄せんじゅうしょう』)、普賢菩薩と化現したところを性空上人が見たという
遊女 (1252年成立の『十訓抄じっきんしょう』・1212~15年の『古事談』) を指す。
この説話によって白象に乗る遊女の姿を普賢の図とする。
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野崎観音(慈眼寺)の中興の祖
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平安時代から、江口は蟹島 (加島) と 神崎 (尼崎) と並び遊女の里として栄えたそうです。
江戸時代の1796 (寛政8)~1798 (寛政10) 年に刊行された摂津名所図絵に『江口里』がありますので、長らく続いた遊里の
ようです。
平安末期のキーマン西行 遊女の歴史と吉原遊郭
【お染久松】おそめ-ひさまつ
大坂東堀瓦屋橋通の油屋太郎兵衛の娘お染と丁稚久松との情死の巷説ならびに、
これを脚色した作品群の通称。
紀海音「お染久松袂たもとの白しぼり」、菅専助「染模様妹背門松」、近松半二
「新版歌祭文」などの浄瑠璃。
また、4世鶴屋南北の歌舞伎1813年初演「お染久松色読販うきなのよみうり」、新内しんない節
「染模様妹背の門松」、常盤津「初恋千草の濡事」、清元きよもと節「道行浮塒鴎みちゆきうきねの
ともどり」(通称「お染」) など。
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野崎観音境内ある お染久松の塚
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大東市HP 『お染久松物語 近松半二作「新版歌祭文」~野崎村の段~より』
http://www.city.daito.lg.jp/kakukakaranoosirase/seisakusushin/miryoku/kankou/1252473752585.html
≪ 神奈川県の大山詣 ≫ Wiki 大山詣り
大山阿夫利神社おおやまあふりじんじゃは、社伝によると崇神天皇の御代に創建されたと
されます。平安時代の延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され、小社に列しています。
歌川国芳 作 1819~20年 『大山石尊良辧瀧之図』に、大山大山石尊(現・大山阿夫利神社)の
滝に参拝する男達が描かれています。
Wiki 大山阿夫利神社にある画像をクリックすると画面いっぱいの浮世絵を見る事ができます。
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【大山詣で】おおやま-もうで
夏、(神奈川県中部にある雨降山の頂上・標高1252mにある雨乞いの神様を祀る) 大山阿夫利神社に白衣振鈴の姿で
講社連中が参詣する行事。江戸中期、宝暦の頃より盛行。大山参り。石尊参り。
大山観光電鉄 『関東総鎮護 大山阿夫利神社』 http://www.ooyama-cable.co.jp/shrine.html
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