手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の歴史雑学 6 戦国~桃山時代 
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このページの最終更新日:   18.07.05
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昭和時代の雑学1 昭和時代の雑学2 江戸時代の文献記述 東京付近の歴史 沖縄の歴史
 
  Page Contents



 慶光院清順 129年ぶりに伊勢神宮の式年遷宮を復活させた尼僧

 最弱の戦国大名? 小田氏治

 高山右近と、天正遣欧使節団4人の日本人少年 2016年、バチカンが「福者」に認定。

 ザビエル 日本での布教期間2年3ヵ月。死後の遺体は細かく切断され世界各地で祀られた。

 蒲生氏郷 天下を狙えた実力者

 太田道灌 江戸城を築城し、「戦国武将の魁」と言われた逸話 日枝神社

 上杉氏 藤原北家の支流から武家へ 鎌倉公方の足利家の執事として関東管領、一門で争い、後北条に敗れ、
  上杉家の家老 長尾景虎 (上杉謙信)に家督を譲り、豊臣の五大老、明治には伯爵として華族に。

 大坂城 御奥のシステムが江戸時代の大奥へと発展など  関ヶ原の合戦以降、書きかけ 

 戦国時代は金箔より銀箔の方が高級品だった。


 ザビエルと日本人の地獄観 
  室町末期の庶民の価値観などがわかる逸話

 石垣と穴太衆 書きかけ
  石割の方法など

 大坂城の石垣 大阪市内各所に残る「残念石」など
   18.07.05追記

 柴田勝家 信長の筆頭家老 
  勇猛な武将だか、総大将には成りたくなかった。

 豊臣秀長 秀吉の実弟、豊臣家躍進の縁の下の力持ち


 高知県 一条教房が整備した小京都
   四国の覇者 長宗我部元親

 加藤清正 部下を大切にする人柄の逸話

 細川忠興 と ガラシャ 妻 ガラシャ大好きな忠興の逸話

 変わり兜 
  戦国時代~江戸時代にかけて、色んな形の兜が
  作られました。


  おすすめサイト 歴史の雑学が色々と載っています。
  株式会社まぼろし 歴史雑談録 http://rekishi.maboroshi.biz/about/
  歴史研究所 『日本史』 http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
  日本歴史 武将・人物伝~戦国武将 http://www.jpreki.com/jp/
  株式会社 井筒 企画 お祭り大好き 『戦国時代 -時代衣装あれこれ-』 http://www.iz2.co.jp/jidai/sengoku.html
  こはにわ歴史堂のブログ http://ameblo.jp/kohaniwa/  ← 朝日放送 コヤブ歴史堂「こはにわ先生」の浮世博史さんのブログです。

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 戦国時代 
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『戦国大名』 14.08.01 放送 / 同 『織田信長』 14.09.05 放送
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『武田信玄・上杉謙信 ~戦国の争乱~』 14.08.27 放送

  室町時代中期頃の応仁の乱 (1467~1477) 以降~織田信長入京の1568または、織田信長が将軍足利義昭を京から
  追い出し安土城を拠点とした1573年頃までを一般的に戦国時代と言うようです。

  欧州では大航海時代、中国は明の時代。日本では各戦国大名が自領を発展させる為に、城下町・港町・寺の
  門前町などを整備発展させた時代。日明貿易・南蛮貿易で堺が最も発展していました。





  室町幕府から任命され、1~数ヵ国を領したのが守護大名。
  戦国大名は武力を背景として大きな領地を勝ち取り領主になった者の事。





  【安土桃山時代】あづち‐ももやま‐じだい
   織田信長・豊臣秀吉が政権を握っていた時代(1573~1598年)。
   または信長入京の1568年(永禄11)から関ヶ原の戦で徳川家康が勝利した1600年(慶長5)まで。織豊しょくほう時代。
  
 上杉氏
  NHK・大阪 歴史ヒストリア 『戦国ボス・武田信玄 最強の秘密 ~ダメ上司から名将への道~』 13.10.09 放送
  NHK・大阪 歴史ヒストリア 『師匠、オレは戦国大名になる! "やられ役"今川義元の真実』 15.05.27 放送

  ≪ 公家だった上杉氏 ≫  Wiki 上杉氏

  藤原北家の勧修寺かんしゅうじ流の流れを汲み、鎌倉時代の中頃まで京都の中級公家の家柄でした。
  重房の代に至って丹波国何鹿郡上杉荘うえすぎのしょう (現在の京都府綾部市上杉町周辺)を領して上杉氏を称しました。

  【上杉重房】うえすぎ‐しげふさ (生没年未詳)
   鎌倉時代の武将。上杉氏の祖。もと藤原氏の一つ支流勧修寺氏を称したが、1252年(建長4)宗尊親王に従って
   鎌倉に下り、武家となり、丹波国 (京都) 上杉荘を与えられる。

  【宗尊親王】むねたか‐しんのう (1242~1274)
   鎌倉幕府6代の将軍(在職1252~1266)。後嵯峨天皇の皇子。中書王。謀反の疑いで京都に送還され、のち出家。
   和歌に通じ、「柳葉和歌集」などを残す。


   ≪ 足利氏 ≫

  清和天皇 - 摂津の多田源氏 - 河内源氏の源義家の
  3男 義国の子 義康から始まり、仁木、細川を輩出。
  次いで吉良、今川、斯波の各氏を輩出しています。


  ≪ 関東管領 上杉氏の始まり ≫

  南北朝時代初代の鎌倉公方 足利基氏の執事で
  あった上杉憲顕が関東管領として事実上、関東を支配。

  【関東管領】かんとう‐かんれい 鎌倉管領
   室町幕府の職名。関東の政務を総管させるために
   鎌倉に設置。

   1363年(貞治2)足利基氏が執事 上杉憲顕(1306~1368)を任じたのに始まる。上杉氏の世襲

  【上杉憲顕】うえすぎ‐のりあき (1306~1368)
   南北朝時代の武将。関東管領、伊豆・上野・越後守護。山内上杉氏の祖。建武以後主として関東にあり重きをなした。


  ≪ 上杉氏の分家 ≫

  室町時代前期山内上杉家を嫡流として、一族から 犬懸宅間扇谷おうぎがやつの諸家が出た。
   (この4家の家名はそれぞれの屋敷のあった鎌倉近郊の地名を由来とする)。
   上杉一門で相模、武蔵、上野、越後の4ヶ国の守護職を務めた。

  宅間家は早くに衰退。山内家と犬懸家が有力でしたが、関東管領になった犬懸家の上杉禅秀が謀反をし没落
  以後、山内家が関東管領職を独占

  【上杉禅秀】うえすぎ‐ぜんしゅう (~1417)名は氏憲。
   室町前期の武将。犬懸上杉家に生まれ、関東管領となったが、1416年(応永23)鎌倉公方 足利持氏に叛逆(禅秀の乱)
   して敗北、自殺。

  【足利持氏】あしかが‐もちうじ (1398~1439) Wiki 足利持氏 第3代の鎌倉公方 満兼の子。
   室町前期の武将。第4代鎌倉公方(在職:1409~1439年)。鎌倉公方。上杉禅秀の乱を平定。
   のち第6代将軍の義教と対立、足利持氏が将軍職を望んで室町幕府に叛逆、これを諫めた上杉憲実をも除こうとし、
   永享えいきょうの乱を起こしたが、敗れて自刃。

  【上杉憲実】うえすぎ‐のりざね(1410~1466)
   室町中期の武将。関東管領。足利学校・金沢文庫を再興。将軍 義教と鎌倉公方 足利持氏との不和を調停したが、
   結局は持氏を倒し、その死後剃髪、諸国を行脚。


  ≪ 鎌倉公方の足利家が2つに分裂 ≫

  室町時代中期、下総国の豪族で結城の城主である結城氏朝ゆうき‐うじとも(1402~1441)が、1440年(永享12)に
  持氏の子 足利成氏を迎えて結城に拠り幕府に叛いた (結城合戦) が、上杉憲実に敗れて自殺。

  【足利成氏】あしかが‐しげうじ (1438~1497)古河公方。 持氏の子
   室町中期の武将。結城合戦後に許されて鎌倉公方となる。幕府・上杉氏と対立し、下総古河に移って古河公方と称し、
   1458年に足利政知が関東へ下向して名乗った堀越公方 と対抗。

  【足利政知】あしかが‐まさとも (1435~1491) 第6代将軍 義教の子。第8代将軍 足利義政の異母兄
   室町中期の武将。成氏を抑えるため東下させられたが、伊豆にとどまり堀越公方と呼ばれた。

  1454 (享徳3) 年、関東管領の山内家の上杉憲忠が足利成氏に暗殺され、上杉一門は結束して、成氏を攻めますが、
  扇谷家の上杉顕房が返り討ちにあい討たれてしまいます。享徳の乱(28年にも及んだ)。
  幕府が成氏討伐を決定しますが、成氏は下総に逃れ古河公方と名乗り上杉氏に反感を抱く関東の諸将を味方につけ、
  鎌倉公方は利根川を境界線として古河公方 (東側、茨城県の古河) と、幕府側の堀越公方 (西側、伊豆の
  堀越が拠点) とに分断します。

  1467 (応仁1) 年、京都で応仁の乱が勃発。

  【天文法華の乱】てんぶん-ほっけのらん
   天文5年(1536)、比叡山延暦寺の僧徒らが京都の法華宗徒を襲撃した事件。
   日蓮宗21寺が焼き払われ、洛中はほとんど焦土と化した。天文法難。


  ≪ 上杉一門内での覇権争い ≫

  享徳の乱の後、関東に拠点があった山内上杉家と、京都に拠点があった扇谷上杉家が関東の覇権を争い対立。
  次第に上杉氏の勢力が衰えることに繋がります。

  【上杉定正】うえすぎ‐さだまさ(1443~1494)
   室町中期の武将。(鎌倉扇谷に住んだ管領の上杉氏の分家の一つ) 扇谷おうぎがやつ家の当主として太田道灌を用いて
   勢威をふるったが、のち讒ざん(悪意で人をおとしめる嘘) を信じてこれを殺してから衰え、北条早雲・山内上杉顕定と
   戦って陣没。


  ≪ 伊勢氏 (北条氏) の台頭 ≫ 鎌倉時代の執権 北条氏とは関係ないので、「後北条」と書き分けされます。

  関東に台頭してきた戦国大名の北条氏 (元は伊勢氏、関東を支配するため「北条」を名乗った) 3代によって、
  関東管領の主家の上杉家は滅亡します。

  【北条早雲】ほうじょう‐そううん(1432~1519) 伊勢新九郎盛時と称し、剃髪して早雲庵宗瑞と号。
   戦国時代の武将。はじめ今川氏に拠って駿河におり、堀越公方 足利政知の子、茶々丸を滅ぼして伊豆を併せ、
   のち相模を奪って小田原城に入り、後北条氏5代の基を開いた。

  【北条氏綱】ほうじょう‐うじつな (1487~1541) 早雲の長子。
   戦国時代の武将。小田原城主。扇谷おうぎがやつ上杉氏を攻めて武蔵・両総に勢を張った。箱根早雲寺に葬る。

  【北条氏康】ほうじょう‐うじやす(1515~1571) 氏綱の長子。
   戦国時代の武将。1546年武蔵河越で山内・扇谷両上杉氏を破り、のち上杉謙信と戦って撃退、
   民政にも力を注ぎ北条氏の全盛期を築いた。

  【北条氏政】ほうじょう‐うじまさ (1538~1590) 氏康の長子。
   安土桃山時代の武将。下総・駿河・常陸を攻略。豊臣秀吉に小田原城を攻められ、自刃。

  【北条氏直】ほうじょう‐うじなお (1562~1591) 氏政の子。
   安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に小田原城を包囲されて降伏。
   徳川家康の女婿であったことから助命、高野山に追放された。



  ≪ 東海の戦国大名 今川氏 ≫

  【今川】
   足利氏の支族。三河国幡豆はず郡の今川を氏とし、遠江・駿河 (静岡県の西部と中央部)
   の守護大名、のち戦国大名。

  【今川義元】いまがわ‐よしもと(1519~1560) 戦国大名 今川氏親(1473~1526)の子。
   戦国時代の武将。駿河・遠江・三河地方に勢力を振るう。織田信長と戦って桶狭間に討死。



  ≪ 上杉家の越後の家宰 (家老) の長尾家が上杉家へ ≫

  関東における覇権を新興勢力である後北条氏に押され、山内上杉家の上杉憲政は、越後守護代として勢力を台頭
  させていた三条長尾家の長尾景虎に関東管領職と「山内上杉」の家督を譲ります。
  これによって、上杉氏は北陸に勢力を拡大しますが、北条氏康・氏政との抗争で関東の領地を失います。

  【上杉憲政】うえすぎ‐のりまさ(1523~1579)
   戦国時代の武将。関東管領であったが北条氏康に攻められ、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って、
   関東管領職と上杉の姓を譲る

  【上杉謙信】うえすぎ‐けんしん (1530~1578)初名は景虎。 長尾為景の子。
   戦国時代の武将。春日山城に拠り、越後を領し、加賀・能登に勢力を張る。上杉憲政から
   上杉氏の名跡と関東管領を譲られ、政虎と改名。
   のち輝虎と改め、剃髪して不識庵謙信と号す。義侠に富み、兵略に長じ、しばしば小田原の
   北条氏および武田信玄と戦った。

  【上杉景勝】うえすぎ‐かげかつ (1555~1623) 長尾政景 (上田長尾家) と謙信の姉の子。
   上杉謙信の養子。安土桃山時代の武将。
   謙信の死後、豊臣秀吉に仕え、五大老の一人となり、会津 (福島県) 120万石に封ぜられ、
   会津中納言。関ヶ原の戦に石田三成と結んだため、米沢 (山形県) 30万石に移封



  関西テレビ NMBとまなぶくん 『歴史芸人が教える おもしろ歴史雑学!! ウソ? ホント? 戦国武将の真実」』 15.05.08 放送

  【直江兼続】なおえ-かねつぐ (1560~1619) もと樋口氏。   Wiki 直江兼続
   安土桃山時代の武将。山城守。上杉景勝に仕え、名家宰として知られる。詩文をよくした。


天下統一目前の秀吉から、5倍の給料でヘッドハンティングの誘いを受けますが、
「私の主君は上杉景勝だけです」と言って誘いを断った。

関ヶ原の合戦の前の頃、家康が「上杉は武器を集めて謀反を企てている」という
言いがかりを付けてきましたが、「私たちは理不尽なことを言い訳するほど暇では
ない。我らを攻めるのであれば、いつでもお相手いたそう」と返答しました。

この『直江状』と呼ばれる手紙の返答が、関ヶ原の合戦の引き金になったとも
言われているそうです。

  江戸時代になり、上杉が領地を減らされ30万石の米沢に移封になった時、兼続は「人こそ組織の財産なり。来たい
  者は皆ついてこい」と言ったので、多くの家臣がついて行きました。
  厳しくなった財政で過剰な家臣を養わなければならず、自ら質素倹約に努めて、家臣の生活を守る事に取り組みました。

  江戸時代、米沢は15万石まで下がりますが、上杉氏は幕末まで大名であり続け、明治時代は伯爵を授けられ華族と
  なりました。
 
 太田道灌 江戸城を築城し、戦国武将の魁。
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『天才・太田道灌VS㊙凶暴サル』 14.05.18 放送 /
  Wiki 太田道灌 / Wiki 摂津源氏

  1432 (永享4) 年、太田道灌は、扇谷おおぎがやつ上杉氏の家宰 (家老) であった太田道真 (資清) の子として生まれます。
  「鎌倉五山(一説によれば建長寺)で学問を修め、足利学校(栃木県足利市)でも学んだ。」(永享記より)
  扇谷家の上杉持朝と、その子である 憲忠 と 定正に仕えます。

 【太田道灌】おおた‐どうかん(1432~1486)名は資長。俗に持資もちすけ摂津の多田源氏の家系
  室町中期の武将・歌人。扇谷おうぎがやつ上杉定正の家宰 (家老) 。江戸城を築くなど築城・兵法に長じ、学問・文事を好んだ。
  定正に謀殺された。






   Wiki 名将言行録 続きは→  東京付近の関東の歴史 太田道灌へ移動しました。

  『名将言行録』めいしょうげんこうろくは、戦国時代の武将から江戸時代中期の大名までの192名の言動を浮き彫りに
   した人物列伝。幕末の館林藩士・岡谷繁実が1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの15年の歳月を
   かけて完成させたもの。
   当時巷間で流布していた話を参集しただけの箇所もあり、入念な調査、検証を行ったわけではない。
   そのため整合性の合わない記述なども散見され、史実と乖離しているという指摘も受けており、
   歴史学界では信頼性に乏しい「俗書」扱いをされている。

  【岡谷繁実】おかのや-しげざね
(上野館林こうずけ-たてばやし藩士1835~1920) 幕末の武士。 コトバンク
   大目付などをへて,文久3年中老。藩主 秋元志朝 (ゆきとも) の命により幕長戦争の回避にうごくが,禁門の変ののち,
   幕府の嫌疑をはらすため蟄居 (ちっきょ) となる。維新後は修史館御用掛などをつとめ,「名将言行録」を編集した。
   大正9年12月9日死去。86歳。通称は鈕吾。


  『寛永諸家系図伝』かんえい‐しょかけいずでん (諸家はショケともよむ)
   江戸幕府が編纂した大名・旗本の系譜。徳川家光の命で、1641年(寛永18)編纂開始、43年完成。
   若年寄 太田資宗を奉行に、林羅山ら儒者・僧侶が各家から提出された系譜を編纂。
   真名本(漢文体)・仮名本(漢字仮名交り)(ともに186巻)の2種がある。寛永譜。寛永系図。

  『寛政重修諸家譜』かんせい‐ちょうしゅう‐しょかふ
   諸大名以下幕臣御目見おめみえ以上の諸氏の系図・略歴を記した書。
   江戸幕府が前に撰んだ「寛永諸家系図伝」の続集として計画、若年寄 堀田正敦を総裁とし、林述斎らが編纂、
   1799~1812年(寛政11~文化9)成る。1530巻。
 
 伊勢神宮の式年遷宮を復活させた慶光院清順
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿縦断500㎞の旅7 三重県熊野市~入鹿八幡宮へ」』 14.06.12 放送

  三重県紀和町にある入鹿いるか八幡宮は、室町時代に地元の入鹿一族が応神天皇を祀る為に創建した神社と
  言われています。
  この神社のすぐ近くに入鹿地区出身とされる慶光院清順けいこういん-せいじゅん(~1546) という臨済宗の尼僧の顕彰碑が
  建てられています。






  戦国時代、伊勢神宮は見るに堪えないくらい荒廃していたそうです。
  20年に一度行われる予定の式年遷宮は完全に途絶えていました。
  室町時代に創建された尼寺の慶光院の尼僧である清順は、伊勢神宮を復興しようと、11年にわたり諸国を巡り戦国大名を
  説得し寄付金を集めました。1563年、清順が集めた寄付金により129年ぶりに式年遷宮が復活しました。

  清順の事を調べている入鹿八幡宮の宮司 須崎行雄さんによると
   当時は尼さんであり女であるという事で色々な事で社会的に制約を受けていましたが、強い意志と粘り強さによって
    造営を成し遂げたと言われています。こういう立派な上人の事だから、後世に残しておかなければいけないと思い
    資料を作っています。

  くわしくは Wiki 慶光院 と Wiki 清順 を合わせてご覧ください。

  ≪ 奈良の大仏を復興した公慶 ≫  NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『世界遺産スペシャル ~秘められた日本人のドラマ~』 14.03.12 放送

  奈良の大仏は1567 (永禄10) 年に、松永久秀 (1510~1577) によって焼かれ、江戸時代に公慶上人が1684年から
  全国行脚して庶民から寄付を募り7年かけて目標の1万1000両 (10億円あまり) を集め、1691 (元禄4) 年に復興造営
  されました。






  (宗)東大寺 『東大寺 公慶上人』  http://www.todaiji.or.jp/index/koke/koke.html  Wiki 公慶  Wiki 東大寺大仏殿の戦い
  
 ザビエルの布教活動と日本人の地獄観 16.11.16追記
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『フランシスコ・ザビエル』 13.09.15 放送
  テレビ東京 137億年の物語 『キリスト教を伝えたザビエルと戦国武将の物語』 14.08.09 放送
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『フランシスコ・ザビエル ~キリスト教の伝来・ヨーロッパとの交流~』 14.09.03 放送
  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『ザビエル 戦国を行く ~知られざるニッポン 3万キロの旅~』 15.04.01 放送

  大航海時代の欧州スペインの貴族として生まれたフランシスコ・ザビエルは放蕩三昧の生活を
  おくっていました。
  キリスト教を知った事から、のめり込みイエズス会の創設メンバーの一人となりました。

  【大航海時代】だいこうかい‐じだい
   15世紀から17世紀前半にかけて、ヨーロッパ人が新航路を開拓、新大陸に到達し、活発な海外
   進出が諸国に起こって、西欧の政治・経済に重大な影響をもたらした時代。発見時代。


  【イエズス会】(Society of Jesus) ジェズイット教団。耶蘇会ヤソかい
   スペインのイグナティウス=デ=ロヨラらが1534年に結成し、1540年にローマ教皇の公認を得た修道会。
   反宗教改革の先頭に立ち、日本にも同会士ザビエルらが渡来し、キリシタン文化興隆に寄与。
   教皇の要請に応えて柔軟に諸活動に従事する。

  【ザビエル】 Francisco de Xavier 漢名は方済各。シャビエル。ザベリヨ。(1506~1552)
   日本に渡来した最初のイエズス会士。スペインのナバラ王国の貴族。1541年東洋伝道のためインドからマラッカなどを遍歴、
   1549年(天文18)鹿児島に来日、平戸・山口など日本各地に伝道。1551年離日、中国に入ろうとして広東付近で病没。
   列聖。「インドの使徒」の号を追贈。






  1541年 スペインの西隣のポルトガル王の依頼により、スペインの首都リスボンを出港し東洋へと布教の旅に出発します。
  インドを拠点に東南アジアなどで布教をしていました。

  ポルトガルの歴史研究家 リカルド・マッシモさんによると、ザビエルはポルトガルでも有名。彼は元々とても好奇心旺盛な
  人で、布教の時も現地の庶民とすぐに仲良くなりました


  ≪ ザビエル 日本へ ≫ 日本に初めて長期滞在した外国人とされています。

  ザビエルは主に西日本を中心に各地を布教し、日本での布教の大変さを嘆く手紙も多く残しているそうです。
  ザビエルと縁が深い堺市では『ザビエル公園』があり、『南蛮行列』という祭も行っています。

  1547年 ザビエルが41才の時、マラッカ (マレーシア) にいたヤジロウ(アンジロー)と出会たのが日本布教に来るきっかけに
  なりました。

  1549年 ヤジロウの故郷の薩摩 (鹿児島) に上陸。外国人に興味を抱いた日本人に、サビエルは慣れない日本語で布教し
  100人ほどの信者を集めることが出来たと言われています。

  日本では「キリスト=大日如来」、「生母マリアイコール観音菩薩」というように、理解し易く言い換えて聖書の内容を伝えた
  そうです。

  1550年夏、キリスト教徒が急速に増える事に危機感を抱いた仏教僧などが、布教を禁じるように島津氏に働きかけ、
  キリスト教を布教する禁止令が出ました。その為、ザビエルは京都に行き天皇に直訴する事にしました。






  1550年秋、信頼するアンジローらを薩摩に残して信者を託し、ザビエル (44才) は、後輩修道士のフェルナンデスと鹿児島で
  最初に洗礼を受けた日本人のベルナルドの3人で旅に出る事にしました。
  鹿児島で薩摩に立ち寄っていたホルトガル船で出発し、南蛮貿易で賑わう長崎の平戸まで行き、そこから京都まで約600㎞
  を徒歩で移動する予定でした。民家に泊めてもらい托鉢で食料を分けて貰い旅を続けました。

  ザビエルの手紙
  いたる所で戦争があったため、道中 様々な危険に見舞われました。たくさんの盗賊が横行していましたが、それについては、
   事細かに話すつもりはありません。

  1550 (天文19) 年12月、山口では着の身着のままのボロ服になった外国人に驚いた子供たちに石を投げつけられたり
  しましたが、空腹で動けなくなったザビエルら3人に、通りかかりの村人が食べ物を分け与えてくれました。
  ザビエルの手紙
  この国の人々はみな貧しい暮らしをしています。でも貧しさを恥だとは思っていません。彼らは誇りを大切にして生きています

  岩国では侍の一団に出会い堺まで船に乗せて貰える事になります。船の中では、堺で困らないようにと堺の知り合いを紹介
  してくれる人までいました。
  堺に到着し、ザビエルらは紹介された家を訪ねます。当時、堺で有数の豪商 日比谷了慶の屋敷でした。
  ここでも心のこもった もてなしを受けます。
  ザビエルの手紙
  この国の人々は、私にとても親切にしてくれます。このように善良な人たちは他にいないのではないでしょうか

  1551 (天文10) 年1月、天皇に謁見し不況の許可を貰うために京都に辿り着きました。
  しかし、戦国時代の京都は戦乱で荒れ果てていました。戦乱で焼け出された人が多く、治安が悪化し略奪なども横行して
  いました。何の伝手も持たないザビエルらは門前払いを受け、謁見する事は叶いませんでした。

  ザビエルの書簡によると
  私たちの布教活動の効果はイマイチだったので、京都で天皇にお会いして、ちゃんと布教の許可を得ようと思ったのですが、
   お会いする事が出来ませんでした。でも国民も、随分前から天皇に従わなくなっていると聞いたので、これ以上、会おうと
   するのは諦めました。

  日本に残っている史料 ルイス・フロイス (ザビエルの後に来日) の日本史では
  ザビエルは天皇を訪問した時、ボロボロの恰好だったので、「天皇への贈り物を持っているか」と尋ねられた。
   ザビエルは、「いえ、今は…。でも、持って来てはいるんですよ。長崎の平戸に残してきたから、天皇に会えるなら、
   お渡しするために取り寄せます」と答えた。 しかし、結局、聞き入れてもらえず会えなかった。

  【ルイス・フロイス】Luis Frois (1532~1597)
   ポルトガル出身のイエズス会士。インドで司祭となり、1563年(永禄6)来日。織田信長・豊臣秀吉らと親交。
   滞日中140通余りの日本通信を本国に送り、また1549年(天文18)以降の布教史「日本史」を執筆。
   日本二十六聖人の殉教を目撃し、長崎で没。

  後奈良天皇(在位1526~1557)への謁見を諦めたザビエルは、各地を治める戦国大名の許可を貰う事にし、
  まずは西国一の大名だった大内義隆に会うために山口へと向かいます。

  時計やオルゴール、望遠鏡などの品々を贈り布教の許可を求めました。
  大内義隆は、西洋の品々に強く興味を魅かれ布教の許可を出します。
  ザビエルは、わずかな布教期間で500人ほどの信者を得ることに成功しました。

  【大内義隆】おおうち‐よしたか(1507~1551) 室町幕府管領代の義興の長子。
   室町末期の武将。周防以下7カ国の守護。肥前・筑後・安芸などに出兵したが、
   家臣 陶晴賢すえはるかたの叛逆にあい長門深川大寧寺で自刃。
   中国・朝鮮から文物を輸入、大内版を開版するなど、文化上の功績大。


  そのうち、九州の大大名であった大友宗麟がキリスト教に興味を持ち豊後 (大分県) にサビエルを招きます。
  宗麟自身がキリシタンとなり布教を後押ししました。ザビエルに屋敷まで与えたそうです。
  わずか1ヵ月で100人ほどの信者が集まったそうです。

  【大友宗麟】おおとも‐そうりん(1530~1587)名は義鎮よししげ
   戦国時代の武将。豊後の府内におり、九州のうち6カ国守護となる。キリシタンに帰依して、南蛮貿易を盛んにした。







  ≪ 「地獄に落ちると救われない」と教えると、日本人は絶望した ≫

  ザビエルが日本人に接してみると「頭も良く礼儀正しい、
  良い国だ」と最初のうちは思っていたらしいです。

  ところが、地獄観が違うのと、質問攻めに疲れたそうです。




『フランシスコ・ザビエル書簡』

  日本には『蜘蛛の糸』の話があるように、地獄に落ちても救われる可能性があるという感覚。

  キリスト教は、生前の行いや信仰の深さで『裁き』を受けて地獄に落ちると、助かることはない。という考え。
  次のような会話も残されているようです。

  ザビエル 「悪いことをした人は地獄に落ち、地獄に落ちたら救われませんよ。(*^_^*)」 
  日本人  「(>_<) ほんなら、うちのお父ちゃん、地獄のままですか? (T_T)
  ザビエル 「(^_^;) い、いゃ~そんな・・まぁ・・・泣かなくても・・・
  日本人  「(^-^)じゃあ、助かることもあるんですか?
  ザビエル 「(*_*) でも、地獄に落ちたら助ける方法はない !」 
  日本人  「(ToT) やっぱり、助かれへんのや~。(T_T)

  好奇心と知識欲が旺盛な日本人は、祈る時間も、食事する暇も、寝る時間も無い位毎日質問攻めにあって大変だった。
  「日本人の質問攻めは大きな迫害だった」と残しています。


西日本各地で布教の成果を収めたものの、日本全体
へ普及する為に1551年11月に一度日本を出国し中国へ
渡る事を決意。

仏教が中国から日本へ伝わったように、キリスト教も
中国から日本へ伝えようと考えたからです。
1552年8月頃に日本に戻るつもりだったようです。

  しかし、1552年12月3日、中国に入ろうとして広東付近の上川島において46才で病死しました。

  日本を離れた後に書いたザビエルの手紙
  私は日本人への感謝の気持ちを書き尽くす事ができません。

  ザビエルと共に出国したベルナルドは日本に戻る事無く、3年をかけてイタリアのローマへと向かいました。
  日本人で初めてローマ法王 (パウロ4世の時) に謁見。遥々遠くから来た日本人に対し、人々から惜しみない賛辞が贈られました。

  ポランコ書記官の記録
  ベルナルドの聡明さや快活な性格は、あのザビエルの弟子の面目躍如たるものがあった

  薩摩 (鹿児島) に残ったアンジローは、キリシタンを嫌う島津氏から激しい迫害を受けました。海賊船に身を投じ東シナ海で
  死んだという話が伝わっているそうです。

  その後、豊後 (大分県) は1万人以上の信者が暮らすキリシタンが多い国になりました。
  2010年、大分県で、日本初の戦国時代のキリシタン墓地が発掘されました。54基の墓が整然と並んでいました。


  ≪ ザビエルの肖像画と遺体 ≫   高山右近

  下の有名なザビエルの肖像画はザビエルの死から80年後に日本人の画家が描いたものだそうです。

  大正時代、大阪府茨木市の山間の民家で発見されました。隠れキリシタンが代々人知れず受け継いできた肖像画でした。
  高槻・茨木・豊能町一帯は、戦国時代のキリシタン大名 高山右近の領地でした。
  この辺りは、江戸時代には『隠れキリシタン』の信者が多く残っていました。

  頭頂部を剃った髪型は『トンスラ』と言われ、キリストが十字架に磔になった時、頭にイバラの冠を被っていた事を模して、
  髪を冠のように残したへアスタイル。

  ザビエルの時代は、トンスラの習慣がなかったと言われおり、欧州に残るザビエルの肖像画の多くはトンスラの髪型を
  していません。






  中国で病死したザビエルの遺体はインドのゴアに運ばれますが、いつまで経っても腐敗しなかったので『奇跡』とされ、
  世界各地で祀られる事になります。
  遺体はローマに送られ細かく切断され、ポルトガルには「耳・髪・歯」、内臓はヨーロッパの教会や信者に配られ、
  日本には「胸骨の一部」が東京にあります。
  ローマに残された右腕は『ザビエルの聖腕せいわん』として世界各地を巡り、1949年と1999年に日本でも展示された事があります。


  ≪ キリスト教と織田信長 ≫

  1569年 西洋文化に興味を持った織田信長が、キリスト布教を認め安土城下に南蛮寺という教会を建てます。
  ザビエルが来日してから、1582年の本能寺の変までの約30年間で、日本には約15万人の教徒がいたそうです。

  【南蛮寺】なんばん‐じ
   室町末期~安土桃山時代、日本各地に建てられたキリスト教寺院の称。
   織田信長の許しを得て京都四条坊門と安土とに建てられたものが最も著名。1587年(天正15)の豊臣秀吉の禁教に
   よって破毀。

  【フロイス】Luis Frois (ポルトガル出身のイエズス会士、1532~1597)
   1563年 (永禄6) 来日。織田信長・豊臣秀吉らと親交。滞日中140通余りの日本通信を本国に送り、また49年 (天文18)
   以降の布教史「日本史」を執筆。日本二十六聖人の殉教を目撃し、長崎で没。

  1587 (天正15) 年 6月18日に豊臣秀吉が出したバテレン追放令は、宣教師などポルトガル人による日本人を奴隷として
  貿易が行われていた為。宣教師を国外追放し、長崎で教徒26人を処刑。
  記録上、日本初のキリシタン弾圧と言われています。

   詳しくは 歴史を読む 『かくも忌まわしき人間虐待』 http://sound.jp/sodaigomi/dorei/japan/nihon.htm






  続きは、この下で→ キリシタン大名 高山右近と天正遣欧使節団の4人の日本人少年


  ≪ 南蛮貿易 ≫

  室町末期から主にポルトガル・スペインの船(南蛮船)との間に(南蛮)貿易が始まる。
   実質的には日中間の中継貿易。銀などを輸出し、生糸・絹織物などを輸入した。
   日本には、パン・カステラ・金平糖・ボタン・グラス・カルタなどが入ってきました。

   江戸時代、徳川幕府の鎖国令まで続きます。(1635年(寛永12)の海外渡航禁止令と、1639年のポルトガル船来航禁止令)
   1636年(寛永13年)ポルトガル商人の為に、長崎市の海を埋め立て出島を作り、1641年に平戸にいたオランダ人を移転させる。

  南蛮貿易などを通じた食品の輸入が本格化すると、新大陸(南北アメリカ大陸)の食材がもたらされます。
 
 鉄砲伝来
  NHK大阪 歴史ヒストリア 『戦国のプロフェッショナル「国友の鉄砲大活躍 !」』 13.09.25 放送
  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『利休を訪ねて~堺の美ぶらり』 13.12..07 放送
  テレビ東京 137億年の物語 『鉄砲伝来の物語 その2 ~日本は銃大国だった !?~』 14.07.19 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびたせ ! えほん 「ちんちん電車が走る街 大阪府堺市でえほん旅」』 14.07.24 放送

  ≪ 鉄砲伝来 ≫






  1542年にポルトガルから鹿児島県の種子島に伝わった鉄砲。当時、16才の藩主 種子島時尭ときたかが2丁を(現在に換算して
  約1億円)で買い取り領内の刀鍛冶に鉄砲を作らせます。1544年に国産第一号の鉄砲が完成







  ≪ 堺の鉄砲 ≫

  この鉄砲を日本各地に広めたのは堺商人。堺は刃物の技術を活かし、有名な滋賀県の『国友の鉄砲』にも劣らない生産地でした。
  現在でも鉄砲町の地名が残っています。
  1550年代には日本国内の鉄砲は30万丁を突破。1570年に堺は織田信長の直轄地となり、多くの鉄砲を生産。











  1575年の長篠の戦いで、鉄砲が初めて効果的に使われました。
  1600年の関ヶ原の戦いでは5万丁の鉄砲が使用されたと言われており、この時代の日本国内の鉄砲保有数は世界の半分
  もあったと推測されています。


  ≪ 国友の鉄砲 ≫

  【国友】くにとも … 近江国坂田郡の村(現、滋賀県長浜市)。鍛冶の集住地で、戦国末以降は鉄砲の生産地として有名。










  
 石垣の城と穴太衆 情報が多過ぎて、まとめるのが大変。 その為 書きかけです。
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「熊野古道・伊勢路④」』 10.11.04 放送
  テレビ東京 開運 ! なんでも鑑定団 13.08.06 放送
  NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉スペシャル 『信長の城革命~天下統一への知られざる戦略』 13.09.15 放送 
  NHK大阪 歴史ヒストリア 『戦国プロフェッショナルたち ~己の腕で乱世を生きる~』 13.09.25 放送 
  テレビ朝日 奇跡の地球物語 天空の城 竹田城 ~日本のマチュピチュに残る石垣の秘密~』 13.10.06 放送
  NHK大阪 歴史ヒストリア 『英雄を記録した男 太田牛一の生涯』 13.12.04 放送 /  『よみがえる幻の安土城』 13.12.11 放送


  ≪ 石割方法 ≫

  昔の石割の方法は、鉄ノミなどで穴を空け乾いた木の杭を打ち込みます。水をかけると木が膨張するので、その力を利用して
  石を割っていました。







  ≪ 石垣と天守閣スタイルの城を最初につくったのは信長 ≫

  愛知県小牧山市に、織田信長 (30才の時) が最初に建てた城 小牧山城があります。長年、土の城と思われていましたが、
  近年の発掘調査により幅1mを越える大きな石が次々見つかり、戦国大名としては初めての本格的な石垣を使った城と
  されました。






  【織田信長】おだ‐のぶなが(1534~1582)    清州城・名古屋城

   戦国・安土時代の武将。信秀 (尾張守護代 織田氏の奉行人) の次子。
   今川義元を桶狭間おけはざまに破り、美濃斎藤氏を滅ぼし、天下統一を標榜、1568年(永禄11)足利義昭を擁して
   上洛したが、73年(天正1)義昭を追って幕府を滅ぼす。安土城を築き、諸国平定の歩を進めたが、京都本能寺で
   明智光秀に襲われて自刃。

  1560年(永禄3)、桶狭間の戦いで今川義元を破った信長は、その勢いに乗り尾張を手中に収め、美濃の斎藤義龍を攻撃
  しますが、何度も敗軍。最前線の犬山城を任せていた従兄弟の織田信清が寝返ると、小口城、黒田城もそれに続いた。

  すると信長は清州城を出て、小口城から4㎞しか離れていない標高80mの小牧山に拠点を移します。
  木々を伐採し、家臣団を小牧山中腹に集め、屈強な男たち大勢が石を切り出す様子を敵に見せつけるようにし、動員力と
  統率力を示した。




  小牧山の頂上付近に作られた城は、敵から見える北側には最高3.8mの石垣、味方の家臣団が暮らす南側には四重の
  石垣を造りました。
  家臣団の屋敷(現在の小牧中学校から跡が出土)から城を見上げると、四重の石垣が一つの高い石垣に見えたそうです。






  「信長公記」によると、「小口城の兵士は小牧山城の築城の様子をみて小口城を明け渡した。」
  石垣の城は、それほどのインパクトがあったそうです。


  ≪ 穴太衆と野面のづら積 ≫

  石垣を積む技術は、山の斜面に寺院をつくっていたので中世にはある程度確立していたそうです。安土城をはじめ戦国時代の
  名城の石垣を主に担当したのは滋賀県大津市の穴太衆あのう-しゅう
  現在も、十四代目の石匠が居て、城や寺社の修復にその技術が活用されています。






 【野面積】
  山から切り出したままで、加工してない石の自然のままを積み重ねたもので、現在のコンクリートプロックを積み重ねたものより
  耐震強度がある。












江戸城








  奈良県の幻の柿 御所柿 信長がお取り寄せした柿。
  信長が絶賛した奈良の酒の記録 諸白、片白の違い。奈良の酒は古来、優良酒とされていました。


  【天下布武】てんか‐ふぶ
   織田信長の使用した印章の印文。岐阜に進出した1567年(永禄10)から用い始めた。
   武力統一の姿勢を表す。

  【安土】あづち
   滋賀県蒲生郡の町。琵琶湖の東岸の付属湖に臨む。
   1576年(天正4)織田信長がここに城と町を建設。

  【南蛮寺】なんばん‐じ
   室町末期~安土桃山時代、日本各地に建てられたキリスト教寺院の称。

   織田信長の許しを得て京都四条坊門と安土とに建てられたものが最も著名。 
   1587年(天正15)の豊臣秀吉の禁教によって破毀。

  【信長公記】しんちょう-こうき 織田信長の一代記。首巻とも16巻。太田牛一 著。
   1600年(慶長5)頃の成立。
   また「信長記」(15巻)は小瀬おぜ甫庵がこれに基づいて加筆論述し、22年(元和8)に刊行したもの。

  【ルイス フロイス】 Luis Frois (1532~1597)
   ポルトガル出身のイエズス会士。インドで司祭となり、1563年(永禄6)来日。織田信長・豊臣秀吉らと親交。
   滞日中140通余りの日本通信を本国に送り、また1549年(天文18)以降の布教史「日本史」を執筆。
   日本二十六聖人の殉教を目撃し、長崎で没。


 ≪ 熊野古道の石畳み ≫

  熊野古道は江戸時代の街道整備で、土砂崩れが酷い場所には石畳みなどが敷かれました。
  また、里山など猪による農作被害の多い地域には、石積みの猪垣が作られました。右端の画像のように一部だけ通れる
  ようにしておきますが、その下は崖になっており、猪垣が積まれた道に迷いこむと、そこから猪が落ちるようになっています。




  【熊野街道】くまの‐かいどう
   熊野三社への参詣道。東の伊勢からと、西の紀伊からの二つがある。京都方面からの熊野参詣はふつう紀伊経由。

  【鹿垣】しし‐がき ししやらい。鹿砦ろくさい
   枝つきの竹・木で作った逆茂木さかもぎ(敵の侵入を防ぐために、茨いばらの枝をたばねて結った柵)。
   猪・鹿や敵勢の侵入を防ぐのに用いた。
 
 大阪城の石垣
  東海テレビ おしろツアーズ3 14.01.19 再放送 / 日本テレビ 月曜から夜ふかし 14.01.27 放送 より
  関西テレビ アンカー 『金曜の疑問??  大阪城の「石垣」どう運んだ?」』 14.02.21 放送
  テレビ大阪 ニュースリアル関西 『"太閤石垣"発掘募金は苦戦中』 16.11.23 放送
  テレビ大阪 かがくdeムチャミタス! 『大阪城におでかけ 最新スポット続々登場!』 18.06.17 放送
  大阪再発見 大坂城遺構(1) http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage451.htm
  Wiki 豊臣秀吉 / Wiki 大坂城 / 公益財団法人 大阪市博物館協会 『大阪城天守閣』 http://www.osakacastle.net/

  ≪ 大坂城の石垣 ≫

  【大阪城・大坂城】
   大阪市中央区にある城。1583年(天正11)より豊臣秀吉が石山本願寺の旧地に
   築いた。大坂夏の陣で焼失後、元和~寛永年間に大修築。
   1868年(明治1)戦火を蒙り建造物の大部分が焼失。1931年(昭和6)本丸内外の
   一部を公園とし、旧規によって天守閣を設けた。

  現在見られる大坂城の石垣は、秀吉が築いたものを埋めて、その上に徳川が
  作ったものです。九州や瀬戸内海などから石が運ばれました。
  主に使われたのは、香川県の小豆島の良質な花崗岩。







  日本最大の石垣の石「大坂城の蛸石」は推定130トン。

  同志社大学 文化遺産情報センターの津村宏臣 准教授によると、
   切り出しと積み上げについては、文書や色んなもので分かっていたんです。
    どうやって運んで いたのかという部分については未解明だったわけですね

  石の運搬の方法について、小豆島で解明に繋がる手掛かりが見つかりました。
  海岸近くの石に人工的に埋め込まれた石柱(下の左の画像)が船を繋いでおく
  艀はしけである事が確認され、潮の満ち引きを利用して、石を小舟に積んだと
  推測しています。
  干潮時に石を積み込み、満潮で浮力がつき船が浮くと出発。


  その場所から少し離れた海中に大きな石が大量に沈んでいる事も新たに発見。小舟では大阪まで運ぶのは大変なので、
  その場所で大きな船に石を積み変えたのではないか? と、津村さんは推測。調査はこれから始まるようです。






  大阪市博物館協会の船越幹央さんによると、石を運ぶ際に丸太を敷きますが、この丸太と石の間に濡らした昆布を挟み、
  昆布のヌメリで運びやすくしたのではないか? という面白い説があります。
  大阪城の堀の水から昆布の成分が発見されているそうです。


  ≪ 大坂城の残念石 ≫

  徳川時代の石垣は、大名たちが各地から石を運び、10年かけ およそ100万個の石で作られました。

  淀川の支流の木津川が流れている京都府木津川市や、大阪市北区の毛馬、浪速区の通天閣の真下、大坂城内各所に
  見られる巨石は石垣をつくる為に運ばれたものの、運搬の途中で落とした石。落とすと積み直すのが大変だった事と、
  一度落ちた石は「落城」につながるので、そのまま放置され現在では「残念石」と呼ばれています。






  徳川時代の大坂城の石垣は堀の水中の部分を合わせると約32mあり、日本一高い石垣と言われているそうです。


  ≪ 大坂夏の陣から400年 豊臣時代の石垣発掘プロジェクト ≫

  費用10億円のうち、文化庁が5億円、残り5億円は府民の募金を募集中、
  『太閤なにわ夢募金』は2016年11月に阪急不動産が100万円を寄付。
  現在1億8000万円。1人1000~5000円くらい寄付しているようです。
  石垣は地味として、あまり集まらないようです。
  名古屋では天守閣再建で50億円の寄付が集まったそうです。

  10万円以上募金すると、ネームプレートが残るようです。
  募金先は下記サイトで確認してください。 ↓
  大坂城豊臣石垣公開プロジェクト|太閤なにわの夢募金 
   http://www.toyotomi-ishigaki.com/

  ちなみにガンバ大阪の新スタジアム建設の募金は目標額を超えました。








  1979年(昭和54年)中央区の私立 追手門学院小学校の東館校舎建設の際、豊臣時代の石垣を発掘。
  同校のポンプ受水槽室に一部を保存(非公開)。






  中央区のテレビ大阪の裏手にあるドーンセンターには、ビル建設時に発見された豊臣時代の石垣を地上に移築しています。
  
 柴田勝家 (織田家の筆頭家老)
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『柴田勝家』 14.02.01 放送 より

  【柴田勝家】しばた‐かついえ 修理亮。(尾張の人、1522?~1583)
   安土桃山時代の武将。織田信長に仕えて越前に封ぜられる。信長の没後、信孝と謀り
   豊臣秀吉を除こうとして兵を挙げたが賤ヶ岳の戦に敗れ、越前北ノ庄(今の福井市)城に
   夫人お市の方とともに自刃。





『常山紀談』

  【常山紀談】じょうざんきだん
   随筆的史談集。湯浅常山著。25巻・拾遺4巻・付録1巻。元文4年(1739)自序。
   天文・永禄(1532~1570)の頃から江戸初期に至る50年余の名将・傑士の言行・逸事など約470条を収める。

  【湯浅常山】 ゆあさ‐じょうざん(岡山藩士、1708~1781)
   江戸中期の儒学者。名は元禎。服部南郭・太宰春台に古文辞学を学び、藩の要職を歴任したが、謹厳・直言に過ぎた
   ため失脚、著述に没頭。著「常山紀談」「文会雑記」など。


  ≪ 信長から 「ババアの口」と呼ばれる茶釜と 創作の歌を貰った ≫

  1573(天正1)年、越前の居城 一乗谷いちじょう‐だにを攻め、朝倉義景(1533~1573)を自刃に追い込んだ勝家は、
  その褒美として越前の領地を貰いお礼の為、安土城へ赴いた際、信長から茶釜を譲られた。

  茶道具を貰うという事は、自由に茶会を開い (外交をし) ても良い。つまり独立した大名として認められた証。

『川角太閤期』








  【姥口】うば‐ぐち
   ① 老女の口を結んだ形。〈日葡辞書〉  ② 香炉や茶釜などで、口の周囲の盛り上がったのをいう。〈日葡辞書〉
   ③ 物の蓋などのよく合わず開いているもの。







  ≪ 信長の命令で美女をさらう老婆たちを、海へ沈めた ≫

  戦国時代といっても無闇やたらに人を
  殺しているわけではなく、敵の領地民を
  さらう方が多かった。
  身代金を要求したり、自分の領地民として
  働かせる事が目的だったそうです。

  【北ノ庄】きた‐の‐しょう
   福井市の古称。柴田勝家が城下町を
   建設。

 ※ 信長にしてみれば、朝倉氏を倒し奪った
  領地なので好きにしても良いという感覚が
  残っていた。
  勝家からすると、自分が治めるように
  なった領地。自国の領地民を守った。
  信長も勝家に独立した大名として与えた
  領地だったという事に気付いたんだと
  思います。

  ≪ 勝家のアダ名 ≫

  戦の時に「者ども、かかれ !」と号令を出すから。
『名将言行録』

 

  「瓶割り柴田」とは、戦の籠城中、水が不足しているのにも関わらず、貴重な水が入った瓶をあえて割って背水の陣を
  敷き、見事勝利した事から。

  【背水の陣】はいすい‐の‐じん
   [史記[淮陰侯伝]](漢の韓信が趙を攻めた時、わざと川を背にして陣どり、味方に決死の覚悟をさせ、大いに敵を
   破った故事から)一歩も退くことのできない絶体絶命の立場。失敗すれば再起はできないことを覚悟して全力を尽く
   して事に当たること。

  【お市の方】 信長の妹 。浅井長政に嫁ぎ、淀 (秀吉の側室で秀頼の母)、お初、お江の三姉妹をもうける。
   長政が朝倉義景に味方して信長・家康と姉川に戦って敗れ、のち再び信長に攻められ自刃した後、勝家の妻。
   秀吉との賤ヶ岳の戦で勝家が敗れ、共に自刃。
 本能寺の変 書きかけ
  NHK大阪 歴史ヒストリア 『あなたの知らない信長の素顔 ~英雄を記録した男 牛田牛一の生涯~』 13.12.04 放送
  NHK大阪 歴史ドリームチーム 『仰天推理 本能寺の変』 14.01.29 放送
  読売テレビ あさパラ ! 2時間スペシャル 『"本能寺の変"に新史料 謎はとける?』 14.06.28 放送
  NHK大阪 歴史ヒストリア 『本能寺の変 犯人はオマエだ ! ヒストリア探偵VS戦国最大の未解決事件』 14.07.09 放送

  ≪本能寺の変 ≫ Wiki 本能寺の変  Wiki 明智光秀

   1582年(天正10)織田信長が備中高松城包囲中の羽柴(豊臣)秀吉を救援しようとして本能寺に宿泊した時、先発させた
   明智光秀が叛逆して丹波亀山城から引き返し、信長を襲って自刃させた事変。

  【本能寺】ほんのう‐じ
   京都市中京区にある法華宗本門流の本山。1415年(応永22)日隆が五条坊門に創建、初め本応寺と称した。
   1582年(天正10)本能寺の変で焼失、1589年現在地に移転。境内に織田信長の供養塔がある。





  【明智光秀】あけち-みつひで (1528 ?~1582) 通称、十兵衛。
   安土時代の武将。織田信長に仕え、近江坂本城主となり惟任これとう日向守と称。ついで丹波亀山城主となり、
   毛利攻めの支援を命ぜられたが、信長を本能寺に攻めて自殺させた。
   わずか13日で豊臣秀吉に山崎で敗れ、小栗栖おぐるす (京都の伏見区東部、もと醍醐村) で農民 (小栗栖の長兵衛と伝わる)
   に殺される。

  ≪ 明智光秀? 怨恨説 ≫


  ≪明智光秀? 四国説 ≫






  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『歴史上最大のミステリー 本能寺の変 434年目の真実』 16.04.07 放送
  TBS 世界ふしぎ発見! 『新説 本能寺の変 434年目の真実』 16.07.09 放送

  ≪明智光秀? 唐攻め反対・子孫を守るため説 ≫

  明智光秀の子孫にあたる明智憲三郎さんが10年以上かけて調べ尽くした説を出版。

  織田信長は、毛利攻めに成功して天下統一を成した後、中国へ攻め入るつもりだった。
  また、信長公記の記録から、関東見物の帰りに家康領をくまなく見て回った事と、光秀の兵士であった本城惣右衛門の証言
  記録とルイスフロイスの記録などから、信長が家康を討つつもりだったそうです。

  信長が本能寺に德川家康を呼び寄せて、光秀に討たせるつもりだった。
  それを光秀と家康が手を組み信長への謀反を果たしたそうです。

  テレビ東京 戦国ミステリー 『"戦国~大奥~幕末" 明智光秀はハメられた ! "本能寺の変"の真犯人とは !?』 12.12.17 放送

  ≪ 黒幕説 穴山梅雪&徳川家康 犯人説 ? ≫ 簡単にまとめると、

  テレビ東京の戦国ミステリーよると、滅亡したはずの武田家が徳川幕府で幕末まで活躍した。というもの。
  本能寺の変は家康が黒幕で、実行犯は武田勝頼の従兄弟で勝頼と対立した穴山梅雪。

  定説の明智光秀説には多くの謎があり、光秀は「馬揃え」という部隊の戦闘準備が整った事を信長に見せる為に本能寺に
  向ったというもの。
  光秀が到着する前に、30名近くの穴山衆によって信長は暗殺されていた。そして梅雪は口封じの為に家康に暗殺される。

  武田信玄の娘で梅雪の妻である見性院は大奥に入り、幕府の老中となっていた武田家縁の大久保長安と計って武田家の
  再興を企む。
  2代将軍 徳川秀忠とお静という娘を会わせ身篭らせ、生まれた幸松を次期将軍にしようしたが秀忠は自分の子として
  認知しようとしなかった。





  長安は死後、打ち首で所領没収。見性院、秀忠の正室のお江なども相次いで死去。
  その後、幸松は元服し保科正之と名乗り、幼い家綱が4代将軍に就任すると将軍の伯父として後見人となり権力を得る。
  家綱の乳母であった矢島の局が大奥総取締りになり、大奥と保科正之が対立する事になる。

  幕末、会津藩の家老の西郷頼母は保科正之の末裔であった。

  ※ 本能寺の変では、この他にキリシタンが関わっているなど、色んな説があるようです。

  【穴山梅雪】 あなやま‐ばいせつ (1541~1582)
   戦国時代、甲斐武田氏の武将。名は信君。母は信玄の姉。駿河江尻の城主。武田滅亡後、徳川家康とともに上洛し、
   本能寺の変のとき帰国の途中一揆勢に殺された。

  【大久保長安】 おおくぼ‐ながやす (1545~1613)
   江戸初期の国奉行・金山奉行。石見守。甲州武田家の猿楽師の子といわれる。徳川家康に仕え、関東の支配、
   信濃・甲斐などの十数カ国の支配に与り、また佐渡・石見・伊豆の金銀山開発に当たる。死後、所領没収。

  【保科正之】ほしな‐まさゆき (1611~1672)
   江戸前期の会津藩主。徳川秀忠の四男。保科氏の養子。会津23万石に封じられ、将軍家綱を補佐。社倉を建て領民を
   保護。儒学を好み山崎闇斎を招き、また吉川惟足これたるの神道説を学び、その伝授を得た。
 
 最弱の戦国大名?  小田氏治
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『歴史芸人が教える おもしろ歴史雑学!! ウソ? ホント? 戦国武将の真実」』 15.05.08 放送

  ≪ 戦いでは連敗続きだが、家臣・領民からの人望は高い ≫  Wiki 小田氏治

  本姓は藤原氏。家系は宇都宮氏の一門・八田知家を祖とする関東の名族である小田氏。関東八屋形の一つ。
  氏治は常陸 (茨城県) の大名小田氏15代、室町幕府第12代将軍足利義晴の従弟に当たる。


合戦時、家臣のアドバイスを無視するので負けが
多い。

領民が1人でも敵に殺されると、兵を率いて敵討ちに
出かけるほどに、領民や家臣を大切にしていました。

領民たちは、氏治の領土を取って支配者となった者に
対し年貢を納めず氏治だけに年貢を納め続けました。

   晩年に秀吉によって所領を没収され、小田氏最後の当主となった。
   
 豊臣秀長 (秀吉の弟)
  NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『ナンバー2力 豊臣秀長』 14.01.28 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸幕府の確立』 14.09.19 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅18 「大和郡山~奈良市内へ」』 15.08.20 放送






 【豊臣秀長】とよとみ-ひでなが (尾張の人、1540~1591)
  安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の弟。秀吉の補佐役として、四国攻め、九州攻めでは20万からの大軍を率いて攻略。
  温厚な性格で、多くの武将から慕われ、秀吉との間を取り持った

  五大老・五奉行は秀長の死後に、豊臣政権に置かれた役職。それまでは、主に秀長がこれらの役目をおっていました。

  1540 (天文9) 年、尾張の農民の子として生まれます。
  20代後半の頃、織田家の足軽になっていた3才年上の実兄の秀吉から誘いをうけ武士になります。

  菩提寺は奈良県大和郡山市にある鎌倉時代中期に創建された春岳寺。
  秀長の所領となった郡山郡山は商業中心の街づくりを行い大和路最大の城下町へと発展しました。


  ≪ 一夜城は秀長がいたから成功した ≫  Wiki 豊臣秀長  Wiki 蜂須賀正勝 (小六)

  1566 (永禄9) 年、織田信長は、美濃攻略の足掛かりになる城を築くように秀吉に命じます。
  秀吉は国境を流れる木曽川の対岸 (敵地) に城を築くことにします。木曽川の実行支配をしていた川並衆 (水運に従事する人
  たち) に協力を求めますが、交渉は難航。木曽川の川並衆のリーダーである蜂須賀小六は、秀吉の口の上手さに不信感を
  抱き協力を断りました。






  代わって秀長が川並衆との交渉役になりますが、秀長はひたすら協力をお願いするだけ。
  「武力で脅してくるか? 金銭で買収してくるか?」と思っていた川並衆は拍子抜けしましたが、
  蜂須賀小六は「秀長様の誠意ある態度に心惹かれ秀吉軍に加わった」と後に書き残しているそうです。

  蜂須賀小六も秀吉も交渉事が上手く気質が似ていた。だから、タイプの違う秀長の方が小六に気に入られたのではないか?
  と解釈されています。


  巧詐は拙誠に如かず(こうさはせっせいにしかず)
   たくみにあざむくのは、拙うまくても誠意あるのに及ばない。[説苑[説叢]]

  川並衆の協力があり、数日で城は完成し、秀吉の手腕が高く評価されることに
  なりました。

  【一夜城】いちや‐じょう
   一晩で築き上げたという城。小田原の南、早川の口にある太閤一夜城が名高い。


  ≪ 怒られ役に徹し、家臣の秀吉に対する不信感を取り除いた ≫


  1582年(天正10)、本能寺の変の後、山崎の戦で明智光秀を討滅した秀吉は、1583年に織田の重臣であった柴田勝家と
  雌雄を決します。

  近江国賤ヶ岳で両軍は睨みあったままの膠着状態を打破するため、秀吉は本隊を秀長にまかせ、1万5千の兵を率い勝家に
  加勢する織田信孝を攻める為に美濃へ進軍します。
  秀吉が居ないと知った柴田軍は一気に攻撃を仕掛けてきましたが、その時、美濃へ向かったはずの秀吉軍が現れ柴田軍は
  敗走。






  この作戦で賤ヶ岳の戦で勝利した秀吉でしたが、最前線にいた中川清秀が討死。山崎の戦で大きな功績があった武将だった
  ため、陣中の空気は「秀吉は味方を捨て石にする人物だ」という不信感が広まり重い空気が流れていました。

  秀吉は秀長を呼び付け「なぜ、清秀を死なせたのか」と叱責。秀長には落ち度がありませんが、そうする事で秀吉が清秀の
  死を悼んでいることが家臣らに伝わるのです。
  その秀吉の行為が、家臣らの信頼を取り戻すためだと理解していた秀長は怒られ役に徹しました。

  【織田信孝】おだ‐のぶたか (1558~1583)信長の第3子。
   山崎の戦に秀吉とともに光秀を討ったが、のち柴田勝家と計り、信雄・秀吉を除こうとして成らず、自刃。

  【賤ヶ岳の戦】しずがたけ‐の‐たたかい
   1583年(天正11)賤ヶ岳 (滋賀県北部、琵琶湖北端部東岸にある山。
   標高421m) で、羽柴(豊臣)秀吉が柴田勝家・佐久間盛政を破った戦い。

  【賤ヶ岳の七本槍】しずがたけ‐の‐しちほんやり
   賤ヶ岳の戦で勇名をはせた7人。加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元の7人。
   別説もある。

  ≪ 家臣や豊臣支配下の武将から信頼が高かった秀長 ≫

  1586 (天正14) 年、九州の豊後を支配していた大友宗麟が大坂城に訪ねてきました。薩摩の島津から攻められており、
  援軍の依頼でした。
  大友家文書録によると、秀長が宗麟の手を取り「大友家の為になるように考えるから、政治や外交に関する事は何でも
  相談するように」。これを聞いた宗麟は大いに感激し「秀長様の優しい心遣いはとてもありがったかった」と記しています。






  宗麟の申し出は秀長から秀吉に伝えられ、九州に兵を送り島津を討ちました。
  家臣や大名からも厚い人徳があった秀長は1591年、52才で没。秀長の死後、代わりになる人材がいないので五大老、
  五奉行の政治体制が設立されることになります。

  【大友宗麟】おおとも‐そうりん 名は義鎮よししげ。(1530~1587)
   戦国時代の武将。豊後の府内におり、九州のうち6カ国守護となる。キリシタンに帰依して、南蛮貿易を盛んにした。

  【五大老】ご‐たいろう
   豊臣秀吉が五奉行の上に置いた政権の最高機関。
   徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝(はじめ小早川隆景)・毛利輝元が任ぜられた。

  【五奉行】ご‐ぶぎょう
   豊臣政権の政務を分掌した5人の奉行。浅野あざい長政・石田三成・増田長盛・長束正家・
   前田玄以が任ぜられた。

  【豊臣秀次】とよとみ‐ひでつぐ (1568~1595)三好一路の子。母は秀吉の姉。
   安土桃山時代の武将。1591年(天正19)秀吉の養子、ついで関白。
   秀頼の出生後、秀吉と不和を生じ、高野山に追放のうえ自殺を命ぜられた。
   世に殺生関白という。


  【小牧】こまき
   愛知県北西部、名古屋市北郊の市。西部の小牧山は、徳川家康が織田信雄を助け、
   豊臣秀吉と戦った地。東名・名神高速道路と中央自動車道の分岐点。人口14万7千。

  【長久手・長湫】ながくて
   名古屋市の東方に接する町。1584年(天正12)羽柴秀吉の軍が徳川家康の軍と戦って
   敗れた地。

  【織田信雄】おだ‐のぶかつ(1558~1630)法名、常真。 信長の次子
   安土桃山時代の武将。初め伊勢国司北畠氏のあとをつぐ。
   信長の没後、徳川家康の支援により小牧山に秀吉と対戦。のち転封を拒んで
   改易された。大坂の陣ではひそかに家康に通じ、のち大和などに5万石を与えられる。

 
 前田利家
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『若一光司のミステリーファイル』 14.01.29 放送
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『新年度特別企画 歴史に残る名言スペシャルにゃ~』 14.04.06 放送

  ≪ 戦国時代は金箔より銀箔の方が高価だった ≫  Wiki 前田利家

  『亜相公暁御夜話』によると、
   伏見の大地震の後、息子・利長が建てた地震小屋に招かれた利家。立派な造りを見て「こういう小屋は機能性重視。
   無駄に立派で「これではまるで『キンタマに銀箔』アホの極みや」と仰った。






  金の方が価値は高いのですが、日本は金が多く産出できた為、外国と比べと金と銀との価格差が
  小さかったそうです。
  箔の場合は、銀箔は銀の量が多く使う必要があったので、結果として銀箔の方が高級品でした。

  【前田利家】まえだ‐としいえ(尾張の出身、1538~1599)
   安土桃山時代の武将。
   加賀金沢藩の祖。織田信長・豊臣秀吉に仕え、秀吉没後は五大老の一人として秀頼を
   補佐した。

  
 高知県 一条教房が整備した小京都 と 四国の覇者 長宗我部元親
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ~小京都めぐり⑮ 高知「四万十市 中村」~』 13.08 放送 / 14.01.02 総集編 放送

  ≪ 土佐の小京都 四万十市 ≫

  【一条】桃華。
   本姓は藤原。九条道家の子 実経(1223~1284)が京都一条に住んで
   称した。五摂家の一つ。

  【一条教房】いちじょう のりふさ (1423~1480) 一条兼良の長男。
   室町時代後期から戦国時代の公卿(関白)で、土佐一条氏の祖。
   1463年に関白を辞職。1467年に勃発した応仁の乱で、弟がいる奈良に
   避難するが、父の兼良も奈良に来たので避難所を譲り、一条家領のあった
   土佐国幡多荘に下向した。

   次男・房家はそのまま土佐に土着して在地領主・大名化し、この子孫(系統)が土佐一条氏となった。






  【中村】なかむら
   高知県四万十しまんと市の地名。室町時代一条氏の支配地で、京都を模した町を建設。


  ≪ 嫁かつぎ と 神様の婚姻 ≫ Wiki 不破八幡宮

  室町時代中期、現在の四万十市の不破辺りでは、蛮風の色濃い土地であった為、「嫁かつぎ」と呼ばれる略奪婚の
  風習がありました。
  一条教房は、この地に京風の習俗を根付かせるために、上げ馬・流鏑馬等の神事などを行い、京風の婚姻の風習を
  根付かせる為に「神様の結婚式」という儀式 (毎年10月に催される祭り) を行います。






  新郎は教房が石清水八幡宮勧請し創建した不破八幡宮の男神。新婦は一宮神社いっくじんじゃの女神。
  一宮神社には「椎名御前しいなごぜん」、「徳益御前とくますごぜん」、「鉾名御前ほこなごぜん」の3柱の女神があり、毎年
  くじ引きによって新婦を決定する。
  このように2つの神社で祭礼を行うのは幡多地域の広範囲で参加するのが狙いであり、この神事を通じて庶民の生活
  指導が行われた。
  旧中村市を挙げての祭礼であったが、現在では平成5年(1993年)に合併した四万十市全域が関係しているそうです。


  ≪ 女郎ぐも 相撲大会 ≫

  この遊びは、一条教房について来た女房たちが、退屈凌ぎに始めたそうです。現在では地元の子供たちと観光客が参加
  しているそうです。






  教房を祀る一条神社で開催。ルールは簡単、木の枝の左右端に女郎蜘蛛を置き、先に棒から離れた方が負け。

  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『長宗我部元親』 13.10.20 放送

  ≪ 四国の覇者 長宗我部元親 ≫  Wiki 長宗我部元親

  【長宗我部・長曾我部】ちょうそかべ
   秦河勝の子孫と伝える。平安末・鎌倉初め頃、土佐国の長岡郡 宗部郷(高知県南国市)に移り、地名をとって姓としたという。

  【秦河勝】はた‐の‐かわかつ (ンド? ペルシャ系? の渡来人と言われています。生没年未詳)
   飛鳥時代の山背やましろ国の富豪。聖徳太子に仕え、603年葛野かどの郡(現、京都市
   太秦うずまさ)に蜂岡寺(今の広隆寺)を建てた。

  【群書類従】ぐんしょるいじゅう
   日本の古書を集輯・合刻ごうこくした叢書。塙はなわ保己一編。
   正編530巻665冊、目録1冊、跋1冊。
   続編1150巻1185冊。1786年(天明6)から漸次刊行、1819年(文政2)正編完了。
   正続編の遺漏を補う目的で編集された「続々群書類従」16冊(明治39~42年)がある。
群書類従





  【長宗我部元親】ちょうそかべ‐もとちか (1539~1599) 国親の子。
   戦国時代の武将。土佐の大名。宮内少輔と称。一条家を追放して土佐
   一国を支配、のち四国全体を統一したが、豊臣秀吉に降伏、土佐一国の
   領有を許される。
   秀吉の九州平定および文禄・慶長の役に出兵。長宗我部氏掟書を定めた。

  【長宗我部氏掟書】ちょうそかべ‐し‐おきてがき
   土佐の長宗我部氏の分国法。1597年(慶長2)頃元親・盛親父子の制定。
   分国法中、最も新しく、完備する。長宗我部元親百箇条とも。


  長宗我部氏は、間違った読み方で覚えられる事が多かった。
  歴史上の人物名の漢字や読み方、仮名遣いなど日本語が整理されたのは江戸時代になってから。


  【多聞院日記】たもんいんにっき
   奈良興福寺の学侶で多聞院主の英俊ほかの日記。46冊。1478年(文明10)から1618年(元和4)に至る。
   室町後期~安土桃山・江戸初期の重要史料。原本は散逸。

  【手抄】しゅ‐しょう … 手ずから書き抜くこと、書き写すこと。また、その書いたもの。  50音図を整理したのは本居宣長





  土佐物語によると、元親は、宴会でバカウケしたネタを
 禁止にした。

 「刺鳥 (捕) 差し」さいとり‐さし(刺捕竿で鳥をとる猟師)のモノマネ
 が流行っており、元親の臣下が敵の三好 (京・大坂を支配)
 家を揶揄したネタを披露。
 バカウケし、以後「三好刺鳥差し」として宴会の鉄板ネタになり
 ました。

  ある宴会で、元親も「笑壺えつぼ (笑いの壺)」 に入り大爆笑しましたが、翌日、臣下たちを呼び出し「武士の恥」として
  禁止した。「相手をナメていたら、負けるぞ」という教訓。


  ≪ 元親は教育パパだった ≫

  当時一流の講師陣を京などから集め、跡継ぎの信親のぶちかや臣下の子供たちに文武の多くの習い事をさせました。
  しかし、信親が22才の若さで戦死した事がきっかけでヤル気を失い、事実上、長宗我部元親の一代で衰退する事に
  繋がった。

  【長宗我部盛親】もりちか (1575~1615) 元親の4男。
   安土桃山時代の武将。土佐守。1599年(慶長4)家督を継ぐが、関ヶ原の戦では西軍に属し、所領没収。
   大坂の陣で大坂に入城、戦後捕らえられて六条河原で処刑。

  関西テレビ NMBとまなぶくん 『歴史芸人が教える おもしろ歴史雑学!! ウソ? ホント? 戦国武将の真実」』 15.05.08 放送

  ≪ 山内一豊 ≫  Wiki 山内一豊


【山内一豊】やまのうち‐かずとよ(1546~1605)
 安土桃山時代の武将。土佐藩祖。初め織田信長、後に豊臣秀吉に仕えた。
 秀吉没後、徳川家康に仕え、上杉征伐・関ヶ原の戦に功をたて、土佐に封。
 その妻は、信長の馬揃えのとき鏡匣かがみばこから黄金10両を出して一豊に名馬を
 買わせ、夫の立身の基を作ったという逸話で知られる。

 「自分の城と領地を家康様に差し出します」と言った事で、関ヶ原の合戦に不参加
 ながら土佐一国を与えられますが、それは他の武将が考えていたアイデアを
 横取りしたものだったそうです。

  ≪ 舟母船せんば-せん 明治~昭和30年代 ≫

  明治時代から、四万十川で炭を運搬していた帆船で最盛期には約130隻。下り1日で河口の港まで運び、そこから関西方面に
  炭を出荷。上りは3日かかるので、船の後ろに小屋をつくり、寝泊まりや炊事も行っていたそうです。






  自動車の普及で衰退し、平成12年から観光客船として復活。
 
 キリシタン大名 高山右近 と 天正遣欧使節団の4人の日本の少年
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびだぜ ! えほん 「大阪市森ノ宮~夕陽丘」』 13.11.07 放送
  読売テレビ ten. 『歴史から存在を抹殺されたキリシタン大名 高山右近 大阪城ホールで復活!?』 17.01.18 放送
  テレビ大阪 ニュースリアル関西 『戦国時代のキリシタン大名 高山右近に「福者」の称号』 17.02.07 放送 など

 【高山右近】たかやま‐うこん (今の大阪府豊能町高山生まれ、1552~1615)
   安土桃山時代のキリシタン大名。洗礼名ジュスト。摂津高槻、のち播磨明石城主。茶人。南坊みなみのぼう等伯と号。
   禁教令によって追放され、マニラで没。

  織田信長や豊臣秀吉に仕え、21才で高槻城主となりキリシタンとして黒田官兵衛ら多くの大名などをキリストの教えに
  導きました。

  高槻の城下町に20を超える教会を建設。野見神社の
  敷地内にも教会があったそうです。

  高槻・茨木の領民2万5000人のうち、7割ほどがキリシタン
  信者だったと推測されています。

  1998年に商工会議所の敷地内から、キリシタンの墓地を
  証明する伸展葬という埋葬遺体やロザリオなどを発見。

  現時点で、日本最古のキリシタン墓地とされています。これら出土品は『しろあと歴史館』にて展示保存。
  有名なザビエルの肖像画は茨木市の民家から見つかりました。江戸時代、豊能町の高山は隠れキリシタンの里であり、
  この一帯でキリスト教が続いていた事が分かります。

  1587年 秀吉のバテレン追放令でも信仰を捨てず、領地と財産を失って加賀藩の前田利家の保護を受けます。

  【伴天連追放令】バテレン‐ついほうれい
   1587年(天正15)豊臣秀吉が九州平定の直後、6月18日に筑前箱崎で発した禁止令。
   キリシタンを禁じ、バテレンを20日以内に国外追放することを命じた。実効力は少なかった。

  秀吉も当初はキリスト教を容認していましたが、九州平定で訪れた際、九州の大名が土地を宣教師たちに
  分け与えていた事や、ポルトガル人による日本人を奴隷として売払う貿易に宣教師たちが加担していた事を知り、激怒して
  バテレン追放令を出したそうです。

  詳しくは 歴史を読む 『かくも忌まわしき人間虐待』 http://sound.jp/sodaigomi/dorei/japan/nihon.htm

  【伴天連・破天連】バテレン (padre ポルトガル 神父の意) キリシタン (キリスト教) の俗称になった。
   キリスト教が日本に伝来した時、宣教に従事した司祭の称号。パードレ。パーデレ。

  1612年 徳川秀忠によるキリシタン信仰を禁ずる禁教令で、1614年に高山右近は国外追放され、1615年にフィリピンの
  マニラで63才で病死。
  高山右近に関する記録は幕府によって消されたので肖像画などは残っていないそうです。


  ≪ 大名 高山右近 「福者」の吉報  バチカン高官、認定前向き ≫  朝日新聞 14.11.09 朝刊 より抜粋し、文を再編集

 戦国キリシタン大名の高山右近が、没後400年となる2015年にカトリックで「聖者」に次ぐ崇敬の対象である「福者ふくしゃ
  に認定される公算が大きくなっている。
  バチカン (ローマ法皇庁) の高官が、日本巡礼団に前向きな見通しを語った。申請の代理を務める神父も。
  来年度中に認定される可能性が高いとの見方を示した。

  福者になるには、殉教者であるか、「病気を治した」などの奇跡の証明が必要だ。福者は、聖人に次ぐ称号で、
  マザー・テレサもその一人だ。日本カトリック司教協議会は右近を殉教者として申請している。

  日本の聖人や福者はこれまで、1597年に長崎で処刑された26人の殉教者である「日本26聖人」など、集団での認定。
  右近が認定されれば単独では国内初となる。

  認定される公算が大きくなっているのは、「欧州偏重」を脱しようとするカトリック教会の意向と、巡礼団を送るなどの
  日本側の熱意がうまくかみあうためだ。

  福者や聖人の申請は、世界中から寄せられ400~500の申請書が未審査の状態だったが、右近の審査が最優先される
  のは、欧州に比べ少ないアジアやアフリカの認定を優先したいアマート・バチカン列聖省長官の意向があるという。

  2015年は日本カトリックにとっては節目の年だ。
  右近の殉教400年であるとともに、幕末期に潜伏キリシタンが外国人宣教師と再開した「信徒発見」から150年でもある。
  また伊達正宗が派遣した慶長遣欧使節の支倉常長が、ローマ法王パウロ5世と面会して400年だ。

  2016年1月にローマ法王庁が「福者」に承認。2017年2月7日、
  大阪城ホールで承認イベント『列福式』が開催されました。

  過去には2008年11月24日に長崎市で江戸時代の殉教者
  188人の「福者」認定イベントが開催されています。

  2016年9月にマザー・テレサは「福者」から「聖人」へと
  昇格しました。


  ≪ 江戸時代のキリシタン殉教者 ≫

  【日本二十六聖人】にほん-にじゅうろくしょうにん、にほん-にじゅうろくせいじん
   日本のキリスト教徒の最初の殉教者。天正15年(1587)秀吉が発した禁教の令に基づき、
   慶長元年(96)秋、宣教師および教徒を捕え、同年末、長崎の西坂でその26人を処刑した。
   バテレン3人、イルマン3人、日本人信徒17人。1862年列聖。二十六聖人。


  ≪ 主なキリシタン大名 ≫ 戦国時代から江戸初期にかけて、キリシタンを信仰した大名

  ・大村純忠 ・有馬晴信 ・小西行長 ・黒田官兵衛 ・蒲生氏郷 ・筒井定次 ・高山右近 ・大友義鎮 ・大友宗麟 など。






  【 キリシタン 】christo ポルトガル・吉利支丹・切支丹
   (はじめ吉利支丹と書き、禁教後は鬼理死丹・切死丹などと書き、また、将軍綱吉以後は「吉」を避けて切支丹と記した)
   1549年(天文18)イエズス会士フランシスコ=デ=ザビエルらが日本に伝えたカトリック教。また、その信徒。南蛮宗。

  【小西行長】こにし‐ゆきなが(~1600)
   安土桃山時代の武将。堺の豪商立佐りゅうさの子。豊臣氏の臣。摂津守。肥後半国24万石の領主。
   キリシタン教徒。文禄の役に先鋒。石田三成にくみして徳川家康と関ヶ原に戦い、敗れて刑死。

  【黒田孝高】くろだ‐よしたか(播磨の人、1546~1604)
   安土桃山時代の武将。初め小寺氏。官兵衛と称。剃髪して如水じょすいと号。豊臣秀吉の中国・九州経略および朝鮮
   出兵に加わり、豊前6郡を領した。関ヶ原の戦には徳川家康方につく。キリスト教を信じシメオンと称。
   大分県中津に中津城を築城し、出身地の兵庫県の姫路から石工や大工を呼び寄せ、京都と博多からは商人を呼び寄せ
   城下町を整備。福岡に移った後も街づくりに励み、招いた職人が博多人形を産みだした。

  テレビ東京 137億年の物語 『キリスト教を伝えたザビエルと戦国武将の物語』 14.08.09 放送

  ≪ ポルトガルのサンロッケ教会 と 日本人 ≫

  ポルトガルの首都リスボンにあるサンロッケ教会は、ザビエルと日本人キリシタンとも所縁がある教会。
  ザビエルがアジア各地で布教した様子を描いた絵画がたくさんあります。
   (但し、ザビエルからの書簡などの記録を元に欧州で描かれたもの)






  また教会の祭壇の両脇には「ミキ」と「カサイ」という日本人の男性2人が描かれた肖像画があります。


  ≪ 天正遣欧少年使節団の4人の少年 ≫

  本能寺の変の4ヵ月前になる1582年2月 当時、日本での布教の中心的役割を担っていたイタリア人宣教師の提案により、
  九州のキリシタン大名たちが、欧州へ使節団を派遣する事になります。

  長崎から出港した使節団は東南アジア、インドを中継しアフリカ回りで、1584年8月にポルトガルのリスボンに到着。
  サンロッケ教会で1ヵ月ほど滞在した後、イタリアで、ローマ教皇に謁見します。この事は欧州で大きな話題となったそうです。






  当時、その事を報道したドイツの新聞や、使節団の史料が長崎県の大村市立史料館に残っています。

  【天正遣欧使節】てんしょう‐けんおうしせつ
   天正10年(1582)ヴァリニャーノの企画により、九州のキリシタン大名大友宗麟・有馬晴信・大村純忠がローマに遣わした
   使節。伊東マンショ・千々石ちぢわミゲルを正使、中浦ジュリアン・原マルチノを副使とし、教皇グレゴリウス13世に謁見、
   同18年帰国。

  【アレサンドロ・ヴァリニャーノ】 Alessandro Valignano(イタリア人、1539~1606)
   イエズス会東インド巡察使、司祭。1579年(天正7)、90年(天正18)、98年(慶長3)の3回来日、日本へのキリシタン
   布教の中心的役割を担う。
   セミナリヨ・コレジヨの設立、天正遣欧使節を帯同、活字印刷機によるキリシタン版を開版。マカオで没。
   著「日本諸事要録」(「日本巡察記」)など。バリニャーノ。ワリニャーノ。


  1590年に遣欧使節団が帰国しますが、3年前に秀吉が発令したバテレン追放令により、
  日本でのキリシタンの状況は一変していました。

  少年使節団4人のメンバーは、肖像画の画像右から (日本から出港した時の年齢)

  千々石ミゲル (14才) 正使。使節団のサブリーダー。帰国後、棄教 (信仰を捨てた)。
  伊東マンショ  (15才) 正使。使節団リーダー。帰国後、長崎で病死。
  原マルチノ (13才)  副使。最年少。帰国後、追放先のマカオで死去。
  中浦ジュリアン (15才) 副使。帰国後、長崎で殉教 (信仰の為に犠牲となり死亡)。

  彼らの遣欧経験は日本では活かされませんでしたが、欧州で作られた日本地図の形が

  上記画像のように、適当だった日本の地図が、かなり日本列島に近い形に描かれるほどの影響を与えました。

  【島原の乱】しまばら-の-らん 天草の乱
   1637~38年 (寛永14~15) 天草 (熊本県) および島原 (長崎県) に起こった百姓一揆。
   キリシタン教徒が多く、益田四郎時貞を首領とし、その徒2万数千が原城址に拠り、幕府の上使として派遣された板倉重昌は
   これを攻めて戦死、ついで老中松平信綱が九州諸大名を指揮して城を攻落。天草一揆。島原一揆。
  
 蒲生氏郷 天下を狙えた実力者
  東海テレビ おしろツアーズ5 『絶対行きたくなる ! おもしろ名城旅 会津若松 鶴ヶ城』 13.12.10 放送
  テレビ東京 所でナンじゃ!? こりゃ 『日本古来のナンじゃこりゃ!?』 14.01.31 放送
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『蒲生氏郷』 14.08.24 放送






  【蒲生氏郷】がもう‐うじさと(近江蒲生の人、1556~1595)
   安土桃山時代の武将。初名、教秀・賦秀やすひで。織田信長・豊臣秀吉に仕え、会津92万石を領した。茶道・和歌もよくした。
   本能寺の変の後、明智光秀と対峙し、信長一族を守った。1593年、会津若松の鶴ヶ城の天守を完成させる。

  蒲生氏郷は父と共に織田信長に仕え、子供の頃から見込まれており信長の娘を嫁にもらいます。
  信長の死後は豊臣秀吉に仕えますが、秀吉にも気に入られ、「100万人の大軍を指揮させたい男」と絶賛された事もあった
  そうです。


  黒漆塗燕尾形兜 くろうるしぬり-えんび-なり-かぶと  ツバメの尻尾を模した形。





  【会津城】あいづ‐じょう 黒川城。若松城。鶴ヶ城
   福島県の会津若松市にある松平(保科)氏の旧居城。
   1384年(至徳1)蘆名あしな直盛の築城。1592年(文禄1)蒲生氏郷、1639年(寛永16)加藤明成が大修築、
   43年保科正之が城主となる。1868年松平容保が籠城して新政府軍に抗し、ついに降った(会津戦争)。


  ≪ 氏郷の逸話 ≫

  おしゃべりで、怪談や英雄の武勇伝を話すのが大好きだったそうです。夢中になり過ぎて夜更かしする事が多く、
  おしゃべりはロウソク2本までと、自身で話す時間を制限しました。

  秀吉にも目をかけられていましたが、元々父親の同僚。信長の娘を貰った自負もあり、秀吉よりも自分の方が
  実力があると思っていたようで、いつか天下取りをしようと考えていました。

『名将言行録』

『常山紀談』

『名将言行録』


  秀吉から東北に80万石の領地を貰いますが、その後も追加で120万石の領地を貰い受けます。
  しかし、どんぶり勘定で家臣に配ったため、自分の領地が無くなってしまいました。
  後日、もう一度 領地配分をやり直したそうです。

  氏郷は朝鮮半島出兵には反対だったので、秀吉に無理な要求を突き付ける事で意志を示した
  そうです。
  結局、朝鮮出兵に加わらされ体調を崩し、それが原因となって40才の若さで亡くなりました。


  【名護屋】なごや 那古邪。
   佐賀県北部、東松浦半島北端の海岸沿いの村(現、唐津市)。中世、松浦まつら党の一族、名護屋氏の本拠地。
   豊臣秀吉は朝鮮出兵の際この地に本営をおき、名護屋城を築いた。

  ※ 名護屋城は、大坂城に次ぐ広さを持った城だったようです。


  江戸時代1712 (正徳2) 年の『和漢三才図絵』の巻第二十「兵器・防備類」、二十一 「兵器・征伐具」には、旗・兜・鎧・鉄砲
  弓矢・槍などが図解されています。

  【和漢三才圖會】わかんさんさいずえは、日本の類書(百科事典)。正徳2年(1712年)成立。 Wiki 和漢三才図会
   編集者は大坂の医師 寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭された
   ことが編集の動機であった。
 
 加藤清正
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『熊本県民の熱愛グルメ』 13.08.22 放送
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『加藤清正』 13.10.13 放送 より
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿縦断622㎞の旅㉗ 大阪能勢妙見山から京都府へ」』 14.11.13 放送






  【加藤清正】かとう‐きよまさ (尾張の人、1562~1611)
   安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の臣。通称虎之助と伝える。賤ヶ岳七本槍の一人。
   文禄の役に先鋒、慶長の役で蔚山ウルサンに籠城、関ヶ原の戦では家康に味方し、肥後国を領有。

  加藤清正は秀吉の正室のおねに育てられ、頭が上がらなかった。勇猛な武闘派として知られ、文事派の石田三成が
  嫌いとも言われていますが、清正は城造りの名手で細やかな気遣いもできる知的な名将。そして人徳も高かった。

  【熊本城】くまもと‐じょう 銀杏城。
   熊本市の中央、茶臼山にある城。1601~07年(慶長6~12)加藤清正の築造
   1877年(明治10)西南戦争で西郷軍に攻められたが、落ちなかった。


  ≪ 家訓に残る「友達は一人で充分」 ≫ 『續撰清正記』

  清正は、若い頃に徒党を組んで失敗した経験がいくつかあるから、ではないかと思われています。
  多くの武将や藩主が家訓を残していますが、「自分が出来ていない事。自分が失敗した事。」を伝えているものが多い
  らしいです。

  1599年、清正たちは7人で三成を襲った事があり、三成はとっさに徳川家康の屋敷に入って匿ってもらい助かった。
  という話もあります。
  この時の7人、加藤清正、福島正則、浅野長政、池田嘉明、浅野幸長、池田輝政、黒田長政、細川忠興。


  ≪ お気に入りの茶碗を壊されたが、部下に褒美を与えた ≫ 『明良洪範』

  大切にしていた名品の茶碗を家臣が割ってしまいました。清正が激怒しているので、誰も茶碗を割った犯人のことについて
  口をつぐんだまま。
  そんな中、14才の平三郎が「名品とはいえ、茶碗一つのために大切な戦士を失ってもいいのですか」と言った。
  清正は、その少年の度胸に感動し褒美を与えました。

『續撰清正記』

『明良洪範』

 『續撰清正記』






  ≪ 熊本名物の唐子レンコン ≫

  朝鮮出兵の際に籠城戦で飢えに苦しんだ事から、帰国後、熊本城を造築した時に、籠城
  しても食糧に困らないよう城内の様々な場所に食糧を隠す工夫をしていました。
  その一つとして堀には蓮を植えレンコンを採れるようにしていた事から、唐子レンコンが
  生まれたと言われています。


  ≪ 清正を喜ばそうとして、家臣たちがタヌキのコスプレをしたが、別の意味で爆笑された ≫


  チーム対抗のコスプレイベントでタヌキの恰好をしたチームは、出番待ちが長すぎ熱中症でフラフラ状態になり、
  「タヌキが腹鼓を打たないのに、見物人が腹を抱えているわ」と清正は面白がった。
  準備してから8時間も出番待ちしていたそうです。

  城造りは、大きな石を運んだりする重労働。清正は出来るだけ楽しく仕事が行えるように様々な工夫をしており、
  こういった宴会もよく行っていたらしいです。

  ≪ 茶器一つが、国一つより価値があった ≫

  この時代の茶碗や茶器は国一つより価値があった時代。
  日本の歴史上、初めて死因に爆死と書かれた人物の松永久秀

  織田信長に対し二度の裏切り行為があったが、信長は「平蜘蛛茶釜」を渡せば命だけは
  助けるとしたが、久秀は「平蜘蛛茶釜」手放す事が嫌で、その釜に爆薬を仕掛け自ら爆死した。

 古天明平蜘蛛 こてんみょうひらぐも

  【松永久秀】まつなが‐ひさひで (1510~1577)
   室町末期の武将。三好長慶の家臣。弾正少弼。東大寺の大仏殿を焼き討ち。
   大和の信貴山に城を築き、主家を滅ぼし、足利義輝を自殺させた。織田信長入京の際降伏したが、のち叛いて敗死。
 
 細川忠興 と 細川ガラシャ
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびだせ ! えほん 「大阪市 森ノ宮~夕陽丘の旅」』 13.11.07 放送
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『細川忠興』 14.01.25 放送 より





    「肥後」、 「豊後」(大分県) 、肥後(熊本)は加藤清正。

  【細川忠興】ほそかわ‐ただおき (1563~1645)
   安土桃山時代の武将。幽斎の子。織田信長に仕え、丹後宮津城主。
   妻ガラシヤの父明智光秀が信長を殺害した時、その招きに応ぜず、豊臣秀吉に従って軍功を積み、越中守 (今の富山県)。
   関ヶ原の戦には徳川氏に属して戦功あり、豊前・豊後40万石に封。1620年(元和6)剃髪して三斎宗立と号。
   和歌・典故に通じ、また茶の湯を好んだ。


  ≪ 越中ふんどしの考案者 ≫

  忠興は戦場に出かける際、ふんどしを紐で縛り肩から掛け、サスペンダーのようにしてズリ落ちないようにしていた。
  「家来の背中を見ながら戦うのは恥」と思っていたので、常に先頭に立って戦う猛将だった。










  【立花宗茂】たちばな‐むねしげ(1569~1642)
   安土桃山時代の武将。大友氏の一族で、豊臣秀吉に仕え、筑後柳川城主。文禄・慶長の役に勇名をはせた。
   関ヶ原の戦後、家康に降る。

  【越中褌】えっちゅう‐ふんどし … (細川越中守忠興の始めたものという)長さ1メートル程の小幅の布に紐をつけたふんどし。


  ≪ 家臣の男色を褒め殺しで止めさせた ≫

  歴史的に男色が多かったのは戦国時代。織田信長、武田信玄など有名。理由としては、一説に「裏切らない家臣を持つため」。
  忠興が男色を禁じていたのは、単に同性で愛しあう事がイケナイのではなく、放置すると嫉妬などから家臣同士の争いに
  発展するので、それを防ぐ事が目的。忠興は部下の統率や政治手腕にも優れていたそうです。


  ≪ 「ガラシャ大好き」 が講じて、尋常ではない気の惹き方をした ≫

  【細川ガラシヤ】 日本歴史 武将・人物伝~戦国武将 『細川ガラシャ』 http://senjp.com/gara/ ←おすすめ
   (ガラシヤはラテン語の Gratia の訛、1563~1600) 細川忠興の妻。明智光秀の女むすめ
   キリシタン信者。関ヶ原の戦で石田三成挙兵に際し、人質として大坂城に入るのを拒んで、家老に自らを討たせた。

  忠興の逸話は名君のようなものが多いそうですが、妻のガラシャに関する話になると、
  気が触れたような言動を取ったようです。

 ・ 食事中、「飯に髪の毛が入っている」として料理人を斬り、その首をガラシャの膝に置いた。
 ・ ガラシャがキリスト教に改宗した時、止めなかった事を理由に侍女の鼻を削いだ。
 ・ 家臣の一人を手打ちにし、血のついた刀をガラシャの袖で拭いた。







 桃山時代、大阪市中央区の法円坂に細川忠興の屋敷が
 ありました。
 その場所には「越中井」という井戸が残っています。
 近くのカトリック玉造教会 (1894年) にガラシャ像と高山
 右近像が建っています。

 1600年、東軍についた忠興は、「出陣中に敵の手が迫って
 きたら…」と案じ、自宅に爆薬を仕掛けていました。

  忠興のの屋敷を石田三成らの西軍が取り囲み、ガラシャら大名の妻子に対し、人質として大坂城に入ることを迫ります。
  しかし、ガラシャは三成の要求を断りますが、熱心なキリシタンなので自殺はできません。
  家来が爆弾のスイッチを押して爆死しました。
 
 大坂城 書きかけ
  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『大坂城落城 その時おんなたちは !? ~侍女・おきく 知られざる証言録~ 』 14.01.15 放送
  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『これが乱世を生きる道 ~軍師 官兵衛 美しき人生~』 14.01.08 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『ある県から取り上げて欲しいとメールがきた件・岐阜』 14.09.01 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅12 「京都府舞鶴市田辺城~宮津市汐汲浜』 15.07.09 放送
  読売テレビ ten. 『大阪城の新たな絶景! 御座船の魅力に迫る!』 17.08.02 放送

 【大阪城・大坂城】
  大阪市中央区にある城。1583年(天正11)より豊臣秀吉が石山本願寺の旧地に築いた。大坂夏の陣で焼失後、
  元和~寛永年間に大修築。1868年(明治1)戦火を蒙り建造物の大部分が焼失。
  1931年(昭和6)本丸内外の一部を公園とし、旧規によって天守閣を設けた。

  ≪ 侍女 おきくが見た 大坂城での生活 ≫





  近江(滋賀県)の国を支配した浅井長政の家臣 山口茂左衛門の娘として、1596(慶長1)年頃におきくは生まれます。
  戦国時代は、男たちが戦乱を繰り返していたので女性の社会進出が進みました。




  【おきく物語】
   淀君の侍女おきくが、1615年(元和1)大坂落城の際の城内のありさまを、後年に語った記録。1巻。
   成立年未詳。1837年(天保8)刊。






  【淀殿】よどどの(~1615)
   豊臣秀吉の側室の俗称。幼名、茶々。浅井長政の長女。母は信長の妹お市の方。柴田勝家滅亡後、山城の淀城に
   住み、秀頼を生む。秀吉没後は、秀頼を擁して大坂城に在り、その落城の際、城中に自刃。淀君。
    ※ 「淀君」という言い方は、德川が淀殿を蔑む意味を込めて言ったものらしいです。


  戦国時代の女子に一番人気だった職業は侍女だそうです。天皇や将軍などより高貴な家に仕える事が一番の憧れ。
  大名家などに仕えることで人脈を築き、うまくいけば実家の繁栄にも繋げることができました。

  教育パパだった茂左衛門は、利発で聡明な娘に育ったおきくの奉公先を探し、浅井長政とお市の方(信長の妹)娘である
  淀殿の侍女にする事ができました。
  おきくは10才になる頃、発展が著しく、京都の次に大都市になっていた大坂に奉公に来ました。

  大坂城の本丸は大きく2つに分かれており、天守の南に築かれたのが「表御殿」で、政治や儀式が執り行われました。
  天守に接する場所に築かれたのが「奥御殿」で豊臣家の住まい、「御奥おおく」と呼ばれ300人ほどの侍女が働いていました。

  この御奥の仕来りやシステムなどが、江戸時代の大奥として発展していったそうです。侍女たちが住んでいた所は
  長局ながつぼねと呼ばれ、奥御殿を取り囲む石垣の上に建てられていたと推測されています。
  (↓真ん中の画像の細長い赤い部分





  当時の侍女は経験と能力によって、3段階に分けられ月宛と呼ばれる月給が支払われていました。
  上臈の侍女の仕事は、大坂城の天守の管理や蔵の財宝の出し入れ一切などの財産管理を任されており、秀吉の意向を
  汲み手紙や命令書も書くことがあったそうです。
  五大老の一人・毛利輝元宛てに「秀吉様のご意向で・・・中納言殿に任じます」という侍女が書いた手紙が残っています。






  京都橘大学名誉教授 田端泰子さんによると
   戦国時代の女房(侍女)は「表」の仕事(政治)をやっていた。それは何故かというと、男性が合戦のときは領地や家を
    守るために家の大黒柱の 役割を果たしていた。
    男性が出払った時に、代って日常の業務を遂行するという点で、非常に大事な役割を果たしていた。


  ≪ 様々な装飾技法が登場し、豪華な着物が流行った ≫

  元は下着だった小袖が大流行し、華やかな刺繍などが施されて打掛として着られるようになりました。
  また、辻が花や縫箔なども豪華になり、高給取りであった身分の高い侍女たちは、これらを好んで着たそうです。

  桃山時代の大坂を忠実に描いたとされる『豊臣期大坂図屏風』には大坂城下の庶民も描かれていますが、赤色系や
  緑色の派手な着物を着た人が多く描かれています。(下の画像は一部分のアップ)





  【小袖】こそで
   袖口の小さい垂領たりくびの着物。平安時代は貴族の筒袖の下着。鎌倉時代に袂たもとを加え、やがて武家や庶民も
   これにならい、内着や上着として用いた。
   室町後期から武家女子は袴をはかない小袖着流し姿とし、正装に身丈の長い小袖を打掛と称して用いた。
   近世以降庶民の小袖が発達し、現在の着物の母体となる。

  【辻が花】つじ‐が‐はな
   室町中期から江戸初頭にかけて盛行した絵模様染め。草花文様を紅色に染めたもので、麻布の単物ひとえもの
   のかたびらに行われ、女性や子供が着たという。現今は縫い締め絞りによる絵文様染めの称。

  【縫箔】ぬいはく
   縫は刺繍ししゅう 、箔は摺箔すりはくの意で、衣服の模様を縫と箔とで表したもの。
   また、能で、縫と箔で華麗な文様を表出した、主として女役の装束。

  【豊臣秀頼】とよとみ‐ひでより(1593~1615) 秀吉の子。
   安土桃山時代の武将。6歳で家を継ぎ徳川秀忠の女むすめ千姫を娶る。大坂夏の陣で、城は陥落し母 淀君と共に自刃。

  豊臣秀頼 徳川秀忠より諸大名や平民に支持されており、オランダ・ポルトガルは家康後は「天下人」になると予想していた。
  大阪城の観光船「黄金の御座船」と秀吉愛用の御座船「鳳凰丸」の屏風絵


  ≪ 関ヶ原の戦 ≫

  関ヶ原の戦いの2ヶ月前、京都府舞鶴市の田辺城を石田光成の1万5000人が軍勢が攻めました。
  城主の細川忠興は会津攻めで出兵しており田辺城を留守にしていた為、父親の幽斎が
  500人の軍勢で迎え撃ちました。
  近隣にある桂林寺の6代目住職の大渓禅師も弟子10数人と共に田辺城に入り支援。

  多勢に無勢の籠城戦が約1ヶ月半続きましたが、細川幽斎は近世の歌学を大成させたと
  言われるほどの超一流の歌人だったので、後陽成天皇が仲裁に入り、幽斎にも田辺城
  にも大きな損害は与えない事を条件に開城する事になりました。

  この籠城戦の為、石田光成軍は関ヶ原に着くのが予定より遅くなったそうです。


  慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原で、石田三成の西軍と徳川家康の東軍とが天下を争った合戦。
  諸大名はいずれかに属したから天下分け目の戦いと呼ばれた。西軍小早川秀秋の裏切りによって東軍が大勝し、
  その結果、家康は天下の実権を握った。以来、一般に重大な勝敗を決する戦いを「天下分け目の関ヶ原」という。

  【関ヶ原】
   岐阜県南西端、不破ふわ郡の町。伊吹山の南東麓に位置し、古代は東山道の要地で、鈴鹿関・愛発関あらちのせき
   共に、不破関をこの地に置いて、三関さんかんと称し、畿内防衛の外郭門戸とした。
   今、関址がある。近世には中山道と北国街道の分岐点。

  この「天下分け目の戦い」は関ヶ原だけではなく、東北では伊達政宗×上杉景勝。九州では黒田官兵衛×九州の多くの
  大名が争いました。






  【石田三成】いしだ‐みつなり (近江の人、1560~1600)
   安土桃山時代の武将。幼名は佐吉。治部少輔と称す。年少から豊臣秀吉に近侍、五奉行の一人となり、太閤検地など
   特に経済・財政の面に活躍した。佐和山19万石の城主。
   のち徳川家康を除こうとして挙兵、関ヶ原に敗れて京都で斬首された。

  【おあむ物語】おあんものがたり
   見聞記。石田三成の家臣山田去暦の女むすめおあんが、関ヶ原の戦に際し大垣城で見聞したところを晩年になって
   物語ったもの。享保(1716~1736)初年成るか。大坂落城の時の記録「おきく物語」と共に女性の目から見た戦争記録。

  岐阜県の関ヶ原の現在は国の史跡指定を受けているので、道路や建物の建設には国の許可が必要なため観光地化
  しにくいそうです。関ヶ原ウォーランドという施設だけがあり、他は陣跡の碑が残るだけの田園風景が広がっています。


  ≪ 大坂冬の陣 ≫

  1614年冬(慶長19年11月)徳川家康が豊臣氏の拠る大坂城を攻めた戦い。
  関ヶ原の戦の後、家康は豊臣氏を滅ぼそうと謀り、方広寺の鐘銘事件を口実として攻めたが、城が堅固で落ちず、
  翌月いったん和議を結んだ。






  【方広寺】ほうこう‐じ
   京都市東山区にある天台宗の寺。1586年(天正14)豊臣秀吉の発願によって着工。
   開山は古渓。6丈の木像大仏を安置した大仏殿があったが、
   焼失。秀頼が鋳造した梵鐘の銘に「国家安康」の文字があったことが、徳川家康によって大坂冬の陣の口実とされた。


  ≪ 大坂夏の陣 ≫

  1615年夏(慶長20年5月)徳川家康が豊臣氏を滅ぼした戦い。徳川方が冬の陣の和議条約を守らず大坂城の内濠をも
  埋めたので、大坂方の将士は憤激のあまり豊臣秀頼を擁して再び兵を挙げたが、家康・秀忠の大軍に破られて、
  秀頼・淀君以下自刃した。

  【大坂一分金】おおさか‐いちぶきん
   豊臣秀頼が発行したといわれる一分金。長方形で、重さ1匁1分8厘。表面に「一分」、背に「後藤光次」の花押極印がある。

  【竹流し】
   縦割りにした竹筒に金銀を鋳込んで固めた称量貨幣の一種。必要に応じて切り遣いもされた。竹流金。竿金。






  【おきく物語】おきくものがたり
   淀君の侍女おきくが、1615年(元和1)大坂落城の際の城内のありさまを、後年に語った記録。1巻。成立年未詳。
   1837年(天保8)刊。
  
 変わり兜
  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『これが乱世を生きる道 ~軍師 官兵衛 美しき人生~』 14.01.08 放送
  NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『黒田官兵衛のナンバー2の力』 14.01.14 放送
  テレビ東京 所でナンじゃ!? こりゃ 『日本古来のナンじゃこりゃ!?』 14.01.31 放送

 兜・冑】かぶと
   頭部を保護するためのかぶりもの。 平安中期以降、鎧よろいの発達とともに盛行した星兜がその代表。
   頭を入れる所を鉢はちといい、その背面に垂れて頸部をおおう所をしころ という。





  変わった形の兜は、戦国時代頃に多く造られたようです。縁起かつぎと、戦場においてのアピールと相手を威嚇することが
  目的。






  【黒田孝高】くろだ‐よしたか(播磨の人、1546~1604)
   安土桃山時代の武将。初め小寺氏。官兵衛と称。剃髪して如水じょすいと号。豊臣秀吉の中国・九州経略および朝鮮
   出兵に加わり、豊前6郡を領した。関ヶ原の戦には徳川家康方につく。キリスト教を信じシメオンと称。
   大分県中津に中津城を築城し、出身地の兵庫県の姫路から石工や大工を呼び寄せ、京都と博多からは商人を呼び
   寄せ城下町を整備。福岡に移った後も街づくりに励み、招いた職人が博多人形を産みだした。






  銀白檀塗合子形兜 ぎんびゃくだんぬり-ごうす-なり-かぶと
   フタ付きの椀の合子を模した兜。皆がお腹いっぱいご飯を食べられる「泰平の世」を目指したから、と考えられています。


  【加藤嘉明】かとう‐よしあき (1563~1631)
   安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の臣。賤ヶ岳七本槍の一人。文禄の役に水軍の将。
   関ヶ原の戦に家康に応じ功績をあげ、伊予松山、ついで会津40万石に封ぜられる。






  銀箔押富士山形張懸兜 ぎんぱくおし-ふじさん-なりはりかけ-かぶと 富士山をモチーフにした兜で、後ろに付け ちょんまげ。


  【黒田長政】くろだ‐ながまさ (1568~1623)
   安土桃山・江戸初期の武将。福岡藩主。
   孝高 (官兵衛) の子。
   豊臣秀吉の朝鮮出兵に従い、のち関ヶ原の戦には
   徳川家康に味方し、筑前52万石に封。

  銀箔押一の谷形兜 ぎんぱくおし-いちのたに-なり-かぶと
   源平合戦の戦場の一つ、一の谷の急斜面の崖を
   表現したもの。この兜で関ヶ原の合戦にも参加。



  鉄錆地帽子形兜 てつさびじ-もうす-なり-かぶと 

   (勝虫馬藺兜 かつむし-ばりん-かぶと)

  山口県岩国美術館 所蔵。当時、トンボは「勝虫」と
  言っていたらしく、ゲンが良く、360度見えて隙が無い、
  後ろに飛ばないなど。
  戦で被るのは縁起が良いとして好まれた兜だそうです。
 


  ≪ 江戸時代 ≫

黒漆塗執金剛杵形兜鉢 くろうるしぬり-しゅう-こうごうしょ-なり-かぶとばち
肉色塗入道頭形兜 にくじきぬり-にゅうどうず-なり-かぶと





熊頭形兜 くまがしら-なり-かぶと
黒漆塗兎耳形兜鉢 くろうるしぬり-とじ-なり-かぶとばち  黒漆塗蟹形兜 くろうるしぬり-かに-なり-かぶと




 
 
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