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山田方谷 備中松山藩 岡山県高梁市 |
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毎日放送 ちちんぷいぷい 『にっぽん城下町めぐり12 備中松山藩の城下町』 14.02.20 放送
NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『借金100億円から立ち上がれ ~山田方谷 納得の経営改革~』 15.07.28 放送
備中松山城の始まりは、鎌倉時代に標高430mの臥牛山に砦を築いた事から。
江戸時代の備中松山城の藩主は、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と続き、板倉氏 (德川の譜代大名) が最後。
【備中】びっちゅう … (ビチュウとも)旧国名。吉備きび国を大化改新後に前・中・後に分けた一つ。岡山県の西半部。
1642年から水谷勝隆が備中松山藩主 (水谷家は3代まで) となり、新田開発や河川の整備を行いました。
2代目の水谷勝宗が1683年に修築して、現在の城郭の形になりました。。
高梁川は松山城の外堀の役目を担うと同時に、高瀬舟を使って大坂・江戸へと物資を運搬していました。
Wiki 松山城(備中国) Wiki 山田方谷 Wiki 佐藤一斎 Wiki 板倉勝静
1805 (文化2) 年、山田方谷は農民の子 (元士族) として生まれました。父親が死去し15才で家業を継ぎます。
昼間は農業を行い夜は学業に励みました。14才の頃に詠んだ漢詩が残されています。
備中松山藩に仕え江戸に遊学し、郷土に戻った後、32才の時に藩校である有終館の校長となりました。
また、板倉家の跡継ぎである板倉勝静かつきよ (1823~1889、板倉家第7代藩主) の教育係も務めました。
【山田方谷】やまだ‐ほうこく(備中の人、1805~1877)
幕末・明治前期の儒学者。備中松山藩に仕え、のち江戸に遊学して佐藤一斎に入門、藩校有終館学頭。
藩主板倉勝静を補佐し、藩政刷新にも尽力。著「方谷遺稿」など。
1894 (嘉永2) 年、藩主となっていた板倉勝静が方谷 (45才の時) に「元締役」=財務担当取締役のような立場に
任命します。
当時の7板倉藩の借金は10万両 (100億円) ほどありました。税収は2万8000両しかなく、返済に充てられる額は
1000両ほど。10万両の利子だけで年9000両ありましたが、利子返済の為に新たに8000両を借金するような状態で、
借金は増え続ける一方でした。大名行列の際の駕籠かき人夫にすら、「貧乏板倉」と陰で言われていたそうです。
1850年に方谷は大坂へ向かい、商人を集めて藩の財政状態を暴露し建て直し返済計画を話し、利子の一時棚上げ
と返済期限の延長を申し入れました。
江戸末期頃、ほとんどの藩の財政は赤字で、商人 (主に大坂商人) から借金していました。
幕末~明治維新の動乱で、それらの藩は借金を踏み倒した為、大坂では多くの豪商が潰れました。
大阪の経済立て直しを行ったのが薩摩藩士の五代友厚です。
備中松山藩は幕府の普請などの臨時出費を賄うため大量の藩札を発行してしたので、藩札の価値は下がり紙切れ
同様の価値しかない状態でした。
これまで大坂商人に委託していた米の販売を止めて大坂蔵屋敷を売却して資金を作ります。
そして新しい藩札「永銭」を発行。高瀬川で額面1万2000両分の旧藩札を燃やし、藩札の切り替えを藩民にアピール
しました。
江戸遊学時代に培った人脈で全国の米相場の情報を得て、高く売れる地域で売りさばくよう指示を出しました。
藩内で良質な砂鉄が取れる事から30を超える製鉄所をつくり備中鍬を大量生産しました。
農民が多かった関東に着目し、江戸・日本橋木挽町にあった備中松山藩の中屋敷で販売しました。
製造から流通、販売を全て藩内の人間で行う事で委託コストを大幅に削減する事に成功。
【備中鍬】びっちゅう‐ぐわ
2~5個の歯をもつ股鍬またぐわ。粘湿地を起こすのに用いる。江戸後期より使用。股鉄。
9ヵ条の倹約令を公布。藩民に贅沢を禁止させますが、同時に接待や賄賂も禁じ弱い立場の藩民を守る内容も
含まれていました。
各村に1ヵ所ずつ郷倉ごうぐらを建て、倹約によって浮いた年貢米を飢饉や災害などに対応するように備蓄させました。
方谷が元締役をやっていた期間に農民の数が増えており、農民たちが将来の安心感を得た事が大きいそうです。
藩の財政を黒字に転換し8~10年で全額返済しました。
この改革が幕府内にも知れ渡り、藩主の板倉勝静は老中に取り立てられます。
1862年、方谷の財政改革で得た資金をもとに快風丸と名付けた大型船を購入。
1864年、新島襄 は快風丸に乗せて貰った事で、米国への密出国の契機となりました。
日本人初のキリスト(プロテスタント)教の牧師となった新島は、帰国後日本各地で布教を行いました。
【新島襄】にいじま‐じょう(江戸生れ、1843~1890)
教育家。21歳のとき渡米してアーモスト大学を卒業。1872年(明治5)より岩倉全権大使に随行してヨーロッパを視察。
75年京都に同志社英学校を創設、キリスト教主義の教育を創始。
明治時代の廃城令で松山城も取り壊される予定でしたが、山の上にある為、労力と費用がかかりすぎるので、廃城した
と偽って政府に報告したまま放置されました。
昭和15年に修繕が行われた際、地元の女学生らも資材を運びました。
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河井継之助 越後 長岡藩 新潟県長岡市 |
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NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『俊才が犯した失敗 河井継之助はなぜ負けたのか』 14.03.18 放送
Wiki 河井継之助 Wiki 北越戦争
【河井継之助】かわい‐つぐのすけ(幕末の越後長岡藩の家老、1827~1868)名は秋義。号、蒼竜窟。
古賀謹堂・山田方谷らに学ぶ。藩財政を再建。洋式の銃砲を購入してフランス式の調練を行なった。
戊辰戦争にあたり藩の中立を説いたが、政府軍にいれられず、長岡城に籠城。負傷し、落城後に死亡。日記「塵壺」
山田方谷に学び長岡藩の財政を立て直します。50万両の借金を返済。
戊辰戦争では中立を保っていた長岡藩ですが、新政府軍との交渉の行き違いから北越戦争に発展。
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【開国】 |
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TBS 『世紀末ワイドショー ザ・今夜はヒストリー』 12.06.13 再放送 / テレビ東京 『世界遺産 "三大迷宮"ミステリーⅡ』 13.09.20 放送
NHK Eテレ 高校講座 日本史 『開国』 13.11.01 放送 / 同 高校講座 日本史 『動揺する江戸幕府 ~内憂外患への対応~』 13.10.25 放送
NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『今こそ知りたい! ジョン万次郎 日本開国前夜 驚きの舞台裏』 13.11.06 放送
【大黒屋光太夫】だいこくや‐こうだゆう 名は幸太夫とも (伊勢の人、1751~1828)
江戸後期の船頭。1783年1月(天明2年12月)米を江戸に廻漕中難船、アリューシャン列島アムチトカ島に漂着、
その後ロシアに滞留、女帝エカテリーナ2世に謁見、92年(寛政4)ラックスマンに伴われて帰国、見聞を具申。
「北槎聞略ほくさぶんりゃく 」はその記録。
【中浜万次郎】なかはま‐まんじろう ジョン万次郎。(土佐国の漁夫の次男、1827~1898)
幕末・明治の語学者。1841年(天保12)出漁中に漂流、アメリカ船に救われ米国で教育を受け、51年(嘉永4)帰国。
土佐藩、ついで幕府に仕え、翻訳・航海・測量・英語の教授に当たる。のち開成学校教授。
【マシュー・ペリー】Matthew Calbraith Perry ペルリ。漢字名、彼理。(1794~1858)
アメリカの海軍軍人。1853年7月(嘉永6年6月)日本を開港させるため東インド艦隊を率いて浦賀に来航、
大統領の親書を幕府に提出。翌年江戸湾に再航、横浜で日米和親条約を結ぶ。後に下田・箱館に回航。
帰国後「日本遠征記」3巻を刊行。
【日米和親条約】にちべい‐わしん‐じょうやく
1854年(安政1)神奈川で、アメリカ全権使節ペリーと幕府全権林大学頭あきら 以下4名との間に締結・調印された
条約。アメリカ船の下田・箱館寄港、薪水食糧の購入、漂着アメリカ人の保護、片務的最恵国条款などを定めた。
神奈川条約。
【唐人お吉】とうじん-おきち (1841~1890)
アメリカ総領事ハリスの侍女。伊豆下田の船大工の娘。1857年 (安政4) ハリスに目見え。下田で投身自殺。
≪ 大坂港が開港されず、横浜港が開港した理由 ≫
日米和親条約の定めに基づき米国のハリスが下田駐在総領事として来日。
米国側の要求では下田・箱館・大坂・長崎・平戸・江戸・品川の開港を要求。横浜は含まれていませんでした。
幕府目付の岩瀬忠震 (後に外国奉行) が、大坂開港は絶対阻止し横浜を開港すべきという意見書を老中首座で
外務専任の堀田正睦に提出。
当時の大坂は水陸両面で交通の要所であり経済の中心地。大坂が開港すると江戸が衰退し大坂だけが発展するの
ではないかという懸念が強かったそうです。
また、大坂には西国の雄藩の武家屋敷が多く、上方で外国との貿易を許すと勝手に貿易し、手をつけられなくなると
いう懸念も強かった。
幕府はハリスの合意を得ないまま、横浜を開港することに決定し、なし崩しのまま開港を既成事実化していきます。
ちなみに当時、現在の横浜駅の場所は海でした。
詳しくは、下記リンクにて
横浜税関 『横浜開港150年の歴史』 http://www.customs.go.jp/yokohama/history/hatten.pdf
日本銀行神戸支店 『神戸港の質的変貌』 13.11.20 http://www3.boj.or.jp/kobe/kouhyou/report/report131120.pdf
【ハリス】Townsend Harris (1804~1878)
アメリカの外交官。1856年(安政3)最初の駐日総領事、のち公使。幕府との間に日米修好通商条約・貿易章程を
締結。著「日本滞在記」。
TBS 所さんのニッポンの出番! 15.05.12 放送
伊豆・下田奉行所での交渉の折り、ハリスは椅子に座っての交渉を強く要求。
幕府としては、畳に座ったままだと見下ろされる事になるので、畳を重ねて
目線を同じようにしたそうです。
この様子はハリスに同行したヒュースケンの日本記にスケッチとして残されています。
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【日米修好通商条約】にちべい‐しゅうこう‐つうしょう‐じょうやく
1858年(安政5)神奈川で、アメリカ駐日総領事ハリスと下田奉行 井上清直・目付岩瀬忠震ただなりとの間で締結
調印された条約。
公使・領事の交換、下田・箱館のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市、貿易の自由などを
決めたが、領事裁判権を定め、また関税自主権がないなど、日本に不利な点が多かった。
【安政五カ国条約】あんせい‐ごかこくじょうやく
江戸幕府が、安政5年6月(1858年7月)、米・蘭・露・英・仏の5カ国との間に結んだ修好通商条約の総称。
箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5港の開港を約した。勅許を待たず調印されたので、安政の仮条約と称する
こともある。
【安政の大獄】 あんせい‐の‐たいごく
安政5年から翌年にかけて大老井伊直弼が政争の反対派らに下した弾圧事件。
将軍継嗣問題で、井伊が紀州の徳川慶福(家茂)を第14代将軍として擁立し、また勅許を得ずに安政五カ国条約に
調印したことを、一橋慶喜を推す一橋派が批判、これに対し井伊が同派の公卿・諸大名らを罰し、梅田雲浜・吉田
松陰・頼三樹三郎・橋本左内ら多数の尊王攘夷派人士を投獄・処刑。
【井伊直弼】いい‐なおすけ(彦根藩主、1815~1860)
幕末の大老。掃部頭。徳川家茂を将軍の継嗣とし、また勅許を待たずに諸外国と条約を結び、反対派を弾圧した
ので(安政の大獄)、1860(安政7)年3月3日の雪の朝、水戸・薩摩浪士ら18人に桜田門外で殺された。
【五品江戸廻令】ごひん‐えどまわし‐れい
1860年(万延1)外国貿易開始による市場の混乱を防ぐため幕府が出した流通統制令。
雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の5品は産地から江戸に廻送し、その国内需要を充たした上で輸出させた。
≪ 日本各地の幕末~大正期の写真 ≫ 下記リンク先、ユーチューブ動画でご覧下さい。オススメ !!
江戸の文化 吉原遊郭
【幕末・明治時代】日本の古き良き時代の写真集 1~Japan in the 19th century~ http://youtu.be/MsgcLwNTjB0
【2ch雑学】明治・大正時代の写真を披露するよPhotos of Japan about 100 years ago http://youtu.be/Dfpk0VqEvz8
日本の古い町並み写真集(戦前絵葉書)/Vintage Postcards of Japan Cityscape http://youtu.be/xtHlAQb0kaM
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10代目藩主 鍋島直正 と 日本一の技術藩 佐賀 鍋島藩 |
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NHK・佐賀 Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『激動の世の人材バンク 「鍋島直正」』 前編 13.10.15 / 後編 13.10.22 放送
NHK Eテレ 高校講座 日本史 『動揺する江戸幕府 ~内憂外患への対応~』 13.10.25 放送
≪ 日本一の技術藩 佐賀鍋島藩 ≫
司馬遼太郎 著 『アームストロング砲』 より 「佐賀藩の『文明』にくらべれぱ 諸藩など、およびもつかなかった。」
【司馬遼太郎】しば‐りょうたろう (大阪生れ、1923~1996)本名、福田定一。
小説家。大阪外大卒。乱世・変革期の群像を描いた「国盗り物語」「竜馬がゆく」「坂の上の雲」などの小説や、
紀行「街道をゆく」で司馬史観と呼ばれる柔軟な歴史解釈を示す。文化勲章。
幕末、幕府や各藩は財政難の所が多かった。独自に外国の情報を収集する事に成功した長州、薩摩など
西国の藩が財政再建に成功し、明治維新へと繋がっていきます。
≪ 人材育成の名君 鍋島直正 ≫ 直正は人材を育成する事で、幕末屈指の雄藩へと導く事に成功しました。
【鍋島直正】なべしま‐なおまさ (幕末の佐賀藩主、1814~1871)初名、斉正なりまさ。号、閑叟。
藤原秀郷7世の孫 秀清に始まる。天文(1532~1555)年間以後、主家 竜造寺氏を継いで肥前 佐賀郡を本拠
とした鍋島氏が最も名高い。鍋島直正は、早くから西洋の文物を採り入れ、長崎に砲台を築き反射炉を設ける。
また殖産を奨め学問を興し、名君として知られた。公武合体に尽力し、維新後、議定・開拓長官など。
直正が10代目佐賀藩主になったのは16歳の時。佐賀藩は先代の借金や天災続きで財政は破綻寸前の状態でした。
1837年、藩政改革に着手。その中には、農民に対して小作人料を10ヵ年間も猶予したり、地主が持っていた耕作地
を一旦藩の物とし、農業を行う地主や小作人に分ける政策も行いました。
伊万里 (有田) 焼などの陶磁器や蝋ロウの専売を行い利益を上げるようにしました。
1840年のアヘン戦争で清 (中国) が英国に敗れ、日本にも外国船が多く押し寄せてきており、長崎の沿岸警備を
担当する佐賀藩は外圧の脅威をどこよりも強く感じていました。
1844年、火術方かじゅつ-かたを設置し、軍事に重きをおきました。 1850年、金属を溶かすための反射炉を建設。
≪ 日本初の鉄製大砲の製造 ≫
外国の脅威に立ち向かう為、直正は長崎に備え付ける大砲を造ることを命令します。
刀鍛冶や蘭学者を集められ、砲術を学んでいた本島藤太夫もとじま-とうだいゆう が責
任者に選ばれます。
本島たちは、大砲を造る為に必要な鉄を溶かすための反射炉を建設。高熱で反射
炉のレンガを溶かし鉄と混ざり合ってうまくいきません。
1トン近い鉄が炉の中でレンガと共に固まり、多額の資金をかけて反射炉を丸ごと
作り替えなければならない状態になりました。
【反射炉】はんしゃ‐ろ
金属を製錬・溶解するための炉の一種。燃焼室と加熱室とは別になっていて、炎は
炉頂に沿って流れ、天井と側壁からの放射熱で鉱石や金属を製錬または溶融する。
製錬の場合は大量生産に適し、溶融では成分を余り変えずに溶かす。
本島らは高熱に耐えうるレンガを探した結果、鉄と同じ1400℃で焼いている有田焼用
の炉の耐火レンガの技術を採り入れることにしました。
7回目の挑戦で全ての鉄を溶かす事に成功し、型に流し込み大砲の形をつくる事が
できました。
試し撃ちをすると大砲が破損。その後、十数回以上も失敗が続き、庶民から「この度も
また出来損じなり」と陰口を叩かれ、身内の役人たちからも「金の無駄だ」と批判が
相次ぎました。
また大砲を備え付ける為、数十億円かけて長崎に作っていた完成間近の砲台も無駄に
なってしまいます。窮地に追い込まれた本島は「これだけ時間と金をかけて完成しない
なら、切腹して殿にお詫びするしかない」と、覚悟を決めました。
そんな本島に、直正は「死ぬとは何事だ !! 西洋人に出来て我々に出来ないことはない。
試験と研究を重ねれば、必ず成功する」と失敗の責任追及より、失敗の原因を追及する
ように促しました。
その言葉に本島らは奮起し、ひたすら努力し研究を重ねました。その結果、鉄の成分
にムラがあり、砲身に歪みがある事が、強度不足の原因だという事に気付きます。
溶かした鉄をかき交ぜてから鋳造する撹拌法によって鉄の成分を均一化し、手作業で
砲身の穴を空けていたやり方から、水車を使用して穴を空ける方法に変更、砲身の
歪みを無くしました。
15回目の発射試験で成功。日本初の鉄製の大砲が完成したのです。
プロジェクト開始から成功から2年かかりました。
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水車を使った砲身の穴開け
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この成功はすぐに江戸に届き、幕府は諸外国に対抗するため、50門の大砲を佐賀藩に発注。
しかし、本島らは実践に耐えうるかどうかの不安がありました。
西洋では、実践よりも多い火薬を使い製品テストを行っていますが、その火薬の量が分かりません。
直正は「長崎に行って、オランダ人に聞いてこい」と命じます。
西洋との交流を幕府が厳しく制限を加えていた時代。大砲製造以前から、直正はオランダ船を何度も訪れ船や
武器の事を質問していました。この行動は常識外れとされ、「西洋かぶれ」と揶揄されました。
「新しい事は慣習を破ってでも学ぶ」という藩主自らの行動を手本にして、本島らは長崎のオランダ商館を
訪れます。
3回目の訪問にして、ようやく製品テストに使う火薬の量を聞き出す事に成功。
弾の重さの1/2の火薬を使用して破裂しなければ実践でも耐えうる。その条件での試し撃ちに成功。
強度のめどが立ったため、大砲を量産し、50門すべてを幕府に納入。その大砲は江戸の品川台場に備え付けら
れました。大砲完成後も佐賀藩士たちは西洋人と積極的に交流し知識や技術を学びとっていきました。
【品川台場】しながわ‐だいば
1853年(嘉永6)米艦が浦賀に来航した後、幕府が江戸防衛のため、江川太郎左衛門の設計、斎藤弥九郎
さいとう‐やくろう(越中の人、1798~1871)の工事監督によって、品川沖に築いた六つの洋式砲台。御台場。
【江川太郎左衛門】えがわ‐たろうざえもん(1801~1855)
伊豆韮山にらやまに屋敷をもつ江戸幕府の世襲代官の通称。(36代)江戸後期の砲術家・民政家。名は英竜ひでたつ、
号は坦庵。高島秋帆たかしま‐しゅうはん(1798~1866。長崎の町年寄兼鉄砲方。幕末の兵学者。日本近代砲術の祖)
に学び、西洋砲術を教授。また、品川台場を設計、反射炉を設け大砲を鋳造。
≪ 蒸気機関の開発にかけた佐賀藩の精錬方 ≫
現在から4年前。佐賀市の早津川のほとりで、150年前に日本初の本格的な蒸気船が作られた造船ドックの跡が
発掘されました。
蒸気船を造ったのは、1852 (嘉永5) 年に佐賀藩が設立した精錬方せいれん-かたと呼ばれる金属の精製をする
研究所でした。精錬方で研究したのは、高性能な火薬、ガラスやパルプなどの新素材、カメラ、蒸気船などでした。
精練方の責任者に選ばれたのは、鍋島直正が信頼をおく藩士の一人、佐野常民でした。
優秀な人材を集めましたが、高度な技術を記述した西洋書は解読が困難で、藩内だけでは限界を感じ、京都から
人材を呼ぶ事にしました。
しかし、当時は藩外の人材は登用しないのが普通で、特に佐賀藩は「二重鎖国」と呼ばれるほど閉鎖的でした。
【佐野常民】さの‐つねたみ(1822~1902)
政治家。佐賀藩士。工部大丞・元老院議長・農商務相・枢密顧問官などを歴任。
博愛社(現、日本赤十字社)の創立者・社長。伯爵。航海の安全ため、西洋式灯台の普及にも尽力。
中村奇輔 西洋の科学を学び豊富な知識と奇抜なアイデアマンとして知られていた。
石黒寛次 洋書や翻訳のスペシャリスト。
田中久重 京都において万年時計やからくり人形など精巧な機械作りで人気を博し、全国的にも名を馳せていました。
【田中久重】たなか‐ひさしげ (筑後 久留米の人、1799~1881) 通称、儀右衛門。
(初代)幕末・明治初期の技術家。久留米絣の織機を製作。また水仕掛けのからくり人形を作り、「からくり儀右
衛門」と称された。
京都で蘭学を学び時計の製作などに従事。のち大砲や汽船の汽缶を製作。維新後は東京新橋に田中工場を設立、
電信機械を製作。(2代目の田中久重)は養子で、幼名、金子大吉。(1846~1905)。
田中工場を東京都港区東部の芝浦に移し、民間最大の機械工場に発展させた(のちの芝浦製作所 → 現在の東芝)。
3人を藩内に受け入れることに対し、閉鎖的な佐賀藩の重臣たちは猛反発。特に中村奇輔は京都に100両もの借金を
残しています。直正は反対を押切り、中村の借金を全て肩代わりし彼らを受け入れました。
この直正の決断は、「他藩の人材を登用することで藩内の人材に刺激を与える効果を狙ったもの」と考えられて
います。
また直正は藩内の人材を余所へ出し学ばせることも積極的に行いました。
江戸の昌平坂学問所には90以上の藩から若者が学びに来ていましたが、佐賀藩が最も多く50名余りが学んだそう
です。
【昌平黌】しょうへい‐こう
江戸幕府の儒学を主とした学校。林羅山(京都の人、1583~1657)が江戸の上野忍ヶ岡に創設した家塾(後に弘
文館)に始まる。1690年(元禄3)将軍綱吉が孔子廟先聖殿とともに弘文館を湯島昌平坂に移し、大成殿(聖堂)を
造営して林家当主に主宰させた。
1797年(寛政9)幕府直轄の学問所となり、主に旗本・御家人の子弟を教育した。昌平坂学問所。江戸学問所。
石黒寛次が西洋の技術書を大量に翻訳すると、精錬方の藩士たちは競ってその技術参考書を読みました。
しかし、半年経っても精錬方の蒸気機関の開発は進まず、出費ばかりが膨らみます。こちらも金の無駄として閉鎖
要求が高まりました。
直正は「私の道楽であるから制限するな」と言い、精錬方への批判を自身が受けることにします。
そして自ら金策をし研究資金も集めました。
≪ 日本初の蒸気機関車の開発 ≫
中村奇輔は、長崎でロシア人が走らせていた小型蒸気機関車を目にします。佐賀に戻り伝えると、蒸気機関の
研究の試作してみる事になりました。
中村は見ただけの情報を基に設計図を描き、それに必要そうな技術情報を石黒たちが翻訳。そして田中たちが
組み立てます。
研究を始めてから2年後の1855(安政2)年、日本初の蒸気機関車のテスト走行が行われました。
このテスト走行に感銘を受けた若き佐賀藩士の一人である大隈重信は、のちに明治政府の中枢を担う立場になると、
新橋~横浜間に日本初の鉄道を走らせる事に尽力しました。
直正も度々視察に訪れた精錬方では、蒸気機関車の他にカメラや電信機、西洋風のガラス製品も開発しました。
≪ 日本初の本格的な蒸気船 ≫
精錬方設立から13年後の1865(慶応元)年、全長18mで10馬力の水力を持つ、国産初の本格的な蒸気船 凌風丸
りょうふうまるを完成。同年、佐賀藩は大砲や蒸気船の製造を活かすために海軍所を創設。
『西洋鉄熕鋳造篇せいよう-てっこう-ちゅうぞう-へん』というオランダの書物の参考に、独自のアームストロング砲を開発し
戊辰戦争で活躍。
1868 (慶応4) 年5月の上野戦争 (東京上野で行われた戊辰戦争の一部) では、上野の寛永寺を本拠とする彰義隊
などの幕府軍を、わずか2門のアームストロング砲で蹴散らしたとも言われています。
【彰義隊】しょうぎ‐たい
慶応4年(1868)2月、旧幕臣が江戸で結成した隊。最盛期は2000人ほど。新政府に反抗的な態度をとったが、
5月の上野戦争で討滅された。
≪ 佐賀藩の成功の極意 ≫
「日峯にっぽう」さん。と呼ばれている佐賀藩の祖、鍋島直茂 (1538~1618) が残した21ヶ条の中に
「人は下しもほど骨折り候そうろうの事 よく知るべし」 という言葉があるそうです。直正もその言葉をよく胸に刻んで
いたと思われています。
「地位や立場の低い者 (現場で働く人) ほど、大変、苦労や努力している。その事を上司はよく知っておく
必要がある」という意味。
当時、多くの藩では人材を失っていましたが、鍋島直正は、人材を育てるだけではなく、流出もさせなかった。
(「名君」と言われる所以の一つ。)
≪ 明治に活躍した佐賀出身者たち ≫
明治政府で、佐賀藩出身者の約80人が、鉄道や通信のインフラを整備する工部省 (人員の約1/6も占めて
いました) で活躍。東大医学部の設置などを進めたのも、幕末の佐賀藩出身者だそうです。
【大隈重信】おおくま‐しげのぶ (1838~1922)
政治家。佐賀藩士。維新政府の要職を歴任、主に財政をつかさどるが、「明治十四年の政変」で下野し、立憲
改進党を結成。
のち外相となり条約改正につとめるが挫折。1898年(明治31)憲政党内閣いわゆる隈板わいはん内閣の首班。
1914年(大正3)再び首相。また、東京専門学校(現、早稲田大学)を創立。侯爵。日本の通貨を「円」に定めた。
【大木喬任】おおき‐たかとう (1832~1899)
政治家。佐賀藩士。幕末、志士として活動。新政府の文部卿となり、学制を制定。以後も要職を歴任。
国民全員が学べる国民皆学制度をつくった。東京一極集中を進めた。
【江藤新平】えとう‐しんぺい (1834~1874)
政治家。名は胤雄。号、南白。佐賀藩士。幕末、志士として活動。維新政府の司法卿となり、改定律例を制定。
のち、参議。征韓論政変で下野。板垣退助らと民撰議院設立を建白した直後、佐賀の乱を起こし、処刑。
都道府県制度を確立。
【鍋島騒動】
近世初期、肥前佐賀藩における竜造寺氏から重臣鍋島氏への幕府公認の家督相続・政権交代を、鍋島家の
御家騒動として、竜造寺氏の立場から作られた怪猫談。
講談・戯曲類に脚色され、実録物では「佐賀怪猫伝」、講談では「佐賀の夜桜」などが代表的。
【鍋島緞通】なべしま‐だんつう
木綿緞通の一つ。江戸中期に肥前(佐賀県)鍋島藩で、中国の獣毛による緞通を模して
創始。日本の温暖な気候に合うように、獣毛の代りに綿糸を用いた。
【鍋島焼】なべしま‐やき
江戸時代、佐賀鍋島家が将軍家などへの献上物とするため伊万里市大川内おおかわちの
藩窯で作らせた磁器。工人・材料その他厳選を重ねて製したので、技術的に日本の磁器
の最高峰といわれる。染付・色絵・青磁などがあり、色絵付のものは色鍋島という。
大川内焼。
【伊万里焼】いまり‐やき 有田焼の通称。
江戸時代に、佐賀県西部の有田地方産の磁器の多くが近隣の伊万里港から積み出され
たことに因む名。
朝鮮から渡来した李参平り-さんぺいの創始とされ、江戸時代初期に日本で初めて磁器を
焼成。
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※ 鍋島藩は不思議な藩。現在も旧鍋島藩士の会のようなものがあったと思います。
(記憶違いがあるかも知れないので、詳しくは調べて下さい)
本家の城持ち大名と、2つの分家 (陣屋・・・城郭のない小藩の大名の居所)があった。
忠臣蔵の赤穂浪士を家来にしたいと申し出たり、追腹 (臣下が主君の跡を追って切腹すること。殉死。供腹)
の家臣の数 1位と3位という記録もあったように思います。
当サイト管理人である私の母方の祖父は、長崎に移り住んだ鍋島藩士の子です。
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濱口梧陵 私財を投じて村民を助けた 「稲むらの火」 |
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ヤマサ醤油 HP 『教科書にものった「稲むらの火」』 http://www.yamasa.com/enjoy/history/inamura/ / Wiki 濱口梧陵
朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『知られざる偉人たちを発見! KANSAI 記念館ランキング』 14.01.30 放送
和歌山県広川町に海外からも人が訪れる記念館があります。それはヤマサ醤油 (千葉県) の7代目当主
濱口梧陵が村民を救った物語。
「稲叢いな‐むらの火」として教科書にも掲載された事があり、現在9ヵ国で翻訳され「ア リビング ゴッド (生ける神)」
として、海外でも知られているそうです。
【濱口梧陵】はまぐち-ごりょう (紀州の人、1820~1855)
紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として生まれる。12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子と
なって、銚子に移る。江戸に上って見聞を広め、開国論者となった。海外留学を志願するが、開国直前の江戸
幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して事業を行った。
嘉永5年(1852年)、同業の濱口吉右衛門(東江)・岩崎重次郎(明岳)とともに広村に稽古場「耐久舎」(現在の
和歌山県立耐久高等学校)を開設して後進の育成を図った。嘉永7年(1854年)頃、七代目濱口儀兵衛を相続する。
初代の濱口儀兵衛は和歌山県から千葉に移り、ヤマサ醤油を創業します。
1854(安政1)年、7代目の「濱口儀兵衛」こと、濱口梧陵は、和歌山広村(現、有田郡広川町)に戻っていました。
11月4日、5日の2回にわたって、安政の南海大地震が発生。濱口は高い場所にある八幡神社へ逃げるように呼び
かけます。
あっという間に、海岸沿いにある村は津波に飲みこまれました。村人に行方不明者がいる事を知った濱口。
「暗くては逃げる場所も分からないだろう」として、自分の所有する稲叢いな‐むら(刈った稲または稲藁わらを積み重ね
たもの)に火をつけることにします。当時、稲藁は草履や縄をつくる材料になっていたので貴重な財産でした。
そのおかげで、海に流された人も岸の方角が分かり、広川村の津波による死者は一人も出ませんでした。
【南海道地震】なんかいどう‐じしん 南海地震。
四国沖から紀伊半島沖にかけて起こる巨大地震。最近では1707年(宝永4)、1854年(安政1)、1946年に発生し、
特に最後のものを指すことが多い。
震源の断層はプレート境界にほぼ一致。地震時に太平洋側の半島の先端部は隆起、付け根の地域は沈降する。
地震の後、村の復興事業と次の防災を兼ねて、濱口は私財 (現在の価値で3億5000万円) を投じ、4年間かけ高さ5m
長さ600mの防波堤を建設しました。
堤防完成から88年後、昭和の南海大地震では、その防波堤のおかげで被害は最小限に食い止められたといいます。
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薩摩藩 と 西郷隆盛 |
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朝日新聞 朝刊 13.12.02 / NHK Eテレ 高校講座 日本史 『動揺する江戸幕府 ~内憂外患への対応~』 13.10.25 放送
NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『西郷流! こじれた人間関係解消法』 前編 13.11.19 / 後編 13.11.26 放送 NHK Eテレ 歴史にドキリ 「大久保利通」 14.02.12 放送
読売テレビ かんさい情報ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「この画は別人だった! 西郷隆盛の本当の顔とは?」』 14.03.05 放送
≪ 薩摩藩の祖、島津家 ≫
【島津】… 忠久を祖とする薩摩・大隅・日向の守護大名。近世薩摩藩主。
【島津貴久】たかひさ(1514~1571)
戦国時代の武将。薩摩・大隅2国を統一して戦国大名としての島津氏の基礎を固めた。
【島津義久】よしひさ(1533~1611) 貴久の子。義弘の兄。
安土桃山時代の武将。肥前・筑前・豊後に侵攻したが、1587年(天正15)秀吉に降り、
改めて薩摩に封ぜられた。
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【島津義弘】よしひろ(1535~1619)
安土桃山時代の武将。兄 義久と共に九州を略定したが、豊臣秀吉に降り、大隅に封ぜられ、文禄・
慶長の役に殊功をたてた。関ヶ原の戦に石田三成にくみして敗れ帰り、剃髪して惟新と号した。
【島津家久】いえひさ (1576~1638)
安土桃山・江戸初期の武将。文禄・慶長の役に従軍。薩摩藩の初代藩主となり琉球を帰属させた。
≪ 幕末、薩摩の改革 ≫
【島津重豪】しげひで(1745~1833)
江戸後期の薩摩藩主。積極開化の政治方針をとり、造士館・演武館・医学館を創設、農書「成形図説」などを
編纂させた。財政破綻を招き、調所広郷を登用して改革を行う。
【調所広郷】ずしょ‐ひろさと(1776~1848)
江戸後期の薩摩藩家老。通称、笑左衛門。500万両の藩債の
棚上げ、国産の奨励と藩専売、琉球密貿易などにより財政基盤
を築いた。琉球を介した中国密貿易の責任を追及されて江戸
藩邸で服毒自殺。
【お由良騒動】おゆら‐そうどう 嘉永朋党崩れ。高崎崩れ。
幕末、鹿児島藩の御家騒動。藩主 島津斉興なりおき・家老 調所
広郷が、島津斉彬と対立。
調所は斉興の側室お由良(由羅)の方の子 忠教(久光)を世子
(大名の世つぎ) としようとし、1849年(嘉永2)斉彬派の家臣は忠
教暗殺をはかり発覚、切腹・遠島などの弾圧をうけた。
のち幕府の介入で斉興は隠居し斉彬が藩主となる。
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【島津斉彬】なりあきら(1809~1858)
江戸末期の薩摩藩主。斉興なりおきの子。早くから開国の意見を抱き、殖産興業に力を入れ、藩営工場集成館を
設立、洋式の造船・造兵・紡織などの業を興す。御庭番だった下級武士の西郷隆盛を側近に大抜擢した。
【島津久光】ひさみつ(1817~1887)幼名、三郎。 薩摩藩主 斉彬の異母弟。
幕末・維新期の大名・政治家。兄の死後、藩主忠義の実父として藩政を掌握、公武の間に
奔走・周旋し、維新後、左大臣に進んだが、欧化政策に反対、鹿児島に退隠。公爵。
【島津忠義】ただよし(1840~1897)
幕末の薩摩藩主。父 久光と共に藩政改革に着手し、近代化を進めた。
討幕の密勅を受けて上洛し、王政復古に尽力。戊辰戦争では新政府軍の中心として活躍。
のち公爵・貴族院議員。
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≪ 西郷隆盛は、藩主 島津久光に「田舎者」と言って、一生の島流しの刑にされた ≫
西郷隆盛は13才くらいの頃、暴漢に襲われ右腕を斬られ肘が曲がりきらなくなり、武術は諦め学問に励みました。
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西郷隆盛を取りたててくれた斉彬が急死すると、久光が
藩主になりますが、二人は反りが合わなかった。
斉彬と同じように久光も幕政改革に乗り出そうとしますが、
隆盛は「恐れながら上様は田舎者でいらっしゃるので…」
と本音を言ってしまいます。
当然、久光は激怒!! それからも幾度か衝突し、1862年に
沖永良部島に島流しになりました。
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わずか7㎡の狭い野ざらしの牢に閉じ込められ、粗末な食べ物しか与えられなかったそうです。
【西郷隆盛】さいごう‐たかもり(薩摩藩士、1827~1877)
幕末・維新期の政治家。通称、吉之助。号は南洲。薩摩藩の指導者となり幕府を倒す。戊辰戦争では江戸城の
無血開城を実現。
新政府の陸軍大将・参議をつとめるが、征韓論政変で下野。帰郷して私学校を設立。
1877年(明治10)私学校党に推されて挙兵(西南戦争)、敗れて城山にて自刃。
【沖永良部島】おきのえらぶ‐じま
鹿児島県奄美諸島の一つ。面積95平方キロメートル。鍾乳洞の多い観光地で、特産の花卉かきを栽培。
江戸時代、薩摩藩で最も重い罪を犯した者が流される流刑地でした。
日に日に痩せていき、死ぬ寸前のような状態で、一遍の漢詩を綴ります。
「朝あしたには恩遇おんぐうをこうむり 夕ゆうべには焚抗ふんこうせらる」
「藩主の側近だったが、気付けば罪人にさせられている」という身の上を嘆いた歌でした。
≪ 生麦事件と薩英戦争 ≫
当時、沖永良部島周辺の島々には薩摩藩の役人が定期的に派遣されていました。隆盛は彼らに手紙を送り、
薩摩の情報を入手しようとしました。そんな折、生麦事件の報復として、薩摩は英国艦隊から砲撃を受けます。
隆盛の薩摩を憂う気持ちに応え、役人たちは隆盛に情報を集め始めました。
【生麦事件】なまむぎ‐じけん
文久2年(1862)8月21日、島津久光の行列が生麦(横浜市鶴見区の一地区)にさしかかった際、イギリス人4人が
騎馬のままで行列に遭遇し、怒った従士が殺傷した事件。
翌年イギリス軍艦の鹿児島砲撃(薩英戦争)の原因となったが、幕府は責任を負い、償金10万ポンドをイギリスに
支払った。
【薩英戦争】さつえい‐せんそう
文久3年(1863)7月、生麦事件の責任追及のため鹿児島湾に進入したイギリス艦隊と薩摩藩との間で行われた
戦闘。同年10月和議が成立し同藩は責任を認め、以後双方は接近。
≪ 島民との交流 ≫
野ざらしの牢で7ヶ月居ましたが、地元の役人の計らいで雨風がしのげる座敷牢へと移される事になりました。
すると、昼夜を問わず20人以上の子供たちが集まり、論語や孟子などの講義を行いました。牢屋塾と呼ばれました。
本土から離れた島なので、台風や干ばつに見舞われて食糧が不足しても物資の補給を受けにくい状態でした。
それを解決する案を社倉趣意書しゃそうしゅいしょに書いて提案します。
協同組合を設立し、高床式の倉庫を造り、豊作の時に米を備蓄。食糧不足になると、ここから蓄えた米を皆で使う
ようにする事。これは明治30年頃まで続けられたそうです。
島の人達と政治談議をしたり、自作の釣り道具をプレゼントするなどして、島民と交流を深め信頼も勝ち得るように
なりました。島の役人と義兄弟の契りを結んだり、時には牢から出してもらい相撲に興じる事もできました。
【社倉】しゃ‐そう
飢饉に備えて設けた穀物倉庫。また、その制度。
隋の義倉に起こり、南宋の朱熹の「朱子社倉法」が名高い。明・清・朝鮮王朝でも行われ、日本にも導入された。
【義倉】ぎ‐そう
凶年に窮民を救う目的で、平時に貧富の差に応じて穀物を徴収し、これを貯えておく倉。
中国で北斉・隋・唐の頃行われ、日本でも律令に規定され、国衙こくが の倉に粟を貯えたが間もなく廃絶。
江戸時代にも宇和島・弘前などで藩の事業として設けた。
≪ 2年ぶりの復活 ≫
1864年、薩摩藩では「攘夷じょうい」(外国を排撃し鎖国を主張する議論) or 「開国」かで揉めていました。
藩をまとめるリーダーが必要だったのです。その時、名前が挙がったのが西郷隆盛でした。
「この者を召し帰らせれば、人々の不満も鎮まり、藩は平和一致する だろう」
隆盛の復活を望んだのは本土の藩士だけではなく、島での活躍を知る役人たちも任期を終えて本土に戻ると、
隆盛の復帰を求める活動に加勢しました。
一生涯の島流しの刑を与えた久光も渋々ながら了承するしかありませんでした。
島津久光は、咥えていた銀の煙管キセルに歯型が付くほど噛みしめて悔しがったそうです。
(↑ 「久光公では藩をまとめられない。西郷どんでないとダメだ」と言われているようなものだったから)
Eテレ知恵泉の番組内では、西郷隆盛を表す言葉として 『敬天愛人けいてん‐あいじん』(天を敬い人を愛すること)を
出しています。
島流しの間に隆盛も人間的に成長し「久光から受けた刑を許し大きな心で日本を見る視点を持った」と解説して
います。
≪ 薩摩藩と大坂商人 ≫
江戸時代から各藩の財政は大坂などの商人から借金で賄っている場合がほとんどでした。
幕末には新政府側や幕府方も無利息・長期返済という返済できるか怪しい借金を大坂商人に強います。
幕末の薩摩藩は大坂商人たちから1500億円 (利息無しの250年返済) をしています。
結局、貸し倒れがほとんどで、明治初めに大阪経済は低迷し豪商の多くが潰れます。
大阪経済を立て直したのが、大阪を愛した薩摩藩士の五代友厚でした。
五代も軍備や財政支援で維新を支援していました。
【五代友厚】ごだい-ともあつ (薩摩藩士、1835~1885)
明治初期の実業家。維新後、外国事務局判事などののち、財界に入り政商として活躍。大阪で造船・紡績・鉱山・
製藍・製銅などの業を興し、大阪株式取引所・大阪商法会議所(のちの大阪商工会議所)などの創立に尽力。
≪ 維新動乱 幕府派だった薩摩 ≫
1863年8月14日、維新のさぎかけとなる天誅組 (公家の中山忠光・土佐藩士の吉村寅太郎ら) が40人弱で京都を
出発し、孝明天皇の奈良行幸の前に奈良五條の代官所を襲い、天皇直轄領として五新政府を名乗り、天皇を迎え
入れようとしました。
しかし、会津藩と薩摩藩が結託し尊皇攘夷派の勢力を京都から追放する「八月十八日の政変」が起こります。
この政変により、天誅組は朝廷と幕府両方から反乱軍とみなされ、出兵から40日ほどで鎮圧されます。
【七卿落ち】しちきょう‐おち
文久3年(1863)8月18日、三条実美さねとみ ・三条西季知すえとも・四条隆謌たかうた・東久世通禧みちとみ・
壬生基修みぶ-もとなが・錦小路頼徳よりのり・沢宣嘉のぶよしの7人の公卿が討幕計画に敗れて官位を奪われ、
京都を逃れて長州に落ち延びた事件。
1864年、京都の蛤御の変で長州を破り、参謀として第1次長州征伐に向かいます。
【蛤御門の変】はまぐりごもん‐の‐へん 禁門の変。
元治元年(1864)7月、長州藩が形勢挽回のため京都に出兵、
京都守護職 松平容保かたもりの率いる諸藩の兵と宮門付近で戦って敗れた事件。
【長州征討】ちょうしゅう‐せいとう 長州戦争。長州征伐。
幕末、2度にわたる幕府の長州藩征討。
1864年(元治1)、幕府は長州藩の攘夷即行の藩是、七卿落ちの擁護を怒り、蛤御門の変の問罪を名目として、
征討軍を派遣した。
たまたま長州では英・米・仏・蘭の連合艦隊が下関に来襲して藩内が危急に瀕したので、戦わずして恭順の意を
表し、主謀者を処刑して謝罪した。
高杉晋作らの藩内強硬派はこれを喜ばず、奇兵隊など諸隊を指揮して恭順党を一掃し、幕府に反抗したので、
1866年(慶応2)幕府は再征したが、薩長連合・洋式軍隊のため連敗、勅命によって遂に軍を解いた。
これにより幕府の権威は急速に失墜。
≪ 薩長連合 ≫ さっちょう‐れんごう
1866(慶応2)年、長州再征を前に、対立していた薩長両藩が幕府に対抗して協力することを約束した攻守同盟。
坂本竜馬が仲介。薩長同盟。薩長盟約。
【堺事件】
1868(慶応4)年2月15日、堺警備の土佐藩兵が海岸測量中のフランス兵士を襲撃し、死者11人の被害を与えた
事件。維新政府はフランスの要求に従い賠償金を支払い、土佐藩士に切腹を命じた。森鴎外に同名の小説がある。
≪ 明治維新での役割 ≫
1868年1月27日(慶応4年1月3日)、戊辰戦争の開始となる鳥羽伏見の戦が始まります。
隆盛は東征大総督府参謀として江戸で、幕府方の代表である勝海舟と会談。慶応4年4月11日に徳川幕府側が無
抵抗で江戸城を明渡しました。
しかし、旧幕府軍は東京・上野の寛永寺を本拠とする彰義隊しょうぎ‐たい2~3000人が新政府に反抗的な態度を取り、
5月15日上野戦争が勃発。東京の市民たちは彰義隊を応援する者が多かった。
新政府軍の軍議で蛤御門の変で敵として戦った遺恨がある薩長の意見が対立します。
長州の大村益次郎は現存する3000の兵で攻撃する事を主張。薩摩の海江田信義は9000の兵が必要と言い返します。
すると、大村が「そもそも。アナタは戦というものをご存じないではないか」と言い放ち、軍人としてのプライドを傷つけら
れた海江田と口論に発展し、軍議は紛糾。
隆盛は「すべて大村殿にお任せ申そう」と一任。東北諸藩との決戦を控え新政府分裂を懸念した事と、実践豊富で
軍事の天才である大村益次郎を信用していたからだそうです。
すぐさま、大村は作戦を立案。その計画で薩摩は最激戦となる黒門口を担当させられており、多くの死傷者が出る
事が予想されました。
隆盛は「薩摩を皆殺しにするおつもりか?」と訊ねたところ、大村は「その通りです」と答えました。
それでも隆盛は黙って大村に立案を任せ続け、作戦に従い薩摩兵を率いて黒門を攻めました。
【上野戦争】
戊辰戦争の一部。慶応4年(1868)5月、上野の寛永寺を本拠とする彰義隊と新政府軍との戦い。
幕府の援軍と見せかけた長州兵が彰義隊の背後を襲いわずか半日で鎮圧に成功し新政府軍の勝利となりました。
【大村益次郎】おおむら‐ますじろう (周防出身、1825~1869)
陸軍の創立者。初め村田蔵六と称。緒方洪庵に蘭学・医学を学ぶ。長州藩の軍事指導者として長州征討・戊辰
戦争に活躍。1869年(明治2)兵部大輔。フランス式軍制を採用し、近代軍隊の創出を進めたが、守旧派により暗殺。
大阪にある緒方洪庵の適塾で23才入塾し約1年で塾頭。洪庵に代わって指導する塾頭は福沢諭吉と2人だけ。
明治2年9月に京都で襲撃され右足を重症。大阪の病院に運ばれ敗血症が進み右足を切断するも死亡。
大村益次郎の右足は遺言により、大阪市北区にある龍海寺に緒方洪庵夫妻の墓のすぐ近くに埋葬されています。
≪ 中央集権の確立と島津久義の反抗 ≫
西洋諸国からの脅威に対し、日本を強くする為には幕藩体制を廃止し中央集権の国家体制を敷く為の廃藩置県が
必要でした。
隆盛は島津久光への忠義と改革で悩みますが、「私情は忍びがたいが、廃藩置県は天下の向うところである」として
改革を推進します。
明治4年2月、明治天皇直轄の部隊 御親兵1万人を招集。
同年7月14日、天皇が廃藩置県を宣言。御親兵が睨みを利かせる中、異議を唱える者はいませんでした。
【廃藩置県】
明治4年(1871)7月に行われた地方制度改革で、全国の藩を廃して府県が置かれ、中央集権化が完全に達成された。
同年末には北海道のほか3府72県が置かれた。
廃藩置県の知らせを聞いた久光は、突如花火を打ち上げました。怒りを込めた抗議の花火だったそうです。
隆盛たちを「人面獣心」と批判し、廃藩置県の4ヶ月後には自分を県令 (知事) に就任させる要請を新政府に告げる
ため使者を派遣。その行動を知った隆盛は使者を説得し要望書の提出を取り止めさせました。
≪ 征韓論をめぐる政府内の亀裂 ≫
1873年、隆盛は新政府の初代の陸軍大将に就任。
【征韓論政変】せいかんろん‐せいへん 明治6年政変。
1873年(明治6)におきた西郷隆盛の朝鮮遣使への賛否をめぐる政変。
西郷・板垣退助・江藤新平らは遣使を主張したが、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは
朝鮮との戦争につながるとして内治優先の立場からこれに反対。
結局、前者の意見が敗れ、西郷らは下野し、政府は分裂。
【維新の三傑】いしん‐の‐さんけつ
明治維新に特に大きな勲功のあった西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の3人。
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【木戸孝允】きど‐たかよし(1833~1877)
政治家。長州藩士。初め桂小五郎。のち木戸貫治・準一郎と改名。松菊と号。藩の指導者となり薩摩藩とともに
幕府を打倒。
維新後は参議など要職を歴任、政府内の改革派の中心として、版籍奉還・廃藩置県に尽力。岩倉使節団副使。
【大久保利通】おおくぼ‐としみち (1830~1878)
幕末・維新期の政治家。薩摩藩士。旧名、一蔵。号は甲東。西郷隆盛とともに薩摩藩の指導者となり幕府を倒す。
維新政府の要職を占め、岩倉使節団副使となる。
征韓論政変後は初代 内務卿として、事実上政府を指導。西南戦争後、島田一郎らに刺殺される。
【岩倉使節団】いわくら‐しせつだん 岩倉遣米欧使節団。
廃藩置県直後の1871年(明治4)11月より翌々年9月にかけて、明治政府が米欧に派遣した使節団。
条約改正の準備交渉や海外視察などを使命とした。
特命全権大使の岩倉具視、副使の木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳以下、多くの官員が参加、
津田梅子ら留学生も同行し、総勢100名をこえた。
≪ 士族の反乱 西南戦争 ≫ Wiki 征韓論 Wiki 明治六年政変 Wiki 西南戦争
1873 (明治6) 年、明治政府は板垣退助と西郷隆盛らが中心になって、朝鮮に西郷を派遣して開国を強く求める事を
決定します。
【征韓論政変】せいかんろん‐せいへん 明治6年政変。
1873年(明治6)におきた西郷隆盛の朝鮮遣使への賛否をめぐる政変。西郷・板垣退助・江藤新平らは遣使を
主張したが、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは朝鮮との戦争につながるとして内治優先の立場からこれに
反対。結局、前者の意見が敗れ、西郷らは下野し、政府は分裂。
しかし、欧米視察で、当時世界の工場として最先端の技術を有していた英国との違いを目の当たりにした大久保
利通らは、日本の近代化を急ぐ必要を痛感。国内の整理が優先として反対し、朝鮮への使節派遣を強引に覆し
ました。
近代工場の建設や地租改正、徴兵令などの改革で富国強兵を推し進めます。その過程で士族の特権はなくなり、
不満が高まり九州で挙兵します。
大分県北西部にある日田市の専念寺の住職 平野五岳は、明治3年に西郷隆盛と半日ほど酒を酌み交わしたと
記録があるほど親しかった。西南戦争直前の明治9年10月、平野五岳は親交があった大久保利通の依頼を受け、
戦争を思いとどまるように隆盛を説得したそうです。
【西南戦争】せいなん‐せんそう 西南の役。
1877年(明治10)の西郷隆盛らの反乱。明治政府に対する不平士族の最大かつ最後の反乱で、隆盛が征韓論に
敗れて官職を辞し、鹿児島に設立した私学校の生徒が中心となって2月に挙兵、熊本城を攻略できないうちに
政府軍の反撃にあって敗退。9月隆盛が自刃して終わる。
天王寺区 真田山旧日本陸軍墓地 日本最古・最大の陸軍墓地、西南戦争の政府軍6936人、薩摩軍7276人の墓もある。
大阪市学校園教職員組合城北支部 『真田山陸軍墓地』 http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/te-rikugunboti.html
【西郷札】さいごう‐さつ
西南戦争の際、西郷隆盛軍が軍費調達のために製造・発行した軍票。10円・5円・1円・50銭・20銭・10銭の6種。
≪ 西郷隆盛の本当? の顔 肖像画 ≫
西郷隆盛は、明治天皇に写真を求められても撮影を断っていたそうで、一説には、暗殺を恐れて写真や画を残さ
なかったと言われています。
長らく教科書に掲載されていた西郷隆盛の顔は、明治政府公認のイタリア人画家のキヨソネが描いたもの。
キヨソネは隆盛を見た事がなかったので、上半分を弟の西郷従道、下半分を従弟の大山巌の顔を合成し描いた
とされます。
東京の上野公園、鹿児島の城山町の西郷像は共に、キヨソネ作の画を元に作られました。
上野の西郷像を見た妻の糸子は「うちの宿主は、こげん人じゃなかとよ」と腰を抜かしたそうです。
【西郷従道】さいごう‐つぐみち(薩摩藩士、1843~1902) 隆盛の弟で、小西郷と呼ばれた。
軍人・政治家。陸軍中将・海軍大将・元帥。戊辰戦争従軍後、渡欧し兵制を研究、陸軍創設に貢献。
1874年(明治7)台湾に出兵。陸軍卿。のち海軍に転じ海相・内相。侯爵。
【大山巌】おおやま‐いわお (薩摩藩士、1842~1916) 西郷隆盛の従弟。
軍人。陸軍大将・元帥。陸相・参謀総長を歴任。日清戦争で第二軍司令官、日露戦争で満州軍総司令官。
のち元老、内大臣。
鹿児島市にある薩摩藩の資料館 「維新ふるさと館」には西郷隆盛の遺品や隆盛と面識があった4人の画家が描いた
肖像画などがあります。
上野の西郷像は右端の服部英龍 (鹿児島県の画家) の画も参考にされ、着流し姿と、当時珍しかった洋犬が作られ
ました。
しかし、この英龍が描いた画も他の隆盛を描いた作品に「写」とあることから、模写したものである事が知られており、
その元の画は6年前に発見。
宮崎市で写真スタジオを営む植村功至さんが40年ほど前に買ったという画が、若一光司さんの取材の過程で英龍の
元になった画と判明。都城島島津家のお抱え絵師 中原南渓 (1830~1902) が、西郷隆盛44~45才頃を描いたもの。
さらに、大分県日田市で平野五岳を研究していた川津信雄 (故人) さんが所有する 平野五岳が明治9年に面会した
時に掛け軸に描いたとされる隆盛48才の画も見つかっています。49才で自刃しているので、これが隆盛の最後の
肖像画と言われています。
2枚の画の向きを揃えて見ると、輪郭や口元などがそっくりで、これらが最も西郷隆盛に近い肖像画のようです。
≪ 南洲翁遺訓 ≫ なんしゅう-おういくん
西郷隆盛 (南洲翁) の遺訓集で、山形県の旧庄内藩の人々によって編纂されたもので、
西郷隆盛の言葉などが多く記されているそうです。
庄内藩は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした事もあり、奥羽越列藩同盟の一員として新政
府軍との戊辰戦争で戦う遺恨の残る敵対関係にある立場。
しかし、庄内藩が降伏した際、隆盛が寛大な処分をするように言った事から、庄内藩の
人達は隆盛に尊敬の念を抱くようになり、これを編纂するに至ったらしいです。
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※ 明治新政府が江戸幕府時代の事を悪く言って陥れているという説がありますが、明治政府は旧幕府側の役人
でも優秀な人は何人も採用していたします。昭和の歴史学者らが、そういう風に歴史を歪めたのでしょう。
最近は研究が進み昭和に習った歴史とは異なる事実が色々とあります。
また見直しに乗じて異説を正しいように主張している場合もあります。(特に関東の歴史歪曲が酷い↓)
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江戸には、ふんどしレンタル屋があった ? |
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テレビ東京 ありえへん∞世界 『知られざる江戸時代の文化や風習を徹底取材!』 14.12.23 放送 ← 徹底取材なら、出典文献や年代も示しておくべき!!
≪ 江戸時代末期 ふんどしのレンタル屋が大繁盛していた? ≫
【褌・犢鼻褌】ふんどし (フミトオシ(踏通)の転という)
① 男子の陰部をおおい隠す布。たふさぎ。したおび。はだおび。まわし。ふどし。〈日葡辞書〉
② 湯文字ゆもじ。腰巻。
【湯文字】ゆ‐もじ (女房詞)
① 湯具ゆぐ。ゆかたびら。
② 女の腰巻。ゆまき。浮世風呂[3]「女の―といふ物は白木綿二布ふたのに規した物で、膝から下へ下げる物で
はない」
江戸に『ふんどしのレンタル屋があった』という話は、今までもいくつかの番組で紹介されてきましたが、この番組を
機にネットで調べてみると、『大繁盛』というのは怪しいようです。
㈱ゆうずつ産業 『<江戸っ子の"ふんどし"はレンタルだった>』 http://www.yuzutu.co.jp/01/topics/topics.htm より抜粋、全文はリンク元で
『江戸には損料屋と呼ばれるレンタルショップが多数ありました。 店を構えているもの、出張販売スタイルのものなど
形はいろいろでしたが 最初に借りるとき、一定の損料(保証金)を預けるシステムからこの名がつきました。
損料屋では衣料品を中心に、布団や枕、蚊帳など、たいていの日用品を貸し出していました。ふんどしも同然レンタル
品目にはいっていて、 しかも人気商品。
江戸っ子は"ふんどし"が必要になると損料屋に出かけ、真新しいのをきりりと締めて「出撃」したという訳です。』
↑このサイトには 参考文献 『江戸生活事典』 青蛙房 から、江戸時代にふんどしのレンタル業があった事が書かれて
あります。江戸生活事典は三田村鳶魚著 稲垣史生編で、1959年に発行された書籍のようです。
【三田村鳶魚】みたむら‐えんぎょ (東京生れ、1870~1952)
江戸の風俗・文学の研究者。名は玄竜。「未刊随筆百種」などを編纂。著書「大奥の女中」「江戸雑話」、
輪講記録「膝栗毛輪講」など。
【損料屋】そんりょう‐や … 損料をとって衣服・夜具・蒲団などを貸す商売。
≪ 「ふんどしのレンタル屋があった」とは断定できない ≫
レファレンス協同データベース(国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービス)の
『江戸時代に褌(ふんどし)を貸し出すレンタル業があった?』
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000073644
『「あった」とは断定できない。
大正時代に発行された【資料1】によると、文久年間 江戸に暮らした老人から筆者が聴いた懐古談として、二百四十
八文で店から褌を買い、汚れたら六十文添えて持っていくと、洗濯済みの代わりの褌を渡してくれる店があったと
記している。
これを褌の洗濯屋と取るか、褌を貸す商売と取るかによって、質問に対する答えは分かれるところである。
また、【資料1】は「其洗濯屋は何処であるのかを聴かなかったが、それらの洗濯屋はどの辺に何年頃まであったもので
あろうか」と締めくくっている。
この商売が具体的に江戸のどの辺りで行われていたか、一般的なものだったのかは、他に裏付ける江戸時代の資料が
見当たらない点、【資料1】の発行が大正時代である点、過去に人から聞いた話である点など、断定するには材料不足で
ある。
【資料1】『彗星 江戸生活研究』 第1巻(大正15年5月号) 雑誌叢書 5 ゆまに書房 昭和59年復刻(「こしかたばなし(2)」
森沢瑞香著所収)
【資料3】~【資料10】の文献は江戸時代の諸職業について書いており、【資料3】は損料屋(レンタル業のような商売)
についても記述があるが、褌を貸す(洗濯する)商売については書いていない。』
当サイトの見解
1959(昭和34)年の『江戸生活辞典』は、1926(大正15)年の 『彗星 江戸生活研究』を参考にして書かれたもので
ある可能性もあります。
具体的な価格も書かれてある事から、無かったという可能性も低い。他の史料がない事も合わせて考えると、
損料屋などでサービスの一環として、ふんどしのレンタルを行っていた店もある程度で、ありえへん∞世界での
『レンタルふんどしが大繁盛』は言い過ぎ。
文久年間 (1861~1864年) → 元治年間 (1864~1865年) → 慶応年間 (1865~1868年) → 明治 (1868~1912年)。
1911 (明治44) 年『東京年中行事』 上の巻 P.24~26 「初湯」では、1809~13年 (文化6~10) 刊の『浮世風呂』の
記述を参照して、江戸時代前期の寛永 (1624~1645年) 年間の銭湯事情を少し紹介しています。
「それから慶安の頃までは男女とも銭湯に行くには、別に褌ふんどしを携へて行つて、之をしめかへて湯に入いり、
あがる時は之を下盥しもだらひで洗ひ清めて又持ちかへつた。
そうしてその頃はまだ男女混浴で有つたのが、寛永三年正月二十七日、世の中の風俗宜よろしからずとあつて
遂に男女の混浴が禁じられたと云ふ。」
【下盥】しも-だらい
ふんどし・腰巻など下半身につけるものを洗濯する盥。
式亭三馬1809~13年の浮世風呂「―の中へ下帯を投げ込んで」
江戸時代初期の慶安 (1648~1652) 頃の江戸では銭湯で褌や下着を洗っていたようです。寛永=1624~1645年。
東京年中行事の「初湯」 明治後期の東京は大阪の銭湯の造りを真似た
朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『実録 江戸事件簿 ~犯罪で見る江戸の真実~』 16.12.08 放送
≪ 褌を洗濯を人妻に依頼する事は愛の告白だった? ≫
国立公文書館に勤務する氏家幹人 (1954年福島県生まれ、東京教育大学文学部卒業。日本近世史専攻) さん
によると、褌を洗濯を人妻に依頼する事は愛の告白なんだそうです。あえて臭いの強い褌を渡したのだとか。
武家は参勤交代により単身赴任の江戸勤務での長期不在があったので、武士の妻の不倫も多かったようです。
不倫は庶民の場合でも死罪。武士が不倫した妻とその相手を殺す妻敵めがたき討ちは無罪。
しかし妻敵討ちをすると「寝取られ夫」「短期者」と不名誉な噂が広まるので、「首代」という慰謝料を払ってもらう
事で決着する事が多かった。首代相場は7両2分 (現在換算で約80万円) だそうです。
元妻の復讐 『うわなり打ち』という風習、最古の記録は平安中期。 川柳 発祥は大坂。 川柳から見る江戸での嫁の立場・嫌な女房番付
お江戸の恋愛事情 好色=恋、寺子屋の教科書は手紙、恋愛結婚=浮気結婚?
≪ 東京は大正時代に、江戸・東京の歴史改変を行った ≫
大正時代~昭和初期における東京では、江戸を良く見せるための歴史改変が多く行われたようです。
いわゆる「トンデモ本」と呼ばれる事実を歪曲した本が書かれ、その記述を現在も多く流布しています。
大正時代の経済・人口では、大阪市が東京市を再び抜き返し、江戸末期以来、自信をつけてきた江戸ッ子が
自信を少し失いかけて危機感を持っていた時代です。
江戸時代の事を知らない人が増えたため、東京人の願望重視で事実の歪曲が行われるという時代背景が
見えてきます。
幕末に書かれた『守貞謾稿』『皇都午睡』などの時代考証随筆、明治末期に書かれた『東京年中行事』など、
いわゆる信用性が高い超一級史料の原文をちゃんと読む事で、東京の歴史の嘘が多く見えてきます。
東京では都合の良い部分だけを引用し、史実とは異なる良い印象の歴史を広めている事が分かります。
江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
江戸の治安システム 江戸の治安は良かったのか? 江戸の火事の真実 江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた ~ 時代劇で見る 江戸の町は嘘ばっかり!~
江戸っ子とは? その実態、3都の気質など 江戸の嫁事情
江戸の呑み倒れ江戸時代中期以降 酒が貧乏徳利で大量。 大坂に1万人以上のスリがいたというのは本当か? 江戸時代の化粧 江戸時代後期のファッション雑誌 『都風俗化粧伝』の内容、最も化粧するのは大坂
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着ぐるみ製造会社が多い大阪 また月曜から夜ふかしの嘘発見。
言葉の伝播 日本列島アホ・バカ分布図 天下の豪商 淀屋 大阪市と東京市の区の変遷 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸
東京近郊の関東の歴史 東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた 東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
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