東京のトイレの水洗化 |
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東京オリンピックと日本人のアイデンティティー 2018年 江戸川大学 斗鬼正一 名誉教授
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「欧米人にどう観られるか?」を強く意識し、特に東京では衛生・清潔・美化、秩序・マナー・犯罪、看板設置などに対し、
意識改革のキャンペーンや取締りなどが行われました。
上記リンクの論文を読めぱ、当時の日本、主に東京の実態が分かります。↓は一部抜粋。
『水洗化 東京の水洗便所取り付け可能な広域下水道は1922年には稼働しているが,オリンピック開催決定後は
拡張が進められた。しかし人口あたり普及率は1955年度末には15.62%,1960年度21.3%,そしてオリンピック翌年の
1965年でもわずか35.3%だった(東京都下水道局,2008)。
東京の普及率が概成100%となったのは,1995年である。全国の水洗化率も1963年9.2%,1973年31.4%,1983年58.2%,
1993年75.6%である。つまりオリンピック当時は,まだ臭い,汚い汲み取り式のボットン便所が多く,とりわけ公衆便所と
なると「暗い,臭い,汚い」の3Kの代表とされていたのである。
こうした状況に対し,読売新聞1964年3月16日の「外人客をむかえる準備」と題した社説では,日本の汚い公衆便所で
外国婦人が卒倒した,という話を紹介,さらに,ロンドンでは公衆便所が800人に1か所あるのに比べ,都内の公衆便所は
700余か所,12,000人に1か所しかないと危惧し,施設の増設は無理だが,せめてきれいにしなければならないと主張して
いる。こんな遅れた状況では,きれいな水洗便所が当たり前のはずの外人にショックを与え,日本について悪い印象を
与えてしまう,というわけで,1964年2月には浅草公園,明治公園には「外人向けの豪華版」「国際レストハウス」が建設された。』
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