手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本文化の雑学4 トイレの雑学
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Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   19.08.16
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 風呂や銭湯の歴史雑学は風呂・銭湯の雑学のページに分離しました。

 江戸の衛生観念を知るためには風呂・銭湯の雑学ページもご覧ください。

 東京のトイレの水洗化

 大正時代 東京の旧丸ビルの洋式便器

 日本最古の小便禁止の看板 画像


 【トイレの歴史】

  現存する日本最大最古のトイレ 京都の東福寺

  用を足した後の処理は 「籌木」と「落とし紙」

  室町~桃山時代 戦国時代に日本初の公衆トイレが京都に誕生 外国人宣教師も注目

  江戸時代のトイレ 西高東低のトイレ事情 18.09.05追記、画像追加あり

  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった
   糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった

  明治時代 水洗トイレが登場 大阪の造幣局の水洗トイレ

  京都市営地下鉄のミニ鳥居 立小便除け


  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 トイレの歴史
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「現存する日本最古のトイレの遺構」』 14.07.16 放送
  アメニティネットワーク かわや版 『学校のトイレ事情』
   http://www.amenity-network.net/amenity_contents/kawayaban/pdf/kawaya-ban2013-07-44.pdf

  【厠】かわ‐や
   (川の上に掛けて作った屋の意。また、家の側の屋の意ともいう)大小便をする所。便所。
   古事記[中]「朝署あさけに―に入りし時

  【厠の神】かわや‐の‐かみ … 厠を守護する神。埴山姫はにやまひめ・水罔女みずはのめの2神。


  現存する日本最大最古のトイレは京都市の東山にある臨済宗の大本山 東福寺にあるそうです。
  作られたのは室町時代で、江戸時代末期まで使用されていたそうです。トイレは国の重要文化財に指定。






  トイレがある禅堂の入り口から左は小便用、右は大便用でそれぞれ20コ以上の穴が掘られ、直径約50cm、深さ約40cmの
  壺がはめ込まれていました。






  行が終わると、400人の修行僧などが一斉にトイレを使うので、疾病や感染症使用の作法が厳しく定められていました。
  ①建物に入ったら上着を脱ぐ事。 ②右手で桶に水を汲む。 ③草履を履き替える。 ④左手で扉を押す。 
  ⑤使用後に便器を洗う。 など。

  常にお湯を沸かし、殺菌作用がある橘の実も用意し、消毒・殺菌を行っていました。

  【東福寺】とうふく‐じ
   京都市東山区にある臨済宗東福寺派の大本山。1236年(嘉禎2)九条道家の創建。開山は円爾えんに。京都五山の
   一つ。無準師範画像や同墨蹟、明兆筆の聖一国師像・五百羅漢図などの古美術、宋版本を蔵。古来紅葉の名所。


  ≪ 室町~桃山時代 ≫ ヨーロッパよりも進んでいたトイレ事情

  日本初の公衆トイレが出来たのは戦国時代で『洛中洛外屏風図』に描かれており、京都の烏丸通りに作られた記録が
  残っているそうです。

  ポルトガル人宣教師のルイス・フロイス (1563~1597年の間、日本に在住) の著書『日欧文化比較』の中で、「欧州人の
  便所は家屋の後の方のなるべく人目につかない場所に設けられているのに、日本人の便所は家の前にあって、すべての
  人に開放している」と記し、ヨーロッパではあまり見られないもののひとつとして、路傍ろぼうの公衆便所の存在に注目して
  いたそうです。

  【ルイス・フロイス】Luis Frois (1532~1597)
   ポルトガル出身のイエズス会士。インドで司祭となり、1563年(永禄6)来日。織田信長・豊臣秀吉らと親交。
   滞日中140通余りの日本通信を本国に送り、また1549年(天文18)以降の布教史「日本史」を執筆。
   日本二十六聖人の殉教を目撃し、長崎で没。


  特定非営利活動法人 日本下水文化研究会 分科会 屎尿・下水研究 『トイレットペーパーの歴史』
   http://sinyoken.sakura.ne.jp/caffee/cayomo039.htm
  たまねぎ地獄 『日本のトイレ Excretion at Japan』 http://homepage3.nifty.com/onion/labo/excretionjp.html

  ≪ 用を足した後の処理は ≫

  江戸時代になるまで、用を足した後は木や蕗など葉でお尻を拭いていました。
  「拭く・拭き」が植物のフキの語源になったという説もあるようです。

  【蕗・苳・款冬・菜蕗】ふき
   キク科の多年草。日本各地に自生、食用に栽培。茎は地中にあって甚だ短い。葉柄は長さ30~70センチメートル、
   上部に大きな腎臓形の葉をつける。早春、葉に先立って、大きな苞ほうに包まれた花茎、「蕗の薹とう」を生じ、
   多くの細かい白色頭状花を開く。雌雄異株。葉柄と花茎とは食用。
   寒地には巨大なアキタブキが、また園芸品種がいくつかある。    語源由来辞典「ふき」

  藤原京(694~710年)からは「籌木(ちゅうぎ)」と呼ばれる大量の木片が発見されています。
  当初は算木(計算するのに使われる木片)ではないかと言われていましたが、周辺の土の中から大量の回虫の卵、
  ハエのサナギなどが見つかったことから、トイレットペーパー代わりに使われたものだと確認されたそうです。

  平安時代にはトイレに置き紙があったようです。
  平安時代後期の公卿 源師時(1077~1136)の日記「長秋記」の1119年10月21日の条に、
  「其東間為御樋殿有大壷紙置台等」の記述があります。 Wiki 源師時

  平安末期~鎌倉時代頃の餓鬼草紙に籌木が使っているシーンが描かれています。

  鎌倉時代初期、道元(1200~1253)の仏教書「正法眼蔵」の洗浄の条には「痾後便籌,又ハ使紙」という記述が
  あります。痾=トイレ、「トイレの後は籌(糞べら)を使うか又は紙で」。高僧は紙を使用していた事がわかります。

  【餓鬼草紙】がきぞうし
   12世紀後半制作の絵巻。飢餓に苦しむ餓鬼の姿を描く。六道輪廻思想に基づく、
   大規模な六道絵の一部か。現存2巻。

  戦国時代になると、高貴な人たちは籌木を使わないのが普通になりました。

  【籌木】ちゅう‐ぎ … ① かずとりの棒。 ② 用便の際、尻を拭う木片。掻木かきぎ。 
   Wiki 籌木  Wiki 餓鬼草紙

  江戸時代後期まで、籌木を使っていた地域もあるようです。
  上流階級は高級な吉野紙、庶民は安価な浅草紙をトイレ用の紙として使用していました。
餓鬼草紙


  【落し紙】おとし‐がみ … 便所で使う紙。清紙きよめがみ

  【吉野紙】よしの‐がみ
   和紙の一種。もと大和国吉野から産したのでこの名がある。楮こうぞ皮の繊維を精選して、極めて薄く漉いたもの。
   主として漆の濾過用で「漆漉うるしこし」ともいい、貴重品の包装にも用いた。和良紙やわらがみ。やわやわ。

  【浅草紙】あさくさ-がみ
   すきかえし紙の下等品。主におとし紙に用いる。江戸時代に、多く浅草山谷や千住辺から産出したという。

  【西洞院紙】にしのとういん-し
   江戸時代、京都の西洞院川畔で漉いた紙の総称。主にすきかえしの紙。

  【湊紙】みなと‐がみ
   和泉国大鳥郡湊村(現、堺市)原産の漉返しの紙。壁の腰張り、襖の下張りなどに用いる。

  【漉き返す・抄き返す】すき-かえす
   反故ほご紙 (書き損じたりした不用の紙) などを水中に浸して舂っき、煮溶かして漉いてふたたび紙に作る。

  学研科学創造研究所 『落語で発見! お江戸の科学 「紙の博物館」
   http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/haiken.html ←江戸時代の紙の原料と作り方
   http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/kaisetsu2.html ←すき返しの図解など


  アメニティネットワーク かわや版 『学校のトイレ事情』
   http://www.amenity-network.net/amenity_contents/kawayaban/pdf/kawaya-ban2013-07-44.pdf
  特定非営利活動法人 日本下水文化研究会 分科会 屎尿・下水研究会 『第48回 屎尿・下水研究会「町触」にみる江戸の小便所』
   http://sinyoken.sakura.ne.jp/sinyou/si048.htm

  ≪ 江戸時代 ≫  西高東低のトイレ事情だった

  江戸時代中期の東海地方での農業書『百姓伝記』には、大小便は土を肥やし、作物を養う効果をもっているから、良い
  作物を作って諸民を養うことを天職とする農民は、これを粗末にしてはいけない。便所は主屋の近くだけでなく、屋敷地の
  隅、田畑の近くにも小さなものをこしらえて、あらゆる機会をとらえて大小便を集めるべきだと説いています。

  また、便所を設ける方角としては、大小便の腐敗を早く進ませるように、東南の陽気をうけるところを選ぶよう指導し、
  便所の構造は雨が入らないようにとの注意をし、肥こえに雨が入りこんで薄くなって利き目が悪くなり、桶も早く腐るという
  事を指導しているようです。

  【百姓伝記】ひゃくしょう-でんき
   地方じかた農書。15巻。成立は天和 (1681~1684) 年間か。
   東海地方の詳細な施肥技術などの集約的な小農技術の原型を示す。


  テレビ東京 決着!歴史ミステリー 『かぶき者SP 伊達&慶次 江戸は『水道」世界一!
  日本テレビ 所さんの目がテン! 『江戸時代の「長屋暮らし」を体験 18.04.01 放送

  ≪ 江戸時代末期頃の日本は世界一清潔? ≫

  幕末の天保年間 (1830~1844) の川柳などから、江戸ではまだ小便などは垂れ流しが一般的だった。下記で文献検証

  【ハインリッヒ シュリーマン】 Heinrich Schliemann ドイツの考古学者。(1822~1890)
   トロイアの遺跡を始め、ミュケナイ・ティリンスなどエーゲ文明の遺跡の発見・発掘に貢献。自叙伝「古代への情熱」。

  1865 (慶応1) 年 、江戸を訪れたシュリーマンは「日本人が世界で一番清潔な国民であることは議論の余地がない」と
  言っていたそうです。
  番組では具体的な年と言わず「江戸時代末期」と言っていましたが、明治は1868年~なので、江戸時代の終りの頃です。






  【産業革命】
   1760年代のイギリスに始まり、1830年代以降、欧州諸国に波及。なお、革命と呼べるほどの大変化があったか否か
   について論争がある。
   (industrial revolution)産業の技術的基礎が一変し、小さな手工業的な作業場に代わって機械設備による大工場が
   成立し、社会構造が根本的に変化すること。これにより近代資本主義経済が確立。


  テレビ朝日 林修の今でしょ!講座3時間SP 『東大教授が教える!天才家康の町づくり』 16.04.12 放送

  ≪ 江戸時代の糞尿処理 と 混浴 ペリーが驚いた4つの事 ≫

  こはにわ歴史堂のブログ 『おもしろ江戸時代』 14.05.10 配信 http://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11847023853.html
    朝日放送 コヤブ歴史堂「こはにわ先生」の浮世博史さんのブログです。 全文はリンク先で、その他 歴史などが載っています。

 もう一つは、「公衆衛生」の質の高さです。ペリーが江戸に入ったときの最初の感想は「この町は臭くない…」でした。

  欧米では、当時まだ下水道が完全ではなく、基本的に糞尿など大都市の場合は町の路上に捨てられていました。
  パリやロンドンでは、道を歩いているとアパートメントの場合、窓から外へ汚物を投げ捨てていました。

  中世以来のしきたりで、三度「捨てるぞ」と叫んでから窓から捨てた場合、下にいて歩行者が糞尿を頭からかぶっても、
  歩行者に非があるとされました。
  男が壁側、女が車道側を歩く、というマナーも女性に糞尿がふりそそぐのを回避するために生まれた習慣ですし、
  女性のハイヒールも、糞尿で満ちた道路を古くときのためにカカトを高くしたものです。

  江戸は周辺の農村と町が“契約”が結ばれていて、野菜と糞尿が「交換」されていました。
  農村から樽に野菜を詰めて運び、町の人々に野菜を渡して、かわりに糞尿をひきとって、帰りはその樽に糞尿を入れて
  帰りました。
  ただ、時々、交換比率でモメるときがあり、農民たちが糞尿を引き取らない、というトラブルも起こって、町が臭くなった、
  という記録も残っています。奉行所が仲介に入って、野菜と糞尿の交換比率を取り決めたりしたこともあったようです。

  糞尿は“身分”によって値打ちが違いました。
  武家の糞尿は高く引き取られています。理由は「ええもん食べているから肥料としても極上になる」という“迷信”からでした。






  三つめの「驚き」は、「江戸の公衆浴場が混浴であった」ということです。
  江戸は、家に風呂を設けることを禁止していました。火事の原因になるからです。
  よって銭湯がたくさんつくられ、現代にも続く東京の「銭湯文化」のもとになっています。

  混浴は、江戸時代は「入れ込み」といい、寛政の改革のときなど、たびたび禁止されていますが、明治時代の初めまで、
  色々な銭湯が混浴でした。江戸時代の「入浴」は、素っ裸ではあまり入りませんでした。
  「浴衣」は文字通り入浴の際に使用したもので、現在で言うならば水着着用の温泉のような感じなので、抵抗がなかった
  のかもしれません。


  1766 (明和3) 年初版の『和漢舩用集わかん-せんようしゅう』(著編者は大坂の堂島に住む金澤兼光、出版は大坂)
   この書は、江戸時代で最も船に関する事で詳しい本。 下記リンクサイトで無料公開されています。
  5巻には「桶船」の絵と解説が書かれてあり、摂州(摂津)・河州(河内)の下糞しもごえが入った小桶を運ぶ船で、野菜と
  交換する事も書かれてあります。


  ≪ 江戸は本当は臭かった ≫  清潔世界一は京・大坂だった  Wiki 日本の便所

  欧米人から見ると、江戸は大変清潔な町だったようですが、日本国内では最も臭い町だったようです。

  江戸は糞尿のうち、糞のみ畑の肥料にしており、尿はほとんど肥料に使われなかったようです。
  街中に小便桶が少なかったので立小便が多く、鳥居を書いた張り紙を貼って注意していました。

  尿はほとんどの場合は溝や堀に捨てていました。また、それらの場所へ向けて立小便していました。
  冬になると空っ風が吹き土埃が舞う。水道が有料の為、溝の下水を撒くことが普通だったようです。 記述原文
  尿を含んだ水が乾くと風で広まるので、あまりに臭いので手拭で口の周りを抑え、風呂に毎日入りたがった。

  また、江戸の共同トイレは半分ほどしか隠れておらず、外から見える構造。
  床は踏み板しか設置していなかったので、小便は土に浸み込み、臭いが周りに散乱して相当臭かったようです。

  犬や猫の糞や死骸も回収する人がいなかったので、死臭も漂っていたようです。

  ちなみに江戸時代の初期の江戸では辻斬りが横行し、死体は家族が引き取りにくるまで放置されていました。
  単身者の方が多かったので、引き取り手のない死体も多いので、各所で腐臭が漂っていたと思われます。

  1876年 (明治9) 年刊行の岡三慶 著『今昔較こんじゃくくらべ』という書物によれば、「江戸では真昼間から誰構うことなく
  往来のまん中で行い、誰もこれを咎とがめる者はなかったとあるそうです。

  「江戸に多き物を云ひて、伊勢屋、稲荷 (神社) に犬の糞と云う也」言葉がありますが、果たして本当に犬の糞
  だったのか? なんて疑問も出てきます。江戸では明治初期まで犬猫が食べられていた記録がありますから。

   江戸時代の肉食事情 江戸では犬がいないと言われた 明治時代の東京の 〆子鍋とおしゃます鍋とは

  江戸は土埃にまみれ、水も購入しなければならず、立ちションし放題、トイレからも尿が漏れ出していた。などの事は
  「江戸は世界一清潔な都市」と思わされてきたので、すぐには信じられないかも知れませんが、下記の複数の
  文献や史料に書かれてある事は全て辻褄が合います。江戸・東京は不衛生な都市であった事は史実です。

   東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文


  ≪ 江戸に小便所が多く設置されたのは幕末頃から ≫

  『江戸町触集成・全20巻』に載っている「小便所」についての記述は、全部で11件のみ。

  1718年3月9日に江戸町奉行から住民に対して出された『町触れ』には、
  一、朝鮮人通り道筋のうち、小便所、中橋広小路、浅草広小路、両所にて、六箇所相極め候。
  その他の町々にて小便所拵え候義、無用に仕る可く候

  朝鮮通信使 (1748年9月) が来るにあたって、小便所を中橋広小路と浅草広小路に六箇所置くことに決めているので、
  その外の町々では拵こしらえる必要はないとあるのが、町触れでの小便所に関する初出。

  1763年11月27日が次の小便所に関する『町触れ』で1718年と内容は同じ。
  翌日の11月28日の『町触れ』では
  一、中橋広小路小便所三箇所、浅草広小路小便所三箇所。右六箇所は軽く囲いを致し、手水場を付け、また、手拭い
  白きを差し置き、町人が世話を致すべきこととあります。

  これらの町触れとも合わせて、小便所は朝鮮通信使臨時に設けられたものと推測されるようです。
  1764年2月6日の『町触れ』では「小便無用(立ち小便禁止)」などの札は外しておくように」あります。

  1784年3月に小便桶を置いて田畑の肥やしにしたいと要望があった事に対して、町奉行が町民らに差し障りの有無を
  聞いています。

  4月に町民から前々から小便溜が埋め置かれていて、掃除の者が汲み取っている町が、小網町3丁目など23ヶ町と
  深川の町々のうちに160ヶ所ある」「家持や地借等の者が畠などを持っている所では、銘々が小便溜の桶を埋め置いて
  いて、自分達で汲み取っているという町が、山谷浅草町ほか7ヶ町と品川宿にある
  小便所の桶を置いても差し障りが無いとの返答をした町が本所新町など12町。

  1803年9月22日の『町触れ』で小便を流し捨てることがないよう、小便を溜める樽の埋め場所を、家主とよく相談をして
  決めるようにとあり、この頃から各所に小便所が多く設置され始めたと推測されるようです。

  1830年の『嬉遊笑覧』には、街角に置かれた桶に蹲居そんきょして排尿する事が書かれているそうです。
  上の右端の画像は1978年の花咲一男 (東京生まれ、1916~2010、近世文化風俗研究家) の著書に出てくる
  『江戸かわや図絵』で、江戸時代に描かれたものかどうかは不明です。

  【嬉遊笑覧】きゆう-しょうらん
   江戸後期の類書。喜多村信節著。12巻、付録1巻。文政13年(1830)自序。
   部類を分け、和漢の書から特に近世の風俗習慣や歌舞音曲に関する事物を集めて叙述・考証したもの。

  【喜多村信節】きたむら-のぶよ (江戸の人、1783~1856)
   江戸後期の国学者・考証家。信節ときのぶとも称した。筠庭いんてい・静斎・静舎などと号。
   博覧強記で、風俗や雑事を考証した。著「嬉遊笑覧」「瓦礫雑考」「筠庭雑考」など。

  幕末の天保年間 (1830~1844) の川柳などから、江戸ではまだ小便などは垂れ流しが一般的だったと思われるそうです。
  1861 (文久1) 年6月26日や1867 (慶応3) 年7月27日の『町触れ』の内容からも、各所に雪隠や小便所が作られていた事が
  分かりますが、まだまだ足りていなかった事も分かります。


  『守貞謾稿』上巻 第三編人事 「家主 尿代

 戸籍等には江戸は尿は專ら溝湟に弃 屎は厠に蓄之 屎 俗に「こゑ」と云 こやしの略也 屎こゑ代と云
  屎代は家主の有とし 得意の農夫に賣之 稀に尿を蓄ふ者あり 皆代家主に收む

  京師は尿は借家人の有として野菜と代る
  大坂は屎代は家主 江戸に云地主の有とし尿は借家人の有とし 得意農に與之て冬月綿と蕪菜とを以て易之とす
  屎價大略十口の屎 一年金二三分也 農地に近き所貴價也

  京坂は路傍諸所 尿桶を置て往來人の尿を弃ず 大坂は此桶 △△と云 ○○村より出之こと官許也 尿を○○の有
  とす 江戸は路傍に尿所稀にあるのみ

  「=堀」「=捨てる」「=糞」「=収める」「=与」
  「△△自主規制」 「○○差別語なので、表示してはいけないようです。


  『守貞謾稿』上巻 第二編家宅 「

 俗に雪隠と云 京坂俗は常に訛て「せんち」と云もあり 婦人は「こうか」或は
  手水場と云也 男も人前等にはてうずばと云也

  江戸にては男女ともに常に「こうか」と云也 又てうずばとも云「せついん」と稀也

  長屋と號て一宇数戸の小民の借家には毎戸に厠を造らず 一二戸を造て兼用と
  する也 是を京坂にては惣雪隠と云ふ 江戸にては惣ごうかと云

  京坂惣雪いんは皆 勘略ぶき 周り及び二戸なるは半の隔ともに壁を用ひ床あり
  て戸も全くに長し

  江戸の惣こうかは さん瓦ぶき 周り羽目板壁無床にて戸も半戸也
  戸にひじつほと云鐵具を用ず 細き一材を載せて是を巡らし戸を之に打つ圖の
  如し また圖の如き一宇二戸の厠を二疋立と云 一宇一戸を二疋立と云

  三都ともに毎戸にあるものは 周を壁にし前に窓などを穿ちひばまと名付て
  中央を穿ち四方を板にす

  惣厠には左右に板を架すのみ屎を取るに前方の板を下げ去りて汲
  自にある厠は床下の外面に口を設て圍之て屎を汲む也 三都とも專ら此制也

  右画像の上は、守貞謾稿に描かれている京坂 (左) と、江戸 (右) の絵。
  下は、栃木県の日光の江戸ワンダーランドで再現されている江戸の長屋のトイレ。




  「せついん=せっちん」「てうずば=ちょうずば」「そう=この場合"共同の"という意味」「=図」
  「穿うが=この場合"穴or空き間"という意味か?」「=足」「=糞」「=囲」

  【雪隠】せついん せっちんせんち (「せついん」から変化し、現在は「せっちん」)
   (雪竇禅師せっちょうぜんしが浙江の雪竇山霊隠寺で厠の掃除をつかさどった故事からという)。便所のこと。厠。不浄。

  【後架】こう-かごか
   禅寺で、僧堂の後ろにかけ渡して設けた洗面所。その側に便所があり、転じて便所の意になる。

  【手水】ちょうず (テミズの音便)
   ① 手・顔などを洗う水。 ② 社寺など参拝の前に、手・顔を洗い清めること。 ③ 厠。また、厠に行くこと。 ④ 大便

  【樋箱】ひ-ばこ … 便所の穴のまわりにある枠。(「おまる」の事です)

  某サイトでは『江戸時代の庶民のトイレ比較 上方VS江戸』として、上の守貞謾稿の図をカラー化して説明がありますが、
  図下のヒバコとフミ板の図は描かれず、「内部は江戸も京阪ねあまり変わらない(穴が開いているだけ)」と解説しています。
  しかし、ヒバコがある京坂と、フミ板のみの江戸とは、全く衛生事情が異なるのです。

  また、ウィキペディアにおいても下記の皇都午睡を引用していますが、江戸の都合の悪い部分は「中略」などとして、
  引用していません。(関東の人たちが歴史を紹介する場合、こういった誤魔化しが非常に多いです)


  『皇都午睡』三編 より抜粋

 九州長崎辺の婦人は5、60歳まで眉毛を剃らず、又関東の女は上方の男の如く立ちながら小便するなどの事を
  京坂の女に噂すれば、腹筋をよらせ…

 江都の地に潔き事は船に駕籠 潔白なる事は湯と髪月代に限る事なり されど能事をのみ云ては興ならず
  京摂者の彼地へ行き困る物は雪隠と小便所なり 男すら迷惑なるに上方の婦人はさぞさぞ困るべし

  雪隠に板囲い多くともと下に壺をふせたるなく 大方 船板にて拵こしらへてし 箱の油樽等なり 上り段低く
  戸は肘坪ひじつぼを打しはなく 開き戸にて厠へは入り居る者 外よりよく見え裾の方少し隠るゝ計なり

  小便所別にある所もあれど だいたい厠と兼帯なり 辻々に小便所まれにあれ共 只はぢき板ばかりにて
  地へしみ込すなれば 其辺に散乱して臭気甚しく 百姓下屎しもごえは取に来れ共 小便は取に来らず
  それゆえ自然と垂流しなり 故に男子は往来の透を見て格子先あるいは木戸際などへする事なり
  それも鳥居を書き此所へ小便無用の張札ありて はづみし折は甚だ迷惑することなり

  下糞は大家へ先金をかけて取るが故 大家の息子で糞喰へなぞと悪口の時ふきけり

 下がかりの話ついでに江戸では…犬猫のなきがら幾日立てども取捨るをなし 小便と犬猫の屍は京摂の如く
  用に立ぬと聞り 犬猫は下魚の腸を喰ひ 厠に入て糞をくらへば 其皮 用に立ぬと云が さやうなる訳なるが 猫とり
  犬ひらいと云 賊ありとの噂を聞ず 何分 犬猫の捨ある骸と小便の垂流し犬の糞の臭気甚しきには 京摂者の
  迷惑するを の第一なり

 小便を寵愛するは京の事なり 矢背小原などへ持帰るには樽づめにし日々菜でせう蕪でせうなどなど野菜の物と
  替て値切小切する悪口は一返舎が膝栗毛に書きたれば世間は名高し京摂とも適々往来の小便桶へ婦人の
  小便するを見及べり さすが芸子 閨婦が送り迎ひ下男下女を待せて往来で小便はせねど老婆幼稚の者は
  人目も恥ねど 若き女の往来にて小便するは余り見るべき姿にあらず遠慮あるべき事なり

  江戸は下女に至る迄も 小便所なけねば拠なくかは知らねど皆厠へ行ゆえ 是だけは東都の女の方が勝ちなり
  上州信州在の女は立はがって腰を突出し小便するが可笑しくて 泊まりの宿にてそれを言い出し笑へば この辺
  にて しゃがんで (上方にて言う つくぼふる也) 小便すると●付が遅しとて嫌へりという所々にて種々の忌
  嫌ひありと思へば へそもお煎花が沸けり 以後下がかりの噺なし穴賢賢

  【東海道中膝栗毛】とうかいどうちゅうひざくりげ
   滑稽本。十返舎一九作。初版本は初編から8編までに発端を加えて18冊。1802~09年(享和2~文化6)刊。
   発端のみ14年刊。弥次郎兵衛と喜多八が随所に失敗や滑稽を演じつつ東海道・京・大坂を旅する道中記。
   のち20年にわたり続編を出す。本称「道中膝栗毛」または「膝栗毛」。

  【十返舎一九】じっぺんしゃ‐いっく(駿府生れ、1765~1831)本名、重田貞一さだかず
   江戸後期の戯作者。大坂に行き、近松余七と号して浄瑠璃作者となり、1793年(寛政5)江戸に出て戯作に従事し、
   滑稽本を得意とした。作「東海道中膝栗毛」「江之島土産」など。


  『守貞謾稿』上巻 第六編雑業 「犬拾ひ」には「京坂にあり江戸に之無し」と書かれてあります。
   町人は雪駄一足半を謝礼として犬の死骸を処理してもらう習わしがありました。
   ○○の人たちが犬猫などの皮を加工して諸国に売ったそうです。
   大坂には富豪の○○が二人いて、中富の者も数戸あり家宅壮麗にして巨万の金を蓄えているという記述もあります。
   火災の時は防火夫としても活躍したそうです。京都と江戸では○○の人たちが防火に参加する事は無かった。

  「○○差別語なので、表示してはいけないそうです。

  この「犬拾ひ」に関しては、1803 (享和3) 年刊の滝沢馬琴の京坂旅行記『羇旅漫録きりょまんろく』巻之下「百四 大坂
  市中の總評」の記述にもあります。京都24日間、大坂10日間、名古屋17日間滞在。

  滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった

  【御歯黒溝】おはぐろ‐どぶ
   (黒く濁って、お歯黒の液かねのようだったからいう)江戸吉原遊郭のまわりの溝。
    樋口一葉、たけくらべ御歯黒溝に灯火うつる三階の騒ぎも手に取る如く


  【広く流布されている江戸・東京の歴史は嘘ばかり】 特に関東の人は正しい歴史認識を持ちましょう。

  江戸っ子とは? その実態、3都の気質など  江戸の嫁事情  江戸の治安システム 江戸の治安は良かったのか? 本当は治安最悪の都市だった
  江戸の呑み倒れ江戸時代中期以降 酒が貧乏徳利で大量。  大坂に1万人以上のスリがいたというのは本当か?
  江戸時代の化粧 江戸時代後期のファッション雑誌 『都風俗化粧伝』の内容、最も化粧するのは大坂 
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  蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見!! カマボコの歴史
  言葉の伝播 日本列島アホ・バカ分布図  天下の豪商 淀屋  大阪市と東京市の区の変遷  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸
  東京近郊の関東の歴史 東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、汚れた川で食器や野菜を洗っていました。


  アメニティネットワーク かわや版 『学校のトイレ事情』
   http://www.amenity-network.net/amenity_contents/kawayaban/pdf/kawaya-ban2013-07-44.pdf

  江戸の戯作者曲亭馬琴はその様子を「京の家々厠の前に小便担桶たごありて、女もそれへ小便をする故に、富家の
   女房も小便は悉ことごとく立て居てするなり。(中略)或あるいは供2、3 人つれたる女、道ばたの小便担桶へ立ながら
   尻の方をむけて小便をするに耻はじるいろなく笑ふ人なし」と書いている。

  上記は『羇旅漫録』巻之中「八十二 女兒の立小便」の記述。中略の所には「紙を用ず」とか書かれてあります。
  36才の馬琴は、女性が小便する様子をじっくり観察していたのでしょうか?
  ちなみに「六十五 京師の評」では「京の良いもの三つ、女子。加茂川の水。寺社。」とあります。

  結局、それぞれの文献内容を信じるならば、京も江戸も信濃国 (長野)・上野国 (群馬) あたりも女性は立小便をしていた
  という事です。

  【曲亭馬琴】きょくてい‐ばきん 滝沢馬琴 (江戸深川の生れ、1767~1848)本名、滝沢興邦、のち解とく
   別号は蓑笠さりつ漁隠・著作堂主人など。
   江戸後期の戯作者。山東京伝に師事し、1791年(寛政3)黄表紙「尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん」を発表。
   以後、勧善懲悪を標榜、雅俗折衷の文をもって合巻ごうかん・読本よみほん を続々発表。
   代表作「椿説ちんせつ弓張月」「俊寛僧都島物語」「南総里見八犬伝」「近世説美少年録」など。

  滝沢馬琴 1年でお手伝いが7人も辞めるなど、引き籠りの変人だった?
  滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった

  BEST!MES 『江戸の性 第27回 「江戸時代の女性は立ち小便をした?」』16.09.05 配信
   http://best-times.jp/articles/-/3033

  江戸時代、男も女も平気で屋外で放尿していた。男が板塀などに向かって立小便をするのはもちろんのこと、
  女もちょっとした物陰にしゃがんで放尿するのは珍しいことではなかった。そんな時代、文化(1804~1818)のころの
  話が『多話戯草』に出ている。 続きはリンクサイトで

  コトバンク 『石塚豊芥子』多話戯草の編集者』


  ≪ 明治時代 ≫

  明治6年5月に、英国の副領事から『路傍便所の苦情』の申し入れがあった事がきっかけで、外国人居留地周辺に置かれた
  排尿用の桶は廃止されました。
  同年1月に町民からも「踏み石上に大小を便し者があり不潔である」との苦情があったそうです。

  明治7年3月に改良された小便所『街便所』が東京に設置されました。
  明治中期頃までに大便と小便共用の公衆便所が設置され始めました。

  明治時代に水洗トイレが登場し、現存する最古の水洗トイレとして有力なのが、大阪の造幣局にあります。

造幣局の明治トイレ

1914年 日本初洋式水洗便器

国立競技場・女性用立小便器
1980年ウォシュレット発売


  公害苦情受理件数で見る 汚い県、うるさい県、臭い県はどこ?
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、その川で食器や野菜を洗っていました。東京で近年の衛生観念が定着するのは1964年の五輪がきっかけ
  東京湾の実態 千葉県の江戸川水系ヤバすぎ。日本一汚いのは綾瀬川。セシウムだけじゃなく、韓国と同じような糞尿性大腸菌だらけの海だった。

  テレビ東京 出没! アド街ック天国 『変わり続ける東京の顔 丸の内BEST20』 18.12.22 放送

  ≪ 大正時代 ≫

  1923 (大正12) 年に完成した当時日本一の規模だった三菱の丸ビル (旧丸ビル) の総工費は900万円 (現在換算 約67億
  5000万円) 。日本初のオフィスと商店が入居する複合ビルとして竣工。
  大正15年に『安全第一ビルヂング讀本』が発行され、昇降機(エレベーター)の乗り方や、洋式便器の使い方なども詳しく
  記載されています。
  洋式便器は大正時代の東京の都心部であっても、まだまだ珍しい事が分かります。






  【丸の内】まる‐の‐うち       築地市場 (昭和10年開場) 築地本願寺
   ① 城郭などの本丸の内。
   ② 東京都千代田区、皇居の東方一帯の地。もと、内堀と外堀に挟まれ、大名屋敷のち陸軍練兵場があったが、東京駅
    建築後は丸ビル・新丸ビルなどが建設され、ビジネス街となった。


  読売テレビ かんさい情ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「京都に謎の小さな鳥居に迫る!?』 13.11.20 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『世界遺産 平城宮跡 発掘の今は?』 18.12.14 放送

  ≪ 京都市営地下鉄のミニ鳥居 ≫

  『幕末京都市街正月風俗』には道の壁沿いに排泄用の桶が描かれています。

  明治時代になって欧米人が日本国内に居住するようになった事から、明治政府が前近代的な
  ものを排除し、排泄用の桶は道から取り除かれました。

  日本最古の小便禁止の看板と言われるのは、奈良時代の平城宮跡から発見された木簡
  「此所不得小便」と書かれてあります。







  明治時代に、京都市内各地の家屋の低い位置に小さな鳥居を付ける事が増えたそうです。これは立ち小便除けとして
  置かれているもので、排泄用の桶が取り払われて以降、壁などに立ちションする事が増えたからです。

  立ち小便除けに赤い鳥居を描いたり設置しているのは日本各地で見られますが、京都発祥と推測されているようです。

   ※ 上記の皇都午睡記述と江戸に稲荷神社が多かった事を考えると江戸発祥の可能性が高いと思います。

  赤い鳥居と言えば稲荷神社が有名で、お稲荷さんは祟ると怖い。赤い鳥居の設置効果は高く、立ちションやゴミの
  不法投棄は大幅に減ります。しかし、ミニ鳥居の本来の目的は神様に奉納するためのものです。

  80年代のバブル時代になると、日本の各都市の繁華街や駅構内では酔っ払いが立ちションする事が多かったようです。
  京都市営地下鉄の四条駅のホームの端には、赤い鳥居が描かれた紙が貼ってありますが、これは開業当初の昭和56年
  からあったそうです。当時は地下鉄京都駅などでも貼られていました。

  平成時代になって日本のマナーはかなり向上し、街角で立ちションする人の姿はめったに見かけなくなりましたが、
  ペットを買う人が増え、犬の立ちションが増えます。
  近年はペットの排泄物は持ち帰るのは当然のマナーとなり、余所の建物に小便をかけささない事も徹底されてきました。


  アメニティネットワーク かわや版 『学校のトイレ事情』
   http://www.amenity-network.net/amenity_contents/kawayaban/pdf/kawaya-ban2013-07-44.pdf

  ≪ 明治中期の大阪市の公衆便所数 ≫

  大阪では市制が施行された明治22(1889)年、市内に「路傍便所」と称する公衆便所が、なんと1500ヵ所も存在していた

  大阪湾 水質が劇的に改善、豊かな海へ 多数のスナメリ生息確認
 
 東京のトイレの水洗化
  東京オリンピックと日本人のアイデンティティー 2018年 江戸川大学 斗鬼正一 名誉教授
   https://edo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=803&item_no=1&page_id=13&block_id=21

  「欧米人にどう観られるか?」を強く意識し、特に東京では衛生・清潔・美化、秩序・マナー・犯罪、看板設置などに対し、
  意識改革のキャンペーンや取締りなどが行われました。
  上記リンクの論文を読めぱ、当時の日本、主に東京の実態が分かります。は一部抜粋。

 水洗化 東京の水洗便所取り付け可能な広域下水道は1922年には稼働しているが,オリンピック開催決定後は
 拡張が進められた。しかし人口あたり普及率は1955年度末には15.62%,1960年度21.3%,そしてオリンピック翌年の
 1965年でもわずか35.3%だった(東京都下水道局,2008)。
 東京の普及率が概成100%となったのは,1995年である。全国の水洗化率も1963年9.2%,1973年31.4%,1983年58.2%,
 1993年75.6%である。つまりオリンピック当時は,まだ臭い,汚い汲み取り式のボットン便所が多く,とりわけ公衆便所と
 なると「暗い,臭い,汚い」の3Kの代表とされていたのである。
 こうした状況に対し,読売新聞1964年3月16日の「外人客をむかえる準備」と題した社説では,日本の汚い公衆便所で
 外国婦人が卒倒した,という話を紹介,さらに,ロンドンでは公衆便所が800人に1か所あるのに比べ,都内の公衆便所は
 700余か所,12,000人に1か所しかないと危惧し,施設の増設は無理だが,せめてきれいにしなければならないと主張して
 いる。こんな遅れた状況では,きれいな水洗便所が当たり前のはずの外人にショックを与え,日本について悪い印象を
 与えてしまう,というわけで,1964年2月には浅草公園,明治公園には「外人向けの豪華版」「国際レストハウス」が建設された。

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