手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本文化の雑学1 日本語・言葉の雑学
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このページの最終更新日:   20.06.09
    
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日本文化の雑学  INDEX
 

  Page Contents



 姓・名字のルーツなどは姓・氏・名字の雑学のページに分離しました

 江戸でも上流階級は上方言葉を使っていた 
  上野公園の鶯は、京都の訛の無い鳴き声の鶯の子孫 19.06.18追記

 漢字の成り立ちには恐ろしい風習がルーツの物も多い


 日本語 由来不明な特殊言語、日本語は9つある

 現代に残る原始日本語の意味 タスキ、マクラ、アソブ、オトメ など

 漢字の伝来   漢字の発音の分類   古墳時代

 日本語 言葉の伝播 蝸牛考の検証調査結果、京都・大坂から同心円を書くように言葉は広がった

 飛鳥・奈良時代 五畿七道の制定、画期的な万葉仮名を発明
  「母=パパ」、「蝶々=ディエップディエップ」と呼んでいた

 平安時代 国風文化により「ひらがな」「カタカナ」が誕生、「難波津」が手習の最初に習う歌とされていた

 鎌倉時代 鎌倉時代の関東、武士が作った言葉?

 室町時代 「お」を付ける女房詞が宮中で誕生 18.11.25追記

 江戸時代 日本は食感を表す擬音語が非常に多い   江戸庶民が上方へ言った悪口

 仮名遣は江戸前期に平安初期の読みが基準とされ、中期に本居宣長が五十音を整理



  江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

  おすすめサイト 歴史の雑学が色々と載っています。
  株式会社まぼろし 歴史雑談録 http://rekishi.maboroshi.biz/about/
  歴史研究所 『日本史』 http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
  NAVER まとめ 『再現された江戸時代の日本人の食事』 http://matome.naver.jp/odai/2134329123090279301

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

  
 日本語
  日本テレビ たけしの教科書に載らない日本人の謎 『日本語』 12.01.09 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『若者コトバは間違い? 正しい日本語の正体』 14.05.23 放送
   https://www.youtube.com/watch?v=07gN1qrAtME ←動画
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『日本語ミステリー 秘められた古代人からのメッセージ』 14.04.17 放送

  ≪ 日本語は特殊な言語 ≫

  日本には9つの言語が存在し、日本語以外の8つはユネスコが消滅危機にあると認定しています。
  日本語は、由来がはっきり分からない。漢字・ひらがな・カタカナを混ぜて書き表す。という2点が非常に特殊。
  韓国は漢字とハングル、ベトナムは漢字とチュノムを併用していますが、使用頻度が高くない為、日本語とは異なる。
  古代に文字が使われていなかったので、日本語の成立時期もはっきり議論がまとまっていないそうです。

  【大和言葉】やまと‐ことば
   ① 日本固有の言語。日本語。和語。やまとことのは。 ② 和歌。やまとうた。
     源氏物語[東屋]「大和言葉だにつきなく習ひにければ」
   ③ 日本の雅言がげん(正しくよいことば。洗練された言語。特に、和歌などに用いる古代)。主に平安時代の語。


人類の起源はアフリカ大陸だと言われていますが、
言葉の起源もアフリカで発祥した1つの言語だと
言われています。

言語学では1万年ほど遡ると言語の由来が判明し
ますが、日本語は似ている言葉が他にないため、
由来が不明な不系統言語の一つ。

  ユネスコが認定した日本の言語は9つ。(それぞれが通じない為) 日本語・アイヌ語・八重山語・与那国語・八丈語・奄美語・
  国頭語・沖縄語・宮古語。

  名古屋大学大学院の町田健 教授 (福岡県出身)。


  ≪ 現代に残る古代の原始日本語 ≫

  立教大学 文学部の沖森卓也 教授 (三重県生まれ) によると、
  古い時代の日本には文字がありませんでした。文字があってはじめて日本語が具体的に分るという事ですね。
  具体的にどういう日本語が話されていたか分からないんです。

  それでも、ある程度推測する事は可能なようです。文字数の少ない単語は古くから使われてきた言葉だと思われます。

  奈良大学の木村紀子 名誉教授 (愛媛県松山市出身) によると、
  奈良時代に万葉仮名で書かれた『古事記』や『日本書紀』にある言葉は、それ以前から使われていたものが多く、1~3文字程度の
  短い単語の多くは『原始日本語』と呼ばれる古くからの言葉で太古からあったと考えられます。






  例えば「ヤマ」「カワ」「ウミ」「ハナ」「キ」「クサ」「モノ」など。当時、『は行』は『ぱ行』の発音だったと考えられる
  そうです。また幼児言葉の「ワンコ」「ニャンコ」など、動物は鳴き声が名前になった名残り。

  顔の部位のパーツの名称は、稲の部位と深い関係がある?  大阪の『ナニワ』の語源は『魚の庭』から、古代の大阪で使われていた言葉も日本語の基礎に?






  〈タスキ〉 「タ」=手。「スキ」=すくい通す。「タスキ」=手をすくい通すという行為。
   駅伝や選挙など肩からかける細いの布の輪である「襷」「手繦」たすきは、タスキをした埴輪も出土しており、
   古事記の「天照大神の天の岩戸隠り」にも「天宇受賣命あめのうずめのみことが、天の香山の日陰を手次たすきに繁けて」とあり、
   神様の力を宿すことができると考えられていました。

  【襷・手繦】たすき
   ① 衣服のそでをたくし上げるために肩から脇にかけて結ぶひも。普通、背中でななめ十文字にうち違いにする。
     万葉集白たへのタスキを掛け
   ② 紐または線を斜めにうち違えること。その文様。
   ③ 細長い布を輪状にして、一方の肩から他方の腰へ斜めにかけるもの。

  〈マクラ〉 「マ」=真なるもの。「クラ」=神座。「マクラ」=真の神座。
   夢は神様と交わる事ができる場所であり、マクラは神様のお告げを聞くための神具でした。

  〈クダモノケダモノ〉 「ダ」=「の」の意味でした。
   果物は「クのモノ」。「ク」=木。木の物でクダモノとなりました。
   獣は「ケのモノ」。「ケ」=毛。毛の物でケダモノだったそうです。

  〈アソブ
   「アソ」は阿蘇山 (熊本県北部) の「あそ」や、浅間山
   (長野・群馬県両県にまたがる) の「アサ」。
   有珠山(北海道南西部)の「ウス」とも同義語とみられ、
   共通するのは火山。
   「アソ」=噴火のような行為を指していたようです。
   「遊ぶ」は「アソ」の動詞型になります。

 
  「岸和田だんじり」や「青森ねぷた」のような熱狂的な激しい祭が「アソブ」という言葉にふさわしい行為だそうです。


  ≪ 誘う、競う、争う は、「ソヒ」から生まれた言葉 ≫

  〈ソヒ〉 ソフ 古代日本の男女の出会いの集まりの習慣を「ソヒ」と呼んだそうです。






  ソヒの場で、男が女を「誘う (ソウ)」、恋のライバルが現れたら「競う (ソウ)」、決着をつけるために「争う (アラソウ)」。
  そして結ばれた男女は「寄り添う (ソウ)」。と、これらは「ソヒ」から派生した言葉だそうです。

  「ソウ」の「」は、「苗」「乙女」など生きていく上で 『初めを意味する』神聖な言葉。
  「ソウ」の「」は『キっと睨む』事に由来。  「アラソウ」の「アラ」は『荒らしい』『ぶる』を意味しているそうです。


  ≪ 「乙女」という言葉が神聖視されるようになったのは ≫

  奈良大学の木村名誉教授によると、
  大和朝廷では=「ヲトコ」、=「ヲトメ」と呼んでいましたが、西の大国 (九州の熊襲?) では=「ヲグナ」、=「ヲミナ
  と呼んでいましたが、大和朝廷が西の大国を制圧した時に男を殺し女を奪い、男を意味する「ヲグナ」という言葉も抹殺した為、
  「ヲミナ」だけが残り女=「オンナ」となりました。そして「ヲトメ」は処女、未婚の女性、恋愛対象となる女性の意味として
  大切に扱われる存在とされるようになっていったそうです。

  ※ 言葉の語源や成り立ちには色々な説があります。これに関しても、一つの説として捉えておいた方がいいでしょう。






  【熊襲】くまそ
   記紀伝説に見える九州南部の地名、またそこに居住した種族。肥後の球磨くまと大隅の贈於そおか。
   日本武尊やまとたけるのみことの征討伝説で著名。 景行紀熊襲反そむきて朝貢みつきたてまつらず

  【景行天皇】けいこう-てんのう
   記紀伝説上の第12代の天皇。垂仁天皇の第3皇子。名は大足彦忍代別おおたらしこおしろわけ。熊襲を親征しんせい
   (天皇が自ら征伐する事)、後に皇子 日本武尊を派遣して東国の蝦夷を平定したと伝える。

  【童男】お‐ぐな、ヲグナ … 男の子。少年。おのわらわ。〈景行紀訓注〉

  【女】おみな、ヲミナ
   ① 美女。佳人。古事記[下]「神のみ手もち弾く琴に舞する女おみな常世とこよにもかも
   ②万葉集[18]「老人おいひとも女おんなわらわ

  【嫗】おみな … 老女。婆。おうな。おむな。神代紀[上]「ひとりの老翁おきなと老婆おみなとありて

  ※ 広辞苑の「おとめ」には「少女・乙女」「処女・未通女」などあります。
    乙女は「をとめ」、「を」=若い、「め」=女。 男「をとこ」、「を」=「若い」、「こ」=子に対する言葉。
    処女を指す意味では奈良時代の万葉集未通女おとめ壮士おとこの行き集い

    また、「夫妻・夫婦めおとの事を「おとめ」ともあります。 712年成立の日本書紀神代紀遘合して夫婦と為」と
    あります。

  【神代】かみよ、じんだい
   記紀神話で天地開闢てんちかいびゃく (一つであった天地が分離した世界の始まり) から草葺不合尊うがやふきあえずのみことまで、
   神武天皇以前の神々の時代。

  【遘合】みとのまぐわい
   (トは入口。陰部の意) 男女の交合。まぐわい。古事記天の御柱を行き廻り逢ひて遘合為

  この記紀に記された神代紀の大部分は筑紫神話を書き写したものであるとも言われているようです。

  「日本」と呼ばれるルーツは東大阪市にあった  君が代のルーツも大阪・京都・奈良


  ≪ 日本語と琉球語・朝鮮語などの関係 ≫

  【竹田学校】全リスト
   https://www.youtube.com/playlist?list=PLlZKROf1QRyFB-IgASo_KSopzH5j6BxYq

  これまで通説だった事が近年の考古学や分子生物学の発展と研究によって覆った事がたくさんあります。
  上リンク記の竹田恒泰さん解説の『竹田学校』のシリーズでは、分子生物学でのDNA解析などによって分かった
  日本人の起源や稲作について分かり易く解説されています。← 超オススメ

  【竹田学校】歴史・岩宿時代編①~世界最古の磨製石器は日本製~
  【竹田学校】歴史・岩宿時代編②~日本人は最初から日本人~
  【竹田学校】歴史・岩宿時代編⑥~アイヌ人の起源~
  【竹田学校】歴史・縄文時代編⑰~日本文化圏だった朝鮮半島~
  【竹田学校】歴史・縄文時代編⑲~琉球人はどこから来たか?~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑪~なぜ日本人は中国語を話していないのか?~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑫~「渡来人」とは何者か?~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑬~「朝鮮人」とは何か?~ 
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑭~韓国語はなぜ日本語に似ているのか?~
  【竹田学校】歴史・弥生時代編⑯~縄文文化を継承した沖縄と北海道~
    などが、オススメですが動画を全部見た方が理解しやすいでしょう。

 
 弥生時代に漢字が伝来
  日本テレビ たけしの教科書に載らない日本人の謎 『日本語』 12.01.09 放送
  NHK Eテレ 美の壺・選 『金沢の和菓子』 13.01.17 放送
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『背筋も凍る! 恐ろしき漢字のルーツ』 18.02.08 放送

  ≪ 漢字とは ≫

  『漢字』の基になったのは、紀元前16世紀~前1023年頃に中国に存在した古代王朝の殷いんで使われていた文字。
  中国河南省安陽市にある殷時代の遺跡から1928年以来の発掘で文字を刻んだ甲骨 (亀甲や獣骨) が発見され、
  「殷墟いんきょ文字」「甲骨こうこつ文字」と呼ばれています。

  【漢字】かん‐じ 真名真字まな
   古代中国で作られた、漢語を表記する文字体系。現在は中国・日本・朝鮮で使用。
   象形・指事から発達した表意文字で、表音的にも用いる。紀元前十数世紀の殷の時代にすでに用いられた。
   篆書てんしょ・隷書・楷書・草書等の書体がある。
   日本では一般に、「峠」「榊」「辻」等の、いわゆる国字を含めて漢字と称する。

  真名・真字まな=漢字の事で、平安時代から仮名に対していう。真名本は漢字のみで書かれた書物のこと。⇔仮名本。
  ちなみに、真名は「本当の名前」という意味でも使われます。

  【殷】いん
   中国の古代王朝の一つ。「商」と自称。前16世紀から前1023年まで続く。史記の殷本紀によれば、湯王が夏を滅ぼして
   始めた。30代、紂ちゅう王に至って周の武王に滅ぼされた。高度の青銅器と文字(甲骨文字)を持つ。

  【甲骨文字】こうこつ‐もじ
   亀甲・獣骨などに刻まれた中国最古の体系的文字。占卜せんぼく (占い) の記録を刻したもので、殷代に多く、西周前半に
   もある。中国河南省の殷墟から多数発見。殷墟文字。甲骨文。


  ≪ 漢字の成り立ちには恐ろしい風習がルーツの物も多い ≫ 18.02.20

  島国の日本と比べ、大陸では移民族の争いが絶えず、特に古代中国では残忍な刑罰などが多かったようです。
  その様子を表す象形文字が現在の漢字に変化していき、意味も変わっていきました。

  広島女子学院大学の出口汪 客員教授によると、現在、良いイメージを持っている漢字の成り立ちを辿れば全く違う意味
  だった事も多いそうです。

  「」…甲骨文字が作られたとされる殷は周りを異民族に囲まれており、異民族の侵入を防ぐための魔除けとして
  死体をぶら下げていました。その吊るした死体の場所で方向を把握していたそうです。

  「」…古代には人の頭部には霊力が宿ると信じられており、頭部だけを切り離して魔除けとして持ち運ぶのが日常茶飯事
  だったので、「首」という字が「道」の一部に使われています。当時、道も危険だったので魔除けが必要でした。

  「」…左側のつくりの部分は「骨」+「刂=刀」で、鳥葬で鳥に食べさせるために死体を刀で切る様子。

  「」…左側は「布」+「刀」。刀に付着した血を布で拭き取っている様子。拭き取っても簡単に落ちない事から。

  「」…甲骨とあるように、亀の甲羅を占いに用いていました。「手てへん=人間の手、甲=亀の甲羅」で、生きたまま甲羅を
  はぎ取られる亀がもだえ苦しみ暴れるので、手で亀を押さえつけている様子から。

  「」…上部は「羊」+「我=鋸ノコギリの刃」を表し、神様への生贄の羊をノコギリで切る姿。

  「」…死者が蘇ると信じられ、それまで死者の体に邪悪な存在が入ってこないように、胸に「V」の入れ墨を入れたまじない。

  「」…女性の死体には「×」の入れ墨を入れた事から。穢れなき清らかな死体を表す。








  「」…兵士たちは戦で功績を上げる事が出世する方法でした。その戦果の証拠として倒した敵の「耳」を切り取り持ち帰った
  事から。切り取った耳を持つ兵士の手を表した象形文字が変化してできた漢字。

  「殿」…尻をムチで打つ刑罰からで、この刑罰を下す立場の権力者に充てられた漢字。

  「」…目を槍で突かれ潰されて自由を奪われた捕虜を表した漢字。

  「」…「手ヘンは引きちぎる人の手」を表し+「右側は引きちぎられる指」。指を何本かまとめて引きちぎる刑から。

  「」…腹を十字に裂かれ腸が飛び出ている様子から。内臓は七つ (心臓・肝臓・肺・ひ臓・腎臓・胃・腸) とされていました・

  「」…刑罰で両腕の切り落とされた「子」供の姿を表した漢字。

  「」…捕虜が生き埋めにされて、大声で泣き叫ぶ姿から。

  「」…火あぶりの刑から。  「」…頭蓋骨しゃれこうべの穢れない色。

  「」…手枷・足枷を嵌められた捕虜の姿。他の残酷な刑罰と比べれば、拘束されるだけなので幸せだと思った事から。

  「」…犯罪を犯した子供の額には横一線の入れ墨を入れた事から。

  「」…巫女が神様のお告げを聞くために踊っている様子。巫女は神様に逆らえない弱い存在であり、中国では目上
  (年配)の者に逆らって生きていくことは難しかった。これらの事から「巫女→若」と充てられた。

  「」…しゃがんで排泄する姿から。

  「」…「出」と良く似た姿ですが、女性が出産する時に力む様子。出産の苦しみから解放される事から。


  ≪ 漢字の伝来 ≫

  中国や朝鮮半島との交流が始まり、日本人が大陸へ渡航したり、渡来人がやって来るなどによって文字が伝わりました。

  立教大学 文学部の沖森卓也 教授によると、
  日本はまだ文明が低くて口で伝達すれば十分通じるような社会構造だったので、文字は必要としないというか、
  作られなかったのだろうと思います。
  土器に絵とか、あるいは記号・符号のような形のものとして、彫られるような事はがあったんですけども、だんだんと漢字を
  知った人々が大勢やって来て、日本で本格的に漢字の使用が始まったという事だと思います。

  漢字文化資料館 『漢字Q&A 「漢字はいつごろ日本に伝わったのですか?」』 http://kanjibunka.com/kanji-faq/old-faq/q0453/q0004/

  日本の古代の遺跡からは、漢字が刻印された中国の貨幣が発見されることがあります。
   それらのうち最も古いものは、紀元前1世紀ころに造られた貨幣です。ここから考えますと、日本列島に住んでいた人
   たちが初めて漢字を目にしたのは、貨幣が中国から渡来してくるのにかかる時間を考慮にいれて、遅くとも紀元後
   1世紀ごろであろうと思われます。
   しかし、その漢字を目にした人たちが、それを文字だと認識していたかどうかについては、また別の問題です。
   わたしたちがたとえばアラビア文字を見るときのように、おそらく当時の人々にも、漢字は模様のようにしか映らな
   かったのではないでしょうか。
   では、日本列島に住んでいた人たちは、いつごろから漢字を文字として理解し始めたのでしょうか。
   詳しいことはわかりませんが、確実なのはやはり邪馬台国(やまたいこく)の時代、紀元3世紀ごろです。『魏志倭人伝
   (ぎしわじんでん)』で有名なように、このころには、日本と中国との間に使節の往来があったことは確かです。
   外交文書を扱うことができなければ、使節としては体を成しません。
   おそらく邪馬台国やそれに先立つ国々には、漢字を理解し、文書を扱うことのできる人々がいたに違いないと
   考えられています。

  大東文化大学 文学部 山口謡司 准教授によると、
  文字を使うということは、すでに発達した文化圏の中に入っていくという事で、つまり中国との関係、朝鮮半島との関係
  からも文字を使わざるをえない時期に入ってきたんだろうと思います。

  日本人も文字を知った事で、中国の文章を読み、文化や政治体制も学ぶ事に繋がって文明国家となっていきました。

  【篆書】てん‐しょ … 漢字の一体。大篆と小篆とがある。

  【大篆】だい‐てん
   周(前1023~前255年)の宣王 (前828~前782年) の時、史籀しちゅうが造ったとされる
   漢字の書体。古文から出て、篆文(小篆)の前身をなす。籀書ちゅうしょ。籀文ちゅうぶん

  【小篆】しょう‐てん
   漢字の書体の一つ。大篆から脱化した字形で、筆写に便にしたもの。
   秦の李斯りし(?~紀元前208年)の創始という。さらに簡便な隷書・楷書の創始以来、
   鐘鼎しょうてい・碑銘・印章などだけに用いる。
   説文解字の正文はこの字体に属し、漢字の原義を知るに便利。篆文。秦篆。篆書。

  【説文解字】せつもんかいじ
   中国最古の部首別字書。中国文字学の基本的古典。15巻。後漢の許慎撰。西暦
   100年頃成る。漢字9000字余を540の部首により分類し、六書りくしょの説により字形の
   成り立ちと、それぞれの漢字本来の意味を解釈した。説文。

  江戸時代、中国文化と朱子学は武士の教養として取り入れられました。
  日本三大銘菓として挙げられる金沢の長生殿は、篆書体文字を刻んだ落雁です。




  【白川静】しらかわ-しずか (福井市生まれ、1910~2006)
   中国文学者。立命館大学教授。甲骨文字・金文の解読をはじめ、漢字研究を進展させた。
   著「字統」「字訓」「字通」など。文化勲章。

   日本三大和菓子処 金沢の和菓子 福梅、長生殿、福徳せんべい、金花糖


  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『日本人が知らない漢字の世界』 16.03.03 放送

  16年3月放送のビーバップ!ハイヒールの講師は早稲田大学
  社会科学部の笹原宏之 教授 (東京都出身)は、文化庁で
  常用漢字の選定・改定に携わり、日本の漢字の読み方に
  ついて解説。

  中国を中心として、韓国・台湾・ベトナムなどが漢字文化圏
  ですが、それぞれ特徴があります。

  中国・韓国などでは音読みだけ。
 
  日本は音読みだけでなく訓読みもあり、当て字など、一つの漢字を複数で読み、時代とともに変化し続けているのが
  特徴的だそうです。

  漢字の発音の分類  明治時代に多くの言葉 (漢字熟語) が作られた  東西で異なる漢字の読み方
  2016年7月 京都に『漢字ミュージアム』がオープン
 
 古墳時代
  日本テレビ たけしの教科書に載らない日本人の謎 『日本語』 12.01.09 放送

  5世紀後半の雄略天皇に比定される人物が、宋(中国)に送った文章の一部。
  書く文章も読むのも中国語のままだったそうです。

  宋書「倭国伝」

  封國偏遠作藩于外 自昔祖禰躬擐甲冑 跋渉山川不遑寧處

  日本は中国から遠いところにあります。私達は先祖代々いつも甲冑を着て
  休むことなく頑張っています。


  【雄略天皇】ゆうりゃく‐てんのう 名は大泊瀬幼武おおはつせわかたける。  第19代の允恭天皇の第5皇子。
   記紀に記された5世紀後半の第21代の天皇。対立する皇位継承候補を一掃して即位。
   478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「わかたける大王」
   に比定される。

  【宋】そう 南宋、劉宋 420~479年
   中国、南朝の一国。東晋の将軍 劉裕(武帝)が建てた。都は建康(南京)。
   8世の順帝が斉王 蕭道成に帝位を譲った。斉王 蕭道成しょうどうせいが南斉を建国。

  【宋書】そうしょ
   二十四史の一つ。南朝の宋(420~479)の正史。帝紀10巻、志30巻、列伝60巻。
   487年、南朝の梁(502~557)の沈約しんやくが斉の武帝の勅を受けて撰、翌年成る。
 
 言葉の伝播 蝸牛考の検証調査
  探偵ナイトスクープ アホバカ分布図 (抜粋された815秒の動画)  http://youtu.be/i9dH1QSq7ts

  1991年(平成3年)5月に朝日放送(ABCテレビ)のバラエティ番組『探偵!ナイトスクープ』の企画の一つとして放送された
  「アホとバカの境界線」を探る企画。
  同年、日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞受賞・第29回ギャラクシー賞選奨・第9回ATP賞グランプリを受賞した。


  ≪ 言葉の広がり方 京都・大阪を中心に同心円で古い言葉が残っている ≫

  【方言区画論】ほうげん‐くかく‐ろん
   方言の差をもとに地域を区分する研究法。1927年に東条操の提唱したのが最初で、本土・沖縄に2大別し、
   本土は東北・関東・中部を含む東部方言、北陸・近畿から西の西部方言、九州方言の3地域に分ける。

  【東条操】とうじょう‐みさお(東京生れ、1884~1966)
   国語学者。学習院大学教授。日本の方言研究を開拓し、方言学の基礎を築いた。
   編著「方言と方言学」「全国方言辞典」など。


  【方言周圏論】ほうげん‐しゅうけん‐ろん
   方言分布の原因を文化の中心から時間に応じて波紋状に広がる事象に認めた理論。
   柳田国男が「蝸牛考」で、かたつむりの方言調査をもとに提唱。

  【柳田国男】やなぎた-くにお(兵庫県生れ、1875~1962)
   民俗学者。東大卒。貴族院書記官長を経て朝日新聞に入社。民間にあって民俗学研究を主導。
   民間伝承の会・民俗学研究所を設立。「遠野物語」「蝸牛考」など著作が多い。文化勲章。

  【蝸牛考】かぎゅう-こう    幕末~明治初期の『皇都午睡』の東京での蝸牛の呼び方の記述
   語学書。柳田国男著。1930年刊。
   日本各地のかたつむりの方言を調査し、その分布を説明する理論として方言周圏論を導き出す。






  全国の視聴者の協力があり、地域で使用している言葉を書いた紙などを、
  ヘリコプターに乗って各地を移動しながら確認していくものでした。

  だら … (東北・関東・中部地方、熊本県で)人糞肥料。

 
《 アホ・バカ方言 文献出現順 》
 古事記  712年  をこ
 日本書紀  720年  たはけ(る)
 万葉集 8世紀末  たらず
 日本霊異記 810~824年  ほる
 落窪物語 985~995年  ほける
 色葉字類抄 1144年  ほうけ
 堤中納言物語 平安~鎌倉前期 ほんち
 無名抄 13世紀初  こけ
 名語記 1275年  とろい
 太平記 14世紀  ばかもの
 御伽草子 14~16世紀  たくらだ
 節用集 15世紀末  あんごう
 詩学大成抄 1561年  あはう
 日葡辞書 1603年  うとい、
 あやかり
 当流籠抜 1678年  ぬくい
 軽口頓作 1709年  あほ
 吉原大全 1768年  はんか
 物類称呼 1775年  だぼう
 真影累ヶ淵 (落語)  1859年  でれすけ

  おけら … (職人の隠語) ばか・間抜け・阿房あほうなどの意。







現代語における古語の残存率

 古今異義語も「現代に残っている」
 ものとする。

 動 詞 : 86.7%
 形容詞、形容動詞 : 79.5%
 名 詞 : 79.0%
 副詞他 : 59.4%
 助動詞 : 17.9%
 但し、文献に記述がない口語は含まれ
 ていないので、実際の残存率はもっと
 低い。

 現在の日本人が平安時代にタイム
 スリップした場合、
 ほぼ言葉は通じないらしいです。


  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文、 江戸ッ子の口癖「タアケ」の語源。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など
 
 飛鳥・奈良時代
  日本テレビ たけしの教科書に載らない日本人の謎 『日本語』 12.01.09 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『平城京の時代』 14.05.23 放送
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『聖武天皇・行基 ~大仏はなぜ造られたか~』 14.05.07 放送

  ≪ 日本語文法での表記 ≫

  法隆寺の金堂にある薬師如来坐像 (国宝) の裏側に刻まれている文章から分かるそうです。

  池邊大宮治天下天皇 大御身勞賜時 歳次午年召於大王天皇 與太子而誓願賜我大御病
  太平欲坐故將造寺藥師像作 仕奉詔然當時崩賜造不堪者 小治田大宮治天下大王天皇
  及東宮聖王大命受賜而 歳次丁卯年仕奉

  用明天皇が自らの病気平癒のため、寺と薬師像を作ろうと発願したが、お亡くなりになった
  ため、その意思を継いだ推古天皇と聖徳太子が推古15 (607) 年に完成させた。


  中国語文の構成順 主語+述語 (動詞)+目的語  作 藥師像
  日本語文の構成順 主語+目的語+述語 (動詞)  藥師像 作

  この頃より、日本語の要素が入った漢文に変化していったと考えられるそうです。
  しかし、中国語の発音のままを日本語に当てはめた漢文にするのは非常に難しい事でした。

  【法隆寺】ほうりゅう‐じ
   奈良県生駒郡斑鳩いかるが町にある聖徳宗の総本山。南都七大寺の一つ。もと法相ほっそう宗。
   607年聖徳太子の開基創建と伝える。670年に焼失し、8世紀初めまでに漸次再建。現存する世界最古の木造建築物で
   飛鳥様式の金堂・五重塔を中心とする西院と、天平様式の夢殿を中心とする東院とに分かれる。
   金堂の釈迦三尊・薬師如来・四天王、夢殿の救世くせ観音、百済くだら観音などの諸仏像、玉虫厨子・橘夫人厨子など
   をはじめ各時代にわたり遺宝が多い。
   1949年金堂の内部・壁画は失火により損壊したが復元。世界遺産。法隆寺学問寺。斑鳩寺。鵤寺いかるがでら


  ≪ 万葉仮名 ≫

  漢文にはとらわれず、漢字が持つ音だけを利用して、普段から話している日本語をそのまま表記する方法へと変化。
  漢字の音を使った当て字で文章を書くことにしましたが、漢字は画数が多いため効率が悪いため、漢字に日本語の
  読みを充てる「訓」を開発しました。

  【音読】おん-どく、おん-よみ … 漢字を字音で読むこと。
     
  【訓読】ん-どく、くん-よみ … 漢字に日本語をあててよむこと。

   中国語発音 (サン)  日本語 「也麻」 (やま) → 「山」と書いて「やま」と読む。
   中国語発音 (セン)  日本語 「加和」 (かわ) → 「川」と書いて「かわ」と読む。

  訓読みをすることで、「也麻」よりも「山」、「加和」よりも「川」の方が少ない字画なので効率
  良く書くことが可能となりました。

  【万葉仮名】まんよう-がな 真仮名まがな男仮名おとこがな
   漢字を、本来の意味を離れ仮名的に用いた文字。借音・借訓・戯訓などの種類がある。
   6世紀頃の大刀銘・鑑銘に固有名詞表記として見え、奈良時代には国語の表記に広く
   用いられたが、特に万葉集に多く用いられているのでこの称がある。

  右の画像の文は柿本人麻呂が奈良の吉野の川の美しさを詠んだ歌。→
  『古事記』や『日本書紀』など奈良時代の書物は万葉仮名を使って書かれました。




  【仮名源流考】かなげんりゅうこう
   語学書。大矢透 著。証本写真1冊を付す。1911年(明治44)刊。
   推古期 (592~628) の文献中の万葉仮名の漢字音の源流が中国周代にあることを説いたもの。


  ≪ 奈良時代の発音は英語ぽかった ≫ 万葉仮名の文から分かるそうです。

  奈良時代の発音は現在より母音が多かったので、しゃべり言葉は英語に近い
  発音になっていたそうです。

  万葉仮名では発音の違いを漢字で区別して使い分けていました。
  この事から、当時は8つの母音を使って発音していたと考えられ、その音の体系を復元する
  事が可能だそうです。

  大東文化大学 山口謡司 准教授 (長崎県出身) の監修による再現の音源では奈良時代は
  下記のように発音していました。

  母上様 ほら 蝶々が あの 笹の葉の上に 飛んでいますよ、 ひらひら 飛んで 可愛らしい。
  パパうぇつぁま ぽら ディエップディエップんが あの つぁつぁのぱの上に ちょんでうぃまつぅよ、
  ぴらぴら ちょんで くあいらつぃい。

  どこに 蝶々が 飛んでいますの? 本当ですね。
  でぃょこに ディエップディエップんが ちょんでうぃまつぅの? ぽんちゃうでぃぇつぅね。




  は ひ ふ へ ほ=ぱ ぴ ぷ ぺ ぽ  さ し す せ そ=つぁ つぃ つぅ つぇ つぉ
  母上様=パパうぇつぁま 蝶々=ディエップディエップ 笹の葉=つぁつぁのぱ 本当=ぽんちゃう


  【五畿七道】ごき-しちどう Wiki 五畿七道 元は、四畿で河内が、河内と和泉に分けられました。
   古代日本の律令制における、広域地方行政区画。北海道、沖縄を除いた日本列島の事。
    東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道

  【畿内】
   中国の古制で、王城を中心とする四方500里以内の特別行政区。
   日本では歴代の皇居が置かれた大和・山城・河内・和泉・摂津の5カ国。 奈良、京都南部、大阪、兵庫東部の事。

  710年に藤原京から平城京へ遷都
  聖武天皇は、平城京から恭仁くに京 (740~744) → 難波なにわ宮 → 紫香しがらき宮 (742造営) → 平城京へと都を転々としました。









  ≪ 元明天皇・元正天皇 (母娘)時代 古事記・日本書紀の編纂 ≫ Wiki 元明天皇 Wiki 草壁皇子

  【元明天皇】げんめい‐てんのう(661~721)名は阿閉あべ。 天智天皇の第4皇女草壁皇子の妃
   奈良前期の女帝(第43代、在位707~715)。文武・元正天皇の母。
   都を大和国の平城(奈良)に遷し、太安万侶おおのやすまろらに古事記を撰ばせ、諸国に風土記を奉らせた。

  【元正天皇】げんしょう‐てんのう(680~748)名は氷高ひだか。 草壁皇子の第1王女母は元明天皇
   奈良時代前期の女帝(第44代、在位715~724)

  【古事記】こじき ふることぶみ
   現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼ひえだのあれが天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、
   太安万侶おおのやすまろが元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上。
   上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみことまで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇
   から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を
   物語る。

  【日本書紀】にほん‐しょき
   六国史りっこくしの一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。
   神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。
   720年(養老4)舎人とねり親王らの撰。日本紀。
 
 平安時代
  日本テレビ たけしの教科書に載らない日本人の謎 『日本語』 12.01.09 放送
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『紫式部・清少納言 ~国風文化の誕生~』 14.06.04 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『言葉は生きている! 進化する日本語』 14.08.22 放送

  ≪ 平安時代 ≫  語源由来辞典 http://gogen-allguide.com/a/ahou.html  広辞苑 など

  784年、桓武天皇の時に平城京から長岡京へ遷都。794年に長岡京から平安京へ遷都。

  894年、菅原道真の提議により遣唐使を廃止した平安時代に、『ひらがな』や『カタカナ
  などの国風文化が生まれました。


  【仮名・仮字】かな (カリナの音便カンナの約)
   漢字から発生した、日本固有の音節文字。広義には万葉仮名・草仮名・平仮名・片仮名、狭義には後の二者をいう。
   万葉仮名は主に漢字の音訓で国語を写し、平仮名・片仮名は平安初期、万葉仮名をもとにできた。やまともじ。
    
  【真名】まな
   ① 漢字の楷書。 ② 仮名に対して、漢字の称。 ③ まことの名。本名。実名。


  ≪ 草仮名 ≫

  万葉仮名の文字を崩したり端折ったりしたりした、文字を略して書く草書体の草仮名が作られました。

  【草仮名】そう‐がな
   万葉仮名を草体に書きくずした字体。さらに簡略化したものが平仮名。遺例、「秋萩帖」など。

  【秋萩帖】あきはぎじょう
   (題名は、巻頭の「あきはぎの…」の歌による)平安中期の書巻の名。小野道風筆と伝えられる。
   和歌48首を草仮名で書いたもの。秋萩歌巻。


  ≪ ひらがな ≫

  宮中の若い女性たちによって、草仮名を崩してすらすらと書きやすい簡略した文字へと変化
  した「ひらがな」が作られ、この事により、女性文学や和歌が発展したと見られています。

  【平仮名】ひらがな
   平安初期、漢字の草体から作られた草そうの仮名をさらにくずして作った音節文字。
   主に女性が用いたので女手おんなで と呼ばれ、はじめは種々の異体があった。
  「ひらがな」の称は後世のもの。


  【和歌・倭歌】わか  うた。やまとうた。みそひともじ。

  ① 漢詩に対して、上代から日本に行われた定型の歌。長歌・短歌・旋頭歌せどうか・片歌などの総称。
    狭義には31音を定型とする短歌。奈良時代には「倭歌」と書き、また「倭詩」といった。
  ② 和する歌。かえしうた。奈良時代に「和歌」と書くのはすべてこの意。
  ③ 詞章が①と同形式の31音を原則とする、舞の際の謡い物の総称。また、謡曲で舞の前後にかけて謡われる謡の一節。

  和歌は飛鳥時代 (6世紀末から7世紀前半) に農民たちが感情を表す為に詠んでいました。
  奈良から平安時代にかけて、庶民から貴族中心に詠まれるようになり枕詞、掛け詞などの技巧を凝らした和歌になって
  いきました。

  奈良時代までの和歌は庶民が喜怒哀楽を残す文を多く詠んでおり、定型がありませんでしたが、平安時代になって
  宮中貴族がよく詠むようになり、季語や掛け言葉などが発達していき和歌の形ができていきます。


  ≪ カタカナ ≫

  カタカナは平仮名とほぼ同時期、仏門の僧たちが素早く文字を書くため (勉強の効率化のため) に生まれました。
  漢字の一部だけを取り出して文字としました。

  【片仮名】 かたかな、 かたかんな
   (「片」は一部分の意)仮名文字の一つ。阿→ア、伊→イ、宇→ウ、久→ク、己→コのように漢字の一部を取って作ったもの。
   平安初期、漢文訓点に使って様々の字体があったが、院政時代 (11世紀末の白河上皇から、形式上は19世紀中頃の光格
   天皇まで続くが、実質的には鎌倉初期の後鳥羽上皇の時期まで ) にほぼ現行に近い形になった。
   現在では主に外来語や擬音語などの表記に用いる。

  【国風文化】こくふう‐ぶんか
   平安中期から後期にかけて栄えた、優雅な貴族文化。
   遣唐使の廃止によって唐文化の影響が弱まると、仮名文字・女流文学・大和絵・寝殿造・浄土教芸術などとして開花した。

  【以呂波歌】いろは‐うた 色葉歌
   手習歌の一つ。音の異なる仮名47文字の歌から成る。
   「色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為うゐの奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず」。涅槃ねはん経第十四聖
   行品の偈げ「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の意を和訳したものという。
   弘法大師の作と信じられていたが、実はその死後、平安中期の作


  ≪ 平安時代の話し方も再現できる 発音が複雑なので超スローペースの しゃべり方だった ≫

  平安時代末期に作られた『類聚名義抄』には、全ての和語に対して清濁やアクセントが記述されているからです。
  鎌倉時代にも発音に関する事が書かれた高野山大学図書館所蔵の『東禅院上人連口傅 五音事(○は不明な字「心」?)
  文章と合わせて推測すると、平安時代の話し方が再現できるそうです。

  【類聚名義抄】るいじゅうみょうぎしょう
   漢和辞書、平安末期成る。和漢の音義・辞書・訓点本の集成で、全巻を仏・法・僧の3部に分け、偏へん・旁つくりによって
   漢字を120部に類別し、標出漢字の字体・字音・和訓を注記し、和訓には声点を付して和語の清濁や当時のアクセントを
   示す。編者未詳。名義抄。

  大東文化大学の 山口謡司 准教授によると、発音は我々の使っている日本語に比べますと、もっと複雑。
  複雑な発音するのに、ゆっくりと発音したんだろうと思います。速度が遅すぎるので、我々はついていけないと思います。

  平安時代の話し方の再現は、『朗読 源氏物語 ~平安朝日本語復元による試み~ 金田一晴彦 監修』大修館書店から
  発売されていたようです。カセットテープでの音源なので現在発売されているかは不明。

  室町時代の話し方は狂言、江戸時代の江戸ッ子の話し方は東京の古典落語など伝統芸能の中に残されているそうです。


  ≪ 手習いで文字を覚えた ≫

  【王仁】わに 和邇吉師わにきし (古代、百済からの渡来人)
   漢の高祖(中国、劉邦) の末裔で、応神天皇 (古墳時代5世紀、第15代の天皇) の時に来朝し、「論語」10巻、「千字文」1巻を
   もたらしたという。

  【難波津】なにわ-づ
   ① 難波江の要津。古代には、今の大阪城付近まで海が入り込んでいたので、各所に船瀬ふなせを造り、瀬戸内海へ
    出る港としていた。
   ② 古今集 (平安時代中期905年または914年成立の古今和歌集) 仮名序に手習の初めに学ぶとある歌
    すなわち「難波津に咲くや この花冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」をいう。
    王仁の作という伝説があり、奈良時代にすでに手習に用いられていた。


  ≪ 平安時代の関東 ≫

  関が置かれた地域より東は全て関東と呼ばれていました。現在の関東地域は坂東と呼ばれ
  た地域。

  【坂東 八ヵ国】
   相模武蔵安房上総下総常陸上野下野関八州の事で、平安後期以降、
   桓武平氏の末流で、関東地方に根を張った武士団の総称が坂東平氏
   主に、中村・秩父・千葉・上総・三浦・大庭 ・梶原・長尾の諸流とする8氏が有力。

  坂東平氏の中から伊勢に移動し、その後 京都で勢力をふるった平清盛らの伊勢平氏を
  一般的に「平氏」と呼びます。
平清盛時代の平家の勢力


  菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女が書いたとされる『更級日記(10201059年の約40年間の回想録)
  によると、
  今の東京都心のあたりを旅していた作者が、「草がボーボー茂ってるだけでおもしろくも何ともない」との
  感想を書き残しており、都住まいの貴族からしてみると関東はまさに未開の土地だったようです。

  他の文献でも、田舎(関東)の人たちがしゃべる行為は「言う」ではなく「さえずる」と表現されており、
  何を言っているのか全く分からなかったそうです。  

  『平家物語』(1219~1243の間に成立)に「声は坂東声で候ひつる」という記述があり、また木曽 (長野県) 出身の
  源義仲も言葉の訛り・着物・作法・性格まで徹底的にコケにされて描かれているそうです。
  対して「今は鎌倉にいるとはいえ源頼朝は都で育っただけあって、普通の人間らしい」と書かれています。

  【坂東声、坂東訛り】 … 坂東人に特有の音声。坂東人の訛声、だみごえ 。
 
 鎌倉時代
  日本テレビ たけしの教科書に載らない日本人の謎 『日本語』 12.01.09 放送

  鎌倉時代は初めての武家政権が関東にできましたが、源頼朝が幕府を開くまでは未開の地。
  京都の公家文化に劣らないように鶴岡八幡宮などの寺社の建立や鎌倉の大仏を建造しましたが、武家政権を確固なもの
  とする為、質素堅実を重視したため、派手な文化はできず仏教文化が深まった時代です。

  【東声】あずま‐ごえ … 東国風の発音。東訛あずまなまり

  【東夷・東蝦夷】 あずま‐えびす
   京都の人が、東国の人、特に東国の武士の無骨さをあざけっていう語。
   鎌倉時代の随筆1310年~1331年、吉田兼好 (京都の人) 作の『徒然草』には「東えびすは弓引くすべ知らず」の記述が
   あります。

  【東烏】あずま‐がらす
   (関西の人が東国方言をあざけり、烏までも奇妙な鳴き方をするという意でできた語)奇妙な鳴き方をする東国の烏。

  【東雁】あずま‐かり
   東国の、濁った声で鳴く雁。東国人の発音にたとえる。
   12世紀前半の成立したとされる日本最大の古代説話集『今昔物語集』には「東雁の鳴きあひたるやうにて


  ≪ 武士が変化させた日本語の言葉? ≫

  東海大学 小林千草 教授 (鹿児島生まれ、京都育ち) によると
  この時期の武士たちは、漢字というのはカクカクとしてシャープで力強く男らしい感じがあるところに、とても憧れていました。
  従来、和語として表現されたものを、あえて漢字に直して音読みして漢語風にしていくのがとても流行りました。








  【鎌倉時代文学】かまくらじだい‐ぶんがく
   鎌倉時代に作られた文学。内容・思想・文体などの上で、公家的な平安時代文学から武家的・庶民的な室町時代
   文学への過渡的な色彩もあり、和歌における新古今集や金槐集、随筆の方丈記と徒然草、保元・平治・平家などの
   軍記物語、数多くの説話集などは特に代表的。和漢混淆文の発達と仏教思想、特に無常観の浸透も注目される。

  日テレでは、武士たちが作った言葉として「火の事→火事」「こちなし→無骨」「おおいにせまる→大切」を例として挙げて
  いましたが、鎌倉武士は漢詩が読めない (漢字が得意ではない) という情報を知っているので広辞苑で調べてみると、
  「無骨」と「大切」は、使われた用例出典が下記のようにありました。  鎌倉武士は漢字が読めなかった?

  源氏物語[手習]「強ひていふも、いと骨無こちな」。平家物語[10]「男なんどは骨無うもぞおぼしめす
  平家物語[8]「立居の振舞の無骨ぶこつさ」   コトバンク 「信濃前司行長」

  【平家物語】へいけものがたり
   軍記物語。平家一門の栄華とその没落・滅亡を描き、仏教の因果観・無常観を基調とし、調子のよい和漢混淆文わかんこ
   んこうぶんに対話を交えた散文体の一種の叙事詩。
   平曲として琵琶法師によって語られ、軍記物語・謡曲・浄瑠璃以下後代文学に多大の影響を及ぼした。
   原本の成立は承久(1219~1222)~ 仁治(1240~1243)の間という。成立過程には諸説あるが、早くから読み本・語り
   本の系統に分かれて異本を派生したと考えられ、前者には6巻本(延慶本)・20巻本(長門本)・48巻本(源平盛衰記)など、
   後者には12巻本に灌頂巻かんじょうのまきを加えた覚一本・流布本などがある。治承物語。平語。

  平家物語の作者は徒然草の226段には、信濃前司行長しなのぜんじゆきなががつくり、盲目の生仏しょうぶつという人に
  覚えさせて語らせたとあり、関白九条兼実の家司けいしであった中山行隆の子とされているようですが、はっきりしない
  ようで下野前司 藤原行長と同人物とも言われているようです。

  【徒然草】つれづれぐさ
   鎌倉時代の随筆。2巻。作者は兼好法師。出家前の1310年(延慶3)頃から31年(元弘1)にかけて断続的に書いたものか。
   「つれづれなるままに」と筆を起こす序段のほか、種々の思索的随想や見聞など243段より成る。
   名文の誉れ高く、枕草子と共に日本の随筆文学の双璧。


  浜松中納言物語[5]「ただ今大切たいせちに聞ゆべき事のあるを
  今昔物語集[24]「それがしが大切たいせつに申すべき事有りて参りたるなり」。

  【浜松中納言物語】はままつちゅうなごんものがたり
   平安後期の物語。菅原孝標たかすえの女むすめの作とされる。現存5巻(首部に欠巻がある)。二つの主題から成り、
   浜松中納言と継父の娘の大君おおぎみとの愛と、中納言が唐土に渡ってちぎった唐の母后の異父妹で吉野にいる姫との
   悲恋物語とを収める。浜松。御津みつの浜松。

  【今昔物語集】こんじゃくものがたりしゅう
   日本最大の古代説話集。12世紀前半の成立と考えられるが、編者は未詳。全31巻(うち28巻現存)を、天竺(インド)5巻、
   震旦(中国)5巻、本朝21巻に分け、各種の資料から1000余の説話を集めている。
   その各説話が「今は昔」で始まるので「今昔物語集」と呼ばれ、「今昔物語」と略称する。
   中心は仏教説話であるが、世俗説話も全体の3分の1以上を占め、古代社会の各層の生活を生き生きと描く。
   文章は、漢字と片仮名による宣命書きで、訓読文体と和文体とを巧みに混用している。

  「無骨が出てくる平家物語の著者は貴族、「大切も平安時代後期の貴族が著したものという事が判明しました。
 
 室町時代
  日本テレビ たけしの教科書に載らない日本人の謎 『日本語』 12.01.09 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『室町幕府の創設』 14.07.18 放送 / 同 『室町時代の交易と文化』 14.07.25 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『戦国大名』 14.08.01 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『言葉は生きている! 進化する日本語』 14.08.22 放送

  東海大学 小林千草 教授 (鹿児島生まれ、京都育ち)によると
  平安時代に話されました古典的な日本語は、院政・鎌倉時代を経由して大きく変化し、現代の日本語に近づいて
  いきます。

  【足利学校】あしかが-がっこう
   中世の足利 (栃木県南西部、足利市の発祥の地) にあった高等教育機関。「坂東の大学」とも称せられ、儒書・仏書を
   講述。室町初期に栄え、一旦衰微。上杉憲実が儒書・領田を寄付し保護・統制。以後、戦国大名の保護を受けた。
   郷学校として1872(明治5)年まで存続。施設の一部は史跡として現存。


  ≪ 室町時代 公家と武家の文化が融合 ≫

  足利尊氏が京都・室町に幕府を開いた事により、公家と武家の文化が融合します。

  鎌倉時代に領していた荘園の半分を幕府に奪われた事によって生活が苦しくなった公家たちは、武家に都言葉や
  立ち振る舞い・礼儀作法を教える家庭教師をする事で生計を立てるようになっていきます。
  武家も都で出世 (天皇から官位を授かる) する為には必要な事でした。
  この事により都の言葉や習慣なども各地に広まっていきます。

  畳や茶道、華道、芸能、和食など、近畿を中心として和風文化の基礎が出来上がった時代。

  【下地中分】したじ‐ちゅうぶん
   荘園の領家・地頭の紛争を、下地の折半という形で解決する方法。鎌倉後期にひろく行われた。





  日明 (勘合) 貿易や南蛮貿易で堺商人が台頭し、日本で初めて商人の自治による環濠都市を形成し繁栄し近畿を中心に
  町人文化が花開きます。

  室町時代後期1467~77年の応仁の乱で戦国時代へと突入します。応仁の乱で京都の街は焼け野原のようになりますが、
  各戦国大名が競って京都の街をお手本に自国領に城下町・門前町をつくります。これが『小京都』と呼ばれる街の始まり。

  【勘合】かんごう
   中国の明朝が他国との通交の際、正式の使船の証として発行した割符わりふ。日本との間では倭寇わこうや私貿易を
   おさえるため、「日本」の2字を分け、室町幕府に「本」字の勘合100通を与え、遣明船がそれぞれ所持して入明し、
   寧波・北京で底簿(台帳)と照合検査された。明船は「日」字の勘合を所持するものとされた。

  【南蛮貿易】なんばん‐ぼうえき
   室町末期から江戸初期にかけて、主にポルトガル・スペインの船(南蛮船)との間に行われた貿易。実質的には日中間の
   中継貿易。銀などを輸出し、生糸・絹織物などを輸入した。江戸時代の鎖国により断絶。


  ≪ 宮中の女性が「お」を付ける言い方を始めた ≫

  1420 (応永27) 年成立の有職故実書『海人藻芥あまのもずく』恵命院宣守 著に、内裏では食物に異名を付ける事などが
  書かれてあるようです。これが女房詞が使われていた事を示した書のようです。

  室町時代の宮中の女性たちが、水 → ひや、 握り飯 → むすび、 鰹ぶし → かかなど、色々なものを「」を付けて
  丁寧に呼び換えたそうです。 へ → 鳴らし → なら。と変化。

  【女房詞】にょうぼう-ことば
   室町初期ごろから、宮中奉仕の女官たちが主に衣食住に関する事物について用いた一種の隠語的なことば。
   のち将軍家に仕える女性から、町家の女性まで広がった。飯を「おだい」、肴を「こん」、鯉を「こもじ」、
   団子を「いしいし」、浴衣を「ゆもじ」という類。

  【御湯殿の上の日記】おゆどののうえのにっき
   清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。禁中の日常や女房詞などを知る好史料。
   1477(文明9)から1826年(文政9)までのものが現存。






  現在、スボン → パンツ、下着もパンツ。 語尾を上げるとスボンのパンツ、そのまま平坦に発音すると下着のパンツ。
  の意味として使い分け。


  ≪ 「『お』の趣旨 ≫  朝日新聞 14.09.06 朝刊 be 『中村明 早稲田大学名誉教授 「ことばの食感」』 より、原文ママ

 やたらに「お」帽子をかぶせて上品ぶるファッションがあった。むろん、常に無帽がいいわけではない。
  「おかず」「おなら」は「お」がないと通じないし、「おたまじゃくし」も蛙になれそうになく、「お握り」など鮨に
  変身してしまう。

  「お茶」「お礼」は「お」がなくても意味は通じるが、「茶を持て」「礼を申す」ではまるで時代劇だ。
  「おはよう」も挨拶にならない。「お魚屋さん」は無難でも「八百屋」は「おやおや」になるなど、付けるか否かの
  判断は難しい。

  付ける場合のルールとしては、「手」「箸」「車」「手紙」のような和語には「お」。
  「気分」「結婚」「注意むのような漢語には「ご」をつけることになっているが、「天気」「勉強」「留守」のように
  日本人の生活に溶け込んでいる漢語は「お」となる。

  外来語には一般的に「お」も「ご」もつかないが、「おズボン」「おビール」のような例外もある。
  「たつのおとしご」「やつめうなぎ」のような長い単語や、「帯」のようにオで始まる語にもつかない。
  「お美しい」はいいが「お醜い」は異様に響く。悪い意味、悪感情の語は「お」の趣旨にそむくからだ。


  ≪ 美しい京言葉は地方の武士にとって憧れだった ≫

  織田信長が明智光秀を重用した理由の一つとして、都出身の光秀が美しい室町の京言葉を話していたからという説も
  あるようです。  江戸でも上流階級は上方言葉を使っていた


  ≪寺子屋ができ始める ≫

  武家だけではなく、庶民が学問を学ぶことができる寺子屋が解説され始めました。

  【寺子屋】てらこ‐や
   室町中期~明治初頭、武士・僧侶・神宮・医者その他の有識者が主に庶民の子供を対象に開いた私設の教育機関。
   読み・書き・算盤の初歩学習を行なった。寺。寺屋。
   広津柳浪、女子参政蜃中楼「初めは―と云つて規則も何も立たない所へあがるのさ」
 
 江戸時代
  日本テレビ たけしの教科書に載らない日本人の謎 『日本語』 12.01.09 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸幕府の確立』 14.09.19 放送 / 同 『江戸時代・近世の経済と産業』 14.10.03 放送

  ≪ 江戸時代 ≫   東京近郊の関東の歴史

  江戸時代も京都・大坂を中心とした言葉が基本のままです。物流と共に言葉・文化が上方(特に大坂)から全国に伝わりました。
  幕政・藩政が敷かれ、人の行き来が制限され、上方の技術や文化を取り入れ各藩が特産品などを作った事などもあって、
  他の藩との交流が少なくても独立して生活していけるようになり、現在にまで続く地方独自の習慣や独特の方言が深まりました。





  【江戸】
   古くは武蔵国豊島郡の一部に過ぎず、平安末期に秩父氏の一支流である江戸四郎重継が今の皇居の地に居館を営む。
   室町時代中期の1457年(長禄1)太田道灌が築城、その後上杉・北条の手を経て、徳川家康は1590年(天正18)江戸に
   入り土木を起こし、1604年(慶長9)から江戸城を大きく改造。
   以降4代家綱の頃まで、諸大名に負担させては大工事を行い大都市となった。

  コトバンク 徳川光圀 https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80-19100

  ≪ 江戸時代前期、仮名遣の基準が平安初期に定められた ≫

  第二次大戦後の1946 (昭和21) 年に「現代の仮名遣」へと改められるまで、「歴史的仮名遣」が使われていたようです。
  水戸藩主で中納言の水戸光圀が契沖に依頼して『万葉代匠記』を編纂させた際に定められたもののようです。

  【仮名遣】かな‐づかい
   仮名を用いて国語を表記する法。特に、同じ語に2種以上の仮名による表記がある場合、そのいずれによるべきかのきまり。
   平安中期以前の表記に準拠するものを歴史的仮名遣、発音のままに表記するものを表音 (発音) 式仮名遣という。
   現代仮名遣 (1946年に内閣告示により一般化、1986年に改正) は、歴史的仮名遣をもとに現代の発音による区別を
   加味したもの。

  【仮名文字遣】かなもじづかい
   仮名遣書。1巻。行阿 (源知行) 著。1363年 (貞治2) 以降成る。
   序文によれば、源親行が藤原定家の「拾遺愚草」を清書する際、「をお・えゑへ・いゐひ」の8字の遣い方を定めて
   その校閲を受け、のち親行の孫 行阿が「ほわはむうふ」の6字を増補したもの。
   中世以後大いに尊重された。世に定行仮名遣・行阿仮名遣といわれる。

  【歴史的仮名遣】れきしてき‐かなづかい
   仮名遣の基準を、現代の発音によらず、古文献におくもの。契沖の整理に従って、普通規準を平安初期におく。

  【契沖】けいちゅう (摂津の人、1640~1701) 字は空心。俗姓は下川氏。契沖は法名。
   江戸時代前期の国学者・歌人。大坂妙法寺・曼陀羅院に、のち大坂高津こうづの円珠庵に住。
   悉曇しったん学のほか、国学の造詣深く、復古を主張し、德川光圀の嘱により、下河辺しもこうべ長流 (大和の人?1627~
   1686) の業を継いで「万葉代匠記」を著した。他に「古今余材抄」「和字正濫鈔」など。

  【万葉代匠記】まんようだいしょうき (代匠は学匠下河辺長流または徳川光圀に代わって成した意)
   万葉集の注釈書。僧契沖著。20巻・総釈1巻。貞享(16841688)末年初稿本、元禄3年(1690)精撰本49冊を完成、
   光圀に呈した。総論があり、次に万葉集全巻にわたり詳密な注を加える。 <

  1796 (寛政8) 年~1798 (寛政10) 年に刊行された『摂津名所図会』巻の参「東生郡・西成郡」に僧契沖の碑と題して
  契沖について書かれてあります。

  TBS 所さんのニッポンの出番 『ニッポンのショッピングモールで発見』 15.05.12 放送

  ≪ 日本には食感を表す感覚の言葉が多い ≫  Wiki 料理物語

  「サクサク」「ふわふわ」「ねっとり」など食感を表す言葉は日本が最も多い。
  日本最古の料理の専門書『料理物語』には「玉子ふわふわ」という料理名が見られ、この頃からよく使われていたと
  考えられるそうです。

  【料理物語】
   料理書。著者未詳。1冊。1643年(寛永20)刊。
   魚・鳥・野菜などの料理の材料76種の名称と、それに適する料理を列記し、料理法を略述。
   有職故実の記述ではなく、庶民の日常食を記す。

  料理物語は、儀式料理のレシピや作法が中心だった16世紀以前の料理書と大きく異なり、表現は簡潔で文章は格調高く、
  料理の網羅範囲も広い
  後書きには『武蔵国狭山に於いて書く』との記述があるが、上方言葉が使われており、著者の詳細は大阪出身で
  京都に住む商人が書いた。著名な料理人が後進のために書いた。などと推定されているそうです。

  出版された料理物語の原文を読んでみたところ、大阪の「せんば (船場汁)」などの料理方も複数回出てくる事などから
  考えると、著者はほぼ大坂人で間違いないと思います。出版は江戸時代の出版状況から京都と思われます。






  ケンミンSHOWでも放送されていましたが、擬態語・擬音語を最も使うとされているのが関西で、特に大阪府民。
  江戸時代初期の約100年、商業出版は京都だけで行われていたようです。 くわしくは  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸

  【擬態語】ぎたい‐ご オノマトペ onomatopoeiaの一つ。他に擬音語・擬声語の区別があります。
   視覚・触覚など聴覚以外の感覚印象を言語音で表現した語。「にやにや」「ふらふら」「ゆったり」の類。

  江戸時代は『崩し字』草書または行書で書かれてある本が多いので、専門家でないと解読が難しい。

  大阪府枚方市にある市立宿鍵屋しゅくかぎや資料館では「くずし字講座」が2015年に開設されており、20人ほどの募集に対し
  50人ほどの応募があるそうです。1回1時間半ほどですが、1回では理解しきれないので連続講座になっているそうです。


  ≪ 元禄時代 百科事典の重宝記が上方(特に大坂)で多く出版される ≫

  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf
  神戸女子大学 古典芸能研究センター 『近世の家政学―重宝記・料理本の世界』 2001.12.08
   http://www.yg.kobe-wu.ac.jp/geinou/07-exhibition3/06-ten_kase.html ← 江戸時代の各 重宝記や料理書などが解説されています。

 重宝記は江戸時代の百科事典といえる。

  日常生活に必要な知識を種類・項目別に集めてわかりやすく解説した、その名称が示すとおり「重宝」な書物であった。

  そこに記された知識は学芸・歴史・社会・風俗・故実・倫理・実用と多岐にわたり、江戸時代を通じて刊行された重宝記
  の種類は相当数になる。
  ことに元禄五年の『女重宝記』同六年の『男重宝記』刊行以後、様々な重宝記類が矢継早に刊行されるのである。

  その様は元禄十五年刊 都の錦 作の浮世草子『元禄太平記』に
  「すでに大坂において、家内重宝記が出来始めしより此かた、其類棟に充ち牛に汗するほどあり」と記されている。

  【元禄太平記】げんろく-たいへいき
   浮世草子。都の錦 (本名 宍戸与一、1675~) 作。8巻8冊。1702 (元禄15) 年刊。伏見の夜船で。京・大坂の本屋が
   出版界の情況。作者・学者の評判等を語り合う筋で、一種の文化時評的性格を持つ。井原西鶴批判でも有名。

  1692年の女重宝記と1693年の男重宝記の著者は判明しており、苗村丈伯なむらじようはく(近江の人、1674~1748) で
  京都に住んだ医師・仮名草子作者。

  1695(元禄8)年に京都で出版された『永代重宝記宝蔵』の増補版(1760年に京都で出版)は、ネットで一般公開されて
  います。この本は草書体で書かれてあるので、専門家でないと訳すのが難しいですが、そろばんの計算方法や漢字の
  部首やつくり部分と筆の持ち方などで書き方を詳しく解説してあります。
  その他、料理や農工業・医薬などの専門知識まであり、生活に必要なマニュアル本となっています。

  1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』(編者は羽後生まれ、一説に大坂の人と言われる大坂の医師 寺島良安)も
  百科事典の一つ。 Wiki 和漢三才図会
  105巻あり、天文学・風水・暦、中国~インドの地理や人物、日本各地の地理・神社仏閣や由来、人体解剖図、
  漁具・農具・武具、官位・刑罰、船・乗り物、昆虫や動植物とその食した時の効能など、ありとあらゆる物が載っています。

  これら重宝記が刊行された事によって、日本各地でも上方の豊富な知識や技術を取り入れる事が可能になりました。


  ≪ 1750年代以降、江戸での刊行本も全国的に流通するようになる ≫ くわしくは  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸

  徳川吉宗の享保の改革(1716~1745)によって、720年代に積極的に仲間組織を結成する事を奨励。
  1750年頃に、ようやく江戸でも重板類板を制度的に整備しました結果、江戸の本が上方でも売れるようになり、江戸の
  刊行本が全国的に商圏を拡大する事ができました。

  江戸時代後期になると、新本の刊行コストなどの問題から、複数の店が資金を出しあって刊行する事が増えました。
  京都と大坂と江戸という都市間をまたいで、それぞれが資金を出し合い、その地での販売権を持つという事も行われました。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ニッポン城下町めぐり⑧ 三重松坂』 14.01.23 放送
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『杉田玄白・本居宣長 ~江戸時代の学問~』 14.10.22 放送
  TBS この差ってなんですか? 『外国人が分からない日本の差 SP』 17.04.18  放送

  ≪ 日本語の仮名遣い&文法を整理した 本居宣長 ≫

  本居宣長が『古事記伝』を出すまで、古事記の存在はほとんど知られていなかったそうです。

  【本居宣長】もとおり‐のりなが (伊勢 松坂の人、1730~1801)            
   江戸中期の国学者。京に上って医学修業のかたわら源氏物語などを研究。
   賀茂真淵に入門して古道研究を志し、三十余年を費やして大著「古事記伝」を完成。
   古事記伝は、古事記の注釈書。44巻。1767年(明和4)頃起稿、1798年(寛政10)完成。
   1822年(文政5)刊行終了。国学の根底を確立した労作で、今日でも古代史・古代研究の
   典拠。

  三重県松阪市に本居宣長 記念館があります。
  館長による人物像、宣長は普通のおじさん、普通の町医者


  江戸時代まで、「めでとう」、「私」 と、間違った仮名遣いをする事が多い事を宣長が発見。
  現在使われている五十音図に整理し「めでとう」、「私」に改めたそうです。






  【字音仮字用格】じおん-かなづかい
   語学書。本居宣長著。1巻。1776年(安永5)刊。初めて体系的に漢字音の仮名遣を考究した書。

  【漢字三音考】かんじ-さんおん-こう
   音韻書。本居宣長 著。1巻。1785年(天明5)刊。
   漢音・呉音・唐音の3音を論じ、合わせて日本語が万国語に卓絶することを説く。

  【地名字音転用例】ちめい-じおん-てんようれい
   語学書。本居宣長著。1巻。1800年(寛政12)刊。日本の地名にあてた漢字のうち、普通の字音と異なったものを
   「古事記」「和名抄」などの古書から集め、その転用の例を類別して掲げ、その法則を示そうとしたもの。

  【本居春庭】もとおり‐はるにわ(1763~1828)号は後鈴屋のちのすずのや宣長の長男
   江戸後期の国学者。中年に失明、鍼医を業としながら門弟を指導。「詞八衢ことばのやちまた」「詞通路ことばのかよいじ」は
   国語用言研究の根底を築いた著。家集「後鈴屋集」がある。

  【本居大平】もとおり‐おおひら(伊勢松坂の人、1756~1833)号は藤垣内ふじのかきつ
   江戸後期の国学者。本居宣長に学び、その養子となる。紀州藩に仕え、本居家の学風を継いで普及。
   家集「稲葉集」や「神楽歌新釈」「八十浦之玉やそうらのたま」などの著がある。

  【本居内遠】もとおり‐うちとお(1792~1855)号は榛園はりのきえん 。旧姓、浜田。
   江戸後期の国学者。本居大平に学び、その養子となる。紀州徳川家に仕え、「紀伊続風土記」などの編纂に従事、
   学風は考証を主とする。

  【本居豊穎】もとおり‐とよかい (名古屋の人、1834~1913)
   国文学者・歌人。宣長の曾孫。内遠の子。「本居雑考」「秋屋集」「諄辞集」などの著がある。

  【本居長世】もとおり‐ながよ (東京生れ、1885~1945)
   作曲家。豊穎の孫。東京音楽学校卒。洋楽と邦楽の融合を模索。
   童謡「七つの子」「汽車ポッポ」「青い目の人形」「赤い靴」など。


  ≪ 漢字の発音の分類 ≫ 漢字 明治時代に多くの言葉 (漢字熟語) が作られた 東西で異なる漢字の読み方

  日本に伝来して国語化した漢字の発音は古音・呉音・漢音・唐音などに分類されています。
  呉音=「倭音・和音 (やまとごえ)、訓読み」 ⇔ 漢音=「漢音 (からごえ)、音読おんよみ(字の音で読む読み方)」。

  【古音】こ‐おん … 呉音以前に日本に伝わった漢字音。「意」をオ、「巷」をソとする類。

  【呉音】ご‐おん 日本漢字音の一つ
   古く中国の南方系の音の伝来したもの。「行」をギャウとする類。
   仏教用語などとして後世まで用いられるが、平安時代には、後に伝わった漢音を正音としたのに対して和音わおんとも
   いった。

  【漢音】かん‐おん 日本漢字音の一つ
   唐代、長安(今の西安)地方で用いた標準的な発音を写したもの。遣唐使・留学生・音博士などによって奈良時代・
   平安初期に伝来した。
   「行」をカウ、「日」をジツとする類。官府・学者は漢音を、仏家は呉音を用いることが多かった。

  【唐音】とう‐おん、とう-いん 日本漢字音の一つ
   宋・元・明・清の中国音を伝えたものの総称。禅僧や商人などの往来に伴って主に中国江南地方の発音が伝えられた。
   「行灯」をアンドン、「普請」をフシンという類。


  【宋音】そう‐おん 日本漢字音の一つ
   従来、唐音として一括されていた音の一部分。日本の入宋僧または渡来した宋僧の伝えたという音。
   実質上は唐末から元初のころまでの音で、鎌倉時代までに渡航した禅僧・商人から民間に流布した音と同一のもの
   とされる。「行」をアン、「杜」をヅと発音する類。

  【漢呉音図】かんごおんず
   音韻書。太田全斎 著。3巻。1815 (文化12) 刊。韻鏡の四十三転図の各文字に漢呉音を傍記し、また徴証を示して
   漢呉音と韻鏡に説くところとを比較考証し詳説する。

  【太田全斎】おおた-ぜんさい (広島南東部の福山藩士1759~1829)
   江戸後期の音韻学者・漢学者。名は方。著「漢呉音図」「韓非子翼毳よくぜい」など、編「諺苑」「俚言集覧」。

  【韻鏡】いんきょう
   中国の韻図。切韻系韻書の音韻体系を43枚の図表により説明したもの。唐末頃成る。
   中国では亡失し、日本にのみ伝存した。漢字の音を論ずる根拠として利用される。
   韻鏡十年韻鏡を理解するには10年かかる。漢字の音韻を理解するのが難しい事を表した言葉。

  2016年7月 京都に『漢字ミュージアム』がオープン


  ≪ 江戸では武家は京言葉 (山の手言葉の原型)、下町では江戸ッ子 (下町) 言葉が作られた ≫

  江戸に限らず武家の上流階級は書き言葉も話し言葉も戦国時代に伝わっていた京言葉を遣っていました。
  日本各地から江戸に移り住んだ庶民たちの間では新しい江戸の言葉が形成されていきます。

  江戸時代の出版では、前期の100年間は京都で出版されたものだけが全国に流通。大坂では元禄になってから。
  江戸でも早くから出版が行われますが、1750年くらいまでは、京・大坂のパクリ本だらけだったので、全国に流通する事は
  ありませんでした。  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸 






  江戸時代中期の元禄年間 (1688~1704) になると、出版がさらに活発になり、庶民の娯楽として浄瑠璃や歌舞伎が発達。
  江戸では中村座が歌舞伎看板や番付を書いた独特の『勘亭流』という書風を開発します。

  また全国の各藩が学問に力を入れ始め、藩校を開設します。  和算と寺子屋 日本の庶民の学問レベルは非常に高かった
  寺子屋では初等教育の教科書である『往来物』が使われていますが、絵と文字が同時に描かれており、これで言葉を
  学びました。江戸時代には農民用『百姓往来』、商人用『商売往来』など目的に応じて7000種類の往来物が作られました。

  【手習所】てならい‐どころ … 江戸時代の初等教育機関。手習いのほか、素読・算盤そろばん・漢籍・謡曲・裁縫なども教えた。

  【寺子屋】てらこ‐や
   室町中期~明治初頭、武士・僧侶・神宮・医者その他の有識者が主に庶民の子供を対象に開いた私設の教育機関。
   読み・書き・算盤の初歩学習を行なった。寺。寺屋。
   広津柳浪、女子参政蜃中楼「初めは―と云つて規則も何も立たない所へあがるのさ」

  享保年間 (1716~1736) になると女子教育の為の教科書『女大学』が広く使われました。

  【女大学】おんなだいがく
   女子の修身・斉家の心得を仮名文で記した書。貝原益軒 (筑前福岡藩の本草学者、1630~1714) 著「和俗童子訓」の
   巻5「教女子法」をもとに書肆が益軒没後に改竄・刊行したもの。
   封建道徳で一貫し、江戸時代に女子一般の修身書として広く用いられた。享保 (1716~1736) 年間刊。


  明和年間 (1764~1772) になると、江戸で多色印刷による錦絵 (浮世絵) が開発されます。
  錦絵は上方にもすぐに伝わり、絵が主体だった江戸の春画は、上方から文字が多く入った読み物の春画が伝わります。

  【錦絵】にしき‐え
   1765年(明和2)に鈴木春信らによって創始された華麗な多色刷浮世絵版画
   以後、浮世絵版画の代表的名称となり、春信はじめ鳥居清長・喜多川歌麿・歌川豊国・葛飾北斎・歌川広重らすぐれた
   作者と彫師・摺師との協力のもとに主題と技法の幅をひろげ、広く世に迎えられた。江戸絵。吾妻錦絵。東あずま錦絵。
   樋口一葉、たけくらべ「いつか話した―を見せるからお寄りな、いろいろのが有るから」

  これらの文化の発達により、日本での庶民を含めた識字率は70%を超えて、当時で世界一だったと言われて 
  います。


  ≪ 「しょっぱい」は東日本、主に関東の方言 ≫  東京付近の関東の歴史

  【江戸言葉】えど‐ことば
   江戸で使用されたことば。明和(1764-1772年)・安永(1772-1781年)の頃以後 江戸文化が成熟し、独特の語彙と
   語法を持つようになり、東京語の母胎となった。江戸語。

  しょっぱい東日本の方言
   江戸時代の東海道中膝栗毛(1802~09年) 十返舎一九(駿府生まれ1765~1831)作にも多く登場。
   広辞苑によると塩辛い』より俗語的な表現の言葉。

  【俗語】 俚言りげん             
   標準となる口語に対して、それと異なる方言や卑俗な言葉。さとびことば。
   ⇕
  【雅語】 雅言がげん
   正しくよいことば。洗練された言語。歌や文章に用いられて来た、洗練された文字言葉。

  【俚言集覧】りげん-しゅうらん 
   太田全斎らが、諺苑を元に江戸時代の方言・俗語・俗諺を集め、いろは順に編集し、語釈を施した国語辞書。26巻。
   1900年(明治33)井上頼圀・近藤瓶城が増訂、通行の五十音順に改編。

  【諺苑】げんえん 
   太田全斎 (江戸後期の音韻学者・漢学者。1759~1829年。福山藩士。広島県南東部の市。もと水野氏10万石の城
   町) が俗語・俚諺をいろは順に編集した辞書。7巻。1797年(寛政9)成る。

  【関東べい】 あずま ≪東・吾妻・吾嬬≫ (関東の事)
   関東訛なまりのこと。また、それを話す者。(話し言葉の文末に「べい」を付けるところから
   180913年に式亭三馬 (江戸の人) が書いた滑稽本、『諢話(おどけばなし) 浮世風呂』 
   「浮世風呂 (江戸時代の銭湯)の滑稽は、今行はるるお蔭にて、ことしも毫ふでをとりがなく、吾嬬訛の関東べい・・


  ≪ 江戸庶民が言った上方への悪口 ≫

  現在 勘違いされている『江戸の粋』というのは、地方から出てきた自称「江戸ッ子」のやせ我慢から産まれたもので、
  元禄時代から3代以上住む本当の江戸ッ子の文化ではないようです。

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?
  江戸時代の化粧 最も化粧したのは大坂、江戸の化粧事情は?

  「東男に京女」というのは、京都に憧れて言ったもの。また、他の地方を勝手に評した言葉が残っています。
  三田村鳶魚によれば、文政時になるまでの江戸の女性は化粧をあまりしなかったようで、「江戸は女のきたない所」と
  知られていたそうです。また西沢一鳳によると「江戸の女は気が強く。デカイ事ばかり言うので憎まれる」とあり、
  江戸ッ子だけではなく、江戸の女性の評判は良くなかったと思われます。

  【上方】かみがた
   明治維新以前、京都に皇居があったため、京都およびその付近、また、広く畿内地方を呼びならわすようになった称。

  【上方筋】 (奈良・京都・大坂・滋賀・兵庫)
   江戸幕府で、畿内(大和・山城・河内・和泉・摂津)および近江・丹波・播磨の8カ国を一つの地方区として称したもの。 

  【上方 才六】かみがた‐ざいろく 才六 (采六、賽六) … 丁稚。小僧。奴僕。(俚言集覧

  【上方 贅六】かみがた-ぜえろく   皇都午睡 江戸人が京都言葉をバカにしていた
   江戸で、上方の人をののしっていう称、関西人に対する蔑称。「贅」は当て字。 才六 さいろくが江戸風に訛ったもの。
   1809~13年(文化6~10)刊の滑稽本、式亭三馬作の浮世風呂におめへがたのことを、上方贅六といふわな

  【甚六】じんろく  江戸では訛って「ぜえろく」。
   1796~97年の古今前句集、作者未詳の改題本 誹風柳多留拾遺 「難波では甚六、伊勢で馬鹿と呼び」では
   お人よし。おろかもの。ぼんやり。の意味で登場。
   1813~23年(文化10~文政6)刊の浮世床滑稽本、式亭三馬 (江戸の人) 作では、
   (ぼんやり育った)長男。総領息子をあざけっていう。意味で登場。

  【誹風柳多留拾遺】 はいふうやなぎだる‐しゅうい
   川柳集。10編10冊。編者未詳の「古今前句集」(1796~97年(寛政8~9)刊)の改題本。


  『皇都午睡』によれば、江戸は土地も広ければ男気強い。上方野郎の毛ぜえろく と糞おろし悪口を言い、江戸っ子の
  気性を見せる事は、それなりの銭がいる事だったので、天保以来この悪口は流行らなくなった。
  上方衆は物言いが優しいなどと褒めて、何なりと奢らせる算段。中々利口な物となった。
  このような事は人知れず、京都へ祝儀を持って習いにいった者がいると思う。というような事が書かれてあります。

  ※著者の個人的感想や推測が多く含まれている文なので、鵜呑みにしてはいけませんが、幕末頃になると、江戸っ子が
  大坂に対して「ぜえろく」という悪口を言わなくなった事が分かります。


  【近江どろぼう 伊勢こじき】
   近江・伊勢の商人が江戸に入って、商魂たくましく勤勉・倹約に努めて財産を築き各方面の商権を握ったのに対し、
   近江商人の抜け目なさ、伊勢商人の倹約さを、江戸っ子がやっかみ半分にののしって言ったことば。
   伊勢乞食・・・「伊勢参宮の人々に憐みを乞う乞食」の事から。
   江戸に多きものは伊勢屋 (江戸に移住した伊勢商人) 稲荷に犬の糞といわれるまでに繁栄したからいう。

  【野暮と化け物は箱根から先】 コトバンク大辞林 第三版の解説 より
   野暮と化け物は箱根から先の西の方にいる意。江戸っ子の通を自慢していう語。

  CiNii 『「箱根の先」という異界 : 黄表紙における化物像(<特集>近世-「異界」への憧憬)』 著カバット アダム  Wiki カバットアダム
   http://ci.nii.ac.jp/naid/110009902245CiNii 論文PDF オープンアクセス』 ← をクリック。
   http://ci.nii.ac.jp/els/110009902245.pdf?id= (長いのでURL略)

  【黄表紙】き‐びょうし
   江戸時代の草双紙の一種。赤本・黒本・青本に次いで安永(1772~1781)頃から文化(1804~1818)初年にわたって
   行われた黄色表紙のもの。粗悪な半紙半截はんせつの二つ折の紙5丁を1巻とし、多くは2巻から3巻を1部とする。
   表紙の題簽だいせんも、絵に工夫をこらしたものが多い。
   内容は洒落と諷刺を織り交ぜたもので、従来の子ども向けの草双紙から大人向きの読物となった。
   恋川春町の「金々先生栄花夢」が先駆で、作者としては朋誠堂喜三二・山東京伝らが有名。

  【見越入道】みこし‐にゅうどう
   首が長く、背丈が非常に高い入道姿のばけもの。屏風などのかげにも現れて、後ろからのぞきこむという。

   江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸


  幕末~明治初期の『皇都午睡』三編 上之巻

  【皇都午睡】こうとごすいみやこのひるね  Wiki 西沢一鳳  コトバンク 『西沢一鳳』
   時代考証随筆。西沢一鳳 著 (大坂の書店主)。三編 (上之卷・中之卷・下之卷) 明治16年.10月出版。
   主に浄瑠璃や歌舞伎の脚本や文献を収集し、晩年は主に演劇の時代考証を主としました。
   京・大坂・江戸の言葉の違いなどにも触れています。

  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  郷土読本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109335 のP103~118に皇都午睡「三都の比較」の部分が掲載されています。
  『郷土読本』は昭和3年に編集された本なので、下記より現代文に近くて読みやすいです。

  ≪ 江戸言葉とは? ≫  京都内での違い、大坂内での違い

  江戸は日本国の人の寄場にて言葉も関八州の田舎在郷の訛をよせて自然となりし物ゆえ江戸詞と言いて甚だ少なし
  其内古風を守り丁寧の詞も有り 大体 京摂の詞を詰て短かく言ならはせし也…

  江戸の言葉は関東の田舎の訛が集まって自然に形成されたものであるので、江戸 (独自) の言葉というのは非常に
  少ない。昔のままの丁寧な言葉もある。多くは京と摂津の言葉を短く言ったものである。
  三都の者ほど訛るものはなし。

  京都は上京と下京で少し言葉が変わっている。
  大坂でも五畿内の言葉が集まっているので三郷で大同小異ある。安治川辺りの者は四国九州中国の言葉に馴れ、
  上町玉造の者は大和・伊賀・伊勢の言葉が移り、堺の者は紀州・和泉の言葉に通じており、天満の者は丹波丹後の
  言葉も混ざっている。

  【大坂三郷】おおさか-さんごう 大坂中。
   江戸時代、大坂市中を三つに分けた南組・北組・天満組のこと。各組に惣会所が置かれ、惣年寄らが事務を行なった。


  ≪ 江戸でも上流階級は上方言葉を使っていた ≫

  三都と詞をわけて云時には 江戸詞ハ耳立聞え 京坂とハさまで替りたる詞もなし 是ハ詞の延縮 引か放すといふ
  計の違ひなれば也

  江戸とても尊き人々にハ 聊も 詞ハ替りたる事なき者也 いはバ 文通書状に書送るに江戸なれバとて訛を入て 書
  送る事 有まじ それにて通る所を見れバ 江戸詞とハ 中分より下賤げせんの詞也
   しかとしたる書籍にも記しるさざれども 事をかゝず…

  三都と言葉を分けていう時には、江戸言葉は耳障りに聞こえる。京坂とあまり変わる言葉はない。
  これは言葉の発音を伸ばすか短くするかの違いである。

  江戸の上流階級の人々の言葉は京坂とはあまり変わりない。言わば。書状などを江戸に送るからと言って訛を
  入れて書き送る事はない。それでも通じる事からすれば、江戸言葉とは中流以下の下賤な者が遣う言葉である。
  確かな書籍に記されていないが、このような例を挙げるのに困らない…。

  「=いささか」「しか→ 確しか(文脈から、この字の意味だと思います)」  皇都午睡 江戸人が京都言葉をバカにしていた

  江戸の上流社会では江戸訛りを使わず、上方の言葉を習って話すようにしていたようです。↓

  さり乍(ながら)江戸は土地開けてより新しき故、諸国の田舎詞ばかりを集めし故 賤(いや)しとあつて、上野の宮様は
  前方 京都より鶯(うぐいす)を取り寄せ、上野の山へ数千羽放し給ふ。京の訛りの無い鶯の種が今に残つて、上野の
  鶯は妙音ぢやとも云ひ、又 雪中庵嵐雪は、俳諧の席にて人の句のとり渡しに訛りがあつては口惜しいと、京大阪へ
  三四年も詞直しに来られたともいふ。まして中興浄瑠璃の宮戸太夫は江戸産なれど、上方で詞直して常に詞にも
  江戸の訛りは一寸も無いと感心させる名人もあり。然らば どういうても詞は京摂がよいに相違なく、江戸詞は悪い
  のではない。江戸でも貴人高位は勿論 真の江戸産れの身を持った人は、詞に余計のかはりめは無きものなり。…

  雪中庵嵐雪=服部嵐雪 (江戸湯島生まれ1654~1707、武家奉公の後、松尾芭蕉の蕉門十哲の一人である俳人)


  蝸牛を京摂にて でゝ虫 俗に でんでん虫と云ふ 東都の俗 是を まいまい つぶれめいめい と云は いかなる心にて
  呼やらん いぶかし

  東都なので明治時代初め頃の執筆です。上方では「でんでん虫」と云う。東京では「まいまい」「つぶれめいめい」
  と言うのは、どういう気持ちで呼んでいるのだろうか? 知りたい。

  物の名称の呼び方には、多くの違いが書かれてあります。ざっと読んでみた感覚で言うと
  現在広く使われている名称のうち、江戸で使われていた名称が6割、上方で使われていた名称が4割くらいに思います。

  下のように、江戸では上方から伝わったものを、時代が下ると独自に言い換えたり事で違いが出てくる事もあります。

 幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「鼠取藥」 「凧」 江戸っ子の上方への対抗意識から 「イカ」→「タコ」と呼ばれるようになった。

  …京坂での賣詞に「猫いらず鼠とりぐすり」云々 江戸も始めは同詞
  今世は是を云ず「いたづらものは居なひかな」と云 今俗 破落戸を云て いたづら者と云也 故に鼠を破落戸に
  比するの戯言也 今は專ら是 而已を云

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?



  ≪ 不思議な逆さ言葉 ≫ 書きかけ

  各地に「言葉の意味を反対に用いる」逆さ言葉と呼ばれるものを使っている所があります。
  大阪では泉州の岬町の深江地区の漁村で使われていました。豊漁だった事を他の漁村に知られないように反対の事を
  言っていたのが始まり。

  江戸時代に最も知られていた逆さ言葉と言えば、武蔵国の入間郡の入間詞。嬉遊笑覧でも紹介されていますが、
  詳しくは書かれていません。

  【川越城・河越城】かわごえ‐じょう
   武蔵国入間郡 (埼玉県中部) にあった城。川越市郭町に城址がある。太田道真・道灌親子の築造という。
   酒井・松平氏らの城下町として繁栄し、小江戸と呼ばれる。

  【入間】いるま
   武蔵国の大郡。往古は多摩郡とつらなる原野で、武蔵野と呼ばれた。
   埼玉県南部の市。日光脇往還の宿場町・市場町から発達。狭山茶の産地。東京の衛星都市化が進む。人口14万9千。

  【入間詞】いるま‐ことば / 入間様いるま‐よう
   埼玉県入間地方にあったとされる、言葉の順序を逆にし、また、意味を反対にする言葉遣い
   狂言には、入間川「昔から入間様と言うて、逆言葉を遣ふと聞いた
   入間川を渡る大名が入間詞を面白がり、入間の某に持物を残らず与えるが、最後に欺いて取り返す。
   などと描かれています。
 
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