手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本文化の雑学4 風呂・銭湯の歴史雑学
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  Page Contents



 大阪で天然温泉施設が急増 大阪はどこを掘っても温泉が出る土地だった

 明治・大正期の風呂

 「浴槽」と「湯ぶね」の違い  TBSの見解は間違いだった。

 町湯の歴史 湯船は江戸独自の文化か? 以前に京都にもあった可能性
  江戸は水不足だったので食器は洗わなかった。

 東京年中行事の「初湯」 明治後期の東京は大阪の銭湯の造りを真似た

 東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文


 【風呂・銭湯の歴史】

  町湯の歴史 奈良時代から始まる

  江戸時代 幕末の『皇都午睡』の記述。 守貞謾稿の記述。

  大阪と東京の銭湯の違い
  大阪の銭湯は石川県出身者が多い。東京も新潟中心に北陸出身者が9割。

  牛乳石鹸 硫黄島で見つかった軍用石鹸

  昭和30年代の家風呂 平屋と団地

  1964年の東京五輪の為に世界初のユニットバスが登場

  大阪万博に出展された未来の風呂

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

   
 
 風呂の歴史
  テレビ東京 世界遺産ミステリー 『奈良・平泉 奈良大仏建立の謎』 13.09.20 放送
  毎日放送 秀吉が愛した京都2 15.09.20 放送
  テレビ大阪 OSAKA一番らばー 『関西一を訪ねてみたならば 銭湯 なぜ生野が激戦区になった?』 17.09.16 放送
  TBS この差って何ですか? 『浴槽と湯船の違い』 18.01.30 放送
  日本テレビ 所さんの目がテン! 『江戸時代の「長屋暮らし」を体験 18.04.01 放送

  ≪ 町湯 (銭湯)の歴史 ≫

  奈良時代 仏教の普及に伴い、寺院の七同伽藍の中には、必ずといえるほど温室(浴場)が設けられたそうです。
  仏像の温湯洗したり、衆僧の潔斎浴のための場所でした。

  信者への「施浴」を行うためには湯堂では手狭となり、別に大きな浴場大湯屋が設けられる事になり、これが世俗化して
  町湯となっていきます。

  1536年の『絵本着色 東大寺大仏縁起』という絵巻物には、奈良時代の光明皇后が
  悲田院の中で自ら病人の背中を拭く様子が描かれています。
  その絵の右側に水か湯を溜めた木の容器が見られます。
  TBSの番組では、これが浴槽としていますが、深さなどから沐槽と思われます。

  平安時代の『延喜式』34巻「木工」には 沐槽 (長三尺・廣二尺一寸・深八寸)、浴槽
  (長五尺二寸・廣二尺五寸・深一尺七寸) の記述があります。



  【光明皇后】こうみょう‐こうごう 藤原安宿媛あすかべひめ。光明子とも。(701~760)  不比等ふひとの女むすめ。孝謙天皇の母。
   聖武天皇の皇后。長屋王事件後、729年(天平1)臣下からの最初の皇后となる。
   仏教をあつく信じ、悲田院・施薬院を設けて窮民を救った。

   ※ 大阪の堺市南部と和泉市に跨る「光明池」は光明皇后生誕の地という伝説に由来。
   岸和田市にある久米田寺周辺は「久米田古墳群」に指定されており、その中に「光明(光明皇后)塚古墳」があります。

  【悲田院】ひでん‐いん 悲田寺。悲田所。
   貧窮者・病者・孤児などを救うための施設。聖徳太子が難波に建てたというが確かでなく、723年(養老7)興福寺に、また、
   730年(天平2)光明皇后が施薬院と共に平城京に設置したと伝える。
   その後平安京や諸国にも置かれたらしく、10世紀ごろまで存続した。

  【延喜式】えんぎしき 
   弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。50巻。
   905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。
   967年(康保4)施行。

東大寺の大湯屋

平安時代・蒸し風呂

秀吉の蒸し風呂

鹿児島県指宿市の蒸し風呂


  桃山時代、西本願寺の飛雲閣・黄鶴台には秀吉が使用した蒸し風呂があります。(国宝・非公開の為、照明禁止なのか?画像が暗いです↑)
  風呂敷は、この蒸し風呂の床に敷いた布が語源だとも言われます。

  江戸時代まで「風呂」と「湯」は区別されていたそうです。
  「風呂」とは、釜に湯を沸かし、蒸気を浴槽内に送り送り込んで、身体の垢を浮き上がらせ、外に出て笹の葉などで
  身体を垢を落とし、別に用意したぬるま湯や冷水で身体を充分に洗う。サウナのようなもの。

  「湯」とは、現在の家風呂や銭湯と同じものだったそうです。

  【湯巻】ゆ‐まき
   ① 貴人が入浴の時に身に巻き、また、それに奉仕する女が衣服の上に覆い着た衣。
    多く白色の生絹すずしを用い、後には模様のあるものを用いた。いまき。
    宇津保物語[貴宮](平安中期成立)―して湯殿にまゐる
   ② 女の腰巻。ゆもじ。

  【湯浴み】ゆ-あみ
   ① 湯に入って身体を温め、また洗うこと。入浴。沐浴。湯掛ゆがけ。
     土佐日記 (紀貫之の934年12月21~935年2月16日の旅行記)―などせんとて、あたりのよろしき所におりてゆく
   ② 温泉に入って病気などを治すこと。竹取物語 (平安初期成立)筑紫の国に―にまからむ


 1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家)
  巻之九 (娼妓)「湯あみ・板ふろ・むし風呂」 嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104 P.301~303 参照

  【今昔物語】利仁薯蕷粥の饗をせし物語に 東山へ湯あみにとて人をいざなひしことあり 寺院などに湯ありし にや
  信実朝臣の【今物語】に いたふろと云ものをして 人々入けるに云々  此文を考ふるに 板ふろの有さまも しらぬものの
  わき戸のうちに入て あなぬるの ふろやたけたけと云いたり とあるは からの蒸し風呂と心得たるとみゆ
  板ふろは蒸ふろにはあるべからず むし風呂も いなかにはありしなるべし 【海人藻芥】云、…

  非常に長文なので、続きは国立国会デジタルのサイトで無料公開 (リンク先) でご覧ください。
  「伊勢風呂」「柘榴風呂」「風呂吹」「水風呂」「銭湯」などの記述があります。

  【今昔物語集】こんじゃくものがたりしゅう
   日本最大の古代説話集。12世紀前半の成立と考えられるが、編者は未詳。全31巻(うち28巻現存)を、天竺(インド)5巻、
   震旦(中国)5巻、本朝21巻に分け、各種の資料から1000余の説話を集めている。
   その各説話が「今は昔」で始まるので「今昔物語集」と呼ばれ、「今昔物語」と略称する。
   中心は仏教説話であるが、世俗説話も全体の3分の1以上を占め、古代社会の各層の生活を生き生きと描く。
   文章は、漢字と片仮名による宣命書きで、訓読文体と和文体とを巧みに混用している。

  【今物語】いまものがたり
  中世の和歌・風流・情事・神祇・滑稽などに関する説話集。1巻。藤原信実編と伝える。1239~40年(延応1~仁治1)の成立か。



  ≪ 江戸時代 ≫

  【浮世風呂】うきよ‐ぶろ … 江戸時代の銭湯および作品名。

  【湯女】ゆな 湯女風呂
   ① 昔の温泉宿で入浴客の世話をした女。
   ② 江戸時代、市中の湯屋にいた遊女。風呂者。風呂屋女。
     遊女を置いた湯屋は『湯女風呂』といった。

  江戸時代の銭湯は湯が冷めるのを防ぐため、湯船への入り口は板で
  覆われて狭く (柘榴ざくろ口)、火事を起こさない為に灯りも限られて
  いた事から、かなり暗かったようです。

 柘榴口

  【柘榴口】さくろ-ぐち
   江戸時代の銭湯の湯ぶねの入口。湯のさめるのを防ぐために、湯ぶねの前部を板戸で深くおおったもの。
   体を屈めて中に入る。ザクロの実の酢は鏡の金属面をみがく料となるから、「屈み入る」と「鏡要る」とを
   かけた名という。浮世風呂はい、まづおさきへと、―へはいる






  【柘榴風呂】ざくろ-ぶろ、じゃくろ-ぶろ
   ざくろ口のある風呂。醒酔笑たてあけの戸なきを―とは…かがみいるとの心なり






  【醒酔笑】せいすいしょう
   咄本。安楽庵策伝あんらくあん-さくでん (落語の祖といわれる。京都誓願寺竹林院の住持、1554~1642) 作。8巻。
   作者が幼年時代から聞いていた笑話・奇談など1000話余を京都所司代 板倉重宗の所望によって、1623 (元和9)
   滑稽味を加えて書きおろし、28年 (寛永5) 献じたもの。寛永 (1624~1644) 年間に300話余を抄出した略本3冊を刊行。

  【褌・犢鼻褌】ふんどし (フミトオシ(踏通)の転という)
   ① 男子の陰部をおおい隠す布。たふさぎ。したおび。はだおび。まわし。ふどし。〈日葡辞書〉
   ② 湯文字ゆもじ。腰巻。

  【湯文字】ゆ‐もじ (女房詞)
   ① 湯具ゆぐ。ゆかたびら。
   ② 女の腰巻。ゆまき。浮世風呂[3]「女の―といふ物は白木綿二布ふたのに規した物で、膝から下へ下げる物ではない

  【浮世風呂】うきよぶろ
   滑稽本。詳しくは、諢話おどけばなし浮世風呂。式亭三馬作。4編9冊。
   1809~13年(文化6~10)刊。町人の社交場であった銭湯における会話を通じて、庶民生活の種々相を描く。


  ≪ 「浴槽」と「湯ぶね」の違い ≫ TBSの見解は間違いだった。

  TBSの番組では、日本銭湯文化協会の理事である町田忍さんが解説していました。
  皆さん同じモノと思っている人が多いのですが、実は「浴槽」と「湯ぶね」は全く違ったモノですね。
  先にできたのが浴槽という言葉。すでに平安時代に登場しています。(延喜式)。水やお湯を溜めた部分を浴槽。
  これは入るモノではない。浅いです。 浴槽…水や湯を溜めた木の容器(テロップ)

  実は元々『浴槽』とは人が入るものではなく、体を清める水やお湯を溜めた木の容器の事だったのです。(ナレーション)
  江戸時代中期、庶民が水を自由に使えるようになって銭湯が誕生。当時の『守貞漫稿』の図面には『浴槽』と
  書かれています。(ナレーション)  ※守貞漫稿は幕末に書かれた物です。

  庶民が浴槽に浸かれるようになったのは江戸時代の中頃ですよ。 庶民が自由に水を使える時代(テロップ)
  湯ぶねとは江戸時代にできた言葉。当時誕生したある画期的なビジネスの事なんです。
    
  ※「湯ぶね」という言葉は平安時代からありました。






  江戸時代の中期に誕生した銭湯は、自宅にお風呂を持つ人がほとんどいなかったこの時代。とても安く浴槽に
  浸かれるという事で身分を問わず多くの人に愛され、瞬く間に大人気となったのです。しかし、まだ江戸の中心部に
  しか無かったため、郊外の人はなかなか銭湯に行けなかったのです。

  そんな中、郊外で暮らす人々の為に画期的な銭湯ビジネスが生まれたのです。移動式の銭湯。実は江戸時代、
  このように浴槽をのせた船が開発されて、そこでは火を焚いて温められたお湯に人々が浸かっていたのです。
  つまりお湯を運ぶ舟、これが湯舟なのです。

  江戸時代の様々な舟が描かれている『和漢舩用集わかん-せんようしゅう』にも、このように湯舟の姿がしっかりと紹介
  されています。
  そして湯舟は気軽に銭湯に行くことができなかった郊外に住む人々にとって欠かせない存在になったのです。
  ところが、江戸の発展と共に次第に郊外にも銭湯が作られるようになり、湯舟を利用する人が減った為、次第に
  その姿を消していきました。(ナレーション)

  そう、一大ブームを起こした湯舟は江戸時代後期、100年ほどで役目を終えたのです。しかし、郊外に住む人たちに
  とっては『浴槽に浸かる事=湯ぶね』だったため、『湯ぶね』という言葉だけが残り、次第に『浴槽と湯ぶね』が
  次第に同じ意味で使われるようになったと考えられています。

  という事で浴槽と湯ぶねの差は、浴槽は水や湯を溜めていた木製の容器で、湯ぶねは浴槽をのせた舟でした。」

  と、番組では結論付けていましたが、果たして、そうでしょうか?


  番組で紹介していた『延喜式』(905年勅・927年撰進・967年施行) の画像から、「沐槽 (長三尺・廣二尺一寸・深八寸)、
  浴槽 (長五尺二寸・廣二尺五寸・深一尺七寸) 」という文字が読み取れました。

  一尺・一寸は時代によって長さが変わるので、平安時代は不明ですが、明治時代は一尺が約30㎝ちょっと。一寸は一尺の
  1/10。沐槽 (沐浴をするための容器) は八寸の深さなので約24㎝。浴槽は一尺30㎝+七寸21㎝=約51㎝の深さになり、
  人が座って湯に浸かる事が可能な深さになります。

  「」は(全身というより体の一部を)「洗う」という意味。「」は「浴びる」(体全体が水や湯、日光などに触れる) という意味。
  「湯に浸かる」という意味では「」が使われます。「入浴」。

  つまり、平安時代にはすでに、浴槽は人が浸かる為の湯を入れるバスタブで、湯や水を溜めておく大きな容器は
  沐槽と呼ばれて区別があった事になります。


  下記の広辞苑の【湯船・湯槽】解説をご覧下さい。平安時代に成立した日本最初の漢和辞書『倭名類聚鈔』に
  「―につかる」との記述があります。

  【浴槽】よく-そう … 入浴するための容器。湯船。

  【湯船・湯槽】ゆぶね
   ① 入浴用の湯をたたえておくおけ。浴槽。平安時代931~938年頃成立の倭名類聚鈔[14]〉「―につかる
   ② 江戸時代、内部に浴槽を設け、港湾の船や川筋に漕ぎよせ、料金を取って入浴させた小船。


 934年頃の『倭名類聚鈔』(和名抄) の巻十四 「澡浴具」に 浴斛 楊氏漢語抄云浴斛由布禰 下音胡谷反とあり、
   楊氏漢語抄の浴斛とは「由布禰=ゆぶね」である。というような意味。

  【澡浴】そう-やく (ソウヨクの転) … 不潔を洗い清めること。  【斛】こく … 大型の四角い枡

  平安時代中期の歌集 『大斎院の御集』に
  六日あめいみじうふる、もりてれいはありともしらぬ 御ゆぶねを おまへちかうひきよせて

  【選子内親王】せんし‐ないしんのう (964~1035)
   平安中期の歌人。村上天皇の皇女。円融天皇から5代57年の間、賀茂斎院となり、大斎院と称せられた。
   和歌に精進し、「大斎院前の御集」「大斎院御集」を残す。また仏道への帰依深く、家集「発心和歌集」がある。

  教え方単位辞典 『ゆぶね【湯船/湯槽】の数え方とは?』 https://www.sanabo.com/kazoekata/ct_ya/yu/yubune/
  このサイトには「ゆぶね」が使われている文献が他にも載っています。

  1028~1092年 栄花物語 玉うてなある所をみれば ゆぶねの湯わかして、僧二三十人浴(あ)みののしる

  【栄花物語・栄華物語】えいがものがたり
   歴史物語。40巻。藤原道長の栄華を主とし、仮名文で編年体に記す。正編30巻は赤染衛門編とする説が有力で、
   宇多・醍醐天皇の代に筆を起こし、道長の死の翌年に至る。続編は堀河天皇の代、寛治6年(1092)2月に至る。
   前後15代200年。巻々に物語らしく題名をつける。世継よつぎ物語。

  平安時代にはすでに「ゆぶね」という言葉も使われていた事が判明しました。

  体を洗うために水を入れておく容器=「ゆぶね」。
  「ゆぶね」の浅い小型の盥たらいのような容器が「沐槽」で、体を浸けられるられる位の深さがある容器が「浴槽」。
  水風呂もあったが、湯を使う事の方が普通だったので、「ゆぶね」は「湯槽」になったと推測できそうです。
  しかしながら「湯槽」の漢字の初出の文献は、まだ見付けられていません。

  ちなみに1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』(編著者は大坂の御城入り医師の寺島良安、出版地は大坂)
  巻之二十五「容飾具」には水盆と盥たらいの解説があります。風呂や銭湯に関する記述はありません。
  盥は俗に手洗いで和名では「多良比」、水盆は盥の水を棄てる容器。

  「湯船」の漢字が出来て「ゆぶね」と呼ばれるようになったのは江戸時代なので、浴槽を意味する「ゆぶね」の
  語源が「湯船」ではない事ははっきりしました。

  1766 (明和3) 年初版の『和漢舩用集』よりも前の1688年の『日本永代蔵』に「湯舟」が使われています。
  最初は行水舟 (水風呂) だったものが、湯を使うようになり、湯舟と呼ばれるようになったようです。


  この番組の2018年1月23日放送の『ぜんざいとお汁粉の差』において、「お汁粉は江戸から関西に広まった」と
  結論付けていましたが、お汁粉のルーツは「すすり団子」と言って関西発祥です。
  食の歴史雑学 江戸時代の菓子・甘味2のページ 「汁粉」と「善哉」

  ついでに、「本膳料理は鎌倉」「蒲焼は江戸」「米の煎餅は埼玉の草加」など関東発祥説のほとんどは嘘です。
  当サイトの食の歴史と雑学の各ページをご覧ください。

  また食関連以外でも嘘が多いです。当サイトでしか載っていない情報 (江戸時代の一級文献の記述で発見した事) を含め
  多角的に調べてあります。100ページほどありますが、全てご覧頂けば、広く流布されている歴史の嘘も見破れるように
  なる事でしょう。


  ≪ 湯舟は江戸独自のものか? ≫


 『湯船』の記述がある『和漢舩用集わかん-せんようしゅう』の著編者は大坂の堂島に住む金澤兼光、1766 (明和3) 年
 初版の出版は大坂の樋屋角左衛門です。(宮内庁が所蔵しており、申し込めば閲覧可能なようです)

  この書の第五巻には「江戸湯舟」というタイトルで絵があり、湯船 武州江戸にあり、舟より浴室を居え、湯銭を
  取って浴せしむる風呂屋舟也とありますので、この頃は上方などにはなく、江戸特有の文化だと考えられます。
  しかし、1688年刊の『日本永代蔵』には、京都にあった可能性が書かれてあります。下の嬉遊笑覧』など。

  この書の1827 (文政11) 年版 全12巻、大坂の藤屋徳兵衛ほか6名が出版した原本が下記のサイトで無料で見れます。

  京都大学附属図書館所蔵 重要文化財及び古典籍 [和漢舩用集]  https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/was/index.html

  著書は、大阪堂嶋の金沢兼光により、宝暦十一年(1761)に書かれたものであり、自らの船大工としての経験を
  もとに、船に関する中国・日本の文献を渉猟し、船に関係するあらゆる事を記述してある。
  いわば、江戸時代中期に書かれた「船についての百科」と言うべき書であり、今なお利用されている。
  特に、船、船用具、船大工の道具についての詳細な記述は、現物資料に乏しい当時の造船、航海技術資料として
  重要である。 著書は、明和三年(1766)と文正十一年(1827)に刊行されているが、本画像は文政十一年刊本による。


  教え方単位辞典 『ゆぶね【湯船/湯槽】の数え方とは?』 https://www.sanabo.com/kazoekata/ct_ya/yu/yubune/

  1710 (宝永7) 年の『けいせい伝受紙子』 八文字自笑&江島其磧 著。出版地は京都の八文字屋
  三・五 五間にあまる湯舟に掛樋滝をおとし

  1721 (享保6) 年 御触書寛保集成 三六 九月に
  向後荷物瀬取候 茶船并湯船水船之外、一切諸廻船之辺え乗り参間敷候とあるそうです。


 1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家)
  巻之九 (娼妓)「湯舟」 嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104 P.303 参照

  (ここの記述は銭湯の所で) …【永代蔵】(四) 江戸のことを云 所或人 船つきの自由さする行水舟と云ものをし初たる
  ことをいへり 今の湯舟なり これらも古くあるべしものなるべし 自笑が【色三線】に京の所 水ぶろより湯ぶろが徳なれど
  こしらへることを造作に思ひ云々 ある湯ぶろは蒸風呂なり

  【日本永代蔵】にっぽん‐えいたいぐら
   浮世草子。井原西鶴作。6巻6冊。1688年(貞享5)刊。各巻5章、30話。町人たちの致富に対するたくましい意欲と
   盛衰の物語。町人物の初め。 大坂で出版。

  【八文字自笑】はちもんじ‐じしょう (?~1745)
   江戸中期の浮世草子作者・版元。安藤氏。通称、八左衛門。作者江島其磧を迎えて、その作になる役者評判記や
   浮世草子などを自笑の名で出版。一時其磧と不和となったが、和解後、両人連名で多くの浮世草子を出版した。

  【江島其磧】えじま‐きせき(1666~1735、京都大仏餅屋の主人。)
   江戸中期の浮世草子作者。初め権之丞と称し、のち庄左衛門を襲名。井原西鶴に私淑、
   八文字屋自笑の名義または共同名で役者評判記・浮世草子(いわゆる八文字屋本)を発表。
   作「けいせい色三味線」「風流曲三味線」「傾城禁短気」「世間子息気質」「世間娘容気」など。

  【けいせい色三味線】けいせいいろじゃみせん 傾城色三味線
   浮世草子。5巻5冊。江島其磧きせき作。1701年(元禄14)八文字屋刊。京・江戸・大坂・鄙ひな・湊みなとの各巻より成り、
   各巻それぞれに島原・吉原・新町・伏見撞木町・室津などの遊女の名寄なよせと、5章の小話とを添えたもの。


  1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』(編著者は大坂の御城入り医師の寺島良安、出版地は大坂)

  第三十四「船橋類」の「船」には「和名は布祢」、「舩」と「舡」は俗字。 関西は「船」、関東は「舟」という方言説がある。
   その説の根拠を色々と探っています。
  第七十四「摂津」の土産 (当地で産するもの、多い物)には、多数の物が書かれ、大坂には各地の物が集まっていた
  事が書かれてありますが、「材木問屋」「舩大工」も書かれてあります。他国にはありません。摂津国のみの土産。

  【船・舟・槽】ふね
   ①木材・鉄などで造り、人や物をのせて水上を渡航するもの。
   ②水・酒などを入れる箱形の器。湯ぶね・酒槽さかぶね・紙漉槽かみすきぶね・馬糧桶うまぶねの類。
   ③棺。「船入ふないり」  ④刺身などを入れて売る底の浅い容器。
    ◇「舟」は、手でこぐ小型のものに使うことが多い。「槽」は、②に使う。

  日本は海洋民族と言われますが、その中心は大阪~瀬戸内海。
  航海の神様である住吉神社の本社は大坂の住吉大社にあり、有史以来 幕末まで日本最大の港として栄えました。
  瀬戸内海では村上水軍が有名です。

  関東、特に江戸は大坂の漁民が移り住むまで本格的な漁業が行われていませんし、関東での魚の流通システムを
  確立して運営していたのは摂津系の大坂商人たち。

  佃煮、築地は、大坂の佃村の森一族が江戸に移り住んだ事から
  東京付近の関東の歴史 飛鳥・奈良時代 関東に新羅・高句麗からの渡来人を移住させる

  つまり、水運や漁業関係の本場は大坂であって、関東ではそれらの技術や知識が無かったと思われ、手の込んだ
  湯船を造る技術は大坂の船大工が設計施工した可能性が高いです。
  故に、江戸より先に京都で湯船が存在していたとしても不思議ではありません。



  日本テレビ 所さんの目がテン! 『江戸時代の「長屋暮らし」を体験 18.04.01 放送

  ≪ 江戸は水不足 ≫

  当時、世界一の水道を敷設していた江戸ですが、埋め立て地なので井戸を掘っても海水しか出ず、人口も多かった
  ので、節水を心掛けないといけなかったようです。江戸の井戸は水道を水源としたもので有料。






  江戸では火事が多く (火事の原因の多くは火付けだったようです)、火事が発生すると風が強いので大火になります。
  番組によると、約260年での江戸での大火の発生は90件以上におよび、3年に1度の割合で江戸の町は燃え建て直しが
  行われていました。
  水不足の為、家屋を壊して延焼を防ぐ破壊消化が行われたので、江戸の長屋は非常に簡素な造り。

  そのため、大工職人が多く花形の職業でした。不況になると、町奉行が付け火をさせていたらしいです。
  江戸の火事の真実

  長屋の庶民は一汁一菜+タクアン(香の物)が基本。食事の最後に食器に湯か水を入れ、タクアンで食器を拭うようにして
  食べます。
  その後、改めて水で洗う事なく、それぞれのお膳に片付け、次の食事の時もそのまま使用するのが普通だったようです。


  江戸ガイド 『【女性用ふんどしも!?】江戸時代の下着「ふんどし」が興味深い【戦前までは現役】』 16.11.02 配信
   http://edo-g.com/blog/2016/11/loincloth.html


  『皇都午睡』 三編

  女の髪は将軍家の奥女中の風儀は格段の…町方の髪は…おおかた丸髷で勝山の小さく押へたる様なり…
  鬢も上は小さく…鬢付を多く付けず 月に三度計り髪を洗うを習わしとしている 簪かんざしなども短く薄手にて甚だ
  質素なり…化粧は至って薄く目立たぬをよしとす…

  上記の文を簡単にいうと、江戸女性の髪型は丸髷を小さくしたもので鬢付はあまり付けない。
  簪は上方が鼈甲の大きく厚い物を差しているが、江戸では木櫛が専らであって非常に質素な髪型である。
  化粧は薄化粧を良しとした。

  下記でも京坂は丸綿帽子や上帽子頬冠綿などのお洒落をしているが、江戸では稀で縮緬の頬冠が普通
  上方の方が豊かで化粧する余裕がありますが、江戸庶民は上方より貧しく土埃で汚れるため、あまり
  お洒落ができませんでした。
  三田村鳶魚によると、江戸は文化文政まで、化粧をしないので「地女がキタナイ所」として有名だったそうです。

  江戸時代の化粧  最も化粧したのは大坂、化粧本は上方で書かれたました。


  自由の足る中に自由なるを江戸に限って値の安き物は湯と髪月代なり…

  総て江戸は武蔵野の果にて広々たる平地のうへ 海近き故にや常に風強く土柔らかくして泥埃りたち 往来へ打水
  せんにも水無自由なるゆえ 市中のどぶの水を打ゆえ香甚しく乾けば風にて吹散らすゆえ 男女とも冬はべして
  縮緬の頬冠りをせし上 手拭にて口の辺りを括れり 京摂の如く女に丸綿帽子櫛出し練の上帽子頬冠り綿は至て
  稀なりゆえに 日毎に湯へ入らねば叶いぬ様にするなり

  屋敷方奥向は格別町家の大家にても 内にて風呂を沸す事もなく 風呂場ある住居は いと珍し
  旅籠屋にも風呂をわかさず 客は銭湯へ行く事にして 町家豪商の内儀娘たり共残らず湯屋へゆくをならはせとして
  いささか恥る事なし

  銭湯は大体一丁に二軒宛は丈夫に有り 上方の如く大和湯 扇湯 桜湯なぞと呼をなく 町名を上に付けて湯と呼なり
  いわば檜物丁の湯とか 堀江丁の湯とか 呼び 湯屋の門口に男湯女湯と並び有て此二ッの入口をは入し所の真中に
  内の方をむき銭取場あり ここに一所にて男女湯をも兼帯の番なり 歯磨 楊枝 膏薬の類銭取場に取次あり…


  ≪ 水売り ≫  コトバンク 『水売り』世界大百科事典 第2版 より

 水を入れた桶をてんびん棒などで担いだり荷車に積んで飲料用の水を売り歩く商売をいう。日本では水屋ともいった。
  水道が普及する以前は,水はもっぱら井戸に頼るしかなかったが,水質の悪い所や井戸に遠い家では水を1荷いくらで
  水売から買った。
  明治のころ,東京の下町あたりではだいたい1荷1銭くらいで朝夕2回定期的に買う家が多かったようである。
  井戸の便のよい家でも,涸水時には水が濁るので水こし用の甕を台所において使ったし,またふだんでも洗顔後の水を
  まき水に使うなど水をたいせつに扱っていた。

   江戸時代の冷や水売りの歴史


  『守貞謾稿』上巻 第四編生業上にも下記の記述がありますが、江戸には一般家庭だけではなく旅館にも風呂が
  無かったので、皆銭湯へ行くのが普通だったようです。
  江戸は上方のような上級の宿が無かった事も書かれてあります。

  江戸の旅人宿は公事宿と号け 官府に用ある者を泊るを旨とする也 此故に京坂の如く美制の宿無
  旅泊は甚だ劣れり 膳部等も粗にして二食を供し 大略二百四十八文也 貴値の宿賃は求めても応ぜず

  又 京坂の如く食類各席に出さず衆客を臺所に集めて食せしむ 朝夕共に然り 然共自宅に浴室ある者稀にて多くは
  銭湯に遣る也 廳事に非る他用の客及遊参の者も皆此宿に泊る

  旅宿は馬喰町に群居す其他諸所に散在する者も其制皆同前 又 江戸の旅人宿のも出廳の事を掌り訴状上疏等を
  兼筆する者あり 坊間の名主代に比すべき職也 此職私行にあらず公行也 又 江戸には大坂の如き廳辺にしたやど
  


  『守貞謾稿』 上巻 第二編 家宅 「風呂

  狭い民家でも、上方の方が江戸より広い事も分かります。

  京坂の浴は專ら風呂場と云也 厠を專ら「せつちん」と云 雪隠也 然ども「こうか」とも「てうづば」とも云はざるに非ず
  婦女は專ら こうかと云也 
  京坂も民屋 副添すと雖ども 江戸よりは寛し故 中以上多少 後薗あり 俗に前裁或は壺の内と云
  江戸にては唯「庭」とのみ云

  「雖ども=いえども」「寛し=広し」「後薗=後園(家の後ろの庭)」「前裁せんさい=庭前の草木の植込み」



  ≪ 東京の名物は塵 ≫


  『東京年中行事上の巻 P.316の「東京の塵」の記述  1911 (明治44) 年に執筆&出版。

 人若(も)し 東京の名物と問はゞ、誰しも それは塵土(ほこり)と花の二で有ると答へるに躊躇しないだろう。

  染井吉野と呼ぶ櫻が非常に東京の地味に適して、三月の末から四月にかけて満都の天地が櫻の花で
  満飾せられ、まことに花の都の名にふさはしいと云ふことは前にも述べた通りで有るが、一年中いつでも
  雨が晴れて二三時間経たぬに、東京の街路は最(も)うカラリと乾いて了(しま)つて、直ぐに濛々たる塵土が
  天地を閉こめて、風に向つては殆ど一歩も歩めないと云ふのが常であるが中にも、櫻の花の頃になると
  此塵(ほこり)は一層に甚しくなつて、障子を閉め切つてある家の中と云はず、電車の中と云はず、ほとんど
  塵土(ほこり)だらけで、それはそれは至つて心地の悪ひもので有ると云ふことは、脚 未だ都の地を踏まぬ
  ものに取つては殆ど想像の外で有る。

  そして其 以前 砲兵工廠(ほうへいこうしやう)のぐるりと云へば、誰しも此濛々たる塵の名所で有るとは直ぐに
  (さと)つたので有つたが、今は其三方を電車が走ることになつて、路の真中には花崗岩(みかげいし)
  (し)かれたが為か、名物の塵も昔ほど立たなくなつたやうで有るから、今の塵の名所と云へば、先づ
  神田橋から宮城前の和田倉門馬場 先門日比谷を経て、内幸町櫻田本郷町に至る あの広い一等道路
  の通りで有らう。

  なまぬるひ南風の盛に吹く日などと来ると、前から来る電車が殆ど擦れ合ふまでは全く其姿が認められぬ
  (ばか)りの塵で有つて、天地宛(さな)がら真赤になり、成程 風の吹く砂漠はこんなで有らうと思はれる位。

  電車の窓の隙間から入つて来る塵が時々目を襲ひ鼻に迫つて、呼吸も碌々(ろくろく)ならぬ時の苦しさ
  心地の悪さ、女なんどの髪 打乱だしつゝ風に吹きまくられて徒(かち)歩く様はまことに惨めなもので有る。
  こんな日に一日の業を終つて、帰つて湯にでも入つて顔を洗ふと、頭も顔も全くザラザラと音がする。
  田舎から来たものが田舎を思出すのは実にこんな時で有る。

  【東京年中行事の著者】
   若月紫蘭 (本名は若月保治、1879~1962年、山口出身、東京帝大卒)  Wiki 若月紫蘭
   教育者・記者・劇作家・演劇研究家・浄瑠璃研究家・翻訳家など多方面で活躍しました。

  この続きに、『塵のちまた』落合直文の記述が転記されており、同じような事が書かれてあります。
  長いので重複している部分以外を抜粋すると

 東の都にて、塵(ちり)まづ、目につきしは、氷店なり、次は、あま酒店、次は麺麭(ばん)店、次は、
  焼餅店、次は、焼鳥店なり。鉢の上に並べる、焼鳥、焼餅、麺麭、みな、塵にまみれたり。
  ことに あま酒店の如き、氷店の如き、その椀、そのコップ、はや、塵つもれり。その椀につぎいるゝほど、
  そのコップにけづりいるゝほど、塵のとびいるさま、おもひやるべし。こゝにも、そこにも、車夫やうのもの、
  二三人あつまれり。立ちながら、そを食ひ、そを飲むを見れば、この人々の間には、衛生などいふことは、
  あらぬにやあらむ。とかくするほどに、例の塵たちのぼりぬ。

  【落合直文】おちあい‐なおぶみ(陸前(宮城県仙台市)生れ、1861~1903)  Wiki 落合直文
   国文学者・歌人。萩之家と号。1893年(明治26)浅香あさか社を興して和歌の改革に努め、国語教育に尽力。
   新体詩「孝女白菊の歌」、歌集「萩之家歌集」など。編「ことばの泉」。


  『東京年中行事下の巻 P.373~374の「歳暮の東京」の冒頭の記述

 十二月に入ると、今迄小春日和の暖かゝつた天氣は、何となくどんよりした寒さうな天氣に變(かは)つて、
  空つ風がぶうぶうと矢鱈に吹き出して、東京は又してもそろそろと塵の都にかへる。
  ふりみふらずみの空が一朝毎に寒くなつて來る。

  ウナギの蒲焼き 関西風と関東風の境界線 関東の鰻は泥臭いので蒸すようになった 江戸の火事の真実
  江戸の治安システム 江戸の治安は良かったのか? 本当は治安最悪の都市だった  世界に誇る江戸の水道
  江戸の人口100万人は本当か? 寛政時代の幕府記録では江戸の人口 2億61万3000人もいた?
  江戸っ子とは? その実態、3都の気質など  江戸の嫁事情
  江戸時代の化粧 江戸時代後期のファッション雑誌 『都風俗化粧伝』の内容、最も化粧するのは大坂
  東京近郊の関東の歴史 東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、汚れた川で食器や野菜を洗っていました。  公害苦情受理件数で見る 汚い県、うるさい県、臭い県はどこ?

  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465

 
 大阪と東京の銭湯の違い
  NHK ニューステラス関西 13.01.24 / 毎日放送 クイズ! オーサカ理由学3 13.05.15 放送 / 朝日新聞 13.05.27 朝刊 『大阪河内版』 
  関電イーパティオ http://www1.kepco.co.jp/e-patio/category/living/1289286907/
  銭湯 大一温泉 銭湯歴史物語 http://www5c.biglobe.ne.jp/~moritaka/sub30.htm
  え、銭湯ですか?  大阪・天王寺とその周辺の銭湯を紹介します。E-List http://www.geocities.jp/chechechet/huro/furo_kerolin5.html
  Excite.ニュース 05.02.10 http://www.excite.co.jp/News/bit/00091107923095.html
  牛乳石鹸共進社 http://www.cow-soap.co.jp/web/event/noren-history/
  テレビ東京 たけしのニッポンのミカタ !  『~消えてからではおそい!? ニッポン絶滅危機を追え ! 2~』 13.06.21 放送 などより
  TBS マツコの知らない世界 『銭湯の世界』 13.08.25 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『9割についてアレコレ調査してみた件』 14.01.06 放送
  NHK大阪 えぇトコ 『ハルカス麓で「昭和」を探そう!~大阪・阿倍野』 14.10.24 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『くらべる東西 ~今 明かされる違いのルーツ~』 16.11.10 放送

  ≪ 銭湯の数 ≫

  江戸時代は江戸、現在は大阪が最も多いと言われていますが、大阪も年々減少。
  平成22年度統計による全国の銭湯の数は5449ヵ所。

  1590年に大坂、1591年に江戸で銭湯が始まる。

  江戸時代の1626年 大坂の風呂株(銭湯業者)24軒。 1787年 大坂で湯屋株
  仲間組合が公認される。

  江戸では埋立地が多く井戸水が豊富でなかったこと、空気が乾燥しやすく火事の
  心配があったことから、内風呂より銭湯が普及。
  京都や大坂では風呂場をしつらえる町家も数多くありました。
 テレビ大阪 夕刊7ch 『冬至』 14.12.22 放送



 1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家)
  巻之九 (娼妓)「湯舟」 嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104 P.303 参照

 【続武家閑談】に 慶長五年 伏見豊後橋に銭湯ありて歴々の士 多く入て喧嘩有りしこと見ゆ
  漢土 (中国) の銭湯は【七修類稿】 (同書の記述漢文あり) 此方の温泉の湯ぶねの如し
  【永代蔵】  続きは上記で

  【続武家閑談】ぞくぶけかんだん 著者は幕臣の木村高敦きむらたかあつ (1681~1742)、出版年等不明。
   慶長5年=1600年。
  【七修類稿】しちしゅうるいこう 中国(明の随筆)、著者は郎瑛 (1487~?) あらゆる事を見聞して記した書、51巻。

  巻之九 (娼妓)「湯女風呂」 長いので、ざっと訳してあります。原文はP.304~306

  江戸に湯女風呂があった事は【見聞集】【曾々ろ物語】に書いてある。
  【曾々ろ物語】では江戸が繁昌し始めの天正19 (1592) 年の夏の頃か、伊勢余市という者が喘錢瓶橋のほとりに
  銭湯風呂を作った入浴料は永楽一銭である。今は町ごとに風呂があり15~20銭で湯女が20~30人居て
  髪や体を洗ってくれる。この時まで江戸には銭湯はなく、蒸風呂もこれが初めてと聞く。
  【見聞集】によれば、すい風呂が出来たことを見た。それまで江戸に便利な風呂はなかったというが、うたがわしい。
  慶長元和 (1596~1615~1624) の頃である。
  【色音論】では寛永 (1624~1645) には増々繁昌し、湯女は諸国の温泉にあったのが元である。
  【太平記】の頃 (1368~1379年頃までに成立) 既に風呂屋があったとみえる。…

  【湯女】ゆな
   ① 昔の温泉宿で入浴客の世話をした女。
   ② 江戸時代、市中の湯屋にいた遊女。風呂者。風呂屋女。遊女を置いた湯屋は『湯女風呂』といった。


 『守貞謾稿』 下巻 第二十二編 沐浴 「京師浴戸俗に風呂屋と云

 湯錢 男女とも八文也 湯は筥風呂と云て湯槽也 桶風呂には非ず 蓋 湯槽 大小二つを設け 初め大槽に入り
  垢を磨て後 小槽にて再浴し體を浄め上る 是を上り湯と云

  京坂ともに従來 男女入込と云て 男女ともに湯槽を分ず 一槽に浴すことなりしを 天保府命後 男槽 女槽を別つ
  京坂は市中 大中は素より小戸に至る迄 自家に浴室あり 大中戸は必ず有之 小戸或は有之 或は無
  裡借家の分 稀に有之 多くは無之如  此の故に風呂屋戸數 江戸に比して甚少き也

  右故に坊間 婦女等 風呂屋に浴する者 麁服多く 美服は甚だ稀也 適々別居する妾など自家に浴戸なき者
  美服にて婢を供し 風呂やに行き浴す 遊里は娼妓美服にて風呂ゆに浴す者 甚多し 又 娼妓に非るも自然
  美服にて風呂やに往く者多し

  京坂ともに天保府命の時 株仲間を禁止し 嘉永再興復故等粗 江戸と同制也
  又 京坂ともに天保前より株主より月収にて株を借て業とし 或 自株にて業とすること 大略 江戸と同制也
  株 價 京師 賤く 大坂中 江戸貴に似れども 京坂は浴戸少く 火災 稀き故に 株金 京坂と江戸と肩を比すべき歟
  月収も亦 准

  或る物の本に元祿頃 京師にて荷ひ風呂と號け 居風呂を擔ひ歩行て 錢三文にて入れしことを云物あり
  又 延寳比の物に辻風呂と云るあり 供に同物なる歟

  「からだ=体、身体」「うら=裏」「坊間ぼうかん=町の中、市中」「麁服そふく=粗服 (粗末な服)」
  「=召使の女、女中、下女」「=か?」


  入浴料は男女とも8文。箱風呂という浴槽で桶風呂ではない。(大きめ四角型で、小さい楕円型の浴槽ではない)
  大小2つの浴槽があり、先に大きな湯船に入り、体を洗い、最後に小さい方の湯船に入って体を清める「上がり湯」
  という入浴方法。

  従来は京坂では男女混浴だったが、天保 (1831~1845) の幕府の命令の後、男女別に分かれた。
  京坂の街中では、ほとんどの家に浴室があった。小さい家は浴室がある家もあるし、無い家もある。
  裏借家の場合は浴室が無いのが普通だが、稀に浴室がある場合もある。その為、風呂屋の数は江戸に比べて
  かなり少ない。

  街中で風呂屋に行く女性は粗末な服を着た人が多く、綺麗な服を着ている (金持ち) 人は滅多に居ない。
  時折、自宅に浴室がない別居している妾が女中を連れて風呂屋に行くのを見かける。
  遊郭では、上級の遊女も、遊女として働いていない金持ちの者も風呂屋に行くのが普通である。

  天保の幕府令で株仲間の禁止があったが、嘉永(1848~1855)に復活。株主自身か、月謝を払い株を借りて
  風呂屋を営業するシステムは江戸とほぼ同じ。
  株の値打ちは、京では安く・大坂は中くらい・江戸では高いが、京坂は風呂屋が少なく火事も滅多に無いので、
  三都とも同じ位の値打ちになるだろうか。株を借りる月毎の借り賃も、これに準じている。

  ある本には、元禄 (1688~1704) 頃に「荷い風呂」と呼ぶ商売があった。風呂桶を担いで巡業し、3文で入浴させた。
  延宝 (1673~1681) 位の書物に「辻風呂」というのがある。これは同様の物ではないだろうか。

  【株仲間】かぶ-なかま … 江戸時代、幕府・藩の許可を得て結成された商工業者の独占的な同業組合。


  『守貞謾稿』 下巻 第二十二編 沐浴 「大坂の浴戸

 俗に風呂屋と云 市坊八町に一戸を定制とし定額の者を株と云… (風呂屋株の価格などの事がありますが略します)
  従來 男女浴せり 天保府命後 男女浴槽を別にす故に 一株にて男女槽 各一並に藥湯を立るもありて藥湯ともに
  三個の物あり 湯錢は男女とも八文也 蓋

  小寒の日より春正月下旬に至る間 一銭を增て九文とす 六七月の間は六文とす 休日は正月而已 其他休日無
  正月二月を初風呂と云 初湯とも云 二日曉丑の刻許に浴戸の下男及び近隣小民の男兒とともに竹筒を螺の如く
  吹鳴し 衆聲を撥て「わいたわいた」と叫び 近所を囘り報ずを例とす

  得意の浴客は祝儀と云て 錢二三百文を湯錢の外に興ふ者多し 他日浴戸に祝儀錢及び江戸の如く十二銅を興ふ
  ことさらに無之 又江戸の留桶と云こと 更に無之 又 江戸の如く客を二階に上げず…

  続きは、長文につき、書かれてある事を抜粋して訳します。

  当ページの上に、国立デジタル図書館へのリンクがありますので、興味のある方は、無料公開されている守貞謾稿の
  原文をご覧ください。『皇都午睡』『東京年中行事』『江戸時代のさまざま』も同様にリンクしてあります。
  これらの原文を読むことで、東京発信の情報がいかに嘘や誤魔化しが多いかが分かります。

  大坂の銭湯は井戸水を用いていたが、井戸水は剛 (出版社の注釈に大坂の井戸水は塩気あり」とあります。
  「新地」と呼ばれる地域や埋立地は江戸同様に海水が混じる可能性は高いです。「剛=硬水」と思います。)
  川岸にある銭湯は川の水を使っており、川から遠い銭湯も客が減るのを恐れて川の水を引いた。
  幕府の許可を得て引いた水道は、江戸の水道と同じものである。三~四割が、これを真似たと思う。

  京坂はほとんどが松の薪で湯を焚き、江戸は古材朽材を薪とした。
  京坂の浴槽は江戸より浅く、湯もぬるい。柘榴口あたりに、湯がきれいな上がり湯用の小型の浴槽がある。
  京坂の熱湯は江戸の温湯 (ぬるゆ) と同じ位である。


  『守貞謾稿』 下巻 第二十二編 沐浴 「江戸浴戸

  今は俗に「湯屋」が訛って「ゆうや」と言う。
  1642 (寛永18) 年刊の『そぞろ物語』によれば、起源は安土桃山時代1591 (天正18) 年の夏に、伊勢與市という者が
  錢瓶橋あたりに風呂を1つ置いて、永楽1文で入浴させた銭湯が始まり。

  非常に珍しかったが、便利だったので多くの人が利用した。
  しかし、当時は銭湯に馴れていなかったので、浴室が湯気で充満し「目を開く事ができない」「息が詰まって物も言え
  ない」などと行って風呂の入口に立ち塞がる者もいた。慶長 (1596~1615) になると多くの人がこの状態に馴れた。

  初めは、ぬるい風呂を好んだが、現在は京坂と比べて、かなりの熱湯である。

  天保の幕府令の前は銭湯事業をする為の権利 (湯屋株) が570戸と定められており、入浴料は十文、子供八文。
  江戸では四文銭がよく流通使用されていた為、天保令以後は八文となり、中人 六文、小児 四文で、冬季割増料金
  制度もなくなった。

  1863 (文久3) 年以降、薪代が高くなったので、十二銭 (十二文と同じ) に値上がり。
  現在では町毎に銭湯があって、鐚銭 十五文 二十文で入浴できる。

  江戸の銭湯は月1回の定休日があるが、銭湯各戸で休む日は異なる。将軍家御成の日には、その通り道にある
  銭湯は休む。また風が非常に強い日は夕方までの営業となる。嘉永5年の火災以降に定められた。

  薬湯・蒸し風呂は、天保以前から銭湯の権利とは別の権利制度だった。

  【鐚銭】びた-せん
   粗悪なぜに。室町時代から江戸時代初期にかけて、永楽銭以外の銭。また、一文銭の寛永鉄銭の称。

  【京銭】きん-せん、きょう-せん
   中世末から近世初頭に通用した銭貨の一種。明代に南京ナンキン付近で通用した私鋳銭が輸入され、南京銭と
   称されたものの略称といわれる。悪銭として嫌われ、近世に入っては鐚銭と同様に使用された。

  【守貞謾稿】もりさだまんこう (「守貞漫稿」とも)   コトバンク 『喜田川守貞』
   随筆。喜田川守貞 (砂糖商北川家。大坂の人、1810~?。1840年に江戸深川に定住) 著。30巻、後編4巻。
   1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗研究に
   不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行


  1911 (明治44) 年『東京年中行事』 上の巻 P.24~26 「初湯」から最後の部分抜粋 前半部の要約

 それから慶安の頃までは男女とも銭湯に行くには、別に褌ふんどしを携へて行つて、之をしめかへて湯に入いり、
  あがる時は之を下盥しもだらひで洗ひ清めて又持ちかへつた。
  そうしてその頃はまだ男女混浴で有つたのが、寛永三年正月二十七日、世の中の風俗宜よろしからずとあつて
  遂に男女の混浴が禁じられたと云ふ。(←『浮世風呂』からの引用と思われます)

  寛永…江戸時代前期の1624~1645年。 慶安…1648~1652年。

  【下盥】しも-だらい
   ふんどし・腰巻など下半身につけるものを洗濯する盥。
   式亭三馬1809~13年の浮世風呂―の中へ下帯を投げ込んで

  江戸時代の化粧 最も化粧したのは大坂、江戸の化粧事情は?



  ≪ 明治時代以降 ≫

  明治時代 1892年 大阪の湯屋400軒あったそうです。

  昭和5年 (1930年) 大阪市内の浴場数は1260軒。
    上がり湯が廃止されカラン式となり、流し場が木造からコンクリート又はタイル貼りとなる。

  昭和35年 (1960年) の東京の入浴料17円、洗髪料は別途10円。牛乳17円。
   1950年代後半~60年代頃 銭湯に牛乳が置かれて大ヒット




  昭和43年(1968年) 銭湯の数が最も多くなる。 全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会
  組合員数 全国で約1万8000軒 (うち大阪府 2358軒)

  昭和48年(1973年) フォークソング・ブーム。かぐや姫 (南こうせつ) の「神田川」などが
  流行り、「同棲」という言葉が流行語に。  1973年の喫茶店

 アナタは もう忘れたかしら~ 赤い手拭いマフラーにて~。二人で行~った横丁の風呂屋~
   いっ~しょに出ようねって言ったのに~、いつも私が待たされた・・・・
の歌詞に
   出てくるモデルになったと言われるのが、東京・西早稲田にあった安兵衛湯だそうです。

  平成時代 2013年 4月現在、上記組合員数 全国3208軒、(うち大阪府 615軒)
  平成23年(2011年)の衛生行政報告書によると、大阪府内の銭湯は800ヶ所以上あるそうです。




   ※ 毎年 全国で200軒、(うち大阪では40軒)のペースで減少中。


  ≪ 大阪の銭湯業者の約9割が北陸出身 ≫ 特に石川県出身者が多い。

  石川県出身者が過半数以上を占めており、小松市出身者が圧倒的に多いそうです。
  農家の二男や三男が大阪に出てきて、日銭を稼げる現金商売である銭湯を始める事が
  多かった。
  銭湯の仕事は重労働であるが、故郷で農作業して自分の土地を手に入れるよりは、
  大阪で働いた方が土地も財産も手に入りやすい。
  同郷の人達を頼って奉公し、やがて独立して開業する事が普通だった為。


  ≪ 東京でも北陸出身者が9割を占める ≫












全国的に9歳までが多いようです。

  富山県浴場組合の金盛裕子 事務局長によると、
  一説によると、新潟県の方が東京へ行って銭湯を始めたという説が大きいらしい。江戸・明治・大正くらいは北陸出身者の
   農家の二男・三男が東京に出て一生懸命働いて暖簾分けをしてもらって、若い衆を地元から呼ぶ形でコミュニティーとして
   増えていった。その名残で9割くらい北陸出身者の方が占めていると思います







  朝日放送 西川きよしのおしゃべりあるき目です 『大阪市鶴見区の牛乳石鹸共進社』 16.03.14 放送
  牛乳石鹸 のれんの歴史 http://www.cow-soap.co.jp/web/event/noren-history/

  ≪ 銭湯の暖簾は地域によって違う ≫

  1909(明治42) 年5月 宮崎奈良次郎が大阪市で創業した牛乳石鹸共進社(固形石鹸生産 日本一、無添加ではシェア30%)。
  鶴見区の安田工場の敷地面積は甲子園球場の1.2個分で、11基の大釜で1日50万個の石鹸を製造し日本各地に供給。

  創業当時からの商品や資料などを展示している部屋には、一社提供していた1971~1986年の朝日放送の音楽バラエティ
  番組『シャボン玉プレゼント』の台本などもあります。






  右端画像は、戦時中に日本軍に支給されていた軍専用の石鹸で、太平洋戦争の激戦地の硫黄島で見つかった石鹸。

  【硫黄島】いおう-しま、いおうが-しま
   鹿児島県大隅諸島に属する島。鹿児島湾口南西55㎞。霧島火山帯中の火山島。一説に鬼界島きかいがしまといい、
   俊寛しゅんかん (平安末期の僧、源雅俊の孫で平氏討伐を謀ったが源行綱の密告により配流はいる) の配所といわれる。
   かつて硫黄を産した。面積11㎢。

  牛乳石鹸では近年、「北海道型」「東京型」「大阪型」「京都型」、そして郊外型銭湯向けには小型の「カウンター型」と
  5種類のサイズを製作。牛乳石鹸を使用している銭湯に毎年新しいデザインの暖簾を無料で配布しています。

  北海道型は大阪型に比べて約半分の大きさ。

  京都型はカウンター型は男湯と女湯に分かれていて、切れ目はまん中に1つ。「店内を隠すのが好し」とされた。

  東京型は温泉シンボルのはいったものが多く、丈の短い横長の「半暖簾」タイプです。
  「店内を見せるのが好し」とされ、手でさっとはねあげるのを粋とする江戸っ子の美意識から生まれました。(右端の画像)
  多くの繁盛店が「半暖簾」を採用した事から流行し主流となりました。

大阪型

北海道型

京都型

東京型


  江戸でも大きな店には丈の長い暖簾が見られますが、大きな店の多くは上方商人の江戸支店である江戸店でした。
  これら商家では、江戸流ではなく出身地の習慣 (言葉なども) を続けていたようです。

  江戸の暖簾丈が短い本当の理由は「江戸ッ子の粋」ではなく、布面積を節約する為だった可能性が高いです。
  綿花栽培は江戸時代初期の大阪の河内から始まり江戸時代中期に西日本に広まります。
  東日本の気候では綿花栽培が行えず綿の布は非常に貴重な物でキレ端でも需要が多かったそうです。
  詳しい事は食の歴史雑学ページの北前船の所をご覧ください下さい。

  【江戸棚・江戸店】えど-だな … 上方の商人が江戸に出している支店。

  『近江泥棒伊勢乞食という言葉は近江(滋賀)・伊勢(三重)の商人が倹約につとめ江戸で商権を得て繁栄していた事を
  江戸ッ子たちが羨んで罵って言っていた言葉。江戸時代の三大商人は大坂商人・近江商人・伊勢商人です。

  江戸の屋台の暖簾も丈が短いので、江戸名物の埃(小便入りの水を含んで乾燥した埃)が入り放題だったようです。
  明治44年刊の『東京年中行事』では埃まみれの屋台でも気にせず飲食しているので東京では「衛生観念があるのか?」と
  書かれてあります。


  ≪ 大阪と東京の銭湯の違い ≫

  ・東京の銭湯は「梅の湯」など「○○の湯」という名前がが多く、大阪は「○○温泉」と「地域名+温泉」という名前が
   半数くらいあります。

  ・東京の湯船は洗い場の奥にあり、大阪の湯船の位置は中央にある事が多く、湯船の廻りの腰掛けがある。

  ・東京では蛇口が多く、女湯には椅子がないのが普通だったようです。足を開いて洗うとははしたないので、
   片膝を立てて洗っていたそうです。

  ・東京は湯船の壁はペンキ絵だが、ペンキ絵職人が数人程度しかいない事から、大阪では長持ちするタイル絵が主流。

  ・大阪と兵庫、京都の一部では一回り小さい桶を使用している。銭湯の全盛期である昭和40年代から使用されてきました。
   ケロリン桶のサイズ 関東など:重さ360g、直径225mm、高さ115mm、大阪・兵庫:重さ260g、直径210mm、高さ100mm






  守貞謾稿 によると、江戸時代から大阪の湯船に腰掛があった。
  関西の桶が小さい理由は腰掛に座り、湯船から湯をすくって掛け湯をする習慣がありました。

  その為、湯が減らないように桶は小さいサイズにケチった。という説も定番のように流布されており、「大阪=ケチ」と
  印象付けられています。(いつもの東京メディアの嘘でした)

  しかし、その解釈は非常におかしい。何故なら、掛け湯は一人何杯までとか決まっていないからです。一杯の量が少なくても
  回数を増やせば湯を多く使う事になりますから桶のサイズは全く関係ないわけです。






  作家のおかべたかし さんによると、江戸時代の大坂は商人の街だったので、まずかけ湯した後に湯船に浸かり、会話を
  楽しむ習慣があった。銭湯はコミュニケーションの場。(長時間入るので温めの湯だったと思われます)

  江戸時代の大坂では、守貞謾稿などに書かれているように、自宅に浴室がある家が非常に多かったので、わざわざ体を
  洗う目的で銭湯に行かなければならない人は少なかった。

  関西では、体をきれいに洗ってから湯船に浸かる必要性は低いのですが、湯に入る時のマナーとして「かけ湯文化」が
  でき、かけ湯をしやすいように小型の桶が好まれたと思えます。。


  一方、江戸ではほぼ全ての家に浴室がなく、また職人が多いため、銭湯は汚れた体を洗う場所という感覚だったそうです。
  守貞謾稿には「江戸は上がり湯を汲んで垢を落とす」という事が書かれてあります。
  上がり湯は小さな浴槽なので、かけ湯のように一人で何杯も使えません。
  かけ湯だけでは汚れが落ちないので、まず体をよく洗い入浴する必要があったため、かけ湯の文化にならなかった。

  当時の江戸の状況 (水道代は有料や、人口が多いなど) を知り、守貞謾稿の記述 (入浴料は安いなど) をよく読んで
  総合的に判断すれば、江戸は経営者も客も湯を節約する意識が働いていたはずだと理解できるはずです。

  桶のサイズで「ケチ」の基準を決めるなら、何度もかけ湯するよりも、少ない湯で体を洗うための大きな桶を使っている
  方が、湯の量は少ないはずなので、関東などの方がケチという事になるはずです。

  東西とも銭湯の経営者は北陸出身者がほとんどなので、好まれている桶のサイズで、地域のケチ度を決めるという
  発想をする人は、関西に対して強く劣等感を抱いているか、かなりの無知な偏向思考の人でなんでしょうね。

  江戸も当初は温い湯が好まれたが、時代が下ると共に熱湯近くになっていった事から、想像を膨らませると、
  熱い湯は雑菌が繁殖しづらい (江戸の湯は、それだけ汚れていた)。水道代がかかるのに、入浴料は安く設定しなければ
  ならないので、客の回転率を上げる必要があった。などと何とでも解釈でき、「江戸下げ」の為の理屈付けは可能ですけど。

  また独身男性が多い江戸では、銭湯で褌を洗う為に大きな桶が便利だったのではないでしょうか。

  ちなみに、関東ではうどんや蕎麦を食べる時に天かすは別途料金らしいですが、「東京はケチだから」と聞いた事が
  ありません。
  (大阪は天かすは無料の所が普通。湯はケチと言われ、天かすはケチとは言われません。不思議ですね。)


  ≪ 桶がケロリンになった理由 ≫

  50年前の昭和38年頃、風呂桶メーカーが桶の底に広告を入れる為、多くの企業に営業をかけたが、「社名に垢がつく」
  という事で縁起悪いと断られ敬遠された。

  内外薬品のケロリン(頭痛・生理痛に効く鎮痛剤)は、桶に広告を入れた事で、全国の薬局に置いて貰えるようになった
  そうです。
  第一号は、東京温泉(東京駅八重洲口)に置いたもの。累計200万個、90%以上が関東サイズらしいです。
  Excite.ニュースより
   (※ 大阪だけで、全国の2割の銭湯があるのに、90%以上が↑関東サイズとは、これ如何に?)


  東京オリンピックと日本人のアイデンティティー 2018年 江戸川大学 斗鬼正一 名誉教授
   https://edo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=803&item_no=1&page_id=13&block_id=21

  「欧米人にどう観られるか?」を強く意識し、特に東京では衛生・清潔・美化、秩序・マナー・犯罪、看板設置などに対し、
  意識改革のキャンペーンや取締りなどが行われました。
  上記リンクの論文を読めぱ、当時の日本、主に東京の実態が分かります。は一部抜粋。

 銭湯 当時の銭湯,温泉などでは木製の手桶が使われていたが,ぬめりが落ちにくく不衛生であるとして,オリン
 ピックを前に保健所が指導し,プラスチック製に置き換えられていった。
 今なお広く使われている「ケロリン」桶も,初めて使用したのは1963年,東京駅八重洲口地下の東京温泉である。


  1911 (明治44) 年『東京年中行事』 上の巻 P.24~26 「初湯」の要約

  年初に始めて銭湯に行く場合は白い紙にわずかのお金を包んだ祝儀を持って行く習慣は現在も続いている。
  昔の初湯は二日。現在は元日からだが、早仕舞いすると決まっている。
  十六日は貰湯と言って、この日の収入は三助のものと決まっていたが、今はそんな事をする湯屋は無くなった。

  初湯と言えば式亭三馬 作の『浮世風呂』。三編上『女中湯の遺漏』に江戸時代の初湯の光景が巧みに描かれて
  いるので、一節を引いてみよう。(女湯を覗いている様子などが書かれてあります)

  昔の湯屋は二階建で、通の若旦那は蒟蒻本を携え二階へ上がっていく。二階の中央では番頭が客に煎茶を
  立ている。菓子羊羹寿司などもある。二階で仕度をして湯に入り、湯上り後も二階でゆっくりとくつろぐ。

  明治23年頃から銭湯の構造が改造されていき、現在では二階造の銭湯はほぼ無くなった。柘榴口という陰気な
  所もなくなり、大きな鏡を三方に、一方に中庭があり、中央に高さ二尺の四角の箱舟が設けられるに至った。

  【浮世風呂】うきよ-ぶろ … 江戸時代の銭湯  二尺=60㎝位。

  【浮世風呂】(書籍の作品名 『諢話おどけばなし浮世風呂』の略)
   滑稽本。式亭三馬 (江戸の人、書肆・薬商、滑稽本作者、1776~1822) 作。4編9冊。1809~13年 (文化6~10) 刊。
   町人の社交場であった銭湯における会話を通じて、庶民生活の種々相を描く。

  【蒟蒻本】こんにゃく-ぼん 洒落本の異称。
   半紙本を半分にした大きさの本で、表紙の形と色とが蒟蒻に似ているからいう。
   明和 (1764~1772) ~天明 (1781~1789 )の頃を中心に主に江戸で発達した小説の一種。
   遊里文学で、対話を骨子とし、遊びの穿ちを主とする。作者には大田南畝・山東京伝、その他匿名の知識人が多い。

   江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸 ← 重要、1750年くらいまでの江戸での出版はほぼ上方のパクリ本です。

  【三助】さんすけ
   下男の通名。後には、銭湯で風呂を焚いたり浴客の体を洗ったりする男。
   井原西鶴 (大坂の人、1642~1693) の1688年刊 日本永代蔵「大方は吉蔵・―がなりあがり」
   吉蔵きちぞうも下男げなん (下働きの男) の通称。

  明治23年以降の明治期では、東京の銭湯も大阪と同じように、湯船が中央に作られる事が多くなったと思われます。



  ≪ 銭湯の雑学 ≫

  電気風呂の発祥は京都の船岡温泉。京都には温泉が無かった為、知り合いの電気技師に相談したところ、微弱な
  電流を流す事にした。温泉のように効能があるという事で「特殊船岡温泉」という名前で「温泉」を名乗る事が許可された。

  富士山の絵は1912年(大正元年)の東京・神田の銭湯が最初。頼まれた絵師が静岡県出身者だった為、富士山を
  描いたのが始まり。
  江戸時代、湯船への出入り口(ざくろ口)の壁に錦絵を描いたのが始まり。この頃、すでに富士山なども描かれていた
  そうです。明治時代には、ざくろ口が一時期廃止された事があるそうです。

京都府 船岡温泉

大阪市 みどり温泉


  番台が背を向けて客を迎え入れる理由は、条例で定められていたから。 現在は、その条例はありません。
   家風呂が普及していなかった昭和初期、脱衣ロッカーを荒らし金目の物を盗む「板場稼ぎ」という窃盗が流行ったため
   条例が作られましたが女性から、見られているようで恥ずかしいとのクレームが多く条例は廃止になりました。

  銭湯の湯の温度が熱いのは、雑菌が繁殖しづらいようにする為。
   まだ水や湯の濾過技術が充分でなかった昭和初期、大腸菌などが繁殖しにくいように、
   湯の温度は42℃以上が望ましいと法律で定められていました。
   現在でもその伝統で熱めの湯のままの所が多い。

  アニメ「テルマエ・ロマエ」が映画化された時に撮影地になった銭湯は、東京北区にある
  昭和5年(1930年)創業の稲荷湯だそうです。

 







  ≪ 昭和初期の面影が残る大阪の銭湯の画像 ≫

  大正~昭和初期にかけて区画整理がされ、住宅街として発展した阿倍野区昭和町にある昭和温泉。
  昭和の初めに創業した時のままの物が、現在でも多く残っています。

  堺の河原製作所が実用新案を取って作ったヘアドライヤー使用自販機は10円で約3分使用できました。
  現在も当時のままで利用可能なようです。(この自販BOXの正確な製造年代は不明ですが、昭和初期頃の物らしいです)






  女湯の脱衣所には赤ちゃんを寝かせる台が10人分あります。子供が多く家風呂が少なかった昭和40年代頃、最も多く
  利用され、どの銭湯にもあったそうです。台の下は母親が荷物を入れておくスペース。
  赤ちゃんの体を洗って、台の上で着せ替えか終わってから、母親が入浴するスタイルが多かったそうです。
  母親の入浴中、赤ちゃんがグズると、番台の女性や女性客があやすのが普通でした。

  昭和の頃は、色々と「お互い様」という感覚が強く、近所付き合いも密だった時代でした。

  ※ ちなみに、コント赤信号のラサール石井さんは、大阪市住吉区帝塚山出身だそうです。

  大阪の銭湯から広まったマッサージチェア 現在も3社で8割のシェア


  テレビ大阪 OSAKA一番らばー 『関西一を訪ねてみたならば 銭湯 なぜ生野が激戦区になった?』 17.09.16 放送

  ≪ 大阪の銭湯で「○○温泉」との名前であっても、温泉ではない理由 ≫









  ≪ 大阪浪速区の銭湯 ・ 銭湯のマナー動画で紹介 「大衆文化伝えた」米で受賞 ≫  朝日新聞 14.05.15 夕刊 より抜粋

  Welcome to Sento (ウエルカムトゥセントウ)――。外国人観光客に銭湯でのマナーを教える動画をつくった大阪の
  銭湯経営会社が、国際的に優れた企業や経営者らを表彰する「米スティービー賞サービス部門」の金賞に輝いた。
  動画をネット配信し、日本独自の大衆文化をわかりやすく海外に伝えたことが評価されたという。
  大阪市浪速区の銭湯「新世界ラジウム温泉」を経営する恵美須興業(田前博巳社長)。今月30日、韓国のソウルで
  表彰式がある。

  外国人入浴マナー講習会in新世界 http://www.youtube.com/watch?v=PXEiuRB0olA ← この動画です。

   統治時代の台湾で活躍した日本人 台湾で温泉文化を広めた大阪人と台湾最古の銭湯
 
 明治・大正期の家風呂
  国立国会図書館デジタルコレクションのサイトで無料公開
   應用 家事教育書 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926686  應用 家事教育書 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926687

  女学校で使われていた家事の専門知識を満載した教科書である大正7年の『応用家事教科書 上巻』(東京女子高等
  師範学校 教授の大江スミ子 著、東京寳文館 出版) など、大正初期の家庭料理本各書によると、炊飯ガス釜が登場し
  便利なので推奨しています。明治時代には西洋釜や改良釜と呼ばれるものが登場し、薪・炭・石炭・コークス・石油など
  を燃料とする様々な形状の物が登場しています。同書に色んな炊飯釜が描かれています。

  ストーブや風呂なども同様に色々な種類がありましたが、風呂は下記だげが紹介されて
  いるので、ガスではなく薪などで炊く五右衛門風呂が一般的だったと思われます。
  この頃は水道が普及しておらず、まだまだ井戸が一般的でした。

  同書「第一章 住居 第四節 住居新築に就きての心得」には、長州風呂の湯殿の絵が
  描かれています。→の画像。 下記文は原文の旧字を現代字に直して書いておきました。

  十三.湯殿 井戸に遠からず、かつ他室を通ることなく廊下伝いに行き得る位置に
  設くるを可とす。浴場には、浴槽・流・水槽等を設け、脱衣場には、鏡台・手拭掛等を
  備うべし。浴槽には、種類多ければ、最も便利にしてかつ経済的なのものを選びて
  据付くべし。流は敲土 (たたきつち、土間の造り方の一つ) とし、簀板を備うるをよしとする。

  【長州風呂】ちょうしゅう-ぶろ … 五右衛門風呂の一種で、鋳鉄製のもの。

 
 昭和30年代の家風呂
  テレビ東京 日曜ビッグ 『昭和平成ヒット商品 全部見せます5』 15.05.17 放送
  読売テレビ かんさい情ネットten.  『かつてのイメージを大きく覆す 団地のリノベーションを大調査!!』 15.11.25 放送

  昭和30年代の家風呂。左は一般的な東京の平屋住宅のもの。右は大阪府堺市の白鷺しらさぎ団地のもの。
  白鷺団地のものはヒノキ造りですが、人ひとりが入れる程度の手狭な風呂桶でした。






  1956 (昭和31) 年に大阪府堺市に金岡団地が建設されて以降、1960年代に日本各地に団地が多く建設されます。
  1966年、東京では都営住宅ブーム。2DKで家賃が約3万円。

  当時、団地は狭い空間ながら最先端の設備を備えた憧れの住宅で、入居抽選倍率が100倍くらいだったそうです。
  狭いため、ほうきなどでの掃除がやりにくかったそうです。

  1967年に三菱電機が発売した電気掃除機「風神」が大ヒット。1960年の掃除機普及率約8%→1967年頃に約50%。
  「風神」は業界初の手を汚さずゴミを処理でき、自動巻のコードリールを採用し、ケタ違いの吸引力でしたが、
  音が非常にうるさかったそうです。

  団地とニュータウン  堺の金岡団地が最初、 大阪の千里ニュータウンが日本初。 消費者金融の発祥も大阪。

  1960年代、団地に住むサラリーマンは相当な所得があった為、信用があるからという事で無担保・無保証の即融資する
  金融の形態が現れました。当時は『団地金融』と呼ばれていたそうです。
 
 1964年の東京オリンピック 
  TBS ひるおび 『五輪は第2の開国 1964年の東京五輪で生活に変化』 13.09.16 放送
  テレビ東京 開局50周年特別企画 『池上彰のJAPANプロジェクト 日本の底力スペシャル 第一部、第二部』 14.11.09 放送

  ≪ 世界初のユニットバス ≫

  東京がガラリと変化したのは東京オリンピックがきっかけでした。東京では競技場やホテル、道路などのインフラ整備の
  建設ラッシュ。国家レベルの集中投資をしたおかげで、東京は日本最大の一極集中都市へと変貌していきます。
  「宇宙中継」と呼ばれた衛星中継が始まり、オリンピックを観戦するためにカラーテレビも普及し始めます。






  ホテルニューオータニが建設される際、バスルームの軽量化と施工期間の短縮、見た目やメンテナンスが簡単という事で、
  世界で初めてユニットバス方式を採用。また、旅館では脚付きのテーブルとイスのセットが置かれるように決められました。
  また、外国人でも分かるように図で設備や場所を示すピクトグラムも日本で考案された世界初の表示方式。






 
 1970年大阪万博に出展された未来の風呂
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『関西レトロフューチュー・ランキング』 14.12.04 放送
  関西テレビ 胸いっぱいサミット! 『2025年大阪万博誘致で激論! 思い出の1970年大阪万博!』 16.11.05 放送

  ≪ 万博で注目を集めた未来の風呂 ≫

  1970年に開催された大阪万博では、宇宙や未来をテーマにしたものが多く展示されました。
  「歩く歩道」には係員が乗り方を説明したり警備員もいましたが、大勢が殺到しすぎて将棋倒しになる事故も発生しました。
  大阪万博をきっかけに全国に普及したものの一つです。






  サンヨー館で展示された「ウルトラソニックバス」(人間洗濯機)は、"未来のお風呂"として注目されました。
  当時の大卒初任給4万円の時代に300万円で売り出されたそうですが、ほとんど売れませんでした。
  しかし、その発想と技術はジェットバスや、介護浴槽の開発に応用されています。
 
 大阪で天然温泉施設が急増
  テレビ大阪 ニュースリアル関西 18.03.27 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『大阪で"温泉"増加のワケは 温泉施設が相次ぎオープン』 19.01.18 放送

  比較的大阪に銭湯が多く残っている事は割と知られているようですが、大阪に温泉のイメージは全くありません。
  しかし、大阪はどこを掘っても温泉が出るそうです。

  大阪府下の温泉施設は1998年の54軒→2016年133軒と約3倍に増加。
  負の遺産の一つとされていた港区の超高層ビルのオーク200が2018年3月に大阪ベイタワーとして新規オープン。
  米国の投資会社が再生させ、2019年2月26日には隣に安土桃山をテーマにした日本庭園などの施設を備えた
  空庭温泉をオープンします。






  大阪の温泉施設が増加している背景には外国人観光客の急増ですが、G20、万博、IRなどビックプロジェクトが
  今後も続きます。またUSJや大阪城公園、エキスポシティなど新しい施設が誕生し、大阪市内はリニューアル
  ラッシュのため国内観光客も増加しているようです。


  大阪府下で初めて温泉を掘削したのは関空がある泉佐野市の犬鳴山温泉の湯元温泉荘山乃湯。
  1957 (昭和32) 年に観光客を呼ぶために、温泉が無かった大阪でイチかバチかで掘削し湧湯したのが初。






  関西には火山が無いので、火山性の温泉ではなく非火山性の温泉。地面を掘ってくと地表よりもどんどん地熱が
  高まります。100m毎に平均約3℃上昇するようで、大阪の場合は100m毎4℃の上昇と平均より1℃高い。
  近畿地方最大の平野である大阪平野の地層は地下水を蓄えやすい砂れき地層が多いので、大阪市内の地下は
  大きな水たまりがあるような状態らしいです。

  大阪市内の地下を800m以上掘れば、何処からでも温泉が出るようですが、1ヶ所から湧き出る湧水量は多くない
  ので、そのため、温泉旅館が何軒も連ねる温泉街ができずスーパー銭湯やホテルでの利用される程度。

  温泉資源の保護する観点から、源泉から半径800m範囲内では新たな温泉掘削の許可は下りません。
  大阪の源泉数は1998年に京都とほぼ同じ100前後だったものが、2016年には172ヶ所となり、京都の136ヶ所より多い。
  172ヶ所のうち53ヶ所の源泉は、掘削期間中に事業者が倒産・メンテナンス費が足りないなどの理由で未利用。

  【温泉】おん-せん
   地熱のために平均気温以上に熱せられて湧き出る和泉。 冷泉れいせんはセ氏25度未満。
   多少の鉱物質を含み、浴用または飲用として医療効果を示す。硫黄泉・塩化物泉・二酸化炭素泉などがある。
   日本の温泉法では、泉温セ氏25度以上か、溶存物質を1キログラム中1グラム以上含むものなどをいう。

  【鉱泉】こう-せん
   鉱物質またはガスを多量に含む泉水。広義には温泉と冷泉との総称で、狭義には冷泉だけをいう。

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おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
2009.02.17発売
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OSAKA HABIKINO IGA 5-9-6  MARCO POLO 取り扱い商品 : アイスクリーム / シャーベット / ザーネアイス / 生チョコアイス / スイートポテト / コーヒーなど
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