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4月 |
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NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『桜の木に恋して ~日本人と桜の物語~』 11.04.06 放送 / 名作選として 15.03.25 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「高野山の紅葉を目指せ⑦ 世尊寺~金峯神社」』 13.10.17 放送
NHK 「新日本風土記」連動番組 もういちど、日本 『江戸の花見』 15.03.31 放送
毎日放送 せやねん ! 『桜を巡る外国マネー いざ現場へin平野神社』 15.04.04 放送 NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第1回 江戸のすし』 16.04.06 放送
NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第8回 上方の酒』 16.05.24 放送
≪ 花見 ≫
秀吉の京都醍醐の花見 紙本著色醍醐花見図屏風
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江戸 德川家の菩提寺寛永寺
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歌川広重 江戸名所図会 飛鳥山
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毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「伊勢・夫婦岩をめざす道 奮闘編③」』 14.02.26 総集編の放送
奈良県吉野郡吉野町HP 『吉野山と桜』 http://www.town.yoshino.nara.jp/kanko-event/sakura/yoshinoyama/ より抜粋
≪ 奈良の吉野山に桜が多い理由 ≫ Wiki 吉野山 役行者 修験道の祖、女人禁制のルーツ
『吉野山は全国的に桜の名所として有名で、4月の上旬から中旬にかけて3万本ともいわれるシロヤマザクラが豪 華絢爛に
咲きみだれます。日本全国の多くの桜の名所では、近代になってから桜並木を整備したり、古くからある古木を大切に
保護したり、いわゆる「花見」のために桜を植栽・管理しています。
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しかし、吉野の桜はそれらのものと は異なり、「花見」のためではなく、山岳
宗教と密接に結びついた信仰の桜として現在まで大切に保護されてきました。
その起源は今から約1300年前にさかのぼります。その当時は、山々には神
が宿るとされ、吉野は神仙の住む理想郷として認識されていました。
のちに修験道の開祖と呼ばれる役小角(役行者)は、山上ヶ岳に深く分け
入り、一千日の難行苦行の果てに憤怒の形相もおそろしい蔵王権現を
感得し、その尊像こそ濁世の民衆を救うものだとして桜の木に刻み、
これを山上ヶ岳と吉野山に祀ったとされています。
その後、役行者の神秘的な伝承と修験道が盛行するにつれて、本尊を
刻んだ「桜」こそ「御神木」としてふさわしいとされ、またそれと同時に蔵王
権現を本尊とする金峯山寺への参詣もさかんになり、御神木の献木という
行為によって植え続けられました。
また、吉野にはその桜に惹かれて、多くの文人墨客が訪れています。
古くは西行法師が吉野に庵を結び、多くの歌を残しました。』
平安時代に京都に植えられた桜の多くは、吉野の桜だそうです。
また、秀吉の醍醐の花見で京都に移植された桜も吉野産だったそうです。
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【役行者】えん‐の‐ぎょうじゃ 役小角えんのおづの・えんのしょうかく。役の優婆塞うばそく。
7世紀後半から8世紀にかけての山岳修行者。修験道(山伏)の祖。伝説や謎だらけの人物。たくさんの弟子がいた。
大和国南葛城郡の出身、葛木山に住んで修行、金峰山きんぶせん・大峰山・高野山・箕面山など吉野から摂津、
近畿一帯の山々を踏破し開拓。
≪ 奈良・平安時代初期の花見は梅が中心 ≫ Wiki 花見 Wiki ウメ
日本の花見は奈良時代の貴族の行事が起源だそうです。
唐の貴族の習慣に倣って、奈良時代には中国から伝来したばかりの梅の鑑賞が一般的でしたが、平安時代に桜に代わって
きたようです。
奈良時代759年成立の『万葉集』には桜を詠んだ歌が43首、梅を詠んだ歌が110首程度あります。
嵯峨天皇が京都の地主神社の桜に見惚れて以降、桜の花見が広まり、
『作庭記』には「庭には花の木を植えるべし」とあり、『花=桜』の意味。
平安時代初期の905年または914年に成立した『古今和歌集』では、その数が逆転して桜が70首に対し梅が18首に
なっています。貴族たちは桜の下で酒を呑み和歌を詠みました。
【作庭記】さくていき
日本で最初の造園秘伝書。寝殿造の邸宅に付属する庭園の作り方について説いたもの。
平安中期、橘俊綱 (1028~1094) の著か。
「花」が桜の別称 『桜=花』として使われ、女性の美貌が桜に例えられるようになるのもこの頃からだそうです。
鎌倉時代以降では、公家と武家など一部の上流社会で花見が行われました。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿の国宝めぐり 総集編SP」』 13.01.02 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「西国三十三所めぐり 奮闘編⑧」』 14.01.23 放送
関西テレビ 報道ランナー 『大阪天満宮より中継 春の恒例「盆梅展」』 20.02.14 放送
読売テレビ ten. 『天気予報 大阪城の梅林から中継』 20.02.19 放送
≪ 梅を愛した菅原道真 ≫
【菅原 道真】(すがわら の みちざね) 845年8月1日- 903年3月26日 大阪藤井寺市ゆかりの古墳・埴輪作りの 土師 (はじ) 氏からの出自。
平安前期の貴族・学者。是善の子。宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任、
894年(寛平6)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議。醍醐天皇の時、藤原一族の専制を抑えるため右大臣となったが、
901年(延喜1)藤原時平の中傷により無実の罪を背負って太宰府に流されました。
奈良時代の貴族には、梅の花を愛でる文化があり、特に菅原道真は梅の花を好んだ。
道真が京都の自宅の書斎・紅梅殿の梅になごりを惜しみ
『東風ふかば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』と詠まれました。
この心が通じてか、その梅が道真を慕って太宰府 (福岡県) の地まで飛んで来たといわれているのが『飛梅』です。同地で没。
書をよくし、三聖の一人。「類聚国史」を編し、「三代実録」の撰に参与。詩文は「菅家文草」「菅家後集」に所収。
死後、種々の怪異が現れたため御霊 ごりょう として北野天満宮に祭られ、のち学問の神として尊崇される。
【梅の都】うめ‐の‐みやこ
近世、大坂の異称。浮世草子、好色盛衰記「爰ここに梅の都を住所にして」。好色とは江戸時代の「恋愛」という意味。
古今集仮名序に手習の初めに学ぶとある歌。(奈良時代には文字を書く練習が行われていた事が分かります。)
王仁の歌とされる「難波津の 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」の「花」は梅だそうです。
【王仁】わに 和邇吉師わにきし。
古代、百済からの渡来人。漢の高祖の裔で、応神天皇の時に来朝し、「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらしたという。
【難波津】なにわ‐づ
難波江の要津。古代には、今の大阪城付近まで海が入りこんでいたので、各所に船瀬ふなせを造り、瀬戸内海へ出る
港としていた。
梅は約400種類あるそうですが、大阪城の梅林には約100種類1270本ほどが植えられいます。
大阪天満宮は境内には約100本植えられています。盆梅展は室内に50鉢展示されており2020年は照明を落として
プロジェクション・マッピングで夜の梅を演出。
荒山公園 こうぜん こうえん 堺市南区 http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/koen/shokai/shokai/kozen/index.html
太宰府天満宮 福岡県太宰府市 http://www.dazaifutenmangu.or.jp/
≪ 和歌山県の南部梅林公園 ≫ 朝日放送 キャスト 『中継 ウチきて 「日本一100万本梅林 3月上旬まで開催"梅まつり"」』 15.02.11 放送
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南部みなべ町は『日本一の梅の里』として知られています。
100万本と言われるほど多くの梅が植えられている
「梅林公園」では、2月上旬~3月上旬の季節、「梅まつり」
として花見を開催。
2015年には「梅酒コレクション」として、日本各地の梅酒82
種類が試飲できるイベントも行われました。
JR南部駅から龍神バスで約10分。
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≪ 嵯峨天皇によって桜の花見が始まった ≫
811 (弘仁2) 年の春、嵯峨天皇が京都東山の地主神社に行幸した時の事、牛車から見えた地主神社の境内に咲いていた
桜に目を奪われます。牛車を停めしばらく桜を眺めました。御所に向けて牛車を進めますが、桜を観たくなり引き返します。
牛車を引き返らせ桜を眺める行為を三回繰り返したそうです。
この地主桜と呼ばれる桜は、一つの枝に一重と八重が同時に咲く珍しい桜でした。 Wiki 嵯峨天皇
【嵯峨天皇】さが‐てんのう (786~842) 名は神野かみの。 桓武天皇の皇子。
平安初期の天皇(在位809~823)。「弘仁格式」「新撰姓氏録しょうじろく」を編纂させ、漢詩文に長じ、
「文華秀麗集」「凌雲集」を撰進させた。書道に堪能で、三筆の一人。
以後、嵯峨天皇は毎年、地主桜の枝を宮中に献上させるようになり、840年に成立した『日本後紀』には、
812 (弘仁3) 年に桜の花見が行われた事が「宴之節ここに始まる」と書かれています。
日本後紀で815年に近江国で茶を煎じて献上されたのが嵯峨天皇で、茶を飲んだ最古の記録。
但し、茶の道具は日本後紀 以前の奈良時代後期のものが出土しています。
【日本後紀】にほん-こうき
六国史の一つ。続日本紀の後をうけ、桓武天皇 (792年) から淳和天皇 (833年) に至る史実を記述した編年体の史書。
40巻。現存10巻。藤原冬嗣・藤原緒嗣らの撰。840年 (承和7) 成る。後紀。
これ以降、桜の花見が貴族たちの間にも急速に桜の花見が広まっていきました。
平安中期には貴族たちの屋敷に桜を植えるのは必須になっており、清水寺などの京都の桜の名所はこの頃作られた
ようです。
【地主権現】じしゅ‐ごんげん
寺院の境内に地主の神を祀った社。また、その祭神。中世以降、主に京都東山の清水寺地主権現を指した。
≪ 地主神社 ≫ 朝日放送 やまとナゼ? しこ 14.08.12 放送
東山区の清水寺に隣接する『縁結びの神様』として
有名な神社。
日本各地から若い女性が多く訪れています。
恋占いの石があり、約10mは熟れた二つの石の一方
から、もう一方へ目を閉じたまま辿り着ければ恋愛が
成就する。
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誰かの助けを借りて辿り着いた場合は、恋愛の方も人のアドバイスを受けて成就する。とされています。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「百人一首の旅 小野小町 絶世の美女の苦悩と悲恋」』 15.04.23 放送
≪ 桜の花を女性 (自分)に例えた小野小町 ≫ 女性は桜の花と同じ Wiki 小野小町
「花の色は移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」
「春の長雨が降っている間に、花の色は衰え色あせてしまった。
恋や世間の諸々の事に思い悩んでいるうちに、私の美貌が衰えてしまったように」
京都市山科区小野あたりに小野一族は住んでいました。
991年に創建された随心院には、小野小町の化粧けわいの井戸や、貰った恋文などを祀った文塚などがあります。
小倉百人一首に選ばれた上記の歌は、小町が晩年にこの地で詠んだものとされています。
【小野小町】おの‐の‐こまち(生没年不詳) 出羽郡司 小野良真(篁たかむらの子)の女むすめともいう。
平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。歌は柔軟艶麗。文屋康秀・僧正遍昭らとの贈答歌があり、
仁明・文徳朝頃の人と知られる。絶世の美人として七小町などの伝説がある。
【小野篁】おの‐の‐たかむら(802~852) 参議 岑守みねもりの子。 小野良真の父。小野小町の祖父。
平安前期の貴族・文人。遣唐副使に任命されたが、大使 藤原常嗣の専横を怒って病と称して従わず、
隠岐おきに流され、のち召還されて参議。博学で詩文に長じた。「令義解りょうのぎげ」を撰。野相公。野宰相。
【小野】おの
古代の豪族。姓は臣。八色姓やくさのかばねで朝臣。
近江国滋賀郡小野村より起こると伝え、山城国愛宕郡小野郷などに勢力をもつ。
在原業平 (825~880、六歌仙・三十六歌仙の一人)
『世中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』
いっそ桜なんかなかった良かったのに、そうすれば私の心はもっと穏やかだっただろう。
紀友則 (~905年頃、没年60才くらい。三十六歌仙の一人)
『春霞たなびく山の桜花 みれどもあかぬ 君にもあるかな』
山の桜を見て飽きる事がないように、アナタの事をいくら見ても飽きません。
文芸評論家の小川和佑さんによると
「『桜と女性が同じ』という見方は男性が発見して、
男性によって伝えられたもの。
そして、小野小町が初めて自分たち女性が桜だと
自覚した。
明るくて清らかな女性こそが桜の花のようだ、と。
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紫式部の『源氏物語』(1008年頃~)では、男たちが紫の上の事を「樺かば桜の咲き乱れたるを見る心地す」と表現しています。
女性の美しさの最大の褒め言葉として、「桜の花が咲いているかのようだ」と例えているのだそうです。」
≪ 御所の桜に心を奪われた平安貴族たち ≫ Wiki 藤原俊家 / Wiki 藤原定家
藤原俊家(1019~1082)は御所の桜の美しさに見惚れ、神聖な場所にも関わらず歌を唄いだしてしまいました。
駆けつけた御所警備人も、俊家を止めるどころか、つられて踊りだしたそうです。
俊家は声がよくとおり歌を詠いあげるのが上手かったといわれ、その声に誘われて多政方という舞の名人と阿吽の呼吸で
舞い踊ったことが『古今著聞集』に記録されているそうです。
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【古今著聞集】ここんちょもんじゅう
鎌倉時代の説話集。20巻30編。橘成季撰。
1254年(建長6)成る。今昔物語集・宇治拾遺物語・
江談抄・十訓抄などの説話をも採り入れ、
日本の説話を題材別に分類収録。
藤原定家は御所の桜の美しさに魅せられてしまい、
夜間に御所に侵入し枝を折り自宅に持ち帰りました。
翌朝、発覚して天皇から問いただされる騒ぎに発展
したそうです。
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【藤原定家】ていか / さだいえ(1162~1241) 俊成の子。いわゆる小倉百人一首の撰者で有名。 藤原道長の子孫
鎌倉前期の歌人。京極中納言などと呼ばれた。新古今集(共撰)・新勅撰集を撰。歌風は絢爛・巧緻で、新古今調の代表。
家集「拾遺愚草」のほか歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌之大概」など。源氏物語・古今集・土佐日記などの古典校勘の
業に従い、日記に「明月記」がある。書風は、後世、定家流と呼ばれ、江戸の茶人に珍重された。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「百人一首の旅② 伊勢の大輔」』 15.04.30 放送
≪ 興福寺の桜を巡る騒動と伊勢大輔 ≫
毎春、宮中では奈良の八重桜を運んで花見をしていました。その桜の枝を受け取る役目は名誉ある仕事で、紫式部
などの女官が務めていました。
藤原道長の娘で天皇の妃となった中宮彰子は、美しいと評判の奈良の興福寺(藤原氏の氏寺)の桜の事を聞きつけ
ました。 Wiki 藤原彰子
【上東門院】じょうとう‐もんいん(988~1074) 藤原彰子。 藤原の道長の女むすめ。 一条天皇 (66代) の中宮。
1000 (長保2) 立后、1026 (万寿3) 院号宣下。後一条天皇 (68代) ・ 後朱雀天皇 (69代) の母で、側近に紫式部らがいた。
この頃、「奈良の八重桜」といえば興福寺の東円堂の前の桜と相場が決まっていたようです。 興福寺
【興福寺】こうふく‐じ、こうぶくじ。
奈良市にある法相宗の大本山。南都七大寺の一つ。
藤原鎌足の遺志により夫人の鏡王女が山城国山科やましなに創建した山階寺やましなでらが起源で、藤原京に移って
厩坂寺うまやさかでらと称し、さらに平城京に移されたとされているが、実際には藤原不比等が8世紀初頭に現在の地に開創。
以来藤原氏の氏寺、大和国領主として僧兵を擁し、久しく盛大をきわめた。
東金堂・南円堂・北円堂・三重塔・五重塔などがあり、貴重な文化財多数を存する。
その八重桜が欲しいと思った彰子は、家来を遣わし桜を根ごと引き抜き都へ持ち帰ろうとしました。
興福寺の僧侶たちは怒り、体をはって大切な桜を守り押し留める騒動にまで発展しました。
彰子は、興福寺の風流心に感じ入り、伊賀の予野よの庄(三重県伊賀市)を寺に寄進し興福寺領としました。予野庄を
花垣の庄と名付けて、毎年桜の時期には宿直人を置いて花守とした。という話が『沙石集』にあるそうです。
【沙石集】しゃせきしゅう
(サセキシュウとも)仏教的説話集。10巻。無住道暁著。1279~83年(弘安2~6)成り、加筆も行われた。
仮名まじり文で通俗的に書かれ、説教の種本に利用される。
その後、一枝が宮中に届けられます。
この枝を受け取る名誉ある大役は紫式部が務める予定でした。紫式部は後輩女官の伊勢大輔に大役を譲りました。
【伊勢大輔】いせ‐の‐たゆう、いせ‐の‐たいふ Wiki 伊勢大輔
平安中期、藤原道長・頼通の頃の歌人。中古三十六歌仙の一人。 伊勢の祭主 大中臣の輔親の女むすめ。
上東門院 (藤原彰子) に仕え、のち高階成順たかしな‐なりのぶの妻。家集「伊勢大輔集」
その枝を届けに行ったところ藤原道長に歌を詠むように言われ、伊勢大輔が詠んだのが
『古いにしへの 奈良の都の八重ざくら 今日九重ここのへに 匂ひぬるかな』
「昔、奈良の都で咲き誇っていた八重桜が、今日はこの九重 (宮中) で美しく咲き誇っています」 現在の宮中を賛美する歌。
この時の様子を書いてある『袋草紙』には「…万人感歎宮中鼓動…」とあります。
急きょ伊勢大輔が詠んだ歌は、宮中の誰もが衝撃を受ける素晴らしい歌という評価だったようです。
この歌で新人だった伊勢大輔は宮中で一躍有名になったそうです。
【袋草紙】ふくろぞうし
歌学書。2巻。藤原清輔 (平安末期の歌人・歌学者 1104~1177) 著。1157(保元2)頃なる。歌会作法・故実・逸話などを集成
伊勢大輔が詠んだとされる奈良八重桜は興福寺からすぐの奈良県庁前にあり、奈良県花・奈良市花に制定されています。
見ごろは4月下旬頃。
47News 『デスク日記 「桜のうんちく」』 2007.03.30~04.13 配信 http://www.47news.jp/topics/diary/008/
≪ 桜会さくら‐え ≫
平安時代から鎌倉末期まで、桜の咲く頃に行われた法会。東大寺・醍醐寺・賀茂社など。
醍醐寺では終りに観桜の宴を寺内の清滝宮で催し、清滝会きよたきえともいう。
NHK奈良 Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『人脈力~西行 派閥を超えたネットワーク』 14.10.21 放送
≪ 桜を愛した歌人 西行法師 ≫ Wiki 西行
天皇家 (鳥羽院とその子 崇徳院・後白河院)・貴族 (藤原定家など)・武士 (平清盛とは同僚、藤原秀衡とは遠縁) ・僧侶・
庶民にも人脈を持ち、弱い者や敗者に寄り添う『しるべ』(亡くなる時に、西方の極楽浄土へ導く法師) として人々に
慕われました。
「願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」
もし願いが叶うならば、2月の満月の頃、桜の下で生涯を終えたいものだ。
【西行】さいぎょう (1118~1190) 俗名、佐藤義清のりきよ。法名、円位。
平安末・鎌倉初期の歌僧。鳥羽上皇(74代天皇1103~1156)に仕えて北面の武士。23歳の時、無常を感じて僧となり、高野山、
晩年は伊勢を本拠に、陸奥・四国にも旅し、河内国の弘川寺で没。述懐歌にすぐれ、新古今集には94首の最多歌数採録。
家集「山家さんか集」。
【北面の武士】 ほくめん‐の‐ぶし 北面の侍。北面。きたおもて。
院の御所の北面きたおもてにあって、院中を警護した武士。官位により四位・五位の者を上北面、六位の者を下げ北面または
北面の下臈げろうという。白河法皇(72代天皇、院政を始める。1053~1129)の時に始まる。
大阪府南河内郡河南町の弘川寺は、桜を愛した歌人としても有名な西行法師が没年を過ごし、お墓もあります。
見ると美人になれるという『海棠かいどう』という花もあります。
大阪府HP 『大阪府指定天然記念物弘川寺のカイドウ』 http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/hirokawadera_kaiou.html
【西行忌】さいぎょう‐き
西行の忌日。西行は文治6年(1190)2月16日に没したが、『願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の
ころ』の歌にちなんで、一般には前日の涅槃ねはんの日(陰暦2月15日)を忌日とする。円位忌えんいきともいう。
【西行桜】さいぎょう‐ざくら
① 能。世阿弥作。西行の庵にある老木の桜の精の翁が、京都の春景色を語り舞う。
② 地歌。手事物。菊崎検校作曲。江戸時代の天明年間(1781~1789)頃の作。①の能に取材して京都の桜の名所
尽しを歌う。
【西行被き】さいぎょう‐かずき
富士見西行の絵姿のように笠をあみだにかぶること。
西鶴織留さいかくおりどめ (井原西鶴の未完成の「本朝町人鑑」と「世の人心」を合わせて、その没後1694年(元禄7)に
刊行された浮世草子) 「五十ばかりの法師、麻の衣の袖まくり手して、竹笠を西行被きに」
倉敷市自然博物館HP 『文学作品に登場する植物たち』 http://www2.city.kurashiki.okayama.jp/musnat/plant/bungakusakuhin/index.html
このサイトには『出雲風土記』『古事記』『日本書紀』~江戸時代の 40弱の書物に登場する植物が一覧にまとめられています。
慶應義塾大学 学術情報リポジトリ 『博物誌史料としての「お湯殿の上の日記』
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN10079809-20060930-0033.pdf?file_id=10485
≪ 室町時代~桃山時代の記録に「梅」「桜」「菊」の多く花銘柄 ≫
『御湯殿の上の日記』『言継卿記』『蔭涼軒日録』には、文献初出の花の銘柄の記述があります。
【御湯殿の上の日記】おゆどの-の-うえ-の-にっき Wiki 御湯殿上日記
清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。禁中の日常や女房詞などを知る好史料。
1477(文明9)から1826年(文政9)までのものが現存。
【言継卿記】ときつぐきょうき コトバンク『言継卿記』 より
山科言継の日記。1527年から1576年に至る。原本37冊が残る。言継は当時窮乏していた朝廷の費用調達などに奔走した。
皇室経済をはじめ,公家の窮乏生活や地方豪族の台頭,医療関係のことなどが記され,戦国時代の貴重な記録。
【山科言継】やましな‐ときつぐ(1507~1579) Wiki 言継卿記
戦国時代の公家。内蔵頭くらのかみ・御厨子所みずしどころ別当として皇室経済の維持に努める。
故実・音楽に通じていた。日記「言継卿記」。
【蔭涼軒日録】いんりょうけん-にちろく
相国寺鹿苑院内の蔭涼軒主の公用日記。1435~66年(永享7~文正1)は季瓊真蘂きけいしんすい、1484~93年
(文明16~明応2)は亀泉集証の筆録。京都五山を中心とする政治・美術に関する記事が多い。
奈良県吉野郡吉野町HP 『吉野山と桜』 http://www.town.yoshino.nara.jp/kanko-event/sakura/yoshinoyama/ より抜粋
≪ 秀吉と吉野の花見 ≫
『吉野での花見といえば、豊太閤秀吉の 花見を抜きには語れません。秀吉が、絶頂の勢力を誇った文禄3(1594)年、
徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人の供
ぞろえで吉野山を訪れました。
しかし、この年の吉野は長雨に祟られ、秀吉が吉野山に入ってから3 日間雨が降り続きました。
苛立った秀吉は、同行していた聖護院の僧 道澄に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と
伝えると、道澄はあわてて、吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じました。
その甲斐 あってか、翌日には前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、盛大に豪華 絢爛な花見が催され、さすがの
秀吉も吉野山の神仏の効験に感じ入ったと伝えられています。』
【豊臣秀吉】とよとみ‐ひでよし(尾張国中村の人。1537~1598一説に1536~1598) 木下弥右衛門の子。
幼名、日吉丸。初名、藤吉郎。
戦国・安土桃山時代の武将。15歳で松下之綱ゆきつなの下男、後に織田信長に仕え、やがて羽柴秀吉と名乗り、
本能寺の変後、明智光秀を滅ぼし、四国・北国・九州・関東・奥羽を平定して天下を統一。
この間、1583年(天正11)大坂に築城、85年関白、翌年豊臣の姓を賜り太政大臣、91年関白を養子秀次に
譲って太閤と称した。明を征服しようとして文禄・慶長の役を起こし朝鮮に出兵、戦半ばで病没。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 近畿国宝めぐり ~高野山の紅葉を目指せ7 秋の高野詣 最終回~』 13.10.17 放送
≪ 秀吉が吉野の花見の拠点とした吉水神社 ≫ Wiki 吉水神社
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つ、旧社格は村社。
1594年、秀吉が総勢5000人に引き連れ、吉野山の花見行いました。その際に吉水神社を本陣としました。
飛鳥時代の白鳳期(650~680年?)頃に役行者によって創建されたといわれる由緒ある神社で、明治時代まで入山
許可書を発行していました。
【吉水院】よしみず‐いん
奈良県金峯山寺きんぷせんじの僧坊。大宝(701~704)年中、役小角えんのおづのの創始といい、源義経の潜居、
また後醍醐天皇の行宮あんぐうとして有名。1875年(明治8)吉水神社と改める。
お宝満載 奈良吉野の吉水神社 静御前の着物、後醍醐天皇の硯、豊臣秀吉が被ったの能面など
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「広島・巌島神社の桜を目指せ!」』 13.04.18 放送分の総集編 13.12.26 放送
≪ 豊臣秀吉の花見 ≫
秀吉の豪華な花見としては奈良の吉野山や京都の醍醐寺などが有名ですが、広島県の宮島にも花見に訪れている
そうです。
厳島神社の末社として豊国神社があり、別称が『千畳閣』で、豊臣秀吉が建立命じた宮島最大の大経堂です。
【厳島】いつくしま 伊都岐いつき島。宮島。 大阪四天王寺と厳島神社の関係
広島湾南西部の島。日本三景の一つ。面積約30平方㎞。その最高所は、標高535mの弥山みせん 。
廿日市は市に属し島全体が原始林で覆われる。北岸に厳島神社と門前町がある。
【厳島神社】
厳島にある元官幣中社。市杵島姫命を主神とし、田心姫命 ・湍津姫命を合祀。社殿は海中に立ち、宝物類には平家
寄進のものが多く、大鳥居・朱塗の殿堂・五重塔・千畳閣・能舞台など、国宝・史跡に富む。世界遺産。安芸国一の宮。
広島ニュース 食べタインジャー 『千畳閣(豊国神社)、豊臣秀吉が建立命じた宮島最大の大経堂』 / Wiki 千畳閣
http://tabetainjya.com/archives/hatsukaichi2/post_2928/
テレビ大阪 歴史ミステリー 『天下一の成金男・豊臣秀吉!!-Mr ゴールド- 2009年に放送 / 読売テレビ 秀吉が愛した京都 15.03.29 放送
≪ 日本最大と言われる醍醐の花見 ≫ Wiki 醍醐の花見
1598 (慶長3) 年3月15日 (現在の太陽暦 4月20日) 秀吉の没年 (62才) に、北政所 (おね) や側室たちを労う為に
企画して行われた醍醐の花見。京都市伏見区の醍醐寺を本陣としました。
【醍醐寺】だいご‐じ
京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。874年(貞観16)聖宝が今日の「上かみ醍醐」を創立。
続いて山麓の「下しも醍醐」に、952年(天暦6)造立の五重塔などの伽藍が整備。
室町時代まで東密小野流・三論教学の拠点として繁栄。上醍醐の観音堂は西国三十三所第11番の札所。
参加者1300人のうち秀吉と秀頼、大名で唯一招待された前田利家を除くとほとんどが女性で、伏見城からパレードのように
練り歩きました。
花見に向かう輿の行列の順番、2番目に淀殿と松の丸殿のどちらを持ってくるかが悩みの種でした。
淀殿は秀頼の母親、松の丸殿は側室になって15年と最も古く、寵愛していた女性でした。結局、2番目は淀殿に決めました。
島津家文書によると、
醍醐寺三宝院裏の山麓の広大な200万坪には満開の700本の桜 (吉野や滋賀など近畿一円から集めた) を植え、
山中には8つの茶屋を用意。
4才の秀頼が喜ぶように鯉や鮒を泳がせた池が付いた茶屋や、湯殿(風呂)が付いた豪華な茶屋などを用意していました。
1300人余の女性すべてに3回ずつ新調した衣装替えをさせたので、衣装代だけで推定 39億円近くと言われているそうです。
加賀藩史料の『陳善録』(前田利家の家臣 村井重頼 著)「利家公夜話」によると
最後の茶屋で、秀吉が杯を遣わした時、側室同士の争いが勃発。
まず、正室のおね (北政所 様)に杯を渡した後、秀頼を生み側室No.1の立場である淀
(西の丸殿) を飛ばし、松の丸 (京極殿) という側室に杯を差し出したのです。
これに淀が怒り、淀と松の丸の間で杯の奪い合いになりました。
この秀吉から手渡される杯の順番は寵愛の順番。決して譲れない側室のプライドが
かかったもの。
おねと利家の妻である松が2人をなだめ、修羅場は終わったそうです。
※ 松の丸は淀より古参の側室。輿の順序では淀の次にしたので、秀吉は杯の順序を
逆にする事でバランスを取ろうとしたのかも知れませんが、裏目に出たようです。
秀吉は1日中元気に歩き回り、来年は帝 (天皇) をお招きしてもっと盛大な花見を開こうと
思っていたようですがその5カ月後に伏見城で没しました。
秀吉の遺言で京都東山の豊国廟に埋葬されました。
死後、秀吉自ら神として祀られる事を望み、豊国廟がある阿弥陀ヶ峯の中腹に広大な
敷地を有する豊国神社が建てられました。
大坂の陣以後、德川家康が秀吉を神と崇める事を禁止し豊国神社は廃止され荒廃、
一時断絶します。
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明治時代になり、幕府を作らなかった事から『尊皇の功臣』として明治政府が認めて復活しました。
現在は、最も由緒があり古い伏見の他、豊国神社は名古屋市・大阪市・長浜市などにあります。
いくつもの戦火によって壊滅状態であった醍醐寺を秀吉が立直しました。国宝の金堂は紀州湯浅から移築させたもの。
国宝の三宝院からは秀吉が設計した庭を見る事ができます。庭の真ん中には、室町幕府最後の将軍の足利義昭、
織田信長に引き継がれてきた名石『藤戸石』が配されています。
この名石を見せるために、庭が造られ三宝院表書院も建てられたとも言われているようです。
【足利義昭】あしかが-よしあき (1537~1597) 第12代将軍 義晴の子。
室町幕府第15代将軍 (在職1568~1573)。興福寺一乗院門跡となり覚慶。還俗して初め義秋。
織田信長に擁立されて将軍となったが、のち不和を生じ、1573年 (天正1) 京都を追われる。
諸国を流浪、豊臣秀吉に保護され、大坂に没。)
三宝院表書院の襖絵は狩野派に対抗した事で有名な長谷川等伯はせがわ-とうはく (1539~1610) 一派の作。
三宝院表書院に続く散歩院純浄館 (通常非公開) は、醍醐の花見をした山上から移築したものと伝えられています。
花見で秀吉が詠んだ和歌もいくつか残されています。
「あらためて 名をかへてみむ 深雪山 うつもる花も あらはれにけり」 が最も有名な歌。
満開の桜で埋め尽くした山を雪にみたて深雪山と詠んだ歌。
醍醐寺 文化財アーカイブス 『特集1 醍醐の花見 -豊臣秀吉と義演准后-』
http://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/index.html
紀伊@赤石いとこ さんのブログ 『醍醐の花見』 11.04.08 配信 http://ameblo.jp/chachahime-blog/entry-10856022874.html
NHK Eテレ 美の壺・選 『File96 弁当箱』 13.07.21 放送 / NHK Eテレ 美の壺・選 『File252 弁当』 14.06.15 放送
テレビ大阪 夕刊7ch 『貴重 日本人の食を支えた弁当箱の由来と歴史』 14.09.04 放送 毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅41 坂上是則・参議雅経、世界遺産の吉野山へ』 16.02.18 放送 NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第8回 上方の酒』 16.05.24 放送
≪ 遊山用弁当箱 ≫
箱型の弁当箱が誕生したのは安土桃山時代。
桃山時代の花見を描いたの花下遊楽図屏風 →
には、下の京都の蒔絵の紅葉柄弁当箱と同型の
ものが描かれています。
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※ 服装と髪形などから花見を行っているのは、桃山時代の町人階級と推測できそうです。
上の右の画像は 安土桃山時代の弁当箱は大阪の炊飯器メーカー象印が所有しているものです。
東京国立博物館HP 『花下遊楽図屏風』 http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A11530
↑花下遊楽図屏風かかゆうらくずびょうぶ 狩野長信(京都の狩野派の画家 1577-1654)筆 Wiki 狩野長信
【狩野派】かのう‐は
狩野正信(1434~1530)を始祖とする画家の家系・画系。室町後期から江戸時代を通じて武家の御用絵師として繁栄。
江戸時代以降 花見の習慣が広がり、装飾技術が発達し漆塗りと蒔絵を使った美しい弁当箱も多く作られるようになりました。
日本髪が結われるようになったのは江戸時代初期以降です。 江戸時代に色んな髪型ができた 吉原遊郭の雑学、江戸時代の化粧など
江戸時代 京都の弁当箱 戦国時代に戦で使われた弁当箱
江戸時代前期1689年に創業した京都市東山区の半兵衛麩の11代当主 玉置半兵衛さん (『半兵衛』は代々商売用の
名前で名乗っている) (本名は玉置辰次さん) は弁当箱のコレクター。下の画像の行厨などを所蔵。
↓春の花見用は桜柄、初夏の蛍狩り用は川の流れと蛍、秋の紅葉狩り用は紅葉柄。
【花見小袖】はなみ‐こそで … 花見に婦女の着る小袖。酒宴の時、枝に掛けわたして幕とした。
【花見幕】はなみ‐まく … 花見の宴に張る幕。 【行厨】こう-ちゅう … 弁当。わりご (主にヒノキ製の弁当箱)。箪食たんし(竹製の弁当箱)。
下の左3枚は、京都市上京区の高津古文化会館所蔵の江戸時代の行厨・酒器類。
右端は、奈良県吉野町にある飛鳥時代ら聖徳太子によって創建された竹林院が所蔵する 『秀吉の行厨』。
吉野山の花見の際に使用したもので、千利休が考案したものと言われています。
≪ 江戸の花見 ≫
江戸時代初期、江戸上野に桜が植えられた事で庶民も桜を愛でる事ができるようになりますが、当時の上野は
德川の菩提寺である寛永寺の敷地内だった為、飲食や鳴り物は厳禁で静かに花を観賞する程度でした。
【寛永寺】かんえい‐じ
東京都台東区上野公園にある天台宗の寺。山号は東叡山。寛永2年(1625)天海が開山。
歴代住持は法親王で、輪王寺宮門跡と称した。徳川将軍家の菩提所。
【天海】てんかい(会津の人、1536~1643)
江戸初期の天台宗の僧。南光坊と称。南都北嶺を遊学した後、川越喜多院などに住す。徳川家康の知遇を受け、
内外の政務に参画、延暦寺の復興と日光山の整備にも尽力。家康の死後、東照大権現の贈号と日光山改葬を主導。
また、寛永寺を創建し、大蔵経を刊行、天海版と称せられる。諡号は慈眼じげん大師。
≪ 飲食を伴う花見は德川吉宗の時代から、江戸の桜の名所が次々作られた ≫
江戸中期、幕藩体制の引き締めと人口過密による江戸町民の不満がつのる一方でした。
第8代将軍の徳川吉宗は飛鳥山公園 (東京北区) に1000本を超える桜を植えて桜の名所とし、町民たちが桜の下で
飲食や歌い踊る事を容認。
吉宗自らが飛鳥山で花見の宴を催し、花見の愉しみ方を教えました。これが江戸の花見の始まりとも言われています。
その後も、吉宗は江戸に次々と桜の名所をつくり、庶民の気晴らしができる場所と機会を提供しました。
【飛鳥山】あすか‐やま … 東京都北区王子にある小丘陵。現在、公園。江戸時代から桜の名所。
テレビ朝日 林修の今でしょ!講座3時間SP 『東大教授が教える!天才家康の町づくり』 16.04.12 放送
≪ 土手に桜が多いのは川の氾濫対策の名残 ≫
吉宗が川の土手に桜を植えさせたのは、多くの人が花見を行う事により、土が踏み固められ、
土手の堤防が頑丈になる川の氾濫対策も同時に狙ったものだと考えられています。
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【徳川吉宗】とくがわ‐よしむね(1684~1751) 紀州2代藩主徳川光貞の4男。
徳川第8代将軍(在職1716~1745)。初名、頼方。紀州藩主となり、藩財政改革に手腕を発揮。
将軍位を継いで享保の改革を行なった。米将軍と呼ばれる。諡号、有徳院。
≪ 江戸時代末期 花見重詰めには刺身が入っていた? ≫ 毎日放送 せやねん! 15.04.04 放送
江戸名所圖會 飛鳥山
歌川広重 作 (1843~1846年頃)
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江戸食文化研究家で、千葉大学の松下幸子 名誉教授によると
✿ 花見の文化は秀吉の頃からありましたが、庶民の楽しみになった
のは江戸時代です。
✿ この頃に幕の内弁当よりも先に、行楽のお供になる花見弁当の前身と
言われている"花見重詰め"が登場しています。
✿ 注目なのは三の重に入っていた刺身だと思われます。
当時は日常的に生魚を食べることが少なかったらしく、一番のごちそうを
桜の下で楽しみながら食べていたみたいです。
※ 当時の3~4月は現在より気温が低く、現在の1~2月頃の気温と同じ位だったそうです。
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【歌川広重】うたかわ ひろしげ (江戸の定火消同心の子。1797~1858)
江戸末期の浮世絵師。本姓、安藤。一遊斎・一幽斎・一立斎と号。
歌川豊広の門人。詩情豊かな風景版画の連作に名をなし、また花鳥画にも新境地を開いた。
作「東海道五十三次」「名所江戸百景」など。
読売テレビ ウェークアップぷらす 『東京の最高気温の変化』 16.05.14 放送
右の画像は1870年代~2010年代までの10年毎との東京の6月上旬の最高気温の変化を
表したグラフ。
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明治初期の1870年代で24.5℃、1900年代が最も低く24.3℃くらい。2000年代が最高で26.3℃くらい。
2010年代が26.1℃くらいになっています。
140年間で2℃近くの上昇。江戸時代は小氷期とも言われていますので、さらに気温が低かったと考えられています。
≪ 黄色い花の桜もある ≫ NHK サイエンスZERO 『ソメイヨシノの起源に迫る』 15.04.05 放送 / Wiki サクラ
桜は分類の仕方によって異なりますが、チョウジザクラ ・ オオヤマザクラ ・ カスミザクラ ・
タカネザクラ ・ マメザクラ ・ カンヒザクラ ・ ヤマザマラ ・ エドヒガン ・ オオシマザクラ ・
ミヤマザクラ と、日本に自生している野生の桜は10種類に大別。
日本の桜を代表する『ソメイヨシノ』は園芸種。全てのソメイヨシノは、1本の個体から
分けて植えられた同じDNAを持つクローンと言われています。
その為、気温差など一定の条件が整うと同一地域では一斉に開花します。
2015年は3月21日に鹿児島のソメイヨシノが最初に開花しました。
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≪ 染井吉野の起源 ≫ Wiki ソメイヨシノ より
『江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された。
初めサクラの名所として古来名高く西行法師の和歌にもたびたび詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで
「吉野」「吉野桜」として売られ、広まったが、藤野寄命による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる
種の桜であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、
「日本園芸雑誌」において染井村の名を取り「染井吉野」と命名したという。翌年、松村任三が学名をつけた。』
≪ 桜開花の標本木 ≫ コトバンク 『桜の標本木』
各地の気象台の敷地などにある開花の基準となる木。5~6輪咲いた状態が開花、8割以上開いた場合が満開。
開花予想は、民間が精度の高い予想をするようになり、2009年春を最後に発表をやめた。民間の一部は気象庁の標本木
データを中心に予想している。
江戸の染井村で作られて以降、日本各地に植えられ、現在は数百万本あるとも言われており、桜開花の標準木に指定されて
います。
【染井吉野】そめい‐よしの
サクラの一種。各地で最も普通に栽植。花は葉に先だって開き、つぼみは初め淡紅色で、次第に白色に変わる。成長は早いが
木の寿命は短い。エドヒガンとオオシマザクラの雑種とされ、江戸染井の植木屋から売り出されたという。ヨシノザクラ。
桜ip 『桜の標本木の場所』 http://桜.jp/hyouhonboku.html
桜は 変異や雑種が多い。 虫が花粉を運ぶので父親 (雄木) の特定が難しく家系図が複雑。人が増やして移動させて
植えている。寿命が長いので、世代を超えた受精が起こる。
これらの事から、遺伝子が複雑に入り乱れており、ソメイヨシノの親木を特定するのは困難なのだそうです。
≪ 日本各地のソメイヨシノは同一個体から派生したクローン ≫
1990年代からソメイヨシノのルーツをDNA解析で行ってきましたが、当時はDNAフィンガープリント法という技術でしたが、
現在ほど高い技術ではありませんでした。
茨城県つくば市にある森林総合研究所で、さらに進んだ最新のDNA解析法でルーツを探っています。
SSR=シンプル・シーケンス・リピートという品種間で違いが最もでやすいDNAの領域を分析調査。
SSRという領域は単純な繰り返しなので、この部分が違うと別の個体である事が分かるそうです。
遺伝子の17ヵ所のSSRの特徴を調べ、全てが一致する確率は1兆分の1の確率。(ほぼクローンであると断定できます。)
日本各地10ヵ所に植えられているソメイヨシノのサンプル調査の結果、全てのSSRが一致しクローンである事が再確認されました。
≪ ソメイヨシノと同じDNAを持つ野生種 (親木候補) は? ≫
桜の品種の元になる野生種それぞれのSSR領域の26ヵ所を比較すると、SSRの波形が品種によって異なる事が分かります。
栽培品種は、野生種特有の波形と一致する部分があれば、その同じ波形を持った野生種が起源 (先祖) であると推定できます。
従来 オオシマザクラ × エドヒガンと言われてきましたが、 (オオシマザクラ×ヤマザクラの自然交雑種) × エドヒガン
だという事が判明。ソメイヨシノのDNAの内訳は エドヒガン47%、オオシマザクラ37%、ヤマザクラ11%、不明5%。
オオシマザクラとヤマザクラの交雑種は、人里で人為的に植えられた桜によく見られる種だそうです。
種ができないソメイヨシノは人工的に作られたと考えられてきましたが、岐阜大学応用生物科学部の向井譲 教授によると
「サクラの人工交配をしていた記録はないので、意図的に品種改良したものとは考えにくく、自然交雑したもの」と考えられる
そうです。
≪ ソメイヨシノの原木がある? ≫
ソメイヨシノの発祥とされてきたのは、江戸の染井村 (東京都豊島区駒込) でした。江戸時代後期、染井村の植木職人が
発見し全国に広まったと考えられてきました。
しかし、桜は自家受精しないという事などを手掛かりに調べている中村教授は上野に原木があると考えています。
千葉大学大学院園芸学研究科の中村郁郎 教授の新説によると、
東京都台東区の上野公園にある管理番号136番の桜が、ソメイヨシノの原木ではないかと推測しているようです。
江戸時代の上野公園は、桜の名所で名高い寛永寺の敷地でした。
【上野公園】うえの‐こうえん
上野にある都立公園。もと寛永寺の境内で、桜の名所。
1873年(明治6)開設。東京芸術大学や博物館・美術館・動物園・不忍池しのばずのいけなどがある。
正称、上野恩賜公園。古称、忍ヶ岡。
根拠は、この原木候補の木の周辺に、他のソメイヨシノやエドヒガンやコマツオトメなどの古い木が並んで植えられている
桜の位置関係。
ソメイヨシノの原木候補となる桜以外にも、ソメイヨシノ4本、コマツオトメ1本、エドヒガン系5本の古い木が並んでいる事。
自家不和合性 (自家受粉できない性質) とそれに関連するS遺伝子に注目。
S1、S2という2つの遺伝子を持つ桜には、同じS1、S2の遺伝子は受精しない。S3など異なる遺伝子を持つ花粉だけを
受精します。高い確率で受精する為にS遺伝子の数は多様で、オオシマザクラで60種類、エドヒガンだと100種類の
S遺伝子を持っています。
S遺伝子の種類が多いので、無関係のS遺伝子が一致する確率も非常に低くなります。
そこで上野公園の7本の木のS遺伝子を抽出し比較。
原木候補の管理番号136番のソメイヨシノと、他の6本のS遺伝子1つが一致。
管理番号142番では2つとも一致。その確率は1万分の1程度。つまり136番と142番は
同一か兄弟である可能性が非常に高い。
またエドヒガン系の管理番号141、143、144の3本も2つのS遺伝子が一致しました。
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中村教授の考えでは、染井村の園芸職人の庭先で実を付けた桜の種を寛永寺に持って行き数本植えた。
一番良い咲き方をしたものを原木とし接ぎ木で全国に広めた。
中村教授は葉緑体などの研究もしており、現在のところ矛盾点はないとの事。
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岐阜大学応用生物科学部の向井譲 教授は
「S遺伝子の解析から血縁関係推定の手掛かりを得る事はできますが、種内のS遺
伝子がどれくらいの割合で存在するのか、まだはっきりしていない事も多い。
現地の解析だけではサンプル数が少ないので、結論を出すには更に多くの遺伝子を
調べる必要がある。」としています。
中村教授の新説は、まだ学会で発表されたばかりなので、その説を検証する観察や
研究が今後行われていくようです。
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≪ ソメイヨシノが日本各地に植えられた理由 ≫
静岡県掛川市の資生堂企業資料館に、江戸時代中期の園芸家 伊藤樹久が描いた『本草花蒔絵』が保管されています。
この植物図鑑には様々な桜が描かれており、接ぎ木が行われていた事がわかる鉢の絵もあります。
東京都八王子市にある森林総合研究所 多摩森林科学園 (日本最大級の桜の保存林がある) の勝木俊雄 主任研究員によると
「ソメイヨシノは成長が早いので、植えてから花見ができるまで短期間で作れる。花見の名所を作る立場の人にとって、
すごく使いやすい 樹種だったのではないかと思います。」
倉敷市自然博物館HP 『文学作品に登場する植物たち』 http://www2.city.kurashiki.okayama.jp/musnat/plant/bungakusakuhin/index.html
このサイトには『出雲風土記』『古事記』『日本書紀』~江戸時代の 40弱の書物に登場する植物が一覧にまとめられています。
朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『聞いて美味しい 野菜の話 ~知られざるその神秘に迫る~』 12.12.13 放送
江戸食文化紀行 『江戸の美味探訪 No.142 菊見と菊の花のさしみ』 http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no142.html
≪ 江戸時代 朝顔の品種改良にみられるハイレベルな園芸技術 ≫ Wiki 古典園芸植物 Wiki アサガオ
江戸時代は草花を研究する本草学が盛んで多くの本草書が書かれました。
寛永年間 (1624~1645) には椿、元禄年間 (1688~1704) は楓やツツジ、享保年間 (1716~1736) には菊、
寛政年間 (1789~1801) にはタチバナ、文化年間 (1804~1818) には朝顔、
文政年間 (1818~1831) には万年青おもとと松葉菊、弘化年間 (1845~1848) には花菖蒲と菊、
嘉永年間 (1848~1855) には小万年青こおもとと朝顔が流行りました。
コトバンク 『花壇地錦抄』
『…水野元勝の《花壇綱目》(1681)は180あまりの花を取りあげる。以降,貝原益軒の《花譜》(1698),伊藤三之丞
(伊兵衛)の《花壇地錦抄》(1695)と続き,江戸時代を通じ70におよぶ園芸書が書かれる。
安楽庵策伝の《百椿集》(1630)をはじめ,ツツジ,キク,サクラ,ボタン,ウメ,アサガオ,ハナショウブ,ナデシコなど
花の専門書が出版され,さらにモミジ,カラタチバナ,オモト,マツバラン,セッコクなど葉を観賞の対象とした多数の
品種を成立させた。…』
1630年刊の『百椿集ひゃくちんしゅう』 京都誓願寺竹林院の住持である安楽庵策伝あんらくあん‐さくでん(1554~1642)著。
収集した椿を記したもの。安楽庵策伝は浄土僧・茶人・笑話作者。落語の祖ともいわれる。
1681年刊の『花壇綱目かだんこうもく』 園芸家の水野元勝みずの-もとかつ著
日本最初の園芸書。花卉かき 200余種についてその形状や栽培法を記述したもの。
※ 水野元勝の詳細は不明ですが、東京学芸大学大学院 教育学研究科の君塚仁彦 教授によれば、
「著者の水野元勝は大阪の住人であるが、『花壇綱目』刊行の背景には、上方における園芸文化の伝統と商業都市
大坂の繁栄とがあったものと考えられる」と指摘しています。
江戸時代の元禄年間 (1688~1704) に菊は広く庶民の間に普及し、今日に見られる日本独自の多くの品種が生まれ
てきます。
1695年刊の『花壇地錦抄かだんちきんしょう』 江戸染井村で数代にわたって園芸を営む3代目伊藤伊兵衛いとう-いへい 著。
一家は造園,花卉(かき)栽培についての見識技量にすぐれ、当時流行した園芸植物の種類を図説記載した多くの著作を
残した。250種あまりの菊が紹介されています。
1692年には、日本最初の園芸植物の図説書『繍枕きんしゅうまくら』を松会まつえ三四郎の店から刊行しています。
1697年刊の『花譜かふ』 筑前福岡藩の儒学者・本草学者 貝原益軒かいばら-えきけん(1630~1714)著。
花の咲く植物だけ集めた書籍。
菊の記述は、18ページに渡って、培養土・苗分け・鉢への植え替え・わき芽切り・篠竹結付・防虫・花壇の耕し方・
肥やしの与え方・花壇設置場所・日照・水やりなどを、中国の書物からの引用と、日本の慣習の両方から記しています。
また貝原益軒は日本最初の農業書と言われる宮崎安貞(筑前国糸島郡女原村)の「農業全書」(1697)の完成にも
大きく関わっています。
後期になると庶民の間に園芸ブームが起こります。
この頃、オランダなど外国から伝わった西洋野菜 (トマトやタマネギ、キャベツなど) の多くは観賞用として栽培されていました。
西洋野菜が一般的に食されるようになるのは明治時代。
生野菜のサラダを食べる習慣が日本中に広まるのは1964年の東京五輪がきっかけ。
最も改良されたのが朝顔でした。
花を愛でる文化は世界中にありますが、日本のように朝顔市、ホウズキ市など一種類の花の販売展示会に多くの人が
集まるのは珍しいようです。
【本草学】ほんぞう‐がく
中国に由来する薬物についての学問。薬物研究にとどまらず博物学の色彩が強い。
本草書がまとめられるようになったのは漢代と推定される(神農本草)が、500年頃、陶弘景により「神農本草経」
「神農本草経集注」が大成され、以後、唐・宋にかけて知識が補われたが、明末に李時珍が最も完備した「本草綱目」を
完成した。
日本へは奈良時代に伝えられ、「本草和名」などが現れたが、江戸時代に最も盛んとなり、貝原益軒の「大和本草」、
稲生いのう若水の「庶物類纂」、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」が現れ、さらに西洋博物学の影響も加わって、
多くの人がその発展に寄与した。
≪ 朝顔の栽培ブームは江戸時代後期 大坂・京都・江戸が中心 ≫
コトバンク 『日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 「アサガオ」』 全文は長いので抜粋。詳しくはリンク先で。
『観賞用として栽培するようになったのは平安時代と推察されるが、一般に広まりだしたのは江戸時代に入って
からである。
江戸初期の園芸書である『花譜(かふ)』(1694、貝原益軒)や『広益地錦抄(こうえきちきんしょう)』(1719、伊藤伊兵衛)
には、色違いの品種もみられるが花色数はまだわずかであった。
渡来当初のアサガオは青色であったと思われ、平安末期の『平家納経』や鎌倉時代の『掃墨(はいずみ)
物語絵巻』には青花が描かれている。
江戸中期になると、数十種の花色と実を結ばない重弁の品種が育成され、趣味家の間で栽培される園芸植物とし
て急速に発達した。
初回の流行は大坂が中心で、そのようすは『牽牛品類(けんごひんるい)図考』(1814、峰岸正吉)に奇品38品の
彩色図と166品の記載、『花壇朝顔通』(1816、壺天堂(きてんどう)主人)に37品の彩色図、『牽牛花水鏡(あさがお
みずかがみ)』(1818、秋水茶寮主人)に奇花47品と奇葉46品が記載されていることで知られる。
2回目の流行期の嘉永年間には、江戸を中心に大坂、京都でも広く栽培された。
大坂の穐叢園(しゅうそうえん)主人の『朝顔花併(はなあわせ)』
(1853)には奇花41品の彩色図、江戸・入谷(いりや)の成田屋留次郎の『三都一朝(さんといっちょう)』
(1854)には江戸、大坂、京都での供進会入選花86品の彩色図、幸良弼(こうりょうひつ)の『都鄙秋興(とひしゅうきょう)』
(1857)には奇花123品の彩色図が記載されている。
ちなみに現代に伝わる歳時「入谷の朝顔」は、成田屋を中心としたこの地の朝顔師に端を発した。
その後変化アサガオは、明治35年ごろに嘉永をしのぐ流行をみせたが、この間に大輪アサガオの栽培が普及し、
文化年間には直径が最高4寸(1寸は約3センチメートル)であったのが、明治以降大きさが競われるようになると
7寸を超えるようなものも現れ、現在は尺 (しゃく) 咲きの時代になりつつある。
こうしてニホンアサガオは、大輪花を観賞する大輪アサガオと、変化のある花形を観賞する変化
アサガオの2大別に発達した。現在は大輪アサガオが一般的に栽培され、変化アサガオはごく限られた人々の間で
消滅寸前の状態で栽培されているにすぎない。日本独自の園芸植物であるアサガオは、海外では品種も少ない。』
世界でも最も多い (1500種以上の) 朝顔の品種の種を多く保存している九州大学理学部。
その多くの品種は江戸時代に誕生しました。
染色体機能研究室 仁田坂英二 講師 (朝顔博士) によると
アサガオは元の種が分からないくらいまで変化した変異体が多い。こういった『出物』 (「獅子咲」「采咲牡丹」
「枝垂石化柳采咲」などの品種) と呼ばれる変異体は、雄しべ・雌しべが退化したり無かったりするため種ができません。
江戸時代に品種改良され種が作られない品種が誕生しました。それが現在でも残っているのは、メンデルの法則で
説明できます。劣性遺伝子が2つ揃った時にだけ、見た目が変異する変異種が誕生します。(これは種ができない品種)。
しかし、その兄弟の中に劣性遺伝子は1つしか持たない個体も存在し、これらは見た目は通常の朝顔と同じ形であり
種もできます。
この劣性遺伝子1つを有する兄弟の子 (次の世代) に、また劣性遺伝子が2つ揃う変異体を生み出す可能性が高いのです。
江戸時代にはDNAという概念は無かったので、株ごとに種をとれば変異体を生み出せる事を観察と経験から得ていたと
考えられるそうです。
【メンデルの法則】メンデル‐の‐ほうそく
メンデルが1865年に発表し、近代遺伝学の基礎となった遺伝の法則。
生物の形質の相違は遺伝因子によって決定され、雑によって生じた雑種第1代には、優性形質だけが現れ劣性形質は
潜在する(優性の法則)、雑種第2代には、優性形質を現すものと劣性形質を現すものが分離してくる(分離の法則)、
それぞれの形質が無関係に遺伝する(独立の法則)という三つの法則がある。メンデリズム。
菊の栽培文化 平安時代から、江戸時代には地方の大名から庶民まで流行った
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 奮闘編 「西国三十三所 礼所めぐり 兵庫県・中山寺を目指せ」』 14.01.23 総集編 放送
読売テレビ ten. 『若一調査隊 「宝塚名誉市民候補になった秀吉の家臣 木接太夫の偉業とは!?」』 16.10.12 放送
≪ 桃山時代、接ぎ木技術を確立した坂上頼泰 ≫ 16.10.27追記
兵庫県宝塚市の阪急宝塚線山本駅の西100m中山寺巡礼街道に『木接太夫彰徳碑』というのがあります。
1000年以上植え木の産地として知られていましたが、坂上頼泰のおかげで植木の一大産地になりました。
桃山時代 豊臣秀吉の旗本として朝鮮出兵にも出陣した坂上頼泰が隠居後、趣味の庭いじりに精を出し、『接ぎ木』という
画期的な農業技術を実用化しました。秀吉に接ぎ木技術を披露し鉢植えを献上。『木接太夫』という称号を賜ったそうです。
坂上頼泰は、平安時代に初めて征夷大将軍になったとされる坂上田村麻呂の子孫で、山本地区の荘園管理をしていた
坂上一族。1597年、坂上頼泰は81才で生涯を終え、宝塚市内の寺に埋葬されています。
この接ぎ木の技術を確立した事で、品質向上・生産力の拡大・安定生産などの園芸の多く課題を解決できました。
病害虫に強い樹木を台木にし、良い花や実が付く樹木の枝を5㎝程度にカットして接続します。
接ぎ木をする事で、種から育てるよりも短期間で樹木が成長し、良い花や実がなる物を用意した台木の数だけ量産できます。
現在、トマト・キュウリ・ナスや果実のほとんどが、この接ぎ木技術を使って作られています。
接ぎ木作業の時期は1~4月が一般的。
宝塚山本地域は園芸の中心地となっていた為、「阪上」さんが現在100軒以上あるそうです。
明治8年に全ての国民が名字を名乗る事を義務とした「平民苗字必称義務令」で、坂上一族から名字拝領したそうです。
大正2年に石碑が建てられ、日本三大植木産地 (福岡県久留米市、埼玉県川口市) の一つとして、著名な山本の植木所
としてのシンボル的存在となっています。
【名字拝領】みょうじ‐はいりょう … 主君の名字を賜って自分の名字とすること
宝塚市HP 『街道をたずねて(巡礼街道)』 http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/kanko/kankoinfo/1008594/1001173.html
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ~小京都めぐり10 三重「伊賀上野の城下町」~』 2014.01.02 総集編放送 などより
≪ 大阪造幣局 桜の通り抜け 伊賀上野城主 藤堂高虎の桜が始まり ≫
【 桜の通り抜け 】
大阪市北区の大川(旧淀川)沿いにある本局には、約120品種、約400本の桜が植えられている。
本局のあった中之島の土地はもともと藤堂家の大坂屋敷があり、同家の植栽していたサクラの樹木が造幣局にも
引き継がれた。
造幣局長であった遠藤謹助が「役人だけが花見をしていてはいけない」と1883年(明治16年)から一般にも開花した
サクラを公開することになったのが始まり。
毎年4月中旬から下旬にかけての開花時期には一般開放され、多くの人で賑わい、日本各地で行われる「桜祭り」と
呼ばれる観桜会でもっとも著名なものとされる。広島支局にも桜の通り抜けがあるそうです。
【 造幣局のガス灯 】
創設された1871年から工場内および近隣周辺にガス灯を点灯している。これは貨幣を鋳造するために発生させたガスの
余剰分を利用したものであり、特に屋外に設置されたものは日本で初めてのガス灯による街灯でもあったため、
その明るさに見物人が押し寄せた。
【藤堂高虎】とうどう‐たかとら (近江の人、1556~1630)
安土桃山・江戸前期の武将。浅井長政・羽柴秀長らに仕え、秀吉に召され宇和島城主となり、文禄・慶長の役に従う。
秀吉没後は徳川氏に属し、関ヶ原・大坂の戦功により伊勢・伊賀32万石に封。築城にすぐれる。
大阪造幣局の雑学と藤堂高虎 「出世払い」の語源など
≪ 造幣局の桜の通り抜け ≫ 関西テレビ ゆうがたLIVEワンダー 『造幣局の桜の通り抜け生中継』 16.04.08 放送
平成28年4月8日(金曜日)から4月14日(木曜日)までの7日間平日は午前10時から
午後9時まで、土曜日・日曜日は午前9時から午後9時まで。
2016の桜は133品種349本。今年の桜は「牡丹」。 桜の品種は400種超えくらいのようです。
独立行政法人 造幣局 『平成28年の桜の通り抜けのお知らせ』 http://www.mint.go.jp/enjoy/toorinuke/sakura-osaka2016.html
造幣局広島支局でも桜の通り抜けが開催されているようです。
≪ 明治時代初期 東京の桜の危機 ≫
1868 (慶応4) 年、江戸幕府が倒れ、明治時代が始まります。明治政府は西洋諸国に追いつくため、文明開化を
推し進めますが、その際に桜が植えられていた庭園や大名屋敷を次々と取り壊し、洋館に建て替えられていきました。
『政恒一代記』という元幕臣の記録によると 「庭の樹木は無残にも切り倒し ことごとく薪にした」とあります。
桜の貴重な品種も絶滅の危機にさらされます。
江戸時代から代々植木職人だった駒込の高木孫右衛門は江戸の桜が無くなる事を憂い、仕事の合間を見つけて
東京各地を歩き、桜を見つけてはその枝を分けてもらう事を始め、集めた貴重な品種は84種類に及び、それらを
試行錯誤しながら自宅の畑に桜を根付かせていきました。
江北 (現在の足立区) 地域の代表者だった清水謙吾は、高木が集めた桜に惚れ込み分けて欲しいと頼みました。
氾濫が度々起こる荒川に堤防を造る計画が進んでおり、荒川沿いに桜並木を作る事で村を活気づけたいと考えたのです。
1886 (明治19) 年、清水を中心とした村の有志たち150人以上によって、荒川堤に桜を植える試みが始まりました。
とりわけ熱心だったのが船津静作でした。全くの素人だった為、植物の専門家に教えを乞い、品種ごとの育て方を学び、
観察した成育状況などを『櫻品記』などと題して多く書き残しています。
1910 (明治43) 年、花が咲いた桜は78種類、3200本に及び、様々な色をつけた花が咲く荒川堤の桜は『五色桜』と
呼ばれるようになっていきました。国内外から多くの人や皇族も訪れ、天然記念物に指定されました。
荒川堤で増やされた貴重な桜たちは、新宿御苑・小石川植物園・東京府立園芸学校・興津園試験場 (静岡県) など
各地の研究施設に移植され、全国各地に広まっていきました。
明治時代に来日したドイツ人医師のエルウィン・ベルツ (1849~1913) の日記には、東京・向島で桜を見た時の感想が
残されています。「まあ なんという眺めだろう ! 頭上にはまったく小枝も見えないほど ぎっしり花で覆われた樹木。
日頃はあまり美しいとは思わない女性が 今日はこうまでも魅力的なのだ。」
1912 (明治45) 年に荒川堤の桜は日米友好の証として米国に贈られ、首都ワシントンD.C.のポトマック川沿いに
植えられました。
1941 (昭和16) 年に太平洋戦争が勃発すると、物資不足から荒川堤の桜たちも燃料として次々切り倒されていきました。
1981 (昭和56) 年、米国ワシントンから枝分けしてた桜の苗木が贈られてきました。
現在も地元足立区の人々を中心に荒川堤の桜を復活させる活動が続いています。
奈良県明日香村 橘寺 (聖徳太子ゆかりの寺) NHK大阪 NHKニュース おはよう関西 『中継 奈良・明日香村』 14.04.07 放送
≪ 夜桜 ≫
右端の浮世絵は、3代目の歌川豊国 (歌川国貞) 作 1855年『見立源氏はなの宴』。遊郭内の花見を描いたもの。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『廣田遥あこがれの安藤忠雄さんに聞く ロングインタビュー』 15.04.16 放送
≪ 安藤忠雄さんの緑化プロジェクトによる大阪の花見の新名所 ≫
大阪が誇る日本を代表する世界的な建築家 安藤忠雄さん。
河南町の府立近いーつ飛鳥博物館の梅、大阪市の大川沿いの平成の通り抜け、
門真市パナソニック本社横のさくら広場、豊中市のさくら広場、ダイワハウス所有
の大阪マルビルの緑化プロジェクト、新梅田シティにある積水ハウスの希望の壁
・緑化プロジェクトなど、企業や市民に呼びかけ約30年にわたり各地に木を
植え続けてこられました。
安藤さんが木を植えるようになった理由
「一番最初に設計事務所にアルバイトに行った時に教えてもらった。"建築家で
生きていくには才能がいる"と。"だけど才能が無い奴でも生きていく方法がある"
と。
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建てて前に3mくらいの木を植えておけば3年経ったら5mくらいになる。お前が造った建築がだんだん見えなくなる。
だからいいんだ」と教えて 貰った。また、「建築って向う三軒両隣を意識せないかん。」と教えて貰った。
その為には環境の方が大事なんですけども、建築家というのは 自分が造ったもんを見せたい。
私はず~と見せたくないと思ってきた。中から見て欲しい。だから外は環境の一体になるようにと考えたんで、ひたすら
この30年間木を植えています。あちこちで。」
【安藤忠雄】 Wiki 安藤忠雄
日本の建築家。 大阪府大阪市港区生まれ、同市旭区出身。一級建築士。東京大学名誉教授。
21世紀臨調特別顧問、東日本大震災復興構想会議議長代理、大阪府・大阪市特別顧問。
〈 大阪市 大川沿い 都島区 毛馬桜の宮公園・桜の宮公園付近 平成の通り抜け 〉
大川は、都島区の毛馬水門から淀川の支流として分かれ南下し、JR桜の宮を通り大阪城付近で西へ曲ってすぐ
北区中之島を挟み天神橋付近で2つに分岐。
中之島の北側が堂島川、南側を流れるのが土佐堀川になります。(観光用の水上バスがあります。)
川沿いには毛馬桜の宮公園~桜の宮公園、南天満公園があります。
安藤さんは大川沿いに3000本の桜を植えるプロジェクトを立案。1本5万円ですが、30年のメンテナンスや植え替えで
10万円かかるので、合計1本につき15万円必要。
1口1万円の寄付で5億2000万円が集まりました。「何よりも大阪の人は大阪に対する愛情が深いね」と振り返ります。
「1月の初めに植えたい」と安藤さんが言ったところ、当時の大阪府知事と大阪市長は「1月の忙しい時に行けない」との
回答があったそうです。
仕方がないので安藤さんは、当時の小泉純一郎 総理大臣に植樹式を行ってもらうように依頼しました。
安藤さんが「市の土地・府の土地・国の土地の境界を超えて、市民が集めた金で植える。小泉さん、1本目植えてくれ」と言うと、
総理は「それは凄い、1月8日に行く」と即答しましたが、周囲の人たちは「総理、1月の忙しい時に大阪に行ったら1日要りますよ」
と反対。
しかし、総理は「1月8日は俺の誕生日だから」と言って、側近の反対を押し切り予定通り2005年1月8日に植樹式が行われました。
結局、忙しくて来られないはずの知事も市長も出席していたそうです。2006年の新桜宮橋も安藤さんの設計。
〈 大阪狭山市 狭山池堤防と狭山池博物館の桜 〉 日本最古のため池 古事記や日本書紀にも記述があり飛鳥時代の616年頃に完成
大阪府南部、堺市と富田林市に挟まれた大阪狭山市。日本最古のため池があり、その畔には狭山遊園がありました。
2001年にオープンした府立狭山池博物館を設計をおこない、ほとんど木が無かった狭山池の周囲約3㎞の堤防に桜を植える
事を市民に提案。当時1口1万円で募集したところ、すぐ1000本分の応募があったそうです。
その後、安藤さんは講演会などでお金を集めを行いました。2015年現在、狭山池周辺には1500本の桜が咲いています。
〈 南河内郡河南町 古墳をテーマにした 近つ飛鳥博物館の梅 〉
安藤忠雄さん設計で1994年にオープンした古墳がテーマの府立近つ飛鳥博物館。
安藤さんによると、この場所は元々梅の名所だったそうです。博物館がオープンしてから毎年春に講演会を行い募金を
集め、地域の人々と博物館とが一丸となって植樹活動を行い、年間30~40本の梅を植え2015年現在500本ほどになって
いるそうです。
河南町には西行法師が没年を過ごした桜が有名な弘川寺もあります。
大阪府立 近つ飛鳥博物館 HP http://www.chikatsu-asuka.jp/
〈 パナソニック 「さくら広場」 門真市、豊中市 〉
北河内にある門真市は、大阪府警の免許の更新所があります。(30年ほど前に堺市に光明池に出来るまで、唯一、
即日交付される場所でした。) パナソニックや旧サンヨーの本拠地として、家電工場の町としても有名です。
門真市の「さくら広場」は2003年に「大阪のためにも頑張ってほしい」と言ったところ、当時絶好調だったパナソニックの
社長が即断し、本社の隣にさくらの公園を造る事が決定し2006年に完成。
2006年 門真市の「さくら広場」
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2009年 豊中市の「さくら広場」
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2009年に完成した豊中市庄内にある「さくら広場」はパナソニックの工場を解体した跡地で、現在は防災公園にもなって
います。
豊中市は南は大阪市、西は兵庫県伊丹市に隣接し伊丹空港の敷地も少しある場所。
服部緑地やパナソニック・ガンバ大阪の本拠地でも有名。
〈 大阪マルビルの緑化プロジェクト、新梅田シティの「希望の壁」 〉
花見からはずれますが、どちらも安藤忠雄さんが2013年大阪府の緑化プロジェクトとして手掛けたもの。
(大阪府の緑化率は東京よりも低い)
ダイワハウス所有の丸ビルは直径約30m、高さ約100m。「全部緑化すると世界一の大木になる」と提案すると、
ダイワハウスの樋口会長がOKし、積水ハウスにも高さ10m、長さ100mの「希望の壁」を造る事を提案すると、
和田会長も快諾し実現しました。
「企業はやっぱり社会参加をした方が良いと思うんですね。だけど、日本の企業は (お金) どんどん貯まってきたら銀行へ
貯めているだけじゃない。 あかん、反対やがな。市民は1万円ずつ頑張る、企業はど~んと頑張る。
大阪っていうのは、市民に対する思い、会社のあり方を考えている人たちがトップにいる。
東京はダメですよ、責任を取らないリーダーがいっぱいいる東京はどうかと…思いますけどね。言いたい放題や (笑)。
好奇心エネルギーっていうのはね、もちろん食事もあります体力もありますが、精神的な体力もいるわけですね。
だけど今の若い人たち 「感動の無いまま30年来ました」とい奴いるよ、いっぱい。
やっぱり感動しないといけない。そういう面では環境はね「あ~、あの花咲くのかな?」
と思もて、パっと咲くやない、急に。人間が生きていくひとつのエネルギーになっていきますね。
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日本の国の気候条件が日本の国の好奇心を生み、日本の国の好奇心が美しい
美意識を持ってきたし、日本の美意識は、これから国際的に言うと、一番評価される
もんだと思うんですよね。
それの原点がやっぱり、この気候風土の中にのっとった環境だと思うんですよね。
だから、大阪の人たちも"花より団子"じゃなしに、花もいいですよ、団子ばっかりじゃ
ダメですよと (笑)
老化していくのを防ぐのは若さなんですよね。若さの秘訣は挑戦するとか勇気なんですね」
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〈 香川県の直島にも桜の名所が誕生 〉 毎日放送 ちちんぷいぷい 16.04.14 放送
2016年4月、現代アートを展示する瀬戸内国際芸術祭2016の会場の一つになっている香川県の直島に『桜の迷宮』がオープン。
2000年に安藤忠雄さんの発案で始めた瀬戸内オリーブ基金15年目の集大成として企画され、大島桜が約130本植えられました。
募金箱は全国のユニクロなどに設置されています。これまでに集まった募金でオリーブなどの木は15万本以上植えられています。
画像 毎日放送 せやねん ! 『今週のマネーな出来事 「花見のマネー 京都市北区平野神社の開運桜湯」』 15.04.04 放送 → 広辞苑 / 東京堂出版 洋菓子・和菓子・デザート 『百菓辞典』 平成9年8月30日 初版 山本侯充 編 など
≪ 食用桜 ≫
花や葉を食するのは、日本人が改良したサトザクラと呼ばれるグループ。
大型の八重桜で、「開山」(カイザン、セキヤマ)という品種が一般的だそうです。
桜の花の塩漬けは、スーパーなどのお茶売り場、茶屋で年中入手する事が可能です。
軽く塩気を洗い流したりして、和菓子などに使用されます。近年は、桜スイーツが人気ですね。
お茶に入れると「桜茶」、お湯に入れると「桜湯」と呼ぶようです。
【桜漬】さくら‐づけ
桜の花の塩漬。七分咲きの八重桜を用いて製する。梅酢を加えることもある。
熱湯を注ぎ、桜湯として飲用。
多く慶事 (「茶を濁す」意から茶を忌む婚礼の席など) に用いる。
桜餅に使われている桜の葉の塩漬けには、葉の裏に綿毛がない大島桜が適しているそうです。
【大島桜】おおしま‐ざくら
サクラの一種。伊豆七島に自生する。新葉の赤みがうすい。
花が白色大形で美しいので各地で栽培。ソメイヨシノの片親とされる。
≪ 桜餅 ≫ Wiki 桜餅
桜餅は江戸時代の江戸の長命寺桜餅が最初。関西発の道明寺桜餅は長命寺桜餅より
後にできますが平安時代の『椿餅』にルーツがあり、桜餅の主流となり日本各地で
食べられています。
【椿餅】つばい-もち
唐菓子(からくだもの)の果餅のひとつ。つばきの葉を合せて、餅を包んだもの。
今の椿餅と同じようなものであるといわれている。
つばきもちの古語。
【椿餅】つばい-もちい、つばい-もち
もち米の粉に、あまづらをかけて、丸く固め、椿の葉2枚で包んだ餅。
つばきもちの古語。
「桧破子 (ひわりご) 、御酒 (みき) 、椿餅など奉り給へり」平安中期の『宇津保物語』。
【椿餅】つばき-もち、つばい-もち
しん粉や道明寺製の種であんを包み、上下につばきの葉をあしらった餅。
年の暮れから新春にかけての和菓子の代表的なもののひとつ。
【桧破子】ひ-わりご
ヒノキの薄板を曲げて作ったわりご(内部に仕切りがあり、かぶせフタがある弁当箱)。
【葛桜】くずさくら 百菓事典 より
漉し餡に葛の衣をつけ、桜の葉で包んだ葛饅頭。
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長命寺 桜餅
道明寺 桜餅
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唐菓子 (8種の唐菓子と14種の果餅) の解説。 江戸時代に発達した菓子・甘味2 関西と関東で違う 桜餅、ぜんざい の起源・歴史など
【道明寺・道明寺粉】どうみょうじ、どうみょうじ-こ 百菓辞典
道明寺干し飯(ほしいい)の略。もち米を水に浸してから、蒸して乾燥したもの。
大阪の道明寺で、天満宮饌飯の下がりを乾燥貯蔵したのが始まりと言われ、兵糧や旅行用食料として重用されたもの。
熱湯を注ぐとやわらかくなり食べられる。また、これに甘く味をつけてもち菓子の回りにつけることもある。
大阪・河内の尼寺 道明寺で、昔、保存食として用いられていたことが名称の由来といわれる。
道明寺粉は、これを荒くひいたもの。粒子の残る口ざわりで、上品な味わい。和菓子のほか、蒸しものや揚げものの
ころもなどにも使う。
大阪府 藤井寺市
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道明寺天満宮
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道明寺
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道明寺 糒 (ほしいい)
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菅原道真と藤井寺 菅原道真の母は古墳づくりの土師氏。おばが道明寺の住職。道明寺天満宮には道真愛用品6点の国宝
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5月 |
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広辞苑 / 東京堂出版 洋菓子・和菓子・デザート 『百菓辞典』 平成9年8月30日 初版 山本侯充 編
NHK Eテレ グレーテルのかまど 『"端午の節句"のかしわ餅』 15.05.02 放送 朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポン・植物ミステリー』 15.09.10 放送 NHK Eテレ グレーテルのかまど 『"端午の節句"笹ちまき』 16.05.04 再放送 日本テレビ 世界一受けたい授業 『村上龍 先生の「日本人なら知っておきたい伝統行事の素晴らしさ」』 16.11.12 放送
≪ 端午の節句 ≫ 道南や東北で端午の節句に食べられる「べこ餅」 北海道「べこ餅」と東北「くじら餅」の関係
平安時代には宮中で端午の節句は行われていました。
枕草子には「五月の節の菖蒲あやめの蔵人 (菖蒲しょうぶや薬玉くすだまを配った女蔵人にょ-くろうど)」とあります。
【根合】ね‐あわせ
物合せの一種。平安時代、5月5日の端午の節句に、左右に分かれて菖蒲しょうぶの根の長短をくらべ、また歌を
よみそえるなどして、勝負を定めた遊戯。菖蒲合。菖蒲根合。
※ 蔵人は宮中の雑事を行った蔵人所の職員で名誉職。 昔は『ショウブ』を『アヤメ』と呼んでいました。
福島県いわき市辺りの地域では、嫁が季節の節目ごとに餅を持って実家に里帰りする風習があったそうです。
農村では、節句の祝いの日は女性の休息日でもあり、「女の節句」として捉えられていたようです。
民俗学者の神崎宣武さんによると、
「元々、5月上旬に田植え祝いとして女性たちが集まってお祝いをする習慣がありました。そこへ江戸から一般化する
端午の節句の男の子の祝いという行事が広まっていきます。それが重なった時、地方では古い習慣「女の節句」
という慣習を伝えたんですね。」
鎌倉時代以降、『菖蒲=尚武』として武家に好まれ、男の子の成長を祝う風習が始まり、菖蒲が飾られるようになりました。
【尚武】しょう-ぶ … 武事・軍事を重んずること。
『端午の節句=男の子の節句』 と一般的に思われるようになったのは、江戸時代の江戸での風習が広まった頃からの
ようです。
【端午・端五】たん‐ご あやめの節句。重五ちょうご。端陽。5月5日の節句。
(「端」は初めの意。もと中国で月の初めの午の日、のち「午」は「五」と音通などにより5月5日をいう)五節句の一つ。
古来、邪気を払うため菖蒲しょうぶや蓬よもぎを軒に挿し、粽ちまきや柏餅を食べる。菖蒲と尚武の音通もあって、
近世以降は男子の節句とされ、甲冑・武者人形などを飾り、庭前に幟旗のぼりばたや鯉幟を立てて男子の成長を祝う。
第二次大戦後は「こどもの日」として国民の祝日。
現在の子供の日は法律で「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに母に感謝する日」と定められています。
≪ 菖蒲 ≫ 『しょうぶ』(サトイモ科) と 『あやめ』(アヤメ科) は別の植物。
【菖蒲】しょう‐ぶ 葺草。軒菖蒲。漢名、白菖。
サトイモ科の多年生草本。根茎は水底の泥中に横たわり、葉は長剣状で80センチメートル余。初夏、
花茎の中程に黄緑色の小花を棒状に 密生。
葉は芳香があり、端午の節句に菖蒲湯しょうぶゆとする。根茎を乾して「菖蒲根」と呼び健胃薬とする。
古くは「あやめ」と呼んだが、アヤメ科のアヤメ・ハナショウブの類とは葉の形が似るだけで、全くの別種。
【菖蒲】あやめ
アヤメ科の多年草。やや乾燥した草原に群生。また、観賞用に栽培。根茎は地下を這い、毎年、剣状の細長い
葉数枚を直立。5~6月頃、花茎の頂端に紫色または白色の花を開く。外花被片の基部には黄色と紫色の網目があり、
虎斑とらふと呼ばれる。ハナアヤメ。
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植物と日本文化の関わりについて研究している静岡
大学大学院の稲垣栄洋 教授によると、
奈良時代は田植えの前に身を清める儀式を行っており、
漢方薬にも使用される香が強い菖蒲が使われた。
(菖蒲湯の由来)
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端午の節句では、菖蒲を様々に利用していたようです。
宮中では、菖蒲蔓 (飾りの冠) や菖蒲の車、菖蒲の案つくえなど、菖蒲を様々な所に飾っていたようです。
江戸時代には、菖蒲で作った兜や刀もありました。菖蒲の葉を平たく編んで棒のようにし、地面を叩き、切れたのを
負けとした『菖蒲打ち』という 遊びが子供たちの間で行われていました。
「ショウブ」 と 「アヤメ」 が区別されのは? 詳しく調べていないので推測です。
江戸時代に、本草学が流行し植物の研究が非常に進みました。
下記の柏餅の所で書いてあるように、食べ物を包む葉の総称として色んな木の葉が『カシワ』と呼ばれており、『カシワ』が
ブナ科の柏だけを指すようになったのは江戸時代中期頃。菖蒲も、この頃から区別されたと推測できそうです。
実践女子大学 食生活科学科 調理学第2研究室 「葉利用菓子の食文化研究」 舘野美鈴・大久保洋子 12.03.10 公開論文
https://jissen.repo.nii.ac.jp/index.php? (URL略)
『『日本歳時記』(1688)には〈菖蒲・よもぎを軒に挟む、粽を食べる、菖蒲酒をすすめる、薬玉をひじにかける、
菖蒲湯に入る、競馬、かぶと人形、吹きながし、草あわせ、薬草採取、競渡〉とある。夏を迎える前の季節は病気や
食べ物だけでなく生活環境が人にとって住みにくい状況になる。
古人は5月のことを「悪月」「物忌み月」などとも呼んで、端午の節句に病除け、毒除けを目的とする薬効のある
菖蒲やよもぎに付加価値としての効果を期待したと考えられる。そして、ちまきやかしわもちを食べることで邪気をはらう。
京都では川端道喜の道喜ちまきが有名である。 応仁の乱後、天皇は食事にも困窮 御所の道喜門とは
江戸時代に出版された『古今名物御前菓子秘伝抄』、『古今名物御前菓子図式』、『古今新製名菓秘録』等には
柏かしわ餅・柏かしわ葉餅、椿餅、ちまきには内裏ちまき・朝比奈ちまき・葛ちまき・小倉ちまき・五色ちまき・錦ちまき・
御所ちまきなどが記されている。
また『毛吹草』には、5月ちまき、藁の項に飴ちまき、笹葉の項にちまきが見え、かしわもちは記されていない。』
【毛吹草】けぶきくさ
1645年刊。京都の裕福な撰糸商人の松江重頼の俳諧論書。 Wiki 毛吹草 Wiki 松江重頼
【歳時記】さいじき 日本歳時記、榑桑ふそう歳時記
1688年(貞享5)3月京都日新堂刊。貝原好古かいばらよしふる(筑前福島藩に仕える、叔父である貝原益軒の養子になる)著。
1年のうち、そのおりおりの自然・人事百般の事を記した書。
【古今名物御前菓子秘伝抄】ここんめいぶつごぜんがしひでんしょう 著者不明。京都京極五条橋書林梅村水玉堂 刊
1718 (享保3) 年刊の菓子専門書。菓子のみを専門に扱った料理書としては本書がもっとも古い。
「あるへいとうの方」から「白飴の方」まで一〇五項目にわたって菓子の作り方が記されている。
【古今名物御前菓子図式】 京都風雅亭および長谷川良陽 撰著。
1761 (宝暦10) 年刊。 上下2巻。南蛮菓子、パンなども載っている日本初の菓子製法の専門書。
蒸菓子、干菓子、羊羹、飴、粽類など計95種の製菓法および各菓子形状着色模様図を記載。
1840 (天保11) 年、内容はそのままに『古今新菓子大全』として書名だけ改め再刊行。
【古今新製名菓秘録】ここんしんせいめいかひろく
1862(文久2)年に刊。※ 広く諸家の製法を調べてその中ですぐれたものを載せているそうです。レシピ本。
また、天門冬(てんもんどう)・仏手柑(ぶしゅかん)・キンカンの柑橘類のほか、ショウガ・レンコン・タケノコ・シイタケ・
ナス・キュウリ・スイカ・冬瓜・ゴボウ・ニンジンの野菜類や豆腐にいたる様々な種類の砂糖漬が紹介されているそうです。
東都歳時記は江戸時代末期の1838 (天保9) 年に斎藤月岑が描いたもの。兜飾り、鯉幟、ちまき売り、柏餅などが描かれています。↓
【五月人形】ごがつ‐にんぎょう … 5月の節句に男の子の祝いに飾る武者人形。 1873年創業の老舗 堺の手書き鯉のぼり店 が人気復活。
「鯉が滝を登って龍になる」という古事から、鯉の滝登りは出世のシンボルと思われ、鯉幟を飾る風習が生まれました。
【鯉幟】こい‐のぼり … 紙または布で鯉の形につくった端午の節句にたてるのぼり。通例、吹流し型につくる。
宮崎県の佐土原町では鯉のぼりに加えて、鯨のぼりというのがあるようです。端午の節句には「鯨ようかん」も食べる。
佐土原町の鯨ようかん
≪ 茅巻の由来は、古代中国 ≫
古代中国の戦国時代、楚 (~前223年) の王族として生まれた屈原くつげんは王の側近として活躍していましたが、妬まれ
讒言ざんげんにより失脚し、汨羅べきら (中国湖南省の北東部の川) に投身した水死します。
屈原の忌日の5月5日に、姉が弟を弔うために、竹筒に米を詰めて汨羅に投じて
いたのが、後に餅を真菰まこも
(イネ科の大形多年草) の葉などで包んだのがチマキの起源だと言われているようです。
別の説によると竹筒に米を詰めて川に投げ入れたが、淵に潜む蛟竜こうりょう (まだ竜と
ならない蛟みずち) が取ってしまうので、真菰の葉で包み五色の糸で縛った物にしたところ、
無事に屈原の元へ届いたという事に始まるそうです。
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≪ 日本の茅巻 ≫ Wiki ちまき
【粽・茅巻】ち‐まき
(古く茅ちがやの葉で巻いたからいう)端午の節句に食べる糯米もちごめ粉・粳米うるちまい粉・
葛粉などで作った餅。
長円錐形に固めて笹や真菰まこもなどの葉で巻き、藺草いぐさで縛って蒸したもの。季語夏 。
平安時代の延喜式「粽科糯米二石日別二升五合」。
平安時代の伊勢物語「人のもとよりかざり茅巻おこせたりする返事に」。
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【粽馬】ちまき‐うま … 茅または菰こもを巻いて馬の形につくった玩具。端午に子供がもてあそんだ。
【茅・白茅】ち‐がや
イネ科の多年草。原野に普通。高さ約60㎝。地下茎は横走して群落をつくる。春、葉より先に、軟らかい銀毛のある
花穂をつける。穂を「つばな」「ちばな」といい、強壮薬とし、また古くは成熟した穂で火口ほくちを作った。
茎葉は屋根などを葺くのに用いた。しげちがや。ち。万葉集[16]「あめなるやささらのをのに茅刈り」
【粽笹】ちまき‐ざさ
ササの一種。山地に自生。稈かんは高さ1.5メートル、まばらに分枝し、葉は広く大きく、短い柄で茎の先に5~9片を
掌状につける。葉は粽を包むのに用いる。クマイザサ。クスザサ。
【笹団子】ささ‐だんご
① 団子を笹の葉で包んだ餅菓子。 (上画像の右端)
② 糯米もちごめと粳うるちの粉、砂糖、蓬よもぎの葉などを混ぜてこねた生地で小豆餡を包み、笹の葉で包んで蒸したもの。
新潟の郷土菓子。
國學院大學の新谷尚紀 教授によると
「笹は非常にオールマイティーでばい菌を抑えてくれる。万能の笹で巻くちまきは、厄除け・魔除け・疫病除けの力を持つ食べ物」
旧暦では6月の梅雨の頃、カビの繁殖や食中毒が発生しやすいなどの時期に食べるには理にかなったものだったようです。
≪ 柏の語源 ≫ フジTV 爆笑!アカン警察 『歴史上の食事で健康になれるのか 第2弾』 13.03.03 放送
古来より柏の葉は皿の代わりに使用されてきました。
柏は柏餅に使われているブナ科だげてはなく、食器代りに使用した色んな植物の総称。
兵庫県立大学の服部保 名誉教授、他の協同論文 『かしわもちとちまきを包む植物に関する植生学的研究』 2007.01 より
http://www.hitohaku.jp/publication/HN17_p1-11.pdf
『カシワ(柏)は炊ぐ葉に由来し,炊事に利用されたといわれている.隋書(636年)の倭国の項には日本人が槲(カシワ)の
葉を食器がわりに使用しているといった記録がある.
また,カシワは古事記(712年),日本書紀(720年),万葉集(759年ごろ)などの古典や歌集にも記されており,延喜式
(平安時代中期(967年)に記された律令の施行細則)には仏会,節会などの饗宴の食器として用いられ,丹波,
播磨,山城,大和なども畿内よりカシワの多量の貢納が行われたことが示されている(例えば丹波では年120万枚以上).
植物分類上カシワが他のブナ科コナラ属の種と明確に認識されたのは江戸時代中期以降であって,
それまではコナラ属の他の種との区分がされていなかった.
延喜式や古典に載せられているカシワは植物分布上,葉の大きさ,利用面,古典から分析してカシワではなくコナラで
あったとしている.
現在丹波,播磨などの地方には植栽されたカシワを除いてまったくカシワは分布しておらず,年120万枚の採取等を
考えると,カシワをコナラとするのは妥当である.
古くはコナラだけではなく,地方名としてカシワの名称が残るアカメガシワ,ホオノキ,サルトリイバラ,カクレミノなどの
炊事や食事(食器,包装用)に利用された各種植物がカシワと総称されていたと認められる.
サルトリイバラ,コナラなどの「総称カシワ」に盛られたあるいは,包まれたもちが古代,中世に「かしわもち」という名称で
よばれていたかどうかは明らかでないが,以下に示す「つばきもち」が平安時代に存在したように端午の節句とは
無関係に,葉で包まれたもちは古くから存在していたと考えられる.』
下の(左3枚)画像は卑弥呼の時代をフジテレビの番組で再現したもの。
【炊かしぐ】 (室町時代まで清音)
米・麦などを煮または蒸して飯とする。飯を炊たく。 万葉集[5] 「飯炊かしぐ事もわすれて」
1603年に日本イエズス会が長崎学林で刊行した日本-ポルトガル語辞書の
日葡辞書「ヒャウラウ (兵糧) モナウテ メシヲモ カシカヌ ウチニ」
【槲・檞・柏】かしわ (「檞」は日本の俗用漢字)
① ブナ科の落葉高木。北地の海岸などに自生。高さ15mに達し、樹皮に深い裂け目がある。葉は大きく、周辺に深い
波状の鈍鋸歯がある。枝葉ともに細毛を密生。雌雄同株。4~5月頃、新葉とともに黄褐色の尾状花序を垂らす。
樹皮のタンニンは染料、材は薪炭、葉は食物を包む。モチガシワ。炊葉かいば 。誤って「ははそ」ともいう。
② 柏はく(ヒノキ・サワラ・コノテガシワなどの常緑樹)を古来「かしわ」と訓みならわす。
万葉集[11]「秋柏うるわ川べのしののめの」
③ (多くカシワの葉を使ったからいう)食物や酒を盛った木の葉。また、食器。くぼて。ひらで。
古事記[中] 「大御酒のカシワを握とらしめて」
Wiki 柏
『北海道から九州までの温帯から暖帯にかけて生育する。痩せた乾燥地でも 生育することから、火山地帯や海岸などに
群落が見られることが多い』
【柏】かしわ、はく、ひゃく
ひのき・さわら・このてがしわなどの常緑樹の総称。日本では、かしわ(また、かや)。「松柏・竹柏・羅漢柏・柏槙びゃくしん」
日本で古く、葉に食物を盛ったところから、食器を「かしわ」ともいった。[栢]は異体字。
≪ 柏餅のルーツ ≫
【柏】かえ … ① ヒノキ・サワラ・コノテガシワの類の古名。万葉集[19]「松柏の栄えいまさね」 ② カヤの古名。
【榧】かや
イチイ科の常緑高木。幹の高さ約20メートル、周囲3mに達する。葉は扁平線状、革質で厚く、先端は鋭い。雌雄異株。
4月頃開花。実は広楕円形で、核は食用・薬用とし、また油を搾る。材は堅くて碁盤などをつくる。〈下学集〉
兵庫県立大学の服部保 名誉教授、他の協同論文 『かしわもちとちまきを包む植物に関する植生学的研究』 2007.01 より
http://www.hitohaku.jp/publication/HN17_p1-11.pdf
『かしわもち型のもちのもっとも古い記録は宇津保物語(970~980年代),源氏物語(1007年)に記されている
「つばきもち」である』
【椿餅】つばい‐もちい (ツバキモチイの音便)
あまずらをかけ、ツバキの葉で包んだ餅。つばいもち。源氏物語[若菜上]「椿餅・梨・柑子やうの物ども」
株式会社 寿限無 『柏餅の由来』 http://www.geocities.jp/jugemfoods/yurai4.html
『柏餅の原型は、平安時代の「葩餅(はなびらもち)」、奈良時代の「伏兎(ふと)」に当たると言われている。』
広辞苑 「伏兎」 油で揚げた餅。平安時代の食品。〈倭名類聚鈔]〉なので、「伏兎」と「柏餅」は別物と考えた方がよさそうです。
【御焼餅】おやき‐かちん
(女房詞)宮廷で、正月の祝いに用いた餅。白く円い餅に菱形の赤い餅をはさみ、その中に白味噌のついたゴボウの
小片を入れて包み、半円形として焼いたもの。
【おかちん】 広辞苑
つきまぜた飯の事を古語で「かつ」と呼んでおり、「搗飯・交飯」かちいい=餅を女房言葉で「かちん」「おかちん」と言った。
12世紀前半頃に成立した今昔物語集[20]「かちいいを極めて浄くしてその桶に入れて」
百菓辞典 餅などを搗くことを、古語では「かつ」と言った。
≪ 花びら餅 ≫ 『百菓辞典』
「おはなびら」「菱葩ひしはなびら餅」とも言われる京銘菓。
丸く薄く延ばした白餅 (または求肥) に、ゴボウの砂糖煮と、甘く練った白味噌、ピンクの
菱形の餅を入れ、半円形に二つ折りにしたもの。包み込まれたものが白餅を通して、
ほんのり薄紅色に透けて見える風雅さが好まれ、正月用の菓子として用いられる。
宮中、神社、公家などの正月行事に使われた「菱葩」に由来するもので、明治時代に
裏千家11世玄々斎が、宮中より許されて、初釜に用いるようになったと伝えられ、
初釜の菓子として重宝されるようになった。
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【花弁餅・葩餅】はなびら‐もち
餅または団子の一種で花弁の形をしたもの。特に、薄い円形の求肥ぎゅうひを二つ折りにした間に、牛蒡ごぼうの蜜漬、
白味噌、小豆の汁で染めた菱形の求肥を挟んだものが著名で、茶道の初釜はつがまに用いる。
≪かしわ餅の登場 ≫ Wiki 白須賀宿 Wiki 浅井了意 Wiki 東海道名所記 Wiki 土御門泰邦
かしわ餅が登場したのは江戸時代初期の寛永年間 (1624-1644) の頃とされます。 『百菓辞典』
寛永年間頃または元禄以降に書かれた『酒餅論しゅべいろん』(江戸時代前期頃の仮名草子。詳しい年代や作者など未詳)に、
「弥生は雛のあそびとてよもぎの餅や、 端午にはちまきのもちや柏餅、水無月はじめの氷餅~」とあるらしいです。
レファレンス協同データベース『酒餅論には~』
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000111764
食べ物歳時記 『江戸で生まれた柏餅』 http://ameblo.jp/tachibana2007/entry-10085713797.html
1680(延宝8)年の『俳諧向之岡』 著 岡村不トふぼく(1632~1691年、江戸前期の俳人。江戸 現在の東京都下谷に住す。)
1681(延宝9)年の『俳諧東日記』 著 池西言水(1650~1722年、奈良生まれ、1670年代後半までに江戸に下る。)
などに柏餅が詠まれた句があるようです。 Wiki 池西言水
公益財団法人 味の素食の文化センター 『錦絵アーカイブス 「東海道五十三次 二川へ2里半」』
http://www.syokubunka.or.jp/archives/nishikie/detail/post-84.html
とらやHP 『歴史上の人物と和菓子 「土御門泰邦と安倍川餅」』 https://www.toraya-group.co.jp/gallery/dat02/dat02_056.html
≪ 静岡県 湖西市 白須賀宿の名物の柏餅 ≫
江戸時代、白須賀宿より西にある加宿境宿で売られていた柏餅は名物とされていた
ようです。
1660(万治3)年頃刊された浅井了意 (京都の本性寺の住職)の仮名草子『東海道
名所記』には、「猿が馬場、柏餅こゝの名物なり。あづきをつゝみし餅、うらおもて
柏葉にて、つゝみたる物也」と記されています。
1760(宝暦10)年に、京都の公家の土御門泰邦が東下した折りに書いた紀行
『東行話説』では道中名物を試食した作として知られますが、この柏餅は口には
合わなかったらしく酷評されているそうです。
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1804 (文化1) 年の葛飾北斎が、
猿馬場の茶店で描いた錦絵
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安倍晴明の末裔として陰陽頭などをしていた土御門泰邦が、50才の時に天皇から将軍家に下った宣旨せんじを届ける
際の旅行で、名物を片端から食べ感想を細かに書いています。あまりのまずさに一口で捨ててしまったり、気分が
悪くなって薬を飲む事も少なくなかったようです。
≪ 江戸時代以前、安倍川餅は『金きんな粉餅』と呼ばれていた ≫ テレビ東京 歴史の道 歩き旅 16.05.13 放送
上記の土御門泰邦は、静岡県湖西市の柏餅は酷評していますが、静岡市の安倍川餅は歌を詠むほどに
ご満悦だったそうです。
静岡市葵区にある安倍川餅専門店の石部屋 (創業は江戸時代1804、文化1年) の15代目店主 長田満さんによる説では、
この近くには、戦国時代から江戸時代にかけて大量の金を産出した梅ヶ島金山がありました。
「最初は金の粉に見立てて金な粉餅と言った。安倍川の奥に金山があるんですよ。金に見立てて『金な粉餅』。
(家康が金山に) 来た時に「召し上がってください」と献上した。」
それを家康が気に入り、この辺りの地名をとって『安倍川餅』と命名しなおしたそうです。 諸説あり。
江戸時代末期の歌川広重 作『東海道五十三次之内 府中 あへ川遠景』(1843~1847年)には、2軒の店が描かれており、
『名物 あへ川のもち』『名物 安倍川餅』の看板があります。 静岡市の名物「安倍川餅」
【安倍川餅】 『百菓辞典』、広辞苑
静岡市西部を流れる安倍川のほとりの名物。つきたての餅に黄な粉や餡をまぶしたもの。焼き餅を湯や蜜につけ
砂糖入り黄な粉をまぶしたもの。十返舎一九『東海道中膝栗毛』に「名におふあべ川もちの名物にて」
≪ 柏餅を端午の節句の時に食べる文化は江戸発祥 ≫ Wiki 柏餅
『柏の葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、「子孫繁栄(家系が途切れない)」という縁起をかついだ
ものとされる。端午の節句に柏餅を食べるという文化は、元々は江戸で育まれたものである。
徳川九代将軍家重(在職1745~1760)から十代将軍家治(在職1760~1786)の頃。参勤交代で全国に行き渡った
とされている。』
日本最初の菓子製法書である享保3年(1718)京都京極五条橋書林梅村水玉堂 刊の『古今名物御前菓子秘伝抄』
によれば、当時すでに羊羹は小豆と白砂糖を材料とする砂糖羊羹であったが、柏餅は煮てすり潰した小豆に塩を加えた
塩餡の餅であった。
【柏餅】かしわ‐もち
円形扁平状のしんこ餅の上に餡をのせ、二つに折るように包み、カシワの葉で包んだもの。
5月5日の節句の供物とする。季語夏。
1904 (明治37) 年刊 正岡子規の竹乃里歌「五月五日には柏餅とて槲かしわの葉に
餅を包みて祝ふ事」
≪ 西日本ではサルトリイバラが柏の代わりに代用される地域が多い ≫
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下の柏餅分布図の資料は、兵庫県立大学の服部保 名誉教授がNHKに資料提供したもの。
下のリンクサイトで分布図など詳しい説明があります。
兵庫県立大学の服部保 名誉教授、他の協同論文 『かしわもちとちまきを包む植物に関する植生学的研究』 2007.01 より
http://www.hitohaku.jp/publication/HN17_p1-11.pdf
『カシワのかしわもちは,1930年代では関東が中心で他の地域は少ない.現在,カシワのかしわもちが全国的に主流と
なっているが,それは,カシワの葉が韓国,中国より輸入され,安価で大量のカシワが確保されたことも一因である.』
しかし、分布図をよく見ると、近畿・四国・九州にも柏の葉を使用した柏餅の地域が少ないながら見られます。
ちなみに、現在の大阪では柏の葉を使用した柏餅が普通。(個人的にはサルトリイバラを使用した柏餅を見た事がありません。) Wiki アカメガシワ
実践女子大学 食生活科学科 調理学第2研究室 「葉利用菓子の食文化研究」 舘野美鈴・大久保洋子 12.03.10 公開論文
https://jissen.repo.nii.ac.jp/index.php? (URL略)
『関東ではブナ科の柏を用い、関西を中心に京都ではアカメガシワ (トウダイグサ科) の葉を使用している。』
【さるとり‐いばら】 俗称サンキライ。カカラ。
ユリ科の落葉蔓性小低木。高さ2~3m。茎は細く他物にからみ、強い角質のとげをもつ。葉は円形ないし楕円形で
基部に2本の巻鬚まきひげがある。初夏、黄緑色の小花を球状に多数つけ、雌雄異株。赤い液果を結ぶ。
饅頭屋本節用集「荊茨、サルトリイバラ」
【饅頭屋本】まんじゅうや‐ぼん
室町末期、奈良の歌人・歌学者で菓子商(塩瀬の祖)の饅頭屋宗二(林逸1498~1581)が刊行した本。
饅頭屋本節用集のほか、漢籍がある。
柏の葉を使う柏餅が日本各地に広まったのは、人の移動が活発になった1940年代以降のようです。
≪ 葉を利用した菓子はサルトリイバラが最も多い ≫
実践女子大学 食生活科学科 調理学第2研究室 「葉利用菓子の食文化研究」 舘野美鈴・大久保洋子 12.03.10 公開論文
https://jissen.repo.nii.ac.jp/index.php? (URL略)
『自然の葉を使用する工夫は古来から行われていることであり、その中からそれぞれの目的にあったものが選ばれてきた。
行事に結びついて伝承された場合、①気候変動などにより手に入りにくくなると「手近な代用品」を使用するか、
②あくまでもこだわって 「なんらかの方法で手にして伝承を守る」の二通りが考えられる。
平安時代の貴族文化が長い年月を経て、庶民層に浸透するのは江戸時代といわれている。
昭和初期まで大きな変動もなく続けられていたと考えられる。
本調査対象の資料には、和菓子に用いられた葉の種類は34 種にのぼった。特にサルトリイバラは多くの地域で使用され、
西日本を中心として分布し、関東出身者にはなじみが少ないものである。このサルトリイバラは228 種も呼び方があると
いわれ、それを冠した菓子の名称も様々である。
その名称のなかに用いた葉の名称を冠せず柏餅という場合もすくなからずあった。
このことは柏餅が端午の節句に用いられる菓子として定着し、代用としての葉がサルトリイバラであったということがいえる。
葉を用いた和菓子の記事数は224 件で用いられていた葉は34 種類であり、その内訳を表1、分布状況を図1に示した。
1位はサルトリイバラ、2位がササ、3位がカシワであり、上位3種で70%を占め、1位のサルトリイバラは全体の35%で
あった。サルトリイバラが身近な葉であり、分布状況も広い範囲であることがわかる。
端午の節句にはサルトリイバラ、ササ、カシワ、ミョウガ、竹の皮、ヨシ、カヤ、ツバキ、コモ、ハラン、ホウ、クズ、
クマタケラン、ススキ、トチ、ニッケイ、ミカン、アシ、アセ、ナラ、が用いられ、かしわもちとちまきが様々な姿に変化して
いることがわかる。
かしわもちには当初、塩餡が使われていたようだが、江戸後期には砂糖の普及とあいまって小豆餡、味噌餡が一般的な
ものとなった。
『守貞謾稿』には次の記述がある。「赤豆餡には柏葉表を出し、味噌には裡を出して標とす」とあり、小豆のかしわもちと
味噌のかしわもちがあり、包む柏の葉の表裏で識別していたことが記されている。
また、『続江戸砂子』(享保20 年、1735)にはかしわもちについて「かしははめでたきもの也、神代はこの葉に供御を盛り、
或はさかずきなどにもなりし事見えたり、ときは木の中に葉の広きは、かしはのみ也、めでたき葉なればこれを用ゆと也、
上方の国々にては、さのみ用ひぬ事也、端午にも此事を見ず」とある。
また『浪花の風』には「端午には、汁にふき、茗荷の子、子赤豆、細大根にあぶら揚、焼物には塩ざわらを用ふといふ。
柏餅を製するは稀なり、すべて茅巻き用ゆ」かしわもちはまれであり、ちまきが主流であること、また食事の献立も決められて
いた例としては貴重なものと云える。
汁ものとしてふき、茗荷の子、子赤豆、細大根、あぶらげ。焼き塩さわらなどで端午の節供を祝っている。
『喜遊笑覧』には「近年隅田川長命寺の内にて、櫻の葉を貯へ置きて、櫻餅とて、柏餅のやうに葛粉にて作る、はじめは
粳米にて製りしが、やがてかくかへなり」とある。かしわもちは粳米の粉でつくるが、葛粉で作っていた時代もあったようで
ある。現在は上新粉に餅粉を加えてつくるものもある。』
↑この論文には、幕末の守貞謾稿で書かれている「京坂では砂糖入りの小豆餡のみ」であった事は書かれていません。
幕末の『守貞謾稿』下巻 第二十四編夏冬「粽荓柏餅」 「荓=餅」
「京坂にては男兒生まれて 初の端午には親族及び智音の方に粽を配り 二年目よりは柏餅を贈ること上巳の菱餅と
載の如し 粽は葭に圖の如く新粉を付け其表を菰の葉を以て包蒸す 此粽は菰を解去り 砂糖を付け食す也
京師 菰粽道喜と云り 菓子工に製する物は砂糖入り菰粽以て圖の如く無串に作り表に笹葉を包み蒸す號て道喜粽
と云 大内にも調達す
大坂にて粽を賣るに 表一圓丸太材矢來を造る店あり 豊島やの白酒に比すべし
菰粽の図
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道喜粽 (現在主流の形)
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江戸にては初年より柏餅を贈る 三都とも其製は米の粉をねりて圓形扁平となし 二つ折となし 間に砂糖入 赤豆餡を
挟み柏葉大なるは一枚を二つ折にして包レ蒸す
江戸にては砂糖入味噌餡をも餡にかへ交る也 赤豆餡には柏葉 表を出し 味噌は裡を出して標とす
清朝粽子と云 一名角黍 彼國にも今日食レ之…」
「智音ちいん=親友、知人、恋人など」「上巳じょうし=(桃の節句・雛祭り)」「圖=図(絵が描いてありますが、当サイトでは略します)」
「菰=真菰まこも=(イネ科の大形多年草)」「道喜どうき=(京の餅屋の元締め)」「號=号 (名称、呼び名)」
「大内おおうち=(御所・皇居・内裏)」「兒=児」「圓=円」「裡=裏」「標=印、記」 御所の道喜門とは
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【嬉遊笑覧】きゆうしょうらん
江戸後期の類書。喜多村信節のぶよ著。12巻、付録1巻。文政13年 (1830) 自序。
部類を分け、和漢の書から特に近世の風俗習慣や歌舞音曲に関する事物を集めて叙述・考証したもの。
【浪花の風】 Wiki 久須美祐雋
家督を譲られた江戸旗本の久須美祐雋くすみすけとしが、1855(安政2)年に大坂の西町奉行へ異動になって在職した
期間(1856~1863)頃の随筆。
【葛桜】くずさくら 百菓事典 より
漉し餡に葛の衣をつけ、桜の葉で包んだ葛饅頭。 葛菓子の歴史 吉野葛の葛切、江戸の久寿餅、岐阜の水饅頭 など
レファレンス協同データベース『浪花の風』
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000129745
『東京年中行事』上の巻 P.288-289の「柏餅と粽」の記述 1911 (明治44) 年に執筆&出版。
「餅屋 餅菓子屋 團子屋では、三月のお節句の草餅がすむと、櫻の葉につゝんだ櫻餅を賣出し、
それがすむと 今度は柏の葉につゝんだ小豆餡と味噌餡の柏餅を賣出す。
それと同時に菓子屋によると粽を賣出すものが有るが、此は大抵の餅屋や團子屋では賣つて
居らぬが普通で有る。
暖簾をくゞつて座敷に上がると、百年紀念 明治四十年十一月と云ふ額が先づ眼につく。
従つて 東京では、田舎のように一寸(ちょっと) 粽を食つて見やうと思つても それは駄目で有る。 それでも近頃 此 粽を新に賣出す家をポツポツと見受けるやうで有る。」
「百年紀念」「先づ」「どちかと」などは原文のままですが、旧漢字は面倒なので新漢字にして書き変えました。
【東京年中行事の著者】
若月紫蘭 (本名は若月保治、1879~1962年、山口出身、東京帝大卒)
教育者・記者・劇作家・演劇研究家・浄瑠璃研究家・翻訳家など多方面で活躍しました。
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≪ 静岡県の大かしわ餅 ≫
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静岡県浜松市では端午の節句に凧上げをして競う
『浜松まつり』が開催されています。
この地方に伝わるかしわ餅は非常に大きな柏餅。
初めて男の子が生まれた年に、その子供が大きく育つ
ように大きいかしわ餅を作って、端午の節句のお返しと
するそうです。
この風習が始まった年代などは不明らしいです。
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≪ カシワとカシワ餅まとめ ≫ 書きかけ
古代より食器代りに使用された木の葉は『カシワ』と呼ばれ、餅など包む物としても使われていた。
また宮中の食を司る『善司かしわでのつかさ』や皇居の守衛の異称『柏木』などの語源になった。
平安時代に『花びら餅』という餡を挟んだ餅が作られるようになった。
また桜餅やカシワ餅など木の葉を使う和菓子のルーツとなる『椿餅』という椿の葉を使った餅がつくられた。
室町時代に南蛮貿易などで洋菓子が伝わり、饅頭が誕生し砂糖の輸入量が増え、砂糖饅頭も登場。
またサルトリイバラの葉を使った饅頭などがあった。
かしわ餅が登場したのは江戸初期の寛永年間 (1624-1644) ~延宝(1673-1681)の頃と推定。
江戸発祥という確証はないようです。
端午の節句でかしわ餅を食べる風習が、江戸から参勤交代で日本各地に広まった?
(※ 文献など、裏付け資料は、まだ詳しく調べていません。)
しかし、上方ではチマキを食べる風習が根付いていたので、近年まで端午の節句にかしわ餅を食べる風習はなかった。
幕末の『浪速の風』に記されている通り、稀にかしわ餅を作る程度。
また、地方においても江戸時代に広まったという証拠は確認できていません。
江戸時代中期頃、京都で書かれた菓子の本によると、かしわ餅は塩味の小豆餡。この頃、ブナ科のカシワが現在の
柏の葉と区別された。ブナ柏の葉がかしわ餅に使われているのは、1930年代までほぼ関東だけ。
江戸末期の柏餅には小豆餡と味噌餡がありました。
※ もっと、くわしく調べると結論が変わってくるかも知れませんが、かしわ餅の主流は味噌餡だったのではない
でしょうか? (特に地方において)
日本全体で、かしわ餅に使われる葉が柏になったのは、柏の葉が輸入されるようになった昭和 (1926~1989) 初期の
1940年代頃以降。但し、一般家庭で作られるかしわ餅には、地方で入手しやすい他の葉が現在でも使われている。
【百和香】ひゃくわ-こう、はくわ-こう
種々の香を練り合わせて作った香。5月5日に百草ひゃくそう、ももくさを合せて作ったという。
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6月 |
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【神今食】じん-ごん-じき、じん-ご-じき
古代の宮中行事の一つ。6月・12月の11日月次祭つきなみのまつり(毎月、月ごと) の夜、神嘉殿に天照大神を祭り、
天皇がみずから旧穀を忌火いみびで調理した神膳を供え、自らも食し、神と共寝する。かむいまけ。
≪ 蛍狩り ≫
【蛍】ほたる
ホタル科の甲虫の総称。体は軟弱で細長く、背面は扁平。熱帯を中心に、世界に約2000種が分布。
多くは腹端に発光器をもち、夜間、青白い光を点滅する。幼虫は陸生または水生で肉食、発光するものがある。
日本にはゲンジボタル・ヘイケボタル・ヒメボタルなどの種類があり、特に前2者は古来蛍狩の対象として親しまれる。
ほたろ。なつむし。くさのむし。季語は夏。〈倭名類聚鈔[19]〉
【蛍の光】ほたるのひかり
歌曲の名。原曲はスコットランド民謡。バーンズ作詞「楽しかった昔」(Auld Lang Syne)によって別れの歌として歌われる。
日本では明治時代に「小学唱歌集」に採り入れられ広まった。
国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693
翻訳され出版された1941 (昭和16) 年版の『ツンベルク日本紀行』(翻訳 山田珠樹、東京市神田の奥川書房 出版)
1776 (安永5) 年に書かれた日本旅行記です。
「第十八章」日本に於いてなしたる動物学的観察 P.327
「蛍 夏の夕 日本蛍が呈する眺めは誠に麗しくかつ魔術めいたものである。この蠅はえの一種は尾に二つの瘤こぶが
あって、ここから欧州の放光虫と同じような青色の燐光を出す。然し欧州の放光虫は羽根がなく杜松ねずの茂みに
静かについている。然るに これと違って蛍は或いは高く 或いは低く飛び交い流星に覆われた空のような眺めを呈する。」
【ツンベルク】Carl Peter Thunberg (1743~1828、スウェーデンの植物学者・医学者)
シーボルト以前の日本研究の第一人者。リンネに学ぶ。オランダ東インド会社に入り、1775年(安永4)長崎オランダ
商館医として来日、翌年出国。著「ヨーロッパ・アフリカ・アジア旅行記」「日本植物誌」。ツンベリー。
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