手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の食の歴史2 奈良・平安時代
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   20.02.17
・・お知らせ・・
 ザーネアイスはドイツ規格の「生クリーム・アイス」、世界一濃厚なアイスクリームです。

  ≪ ザーネアイス お取り寄せ  アイスの基礎知識

   ザーネアイス3種類のセットが基本のセットです。

   ご注文の確認より4日以降の御届けになります。

  1セット 4900 円 (保冷梱包、代引き手数料、クール便送料、税など全て込み価格)
   関東・信越・九州は1セット5010円になります。 お取り寄せのページ



  ≪ 天然100%シャーベットもお取り寄せ (季節によって変わります) ≫

   抹茶、ココナッツ、ブラックベリーなど

 お取り寄せ&地方発送はヤマト運輸の送料などが大幅にアップしたので、4月2日から価格変更に
 なりました。

ザーネアイス
(ドイツ規格の「生クリームのアイス」)


シャーベット (ソルベ)

ガナッシュ
(高級な生チョコの極上アイス)


LINEで送る

「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents




 平城宮跡から発見された木簡

 精密な木製の器の始まり 木地師発祥 滋賀県東近江市
  江戸時代中期は日光の椀つくりが名物だったようです

 小豆粥 と粥占神事

 唐菓子 (8種の唐菓子と14種の果餅) の解説。

 氷室神社 奈良時代に初めて氷室を作った人を祀った神社  弘法大師 大師杖

 光孝天皇「君がため~雪は降りつつ」 が詠まれたのは京都の嵐山の渡月橋付近、若菜は芹。

 平安時代の天皇の食事 帝の居所「清涼殿」 宮中儀式に使われるの高盛


 藻塩 古代の日本の塩。 広島県呉市での藻塩つくり。 宮城県の塩竃神社の神事。

 奈良時代の食文化  宮廷料理の再現画像。唐菓子の伝来。役人と庶民の食事。 この頃の唐(中国)の食事画像。

 箸と爪楊枝 歯磨きの習慣 歯磨きの習慣は奈良時代に伝来

 平安時代の食文化 貴族の食事画像と生活、醤、和歌の始まりは?

 七草粥 年の節句の始まり「人日の節句」、東北と鹿児島の変わった七草粥 19.01.09追記
  江戸時代後期の関東では七草粥の習慣がなかった

 平安時代の宮中では粥杖でお尻を叩く行事があった。

 1200年の伝統 弘法大師へのお供え儀式 高野山奥之院 味見地蔵。

 日本における製油発祥地 エゴマ油が一般的だった。京都府 離宮八幡宮。

 清少納言の『枕草子』に記された 「削り氷」 氷室と甘葛

 御節料理の起源は神饌
  千葉県の香取神宮での変わった神饌。お節が庶民に広まったのは江戸時代、食積みと重詰め。

  倭人伝・倭国伝 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun-mokuji.htm
   ↑ 中国の各古文書の倭人伝の原文と和訳があります。

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/
 
 【 藻塩 もしお 】 砂糖、卵、牛乳の歴史は日本のアイスの歴史などを参照してください。
  広報いずみさの 『いずさの昔と今 第246回』 16.06月号 http://www.city.izumisano.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/35/20160610.pdf

  ≪ 製塩作りは弥生時代中期から活発化 ≫

  大阪や瀬戸内海沿岸各所の弥生時代の遺跡からタコ壺の土器がたくさん出土しており、タコ壺領は大阪湾が発祥と
  されています。
  それらの遺跡の内、大阪湾~瀬戸内海東部沿岸と、和歌山の遺跡からは専用の製塩用土器も多く見つかっており
  塩づくりも盛んだった事がわかります。  この頃は藻塩だったかどうかは調べていません。


  713 (和銅6) 年の詔に基づいて撰進された地誌の一つで養老年間 (717~724) に撰進された、現在の茨城県の
  『常陸国風土記』では「塩を焼きて業とす」とあり、これは焼き藻塩の製塩方法です。

  同じ詔に基づいて撰進された現在の兵庫県南西部の播州地域の『播磨国風土記』では塩代の塩田廿千代を奉りき
  名 塩代田有りという記述があります。
  赤穂がある播州地域では、少なくとも奈良時代には塩田による進んだ製塩方法が行われていた事が分かります。

  江戸時代は北前船によって瀬戸内海で作られた塩が主要な積荷として日本海側の北陸・東北へ運ばれます。
  そして、これらの地域の塩蔵品が発達しました。  江戸時代の海上物流 北前船


  ≪ 広島県 呉市で古代の塩 藻塩 (もしお) 作り ≫ NHK あさイチ 『"JAPA"なび 呉』 12.12.20 放送

  広島県 呉市 上蒲刈島かみかまがり-しまでは、郷土の歴史を研究している松浦宣秀さんが藻塩という古代の塩作りをして
  いるそうです。




  きっかけは、28年前に浜辺で塩作りに使われていた1600年前の土器を見つけた事から。
  仁徳天皇皇后~759年までの約350年間の歌集である『万葉集』の「朝凪に玉藻かりつつ・・・」をヒントに試行錯誤と
  実験を重ね、藻塩つくりに成功したそうです。






  玉藻と呼ばれる島で採れたホンダワラという海藻に海水を浸み込ませ、3時間ほど乾燥させる。これを3日間かけて10回繰り返す。
  海水中の水分が蒸発し濃い塩水写真(2段目右側)が出来る。使った玉藻を燃やし灰の中に残った塩も取り出す(白い部分が塩)為、
  濃い海水に溶かし、それを布で漉します。






  その上澄み液を土器に移し、火にかけ水分を完全に蒸発させると、海藻の成分やミネラルを多く含んだ藻塩の出来上がり。






  ※ 玉藻の「玉」は「藻」の美称びしょう(物や人を飾ったり、ほめたりするときに付ける語。)で、神様の名前にも
   「武速」や「豊」などの美称語が使われいるようです。

  近年では瀬戸内で焼塩作り体験を行っている所もあるようです。


  NHK 和食が世界遺産? ~おいしい日本 1万5千年の旅~ 13.01.02 放送 、広辞苑 などより

  ≪ 宮城県 塩竃神社の藻塩焼き神事 ≫

  【塩竃神社】しおがま
   宮城県中部 松島湾の南西端に臨む漁港の塩竈市にある
   元国幣中社。
   古来、安産の神として名高い。境内に志波彦神社が鎮座。
   祭神は塩土老翁しおつちのおじ神ほか。藻塩焼き神事は7月に
   行われる。

  【塩竃菓子】
   みじん粉に砂糖・塩・水を加えて混ぜ、これを篩ふるいにかけ、
   押枠でかためた菓子。
   塩竈神社付近で製して売り始めたものという。
塩竈神社

塩竃菓子







  仙台味噌と宮城県の製塩事業の始まり 江戸の米市場の1/3を仙台藩の米が占めていた事もあった。 兵庫県の赤穂の塩

  石川県では揚浜式での製塩を500年ほど前から現在も続けているそうです。入浜式は赤穂藩が始めました。

  【揚浜】あげ‐はま
   塩田の一種。満潮面より高い海浜の砂上に海水をまいて天日により水分を蒸発させ塩をとる。

  【入浜】いり‐はま
   満潮面より低い海岸に海水を流入して行う製塩法。揚浜を改良したもので、江戸初期から行われた。
 
 【 飛鳥・奈良時代 】 
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『聞いて美味しい 野菜の話 ~知られざるその神秘に迫る~』 12.12.13 放送
  フジTV 爆笑!アカン警察 『歴史上の食事で健康になれるのか 第2弾』 13.03.03 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『東アジアの動乱と国家建設』 14.05.16 放送
  関西テレビ MNB48とまなぶくん 『教科書で習った歴史は間違っていた!? 驚き満載の新説・日本の歴史』 14.09.19 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅25 奈良あやめ池~興福寺』 15.10.15 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『Go! Go! 若一調査隊 「うどん発祥を巡って新展開 奈良県が新たに名乗り!」』 15.09.09 放送
  百菓辞典Wiki 唐菓子 Wiki 節会 





  【飛鳥時代】あすか‐じだい
   奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝(在位592~628)の時代。
   もとは美術史の時代区分で、推古朝を中心に仏教渡来から平城遷都まで広く含めたが、今では政治史や文化史でも
   6世紀末から7世紀前半までとするのが普通。

  【遣隋使】けんずい‐し
   大和政権から隋(581~619)へ派遣された使節。日本側の記録では推古天皇時代の607年・608年に小野妹子おののいもこら、
   614年に犬上御田鍬いぬかみのみたすきらと計3回だが、中国側の記録では600年にも派遣されている。
   6回派遣されたとする説もある。

  【犬上御田鍬】いぬかみ‐の‐みたすき (生没年未詳)
   飛鳥時代の官人、最初の遣唐使。614年隋に使し、630年唐に赴き632年帰国。






   奈良時代も帝都を凌ぐ繁栄だった大阪 摂津・河内


  ≪ 日本原産の野菜 わさび ≫ 野菜の雑学

  現在、日本で食されている野菜は約140種類ですが、日本原産の野菜は全部で20種類程度しかないそうです。
  お馴染みの野菜の多くは海外から持ち込まれ、日本で品種改良したものでした。

恵泉女学園大学 Dr.ベジタブルこと 藤田 智 教授  




  713 (和銅6) 年の詔に基づいて撰進された地誌の一つで、現在の兵庫県南西部の播州地域の『播磨国風土記』には
  山葵・人参・独活うど・すもも・清酒すみさけと酒屋や鹿の膾、塩田での製塩などの記述があるようです。

  金印 『わさびの歴史』 http://www.kinjirushi.co.jp/wasabi/history/

  奈良県明日香村の苑地(えんち)遺構から出土した木簡を調べていた奈良県立橿原考古学研究所は、「出土された
   木簡の長さは8~30cmほどで、わさびや薬草とみられる植物名や、庭園を管理する役所名などがかかれていた」と発表。

  【山葵】わさび
   アブラナ科の多年草。日本原産で、渓流のほとりに自生し、また多く流水地に栽培する。地下茎は肥厚した円柱状で、
   葉柄とともに強い辛味を有し、根出葉は心臓形、春に白色4弁の小花を開く。根を香辛料、また、葉と共にわさび漬とする。
   季語は春。〈本草和名〉

  【本草和名】ほんぞう-わみょう
   日本最古の本草書。本草約1025種を掲げて注記。2巻。深江 (一説に深根) 輔仁が醍醐天皇の勅を奉じて撰。
   918年 (延喜18) 頃成る。輔仁本草。


  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂 中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161

  ≪ 牛乳五味 ≫ 涅槃経 より    らく生酥なまそ熟酥じゅくそ醍醐だいご 

  孝徳天皇 (654~654年) の時代に「呉国よりの渡来民 善那が天皇に牛乳を献上し、和薬使主やまとくすしのおみの姓を賜る
  という記述が残されており、これが「牛乳」の初見とされているようです。

  『右官史記』の700 (文武4) 年10月の条に「遣使造蘇」とあり、これが「蘇=酥」の文献上の初見のようです。

   『牛より乳を出し。乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出すがごとし。醍醐最上なり

   () … 牛または羊の乳を煮つめて濃くしたもの。練乳を更に煮詰めたもの。画像の蘇は、牛乳を12時間煮詰めた
   もの。最も貴重な食品であった為、天皇やごく一部の高級貴族しか口に出来なかったもの。

  1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』巻三十七「畜類」の「牛」の条には「牛乳」に「ボウトル」のフリガナがあります。
  このボウトルは「番語の名に保宇止留」と書かれてあります。中国(明)での漢字を日本語読みで充てたものと思われます。

  東日本 (箱根の関から以東) には馬が多く牛は少ない。西日本には牛が多く馬が少ない。京では天皇皇后は牛車である。
  市中の米や薪などの運送や農耕にも牛を使っている。東日本では牛に代わって馬を利用している。など書かれてあります。

  また、牛から作られる製品の記述もあって、「酪・酥・醍醐・乳腐(乳餅)」の造り方や薬としての効能などの解説が書かれて
  あります。

  卵・砂糖・牛乳の歴史は 日本のアイスの歴史1 奈良~江戸時代






  【奈良時代】なら‐じだい
   平城京すなわち奈良に都した時代。元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の7代七十余年間(710~784)。
   美術史では白鳳時代を奈良時代前期、この時代を後期として、天平時代ともいう。奈良朝。

  【遣唐使】けんとう‐し 入唐にっとう使
   国際情勢や大陸文化を学ぶために、十数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節。
   大使・副使らふつう五、六百人が数隻の船に分乗して、2、3年がかりで往復した。
   630年犬上御田鍬が派遣されたのが最初。唐末の戦乱のため、894年(寛平6)菅原道真の提議により廃止。

  【小野妹子】おの‐の‐いもこ (生没年未詳)
   飛鳥時代の官人。遣隋使となり607年隋に渡り、翌年隋使の裴世清はいせいせいとともに帰国。同年隋使・留学僧らとともに
   再び隋に赴く。隋では蘇因高そいんこうと称した。609年帰国。墓誌の出土した毛人えみしの父。生没年未詳。


  朝日新聞 コトバンク 『「なます」 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説      酢は古墳時代~江戸時代まで堺が主産地。
   https://kotobank.jp/word/%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%99-108455
  マルカン酢 酢の歴史 http://www.marukan.com/health/sub/history.html   Wiki 膾
  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf

  ≪ 最古の調理法の一つとみられる『膾なます』が作られていました ≫

  6世紀前半の中国の詩文集『文選』には「アザラケキヲサク」と読ませ、中国では火熱を用いない料理の意に用いています。

  【文選】もんぜん
   中国の周から梁に至る千年間の詩文集。体裁別・年代順に収録。30巻、のち60巻。梁の昭明太子(蕭統しょうとう)が、
   正統文学の優れたものを集大成することを意図して、文人の協力のもとに編。
   後世、知識人の必読書とされ、日本でも平安時代に盛行。

  【文選読み】もんぜん‐よみ
   文選をよむのに文字を音読し、さらに同じ文字を訓読する読み方。「蟋蟀」を「しっしゅつのきりぎりす」とよむ類。


  日本では、720年の『日本書紀』に「ナマスツクル」とあります。

  中国から伝わった当初の穀醤こくびしおは、豆味噌系ひしおくきと呼ばれるものでした。
  奈良時代に大伴家持 (717?~785年)によって編纂された万葉集[16]には「醤酢ひしおすに蒜ひる搗きてて鯛願ふ
  我にな見せそ水葱みずなぎの羹あつもの」と詠まれています。 ※ 「搗く=つく」、棒の先で押し潰す事。
  「酢味噌に 蒜ひる (=ネギやニンニクの類) を潰し混ぜて鯛を食べたい」というような意味。

  APEC2010の観光大臣の会議の際に奈良で上記の歌の料理が再現されたそうです。
  大坂の難波の宮は655年以降、100年ほどの間、都や陪都 (天皇が国の都と同様と定めた都市) であった為、
  貴族たちは大坂で新鮮な鯛を食べる機会が何度もあったと思われます。

  【醤】ひしお
   ① もとは大豆のちに小麦を主材料とした発酵調味料。現在の味噌・醤油の原形。なめみそとして用いた。
    平安中期の宇津保物語[吹上上]「酢、―、漬物皆同じごとしたり
   ② 魚。鳥の肉の塩漬。肉醤ししびしお。しおから。史記(紀元前91年に完成した中国の歴史書)の注釈本で、室町時代中期の
    1477年 (文明9) 成立の史記抄(かゆに酒をまぜて発酵させたもの) は―醤はみそなり

  【肉醤・醢】しし-びしお
   肉で製したひしお。乾肉を刻み、麹または塩に浸しならして製するという。しおからの類。〈931~938年の倭名類聚鈔[16]〉

  藤原京 (694~710年) の藤原宮跡から「」などが書かれた木簡が出土しています。

  【万葉集】まんようしゅう
   (万世に伝わるべき集、また万よろずの葉すなわち歌の集の意とも)現存最古の歌集。20巻。
   仁徳天皇皇后作といわれる歌から淳仁天皇時代の歌(759年)まで、約350年間の長歌・短歌・旋頭歌せどうか
   仏足石歌体歌・連歌合わせて約4500首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持(奈良時代の歌人、717?~785)の
   手を経たものと考えられる。
   東歌あずまうた・防人歌さきもりうたなども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表す調子の高い歌が多い。


  平安初期の『日本霊異記』に「則ち膾机と小刀とを持ち出でて」という記述があり、  膾と刺身の歴史
   (膾机なます-づくえ=膾を作る時に用いる まな板の事。)

  平安中期の『和名抄わみょうしょう』では「奈万須なます」があり、「細切完(肉)也」と解説しています。
  生切なますきの略、生肉なまししの転じたものとみられていますが、後世では、なまの材料に酢を加えた意味と考えられています。

   ※ 古代の鱠は魚肉などを細かく切って盛るといわれ、現代の刺身との区別はつけにくいそうです。


  【日本霊異記】にほん‐りょういき、にほん‐れいいき 「日本国現報善悪霊異記」。霊異記
   平安初期の仏教説話集。3巻。僧景戒撰。
   奈良時代から弘仁(810~824)年間に至る朝野の異聞、殊に因果応報などに関する説話を漢文で記した書。

  【膾・鱠】なます
   ① 貝や獣などの生肉を細かく切ったもの。筏いかだ膾 (柳の葉を筏のような並べ、その上に鮎やスズキなどの細作りを
     盛ったもの) など。
   ② 細く切った魚肉を酢に浸した食品。
   ③ 人参などを細かく刻み、三杯酢・胡麻酢・味噌酢などであえた料理。(室町時代頃)

  【倭名類聚鈔】わみょうるいじゅしょう 略称、和名抄。順和名。
   日本最初の分類体の漢和辞書。源順 著。10巻本と20巻本とがあり、20巻本では、漢語を部門に類聚・掲出し、
   音・意義を漢文で注し、万葉仮名で和訓を加え、文字の出所を考証・注釈する。
   承平(931~938)年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進。

  【源順】みなもと‐の‐したごう(911~983)
   平安中期の歌人・学者。三十六歌仙の一人。梨壺の五人の一人として後撰集の撰に当たり、また万葉集訓釈(古点)の
   ことに従った。著「倭名類聚鈔」、家集「順集」。


  ≪ 豆腐の伝来 ≫ 奈良時代に唐から伝わったとされています。

   大豆製品などの歴史と雑学のページ   卵、牛乳、砂糖は、日本のアイスの歴史ページ


  ≪ 唐菓子 ≫ からくだもの、とうがし  百菓辞典

  唐(中国)から伝来した菓子。
  八種(やくさ)の唐菓子と 十四の果餅があったが、詳細が不明なものもあるようです。
  もち米、うるち米、麦、大豆などの粉をこね、油であげたものが多い。

  九州・四国地方に多く伝わったといわれる。文字や読み方には諸説があり、果餅のうち、索餅むぎなわ餛飩こんとん
  餺飩ほうとう麺類のようなものであり、菓子とは違うのではないかという説もある。

  餺飩が、現在の「うどん」になったと言われています。(うどんのルーツは博多説など他説あり)

  ※ 百菓辞典と広辞苑では内容が異なる菓子もあります。広辞苑では、倭名類聚鈔の記述を基本としたものが多いです。

  【唐果物・唐菓子】から‐くだもの  Wiki 唐菓子
   米粉・小麦粉などにあまずらを加え、花・虫・縄などの形に作って油で揚げた菓子。
   奈良時代、唐から製法が伝えられた。とうがし広辞苑

  【藤原貞幹】ふじわら の さだみき(生没年未詳)
   平安時代前期の貴族。藤原北家 藤原真夏(~830年)の孫で関雄(~853年)の子。

  【神饌菓子】しんせん-がし 百菓辞典
   神様に供える菓子で、伊勢神宮、春日大社、八坂、下鴨、上賀茂神社などの神饌菓子が知られている。
   唐菓子の餢飳ぶと梅枝ばいしなどが用いられる。

  【餛飩】こん-とん
   唐菓子の果餅のひとつ。小麦粉の皮で、肉や野菜、あんなどの具を包み、ゆでたり揚げたりした饅頭ににたものと
   伝えられている。だんご状で端がなく、どこから始まってどこで終わるかがわからないため、「こんとん」と呼ばれた。
   うどんの原形といわれる。
   最初「混沌」と名付けられ、食べ物であるため食偏に変わって「餛飩」となり、熱く煮て食べるので「温飩 (おんとん)」と
   変化し、室町時代末には「饂飩 (うんどん)」と呼ばれるようになった。 百菓辞典
   刻んだ肉を小麦粉に包んで蒸したもの。平安時代、宮中の節会などに供された。また餡を包んだ小麦団子を
   煮たもの。 広辞苑

  【捻頭】むぎ-かた 百菓辞典
   唐菓子の果餅のひとつ。モチ米の粉を練って、細かく輪のようにしたもの。

  【麦かた】むぎ-かた 広辞苑
   小麦粉を練って、頭をねじった形に作った餅。〈倭名類聚鈔[16]〉。

  【黏臍】てん-せい 百菓辞典 & 広辞苑
   唐菓子のこと。粘り気のある餅または、糯米の粉を、上が丸く下が平らな円板形にし、
   中央を窪ませてへそ様に作り、揚げたもの。臍は綣のこと。朝廷の節会などに用いた。

  【饆饠】ひち-ら、ひつ-ら 百菓辞典 & 広辞苑
   唐菓子のひとつ。薄い円形で、小麦粉を用いて、中に餡を入れたもの。
   甘味は違うが、今の大福に似ている。
   糯米の粉でつくり、煎餅のように扁平にして焼いたもの、とも。〈倭名類聚鈔[16]〉。

藤原貞幹の集古集

  【粉熟・粉粥】ふ-ずく、ふん-ずく
   唐菓子の果餅のひとつ。干し飯 (ほしいい) の粉、ささげ、ナツメ、ゴマ、カチグリ、イリマメなどを練り合わせ、
   甘づらで味をつけ、竹に入れて押し出して切る。 百菓辞典
   フンジュクの転。米・麦・小麦・大豆・胡麻などの粉をこねて蒸した後、甘葛あまずらを入れてこね合わせ、細い竹筒に
   押し入れて固めたものを突き出して切って食べる。主に間食用。
   平安中期の宇津保物語うつほ-ものがたり[初秋]「それにうちつぎて―まゐり」 広辞苑

  【餲餬】かつ-こ、かっ-こ 百菓辞典 & 広辞苑
   唐菓子の一種。蝎かつ (すくみ虫、すくも虫=木食い蒸し) を模したもの。小麦粉を水で練り、棒状に丸めて押し
   平たくしてからサナギのように凹凸をつけ、油であげるもの。また、食用昆虫のすくも虫を、米粉などを衣に揚げたもの
   であるといわれる。節会・大饗に用いた。

  【餓子・鎚子】つい-し
   唐菓子のひとつ。芋の子(里芋の親芋についたの小さい芋)に似た丸い団子形の蒸餅。 百菓辞典
   節会などに用いた唐菓子の一種。米の粉または小麦粉をこねてサトイモ形に製し、油で揚げたもの。 広辞苑

  【結果・香菓泡】かい-の-わ、かく-なわ、かく-の-あわ 百菓辞典 & 広辞苑
   唐菓子の果餅のひとつ。結び緒のような形をしたもので、小麦粉で作ったといわれる。
   昔の揚げ菓子。材料不明。〈倭名類聚鈔[16]〉。平安後期の江家次第[10]唐菓子二杯、―一杯

  【索餅】むぎ-なわ、さく-べい 百菓辞典 & 広辞苑
   唐菓子の果餅のひとつ。麦縄と書かれた文献もある。小麦粉を用い、縄のように
   よって仕上げる。冷麦、素麺の原形といわれる。油で揚げたという説もある。
   陰暦7月7日に瘧おこり (マラリア) よけのまじないとして内膳司から宮中に奉り、
   また節会の時、晴れの御膳に供した。

  【麦索・麦縄】むぎ-なわ 広辞苑
   ① 索餅さくべいのこと。 ② 饂飩うどんまたは冷麦ひやむぎのこと。

  【団喜】だん-き 百菓辞典
   唐菓子のひとつ。中国から伝わったもので、今の団子にあたる。
   また、今のシューマイのようなもので、中にあんを入れるという説もある。

  【糫餅】まがり、まがり-もちい 百菓辞典 & 広辞苑
   唐菓子の果餅のひとつ。モチ米の粉をこね、細くひねって輪にし、ゴマ油で揚げたもの。




  【桂心】けい-しん 百菓辞典 & 広辞苑
   唐菓子のひとつ。中国王冠に似せたともいわれる。肉桂 (シナモン) をねり粉 (原料…米) に混ぜ、丁子 (クローブ) の実の
   形にして、揚げるもの。ねり粉に砂糖かアメを加え、薄く延ばしたものを切り分けて焼くと、八ッ橋の味に似ている事
   から、八ッ橋のルーツともいわれる。肉桂の粉をつけた昔の菓子。

  【餢飳】ぶ-と
   唐菓子の果餅のひとつ。米の粉をこねて丸く平らにし、二つに折り、油で揚げたもの。
   「餢飳饅頭」「火打焼」はその変形。 百菓辞典
   「餢飳ぶと」「伏兎ぶと」は、油で揚げた平安時代の食品。〈倭名類聚鈔[16]〉。 広辞苑

  【火打焼】ひうち-やき 百菓辞典
   奈良県の名物餅。春日大社の神饌「餢飳」が変化したもの。「ぶと」は、唐菓子の一つで、奈良時代に渡来した揚げ煎餅
   だが、これが日本化した。昔、春日大社そばの春日御茶屋で初めて火打焼きを売ったという。
   当初は、うるち米粉の皮で味噌あんを包み、表面を焼いていたが、現在はういろう皮で、大納言の粒あんを包んだ形に
   なっている。

  【梅枝】ばい-し 百菓辞典
   唐菓子のひとつ。梅の枝の形を模したもの。枝の分かれ方で、二梅枝、三梅枝がある。
   元来は、枝つきの梅を用いたためついた名前だと言われる。米粉をこねてゆで、すりこぎで薄くし、枝をかたどる。
   そくい (飯をねったもの) を赤青に塗り、油にあわせて干し花にする。

  【桃枝】とう-し 百菓辞典
   唐菓子のひとつ。桃の枝を模した菓子。梅枝と同様なもの。また、桃の花を模したものともいわれる。

  【餺飥】ほうとう、はく-たく、ほう-とん 百菓辞典
   ① 唐菓子-の果餅のひとつ。やまのいもをすって、米の粉を加えて練、平たくして
     細く切ったもの。うどんの原形といわれる。
   ② 山梨県の郷土食。味噌で煮込むうどんの一種。岩手県の「はっと」、
     群馬県の「お切り込み」など、同様なものが、いくつかの県にある。

  【餅餤・餅腅】へい-たん、べい-だん
   唐菓子の果餅のひとつ。鷲、鴨、卵、乳酪などを餅に包み、角形にした料理菓子。 百菓辞典

   (ヘイタンとも)唐菓子の一種。調理した野菜および鴨・鵞・鶏卵などを餅皮で包み方形に切ったもの。 広辞苑
   枕草子[133]「―といふものを二つ並べて」

  【餅餉】へい-こう 百菓辞典
   唐菓子の果餅のひとつ。油物であると想像されているが、文献がなく、詳細不明。

  【魚形】ぎょ-けい 百菓辞典
   唐菓子の果餅のひとつ。名前だけ伝わっているが、文献に無く詳細は不明。

  【椿餅】つばい-もち 百菓辞典
   唐菓子の果餅のひとつ。つばきの葉を合せて、餅を包んだもの。
   今の椿餅と同じようなものであるといわれている。つばきもちの古語。

  【椿餅】つばい-もちい、つばい-もち 百菓辞典 & 広辞苑
   もち米の粉に、あまづらをかけて、丸く固め、椿の葉2枚で包んだ餅。つばきもちの古語。
   平安中期の源氏物語[若菜上]「―・梨・柑子やうの物ども」。
   「桧破子 (ひわりご) 、御酒 (みき) 、椿餅など奉り給へり」平安中期の『宇津保物語』。

  【椿餅】つばき-もち、つばい-もち 百菓辞典 & 広辞苑
   しん粉や道明寺製の種であんを包み、上下につばきの葉をあしらった餅。
   年の暮れから新春にかけての和菓子の代表的なもののひとつ。

  【粔籹】おこし-こめ 百菓辞典
   単に「こめ」ということがある。唐果物 (からくだもの) の果餅のひとつ。
   米の粉を原料に、蜜と水でこね、油で揚げたもの。後の「おこしごめ」「おこし」の原形であるといわれている。

  【煎餅】いり-もち 百菓辞典
   唐菓子の果餅のひとつ。小麦粉を油でいったもの。「せんべい (煎餅)」は後に伝来したもので、いりもちとは異なる。


  ※ せんべいは、弘法大師(空海、774~835)が唐から伝えたという説があり、〈倭名類聚鈔[16]〉に記述があります。

  饅頭の発祥地、奈良市・林神社 饅頭屋「塩瀬」奈良→京都→江戸   室町時代 団子が普及し、茶店が登場 みたらし団子、十だんご
  うどんの発祥地は奈良?   飴の歴史 大阪の飴ちゃん文化
  江戸時代に発達した菓子・甘味1   江戸時代に発達した菓子・甘味2

  カシワがブナ科の柏となったのは、江戸中期以降の事。それまでは色んな種類が「かしわ」と呼ばれていました。
  詳しくは→ 端午の節句 チマキとカシワ餅の歴史 のページで


  ≪ 砂糖の伝来 ≫

  鑑真和上が唐から砂糖を伝えた。当時は高価なものなので、薬として使用されました。
  2013年、鑑真和上坐像が奈良時代の「脱活乾漆造り」という技法で、重さもそのままになるように複製されました。
  国宝の像は、御命日の前後となる6月5~7日の3日間毎年唐招提寺で公開されています。






  【鑑真】がんじん(688~763)揚州江陽県(江蘇省)の人。
   唐の学僧。日本の律宗の祖。戒律・天台教学等を習学。入唐僧 栄叡ようえいらの請により暴風・失明などの苦難を
   おかして753年(天平勝宝5)来日、東大寺に初めて戒壇を設け、聖武上皇以下に授戒。
   のち戒律道場として唐招提寺を建立、大和上だいわじょうの号を賜う。
   淡海三船おうみのみふねに、その来日の顛末を記した「唐大和上東征伝」がある。過海大師。唐大和上。


   ≪ おせち ≫

  中国から伝わった五節供の行事に由来し、朝廷内では節会せちえという節日を祝う行事が行われていました。
  「おせち」は「御節供 おせちく、おせつく」の略であり、そこで供される供御を節供と言った。
  現在のようなお節料理ではなく、高盛りになったご飯などであったと思われているそうです。


  テレビ東京 137億年の物語 ~宇宙が始まってから 今日までの全歴史~ 『奈良時代のサラリーマン』 13.11.23 放送
  NHK奈良 ええトコ 『奈良に ”うまいもん” あり! ~旬と伝統の味 いただきます~』 13.12.13 放送
  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『極上の和を探して 古都・奈良ぶらり』 14.03.22 放送
  テレビ大阪 やさしいニュース2 『奈良deいただきます 「地場野菜で作る奈良漬」』 18.07.16 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『世界遺産 平城宮跡 発掘の今は?』 18.12.14 放送
  読売テレビ ten. 『1300年前の首都奈良で奈良時代の食文化を徹底調査』 20.01.08 放送

  ≪ 奈良時代の宮廷料理 ≫   平城京  奈良時代の役人 位階と給与の画像および解説も参照して下さい。

  1986年、奈良そごう百貨店建設の折、建設予定地 (平城京朱雀門近くにあったの長屋王の邸宅跡) から5~10万点に
  のぼる多量の「木簡」が発掘されました。

  【長屋王】ながや‐おう(684~729)
   天武天皇の孫。高市皇子たけちのみこの子。724年(神亀1)正二位左大臣に進み、藤原氏に対抗したが、藤原氏の陰謀により
   自害させられた(長屋王の変)。

  コトバンク 『長屋王家木簡』
  旧平城京跡の奈良市二条大路南で1986年に発見された長屋王邸跡などから出土した11万点の木簡。

  奈良時代の食事も1日2回。
  従業員の女性が着ているのは当時の女官の服装。税の一つ「調」として、各地から特産物が都に送られていました。
  平城京跡資料館 (入場無料) では、出土した木簡のレプリカや発掘調査の状況、木簡に記された特産物の全国
  マップ、宮廷料理を再現した模型などを展示しています。





  【租庸調】そ‐よう‐ちょう
   唐(中国)の均田法下の税制。土地を給与された丁男ていだん(21~59歳)に対して課した現物税。
   租は粟2石、庸はもと年20日間の力役が1日につき絹3尺に換算されたもの。調は土産の絹2丈と綿まわた3両、
   または麻布2.5丈と麻3斤。のち両税法がこれに代わった。日本でも大化改新以降に同様のものを制定。

  紙よりも丈夫で使い回しできる事から、木簡は荷札としてもよく使われていました。
  伊豆国からカツオ(堅魚)、備前国からクラゲ(水母)など全国の特産物が送られてきています。
  奈良文化財研究所 資料研究室の馬場基 室長によると、阿波国からはワカメ(海藻)が送られてきており「海藻」だけで
  「ワカメ」と読むので「若海藻」と「若」を付けているのは新物の事。春先の鳴門ワカメが運ばれてきたそうです。






  下の画像は奈良パークホテルで再現している料理です。
  料理長の足立秀滋さんが木簡や万葉集・日本書紀などを25年間研究して完成させたのが「天平の宴」という奈良
  時代の宮廷料理。予約すれば大宮の間という特別な部屋で食べる事が出来ます。





  各地の特産物を使用した豪華な宮廷料理を食べる事が出来たのは、皇室と貴族とよばれる上級役人(100~200人)。
  平城京には、日本庭園の基礎になったといわれる東院庭園で宴が供されていました。






  赤米 … 現代の赤飯のルーツとも言われているようです。当時、日本では赤米が主流だったとも言われています。
  黒米 … 作家の若一光司さんによると、中国では皇帝の薬膳料理として使われていた高級食材で楊貴妃が好んで
   食べたとも言われ、栄養価が高く、アントシアニンも含まれているようです。日本には縄文末期頃に伝わったようです。
   蒸してあり香ばしくプチプチとした食感だそうです。上に乗っているのは松の実。






  須々保利すずほり漬け … 大根と米こうじを使用した料理で、たくわん漬けのルーツ。平城宮から発掘された木簡や、
   平安時代の延喜式に記述があるそうです。

  木簡の中には「ひしお」「粕漬」「醤漬」などの文字があり、現在発見されている漬物の最古の記録とされています。
  奈良時代や平安時代は料理に味付けがなされていないので、食べる時に醤・酢・塩などを自分で付けて食べます。






  環餅まがり、まがり‐もちい … 唐菓子の一種。糯米もちごめなどの粉をこねて引き伸ばし、いろいろな形に作り曲げて油で
   揚げたもの。
  楚割りすわや-り … 魚の身を干物にしたもの。鮭と佐米(サメ)。

  【朴・厚朴】ほお
   モクレン科の落葉高木。日本の固有種で山地に自生し、高さ15~25メートル。葉は大形で有柄長楕円形。5月頃、直径
   15センチメートルもの帯黄白色で香気の強い9弁の花を開く。果実は長さ約15センチメートル、熟すと糸を引いて赤色の
   種子を垂らす。材は細工しやすく、版木・建築・器具・木炭に用いる。葉は食物を包むのに用いられた。樹皮は漢方生薬の
   厚朴こうぼくで、健胃・整腸・去痰・利尿薬。ホオノキ。ホオガシワ。「朴の花」は夏の季語。






  鯛の膾は、酢で洗ったもので、醤と酢を合わせて酢味噌のようにしたものに付けて食べていたそうです。
  日本原産のワサビも食べられていました。酢(古墳時代に堺に伝わったと言われています)は玄米酢だったようです。

  「近江國生蘇三合」と書かれた木簡が出土しており、当時は天皇など極一部の人しか食べる事ができなかった
  貴重品の「蘇」は滋賀県から献上されていたようです。薬として食べられていたようです。
  蘇は牛乳を12時間ほど火にかけて混ぜ続けて作ったもの。






  【白酒】しろ‐ざけ
   ① 粘りのある白濁した酒。蒸した糯米もちごめと米麹こめこうじとを味醂または清酒・焼酎に混和して発酵させ、後にすり
    つぶして造る。甘味豊かで一種特有の香気がある。多く雛祭に用いる。山川酒。季語は春
   ② 濁酒どぶろくの別称。

  【白酒】しろ‐き
   大嘗会だいじょうえなどに神前に供える酒。クサギの焼灰をまぜたものを黒酒くろきというのに対して、まぜないものをいう。
   万葉集[19]「天地と久しきまでに万代に仕へまつらむ黒酒―を」


  大阪 幻の酒 「金剛寺 天野酒」 家康によって排除された飛鳥時代からの最高の酒。 奈良の諸白などの日本酒の歴史雑学はお酒のページにて

  KIRIN食生活文化研究所 発酵食品名鑑 「漬物」 http://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/ferment/tsukemono/
  つけもと ㈱ 『古くて遠い漬物の歴史 シルクロードの終点 奈良から』 ← 長屋王邸宅跡から出土した木簡の画像あり
   http://www.kyousei-nara.jp/furukutetoitsukemononorekishi/tsukemonorekishi.htm
  全日本漬物協同組合連合会 『漬物の歴史』 http://www.tsukemono-japan.org/pickle_history/
  奈良パークホテルHP 『天平の宴』 http://www.narapark.jp/tenpyou/  ← こちらで、再現した奈良時代の料理が食べられるようです。


  ≪ 役人と庶民の食事 ≫   奈良時代の役人 位階と給与

  奈良時代の下級役人 (正六位~少初位 1万~2万人) と呼ばれる人達にも格差があって、 正六位が830万円、
  少初位が270万円の年収だったそうです。高級貴族である大臣クラスのトップの正一位は4億4000万円。

  一般庶民の食事の基本は、一汁一菜。主食は粟・稗・玄米、汁物には味は無かったので、食べる時に塩で調味。
  一日一食という説もあるようです。






  ≪ 平城京グルメ 明かすタネ 果物や野菜、37種2万点発掘 ≫ 朝日新聞 2013.07.03 朝刊 より、原文のまま

 平城京(710~784年)の政治の中枢だった平城宮の跡(奈良市)で、便槽の遺構からヤマモモやアケビ、ヤマブドウなど
  37種類、計約2万点に及ぶ植物の種や果実などか見つかった。奈良文化財研究所が2日公表した2013年紀要で報告した。
  周囲の雑草のものもあるとみられるが、奈良時代の役人の多様な食生活がうかがえる貴重な資料になりそうだ。

  平城宮跡では2009年、政治や儀式が行われた朝堂院の東側で七つの穴が出土。
  便の塊やトイレットペーパーのように使われた板「籌木ちゅうぎ」が見つかった。

  穴の一つ(70㎝四方、深さ30㎝)から取り出した土をふるいにかけ、目視や顕微鏡で調査。キイチゴやカキ、クリ、ナスなど
  果実や野菜のほか、ヒエやアワなど雑穀類が確認された。

  昆虫の死骸もあり、全体の9割にあたる約200点がハエ類のサナギ。穀物の害虫は、除去しきれずに食べてしまったらしい。

  奈良教育大の金原正明教授(環境考古学)は、サンショウや苦みのあるヤナギタデの果実もあることに着目。
  「香辛料として肉などに使ったり、刺激的な味を好んだりしたのでは」と話す。


  ≪ 平城京・平城宮の発掘調査 ≫ 2018年12月現在

  平城宮跡は1959年から奈良文化財研究所が発掘調査を開始しましたが60年で130ヘクタールの約38%、平城京では
  3~4%くらいしか調査が進んでいません。
  中心部に当たる平城宮跡は私有地も含まれており、国が買い上げて約8割が国有化されています。
  2008年に発見された広いゴミ捨て場から採取した土は2800箱あり、10年で2230箱分の土が洗い流され、木簡や木簡の
  削りクズなど約15万点で保管されています。






  1961年に発掘された平城宮第1号木簡とされる物には「寺が役所に小豆や醤を届けるように請求した」内容が書かれて
  おり、これらのうち、とりあえず3184点の木簡は2017年に国宝に指定されました。
  「常食菜甚悪」と書かれた木簡もあり、「役所で出される給食のおかずがマズイ」という事だそうです。


  ≪ 奈良漬 ≫ Wiki 奈良漬け 『』 より

  ① (奈良で創製したからいう)野菜類の酒粕漬。元はもっぱら白瓜を用いていたが、瓜類を中心に各種野菜で作る。
  ② 酒につかること。さけづけ。さけびたり。

 奈良漬けは、元々西暦700年代から「かす漬け」という名で存在しており、平城京の跡地で発掘された長屋王木簡にも
  「粕漬瓜」と記された納品伝票らしきものがある。

  当時の酒といえばどぶろくを指していたため、粕とは搾り粕ではなくその容器の底に溜まる沈殿物のことであったよう
  である。当時は上流階級の保存食・香の物として珍重されていたようで、高級食として扱われていたという記録がある。

  その後、奈良漬けは江戸時代に入ると幕府への献上や奈良を訪れる旅人によって普及し、庶民に愛されるようになる。
  「奈良漬け」へ変わったのは、奈良の漢方医糸屋宗仙が、慶長年間(1596年 - 1615年)に名付けたからである。

長屋王家木簡

現在では一般名詞化し、奈良県以外で製造したものも奈良漬けと呼ばれる。
奈良県以外では、灘五郷(兵庫県神戸市灘区)などの酒粕を用いた甲南漬、
名古屋市周辺で収穫される守口大根を用いた守口漬などもある。

 ※守口漬けは大阪の守口が発祥で特に江戸時代は盛んに作られていました。

近年、需要が減っている奈良漬ですが、徳川家康が好んだ食べ物の一つ。
大坂の町医者が瓜の奈良漬を家康に献上したところ、医者を辞めさせ幕府で奈良漬を
作らせた。という逸話が残っているそうです。


  ※ 奈良漬けは、酒の風味が強く残っているので、白米と合わせるより、お酒の肴や、茶粥、茶漬けと一緒に食べるのが、個人的なオススメです。

  ≪ 日本で唯一『純正』の呼称が許された、昔ながらの製法の純正奈良漬 ≫

  JR奈良駅に繋がる三条通商店街は、春日大社の参道として古くから栄えてきました。この商店街にある今西本店は
  江戸末期からの老舗。真っ黒な奈良漬を作っています。
  5代目今西泰宏さん(一般売られている速成の) 奈良漬とは作り方やお味が全く違う。奈良漬が甘いはずないんです






  国産の材料と酒粕だけで3~15年熟成。何度も漬けかえを繰り返す(水分と塩分を抜く)奈良漬誕生当時の製法。醸造の
  アルコールは使用しない。
  甘さと酒粕の香りが少なく、コクが溢れるような風味だそうです。 きゅうり160g入り1260円~、ウリ110g945円~。

  奈良漬に使うキュウリは「あさかぜ」という品種で、皮が固く生食には向かないものの漬けこんでも形が崩れないので
  奈良漬専用として奈良で栽培されています。


  ≪ 平城京では、ところてんが売られていた ≫  江戸時代 ところてん、寒天など 各地のところてんの食べ方

  【心太・瓊脂】ところてん 百菓辞典
   海草のテングサ (天草) を煮溶かして、煮汁を漉し、型に流して冷やし固めたもの。
   天草の粘質物を凍結・乾燥すると寒天ができるが、この寒天からもところてんを作る。通常「てん突き」で麺のように
   押し出して、薄い酢醤油をかけ、カラシを添えて食べる。
   古くは「こころぶと」といい、奈良時代、平城京の市でも売られていた。
   江戸時代には、往来を売り歩く「ところてん売り」が、夏の風物詩であったが、当時は、砂糖、醤油、黄な粉をかけて
   食べていたという。ところてんは、夏の季語にもなっている。

  奈良女子大学大学院人間文化研究科(博士前期課程) 国際社会文化学専攻 文化史総合演習 成果報告
  『奈良の都で食された菓子』 http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/kodai_kashi/nara_kashi.html

 

  ≪ 唐 (中国) の食事 ≫  フジTV 爆笑!アカン警察 『歴史上の食事で健康になれるのか 第2弾』 13.03.03 放送





  フジテレビの番組によると、唐の時代の中国ではウーロン茶などではなく、緑茶が飲まれていたそうです。
  事実かどうかは不明ですが、この下に唐から持ち帰った餅茶を書いてますので、ご覧ください。
  日本の緑茶は江戸時代から。煎茶の製法を開発した永谷宗七郎と、お茶漬けの素を発明した永谷園

  小麦の生地を伸ばしてねじり、油で揚げたもの。ラーメンのルーツらしいです。再現されたものは非常に硬いようです。
  春盤 しゅんばんは、春巻きの元祖。野菜を巻いて味噌をつけて食べます。現在の生春巻きに近いもののようです。






  【唐】とう(618~907) 中国の王朝李唐
   隋の次にできた王朝。唐国公の李淵(高祖)が隋の3世恭帝の禅譲を受けて建てた統一王朝。都は長安。
   均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令制度が整備され、政治・文化が一大発展を遂げ、世界的な文明国となった。
   20世哀帝の時、朱全忠に滅ぼされた。

  【後唐】… 中国五代の一国。都は洛陽。(923~936) / 【南唐】… 中国五代十国の一つ。都は金陵(南京)。(937~975)

  【遣隋使】けんずい‐し
   大和政権から隋へ派遣された使節。日本側の記録では推古天皇時代の607年・608年に小野妹子おののいもこら、
   614年に犬上御田鍬らと計3回だが、中国側の記録では600年にも派遣されている。
   6回派遣されたとする説もある。

  【遣唐使】けんとう‐し 入唐にっとう使
   国際情勢や大陸文化を学ぶために、十数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節。
   大使・副使らふつう五、六百人が数隻の船に分乗して、2、3年がかりで往復した。
   630年犬上御田鍬が派遣されたのが最初。唐末の戦乱のため、894年(寛平6)菅原道真の提議により廃止。


  NHK・大阪 こごナマ 『冬こそ奈良! 旬の魅力大図鑑』 19.01.25 放送

  ≪ 遣唐使が持ち帰ったとされる唐時代のお茶 ≫

  2019年1月26・27日に平城宮跡歴史公演開催される『奈良ちとせ祝ぐ寿ぐまつり』で「天平茶」と題した古代の中国茶の
  試飲体験ができるそうです。

  煎茶美風流 四世家元の中谷美風が、古文献を調べて道具なども再現したもの。「餅茶(へいちゃ)」などと呼ばれる緊圧茶の
  一つ。
  YAHOO!知恵袋 『奈良時代に飲まれていたお茶が「天平茶」として再現されたそうですが、味の方はどんなものでしょう?』
   https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1148643951 より抜粋
  中国・唐代のお茶は「餅茶」と呼ばれるもので、摘んだ茶葉に蒸気をあてて発酵を止めて製茶し(一般に言う碾茶のような
  もの)、それを再度蒸してから臼で挽き、円盤状に固め、その上から麹菌を植え付けたものと言われます。
  現在ある茶で近いものは、プアール茶の生茶の七子餅(チーズビン)のような物だと思います。
  本来の目的が、保存ですから年数が経った物ほど発酵が進んで苦味や渋味が少なく、貴重とされたのだと思います。
  さて、飲み方は鍋に湯を沸かし、円盤状の茶葉を砕き、生姜が漢方薬剤などと一緒に煮出すものでした。
  その味は、今の煎茶などとは程遠いもので、漢方薬の煎じ薬のような味がしたのではないでしょうか?






  コトバンク 『餅茶へいちゃ
  Wiki 緊圧茶 より抜粋
  緊圧茶(きんあつちゃ)とは、茶葉を圧縮成形して固めた、加工された中国茶の茶葉の形状を表す言葉である。
  団茶片茶圧縮茶固形茶とも呼ばれる。
  製茶の過程で茶葉を圧縮し固めたものである。緊圧茶に対して、ばらばらな状態の茶葉を散茶(さんちゃ)と呼ぶ
  圧縮成形の工程が、茶を生産する工程に組み込まれている場合は、製茶された茶葉にさらに手を加える二次加工茶
  (再加工茶)とは呼ばず、基本茶であると見なされている
  茶の生産地は、そのほとんどが高地にある。茶が製造されだした当時の輸送技術で散茶を運ぶと、その途上で湿気を
  吸ったり、運搬中の衝撃で砕け散るなどの問題が発生した。また長期保存も難しい。そうした課題を解消し、保存や
  運搬を容易にするために、圧縮成形されるようになった。唐代から宋代にかけて緊圧茶が主流であった。
  当時は茶葉を細かく砕いたものを圧縮成形している。その緊圧茶の名称は様々あるが、団茶という名称が現在でも
  知られている。明代に入ると散茶が主流となる。現在でも緊圧茶は流通しており、中でも製茶の過程に圧縮成形が
  含まれている黒茶に多く見られる。

  伊藤園 お茶百科 『お茶の歴史 中国でのお茶の歴史』 http://www.ocha.tv/history/chinese_tea_history/
 
 【 箸と爪楊枝 歯磨きの習慣】
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「にっぽん城下町めぐり ⑩ 岐阜の城下町へ」』 14.02.06 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「第12章 近畿縦断500㎞の旅 大阪府河内長野市」』 14.09.18 放送
  テレビ東京 所さんのそこんトコロ 『老舗のお宝ハンティング!! 「日本橋」』 14.04.18 放送

  ≪ 箸 ≫

  『箸』という漢字が出来た一説として、箸は古来より神事や祭礼の際、神様に食べ物を取り分ける道具として使われており、
  素材は竹でした。「竹製の箸が神様と人(者)をつなぐ物であった」事から。

  Wiki 箸 より 抜粋

  日本では、弥生時代末期の遺跡から一本の竹を折り曲げピンセット状の形にした「折箸」が発見されているが、食べ物を
   口に運ぶためではなく、神に配膳するための祭祀・儀式用の祭器として使われたものであろうと言われる

   三国志巻30魏書30東夷伝にある魏志倭人伝によるいわゆる邪馬台国においては「食飲用籩豆手食」と手で飲食して
   いるとあり箸の使用は記述されていない。

   2本で1膳の「唐箸」を食事に使い始めたのは、5世紀頃とも、6世紀中頃に仏教とともに百済から伝来してからとも言われ
   るが、朝廷の供宴儀式で採用したのは聖徳太子とされ、607年遣隋使として派遣された小野妹子一行が持ち帰った箸と
   匙をセットにした食事作法を取り入れたものと言われる

   日本で最も古いとされている箸は7世紀後半の板蓋宮跡および藤原宮跡からの出土品とされる







  【 大阪府河内長野市の月輪がちりん寺の『諸越もろこし長者』の話 】

  鎌倉時代、月輪寺より北に1㎞の所に諸越という地主が住んでいました。ある日「お金持ちの生活は飽きた」と言い始め、
  近所の僧に相談。
  すると、僧は「食事の後に毎回必ずその箸を捨てなさい。そうすれば、貧乏になるでしょう」と教えました。

  教えを実行すると貧乏になり、やがて諸越さんは病気になって死んでしまいます。妻が諸越さんを弔うため、家で祀っていた
  薬師如来を本尊として、月輪寺を建立したそうです。
  「お箸には仏様や神様が宿っておられるので (物を食べる事を) 大切にしなさい」という教え。
  この薬師如来は年2回のみ開帳される秘仏で、大阪府の指定文化財。

  【月輪観】がちりん‐かん
   衆生しゅじょう (命ある全ての生物) の清浄な心の本質を象徴する月輪 (輪のように丸い月) を観想すること。
   密教の最も基本的な行法。


  【 岐阜県の善光寺で実体験できる1mの箸の説話 】

  戦国時代頃、全国に善光寺信仰が広まっていました。1582年、織田信長が自身の勢力を見せつける狙いもあり、
  長野の善光寺の如来を岐阜に持ってきて寺を建て祀らせたのが岐阜善光寺。
  創建から半年あまりで善光寺如来は信州・長野へと戻されました。現在は、善光寺如来の分身を本尊として祀っています。

  岐阜善光寺では、仏教ついて語り合う『寺トーク』や暗闇で食や命と向き合う、目隠しして食事する『くらやみご飯』などを
  開催し人気。『地獄の箸 極楽の箸』では、1mの箸で黒豆を食べるという体験を行います。






  地獄でも極楽での食事も同じ。しかし、地獄では長いの箸を使い自分が食べようと必死になり、やがて争いが起きてくる。
  それが地獄である。極楽では長い箸を使って互いにに食べさせる。「心の持ちようで地獄にも極楽にもなる」という教え。

  【善光寺】ぜんこう‐じ
   長野市にある単立宗教法人。天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とによって管理される。
   推古天皇朝に草堂を営んで三国伝来の阿弥陀如来像を本尊とし、642年今の地に堂宇を造営したと伝える。
   中世以後盛んに尊信された。現在の本堂は1707年(宝永4)の再建。

   胴上げは日本 (長野市 善光寺) 発祥? 江戸時代には大掃除の時に行われた


  ≪ 歯磨き習慣 と 爪楊枝つまようじ   河内長野市 広栄社の「つまようじ資料室」と 爪楊枝の雑学、丸い爪楊枝は本来料理用

  歯磨きの発祥はインドでお釈迦様が広めたそうです。僧を通じて中国に伝わり、奈良時代の遣唐使で日本に伝来。
  平安時代に僧たちが広めて一般に歯磨きする習慣ができました。
  現在、日本に出回る7割を大阪府河内長野市で取り扱っています。






  【楊枝・楊子】よう‐じ
   ① (もと楊柳の材を用いたからいう)歯の間に挟まったものを取り除いて清潔にするのに用いる具。
     インド・中国に始まり、日本でも平安時代から仏家を通じて一般に用いられるようになった。
     総ふさ楊枝・爪つま楊枝などがある。
   ② 歯ブラシのこと。

  【総楊枝・房楊枝】ふさ-ようじ … 端を打ち砕いて総ふさのようにした楊枝。打楊枝

  【爪楊枝】つまーようじ
   歯の間に挟まったものを取り除いたり、食べ物を突き刺したりするための小形の楊枝。小楊枝こようじ

  主に、楊枝に加工する木はヤナギ科ヤナギ属の植物で、「柳」は「楊柳」とも書き、「楊之木」「楊枝木」とも言われます。


  ≪ 東京日本橋の老舗楊枝専門店 ≫

  江戸時代初めの1603年に各街道の起点となる日本橋が作られました。
  この界隈は堺・大坂商人を中心に上方の商人が多く移り住んだ地域です。
  1704年創業の楊枝の老舗『さるや』は歌川国芳 (1797~1861) の浮世絵の背景にも描かれているそうです。






  当時は房楊枝で、歯磨きの他、お歯黒を塗るのにも使われました。

  【御歯黒・鉄漿】お‐はぐろ かねつけはぐろめ
   (女房詞)歯を黒く染めること。鉄片を茶の汁または酢の中に浸して酸化させた褐色・悪臭の液(かね)に、五倍子ふし
   粉をつけて歯につける。
   古く上流の女性の間に起こり、平安中~後期頃から公卿など男子も行い、のち民間にも流行して、室町時代には女子
   9歳の頃これを成年の印とした。江戸時代には結婚した女性はすべて行なった。

  【御歯黒親】おはぐろ‐おや かねおや筆親楊枝親
   初めて歯を染める時、これをつかさどる福徳円満な女子。

  【楊枝店】ようじ‐みせ (※ 本来は楊枝屋の事を言いますが)
   江戸、浅草寺境内にあった床見世とこみせ(簡易店舗)で、楊枝やお歯黒の材料などを売り、ひそか売色(売春) もした。

  【柳屋】やなぎ-や
   ① 明和・安永(1764~1781)頃、江戸浅草観音境内の楊枝店。お藤という美人がいたことで名高い。
   ② 江戸にあった紅屋べにや。あづまなまり―の紅粉べにをぬりて

  握り鮨は手づかみで食べるものだったか?

  大阪府八尾市には日本の歯ブラシ製造会社の約4割があり、生産量も日本一。
  各社の歯ブラシの金型を製造している㈱武林製作所という町工場も八尾市にあり、日本の歯ブラシ製造を支えています。
 
 【 平安時代 】 794~1192年頃  平安時代頃の関東
  【平安時代】へいあん-じだい 平安朝時代。
   桓武天皇の平安遷都から鎌倉幕府成立までの約400年の間、政権の中心が平安京 (京都) にあった時代。
   ふつう初・中・後の3期、すなわち律令制再興期・摂関期・院政期 (末期は平氏政権期) に分ける。

  ≪ 貴族の一般的な食事 ≫  フジTV 爆笑!アカン警察 『歴史上の食事で健康になれるのか 第2弾』 13.03.03 放送





  稗、粟などの雑穀よりも玄米を食べる機会が増え、魚は手に入りやすい川魚が中心。
  鰻は丸ごと串に刺して素焼き、味付けは塩。
  江戸時代、鰻の蒲焼きが登場しますが、この丸ごとの串焼きは「蒲がまの穂」に似ている事から「蒲の穂焼き」と呼ばれました。






  秋田県の「(きり) たんぽ」や、かまぼこ (竹輪) なども「蒲の穂に似た (模した) もの」 と言われているそうです。


  読売テレビ ten. 『1000年以上続く木工職人集団 木地師の魅力に迫る』 17.06.14 放送

  ≪ 精密な木製の器の始まり 木地師発祥 滋賀県東近江市 ≫

  素材を回転させて削る旋盤技術の元になる轆轤ろくろ
  日本では平安時代初期に惟喬親王が巻物が転がる様子から、轆轤を発案した事が始まりとされるそうです。
  轆轤の軸に括りつけたロープを引っ張る事で回転させ、軸の先に取り付けた木材に金物の刃を当てて削っていきます。

  皇位継承で敗れた惟喬親王が人里から遠く離れた (現在の三重県に近い滋賀県東近江市) 君ヶ畑に隠れ住んだ場所として
  金龍寺があり、高松御所と呼ばれています。 隠棲地には、下記の広辞苑の山城国愛宕郡の説もあります。
  君ヶ畑地区には大皇器地租神社、蛭谷地区には惟喬親王を祭神とした筒井神社があります。

  【惟喬親王】これたか‐しんのう(844~897)  Wiki 惟喬親王
   文徳天皇の第1皇子。母は紀名虎なとらの女静子。大宰帥、常陸・上野太守。第4皇子惟仁親王(後の清和天皇)の外戚
   藤原良房の力が強く、皇位継承はならなかった。剃髪して小野の里(山城国愛宕郡)に隠棲し、小野宮という。
   木地師きじしの間の伝承ではその祖とされる。






  この山深い東近江地域は、木製品の材料となるトチ・ブナ・ケヤキなどが豊富でしたが、やがて木々が減り木地師たちは
  日本各地に移り住み、その技術を伝え、東北のコケシ・広島のシャモジ・各地の漆器のベースとなる木器へと発展していきます。
  木材を削る金物も木地師自身が作るので、鍛冶の技術も持ち合わせていました。

  江戸時代全国で5万人ほどの木地師がいましたが、東近江で『氏子狩帳』という名簿が作成され、動向が管理されていました。
  現在、発祥の地に残る木地師は小椋昭二さんが唯一の現役職人となりました。

  【木地師】きじ‐し 【木地屋】きじ‐や
   轆轤ろくろなどを用いて木材から盆や椀などの日用器物を作る人。ろくろし。  Wiki 木地師

  【轆轤】ろく‐ろ
   ①回転運動をする器械。手動式・電動式がある。
    ㋐重い物を引いたり上げたりする装置。移動させようとする物体にかけた縄を軸棒にまといつけ、軸を回転して縄を巻く
     ことによって引っ張る。まんりき。しゃち。かぐらさん。
    ㋑木地細工などで円い挽き物を作る工具。綱や革紐をまとった軸を横に設け、その端に取り付けた鉄製の爪に、荒挽き
     した材料の木地を固定し、軸を回転させながら轆轤鉋ろくろがなで木地をえぐりけずる。〈倭名類聚鈔[15]〉

  Wiki 日本の漆器
   日本の漆利用は縄文時代からと大変古いそうですが、「うるしの日」は京都嵐山法輪寺で木地師の祖ともされる惟喬親王が
   漆や漆器の製法を祈願し成就した11月13日が「うるしの日」とされています

  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』
  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、
  日本各地の名物を描いた絵本。巻の三の日光膳椀では上の画像の手引き轆轤を使って椀を作る様子が描かれています。


  ≪ 飯 ≫  室町時代頃になるまでの米食の主流は、もち米を蒸した強飯の玄米食でした。

  平安時代の『類聚倭名抄』や『延喜式』などに記されている「飯の種類」は、「強飯」、「炊飯かしきかて」、「黒米飯」、
  「油飯あぶらいひ」、「糒ほしいい」、「餉かれいい」、「糄米やきごめ」、「粔籹おこしごめ」、「頓食とんじき」、「姫飯ひめいひ」、
  「水飯」、「湯漬」、「饘かたかゆ」、「汁粥」、「漿こずみ」、「味噌水みそうず」、「望粥もちかゆ」、「薯蕷粥」などがありました。

  【強飯】こわ‐めし、こわ‐いい 蒸飯。赤飯。(御強おこわ ← 室町時代の宮中の女房言葉から )
   糯米もちごめを蒸したもの。多くは小豆を加え、祝賀に用いる。仏事には小豆を加えない白いもの、または黒豆を混ぜた
   ものを用いる。

  【姫飯】ひめ‐いい ← 現在と同じ御飯
   釜で炊いた飯。甑こしき (のちの蒸籠せいろうにあたる) で蒸した強飯こわいいに対し、やわらかく炊いた飯。ひめ。

  平安初期の『日本霊異記』には「白米の綱丁ごうちょうとして数あまたの年を…」とある事から、
  貴族は白米を食べていた事が分かります。


  テレビ大阪 開局30周年番組 百人一首の世界 12.12.31 (再放送)
  NHK大阪 歴史ヒストリア 和食はどうしておいしくなった !? ~時代の主役たちが育んだ食の遺産~ 14.11.26 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「百人一首の旅③ 光孝天皇」』 15.05.07 放送
  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf

  ≪ 京都の貴族の祝いの席での食事 ≫



  








  和歌は飛鳥時代 (6世紀末から7世紀前半) に農民たちが感情を表す為に詠んでいた。
  やがて庶民から貴族中心に詠まれるようになり、枕詞、掛け詞などの技巧を凝らした和歌になっていった。

  【山上憶良】やまのうえ‐の‐おくら(660~733頃 )山上臣。
   飛鳥・奈良時代の万葉歌人。702年(大宝2)遣唐録事として入唐、707年(慶雲4)頃帰国。従五位下・伯耆守・東宮侍講、
   後に筑前守。豊かな学識を有し、「子等を思ふ歌」「貧窮問答歌」など現実的な人生社会を詠じた切実・真率な作が多い。
   「類聚歌林」を編む。

  【貧窮問答歌】ひんきゅうもんどうか
   山上憶良作の長歌。現存最古の歌集の万葉集 巻5に収める。貧窮の苦しさを問答の形で歌った長歌と反歌1首。
   生活に取材した特異な作品。


  小倉百人一首は鎌倉時代前期に朝廷に仕えた京極中納言 歌人でもある藤原定家(1162~1241)が飛鳥~鎌倉時代に
  活躍した人の中から、一人一首ずつ和歌を選び親戚の宇都宮頼綱の為に、京都の小倉山の山荘で選んだ和歌集。





  光孝天皇 (平安前期830~887、在位884~887) が詠んだ
   「君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」。

  光孝天皇が若菜 (芹せり) を摘んだとされる場所は、京都の嵐山の桂川の渡月橋から川下南200mくらいの所で、細い瀬戸川
   (平安時代は芹川) が桂川に合流する所。ここに小さな芹川橋があります。平安時代、この辺りは芹が自生していたそうです。
  55才で即位するまで、畑仕事をしたり自ら調理していたらしく、住居は竈かまどの煙の煤すすでよごれ『黒戸』と呼ばれていました。






  その皇子の宇多天皇 (光孝天皇の第7皇子、在位887~897) が、芹を粥に入れて食べる習慣を宮中に広めたとも言われて
  います。

  当時の貴族たちは朝の3~4時に起床し、まず鏡で顔を見て体調のチェック。(朝5時頃に詠まれた歌が9首も選ばれている)
  木の枝を加工したもので歯磨き、次に日記を書く。儀式など仕事の内容を中心に書くことで、来年の為の覚書と共に子孫への
  知識の伝達の為だそうです。
  その後、身支度を整え6時に出勤。朝廷内での会議は8時に始まるという規定があった。 食事は10-11時、16-17時の2回。





  平安時代末期1136年の食に関する文献『 類聚雑要抄るいじゅう ざつようしょう』には、祝いの席で食べていた料理が記されて
  います。
  新大納言の饗応の献立には干物8種、生もの8種 (鱸、鯛、鮎、鯉、蛸など) の記述があります。






  京都にある創業1722年の萬亀楼 まんかめろう の小西将清さんは、平安時代から続く宮中儀式の際に行われていた包丁を
  使った型 生間流式包丁いかまりゅう  しきぼうちょう29代目。   『庖丁式』 藤原山蔭と各流派

  当時の食材は魚は鯛や鮭など、肉は雉きじなどの野鳥。野菜は大根や芋などの根菜類が中心で、保存が効くように魚は
  塩漬け、肉はくん製にしていたそうです。

  平安時代の貴族の宴会での食事は豪華な食材が並びますが、生ものや干物を切っただけで、味付けはありませんでした。



  当時の饗宴は、中国スタイルを取り入れていた為、何人かで取り囲んだテーブルの
  上に料理が置かれていたそうです。






  料理に味付けは無く、食べる時に四種器しすきという4つの小皿に ひしお (もとは大豆のちに小麦を主材料
  とした発酵調味料。現在の味噌・醤油の原形。舐め味噌としても用いた。または魚・鳥の肉の塩漬、塩辛の事) が入れられて
  おり、自分で付けて食べていました。

  下級貴族の場合は、塩と酢だけだったようです。盛り付けは「盛り切り」といって、画像のように高く盛付けるのが一般的でした。

  【盛切り】もり‐きり … その器物に盛っただけで追加のないこと。また、その盛ったもの。もっきり。
  【盛切り御台】もりきり‐おだい … 盛切りの飯。






  【氷魚使】ひお‐の‐つかい
   平安時代、9月から12月まで、山城の宇治川、近江の田上川の網代あじろから取って朝廷に上納するための氷魚を受け取る
   役の勅使。

  【氷魚】ひ‐うお  ひお  ひのいお  こおりのいお。
   アユの稚魚。ほとんど半透明白色で、長さ約2~3センチメートル。琵琶湖産のものは名高い。

  781年に近江に筑摩御厨ちくまみくりやが作られ、新鮮な鯉や鮒が定期的に京都に運ばれるようになりました。
  鎌倉時代初めの1196年に御厨所は京の六角町の店を開く事が認められ、以後市中で新鮮な鯉や鮒が売られました。
  室町時代の15世紀に成立した歌謡『蓮如上人子守唄』には、六角町に売るもの売る者。鯉、鮒、鯛と鱸と、石斑魚うぐい
  鰈、鯰と伊勢鯉と辛螺にしや栄螺さざえ、鯔の子、鰒あわび、鰹、鯣するめとあり、様々な魚介類が京都で売られて
  いた事が分かります。新鮮と言っても主に塩漬けだったようです。

  【筑摩】つくまちくま … 古来、琵琶湖東端の地名。今、滋賀県米原市朝妻筑摩ちくま。筑摩神社がある。

  【御厨】みくりやみくり (「みくりや」の略)
   ① 神饌を調達する屋舎。御供所ごくうしょ
   ② 古代・中世、皇室の供御くごや神社の神饌の料を献納した、皇室・神社所属の領地。古代末には荘園の一種となる。神領。







  【萬亀楼】 朝日新聞夕刊 『「朝日カルチャーセンター」の広告』 13.12.12 夕刊 より抜粋、原文ママ

  京都・西陣にある「萬亀楼」は、享保7(1722)年に造り酒屋として創業し、後に料理屋に。朝廷や宮家などの宮中で、
   節会せちえなどで食された
   雅な「有職ゆうそく料理」を現代に伝える老舗だ。平安中期には宮廷の料理方を、鎌倉期に源頼朝から姓を与えられて
   包丁方を務め、以後は豊臣秀吉の命で八条宮家、京極宮家、有栖川宮家と仕えた。現在は有職料理の伝統を踏まえ、
   上質な旬の食材を現代風にアレンジして提供している。
   「京都の水を遣い、京都という空気の中で職するのが京料理」と小西将清・10代目主人。

   また御所ゆかりの「生間流式包丁」を正式に継承しており、将清氏は30代家元でもある。式包丁とは、平安時代から
   宮中で節会などに行われた食の儀式で、烏帽子、袴、狩衣姿で、まな板の上の魚や鳥を、直接手を触れず、包丁刀と
   まな箸で切り分けて瑞祥ずいしょうを表現するもの。
   藤原道長の時代に宮家から伝わり、現在で1100年ほどになるという。その流れるような所作は、舞のような鮮やかさだ。

   ※ テレビ大阪では29代目、朝日新聞では30代目家元になっています。??

  【有職】ゆう‐そく  朝廷や武家の官職・典例に関する知識。また、それに詳しい人。
   平安時代に藤原師輔の九条流などが起こり、室町時代以降は小笠原・伊勢の両家が主な有職家(故実家こじつ‐か)であった。

  【瑞祥・瑞象】ずい‐しょう  めでたい しるし。めでたい前兆。吉兆。

  【節会】せち‐え 古代、朝廷で、節日その他公事くじのある日に行われた宴会。
   この日、天皇が出御して酒食を群臣に賜った。
   元日・白馬あおうま・踏歌とうか・端午たんご・重陽ちょうよう・豊明とよのあかり・任大臣など。せち。

  【白馬節会】あおうま 七日の節会
   宮廷年中行事の一つ。正月7日、朝廷で、左右馬寮めりょう から白馬を庭上に引き出して天覧の後、群臣に宴を賜う儀式。
   この日に青馬を見ると年中の邪気を払うという中国の風習による。
   本来は青馬を引いたのを、日本で白馬を神聖視したところから後に白馬に変更、字は「白馬」と改めたがアオウマとよむ。

  【踏歌の節会】とうか
   天皇が紫宸殿ししい‐でん踏歌(足を踏みならして歌い舞う集団舞踏。隋・唐の民間行事で、日本に入り、歌垣うたがき
   結びついて古代、宮中で行われた。歌に巧みな男女を召して、年始の祝詞を歌い舞わせたもの。
   男踏歌は正月の14日または15日に、女踏歌は16日に行なった。)を御覧になり、この間、五位以上の者を召して宴を
   賜った宮中の年中行事。

  【端午・端五】たんご【五日の節会】いつか
   奈良時代以降、毎年5月5日に宮中で行われた節会 。天皇・群臣が菖蒲鬘あやめかずらをつけて武徳殿に集まり
   菖蒲しょうぶ・薬玉くすだまを賜り、後に騎射・宴会が行われた。端午の節会。五日の節。

   端午の節句 菖蒲の節句、男の子の節句になった理由  チマキ  柏餅

  【重陽】ちょうよう
   (陽の数である九が重なる意)五節句の一つ。陰暦9月9日で、中国では登高という丘に登る行楽の行事がある。
   日本では奈良時代より宮中で観菊の宴が催された。菊の節句。9月の節句。重九。

  【豊明の節会】とよのあかり
   奈良時代以降、新嘗祭にいなめさい ・大嘗祭だいじょうさいの翌日、宮中で行われた宴会。
   天皇が豊楽殿(のち紫宸殿)に出て新穀を食し、諸臣にも賜る。賜宴の後に五節ごせちの舞があり、賜禄・叙位などの儀が
   あった。

  【五節】ごせち (遅・速・本・末・中声の五声の節の意)
   古代から朝廷で新嘗会しんじょうえ・大嘗会だいじょうえに行われた少女楽の行事。
   儀式は毎年11月の中の丑・寅・卯・辰の4日にわたり、丑の日に舞姫参入、その夜は帳台の試こころみ(常寧殿で舞姫の舞を
   下見した儀式)、寅の日に殿上の淵酔えんずい(酒の宴)、その夜は御前の試(清涼殿で舞楽を天覧)、
   卯の日に清涼殿で童女わらわ御覧、辰の日に豊明の節会が行われ、群臣の前で五節の舞が奏される。

  【任大臣の節会】にん-だいじん 大臣任命の時、紫宸殿で挙げた儀式。

  類聚 同じもの、似たものを集める事。平安時代中期の法令集 類聚三代格 るいじゅう さんだいきゃく は 弘仁格・貞観格・
   延喜格の3代のきゃく を神社・仏事・廃置諸司・出挙などの事項によって分類編集。30巻。現存15巻

  出挙すいこ 利子付き貸借の事出挙稲すいことう (称稲しょうとう) 稲を貸し付け、収穫の際に利子付で返してもらう。など。

  弘仁格こうにんきゃく 701年(大宝1)~819年(弘仁10)までの補足法令集(詔勅・官符を集めたもの)。10巻。

  貞観格じょうがんきゃく 
   格は820年(弘仁11)より868年(貞観10)までの詔勅・官符を編纂、翌年完成。12巻。
   式は弘仁式の補遺として変更・新設した条文だけを編纂、871年完成。20巻。

  延喜式えんぎしき 
   弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。50巻。
   905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。
   967年(康保4)施行。

  ※弘仁、貞観、延喜は、成立した年号を表す。 格=法令、 式=法令の細則事項。

  「西宮記」や「江家次第」などにも儀式や饗宴の事が詳しく記されています。 伊勢神宮舞楽 「延喜舞」

  【西宮記】せいきゅうきさいきゅうきさいぐうき
   有識故実書。源高明著。村上天皇(926~967)の頃の恒例および臨時の朝儀や作法・装束・輿車などの事を漢文で
   記し、実例などを摘挙する。西宮日記。西宮抄。

  【江家次第】ごうけしだい
   大江匡房が関白二条師通の委嘱によって、朝廷の公事くじ・儀式などを詳記した書。21巻。巻16・巻21は伝わらない。
   略称、江次第。一条兼良かねよしに「江次第抄」がある。

  【大江匡房】おおえ-まさふさ (1041~1111)
   平安後期の貴族・学者。匡衡の曾孫。江帥こうのそちと称。後冷泉天皇以下5代の天皇に仕え、正二位権中納言。
   また白河院別当として白河院政を支えた。著「江家次第」「本朝神仙伝」「続本朝往生伝」など。
   その談話を録した「江談抄」がある。

  和食を支えるオリゼたち 日本にしか居ないアスペルギルス・オリゼ。

  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「ご飯の友」 13.01.17

 『今昔物語』に書かれた三条中納言の食事の逸話には、
 鮎の熟れ鮨やウリの干物が美味しすぎて、太ってしまった。
 というような事が書かれてあるそうです。

 【今昔物語集】
  12世紀前半に成立されたと言われる日本最大の古代
  説話集。全31巻。編者未詳。
 
 【平安時代の天皇の食事】
  ≪ 平安時代の天皇の食事 ≫  NHK京都 NHKスペシャル 『京都御所 ~秘められた千年の美~』 15.01.01 放送

  794年桓武天皇により京都に都が定められて以降 73代に渡る歴代天皇が京都で暮らしました。
  京都御苑の中に京都御所があります。建礼門をくぐり正面にあるのが紫宸殿で、ここで公務が行われました。

  平安時代の天皇は、紫宸殿の北西にある清涼殿を居所とし寝起きをしました。

  【紫宸殿】ししん‐でん (シシイデンとも。古くは「紫震殿」とも書いた)南殿なでん。前殿。正殿。正寝。
   平安京内裏だいりの正殿。もと朝賀・公事くじを行う所であったが、大極殿だいごくでんの荒廃・焼失後は即位などの大礼を
   行なった。
   南面して設けられ、9間の母屋の四方に廂ひさしがあり、殿の中央やや北寄りに玉座を設け、その東には御帳台みちょうだい
   北には賢聖障子けんじょうのそうじがある。北廂から廊で清涼殿に通じ、南廂には階きざはしがあって前庭に通ずる。
   階の左右に左近さこんの桜、右近うこんの橘がある。今の京都御所のは1855年(安政2)の造営

  【清涼殿】せいりょう‐でん (セイロウデンとも)
   平安京内裏の殿舎の一つ。天皇の常の居所で、四方拝・小朝拝・叙位・除目じもく・官奏などの公事くじも行なった。
   近世は常御殿つねごてんを常の座所とし、清涼殿は儀式にだけ用いられた。紫宸殿の北西、校書殿きょうしょでんの北にある。
   東面した9間四面の入母屋造で、身舎もやの南5間を昼の御座ひのおましと称し、帳台がある。
   南東隅は石灰壇いしばいのだんで、毎朝、神宮・内侍所以下 御拝の所。
   その他、夜の御殿・萩の戸・弘徽殿の上御局こきでんのうえのみつぼねなどがある。
   枕草子[142]「清涼殿の御前に、掃部司の、畳を敷きて




  辰の刻 (朝7~9時)に起床し身支度を整えると、まず白い漆喰で塗り固められた石灰壇いしばいだんと呼ばれる場所に行って、
  伊勢神宮の方向に座り、神 (天照大神) への祈りを捧げました。
  白い漆喰は地面を表しており、地面に座って祈りを捧げる事が神に対する最大の敬意を表すものとされていました。





  鎌倉時代に記された御所での規則書の『禁秘抄』の冒頭には、「禁中の作法 先ず神事が大切である」と書かれてあります。

  【禁秘抄】きんぴしょう
   宮中の行事・故実・慣例・事物などを91項目にわたって漢文で記述した書。順徳天皇 著。2巻または3巻。
   承久(1219~1222)年間成る。禁中抄。建暦御記。順徳院御抄。






  石灰壇の脇に一脚の朱塗りのテーブルがあります。ここで天皇は食事を摂りました。食事は神事であり公務でした。
  史料を元に再現した平安時代の天皇の食事では、約30皿におよぶ豪華な料理が並べられています。

  毎日のように食卓に並ぶ料理の一つがアワビで、関東や東海地方で獲れたものを乾燥させて運んでいました。

  信州大学の佐藤全敏 准教授によると
   天皇は律令国家ができる前から各地を征服。支配していって服属させて貢がれる物。それを毎日食べてみせる事
    によって、全国各地をくまなく統治支配している事を体現していたということになります。

  天皇の食事を用意する『内膳司』は、長官が2人・調理人が40人・下働き10人。全体では100人ほどが所属する
  大規模な役所でした。

  【内膳司】ないぜん‐し、うちのかしわでのつかさ。
   律令制で、宮内省に属し、天皇の食事の調理・試食をつかさどった役所。
   長官は二人で奉膳ぶうぜんといい、高橋・安曇あずみ両氏の者が任ぜられ、他氏が長官の場合は内膳正ないぜんのかみ
   ないぜんのしょうを称した。その下に典膳・膳部などがいる。

  【御食つ国】みけ‐つ‐くに … 天皇の食料を貢進する国。万葉集[6]「―野島の海子あまの船にしあるらし
   Wiki 御食国 
   万葉集、延喜式の贄の貢進国の記述、平城京跡から出土した木簡の記述などから、若狭国 (福井県) ・志摩国 (三重県)・
    淡路国 (兵庫県) などへの該当が推定されている。

  NHKのHP 『NHKスペシャル 歴史・紀行 「京都御所 ~秘められた千年の美~」』 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0101/
  動画 MioMio NHKスペシャル 京都御所 秘められた千年の美 - 15.01.01 http://www.miomio.tv/watch/cc139066/
  FC2動画 『01072001271』 http://video.fc2.com/content/20150101VahDGcTW/&otag=1&tk=TmpFME5qUXlNVFE9

  京都市中京区にある内野児童公園が平安時代の平安京の大極殿があった場所だそうです。

  鮓は西日本が圧倒的に多く、東日本では東海及び北陸の西側に限定され、関東以東には全く見当たらないそうです。
  各地から献上された鮓すし寿司の歴史雑学2のページで。

  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『皇室のお正月 宮中秘伝の正月料理とは…』 15.01.21 放送

  ≪ 宮中儀式に使われる高盛 ≫

  宮中儀式の際に欠かせない料理『高盛』。元日の天皇陛下の分刻みのスケジュールの中の『晴の御膳』の儀。
  実際に高盛を召し上がる事はなく、箸を立てる所作のみを行うだけですが、自然の恵みに対する感謝を示す伝統的な
  儀式です。

  【高盛】たか‐もり  【平盛】ひら-もり
   椀などに食物を高く盛ること。また、その盛った食物。高盛物。狂言、張蛸「身どもが所の嘉例で―にはりだこをするが」

  【天こ】てん‐こ … (西日本などで)頂上。てっぺん。てんこつ。てっこ。
  【天こ盛り】てんこ‐もり … 食器に食物(特に飯)をうずたかく盛ること。山盛り。

  この高盛は、1993年の皇太子さま・雅子さまのご結婚、2014年10月2日の高円宮家の二女 典子さまのご結婚の報告など
  朝見の儀などの際にもテーブルの上に置かれています。

  ※ 一般人と区別する為、皇族の方々の敬称で「様」を付ける場合、ひらがなで「さま」と表記するそうです。





  昭和天皇の料理番を務めた元 宮内庁大膳課の谷部金次郎さんにより、白身魚のカマボコと塩干鰤を使った高盛を再現。

  篠蒲鉾しの-かまぼこ
   すり潰した白身魚を巻き簾で筒状にして蒸し上げカマボコを作ります。輪切りにし高さ3尺=約9㎝に盛り付けます。

  塩干鰤しお-ほしぶり
   黒い方は縁起が良いと言われる鰤を使用。皮目を外側にして約200枚ほどの切り身を積み上げていきます。
   季節によって使われる素材は変わりますが、高盛の高さや大きさは厳密に決められているそうです。

  【塩干し・塩乾し】しお‐ぼし … 魚類などを塩漬にしてから日ぼしにすること。また、そのもの。ひもの。






  谷部金次郎さんによると、
   元々、神様にお供えする為の神饌料理だったと思うんです。天まで届けという事で高く高くとなったんじゃないかと
    思うんですけどね。  カマボコ・天ぷらの歴史

  【高盛】たか‐もり … 椀などに食物を高く盛ること。また、その盛った食物。高盛物。 平盛ひらもり

  【朝見】 … 臣下が参内して天子に拝謁すること。

  【朝見の儀】ちょうけん‐の‐ぎ … 天皇の践祚せんその際に群臣を召して勅語を賜う儀式。

  【践祚】せん‐そ
   (「践」はふむ意、「祚」はで、主人が堂に登る東側の階段、ひいて天子の位の意)皇嗣が天皇の位を承け継ぐこと。
   先帝の死去あるいは譲位の直後に行われる。もと即位と同義であったが、桓武天皇の時より別の日に行うことが常例となる。
   旧制では践祚の式、賢所かしこどころの儀、皇霊殿・神殿奉告の儀、剣璽渡御けんじとぎょの儀、朝見ちょうけんの儀があった。


  日本テレビ 櫻井翔×池上彰 教科書で学べない「ニッポンの想定外」 18.02.06 放送 など

  ≪ 四方拝と屠蘇酒 ≫

  1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』編者は大坂の医師の寺島良安、版元および出版地は大坂。
  百五巻 造醸類 (酒・果子・鹽・酢・醤油之類)「屠蘇酒とそさけ」には、屠蘇散の配合が書かれてあります。
  嵯峨天皇 (在職809~823) の弘仁年間 (810~824) から元旦に四方拝の後に飲む風習が始まったとの記述もあります。






  四方拝は天皇が屏風の中に入って1人で行う儀式。現在では全国の複数の神社の宮司も行っているそうです。
  室町時代から行っている鳥取県の日吉神社では天皇が行っている四方拝に近いそうです。
  笏を持ったままの宮司が方角に向かって頭を下げ、手を使わずに立ち上がり、また座って頭を下げる動作を3回×4方向行う。
  この動作はかなり体力的にキツイそうです。

  【屠蘇散】とそ‐さん 屠蘇。 屠蘇延命散とそ-えんめい-さん
   魏の名医 華佗かだの処方という、年始に飲む薬。
   山椒さんしょう・防風・白朮びゃくじゅつ・桔梗ききょう・蜜柑みかん皮・肉桂にっけい皮などを調合し、屠蘇袋に入れて酒・みりんに
   浸して飲む。一年の邪気を払い、寿命を延ばすという。日本では平安時代から行われる。

  【屠蘇袋】とそ‐ぶくろ
   屠蘇散を入れ、酒・みりんに浸して屠蘇酒を作る袋。紅絹もみ(紅花で染めた絹布)を三角形に縫って作る。
   大晦日に井戸の中に吊しておき、元旦に屠蘇酒に用いた。

  【四方拝】しほう-はい
   1月1日に行われる宮廷行事。天皇が当日午前5時半(昔は寅の刻)束帯を着し、神嘉殿の南庭(昔は清涼殿の東庭)に
   出御、皇大神宮・豊受大神宮・天神地祇・天地四方・山陵を拝し、宝祚ほうその無窮、天下太平、万民安寧を祈る儀式。
   明治になって三大節の一つとする。

  屠蘇酒 東京では江戸時代は味醂酒で代用、明治になってから屠蘇酒を飲めるようになった。


  NMBとまなぶくん 『日本人でも知らない!? 日本のここが素晴らしい!』 17.07.20 放送

  平成28年度の天皇陛下の年間の御公務は、宮内庁によると、
   ・書類への署名・押印が約1000件 ・宮中行事が約200件 ・外国からの賓客との謁見人数が54名。
   これ以外にも600~800件の御公務をこなされているそうです。
 
 【七草粥】
  テレビ大阪 夕刊7ch 『関西の和食② 関西の地に残る守りたい七草がゆ』 14.01.07 放送
  朝日放送 キャスト 『なんでやねん!? 「七草粥が地域によって違うの なんでやねん!?」』 19.01.07 放送

  ≪ 節句 ≫

  宮中で季節の代わりめを「節句」として、行事や儀式を行ったのは奈良時代頃からのようです。中国から伝来した風習が
  日本独自に発展しました。

  【五節句・五節供】 ご‐せっく 。 ごせちく 。 ごせつ毎年5度の節句
   陰暦の正月7日(人日じん-じつ)・3月3日(上巳じょう‐し)・5月5日(端午たん-ご)・7月7日(七夕しち‐せき、棚機たな-ばた)・
   9月9日(重陽ちょう‐よう)の総称。

  一年の始まりの節句は1月7日で「節句始め」。3月3日は「桃の節句」「雛の節句」。5月5日は「あやめの節句」。
  7月7日は「星を祭る年中行事」。棚機 (七夕) は、古事記にも記載がある日本古来の「たなばたつめ」の信仰と、
  中国伝来の乞巧奠きこうでんという風習が混ざったもので、奈良時代から始まりましたが、民衆に広まったのは江戸時代
  9月9日は「菊の節句」。

  「初節句」は、生まれた子が初めて迎える5月5日(男)または3月3日(女)の節句。特に男子の初めての節句のことをいいます。


  ≪ 七草粥 ≫ 菜粥

  立命館大学の鎌田かおる准教授によると、元々日本ではお正月の最初の子の日に若菜を摘むという宮廷の儀式と
  言うか宮中行事というものがずっと昔にありました。その後ですね、6世紀の頃になって中国の方から年中行事を
  記した本が伝わってくるんですけれども、その中に七草を炊いてお吸い物を作って食べるというような事が書かれて
  いる。それ(風習)が入ってきたんですね。

  宮中行事「若菜摘み」+中国「七草の吸い物」+小正月の7種類の穀物を食べる風習 → 七草粥

  平安前期の第58代 光孝天皇(在位884~887)が若い頃に詠んだ 「君がため・・・」の歌から、七草粥のような物も食べていた
  と推測されています。
  その皇子の第59代 宇多天皇 (在位887~897) が、芹を粥に入れて食べる習慣を宮中に広めたとも言われているそうです。






  「七種の節句」「七草の祝」「若菜の節」などと言われ、旧暦の正月7日に、春の七草を入れて炊いた粥かゆを食べる風習。
  平安時代、若菜を食べる事で1年の健康を願っていました。
  七草が邪気を払い「無病息災」を願う。正月料理の飲み過ぎ、食べ過ぎに対して、胃をいたわる。など
  として現在にも受け継がれています。





  【春の七草】
   ・芹せり・薺なずな・御形ごぎょう・はこべ (はこべら)・仏座ほとけのざ・菘すずな・蘿蔔すずしろ

  【七草の囃し】ななくさ‐の‐はやし
   七草の祝に、前日の夜または当日の朝、俎まないたに薺または七草や台所のすりこぎ・杓子などを載せ、吉方えほうに向かい、
    (現在では、その年の吉方に向かって、下の言葉を唱えながら、七草を包丁で細かく叩くようにして切る程度で充分)

   「唐土とうどの鳥が日本の土地へ渡らぬ先になずなななくさ(ななくさなずな)」、
   または「唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に、ななくさなずな手に摘み入れて」などと唱え囃しながら、それらを叩く習俗。

   ※ 風邪やインフルエンザなどの菌を運んでくる唐土(中国)からの渡り鳥が来ないうちに、野菜が少なかった冬の期間に、
     ビタミンCなどを摂っておこうという知恵だったと思われます。

  【七種爪】ななくさ‐づめ … 正月7日に、邪気を払うとして七種粥の汁や薺なずなを浸した水をつけて爪を切る風習。

  大阪市北区 割烹 味菜





  現在、関西で使われている七草の大半は九州や四国で栽培されたもの。七草粥の風習も年々廃れてきており、需要が減って
  いるそうです。
  七草粥の味付けは、七草の味が分かるように、体に負担がかからないように、薄い塩味にするのが基本です。
  お餅を入れるのも有り。

  【鏡開き】かがみ‐びらき 鏡割り。(「開き」は「割り」の忌み詞)
   ① 正月11日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事。
     近世、武家で、正月に男は具足餅 (正月に甲冑に供えた鏡餅) を、女は鏡台に供えた餅を正月20日(のち11日)に
     割って食べたのに始まる。
   ② 祝い事に酒樽のふたを開くこと。鏡抜き

   正月 鏡餅、 門松なのに中央に竹が飾られている理由、元日から角餅は縁起が悪い?  日本各地の雑煮

  京都 御香宮神社





  京都の農家で27年前から太田浩文さんは近所の御香宮神社に七草を栽培し奉納しています。
  奉納の神事が終わると、神社の名水で粥を炊き、隠し味に地酒と昆布茶を使った七草粥が700人の参拝客に振舞われ
  ました。

  Wiki 七草がゆ には 
   農文協から出版された日本の食生活全集を元に作成した、大正から昭和初期にかけての時代の1月7日に食されて
   いた各地の料理の一覧があります。地域によって七草はそれぞれ

  ≪ 東北と鹿児島の変わった七草粥 ≫  東北の七草粥

  現在と同じような七草粥を庶民も食べるように定着したのは江戸時代らしいです。

  朝日放送の番組調べによると、関西とほぼ同じ七草粥(地域によって七草は変わる)を食べる風習は東北全体に広まって
  いるようですが、一部の地域において下の画像のような変わった七草粥が食べられています。

東北の七草粥

鹿児島県の七日節句

鹿児島県の七日節句

鹿児島県の七草ずし


  青森県の津軽地方では「けの汁」が七草粥として残っており、米も春の七草が一つも入っていない物。根菜など7種類の具。
  岩手県の宮古地方では「くるみ雑煮」を山形県では「納豆汁」を七草粥の日にも七草粥の代わりとして食べるそうです。

  鹿児島県では「七草ずし」という物を食べるそうです。「ずし」とは鹿児島県の方言で「雑炊」の事ですが、近年では雑炊では
  なく「寿司(散し寿司・ばら寿司)」にこしらえたりする家庭もあるようです。
  1月7日の日に行われる七日節句は7才の子供が晴着を着て空の重箱を持って近所や親戚を7軒廻り、それぞれの家庭の
  七草ずしを茶碗1杯ずつ貰い、自宅に持ち帰って家族で食べるという風習が江戸時代から続いているそうです。
  七五三を行わない家庭も多いそうです。


  ≪ 関東で七草粥を食べるようになったのは江戸時代後期以降か? ≫

 『粒々辛苦錄』の「越後の農村生活」(年代および著者不明、越後長岡藩での農民の生活の記録)

  1928 (昭和3) 年に出版された『郷土読本』(信濃教育会 編、出版 長野県 大日方利雄) P.349~362に、
  この書の農民の正月行事の部分だけが収録されています。

  「木綿の糸」「鮭塩引」(江戸時代中期の北前船で河内の木綿や瀬戸内海の塩が伝わった) などの記述内容から
  1800年以降の可能性が高いです。

  元日の食事では、庄屋など上農夫は豪華ですが、田畑を持たない水呑百姓は米が混じるのは稀で粟稗麥類を
  食べていたようです。上農夫は清酒を用いる事もあるが、貧民以外は濁酒を造って春酒とする。

  七日は七種粥を祝ひ休む。關東筋にてはする所 稀なりと云ふとあります。

  新潟県 江戸時代後期の越後長岡藩の農民の正月の食事内容など 貧富の差が大きい


 幕末の『守貞漫稿』第二十八編「食類」の「」P.416

  今世は水を多くして炊いた物を白粥で塩は加えない。茶粥は冷飯に煎茶を多くして塩を加え再炊するもの。
  江戸では常に粥を炊かず幼年より慣れていないので好む人は少なく稀である。
  京坂では冬の朝の冷飯を茶粥等にしサツマイモを加える事もある。暦のひめ初めは粥の食べ始めの事。
  平安時代頃は毎朝粥を食べていた事が源氏物語に見える。太古は皆粥を食べていた。飯は後に出来たもの。

  正月七日には三都ともに七草粥 十五日は小豆糜也 京坂あづきかゆには鹽を加へ炊き食す
  江戸は鹽を加へず炊 後 專ら 霜糖を加へ食す 是 常に粥を食し馴ざるの故に糖味を假て食之也

  「」=「粥」かゆ 「」=「塩」 「」=「仮」

  江戸時代末期頃には江戸でも七草粥を食べていた事が分かります。
  江戸では粥を食べなれていないので、小豆粥は砂糖を加えて甘くして食べていたようです。


 1911 (明治44) 年出版の『東京年中行事』上の巻P.109~111 「七草 (十五日)

  支那の習慣にては、元日を鷄にわとり、二日を狗いぬ、三日を猪、四日を羊、五日を牛、六日を馬、七日を人
  となし、正月の七日を人日じんじつと云つて居る。

  俳人 詩人の人日と云つて句を讀み 詩を腑し、歌人の七草と云つて 歌を咏えいずるは此日のことで、
  昔は五節句の一に數かぞへ、若菜の佳節かせつと云つたもので有る。

  七種なゝくさとか七草なゝくさと云ふのは、此朝 七種なゝくさの野菜を粥に入れて食ふと云ふ舊來きうらいの習慣から
  來たものでらうが、今は本當ほんとうの七菜なゝさいで粥をたく習慣は漸やうやく廢すたれて、大抵は薺なづな、小松菜
  などの一二種を用ふるのみのやうで有る。

  昔の所謂いはゆる 七菜なゝなとは 菘(菁)すゞな 蘿蔔すゞしろ、芹せり、薺なづな、五行ごぎやう、蘩蔞はこべ、佛の座の
  七種なゝいろにて、最初 正月の子の日に、小松を引くと同時に摘み來つた菜を子の日の若菜と云ひ、後には
  之をもつて七種なゝくさの粥をたくに至りたるにて、其頃は七日の朝 俎まないたの上にて七菜なゝさいを打ち囃はやし、
  粥に煮て夕食に用ひたもので有るが、中古に至り六日の宵から七日の曉あかつきまでに七度たび打ち囃し、
  その朝粥あさがゆとして食するに至つたのだと云ふ。

  七種なゝくさの若菜を始めて獻上けんじょうしたのは、古今要覧稿ここんえうらんかうによれば 嵯峨天皇の御時で
  下つて 江戸時代には若菜の御祝儀と云つて、諸侯が登城をしたもので有る、其頃 民間に於ては、七菜なゝさい
  俎の上に置き、『なゝくさ なづな とうどのとりこ』と唱へつゝ、火箸ひばし、擂木すりこぎ、庖丁ほうちやう、杓子しやくし
  わり薪まきの五種ごしゅにて交かはる がはる 打囃うちはやしたものださうな。

  此日を廿日はつか正月に對たいして七日なぬか正月と云ふ。

  七種なゝくさの種類については 古來諸説あり、或は 稻 麥 豆 粟 小豆 黍 小麥、或は 白穀はくこく 大豆 小豆 黍
  栗 粟 かき荳子 或は 米 豆 大角豆さゝげ 黍 粟 荳子 薯蕷やまのいも など云ふ、甚だ變かわつた説もあれど、
  それにしては薺なづななどを用ふる習慣が今日こんにちまで残りさうにも思へぬから、種類こそ異ことなれ、
  七菜なゝさいの方が矢張 正しいやうに思はれる。

  【東京年中行事の著者】
   若月紫蘭 (本名は若月保治、1879~1962年、山口出身、東京帝大卒)  Wiki 若月紫蘭
   教育者・記者・劇作家・演劇研究家・浄瑠璃研究家・翻訳家など多方面で活躍しました。

  「舊來=旧来」「來たものでらうが=来たものであろうが (「あ」が抜けている印刷ミスと思われます)
  「本當=本当」「一二種=1~2種、12種ではありません。」「=まな板」「=柿」

  【嵯峨天皇】さが‐てんのう (786~842) 名は神野かみの。 桓武天皇の皇子。  
   平安初期の天皇(在位809~823)。「弘仁格式」「新撰姓氏録しょうじろく」を編纂させ、漢詩文に長じ、
   「文華秀麗集」「凌雲集」を撰進させた。書道に堪能で、三筆の一人。

  【古今要覧稿】ここんようらんこう
   日本で最初の類書。諸般の事項を諸種の部門に分類し、その起源・沿革を考証。
   幕命をうけて屋代弘賢が編纂に従事、その死により未完に終わる。560巻。1905~07年(明治38~40)刊行。



  ≪ 小豆粥 と粥占神事 ≫ 桜粥。  Wiki 小豆粥

  正月15日に、米・粟あわ・稗ひえ・黍きび・小豆など7種のものを入れて炊いた粥。後には小豆粥となった。

  小豆を米にまぜて炊いた粥に餅を入れる。邪気を除くとして、正月15日にこれを食し、またその炊きあがり方で豊凶を占う
  (粥占かゆうら)。冬至や大師講、引越しの時にも炊いた。

  平安時代に紀貫之が、934 (承平4) 年に旅をした記録の土佐日記
  この日本で最初の仮名文日記にも「十五日。けふ小豆粥煮ず」とある。

  【紀貫之】き‐の‐つらゆき(868頃~945頃)
   平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。醍醐・朱雀天皇に仕え、御書所預から土佐守、のち従四位下、木工
   権頭に至る。紀友則らとともに古今集を撰進。
   家集「貫之集」のほか「古今集仮名序」「大堰川おおいがわ行幸和歌序」「土佐日記」、「新撰和歌」(撰)など。

  【粥占の神事】かゆうら‐の‐しんじ 筒粥つつがゆの神事
   神社で、正月15日に小豆粥を作る時、細い青竹または茅を入れて炊き、その管の中に入った粥または小豆の数によって
   その年の五穀の豊凶などを占う神事。

  【粥掻き棒】かゆかき‐ぼう
   粥占の神事に用いる棒。棒に粥の付着する仕方によって農作物の豊凶を占い、後に田畑にその棒を立てる。

  【望粥・餅粥】もち‐がゆ
   正月15日に食べる小豆粥。後世は餅粥の意に取り、餅を入れた粥をいう。これで年占としうらをする地方が多い。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 近畿縦断の旅622㎞ 30 「京丹波町・新宮寺~福知山市・龍源寺」』 14.12.04 放送
  読売テレビ ten. 『若一調査隊 「女性に人気 観心寺の創作精進料理」』 17.02.15 放送

  【大納言小豆】だいなごん-あずき (尾張原産で、尾張大納言の洒落)
   アズキの在来品種で、多くの系統がある。粒が大きく色が濃く黒みを帯び、美味。おわりあずき埃被きほこりかずき

  切腹の習慣がない大納言という官位が由来だそうです。

  京都府京丹波町の瑞穂大納言は、平安時代から都へ献上していた小豆。全国的に高い評価を受ける最高級ブランドの一つ。
  四角い俵型をしているのが特徴で小豆どうし積み上げられまれ、風味が良く煮ても腹が割れにくい。
  一般の小豆の5~6倍の価格が付くそうです。


 河内長野市 高野山真言宗遺跡本山 観心寺
 大阪にある最古の国宝建築物など多数の国宝・重要文化財がある

  観心寺HP http://www.kanshinji.com/

 「汁粉」と「善哉」 関西のぜんざい、関東ではおしるこ 呼び方なぜ違う、
 ぜんざいの発祥は島根県、汁粉の江戸発祥説は嘘

  観心寺は約1300年の歴史があるそうで、弘法大師空海が高野山金剛峯寺を創建する際に拠点とした寺。
  楠木正成の菩提寺などでも知られ、大阪ある国宝の建造物では最古となる金堂や、国宝・重要文化財の仏像多数。
  2016年10月から創作精進料理を1日限定20食。この小豆粥は真言宗の厄払いとして食べられているものだそうです。


  上記の『守貞漫稿』の「粥」に江戸は粥を食べ慣れていないので、砂糖を加えて甘くして食べていた事が
  書かれてあります。

 1911 (明治44) 年出版の『東京年中行事』上の巻P.126~127 「小豆粥の祝 (十五日)

  古來 此日を上元じょうげんと云つて、今猶いまなお 小豆粥に餅を入れて煮いて食する習慣がある。
  枕の草紙さうしに『十五日は餅粥の節供せつくまゐる』とあるのは即ち これで、此の日 亥の刻 小豆粥を煮
  天狗を祭つて食すれば、年中の邪氣をのぞくと云ふ支那の習慣から來たもので、寛平の頃から禁中にて於て
  行はれたもので有るらしい。
  或は 昔は米 大豆 赤小豆 粟あわむぎきびひえの七種の穀類を交へ煮て食つたと云ふことあれど、
  今は餅ばかりの粥を炊いて食ふ所もある。

  關西くわんさいの方では此粥を餅の粥と云つて、神棚に供へたものを此日 果物の樹皮を削り懸けて 其その切口に
  噛ませる習慣が有る。
  自分が小供こどもの時代には、能く父に連れられて果樹の下に立つて、庖丁でもつて樹皮を削り懸けた父が
  『成るか成らぬか』と云ふに對たいして、『成ります成ります、枝の裂ける程 成ります』と言はされたもので有る。
  すると父は其切口に餅の粥を食はせて次の樹に進むので有つた。
  漢名 之を嫁樹かじゅと云つて、東京でも山の手の方には 桃や柳の樹に對して まだこんなことを行ふものがあると
  云ふ話であるが見たことはない。

  小豆粥の中の餅のことを粥柱かゆばしらと云ひ、昔は粥を炊た木を切つて杖となし、之を携へた兒童じどうが、
  新しく嫁を迎へた家毎ごとに入つて、嫁さんの腰を打てば男の子を生むと云つて、廣ひろく諸國に行はれたものだ
  さうな。
  枕の草紙にも『粥の木引ひきぐして うかゞふ。うたれじと用意して心づかひしたる氣色けしきをかし』など云ふことが
  有る。
  粥杖、お祝棒、祝木いはひぎ、粥の木、「よめたゝき」など云ふは皆 此 杖のことで有る。

  【寛平】かんぴょう、かんべい、かんぺい、かんへい
   平安前期、宇多天皇 (出家後の称「寛平法皇」)・ 醍醐天皇の時代の年号。889~898年。


  【東京年中行事の著者】
   若月紫蘭 (本名は若月保治、1879~1962年、山口出身、東京帝大卒)  Wiki 若月紫蘭
   教育者・記者・劇作家・演劇研究家・浄瑠璃研究家・翻訳家など多方面で活躍しました。

  禁中=宮中や朝廷内の事。「枕の草紙=枕草子」「=気」「關西=関西」「=対」「=広く」「兒童=児童」

  基本的に「ふ」が使われていますが、一ヶ所だけ「はされ」という現代の漢字が使われています。
  この執筆も明治43~44年にされたと思われます。他の文中でも旧漢字と新漢字が混ざっていたりします。
  ちなみに、現在使われている『現代仮名遣い』は1946年の内閣告示によって一般化、1986年に改正。
  つまり第二次大戦後から統一された事になります。



  ≪ 東北地方に残る「餅花」 ≫  この風習は奈良や和歌山などの一部地方にも残っているようです。

  【餅花】もち-ばな 百菓辞典
   小正月(1月15日)の飾り物。わらや木の枝に餅や団子を刺して、イネの花のように作った
   もの。神棚や家の内外に飾る。まゆ玉と同じで、秋の豊かな収穫を祈るためのもの。
   農業の豊作祈願。

  【繭玉】まゆ-だま 百菓辞典
   小正月(1月15日)の飾り物。餅花と同じで、養蚕が盛んになるにしたがって、まゆの豊作
   祈願としてまゆの形に作り、餅花と一緒に飾ったもの。
   また、地域によっては、全てまゆ形に作るところもある。

 
 粥杖
  NHK・大阪 歴史ヒストリア 『「春はあけぼの」の秘密 ~清少納言 悲しき愛の物語~』 14.04.02 放送

  『枕草子』には 「粥の木ひきかくして、家の御達女房などのうかがふを」とあります。 【御達】ごたち … 婦人の尊敬語

  粥の木 (粥杖) は、お粥を混ぜる為の棒ですが、正月に宮中で粥を炊く日は、その棒で女性のお尻を叩く行事が行われました。
  この日は無礼講につき、女房たちが姫様のお尻を叩く事も許されました。また、男性を叩くこともあったそうで、
  皆 「叩かれまい」としてソワソワしていたそうです。






  【粥杖】かゆ‐づえ 粥の木
   正月15日に粥を煮る時に用いた削り木の杖や燃えさしの薪たきぎ。これで女の尻を打てば男子をはらむとされた。
   平安時代以来の行事。果樹を粥杖で叩き「なるかならぬか」と責める行事も各地で行われる。

  【粥柱】かゆ‐ばしら
   正月15日に粥の中に入れて食べる餅。また、粥杖のことをいう地方もある。

  【主水司】しゅすい-しもんど-の-つかさもいとりの-つかさ
   律令制で、宮内省に属し、供御の水・粥・氷室のことをつかさどった役所。
   古事記[下]「―に駈使つかはえし吉備の国の児島の仕丁

  【仕丁】し-ていじ-ちょうし-ちょうつかえ-の-よほろ
   律令制で、諸国から徴集されて、中央官庁および封戸ふこ主である親王家・大臣家・寺社の雑用に従事した者。

  【供御】く-ごぐ-ごく-ぎょ
   天皇の飲食物をいった語。また、上皇・皇后。皇子、さらに武家時代の将軍についてもいう。
 
 【1200年の伝統 弘法大師へのお供え儀式 味見地蔵】
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『歴史と伝統のロマン溢れる! 関西山岳ミステリーランキング』 13.08.08 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 近畿国宝めぐり ~高野山の紅葉を目指せ11 秋の高野詣 最終回~』 13.11.14 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅8 香川県・丸亀城~坂出市・白峯寺へ』 15.06.11 放送

  ≪ 和歌山県 高野山の奥之院 嘗試地蔵 あじみ-じぞう 嘗試 しょう‐し・・・こころみること。ためすこと。

  和歌山県高野町にある標高1000m級の山々の総称が「高野山」で、真言宗の総本山 金剛峯寺を中心とし、東西に約6㎞、
  南北に約3㎞の地域に120程の寺院が立ち並ぶ真言宗の聖地。
   2015年に開創1200年になり、南海高野線では難波から特別列車を走らせています。

  奥之院へと続く約2㎞の参道には20万基以上の墓や慰霊碑などが建ち並び、豊臣秀吉を始め、織田信長、武田信玄、
  上杉謙信など戦国大名から、シロアリを供養する墓まであります。

  【奥の院】 おく‐の‐いん
   主に寺院の本堂より奥の方、最高所などにあって、霊仏または開山・祖師などの霊を安置する所。高野山のそれが有名。

  姿見の井戸や汗かき地蔵、明智光秀の墓石のオカルト的ミステリーなども幾つかあります。






  空海 (弘法大師) の御廟ご-びょう(祖先の霊を祭る所。霊屋。おたまや。やしろ。)に、毎朝6時と10時半にお供え物をしますが、
  空海の食事の世話係を務めていた愛慢あいまん・愛語あいごという二人の弟子を祀った嘗試地蔵にまず供え味見をして貰う
  儀式が1200年も欠かさず続いているそうです。






  【空海】くうかい 灌頂号は遍照金剛。諡号は弘法大師。(讃岐の人、774~835)
   平安初期の僧。日本真言宗の開祖。初め大学で学び、のち仏門に入り四国で修行、804年(延暦23)入唐して恵果けいか
   学び、806年(大同1)帰朝。
   京都の東寺・高野山金剛峯寺の経営に努めたほか、宮中真言院や後七日御修法の設営によって真言密教を国家仏教
   として定着させた。また、身分を問わない学校として綜芸種智院しゅげいしゅちいんを設立。詩文に長じ、また三筆の一人。
   著「三教指帰」「性霊集」「文鏡秘府論」「十住心論」「篆隷万象名義」など。

  【高野山】こうや‐さん・・・金剛峯寺こんごうぶじの俗称
   和歌山県北東部にある、千メートル前後の山に囲まれた真言宗の霊地。
   816年(弘仁7)空海が真言密教の根本道場として下賜を受け、のち真言宗の総本山金剛峯寺を創建。

  【高野街道】こうや‐かいどう    奈良県 野迫川村の昔ながらの高野豆腐  「凍り豆腐」の発祥は鎌倉時代の高野山
   京都・大阪から高野山金剛峯寺への参詣道。
   京都東寺から南下し、生駒山地西麓をたどる東高野街道が主道で、堺からの西高野街道と河内長野市で合する。


  ≪ 大師杖 ≫ 大師の一覧

  『大師だいし』とは、偉大なる師の意で、仏などの尊称。また、高徳の僧の敬称で、日本では25~35人くらいいらっしゃるようです。
  一般的に弘法大師空海の事を言います。

  【大師の杖】だいし‐の‐つえ
   11月の大師講の供膳に添える長い箸。東北・北陸地方では、大師には子女がたくさんあったので、この箸を短く折って
   皆に与えたとか、あるいはこの長箸で団子を刺して皆を育てたという伝説がある。

  【大師講】だいし‐こう
   ① 真言宗で、空海に帰依する人々の講社。
   ② 天台大師(智ちぎ)の忌日11月24日に行う法会。 →霜月会。
   ③ 天台宗で、最澄の忌日6月4日に行う法会。みなづき会。長講会。
   11月23日の夕から24日にかけての民間の祭。元三大師・弘法大師あるいは天台大師についての伝説を伝える土地も
    あるが、古い民俗行事の痕跡という。

  石巻百科事典マキペディア 『大師さま』
   http://makipedia.jp/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%B8%AB%E3%81%95%E3%81%BE


  ≪ 大師杖の水 ≫

  弘法大師が地面を杖でついたところ、水や温泉が涌き出たという伝説は、畿内や四国以外にも各地に多く残っているようです。

  【弘法清水】こうぼう‐しみず … 弘法大師が錫杖しゃくじょうで地をつき、または杖を振った時に出たと伝える清水。


  ≪ 煎餅の伝来 ≫ 小麦の煎餅。米の煎餅は江戸時代か明治時代から。

  【煎餅】せんべい 百菓辞典
   大別して2種類ある。
   ① うるち米粉で作った新粉餅を薄くのし、型で抜いて乾燥し、焼いて醤油を塗ったものや、塩味の小麦粉煎餅
     などが塩煎餅系のもの。由来には諸説あるが、9世紀始め、弘法大師が唐から伝えたといわれている。
     古くは小麦粉ものであり、うるち米粉は明治に始まるとされる。
     俗説によると、埼玉県草加の茶店の「おせん」さんが、売れ残った団子を延ばして乾燥し、焼いて客に出した
     のが始まりという話がある。
   ② 小麦粉を主原料とした瓦かわら煎餅系のもの。瓦をかたどって焼いたもの。
     小麦粉に鶏卵、砂糖をたっぷり入れるためカステラをつぶして焼いたような味の、甘いせんべい。

  米が原料の煎餅も関西が先だった レシピ原文発見!! こちらも2018年3月現在、当サイトのみの情報
 
 【 日本における製油発祥地 離宮八幡宮 】
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 西国三十三所めぐり 奮闘編⑩』 14.01.27 放送
  Wiki 離宮八幡宮 / Wiki 大山崎油座 / Wiki エゴマ

  京都府乙訓郡大山崎町にある859年に創建された離宮八幡宮。嵯峨天皇(在位809~823)の離宮の跡地に建てられたことから
  「離宮」の名が付きました。平安時代の後期頃、離宮八幡宮では油を搾る搾油器を発明し、油を売る専売特許を得ました。
  油売りの商人たちは、この神社で許可を貰わないと商売できませんでした。






  ≪ 平安時代~鎌倉時代の油の主流は、エゴマ油 ≫  桜の花見は嵯峨天皇から

  【荏胡麻】え‐ごま
   シソ科の一年草。インド・中国原産の油料作物。高さ約1メートル。茎は四角。葉・茎は浅緑色、葉は一種の臭気がある。
   花は白色。いくつかの品種がある。果実は小さく、炒ってゴマの代用。
   荏油えのあぶら、えのゆを採り、食用。また乾性油 (防水性を持たせる塗料) なので桐油紙の製作や雨傘などに塗った。

  エゴマ種実は縄文中期の長野県の荒神山遺跡やクッキー状
  炭化物からも検出されていることから食用加工されていたと
  推測されます。

  種子から油を取る方法が開発されたのに伴い、製油を目的に
  栽培されるようになり、地名に「荏原え-ばら」が付く場所の
  多くは栽培地であったことに由来するそうです。

  中世末期に不乾性油の菜種油が普及するまで、日本で

  植物油と言えばエゴマ油であり、灯火にもこれが主に用いられ、安定的に確保・供給するために油座という組織が作られました。
  エゴマ以外の油の原料としては、胡麻、海石榴(ツバキ)、魚脂などもありました。

  中世後期から近世にかけて油の原料として新たに綿実、菜種などが加わって、油そのものの用途も多様化していきました。
  菜種油の普及と共に次第にエゴマ油の利用は乾性油としての特質が不可欠な用途に限られていき、知名度は低くなって
  いきました。


  ≪ 大山崎 油座 ≫ おおやまざき-あぶらざ  サントリー山崎蒸留所   カマボコ・天ぷらの歴史

  油は、主として灯油の最大の需用は寺社の灯明用でした。
  平安時代後期になると需要が高まり、十分な量を確保する必要性から、寺社は支配下の寄人 (社寺に隷属して雑役を勤めた人)
   ・ 神人 (下級の神職) らに製造・仕入れをさせることで、安定的な調達を確保するようになります。

  【大山崎神人】おおやまざき-じにん
   中世、山城大山崎の離宮八幡宮に所属し、石清水八幡宮への灯油納入をしていた神人。
   荏胡麻油の製造・販売特権を得て、油座をつくった。

  【離宮八幡宮】りきゅう-はちまんぐう
   石清水八幡宮の別宮。元府社。京都府乙訓おとくに郡大山崎町にあり、室町時代に繁栄した大山崎油座が所属。

  筑前国の博多筥崎八幡宮の油座や大和国の符坂の油座など、日本各地で油を扱う座が組織され、その最大規模の油座が
  離宮八幡宮の大山崎の油座でした。


大山崎の油座は、離宮八幡宮がある現在の京都府乙訓郡大山崎町および大阪府三島郡
島本町(昔は山崎村と言いました) を本拠にしていました。

平安末期頃~戦国時代末期にかけて、朝廷や幕府の庇護を受け、原料の仕入れから
製油・販売に至るまで独占的な特権を得て、塩や染料・麹など油以外の商品も扱いました。
その販売対象地域は畿内を中心に広範囲に及んでいました。

 【座】
  中世、商工業者などの同業組合。
  貴族・社寺の保護を受け、商品の製造・販売上の独占権を持った。

  【山崎】やまざき
   京都府南部の大山崎町と大阪府島本町の一部とにまたがる地区の旧称。淀川が京都盆地から大阪平野へ流れ出る狭隘部の
   北側に位置し、古来、交通の要地。

  【山崎の戦】やまざき‐の‐たたかい
   1582年(天正10)、中国征討中の羽柴(豊臣)秀吉が
   本能寺の変を知って急ぎ毛利氏と和議を結び、山城国
   山崎で一挙に明智光秀を討滅した戦い。
   大坂城が完成するまで山崎城を改修し本拠地とした。

  天王山】てんのう‐ざん
   京都府乙訓郡大山崎町にある山。標高270m。

   淀川を挟んで男山に対し、京都盆地の西の出入口を扼する形勝の地で、付近一帯史跡に富む。
   1582年(天正10)羽柴秀吉と明智光秀とが山崎に戦った時、この山の占領を争い、秀吉の手に帰した。
   これが両軍の勝敗を決したから、勝敗の分れ目を「天王山」という。
 
 清少納言の『枕草子』に記された 「削り氷」 氷室と甘葛
  NHK・大阪 歴史ヒストリア 『「春はあけぼの」の秘密 ~清少納言 悲しき愛の物語~』 14.04.02 放送 などより  意外な? 清少納言の実像
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅72・73 京都市北区~東山区へ』 16.08.18 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『かき氷のルーツを調査』 18.08.10 放送

  清少納言(966年頃~1025年頃)の随筆 『枕草子』四十二段に記されている
   「あてなるもの…削り氷けずりひに甘葛煎あまづら入れて…

  【清少納言】本名未詳 (諾子なぎこという説がある)。生没年未詳。(966年頃~1025年頃) 清原元輔の娘。
   (「清」は本姓 清原の略。「少納言」は宮中での呼称)平安中期の女房。中古三十六歌仙の一人。
   和漢の学に通じた才女で、紫式部と並び称せられ、一条天皇の皇后 定子 (976~1000年、関白 藤原道隆の娘)
   に仕えて寵遇を受けた。「枕草子」の作者。家集「清少納言集」。

  枕草子は仕えていた藤原定子を元気つける為だけに、
  楽しかった日々の事を書いたものだそうです。
  定子の死後、加筆し作品として仕上げました。

  【枕草子】まくらのそうし 清少納言枕草子。清少納言記。
   平安中期の随筆。清少納言作。
   最終的成立は1000年(長保2)以後か。雑纂形態の本と
   類纂形態の本とがある。作者が中宮の定子に仕えていた


   頃を中心に、外なる事物、情意生活、四季の情趣、人生などに関する随想・見聞を、歌枕類聚・「物は」類聚・日記回想など
   として記す。鋭い写実と才気煥発の筆致は紫式部の源氏物語とともに平安文学の双璧とされる。


    木にくっついている細い蔦が甘葛です。




  あてなるもの(上品で心ひかれるもの)としている平安時代の超ゼイタクなスイーツ、甘葛煎の蜜がかかった かき氷。

  麦茶 平安時代は『麦湯』。江戸時代には『麦湯』を売る屋台があり、夏の暑気払いとして飲まれていた。
  日本のアイスの歴史1ページ


  ≪ 氷室 ≫ ひ‐むろ

  奈良時代には氷室守ひむろもりという氷室の番人を表す職があった事が記されており、明治時代まで続く大切な職業でした。

  延喜式によると、「帝の氷は 4月11日から9月30日まで運ぶ」と
  書かれているそうです。

  京都市の北部の西賀茂氷室町から平安京に氷が運ばれて
  いました。
  周りの山々から冷気が入り込む天然の冷蔵庫のような地形を
  しており、すり鉢のような窪みの山の斜面に氷室が
  作られました。

  およそ直径5m、深さ3mの穴を掘り、中央に柱を建て雨風を防ぐ
  屋根が付けられました。
  

  湿気で氷が溶けないように大量の炭が敷かれ、内部を乾燥させる工夫がなされました。
  山の斜面を掘って作られた氷室は一年中温度変化が少なく、夏まで氷を保存する事が可能でした。

  秋、稲刈りが終わった田んぼ。冬に水を撒いて氷を作り、また水を撒いて氷を作る。という作業を繰り返し氷を厚くし
  良質の氷を作りました。

  【主水司】しゅすい-しもんど-の-つかさもいとりの-つかさ
   律令制で、宮内省に属し、供御の水・粥・氷室のことをつかさどった役所。

  【氷室】ひ-むろ … 能。丹波国氷室山から朝廷へ夏の氷を奉る嘉例かれい (めでたい先例。通例。) を描く。


  ≪ 氷室神社 ≫  毎日放送 ちちんぷいぷい 『和田ちゃんの そんなん初めて食べました 「泡で食べるかき氷」』 15.05.26 放送

  奈良市にある平安時代に創建された氷室神社の祭神は闘鶏稲置大山主命つげ-の-いなぎ-おおやまぬし-の-みことで、奈良時代に
  初めて氷室を作ったとされ、氷の神様として祀られています。また冷蔵庫の守り神としても信仰を集めています。

   ※ 稲置=八色の姓で1番下の8位。奈良時代の下級役人の姓かばね

  名字の始まり 姓かばね とは? 古代の姓の種類 と 飛鳥時代の八色姓  日本人の名字のルーツ






  氷室神社では、氷を使った灯篭を境内に飾る『氷献灯』や、氷の中に縁起が良いとされる鯛を閉じ込めたものを奉納する
  『献氷祭』という行事が行われています。
  2014年から夏に『ひむろしらゆき祭』というイベントを開催。全国の有名かき氷店が集まり、かき氷を献上し商売繁盛を
  祈る祭で、初年の2014年は8月に開催され、2日間で約3000人が訪れました。2015年は7月18・19日に開催予定。

  【氷室の節句】ひむろ-の-せっく
   江戸時代、旧暦6月1日に、旧臘 (客臘かく-ろう。「臘」は陰暦12月) の雪水で製した折餅または氷餅などで祝って食した
   行事。

  【折餅・分餅】へぎ-もち
   欠き餅の事。正月11日に取り下げた鏡餅を、刃物で切ることを忌み、手で欠いて小さくしたもの。あられもち

  【凍り餅・氷餅】こおり-もち … 寒中にさらして凍らせた餅。多く、信州・東北地方で作る。


  京都市北区にある『わら天神宮』。831年に宮中で使う氷の氷室を造る際、石川県から職人を招きました。 16.10.05追記
  その際、職人の要望により石川で安産・子授けの神様として祀られていた『木花開耶姫命このはなさくやひめのみこと』を
  分祀したのが始まりだそうです。

  オムライス発祥 大阪の北極星 石川県出身者 東京・大阪の銭湯業者の約9割は北陸出身、大阪には石川出身者が多い


  ≪甘葛 ≫ あまづら

  「あまづら」は「あまかつら」の略。ブドウ系統の常春樹(木のツタ)の樹液を煮詰めた甘味料。

  【甘葛】あまずら、あまづら
   ① ツタの古名。
   ② 今のアマチャヅルに当たるといわれる蔓草の一種。また、その蔓草からとった甘味料。甘葛煎あまずらせん 。味煎みせん

  古代から用いられた日本の甘味料で、主に奈良時代~平安時代によく利用されました。
  8世紀には薩摩や駿河の産物として史料に記され、『延喜式』の大膳部にも諸国から進貢される菓子の中に甘葛が記載
  されています。

  東は越後国、伊豆国、西は備前国、備中国など20ヵ国。そして大宰府からも毎年貢納されており、宮中の大饗たいきょう
  などでは、甘葛で山の芋を煮た芋粥がしばしば供されているそうです。

  室町時代には、贈答品としても用いられた記録がいくつかありますが、日明貿易などで砂糖が多く輸入されるようになると、
  1575年を最後に宮中の記録から「甘葛」の記録は見られなくなりました。

  奈良女子大学古代学学術研究センターの協力研究員の前川佳代さんによると、短く切ったツタの一方にテープを巻き、
  息を強く吹き込むそうです。すると、少し粘り気がある透明な樹液が出てきます。






  樹液の糖度を測ってみると、桃やメロンに近い14.6度の甘さがありました。
  極わずかずつしか樹液は採取できないので、これを集めるだけでも大変な作業だったようです。
  これを煮詰め甘葛煎という蜜を作るのです。煮詰めると糖度75度前後、蜂蜜が約80度前後の甘さ。






  興味がある方は、こちらのサイトでご覧下さい↓
    幻の甘味料あまづら(甘葛)の再現実験  奈良女子大学「文化史総合演習」チーム
    http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/amadzura/amadzura_hp.html

  奈良時代の738 (天平10年) の正倉院文書 『駿河国正税帳』には「味葛煎弐斗納缶弐口、口別一斗」の記載があり、
  あまづらが国内で生産され税として収められていた事が分かります。

  奈良女子大学大学院人間文化研究科(博士前期課程) 国際社会文化学専攻 文化史総合演習 成果報告
  『奈良の都で食された菓子』 http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/kodai_kashi/nara_kashi.html

   ハチミツを研究して、「蜂のウンコと違う」と大和本草書で発表した貝原益軒

  【青差・青挿】あお-ざし 百菓辞典
   青麦を煎って臼で碾き、練って糸状にねった菓子。日本で生まれたもの。
   名前の由来は①紺色に染めた麻縄の銭差し (青差) に似ていることからついたとする説と②「さし」は「さす (映) 」の
   名詞形で、青みがあることからついたとする説などがある。練り物、練り菓子。
   「いとをかしき薬玉どもほかよりまゐらせたるに、あをざしという物を持ってはたるを(清少納言『枕草子』239段)
 
 おせち料理の起源    
  正月 鏡餅、 門松なのに中央に竹が飾られている理由、元日から角餅は縁起が悪い? 1911 (明治44) 年の東京年中行事「具足餅と鏡餅」
  日本各地の雑煮

  ≪ 御節料理の起源 ≫  NHK Eテレ 美の壺 「おせち料理」 12.12.26 放送 より

  御節というのは、元々節句の時に神様にお供える御馳走が始まり。
  それが時代を経て民衆に広がり、正月の膳を指すようになりました。






  神饌は収穫した姿のままをお供えするのが一般的だそうですが、千葉県の香取神宮で600年以上続く11月末の大饗祭での
  神饌は、調理 (鮭を捌いて、大根を芯にして高く盛付けするなど) して、お供えするそうです。






  今年の収獲と来年の豊作を祈願し、先ず神様に召し上がって頂く、お下がりを氏子一同で食べるのだそうです。




  【御節】お‐せち
   正月や節句のごちそうに用いる煮しめ料理。
   茹でかちぐり・昆布まき・てりごまめ・ごぼう・蓮根・芋・人参・くわいなどを甘く煮たもの。

  【節句・節供】せっ-く
   節日、すなわち人日(1月7日)・上巳(3月3日)・端午(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽(9月9日)などの式日

  【節供】せち‐く  せく。おせち。せちごと。
   節日に供する供御くご。元日の膳、正月15日(上元)の粥かゆ、3月3日(上巳)の草餅、5月5日(端午)の粽ちまき
   7月7日(七夕)の索餅さくべい、10月初の亥の日の亥子餅いのこもちの類。

  【香取神宮】かとり‐じんぐう
   千葉県香取市にある元官幣大社。祭神は経津主神(斎主命)。古来、鹿島神宮と共に軍神として尊崇された。下総国一の宮。

  【経津主神】ふつぬし‐の‐かみ  刀剣の神。香取神宮に祀る。
   日本神話で、磐筒男神いわつつのおのかみ・磐筒女神の子。天孫降臨に先だち、武甕槌神たけみかずちのかみ(藤原氏の氏神、春日大社)
   と共に 葦原の中つ国を平定し、大己貴命おおなむちのみことを説得して、その国を瓊瓊杵尊に譲らせた。

  【大饗】たい‐きょう (ダイキョウ、おおあえ。とも) 盛大な饗宴。
   古代、宮中・大臣家で例年または臨時に行われた大饗宴。二宮にぐう大饗と大臣の大饗を恒例の大饗、任大臣の大饗を
   臨時の大饗といった。即位礼・大嘗祭だいじょうさいなどに行う大饗宴。

  720年の『日本書紀』に記載されている神宮は、伊勢神宮と石上神宮(物部氏末裔の石上氏)のみ。
   ↑ 元々の神宮が付くのは、この2社のみ。
  平安時代に藤原氏の権力が強くなって、石上神宮が外され、伊勢神宮と、藤原氏所縁の香取神宮、鹿島神宮が延喜式に記載。
  平安時代は神宮より、近畿にある二十二社 (伊勢神宮と石上神社含む) の方が重要な神社でした。
  神社の格付けは官幣(大社・中社・小社) と国幣(大社・中社・小社) 。神宮は大社に含まれます。「神宮」は格ではなく称号です。

  また鹿島神宮の方が 香取神宮より古いようです。春日大社は鹿島神宮と全くの同格ですが、二十二社に入ってるので重要視
  されていました。  日本の重要神社 二十二社とは

  ちなみに『常陸風土記』には「天地あまつちの初め高天原に天つ神が会合して降した神が香島天之大神である」とあり、
  『日本の神様読み解き事典』の「鹿島大神」によると、「第三十六代孝徳天皇のとき、中臣鎌子が海上国造と那賀国造から
  地を割かせて神郡を置き、この大神のあることから香島郡と命名したという。のち藤原氏によって建御雷神が代位された

  関東の藤原氏の重要神宮 中臣 (藤原) 氏の関東発祥説は嘘、中臣氏の先祖神を最初に祀ったのは東大阪の牧岡大社
  藤原氏と春日大社


   ≪ 御節が民衆に広まったのは江戸時代 ≫

  江戸時代は、食積 (食摘)くいつみ・・・食材を積み重ねたものと、重詰め・・・酒の肴を詰め合わせたものがありました。
  それが近年以降に合わさり、現在の重詰めの御節の形へと進化していきました。
  江戸庶民に広まるのは江戸時代末期以降と思われます。

  1960年 (昭和40) 代になると、デパートで販売されるようになり、平成以降は中華、イタリアンなど様々な御節のような
  ものが販売されはじめました。







  ≪ 御節料理で大切な事 ≫

  ・神様への感謝  ・料理に意味を託す(尾かしら付の魚、野菜の飾り切りなどで季節や、めでたい物の形を表す) 
  ・重箱に隙間なく料理を詰め込む
    (日本料理の基本 赤・青・黄・白・黒の5色を配置した行儀盛りで、隙間なく詰め込むのは「豊かさ」の象徴)






  江戸懐石 近茶流宗家 柳原一成さんによると
   日本の農耕文化と深く関係しており、お節料理にはそれぞれ意味があります。言霊信仰=シャレとは違うと思うんです。
    その中に願いを込めてなければいけない。神様と共に食事をしていると考える。ダジャレなどと言う人もいますが、
    昔は、それだけ生きる事が大事だったんです。






  江戸懐石では五段の重が正式で「めでたさを重ねる」。
   一の重は、御節のメインとなる酒の肴。 二の重は、甘い味付けのもの(砂糖が貴重だった時の名残りの料理)
   三の重は、魚で海の幸の料理。 与の重は、野菜の煮物など山の幸の料理。
   そして、五の重は、。「来年は、この御重が埋められますように」という縁起かつぎの為、何も入れない。






  【言霊】こと‐だま
   言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。

  【言霊の幸ふ国】ことだま‐の‐さきはう‐くに
   言霊の霊妙な働きによって幸福をもたらす国。わが国のことを指す。

  【万葉集】
   現存最古の歌集。20巻。仁徳天皇皇后の歌~淳仁天皇時代の歌(759年)まで、約350年間の約4500首には
   「言霊のたすくる国ぞ」 「言霊の幸ふ国と語りつぎ言ひつがひけり」 というのがある。  実は恋の歌集 万葉集


  関西の御節や雑煮に欠かせない「金時ニンジン」は「京ニンジン」とも言われる東洋系人参。
  『なにわ伝統野菜』に指定されている大阪を代表する野菜の一つで、少なくとも江戸時代には
  栽培されていました。

  甘みと香が格別で深紅色が特徴で、この赤さが「めでたさ」の象徴として新年には不可欠の
  食材となっています。

  ちなみに、江戸時代の江戸など関東では屠蘇散が手に入らなかったので、代わりに「味醂」を
  飲んでいました。当時の味醂は高級な酒とされていたようです。


  1911年の『東京年中行事』には「重詰」とあり「御節料理」という言葉は見当たりません。
  また「十二月も末になると、薬種屋の店頭に延壽屠蘇散と書いたビラ紙が下がる」とあるので、屠蘇散が東京でも入手可能に
  なっていたようですが、味醂酒に浸して飲んでいたそうです。

  「御節振舞=節日の饗応」なので、本来は正月以外の季節の節目の料理=御節料理。
  御節料理が正月の料理を指すような意味になったのは、昭和以降の事だと思います。

  御屠蘇 平安時代から続く奈良の屠蘇散。昔ながらの本物の屠蘇酒。 明治44年出版の東京年中行事の「屠蘇」の原文
  正月 鏡餅、 門松なのに中央に竹が飾られている理由、元日から角餅は縁起が悪い?  日本各地の雑煮 関西白みそ雑煮文化の境界線
  明治44年の東京年中行事「雑煮・太箸・重詰」の原文


  関西テレビ FNNスーパーニュースアンカー 『ソクメン! 文化遺産の”和食”おせち”が高評価』 13.12.10 放送

  ≪ ”おせち”を作らない、食べない人が増えている ≫

  2013年12月4日に和食が世界無形文化遺産に正式に登録されましたが、「おせち」が世代を超えて受け継がれていることが
  高評価されました。

  博報堂生活総合研究所「生活定点」調べ によると、4人に1人が「おせち」を食べなくなっています。





  「おせち」に詳しい小宮真由さんによると、現代のおせちは おいしさに走りすぎで 使われている食材の意味すら知らない
  人が多い。縁起物を食べることで 1年の幸せを願うという本来の意味を 次の子どもたちに伝えることが大事。

  カマボコ・天ぷらの歴史
 
「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
2009.02.17発売
Link Free http://marco4321ice.web.fc2.com/ 
OSAKA HABIKINO IGA 5-9-6  MARCO POLO 取り扱い商品 : アイスクリーム / シャーベット / ザーネアイス / 生チョコアイス / スイートポテト / コーヒーなど
inserted by FC2 system