手づくり アイスの店 マルコポーロ
大阪と関西の食文化 2
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   20.04.22
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  Page Contents




 紅ショウガの天ぷら  和漢三才図会で梅酢が薬用に使われているような記述を発見 20.01.14追記
  梅酢を使った漬物の記述
  豆腐百珍続編に「梅酢漬けの生姜」の記述を発見! 東京では『都電名物』として販売。

 日本の金平糖は大阪発祥 江戸時代中期 長崎、京都でも作られていた。小鈴糖など。

 老舗昆布店「こんぶ土居」が教える簡単な昆布ダシの取り方 昆布の選び方

 道頓堀戎橋のグリコ 6代目看板は2014年10月23日に初点灯

 伊藤ハムのポールウインナー 関西だけでしか普及していない理由と 60年代の大阪のホットドッグ復活

 現存する最古の飴屋 京都の「幽霊 子育飴」

 グリコの看板に情報追加、初代は紅白のネオン看板だったなど

 老舗昆布店 小倉屋山本が教える昆布ダシの上手な取り方   紅ショウガの天ぷら

  米が原料の煎餅も関西が先だった レシピ原文発見!! こちらも2018年3月現在、当サイトのみの情報

  1712年刊の和漢三才図会の「摂津」の主な記述項目(石高・地名・産するものなど)、北前船・菱垣廻船など海路の経由各地
  同「河内和泉」著者は大坂の医師・寺島良安なので、京都・大坂・奈良の歴史は特に詳しく書かれてあります。


 加工昆布の老舗 をぐら屋 小倉屋山本 松前屋

 淀川の鯉と鰻  大阪のマムシ飯
  江戸時代には、淀川の鯉が一番旨いと言われていた

  京都・大阪の夏の味覚。

 「おばんざい」元は「質素なおかず」という意味

 大阪 飴ちゃん文化 と チンドン屋  パイン飴

 三重県 伊賀上野の「じょうせん飴」 熊本の朝鮮飴

 大阪の金平糖専門店 コンペイトウ ミュージアム

 ひやしあめ 主に関西圏だけに残る飲料だった。

 大阪 箕面市の紅葉の天ぷら 
  箕面の滝、2010年から猿を見かけなくなった
  縄文キャンプ (縄文クッキーつくりなどの体験)

 魚すき発祥 丸萬本家

 江崎グリコ 
  ゴールインマークは7代目、道頓堀看板は5代目、
  ビスコ坊やは5代目のデザインの変遷

 グリコの「おまけ」を作り続けた男 宮本順二


 うどんすき発祥 美々卯

 オムライス発祥 北極星

 串カツ発祥 だるま

 しゃぶしゃぶ発祥 スエヒロ

 満月ポン

 ケンミンの焼きビーフン

 神戸市の学校給食デザート とくれん

 滋賀県の「食」の名物 
  姥が餅 赤こんにゃく 琵琶マスの棒鮨 よそものコロッケ など。


 下2つは日本の伝統行事2 7~12月のページに移動しました。

 月の都 京都 月見の風習は平安時代初期から

 与謝野晶子の月見だんご

  近畿の食文化 ← 関西の食文化1と2ページで書き切れない部分 近畿だけで人気の駄菓子。 近畿各府県別。
  おから 大坂では「雪花菜きらず」 京都では「卯の花」?

  「汁粉」と「善哉」 関西のぜんざい、関東ではおしるこ 呼び方なぜ違う、ぜんざいの発祥は島根県、汁粉の江戸発祥説は嘘 
  この項目は江戸時代の食文化 菓子・甘味2のページに移動して追記しました。
  関東煮 (おでん) は大正時代以前から大阪にたくさんあった事が判明

  おすすめサイト
  FOOD LIBRARY  OSAKA FOOD CULTURE http://www.kuidaore-osaka.com/jp/ ← 大阪の食文化について書かれたサイトです。
  公益財団法人 大阪府学校給食会 『おおさかの郷土料理集』 http://www.oskz.com/recipe/kyodo.pdf

  超オススメ → 大阪の夜景動画チャンネル - Night Movie Channel of Osaka Japan http://www.youtube.com/user/OsakaNightTube/videos

  
 
 大阪昆布文化 
  NHK あさイチ 『JAPAなび 大阪・船場』 14.03.20 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『老舗昆布店に聞く! おいしい「おだし」の取り方』 14.12.04 放送
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『そのうまさにはワケがある! おいしさを科学する!』 16.02.04 放送

  ≪ 和食の出汁文化を完成させたのは大阪です ≫

  東京のテレビでは「和食」と言えば「京都」の名前が出ますが、和食の決めてであるダシ文化を完成させたのは大阪です。
  割烹スタイル、松花堂弁当、料亭「吉兆」なども大阪発祥。

  北前船およびダシ文化は日本の食の歴史6北前船を参照して下さい。


  ≪ 老舗の昆布専門店が教える昆布ダシの取り方 ≫

  小倉屋山本が研究した昆布ダシの取り方。水1ℓに対し昆布15g。水から入れて火にかけ60℃でキープして1時間がベスト。






  ※ これは大阪の淀川水系での硬度60の軟水での場合。地域によって硬度が違うので、この通りで上手くいくとは限りません。
  水のページの水の硬度の違い 日本全国硬度マップを参照してください。関東と九州の一部などでは硬水ですが、
  水系によって軟水が出る場所もあるはず、また軟水県でも硬水の水道の地域もあります。
  軟水系のミネラルウォーターも多数販売されています。

  出汁を取る場合は、昆布などのグルタミン酸、カツオ節などのイノシン酸、共に沸騰させてはダメ
  出汁を取っている水を沸騰させると、旨味成分が渋味成分に変化します。

  植物性のグルタミン酸+動物性のイノシン酸を合せる事で、旨味が何倍にも感じられる事が科学的に証明されているようです。


  ≪ 出汁をとった後の活用料理 ≫

  船場生まれのとよこさんによると「始末料理って言うんかな。何でも捨てないように使い切るのが大阪の美徳でっしゃろな」






  ※ 高度経済成長以前は、日本中どこでも食べ物を大切にしてきました。ただ、大阪の場合は、他の地域より美味しく
    食べる為に工夫した料理が多いので、現在でも始末料理と呼ばれるものが残っています。紅しょうがもその一つ。

  天神橋筋商店街 日本一長い商店街 大阪くらしの今昔館 (江戸後期の大阪の街並み 「ごちそうさん」の西門家にそっくりの家もあるそうです。)
  NHK 朝の連続テレビ小説の歴史 1961 (昭和36) 年に放送開始  2014年から始まる朝ドラも大阪と北海道が舞台になります。

  都道府県別塩分摂取量など塩・調味料の雑学 日テレ 月曜から夜ふかし 「関西は薄味というが、関東より塩分を摂っているだろう」という主張を検証してみた件。


  ≪ 昆布店の老舗 こんぶ土居が教える 簡単にできる「出汁の取り方」 ≫  日本各地の水の硬度

  空堀からほり商店街の大阪市中央区谷町7丁目にある創業151年の昆布専門店 「こんぶ土居」の4代目が教える
  簡単な出汁の取り方。
  土居純一さんは、毎月「だしの取り方教室を開催し、著書「土居家のレシピと昆布の話」1620円も出版。






  店で扱っているのは、北海道産の天然真昆布だけ。北海道に何度も足を運び漁を手伝うなどで信頼関係を結び
  南かやべ漁協組合から大漁旗も贈られています。出汁を上手く使う事で減塩につながる。






  昆布は同じ種類の場合は、黒っぽい物よりも昆布本来の茶色っぽい物がオススメ。
  表面に付着している白い粉は旨味成分なので、拭き取らない方がよい。
  ハサミなどて切れ目を入れたりすると雑味が出るので、そのまま使用した方がスッキリとした味わいになる。






  鍋に水 (軟水、大阪などは水道水) 1ℓに、昆布はおよそ10㎝角×1枚 (10~15g) で 最低2時間浸けておくだけでも
  十分旨味 (グルタミン酸) が出る。
  できれば1晩浸けておくのが理想。朝使う場合は前夜の就寝前、夜使う時は朝の出勤前くらいに浸けておけばOK。

  弱火で加熱し、沸騰する前に昆布を引き上げる。沸騰して煮てしまうと雑味が出る。
  合せ出汁にする場合は、火を止めた昆布出汁の鍋に鰹節を10~15g加え、2~3分浸けた後に濾すだけ。

  カツオ節から旨味成分イノシン酸が出るのは約85℃がピークだそうです。

  ㈱くらこん (小倉屋昆布食品、枚方市) 『昆布講座 : だしの取り方』 動画あり、一番だし、二番だしの取り方 
   http://www.kurakon.jp/ency_kombu/10.html
 
 加工昆布の老舗
  朝日新聞 13.09.07 夕刊 『ひびき紀行』 より抜粋、一部再編集 /  テレビ大阪 和風総本家 『大阪下町24時』 12.03.01 放送

  1672 (寛文12) 年、天然昆布の主産地・北海道から海回りで下関を経由し、大阪に至る西廻り航路が完成した。
  北前船によって大量の昆布が大阪にもたらされ、独自の昆布の食文化が開花した。
  天下の台所になった地の利と、職人の技、堺の刃物、そして大阪商人のたまものだった。

  ≪ をぐら屋 と 現代の「名工」を受賞した おぼろ昆布の職人 三田智則さん ≫

  その音で、昆布の質、刃の切れ味、調子の良しあしなど、職人はすべてわかるという。
  舌鼓を打つようなウグイスの「笹鳴き」に たとえられる。

  大阪・ミナミに本店を構える1848 (嘉永元) 年創業の昆布屋「をぐら屋大阪戎橋筋」の
  三田智則さん(78)は、16歳からこの道一筋。手すき おぼろ昆布の第一人者として、
  2004年に「卓越技能章」を厚生労働省から授与された現代の名工だ。

  堺市内の10畳ほどの作業場。三田さんは、酢に浸した昆布の一端を右足で踏み押さえ、
  もう一端を左手で支え、右手に握った包丁で下から上へ一定のリズムで削る。
  手元からひらひらと おぼろが生み出されていく。

  厚さはスーパーに並ぶ一般的な おぼろの3分の1程度で、極薄の約0.1㍉。舌にのせると
  雪のように溶け、熟成の昆布のうまみと甘みが口中に広がる。

  直営店のみで扱う店の最高級ブランド「扇翁」は、上質の北海道天然真昆布を使う。
  「このうまみを生かそうとして、この薄さに たどりついたんです」

  道具は切れ味抜群の堺包丁。明治時代に堺をおぼろの一大産地に押し上げた立役者は、
  今も名工の必需品である。


この画像は、伊勢の酒徳昆布さん






  【細工昆布】さいく-こんぶ … 昆布を加工した食品。とろろこんぶ・おぼろこんぶの類。大阪の名産。

  NHK あさイチ 『JAPAなび 大阪・船場』 14.03.20 放送 / 朝日新聞 13.09.07 夕刊 『ひびき紀行』 より抜粋、一部再編集

  ≪ 小倉屋山本 ≫

  大阪・船場の昆布商に生まれた作家の山崎豊子さん(88)は、デビュー作「暖簾」で、
  戦後の混乱期から時代に翻弄されながらも のれんを守り、家業を発展させて
  いく親子二代の昆布屋の物語を書いた。

  モデルとなった店は、山崎さんの実家で、1848 (嘉永元) 年創業の昆布屋「小倉屋山本」
  (本社・大阪市)。同社の塩ふき昆布「えびすめ」は、しょうゆと調味料を一滴も残さず
  炊きあげ、うまみを閉じ込めた看板商品だ。釜を開けるとしょうゆの香がわき立つ。
  大正時代から百貨店に納め、昆布のブランドを高めた。


  北海道函館の尾札部おさつべ産の極上昆布は100gあたり2200円以上。






  「小倉屋」「をぐら屋」を名乗る昆布屋は関西に34社ある。江戸時代に栄えた「小倉屋」から のれん分けした店々だ
  各店は「をぐら昆布系友会」をつくり、互いに近場に店を出さないといった規約を設け。共栄共存をめざす。

  古来、日本人が愛した昆布のうまみは、21世紀に海外の和食ブームに乗り世界に認められた。「UMAM I」は海外でも使われる。
  欧米のシェフたちが来日し修行する。

  ≪ 松前屋 ≫    毎日放送 水野真紀の魔法のレストラン 『なにわ「食」遺産クイズ』 13.08.26 放送 より

  1912 (明治45) 年創業の加工昆布の老舗 松前屋は心斎橋に本店があります。工場は住吉区。






  昆布を原藻倉庫で3~4年寝かし、23×25㎜、0.8gにカット。黒砂糖を入れて煮た後、75℃で4~5時間乾燥。
  代表商品は『とこわか』という塩昆布。






  近年、昆布の水塩 (15・17・25) 1050~1260円、お鍋で食べられる昆布なども発売。
  水塩というのは、室町時代頃から海水を煮詰めて調味料に利用してきたものの事だそうです。






  これをベースにカツオ節、干しシイタケ、干し貝柱、干しエビ、昆布のエキスなどを加えて商品化。
  野菜やフルーツにスプレーして一味違った味わいを楽しむ事ができる調味料。

  ≪ 酢こんぶ 「都こんぶ」 ≫

  1934 (昭和6) 年創業の中野物産が、昆布を甘く味付けして、おやつとして食べられるという斬新な発想から生まれた。
  創業当時から北海道産高級真昆布を職人の手作業で加工しています。

  小学校の遠足や、子供会から配られる「おやつセット」に必ず入っていた「都こんぶ」。開けると酢の香りが広がります。
  紙のように薄く、1枚1枚剥して食べます。
  個人的には、バス酔いしそうになると、これを食べると気持ちが緩和された思い出があります。
 
 淀川の鯉と鰻
  朝日放送 ニッポン感動体験! ざこば親子の田舎へ行こう3 ~長寿の国・長野の旅~ 13.06.05 放送 より

  ≪ その昔、淀川の鯉が日本で一番うまいと言われていた ≫

  平成2年の市町村生命表 (厚生統計協会 調べ) で、男性の長寿日本一になった長野県の佐久市の名物の一つ。
  佐久鯉は、18世紀から養殖が始まり、市井の人々の身近な食材として親しまれてきました。
  千曲川の冷たい清流で育てられ、成長が遅い分、身が引き締まって美味しいと全国的に有名。






  28万匹ほどの鯉を養殖する飯田養魚所の飯田良輝さんによると、佐久の鯉のルーツの一説として、
  「大阪の淀川の鯉が日本で一番うまいと言われていたので、佐久の鯉が大阪から来たという言い伝えがある」そうです。

  落語家の桂ざこば師匠によると「淀川の鯉という落語があります」

  鯉料理が好物だった細川勝元 室町時代の塵塚物語の「細川勝元と淀鯉料理の事」で淀川の鯉を食べて言ったコメント。

  毎日放送 ちちんぷいぷい 『生中継 大阪・西淀川区 淀川の天然うなぎ』 13.07.17 放送
  日本テレビ 満天☆青空レストラン 『大阪編 「伝統野菜 毛馬きゅうり・淀川 天然うなぎ』 14.07.19 放送

  ≪ 淀川の天然うなぎ、高級店で大人気 ≫

  滋賀県大津市瀬田で琵琶湖から流れ出る瀬田川は、京都府宇治市に入ると宇治川に変わり、伏見区淀付近に至って
  木津川・桂川と合流し淀川になります。

  京都の宇治川の鰻や鰻鮨は、「宇治丸うじまる」と呼ばれ、山城宇治の特産品でした。
  淀川の鰻も室町末期~江戸時代には名産品とされていました。琵琶湖水系の鰻は評価が高かった。

  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』
  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、
  日本各地の名物を描いた絵本。巻の五の瀬田のうなぎの様子が描かれています。






  淀川は大阪の周りの山に森林組合の人たちが植樹をして、森林からの養分が川に流れ込み川はかなりキレイになり、
  上質な鰻も獲れます。
  明治時代からいち早く工業化した大阪は、大和川や道頓堀川の汚さが有名になりましたが、大和川では鮎が、
  道頓堀川でも魚が住んでいる状態まで、近年は急速に水質が改善しています。
  2014年には、江戸時代「名水」と言われた天満天神の天然地下水も復活しました。





  江戸時代から続く、1mほどの筒を沈めておくだけのタンポ漁で捕ります。
  淀川のエビやカニを餌にしており、肉厚で柔らかく、あっさりとした脂がのっているが、臭味なども全くないそうです。
  大阪の有名割烹、有名フレンチやイタリアンでも取り扱う店が増えているとか。






  ちちんぷいぷい 番組で紹介した"淀川産天然うなぎの食べられるお店に関する問い合わせ"
   http://ez.mbs.jp/tv/puipui/info/archives/2013/07/17/53570.shtml


  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『ノゾキミ 新春SP 福袋に目玉商品を 阪神百貨店』 13.01.04 放送
  大阪商工会議所HP 「名庭太郎⼀家の味な一週間」の冊子のPDF http://www.osaka.cci.or.jp/syoku_osaka/food/magazine.html
  大阪市ゆとりとみどり 振興局/ 財団法人 大阪観光コンベンション協会 『大阪食の基礎知識』 
   http://www.osaka-info.jp/ja/taberu/taberu_data/taboo10.html


  ≪ 大阪のマムシ飯 ≫ Wiki 守貞漫稿

  幕末の『守貞漫稿』上巻 第四編生業上「鰻飯
  「鰻飯、京坂にて、まぶし、江戸にて、どんぶりと云ふ。鰻丼飯の略なり」と
  あります。

  しかし、関東の鰻丼と大阪の「まむし」は、実は同じではありません。
  関東では、蒲焼がご飯の上に乗っています。
  一方の「まむし」は、蒲焼がご飯の中にはさまれています。

  江戸時代中期の1713 (正徳3) 年創業の料理屋「柴藤」が、ご飯と
  ご飯の間に鰻を挟んで蒸す料理を考案。


  蒲焼きが温かいご飯の間 (ま) で蒸すから「まむし」といわれたり、あるいは、ご飯が鰻にまぶしてあるので「まぶし」
  といわれたようである。これが評判になり、屋形船で提供していました。

  もちろん今では大阪でも、蒲焼きはご飯の中だけではなく、ご飯の上にものっているのが多いです。

  ウナギの蒲焼き 関西風と関東風の境界線 関東の鰻は泥臭いので蒸すようになった

  ちなみに鰻の蒲焼きが関東発祥とする情報も多数ありますが、各文献で検証した結果、関西発祥の可能性が
  高い事が判明しました。
 
  はも
  NHK Eテレ 美の壺 『 納涼 ! 日本の夏スペシャル 第三回「食」』 11.08.04 放送 / 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 13.07.18 放送
  名古屋テレビ放送 メ~テレ 武士ごはんランキング 江戸VS京都 一生に一度は食べたいSP 発見 ! 和食のルーツ 14.09.07 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『祇園祭の別名"鱧祭り"関西で鱧が愛されているワケ』 18.07.20 放送

  京都・大阪の夏の味覚と言えば鱧。現在も鱧の4割が京都で消費されているそうです。






  京都というのは、長らく海の無い所でした。(本来、「京都」=京都市内のみ)。舞鶴は明治になってから軍港として開かれ、
  京都への物流は大半が大坂経由。
  遠くの地方から上京する際は、船で大坂へ来て、船を乗り換え淀川を遡上するか、陸路で京都に入るのが一般的でした。






  鱧は生命力が強く、海から揚げてもなかなか死にません。(鯉も水から揚げても、新聞紙で包むだけで1日くらい生きて
  いるそうです。) その為、京都では生きたまま届く鱧が重宝されました。






  画像『ハモの落とし』とありますが、『鱧の湯引き』の事です。関西以外では高級魚扱いですが、大阪でも夏になると
  普通にスーパーで売っています。加工済み『湯引き』は、カラシ酢味噌と梅肉ソースが付いて販売されています。






  鱧は主に瀬戸内海で獲れるようで淡路島の福良漁港は国内有数の産地。兵庫県でも鱧に関する祭りが行われています。
  近年、山口県防府市では「天神鱧」というブランドを名物にしています。

  1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』(著者は大坂の医師 寺島良安、出版地は大坂) 巻の五十一 「江海 無鱗魚」の
  「海鰻」 和名「「波無」、俗名「波毛」では、炙って醤油を付けて食べると美味しい事やカマボコにする事などが書かれて
  あります。

  【鱧】 (古名はハム。ハミ(蛇類の総称)と同語源)
   ハモ科の海産の硬骨魚。体形はウナギ形で、全長2メートルに達するものがある。吻はとがり、口は大きく鋭い歯をもつ。
   背部は灰褐色、腹部は銀白色。体は滑らかで鱗がない。青森県以南の沿岸に産し、関西では、はも料理の材料として珍重。
   北日本では、アナゴのことを鱧というそうです。
 大阪のかまぼこ

  カマボコと天ぷらのページを新設しましたので、大阪のカマボコや天ぷらはこちらのページに移動しました。
  カマボコの歴史では蒸しカマボコが通説の100年以上前にあった事を当サイトが江戸時代中期の本のレシピで発見。

関西の焼きかまぼこ

大阪は高級素材を使う
江戸時代料理本集成

堺市の田村商店 あんぺい


 
 紅しょうが
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『大阪府民の熱愛グルメ』 13.10.24 放送
  NHK・大阪 えぇトコ 『"一日泉州"冬の旅 ~ 大阪 泉南地域 海の恵み ~』 14.02.28 放送
  NHK 英国一家、日本を食べる 『第2話 「最高の天ぷら」』 15.04.22 放送
  関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『みんなのギモン? 「なぜ関西人に愛される? 紅しょうが」』 16.05.20 放送

  ≪ 大阪の紅ショウガ文化 いつから食べられているか? ≫  Wiki 紅しょうが

  関西の食文化を研究している『飴の豊下製菓』(2016年で創業144年) の豊下正良 社長によると、
  紅ショウガがいつから食べられていたかは文献がなく、はっきりした事は分からない。梅を漬け終った時期にちょうど
  新生姜 (収穫期5月~7月頃)が出回る時期だったりする。『始末の大阪人』としては『使い切る』という文化があり、梅酢に
  ショウガを漬けた。

  1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』編者は大坂の御城入り医師の寺島良安、版元および出版地は大坂。
  第105醸造類」の「酢」に梅酢が書かれており、6月に梅干を作り、その梅汁を薬用に用いるような事が書かれて
  あるので、単純に勿体ないから捨てずに使う『始末』という意味だけではなく、薬効がある生姜と合わせる事で
  薬または健康保持として食べられ始めたのかも知れません。


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) の上巻「
  この書は、他の文献 (上方で書かれた物) や、聞き書きに、独自の記述を加えて編集出版されたもののようです。

  氷塩取様 梅の塩押して 水供にはちに入 箸にて打返し打返し 日に干 五六日干せば水の中 鉢のふちにも
  梅にも 四角に水塩出来申候 其時 梅は取上げ かはかして梅干にして 右の水は壺に入置
  しその葉をもみ付て置けば 大根 竹子 何にても皿へ入 一夜漬置ば 夏の梅漬のごとく四季に出来る
  此酢にて紅粉をとき 大根 れん根などに付れば 忽 梅漬出来るなり

  梅酢を再利用した一夜漬の漬物の記述と思われます。大根や竹の子、レンコンが書かれています。
  また同書の「漬物の法」にも「梅干水」にも同様の利用法が書かれてあります。


 1749年 (寛延2) 刊の地方の料理を集めた本『料理山海郷』(京都の園趣堂主人、京都で出版)
  巻の四に「梅酢」の利用法が書かれてありますが、具体的に生姜などを漬ける事は書かれていません。


 1783(天明3) 年初出版のと『豆腐百珍続編』(著者は大坂の曽谷学川と推測されている)
 その写本出版 (著者ペンネームは浪華 酔狂道人、年代不明ですが江戸時代に出版された版) には、
 四十五 とうふ鮓のレシピの中に…梅醋むめず漬の姜 さん椒と…という文を発見しました。


 幕末の『守貞謾稿』の巻之六、生業の条の「上方の箱すし」の記述には
  …京坂にて、方4寸 (12cm) 許ばかりの箱の押しずしのみ。 一箱48文は鳥貝のすし也。
  叉、杮ずしと言うは鶏卵やき、鮑、鯛と並みんなに薄片にて飯上に置くを言う。 飯中椎茸と独活うどを入る。
  京坂の鮨普通以上三品を専もっぱらとす。 亦またも、異製をなす店も稀に有之。
  また、鮨には梅酢漬の生姜一種を添える。 赤き故に紅生姜と言う。 

  とありますので、少なくとも江戸時代後期以前から食べられていた事が分かります。

  豆腐百珍にある大坂発祥の豆腐メニュー34種   おから 大坂では「雪花菜きらず」 京都では「卯の花」?
  米が原料の煎餅も関西が先だった レシピ原文発見!! こちらも2018年3月現在、当サイトのみの情報







  みじん切り、細切り、スライス、丸のままの4種類の紅ショウガが売っている店もありますが、全てのスーパーでも揃っている
  わけではありません。

  紅ショウガをスライスして衣をつけて揚げた天ぷらはスーパーの天ぷらコーナーでは大抵見かけますし、
  天ぷらセットの中にも入っています。また魚のすり身の天ぷらにも入っています。
  出し巻に紅ショウガを入れるのは、卵焼きのバリエーションの一つに過ぎず、必ず入れているわけではありません。
  (家庭による)


  ≪ 大阪で紅ショウガの天ぷら・串カツがよく食べられる理由 ≫

  辻調 エコール辻 大阪 日本料理教授 大引伸昭さんによると
  大阪には『始末の心』という言葉がありまして、梅干しを漬けた後の梅酢に生姜を
   漬けたのが紅ショウガの始まりとも言われています。
   これは、無駄を出したくない大阪府民の性質に非常に合った食材ではないかと
   思います。
   紅ショウガは非常にソースに合う食材でして、紅ショウガの持つ酸味、辛みが非常に
   マッチしまして、府民にとっては身近な食材であり、 広く愛されるようになった食材と
   思われます。



  ≪ 紅しょうがの天ぷらはいつから食べられているのか? ≫

  日本経済新聞2013年7月31日の夕刊に載っている『紅ショウガの天ぷらを食べますか?』の調査によると、
  大阪・奈良・和歌山60~79%、兵庫・京都・滋賀20~39%、他県は20%未満という結果。

  大正~昭和初期の大阪を描いた織田作之助 作の夫婦善哉 (昭和15年に初掲載) には
   「路地の入口で、紅生姜、スルメ、鰯など一銭天麩羅を揚げて商っている…」という記述があります。

  【織田作之助】おだ‐さくのすけ (大阪市生れ、1913~1947)  Wiki 夫婦善哉 (小説)
   小説家。大阪庶民の風俗を描いた「夫婦善哉めおとぜんざい 」で認められ、戦後、私小説を否定して「可能性の文学」を
   唱道。作「土曜夫人」「世相」など。






  夫婦善哉の舞台となったのは大阪市中央区難波の法善寺横丁。

  昭和2年に創業した天ぷら・鯛めしの専門店『与太呂』(中央区高麗橋に本店) の3代目 高畠昌嗣さんによると、
  「紅生姜ですか? 私どもは扱っていないので…庶民的な食べ物だから、分かりづらいかも知れない」との事。

  『大阪の台所』として有名な中央区日本橋の黒門市場にある天ぷらの惣菜店『日進堂』では、創業時 (昭和45年頃) から
  紅ショウガの天ぷらを販売していますが、いつから食べられているかは不明との事。

  江戸の天ぷら 「天ぷら」と名付けたのは山東京伝? 江戸の天ぷらは大坂人が始めた?  Wiki 天ぷら  Wiki 梅干し  Wiki 銭

  明治期に東京の魚の天ぷらが大阪に伝わり、関西の野菜の天ぷらを塩で食べるスタイルが東京に伝わったとされています。
  他の日本各地に江戸前天ぷらが伝わったのは、にぎり鮨と同様に、関東大震災後に東京の職人が各地に移り住んだ事から。

  天ぷらの歴史は古いですが、庶民が食べられるようになったのは江戸時代末期と思われます。
  個人的には、色んな食の情報を総合すると、紅ショウガの天ぷらが食べられるようになったのは、明治中期頃ではないかと。


  ≪ 東京にある『紅ショウガ』を売る天ぷら屋 ≫

  東京・荒川区の『ジョイフル三の輪』という商店街にある『お惣菜の店 きく』では、『【都電名物】紅しょうがの天ぷら』の
  幟を立てて販売。
  常連の関西出身のおばあさんが「紅ショウガの天ぷらないの? 関西では食べるよ」と言ったのがきっかけで始めたそうです。






  大阪のスライスした物とは違い、東京では薄切りの紅ショウガが無いので、刻み紅ショウガの天ぷら (かき揚げ) になっています。
  1枚90円で、最も売れている天ぷらだそうです。

  最近は東京のうどん店でも紅ショウガのかき揚げを置いている店が増えつつあるようです。


  テレビ大阪 大阪人の新常識 OSAKA・LOVER 『黒門市場』 18.09.15 放送

  ≪ 黒門市場では外国人に人気 ≫

  1970(昭和45)年創業の『日進堂』によると、欧米人にとって紅ショウガはピクルスと似た感じと捉えているらしく、紅ショウガの
  天ぷらには抵抗がなく「美味しい」と評判が上々のようです。紅ショウガの天ぷら1枚100円。
  ここの店の「イカげそ」は藤山寛美のお気に入りで、東京公演がある時でも付き人に買いに来させていたそうです。
  その場合、イカげそだけではなく販売中の他の天ぷらも全て買い占めていたそうです。
 
 京都の「おばんざい」は、とっくの昔に廃れていた言葉 復活したのは約50年前から 
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 13.07.18 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『走れ! ギモン調査部 「実は謎が多い"おばんざい"、"おかず"とどう違う?」』 18.02.16 放送

  ≪ 「ばんざい」は主に江戸末期だけで使われていた言葉 ≫

  京都の「御番菜」と言えば、観光客中心に京都の小ぶりな上品な"おかず"のイメージを持っているようです。
  現在の京都でも「御番菜」という言葉はほぼ使われず、70歳代の高齢者でも「おかず」と言うのが普通。
  主に近年に始めた観光客向けの飲食店だけが使っている言葉になっています。

  幕末頃の大阪でも使っていた言葉ですが、京都でも大阪でもすぐに廃れて使われなくなったと思われますが、「おばんざい」と
  「おかず」の違いが分かる人は極々わずかのようです。

  江戸時代末期の1849 (嘉永2) 年刊『年中番菜録』が、現在判明している初出の文献。
  「番菜ハ日用乃…」と書かれてあります。

  守貞漫稿 (喜田川守貞著。30巻、後編4巻。の随筆。江戸時代末期の 1853年(嘉永6)頃
  一応完成、後加筆あり) 「平日の菜を京阪にて番菜と云、江戸にて惣ざいと云

  【御数】おかず
   (もと、女房詞。数を取りあわせる意から) 飯の菜さい。副食物。〈1603年日葡辞書〉


  【女房詞】にょうぼう-ことば
   室町初期ごろから、宮中奉仕の女官たちが主に衣食住に関する事物について用いた一種の隠語的なことば。
   のち将軍家に仕える女性から、町家の女性まで広がった。飯を「おだい」、肴を「こん」、鯉を「こもじ」、団子を「いしいし」、
   浴衣を「ゆもじ」という類。

  【番菜】ばん‐ざい を丁寧に言ったのが 御番菜
   ふだんの日の食事の副食物。おかず。おばんざい。関東の惣菜に対して、主に京阪地方でいう。

  【総菜・惣菜】そうざい
   日々の食事の副食物。飯のおかず。菜の物。
   誹風柳多留[6](1765~1840年刊、167冊の川柳集、江戸で出版)―は あらめと禿かむろ口ばしり」。

  ※上記の「あらめ」とは、「荒布あらめ」という食用昆布を出し汁と砂糖・醤油で煮た「荒めのふくめ」という煮物と思われます。
    「禿」は幼児または遊女見習いの事。


  ≪ 「おばんざい」は50年前に復活、元々質素な"おかず"を表した言葉 ≫

  1964 (昭和39) 年1月4日付の朝日新聞で『おばんざい』という連載 (1965年まで) が始まりました。
  京都出身の随筆家である大村しげさんが「始末の知恵」として京都のおかずを紹介したものでした。
  当時、京都ブームがあった事から全国的に言葉が知られるようになり、いつの間にか上品なイメージの観光名物となって
  いきました。

  京都大学おばんざい研究会の代表を務める「おばんざい研究第一人者」と言われる藤掛進さんの考えでは、
  "おばんざい"という言葉を世に出したのが大村しげさん。"番"は"粗末"という意味があり、粗末なおかずを食べている人に
  お金持ちはいない。"おかず"は"数がたくさん"という事なのでお金持ちで地位が高い人が使う言葉。その為、死語になった。
  御番菜の精神的な支柱は「始末」、質素に暮らして家庭を守りながら、旦那さんを立てたのが京女なので、京女の意地や
  誇りが御番菜の中にある。そうです。






  2005年11月17日付の読売新聞 京都版には『ブッシュ大統領入洛』 洛=都。の見出しが付いていたそうです。
   ※ 法律的には、日本の首都の定めがない為、東京は首都代行機能都市という解釈も可能です。
     但し、長らくの慣例において皇居のある場所が首都という認識が常識です。

  ちりめん山椒 ちりめんじゃこ+醤油、酒、みりん+山椒 (平成22年、京都は収獲量3位) のご飯の友。
   大阪でもスーパーで売っています。← これは美味しいのでオススメです。

  明治時代の京都博覧会 祇園の中村楼が外国人に提供した 京都初の本格的フランス料理
 
 大阪 飴ちゃん文化 と チンドン屋 (広告業の元祖)
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『京都の怖~い地名サスペンス』 11.11.19 放送
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『食の方言を探れ!  関西 食べ物ミステリー』 13.08.01 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『カラクリSP おいしすぎる! 3大ロングセラー商品』 13.10.04 放送 など より
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ~小京都めぐり10 三重「伊賀上野の城下町」~』 2014.01.02 総集編放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「京都・東山 "子育て幽霊伝説" その真相に迫る !』 14.07.23 放送

  alic 独立行政法人 農畜産業振興機構 『飴と砂糖の話』 http://sugar.alic.go.jp/japan/view/jv_9912b.htm 





  【飴】たがね
   (握り堅める意)「あめ」の古名。「」「」とも書く。一説に、餅日本書紀の神武紀水無しに たがね を造るべし

  元々、飴と言えば『水あめ』で薬や神様へのお供え物として造られていたようです。
  正倉院に収蔵されている古文書に阿米 あめ という記載があり、飴を意味していると考えられています。
  この事から8世紀前半には日本で飴が作られていた事が分かります。

  平安時代には既に、飴が市販されていたことを示す記録があります。調味料として使用されていたようです。

  室町時代に入ると飴の行商が始まり、糖粽とうそう(飴色をした、もち米のちまき)や地黄煎ぢおうせん(地黄の根や茎を加えた飴
  売られていたようです。

  室町時代末期 (いわゆる戦国時代1467~1568年頃)、外国との貿易を行っていた堺に水あめの原料となる米、
  麦、南蛮貿易で砂糖が集まり飴作りが盛んになりました。

  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』
  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、
  日本各地の名物を描いた絵本。巻の三には、天王寺平野町の根本平野飴作りの様子が描かれています。
  2~3回捩じった棒状の飴が書かれてあります。


 1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』(著者は大坂の医師 寺島良安、出版地は大坂) 巻の百五 「造醸」の「
  (モヤシ)諸米熬煎而成 古人寒食多食

  「熬煎こうせん … 火にかけてこがす。水を入れずに強火でいる。」「 … もろもろ。多くの」

  飴はたくさんの米と麦のモヤシか穀物の芽と一緒にして焦がすように煮て造る。昔の人は寒食の日によく食べた。

  【寒食】かん-しょく
   中国で、冬至の後105日目の日は、風雨が激しいとして、火の使用を禁じて冷食した古俗。一説に、焼死した介之推
   かいしすいをあわれんで、忌日に火を禁じて冷食したことからという。転じて、冬至後105日目の日。

  続いて、飴の病気に対する効能や詳しい製造法が書かれ、水飴は軟膏薬として使われたような事が書かれてあります。

  摂津の平野、山城の伏見が有名で大坂で多く造る。豊前 (福岡&大分) の小倉 (北九州市) の膠飴は琥珀色に似ている。
  出羽の庄内 (山形県) と豊前の小倉、肥前の唐津 (佐賀県) では、少し粘る白色の半生の飴を多く作る。
  飴の糟は貧しい人が食べる。というような事が書かれてあります。

  【膠飴】こう-い  にかわ
   蒸した米を麦芽で糖化した飴。漢方で虚弱を補い、気力を益す効がある。少建中湯・大建中湯などに配合する。


  江戸時代の幕末『守貞謾稿』 下巻 第二十八編 食類「水飴

  みづあめ 滑飴也 世事談云 南都春日の社家 正月糕を練り堂 上方又は地下に送る 是滑飴と云 水飴也
   今世 水飴堅飴とも越の高田に精製し、又相の浦賀の製 之に次ぐ ともに往々江戸に送る

  【地下】じ-げ
   ① 清涼殿に昇殿を許されない官人、または家格。一般には六位以下。  新潟県にある現存する日本一古い? 飴屋 粟飴
   ② 宮中に仕える者以外の人々の称。一般農民や庶民を差す。
   ③ 土着の人。〈日葡辞書〉

  【地下町】じげ-ちょう … 各神社の、氏子の住んでいる町。

  世事談によると、正月に奈良の春日神社のお堂で作った水飴は「滑飴」と言い、上方と地元の氏子に送られた。
  現在は、水飴も固形飴も新潟件南西部の上越市南部の旧高田市で作り、神奈川県浦賀市で作った物が時々
  江戸に送られてくる。

  「世事談=1734 (享保19) 年刊 『本朝世事談綺』菊岡沾凉 (表具師・俳人、伊賀上野生まれ、江戸神田在住)」
   Wiki 菊岡沾凉  コトバンク 「菊岡沾凉」


  飴の製造は、うるち米を砕いて煮つめ、麦芽を加えて冷湯に入れ、混ぜ合わせてデンプンを糖化させ、
  そしてこれをもう一度沸騰させ、布で濾して作る方法になりました。

  堺船と砂糖 南蛮貿易で実績。 江戸時代には、輸入品を長崎から堺や大坂に運ぶ独占的な権利を与えらました。


  ≪ 三重県の「じょうせん飴」 ≫

  戦国時代には、伊賀忍者たちは飴売りに変装し、各地の情勢を探っていたとも言われています。

  安土・桃山時代1568(永禄11)~1600(慶長5)年頃に朝鮮半島から伝わったとされる「じょうせん飴」。
  「ちょうせん」が訛って「じょうせん」に変化。
  現在は三重県伊賀上野の森内栄甘堂 (昭和22年創業) だけが残っており、手づくりしているそうです。






  砂糖は使用せず、麦芽水飴だけが原料。これを80℃以上に温め固まり始めると、壁に取り付けられた木のフックに
  巻き付け、温かいうちに伸ばしながら回転させます。そうする事で、飴の中に空気が含まれ白い色に変化。
  型貫きで一口大に切り分ければ完成。素朴な甘さ。


  ≪ 熊本県の「朝鮮飴」 ≫ ちょうせん‐あめ

  糯米もちごめ粉を煮て糊状にし水飴・砂糖を加えて凝固させた飴菓子。熊本県の名産
  天正(1573~1592)年間に長生ちょうせいの名で作られ、のちに文禄の役で
  加藤清正が戦場に携行したという。


  江戸時代、砂糖が一部で使われるようになってくると、水飴にこれらを加えた加工飴が
  製造されるようになりました。
  求肥 ぎゅうひ 飴、翁 おきな 飴、有平糖 あるへいとう (現在の、ベッコウ飴などの、いわゆる
   あめ玉の直接の原型は、この有平糖にあたります)などが有名。


  黒砂糖を使用した加工飴としては、黒糖飴があります。水飴に黒砂糖を加え、炊き上げ練り固めたものです。
  さらに気泡を入れるなどの加工をしたものには、「どんぐり飴」、「茶玉」などと呼ばれるものがあります。
  黒砂糖系の飴は、製造に長年の熟練と勘を必要とするため、一般的に大量生産には不向きといわれています。






  固形の飴が登場し、「ブランド」飴が出現するようになりました。
  京都・東福寺門前の「菊一文字屋」、大阪の「平野あめ」が有名どころで、これが江戸に伝わり「下りあめ」と称される
  ようになりました。


  ≪ 千歳飴ちとせ-あめは江戸発祥 ≫

  江戸や日本各地に伝わった飴は、庶民の甘味料として定着するとともに、それぞれ独自の発展を遂げました。

  【千年飴】せんねん-あめ
   現今の千歳飴。江戸の風俗として、子供が初めて宮参りする時、必ずこれを買い、親戚・知己ちき (親友や知人) に配った。
   元禄・宝永 (1688~1744) の頃、浅草の飴売七兵衛の命名に基づくという。

  【阿万が飴】おまん-が-あめ 広辞苑
   天保 (1830~1844) の頃、江戸市中に流行した飴売りで、女の身ぶり声色こわいろをつかって呼び売りをしたもの。

  飴の種類も増え、縁日などでも細工飴が売られるようになりました。
  また江戸だけではなく、大坂・京都から日本各地に飴が伝わり、それぞれ独自な飴が作られました。


  ≪ 現存する最古の飴屋 京都の「幽霊 子育飴」 ≫  朝日新聞 14.08.13 夕刊 『関西遺産 「幽霊子育飴」』  などより

  幽霊が飴で子育てしたという伝説は下の画像の地域で語られているそうです。
  長崎市の光源寺には下の「産女うぶめの幽霊」の絵が残っています。大阪では堺市に伝説があるそうです。

  医療技術が発達していなかった江戸時代もお産は母体の生死がかかるほど大変な事。
  妊婦さんが亡くなり土葬されますが、その棺桶の中でまだ生きていたお腹の子供が生まれるという事があったようです。






  他とは違い京都の子育て幽霊伝説には実話の根拠となる物がいくつか現存しています。 

  江戸時代初めの慶長年間、たいそう美味しいと評判の飴を売る店が京都の東山にありました。
  ある夜更け、飴屋の主人が片付けをしていると、戸を叩く人影が見えます。扉を開けると、一人の若い女が
  「飴をください」と言います。
  赤ちゃんの夜泣きをあやす為に飴を買いに来たと思った飴屋は、女が差し出す一文銭を受け取り飴を売ってやりました。

  その日から毎日、夜更けになると女が飴を買いに来ます。
  7日目の晩の事、受け取った一文銭をふと見ると葉っぱに変わっています。
  飴屋は怪しんで女の後をこっそり尾行しました。辿り着いた場所は墓地。ある真新しい墓の前で女は消えましたが、
  赤子の声が聞こえる。

  飴屋は急いで寺の和尚を起こし、墓を掘り起こす事にしました。
  棺桶を開けると、飴の棒を咥えた赤子が葬られた女に抱かれていたのです。
  三途の川の渡し賃として六文を首にかけて埋葬する習慣があり、7日目は銭がなくなり、墓前に供えられたシキミの
  葉を一文銭に変えて買いに来たのだろう。という事になっています。

  しかし、この話は中国に似たような話があり、それが日本に伝わったものだと推測されています。  Wiki 子育て幽霊






  この赤ちゃんは、飴を売った「みなとや」で育てられた後、8才で出家して修行を積み、上京区の本山 立本寺
  (飴を買いに来た女の墓がある) の第20世貫首 霊鷲院 日審にっしん上人(1599-1666) となりました。

  壺のように見える上人の花押かおうは、「壺日審」と呼ばれ、自分が生まれた棺桶 (骨壺のイメージ) を表したものではないか?
   とも言われています。
  説法を2万余座も行い、受法者 (弟子や檀家) 9万余人も集め、10万幅の曼荼羅 (いまでも西日本を中心に発見されて
  いるという) を書き残した歴史的な高僧として称えられています。伏見区の霊光寺に上人の墓があります。






  「みなとや幽霊子育飴本舗」は東山区轆轤町にあります。創業から約500年、20代目の段塚きみ子さんが店主。
  日本で最も古い飴屋と言われています。素朴な味の飴は、麦芽糖9割・砂糖1割の配合で400年前の飴とあまり変わらない。
  出産祝いや、出世飴として買い求められ、新婚旅行で京都を訪れる台湾人にも人気なんだそうです。

  新潟県にある現存する日本一古い? 飴屋 粟飴

  みなとや幽霊子育飴本舗 HP http://kosodateame.com/

  「1000年の都」として優雅で煌びやかな文化がある京都ですが、その反面、平安時代から魑魅魍魎が跋扈する土地
  でもあり、京都には恐ろしい地名が現在にも数多く残されています。






  鴨川の西側の京極通りまでが都、京極=京の極み。鴨川は処刑場、その東側は魔界。髑髏どくろ町は死体の埋葬地で、
  明治時代に轆轤ろくろ町に改名されました。
  御所より北側の「千本通り」は船岡山近くが死者の埋葬地であったため、その通り道に死者をとむらう木札が立てられた事から。
  西側は西京極までが京。「西院さい」は「賽さいの河原」があった場所と言われています。
  他にも「蹴上」「紫野」「赤池」「血洗町」など。

  NEVERまとめ 『日本全国怖い地名』 http://matome.naver.jp/odai/2126585687724028101

  【唐人飴】とうじん-あめ
   ① もち米に大麦の萌芽を入れて作った飴。
   ② 文政 (1818~1830) の頃、唐人の衣裳をつけ、唐人笛を吹いて唄ったり踊ったりして商売した飴売り。

  国会国立図書館デジタルコレクション 『絵本御伽品鏡』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2534308
   
  1739 (元文4) 年刊の絵本御伽品鏡 (画:長谷川光信、出版:千草屋新右衛門) 3巻がネット公開されています。
  大坂の風俗を描いたもので、「今宮戎」「亥の子餅屋」「天満の飴売り」などの絵を見る事ができます。


  ≪ 江戸時代末期 ちんどん屋 (広告代理店の元祖) 大阪の飴勝 ≫

  1845(弘化2)年、大坂・千日前で飴売りをしていた飴勝の声の良さが評判になり、寄席などの宣伝を請け負うようになった。
  その宣伝と共に、飴を配るサービスを始めました。
   (大阪のおばちゃんが飴を配る文化のルーツ、「大阪では飴は配るもの」という位置づけに)






  大阪では飴文化が庶民の身近な存在になり、現在でも味覚糖、ノーベル製菓、黄金糖、パイン飴など20社ほどの
  飴専門会社があります。
  飴を配ることで会話のきっかけを作るなど、手軽なコミュニケーション ツールとして使用され、親しみを込めて
  「飴ちゃん」と呼ぶようになりました。





  【ちんどん屋】
   人目につきやすい服装をし、太鼓・三味線・鉦かね ・らっぱ・クラリネットなどを鳴らしながら、大道で広告・宣伝をする人。
   関西では「東西屋とうざいや」(口上の初めに「東西東西」と言うところから)、「広目屋ひろめや」=(「披露目」は当て字。
   ひろく知らせること。披露。宣伝。「開店のおひろめをする」)と言った。

  【じんた】
   大正の頃、サーカス・映画館の客寄せや宣伝などに、通俗的な楽曲を演奏した少人数の吹奏楽隊とその吹奏楽の俗称。

  【飴勝】 Wiki チンドン屋 などより

  大阪、松屋町の寄席では、題目や講釈師の名を書いた紙を御番所と呼ばれる入り口
  部分に張って宣伝をしていた。
  しかし、貼り紙は町奉行に禁止され、客数が減少した。そこで、飴勝が街頭で寄席の
  宣伝を行った。

  飴勝は、大坂・千日前の法善寺を拠点として、弘化期から活動していた飴売で、
  その口上の見事さから寄席の宣伝を請け負うようになった
  この商売が、日本の広告代理業の始まりとされる。

  短い法被に大きな笠脚袢にわらじという出立で、竹製の鳴物、拍子木を用い、
  「今日は松屋町の何々亭…」と呼び込みを行ったとされる
  飴勝の仕事を引き継いだ勇亀(いさみかめ)が、明治10年代に芝居の口上である
  「東西、東西(トザイ、トーザイ)」を用いて寄席の宣伝をを行っていたことから、
  1880-81年頃に東西屋と呼ばれるようになった。

  【飴宝引】あめ‐ほうびき 江戸時代、子供相手に飴を景品にして行なった福引。

  【飴の餅】
   遠江 とおとうみ (静岡県西南部) の小夜の中山で売った、水飴でくるんだ餅。
   東海道中膝栗毛には「ここは名に負ふ飴の餅の名物にて




  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『カラクリSP おいしすぎる! 3大ロングセラー商品』 13.10.04 放送  /  Wiki パイン(企業)

  ≪ パイン飴 ≫

  現在 天王寺区に本社があるパイン㈱は1948年(昭和23)に上田保夫が創業。






  当時、パイナップルの缶詰は非常に高価なもので憧れの品。
  1951年、憧れのパイナップルの味を多くの人に楽しんでもらおうと飴を開発し発売。






  外観もパインの輪切りのようにする為、真中に穴を開ける事を考えましたが、飴は割れやすいので非常に難しかったそうです。
  この形がオンリーワンとなり、現在でも長く愛されるロングセラー商品となっています。







  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『利休を訪ねて ~ひと味違う堺を再発見旅~』 13.12.07 放送 / Wiki 金平糖
  テレビ大阪 夕刊7ch 『伝統 色鮮やかなコンペイトウ 大阪ゆかりの御菓子』 14.11.10 放送

  ≪ 大阪の金平糖専門店 コンペイトウ ミュージアム ≫

  1569年、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが織田信長に『コンフェイト』を献上したのが最初とされています。
  江戸時代に大坂でのみ製造していましたが、1800年代の文政年間に江戸に店を出し、幕末頃らは各地で作られたそうです。


 1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』(著者は大坂の医師 寺島良安、出版地は大坂) 巻の百五 「造醸」の「糖花
  こんぺいとう」には、金平糖の作り方が白砂糖で卵型に製する方法と、胡麻を種にして糖衣させイボ状につくる方法の
  2つが書かれていると思います。

  糖花造法用大白沙糖前法 …胡麻毎一粒生細く肬潔白也 長崎最能クス
  京師坂陽ニモ亦作之 稍劣レリ 「」← 訳さない置き字。

  長崎では (後の作り方の方の) 金平糖を最もよく作る。また京都、坂陽 (大阪?) でもこれを作る。やや劣っている。

  ※ 坂陽の訳が難しい。坂=大坂を表しますが、坂陽と表す事は見たことがありません。
  【陽】 … 日に向かっている方。日の当たっている側。山の南面の地。 
  【坂西】ばんせい、ばんざい … 関東の坂東に対する関西の異称。

  ネットで調べると、中之島高速鉄道の中之島駅に秋山喜久氏(関 西電力相談役、関西広域機構会長)が撰し、黄檗山萬福寺
  文華殿黄檗文化研究所 主任の田中智誠和尚の監修した「坂陽日日新」と刻まれたモニュメントを2008 (平成8) 年に設置して
  いる事だけが出てきました。

  種有小鈴(コリン)ト云糖花而中空(ウトロ) 味稍劣レリ  「=しかも」

  種が有る小鈴糖こりんとうという、糖花 (金平糖) に似た物は中が空洞で味がやや劣る。


  江戸時代の幕末『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類「金米糖」

  金平糖は金米糖と書く砂糖に小麦葛を交へ練り芥子を種として銅鍋を以て漸ようやく大とし製す 大略一人一日拾斤を
   製すを常とす 精粗あり大小あり 大坂にてのみ之を製しが、文政以来 江戸に一、二戸 之を製する店を開き
   近年は諸所に之在り 圑にして外面委く角あり 角を「いら」と云也

  【金平糖】 コンペイトー、confeito ポルトガル語
   諸説あるが、1546年(天文15年)にカステラ・有平糖などとともに南蛮菓子としてポルトガルから伝えられたとされる。
   (「金米糖」「金平糖」と当てる)菓子の名。
   氷砂糖を水に溶かして煮詰め小麦粉を加えたものに、炒った芥子けしや胡麻などを種に入れ、
   かきまわしながら加熱して製する。周囲に細かいいぼ状の突起がある。
   皇室の引出物として利用されている。湿気さえ気を付ければ20-30年経っても味が変わらないとさえいわれている。
   (ただし伝統的製法に拠る物のみで、一般には賞味期限は砂糖と同じく3年である)。

  上記の情報から推測するに、最上の金平糖は砂糖のみ使用し中がぎっしり固く詰まったもの。(現在の金平糖と同じ)
  これは江戸時代中期では大坂で作られていた可能性が高いです。

  長崎や幕末に各地で作られた物は金平糖の中心になる種として胡麻や芥子など使い、その種に糖衣させていく物。
  小鈴糖は種を使うが、砂糖の糖衣がきっちり詰まっていない (鈴のような構造の) 糖菓子だと思います。







  八尾市にある昭和15年創業の大阪糖菓 ㈱の野村卓 社長によると
   日本で作られたのは、明治時代 大阪の商人の村上辰三郎が金平糖の釜を製造し明治36年に特許を取得。
   明治40年、砂糖商の三谷為助が大阪市西区で20台の釜で大量製造を開始。日本の金平糖の発祥は大阪
   昭和30年代に大阪には40軒ほどの金平糖関連の会社がありましたが、手間がかかり後継者不足から金平糖の
   製造会社は2014年には日本で約10軒 (うち大阪に5軒) にまで減りました。






  金平糖は1日に1㎜ずつ大きくしていき、角がある完成品まで2週間ほどかかるそうです。

  大阪糖菓 ㈱が「コンペイトウ ミュージアム」という店を八尾、堺、福岡で展開しています。
  こちらでは、社長を筆頭に社員が総出で金平糖についての知識を教えてくれたり、子供たちでも自分の金平糖つくる
  体験ができます。

  詳しくは コンペイトウ ミュージアム http://www.konpeitou.jp/  要予約 堺1000円、八尾1200円。(2014年11月現在)





 
 
 関西の味 ひやしあめ
  日本経済新聞 大阪夕刊 『いまドキ関西』 12.09.12 / 12.09.15 配信
   http://www.nikkei.com/article/DGXBZO46095330T10C12A9AA2P00/

  ≪ 関西の夏の定番飲料「ひやしあめ」 関東になぜない? ≫

 夏から秋にかけ関西のあちこちで見かけるのが「ひやしあめ」だ。
  水あめの甘さとショウガの効いた爽やかな風味が楽しめる飲み物で
  暑い日にはもってこい。だが、その存在は関西と中国・四国の一部以外
  ではあまり知られていない。なぜか。

 ■ 誕生の裏に製氷技術

  そもそも、ひやしあめはいつ誕生したのだろう。甘味類の歴史に詳しい
  老舗菓子メーカー、豊下製菓(大阪市)の豊下正良社長を訪ねると
  「製氷技術が広まった明治以降と推定されます」と話してくれた。

  ひやしあめは湯で溶いた水あめにショウガの搾り汁を加えた「あめゆ」を、
  文字通り冷やしたものだ。

  あめゆがいつごろから飲まれていたかは不明だが、江戸時代末期に
  出版された当時のグルメガイド「花の下影」には心斎橋のたもとにあった
  あめゆ屋台が描かれている。

  当時は甘酒と共に、暑気払いの滋養飲料として飲まれていたあめゆが、
  氷の普及で冷やして飲まれるようになり、ひやしあめに変化。
  ラムネやミルクセーキなどと並ぶ甘い飲み物として定着した。

  高度成長期に缶入りのジュースが登場するまでは、身近な清涼飲料水
  として親しまれてきたという。




 ■ 関東への販促活動はなし

  次に現在の販売動向を知ろうと、缶入りのひやしあめを自動販売機に並べている、日本サンガリア ベバレッジ
  カンパニー(大阪市)に向かった。

  同社の缶入りひやしあめは40年近い歴史を誇るロングセラーで、スーパーなど量販店にも出荷している。
  今でも月に約1万ケース(1ケースは30本)が売れており人気に陰りは見えない。

  同社の横井勝美研究所長によると販売エリアは、東は岐阜の関ケ原、西は広島あたりまで。
  「関東などへの販促活動はほとんどしたことがない」




  しかし、なぜ他地域では知名度が低いのか。

■ 空襲によって姿を消す?

 「大正時代までは関東や東海地方でも飲まれていたようですが、太平洋戦争で
 ほとんどの製造業者が姿を消したと聞いています」――。
 こう切り出すのは、岩井製菓(京都府宇治市)の岩井正和社長。

 「空襲で廃業が相次いだのでは……」と推測。その一方、空襲被害が軽かった
 京都や奈良で生産が続けられ、関西中心のひやしあめ文化ができたと考える。

 甘味文化の浸透度合いも影響したようだ。かつて都があった畿内では、麦芽
 由来の水あめやツル植物の汁を煮詰めた甘葛(あまづら)が宮廷内で
 振る舞われていた。その存在が徐々に庶民に伝わり、柔らかな甘みを好む
 土壌ができたとされる。

 チョコレートや炭酸飲料、ケーキ……。
 戦後の日本は砂糖をふんだんに使った「強烈な甘み」が席巻した。
 ショウガが効いた独特の味わいが生き残れたのは関西ならではかもしれない。

 ■ 創業当時から製法変わらず

  60年以上ひやしあめを作ってきた京都マルキ商店(京都市)では水あめに、様々な糖類をブレンドしている。
  創業当時から製法は変えておらず「中高年世代を中心に“この味や”と喜んでくれはるお客さんが多い」という。

  関西の蒸し暑い夏につかの間の涼を提供するひやしあめ。
  行楽地などでは1杯100~150円程度の気軽な値段で味わえる。
  近年はかき氷にかけたり、お酒で割ったりと多様な楽しみ方も広がっており、その存在が見直されつつある。


  最近、サンガリアの缶の商品表記では「ひやしあめ」ではなく「あめゆ」に変わり、冬はHOTにして自販機に置かれています。
 
 大阪 箕面市の名物 日本のカフェカフェ文化の発祥 パウリスタの1号店は、銀座店ではなく、阪急の箕面駅前にあった。
  テレビ大阪 八光のじもとモット! 『西川忠志の箕面市』 13.08.17 放送 より

  北部にある箕面市の名産品は柚子。そして箕面の滝が有名で、そこで売られている紅葉の天ぷら。

  ≪ もみじの天ぷら ≫  箕面の滝

  1300年前、修験道場であったこの箕面山で、白衣に錫杖しゃく‐じょう、ホラ貝姿の修行していた役の行者が、滝に映える
  もみじの美しさを称え賞賛し、灯明とう‐みょうの油(菜種油)で天ぷらを作ってその美しさを表し、旅人に振舞ったのが
  「もみじの天ぷら」のはじまりだそうです。






  食用モミジの大きな葉ができる木を無農薬で育てて、その葉を塩漬けに。塩漬けなので季節関係なく売っています。






  カエデ科カエデ属の樹木の葉が赤や黄色に染まったものを『紅葉モミジ』と呼び、モミジという植物は存在しません。

  2009箕面の滝ムービー  http://youtu.be/xZ8qQjJH-D4   /  箕面公園の紅葉と大滝  http://youtu.be/Z6Ryx32CX4Y

  【明治の森】 国定公園。
   東京の高尾国定公園と大阪の箕面国定公園とから成る。
   明治百年を記念して1967年指定。東海自然歩道の東西の起点。

  関西テレビ FNNスーパーニュース アンカー 『電気もコンビニもない ひと夏の「古代人」体験』 13.08.06 放送 より

  ≪ 縄文時代のクッキーつくりなど、古代人キャンプ ≫

  大学で民族考古学を教えている辻尾榮市さんが、37年前から毎年夏休みに箕面市で子供たちを対象にした「古代人
  キャンプ」というのを主催しているそうです。
  火起こし、1万年以上前の旧石器時代から使われいたというサヌカイト石での肉を切る体験など。





  縄文時代の遺跡から炭化したクッキーのようなものが出土する事もあり、「縄文クッキー」つくりもします。
  クルミなどの木の実をすり潰し、小麦粉と合わせて焼いただけですが、子供たちが食べた感想は「美味しい」。






  【旧石器時代】きゅうせっき‐じだい
   人類史上で最古の時代。日本では、縄文時代の前の時代がほぼこれにあたる。
   ほぼ地質学上の更新世にあたり、人類は、今日絶滅し、もしくは生息地をかえた動物とともに住み、打製石器や
   骨角器を用いたが、まだ土器を作らず、採集・狩猟・漁労だけによって食糧をえていた。通常、前・中・後期に3区分される。

  【先土器時代】せんどき‐じだい 縄文時代に先だって、土器が登場するまでの時代。
   石器としてナイフ形石器・尖頭器・掻器そうき・彫器などがある。ほぼ旧石器時代に相当する。先縄文時代。無土器時代。

  【新石器時代】しんせっき‐じだい 
   石器時代中、新しい時代。打製石器とともに磨製石器が普及し、土器も作られる。
   生活は農耕・牧畜が主となり、定着化が進み、集落や墓地が形成される。土器・磨製石器をもちながら、採集狩猟
   社会にとどまる地域もあり、日本の縄文時代はこれに当たる。

  【縄文時代】じょうもん‐じだい 縄文土器を指標とする時代。
   土器の変化によって草創・早・前・中・後・晩の6期に分け、放射性炭素年代によると、紀元前1万年前後に始まり、
   前4世紀頃まで継続して、弥生時代と交代する。
   主に竪穴たてあな住居から成る集落を構成し、採集・漁労・狩猟の採取経済の段階にあり、農耕の存否については
   議論がある。遺跡・遺物は千島から沖縄まで分布している。

  【縄文・縄紋】
   土器の表面に紐や縄をこ転がしたり、圧着したりしてつけた文様もんよう
   日本の縄文土器の文様は多種多様で、縄文文化の時代差や地域差を識別する基準になる。アフリカ大陸に
   もごくわずかにある。

  【サヌカイト】 讃岐岩さぬき‐がん  讃岐国(香川県) 白峰山に多く産するため。
   灰黒色ないし漆黒色で緻密な安山岩。古銅輝石・輝石・磁鉄鉱および稀に石榴ざくろ石などを含み、ハンマーで
   叩けばよい音を発する。石材として利用。かんかん石。磬石けいせき
 
 魚すき発祥 丸萬本家  煎餅と占い菓子の普及 辻占発祥の瓢箪山稲荷神社
  毎日放送 水野真紀の魔法のレストラン 『なにわ発祥グルメ 150年物語』 13.08.26 放送 より

  幕末の1864 (元治1) 年、石川県の能登から飯井藤吉 めしい-とうきち という侍が商売をする為、大坂の瓢箪山へやってきた。
  東大阪市にある瓢箪山稲荷神社は食べ物と商売の神様として信仰が厚く、堂島の米相場にも影響を与える程だった。






  瓢箪山稲荷神社参道の辻に立ち、そこで見たものを宮司に報告し、お告げを受ける辻占つじうら という占いを行った。
  「ここより西の方に賑やかな所あり、そこにて商いをすべし」というお告げを受け、道頓堀 戎橋の南詰めに店を構えた。

  店名は、参道の辻で見た丸い饅頭から『丸萬』とした。能登で慣れ親しんだ魚の鍋を工夫し、『魚すき』を考案。
  丸萬は明治から大正にかけ、なにわ名物として繁盛し、店を拡大し従業員90名以上の大店となった。






  戦後、7代目の死去に伴い店を閉店。その後、再開を望む声に応え、8代目を継いだ後藤隆平さんが中央区瓦町で再開。
  現在、魚すきを出している店は、日本で丸萬一軒だけのようです。






  8代目は洋画家の顔も持ち、大阪城ホールに『巨大な力』という作品が展示されいるそうです。
  9代目の後藤英之さんは、クリスタ長堀のフィッシュ広場にある『フェイス トゥ フェイス』など、現代美術、パブリックアートの
  作家でもあるそうです。


 1643年刊『料理物語』 「第十二 煮物之部

  すきやき〕 たいを あつくつくりをき、だしにて みそをこうたて なべに入 にゑ候時、そこに入、まづ ほね かしらを入
  にる、身は入て やがてよし、どぶをさしてよし、かき、はまぐり、たうふ、ねぶか其外つくりしだいに入也
  なべやき〕みそしるにて なべにて其まゝに申候也、たい、ぼら、こち何にても取合せ候

 1643年刊『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部

  どぶ〕 とは 何時も酒のかすをしぼりたるがよし、にごり酒は惡、



  ≪ オダサク生誕100年、「夫婦善哉」未発見の草稿 ≫  朝日新聞 13.09.12 朝刊 より抜粋

  大阪市中央区の大阪歴史博物館 06-6946-5728 で、2013年9/25~10/18 開催の企画展
  「織田作之助と大大阪」で展示される。

  今年生誕100年を迎える大阪の作家 「オダサク」こと織田作之助 (1913~1947) の代表作「夫婦善哉」の未発表の
  草稿3種類などが、千葉県船橋市の遺族宅から見つかった。
  いずれも冒頭の表現が発表作と異なり、推敲を重ねた様子がうかがえるという。
  41年の日記も見つかり、2007年に確認された夫婦善哉の続編が、この年に書かれた事などがわかった。

  【織田作之助】 おだ‐さくのすけ (大阪市生れ、1913~1947)  Wiki 夫婦善哉 (小説)
   小説家。大阪庶民の風俗を描いた「夫婦善哉めおとぜんざい 」で認められ、戦後、私小説を否定して「可能性の
   文学」を唱道。作「土曜夫人」「世相」など。

  夫婦善哉には「…戎橋の丸万でスキ焼きをした。その…」と、丸萬の魚すきが登場しています。
 
 江崎グリコ
  毎日放送 特番 『道頓堀角座オープン記念! 角座をフライングゲット! 松竹芸人 船上クイズバトル』 13.07.27 放送
  読売テレビ かんさい情報ネット ten. 『若一ミステリー 大阪発!都市伝説の謎 グリコマークにモデルが!?』 13.10.09 放送
  テレビ大阪 和風総本家 『密着 ! 大阪の職人24時』 14.03.13 放送 テレビ東京のアナウンサーが司会ですが、番組製作はテレビ大阪です。
  テレビ大阪 夕刊7ch 『沸騰大阪 "進化"する道頓堀 「人気不動の理由は」 14.07.21 放送

  ≪ グリコ マークのデザインの変遷 マークにはモデルがいた?≫  Wiki 江崎グリコ / 江崎グリコ㈱ HP http://www.glico.co.jp/






  1919年(大正8)、佐賀県の江崎利一が、カキの煮汁からグリコーゲンを採取し、キャラメルの中に入れた栄養菓子
   「グリコ」を製作。
  1922年(大正11)2月11日に大阪の三越百貨店で「グリコ」の発売を開始。
  1921年(大正10)、江崎利一が大阪市西区にて合名会社 江崎商店を設立。
  1922年(大正11)2月11日、グリコ発売。この日を「江崎グリコ創立記念日」と制定。
  1927年(昭和2)、おまけ付きグリコ発売。日本最初の食玩






  実はグリコのこのマークは、「ゴールインマーク」というそうです。微妙に7回もデザインが変更されているそうです。
  西淀川区のグリコ本社には、1972年に併設された江崎記念館があり、デザインの変遷とグリコのおまけなども展示されています。





  このマークは特定のモデルがいるのではないか?という噂がありましたが、半分正解で半分間違いのようです。
  元々、江崎利一が健康的を表せるマークを考えていた時、自宅近くの神社でかけっこをする子供たちの両手を挙げて
  ゴールインする姿から、ひらめいてデザインしたそうです。





  しかし、初代のマークはわずかの7年ほどで変更される事になりました。
  そのきっかけは、店頭で女子学生がグリコを手にするが元に戻すのを見た事からでした。
  「顔が怖い」「幽霊みたい」というデザイン画の不評。





  穏やかな表情に変えたいと、モデルを探していたそうで、子供や女性のデザインも検討したようです。
  そこで「モデルに」と注目されたのが、1923年5月に大阪で開催された第6回 極東オリンピックで優勝したフィリピンの
  カタロン選手でした。






  大阪府立大の観光産業戦略研究所の所長 橋爪紳也 特別教授によると、
   カタロン選手は以前、1917年(大正6)に大阪で開催された国際大会でも圧勝しており、極東オリンピックでも優勝した事から、
   「カタロンには勝たれへん」 → 「カッタろへん」みたいな感じで、非常に大阪で話題になったそうです。






  結局、グリコのゴールインマークの2代目は、カタロン選手を中心に日本人の谷三三五たに-ささ選手や金栗四三かなぐり-しそう
  選手ら 複数のアスリートを参考にしてデザインされました。


  ≪ 道頓堀 グリコの看板 ≫

  1935年(昭和10)、道頓堀の戎橋にグリコのネオン塔ができます。初代は白黒の画像しか残っておらず、ネオンの色が
  不明だったので、グリコが情報を募集していました。2014年にカラー画像が見つかり、白と赤の2色であった事が判明。




  戎橋にある有名なグリコの看板ですが、現在の5代目看板には大阪城、海遊館、京セラドーム大阪、通天閣が背景に描かれています。
  2003年、道頓堀のグリコのネオン看板は大阪市指定景観形成物に指定。隣の雪印の看板などを含め600本のネオン管が
  使用されていました。大阪を代表する看板なので1本でも切れればすぐに交換。
  ネオン管を使用していた5代目は2014年8月に引退し、LEDを使用した6代目に変わりました。






  グリコの看板前で両手を広げ片足を上げて記念写真を撮影するのは、今や道頓堀を訪れる外国人観光客にまで浸透しているそうです。
  関西大学大学院の宮本教授によると、グリコの看板による経済波及効果は、年間約291億円。







 2014年9月現在、6代目の看板準備中の間、女優の綾瀬はるかさんの看板になっています。

  朝日新聞 14.10.24 朝刊 『新グリコ 変化自在』 より原文ママ

 ≪ 6代目看板は2014年10月23日に初点灯 ≫

大阪・道頓堀の名物で、老朽化に伴いリニューアル工事をしていた「グリコ」の新しい看板が23日夜、
 お披露目された。1935年設置の初代から数え、今回で6代目。
 約14万個のLEDチップを用い、ランナーの背後で映像が動く仕組みが取り入れられている。

 看板は毎日午後6時から翌午前0時まで点灯し、15分ごとに約2分間の映像が流れる。
 大阪城、通天閣、富士山など全国の名所を巡るほか、パリ・エッフェル塔やロンドン・ビッグベン
 など欧州を巡る映像。それ以外の時間は、ランナーの背景の色が3分かけて昼→夜→昼と
 ゆっくり変わる映像を繰り返す。

 16年間続いた5代目は、大阪城や通天閣の背景で固定されていた。
 消灯時はこれまで同様、ランナーが浮き出ているように見える。

  この日の点灯式には江崎グリコのCMに出演中の俳優・綾瀬はるかさんが参加。
  午後6時半ごろにスイッチが押され、式典の中継のほか、ランナーが頭上で手拍子を打つ特別な映像が流れた。

  THEページ大阪 『【動画】大阪・道頓堀 6代目グリコ看板が完成 ── LED映像が流れるリニューアル』 14.10.23 配信
   http://osaka.thepage.jp/detail/20141023-00000022-wordleaf

  看板の背景の変化が見れる動画→ 6代目 グリコ看板 完成! 大阪 道頓堀 14.10.23  http://www.youtube.com/watch?v=s92tGrdK04E

  道頓堀の看板が派手な理由 江戸時代からの芝居の街、大正時代はジャズなど日本の洋楽の発信地。 とんぼりクルーズも人気。
  福島区 日本初の本格ネオンサインを製作した大阪クロード㈱ 道頓堀の8割のネオン看板を製作


  ≪ ビスコ80周年 ≫  毎日放送 プリプリ 2012.12.20 より

  1933年(昭和8)、酵母菓子「ビスコ」発売。日本で最初の豆文広告が登場。











  昭和8年販売開始、当時1箱10銭。(うどん1玉2銭の時代) ドイツのポスターを参考に日本向けにアレンジして
  初代のビスコ坊やがデザインされたそうです。ビスケット+酵母→ ビスコ。
  昭和41年にTVアニメ 流星少年パピーのパッケージもあったそうです。


  テレビ大阪 夕刊7ch 『新大阪に新名物 ! 即席めんアイス?』 15.03.02 放送

  2015年3月4日、新大阪駅のエキナカ商業施設 『エキマルシェ新大阪』がオープンしました。

  全国から集めた約100種類の駅弁を販売する『旅弁当 駅弁にぎわい』・グリコ初のホットフライド
  スナックの店『ぐりこ・や Kitchen』・『JIM BEAMのバー』など26店舗が入り、今まで置いて
  いなかったような限定商品を多数そろえて選ぶ楽しさを提供するのがコンセプト。

  日清チキンラーメンの店「チキラーハウス」も初出店、弁当やチキンラーメン味のソフトクリームも発売



  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『知られざる偉人たちを発見! KANSAI 記念館ランキング』 14.01.30 放送

  ≪ グリコの「おまけ」を作り続けた男 宮本順二 ≫

  1935年、20才だった宮本順二 (1915~2004) は、江崎利一 (創業者) 社長以下役員が並ぶ江崎グリコの入社面接を
  受けました。「グリコのおまけはおもしろくない。私なら もっと多くの子供が喜ぶ物を作る事ができる」と豪語します。
  当時の江崎社長は「おもしろな」と言って、宮本を『おまけ係』として採用。
  1930年代までのグリコおまけは、カードやメダル、コインが主流。「結局は大人が考えたおもちゃにすぎない」と宮本は
  考えていました。






  おもちゃの試作品を評価して貰い子供たちの感想を直接聞く事を続けました。そんなある日、子供の反応が変わった
  おもちゃがありました。大きな物を小さくする。小さな動物シリーズから『おまけ屋 宮本』のおまけ作りが始まりました。





  戦後の物資の少ない時には、紙を使用したおもちゃ。1950年代には電化製品。高度経済成長期には材質をプラスチックに。
  1980年代になると、男の子向け、女の子向けに分けて販売。





  宮本順三 上等のおもちゃなら百貨店やオモチャ屋にいくらでも売っています。
  金では買えない 小さなおもちゃを 作ろうと思うたんです。

  『宮本順三記念館 豆玩舎ZUNZO』 が東大阪市の雑居ビル内に あるそうです。 関西のオススメ記念館 (関西ウォーカー編集長 選)
 
 うどんすき発祥 美々卯  
  テレビ大阪 ニュースBIZ 『ナゼ解きOSAKA 大阪名店ナゼめぐり』 13.01.29 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『1県限定SP 第7弾 !! 大阪丸ごとSP 前編1』 15.01.22 放送

  ≪ うどんすき発祥の美々卯 ≫ 大阪のうどん きつねうどん発祥店、カスうどん など。


うどんすき発祥と言われる大阪中央区に本店がある
美々卯は、薩摩夘一さんの祖父の耳卯兵衛 みみ-うへい
さんが江戸時代に堺で『耳卯楼』という料亭をやっていた
事から。

1924 (大正14) 年、新たに麺料理専門店として始める際、
『耳』よりイメージが良い『美々』にした。

 

  うどんすきは、腰の強いうどんを使用しているので、うどんを最初に鍋に入れ、後から具材を入れます。






  【饂飩鋤】 うどん-すき
   鍋料理の一つ。腰の強いうどんと、鶏肉・魚介類・野菜などを用い、出し汁を張った丸底鍋で順次煮ながら食する。
   1928年 (昭和3) 頃、大阪で始まる。商標名。  ※ 簡単に言うと、うどんの入ったすき焼きの事です。

  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件





 
 オムライスの発祥 北極星
  毎日放送 水野真紀の魔法のレストラン 『なにわ発祥グルメ 150年物語』 13.08.26 放送 などより

  1924 (大正14) 年、北橋茂男 (石川県出身) は23歳の若さで浪速区汐見橋に洋食店『パンヤの食堂』をオープン。
  当時、洋食が大衆的になり始めた頃でした。






  小高という常連客は胃が弱い為、いつもオムレツとライスを食べていた。毎日同じメニューばかりでは…と考えついたのが、
  玉葱を加え炒めたケチャップ・ライスを薄焼玉子で包んだメニュー。
  『 オムレツ + ライス 』 → 『オムライス』と名付け、かけうどん1杯と同じ10銭で売り出した。
  評判になり、1936 (昭和11) 年、店名を『北極星』に改め、新しくオープンしました。






  二代目の北橋茂登志さんは、家庭でも簡単にできる料理という事でオムライス教室を開いたり、
  2011年『オムライス好きのケチャップ』250円を発売し、北極星の味を広めています。

  北極星はオムライスの発祥の店として有名。創業者の北橋茂男は石川県宝達志水ほうだつしみず町出身なので、
  近年では同町がオムライスで町おこししています。

  1936 (昭和11) 年頃、大阪難波の北極星がフランス風の料理で内臓肉を提供し、1937年に「北ホルモン」の名を商標
  登録出願しています。
  明治・大正時代は鶏肉が最も高価だった 豚肉なのに「焼き鳥」の謎、昭和前期は東京でも人気。ホルモン

 
 串カツ発祥 だるま
  テレビ大阪 ニュースBIZ 『ナゼ解きOSAKA 大阪名店ナゼめぐり』 13.01.29 放送
  毎日放送 水野真紀の魔法のレストラン 『なにわ発祥グルメ 150年物語』 13.08.26 放送 より

  浪速区の新世界は歓楽街として賑わっており、百野 ももの ヨシエがやっていた屋台も男性客が多かった。
  昭和恐慌が起こった1929 (昭和4) 年、安くて精がつき食べ応えのある物をと、牛肉に衣をつけ油で揚げたものを売り出した。
  1本1銭、これが串カツの始まり。
  当時の店名は『たこ菱』。無料のキャベツと合わせ、ソースをつける串カツは気軽に洋食気分を味わえた。






  1945年 (昭和20) 年3月23日の大阪大空襲により、新世界も含め大阪市内一帯は焼け野原と化した。
  二代目の正雄さんは、店と大阪を元気にしたいという思いで「転んでも起き上がる」の『だるま』と屋号を変更。
  通天閣の真下にあります。






  2013年4月、12店舗目となる心斎橋店をオープン。ソースの味、衣、ヘット(牛脂)で揚げる事は変える事なく、
  新しい物も取り入れていく。8月からは新大阪駅なか店で、牛脂の油かすを加えた昭和下町コロッケも発売。






  新世界一帯には、現在60店舗以上の「串かつ」店があるようです。
 
 しゃぶしゃぶ発祥 スエヒロ
  毎日放送 水野真紀の魔法のレストラン 『なにわ発祥グルメ 150年物語』 13.08.26 放送 より

  1952 (昭和27) 年当時、北新地にあるスエヒロでは、牛肉をすき焼きやステーキで提供していた。
  二代目の三宅忠一は、日本人と米英人との体格差を痛感。滋養のある肉をもっと食べるべきだと思った。
  だが、暑い夏には脂濃いステーキや味が濃いすき焼きは売れていなかった。






  知り合いから貰った羊肉を湯がくモンゴルの鍋を見ていると、羊肉の代わりに牛肉を湯がく事を思い付く。
  鍋にダシを張り、薄切りの牛肉をくぐらせてみると、あっさり食べられるし、鍋だと野菜もたっぷり摂れる。つけダレは2種類の
  ゴマをブレンドし、ぽん酢を隠し味に使用したゴマ酢。料理は完成したが、良い名前が思い付かずメニューに載せる事が
  できなかった。






  そんなある日、忠一は、仲居さんがおしぼりを洗っている姿を見かける。おしぼりを洗濯する水音と牛肉をさっと湯がく動作を
  かけて『しゃぶしゃぶ』と命名しました。
 
 松岡製菓 満月ポン
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『カラクリSP おいしすぎる! 3大ロングセラー商品』 13.10.04 放送 / Wiki 松岡製菓

  ≪ 松岡製菓 満月ポンの名前の由来 ≫

  1958年(昭和33)創業の松岡製菓は大阪市住之江区の住宅街にあります。
  外観は普通の住宅ですが中は年季の入った機械が並ぶ食品工場になっています。
  少ない材料でも満腹感を得るため膨らせて作れるポン菓子を小麦粉でつくり、駄菓子屋で販売。






  昭和40年代前半、スーパーマーケットが日本に急増しました。松岡製菓のポン菓子もスーパーで販売される機会を得たため、
  1枚ずつ売るのではなく、袋詰め販売する必要がありました。
  1969年(昭和44)のアポロ11号の月面着陸が話題になっており、ポン菓子の丸い形や質感が満月のようだとして、満月ポン
  というネーミングに。






  原材料は小麦粉に塩水を加えて練っただけとシンプルなので、この配合が出来上がりの9割を決める要素。季節、気温、湿度に
  より毎日配合を調整しています。粉を機械に入れる事、わずか20秒で焼き上がり、調味液を吹きかけて乾燥させると完成。






  ※ちなみに 大阪市に本社がある前田製菓は、大阪府藤井寺市が発祥だそうです。
 
 ケンミン食品 焼きビーフン
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『カラクリSP おいしすぎる! 3大ロングセラー商品』 13.10.04 放送 / Wiki ケンミン食品

  ≪ ケンミンの焼きビーフン ≫

  神戸市中央区にあるケンミン食品は、台湾出身の高村健民が1950年(昭和25)に創業。
  米麺であるビーフンを世界に広げる夢があったので日本で事業を始めた。米粉はインディカ米を使用しているそうです。
  米粉100%のビーフンは、日本では馴染みが少なかった為、創業当初10年ほどはそれほど売れず苦労したそうです。






  日本人の味覚に合わせる為に改良を繰り返し、1960年、日本初となる即席の焼きビーフンを販売しヒットしました。
  米粉にデンプン (タピオカ、ジャガイモ) を加える事で、麺をくっつきにくくし食べやすく。麺に味付けをしてあるので簡単に
  調理できる事が消費者にうけました。






  1980年代、少し不気味な絵柄のシュールなアニメのCMで話題になり、知名度を上げました。
 
 伊藤ハム ポールウインナー / 大阪ドッグ
  読売テレビ かんさいネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「ポールウインナーはなぜ関西ソウルフードなのか !?」』 14.09.10 放送

  1934 (昭和9) 年、伊藤ハムの創業者 伊藤傳三が、飴や薬を包んでいたセロハンで包んだ衛生的で保存に優れた
  ポールウインナーを発売。まだまだ冷蔵庫が家庭に普及していない時代、天然の羊の腸を使ったウインナーは日持ち
  せず、それを解決する画期的な商品でした。

  1960年代、学校給食に採用され、関西では子供たちが手軽に食べられるオヤツ的な感覚として爆発的にヒットし、
  知らない人はいません。






  発売当初はセロハンを紐で結んでいましたが、機械化に伴い金属に変更。2008年、「歯が欠ける」「ゴミの分別」などの理由で
  テープに改良され、2014年で生誕80年になるロングセラー商品になっています。。


  ≪ 現在でも関西人しか知らないポールウインナー ≫

  兵庫県西宮市の本社工場で年間1億本製造しているポールウインナーは、関西地域での消費で95%。他ではほとんど食べ
  られていません。
  1950~1951 (昭和25~26) 年頃、関東では魚肉ソーセージが普及し始めており、食肉加工業界から「箱根の関を越えるな !!
  という要請 (圧力) があったそうです。






  1960年代に入り、要請が緩和され関東での販売を開始しますが、安価な魚肉ソーセージには勝てませんでした。
  現在は一部店舗やインターネットでの販売をしています。

  ※ ちなみに、関西では魚肉ソーセージも普通にスーパーで売られています。

  【箱根の関】はこね-の-せき
   江戸時代初めに設置された、東海道の箱根山中の関所。三島・小田原の両宿の中間にあり、箱根宿の東方の入り口で、
   北は芦ノ湖に面し、南は山を負い、要害の地。小田原藩主が預かり、特に入鉄砲出女の取締りが厳重であった。

  【入鉄砲出女】いりでっぽう-でおんな
   江戸幕府が、江戸に入る鉄砲と江戸から出る女性を箱根などの関所で特に厳重に改めたこと。
   謀反を警戒して武器の流入と諸大名の妻女の脱出を防ぐため行った。


  ≪ ポールウインナーのホットドッグ ≫

  1960年代、コッペパンにカレーで炒めたキャベツを挟み、ポールウインナーを乗せたホットドッグが誕生。
  大阪市内を中心に黄色いトラックで移動し公園などで販売すると、欧米での『食べながら歩く』風習に憧れもあって大流行
  しました。カレーメーカー各社がカレールーを発売した頃で、このホットドッグは当時は『ナウい食べ物』でした。
  家庭でも、このホットドッグが作られるほどに関西で普及していたそうです。






  1971年に東京・銀座にマクドナルドが日本初出店し、東京でも食べながら歩くことが流行の最先端とされ、マクドナルドが躍進。
  大阪にもマクドナルドが多数出店したことで、1970年代にポールウインナーのホットドッグは次第に姿を消しました。

  2012年 大阪市北区で同窓会の幹事代行サービスを営む『同窓会ネット』の社長 伊丹正人 (51) さんが当時の味を復活させ
  ました。現在、『大阪ドッグ』として、なんばパークスや新世界などに『大阪堂』と書いた黄色い移動販売車で販売しています。

  特に50代以上の人には「懐かしい味」として好評のようです。
 
 神戸市の学校給食デザート とくれん
  読売テレビ かんさいネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「神戸っ子が愛した思い出の味 とくれん とは?」』 13.11.06 放送
  読売新聞オンライン 『まちの宝物 [とくれんゼリー]神戸っ子給食の甘い記憶』 13.05.03 配信 
   http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/feature/kobe1367333126435_02/news/20130502-OYT8T01270.htm

  神戸市の小学校給食に30年以上登場する「とくれん」は、半解凍の状態で味わうのが一番美味しいとされるミカン果汁
  80%のゼリー。






  この商品は、島県農業合組合加工場と神戸市の食品卸会社と給食用商品として共同開発したもので、神戸市が給食用の
  食品登録制度に「とくれん」を登録したので、神戸市の給食で出される事が多かったそうです。

  14年前に連合組合が解散、徳島県阿南市の「浅井缶詰」がそのまま製造などを引き継ぎました。
  現在、神戸の小学校給食ではデザートが多様化した為、「とくれん」が出されるのは年に1~2回程度ですが、年100万個を
  製造しており、通販や須磨区にある大丸松坂屋で購入する事が可能。アップル、ぶどう、パイナップルもあるようです。






  「とくれん」は、北海道、京都、九州でも給食用で出されたことがあるそうですが、地元の類似商品に押されて神戸以外では
  広まりませんでした。製造元の徳島県でも、ほとんど知られていないそうです。
 
 滋賀県の「食」の名物 
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『滋賀問題を調査した件』 13.08.19 放送
  テレビ東京・BSジャパン 空から日本を見てみよう+ 『琵琶湖①』 13.10.14 再放送

  ≪ 姥が餅うばがもち

  【姥餅】うば‐が‐もち あんころ餅の一種。滋賀県草津の名物。乳母が餅。
   室町後期 戦国時代の(寛永年間1624~1644)の頃、江州の郷代官であった六角義賢の子孫が討ち滅ぼされ、
   その幼児を育てるために乳母が餅を売ったのに始まるという。

  【六角義賢】ろっかく‐よしかた(1521~1598) 定頼の子。法名、承禎。
   室町後期の守護大名。近江国南半守護。観音寺城に拠る。京都を追われた将軍足利義晴・義輝を庇護して義輝を入京させ、
   後に織田信長に抗して敗れた。






  【姥餅】うば‐が‐もち 百菓辞典
   滋賀県草津市の名物菓子。白餅をちぎり、小豆のこしあんで包み、砂糖をかけたもの。永禄12年(1569)、近江の佐々木
   義賢が、織田信長に打ち破られ、一族は滅亡の危機に立たされていた。義賢は3歳になる曾孫だけでも助けたいと考え、
   乳母の福井に子供を託し、守刀の貞宗を授けた。福井は、郷里の草津西矢倉に隠れ住み、餅を売って子供を育てていた。
   これが人に知られるところとなり、この餅は「姥ヶ餅」と呼ばれるようになった。
   餅の形は、乳房を表しているといわれる。  ※ 滋賀は佐々木源氏の発祥地。六角氏=佐々木氏。


  ≪ 赤こんにゃく ≫

  近江八幡市の名物の「赤こんにゃく」は三二酸化鉄を加えた まっ赤なコンニャクで、黒っぽいコンニャクの方を食べる方が
  珍しいそうです。
  派手好きな織田信長がこんにゃくまで赤く染めさせたと言われる説や近江商人が全国を行脚している際にこのような奇抜な
  アイデアを思いついたと言われる説などがあり、はっきりしたことは分かっていないそうです。







  ≪ 琵琶湖の幸 ≫

  琵琶湖の雑学 琵琶湖疏水クルーズ計画 時期は、まだ未定 
  寿司の歴史と雑学  熟鮓 鮓、鮨、寿司の違いと『すし』の始まり。 『卵百珍』鮒鮓のレシピ







  【魦】いさざ  いさざ=シロウオの別称で、別の魚。
   ハゼ科の淡水産の硬骨魚。琵琶湖の固有種で、冬の景物とされる。全長約8㎝。淡褐色。春、飴煮につくる。

  【魦鮨】いさざ-すし … 煮たイサザを飯にまぜた鮨。


  ≪ その他 ≫ 滋賀ガイド http://www.gaido.jp/lunch/detail.php?ID=555 / Wiki たねや (クラブハリエ)

  近江富士カレー
   2012年3月、野洲市商工観光課などの7団体が中心となって進める「近江富士プロジェクト」の一つ。
   県立近江富士花緑公園 森のBe-cafeで発売。
   富士山のように盛ったご飯と地元の野菜などを使用したのが特徴で4種類(2012年現在)あるそうです。

  クラブ ハリエのバームクーヘン
   1872年に近江八幡市で創業した和菓子店「たねや」が、1979(昭和54)年に設立した洋菓子部門が
   後に別会社の「クラブハリエ」に。




  【三上山】みかみ-やま 近江富士
   滋賀県野洲やす市の南東部にある円錐状の小山。標高432メートル。「古事記」「延喜式」にも記述が見え、
   和歌にも詠まれた由緒ある山。
   紫式部が「打ち出でて 三上の山を 詠れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」と詠んだように近江富士という愛称がある。
   藤原秀郷(俵藤太)の百足むかで退治伝説で百足が7巻き半していたという。
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おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
2009.02.17発売
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OSAKA HABIKINO IGA 5-9-6  MARCO POLO 取り扱い商品 : アイスクリーム / シャーベット / ザーネアイス / 生チョコアイス / スイートポテト / コーヒーなど
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