手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の食の歴史6 江戸時代2 中期・北前船
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   19.11.11
・・お知らせ・・
 ザーネアイスはドイツ規格の「生クリーム・アイス」、世界一濃厚なアイスクリームです。

  ≪ ザーネアイス お取り寄せ  アイスの基礎知識

   ザーネアイス3種類のセットが基本のセットです。

   ご注文の確認より4日以降の御届けになります。

  1セット 4900 円 (保冷梱包、代引き手数料、クール便送料、税など全て込み価格)
   関東・信越・九州は1セット5010円になります。 お取り寄せのページ



  ≪ 天然100%シャーベットもお取り寄せ (季節によって変わります) ≫

   抹茶、ココナッツ、ブラックベリーなど

 お取り寄せ&地方発送はヤマト運輸の送料などが大幅にアップしたので、4月2日から価格変更に
 なりました。

ザーネアイス
(ドイツ規格の「生クリームのアイス」)


シャーベット (ソルベ)

ガナッシュ
(高級な生チョコの極上アイス)


LINEで送る

「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
 江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents





 日本の食の歴史・雑学の江戸時代の2ページを、19.11.08に8ページに分割し、
 画像や情報を追記しながら再編集しました。 各ページURLも変更になりました。

 他のページも情報量が多過ぎるので、分割・再編集などを行う予定にしています。


 江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

 卵、牛乳、砂糖については日本のアイスの歴史 各ページをご覧ください
 大阪と関西の食文化のページも 日本の食文化を語る上で必須です

 日本初の飲食店は関西にあった 江戸の奈良茶屋が飲食店の始まりではない

 元禄年間 江戸患いの脚気 サツマイモの伝来

 江戸時代の海上物流 朱印船・菱垣廻船・樽廻船・奥羽廻船・三十石船

 海上交通・海上物流の拠点 大坂には何でもあった 日本最大の経済都市、文献の記述

 朱印船と鎖国 鎖国令とは

 海上物流の中心 北前船 大坂への重要物資は昆布よりニシン、北国への重要物資は塩や木綿など

 菱垣廻船と樽廻船 大坂・西宮→江戸への物資輸送

 広島の鞆の浦 瀬戸内海の交通の要所 今も残る江戸時代の港湾施設

 1688年頃に大坂湾にあった船の内訳と数 7つの村が有する船だけで大小3600隻以上

 大坂と京都との定期船 三十石船 枚方宿のくらわんか船

 大坂で刊行された 江戸時代唯一の船の専門書 現在も活用されるほどのレベルだった

 「くだらん」の語源 江戸時代の物価

 江戸時代から産地偽装? 江戸・京都・大坂・長崎がそれぞれ本場の名前を借りて売り文句に

 大阪人がケチという関東の偏見

 出汁文化は、日本が最も発達している理由 出汁文化を完成させたのは大坂 合せ出汁・合せ味噌も大坂
  細工昆布は大坂の名産 出汁・昆布ロードのまとめ新聞記事と『料理物語』のダシの記述など

 カツオ節 和歌山県発祥 現在は高知県、鹿児島県の生産が多い 東北で出汁に使われる魚

 現存する日本最古のカツオ節 大坂の陣で小出吉親が携帯した『勝男武士』の画像

 昆布 食べるのは日本だけの食文化 昆布ロード 羅臼は富山県人が開拓

 フランスにおける出汁ブイヨンと昆布の利用

 醤油の種類が増える 関西の料理には欠かせない淡口醤油が兵庫県龍野で考案される

 千葉でも地回り醤油が製造される

 江戸で中食・外食文化が進む 江戸・東京の屋台は汚かった

 江戸時代の行商の基本 棒手売

 徳川吉宗の享保年間 江戸・小石川で小松菜やサツマイモを栽培 享保の改革

 屋台の代金は四文・八文と4の倍数の理由 江戸期の1コイン・システム

 天明年間頃 百珍本ブーム 「豆腐百珍」「玉子百珍」など 天明の飢饉

 「にっぽん」と「にほん」という呼び方は、いつ生まれたのか?

 

  NAVER まとめ 『再現された江戸時代の日本人の食事』 http://matome.naver.jp/odai/2134329123090279301
  神戸女子大学 古典芸能研究センター 『近世の家政学―重宝記・料理本の世界』 2001.12.08
   http://www.yg.kobe-wu.ac.jp/geinou/07-exhibition3/06-ten_kase.html
  神戸女子大学の上記サイトには、江戸時代に出版された百科事典にあたる各『重宝記』と、料理本が紹介されています。

  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf
  農林水産省 食料産業局食文化・市場開拓課和食室 『日本食の歴史』 http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/rekishi.html

   江戸時代の主な重要文献と著者   江戸時代に出版された主な菓子の専門書

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 【日本初の飲食店は関西にあった】
  【徳川家綱】とくがわ‐いえつな (家光の長子、1641~1680) 徳川第4代将軍(在職1651~1680)。
   保科正之・酒井忠勝・松平信綱らに補佐され、幕府の諸制度を整備。諡号しごう、厳有院。

  【明暦】めいれき
   (ミョウリャク・メイリャクとも)[漢書[律暦志]]江戸前期、後西天皇朝の年号。承応4年4月13日(1655年5月18日)改元、
   明暦4年7月23日(1658年8月21日)万治に改元。


  ≪ 明暦の大火 ≫ 4代将軍 徳川家綱(在職1651~1680)の時代

  1657年(明暦3年) 1月18~20日、江戸城本丸をはじめ市街の大部分を焼き払った
  大火事。焼失町数400町。死者10万人余。
  本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼せがきに焼いた振袖が空中に舞い上がったのが原因
  といわれ、俗に振袖火事と称した。災後、本所に回向えこう院を建てて死者の霊を祀った。


   ≪ 火事と喧嘩は江戸の華 ≫  Wiki 江戸の火事


  江戸は大火事が多くて火消しの働きぶりが華々しかった事と、江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が
  多かった事をいった言葉。

  江戸時代の大火たいかは、金沢 3、大坂 6、京都 9、江戸 49回で、江戸が突出して多い。
  1657年の「明暦の大火」、1772年の「明和の大火」、1806年の「文化の大火」を 江戸の三大大火と呼ぶそうです。

  江戸の大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数え、1601年からの100年間で269回、1701年からの100年間で
  541回、1801年から1867年までの67年間で986回となり、人口の増加による江戸の繁栄に比例して、火事の回数も
  増加していきました。景気回復の為、放火していたという説があります。

  江戸の火事の真実  江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた ~ 時代劇で見る 江戸の町は嘘ばっかり!~

  【火消し】ひ-けし
   ② 消防を職務とする人。江戸には官民による消防組織として、定火消・大名火消・町火消があった。

   町火消は享保の改革で大岡忠相か設置しました。

  【火消組】ひけし-ぐみ
   江戸幕府が明暦の大火の翌年1658 (万治1) に組織させた定火消の組。火消役 (寄合旗本) 一人の下に与力6騎、
   同心30人で組織した。

  【定火消】じょう-びけし
   江戸幕府の職名。若年寄に属し、旗本・御家人を主任として、江戸市中の防火および非常警備をつかさどった。
   与力6騎、同心30人、火消人夫若干がこれに属し、役屋敷に居住。1658 (万治1) 初めて4組を置く。火消役。

  【大名火消】だいみょう-ひけし
   江戸時代、大名が課役として江戸の藩邸から出した火消。町火消に対する。

  【町火消】まち-びけし
   江戸で、幕府の定火消じょうびけし、大名火消意外に、町人が自治的に設けた自衛消防組織。
   1718 (享保3 )町奉行大岡忠相の主導により設置。いろは四十七組 (のち四十八組) に編成。
   その人足を鳶とびの者または鳶という。

  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「江戸に咲かせた食文化」 12.02.02 放送
  ビバ江戸 ! http://www.viva-edo.com/syokubunka.html
  NHK Eテレ 知恵泉 『時代を変えるリーダーとは? 「徳川吉宗」』 14.05.20 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『近世の経済と産業』 14.10.03 放送

  ≪ 日本で最初の外食店の記述 ≫

  幕末の『守貞謾稿』に1657年の明暦の大火の後に江戸の浅草にできた奈良茶屋が「皇国食店の鼻租とも云うべし」と
  あるので、「これが日本初の外食店だ」と解説している事が多いですが、続きに書かれてある京都の事は余 不案内
  ゆえ追書すべしと書かれてある事には触れられていない場合がほとんどです。

  『嬉遊笑覧』に室町時代末期頃の関西に料理屋の記述がある書物を紹介している事を発見しました。

  江戸時代の各料理書では、団子や蕎麦などは「後段の部=饗宴の最後の〆で食べるもの」として分類されており、
  団子屋や蕎麦屋の類は飲食店とは異なるカテゴリーで、現在で言う軽食店であったと考えられます。


 1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家)
  巻之十 (飲食)「料理茶屋・女の料理人・江戸料理茶屋
  嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104 P.396~397参照

  料理茶屋はいと後迄も稀なりし事と見えて【きのふはけふの物語】或人 十二 三なる子を寵愛して常に謡を教へ
  けるが せつかくならへ やがて十月十三日になるぞ 百はたごくひにつれて行そ よく覚へて その時うたへといふ
  ほどなく おめいかえじやとて 寺より案内ある云々 寛永巳前には料理などして賣をぱ はたごといひしにや
  望一后の千句瓜や茄子や夕貌の汁立よるは五條あたりのやす旅籠

  1624年頃に成立した『きのふはけふの物語』は室町時代の末期・戦国時代の頃の事も書いた本だそうです。
  江戸時代の寛永年間 (1624~1645年) の巳の付く年以前から、安い旅籠屋が料理屋もしていた事が分かります。
  「五條=五条」の可能性もあり、京都の五条または奈良の五條のどちらかは個人的に判断できません。
  五条といえば、一般的に京都市の通りを指します。奈良西部にも五条 (現在は五條市と書く) という地名があります。
  『嬉遊笑覧』 の「せつかくならへ=せっかく奈良へ」とも読めますので。

  【きのふはけふの物語】
   咄本はなしぼん2巻。作者未詳。1624年(寛永1)頃成立。約150話。武将・公卿の逸話や破戒僧の男色咄もあり、
   室町末・戦国時代の世相風俗が窺える。

  女の料理人については『暘谷漫録』という本に京都にあった事が書かれてあります。

  江戸にて料理茶屋といふものはむかしはなし (寛文の頃迄もすくなかりし 寛文八年申の十月 中町中 諸職人 諸商人
  供 茶○借し座敷をかりより合相談仕候こと相聞候 自今巳後 左様の者ざしき借候者共 借申間敷候 凡ふれこと江戸
  中を南北中を分ち月番にかはるかはる三げんより觸出す 此時此方中通を觸るに茶や一軒もなし)

  西鶴か【置土産】(元禄六年板) 近き頃 金龍山の茶屋に一人五分づゝの奈良茶屋をしだしけるに器物きれいに色々
  とゝのへさりとは末々のむものゝ勝手のよき事となり 中々 上方にもかゝる自由なかりきとあり これは寛文のころ
  けんどん蕎麦切 出来て それに倣ひて 慳貪飯といふも出たり…

  「○=荓 の草かんむりを取った字」
  長文なので、詳しくは国立国会デジタルのサイトで無料公開 (上記リンク先) でご覧ください。

  【後段】ご-だん 広辞苑
   ② 江戸時代、饗応の時、食後に他の食物を出したこと。また、その食物。

  【慳貪屋】けんどん-や 広辞苑
   蕎麦・饂飩・酒などを一椀ずつ盛切りにして売る店。一膳飯屋。
   近松門左衛門作 1715年初演 生玉心中「裏屋・背戸屋・―、三界かけ取りに歩く」

  【奈良茶飯】なら‐ちゃめし。奈良茶。 広辞苑
   ① (奈良の東大寺・興福寺などで始めたからいう)煎じた茶に大豆などを入れて塩味で炊いた飯。
   ② 明暦(1655~1658)の頃、茶飯に豆腐汁・煮豆などを添えて出した一膳飯。

  また『嬉遊笑覧』 巻之十 (飲食)「田楽~菜飯」P.399には
  【后の千句】にたりやきたり豆腐をそくふゆるゆると祇園の前にやすらひて 田楽かならず菜飯に添こくふは
  寛永ころよりなるべしとあります。


  慶長 (1596~1615) → 元和 (1615~1624) → 寛永 (1624~1645) → 正保 (1645~1648) → 慶安 (1648~1652)
  → 承応 (1652~1655) → 明暦 (1655~1658) → 万治 (1658~1661) → 寛文 (1661~1673) → 延宝 (1673~1681)
  → 天和 (1681~1684) → 貞享 (1684~1688) → 元禄 (1688~1704)

  幕末に書かれた『守貞漫稿』第四編 生業上 「茶漬屋」の記述は、上記の『嬉遊笑覧』にも書かれてある元禄6年刊の
  『西鶴置土産』を引用して、京坂は元禄以降に始る事明か也 事跡合考曰 明暦の大火後 浅草金龍山の門前の茶屋
  …右の奈良茶 皇国食店の鼻租とも云べしと推論して書いてあるのです。
  しかし、現在の江戸の価格を書いた後に、京都の事は余 不案内ゆえ追書すべしともあります。

  『西鶴置土産』の近き頃 金龍山の茶屋にの「近き頃」は35年ほど前の明暦年間をさしているのか? という疑問も
  残ります。
  この文章の続き…これは寛文のころ けんどん蕎麦切 出来て それに倣ひて 慳貪飯といふも出たり…なので、
  「近き頃=寛文」と解釈する方が普通のような気がします。
  また上方にもかゝる自由なかりき器物きれいに色々とゝのへさりとは末々のむものゝ勝手のよき事となり
  事であり、「奈良茶飯を食べる時に自分好みの器を選べるようなサービスをしている店が上方にはない」と言っている
  だけであり、上方に奈良茶飯(飲食店) が無いとは言っていないと思いますが…。

  『嬉遊笑覧』では、寛文8年以前には料理茶屋が無かったと書いてありますが、具体的な年月が書かれてあるものの
  出典文献の記述がありません。
  しかし、『西鶴置土産』の「近き頃=寛文8年だとすれば」元禄6年=1693年と寛文8年=1668年となり25年の差となります。
  執筆は刊行年より早いので、さらに差は少なくなります。


  いずれにしろ、江戸で料理茶屋が登場したのは、早くても明暦 (1655~1658) の頃となるので関西の料理茶屋の記述
  がある『きのふはけふの物語』は寛永 (1624~1645) に成立しており、明暦より10年以上前に京都の祇園では田楽と
  菜飯をセットで提供していた事も書かれてありますから、これを「飲食店としない」というのは無理がありますので、
  江戸より先に京都に飲食店があった事は確実です。

  ちなみに、守貞は大坂の砂糖商家に生まれて30才で江戸に移住。44才頃からこの文献を書いていますが
  『稲荷寿司』や『刺身』など他の内容から見ても、料理知識と飲食の歴史には凄く詳しい人物ではありませんし、
  明らかに江戸を贔屓目で見ている事が分かる文章もいくつかあります。

  【井原西鶴】いはら-さいかく (大坂の人、1642~1693) 本名、平山藤五。
   江戸前期の浮世草子作者・俳人。西山宗因の門に入って談林風を学び、矢数俳諧で一昼夜2万3500句の
   記録を立て、オランダ西鶴と異名された。師の没後、浮世草子を作る。
   作品はよく雅俗語を折衷、物語の伝統を破って、性欲・物欲に支配されて行く人間性をいきいきと見せ、
   元禄前後の享楽世界を描いた好色物、義理堅い武士気質を写した武家物、町人の経済生活を描いた
   町人物などに特色がある。
   作「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」
   「本朝二十不孝」「西鶴織留」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。

 
 【元禄年間】
  ≪ 元禄時代 ≫ (16881704年)  5代将軍 徳川綱吉(在職1680~1709)。 Wiki 元禄文化

  【徳川綱吉】とくがわ‐つなよし(1646~1709)幼名、徳松。諡号 常憲院。 家光の4男。母は桂昌院。
   徳川第5代将軍(在職1680~1709)。上州館林藩主から宗家を継ぐ。
   越後の高田騒動を親裁し、堀田正俊を大老に任じ、譜代大名・旗本・代官の綱紀を粛正、天和の治と称される
   善政を実現した。
   治世の後半には側用人牧野成貞・柳沢吉保を重用、服忌ぶっき令や生類しょうるい憐みの令を出し、社会の文明
   化を推進したが、人民を苦しめ、犬公方いぬくぼうとあだ名された。


  江戸時代中期の初め頃、最も文化が発達したといわれる元禄時代
  元禄と言えば江戸を思い浮かべますが、
  元禄文化とは、主に上方 (京都・大坂) で発祥した文化の事を言います。
  この時代、上方は圧倒的な財力を誇っていました。

  井原西鶴 (大坂出身1642~1693 )『好色五人女』など。
  近松門左衛門 (越前:福井県出身1653~1724)『曾根崎心中』など。
  松尾芭蕉 (伊賀上野:三重県1644~1694)『更級紀行』『奥の細道』など。

  歌舞伎
  1603年、出雲の阿国(島根県、不詳~1613)が京都でかぶき踊。念仏踊が発展し、歌舞伎芝居の祖。
  1688~1704年頃、江戸では初代 市川団十郎(1660~1704)が「荒事」という、隈取化粧で力強く豪快な
       演技を始める。 上方では「和事」という柔和で気品のある「やつし」などの演技が完成。
  1736~1751年頃、上方では人形浄瑠璃が盛んに上演される。
  1804~1830 年頃、4代目鶴屋南北(江戸、1755~1829)が「東海道四谷怪談」などで活躍。

  日本の芸能 (人形浄瑠璃なども大坂・関西の文化) / 大坂 最大の大火

       元禄の三大作家



  まだ、江戸の独自の文化は始まったばかりなので、
  時代劇でよく見る江戸の賑わう町の風景は、実際は、京・大坂か1750年代以降の江戸の風景なのです。


  元禄の頃の江戸は明暦の大火による復興の街づくりの真っ最中、大工が花形の職業。大奥だけは独自の文化が
  発達。女性が少なかったという事は、子供も少なかったわけです。←後に、大阪と東京の銭湯の違いに現れます。

  【元禄地震】げんろく-じしん
   元禄161123日南関東に起こった大地震。震源は房総半島野島崎沖。マグニチュード7.9~8.2。
   小田原・江戸を中心に倒壊家屋2万戸、死者約5000人。ケンペル「日本誌」にも記述。


  公益財団法人 食肉消費総合センター 『江戸患い』 http://www.jmi.or.jp/info/word/a/a_103.html

  ≪ 江戸患い ビタミンB1欠乏による脚気 ≫

  元禄・享保時代、江戸・京・大坂の三都の市民の間では、玄米や雑穀を食べずに糠を
  きれいに落とした精白米を食べる風潮が広まっていた。
  これを常食することで糠に豊富に含まれるビタミンB1が欠乏し、麻痺型・水腫型の脚気の
  症状が表れた。当時の奇病の一つ。

  【江戸煩い】えど-わずらい 江戸患い
   元禄年間に精米された白米を食べる習慣が町民まで広まり、ビタミンの欠乏で起きる
   脚気かっけが大流行。


  江戸では脚気かっけ予防に良いとして蕎麦が食べられるようになったとも言われています。
  江戸時代中期の江戸の蕎麦は味噌を薄めたつゆでした。

  平安時代には貴族、大正時代や昭和の食糧難の時代にも、脚気が広まり多くの人が死亡しています。→「都患い

  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文
  明治時代、ビタミンB1の抽出に世界で始めて成功した日本人 鈴木梅太郎


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿国宝めぐり⑪ 京都・平等院を目指せ」』 13.01.02 総集編放送
  テレビ大阪 かがくdeムチャミタス 『冬こそオススメ! 淡路島グルメツアー』 19.02.24 放送

  ≪ サツマイモの伝来 ≫

  1734 (享保19) 年刊 『本朝世事談綺』菊岡沾凉 (表具師・俳人、伊賀上野生まれ、江戸神田
  在住) の2巻「甘薯さつまいも」には元禄の末 琉球より薩摩へくる…とあります。
  元禄年間 (1688~1704年)。宝暦年間 (1751~1764年)。

  京都府南東部の城陽市にもサツマイモに関する伝来説があります。
  城陽市 『15寺田いもを食べる嶋利兵衛』 http://www.city.joyo.kyoto.jp/0000004141.html
  寺田いも 江戸時代の宝暦年間に長池に薬問屋を営む嶋利兵衛が、壱岐の島で栽培方法
  を習得し、それを農民に普及して、富野・寺田地区で栽培され始めたといわれています。
  特に寺田地区の荒州(木津川の氾濫で出来た砂地の畑)で栽培されたものがおいしいと評判
  になり「寺田いも」と呼ばれるようになりました。

  【焼き芋】 百菓辞典
   さつまいもを焼いたもの。さつまいもは、加熱すると甘みが増す。江戸時代から食べられる
   ようになった。江戸時代の『甘藷百珍』(いもひゃくちん)』に登場する。

  江戸時代は鉄鍋や壺に入れて蒸し焼きにする方法 淡路島の道の駅の「つぼ焼きいも」




  徳川吉宗の享保年間 江戸・小石川で小松菜やサツマイモを栽培

  【十三里】じゅうさん-り 百菓辞典
   焼き芋のこと。「栗 (九里) より (四里) うまい十三里 (九里+四里)」の意。
   また、東京・日本橋から川越札ノ辻 (埼玉) まで約十三里あるため、「栗より四里分余計にうまい川越の芋」というしゃれが
   語源であるともいわれる。

  【石焼き芋】 百菓辞典
   焼いた砂利の中に埋め込んで焼いたサツマイモ。石焼き芋のひき売りは、第二次大戦後、食糧統制が解除された
   昭和20 (1945) 年代後半に、元祖と言われる三野輪万蔵が、東京で始めたのが最初と伝えられる。

 
 江戸時代の海上物流 北前船
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『今、日本酒が熱い!関西が生んだ奇跡の一滴』 13.02.07 放送
  NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『高田屋嘉兵衛』 前編 14.09.16 放送 / 後編 14.09.23 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『近世の経済と産業』 14.10.03 放送
  TBS 世界ふしぎ発見 ! 『北陸新幹線開業 ! 前田家加賀百万石 北陸三都物語』 15.02.28 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅31 「石川県・金沢港~金沢市・猿丸神社へ」』 15.11.26 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『キリスト教禁止と鎖国』 19.09.20 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸時代の経済と産業の発達』 19.09.27 放送

  2017年4月、北前船が「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」として日本遺産に
  認定されました。

  北前船日本遺産推進協議会 『北前船 KITAMAE 公式サイト【日本遺産・観光案内】』 https://www.kitamae-bune.com/


  ≪ 江戸時代の物流は船が中心 物流の拠点は大坂湾 ≫

  当時の物流拠点は、平安時代から日本最大の貿易港だった大阪湾 (堺・大坂・西宮) です。
  江戸時代中期は大坂天満に船大工が多くいたようで、江戸時代唯一の船の専門書も大坂で書かれました。
  航海の神様を祀る住吉神社の総本社は、摂津国一宮で平安時代の最重要二十二社の一つでもあった住吉大社。

  海外との交易は朱印船。長崎からの輸入物を国内に運んだのは堺船 (長崎・出島-堺)。
  幕府公認の物流船が菱垣廻船 (大坂-江戸、江戸廻船)。主に酒を運んだのが樽廻船 (西宮&大坂-江戸)。

  東北地方を通ったのが奥羽廻船で、東廻り航路 (東北-千葉の銚子。仙台藩など東北諸藩が利用)
  西廻り航路が、一般的に言われる北前船 (大坂-瀬戸内海-下関-日本海側-北海道) です。
  京都への物資供給は三十国船 (大坂-伏見) という定期船などが淀川を常に往来していました。

  最も重要なのは北前船で、この北前船によって物資と共に、上方の技術や文化が日本各地に広まりました。



 国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。

  ≪ 大坂が最先端都市 海上交通・物流の一大拠点で、あらゆる物が各地から集まっていた ≫

  1712年の『和漢三才図会』(著者は大坂の医師、寺島良安) の74巻「摂津」には、大坂からの北前船、菱垣廻船
  などの海路経由地と距離など書かれています。

  七十四巻「摂津」の土産のみ抜粋
  實綿ミワタ、繰綿、木綿、古衣フルギ、鯛、イヒダコ、鮮魚問屋(雑喉場)、鹽魚問屋(新靱町)、穀類問屋(北濱)、藥種(道修町)
  材木問屋(横堀・長堀)、干鰯ホシカ問屋トイヤ、燈トモシ油、酒(伊丹・池田)、酢(兵庫)、醤油(堺)、傘カラカサ、瓦(大坂)、西瓜(鳴尾)
  大根(都倉・椋橋)、人参(鹽町)、切炭(池田)、蕪菁カブラナ(天王寺)、○鐵フチカネ(針の下地)、鍋釜(道頓堀)、銅吹屋、船大工(天満)
  碇鍛冶、飴(大坂)、鳥貝(尼崎)、香附子(住吉)、團扇ウチワ(長町)、細大根(天満)

  大坂は天下の大湊ゆえ、万物は交易によって絶えることなく市が開かれるといえども産しない物も皆産するが如し。

  活鯛の出荷技術は大坂で確立かも?  桜鯛は泉州が名産
  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃


  ≪ 大坂は日本におけるパリ ≫ 

  翻訳され出版された1941 (昭和16) 年版の『ツンベルク日本紀行』(翻訳 山田珠樹、東京市神田の奥川書房 出版)
  1776 (安永5) 年に書かれた日本旅行記です。
  異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
  ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693

  「第八章」和蘭商館から江戸参府 1776年3月4日~6月25日 P.125~129から抜粋

  大阪の宿 宿の工舎も非常によく、又全くよい待遇をうけた。…食膳にアブラメ 【アイナメのことか】という肉の多い
  魚をだされたが、私は非常に美味だと思った。 【】は翻訳者の注釈です。

  大阪 大阪は日本の五大帝都の一つであって将軍に直属しているここには長崎と同じ行政が施かれている。
  奉行が二人居て、互いに交代し、交代にこの町及び幕府に住んでいる。海に挑み同時に全国の中央に位置を占めて
  いるものだから、日本中で最も又賑やかな場所となったのである。商品は各地からこの地に集まり、かつよい値に
  売れる。製造者及商人にして富めるものは、ここであらゆる投機の方法を試みることが出来る。
  往来に臨む家の地階は仕事場又は店となっていて、その美術的な陳列は観客を惹きつける。…
  この土地にはあらゆる種類の享楽機関があるので、富裕な人が群れをなしてここに住居を定めている
  この人たちが金を使い工任が工作に従い商人が活動するので、大阪は日本の巴里(パリ)になっている。

  【ツンベルク】Carl Peter Thunberg (1743~1828、スウェーデンの植物学者・医学者)
   シーボルト以前の日本研究の第一人者。リンネに学ぶ。オランダ東インド会社に入り、1775年(安永4)長崎オランダ
   商館医として来日、翌年出国。著「ヨーロッパ・アフリカ・アジア旅行記」「日本植物誌」。ツンベリー。



  ≪ 朱印船と鎖国 ≫  海外との貿易の許可を幕府から得た船

  【朱印船】しゅいん‐せん
   近世初期、朱印状によって海外渡航の許可を得た船。德川家康のころ、安南・呂宋ルソンなど東南アジア諸国との
   貿易に活躍。角倉船・末次船・末吉船など。御朱印船。

  【奉書船】ほうしょ‐ぶね
   朱印状のほかに、江戸幕府老中から長崎奉行にあてて出された奉書によって海外渡航を特許された船。
   1631年(寛永8)に始まり、33年からは奉書船以外の海外渡航は禁止された。

  【日本人町】にほんじん‐まち
   外国で日本人が集団的に居住する地区。17世紀初頭、鎖国までの時期に、東南アジア各地に発生した。
   朱印船が多く渡航したベトナム中部のフェフォ(ホイアン)・ツーラン(ダナン)やアユタヤ・マニラなどのものが代表的。日本町。






  【角倉船】すみのくら-ぶね
   江戸初期、京都の豪商・土木家 角倉了以 (1554~1614)、角倉素庵 (了以の長男 1571~1632) が安南アンナン=ベトナム
   などと通商するため、朱印状を受けた貿易船。
   ※京都市西京区嵐山にある旅館「星のや京都」の場所は角倉了以の邸宅 (書庫) があった場所らしいです。

  【末次船】すえつぐ-ぶね
   江戸初期、貿易商・長崎代官 末次平蔵 (博多商人 末次興善の次男 1546?~1630) が海外貿易のため派遣した朱印船。
   安南・台湾などに渡航。

  【末吉船】すえよし-ぶね
   大坂の陣の功によって河内2郡の代官になった末吉吉安 (末吉孫左衛門、摂津平野生まれ 1570~1617) が、
   安南、呂宋=フィリピン北部の主要島、シャム=タイなどに派遣した朱印船。

  【末吉吉安】すえよし‐よしやす (名は吉康とも書く、通称、孫左衛門。摂津平野の生れ、1570~1617)
   江戸初期の貿易家。朱印状を受け、呂宋ルソン・シャムなどに朱印船(末吉船)を派遣。大坂の陣の功によって
   河内2郡の代官に任じられる。
   末吉家は平安時代の坂上田村麻呂の子孫だそうです。現在の末吉家当主は32代目(2017年現在)。
  木接太夫 桃山時代に接ぎ木の技術を確立した坂上頼泰 (坂上田村麻呂の子孫で秀吉に仕えた武将)

  1609年、オランダ船が来航し、平戸に商館を開き日本との貿易を開始。
  1612年、禁教令を出し、キリスト教の禁止。1613年に教会の破壊や宣教師らの追放を行いました。
  1613年、イギリス船が来航し、平戸に商館を開き日本との貿易を開始。
  1616年、ヨーロッパからの船の寄港地を平戸と長崎に限定し、朱印状の発行も制限します。
  1635年、日本人の海外渡航禁止令と在外日本人の帰国禁止令が出ます。
  1639年、ポルトガル船の来航を禁止。オランダ商館を平戸から長崎・出島に移し貿易活動を制限しました。

  北海道・松前藩 (アイヌとの交易)、対馬藩 (朝鮮との貿易や外交)、長崎の出島(オランダ・中国)、薩摩藩 (琉球との交易)
  4つの外国との交流地を残し、他の地域は直接外国との接点を持たないようにした『鎖国政策』が完成。
  『鎖国』という言葉は、この体制での状態の事を江戸時代の人たちが言っていたもの。

  【鎖国】さ‐こく (1801年志筑忠雄がケンペル「日本誌」を抄訳し、「鎖国論」と題したのに始まる語)
   国が外国との通商・交易を禁止あるいは極端に制限すること。江戸幕府は、キリスト教禁止を名目として、中国・オランダ
   以外の外国人の渡来・貿易と日本人の海外渡航とを禁じた。

  【志筑忠雄】しづき‐ただお (長崎の人、1760~1806)
   江戸後期の蘭学者。オランダ語法を本格的に研究した最初の日本人。本姓、中野。号は柳圃。本木良永に学ぶ。
   「暦象新書」を編み、ニュートンの天文・物理学を紹介し、独自の星雲説を説いた。ほかに「求力論」「鎖国論」「助字考」。


 【鎖国令】さこく‐れい
   江戸幕府が鎖国体制をつくるために出した一連の法令の通称。特に1635年(寛永12)の海外渡航禁止令と、
   39年のポルトガル船来航禁止令をいう。

   一 日本国御制禁なされ候吉利支丹(キリシタン)宗門の儀、其の趣を存知ながら、彼の法を弘るの者、今に密々差渡る事。
   一 宗門の族、徒党を結び、邪儀を企れば、則ち御誅罰の事。
   一 伴天連(バテレン)同宗旨の者隠れ居る所え、彼の国よりつづけの物送り与ふる事。
    右、茲(ここ)に因り、自今以後、かれうた渡海の儀、これを停止(ちょうじ)し訖(おわんぬ)。此の上、若し差渡るにおゐては、
    其の船を破却し、並びに乗来る者、速に斬罪に処せらるべきの旨、仰出さる者也。仍て執達件の如し。  〈御当家令条〉



  北前船11 『北前船寄港地・船主集落』 https://www.kitamae-bune.com/about/main/
  NPO水澄 機関誌「ちんちょうち」平成27年第7号 『大坂と北前船』検索してクリックするとPDFダウンロード
  隠岐ユネスコ世界ジオパーク 『北前船』 http://www.oki-geopark.jp/episode/lifestyle/history/kita-mae-bune/ など

  【奥羽廻船】おうう‐かいせん 東廻り
   東北地方の日本海沿岸より北上し、津軽海峡を経由して太平洋岸を南下し、銚子 (千葉県東端の市。利根川
   河口の南岸)に至る海路を通った廻船。銚子から江戸までは積荷は川舟で運ばれた。
   寛永(1624~1644)年中から仙台藩が蔵米の江戸回漕を行なっていたが、寛文(1661~1673)年中、河村瑞賢
   幕府米回漕に成功してから東北諸藩が盛んに利用した。

  【奥羽廻船】 西廻り
   東北・北陸の諸港から日本海・下関海峡・瀬戸内海を廻って大坂にいたる海路を通った廻船。
   1638年(寛永15)鳥取藩・加賀藩がこの海路で船を大坂に送って以来次第に開け、
   1672年(寛文12)に河村瑞賢が海路に改良を加えてから盛んとなった。

  【河村瑞賢】かわむら-ずいけん (伊勢の人、1618~1699) 瑞軒とも書く。
   十右衛門・平太夫とも称。江戸前期の材木商・土木家。地理・土木の術に長じ、安治川・
   淀川・阿武隈川 (宮城県) の治水工事、また東回り・西回り航路を確立。

  右画像の仙台藩の「宮城丸」となっていますが、正しくは「早丸」で幕末頃のもの。



×宮城丸 ○早丸


  【安治川】あじ‐かわ
   淀川下流の分流。大阪市堂島の南から南西流して大阪湾に入る。貞享(1684~1688)年間河村瑞賢が開削
   河口部南側に天保山がある。

  東北は鎌倉時代・江戸時代など政治の中枢が関東にあった時代は、京都が中心だった時代と比べ、幕府支配が強化された
  ので自由度が少なく貧しかったが、江戸時代でも北前船の寄港する港のある藩は、交易により裕福な地域もあったと
  思われます。特に山形県の庄内地域 (酒田市・鶴岡市) は米の産地として、北前船での上方との交易が盛んだったようで、
  現在も関西の豊かな文化の影響を強く残しています。


  ≪ 北前船きたまえ-ぶね 主に 北海道の松前 ~ 福井県の敦賀 ~ 福岡県の門司 ~ 大阪    Wiki 北前船

  北前は(一説に日本海の意)近世前期の日本海 海運に用いた北国ほっこくの上方での呼び名。
  近世中期以降、北国廻船に用いた弁才べざい型の船の呼び名となり、また北国廻船 そのものの汎称となった。

  北前船の最大の特徴は、各寄港地で荷物の売り買いをしなから、最終目的地を目指すという商売船だったこと。

  1千石積の弁才船1艘の建造費はおよそ1千両。中古で500両の価格だったようです。
  500石積の中型船も多かったそうですが、最大の北前船は2400石積。
  1千石船で大坂-北海道を1往復すると1千両 (6000万~1億円) の利益があったようです。大坂の船の数

  春に北陸などから大坂へ出てきて出航準備を行い、4月頃に出港し6月頃までに北海道に到着。
  8月頃に北海道から出航し冬先に大坂湊へ到着。淀川の支流である木津川・安治川の河口で停泊し越年。

  江戸時代中期~明治20年頃まで物流の中心となり、寄港地に多くの利益をもたらしますが、明治期に鉄道が敷かれてから
  物流は陸上の鉄道輸送に代わり、明治37~38年の日露戦争で北海道周辺の海が危険になった事で無くなりました。
  特に敦賀~北海道航路は近江商人の船が多かったようです。

  大坂から北海道への下り荷は、大坂で「木綿・足袋・古着・酒・油など」を積み、瀬戸内で「塩・紙・砂糖・竹・御影石など」を
  積み、日本海側の沿岸で「鉄・米・わら製品・石材など」を積みました。その他、ありとあらゆる物が積まれたようです。
  江戸時代の初めに河内で本格的に綿花栽培が始まり、畿内や瀬戸内海で綿花栽培が広まっていきます。
  しかし寒い地方では綿花の栽培ができないので、切れ端の木綿でも需要がありました。
  瀬戸内海で積む荷で最も多かったのが塩で、この塩を利用する事で日本海側や東北の塩蔵品などが発達しました。
  米の生産が無かった北海道ではアイヌ民族も米を欲しがり物々交換が行われていたようです。






  北海道から大坂への登り荷は「ニシン・昆布など」で瀬戸内海各地と大坂で消費されました。
  綿花・稲などを栽培する為の田畑の肥料として関東からイワシを西日本に運んでいましたが、関東でも水田開発が進み
  地元需要でイワシが入手できなくなった為、北海道からニシンを入手する事になったようです。
  18世紀になると、ニシンを煮て魚油を搾り、その粕を肥料にする技術が確立して大量に供給されました。

  昆布だし、昆布の佃煮などは主に大阪の食文化。中継点となった富山では昆布を熟成させていたので消費が多い。
  昆布は上方を中心に西日本で消費されたため、入手しづらかった関東はワカメ文化になったいう説もあります。
  昆布は中国の内陸部に多かったバセドウ病に効くとして、長崎から中国へも大量に輸出されたそうです。

  18世紀中頃から大坂で繊維技術が発達、1785年に大坂で「松右衛門帆」という丈夫な帆が開発され、大坂―北海道を
  1年で2往復する事が出来るようになり、下関-隠岐-佐渡のルートも盛んに利用されるようになりました。

  公益財団法人 関西・大阪21世紀協会 『なにわ 大坂をつくった100人・河村瑞賢」
   https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/027.html

  ≪ 加賀100万石 ≫


 前田家を100万石以上に押し上げたのは、石川県九谷地方で作る磁器の
 九谷焼や、幕府に内緒で製造した金箔、能登半島で製造される輪島塗と
 呼ばれる漆器などの工芸品。

 軽くて丈夫な輪島塗は船の積み荷にも最適だった為、非常に人気となり
 高収益を上げました。輪島に重税を課した結果、より強い漆を開発し発展。

 北前船の寄港地として繁栄した日本各地には、北前船の船員たちの仕事
 歌が残るそうです。輪島には『輪島まだら』という北前船の民謡が現在も
 残っており、厄年を迎えた男性が歌い継ぐ伝統があります。

  【高田屋嘉兵衛】たかたや‐かへえ(淡路の人、1769~1827)   Wiki 高田屋嘉兵衛
   江戸後期の海運業者。一水夫から身を起こして北前船交易に活躍、のち幕府の御用船頭。
   択捉えとろふ航路を開くなど、幕府の蝦夷地経営に関わる。
   1812年(文化9)露艦に捕らえられたが翌年帰国、ゴロウニン釈放など日露間の折衝に
   当たった。

  【ゴロウニン】 Vasilii Mikhailovich Golovnin ゴローニン。(ロシアの海軍軍人。1776~1831)
   ディアーナ号艦長として世界周航に出、1811年(文化8)国後くなしり島に上陸、
   箱館・松前に監禁され、翌々年 高田屋嘉兵衛の斡旋により釈放。著「日本幽囚記」。

  【銭屋五兵衛】ぜにや-ごへえ (加賀宮越の人、1773~1852) 【銭屋】ぜにや … 両替屋、銭両替。
   江戸後期の豪商。北前船主として活躍。回米・米相場で巨富を築く。
   晩年、河北潟かほくがた埋立工事を行って漁民の怨みを買い、罪を得て獄中で病死。

  【加賀米】かが-まい
   加賀国産の米。品質が劣るとされた。
   1694年の西鶴織留一つ釜の―に、はしらかし汁、鰯菜いわしさいも同じやうにすわりて」。

  【走らかし汁】はしらかし-じる
   ざっと煮ただけで、手軽にこしらえた汁。また、味噌を入れただけで実のない汁。




  2~3月頃に、加賀の北前船関係者は金沢から徒歩で大坂まで行きます。冬の期間、大坂の川縁で停泊してあった船に
  荷物を積み、瀬戸内海を通り下関を回り、日本海を北上し蝦夷地 (北海道・松前や江差) へ向かいます。
  秋になって大坂へ戻る1年1航海だったそうです。1隻1航海での儲けは1000両 (換算すると約1億円) だそうです。






  北前船の豪商 高田屋嘉兵衛、銭屋五兵衛  和漢三才図会の「摂津」大坂からの北前船、菱垣廻船などの海路経由地など
  江戸時代から鮭が有名な新潟県村上市 江戸時代に世界初の鮭の自然孵化増殖を成功


  ≪ 桧垣廻船と樽廻船 ≫ お酒の知識と雑学1 日本酒・ビールなどの歴史

  大坂~江戸へは、公的な桧垣廻船ひがきかいせん菱垣廻船ひしがきかいせん や、酒樽を運送した樽廻船たるかいせんなどの
   定期便船が就航していました。幕末には樽廻船が菱垣廻船などを圧倒しました。
   樽廻船は、摂津国(兵庫県伊丹)の酒業組合が仕立てた専用船だったため積み込み日数が短縮し、海運が発展。
   大坂~江戸まで20日かかっていた輸送が6日と大幅に短縮されました。
   江戸中期頃 (江戸の人口60~70万人説が有力)には年間100万樽ほどの下り酒を運びました。

  【桧垣廻船・菱垣廻船】ひがき‐かいせん 桧垣船。
   江戸・大坂間を定期に航海した江戸時代の廻船の一種。その垣立かきたつの下部に桧垣様の格子を付けたからいう。
   江戸十組問屋とくみどいやと大坂二十四組問屋とに従属し、両地の問屋に関係ある商品および幕府・諸藩の荷物に限り
   回漕し、公の保護を受けていた。

海運業が発展
北前船・昆布ロード

樽廻船
樽廻船・菱垣廻船

  【江戸船】えど‐ぶね 江戸廻船。
   上方方面から、江戸向けの荷を運ぶ船。世間胸算用[1]「―一艘、五人乗の御座ぶね、通ひ舟付けて売り申し候

  【世間胸算用】せけんむねさんよう
   浮世草子。井原西鶴作。5巻5冊。1692年(元禄5)刊。大晦日おおみそかを背景とする町人生活の悲喜哀歓を描いた短編集。

  【樽廻船】たる‐かいせん 、たるぶね。
   江戸時代、大坂・江戸間の定期便船の一種。酒樽を運送したのに始まり、幕末には菱垣廻船を圧倒した。

  出汁は軟水の方が取りやすい。日本各地の水の硬度など。      東北の和菓子
  世界を救った日本各地の牡蠣。広島の牡蠣も大阪から広まった。   大阪の加工昆布の老舗
  各地に残るくじら餅 大阪天満宮・石川金沢・山形新庄・宮崎佐土原

  【江戸廻し】えど‐まわし … 貨物を、大坂から海路で江戸へ廻送すること。また、その貨物。
  【江戸三界】えど‐さんがい … 上方から遠く隔たった江戸の地。江戸くんだり。
  【下り】くんだり … 接尾(クダリの撥音化)地名に付けて、場末または遠隔の地を指すのに用いる語。

菱垣廻船 浪華丸

樽廻船 高田屋 辰悦丸

高田屋嘉兵衛の蝦夷地御用船


  【大黒屋光太夫】だいこくや‐こうだゆう 名は幸太夫とも (伊勢の人、1751~1828)
   江戸後期の船頭。1783年1月(天明2年12月)米を江戸に廻漕中難船、アリューシャン列島アムチトカ島に漂着、その後
   ロシアに滞留、女帝エカテリーナ2世に謁見、92年(寛政4)ラックスマンに伴われて帰国、見聞を具申。
   「北槎聞略ほくさぶんりゃく 」はその記録。

  江戸期における物流システム構築と都市の発展衰退 http://www.ymf.or.jp/wp-content/themes/yamagata/images/56_7.pdf
  日本経済と物流の歴史 http://www.trinet-logi.com/img/web_kogi_0409.pdf ← 戦後、1940年代以降の歴史


  読売テレビ ten. 『広島・福山市SP第一弾! 「鞆の浦」の魅力 日本遺産 歴史ある港町』 19.01.23 放送

  ≪ 瀬戸内海の交通の要所 広島の鞆の浦 ≫

  ここで潮流が変わるのを待ったそうです。






  【鞆ノ浦】とも‐の‐うら
   広島県福山市南部にある海岸。仙酔せんすい島・弁天べんてん島などの島々を含む景勝地。


  ≪ 物流拠点 大坂湾に浮かぶ船の数 ≫


 1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家)
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091

 『嬉遊笑覧』巻二下「器用」P.278~には様々な舟の事が書かれてあります。

  P.285
  檜垣は大坂廻船問屋の大船垣たてすぢを ひかきにする故名とす
  ハガセソ 越前船なり 舳へさきの形 とりの羽が への如くなるに依て名つく イサバ 小船にして磯辺をゆくを以て名とす
  押廻シ 千石船なり 舳を高くまげあげる故 おしはましと云 北国船 ドングリ船と云は形の似たるを以て名つく
  過書船 淀河筋運送の船 三百石をつむべし 今は川筋浅くなりて用がたし 今小船を用てテントウブネと云 三十石船也
  ケンサキ 凡荷物 十六駄を載す大和河内へ運送する船なり 長サ九尋余 深サ一尺四寸 ヘサキ尖り剣の形に似たり

  【過所船・過書船】かしょ-ぶね
   ① 過書 (関所の通行許可書) を得て航行する船。
    江戸時代、京坂間交通のため、淀川の通航を特許された船。

  P.287~288から抜粋。
  茶船はもと大船の荷物を分ち載て運送する為の船なり 上荷よりも小き船を云ふ (永代蔵)
  【一】難波橋より西見わたし云々 上荷茶船 かぎりもなく川波に浮びしと云へり 上荷船は廿石積なりとも 堀江船は
  三十石もあるなり 茶船は十石の荷物を運送の船なりとぞ
  当時 大坂七村に荷舟九百廿艘 中舟六百七十二艘 新上荷茶舟五百艘 茶舟千三十一艘 堀江舟五百艘
  都合 三千六百二十三艘となむ

  荷船=廻船などの大型の貨物船 千石くらい (最大で二千四百石積) 920隻、
  中舟=五百石積の廻船 672隻。
  堀江舟=三十石船 500隻 堀江は大阪市内の地名にもありますが、土地を
  掘って水を通した運河や疏水の事。
  上荷茶舟=二十石船 500隻、 茶舟=十石船 1031隻。
  1688年頃、大阪の7つの村の所有する合計は 3623隻あったという事になります。

  右の画像は大阪湾ではありませんが、中之島に並ぶ蔵屋敷と船の図。
  多くの川を行き来する船や漁船などを含めると、大坂では数えきれない程の
  船が常時稼働していたと思われ、これが「水都」とも呼ばれる所以でしょう。
菱垣新綿番船川口出帆之図


  【日本永代蔵】にっぽん-えいたいくら
   浮世草子。井原西鶴 (大坂の人、1642~1693、本名は平山藤五) 作。6巻6冊。1688年(貞享5)刊。各巻5章、30話。
   町人たちの致富に対するたくましい意欲と盛衰の物語。町人物の初め。1688年10月23日から元禄になります。

  【上荷船】うわに-ふね
   江戸時代、河岸場と廻船との間を往復して、上積みの荷物などを運ぶ小舟で、2、30石積のもの。
   主として大坂付近で用いた。


  毎日放送 魔法のレストラン 『なにわ発祥グルメ150年物語』 13.08.26 放送
  TBS 水トク! 林修の歴史ミステリー 『新説! 德川埋蔵金 東京湾に眠る黄金を探せ!』 17.11.15 放送
  読売テレビ ten. 『東海道は57次まであった! 江戸時代の宿場「枚方宿」』 18.09.12 放送

  ≪ 大坂と京都との定期船 ≫

  京街道 (1596年に豊臣秀吉が淀川沿いに大坂城~伏見城を繋ぐ道「文禄堤」を築堤。徳川家康によって東海道として
  延長され、東海道56次目とも言われる) の枚方ひらかた宿は大名が泊まる本陣など約70の旅籠屋があり発展しました。

  【三十石船】さんじっこく‐ぶね 積荷能力が米30石相当の和船。
   特に、江戸時代、荷物と客とをのせて、大坂と京都伏見 間の淀川を往来した過書 (関所通過許可書を受けた) 船を指す。

  江戸者が、京坂を一緒くたにするので、三十石船に乗り合わせた京都人と大坂人で、その事について口論になっていた
  ようです。 三都の気質の違い 江戸ッ子とは? ほぼ現在言われているのと近い都府民気質のようです。







  上の右画像の船は明治頃の三十石船。下右は再現された十石船で、川を遡る時は岸から4~5人で船を曳いたようです。
  浪曲 (浪花節) の「清水次郎長伝」の森の石松の「喰いねぇ、喰いねぇ、寿し喰いねぇ」という有名なセリフは
  三十石船で、バッテラ寿司を進めているシーンのもの。

  【奈良茶船】ならちゃ-ぶね
   奈良茶飯を売る店。もと伏見と大坂との間の三十石船の客などを相手に商売した。

  三十石船を相手に酒や餅・芋などを売っていた船は「くらわんか船」と呼ばれていました。
  船上の武士に対しても「飯食わへんか?」と呼びかけても良い租言御免の不作法特権と独占的営業権があったそうです。

三十石船

くらわんか船

十石船

十石船


  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf

  大坂~伏見へは三十石船で、大坂→伏見への上りは1日。下りは半日。上りの方が料金が倍ほどした為、大坂から
  伏見へは陸路を歩く人が多かったそうです。

  伏見から京都までは高瀬川を遡ります。三十石船より早い今井船は帆を使わず手漕ぎで川を遡る手操船で江戸時代
  初期からあったそうです。この今井船によって、大坂から京都へ鮮魚が運ばれました。

  【今井船】いまいぶね 大辞林
   江戸時代の淀川の川船の一。大坂・伏見間に就航した早船で、三十石船よりも快速であることを特徴とした。
   今井道伴が創始。

  【高瀬川】たかせ-がわ
   ① 長野県北西部の川。(以下、略)
    京都市内にある運河。鴨川から取水し、伏見を過ぎ淀川に通じる。長さ十数㎞。
    1611年 (慶長16) 、京都の豪商・土木家 角倉すみのくら了以が開削。高瀬舟を運行したところから名づけた。

  【角倉了以】すみのくら‐りょうい(1554~1614)京都の豪商
   安土桃山・江戸初期の豪商・土木家。名は光好。洛西嵯峨に住む。算数・地理を学び、安南・東京トンキンに朱印船
   (角倉船)を派遣して貿易を営む。嵯峨の大堰川おおいがわ・富士川・天竜川の水路を開き、また、京都に高瀬川を開削。

  江戸時代の出版事情 京・大坂・江 角倉了以の長男が近世版本の源流とも言われる嵯峨本を出版
  活鯛の出荷技術は大坂で確立かも?  桜鯛は泉州が名産
  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃

  1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』(編著者は大坂の御城入り医師の寺島良安、出版地は大坂)
  第七十四「摂津」の土産 (当地で産するもの、多い物)には、多数の物が書かれ、大坂には各地の物が集まっていた
  事が書かれてありますが、「材木問屋」「舩大工」も書かれてあります。他国にはありません。摂津国のみの土産。


  ヤフー知恵袋 『江戸時代まで京都、大阪間の交通には淀川の船…』 「ものと人間の文化史「船」須藤利一著・参照」のアンサーより
   https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111766746

  1722年以降、三十石船は船頭4人から6人に増やして今井船と速さを競ったそうです。大坂~伏見は12~13時間、
  歩くより少し遅い程度 (下りは1/2の時間)。
  船賃は、幕末の天保年間 (1831~1845) の頃で、上り一人前180文・下りは84文のようです。


  ≪ 大坂で刊行された江戸時代唯一の船の専門書 ≫

  江戸時代の最も船に関する事に詳しい書『和漢舩用集わかん-せんようしゅう』著編者は摂州 (大坂) の堂島に住む金澤兼光、
  1766 (明和3) 年初版の出版は大坂の樋屋角左衛門。(宮内庁が所蔵しており、申し込めば閲覧可能なようです)

  この書の第五巻などには「三十石舟」「今井船」「高瀬舟」美濃の「鵜飼」江戸の「湯船」など様々な船が解説されています。
  この書の1827 (文政11) 年版 全12巻、大坂の藤屋徳兵衛ほか6名が出版した原本が下記のサイトで無料で見れます。

  京都大学附属図書館所蔵 重要文化財及び古典籍 [和漢舩用集]  https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/was/index.html

  著書は、大阪堂嶋の金沢兼光により、宝暦十一年(1761)に書かれたものであり、自らの船大工としての経験をもとに、
  船に関する中国・日本の文献を渉猟し、船に関係するあらゆる事を記述してある。
  いわば、江戸時代中期に書かれた「船についての百科」と言うべき書であり、今なお利用されている
  特に、船、船用具、船大工の道具についての詳細な記述は、現物資料に乏しい当時の造船、航海技術資料として重要で
  ある。 著書は、明和三年(1766)と文政十一年(1827)に刊行されているが、本画像は文政十一年刊本による。

  江戸の漁業および江戸・関東における魚の流通システムは、大坂の摂津系問屋が確立して仕切っていました
 
 「くだらん」=「つまらないもの」の語源
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸時代・近世の経済と産業』 14.10.03 放送

  日本各地の特産品が大阪に集められていました。
  そして、「上方」(都のあった京都を含めた地域)から、江戸にやってくる物は優れた
  物が多かった。

  『上方から江戸には悪い粗悪品は下ってこないから』というのがあります。
  (あくまで語源の一説ですが、最も有力な説)

  江戸時代、池田や伊丹、灘など阪神地域から杉樽に入れられた酒は、舟で約一カ月
  かけて江戸に運ばれていました。その間に杉の香が酒に浸み込み良い風味に。

  江戸では上方から下ってきた酒を「下り酒」として珍重

  醤油なんかも16世紀後半~18世紀半ばまで上方が上等品です。
  醤油 <1升=1.8L=1.5kg> 関東醤油 60文 990円 / 下り醤油(上方醤油) 100文 1,650円

  良い物しか江戸に下ってこないので「下らぬ」物は=質の良くない物、価値の無い物。
  という事になったらしいです。

  ※ 語源として『百済ではない』という説があるそうですが、「くだらん」は江戸庶民が言い
  始めた言葉である可能性が高く、天皇の存在すら知らない人が多い江戸庶民が
  百済の事なんて知る事はありません。

  1809~1813年頃に江戸で出版された式亭三馬の『浮世風呂』では「いつまでも下らぬ
  趣向の毫とりて」とあります。当時は「くだらない」ではなく「くだらぬ」。

  「百済ならぬ」→「下らぬ」より、「下って来ぬ」→「下らぬ」の方が自然なのです。






  あらゆる物において上方の文化や技術・製品などが勝っていた事が分かります。
  昭和頃には下記のような言葉が言われていたようです。

  東京の大田区のモノづくりのスゴさ 『歩道橋から設計図を投げたら、次の日に製品になる
  東大阪のモノづくののスゴさ 『設計図がなくても、次の日に製品になる』と、例えられるそうです。

  参考:醤油の歴史 ヤマサ醤油 http://www.yamasa.com/soydoc/history/history03.html
  江戸時代の物価早見表 http://www.teiocollection.com/kakaku.htm

  西瓜(スイカ) 40文 660円  鮨 <握り鮨=1個> 1貫8文 132円 黒砂糖 600g 120文 1,980円
  ゆで卵 1コ 20文 330円 豆腐 1丁 50文 825円  但し、江戸時代の豆腐1丁は現在の何倍もの大きさ。
  蕎麦・うどん 1杯 16文 264円  米 1升=1.5㎏ 100文 1650円 ところてん 1杯 70文 1150円 ←誤記と思われます。

  守貞謾稿の上巻 第五編生業下「心太賣」の記述を簡潔に抜き出すと 「ところてん1個 1文 (幕末インフレで100円くらい)
  で買って、後に砂糖や醤油をかける」とあるので、砂糖や醤油は家でかけたか別料金だったと思われます。

  江戸初期~中期の最上の酒は伊丹、続いて池田の2強。 中期以降、これらの酒蔵が灘へ移ります。



 幕末の皇都午睡 三編上之巻 P.6~7 皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9

  三都と詞をわけて云時…江戸詞とは中分より下賤の詞也…
  江戸の上製菓子屋に京都御菓子と印せる所多くして 京大坂は長崎御菓子と印せば 長崎にてはまた京都菓子と
  云 大坂には烟草入煙管は大方江戸物産といへば 江戸にては何かの物を下り下りとて皆大坂の物と呼びて売る
  然れば都會の地は名前をかるをお互ひ也としるべし

  江戸も京都も大坂も長崎も、お互いに良い品を作っている (本場の) 土地の名前を借りてイメージで売っている事を知るべき。

  「烟草=煙草」「煙管=キセル」

  カステラなどり南蛮菓子は長崎菓子、和菓子の発祥は京都、江戸への物資は大坂 (摂津)や灘などからで合っていますが、
  それとは違う物まで、地域ブランドイメージを付けて商売していた事を、本書で指摘しているようです。(産地偽装か?)

  1543年に南蛮貿易で堺に輸入されて以来、江戸時代も煙草包丁は品質の高さから幕府の保護を受け堺が唯一の生産地
  でした。  刃物の街 堺 刃物ミュージアム


 1830年刊の『嬉遊笑覧』巻二中「器用」には
  羊羹といふ紙煙草いれ 四五十年以前 江戸橋四日市の竹屋清蔵にて かます形なるを百文つゝに売たり
  其後 松本屋といふ紙たばこ入の棚を田所町に出して くすべ紙のよきを製すきせるは池の端の住吉屋清兵衛が…

  上記の前のページには煙草入れについて詳しく書かれてあります。京や難波では京都で作られる油紙で製造。
  江戸では油紙ではなく、当初はちりめん紙の類で製していたが、伊勢の壺屋紙を真似てしだいに上品に作るように
  なったなどの記述があります。

  また煙草が日本に初めて伝来したのは天正 (安土・桃山時代1573~1593年) の初年。慶長10年 (1606年) 伝来の
  説は竹筒に入れて吸う物の事で、後に煙管は真鍮製になった。江戸の流行物は篠丹波たばこに肥後煙管などと
  書かれてあります。



  ≪ 「大阪人はケチ」という関東の偏見 ≫ (← 東京一極集中政策の偏向報道による洗脳された思考) 東京メディアの偏向報道

  大坂商人がケチだった。という偏見を植え付けている話の一つに大坂の商家では、到来物 (頂き物) の甘い菓子が
  あると、奉公人や丁稚、小僧さんに食べさせていた。(出典は書かれていない)
  夕食前に甘い物を与える事で、食欲を減退させ食事量をケチる為。というように説明している本がありましたが…。

  これは全くバカげた考え方です。古今東西、主食より菓子の方が贅沢品。
  江戸時代では砂糖はまたまだ高級品。それに対し、京都、大坂、江戸では白米の食べ過ぎで脚気になるくらい
  庶民がたくさん口にできたもの。しかも大坂は米相場もあり、流通の4割以上が集中。他所よりは米の入手は簡単です。

  ※ 関東は武家文化の為、見栄を張る所に金をかける「武士は喰わねど高楊枝」
   大阪は商人文化の為、実質にお金をかける。大阪城天守閣の再建、南海電鉄など寄付文化があります。

  江戸時代に江戸ッ子たちが「ケチ」だと悪口を言ったのは大坂商人ではなく、近江商人の事です。
  江戸においては近江商人や伊勢商人が大きな成功をしていたので、嫉妬から倹約家の近江商人に言った悪口です。

  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文
   東京では納豆が非常に好まれた事が書かれてありますが、この頃の東京人の感覚が分かる文です。

  現在、大阪に付けられている悪いイメージの大半は元々東京の現実。
  江戸・東京の良いイメージの多くは京や大坂の史実をパクった物です。
  都合の良い部分だけを取り出して史実としていたり、上っ面の装飾されたデータだけで語っているのが東京。
  それぞれを詳しく見ていくと、東京は韓国並の嘘だらけという事がご理解できるはずです。

  滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった

 
 【 出汁(だし)文化は、日本が最も発達している理由 】    大阪がダシ文化を完成・発展させたと言われています。
  NHK 和食が世界遺産? ~おいしい日本 1万5千年の旅~ 13.01.02 放送
  テレビ東京 所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ ! 14.01.12 放送
  日本テレビ ザ ! 鉄腕 ! DASH ! 『世界一うまいラーメンつくれるか』 14.12.07 放送
  テレビ東京 世界!ニッポン行きたい人応援団SP 『ニッポンを愛してやまない双子の少女 米国からご招待』 17.09.28 放送
  テレビ大阪 やさしいニュース2 『昆布が高値 どうなる大阪の食?』 18.11.05 放送

  人類が他の動物と違うのは料理をする事。特に土器を使い食材を煮込む事で食の幅が大いに広がった。

  欧米など肉食文化圏では、肉類を煮込む事で旨味がでてくるので、ダシという概念が薄いのに対し、日本では魚も
  食べるが、基本は菜食文化圏。
  野菜だけ煮込んでも旨さに欠けるので、魚や昆布などから出るダシを重要視するようになったそうです。

  特に京都、大阪の上方が出汁を重要視するのは、北海道の昆布も高知のカツオも米も、日本中のあらゆる最高
  級な食材が大坂に集まっていたから。大阪、京都は昆布と鰹のあわせ出汁を使うのが基本。






  大阪のうどんを代表する店としてメディアによく取り上げられる道頓堀にある今井の今井徹 社長によると、
  大阪は混ぜるのが好き。かつおのダシというのが元々あって、昆布ダシをミックスした時に+2じゃなくて、
  その何倍もの美味しさが出た。カツオやイワシなどの削り節と合わせた時にバランスがピシッと合うのが
  どうしても天然なんです。

  植物性の出汁動物性の出汁」 で、旨味が何倍にも感じられる事が科学的に分かっています。

  【グルタミン酸】
   蛋白質を構成するアミノ酸の一つ。白色結晶。水に溶け、旨みがある。
   グルタミン酸のナトリウム塩は昆布の旨みを形成するもので、調味料としても製造される。

  【イノシン酸】(inosinic acid)
   ヌクレオチドの一種。
   イノシン酸ナトリウム(ナトリウム塩)は、鰹節に似た独特な味の、無色または白色の
   結晶で、調味料として製造もされる。


  上の画像は鉄腕DASHの究極のラーメンを作る回の一部分ですが、ダシを取る時に画像のように煮立たせては
  いけません。
  大阪と関西の食文化2 大阪の各老舗が教える昆布ダシの上手な取り方、簡単な取り方、一番ダシ、二番ダシの取り方


北海道の3大産地

大阪の味の昆布ダシ

大阪の高級おぼろ昆布

富山の細工昆布


  おぼろ昆布などは富山などでも作られていますが、江戸時代頃は大坂で主に生産されていました。
  おぼろ昆布を作るには特殊な包丁が必要で、これは堺で作られていました。

  「をぐら屋大阪戎橋筋」の三田智則さんは手すき おぼろ昆布の第一人者として2004年に「卓越技能章」を厚生労働省
  から授与された現代の名工。上質の北海道天然真昆布を使った「太白おぼろ昆布」は50gで1312円。
  上記の富山のおぼろ昆布でも100g930円、とろろ昆布は300円。

  【細工昆布】さいく-こんぶ … 昆布を加工した食品。とろろこんぶ・おぼろこんぶの類。大阪の名産。


  朝日新聞 14.01.20


  上のカツオ節の購入金額で沖縄がすば抜けて1位なのは硬水地域のため、昆布などではダシが出にくいという事も
  関係しているように思います。

  1785 (天明5) 年 『大根一式料理秘密箱』 著者不記 京都 西村市郎右衛門、他 出版
  1803 (享和3) 年 『新撰庖丁梯 しんせんほうちょうかけはし』 杉野駁華すぎのばくか (滋賀県出身の茶人) 著 大坂 浅野弥兵衛、他 出版

  【池田菊苗】いけだ‐きくなえ(京都生れ、1864~1936)
   化学者。東大教授。「味の素」を創製。理化学研究所の設立に貢献。




 1643年刊『料理物語』 「第二 磯草乃部」には下記の海藻類が挙げられています。

  〔昆布〕… 〔わかめ〕… 〔あらめ〕… 〔たがらめ〕… 〔青のり〕… 〔もづこ〕… 〔かぢめ〕… 〔とさか〕… 〔あまのり〕…
  〔あさ草のり〕…〔十六島たっふるひ〕… 〔かたのり〕… 〔みる〕… 〔おご〕… 〔しやうがのひぼ〕… 〔のろのり〕…
  〔ふじのり〕… 〔ひじき〕… 〔ほだはら〕… 〔ところてん〕… 〔のとのり〕… 〔はま松〕… 〔ゑんず〕… 〔めみゝ〕…
  〔につくわうのり〕…

 昆布〕 汁、に物、にあへ、くはし、むしつけたしに、あぶらあげ、其外色々 〔わかめ〕 汁、さしみ、あぶりさかな
  きざみ酒に入、其外色々 海苔と海苔巻き寿司


 1643年刊『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部

 だし〕は かつほのよき所をかきて、一升あらば、水一升五分入 せんじ、あぢを すひみて あまみ よきほどに
  あげて吉、過ても惡候、二番も せんじ つかい候

  だし酒〕は かつほに 鹽ちと入、新酒にて一あは 二あは せんじ、こして さまして よし

  しやうじんのだし〕は かんぺう こんぶ やきても入、ほしたで、もちごめ ふくろに入に候、ほしかぶら、ほし大根、
  右の内 とりあはせ よし

  昆布出しを使う料理は「こんぶだし」との記述があるので、料理物語の「だし」とは「鰹出汁」の事を指すようです。


 1645 (正保2) 年刊の俳諧書『毛吹草』(京都の松江重頼 編)に松前の昆布が紹介されているようです。


 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著 汁部 上方で書かれた手書本。
  千葉大学によると、料理物語より普及しなかったが、聞書の約半数は出所の明記がある。

 うけいり味噌仕方 上件の味噌合にする うけいりとは かまぼこの塩の不入を云也…

 惣而 汁の吸口の事 …傅殿 白味噌一升ならば、赤味噌二合に合する 是は客十人程の時の大鉢也
  白味噌 塩少辛き時は 赤みそひかへ 赤みそ辛きときは 白味噌増也 此等の合やう 能 見分る也 右の味噌を能すり
  白みそ赤みそ別々にすりわけ すいのふにて能こし 此二色を鍋に仕込 だし袋を入申候 味噌のこきと薄と 中味噌と
  三色の加減は仕込様に水にて仕候也…

 味噌煮の鳥の汁方 右如 赤味噌 白味噌 二色にすりわけて…
 うけいり味噌仕方 上件の味噌合にする うけいりとは かまぼこの塩の不入を云也…
 間引菜汁方 白味噌七合 赤味噌三合に合一つに能すりこして中みそにして鍋に仕込…

  【受入り】うけ-いり
   ① 受入豆腐の略。 ② 魚のすり身を小さく丸め、湯引いたもの。汁の実や煮物にする。 

  上記の記述から、白味噌と赤味噌の合せ味噌 (中味噌) 仕立ての料理が、この頃には食されていた事が分かります。

 鱈すまし汁方 水だしにて仕立る也 水だしの方 水一升に鰹節一本 昆布二枚ほどせんじ申候…

  上記の記述から、鰹と昆布の合せ出汁が使われていた事が分かります。  「=よく」
  また、昆布出汁、醤油の澄汁仕立の汁のりょうりも数点見受けられます。

  千葉大学 教育学部 研究紀要 第25巻 第2部 『古典料理の研究 (二) 料理塩梅集について』
   http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715150.pdf?id=ART0007458558

  『料理塩梅集』には、「白味噌と赤味噌の合味噌」「鰹と昆布の合出汁」「ねぶか=関西でのネギの意味「なすび」
  「かぶら=蕪」、「笊籬いかき (畿内と奥州)=ざる (江戸)」 など、上方の言葉と料理法などがよく登場しますので
  上方の人間が著者である事は間違いないです。
  上記の塩気の無いカマボコが食されるとすれば、生産地の大坂であって京都ではない。
  また、「小菜中菜汁之事 京葉汁無別儀」には「京のちやこ女が…いふは」とあり、著者が京都人であれば、このような
  記述は書かないと思われます。「ちやこ=ちゃこ (飯盛り女、旅宿や料理屋の女中) の事」。
  この本は刊行されたものではなく、手書本の写本で広まりました。
  京都ではすでに出版が確立していましたが、大坂での出版は元禄になってからなので手書本で出回ったと推測できます。

  これらの内容から、個人的には料理塩梅集』の著者は大坂人だと推測しています。


  テレビ東京 出没!アド街ック天国 『東京・日本橋SP』 13.10.19 放送
  フジテレビ 報道2001 『"日本の食"を守る米国人女性 先人の知恵を追い求めて…』 13.12.06 放送

  ≪ 天然出汁を取らない日本人が増えています ≫

  番組の東京での調査では天然の出汁を取っていない人は16/25人。
  米国から埼玉県の農家に嫁ぎ、味噌も大豆から手造りするなどし、英語の本を出版して和食を世界に紹介している
  八須ナンシーさんは言います。
  ここは島の国だから、日本の大事な大事な大事なものは魚・大豆・米。ダシが一番大事なこと。日本人はこれを使わなく
   なっちゃうと、これは無くなる。






  1699 (元禄12) 年、現在の三重県四日市出身の高津伊兵衛 (初代) が東京・日本橋で鰹節と塩干類商を開始したのが
  「にんべん」の創業。1720(享保5)年に鰹節の小売を始め、1948(昭和23)年に屋号を「にんべん」へと改称。
  1969 (昭和44) 年に、日本で初めてのカツオ節のフレッシュパックを発売。(にんべんHP)

 
 鰹節
  毎日放送 ちちんぷいぷい 13.12.05 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿縦断622㎞の旅㉙ 京都・園部町から京丹波町へ」』 14.11.27 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『和歌山について調査した件』 15.02.23 放送
  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf

  ≪ 現在のようなカツオ節にしたのは和歌山県が最初 ≫

  平安時代の承平年間(931~938)にまとめられた日本最初の分類体の漢和辞書である倭名類聚鈔に「堅魚煎汁
  加豆乎以呂利」とあります。

  現在のカツオ節に近いものが最初に造られたのは紀州(和歌山県)です。

  【鰹色利・鰹煎汁・堅魚煎汁】かつお‐いろり
   鰹節を作る時のゆで汁もしくは蒸し汁を煮詰めたもの。調味料として用いる。

  【色利・煎汁・以呂利】いろ‐り
   カツオ節または大豆を煎じた煮出し汁。煮物の調味に用いる。


  【鰹節】かつおぶしかつぶし
   おろしたカツオの身をゆで、または蒸し、焙あぶって乾かし、黴付かびつけを施して日光で乾かしたもの。
   古く紀州に発した。削って出し汁に用いるほか、料理にかけたりする。

  ちなみに、幕末の江戸では「かつぶし」と言っていました。


  ≪ 現存する最古の鰹節 ≫

  江戸時代、園部藩 (京都府南丹市) の初代藩主の小出吉親 (1590~1668) が園部の街づくりを行ったそうですが、
  史料がほとんど残ってないそうです。
  数少ない史料のうち、残っているのが小出吉親が大坂の陣に兵糧として携帯した鰹節 (京都市の井伊美術館 所蔵)。

  小出吉親の鎧が発見され井伊美術館が買い取ったところ、その鎧の中に袋に入った『勝男武士』と書かれた鰹節が
  ありました。







  戦国時代~江戸時代は 『鰹節=勝男武士』として縁起を担ぎ、武士が好んで戦に携帯したそうです。
  また梅干しも兵糧として欠かせない物で、梅干しを見てツバが溢れさせ喉の渇きを潤したり空腹を凌いだと
  言われています。

  上記リンクの『日本人と刺身』の論文には http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf
  少なくとも江戸の初期まではカツオは武家や公家には余り食べられていなかった。勝魚として、戦時の携帯食
  としてのカツオ節の便利さで武士の間で重宝がられたと言うが、少なくとも平時の生活のうちに見る事は出来ない。
  とあります。

  1697 (元禄10) 年に大坂で刊行された『本朝食鑑』には駿豆・相武の産は味が浅く、肉は脆く、生食する方が
  上品であって、乾堅の場合は味がいまひとつで、やや薄いとあり、関東で獲れるカツオは鰹節に適さない
  としています。この頃の関東ではカツオはワサビではなくカラシで食べていました。

  初かつお 江戸ではカラシで食べていた、鰹タタキは現在と全く違った料理だったなど
  高知県のカツオのタタキと、明治時代中期の高知の食文化が分かる書 色んな発見がありました。
  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃


  NHK 和食が世界遺産? ~おいしい日本 1万5千年の旅~ 13.01.02 放送
  フジテレビ 報道2001 『"日本の食"を守る米国人女性 先人の知恵を追い求めて…』 13.12.06 放送
  日本テレビ ザ ! 鉄腕 ! DASH ! 『世界一うまいラーメンつくれるか』 14.04.27 / 同 14.08.17 放送 / 同 14.12.07 放送

  高知県 鰹節





  1674 (延宝2) 年頃、紀伊の甚太郎 (通称:土佐の与一) が、土佐の宇佐浦で鰹の焙乾を始めたのが土佐節の起源の
  ようです。


  鹿児島県 枕崎市  カツオ節の最高級品「本枯節ほんがれぶし 世界で最も固い (水分が飛んで) 食品の一つ。






  鹿児島県 指宿市  鰹節の生産量第2位の鹿児島県で農林水産大臣賞を受賞した坂井商店。
   カシやクヌギの煙を使って鰹を燻す『焙乾』の後、ユーロティウム ハーバリオラムというカビを吹きかける事で、
   カビが鰹の脂分を分解します。天日干しとカビ付けを繰り返して鰹節ができます。











  静岡県 西伊豆町




 1643年刊『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部」 1643年刊『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部」の全文

 だし〕は かつほのよき所をかきて、一升あらば、水一升五分入 せんじ、あぢを すひみて あまみ よきほどに
  あげて吉、過ても惡候、二番も せんじ つかい候
  だし酒〕は かつほに鹽ちと入、新酒にて一あし 二あはせんじ、こしさましてよし
  しょうじんのたし〕は かんぺう こんぶ やきても入、ほしたで、もちごめ ふくろに入に候、ほしかぶら、ほし大根、
  右の内とりあはせよし

  出汁は、鰹の良い部分だけを欠いて、鰹一升あれば水を一升5合入れて煎じ、味を見て甘味が程よい上げて良い。
  煎じ過ぎても味は悪くなるなるものなり。という様な事が記されています。


 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
  汁部 味噌汁方

 惣而そうじて味噌汁は白味噌斗ばかりは しなみりとなく しょびしょびとする故に悪也 又赤味噌斗は しつこき上に
  塩辛き味出 しっぽりと うまきなき故悪也 此故に赤みそ一升ならば 白味噌二合半 又 三合まぜに合て 味噌汁
  仕立候へば よき程に成申候 此上に だし袋 鰹にして入候よし 委左詿 赤みそと白みそと格別にすり置
  すいのふにて能よく越置 白みそ三合まぜの心得にして鍋に入 鰹だし袋も入 焼立申候

  鰹だしの事 能よく節を上皮をけづり 正味をひらひらとけづり 袋に入候 鍋の中にて にへあがりあがり する時
  袋の内 緩々と仕候へば だしよく出る故に広がよし 袋だしのよきと云は うまみ いまだ無之時は 其儘入置
  うま過候時は だし袋を其儘取事の自由なる故也 又だしにする鰹 水にて洗候へば くさくなく候 妙若鰹けづり
  申し候共 さっと水にて洗ふがよし すまし汁のだしは尤にだしが能よく候也

  鰹水だし方 皮けづり捨 真の正味を水にて よく洗ひ 扨さて 桶に水を入 其水に鰹の真入 小半時 水に入置
  其水を則用ふ ゆ共にせんずる也

  味の素 明治42年発売当初の瓶 「うまみ」は日本人が発見



  ≪ 東北では、カツオ以外の魚介を出汁に利用する事が多い ≫  東北の和菓子

  京都、大阪など 関西ではカツオと昆布の合わせ出汁を使用していたが、昆布やカツオが入手できない地域は身近で
  獲れる魚や貝を干して保存食にすると共にアミノ酸が増し出汁を取っていました。

  大阪などでも昆布やカツオ以外のイワシの煮干し・アジ節・サバ節・シイタケなどから出汁を取っています。






  例えば宮城県ではカツオ節が入手できるようになったのは最近 (たぶん昭和の後半くらい?)、高価な物という感覚だった
  ので、ヒガンフグやアユ、ウナギ、ナマズ、ドジョウなどで出汁をとっていました。(ぬるみのある魚は良い出汁がでるそう
  です)。島根県・鳥取県のアゴ (トビウオの別称) 出汁も知られています。





 
 昆布
  NHK 和食が世界遺産? ~おいしい日本 1万5千年の旅~ 13.01.02 放送
  NHK・大阪 えぇトコ 『銀シャリ&近藤夏子の"ご長寿・健康案内" ~東大阪・石切神社界わい~』 14.01.24 放送
  毎日放送 水野真紀の魔法のレストランR 『今、市場がエライ事になっています ! 大阪 黒門市場 VS 京都 錦市場』 14.11.03 放送
  日本テレビ ザ ! 鉄腕 ! DASH ! 『世界一うまいラーメンつくれるか』 14.12.07 放送
  テレビ東京 世界!ニッポン行きたい人応援団SP 『ニッポンを愛してやまない双子の少女 米国からご招待』 17.09.28 放送
  テレビ大阪 やさしいニュース2 『昆布が高値 どうなる大阪の食?』 18.11.05 放送

  昆布を食べるのは世界中で日本だけの文化 日本では岩塩がないので、主に海の塩を食塩にしてきた。
  縄文時代から伝わる藻塩作り (海藻を利用した塩) から、海藻に含まれるミネラルや旨味成分に気付いた可能性が
  高いです。

  真昆布が最上品質
  昆布の生産はほぼ北海道。獲れる場所によって名前が異なり、3大昆布は「真昆布」「利尻昆布」「羅臼昆布」。
  函館辺りの北海道南部が「真昆布」と呼ばれるのは、江戸時代からこの一帯で獲れる昆布の利用した加工品が
  最高級品になったからのようです。特に函館の白口浜の真昆布が有名です。






  利尻や羅臼の昆布は函館や松前から北前船で日本海側を通り下関を回って瀬戸内海を通り大坂へ。
  18世紀になると昆布は長崎や鹿児島、琉球を通じて清 (中国) へも輸出されました。


  北海道 函館白口浜の真昆布





  大阪の神宗かんそうでは白口浜の天然真昆布の北海道こんぶ製品規格の1等品質のものを使用。
  塩昆布に使う部分は上の画像右端で示している中央部分だけを使用し、昆布ダシで塩昆布を炊き上げます。


  福井県 敦賀市
   写真中央の4つのグラスは、24年、12年、2年、1年ものの昆布を使ったダシ。寝かす程、旨味が増す。







  羅臼昆布 濃いコクのあるダシ、表面が柔らかい、濁りやすい。  利尻昆布 表面が固く、濁りにくい。






  北海道北部の昆布は北海道開拓が行われるようになった明治以降の事だと思われます。

  富山県黒部市にある『四十物あいものこんぶ』の社長 四十物直之さんによると、黒部市生地は貧しい漁村だった
  事から、明治維新前後から、北海道の一番厳しい環境である根室や北方領土、羅臼、利尻などに移り住んだそうです。
  現在でも羅臼町の約70%の町民が富山に所縁があります。

  富山では江戸時代から北前船寄港地として昆布が食べられてきたようですが、テレビ東京の番組によると、羅臼から
  富山に昆布を持ち帰った事が、昆布文化が根付いた最も大きな要因らしいです。


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「初め書きの部分

 同書に云 油揚げ賣 我等二十歳迄は貧民の子供十歳十二歳なるに 提籠へ油揚げの●を入れ 賣歩行きしが
  近年 絶て無し 其比見苦しき童を見ては 皆人 油揚賣のやうだ と云けり云々

  廿歳比は寳暦中を云 右の●の字 何品を知らず 全くの誤寫なれば善本を見て追書すべし
  油揚とのみ云は 今人は三都共に豆腐油あげの事とする也
  恐らくは昆布の油揚なる歟 昆布ならば京坂には今も有之 左に出せり…

  「同書=前述されている塵塚談ちりづかだん(1814年頃の随筆、江戸小石川生まれの医師 小川顕道 1737~1816の著)」
  「=「与」の旧仮名とほぼ同じ。文中では2文字分を使って太字で、文字というよりマークのように記述されています
  「寳暦=宝暦(1751~1764)」「誤寫=誤写」 コトバンク 小川顕道


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「揚昆布賣

 春の花觀等の群集の所に賣る昆布の油揚也 一ヶ價一文 專ら十餘歳の童子賣之詞 「こぶや あげこぶ」

  「花觀=花見」「十餘歳=十余歳 (11~14才くらいまで)


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「ニシン昆布巻賣

 耕江戸 食之者稀也 專ら猫の食するのみ
  京坂にては自家に煮之 或は昆布巻にす 唯 陌上擔ひ賣は 昆布まきを製す所擔の箱及び鍋等 前の圖の
  甘酒賣に似て 唯是は鍋甘酒は釜を用ふの異なるのみ

  「陌上はくじょう=百上 (少し広い道の上、路上) 「=担ぐ」「=図」

  
 【 フランスの出汁 ブイヨン と 昆布の利用 】
 
  NHK 和食が世界遺産? ~おいしい日本 1万5千年の旅~ 13.01.02 放送

 この番組では、フレンチの巨匠 アラン・ディカス シェフの右腕として
務めた事もあるフランス人のダヴィド・ブランさん (東京の大手ホテルの
シェフで日本語もペラペラ)が、京都の料亭に入門。

和食の出汁について学び、正月に出すオリジナルの懐石の「椀」を
作る内容です。


  昔、フランスのブルターニュでは、馬車を使用し昆布を取ってたそうです。燃やして畑の肥料にしていた。
  19世紀には昆布からヨードが抽出されるようになり、消毒液や写真のフィルムの材料として、使用されるようになります。

  江戸時代の日本では田畑の肥料として人糞を用いていた事が知られていますが、カタクチイワシや鰊などの小魚も
  肥料として用いられていました。正月のおせち料理の定番の「ごまめ」はカタクチイワシの料理ですが、「ごまめ」は別称で
  「田作り」で、田畑の肥料して大切だった事が分かります。






  村の昆布祭りでは、昔ながらの昆布漁を再現しています。フランスでは昆布を食べる習慣はなかったのですが、近年の
  日本食ブームで昆布に注目した人もいて、スパイスやハーブで磯臭さを消すなどの工夫で独自の製品を作り販売しています。






  フレンチの出汁はブイヨン。牛や豚、鶏の骨魚介類など生の動物性のものを香味野菜と炒め臭みを消す。
  その後、材料によっては8時間以上煮込む事も必要になります。ヨーロッパでのダシはチキンが多いそうです。

  トマトにはグルタミン酸 (旨味成分) が多いので、イタリアンの定番となりました。
 
 【 醤油の種類が増える 】
  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf
  関西のうす味・うす色食文化の形成と うすくち醤油の利用に関する研究 (第1報) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10814645 など
  キッコーマン HP 『しょうゆの歴史を紐解』 http://www.kikkoman.co.jp/soyworld/museum/history/hishio.html

  ≪ 関西の料理には欠かせない淡口醤油が兵庫県龍野で考案される ≫   関西で淡口醤油が作られる  醤油の歴史

  1666年に龍野で淡口醤油が考案されたと言われています。
  1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著に文献初出。『生醤油』も同書で文献初出。
  1689(元禄2)年初版の『合類日用料理抄』(京都で出版) にも、淡口醤油と生醤油を使った料理の記述があります。






  龍野は軟水が湧くので、上質な淡口しょうゆが製造できます。 日本各地の水の硬度 関西は軟水。千葉は硬水。
  東京発のテレビ番組やネット情報の影響でで、関西は淡口醤油しかないと思っている人も多いようですが、関西は醤油も
  味噌も出汁もソースや魚・野菜なども関東より昔から種類が豊富です。料理によって使い分けています。

  また、淡口醤油は濃口醤油より若干塩分が高いので、関西の方が塩分を多く摂っていると思い込んでいる関東人が
  まだまだ多いようですが、それも完全なる間違いです。で、多角的に検証していますので、正しい認識を持ちましょう。
  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの番組の主張を検証してみた件

  慶安年間 (1648~1652年) 頃、米一升が26文。下り醤油は一升78~108文と、江戸庶民にとってはとても高価な物でした。


 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
  味噌の部には「醤油方」「二番醤油方」「醬方」があり、大豆と大麦が原料の作り方しか載っていません。
  但し、料理法には「うすくち醤油」と「生醤油」が記載されており、どちらも同書が文献初出

  千葉大学 教育学部 研究紀要 第25巻 第2部 『古典料理の研究 (二) 料理塩梅集について』
   http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715150.pdf?id=ART0007458558


 1689(元禄2)年の料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』中川茂兵衛 著 出版地は京都。
  巻一の醤油の類には「醤油の方」「酒醤油の方」「溜乃方」「味噌醤油」があります。
  淡口醤油を使った調理法と、生醤油を使った調理法の記述があります。
  「醤油の方」では大豆と大麦が原料ですが、味噌の類きんざんじ?醤の方」では小麦と大豆が原料で、
  レシピの中に大麦の文字は見られません。


 1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』編者は大坂の医師の寺島良安、版元および出版地は大坂。
  百五巻 造醸類 (酒・果子・鹽・酢・醤油之類)「醤油」では、豆油たまり・大麦の醤油・小麦醤油の造り方があります。
  「… 二番醤油味最レリ 市鄽之醤油皆用小麥也用 大麥味不ナラ…」

  二番醤油は味が最も劣っている。市店の醤油は皆小麦の醤油を使っている。大麦の醤油は味が良くない。

  「=店」

 同書の地理の部は日本各地の郡や土地の由来、寺社仏閣、距離、土産 (その国で産するもの) などが書かれてあります。
 各国の土産で「醤油」の記述があるのは「摂津国」のみ七十四巻「摂津」の土産。

 六十六巻「上野・下野・常陸・上総・下総・安房」の中から、現在の千葉県を構成する3国の「土産」を抜粋
  上総 鯛(大瀧浦より多く出す)、鮑アハヒ(大瀧浦、最大)、蛤(自東金)、紅花(長南)、石
  下総 苔ノリ(葛西)、紬ツムキ(結城・中山)、三度栗
  安房 木綿、苔ノリ(小湊)、浪子ナミコ(蜆貝に似る)、○「糸+刃」ヒモノリ、眼黑鰹メクロカツヲ

 七十四巻「摂津」の土産
  實綿ミワタ、繰綿、木綿、古衣フルギ、鯛、イヒダコ、鮮魚問屋(雑喉場)、鹽魚問屋(新靱町)、穀類問屋(北濱)、藥種(道修町)
  材木問屋(横堀・長堀)、干鰯ホシカ問屋トイヤ、燈トモシ油、酒(伊丹・池田)(兵庫)醤油(堺)、傘カラカサ、瓦(大坂)、西瓜(鳴尾)
  大根(都倉・椋橋)、人参(鹽町)、切炭(池田)、蕪菁カブラナ(天王寺)、○鐵フチカネ(針の下地)、鍋釜(道頓堀)、銅吹屋、船大工(天満)
  碇鍛冶、飴(大坂)、鳥貝(尼崎)、香附子(住吉)、團扇ウチワ(長町)、細大根(天満)

  大坂は天下の大湊ゆえ、万物は交易によって絶えることなく市が開かれるといえども産しない物も皆産するが如し。
  ことごとく記す事はできない。という事がかかれあります。

  堺は北庄3村は摂津国に属し南庄2村は和泉国に属しています。堺北部に三国ヶ丘という地名がありますが、
  摂津・和泉・河内が接する所です。少し離れた所にある方違神社は平安時代はどこにも属さない聖地でした。



  ≪ 江戸っ子好みの濃口醤油が千葉でも作られ始める ≫

  1616 (元和2) 年、下総国海上飯沼村 (千葉県銚子市) の名主の田中玄蕃 が、摂津国西宮 (兵庫県西宮市) の
  酒造家である真宜さなぎ九郎右衛門から、関西の溜まり醤油の製法を伝授され、醤油の醸造を開始。(ヒゲタ醤油の創業)

  1688~1736年頃、千葉県の野田や銚子は原料となる大豆・小麦を生産する広大な関東平野に位置し、利根川、
  江戸川などの水路に恵まれていた為、醤油造りが盛んに行われるようになりました。 ← 家康の水道整備によるもの
  この関東産の濃口醤油は「地回り醤油」と呼ばれました。

  千葉の醤油 ヒゲタ醤油が1697年に濃口醤油を作ったとする年代などが怪しい件、つい最近は根拠提示なしで1640年説まで流布






   但し、庶民に広く普及したのは、大坂では元禄期以前、江戸は100年以上遅れた文化・文政時代だったようです。
  卵百珍に見える「長崎」の付く料理 醤油の普及は江戸より長崎の方が早かったと思われます。

   ※ 徳川吉宗が紀州から江戸へ下った時、紀州の人たちも多く付いていったらしいので、吉宗が将軍になった
    1716年(享保元年)以降から本格的に醤油が生産されたと考えるべきでしょう。

  1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』では「大麦麹と小麦麹の二種があり、市販されているのはみな小麦を
  原料にしている」と記されています。それまでの大麦にかえて小麦を使うことで、より江戸の人々の嗜好に合った、
  今日の濃口しょうゆに近いものとなりました。 キッコーマンのサイトの記述

  【和漢三才圖會】わかんさんさいずえは、日本の類書(百科事典)。正徳2年(1712年)成立。 Wiki 和漢三才図会
   編集者は大坂の医師 寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭された
   ことが編集の動機であった。

  享保年間 (1716~1736年) 頃、江戸に入荷するのは醤油のうち、7~8割は上方からの下り醤油でした。

  1732(享保17年)の三宅也来みやけ-やらい編の『満金産業袋はんきんすぎはひぶくろ』では、小麦を使ったもののみを紹介。
  コトバンク『萬金産業袋』 によると、
   江戸時代の商品学書。六巻六冊。著者の三宅也来(みやけやらい)の伝は不明だが、本文中にしばしば京都に
   実在した職人名や店舗名があげられているので京都の人らしい。1732年(享保17)刊…。

  1730年代頃までの江戸での出版は京坂の本の丸写しがほとんどだったので、上方で売られるような事は無かった。

  1746年の黒白精味集では小麦だけを使ったレシピは大豆五斗のみ。
  大豆壱斗のレシピに「手前の方也 (編者の江戸川散人 孤松庵養五郎の方法)」が載っており、大麦が使われて
  いますが、小麦は使われていません。

  1732年の満金産業袋 (著者が京都人で、上方で出版) では小麦を使ったものだけが紹介されている事を考えると、
  濃口醤油の製造法の普及も上方の方が何十年か早かったと思っていいでしょう。

  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸

  1821年頃になると、江戸での入荷量は享保年間の10倍に増え、千葉の銚子や野田の「地廻り醤油」の割合が98%に。
 
 【江戸で中食・外食文化が進む】
  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「江戸に咲かせた食文化」 12.02.02 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい!おいしい浮世絵 第3回「江戸の天ぷら」 16.04.19 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい!おいしい浮世絵 第4回「江戸のそば」 16.04.26 放送
  日本テレビ 所さんの目がテン! 『江戸時代の「長屋暮らし」を体験 18.04.01 放送
  テレビ朝日 林修の今でしょ! 2時間SP 『時代劇の定番エピソードから学ぶ 歴史の新事実 五番勝負』 15.11.10 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『新しい学問の形成と化政文化』 19.10.25 放送

  ≪ 江戸では屋台と惣菜の移動販売の外食文化が進む ≫

  江戸の長屋は4.5畳一間で、台所も狭いので飯を炊き味噌汁を作るのが精一杯。
  庶民は料理をほとんどしない (長屋の台所では米を炊き、味噌汁を作るのが精一杯) ので、包丁が広く普及し
  なかったらしいです。ちなみに、現在ある包丁の種類は元禄時代には堺でほぼ出そろっていたそうです。






  庶民も武士も、ご飯+味噌汁+漬物が普通で、お金のある時は煮売り屋という移動販売の煮豆などの惣菜を
  買い求めました。

  海藻や野菜の煮物が中心で、裕福な家庭でも魚を食べるのは月に二回程度だったそうです。
  また、江戸では水が貴重だったので、食事の締めくくりにタクアンなどで食器を拭くように
  して食べ終わり、食器は洗わず各自の膳箱の中にしまっていたそうです。






  江戸での固定の料理店の最初は、1654年の明暦~元禄期の頃、浅草金龍山門前の「奈良茶飯屋」とされるそうです。
  「これが日本の外食店の始まり」と解説しているのがほとんどですが、それ以前に関西にあった事が書かれてあります。

  1686年(貞享3) うどん、蕎麦などの火を使う移動販売は禁止。
  1699年(元禄12) 風が強いときには、""での煮売りはやめるように。という御触れが出ているそうです。 刃物の街 堺

  屋台は、【床店・床見世】とこ‐みせと呼ばれ、江戸では【出し見世・出し店】だし‐みせと呼ばれていました。
  江戸の外食店が多いと言っても、ほとんが屋台です。

蕎麦屋台

寿司屋台

天ぷら屋台



  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃


  ≪ 江戸・東京の屋台は汚かった ≫  東京は江戸時代も現在も臭い都市

  幕末に大坂から江戸を訪れた西沢一凰が著した『皇都午睡』では、江戸は土埃が酷く、立小便した水を撒き、尿を
  含んだ水が乾くとあまりにも臭いので手拭で口の周りを抑え毎日風呂に入りたがったという記述が見られます。

  明治44年の『東京年中行事』には、土埃が積もった食器などでも平気で飲食する東京人について書かれてあります。
  京都の暖簾は店内を隠すように上下に長く大きい暖簾、江戸は上下が短く横に長い暖簾を「粋」だとしていましたので、
  埃が入り放題だったと考えられます。 下記リンクの銭湯とトイレの雑学のページをよくご覧ください。

  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、その川で食器や野菜を洗っていました。東京で近年の衛生観念が定着するのは1964年の五輪がきっかけ
  公害苦情受理件数で見る 汚い県、うるさい県、臭い県はどこ?
 
 【江戸時代の行商の基本 棒手売】
  日本テレビ 所さんの目がテン! 『江戸時代の「長屋暮らし」を体験 18.04.01 放送

  ≪ 行商は振り売りが基本 ≫

  【棒手振】ぼう‐てふり(上方語) ぼてふり
   天秤てんびん棒で魚・青物などをになって売りあるく商人。ふりうり。本朝二十不孝「出替り時まではわづかの―なりとも致
   されよ」西鶴織留[5]「又はひとり過ぎの棒手振」

  【本朝二十不孝】ほんちょうにじゅうふこう
   浮世草子。井原西鶴作。5巻5冊。1686年(貞享3)刊。二十四孝をもじって、不孝者が天罰を受ける話を集めた短編小説集。

  【西鶴織留】さいかく‐おりどめ
   浮世草子。北条団水編。6巻6冊。井原西鶴 (大坂の人1642~1693) の未完成の「本朝町人鑑」と「世の人心」を合わせて、
   その没後1694年(元禄7)に刊行。

  こういう商売の服装や籠の形など商売のスタイルは上方 (京坂) と江戸では少しずつ違っていました。
  『守貞謾稿』などに描かれています。







 『守貞謾稿』下巻 第五編 生業下 「前書の部分

 三都ともに小民の生業に賈物をひ 或は 負うて市街を呼び巡る者 甚だ多し 蓋
  是れ 亦た 京坂の風俗 其の異なる者 稀也 京坂と江戸とは 又 同扮の者 稀なり

  又 京坂にては此 小賈を都て「ぼてふり」と云 江戸にては魚の擔賣のみを「ぼて」と云
  又 京坂にて魚及び菜蔬の擔賣を笟振と云
  (ざるふり と訓ず 因曰 京師にて都て籠を紙張にしたるを ぽて と云 原籠のこと歟)
   籠の紙張を京坂にて詳かに云 はゞはりぽて 略て ぽて とも云

  江戸にては此類を皮籠かわかごと云 原獣皮を以て包みたる云なるべし 今 紙張に傅へ云ること 必せり 蓋
  ぽて かわご ともに形にもよる

  「=担ぐ」 「笟振=ざるふり」 「菜蔬さいそ、な・あおもの=菜と青物 (野菜類)、原文では「」という文字が
  使われている箇所がありますが、完全に誤字なので、「」に置き換えてあります

  【振り売り】ふり-うり
   荷物をさげ、または担って、声をあげながら売り歩くこと。また、その人。ぼてふり。振り商売。

  【笊籬】い‐かき … 竹で編んだ籠かご。ざる。物類称呼「畿内及奥州にて、―、江戸にて、ざる

  【皮籠・革籠】かわ-ご
   周りに皮を張ったかご。後には紙を張ったもの、竹を編んだものもいう。行李こうり・葛籠つづらの類。
   平安中期の承保 (1069~1077) 頃成立、狭衣物語さごろも-ものがたり[1]「―やうなもの開けさせて


 『守貞謾稿』下巻 第五編 生業下 「菜蔬賣」「前栽賣

 俗に三都とも八百屋と云 やおや と訓ず 又 江戸にては瓜茄等 一種を專ら持巡るを前栽賣と云
  京坂にては是をも やおや と云 其扮無定 其籠も三都 大同小異也

  江戸の近村より瓜茄等を此籠に盛て 一に贈る 是を前栽籠と云 此籠五六を枴にかけひ賣るを前栽賣と云
  昔は前栽賣と八百屋と大異 今は粗相近し 前栽賣は數品を携ず瓜茄子の類 或は小松菜等 一二種を賣を云
  八百屋は數種を賣の名なり

 前栽賣 京坂 有其業此名也 三都ともに菜蔬を俗に靑物と云
  之賣之 賈を靑物賣とも云 菜蔬店 靑物見世とも 八百屋とも云

  菜蔬は天満 市の側と字す 大川北岸に菜蔬市あり 菜蔬も市を ふること 魚市に同じ (← 大坂の天満)
  江戸も菜蔬は京坂と同じく市を振る 神田連雀町邊 本所花町 又 千住驛 品川驛にも菜蔬市あり

  「つえ=杖」「=辺り」「うまや=駅」

  【菜蔬】さい-そ … 青物。野菜。蔬菜。

  【前栽】せん-ざい、せ-ざい … あおもの。野菜。 平安時代は庭前の花木・草花の植込み。

 
 【享保年間 第8代将軍 徳川吉宗の時代】
  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「江戸に咲かせた食文化」 12.02.02 放送
  NHK Eテレ 知恵泉 『時代を変えるリーダーとは? 「徳川吉宗」』 14.05.20 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『藩政改革』 14.10.17 放送
  日本テレビ 所さんの目がテン! 『江戸時代の「長屋暮らし」を体験 18.04.01 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸時代の経済と産業の発達』 19.09.27 放送

  ≪ 第8代将軍 吉宗の時代 ≫

  【徳川吉宗】とくがわ‐よしむね (1684~1751)初名、頼方。諡号、有徳院。 紀州2代藩主 徳川光貞の4男。
   徳川第8代将軍(在職1716~1745)。紀州藩主となり、藩財政改革に手腕を発揮。将軍位を継いで享保の改革を
   行なった。米将軍と呼ばれる。






  享保(1716-1736年、8代将軍の吉宗)の時代頃では1日2回の食事でした。

  一般庶民は薪を節約するなどの理由から飯を炊くのは1日1回だけ。ガスが普及し始める大正時代まで湯を沸かす
  だけでも大変な労力が必要でした。大きな商家では1日2回飯を炊いていました。  江戸の炬燵開き

  幕末の『守貞漫稿』によると、江戸では職人や武士が弁当を持って行く事が多い為、朝に飯を炊き、昼と夜は冷や飯。
  冬の夜は茶漬け。
  京都・大坂では、昼に飯を炊くので、夜と翌朝は冷や飯。翌朝は粥にして食べていたようです。

  江戸では、まだ町の拡張などで建設ラッシュ。江戸時代中期頃でも男:女比は8:2
  (江戸庶民の間では女性に男性を選ぶ権利があったようです。)

  男女比が解消されるのは江戸末期ですが、現在でも関東だけは男性の割合が多い。
  (他の道府県では女性の割合が多い)

  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃
  江戸時代から鮭が有名な新潟県村上市 江戸時代に世界初の鮭の自然孵化増殖を成功


  ≪ 享保の飢饉と改革 ≫ 享保年間 (江戸時代中期、1716~1736)

  【享保の飢饉】きょうほう-の-ききん
   享保17年(1732)、イナゴなどによる害で近畿以西をおそった大飢饉。餓死は1万人以上と推定される。
   幕府は被害のない地方から救援米を送らせたので、江戸でも米価が高騰、翌正月に江戸で最初の打ちこわしが起きた。






   【享保の改革】
   徳川8代将軍吉宗がその治世(17161745)を通じて行なった幕政の改革。
   倹約の励行、武芸の振興、年貢増徴、定免制の実施、株仲間の公認、町人による新田開発の奨励、上米制・足高制・
   公事方御定書の制定、目安箱の設置、養生所の設立、医学・洋学の奨励などの政策で幕藩体制の建直しをはかった。
   江戸幕府三大改革の一つ






  【火消し】ひ-けし
   ② 消防を職務とする人。江戸には官民による消防組織として、定火消・大名火消・
   町火消があった。

  【町火消】まち-びけし
   江戸で、幕府の定火消じょうびけし、大名火消意外に、町人が自治的に設けた自衛
   消防組織。1718 (享保3 )町奉行大岡忠相の主導により設置。いろは四十七組
    (のち四十八組) に編成。その人足を鳶とびの者または鳶という。



  ≪ 吉宗ゆかりの野菜 ≫

  東京・江戸川区は現在でも小松菜の産地。江戸時代、この辺りを鷹狩で訪れた時、吉宗一行は小松川村の香取神社で
  食事をしました。
  出された葉っぱが美味しかったのですが名前が無い。吉宗は小松川村にちなんで『小松菜』と名付けたそうです。




  東京・文京区にある小石川植物園。江戸時代は、ここで徳川幕府が薬草を栽培していました。
  薩摩や琉球で栽培されていた甘藷かんしょ=サツマイモが痩せた土地でも育つ事に目を付け、吉宗は飢饉対策の作物
  として試験的に栽培。後に全国に普及させました。

  1789年(寛政1)には『甘藷いも百珍』が出た。著者は大坂の珍古楼主人

  【小石川】こいしかわ
   東京都文京区の一地区。もと東京市35区の一つ。文教・住宅地区。江戸時代以来の植物園(もと薬園)・後楽園・
   伝通院などがある。礫川。

  【小石川養生所】こいしかわ‐ようじょう‐しょ … 1722年(享保7)徳川吉宗が小石川薬園内に設置した窮民の療養施設。

  言葉の伝播 (東京方言など) / 江戸の歴史
  田楽・おでんの歴史 日本全国 おでんの定番5品など、豆腐百珍の田楽各種メニュー、各地のおでん、ちくわぶ

  【江戸言葉】えど‐ことば 
   江戸で使用されたことば。江戸語。
   明和(1764-1772年)・安永(1772-1781年)の頃以後 江戸文化が成熟し、独特の語彙と語法を持つようになり、
   東京語の母胎となった。

 
 【江戸時代の1コイン 四文銭】
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第4回 江戸のそば』 16.04.26 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸時代の経済と産業の発達』 19.09.27 放送

  ≪ 屋台の御代が四文・八文と4の倍数の理由 ≫ 1コイン・システム。

  寛永通宝は、1636 (寛永13) 年~幕末の1860 (万延1) 年まで鋳造されていた代表的な銭貨。
  1768 (明和5) 年以降に四文銭が作られます。

  【四文銭】しもん-せん
   寛永通宝のうち、1768年 (明和5) 以降鋳造の真鍮銭と、1860年 (万延1) 以降鋳造の 精鉄銭、および63年 (文久3)
   以降鋳造の文久永宝の称。いずれも1枚が4文 (明治維新直後には2厘) に通用した。
   四当銭しとうせん・当四銭とうしせんともいい、また、普通の寛永通宝より大きく裏に波紋があるので波銭 (浪銭) なみせん
   ともいった。






  『皇都午睡』三編上によれば、江戸では四文銭を大銭、一文銭を小銭と呼んでいたようです。
  『守貞漫稿』下巻 第二十八編食類「饅頭」によると、江戸ではほとんどの店で饅頭1つ四文。

  【四文屋】しもん-や
   江戸後期、4文均一の品物を商った大道だいどう商人。屋台で食物を売るのが多かった。

  【匁・文目】もん‐め
   江戸時代、銀目ぎんめの名。小判1両の60分の1。(「文目」と書く)銭ぜにを数える単位。銭1枚を1文とした。

  1文=20円くらいの価値。四文銭が広く普及していたので、屋台では四文銭の倍数の価格が付いていました。
  幕末頃に価値が上がって、4文=100円くらい。 
  かけそば16文=320~400円くらい。タネもの (きつね蕎麦など具入り) 24文=480~600円くらい、
  天ぷらそば32文=640~800円くらい。

  団子は1串5コだったそうですが、四文銭が広く使われるようになった事から1串4コが一般的になったとも言われて
  います。元々1串5コだったのは、京都の御手洗団子に由来があります。
  ちなみに東日本では雑煮の餅が角餅ですが、元日から刃物を使って切った餅は縁起が悪いって知っていますか?

  室町時代 団子が普及し、茶店が登場 みたらし団子、十だんご
  日本の伝統行事 正月 鏡餅、門松なのに中央に竹が飾られている理由、元日から角餅は縁起が悪い?

  【十九文屋】じゅうくもん-や 十九文見世
   江戸で玩具・櫛・香箱などを19文均一で売った露店。安物屋。

  十九日じゅうくにち=江戸の俗語で「愚か者」。(十九文屋で売られる値打ちが無い物の意から)。

 
 【天明年間頃 百珍本ブーム】
  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「江戸に咲かせた食文化」 12.02.02 放送
  メーテレ名古屋放送 武士ごはんランキング 江戸VS京都 一生に一度は食べたいSP 14.09.07 放送
  NHK Eテレ 美の壺・撰 『File319 京都の豆腐』 15.09.20 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい!おいしい浮世絵 『第7回「京都の豆腐料理』 16.05.17 放送
  テレビ大阪 和風総本家 『開局35周年特別企画 世界のニッポン先生』 17.03.09 放送
  コトバンク 『日本大百科全書 (ニッポニカ) の解説「豆腐百珍」』
   https://kotobank.jp/word/%E8%B1%86%E8%85%90%E7%99%BE%E7%8F%8D-1568260
  公益財団法人 大阪府学校給食会 『おさつパン』 http://oskz.com/goods/bread/bread-323.html
  日本獣医生命科学大学 食品科学科 『食のいま 「第51号:豆腐百珍 (その1)」』 http://www.nvlu.ac.jp/food/blog/blog-051.html/

  祇園豆腐や南禅寺豆腐などは 大豆製品の歴史と雑学ページ に移動しました。

  京都の祇園豆腐  豆腐百珍  江戸の笹之雪豆富と淡雪豆腐  浮世絵に描かれた豆腐田楽と南禅寺豆腐
  絹漉豆腐は江戸には無かった 堺の名物に豆腐があった 上方と江戸の豆腐の違い
  田楽・おでんの歴史 日本全国 おでんの定番5品など、豆腐百珍の田楽各種メニュー、各地のおでん、ちくわぶ


  ≪ 天明年間頃 大坂で『豆腐百珍』が書かれ、江戸でも百珍本ブームに ≫

  【天明てんめい
   江戸後期、光格天皇朝の年号。安永10年4月2日(1781年4月25日)改元、天明9年1月25日(1789年2月19日)
   寛政に改元。

  1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) は、一部を除き、他の
  文献 (主に上方の料理書) を引用したり、他聞した料理を集めたもの。
  豆腐料理が数種類載っており、他聞した料理が多いですが、『八盃豆腐』のレシピには「手前之法也」とあり、編者
  自身を指していると思いますので、豆腐百珍以前に伝わっていたようです。

  1772 (明和9) 年、『普茶料理抄』が京都の西村市郎右衛門から発行されています。

  1782(天明2) 年、100種類豆腐料理の調理方法を解説した料理本『豆腐百珍とうふひゃくちんが、大坂の春星堂 藤屋
  善七という版元から刊行されました。豆腐田楽は多数紹介されています。 Wiki 豆腐百珍 Wiki 曽谷学川
  著者はペンネームなので、はっきりしないようですが、大坂で活躍した篆刻家てんこくか (ハンコ屋さん) の曽谷学川そだに-
  がくせんと言われています。






  それが江戸へ下り人気を博し、江戸庶民も日常的に豆腐を食べるようになりました。
  1783年出版の『豆腐百珍続編』も同著者。豆腐百珍と続編を合せて、278種類の豆腐料理レシピが載っているそうです。
  また、1788年には『豆腐百珍余録』」(別著者による「豆華集」が改題・出版された) などの続編が刊行されました。

  『豆腐百珍続編』によると、「ひろうす」や「豆腐カステラ」など34種は大坂発祥のようです。
  江戸時代後期、江戸で出版された黄表紙には「豆腐小僧」という妖怪が多く描かれ、キャラクターグッズも作られました。






  1785年(天明5)に『萬宝まんぽう料理献立集』『萬宝料理秘密箱』前編が出た。著者は京都の器土堂きどどうの主人
  前書の目録題に「卵百珍」とあり、後書の再版の見返しに「一名玉子百珍」とあり、ともに卵百珍といわれました。
  卵百珍には「鳥之部」『川魚之部」があり、鶴や雁などの鳥料理や鯉や鮒鮓のレシピなども載っています。






  同年に『鯛百珍料理秘密箱』も器土堂の著作で刊行されました。鯛料理100種が書かれています。
  同年、『大根一式料理秘密箱』も器土堂の著作で刊行され、京都の西村市郎右衛門らが出版しています。
  『諸国名産 大根料理秘伝抄』も同年に京都の西村市郎右衛門から出版されており、器土堂の著作と思われます。

  1789年(寛政1)には『甘藷いも百珍』が出た。著者は大坂の珍古楼主人
  1795年(寛政7)に「海鰻はも百珍」、著者は大坂在住の可能性が高いようです。
  1846年(弘化3)「蒟蒻こんにゃく百珍」、著者は大坂在住。 他、「長芋百珍秘密箱」などの百珍本などが
  刊行されるブームとなりました。

  人文学オープンデータ共同利用センター 『「万宝料理秘密箱 卵百珍」レシピ一覧』
   http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C

  紅ショウガの天ぷら 豆腐百珍続編に紅ショウガと思われる「梅酢漬けの生姜」の記述を発見。
  カマボコの歴史 江戸時代末期に登場したと言われている蒸し蒲鉾ですが、卵百珍の「卵蒲鉾の仕方」レシピに蒸し蒲鉾の作り方がある事を発見。

  『萬宝料理秘密箱』のあとがき部分には「…四季のこん立 くみあわせ古来より料理書にいでざる」とあります。

  江戸時代の百科事典と言われる各種重宝記などを翻訳したものが広く公開されれば、色々な事に気付く人が現れ、
  私が気付いた紅生姜や蒸しカマボコのように、これまで通説になっている時代より早くに存在している可能性もあり、
  食の歴史認識が変わるかも知れません。


  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸  Wiki 豆腐小僧  卵百珍に見える「長崎」の付く料理
  江戸の淡雪豆腐ができたのは享保年間 発祥年代の誤魔化しが判明

  百珍本の料理法の記述に関して大阪市中之島図書館の見解では
  但し、かなり手の込んだ料理の作り方なので、板前さん向きと考えられているようです。

  ※ この頃は ハモ、鯛などは、関西特有の食文化なので、上記本のすべてが江戸でも流行った訳ではなさそうです。
   江戸庶民の間では、江戸末期になって鮭が付くと豪華な食事でした。
   当時、「○○堂主人」などのペンネームが流行っていたようです。

  京都の版元 (新町通二条上ル町) 西村市郎右衛門は、1世 (?~1696、浮世草子作者、江戸初期の版元で「西村本」
  という浮世草子や医書などを多数刊行) が京都で開業し、代々名乗られた名前のようです。
  (大坂にも同姓同名の歴史上人物が江戸時代にいますが、関係はまだ調べていません)

  さぬき市歴史民俗資料館 『昔の生活道具(むかしのせいかつどうぐ)』 http://ew.sanuki.ne.jp/rekimin/mukasinodougu.html

  江戸時代、都市部では日常に食べられますが、地方の農村では「ハレの日」しか食べられない御馳走だったそうです。
  当時の豆腐1丁は、現在の2~4倍ほどの大きさがあったとも言われています。


  不思議な事に百珍本の出版ブームは、江戸時代の四大飢饉の一つ『天明の大飢饉』の年間も含んだ前後です。


  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『藩政改革』 14.10.17 放送

  【田沼時代】たぬま‐じだい
   田沼意次が側用人・老中として幕政の実権を握った宝暦(1751~1764)年間から天明(1781~1789)年間にかけての
   時期の称。貿易振興・蝦夷地開発・新田開発など経済政策による幕政の積極的打開を意図したが、賄賂政治と
   批判され、天明飢饉や江戸打ちこわしにより失敗に終わった。

  【天明の飢饉】
   1782年~1787年(天明2~7年)に起こった大飢饉。特に同3年浅間山噴火の影響でおきた冷害による奥羽地方の
   飢饉は多数の餓死者を出し、このため各地に一揆・打ちこわしが起き、幕府や諸藩の支配は危機に陥った。






  東北を中心に多くの餓死者を出し、東北では犬肉と称して人肉が売られるなど悲惨な状況だったそうです。
  江戸や大坂が安泰だったのではなく、米屋への打ちこわしが多発しました。
  全国的には1780年~1786年の間に92万人余りの人口減を招いたとも言われるようです。

  豆腐などの主原料となる大豆は飢饉に強い作物なので、飢饉の時に多く栽培されたようです。

   Wiki 天明の大飢饉 より抜粋   Wiki 江戸四大飢饉 (寛永・享保・天明・天保)
 1787年(天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が
  襲われ、無法状態が3日間続いたという。その後全国各地へ打ちこわしが波及した。これを受け、7月に幕府は寛政の
  改革を始めた。

  【寛政の改革】かんせい‐の‐かいかく
   松平定信が1787年(天明7)から93年(寛政5)までに行なった幕政の改革。
   倹約令・棄捐きえん令・七分金積立・人返し・人足寄場・異学の禁等の諸政策で、田沼時代に深まった幕藩体制の
   危機を乗り切ろうとしたもの。江戸幕府三大改革の一つ。

  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文


  ≪ 2009年、都道府県別 寺社の数ランキング ≫ 寺社の雑学  天王寺区夕陽丘下寺町 日本で最も寺が密集している場所

  都道府県別統計とランキングで見る県民性 『神社の数 2009』 http://todo-ran.com/t/kiji/14357
  都道府県別統計とランキングで見る県民性 『寺院の数 2009』 http://todo-ran.com/t/kiji/14362

  寺が多い都道府県 1位 愛知県、2位 大阪府、3位 兵庫県、4位 滋賀県、5位 京都府
  神社が数都道府県 1位 新潟県、2位 兵庫県、3位 福岡県、4位 愛知県、5位 岐阜県  大阪府は44位

  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件






  さて、東京メディアである日テレの検証は本当なのか? ねつ造偏向報道ではないのか? 
  ブログでは、関西人と関東人で全く違う見解をしています。それぞれ主張が違うので反対意見を持つ人がみた場合は納得いかない程度の
  根拠しか載せてないないサイトがほとんどです。 という事で、色々と調べてみました。 ある1つのデータを見れば答えは出るんですけどね。

「味」の基本1 「味」の基本2 調味料などの雑学 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食   江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬  江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
2009.02.17発売
Link Free http://marco4321ice.web.fc2.com/ 
OSAKA HABIKINO IGA 5-9-6  MARCO POLO 取り扱い商品 : アイスクリーム / シャーベット / ザーネアイス / 生チョコアイス / スイートポテト / コーヒーなど
inserted by FC2 system