手づくり アイスの店 マルコポーロ
お酒の知識と雑学1 Sake
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   20.01.15
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  Page Contents

  お酒の種類や特徴の基礎知識と雑学のページです。

  日本酒は、各時代ともに近畿に最高の酒がありました。日本のビールの歴史などもご覧ください。

  米による酒づくりは古墳時代より始まり、酒・味醂・焼酎・酢などは、大阪・奈良・京都・兵庫西部が一大産地。
  畿内は酒に弱い下戸遺伝子を持つ人の割合が最も多い地域ですが、酒類造りは最も盛んでした。





 灘の酒蔵に住む豆狸

 アルコール摂取が癌のリスクを高める 英国ケンブリッジ大学のチームが発表

 「下戸」は水田耕作地帯に多い病原体に対抗ために進化した結果か!? 理化学研究所が発表

 神戸の御影の醸造家で行われていた新酒披露の儀式 「初揚の蛸の足」


 甘酒は夏の飲み物 幕末~明治期の東京浅草の画像 

 神戸の名門「灘高校」を作ったのは神戸市灘区の有名酒造メーカー3社   幕末~明治期の神戸の画像

 1830年刊の『嬉遊笑覧』 の「下り酒」と幕末の『守貞漫稿』の「酒問屋」の記述

 お酒を呑まないのに酔っぱらう人がいる?  コアラも酔っ払いだった

 1911 (明治44) 年の東京年中行事の 「屠蘇」の原文

 酒造りは室町時代後期頃に大きく変化

 赤酒 熊本県の名産の灰持酒  合成清酒とは?

 日本で唯一 企業名が入った公認灯台 「大関今津灯台」

 こも樽 世界がそのデザインに注目。シェア50%以上の兵庫県尼崎市の岸本吉二商店

 堺で44年ぶりに酒蔵が復活 日本酒発祥の堺は江戸時代には100軒ほどの酒蔵がある有数の酒造りの町だった

 日本三大酒処の一つ 広島県西条町 軟水での清酒造りの発祥地、名物「美酒鍋」

 高知県の『どぶろく特区』の村

 阪神大震災から20年で半減した灘の蔵元の数 廃業寸前の大黒正宗が最大手・白鶴酒造の蔵で酒を仕込む

 酒の購入額日本一 高知県の可杯というおちょこ  新潟県は日本酒消費量&酒蔵の数が日本一

 江戸の呑み倒れ 江戸時代中期以降 酒が貧乏徳利で大量に消費された。

 清酒の発祥地 奈良市 正暦寺 酒母 『菩提酛』の発祥の地

 旧岡田家酒蔵 兵庫県伊丹市の現存する日本最古の酒蔵の建物

 御屠蘇 平安時代から続く奈良の屠蘇散。昔ながらの本物の屠蘇酒。

 大阪 幻の酒 「金剛寺 天野酒」 家康によって排除された飛鳥時代からの最高の酒。

 清酒の発祥地 兵庫県 伊丹市 江戸時代の前半の最高酒は伊丹ブランドの酒だった。

 伊丹・池田(大阪)に代わって日本酒の名産地になった灘 神戸市灘区御影の「御影」の地名の由来伝説

 信長が絶賛した奈良の酒の記録 諸白、片白。

 灰持酒 鹿児島県 薩摩の酒寿司

 味醂 元々は高級酒として飲まれていました。千葉県流山市発祥の白みりん

 中国酒の醸造で使われるカビ

  和食を支えるオリゼたち 日本にしか居ないアスペルギルス・オリゼとは、米麹の事。詳しくは「味」のページで。
  10軒しかない種麹屋が酒、しょうゆ、味噌など4000軒を支え、和食の味を決める大きな役割を果たしています。

  古墳時代の応神天皇の時代に、中国から酒と酢の造り方が、和泉の国 (大阪府堺市) に伝えられたと言われています
   特に酢は、江戸時代になるまで堺が主産地で、江戸時代に「いずみ酢」(玄米酢・黒酢)が日本各地に伝わりました。

  【参考書籍類】

  講談社 世界の名酒事典 '99年度 「創刊20年 洋酒11080点の徹底ガイド」 98.11.10 初版発行
  サントリー 世界のワインカタログ97 (特約店向け非売品)
  日本実業出版社 一目でわかる 企業系列と業界地図 91.04.30 / 日本実業出版社 一目でわかる 商品・ブランド地図 92.05.30 
  大泉書店 世界のビールセレクション 97.09.11 / 柴田書店 リキュールブック 97.07.01 / 三笠書房 性格がわかるお酒診断
  講談社+α文庫 ワインの常識がガラリと変わる本 97.03.20 / 河出書房夢文庫 酒と酒飲み 94.05.01 / 広辞苑
  西東社 世界と日本のウイスキーカタログ 97.03.20 など、業界誌、一般雑誌 他多数

  【おすすめサイト】
  名古屋大学 伊藤信博 論文 『室町人の嗜好 – 古記録からみる室町時代の食文化』
   http://urakamizaidan.or.jp/hp/jisseki/2012/vol21urakamif-13ito.pdf
  KIRIN食生活文化研究所 発酵食品名鑑 『酒』 http://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/ferment/sake/index.html
   ワイン・ビールだけではなく、ヤシ酒 クミス・アイラグ(馬乳酒)など、味噌や発酵寿司など発酵食品が載っています。

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/
 
 お酒は 「醸造酒」 と 「蒸留酒」 に分けられます。
  【醸造酒】 じょうぞう酒
   酒の素材が、発酵したままに作られた物。アルコール度12~14度くらい。
   火入れしていない醸造酒系はビン詰め以降も発酵が進みますので、
   冷蔵保存が必要です。

  【蒸留酒】 じょうりゅう酒 → スピリッツ
    醸造酒を蒸留という方法によって、アルコール分を濃くした酒 40度くらい。
    アルコール度の高い蒸留酒は、冷凍しても凍りません。

  ホワイト・スピリッツ (4大 ジン、ウォッカ、ラム、テキーラ と アクアビットを言う)、
   基本 無色透明なお酒の事。
   焼酎 (ホワイト・リカー) も ホワイト・スピリッツの仲間に分類される事もあります。

  【混成酒】 こんせい酒 → リキュール
   蒸留酒をベースにフルーツなどを浸け込んだりした物 アルコール度14~30度位。
   最近は、さらに低アルコールが増えています。

   ジン、中国酒などは穀物類が原料の蒸留酒なので、焼酎(米、麦、芋など)のように
   主原料が1つに決まっているわけではありません。
   原料は1種類だけではありませんので、上記の表は目安。

  シードル【Cidre フランス】は発泡系の酒、昔、日本ではシードルをサイダーと呼んでおり、
   後に炭酸飲料のノン・アルコールを、サイダー【Cider】として発売しました。

   【アルコール度】アルコール‐ど
   酒類に含まれるエチル‐アルコールの量。日本の酒税法では、セ氏15度における酒類
   100ミリリットル中のエチル‐アルコールの容量で表す。


 
 日本酒   米を原料とする。
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『今、日本酒が熱い!関西が生んだ奇跡の一滴』 13.02.07 放送
  NHK NHKスペシャル 『和食 千年の味のミステリー』 13.12.15 放送
  NHK大阪 ゆうどき 『行ってみたい「うま酒醸す もてなしの里 ~高知・三原村~」』 14.10.31 放送










  ※ ×「神仏集合」 → ○「神仏習合」が正解。(番組内で訂正されていました)
   「神仏習合している宗教空間には、お酒がつきものだった」

  昔は一級、二級などと分かれていましたね。
  古代からの精製前の「にごり酒」と主流である透明の「清酒」 に分かれます。

  素材別には、
   「純米酒」 米と米麹 (こめこうじ) だけを使用したもの。
   「本醸造酒」 醸造用のアルコールを加えたもの。

  グレード別には、
   「吟醸」「大吟醸」などがあります。お米を磨く割合によって決まります。
   お米の中芯の部分だけ使う贅沢なお酒の事。
   組合せで「純米・吟醸」などの表示があります。

   日本酒 地酒のほとんどは発酵を止めず(「火入れ」という加熱処理をしていない)
   出荷しています。冷蔵庫に入れていないと、発酵が進み、黄色くなったり栓を
   開ける時にお酒が溢れたりします。

   常温で1時間も置いておくと、発酵が進みますので、常に冷蔵庫に入れておきましょう。
   地酒をお取り寄せする場合は、クールの冷蔵便で送ってくる業者が良いでしょう。

  【酒膏・醪】さか‐あぶら
   濁り酒の上に浮かんだカス。一説に濁り酒ともいう。〈倭名類聚鈔

  【濁醪・濁酒】どぶろく
   滓かすを漉し取らない日本酒。にごりざけもろみざけだくしゅしろうま

  【倭名類聚鈔】わみょう-るいじゅ-しょう 略称、和名抄。順和名。
   承平(931~938)年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進。
   日本最初の分類体の漢和辞書。源順著。




   10巻本と20巻本とがあり、20巻本では、漢語を32部249門に類聚・掲出し、音・意義を漢文で注し、万葉仮名で和訓を加え、
   文字の出所を考証・注釈する。

  【酘】そえ、そい (「添え」の意) … 清酒を醸造する時、一定日数後に酒母に加える蒸米と麹と水との称。

  【甑倒し】こしき‐たおし醸造家でその冬の酒造りが終わった祝い。

   ※ 『甑こしき』は、古代中国で『甑そう』と呼ばれた蒸し器の一種の日本版。のちに、日本では蒸籠せいろうに替わる。


  ≪ オリゼを使った酒造り ≫ 和食を支える日本にしかいないオリゼ

  平安時代に書かれた延喜式には酒の造り方が記述されています。「米一石 蘗四斗
  米10に対し、よねのもやし=米麹=オリゼ)4の割合。 (1石=10斗。1斗=10升しょう=18.039ℓ。)






  【延喜式 】えんぎ‐しき
   弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。
   50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、
   927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。


 1643年刊『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部

  どぶ〕 とは 何時も酒のかすをしぼりたるがよし、にごり酒は惡、

  江戸時代前期に大坂人が書いたと思われる日本初の専門料理書では、色んな料理に酒が使われている事が分かり
  ますが、どぶろく (にごり酒) は調味料に向かない事が上記のように書かれてあります。
  料理によって新酒または古酒を使う事が記述されています。



  ≪ 高知県の『どぶろく特区』の村 ≫

  人口約1700人の三原村では、10年前に『どぶろく特区』に認定され、各農家が自家栽培の米を使用して
  「どぶろく」を造っています。





  1つの村で7軒のどぶろく造りをしている農家があるのは珍しいそうです。
  それぞれ食堂や喫茶も経営しているので、そこで呑めます。






  最初に「どぶろく」造りを始めた津野寿美子さんが造っているのは「川平郎」で甘口。他にも辛口があったり各農家で違う味の
  どぶろく。
  お遍路さんの休憩所を設けた池本富喜さんの農家食堂「風車」では、どぶろくで生地を練り上げた饅頭が食べられます。
  東慶祐・久美 ご夫妻は2年前から民宿も営み、どぶろくで煮た猪鍋や四万十川流域で獲れたモクズガニなども味わえます。
 
 
 日本人とお酒 
  ≪ お酒の神社 ≫

  【大神神社】おおみわ‐じんじゃ すぎのみやしろ。三輪明神
   奈良県桜井市三輪にある元官幣大社。祭神は大物主大神おおものぬしのおおかみ
   大己貴神おおなむちのかみ・少彦名神すくなびこなのかみを配祀。
   日本最古の神社で、三輪山が神体。本殿はない。酒の神として尊崇される。大和国一の宮。

  【松尾大社】まつのお‐たいしゃ
   京都市西京区嵐山にある元官幣大社。祭神は大山咋命おおやまくいのみこと・中津島(市杵島)姫命。
   もと松尾山に祭られた。

奈良・大神神社 (三輪大社)

奈良・酒船石
京都・松尾大社

大阪・一心寺


  【酒船石】さかふね-いし
   奈良県明日香村にある古代の石造物。長さ約5m、幅約2m、厚さ1m。表面に凹みと溝が彫られ、醸造用とされるが不明。

  近年、明日香村一体の飛鳥時代の巨石や蘇我氏と見られる古墳なども発見され研究が進みました。
  2000年、酒船石がある丘の麓から発見された亀形石造物と名付けられた遺跡と、丘の中間地点からも石垣が発見された
  事などから、斉明天皇時代に、これらは儀式を行うための一体的な施設として造られたそうです。
  明日香村教育委員会文化財課の相原さんによると、酒船石は水を流して、その流れ方で占いをしたのではないか?
  という見方が有力になっています。小さな笹の葉を浮かべて、水の流れによって占う「笹船石」だった可能性もあるようです。

  巨石と水の都「飛鳥」 日本初の時計は水時計、酒舟石と関連遺跡が発見され、新たな見解に

  【酒林】さか-ばやし (酒壺を「みわ」といい、酒の神を祭る三輪神社で、杉を神木とする縁によるという)
   酒屋で、杉の葉を束ねて球状にし、軒先にかけて看板とするもの。酒箒さかぼうき酒束さかたば杉玉杉林

  大阪市天王寺区にある一心寺には『酒封じの神様』として、德川の重臣であった本多忠朝が祀られています。

  大阪市天王寺区 一心寺 色々と珍しいお寺


  ≪ 縄文時代には山ブドウ酒を飲んでいた ≫

  昭和28年、長野県の井戸尻遺跡から、紀元前4000~3000年頃の大型の友孔鍔(ゆうこうつば)付き土器や盃のような土器、
  山ブドウの種なども発見されているそうです。
  室町時代1454年頃の辞書『撮壌集』に「酒類 葡萄酒」とあるのが文献上の初見とされるようです。


  ≪ 神話時代の神代酒じんだい‐しゅは濁り酒のこと ≫

  味のよい美酒のことは、甜酒たむさけといった。

  【酒の司・酒の長】くし-の-かみ
   酒のことをつかさどる首長。古事記[中]「―常世とこよにいます、石立たす少名御神


  ≪ 清酒は飛鳥時代にも存在していた≫

  飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡から須弥酒(すみさけ)と書かれた木簡が出土。

  713 (和銅6) 年の詔に基づいて撰進された地誌の一つで、現在の兵庫県南西部の播州地域の『播磨国風土記』には
  清酒(すみさけ)の記述があり、濁り酒を絹の布で漉した上澄みの酒と考えられています。
  また「酒殿を造りし処、即ち酒屋村と号け」という記述もあります。


  ≪ 神前酒 白酒と黒酒 ≫

  奈良時代以前より存在していたとも言われる御神酒おみきに使われるお酒。

  【白酒】しろ-き
   大嘗会だいじょうえ・新嘗祭などに神前に供える酒。あまざけの事
   のに対して、焼灰を混ぜないものを言う。
   万葉集に「天地と久しきまでに万代に仕へまつらむ黒酒白酒を…」とあります。

  【黒酒】くろ-き
   白酒にクサギの焼灰を混ぜたものを黒酒くろきと言った。
   後世は黒ゴマの粉を混ぜた。
    ※ 後に灰持酒として現在まで継承されているようです。

  【臭木】くさぎ 臭桐くさぎり、くさぎな 常山木。
   クノツヅラ科の落葉小高木。山野に多く自生し、高さ3m。茎・葉に悪臭がある。
   若葉は食用。古くから染料に使われた。 本草和名は「恒山、和名 久佐岐」。


  ≪ 日本人の酒豪 MAP ≫

  日本人全体の60%が「酒が強い」と言われる酒豪。35%が、そこそこ飲めるが
  あまり強くない中間派。5%が、酒の全く飲めない下戸。
  都道府県別にみると、近畿・中部・中国地方に下戸が多く、東北・や九州に
  酒豪が多い。


  ≪ 下戸(げこ)の言葉の由来 ≫

  ≪中国由来説≫
  紀元前約200年の秦の始皇帝の時代。
  万里の長城の門は上戸(じょうご)と呼ばれ、寒い山上にあった為 警備の兵
  には酒を与えた。それほど寒くない平地の門の兵士には饅頭などの甘い物を
  与えたので酒好きの兵士が上戸を守り、甘い物好きの兵士は下戸を守るよう
  になったとか。

  ≪大宝律令(文武天皇、701年編纂)説≫
  一戸のうち、男の働き手が6~7人いる家を上戸といい、3人以下の家を下戸と
  呼ぶ。という取り決めの記述がある。
  男の人数が多いと酒の量が増え、少ないと酒の消費量も少ない事から。


  ≪ お酒を呑まないのに酔っぱらう人がいる? ≫

  コアラがほぼ一日中寝ているのは、ユーカリを食べると体内の酵母が作用して
  体内でアルコールを作るためだそうです。
  体内に酵母を持たないコアラも存在しており、そのコアラは活発に行動しています。
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『大人のための動物講座』 17.11.16放送 より

  人間にも稀にそういう人が存在するようで、アルコールがほとんど含まれない
  普通の食事をするだけで酔っぱらってしまうそうです。

  CNN 『飲まないのに泥酔状態 胃の中でアルコール醸造 米』 13.09.20 配信
   https://www.cnn.co.jp/usa/35037488.html

 胃の中で食品を発酵させてアルコールを醸造してしまう病気と診断された米国の
  男性の症例がこのほど、国際臨床学会誌に紹介された。
  男性はまったく飲酒していなくても、呼気から異常に高い濃度のアルコールが
  検出されていたという。
  テキサス州のパノラ大学などの研究チームによると、この病気と診断されたのは
  テキサス州に住む61歳の男性。過去5年の間、いつも酔ったような症状があり、
  看護師の妻が呼気検査をしたところ、アルコールを一切摂取していなくても、血中
  アルコール濃度が最も高い時で0.4%に達していた。







  これは運転が認められる限界濃度の5倍の数値。2009年には1滴のアルコールも飲んでいないのに血中濃度が0.37%に
  達し、病院の救急処置室に運ばれた。しかし当時の医師たちは、男性が隠れて飲酒しているに違いないと判断した。
  翌年になってようやく、胃腸の専門医で24時間の経過観察や各種の検査を行った結果、男性の胃の中で食品が発酵して
  いると診断された。
  「胃の中で酵母が増殖し、糖をエタノールに変える発酵作用が起きていたと考えられる」と研究チームは解説する。
  抗菌剤を投与して酵母の活動を抑えたところ、呼気からアルコールは検出されなくなった。この病気は欧米ではあまり知られて
  おらず、過去30年で確認された患者は数えるほどしかいないという。
  しかし研究チームは「失業や対人関係の悪化、さらには逮捕といった社会的問題にもつながりかねない」と警鐘を鳴らしている。

  NAVERまとめ 『飲んでいないのに泥酔?体内でアルコールを生成してしまう人がいた!』 13.09.21 配信
  https://matome.naver.jp/odai/2137972260748414201

  【アルコール発酵】アルコール‐はっこう
   酵母などの微生物の営む代謝により、糖類を無酸素的に分解してエチル‐アルコールと炭酸ガスを生じる発酵。
   古くから酒造に利用されてきた。19世紀後半、ブフナー・パスツールらがこの現象の研究により酵素化学の基礎を築いた。


  Newsweek 『アルコールとがんの関係が明らかに DNAを損傷、二度と戻らない状態に』 18.01.09 配信
   https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/01/dna2.php

  ≪ アルコール摂取が癌のリスクを高める ≫ ↓は上記リンクサイト↑より抜粋

  英国のケンブリッジ大学のチームが科学誌「ネイチャー」にアルコール摂取が癌のリスクを高める事に関する発表を
  行いました。
  パテル教授によると「がんの中には、幹細胞のDNAの損傷が原因でできるものもある。DNAの損傷はたまたま起こる
  場合もあるが、今回の研究は、アルコールが損傷リスクを高める可能性があると示唆している」と話しました。

  人間は通常、アルコールからのダメージに対して2つの自己防衛機能を備えている。1つは、アルコールを分解する
  過程で生成されるアセトアルデヒドに対するもの。アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)が、有害なアセトアルデヒドを
  酢酸に分解し、細胞のエネルギー源に変える。

  ALDHの一種、ALDH2が欠如したマウスにアルコール(エタノール)を投与したところ、ALDH2が機能しているマウスと
  比べ、DNAの損傷は4倍に達した。 研究チームは、この酵素が十分でなかったり欠陥があったりする人は、東南アジア
  人に特に多いと指摘。科学系ニュースサイトのサイエンス・アラートはこれを受けて、ALDH2が変異している人(つまり
  うまく機能しない人)の数は、アジアに54000万人いると具体的な数字を挙げている。
   2つめの防衛機能は、DNAの修復だ。しかしこれが常に機能するわけでもなく、中にはうまく機能しない人もいると研究
  チームは説明している。

  【アセトアルデヒド】acetaldehyde
   分子式 CH3CHO 無色の刺激臭ある可燃性液体。エチレンの直接酸化によって製する。有機合成の原料として重要。
   エタノールの酸化でも生成し、二日酔の原因。エタナール。
   アルデヒドの一種。IUPAC命名法では エタナール (ethanal) ともいい、他に酢酸アルデヒド、エチルアルデヒドなどの
   別名がある。自然界では植物の正常な代謝過程で産生され、特に果実などに多く含まれている。


  FNN PRIME 『 日本人は酒に弱くなるように“進化”…「下戸遺伝子」の研究者が語る“弱い方がいい理由”』 18.05.07 配信
   https://www.fnn.jp/posts/00307440HDK
  朝日新聞 『酒に弱い日本人が増えるよう「進化」 遺伝情報から判明』 18.04.26 配信
   https://www.asahi.com/articles/ASL4R6SXTL4RULBJ013.html
  朝日放送 キャスト 『ニッポン人は強くないのにお酒好き』 19.09.10 放送

  ≪ 「下戸」は水田耕作地帯に多い病原体に対抗ために進化した結果か!? ≫

  理化学研究所が2018年4月に発表した「下戸遺伝子」の研究によると、日本人の遺伝子は数千年、100世代ほどかけて
  「お酒に弱い体質の人が増えるように」進化してきたそうです。

  お酒の代謝酵素には「ADH1B」と「ALDH2」という2つのアルデヒド脱水素酵素が関わっており、日本人の多くがそれらの
  酵素の働きが弱い「下戸」の人のほうが多かったという結果がでました。特に「ALDH2」酵素を欠損している割合が高い。

  考古学で水田農耕の発祥地とされる中国南部と日本人に下戸遺伝子を持つ人の割合が多く、東南アジアなども下戸
  遺伝子を持つ人の割合が、白人や黒人と比べて多い。欧米人などは酒を分解する2つの酵素の働きが強いという事です。






  何故、「下戸」遺伝子を持つ人が増えるようになったか? は、まだ解明されていないようですが、マラリア原虫や赤痢
  アメーバなどの血液に感染する寄生虫・病原体が赤道~中国南部にかけて多くおり、水田耕作地の感染症リスクに
  対抗して進化したのではないか? と、北里大学の太田博樹准教授ら推測しているようです。

  アセトアルデヒドは肝臓でアルデヒド脱水素酵素によって分解され酢酸になります。 酢酸は無毒ですが、アセトアルデ
  ヒドは人にとって猛毒で血中濃度が高いと気分が悪いなど2日酔いの原因となります。
  血液に感染する寄生虫・病原体にも毒であり、血中のアセトアルデヒド濃度が高いと増殖できない事が判明しています。

  詳しくは、上記リンクのFNN PRIMEと朝日新聞および、その上のNewsweekのサイトも合せてご覧ください。

  ※ 米地帯である東北に下戸遺伝子が少ないのは、東北で地方で稲作が盛んになったのは江戸時代以降からの事だから
  で、水田耕作の歴史が浅いからと考えていいと思います。
  昭和の頃は水田の稲作は朝鮮半島から伝わったと思われていましたが、現在は中国南部から日本に伝わり、日本から
  朝鮮半島に伝わったとするのが正しい認識になっています。


  朝日放送 キャスト 『ニッポン人は強くないのにお酒好き』 19.09.10 放送

  ≪ 日本人は世界一、飲酒に寛容な国 ≫

  米国ビューリサーチセンターが40ヵ国の「飲酒に関する」事を調査し、2013年に発表した
  内容によると、「飲酒は道徳的に許される」と答えた人の割合が66%となり、また「道徳と
  飲酒は無関係」と答えた人が25%も居た事から、日本は最もお酒に寛容な国だとされて
  います。

  米国は禁酒法の時代もあり、「飲酒に対しては後ろめたい」と感じている人たちも多くいる
  ようで、アルコール依存症に対する意識も高いようです。

  戦国時代に来日したポルトガル人宣教師のルイスフロイス (1532~1597) の記録に
  日本では非常に酒をしつこくすすめ合うので、ある者は嘔吐し、また他のある者は酔っぱ
  らう。我々の間では、酒を呑んで前後不覚に陥る事は大きな恥辱であり不名誉である。
  日本では、それを誇りとして語り「殿は如何なされた」と尋ねると、「酔っぱらったのだ」と
  答える。とあり、欧州人とは異なり、人前に酔った姿を見せる事は恥ではないという
  事が分かるようです。
  





  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『大坂城落城 その時おんなたちは !? ~侍女・おきく 知られざる証言録~ 』 14.01.15 放送

  ≪ 酒造りは老女の仕事だった?≫

  日本酒造りの蔵は女人禁制で、酒造りの職人を蔵人(くらびと)という。
  蔵人たちは酒造りの期間は、納豆やヨーグルトなどの発酵菌を蔵に持ち込まないように、それらを
  食べてはいけないらしいです。蔵人の職人の長が杜氏(とうじ)と呼ばれる人たち。

  平安時代、酒の甕(かめ)の事を「刀自」(とうじ・とじ)といい、それが杜氏に変化したという説もあり、
  昔は刀自と書いていました。伊勢物語に「家 刀自」。

  名言通という書物によると、刀自はもと老女の称なり。されば老女にて酒を造りしならん
  あります。刀自とは、年配の女性を尊敬した言い方なので、老女が口噛みで酒を造っていたのでは
  ないか。という事のようです。

  右の画像は、戦国時代~桃山時代頃のカルタの一つ。男たちが戦で留守にする事が多かった為、

  女性の社会進出が目覚ましかった時代で、この頃の女性の地位は江戸時代より遥に高い。

  【刀自】とじ、とうじ (戸主トヌシの約。「刀自」は万葉仮名)
   ① 家事をつかさどる女性。とうじ。万葉集[20]「いませ母―面おめ変りせず」
   ② 主に年輩の女性を敬意を添えて呼ぶ語。名前の下に付けても用いる。
    欽明紀「青梅婦人おおとじ」。宇治拾遺物語[3]「女―耄いて雀かはるる」
   ③ 禁中の御厨子所みずしどころ・台盤所たいばんどころ・内侍所ないしどころに奉仕した女房。下臈げろうの女官。
   ④ 他人に仕えて家事をつかさどる女性。いえとうじ。栄華物語[若枝]「宮々の―専女おさめにても」


  【大嘗祭】だいじょう-さいおおなめまつりおおにえまつりおおんべのまつり
   天皇が即位後、初めて行う新嘗にいなめ祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神および天神地祇を祀る。
   一代一度の大祭。祭場を2ヵ所に設け、東(左)を悠紀ゆき、西(右)を主基すきといい、神に供える新穀は
   あらかじめト定ぼくじょうした国郡から奉らせ、当日、天皇は悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。

  【造酒児・造酒童女】さか‐つ‐こ
   大嘗祭だいじょうさいの時、斎場で神饌の御酒みきを醸かもす少女。悠紀ゆき・主基すきに定められた郡の
   大少領の未婚の女性から選ぶ。

  【悠紀の国】ゆき‐の‐くに
   大嘗祭だいじょうさいに、悠紀 (東方に設けられる祭場) に供える新穀を出す国。都の東方の国郡を卜定ぼくじょうし、
   平安時代からは近江国に一定した。 卜定=吉凶をうらない定めること。

  【主基の国】すき‐の‐くに
   大嘗祭だいじょうさいに、主基 (西方に設けられる祭場) に供える新穀を出す国。都より西方の国郡が卜定ぼくじょうされ、
   平安時代以後は丹波・備中を交互に定めた。

  令和の大嘗祭で奉納する新米「丹波産キヌヒカリ」の斎田 同じ地域の米が買える場所


  読売テレビ ten. 『気ままな歴史散策で「篠山城下町」の文化と魅力に迫る』 17.11.22 放送

  日本三大杜氏 (近年~現在)

  岩手県の南部杜氏、新潟県の越後杜氏、兵庫県の丹波杜氏。
  丹波杜氏は、京都の伏見や兵庫の灘五郷などの酒処に出張して酒造りを指揮してきました。
  丹波の篠山町の丹波杜氏酒造記念館には酒造りに関する史料などが展示されています。

  【杜氏】とう‐じ
   酒造家で酒を醸造する長おさ。また、酒づくりの職人。さかとうじ。



  ≪ 平安時代には甘くて冷たい酒 禮酒(れいしゅ)を飲んでいた ≫

  平安時代の宮廷では、様々な酒を造っていました。その中で禮酒という甘い酒があって、氷を浮かべて飲んだりした
  そうです。以後、冷やした酒が飲まれるようになったのは近年になってから。

  【造酒司・酒司】みき-の-つかさ、さけ-の-つかさ
   ① 律令制で、宮内省に属し、皇室の用に供する酒・醴あまざけ・酢などの醸造をつかさどった役所。
   ② 酒司しゅ-し。律令制の後宮十二司の一つ。醸酒のことをつかさどった役。

  【酒部】さか-べ
   律令制度で、宮内省の造酒司みきのつかさに属し、節会せちえなどの酒の醸造をつかさどった職。

  【献】こん
   (呉音)酒杯をさす回数または酒食をすすめる度数を数える語。
   客をもてなす時、膳に杯・銚子(・肴)を出し、酒3杯をすすめてから膳を下げるのを一献という。
   鎌倉時代の随筆徒然草一―にうちあはび、二―にえび、三―にかいもちひにてやみぬ

  【三三九度】さんさん‐くど。 三三九献さんさん‐くこん
   出陣・帰陣・祝言などの際の献杯の礼。三つ組の杯で3度ずつ3回酒杯を献酬すること。

  【九献】く‐こん
   ① 杯を3献(3杯)ずつ3度さすこと。三々九度。  ② (女房詞)酒。狂言、花子「―を一つきこしめせ」

  【酒】ささ (「さけ」の「さ」を重ねた語。一説に、中国で酒のことを竹葉というのに基づくとする)
   酒をいう女房詞。好色一代男1(井原西鶴作。8巻8冊。1682年(天和2)刊)少し―などこれよりたべまして

  【女房詞】にょうぼう-ことば
   室町初期ごろから、宮中奉仕の女官たちが主に衣食住に関する事物について用いた一種の隠語的なことば。
   のち将軍家に仕える女性から、町家の女性まで広がった。飯を「おだい」、肴を「こん」、鯉を「こもじ」、団子を「いしいし」、
   浴衣を「ゆもじ」という類。


  TBS ニッポンの出番 『知られざるニッポン再発見! なぜ日本人は居酒屋が好きなのか?』 15.03.24 放送

  ≪ 江戸時代、居酒屋は造り酒屋が始めた? ≫

  江戸時代中期造り酒屋が店の隅で立ち飲みコーナーをつくり「居酒致し候」という看板を出したのが始まり。
  後に酒を飲ませるだけの店がどんどん増えていきました。






  東洋経済オンライン 『「居酒屋」の真実をどれだけ知っていますか』 http://toyokeizai.net/articles/-/87017 より抜粋、よると
 続日本紀に761年に居酒屋風の店が存在していたことが記録されている。
  京都では、すでに15世紀の室町時代に「下請酒屋」と呼ばれる立ち飲み屋があったと伝えられる。
  「居酒屋」という言葉が文献に頻繁に登場するようになったのは18世紀頃…


  ダ・ヴィンチ ニュース 『居酒屋の誕生は江戸にあり! ちょっと一杯飲みたくなるお酒の歴史』 15.12.19 配信
   http://ddnavi.com/news/275757/a/ より抜粋
 その発祥が“江戸の町”にあったと解説するのは、文庫本『居酒屋の誕生』(飯野亮一/筑摩書房)である。
  同書によれば、居酒屋の誕生は寛延年間(1748~51年頃)にさかのぼるという。居酒屋という言葉が使われるきっかけと
  なったのは、現在の江東区深川付近にあったという「江戸三十三間堂」での事故とされるが、宝暦2(1752)年に記録された
  書物『正宝事録』に、その詳細が記録されている。

  コトバンク 『正宝事録』 しょうほうじろく
  1648-1755年(正保5-宝暦5)の108年間の江戸の町触を編年集成したもの。(中略) 1778年(安永7)の成立。
  江戸時代の都市江戸に関する基本史料である。


  富田通信 第157号(2000.10.10) http://www.vega.ne.jp/~tomita/2000/157.html  山形県の富田酒店のブログでは
 多くの出稼ぎ漁夫の集まった九十九里地方にも居酒屋があったらしく、文献によれば正徳二年(1712)に一軒できたのが
  はじまりで、だんだんに増えて天保年間(1830~1843)には34軒を数えましたが、天保改革の取り締まりで、居酒屋は
  ほとんど菓子屋名義に変わったとあります

  御酒之寝言屋家頁 『御酒の話26 「九十九里浜の居酒屋」』 http://negotoya.sakura.ne.jp/gosyu26.html
  上記の話は、1972年に東京の財界展望新社から出版された『酒鑑』芝田晩成著という本からの出典のようです。


  1956 (昭和31) 年、横浜に養老乃瀧が誕生したのが、居酒屋チェーン店の最初だそうです。
  それまで居酒屋は男性の社交場でしたが、店頭に価格を明記し食券制の前払い明朗会計を導入した事で繁昌しチェーン
  展開できる事になりました。


  酒造りの技術も西洋より上だった。

  低温殺菌方法(55℃で数分間の加熱)は1865年、ナポレオン3世の
  依頼を受けたフランスのパストゥールが発明したと言われています。
  パストゥリゼーションという方法の名前で、ワインやビールなどの
  腐敗防止に使われるようになった。

  明治時代、外国人たちは日本酒をつくる「火入れ」という工程で、
  昔から低温殺菌を普通にしていた事を知ってびっくりしたとか。


 ルイ・パストゥール
  1822-1895

 フランスの細菌学者。
 狂犬病ワクチンなどを
 発見した。




  TBS ジョブチューン 『現役知事大集合SP 知事同士のバトル勃発 ! ○○王国は我が県』 14.10.25 放送

  ≪ 酒の購入金額日本一の高知県 ≫

  高知県には『献杯・返杯』という作法があって、後輩 (部下) から勧められた酒はすぐに飲み干し、先輩 (上司) は後輩へ
  酒を勧め返すそうです。県知事は1日に100~200回ほど、これをがあるので、かなり酒豪でないと務まらないそうです。






  可杯べくはい という高知県独特のおちょこは、底に穴が開いており指で押さえて呑まなければいけません。
  また、呑み切らないとテーブル置けない (こぼれてしまう) 形の可杯もあるそうです。(一気に飲み干す習慣)

  尾崎知事によると高知県民同士では、そんなの使わない。県外の人が来た時にかますために使う

  高知県民女性が言う「お酒は少々呑みます」=「日本酒2升」の事らしいです。発泡酒消費量も日本一。


  ≪ 日本酒の消費量&酒蔵数 日本一は新潟県 ≫

  富山県は日本酒消費量7位ですが、県内に蔵元が20
  あるので、県民の7割が地元の日本酒を呑むそうです。
 
  日本テレビ 所さんの目がテン! 『三重県に肥満が少ない理由③ 日本一酒を飲まない県』 16.02.28 放送

  ≪ 酒類購入金額が最も少ない三重県 ≫

  三重県はアルコールを分解しにくいDD型の遺伝子を持つ人が最も多い。
  沖縄は酒豪タイプのNN型遺伝子を持つ人の割合が7番目に多い (上にデータがあります) が酒類購入金額が少ない。

  ※ 必ずしも購入金額=摂取量とはならないので、データを参照する時に注意する必要があります。






  平成24年の国民健康調査による都道府県別BMI値 (肥満度を表す) では、三重県が20~69才の成人男性・女性共に
  最低値で最も肥満の人が少ないという結果。
  この番組では、三重県に肥満の人が少ない理由を3つ挙げています。← 検証してみました。詳しくは味の基本のページで

  厚労省の都道府県別肥満と野菜摂取・食塩摂取 (平成18~22年平均、成人男性・成人女性別) の一覧表によると、
  肥満率の全国平均値は31.1%、三重県29.2%となっています。最も少ないのは山口県22.1%。最も多いのは沖縄県45.2%。

 
 御屠蘇 おとそ
  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『旅始め ! 冬の古都奈良めぐり』 14.01.11 放送 などより

  【屠蘇散】とそ‐さん 屠蘇。 屠蘇延命散とそ-えんめい-さん
   魏の名医 華佗かだの処方という、年始に飲む薬。
   山椒さんしょう・防風・白朮びゃくじゅつ・桔梗ききょう・蜜柑みかん皮・肉桂にっけい皮などを調合し、屠蘇袋に入れて酒・みりんに
   浸して飲む。一年の邪気を払い、寿命を延ばすという。日本では平安時代から行われる。

  【屠蘇袋】とそ‐ぶくろ
   屠蘇散を入れ、酒・みりんに浸して屠蘇酒を作る袋。紅絹もみ(紅花で染めた絹布)を三角形に縫って作る。
   大晦日に井戸の中に吊しておき、元旦に屠蘇酒に用いた。

  奈良市「ならまち」にある老舗の漢方薬店「菊岡漢方薬局」は、平安末期の1184年から家系図が残り、現在の店主は24代目。
  昔ながらの漢方製薬の造り方を守る店。






  この菊岡漢方薬局の屠蘇散を使った屠蘇酒を造っているのが、近所にある今西清兵衛商店。
  ここの屠蘇酒のアルコール度数は約12度ありますが、薄い黄金色で、子供にも飲みやすい甘い風味だそうです。






  江戸時代中期の江戸の正月、長屋住まいの庶民の正月料理は雑煮と御屠蘇お-とそとして みりんを飲む程度だったそうです。
  お節 (食い摘み) が普及するのは江戸後期以後で、現在のようなお節が広く食べられるようになったのは明治以降の事。

  詳しくは、食の雑学カテゴリー 日本の「食」の歴史ページと調味料のページなどで。

  【朮祭・白朮祭】おけら-まつり
   京都八坂神社で大晦日から元旦にかけて行う神事。鑽火きりびで朮 (キク科の多年草、根は健胃薬、正月用の屠蘇散、若芽は食用)
   交えたかがり火を焚き、参拝者はその火を火縄に移して持ち帰り雑煮を煮る。


 1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』編者は大坂の医師の寺島良安、版元および出版地は大坂。
  百五巻 造醸類 (酒・果子・鹽・酢・醤油之類)「屠蘇酒とそさけ」には、屠蘇散の配合が書かれてあります。
  嵯峨天皇の弘仁年間から元旦に四方拝の後に飲む風習が始まったとの記述もあります。

  【四方拝】しほう-はい
   1月1日に行われる宮廷行事。天皇が当日午前5時半(昔は寅の刻)束帯を着し、神嘉殿の南庭(昔は清涼殿の東庭)に
   出御、皇大神宮・豊受大神宮・天神地祇・天地四方・山陵を拝し、宝祚ほうその無窮、天下太平、万民安寧を祈る儀式。
   明治になって三大節の一つとする。 四方拝と屠蘇酒


 1911 (明治44) 年の『東京年中行事』上の巻 P.20~21 「屠蘇

  元日より三日の間、お雑煮を祝ふに先ちて屠蘇酒を飲み、賀客に對たいしても先 之を勧むる例が有る。
  昔し禁中より始まつたことにて、『公事根源くじこんげん』に『五十二代 嵯峨天皇 弘仁年中に始められる。
  一人 之を飲みぬれば一家に病なし、一家に之を飲みぬれば一里に病なしと云ふ、めでたき功能こうのうにべれば、
  年の始めに是を奉るにや』とあるに見ても、邪氣を拂はらふ爲ために此藥を用ひたものなることは明あきらかで、
  屠蘇の意味は、鬼氣きゝを屠絶とぜつし、人魂じんこんを蘇生そせいすると云ふので有るさうな。

  十二月も末になると、藥種屋の店頭に延壽屠蘇散と書いたビラ紙が下る。そして小さい紅絹もみの嚢ふくろに入つた
  所謂いわゆる 屠蘇の藥を賣り出す。嚢の中には どれも同じものが入つて居るとは限らぬが、大抵は白求はくきゅう
  桔梗ききょう、山椒、防風、肉桂、大黄を刻み込んだもので、其嚢を銚子にゐれて味醂酒に浸し、藥汁のしみ出たのが
  即ち お屠蘇で有る。

  以前は紅絹の嚢を先づ井戸の中に浸して置いて、元旦に取り出して使つたもので、使用後は藥嚢を再び井戸の
  中へ投ずるのが本當ほんとうで有る。
  ほ 一家内のものが屠蘇を祝ふには、禮記らいきにある、『君の藥を飲むには臣 先づ嘗む、親の藥を飲むには
  先づ嘗む』の例に倣ならつて、年少のものから飲始むるが禮れいで有ると云ふ。

  嵯峨天皇…平安初期 (在位809~823)、桓武天皇の皇子。 弘仁こうにん … 810~824年

  【公事根源】くじこんげん
   有職故実ゆうそくこじつ (朝廷や武家の礼式・典故。官職・法令などに関する古来のきまり)。公事=公の事務。
   一条兼良 著。1巻。1423年 (応永30) 頃成る。年中の宮中の公事や儀式の根源・沿革を記す。

  【紅絹・紅】もみ
   (ベニバナを揉んで染めるからいう) 紅で無地に染めた絹布。ほんもみ。

  【礼記・禮記】らいき
   五経 (儒教で、人の守るべき5種の主な教え) の一つ。周末から秦・漢時代の儒教の古礼に関する説を集めた書。



  ≪ 菊酒きく‐ざけ

  ① 重陽の節句に用いる酒。また、菊の花を浸して飲む酒。きくのさけ。菊花の酒。秋

  ② 味醂みりんの一種。きわめて濃いもの。肥後・加賀などに産した。田植草紙酌を取らせて参れや加賀の菊の酒

  【重陽】ちょう‐よう (陽の数である九が重なる意)五節句の一つ。重九
   陰暦9月9日で、中国では登高という丘に登る行楽の行事がある。日本では奈良時代より宮中で観菊の宴が催された。
   菊の節句。9月の節句。

  【田植草紙】たうえぞうし
   中国山地に流布した田植歌を書き留めた写本。1巻。江戸後期書写の原本は失われたが、歌謡は室町末期の成立。

  江戸時代、酒を『燗』する時期は、旧暦の重陽の節句~桃の節句の間だったそうです。

  FOOD LIBRARY 『重陽の節句(旧暦9月9日) 「江戸時代文政期の大坂船場安土町の水落家の9月節句の料理献立」
   http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/10913_1.html  ← 大阪の食文化について書かれたサイトです。

  重陽の節句(旧暦9月9日)
   旧暦9月9日の節句を重陽の節句といいます。9は陽数(奇数)の極で、それが重なるところから、重陽といい、
   吉日とされました。
   1月7日(人日)・3月3日(上巳)・5月5日(端午)・7月7日(七夕)・9月9日(重陽)の節句が五節句(節供)です。
   江戸時代、幕府は五節供を式日と定めました。五節供の制は、明治6年1月に廃止されましたが、民間行事として
   しっかり定着しました。重陽の節句はまた、菊の節句とよばれ、親しまれました。
   古くは、この日に邪気を祓い長寿を願って、菊花を杯に浮かべて飲むしきたりがありました。

   豆名月(旧暦9月13日)
   旧暦9月13日(十三夜)の月は、旧暦8月15日(十五夜)の月に対して、「後(のち)の月」と呼びます。
   また、「豆名月」とも「栗名月」ともいい、月見の行事が行われ ました。ただ、十三夜の月を賞する風習は、
   中国にはなく、わが国固有のものと言われています。
   水落家の文政6年の「行事帳」には、次のように書かれています。
 
 大阪 堺の酒蔵が復活
  米による酒の造り方は、古墳時代の応神天皇の時代に酢の作り方と前後して中国から和泉の国 (大阪府堺市) に
  伝わったと言われています。

  毎日放送 ちちんぷいぷい 『きょうの★印 「復活するさかいに ! 堺で44年ぶりに復活 ! 堺泉酒造「利休蔵」』 15.04.10 放送 など
  テレビ大阪 ニュースリアル関西 『特集 堺の地酒復活にかけた思い』 16.11.28 放送

  ≪ 堺を代表する産業だった酒造り ≫

  堺の酒造りは江戸時代に最盛期を迎え、(堺の産業としては包丁や鉄砲が有名ですが、産業として酒が一番に挙げられる
  時代もあったそうです。) 明治になっても甲斐町1~3丁目を中心として100軒近くの酒造会社がありました。
  右の画像の明治時代のチラシは、『春駒印日本酒』醸造元 堺市甲斐町二町 鳥井合名会社
   (現在のアサヒビールの前身の会社) のもの。






  いち早く近代化が進み工業が発展した大阪は、大正時代を中心に日本最大の経済都市として『大大阪時代』を迎えます。
  経済や文化が発展する反面『煙の都市』とも呼ばれ環境も悪化していきました。

  大阪市の南に隣接する堺でも工業化の影響を受け、酒造りに重要な「良質の水」「敷地の確保」が難しくなり、
  神戸市の灘に酒造りの場所を移していったそうです。
  その後、堺の酒造は戦争の影響などもあり衰退の一途をたどり、1971 (昭和46) 年には堺市内から酒蔵の姿は無くなりました。


  ≪ 堺に酒造が復活 ≫

  2015年3月13日 堺区 (南海高野線 堺東駅近く) で堺泉酒造『利休蔵』の酒蔵開きが行われ、44年ぶりに堺に酒造が
  誕生となりました。

  大阪の河内長野市の老舗酒造会社の社長だった西條裕三さんは13年前に脳梗塞で倒れ酒造りを一旦引退しました。
  西條さんは、知人の紹介でであった酒蔵の経営に関わるコンサルト会社の社長 上田賢佳さんと共に日本酒好きの
  仲間を集め、小学校から育った堺で酒造りを始める事になりました。






  酒類免許を習得するには、酒を安定して大量生産できる業者に限られ、新たに習得するのは困難です。
  そこで西條さんと上田さんは、酒蔵ごと堺に移転してくれる業者を見つけるため7年ほどをかけて日本中を車で探し回りました。
  灘の酒造会社の元蔵主であった泉勇之介さんの協力を得られ酒類販売の免許を習得。






  堺市内には酒造の跡形もなかったので、料亭だった建物を改装し、堺由来の千利休の名をとった『利休蔵』をつくり、
  2015年1月に兵庫県産の山田錦を原料した仕込みを始めました。
  3月13日 「堺に酒造をつくろうよ」と協力してくれた人たちに新酒を振る舞う蔵開きが行われ、堺の酒造の復活となりました。






  純米吟醸酒 『千利休』 1升ビン 4860円、4合ビン720ml 2484円。 にごり酒 4合ビン 2600円は、まだ大量生産ができない
  ので、堺泉酒造と堺市内の酒販売店のみでの取り扱いとなっています。辛口の酒だそうです。

  2016年11月28日、イオンモール堺鉄砲町店で、2016年初出荷の800本の販売が開始されました。


  ≪ いずみ酢 ≫  Wiki タマノイ酢  寿司の歴史雑学 酢 いずみ酢、堺のタマノイ酢

  堺は古墳時代から江戸時代まで主な酢の生産地。江戸時代中期に大坂で書かれた『本朝食艦』に製法が書かれています。
  製造には1年ほどかかったようです。

  酢の作り方が日本各地に広まったのは、江戸時代の16世紀末頃。
 
 大阪 幻の酒 「金剛寺 天野酒」
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『今、日本酒が熱い!関西が生んだ奇跡の一滴』 13.02.07 放送

  ≪ 美味しすぎた悲劇! 大阪で生まれた幻の酒 「金剛寺 天野酒」 ≫

  飛鳥時代末頃に、河内長野の天野山建てられた金剛寺。
  この時代、中国から最新の書物や資料が集まる寺では、いち早く大陸の技術などを習得することが可能でした。
  その技術を改良し、高級な酒を造ることは僧侶たちの秘術としていました。特に金剛寺で造られる酒は「天野酒」と
  呼ばれ並ぶものはなかった。

  文献上の初見は室町時代の貞成親王の日記である『看聞日記』の1432 (永享4 年4月29日入江殿 (覚窓聖仙) より
  樽一荷の河内天野酒を賜るという記述のようです。

  【看聞日記】かんもんにっき
   後崇光院(貞成さだふ親王)著。1416(応永23)から48年(文安5)にわたる日記と1408年(応永15)の御幸記など別記13巻、
   計55巻。当時の行事並びに世相が詳記されている好史料。看聞御記かんもんぎょき






  天野酒を造るには相当な手間暇がかかり、甕かめの中で2年間熟成して完成。稀少な酒は高貴な身分の者しか
  味わう事ができなかった。
  色は黄金のようで、トロリと粘り気があり、口に含むと深いコクと優しい甘味が広がる至極の味わいで、呑んだ人達は
  皆が絶賛したと言います。天野酒は普通の日本酒と比べ100倍甘い。






  戦国時代、織田信長が多くの寺院の焼き討ちを行っており、その噂は金剛寺にも伝わる。僧侶たちは信長に天野酒を
  特別に献上。天野酒の美味しさで、金剛寺は焼き討ちを逃れることができました。

  その後、天下人となった豊臣秀吉にも天野酒を献上。たいそう気に入り、金剛寺に送った秀吉直筆の朱印状によると
  世間では酒に、灰を使って 腐ったすっぱい味を消していると聞いているが 天野山 金剛寺では違うのですな。もし、
  酒を求める者がいたら秀吉に進上するかどうか確認し 入念に封をして渡して下さい。これからも美味しい酒造りに
  専念していただきたいとの感謝が記されています。

  秀吉は度々使者を送り天野酒を求めた噂が大名たちにも伝わり「秀吉の天野酒好き」は有名になった。
  そうして大名たちが秀吉に贈り物をする時は、天野酒が欠かせないものになっていました。

  江戸時代、徳川家康が天下人になると、秀吉に関わるものを徹底的に排除し始めました。

  幕府に睨まれることになるので、天野酒造りや呑まれることも次第に少なくなっていき、最後には酒造りの伝統が途絶え
  歴史から消えることになりました。
  奈良県の大和郡山市にある「城の口餅」も、豊臣秀吉が名付けた「うぐいす餅」が使えなくなって改名したそうです。

  豊臣秀吉の墓 豊国廟 秀吉の歯と血液型など、徳川幕府が破壊、明治天皇が復興   奈良漬 と 戦国時代からの大和郡山市の「城の口餅」




柄樽・天野樽

  右の画像、現在も祝い用に使われている角の付いた樽は、元々天野酒を入れる樽だったようです。

  【柄樽】え‐だる
   角つののような一対の大きく高い柄をつけた、黒または朱塗りの祝儀用の樽。古くは長方形で、上の四すみに把手があった。
   つのだる。あまのだる。にんぎょうだる。柳樽。


  平成2年、金剛寺に残る資料を調べつくし、当時の天野酒を完全再現。米だけで造ったアルコール16度の甘い酒。
  貴腐ワインに似た風味だとか。






  河内長野市に唯一残る酒蔵 西條合資会社が「天野酒 豊臣秀吉愛飲之復古酒 僧坊酒」を発売。

  【金剛寺】 こんごう‐じ
   大阪府河内長野市天野町にある真言宗の寺。行基ぎょうき(668~749)の開基と伝え、
   南朝の帰依をうけた。天野行宮あんぐう。女院高野ともいわれる。平安期の一切経を所蔵。

  【天野酒】 ・・・ 中世、天野山金剛寺で造った名酒。 

  【天野樽】 ・・・ (もと天野酒を入れたのでいう)柄樽えだる・角樽つのだるの異称。

  【河内長野】かわち‐ながの
   奈良県に接する大阪府南東端の市。市域南部は和泉山脈。東西の高野街道の合流地。
   人口11万7千。


  1712年の『和漢三才図会』(著者は大坂の医師、寺島良安) 七十五巻「河内」によると、天野山金剛寺の寺領は307石。
 
 奈良の酒
  NHK奈良 ええトコ 『奈良に ”うまいもん” あり! ~旬と伝統の味 いただきます~』 13.12.13 放送
  テレビ東京 歴史の道 歩き旅 『渡辺正行が歩く新潟~上越 「上杉謙信伝説&冬の幸」』 16.12.20 放送
  名古屋大学 伊藤信博 論文 『室町人の嗜好 – 古記録からみる室町時代の食文化』
   http://urakamizaidan.or.jp/hp/jisseki/2012/vol21urakamif-13ito.pdf

  ≪ 室町時代後期頃から、酒の造り方が変化 ≫

  14世紀末の『御酒之日記』という文献によると、原料の違いで「片白」と「諸白」と呼び分ける事が書かれてあります。

  従来の酒の原材料では、掛米は白米、麹米は玄米を使っており、これを「片白」と呼ぶようになりました。
  原料となる掛米 (蒸し米) と麹米の両方に白米を使うようになった新しい製法の酒を「諸白」と呼びました。

  【片白】かた-はく … 掛米のみに精白米を用いたものをという。

  【諸白】もろ-はく
   掛米かけまいと麹こうじの両方に精白米を用いて醸かもした酒。江戸時代は上質の酒の総称であった。

  【掛米】かけ‐まい
   ① 小作米 ② 取引所で売買に用いる米。  清酒の醪もろみの仕込みに用いる米。

  また、もろみを発酵させるための酵母を、使う前から培養しておく「酒母」という考え方が
  できていた事も示されています。

  【諸味・醪】もろ‐み … 醸造して、まだ粕かすをこさない酒または醤油。〈倭名類聚鈔〉


  【酒母】しゅ-ぼ もと
   日本酒の醸造に必要な酵母を培養したもの。麹こうじ・蒸米むしまい・水に酵母を加えて作る。

  『延喜式』での酒造方法は、「醸しては漉し、蒸米を加えて醸す」という『シオリ』法という方法で『重醸酒』という分類に分け
  られる酒が造られていました。(濁酒)

  『御酒之日記』での「酘とう」という酒造方法では、酒母を熟成した後に麹と水を加え、冷やした蒸米を入れて造ります。
  発酵して出来たもろみを酒袋に入れ、圧力を加えて搾り、粕を分離して清酒を造る事が書かれてあるようです。

  室町時代の1447 (文安4) 年1月24日に「興福寺の別当である貞兼が名酒両樽を携えてきた」という記録が残っており、
  これが奈良の酒が名酒と呼ばれるようになった最初の記録だそうです。


  ≪ 織田信長が褒めた奈良の酒の記録と 酒造の大規模化 ≫

  『多聞院日記』には、山樽三荷の諸白が届けられ「比べるものが無いほどうまい」と信長から他の武将まで絶賛した事が
  書かれてあります。
  また、同日記には、製造した清酒を低温で加熱して殺菌する「火入れ」が行われ、貯蔵していた事も記されています。



「火入れ」をする事で、酒造りは発酵が進む夏が中心
だったものから、冬季も酒造りが可能になったそうです。

杉と竹の輪で大型の木桶が作られるようになり、
かめや壺を使っていた頃に比べて醸造規模が
飛躍的に大きくする事が可能になりました。

輸送容器として4斗 (72ℓ) 樽も作られました。

  【奈良酒】… 奈良地方で醸造する酒。古来、優良酒とされた奈良諸白。

  【多聞院日記】たもんいん-にっき
   奈良県の興福寺の学侶で多聞院主の英俊ほかの日記。46冊。1478年(文明10)から1618年(元和4)に至る。
   室町後期~安土桃山・江戸初期の重要史料。原本は散逸。

   奈良県の幻の柿 御所柿 信長がお取り寄せした柿  興福寺 信長が岐阜城で振舞った料理

  ≪ 博多の練酒 ≫

  室町時代の『蔭涼軒日録』の1466 (文正1) 年2月1日に筑前の練貫酒が奈良、天野と並ぶ名酒との記述があります。

  【蔭涼軒日録】いんりょうけんにちろく
   相国寺(京都上京区にある臨済宗相国派の総本山、足利義満の建立。歴代の足利将軍の帰依を受け五山の中心として
   威勢を誇った) 鹿苑の蔭涼軒主の公用日記。1435~66年(永享7~文正1)は気瓊蘂きけいしんずい、1484~93(文明16~
   明応2)は亀泉集証の筆録。京都五山を中心とする政治・美術に関する記事が多い。

  【煉酒・練酒】ねり-ざけ
   白酒の一種。清酒に蒸した糯米と麹を加え貯蔵発酵させ、石臼でひいて漉したもの。
   白酒の始まりで、博多産のものが有名であった。練貫酒ねりぬきざけ

 テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『利休を訪ねて ~ひと味違う堺を再発見旅~』 13.12.07 放送

  ≪ 堺市 大樽の製造所 藤井製桶所 と その樽をつかった醤油店 雨風 ≫

  酒や醤油の醸造に使用する大きな桶や樽を日本で作っているのは、1920年創業の藤井製桶所だけだそうです。
  この大きな桶は30年、醤油用など形を小さくすると150年も使用できるらしいです。






  江戸時代の1689(元禄2)年創業の 糀屋雨風HP http://www.amekaze-sakai.com/
 
 清酒の発祥地 奈良市 正暦寺
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『「清酒発祥の地」を守れ お酒好きが集まる支援活動』 14.09.04 放送

  奈良市菩提山町ぼだいせんちょうにある992年に創建された正暦寺しょうりゃくじは、11月初旬からの3000本の紅葉と、
  清酒で有名。
  現在、日本で唯一清酒を販売しているお寺です。酒母の一種である菩提酛ぼだいもと」の発祥の地

  中国から伝わった須弥酒 (清酒)すみさけの製造法で清酒を作った日本で最初の場所だそうです。






  室町時代 正暦寺の僧が、近くの菩提仙川の清水を用いて日本で初めて清酒を醸造したという伝承が残ります。
  毎年1月、酒母の仕込みが寺で行われ、その酒母を用いて奈良県の蔵元が清酒を製造しています。






  2014年2月 大雪の重さに耐えかねた10数本の木が倒れ、30mほど大木が本堂に直撃し半壊。
  修復費は3000万円かかりますが、重要文化財に指定されていないので、行政からの支援は一切ありません。
  そこで、地元を中心にお酒好きの人たちが『正暦寺を応援する会』を結成し、修復支援を呼びかけるイベントなどを
  開催しています。






  8月24日、奈良市のSi-Ro三条で、『奈良酒縁日』というジャズライブを聞きながら、菩提酛から醸造した9種類の清酒を
  楽しむことができるチャリティーイベントを開催。300人が来場、お酒や料理の収益は全て寄付され修復費に充てられます。

  9種類のお酒は、正暦寺 福寿院 客殿で、各1500円 (税込) で販売中。
  11月中旬~下旬の紅葉の時期は、JR奈良駅から臨時バスが運行予定。
 
 清酒の発祥地 兵庫県 伊丹市
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『今、日本酒が熱い!関西が生んだ奇跡の一滴』 13.02.07 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第1回 江戸のすし』 16.04.06 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第8回 上方の酒』 16.05.24 放送

  ≪ 兵庫県伊丹市が、現在の清酒の発祥地 ≫

  戦国時代の終わり頃、日本酒の主流は にごり酒(どぶろく)で、味は酸味が強いものが
  普通でした。
  清酒のように透明な酒は、上澄みをすくっただけの澄み酒で、極一部の人だけが口にして
  いただけでした。

  戦国~江戸時代初期の慶長年間(1596~1615年)頃、大坂の鴻池家が営む造り酒屋
  (兵庫県伊丹市)で働いていた使用人が、鴻池善右衛門と口論になりました。


  使用人は怒られた腹いせに、灰桶の灰を酒樽に投げ入れました。翌日、にごり酒が水のように澄んでおり、
  酸味がなくなり味も良い。これまで無かった辛口の清酒が誕生しました。

  日本酒は0℃~55℃まで、冷酒でも熱燗でも美味しく呑める世界でも珍しいお酒となりました。 東大阪市 鴻池新田会所






  【鴻池】こうのいけ
   江戸時代、大坂の富商。山中鹿介の子とされる新六(1570~1650)が始祖。
   自醸の上酒を江戸へ輸送、のち海陸運送業を創め、大名貸・両替業にも従事し、大坂随一の豪商となった。

  【鴻池善右衛門】こうのいけ‐ぜんえもん(初代 1667~1736)
   鴻池家当主の通称(第2代を除く)。第3代は、名は宗利。諸大名との取引は三十数藩に及び、酒造・運送業を廃し、
   両替商専門となった。1707年(宝永4)今の東大阪市の北部にいわゆる鴻池新田を開発。家訓を遺す。

  【山中鹿介】やまなか‐しかのすけ (出雲の人、生年未詳~1578)
   戦国時代の武将。名は幸盛。尼子義久に仕える。
   1566年(永禄9)義久が毛利氏に降ったので、尼子勝久を擁して戦ったが、のち播磨の上月こうづき城で毛利方に
   攻められ、捕らえられて斬。

  ※ 広辞苑の記述と、参照した本で鴻池善右衛門の年代が合いません。江戸初期の事なので鴻池真六が正しいと思われます。


  ≪ 江戸時代 日本最高品質だった 栄光の伊丹ブランド ≫

  伊丹は南北朝時代(1336~92年)に地元の武士である伊丹氏が、この地に築城したのが始まりで昔は城下町として
  栄えていました。
  慶長年間の鴻池酒造で偶然に生まれた清酒は、造り方が全国に広まり大量生産され庶民でも呑めるものに
  なっていきました。






  長年、摂関家の筆頭である公家の近衛家は、伊丹の酒にいち早く目を付け、その品質を守るため、水や製法が他へ
  流出しないように厳しく取り締まり伊丹の酒造りを庇護しました。その結果、伊丹の酒は大人気のブランド酒になりました。

  【伊丹】いたみ
   ① 兵庫県南東部の市。大阪に隣接する都市。東部に大阪国際空港がある。古来、清酒の醸造で有名。人口19万2千。
   ② 池田宗旦(伊丹の人)を祖とし、口語を自由に用い新奇な着想で表現。宗旦の後輩に上島鬼貫うえじまおにつらが出て、
     独自の境地を拓いた元禄頃の俳諧の一風・一派を伊丹風という。

  【伊丹酒】いたみ‐ざけ
   伊丹地方で醸造する酒。江戸初期から中期にかけて最上酒とされた。伊丹諸白もろはく

  【近衛】このえ … 藤原氏の北家。五摂家の一つ。藤原氏嫡宗。藤原忠通の嫡男 基実を始祖とする。

  【池田酒】いけだ‐ざけ
   池田市(兵庫県に隣接する大阪府北西部の市。豊中とともに大阪の代表的な住宅衛星都市。
   かつて清酒・木炭で有名。人口10万2千)で醸造する酒。
   辛口で、江戸時代には最上の酒として、伊丹酒と並称された。

  摂津の国府は、大阪市・天満橋の八軒屋付近にありました。
  河内の国府は藤井寺市北東部にある志賀県主神社の付近。
  







  上方の酒は杉樽に入れられて菱垣廻船などで江戸へと運ばれました。
  江戸で作られた銘酒番付の最高位の大関以降の上位は伊丹の酒が独占していました。
  ※ 相撲の横綱は1909年(明治42)以後にできた地位で、それ以前は大関が最高位でした。

  あまりの伊丹酒の人気ぶりに、江戸への荷物を運ぶ廻船問屋の船乗りたちなどが船が難破して荷物を落としたなどとして、
  不正に飲酒したり横流しすることが横行しました。その被害の大きさに蔵元の死活問題へと発展。
  伊丹の蔵元たちは日本酒だけを運ぶ専用船を自前で建造しました。それが樽廻船です。

  【廻船問屋】かいせん‐どいや
   近世、廻船と荷送人との間に立って貨物運送の取次を業とした問屋。船問屋。回漕店。

  【樽廻船】たる‐かいせん 、たるぶね。
   江戸時代、大坂・江戸間の定期便船の一種。酒樽を運送したのに始まり、幕末には菱垣廻船を圧倒した。

  堺船と砂糖 江戸時代には、輸入品を長崎から堺や大坂に運ぶ独占的な権利を与えらました。
  江戸時代の海上交通 朱印船・北前船・菱垣廻船・樽廻船

  主に酒樽だけを荷物とするので、積み込み時間が短縮され、20日ほどかかっていた大坂~江戸間を6日で運ぶことが
  出来るようになります。
 

 

新酒番船入津繁栄図

 


  酒好きの江戸っ子たちは、関西からの樽廻船に熱狂。中でも毎年秋に来る新酒を運んだ樽廻船を「新酒番船」と呼び、
  ボートレースのような掛け事に発展。一番最初に江戸に到着した船乗りたちが優勝パレードを行うほどの盛り上がりました。
  賞金も出て、最初に卸せる権利があり、高値で取引されたそうです。その結果、最短2.5日で到着するようになったようです。

  1866年の落合芳幾 作『新酒番船入津繁栄図』は、新酒番船の一着を祝っている様子の絵。
  赤い服を着た男たち10人ほどの集団×3が、太鼓を叩きながら旗などを振り回している場面が描かれています。

  関西からの下り酒は、多い時には年間100万樽にも及んだ記録が残っています。
  こうして伊丹の酒造は巨大な富を築きます。

  しかし、そんな伊丹の酒造会社ですが、江戸時代末期頃に伊丹での酒造りは衰退。

  現在は1550年に創業した小西酒造のみとなりました。
  伊丹の酒造会社のいくつかが神戸市の灘に移ったのがきっかけです。
   続きは下 (神戸市の灘の酒)で


  樽廻船が品川沖に到着すると、伝馬船という小型の荷運船に積み替えられ、酒問屋が並ぶ新川へと運ばれました。
  1834~36年の長谷川雪旦 作『江戸名所図会 新川酒問屋』には、酒樽を積んだ伝馬船が描かれています、
  1844~47年の渓斎英泉 作『江戸八景 日本橋の晴嵐せいらん』の左端には酒樽を運ぶ大八車を押す褌姿の男二人が
  描かれています。

歌川重宣・江戸名所 品川沖汐干狩之図

歌川広重・南品川鮫州海岸

江戸名所図会 新川酒問屋

江戸八景 日本橋の晴嵐


  【伝馬船】てんま-ぶね、てんま-せん
   荷物などを運送するはしけぶね。無甲板木製の船で、幅広く、船尾は扁平。普通、艪または櫂で漕ぐ。はしけ。


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「酒運上

  課錢 俗に運上と云 攝等より來る酒の課錢を收しならん
  元祿十一年始課之 (寳永六年止之 慶應元年復古一樽課銀六匁宛)

  「=摂津国」 元禄11年 (1699) ~ 宝永6年 (1710) 、慶応1年 (1865) ~。一匁もんめ=小判1両の1/60。

  【運上】うん-じょう
   (運送上納の略) 中世、公物を京都へ運んで上納すること。
   江戸時代には雑税の一種で、商・工・漁猟・運送などの営業者に課した。


  続きは下 (江戸の呑み倒れ)で


  ≪ 伊丹酒は、かなり辛口 (酸味が強い) 酒だった ≫

  名古屋大学 伊藤信博 論文 『室町人の嗜好 – 古記録からみる室町時代の食文化』
   http://urakamizaidan.or.jp/hp/jisseki/2012/vol21urakamif-13ito.pdf

  上記の論文サイトには、栽培された米の種類や酒造りの変化なども載っています。

  江戸という一大消費都市へ供給するには、腐りにくい酒を用意する必要性があったそうで、現在よりかなり辛口だった
  そうです。
  明治10年に東京大学農学部が酒を分析したところ、アルコール分は現在と同じ程度でしたが、酸味は現在より4~6倍
  だったようです。

  また江戸時代前期頃は現在よりアルコール度数がかなり高い事も記されています。

  長野県佐久市で1689 (元禄2) 年に造られた古酒が発見され、アルコールが24%もあったそうです。
  1695年刊の『本朝食鑑』には「年を越すものを諸白古酒と称す。甕壺に収蔵して、よく年を経つべし。その三、四、五年に
  至るものは味濃く、香美にして、最も佳なり。」とあり、その年に造られたものは新酒とし、古くなったものには糯米と麹を
  加えて、醸す事を繰り返し、アルコール度を高くして古酒 (重醸酒) と呼んだようです。


  ≪みやのまえ文化の郷 旧岡田家酒蔵 ≫  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『伊丹~武田尾温泉 新緑さんぽ』 14.06.07 放送

  JR伊丹駅から酒蔵通り西へ向かうと、伊丹に残った「白雪酒造」と「老松」の2軒の酒蔵があります。
  老松の井戸水は一般に開放されています。老松は上の画像の銘酒番付の最高位である大関に位置づけられています。






  酒蔵通りを1本北へ入ると、1674年に建てられ現存する酒蔵としては日本最古の旧岡田家酒蔵があり、
  かつて使用されていた酒造りの道具などが展示されています。





 
 【京都 伏見】
  読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『ウィ~クエンドでっせェ~ 「満開の花に囲まれる」』 15.04.19 再放送
  関西テレビ ゆうがたLIVE ワンダー 『武井壮のチャリぶら 『初夏の京都 宇治から伏見へ」』 15.07.08 放送
  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『夏の京都 水辺散策 納涼めぐり旅』 15.07.25 放送
  テレビ大阪 ニュースリアル 『特集 『地ビール』改めクラフトビールが流行 その訳は』 16.08.18 放送
  名古屋大学 伊藤信博 『室町人の嗜好 – 古記録からみる室町時代の食文化』
   http://urakamizaidan.or.jp/hp/jisseki/2012/vol21urakamif-13ito.pdf

  上記の名古屋大学のサイトによると、室町時代の第8代将軍・足利義政の時代 (在職1449~1473) の頃、酒の特産地は
  河内・大津・奈良・堺など7つ京都以外の町から、京都に運ばれていたとあります。

  一般的に歴史では、京と伏見は別の町扱いされますので、伏見が京都に含んでいるのか? は、上記サイトでは不明ですが、
  伏見が発展するのは、桃山時代に豊臣秀吉が伏見城 (1592年に築城~1596年に地震で倒壊) 以降の事です。

  桃山時代以降、特に江戸時代は、大坂―(淀川)―伏見―(高瀬川、1611年に開削した運河)―京都への物流拠点で発展
  していきます。

  1645年刊の俳書、『毛吹草けふきぐさ』(京都の俳人、松江重頼 編7巻5冊、1647年に3冊追加刊)では、京都に入荷する酒の
  名産地は半分に減っているそうです。つまり、京都が酒の産地になっていった事が示されるようです。
  上記のサイトでは、伏見も京都に含むと考えていると思われます。

  【高瀬川】たかせ-がわ
   ① 長野県北西部の川。(以下、略)
    京都市内にある運河。鴨川から取水し、伏見を過ぎ淀川に通じる。長さ十数㎞。
    1611年 (慶長16) 、京都の豪商・土木家 角倉すみくら了以が開削。高瀬舟を運行したところから名づけた。






  伏見の清酒 伏見酒造組合 『伏見の酒について』 http://www.fushimi.or.jp/guide/water.html

  伏見には「金名水」「銀名水」「白菊水」など多くの名水伝説が残っています。 水質は、カリウム、カルシウムなどを
   バランスよく含んだ中硬水で、酒づくりに最適の条件を満たしています。

  京阪伏見桃山駅近くにある白菊水の湧水は自由に汲んでいいようです。

  【伏見】ふしみ … 京都市の南部の区。もと豊臣秀吉がつくった城下町。酒造業が盛ん。

  伏見城は1592 (文禄1) 年から築かれ1596年に地震で倒壊し、木幡山に移して再建。江戸幕府が廃棄、大徳寺・西本願寺・
  豊国神社などに一部を移築して現存。

  【伏見奉行】ふしみ-ぶぎょう
   江戸幕府の職名。遠国奉行の一つ。老中の支配に属し、伏見にいて、その地の民政、木津川の船舶を管理。
   伏見廃城以前は近江・丹波の幕府直轄地の民政を行い、訴訟を裁断した。






  黄桜は1995年に京都初の地ビール (クラフトビール) の製造免許を取得した酒蔵。
  2016年現在、伏見区の伏水蔵で8種類の地ビールを製造。

  【柳の酒】やなぎ-の-さけ 柳樽やなぎ
   室町時代から江戸時代にかけて、京都の柳屋で醸造された銘酒。狂言、餅酒「松のさかやや梅壺の―こそすぐれたれ」

  【柳樽】やなぎ-たる
   ① 胴が長く手の付いた朱塗の酒樽。結婚などの祝い事に用いる・柄樽えだるまた角樽つのだるの類。
   ② 清酒の銘の一つ。また、酒の異称。やなぎ。
   ③ 誹風柳多留はいふうやなぎだる (1765~1840年の川柳集、167冊) の略称。
 
 【こも樽】 
  関西テレビ ゆうがたLIVEワンダー 『VS世界 あっぱれJAPAN魂 「世界から注目される 美しく進化する"こも樽"」』 15.05.19 放送
  REAL●JPN PROJECT 『インテリア雑貨ブランド 「岸本吉二商店」』 http://www.realjapanstore.com/fs/rjps/c/0000000356

  ≪ こも樽 ≫

 江戸時代、上方(大坂や京都を始めとする畿内)から、江戸に酒を運搬していました。
  特に灘・伊丹・伏見の酒は下り酒として評判が良く、当初は、二斗樽(36リットル樽)を馬の背
  に振り分けて陸路運送や、菱垣廻船にて他の商品と一緒に海上運送されていました。
  しかし、運送時間の短い酒荷運送専門の樽廻船の登場により、海上輸送が主流となります。

  この頃には、樽のサイズも大きくなり、四斗樽(72リットルサイズ)となりました。
  樽が大きくなり困るのが、酒樽の破損です。破損を防ぐ目的で、酒樽に菰(こも)を巻き付け
  たのが、菰樽(菰冠樽:こもかぶりたる)の始まりといわれています。


  菰には、他の銘柄と区別するために、各銘柄の特徴をあらわしたデザインが描かれました。
  日本独特の色遣いやデザインは、メッセージ性の強い広告媒体として、店頭装飾に利用されました。
  現代においても、菰樽は酒蔵や料理店での店頭に置かれ、銘柄をアピールするツールとして使われています。






  【菰・薦】こも … あらく織ったむしろ。もとはマコモを材料としたが、今は藁を用いる。

  【真菰・真薦】ま‐こも
   イネ科の大形多年草。沼沢に大群落をなして自生。高さ1~2メートル、葉は線形。秋、茎頂に約50センチメートルの
   穂を出し、上部に雌花、下部に雄花をつける。葉はむしろとし、果実と若芽は食用。かつみ。かすみぐさ。こも。伏柴。
   ワイルド‐ライスとよぶがイネとは異なる。

  【真菰刈る】まこも‐かる … 枕詞 「淀」「堀江」などにかかる。

  【真菰墨】まこも‐ずみ
   黒穂くろぼ菌が寄生して肥大したマコモの芽を乾したもの。絵具・眉墨とする。
   中国などで食用。菰角こもづの

  1本の太い縄と3本の細い縄を複雑に組み合わせ、きつく縛る事で接着剤などを使わず、

  樽にこもを巻き付けます。樽との隙間ができないよう結ぶため、体力と職人技が必要な作業です。


  ≪ こも樽のシェア50%以上の兵庫県尼崎市の岸本吉二商店 ≫

 岸本吉二商店は明治はじめの創業以来、結婚式やお正月、新築祝いや開店祝いなど、あらゆるお慶びごとに
  用いられている菰樽・枡の生産を行っています。

  江戸時代、伊丹や灘といった名醸地の酒は江戸で好んで飲まれていました。初期は二斗樽二つを馬の背に
  振り分け運んでいましたが、中期になると海上輸送が主流になり、菱垣廻船が登場しました。

  船積みをするのは大きな四斗樽で「菰冠り(こもかぶり)」と称し藁(わら)の菰でくるんで運びました。菰には運搬中の
  樽を保護する目的もありましたが、他の銘柄と区別するため、商標を焼き付けたり刷り込んだりしました。
  これを印菰(しるしこも)といいます。

  尼崎は日本屈指の酒どころに囲まれ、農家の冬場の仕事として菰縄づくりが地場産業として発展してきました。
  今でも全国の酒造会社で使われる印菰のほとんどを作っています。






  ドイツの国際的なデザイン賞 『iF packaging design award 2012』を受賞し、インテリアとしてのこも樽利用がドイツや
  豪州・米国などで注目されています。
  2015年5月に開催されたイタリアのミラノ万博に出展した日本館でも岸本吉二商店が作ったこも樽が飾られています。

  レストランの飾りだけではなく、こも樽をテーブルや椅子にアレンジしたり、小物入れとしても利用できるミニ鏡開きセット
  5800円~は、フタの部分が3つに分割されマグネットでくっ付くようになっているので、何度でも鏡開きごっこが可能な
  ものもあります。
 
 【 江戸の「呑み倒れ」 】
  NHK Eテレ 美の壺・選 『File96 弁当箱』 13.07.21 放送
  NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『時代を変えるリーダーとは ? 「徳川吉宗」』 14.05.20 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『近世の経済と産業』 14.10.03 放送
  日テレ 世界で一番受けたい授業 『江戸時代のベストセラーから見る 驚きの新歴史 !』 15.04.11 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第1回 江戸のすし』 16.04.06 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第8回 上方の酒』 16.05.24 放送

  ≪ 江戸中期の江戸の人口 ≫  東京近郊の関東の歴史

  江戸中期、第8代将軍の德川吉宗が人口やなどの農業生産量などの調査を行っています。吹塵録によると、
  1726 (享保11) 年 当時の日本の人口は2654万人。 江戸町民は50万人。
  (江戸の武家人数は調査できないので不明。← 江戸100万人説が生まれた原因)。

  【吹塵録】すいじんろく
   勝海舟が編纂した江戸幕府の財政資料集成。皇室・田制・外国通商
   などの各部に分けて編纂、1890年(明治23)刊。

  ※ 武士の割合は約7%なので、江戸中期で186万人ほど。
    江戸の人口が100万人だとすると、武士の4人に1人以上が
    江戸に居た事になります。


  江戸の住居分布では町人が住んだ地域は武家地の1/5。庶民の人口密度は現在の東京の約4倍の
  6万人/㎢と、超過密な状態でした。

   江戸の人口100万人は本当か? 寛政時代の幕府記録では江戸の人口 2億61万3000人もいた?

  農家や漁師の二男や三男など地方で食い詰めた人々が豊かな暮らしを求め江戸に出てきて、棒手振などで商売を行い
  わずかな日銭を稼いでいました。庶民は狭い長屋住まいが普通で、4畳半1間に4人家族が住む場合もありました。

  江東区深川江戸資料館の米澤繁さんによると「物を持たない事を誇りにしていた」そうです。 ← 江戸庶民の強がり。






  【棒手振】ぼう‐てふり、ぼてふり。 振り売り
   天秤棒で荷物をさげ、または担って、声をあげながら売り歩くこと。魚・青物などをになって売りあるく商人。


  ≪江戸時代 三大都市を表す言葉 ≫

  京都の「着倒れ」 … 西陣織などの呉服産業、京都のお洒落なファッション文化などから。
  大坂の「食い倒れ」 … 天下の台所として、米をはじめ多くの物資が集まった事などから。
  江戸の「呑み倒れ」 … 最大の人口を誇り、特に酒の消費が多かった事から。


 1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家) 巻十上 (飲食)「下り酒
   嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104 P.424 参照

  下り酒 昔は江戸にて多く酒を造りて下り酒はなかりし【事跡合考 (1746年起筆、国学者の柏崎具元 著)】に
  南川 語て云 津の国 鴻池の酒屋 勝屋三郎右衛門と云もの酒二斗づづ入る桶二つを一荷として共に草鞋わらじ
  数足置きたるを担て江戸に下り 大名の家々に至りて一升を銭二百文づつに売たり 其頃いまだ麁酒のみにて
  これが酒の如き美酒なき故 ばいとりがちに買はやらかし しきりに上下して おびただしく利を得たり

  其頃は米は下直なり 木銭は十二文ほどしたる故 鴻池より一上下銭三百五六十文にて支廻たり 肩の上はかり
  にてはかゆかざる故 その一荷四斗の酒を一樽として 二樽を馬一駄として 数十駄づつ持下りて勝屋売りたり

  依之末代に至りて酒の値を決るとき十駄金子何両と立るもの 二十樽酒八石の積りなり 追日酒うれる故 馬の背
  にても及びがたく ついに東海を何十万樽と云に至りて船につみ入津する事 今日盛りなりと云り 此いつ頃のこと
  にか【江戸鹿子 (1687年の江戸で刊行された江戸の地誌、藤田利兵衛 著)に下り酒や中橋広小路呉服町一丁目
  二丁目 せと物町一丁目と見へたり

  摂津の国の鴻池の酒屋の勝屋三郎右衛門という者が360 (1斗=10升=18.039ℓ) 入り桶×2を担いで江戸へ
  やってきた。(草鞋を数足置いているのは徒歩で来たからだと思われます)
  大名屋敷で1升を200文ずつで売り、江戸では粗末な酒しかなかったので、美酒だったので高額で売れ利益を得た。
  四斗=一樽。二樽=一駄として、勝屋は数十駄ずつ持って江戸へ下り売ったので、後に酒の取引相場で
  10駄 (20樽) 単位で何両と決めるようになった。20樽の酒で8石=80斗=約1440ℓ。
  酒が売れるので、馬で運ぶだけでは足りなくなって、ついに船で運ぶようになった

  【粗酒・麁酒】そしゅ 大辞林 第三版
   粗末な酒。品質の劣る酒。人に酒を勧めたり贈ったりするときにへりくだっていう語。

  【下直】げ-じき … 安値。安っぽいさま。 高直こう-じき

  【木銭】き-せん (木賃き-ちん)
   ① 旅人が米を持参し薪代まきだいを払って旅宿に泊まること。また、その代金。
   ② 木銭 (賃) 泊り・木銭 (賃) 宿の略。安宿。

  【駄】
   ③ 馬1頭に負わすだけの重量。36貫。日本の近世では本馬で40貫または36貫を1駄の重さとする。
   ④ 酒3斗5升入りの樽2樽の称。醤油や油では8升入りの樽8樽。  1貫=1000匁=3.75㎏

  【樽廻船】たる-かいせん
   江戸時代、大坂・江戸間の定期便船の一種。酒樽を運送したまに始まり、幕末には菱垣廻船 (幕府の保護を受けた
   定期船で江戸十組問屋と大坂二十四組問屋の専属の船) を圧倒した。







 幕末の『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「江戸商賈

  工商ともに京坂より多しと雖も 商法大坂の如く大行なる者少し 唯 酒問屋のみ大坂に無き所也


 『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「酒問屋

  新川新堀茅場町 數戸 軒を連ね 亦 各巨戸なる者也 蓋 昔は攝伊丹を酒の最上とし 今も酒造家多しと雖ども
  近年は灘目の酒を最上とす 灘目と云は大坂西方の近き海灣を云 池田も昔は伊丹に次げり 今は甚だ衰へたり
  然れども伊丹池田灘等を專とし 尾蔘等を中國物と云 次之 其他の國製を下品とす

  京坂は伊丹池田灘ともに隣國隣邑なるを別て 特に問屋を置ず酒造家より小賣酒店に賣る也
  京坂小賣酒店を板看板いたかんばん酒屋と云 江戸にて升酒屋と云也

  「雖も=いえども」「=摂津」「灘目=灘の旧名」「=湾」「=尾張」「=参」「むら=村、郡」


  酒問屋(誤り重出) 京坂も伊丹池田灘以上三所の産を上品とし專用すれども 亦 各其地にても造之 然も伊丹以下
  ともに近きを以て小賣店も直買する故に 京坂には酒の問屋無之 因云 京坂 酒小賣店を異名の如く 板看板と
  云 いたかんばんと訓ず

  又 江戸の小賣店を ますさかや と云 桝酒屋也 又 桝酒屋の内看板に上酒樽割と書たるたるあり
  升賣も准二樽賣一て廉價に鬻の意也

  「=値」「=販ひさぐ (売る、あきなう、販売)」


 『守貞謾稿』の第五編生業下「醬油賣」「鹽賣」「嘗物賣」では江戸にては酒も兼賣るありとあります。



  ≪ 江戸は酒の一大消費地 貧乏徳利 ≫

  東京都埋蔵文化財センターの長佐古真也さんによると、酒屋が粗末な造りの徳利に入れて酒を販売していましたが、
  これが発掘され始めたのは江戸時代中期頃から。江戸時代後期になると、出土量は10倍位にまで増えているそうです。
  江戸末期になると、捨てられた陶器の半分くらいが、この貧乏徳利。

  【貧乏徳利】びんぼう‐どくり … 円筒形の上の方に長めの口をつけた陶製の徳利。






  飢饉が起こると、食い詰めた農民などが地方から江戸や京・大坂などの都市に流入します。彼らは手に職なども無い為、
  治安は悪化する事も多かったようです。
  享保の改革や寛政の改革など、何度か旧里帰農令きゅうりきのうれい (人返し) が出されましたが、ほとんど効果が無く、
  時代が進むにつれ地方から移住する人が増え続けました。

  ※ 明治初期の東京の人口が90万人。江戸時代の江戸は5人に1人が武士とも言われていた記述などを鑑みると、
    徳川吉宗の頃 (1725年頃) に江戸100万人説は嘘 の可能性が高いです。60~75万人程度でないと、
    その後の江戸の歴史、明治初期の人口調査結果との矛盾が生じてきます。

  江戸後期頃 ? 武士も庶民も同じ所で酒を呑んでいるの居酒屋を描いた絵が残っています。
  江戸の庶民の最大の楽しみは酒だったようです。

  上方で水車を使い酒が大量生産され始め、江戸へ大量に運ばれたという背景が大きく関係しています。


  江戸買物独案内えどかいもの‐ひとり‐あんない (江戸末期1824年に刊) は、『江戸の町が大きくなりすぎた為、
  この本を書いた』とあり、『いろは…』で目次が作られ、菓子屋・鰻屋・呉服屋・わらじ屋・ロウソク屋など2500店以上、
  各店の住所や商品と代金も書かれていました。

  この中に記されている薩摩産の酒は800文 (1文=35円で換算すると2万8000円)、輸送費がかかるので大変高価だった
  ようです。


  ≪ 浮世絵の美人画に描かれた酒 ≫ 江戸の花見

  左の浮世絵は歌川国芳 作 『三拍子娘拳酒』 真ん中は、歌川広重 作 1843~46年『江戸名所圖會 飛鳥山』。
  右は、3代目の歌川豊国 (歌川国貞) 作 1855年『見立源氏はなの宴』。遊郭内の花見を描いたもの。





  下左3枚は京都市上京区の高津古文化会館所蔵の江戸時代の行厨・酒器類。
  右端は京都市東山区にある半兵衛麩が所蔵する酒器。お茶の釜に見せて、実はお茶じゃなくお酒という趣向の器。

  【行厨】こう-ちゅう … 弁当。わりご (主にヒノキ製の弁当箱)。 【箪食】たんし (竹製の弁当箱)






  上方では桃山時代頃には、庶民が花見をしていたようです。その頃から酒と料理をセットした行楽用の弁当箱である
  行厨が使われています。江戸時代になってから蒔絵を施したものになります。 詳しくは花見の歴史
 
 江戸の甘酒  一夜酒 ひとよざけ。  こさけ。 醴酒 れいしゅ
  【甘酒・醴】あま‐ざけ 広辞苑、百菓辞典
   米の飯と米麹こうじとを混ぜて醸かもした甘い飲料。または、酒粕を溶かし甘味をつけた飲料。
   古くは、夏の飲み物であり、夏の季語。ひな祭に使われる事が多い。白酒しろざけ

  【酵・白糟】しら-かす
   白い酒かす。特に、これで作った甘酒。また、饅頭の皮を製するもとに用いる。〈倭名類聚鈔[16]〉

  承平(931~938)年中、醍醐天皇の皇女 勤子内親王の命によって源順が著した日本最初の分類体の漢和辞書である
  『倭名類聚鈔』に醴こさけ、醴酒れいしゅ (「濃い酒」の意という)米と麹こうじと酒とで一夜で醸造する酒が載っているようです。

  【甘九献】あま‐くこん
   (女房詞)甘酒あまざけ。あまおっこん。あまくもじ。御湯殿上日記―まゐる

  【御湯殿の上の日記】おゆどののうえのにっき
   清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。禁中の日常や女房詞などを知る好史料。
   1477(文明9)から1826年(文政9)までのものが現存。


 1643年(寛永20)刊『料理物語』の1665 (寛文4) 年版 「第二十 萬聞書之部

  白川あま酒〕 は白三升を引わり、よくむしさまして、かうじ三升に 水五升入、よくもみて、すいのうにて
  こししぼり、かすをすて、其水にて つくりいれ、時々かき合せ候、夏は三日、冬は五日にてよし


  1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』編者は大坂の医師の寺島良安、版元および出版地は大坂。
  百五巻 造醸類 (酒・果子・鹽・酢・醤油之類)「練酒

  筑前博多之練酒得白酒ニ而甚ネハリ其甘味甘美也 蓋白酒一類
  クワシキ者○下戸及婦人小兒好メハ即痞満

  「」は出力できない漢字、たぶん現代字では「」?

  【煉酒・練酒】ねりざけ 練貫酒ねりぬきざけ
   白酒の一種。清酒に蒸した糯米と麹を加え貯蔵発酵させ、石臼でひいて漉したもの。
   白酒の始まりで、博多産のものが有名であった。

  【白酒】しろざけ
   ① 粘りのある白濁した酒。蒸した糯米と米麹とを味醂または清酒・焼酎に混和して発酵させ。後にすりつぶして造る。
     甘味豊かで一種特有の香気がある。多く雛祭に用いる。山川酒。
   ② 濁酒どぶろく (滓かすを漉し取らない日本酒、濁り酒、もろみ酒、しろうま) の別称。


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「白酒賣

  春を專とす 又 此賣の所荷 必ず山川「路上に賣る白酒は小兒の食用を專とするのみ」を唱す
  桶上の筥は硝子 とくりを納む

  「小兒=小児」「=箱」「とくり=徳利とっくり (トクリの促音化)」 【山川酒】やまかわ-ざけ … 白酒の異称。山川白酒。

  買ったその場で飲むためのガラスの器と、お持ち帰り用に入れる器として使い捨て用の貧乏徳利を用意していました。



  NHK Eテレ 美の壺 『 納涼 ! 日本の夏スペシャル 第三回「食」』 11.08.04 放送 など より

  東京の神田の甘酒店の天野屋では地下では甘酒の原料になる糀こうじが造られているそうです。
  糀を蒸した米に合わせ発酵させると甘酒になります。
安政(1855-1860) 箇労痢 ころり 流行記 





  天野屋の主人によると
  元々、甘酒は冬の飲み物では無く、夏の飲み物です。甘酒には砂糖が入っているわけではありません。
   甘味の主成分はブドウ糖で、夏に飲むと疲労回復ですとか夏バテ防止になるんですよね。江戸時代は水事情も悪かった
   みたいで、夏になると生水を飲んであたったりするので 甘酒が重宝されていたようです。

  江戸時代、特に幕末頃 コレラ (ころり・・・虎狼痢・古呂利など) が大流行、簡単に水分と栄養が摂れる甘酒が飲まれた。
  上の右の画像 安政箇労痢流行記 茶毘室やきば混雑 の図  は、焼き場 (火葬場) にコレラで亡くなった人たちの御棺が
  大量に運ばれてきた様子のようです。






棒手振 ・ 振り売り


  明治44年刊の東京年中行事の「氷、甘酒、心太、白玉、アイスクリーム」の記述原文


  ≪ 1958年以降、自転車が普及し、出前や配達で使われるようになる ≫

  1950年代前半頃の東京では、自転車には年間1台200円(現在の価値で約8400円)の税金がかかった事から、
  リアカーや振り売りの行商が多かったようです。自転車1台15000円 (現在の価値で約55万円)。
  大阪では民間でも自転車が進んでいました。(自転車は堺が生産の中心だった)

  ちなみに奈良時代も平城京より大坂 (摂津・河内) の方が繁栄。室町時代の応仁の乱~江戸時代中期は堺、
  江戸時代中期以降は大坂が圧倒的な経済都市。明治後期~戦前も大阪が最先端都市で、大正時代は日本一の経済都市。
  東京一極集中化が始まるのは1970年代ですが、東京の方がリードし始めるのは平成元年くらいからです。

  1950年代の食事情 大阪の方がまだまだ文化レベルが高かった時代。

  ≪ 幕末~明治期の浅草の様子 ≫





 
 兵庫県 神戸市 灘区 
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『今、日本酒が熱い!関西が生んだ奇跡の一滴』 13.02.07 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『近世の経済と産業』 14.10.03 放送
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『灯台の真実』 15.10.15 放送

  ≪ 日本有数の酒所 灘の酒造りが発展したきっかけ ≫

  江戸時代の最高の酒は伊丹ブランドが独占していました。それは蔵元たちによる生産や出荷の厳しい掟が定められて
  いたからでもあった。そんな中、もっと多くの酒を造りたいと思う酒蔵の主人がいました。

  雑喉屋文衛門ざこうや-ぶんえもんが、伊丹の地を離れこれまで酒造りとは全く縁の無い灘へと引っ越し酒造りを始めたのです。
  それに続くように新しい酒蔵が灘に増えていきました。






  当初、灘の酒は伊丹の酒の味に遠く及ばず、伊丹の酒蔵たちは余裕でした。
  江戸時代の後期頃、灘で「宮水」と呼ばれる西宮市の海岸に近い浅井戸から湧出する水が発見され、灘の酒の品質が
  大幅にアップ。

  伊丹に比べ灘は海に近いので、江戸への運搬に
  非常に有利となり、次第に伊丹の酒造りは衰退し、
  代わって灘が酒の名産地になった。

  【灘酒】なだ‐ざけ
   兵庫県灘地方で産出する清酒。室町時代以降、
   特に江戸中期になって、池田酒・伊丹酒の没落の
   あとをうけて、良米と良水(宮水みやみず)とに恵まれ
 
   優秀な技術とあいまって、日本酒中の最優良品と称せられた。灘目酒。灘の酒を運ぶ船は「灘船」と呼ばれました。

  【灘五郷】なだ‐ごごう
   兵庫県灘地方一帯の酒造地の称。地域と名称は時代によって変遷したが、現在は西宮市の今津郷西宮郷
   神戸市東灘区の魚崎郷御影みかげ、灘区の西郷の五つを指す。


  ≪ 灘酒の産地 御影の地名の由来 ≫

  【御影】みかげ ・・・ 神戸市東灘区の一部。灘酒の産地。
   また、六甲山麓の川の扇状地付近は御影石の産地。

  90年以上の歴史を持つ御影市場 旨水館しすい-かん
  裏手には伝説の泉「沢の井」があります。

  昭和4年に阪神電車が高架化し御影市場はガード下に
  移りましたが、沢の井は埋め立ての危機に直面。

 
  『神秘の泉』として大切にしてきた地元の人たちによって、現在も高架下に存続。神功皇后が戦の帰りに立ち寄った
  泉「沢の井」に顔(御影おん-かげ)を写し化粧を直したという伝説から「御影」の地名になったそうです。

  【神功皇后】じんぐう‐こうごう  (記紀伝承による)  大阪泉州『和泉』も神功皇后に由来
   記紀の伝説上の第14代 仲哀天皇(仲哀陵は大阪にあります)の皇后。名は息長足媛おきなが-たらしひめ。 
   第9代の開化天皇の第5世孫、息長宿祢王おきなが-すくね-おうの女むすめ
   仲哀天皇とともに熊襲くまそ征服に向かい、天皇が筑前国の香椎宮かしい‐ぐう(福岡市香椎にある元官幣大社の地)で
   死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子ほむたわけ-の-みこ(のちの応神天皇)を筑紫(筑前・筑後地方の総称で、
   現在の福岡県)で出産、摂政70年にして没。

 1659 (万治2) 年、御影村の廻船業の嘉納治郎太夫が「本嘉納商店」を創業、後の菊正宗酒造。(菊正宗酒造HP)

  【正宗】まさむね
   ① 刀は、鎌倉時代後期、鎌倉に住み、古刀の秘伝を調べて、ついに相州伝の一派を開き、無比の名匠と称せられた
     刀工、岡崎正宗のこと。
    酒は、天保年間(1831~1845年)、灘の山邑氏が名づけたのに始まるという。転じて、日本酒の俗称。


  ≪ 灘の酒蔵に住む豆狸 ≫

  【豆狸】まめ‐たぬき … 小さな狸。灘なだの酒造倉などでは、これが棲んでいないと、好い酒ができないといわれた。

   ミステリーニュースステーション 『酒蔵に住み着き、良い酒をつくる手伝いをしてくれる妖怪「豆狸(まめだ)」』 17.12.20 配信
   https://mnsatlas.com/?p=28341

  豆狸(まめだ)は西日本に出没すると言われる妖怪である。 同じ漢字表記で「まめだぬき」と読む妖怪がいるが、
  それとは別である。なお、「豆狸(まめだぬき)」は普通の狸より小型だが変化の能力が非常に高いものがこう
  呼ばれている。
  兵庫県灘地方に伝わっている「豆狸(まめだ)」は酒蔵に住むと言われており、夜中に酒樽から酒がこぼれるような音を
  たてたり、ほうきを持って走るような音をたてるとされている。 取り立てて悪さをするわけではなく、酒蔵ではむしろ豆狸が
  1、2匹は住み着いていないと良い酒ができないともされていた。
  海外でも、酒蔵に住み着いて樽からこっそり酒を飲んでしまうクルラホーンという妖精がいる。 怠け者の妖精だが酒蔵の
  守り神でもあると言われており、クルラホーンへの分け前を与える酒蔵からは良い酒ができると言われている。
  国は違えども、よく似た種類の妖怪が伝わっているケースであるといえる。


  ≪ 灘の酒と水車の関係 ≫  読売テレビ 関西情報ネットten. 『川がつくる不思議な風景』 13.04.19 放送

  兵庫県の芦屋川の上流には石臼が大量に埋め込まれた壁があり、住吉川の上流にも道脇に多くの石臼があります。






  水車を使って精米する事で、人力で精米するより何十倍もの効率アップ。
  この水車を利用する事で、灘は日本酒の一大産地になりました。







  ≪ 日本で唯一 企業名が入った公認灯台 「大関今津灯台」 ≫  Wiki 今津灯台

  兵庫県西宮市今津港は、江戸時代には米・木綿・油などの生活必需品と酒を載せた樽廻船が江戸へと航行していました。
  1810 (文化7) 年、数隻の船を所有し、自前の酒を江戸へと運搬していた長部長兵衛が船の安全の為、自費で高さ6.7mの
  木造灯台を建設。以来、大正時代に電灯になるまで、長部家の使用人が2合の油を携えて灯台の灯をつけました。






  1968年(昭和43年)には航路標識として許可を受け、長部家の功績をたたえ、長部家の大関酒造の名前を冠した
  「大関今津灯台」として、日本で唯一企業名が入った灯台となっています。また、現役の航路標識として使われている
  灯台としては日本最古。

   関西の貴重な灯台 色んな日本最古や唯一、個性がある灯台が多数存在。


  ≪ 新酒披露の儀式 ≫ 現在続けられているかは不明です。

  1917 (大正6) 年9月 『一国一奇風俗噺』(風俗研究会 編、東京府 日本書院)  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956041
   この書には各地の変わった風習が記載されており、正月や祭に関する事が多いです。原文は上記リンクでご覧ください。

  P.20 「初揚はつあげの蛸の足 (摂津)では、御影町の醸造家において1月下旬から2月上旬ころに新酒の売り出し前に
  行う当年の出来栄えを祝う式。2~3日前から料理の準備を始め、賓客を呼んで立派な膳と新酒を振る舞う。
  主人自らが客に勺をして、客たちは新酒の利き酒をして意見を述べる。その後、芸妓を呼んで宴会を行う。
  この式で最初に出す肴はタコの足一切れというのが通例で、婚礼・開店・新築など祝事に関する宴会では、タコの足を
  酒の肴として第一に出すのが土地の習慣となっている。

  ちなみに大阪の泉州地域では、お食い初めの時にタコの足を柔らかく煮た物を赤ちゃんに食べさせる儀式をしている
  所もあるそうです。  大阪湾沿岸発祥の蛸壺漁 タコ壺漁が繋いだモーリタニアと日本との絆
 
 【 名門 神戸の灘中学をつくった灘の酒造メーカーたち 】 
  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 『かつては関西が日本経済を動かしていた』 12.10.18

  神戸市の灘区にある菊政宗酒造の8代目 嘉納治郎右衛門は、常に醸造技術を研究し、少しでも出来の悪い酒が
  仕上がると、大きな醸造用樽ごと捨ててしまうほど、酒造りに手間と情熱を注ぐ人物だった。

  ドイツから顕微鏡を取り寄せ、これまで経験と勘が頼りだった酒造りに化学を取り込んだ。
  また西洋の技術者を招く事で「日本酒の近代醸造」の足がかりを築いた。






  ある日、給金の前借が相当額に膨らんでいた奉公人の幸吉を呼び出した。借金額を書いた給金表を見せて、
  どれ位になっているか? 自分で確かめさせようとしましたが、幸吉は文字が読めませんでした。
  治郎右衛門は、幸吉の借金を全て帳消しにしてやると同時に、学問を通して人の育成をすべきと確信します。

  そんな折、親戚の講道館柔道の創始者 嘉納吾治郎が「明日の日本を支える人材を育てる学校をつくりたい」と訪れました。






  治郎右衛門は、その話に共感し資金集めに奔走。嘉納の親戚筋にあたる白鶴酒造、同じ灘の山邑酒造が協力し、
  昭和2年、三家の出資額50万円(現在で約10億円)で灘中学校(現在の灘高校)を開校しました。






  ≪ 幕末~明治期の兵庫県の様子 ≫ 





  【幕末・明治時代】日本の古き良き時代の写真集 1~Japan in the 19th century~ http://youtu.be/MsgcLwNTjB0
  【2ch雑学】明治・大正時代の写真を披露するよPhotos of Japan about 100 years ago http://youtu.be/Dfpk0VqEvz8
  日本の古い町並み写真集(戦前絵葉書)/Vintage Postcards of Japan Cityscape http://youtu.be/xtHlAQb0kaM

  1990年のシェア・データ(かなり古いけど) ㈱日本実業出版社 一目でわかる企業系列と業界地図 1991年4月初版 より

  清酒メーカー 1位 月桂冠(京都市・伏見)、2位 白鶴酒造(神戸市・灘)、
   3位 大関酒造(兵庫県・西宮)、西宮酒造「日本盛り」(兵庫県・西宮)

   ※ 2013年現在、清酒の生産量の50%以上は関西で醸造されています。

  焼酎甲類 1位 宝酒造(京都市・伏見)、2位 合同酒精(新潟県)、3位 協和発酵(新潟県)

  焼酎乙類 1位 三和酒類「いいちこ」(大分県)、2位 薩摩酒造「さつま白波」(鹿児島県)、
   3位 雲海酒造(宮崎県)

 
 【日本三大酒処の一つ 広島県 西条】
  RCC中国放送 日本 ! 食紀行 『酒都に伝わる名物料理 ! "びしょ鍋"に学ぶ日本酒の力』 15.02.15 放送

  『京都の伏見』、『神戸の灘』、『東広島の西条』が日本三大酒処。
  一般的に日本酒は発酵が進みやすいミネラルを含んだやや硬水~硬水が向きますが、 東広島市西条町の特徴は
  軟水での酒造り。






  JR西条駅を降りると『西条酒蔵通り』があり、半径1㎞の中に7つの酒蔵が集中しています。
  毎年10月には北海道~沖縄までの日本酒が試飲できる『酒まつり』が開催され2日間で25万人が来場し賑わいます。


  ≪ 『吟醸酒の父』 三浦仙三郎 (1847~1908年)   Wiki 三浦仙三郎

  1876 (明治9) 年、生誕地の安芸国 (広島県西部) 賀茂郡三津村で酒造業を始めますが、三津村一帯の水は軟水であり、
  軟水は発酵が遅く酒造りには向かないとされていました。
  その為、当時の酒造技術では中硬水による清酒造りとの差を埋める事ができませんでした。






  明治30年、苦心の末に『軟水による改良醸造法』を大成します。
  鉄道による米の大量輸送が可能だった事、精米機メーカーがあった事から、西条の蔵元は軟水による醸造法での
  本格的な酒造りを始めました。西条を中心とする広島の酒は、琥珀色に輝き・滑らかな舌ざわりと・ほんのりした甘味で、
  各種品評会で上位を占める事が多くなりました。

  この酒造法は、軟水を使用して酒造りを行う日本各地に広く伝えられ、指導育成に努め優れた杜氏を多く輩出した為
  『吟醸酒の父』と言われます。


  ≪ 竹鶴酒造 ≫  Wiki 竹鶴酒造

  東広島市の隣、瀬戸内海を臨む竹原市。江戸時代は山陽道の宿場として栄えました。
  竹鶴酒造は、1660年代(万治年間)「小笹屋おざさや」の屋号で製塩業を営み、冬場に余剰の労働力を流用して、
  1773(享保18)年に酒造りを開始した老舗の蔵元です。ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝の生家として有名。






  現在、竹鶴酒造で杜氏をしているのが石川達也さんで『美酒鍋』を考案した石川和知かずともさん(故人)の息子さん。
  早稲田大学の在学中に日本酒の魅力に目覚め、埼玉県の酒蔵で修行し故郷に戻って杜氏となりました。

  現在ではあまり見られなくなった『酛摺り』(蒸米と麹に水を加え江戸時代からの用具&手順を踏み米をすり潰す作業) を行い、
  力強い酵母を育てる事でしっかりとした発酵を強く促す手間のかかる伝統的な『生酛きもと造り』での酒造を続けています。
  石川さんが伝統製法にこだわるのは、明治維新以降、江戸時代を上回るような酒造りの技術が出ていないと考えている
  からです。


  ≪ 日本酒は無色透明ではない ≫

  米を発酵させると褐色になり、熟成させるほど色は濃くなるのが普通。透明ではなく色が
  ある方が自然。

  無色透明なのは、活性炭でろ過などの処理をしているからです。
  石川さんによると、「透明にするのは簡単ですが、色と共に味のバランスも崩れやすい」。

  日本酒は温めた時に美味しいと感じるお酒なので、『冷や』より『熱燗』で飲んだ方がいい。
  料理にも飲んで美味しい酒を使った方が、料理もより美味しくなる。



  ≪ 名物の「美酒鍋」 酒を調味料として使う ≫

  西条では美酒鍋の専門店もあり、酒まつりでは多くの人が美酒鍋を求め来場する為、『美酒鍋会場』として
  広い座敷スペースが設置されるほどの人気の名物料理。

  酒造で働く蔵人は、びしょ濡れになる作業が多く『びしょ』と呼ばれていました。
  西条にある酒造会社の専務をしていた石川和知さんが、『びしょ』(蔵人)を労ったり、自宅に訪れる客をもてなす為に
  考案したのが始まりで、当初は『びしょ鍋』と呼んでいました。






  具材は肉や野菜・キノコなど普通の鍋と変わりませんが、美酒鍋は『鍋』と名が付くものの使用するのは鉄板。
  酒と料理を食べ続ける事ができるようにと、味付けはシンプルに塩と胡椒だけ。

  出汁は一切使わず、代わりに酒を振りかける事で、具材の旨味を引き出す料理。その為、しっかりと発酵する
  伝統製法で造った酒がいいそうです。アルコール分は蒸発するので、小さい子供でも食べられます。







  ≪ 江戸時代 日本酒は調味料としてよく使われた ≫

  東京農業大学の小泉武夫 名誉教授によると

  江戸時代なんていうのは、飲む日本酒と御料理に使う日本酒は非常に近いくらいの
   量を造っているんですよね。今は日本酒を隠し味として使いますが、昔は美味しい
   日本酒をふんだんに料理に使われていました。
   なぜ日本酒が料理に使われているかと言うと、甘い・酸っぱい・旨い・コク味の4つが
   調味料としての役割を している。

   びしょ鍋のように鉄板の上にかけると、アルコール分と水分が蒸発して、4つのエキス成分が残っちゃう
   わけです。だから美味しいわけですね。



 1643年刊『料理物語』 「第十五 料理酒之部」 全原文

  ※文字の間のスペースは原文にはありません。読みやすいように空間を空けました。

  玉子酒〕 玉子をあけ、ひや酒を少づつ入、よく ときて しほを少入、かんをして出し候也、たまご一つに さけ
  をりべに三ばい入よし

  いもざけ〕 やまのいもの いかにも白きを こまかに おろして、是も ひや酒にて よくときのべ、しほ少入、かんの
  よきまで かきまはして よし

  はと酒〕 はとを よく たゝき 酒にてとき、みそを少なべに入、きつね色に いり付けて、はとも さけも入よし、さんせう
  のこ か、こせうのこ か、わさび など少入よし、しやうゆう にても いり付候

  はぶし酒〕 きじのはの中の ふしより さきを こまかに たゝき、しほ少 酒少入いりて、右のからみ何にても入、さけを
  よき かんにして出し候也、身をくひ申時は しやゆう すこし くはへよし

  つかみ酒〕 きじのわたをこき、みそを少 くはへ、 よく たゝき合せ、さて 一そくのあしに 一本づつに くしにさし、
  かの たゝきたる物を ゆびの中へ いれあぶり候へば、よく にぎり申候、中も よく からりと あぶれたると みへ候時、
  ゆびのきは より きりて 又 よく たゝき、又 少いりて さけを入、かんをして出し候也

  ねりざけ〕 玉子に白ざたうを入、ひえざけにて よくよく ねり合、かんを いたし 出し候也

  しやうがざけ〕 みそに しやうが おろし すり付いりて、酒を入 かんを いたし候、しやうが ばかりも入る也、
  みそ酒は みそばかり いるゝ也

  甘酒 はやづくり〕 だうみやうじ一升を ゆにて あらひ あげをき、こうじ一升を水一升五合入、すりばちにて よく すり
  すいのう にて こし、右 三色なべに入、とろとろと ねり候へば、時のまに よくなり申候、白ざたう入よし

  つりん酒〕 くろまめ一升 いりさまし、よきさけ一升五合いれつけ置候、まめ やはらかに ほとびたる時の みてよし、


  「しほ=塩」「かん=燗」「をりべ=織部」「はと=鳩」「さんせうのこ=山椒の粉」「こせう=胡椒」「しやゆう=醤油」
  「きじのは=雉の羽」「くひ=食い」「くはへ=加え」「こき=扱き (しごき)」「あぶれたる=炙れたる」「みへ=見え」

  「ゆびのきは=指の際きわ」「白ざたう=白砂糖」「しやうが=生姜」「だうみやうじ=道明寺粉」
  「ゆにて あらひ あげをき=湯にて洗い上げ置き」「すいのう=水嚢 (竹製などの水ふるい、水漉し、水を切る容器)

  「三色さんしき=三種 (この場合は、酒・湯掻いた道明寺粉・摺り漉した麹水)」「時のま=時の間 (時間が経つにつれ)」
  「ほとびたる=潤びたる (ふやける、水分を含んで膨れる)」

  【織部盃】おりべ-さかずき
   織部焼 (桃山時代、岐阜県土岐市でやかれた古田織部好みの陶器、茶器が多い) のきわめて浅く開いた型の盃。

  【羽節酒】はぶし-ざけ … 雉きじの羽節の肉と塩とをまぜて造った酒。

  【練酒】は、練貫酒の略称「練酒」とは別物です。

  【道明寺・道明寺粉】どうみょうじどうみょうじ-こ 百菓辞典
   道明寺干し飯(ほしいい)の略。もち米を水に浸してから、蒸して乾燥したもの。
   大阪の道明寺で、天満宮饌飯の下がりを乾燥貯蔵したのが始まりと言われ、兵糧や旅行用食料として重用された
   もの。
   熱湯を注ぐとやわらかくなり食べられる。また、これに甘く味をつけてもち菓子の回りにつけることもある。
   大阪・河内の尼寺 道明寺で、昔、保存食として用いられていたことが名称の由来といわれる。
   道明寺粉は、これを荒くひいたもの。粒子の残る口ざわりで、上品な味わい。和菓子のほか、蒸しものや揚げもの
   のころもなどにも使う。


  ≪ 宮水とは?  酒造りには中硬水 (但し鉄分が少ない事が条件) が最適だった ≫

  プレジデント社 dancyu 2003年3月号 『あっぱれ!「日本酒」 「水」と「酒」のおいしい関係に迫る』 
    http://www.president.co.jp/dan/backnumber/2003/20030300/1378/

  蒸米、麹とともに酒そのものの原料として使われる水は、仕込水と呼ばれている。一般的には、米1tに対して
   1.3キロリットルの仕込水が必要なのだとか。
   その他にも洗米、浸漬、割水、さらには瓶やタンクなどの洗浄と、酒造りには大量の水が必要になる。

   日本の水は、世界的な水準からすればまろやかな軟水だが、その中でも地域によって差はある。
   当然のことながら、澄んだいい水でなければ上質な酒は生まれてこないが、その硬度、すなわち含まれる
   ミネラル分も酒造りに影響を与える

   カルシウム、カリウム、リン酸、マグネシウムなど、ミネラル分は、酵母の餌となり、もろみの発酵を促す。
   ミネラル分が多い硬水は、発酵が活発に促されるため発酵期間が短く、やや酸の多い辛口の酒
   なりやすいとか。

   その代表として挙げられるのは、灘の宮水だろう。宮水とは、兵庫県西宮市内のごく限られた地域の地下から
   汲み上げられる、六甲山系の伏流水。すでに江戸時代から、この水を使った灘の酒の旨さは高評を得ていたという。

   逆に軟水を使った場合は、発酵がゆっくりと進む。結果、きめ細やかな淡麗タイプの酒となりやすい
   新潟の酒などがこの典型だろう。
   ただし、同じミネラル分でも、鉄分やマンガンは、酒の色や香りを劣化させるため、造りには不必要なのだそうだ。


  Wiki 宮水

  宮水(みやみず)とは、今の兵庫県西宮市の西宮神社の南東側一帯から湧出する、日本酒つくりに適していると
   江戸時代後期から知られている水。灘五郷の酒造に欠かせない名水として知られる。

   硬度が高く、リン含有量が多く、鉄分が少ない特徴がある。宮水を守るため、水質保全活動が以前から
   なされている。
   宮水に多く含まれるミネラル成分(カルシウム・カリウム)およびリンは、麹や酵母の栄養分となり酵素の作用を
   促進する。また酒造りの水には少量の塩分の含有が好まれるが、宮水は塩分も多い。

   逆に酒造りに害となる鉄分は、宮水は0.001ppmと少ない。(鉄分は、酒の色や味の仕上がりを損なう。
   一般的に日本の水の鉄分含有量はだいたい0.02ppm程度)


  伏見の清酒 伏見酒造組合 『伏見の酒について』 http://www.fushimi.or.jp/guide/water.html

  伏見には「金名水」「銀名水」「白菊水」など多くの名水伝説が残っています。
   水質は、カリウム、カルシウムなどをバランスよく含んだ中硬水で、酒づくりに最適の条件を満たしています。


  ≪ 東日本で酒造りがさかんになったのは、明治時代以降 ≫

  関東は中硬水が多く酒造りには向きますが、江戸時代以前の酒造りには必ず乳酸発酵が必要になるので、
  ある程度の気温が必要で、寒い地域での酒造りは不利でした。また酒造りの技術も劣っていたからです。

  ※ 江戸時代以降に関西を中心とした西日本の人間が移り住んで色んな技術を伝えるまでは、関東は漁業も農業も
    文化もかなり遅れており、上方とは圧倒的な差がありました。

   詳しくは、日本の食の歴史、日本の歴史雑学などの各ページをご覧ください。

  新潟が米処・酒処になったのも近年の事。明治以降の土壌改良や米の品種改良などで寒い地域で米が栽培
  できるようになってから。新潟にも老舗の酒蔵がありますが、本格的な清酒造りが始まるのは、明治時代後半
  『広島の軟水による醸造法』が伝えられからのようです。

   但し、お餅と酒は神様に供える為に、自分たちが食べるよりも優先的に作られていたようです。(もちろん、御下がりを頂きますが)


  ≪ 合成清酒 ≫ Wiki 合成清酒  明治時代、ビタミンB1の抽出に世界で始めて成功した日本人 鈴木梅太郎

  合成清酒(ごうせいせいしゅ)とは、アルコールに糖類、有機酸、アミノ酸などを加えて、清酒のような風味にした
   アルコール飲料である。
   清酒に比べて酒税の税率が低く、価格が安いことから、清酒の代用として普及しており、料理酒としてもよく使われ
   ている。風味付けのために、醸造された日本酒の成分を数%添加した製品が多い。

   また、日本の酒税法では合成清酒のアルコール度数は「16度未満」であることが求められる(酒税法第3条8項)

   1918年に起きた米騒動をうけて、理化学研究所の鈴木梅太郎らが将来の食糧難への対策のために研究に着手した。
   1922年に製造法の特許を取得し、翌年には大和醸造から「新進」という銘柄で製品が発売された。

   その後、醸造研究所の黒野勘六・東京帝国大学の高橋偵造が独自に製造法を開発している。
   戦後の食糧難には記録的な出荷量となったが、その後は米余りの傾向と共に次第に出荷量は減少していった。

  Wiki 鈴木梅太郎
  合成清酒の発明 1922年には合成清酒を発明している。これは1924年に「理研酒『利久』」の名称で市販され、
   後の「三倍増醸清酒」開発の基礎ともなった。
   なお、『利久』は戦後、理研の合成清酒製造部門を継承した協和発酵(現・協和発酵キリン)を経て、現在はアサヒ
   ビール(協和発酵がアサヒビールに酒類事業を譲渡)に引き継がれている。

  【鈴木梅太郎】すずき‐うめたろう(静岡県生れ、1874~1943)
   農芸化学者。東大教授。1910年(明治43)世界にさきがけてビタミンB1の抽出に成功、オリザニンと命名。文化勲章。

  【理化学研究所】りかがく-けんきゅうじょ
   物理・化学の研究およびその産業への応用を目的とする研究機関。1917年(大正6)に財団法人として設立。
   第二次大戦後、研究機関が分離し、一時、株式会社科学研究所と称したが、58年政府出資による特殊法人、
   2003年独立行政法人となる。本部は埼玉県和光市。略称、理研。
 
 日本酒メーカーの倒産状況
  東京商工リサーチ- 12.12.19 「日本酒」メーカー倒産動向調査 http://www.tsr-net.co.jp/news/analysis/2012/1219627_2004.html
  Gooニュース 2012.06.01 http://news.goo.ne.jp/article/mycom/life/mycom_643488.html

  東京商工リサーチはこのほど、日本酒メーカー倒産動向
  調査の結果を発表した。それによると、日本酒メーカーの
  倒産は、2002年~2011年の10年間で74社に上り、そのうち
  業歴100年以上の老舗企業が7割以上を占めていることが
  分かった。

  東京商工リサーチによると、2005年9月から酒類販売が
  全面自由化され、従来の酒屋のほかにスーパーやコンビニ
  でも酒類が販売されるようになり、売れ筋が高いブランド力
  や知名度を持つ有力商品に集中する傾向が強まったという。

  同社はこのような流通の変化が、「地元中心に展開してきた
  中小メーカーが淘汰に追い込まれた原因の一つに挙げら
  れる」と分析している。


 記事内容の全文は 左上記リンク先でご覧下さい。





  2015年現在、日本全国にある酒蔵の数は1500軒ほどらしいです。


  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『今、日本酒が熱い!関西が生んだ奇跡の一滴』 13.02.07 放送

  逆境にある日本酒メーカーですが、少し明るいニュースもあります。
  フランスの三ツ星レストランにも日本酒が置かれる事が増え、英国の国際ワインコンテストに日本酒部門も設立。






  最近はイケメンの蔵元や杜氏が造る日本酒が、一部の女子の間でブームになりつつあるそうです。





 
 阪神大震災から20年で半減した灘の蔵元の数
  朝日新聞 14.11.13 夕刊 『蔵元守れ 灘五郷の絆』 より抜粋し、再編集 / 参考画像は テレビ大阪 ニュースBIZ 12.12.10 放送 より

  ≪ 阪神淡路大震災後 中小の廃業相次ぐ。2014年 大黒正宗 最大手・白鶴の蔵で再起≫

  全国一の酒どころ、兵庫県の『灘五郷』で、廃業寸前だった小さな蔵元が、
  業界最大手の白鶴酒蔵 (神戸市東灘区) の蔵を「間借り」して再起を
  図っている。

  灘五郷は兵庫県の西宮市から神戸市灘区にかけて酒造が盛んな地で、
  西宮市の「西宮郷」「今津郷」、神戸市東灘区の「御影郷」「魚崎郷」、
  灘区の「西郷」をさす。

  阪神大震災では木造蔵の大半が倒壊。再建は中小蔵元にとって
  大きな負担となった。


  「世界長」の世界長酒造は廃業、「金露」の金露酒造は自己破産し、それぞれ銘柄を別会社に譲渡。
  「白雪」(兵庫県伊丹市) や、「月桂冠」(京都市) は相次いで工場を閉鎖。

  「金鹿」の灘酒造は2007年に大関の子会社になり、「瀧鯉」の木村酒造も2009年に桜正宗に銘柄を譲渡した。

  今も出荷は全国一だが、シェアは3割を切る。ここ数年も蔵元の休業や廃業が続いている。
  震災前に50あった灘五郷酒造組合の蔵元は27に減った。

  10月中旬の朝、白鶴酒造でも最高級酒を造る2号蔵で「大黒正宗」の仕込みが始まった。
  大釜で蒸した酒米を床に広げて冷まし、杉材でできた室むろに入れて麹菌を振りかける。

  江戸時代中期 1751年創業の大黒正宗の醸造元「安福又四郎商店」(東灘区) は、1970年代年間2万石 (一升瓶200万
  本分) を出荷する准大手。
  震災で木造蔵が全壊し、残った金属蔵で醸造を続けたが、震災の間に他社に奪われたシェアは戻らなかった。

  清酒離れも進み、ここ数年の生産量は200石と最盛期の1%。社員は6人。赤字続きで設備に投資できず、老朽化で
  昨春に蔵が使えなくなった。12代目の安福晴久取締役 (36) は、今春に蔵を撤去した。

  前から大黒酒造の醸造担当の井上さん夫婦の酒造りの腕に注目し、場所も近い白鶴酒造が蔵の貸出を申し出た。
  夫婦を派遣社員として受け入れ、合間に大黒正宗を造ってもらう。夫婦の指示で白鶴社員が手伝う。

  白鶴の年間生産量は33万石で大黒正宗の最盛期の10倍以上。
  白鶴生産本部の松永部長は「自社のことだけ考えればいい状況ではない。これ以上、蔵元が減ると灘五郷の
  存在感がなくなる」と話す。

  多くの生産ラインが自動化されている白鶴で、2号蔵では大吟醸を仕込む。白鶴の社員たちも大黒正宗との
  造り方の違いを食い入るように見つめた。

  生産量は1千石が目標で、今季は久々に純米吟醸にも挑戦する。
  井上夫妻は「それができれば、また蔵を再建できる」と意気込む。
 
 味醂
  講談社 カラー完全版 『日本食材百科事典】 199.05.20 初版発行
  テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『歴史ロマン旧街道 歴史とみりんが薫る街 流山』 14.09.13 放送
  こうべ甲南武庫の郷 『みりんの歴史』  http://www.konanzuke.co.jp/mukonosato/siryou/mirin/mirin_rekisi.htm
  三州三河みりん 『みりんの歴史』  http://www.mikawamirin.com/kodawari1.php
  流山市ふるさと産品 http://nagareyama-3pin.jp/SHOP/93862/list.html


  ≪ 味醂 ≫  Wiki みりん   Wiki 駒井重勝

  味醂は中国にも朝鮮半島にも見られない日本独特の調味料。
  但し、中国に密淋という甘い酒が起源という説もあります。
  混成酒なので、ジャパン・リキュールとも言えます。

  愛知県東部の三河地方は醸造に適した水と温暖な気候に恵まれているので、200年以上
  前から味醂の醸造が盛んで、現在はみりん業者数が全国一だそうです。


  しかし、江戸時代は大坂で多く製造されており、そのほとんどは江戸で消費された事が『守貞謾稿』に書かれてあります。
  また、大坂では焼酎の製造も多くあったようです。

  【味醂・味淋】み‐りん
   蒸した糯米もちごめと米麹とを焼酎またはアルコールに混和して醸造し、滓かすをしぼりとった酒。
   甘味があり、主に調味用。


  ≪ 味醂の起源諸説 ≫  味醂が造られた時期は諸説あり、はっきりしないようです。 が主な説

  平安時代から日本酒を仕込むのと同じ方法で、日本酒を使って、大変甘いお酒を作っていた」というのを
    起源にしているサイトもあります。 ※ 甘い酒とは、醴あまざけ・甘酒の事かも知れません。

   日本に古くから存在した練酒、白酒しろざけなどの甘い酒に腐敗防止策として焼酎が加えられたという説。

  【煉酒・練酒】ねりざけ 練貫酒ねりぬきざけ
   白酒の一種。清酒に蒸した糯米と麹を加え貯蔵発酵させ、石臼でひいて漉したもの。
   白酒の始まりで、博多産のものが有名であった。

  練貫酒は、室町時代の1518 (永正15) 年に成立した (編者未詳で当時の歌謡311首を収めた歌謡集)
   『閑吟集かんぎんしゅう』に「うへさに人のうちかづく練貫酒の仕業かや」という歌があります。

  【白酒】しろざけ
   ① 粘りのある白濁した酒。蒸した糯米と米麹とを味醂または清酒・焼酎に混和して発酵させ。後にすりつぶして造る。
     甘味豊かで一種特有の香気がある。多く雛祭に用いる。山川酒。
   ② 濁酒どぶろく (滓かすを漉し取らない日本酒、濁り酒、もろみ酒、しろうま) の別称。

    中国に存在した密淋ミイリンという甘い酒が、戦国時代頃に伝来したという説によると、現在でも浙江省に蜜酒
     という直糖分20%以上の酒があり、紹興酒しょうこうしゅ (蒸した糯米に麦麹・酒母糯米を漬けて乳酸発酵せた水を
     加えて発酵させる中国の醸造酒) の酒母を「淋飯酒」という。 「淋りん」は、したたるの意。


  ≪ 「味醂」を記した文献 ≫

  最も古い文献は秀吉の桃山時代、駒井重勝(秀吉の直臣で近江国の大名となり、豊臣姓を下賜された)の
  1593(文禄2)年に書かれた『駒井日記』に、「美淋」「密淋酒」「味醂酎」等の名称で記されているそうです。

  味醂は元々は飲料用。江戸時代中期以降、清酒が一般的になるまでは高級酒として飲まれており、甘いので女性に
  人気があったそうです。
  当時の味醂は麹を造る技術が発達していなかった為、現在ほどの濃厚な甘味を実現できなかったらしいです。

  1695 (元禄8) 年の『本朝食鑑』には、焼酎を用いて造る本みりんの製法が記述されています。

  【本朝食鑑】ほんちょう-しょっかん 本朝・・・日本の朝廷。日本のこと。
   本草ほんぞう (植物を中心に薬用になる物)。幕府の侍医 随祥院元徳の子 丹岳野人見必大ひとみ-ひつだい 著。
   12巻。1697年(元禄10)刊。
   明の李時珍著「本草綱目」にならいつつも、実地検証を踏まえ、庶民の日常生活の食膳にのぼることが多く、
   食用・薬用になる国産の植物・動物に重点をおき漢文体で記した書。
   人見(平野、小野、野)必大が1692年(元禄5)に著した遺稿を、子の元浩が岸和田藩主 岡部侯の出版助成をうけ
   1697年に12巻10冊本として刊行した。
   出版元は不明や、江戸で出版されたというサイトもありますが、国立国会図書館デジタル化資料のサイトでは、
   「出版元、摂州(摂津国、大阪の北摂と兵庫東部)の平野屋勝左衛門」となっています。


 1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』編者は大坂の医師の寺島良安、版元および出版地は大坂。
  百五巻 造醸類 (酒・果子・鹽・酢・醤油之類)「美醂酎みりんちう」では、近頃、味醂酒を多く作り始めた。下戸や婦女が
  喜んで飲む。糯米と麹と焼酎で作り、味醂の糟は貧しい民が菓子の代わりに食べる。という記述があります。

  桉美醂酎近時多之 其味甚而下戸人及婦女喜之用糯米三升
  一宿ニソ而蒸爲ルヲ ニ升燒酎一斗和勺七月一次攪三七日ニソ而成
  リテ 其糟亦甘賤民代菓子


 1785 (天明5) 年の『萬宝料理秘密箱』(いわゆる「卵百珍」、京都の器土堂主人 著)の「赤貝和煮」の記述以降、
  蕎麦つゆや蒲焼のタレなどに砂糖よりも入手しやすい甘味料として使われていきました。


 幕末の『守貞謾稿』 下巻 第二十八編 食類 「

  美醂酒は多く攝の傅法村にて醸之也 然れども 京坂 用之こと少なく 多くは江戸に漕して諸食物 醬油と
  之煮る

  京坂 夏月には夏銘酒 柳蔭と云を専用す
  江戸 本直しと號し 美醂と燒酎を大略 半之に合せ用ふ 「ほんなほし」「やなぎかげ」ともに冷酒にて飲む也

  【本直し】ほん-なおし  柳蔭
   味醂に焼酎を混和した甘い酒。酒精分22%。   1911 (明治44) 年の東京年中行事の 「屠蘇」の原文


  時代ともに進化し、焼酎歩合の少ない「本みりん」と、焼酎歩合が多い「本直し」とに区別されるようになります。

  広く料理に使われるなったのは明治後期頃。料亭で隠し味として使われた事がきっかけのようです。
  大正末期から昭和初期にかけて、現在のような濃厚な味醂が造られるようになったそうです。

  一般家庭に復旧したのは、太平洋戦後だと言われています。


  ≪ 白味醂の発祥 千葉県流山市 ≫

  江戸時代後期の1814 (文化11) 年に千葉県の流山市で白い味醂が誕生しました。万上みりんは、現在キッコーマンの傘下。






  野田市の窪田酒造では国産のもち米を使用し醸造した味醂を、およそ6ヶ月かけて自然濾過した古式製法で本みりんを
  作っています。これを流山市の酒店の『かごや商店』では、オリジナルの「流山本みりん」として販売。
  昔ながらの製法なので、そのまま飲む事もできます。






  味醂の絞り粕は、糖類が貴重だった頃に、甘味の変わりとして食べていたそうで、現在は「こぼれ梅」という商品名で
  100g130円で販売しています。
  機械で圧縮せず、布でゆっくりと時間をかけて絞るため、みりん粕が残るのだそうです。ほんのり甘く、そのまま
  食べられます。(要冷蔵品)
  流山市では、料理だけでなく、プリンや饅頭・ケーキなどの味醂を使用したオリジナルのグルメ品がたくさんあります。

  【霰酒】あられ‐ざけ【霙酒】みぞれ-ざけ
   味醂に糯もち米の麹または霰餅あられ-もちを入れて密封し、熟成させた混成酒。麹をそのまま霙のように浮かべている酒。
   どちらも奈良の名産品。
 
 灰持酒  灰酒あくざけ、 赤酒あかざけ、せきしゅ
  灰持酒の原型は奈良時代の神前酒の黒酒くろきとも言われています。臭木くさぎの根の灰を加えて造るそうです。

  【灰持酒】あくもちざけ、あくもちしゅ
   (醸造中、灰を入れるからいう) 糖分を多量に含有する酒で、暗褐色で粘り気があり、味醂に似る。飲料・調味料。

  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部

  鹿児島県では焼酎を男酒、地酒 (灰持酒) を女酒と呼びます。アルコール度数は14度くらいで、甘い酒。
  『薩摩寿司』とも呼ばれる『酒寿司』は酢を一切使わず、米1升に対し灰持酒を1升使い切るお酒たっぷりの寿司。

  元々、島津義弘が花見の宴会を開いた際、女中が残った料理と地酒を桶に入れて一緒に置いていたところ、翌朝良い
  香りが漂っていた事が酒寿司の始まりとされおり、島津家の花見雛祭りの御膳料理やもてなし料理として作られました。

  男尊女卑の気風が強かった薩摩藩では、女性が公然とお酒を飲むことが許されなかったので、この寿司を好んだとも
  言われています。

  時代が進んだ昭和40年代には、酒寿司を作る店が1軒もなかった事から、見直されて郷土料理として復活したそうです。


  NHK・福岡 九州ダイスキランキング 九州・沖縄  『お正月といえば』 16.01.09 放送

  番組によると、江戸時代から熊本では、御国酒おくにざけとして親しまれていた日本酒。
  熊本市川尻という地域でつくられている。醸造中に草木を燃やした灰を入れることで、赤くなる。

  甘くてフルーティーな味わいだそうです。

  【赤酒】あか-ざけ … 熊本県名産の灰持酒。

  【灰持酒】あくもち‐ざけ
   (醸造中、灰を入れるからいう)糖分を多量に含有する酒で、暗褐色でねばりけがあり味醂みりん
   に似る。飲料・調味料。赤酒あかざけせきしゅ。灰酒あくざけ


 
 中国酒の醸造で使われるカビ
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『きょうの★印 「カビのいろいろ 良いカビ 悪いカビって!?」』 13.05.20 放送

  【蜘蛛の巣黴】くものす-かび
   接合菌類のかびの一種。菌糸は蜘蛛の巣状に這い、無性の散布体として胞子嚢胞子を
   長柄の胞子嚢内に有性の散布体として接合胞子を形成する。

  【紹興酒】しょうこうしゅ、(中国)シャオシンチュウ
   中国の醸造酒。紹興の産。
   蒸した糯米もちごめに、麦麹・酒母・糯米を漬けて乳酸発酵させた水などに加えて
   発酵させて作る。

  【紹興】しょうこう
   中古背区浙江せっこう省東部の都市。春秋時代の越(前473~前257年頃)の都。
   紹興酒で名高い。また南方の平水は浙江有数の茶の産地。


  ちなみに日本の(世界でもトップレベル)カビ研究の第一人者は、大阪市立 自然史博物館(東住吉区の長居公園内)の
  研究員である浜田信夫 農学博士だそうです。
 
おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
2009.02.17発売
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OSAKA HABIKINO IGA 5-9-6  MARCO POLO 取り扱い商品 : アイスクリーム / シャーベット / ザーネアイス / 生チョコアイス / スイートポテト / コーヒーなど
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