|
|
|
茶に関する日本で最初の書 【喫茶養生記】きっさようじょうき Wiki 栄西 |
|
中国茶 遣唐使が持ち帰った唐時代のお茶
≪ 茶 ≫ (慣用音はチャ。漢音はタ、唐音はサ)
ツバキ科の常緑低木。中国南西部の温・熱帯原産。葉は長楕円形で厚く表面に光沢があり、
10月頃葉腋に白花を開く。
多くの変種がある。果実は扁円形で、開花の翌秋に成熟し、通常3個の種子がある。木の芽。
茶の若葉を採取して製した飲料。若葉を蒸しこれを冷却してさらに焙いって製する。
若葉採取の時期は4月頃に始まるが、その遅速によって一番茶・二番茶・三番茶の別がある。
湯を注いで用いるのを煎茶といい、粉にして湯にまぜて用いるのを抹茶または碾ひき茶という。
なお、広義には焙ほうじ茶・紅茶・ウーロン茶・マテ茶などの総称。
【茶経】ちゃ-きょう
茶書。唐 (中国) の陸羽の著。760年頃成立。3巻。茶の歴史・製法・器具について記述した最古の書。
京都の無形民俗文化財としての建仁寺四頭茶礼 http://www2.meijo.ac.jp/mei-kanken/s17fukumochi.PDF
≪ 日本での最初の記録 ≫
『日本後紀』の815 (弘仁6) 4月癸亥条で、「近江国の韓埼(唐崎)に行幸した嵯峨天皇に、大僧都 永忠が茶を煎じて献上」。
また同年6 月壬寅条には「畿内ならびに近江、丹波、播磨などに茶が植えられて献上されていた」とあるそうです。
奈良時代後期の出土品から緑釉陶器が釜、風炉、椀のセットとなっており、当時、茶が飲まれていた可能性があるとも
言われています。
【日本後紀】にほん-こうき
六国史の一つ。続日本紀の後をうけ、桓武天皇 (792年) から淳和天皇 (833年) に至る史実を記述した編年体の史書。
40巻。現存10巻。藤原冬嗣・藤原緒嗣らの撰。840年 (承和7) 成る。後紀。
【嵯峨天皇】さが‐てんのう (786~842) 名は神野かみの。 桓武天皇の皇子。
平安初期の天皇(在位809~823)。「弘仁格式」「新撰姓氏録しょうじろく」を編纂させ、漢詩文に長じ、「文華秀麗集」
「凌雲集」を撰進させた。書道に堪能で、三筆の一人。
日本の伝統行事 花見 桜の花見は嵯峨天皇から
≪ 平安時代 お茶が宋から伝わり、茶の栽培が普及 ≫
お茶は栄西が伝える以前から日本にありましたが、栄西が禅宗に取り入れた事から広まりました。
1211年、宋 (中国) からの帰国僧である栄西が、茶に関する日本で最初の書「喫茶養生記」を著し、源実朝に献じたもの
という。
【喫茶去】きっさ‐こ
〔仏教〕禅語。お茶でも飲んで来い。もともと相手を叱咤する語であるが、後には「お茶でも召し上がれ」の
意に解され、日常即仏法の境地を示す語と解された。
【栄西】えいさい(ヨウサイとも) 平安~鎌倉時代の人。 (岡山県)備中の人、1141~1215年。
日本臨済宗の祖。明庵と号。比叡山で学び台密に長ずるが、禅学の衰微を嘆いて1168年(仁安3)・
87年(文治3)と2度入宋、虚庵懐敞きあんえしょうに臨済禅を受け、博多に聖福寺、京都に建仁寺を建立して
禅宗の定着に努めた。
著「興禅護国論」。また、宋から茶種をもたらして栽培し、「喫茶養生記」を著す。
千利休はキリスト教徒だった? 茶の湯にみられるキリスト教との共通点
|
|
承平(931~938)年撰進の『倭名類聚鈔』巻十七 「茶 爾雅注云 茶 音途 和名於 保都知 苦菜之可食也」
≪ 喫茶養生記 ≫ 養生の仙薬 延齢の妙術 広辞苑 より
茶に関する日本で最初の書。栄西著。2巻。1211年(建暦1)成、1214年(建保2)修訂。
養生の仙薬として茶の効能を説き、鎌倉幕府の第3代将軍 源実朝に献じたものという。
喫茶養生記の原文は存在しておらず、下の画像の物が最古の写文で、南北朝時代のもの。
南北朝時代の写し 『喫茶養生記』
|
『茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山谷之(これ)を生ずれば、其の地
神霊なり。人倫之を採れば、其の人長命なり。
天竺、唐土(もろこし)、同じく之を貴重す。我が朝日本、曾(かつ)て嗜愛(しあい)す。
古今奇特の仙薬なり。摘まずんばあるべからざるか。
謂(い) わく、劫初(ごうしよ)の人は天人と同じ。
今の人漸(ようや)く下り、漸く弱く、四大五蔵朽(く)ちたるが如し。
然れば、針灸(しんきゆう)も並(ならび)に傷(そこな)い、湯治も亦応ぜざるか。
此(かく)の如き治方の若(ごと)きは、漸く弱く、漸く竭(つ)きん。
|
怕(おそ)れざるべからざる者か。昔の医方は添削せず。 而して今人治するは斟酌(しんしやく)寡(すくな)き者か。
伏して惟(おもんみ)れば、天、万像を造るに、人を造るを貴しとなす。人、一期(ご)を保つに、命を守るを以て賢となすなり。
其の一期を保つの源は、養生に在り。其の養生の術を示さば、五蔵を安んずべし。五蔵の中(うち)心蔵を主とせんか。
心蔵を建立するの方は、茶を喫する、是れ妙術なり。厥(そ) の心蔵の弱きときは、則ち五蔵皆病を生ず。
寔(まこと)に、印土(インド)の耆婆(きば)往(ゆ)いて二千余年、末世の血脈誰か診(み)んや。
漢家の神農隠れて三千余歳、近代の薬味(なに)か理せんや。然れば則ち、病相を詢(と)うに人無く、徒(いたずら)に患い、
徒に危うきなり。治方を請うにも(あやま)り有り、空しく灸し、空しく損ずるなり。偸(ひそ)かに聞く、「今世の医術は則ち、
薬を含みて、心地を損ず。病と薬と乖(そむ)くが故なり。灸を帯して身命を夭(よう)す。脈と灸と戦うが故なり」と。
如(し) かず、大国の風を訪ねて、近代の治方を示さんには。
仍(よ)って、二門を立てて、末世の病相を示し、留めて後昆(こうこん)に賜とし、共に群生を利せん。
時に建保二年甲戌春正月日、謹みて叙す。』
|
≪ 本格的に茶を飲むようになったのは鎌倉時代 ≫
平安時代に中国から伝わっていた茶ですが、日本各地での茶樹栽培が普及し、本格的にお茶が飲まれるようになったのは
鎌倉時代後期。当時の最高級品は京都の栂尾とが茶でした。
【栂尾】とがのお
京都市右京区梅ヶ畑の一地区。紅葉の名所。
高雄 (高尾)・槙尾と共に三尾さんびと称し、栂尾はその最北。明恵みょうえ上人再興の高山寺がある。
【明恵】みょうえ (紀伊の人、1173~1232) 諱は高弁。
鎌倉前期の華厳宗の僧。高雄山の文覚もくがくらに師事、出家。華厳・密教を学ぶ。
後に栂尾に高山寺を営み、華厳宗中興の道場とし、また栄西が将来した茶樹を栽培。
著に法然の浄土宗を批判した「摧邪輪ざいじゃりん」など。
【高山寺】こうざん‐じ
京都市右京区にある真言系の単立寺院。山号、栂尾とがのお山。平安中期から存したが、
明恵が中興後信仰を集め、茶園・紅葉により知られた。鳥獣戯画絵巻などのほか、文書典籍
にも貴重な蔵品が多い。
【高山寺本古往来】こうざんじぼん‐こおうらい
高山寺所蔵の往来物。表題欠落のため、所蔵場所に因む名で呼ばれる。1巻。平安末期成立。
56通の書状から成り、現存最古の往来物。
鳥獣人物戯画絵巻
|
|
国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
コトバンク 『日本山海名物図会』
≪ 江戸時代中期の茶摘み・製茶の様子 ≫
1671(寛文11)年著・1684(貞享1)年刊の『庖厨備用倭名本草』13巻。儒学者で医師の向井元升(佐賀生まれ京都在住)が
加賀藩主の為にまとめたものを、元升の死後に編集して刊行した本草学からみた食材の効能などを記した書。
巻之十二「茶類」には、茶に関する様々な事が書かれてあります。
「茶 倭名鈔に茶茗二字を用ふ 和名なし 多識篇に チヤノキ考るに本草早くとるを茶とし 晩くとるを茗とす…」。
平安時代の承平(931~938年)に書かれた倭名類聚鈔に「茶」と「茗」の2つの文字がある。
江戸時代の本草学での考え方では、早く採る(新茶)を「茶」とし、遅く採った茶を「茗」と分けていたようです。
【茗】めい
茶の芽。おそく採取した茶。「茗器・芳茗」▶新芽をつんだものを「茶」という。
日葡辞書「メイヲニ(煮)ル」 茗園めいえん…茶畑・茶園。
1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、日本各地の
名物を描いた絵本。
巻の二には「宇治茶摘」の様子があり、女性たちが椅子に座って茶摘みをしているのが描かれています。
この絵を見ると、茶樹が現在のように密集して植えられていない事が分かります。
「茶製法ちゃこしらえ」の見開きページでは女性たちが箸を使って茶葉を選別しています。
「茶名物大概」は茶葉を干す様子が描かれ、宇治莖茶・山城・丹後・大和・近江・伊勢などの畿内と駿河・日向の各名物
茶の名が書かれてあります。
「焙籠ほいろ」では宇治茶を「保育炉ほいろ(雪洞)、俗に助炭と云」という箱で、中段の箱に入れた茶葉を設置し、下に
置いた炭で乾燥している様子と、挽き臼で抹茶に挽く様子があり、全て男性のみが描かれています。
宇治茶の御用茶師がおよそ33人。というような事も書かれてあります。
【焙炉】ほい-ろ (ホイは唐音)
① 炉火にかざして、茶などを焙ほうじ、または物を乾かすための用具。框かまちに紙などを張ったもの。
② 製茶に用いる乾燥炉。葉茶を乾燥する籠焙炉と葉茶を揉みながら乾燥する土木製焙炉がある。
【雪洞】せっ-とう
① 木竹の框 (枠のようなもの) に白紙を貼り一部に窓をあけ、風炉の上をおおい助炭じょたんに用いるもの。
【助炭】じょ-たん
枠に紙を張って火鉢や炉の上をおおい、火気を散らさず、火持ちをよくさせる具。季語は冬。
|
|
|
|
|
日本最古の形式の茶会 建仁寺 四頭茶礼 |
|
毎日放送 美の京都遺産 『VoL475 建仁寺 四頭茶会』 15.08.23 放送
建仁寺HP http://www.kenninji.jp/index.php
≪ 建仁寺 『四頭茶会』よつがしら-ちゃかい ≫ 四頭茶礼よつがしら-されい
現在でも中国伝来の作法の影響を強く残す日本最古の茶法で行われる茶会。室町時代の喫茶往来にも四頭茶礼のような
記述があるそうです。禅宗の喫茶作法では臨済宗では茶礼、曹洞宗では行茶と呼んでいます。
【建仁寺】けんにん‐じ
① 京都市東山区にある臨済宗 建仁寺派の大本山。山号は東山。建仁2年(1202)栄西の創建。
当初は天台・真言・禅の兼学寺院。室町時代は京都五山の一つで五山文学の中心。戦国末期に恵瓊えけいが復興。
② 建仁寺垣の略。(竹垣の一種。四つ割竹を皮を外にして平たく並べ、竹の押縁おしぶちを横にとりつけ、縄で結んだ垣。
建仁寺で初めて造ったという。)
建仁寺では、毎年4月20日に行われる『栄西禅師生誕慶讃法要』の中の茶礼が公開されています。
東福寺では10月17日の方丈斎の一部として四頭茶礼が行われており、妙心寺でも開催されているそうですが、非公開の為、
調査できず、公開されている建仁寺の四頭茶礼だけが無形民俗文化財に指定されています。
四主頭の4人の正客と各8人の相伴客の計32人が、4人ずつ 正面に 賓位、秋月等観の龍虎図 (真ん中に栄西図) 主位、
それぞれ側面に賓対位、主対位という席に分かれて座ります。
茶会は、中国の龍泉窯青磁の大香炉の中で白檀びゃくだん香を焚き、終始無言で行われるそうです。
天目茶碗にはあらかじめ抹茶が入れられており、お茶受けは、紅白の紋菓と、緑のピリコン (こんにゃくの辛煎り)。
4人の給仕役の僧が、浄瓶じんびんというポットを持ち、まず正客の前で胡跪こきという左立膝の姿勢で湯を注いで茶を点て、
続く3人の相伴客は中腰のまま点てていきます。
紅白の紋菓と、緑のピリコン
|
天目茶碗
|
正客 胡跪
|
相伴客 中腰
|
京都の無形民俗文化財としての建仁寺四頭茶礼 http://www2.meijo.ac.jp/mei-kanken/s17fukumochi.PDF ← くわしくはこちらのサイトで
建仁寺のは、見た目がだいぶ違いますが、ピリコンの作り方。↓
臨済宗 南禅寺派 上瀧山 高峰寺 住職ブログ 『精進料理メニュー 「ピリコン」』の作り方 http://www.geocities.jp/kouhouji1001/syoujin3.html
【天目】てんもく
茶の湯に用いる抹茶茶碗の一種。浅くて開いた擂鉢すりばち形で、口のところが少しくびれている。
中国浙江省天目山の仏寺から伝来。福建省建窯のものが代表で、日本では瀬戸産などが知られる。
【天目点】てんもく-だて … 天目茶碗で点茶をすること。また、その方式。
【天目台】 … 神仏または貴人に献茶するため、天目茶碗をのせる台。
【点茶】てん-ちゃ、てん-さ … 抹茶をたてること。
【立茶・点茶】たて-ちゃ … 茶などをたてること。また、その茶。てんちゃ。
【茶頭】さ-じゅう、ちゃじゅう … 禅寺で、茶湯をつかさどる役僧。
【茶頭・茶道・茶堂】さ-どう …安土・桃山時代以降、茶の湯の事をつかさどる役。茶坊主。
『喫茶往来』1350年頃の成立? には「四種十服」の闘茶や五種類の茶などの記述があるようです。
【喫茶往来】きっさおうらい コトバンク「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」
室町時代の茶会および喫茶の知識を網羅した書。1巻。当時流行した往来物の一種で、贈答消息の形式で示されて
いるところにその名の由来がある。
玄恵(げんえ)法師の著といわれるが、確証はない。あるいはそれ以後15世紀前期の著作とも考えられている。
足利義満(あしかがよしみつ)の北山文化を飾った闘茶会と、その風俗、文化が記され、茶道前史の貴重な資料となって
いる。2組の往復書状を掲げ、一つには茶会の構成、座敷を説き、いま一つには名茶、点茶についてを説いている。
『群書類従』飲食部、『茶道古典全集』第2巻所収。
【玄慧・玄恵】げんえ、げんね(京都の人、1279~1350) 一説に虎関師錬の弟。
鎌倉後期・南北朝時代の学僧。天台・禅・宋学を究め、足利尊氏・直義に用いられ、建武式目の制定に参与。
「太平記」「庭訓往来ていきんおうらい」の著者に擬せられる。
【建武式目】けんむ‐しきもく
建武3年(1336)足利尊氏が幕政の参考のために諮問し、これに中原是円・同真恵らが答申する形式をとった法令。
幕府の所在地に関する1項目と政道17条とから成る。
【虎関師錬】こかんしれん(京都の人、1278~1346)
鎌倉末~南北朝時代の臨済宗の僧。東福寺海蔵院に居り、詩文に長じ、五山文学の先駆者の一人。
著「元亨釈書」「済北集」など。海蔵和尚。
【五山文学】ござん‐ぶんがく
鎌倉末・南北朝時代を中心に行われた、鎌倉および京都の五山の禅僧の漢詩文。広義には同時代の禅林文学を総称。
日記・語録・漢文・漢詩があり、虎関師錬・義堂周信ら多数の作家が出、江戸時代の儒学勃興の基をなした。
|
|
|
|
|
お茶の雑学 ツバキ科 常緑低木。 原産地 中国南西部の温・熱帯地域 |
|
日本の茶といえば緑茶で代表的な品種はヤブキタ種で、この品種は発酵しにくいので、
紅茶には向かないそうです。
≪ 煎茶 ≫
【 玉露 】 (ぎょくろ) 玉のような露(つゆ)。という意味で、最良の煎茶。
香高く甘味がある。日覆ひおおいした茶園の生葉を用いる。
【 抹茶 】 茶の新芽を採り、蒸した後、乾燥してできた葉茶を臼で碾いて粉末にした
高級なもの。碾茶。(ひきちゃ=挽茶 とも書く)
【 煎茶 】 (せんちゃ) 葉茶を湯で煎じる(煮出す)こと。また、その飲料。その葉茶。の事だが
玉露と番茶 以外の一般的な緑茶を指す意味で使われる事の方が多い。
【 番茶 】 (ばんちゃ) 摘み残りの硬い葉を利用する品質の劣る煎茶。
番茶も出花 ← 番茶も入れたてはおいしい意から、器量のよくない娘でも娘ざかりは美しいというたとえ。
【 焙じ茶 】 (ほうじちゃ) 緑茶 (主に番茶) を焙じてつくった茶。
焙じる。→ 炒る事。 昔は飲むつど、必要な茶葉を和紙を張った器具に入れて、
火にかざし、あぶって湿気をとっていたようです。
【 釜炒り茶 】 (かまいりちゃ) 蒸してつくる茶とは違い、釜で炒った(ソテー)した茶。
変化・劣化しにくい。
【 粉茶 】 (こなちゃ) 細かく粉状に砕けた葉茶。「こちゃ」と言う人も。
煎茶の製造過程で出る、価値の低い茶。お茶くず。紅茶のダストと同じ。
【 玄米茶 】 (げんまいちゃ) 番茶や焙じ茶に玄米を加えたもの
≪ 八十八夜 ≫ 茶摘みの最盛期の事。立春から数えるので5月1~2日頃
【茶臼・茶碾】ちゃ‐うす
葉茶を碾いて抹茶とするのに用いる石臼。古来、京都府宇治朝日山の石を賞用。
|
京都府宇治市の小学校では、
蛇口をひねるだけで、お茶が
飲める設備が整っています。
|
【玉露】ぎょくろ 百菓辞典
香りが高く甘味のある有料の煎茶。覆茶ふくちゃとも言う。
樹齢10年以上のものの葉を、摘み取る3週間前から日覆いし、軟化させ、煎茶と同じ方法で製造する。
これを揉まずに乾燥させて砕くと、抹茶になる。
【覆茶】ふくちゃ 百菓辞典
樹齢10年以上の樹を、茶つみの3週間前くらいから「わら」などで被覆、日光をさえぎり、軟化させた葉を煎茶の
製法で作ったもので、玉露はこれにあたる。
また、この葉をもまずに乾燥させ、碾いたものを碾茶 (挽茶) または抹茶という。覆茶とは、この玉露と抹茶の
ことを指す。
江戸時代末期の1835 (天保6) 年に6代目山本嘉兵衛が「玉の露」として、宇治の覆下茶園の茶の新芽で製造した
ものが、玉露の始まりのようです。
≪ 茶摘み歌 ≫ Wiki 茶摘み
『「茶摘み」(ちゃつみ)は、日本の唱歌。文部省唱歌。作詞作曲ともに不詳。オリジナルの曲名は「茶摘」である。
摘という字は小学校で教えないので教科書では「茶つみ」と表記している。
1912年(明治45年)に刊行された『尋常小学唱歌 第三学年用』が初出。2007年に「日本の歌百選」に選ばれた。
♪1. 夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る 「あれに見えるは茶摘みぢやないか あかねだすきに菅(すげ)の笠」
♪2. 日和(ひより)つづきの今日このごろを 心のどかに摘みつつ歌ふ
「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ 摘まにゃ日本(にほん)の茶にならぬ」
茜は、止血剤として知られている。素手の作業ゆえ、指先に怪我をしやすい茶摘みという作業に際して、襷の茜成分を
擦り込みながら作業を継続するという先人の知恵がこの装束にあると、大津市無形文化財である草木染名人の三代目
太田藤三郎は分析している。』
茶摘み 合唱 文部省唱歌 https://www.youtube.com/watch?v=0dYmYsIAmXw
【茶摘み歌】ちゃつみ‐うた 広辞苑
労作民謡の一つ。茶摘みの時にうたう歌。
「み代は治まる御物もつはつまるなほも上様末繁昌」 「宇治は茶どころ茶は縁どころ娘やりたや婿ほしや」の類。
【茶摘歌】ちゃつみうた コトバンク
茶畑で茶の葉を摘む作業のときにうたう仕事歌。4月下旬から5月上旬ごろの,いわゆる八十八夜の季節に昔は
手で新しい葉を摘んだ。
近在から茶摘みに雇われた女たちが仕事中に鼻歌風にうたった歌である。したがって特に決まった茶摘歌はなく茶揉
(ちやもみ)歌やほかの作業歌を流用したものも多い。
茶揉歌は茶揉み後の製茶工程の作業にうたわれる歌で,摘んだ茶の葉を蒸して,揉んで〈より〉をかける仕事の際に
うたわれるもの。その揉んだ茶の葉を煎(い)る技術をもったほいろ師(お茶師)に美声の者が多く,ほいろ師は季節
労働者として茶場に雇われた旅職人であったから,その歌が各地に運ばれて,行先の土地の茶摘歌,茶揉歌として
根を下ろしたりした。
【茜】あか‐ね
アカネ科の蔓つる性多年草。山野に自生し、根は橙色。茎は四角く中空でとげがある。
各節に四葉を輪生し、秋、白色の小花を多数つける。根から染料を採った。
生薬名を茜根せんこんといい、漢方で通経薬・止血薬。茜草。
「茶摘み歌」についての考察 http://www.geocities.jp/uji_tawara/chabunka/uta1.html
はっぴいtopics 『夏も近づく八十八夜の意味は?茶摘みの手遊びで風習を感じよう』15.01.31配信 http://happy-topic.com/archives/1362.html
京阪神エルマガジン社 ミーツ・リージョナル No.120 1999年10月1日号 『カフェ、お勉強。 「ワインより緑茶を覚えろ !!」』 より
福岡県の八女茶の起源は、室町時代の1406 (応永13) 年に周瑞禅師が明より帰国して筑後の鹿子尾 (福岡県の八女) に
霊厳寺を建立し、明より持ち帰った茶の栽培と製茶法を伝授した事からだそうです。
佐賀県の嬉野茶も室町時代に明から伝わったという伝承があるようです。
【茶の粉飴】ちゃ-の-こ-あめ 百菓辞典
茶どころの北限、新潟県村上市の名物飴。村上茶の抹茶風味で、翁飴風のもの。
≪ 焙じ茶の焙煎 ≫ テレビ東京 出没!アド街ック天国 『東京・日本橋SP』 13.10.19 放送
東京都中央区日本橋の人形町にある1914(大正3)年創業の森乃園での焙じ茶の焙煎。
2回焙煎した極上ほうじ茶は175g1260円。
読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『日本人なら知っておきたい お茶王国 静岡県民の真実』 15.07.02 放送
≪ 静岡県藤枝市 真茶園の八代目当主の松田真彦さんが教える静岡茶葉の煎茶の淹れ方 ≫
① 熱湯を湯呑に注ぎ約70℃まで冷ます。 熱湯で入れると味が強く出て、旨味よりも苦み・渋みの方が勝ってしまう。
② 1人分=茶葉はティースプーン1杯の量。 ③ 急須での抽出時間 約1分。 ④ 各湯呑が均等の濃さになるように回し注ぎする。
⑤ 最期の1滴まで注ぎ切る。
お茶を濃く出そうと、急須を回すのは止めて下さい。 茶葉が開きすぎて、雑味が出る場合があります。
|
≪ 大阪VS東京 味オンチが多いのは? ≫ 関西テレビ 火曜日もちゃちゃ入れマンデー 15.04.14 放送
牛肉とお茶の2つについて、高級品と安価品を大阪と東京の街頭で各40人に食べ比べてもらった結果。
肉の違いが分かるか? 大阪と東京の調査結果をみると、大阪の方が正解率は高かったもののほぼ同じくらいで誤差の範囲。
特徴的なのは、年配の人たちの多くが、脂身が少ない安い肉の方が美味しく感じたようです。
肉より繊細なお茶の場合 大阪の方が正解率が高く、東京では自信満々なのに間違える人が多かったようです。
味に拘る大阪でも40人中14人が不正解。京都や静岡など茶処の人たち達からは笑われそうな結果とも言えます。
東京は味覚音痴が2~3割いる? 塩分味覚チェック 東京VS青森 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人 (東京で調査)
関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 『関西vs全国 色んな小競り合いに決着つけるで! 2時間SP』 16.10.11 放送
≪ 京都vs静岡 おいしい茶はどっちだ対決 ≫ 愛媛vs和歌山 おいしい「みかん果汁100%ジュース」はどっちだ対決
抹茶用茶葉生産量日本一の京都府 (宇治市)、茶葉生産量日本一の静岡県。
同じ価格帯の宇治茶と静岡茶の飲み比べ各40人ずつ。産地を隠して美味しかったお茶とどっちち? の調査。
京都での調査では、1を選んだ人が30人・2を選んだ人は10人。静岡での調査では、1を選んだ人が18人・2を選んだ人は22人。
静岡県民の半分弱の人が1を選んだ結果、合計で1の宇治茶48人、2の静岡茶32人で、番組調査では「宇治茶の方が美味しい」
という結果がでました。
熊本県民と静岡県民が東京の水道水とを飲み比べた調査
≪ 緑茶の消費量 ≫ 総務省 家計調査統計調べ 2013~2015年の平均
1位 静岡市、 2位 奈良市、 3位 浜松市、 4位 津市、 5位 大津市、 6位 京都市 (コーヒー消費量1位)
|
|
|
|
|
【 緑茶を美味しく飲む為に、淹れる時の湯の温度を変える理由 】 |
|
読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『日本人なら知っておきたい お茶王国 静岡県民の真実』 15.07.02 放送 毎日放送 ちちんぷいぷい 『河田の★印 「抹茶・麦茶」』 15.07.25 放送
関西テレビ NMBとまなぶくん 『ルー大柴 (遠州流茶道師範) プレゼンツ ティー道でトゥギャザーしようぜ!」 17.09.15 放送
お茶の旨味はテアニンなどのアミノ酸にあり、茶葉から溶け出す温度が50度前後。
湯の温度が高いと渋味成分のタンニンも溶け出してしまいます。
玉露が他のお茶より甘く感じるのは、淹れ方にも科学的に裏付けされたな工夫が
あるわけです。
番茶や焙じ茶は、アミノ酸もタンニンも少ない為、熱湯が良いとされています。
お茶を美味しくいれる目安。玉露もエスプレッソと同じく少量を味わうので、急須も茶碗も小ぶりの物を使う。
|
|
|
玉露 (上物) |
玉露 (並) |
煎茶 (上物) |
煎茶 (並) |
番 茶 |
玄米・焙じ茶 |
人 数 |
3 人分 |
3 人分 |
3 人分 |
5 人分 |
5 人分 |
5 人分 |
茶葉の量 |
10 g
(大さじ2杯) |
10 g
(大さじ2杯) |
6 g
(大さじ軽く2杯) |
10 g
(大さじ2杯) |
15 g
(大さじ3杯) |
15 g
(大さじ3杯) |
湯の温度 |
50 ℃ |
60 ℃ |
70 ℃ |
90 ℃ |
熱 湯 |
熱 湯 |
湯の量 |
60 ml |
60 ml |
180 ml |
450 ml |
650 ml |
650 ml |
浸出時間
(1煎茶) |
150 秒 |
120 秒 |
120 秒 |
60 秒 |
30 秒 |
30 秒 |
|
|
|
2煎茶 (2回目) の浸出時間は、茶葉に湯が浸みているので、上記の1/3 くらいの時間でOK。
高級なお茶ほど、低い温度で淹れるほうが良い。
国立精神・神経医療研究センターの功刀くぬぎ浩さんよると
「抹茶に多く含まれているテアニランが神経細胞の過剰な興奮を調節する効果があると
言われていて、イライラを解消してくれます。そのテアニンはお茶にしか含まれていない
成分で、特に粉末にして直接飲む抹茶に多く含まれています。
テアニンは50~60℃のお湯で入れた時がより効果が出やすいと言われています。」
※ 抽出後のお茶は、冷やしても温めてもテアニンの増減はないそうですから、お好みの温度で飲用可。
|
|
|
|
|
|
【 京都 お茶の最高峰 宇治茶 】 |
|
NHK Eテレ 猫のしっぽ カエルの手 『京都大原ベニシアの手づくり暮し 「お茶のある幸せ Vol.81」』 12.06.15 放送
朝日放送 おはようコールABC 『おきトク 「平等院とお茶のまち 春の宇治散策」』 15.03.23 放送
名古屋大学 伊藤信博 『室町人の嗜好 – 古記録からみる室町時代の食文化』
http://urakamizaidan.or.jp/hp/jisseki/2012/vol21urakamif-13ito.pdf
≪ 宇治茶の約4割を生産している相楽郡和束わづか町 ≫
京都市から南に30㎞に位置する和束町。水はけの良い山の斜面、朝霧が立ち、寒暖の差が激しい場所なのでしっかりと
した味のお茶ができるそうです。
この辺りは鎌倉時代から茶の栽培を行っており、室町時代に宇治茶は茶道で賞美。江戸時代は京都御所にも納めていた
日本屈指の由緒ある茶所。日本茶の最高級茶葉も生産しています。
【宇治】うじ
京都府南部の市。宇治川の谷口に位置し、茶の名産地。平安時代、貴人の別荘地・遊楽地。平等院・黄檗おうばく宗
本山万福寺がある。人口19万。(歌枕)。宇治茶は室町時代から有名。
南北朝時代の『豊原信秋記』の1374(建徳)年4月1日に豊原信秋が覚王院僧正に宇治茶を献上した記述があり、これが
宇治茶の初見と見られています。
室町時代1480年頃の『尺素往来』では、「栂尾の茶が衰退し、宇治が勃興する」事が書かれてあり、栽培にも応仁の乱
(1467~1477) の影響があったと思われるようです。そして宇治川を使った新しい茶の流通経路が確立していきます。
【尺素往来】せきそおうらい
往来物。一条兼良著と伝える。1巻。元旦小朝拝・三節会以下の儀式・祭礼・武事・仏法など諸般の事項にわたり関係
語彙を集録し、正月から歳暮に至る消息文の形式にまとめた書。
【一条兼良】いちじょう-かねよし (1402~1481) 経嗣 (二条良基の3男) の子。
室町中期の公家。関白太政大臣となる。博学多才。古典・仏教に通じ、和歌に長じた。
著「尺素往来」「公事根源くじこんげん」「花鳥余情」「樵談治要しようだんちよう」「文明一統記」など。
今年出た柔らかい新芽 (一芯二葉いっしんによう) だけを摘んだものが新茶となります。茶葉の成長は早いので収穫は大急ぎで
行います。この新芽の一番茶葉は、アミノ酸やテアニンを多く含んでおり、その年の味の決め手になるそうです。
二番茶葉は、夏に近づき暖かくなる時に収穫します。気温が高くなるとカテキンが増えるので、抗菌作用で病気になりにくい
という効能が出てきます。
緑茶は紅茶のように発酵させないので、収穫後すぐに工場に運ばれ蒸し器にかけられます。
宇治茶など関西の昔ながらの製法は浅蒸しが多いので渋味が強い。最近は渋味の少ない深蒸しが増えているそうです。
叩き、揉みという製法を経て3時間ほどで荒茶 (茎や粉が入った状態) が完成。
この荒茶を茶問屋が仕入れ、茎などを取り除き、ブレンドして製品に仕上げていきます。
和束町の宇治茶。その新茶の一煎目は80℃くらいの少なめの湯で入れます。蒸し時間が短いので、茶葉が開くまで急須で
1分くらい蒸らします。緑茶の一煎目はテアニンが多く出て甘味が強い。
二煎目以降は葉が開いているので蒸らし時間は少なくていい。
熱いめのお湯で入れると、カテキンの渋味が出てあっさりとした味わい。
国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
コトバンク 『日本山海名物図会』
1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、
日本各地の名物を描いた絵本。巻の二には数ページに渡って茶摘みや茶の製法などの様子が描かれています。
≪ 日本最古の橋 宇治橋 ≫
宇治橋は646年に、道登どうとうという僧によって架けられた日本最古の橋とも言われています。 Wiki 道登
現在の宇治橋は平成8年に架け替えられたもの。
【宇治橋断碑】うじばし-の-だんぴ
646年(大化2)僧道登が宇治橋に架橋したのを記念し、その由来を記して橋畔に建てた碑。日本現存最古の碑。
上部3分の1が1791年(寛政3)頃発見された原碑の断片、下部は江戸時代に補刻したもの。今、宇治市放生院(橋寺)にある。
コトバンク 『道登』
『生年:生没年不詳 飛鳥時代の僧。山背(京都)の恵満の家より出たという。「高麗学生」とみえることから高句麗留学僧か。
入唐して吉蔵に三論を学んだともいう。大化1(645)年8月,十師の一員に選ばれる。同2年には山背の宇治橋を架橋したと
「宇治橋断碑」や『日本霊異記』にみえる。白雉1(650)年2月の長門国(山口県)の白雉献上に際しては,天皇に白雉が祥瑞で
あると上表し,それによって白雉と改元されたという。<参考文献>『日本書紀』』
宇治橋には「三の間」と呼ばれる突き出た空間があります。宇治橋の守り神を祀る橋姫神社の祠があった場所と
言われているそうです。
桃山時代、豊臣秀吉は毎朝、三の間から汲んだ水を伏見城まで運ばせていたそうです。
この水で茶会も開いた事から、毎年10月の第一日曜日に宇治茶まつりが開催されるようになりました。2015年で第64回目。
また、江戸時代は、琵琶湖~淀川に至る、滋賀・京都・大坂の鰻も有名でした。 淀川の鯉と鰻 大阪のマムシ飯
特に京都の宇治川の鰻や鰻鮨は、「宇治丸うじまる」と呼ばれ、山城宇治の特産品でした。
宇治観光案内|京都宇治土産.com |宇治商工会議所 『宇治観光案内 「宇治茶まつり」』
https://www.ujimiyage.com/user_data/event_02.php
≪ 外国人観光客が増加中 ≫ フジテレビ 報道2001 『魅惑の日本茶を求めて…「最後の一滴が旨い」』 14.09.21 放送
和束町への観光客 平成24年 約4万人 平成25年 約7.8万人で増加分の多くは外国人観光客。
農業体験をする為に住み込みで働いている外国人インターンが情報発信したのがきっかけで、外国人観光客が急増。
欧州では日本茶が人気になっており、茶園で働くインターンの人たちは母国へ戻って日本茶の店を開く事が目的のようです。
≪ 宇治市の小学校ではお茶の授業がある ≫ 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『京都SP』 12.08.02 放送
宇治市の公立小学校では、お茶が飲み放題なのは有名ですが、授業でもお茶を勉強し、茶香服という5種類の茶を飲み比べる
授業があるそうです。
蛇口を捻るとお茶が出てくる設備は、昭和47年から宇治市内の小学校に設置されました。
玄米茶やほうじ茶など、学校によって出てくるお茶は違うようです。
【茶香服・茶歌舞伎】ちゃ‐かぶき … 茶道の七事式の一つ。数種の茶を味わい、後で種類を言いあてる。
【宇治目】うじ‐め … 江戸時代の量目の一種。山城宇治で茶をはかるのに用いた。200目を1斤とする。
【宇治人形】うじ‐にんぎょう
江戸時代より宇治で作られる人形。茶の木を材料とし、刀法・彩色共に奈良人形に似、主に茶摘み女の形に作る。
茶の木人形。
≪ 日本最古のお茶屋さん 通圓 ≫ 朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『ニッポンの底力! 技と心の老舗企業列伝』 13.01.17 放送
京都の茶の老舗「通圓」は平安末期の1160年に創業。室町時代は宇治橋の橋守に任じられ、道行く人々に茶を振る
舞ったそうです。江戸時代に描かれた絵とほとんど変化なく、現在も変わらぬ場所で営業しています。
≪ 創業約450年の上林春松本店 ≫ 読売テレビ かんさい情報ネットten. 『特集 日本茶の新たな展開』 15.06.03 放送
室町時代に創業した宇治市の上林春松本店は、織田信長や豊臣秀吉に茶を納めており、秀吉から「茶もよく候」などが書かれた
書状が残っています。2015年4月には初めて直営のカフェを東山区にオープンさせ、お茶の魅力や消費拡大を目指しています。
茶葉を選んで自分で急須を使用してお茶を入れる綾鷹煎茶は和菓子付で1150円。
≪ 福寿園 ≫ テレビ大阪 夕刊7ch 『天気予報』 15.03.13 放送
京都府木津川市 (京都府の最南端、奈良県に接する) にある『福寿園CHA遊学パーク』のビニールハウスで栽培されてる茶が、
3月13日に摘まれ収穫されました。 この『春一番新茶』は、通常の6倍ほどの価格となる15g 2160円で、3月14日から京都限定で発売されるそうです。
宇治川を挟み平等院の向いの対岸にある福寿園宇治茶工房では、石臼で抹茶づくり (参加費1296円、所要時間40分) が
体験できます。
石臼は時計の反対回りに3秒間で1周するようにゆっくりと回します。速く回しすぎると石臼が浮いて荒い抹茶になるそうです。
1杯分を挽くのに約10分、結構体力がいるようです。
【茶臼・茶碾】ちゃ-うす … 葉茶を碾ひいて抹茶とするのに用いる石臼。古来、京都府宇治朝日山の石を賞用。
国産の紅茶 「京都紅茶」
テレビ大阪 大阪人の新常識 OSAKA・LOVER 『朝の京都旅』 18.09.15 放送
≪ 千家御用達の和菓子屋 ≫
表千家・裏千家・武者小路千家の家元が集まっている京都市北区。
3家とも大路新町にある1984 (昭和59) 年創業の『紫野源水』という和菓子店の和菓子を
お茶会などでよく使われるそうです。
千家の茶会が行われる日は、午前中に行くと茶会の菓子としてオーダーされた物の余りが
販売されている事もあるようです。番組で紹介されていた3つの菓子はどれも1つ400円台。
|
|
|
|
|
|
|
【お茶の出荷量 日本一 静岡県】 |
|
読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『日本人なら知っておきたい お茶王国 静岡県民の真実』 15.07.02 放送
関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 『関西vs全国 色んな小競り合いに決着つけるで! 2SP』 16.10.11
≪ 平成25年都道府県別茶 (生葉) 収穫量ランキング ≫ 日本一 『統計情報』 http://jp1.com/ranking/ (長いのでURL省略)
1位 静岡県 144100t 2位 鹿児島県 123000t 3位 三重県 33100t 4位 宮崎県 19300t 5位 京都府 13700t
6位 福岡県 11100t 7位 奈良県 7340t 8位 佐賀県 6830t 9位 熊本県 6390t 10位
愛知県 4330t
≪ 2015年 抹茶の原料『てん茶』の生産量 ≫ 全国茶生産団体連合会 調べ
1位 京都 988t 2位愛知 505t 3位 静岡 275t で、高級茶葉の生産は京都が1位。 京都vs静岡おいしい茶対決
藤枝市にある静岡産業大学の情報学部の堀川智廣 教授によると、
「静岡のお茶の歴史は大変長くて、少なくとも鎌倉時代にはお茶が栽培されていたと考えられます。天竜川・大井川・
安倍川・富士川があって、河川の流域というのは、お茶の生産に適しているんです。
圏内の全域でお茶が作られていまして、県内の全域が消費地だという事です。
これが静岡にお茶が根付いた大きな理由です。」
煎茶の製法を開発した永谷宗七郎
静岡県民は緑茶しか飲まないらしいですが、緑茶=煎茶の製法が開発されたのは、江戸時代中期1738 (元文3) 年の京都。
江戸と畿内に広まり、そして駿河には天保(1830~44)年間に伝わったようです。
全国で緑茶が広く飲まれるようになったのは明治時代以降の事です。
静岡県最古の茶産地「本山」では、標高800mで栽培した「東頭とうべっとう」という100g1万円の高級茶葉を発売。
日本最大の茶産地「牧之原」では「深蒸し茶」。
※ 深蒸しするのは、全体的に静岡茶は飲みやすいが、大味でコクが足りないためのようです。
高級茶の産地「天竜」では、「King of Green MASA プレミアム」という750mlボトルに入ったお茶2万1600円 (2015年現在)
を
販売しています。
【阿部茶】あべ-ちゃ
静岡県安倍川の流域に産する煎茶。本山茶。1686年、井原西鶴 作の好色一代女「中間買の―」。
1797年刊の『東海道名所図会』 巻四 駿河 駿府 「名産 阿部茶」 (秋里籬島 編)
「名産 阿部茶 府中の北二里許 足久保より出る多くは 江戸にて用ゆ 上方 宇治信楽に類す」
【東海道名所図会】とうかいどうめいしょずえ
京都から江戸に至る東海道の名所・旧跡の図解説明書。秋里籬島編。6巻。1797年(寛政9)刊。 挿絵は主として竹原春泉斎・北尾政美。
【足久保茶・蘆窪茶】あしくぼーちゃ
駿河の足久保 (いまの静岡市) から産する茶。足久保。曲亭馬琴 作、1814~42年刊 南総里見八犬伝 [133]
「盹覚ねむりさましの―、助飲くちとりには団子の醤炙つけやき」 ※助飲=お茶請け
≪ 茶摘み体験 ≫ 読売テレビ かんさい情報ネットten. 『特集 日本茶の新たな展開』 15.06.03 放送
静岡県の伊豆の国市にある観光農園「蔵屋鳴沢」は東京ドームのグラウンド面積とほぼ同じ広さの茶畑で茶摘み体験が
できます。男性でも茶娘の衣装を着るそうで、摘んだ茶葉は持ち帰りも可能。要予約。
摘み立ての新芽は柔らかいので、天ぷらやサラダで食べられます。茶摘み体験をした客には観光農園内にあるレストランで
食事をすると新茶の天ぷらが無料で提供されるそうです。
【伊豆の国】いずのくに
静岡県東部、伊豆半島北部の市。イチゴ・トマトなどの栽培が盛ん。温泉などの観光資源も多い。人口5万。
蔵屋鳴沢 『チャレンジ茶摘み体験』 http://www.kuraya-narusawa.co.jp/tea/experience_tea/
グリンピア牧之原 『茶摘み体験』 http://grinpia.com/c_2.html
≪ 世界お茶まつり ≫
2001年10月5日(金)~8日(月・祝)に開催されたのが第1回のようです。
ヤフーニュース 『世界お茶まつり閉幕 春、秋合わせ来場者15万人 静岡』 (配信元 静岡新聞) 16.10.31 配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161031-00000015-at_s-l22
『静岡市のグランシップで27日から開催された「世界お茶まつり2016 秋の祭典」(県など実行委員会主催、静岡新聞社・静岡
放送後援)は30日、閉幕した。4日間の来場者数は前回13年の秋の祭典を8%上回る11万500人(主催者発表)で、
目標の11万人を突破した。5月に島田市などで行った「春の祭典」と合わせた来場者数は約15万人になった。』
第6回世界お茶まつり実行委員会事務局 (静岡市駿河区) 『世界お茶まつりとは?』
http://www.ocha-festival.jp/2016/about/index.html
|
|
|
|
|
【埼玉県 狭山茶 】 太田道灌 江戸城を築城し、「戦国武将の魁」と言われた逸話 |
|
日本テレビ 月曜から夜ふかし 『埼玉県の市町村について調査した件』 15.06.29 放送
関東では高級茶として有名な埼玉県の狭山茶は、宇治茶・静岡茶とで日本三大銘茶として称されます。
狭山市の南西に隣接する入間市で半分以上が生産されているそうです。
県内争いが最も多い事で知られる埼玉県。入間市の人たちは狭山茶というネーミングが気に入らないようです。
Wiki 狭山茶
『茶の生産地としては北に位置し(日本最北限生産地は新潟県村上市)、冬季には霜が降りることもあるその涼しい気候により、
厚みのある茶葉ができる。始まりは鎌倉時代で、武蔵国の狭山丘陵一帯、特に現在の埼玉県入間市を中心に栽培された。
江戸時代には、狭山丘陵一帯の村々が川越藩領であったことから、「河越茶」と呼ばれていた。
江戸中期に行われた武蔵野の新田開発により地域の特産物として栽培が普及し、産地も拡大したが、現在その多くは入間市で
生産されている。
茶葉の摘み取りは年に2回行われ、一番茶は4月から5月、二番茶は6月から7月に出荷される。
主要品種は「やぶきた」と「さやまかおり」である。』
【狭山】さやま
埼玉県南部の市。近年、東京の衛星都市化。中心部の入間川は鎌倉街道の要地。狭山茶を産する。人口15万8千。
入間市博物館ALIT 『狭山茶の歴史』 http://www.alit.city.iruma.saitama.jp/07tea-museum/13history.html
(社)埼玉県茶業協会ホームページ 『狭山茶の歴史』 http://www.cnet-sc.ne.jp/sym-cha/
『「狭山茶」の起源は中世の文献に登場する「河越茶」や「慈光茶」など、当時の武蔵国内の有力寺院で生産されたとされる
茶から始まり、室町時代には、京都や奈良の茶園に次ぐ地方茶産地として大和・伊賀・伊勢・駿河などと並ぶ銘園の一つに
数えられていたのであります。
その後戦国時代の余波をうけて一時は停滞しましたが、江戸時代に「蒸し製煎茶」の製法を関東で初めて導入して復興し、
江戸で取り引きされるや狭山茶は他産地にも増して繁栄し、横浜開港と同時にいち早く輸出されたのであります。
明治十八年には川越が生んだ我国茶業の先覚者高林謙三翁が製茶機械を発明し、世に広めたのであります。
大正時代に至り機械製茶は急激に普及され始め、我国茶業に一大変革をもたらしたのであります。現在は、彩の国
埼玉県の特産品の雄とされております。
また、毎年開催されている全国茶品評会及び関東ブロック茶の共進会等において常に上位入賞を果たしております。』
【川越城・河越城】かわごえ‐じょう
武蔵国入間郡 (埼玉県中部) にあった城。川越市郭町に城址がある。太田道真・道灌親子の築造という。
酒井・松平氏らの城下町として繁栄し、小江戸と呼ばれる。
【入間】いるま
武蔵国の大郡。往古は多摩郡とつらなる原野で、武蔵野と呼ばれた。
埼玉県南部の市。日光脇往還の宿場町・市場町から発達。狭山茶の産地。東京の衛星都市化が進む。人口14万9千。
【入間詞】いるま‐ことば / 入間様いるま‐よう
埼玉県入間地方にあったとされる、言葉の順序を逆にし、また、意味を反対にする言葉遣い。
狂言には、入間川「昔から入間様と言うて、逆言葉を遣ふと聞いた」
入間川を渡る大名が入間詞を面白がり、入間の某に持物を残らず与えるが、最後に欺いて取り返す。
などと描かれています。
|
|
|
|
|
【佐賀県 嬉野茶 】 |
|
読売テレビ クチコミ新発見 ! 旅ぷら 『小林綾子&藤田朋子 佐賀県・嬉野温泉』 14.09.21 放送
佐賀県嬉野市には『日本三大美肌の湯』とも言われる嬉野温泉があります。
明治30年創業の相川製茶舗の4代目店主の相川源太郎さんは全国茶品評会緑茶部門で農林大臣賞を2度受賞。
嬉野茶葉を約2時間かけ完全発酵させた紅茶も特産品として製造しています。
茶葉を高温で蒸し、乾燥させ丸めた『蒸し製玉緑茶』は嬉野が代表的な産地だそうです。
『釜入り製玉緑茶』は生葉を高温の釜で炒って乾燥させ丸めた茶で、生産量が少なく希少価値が高い。さっぱりとした喉越し。
嬉野茶は、室町時代の1440 (永享12) 年に渡来した唐人が嬉野で自家用に茶を栽培したのが起源という伝承があるようです。
また、永生年間 (1504~21) に明 (中国) の紅令民が釜炒製茶法を伝えたという伝承も残っているそうです。
佐賀県嬉野のとろける湯豆腐 とろくっけん、ビックリするばい
|
|
|
|
|
【お茶のブレンド作業「合組」】 |
|
テレビ大阪 やさしいニュース2 『おいしいお茶ら「合組の技」』 19.01.21 放送
「合組ごうくみ」とはお茶をブレンドする製茶技術の事で、より美味しくする為、年間を通じて一定の安定した品質を保つ
為にどんなお茶でも全てブレンドする必要があるそうです。
大阪府高石市にある つぼ市製茶本舗は、江戸時代末期の1850(嘉永3)年に堺で創業した製茶問屋。
全国の産地から茶葉(あら茶)を仕入れて、選別し乾燥・焙煎を行い茶葉に香をつけていきます。
茶鑑定士六段の谷本順一 5代目社長によると、「『火入れ十年』と言って10年でやっと少し分かってくる」ほど奥深い
熟練の職人の技と作業が必要なようです。
湯を入れた茶葉はきっかり2分で取り出し、苦味・渋味・旨味など、それぞれの茶の味を検査し、組み合わせ考える
のが、茶鑑定士の仕事。
谷本社長によると、人に例えると得意不得意な分野を補完する為にチームを組むのと同じ。合組はお茶の醍醐味の
一つ。
≪ なんばスカイオ店で合組体験が可能 ≫
2018年10月に南海なんば駅に隣接する商業ビル「なんばスカイ」が開業。このビル内の茶寮つぼ市製茶本舗なんば店
限定で、10種類の茶葉から自分の好みに合わせてブレンドする合組体験ができるそうです。
なんばスカイオには、堺市のタオルや包丁の専門店や、食に関する店が多く入居しています。
なんば千日前の道具屋筋でも国内外の観光客が年々増加している事から、色々と体験できる店が増えています。
|
|
|
|
|
【闘茶】 |
|
≪ 本膳料理 ≫ 日本の食の歴史3 鎌倉・室町・戦国時代
本膳料理は現在の正式な日本料理とされています。 鎌倉時代の武家の「椀飯おうばん」という正月に御家人から将軍に料理を献上する儀式的な料理が本膳料理の起源。
当初は鯉一匹など簡単な物でした。
室町幕府が京都に開かれた事により、武家の儀式と公家の文化が結び付き、本格的な料理へと発展していきます。
≪ 上方では、茶を沸かした水を当てる「闘茶」や「素材の産地当て」が流行った ≫ Wiki 闘茶
【闘茶】とう‐ちゃ ・・・ 南北朝 (1336~1392年頃) ・ 室町時代、茶会で本茶・非茶などを判別し、茶の品質の優劣を競った遊戯。
|
刺身を一口食べて産地を当てる などのゲームなども行われており、
茶道の源流とも言われるゲーム。
闘茶は中国から伝わり、日本で独自に発展しました。
← 「闘茶」競争では、お茶を淹れた水が、淀川だの、宇治川の
水だの、と当てると賞品も貰えたそうです。
ちなみにアメリカで最初の料理教室は19世紀に出来たボストン
料理学校だそうです。
|
【十服茶】じっぷく-ちゃ / 【回茶】かい-ちゃ (孔子の門人 顔回が一を聞いて十を知ったということに由来)
茶の湯で、茶の味を飲み分ける遊び。4種の茶を飲んで、茶の種類を当てること。
四種十服茶といって、多くは10服飲む。貢茶こうちゃ。
【本茶】ほん-ちゃ
明恵上人の茶樹栽培の原拠である山城国栂尾産の茶。のちには宇治茶も本茶に加えられた。本の茶。
⇕
【非茶】ひ-ちゃ
闘茶の用語。本茶以外の、各地で産する茶
≪ 『御成』の流行で『本膳料理』の形式が確立 ≫ 『御成』という武士たちの行事が本膳料理を発展させた。
室町時代の「御成」というのは、家臣が皇族や将軍、大名などを料理で接待する事。
【御成】お-なり … 皇族・摂家・将軍などの外出・来着の尊敬語。
【御成切】おなり-きり … 碁石ほどの大きさに平たく作った亥の子餅。紙に包んで将軍などから臣下に与えた。
【亥の子】い-の-こ
① 陰暦10月上の亥の日。江戸時代にはこの日から火燵こたつを開いた。
② 西日本で陰暦10月亥の日に行われる行事。収穫祭の類。田の神が去っていく日と信じられ、子供らが石に縄を
何本もつけ (あるいは縄を堅く固めた束で)、土を打って唱えごとをして回る。亥の子突き。亥の子槌づち。
【十日夜】とおかん-や
10月10日の夜。東日本で、この日、刈入れが終わって田の神が山へ帰るとして祭る。西日本の「亥の子」とともに
重要な農村行事。
【亥の子の祝い】いのこ-の-いわい
陰暦10月上の亥の日の亥の刻 (:現在の午後10時頃) に「亥の子餅 (能勢のせ餅)」を食う行事。
万病を除くまじないとも、また猪は多産であるから子孫繁栄を祝うためともいう。
宮中には摂津能勢地方の村々から餅が献上された時代もある。いのこもちの祝。
玄猪げんちょ。厳重げんちょう。厳祥げんじょう。
≪ 『御成』が複雑になり、プロの調理人たちの流派ができる ≫ 『庖丁式』 藤原山蔭と各流派
膳の皿の数にも細かな決まりが生まれ、縁起が良いとされる奇数を基本とし、饗宴の格式が上がると膳の数を増やす
形式が出来上がります。
更に、主君に気に入られようとする武士たちによって、豪華さを競い『御成』の規模も大きくなっていきました。
御成の為に屋敷を改築や新築する武士もいたそうです。体面を重んじる武士にとって御成を成功させる事は極めて
重要なことでした。
この複雑に発展した本膳料理は、専門に調理するプロの料理人たちが請け負う事が多くなります。
室町時代中期頃になると、優れた調理技術を持ち競い合う料理人たちの中で「四条流」「大草流」「進士流」などの
料理の流派が確立していきました。
【四条流】しじょう‐りゅう
宮中で用いる膳部料理の一流派。平安前期の藤原山蔭を祖とし、室町時代に成立。
貴人の慶賀の日に鯉などを調理することを職掌とした。
≪ 茶店は室町時代から ≫
コトバンク茶店世界大百科事典 第2版の解説
茶を供して客を休息させる店。日本では中世後半に旅行者や参詣人を対象として街道筋や寺社門前などに発生した
と思われ,《東寺文書(とうじもんじよ)》には1408年(応永15)11月に京都の東寺南大門前に一服一銭の茶を売る者の
あったことを示す記録がある。
初めは床几(しようぎ)の上に茶道具を置き,求めに応じて茶を点(た)てていたが,やがて菓子や酒食を供し,給仕女を
置くような店ができて遊興的色彩を加え,多様な形態の茶屋を分化するようになった。
【東寺百合文書】とうじ‐ひゃくごうもんじょ
東寺に伝来した古文書群のうち、近世、前田綱紀つなのりが寄進した100の桐箱に整理保存された古文書。
現在、94箱ある。東寺領荘園を中心に、中世社会経済史料の宝庫とされる。
Wiki 茶屋
室町時代の1400年頃になると、東寺の門前などで参拝客に茶湯一杯を銭一文で供する「一服一銭」などが生まれ、
これらを通して一般人にも喫茶が広まっていった。この「一服一銭」が茶屋の原型となるが、当初は縁日などに茶道具を
持ち込んでの立売が基本で店舗を持たないものであった。
1403年(応永10年)の『東寺百合文書』には「南大門前一服一銭請文」があり、門前への出店には制限があった。
また、東寺の「弘法さん」は一服一銭が店を開いたことが市の始まりであるといわれている。
室町時代中期、1500年(明応9年)頃の『七十一番職人歌合』では僧形の者が座ったままで抹茶を供しているが、
安土桃山時代の『洛中洛外図』などでは立売の姿が描かれている。
また、16世紀の『富士見図屏風』と『釈迦堂春景図屏風』では、小腹を満たすための串刺しの焙り餅のようなものを
商っている様子も描かれている。
後には社寺の門前に小屋がけをするようになり、このような掛茶屋は「一銭茶屋」と称されるようになった。
社会が落ち着いた江戸時代には宿場町を中心に各地に水茶屋などとして広まり、また女性店員が給仕するように
なっていった。
|
|
|
|
|
【茶の湯】 |
|
名古屋テレビ放送 メ~テレ 武士ごはんランキング 江戸VS京都 一生に一度は食べたいSP 発見 ! 和食のルーツ 14.09.07 放送
NHK大阪 歴史ヒストリア 和食はどうしておいしくなった !? ~時代の主役たちが育んだ食の遺産~ 14.11.26 放送
テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『夏の京都 水辺散策 納涼めぐり旅』 15.07.25 放送
≪ 茶の湯の発達と懐石料理の確立 ≫
室町時代になると茶の作法を重んじる『茶の湯』が流行します。
『亭主』と呼ばれる主催者が、客に茶をふるまう『茶会』が頻繁に開かれました。
【慕帰絵】ぼき‐え
本願寺3世の覚如かくにょ(鎌倉後期の浄土真宗の僧、1270~1351)の伝記を描いた絵巻。10巻。
1351年(観応2)の制作。覚如の子、慈俊(従覚)の撰。絵は藤原隆昌・隆章筆。巻1・7は1482年(文明14)の補作。
西本願寺蔵。
しかし、室町時代の『茶の湯』は本膳料理を食べる事が主目的で、『茶』は添え物扱い。
『長歌茶湯物語』には、「魚や鳥を大食い 酒に酔って 亭主が茶を点たてる機会さえ見い
だせない」などの記録があるそうです。
【村田珠光】むらた‐しゅこう、じゅこう (1423~1502)
室町時代の茶湯者。奈良称名寺の僧となり、のち京都に住む。 侘茶の祖といわれる。
大徳寺の一休 (1394~1481) に教えを乞い、禅味を加えた点茶てんちゃ (抹茶をたてる事)
法を始めた。
|
|
【侘茶】わび‐ちゃ (【茶式】ちゃ-しき)
茶の湯で、東山時代 (室町中期、1483年将軍足利義政が、今の銀閣寺に移って以降の時代) に流行した書院茶に対して、
村田珠光以後、桃山時代に流行し、簡素静寂の境地を重んじたもの。千利休が完成したといわれる。
【書院茶】しょいんちゃ はてなキーワード http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F1%B1%A1%C3%E3 より
広間の書院に天目茶碗や唐物茶入など、中国渡来の豪華な茶道具を台子に飾った茶の湯の式をいいます。
読売テレビ ten. 『全国で唯一! 茶筌作りの里「高山町」"高山茶筌"の魅力に迫る』 17.05.13 放送
≪ 茶筌の発祥地 奈良生駒市高山町 ≫
抹茶をたてる際に茶をかき混ぜる竹製品の「茶筅ちゃせん」は、大阪府に隣接する奈良県生駒市高山町が発祥。
茶筅だけではなく、他の竹製品も製造している高山町では「竹を全まっとうする」という意味で「茶筌ちゃせん」という字が
充てられています。
室町時代に茶葉を碾いて粉末にしたものを飲む事を思いついた村田珠光が高山一帯の領主の次男 高山宗砌に
相談し、抹茶をたてる為の道具作りを依頼したのが始まり。
初めて作られた「茶筌」は現在使用されているものと同じ形で、ここから流派ごとに微妙に異なる茶筌の種類が
誕生しました。当時の天皇からも高い評価を受け「高穂」という名を授かりました。
【高山宗砌】たかやま-そうぜい (但馬の人、?~1455)
室町中期の連歌師。俗名、高山時重。七賢の一人。和歌を正徹に、連歌を梵灯庵に学ぶ。
高山竹林園では約2万7000㎡の敷地内に約50種類の竹が植えられた竹林があり、展示室には茶筌の原点「高穂」と
流派によって形などが異なる60種類ほどの茶筌を見ることが出来ます。2017年現在で入場料無料。
主に使われる竹は主に煤竹すすたけ・黒竹くろちく・淡竹はちくの3種類。他に白竹・胡麻竹・青竹・紫竹なども利用される
ようです。
表千家は煤竹、武者小路千家は黒竹、裏千家は淡竹を使っているそうです。
3年間育てた良質の竹を選び、油抜きし、冬に天日干した竹を使います。
煤竹は古い民家の藁葺き屋根の中で煙に燻され変色した竹を利用しているので、入手が困難になり、煤竹の茶筌は
数万円もするそうです。裏千家の淡竹の茶筌は数千円。
高山茶筌生産協同組合に加盟しているは、全盛期で50軒ほどありましたが、現在は18軒のみ。
伝統工芸品に指定されている高山町の茶筌は、年間約30万本製造し国内生産量90%以上を占めます。
数穂・中穂・荒穂など種類がありますが、一般的な形のものは1本を160分割し、穂先の厚さは0.05㎜ほどになるまで削ります。
穂先が薄くて柔らかいと茶の泡がたたず、固すぎると茶碗の底に傷がつくので、この「味削り」と呼ばれる技術は一子相伝の
職人技術として伝えられてきたようです。
≪ 茶道の確立と懐石料理 ≫ さかい利晶の杜 2015年、千利休と与謝野晶子のテーマ館が堺市にオープン
安土・桃山時代になると、千利休(1521~1591)ら堺の茶人らによって、茶道の確立と、その流れをくむ懐石料理など
日本食の基礎が確立されていきます。
室町時代の本来の『茶の湯』とは違う状況を憂い改めようとした茶人の一人が、千利休の師匠である武野紹鴎でした。
料理と茶とのバランスを図るため、茶の湯で出す料理は「どんな客を迎えても、料理は一汁三菜を超えてはならない」と
弟子たちに戒めました。
【紹鴎】じょうおう(泉州堺の納屋衆の一人、1502~1555) もと武田氏、のち武野たけの氏。
室町後期の茶人。一閑居士・大黒庵と号。珠光の門人 宗陳・宗悟に茶道を学び、
侘茶の骨格を作り、千利休に伝えた。
【一汁三菜】いちじゅう‐さんさい
飯と汁、菜三品からなる献立。もとは本膳料理の膳立てで、飯と汁・香の物のほかに膾なます・
平皿・焼物の三菜を添えたもの。
紹鴎の門弟の一人、千利休は堺の海産物の取引などで財を成した商家に生まれた与四郎
(千利休の幼名)は、跡取りとしてふさわしいように教育を受けますが、その一環として
茶の湯も学びました。
【千利休】せん‐の‐りきゅう(1522~1591)
安土桃山時代の茶人。日本の茶道の大成者。宗易と号した。堺の人。武野紹鴎に学び
侘茶を完成。織田信長・豊臣秀吉に仕えて寵遇されたが、秀吉の怒りに触れ自刃。
『松屋会記』には、利休が初めて開催した1544 (天文13) 年2月27日の記録が書かれています。
土筆つくしと豆腐の汁、ウドの和え物、クラゲ、麩の一汁三菜。
松屋会記から読みとる江戸時代初期の振舞 その料理と食材 「蕎麦切り発祥を探る」
http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/tyakai.html
『奈良転害郷に住む塗師松屋家の記録「松屋会記」の始まりで、茶会がおこなわれる
ようになった早い時代に、茶を振舞われた後段として素麺が振る舞われたとある。
そしてこの茶会記は、この日以降、松屋久政・久好・久重の三代にわたって書きつがれて、
慶安3年(1650)まで約120年間もの大記録となっている。
なお、この松屋会記に次ぐ二番目は堺の豪商天王寺屋の茶会記で、「天王寺屋会記」である。
これらは茶道具の披露・鑑賞の記録として貴重であるとともに、茶の湯でおこなわれた
振舞の記録であるともいえる。
|
|
だからそこには、その時代の献立の数々が書き留められていて振舞の様子として見ることができる。そして、
おどろくのは食材の種類が豊富なことと料理も多岐にわたっていて日本料理の原点をみる思いすら感じられる。』
こちら↑のサイトには、『松屋会記』に書かれてある、当時使われていた食材などが載っています。
コトバンク 『松屋会記 まつやかいき』
「現存する最古の茶会記。奈良の塗師(ぬし)で松屋三名物(松屋肩衝(かたつき)、徐煕(じょき)筆鷺絵(さぎのえ)、存星盆
(ぞんせいぼん))を所持した松屋家の久政(ひさまさ)、久好(ひさよし)、久重(ひさしげ)3代にわたる他会記の集成書。
現存する流布本(るふぼん)は江戸中期の転写本であり、書名も原書のままとはいえず、原型を正しく伝えてはいない。
構成は、1533年(天文2)~96年(慶長1)の久政他会記、1586年(天正14)~1626年(寛永3)の久好他会記、1604年(慶長9)
~50年(慶安3)の久重他会記からなる膨大な茶会記録が収められており、茶道成立期のようすを知るうえでもっとも貴重な
資料の一つとなっている。」
史跡写真集 『東大寺 転害門の由来』 http://mandarinhistoricalplace.web.fc2.com/historical_place/todaiji_tegaimon/index.html
聖武天皇が大分の宇佐から迎えた宇佐八幡神が、この門を通って鎮座した事から、八幡宮の転害会てがいえという神事の
御旅所とされることに由来しているそうです。
【天王寺屋】てんのうじ-や
① 室町時代末・安土桃山時代の堺の豪商、津田家の屋号。中国貿易に従事。津田宗達→津田宗及→江月宗玩
② 江戸時代、大坂の豪商。代々大眉五兵衛を名のる。両替商。
③ 江戸時代中期の古銭家。天王寺屋長左衛門。大坂の人。著「化蝶けちょう類集」。
紹鴎の教えを守り一汁三菜の料理を基本としますが、「もっと 客人をもっと満足させたい」との思いを持ちます。
若き利休が精神修行の為に通った南宗寺でヒントを得ます。禅宗である南宗寺でも修行を積む者に対し精進料理が提供
されていたのです。
素材と季節感を大切にし、工夫を凝らした精進料理を基に理想とする「茶会向けの料理」を編み出しました。
【南宗寺】なんしゅう‐じ
大阪府堺市にある臨済宗の寺。1556年(弘治2)三好長慶の開創、大林宗套だいりんそうとうの開基。のち兵火にかかり、
沢庵により再興。境内に千利休・武野紹鴎らの墓がある。
1544年の利休が初めて主催した茶会料理
|
堺・南宗寺の精進料理
|
1590年11月3日の茶会料理
|
京都学園大学人間文化学部教授で、日本の茶道研究家の筒井紘一さんと妻の曜子さんが、利休百会記の1590 (天正18)
11月3日に利休が主催した茶会で出された料理の献立を再現。利休の晩年、利休茶会が完成したと言われる時期の料理です。
利休流の茶会は タイミングを重視
① 使用人を使わず、茶会の主催者である『亭主』自らが膳を運ぶ。← 心から歓待している事を表す。
② 温かい物は温かいうちに、冷たい物は冷たいうちに。料理を最も美味しい状態で味わってもらう事。
③ 旬の食材を使い、季節に合った調理法を施すこと。
筒井さんによると、「利休の茶事の歌として、『振舞は小豆こまめの汁に えびなます 亭主給仕をすればすむ也』
(長闇堂記) とあります。
たとえ、一汁一菜の『極侘び』の料理であっても、大事なのは『亭主が給仕をしなさい』ということです。
当時、カマボコを出そうとすると、2日も3日もかけて骨を抜いて擂って手間をかけて作る。
(もてなされた側は) 自分を招くために、これだけ手をかけてくれていたという事への感謝が生まれてくる。」
客への心づくしをした利休の料理は、後に懐石料理と呼ばれるようになります。
【懐石】かいせき
(温石おんじゃくで腹を暖めると同じ程度に腹中を暖め、空腹をしのぐ粗末な食べものの意)茶の湯で茶を出す前に
出す簡単な食事。茶懐石。
※ 懐石には、上記 広辞苑の内容以外にも幾つか説があるので、Wiki 懐石 をご覧ください。
【久保長闇堂】くぼちょうあんどう (奈良春日大社の神人の家に生まれる、1571~1640) 朝日日本歴史人物事典などより
江戸前期の侘び茶人。名は利世,通称権太夫,長闇堂は号。
天正15(1587)年に行われた豊臣秀吉の北野大茶の湯に出かけ,茶人となることを決意。茶入の仕服などを製する
袋物師のかたわら茶の湯に携わる。松花堂昭乗や大名茶のリーダーとも目された小堀遠州らの親交を得た。
寛永年間(1624~44),東大寺の重源御影堂が改築されるに際して古材を譲り受けて7尺の茶処とした。
これに小堀遠州が鴨長明の方丈になぞらえて「長闇」堂と命名。現在,奈良興福院に再建されている。
また,その死去に遠州は「悼久保翁記」を記した。
著作の『長闇堂記』(『茶道古典全集』3巻) は茶史茶説書で、自叙伝に茶湯見聞記および茶説を加えたもの。
炭しょっぷ・だん 『池田炭・能勢菊炭』 http://shop-dan.sakura.ne.jp/suminohanashi.html
能勢さとやま創造館 『能勢菊炭』 http://www.satoyama-co.jp/ 毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿縦断500㎞の旅26」』 14.11.06 放送
≪ 茶の湯で最高とされた摂津の「菊炭」 ≫
大阪府北部の豊能郡の能勢町・箕面市・池田市と隣接する兵庫県あたり能勢地域一帯で産出される上質な
クヌギの木を使用した黒炭くろずみは火持ちが良く香りが良く、切り口が菊の花のように見える事から『菊炭』と
呼ばれます。
また物流の集積地だった池田に集められ、全国に向けて販売された事から『池田炭』とも呼ばれます。
室町末期から江戸初期に、武野紹鴎、千利休らにより改良されたといわれており、 池田市伏尾町の久安寺が
1145(久安1)年~1870(明治3)年まで宮中御茶用として池田炭を献上し、1595(文禄4)年には豊臣秀吉が
同寺で観月の茶会を催したと伝えられています。
【菊炭】きく-ずみ … 茶道で、胴炭などに添えて用いる炭。切り口が菊花状に見えるもの。
【胴炭】どう-ずみ … 茶の湯で用いる切炭のうち、風炉ふろまたは炉に最初に入れて横に置き、心しんとする炭。
【風炉】ふろ、ふうろ
茶の湯で、席上において湯を沸かすのに用いる土製・木製・鉄製・銅製・銀製の炉。
形は円く前方に火口、後方に風通しがある。現在は5月から10月まで用いる。
【奈良風炉】なら-ぶろ
奈良でつくり出し、茶の湯に用いた土製の風炉。土風炉どぶろ。
江戸時代の文献では「奈良風呂」と書かれている場合もあります。
|
|
【蒲池焼】かまち-やき 柳川焼やながわ-やき
江戸時代に福岡県柳川市の蒲池で作られた土器。柳川藩の御用窯として慶長(1596~1615)の頃に開窯。
風炉などの茶道具を焼く。
1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本
山海名物図会』全5巻は、日本各地の名物を描いた絵本。
巻の三には「池田炭」を作る様子が紹介されています。→
【池田炭】いけだ‐ずみ
兵庫県川西市一庫ひとくら付近で生産されたクヌギの黒炭。池田に出荷したから
いう。池田炭の別称 『一庫炭いちくら‐ずみ』は、『ひろくら』を誤読したもの。
|
|
国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
コトバンク 『日本山海名物図会』
大阪府箕面市の止々呂美とどろみ地区では、昭和初期まで130世帯のうち、110世帯が菊炭を作っていましたが、
現在は栗拾いや椎茸狩りなどを楽しめる体験農園「中政園」の園主である中上忠彦さんだけが作っています。
その中上さんも、最後の炭職人と言われた人に教えて貰って始めたそうです。
池田市だけで40軒あった炭問屋ですが、戦後になるとガスや電気などが普及したので、炭の需要は急速にしぼん
でいきました。2015年現在、池田炭全体では3人の職人がいるだけだそうです。
池田炭と並んで江戸時代に茶の湯に用いられた千葉県の『佐倉炭』は現在は名前が残るのみだそうです。
【風炉手前】ふろ‐でまえ
茶の湯で、5月初めから10月末まで、風炉を用いて点茶する手前。風炉茶。
【炉手前】ろ‐でまえ … 茶道で、炉を用いて点茶する手前。11月初め頃から4月頃まで行う。
【佐倉炭】さくら-ずみ 「桜炭」とも書く。
千葉県北部の佐倉地方で産出した木炭。クヌギ材を蒸焼きにして製した良質の黒炭。
黒色で軟らかい黒炭くろずみの中でクヌギを焼いた佐倉炭が最良、ナラがこれに次ぐ。
|
茶香炉
|
木のメモ帳 『木あそび うつくしい炭』 http://www.geocities.jp/kinomemocho/kiasobi_ikedazumi.html
【備長炭】びんちょう‐ずみ、びんちょう‐たん
姥目樫うばめがしを材料として製した熊野産の良質の木炭。元禄(1688~1704)年間から紀伊国田辺の備中屋びっちゅうや
長左衛門が販売。
≪ 「麩」を愛した利休 ≫ お好み焼きの歴史
『利休百会記』は千利休が茶会の詳細を記録した文書。
100回の茶会のうち、80回くらい麩を使った「麩の焼き」などを茶菓子として出していたそうです。
|
利休百会記
|
上の画像は、利休が愛した『お麩の小串こぐし』という料理。一口サイズの麩を串に刺し、甘めのゴマ味噌で味付けしたもの。
武士たちも、戦飯として重宝しました。
会合衆と自由都市 堺 武野紹鴎、今井宗久、津田宗及、千利休が切腹が切腹させられた理由。千利休のまとめ、利休はキリスト教徒だった?
「茶頭」とを呼ばれる特別な地位に登り詰め、豪華さに重きを置いてきた茶の湯の改革を行います。やがて、
利休は織田信長、豊臣秀吉に取り立てられ、利休流の茶の湯は一大ブームを起こします。有力な大名たちもこぞって
利休の弟子となりました。
秀吉が天下人になった時代、秀吉が天皇に茶を点てる時の後見役を務め、世間から『天下一の茶人』と褒めそやされました。
しかし、1591 (天正19) 年2月秀吉によって謹慎を命じられ、半月足らずの28日に切腹。享年70。
利休の死後、秀吉が母親に送った手紙の中で「昨日、利休の作法で食事をしました。たいそう趣がありました。」と書かれています。
懐石料理は利休の弟子たちに受け継がれ、江戸時代には庶民の間にも広まっていきます。
テレビ東京 歴史ミステリー 『利休が切腹させられた真実』 http://youtu.be/kIzoczW9TfY
テレビ東京 歴史ミステリー 『天下一の成金男 豊臣秀吉! Mr.ゴールド』 NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『秀吉の愛した京都~夢のプロジェクト・聚楽第~』 14.04.09 放送
読売テレビ 秀吉が愛した京都 15.03.29 放送 / 読売テレビ 秀吉が愛した京都2 15.09.20 放送
テレビ大阪 ニュースリアル 『宇治茶まつり』 15.10.05 放送
≪ 秀吉が作った侘びの茶室 ≫
京都市の鷲峰山高台寺は秀吉と正室の北の政所 (ねね) との思い出がたくさん詰まった寺ともしても知られ、霊屋の
下には北の政所が埋葬されており、秀吉が埋葬されている豊国廟の方角に向けて建てられています。
高台寺境内の一番高い所には、伏見城にあった物を北の政所が高台寺に移築させた傘亭かさてい (桃山時代の遺構で、
竹垂木を傘を広げたように配した天井をもつ茶屋) と 時雨亭があります。
別々の建物だったものを移築した時に土間廊下で繋いだそうです。
向かって左側の傘亭は当時どこにでもあった日本の田舎屋。右の時雨亭は東南アジアの田舎風の建物で茶室として
建てられ、珍しい二階建ての茶室で、共に重要文化財に指定されており、一般公開はされていません。
時雨亭は三方の窓が大きく開かれ天井は天然木の組み合わせで、利休好みの茶屋と言われています。
【高台寺】こうだいじ
京都市東山区にある臨済宗の寺。初めは曹洞宗。
出家した豊臣秀吉の妻 高台院の志に基づき、1605 (慶長10) 徳川家康が中心になって秀吉の冥福を祈り創建。
伏見城の遺構を移したという霊屋たまやなどが残る。
【豊国廟】とよく-びょう、ほうこく-びょう 豊臣秀吉の墓 豊国廟 秀吉の歯と血液型など
京都市東山の阿弥陀ヶ峰にあった豊臣秀吉の霊廟。その建築は墳墓と神社と仏寺との三つを混合したもので、日光
廟以下の霊廟の起源となる。豊臣氏滅亡と共に破却。その同型のものが仙台大崎八幡神社にある。
日本の民家が二階建てになったのは、秀吉による京都町割り (区画整理) からで、間口が狭い京都の「鰻の寝床」と
呼ばれる町屋になりました。
これは人口を増やすためで、当時3万人程度だった京都の人口は10万人以上になったとも言われています。
また、この頃から町民の家にも瓦が使われ初め、秀吉が二階建て政策を出したため、仙台から博多までの各大名
たちは城下町を中心に京都を真似た二階建ての町づくりを進めていきました。
広島県福山市の鞆の浦とものうらには、桃山時代に近い17世紀前半に建てられた民家が現存しており、一階建用の柱を
繋ぎ合わせて建てた柱がある事などから、二階建て用の柱が不足していたと推測されているようです。
≪ 秀吉の黄金の茶室 ≫ Wiki 黄金の茶室 Wiki 北野大茶会 Wiki 名護屋城
豊臣秀吉が関白に就任した翌年の1586(天正14)年1月、京都御所に組立式の黄金の座敷を運び、自ら茶を点じて
正親町天皇に献じたと言われている「黄金の茶室」。
1587年11月1日京都の北野天満宮境内においてに開催された北野大茶会きたのだいさのえなどでも披露され、1592(文禄1)
年の朝鮮出兵の文禄の役の拠点となった名護屋城(当時、大坂城に次ぎ2番目の広さの城郭を誇った)にも、大坂城
から運び込まれた記録があるそうです。
茶会では三条大橋から水を汲みました。北野天満宮には北野大茶会の資料が残っています。 (通常は非公開)
茶会の様子を描いた浮田一蕙 作の「豊太閤北野大茶湯図」と、「北野大茶湯の高札」。
日本最古の橋である宇治橋 三の間から水を汲み茶会を開催
『北野大茶湯の高札』
「北野の森において、十月一日より十日の間 天気次第、大茶湯御沙汰さるるに付けて、御名物共残らず
相揃えられ数寄執心の者に見せられるべき御ため、御催成され候事。
茶湯執心においては、また若党、町人、百姓以下によらず、釜一、つるべ一、呑物一、茶なき物は
こがしにても苦しからず候問、提来たり仕るべく候事…」
|
【北野大茶の湯】きたの‐おおちゃのゆ
天正15年(1587)10月1日、北野天満宮とその社頭の松原で、豊臣秀吉が千利休・津田宗及・今井宗久とともに亭主を
つとめた大茶会。1000名余が参会したといわれる。
身分を問わず、茶の湯を愛する庶民も参加できる無礼講の大茶会だったようです。
|
←の画像は、大阪城にある 秀吉が作った組み立て
式茶室を原寸大で復元したもの。
移動式の黄金茶室は、『侘び寂の』茶の湯とは相反する
ように思われますが、これは夜間に使用すると、わずかな
ロウソクの灯りが金箔に反射し幻想的な雰囲気を醸し出す
ために使われたものと推測されるそうです。
【正親町天皇】おおぎまち‐てんのう(1517~1593)
後奈良天皇の第2皇子。名は方仁みちひと。戦国時代の天皇。
1557年(弘治3)践祚。60年(永禄3)即位。在位中、信長・
秀吉の国内統一が進展。(在位1557~1586)
|
黄金の茶室が再現されたものは、大阪城以外にもいくつかあります。
MOA美術館 MOA MUSEUM OF ART 静岡県熱海市 http://www.moaart.or.jp/facilities/main-building/
【名護屋】なごや
佐賀県北部、東松浦半島北端の海岸沿いの村(現、唐津市)。中世、松浦まつら党の一族、名護屋氏の本拠地。
豊臣秀吉は朝鮮出兵の際この地に本営をおき、名護屋城を築いた。那古邪。
≪ 醍醐寺にある秀吉ゆかりの茶碗 ≫
醍醐寺の当時の座主ざす (大きな寺の住職の公称) が祈祷の
礼として秀吉が授けたもの。黄金天目茶碗。
【醍醐寺】だいご‐じ
京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。
874年(貞観16)聖宝が今日の「上かみ醍醐」を創立。
続いて山麓の「下しも醍醐」に、952年(天暦6)造立の
五重塔などの伽藍が整備。
室町時代まで東密小野流・三論教学の拠点として繁栄。
上醍醐の観音堂は西国三十三所第11番の札所。
|
史上最大の醍醐の花見
|
≪ 北野天満宮 御茶壺奉献祭 ≫ 毎日放送 美の京都遺産 『Vol.488 北野天満宮の秋』 15.12.13 放送
毎年11月26日、豊臣秀吉が開催した「北野大茶湯」にちなみ、御茶壺奉献奉告祭おちゃつぼ-ほうけんほうこくさいが行われます。
木幡こはた・宇治・菟道とどう・伏見桃山・小倉・八幡・京都・山城の8つの茶処から奠茶が北野天満宮に奉納されます。
【北野大茶の湯】きたの‐おおちゃ-の-ゆ
天正15年(1587)10月1日、北野天満宮とその社頭の松原で、豊臣秀吉が千利休・津田宗及・今井宗久とともに
亭主をつとめた大茶会。1000名余が参会したといわれる。
神職が先頭で、茶娘の女性、白装束の男性が茶壺を納めた唐櫃を肩に担ぎ、一の鳥居前より御茶壷行列が出発。
本殿に運ばれた茶壺は唐櫃からびつから出され、神に捧げられます。
神事を行った後、御茶壺奉献祭の口切式くちきり-しきが行われ、それぞれの茶葉が各茶師により順番に壺から箱へ
出されます。
12月1日の献茶祭は、4家元2宗匠そうしょう(薮内家・表千家・裏千家・武者小路千家・堀内家・久田家)が輪番となり、
御茶壺奉献祭で奉納された茶葉を使い抹茶を点てます。
茶の献上~茶を点てるまでの一連の御茶壺奉献祭を行うのは、全国的にも珍しいそうです。
【奠茶】てん‐ちゃ
禅寺で、仏前・霊前に茶を供えること。1368~1379頃成立の太平記[33]「―は建仁寺の無徳和尚」
京福電気鉄道 ㈱嵐電 『沿線イベント情報 「御茶壺奉献祭・口切式と献茶祭」』
http://randen.keifuku.co.jp/event/2013/11/post-97.html
≪ 有馬大茶会 ≫ テレビ大阪 ニュースリアル 『天気予報のコーナー 「有馬大茶会」』 15.11.02 放送
兵庫県神戸市北区では、秀吉と利休が有馬で茶会を開いたことにちなみ、1950 (昭和25) 年から11月2日に茶会を行って
います。主催は一般社団法人有馬温泉観光協会。
【有馬温泉】ありま‐おんせん
兵庫県南東部の旧郡名、また神戸市北区、六甲山地の北西麓にある温泉地。
有馬の湯。古代から名湯として知られた。泉質は含鉄泉。
NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『戦国 美の革命 ~異色のの武将・古田織部の生涯』 14.02.05 放送
読売テレビ ten. 『中世の街並みが今も残る 奈良・今井町を歴史散策』 17.09.06 放送
関西テレビ NMBとまなぶくん 『ルー大柴 (遠州流茶道師範) プレゼンツ ティー道でトゥギャザーしようぜ!」 17.09.15 放送
≪ 有名な茶人 ≫
【津田宗達】つだ‐そうたつ(堺の人、1504~1566)
戦国時代の豪商・茶人。屋号、天王寺屋。茶の湯の名器を秘蔵。
【津田宗及】つだ‐そうきゅう(堺の納屋衆の一人。~1591) 宗達の子。
安土桃山時代の豪商・茶人。更幽斎天信と号。茶を紹鴎じょうおう・宗達に学び、
千利休・今井宗久と共に三大宗匠の一人。
【江月宗玩】こうげつ‐そうがん(1574~1643) 茶人津田宗及の子。
江戸初期の臨済宗の僧。大徳寺住持。別号は欠伸子。紫衣しえ事件に際し、
沢庵・玉室宗珀とともに江戸に下ったが処罰を免れた。
小堀遠州らと親交を結び、大徳寺竜光院内に茶室孤篷庵を開く。
【今井宗久】いまい‐そうきゅう(1520~1593)
室町末期の茶人。堺の納屋衆の一人。茶を武野紹鴎に学び、大蔵卿と称した。
のち信長・秀吉に仕え、利休・津田宗及と共に三大宗匠と称された。
堺と並ぶ もう一つの自由都市「奈良・今井町」
【古田織部】ふるた‐おりべ(美濃の人、1543~1615)
安土桃山時代の茶人。茶道織部流の祖。名は重然しげなり。千利休の高弟。
初め豊臣秀吉に仕えて同朋どうぼう。
秀吉の死後隠居し、茶道三昧の生活に入った。茶匠としての名声あがり、
関ヶ原の戦には徳川方に功ありとして大名に復した。
徳川家の茶道師範と称されたが、大坂夏の陣で陰謀を疑われ自刃。
【小堀遠州】こぼり‐えんしゅう(近江国の人、1579~1647)
江戸前期の茶人・造園家。名は政一。宗甫・孤篷庵と号。
豊臣氏および徳川氏に仕え、作事奉行・伏見奉行を勤仕。
遠江守であったので遠州と称。茶道を古田織部に学び、遠州流を創め、
徳川家光の茶道師範。和歌・生花・建築・造園・茶具の選択と鑑定に秀でた。
|
今井宗久
古田織部
小堀遠州
|
【神屋宗湛】かみや‐そうたん (博多の人、1551~1635一説に1553~1635)
(「神谷」とも書く)近世初期の豪商・茶人。朝鮮・中国・南蛮と通商して巨利を得る。茶道を好み、豊臣秀吉・徳川家康に
寵せられ、千利休とも交わる。博多織などの産業の振興にも尽力。茶会記「宗湛日記」を残す。
≪ 茶道の流派 「千家」 ≫
【千利休】せん‐の‐りきゅう(1522~1591)
安土桃山時代の茶人。日本の茶道の大成者。宗易と号した。堺の人。武野紹鴎に学び侘茶を完成。
織田信長・豊臣秀吉に仕えて寵遇されたが、秀吉の怒りに触れ自刃。
【千道安】せん‐どうあん (1546~1607) 利休の長男。
安土桃山時代の茶人。同年の義弟 少庵の柔に対して剛の茶といわれた。道安囲どうあんがこい・道安風炉などに、
その好みが伝えられている。
【千少庵】せん‐しょうあん (1546~1614)
安土桃山時代の茶人。千家流茶道をついで少庵宗淳と号した。利休の女婿。母は利休の後妻 宗恩。子は宗旦。
利休の遺跡不審庵を再興。
【千宗旦】せん‐そうたん(1578~1658)
江戸前期の茶人。利休の孫で、元伯・不審庵、のちに今日庵・咄々斎などと号した。
千家流の茶道を庶民にひろめ、またその子らを分家させて、「三千家」 表千家・裏千家・武者小路千家の基を築いた。
【千家流】せんけ‐りゅう
茶道流派の一つ。千利休を祖とし、孫宗旦の後、3家に分かれた。宗旦の三男 宗左の後を表千家、四男 宗室の後を
裏千家といい、次男の一翁宗守は別に一家をなして武者小路千家流(または官休庵流)といった。
【千宗左】せん‐そうさ (1613~1672) 茶道 表千家の祖。 宗旦の第3子。
江岑こうしん・堪笑軒・蓬源斎・不審庵と号した。利休の造った茶室不審庵に住し、紀伊侯に仕えた。
以後、表千家は代々宗左を名乗る。
【千宗室】せん‐そうしつ(1622~1697) 茶道 裏千家の祖。宗旦の第4子。
臘月庵玄室・仙叟と号した。今日庵に住し、加賀侯に仕えた。以後、裏千家は代々宗室を名乗ることが多い。
【一翁宗守】いちおう-そうしゅ(1605~1676)茶道 武者小路千家の祖。宗旦の第2子。
官休庵は高松藩茶頭さどうを辞した1667年 (寛文7) に造立したと伝えられ、席名は「仕官を休む」という意を含んでいる。
京都の武者小路むしゃのこうじに分家したので、町名をとって呼ばれる。代々宗守を名乗る。
【千家十職】せんけ-じっしょく
千家の指定により茶具を造った10家。
楽焼茶碗師 楽吉左衛門 ・ 塗師 中村宗哲 ・ 竹細工茶杓師 黒田正玄 ・ 表具師 奥村吉兵衛 ・ 金物師 中川浄益 ・
指物師 駒沢利斎 ・ 袋師 土田友湖 ・ 一閑張師 飛来一閑 ・ 釜師 大西清右衛門 ・ 風炉師 永楽善五郎の総称。
武者小路千家 官休庵 『武者小路千家 官休庵について 「三千家 系譜」 http://www.mushakouji-senke.or.jp/history/
関西テレビ NMBとまなぶくん 『ルー大柴 (遠州流茶道師範) プレゼンツ ティー道でトゥギャザーしようぜ!」 17.09.15 放送
≪ 茶器一つが、国一つより価値があった ≫
戦国時代は、茶碗や茶器は国一つより価値があったとされ、戦の恩賞としても
与えられました。
日本の歴史上、初めて死因に爆死と書かれた人物の松永久秀。
織田信長に対し二度の裏切り行為がありました。
しかし、信長は「平蜘蛛茶釜」を渡せば命だけは助けるとしますが、久秀は
茶釜を手放す事が嫌で、その釜に爆薬を仕掛け自ら爆死しました。
【松永久秀】まつなが‐ひさひで (1510~1577)
室町末期の武将。三好長慶の家臣。弾正少弼。東大寺の大仏殿を焼き討ち。
大和の信貴山に城を築き、主家を滅ぼし、足利義輝を自殺させた。
織田信長入京の際降伏したが、のち叛いて敗死。
「九十九髪茄子 茶入つくもかみ-なす-ちゃいれ」(静嘉堂文庫美術館所蔵)は、
中国 (南宋~元の時代) に作られた油壺。これを抹茶入れの器として利用。
足利義満 → 松永久秀 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 德川家康という順に
受け継がれた茶器だそうです。
|
古天明平蜘蛛 こてんみょう-ひらぐも
|
【茶坊主】ちゃ‐ぼうず
① 室町~江戸時代、武家に仕えて茶の湯の事をつかさどった剃髪の者。茶職。茶道坊主。数寄屋坊主。茶屋坊主。
② (茶坊主が政治に口を挟んだことから)権力者におもねる者をののしっていう語。
【茶音頭】ちゃおんど
地歌・箏曲。京風手事物。菊岡検校作曲。八重崎検校箏手付。
横井也有作詞の地歌「女手前」の文句をもとに、茶の湯の用語を綴って末永い仲を願う。茶の湯音頭。
【薄茶】うす-ちゃ、お薄。 … 茶道で濃茶より抹茶を少なくして、薄くたてるもの。 百菓辞典
【主菓子】おも-がし 百菓辞典
茶事 (茶道) での用語で和菓子の上生 (練り切り、求肥、雪平などの高価で上等なもの) のこと。
上生じょうなま ⇔ 並生なみなま (団子や餅菓子など) 江戸時代に発達した菓子・甘味1 和菓子
【煎榧】いりがや 百菓辞典
かや (榧=イチイ科の常緑高木) の実の殻をとり、煎って渋皮をとったもの。
茶会の菓子として、よく用いられた。
≪ 茶壺道中 と 「ずいずいずっころばし」≫
国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所 『お茶壺道中って、なんのことですか?』
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index4/answer10.htm より
『江戸時代、幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運ぶ行事を茶壺道中、あるいは宇治茶壺道中と
いいました。
幕府が宇治茶の上納を命じる宇治採茶師をはじめて派遣したのは慶長18年(1613)とされ、茶壺道中が制度化
されるのは寛永10年(1633)のことです。
毎年4月下旬か5月上旬になると、宇治から茶葉の生育状況の報告を受け、茶壺付添人ら(8人から14人)が
茶壺ともに江戸を出発します。
茶詰めは採茶師が宇治に到着してから9日目より茶道頭立ち会いのもとで始まり、茶詰めを終えると茶壺は封印され、
羽二重で包み、さらにその上を綿入れの帛紗で包み、長棒駕籠の中に箱ができていて、それをその中に納めるという
もので、その取り扱いには細心の注意が払われました。
茶壺道中は五摂家や宮門跡に準じる権威の高いもので、茶壺が通行する際には、大名らも駕籠を降りなければ
ならず、街道沿いの村々には街道の掃除が命じられ、街道沿いの田畑の耕作が禁じられたほどです。
「ズイズイ ズッコロバシ ごまみそズイ 茶壺におわれて ドッピンシャン ぬけたら ドンドコショ」――このわらべうたは、
田植えで忙しい百姓たちが、この茶壺道中を風刺した歌ともいわれています。 』
【御茶壺道中】おちゃつぼ‐どうちゅう Wiki 宇治採茶使
江戸幕府の御数寄屋坊主が、新茶を詰めるため将軍家御用の茶壺を運んで江戸と山城宇治の間を往復した行列。
御用をかさに道中で横暴な振舞いが多かった。
【数寄屋坊主】すきや‐ぼうず
江戸幕府の茶礼・茶器をつかさどった小吏。数寄屋頭の所管。
数寄屋頭すきや-がしら (江戸幕府の職名。若年寄に属し、殿中の茶礼・茶器をつかさどり、数寄屋坊主を統轄した。)
【数寄屋・数奇屋】すき‐や
① 茶室。茶席・勝手・水屋などが一棟に備わった建物。囲かこい。 ② 茶室風の建物。 ③ 障子に張る美濃紙の称。
Wiki ずいずいずっころばし より
ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壺に追われて とっぴんしゃん 抜けたら、どんどこしょ 俵のねずみが 米食ってちゅう、
ちゅうちゅうちゅう おっとさんがよんでも、おっかさんがよんでも、 行きっこなしよ 井戸のまわりで、 お茶碗欠いたのだぁれ
胡麻味噌を摩っていると、お茶壺道中が来ると言うので、家の中に入り戸をピシャリと閉めて(=トッピンシャン)やり過ごす。
お茶壺道中とは新茶を将軍に献上する行列のことで、切捨御免の時代柄、庶民は粗相の無いように細心の注意を払って
おり、子どもたちは両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。
そしてお茶壺道中が通り過ぎるとやっと一息つけたのである(=ぬけたらドンドコショ)。
ところで家の中で息を潜めていると、米を齧っているネズミの鳴き声や、井戸の近くで茶碗が割れたような音まで聞こえて
くる。
一方、国語学者などの中には、この歌に性的な意味が含まれていると解釈する場合もある。
「茶壺」は女性の意味であり、男が女に追われて家に逃げ込み、戸をぴしゃんと閉める(「とっぴんしゃん」)、というふうに
である。「ずいずいずっころばし」、「ごまみそずい」、「俵のねずみが米食ってちゅう」も同様に性的なものだとする説もある。
≪ 江戸時代前期の庶民のお茶 ≫
【料理物語】
料理書。著者未詳。1冊。1643年(寛永20)刊。
魚・鳥・野菜などの料理の材料76種の名称と、それに適する料理を列記し、料理法を略述。
有職故実の記述ではなく、庶民の日常食を記す。
1915 (大正4) 年刊の『雑芸叢書』は、江戸時代の19の専門書が1つの本として集められて出版されています。
この中に収蔵されている『料理物語』は1665 (寛文4) 年の高橋清兵衛版で、元版より記述が追加された版より。
日本最古の料理の専門書『料理物語』の「第十九 茶の部」には
「〔ならちや〕まつちやを少いりて、ふくろに入て、あづきと ちやばかり せんじ候、さてまめと米入候を半分づつ
いりて よく候、まめを引わり かはをすてよし、又さゝぎ、くわい、やきぐりなども入よし、さんせうのこ塩かげん有、
何もかげん大事也
〔くこちや〕くこの わかきをつみ、むして ほいろにかけ候、ゆでてもよし、引申時は つね茶を三分一くはへてよし 〔うこぎちや〕是も くこの ごとく仕候 〔くは茶〕も同、くこのごとく仕てよし、」
【奈良茶船】ならちゃ-ぶね
奈良茶飯を売る店。もと伏見と大坂との間の三十石船の客などを相手に商売した。
|
≪ 普茶料理 ≫ 普茶料理の萬福寺と卓袱料理
Wiki 普茶料理
『江戸時代初期の1654年、中国(現在の福建省)の禅僧 隠元隆琦が来日。
1661年には山城国宇治(京都府宇治市)に萬福寺を開き、禅宗の一つである黄檗宗の開祖となった。
隠元は、中国式の禅文化を日本に伝えるとともに、インゲンマメ、孟宗竹、スイカ、レンコンなど、さまざまな品を
日本へもたらした。その時一緒に伝わった当時の「素菜」(スーツァイ、いわゆる中国式の精進料理)が普茶料理である。
「普茶」とは「普(あまね)く衆人に茶を施す」という意味であり、法要や仏事の終了後に僧侶や檀家が一堂に会し、
煎茶などを飲みながら重要事項を協議する茶礼に出された食事が原型となっている。
日本の精進料理とは異なり、葛と植物油を多く使った濃厚な味、一つの卓を4人で囲む形式が特徴である。
代表的な普茶料理に胡麻豆腐、精進うなぎがある。』
【普茶】ふ-ちゃ … (フサとも) ひろく一般大衆に茶を饗すること。
【普茶料理】ふちゃ‐りょうり (普茶が終わって料理を出したからいう)
中国式の精進しょうじん料理。油と葛粉を多く用いるのを特徴とする。
大皿に盛って出し、各人取り分けて食べる。宇治の黄檗おうばく山万福寺の開祖が
中国から伝えたので黄檗料理ともいう。
教えは臨済宗と同じですが、中国様式なので明治時代に黄檗宗として区別されました。
|
|
読売テレビ ten. 『日本の原風景が残る「日本民家集落博物館」を調査』 17.07.26 放送
≪ 江戸時代の大坂・北河内の茶室 ≫
大阪府北部の豊中市にある服部緑地内に1956年に開業した日本初の野外博物館が
あります。3万6000㎡の敷地に岩手~鹿児島県奄美大島までの特徴ある民家など
12棟が移築され、各地周辺にある植物なども植えられて原風景が再現され一般公開
されています。入館料は大人500円。
大坂の建物では、北河内の茶室、河内布施の長屋門、堂島の米蔵、国の重要文化
財指定の摂津能勢の民家(この野外博物館の展示で最も古い) があります。
現地には無くなった民家もあり、国や大阪府の重要有形民俗文化財に指定されています
が、民家の内部にも入る事ができます。
|
|
大和ハウス工業 『歴史と実績』 http://www.daiwahouse.co.jp/jutaku/background/history.html
朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『はじまりは大阪にあり! 世界を驚かせた発明秘話』 16.11.03 放送
≪ 昭和30年代後半~40年代頃のプレハブ茶室 ≫ 16.11.06
昭和30年6月、大阪市に大和ハウスが創業。8月からパイプハウスを販売。
昭和34年に世界初のプレハブ住宅を生み出した大和ハウス。
3時間で建つ「勉強部屋」として人気を呼び、日本各地の百貨店でも展示販売されました。
子供部屋や店舗だけでなく、茶室としての需要も多かったそうです。
1959年 世界初のプレハブ住宅の誕生 大和ハウス
|
|
|
|
|
|
|
【金沢の朝茶事】 |
|
【茶式】ちゃ‐しき
茶道の方式。室町時代、村田珠光を祖とし、武野紹鴎を経て、千利休に至って大成。
【茶事七式】ちゃじ‐しちしき 代表的な茶会の7種をいう。
暁の茶事 ・ 朝の茶事 ・ 正午の茶事 ・ 夜咄よばなしの茶事 ・ 不時の茶事 ・ 飯後はんごの茶事 ・ 跡見あとみの茶事。
【村田珠光】むらた‐しゅこう (名はジュコウとも。1423~1502)
室町時代の茶湯者。奈良称名寺の僧となり、のち京都に住む。大徳寺の一休に教えを乞い、禅味を加えた点茶法を
始めた。侘茶わびちゃの祖といわれる。
【武野紹鴎】たけの‐じょうおう (泉州堺の納屋衆の一人、1502~1555)
室町後期の茶人。もと武田氏、のち武野たけの氏。一閑居士・大黒庵と号。珠光の門人宗陳・宗悟に茶道を学び、
侘茶の骨格を作り、千利休に伝えた。
NHK Eテレ 美の壺 『納涼!日本の夏スペシャル 第三回「食」』 11.08.04 放送 金沢の由来 金沢おでんなど中部地方の食文化
テレビ東京 空から日本を見てみよう+ 『金沢』 13.11.16 放送
日本テレビ 月曜から夜ふかし 『北陸新幹線が開業する件 小京都問題』 15.02.16 放送
江戸時代は、江戸、大坂、京都、の次、名古屋と並ぶ都市でした。
京都のような趣をもった都市を「小京都」と言いますが、最も有名なのが石川県の金沢市。
昭和60年に全国京都会議、1京都と似た自然と景観。2.京都との歴史的な繋がりがある事。
3.伝統的な産業と芸能がある事の条件のうち、1つ以上合致すれば加盟でき、『小京都』を
名乗れます。2015年現在、東北から九州まで49ヵ所あります。
2009年、金沢が京都会議を脱退。北陸新幹線 (2015年3月開通) 1本で東京と繋がります。
|
|
室町時代に各戦国大名が京都を真似て街づくりをしたので、京都会議に参加していない『小京都』と呼ばれる町は
もっと多くあります。
≪ 金沢の朝茶事 ≫
夏の日差しが強くなる前の朝に開く茶会が「朝茶事」。料理を食べ、酒を飲み、最後に茶を頂く。
茶会には「おもてなし」の心が詰まっています。
朝茶事の準備は、前日の日中から始まります。まず茶会で使う道具や掛け軸の選択から。涼しげな素材や柄の器を選びます。
夕方になると、庭に丁寧に打ち水をしていきます。これが最も大事な作業で大雨が降った時と同じくらい水浸しにします。
大量の水がゆっくりと蒸発する事で庭の温度が低く保たれます。茶室に掛けるスダレも前日から水に浸して水分を含ませます。
そして、夜にもう一度水をたっぷり撒きます。
当日の午前6時の客が訪れる前に、庭の植物に水を撒き瑞々しさ、清々しさを演出します。
挨拶が済むと、さりげなく涼しさや夏の演出を凝らした懐石料理とお酒が出されます。
「涼しさの中にも、心温まるものがないといけない」← もてなす御主人は、この心遣いが最も重要と言います。
※ 現在だと、短時間で出来そうな作業だと思いますが、水道の無い時代、食材の準備も含め、これだけの演出には大変
手間暇がかかった「心尽くしのおもてなし」だったと推測できます。
【金沢市】
石川県中部、金沢平野中央の市。県庁所在地。もと加賀(前田氏)百万石の城下町。
兼六園・金沢城址などがある。九谷焼・蒔絵・加賀友禅などの伝統工業が盛ん。人口45万5千。
大野町は江戸時代に北前船の拠点の一つとなり、近辺には醤油の蔵元が建ち並び繁栄した。
加賀藩は外様藩では元も多い石高があったため、幕府に目を付けられないように、軍事を強化せず代わりに文化を奨励。
金箔は日本中の99%をの製造。金沢で繁栄した町の一つ 尾張町は、前田利家が尾張から呼び寄せた商人が軒を連ねた
事の名残。
金沢港は1970年に整備・開港され、中国・韓国との重要貿易拠点となっています。
金沢は菓子類の年間支出額、一世帯当たり 1位。
≪ 金沢 三茶屋街 ≫
ひがし茶屋街、にし茶屋街、主計町かずえ-まち茶屋街の3つの茶屋街があり、大規模な戦災被害が無かった為、
江戸時代のままの姿を現在に残しています。ひがし茶屋街は、江戸後期の1820年に藩公認の茶屋街として整備
された地区。現在、京都の祇園新橋と並び「茶屋街」として、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
【茶屋】ちゃ‐や … 客に飲食・遊興させることを業とする家。芝居茶屋・相撲茶屋・料理茶屋・引手茶屋(遊郭)など。
消えゆく花街 最盛期は昭和初期 復活への取り組み 京都、奈良、秋田、高知、金沢など 江戸時代後期の大坂にあったバードカフェ 孔雀茶屋 江戸は「花鳥茶屋」
|
|
|
|
|
【煎茶の製法を開発した永谷宗七郎と、お茶漬けの素を発明した永谷園】 |
|
読売テレビ かんさい情報ネットten. 『特集 愛され続けるワケは… 食卓の友"お茶漬けのもと"』 15.06.17 放送
テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『夏の京都 水辺散策 納涼めぐり旅』 15.07.25 放送
≪ 煎茶の生みの親 永谷宗七郎 ≫ Wiki 永谷宗円 より抜粋
江戸時代中期に京都の宇治で製茶業を始めた永谷宗七郎ながたに-そうしちろう (のちに宗円、1681~1778) が、煎茶の
製法を開発。
それまで庶民が日常口にしていたお茶は、古葉と新芽を区別せずに摘採し、炒る、煮る、蒸すなどの殺青操作を加えた後、
ムシロや揉み板に広げて手足で揉み(あるいは揉まずに)、天日で乾燥させるという方法でつくられていた「煎じ茶」だった
そうです。
1738 (元文3) 年、宗円は露天栽培のやわらかい新芽だけを用い、蒸してから焙炉上に設けた助炭の上で始終手で揉み
ながら乾燥させるという新しい煎茶を編み出しました。発祥の地から「宇治製煎茶」 と呼ばれるようになったそうです。
|
【煎茶】せん-ちゃ
① 葉茶を湯で煎じて出すこと。また、その飲料、茶葉。
② 玉露と番茶の間の中級の緑茶。
【煎茶式】せんちゃーしき
煎茶の点前てまえ・作法を伴う芸道。江戸中期に抹茶の方式を批判して、
高雅な茶味と文人 (詩文・書画など) 精神を求めて作られた。
|
江戸に販路を広めようとしますが、これまでの茶色い煎じ茶とあまりにも違いすぎたため、誰も買い入れようとしません
でした。
日本橋の茶商 山本屋だけが購入し、「天下一」と名付け販売すると大いに江戸町民の賞賛を得、爆発的な人気を呼んだ
そうです。
「宇治製煎茶」の製法は、宇治から京都や滋賀に広まり、寛政(1789~1801)年間以降には近畿各地の茶処に広まりました。
天保(1830~44)年間には伊賀や駿河など全国各地に広まって、明治時代の初めには日本全国で煎茶が飲まれるように
なりました。
【五色茶漬】ごしき-ちゃづけ … 江戸時代に、5種の菜および香の物を添えて供した茶漬け飯。
幕末~明治初期の『皇都午睡』三編 上之巻
「茶粥と餅茶は食する者少なく粥といへば白粥しらかゆなり 正月の雑煮も上方の莖立くぎたてにて菜を入れたる
すましなり 餅に小餅なく大方 切餅にて 味噌雑煮を大坂雑煮と云ふ 小豆粥は砂糖を皿に入て出し岡入おかいれに
して喰ふ也 お錺餅をお備へ、油揚を胡麻揚、飛龍臼ひりょうすを鴈もどき、味噌汁をおみおつけ、醤油を下地したぢ、
すましをお志たじ…」
江戸では茶粥や餅茶を食べる人が少なく、白粥ばかり食べていた事が分かります。
また江戸での食用油は菜種油ではなく、胡麻油が一般的だった事も分かります。
「莖=茎」「錺=飾」「鴈=雁がん」「志=し」 「岡入=傍おか入で、「別添え」という意味だと思います」
【下地】したじ
広辞苑の⑤ (味つけのもとの意で) 醤油。また出し汁など。「割―」
江戸時代の幕末『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類「飯」と「粥」より
「…茶かゆは專ら冷飯に煎茶を多くし塩を加へ再炊するもの也…」
茶がゆは煎茶を多く入れて塩を加えて炊き直したもので、さつま芋などを加えた物もある。京坂では昼に飯を炊くので
冬の日の朝夜は冷や飯を茶漬けで食べるのには冷たいので、茶がゆにして食べていた。
余りの御飯が無い時の朝は白粥を炊いた。
白粥は茶かゆに対する言い方で、水を多くして炊いた物で塩は加えない。
江戸では朝に飯を炊くので、粥を食べる習慣がなく、味噌汁で炊き直したおじや (京坂では雑炊) を食べる。
白粥は病気の時だけ食べる。
奈良名物の茶粥 現在では和歌山の方が多く朝粥を食べる文化が残っているようです。 江戸には茶店が多く接客も丁寧だった
『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類には茶の歴史と茶の湯に関する事が2ページに渡って書かれてあります。
下記のリンクで、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の本の内容がご覧になれます。
類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
|
【香煎】こうせん
① はったい。いりむぎ。麦こがし。の事。麦や米などを炒って挽いた粉を、砂糖を加えて水や湯で練って食べる。
② 山椒や薬草の粉などを調合し、湯をそそいで飲む。香煎湯。
≪ お茶漬け海苔の誕生 ≫ Wiki 永谷園 Wiki 茶漬け (ぶぶ漬け)
昭和16年に永谷武蔵が、抹茶・乾し海苔・塩に湯を注いで飲む『海苔茶』を開発。お吸い物のように飲まれたそうです。
戦後まもなく、料亭で食べるお茶漬けが大好物だった (永谷宗七郎から10代目にあたる) 永谷嘉男は、「家庭でも食べら
れたらいいのに」と思い父の永谷武蔵とお茶漬けの研究を始めました。
『海苔茶』を元にして、様々な材料と具材などの配合を試しました。当時、京都で流行っていた小粒あられをご飯にのせて
お茶漬けにする「ぶぶ茶漬け」「ぶぶ漬け」をヒントにあられを加えてみました。(ぶぶ漬けは京漬物と食べます。)
味の相性だけでなく、あらりの吸湿性で海苔が湿気にくい一石二鳥の効果がありました。
1952 (昭和27) 年、東京で『江戸風味 お茶づけ海苔』を1袋10円で発売。当時の大卒の初任給7650円なので、現在に換算
すると1袋 240円ほどと、割高感があった為、すぐに広まる事はありませんでした。
永谷園によると、発売当時から味もパッケージもあまり変化していないそうです。
1953年4月に東京都港区で永谷嘉男が永谷園を創業。
1970 (昭和45) 年に発売した『さけ茶づけ』が爆発的に大ヒットし、瞬く間に日本中に広まりました。
【ぶぶ漬】
京阪で茶または湯の事を『ぶぶ』または『おぶう』と言い、ふぶ漬は茶漬の事を言った。
【ぶぶ霰】ふぶ-あられ … 茶漬けや香煎に使う細かく切った霰餅 (=餅を乾燥したもの)。
京都の抹茶のお茶漬け(ぶぶ漬け)は、抹茶と塩を軽く振り、お湯を注ぎます。→
幕末の京坂では、煎茶の茶粥や茶漬けを庶民が毎日のように食べていたようです。
|
抹茶のお茶漬け
|
≪ ぶぶ漬けでも、どないどすか? ≫ 大坂や江戸でも似たような上辺だけの事を言っていた。
京都の「ぶぶ漬けでも、どうですか?=そろそろ帰ってください」と意味で、上辺と本音が違う事を言う事は京都に限らない
という事が『皇都午睡』に書かれてあります。ただ、口先で上手く云うのは、元々である京都が上手いとも書かれてあります。
幕末に大坂人の西沢一鳳が書いた『皇都午睡』三編 京・大坂・江戸の3都の言葉の違いが多く書かれてある考証随筆
「江戸ハ侠氣の強き土地にて…大坂にも昔ハ有たが 浪花男と稱して 頭血の多き者が有たと見えて
薄情な者を京者じや京詞をいう者じやと云たるが 段々世が開て去いにかけて門口へ出るを送出て
●時分じや お茶漬上つて お出なされとハ 大坂でも江戸でも一統に云様に成たれバ あながち京詞とハ
云べからず 然れども 夫一事に抱かかハらず
薄情に口先はかりで上手を云ハ どふでも本家根元だけにて 京の人が上手也」
「稱となえ=唱え (称して)」「●は不明な字、「何」のような気がします」
江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?
|
ぶぶあられが海外で大人気!! 米国では日本の2倍以上の注文がある、色んな料理に利用されている
≪ 湯漬け ≫ 戦国時代には、武士たちがよく『湯漬け』を食べていた事が知られています。
『日本料理の歴史』の著者 熊倉功夫さんによると、
本膳料理に汁が付かない料理は『湯漬け』で、書物には『芳飯』と書かれています。『かざりめし』とも言い、ご飯の上に
具を並べて湯をかける。
【芳飯・苞飯】ほう-はん
器に盛った飯の上に種々の煮物をのせ飯を見えなくして汁をかけたもの。「法飯」とも書く。〈日葡辞書〉。
|
|
|
|
|
【フランス人がつくるフレーバー茶】 |
|
読売テレビ かんさい情報ネットten. 『特集 日本茶の新たな展開』 15.06.03 放送
|
2005年~2014年の10年間でお茶の輸出量は3倍以上に増えて
いますが、約2500トンの増加に過ぎず、国内消費量の約3万トンの
減少を補う事ができていません。
業界では茶の消費拡大の為、色々な取組みをしていますが、
茶に魅せられ、新しい茶を提案する外国人もいます。
|
東京の日本橋「コレド室町」に2014年10月にオープンしたお茶の販売店「おちゃらか」のオーナーはフランス人。
ワインのソムリエだったダントン・ステファンさんは
「日本茶を守るために1つの核心・新しいものをやらないといけないわけですよ」言い新しい日本茶のフレーバーを作り
フランス(母国)・米国・ドバイ・タイに輸出しています。
茶葉に果物のなどの香が付いたフレーバー液をかけ、乾燥させた果物などの葉などを加えて混ぜるだけ。
夏みかん・桃・カシス・パッションフルーツ・チョコミント・バナナチョコなど香付けされたフレーバー茶が50種類あり 600円~。
|
|
|
|
|
【 寿司屋とお茶の関係 】 寿司の歴史 (江戸では寿司を食べた後、お茶で指を洗い、暖簾で拭くのが粋だった) |
|
新鮮!寿し本 河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部
江戸時代に繁盛した寿司屋台が忙しい為、何度もお茶を汲まなくてもいいように湯呑み
茶碗を大きくしたそうです。その名残で、寿司屋の湯呑みは大きい。
脂ののったネタを食べると、舌の上に脂が付き味蕾を覆ってしまうので、味がわかりにくく
なります。
お茶で脂分を溶かすように、熱い茶が出るそうです。
ネタを味わうには、こまめに茶を飲んだ方がよいらしいです。
また、茶に含まれるタンニンが口の中をさっぱりさせる。特に焙じ茶が良い。という説も。
寿司屋ではお茶の事を「あがり」と言いますが、
この言葉は、遊郭ゆうかくに由来するそうで、客が来ると、先ずお茶を出しました。
「御茶を挽く (おちゃをひく)」 に通じ、縁起が悪いので、お茶を「上がり花」と呼んで
いました。
→ 遊女たちが「客が来た」と思いお茶を用意するが、客は別の遊女を指名したので、
茶を引っ込める。
それで、客がつかない事を「お茶を引く」と言いました。
また、暇な時には、葉茶を臼にかけて粉にする仕事をした事から。という説もあります。
吉原遊郭 江戸新吉原遊郭には散茶太夫、埋茶女郎などの階級があった。
|
|
寿司屋の茶は、現在は「寿司専用の粉茶」として植えられていますが、元々は価値の低い粉茶の有効利用から。
お茶の製造過程で、茶葉の割れた粉茶というのが出来ます。( 紅茶でいうなら、ダスト。)
味は普通の煎茶と変わらないが、粉茶は『ビンポー人が飲む茶』というイメージがあり、価格が安くても、ほとんど
売れない商品でした。
静岡の製茶業者が、その状況をもったいなく思い、茶を多く消費する寿司屋業界に売り込んだのが始まり。
味は変わらないが、大量に作り置きが可能で、しかも半額以下。という事で寿司業界では、粉茶を使うのが定番になり、
「アガリ=粉茶」となりました。
|
|
|
|
|
【 緑茶飲料 と 伊藤園 】 |
|
朝日新聞 14.09.01 朝刊 『経済 「地域発 企業発」』 より抜粋し再編集
≪ 緑茶飲料の歴史 ≫
1984年 伊藤園が缶入り緑茶飲料を開発
1985年 伊藤園が「缶入り煎茶」を発売
1988年 日本コカ・コーラ、サントリーが参入
1989年 伊藤園が緑茶飲料の名前を「お~いお茶」に
1996年 伊藤園などが500ml入りペットボトル緑茶を発売
2000年 キリンビバレッジが「生茶」を発売
2004年 サントリーが「伊右衛門」を発売
市場規模が4000億円を突破
2007年 日本コカ・コーラが「綾鷹」を発売
2014年 伊藤園が「プレミアム緑茶」を10月下旬予定
375ml、540円。(業界最高クラスの価格)
|
≪ 伊藤園 ≫
1966年 本庄八郎 現会長と、兄の正則 (故人) 氏が
茶葉製造・販売の「フロンティア製茶」を静岡市で創業。
1969年 東京の老舗茶屋の商号を譲り受けて社名を
伊藤園とした。
1971年 東京に本社を移転。
緑茶商品を主力に「充実野菜」など野菜飲料を手掛ける。
2006年 「タリーズコーヒー」の運営会社を子会社として買収。
2014年現在 国内飲料メーカーのシェア4位、東証1部上場。
|
≪ 缶入り緑茶発売まで ≫
1975年 当時は「お茶」といえば家や会社で急須で入れるものだった。
伊藤園は「昼も夜も忙しく働く人が増え、お茶の消費が減っていく事を心配」し、缶入り茶の開発研究を始めた。
お茶を入れて時間が経つと主成分のカテキンが酸素に触れ茶色になる。ふかした芋のようなにおいも出てくる。
お茶の葉の種類や入れ方を1千種類も試したが、どうしても、とめられない。発想を変えた。
お茶と勘の間にわずかに残る酸素を、窒素ガスを吹き付けて追い出す。入れ立ての緑色と風味を、190mlの缶に封じ
込めることができた。研究を始めて10年近くもかかわった社員たちは目に涙を浮かべ、抱き合った。
発売当初の名前は「缶入り煎茶」。1989年に「お~いお茶」に切り替えた。フレーズを商品名に据えたところ、
1缶100円のお茶は大人気に。1989年度には前年度比2倍の40億円を売り上げた。
国内市場は4000億円。コーヒーや炭酸飲料の今後の指示用は微増にとどまる。
一方、緑茶飲料は2020年に1.3倍の5300億円になると、伊藤園はみている。自社のシェアは現在の4割弱から更に
伸ばすつもりだ。
コーラやコーヒーなど様々な強みを持つライバルに比べ、茶葉だけを売っていた伊藤園はお茶への依存度が高い。
14年4月期の緑茶飲料の売上高は1733億円。会社全体の4割にのぼる。
≪ 海外拡大へ 品質が課題 ≫
今年4月期の米国での緑茶飲料販売は、前期に比べて22.3%増の79億円。
6月末にニューヨークの食品展示会に参加し、米国の地元バイヤーにPRした。感触は年々よくなってきている。
茶葉の調達先は市場での買い付けが85%、残る15%は農協や農家からの直接買い付けで、ここを増やそうとしている。
2001年から大分や鹿児島などに社員を派遣。地元農家とともに耕作放棄地を耕し茶葉に変えている。
農家と直接契約を結ぶ面積は2013年末で東京ドーム188個分にあたる880ha。2000haまで広げることを目指している。
「耕作放棄地を減らして質のいい茶葉を調達することは、日本の農業のためにもなる」と、伊藤園の社三雄 専務 (59) は
語る。
My News Japan 2007.01.27 配信 http://www.mynewsjapan.com/reports/524
≪ 花王「ヘルシア緑茶」 トクホ審査も杜撰 ≫
『エコナに次ぐ花王の目玉商品であるヘルシア緑茶。今月(2007年1月)、その有効成分である
高濃度茶カテキンが原因と疑われる肝臓障害がカナダで報告された。
実はフランス、スペインでも12件の肝臓障害が報告されており、販売禁止措置もとられている。
だが日本でトクホに許可した厚労省は、審議の議事録さえ十分に取らない杜撰な審査しか
していないことも判明した。もし飲むのなら、肝臓検査の数値に注意したほうが良い。』
|
|
|
|
|
|
|
|
|