手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の「食」の歴史4 安土・桃山時代
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   19.07.11
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「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents





 江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃

 堺と並ぶ もう一つの自由都市「奈良・今井町」

 築地市場 (昭和10年開場) 築地本願寺

 秀吉の大好物BEST3

 安土桃山時代1 についての情報を追加。

 茶の湯の発達と千利休の懐石料理 
  紹鴎の「一汁三菜の教え」と、精進料理の融合で生まれたのが懐石料理


  安土桃山時代1 岐阜城で信長が振舞った料理、ポルトガルのカステラ、金平糖、堺船

  明智光秀が徳川家康を歓待した料理 「本能寺の変」に繋がったとされる料理の再現

  安土桃山時代2 千利休らによる茶道の確立、懐石など日本料理の確立。 和歌山で本格的に醤油が作られ始める

  戦国時代によく食べられた戦めし 蕎麦粉のクレープと強い飯 (こわいい) 戦国大名が好んだ高級魚。

  江戸名物の佃煮は大阪の佃村が発祥 日本橋の魚河岸が築地市場の始まり
   江戸や関東の魚の流通システムを確立したのは大坂商人。魚河岸の問屋は大坂の摂津系問屋が牛耳っていました。


  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 【 安土桃山時代 1 】  1573~1598年 織田信長 ・ 豊臣秀吉の時代
  NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉スペシャル 『信長の城革命~天下統一への知られざる戦略』 13.09.15 放送 
  テレビ東京 137億年の物語 『なぜ日本に鉄砲が伝えられたか?』 14.07.12 / 同 『鉄砲伝来の物語2~日本は銃大国だった!?』 14.07.19 放送
  NHK・大阪 歴史ドリームチーム 『仰天推理 本能寺の変』 14.01.29 放送 / NHK Eテレ 高校講座日本史 『織田信長』 14.09.05 放送

  【安土桃山時代】あづち‐ももやま‐じだい
   織田信長・豊臣秀吉が政権を握っていた時代(1573~1598年)。
   または信長入京の1568年(永禄11)から関ヶ原の戦で徳川家康が勝利した1600年(慶長5)まで。織豊しょくほう時代。


  ≪ 南蛮貿易 ≫ 堺船と砂糖

  室町末期から主にポルトガル・スペインの船(南蛮船)との間に(南蛮)貿易が始まる。
   実質的には日中間の中継貿易。銀などを輸出し、生糸・絹織物などを輸入した。この頃の貿易は主に堺商人が行って
   いました。日本には、パン・カステラ・金平糖・ボタン・グラス・カルタなどが入ってきました。

   江戸時代、徳川幕府の鎖国令まで続きます。(1635年(寛永12)の海外渡航禁止令と、1639年のポルトガル船来航禁止令)
   1636年(寛永13年)ポルトガル商人の為に、長崎市の海を埋め立て出島を作り、1641年に平戸にいたオランダ人を
   移転させる。

  南蛮貿易などを通じた食品の輸入が本格化すると、新大陸(南北アメリカ大陸)の食材がもたらされます。





  【織田信長】 おだ‐のぶなが (1534~1582)
   戦国・安土時代の武将。信秀 (尾張守護代 織田氏の奉行人) の次子。
   今川義元を桶狭間おけはざまに破り、美濃斎藤氏を滅ぼし、天下統一を標榜、1568年(永禄11)足利義昭を擁して
   上洛したが、73年(天正1)義昭を追って幕府を滅ぼす。安土城を築き、諸国平定の歩を進めたが、京都本能寺で
   明智光秀に襲われて自刃。

  【信長公記】しんちょう-こうき 織田信長の一代記。首巻とも16巻。太田牛一 著。
   1600年(慶長5)頃の成立。また「信長記」(15巻)は小瀬おぜ甫庵がこれに基づいて加筆論述し、1622年(元和8)に
   刊行したもの。

  織田信長が名古屋市の小牧城の次に造ったのが岐阜城。そして1576(天正4)年に滋賀県に安土城を築城。


  ≪織田信長が岐阜城で振舞った料理 ≫  小牧城、安土城、石垣つくりの穴太衆などは、歴史雑学 戦国時代のページ

  1567(永禄10)年、信長は次に築城した岐阜城に拠点を移し、麓には1万5000㎡の広大な屋敷が作られました。
  当時としては比類のない巨大庭園をもった迎賓館で湧水を引き込んだ人工の滝と池が4つあり、平城京以降に天皇や
  貴族たちの庭園にしか見られない(白い石池の底に敷きつめ水面を輝かせる)洲浜すはまと呼ばれる技法や、
  都では「贅ぜいの極きわ」といわれた四国から産する緑色片岩りょくしょくへんがんという庭石なども配置した
  最高の庭園だったと推測されています。

  まだ尾張と美濃しか支配下に納めていなかった信長は、岐阜城下の迎賓館に、公家、商人、戦国大名の家臣らを招き
  接待し人脈をつくる事が必要でした。






  自ら茶をたて、歌や踊り、最高の料理、天気の良い日には岐阜城の天守閣に案内し、当時でも滅多に見る事が出来
  なかった鵜飼漁の様子、大量のお土産も持たせる「徹底して相手を喜ばせる」事を行いました。

  接待された公家の一人の『言継卿記ときつぐきょうき』には、その接待に「言語不可説」(言葉に言い表せない)ほど感動
  した事が書かれているそうです。

  【山科言継】やましな‐ときつぐ(1507~1579)
   戦国時代の公家。内蔵頭くらのかみ・御厨子所みずしどころ別当として皇室経済の維持に努める。故実・音楽に通じていた。
   日記「言継卿記」。

  堺の茶人で豪商の一人 津田宗及の日記には、振舞われた料理が詳しく書かれており、それを基に番組では
  下の画像の料理を再現。

  【津田宗及】つだ‐そうきゅう(~1591)
   安土桃山時代の豪商・茶人。堺の納屋衆の一人。更幽斎天信と号。宗達の子。
   茶を紹鴎じょうおう・宗達に学び、千利休・今井宗久と共に三大宗匠の一人。






  「鯉の刺身、生貝の貝盛、白魚の吸い物、生白鳥汁」など19品。信長自身がしとめた雉を料理に使ったなどの
  説明もあったようです。
  海の無い岐阜で、生のアワビの刺身を食べられる事は貴重な事、福井県のタラが使われているなど、料理素材と内容で、
  信長の影響力を知らせる事にも繋がります。




  1579年(天正7)、滋賀県に安土城を築城。
  贅を極めた天守閣は応仁の乱以降、途絶えがちになっていた日本の様々な高度な伝統技術の復活と発展に重要な役割を
  果たしたそうです。


  ≪ 天正年間にスペインや、ポトルガルから伝わったもの ≫  カステラの歴史 幕末にはワサビ醤油や吸い物の具としても食べられた。

  ポルトガルはマカオをアジアでの拠点とし、火縄銃も重要な輸出品の一つでした。






  天正(1573-1592)の間にポルトガル人によって、
  長崎にカステホウロ(カステラ、カスティリャ)、
  ボーロ、金平糖などが伝わります。

  『イエズス会 日本報告集』によると、ルイス・フロイス
  が「私が金平糖を (信長に) 贈った」と記されています。

  主な輸入品は生糸や砂糖でした。


  この頃、カボチャも伝わりカンボジア産の野菜だった事から『カボチャ』と呼ばれるようになります。

  ポルトガルのカステラはスポンジケーキに近い食感だそうです。
  金平糖は、日本で見かけるサイズと直形1㎝余の大きなサイズが現在のポルトガルで売られています。

  南蛮貿易での日本からの主力輸出品は銀、屏風もポルトガル人に好まれました。  
日本の金平糖は大阪発祥 長崎でも大量に製造
  【コンペイトー】 confeito (ポルトガル語)
   (「金米糖」「金平糖」と当てる)菓子の名。氷砂糖を水に溶かして煮詰め小麦粉を加えたものに、炒った芥子けしや
   胡麻などを種に入れ、かきまわしながら加熱して製する。周囲に細かいいぼ状の突起がある。






  【ルイス・フロイス】 Luis Frois (1532~1597)
   ポルトガル出身のイエズス会士。インドで司祭となり、1563年(永禄6)来日。織田信長・豊臣秀吉らと親交。
   滞日中140通余りの日本通信を本国に送り、また1549年(天文18)以降の布教史「日本史」を執筆。
   日本二十六聖人の殉教を目撃し、長崎で没。

  ポルトガルは大航海時代初期からアジアとの交易が盛んだったので、欧州で最も米を食べる国で、現在ジャポニカ米の
  一種が栽培されています。

  【おじや】
   スペイン語で、フタの付いた鍋・鉄鍋のことを「オジャ」と呼び、この頃伝わったという説
   があります。

  広辞苑によると「おじや」は(「じや」は煮える音)で雑炊ぞうすい の事。
  「雑炊」は、大根・ねぎなどの具を刻みこみ、味付けをして炊いた粥。おじや。こながき。


  と、ありますので、「粥」や「粉掻き」・・・たぶん、「蕎麦掻き」のように、米粉や小麦粉など穀物の粉を丸めて
  湯に入れて食べた物。のうち、具が多い贅沢な物を、この時代から「おじや」と呼ぶようになったと推測できます。


  ≪ 南蛮貿易の生糸や砂糖を長崎から独占的に運んだ堺商人 ≫

  南蛮貿易で活躍したのは堺商人で火縄銃も日本各地に広めました。
  江戸時代には、輸入品を長崎から大坂に運ぶ独占的な権利を与えられ堺船または堺糸荷廻船と呼ばれました。

  【糸荷廻船】いとにかいせん    コトバンク 『糸荷廻船 「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」』 
   江戸時代に生糸をはじめ長崎輸入品を、独占的に堺(さかい)や大坂に積み登せた廻船。
   堺糸荷廻船、堺・大坂糸荷廻船ともいい、同じく長崎から陸送する場合は糸荷宰領(さいりょう)の仲間が独占した。
   糸荷廻船は、幕府が慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に堺の35艘(そう)の船株を公認して始まったと伝えられ
   ているが、18世紀初めの定数は35艘。その後長崎貿易と堺の衰退により14艘にまで減ったが、
   1739年(元文4)から大坂商人が堺の船株を借りてこれに参加するようになり、水揚げは大坂中心に移っていった。
   陸送か廻船によるかは荷主(五か所本商人)の選択に任されたが、運賃は廻船が割安であった。隻数には増減
   があり、1775年(安永4)ごろは20艘、幕末開港期には11艘で、いずれも船株上では堺船であった。

  独立行政法人 農畜産業振興機構 『砂糖 江戸時代の砂糖食文化』 http://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html

  江戸時代に長崎に来航する唐船・オランダ船によって輸入された砂糖は、生糸などの輸入品を大坂に回送する
   糸荷廻船で大坂の唐薬種問屋に運ばれた。当時、砂糖を積んだ船は「堺船」と呼ばれたという。

   元禄10年(1697)の長崎会所設立に際して、幕府御用の御菓子屋であった大久保主水と虎屋織部に対して、
   砂糖を元値段で買い取ることが許された。
   その額は寛延2年(1749)の貿易半減令の翌年には金660両(現在の価値でおよそ数千万円)分となった。
   またその量は2万7650斤(16.59トン)であり、同年の輸入量全体の約1%であった。それ以外の長崎会所で
   貨物本商人に落札された輸入砂糖は、大坂の唐薬種問屋から砂糖荒物仲買仲間の手を経て、
   江戸をはじめ全国に運ばれた。

   大坂堺筋の砂糖荒物仲買仲間は一番組(戎講)・二番組(大黒講)・三番組(三社講)の3グループに分かれ
   ており、それぞれ仲間から選出された世話役によって支配されていた。
   また天明元年(1781)には輸入品の流通統制と安定供給とを目的として株仲間となったが、
   その数は江戸時代の終わりには200軒におよんだ。

  奈良県の幻の柿 御所柿 信長がお取り寄せした柿。 信長が絶賛した奈良の酒の記録 諸白、片白の違い。奈良の酒は古来、優良酒。
 
 明智光秀が、徳川家康を接待した料理
  NHK・大阪 歴史ドリームチーム 『仰天推理 本能寺の変』 14.01.29 放送 などより

  【明智光秀】あけち‐みつひで (1528?~1582)通称、十兵衛。
   安土時代の武将。織田信長に仕え、近江坂本城主となり惟任これとう日向守と称。ついで丹波亀山城主となり、
   毛利攻めの支援を命ぜられたが、信長を本能寺に攻めて自殺させた。わずか13日で豊臣秀吉に山崎で敗れ、
   小栗栖おぐるすで農民に殺される。

  甲州征伐から帰還した明智光秀は、織田信長に安土城を訪れる徳川家康の接待役を申し付けられていました。
  1582(天正10)年5月15日~17日の間、光秀は、手を尽くして山海の珍味を取り寄せ3日間家康をもてなしました。
  その時の歓待料理の内容が書かれた『続群書類従』が宮内庁に残されています。

  【群書類従】ぐんしょ-るいじゅう ・・・ 昔の色んな本に書いてある事を寄せ集めて再編集した本の事
   江戸時代後期にまとめられた。日本の古書を集輯しゅうしゅう・合刻ごうこくした叢書。塙はなわ保己一編。
   正編530巻665冊、目録1冊、跋1冊。続編1150巻1185冊。
   1786年(天明6)から漸次刊行、1819年(文政2)正編完了。
   正続編の遺漏を補う目的で編集された「続々群書類従」16冊(明治39~42年)がある。






  食材は枇杷やクルミの山の幸、鯛や鮑などり海の幸は京都や堺から調達。
  この郡書類従には献立メニュー名しか書いてないので、この書を研究している滋賀県の元 近江八幡市立資料館の
  河内美代子さんが、調理法や味付けは、他の書を参考にしながら、番組で料理を再現したものです。


 
 

  再現した河内美代子さんによると、足利将軍に饗された料理と似ており、当時では最上級の料理善のようです。






  江戸時代の『大草殿より相伝之聞書』によると、ふとに ・・・ ナマコに山芋を詰めて味噌で煮込んだ料理。

  貞丈雑記よると、香の物 … (現在は漬け物全般のこと) 味噌に漬けた作った漬物。(※ 但し、地域によって違う可能性あり)

  【貞丈雑記】ていじょうざっき
   伊勢貞丈さだたけ (江戸の人、1717~1784)著の故実こじつ (昔の規定や習慣など) 書。16巻。
   子孫が古書を読む便にと武家の故実に関する考証を、1763年(宝暦13)から没年の84年(天明4)まで、日々記載した
   雑録。1843年(天保14)刊。

  光秀が苦労した料理ですが、接待に不手際があったとして、信長は光秀を接待役の任から途中で解任しています。
  その理由として、よく語られているのが「用意した鯛が腐っており、織田信長が激怒したため」。

  ルイス・フロイスの『日本史』によると、
   「ある時、織田信長は同盟を結んでいた徳川家康を安土城に招き、盛大な宴を催すことにした。 光秀は、その接待役を
    命じられた。ところが、その準備のさなか 信長の好みに合わぬ用件で、光秀が言葉を返すと、信長は立ち上がり
    怒りを込め1度か2度 光秀を足蹴にした。」 

  ※ しかし 「鯛が腐っていた」は腑に落ちません。何故なら「腐っても鯛」という言葉があり、
    その意味は「鯛は腐りにくい魚」他の魚介類ならともかく、腐っていたのは「鯛」なのです。

  番組では、鯛のことについては触れていませんが、料理研究家の服部幸應さんの意見は
  当時の最先端の技術や新しい情報を表現することが信長の夢。今までの料理の伝統を
   打ち破る。信長はこれから新しい時代を作りたいんだという気持ちがあったような気が
   するんですよね


  接待役を解任された光秀は、毛利氏と戦っていた秀吉の援軍に行く事を命じられます。
  それから約2週間後の6月2日の早朝5時頃、本能寺の変がおこりました。
 
  【 安土桃山時代 2 】
  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『大坂城落城 その時おんなたちは?~侍女・おきく 知られざる証言録~』 14.01.15 放送 など より
  名古屋テレビ放送 メ~テレ 武士ごはんランキング 江戸VS京都 一生に一度は食べたいSP 発見 ! 和食のルーツ 14.09.07 放送
  NHK Eテレ 高校講座日本史 『豊臣秀吉』 14.09.12 放送
  NHK大阪 歴史ヒストリア 和食はどうしておいしくなった !? ~時代の主役たちが育んだ食の遺産~ 14.11.26 放送





  【豊臣秀吉】 とよとみ‐ひでよし (尾張国中村の人、1537~1598一説に1536~1598)
   戦国・安土桃山時代の武将。木下弥右衛門の子。幼名、日吉丸。初名、藤吉郎。
   15歳で松下之綱ゆきつなの下男、後に織田信長に仕え、やがて羽柴秀吉と名乗り、本能寺の変後、明智光秀を滅ぼし、
   四国・北国・九州・関東・奥羽を平定して天下を統一。
   この間、1583年(天正11)大坂に築城、85年関白、翌年豊臣の姓を賜り太政大臣、91年関白を養子秀次に譲って
   太閤と称した。明を征服しようとして文禄・慶長の役を起こし朝鮮に出兵、戦半ばで病没。






   大阪 幻の酒 「金剛寺 天野酒」 秀吉が愛飲した為に、家康によって排除された飛鳥時代からの美味しすぎた最高の酒。

  ≪ 秀吉が好んだ料理 ≫  テレビ大阪 歴史ミステリー 『天下一の成金男・豊臣秀吉!!-Mr ゴールド- 2009年に放送

  歴史ミステリーという番組による『秀吉の大好物BEST3』 では
  1位が『割り粥』 (米を臼で小さく割って作った粥) 『老人雑話』に『「割粥を進め」とのたまう』とあり、農民時代の思い出の
  味としています。






  2位の『守口大根』は、大阪北部で産出される世界最長とも言われる細長い大根。
  『徳永家文書』によると、この漬物に感動して『守口漬け』と名付けたとされています。

  3位は『そばがき』 『多聞院日記』によると、「太閤 蕎麦掻餅そばかいもち 好み也し」とあるそうです。

  【守口大根】もりぐち‐だいこん
   ダイコンの一品種。守口市の原産とされる。根は白色で細長く1メートル以上。粕漬として賞味。長良ながら 。長大根。

  【守口漬】もりぐち‐づけ … 守口大根の粕漬かすづけ。名古屋名産。もとは大阪の守口で作った。

  1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) の上巻「香物の法」には
  高菜漬・奈良漬・茄子糀漬・大根粕漬・宅庵漬など多数の漬物の作り方が書かれてあり、「森口漬」も書かれてあります。
  細大根 百本かはりに 葉大根を用ゆ きらず五升 塩三升合て漬… 松下左太夫殿伝
  この書にて、細大根の代わりに葉大根で漬ける方法が全国に知られた事になります。きらず=大坂でおからの別名。

   おから 大坂では「雪花菜きらず」 京都では「卯の花」?

  関西大学 学術リポジトリ 日本料理の歴史 熊倉功夫 「なにわの食文化」  Wiki 熊倉功夫
   https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/2922/1/KU-0200OP-20090324-02.pdf

  『日本料理の歴史』の著者 熊倉功夫さん(東京出身、日本文化史、茶道史専攻、大学名誉教授など歴任) によると、
   本膳料理に汁が付かない料理は『湯漬け』で、書物には『芳飯』と書かれています。『かざりめし』とも言い、ご飯の上に
   具を並べて湯をかける。

  【芳飯・苞飯】ほう-はん
   器に盛った飯の上に種々の煮物をのせ飯を見えなくして汁をかけたもの。「法飯」とも書く。〈日葡辞書〉。


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) の上巻四「
  この書は、他の文献 (上方で書かれた物) や、聞き書きに、独自の記述を加えて編集出版されたもののようです。

  「湯取飯」「半湯取飯」で、冷めた飯を湯の中に入れて温める方法などが書かれてあります。

 芳飯 飯は常の通也 色を付けたるもよし 上置色々也 花鰹 ろくでふ かさいのり 青のり 本嶋のり くるみ 栗せん
  生姜のせん 摺身のせん 玉子のせん うす串鼠 上こんぶ しいたけ細引 小豆 やゑなり 大角豆 菊の花 めうがの子
  しそ たで 柚 鳥せん 切あへ 何にても 右の外 何にても飯の上置にして 又 跡より皿に盛替を出す也

  この記述では、湯はかけていません。ご飯の食べ方が多様のメニューに別れたからだと思います。
  江戸時代中期の芳飯のレシピは、丼ルーツ又はフリカケのルーツとも言えるかも知れません。

  「せん=千切り」と思われます。 玉子は蒸か焼いたものの千切り。「=海鼠=ナマコ」

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf



  ≪ 茶の湯の発達と懐石料理の確立 ≫ 煎茶の製法を開発した永谷宗七郎と、お茶漬けの素を発明した永谷園

  室町時代になると茶の作法を重んじる茶の湯が流行します。
  『亭主』と呼ばれる主催者が、客に茶をふるまう『茶会』が頻繁に開かれました。



  【慕帰絵】ぼき‐え
   本願寺3世の覚如かくにょ(鎌倉後期の浄土真宗の僧、1270~1351)の伝記を描いた絵巻。10巻。
   1351年(観応2)の制作。覚如の子、慈俊(従覚)の撰。絵は藤原隆昌・隆章筆。巻1・7は1482年(文明14)の補作。
   西本願寺蔵。


  しかし、室町時代の『茶の湯』は本膳料理を食べる事が主目的で、『茶』は添え物扱い。
  『長歌茶湯物語』には、「魚や鳥を大食い 酒に酔って 亭主が茶を点てる機会さえ見いだせない
  などの記録があるそうです。

  【村田珠光】むらた‐しゅこうじゅこう (1423~1502)
   室町時代の茶湯者。奈良称名寺の僧となり、のち京都に住む。 侘茶の祖いわれる。
   大徳寺の一休 (1394~1481) に教えを乞い、禅味を加えた点茶てんちゃ (抹茶をたてる事)
   法を始めた。


  【侘茶】わび‐ちゃ  (【茶式】ちゃ-しき)
   茶の湯で、東山時代 (室町中期、1483年将軍足利義政が、今の銀閣寺に移って以降の時代) に流行した書院茶に対して、
   村田珠光以後、桃山時代に流行し、簡素静寂の境地を重んじたもの。千利休が完成したといわれる。

  【書院茶】しょいんちゃ はてなキーワード http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F1%B1%A1%C3%E3 より
   広間の書院に天目茶碗や唐物茶入など、中国渡来の豪華な茶道具を台子に飾った茶の湯の式をいいます。


  ≪ 茶道の確立と懐石料理 ≫ さかい利晶の杜 2015年、千利休と与謝野晶子のテーマ館が堺市にオープン

  安土・桃山時代になると、千利休(1521~1591)ら堺の茶人らによって、茶道の確立と、その流れをくむ懐石料理など
  日本食の基礎が確立されていきます。

  室町時代の本来の『茶の湯』とは違う状況を憂い改めようとした茶人の一人が、千利休の師匠である武野紹鴎でした。
  料理と茶とのバランスを図るため、茶の湯で出す料理は「どんな客を迎えても、料理は一汁三菜を超えてはならない」と
  弟子たちに戒めました。

  【紹鴎】じょうおう(泉州堺の納屋衆の一人、1502~1555) もと武田氏、のち武野たけの氏。
   室町後期の茶人。一閑居士・大黒庵と号。珠光の門人 宗陳・宗悟に茶道を学び、
   侘茶の骨格を作り、千利休に伝えた。

  【一汁三菜】いちじゅう‐さんさい
   飯と汁、菜三品からなる献立。もとは本膳料理の膳立てで、飯と汁・香の物のほかに膾なます
   平皿・焼物の三菜を添えたもの。

  紹鴎の門弟の一人、千利休は堺の海産物の取引などで財を成した商家に生まれた与四郎
  (千利休の幼名)は、跡取りとしてふさわしいように教育を受けますが、その一環として
  茶の湯も学びました。

  【千利休】せん‐の‐りきゅう(1522~1591)
   安土桃山時代の茶人。日本の茶道の大成者。宗易と号した。堺の人。武野紹鴎に学び
   侘茶を完成。織田信長・豊臣秀吉に仕えて寵遇されたが、秀吉の怒りに触れ自刃。

  『松屋会記』には、利休が初めて開催した1544 (天文13) 年2月27日の記録が書かれて
  います。土筆つくしと豆腐の汁、ウドの和え物、クラゲ、麩の一汁三菜。


  松屋会記から読みとる江戸時代初期の振舞 その料理と食材 「蕎麦切り発祥を探る」 
    http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/tyakai.html

 奈良転害郷に住む塗師松屋家の記録「松屋会記」の始まりで、茶会がおこなわれる
  ようになった早い時代に、茶を振舞われた後段として素麺が振る舞われたとある。

  そしてこの茶会記は、この日以降、松屋久政・久好・久重の三代にわたって書きつが
  れて、慶安3年(1650)まで約120年間もの大記録となっている。

  なお、この松屋会記に次ぐ二番目は堺の豪商天王寺屋の茶会記で、「天王寺屋会記」
  である。
  これらは茶道具の披露・鑑賞の記録として貴重であるとともに、茶の湯でおこなわれた
  振舞の記録であるともいえる。








  だからそこには、その時代の献立の数々が書き留められていて振舞の様子として見ることができる。そして、
  おどろくのは食材の種類が豊富なことと料理も多岐にわたっていて日本料理の原点をみる思いすら感じられる。

   こちらのサイトには、『松屋会記』に書かれてある、当時使われていた食材などが載っています。

  紹鴎の教えを守り一汁三菜の料理を基本としますが、「もっと 客人をもっと満足させたい」との思いを持ちます。
  若き利休が精神修行の為に通った南宗寺でヒントを得ます。禅宗である南宗寺でも修行を積む者に対し精進料理が
  提供されていたのです。
  素材と季節感を大切にし、工夫を凝らした精進料理を基に理想とする「茶会向けの料理」を編み出しました。

  【南宗寺】なんしゅう‐じ
   大阪府堺市にある臨済宗の寺。1556年(弘治2)三好長慶の開創、大林宗套だいりんそうとうの開基。のち兵火にかかり、
   沢庵により再興。境内に千利休・武野紹鴎らの墓がある。

1544年の利休が初めて主催した茶会料理

堺・南宗寺の精進料理

1590年11月3日の茶会料理


  京都学園大学人間文化学部教授で、日本の茶道研究家の筒井紘一さんと妻の曜子さんが、利休百会記の1590 (天正18)
  11月3日に利休が主催した茶会で出された料理の献立を再現。利休の晩年、利休茶会が完成したと言われる時期の料理です。






  利休流の茶会は タイミングを重視

  ① 使用人を使わず、茶会の主催者である『亭主』自らが膳を運ぶ。← 心から歓待している事を表す。
  ② 温かい物は温かいうちに、冷たい物は冷たいうちに。料理を最も美味しい状態で味わってもらう事。
  ③ 旬の食材を使い、季節に合った調理法を施すこと。                               

  筒井さんによると、利休の茶事の歌として、『振舞は小豆こまめの汁に えびなます 亭主給仕をすればすむ也
  (長闇堂記) とあります。
   たとえ、一汁一菜の『極侘び』の料理であっても、大事なのは『亭主が給仕をしなさい』ということです。
   当時、カマボコを出そうとすると、2日も3日もかけて骨を抜いて擂って手間をかけて作る。
   (もてなされた側は) 自分を招くために、これだけ手をかけてくれていたという事への感謝が生まれてくる。

  客への心づくしをした利休の料理は、後に懐石料理と呼ばれるようになります。

  【懐石】かいせき
   (温石おんじゃくで腹を暖めると同じ程度に腹中を暖め、空腹をしのぐ粗末な食べものの意)茶の湯で茶を出す前に出す
   簡単な食事。茶懐石。

  ※ 懐石には、上記 広辞苑の内容以外にも幾つか説があるので、Wiki 懐石 をご覧ください。

  【久保長闇堂】くぼちょうあんどう (奈良春日大社の神人の家に生まれる、1571~1640) 朝日日本歴史人物事典などより
   江戸前期の侘び茶人。名は利世,通称権太夫,長闇堂は号。
   天正15(1587)年に行われた豊臣秀吉の北野大茶の湯に出かけ,茶人となることを決意。茶入の仕服などを製する
   袋物師のかたわら茶の湯に携わる。松花堂昭乗や大名茶のリーダーとも目された小堀遠州らの親交を得た。
   寛永年間(1624~44),東大寺の重源御影堂が改築されるに際して古材を譲り受けて7尺の茶処とした。
   これに小堀遠州が鴨長明の方丈になぞらえて「長闇」堂と命名。現在,奈良興福院に再建されている。
   また,その死去に遠州は「悼久保翁記」を記した。
   著作の『長闇堂記』(『茶道古典全集』3巻) は茶史茶説書で、自叙伝に茶湯見聞記および茶説を加えたもの。


  ≪ 「麩」を愛した利休 ≫  お好み焼きの歴史

  『利休百会記』は千利休が茶会の詳細を記録した文書。
  100回の茶会のうち、80回くらい麩を使った「麩の焼き」などを茶菓子として出していたそうです。




利休百会記


  上の画像は、利休が愛した『お麩の小串こぐし』という料理。一口サイズの麩を串に刺し、甘めのゴマ味噌で味付けしたもの。
  武士たちも、戦飯として重宝しました。

  【麩の焼】ふ-の-やき 百菓辞典
   小麦粉を水で溶き、鍋の上に薄く流して焼き、片面に味噌を塗ってから巻いたもの。
   千利休の茶会によく用いられ、利休好みの菓子だといわれる。
   江戸時代の江戸名物菓子にもあげられたが、明治になってすたれたという。

  会合衆と自由都市 堺 武野紹鴎、今井宗久、津田宗及、千利休が切腹が切腹させられた理由。千利休のまとめ、利休はキリスト教徒だった?

  「茶頭」とを呼ばれる特別な地位に登り詰め、豪華さに重きを置いてきた茶の湯の改革を行います。やがて、
  利休は織田信長、豊臣秀吉に取り立てられ、利休流の茶の湯は一大ブームを起こします。有力な大名たちもこぞって
  利休の弟子となりました。






  秀吉が天下人になった時代、秀吉が天皇に茶を点てる時の後見役を務め、世間から『天下一の茶人』と褒め
  そやされました。しかし、1591 (天正19) 年2月秀吉によって謹慎を命じられ、半月足らずの28日に切腹。享年70。

  利休の死後、秀吉が母親に送った手紙の中で「昨日、利休の作法で食事をしました。たいそう趣がありました。」
  と書かれています。

  懐石料理は利休の弟子たちに受け継がれ、江戸時代には庶民の間にも広まっていきます。

  テレビ東京 歴史ミステリー 『利休が切腹させられた真実』 http://youtu.be/kIzoczW9TfY


  読売テレビ ten. 『中世の街並みが今も残る 奈良・今井町を歴史散策』 17.09.06 放送

  ≪ 自由都市 奈良の今井町と今井宗久 ≫ Wiki 今井町 

  現在の奈良県橿原市の今井町は室町時代後期に一向宗 (本願寺) の布教拠点の寺内町として発展。
  宗教武装都市として環濠を築き2000人ほどの兵力を雇い織田信長とも敵対していました。

  今井町で商売を始めた今井宗久は南蛮貿易で栄えていた堺へ出て商売修業を積み、織田信長の商人として仕え、
  様々な特権を得て豪商となりました。
  また武野紹鴎に茶を学び、千利休・津田宗及と並ぶ茶人として三大宗匠そうしょう (師匠) と称される一人となりました。

  宗久が織田信長に認められた事から今井町は武装を放棄。信長の書状「今井豪惣中宛赦免状」が残っています。






  その後、多くの商人が今井に移り住み「海の堺と陸の今井」と呼ばれるぼとに商業都市として発展します。
  江戸時代は堺などと同じく德川幕府の天領となりますが、幕末まで町民自治が認められる自由都市として繁栄し続けました。
  元禄年間頃からは「大和の金は今井に七分」と言われるほどになりました。
  一番の豪商であった今西家が惣年寄として町を支配。今西家内には、揉めことを捌く場所や牢屋などもありました。

  江戸時代初期の1634年に今井札と呼ばれる町札 (銀と交換できる紙幣) の発効が認められました。
  藩札以外で、町札を発効できたのは堺と今井だけでした。 ちなみに江戸時代の奈良の大半は興福寺の領地でした。

  東西600m・南北310mの中に500棟の町家が残り、うち国の重要文化財指定の建物は9件。
  日本最大規模とも言われる重要伝統的建造物群保存地区となっています。

  上の画像のかまどは、一般公開されている江戸時代の旧米谷家のもので、地元の小学校の卒業時にかまどで茶粥を炊き、
  「卒業茶粥」として食べているそうです。

  【寺内町】じない‐ちょうじないまち。 … 中世後期、真宗寺院などを中心にして堀などで防御した町。

  【浄土真宗】じょうど‐しんしゅう 門徒宗。一向宗。真宗。
   浄土門の一派。浄土三部経を所依とする。阿弥陀仏の他力本願を信ずることによって往生成仏できるとし、称名念仏は
   仏恩報謝の行ぎょうであるとする。親鸞を開祖とし、浄土宗より出て一派をなした。
   本願寺派・大谷派・仏光寺派・高田派・木辺きべ派・興正派・出雲路派・山元派・誠照寺派・三門徒派の十派に分かれる。

  【今井宗久】いまい‐そうきゅう(1520~1593)  Wiki 今井宗久
   室町末期の茶人。堺の納屋衆の一人。茶を武野紹鴎に学び、大蔵卿と称した。のち信長・秀吉に仕え、利休・津田宗及と
   共に三大宗匠と称された。

  橿原市HP 『かしはら探訪ナビ 「今井町」 http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_imai/kankou/imaichou/

  会合衆と自由都市 堺 武野紹鴎、今井宗久、津田宗及、千利休が切腹が切腹させられた理由。千利休のまとめ、利休はキリスト教徒だった?

 
 
  【 安土桃山時代 3 】

  ≪ 戦で使われた弁当箱 ≫

  江戸時代前期1689年に創業した京都市東山区の半兵衛麩の11代当主 玉置半兵衛さん (『半兵衛』は代々商売用の
  名前で名乗っている) (本名は玉置辰次さん) は弁当箱のコレクター。
  初代は宮中の料理人で、後に京の町で麩を売り始めたそうです。

  下の画像は、約10人分の弁当を入れられる戦国時代~江戸時代頃に武士が使っていた物ですが、敵将の首を獲った後、
  丁重に持ち帰る為に、この弁当箱が使われました。
   (この話は、半兵衛麩に伝わる話で、店が所有している弁当箱が、そのように使用された事はありません。)







  しょうゆ情報センター 『万能調味料 しょうゆの歴史』 https://www.soysauce.or.jp/rekishi/index.html

  ≪ 和歌山で醤油が本格的に作られる ≫  関西淡口醤油と醤油データ  醤油とソースの関係

  1580年、日本で最初の醤油屋と思われる玉井醤が味噌・醤油業を始めたと言われ、
  1588年には、紀州から100石(約18000 ℓ)のたまり醤油が送られた事が記録に残っているそうです。
   一方、関東では醤油は伝わっていたものの、製造には至らず、上方から運ばれてきたものを「下り醤油」として
   珍重していました。


  ≪ ジャガイモの伝来 ≫  おもしろくてためになる 農業の雑学事典 日本実業出版社㈱ 藤岡幹恭 著 1990年6月3日 初版 より

  1598年(慶長3)頃、当時ジャガタラと呼んでいたジャワ(インドネシア)から、オランダ船で日本に伝来。
  江戸時代に中部地方各地で栽培された記録はあるが、本格的に栽培されるようになったのは、
  明治7年、北海道開拓使が米国から良質の種イモを輸入してから。

  明治末頃、函館の農場主でもあった川田龍吉 男爵が米国から持ち帰った「アイリッシュコブラ」という品種が
  評判になり「男爵イモ」と呼ばれるようになった。

  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『大坂城落城 その時おんなたちは !?~侍女・おきく 知られざる証言録~』 14.01.15 放送
  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『これが乱世を生きる道 ~軍師 官兵衛 美しき人生~』 14.01.08 放送
  読売テレビ ten. 『大阪城の新たな絶景! 御座船の魅力に迫る!』 17.08.02 放送

  ≪ 戦国時代の戦めし ≫ 1584年に存在した蕎麦屋「砂場」 否定説の検証 豊臣秀吉の大坂城築城

  戦国時代の食の記録は少ないようですが、江戸時代初め1614 (慶長19) 年12月の大坂冬の陣で大坂城内で食べられた
  物の記録が豊臣家の淀殿の侍女 おきく (浅井長政の家臣 山口茂左衛門の娘) が語った逸話をまとめた『おきく物語』に
  残っています。

そば焼き

こわいい ・ こわめし


  そば焼き
   そば粉を水で練り薄く焼いた後、味噌を塗ったもの。和風 蕎麦粉のクレープ。保存がきくそうです。
   麩の焼の小麦粉を蕎麦粉に替えたもの。

  こわいい
    もち米を蒸したおにぎり (強い飯)。腹持ちがよいので、戦国時代の戦時によく食べられた。

  【おきく物語】
   淀君の侍女おきくが、1615年(元和1)大坂落城の際の城内のありさまを、後年に語った記録。1巻。成立年未詳。
   1837年(天保8)刊。

  【クレープ】 仏 crêpe / 英 crepe 百菓辞典
   クレープ生地 (卵、小麦粉またはそば粉、砂糖または塩、牛乳) を、丸く薄く焼いたもの。
   塩味のものを詰めるとオードブルに、甘みのものを詰めるとデザートとして供される。
   フランスで始まったもので、薄く焼いた生地が布地のクレープ (ちりめん) に似ていることから呼ばれるようになった名前。
   一説によると、クレープ発祥の地はフランス・ブルターニュ地方であり、最初はそば粉と水と塩だけで作られていたという。

里芋の茎

小出吉親の『勝男武士』




  現存する日本最古のカツオ節 大坂の陣で携帯した小出吉親の『勝男武士』の画像


  ≪ 戦国~桃山時代は女性の社会進出が盛んだった ≫

  下の画像は、戦国時代~桃山時代頃のカルタ。
  男たちが戦で留守にする事が多かった為、女たちが家を守る先頭に立ったり、商売を積極的に行っていたようです。





  桃山時代になると、着物の金糸などを多用する装飾技法などが進化し派手な着物が流行ります。
  『豊臣期大坂図屏風』には庶民も描かれており、赤や緑の派手な色の着物を着ていた事が分かります。
  大坂では豊臣秀吉の豪華な派手好みと、利休などの地味な侘び寂文化が混在し、現在の大阪人や西日本の好みにも
  影響を与えていると思われます。この時代は大坂城御奥の侍女の間で「辻が花」などの豪華な着物が流行りました。

  江戸時代の1688年刊の井原西鶴の『日本永代蔵』では、「京都では豪華な着物が普段着になるかも」という事が書かれて
  おり、庶民がお洒落で派手な着物を着ていた事が分かります。
  1683 (天和3) 年に幕府が金糸などの刺繍や鹿の子絞りの着物は禁止するとの令を出しています。
  この禁止令を受け、扇絵師の宮崎友禅斎によって、金糸を使わずとも多彩で豪華な色柄を表現できる友禅染が誕生しました。

  東日本は、鎌倉幕府および江戸幕府の質素倹約政策の影響を受けているので、全体的にシックな色合いを好むとされて
  いますが、バブル以降の東京のファッションは大阪では見かけないような奇抜で派手な服を好む人も少なからず居ます。


  ≪ 大名たちが好んで食べた高級魚 ≫

  豊臣秀吉軍が、ある城を包囲している時のこと。敵が降伏しないので黒田官兵衛が説得を命じられました。
  その時、官兵衛が敵にホウボウを贈ったところ、間もなく降伏した。という逸話があるそうです。






  【魴鮄・竹麦魚】ほう‐ぼう ホウボウ科、全長約40㎝の硬骨魚。本州中部以南に分布。
   体は紫赤色。胸びれは特に大きく、内面は鮮青色で美しい斑点がある。美味な白身魚。
   胸びれ下部に、感覚器を具える鰭条きじょうの変形した3本の指状物があり、これで海底を歩き餌を探す。
   鰾うきぶくろで音を発する。


  ≪城に松が多く植えられた理由 ≫   朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポン・植物ミステリー』 15.09.10 放送

  松は常緑で縁起が良い植物の筆頭とされていますが、非常食にもなるので多く植えられたようです。
  松の薄皮は脂肪分とタンパク質が多く含まれているそうです。松脂まつやには松明たいまつと使用できるだけでなく、
  止血薬としての効能もあります。

  1578年、豊臣秀吉が三木城 (兵庫県南部) を兵糧攻めにした『三木の干殺し』では、三木城の兵士たちは
  松の薄皮を食べて凌いだと言われます。






  秋田県の郷土菓子『松皮餅』は、松の薄皮を練り込んだ餅の中に餡子が入ったもの。


  ≪ 桃山時代の薬 ≫

  【定斎】じょうさい、じょさい
   桃山時代に大坂の薬種商 定斎が、明人の薬法を伝えて製し始めたという煎薬。
   夏期の諸病に効があるという。

  【定斎屋】じょうさい‐や
   売薬行商の一種。夏に、一対の薬箱を天秤棒てんびんぼうでかつぎ、薬箱の引出しの鐶かん
   ならしながら売り歩く行商人。じょさいや。定斎売り。

  【是斎薬】ぜさい‐ぐすり … 定斎屋が売り歩く、暑気あたりに効があるという薬。



  ≪ 接ぎ木の技術が確立 ≫

  木接太夫 桃山時代に接ぎ木の技術を確立した坂上頼泰 (坂上田村麻呂の子孫で秀吉に仕えた武将)。

  平安時代から1000年以上、接ぎ木の産地になっている兵庫県宝塚市。400年ほど前に坂上頼泰が接ぎ木の技術を確立し、
  現在では、野菜や果物のほとんどが接ぎ木技術を採り入れ栽培しています。
  
 【 江戸名物の佃煮と築地は、徳川家康が 大坂の佃村の漁師を江戸に呼び寄せた事から 】
  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「ご飯の友」 13.01.17 、同 「江戸に咲かせた食文化」 12.02.02 放送
  TBS 世界ふしぎ発見 ! 『五輪開催都市 TOKYO すべての始まりは江戸にあった』 14.04.26 放送
  NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『がんばれ! 東京 ~泣いて笑って400年~』 15.04.22 放送
  朝日放送 おはよう朝日です 土曜日です 『春を味わう 和歌山・湯浅の旅』 17.03.11 放送

  ジャパン・フード ニュース佃煮 http://www.japanfoodnews.co.jp/tsukudani/history01.htm 
  TokyoBlog@青海青亭. 2007/1/16 『魚河岸と佃島の歴史:家康が食べた白魚と佃煮 』 http://tokyo.atso-net.jp/index.php?UID=1168930856

  ≪ 江戸の食文化を発展させたのは、大坂の森一族 ≫

  1582年6月4日に起こった「本能寺の変」の折、堺に居た徳川家康は岡崎城 (愛知県中部) へ逃げ帰る時の事。
  現在の大阪市住吉区の神崎川で渡る船がなく、摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の庄屋・森孫右衛門が、
  手持ちの漁船と備蓄していた大事な小魚煮を道中の兵糧として用意しました。(これは小魚の塩煮だったという説があります) 
  これが佃煮の起源です。『住吉神社略縁起』などに記述があります。






  魚の食文化に詳し「たまらねぇ場所 築地」などの著書がある マグロ仲卸「鈴与」三代目 生田與克さんによると、
   「漁民といわれているけど、彼ら (森一族) は大坂の陣で戦った海賊のような武装勢力とも言われているわけ」






  『江戸名所図会 (斎藤月岑 著、江戸後期1834~1836年に刊行)』や『日本橋魚市場沿革紀要 (川合忠兵衛著、
  明治22年刊)』に森一族の事が記述されています。
   「大坂冬の陣、夏の陣において森一族は家康の軍船を漁船に仕立て上げ付近の海上を偵察し家康の配下の
    安藤対馬守に報告していた

  ※ 戦国時代は海や河川を支配する集団は、村上水軍や蜂須賀氏など、普段は漁師で生計をたて、戦になると、
    巧みな操船技術などを生か傭兵として雇われることは珍しくなかったようです。また海賊などもしていました。

  その後、森孫右衛門に腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口の石川島南側の干潟を埋め立て
  て住まわせました。(現在の東京都中央区佃島)。 

  大阪府西淀川区の佃にある田蓑たみの神社に江戸へ移り住んだと言われている34名の名前が残っています。
  出身地の佃村の名を取り「佃島」とし漁業を行いながら、15年ほどかかけて築地付近を埋め立てました。
  また家康に命じられ江戸湊 (江戸前付近の東京湾) の警備も行っていました。


  ≪ 築地の始まり ≫

  【築地】つきじ
   東京都中央区の一地区。銀座の南東に続く一帯。明暦の大火(1657年)後、低湿地を
   埋め立てて築地と称し、明治初年、一部を外国人の居留地とした。

  【日本橋】にほん‐ばし
   東京都中央区にある橋。隅田川と外濠とを結ぶ日本橋川に架かり、橋の中央に
   全国への道路元標がある。
   1603年(慶長8)創設。現在の橋は1911年(明治44)架設、花崗岩欧風アーチ型。


  森一族は、築地付近を埋め立て魚を売り始めます。この事がきっかけで江戸の魚食文化が始まった。
  1603年に日本橋が完成。この付近に魚市場が移動し、享保年間(1716~36)年頃には魚問屋128軒、仲買人320人
  程度の市場になっていました。これが日本橋魚河岸の起源です。





  江戸や関東で海魚が食されるようになったのは大坂や西日本の漁民が移住した事からになります。
  1575年頃 (天正年間の初期) までの江戸での漁法は一本釣りや四つ手網のような原始的な漁法ありませんでした。

  ≪ 江戸の魚河岸は、摂津 (大坂) 問屋が支配し続けていた ≫

  大坂の佃村の漁民である森一族が德川家康の招きで江戸に移り住み、1613 (慶長18) 年に特権を得て漁業を開始。
  1630 (寛永7) 年~1644 (正保1) 年に渡り埋め立て工事を行い佃島を完成させます。
  また1616 (元和2) 年、大坂から江戸に下った大和屋助五郎が江戸の本小田原町に移り住み、活鯛の流通を始めとする
  魚問屋システムが確立してきます。

  寛永年間 (1688~1703年) に上方の商人たちが江戸に集まり問屋になる事を願い出て魚河岸は更に発展していきます。
  江戸の魚問屋は正徳年間(1711~1716年)、森一族の流を汲む摂津系 (屋藤左衛門・西宮甚左衛門・堺屋長兵衛)と
  大和屋助五郎) の4人の問屋のみが幕府への納魚請負人に指定されています。
  その後、任期が終わり、新たに選ばれる御用聞き問屋は摂津系が続いたそうです。

  詳しくは下記サイトにて。大和屋の出自については、芝教授が大坂としています。鈴与サイトには言及がありません。

  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf
  鈴与 魚河岸野郎 http://www.sakanaya.co.jp/history/index.html
   『大和屋助五郎の活鯛流通システム - 魚河岸野郎魚河岸四百年 大和屋助五郎の活鯛流通システム』
    http://www.sakanaya.co.jp/history/02_04.html

  綿花の栽培が各地で盛んになり、肥料としてイワシを乾した物が使われていた為、
  イワシが多い関東・東海地方に、大規模な底引き網漁を行っていた西日本の漁師
  たちが移住しました。

  その漁獲法は『地獄網』と呼ばれ、当時としては格段に優れたもので漁獲量は
  徳川家への献上分をオーバーしてしまったらしいです。

  【四手網】よつで‐あみ
   四隅を交叉した竹で張り拡げた方形の網。これを竹竿の先端につけ、水底に
   沈めて置き、時々引き上げて魚を捕る。

  右の四手網漁は、和歌山県湯浅町で2~3月に行われているシロウオ漁。
  網を引き上げるのはかなりの重労働で、1日に何百回か行います。
  それでも漁獲量が非常に少ないので、地元のみで消費されるだけだそうです。

四手網



  ≪ 家康が好んだ白魚 ≫  奈良漬も家康が絶賛し幕府でつくらせた  徳川家康は2度死んでいた?  「埋め田」から「梅田」へ

  【白魚】しら‐うお
   シラウオ科の硬骨魚。体長約10センチメートル。体は瘠型で半透明。春先、河口をさかのぼって産卵。
   日本の各地に産し、食用。シロウオ(素魚)は外観も習性も本種に似るが別種。広義にはシラウオ科魚類の総称。

 

 

 

白魚献上箱


  透けて見える白魚の頭の部分を上から見ると、德川家の『葵の御紋』に見えるので家康が好んだとされます。
  『慶長見聞集』には「この地獄網にて取り尽くしぬれば、いまは十の物一つもなし」と書かれており、魚資源が
  枯渇するのを恐れ「御止魚」に指定し森一族だけに漁業権を与えたそうです。

  『世界ふしぎ発見』によると、現在でも佃島の人々は、年に1回徳川家に献上する風習が続いているそうです。

  【慶長見聞集】けいちょう‐けんもんしゅう
   仮名草子。10巻。三浦浄心作。慶長19年の成立というが、寛永(1624~1644)初年頃までの記事も含む。
   新興都市江戸での見聞を説話形式で語る。正しくは「見聞集」。

  【地獄網】じごく‐あみ
   ① 振縄の一種と思われるものを用いた網漁。(慶長見聞集) ② 魚を捕る壺網や筌うえ。また、鳥を捕る袋網。

  【振縄】ぶり‐なわ 葛縄かずらなわ
   数百の木片をつけた長い縄を引いて、その木片が海中で一斉にゆれ光るのに驚く魚を網中に追いやる漁具。
   タイ漁などに用いる。


  ≪ 佃煮 ≫ つくだに 

  海産物を砂糖と醤油で甘辛く煮付けた食べ物の事。

  保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さら
  には参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として
  各地に持ち帰ったため、全国に広まったとされます。


  現在のような醤油を使用した「佃煮」が江戸時代のいつ頃から食べられていたかは不明です。
  通説では森一族の保存食ですが最初。上方では江戸時代以前から醤油はありましたが、広く普及するのは元禄期。
  醤油使用の佃煮は江戸で始まったと見るのが正しいようですが、江戸で醤油が広く普及するのは文化・文政期です。

  とはいえ、将軍家に献上していた物なので、江戸初期からあったとも考えられます。諸説はWiki 佃煮をご覧下さい。


  ≪ 江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期の享保頃 ≫  8代将軍吉宗の時代 享保年間(1716~36)

  江戸庶民が海魚を買えるようになったのは1721 (享保6) 年以降と思われます。


 1929 (昭和4) 年出版の『江戸時代のさまざま』 三田村鳶魚 著 (東京生まれ、江戸の風俗・文学の研究者)

  「関東最初の蚕種会議」P.521
  落語でお馴染みの「芝浜の財布」、時間を間違えて買い出しに行った魚屋が、芝浜の波打際で財布を拾う
  それから咄しが始まっているのだが、本船町、同横店、本小田原町、安針町の外に新場、芝金杉の魚市場が
  出来たのは享保六年以後のことであるから、魚屋が芝浜をうろついた話は享保度の話でなければならない、
  しかし此の話は最初から落語の為に作られたのではないので、丹波笹山の藩儒 松崎堯臣が享保九年に
  書いた「窓のすさみ」の中の話から取ったので、…此の話の半分が落し咄しに採用されたのであるが…

  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205



  ≪ 江戸時代後期~末期頃の1800年代の「日本橋魚河岸」の様子 ≫

  歌川広重 (1797~1858) 東都名所 1840~1843年頃    歌川国安 (1794~1832) 日本橋魚市繁栄図  



  国立国会図書館 『錦絵で楽しむ江戸の名所 「歌川広重1」』 http://www.ndl.go.jp/landmarks/artists/utagawa-hiroshige-1/
  江戸ガイドブログ 『江戸時代の日本橋 魚市(『日本橋魚市繁栄図』歌川国安 画)の拡大画像』
   http://edo-g.com/blog/2016/01/population.html/nihombashi_uoichi_hanei_zu_l


  TBS 世界ふしぎ発見! 『移転まで268日!築地 春夏秋冬・完結編』 16.02.13 放送
  テレビ朝日 羽鳥慎一のモーニングショー 『良純未来図 「時代ごとに激変! お江戸""歴史散歩』 16.05.23 放送
  フジテレビ 報道2001 『築地から豊洲市場への移転問題』 16.08.28 放送 / 16.09.18 放送
  毎日放送 せやねん! 『東京のことですが ちょっと気になる築地の豊洲移転』 16.09.17 放送
  TBS ひるおび 『豊洲 地下水から初検出 基準値超のベンゼン・ヒ素』 16.09.30 放送
  関西テレビ 胸いっぱいサミット! 『話題のニュースで賛否激論! 勝谷&増田が付き場の"今"を調査!』 16.11.05 放送
  読売テレビ ウェークアップ! ぷらす 『豊洲市場 盛り土なし問題 東京都 責任感の欠如 露呈』 16.10.01 放送
  テレビ朝日 モーニングショー 『豊洲に新疑惑 "耐震基準"を満たしていない?』 16.10.06 放送 など

  ≪ 築地市場が出来るまで ≫

  江戸時代初期の地図によると築地がある場所は海でした。築地本願寺は京都の西本願寺の別院として日本橋横山町
  辺りにあったそうですが、1657年の明暦の大火で消失。本願寺の熱心な信者だった佃島の猟師たちが、寺を再建する
  為に海を埋め立てて出来たのが築地です。「新たにいた土」=「築地」。

  江戸時代は市場などは無く、築地本願寺を中心として58の寺がひしめき合い参拝客で賑わう寺町となっていました。
  後に、ほとんどが郊外へと移転し、現在は5ヵ寺だけが築地に残っています。

  築地本願寺への参道が、今日の築地場外市場のメインストリートとして使われています。

武州豊嶋郡江戸庄図

 

明治40年頃の築地本願寺

昭和9年に再建された


  江戸時代~大正時代まで、魚河岸は日本橋にありました。
  1923 (大正12) 年3月に中央卸売市場法が公布されます。

  1923 (大正12) 年9月1日の関東大震災で日本橋や築地を含む東京一帯がほぼ壊滅しました。
  江戸時代に德川尾張家や松平家、一ツ橋家などの大名屋敷があった築地の土地は、大正時代に海軍省や兵学校に変わって
  いました。この場所に中央卸売市場の建設が計画されます。






  昭和2年に京都で日本初の中央卸売市場が開設され、昭和6年に大阪と横浜。昭和7年に神戸に中央卸売市場が開設
  されました。
  昭和9年、築地本願寺が古代インド様式の寺院として再建されます。
  1923 (大正12) 年に完成した当時日本一規模だった三菱の丸ビル (旧丸ビル) の総工費は900万円 (現在換算 約67億
  5000万円) 。

  1935 (昭和10) 年、東京の中央卸市場として築地市場が開場。土地代を含む総工費1650万円 (現在換算 約123
  億円) で、西洋列強に追いつくため、日本が威信をかけて作りました。当時としては超破格の総工費だったそうです。
  1659 (万治2) 年創建の波除稲荷神社が築地の氏神様だそうです。

  「築地市場は400年の歴史」と言われていますが、場所も名称も変わっているので、実際には80年余の歴史というべきです。

  東京の歴史 幻の東京開催予定 日本万博  雑喉場市場 と 黒門市場 木津卸市場








  ちなみに、石原慎太郎 元東京都知事も、小池百合子 都知事も 兵庫県出身。

  都民はテレビなどで取り上げられてきた為、良いイメージを持ち『築地ブランド』信仰があるようですが、東京に流通している
  魚介類の9割が築地経由らしいですし、空調が無い、建物内で雨水漏れ・配管なども含め色んな部分の老朽化が激しい中で
  マグロの解体なども行われているのが現状。他にも床が不衛生などの諸問題があるようです。

  生ものを扱う環境として、現在の日本の公衆衛生基準を満たしていないと思われますが、検査する保健所も築地も
  東京都の管轄。
  豊洲移転問題がこじれた結果、他県民からすれば「東京で刺身などを食べるのは遠慮したい」と思えるような実態が
  連日のように報道されるようになりました。

  東京湾の実態 雨が降ると排泄物垂れ流しで、汚物が浮いて漂う海だった。放射性物質もヤバイようです。
  築地では上記のような海水を使用して清掃していたようです。そんな床でマグロを引きずったりしていたようです。

  フジテレビ とくダネ! / TBS ビビット 18.10.11日放送 など

  ≪ 豊洲市場への移転 ≫

  新国立競技場は世界および他の日本の球技・競技場と比較して、破格な建設費がかかる
  割に設備内容は普通以下とも言われて話題になっていますが、豊洲市場も同様の問題が
  指摘されていました。

  東京はこういった意味不明な異常ともいえる高コスト建築の公営施設が多いようです。
  これらは国税および都税によって建てられたものです。


  東京の利権問題 2020年五輪招致賄賂疑惑 買収はあった」 との結論

  2018(平成30)年10月11日に築地から豊洲へと東京の中央卸市場が移転しました。
  初日にはターレの炎上や事故など様々な混乱や、使い勝手が悪い・駐車場が足りないなどのクレームも多数あった
  ようですが、何とか市場としての機能は稼働しているようです。






  旧築地は移転反対派が居座ったり、跡地利用の問題など、まだ解決しなければならない問題が山積しています。

  ほとんどの東京メディアが築地・豊洲を「日本の台所」という呼び方をしていねので、多くの魚は東京を経由して
  から日本各地へ送られると勘違いしている関東人も少なからずいるようです。
  こういう誤解を生む表現はいつもの事ですが、そろそろ日本中から笑われている事に気付くべきでしょう。

  豊洲市場は東京の中央市場であって「東京の台所」にすぎません。各都道府県には中央卸市場が存在します。
  江戸時代の大阪が「天下の台所」と呼ばれたのは、多くの食材が大坂経由で集散したからです。

  農林水産省 食料産業局食文化・市場開拓課和食室 『食材の流通と変化』 http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/syokuzai.html

  昆布の専門サイトのようです。佃煮の歴史、大阪の靭公園、天満などの歴史も詳しく載っていますのでオススメ。
  KOMOのこんぶのページ 番外編 佃煮の歴史 http://homepage3.nifty.com/KOMBU/kombu/kombu_42.html 

  猫の足あと 森稲荷神社|中央区佃の神社 http://www.tesshow.jp/chuo/shrine_tsukuda_mori.html


  ≪ 多くの物が堺・大坂から江戸や日本各地に伝わりました ≫

  大阪は古墳時代には大和政権の中心地。平安時代には遣隋使・遣唐使の出発港であり以降、海外の窓口となる港でした。
  室町時代からは堺商人が貿易などで活躍し、江戸時代には長崎の出島からの舟輸送を堺・大阪商人が独占的に担い、
  国内の物流の大動脈であった北前船や菱垣廻船などの出発地。

  古くから1度も廃れる事無く、国内トップレベルで繁栄し続けてきた唯一の地域であり、戦後までは経済の中心だったので、
  多くの文化が生まれたり育まれました。京・大阪は文化・技術の圧倒的な最先端地域でした。
  これらの文化や技術が江戸時代中期以降に北前船などで物流と共に、日本各地に伝わったのです。
  1990年代頃までも大阪の企業が東京へ進出し、東京の企業がその真似をする事も普通でした。

  鴨南蛮そば 葱の歴史 京都の「九条ねぎ」も江戸のねぎも大坂がルーツ と 鴨なんばの謎
  関西青ネギ、関東白ネギ もう諸説は不要、決定的な記述を発見!! 関西は青ネギなのに江戸時代は「根深ネブカ」と言った。その謎が判明
   711年京都の伏見稲荷の建立の際に大阪からねぎの種が運ばれ栽培されました。
   江戸には、江戸幕府の始まりにともない、大阪から大勢入植した人たちがねぎの種を砂村にて栽培、江戸の風土のもと
   砂村ねぎが生まれ、更に千住に種が運ばれ改良され千住ねぎとして定着しました。

  大阪市四天王寺に野沢菜の碑が建立
   長野県名産の野沢菜は天王寺蕪がルーツ。長野県佐久地方の鯉も大阪の淀川から連れてきたというルーツ説があります。

  日本の食の歴史9 寿司の歴史雑学
   酢や酒も堺が主産地で日本各地に広まりました。干瓢も大阪木津が発祥という説があります。
   江戸三大寿司店の『松ヶ鮨』の堺屋松五郎は、にぎり鮨の創始者の一人で堺出身とも言われています。
   江戸っ子の中の江戸っ子と呼ばれる山東京伝によると、天ぷらは大坂から駆け落ちしてきた利助が魚の天ぷらを始めた。
   稲荷寿司の発祥も大阪か? ← この説は当サイト管理人の私説ですが、根拠がいくつかあります。

  近年まで、堺・泉州のアナゴが名産地として全国的有名だった 養殖で復活へ

  上記は、ほんの一部です。当サイトの各ページをご覧ください。
 
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