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【捕鯨】 |
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≪ 鯨漁 ≫ 慶應義塾大学 学術情報リポジトリ 『博物誌史料としての「お湯殿の上の日記』 「(3) 鯨の献上」
『文明13年 (1481) 4月16日条の「むろまち殿 [将軍] より,くちらのあらまき卅まいる」を初めとして,鯨の献上は
全期間にわたって見られる。ただし,15世紀後半から16世紀前半までは数年に1回くらいの割合で,天文年間の
後半から永禄年間末近くまでの四半世紀ほどはまったく鯨が献上されていない。
おそらく,この頃までは偶然に入手した鯨を利用する程度だったのではないだろうか。
ほぼ毎年鯨が献上されるようになるのは天正9年 (1581) の頃からで,17世紀に入ると献上が年に3回とか5回の
年も現れる。おそらく,鯨漁がかなり積極的に行われるようになったであろう。
『鯨史稿』によれば、元亀年間 (1570~72) に三河国内海で鯨突取り漁法を始めたというが,『お湯殿の上の日記』
には天正10年 (1582) から文禄4年 (1595) までのあいだで現存する8年分の日記7件の鯨献上記事があり,うち6件が
伊勢に関連している。天正14年の記事は「いせのせんちう寺より,としとしのくじらのおけ二つ」とあって,伊勢からの
鯨肉の献上が毎年の恒例になっていたことがわかる。
一方,江戸時代初期に紀伊熊野太地浦近辺で鯨猟が盛んになり,延宝5年 (1677) にはこの地で網取り法が考案
され,この手法が広まって鯨猟が全国的に盛んになる。
第1節 (4) ・ミカンの頁で,延宝~貞享年間には紀州藩からの鯨の献上が毎年の恒例となったことを述べたが,
それは上記の網取り法の開発などが関係していたに違いない。』 鯨肉などの利用 大阪発祥のハリハリ鍋
【御湯殿の上の日記】おゆどの-の-うえ-の-にっき Wiki 御湯殿上日記
清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。禁中の日常や女房詞などを知る好史料。
1477(文明9)から1826年(文政9)までのものが現存。
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大阪発祥のハリハリ鍋
1950年代の給食
給食の歴史 山形県発祥
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1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
肴部には「寒水漬鯨方」とあり、保存法と料理が書かれています。
国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
コトバンク 『日本山海名物図会』
1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、
日本各地の名物を描いた絵本。
巻の五の最後に鯨の置網漁と銛突漁の様子などが見開き4枚に渡って描かれています。
江戸時代末期の天保年間 (1831~1845年) には、『鯨肉調味方』という料理本も書かれています。
幸田露伴 (小説家。江戸生れ、1867~1947) いさなとり「田舎に住むで聞く者は下手な浪花節ばかり」
いさな‐とり ・・・ 鯨魚取・勇魚取 / いさ‐な ・・・ 鯨・勇魚 クジラの古称
郷土読本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109335 のP125~118に『江漢西遊日記』「鯨とる島」の一部分が掲載されて
います。1788 (天明8) 年、長崎の生月島での捕鯨する人たちの生活などを書いた内容です。
【生月】いさつき
長崎県北部、平戸島の北西にある島および町の名。隠れキリシタンが多かった。中心集落の舘浦たちうらと壱部浦
いちぶうらは江戸時代の捕鯨業の根拠地。面積16.6平方キロメートル。
【鯨組】くじら‐ぐみ
江戸時代に発達した突取法や網取法による捕鯨のための漁業組織。従事者数は2、300人、大規模な例では3000人。
各地に残るくじら餅 大阪天満宮・石川金沢・山形新庄・宮崎佐土原
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【 江戸時代の肉食 】 |
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日本人は元々、米と魚の食文化。世界的な食文化傾向でも、米と魚。パンと肉。の組合せが多いそうです。
おもしろくてためになる 農業の雑学事典 日本実業出版社㈱ 藤岡幹恭 著 1990年6月3日 初版 など より 東海テレビ おしろツアーズ3 『絶対生きたくなる ! おもしろ名城旅』 11年12月放送 / 14.01.19 再放送
朝日放送 ビーバップ1ハイヒール 『ことわざ人生講座』 17.02.16 放送 日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県) 芝恒男 名誉教授・農学博士
http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf 慶應義塾大学 学術情報リポジトリ 『博物誌史料としての「お湯殿の上の日記』
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN10079809-20060930-0033.pdf?file_id=10485
歴史に残る最初の肉食禁止令は、675年 日本書紀 巻29の天武天皇の詔勅
「牛馬犬猿鶏之宍を食莫れ」とあるそうです。宍 = にく と読む。特に食用の獣肉の事。
その後、他にも何度か肉食の禁止令が出ています。
721年「殺生禁断、放鳥獣」(元正天皇)、725年「殺生禁断」(聖武天皇)、736年「牛馬の屠殺禁止」(同) など。
≪ 獣肉食は関東に多かった ≫ 江戸では人肝を干した薬が売られていた
仏教の影響が強い京・大坂・奈良・福井などの都市部では、江戸時代も極一部でしか4足の獣肉食は行われず、
魚中心の食生活だったようです。
現代のように流通が発展していないので、内陸部で獣肉を食べる事は自然な事ですが、
明治6年の『斐太後風土記』によると、飛騨地方では山間部にも関わらず、タンパク質の摂取は肉類の0.8%
+鳥類0.1%しかなく、主に穀類から75.7%摂っていたという報告があるそうです。
江戸時代初め頃まで、江戸では大坂の佃島の森一族が移り住み漁を行うまで原始的な漁業法しかなったようです。
中期に西日本の漁師たちが静岡~千葉あたりに移住して以降で漁業が活発になります。
江戸では鶏より軍鶏を好んだ事などからも卵の流通も西日本より少なかったと思われます。
生類憐みの令の影響と、漁業の発展と豆腐を食べる機会が増えた事などによって、タンパク質を獣肉から摂取しなく
ともよくなった為、江戸時代中期以降において獣肉食が減っていったと推測できます。
それ以前の関東では、武家の狩りの対象および農業の害獣駆除としても得られた獣肉は鳥類だけではなく、サルでも
犬でも関係なく、タンパク質を摂取する必要があるので普通に食べていたのではないでしょうか。
江戸時代前期の江戸では猿の塩漬けやカモシカ肉が売られていた
明治・大正時代は鶏肉が最も高価だった 豚肉なのに「焼き鳥」の謎、昭和前期は東京でも人気。ホルモン
≪ 江戸では犬がほとんど居なかった ≫ Wiki 犬食文化 など
1643 (寛永20) 年の『料理物語』には犬の吸い物を紹介する記述があり、「味は獣肉の内では中くらい」とも書かれて
あったようです?
1666 (寛文6) 年刊の狂歌集『古今夷曲集ここんいきょくしゅう』には、德川家発祥の地である三河の岡崎 (愛知県の中部)
に獣肉屋があった事が詠まれています。
1684年に書かれた尾張藩士の日記には「犬肉を食べると70日間穢れる」とあるそうです。
1728 (享保12) 年頃成立の『落穂集』(著者は大道寺友山) には、
「江戸の町方に犬はほとんどいない。
武家方町方ともに、江戸の町では犬は稀にしか見ることができない。犬が居たとすれば、
これ以上のうまい物はないと人々に考えられ、見つけ次第撃ち殺して食べてしまう状況
であったのである。」 という記述があります。
武士も町人も犬食をしていたそうで、専門の業者がおり犬を捕まえるための専用の
道具まであったようです。
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生類憐みの令は1685 (貞享2) ~1709年 (宝永6) までの期間に複数のお触れが出て、犬殺しは公には禁止に
なったようです。
嬉遊笑覧に掲載されている古今夷曲集と落穂集の記述原文など 江戸の獣肉店の始まりで猿の塩漬け
沖縄では犬・猫を食べる文化が近年まで一部残っていたようですし、江戸時代の薩摩では「えのころ飯」と言って
子犬料理を食べていた記録があります。 Wiki えのころ飯
NHK Eテレ 知恵泉スペシャル 『日本人と動物との交遊録』 20.01.03 放送
明治大学の清水克行 教授 (東京生まれ) によると、「当時、犬っ食べていたんですよね
戦国時代以前は。戦国時代のちょっと野蛮な風習で江戸時代になると流石に犬は口に
するのはどうかという風になっていったんですけど、かぶき者と言われる人たちはわざと
それを食べるんですね。一時代前の文化を皆で鍋で食べて「俺たちグレてるぜ」っていう
そういうポーズ見せるんですよね。だから犬自体がある種の前時代のシンボルなんです
よ…」
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犬を食べていたのは、かぶき者という解説にしていますが、1746年成立と言われる『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』
(編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) の内容などから一般庶民も食べていた思われます。
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【生類憐みの令】 |
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NHK Eテレ 知恵泉スペシャル 『日本人と動物との交遊録』 20.01.03 放送
≪ 鎌倉時代、犬は狩りの獲物 ≫
武士政権が確立した鎌倉時代は、逃げ惑う犬を狩る「犬追物」が大流行しました。
14代執権の北条高時は寝食を忘れるほど闘犬な夢中だったそうです。
『太平記』には、「犬を100~200頭放して戦わせた」と記述があります。番組によると、その様子は本物の合戦さながらの
地獄絵図だったと伝えられているそうです。
朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「江戸に咲かせた食文化」 12.02.02 放送
≪ 生類憐みの令で、獣肉食が禁止に ≫ Wiki ウサギ
江戸幕府5代将軍の徳川綱吉(在職1680~1709)の「生類憐みの令」から、
4本足の獣肉食は御法度になりましたが、死後すぐに廃止。
【生類憐みの令】しょうるいあわれみ‐の‐れい
徳川5代将軍綱吉の発布した生類愛護の触書の総称。
捨て子・捨て病人の禁止から、牛・馬・犬・鳥・魚介類などの動物の虐待・殺生の禁止
までに及んだ。違反者は厳罰に処せられたため、綱吉は犬公方と呼ばれた。
1709年(宝永6)廃止。
ウサギが「一匹」ではなく「一羽」と数えるようになった理由として、綱吉の好物だった。
という説があります。
戌年生まれの綱吉。子供が出来ないのは、犬を大切にしていないから。と言われ、
犬を含めた獣の保護令を出した理由ですが、ウサギ肉は食べたかった?という。
将軍の食事情を考えると、その説よりも狩りの標的にしたかった為。と考えた方が納得
しやすいと思います。
ピョン、ピョンと飛び跳ねるウサギは鳥の仲間であるから、一羽、二羽と数えるようにした。
という事のようです。
しかし、徳川家では正月の三が日にウサギ汁を食べる風習もあったらしい? です。
三省堂の国語辞典編集委員の一人である飯間浩明さんによると、
『犬も歩けば棒に当る』は、特に冬場、皮や食料にするため、犬が狙われた事から
できた諺で、本来の意味は
「犬が出歩くと棒で叩かれることがあるように、人間も出しゃばるとロクなことがない」。
「江戸に多きものは伊勢屋 (江戸に移住した伊勢商人) 稲荷に犬の糞」という言葉も
あります。時代は不明ですが、生類憐みの令 (綱吉将軍在職期1680~1709年) 頃かも。
この生類憐みの令がきっかけで、江戸では犬をペットとして飼う事がステータスとして、
武家や遊女などに広まったらしいです。(三省堂の国語辞典編集委員の一人、飯間浩明さんによると)
但し、主に買われていたのは狆という犬種で、「狆は他の犬とは違う」という認識だった
という事を聞いた事があります。(文献などの証拠は未確認ですが)
江戸時代のペットブーム 金魚・コマネズミ・犬などペットブームは大坂から広まったようです。
朝日新聞 14.07.21 朝刊 『文化の扉』 |
大名の食事
ビーバップ ハイヒール 江戸の食文化
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【徳川綱吉】とくがわ‐つなよし(1646~1709)幼名、徳松。諡号 常憲院。 家光の4男。母は桂昌院。 徳川第5代将軍(在職1680~1709)。上州館林藩主から宗家を継ぐ。 越後の高田騒動を親裁し、堀田正俊を大老に任じ、譜代大名・旗本・代官の綱紀を粛正、天和の治と称される善政を 実現した。 治世の後半には側用人牧野成貞・柳沢吉保を重用、服忌 ぶっき令や生類 しょうるい憐みの令を出し、社会の文明化を 推進したが、人民を苦しめ、犬公方 いぬくぼうとあだ名された。
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【江戸時代中期の1700年代】 |
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≪ 江戸中期 ≫ Wiki 日本の獣肉食の歴史 など
1689 (元禄2) 年の『合類日用料理指南書抄ごうるいにちよう-りょうりしょう』(中川茂兵衛、出版地は京都)は多くの料理が
載っていますが、「蒲焼」の文字の記述は見られないようですが、「焼き鳥が料理として記載された最も古い文献」
とも言われており、焼き鳥は串に刺して焼き、醤油のタレにつける事が書かれてあるようです。
Wiki 日本の獣肉食の歴史 (18.09.08現在)
『…18世紀の書『和漢三才図会』第37「畜類」の冒頭豕(ぶた)の条では育てやすい豚が長崎や江戸で飼育されている
ことが述べられているが、大坂在住の著者は「本朝肉食を好まないため近年は稀だ」とする。
牛の条の注には、日用としては駄目だが禁止する必要はないとも書かれている。』
国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161 異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693
人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/
明治版と江戸時代初版とは微妙に送り仮名などが違います。当サイトは初版の1712年版を参照しています。
1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』編者は大坂の御城入り医師の寺島良安、版元および出版地は大坂。
第37「畜類」の「豕」
「桉 豕ハ以レ昜ヲレ畜長崎及江戸處處ニ多有レ之然モ本朝不レ好マ二肉食ヲ一 又非下可ニ愛翫一者二上故
近年畜レ之者稀也 且ツ豕猪共ニ有テ二小毒一不レ益アラ二千人ニ一而カモ華人及朝鮮人以二雞豕ヲ一為二常食一」
豚は畜場をもって長崎及び江戸所々に これ(畜場)が多くある。しかるも日本では肉食を好まない。
また愛玩用にする者はいないので、近年は豚を養うものは稀である。
そして豚とイノシシはどちらも毒が少しあるので、(食べても)千人に益は無い。
中華人と朝鮮人はニワトリと豚を常に食べる為に飼っている。
長崎 (出島の外人居留地) と、江戸の所々で豚を飼育している。(長崎・江戸・日本の所々かも知れませんが、
普通に解釈する江戸内の所々です。) つまり江戸には中国又は朝鮮人が居た可能性があります。
日本全体では肉食を好まないしペットにする者もいないので、近年は豚を飼育する者はまれである。
豚とイノシシは毒が少しある (当時は細菌の知識がないので、生焼けで食べると食中毒を起こす事だと思われます)
ので、病気を治療する人以外のほとんどの人は食べても良い事がない。(病気と豚肉食の効能が前述されています)
ウィキペディアの情報によると、1827年の『経済要録』に薩摩で豚を飼育していた事が書かれているようです。
薩摩は桜島の火山灰の影響で稲作が適さず、サツマイモ栽培が盛んで、現在、このサツマイモを豚に食べさせる事で
上質の豚が育つとも言われています。
翻訳され出版された1941 (昭和16) 年版の『ツンベルク日本紀行』(翻訳 山田珠樹、東京市神田の奥川書房 出版)
1776 (安永5) 年に書かれた日本旅行記です。
「第十八章」日本に於いてなしたる動物学的観察 P.314~315から抜粋
「牛 牝牛牡牛に至っては更に数が少ない。なぜならば日本人は牛肉を食べないし、又 牛乳及牛脂を用いることを
知らないからである。時々 牛に車を曳かせたり、一年のある部分は水に浸っている耕地を耕す際に牛を使うことは
ある。
豚 豚は長崎でなければ見ることが出来ない。この動物は手におえない動物で、注意して閉じ込めておかないと、
耕地に大損害を与える。この豚は多分支那から日本に持って来られたものだろう。」
【ツンベルク】Carl Peter Thunberg (1743~1828、スウェーデンの植物学者・医学者)
シーボルト以前の日本研究の第一人者。リンネに学ぶ。オランダ東インド会社に入り、1775年(安永4)長崎オランダ
商館医として来日、翌年出国。著「ヨーロッパ・アフリカ・アジア旅行記」「日本植物誌」。ツンベリー。
※日本の事を色々と調べて書いているものの、ツンベルクの日本滞在期間は1年ほどで江戸参府は1回だけ。
「日本の隅々まで知っているわけではない」という前提を持って記述文を認識する必要があります。
『和漢三才図会』の第37「畜類」の「牛」
ウィキペディアに書かれている部分
「…牛ハ者稼穡之資不レ可ラ二多殺ス一 今天下日用之食物雖二嚴法二ト一不レ能レ禁」 直訳すると↓
牛は耕作する者にとって役立つので多く殺してはいけない。現在の日本の日用の食物としては厳しい掟があると
いえども、禁じる事をできない。
【稼穡】かしょく … 耕作。農事。農業。農作物。 【厳法】げんぽう=「厳しい掟(法律)」 「雖」=「いえども」 「嚴」=「厳」
東日本 (箱根の関から以東) には馬が多く牛は少ない。西日本には牛が多く馬が少ない。京では天皇皇后は牛車である。
市中の米や薪などの運送や農耕にも牛を使っている。東日本では牛に代わって馬を利用している。
東海では漁師がカツオを釣る為の針に牛の角を多く持ちいる。 など書かれてあります。
長いので続きは上記リンクで原文をご覧ください。
牛の場合は牛乳や酪・酥・醍醐・乳腐などの作り方なども書かれてあります。
明治・大正時代は鶏肉が最も高価だった 豚肉なのに「焼き鳥」の謎、昭和前期は東京でも人気。ホルモン
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1729 (享保14) 年の『料理無言抄』(著者は加賀前田藩の料理人である舟木伝内)によって、鹿・猪・カモシカ・狸・狐・
豚・兎・狼・赤犬・牛・鼡ねずみ・蛇・蛙などが食されてきた事がわかります。
1733(享保18)年に伊達家の橘川房常が書いた『料理集』には牛肉を粕漬けあるいは本汁として使うことができるが、
食後150日は穢けがれる旨が書かれています。
1746年成立と言われる『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』(編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) では、料理無言抄に
書かれている動物の調理法が具体的に書かれてあります。
(ほとんどは他の料理本からの流用、獣肉の部分は編者の著した部分と見られています)
彦根藩は「赤斑牛の肉だけは食べても穢れない」との理屈を付けて、毎年の寒中に赤斑牛の味噌漬けを将軍と
御三家に献上していました。
太鼓の皮を献上する為、牛の扱いを許され、余った肉を養生薬として味噌漬けにしていました。
※ 仏教による食肉をタブーとする考え方の影響
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【捕鴨の様子と捕熊の様子】 |
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1799 (寛政11) 年刊の『日本山海名産図会』 (著者は木村蒹葭堂・画は蔀関月 どちらも大阪の人、出版地も大坂)
コトバンク 『日本山海名産図会』
『江戸時代の物産図会。5巻。蔀(しとみ)関月画。木村蒹葭堂(けんかどう)序。撰者は蒹葭堂ともいうが不詳。
《日本山海名物図会》再板(1797年)のあとをうけて1799年大阪の塩屋長兵衛を板元として刊行。各国の農林水産,
酒造,陶器,織物などを図説したもの。』
巻之二には「蜂蜜」「山椒魚」「山蛤」「鴨の捕獲」「熊の捕獲」などが描かれています。
まだ簡単にしか読んでいないので、後日情報を精査してから詳しく書くつもりです。
蜂蜜は熊野 (和歌山から三重あたりの山中) で養蜂 (畜家蜂) を行っていた様子が描かれ解説されています。
山椒魚は疳の虫の薬として使われたようです。山蛤やまはまくぐりはカエル。山城嵯峨・播州の山に多く、摂津神崎辺り
でも獲っていたようです。現在の柄のついた虫網とほぼ同じ網で捕獲している様子が描かれています。
内臓を取って乾物にしていました。たぶん薬として使われたと思います。
また巻の五では、蝦夷 (北海道のアイヌ) のオットセイ猟の様子と松前藩に狩猟採取品を売りに来ている様子が
描かれています。米などとの物々交換が行われていました。
≪ 捕鴨 ≫ 摂津・河内で捕獲した鴨が上物
画像左は伊予国で鴨を網で捕獲する絵で、他に高縄というロープを張っておいて引っ掛ける方法、網を立てて設置
しておき、下に鴨が居る時に縄を引っ張って網を倒す雙返鴨羅という方法、仕掛けて置いた霞網に4かかった鴨を
取る方法の3つの絵が載っています。
摂津大坂近辺で獲ったものが甚だ美味。北中島が上品で、河内がその次。摂津は他国と異なり、鴨羅という捕獲方法
はせず「ハシキデン」という霞網を使った進んだ方法で他とは違う捕獲の仕方だったからのようです。
鴨が暴れる事の少ない捕獲方法だと思います。
明治初期、河内では合鴨の飼育生産が始まりますが、江戸時代の鴨の評判が良かったので、外国からの輸入が
増えるようになるまで、河内鴨は国内生産の中心地となったのでしょう。
大阪は合鴨肉の生産トップだった 1980年頃まで国内シェア70%、2019年に東京進出
≪ 捕熊 ≫ 地域によって狩猟道具が異なっていた
美濃では竹槍、因幡では槍、肥後では鉄砲、北国にては薙刀のようなものを使ったようです。
罠を仕掛けたり、冬眠中を狙ったようです。上記左の画像以外に2つの狩猟の様子が描かれています。
熊の手や足の肉を食べたようで、高貴な人の御膳にも加えられました。蝦夷の人はペットとしても飼っていたようです。
薬用に使われる熊の胆は加賀が上品で、越後・越中・出羽がその次、四国・播州・肥後・信濃・美濃・紀州その他からも
出す。とあるので日本各地で熊の狩猟は行われていた事が分かります。
松前蝦夷は下品な物が多いとあるので、本州のツキノワグマと比べ、ヒグマは価値が低かった事になります。
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【薬石屋・ももんじ屋と各文献記述】 |
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関西テレビ NMBとまなぶくん 鍋将軍 パンチ佐藤 自信の味 本当に旨い冬の鍋SP』 19.01.25 放送
フジテレビ 林修の日本ドリル 『寒い冬に食べたいお鍋の名店 「おでんは関東大震災で全国に広まった!?』 19.02.06 放送
≪ 薬石屋 ≫ やくせきや
日本人は肉をあまり食べなくなったようですが、武士や町民でも肉食は可能でした。
それは養生の為、薬として肉を食すことが許されており、薬石屋と呼ばれる店で、
獣肉を食べる事ができたそうです。
鹿肉やイノシシだけではなく、馬 (さくら) 、キツネ、狼、カモシカ、クマ、カワウソなど
メニューは豊富だったとか。
獣肉などの効能は『和漢三才図会』に書かれてありますが、この書は中国 (明) の
『三才図会』を参照したものです。
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薬石屋
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Wiki ももんじや ビバ江戸! http://www.viva-edo.com/syokubunka.html など
≪ ももんじ屋 ≫ 江戸の薬石屋 江戸では人肝を干した薬が売られていた
江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、
犬や猿、牛、馬など牛肉、馬肉等も肉食させたり、売っていた店のこと。
1746年成立と言われる『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) によると、
麹町平河町付近にあった山奥屋 (通称:ももんじ屋)では、鹿・狐・狼・熊・狸・カワウソ、イタチ、猫、山犬などが
堂々と売られていたそうです。
昔はタヌキとも言われたアナグマ
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猪肉の塊
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鹿肉
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馬肉の赤身
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江戸時代末期の天保年間(1830~44年)の頃になると、ももんじ屋では売るだけでなく、店内で飲食も可能だった
そうです。
「百獣」ももんじ とは書けないので、「山くじら」の看板を出していました。
「山くじら」とは、猪の肉のことで、この店は「尾張屋」といい、猪の肉とネギを鍋で煮て客に出したという。
『皇都午睡』によると、「山くじら」と呼んでいたのは京都と大阪で、江戸では「モモンヂイ」「モモンガア」と呼んで
おり、文化文政頃になってから、「サクラ (馬肉)」や「ボタン (猪肉)」などと呼ぶようになったようです。
「いのしし肉=ボタン」「鹿肉=もみじ」は花札の柄がルーツと言われているそうです。
鶏肉・かしわ
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猪肉・ボタン鍋
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鹿肉・もみじ
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馬肉・桜鍋
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明治頃になるまで、肉の血抜きが十分ではなかった為、血生臭さかったそうです。
その為、肉料理を食べる時は味噌煮込みが普通でした。
1643 (寛永20) 年刊の『料理物語』「第五 獣之部」
「〔しか」汁、かいやき、いりやき、ほしてよし 〔たぬき〕汁、でんがく、さんせうみそ 〔ゐのしゝ〕汁、でんがく、くはし
〔うさぎ〕汁、いりやき 〔川うそ〕かいやき、すひ物 〔くま〕すひ物、でんがく 〔いぬ〕すひ物、かいやき、」
『料理物語』「第九 汁之部」 たぬき汁と、しか汁の部分のみ抜粋。他、鶴汁、白鳥汁の記述もあります。
「〔たぬき汁〕野ばしりは かはをはぐ、みだぬきは やきはぎしよし、みそ汁にて したて候、つまは 大こん ごぼう
其外色々、すひ口 にんにく、だし さか しほ
〔しか汁〕うすみそに だしくわへ、つま色々入したて申候、すひ口 にんにく こせう」
鳥は「小鳥」「鶴」「雉」「白鳥」「鶏」「鴨」「雁がん」「山鳥」「鷭ばん」「鳧けり=チドリ科」「鷺さぎ」「鶉うずら」
「五位鷺ごいさぎ」「雲雀ひばり」「鳩」「鴫しぎ」「水鶏くいな」「鶫つぐみ」「雀すずめ」などの記述があります。
1830 (文政13) 年刊の『嬉遊笑覧』巻十上「飲食」 P.384~385 四足類料理 獣店 嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
【嬉遊笑覧】きゆうしょうらん
江戸後期の類書。喜多村信節 (江戸の人、1783~1856、国学者・考証家) 著。12巻、付録1巻。文政13年 (1830)
自序。部類を分け、和漢の書から特に近世の風俗習慣や歌舞音曲に関する事物を集めて叙述・考証したもの。
「…友山の【落穂集】に我等若き頃迄 御当地町方に於て 犬と申者は稀にて 見当不申事に候は 武家町方共に
下々の給物には 犬に増りたる物は無 之とて冬向に成候へは 見合次打殺賞翫致すにて付ての義なり
(是故に近在迄も求めしこととしらる) これらのことありし故に 犬を殺す事を禁ぜられたるより 此風止て 昔はくいたり
と聞ば あるまじきことのやうに おもふは いとよきことなり
【大道寺友山】だいどうじ‐ゆうざん(山城の人、1639~1730、江戸で没)
江戸中期の軍学者。名は重祐。小幡景憲・北条氏長らに軍学を学ぶ。のち会津など諸藩に
招かれて軍学を講じた。著「武道初心集」「岩淵夜話」「落穂集」。 落穂集は1728 (享保12) 年頃成立。
Wiki 大道寺友山 コトバンク 『大道寺友山』
【賞翫】しょう-がん
① めでもてあそぶこと。珍重すること。 ② あじわうこと。賞味すること。 ③ 尊重すること。
むかし三州岡崎に獣店ありしとなり 三州=三河の別称。
【夷曲集】(正成) 獣のみかはをはいで みせ棚のこゝや かしこに岡崎の町
むかし江戸四谷に猟人の市 立ありしとぞ 是故に今も獣店といふあり
【類柑子】に膓を塩にさけふや雪の猿 哀猿の声さへたてぬなりけり
昔 四谷の宿次に猟人の市をたて 猪かのしゝ羚羊 狐 貉 兔のたぐひを とりさかして商へる中に 猿を塩づけにし
いくつもいくつも引上て 其さま魚鳥をあつかへる様になり云々いへり
(これに昔とあれば 当時は なかりしこととしらる 延宝天和のころにもやありけん 煮売の出来しは明和このかた歟)」
膓=腸、はらわた。 宿次=宿場。 羚羊れいよう=カモシカ。 貉むじな=主にアナグマの事だが、タヌキも含む。
哀猿=悲しげな声で鳴いているサル。延宝=1673~1681年。 天和=1681~1684年。 明和=1764~1772年。
ざっと訳すと、こんな感じ。
1707年刊の連歌集で宝井其角が、はらわたに塩を詰めた猿が売られていた事を詠んだ句がある。
江戸の四谷に猟師が獣肉の市場 (店) を出し、イノシシ・カモシカ・キツネ・アナグマ・ウサギなど色々と売っている
中にサルの塩漬けがいくつもあった。魚や鳥を扱うように上から吊るされていた。
(類柑子に昔とあるので、1707年頃は猿の塩漬けは無かったと分かる。1673~1684年頃にもあったのだろうか?
獣肉の煮売りが始まったのは1764~1772年頃からだろうか。
【類柑子】るいこうじ
俳文・連句集。其角の遺稿を貴志沾洲せんしゅうらが補修したもの。3冊。1707年(宝永4)刊。
下巻に「晋子(其角)終焉記」、其角追悼句などを収める。
【宝井其角】たからい‐きかく (近江の人、1661~1707)
江戸前期の俳人。本姓、竹下たけもと。母方の姓は榎本えのもと。号は宝晋斎など。江戸に来て蕉門に入り、
派手な句風で、芭蕉の没後洒落風をおこし、江戸座を開く。蕉門十哲の一人。
撰「虚栗みなしぐり」「花摘」「枯尾華」など。
『落穂集』の記述内容を三田村鳶魚は疑問に思っているようです。
1929 (昭和4) 年出版の『江戸時代のさまざま』 三田村鳶魚 著 (東京生まれ、江戸の風俗・文学の研究者)
「来て見よがしの額際」P.559~560
「と云った訳で、唐犬の流行は凄しい、けれども大道寺友山は、
我等 若き頃迄は御番代の町方に於いて、犬と申すものは、稀にも見当たり申し候ず、もし たまさか見当たり
候えば、武家町方 共に下々の食べ物には犬に増さりたるものは之なし (落穂集)
こう言っている、友山は八十九歳の享保十二年に此の落穂集を書いたので、明暦三年の大火の時は十九歳
だったとも書いている、如何に唐犬が流行しても、明暦の頃までは、江戸に犬が少なかったろうか、
西鶴が『今の世間に野良犬の子と金銀の沢山なる故』(男色大鑑)というのを見て、上方と比較して疑わしく
思うのではなく、間もなく刊行された寛文版の子孫鑑『芝迄の道中、町々、先犬一ッ吠えれば、或いは二三十、
或は四五十、又辻々にては数百匹に及べり』とあるのに対して、落穂集に少ないというのが不審される、
少ないというのと多いというのと、それが十年と間がないだけに猶々疑いは深い、何分にも西鶴の両吟一日千句
(延宝九年)に唐犬の身の行く末は野に住みて が融通したい、
上方でも関東でも お大名様 お武家様の間の唐犬流行から、犬口増殖の勢は滔々として、階級を跨いで市街地に
溢れてきた、其角が智海へ送った手紙にも、
近年又御率杖候て、江戸のさわがしき、犬の屎ども御ふみ成されべく候 とある、
是は元禄七年に書いたのだ、江戸に最も多いものと言い慣らされた『伊勢屋稲荷に犬の糞』は、江戸の末ことでは
なく、其角の手紙で知れた、二百年以前からの江戸の名物である。」
明暦=1655~1658年、明暦三年=1657年。 享保=1716~1736年 享保十二年=1728年。
井原西鶴 (江戸前期の浮世草子作家、大坂の人、1642~1693) 延宝九年=1681年
『子孫鑑』寛文十三年=1673年刊、寒河正親 著、 京都の福森兵左衛門 出版。
宝井其角 (江戸前期の俳人、松尾芭蕉の門人、近江の人、1661~1707) 元禄七年=1694年
犬が少なかったと推測されているのは1657年で、三田村鳶魚が提示している史料は1673年と1693年。
1673年の『子孫鑑』は著者の詳細は不明ですが、京都で出版された本です。「芝までの道中」なので江戸の事を
書いたようです。
武士の嗜みとして鷹狩が行われているので、各大名屋敷で鷹が数羽ずつ飼われているのは普通なので、その餌と
されていた犬も多くおり、それらの鳴き声が多かったとしてもおかしくはありません。
江戸の治安システム 江戸の治安は良かったのか? 最も治安が良かったのは大坂で、江戸の治安は非常に悪かった
江戸時代前期の江戸では辻斬りが横行し寛永 (1624~1645) 年が最も多発。綱吉時代に減ったようです。
『守貞漫稿』によると、江戸で初めて飲食店ができたのが1657年の明暦の大火の後に浅草にできた奈良茶屋。
『嬉遊笑覧』によると、江戸では寛文 (1661~1673) の頃はまだ料理店は少ない。
江戸幕府5代将軍の徳川綱吉(在職1680~1709)の「生類憐みの令」の1つ、1693年に鷹狩が禁止されています。
鷹1羽あたり年間100匹の犬が鷹の餌となっていたので、それが救われた結果として犬が急速に増加したようです。
三田村鳶魚が引用した其角の手紙は1694年なので、落穂集の記述の反論にはなりません。
これらを鑑みると、江戸時代前期の江戸では人間の食料として猿や犬が食べられていたが、明暦の大火の後に
焼け野原になった町が再整備され、飲食店が次第にでき始めるなど文化が進み、猿や犬を食べるのは少なくなって
いった。
『子孫鑑』が出版された寛文 (1661~1673) 頃には、犬は鷹の餌として飼育するようになったので大名屋敷などで
犬の数が増加。
徳川綱吉と生類憐みの令などの年表と解説、朝日新聞のまとめ記事 より
1686 (貞享3) 年に、主に犬を食べていた かぶき者を大量に検挙し、1687年に犬切りした者を処罰する令が出され
犬を食べる者がいなくなる。
1693 (元禄6) 年の令によって、鷹の餌だった犬が野放しになり野犬が増える。
この野犬対策として中野に10万匹収容の犬小屋などが設置される。
1709 (宝永6) 年に綱吉が死去し、生類憐みの令の各法令は即刻廃止。また、獣肉類を食べるようになった。
築地市場 (昭和10年開場) 江戸や関東の海魚食は大坂からの漁民と商人が始めた
江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃
江戸時代中期に摂津系商人によって関東での魚の流通が整備構築運営され、1782(天明2) 年の『豆腐百珍』
ブームなどを経て、タンパク質を摂取する事が容易くなり獣肉食はしだいに減っていったと思います。
この文の前後にも犬の事が書かれてあります。P.551~561「松島五大堂の絵馬 江戸以前の思出」をご覧ください。
江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
元亀・天正 (1570~1593年) の奥羽永慶軍記に太田三楽という人が軍用犬を使用した記録を紹介しています。
江戸時代以前に唐犬 (江戸時代は唐=中国・朝鮮だけではオランダなどの事も言った。唐犬とは外国犬)
元和 (1615~1624年) から唐犬が流行。鍋島・有馬の両家で知られた猫騒動と犬。
狂犬病は享保 (1716~1736年) 以降とあるが、万治四年 (1661年) 七月に人を害する山犬狩りをした。など。
すぐ下に 、1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) の下巻の内容を
書いていますので、ご覧ください。狐や犬、狼などの料理が載っています。
赤犬と狼は「煎炙」は唐辛子で、「汁」は大根・ごぼう・ねぎを加えて食べていたようです。狸・狐も同様の汁料理。
ペットブーム 大坂(上方)から、江戸へ そして全国に広まった。 現在、錦鯉が日本より海外でブーム。
唐犬 (洋犬) は戦国時代にポルトガル船によって輸入でき、大名たちが飼うブームがあったようです。
1666 (寛文6) 年刊の狂歌集『古今夷曲集ここんいきょくしゅう』 巻第九 雑下 P.160 古今夷曲集 生白堂行風 編[他] 有朋堂書店、大正12年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977943/186
【古今夷曲集】ここんいきょくしゅう
狂歌集。10巻4冊。生白堂行風編。1666年(寛文6)刊。夷曲歌ひなぶりうたすなわち狂歌を集める。
上代 (大昔、一般的に飛鳥・奈良時代頃) から江戸初期までの狂歌(夷曲)1060首を集めたもの。
「獣のみかはをはいで 見せ棚の爰や かしこに岡崎の町 (詠み人は防州〔山口県東部の周防〕 正成)」
愛知県中央部の三河の岡崎には、獣の身皮を剥いで売る、店があちらこちらにあった。
(見世も棚も商店の意味です。)
郷土読本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109335 のP253~264に「猿の話七編」として『続撰清正記』『古今著聞集』
『今昔物語』などにある「猿の説話」を選出して掲載されています。
猿を食べた事などは載っていませんが、東国の武士にとっては猿は狩りの対象だったと思われます。
淡路島のニホンザルは優しい遺伝子を持つ特別な集団 科学的に証明
1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) の下巻
十『一色料理上』と十一『一色料理下』の部分は『四季料理献立(成立年不詳)』には無い黒白精味集独自の記述。
「一色料理上」には魚類の種類別の料理法が記され、『鯨クジラ』が含まれています。
「一色料理下」には、海老・貝類の各料理法が記されていますが、オットセイも記されています。
「龞 冬専に寒中に用ゆ 膃肭臍ヲットセイ 革鯨の少し かろき物也 善悪あり」主に汁物、すまし吸物で食されています。
「一.龞べつ 生にて首を切 甲の間より小刀を入 廻して切て 湯に生姜をおろし入 鍋にて いり上て後つかふ也
西国の一法也 又 首を五徳にかけ 甲の方より焼て 身取法も有」 龞はスッポン。
「一色料理下 鳥の類」
鶴・斑鴈いかる?・真鴨・雉子きじ・青鷺あおさぎ・水鶏ばん・鷸しぎ・鶉うずら・雲雀ひばり・くいな・雉子鳩・白鳥・
大小鳥 (つぐみ・ひよどり・むくどり)・小鳥・鶏・あひる・白鷺・深山鳥みやまどり (山奥に住む鳥) などの料理法。
「一色料理下 肉料理の類」
「一.総て四足の類 鹿臭して悪し 料理にて臭きなし 臓腑に手を不付 肉をそぎ取りて 冷水にて晒し候得ば
水血の如く成也 幾篇も水を替 水野すむ迄 水をかえ 能 水気を取 冷酒かけ置候へば 三十火はもち申也
兎 下鳥の臭 皆如此してよし
一.専ら寒中に用 十月より十一月十二月迄用 寒塩にて春夏用」
鹿・猪・カモシカ・狸・狐・豚・兎・狼・赤犬・牛・鼡ねずみ・蛇・蛙・柳の虫・臭木くさきの虫・ムカデ・イナゴの料理法の
記述があります。「牛 豚 野牛 山鳥 阿蘭陀オランダ食 也」とも書かれてあります。
『黒白精味集』 上巻 四 「飯・汁・膾・差躬」 差躬は「さしみ」と読むようです。「湯引き」なども含まれています。
こちらにも「狸汁」が載っていますが、タヌキとは別。
「魚の摺身 玉子の白身にて しるしるとのべ 小鴨にても 鳩にても骨を細かにたたき すり身に交 鳥の油にて
のみ入のごとくして あげたる物也
又 米の粉 葛の粉を交 鳥小く作 もみ合 薄みそにて ざつと煮付 汁へ入たるも 狸汁と云
又こんにゃく少く切 油上にして 米の粉 葛の粉 おのみ 右 四色合て つみいりのごとくして 薄味噌にて煮て
汁へ入る 惣て 妻は 大根わ切集め汁にも吉 油は鳥の油 上也 精進には かやの油真は こんにやく つみ切
油あげにして 狸汁と云う 精進の時のことなり」
千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf
幕末の『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類「獣肉」
「皇國も上古は貴賤ともに食レ之也 天武帝四年勅て是を食すことを禁止し玉ひし後は食することなし
然れども 海江に遠き山家にては猶 密に食せしなるべし 予が覺へては大坂□□橋西邊に冬月のみ
藁莛を敷き弓張挑燈を置いて夜分のみ賣レ之 其夫は△△村の○○也 唯二三所のみ鹿肉を專とす
買レ之者は小祿武家の奴僕等のみ
大坂も文化頃より諸所此店あり 然れども葭蔶店等にて沽券外の地のみ也
江戸は麹町に獣店 (けものたな) と云て一戸あるのみなりしが 近年諸所賣レ之 横濱開港前より所々豚を畜ひ
開港後彌々多く 又獣肉店 民戸にて賣レ之こと專也 開港後は鳥鍋豚鍋と記し招牌を出し
鍋燒に煮て賣る店も所々に出たり
三都ともに獣肉賣店には異名して山鯨と記すこと專ら也 又猪を牡丹 鹿を紅葉と異名す 虎肉あらば
竹と云歟」
「猶なお=尚」「彌いよいよ」「莛→莚・筵むしろ?」「挑燈ちょうとう→提灯ちょうちん?」「奴僕どぼく、ぬぼく」「葭蔶→葭簀よしず」
「招牌しょうはい=看板」「□□と△△は自主規制」「○○=差別語なので、表示してはいけないようです。」
日本も大昔は身分関係なくこれを食べていた。天武天皇の命令でこれを食べる事を禁止された後は食べない。
しかし、海や河口に遠い山の民は尚、ひそかに食べていた。私が知っているのは大坂□□橋西辺に冬季だけ
藁むしろを敷き、弓張提灯を置いて夜間のみこれを売っていた。その売り手は△△村の○○。
ただ2、3ヵ所だけで鹿肉を専門的に扱っていた。これを買う者は収入が少ない武家の下男などのみである。
大坂も文化 (1804~1818年) 頃より、いくつかの場所でこの店があった。だけど葭簀で囲ってある小屋のような
店なので値打ちが付かない場所のみである。(人があまり行かないような場所でのひっそりとした露店販売)
江戸は麹町に獣店が1店舗あるのみだったが、近年、色んな所でこれを売るようになった。
横浜開港前より所々で豚を飼育し、開港後いよいよ多くなり、獣肉店や民家でこれを専門に売った。
開港後は鳥鍋・豚鍋と記した看板を出し、鍋焼きに煮て売る店も所々にできた。
三都とも獣肉売店には、異名として山鯨と記すこと専らである。又、猪を牡丹、鹿を紅葉と異名した。
虎の肉があれば竹と云うのか?
『守貞謾稿』上巻 第四編生業上「山鯨」「鷄」
「今世 獣肉割烹の店招牌の行燈等には必ず山鯨と記す事三都然り蓋 獣肉上古皆食レ之 其後▲▲御字猥
是を食することを禁じ 今世は又專食レ之 大略 天保以來 漸くに昌ん也
余 幼年の時は大坂□□橋西邊に黄昏より橋邊に草莚をしき 猪鹿の肉および股を並べ賣レ之者 必 小○○也
天保以來 簀張店等にて烹ニ賣之一也 今世 京坂ともに端街に專ら賣レ之 今は葭簀張店のもに非ず小店にて
烹賣する由也 江戸は特に多く賣レ之 三都ともに葱を加へ鍋煮也
鴨以下 鳥を食すは常のこと也 然れども文化以來 京坂は かしわと云 鷄を葱鍋にて烹て食す事專也
江戸は しやもと云 闘鷄を同製にして賣レ之 しやもは暹羅胤なるべし」
近年、三都ともに獣肉を売る店の看板の行燈には必ず「山鯨」と書いてある。大昔は食べていたが禁じられ、
近年食べるようになって、天保 (1831~1845) くらいから、ようやく盛んに食べるようになった。
私が子供の時は大坂□□橋西辺の橋辺りに草むしろを敷いて猪と鹿の肉を売っていた。売る者は○○の子供だった。
天保以来、簀張の簡易な店で獣肉を捌いて売る。京坂とも町はずれでのみ売る。現在は簡易店だけでなく、
もう少しまともな小さな店でも売る。江戸は獣肉を売る店が特に多い。三都ともネギを加えた鍋物にして食する。
鴨など鳥類を食べるのは普段からであるが、文化 (1804~1818) 以降、京坂では「かしわ」と言い、鶏をネギ鍋で
食べる事ばかりになった。
江戸は「シャモ」と言い、闘鶏をネギ鍋で売った。軍鶏シャモは、タイ国の鶏の血を引いた種類である。
「漸=ようやく」「昌ん=盛ん」「莚=むしろ」「簀=す、すのこ」「鷄=鶏にわとり」
「暹羅しゃむろ=タイ国」「胤いん、なね=種」 【暹羅鶏】しゃむろ-けい … シャモの旧称。
「□□は自主規制」「○○=差別語なので、表示してはいけないようです。」
『守貞謾稿』上巻 第四編生業上
「獣肉店追書 此招牌 山鯨或山鯨 (本のマヽ ←出版社の注釈あり) と墨書し丹を以て牡丹と紅葉を描き又 猪を牡丹
鹿を紅葉と異名する故也 亦 嘉永前 豕を賣ること公に無レ之 其招牌たる行燈に墨書して白 琉球鍋 又 獣肉
と しやも鷄と兼賣る者あり」
「招牌しょうはい=看板の事」「亦=また」「嘉永=1848~1855年」「豕=豚」「しやも鷄=軍鶏しゃも」
幕末の『皇都午睡』三編上
「…(江戸では) 鷄を柏かしわなどとは決していはず 猪鹿の肉を京摂にて鹿ろくと云ひ 山鯨やまくじらと異名すれど
江戸にてはモモンヂイ又はモモンガアと云ふ 文華日夜にひらけて 牡丹紅葉などゝ 呼ことゝなりぬ」
「文華ぶんか=文明が華やかなこと」
1911 (明治44) 年の『東京年中行事』上の巻P.241「櫻餅と櫻鍋」 (著者は山口県出身)によると、
「前文の櫻餅の記述 これと同時に櫻の名に因んだ食物と云へば、季節ものではないが櫻鍋の名が思ひ出させる。
何のことはない馬肉鍋のことで、語源は何處に在るか知らぬが、『咲いた櫻に何故 駒つなぐ』の俗謠ぞくえうから
出たものだとも謂いふ。
成程 馬肉鍋とか馬鍋とか云ふよりは、恐ろしく品がよく聞えて、名を聞いた丈だけでは『何だらう、一つ喰つて
見ようか』と云ふ氣にもならされる。こんなことは矢張 東京でなければ聞かれぬことで有る。」
1918 (大正7) 年の『美味くて徳用御飯の炊き方百種』 (慶應大学医学部内 食養研究会 編&出版)
P.164 「燒鳥飯」には「雀、鶉うずら、雲雀ひばりなど、すべてこの類は何に限らず、尋常いつものやうに調理して、
それから辛めの砂糖醤油をつけて炙り、俎まないたの上で之を庖丁で能よく叩いて細くしたものを、炊き立ての
御飯の上に振り掛けるのである。」とあります。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933202
大正時代には小鳥類や鰌どじょうも普通に食卓に並んでいたようです。
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【1776年のツンベルク日本紀行】 家畜と肉食の記述 |
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国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
翻訳され出版された1941 (昭和16) 年版の『ツンベルク日本紀行』(翻訳 山田珠樹、東京市神田の奥川書房 出版)
1776 (安永5) 年に書かれた日本旅行記です。
異国叢書[第4] ツンベルク日本紀行 を所収 1928 (昭和3) 年 東京の駿南社 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179833
ツンベルク日本紀行 1941 (昭和16) 年 東京の奥川書房 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043693
「第十八章」P.314~316から抜粋
「日本人は余り家畜を飼養しない。…牝牛牡牛に至っては更に数が少ない。なぜなれば日本人は牛肉を食べないし、
又牛乳及び牛脂を用いることを知らないからである。時々牛に車を牽かせたり、一年のある部分は水に浸かっている
耕地を耕す際に牛を使うことはある。豚は長崎でなければ見ることができない。…
家禽としては日本人は鶏及び家鴨を飼っているだけである。共にただ卵を食するためでである。日本人はこの卵を
非常に好むのである。その土地から生ずる食料品及び支那人和蘭人の斎す食料品のあるために、その生活を
維持するために沢山の養鶏場を作る必要などはないのである。」
「第二十章」P.338~343から抜粋
「日本諸島ほど食料品に豊富な国は世界中どこにもあるまい。土地から又近海からあらゆる種類の食料品を天然に
獲るし、又人工によりこれを殖すことも出来るのである。
日本人は自然のままで人体に良い衛生的な食料をとるのみならず、自然のままでは人体にとって危険であり又害ある
いろいろの肉類及野菜類をも調理することを知っている。…
食事の回数 日本人は通常 日に三回食事をする。朝八時、午後二時及び夜の八時である。
※ 午後二時の食事は「おやつ」だと思われます。この頃の日本では正式な食事は一日二回が一般的です。
鯨肉 家禽及び野生の鳥類は盛に食べる。方々で貧しい人は鯨の肉ばかし食べて生きている。人も知る如く、この肉は
大変脂濃く赤味を帯びていて、かつ厭な味のするものである。私は船に行く途中で長崎の町にこれが並べてあるのを
度々見た。
肉食 どの国民もそうだが、この国民も人間の心に矛盾の多い事の例證を示すこともある。
日本人は我々と同様に肉食はするし、又食料として必要な時は生物を殺す。然るに海上に出ると決して生物の命を
とらない。私が日本人と共に航海してる間に、肉類の貯蔵が欠乏を告げると、肉類を食べたいときは、自分で鳥を
撃ち落とさねばならなかった。」
※ 肉食=獣肉だけではなく、鳥類の肉も含んだものと考えられます。
【ツンベルク】Carl Peter Thunberg (1743~1828、スウェーデンの植物学者・医学者)
シーボルト以前の日本研究の第一人者。リンネに学ぶ。オランダ東インド会社に入り、1775年(安永4)長崎オランダ
商館医として来日、翌年出国。著「ヨーロッパ・アフリカ・アジア旅行記」「日本植物誌」。ツンベリー。
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※ 明治(1868年10月23日~)初期頃まで、東京では犬を食べる習慣が一部残っていた可能性があるようです。
関西でも明治に入ると牛肉を食べる文化が始まります。 明治・大正時代は鶏肉が最も高価だった 豚肉なのに「焼き鳥」の謎、昭和前期は東京でも人気。ホルモン
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【肉の名を冠した精進料理】 |
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≪ 雉子焼き・狸汁・鴫焼きは、模した料理 (肉を使わない精進料理の料理名) ≫
雁の肉のように豆腐で作った精進料理の「がんもどき」が有名ですが他にも色々とあったようです。
文献を見る時にレシピなどが載っていない場合に勘違いし知っておく必要があります。
1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家)
巻之十 (飲食) 嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104 P.386~387 参照
「精進物を肉菜にならひて作るもの」とあり、雉子きじやき=豆腐料理 (『料理物語』『犬筑波集』『淀河』などの記述)
たぬき汁=こんにゃく料理 (『獣の歌合戦五番』『篗絨輪』『芙蓉文集』の記述)
鴫焼き=茄子料理 (『料理物語』『寛永発句帳』などの記述、『佐夜中山集』では「鴫焼きは必ず秋の茄子なり」) と
書かれてある文献の記述を集めて引用しています。
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【明治時代の東京だけの獣肉鍋料理】 |
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NHK タイムスクープハンター 『明治うさぎバブル』 13.04.06 放送 Wiki ウサギ
≪ 〆子 鍋 ≫ しめこ (東京のウサギ鍋の事)
明治初期には、東京府では、カナリアやコマネズミを飼うことが流行。中でも、うさぎは人気となり『兎番付』を作り、
投機目的で売買する「うさぎバブル」が発生。奸商かんしょうという不正な手段で利益を得る悪徳商人.や詐欺師など
も現れるほどに加熱し、東京府に苦情が殺到しました。 1943 (昭和18) 年から東京都。
【占子の兎】しめこ‐の‐うさぎ
「しめた」の意を、兎を「絞める」にかけていう地口じぐち。物事の思ったとおりになった時にいう。また、「しめこ」は
兎の吸物とも兎を飼う箱ともいう。東海道中膝栗毛 (十返舎一九作、1802~09年刊)[5]「―といきなりに手をや
つてさぐりみれば」
明治6年1月に『兎会集会』禁止条例を発布。しかし、4月にはウサギの売買価格が元で親子ケンカの末の殺人
事件にまで発展。
明治38年の『風俗画報』の記事では、ウサギ1匹 600円 (現在価値560万円) で取引されていた事が載っているそうです。
明治6年12月、ウサギ所有の届け出義務。1羽につき毎月1円の課税。無届は1羽につき2円の罰金が課せられ
ました。するとバブルが一気に崩壊。
投機目的でウサギを所有していた者たちは、料理小屋や屋台のしめこ鍋屋に売ったり、殺処分して不法投棄し
たり、東京の流行物として、地方で高く売りつけようとする者もいたそうです。
excite ニュース 04.12.16 http://www.excite.co.jp/News/bit/00091102924411.html
『代表的な儲かった話といえば、「もらった1つがいウサギに台所のクズ野菜を与えて飼っているうち、10匹ほど
の子を産んだ。毛は刈り取って布団の中綿にし、肉はみそ漬けにして食べ、皮は油を抜いて子供のチャンチャン
コに」といったもの。異常な経済状況が長続きしないのは世の常で、このブームもあっという間に終息、ウサギ税
も6年余りで消滅したそうだ。』
≪ 猫食文化 「おしゃます鍋」 ≫ Wiki 猫食文化 Wiki おっちょこちょい節
猫食びょうしょく文化は犬食文化に比べると少ないようですが、江戸時代は炭鉱夫や体が弱い遊女などが薬として
食べていたようです。
東京では明治中期頃まで一部の人間が食べていた事が、夏目漱石 作の『吾輩は猫である』の冒頭に記述され
ています。1905~06 (明治38~39) 年に雑誌『ホトトギス』で発表された小説。舞台は東京。
『吾輩は猫である』の冒頭
「吾輩は猫である。名前はまた無い。~吾輩はこゝで初めて人間といふものを見た。然もあとで聞くとそれは書生
といふ人間中で一番獰悪な種族であつたさうだ。此書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話で
ある。然し其当時は何といふ考もなかつたから別段恐ろしいとも思わなかつた。但彼の掌に~」
【夏目漱石】なつめ‐そうせき(江戸牛込生れ、1867~1916)名は金之助。
英文学者・小説家。東大卒。五高教授。1900年(明治33)イギリスに留学、帰国後東大講師、のち朝日新聞社に
入社。05年「吾輩は猫である」、次いで「倫敦塔」を出して文壇の地歩を確保。
他に「坊つちやん」「草枕」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」など。
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明治時代の猫の鍋は「おしゃます鍋」と呼ばれました。昭和初期頃まで貧困層に食べられていたようです。
また、戦後の食糧難の時代に闇市などで食べられていたと言われています。
【おしゃ‐ます】(オッシャイマスの約)お言いなさる。
浄瑠璃、関取千両幟せきとりせんりょうのぼり(近松半二・三好松洛・竹田文吉・竹田小出雲・八民平七・竹本三郎兵衛合作。1767 (明和4年)8月4日から
大阪竹本座で初演)「これはまあもつたいないことおしやまして下さります」
1828 (文政11) 年頃から江戸で流行り、幕末の頃に成立し、明治初期に替え歌がたくさん作られ、日本各地のお座敷
小唄として歌われました。
「猫ぢや猫ぢやとおしやますが、猫が、猫が杖突いて絞りの浴衣で来るものか、オツチヨコチヨイノチヨイ」という歌詞
に由来するもののようです。
「猫鍋」というのはイメージが良くないので、その唄の歌詞の「おしゃます」を充てて呼んだものと言われています。
佐藤垢石さとう-こうせき (群馬県前橋市生まれ、報知新聞記者などを経て文筆家、1888~1956) Wiki 佐藤垢石 の
『岡ふぐ談』 http://www.aozora.gr.jp/cards/001248/files/46740_25679.html のサイトに捕えて食べてみた事が詳しく記述が
あります。
下記は一部抜粋
『昔から猫のことを『おしやます』という。おしやますとはどんなところから名が出たのか知らぬが、おしやますの吸物と
いえば、珍饌中の珍饌 (めずらしい料理) に数えられてある。また一名『岡ふぐ』ともいう。 ~中略~
そこで、ありきたりのすき焼き鍋に入れ、葱と春菊と唐芋とを加役として、ぶつぶつと立つ泡を去るために、味噌を
落としたけれど、少しくさみがある。本朝食鑑には、その味甘膩かんじなりとあるが、期待したほどでもなかった。
次に、鍋に入れ水からゆでて、くさみを去るために、杉箸二本を入れて共に鍋に入れる。沸ったならば、目笊に受け
て、水にて洗う。
別の鍋に、里芋の茎、ほうれん草を少々入れたすまし汁を作って置いて、それにゆでた猫肉を加え、再び火にかけ
て沸ったところを碗に分け、橙酢を落として味あったところ、これはひどく珍味であった。
汁面に、細やかなる脂肪浮き、肉はやわらかくて鮒の肉に似て甘い。味は濃膩のうじにして、羊肉に近い風趣がある
と思う。』
少女が年齢の割りに大人びた格好や感覚を身につけていることを「おしゃま」と言いますが、「猫=おしゃます」から
発展し、明治時代以降に使われるようになったそうです。
日本語俗語辞典「おしゃま」 http://zokugo-dict.com/05o/osyama.htm
関東が豚肉文化になった理由 ← 東京目線の理由は完全に嘘でした。本当の理由は豚肉の方が安いからと判明。
大正時代に東京で出版された料理本などの記述では東京も含め上層階では「肉=牛肉」の認識。
当時全国で最も消費されているのは牛肉。カレーも牛肉使用のレシピになっています。
明治・大正時代は鶏肉が最も高価だった 豚肉なのに「焼き鳥」の謎、昭和前期は東京でも人気。ホルモン
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