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【 江戸時代に発達した菓子・甘味2 】 百菓辞典 など より 江戸時代に発達した菓子・甘味1 |
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≪ 砂糖 ≫ Wiki 砂糖 、 人類と砂糖の歴史 :: Science@Sugar http://www.sugar.or.jp/health_k/0701.shtml
江戸時代にはいると、海外からの主要な輸入品のひとつに砂糖が上げられるようになります。
高松藩主松平頼恭がサトウキビ栽培を奨励し、天保期には国産白砂糖のシェア6割を占めるまでになった。
また、高松藩はこのころ和三盆の開発に成功し、高級砂糖として現在でも製造されているそうです。
19世紀にはいると砂糖のかなりは日本国内でまかなえるようになりました。
天保元年~3年(1830年~1832年)には、大坂での取引量は輸入糖430万斤+国産糖2320万斤、合計2750万斤
(1万6500トン)となり、さらに幕末の慶応元年(1865年)にはその2倍となっていました。
≪ 同じ和菓子 東西比べ ≫ 朝日新聞 14.11.16 『生活』 より 原文ママ
『和菓子の老舗「虎屋」が運営する東京・赤坂の「虎屋ギャラリー」で資料展「甘い対決『和菓子の東西』が開かれている。
東京と京都・大阪では姿形が違う和菓子が勢ぞろいしている。
和菓子に関する資料を収集する「虎屋文庫」が催している。
桜餅は、東京では小麦粉を水で溶いて薄く焼いた生地で、あんをくるりと巻いたものが一般的だ。
道明寺粉を蒸した生地であんを包む。道明寺粉は、もち米を蒸して乾燥させ、ひき割って作る。
桜餅は江戸発祥で、江戸時代後期に隅田川名物として広まり、関西にも伝わった。道明寺生地は比較的新しいとみられ、
1897 (明治30) 年ごろに京都で奥村又兵衛という人が「嵯峨名物」として売り出したという記録がある。
小麦粉生地は地域が限られるらしく、虎屋の社内でも、東北出身の社員は故郷で見たことがないという人が多かったという。
虎屋文庫研究主査の森田環さんは「全国的にはあまり知られていないことに驚きました」と話す。
会場では「桜餅大調査」のバネルを設置。来場者に自分の住まいや出身地での種類を書き込んでもらっている。
「くずもち」は、京阪ではくず粉と砂糖を練ってカップに流したり、それであんを包んだりした「葛餅」を指す。
だが東京では、発酵した小麦粉でんぷんを蒸し三角形に斬ったものが「くず (久寿) 餅」だ。
複雑なのが「ぜんざい」。京阪では一般的に「小豆の粒が入った汁粉」を指し、「汁粉」と言えば、粒が入らないこしあんの
汁粉を意味する。
一方、東京の「ぜんざい」は、餅などに汁気のないあんをかけたもの。
「汁粉」には小豆の粒が入ったものと入っていないものがある。
虎屋は室町時代後期に京都で創業、1869 (明治2) 年に東京へ進出した。
小倉あんに白玉を添えたものを、京都の店では「白玉あずき」、東京の店では「白玉ぜんざい」と呼び分けるという。
虎屋文庫の研究主幹、今村規子さんは「菓子は身近でありすぎるせいか、歴史資料が少なく、違いがなぜ発生したか、
いつからかは不明なものが多い」と話す。 東京港区の虎屋ギャラリーでの資料展の展示は30日まで。入場無料。』
静岡市の名物「安倍川餅」 東北の和菓子 お萩と牡丹もちの違い 本当は恐ろしい起源
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【桜餅】 餅の原型「しとぎ」 餅の神様を祀る小野神社、豊前・豊後の名の由来、伏見稲荷大社縁起など |
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≪ 桜餅 関東では違う ≫ Wiki 桜餅 菅原道真と藤井寺 (尼寺 道明寺)
1717年に東京の向島にある長命寺の門番である山本新六が考案したものと言われて
いるのが東京の長命寺桜餅です。 江戸時代1コ 4文 66~100円
実践女子大学 食生活科学科 調理学第2研究室 「葉利用菓子の食文化研究」 12.03.10 公開論文
https://jissen.repo.nii.ac.jp/index.php?=1 ← URLは長いので省略より
『『喜遊笑覧』には「近年隅田川長命寺の内にて、櫻の葉を貯へ置きて、櫻餅とて、
柏餅のやうに葛粉にて作る、はじめは粳米にて製りしが、やがてかくかへたり」
とある。
かしわもちは粳米の粉でつくるが、葛粉で作っていた時代もあったようである。
現在は上新粉に餅粉を加えてつくるものもある。』
【嬉遊笑覧】きゆう-しょうらん
江戸後期の類書。喜多村信節のぶよ (江戸の人、1783~1856) 著。12巻、付録1巻。
文政13年 (1830) 自序。部類を分け、和漢の書から特に近世の風俗習慣や歌舞
音曲に関する事物を集めて叙述・考証したもの。
江戸の長命寺桜餅が現在と似たように形になったのは1800年代。
1717年に誕生したという事も怪しいと思われます。
どちらも画像は桜をイメージしたピンク色ですが、これは近年に食紅を用いて色を
付けたものだと思います。着色をしていない長命寺桜餅も売られているようです。
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長命寺 桜餅
道明寺 桜餅
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日本全国的に道明寺桜餅がほとんどであり、長命寺桜餅が100年後にレシピを変える事の不自然さ、
嬉遊笑覧の書かれた年代および、文章を普通に読み解くと「近年」はレシピを変えた事では無く、作る (売り出す)
にかかってくる事などから考えると、長命寺桜餅が作られ売り出されたのは1817年ではないでしょうか?
そもそも1717年に誕生したという説には根拠や証拠となる史料や文献があるのかすら疑問です。
関東発信の主張において、根拠や証拠を提示する事なく広く流布させ通説としている例は非常に多くあります。
史料や文献などで調べると、これらの多くは思い込みの嘘である事が判明しています。
関東では「願望でも大きな声 (メディアやネット) で何度も言えば、嘘も本当になる」という考え方が江戸時代から
現在もあるようです。→ 江戸ッ子とは? その実態 などと各ページの検証をご覧頂ければ納得できるはずです。
関西の桜餅を関東では「道明寺」と呼ぶそうですが、日本全体では道明寺桜餅が
主流です。
上記の虎屋の説明では明治30年頃売り出された記録があるようですが、広まり方を
考えると、それ以前からあったと思います。
関西→東北への文化伝達が活発になったのは北前船 (江戸時代中期~明治20年頃
まで、物流の中心) の影響ですが、日露戦争の影響で明治37年頃に中止になります。
明治時代になって鉄道が敷かれ、陸上輸送が活発になると共に、東北は東京からの
影響力が強まるからです。
つまり関東以北、特に岩手や宮城に関西の道明寺桜餅派が多いのは不自然な感じです。
とは言え、島根県が長命寺派である事も不思議。
この調査はネットアンケートによるもので、わずか数人の答えだけで結果が変わるので
信用価値は低いですが、近年には多くの地域でどちらのタイプ売られている事は
分かります。大阪でも少ないながら長命寺桜餅を売っているのを見たことがあります。
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関西の桜餅に使われている道明寺粉 (糒) は、大阪の藤井寺市にある道明寺で餅米を乾燥させ保存したのが始まり。
奈良時代に伝わった唐菓子 、唐果餅 の一つに椿餅つばいもちがあり、椿つばきの葉で挟んだ餅がありました。
これが桜餅や柏餅など、木の葉で包んだ菓子のルーツとされています。
平安時代に道明寺粉の椿餅、その流れを汲むのが関西の道明寺桜餅です。江戸時代の料理本にも椿餅が出てきます。
【椿餅】つばき-もち、つばい-もち
しん粉や道明寺製の種であんを包み、上下につばきの葉をあしらった餅。 唐菓子 (8種の唐菓子と14種の果餅) の解説。 年の暮れから新春にかけての和菓子の代表的なもののひとつ。
【道明寺・道明寺粉】どうみょうじ、どうみょうじ-こ 百菓辞典
道明寺干し飯(ほしいい)の略。もち米を水に浸してから、蒸して乾燥したもの。
大阪の道明寺で、天満宮饌飯の下がりを乾燥貯蔵したのが始まりと言われ、兵糧や旅行用食料として重用されたもの。
熱湯を注ぐとやわらかくなり食べられる。また、これに甘く味をつけてもち菓子の回りにつけることもある。
大阪・河内の尼寺 道明寺で、昔、保存食として用いられていたことが名称の由来といわれる。
道明寺粉は、これを荒くひいたもの。粒子の残る口ざわりで、上品な味わい。和菓子のほか、蒸しものや揚げものの
ころもなどにも使う。
大阪府 藤井寺市
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道明寺天満宮
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道明寺
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道明寺 糒 (ほしいい)
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菅原道真と藤井寺 菅原道真の母は古墳づくりの土師氏。おばが道明寺の住職。道明寺天満宮には道真愛用品6点の国宝
1911 (明治44) 年の『東京年中行事』上の巻P.241「櫻餅と櫻鍋」 (著者は山口県出身)
「櫻の花の咲かうと云ふ頃になると、何處どこの餅菓子屋でも必ず櫻の葉につゝんだ所謂いはゆる 櫻餅を賣出す。
中にも向島むかじま言問ことゝひの長命寺の入口に在る櫻餅と云へば、食通ならずとも せめて名位は知らぬ
ものはない。 続きの櫻鍋の記述」
※桜鍋は馬肉の鍋料理。
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【椿餅】つばい-もち 唐菓子(からくだもの)の果餅のひとつ。つばきの葉を合せて、餅を包んだもの。
今の椿餅と同じようなものであるといわれている。つばきもちの古語。
【椿餅】つばい-もちい、つばい-もち
もち米の粉に、あまづらをかけて、丸く固め、椿の葉2枚で包んだ餅。つばきもちの古語。 「桧破子 (ひわりご) 、御酒 (みき) 、椿餅など奉り給へり」平安中期の『宇津保物語』。
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【ぜんざいとお汁粉】 |
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NHK Eテレ きょうの料理 『和・スイーツ ぜんざい』 13.12.19 放送 TBS この差って何ですか? 『日本人も気付いていない外国人がわからない日本の差 「ぜんざいとしるこ」』 18.01.23 放送
日本経済新聞 大阪夕刊 『いまドキ関西』 13.11.12 / 13.11.17 配信 http://www.nikkei.com/article/DGXNASJB0702P_X01C13A1AA1P00/
≪ 関西のぜんざい、関東ではおしるこ 呼び方なぜ違う ≫
■ 関東、汁気あれば「お汁粉」
『そもそも、ぜんざいとおしるこ、何が違うのか。和菓子の老舗である虎屋(東京・港)の菓子資料室「虎屋文庫」を訪ねた。
「関西は粒あん・こしあん、関東は汁気のある・なしで区別しているようです」と研究主査の森田環さん。
関西では粒あんで汁気があるものが「ぜんざい」だ。
こしあんで汁気があるものを「おしるこ」と呼ぶ。汁気のない粒あんの場合は「亀山」などと呼んで区別している。
それに対して関東では汁気があれば「おしるこ(お汁粉)」とひとくくりにする。粒あんを使っていたら「田舎汁粉」「小倉汁粉」、
こしあんを使ってたら「御膳汁粉」という具合。
汁気がないあんを餅や白玉に添えると「ぜんざい」になり、冷たくしたものは夏のデザートとして好まれている。
なぜ関西と関東でこんなに違うのか。深まる謎に苦しんでいると、森田さんが助け舟を出してくれた。
「江戸時代には、もう違いがあったようですよ」
江戸時代後期の風俗を記した「守貞謾稿(もりさだまんこう)」には善哉が登場する。
「京都・大阪では専ら赤小豆の皮を取らず、黒糖を加え、丸餅を煮る」という感じに説明する。
この書物、汁粉についても言及がある。
「江戸では赤小豆の皮を取り、白糖の下級品あるいは黒糖を加え、切り餅を煮る。
京都・大阪でも皮を取ったものは汁粉またはこしあんの善哉という」
関西から江戸に広がった食べ物であるとも考えられるが「呼び名が分かれた経緯を示す文献は見つかっていない」
(森田さん)らしい。関西のぜんざい・おしるこの違いが正しく伝わらなかったとの説もある。
京都の料理研究家の大原千鶴さんの「栃餅ぜんざい」と、江戸懐石の柳原一成さんの「粟あわぜんざい」↓ |
■ 「善哉」「神在」、語源に諸説
そもそも、ぜんざい・おしるこの語源は何なのか。
おしるこは「お汁粉」と表記することから、見た感じでネーミングしたと想像できる。
ただ、ぜんざいは善哉で、ピンとこない。そこで、ぜんざい発祥の地として街おこしに取り組む島根県出雲市に足を運んだ。
出雲ぜんざい学会事務局の古島尚さんによると、ぜんざいの語源は「神在(じんざい)餅」という。
出雲地方では旧暦10月に全国から神が集まるという神在祭(かみありさい)があり、振る舞われたのが神在餅だった。
「じんざい」が出雲弁でなまり「ぜんざい」となって京都に伝わったというのだ。
神在餅説は江戸時代の朱子学者、林羅山が著した「梅村載筆」などいくつかの文献に書かれており有力視されている。
出雲地方では実際、ぜんざいの人気が高い。古島さん自身、こしあんの汁で作るおしるこは「ほとんど口にしたことがない」
と話す。
とんちで有名な室町時代の禅僧、一休宗純を名付けの親とする説もある。
一休が餅入りの小豆汁を食べ、おいしさに感動して「善哉(よきかな)」とつぶやいたというのだ。
室町時代に書かれた文献にも「小豆汁に餅を入れて善哉として食べた」という意味の記述があり、遅くとも室町時代には
京都でぜんざいが食べられていたようだ。
ここで新たな謎があることに気がついた。沖縄で夏の風物詩として親しまれている「ぜんざい」の存在だ。
甘く煮た金時豆を汁と一緒に冷やして器に盛り、白玉とかき氷を載せるのが一般的だ。
ところ変われば、大きく変わるぜんざい。その土地の人々が「よきかな」と思う味に進化していったのかもしれない。
100年後を想像しながら味わうのも一興だ。』
江戸には茹でた蕎麦に、こしあんをかけた「そばぜんざい」というものもあるそうです。
【善哉】ぜん‐ざい 広辞苑
① 善いと感じてほめ、または喜び祝う語。よいかな。
謡曲、白髭 「明神も御声をあげ、善哉、善哉、と感じ給へば」
② 関西では、つぶし餡あんの汁粉。 関東では、粟餅・道明寺餅・白玉餅などに濃い餡をかけたもの。
【汁粉】しる‐こ 広辞苑
小豆の餡あんを水でのばし、餅または白玉などを入れたもの。漉餡こしあん のものと粒餡のものとがある。
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そば ぜんざい
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【田舎汁粉】 つぶし餡の汁粉。 ⇔【御膳汁粉】 こし餡を溶かして餅を入れて仕立てた上等の汁粉。 広辞苑
※ つぶし餡をまぶした団子は、田舎団子というようです。
【善哉】ぜんざい 百菓辞典
ぜんざいもち (善哉餅)、ぜんざいしるこ (善哉汁粉) ともいう。
関西ではつぶしあんのしるこ (関東の田舎しるこ) を意味し、関東では餅に濃いあんをかけたものを意味する。
【汁粉】しる-こ 百菓辞典
あずきあんに水を加えて汁とし、砂糖を加えて煮、中に餅か白玉などを入れたもの。
こしあんを使ったものは御膳汁粉、あずき粒の入っているものは小倉 (おぐら) 汁粉、つぶあんを使ったものは
田舎 (いなか) 汁粉、餅にゆであずきか濃いあんをかけたものは善哉 (ぜんざい) という。
ただし、関西では、つぶししあんのしるこのことをぜんざいという。また、白あんの汁粉に抹茶を入れる
常盤汁粉、餅のかわりに小麦粉を練ったものを入れた伊良湖汁粉などがある。
室町時代の一休宗純が「善き哉、この汁」と言った事から「善哉」となったという説。
TBS この差って何ですか? 『日本人も気付いていない外国人がわからない日本の差 「ぜんざいとしるこ」』 18.01.23 放送
≪ 汁粉の江戸発祥説は嘘、汁粉のルーツは「すすり団子」です ≫
TBSの番組で善哉と汁粉の違いとルーツと紹介していました。東京では汁粉、関西では善哉と汁粉に分類して呼ぶ。
善哉のルーツは、出雲の神在餅という事までは問題ないのですが、「諸説あります」として紹介していた汁粉のルーツは
完全に間違いです。
京都の二年坂で大正3年創業の甘味処「かさぎ屋」(ぜんざいとしるこを販売) の3代目店主の早川良子さんの説
「おしるこが生まれたのは、関西ではなく江戸の町に砂糖が出回って生まれたものだと聞いております。」
続く番組ナレーションでは、「江戸中期、江戸に砂糖が出回るようになると、小豆の粉をお湯で戻した汁に、お米で
作った団子を入れて、さらに砂糖を加えて食べるようになりました。
この食べ物は、小豆の粉で作った汁だったので、しること呼ばれるようになったのです。
そして江戸後期になると、その汁粉を屋台で売る志るこ屋さんが現れて2種類の汁粉が売られるようになりました。
まず1つは小豆の皮を残した粒あんで作る田舎汁粉。もう一つは小豆の皮を丁寧にこしたこしあんで作る御前汁粉。
その後、江戸の2種類のお汁粉は関西にも伝わっていったと言います。」
早川良子さん「こしあんのお汁粉は江戸から来た珍しい食べ物として関西に広まったようです。」の映像が入り、
ナレーションで「関西にはすでに粒あんの善哉があったため、粒あんのお汁粉は受け入れられず、一方、こしあんの
今までにない珍しい食べ物として人々の間で人気になり、関西にも定着していったと言います。」
「なので、現在関西では粒あんの汁は善哉、こしあんの汁はお汁粉と呼び分けているのです。」
(以上は嘘の説です。江戸時代の文献を確認してみましょう。)
『守貞漫稿』には粒庵と漉し餡の2種類の汁粉がある事が書かれてありますが「夜賈は上に云 汁粉一種を販るのみ」と
あります。上の「志るこ」とある浮世絵は歌川広重の東都名所「高輪二十六夜待遊興之図」です。
ちなみに江戸では粥を食べ慣れていないので、小豆粥も砂糖を加え甘くして食べていました。
江戸時代前期の1643年(寛永20)刊の『料理物語』「第十七 後段之部」
〔すヽりだんご〕
もち米六分 うる米四分の粉を水にて やはらかにこね、むくろじほどに丸め、あづきのしぼりこにて よくにて、
鹽かげんすひ合せ、白ざたうかけて出しよし
料理物語は上方言葉で書かれており、内容的にも大坂人が書いたと思われます。
江戸時代中期に料理書 (上方で書かれたものが多い) を、江戸在住者が編集した黒白精味集に「すヽりだんご」の
レシピに「しるこ」の文字が書かれてあります。↓
1830年刊の『嬉遊笑覧』巻十 「飲食」P.436に「善哉汁」、続いてP.437に「汁粉」「すゝりだんご」が書かれてあります。
「【一休物語】或人 一休といふ名の由を聞いて歌よむを 一休きこしめし善哉々々とて尻ついてよろこば給云々
(貞徳が【淀川】に噺しむ時 尻もつくものなり云々) これ善哉餅をあやなして書たるなり 赤小豆をこし粉にせざる
汁こ餅と見えたり 又
【洛陽集】に日蓮忌御影講や他宗のうらやむぜんざい餅 (高成) 今は赤小豆の粉をゆるく汁にしたるを汁粉と云
ども昔はさにあらず すべてこといふは汁の實なり
【寛永発句帳】に名月 (幸和) 芋の子もくふや しるこのもち月夜 又
【油かす】に握られん物かやたゞはおくまじや しるこの餅は箸そへてだせ 又 すゝりだんごは今と異ならず
【料理物語】に出たり 但し餅うると四六わりの粉にて作る」
ちょっと現代文に訳すには分からない文章もありますが、【洛陽集】の「洛陽」は中国の洛陽に見立てた、京都の
異称。編者は浜川自悦 (京都の人、生没未詳、京都談林派の主要なひとり)。
コトバンク 『浜川自悦』
【寛永発句帳】とは1633 (寛永10) 年刊の『俳諧発句帳』の事。編集者は京都の親重 (野々口立圃)。
コトバンク 『俳諧発句帳』
【野々口立圃】ののぐち‐りゅうほ(京都の人、1595~1669)
江戸初期の俳人。名は親重。業は雛屋。連歌・和歌・俳諧に長じ、のちに松永貞徳の門を去り一派をなし、多芸
多才で俳画にも巧み。著「俳諧発句帳」「はなひ草」「小町躍」など。自選句集「空礫そらつぶて」。
【淀川】と【油糟あぶらかす】は京都の松永貞徳が1643年に刊した付句集。
【松永貞徳】まつなが‐ていとく(京都の人、1571~1653) 江戸初期の俳人・歌人。名は勝熊、号は長頭丸・逍遊軒など。細川幽斎に和歌を、里村紹巴じょうはに連歌を学んだ。 和歌や歌学を地下じげの人々に教え、狂歌も近世初期第一の作者。「俳諧御傘ごさん」を著して俳諧の式目を定め 貞門俳諧の祖となる。花の下宗匠。門人に北村季吟らの七哲がある。編著「新増犬筑波集」「紅梅千句」など。
【新増犬筑波集】しんぞういぬつくばしゅう … 松永貞徳の付句集。2冊。1643年(寛永20)刊。「油糟」「淀川」の総称。
江戸時代初期の寛永 (1624~1645年) 年間に「しるこ」という言葉が京都で使われていた事が分かります。
【油かす】の記述を中心に考えると、汁粉もすすり団子も粒なし (漉し餡) の小豆の汁ですが、汁粉は餅入りで
一品で出す (一品なので箸が必要) 物。すすり団子は饗宴の後に出す後段で、団子が入った物と言えそうです。
1689(元禄2)年の料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』中川茂兵衛 著 出版地は京都。
一巻の「粉乃類」には栗の粉・大豆の粉などが記されており、草書体なので完全に訳せませんが、
白小豆の粉では一晩水につけて蒸籠でむし、すり鉢ですって粉にするような方法が書かれてあります。
こしあんを作る事が出来るのが分かります。
「餅之類」には「あん団子の方」があり、団子の中にあんを入れて蒸籠で蒸す事が読み取れます。
「あん=小豆の餡子」という言及はありませんが、次の「麩の焼の方」には「…こしあんを○し」の記述があります。
1746年成立と言われる『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』「中巻 七 後段」 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)
「すヽり団子 餅米六合 うる米四合 はたき粉にして 絹振ひにてふるひ ぬる湯にてこね むくろじ程に丸め
かたまらぬ様に湯煮して 小豆 漉粉にして 塩喰塩に入 水にてのべ煮立 団子を入出す 向に砂糖 酢菜なと付出す
粒小豆少し入たるも面白きもの也 又しるこ餅も 漉粉にして 粒小豆少し入たるが能ものなり」
【後段】ご-だん
② 江戸時代、饗応の時、食後に他の食物を出したこと。また、その食物。
↑宴会での〆やデザートの事です。食の各文献には麺類や餅類、粥系が多く書かれてあります。
【綴り団子】すすり-だんご
糯米の粉と粳米の粉とを4分6分の割にして蒸して作っただんご。汁粉に入れて食す。
【白玉粉】しらたま-こ
糯米を洗い水に漬けたのち水切りし、水を加えながら磨砕し、水にさらし、乾燥させたもの。
以前は寒中に作ったので、寒晒し粉ともいう。季語は夏。
幕末の『守貞謾稿』下巻 第五編 生業下 「善哉賣」&「汁粉賣」
「京坂にて專ら赤小豆の皮を去ず 黒糖を加へ丸餅を煮る 號て善哉と云」
「江戸は赤小豆の皮を去り 白砂糖の下品 或は黒砂糖を加へ切餅を煮る號て 汁粉と云
京坂にても皮を去りたるは汁粉 又は 漉餡の善哉と云 又 江戸にて善哉に似たるを つぶしあんと云
又 こし粉あんの別に全體の赤小豆を交へたるを鄙 汁粉と云 或は八重成あり 八重成は小豆に似て碧色也 葢
夜賈は上に云 汁粉一種を販るのみ 店賈は數品を製し 價も貴きあり 夜賈のは 三都ともに 一椀 十六文也
又 三都ともに此賈を正月屋と異名す 行燈にも正月屋と書る者多し 又 三都ともに善哉 汁粉うりは 温飩 そばやの
扮に似たるを以て…」
「全體=全体」 「鄙ひな=都から離れた田舎」 「圖=図」 「温飩=(温かいのが普通) うどん」 「扮=扮装」
「八重成=金時豆 (隠元の一種、きんとき小豆) か 大角豆ささげ のいずれか、と思います」
【正月屋】しょうがつ-や
雑煮・汁粉などを売る大道商人。1809~13年刊、式亭三馬 (江戸の人) 作 浮世風呂「―でござい」
幕末の『皇都午睡』三編上
江戸では「善哉を汁粉、餅の入たるを田舎汁粉、薄皮餅を今坂餅、…」とあります。
幕末の『守貞漫稿』第二十八編「食類」の「粥」P.416
「正月七日には三都ともに七草粥 十五日は小豆糜也 京坂あづきかゆには鹽を加へ炊き食す
江戸は鹽を加へず炊 後 專ら 霜糖を加へ食す 是 常に粥を食し馴ざるの故に糖味を假て食レ之也」
「糜」=「粥」かゆ 「鹽」=「塩」 「假」=「仮」
江戸時代末期頃には江戸でも七草粥を食べていた事が分かります。
江戸では粥を食べなれていないので、小豆粥は砂糖を加えて甘くして食べていたようです。
≪ 明治末期頃の東京では粒がある汁粉 (関西で言うぜんざい) が主流か ≫ 与謝野晶子の月見だんご
与謝野晶子と与謝野鉄幹の子供が書いた回顧録『晶子と寛の思い出』の中に下記の一節があります。
『母はやっぱり お菓子屋さんの子だから、お菓子の作り方はよく知っておりました。(中略)
お汁粉なんかは わりあいよく作ってくれました。 よその家では、ぜんざいって、ほら、潰さない小豆のままのでしょ。(中略)
ぜんざい みたいなものは未完成だって馬鹿にして 作りませんでした。 いつもお汁粉。』 与謝野光「晶子と寛の思い出」より
【与謝野晶子】よさの‐あきこ 旧姓、鳳ほう。堺市生れ(明治・大正・昭和 1878~1942)。堺女学校卒。 寛の妻。
歌人。新詩社に加わり、雑誌「明星」で活躍。格調清新、内容は大胆奔放。歌集「みだれ髪」「佐保姫」「春泥集」の
ほか、「新訳源氏物語」など。20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。
1901年(明治34)、東京に移り、歌集「みだれ髪」を創刊、奔放自由な歌風で本能の解放をめざし、大きな反響を
よびおこした。与謝野鉄幹 (本名は寛、京都生まれ)。
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≪ 当サイトの関西における「善哉と汁粉の違い」の見解 ≫
江戸時代、「香の物」はおいしくする為に発酵させたもの。「漬物」は主に保存する為に塩漬けで発酵させたもの。
内容はほぼ同じ汁物でも、食事でご飯と共に食べるものは「汁」、酒の席で食べる「吸い物」と呼び分けたようです。
小豆の粒ありの善哉 (おやつ・間食) と、粒なしのすすり団子 (酒の席での〆) という区別が元々あったと思われます。
江戸時代の前期の寛永年間に、粒なしの汁に餅を入れて (おやつ・間食) たのが汁粉。
江戸時代中期頃までに関東に善哉や汁粉が伝わりますが、関東では製粉技術が低かったので小豆の粒が残るので
汁があれば、粒のある無しに拘らず汁粉と言うようなったと推測できます。
江戸時代中期に関東の製粉技術が低かった事は、蕎麦や豆腐の品質から推測できます。
黒白精味集に粉を絹ふるいにかけて漉す事が書かれてあります。他の菓子の本でも布で漉す事が書かれてあります。
黒白精味集は江戸で出版された本ですが、獣肉料理以外は上方で書かれた本を写したもの。
当時は目の細かい裏ごし器のような物がないため、布を使って裏ごししていたと思われます。
庶民にとって絹は高価な物。では綿の布で漉せばと思いますが、綿花栽培は江戸時代初期に大坂の河内で始まり
中期になってから栽培地が西日本へと広まります。寒い地域の東日本では綿花栽培はほとんど行われず、東日本では
綿も非常に貴重な物だったのです。
東日本で蕎麦湯を飲んだのは製麺 (製粉) 技術が未熟だったためですし、幕末の守貞漫稿には江戸の豆腐は真っ白
ではなく味も劣る事が書かれてあります。下記のリンクページで確認してください。
海上物流の中心 北前船 大坂への重要物資は昆布よりニシン、北国への重要物資は塩や木綿など
日本山海名物図会の「大和三輪素麺」の記述 守貞漫稿の「豆腐」の記述
蕎麦湯を飲む習慣の始まりは? 製麺技術が低く、蕎麦には麺毒があると言われた事から
明治以降に江戸時代の饗宴スタイルがなくなり、関西ではすすり団子を汁粉と呼ぶようになった。
与謝野晶子の回顧録により、明治~大正・昭和初期頃に東京の庶民の家庭で食べられていた汁粉は粒があったと
考えられます。
黒白精味集は「しるこ」という文字が出てきますが、上記でも示した通り、上方の料理書を多く書き写した書です。
後段・麺類には「にうめん」も書かれています。にゅうめん=暖かい素麺汁。素麺は西日本の特産品であり、
関東で広くそうめんが普及するのは昭和後期。 昭和50年代後半 東日本 (主に関東内陸部?) に素麺が普及
善哉は、島根県の出雲地方発祥で、餅入りの小豆の粒ありの汁物。
汁粉は、江戸時代前期以前に関西で作られていた「すすり団子」が汁粉と同様のもの。
粒なしで団子入り酒の席の〆で食べられていた物だった。
粒なしの (団子入りの) 本来の汁粉は江戸発祥どころか、江戸の汁粉は餅入りしかなく、団子入りの汁粉が広く庶民
に食べられ始めたのは昭和の可能性が高いと思います。
このTBSの番組の後半に筑前煮と煮しめの違いが紹介されていました。
実は、同番組のスタッフから「筑前煮の事を調べているのですが、詳しい方はいらっしゃいますか?」と当店に電話が
かかってきました。(毎年6件前後、当サイトを見た東京のテレビ局から情報提供などの問い合わせがきます)
当サイトでは筑前煮に関しては詳しく調べていなかったので、「筑前の郷土料理の研究家に聞いてください」と答えて
おきました。その時に善哉と汁粉について聞いてもらえれば、情報提供ができ上記のような嘘が流布される事は
なかったでしょう。
ちなみに、すすり団子については、「善哉と汁粉の違い」の所ではなく、うどん・麺類のページに書いていたので、
同番組スタッフが見ていなかったと思います。
江戸時代中期というのは、上方は江戸よりも圧倒的に文化レベルが高い。1750年代まで江戸で出版された本は
上方のパクリ本だったので全国で出版される事はありませんでしたので、この時代に江戸発祥の文化が上方に伝わり
定着する事は基本的に無い (特に食文化では皆無) という認識を持っていた方がいいでしょう。
ウィキペディアの各ページで酷いくらいに誤魔化し記述が多く、意図的に情報操作をしています。
内容から同一の東京人が書いたものと推測できます。
米が原料の煎餅も関西が先だった レシピ原文発見!!
国立国会図書館デジタルコレクションや人文学オープンデータ共同利用センター、大学などのサイトで古書を
無料公開する事が始まっています。誰でも見られます。またダウンロード可能なサイトもあります。
考古学者や文献学者などの本物の歴史研究家や教授によると、史料の考証は、まず史料批判するのが前提。
初版年、著者の出身地、出版地、出版目的、時代の流れと背景、他の文献の記述との比較がなされていない文献の
内容は鵜呑みにしてはいけないそうです。
沖縄のぜんざいは、戦後に大阪に出てきた沖縄県民が持ち帰って広めたようですが、小豆が入手しづらかったので
金時豆に代わって、温かい物から冷たいかき氷へと変化していったようです。
沖縄のぜんざい 大阪から伝わり、戦後独自に変化
昭和初期、小豆相場で乱高下し『赤いダイア』と呼ばれ、入手が困難だった時期があるそうです。
北海道の赤飯は金時豆の甘納豆、新潟県では金時豆の「醤油おこわ」を赤飯の代わりに、江戸では大角豆ささげが
煮ても潰れず形を保っているので「腹が割れない」として武士に好まれ赤飯に使われたという説があります。
【大納言小豆】だいなごん-あずき (尾張原産で、尾張大納言の洒落) アズキの在来品種で、多くの系統がある。粒が大きく色が濃く黒みを帯び、美味。おわりあずき。埃被きほこりかずき。
切腹の習慣がない大納言という官位が由来だそうです。
特に京都の瑞穂大納言小豆は最高級ブランドの一つで、一般の小豆の5~6倍の価格が付くそうです。
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【半ごろしと皆ごろし】 |
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日本テレビ 月曜から夜ふかし 『あの甲州弁に負けない方言があった問題』 13.01.05 放送
NHK Eテレ 趣味どきっ! 『鍋の王国 「秋田のきりたんぽ鍋」』 19.01.16 放送
≪ 甲州弁として残る「半ごろし」と「皆ごろし」の意味 ≫ この表現は昔は広く使われいました。
粒を残したもの …半ごろし / 粒を残さないもの … 皆ごろし。という表現が富山県の越中弁に残っているようです。
秋田県でも「たんぽ」を作る時に米の粒を残しますが、大館市の十字屋では「半殺し」と言っていました。↘
但し富山県では、半ごろし … おはぎ / 皆ごろし … 餅を意味するそうです。
餅の原型「しとぎ」 餅の神様を祀る小野神社、豊前・豊後の名の由来、伏見稲荷大社縁起など
≪ おはぎ・牡丹餅 ≫ お萩と牡丹もちの違い 本当は恐ろしい起源
【萩の餅】はき-の-もち おはぎ。はぎのはな。きたまど。隣知らず。萩の強飯こわいい。 糯米もちごめや粳米うるちまいなどを炊き、軽くついて小さく丸め、餡・きな粉・胡麻などをつけた餅。 煮た小豆を粒のまま散らしかけたのが、萩の花の咲き乱れるさまに似るのでいう。 ※ 「萩の餅」が室町時代に宮中の女房言葉で「お萩」と呼ばれ一般化しました。
また牡丹に似るから牡丹餅ぼたもちともいう。 ※ ぼたん雪が語源とも言われる説もあります。また、ぼたもちは『母多餅』と書かれる事もあります。
≪ 「おはぎ」「ぼたもち」の違いは? 諸説あり ≫ 百菓辞典と広辞苑などの記述より
① 作った季節による違い。 春に作れば牡丹の花になぞらえた『牡丹餅ぼたもち』、秋に作れば萩の花になぞらえた『萩の餅』。 現在では「一般的な餅とは違う」という説もあり、季節に関係なく『お萩』と呼ばれる事が多い。
② 材料配合による違い。 もち米が主体であれば『ぼた餅』、うるち米主体であれば『お萩』。
③ 小豆の形状による違い。 表面の餡が漉し餡であれば『ぼた餅』、粒が残った小倉餡であれば『お萩』。
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【安倍川餅系】 |
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【安倍川餅】あべかわ‐もち
安倍川ほとりの名物。つきたての餅に黄粉きなこや餡あんをまぶしたもの。また、焼餅を湯・蜜などにつけ、黄粉と
砂糖をまぶしたもの。あべかわ。
静岡の安倍川餅
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奈良県大和郡山の城の口餅
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滋賀県彦根の埋れ木
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奈良県大和郡山市の「城の口餅」は1585年に創業した本家菊屋のお菓子。豊臣秀長 (秀吉の弟) が大和国の領主
になった時に大和郡山の城下町を整備し、その時に連れてこられた菓子職人が菊屋を創業。
秀吉をもてなす為の菓子として考案。貴重な砂糖を使っており喜んだ秀吉が「うぐいす餅」と命名。
しかし徳川時代になり、豊臣関連の遺構などが破壊されたりするような事になったので「城の口餅」へと改名。
※ 豊臣時代の大坂城の石垣が埋められ、その上に徳川の大坂城の天守閣が建てられた事は有名です。
京都にある秀吉の墓である豊国廟も徳川によって破壊され、明治天皇が復興しました。
大阪府河内長野市にある金剛寺の天野酒は美酒として有名でしたが、秀吉がたいそう好んだ酒であった為、
江戸時代になって德川に睨まれる事になるので造るのをやめたそうです。
≪ 京都 今宮神社名物 あぶり餅 ≫
平安時代から参拝客に食べられている。
一口サイズにちぎった餅に黄な粉をまぶして竹串に刺し、炭火であぶって甘い白みそをかけて食べる。参拝客に愛されている。
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【ようかん】 |
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≪羊羹ようかん ≫ 百菓辞典など
中国の羊糕ヤンカオと呼ばれる羊肉の煮こごり、または羊の羹あつもの=熱物 (吸い物、煮物)の事という説。
中国で日本の羊羹と似た食べ物には、羊の肝に似せた小豆と砂糖で作る蒸し餅の「羊肝こう」「羊肝餅」があり、
「羊肝こう」が日本に伝来した際、「肝」と「羹」の音が似ていたことから混同した説があります。
いずれにしろ日本に伝来した時、仏教の影響で植物性の材料に変えて作られました。
『守貞謾稿』によると、汁は御飯に合す物で、羹は酒の肴という違いがあるようです。
羊羹には蒸し羊羹、練羊羹、水羊羹があります。
蒸し羊羹は小豆あんに砂糖、小麦粉、浮き粉、食塩を加えて混ぜ、蒸したもの。
鎌倉・室町時代に広まった点心に使われていた羹を改良したものが原形と言われています。
練羊羹に比べ水分が多く、糖分が少ないので、保存がきかない。
名古屋の「上り羊羹」や福井の「丁稚羊羹」など。
次にできたのが練羊羹で、寒天と砂糖を水で煮立て、こしあんを加えて煉り煮詰め型に
入れて固めたもの。蒸し羊羹より砂糖の使用量が多く、貯蔵性と口当たりに富む。
最初に作られた時期については諸説あります。
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蒸し羊羹の一種、泉州銘菓
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【上り羊羹】あがり-ようかん 百菓辞典
名古屋の名物菓子。蒸し羊羹。小豆こしあん、砂糖、小麦粉などを合せ蒸したもの。寒天を使っていないため、
味は淡泊で、口溶けのいいのが特徴。
元、尾張徳川家の御用菓子司、桔梗屋が創製し、納めていたため「江戸に上がる」意で、この名がある。
≪練羊羹 ≫
総本家駿河屋 歴史年表 http://www.souhonke-surugaya.co.jp/first.html より抜粋
1461年(寛政2年)、初代の岡本善右衛門が、船戸庄村
(現在の京都伏見の郊外)に「鶴屋」の屋号で饅頭処の
商いを始める。
1589年(天正17年)、蒸羊羹を改良して作られた「伏見
羊羹」別名「紅羊羹」を発売。
秀吉の大茶会で諸侯に引き出物として用いられ絶賛される。
1658年(万冶元年)、煉羊羹の材料選別、配合具合、
炊き上げ方法など工夫し、寒天と和三盆糖を用いて
完全な煉羊羹の製法を確立した。
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総本家 駿河屋 京都で創業、現在は和歌山県に本社。
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【小城羊羹】おぎ-ようかん 百菓辞典
佐賀県小城郡小城町の名物菓子。備中小豆、砂糖、寒天を少量の水飴でよく練りあげた羊羹。やや固めで重厚な味。
文禄元年(1592)豊臣秀吉が、朝鮮出兵のため肥前名護屋に向かう途中、小城郡の村岡安左衛門の家に小憩した際、
安左衛門が手作りの小豆、蜂蜜、海草を供し、喜ばれた。翌年、名護屋本陣で、明国の大使 陳惟敬と、講和を結ぶ
際、諸藩の珍味と一緒に供したところ、大使は「明国では、このようなものを羊の羹(あつもの)と称して珍重している」と
話し、秀吉から「羊羹」の名を賜ったと伝えられている。
Wiki 羊羹 より抜粋
異説として山東京山(京伝の弟)が弘化元年(1844年)に書いた『蜘蛛の糸巻』の中で、練羊羹は江戸の菓子職人である
喜太郎という人物が初めて作ったという説。
江戸の天ぷら 「天ぷら」と名付けたのは山東京伝? 江戸の天ぷらは大坂人が始めた? ← 『蜘蛛の糸巻』に記述があります。
羊羹資料館 小城羊羹の歴史 http://www.m-youkansiryoukan.jp/history.htm より抜粋
「菓子話船橋」(1841年)などによると、煉り羊羹は1700代後半から1800年代初頭にかけて江戸でつくられた。
それ以前、京都に起源があるという記録も残る。← 総本家駿河屋の事のようです。
だが村岡さんは「現在のような形の羊羹が、いち早く定着したのは肥前だったのでは」と見る。
1784年に豊前(大分県)の田中信平(通称・田信)が長崎で見聞して書い『卓子式』という料理書・・・。
【菓子話船橋】
大阪から江戸に進出した深川佐賀町の『菓子商船橋屋』の主人(織江と号す)が表した菓子の製法書。
1841(天保12) 年、芝区神明前『甘泉堂書店』 和泉屋市兵衛刊行。
練羊羹が主で、蒸菓子、乾菓子など77種の製法を記載。初心者用のレシピ本。
1830年刊の『嬉遊笑覧』巻二中「器用」には
「羊羹といふ紙煙草いれ 四五十年以前 江戸橋四日市の竹屋清蔵にて かます形なるを百文つゝに売たり
其後 松本屋といふ紙たばこ入の棚を田所町に出して くすべ紙のよきを製すきせるは池の端の住吉屋清兵衛が…」
1780~1790年頃の江戸においては、お菓子の羊羹ではなく、「羊羹」という名の煙草入れが売られていた事が
書かれてあります。
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【丁稚羊羹】でっち-ようかん 百菓辞典 蒸し羊羹の一種で、大衆的な菓子。作り方はさまざまな方法があり、小豆あんに葛粉を入れたりして蒸したもの。 甘く、とろりと溶けるのが特徴。京都、神戸に多い。丁稚は、商人や職人に奉公する雑役に使われた少年のことを 意味するが、この羊羹の名前の由来は、① 丁稚でも買える安いもの。 ② 丁稚奉公に出た子供が、盆暮れに親元に 持ち帰り、奉公先に戻る折りに、親が奉公先へ持たせた羊羹。 ③ 羊羹をよくでっちる (こねる) ためなどの説がある。
【水羊羹】みず-ようかん 百菓辞典 ようかんの一種。寒天を煮溶かした中に小豆あんを加えてまぜ、器に流して冷却、凝固させたもの。 練り羊羹とほぼ同じであるが、食塩も使用し、水分を多く含んでいるのが特徴。 夏向きの菓子で冷やして食べる。冷たく淡泊な食味が好まれる。
福井県のコタツのお伴 『水ようかん』の謎 関西の『丁稚ようかん』のいわれ
テレビ東京 歴史の道 歩き旅 『渡辺徹が静岡県富士市から静岡市までを歩き旅 吉原宿』 16.05.09 放送
静岡・追分ようかん
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NHK大阪・広島 歴史秘話ヒストリア 『お菓子が戦地にやってきた ~海軍のアイドル・給糧艦「間宮」~』 15.12.02 放送
≪ 太平洋戦争時、海軍では間宮の羊羹が人気 ≫ Wiki 間宮 (給糧艦)
1924 (大正13) 年に建造された日本海軍初の給糧鑑「間宮」。大きな冷蔵施設を備え、出航している軍艦に食糧を
届ける補給艦として、第二次大戦でも活躍しました。
昭和3年に間宮の艦長が提出した報告書には「糧食品は乗員の健康を維持し嗜好品は元気を鼓舞す いずれの
一方も欠くべからず」とあり、甘味の大切さを主張しました。 同年、嗜好品生産供給に関する許可がおり、お菓子を生産する為の設備などが間宮に施されました。
一般の菓子職人から乗組員を募集し、老舗の菓子店で働いていた若者らが採用されました。
戦争期間当時の食料は国が管理する配給制となり、軍の為の食糧供給が民間より優先された為、間宮では菓子
材料が入手しやすい状況にありました。菓子職人は60人ほど乗り込んでいたようです。
海外の戦地では甘味が足りておらず、何よりも間宮の羊羹が楽しみで各艦争奪状態。間宮が入港するのいち早く
見つける事は非常に重要な事だったようです。
1943 (昭和18) 年10月、トラック諸島へ向かう途中の父島沖で間宮は台風に遭遇し沈没は免れたものの、老朽艦
である自力航行は不可能になります。この連絡の無線は米国に傍受されていたので救出に向かうのは危険でした。
それでも太平洋沖にいた巡洋艦の大井が救出に向かいますが全速力でも現地まで1週間もかかる距離。
結局、横須賀から救出に向かった駆逐艦潮によって間宮は救出されました。
1944 (昭和19) 年12月、フィリピンの日本軍にに食料を届けるため出航しますが、12月20日に米国の潜水艦シー
ライオンに攻撃され21日未明に沈没しました。
饅頭やアイスクリームの製造もできたようですが、ラムネや羊羹が多く生産されたようです。
中でも間宮の羊羹は美味しく大人気でした。大和や武蔵でもラムネが作られ人気でした。
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【ところてん】 |
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読売テレビ す・またん 『静岡県伊豆のところてん』 16.06.02 放送
関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 『上京した関西人1000人の怒りSP』 16.07.26 放送
奈良女子大学大学院人間文化研究科(博士前期課程) 国際社会文化学専攻 文化史総合演習 成果報告
『奈良の都で食された菓子』 http://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/kodai_kashi/nara_kashi.html
≪ ところてん ≫ Wiki ところてん より
『その起源は定かではないが、中国から伝わったとされる。海草を煮たスープを放置したところ偶然にできた産物と
考えられ、かなりの歴史があると思われる。一説には、こころぶとと呼ばれ、心太の漢字があてられた。
それがこころていと呼ばれるようになり、さらに転じてところてんとなったとされるが、古くは正倉院の書物中に心天と
記されていることから奈良時代にはすでにこころてんまたはところてんと呼ばれていたようである。
奈良時代、正倉院の木簡に記されている記録では御食国と呼ばれる地域からテングサを宮中に送った記録がある。
節料として納められ、当時宮中における節気行事などに使用されていたことがうかがえる。
江戸時代には庶民の間食として好まれ、砂糖もしくは醤油をかけて食べられた。基本的にところてん売りによって売られた。
ところてん売りの天秤棒は透かし格子にすることで涼感を演出した。
値段は寛永通宝一文(現在の価格で25~40円)であった。』
【心太・瓊脂】ところてん (「心太こころぶと」をココロテイと読んだものの転か)
テングサを洗ってさらし、煮てかすを去った汁を型に流しこんで冷却・凝固させた食品。
心太突きで突き出して細い糸状とし、芥子醤油・酢・黒蜜などをかけて食べる。寒天からもつくる。こころぶと。夏。
浄瑠璃、国性爺合戦「李蹈天とやら―とやら」
【心太・瓊脂】ところてん 百菓辞典 海草のテングサ (天草) を煮溶かして、煮汁を漉し、型に流して冷やし固めたもの。 天草の粘質物を凍結・乾燥すると寒天ができるが、この寒天からもところてんを作る。通常「てん突き」で麺のように 押し出して、薄い酢醤油をかけ、カラシを添えて食べる。 古くは「こころぶと」といい、奈良時代、平城京の市でも売られていた。 江戸時代には、往来を売り歩く「ところてん売り」が、夏の風物詩であったが、当時は、砂糖、醤油、黄な粉をかけて 食べていたという。ところてんは、夏の季語にもなっている。
【天草】てん‐ぐさ
紅藻テングサ科の海藻の総称。干潮線以下の岩上などに着生。革質で弾性に富み、扁平な細線状をなし、羽状に、
分岐し紅紫色総状を呈する。テングサ属には、マクサ・オニクサ・キヌクサ・オオブサなどが含まれる。
心太ところてん・寒天の原料として重要。マクサ。トコロテングサ。心太こころぶと草。石花菜。
【御食つ国】みけ‐つ‐くに … 天皇の食料を貢進する国。万葉集[6]「―野島の海子あまの船にしあるらし」
Wiki 御食国
『万葉集、延喜式の贄の貢進国の記述、平城京跡から出土した木簡の記述などから、若狭国 (福井県) ・志摩国
(三重県)・淡路国 (兵庫県) などへの該当が推定されている。』
日本列島 ところてん食べ方分布 とこマップ http://www.rakuten.ne.jp/gold/i-kappa/tokomap%20folder/tokomap/
関東以北、または全国一般 … 二杯酢(酢醤油)、 中部地域 … 三杯酢、 関西 … 黒蜜、 四国 … ダシ汁
※ 砂糖が入手しやすい関西は「おやつ」として、他の地域は「おかずの一品」として食べる事が多かった。
1643年刊『料理物語』 「第二 磯草乃部」には下記の海藻類が挙げられています。
「〔昆布〕… 〔わかめ〕… 〔あらめ〕… 〔たがらめ〕… 〔青のり〕… 〔もづこ〕… 〔かぢめ〕… 〔とさか〕… 〔あまのり〕…
〔あさ草のり〕…〔十六島たっふるひ〕… 〔かたのり〕… 〔みる〕… 〔おご〕… 〔しやうがのひぼ〕… 〔のろのり〕…
〔ふじのり〕… 〔ひじき〕… 〔ほだはら〕… 〔ところてん〕… 〔のとのり〕… 〔はま松〕… 〔ゑんず〕… 〔めみゝ〕…」
〔につくわうのり〕…
「〔ところてん〕 さしみ、かうの物 夏のこゞり入よし、」 海苔と海苔巻き寿司
1746年の『黒白精味集』下巻八「集」には「心太」のレシピが2つ、「所てん」のレシピが1つ載っています。
「横田殿法の心太」では、葛をや餅米、黒砂糖を加え菓子に仕立てたもの。
「前田氏法の心太」では、ところてんの作り方のレシピがあります。
「所てん」では、白棒かんてんを刻み、葛をいれて玉子にするとあります。(麺状の心太ではなく、卵型に丸く固めた
寒天のようです) 肴として蓼たで酢、水の物によし、酢味噌物によし、夏菓子によしとあります。
幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編生業下の「心太賣ところてん売り」の条を訳してみると、(誤訳御免)
「心太 ところてんと訓ず 三都とも夏月賣レ之 蓋 京坂心太を晒したるを水飩と號く 心太一箇一文 水飩二文買いて
後に砂糖をかけ或は醬油をかけ食レ 之京坂は醬油を用ひず 又 晒レ之 乾きたるを寒天と云 煮レ之を水飩と云…」
「ところてん」と呼ぶものは三都とも夏季に売られた。京坂では心太を晒した物を「水飩すいとん」と呼ぶ、心太1文、
水飩2文で買った後、砂糖か醤油をかけて食べた。京坂では醤油を使わず、晒して乾燥した心太を「寒天」と言い、
寒天を煮たものを「水飩」と言った。
「江戸では寒天と寒天を煮たものどちらも「寒天」と呼び、うどん粉で作った団子を味噌汁で煮たものを「水飩」と言った。
二品とも間違いである、本来は水で煮た粉団子を冷やして食べるものを「水飩」と言う。
現在の「冷やし白玉」という物が水飩に近い。」
冷や水売の歴史 (江戸は白玉入り)、 枇杷葉湯売、葛水 (大坂) 明治44年刊の東京年中行事の「氷、甘酒、心太、白玉、アイスクリーム」の記述原文
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【寒天】 |
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TBS モーニングサンデー 『中継 長野・茅野市 五味喜一商店 寒天づくり』 14.01.05 放送
日本テレビ 月曜から夜ふかし 『マツコにとれたてを食べさせてあげたい件 PART9 「天然の寒天」』 14.02.28 放送
NHK Eテレ 美の壺・撰 『File319 京都の豆腐』 15.09.20 放送
≪ 寒天 ≫
百菓辞典
1658年(万治元年)、薩摩藩の島津公が江戸へ向かう途中、伏見に宿泊した折り、厳寒の外へ捨てたところてんが凍って、
翌日水分が溶けて乾き、軽い乾物ができたという。これを明の帰化僧の隠元禅師が「寒天」と名付けたと伝えられている。
Wiki 寒天
江戸時代初期の1685年(貞享2年)、現在の京都府伏見において旅館『美濃屋』の主人・美濃太郎左衛門が、戸外に捨てた
トコロテンが凍結し、日中は融け、日を経た乾物を発見した。
これでトコロテンをつくったところ、前よりも美しく海藻臭さが無いものができた。
これを黄檗山萬福寺を開創した隠元禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると奨励された。
同時に名前を尋ねられたが、まだ決めていなかったためその旨伝えると、隠元は「寒空」や「冬の空」を意味する漢語の
寒天に寒晒心太(かんざらしところてん)の意味を込めて、寒天と命名したという。
その後、大坂の宮田半兵衛が製法を改良し寒天を広める。さらに、天保年間(1830年から1843年)に
信州の行商人・小林粂左衛門が諏訪地方の農家の副業として寒天作りを広め、角寒天として定着した。
京都の寒天
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長野県の寒天
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長野県の寒天
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長野県茅野市の寒天づくり
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【隠元】いんげん1592~1673 広辞苑、 人名事典 より
明の福建省の人。1654年(承応3年)に徳川綱吉の招き日本に渡来。山城国宇治(京都)の黄檗山
万福寺を創建。隠元豆を日本にもたらした人でもあります。
※ 隠元の没年が正しいとすれば、ウィキペディアの説には疑問が生じてきますね。
ウィキペディアは怪しい記述 (関東人が書いたと思われるものに多い、偏向報道の影響と、関西の歴史を知らない人が多い)
があるので、信用しすぎるのは危険です。出典の書籍などの信憑性を確認する事が必要です。トンデモ本からの出典もあるので。
嘘やねつ造されたトンデモ本は、江戸時代にもありますが、主に大正時代の東京で書かれた物に多いようです。
読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『あなたの知らない大阪「高槻 ここが発祥の地! 絶品寒天」』 16.02.05 放送
㈱タニチ 『寒天の由来・歴史』『高槻と寒天』 http://www.tanichi.jp/history.html より抜粋
≪ 寒天を日本各地に広めた 大阪府高槻市 ≫
『寒天は誕生以来、100年程は伏見のみで生産されていたそうです。最初は美濃屋の独占、 後に2軒加わったそうですが
独占体制に変わりはなかったようです。商品価値としての価値を得た寒天は その販売綱を京都・大阪へ広げていき、
販売店も増加して行きました。国内需要が伸びていった寒天ですがそれに 拍車をかける事態が起こりました。
それは幕府が対明貿易の有力な輸出品のひとつに「寒天」が選ばれた事です。 当時、輸出品の唯一の貿易港だった
長崎への中継港の役割を果たしていた大阪港へ寒天を集めるようになります。
こうなると輸送の便利さが重要になってきます。一方で独占体制の伏見寒天は摂津寒天の誕生と発展によりあまり
発展はしませんでした。
国内需要と外国貿易の増加で19世紀から20世紀中頃までの全盛期を迎える摂津の寒天。
その繁栄をもたらすきっかけとなる人が摂津国島上郡清水村城山の宮田半兵衛です。
1781年、宮田半兵衛が50年の頃に伏見の水菓子屋に行き、美濃屋で寒天製造法について 学び、寒天作りの技術を
習得。現在の高槻市で製造器具など技術革新により良質の寒天を作るようになりました。
彼はその製法を清水村の嘉平、佐平、茂平、と隣村の文蔵に伝え、高槻を発信基地として数人の仲間に伝えられたと
言われています。こうして、高槻市で大量生産されるようになった寒天は日本全国、世界へと広がって行きました。』
最盛期は60軒ほどあったそうですが、現在は㈱タニチのみ。テングサを12時間煮た後で煮汁を絞りだし、固まったものが
トコロテン。それを細く付き出し、屋外で14日間ほど乾燥させれば寒天になります。㈱タニチでは昔ながらの全て手作業。
日中は冬の陽の光で少し溶けつつ乾燥し、夜間の急激な気温低下によって固まる。この寒天づくりに適した場所での
自然な凍結・乾燥の繰り返しで作った物と、機械設備で作った物とは、仕上がりの固さなどが異なるので、寒天は
昔ながらの自然を生かした作り方が最適だそうです。
御飯を炊く時に糸寒天を少量入れると、米粒が寒天でコーティングされるので、炊き上がりが艶っぽく、もちっとした
食感になるそうです。
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【打菓子】 |
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NHK Eテレ 美の壺・撰 『File264 金沢の和菓子』 13.01.16 放送
TBS ニッポンの出番 『外国人が発見! 驚きのニッポンin金沢』 15.03.24 放送
【白雪糕】はくせつこう 百菓辞典
干菓子の一種、精白したうるち米粉、もち米粉、白砂糖を混ぜ、木枠に入れて押し固め、蒸したもの。
ハスの実の粉末を混ぜることもある。江戸時代に盛んに作られた菓子のひとつ。
落雁と似ているが、落雁は熱した米粉を用いるのに対し、白雪糕は熱を通さない米粉を用いるのが本来。
ただし、現在では、白雪糕も落雁と同様な製法でつくるようになり、区別がなくなった。
【落雁】らく‐がん
打物の一種。米・麦・大豆・小豆などの粉を主材料とし、砂糖・水飴・微塵粉みじんこでねり、型に押し込んで
焙炉ほいろで、また自然に乾かしたもの。
【打物】うち‐もの …みじん粉に砂糖をまぜ、型に入れて打ち出した乾菓子。打菓子。
右端は金沢の唐の篆書体文字を模った「長生殿」という長方形の落雁作りで、型に入れる寸前の様子。 日本三大和菓子処 金沢の和菓子 福梅、長生殿、福徳せんべい、金花糖
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【豆菓子】 京都に多い |
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テレビ大阪 おとな旅あるき度 『真冬の京都ぶらり旅 出町柳』 14.02.08 放送
関西テレビ 横山由依がはんなり巡る京都いろどり日記SP 15.04.22 放送
【五色豆】ごしき-まめ 百菓辞典 京都の名物。着色した豆で、5色あるためにこの名がある。五色は宮中五節句の色、五行の思想に基づくもので、 赤は火、黄は土、白は金、黒は水、緑は木を表す。黒は忌み嫌われることから、褐色に換える場合もある。 青えんどう、白えんどうを煎って、砂糖の衣がけしたの。赤、黄色は食用着色料、茶色は肉桂末、緑色は青海苔を まぶすなどして作る。 応仁の乱以後、後土御門天皇の頃、比叡山の高僧 傅戒国師真盛上人が、茶菓子として作ったもので、 初めはえんどうの煎豆を粉砕して丸めていたが、砂糖が使えるようになってから、現在の形になったもの。
【真盛豆】しんせい-まめ 百菓辞典 黒豆を煎り、すはまで包んで、直径2㎝くらいの団子状にまるめ、青のりをまぶした豆菓子。 江戸時代から京都の名物。明応年間(1492~1501)天台宗真盛派の開祖、慈摂大師真盛上人が京都北野で 辻説法をする時、塩で煎った黒豆に菜の干葉をもんでかけたものを、聴衆に与えたのに始まるという。 その後、この豆は苔寺(西芳寺)に伝えられた。天正6年(1588)10月、豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折り、 煎り豆に青のりをつけた菓子が供されたので、秀吉が細川幽斎(藤孝)に、その名前をただしたところ 「君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむす豆」と答えたと伝えられている。
五色豆
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嵐山の豆菓子量り売り
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京都・出町ふたばの豆餅
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【豆平糖】まめへい‐とう 広辞苑
砂糖に水飴を加えて煮詰めた中に炒豆いりまめをまぜて棒状に伸ばした菓子。京都市祇園ぎおんの名物。まめねじ。
【甘納豆】あまなっとう 百菓辞典
豆菓子。小豆、ささげ、いんげ豆等の豆をゆでた後、糖蜜で煮詰め、砂糖にころがしてまぶしたもの。
江戸時代安政年間(1854~60)に、日本橋・栄太楼菓子店が金時ささげを用いて「甘名納糖」として売り出したのが
最初とされる。名前の由来は、遠州名物の「浜なっとう」のもじりだといわれている。
【洲浜】す‐はま 広辞苑
棹物菓子の名。弘安(1278~1288)年間、京都の松寿軒創製。水飴・大豆粉・白砂糖などで製し、3本の竹を用いて
横断面を洲浜形にし、小口切にしたもの。すあま。
京都には出町柳にある有名な店「出町ふたば」の豆が入った豆餅 (画像は餡入りの大福餅タイプ) もあります。
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【今川焼き】 |
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ぐるなび ぐるたび 『 食文化と豆知識 東京 』 http://gurutabi.gnavi.co.jp/food_culture/area_tokyo.html まぼろしチャンネル 第6回「回転焼と大判焼と今川焼の間には」の巻 http://www.maboroshi-ch.com/old/sun/pha_14.htm
関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『みんな?のギモン 「回転?今川?大判焼き? 正式名称は?」』 17.02.17 放送
≪ 今川焼き 江戸発祥 ≫ Wiki 今川焼き
江戸時代中期の安永年間(1772-81)の頃、江戸の神田・今川橋付近で売り出されていたことから、今川焼きと
名付けられました。『江戸名所図会』に描かれています。
名前の語源となった今川橋は、現在では川が埋め立てられたため、日本橋本町4丁目に碑が残されています。
【今川焼き】いまがわ-やき 百菓辞典
円形で底の平らな窪みのある銅板型に、溶いた小麦粉を流し込んで焼き、その上にあんを置いて、同じ型で焼いた
別な1枚でふたをし、焼き上げた最中のような形態のまんじゅう風のもの。
江戸末期、神田の今川付近で売り出したためこの名がついたと伝えられている。
大判焼き、タイコ焼き、回転焼き、二重焼きなど異称が多い。焼き物。
【今川焼】いまがわ‐やき 広辞苑
銅板に銅の輪型をのせ、水で溶いた小麦粉を注ぎ、中に餡あんを入れて焼いた菓子。江戸神田今川橋辺の店で製し
始めた。今は輪の代りに多数の円形のくぼみをもつ銅の焼型を用いる。幸田露伴、天うつ浪「―の皮の厚い冷いのでも」
江戸名所図会 今川焼
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今川焼の異称 全国分布大別
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兵庫県 御座候
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広島県の大判焼機
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地域によって様々に呼び名がある今川焼きですが、関西と九州では回転焼きという名前が主流。
全国菓子研究団体連合会の会長を務める大阪市天王寺区にある本松葉屋の西尾智司さんによると、
「江戸から来ているものだから、関西の昔の夜店とかではほとんどが『今川焼き』でした。その後、同じ名前じゃ面白くない
から回転焼きと呼ぶようになった」そうです。呼ぶようになった時期は明確には不明ですが、昭和初期以前と思われます。
【太鼓焼】たいこ-やき … 皮に巴形の焼き印を押した今川焼。
工芸菓子の『現代の名工』 本松葉屋の西尾智司 会長
京都市上京区の大判焼きの店 はま長の浜名長康さんによると、回転焼きと呼ばれるようになった理由は、
「回る物は無いので、焼けた生地の半分を、もう一つの半分の生地の方に返して作るから」としか考えられないそうです。
また、大判焼は通常の今川焼より一回り大きいサイズで、関東などでも呼ばれます。
60年ほど前に大判焼機を製造している広島県の会社が全国へ広めたそうです。(諸説あり)
神戸で呼ばれる御座候ござそうろうは、昭和30年に開業した甘党の店で、兵庫県姫路市に本社がある回転焼きの会社の
名前。2017年2月現在で、関西だけでなく東京や北海道など全国72店舗展開中。
御座候のマーケティングディレクターの小倉右士さんによると、その店名は「お買い上げ賜り ありがたく御座候」という
意味で名付けられ、創業当時は「御座候の回転焼き」として販売していました。
いつしか屋号の「御座候ちょうだい」と注文されるようになり、「回転焼き」が取れて、御座候が商品名のように定着との事。
滋賀県長浜市では「暫しばらく」と呼ばれています。これは販売している茶真商店の商品名で、庶民の味方が「しばらく」と
言いながら助けに行く歌舞伎の演目から、「常に安く庶民の味方でいよう」という気持ちで名付けたもの。
茶真商店の廣瀬真啓 社長によると、60年ほど前に御座候に弟子入りして修業した為、御座候を本家と呼んでいる
そうです。
北海道では「おやき」、秋田県では「あじまん」、千葉県では「甘太郎あまたろう」、広島県では「二重焼き」などと呼ぶ
地域もあるようです。これらのほとんどは販売店名または商品名として売り出されたもののようです。
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【どら焼き】 |
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テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『美味しい日本橋SP』 13.10.19 放送
≪ どら焼き ≫
【銅鑼焼き】どら-やき 百菓辞典
小麦粉、卵、砂糖を混ぜて水で溶き、鉄板で小円形に焼き、これでつぶしあんを
挟んだもの。
① 形が舟のドラ(銅鑼)に似ているためにこの名がついたという説と、
② 鉄板のかわりにドラの上で焼いたからという説がある。三笠山ともいう。
明治時代初期、日本橋大伝馬町の梅花亭が創製したものといわれているが、
江戸時代に、皮を薄く焼き、あんをのせて四角にたたんだどら焼きがあった。
「どら焼き」は関西では奈良の三笠山の形に似ている事から「三笠焼き」と呼びます。
平安時代、遣唐使に選ばれた人達は三笠山近くの春日大社に旅の無事を祈願する
習わしがありました。
【三笠山】みかさやま 百菓辞典 & 広辞苑
どら焼のこと。焼き菓子。唐に渡って故郷を偲んだ阿部仲麻呂 (698~770、717年
遣唐使留学、長安で没) の歌 「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に
出でし月かも」によせて、満月の形を模したもの。
お好み焼きのルーツと進化の歴史 東京発祥説が有力、但し名前のみ?
江戸時代、文字焼きや麩の焼きの味噌が餡に変わった助惣焼きも登場。
江戸では「助惣の麩の焼き」と呼ばれて人気があり、明治になるまで、
江戸の名物菓子だったようです。
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三笠焼き どら焼き
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≪ パン ≫ 詳しくは、パンとケーキ類のページで
江戸時代末期 1842年(天保13)、江川太郎左衛門が長崎のパン職人に製法を学ばせ、パン食を導入。
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【松風】 |
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NHK奈良 ええトコ 『奈良に ”うまいもん” あり! ~旬と伝統の味 いただきます~』 13.12.13 放送 テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『美味しい日本橋SP』 13.10.19 放送
≪ 戦国時代からの菓子 振り松風 ≫
江戸時代に商業が発展した奈良県の田原本町には、直径50㎝の大きな煎餅(菓子)「振り松風」があります。
「松風」という煎餅は、小麦粉に砂糖、水あめ、卵を加えて焼き、ケシの実を振る茶菓子として戦国時代から各地で
作られてきました。
この店の18、19代目の福岡さん宅には、平野権平長安という家臣に送った羽柴秀吉の感謝状(大阪城に展示された事が
ある)が残っています。
秀吉の「七本槍」と呼ばれた一人の長安は、多くの手柄を上げ田原本町を領地として賜わります。
しかし、自分を曲げない性格だったので度々秀吉と衝突する事があり、仲間が大名へと昇進していきますが、長安は
出世から取り残されてしまいました。
茶人でもあった長安は、「日本一の茶菓子」を作って皆を驚かそうと考え、この「振り松風」という大きな煎餅を作りました。
日本一大きい「松風」の製法は一子相伝で、平野家だけで作られていました。庶民が食べられるようになったのは明治時代。
昔のままの手づくりで、生地を入れた鉄板を前後しながら焼くので「振り」という名前が付きました。
1日40枚しか作れないそうです。1枚3000円。
【松風】まつかぜ
① 小麦粉に砂糖・水飴を加えてまぜ、水で溶きのばし、鉄板で上から強く焼いて、
罌粟けし粒を散らしつけた干菓子。
裏には模様がないので「うら(浦)淋し」の意で松風と名づけたともいう。
② 茶の湯で、釜の湯のたぎる湯相の音。
【味噌松風】 Wiki 味噌松風
京都を代表する焼き菓子の一種。松屋常盤の紫野味噌松風、亀屋陸奥の松風、
「松屋藤兵衛」の紫野味噌松風が有名。起源ははっきりしないが、戦国時代頃。
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江戸風 松風
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【八橋】 |
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日本テレビ 月曜から夜ふかし 『全国のお土産問題を調査した件 「八ッ橋とは一体 何だ問題」』 13.07.08 放送 関西テレビ 横山由依がはんなり巡る京都いろどり日記SP 15.04.22 放送
聖護院八ッ橋 総本店の土屋孝雄 参与によると、(由来には諸説あり)
「江戸時代、『琴の礎』を築いた八橋検校の没後、埋葬された寺の参道にある茶屋が、墓参りの弟子の為に琴を模った
焼菓子を作ったのが始まり。」
手作り体験ができる事で観光客に人気の八ッ橋庵の梯誠一朗さんによると、
「八橋検校が、割れた米がもったいないと、米を蒸し蜜やニッキで味付けし焼いたことが始まり。のちに検校を偲んで
琴の形になった。生八ッ橋も八橋ができた当時から販売されていたが、日持ちがしないので流通しなかったと聞いて
おります。」
『生八ッ橋』の原料は米粉・砂糖・液体ニッキを合わせた生地を練って蒸す。生地を薄く伸ばして小豆餡を包んだもの。
50年ほど前に誕生したお菓子で、形に特には意味はない。 唐菓子 (8種の唐菓子と14種の果餅) の解説、八ッ橋のルーツも。
近年では、八橋は抹茶・黒ゴマ、生八ッ橋は、いちご・チョコバナナ・さくらなどの味も作られています。
【八橋煎餅】やつはし‐せんべい
米の粉を練って蒸し、砂糖・肉桂粉 (ニッキ) ・蜂蜜を加えてこね、伸ばして琴の形の短冊形に焼いた煎餅。
京都聖護院の名物。
【八橋検校】やつはし‐けんぎょう(磐城平たいら。一説に豊前小倉生れ。1614~1685)
近世箏曲の創始者。八橋流の始祖。名は城秀じょうひで、山住勾当、上永検校城談を経て八橋検校。
初め上方で三味線の名手として活躍。
寛永(1624~1644)頃、江戸へ出て法水から筑紫箏を学び、近世箏曲を樹立。
「菜蕗ふき」「雲井の曲」など13曲の組歌のほか、段物「六段の調」、「雲井弄斎」などを作曲。
【筑紫箏】つくし‐ごと 筑紫流箏曲。
筑紫の善導寺(今の久留米市内)の僧 賢順が室町時代末に大成した箏伴奏による歌曲。また、それに使用した楽器。
寺院雅楽に始まり、近世箏曲の母体となった。雅楽の楽箏に対して、八橋検校以後の俗箏を指すこともある。
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【せんべい・あられ】 |
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東京堂出版 『百菓辞典』 平成9年8月30日 初版 山本侯充 編 、 広辞苑
テレビ大阪 和風総本家 『大阪下町24時 ニッポンを陰で支える職人たち』 12.03.01 放送 など より 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『連続転勤ドラマ 辞令は突然に… 三重』 14.01.23 放送
≪ 煎餅 関西と関東の違い ≫ Wiki 煎餅 / Wiki あられ / Wiki おかき
煎餅の由来には諸説あるようですが、平安時代の承平(931~938)年中の漢和辞書
『倭名類聚鈔』にも記述があるので、9世紀初め、弘法大師が唐から伝えた説が有力
です。 小麦粉の煎餅の方がはるかに古いのです。
※ ウィキペディアには怪しい記述も多いので、同サイトの下の方にある出典元も必ず確認してください。
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【煎餅】せん‐べい
干菓子の一種。小麦粉または粳米うるちまい・糯米もちごめの粉に砂糖などを加えて種を作り、鉄製の焼型に入れて
焼いたもの。古来、大衆的な菓子として好まれ種類も多い。米菓べいか。おせん。
元々、小麦粉で作っていたもので、うるち米粉を使った煎餅は明治時代に始まる。
【煎餅】せんべい 百菓辞典
大別して2種類ある。
① うるち米粉で作った新粉餅を薄くのし、型で抜いて乾燥し、焼いて醤油を塗ったものや、塩味の小麦粉煎餅
などが塩煎餅系のもの。由来には諸説あるが、9世紀始め、弘法大師が唐から伝えたといわれている。
古くは小麦粉ものであり、うるち米粉は明治に始まるとされる。
俗説によると、埼玉県草加の茶店の「おせん」さんが、売れ残った団子を延ばして乾燥し、焼いて客に出した
のが始まりという話がある。
② 小麦粉を主原料とした瓦かわら煎餅系のもの。瓦をかたどって焼いたもの。
小麦粉に鶏卵、砂糖をたっぷり入れるためカステラをつぶして焼いたような味の、甘いせんべい。
≪ 米が原料の煎餅も関西が先だった ≫ 2018.03.04現在、この本の内容の事を掲載しているのは当サイトのみ
1689(元禄2)年の料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』中川茂兵衛 著 出版地は京都。
二巻「菓子の類」 法禄せんべいの方・雪せんべいの方・はくらい?せんべいの方の原文↓
それぞれ、材料に「米」や「もち米」の文字が見られます。また「さたう=砂糖」、「うすくのばし」の文字も見られます。
1830年の『嬉遊笑覧』下巻 巻十上 P.438 「煎餅」には1684年の『雍州府志』に六条煎餅や片餅、鬼煎餅など
などが書かれてある事を紹介しています。 ※「雍州ようしゅう=山城国の別称。京都府南部」
餅の原料は米であり、火で焼くので膨れるので鬼煎餅として名前が付いた事などが書かれてあります。
鬼煎餅は京都だけではなく近江国醒井や、『賢女化粧』という書では泉州高須の名物だった事なども書かれてあります。
上記のどれが草加煎餅のような米が原料の塩煎餅かレシピや絵が無いので断言できませんが、内容を総合して
考えると、1684年以前には米の煎餅があり、塩味の煎餅があった事が分かります。
1830年の『嬉遊笑覧』下巻 巻十上 P.439 「鹽煎餅」では「…又 鹽せんべいといふもの むかしの煎餅にて
(沙糖は入るゝも入らぬも有べし) 廃れて後 近在にて稀に見えしを この頃は江戸にも流行て本所柳島邊にて多く
作り所々の辻にてたぐわしと同く賣また…」 ※「鹽=塩」「沙糖=砂糖」「邊=辺り」
関西製菓製パン厨房機器協同組合 煎餅物語 ~ 煎餅の由来と変遷 http://kansai-seikaseipan.org/senbei.htm
『◇塩煎餅◇ 弘法大師が唐の国から持ち帰った煎餅の製法は、亀の甲煎餅や瓦煎餅として発展して行きましたが、
塩煎餅はその中でも下級とされ、農家が残り飯を煎って蒸し、塩を混ぜて延ばし、竹筒で丸形に抜いて天日で干し、
炭火で焼いたのが始まりといわれています。
その後江戸中期には一時すたれましたが、文化・文政の頃に本所柳島で売り出されたところ、江戸中の人気を集める
ことになり、その頃、江戸で煎餅といえば、この系統のものだけと考えられたほどでした。文献にも「塩煎餅といふもの
昔の煎餅にて廃れてのち、近在にて稀に見えしをこの頃は、江戸にも流行りて本所柳島辺にて多くつくり、所々の辻にて
駄菓子と同じく売り、また神仏の縁日にも持ち出て売る」とあります。』
上記のサイトの解説によると、米の塩煎餅は江戸中期以前には存在していた事になります。
数え方 単位辞典 煎餅 https://www.sanabo.com/kazoekata/ct_sa/se/senbei/
≪ 米煎餅の発祥を名乗る埼玉県草加市 ≫
草加市 『草加せんべいの歴史と現在』 http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1403/010/010/020/01.html
埼玉県草加市「今様・草加宿」の情報サシイト 今様草加宿 『草加宿の歴史 日光街道と草加宿」 http://imayo-sokasyuku.com/history/
草加市のサイトによると、「ルーツについては諸説ありますが…草加が日光街道の宿場町
として栄えた頃、おせんさんという女性が街道で旅人相手の茶屋で団子を売っていましたが、
…草加の観光マップなどで紹介されるこのお話は、実は昭和時代に作られた物語です。 草加は昔から米どころと言われ、多くの米がとれたことから、農家の人たちは余った米を保存
するために団子状にした米を乾かしたものを保存食として作っていました。江戸時代になり、
草加宿ができると、茶屋や物売りが軒を並べるようになりました。
このころから保存食だった煎餅も店で売られるようになり、広まっていったと考えられています。
当初は生地に塩を練りこんだものでしたが、醤油が普及し始めた幕末から、焼いたせんべいに
醤油が塗られるようになりました。」
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草加煎餅
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今様草加宿サイトによると、草加宿が作られたのは1630 (寛永7) 年。
「1689 (元禄2) 年に「松尾芭蕉が訪れたころの草加宿は戸数120軒ほどの小規模な宿場町でした。開宿当時の草加宿は、
戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5~6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ
軒を並べる程度で、あとはすべて農家だったそうです。芭蕉が訪れた頃は、草加宿が賑わい始める前だったのですね。」
「1792年に宿場北端の街道沿いには松が移植され、「草加松原」として知られるようになりました。」
どちらのサイトでも、草加せんべいの始まりの具体的な年代は明記されていませんが、明治時代後半になって煎餅を売る
店が増えていき、大正時代以降に全国的な知名度を獲得したようなので、早くとも元禄より後の江戸時代中期以降でしょう。
テレビ東京 所さんの学校では教えてくれない そこんトコロ! 『東京の街はナゼこうなった?』 19.02.15 放送
現在、草加市には草加煎餅店が50軒以上。
江戸時代の末1865年創業の「いけだ屋」の5代目にあたる池田彰さんと番組解説によると、 千葉の野田から江戸へは利根川の水運で醤油が運ばれており、その中間地点に位置する草加では醤油が入手しやす
かった。元々は煎餅は塩煎餅しか無かったが、醤油を塗った事で爆発的に草加煎餅が売れた。
「せんべいに最初に醤油を塗ったと言われているのが草加なんです」と主張していますが、幕末の遥か以前の江戸時代
中期の元禄年間には上方では醤油は庶民の日常品として普及しており、江戸の庶民の間で醤油が普及するのは元禄
より約100年後の文化文政時代です。
塩煎餅は下級の煎餅なので、江戸時代後期に醤油が安くなるまで使用される可能性は低いと思いますので、
この主張も関東人特有の思い込み論 (結論ありきで都合の良い情報だけを選択して主張する) の可能性が高いでしょう。
千葉の醤油 1697年に濃口醤油を作ったとする年代が怪しい件、1640年論に変えるが根拠不明。濃口醤油も関西発祥の可能性の方が高い
蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見! 紀文のサイトにも作為的な嘘。
以上の事を総合的に考えると、塩味および醤油味の米の煎餅も関西では元禄以前からあったと考えられます。
≪ あられ ≫
【欠餅】かき‐もち お欠きおかき あられもち。
① 正月11日に取り下げた鏡餅を、刃物で切ることを忌み、手で欠いて小さくしたもの。
② 餅を薄く切って乾燥したもの。あぶり焼いて食す。③ あられもち のこと。
【霰餅】あられ‐もち あられ。おかき。
① 賽さいの目に切って干した餅。
② 餅を四角・丸形・花形などに小さく切って煎り、醤油・砂糖などで味付けした焼菓子。
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【霰・霰餅】あられ、あられ-もち 百菓辞典
米菓の一種。餅をさいの目にに小さく切って煎ったもの。鏡餅を砕いたものもあられ
(玉あられともいう) になる。
≪ あられを多く消費する三重県中央部 ≫ 三重県の食文化 (丸餅と角餅、カレーの牛肉、豚肉の境界線など)
三重県は5つの文化圏に分かれており、関西文化圏の伊賀地域と南部の東紀州 (熊野) 地域ではそれほどでもないけれど、
県中央部ではあられをよく食べるそうです。
スーパーに米農家が手づくりしたあられまで売っているそうで、昔は多くの家庭で自家製されていました。
あられだけをお茶漬けにして食べることが多く、あられ屋さんでは一斗缶入りが普通に売られています。
読売テレビ かんさい情報ネットten. 『特集 愛され続けるワケは… 食卓の友"お茶漬けのもと"』 15.06.17 放送 関西テレビ 池上彰の関西人が知らないKANSAI 19.01.19 再放送
≪ 京都のぶぶあられ ≫ 煎茶の製法を開発した永谷宗七郎と、お茶漬けの素を発明した永谷園
「ぶぶ」とは、幼児語・女性語と言われており、お湯が沸く時の音からきています。
※ 市販のお茶漬けの素には、小さなあられが入っている場合がありますが、これは「ぶぶあられ」が湿気を吸う為
(乾燥剤代わり) に入れたのが始まりらしいです。
【ぶぶ】 … (京阪で)茶または湯。おぶう。 【おぶう】 … ① (幼児語)湯。茶。 ② ふろ。浮世風呂[前]「―はここだ」
【ぶぶ漬】ぶぶ‐づけ … (京阪地方で)茶漬。
「ぶぶ漬けでも如何どすか?」
江戸時代は「お茶づけでも…」で、京都だけではなく、大坂や江戸でも似たような上辺だけの事を言っていた。
上辺と本音が違う事を言う事は京都に限らないという事が幕末の『皇都午睡』に書かれてあります。
ただ、「口先で上手く云うのは、元々である京都が上手い」とも書かれてあります。
ぶぶあられが海外で大人気!! 米国では日本の2倍以上の注文がある、色んな料理に利用されている
関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『みんなの?ギモン 「なぜ? 東西で違う"ひなあられ"」』 17.03.03 放送 All About 『ひなあられ、東西で違うってホント?』 https://allabout.co.jp/gm/gc/220646/
≪ 雛あられ ≫ Wiki 雛あられ Wiki ポン菓子 雛祭りの起源 女性のための古社 和歌山市 淡嶋神社
大別すると西日本の関西風「もち米 塩・しょうゆ味が基本」と、東日本の関東風「うるち米 砂糖味のみ」になります。
関西風はあられ餅。砂糖味・糖衣したもの・海苔塩・チョコでコーティングしたものなどバリエーションが豊富。
関東はポン菓子を糖衣着色した米粒大のものが基本。(← 「あられ」ではないので、「雛ポン」です。)
【雛霰】ひな‐あられ
3月3日の雛祭に供えるあられ。蒸した糯米もちごめを乾して煎り、砂糖をかけて熱しながらほぐして乾かしたもの。
【糯米・糯】もち‐ごめ … 糯稲もちいねからとれる米で、粘りが強く餅や赤飯とするもの。もちよね。
【粳】うるち … 炊いた時、糯米もちごめのような粘りけをもたない、普通の米。うるごめ。うるしね。うるちまい。
日本おかきせんべいソムリエ協会 田澤秀樹 理事長によると
ルーツには諸説ありますが、平安時代の「ひいな遊び」で、外に持って出る際の携帯食として、菱餅などを砕いて作った
お菓子が雛あられの起源。
平安時代頃の雛人形は紙などで作ったもの。地方の一般庶民の間では昭和の戦後以降に現在と同じ雛人形が広まった
ようです。
江戸時代の上方ではお人形さんごっこをする抱き人形なども雛人形としていたようで飾り雛の中古店は少なかった。
江戸では現在と同じく飾り雛のみで、雛段に飾る調度品の中古店も多かったようです。
大正時代頃の豪商の家には雛人形は段飾りの豪華なものが残っています。
【雛遊び】ひいな‐あそび
雛人形に種々の調度などを供えて飾ること。平安時代から貴族の子女の遊び。ひなあそび。
【菱餅】ひし‐もち
① 菱の実を粉にして作った餅。 ② 菱形に切った餅。紅・白・緑の3色を重ねて、雛の節句に供える。ひしがたもち。春
大阪府池田市にある (関西での雛あられの定番となっている) おかきメーカー『とよす』の豊洲牧子さんによると
とよすでは、昭和30年頃から5色の雛あられを発売。昭和40年頃に当時人気だったチョコレートをコーティングしたあられを
開発し追加。
関東風の由来は江戸時代。「(江戸では糯米の流通が少なかった) 米を炒って作った爆米はぜという菓子」、
「日頃からお釜に残ったご飯粒を干して保存しておき、その干し飯をあぶって作った」。これらを『雛あられ』として食べた
など諸説があるようです。
赤は「魔除け」、白は「清純さ」、緑は「長寿」を願ったもの。(諸説あり)。とも言われているようです。意味は後付けのようですが。
【粶・爆米・葩煎】はぜ 糯米もちごめを炒いって爆はぜさせたもの。紅白などに染め分けて、雛の節句などの菓子用にする。 近世には、年賀客に出したり、蓬莱ほうらい台の下に敷いたりした。〈日葡辞書〉
1946 (昭和21) 年、日本での最初のポン菓子機は福岡県北九州市で誕生しました。
京都市右京区にある大正12年創業の京あられ・おかきの店『鳴海屋』では、東西の雛あられを製造販売。 昭和35年頃に関西風、昭和53年頃にポン菓子機を導入したのがきっかけで関東風も製造開始したそうです。
現在食べられている雛あられが庶民に広く普及したのは昭和30年代の頃と推測できそうです。
北海道小樽市の『オタル製菓』が販売するものは「角型のおかき」といった見た目ですが、花林糖かりんとう (小麦粉に
砂糖を加えて油で揚げて乾燥させたもの) で作られているそうです。 関西での「かりんとう」は黒砂糖で糖衣された古来からの「黒かりんとう」が一般的です。
【花林糖】かりん‐とう
古く外来した駄菓子。小麦粉に水・卵・膨張剤などをまぜてこね、適宜に切って油で揚げ糖蜜をからめる。
新潟県では長岡市の『越後製菓』の雛あられが主流のようです。関西風とほぼ同じあられですが、隠し味にマヨネーズを 使ったものがあり好評だそうです。
愛知県では関西風と関東風が混在。名古屋市の『吉松』では円柱形の雛あられを販売し、うっすら甘くミルク煎餅に似た 味のようです。 ミルクせんべいは、練乳を挟んで食べる大阪の駄菓子。東京などではあまり見かけられないようです。
NAVERまとめ 『地方のひな祭り!個性豊かなローカル雛菓子まとめ』 https://matome.naver.jp/odai/2139023072374444701
大阪のデパートでは関東風の雛あられなども売っているので、他の都市でもデパートに行けば色んな雛あられを入手する 事ができると思います。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『奈良・天川村 修験道の里のお宿が作るかき餅』 14.02.24 放送
≪ 欠餅・おかき ≫
【欠餅】かき‐もち
① 正月11日に取り下げた鏡餅を、刃物で切ることを忌み、手で欠いて小さくしたもの。
② 餅を薄く切って乾燥したもの。あぶり焼いて食す。 ③ あられもち。〈物類称呼〉
【御欠】お‐かき … (女房詞)かきもち
【折餅・分餅】へぎ-もち
欠き餅の事。正月11日に取り下げた鏡餅を、刃物で切ることを忌み、手で欠いて小さくしたもの。あられもち。
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【占い菓子】 |
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東京堂出版 『百菓辞典』 平成9年8月30日 初版 山本侯充 編 、 広辞苑
NHK Eテレ グレーテルのかまど 『新春スペシャル ! ハッピー・カムカム ! 占い菓子特集』 14.01.11放送
≪ 辻占い と 日本各地の占い菓子の流行 ≫ Wiki 辻占 など より
【辻占】つじ‐うら
① 四辻に立ち、初めに通った人の言葉を聞いて物事の吉凶を判ずる占い。
② 偶然起こった物事を将来の吉凶判断のたよりとすること。後に、紙片に種々の文句を記し、
巻煎餅などに挟み、これを取ってその時の吉凶を占うもの。
この辻占は万葉集などの古典にも登場する。
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【瓢箪山稲荷神社】ひょうたんやま-いなり-じんじゃ Wiki 瓢箪山稲荷神社
大阪府東大阪市の瓢箪山稲荷神社は6世紀頃の瓢箪型の古墳の上にあります。
日本三稲荷(諸説あり)の一つであり、辻占総本社。祭神は若宇迦乃賣命(保食神)ほか。
天正11年(1584年)創建。豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)
三里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。
今も行われる辻占は、通りすがりの人の言葉ではなく、その人の性別・服装・持物、同行の人の有無、その人が向か
った方角などから吉凶を判断する。まず御籤で1〜3の数字を出し、鳥居の前に立って、
例えば御籤で2が出れば2番目に通った人の姿などを記録する。その内容を元に宮司が神意を伺うのである。
瓢箪山稲荷神社の宮司さんによると、「神社を参拝できない人たちの為に、おみくじ形式の辻占をあみ出し縁起物の
中に入れたのが始まり」
行商人が売り歩いたことから、江戸時代後期頃から昭和初期にかけて日本中に広まったようです。
※ 日本三大稲荷神社は、京都の伏見稲荷神社、佐賀の祐徳稲荷神社。あと一つは、いくつかの稲荷神社が名乗っているようです。
広まった辻占煎餅は、色んな菓子に形を変え、「辻占菓子」と呼ばれるようになりました。
特に石川県金沢市のものが有名。
【福徳せんべい】
1809 (文化6) 年、金沢城 二の丸御殿が新造された折、12代目の加賀藩主 前田斉広なりながが、祝賀用に加賀藩御用
菓子商「樫田屋」に命じて考案させた菓子。最中もなか皮の中に金華糖(砂糖菓子)などの縁起物が入っているもの。
【金花糖・金華糖】きんか‐とう
砂糖に水を加えて煮詰め、白っぽくなるまですり、魚や動物をかたどった木型に流して固めた菓子。
雲平糖うんぺい-とう (粉砂糖に微塵みじん粉をまぜ、水・湯でこねつけたもの) の応用菓子の一種。
日本三大和菓子処 金沢の和菓子 福梅、長生殿、福徳せんべい、金花糖
各地に広まったものには、辻占のおみくじはなくなり、正月や旧正月の縁起物の占い菓子として食べる菓子もあります。
≪ 辻占煎餅 (京都) と フォーチュン・クッキー fortune cookie (米国西海岸) ≫ Wiki フォーチュンクッキー
現在、米国で食べられているメッセージ入りの菓子フォーチューン・クッキーは、京都の辻占煎餅が起源。
サンフランシスコでは100年前から食べられており、チャイナタウンの中華料理店の食後のサービス菓子の定番になって
いるそうです。色々な種類とサイズのバリエーションがあり、あるメーカーでは年間400万個製造しています。
≪ 米国に辻占せんべいを伝えた? 萩原真1857~1925 ≫
1983年、米国でフォーチューンクッキーの発祥地をめぐって、サンフランシスコとロサンゼルスが州を巻き込んで論争。
結果、サンフランシスコが提出した証拠が認められ、発祥の地はサンフランシスコとなりました。その資料に登場する
のが萩原真。
山梨県の製糸会社を営む二男として生まれた萩原真は、明治時代の22才の時に米国移民として渡米。
萩原は使用人や庭師など、どんな仕事でも引き受けて資金を貯め、日本食レストランを開業しました。
1893(明治26)年のシカゴ万博で、日本のパビリオンとして平等院を模した建物と日本の食文化を紹介するジャパニーズ・
ガーデンが建てられました。
そのジャパニーズ・ガーデン (茶店ちゃみせ) の責任者に選ばれました。萩原が渡米して14年後のことでした。
大盛況の様子を体感した萩原は万博の後、「日本の文化を広めたい」と、サンフランシスコで茶店の本館的経営を始めます。
日本から1000本近くの桜や松、鯉なども取り寄せ、本格的な日本庭園をつくりました。看板メニューとして用意したのがフォー
チューンクッキーでした。「米国人が見たことのないメッセージカード入りの菓子で意標を突こうと思ったのだろう」と、
ひ孫のダグ・ドーキンスさんは推測。
当時、萩原が日本で作らせ使用していたH・Mのイニシャル入りの焼き型が現存。
その型と同じ物を使用しているのが、京都の伏見稲荷神社の参道で売られている「辻占せんべい」。
伏見稲荷参道の「辻占せんべい」を売っている店は4軒。画像の総本家いなり屋では1日に500枚手焼きしているようです。
小麦粉を溶いた生地に白味噌を混ぜ込んで風味を出しています。
ここのお土産の歴史としては、それほど古くないようで昭和の初め頃とも言われています。また発祥の店もはっきりして
いないようです。
とらや HP 『歴史上の人物と和菓子 エドワード・モースと辻占煎餅』 http://www.toraya-group.co.jp/gallery/dat02/dat02_051.html より
『動物学者エドワード・モース(1838~1925)は、明治10年(1877)大森貝塚を発見し、日本の考古学発展に大きく貢献
した人物です。
モースは東大で動物学を講じる一方、日本の風俗に並々ならぬ関心を示しました。著書『日本その日その日』(平凡社
東洋文庫)では国内の様々な事物に触れています。
菓子にも少なからず興味を持っていたようで、同書には子供相手に菓子を売る行商の姿を描写した記述もあります。
明治16年(1883)の項では「辻占煎餅」のスケッチがつくはね(羽根突きの羽根)形で描かれています。
辻占煎餅とは江戸時代から作られている占い紙入りの煎餅です。モースはこれを「ある種の格言を入れた菓子」として
「糖蜜で出来ていてパリパリし、味は生姜の入っていないジンジャースナップ(生姜入の薄い菓子)に似ていた。」と
書いています。
さらに「私は子供の時米国で、恋愛に関する格言を入れた同様な仕掛けを見たことを覚えている。」と言及しています。
この記述から、日本の江戸末期にあたる頃、すでに米国でも辻占煎餅と似たものが存在したことがわかり、興味を覚えます。
また現在も米国始め各国にみられるフォーチュンクッキーとの関連も気になるところです。』
※ 室町時代に京都で創業した「とらや」さんのHPには、和菓子の色々な事が掲載されています。
肉のページ 日本での食人の記録 東京の大森貝塚
≪ 三重県津市の福引煎餅 ≫ 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『連続転勤ドラマ 辞令は突然に… 三重』 14.01.30 放送
県庁所在地の津市にある恵日山観音寺 (津観音) で、江戸時代に節分の
厄除けとして食べたのが始まりだそうです。
参道にある創業から100年を誇る平治煎餅本店では1週間前から5000コの
福引煎餅を用意し、節分当日には買い求める客でごった返すそうです。
煎餅を割ると、中におみくじやお守りが入っていおり、楽しみにしている
県民も多いらしいです。
【福引】ふく‐びき
(年の初めに、二人で一つの餅を引っぱり合い、取り分の多少によって
その年の吉凶を占ったことから)くじ引きで種々の物品を分けとること。
古くは綱の先に銭や品物を結びつけておいて引いた。
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【飴宝引】あめ‐ほうびき 江戸時代、子供相手に飴を景品にして行なった福引。
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