手づくり アイスの店 マルコポーロ
料理の歴史雑学 かまぼこ・天ぷら歴史
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

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このページの最終更新日:   20.02.19
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パン・ケーキ類1 パン・ケーキ類2 麺類の雑学1 うどん類 麺類の雑学2 蕎麦
田楽・おでんの歴史 カマボコ・天ぷら お好み焼き・たこ焼き カレーの歴史雑学
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世界の食文化1 肉とディープな食文化 料理の雑学  INDEX
 

  Page Contents




 鹿児島県 つけ揚げ事情

 中国の揚げ物の分類と中華料理の天ぷらとの関係

 昭和初期の東京での野菜の天ぷらの呼び方 キャベツも胡麻油で揚げ物に

 全国の御当地コロッケの多くは、大阪府で作られていた


 かまぼこの歴史 平安時代 材料はナマズで竹輪型だった 再現画像あり

 かまぼこの歴史 板付きカマボコの登場 江戸時代前期の文献など

 かまぼこの歴史 桃山時代 豊臣秀頼のために、豊臣秀吉がカマボコ作りを奨励

 かまぼこの歴史 蒸し蒲鉾の登場
  紀文 (東京) のHPのカマボコの歴史記述は意図的に改変されている。紀文に騙された気分!!
  江戸時代中期のレシピで当サイトが発見!! 歴史が100年早まった。

 かまぼこの素材の変化  ハンペン

 大阪のかまぼこ 天神祭との関係 (白天と梅焼き) 夏の味 アンペイ

 カニ風味カマボコ 生産量1位は日本ではなく意外な国 19.11.25追記

 各地のカマボコ  魚肉ソーセージ

 天ぷら   西日本の天ぷら 関東のさつま揚げ

 西日本が綿実油・東日本が胡麻油だった理由

 江戸の天ぷら 「天ぷら」と名付けたのは山東京伝? 江戸の天ぷらは大坂人が始めた?

 天ぷらにソースをかけるか、天つゆで食べるか の境界線

 ご当地の天ぷら 大阪の天ぷらなど   沖縄の天ぷら

  ヤマサ蒲鉾株式会社 『第2章 “かまぼこ”をもっと知ろう』 http://www.e-yamasa.com/syohin/kamaboko/dai02.html
  株式会社 堀川 『かまぼこ大全 「かまぼこの歴史」』 http://www.horikawa-corp.co.jp/knowledge/2009/10/post-5.html
  カネマサ商店 『蒲鉾を知る・味わう』 http://www.kanemasa-tsu.jp/recipe/

  江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 かまぼこの歴史 平安時代
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『マツコにとれたてをたべさせてあげたい件』 15.02.02 放送
  読売テレビ ワケあり!レッドゾーン 『追いかけること38年かまぼこに人生を捧げる男』 16.05.05 放送
  テレビ朝日 食彩の王国 『焼いて揚げて"食いだおれ" ナニワのかまぼこ物語』 16.05.28 放送

  ≪ かまぼこの歴史 最初はチクワに似ていた≫  Wiki 蒲鉾

  平安時代末期に描かれた『類聚雑要抄るいじゅうぞうようしょう』(宮廷の儀礼等に関する知識が書かれた書)に、
  カマボコの記述があります。
  藤原忠実ただざね(1078~1162 摂政・関白)が、1115 (永久3)年 転居の祝宴会を開いた時の絵に串を刺した蒲鉾
  載っています。古文書の図および再現画の右下のチクワ形の物が最古のカマボコを再現したもの。





  関西など西日本で「天ぷら」と呼んでいる物は、現在は「揚げかまぼこ」に分類されています。

  これが確認できる文献上最古のカマボコだとして、1115年の数字を採り、カマボコ業界が11月15日を「蒲鉾の日」として
  いるそうです。






  上の画像が撮られたのは、神奈川県小田原市にある(株)鈴廣蒲鉾 かまぼこ博物館。かまぼこ・竹輪作り体験ができます。


  1444 (文安1) 年成立の室町時代の国語辞書『下学集』に「蒲鉾 魚肉炙」という解説があるようです。

  鈴廣 かまぼこの里 『かまぼこ博物館』 https://www.kamaboko.com/sato/shisetsu/hakubutsukan.html

  材料 (ナマズのすり身) を竹の棒に筒状に巻いて作り、これが植物の蒲の穂におり、
  転じて 蒲鉾 (かまぼこ) と呼ばれるようになりました。

  室町時代の『宗吾大双紙そうごおおぞうし(1528年)』には
  「かまぼこはナマズ本也、蒲の穂 (がまのほ) に似せたなり」と書かれています。

  この頃のカマボコは、現在のチクワに似た形だったようです。
  武人の膳で縁起物として用いられる貴重なものでした。


  ※ 江戸時代まで、ウナギも捌かれることなく丸ごと串に刺されており「蒲の穂焼き」と呼ばれていました。秋田のタンポも同様に蒲の穂。

  【竹輪】ちく‐わ
   (切口が竹の輪切りに似ているからいう)魚肉をすって、竹または真鍮しんちゅうなどの金属の串に塗り付けて棒状にし、
   あぶりまたは蒸した食品。
  語源由来辞典『ちくわ』 
   当初、竹輪は「かまぼこ」と呼ばれていた。桃山時代になると、現在「かまぼこ」と呼ばれている板付きのものが作られる
   ようになり、そちらが「かまぼこ」と呼ばれるようになった。そのため、それまで「かまぼこ」と呼ばれていた竹輪は、切り口が
   竹の輪に似ていることから「ちくわかまぼこ」と呼ばれるようになり、略して「竹輪」と呼ばれるようになった。
 
 かまぼこの歴史 板付きカマボコの誕生
  ヤマサ蒲鉾株式会社 『第2章 “かまぼこ”をもっと知ろう』 http://www.e-yamasa.com/syohin/kamaboko/dai02.html
  株式会社 堀川 『かまぼこ大全 「かまぼこの歴史」』 http://www.horikawa-corp.co.jp/knowledge/2009/10/post-5.html
  カネマサ商店 『蒲鉾を知る・味わう』 http://www.kanemasa-tsu.jp/recipe/

  ≪ 板付き蒲鉾の誕生は室町中期~安土桃山時代か? ≫

 室町時代の食事作法を記した写本『食物服用之巻(1504年写)』には、「粥の事 かまぼこは右にてとりあげ、
  左へとりかえ、上ははし、中はゆび。下はいたともにきこしめす也。きそく(亀足)かけとて、板の置やうに口伝あり。
  とあります。また、鯛や鯉を蒲鉾の原料として礼賛しています。

  江戸時代中期の1752年に書かれた『摂戦実録大全・巻一』の記述には、1599 (慶長4) 年(1599年)1月10日、
  豊臣秀頼が五大老・五奉行に伴われて京都の伏見城から大坂城に遷った際の事。
  伏見で、梅春という料理人が蒲鉾を作って振るまった。という話が載っています。

  これらの事より、室町中期~安土桃山時代には板付きカマボコがあったとされます。

  その約1世紀後に書かれた『天保風説見聞秘録 及瓜漫筆 きゅうりまんひつ』という書物の中では、上記のカマボコの
  作り方が説明されています。

  魚どもを取りよせ、大勢よりて、ひたとおろし、骨をさりて、大きな臼を二ツ三ツ立ならべて、おろしたる
   肉を入れ、杵をもってければ、即時にかまぼこになりけるを板に付け、庭の中に長く掘り、炭の火を卓散に
   おこし、畳を左右に立ならべ、かまぼこを段々に指て炙り・

  これは、板付きかまぼこの作り方です。
  ただし、当時は表面を焼いた焼抜きカマボコであって、現在主流の蒸しカマボコではありませんでした。

  江戸時代後期につくられた『嬉遊笑覧きゆうしょうらん(1830年、江戸町年寄 喜多村彦右衛門の弟で 国学者
  喜多村信節きたむら-のぶよ 著。12巻) 』の中には、「昔は蒲鉾はゆでることなく焼きたるものなり」とあります。

  江戸時代末期の『近世事物考 きんせいじぶつこう (1853年、久松祐之ひさまつ-すけゆき 江戸の国学者で幽篁庵と称した 著)
  によると、「後に板に付けたるが出来てより、まぎらわしきにもとの蒲鉾は竹輪と名づけたり」とあります。
  板付きカマボコが出来て以降、板付きを「かまぼこ」と呼び、かつてのカマボコは「竹輪」と呼んで区別されるように
  なったのです。


  ≪ 江戸時代前期 ≫


 1643年刊『料理物語』 「第十六 さかなの部」 さかな=肴の意味。

  たかのはといふ〕は すぎ板に かまぼこ つけ、あひに あらめを入にて はなし、すぢかひに きりて、
  たかのはのごとく みゆるやうに合わせて置く也

  【鷹の羽】たか-の-は
   ③ 蒲鉾の一種。斜めに交差する荒い線を板につけて焼いたもの。

  この「鷹の羽」と呼ばれる料理は、板付カマボコです。

  料理物語に記述がある「かまぼこ」にする食材としては下記のように魚類と鶏が書かれてあります。
  ※料理物語に「かまぼこ」という括りはありません。食材名が挙げられ、それに合う料理が列記されており、それらから抜粋してあります。

  タイ・ハモ・タコ・イカ・カレイ・名吉なよし、みょうぎち=ボラ・イトヨリ・くつな=アマダイ・シラウオ・アワビ・
  みごい=似鯉ニゴイ・アユ・サケ・ニワトリ。


  江戸の漁業および江戸・関東における魚の流通システムは、大坂の摂津系問屋が確立して仕切っていました


  「ジャンボコ」でおなじみの和歌山県御坊市「丸福かまぼこ」 http://www.kishu-marufuku.co.jp/html/tsukurikata.html

  江戸時代前期、1682~1686年の『雍州府志ようしゅうふし (山城国=京都南部の総合的・体系的な地誌)』には、
  はも肉を取って晒し、石臼にこれを摺り塩を加へて、尺許の円竹茎を心となし、外面 円長にこれを塗り、焼いて
  これを食す、これを蒲鉾という、されば則ち竹輪は古式にして、杉板に貼るところのものは近世の製造也という事が
  書かれているようです。 
 
 かまぼこの歴史 桃山時代
  ヤマサ蒲鉾株式会社 『第2章 “かまぼこ”をもっと知ろう』 http://www.e-yamasa.com/syohin/kamaboko/dai02.html
  株式会社 堀川 『かまぼこ大全 「かまぼこの歴史」』 http://www.horikawa-corp.co.jp/knowledge/2009/10/post-5.html
  カネマサ商店 『蒲鉾を知る・味わう』 http://www.kanemasa-tsu.jp/recipe/
  テレビ東京 世界! ニッポン行きたい人応援団 『かまぼこを愛してやまない米国人をご招待』 17.08.03 放送

  ≪ 桃山時代 豊臣秀吉が カマボコ作りを奨励 ≫

  京都の聚楽第完成の翌年の1588(天正16)年、豊臣秀吉が後陽成天皇を招いた際の
  『行幸御献立記』の中に「蒲鉾」の文字があるそうです。

  上記の『摂戦実録大全・巻一』の記述もあります。

  秀吉が溺愛した息子の秀頼は無類のカマボコ好きだったそうで、祝いの席では必ず
  カマボコを用意させたとも言われています。


  【豊臣秀頼】とよとみ‐ひでより(1593~1615) 秀吉の子。
   安土桃山時代の武将。6歳で家を継ぎ徳川秀忠の女むすめ千姫を娶る。大坂夏の陣で、城は陥落し母淀君と共に自刃。

  活鯛の出荷技術は大坂で確立かも?  桜鯛は泉州が名産、桃山時代の大坂船場の遺跡かせ鯛の生簀跡

  【竹輪】ちく‐わ
   (切口が竹の輪切りに似ているからいう)魚肉をすって、竹または真鍮しんちゅうなどの金属の串に塗り付けて棒状にし、
   あぶりまたは蒸した食品。
  語源由来辞典『ちくわ』 
   当初、竹輪は「かまぼこ」と呼ばれていた。桃山時代になると、現在「かまぼこ」と呼ばれている板付きのものが作られる
   ようになり、そちらが「かまぼこ」と呼ばれるようになった。そのため、それまで「かまぼこ」と呼ばれていた竹輪は、切り口が
   竹の輪に似ていることから「ちくわかまぼこ」と呼ばれるようになり、略して「竹輪」と呼ばれるようになった。
 
 かまぼこの歴史 蒸し蒲鉾の登場
  ≪ 蒸しカマボコは幕末に登場? 大阪には蒸し&焼きの両方がある ≫  紀文のHPの記述にだまされた気分??

   紀文アカデミー 『講座①「練りものの起源」』 http://www.kibun.co.jp/knowledge/neri/history/kigen/

  紀文 (東京) のHPによると、 蒸し蒲鉾は幕末に出現 卵百珍に蒸しただけの蒲鉾のレシピがありました

  江戸時代の末期になると、蒸し蒲鉾が現れました。『守貞慢稿』に「江戸にては焼て売ることなく、
   皆蒸したるのみを売る」と蒸し蒲鉾のことが詳記されています。

   このように江戸では焼き板がすたれて、蒸し板ばかりになり、関西方面の焼き板に匹敵し、蒸し板は江戸好みの
   代表的なものになりました。その後、京阪地方でも蒸してから、さらに焼くようになりました
   このようにして、江戸式蒸し板と大阪式焼き板が分かれるようになったのです。

   一方、細工蒲鉾の一種である「切り出し蒲鉾」や「模様入り蒲鉾」も江戸時代の末期には作られたようで、
   その時代の料理書にたくさん載っています。

  と、あります。 しかし、下記のHPからの抜粋をご覧ください。原文も見つけたので旧字のまま書いておきます。

  大蒲水産加工業協同組合 『かまぼこにまつわる話「かまぼことおおさか』  http://www.osaka-kamaboko.or.jp/hanasi_01.html

  江戸末期になると蒸し蒲鉾があらわれました。『守貞漫考』に「京坂には蒸したるままを
   しらいた(白板)」と言う。多くは蒸してのち焼いて売る。江戸にては焼いて売ること無く、皆蒸したるのみ
   とあり、江戸は蒸し蒲鉾だけになりましたが、大阪では両方が存在していたことがわかります。

    焼きかまぼこが大阪で残った理由は生産地である大阪から大消費地の京都へ売りに行くのに、日持ちのする
   「焼く法」を選んだのでしょう。また、同時に魚のくさ味を消すためでもあったといわれています。

  ※ 紀文のHPには上記の緑色の部分が欠落しています都合の良い部分を抜き出して意味を変えています。
    紀文のその後、京阪地方でも蒸してから、さらに焼くようになりました という説明では、「江戸が
    先に蒸すようになった」と取れますし、「大阪には蒸しただけのものがない」とも取れます。
    この紀文の説明はである事が、下記の原文で確認して頂けると思います。 守貞漫稿の原文

  下リンクの国文学研究資料館のリストには、江戸時代に書かれた料理・飲食関連の文献は1200弱ほどあります。
  これらが現代訳されて公開が進めば、食の歴史は更に早まる可能性が高いです。
  「和食;日本人の伝統的な食文化」に関する典籍一覧 https://www.nijl.ac.jp/pages/images/washoku.pdf

  米が原料の煎餅も関西が先だった レシピ原文発見!! こちらも2018年3月現在、当サイトのみの情報

江戸時代料理本集成

大阪の大寅蒲鉾

関西の焼きかまぼこ

関東で定番の紅白の蒸しかまぼこ


  臨川書店 『江戸時代料理本集成 翻刻』の絵は、江戸時代の大坂でのカマボコ作りの様子を描いたもの。
  右側に鱧が吊るされています。現在の大寅蒲鉾でも絵と同様に鱧が吊るされて処理されています。

  カマボコに拘る大阪の職人や料理人によると、現在でも『他の魚と比べコクと出汁が全く違うので、鱧が最良の素材』。


  ≪ 蒸しかまぼこは、江戸時代中期には上方にあった ≫ 蒸カマボコの歴史が変わった

  2017年10月20日現在 カマボコの歴史を書いているメーカーなどに、この事を書いているサイトは見当たりません。

 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集』塩見坂梅庵 著は、内容などから上方 (大坂か) で書かれた物と思われます。
  江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸。1730年頃まで、江戸では上方のパクリ本が主流

  蒲鉾方 かまぼこは惣而 焼たてよし さめたるは あしく候
  甘鯛か はた白か 右一色の魚に いかを四分一程入 又玉子の白身斗少入 すり能比に だしにてのべ
  いかにも能すりて 大板に付 火を強して能比にあぶり 能時分に やき合 其儘 出し候が能候
  少早焼候へば さめて悪候間 若さめ候はヾ せいろうにて入 むして出すべし

  他にも、かまぼこの記述はありますが、長いので省略。
  上の記述では、焼いたカマボコが冷めたら、美味しくなくなるので、蒸して温める事が書かれてありますが、
  下の「大やわらかカマボコ」では、製造工程において、軽く焼いてから蒸す事が書かれていると思います。

  大やわらか かまぼこ方 鯛一枚に玉子の白身斗 五ツ薯蕷おろし (手へんに夕) 子に一つほど 塩少 右よく
  すり合 水を(手へんに夕) 子に三つ程入申候 何魚にても 右の加減に仕候 さつとやきて 其上を せいろうにて
  むし候 其あたゝかなるを出すべし

  温め直して出す際に蒸した事から、蒸すと柔らかくなったので、この頃から製造行程にも蒸し工程が採り入れ
  られ始めたのではないでしょうか?

  汁部 塩無しカマボコの記述

  うけいり味噌仕方 上件の味噌合にする うけいりとは かまぼこの塩の不入を云也…

  【受入り】うけ-いり
   ① 受入豆腐の略。 ② 魚のすり身を小さく丸め、湯引いたもの。汁の実や煮物にする。

  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃

  ≪ 蒸しただけのカマボコの記述 ≫

 1746年成立の『黒白精味集』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)、
  上巻と下巻の十一は独自の記述ですが、この黒白精味集は、色んな人からの聞伝が多い。
  中巻と下巻のほとんどは『四季料理献立 (成立年など不詳、著者は江戸在住か?)』と、ほぼ同じ。
  どちらが先かは、千葉大学の紀要論文で明言されていませんが、四季料理献立の方が先と思われます。

  そのどちらにも掲載されている料理内容にも、上方での食材に使われている言葉が多数ありますので、
   (「薄醤油」「鮓」「せんば」「白味噌」「天王寺蕪」「葛」「かまぼこに鱧が最上」「鯛料理や蛸料理の記述が多い」など。)
  上方で出版された料理本などから、そのまま引用している可能性が高いと思われます。

  一かまぼこ 魚は甘鯛 きす最上也 鱧も最上也 交物なしによく摺 塩少し入て 板付焼也 鯛 はた白上也…
  一かまぼこ炙様 かまぼこ板の裏を… 蒸かまぼこと云は 湯煮して 玉子の白みを引火にて かはかし
  こげめを付けて一切也 一煮かまぼこと云は 板に付 薄醤油にて煮て 切てつかふ也 皆手廻し也 かまぼこは炙事也

  蒸してから表面を焼くのは、京都で売る為に日持ちさせる為の一手間をかけた大坂のカマボコの作り方の特徴です。

  他にかまぼこ法 (鯛が主原料) 」 「鮫かまぼこ」 「料理かまぼこ (玉子)」 「鳥かまぼこ (雁・鴨・雉)
  烏賊かまぼこ (イカと豆腐)」 「海老かまぼこ (芝海老)」「貝の柱かまぼこ」 「骨かまぼこ (小鯛)
  竹輪 (『小串かまぼこ』と云」 「柚かまぼこ (ユズの実をくり抜き、すり身を入れる器にして蒸した料理)
  湯かまぼこ」 「半弁」 「つみ入などがあります。

  全文は下記リンクPDFの 中・下巻でご覧ください。現代文に翻訳されています。

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf


 1785年(天明5)の『萬宝料理秘密箱』(通称「卵百珍」、著者は京都の器土堂の主人)にも
  蒸しただけのカマボコのレシピがあります。

  巻之四 卵の部 「卵蒲鉾の仕方
  一 鱧にても鯛にても身をすこしすりのべ ○玉子の白味を半分より餘分入レよくよくすりのべ 但 すり身はずいぶん
  すくなきがよし 寒晒の粉を すこし合セ 是も白味にてとき 扨すり合セて板に付 むすべし 但 上をすこし火にかけて
  それより蒸篭入レ むすべし 遣ひ方は指身に一段とよし

  巻之四 卵の部 「卵山吹蒲鉾の仕方
  一 煎貫たまごの黄味を右のすり身にすりこみ 扨 生のたまごの黄味を半分合セ すりのべて 是も前に同し
  こげぬやうに すこし焼めをつけ むすべし

  は文字が汚れで一部見えない。「楓」のような文字と思われます。
  魚のすり身に卵白と調味料を加えて板付にして蒸す卵百珍のレシピは、現在のカマボコと全く同じです。
  この事からも紀文のHPの内容が完全に間違いである事がお分かり頂けるはずです。

  人文学オープンデータ共同利用センター 『「万宝料理秘密箱 卵百珍」レシピ一覧』  このサイトは豆腐百珍などの多く古文献データがあります。
   http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C


 明治時代に出版された幕末の『守貞謾稿・類聚近世風俗志』 下巻 第二十八編食類 「蒲鉾

  【守貞謾稿】もりさだまんこう (「守貞漫稿」とも)   コトバンク 『喜田川守貞』 Wiki 守貞謾稿
   随筆。喜田川守貞 (砂糖商北川家。大坂の人、1810~?。1840年に江戸深川に定住) 著。30巻、後編4巻。
   1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗研究に
   不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行

  或書曰 かまぼこは鯰を以て製するを本とし 其形 蒲鉾に似たる故に名とすと也
   然らば蒲鉾の古製は左圖の如きこと必せり 圖 (「古製図」) の如く魚肉を竹串につけたる也

  今世 蒲鉾店にて賣れる ちくはと云もの上圖の如く竹に魚肉をつけて蒸て後 竹を抜さる也 小口より截之ば
  竹輪の形なる故に名とす 是 古の蒲鉾に近し

  今製 竹輪 右の圖の如くす 蓋し外を竹簀を以て 巻包み蒸す故に小口下の如きなり



  今製は圖の如く三都ともに杉板面に魚肉を堆し蒸す 蓋 京坂には蒸したるまヽを しらいたと云 板の焦ざる故也
  多くは蒸て後 燒て賣る 江戸にては燒て賣ること無之皆蒸たるのみを賣る

  上圖 (「今製の図」) は三都ともに普通とするの形也 京坂一枚四十八文六十四文百文也
  江戸は百文百四十八文二百文二百四十八文を常とす 蓋 二百文以上多くは櫛形の未燒物也

  又 右下圖 (「同京師」の図) の如きは大坂及び攝の尼ヶ崎 兵庫 泉の堺等にて 製之京都に漕し賣る者 櫛形に
  似て短く粗製 鹽を多くし 必らず燒いたり 是 遠境より遣之もの故に燒ざれば腐れ易き故也

  又 三都とも別に其工に命じて精製する者あり 或は庖丁を雇て製之等は 必ず精製也
  江戸精製のものは櫛形を專とする也 近年これを蒸ずして燒を良とする也 然ども必ずとせず

  三都とも精製は鯛ひらめ等を專とす 又 京坂は鱧製を良とす 江戸は虎きすを良とす
  凡製のものは三都とも 鮫の類を專とす 鮫の類數種あり名を略す

  又 京坂凡製のものは 豆腐の水を去り加之 又 浮粉と號し小麥 葛を加ふ 江戸にては米の粉を加ふ
  又 文政比以前は烏賊を用ゆることを知らざりしに 其以來は槌にて叩き後磨用となし用

  「=絵」「=売」「=切」「=焼」「堆し=高く盛るようにする事」「こげ・る
  「=摂津」「=塩」「=精」「=数」「=号」「=麦」「=来」


  ある本によると、カマボコはナマズを材料として作るもので、形が蒲鉾に似ているので名前とした。
  それならば、昔作られていたカマボコの形を絵にして載せておくことが必要だ。

  絵のように魚肉を竹串に付ける。現在、蒲鉾店で売られている「竹輪」というものは、図のように竹に魚肉を付けて
  蒸した後に竹を抜く。小口を見ると、竹の輪のような形になるので名前とした、これは昔の蒲鉾に近い。

  今製の竹輪は絵の通り。外側を竹簀で包んで蒸すので絵のような小口の形になる。

  今製の蒲鉾は三都ともに杉板に魚肉を押し付けて蒸す。京坂は蒸しただけの物を、板を焦がさないので「白板」と言う
  ほとんどは蒸した後で焼いて売る。江戸では焼いて売る事無く、蒸したものだけを売る。

  三都とも今製の蒲鉾は「今製図」の絵の形が普通である。

  京都・大阪で1枚48文・64文100文 (幕末4文銭=100円相場計算すると) 1200円・1600円・2500円。
  江戸では100文・148文・200文・248文=2500円・3700円・5000円・6200円が普通の価格。

  (大きさなどは書かれていませんが) 江戸の方が高い価格なのは、多分業務用で大きかったと推測できそうです。
  当時は冷蔵庫がないので1枚ごと買う人は、武家や商家など人数の多い所のみ。江戸で町民は単身が多いので、
  食べ物屋台が多かった。豆腐一丁のサイズは上方より江戸の方が大きかったとの記述もあります。
  特に鮨屋台と蕎麦屋台が非常に多い。守貞謾稿の「鮨賣」には江戸は小買いが多い事が書かれています。

  200文以上のほとんどは櫛形。燒物 「焼いた物ではない」「現在も焼いただけの物」のどらちの意味でも取れると
  思います。後者の意味の可能性大? 大きいサイズなので200文以上の価格で、量が多いので腐らないように焼いたと
  個人的に推測しています。

  但し同幕末頃の時代考証随筆「皇都午睡」三巻によると、魚の価格 京は大坂より1~1.5割、江戸は京より1.5~2割、
  都合 江戸は大坂より3~4割高い (イワシ・芝エビ・貝のむき身など一部の魚を除いて) と書いてあります。
  京は内陸、江戸は人口に比べて漁獲量が少ない事などが高値の要因ではないでしょうか?

  皇都午睡は大坂の書店主・浄瑠璃作家が嘉永に著したもの。明治16年出版
  幕末はペリー来航の1853 (嘉永6) 以降。天保 (1831~1845) - 弘化 (1845~1848) - 嘉永 (1848~1855) -
  安政 (1855~1860) - 万延 (1860~1861) - 文久 (1861~1864) - 元治 (1864~1865) - 慶応 (1865~1868) - 明治。


  京都で売る為に大阪・摂津の尼崎・兵庫・泉州の堺などでは、遠くから売りに行くので、腐らないように、短い櫛形
   (四角に近い形) にして粗製品。塩を多く入れて作って、必ず表面を焼いた。

  三都ともに専門職人や料理人を雇ってつくる場合は必ず手間をかけた良品である。
  近年 (たぶん天保以前) の江戸は櫛形だけだった。蒸さないで焼くことを良しとしたが、必ずそうしたわけではない。

  三都とも良品はタイとヒラメなどが主原料である。又は、京坂ではハモ、江戸ではトラギスが良いとされた。
   安物は鮫を使った。材料とする鮫の種類はいくつかある。

  京坂では安物には水を切った豆腐や、浮き粉と称して小麦粉や葛粉を加えた。江戸では米の粉を加えた。
  文政くらいより前はイカを原料にする事を知らなかったが、それ以降の時代ではイカを潰して原料として用いた。


  読売テレビ 秘密のケンミンショー 「富岡市に住む群馬県民はホルモン揚げが大好き!?」 14.09.11 放送
  テレビ朝日 食彩の王国 『焼いて揚げて"食いだおれ" ナニワのかまぼこ物語』 16.05.28 放送

関東で定番の紅白の蒸しかまぼこ

関西の焼きかまぼこ
生ちくわ
焼ちくわ


  【竹輪】ちく‐わ
   (切口が竹の輪切りに似ているからいう)魚肉をすって、竹または真鍮しんちゅうなどの金属の串に塗り付けて棒状にし、
   あぶりまたは蒸した食品。
  語源由来辞典『ちくわ』
   当初、竹輪は「かまぼこ」と呼ばれていた。桃山時代になると、現在「かまぼこ」と呼ばれている板付きのものが作られる
   ようになり、そちらが「かまぼこ」と呼ばれるようになった。そのため、それまで「かまぼこ」と呼ばれていた竹輪は、切り口が
   竹の輪に似ていることから「ちくわかまぼこ」と呼ばれるようになり、略して「竹輪」と呼ばれるようになった。


  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『皇室のお正月 宮中秘伝の正月料理とは…』 15.01.21 放送
  かまぼこのピンからキリまで 岡田稔 (鈴広蒲鉾工業株式会社) 1983年
   https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience1968/16/3/16_168/_article/-char/ja/

  ≪ 簀巻きカマボコ ≫  平安時代の天皇の食事 帝の居所「清涼殿」 宮中儀式に使われるの高盛(かまぼこ)

  元々は麦わらを多数平行に並べて簀のようにした上に円筒状のすり身を転がして包みこんで蒸したもの。
  最近はプラスチック製のストローや竹製の簀などを利用。

  北陸には昆布で巻いて蒸しあげた昆布巻カマボコがあるそうです。
  伊達巻は四角に焼いたものを竹簀で巻き込んだもの。






  【鳴門巻】なると-まき
   ① 昆布に魚肉の擂り身をのばして巻いて蒸したもの。また、色づけない擂り身に赤色などに着色した擂り身を薄く塗り
    つけて巻き込み、蒸したもの。小口切りにした断面が鳴門の渦潮 (徳島県と淡路島の海峡にある) のように渦巻模様となる。
   ② 切り口に渦巻模様があらわれるよう、複数の材料を巻き込んで仕上げた料理。また、その手法。

  【伊達巻】だて-まき
   ② 白身魚のすり身と卵とを混ぜて調味し、平らに焼いて巻す簀で渦巻状に巻いた料理。


  ≪ 細工カマボコ ≫

  花や魚など色んな木型に入れて蒸したカマボコに着色したりして立体的にしたカマボコを細工カマボコと言います。
  結婚式の引き出物や正月など御祝儀用に需要があり、特に北陸と関西で作られています。
 
 かまぼこの素材の変化
  室町時代後期の1528 (享禄1) 年『宗吾大双紙そうごおおぞうし』によるとナマズがカマボコの原料でした。
  (↑出版はたぶん京都)

  名刀幻想辞典 名物の歴史  ←刀などに詳しいサイト
   https://meitou.info/index.php/%E5%90%8D%E7%89%A9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
  このサイトによると、『宗吾大双紙』は伊勢宗吾という人の話を書き留めた書だそうです。

  和漢三才図会のハモの条にある蒲鉾の記述から、大坂では古くからハモが使われていた可能性がありそうです。


  ≪ 江戸時代 ≫

  江戸時代前期1643年の『料理物語』にあるカマボコの材料は タイ・ハモ・タコ・イカ・カレイ・名吉なよし、みょうぎち=ボラ・
  イトヨリ・くつな=アマダイ・シラウオ・アワビ・みごい=似鯉ニゴイ・アユ・サケ・ニワトリ

  同じく江戸時代前期、1682~1686年の『雍州府志ようしゅうふし(山城国=京都南部の総合的・体系的な地誌)』には、
  はも肉を取って晒し、石臼にこれを摺り塩を加へて、尺許の円竹茎を心となし、外面 円長にこれを塗り、焼いて
  これを食す、これを蒲鉾という、されば則ち竹輪は古式にして、杉板に貼るところのものは近世の製造也という事が
  書かれているようです。 

  江戸時代中期1689 (元禄2) 年の『合類日用料理指南書抄ごうるいにちよう-りょうりしょう』(中川茂兵衛、出版地は京都)は
  秘伝や口伝・聞書などから、料理に関する事を丹念に集めた江戸時代の料理百科とも言われています。
  『第四巻の魚類』の「蒲鉾の類」に「かまぼこ」「烏賊かまぼこ」「はんぺん」という項目があるようです。
  (原文は読んでいないので未確認ですが)

  江戸時代中期の1697年『本朝食鑑』(大坂で出版)によると、
  ナマズはかまぼこの材料魚としては下品であると酷評しており、ハモがカマボコの原料として最高
  素材とされました。

  【本朝食鑑】ほんちょう-しょっかん 本朝・・・日本の朝廷。日本のこと。(「本朝○○」というタイトルの本の著者などは、畿内に多い。)
   本草ほんぞう (植物を中心に薬用になる物)。幕府の侍医 随祥院元徳の子 丹岳野人見必大ひとみ-ひつだい 著。
   12巻。1697年(元禄10)刊。
   明の李時珍著「本草綱目」にならいつつも、実地検証を踏まえ、庶民の日常生活の食膳にのぼることが多く、
   食用・薬用になる国産の植物・動物に重点をおき漢文体で記した書。

  人見(平野、小野、野)必大が1692年(元禄5)に著した遺稿を、子の元浩が岸和田藩主 岡部侯の出版助成をうけ
  1697年に12巻10冊本として刊行した。出版元は不明や、江戸で出版されたという関東系サイトもありますが、
  国立国会図書館デジタル化資料のサイトでは、「出版元、摂州(摂津国、大阪の北摂と兵庫東部)の
  平野屋勝左衛門」となっています。 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸。1730年頃まで、江戸では上方のパクリ本が主流

  江戸時代中期の各料理書のカマボコの材料の記述には「鯛」「甘鯛」「イカ」が最もよく登場しています。


  テレビ東京 世界! ニッポン行きたい人応援団 『かまぼこを愛してやまない米国人をご招待』 17.08.03 放送

  ≪ 明治時代以降 ≫

  明治時代以降、トロール漁が盛んになり、カマボコの主材料トロール漁で獲れるキダイ、グチ、ムツ、エソなどに移ります。
  また全国各地で特色のあるカマボコが作られるようになり、大正~昭和前期になって、一般大衆のお惣菜となりました。







  ≪ 明治・大正時代のカマボコの三大産地と原料の変化 ≫

  かまぼこのピンからキリまで 岡田稔 (鈴広蒲鉾工業株式会社) 1983年
   https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience1968/16/3/16_168/_article/-char/ja/

  清水先生によれば,明治・大正時代までのかまぼこの三大産地は小田原,明石,宇和島で,それぞれ地先の海で
  とれた魚を利用していた。小田原ではオキギス,明石ではハモ.字和島ではユソが主原料であった。時代がすすむに
  つれて各地とも近海魚が減少し,とくに小田原地方ではほとんど原料がなくなり,常盤地方から移入して一時をしのい
  でいた。また生産規模が大きくなり,各地とも,地元の魚では不足してきた。丁度明治の末から大正にかけて漁船・
  漁具・漁法が大進歩し,とくに黄海・菓支那海の底曳網漁業が発達し,底棲魚類が多量に漁獲されるようになった
  これら漁獲物のうち一般料理に向かないか.量的にまとまらない雑魚類はもっぱらかまぼこ原料に向けられた。
  グチ・ニベ・エソ・ムツ。サメ・タチウオ・カナガシラ・ハモ・カレイなどがかまぼこ原料であり.小田原では主としてグチを.
  明石ではグチの他ハモなどを利用し.以西底曳網の漁獲物はかまぼこ製造に不可欠の原料となった。
  また瀬戸内海の漁獲量が減少するにつれ明石でも東支那海の漁獲物に依存するようになり,瀬戸内海の漁獲物を
  使う必要がなくなってくると,かまぼこの生産地は明石から神戸,大阪へと移っていった。
  宇和島も近海漁獲物が減少し,底曳網漁業の基地で原料の豊富な八幡浜が大産地になっていった。


  應用 家事教育書 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926686

  1918 (大正7) 年出版の『応用家事教科書 上巻』(東京女子高等師範学校 教授の大江スミ子 著、東京寳文館 出版)
  「第二章 飲食物 第二節 日常食品」P.80
  十九 蒲鉾・竹輪・はんぺん 鮫の如き脂肪少なくして、かつ色白き肉の脂肪分を去り、細かにそぎ、更に臼にて摺り潰し、
  砂糖・味醂・食塩・片栗・水等を加えて練り合せ、之を板につけ、又は筒形に造りて蒸し、又は焼きたるものをカマボコ
  又は竹輪とす。片栗の代りに薯蕷やまのいもを摺込みたるものをはんぺんとす。


  1937 (昭和12) 年 『魚に因める展覧会記念誌』 (展覧会主催&記念誌の発行 大阪魚㈱)
   昭和12年4月23日~27日 阪急百貨店八階催場 (鯛の旬の季節直前に、魚食の推奨と魚の知識普及を目的として開催)
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1095586

  細工蒲鉾 蒲鉾は日本人の日常食品として缼かされぬ程用途が廣く、…何處の家庭にでも重寶がられている。
  大阪は蒲鉾の名産地として全國的に知られてゐる事は、日々中央市場へ出荷される魚類の中で蒲鉾材料としての
  グチ、ニベ、ハモ、エソ、フカ等が最も多量である事に於てよく立證されてゐる。…


  テレビ大阪 やさしいニュース2 『おでんがピンチ? すり身の価格が上がっている』 19.11.21 放送

  ≪ 昭和時代中期以降 ≫

  昭和の30年頃、これらの漁獲高が急減し、トロール漁そのものも廃れたため、かまぼこ業界では原材料の転換を
  余儀なくされました。
  その結果、卵 (タラコ) を取った後の安価なタラは北海道・日本海側・東北地方で練り製品の原料として使用されて
  おり、練り製品の材料として注目されました。
  そして下記の資料のような事を経て、北洋漁業で獲れるスケトウタラの冷凍すり身がカマボコの主材料として全国的に
  使用されるようになりました。

  かまぼこのピンからキリまで 岡田稔 (鈴広蒲鉾工業株式会社) 1983年
   https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience1968/16/3/16_168/_article/-char/ja/

  戦後,塩釜あたりで焼ちくわの原料として北海道から送られてきたガラ (卵を取った後のタラ) は.表面にネトが
  発生して異臭を発するくらい鮮度が悪く.多量のでん粉を加えなければ製品にならなかった。
  昭和28年ごろ新潟の掘川兵三郎民がごく鮮度の良いスケトウダラであれば, でん粉を加えなくてもきわめて弾力の
  強いかまぼこができることを実証され.ねり製品原料としてのスケトウダラが再評価されるようになった。
  スケトウダラは鮮度が低下すると急速にかまぼこ形成能を失い,また異臭を発生する。その上冷凍すると肉たんばく
  質が変性しやすく,ねり製品原料として使えなくなる。この欠点を解決したのが冷凍すり身の技術である。
  昭和30年代の初期,北海道水産試験場の西谷喬助氏等のグループが, 肉をよく水洗いした後,変性防止剤として
  砂糖と重合リン酸塩を加えて冷凍すれば,スケトウダラのかまぼこ形成能を長期間保持できることを発見した。
  この発明を基にして北海道でスケトウダラの冷凍すり身工場が35年ごろから出現し,さらに海上で船の中で冷凍すり身
  が製造されるようになり,45年には冷凍すり身の生産量は40万t にも達するようになった。
  このため,スケトウダラの冷凍すり身は全国的に普及し,現在ではスケトウダラ以外の原料魚を使っているのは,
  小田原かまぼこ,豊橋焼ちくわ,関西の高級かまぼこ,四国・中部の西部,九州など限られた地区の製品だけに
  なってしまった。






  【介党鱈・鯳】すけとう‐だら
   タラ科の海産の硬骨魚。全長約60センチメートル。口は大きく、背びれは3基、臀びれは2基。体は褐色、腹部は白色、
   体側に黒褐色縦帯がある。太平洋北部・日本海・オホーツク海に多く産する。肉は冷凍すり身として、かまぼこの原料、
   また卵巣は鱈子にする。すけそうだら。すけとう。


  ≪ 2017年以降、スケトウダラの価格が高騰 ≫

  スケトウダラも米国アラスカ沖で獲れる輸入物が主流となっています。水産資源保護のため、米国管理で漁獲量が
  決められているので、スケトウダラの生息数には問題がないようですが、日本のすり身 (スケトウダラ) がヘルシー
  だとして、日本以外での需要が増えた事と物流コストが上がった事が原因だそうです。
  財務省貿易統計によると、2017年2月頃と2019年10月頃を比べると、輸入価格は約1.5倍になっています。

  海外ではすり身の練り物の人気が高まる反面、日本国内では若年層になるほど練り物離れが進んでいるようです。
 
 ハンペン
  テレビ東京 所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ ! 14.01.12 放送
  テレビ東京 世界! ニッポン行きたい人応援団 『かまぼこを愛してやまない米国人をご招待』 17.08.03 放送

  1474 (文明6) 年頃に成立したと考えられる室町時代の日常語の国語辞書『節用集』に「半辯はんぺん」が記載
  されています。

  室町時代末期の通俗辞書『運歩色葉集うんぽいろはしゅう (1548年成立)』や、料理書
  『今古調味集(1580年)著者未詳』には「半片」「半弁」「鱧餅」などの漢字が当てられており、
  魚のすり身に山芋を入れて作ると言う記録から現代のはんぺんに近いものだったと
  考えられているそうです。

  【運歩色葉集】うんぽいろはしゅう
   室町時代の国語のうち漢字表記の普通語を、頭音によりいろは別に集めた通俗辞書。
   3巻。著者未詳。1548年(天文17)成る。
   いろは各部をさらに下位分類しない点で「節用集」と異なる。

  上記の室町時代の書は京都で書かれたものと思います。

  また、『しんじょ』も食されていたようで、ともにさらに豆腐や卵白、くず粉などを入れている
  例もあり、『はんぺん』も『しんじょ』も似たようなものだったと思われます。

  【半片】はん‐ぺん(「半平」とも書く) はんぺい。半弁はんべん。はべん。
   (一説に、駿河国の料理人半平の創製による名という)魚のすり身にヤマノイモなどを
   加え、半月形・方形などに作ってゆでたもの。※江戸時代は鳥の肉も使われていました。

  【糝薯・真薯】しん‐じょ
   魚・鳥・蝦などの肉のすりみに、すった山の芋・粉類を加えて調味したもの。
   蒸しまたは茹でて使う。

  【摘入・抓入】つみれ (ツミイレの約)
   魚のすり身に卵・小麦粉・塩などを加えてすり合わせ、少しずつすくい取り、ゆでたもの。
   鍋の具や汁の実とする。






  1688 (元禄1) 年、大坂の神崎屋長次郎が江戸の日本橋で「神崎屋」を創業。5代目がハンペンを製造開始。
  明治時代に「神茂」と改称。(神茂HP)


  1689(元禄2)年の料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』中川茂兵衛 著 出版地は京都。
  巻四「釜鉾乃類」には、蒲鉾、烏賊蒲鉾、はんぺんの記述があります。
  「はんぺん」には、山の芋、豆腐、魚を合わせ塩を加えて作る事が書かれてあります。


  1746年成立と言われる『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)
  この書は昔の文献や見聞きしたものを集めた部分と、独自の部分があります。

  上巻 四 「飯・汁・膾・差躬

  鰯半弁汁 きらずを細に摺こして 鰯の摺身 等分より いわしの少き方よし 板に付 かまぼこ形 又 角にしても
  紙か布に包 湯煮して 切 形して 中みそ薄き方よし さいのめ おろし大こん あられ豆腐 杯取合よし 又 おろし
  大根 蛎かき汁の妻もよし 此 半弁 吸物にもよし

  「きらず」は「おから」の事です。主に大坂で言われていました。  おから 大坂では「雪花菜きらず」 京都では「卯の花」?

  「差躬は「さしみ」と読むようです。レシピなどから「湯引き」や「タタキ」なども含むようです。

  コトバンク 作り身 『世界大百科事典内の作り身の言及』
  【刺身】より…生の魚貝類などを薄く,あるいは小さく切り,しょうゆ,煎酒(いりざけ)などをつけて食べる料理。
   作り身,お作りなどともいい,日本料理を代表する品目である。
   古く〈指身〉〈指味〉〈味〉〈刺〉などと書き,〈打身(うちみ)〉とも呼んだ。


  1782(天明2) 年初出版の『豆腐百珍』と『豆腐百珍続編』(著者は大坂の曽谷学川と推測されている) 写本出版
  (著者ペンネームは浪華 酔狂道人)にも「ハンペン」の文字が見られます。

  豆腐百珍 五 「ハンペン豆腐」 レシピ記述は略 白玉とうふ ともいふ。
  豆腐百珍続編 十六 「青のりぞめ乃色ハンペン」、「百 「紅ハンペン」の記述があります。

  いずれも肉・魚類は使われておらず、山の芋を加えて蒸す調理法のようです。


  1785年(天明5)刊の『萬宝料理秘密箱』前編 (いわゆる「卵百珍」) 巻一 「鳥之部
   著者は京都の器土堂主人。

  鳥はんぺいの仕方
  一此のはんぺいも前段の鳥の内を用ひ 是もす こし火どりて すり酒 しやうゆ付て さて寒晒の粉をすこし入レ
  玉子白味を入レ 次にだしをいれて ひめのりの すこしやわらかにすりて又右の内へ入レ よくよく すり のべ肉を
  茶わんに入レむして 外の器に入レかへて 葛あんか又わさび味噌か さんせう味噌か又梅仁みそには すこし
  しやうゆに酒を入レ のばし煎てかけいだしてよし 右茶料理にもよろし

  人文学オープンデータ共同利用センター 『「万宝料理秘密箱 卵百珍」レシピ一覧』
   http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C

  江戸時代中期には鶏肉を使ったはんぺい (はんぺん) が、上方でも作られていた事が分かります。
  上記の室町時代の文献は、当時の文化状況などを考えると、京都で書かれた可能性が高いです。


  『守貞漫稿下巻 【第二十八編食類】の「半平」の記述

  はんぺいは蒲鉾と同く 磨肉也 椀の葢等を以て製之 葢半分に肉を量り 故に半圓形なるを以て名とす
  京坂にては半平を胡麻油揚げとなし號けて てんぷらと云 油を用ひざるを半平と云也

  江戸には此 天麩羅なし 他の魚肉海老等に小麥粉をねり ころも とし 油揚げにしたるを 天ぷらと云也
  此 天麩羅 京坂になし 有之は つけあげと云

  江戸の半平は半圓と方形とに種あり 半圓を半月と云 昔は半げつを專とし 近年は角形を專とす 蒲鉾よりは
  米粉等 多く加へて粗制多し

  「=ふた」「=円」「=麦」「=号、ごう、よびな → この場合は「名付けて」の意味」
  「粗製・粗制=簡単に作った粗末な製品」 精製=手間をかけた良い製品」


  Wiki 半片  全国のおでんダネMAP

  元々は関東周辺のみで食されていた地域色の強い食品であった。 この部分のウィキペディアは間違いと言えます。

  戦後になって東京の紀文食品が「紀文のはんぺん」として全国的に販売するようになって以降はこの白いはんぺんが
  「はんぺん」として定着した。現在も消費の殆どは関東周辺である。
  はんぺんの大量生産化を最初に可能にしたのはこの紀文食品であり、特許が失効するまでは今日のように多くの
  メーカーから販売されることはなかった。

  原料には、スケトウダラのほかに、ヨシキリザメ、アオザメ、オナガザメなどのサメ類やカジキなどが使われる
  こともある。


  静岡発祥説は完全は否定できないものの、室町時代末期頃にはハンペンが存在しており、記述の「鱧餅」の鱧は西日本
   (特に京都・大阪) の食文であり、また駿河国の漁業が活発になるのは、江戸時代前期~中期にかけて西日本の漁民が
  稲作や綿花栽培の肥やしとしてイワシが豊富な静岡~関東に移り住んでからの事だと思われますので、関西発祥の可能
  性が高いと思います。 江戸時代の海上物流 北前船

  1938 (昭和13) 年、保芦邦人が東京・八丁堀で山形屋米店 (紀文食品) を創業し。豆乳・魚肉練製品などを販売。(紀文HP)

  東京のハンペンはサメが不可欠な原料だそうです。
 
 大阪のかまぼこ
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『連続転勤ドラマ 「京都府」』 13.07.18 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『マツコにとれたてをたべさせてあげたい件』 15.02.02 放送
  テレビ朝日 食彩の王国 『焼いて揚げて"食いだおれ" ナニワのかまぼこ物語』 16.05.28 放送
  テレビ東京 世界! ニッポン行きたい人応援団 『かまぼこを愛してやまない米国人をご招待』 17.08.03 放送

  ≪ 大阪のカマボコの焼かまぼこ ≫

  大蒲水産加工業協同組合 『かまぼこにまつわる話「かまぼことおおさか』  http://www.osaka-kamaboko.or.jp/hanasi_01.html

  大阪のかまぼこを代表するものは「焼きかまぼこ」です。
   「焼通しかまぼこ」とも呼ばれ、蒸さずにあぶり焼くだけで加熱した板付きのかまぼこ
  で、板面から加熱するので板に焦げ目が付き、濃厚なうまみがあります。

  関東のかまぼこの形状が山高で厚いのに比べ、大阪のかまぼこの形状が山の低い
  扁平な形状をしているのは、大阪のかまぼこが焼いて仕上げるため、
  関東のかまぼこのように長時間蒸しあげる必要が無いからです。

  また、関東のかまぼこが非常に強い弾力性のある「あし」が特徴となっているのと
  比べて、大阪のかまぼこは、「あし」よりも「あじ」を重要視するため、甘味や旨味が
  強いのが特徴です。
 大阪の 別寅 2014年8月 CM より


  上記のカマボコの歴史からすると、元々カマボコは焼いて作るものでした。
  江戸時代中期頃に蒸しカマボコが登場します。(← 当店が料理書からレシピ記述を発見)
  蒸しカマボコも大阪湾沿岸の地域で作ったカマボコは京都で売るために、腐りにくいように蒸した後に表面を焼きました。

  大阪のカマボコは、焼いただけの物・蒸しただけの物・蒸して表面を焼いた物・揚げた物など、江戸時代から様々な調理
  法で作られていたと思われます。

  大寅 なんば戎橋 HP http://www.daitora.co.jp/history.html
  かねてつデリカフーズ 神戸市 HP http://www.kanetetsu.com/
   別寅 岸和田市 (テレビCMまでしている企業ですが) の HPは2014年現在作って無いようです。


  ≪ 大阪カマボコの素材の特徴は高級な鱧や鯛も使う ≫

  江戸時代、井原西鶴の1686年(貞享3)刊「好色一代女」では大坂のうまいもの屋に「椀屋の蒲鉾」が挙げられ、
  幕末にお花見や芝居見物用に人気のあった「萬久」の幕の内の菜としても欠かせなかったことなどから、
  元々、上流階級の食べ物だった蒲鉾がこの頃から広く民衆に広がっていったのが窺えます

  カマボコに拘る大阪の職人や料理人によると、現在でも『他の魚と比べコクと出汁が全く違うので、鱧が最良の素材』。
  関西の中でも大阪と京都では鱧と鯛を昔からよく食べられており欠かせない食材である事が各古文献から分かります。






  大阪で有名な明治9年創業で130年以上続く大寅蒲鉾では、鱧をベースにカマボコの弾力を出すためシログチ (イシモチ) の
  身を加え、水でさらし脱水した後、石臼で2時間ほど練ります。手の感触で粘りと弾力などの出来具合を確認。
  昆布ダシ・塩・砂糖などで味付けしした後、空気が入らないように板付し、40分ほど機械で焼きます。

江戸時代料理本集成

大阪の大寅蒲鉾



シログチ


  臨川書店 『江戸時代料理本集成 翻刻』の絵は、江戸時代の大坂でのカマボコ作りの様子を描いたもの。
  右側に鱧が吊るされています。現在の大寅蒲鉾でも絵と同様に鱧が吊るされて処理されています。

  【鱧】はも (古名はハム。ハミ(蛇類の総称)と同語源)   Wiki ハモ
   ハモ科の海産の硬骨魚。体形はウナギ形で、全長2メートルに達するものがある。吻はとがり、口は大きく鋭い歯を
   もつ。背部は灰褐色、腹部は銀白色。体は滑らかで鱗がない。青森県以南の沿岸に産し、関西では、はも料理の
   材料として珍重。

  ケンミンSHOWによると、現在日本で獲れる鱧の約4割が京都に集まってくるそうです。
  鱧は「魚」ヘンに「豊」と書かれますが、締まった弾力が肉質で味わいが豊かなためです。ただし小骨が多いので、
  細かい骨切作業が必要です。

  海が無い京都 (舞鶴港は明治になってから開かれた港) では、1200年以上前から福井県の若狭からの塩サバと、堺などから
  鮮魚が運ばれましたが、鉄道や自動車が無かった頃の夏季になると鮮魚は京都に着くまでに腐るので、水揚げしても長く
  生きていられる生命力が強い鱧は珍重されました。鱧の旬は夏で大阪湾~瀬戸内海でよく獲れます。


 1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』の巻之五十「河湖 無鱗魚」にある「鱧」は「やつめうなぎ」の事。別称として「文魚
  「黒魚」「玄鱧」「鳥鱧」「八ッ目宇奈岐」があります。原文はページトップにリンクしてあるサイトでご覧ください。

 巻之五十一「江海 無鱗魚」の「海鰻」が「はも」で「和名「波無」
 「波毛」で唐音の略か」とも書かれてあります。 
 「俗に「鱧」を用いているが鱧は八ッ目鰻の事」。
 ↑ 和漢三才図会は明 (中国) で1607年に成立した『三才図会
 を多く参照しているので、中国では「鱧=八ッ目鰻」、江戸時代の
 日本では「はも=鱧」というようになっていたと思われます。

 「西南海 (中国の東の海) に多く生息し東北には全く居ない
 「炙って醤油をかけると鰻よりうまい」などもあります。
 続きにカマボコに用いる事が書かれて文があります。

 「カマボコの名前は、ハモをすり潰してつくった粘りがある魚餅
 が蒲の穂に似ている事が由来」などのような記述があります。

 画像の左2枚がハモ (海鰻) 。ページを跨いでいるため分割。
 右端がヤツメウナギ (鱧) のページがら一部を切り取った画像。

 遅くとも弥生時代から漁業が盛んだった大坂では、ハモが
 江戸時代以前から竹輪または蒲鉾の材料として使われて
 いた可能性がありそうだと、解釈できる記述とも言えます。



 室町時代後期の1528年に『宗吾大双紙』(多分、京都で書かれた) によるとナマズがカマボコの原料。
 室町時代末期の通俗辞書『運歩色葉集うんぽいろはしゅう (1548年成立)』や、料理書『今古調味集(1580年)著者未詳』
 には「半片」「半弁」「鱧餅」という記述があるそうです。

 室町時代初期の『庭訓往来ていきんおうらい』(著者は京都の玄恵1279~1350年と推測されています) の記述から、
 日本各地の物流が盛んになったと考えられています。しかし応仁の乱 (1467~1477年) 以降は戦国時代となります。
 1540年頃、大坂や京都で力を持っていたのが三好長慶。その後、1568年に上洛、1579年に安土城を築いた織田信長。
 1582年に織田信長が没した後は、1583年に大坂城を築いた豊臣秀吉。

 【三好長慶】みよし‐ながよし(1522~1564)
  戦国時代の武将。管領 細川晴元の臣。1549年(天文18)晴元らと戦って勝ち、将軍足利義輝をいただいて
  権勢をふるった。晩年は、その臣 松永久秀に圧倒された。

 室町時代後期の1528年頃の京都は物流が盛んではなくなっていた為、大坂からの魚類の供給も少なく、川魚の方が
 多く食べられていたので、京都で作られるカマボコの材料はナマズだったと考える事もできそうです。


  【和漢三才圖會】わかんさんさいずえは、日本の類書(百科事典)。正徳2年(1712年)成立。 Wiki 和漢三才図会
   編集者は大坂の医師 寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭された
   ことが編集の動機であった。

  鯖街道 福井県若狭~京都     京都・大阪の夏の味覚

  【白ぐち】しろ‐ぐち
   ニベ科の海産の硬骨魚。全長約40センチメートル。体はスズキ型、灰色で銀色の光沢がある。鱗ははげやすい。
   南日本に多く、かまぼこの材料。イシモチ。

  また泉州地区では、高級魚とされるイトヨリも天ぷら (揚げかまぼこ) の材料として普通に使用されています。

  大寅 なんば戎橋 HP http://www.daitora.co.jp/history.html
  かねてつデリカフーズ 神戸市 HP http://www.kanetetsu.com/

  活鯛の出荷技術は大坂で確立かも?  桜鯛は泉州が名産、桃山時代の大坂船場の遺跡かせ鯛の生簀跡


  1937 (昭和12) 年 『魚に因める展覧会記念誌』 (展覧会主催&記念誌の発行 大阪魚㈱)
   昭和12年4月23日~27日 阪急百貨店八階催場 (鯛の旬の季節直前に、魚食の推奨と魚の知識普及を目的として開催)
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1095586

  細工蒲鉾 蒲鉾は日本人の日常食品として缼かされぬ程用途が廣く、…何處の家庭にでも重寶がられている。
  大阪は蒲鉾の名産地として全國的に知られてゐる事は、日々中央市場へ出荷される魚類の中で蒲鉾材料としての
  グチ、ニベ、ハモ、エソ、フカ等が最も多量である事に於てよく立證されてゐる。…



  大阪のカマボコ と 天神祭 との関係 ≫ 白天 と 梅焼き

  天神祭の船渡御ふなとぎょで知られる大川界隈は、元々、雑魚場・青物市・乾物屋を中心とした船着場
   (今で言う中央市場) でした。
  北へ伸びる現在の天神橋筋商店街は10軒に1軒はカマボコ屋であるほどの賑わいを見せ、「天神さん」に
  あやかった縁起物も数多く生まれました。
  中でも 『白天』、『梅焼き』は大阪中に広まり、大阪のカマボコ屋の名物と謳われた程でした。

  昔から天神祭の時期、梅雨の雨を吸った鱧を『水鱧』と言って珍重されてきました。
  ウナギや鱧はもは水揚げした後も長く生きているため精が強いとされ、昔から夏を乗り切るために欠かせない
  食べ物でした。

  (たぶん江戸時代初期頃)、高価な鱧の湯引きを毎日食べることもできず、また、船場の丁稚達にも精力の裾分けを
  考えてやらねばなりません。
  そこで、鱧のすり身 (約500年前から食べている) の入った白天が重宝されるようになったわけです。

  【白天】 主原料は ハモ、グチ、スケトウダラ。
   京阪神、特に大阪で作られる揚げ色をつけない白い揚げかまぼこ
   揚げ色をつけないため、砂糖やみりんなどの糖分はほとんど加えていない。
   白く仕上げるために低温で揚げる。細かく切った昆布やキクラゲを混ぜて揚げた
   製品もある。いため物やあえ物の具にも重宝。

  白天は、道真公を祀る天満という地名「白光、天に満が如く」に由来します。
  雷で空が白む様子を模して作ったのが白天と言われています。

  鱧のすり身を油で揚げると大変美味しいのですが柔らかすぎます。
  そこで、他の白身魚も混ぜ、更に味に深みを出すため、出汁を取った後の
  昆布を刻んで入れていました。

  以降、天神祭の宵宮には、「白天貝割菜」(貝割菜は稲妻、白天は
  雷光によって空が白む様子、すなわち天神さんの具現に見立てた料理)を
  お膳に頂き、崇め奉るという良俗が生まれ、大阪中の「夏祭りには白天
  として広まり、受け継がれています。

  旨味調味料が幅を利かすようになると、(※ 昭和中期頃と推測、旨味調味料 味の素
  1909(明治42)年に神奈川で発売、1920(大正9)年に味の素の販売は大阪が中心で大阪出張所が
  支店になった。)  味の素の歴史

  昆布を入れる事は少なくなり、ましたが、白天の「白と黒」の色調が親しまれていた
  為、昆布の代わりにキクラゲを入れるようになりました。

  梅焼きは調理せず、そのまま菓子代わりに食べる事ができます。

かねてつ 白天(キクラゲ、紅ショウガ)


別寅 梅焼き (商品名は焼きかまぼこ)

  【梅焼き】  主原料はハモ、グチ。
   大阪名産。梅型に卵と砂糖の入ったすり身を流し込んで焼いた卵入り焼抜かまぼこ
   天神さん (菅原道真)の紋所である梅鉢を型に頂いたもの。梅の花の形をした軽い食感で甘みがある。
   関西では大阪寿司の寿司皮や寿司種に広く使われている。クリームチーズなどを添えるとおしゃれなオードブルになる。


  ≪ 手づくり大阪カマボコ ≫  テレビ大阪 ニュースリアル 『「秋の叙勲」大阪かまぼこ伝統守る』 15.11.03 放送

  2015年の秋の叙勲では、日本全国で 3964人 (大阪府内では141人) が受賞。
  大阪市平野区にある創業62年になる㈲魚竹蒲鉾店の2代目社長 竹中祥之さんが旭日双光賞を受賞しました。
  こちらでは、大阪カマボコの製法と味を守るため、一つ一つ職人の手づくりだそうです。






  画像 毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびたせ ! えほん 「ちんちん電車が走る街 大阪府堺市でえほん旅」』 14.07.24 放送
  excite ニュース 『関西夏の名物「アンペイ」って何だ』 06.07.10 配信 http://www.excite.co.jp/News/bit/00091152458977.html

  ≪ 大阪の夏の味 「アンペイ」 ≫

 関東にくらべ、一般的に関西人はあまりハンペンを食べないと言われている。
  低カロリーということで若い人はよく手に取るが、年配になればなるほどハンペン
  への態度が硬化する。
  需要ゼロとまではいかないのだが、関西におけるハンペンの立場は弱いのだ。
  しかしハンペンに良く似た食べ物は存在する。それが「アンペイ」だ。

  アンペイとはハモなどの白身魚を丁寧に丁寧に練り、それを蒸して仕上げる
  カマボコに似た練り物の事。
  つなぎはほとんど使わない。姿は四角く白い固まりで、一見ハンペンにも見える。
  同じものだと勘違いする人も多いそうだ。

  しかしハンペンは、柔らかい食感を出すために山芋などのつなぎが必須。
  さらに湯がいて仕上げるなど、アンペイとハンペンは作り方からして異なる存在
  である。

  そんなアンペイの食感は、フンニャリツルン。
  ハンペンより噛み応えはあるが、かといってカマボコほど主張が強いわけでもない。

堺市の田村商店 あんぺい



  一番スタンダードなやり方としては、やっぱりワサビ醤油。マヨネーズや七味で食べる人も多いが、これは
  どちらかというとビール向き。

  ご飯や日本酒と合わせるのならワサビ醤油が一番ですねと、お店の方。
  ちなみにそのまま食べても美味しい。かすかに甘く優しい風味なのだ。
  板ワサで冷酒を一杯というのも粋だが、暑い日にアンワサで一杯というのもなかなかオツな味である。
  食べたことのない方はぜひ一度どうぞ。

  なお、どんな食べ方をしてもいいが、忘れていけないのはよく冷やすと言うこと。冷蔵庫や氷水でキュッと冷やして
  おくのがアンペイを美味しく食べるコツである。なのでアンペイは夏にのみ味わえる関西夏の風物詩的一品……
  なのだが、最近はアンペイを知らない人も多いのだと、
  お店の人は言う。なぜなら賞味期限が短く、スーパーなどで販売されないため。

  主な取り扱いエリアはカマボコ専門店などの小売店に限られてしまうため、「これなに?」と聞いてくる人も多いのだとか。
  カマボコ屋さんの前に冷蔵ケースが並び始めると、もう夏やなあと感じる、アンペイとはそんなそんな夏の風物詩。
  どうぞ廃れないように守り続けていただきたいと願うばかりだ。

  豆腐百珍にある大坂発祥の豆腐メニュー34種 ひりょうず、アンペイなど  おから 大坂では「雪花菜きらず」 京都では「卯の花」?

  1783 (天明2) 年刊の『豆腐百珍続編』の 「作腐家新品目」にアンペイ加料かやくなどが近来、大坂の天満市場などで
  作って売る事などが書かれてあります。
  1803 (享和3) 年刊の『素人包丁』の1巻 (大坂で刊行) に「早あんぺい」 があり、鯛やハモなど5種類の白身魚が材料
  として記載されています。

  かまぼこ専門店 八尾蒲鉾店 『季節の商品 大阪の夏の涼味、「あんぺい」と「魚そうめん」』 http://www.kamabokoya.jp/kisetsu.htm

  田楽・おでんの歴史 日本全国 おでんの定番5品など、豆腐百珍の田楽各種メニュー、各地のおでん、ちくわぶ
 
 カニ風味カマボコ
  関西テレビ ゆうがたLIVEワンダー 『業界イチオシスクープ 「水産煉製品新聞』 15.04.03 放送
  山口放送 日本のチカラ 『山口から世界へ! カニカマ製造機』 15.06.07 放送
  読売テレビ ワケあり!レッドゾーン 『追いかけること38年かまぼこに人生を捧げる男』 16.05.05 放送

  ≪ 大ヒット食品加工品 『カニカマ発祥』 諸説あり  Wiki カニカマ より抜粋  Wiki マルハ

  カニカマの発祥は、石川県のスギヨ、広島市の大崎水産、マルハ (兵庫県明石市で創業、現在はマルハニチロで
  東京本社) の3社が主張しているようです。

  石川県七尾市の水産加工メーカーであるスギヨは、1972年(昭和47年)に、着色・着香した蒲鉾を細く裁断した
  商品である「珍味かまぼこ・かにあし」を発売したのが最初と主張している。

  水産業界の中でも気を吐いたのは最大手の大洋漁業(現マルハ)で、同社は1973年(昭和48年)にアンゴラ沖で
  大量に捕れた小型のズワイガニに、スケトウダラのすり身を混ぜ、80%カニ肉で製造し発売した『カニ棒』が
  「カニカマ」の先祖と主張している

  現在の広島県広島市西区の漁師町である草津の蒲鉾屋を発祥とする大崎水産が「カニカマの元祖」とする文献もある。
  大崎水産も自社が「カニカマの元祖」としている

  1974年(昭和49年)に商品化し、棒状のカニ風味カマボコ「カニスチック」を発売した。
  1981年(昭和56年)9月に、先の大崎水産の出願が特許公報で公告され、特許が降りる見通しが強まってから、業界内が
  ギクシャクし始め、業者や機械メーカーから数件の異議申し立てが特許庁に出され、特許が降りなかった。

  カマボコ業界の集まりである全国蒲鉾水産加工協同組合連合会(通称・全カマ)は、1982年(昭和57年)6月に「カニ足蒲鉾
  特許問題協議会」を発足させ大崎水産と交渉を重ねた。
  1983年(昭和58年)には50社を越える業者がカニカマを生産するようになった。

  38年間毎日カマボコだけを取材しつづけている土井雄弘さんは、水産煉製品新聞 (1950年創刊、月1回・1万2000部発行)、
  交流 (年4回)、東蒲新聞 (年6回) の3誌のカマボコ関連新聞をほぼ一人で取材し発行。
  発行元は東京・秋葉原にある全国蒲鉾水産加工業協同組合連合会。
  これまでに食べたカマボコを板カマボコに換算すると5万6000本くらいだそうです。

  その土井さんによると、日本が戦後に発明した3大加工食品は、「インスタントラーメン」「レトルトカレー」「カニかまぼこ」。
  カニカマの発祥は1974 (昭和49) 年に製造された大崎水産の「フイッシュスチック」のようです。






  2016年現在、カニカマを製造している国は、韓国・ロシア・ブラジル・フランス・リトアニアなど20ヵ国あるそうです。

  かまぼこのピンからキリまで 岡田稔 (鈴広蒲鉾工業株式会社) 1983年
   https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience1968/16/3/16_168/_article/-char/ja/
  この論文によると、最初に市販化された組織化製品 (一般の弾力があるカマボコと違う筋肉繊維的な食感を持つ) は
  昭和45年頃に石川県七尾のスギヨが作ったカニのイミテーションである。
  やや遅れて広島県の大崎水産が、全く違った製法でカニカマを作ったと、書かれてあります。


  ≪ カニカマ製造機の世界シェア7割を誇る ㈱ヤナギヤ 山口県宇部市 ≫   Wiki ヤナギヤ

  1916 (大正5) 年、柳屋元助が家業の「かまぼこ製造業」を継ぎ、柳屋蒲鉾店として創業。
  1927 (昭和2) 年、当時手作業で行っていた擂潰らいかい (すり潰し) 工程の機械化を模索し蒲鉾用撹拌擂潰機の開発に
   成功。
  1932(昭和7)年、その機械が人気を博しのを機に柳屋鉄工所を開業し、食品機械製造業に参入。
  1979 (昭和54) 年、大崎水産からカニカマの機械製造を許可され、カニ風味蒲鉾製造機を開発。
   ヤナギヤより先にカニカマ製造機を販売しているメーカーもありました。
  1982 (昭和57) 年、韓国やロシアなどの海外進出を開始。
  2015 (平成27) 年現在、43ヵ国で食品加工機械を販売。うちカニカマ製造機は16ヵ国で70%のシェア、国内では90%の
   シェア。

  山口放送の番組内で使用されていた「原料の『練り』」の絵は、上記した臨川書店 『江戸時代料理本集成 翻刻』の
   「大坂の蒲鉾作り」の左側部分だけを切り取った図です。






  全国かまぼこ連合会 『組織概要』 http://www.zenkama.com/company/

  水産ねり製品(かまぼこ、ちくわなど)の製造業者による業界唯一の全国組織として、1940年(昭和15年)12月9日に
  設立され、水産業協同組合法に基づく「全国蒲鉾水産加工業協同組合連合会(略称:全蒲連)」と、任意団体の
  「全国水産煉製品協会」とを併せた名称です。
  北は北海道から南は沖縄まで、「全蒲(ゼンカマ)」の組合数は52組合、傘下企業数は約800社にのぼっています。

  2015年はカマボコ誕生から900年で「カマピー」と「チックル」というキャラクターをつくり、幼稚園を訪れ『かまぼこ
  たいそう』を踊るキャンペーンを行っています。


  テレビ大阪 やさしいニュース2 『おでんがピンチ? すり身の価格が上がっている』 19.11.21 放送

  ≪ カニカマ生産量1位はリトアニア ≫

  1970年代に日本で開発されたカニ風味カマボコ (通称カニカマ) はヨーロッパでも生産
  されています。
  1980年代に欧州で牛の病気であるBSEが流行した事により、リトアニアの企業が牛肉に
  代わる物として目を付けたのが日本のカニカマでした。
  欧州ではカニカマの事を「SURIMI (すり身)」と呼んでいるようです。


 
 各地のカマボコ
  テレビ東京 出没!アド街ック天国 『東京・日本橋SP』 13.10.19 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『北海道岩内町のヒミツのごちそう』 14.01.23 放送
  NHK Eテレ 知恵泉 『トップは発想せよ ! 「伊達正宗」』 前編 14.04.01 放送 / 後編 14.04.08 放送
  テレビ東京 世界! ニッポン行きたい人応援団 『かまぼこを愛してやまない米国人をご招待』 17.08.03 放送







  広島県では大正時代中期から、ミニちくわ・ミニかまぼこが作られていたそうです。

北海道 たちかま

宮城 笹かまぼこ

鳥取 とうふちくわ

島根 あご野焼


  北海道の「たちかま」は特にスケソウダラの水産加工が盛んな岩内町で作られているもの。
  昭和初期にタラコより傷みやすいスケソウダラの白子を長持ちさせようと、漁師や水産加工の人たちが作ったのが
  始まりだそうです。岩内町のスーパーでは11~12月(製造は11~1月まで)になると、最も売れていカマボコの20倍
  売れる冬季の超人気品だそうです。

  宮城県の「笹かまぼこ」は笹の葉に模した形で仙台・塩釜の名産品。

  鳥取県の「豆腐ちくわ」は豆腐が7割・魚のすり身が3割で作られた竹輪。

  島根県の「あご野焼」の「あご」とはトビウオの事です。

  関西テレビ ゆうがたLIVEワンダー 『業界イチオシスクープ 「水産煉製品新聞』 15.04.03 放送
  読売テレビ ワケあり!レッドゾーン 『追いかけること38年かまぼこに人生を捧げる男』 16.05.05 放送

  ≪ 水産煉製品新聞の土井雄弘 編集長のオススメのカマボコ ≫

   ご当地系
  新潟県「海老しんじょう」、神奈川県小田原「古今」、大阪府・大寅「蒲穂子」、愛媛県宇和島「手作りじゃこ天」、
  広島県・桂馬蒲鉾商店「柿天」、山口県・宇部蒲鉾「蒲さし」。







   新製品系
  新潟県・一正蒲鉾「うな次郎」、兵庫県・ヤマサ蒲鉾「魚のチーズケーキ」、兵庫県・カネテツ「ほぼホタテ」、
  熊本県・ふくとく大成「〆蒲」。







  以上は、関テレ・読売の番組で紹介されていたもの。他にもオススメしたいものが多くあるようです。
 
 魚肉ソーセージ
  読売テレビ かんさいネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「ポールウインナーはなぜ関西ソウルフードなのか !?」』 14.09.10 放送
  かまぼこのピンからキリまで 岡田稔 (鈴広蒲鉾工業株式会社) 1983年
   https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience1968/16/3/16_168/_article/-char/ja/

  1938 (昭和13) 年、静岡県焼津市の南興食品が、マグロを原料にした「ツナハム」を製造販売。(日本缶詰協会HP)

  ≪ 伊藤ハムのポールウインナーが関東では売られていない理由 ≫

  関西では兵庫県の伊藤ハムが1934 (昭和9) 年に販売開始したポールウインナーが売れており、関東進出を考えます。
  セロファンで包んだポールウインナーは冷蔵庫に入れなくても衛生保存が可能でした。

  1950~1951 (昭和25~26) 年頃、関東では魚肉ソーセージが普及し始めており、食肉加工業界から「箱根の関を
  越えるな !!」という要請が伊藤ハムにあったそうです。
  下記の資料からすると、関東では魚肉ソーセージの大量生産が始まる直前だったようです。

  1951 (昭和26) 年、西南開発が日本初となるアジ類を原料とした魚肉ソーセージ「スモークミート」を販売。 (同社HPより)
  翌年、明治屋と提携し、「明治屋のスモークミート」として全国販売を開始。

  「かまぼこのピンからキリまで」という資料によると、
  昭和28年頃から本格的工業生産の始まった魚肉ソーセージは.当時の原爆実験による放射能汚染マグロの発生の
  影響で,マグロの消費者ばなれがおこり,価格が低下した際にマグロの利用法として始まった。当時はマグロ,カジキが
  主原料であり,きわめて美味であった。マグロの人気が回復するにつれ,サメ,アジ,イカなど安価な原料に変わり,
  品質も低下していった。
  戦後漁獲量が多かった東支那海の底曳網漁業も昭和30年頃になると不振になり, 全国的に深刻な原料魚難に
  おちいった。

  1960年代に入り、ポールウインナーが関西では学校給食に採用され大ヒット。大阪市内ではホットドッグにして車の
  移動販売がありました。要請が緩和され関東での販売を開始しますが、安価な魚肉ソーセージには勝てませんでした。






  1950年代の東京ではコロッケ1個5円、魚肉ソーセージ1本30円で魚肉ソーセージは御馳走でした。
  魚肉ソーセージより高価な御馳走として人気があったのがハムカツだそうです。後にチーズ入りハムカツも登場。
  ハムカツは関西でも見かけますが、あまりメジャーな食べ物ではありません。。関東の食文化です。

  伊藤ハムのポールウインナー 関西だけでしか普及していない理由と 60年代の大阪のホットドッグ復活
 
 天ぷら
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『マツコにとれたてをたべさせてあげたい件』 15.02.02 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第3回 江戸の天ぷら』 16.04.19 放送
  読売テレビ ワケあり!レッドゾーン 『追いかけること38年かまぼこに人生を捧げる男』 16.05.05 放送
  テレビ朝日 食彩の王国 『焼いて揚げて"食いだおれ" ナニワのかまぼこ物語』 16.05.28 放送
  江戸食文化紀行 -江戸の美味探訪- 『No.18 てんぷら』 http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no18.html

  ≪ 天ぷら ≫  大阪 箕面市の紅葉の天ぷら1300年前からある?

  「天ぷら」の語源やルーツには様々な説があり、はっきりしていません。

  Wiki 天ぷら
   (出典は、食の研究所 『「天丼」の進化は屋台系とお座敷系の2系統』 澁川 祐子 2013.04.12 配信
     http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37549)
  ※ 澁川 祐子さんは、1974年、神奈川県生まれ。東京都立大学人文学部を卒業後、フリーのライター。

  16世紀には、南蛮料理を祖とする「長崎天ぷら」が誕生している。これは衣に砂糖、塩、酒を加えラードで揚げるもので、
   味の強い衣であるため何もつけずに食するものであった。
   これが17世紀に関西に渡り、野菜を中心としたタネをラードに代わりごま油などの植物油で揚げる「つけ揚げ」に発展する。
   そして江戸幕府開府とともに天ぷらは江戸に進出、日本橋の魚河岸で商われる魚介類をごま油で揚げる「ゴマ揚げ」として
   庶民のあいだに浸透していったといわれている

  江戸時代から天ぷらの人気は高く「江戸の三味」の一つであった。
  奈良~平安時代に米の粉などを衣にした唐揚げのようなものが伝来。

  徳川家康は鯛の天ぷらの食べ過ぎで死亡した説。
  当時の天ぷらは、京都ではやっていた「つけ揚げ」というもので、現在のから揚げに近い
  そうです。

  1669年(寛文9年)の『食道記』に「てんふら」という名称で文献上に初めて登場。
  天ぷらは平田萬里遠の『近世飲食雑考』によると、17世紀末にポルトガルから伝来した
  料理だそうです。


  江戸の街頭に天ぷら屋の屋台店が出始めたのは1785年 (天明5年) 頃らしいです。

  東日本では小麦粉を衣として纏わせ揚げたもの。ゴマ油を使用していたので現在より色が濃い。
  西日本では魚のすり身を素上げしたもの(じゃこ天や薩摩揚げなど)が天ぷら。

  【天麩羅】テンプラ temporas ポルトガル語
   (斎日の意。 tempero(調味料)からともいう)
   ① 魚介類や野菜などに小麦粉を水でといたころもを着けて油で揚げた料理。
   ② 関西で、薩摩揚げの称。 ③ (ころもで具を覆うことから)

  【精進揚】しょうじん‐あげ … 野菜・植物性食品だけの揚げ物。

  【薩摩揚げ】さつま‐あげ
   (江戸で初め、「薩摩のつけ揚げ」と称し、上方では「てんぷら」と呼んだ)すり身にした魚肉に、食塩・砂糖・小麦粉など
   を加え、適当な形にして油で揚げたもの。
   野菜や銀杏・うずら卵などを混ぜ込んだり、芯にして巻いたり包んだりすることもある。

  幕末の『皇都午睡』三編上 (著者は大坂の西沢一鳳軒、1801~1852、西沢一風の玄孫)
  油揚を胡麻揚、飛龍臼ひりょうず揚物を天麩羅または金麩羅とも

 
 西日本の天ぷら 関東のさつま揚げ
  かまぼこのピンからキリまで 岡田稔 
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『マツコにとれたてをたべさせてあげたい件』 15.02.02 放送

  ≪ 揚げカマボコ 関東さつま揚げ、関西天ぷら ≫

  関西~西日本にかけて呼ばれている魚のすり身を揚げた「天ぷら」は、現在は揚げカマボコに分類されています。
  関東を中心として東日本では「さつま揚げ」






  さつま揚げのルーツと言われるのが、ベトナムのチャーカーだそうです。


  日本家政学会 食文化研究部会長の大久保洋子さん(元 目白大学短期大学部 生活科学科 教授) の説明の中で気になった点。
   大阪ですり身の揚げ物を『つけ揚げ』って言うんですね。それが、こっちへ輸入されてきて魚そのものを揚げてる。
    それがヒットしたわけですよ テロップにはつけ揚げ 魚のすり身を上げたもの (大阪)とあります。

  下記の広辞苑での情報も含めて言うと、大阪ではすり身を揚げたものは「天ぷら」と呼びます。
  「つけ揚げ」と呼んでいるのは鹿児島や江戸のようですが、大坂で「つけ揚げ」と言ったという文献があります。
  それは山東京山 (江戸の人、1769~1858) の随筆『蜘蛛の糸巻』1846(弘化3)年刊の記述。

  【付け揚げ】つけあげ
   ① あげもの。てんぷら。 ② (鹿児島地方で) 薩摩さつま揚げのこと。

  【薩摩揚げ】さつま-あげ  Wiki 薩摩揚げ  Wiki 揚げかまぼこ
   (江戸で初め、「薩摩のつけ揚げ」と称し上方では「てんぷら」と呼んだ)
   すり身にした魚肉に、食塩・砂糖・小麦粉などを加え、適当な形にして油で揚げたもの。
   野菜や銀杏・うずら卵などを混ぜ込んだり、芯にして巻いたり包んだりすることもある。


  全国かまぼこ連合会 『かまぼこ製品図鑑』 http://www.zenkama.com/zukan/#05 によると、
  【揚げかまぼこ】の分類 『さつま揚げ』 
  特産の鹿児島では「つけ揚げ」、関東では「さつま揚げ」、関西では「天ぷら」と呼ばれる
  揚かまぼこ。すり身を油で揚げるため風味は濃厚。

  ニコニコ大百科(仮) 『つけあげ』
   http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%82%E3%81%92
  つけあげとは、魚のすり身を成型し油で揚げた揚げかまぼこの一種である。(別名:さつま
   揚げ)
   1864年に薩摩藩が琉球を統治するようになり、琉球料理「チキアギ」が入ってきた時に
   地元の魚で代用し作られたのがきっかけである。
   つまり「チキアギ」がルーツとなり、薩摩藩でチキアゲのなまりでもある「つけあげ」が誕生し、
   全国には薩摩の揚げ物として「さつま揚げ」の別名称で広まっていったとされる。
   (関西では「てんぷら」の名称で広まっている)つけあげの生産地としては鹿児島の串木野が
   有名であり、鹿児島では現在でも「さつま揚げ」と呼ばず「つけあげ」の名で親しまれている
   料理である。

  家庭で味わう郷土料理百選 『鹿児島県の郷土料理|(選定料理)つけあげ』 によると、
   http://www.rdpc.or.jp/kyoudoryouri100/recipe/recipe/460202

  魚のすり身と野菜を使った揚げ物料理です。
   琉球(現在の沖縄県)に魚肉のすり身で作るチキアギという揚げ物料理があり、江戸時代にこの料理が薩摩に
   伝わったのがつけあげの発祥といわれています。
   鹿児島県でよく食されていることから、「さつまあげ」とも呼ばれています。
   鹿児島県近海では、イワシやトビウオ、エソなどの様々な魚が水揚げされることから、種類豊富なつけあげが
   作られています。現在では鹿児島県を代表する郷土料理として、全国各地で食されています。

  右上のJタウンネット調査「さつま揚げの呼び方」によると、「天ぷら」と呼ぶ地域の方が多く、「さつま揚げ」は東日本のみ。
  言葉の伝播の仕方と、北海道や青森が「天ぷら」と呼ぶ事などから考えると、元々は日本全体で「天ぷら」と言っていたが、
  大正時代の関東大震災以降に東京の天ぷら職人が他県へ移住した事から「さつま揚げ」という言葉が伝わり始め、
  昭和のラジオ・テレビの普及によって、東京キー局の影響が強い地域が「さつま揚げ」という呼び方に置き換わったと
  思われます。
 
 鹿児島県のつけ揚げ さつま揚げ
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『鹿児島県民の熱愛グルメ』 13.08.08 放送

  鹿児島県では「つけ揚げ」と呼ぶことが普通で「さつま揚げ」表示は観光客向け。関西では「天ぷら」と呼ぶ練物です。
  平成24年度の総務省家計調査では、購入金額ベスト5は全て西日本ですが、1位の鹿児島市は5位の大阪市の2倍。
  お中元・お歳暮・七草祝い・誕生日・父の日・母の日など一年中、さつま揚げを贈る習慣があるそうです。






  鹿児島県蒲鉾協同組合の理事長 有村興一さんによると、1840年代 島津斉彬公の頃ですけど、薩摩と琉球は非常に
  交流が深かったわけです。その頃「揚げる」という製法が沖縄にあって、それが鹿児島に伝わってきて、元々鹿児島に
  あった蒲鉾作りに「揚げる」という手法を応用して、つけあげが誕生したと聞いています。

  ケンミンSHOWによると、魚を突いて擦る時の「突く」が転じて「つけあげ」なったという。






  エソ・タラ・鯛などの白身魚と、イワシ・アジ・トビウオなどの青魚、それぞれ5種類の魚をミックスした白身魚・青魚の2種類
  のバージョンが基本になるようです。
  すり身に砂糖と灰持酒を加えて甘く味付けするのが鉄則で、味付けが濃いので、何も付けずそのまま食べるのが普通。






  県内には製造会社が40社ほどあり、家庭などで作る為の専用のすり身も販売されています。

  【灰持酒】あくもち‐ざけ
   (醸造中、灰を入れるからいう)糖分を多量に含有する酒で、暗褐色でねばりけがあり味醂みりん
   に似る。飲料・調味料。赤酒あかざけせきしゅ。灰酒あくざけ。  赤酒は熊本県名産の灰持酒です。

  新鮮!寿し本  河出書房新社 1998年6月初版 著者:博学こだわり倶楽部

  鹿児島県では焼酎を男酒、地酒 (灰持酒) を女酒と呼びます。アルコール度数は14度くらいで、甘い酒。
  『薩摩寿司』とも呼ばれる『酒寿司』は酢を一切使わず、米1升に対し灰持酒を1升使い切るお酒たっぷりの寿司で、
  元々、島津義弘が花見の宴会を開いた際、女中が残った料理と地酒を桶に入れて一緒に置いていたところ、翌朝良い
  香りが漂っていた事が酒寿司の始まりとされおり、島津家の花見雛祭りの御膳料理やもてなし料理として作られました。

  男尊女卑の気風が強かった薩摩藩では、女性が公然とお酒を飲むことが許されなかったので、この寿司を好んだとも
  言われています。
  時代が進んだ昭和40年代には、酒寿司を作る店が1軒もなかった事から、見直されて郷土料理として復活したそうです。

 
 西日本が綿実油・東日本が胡麻油だった理由
  NHK Eテレ 美の壺 「おせち料理」 12.12.26 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 西国三十三所めぐり 奮闘編⑩』 14.01.27 放送

 ≪ 平安~戦国時代の主流はエゴマ油 ≫

  日本では中世になるまで植物油といえば荏胡麻エゴマを搾った油が使われていました。
  大山崎の油座 (京都・大阪) は日本初で最大規模の油座として平安時代~戦国時代末期に権力者の庇護を受け畿内を
  中心として広範囲で油の取扱いの独占権を持っていました。各地の「荏原え-ばら」が付く場所の多くは栽培地であったこと
  に由来するそうです。

  江戸時代の海上物流 北前船 製油発祥地 京都離宮八幡宮

エゴマ

最初の搾油器の再現

ごまめ 田づくり

樽廻船



  ≪ 江戸時代初期、大坂で本格的な綿花が開始 ≫

  江戸時代初期に大坂の河内で本格的な綿花栽培が始まり西日本各地に広まります。
  綿花栽培や稲作の肥料になるイワシが東海~関東に多く生息しているという事で、西日本の漁師たちが移住します。
   「ごまめ=田作り」というのはカタクチイワシを田畑の肥料として使用した事から。
  江戸時代まで四手網という原始的な漁法しかなかった関東でも本格的な漁業が始まります。
   佃煮、築地は、大坂の佃村の森一族が江戸に移り住んだ事から

  関東で新田開発が進みイワシを地元で消費するようになったので、北海道のニシンが肥料として注目され北前船の
  積荷の多くがイワシだったようです。綿花は寒い地域では栽培できず、特に大坂の木綿製品や瀬戸内海の塩が
  東日本では多く求められました。
  綿花の栽培は温暖な西日本中心に行われていたので、綿実油が多く作られ主流になりました。

  【鱓・古女】ごまめ
   小形のカタクチイワシの乾製品。正月などの祝賀用とする。田作たづくり。ことのばら。季語は新年。


  テレビ東京 日曜ビッグバラエティ 「昭和平成ヒット商品全部見せます! PART7 日本人って やっぱりスゴイSP」 17.05.21 放送

  ≪ サラダ油が普及するのは昭和30年代以降 ≫

  昭和30年代にサラダ油を使った洋食料理を普及させるキャンペーンが行われました。
  昭和31年には、合理的で栄養価が高い新しい調理法を知らせる為、キッチンカーで日本各地で洋食の調理指導を行って
  いました。都内では毎日どこかで行われていたそうです。






  日清精油が発売したサラダ油の当時の広告では、御中元用の缶入りが400~2000円。当時、大卒の初任給が1万2000円。
  この頃にコロッケが家庭でも作られるようになり、コロッケとともにウスターソースが関東の家庭に広まりました。
  昭和35年頃に関東では豚肉が高騰して牛肉より高い価格になり、安いプレスハムが登場して、ハムカツが食べられる
  ようになりました。
 
 江戸の天ぷら
  昭和産業 『天ぷらの歴史』 https://www.showa-sangyo.co.jp/enjoy/encyclopedia/01/
  KIRIN キリン食生活文化研究所 『第12回 田沼意次とてんぷら ~まちづくり政策が広めたてんぷら屋台』
   https://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/foodculture/12.html

  NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい!おいしい浮世絵 第3回「江戸の天ぷら」 16.04.19 放送   Wiki 天ぷら

  ≪ 江戸の天ぷら ≫

  江戸では『天ぷら=魚介類』『揚げ物=野菜』を揚げたもので区別していました。1串4文。
  江戸の天ぷらなど揚げ物はゴマ油を使用した物で、野菜を揚げた物は胡麻揚げと呼ばれていました。
  この頃、天ぷらに使われていた文献で確認できる素材は、海老・鱚・イカ・穴子・小柱だそうです。

歌川広重 東都名所の一部

深川江戸資料館

天ぷらの素材

江戸時代の再現

  【江戸前】えど‐まえ
   (芝・品川など「江戸前面の海」の意で、ここで捕れる魚を江戸前産として賞味したのに始まる。
   鰻うなぎでは浅草川(隅田川の河口近く)・深川産のものをさす)
   ① 東京湾付近で捕れる魚介類の称。東海道中膝栗毛[発端]「―の魚のうまみに」  ②江戸風ふう。梅暦「―の市隠」

  ≪ 西洋小麦粉 ≫ 株式会社いとふ|麩の歴史 http://www.itofu.jp/history/index.html

  1800年(寛政12年)幕府が西洋の小麦とその生産法を入手。
  1859年(安政6年)、開港と共に最初の「精白小麦粉」が輸入されました。それまでの小麦粉は粒子も粗く色も黒い、
  全く別物と言ってもよいほど違っていたようです。小麦から作られる麩は高価なものだったそうです。


  歌川広重 (1797~1858) 東都名所 1840~1843年頃

 東都名所・高輪廿六夜待遊興興之図は月見の名所
 だった高輪たかなわ海岸で行われた二十六夜待という
 イベントで賑わっている様子を描いたもの。

 【二十六夜待】にじゅうろくや-まち
  陰暦の正月と7月の26日夜半に月の出るのを待って
  拝すること。月光に阿弥陀仏・観音・勢至せいしの三尊
  が姿を現すといい伝えられ、特に江戸では7月に高輪・
  品川などで盛んに行われた。月待。二十六夜。

 この図には、左から志るこ(しるこ)・団子・二八そば・天麩
 羅・いか焼き・寿しなどの屋台が見受けられます。


  日本家政学会 食文化研究部会長の大久保洋子さんの説明によると、
   当時、江戸では火事が多いので、揚げ物は戸外でしかできなかった為、屋台が多いのだそうです。
   店を構えても、調理は屋外で行わなければならない決まりがあったほど、天ぷら屋は特に厳しかった。
   江戸末期頃になると、料亭などの屋外調理が許されるようになったそうです。
   特に庶民にとって、揚げ物は家で調理できないので屋台が人気でした。

  下の左端は鍬形蕙斎くわがた-けいさい (江戸生まれ、1764~1824) 作の『近世職人尽絵詞きんせ-しょくにんづくし-えことば』の
  一部分。庶民の食べ物である天ぷらを武士が買うので顔を隠していると、番組では推測していました。

  下中央の2枚の画像、左側は歌川国芳1859年『園中八撰花 松』、右は月岡芳年1888年『 風俗三十二相むまそう
  どちらにも天つゆらしき物が入った湯呑が描かれています。左はエビ、右はキスのようです。
  江戸末期と明治初期で約29年の開きがあり、天ぷらの違いが対比できる作品でもあります。

  江戸時代末期の寛政12年(1800年)に、徳川幕府が「西洋の小麦」とその生産法を手に入れ試産。
  安政6年(1859年)の開港とともに最初の「精白小麦粉」が日本に輸入されました。
  それまでの小麦粉とは別物というほど、品質が違っていたそうです。

近世職人尽絵詞

歌川国芳と月岡芳年 作

歌川国芳と月岡芳年 作

金ぷら

  「金ぷら」というのは全卵ではなく黄身だけを使用してゴマ油で揚げたもので、下の幕末と大正時代の本で紹介されて
  いるのを見つけました。
  画像の金ぷらは東京中央区八重洲にある割烹 嶋村。7代目店主の加藤一男さんが浮世絵で金ぷらを見つけ、幕末会席
  の一品として作っているもの。


 皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9

  幕末の『皇都午睡』三編上 (著者は大坂の西沢一鳳軒、1801~1852、西沢一風の玄孫)
  油揚を胡麻揚、飛龍臼ひりょうず揚物を天麩羅または金麩羅とも


 四五日の旅 名所囘遊 1922(大正11)年 裳文閣 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964429 ※1925年の有精堂書店 版もあり

 1922 (大正11) 年の『四五日の旅 名所囘遊』(福井県出身・東京在住で日本初のプロ旅行作家とも言われる松川
  二郎 著、東京市の裳文閣 出版、日本各地の旅行記) ※ 原文の旧字はできるだけ現代字に換えてあります。
  「東京見物」P.9~ 又 宿屋の飯ばかりを食って東京は食物くいもののまずい所だなどと利いた風なことを言うと、
  此方はかまはないが言う者が笑われます。食物の中で東京名物として、普遍的なものは鰻と天ぷらと寿司であろう。
   では浅草山谷の重箱、外神田同朋町の神田川、京橋富座付近の竹葉亭など最も聞こえ、京橋霊岸島の大石屋、
  浅草広小路の奴どんぶのも知られている。
  天ぷら 銀座尾張町の乗換場付近の天きん、新橋川の橋善、日本橋の岡田の金ぷら
  寿司 日本橋へッつい河岸の毛抜ずし、本所元町の與兵衛ずし、浅草代地の松の寿司、此の外 日本橋魚河岸には極々
  新しい魚を使ったうまいのが多い、就中宇の丸、三芳ずし、すし魚等が名高い。
  蕎麦は珍しいものでなからうが、これも東京名物で… 続きは蕎麦の名店や西洋料理、カフェなども書かれてあります。


  日本各地に天ぷらが広まったのは、江戸前寿司と同じく大正時代の関東大震災で東京の1/4の人口が流出したとも
  推測されており、職人が各地に移住した事からと言われています。
  専門料理店ができて広く知れ渡ったと考えるべきでしょう。一部の人たちにはそれ以前から伝わっていた事が判明。

  明治時代や関東大震災以前に出版された複数の家庭料理本などにレシピが載っています。
   (当時、こういった本を買う人は、元氏族などの上流階級の女性に限られていたと思われます)

  例えば、下記の書は高知県の中学校での授業日誌が出版されたもので、通っているのは元氏族の娘である事が
  続編に書かれてあります。
  出版された第一輯の最初のページに「握り鮨」の作り方が載っています。江戸の天ぷらのレシピも載っています。
  1892 (明治25) 年出版 割烹授業日誌 第一輯 高知県尋常中学校女子部 編 出版地は高知県 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811753
  1893 (明治26) 年印刷 割烹授業日誌 第二輯 高知市士族 西野たつ・一圓とよ 編著 非売品 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811754

  同じく関東大震災で、関東のおでん (関西で言う「関東煮」) が、関西に広まったという説は間違いである事を発見しました。
   関西の「関東煮 (おでん)」 大正時代以前から大阪にたくさんあった事が判明

  テレビ東京 出没!アド街ック天国 「東京・日本橋SP」 13.10.19 放送
  NHK 英国一家、日本を食べる 第2回「最高の天ぷら」 15.04.23 放送
  関西テレビ 報道ランナー 『なぜ「サミット」? 堺とアナゴの関係は? なるか?「名産」復活!』 17.12.08 放送

東京の天丼

江戸風の天ぷら蕎麦

江戸名物のアナゴの天ぷら

春夏秋冬料理王國


  東京のアナゴが名物として知られていますが、昭和中期まで「アナゴが旨い」として日本中に知れ渡っていたのは大阪の
  堺・泉州沖のアナゴでした。  近年まで、堺・泉州のアナゴが名産地として全国的有名だった 養殖で復活へ


  ≪ 昭和初期、東京では野菜の天ぷらを「五色揚げ」と言っていた ≫


  1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949
  この書を読めば、当時の東京の有数の繁華街であり、江戸の伝統を残す浅草の食文化などを知ることができます。
  「東京ッ子」を自称する人は、読んでおくべき一冊でしょう。

  第五、 浅草に於ける天ぷら屋の発達 P.186~

  浅草での天ぷらの発達は極めて最近のもので、わけても魚を揚げることが、天ぷらの要件であるとすると、
  それは多く明治中期後に於けるものである。…
  魚に限らず其の油であげることが、天ぷらであるとすれば、それは遠く維新前に既に存在している。…
  五色揚げを以て、天ぷらであると言うならば、維新前、浅草の盛り場であった猿若町の「富士屋」が其の
  嚆矢と言わねばならない

  浅草での魚を揚げた天ぷらの元祖は、明治二十年後に売り出した吾妻橋際の「奴天ぷら」だが明治末期に廃業。


 1939 (昭和14) 年出版 小資本開業案内 商店界編輯部 編 誠文堂新光社 (東京・神田) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262951
  P.426 「五色揚げ屋の開業案内

  五色揚げは又の名を精進揚げと呼ばれている。材料としては、季節にふさわしい蓮根れんこん、人参、青菜 (三ッ葉、
  さやえんどう)、牛蒡ごぼう、甘薯かんしょキャベツの類であって、これを胡麻油で揚げたものが即ち五色揚げなの
  である。
  五色揚げは、中産以下の生活者の多い下町の住宅街ならおよそ何処へ行っても見受けられないことはない。
  食事前の時刻になると、町家の内儀おかみサンらしいのや、月給取氏の細君らしいのが、五色揚屋の店頭に黒山の
  ような人だかりの美観?を呈しているのであろう。

  魚介類の江戸前天ぷらと違って素人が挙げたものでも商品になり、安価で美味しいので大衆の副食物として人気に
  なっており、小資本で商売が始められるなどの事が書かれてあります。

  【精進揚】しょうじん‐あげ … 野菜・植物性食品だけの揚げ物。



  ≪ 「てんぷら」の名付け親は山東京伝? 江戸の「てんぷら」は大坂人が始めた? 京山作 『蜘蛛の糸』 ≫

  気ままに江戸♪散歩・味・読書の記録 『「蜘蛛の糸巻」に書かれた「天麩羅」の語源(てんぷら③ 江戸の食文化) 14.08.12 配信
   http://wheatbaku.exblog.jp/22459580/ ← 続きの全文はこちらのブログでご覧ください

  天明の初年、大坂にて家僕二三人も仕ふ商人の次男、至情の歌妓をつれて、江戸へ逃げ来り、余が住みし
   同街の裏にすみ、名を利介とて、朝夕出入しけるに、或る時亡兄(山東京伝)いふやう、大坂にてつけあげと
   いふ物江戸にては胡麻揚とて辻うりあれど、いまだ魚肉あげ物は見えず。うまきものなれば、是を夜見世の
   辻売にせばやとおもふ。先生いかん。…

  【天明】てんめい 江戸後期、光格天皇朝の年号。
   安永10年4月2日(1781年4月25日)改元、天明9年1月25日(1789年2月19日)寛政に改元。

  関東人と関西人: 二つの歴史、二つの文化 著者: 樋口清之(奈良県生まれ、國學院大學名誉教授)  Wiki 樋口清之

  「天ぷら」の名を江戸に広めた山東京伝のところに、大阪からかけ落ちしてきた利助という男がきて、「江戸は
   野菜の揚げ物ばかりで、魚の揚げ物はまだ誰もやっていないので、ひとつ夜店でやってみたいと思う。
   ついては店の行燈に気の利いた名前をつけていただけませんか」というので「天麩羅」と書いて与えた。
   彼は家をとび出した身の上、いわば「天竺浪人」である。それがふらりと江戸へ出てきた。
   だから「天ぷら」なのだ、という説が、京伝の弟の京山が書いた「蜘蛛の糸巻」に出ている。

  この記述は守貞謾稿に書かれていますが、守貞も実話か疑っているようです。


 1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家)
  巻之十 (飲食)「松がすし・てんぷら あげもの」P.416~417

  文化のはじめ頃 深川六軒ぼりに 松がすしの出来て 世上すしの風 一変し
  それより前に日本橋きはの やたいみせにて吉兵衛と云もの よきてんふにし 出して
  より他所にも よきあげもの あまたになり 是また一変なり 文化 (1804~1015年)

  嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104


  『守貞漫稿下巻 【第二十八編食類】の「天麩羅」の記述の続き

 …あげものと云也
  京山が北越雪譜 (上略) 岩居にて語て云 今を去ること五十餘 天明の初年 大坂にて家僕四五人も使ふほどの
  次男 廿七八許り利助と云物 其身より年の二つも上の歌妓を連て出奔し 江戸に下り 余が京橋南街第一街の
  家に對ひなる裡店にて住て一日事の序に依て 余が家に來りしより常に出入して家僕の如く使などさせけるに
  花柳に身を果したる者故に話も面白く才も有て能用を辨ずる故に惜き人に銭がなしとて 亡兄 京傅も戯れ云れき

  或日 利助云やう 江戸には胡麻揚げの辻賣多し 大坂にては「つけあげ」と云 魚肉の付揚を夜見世に賣人なし
  我賣之んと思は如何 亡兄云 夫はよき思ひつき也 先可試とて俄に調じさせしに いかにも美味也

  利助云 是を夜見世の辻賣に沽んに行燈に魚の胡麻揚と記さんも何とやら囘り遠し何と歟 名を付て玉はれと
  乞うにより 亡兄 暫く思案して筆を採り天麩羅とかきて見せければ 利助 不審の顔をなし 天麩羅とはいかなる
  所謂に歟と云 亡兄打笑みて足下は天竺浪人也 ふらりと江戸へ賣來りて創る物ゆえに天麩羅也 是に麩羅と云
  文字を下したるは麩は小麥にて作る 羅はうすものとよむ字也 小麥のうすものをかけたと云こと也と戯言云ければ
  利助も洒落たる男故 天竺浪人のぶら付故 てんぷらは面白しと大きに歡び頓て 此店を出す時 行燈を持來りて
  字を乞し故に 余幼き時に天麩羅と大書して與へし

  此天麩羅一ツ四錢にて毎夜賣切るほど也 扨一月もたヽざるうちに近邊諸所にてんぷらの夜店出來て 今は
  世上に傅染わたりて此越後の小千谷迄も天麩羅の名を呼ぶこと一奇事と云べし云々といへるは實説歟未

  「亡兄=山東京伝の事」「=私」「=来」「=か」
  「=裏」「辨へんずる=わきまえている」「=にわか」「=回す」「=喜」「=さて」「實説=実説」


  幕末の『皇都午睡』三編上 (著者は大坂の西沢一鳳軒、1801~1852、西沢一風の玄孫)
  油揚を胡麻揚、飛龍臼ひりょうず揚物を天麩羅または金麩羅とも


  国立国会図書館 レファレンス協同データベース 『「てんぷらの語源は? 江戸時代の何という本にそれが書かれているか。」
  という質問に対する回答 資料提出=東京都江戸東京博物館』
   http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000056145

  山東京山著「蜘蛛の糸巻」(弘化3年=1846年刊)と宮川政運著「俗事百工起源」(慶応元年=1865年刊)の
   中に山東京伝が名付けたというエピソードが書かれています。
   「蜘蛛の糸巻」は『日本随筆大成』第2期 第7巻(吉川弘文館)に、「俗事百工起源」は『未刊随筆百種』第2巻
   (中央公論社)に活字化され、所収されています。
   しかしてんぷらの語源は、宣教師が来日した16世紀、スペイン語のテンプロ=寺(宣教師の教会。ここから伝わった
   料理ということ)から、ポルトガル語のテンペロ=料理から等、ほかにも諸説あり、『日本国語大辞典』(小学館)には
   “油を天麩羅と書き、音読したものという”ともあります。語源(説)の最も多い食べもののひとつと言えると思います。

  この『蜘蛛の糸』には、練羊羹は寛政期(18世紀後期)に江戸の菓子職人である喜太郎という人物が初めて作った
  という説も載せており、記述内容は信憑性が薄いと思われるようです。

  【山東京伝】さんとう‐きょうでん(1761~1816)
   江戸後期の戯作者・浮世絵師。本名、岩瀬醒さむる。俗称、京屋伝蔵。住居が江戸城紅葉山の東方に当たるので
   山東庵、また、京橋に近いので京伝と号した。京山の兄。初め北尾重政に浮世絵を学び北尾政演まさのぶと号、
   のち作家となる。
   作は黄表紙「御存商売物ごぞんじのしょうばいもの」「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」「心学早染草」、
   読本「桜姫全伝曙草紙」「昔話むかしがたり稲妻表紙」、洒落本「通言総籬つうげんそうまがき」など。

  【山東京山】さんとう‐きょうざん(1769~1858)
   江戸後期の戯作者。本名、岩瀬百樹。京伝の弟。稗史はいし小説の著述を業とし、考証随筆なども試みた。
   作「復讐かたきうち妹背山物語」「教草女房形気」、著「歴世女装考」など。


  山東京伝が生まれる前の文献に「てんふら」ではなく、「てんぷら」の4文字がありますので、
  山東京山の「京伝が『てんぷら』名付け」節は、嘘という事が確認できました。

  別府大学短期大学部紀要 1994年 『南蛮料理書についての一考察』 江後迪子 著
   http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/tk01302.pdf?file_id=4199

  上リンクサイトによると
 次に油について述べる。油を用いた揚物料理は古くは唐菓子や唐伝来の精進料理などにみられるが,
  当時は一般化していだとはいえず,江戸時代になって天ぷら店の出現や多様な油の料理法がみられるように
  なってきた。
  しかし,一般的に普及したのは明治中期以降である。したがって『南蛮料理書』の伝えられた当時は油を用いた
  調理法は珍しいもので,てんぶらについてみると料理書には『食道記』(1670),『朝鮮通信枝献立』(1682),
  『鸚鵡船中記』(1693)など17世紀末になってみられるようになる。


 1746年成立と言われる『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)
  この書は昔の文献や見聞きしたものを集めた部分と、独自の部分 (主に獣肉食の部分) があります。

  中巻 五 「煮物・炙物・膳付」 唐料理
 てんぷら 鯛をおろし切目にして 暫塩をあて あらいて うんどんの粉を玉子にてねり 右の鯛を入くるみ 油上にして
  汁だし 醤油にて塩梅して出す 鯛をうんどんの粉斗にくるみ 油上にもする也

  下記リンクPDFの 中・下巻でご覧ください。現代文に翻訳されています。

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf

  ただし、「天麩羅」という漢字がいつから使われているのかは確認できていないので、京伝が充てたものかも?


 1764 (宝暦14・明和元年) 刊の『料理珍味集』(著者は博望子はくぼうし、出版地は京都)
   書の冒頭には、宝暦13年末、華文軒主人の文字が書かれてあります。1749年の『料理山海郷』の続編で、
   料理山海郷では園趣堂主人のペンネームを使っています。

  巻乃三に「茄子てんぷら」の料理が書かれています。各地の珍味を集めたものなので、どの地方の料理かは
  不明ですが、「なすび」とふりがながあり、「生しょうゆにて煮る」ともあるので、上方の料理と思います。
  上方 (大坂・京都) では1660年代には色んな種類の醤油があり庶民に普及し料理によって使い分けていました。
  レシピ内容はくずし文字なのではっきりとは分かりませんが、「煎り酒にて山葵煮る」「味噌は山葵の」などの文字が
  確認できますので、油で揚げた一般的な天ぷらとは全く異なる料理のようです。

  美人画の浮世絵師 喜多川歌麿 山東京伝


 1803 (享和3) 年刊の『素人包丁』(大坂で刊行) では「イワシのてんぷら」があり、すり鉢でよく摺り胡麻の油で
  揚げる事が書かれてあります。



  ≪ 現在に近い天ぷらの初見 ≫ 江戸時代中期の1748年

  江戸食文化紀行 -江戸の美味探訪- 『No.18 てんぷら』 http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no18.html
   松下幸子 千葉大学名誉教授によると、1746年の『黒白精味集』は手書き本なので、1748年に刊行された『歌仙の組糸』の
   方が初出になるそうです。

  国立国会図書館の『第145回常設展示 「外食」の歴史』 2006年 
   https://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu145.php または http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/999457

  第1章江戸時代 さまざまな料理

  …現代のものに近いてんぷらが文献で紹介されたのは、寛延元年(1748)刊の料理書『料理歌仙の組糸』になります。
   それ以前にもてんぷらという料理を紹介した本はありますが、現在のものとはかけ離れたもののようです。

  7. 名家漫筆集 帝国文庫 第 23 篇 / 長谷川天渓校訂 東京 : 博文館, 1929 【914.5-H259m】
   『蜘蛛の糸巻』(岩瀬百樹(山東京山)著)。天ぷらの語源について、天明の初年(天明元年(1781))に筆者の兄 山東
   京伝が名付けたとしています。「天竺浪人」が「ふらりと」江戸へ来て売り始めるから「天麩羅」ということです。
   実際にはてんぷらという言葉は天明以前に存在していますので、この由来譚には疑わしい部分があります。
   また、てんぷらの語源を外国語に求める説がありますが、これも決定的な証拠があるわけではありません。

  『料理歌仙の組糸りょうりかせんのくみいと』著者は冷月庵谷水れいげつあんこくすい、出版社は江戸の出雲寺和泉掾。

  てんぷらは何魚にても饂飩の粉まぶして油にて揚げる也。但前にある菊の葉てんぷら 又 牛蒡 蓮根 長芋 其の他
  にても 天ぷらにせんには 饂飩の粉を水 醤油とき塗付て揚げる也 直にも右の通りにしてもよろし 又 葛の粉 能く
  くるみて揚げるもなお宜しとあるようです。

  コトバンク 『出雲寺和泉掾(初代)』
  コトバンク 『出雲寺和泉掾(2代)
  京都の書肆 出雲寺家の別家衆 http://moch2.daishodai.ac.jp/files/viewerpdf/kiyo/143.pdf
   初代は林羅山 (京都の人、江戸初期の幕府の儒官) の一族というが未詳。京都今出川通の酒造家から書店に転業。
   朝廷の書物御用をつとめた。
   2代目の時に江戸日本橋1丁目に出店。御書物師を命ぜられ,代々幕府御用を務める。
   8代からは京店と江戸店とに分家し,京店では,7代以来文治郎を称した。各々数度の店舗移動後,ともに明治まで続いた。
   書肆としての格式第1位の老舗である。

  1744~1792年は7代目となり、京都では文治郎を名乗っているので、『歌仙の組糸』は江戸での出版のようです。

  【出雲寺】いずも‐でら … 毘沙門堂びしゃもんどうの寺号


  皇都午睡 三編上之巻
 三都と詞をわけて云時…江戸詞とは中分より下賤の詞也…
  江戸の上製菓子屋に京都御菓子と印せる所多くして 京大坂は長崎御菓子と印せば 長崎にてはまた
  京都菓子と云 大坂には烟草入煙管は大方江戸物産といへば 江戸にては何かの物を下り下りとて
  皆大坂の物と呼びて売る 然れば都會の地は名前をかるをお互ひ也としるべし

  江戸も京都も大坂も長崎も、お互いに良い品を作っている土地の名前を借りてイメージで売っている事を知るべき。

 
 天ぷらにソースをかけるか、天つゆで食べるか の境界線
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『食の方言を探れ!  関西 食べ物ミステリー』 13.08.01 放送 より

  江戸時代の1785年 (天明5年) 頃に江戸で天ぷら屋台が登場、大阪に伝わったのは明治時代。
  大阪から東京へは、野菜の天ぷらを塩で食べる文化が伝わりました。

  江戸で言う天麩羅は魚介類の天麩羅の事。西日本では魚介類の天麩羅は練り物を揚げたもの (つけ揚げ)。





  下記の日経のサイトも、ビーバップハイヒールも画像の『食べ物 新日本奇行』などを著した日経新聞の特別編集委員
  野瀬泰申さんの記事に基づいたもの。

  ちなみに、野瀬さんが主張している関東=豚肉文化になった理由に関しては、当サイトで検証した結果は嘘だと判明しました。
    関東が豚肉文化になった理由 ← 東京目線の理由は完全に嘘でした

  天ぷらにウスターソースをかけて食べる文化は、下の図のように静岡県・長野県より西に広がっています。
  30年くらい前頃には、大阪でも天つゆで食べる方が一般的になっています。
  (大阪は20~40%未満、奈良が60~80%未満、和歌山が80%以上、関東では埼玉だけが40~60%未満と多い)

  NIKKEI STYLE 日経 グルメクラブ 『「てんぷらにソース」は、西日本に固有の食文化』 16.04.25 配信
   https://style.nikkei.com/article/DGXZZO99480390Z00C16A4000000
  埼玉ではゼリーフライにソースが必需品な為、天ぷらにもソースをかける事が多いようです。

  出典情報を忘れましたが、大阪局制作の別の番組によると、
  余った翌日の天ぷらにソースをかけて食べる人が多いようです。  ウスターソース

  簡単に言うと、大阪など関西でソースが広まった明治初期=東日本では醤油がようやく広く普及し始めた頃だからです。
  大正時代も、西日本が当時日本最大の経済都市である大阪文化の影響を受け、東日本は先進都市の一つである
  東京の文化の影響を受けていたからです。
 
 ご当地天ぷら
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『転勤ドラマ 佐賀県』 13.08.22 放送
  テレビ大阪 八光のじもとモット! 『西川忠志の箕面市』 13.08.17 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『マツコにとれたてをたべさせてあげたい件』 15.02.02 放送
  NHK 英国一家、日本を食べる 『2 最高の天ぷら』 15.04.23 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『全国 秘密の天ぷら祭り』 18.05.10 放送

  ≪ 東日本の天ぷら ≫

  東京の伝統的な汁蕎麦は関西の汁蕎麦と比べて、かなり色が濃い蕎麦汁です。
  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件

  福島県の会津地方では、饅頭に衣を付けて油で揚げた天ぷらがオカズの一品として食卓に並ぶのは普通だそうです。
  漉し餡入りの黒糖を生地に練り込んだ「茶まんじゅう」を使うのが定番で、食べる時に醤油を付けると甘じょっぱい味に
  なって美味しいそうです。地元のスーパーでも販売され、居酒屋のメニューでもあります。
  諸説あるようですが、約100年前頃から食べられているようです。
  法事でお供えした饅頭の皮が硬くなってしまった為、油で揚げて食べてみたところ、食感や程よい甘さが評判を呼び、
  法事や冠婚葬祭などで出されるようになって、一般家庭に広まり、会津を代表する郷土食にまでなっていったそうです。

東京の天ぷら蕎麦

会津地方のまんじゅうの天ぷら

長野県諏訪のみそ天丼

長野県など ビスケットの天ぷら


  長野県諏訪地方は諏訪湖で獲れたエビや淡水魚を天ぷらにした味噌味の天丼。
  ビスケットの天ぷらがある長野県の一部の地域 (峰竜太さんの出身地) にも饅頭の天ぷらが存在するそうです。


  ≪ 大阪の天ぷら ≫ 大阪 箕面市の紅葉の天ぷら1300年前からある?

  紅しょうがは関西発祥である事は確実で、大阪の可能性が最も高いですが、和歌山の可能性もあります。
  1746年成立の『黒白精味集』 の梅干の汁を使った漬物の記述と、1783(天明3) 年初出版の『豆腐百珍続編』に
  梅酢を使った生姜がある事を当サイトが見つけました。
  紅ショウガの天ぷら 黒門市場では外国人に人気、東京では『都電名物』として販売

箕面市名物 紅葉の天ぷら

泉州 イトヨリの天ぷら

紅ショウガの天ぷら

紅ショウガの天ぷら

  モミジの天ぷらは奈良時代に役行者が灯明に使う菜種油で揚げて旅人に振る舞ったという伝説があります。


  ≪ 西日本の天ぷら ≫

  左2枚目の画像は奈良県にある創業114年の老舗『魚万』の天ぷら (さつま揚げ) の映像。
  鹿児島県ではサツマイモを短冊に切って砂糖を加えた甘い衣を付けて揚げた物を全て「ガネ」と呼ぶそうです。
  一般的なサツマイモの輪切りの天ぷらは「いも天」と呼び、かき揚げのような形のサツマイモの天ぷらは見た目が
  カニに似ているので、鹿児島弁の「ガネ」と呼ぶようになったようです。

佐賀県のミンチ天

さつま揚げ

鹿児島県のガネ
奈良県の魚万の天ぷら

 
 沖縄の天ぷら
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『沖縄一県限定SP!!』 14.10.23 放送
  NHK Eテレ Rの法則 『全国女子高校生図鑑 沖縄編』 16.06.08 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『全国 秘密の天ぷら祭り』 18.05.10 放送
  日本テレビ 新春シューイチ ネンイチ 『生放送 開運!沖縄弾丸ドライブ』 19.01.01 放送

  沖縄の天ぷらは衣が厚くふわふわでしっとりしたのが特徴。一般の生地の約5倍の卵と多くの小麦粉を使用します。
  塩も多めでカツオ出汁を加えたりするようです。






  松本料理学院の松本嘉代子 学院長によると、高温多湿なので沖縄県には史料が残っていないものが多く、天ぷらの
  起源もはっきりしない。琉球王国の頃の宮廷料理に小ティンプラという小さな天ぷらがある。
  戦後に小麦粉が大量に入手できたので、高温多湿の気候でも傷みにくいように衣を厚くしたのではないかという事です。

  沖縄では天ぷらは安いので、おやつファストフード感覚で食べられています。女子高生なども放課後によく買うそうです。
  塩味が効いているので何も付けないのが基本ですが、関西と同じくウスターソースをかける場合もあるようです。
  ソースを付ける食べ方は、『ぜんざい』と同じく、大阪に集団就職した人たちが帰郷した時に伝わったと考えられます。






  うむにー (紫芋) をマッシュポテトにした天ぷらはウムクジと呼びます。
  県魚のグルクン、海藻のあーさ、ウムクジなどの天ぷらが人気のようで、もずくの天ぷらが最も人気らしいです。
  約40年前に沖縄で本格的なもずくの養殖が始まり、一般家庭に急速にもずくが普及。
  もずくの天ぷらは、一般のもずくの倍くらい太い名産の太もずく・ニンジン・ヤマイモ (長芋) ・卵・小麦粉を混ぜ、更に
  カツオ出汁や塩などで味付けして別に作った衣生地を味が均等になるように丹念に混ぜ合せて油で揚げるようです。

  今ではもずく料理専門店がオープンし、もずくを麺に練り込んだソーキそば、もずくの炊き込みご飯などを開発して
  提供しています。
 
 全国の御当地コロッケの多くは、大阪府で作られていた
  関西テレビ 報道ランナー 『全国で大人気! ご当地コロッケ 意外な秘密を大調査』 18.12.21 放送

  日本コロッケ協会調べによると、2018年の御当地コロッケは約60種類。その多くは大阪府豊中市にある合同食品の
  工場で製造されています。これまで100種類以上の御当地コロッケを開発。どんな物でもコロッケにする事が可能らしいです。
  合同食品は35年前に創業しましたが、レストラン事業が不振になったので、コロッケ製造に特化し10年で売上が3倍に。






  コロッケは専用工場が無いと手間がかかり設備も必要なので安く大量販売するのは大変だそうです。

  茨城県のずわいがにコロッケ、神奈川県のしらすブラックコロッケ、滋賀県の近江牛コロッケなど、ご当地コロッケの
  多くが合同食品の約70坪の工場で分刻みのスケジュールで同時並行作業で作られていきます。
  冷凍保存可能といっても、それぞれ毎日小ロットずつ製造されているようなので鮮度は高いと言えます。

  映像を見る限り、それぞれの産地から御当地食材が送られてきていますので、大阪の工場で開発・製造されていても
  『御当地コロッケ』と呼べるようです。

  【コロッケ】Croquette フランス
   揚げ物料理の一つ。あらかじめ調理したひき肉・魚介・野菜などを、ゆでてつぶしたジャガイモやベシャメルソースと
   混ぜ合わせて小判形などにまとめ、パン粉の衣をつけて油で揚げたもの。

  ご当地カレーの多くは、大阪のベル食品工業が開発・製造している
 
 中国の揚げ物の分類と中華料理の天ぷらとの関係
  朝日放送 キャスト 『中華料理に天ぷらがあるの なんでやねん!?』 19.06.03 放送

  ウェスティンホテル大阪にある中国料理「故宮」の王憲生 料理長によると
  日本の天ぷらと同じものは中国には無く、中国料理の場合は粉の付け方によって料理名が分類されています。
  中国の酥炸が日本の天ぷら (精進進揚げ&江戸前天ぷら)に近いようです。西洋料理でいうフリッター系の揚げ物。

  中国・薬膳料理研究家の宮武衣充さんによると、中国と日本は料理名の付け方のルールが異なる。
  中国は材料や調理方法を具体的に並べて料理名にする。
  日本は出来上がった料理のイメージから料理名を付ける事が多い。






  中国料理の揚げ物の大別。
  但し中国料理は北京・上海・四川・広東の四大料理がありますので、地域によって下記の分類とは異なる事もあります。
  粉もそれぞれ片栗粉や小麦粉だけとは限らず、片栗粉と小麦粉とを混ぜたり、その配合によっても仕上がりが変わります。

  清炸 チンジャー 衣を付けない素揚げ。 西日本の魚の天ぷら (揚げカマボコ) など。
  乾炸 ガンジャー 軽く粉 (片栗粉など) を打ち、カリッと揚げる。
  軟炸 ルファンジャー 卵+片栗粉の柔らかな衣。 
   戦後に中国から引き揚げてきた日本人によって伝わった北京料理系で、日本人経営の中華料理店の天ぷらに多い。
   衣の量や揚げ時間によって仕上がりは大きく異なる。衣が多いものは、日本で中華天ぷらと呼ばれるようになった。
   下の画像左2枚、中国人料理長「故宮」の軟炸と、(戦後、中国から引き揚げで戻ってきた)日本人経営の中華料理店
   「大洋軒」の豚天 (中華天ぷら)は、どちらも卵+片栗粉で揚げたもの。
  酥炸 スージャー 小麦粉+ベーキングパウダー。
   戦前に伝わった広東料理系に多い。衣が厚いクリスピー揚げ。フリッター系。日本の天ぷらに近い。

ウエスティンホテル故宮の軟炸

中華料理店の中華天ぷら

ウエスティンホテル故宮の酥炸

見た目で「天ぷら」


  日本の和食の天ぷら 卵+小麦粉

  TBS この差ってなんですか? 『外国人が分からない日本の差 SP』 17.04.18  放送
  1939 (昭和14) 年出版 小資本開業案内 商店界編輯部 編 誠文堂新光社 (東京・神田)

  中華料理と中国料理の違い 詳しくは日本の食の歴史雑学 江戸時代のページで

  中華料理は江戸時代に長崎の出島から広まったもので、日本人向けにアレンジした料理。日本人経営者が多い。
  支那料理は昭和の戦前頃までの中国の事を支那と呼んでいた事からで、主に中華料理の事を言ったようです。
  中国料理の名称は戦後の昭和24年以降から使われ始めたもので、本場の味を提供する店が多い。
  中華人民共和国が建国されるまでは、四川・広東・北京料理など、地域料理の名前を称していました。
 
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関西TV
 2010.08.05
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