手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の食の歴史7 明治・大正時代1
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   20.05.29
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「味」の基本1 「味」の基本2 調味料の雑学1 調味料の雑学2 お取り寄せ order
~縄文・弥生時代 神話・古墳時代  奈良・平安時代1   味と食  INDEX
鎌倉・室町時代1 安土・桃山時代1 魚介類と世界の寿司事情
江戸時代1 初期・概要 江戸時代2 北前船 江戸時代3 獣肉食 江戸時代4 後期・魚 お米と給食、世界の日本食
江戸時代5 後期・飯類 江戸時代 砂糖・薬 江戸時代 菓子1 江戸時代 菓子2 寿司の歴史と雑学
明治・大正時代1   昭和・平成時代1    
 

  Page Contents



 明治・大正期の台湾米・朝鮮米・外国産米などついての文献記述

 明治・大正時代は鶏肉が最も高価だった
  豚肉なのに「焼き鳥」の謎、昭和前期は東京でも人気。ホルモン

 缶詰の始まり 2015年に発見、70年以上前に製造された赤飯の缶詰など

 近代水道は横浜から

 大正時代、東京も含め上流階級では「肉=牛肉」の認識
  東京で書かれた家庭料理書のカレー・レシピなど

 一般家庭におけるガスでの炊飯の始まりは大正時代
  薪・石炭・石油などを原料とする各種の釜が誕生

 日本初の西洋料理店は長崎 1863年開店の良林亭 (自由亭)

 大阪で出版された洋食料理本 明治20年の自由亭のレシピ本

 日本における缶詰製造の始まり

 明治期の東京の外食店の数など 牛肉食は明治5年に推奨され広まった

 大正時代の牛乳の品質 女子教育教科書の記述より

 東京行幸中、名古屋で配られた酒饅頭

 天皇の料理番 富士山アイスの情報追加、ホテルニューオオタニの富士山アイスなど

 明治初期の大阪商家のカマド コニシ創業邸 (アロンアルファで有名)


 江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

 卵、牛乳、砂糖については日本のアイスの歴史 各ページをご覧ください
 大阪と関西の食文化のページも 日本の食文化を語る上で必須です

 東北での牛肉食の始まり

 すき焼きも関西発祥  19.02.05 追記
  関東へは関東大震災がきっかけで伝わった。それ以前の文献を発見

 京都で最初の本格的フランス料理のフルコース 祇園の中村楼

 肉じゃが 旧海軍の甘煮 の発祥地 京都府の舞鶴市と広島県の呉市 自衛隊のカレー

 卵かけ御飯を広めたのは、岡山出身の新聞記者 岸田吟香

 明治時代、残飯屋というのがあった。 貧民窟

 味の素 明治42年発売当初の瓶 発売当初の「味の素」を有名にしたのは大阪

 天皇の料理番 秋山徳蔵

 ソースカツ丼(100周年)と、関東絹の道 幕末の開港

 フリカケの元祖は熊本県の「御飯の友」 その他、同時期の大正時代には各地でフリカケが登場

 日本初の鮮魚の中央卸売市場は京都 次に大阪と横浜。そして神戸、さらに数年遅れて東京の順で開設

 徳島県 独自の遊山箱 子供たちの為に作られた御馳走と愛情が詰まった重箱です

 関東煮かんとうだき (おでん) は大正時代以前から大阪にたくさんあった事が判明


  農林水産省 食料産業局食文化・市場開拓課和食室 『日本食の歴史』 http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/rekishi.html

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/


  ≪ 大大阪時代 ≫ 大正後期から昭和初期にかけて、大阪市が大大阪 だい-おおさか と呼ばれていた時代のこと。
  Wiki 大大阪時代

  明治末期~昭和初期の大阪は日本最大の商業・工業の都市でした。   奈良時代も帝都を凌ぐ繁栄だった大阪 摂津・河内
  経団連に勤務しながら、1万冊以上の社史を研究している村橋勝子さんによると
  東京の企業は『組織』で動く、大阪の企業は『人』が動かす。という違いがあり、この頃に会社を興すには、
   東京より大阪に出て来る事が多い






 
 【明治・大正時代は鶏肉が最も高価だった】
  読売テレビ 秘密のケンミンショー 『京都SP』 12.08.02 放送
  朝日放送 キャスト 『鶏肉じゃないのに「やきとり」なの なんでやねん!?』 19.09.23 放送

  1689 (元禄2) 年の『合類日用料理指南書抄ごうるいにちよう-りょうりしょう』(中川茂兵衛、出版地は京都)は多くの料理が
  載っていますが、「蒲焼」の文字の記述は見られないようですが、「焼き鳥が料理として記載された最も古い文献
  とも言われており、焼き鳥は串に刺して焼き、醤油のタレにつける事が書かれてあるようです。


  ≪ 明治期は鶏肉が最も高価だった ≫  カレーの歴史雑学

  明治・大正時代は鳥肉の方が牛肉より遥かに高かった理由として、江戸時代から鶏は主に卵を採取する為に飼育
  しているのが大半だったので流通量が少ない。また1羽から取れる肉量も少ない事から高価だったようです。

  「かしわ
  西日本に多い鶏肉の呼び名。 元々は羽毛が茶褐色の鶏の事。肉が美味とされたので、鶏肉を「かしわ」と呼ぶ
  ようになりました。大阪でも言っていましたが、「かしわ」と聞くと、何だか懐かしい感じ。それくらい「かしわ」という
  言葉は使わなくなっています。江戸では軍鶏が好んで食べられていましたので、卵の流通も少なく高価でした。






  関西圏では珍しく京都市は鶏肉の購入金額が日本一。
  鶏肉は鶏肉専門店で買うので、精肉店では牛肉と豚肉しか置いていない店も多いそうです。 江戸時代の肉食事情

  牛肉の歴史 - 相州牛推進協議会 [相州牛公式サイト] 牛肉の歴史 ← 牛肉の歴史に詳しいサイトでおすすめ
   https://www.soshugyu.com/%E7%89%9B%E8%82%89%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AD%98/
  戦後昭和史 『牛肉・豚肉・鶏肉の値段の推移』 https://shouwashi.com/transition-meat.html
  岡山県畜産史 第2編 各論 第4章 養鶏の発達 第2節 養鶏の展開
   2.採肉養鶏の発展  (1)明治・大正時代の採肉養鶏 http://okayama.lin.gr.jp/tosyo/history/2-4-2-21.htm
  食べ物ちょっと雑学 - 日本の西洋料理index 『鶏肉は高級食材だった! 』 http://seiyouryouri.yokohama/alacart/chicken.html

  上記の岡山県畜産史のサイトに明治20年頃と思われる? 石川県が各府県の鶏肉の価格を調査した結果を一部
  抜粋 (大阪・兵庫・岡山・広島・東京の5府県のみ) した表が載っています。
  鶏肉600g当りの平均値だと兵庫県の26.5銭、広島県21銭、大阪府16.8銭、岡山県と東京府が10銭。
  高価なのは若鳥肉で、安価なのは廃鶏肉。大正期の岡山県では名古屋や高松から鶏を仕入れ大阪に出荷。
  牛肉は北海道18銭が最も高く、広島県が4銭で最も安い。

  東京ではあまり良い鶏肉が流通していなかったと思われますので、これも豚肉文化になった
  理由の一つかも知れません。

  全国的に鶏肉と卵が安くなるのは1970年頃以降の事になります。

  1960 (昭和35) 年頃以降、米国からブロイラーという現在主流の鶏の品種が導入し養鶏の
  ゲージ飼いが進み産業化され、(たぶん70年代頃から) 価格が大幅に下がりました。
  この事によってオムライスや卵を使った西洋料理などが一般家庭で身近な存在となって
  行きました。



  ハセガワストア 『焼鳥なのに豚!? 「やきとり弁当誕生秘話~こうしてやき弁は生まれた』 http://www.hasesuto.co.jp/yakiben-banasi.html
  朝日放送 キャスト 『鶏肉じゃないのに「やきとり」なの なんでやねん!?』 19.09.23 放送

  ≪ なんと! やきとり店が多い3大街の全てが、焼鳥なのに豚肉を使用 ≫

  北海道南部の函館や室蘭では豚肉の串焼きを「やきとり」と呼んでいます。
  函館ではハセガワストアというチェーン店で1日2500食を売り上げる豚肉を使用した人気のやきとり弁当。
  室蘭ではネギマは長ネギではなくタマネギを使用しており、洋カラシを付けて食べるのが一般的なようです。






  上記の相州牛公式サイトによると、1920年代の東京でも豚の内臓肉を串に刺してタレで焼いた「やきとり」が売られており、
  1940 (昭和15) 年頃には労働者の大衆食として人気を博したそうです。
  昔は色んな地域で、牛豚の内臓肉を「焼き鳥」として販売していた可能性がありそうです。

  1万人当たりのやきとり店の数の多さでは、1位が福岡県久留米市 7.46軒、2位が埼玉県東松山市 7.20軒、
  3位が北海道室蘭市 6.33軒。なんと、現在はこの3市だけが豚肉でも「やきとり」と呼んでいる地域のようです。

  久留米市は豚の腸の白モツ (近くに病院が多かった事から医学用語のドイツ語で「ダルム」と呼んでいるそうです)。
  東松山市は豚の頬の「カシラ肉」と呼ばれる部分をやきとりにして味噌ダレで食べています。






  全国やきとり連絡協議会でライターをしている土井中照 (愛媛県在住) さんによると、明治時代は鶏肉の方が牛肉や
  豚肉より高かった事が原因で、豚肉を代用として使った事からのようです。鳥肉 > 牛肉 > 豚肉 > ホルモン。

  牛豚の内臓肉は臭みが強く食べなかったので、タダでも引き取って欲しいくらいのゴミ扱いですが、これを鶏肉の代用と
  して「焼き鳥」として販売したのが始まり。

  久留米市の場合は醤油ベースのタレに漬け臭いを消す工夫をして1串5~8厘で販売していたそうです。
  この調理法が焼き鳥と全く同じだった為、「串豚」などより「焼き鳥」という名前で販売した方が売れるのではないか?
  という事から「焼き鳥」と呼ぶようになりました。

  色々な鳥の肉は江戸時代にも食べられていましたが、卵を目的とした飼育であった鶏の肉は牛豚と同様に明治になって
  から一般にも食べられ始めたので、肉の味の違いに気付く人が少なく、また「美味しいので肉の種類は気にしない」という
  感覚であった為、呼び方を気にしなかった定着していったようです。

  上記の相州牛公式サイトによると、戦後の都市部の闇市では犬猫を含む獣肉が売られ、それらの内臓肉が「焼き鳥」と
  して売られていたそうです。
  1946 (昭和21) 年の朝日新聞に、東京で野犬やペット犬を捕まえて闇市で荒稼ぎした記事が掲載されていたようです。


  現在では広辞苑にも記述されるようになっています。
  【焼鳥】やき‐とり 広辞苑
   鳥肉に、たれ・塩などをつけてあぶり焼いたもの。牛・豚などの臓物などを串焼にしたものにもいう。「―で一杯やる」


  ≪ ホルモン ≫

  内臓肉=「ホルモン」の語源は一説に関西弁の「ほるもん (放るもん)」 (西日本で広く使われている) =「捨てる物」とも
  言われています。

  医学用語になっている「ホルモン」はドイツ語で、内分泌腺など特定の組織または器官から分泌されるもので
  あって、内臓肉の事を言う「ホルモン」とは別ですが、語源としては関係があるようです。

  【ホルモン焼】 … やき豚などの臓物を小さく切って焼いたもの。

  【ホルモン】Hormon ドイツ
    内分泌腺など特定の組織または器官から分泌され、血液と共に体内を循環し、特定の組織の機能にきわめて微量で
   一定の変化を与える物質の総称。脳下垂体ホルモン、甲状腺ホルモン、性ホルモン、昆虫の変態ホルモンなど。

  上記の相州牛公式サイトによると、
  1906 (明治39) 年の神戸新聞に、屠畜場周辺では粗末な大鍋で煮込んだ臓物が1皿1銭で販売されていた記事があり、
  都市部ではまだ゛一般的ではないものの、一部で食べられていたそうです。
  1920年代に「精力が増進する料理」という意味の「ホルモン料理」 の店が一時的にできて内臓肉を提供。

  1936 (昭和11) 年頃、大阪難波の北極星がフランス風の料理で内臓肉を提供し、1937年に「北ホルモン」の名を商標
  登録出願しています。

  『料理の友』も1936年から年に1度のペースでホルモン料理の特集を掲載しており、日本赤十字社も同年に「ホルモン・
  ビタミン展示会」を主催しているそうです。

  北極星はオムライスの発祥の店として有名。創業者の北橋茂男は石川県宝達志水ほうだつしみず町出身なので、
  近年では同町がオムライスで町おこししています。

 
 【東北地方の牛肉食の始まり】 福島県会津地方
  テレビ東京 超歴史ロマン 戦国~大奥~幕末ミステリー完全決着SP!! 12.12.17 放送 / 広辞苑 より
  東北地方の和菓子 明治維新

  1868(慶応4)年6月会津戦争勃発。官軍 7万4000 VS 会津藩 9400+東北の親戚諸藩。会津は城下の2/3を消失し、
  3000人以上の死者を出す。1ヶ月の籠城の後、白い布に「降参」と書いたのが、日本初の「降参=白旗」となった。






  【奥羽越列藩同盟】おううえつ‐れっぱんどうめい 戊辰戦争に際し新政府に対抗した東北・越後諸藩の同盟。
   慶応4年(1868)5月、仙台藩を中心に奥羽25藩、ついで越後6藩が参加して盟約、会津藩征討中止などを要求し、
   連合して薩長軍を討つとした。新政府軍に敗退する中で瓦解。






  元 幕府御典医(幕府専属の医者)である松本良順が、江戸で流行り出した牛鍋を会津に持ち込んだのが、東北地方初の牛肉食。
  字幕には「東北地方初の肉食」とありますが、会津藩には有名な白虎隊以外にも猟師隊などがあったので、昔から猪などは
  食べています。正確には「牛肉食」の事だと思います。

  会津藩の山川健次郎は、記録上、日本で最初にカレーライスを食べた人。  明治初期の関東の牛肉不足と「松阪牛」ブランドの誕生。






  【あいづっこ宣言】
   江戸前期の会津藩主 保科正之が作った家訓十五ヵ条(忠誠心と正義感を培う教え)が、現在でも息づいている
   そうです。

  【保科正之】ほしな‐まさゆき(1611~1672)
   江戸前期の会津藩主。徳川秀忠の四男。保科氏の養子。会津23万石に封じられ、将軍家綱を補佐。
   社倉を建て領民を保護。儒学を好み山崎闇斎を招き、また吉川惟足これたるの神道説を学び、その伝授を得た。
    保科氏は、武田氏系の信濃の豪族。

  【新島八重】 山本八重 1845~1932年
   会津藩砲術師範 山本権八の三女。会津戦争で中野優子、水島菊子らと共に女性でありながら鉄砲を使用して参戦。
   日清戦争には看護婦として従軍。後に、一般の女性では初めて(皇室を除く)天皇から勲章を賜わる。山本覚馬の妹。

  【同志社大学】 キリスト教系の京都の私立大学。関西六大学の一つ。   明治時代 京都の顧問に就任した山本覚馬
   会津戦争後、山本覚馬が、西郷隆盛から薩摩藩の京都の領地を譲り受ける。   
   1875年(明治8)新島襄(江戸生まれ1843~1890)と妻・八重(山本覚馬の妹)が京都に創立した同志社英学校。
   1912年専門学校令による同志社大学、20年大学令による大学となり、48年新制大学。本部は京都市上京区。

  【会津若松】
   福島県西部、会津盆地南東隅にある市。松平(武田家ゆかりの信濃の豪族の保科氏は、武田家滅亡後 徳川家康に
   仕え大名となる。江戸前期の会津藩主 保科正之は、徳川秀忠の四男で保科氏の養子となった)氏で、23万石の城下町。
   漆器・家具・織物を産する。市街東方の飯盛山は白虎隊で名高い。現在人口13万1千。

  【会津城】黒川城。若松城。鶴ヶ城。
   会津若松市にある松平氏の旧居城。1384年(至徳1)蘆名直盛の築城。1592年(文禄1)蒲生氏郷、1639年(寛永16)
   加藤明成が大修築、43年保科正之が城主となる。
   幕末の城主 松平容保かたもり(1835~1893)は、幕府の京都の治安回復の為の京都守護職(1862-67年)に任じられる。

  【会津農書】
   江戸前期の農書。3巻・付録。佐瀬与次右衛門著。1684年(貞享1)成る。会津幕之内村の胆煎きもいり役で豪農の著者が、
   自身の体験をもとにまとめた地方色豊かな農事指針の書。姉妹編に「会津歌農書」がある。
 
 【東京行幸中、名古屋で配られた酒饅頭】    
  NHK BS歴史館 『シリーズ日本の転換点② 東京遷都㊙大作戦』 13.10.17 放送

  1868年3月、明治天皇の大坂行幸が行われます。遷都への布石として、天皇の行幸の実績を作る事が必要でした。
  それまで明治天皇 (15才) は、御所より外に出られた事は一度もありませんでした。この時の行列は約1700人。

  1868年7月17日、東京奠都てんとの詔みことのりが発せられ、江戸を東京と改称し、京都と同格の都として定められました。

  1868年9月20日、(あくまでも東京へは一時的に行くだけで、
  また京都に戻ってくる) 「行幸」という名目で、明治天皇を
  東京へお連れする事になります。

  この東京行幸は日本史上最も華麗と言われる3300人の
  行列だったそうです。

  ※ ちなみに、江戸時代の日本一の大名行列は加賀藩で約2000人。

  遷都  大坂遷都論と大坂行幸、 江戸から東京への改称の詔と東京行幸

 
  当時、明治新政府は財政上苦しく、戊辰戦争の最中。それでも行幸に大金をかけ、新しい時代を示すため、各地で天皇を
  お披露目する必要がありました。
  大坂行幸では「自ら軍事を司る天皇」として、東京行幸では「親しみやすい君主、慈悲深い天皇」を演出しました。

  9月27日、名古屋では稲刈りの天覧が組み込まれ、農民に特製饅頭3000コが配られました。上の画像、輿の横に饅頭が
  描かれています。

  菊の御紋の焼き印を押した直径9㎝ほどの酒蒸し饅頭は、名古屋市の『つくは祢屋』で作られました。当時の記録から再現。






  現在の9代目当主の石黒鐘義さんによると、
  軒に菊の御紋の提灯を下げて、屋敷の四方にしめ縄を張り、精進潔斎して御菓子を作りました。とんでもなく、名誉な事なん
   ですよね。その当時は御菓子が貴重な時期で、今と違った価値観がありました。やっぱり、ありがたかったと思いますね。

  【明治】
   明治天皇在位期の年号。1868年10月23日(陰暦では 慶応4年9月8日)から。1872年12月31日(明治5年12月2日)まで
   陰暦を使用。1912年(明治45年)7月30日大正に改元。

  1869年3月に再び東京行幸が行われ、明治天皇は京都に戻ることなく、なし崩し的に東京が首都の役割を果たすことになります。
 
 近代水道は横浜から
  宇都宮市 『世界と日本の水道・下水道の起源』
   http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/013/818/kinensi06.pdf

  ≪ 明治時代の近代水道 ≫

  江戸時代末期頃から流行ったコレラ対策の為に大都市と港町に優先して作られたようです。

  1887 (明治20) 年の横浜水道が近代水道の始まり。英国人技師パーマーによって、相模川
  上流を水源とし、ろ過と消毒をした水をポンプと鋳鉄管で横浜市内に送水するシステムが
  作られました。1890年に水道条例が制定されます。

  1889年に函館市、1891年に長崎市、1895年に大阪市、1898年に東京市、1899年に神戸市。
  以降、順次主要都市から近代水道の敷設が広まり、1911 (明治44) 年には全国17道府県で
  整備。

  1925 (大正14) 年には42道府県で水道が導入されます。
  大正時代の岩手県・石川県・和歌山県・愛媛県・沖縄県の5県では水道未導入。

  應用 家事教育書 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926686

  1918 (大正7) 年出版の『応用家事教科書 上巻』(東京女子高等師範学校 教授の大江
  スミ子 著、東京寳文館 出版)
  「第一章 住居 第四 住宅新築に就きての心得」P.24~25には「各種給水器」では水道では
  なく井戸が描かれており四、井戸 …ポンプを設くれば値高きも使用上便利にして、かつ
  衛生に適す。とあり、東京でも、まだまだ水道が一般的では無かった事もうかがえます。

 
 明治時代の商家のカマド
  ≪ 江戸末期 大阪くらしの今昔館 ≫   テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『~600店の巨大商店街 大阪・天神橋筋~』 14.03.08 放送

  直線で日本一長い商店街である天神橋筋商店街。天六 (北区天神橋六丁目) の住まい情報センタービル内にある
  「大阪くらしの今昔館」には、江戸時代末期の天保年間(1831~1845)の大坂の街並みが再現されています。
  2014年に人気となったNHKのあさドラ「ごちそうさん」のメイン舞台となる西門家にそっくりの家もあるそうです。






  大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館 http://konjyakukan.com/   Wiki 大阪くらしの今昔館

  NHK 朝の連続テレビ小説の歴史 1961 (昭和36) 年に放送開始  大阪くらしの今昔館 https://youtu.be/4G1A-zQzOoE


  Wiki コニシ  Wiki 小西家住宅
  毎日放送 せやねん ! 『メチャ売れ!! 「コニシボンド重要文化財」』 15.04.18 放送
  読売テレビ ten. 『大阪船場の"生き証人"「旧小西家住宅」とは?』 18.12.19 放送

  ≪ 明治初期 大阪・船場道修町の小西邸 ≫

  『木工用ボンド』や『アロンアルファ』で有名なコニシ㈱ の創業地。初代 小西儀助が明治3年に薬種商を始め、
  2代目 小西儀助の住居や本社として1903 (明治36) 年に完成。1994年まで社長室として使用されていた部屋もあり、
  現在 国の重用文化財に指定され一般非公開。一部は関連会社の事務所として使用されています。
  創業150年となる2020年に一般公開予定だそうです。

  江戸時代も日本一の経済都市として栄えた大坂には大きな商家が多く、道修町には薬種問屋が集まっていました。
  当時は住み込みで働くのが普通。『へっつい』と呼ばれた竈で、生活していた50人ほどの食事を作っていました。
  幕末の『守貞謾稿』によると、一般庶民が飯を炊くのは一日一回ですが、大きな商家などは一日二回でした。

  1911 (明治44) 年に堺筋の拡張工事の際に一部の敷地を大阪市に提供した為、現在は約200坪の敷地。
  旧小西邸の部屋数は20ほどあり、洋酒を販売していた頃には、サントリー創業者の鳥井信治郎 (1879~1962) も働いて
  いた時期があるそうです。






  戦後の混乱期に新しい事業を始めたいと思っていた頃、塗料や接着剤を研究していた人が入社し、1952年に合成接着剤を
  開発。
  現在は薬や酒類販売事業はやっておらず、接着剤関連事業だけですが、業界のトップシェア企業になっています。

  コニシのボンドは、世界遺産アンコールワット遺跡の修復や、海中のサンゴ礁の修復・再生、橋梁やトンネルの補修など
  世界各地で多用途で使用されています。

  【竈】かま、かまど、へつい、へっつい
   へっつい … へつい (竈を守る神) の促音化。かまどの「ど」は場所を意味する語。

  竈を起す …家を繁栄させる。身代を築く。 竈を破る … 破産する、身代を潰す。 竈を分ける … 分家すること。
  竈賑わう … 暮らしが豊かになる。家が富む。 
  竈に媚ぶ … 主人に媚びるよりは、地位は低くても実務を握っている者に媚びる。

  【竈の神】かま‐の‐かみ かまがみ。かまどがみ。
   ① かまどを守護する神。奥津日子命おきつひこのみこと・奥津比売命おきつひめのみことを祀る。
     のち仏説を混じて三宝荒神さんぼうこうじんともいう。
   ② 妻の異称。

  明治時代になると、レンガが使用される西洋建築が普及しますが、竈もレンガで作られるようになった事が分かります。
  御堂筋が整備される以前の明治時代の大阪のメインストリートは堺筋で三越百貨店 (2005年まで) がありました。
  三越の跡地は2009年に209mの北浜タワーが建ち、分譲マンションとしては日本一の高さ。
  (2020年に東京・麻布台に270mの超高層分譲マンションが完成する予定)

   煉瓦の生産と近代紡績 レンガ生産も紡績も大阪と堺・泉州が中心だった


  三食献立及料理法 家庭和洋保険食料 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954876
  三百六十五日毎日のお惣菜 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955371
  應用 家事教育書 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926686
  應用 家事教育書 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926687

  ≪ 一般家庭におけるガスでの炊飯の始まりは大正時代 ≫

  1915 (大正4) 出版の『三食献立及料理法 家庭和洋保険食料』(秋穂益実 著、東京割烹女学校出版部) でも
  P.14~「便利で經濟な瓦斯燃料」では一般的にお薹所だいどころに用ゆる燃料としては主に木炭をお使ひになりますが、
  もし瓦斯を引用する便のある土地ならば、瓦斯を引いてお使になれば萬時ばんじに誠に手数が懸かゝらず、火加減等も
  自由自在で此の位便利な燃料は他に御座いません…
  P.43~「瓦斯で御飯が自由に炊ける 台所喜劇の一幕」で…有り難い哉、瓦斯燃料大明神……阿々。と絶賛。

  1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)
  P.278 「瓦斯がすで御飯の炊き方」には…御飯を炊くにも以前と違ひ当今では大抵の家庭にはガスが引いて
  ありますから、之を用いる炊き方を心得て置くのも便利と思います。とあります。
   ※この本は都市部の裕福な上流階級向けに書かれたものと思います。

  1918 (大正7) 年出版の『応用家事教科書 上巻』(東京女子高等師範学校 教授の大江スミ子 著、東京寳文館 出版)
  「第二章 飲食物 第十一節 庖厨具」P.135~139には、
  在来の釜の他に、西洋釜・改良釜・石油釜・瓦斯ガス釜等あり。各種の炊飯釜が描かれています。

  カマドとは異なる単体の鉄製の「西洋竈」と呼ばれる炊飯釜やストーブが登場。
  薪・炭・石炭・コークス等を燃料とする各種様々な「改良釜」と呼ばれるものが登場。
  瓦斯竈 最も進歩したる竈にして、火力強く、火の加減自在にしてすこぶる便利なり。ただ瓦斯を濫費せざる用
  注意すること肝要なり。

  「萬調まんちょう竈」という蒸焼器の一種の釜なども記されており、明治~大正時代は炊飯器の進化が早かったようです。


  ≪ 台湾米・朝鮮米・外国米・麦 ≫

  革命来の米界 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803806

   1912 (明治45) 年出版の『革命来の米界』 (野城久吉 著、東京の商業通信社 出版) には
  当時の物価と米価、人口と作付面積、鉄道の延長距離など数字データも書かれてあります。

  「二十四、麦の供給力」P.217~
  年々関西から東京へ輸入する裸麦は十四五萬俵もあるとか云う事であったのに、本年は十四五萬俵乃至
  二十萬表の大麦を関東から関西へ輸出したと云う事である。

  【裸麦】はだか-むぎ
   オオムギの主要な一変種。果実と頴えいとが離れやすいのでこの名があり、離れにくいものは皮麦かわむぎ
   呼ぶ。西日本に多く栽培する。


  P.222~「二十五、台湾米の補給力」には明治36年~44年までのデータが載っています。
  P.228~「二十六、朝鮮米の生産力」では地域別の玄米の産額などがあります。
  朝鮮は日本と同じく、米穀の生産が、農業の最要部を占めて居るが、其方法たるや至って幼稚であるが故に、
  是が改良の余地は少からぬである。…
  P.234~「二十七、外国米の調整力」では世界の米の産額の表があります。


  美味くて徳用御飯の炊き方百種 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933202

  1918 (大正7) 年の『美味くて徳用御飯の炊き方百種』 (慶應大学医学部内 食養研究会 編&出版) では、
  内地米 (国産)、朝鮮米、台湾米と外国米 (安南アンナン、暹羅シャム、サイゴン、ラングー、東京トンキン、南京) の
  栄養価の比較や味、炊き方などが書かれてあります。

  台湾米と外国米は南国気候なので品種的に小粒で美味くない。輸送中の袋の臭気が付く事も原因の一つ。
  朝鮮米は内地米の三等米と同等。安いので良いが、陸穂なので籾を磨るときに小石や砂が混じる。
  砂石を取り除く方法が幼稚、内地に輸入されている米には混合物は少ないようだが、それでも混じっているので、
  一般的に嫌われる傾向にある。しかし改良されている事を聞くので、混砂の割合も減少するに違いない。

  外国米も栄養的には大差がないので、砥ぎ方や炊き方を示して、食べる事を推奨しています。


  一千万石目標節米調理法 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1095670

  1940 (昭和15) 年1月に出版された『一千万石目標節米調理法』財団法人 糧友會 編・発行 では、
  いよいよ節米を強化しなはればならなくなりました。戦争も大陸建設も、その原動力は食糧です。

  昭和14年の収穫で西日本と、特に朝鮮の干害により1000万石の減収となりました。精米を2%減らし150万石
  節約する。酒造米制限で200万石節約する法令が出されました。
  同年の麦の収穫は本土および朝鮮で米換算で300万石分豊作だったが、それでも米は350万石分不足する。
  約1300万戸世帯あるので一ヵ月あたり3升の節米をする計算になります。

  七分搗胚芽米外米混飯 (麦飯・芋飯・稗飯・黍飯・大根飯など)・粥と雑炊パン (馬鈴薯入り蒸しパンなど)・
  団子・餅 (すいとん、蕎麦ぜんさいなど)・麺類芋類の節米レピシがあります。

  P.10~「外米 (南京米) のおいしい炊方
  この頃家庭に配達される外米は、主としてタイ米、サイゴン米、支那米です。どれも細長い硬質米で混砂搗
  ですが、支那米以外は砂の付き方が少ないですから軽く洗う程度でよいのです。
  色はどれも白色ですが、タイ米には所々に赤い皮が残っていてすぐ見分けがつきます。
  これらの米は麻袋から移った異臭があり、また粘り気が少なくて冷めるとすぐポロポロしてきて、日本の米に
  較べると味が多少劣ります。しかし栄養価には変わりがないのですから、安心して食べましょう。
   以下、洗い方や美味しく食べる為の炊き方などが書かれています。
  南京米は粥や蒸し飯、外米は冷や飯になった時が問題なので、炒飯・ライスカレー・ハヤシライス・チキンライス・
  五目飯など炊き込みご飯にし、油を加える炊き方が最適。



  ≪埼玉の場合 ≫

  埼玉県HP 『埼玉県の麦類について』 https://www.pref.saitama.lg.jp/a0904/komemugidaizu/mugi.html
  昭和30年代頃まで、埼玉の日常食は押麦に白米を混ぜた麦ごはんが一般的でした
  埼玉で小麦の栽培が盛んになったのは昭和になってから 麦王 権田愛三

  麦の栽培は明治時代でも大麦の栽培の方が圧倒的に多かった分かります。小麦は大麦の1/3~1/4の生産量。
  麦の収穫量は大正10年の農商務統計では、1位茨城、2位埼玉、3位群馬、4位福岡、5位栃木となっています。

 
 【西洋料理店と牛肉食の始まり】
  国立国会図書館の『第145回常設展示 「外食」の歴史』 第2章 明治・大正・昭和前期の外食 洋食の流入

  ≪ 東京の外食 ≫  カレーの歴史雑学

  明治時代に入り洋食が本格的に流入すると、外食も急速に多様化し、都市において普及・発達しました。
  慶応3(1866)年には早くも神田に三河屋という西洋料理店が出現し、明治元年(1868)年には大衆相手の
  牛鍋屋が発足しました。
  明治12(1879)年は中華料理店の永和斉(王惕斉)が東京築地入舟町で開店し、明治32(1899)年には
  新橋にビヤホールが登場しています。
  この時期には文学にも外食が現れ、例えば明治41(1908)年9月から12月に朝日新聞で連載された夏目
  漱石の『三四郎』には、西洋料理店や天ぷら屋、そば屋などが登場しています。
  明治期の外食施設としては、この他に汁粉屋、焼芋屋、氷水屋、すし屋、蛤鍋屋、鰻屋等があり、明治
  30年末の調査によると、当時東京には料理屋476軒、飲食店4,470軒、喫茶店143軒、銘酒屋476軒が
  あったとされています。

  大正期に入ると、外食が日常化してきます。大正期の中頃には公営の簡易食堂が設置され、大正12
  (1923)年の関東大震災後には、大衆食堂の元祖といわれる須田町食堂が開店するなど、各種の飲食店が
  急増します。
  明治・大正期を通して外食は大いに多様化・発展を遂げたといえます。なお、明治・大正期に創業して以来、
  現在まで続いている店も少なからずあり、今でもこれらの店の味を楽しむことができます。

  本格的なビアホールが常設されたのは大阪が最初 日本初のビアガーデンは横浜、屋上ビアガーデンは大阪が日本初
  東西の丼の違い 牛肉の卵とじ丼は関西では「他人丼」、東京では明治時代「開花丼」ですが大正時代は別の名前で呼ばれていた


  ≪ 明治事物起源の牛肉に関する記述 ≫ 神戸牛の評判が高くなったのは明治初期から。

  1908 (明治41) 年1月出版 『明治事物起源』 石井研堂 著 (福島県郡山市生まれ、東京在住) の第十類
  「飲食」P.388~419では
  ・氷水屋の始 ・人造氷の始 ・麦酒醸造の始 ・ビアホールの始 ・珈琲の始 ・ラムネ ・牛乳の始 ・牛肉食用の始
  ・西洋料理店始 ・屠牛場始 ・パン ・巻煙草製造の始 ・缶詰の始 の記述があります。

  この書の注意点は、「始」とありますが、東京中心の情報なので、これらの始まりが必ずしも「日本初」ではない
  という点に注意が必要です。

  牛肉は幕末の開港以来、米国人が横浜に常駐するようになって日本国内には食用牛肉が流通して無かった
  ので米国や中国から輸入し、横浜と横須賀で屠殺して食用としていたが、1864 (慶応1) 年に外国商船が
  神戸から三丹州 (丹波・丹後・但馬) の牛を3~40頭飼い、横浜に輸入して食べたところ、肉の味が非常に
  良かったので、明治40年代においても神戸牛の名声が続いている。

  中川嘉兵衛が横浜から仕入れた牛肉を毎日、英国公使に上納しており、次いで英国人のジョージュというものが
  牛肉販売店を開いた。この2人が東京における牛肉販売店の租と言われる。

  東京の屠牛場は幕末の芝区白金に中川嘉兵衛が開設したのが始まりとされている。

  密売が公然の商売となって、慶応1年には横浜に2~3軒の肉屋が開店した。

  慶応3年、中川屋が芝の露月町で「御養生牛肉」と朱書きした旗を立てて商売したのが牛鍋屋の元祖と言われて
  いる。
  客は下級武士や浪人らの物好きや強がり者に限られており、多くの人は店に近づくのさえ不快に感じていた。
  福沢諭吉や光妙寺三郎なども客だったが、公然と店に入ることが禁じられていたので、窓口よりこっそり牛肉の
  佃煮を売買した。

  牛肉屋の初めは蠣殻町の「中初」で、土橋の「黄川田」、浅草茅町の「米久」などが同時期に開店。
  最初は牛肉の量り売りだったが、鶏肉や豚肉を売るようになった。鶏肉屋も牛肉を売るようになった。
  現在でも牛肉専門店なのは、神田川の「中川」と「黄川田」の2軒のみ。

  牛肉の料理店は四谷竹町「三河屋」、京橋具足町「河合」、三田「いろは」などが相前後して開店したが全て入口は
  2階だった。

  明治5年1月14日に天皇の勅により牛肉を食べる事が推奨された。4月15日の令では僧侶の肉食と妻帯が許可された。


  1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949 によると、

  第二章 第三、(五) 屠殺場と大衆食堂の開拓 P.100~102
  明治17~19年に浅草の公園が改正されてから、浅草に色んな飲食店が出来て発展していったようです。
  「今日存する牛鳥料理店の料亭の主なるものは、多く其の時代に出来たものである。例えば平野亭、須賀野、伊勢角、
  少し遅れて米久、敷島、房陽軒などがそれである。
  平野亭が老舗で高級を誇り大人気、平野亭より後に料理店を開業した米久 (肉屋は元祖だが、料理店を出したのは
  明治30年代頃?) が大衆化し成功しそうだったので、多くの店が見習って大衆化していったような事が書かれてあります。

  大正時代、東京も含め上流階級では「肉=牛肉」の認識 東京で書かれた家庭料理書のカレー・レシピなど

  コトバンク 『草野丈吉』

  ≪ 日本初の西洋料理店は長崎 1863年 ≫  大阪で出版された洋食料理本 明治20年の自由亭のレシピ本

  【草野丈吉】くさの-じょうきち (1840~1886) デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
   幕末-明治時代の料理人。 天保11年6月24日生まれ。明治19年4月12日死去。47歳。
   長崎出島のオランダ商館で皿洗いをしながら西洋料理を習得する。文久3年長崎でわが国最初の西洋料理店
   良林亭(りょうりんてい)をひらく。維新後 店名を自由亭とかえ,大阪,京都にも出店し,西洋料理の普及につとめた。


  ≪ 東京の西洋料理の始まり ≫

  『明治事物起源』 によると、1865 (慶応2) 年に「西洋料理」と称する飲食店が所々に出来て、西洋風の建物を模した
  外装の店もあった。「浅草代地の「だいしち」が東京府における西洋料理の元祖だと聞いているが、どうだろうか?」と
  いう事も付け加えられています。

  1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949 によると、
  第二章 第四、(四) 浅草に於ける洋食店の老舗 P.125
  浅草に於ける洋食店の起源については多少の異説があるが…凌雲閣の下にあった凌雲軒が浅草の元祖。
  と、しています。


  ≪ 缶詰の始まり ≫

  同書によると、四谷区津の守に住んでいた工部大学の米国人教師が、1870 (明治3) 年に果物類を自分用に作った
  のが始まり。
  将軍家の漬物方として勤めていた千葉県行徳の山田喜兵衛の子である山田蓑之助が、この米国人に雇われ缶詰
  製造の手伝いをしていた。

  山田家の家記によると、寛永年間(1624~1645)に北條阿波守が天草征討(1637~38年の島原の乱)の際に、兵糧の
  副食が乏しく、握り飯に黄粉塩をまぶしていたが、品切れになったので胡麻塩に変えたが、これも不足したので大根を
  細かく切って味噌溜まりに漬けて「留漬たまりつけ」と呼んで兵糧とした。

  文化年間(1804~1818年)のロシア人が北海道にやってきた頃、近藤重蔵が石狩国紋別において、上記の溜漬を
  味噌溜から醤油で漬けるように変えて「紋別漬」と称した。

  1874 (明治7) 年、山田蓑之助が米国人の缶詰製造法を利用して、紋別漬を改良し他の野菜類を用いて作ったのが
  日本人による缶詰製造の起源と言える。
  同年には、三井物産会社が下谷池のある店に委託し、紋別漬200コをハワイと米国に輸送したのが、缶詰輸出の
  始まりとする。


  ≪ 蜜柑の缶詰・ママレード ≫ 広島県が日本初

  1927 (昭和2) 年に広島県の加島正人がアルカリによる剥皮法でのミカン缶詰の製造に成功。
  1930年にミカンの缶詰を英国ロンドンに輸出し、マグロの缶詰とともに日本から重要な輸出品となっていきました。

  1932 (昭和7) 年、四ツ菱食品の浜田文二が塩素を使用したミカンの酸剥法を開発し特許を習得。
  翌年に酸とアルカリを併用した方法に改良。

  1932 (昭和7) 年12月、広島県竹原で廿日出要之進が「アヲハタ」を創業し、ミカンの缶詰やママレードを製造販売。

  朝日放送 キャスト 『缶詰 非常食に最適 とうして日持ちするの?』 19.06.04 放送

  日本缶詰びん詰レトルト食品協会によると、缶詰は1804年にフランス人のニコラ・アベール氏が考案。
  当時、保存食は色々とあったが、栄養も保てるのが画期的だったそうです。






  現在、日本では缶詰の賞味期限は常温で3年と決められていますが、それ以上の期日が経過していても消費は可能。
  英国では114年間も保存されていた缶詰を食べたという記録があり、消費しても問題は無かったそうです。

  日本でも2015年に香川県小豆郡の小豆島で70年以上前に製造された赤飯の缶詰を発見。パイナップルに似た
  甘酸っぱい香がしたので食べなかったそうですが、専門機関の検査の結果では細菌類は見つからなかったそうです。

  2019年5月31日に牛丼の吉野家が牛丼などの『缶飯かんめし』を販売1缶160g入り全6種セット4860円 (税込) を発売。
  1缶あたり810円と高価ですが、発売から5日も立たずにほぼ完売。

  阪神淡路大震災や東日本大震災などでの炊き出しボランティアを行った経験から、災害時でも食べられる保存食をと、
  考え、2年かけて開発。白米は酸化するペースが早いので、栄養価も高く冷めても美味しい玄米を使用しているそうです。
 
 すき焼きも関西発祥
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ニッポン城下町めぐり⑧ 三重松坂』 14.01.23 放送
  関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 『すき焼きの肉「○○円からが高い!」』 14.05.19 放送
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『食の方言は語る ! 関西食べ物ミステリー』 14.06.05 放送
  関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 『意外と知らない名前の秘密SP』 17.04.17 放送
  テレビ東京 世界!ニッポン行きたい人応援団 『すき焼き”愛すフィンランド人ご招待』 18.12.03 放送
  テレビ大阪 大阪人の常識 OSAKA LOVER4 『その昔 神戸牛=近江牛だった?』 18.12.22 再放送
  日本テレビ 新春シューイチ ネンイチ 『浅草・昼飲みパラダイス 絶品!下町の味 超人気店で昼飲み!』 19.01.01 放送
  NHK Eテレ 趣味どきっ! 『鍋の王国 「牛鍋・すき焼き 文明開化のシンボル』 19.01.05 放送
  関西テレビ 池上彰の関西人が知らないKANSAI 『関西ブランドが世界中で大絶賛!』 19.01.19 再放送
  関西テレビ 報道ランナー 『但馬牛の地元をPR アイドルユニット誕生』 19.01.25 放送

  ≪ すき焼き ≫  カレーの歴史雑学

  すき焼きの発祥は、江戸時代の関西のようです。
  鉄板が簡単に手に入らなかった頃、土を耕すための農機具の鋤の上で魚や鶏肉などを焼いたのが始まりとされて
  います。溶いた生卵をつけて食べるのも関西の文化でした。

  しかし、江戸時代前期の料理書 (上方人が書いた) には、鯛など魚介類を味噌で煮た料理として記述されています。


 1643年刊『料理物語』 「第十二 煮物之部

  すきやき〕 たいを あつくつくりをき、だしにて みそをこうたて なべに入 にゑ候時、そこに入、まづ ほね かしらを入
  にる、身は入て やがてよし、どぶをさしてよし、かき、はまぐり、たうふ、ねぶか其外つくりしだいに入也
  なべやき〕 みそしるにて なべにて 其まゝに申候也、たい、ぼら、こち何にても取合せ候

 1643年刊『料理物語』 「第八 なまだれ だしの部

  どぶ〕 とは 何時も酒のかすをしぼりたるがよし、にごり酒は惡、


  【鋤焼】すき‐やき
   牛・鳥肉などに葱ねぎ・焼豆腐などを添えて鉄鍋で煮焼きしたもの。
   維新前まだ獣肉食が嫌われていた頃、屋外で鋤の上にのせて焼いて食べたからとも、肉をすき身(薄切り)にしたから
   ともいう。

  「薄切り=すき焼き」説は、上記の『料理物語』において「鯛を厚く造り置き」とあるので後付け説と思われます。
  「刺身」は室町時代は一般的に「指身」、武家が「刺身」と使い始め、江戸時代中期頃には「指身」という言葉が廃れます。
  「お造り」は「つくり身」から発展した言葉。関西では一般的には「刺身」と言いますが、綺麗に盛り付けた物を「お造り」と
  呼ぶ事も普通です。 詳しくは寿司の歴史雑学ページ 膾と刺身・お造り

  1869 (明治2) 年に、神戸の元町に牛肉すき焼き店「月下亭」が開業。
  関西では、この頃には現在の関西風すき焼きスタイルが確立したとされています。






  関西テレビの番組調べでは、すき焼きの牛肉100g当り、大阪は830円以上を高いと感じ東京は789円以上を高いと
  感じる。ケーキの場合は大阪450円・東京461円、ラーメンは大阪710円・東京776円。


  ≪ 明治6年創業 京都のすき焼き店 ≫

  京都市中京区の寺町通にある明治6年創業のすき焼き店。
  保存の額の中に張られてある新聞の日付が明治22年なので、それ以前と推定される御品書きが残っています。
  左から、御酒4銭・御飯2銭(付け足し赤字5厘)・ねぎ5厘・みそ5厘・砂糖5厘・鍋2銭・すき焼き3銭。御酒・御飯・
  すき焼きには小文字で「御一人前」と書かれてあります。御品書きの砂糖や味噌などは追加用と思われるようです。

  5代目の三嶌太郎さんによると、「明治の最初はまだまだ牛のお肉は食べるのに不慣れでしたから、牛肉はさほど
  高価でなかったと聞いております。」






  番組では触れられていなかったのですが、注目すべきは「鍋2銭」の文字。
  メニューの順番からすると「すき焼き・生麩」、「鍋・砂糖・味噌・ねぎ」の組み合わせと考える事も出来ます。
  すき焼きは牛脂・砂糖・醤油の味付けなので、味噌味の鍋もしくは、味噌味のすき焼きも選べたのかも知れません。


  ≪ 近江牛は神戸牛と勘違いされていた ≫

  江戸時代は太鼓の革に牛の皮が使われており、彦根藩は牛肉の味噌漬けを将軍と御三家に献上していました。
  これをルーツとすると日本で最も古いブランド牛であるのが近江牛。

  明治~昭和に宮内省に近江牛を納めていた滋賀県の松喜屋。4代目の西居基晴さんによると、初代 西居庄蔵は
  当初は大津から東海道を徒歩で約15日かけて東京まで牛を連れて行っていましたが、あまりにも効率が悪いので、
  1882(明治15)年に神戸港から船で輸送する事にしました。多くの牛を船で運ぶのはこれが初めてだったようです。
  輸送中に牛などが暴れて船が沈むなどの危険がありました。「海が荒れたら牛を海に落としてもいい」という条件で
  船主に頼み込んでようやく実現したらしいです。

  松阪牛は明治初期から徒歩での輸送『牛追い道中』で1回約70頭を関東まで運びました。20年間ほど続いた後、
  1900 (明治33) 年頃になると、鉄道を使ってより多くの牛を関東に輸送するようになります。






  東京では神戸港から来た牛だという事で、最初の5年間くらいは近江牛を神戸牛と勘違いしてしまっていたそうです。

  1883(明治16)年に東京・銀座に「近江すき焼きの元祖」として牛鍋屋を開店。
  明治復刻牛鍋というのがテレビ大阪の番組で紹介されていましたが、(すき焼きがテーマの番組ではないので)
  レシピや作り方などの詳しい事は解説されていませんでした。
  画像を見ただけですが、醤油味の割り下を使ったすき焼き鍋ぽく見えます。

  日本三大ブランド牛の一つですが、「神戸牛」「松阪牛」と比べて知名度が低い「近江牛」。
  昭和27年に東京上空から小型飛行機で3頭分の近江牛の肉を400gずつパラシュートにつけてバラ撒いたそうです。
  東京人が我先にと拾いに行ったので、交通渋滞を巻き起こしてしまったという事件が書籍に残っています。

  ハラル認証を受けた神戸ビーフが2016年にUAEのドバイへ輸出を開始すると、お金持ちたちはすぐに神戸ビーフの
  虜に。わずか2年で『世界最高の肉』としての地位を確立。
  2017年にハラル認証を受けた近江牛は、世界最大級の食の見本市『ガルフード』で近江牛のすき焼きを振る舞い
  高い評価を受けました。

  神戸ビーフの元となる但馬牛の地元、兵庫県新温泉町では2018年9月に開催した『但馬牛まつり』にて、地元企業に
  勤める2人が主催しプロデュースしPRアイドルオーディションを開催。
  地元の小学生~40代の4人の女性と2人の男性を選抜し『但馬牛少女withパパ』を結成。
  プロモーションビデオを撮影したり、街のイベントでPRする予定だそうです。


  ≪ 関東の牛鍋とすき焼き鍋 ≫  カレーの歴史雑学

  【牛鍋】ぎゅう‐なべ
   特に冬季、牛肉を野菜などと鍋で煮ながら食う料理。明治時代行われた、現在のすきやき風のもの。

  明治時代の文明開化により牛肉が食されるようになり、「牛鍋食わねば開花不進奴ひらけぬやつ」として、東京では
  牛肉と野菜を味噌で煮込んだ牛鍋を食べる事がブームになります。

  テレビ東京の番組によると、明治10年には東京に牛鍋屋が550軒以上あったそうです。

  牛鍋は明治時代に横浜で最もにぎわっていた伊勢佐木市町通り近くにある明治元年に創業した店が発祥のようです。

  7代目店主の青い茂樹さんによると、肉質が悪く、客も牛肉に慣れていなかった事から、イノシシ肉のボタン鍋に
  ヒントを得て味噌味にしたそうです。考案した初代は大酒呑みで酒を飲みながら調理場で包丁を握っていた。
  肉を切るのも面倒なので、薄くスライスするのではなくブツ切にした。
  カツオと昆布の合せ出汁を加え、ブツ切肉を煮込んでいく鍋のスタイルとなりました。






  この牛鍋スタイルが明治初めには東京にも広まったようです。上の右端の画像は『安愚楽鍋あぐらなべ』の挿入画


  1871 (明治4) 年刊『安愚楽鍋あぐらなべ』、著者は仮名垣魯文 下記の文の出典は広辞苑

  【安愚楽鍋】あぐらなべ
   滑稽小説。5冊。仮名垣魯文作。1871~72年(明治4~5)刊。
   文明開化の新風俗を半可通の口をかりて滑稽に描いたもの。

  開場
  天地は万物ばんもつの父母、人は万物の霊、故かるがゆゑに五穀草木そうもく鳥獣魚肉、是が食しよくとなるは、
  自然の理にして、これを食ふこと、人の性せいなり。昔々の里諺ことわざに、盲文爺ももんじじいのたぬき汁、因果応報
  穢けがれを浄きよむる、かちゝ山の切火打きりびうち。あら玉うさぎも吸物で、味をしめこの喰初くいぞめに、そろゝ開化ひらけ
  し西洋料理。

  その功能も深見草、牡丹紅葉もみじの季ときをきらはず。猪ししよりさきへだらゝ歩行あるき、よし遅くとも怠らず、往来ゆきき
  絶ざる浅草通行どおり。御蔵前おんくらまえに定舗じようみせの、名も高籏たかはたの牛肉鍋ぎゆうにくなべ
  十人よれば、十種といろの注文。昨晩ゆうべもてたる味噌を挙あげ、たれをきかせる朝帰り。生なまのかはりの粋いきがり
  連中、西洋書生漢学者流、劉訓りゆうくんに似た儒者あれば、省柏しようはくめかす僧もあり。

  士農工商老若男女なんによ、賢愚貧福おしなべて、牛うし鍋食はねば開化不進ひらけぬやつと、鳥なき郷さとの蝙蝠傘。
  鳶合羽とんびがつぱの翅つばさをひろげて、遠からん者は人力車。近くは銭湯帰ゆがえり、薬喰くすりぐい、牛乳みるく
  乾酪かんらく乳油ちちあぶら、牛陽たけりはことに勇潔いさぎよく)彼かの肉陣にくじんの兵粮ひようろうと、土産に買ふも最いと多き。

  【仮名垣魯文】かながき‐ろぶん (江戸京橋生れ、1829~1894)
   幕末・明治初期の戯作者・新聞記者。本名、野崎文蔵。諧謔諷刺に長じ、戯文を以て鳴る。
   「仮名読新聞」「魯文珍報」を創刊。作「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋あぐらなべ」「胡瓜遣」など。


  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  1908 (明治41) 年の『明治事物起源』の「牛肉食用の始」によると、東京の牛鍋は、牛肉と白ネギを酢味噌味で煮込み、
  薬味には山椒を用いていたようです。

  著者は石井研堂 (福島県郡山市生まれ、東京在住)


  現在は牛鍋の名残りから、関東では割り下を使って煮込む (焼かない) スタイルのすき焼きが一般的になっています。
  =すき焼き鍋。

  すき焼きジャーナリストの向笠千恵子さんによると、1923(大正12)年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災で、
  東京の牛鍋店が被災して減少したので、関西からすき焼き店が進出したり、すき焼きの料理人が多く来たからだと
  思われるそうです。
  1959(昭和34)年出版、古川緑波(コメディアン・編集者・エッセイスト)著の『ロッパ悲食記にも書かれてあります。

  【古川緑波・古川ロッパ】ふるかわ‐ろっぱ (東京麹町区生れ、1903~1961)
   喜劇俳優。本名、郁郎。声帯模写を始め、のち喜劇団「笑の王国」などの舞台や映画・ラジオで活躍。日記を残す。






  明治2年に創業した日本橋のすき焼き店は、当初は牛鍋屋としてオープンしたそうです。
  この店の6代目の宮本重樹さんによると、創業当初からすき焼きの作り方は変わっていないそうです。(証拠は不提示)
  薄切り肉で割り下で煮る現在の関東風のすき焼きと全く同じ。
  ただし、この店は開店当初は「牛鍋店」を名乗っていたのに、いつの頃からか「すき焼き店」に変わったそうです。

  牛鍋からすき焼きの作り方に変えた時に屋号を変えたと推測できます。

 明治2年創業 東京・日本橋の すき焼き店
  明治28年創業 東京浅草の すき焼き今半本店



  向笠千恵子さんによると、お鍋の作り方は、お店ごとにお客様の要望に沿いながら色々と進化してきたという感じですね
  明治初期に横浜の牛鍋が浅草を中心に東京の下町に伝わった。その頃から醤油味で煮る牛鍋していたようです。
  このように関東の牛鍋はまだ定番のスタイルが確立されておらず様々な物があったそうです。

  Eテレではつまり関東のすき焼きは関西からやってきたのではなく、牛鍋の味噌で煮込む文化が独自の醤油味に変化
  した物だったのです。と、まとめていました。

  向笠さんの推測によると、(「牛鍋」という言葉が無くなっていったのは)『下らない』と言葉があるように、江戸時代はお酒・
  醤油など良いものは関西の方からやってきたというのが江戸ッ子には潜在意識の中にあった。関東大震災くらいまでは、
  『上方の物は素晴らしい』というような意識があったから、震災後に【すき焼き】という言葉が入ってくると『カッコイイじゃ
  ないか』と感じて、【すき焼き】の名が一気に広がったのではないか? と思います。







 1933 (昭和8) 年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949

  第三章 浅草食堂経済組織の変遷 第四、浅草に於ける肉屋の変遷 P.176~、など。

  東京市内で肉食をする人が増えたのは明治7~8年頃で、その頃に明治初年に開業した富士屋が肉屋を始めた
  のが元祖。
  浅草で肉屋が増えたのは明治20~30年頃で、末期から大正時代にかけてが全盛期で色んな店が乱立。

  「今半」は「ちんや」と共に高級肉屋を売りにして、最も繁盛していた「平野亭」に対抗し、浅草における肉屋の権威
  になった。
  今日では時代と共に、大衆を吸収せんとして、簡易食堂の設備さへ設けているとあるので、今半は元々肉屋で
  あって、創業当初から飲食を始めたのではない事が分かります。

  また芝浅町の今半支店は二三年前まで牛鳥料理の外、小料理もやっていたが、今日ではすっかり組織を変更し、
  キャバレー、イマハンと改称し、すっかりカフェーになり切って終ったが、…臨時に日本料理も兼ねている。ともあり
  ます。つまり、今半は牛鍋などもやっていたでしょうが、現在の関西風すき焼きは昭和くらいからの可能性が高いと
  思われます。

  同書には平民食堂を標榜する牛鍋本店とかありますが、「すき焼き」という言葉はありませんので、浅草において
  「すき焼き」となったのは、同書が出版された昭和8年以降だと推測できます。


  第四章 外国輸入料理と大衆食堂 第五、千束町通りと吉原界隈の発達 (四) 新吉原代屋物語り P.325~

  吉原では仕出し屋のことを特に代屋と言っている。…
  牛肉料理の代屋としては、「伊勢屋」が専門の代屋で、其の他は多く土手辺りの鳥牛馬料理と看板とする大衆料亭
  である。殊に馬肉の栄屋の如きルンペン食堂として有名なものもある。かつて大正期には勿驚肉鍋たった三銭也の
  でかでかの看板を掲げて客を惹いていたことがあった。此の外らも土手の肉屋には、変わった店もあり、又 極く
  大衆的な店も少なくない。

  吉原では引手茶屋が提供するものが最も高級で40軒ある。仕出し専門の代屋は18軒で普通の料亭やカフェー、
  寿司屋なども含まれる。
  吉原での鳥料理店は大正13年頃に開業した「み満き」の1軒があるのみで、代屋だが一流の貸座敷にも出入りする。

  【ルンペン】Lumpen ドイツ … (「ぼろ」の意) 浮浪者。乞食。


  テレビ東京の番組で紹介されていた東京・新橋の今朝は明治13年の創業。創業当時から現在と同じ関東風すき焼きを
  提供していたかは不明ですが、松坂牛のA5ロースを手切りで1mm厚の超薄切りにするのがこだわりだそうです。






  日本料理の世界では「割主烹従かっしゅほうじゅう」という言葉があり、神様へ捧げる食材を切る庖丁師の権威が高かった
  事から、魚や肉を切ったりする人が一番偉い (料理長) とされており「割烹」という言葉ができました。
  ただし関西風ウナギのかば焼きに関して言うと、捌くより焼きの方が難しいとされ調理長が焼き場を担当するようです。

  「庖丁式」と呼ばれる包丁の技法は、室町時代の京都で完成しています。  『庖丁式』 藤原山蔭と各流派
  客の前のカウンターで調理する「割烹」のスタイルは江戸時代の大坂で完成したと言われています。

  『庖丁式が作られた理由』 著 稲葉敏明 http://www.ryoutei-meijiya.jp/houchou.pdf

  ≪ 関東に薄切り技術が普及してなかった ≫  主な良質な砥石の産地は西日本で、京都産が最高級品 世界で唯一の産地

  関東は厚切り肉の牛鍋だった理由としては、肉の薄切り技術が無かった事も理由の一つ。で煮込む必要があった。
  関東で多く食べられる赤身魚は分厚く切りますが、関西で多く白身魚は身に弾力があるので薄切りにします。
  薄切りにするには包丁の切れ味が重要。包丁の最終の仕上げに使う研ぎ石は京都あたりだけで産出。
  関東に薄切りの技術が広く普及していなかった事は、刺身の違いだけではなく、糸こんにゃく(関西は包丁でカット)の
  変わりに、ところてん方式で容器に入れ突いて作るしらたきだった事からも分かります


  東京で出版された大正6年の家庭向け料理書には関西風に近いすき焼きが紹介されています。


  1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)
  P.166 「牛肉のすき焼き
  玉葱を輪切にし、ヘット (牛脂) 又はバタで炒ります。火が通ったらば取り出し、普通よりは少し厚目に切った牛肉を
  その鍋に一枚ずつ並べて入れ、ざっと炒ったらば取り出して前の玉葱と盛り合わせます。
  醤油又はソースをかけて熱いところを食べるのです。

  この著者は江戸日本橋生まれで師範学校の教員などを務めた明治・大正期の教育者。略歴は下のリンクの所で。
  大正時代、東京も含め上流階級では「肉=牛肉」の認識 東京で書かれた家庭料理書のカレー・レシピなど

  東西の丼の違い 牛肉の卵とじ丼は関西では「他人丼」、東京では明治時代「開花丼」ですが大正時代は別の名前で呼ばれていた


  明治25年の高知県の中学校の家庭科の調理実習授業の記録が国立国会デジタル図書館にて公開されています。
  中国・四国の食文化のページ 高知県 ← このページからリンクしてあります。
  この記録によると、東京の「握り鮨」「散し鮨」「魚のてんぷら」「浅草海苔」、大阪の「小田巻蒸し」などもあり、「ビフカツ」
  「牛肉の混合煮」(醤油と砂糖で牛肉と根菜を煮た料理)、「ビスケット」などの調理実習も行っています。

  田楽・おでんの歴史 関東煮は大正時代以前から大阪にたくさんあった事が判明

  関東大震災をきっかけとして東京のおでんが関西に広まったという定説もありますが、大正3年に大阪で出版された
  本の記述から、大阪にはかなり以前から多くの関東煮 (おでん) 屋があった事を当サイトで発見しています。

  江戸時代は大坂から江戸へ物資を運ぶ船が定期的にあり、料理本なども主要都市では販売されているので、
  武士や町人・商人の間において情報は思っているよりも共有されていたと考えられます。
  但し、江戸時代中期以前の地域の風習や物資や技術不足によって、地域で異なる文化になっていったのでしょう。


  ≪ 糸こんにゃく と 白滝 ≫

  江戸時代に関西では固まった後のこんにゃくを包丁で薄くカットする製法で「糸こんにゃく」。
  関東では固まる前のこんにゃくをトコロテン方式で細く押出して作る製法で、見た目から「白滝」と呼びました。

  現在、ほとんどの「糸こんにゃく」が、「白滝製法」で作られているそうです。
  白い糸こんにゃく、海藻などで着色された白滝もあるので、色での区別ではなく、東西での呼び方の違いだけになっています。






  永岡書店 おもしろ雑学 『しらたきと糸こんにゃくはどう違う?』 昭和61年7月5日 初版 によると

  白くて細いしらたき、黒っぽくて太めの糸こんにゃく。
   原料はどちらもこんにゃくと同様で、こんにゃく芋を粉にし、石灰乳を混ぜて固めたもの。
   しらたきはこんにゃくの役をところてんのように突いて細かくしてから湯に放して固めます。
   これに対して糸こんにゃくは、固まってこんにゃくになってから、細く突くのです。
   こんにゃく芋の粉は乳白色で、糸こんにゃくは海藻やお茶などで着色されます。

  ※ 関西では平べったい糸こんにゃくは味が滲みやすいので、少しの量ですが売られています。
  牛鍋の肉や刺身などの関東の切り方は単純なブツ切りが多く、明治時代中期頃まで薄切りをするなどの包丁技術が
  低かったようにも思えます。なので、白滝はトコロテン方式になったのかも知れません。

  【蒟蒻・菎蒻】こん‐にゃく
   サトイモ科の多年生作物。原産地はインドとされ、古く渡来して各地で栽培。雌雄異花で、高さ1メートルに達する。
   こんにゃく玉 (コンニャクの球茎) を乾燥させ、粉末にし水を加えてこね、これに石灰乳を混ぜて煮沸し固めて製した食品。
   また糊の原料とする。

  【白滝】しら‐たき
   糸ごんにゃくのさらに細く作ったもの。 ※ 「糸ごんにゃくは広辞苑のママの表記です。

  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『食の方言は語る ! 関西食べ物ミステリー』 14.06.05 放送
   http://www.dailymotion.com/video/x1ypq8p (URLは長いので略)
 
 【 京都で最初の本格的フランス料理のフルコース 】
  NHK大阪・京都 歴史ヒストリア 『歴史秘話ヒストリア 明治の京都へおこしやす~千年の都 復興ものがたり』 13.08.28 放送

  ≪ 1872 (明治5) 年3月、第一回 京都博覧会が開催 ≫  二軒茶屋 中村楼の祇園豆腐

  明治時代初め、京都の復興のため、山本覚馬の提案で開催されることになった京都博覧会。 
  その時、外国人向けの料理を担当したのは、京都市東山区祇園町八坂神社鳥居内の二軒茶屋 中村楼でした。

  当時のメニューによると、一番上のランク (上賄直段) で、1泊3食付きで4円。当時の公務員の初任給よりも高かった。






  当時の外国人専用のディナーを番組で再現

  前菜   魚のサラダ・・生魚が食べられない外国人の為に軽く湯通しした魚料理。
  二品目 ひな鳥のチキンチョップ(肋骨のついた厚切りの肉を焼いたもの) のトマトソース。
  メイン  豚のローストビーフ。  他のメニューには 豚のビーフステーキ、羊のビーフステーキ。の記載があります。
        ※ ビーフの意味が理解出来ていなかった事が伺えます。

  案内書には当時の主人 (辻 重三郎) のメッセージとして
  「不慣れな主人なので お客様の意にそわないことがあるかもしれません。生き届かぬ点もあろうかとは存じますが
   お許し下さい」と記述。






  初めて外国人を受け入れる京都の人達は、必死の努力と精一杯の気配りで、外国人を「おもてなし」しました。

  博覧会を開催し復興に努めた京都の事情。 詳しくは、日本雑学 明治時代 遷都 千年の都 京都から、新首都 東京へ 明治政府に騙された京都の人たち。

  朝日新聞デジタルdot. 『八重に会いに、冬の京都へ』 http://dot.asahi.com/photos/photogallery/archives/1138/yae012/

  八重と夫・襄が訪れた店 二軒茶屋 中村楼。 八坂神社の門前にある豆腐の田楽で有名な老舗料亭は、創業450年。
  室町時代、神社にお参りする人たちが休憩した茶屋が発祥だ。歴史の重みを感じさせる門構えだ。

  12代目当主・辻雅光さんによると、明治時代、洋食好きの新島夫妻や仲間たちが、一時的に東京から洋食を作れるコックを
  呼び寄せ、中村楼で料理を作らせたとか。京都に洋食を出す店がなかなかないため、当時の中村楼の当主に頼み込んだらしい。
  襄がアメリカへ渡る際の送別会が開かれた記録がある。写真は八重や襄が使った、明治時代から伝わるリモージュなどの洋食器。
  現在の中村楼では、懐石料理のみで、洋食は出ないが、洋食器はメインダイニングルームで見学できる。

  ≪ 大阪で出版された洋食料理本 ≫ この本によって日本各地に西洋料理が広まったと思われます。

  日本・西洋・支那三風料理滋味之饗奏 明治20年5月刊 (編 大阪の伴源平、出版 大阪の赤志忠雅堂、調理 自由亭和洋主人)
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849032  (国立国会図書館デジタルコレクションのサイトで無料公開)
  大阪の中之島公園にあった自由亭で出されていた料理の調理法のようです。和・洋・中の料理が載っています。

  4.牛酪バタの製法 6.カツレツの法 7.ビステキ (ビフテキ) の法 8.チャップの法 9.サンドイチ (サンドウィッチ) の法
  10.フーカゼ (フーカデンビーフ) の法 20.コロッケの製法 21.シチウのソウス (シチューのソース) の法 
  77.オムレットの法 76麦酒醸造の法 80.檸檬水の法など、80のレシピが載っています。
   此外 西洋料理法製造法 数多アマタ有り 只 大概アラマシを記すもの也

  バターは牛乳ギウニウから、ビールは玉蜀黍ナンバンキビ (トウモロコシ) から製造する手順が書かれてあります。
  料理によって牛脂や豚脂などか使われていますが、多くの料理でバターと塩コショウが使われ、更に醤油を使用する
  場合も多く、日本人好みにアレンジした味付けになっているようです。
   同書の牛酪バタの製法  同書のビール醸造法  同書のレモン水製造法

  ※コショウは日本料理にも使われています。小麦粉=麺粉ウドンコ、 パン粉=麪包屑パンクズ と書かれてあります。

  【草野丈吉】くさの-じょうきち (1840~1886) デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
   幕末-明治時代の料理人。 天保11年6月24日生まれ。明治19年4月12日死去。47歳。
   長崎出島のオランダ商館で皿洗いをしながら西洋料理を習得する。文久3年長崎でわが国最初の西洋料理店
   良林亭(りょうりんてい)をひらく。維新後 店名を自由亭とかえ,大阪,京都にも出店し,西洋料理の普及につとめた。

  この本の末尾に版権を買って売った各所の本屋などが記載されています。
   東京は銀座の博聞社含め4社、名古屋2社、新潟、淡路、播州、山口、鹿児島2社、和歌山、大阪7社
 
 【 旧海軍の 「甘煮」(肉じゃがの元になった) と カレー 】
  【 京都府 舞鶴市 】  NHK ウイークエンド関西 13.02.02 放送

  京都府の舞鶴市は明治以降に海軍の町として急速に発展。
  舞鶴を母港とした旧軍艦の名前をつけた通りがあり、現在でもイージス艦こんごうなど、自衛隊の基地があります。






  12年前に舞鶴の自衛隊の基地から海軍厨業管理教科書が見つかり、調理手順も軍隊らしく分刻みで決められていました。







  【 広島県 呉市 】  NHK あさイチ 『"JAPA"なび 呉』 12.12.20 放送    (江戸時代のタマネギは主に鑑賞用)

  食用にされたタマネギは海軍に採用され、いくかのメニューが生まれました。
  当時海軍の最重要拠点であった広島県南西部の呉市は戦艦大和の母港としても有名で、現在も海上自衛隊の基地があります。






  「肉じゃが発祥の地」としては京都府が先に名乗ったが、京都より10年前に東郷平八郎大将が呉に赴任していた為、呉も名乗った。
  現在は、舞鶴と共に「肉じゃが祭り」で盛り上げている。 

  甘煮 呉市にある田舎洋食 いせ屋ではレシピと作り方をそのまま再現して販売 (海軍さんの肉じゃが 400円)。
       海軍厨業管理教科書 海軍の本部から各艦へ渡されたレシピ。
      材料 : 生牛肉、蒟蒻 (こんにゃく)、馬鈴薯 (ジャガイモ)、玉葱、胡麻油、砂糖、醤油。水は節約の為入れない。






  戦艦大和のオムライス 生き残った船員の証言から再現。グリーンピースの数は割り切れないように奇数。
   「船が割れないように」という験担ぎ(げんかつぎ)の為。

  フーカデンビーフ 茹で卵を牛ひき肉に包んで焼いた料理。

Wiki 東郷平八郎

 1848年1月27日
- 1934年5月30日
東郷平八郎 とうごう へいはちろう は、薩摩藩出身の明治時代の海軍大将で本海軍の司令官として
日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献。当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍
バルチック艦隊を破った。

1870年(明治3年)から1878年(明治11年)までイギリスのポーツマス市に留学していた
東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食
として作らせようとした。
しかし、ワインもドミグラスソースも無く、そもそも命じられた料理長はビーフシチューなど知らず、
東郷の話からイメージして醤油と砂糖を使って作ったのが始まりと言われている。

当時の日本では既にビーフシチューやその変形であるハヤシライスが洋食屋での一般的
メニューであったこと、また、牛肉を醤油と砂糖で煮るのは牛鍋や牛肉の大和煮と同様の手法で
あることなどから、この説を脚色されたものとする意見もある。


  【鎮守府】ちんじゅ‐ふ
   ① 古代、蝦夷を鎮圧するために陸奥国に置かれた官庁。初め多賀城に置き、後に胆沢城などに移した。
   ② 明治以後、各海軍区の警備・防御、所管の出征準備に関することをつかさどり、所属部隊を指揮監督した海軍の機関。
     横須賀佐世保舞鶴 の各軍港に置いた。

  京都府舞鶴市が1995年(平成7年)10月に「肉じゃが発祥の地」を宣言。1998年(平成10年)3月に広島県呉市
  「肉じゃが発祥の地?」(最初に宣言した舞鶴市に配慮して"?"をつけた)として名乗りを上げました。

  カレーの歴史雑学のページを新設して情報を集約し追記しました。19.11.18


  随想 日本でのビタミン研究の流れ 『鈴木梅太郎博士 ビタミンB1発見100周年に寄せて』
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/kagakutoseibutsu/50/9/50_684/_pdf

  ≪ 明治時代、ビタミンB1の抽出に世界で始めて成功した日本人 ≫  鈴木梅太郎 博士と 栄養素・ビタミン

  欧州でも大航海時代にビタミンC欠乏による壊血病が大問題。
  日本でも明治初頭に白米を常食した陸海軍では、戦死よりも脚気と生活環境の悪化で死ぬ方が多かったそうです。

  【鈴木梅太郎】すずき‐うめたろう(静岡県生れ、1874~1943)
   農芸化学者。東大教授。1910年(明治43)世界にさきがけてビタミンB1の抽出に成功、オリザニンと命名。文化勲章。

  大正時代、朝鮮や台湾での稲作を奨励し、日本人全員が3食とも白米が食べられるようになりますが、この時にも脚気が
  庶民の間で蔓延しました。
 
 【 卵かけご飯が広まったのは明治時代、新聞記者の岸田吟香 から 】
  ≪ 江戸時代の卵 ≫

  卵かけ御飯に似たようなもの (半熟卵のようですが) が、江戸時代1802年に大坂で刊行された『名飯部類』に記述が
  あるようです。 コトバンク 『名飯部類


 【守貞謾稿】もりさだまんこう (「守貞漫稿」とも)   コトバンク 『喜田川守貞』 Wiki 守貞謾稿
   随筆。喜田川守貞 (砂糖商北川家。大坂の人、1810~?。1840年に江戸深川に定住) 著。30巻、後編4巻。
   1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗研究に
   不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行

 幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「湯出鷄卵賣

  鷄卵の水煮を賣る 價 大 約廿文 詞に「たまごたまご」と云 必ず二聲のみ 一聲も 亦 三聲も云ず
  因云 四月八日には鷄とあひるの玉子を賣る 江俗言 傅ふ今日 家鴨の卵を食する者は中風を不病の呪と
  京坂無此事

  鶏卵の水煮は大きい物で約20文の価格。売り言葉は「たまご、たまご」に2回繰り返すだけで、1回でも3回でも無い。
  四月八日にはニワトリとアヒルの卵を売る。江戸の俗言に「アヒルの卵を食べる物は、体の一部が麻痺する病気に
  かかるという呪いがある」とされるが、京都・大阪には、そういう俗言はない。

  「=声」  卵のコレステロールは気にしなくてもよい 最新の科学的調査では、逆に食べた方が良いとの結果



  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「ご飯の友」 13.01.24 放送 、 参照 Wiki 岸田 吟香   台湾出兵 広辞苑 より
  TBS あさチャン! 『美食 第3次"卵かけご飯ブーム" 世界で人気の朝ごはん』 17.12.12 放送

  ≪ 卵かけごはんを広めた岸田吟香 ≫ TKG

  美作国(現在の岡山県久米郡美咲町)出身の岸田吟香は東京日日新聞の新聞記者だった頃、自宅で卵かけご飯が
  好物でした。
  この頃まで、本でも生の卵を食べる習慣はなく高価なもので、滋養のつく薬の様な存在でした。

  明治7年も台湾出兵に従軍記者として同行した際も卵かけご飯を食べており、それが兵士の間に広がり、やがて日本
  全体へと広まりました。
  吟香は、醤油ではなく、塩と七味トウガラシを振りかけて食べていたそうです。
  明治5年に著した『彗星 江戸生活研究』には食すだけの溫飯あつめし一度に盛らせて 、鷄卵けいらんも皆打割り、
  カバンから燒鹽やきしおと蕃椒とうがらしを出し、適宜てきぎに振かけ鷄卵和あへにして喰しょくされたものだ。とあるようです。

  記者を辞めた後は実業家になり、目薬「精錡水」を販売するなど、薬業界の大立者としても知られます。

  ※ 台湾出兵 1871年(明治4年)に遭難して台湾に漂着した琉球人が先住民族の襲撃を受けたことを名目に74年(明治7年)に日本政府が行った出兵。
    一時は、清との開戦の危機を招くが、駐清英公使の斡旋により、日清間で協定が成立し日本は撤兵。征台の役。


  【岸田吟香】きしだ-ぎんこう (美作みまさか出身、1833~1905)
   新聞記者・実業家。名は銀次。ヘボンの「和英語林集成」編纂に協力。後に東京日日新聞編集に従事し、また、目薬
   「精錡水せいきすい」を販売。訓盲院を開設。東亜同文芸などの創設に尽力。






  TBSの番組によると、近年の卵かけブームは、専用しょうゆの発売が多かった2005年頃、2009年頃。そして2017年は第3次
  ブームが訪れているそうです。この3次ブームは写真投稿サイト『インスタグラム』にも様々な卵かけごはんの写真が投降
  されており、世界中にも広がっているようです。海外では「TamagoKakeGohan」と表記しています。

  2017年現在でも、卵の生食に嫌悪感を示す外国人の方が圧倒的に多いようですが、ネットの普及によりユーチューバーの
  投稿動画などで日本食に興味深々の人も年々増えており、卵かけごはんを食べに日本へやってくる人もいるようです。


  日本・西洋・支那三風料理滋味之饗奏 明治20年5月刊 (編 大阪の伴源平、出版 大阪の赤志忠雅堂、調理 自由亭和洋主人)
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849032  (国立国会図書館デジタルコレクションのサイトで無料公開)
  大阪の中之島公園にあった自由亭で出されていた料理の調理法のようです。和・洋・中の料理が載っています。
  自由亭は、元々は長崎で日本最初の西洋料理店として開業した良林亭です。

  日本本膳献立の欄の「春 鶏卵飯タマゴメシの法」 P.39
  飯を是を和ヤワラかに 炊木をひく時 人数を見積り 鶏卵をとき 飯の上に入レ 撹拌カキマゼて少時シバラク釜の蓋わして
  其後ソノノチ飯器メシツギへ移す也

  ↑とほぼ同様の記述が、1805(文政2)年刊の『素人庖丁』2巻 (大坂で刊行) の「玉子飯」に書かれています。
  米を炊いた後によく冷まし上から玉子をかけて釜の中でよく混ぜる。しばらく蓋をしてから御ひつに移し、食べる時に
  出汁醤油汁で食べるような記述があります。


  1918 (大正7) 年の『美味くて徳用御飯の炊き方百種』 (慶應大学医学部内 食養研究会 編&出版)

  P.162「鶏卵けいらん」では卵を割って、之を能く箸でかきまぜて醤油少しばかり砂糖少し加へ、なるべく薄く鶏卵たまご
  焼で焼いてから線こまかに刻んで置く。それから平常いつものやうに炊いた上に、前の卵の切ったのを振りかけるので
  ある。 この東京で書かれた本では、錦糸卵のたまご御飯のレシピです。

  P.164 「燒鳥飯」には雀、鶉うずら、雲雀ひばりなど、すべてこの類は何に限らず、尋常いつものやうに調理して、
  それから辛めの砂糖醤油をつけて炙り、俎まないたの上で之を庖丁で能く叩いて細くしたものを、ある。
  炊き立ての御飯の上に振り掛けるのである。とあります。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933202

  大正時代には小鳥類や鰌どじょうも普通に食卓に並んでいたようです。

  東西の丼の違い 牛肉の卵とじ丼は関西では「他人丼」、東京では明治時代「開花丼」ですが大正時代は別の名前で呼ばれていた

  埼玉県HP 『埼玉県の麦類について』 https://www.pref.saitama.lg.jp/a0904/komemugidaizu/mugi.html
  昭和30年代頃まで、埼玉の日常食は押麦に白米を混ぜた麦ごはんが一般的でした
  埼玉で小麦の栽培が盛んになったのは昭和になってから 麦王 権田愛三

 
 【 明治時代、残飯屋というのがあった 】
  ≪ 貧民窟 ひんみん-くつ = 貧民街、スラム ≫  Wiki スラム  

  江戸時代から明治時代の 江戸・東京の三大貧民窟

  ・下谷万年町(現・台東区東上野四丁目)、 ・芝新網町(現・港区浜松町二丁目)、 ・四谷鮫河谷橋(現・新宿区若葉)

  【鮫が橋】さめ‐が‐はし … 江戸四谷辺の地名。また、そこにあった娼家の俗称。明治時代、貧民窟として聞こえた。

  いずれも徳川時代の被差別部落に起源があり、明治20年代には、調査された地域においてだけでも、東京には少なくとも
  115の貧民窟があった
  1897年(明治30)の調査では、下谷万年町で875戸、芝新網町で532戸、四谷鮫河橋谷町で1370戸の細民長屋が確認
  されていました。

  桜田文吾の『貧天地饑寒窟探検記』には、大阪の貧民窟である名護町周辺(日本橋、難波地区)で 明治19年に調査した
  ところ、窃盗とコレラの発生件数に明確な相関関係があった。

  1921年(大正10)、内務省 社会局の調査によると、但し、東京は (昭和3) の調査。
  主な都市の貧民窟が多い順に、東京 (約 5736 戸)、京都 (1522)、神戸 (926)、大阪 (722)、名古屋 (600)。

   ※ 東京は、1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災の影響を受けているので、貧民戸が多く増えています。

  【弾左衛門】だんざえもん
   江戸時代、関八州およびその周辺の○○等を支配した、○○の頭かしらの世襲名。  Wiki 弾左衛門
   1722年(享保7)江戸の△△頭車善七くるまぜんしちらもその配下に組み入れた。

  【車善七】くるま‐ぜんしち … 江戸時代、江戸で、○○頭がしら弾左衛門の支配下にあって、代々、△△頭を勤めた者の称。

  「○○」および「△△」は、サイト公開停止処分のおそれがある文字なので自主規制しました。
  ともに出典は広辞苑なので、そちらで確認してください。


  ※ 関東大震災の真実 横浜で日本軍と不逞 在日朝鮮人集団との戦闘があった。詳しくは下記リンク先で。(必見)
  日本の現在(危ない日本) 『関東大震災の朝鮮人』 http://ccce.web.fc2.com/sinnsai.html  / Wiki 関東大震災


  被差別部落の人たちは人が嫌がる仕事を生業とさせられて貧民のイメージがありますが、江戸時代から農民よりも
  遥に立派な家屋を持ち、裕福な生活をしていた人がいる事が『守貞謾稿』に書かれています。
  江戸時代最も治安が良かった大坂の場合は、消防活動にも参加していたそうです。

  探検コム 『最暗黒の東京・下層社会を行く』2007.10.09 http://www.tanken.com/hinminkutu.html
  まちこの香箱(かおりばこ) 『「最暗黒の東京」の残飯屋』 http://machiko-o.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_eeb2.html

  松原岩五郎 『最暗黒の東京』 (岩波文庫、明治26年) 明治20年代半ばの東京の下層社会の探訪記。
  元の情報のようです。上記リンク先の各サイトには、詳しく載っていますので、興味のある方は ご覧ください。

  ≪ 残飯屋 ≫  Wiki 残飯屋

 1930年頃の東京荒川区日暮里のバタ長屋

日暮里の残飯屋

残飯屋の様子

最暗黒の東京


  明治時代になって近代化され、軍隊の兵営舎・士官学校・寄宿舎(工場の女工寄宿舎など)・病院など給食を提供する組織・
  施設ができます。それら、特に軍隊から出る残飯を安く買い、都市の貧民に販売する残飯屋という業者が登場しました

  残飯はそのまま売る店もあったが、醤油や汁が浸み込んだ米飯を水で洗い、笊ざるにあげて水を切るところもありました
  残飯屋では味噌汁の残りを残汁、その他のおかずの残りを残菜と呼び、それぞれ適当に値を付けました。

  量的に少ないが工場、料理屋からの残飯、監獄のまずい麦飯の残りも出て売られました
  残飯屋でも引き取らないような腐りかけの残飯は、豚の餌や肥料として引き取られました。

  購買者は都市の貧民ですが、彼らにとっても下等の食事だったそうです。
  安価でしたが需要を満たすには量が足りず、たちまち売り切れるのが常だった。

  1895-1896年 (明治28-29) 頃の東京で、上等の残飯が1銭で4椀、焦飯が1銭で5椀の価格
  他都市にも残飯業者があったそうですが、やはり東京が最も多かったようです。

  東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文


  ≪ 明治時代の東京の肉食 ≫  日本の食の歴史6 江戸肉食

  東京では明治初期にウサギバブルがあり、崩壊後に〆子鍋屋が流行りました。
  初期頃までは、江戸時代から残る「ももんじ屋」で犬も食べていたようです。
  明治中期に発表された夏目漱石の『吾輩は猫である』に「書生は猫を煮て食べる」事が記述されてあります。

  関西学院大学 高畑由起夫研究室 http://kg-sps.jp/blogs/takahata/2011/09/02/5604/ より

  ≪ 明治時代の女工寄宿舎の食事 ≫

   女工の食事の記録では 
   主食 「26社の中で、白米のみ3社、麦2割 6社、麦3割 4社、麦4割 2社、麦5割 1社、白米に台湾米を混ずるもの4社、
    不明6社」
   副食 「:菜汁、香々、:空豆、香々、:焼豆腐、香々 / :馬鈴薯汁、香々、:ヒジキ、香々、:菜の煮物、香々」
    等であまり、栄養状態が良くなかったようです。


  ≪ 大正時代も大阪が流行発信地 ≫


  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205

  『江戸時代のさまざま』P.289~ 「夏の大阪

  紀文奈良茂を豪奢がる江戸が何で話にならう、一體東京に住む人間はアキマヘンのである。
  成金振りの凄しさを見物するのなら、大阪でなければならぬ、但し見せ附けられて、胸が悪ぐなつたり、歯が浮いたり
  することは覚悟して出掛けて貰はう
  大阪が賑はしいと流行物が江戸へ抛下なげくだされる、江戸ばかりでなく東京になつても屡ゝしばしば大阪の後塵を拜をが
  ませられる、昔江戸ッ子が僅に鼻息を荒くし得たのは、寶暦の末から大阪の經濟状態が宜しくなかつた爲である、
  景氣さへよければ何時でも上方風が關東を拭捲くらずに居ない

  江戸時代中期の江戸の豪商、紀伊国屋文左衛門(紀伊出身)と奈良屋茂左衛門(上方系商人)だけでは比べものに位
  大阪には豪商が多かった。明治になっても東京は大阪に後れをとる事がしばしばある。
  大正時代の現在の大阪の金持ちぶりも凄い。宝暦(1751~1764)末に大坂の景気が悪かった時以外は上方の流行が
  関東を席巻するのが常である。

  享保 (1716~1736) の大阪女の風俗が著しく江戸の嗜好を誘つたやうに

  P.296~「暮れ行く大阪」には先づ大阪女が目醒めて全日本の女が氣が附くことになるのであろう。
  此の店 (高島屋) へ集う人数は日曜等の休日には四萬を越し、平日も三萬と聞いたが、東京よりも規模が大きく、人の数も多い、
  呉服ではない百貨店にもせよ、此の外に三越白木大丸等がある。京の着倒れ大坂の喰倒れといふのも昔の言葉で、今日の
  大阪は着倒れであり、又た喰倒れでもあるのか。
  などとあり、江戸時代~は京坂、大正時代は大坂が流行の発信地でした。

  【三田村鳶魚】みたむら‐えんぎょ (東京生れ、1870~1952)
   江戸の風俗・文学の研究者。名は玄竜。。「未刊随筆百種」などを編纂。 大正11年に大阪を見聞し上記を書いたようです。
   著書「大奥の女中」「江戸雑話」、輪講記録「膝栗毛輪講」など。

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?

 
 【味の素の発売】 発売当初の「味の素」を有名にしたのは大阪
  テレビ大阪 和風総本家 『日本のロングセラーを支える職人たち』 12.01.26 放送 / Wiki 味の素 / Wiki  鈴木三郎助
  味の素HP 『味の素グループの100年史』 http://www.ajinomoto.com/jp/aboutus/history/story/story01.html

  1907年(明治40) 神奈川県出身の鈴木三郎が、合資会社 鈴木製薬所を設立。
  1908年(明治41) 池田菊苗 博士が昆布の旨味成分のグルタミン酸塩を発見し、特許を取得
  1909年(明治42)5月20日 、鈴木三郎が「味の素」を工業化し一般発売を開始。
  1909年(明治42)の発売当初は、新製品だったことに加え、中々売れずに苦戦を強いられた。
   鈴木が販売促進のために大阪に出掛けたところ、うどんが食文化として定着していた事や、
   うどんの出汁を昆布で取ることから、昆布のうま味成分を抽出した味の素は格好の市場となり、
   鈴木は大阪市内のうどん屋や高級料亭などに向けて、味の素を売り込みに回ると共に、
   大阪で大きな足掛かりを築き、これがその後の味の素の評判につながる事となった。

  1917年(大正6)6月17日、株式会社鈴木商店を設立。(明治~大正期の財閥 鈴木商店とは無関係)
池田菊苗 博士


  1920年(大正9)、当時 味の素の販売は大阪が中心で
  大阪出張所が支店になった。
   味の素HP 『味の素グループの歩み』のページより

  番組によると、画像の瓶は明治42年に「味の素」が
  発売になった当初のもので、現在は画像の瓶が唯一
  残っているだけ。30g1円
  その前に具留多味酸 (グルタミン酸) という名前で
  瓶入りで販売されているようです。
 

  1946年(昭和21)、味の素株式会社に社名変更

  【池田菊苗】いけだ-きくなえ (京都出身、明治~昭和1864~1936)
    東大卒後、ドイツに留学。後に東大教授。理化学研究所を設立し、蒸気密度測定法や理想溶液論を研究。
    旨味成分のグルタミン酸塩を発見した人。

  大正時代に東京で書かれた家庭料理書において「味の素」は絶賛されています。
  1915 (大正4) 年の『家庭和洋保健食料 三食献立及料理法』(東京割烹女子校 校長の秋穂益実 著) P.19「味の素
  1918 (大正7) 年の『応用家事教科書 上巻』(東京女子高等師範学校 教授の大江スミ子 著) P.85「味の素


  ≪ 「うまみ」という言葉は江戸時代から使われている ≫

  下記の文献が「うまみ」の初出かどうかは分かりませんが、
  1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と思われます。
  汁部 味噌汁方の『鰹だしの事』に「うまみ」という言葉が使われています。 料理塩梅集「鰹だしの事」の現代訳全文
 【明治・大正期のお菓子】
  テレビ大阪 和風総本家 『日本のロングセラーを支える職人 ~今も愛され続ける名品たち~』 12.01.26 放送
  読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『全国おやつ博覧会』 14.07.20 放送
  読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『日本・大学芋愛協会 会長オススメ 関西の絶品大学芋ベスト3!』 15.04.10 放送
  テレビ東京 世界!ニッポン行きたい人応援団 『たい焼きを愛してやまないロシア人』 16.07.07 放送
  関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 『関西VS全国 色んな小競り合いに決着つけるで! 2時間SP』 16.10.11 放送
  関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『みんなの?ギモン 「外国と日本のクリスマスの違いは?」』 16.12.02 放送
  読売テレビ ワケあり!レッドゾーン 『3500匹以上食べた"たい焼野郎"鯛焼きの歴史』 17.03.05 放送

  【蜜豆】みつ-まめ 百菓辞典
   さいの目きりにした寒天、ぎゅうひ、フルーツの生かシロップ煮、ゆでえんどうなどを盛り、シロップをかけたもの。
   みつまめを創製したのは、東京・浅草の和菓子店「舟和」の創業者小林和助だといわれる。
   当初のみつまめは、寒天、赤えんどう豆、ぎゅうひ、西洋あんず、パイナップルに白みつをかけたもの。
   銀の器に入れ、1887 (明治20) 年頃「蜜豆ポール」として売り出した。
   またこれより早く江戸時代しんこ細工屋 (屋台) が、しんこで船の形をつくり、赤えんどうなどをのせて糖蜜をかけた
   ものを、「みつまめ」といって売り出したのに始まるという説もある。

  【餡蜜】あん-みつ 百菓辞典
   みつまめの上にあんをのせたもの。明治時代「舟和」によって考案され流布したみつまめに、関東大震災後、
   東京銀座のしるこ屋「若松」があんをのせ、あんみつが誕生した。

  【水饅頭】みず-まんじゅう 百菓辞典
   吉野葛にわらび粉、砂糖を混ぜ、水に溶かし、強火で半透明になるまでじっくり炊く。
   これをちょこほどの小さな型に流し込み、十円玉くらいの大きさに丸めた餡を入れ、
   5~6分せいろで蒸し、冷たい水で冷やす。
   明治時代に岐阜県大垣市で、菓子屋の夏場対策として創製されたという。
   冷たい井戸水で冷やして食べるため、この名がついた。


  【羽二重餅】 はぶたえ-もち 広辞苑
   1897年 (明治30) 頃に考案された福井市の名物菓子。求肥菓子の一種。
   羽二重 (純白の肌触りのよい絹布) のように、白く滑らかについた餅。
   もち米粉を水でこねて蒸し、水あめ、砂糖を加えて練り、片栗粉をまぶしながら延ばし、
   長方形に切った菓子。

  【鯛焼き】たい-やき 百菓辞典
   鯛の形に焼いたもの。一種の今川焼き。鯛の形の窪みのある鉄板焼きに
   片面をのせて作る。
   東京都港区麻布十番の浪花屋総本店 (明治42〈1909〉創業) 初代店主
    (神戸清次郎) の創製という。
   3代目の神部守一さんがヒット曲『およげ!たいやきくん』のおじさんのモデルに
   なった人だそうです。鯛焼きの発祥店は此処ではないという説もあるようです。


  【大学芋】だいがく-いも 百菓辞典
   中国料理のさつまいものあめがけの日本版。
   大正から昭和にかけて、学生街でたいへん人気があったことからつけられた名前。
   皮をむいた芋を一口大の乱切りにし、油で揚げてあめをからめ、黒ゴマをふりかける。


  明治2年 横浜の馬車道通りで、日本初のアイスクリームを製造販売。
  明治22年、横浜のグランドホテルの支配人兼バーテンダーが日本初の
   オリジナルカクテル『バンブー』を考案。
  明治36年、台湾からバナナを輸入。神戸港に着いたのが商業的輸入の
   始まりとされています。
  明治43年、11月に横浜で不二家が創業し、その年にクリスマスケーキを
   発売開始。
  明治44年、佐久間製菓が『サクマ式ドロップス』を発売。

  大正12年、新潟の浪花屋製菓が『柿の種』を発売。

  日本独自のクリスマス文化 不二家がクリスマスケーキを広めた。 クリスマスブーツは関西発祥
  明治44年刊の東京年中行事の「氷、甘酒、心太、白玉、アイスクリーム」の記述原文







 朝日新聞 13.06.01 夕刊
 
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『THE創業者 時代を創った"食"人たち』 15.03.19 放送

  ≪ 森永製菓 ≫





  1899 (明治32) 年、森永西洋菓子製造所として創業。 1913 (大正2) 年、ミルクキャラメルが誕生
 
 【 天皇の料理番 秋山徳蔵 】 
  NHK 大阪 歴史ヒストリア 『宮廷料理の舞台裏にようこそ ~天皇の料理番 秋山徳蔵~』 13.10.23
   動画 → http://v.youku.com/v_show/id_XNjI1NjA0MjYw.html 中国のYOUKUという動画サイトです。
  フジテレビ 報道2001 『究極のおもてなし』 14.05.15 放送 / NHK Eテレ 高校講座日本史 『不平等条約の改正』 14.12.05 放送
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『THE 皇室!知られざる皇室の日常やしきたりを徹底解説!』 14.07.31 放送
  朝日放送 おはようコールABC 15.06.04 放送 / 毎日放送 ちちんぷいぷい 『青年後 初のご出席 佳子さま 宮中晩さん会に』 15.06.04 放送


  ≪ 秋山徳蔵 ≫ 旧姓は高森、1913年(大正2年)7月、秋山俊子と結婚し秋山姓となる。 Wiki 秋山徳蔵

  宮中西洋料理の初の料理長を務めた秋山徳蔵は福井県の仕出し料理屋に生まれ、幼い時より家業を手伝いをしていました。
  ある日、福井県鯖江市にあった陸軍の歩兵第36連隊に配達に行ったところ、その日は陸軍記念日、洋食を推奨していた為、
  厨房には見た事もない西洋料理が並んでいました。揚げたてのカツレツを興味深げに見ていると、一口味見させて貰えた
  のでした。この頃、福井県には西洋料理店が一件も無く、徳蔵少年はその美味しさの虜になってしまいました。

  【秋山徳蔵】あきやま‐とくぞう (福井県生れ、1888~1974、85才で没)
   宮内庁 大膳課 初代 主厨長。50年以上にわたり天皇家の食事・宮中饗宴を取り仕切った。著「仏蘭西料理全書」など。
   「味」(東西文明社 1955年)、「舌」(東西文明社 1957年)、「新フランス料理全書(有紀書房 1966年)などの
   著作もあります。






  1909年 (明治42) 、20才になった徳蔵は東京の西洋料理店「銀座の清新軒」、「築地精養軒」などで修業した貯金と、
  親に多額の借金をしてシベリア鉄道に乗りフランスへと旅立ちました。
  日本大使館に紹介されたパリのホテルの厨房で働く事ができました。
  日本では見たことのない野菜や、食べる習慣が無いカタツムリ (エスカルゴ)、ザリガニなどが食材として使われている事に
  驚いたそうです。

   Wiki 築地精養軒 より / 上野精養軒HP 『日本人シェフの源流』 http://gmex21.com/seiyouken/chef.html#akiyama

  【築地精養軒】つきじ-せいようけん 日本で初めての西洋料理店 
   東京には本格的な西洋料理店がなく、外国からの要人の接待に不便をきたしていたことから、岩倉具視らの尽力で、
   1872年開業した。






  「厨房内では、体が小さい事や、東洋人だという事でバカにされるのは情けなかった」とも書き残しています。
  ある日、スープがなみなみと入った大きな鍋を「一人で持ち上げテーブルの上においてみろ」と嫌がらせを受けます。
  徳蔵はスープを床にブチまけ空にした大鍋を軽々と持ち上げテープルの上に置きました。
  予想してなかったフランス人の料理人たちはビックリして言葉もなかったようです。
  日本で鍛えた包丁さばきの素晴らしさもあって、しだいに一目置かれる存在となっていきました。

    Wiki ナポレオン戦争 / Wiki ウィーン会議  / Wiki シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール / Wiki アントナン・カレーム


  ≪ テーブル外交 ≫  ※ 国際外交の晩餐会 料理とワインに込められたメッセージ。

  1803~15年、ナポレオン率いるフランスとその同盟国は、、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどの
  ヨーロッパ列強の対仏大同盟と戦争し敗戦。
  1814~15年、オーストリア首都のウィーンでは、各国の代表が集結し、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの
  秩序回復と領土分割について話し合われていました。

  フランス代表として参加したタレーラン(美食家としても知られ、後に外相、首相などを務める)は、ウィーン会議の期間に
  何度か夕食会を主催しアントナン・カレームというシェフを雇い優れた料理を提供させた。
  のちにアントナンは「有名シェフのさきがけ」と言われるほど評価を上げます。
   ※ フランス料理の基本となる4つのソース、コック帽など、今日のフレンチに多大な影響を与えました。






  このフランスが主催した夕食会の料理において、各国はフランス文化の実力を認め、ウィーン議定書の内容を有利にする
  事ができました。


  ≪ 宮中晩餐会がフランス料理である理由 ≫

  幕末、外国を排撃し鎖国を続ける事を主張する攘夷じょうい論が台頭しました。江戸中期以降、主に水戸学や国学者・神道家に
  より唱え始められた天皇を尊ぶ尊皇論が幕府批判の考え方に変化しており、この二つが結びついて尊皇攘夷運動が
  強まっていました。
  薩英戦争や長州が4ヵ国と戦争した事などから、明治維新後も、欧米諸国には『日本は攘夷』のイメージが強く残っていました。

  【生麦事件】なまむぎ-じけん
   文久2年 (1862) 8月21日、島津久光の行列が生麦 (横浜市鶴見区の一地区) にさしかかった際、イギリス人4人が騎馬の
   ままで行列に遭遇し、怒った従士が殺傷した事件。
   翌年イギリス軍艦の鹿児島砲撃(薩英戦争)の原因となったが、幕府は責任を負い、償金10万ポンドをイギリスに支払った。

  【薩英戦争】さつえい-せんそう
   文久3年7月、生麦事件の責任追及のため鹿児島湾に進入したイギリス艦隊と薩摩藩との間で行われた戦闘。
   同年10月和議が成立し同藩は責任を認め、以後双方は接近。





  欧米との間に結んでいた不平等条約を改正し、領事裁判権関の撤廃や税自主権を取り戻すなどの必要がありました。
  その為に、『日本はもう攘夷という考え方を捨て、欧米と同じ価値観を有する文明国になった』というアピールをしなければ
  なりません。

  明治天皇や明治政府は率先して欧米文化を取り入れました。
  その象徴として1883 (明治16) 年に東京府麹町区内山下町に鹿鳴館を建設し、洋服での夜会や舞踏会を行いました。

  1889 (明治22) 年2月11日には大日本帝国憲法を発布し、衆議院議員総選挙も行い新しく立憲政治を行う国へと変えました。
  1894 (明治27) 年7月16日ロンドンで英国と調印した日英通商航海条約によって不平等条約改正が前進しました。

  【日英通商航海条約】にちえい-つうしょう-こうかい-じょうやく
   日本がイギリスとの間に1894年締結、99年実施した条約。治外法権の撤廃、関税自主権の部分的回復を勝ち取る。
   同様の条約が他の欧米諸国とも締結され、不平等条約改正の目標は半ば達成された。

  一等国を目指す日本は大正天皇の即位で行われる晩餐会に
  おいて、最高のフランス料理を招待した各国の代表に振る舞い、
  日本の西洋化と実力を認めさせる必要がありました。

   Wiki オーギュスト・エスコフィエ
  オーギュスト・エスコフィエ (フランス、1846~1935)
   「料理は外交上の最も高価ある手段の一つである

   エスコフィエのピーチメルバ



  当時、料理外交の伝統を引き継いでいたのが、フランスのリッツ・ホテルとロンドンのリッツ・ホテル。
  これまで和食中心だった日本の宮廷料理は、西洋料理へと変える必要があり、その料理長となる人物を探していました。

  そこで、オーギュスト・エスコフィエが料理長を務めるフランスのリッツホテルで修行していた秋山徳蔵に白羽の矢が立ち、
  大正3年、日本に呼び戻され、26才の若さで宮中の料理長に就任しました。






  まず取り掛かったのは、和食しか知らない宮内庁大膳課 スタッフたちへに西洋料理を教える事と、晩餐会で振る舞う料理内容。
  「スープは食事の初めに勧められるもので、その印象の善し悪しによって、すべての料理の味の感じが善くも悪くもなるので、
  大いに力を入れて調うべきものである」と、仏蘭西料理全書と書き残しており、欧米の招待客を驚かせる事も重要でした。

  フランスで知ったザリガニを使う事にしましたが、当時は鮮度を保ったままフランスから輸入するのは無理でした。
  北海道の支笏湖に食用に適したニホンザリガニが生息しており、軍服の上に白衣をまとった軍人たちが3000匹を超える
  ザリガニを集め、晩餐会が開かれる京都御所へと運ばれました。

  1927 (昭和2) 年6月、神奈川県鎌倉市の養殖業者が食用ガエルの餌として米国ニューオリンズからアメリカザリガニを
  初めて輸入。


  ≪ 宮中晩餐会 ≫  Wiki 大正天皇






  1915 (大正4年) 11月10日、京都御所において大正天皇の即位の大礼が行われ、18日18時に欧米18ヶ国を招いた晩餐会が
  行われました。
  秋山徳蔵が作った料理は高い評価を受け、日本が威信をかけた晩餐会は大成功し、1920年には国際連盟の常任理事国に
  なる事ができました。






  画像の料理は、「大礼記録」にイラスト入りで詳細に記されたものの再現。ザリガニのポタージュ、トリュフの高級食材もふんだんに
  使用した鶏の袋蒸し、セロリの煮込み。富士山のアイス。






  ≪ 富士山アイスが誕生した経緯 ≫

  秋山徳蔵の弟子で約40年以上に渡り宮内庁の料理人として副主厨長も務めた中平龍之さんによると、『日本を象徴する
  ものは何だ?』『料理を通して日本を伝えたい』と考えていた秋山徳蔵は料理のメニューのアイデアをよくイラストにしており、
  日本の象徴となる富士山が脳裏に浮かんだそうです。

  「国賓がお見えになるので、変わったものがいいんじゃないか。アイスクリームを富士山の型に詰めてみよう。」という事で
  型を作り提供したところ、当時の外国人たちも含め「食べられるものなの?」というくらいインパクトがあったようです。





  昭和になると、抹茶アイスなども使用した富士山アイスが作られるようになりました。
  御料牧場の牛乳を使用し高さ20㎝のサイズで数人分 (レプリカのニューオオタニの場合は20人分) で、配膳サービスする人が
  取り分けます。
  現在も年に数回、東京の皇居において宮中晩餐会が行われていますが、デザートの定番はこのアイスなんだそうです。


  ≪ 第二次世界大戦と戦後、昭和天皇との料理を通じた絆 ≫  Wiki 昭和天皇

  徳蔵が26才で宮中の料理長に就任した時、昭和天皇は13才。27才で天皇に即位します。朝食は西洋料理と決まっていました。
  料理長といえど、天皇陛下と直接会話する事はなく、下げられた御膳を見て陛下の体調やお好みを察し料理を決めました。

  第二次世界大戦に突入すると、米の入手は難しくなり食糧は芋などの配給が増えました。陛下は「国民と同じ物で良い」と
  おっしゃられ、配給された少ない食材を無駄なく工夫して、料理しなければなりませんでした。






  1945年8月15日終戦。GHQが日本に乗り込んできて、天皇との戦争責任問題と天皇制廃止が議論されるようになります。
  徳蔵を含め日本政府は、マッカーサー司令官を始めGHQの幹部たちに様々な接待攻勢を行います。

  徳蔵の禿げ頭に口紅で日ノ丸を書かれ大勢に笑われるなど、侮辱的な扱いを受ける事もあったそうです。
  それでも「料理で天皇様をお守りする」という信念から、自ら道化役をかってGHQを楽しませる事にも精を出しました。

 

  やがて、マッカーサーの夫人やGHQ幹部たちから、感謝の手紙が何通も届くようになります。
  日本伝統の品わ送ったり、手を尽くして集めた珍しい食材、高価な食材を料理してはGHQの幹部たちに届けていたのです。
  徳蔵に送られてきた感謝の手紙には「アナタが送ってくれた鴨のローストの味は絶品だ」「芸術品としか言いようが無い」など。

  敗戦の翌年、マッカーサーは「天皇の戦争責任を追及できる証拠は無い」と米国に報告。天皇は国民の象徴という形で
  残される事になりました。






  戦後復興が急速に進み、天皇陛下も40才を過ぎ、洋食よりもあっさりとした和食を好まれるようになりました。
  フランス料理一筋でやってきた徳蔵は還暦を過ぎている歳でした。
  宮中の仕事を終えると、東京の天ぷら専門店や寿司店に通い和食の修行を始めました。
  感覚を早く覚えるように人参をシャリの形と大きさに切り、それを握りしめながら床についたそうです。
  また、築地の魚市場に直接足を運んだり、栃木県高根沢町にある皇室の食材を賄う御料牧場にも度々訪れ食材の生育を
  チェックしていました。

  宮内庁 HP 『御料牧場など』 http://www.kunaicho.go.jp/about/shisetsu/others/bokujo.html

  御料牧場は,栃木県塩谷郡高根沢町・芳賀郡芳賀町にまたがる地(宇都宮市中心街から北東約13キロメートル)に
   あります。農・畜産事業の総合的経営を行う牧場で,皇室用の乗用馬・ばん用馬の生産をはじめ,各種家畜・
   家禽の飼養管理や皇室・内外賓客接伴用の牛乳・肉・卵などの生産を行い,在日外交団の接遇の場としても
   使用されています。 総面積 約252ヘクタール(東京ドーム約54個分)

   明治 8年 千葉県下に内務省所管下総牧羊場及び取香とっこう種畜場設置
   明治18年 宮内省に移管,下総種畜場と称す
   昭和17年 下総御料牧場と改称
   昭和44年 新東京国際空港(現:成田国際空港)設置計画に伴い現在地に移転,御料牧場と改称。現在に至る。

  1972年(昭和47)、足腰の衰えを感じた84才の徳蔵は、58年間務めた天皇の料理番を引退する事になりました。






  秋山徳蔵がエスコフィエの料理辞典を元に日本の食材も盛り込んで著した1600ページにも及ぶ「仏蘭西料理全書」は、
  西洋料理人を目指す人々の教科書として読み継がれています。

  著書「」より
   「ものを食うのは 魂が食うのだ 口や舌はごまかせても 魂はごまかせない
      真心のこもった食べ物は だから 何ともいえぬ味がある

  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『THE 皇室!知られざる皇室の日常やしきたりを徹底解説!』 14.07.31 放送
   http://www.dailymotion.com/video/x22n6p4 (← URLは長がすぎるのでので略してあります)

  ≪ 今上天皇陛下のある日のお食事 ≫

  フグは毒があるのでお召し上がりになられる事はできないそうです。カレーはよくお召し上がりになられるそうです。





  【今上天皇】きんじょう-てんのう … 当代の天皇。
   明治時代の明治天皇、大正時代の大正天皇、昭和時代の昭和天皇も ご存命中は『今上天皇』で崩御ほうぎょ (死去)
   なされてから、諡号をおくられ「○○天皇」と呼ばれるようになります。


  ≪ ホテル ニューオータニの富士山アイス ≫

  ホテルニューオータニでは、宮中晩餐会で出している富士山アイスを真似た金型を作り、約50年前から30年ほど前まで、
  婚礼などのお祝いの席のデザートとして出していたそうです。






  かつては160コほどの型があったそうですが、作るのに3日 (アイスを型に入れて1晩固める。『寿』の文字を書いて1晩固める。
  提供する時にホイップクリームで飾る。) 手間がかかる為、現在は使用しておらず倉庫に16コだけが現存。1つで20人前分。


  ≪ 2015年6月3日の宮中晩餐会 ≫

  外国の国賓が来日した時、年に数回開かれる宮中晩餐会。皇居の豊明殿で開催されています。

  2014年4月にオバマ大統領が来日した時に開かれた宮中晩餐会では、羊もも肉の蒸し焼き、
  真鯛の酒蒸しなどの下画像のメニューとデザートは抹茶アイスが含まれた富士山アイス
  (画像は上に) が提供されました。

  再現したのは、12年間海外の日本の公邸料理人を務めた東京都新宿区のフレンチ「IIZAKA」の
  飯坂竜太シェフ。

  「本当にすごいクラシック料理ですね。すごく重いソースなんですけれども、しっかり味があって、仕込むのに
  10日~20日ぐらいかかるものなので、こういうのをずっと守り続けているというのは、凄い事だなと思います。」

 

 

 

オバマ米国大統領時に提供された料理の再現


  2015年6月3日にフィリピンのベニグノ・アキノ大統領が来日され開催された宮中晩餐会が注目されているのは、
  2014年12月に成年皇族となられた佳子内親王殿下が初出席なされたからです。

  宮内庁長官から招待状が出席者に届き、日本からは皇族と首相夫妻、最高裁長官夫妻、衆・参議院議長夫妻などの
  三権の長や閣僚などが出席します。

  約2時間半開催され、料理の基本はフレンチですが、主賓の好みに合せた料理も取り入れられます。
  牛肉や豚肉は宗教上の理由で食べられない国の人もいるので、羊肉が使われる事が多いそうです。

  2015年6月の晩餐会のメニューは、
   ・タピオカ入りコンソメのスープ、鱸ずずきのバター焼き、牛フィレ肉の蒸し焼き、サラダ、富士山アイスクリーム、果物。





  ※ 国際外交の晩餐会 料理とワインに込められたメッセージ。
 【 大正時代の家庭料理】
  ≪ 大正時代の家庭料理本 ≫

 1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)
  国立国会図書館デジタルコレクションのサイトで無料公開 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955371

  この書は朝・昼・夜の3食を365日分のレシピを記したもの。
  和食から洋食、スープ類に洋菓子のレシピや作り方が詳細に載っており、
  現在の料理本とあまり変わらない内容になっています。

  現在において郷土料理と思われている料理「のっぺい汁」「すいとん」
  「はんぺんの薄葛」「柳川鍋」なども書かれてあります。
  白味噌も調味料としていくつかの料理に出てきます。
  ちなみにライスカレーには牛肉を使用しています。

  裕福な上流階級向け (右画像は同書に描かれているもの) の本のようです。


  1917 (大正6) 年出版 『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)

  P.278 「瓦斯がすで御飯の炊き方」には…御飯を炊くにも以前と違ひ当今では大抵の家庭にはガスが引いて
  ありますから、之を用いる炊き方を心得て置くのも便利と思います。とあります。

  P.13 「一月の献立」の「ライスカレー」 下記は、旧字を現代字にして書きました。
  牛肉を細かに切り、タマネギ・ニンジン・ジャガイモはいずれも細かな賽の目に切り、ジャガイモだけは水に浸して
  灰汁を抜いておきます。別に、鍋にバター或いはヘット (牛脂の事) を溶かし、煮立ったところへ肉とタマネギとを入れ、
  暫く炒って美味しい匂いがしてきたらばカレー粉を混ぜます。
  その中へ熱湯を加え、とろ火で一時間ほど煮た後、ニンジンを加え、ニンジンの軟らかくなったところへジャガイモを
  入れます。ジャガイモの軟らかくなった頃に、塩を加えて味をつけ、それから水に溶いた粉を混ぜ込みます。
  これを熱い御飯にかけて出すのです。
  カレー粉の量は一概には言えませんが、茶匙1杯を3人前くらいの感情にしたらいいでしょう。
  湯を注した際にリンゴを細かに刻んで入れ、煮崩れるようにすると味が淡泊あっさりになってよいものです。
  鍋を下したのち、茹で卵を細かに刻んで、その上に添えると味も体裁も一層よくなります。
  牛肉はその質によりますが、なるべく長く煮た方がよいのです。少なくても一時間は煮なければなりません。

  P.129 「六月の献立」の「剥身むきみのライスカレー
   貝のむき身を使ったシーフードのカレーではバターあるいはラード(豚脂)で炒める。
  カレー粉は製造所によって非常に利くのと利かないのとあります。

  P.31の「肉飯にくめし」には肉は牛肉に限らず、豚肉とんにくでも鶏肉けいにくでも用いられます。
  P.36の「スチュー」ではシチューにも牛肉が使われています。P.57には「ビフテキ」=ビーフステーキがあります。

  これらの記述から見ても「肉=牛肉」として東京でも認識されていたことが確認できます。

  P.127の「キャベジのサラド」では
  キャベジを五分ごぶ位に切り、ごくざっと茹で、笊ざるに揚げてよく水を切り、次の軽便 (手軽で便利な事) ソースを
  かけて食べます。
  ≪軽便けいべんソース≫
  酢と醤油とを同量にして、コショウ少量とカレー粉と砂糖とを適宜に加えて一度煮立てておき、冷めてから用いるのです。

  キャベツはまだ生のまま食べていなかった事と、「キャベジのカレー煮」などの料理も記されているので、カレー粉の
  入手は (都市ではお金さえあれば) 難しくなかったと思えます。

  P.263 「マヨネ・ソース」ではマヨネーズの作り方が乗っています。キユーピーがマヨネーズを販売するのは1925年の事。

  同書のアイスクリームとシャリベツ・アイスのレシピと造り方    カレーの歴史雑学


 1888 (明治21) 年 『軽便西洋料理法指南 : 実地応用 一名・西洋料理早学び
  (マダーム・ブラン 述・[]、 洋食庖人 著編、出版地 東京) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849016
  P.28~29 「ライスカレー」では、鶏肉または牛肉を使う事が書かれてあります。

  この書の「」には、肉食が進み、日々、三府五港だけではなく如何なる山間僻地の市街でも西洋料理の看板を
  見ない事はないくらい広まっている。外国人教師のフランス人のブラン夫人に口授を受け著述した事などが書かれて
  あります。


  コトバンク 『桜井ちか子』
  【桜井ちか子】 (江戸日本橋生まれ、1855~1928) 朝日日本歴史人物事典の解説
   明治大正期の教育者。江戸幕府御用達商人平野与重郎の長女として江戸日本橋に生まれる。
   18歳で海軍士官桜井昭悳(のちにキリスト教伝道師)と結婚したのち,神田の芳学社で英語を学ぶ。
   22歳のとき新栄教会で受洗。明治9(1876)年設立の桜井女学校(女子学院)は幼稚園から高等
   女学校までの一貫教育が特色。
   夫の赴任に伴い移った先々の函館師範学校,札幌師範学校で教え,一致英和女学校(大阪女学院)
   設立に協力するなど活躍。
   26年から30年にかけて2度渡米,3年間の米国滞在後,東京本郷に桜井女塾を創立,長年の教育者としての
   経験や米国での教育視察体験を生かし,キリスト教主義的良妻賢母教育を目標に全寮制教育を行った。
   <参考文献>大浜徹也『女子学院の歴史』,平塚益徳編『人物を中心とした女子教育史』


  ≪ 大正時代の高等女子教育本 ≫ 主婦の心得や家事知識~専門性が高い家庭医療の知識など

  国立国会図書館デジタルコレクションのサイトで無料公開 
   應用 家事教育書 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926686  應用 家事教育書 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926687

  女学校で使われていた家事の専門知識を満載した教科書で
  ある大正7年の『応用家事教科書 上巻』(東京女子高等
  師範学校 教授の大江スミ子 著、東京寳文館 出版)によると、

  容器から病原菌がうつる事もあるので、殺菌乳を配達して
  貰っても、もう一度煮てから用いるべし。
  牛乳は腐敗しやすく、他の混ぜ物をしている事もあるので、
  信用できる牛乳屋で買うべし。

  家庭で牛乳の良否判定を行うには、少量の牛乳にコヂュムチンキを一滴加えて藍色に変わったら米の白水等と混ぜたもの
  ヨーグルトは、最近は普通の牛乳の次によく用いられる。というような意味の事が書かれてあります。

  上巻は衣食住に関しての知識で井戸やランプ・ストーブ・ガス炊飯器各種の絵があります。
  「第二章 飲食物 第十一節 庖厨具」P.135~139には、
  在来の釜の他に、西洋釜・改良釜・石油釜・ガス釜等あり。各種の炊飯釜が描かれています。

  下巻は第一章「看護」、第二章「老人の奉養」、第三章「育児法」、第四章「交際」、第五章「家計の整理」、
  第六章「一家の管理」となっており、第一~三章は非常に専門的な内容になっています。
  第四章の「交際」は近所や親戚との付き合い方など、第五~六章では家計簿のつけ方というより、商店の決算表・企業の財産
  管理などと変わらないレベルの内容。僕婢ぼくひ(使用人)や書生の選び方・扱い方も書かれてあります。

  Wiki 大江スミ
  【大江スミ】 (大江スミ子。長崎出身、1875~1948、旧姓・宮川) 女子教育の先覚者
  東京家政学院(現東京家政学院大学)創立者。
  1880 (明治13) 年、父親の宮川盛太郎が宮内省大膳職へ転じたことで上京。
  1901~1902年、沖縄の高等師範学校・高等女学校の教諭。
  1902年に文部省の命で英国に留学し家政科を学び、1905年に社会衛生学を学ぶ。1906年に卒業・帰国。
  1907年に女子師範学校教諭兼女子高等師範学校(1908年に東京女子高等師範学校と改称)教授。

  明治・大正期の女子教育 大正時代は女性の社会進出が始まるが、良妻賢母が求められた
  1908(明治41)年刊『明治事物起源』第十類「飲食」牛乳の始の全原文
 
 【 ソースカツ丼 と 関東絹の道】
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『ソースカツ丼はどの県の名物!?』 14.10.16 放送
  朝日新聞 13.11.09 夕刊 より抜粋し再編集

  ≪ ソースカツ丼 福井で愛され進化 『満腹の友100歳』 ≫

  とんカツを卵でとじるカツ丼よりも古い歴史を持つとされる「ソースカツ丼」が今月、
  100周年を迎えた。1913 (大正2) 年、ドイツで洋食の修行を積んだ高畠増太郎が、
  ウスターソースを使った「ソースカツ丼」を考案。
  東京の料理発表会で披露し、同年に早稲田大学近くに店を開いた。神奈川県に移転。



  1923年の関東大震災を受けて故郷の福井に移った。関東時代は牛肉を使っていたが、帰郷後、現在の福井県敦賀市から
  取り寄せた「青島豚」に切り替えたという。

  福井市の「ヨーロッパ軒総本店」は県内に19店あり、通称「パ軒」として親しまれている。3代目の範行さん(61)は、
  嗜好の変化に応じてソースの甘味をやや抑えるなど、研究も怠らない。
  「福井名物おろし蕎麦は、2杯食べないと満腹にならない。蕎麦2杯より安く、庶民が手を出せる価格を保て」という家訓が伝わる。






  ≪ ルーツ諸説 ≫

  ・1921 (大正10) 年、東京の早稲田高等学院の学生が考案した。
  ・大正時代の半ば頃、早稲田の老舗そば店「三朝庵」が卵とじのカツ丼を編み出したという説もある。

  ≪ 駒ヶ根や桐生もご当地 「絹の道」と分布関連か ≫

  ソースカツ丼は福井県のほか、長野県駒ケ根市、群馬県桐生市などでもなじみの味だ。
  山梨県ではソースがけを「カツ丼」、卵とじを「煮カツ丼」と区別するという。






  ヨーロッパ軒が発祥ならば、全国にどう広がったのか? 大衆食に詳しいフリーライターの遠藤哲夫さん(70)は
  「繊維関連の人の往来」に着目する。
  桐生市は奈良時代から1300年の絹織物の伝統がある。ヨーロッパ軒総本店がある福井市には、明治時代に桐生町から絹の
  「羽二重製織法」が伝わり、繊維産業が急成長したという接点がある。駒ケ根市や山梨県も養蚕で栄え、生糸の流通で福井市や
  桐生市とつながる。






  古くから養蚕で栄えた埼玉県小鹿野町にも、卵とじではなくタレがかかった「わらじカツ丼」がある。小鹿野町は、
  繊維製品や原料が流通する横浜市や山梨県などを結ぶ街道の線上にあり、興味深いという。
  遠藤さんは「ソースカツ丼の分布には『日本のシルクロード』が関係している可能性がある」と指摘する。

  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『開国』 13.11.01 放送

  ≪ 開港当時の横浜と関東絹の道 ≫   大坂港が開港されず、横浜港が開港した理由

  1858年の日米修好通商条約に基づき、1859 (安政6) 年6月、横浜、長崎、箱館 (函館) が開港。
  人口400人に満たなかった横浜の小さな漁村は、開国に向けて港が整備され国内船用と外国船用の2本の桟橋が
  作られました。

  各地から商人が集まると共に、外国の商館が次々と建てられ10年ほどで2万人ほどの人口になっていました。
  そして横浜港は輸出額のほぼ8割、輸入額の5割以上を占める貿易の拠点港となりました。





  日本から輸出品 (特に横浜からの輸出) の中心は生糸で、産地は主に関東北部から長野にかけての山沿いの地域でした。
  各地で生産された生糸は原町田 (現在の東京東部の町田市) で取引され、横浜に運ばれました。
  これらの街道は「関東絹の道」と呼ばれ、横浜の発展と共に街道沿いの村では、養蚕が盛んになり商人が住みついたり
  するようになりました。





  【五品江戸廻令】ごひん‐えどまわし‐れい
   貿易が始まった半年後の1860年(万延1)外国貿易開始による市場の混乱を防ぐため幕府が出した流通統制令。
   雑穀・水油・蝋・呉服・生糸の5品は産地から江戸に廻送し、その国内需要を充たした上で輸出させた。

  輸出額が最も多かった1865年には生糸が輸出品の79.4%を占めるようになります。1867年には輸入額が輸出額を
  上回ります。
  貿易が盛んになると、五品江戸廻令を無視し、商人が生糸を直接持ち込むようになり、国内で消費される生糸不足に
  なっていきました。
  国内の流通機構が乱れ、米やしょうゆなども品不足となり、また日本の金 (小判) は国際価格より安く入手出来た為、
  外国人が大量に持ち帰りました。

  幕府は国外への金の流出を防ぐため、貨幣改鋳で小判に含まれる金の量を減らします。しかし、小判の価値が下がり
  インフレを引き起こし物価が急騰。1866年には一揆や打ちこわし件数が江戸時代で最大になりました。

  原因は外国との貿易だとして、日本国内では「攘夷じょう‐い」(外国人を追い払う事) の機運が高まっていき、外国人
  殺傷事件が多発。幕府は朝廷の権威を頼り、幕藩体制を立て直す為に公武合体の方向へと進み事になります。

  わずか2年で生糸の占める割合は43.7%に減ります。代わりに蚕卵紙さんらん‐し(蚕蛾かいこがに卵を産みつけさせる紙。
  たね紙。蚕紙。) が増加。生糸より、蚕が卵を産みつけた紙の方が経費が掛らない事と、生糸の輸出が急激に増加した為、
  品質が落ち輸入を拒否された為だそうです。





  輸出品は原料や半製品、輸入品は毛織物や重火器などの製品で、取引内容から典型的な「植民地型貿易」と言えるそうです。

  輸入額では長崎港が3~4割ほど占めていました。その理由は海岸の防備を強化するため、幕府が1862年に艦船を自由に
  買う許可を出し、それを受けて薩摩藩や土佐藩など西日本の諸藩が艦船や小銃などを多く購入し、軍備の近代化を計った
  為でした。
  1865年には米国の南北戦争が終結し、使用されていた銃の中古品が出回り、それを日本の各藩が輸入しました。

  1908(明治41)年刊『明治事物起源』第十類「飲食」牛乳の始の全原文

  日本の金の流出が止まったのは、1860年の遣米使節の一員で、米国との金貨と日本の小判に含まれる金の量の違いを
  実験で説明し米国政府を納得させた小栗上野介の功績が大きい。
  これで日本の不平等な金の交換が是正され、金の流出が大幅に減ったとされます。

  【小栗上野介】おぐり‐こうずけのすけ 名は忠順ただまさ。(1827~1868)
   幕末の旗本。1860年(万延1)通商条約批准交換のため渡米。のち外国奉行・勘定奉行・
   軍艦奉行等を歴任。
   フランス公使ロッシュと結んでその援助を受け、製鉄所を起工するなど軍制改革に
   尽くしたが、徳川慶喜の恭順に反対して辞職。新政府軍により処刑。

  德川埋蔵金の話になると必ず名前が登場します。幕末の幕府方の重要人物の一人です。


  横浜税関 『横浜開港150年の歴史 - 港と税関』 http://www.customs.go.jp/yokohama/history/hatten.pdf
  日本銀行神戸支店 『神戸港の質的変貌 ~集荷力低下と将来像』 http://www3.boj.or.jp/kobe/kouhyou/report/report131120.pdf
   ↑世界のコンテナ取扱量ランキング が1980年~2010年まで5年毎と、直近の2012年が掲載されています。

  1980年 1位は米国のニューヨーク、2位オランダのロッテルダム、3位日本の神戸、12位横浜、18位東京、38位大阪、
  45位名古屋。
  1995年 1位は中国の香港、2位シンガポール、3位台湾の高雄。7位横浜、12位東京、22位名古屋、23位神戸、26位大阪。
  2012年 1位は中国の上海、2位シンガポール、3位香港。28位東京、43位横浜、50位名古屋、52位神戸、57位大阪。

  1995年1月17日の阪神淡路大震災によって、神戸港の取扱量が著しく低下し、その後も中国などの各港湾の台頭もあって、
  順位を落としています。
 
 【 フリカケは大正時代の食糧難から、日本各地で考案され普及した 】
  ≪ ルーツは江戸時代中期か? ≫

  戦国時代によく食べられていた「湯づけ」というのは「芳飯」の事。丼やひつまぶしのルーツとも言えます。
  江戸時代中期の黒白精味集に、細かく千切りにしたおかずを飯の上に乗せるレシピがあります。詳しくは桃山時代ページで。

  【芳飯・苞飯】ほう-はん
   器に盛った飯の上に種々の煮物をのせ飯を見えなくして汁をかけたもの。「法飯」とも書く。〈日葡辞書〉。


  ≪ フリカケ ≫

  【大正時代】 明治45年(1912)7月30日改元~大正15年(1926)12月25日に昭和に改元

  朝日放送 ビーバップ・ハイヒール 「ご飯の友」 13.01.24 放送

  ふりかけの起源については、美味滋養を目的として大正時代から昭和初期にかけて数ヶ所で考案されたといわれており、
  業界団体の全国ふりかけ協会では、熊本県で売り出された「御飯の友」という商品を、ふりかけの元祖として認定している。


  【御飯の友】 熊本県

  大正時代初め、日本は食糧難で栄養不足が深刻化していた。この頃には味噌汁のダシとしてイリコが普及していた。
  カルシウム不足を補うには適した食材であったが、当時の子供たちはイリコの魚臭さと食感が苦手だったらしい。






  熊本県の薬剤師である吉丸末吉は、小魚を粉末にし青海苔などを加える事で魚の臭みを消し、「御飯の友」という名でフリカケを
  売りだした。地元を中心に大ヒット商品になり現在では熊本県民に知らぬ者はないフリカケとして普及し続けている。


  【旅行の友】 広島県

  大正時代初期、第一次世界大戦(1914~1918年)が勃発し、日本軍もサイパン、パラオなどへ進軍した。
  南方地域は気温と湿度が高く漬物や味噌が腐敗してしまう。
  日本海軍は広島県の呉市で漬物商を営んでいた田中保太郎に南方の戦地でも腐らない食品の開発を依頼。






  カツオや海苔など食材を乾燥させ粉末にした保存食は兵士にも評判が良く、大正5年に「旅行の友」という名前で販売。
  名前の由来は、彼自身 出張が多く旅先でも弁当に使える事をアピール & 苦労をかけた妻の名前「友」とした。


  【のりたま】 東京都

  大正末期、福島県で食品販売業を営んでいた甲斐清一郎白身魚を乾燥粉末にした独自のフリカケを開発。
  昭和2年に東京に進出し丸美屋食品工業㈱を設立し「是はうまい」という名で売り出した。
  大手百貨店でも販売され人気商品になったが、戦後 開発者の甲斐社長が他界。会社を継いだ阿部末吉社長が新商品開発を模索。






  当時のフリカケは魚がメイン。
  高級食材である卵をメインに使用し、旅館の朝食「卵と海苔」をイメージした画期的なフリカケが完成。
  昭和35年「のりたま」を発売。昭和39年にエイトマンのシールを同封した事で子供たちに人気となり、フリカケの代名詞と
  言われるほど普及するに至った。


  【米騒動】こめ‐そうどう   Wiki 米騒動 (大正7年)
   1918年(大正7)7~9月、米価の暴騰のため生活難に苦しんでいた大衆が米の廉売を要求して米屋・富豪・警察などを
   襲撃した事件。
   富山県魚津に起こって全国に波及し、労働者・農民を主力とする未曾有の大民衆暴動に発展、軍隊が鎮圧に出動した。
   この事件で寺内内閣が倒れた。

  【米穀法】べいこく‐ほう
   米の需給調節を目的とした法律。米騒動後、1921年(大正10)制定。33年米穀統制法として強化された。

  【昭和恐慌時の米よこせ運動】 Wiki 米よこせ運動 (昭和32年)
   1929年の世界恐慌の影響は日本にも及び(昭和恐慌)、深刻な経済不況に1930年-1931年の東北地方の米の凶作(昭和農業恐慌)
   が重なって、1932年の米端境期を前に米価はじりじりと上昇、賃下げや失業で苦しめられていた都市下層労働者の窮迫感が
   広がっていった。

  【米穀統制法】べいこく‐とうせい‐ほう
   米の価格を調節するため、政府が米価基準を設定して米の売買を行うほか、輸出入制限などをすることを定めた法律。
   1933年(昭和9)制定。42年食糧管理法に解消。

  【食糧管理法】しょくりょう‐かんり‐ほう 略称、食管法
   食糧を管理し、その需給および価格の調整並びに流通の規制を目的とする法律。
   1942(昭和17)年制定。1995年(平成7) 廃止し、新食糧法を制定。
 
 【 鮮魚の中央卸売市場は京都が最初 】
  近世・近代における長崎の鮮魚流通と魚市場 長崎大学水産学研究報告書 / 関西テレビ 大阪24区 マニアッ『区』大調査!! 12.06.16 放送

  大正12年3月に中央卸売市場法が公布  築地市場 (昭和10年開場) 築地本願寺

  昭和2年に京都で中央卸売市場が開設。 昭和6年、大阪、横浜。 昭和7年、神戸。昭和10年に東京・築地。






  農林水産省 食料産業局食文化・市場開拓課和食室 『食材の流通と変化』 http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/culture/syokuzai.html

  読売テレビ 秘密のケンミンショー 『京都SP』 12.08.02

  「京都」とは本来 京都市内のみの事。昔は京都に海はあり
  ませんでした。(海が遠く大阪の奥座敷的な存在。

  食材、特に魚類の多くは大阪から淀川で伏見へ、そして
  京都へと流通)また福井からの鯖街道で塩サバなどが流通。

  その為、京都には鮮度を保つ為、加工して販売するのが
  普通だったので、魚を焼いてくれる店が多いそうです。

読売テレビ 関西情報ネットten. 13.06.07 放送

  現在、日本人の魚離れが進んでいるので、全国的に魚を捌いたり調理してくれるスーパーも増えているようです。

  江戸時代末期1803 (享和3) 年刊の滝沢馬琴の京坂旅行記『羇旅漫録きりょまんろく』。京都24日間、大坂10日間、名古屋17日間滞在。
  巻之中「七十六 京地の酒樓」に京都の料理店の事を書いてあります。
  それによると、鯉の洗いや鰻など川魚が京都の名物。福井県の若狭から塩小鯛や塩あわび、鱧も多く来ており、
  大坂から来る魚の多くは腐敗している。京都は魚類に乏しき土地である。と書いてあります。

  幕末の『守貞謾稿』によると、大坂の魚売りは、泉州堺や尼崎から売りに来ており、堺は尼崎の倍の値が付いていた
  そうです。京坂の場合は市場で売るより、得意先の家や店に直接配達する事が多かったようです。 江戸時代の魚売

  夏になると鱧ハモが旬の味覚になりますが、京都・大阪などの食文化です。鱧は生命力が強く、陸に揚げても死にません。
  京都は新鮮な海魚が海沿いの都市に比べ入手しづらかった為、夏の風物詩として根付いています。






  関西圏では珍しく京都市は鶏肉の購入金額が日本一。
  鶏肉は鶏肉専門店で買うので、精肉店では牛肉と豚肉しか置いていない店も多いそうです。 江戸時代の肉食事情
 
 【 徳島県の遊山箱 】
  NHK Eテレ 美の壺・選「弁当」 13.07.21 放送 より

  徳島独特の子供の為に作られたミニ重箱は、旧暦の桃の節句の時、子供たちだけで近くの山や河原で遊ぶ遊山ゆさん
  風習があったそうです。大正から昭和にかけて多くの遊山箱が作られました。






  男の子の遊山箱は将棋の駒や新幹線などカッコ良く、女の子用は花や千鳥模様で可愛らしく。
  中は三段の重箱で、上から和菓子、中段に煮〆、下段には巻き寿司など、当時の子供たちの好きな物をたくさん詰め
  込んだ御馳走と愛情が詰まった弁当箱。昭和40年代に風習が廃れ、使われなくなっていったそうです。
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おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
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