手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本各地の食文化2 関東地方
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   20.06.06
T O P S h o p アイスの知識 アイスの歴史  フルーツ&ナッツ 飲料・食材 お取り寄せ
食の歴史と雑学 料理の歴史と雑学 日本各地の食文化 大阪の歴史と雑学 日本文化の雑学 日本の歴史・雑学
・・お知らせ・・
 ザーネアイスはドイツ規格の「生クリーム・アイス」、世界一濃厚なアイスクリームです。

  ≪ ザーネアイス お取り寄せ  アイスの基礎知識

   ザーネアイス3種類のセットが基本のセットです。

   ご注文の確認より4日以降の御届けになります。

  1セット 4900 円 (保冷梱包、代引き手数料、クール便送料、税など全て込み価格)
   関東・信越・九州は1セット5010円になります。 お取り寄せのページ



  ≪ 天然100%シャーベットもお取り寄せ (季節によって変わります) ≫

   抹茶、ココナッツ、ブラックベリーなど

 お取り寄せ&地方発送はヤマト運輸の送料などが大幅にアップしたので、4月2日から価格変更に
 なりました。

ザーネアイス
(ドイツ規格の「生クリームのアイス」)


シャーベット (ソルベ)

ガナッシュ
(高級な生チョコの極上アイス)


LINEで送る

北海道・東北の食文化1 関東・山梨の食文化1 東京付近の歴史
中部の食文化1 近畿の食文化1 沖縄の歴史
お取り寄せ order
中国・四国の食文化1 九州・沖縄の食文化1 各地の食文化  INDEX
 

  Page Contents



  ※ このページは編集中、随時追加予定。 また各地方の代表的な郷土料理すべてを取り上げているわけではありません。
    地元の情報は、皆さん自身で発信しましょう。

 埼玉で小麦の栽培が盛んになったのは昭和になってから 麦王 権田愛三

 東京名物のどじょう鍋 と 柳川鍋 19.05.25追記

 東京は飯がマズい所で有名だった

 駄菓子屋が下町に多かった理由

 茨城県 水戸光圀、梅菓子の画像など 19.03.05追記

 東京年中行事「桃太郎團子」「おしる粉」、幸田文の「花見だんご」

 明治44年出版の東京年中行事「駒形のどぜう汁」の記述原文

 埼玉県 塩あんびん 「あんびん」に解説追加

 「もんじゃ焼き」 が、中央区月島に集中している理由

 「サンマは目黒に限る」 無料の秋刀魚を食べるためだけに4時間も行列に並ぶ都民

 1712年『和漢三才図会』の記述項目抜粋  上野 下野 常陸 上総 下総 安房 武蔵
 1712年刊の和漢三才図会の「摂津」の主な記述項目(石高・地名・産するものなど)、北前船・菱垣廻船など海路の経由各地

 おでんは田楽・おでんの歴史のページを新設して、各地のおでんを集め再編集しました。
 カレーに牛肉を入れるか、豚肉を入れるか 関東が豚肉文化になった本当の理由
 縄文時代は東日本の方が人口が多かった? サケ・マス論


 関東地方
  茨城県 千葉県 群馬県 栃木県 埼玉県

  東京都 江戸ッ子の食文化 神奈川県

 中部地方 山梨県

 江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

  関東と関西の東西の文化の違いがよく話題になり、どちらに正当性があるのか議論される事もしばしばですが、
  各種の文献などを調べた結果、ほとんどの場合で東京の認識が間違いである事が判明しました。
  情報出典の文献名や出版年、著者の出身、出版地および、その出典先のリンクを可能な限りしてありますので、
  ご自分の目で検証して頂けると思います。

  メディア情報およびウィキペディアなどのネット情報の詳細を確認しないで鵜呑みにするので騙されるのです。
  これらの中には意図的な嘘や誤魔化しをして、関西の歴史をパクって東京発祥や東京の文化に見せかけている
  事が珍しくないのです。

  有史以来~昭和の末期頃までの庶民の文化水準は、明らかに大阪 > 東京です。
  大阪や関西の文化を真似ようとしても、技術や物資不足などによって、真似できなかったため、関西とは違う
  関東の文化になった。その劣等感から強がり歴史を歪曲し大きな声 (全国放送のテレビ) で流布してきたのです。

  全国的 (東京も含め) に武家は丸餅。大正時代の上流階級の家庭では「肉=牛肉」という認識。
  カレーに牛肉を入れるか、豚肉を入れるか 関東が豚肉文化になった本当の理由

  東京湾の実態 東京・関東の水は安全? 千葉県の江戸川水系ヤバすぎ。
  東征伐、熊襲征伐と三韓征伐 古墳時代の大和政権から見た蝦夷人の性質、この時代の蝦夷は関東も含む。
  関東の藤原氏の重要神宮 中臣 (藤原) 氏の関東発祥説は嘘、中臣氏の先祖神を最初に祀ったのは東大阪の牧岡大社

  正月 鏡餅、門松なのに中央に竹が飾られている理由、元日から角餅は縁起が悪い?
  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件
  蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見!!
  米が原料の煎餅も関西が先だった レシピ原文発見!! こちらも2018年3月現在、当サイトのみの情報
  1584年に存在した蕎麦屋「砂場」 否定説の検証 豊臣秀吉の大坂城築城
  関西青ネギ、関東白ネギ もう諸説は不要、決定的な記述を発見!! 関西は青ネギなのに江戸時代は「根深ネブカ」と言った。その謎が判明。
  醤 油 醤油の色んなデータ、千葉の醤油が主流になった怪しい理由。濃口醤油の発祥も関西。
  鰻の蒲焼 関西発祥の可能性が高い
  「汁粉」と「善哉」 関西のぜんざい、関東ではおしるこ 呼び方なぜ違う お汁粉の関東発祥説も嘘
  関東が豚肉文化になった理由 ← 東京目線の理由は完全に嘘でした
  長命寺桜餅の発祥年が怪しい 嬉遊笑覧によると1800年代か100年のサバ読み?
  浅草名物の登場年数も通説と違う記述を発見 紅梅焼き・雷おこしも明治初期の登場か?


  ≪ 東国・坂東・関東 ≫

  【関東】かん-とう  Wiki 馬絹  Wiki 高麗郡  Wiki 新座郡
   ① 東関
   ② 昔、鈴鹿・不破・愛発の三つの関所以東の諸国。また逢坂関以東の国。
   ③ 箱根関以東の地。坂東。関東八州。関八州。
   ④ 東京都と茨城・栃木・群馬・埼玉・千葉・神奈川の6県との総称。 関西。

  奈良時代687年~761年頃にかけて静岡などにいた新羅人と高句麗人を武蔵国など埼玉・神奈川・東京県境あたりへ
  移住させ集めます。

  820 (弘仁11) 年に静岡県 (遠江と駿河) の新羅人700人が反逆と伊豆から関東へ逃げたが追討。

  899 (昌泰2) 年に、足柄あしがら関 (神奈川県南西部南足柄市) と碓氷うすい関 (群馬県安中市辺り、江戸時代には
  箱根関と並ぶ要衝) が設置されます。これ以来「坂東」と呼び、この坂東八州が現在の関東と呼ばれる地域とほぼ同じ。

  939 (天慶2) 年に、平将門が関東独立を主張する承平天慶の乱を起こします。

  【坂東】ばんどう
   足柄・碓以東の諸国の総称。東国。関東。
   12世紀前半の『今昔物語集』「事の縁有るに依りて―の方に下るに坂西ばんざい

  【坂東八箇国】ばんどう‐はっかこく 関八州
   現在の関東地方をなす8国、すなわち相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野。


  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
    65上野・下野・常陸・上総・下総・安房、67武蔵・相模・伊豆、69甲斐・駿河・遠江・三河
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

  1917 (大正6) 年9月 『一国一奇風俗噺』(風俗研究会 編、東京府 日本書院)
   この書には各地の変わった風習が記載されており、正月や祭に関する事が多いです。下記リンクでご覧ください。
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/956041 
  「背中合の松飾 東京」「掃除日の墨塗り 下総」「鳥小屋の爆聲ばくせい 常陸」「さいとう佛はら 相模」
  「白眼の達磨市 武蔵」「山入り鍬くわ入り 下野」「豊年祝ほうじやり 上総」「尻摘み祭 伊豆」「鳴物で雷を追ふ 上野」
  「曉天あかつきの田植式 甲斐」

  東京オリンピックと日本人のアイデンティティー 2018年 江戸川大学 斗鬼正一 名誉教授
   https://edo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=803&item_no=1&page_id=13&block_id=21

  「欧米人にどう観られるか?」を強く意識し、特に東京では衛生・清潔・美化、秩序・マナー・犯罪、看板設置などに対し、
  意識改革のキャンペーンや取締りなどが行われました。
  上記リンクの論文を読めぱ、当時の日本、主に東京の実態が分かります。


  【東山道】とうさん‐どうとうせんどう
   五畿七道の一つ。畿内の東方の山地を中心とする地。近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の8カ国に
   分ける。また、これらの諸国を通ずる街道。

  【東海道】とうかい‐どう
   五畿七道の一つ。畿内の東、東山道の南で、主として海に沿う地。
   伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の
   15カ国の称。

  【首都圏】しゅと‐けん
   東京都を中心とした地域。1956年首都圏整備法で定めた、関東地方に山梨県を加えた1都7県。
   東京都を超えた枠組みで整備に関する計画などを立てることを目的として構想。

  1959年にアジア初となる東京オリンピック (1964年開催) が決定し、東京では首都高速道路などの
  インフラが整備されていきます。
  1968 (昭和43) 年頃以降から高層ビルが建ち始めます。

  【国会議事堂】こっかい-ぎじどう
   国会の議事が行われる建物。現在の建物は1920年 (大正9) 起工、36年 (昭和11) 竣工。
   東京都千代田区永田町所在。


  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『美肌県グランプリ全国最下位 群馬県民の真実』 15.03.12 放送

  北関東の気候は日照時間が多く湿度も低い為、静電気や竜巻などの発生が多いようです。内陸部は夏は暑く
  冬は寒い。
  江戸時代は江戸でも空っ風が強く吹いていた為、火事が大火になる事が多かった。
  その空っ風の影響で、北関東一帯の美肌ランキングでも、魅力度ランキング同様のワーストに連なっています。







  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 新春! 4時間SP 『生味噌おにぎりの真実 アリ? ナシ?』 17.01.05 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『群馬県民の真実 すいとんの謎に迫る!』 17.04.06 放送

  生味噌おにぎりは東日本全体、すいとんは北関東 (群馬・栃木・茨城) 3県とその近郊でよく食べられています。

  西日本人「全否定」!! 東日本定番の『生味噌おにぎり』  雛あられ 東日本人は本当の雛あられを食べた事がない?






  ≪ 北関東だけで、水団すいとんが現在でも多く食べられている理由 ≫

  すいとんは小麦粉を水で練り団子状にして汁で煮た簡単な料理。東北北部の「ひっつみ汁」もほぼ同じ料理です。

  群馬県立女子大学の熊倉浩靖 群馬学センター教授によると
  すいとんには、かなり古い歴史がありますが、室町時代前期『異制庭訓往来』には、すでに「水團」水の団子と
  いう記述が残されています。江戸時代から昭和50年くらいまででしょうか、北関東3県は日本一の小麦の産地だった
  んですね。
  特に食糧難とか飢饉の時に北関東の小麦がすいとんとなって国民の食卓を支えました。つまり、北関東に小麦が
  あったから、日本は色々な困難を乗り越えてこられたと言えますね。
  戦後、食生活が豊かになって、全国からすいとんが消えてしまったようですけれども、この北関東は小麦を作り
  続けてきた地域ですので、家庭で簡単に作られる料理としてすいとんが残ったと思われますね。

   ※「江戸時代から北関東が日本一小麦の産地だった。」というのは、ちょっと怪しい
   小麦を製粉するには碾き臼が必要で、高価な物だった関西でも江戸時代中期頃になるまで普及していません。
   江戸時代、関東は上方と比べ製粉技術が低かったが判明しています。

   日本全体で小麦の栽培が大麦の栽培を上回るのは大正か昭和時代以降のこと。 埼玉の小麦の歴史
   「小麦の産地だった」→「麦の産地だった」としないと、食文化が大きく間違います。

   小麦は加工しないと食用に適さない。麦飯はグルテンが非常少ない大麦で作ります。素麺やうどん、煎餅など
   小麦粉加工品は西日本に多く関東は少ない。

  明治後期から昭和初期に活躍した小説家の田山花袋 (群馬県生まれ、1871~1930) の『東京の三十年』には
  「それは すいとん といふもので、蕎麦粉か うどん粉かを かいたものだが」とあります。
   ※ 蕎麦粉の場合は、一般的には「そばがき」と言います。


  1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)
  国立国会図書館デジタルコレクションのサイトで無料公開 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955371
  この書は朝・昼・夜の3食を365日分のレシピを記したもの。
  和食から洋食、スープ類に洋菓子のレシピや作り方が詳細に載っており、現在の料理本とあまり変わらない内容に
  なっています。内容から裕福な上流階級向けの本のようです。
  現在において郷土料理と思われている料理「のっぺい汁」「すいとん」「はんぺんの薄葛」「柳川鍋」なども書かれて
  あります。白味噌も調味料としていくつかの料理に出てきます。この書では「肉=牛肉」という認識がなされてます。

  戦中戦後の食糧難で米の代用として食べられたので、貧しかった時代を思い出す人が多く、日本各地では食べら
  れていません。戦時中の食体験などで紹介される程度で、若い世代では「すいとん」と聞いても何か分からないレベル。

  現在の北関東3県では、具材が豊富な物へと進化しているので、すいとんは家庭でもよく食べられる料理になって
  います。

  セブンイレブンでは北関東3県限定でカップ入りのすいとんも販売中。茨城県桜川市の真壁町では10年前から名物に。
  栃木県の那須地方でも名物として売り出し、24店舗でアレンジされたすいとん料理が色々と提供されています。

 
 関東の食文化  茨城県
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『今、水戸の人々の気持ちが沈んでいる件』 13.09.02 放送
  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『特集 命がけ! 危ないお仕事 地上120mで宙ぶらりん』 13.11.20 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『1県限定SP 最下位上等! 茨城県 本当はイイとこあんだっぺ夜露死苦SP』 14.02.13 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『1県限定SP 茨城県 本当にイイところだっぺ!? もう少しカミングアウトさせてくれっけSP』 14.02.20 放送
  テレビ東京 出没!アド街ック天国 『茨城県・鹿嶋市』 16.01.09 放送
  テレビ東京 出没!アド街ック天国 『茨城県・水戸市』 19.02.23 放送

  ≪ 茨城県 ≫

  関東地方北東部の県。常陸ひたち国の全域および下総しもうさ国のほぼ利根川以北を管轄。県庁所在地は水戸市。
  面積6096平方㎞。人口297万5千。全32市。






  関東で最も由緒ある鹿島神宮。神鹿は鹿島神宮→奈良の春日大社→広島の宮島へと伝わったという伝説があります。
  関東人の皆さんは鹿島神宮に関する間違った認識をしている人が多いようなので、下↓のリンクページを読んで
  正しい知識を持ちましょう。

  関東の藤原氏の重要神宮 中臣 (藤原) 氏の関東発祥説は嘘、中臣氏の先祖神を最初に祀ったのは東大阪の牧岡大社

  【日立市】
   茨城県北東部、太平洋に面する市。日立鉱山を中心として発達。電気機器・機械などの工業都市
   (日立電機)。人口19万9千。

  【筑波市】つくば-し
   茨城県南西部、筑波山の南麓に位置する市。筑波研究学園都市がある。人口20万1千。
   筑波研究学園都市・・・常陸台地にある日本最初の教育研究機関の集積地区。
   筑波大学・工業技術院など国や民間の研究機関・大学が立地。


  【水戸市】
   茨城県中部の市。県庁所在地。那珂川の南に位置する、もと徳川氏35万石の城下町。
   城址には弘道館・孔子廟があり、偕楽園も有名。水府。人口26万3千。 世界最高のエレベーター試験塔 日立G1タワー

  【牛久市】うしく-し
   茨城県南部の市。江戸時代は水戸街道の宿駅。日本の近代的ワイン醸造の発祥地。近年、住宅地化が進行。
   北方に筑波研究学園都市、西方に牛久沼がある。人口7万7千。日本一の高さ120mの牛久阿弥陀大仏


  ≪ 標準語は京都の言葉、現在の「標準語」と呼んでいる物は共通語 ≫

  日本語の標準語を平安時代の文献 (つまり関西弁) に定めたのは摂津の契沖という国学者ですが、
  それを依頼したのは徳川光圀です。現在『標準語』と言っているのは本当は『共通語』です。
  江戸時代前期、仮名遣の基準が平安初期に定められた。この旧仮名遣いは昭和21年まで使われた






  実際は地味だった水戸光圀が日本人に知らない人がいないほど有名になったのはTBSの時代劇のおかげ。放送
  当初から一社提供スポンサーだったのは松下電器 (現パナソニック)でした。逆に大阪の顔の一つ通天閣の最大の
  スポンサーは日立です。それぞれ、異なる地域での家電販売拡大を狙ったもの。

  茨城県は全国で唯一、地元テレビ局が無い県。

  茨城県民にとって「東京様は憧れの大都会」らしいです。(東日本の人達の多くは、茨城県民と同じような感覚のようです)
  関西、特に京都・大阪人からすれば、「東京は田舎もんの集まり」という感覚なので、面白い違いです。
  ほとんどの関西人にとっては、東京も含め関東・東北には興味が湧かない。東日本で行ってみたいのは北海道だけ
  というのが実情。

  茨城大学の教育学部 川嶋秀之 教授によると 「だっぺ」「すっぺ」は明治時代の終わり頃に出てきた言葉。
  日本語の伝わり方 (動画へのリンクあり)






  【関東べい】
   (話し言葉の文末に「べい」を付けるところから)関東訛なまりのこと。また、それを話す者。
   式亭三馬(江戸の人、1776~1822)作の浮世風呂浮世風呂の滑稽は、今行はるるお蔭にて、ことしも毫ふでをとりが
   なく、吾嬬訛の関東べい






  コトバンク 徳川光圀 https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80-19100

  ≪ 徳川光圀 ≫

  「日本全国漫遊」「天下の副将軍」として知られていますが、これらはドラマの中だけの事で実際には関東より出た
  記録はなく、副将軍という幕府の役職もありません。

  茨城大学の鈴木暎一 名誉教授によると、光圀は10代の頃はかぶき者の格好をして荒れおり評判は良くなかった
  ようです。光圀は若い頃は江戸で辻斬りをしていた記録もあります。
  18才で司馬遷が書いた「史記」を読み、心を改めて勉強をしっかりとして立派な人間にならなければと思ったそうです。
  29才の時に日本の歴史をまとめようと『大日本史』の編纂を始めました。

  【徳川光圀】とくがわ‐みつくに (1628~1700) 字は子竜、号は梅里。義公。
   家康の11男で水戸徳川家の祖 徳川頼房(1603~1661)の3男。江戸前期の水戸藩主。
   彰考館を置いて「大日本史」の編纂に着手し、湊川に楠木正成の墓碑を建立。明の遺臣朱舜水を招く。
   権中納言(黄門)となり水戸黄門と呼ばれた。晩年、西山荘に隠棲し、西山隠士と称す。

  家臣が記した光圀の言行録『桃源遺事』によると、水戸藩の特産品を作ろうと様々な物を取り寄せ試したようですが、
  これは成功せず、趣味になっていったようです。
  儒学者の朱舜水を招き、孔子の朱子学を勉強して強い影響を受けたようです。朱子学を広めた結果、関東では
  現在でも上下関係を気にする (何にでもランクをつけたがる、江戸時代の江戸では番付が流行りました) 思考になった
  と思われます。

  その後、水戸藩では「水戸学」と呼ばれる考え方が熟成され、天皇を重んじる「勤王思想」となりました。
  徳川御三家の一つではありますが、幕府 (将軍) より、朝廷 (天皇) を尊び、明治維新に繋がる思想に強い影響を与え
  ました。

  日本人で初めてラーメンを食べたと言われる水戸光圀

  【大日本史】だいにほん‐し
   神武天皇から後小松天皇までの歴史。水戸藩主徳川光圀の命で1657年(明暦3)に編纂に着手、1906年(明治39)
   完成。397巻。漢文の紀伝体。神功皇后を皇妃伝に、大友皇子を本紀にのせ、南朝を正統として(これらを三大特筆
   という)、幕末の勤王思想に多大の影響を与えた。






  水戸藩は35万石の大きな藩でしたが、光圀の特産品を作ろうとしたが趣味に変わってしまい失敗。大日本史の編纂に
  藩の予算の1/3をつぎ込んだとも言われる散財により、藩の財政は疲弊していました。
  154年続く水府提灯の店「鈴木茂兵衛商店」の7代目によると、下級武士が提灯を作って財政を下支えしようとしたのが、
  水府提灯の始まりだそうです。

  1693 (元禄6) 年に出版された『救民妙薬』は、水戸藩主の徳川光圀が侍医の穂積甫庵(鈴木宗與)に命じてまとめ
  させた家庭医学書で、中国の『神農本草経』『本草綱目』などの影響も多く見られます。 江戸時代の薬

  江戸時代は大坂の道修町に薬種問屋が集まり、輸入した薬を扱う特権を得ていた事もあり、日本に流通する薬の大半
  を取り扱っていました。輸入薬は高価だった事もあり、特に上方や江戸と一部の都市を除くと、地方の農民が手に入れる
  のはほぼ無理な状況。

  その為、入手しやすい薬草などを用いた民間療法で、庶民でも病気や怪我を直す方法を『救民妙薬』という本にして
  まとめさせました。この書は水戸藩以外でも読まれるようになり、明治・大正には出版本となり全国的に利用されました。


  ≪ 納豆消費量 一位にこだわる ≫

  茨城と言えば水戸納豆が有名ですが、日本での納豆の発祥は秋田県、消費量も東北勢が1~3位
  水戸納豆が有名になり始めたのは明治中期以降 小粒納豆発祥






  「納豆=糸引き納豆」のイメージですが、江戸時代頃までは寺院で作られる調味料に使われていた寺納豆なども
  日本各地で作られていました。

  【寺納豆】てら‐なっとう
   寺院で製造する納豆。歳暮に檀家へ贈る。臨済宗の京都市大徳寺 (鎌倉時代末期頃創建) の一休納豆、
   静岡県大福寺の浜名納豆などは有名。


  ≪ 干しイモ 生産量9割以上で日本一 ≫

  茨城キリスト教大学 食物健康学科の川上美智子 教授によると、
   茨城県で干し芋が作られ出したのは明治41年頃。
    冬は冷たい海風が吹くため、保存食として干し芋が大変重宝され、よく食べられていた。






  丸干し 蒸した小さいサツマイモを切らずに乾燥させた物。乾燥時間がかかる為、生産量が少ないので高価。柔らかく甘い。
  平干し 蒸した芋を薄く切って乾燥させた物で、10種類くらいの品種があり、県民はそれぞれ好みがある。
  3㎏入り何箱も箱買いする。






  ※ 茨城産のサツマイモは九州・四国産と比べと大きくて安いですが、水分が多いので、焼きイモやスイートポテトなどには不向きです。


  ≪ 大洗町のみつだんご ≫ 読売テレビ (東京制作) 秘密のケンミンショー 13.05.23 放送 より

  大洗町で食べられている団子? 小麦粉を水で溶いた生地をタコ焼き器でふっくら焼き上がったら、蜜が絡みやすいように
  麺棒で軽く押しつぶす。みたらし団子より甘い蜜 (砂糖+醤油+片栗粉) をたっぷりつけ、黄な粉をフリかけて出来上がり。






  名前の由来などは定かではないが、少なくとも大正時代から食べられているそうです。
  大洗町内に20軒ほどあったらしいですが、時代の流れと共に減り、現在では2軒のお店でしか作っていない。
  大洗町はアンコウが獲れる漁村として有名なようです。


  ≪ あんこう鍋 ≫   茨城県ではカラスを食べる?

  「東のアンコウ、西のフグ」とも言われ、フグは多く獲れる大阪~北九州にかけて主に消費されています。
  江戸時代にはフグは毒に当たる可能性があるので武士が食すのは禁止されていましたが、武士が非常に少ない大坂
  では普通に食べていました。また江戸でも庶民は食べていた記録があります。
  関東ではフグに代わってアンコウが多く食べられていたようです。






  現在、アンコウの漁獲量日本一はフグでも有名な山口県下関市だそうです。


  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『自動販売機について調べてみた件』 14.04.28 放送
  テレビ東京 人気急上昇ウオッチ 今ご当地でコレが人気SP 『2014年上半期 YAHOO! 検索 「茨城県の人気急上昇ワード』 14.08.15 放送

  ≪ 全国で2台しかない自販機で売られている人気の弁当 ≫

  稲敷市境島のロードサイドにある「あらいやオートコーナー」は昭和47年からあるそうです。
  隣に住むオーナーが、奥様の作った手作り弁当を1日に5~6回、保温機能付きの自動販売機に補充。






  2014年2月にバイク雑誌「BikeJIN」に掲載された事から人気に。
  4月放送の「月曜から夜ふかし」では1日に60~70食だったものが、8月放送の番組では1日100食近くと紹介されて
  います。






  ※ 2つの番組でオーナーと紹介されている人物は画像を見る限り同一のようですが、日テレ「夜ふかし」では
   木村佳則さん。テレ東「上昇ウォッチ」では鈴木学さん。となっています。  
   どちらの番組内での訂正は無かったと思います。 さて 、どちらのテロップが間違っているのでしょうか ?


  ≪ 隠れたスイーツ消費大国 ≫

  平成24年の総務省の家計調査によると、ケーキ、ヨーグルト、プリンへの年間支出額 水戸市が日本一。







  ≪ 茨城の絶品スイーツ ≫ 日本テレビ スッキリ !! 『絶品スイーツ漫遊記 -茨城-』 13.08.14 放送






  メロン生産量日本一の茨城県。いばらき乳業がつくる「メロンプリン」1コ138円。鉾田市産のアンデスメロンを贅沢に
  使いミルクプリンとメロンソースの二層構造。
  番組によると、石岡市内だけで買えるのに、なぜか「全国のスイーツマニアの間で話題沸騰」らしいです。
  そして、シューあら大福は、シュークリームの中に大福が丸ごと入った和洋折衷の逸品220円。






  【水戸の梅」みと-の-うめ 百菓辞典
   茨城県水戸市の名物菓子。白小豆で作ったあんを、甘いぎゅうひで包み、梅酢に漬けた赤紫蘇でひとつずつくるん
   だもの。水戸の梅の原形は、天保年間 (1830~44) からあり、明治20年代 (1887~) から一般化した。
   小田原の「甘露梅」と同様な菓子。

  【熨斗梅】のしうめ 百菓辞典
   紅または琥珀色の、梅肉風味のようかん状の菓子。梅肉羹。
   梅肉を潰し、砂糖、寒天を加えて煮固め、5mmほどの厚さに延ばし、花札ほどの大きさに作り、1枚ずつ竹の皮で
   挟んだもの。水戸、山形の名物菓子。

  現在では様々な梅スイーツが作られています。






 
 関東の食文化  千葉県
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『千葉VS埼玉 関東3位争い問題』 13.01.05 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『1県限定SP 茨城県 本当にイイところだっぺ!? もう少しカミングアウトさせてくれっけSP』 14.02.20 放送
  読売テレビ 大阪ほんかわテレビ 『日本全国47都道府県 地元で愛される美味しいおやつ博覧会』  14.07.20 放送
  テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『歴史ロマン旧街道 歴史とみりんが薫る街 流山』 14.09.13 放送

  ≪ 千葉県 ≫   日本地図の作成 伊能忠敬(千葉県出身)と 間宮林蔵(茨城県出身)

  関東地方南東部の県。安房あわ・上総かずさの2国および下総しもうさ国の大部分を含む。面積5155平方㎞。
  人口605万6千。全36市。

  千葉県も埼玉県同様に、県内で柏市と松戸市が仲が悪いらしいです。東京ディズニーランドがある浦安市も「千葉
  都民」と名乗り他を見下す傾向があるので、他の千葉県内からは好かれていないという情報もあります。






  東京ドイツ村 (千葉県 袖ケ浦市)、ららぽーとTOKYO-BAY (千葉県船橋市) など、千葉にあるのに『東京』の名がつく
  施設。






  千葉県といえば醤油の産地ですが、江戸時代に紀州藩の徳川吉宗が8代将軍となった際、和歌山から多くの人が移り
  住んだ事で醤油の技術が伝わったと考えられます。また徳島からも多く移り住んだらしいです。






  千葉の有名な郷土料理は、名産品の落花生 (ピーナッツ) と、アジ、イワシ関連の料理しかないようです。
  財団法人 農村開発企画委員会 『郷土料理100選 千葉』  http://www.rdpc.or.jp/kyoudoryouri100/ryouri/12.html

  味醂 元々は高級酒として飲まれていました。千葉県流山市発祥の白みりん   醤 油 醤油の色んなデータ、千葉の醤油が主流になった怪しい理由
  御節料理の起源は神饌  千葉県の香取神宮での変わった神饌。
  味噌・醤油・調味料の歴史 「醤油」の文字初出は、室町時代「節用集」 濃口醤油も関西発祥でした。


  ≪ 千葉県の「鰯のくさり鮓」 ≫  -T'S すし BAR- 『関東のすし』  http://www.mirai.ne.jp/~hbnt/kanto.html

  これは千葉県・九十九里浜に伝わる伝統的な保存食でなれずしの一種。なれずし独特の香りから付けられた
  名前です。
  くさりずしは秋から冬にかけてイワシ漁の最盛期に、苦労して得た海の幸を保存する方法として生まれました。
  紀州の漁民が伝えたとも言われています。

  【千葉笑い】
   千葉市中央区の千葉寺せんようじで江戸時代に行われた習俗。
   毎年大晦日の夜人々が集まり、顔を隠し頭を包み声を変えて、所の奉行・頭人・庄屋・年寄たちの善悪を言いたて、
   また行状の悪い人に対して大いに笑い、褒貶ほうへん (褒めたり、貶したり) した。

  ≪ 伊勢えび ≫ Wiki イセエビ  東京湾の実態 東京・関東の水は安全? 千葉県の江戸川水系ヤバすぎ。

  現在、伊勢えびの漁獲高は、三重県を抜いて千葉県が日本一。県庁で『千葉えび』にするべきか話し合われたよう
  ですが、『売れない』という理由で却下されたそうです。






 イセエビ類は古くから日本各地で食用とされており、鎌倉蝦具足海老ぐそくえび。海老の甲羅を鎧兜に見立てた
  呼び方)などとも呼ばれていた。また、日本語の「エビ」は、長い触角をしたイセエビを「柄鬚」と表記したのが始まり
  という説がある。

  733年の『出雲国風土記』には嶋根群や秋鹿群の雑物の中に「縞蝦」の記述が見られる。
  「蝦」の種類は確認できないものの911年の『侍中群要』では摂津と近江の二カ国から貢上されており、宮中へも
  納められていた。

  1150年頃の『類聚楽雑要抄』などから当時は干物として用いられていたと考えられている。
  伊勢海老の名称がはじめて記された文献は1566年の『言継卿記であると考えられている。

  江戸時代には、井原西鶴が1688年の『日本永代蔵』四「伊勢ゑびの高値」や1692年の『世間胸算用』で、江戸や
  大坂で諸大名などが初春のご祝儀とするため伊勢海老が極めて高値で商われていた話を書いている。

  1697年の『本朝食鑑』には「伊勢蝦鎌倉蝦は海蝦の大なるもの也」と記されており、海老が正月飾りに欠かせない
  ものであるとも紹介している。1709年の貝原益軒が著した『大和本草』にもイセエビの名が登場する。

  上記の文献は全て西日本出身 (畿内より西) の著者です。

  ※ 関東の歴史に関して「昔から」「古くから」という曖昧な言葉で紹介するだけのメディアが多いですが、大抵の場合
    江戸時代後期1800年以降をさしているようです。早くても江戸時代中期と思った方がいいでしょう。
    西日本では「昔から」というと、奈良や平安もしくは江戸時代以前をイメージする事が多く、

    関西のテレビでは江戸時代は「江戸時代」と言います。

  ≪ 関東の漁業は江戸時代に大阪や西日本の人間が移り住んだことから ≫

  縄文時代の黒曜石の広まりを考えると、関東でも船を使った移動していた事が分かります。
  しかし、縄文後期の寒冷期になると東京や神奈川からは遺跡がほとんど発見されておらず、他への移住したと
  推測されます。

  平安時代の延喜式には日本各地から鮓の献上があった事が詳しく記されていますが、西日本が中心で関東
  以東からの献上は見当たらないそうです。

   詳しくは、寿司の歴史と雑学2のページ  佃煮、築地は、大坂の佃村の森一族が江戸に移り住んだ事から

  1575年頃 (天正年間の初期) までの江戸での漁法は一本釣りや四つ手網のような原始的な漁法しかなかった
  ようです。
  江戸時代初期頃に大坂の佃村の漁師が移り住み、江戸湊 (東京湾) を開拓し漁業や江戸湊の警護も担います。

  江戸時代に綿花の栽培が各地で盛んになり、肥料としてイワシを乾した物が使われていた為 (御節料理の定番
  の一品「田作り」の由来)、イワシが多い関東・東海地方に、大規模な底引き網漁を行っていた西日本の漁師たち
  が進出したそうです。

  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『ヒミツのごちそう 「千葉県の黒船ロール」』 15.07.30 放送

  ≪ 茂原市で愛される昭和の味 黒船ロール ≫

  茂原市にある黒船菓子店の「スーパージャムロール」が市内では定番だそうです。

  1960年代の洋風菓子が普及していなかった50年前に「高級で甘い物をたくさん食べて
  もらいたい」という初代店主が、大量のジャムをロールケーキで巻いたのが始まり。
  イチゴ+リンゴのジャムが入り1本約500gで約2300キロカロリー。

  また生クリームが普及していなかった時代によく使われていたバタークリームを

  大量に巻いたバタークリームロールもいまだに人気が高いそうです。
 
 関東の食文化  栃木県
  毎日放送 知っとこ ! 『食のテーマパーク』 13.05.04 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『栃木県 県民の日が休みにならない問題』 13.12.23 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『連続転勤ドラマ 辞令は突然に…「栃木県」』 14.06.26 放送
  読売テレビ 大阪ほんかわテレビ 『日本全国47都道府県 地元で愛される美味しいおやつ博覧会』  14.07.20 放送

  【栃木県】とちぎ
   関東地方北部の県。下野国を管轄。面積6408平方㎞。人口201万7千。全14市。県庁所在地は宇都宮市。

  【宇都宮市】うつのみや
   下野の豪族で同国一の宮たる宇都宮の社家の宇都宮氏が、源頼朝に属し武士団を構成。
   在地領主として成長し、家法として「宇都宮弘安式条」を制定。
   江戸初期、奥平氏11万石の城下町として発展した栃木県中央部の市で県庁所在地。古来奥州街道の要衝。
   人口50万2千。

  【栃木市】
   栃木県南部の市。市場町、日光例幣使街道の宿駅として発達。明治初期、栃木県庁所在地であった。
   人口8万2千。






  2014年都道府県ブランドランキング 栃木県41位、埼玉県42位、群馬県46位、茨城県47位。
  栃木県が関東の中でランクが上なのは、日光が歴史の町として認識されているからだそうです。

  【日光市】にっこう     Wiki 勝道
   栃木県北西部の市。奈良末期、勝道しょうどう上人(下野国生まれ)によって開かれ、江戸時代以後、東照宮の
   門前町として発達。日光国立公園の中心をなす観光都市。
   二荒山ふたらさん神社・東照宮・輪王寺の建造物群と周辺は「日光の社寺」として世界遺産。人口9万4千。

  【日光国立公園】にっこう‐こくりつこうえん
   栃木・群馬・福島の3県にまたがる国立公園。東照宮を中心に男体山・中禅寺湖などの「表日光」と、鬼怒沼山
   などの「裏日光」とを含む。

  【東照宮】とうしょう‐ぐう
   徳川家康を祀った神社。別称、東照大権現。家康は1616年(元和2)に没し久能山に埋葬、翌年日光に改葬。
   初めは東照社と称したが、45年(正保2)日光の東照社に宮号を授けられて以後、上野・水戸など全国に建立の
   東照社も東照宮と改称。日光および久能山の東照宮は後に別格官幣社。

  【日光唐辛子】にっこう‐とうがらし … 日光から産出する紫蘇しそ巻の塩漬唐辛子。日光漬。

  国立国会図書館デジタルコレクション 『日本山海名物図会 5巻』
  コトバンク 『日本山海名物図会』
  1754 (宝暦4) 年、平瀬徹斎 (大坂の人) 編著。長谷川光信 (大坂の人) 画の『日本山海名物図会』全5巻は、
  日本各地の名物を描いた絵本。巻の三の日光膳椀では手引き轆轤を使って椀を作る様子が描かれています。


  ≪ 購入額 日本一だった 宇都宮市の餃子 ≫

  宇都宮市の餃子の始まりは補充担任を宇都宮師管区とする陸軍第14師団が、1940年(昭和15年)8月以降、衛戍地を
  満州としたことから宇都宮出身の将兵が帰国に際して本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれるそうです。






  餃子の歴史は下のサイトでご覧ください。
  宇都宮商工会議所・㈱下野新聞社・第一測工㈱ 「うつのみやマップ」 『うつのみや餃子特集』 
   http://www.utsunomiya-map.com/gyoza/history.html

  2010年まで15年連続で購入額日本一を誇っていた宇都宮市ですが、震災後の2011年から2年連続で静岡県の
  浜松市に購入額1位の座を奪われました。市を挙げて「宇都宮餃子日本一奪還計画」を展開。
  2013年の購入額は4919円と、浜松市の4155円を上回る結果となり、下野新聞は号外まで発行。

  下野新聞 『宇都宮餃子日本一奪還計画』  http://www.shimotsuke.co.jp/select/ugno1/

  ※ 2014年は浜松が日本一になったようです。宇都宮では「もう消費量にこだわらない」という意見もあるようです。

  産経新聞 『【関西の議論】餃子の購入額、堺市が急上昇、全国3位に 宇都宮、浜松に次ぐ理由』 18.07.03配信
   https://www.sankei.com/west/news/180703/wst1807030018-n1.html


  ≪ しもつかれ ≫

  【酢憤】すむつかり。 すみつかり しみつかれ
   古くは、おろし大根に炒り大豆を加え、酢醤油をかけた郷土料理の一種。
   今では、栃木県地方などに「しもつかれ」の名でのこされ、塩鮭の頭・人参・酒粕などを加えて煮た料理。
   初午の嘉例かれい (めでたい先例) に道祖神に捧げ、また自家の食用とする。

  1830 (文政13) 年刊の『嬉遊笑覧』下巻によれば、13世紀初め頃の『宇治拾遺物語』や1212~15年成立の
  『故事談』に「酢むつかり」が書かれて事が記されており、武州騎西の辺にて今もすみずかりとて調べて
  道祖神などに…日光山に…」「上野国沼田という所の…日光にて…酢むつかりの遺製なり…とも書かれて
  います。

  『故事談』は平安中期までの事が書かれた書。少なくとも鎌倉時代前期までは京都でも酢むつかりが存在して
  いる事になりますが、江戸時代後期頃には日光を中心とした栃木・群馬辺りだけで酢むつかりが変化した物が
  残っていたようです。






   鮭の頭は酢を加えて40分ほど煮込み臭みを取り、大根と人参をすりおろして大豆と油揚げも加えて1時間煮込み
  酒粕で風味付け。完成すると鮭の頭の原型は無くなる。しもつかれは、割と時間のかかる料理のようです。

  【初午】はつ‐うま
   2月の初の午の日。京都の伏見稲荷大社の神が降りた日がこの日であったといい、全国で稲荷社を祭る。
   この日を蚕や牛馬の祭日とする風習もある。

 

   岩手県の雪納豆、栃木県の最高級納豆


  【足利】あしかが
   栃木県南西部の市。足利氏発祥の地。中世末以来、絹織物の産地。現在は繊維工業のほか、機械・化学
   工業も発達。人口16万。

  【新田】にった
   清和源氏の一族。源義家の子 義国が下野国 (栃木) に下り、その子 義重が上野国新田荘を開発して新田
   太郎と称したのに始まる。

  ※ 足利氏も新田氏も、ついでに源頼朝なども 河内源氏3代目の義家 (大阪府羽曳野市が拠点) の血脈です。
  
 関東の食文化  群馬県
  毎日放送 知っとこ ! 『食のテーマパーク』 13.05.04 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンショー 『群馬県民の秘密のごちそう』 13.11.28  放送 / フジテレビ 珍日本セキララMAP 13.12.26 放送
  読売テレビ 大阪ほんかわテレビ 『日本全国47都道府県 地元で愛される美味しいおやつ博覧会』  14.07.20 放送
  NHK 高校講座 日本史 『近世の経済と産業』 14.10.03 放送

  ≪ 群馬県 ≫

  関東地方北西部の県。上野こうずけ国を管轄。県庁所在地は前橋市。面積6363平方㎞。人口202万4千。全12市。

  1935 (昭和10) 年の国勢調査では、前橋市の人口は87181人と少ないですが人口密度では全国20位で、東京を
  除くと関東地方1位。しかし、現在の首都圏のくくりにすると、山梨県甲府市の人口は82664人が東京市 (人口1位
  587.6万人・人口密度では6位) に次いで全国7位。






  2015年から、『すき焼き応援県』。すき焼きの材料が全て県内で賄えるからだそうです。 すき焼きも関西発祥

   ソースカツ丼(100周年)と、関東絹の道   関東が豚肉文化になった理由 ← 東京目線の理由は完全に嘘でした






  【前橋市】まえばし
   群馬県南部の市。県庁所在地。もと松平氏17万石の城下町。生糸・絹織物の産地として知られた。
   旧称、厩橋うまやばし。人口31万9千。







  ≪ 肉類消費量 最下位の群馬県の肉抜き料理 ≫  魚介類の消費量もかなり少ないようです。

  【桐生市】
   群馬県南東部の市。足利・伊勢崎とならぶ北関東の
   機業地。
   近年は機械・金属工業も立地。人口12万8千。

  【桐生織物】
   桐生で産する織物の総称。江戸初期以来、京都西陣の
   技法を取り入れた高級織物で知られる。

  桐生市民の名物グルメ 「シロフジのアイスまんじゅう」は、
  昭和20年代に誕生しました。

  南東部の桐生市では、肉無しの名物「コロリン シュウ
  マイ」はジャガイモをマッシュポテト状にし、豚の背脂と
  タマネギ、ジャガイモのでんぷんを加えて作るそうです。

 



  他県の人は「シュウマイとは違う、不思議な感じ」。地元の人には「モチモチした食感ですごい美味しい」と大好評
  らしいです。「肉無しのやきそば」の具はもやしとジャガイモのみ。




  こんにゃく芋の生産量日本一の群馬県。吾妻郡のご当地カレーは、肉の代わりにコンニャクが入っているそうです。




  桐生市にある「ラーメン在」では16種類のラーメンメニューがありますが、店主の後閑さんが考案したギョーザラーメンが
  1番の人気だそうです。
  野菜を炒め、ギョーザの餡 (豚肉、ニラ、白菜、ニンニク) を加え、醤油+酢+ラー油のギョーザ風の味付け。
  ギョーザの皮は合わないので入れないそうです。

  2年連続 残念お肌日本一の群馬県  群馬県高崎市の真っ黒な食パン  群馬県のたぶん世界一濃厚なプリン? 「天国のぶた」


  毎日放送 知っとこ ! 『エンタメ・ゴージャス 「富岡製糸場 驚きのお土産が大人気」』 14.05.03 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンショー 「富岡市に住む群馬県民はホルモン揚げが大好き!?」 14.09.11 放送
  NHK大阪・前橋 歴史ヒストリア 『富岡製糸場 世界遺産へ ~世界を魅了した少女たちのシルク~』 14.05.21 放送

  ≪ 富岡製糸場 世界遺産登録 (日本で18件目) 決定 2014年6月21日 ≫  Wiki 富岡製糸場と絹産業遺産群 富岡製糸場

  登録対象は、一八七二(明治五)年に官営製糸場として設立された富岡製糸場(富岡市)のほか、近代養蚕(ようさん)
  農家の原型となった「田島弥平(やへい)旧宅」(伊勢崎市)、養蚕技術の教育機関「高山社跡(たかやましゃあと)」
  (藤岡市)、冷気で蚕(かいこ)の卵を貯蔵した「荒船風穴(あらふねふうけつ)」(下仁田町)の四カ所。






  【富岡市】とみおか
   群馬県南西部の市。1872年(明治5)日本最初の官営製糸工場が作られた。現在も繊維工業が盛ん。人口5万4千

  富岡製糸場HP http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html

  ≪ 富岡市名物の「ホルモン揚げ」は、ちくわを揚げたもの ≫

  富岡市の縁日では古くから定番となっているホルモン揚げ。
  河合商店の初代である河合昌訓さんが戦後に考案した物。

  売り出した約70年前にはホルモンとネギを交互に挟んで
  串に刺してフライした物でしたが、発売から約10年後に、
  焼き竹輪に変更。
  当時はホルモンが大量に入手できず、冷えると肉の脂が
  固まって美味しくない事などからの理由だそうです。

  冷めても美味しくホルモンと食感が似ている事から、水分が少なく揚げ物にするとサクサク感がある焼き竹輪を使用。
  甘辛いソースをかけて食べます。家庭ではほとんど作らず、屋台や店で買うのが一般的だそうです。
  大阪の串カツ (カツだけじゃなく、色んな素材を串に刺して揚げたもの) と似た食文化です。


  テレビ東京 元祖 ! 大食い王決定戦 ~新世代最強戦~ 14.09.28 放送

  ≪ 高崎市では2009年からパスタ祭 「キング オブ パスタ」を開催 ≫

  高崎を中心とした周辺地域における小麦文化と豊かな農作物に育まれた食文化を、パスタを通じて再認識すると
  ともに、高崎の食文化の更なる発展を図ることを目的として開催。






  1968 (昭和43) 年、請地町にイタリア料理店「シャンゴ」が開店した事から、高崎市でパスタが根付いたそうです。

  キングオブパスタ実行委員会  『キングオブパスタとは』 http://www.kingofpasta.jp/kingofpasta.html
  高崎パスタ 研究会 『パスタの街 高崎の楽しみ方 ~34のレシピ」』 http://www.takasaki-kankoukyoukai.or.jp/blog/pdf URL略

  日本の学食の人気パン 群馬県は「みそパン」

  【沼田市】ぬまた
   群馬県北東部の市。もと土岐氏3万5000石の城下町。市場町として発達。利根川上流の主要商業都市。人口5万3千。






  【味噌饅頭】みそ-まんじゅう 『百菓辞典』 … 群馬県の郷土料理。焼き饅頭のこと。
 
 関東の食文化  埼玉県
  TBS はなまるマーケット 『縁の下の力持ち 日本一を多く持つ埼玉県』 13.08.19 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 13.01.05 / 13.04.30 / 13.08.12 など 放送 より

  日本國誌資料叢書 武蔵 大正14年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←埼玉県・東京都の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982142

  ≪ 埼玉県 ≫

  関東地方の県。武蔵国の北部を管轄。県庁所在地はさいたま市。面積3797平方㎞。人口705万4千。全40市。









  【さいたま市】
   埼玉県南東部の市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。
   東日本の交通の要衝として発展した浦和・大宮・与野の3市が合併して2001年誕生。2005年、岩槻市を編入。
   人口117万6千。






  埼玉県と千葉県は関東3位で争っているそうで、さいたま市内でも、県庁所在地があった旧浦和市と県内で最も
  繁栄していた旧大宮市での対立もあるとか。






  都道府県別統計とランキングで見る県民性 『うどん屋店舗数ランキング 2010年』 http://todo-ran.com/t/kiji/13485

  人口当たりのうどん件数の1位は香川県、2位福井県、3位山梨県。
  うどん店の総数は1位東京都、2位埼玉県、3位愛知県、4位大阪府。

  香川県や埼玉県のうどんはコシが強い。これは米が採れない地域だったので小麦が主食になった事と関係します。
  麺のコシを強くする事で消化を遅くし腹持ちを良くしたと考えられます。

  埼玉県の獨協大学の地理学社会科教育専攻の秋本章 教授によると、
  小麦自体は埼玉県でも非常に古くから作られていたもの。もともと江戸時代は、米は年貢として取られていました
  ので、米の代わりに庶民が食べる物としては、うどんが一番力もでるだろうと…。例えば、みなさんのよく知っている
  「麦踏み」っていうのが、よく行われますよね。ああいう技術を確立して普及させたというのが、この埼玉からスタート
  しています。

  うどんが江戸時代に庶民に広く食べられていた物だと信じられているようですが、香川県では大正時代になって
  から各家庭で食べられるようになったもの。 香川県のうどんの歴史

  江戸時代、香川より文化が遅れていた埼玉でも近代になって食べられ始めたと思った方が良いでしょう。

  江戸時代中期に上方では真っ白なうどんが食べられていたようですが、その他の地域は製粉技術が劣っていた
  ので小麦の皮も含んだ色でした。幕末の江戸でもこんな感じ。真っ白でなかった事が書かれてあります。
  江戸の豆腐も真っ白ではなく味も劣っている事が『守貞漫稿』に書かれています。
  昔のうどんは真っ白じゃない、こんな色







  『守貞謾稿』下巻 第二十八食類 「豆腐

 昔は豆腐に紅葉の形を印す 今も江戸にては印之 京坂は菱形を印せり 是は豆腐製筥に其形を彫たる也
  (中略) 全文は豆腐のページで、
 今豆腐の上に紅葉を印す詞に就て形を顯すなるべし 買用も通てよし云々 買様 紅葉の音便より付し事本なるべく
 昔は堺を名物とせし歟 今製は人不之 今製京坂柔かにて色白く味美也 江戸剛くして色潔白ならず味劣れり
 然も京坂に絹漉豆腐と云は特に柔にて同價也 きぬこしに非るも持運には器中水を蓄へて浮べて振ざる様に
 携へざれば忽壊れ損ず 江戸は水なくても崩るゝ事稀也 江戸にも汲豆腐と云ば柔か也 京坂普通製に似たり
 蓋 きぬこし常に有之 くみ豆腐別製也需あれば製


   1912 (明治45) 年出版の『革命来の米界』 (野城久吉 著、東京の商業通信社 出版) には
   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803806
  当時の物価と米価、人口と作付面積、鉄道の延長距離など数字データなども書かれてあります。

  「二十四、麦の供給力」P.217~
  年々関西から東京へ輸入する裸麦は十四五萬俵もあるとか云う事であったのに、本年は十四五萬俵乃至
  二十萬表の大麦を関東から関西へ輸出したと云う事である。

  【裸麦】はだか-むぎ
   オオムギの主要な一変種。果実と頴えいとが離れやすいのでこの名があり、離れにくいものは皮麦かわむぎ
   呼ぶ。西日本に多く栽培する。

  P.221「麦産額及輸出入高表」 明治35年~44年までのデータ収穫高から3年を抜粋
   三十五年度 大麦 8.146.047石  裸麦 6.325.082石  小麦 3.954.479石
   三十九年度 大麦 9.445.153石  裸麦 6.957.932石  小麦 3.962.176石
   四十四年度 大麦 9.385.818石  裸麦 7.505.811石  小麦 5.009.840石

  小麦は大麦の半分以下しか収穫されていない事が分かります。裸麦も大麦に含めると1/3~1/4程度。
  裸麦が主に西日本で栽培されていたとすれば、関東は主に大麦の栽培となります。
  小麦は日本中栽培されていたので、関東で栽培される小麦の割合はもっと低くなります。

  小麦は加工しないと食用に適さないので、小麦加工品は古くから素麺・うどん・煎餅・カステラなどが西日本で普及
  していた事から考えると、小麦は西日本の方が多く栽培していたと思います。

  麦飯は小麦ではなく大麦を使用します。


  【熊谷】くまがや
   埼玉県北部の市。中山道の宿駅。荒川北岸に沿い、熊谷寺・熊谷堤などがある。人口20万5千。

  熊谷市HP 『小麦生産技術を確立 ~麦王 権田愛三~』 https://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/nousannbutu/syoukai/komugi.html

  ≪埼玉で小麦の生産が盛んになったのは昭和になってから ≫

  ところで、なぜ熊谷で小麦の生産が盛んになったのでしょうか。その裏には、権田愛三の存在がありました。
  権田愛三は江戸時代の嘉永3年、現在の熊谷市東別府に生まれました。当時の麦作りは、生産が安定していな
  かったため、人々は食料不足で困っていました。そのような状況を憂いた愛三は、良質な麦の増産を決意し、
  研究を重ねながら麦作りの改良に取り組みました。
  根張りをよくするために早春に麦の芽を踏む「麦踏み」や、熊谷の雪の少ない気候を利用して米の収穫が終わった
  冬の間に麦の生産をする「二毛作」を行ったのです。
  こうした技術改良の結果、明治29年には当時の収穫量を4倍~5倍にあげることに成功し、その成果を地域の農家に
  伝授しました。明治41年にはこれまで研究してきた麦作生産技術を当時の農商務省に上申しました。
  すると、全国から依頼が舞い込み、各地に講演や技術指導に赴くほか、年間300人以上の研修生を自宅に宿泊させて
  実地指導を行いました。
  このような愛三の貢献に、国は緑綬褒章、大礼記念章を授与しました。そして、こうした実績を称え「麦王(麦翁)」と
  呼ばれた愛三のふるさと熊谷には、その思いをくんだ良質な麦作りとうどんの食文化が今も伝えられています。

  【麦踏み】むぎ‐ふみ … 麦の伸び過ぎを押さえ、根張りをよくするため、早春、麦の芽を足で踏むこと。

  群馬の粉食文化・オキリコミ 教職員資料H26.10 文化財保護課のPDF で
   都道府県別小麦の収穫量というタイトル 1921(大正10年) 以下の資料を見付けました。
   でも平成24年のデータは4麦となっていますので、小麦・大麦・裸麦・はと麦の合計ではないでしょうか
   大正10年のデータも小麦だけである確認する必要がありそうです。




  埼玉県HP 『埼玉県の麦類について』 https://www.pref.saitama.lg.jp/a0904/komemugidaizu/mugi.html

  昭和30年代頃まで、埼玉の日常食は押麦に白米を混ぜた麦ごはんが一般的でした。埼玉の食の中心であった麦は、
  明治から昭和30年代中頃にかけては大麦を中心に生産されていました。明治20年前後には、小麦、六条大麦、
  二条大麦、はだか麦を合わせた4麦の生産が全国一を占めていた時期もありました。

  権田愛三(ごんだあいぞう)は1850年(嘉永3年)に埼玉県北部の東別府村(現在の熊谷市)に生まれ、一生を農業の
  改良に捧げました。その中でも麦の栽培方法に関して大きな功績を残し、麦の収量を4~5倍も増加させる多収栽培方法を
  開発しました。その栽培方法は、麦の根元をしっかりさせ倒伏を防止する「土入れ」、麦の茎の枝分かれと根部の伸長を
  促す「麦踏み」、堆肥をふんだんに使った「土づくり」を行うというものでした。
  大正12年には集大成ともいえる「実験麦作栽培改良法」を出版し無償で配布、県内はもとより日本全国への技術
  普及に尽力しました。
  栽培方法の改良が進んだ現在でも、「麦踏み」は安定多収を図る上で重要な技術として今日に活かされています。
  これらの研究と栽培方法の普及の功績から、「麦翁(ばくおう)」とたたえられています。

埼玉県 2009 農林省統計

 

 

 


  みそポテト
   茹でたジャガイモを天ぷらにして、味噌5・砂糖5・水1の割合で煮詰めた甘辛い味噌ダレをかけて食べる料理で
   川越市一帯がイモの産地だそうです。

  いが饅頭
    米作りが向かない北部では小麦を生産。饅頭やうどんが多く作られたそうです。祝いの日に赤飯と饅頭を一緒に
    食べる事から生まれたもの。

  塩あんびん
   江戸時代末期頃でも、埼玉では砂糖が入手しづらかったようで、砂糖を一切使わず、塩味で作った大福が残り
   ました。現在は砂糖をつけて食べる人が多いそうです。 (江戸時代 精糖業は埼玉にもあったようです)

  コトバンク 『あんびん餅』  広島の方言として「あんびん=餡入り餅」の意味で残っているようです。

  埼玉県熊谷市栄寿堂の名代(なだい)菓子で大福餅の一種。餡(あん)は薄塩味のつぶし餡で、日もちはしない。
   姿は普通の大福餅の2倍以上もある。『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』によると、「あんひんは餡餅の音なり」とある。
   また「はらぶと餅」について、「皮薄くして餡は赤小豆(あずき)に塩のみ入りて砂糖ケなく、ただ大につくりたるもの
   なり。大福餅ともいう。近ごろまでもありしが、いまは絶えたり」とあるが、あんびん餅はこのはらぶと餅のことで、
   『嬉遊笑覧』が著された文政(ぶんせい)年間(1818~1830)にはすでに江戸市中にもなかった。
   熊谷では安便餅ともいい、嫁の里帰りには、姑(しゅうと)が無事息災を知らせる手紙がわりに持たせたという。

  【嬉遊笑覧】きゆうしょうらん
   江戸後期の類書。喜多村信節のぶよ (江戸の人、1783~1856) 著。12巻、付録1巻。文政13年(1830)自序。
   部類を分け、和漢の書から特に近世の風俗習慣や歌舞音曲に関する事物を集めて叙述・考証したもの。






  独立行政法人 農畜産業振興会 『江戸時代の砂糖食文化 「2.江戸時代の砂糖と和菓子」』 http://www.alic.go.jp/joho-s/joho07_000274.html

 江戸時代の初めには菜饅頭と砂糖饅頭の二つの系統であったものが、塩饅頭を経て19世紀初めの文化
  年間に入るともっぱら砂糖饅頭が普及していったことが分かる。 江戸時代のあんびん餅・大福など

  【芋煎餅】いも-せんべい 百菓辞典
   川越市の名物菓子。さつまいもの「紅赤」を薄切りにし、砂糖蜜をつけて、パリッと焼き上げる素朴な菓子。

  テレビ東京 所さんの学校では教えてくれない そこんトコロ! 『東京の街はナゼこうなった?』 19.02.15 放送
  草加市 『草加せんべいの歴史と現在』 http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1403/010/010/020/01.html
  埼玉県草加市「今様・草加宿」の情報サシイト 今様草加宿 『草加宿の歴史 日光街道と草加宿」 http://imayo-sokasyuku.com/history/

  【草加煎餅】そうか-せんべい 百菓辞典
   埼玉県草加市の名菓。草加米で作った色つやのよい固焼きせんべい。元来は1枚焼き。
   うるち米の粉を蒸し、丸く型抜きして干し、鉄板の上で押し焼きして、醤油をつける。代表的な塩煎餅。






  【煎餅】せんべい 百菓辞典
   大別して2種類ある。
   ① うるち米粉で作った新粉餅を薄くのし、型で抜いて乾燥し、焼いて醤油を塗ったものや、塩味の小麦粉煎餅などが
    塩煎餅系のもの。由来には諸説あるが、9世紀始め、弘法大師が唐から伝えたといわれている。
    古くは小麦粉ものであり、うるち米粉は明治に始まるとされる。
    俗説によると、埼玉県草加の茶店の「おせん」さんが、売れ残った団子を延ばして乾燥し、焼いて客に出したのが
    始まりという話がある。上リンクの草加市のサイトによると、昭和に作られた話だそうです。
   ② 小麦粉を主原料とした瓦かわら煎餅系のもの。瓦をかたどって焼いたもの。
    小麦粉に鶏卵、砂糖をたっぷり入れるためカステラをつぶして焼いたような味の、甘いせんべい。

  米が原料の煎餅も関西が先だった レシピ原文発見!! こちらも2018年3月現在、当サイトのみの情報
  「日本の資本主義の父」 渋沢栄一 日本初の銀行を創設し、500社の企業設立に関与。 日本初の女医 荻野吟子
  日本三大銘茶の一つ狭山茶 埼玉 指でつまんで黄身を持ち上げる事ができる1コ550円の卵
  埼玉の浦和が「かば焼きの発祥」を主張 根拠が薄すぎ

  その他の埼玉の食は 下記リンク先で
  財団法人 農村開発企画委員会 『郷土料理100選 埼玉』  http://www.rdpc.or.jp/kyoudoryouri100/ryouri/11.html

  明治・大正時代は鶏肉が最も高価だった 豚肉なのに「焼き鳥」の謎・東松山市、昭和前期は東京でも人気。ホルモン

  読売テレビ 大阪ほんかわテレビ 『日本全国47都道府県 地元で愛される美味しいおやつ博覧会』  14.07.20 放送

  ≪ ゼリーフライ ≫

  小判型のコロッケの一種。『銭ぜにフライ』→『ゼリーフライ』となったとも言われています。お祭りでも定番だそうです。






  【五家宝】ごかほう 百菓辞典
   五箇棒、五荷棒、御家宝とも表記される。埼玉県熊谷の名物。おこしの一種。
   熊谷在の五家(5軒)の農家が協力して、殖産のために作り出したものと言われる。
   干し飯をふくらませて水飴で棒状に固め、青きな粉をまぶし、3~5㎝くらいの長さに切った菓子。
   きな粉に糖蜜を加えて、シート状に薄く延ばして巻き付ける製法もある。
 
 東京都  江戸ッ子の食文化  田楽・おでんの歴史 にぎり寿司の歴史・雑学
  NHK Eテレ  美の壺 『納涼!日本の夏スペシャル 第三回「食」』 11.08.04 放送
  読売テレビ 大阪ほんかわテレビ 『日本全国47都道府県 地元で愛される美味しいおやつ博覧会』  14.07.20 放送


【江戸】えど
 ①(古今要覧稿に「江所(江に臨む所)」の意とする)
  東京の旧名。

 古くは武蔵国豊島郡の一部に過ぎず、平安末期に
 秩父氏の一支流 江戸四郎重継が今の皇居の地に
 居館を営み、下って  1457年(長禄1)太田道灌が
 築城、その後上杉・北条の手を経て、徳川氏が
 幕府を開くに及んで大都会となった。

 すなわち、家康は1590年(天正18)江戸に入り土木を
 起こし、1604年(慶長9)から江戸城を大きく改造。
 以降4代家綱の頃まで、諸大名に負担させては大
 工事を行い、幕末までいわゆる八百八町の繁栄を
 保ち、享保(1716~1736)以降は人口100万以上を
 維持。1868年9月(慶応4年7月)東京と改称。

 ②吉原・深川あたりで内神田・日本橋辺を指して
 いった称。


  【江戸表】えど‐おもて … 地方から江戸をさしていう語。
  【江戸三界】えど‐さんがい … 上方から遠く隔たった江戸の地。江戸くんだり(場末または遠隔の地)。

  田楽・おでんの歴史 にぎり寿司の歴史・雑学
  東京近郊の関東の歴史 東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
  江戸っ子とは? その実態江戸の名物は悪口、悪口を言わない江戸ッ子はいない。江戸女は気が強いなど
  江戸の人口100万人は本当か? 寛政時代の幕府記録では江戸の人口 2億61万3000人もいた?
  江戸首都論 国土交通省のHPにある 東京学芸大学の教授による主張
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、汚れた川で食器や野菜を洗っていました。  公害苦情受理件数で見る 汚い県、うるさい県、臭い県はどこ?

  日本國誌資料叢書 武蔵 大正14年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←埼玉県・東京都の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982142

  【東京】とうきょう (東方にある都の意)(明治前期にはトウケイとも)
   日本国の首都。1868年9月(慶応4年7月)、江戸幕府の所在地であった江戸を東京と改称、京都から遷都。
   1878年(明治11)府制を施行、89年これを15区に分けて東京市とした。1932年隣接町村を併合して35区と改め、
   1943年府・市を廃して都制を布しき、1947年23特別区および市・郡・支庁の区画を定めた。
   特に、23区の地域を東京と呼ぶ場合もある。日本の政治・経済・文化の中枢。面積2187平方㎞。
   人口1257万7千(うち、23区は849万)。全26市。

  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん


 1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949
  この書を読めば、当時の東京の有数の繁華街であり、江戸の伝統を残す浅草の食文化などを知ることができます。
  「東京ッ子」を自称する人は、読んでおくべき一冊でしょう。

  第二章 浅草経済組織の変遷発達 (四) 享保以後に於ける仲見世の発達 P.42~

  浅草が仲見世を中心として発達したものであるにも拘らず、比較的仲見世に関する文献が少ないのは、果たして
  どう言う訳であろうか。最も水茶屋の茶吸女に対する読み物は、決して少なくないが、多くは創作で、その実情を
  描いたものが殆どないだから私は、これ等に付いて、比較的詳細な説明をして行こうと思うのである。


  東京オリンピックと日本人のアイデンティティー 2018年 江戸川大学 斗鬼正一 名誉教授
   https://edo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=803&item_no=1&page_id=13&block_id=21

  「欧米人にどう観られるか?」を強く意識し、特に東京では衛生・清潔・美化、秩序・マナー・犯罪、看板設置などに対し、
  意識改革のキャンペーンや取締りなどが行われました。
  上記リンクの論文を読めぱ、当時の日本、主に東京の実態が分かります。


  関東が豚肉文化になった理由 ← 東京目線の理由は完全に嘘でした
  食の歴史 江戸時代の食文化  江戸の夏の名物 甘酒  花見 ソメイヨシノの起源に新説、上野に原木候補がある?
  「汁粉」と「善哉」 関西のぜんざい、関東ではおしるこ 呼び方なぜ違う、ぜんざいの発祥は島根県、汁粉の江戸発祥説は嘘。
  1908(明治41)年刊『明治事物起源』第十類「飲食」牛乳の始の全原文
  明治44年出版の東京年中行事の「納豆賣」の記述全文
  明治44年出版の東京年中行事の「氷、甘酒、心太、白玉、アイスクリーム」の記述原文
  明治44年出版の東京年中行事の「雑煮・太箸・重詰」の原文  明治44年出版の東京年中行事の「屠蘇」の原文
  明治44年出版の東京年中行事の「水菓子屋」(果物屋) の記述文


  ≪ 江戸の獣肉食 ≫ 詳しくは→江戸時代の肉食事情

  江戸時代は獣肉を食べる事が少なかったようですが、病気の治療などの目的で薬として食べる事ができました。
  各都市の中で江戸は獣肉をよく食べる方でした。

  1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』編者は大坂の御城入り医師の寺島良安、版元および出版地は大坂。
  第37畜類」の「豕」および「牛」には、
  西日本は牛が多く馬が少ない。東日本では馬が多く牛が少ない。江戸では豚を飼育している。事が書かれてあります。

  1728 (享保12) 年頃成立の『落穂集』(著者は大道寺友山) には、
  江戸の町方に犬はほとんどいない。
  武家方町方ともに、江戸の町では犬は稀にしか見ることができない。犬が居たと
  すれば、これ以上のうまい物はないと人々に考えられ、見つけ次第撃ち殺して
  食べてしまう状況であったのである。 という記述があります。

  1746年成立と言われる『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)
  によると、麹町平河町付近にあった山奥屋 (通称:ももんじ屋)では、鹿・狐・狼・熊・狸・カワウソ、
  イタチ、猫、山犬などが堂々と売られていたそうです。

  また黒白精味集は上方の料理本などを集めて編集した料理書ですが、十『一色料理上』と十一『一色料理下』の
  部分はオリジナルと見られており、獣肉の調理の方法などが書かれてあります。

  明治初期の東京府では生きたウサギを対象とした投機が過熱し、いわゆる「ウサギ・バブル」がありました。
  日本中から批判を受けて重い税を課した結果、明治6年にウサギ・バブルが弾け、ウサギは屋台などに売られ
  鍋にして食べられました。このウサギ鍋は「〆子鍋」と呼ばれ東京独自のものでした。

  東京では明治中期頃まで一部の人間が食べていた事が、夏目漱石 作の『吾輩は猫である』の冒頭に記述されて
  います。書生が猫を捕えて鍋にして食べていたようで、猫鍋を「おしゃます鍋」と言っていました。

  江戸時代前期の江戸では猿の塩漬けやカモシカ肉が売られていた

  江戸時代初めの1613年に、徳川家康の招き (1582年の本能寺の変の際に堺にいた家康を佃村の漁民が助けた
  事から) によって、大坂の佃村の漁民である森一族が江戸へ移り住み漁業を始めます。
  それまで関東では原始的な漁しかなく、魚と言えば主に川魚類を食べていたようです。

  江戸時代中期に綿栽培の肥料となるイワシを求めて西日本の漁民たちが関東へ移り住みます。
  1711~1716年に森一族の流れをくむ大坂の魚商人たちが江戸へ移り住み、関東での魚の流通出荷体制を構築
  します。関東の庶民が海魚が食べられるようになったのは、これ以降の事ですが、それでも1800年代になるまで
  満足に魚を食べる事はできなかったようです。

  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃

  その為、関東では獣肉の需要が高かったようです。1680~1709年に将軍であった徳川綱吉の生類憐みの令に
  よって動物の虐待や殺傷が禁じられますが、それ以前の江戸では犬が居ないと言われるほど武士も町民も犬を
  好んで食べていたという記述があります。(落穂集など)

  1783年に大坂で豆腐百珍が出版され、江戸でも大変流行します。
  魚や豆腐でタンパク質を摂れるようになって、獣肉食が徐々に減っていく事になるわけです。

  明治・大正時代は鶏肉が最も高価だった 豚肉なのに「焼き鳥」の謎、昭和前期は東京でも人気。ホルモン


  ≪ 江戸・東京の屋台は汚かった ≫

  幕末に大坂から江戸を訪れた西沢一凰が著した『皇都午睡』では、江戸は土埃が酷く、立小便した水を撒き、尿を
  含んだ水が乾くとあまりにも臭いので手拭で口の周りを抑え毎日風呂に入りたがったという記述が見られます。

  明治44年の『東京年中行事』には、土埃が積もった食器などでも平気で飲食する東京人について書かれてあります。
  京都の暖簾は店内を隠すように上下に長く大きい暖簾、江戸は上下が短く横に長い暖簾を「粋」だとしていましたので、
  埃が入り放題だったと考えられます。江戸の屋台の暖簾が短かったのは綿が高価だったからと推測できます。

  下記リンクの銭湯とトイレの雑学のページをよくご覧ください。
  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、その川で食器や野菜を洗っていました。東京で近年の衛生観念が定着するのは1964年の五輪がきっかけ


  ≪ どじょう鍋 と 柳川鍋やながわ‐なべ   Wiki 柳川鍋 / Wiki どぜう鍋

  ドジョウの鍋料理は、江戸時代後期の文化元年(1804年)に浅草駒形で越後屋がドジョウを開かずにそのまま使った
  鍋料理を創始したとされ(「どぜう鍋」のうち「丸鍋」「まる」と呼ばれる)。

  暑い夏に、煮えたぎった熱い物を食べる「暑気払いしょき‐ばらい」の料理。旬のドジョウや熱い甘酒を夏のスタミナ源として、
  よく飲食されたそうです。いずれも川柳では夏の季語になっています。

  その後、文政年間にドジョウを背開きにしてゴボウと一緒に調理した鍋が生まれた(「どぜう鍋」のうち「ぬき鍋」「抜き」
  「裂き」と呼ばれる)。最後に卵でとじる柳川鍋が誕生したのは天保年間(1830~1844年)とされる

  柳川鍋は開いたドジョウと笹掻きにした牛蒡ごぼうを、浅鍋で甘辛く煮て卵でとじた料理。

  下の画像は東京の「どじょう鍋」と右端は甘酒。 開いたドジョウを割り下で煮込み、卵でとじたものが「柳川鍋」。
  という違いがあるそうです。





 「柳川鍋」の創始説は
  日本橋箔屋町・柳川屋であるとする説
  日本橋横山町にあった店であるとする説
  浅草千束村の小料理屋であるとする説
  本所の鰻屋であるとする説
 「柳川鍋」の名前の由来説は
  創始した店の屋号が「柳川」であったことに由来する説
  骨抜き泥鰌を売っていた人物が屋号を「柳川」とし、始めた
  料理という説
  使われた鍋が福岡の柳川焼であったからとする説
  鍋にドジョウを並べた姿が柳の葉に似ているからという説
  柳川で作られたからという説


 1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)、色んな聞き書きを集めた料理本。
 下記リンクPDFでは現代訳されています。

  鯲汁 どぜふを小桶へ入 わらを入て つかめば ぬめり取れる也 扨 白水を能こして 白水にて味噌をたて
  白水は余り濃くなき二番ときの水よし 扨 鯲を右の味噌へ水より入て煮 一あわ煮て 牛房を入 又 一あわ煮て
  茄子を入煮へ候へば 鯲も煮る也 又 白水にて鯲を湯煮して味噌汁へ うつす法も有 中味味噌 赤味噌 玉味噌の
  類よし 山升粉入也

  【白水】しろ-みず … 米をといで白く濁った水。とぎじる。

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf


 1785年(天明5)刊の『萬宝料理秘密箱』前編 (いわゆる「卵百珍」) 著者は京都の器土堂主人。

 卵鰌魚の仕方 一たまごを丼にわりこみ よくよくとき 古酒一合いれ 是をよく合セて 扨 どじやうを二三合
  はやく入レ すぐにふたをして 半時ばかりして 右の器ともに せいろうに入レて むすへし
  又 外の鍋に うす味噌汁をこしらへ よく煎立して 右のどじやうを小さじにて すくひ椀にいれて 右の汁を
  かけ さんせうを そへ出すべし 吸ものに一たんとよし 但し ひえの薬なり

  【冷え】ひ-え  『卵百珍』のレシピ 浅草海苔の記述も複数あり
   ①ひえること。また、その程度。 ②腰から下の冷える病。
   ③風疿かざほろしの類 (=発熱のあとに生じる皮膚の発疹。風邪によるものとされた)。瘡毒 (=梅毒)

  人文学オープンデータ共同利用センター 『「万宝料理秘密箱 卵百珍」レシピ一覧』
   http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C


 『東京年中行事上の巻 P.311の「駒形のどぜう汁」の記述  1911 (明治44) 年に執筆&出版。

  雷門から南へ次の電車停留場が駒形である。其処の四辻の北の角が、音に名高い駒形のどぜう汁で
  薬研堀のそれと盛名を競ふもので有る。

  其昔 江戸時代にどぜう屋と云ふ看板を掲げたのは、上の二つと埋堀と中橋のそれとたった四つで有つた。
  が後の二つは今では廃業して了(しま)つて、残つた二つの中でも殊に駒形のが知られて居る。

  暖簾をくゞつて座敷に上がると、百年紀念 明治四十年十一月と云ふ額が先づ眼につく。

  お客はどちかと云へば 勿論 中流以下が多いので有るが 生粋の江戸ッ子や、その道の通人などの間にも
  なかなか お馴染が少なくない。何はさて置き 値段の安いのが目つけもので、鰌鍋六銭、鰌汁一銭五厘、
  お酒七銭 御飯一人前四銭 半人前三銭と云ふ外に、鯨汁二千五厘、鯰鍋汁五銭、鯰汁五銭と云ふのもある。

  従つて 鍋と汁とに飯と酒までつけた處(ところ) が二十銭足らず、飯と汁丈(だけ) で すませば高が六七銭で
  事が足るので、飯時分前後になると、朝から車夫 行商人を始めとして、色んな種類の人がエンヤエンヤと
  詰めかける。

  なかには三度が三度此処で一日のお腹をこしらへてる連中も少なくないと云ふのも、満更 嘘では なささうに
  思はれる。それにつけても『君は今 駒形あたり どぜう汁』とか何とか、今蜀山人(いましょくさんじん)
  駄洒落れたのは、吉原帰りの通人の立寄るものも少なくないことを示すものでは なからうか。

  「百年紀念」「先づ」「どちかと」などは原文のままですが、旧漢字は面倒なので新漢字にして書き変えました。

  【東京年中行事の著者】
   若月紫蘭 (本名は若月保治、1879~1962年、山口出身、東京帝大卒)
   教育者・記者・劇作家・演劇研究家・浄瑠璃研究家・翻訳家など多方面で活躍しました。


  東京は人口の急増した結果、江戸時代末期より、食文化が貧しくなっていったようです。

  明治時代の東京は華やかな首都としての歴史が語られますが、一方で二極化が進んでいました。
  明治20年代半ばの東京の下層社会の探訪記である『最暗黒の東京』(松原岩五郎 著、岩波文庫)という本が
  明治26年に出版されています。  明治時代、残飯屋というのがあった  Wiki 松原岩五郎

  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文

  「納豆の味が分からないと江戸ッ子ではない」「おかずが要らない」という事なので、明治時代は納豆を非常に
  多く食べていた事が分かります。(その分、食文化の発展が遅れるという事にも繋がります)
  立派な商家も役人の家でも、汚い身なりの納豆売りを邸内に招き入れ、「腐った豆を旨い」と言う。また「鯛より
  マグロの刺し身の方が美しい」と言う江戸ッ子の感覚は理解できない。というような事が書かれてあります。

  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
  『東京年中行事』の記述による『初鰹』の由来

 1904 (明治34) 年に大阪で出版された『即席料理法 仕出しいらず』(松雲堂編輯所 編、石塚書店 出版) でも
  「鰌汁」と「鰌鍋」が載っています。ナマズはカマボコにする方法、フナも7種の料理があります。


  ≪ 大正時代でも鰌は普通に食べられている食材 ≫

 1915 (大正4) 年出版の『三食献立及料理法』(秋穂益実 著、東京割烹女学校出版部) や
 1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版) にも
  「どじょう」が一般的な献立として載っています。

 1918 (大正7) 年の『美味くて徳用御飯の炊き方百種』(慶應大学医学部内 食養研究会 編&出版) には
  「どじょう「鰌の卵飯」の炊き方が載っています。また「焼鳥飯」は雀やウズラ、ヒバリなどに砂糖醤油を付け
  炙った後、包丁でよく叩いて御飯の上に振り掛けたもの。

 1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
  第三章 浅草食堂経済組織の変遷 第九、特殊な料理を看板とする店 (二) ドジョウ屋老舗しらべ P.237
  江戸時代からの駒形のどじょう屋は超有名で宣伝しなくとも1日に5、600人の客がある。
  千束町が発展した明治中期頃に開業した富重は、この辺りでは老舗として知られている。
  芝崎町の飯田屋は餅屋だったが、明治末期頃にどじょう屋になった。
  此の外にも昔どじょう屋として売り出した店は、決して少なくないが、しかし、今では殆どどじょう専門店の店は
  なく、多くは大衆食堂となり、ただ昔を偲ぶ為に、どじょうを売っているに過ぎないと言ったような店が多いのである。

  ドジョウ・ナマズ・鯉・フナなどの川魚は、大正時代に遠洋漁業が発達し、昭和40年代に鮮魚の流通技術が進歩して
  いく中で次第に食べられなくなっていったと考えていいでしょう。

  同書 (四) 浅草での特種料理の様々 P.238~241では、この本が書かれた昭和の初めに浅草には
  「ふぐ料理」「大阪寿司」「釜飯屋」「八ッ目鰻の特売店」などが近年出来た店とあります。
  また浅草にはスッポン専門店は無いが看板料理とする店は少なくない、鯛飯を売る店は1軒で需要が少ない。など
  と書かれてあります。  同書「大阪寿司は浅草区内にかなりあった」との記述文

  即席料理法 仕出しいらず http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849089
  三食献立及料理法 家庭和洋保険食料 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954876
  三百六十五日毎日のお惣菜 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955371
  應用 家事教育書 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926686
  應用 家事教育書 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926687
  美味くて徳用御飯の炊き方百種 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933202
  四五日の旅 名所囘遊 1922(大正11)年 裳文閣 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964429 ※1925年の有精堂書店 版もあり
  1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949

  東西の丼の違い 牛肉の卵とじ丼は関西では「他人丼」、東京では明治時代「開花丼」ですが大正時代は別の名前で呼ばれていた


  【江戸前】えど‐まえ
   ①(芝・品川など「江戸前面の海」の意で、ここで捕れる魚を江戸前産として賞味したのに始まる。
    鰻うなぎでは浅草川(隅田川の河口近く)・深川産のものをさす)
   ②東京湾付近で捕れる魚介類の称。東海道中膝栗毛[発端]「―の魚のうまみに」
   ③江戸風ふう。梅暦「―の市隠」


 【深川飯】ふかがわ-めし
  アサリのむき身とネギを味噌で煮込んだものを、汁とともにかけたどんぶり飯。
  また、アサリのむき身を炊き込んだ飯。東京下町の家庭料理。深川は東京都江東区の一地区。もと東京35区の一つ。


 1918 (大正7) 年の『美味くて徳用御飯の炊き方百種』 (慶應大学医学部内 食養研究会 編&出版)

  P.158には「さくら
  東京邊へんでは茶飯と云ふと、櫻飯を炊く。併しかし他の地方では茶飯と云ふと、茶粥のやうに茶を煎じた汁で
  御飯を炊くのである。櫻飯の炊き方は、米一升について、上等の醤油四勺と上酒八勺と、水一升との割合で
  炊くのである。

  【茶飯】ちゃ-めし
   ① 茶葉の煎じ汁で炊いた飯。塩で味をつける。
   ② 醤油と酒とをまぜて炊いた飯。きがらちゃめし。さくらめし。味付飯。「おでん―」。

 1919 (大正8) 年 『家庭経済米の調理法百種 一名・節米の仕方』 (食料研究会 編、東京・協文社出版部)
   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961509

  P.21 年中あるもの 「櫻飯の仕よう
   是は中位なる蛸魚たこをば、さつと湯煮して足を一本づつ小口より薄く切り、前の飯の仕方のやうに飯の
   出来る前、上に置き其後よく混ぜ合はし、鰹節の煮汁だしをかけて、食するものにて、加料やくみは、
   前同様にして出すべし。

  P.51 秋の部 「茶飯の炊き方
   上白米をよくよくとぎ、通常より水を少し減らしてこわめに炊きあげ、釜より飯櫃めしびつに移しながら挽茶を
   むらなく散布するなり、而しかし茶は余り多からぬをよしとす、汁は薄醤油にて按排あんばいすべし

  この本は「鱧飯」「かゆ」各種などもあり、関西での飯類を多く参考にしたものと思います。


 1764 (宝暦14・明和元年) 刊の『料理珍味集』(著者は博望子はくぼうし、出版地は京都)
  書の冒頭には、宝暦13年末、華文軒主人の文字が書かれてあります。1749年の『料理山海郷』の続編で、
  料理山海郷では園趣堂主人のペンネームを使っています。

  巻之三には「酒飯」と「醤油飯」が載っています。この時代の醤油の普及からすれば上方の料理です。
  「酒飯」には醤油も使われており、この「酒飯」から酒を抜いたものが「醤油飯」で「茶飯むと言う事が書かれて
  あります。


  佃煮、築地は、大坂の佃村の森一族が江戸に移り住んだ事から 
   江戸や関東の魚の流通システムを確立したのは大坂商人。魚河岸の問屋は大坂の摂津系問屋が牛耳っていました。
  江戸の天ぷら 天ぷら」と名付けたのは山東京伝? 江戸の天ぷらは大坂人が始めた?
  ウナギの蒲焼き 関西風と関東風の境界線 関東の鰻は泥臭いので蒸すようになった
  鴨南蛮そば 葱の歴史 京都の「九条ねぎ」も江戸のねぎも大坂がルーツ と 鴨なんばの謎
  大阪がうどん文化になったのは、うどん入り茶碗蒸しが原因?
   大坂の苧環蒸し (うどん) → 江戸の小田巻蒸し (うどん・蕎麦) へと変化、鍋焼きうどんも大坂→江戸
  東京 『有楽町で逢いましょう』 町名の由来は、信長の弟 織田有楽斎から 
  大阪のお笑い文化 上方落語 大坂の落語家が江戸へ落語を伝えた。
  明治時代のアイドルとミスコン 竹本綾之助、洗い髪のお妻 、松旭斎天勝、末弘ヒロ子  東京の凌雲閣で日本初のミスコン開催。
  近年まで、堺・泉州のアナゴが名産地として全国的有名だった 養殖で復活へ


  ≪ 佃煮 ≫ つくだに 

  海産物を砂糖と醤油で甘辛く煮付けた食べ物の事。

  保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには
  参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰った
  ため、全国に広まったとされます。

  現在のような醤油を使用した「佃煮」が江戸時代のいつ頃から

  食べられていたかは不明。通説では森一族の保存食ですが最初。上方では江戸時代以前から醤油はありましたが、
  広く普及するのは元禄期。
  醤油使用の佃煮は江戸で始まったとみるのが正しいようですが、江戸で醤油が広く普及するのは、文化・文政期。
  とはいえ、将軍家に献上していた物なので、江戸初期からあったとも考えられます。諸説はWiki 佃煮をご覧下さい。


  【葱鮪】ねぎ‐ま
   葱と鮪まぐろの肉とを鍋で煮ながら食べる料理。ねぎまなべ。季語は冬。
   三遊亭円朝、真景累ヶ淵「寒い時分の事だから―抔などは上等で」

  ≪ 江戸の味は甘辛い濃ゆい味 ≫   画像 テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『美味しい日本橋SP』 13.10.19  放送 などより

  有史以来、最も繁栄してきた近畿地方。特に江戸時代には、『天下の台所』と呼ばれた大坂には日本中の食材が
  集まってきました。

  一方、関東は、近畿と比べると歴史も浅いし、寒い。保存食が発達。納豆に代表される発酵食品、塩蔵食品(塩辛い)を
  食べることが多いので当然、塩分を多く摂る食事内容になります。
  昭和70年代半ば頃、冷蔵庫が普及するまでは濃い味付けでした。

  東京日本橋には、そんな江戸時代の味を現在にも残す店がたくさんあります。
  1924(大正13)年創業の お多幸本店には、真っ黒な汁の「純関東風おでん」。
  江戸末期の1850(嘉永3)年創業の弁松総本店など。






  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件
   カップ麺、おでんの味つけレシピ、食文化の歴史背景、日本人の平均塩分摂取量の推移、都道府県別 塩分摂取量で
   多角的に検証しました。
   ついでに、NHKのタイムスクープハンターの内容 「鰻の蒲焼き と タレのしょうゆ」の内容についても検証しておきました。

  東京は味覚音痴が2~3割いる? 塩分味覚チェック 東京VS青森 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人 (東京で調査)
  月曜から夜ふかし 歴史も恥も知らない日テレ・スタッフ、またも嘘報道
   こちらのページでは東京の偏向報道や嘘、パクリの実体がわかるページへのリンクがあります。
  東征伐、熊襲征伐と三韓征伐 古墳時代の大和政権から見た蝦夷人の性質、この時代の蝦夷は関東も含む。

   仕出し弁当 日本橋 弁松総本店 HP http://www.benmatsu.com/namirokulp/

  薄口がもてはやされる時代の中で、異彩を放つ弁松の濃ゆい味。これは、創業当時から
  変わらぬ味です。

  この味の理由は、「もともと日持ちさせるために濃くした」「肉体労働に耐えられるようカロリーを
  高くするために濃くした」「砂糖が高価な時代に江戸っ子は見栄を張って沢山入れた」
  「江戸っ子は中途半端な味ではなくはっきりとした味を好んだ」などと言われています。

  江戸庶民が舌鼓を打った味を、現代でどうぞお楽しみください。
   創業約160年、甘辛く・濃ゆい江戸日本橋の味を守り続ける、知る人ぞ知る日本初の仕出し
  弁当専門店です。







  家康が作らせた江戸甘味噌   寿司の歴史と雑学 江戸前ちらし寿司は明治以降につくられたもの
  江戸時代の肉食事情 江戸では犬が居ないと言われた。 明治時代初期の東京府のウサギ・バブル
  江戸中期 江戸の蕎麦は味噌つゆ  大阪発祥の紅ショウガの天ぷら 東京では『都電名物』として販売。
  大阪がうどん文化になったのは、うどん入り茶碗蒸しが原因?
   大坂の苧環蒸し (うどん) → 江戸の小田巻蒸し (うどん・蕎麦) へと変化、鍋焼きうどんも大坂→江戸
  江戸発祥の今川焼 全国の呼び名の由来
  カマボコ・天ぷらの歴史・雑学のページ 昭和初期の東京での野菜の天ぷらの呼び方 キャベツも胡麻油で揚げ物に
  お好み焼きは戦前から日本中に広まっていた 発祥は東京の可能性あり (但しネーミングのみ?)

  【米饅頭】よね-まんじゅう 百菓辞典
   米粉で作った皮であんを包んだもので、大福餅に近い。江戸時代の慶安門館(1648~52)に、浅草待乳山聖天
   宮門前の鶴屋という菓子店が売り出したのが始まりとされる。江戸の人気菓子。

  【幾代餅・幾世餅】いくよもち 百菓辞典
   元禄時代に売り出された江戸名物菓子のひとつ。切り餅を焼いて小豆あんをまぶしたもの。
   吉原の遊女の幾代が、車力頭だった喜兵衛に身請けされて夫婦となり、元禄17年(1704)、両国橋に小松屋という
   菓子屋を開き、幾代の名をつけた餅を、自ら焼いて1つ5文で売り出したところ評判となり、店が繁盛した。
   この話は、落語や滑稽本の題材になっている。

  【ちちらあと】 百菓辞典
   南蛮菓子。ゴマ入りの有平糖。氷砂糖を煮詰めて、黒ゴマを入れ、冷やしてから板の上で延ばし、さまざまな形に
   小さく切ったもの。「ちちらと」「ししらと」「ちぢら糖」「しじら糖」などの異称がある。
   延宝年間 (1673~81) に「ちぢら糖」は両国名物になった。

  【雷おこし】かみなり-おこし 百菓辞典  おこし
   浅草雷門で売っているおこし。内容は普通のおこしと変わらないが、食べてももたれないのが特徴という。
   もたれないのは、磯部鉱泉の水を使っているためと伝えられている。

  【紅梅焼き】こうばい-やき 百菓辞典
   小麦粉に米の粉を混ぜ、卵、砂糖を加え、こねて固め、薄く延ばして、梅の花形に抜き、油を引いた鉄板の上で
   焼いたせんべい。安政時代、浅草寺の境内にあった梅林堂が焼いて売り出したものと言われている。

  【式菓子】しき-がし  引菓子のこと。 百菓辞典
   慶事・仏事などの儀式に用いる菓子の意。「ひきがし」の発音が、東京方言のなまりで「しきがし」となり、
   定着してしまったのではないかという説もある。

  【人形焼き】にんぎょう-やき 百菓辞典
   浅草名物の焼き菓子。小麦粉に、砂糖、卵、牛乳を入れて練った種を、型に流し、中にあんを入れて、焼いたもの。
   人形の顔の形や、花などさまざまな型がある。同種のものに、広島の「もみじまんじゅう」がある。

  江戸の長命寺の桜餅は元々は糯米で作っていたが、しだいに製法を変えた事が『嬉遊笑覧』に書かれてあります。
  1717年の誕生説は怪しい。『嬉遊笑覧』の記述を普通に解釈すると1817年頃の誕生と推測できます。

  長命寺桜餅の発祥年が怪しい 嬉遊笑覧によると1800年代か100年のサバ読み?
  浅草名物の登場年数も通説と違う記述を発見 紅梅焼き・雷おこしも明治初期の登場か?
  江戸の淡雪豆腐ができたのは享保年間 発祥年代の誤魔化しが判明


  『東京年中行事上の巻 P.307の「桃太郎團子」の記述原文  漢字、ふりがな ほぼ原文通り。

  市内の方々に、暖簾の印に桃太郎の繪をかいて昔團子とか桃太郎團子と記した團子屋が有る。
  女子供や下戸通の間には至って有名なもので、本店は向島の言問團子ことゝひだんごと共に有名な團子屋
  淺草藏前の桃太郎で有る。方々に在るのは皆 其 支店分店で有つて、丁度十二軒ある。
  本店は屋號やごうを美濃屋と云つて、開業以来百年以上を經過し、朝から晩まで殆ど客足の絶えたことの
  ないと云ふ位。
  團子には餡を塗つたのと附け燒やけとの二種が有り、今は傍ら お汁粉と雑煮と餅菓子を商つて居る。

  「團子=団子」「=絵」


  『東京年中行事上の巻 P.308の「おしる粉」の記述内容の抜粋要約

  男女とも外出すると何処かに立ち寄り、外食しないと外出したような気にならないと言う。
  お汁粉屋では馬車も立ち寄り、女性が1~2時間居るのは珍しい事ではない。

  市内で有名なお汁粉屋を挙げてみると、新橋では、萩の餅で名高い大坂屋、十二ヶ月と名を付けた十二色の
  お汁粉がある時雨庵。
  浅草では団子が有名な福ぼたん、公園裏の松邑まつむら、仲見世の梅園、茅町の大和屋、下谷では常盤屋と、
  不忍餅と蓮の粉で名のある氷月庵。粟善哉の元祖である日本橋の梅園、竃河岸へっついがしの甘泉堂かんせんどう
  が、甘党の間には広く知られている。



  NHK Eテレ グレーテルのかまど 『幸田文の花見だんご』 14.03.14 放送

  小説家 幸田露伴の次女で、随筆家・小説家の幸田
  文あや(1904~1990、明治37年の東京向島生まれ育ち)。

  右は江戸時代からの味を続けている日暮里にある
  老舗の団子。

  幸田文が64才の時に書いた随筆『花見だんご』は
  幼少期の思い出を書いたもの。


  お団子は、その堤に花どきだけ店を出す、よしず張りの掛茶屋さんがどこでも置いていた。田舎風な大振りな串団子で
  あまり甘くない餡だった。焼団子のほうは、(中略) 少し焦げて醤油の染みた旨さは無類、子供達は大好きだった。(中略)
  私は、その甘さで育ったのである。

  明治時代は砂糖がまだ高価な時代なので、砂糖を多く使えず甘さが少なかったと考えられます。

  現在、江戸時代に砂糖が潤沢に入手できた大阪は甘さ控えめ、~昭和初期にかけて砂糖が入手しづらかった東日本
  ほど甘さが強い味付けを好む傾向になっています。
  これは砂糖 (甘い) 物への憧れが長い期間あり、戦後に砂糖が潤沢に使えるようになった時に、その反動から甘い
  味付けをした食文化が現在でも残っているからです。


  ≪ 千歳飴ちとせ-あめは江戸発祥 ≫

  江戸や日本各地に伝わった飴は、庶民の甘味料として定着するとともに、それぞれ独自の発展を遂げました。

  【千年飴】せんねん-あめ
   現今の千歳飴。江戸の風俗として、子供が初めて宮参りする時、必ずこれを買い、親戚・知己ちき (親友や知人) に
   配った。元禄・宝永 (1688~1744) の頃、浅草の飴売七兵衛の命名に基づくという。

  飴の種類も増え、縁日などでも細工飴が売られるようになりました。
  また江戸だけではなく、大坂・京都から日本各地に飴が伝わり、それぞれ独自な飴が作られました。

  不思議草紙~【怪しいおやぢ】の江戸奇譚+α『おまんが飴』 ~江戸の菓子事情(その68)『近世商売尽狂歌合』
   http://ameblo.jp/fushigisoshi/entry-10879897116.html

  ≪おまんが飴 ≫ 詳しくは上記サイトを参照してください。

  1852年の近世商売尽狂歌合きんせ-しょうばいづくし-きょうかあわせ(石塚豊芥子 著)などに記述が
  あるようです。
  もとは屋根職人で、当時は四谷鮫ヶ淵に住んでいたという。 当時はやった物の中では随一である。
  その音声(売り声)、嫌みったらしい身振りはほかに例がない。 芸人、素人、子どもに至るまで、
  これをまねる者が多かった。

  【阿万が飴】おまん-が-あめ 広辞苑
   天保 (1830~1844) の頃、江戸市中に流行した飴売りで、女の身ぶり声色こわいろをつかって
   呼び売りをしたもの。

  コトバンク 『世界大百科事典内のおまんがあめの言及』
阿万が飴 売り

 【あめ売(飴売)】より

  〈ほにほろほにほろ〉とうたったことからの名で,のちに歌舞伎で騎馬武者に扮する役者が肩からつりさげて腰に
  つけた馬のつくり物をこの名で呼ぶようになった。
  文政(1818‐30)初期には〈あんなんこんなん〉と,これもわけのわからぬ文句を節おもしろくうたう唐人あめ売があり,
  〈其音声いやみな身ぶり,また外に類ひなし〉といわれた女装の〈おまんがあめ〉ともども,歌舞伎の所作事にとり入
  れられるほどはやったものであった。
  〈とっかえべえ〉といわれたのは,そう呼び歩いてこわれたなべ釜などとあめを取り替えたもので,正徳年間(1711‐
  16)に紀州道成寺の鐘を造立するために浅草田原町の善右衛門なる者がはじめたといい,のちには古銅や古ぎ
  せるなどと交換して歩く者もあった。… 
※「おまんがあめ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

  【唐人飴】とうじん-あめ
   ① もち米に大麦の萌芽を入れて作った飴。
   ② 文政 (1818~1830) の頃、唐人の衣裳をつけ、唐人笛を吹いて唄ったり踊ったりして商売した飴売り。


  【伊豆七島】いず‐しちとう
   伊豆半島南東方にある大島おおしま・利島としま・新島にいじま・神津島こうづじま・三宅島みやけじま・御蔵島みくらじま
   八丈島はちじょうじまの7島。東京都に属する。
   各島黒潮につつまれ、近海は好漁場。椿油を産出。地下水に乏しく天水を利用する所もある。

  【くさや】
   ムロアジなどを腹開きにし、はらわたなどを入れて熟成させた塩辛い漬け汁に数回つけては日乾しにしたもの。
   独特の強い臭気がある。伊豆諸島産。


  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『この春上京する人に東京を紹介したい件 「もんじゃ焼きをたべてほしい」』 15.03.02 放送 / Wiki もんじゃ焼き

  ≪ 「もんじゃ焼き」 が、中央区月島に集中している理由 ≫

  大正12年(1923年)の関東大震災以降に、東京下町の駄菓子屋に根付いた別名「水焼き」と呼ばれる「もんじゃ焼」。
  東京の開発と共に駄菓子屋が姿を消していきました。月島一帯は交通の利便性が悪かった為、街の発展が遅く
  駄菓子屋が残ったそうです。






  1988年に地下鉄の有楽町線が開通した事で、もんじゃ焼きブームが起こり、他の商店ももんじゃ焼き屋に商売替え
  した結果、現在80軒以上で提供しているそうです。現在、月島で最も古いもんじゃ店は、1954 (昭和29) 年頃創業の
  月島「好美家」。






  ① 具だけを鉄板にのせて、中央を丸くあけてドーナツ状の土手をつくる。
  ② 土手の中に雉をかき混ぜながら、数回に分けて流し入れる。
  ③ 生地が煮立ったら、全体をザッと混ぜる。 ④ 青のりをふって、約1分間待つと完成。

  ※ もんじゃ焼きの別称は「水焼き」。
    ほぼ水状の生地を具と同時に鉄板の上に流し込むと、生地が飛び散り火傷する可能性が高いので大変危険。

  干したイカの耳の部分を薄くスライスした「きりいか」が具材としてよく使われるようです。(和風総本家 17.04.06放送より)

  【月島】つきしま
   東京都中央区南部、隅田川河口部の埋立地。北端部は江戸時代に、他は明治中期以降に埋立。
   中小の工場・倉庫が多い。近年住宅地化が進行。

  【もんじゃ焼き】 百菓辞典
   元来は、水で溶いた小麦粉を焼いただけの素朴なもの。後、小麦粉を水で溶いたベースで鉄板の上に土手を
   つくり、キャベツや牛肉、イカ、その他の具、ソースを混ぜ、焼いて食べるように変化した。
   お好み焼きに似ているが、お好み焼きのように、小麦粉と具を混ぜ合わせてから、鉄板の上に広げて焼き、
   ソースを後で塗って更に焼くのとは、作り方も異なる。
   原形は説いた小麦粉で文字を書き、これを焼いた文字焼とも推測され、もんじやき (文字焼) のなまったものと
   いわれている。お好み焼きより水分が多い (水6対小麦粉1) ので粘り気がなく、まとまりにくいため、かえし
   (はがし) で一文字を書くようにかき取って食べることから、この名がついたと伝えられる。
   また、これを焼ながら子供に文字を書いて教えたことによるともいわれている。
   水に近いくらい小麦粉が薄いため、水焼きの別称もある。
   東京の下町、庶民の味として、大阪のお好み焼きに対比されることが多い。

  ※ もんじゃ焼の名前に由来「文字焼」の内容に関しては、ほぼデタラメだと思って間違いないでしょう。
  江戸時代から、寺子屋などが多数存在して識字率が非常に高かった日本で、こんな事で文字を教える必要性は
  全くないと思われますから。

  日本製粉(株)HP 『こうして生まれた小麦粉料理 「第12回 たこ焼きともんじゃ焼き」』
    http://www.nippn.co.jp/entertainment/know/flour_cooking/detail/1198176_2566.html


  ≪ 駄菓子屋が下町に多かった理由 ≫


 1939 (昭和14) 年出版 小資本開業案内 商店界編輯部 編 誠文堂新光社 (東京・神田) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262951

  P.366~370 「駄菓子店の開業案内

  騒然とした下町のしかも裏街である。そこには、よくもまぁ、こんなにも沢山の子供がどこに住まわっている
  のであらうか! と思われるほど大勢の子供が遊んでいる。こうしたプロ住宅の付近や労働者街には、この子供を
  お得意とする駄菓子屋が、此処かしこに幾多散見するのである。
  両親はいかに節約をしても、子供だけには欲しがるものを与えてやりたいのが、子を持つ親の人情であろう。
  まして、下層階級の子供達の唯一の慰楽は食欲を満足させることである。発育盛りの頑童が、糖分を含んだ
  子には餡駄菓子に対していかに旺盛なる欲念と活発なる情景をもつであろうかは、決して想像に難くはない。
  下町の子供は、山の手の子供と比較して遥かにその購買力が勝っている。だから、古くからの同業者がどれほど
  あろうとも、新しく割り込んでゆける余地は幾らでもある筈だ。…

  東京では、お好み焼き屋は大人向けの店であり、子供向けの駄菓子屋で売っている事は少なかったようです。
  お好み焼きは戦前から日本中に広まっていた 発祥は東京の可能性あり (但しネーミングのみ?)



  ≪ 東京は飯がマズい所で有名だった ≫


  四五日の旅 名所囘遊 1922(大正11)年 裳文閣 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964429 ※1925年の有精堂書店 版もあり
  1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949

 1922 (大正11) 年の『四五日の旅 名所囘遊』(福井県出身・東京在住で日本初のプロ旅行作家とも言われる松川
  二郎 著、東京市の裳文閣 出版、日本各地の旅行記) ※ 原文の旧字はできるだけ現代字に換えてあります。

  「東京見物」P.9 又 宿屋の飯ばかりを食って東京は食物くいもののまずい所だなどと利いた風なことを言うと、
  此方はかまはないが言う者が笑われます。食物の中で東京名物として、普遍的なものは鰻と天ぷらと寿司であろう。

  「大阪見物」p.325食倒れと言われるだけに、大阪には矢張り甘うまいものが多い。料理法にすぐれているのも一つ
  だが、海に臨み川に枕のぞみ山に近くて、一つは材料の豊富なことも興あずかっていよう。
  東京者が羨ましがる第一は川魚料理である。川魚料理は東京にもあるけれど、大阪ほど盛んでなく甘うまくもない、
  殊に橋下ましたに纜ちゃっ船へ行って食う所に一種特別の趣もある。

  鰻は江戸時代から、滋賀県の瀬田鰻、京都の宇治丸など琵琶湖水系が最も評価が高く、江戸の鰻は江戸ッ子が
  勝手に自慢しているだけで他所からの評価は無いようです。品質が悪いので蒸したのです。浅草経済学にも記述あり。
  天ぷらは山東京伝によると大坂から来たものが始めた。握り鮨は堺出身の堺屋松五郎が江戸で超高級寿司を始めた。

  ウナギの蒲焼き 関西風と関東風の境界線 関東の鰻は泥臭いので蒸すようになった
  江戸中期 江戸の蕎麦は味噌つゆ 蕎麦の歴史雑学のページ
  カマボコ・天ぷらの歴史・雑学のページ 昭和初期の東京での野菜の天ぷらの呼び方 キャベツも胡麻油で揚げ物に
  東京の蕎麦屋の「生そば」と書かれた暖簾には意味はない 実はほとんどが二八蕎麦だった
  大阪がうどん文化になったのは、うどん入り茶碗蒸しが原因?
   大坂の苧環蒸し (うどん) → 江戸の小田巻蒸し (うどん・蕎麦) へと変化、鍋焼きうどんも大坂→江戸


 1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版

  この本によると、浅草の食文化は明治10年頃から発達し明治末期までどんどん高級化が進み、大正期に
  かけてアメリカニズムが流行しカフェーなどができ、さらに支那料理が増え一種の革命期があって、見世物・
  食道楽・女の三拍子そろった大衆娯楽の中心地でした。

  第三章 浅草食堂経済組織の変遷 第二、鰻料理の変遷 (二) 浅草鰻料理の経済観 P.150
  浅草に於ける食べ物は、一般に低級でまずいと言われてはいる。又そうした非難をよく聞かされる。が、
  私はその度毎に、不愉快さを感ぜざるを得ない。何故なら、それは皮相の見解で、一面を見て他の一面を見る
  ことを知らないからである。…そう言う連中に限り一山五銭均一ないし十銭均一の大衆食堂にしか這入ったことの
  ない連中である…腹立たしいと言うより、むしろ滑稽である。

  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件
  幕末の守貞幔稿による京坂は薄味で素材の味を大切にする。江戸は甘辛く濃い味で素材の味が損なわれる記述
  東京は味覚音痴が2~3割いる? 塩分味覚チェック 東京VS青森 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人 (東京で調査)

  上記の2冊でも東京人は認めたくない事が分かりますが、全く反論にはなっておらず、名物として紹介されてはいる
  ものの、世間一般の評価では「東京の食べ物は不味い」が定説だったのです。
  当時書かれた小説などにも「食べ物の旨いのは大阪。不味い所は東京。」といった作品があります。

  東京の食べ物が良くなるのは、大阪の多くの企業が本社を東京に移すようになった事、大阪の飲食店が進出
  した事、イタリアンなどが流行った事など、だいたい昭和末期のバブル以降の事です。
  この頃の雑誌やテレビなどによって作られた美食ブームと東京を持ち上げる情報の賜物にすぎません。

  現在では世界各国の料理が集まり、超高級料理店や超高級レストランも多数存在し超一流の料理が味わえますが、
  庶民が普段通えるような飲食店では、地方と比べ高い割に味は普通または普通以下との評判が多いようです。

  東京はやや硬水であり昆布などのダシが出にくいため、ダシの旨味を感じる味覚を持ち、重視できる日本人から
  すると軟水地域の料理の方が美味いと感じるのは当然の事でしょう。
  また料理の技術も劣っていましたので、近年になるまで一流の和食職人になるには京都や大阪の一流料亭で修業
  するのが普通でした。

  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん ← 重要



  TBS ひるおび 『五輪は第2の開国 1964年の東京五輪で生活に変化』 13.09.16 放送   Wiki ひよ子
  Jタウンネット 『ローカルテレビウォッチ 「東京都」』 14.04.08 配信 http://j-town.net/tokyo/gourmet/bbs/123099.html

  ≪ 「ひよ子」は本当に「東京名菓」なのか!? ルーツは福岡で工場は埼玉県 ≫ 福岡で100年、東京では50年の歴史

  関東生まれの和菓子と信じている人も大勢いるだろうが、実は福岡市南区に本社がある「ひよ子本舗吉野堂」が
  開発した商品だ。
  東京デビューしたのは今から50年前の1964年。新宿駅のステーションビルで発売を開始したのを皮切りに、
  2年後には東京駅へ進出した。1988年に分社化したが、同じグループ会社で社長も同一人物が務めている。

  大正1年から販売されている福岡県の博多銘菓「ひよ子」が進出し、1964年の東京五輪を
  機に「東京ひよ子」として販売開始。

  九州工場(福岡県飯塚市)と東京工場 (埼玉県草加市) とで材料も型も全て同じように
  作り出来上がった時は同じ形をしていますが、出荷する2~3日後になると「東京ひよ子」の
  方がずんぐりとした形に変化。

  メーカーでも「気温と湿度の違いだと思いますが、なぜ形が福岡と東京で違うのか分からない。
  不思議ですね。」と答えています。
 


  ひよ子本舗吉野堂 HP  「会社 沿革」 http://www.hiyoko.co.jp/company/history.html


  ≪ すあま ≫ 素甘寿甘  『百菓辞典』

  蒸した上新粉に砂糖を混ぜた後、軽くついて作った餅状の菓子。しん粉餅。
  鳥の子餅として長方形または半卵形に作られる場合と、荒めの竹のすだれで巻き、縦目に筋をつけ、適宜の
  大きさに小口切りしたものとがある。紅白にして祝い事に多く用いられる。
  弘安年間 (1278~1288) に京都の松寿県が創製した「州浜すはま」という豆飴とは別の菓子。






  駄菓子メーカーは東京と大阪に多いようです。

  【甘食】あましょく … 菓子パンの一種、やや甘味のある円錐形のパン。 『百菓辞典』

  関西ではマイナーで、地域や時代によってほぼ同じようなパン (『甘食』という名前ではない事もある。) が売られ
  ているようです。

  新宿 中村屋パン 日本初のクリームパン、日本初の純印度式カリーの発売

  ※ 東日本最大の繁華街の新宿がターミナルとして発展し始めるのは昭和2年頃。
   2015年現在 日本最大の繁華街は、高層ビルの数・地下街の面積・市場規模などで新宿を上回る大阪の
   梅田と言われています。そのため新宿は日本一の歓楽街という事が多い。


  ≪ ホッピー ≫

  1948年の東京・赤坂生まれのビール風のノンアルコールの麦芽発酵飲料 (アルコール分は約0.8%)。
  主に新橋の大衆居酒屋で、焼酎を割る飲料として飲まれたそうです。
  現在も東京を中心とした関東地域の飲食店で飲まれています。


  東京都目黒区HP 『めぐろのさんま』 http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/sanma/

  ≪目黒のさんま ≫  Wiki 目黒のさんま

  江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃

  動画 落語 「目黒の秋刀魚」 三遊亭円楽(五代目) http://www.youtube.com/watch?v=od1f5RxUOvE

  東京の落語で有名な噺 『目黒のさんま』を得意としていたのは、3代目三遊亭金馬 (東京本所 生まれ、1894~
  1964)。落語界の中では秋の噺としてよく知られている噺ですが、成立時期は不明。

  【目黒の秋刀魚】めぐろ‐の‐さんま 落語
   殿様が鷹狩りの途中、目黒の農家で供せられたさんまの美味が忘れられず、後日家臣に所望したところ、蒸して
   脂を抜いたためすこぶるまずく、「さんまは目黒にかぎる」という話。

  殿様が、海と無縁な場所(目黒)でとれた魚の方が美味いと信じ込んでそのように断言する、というくだりが落ちで
  ある。世俗に無知な殿様を風刺する話でもある。この話は創作であって実話でありません


  朝日新聞デジタル 14.09.07 配信 http://www.asahi.com/articles/ASG9631PKG96UJUB003.html

  ≪ 岩手県宮古産のサンマ7千匹、東京・目黒へ ≫

 JR目黒駅前の目黒駅前商店街(東京都品川区)で7日開かれる秋恒例の「目黒のさんま祭り」に、今年も宮古市の
  宮古港に水揚げされたサンマが贈られる。6日午後、146箱計7千匹を積んだトラック便が東京に向け出発した。

  古典落語の「目黒のさんま」にちなんで始まった祭りは今年で19回目。市は1999年の4回目からサンマを届けて
  いる。旬の炭火焼きサンマが無料で味わえるとあって、毎年大勢の都民が詰めかける。

  宮古港では、昨年より1週間早い3日にサンマの初水揚げがあり、6日朝までで計209トンに。北海道根室沖でとれ
  るものがほとんどだが、市水産課の担当者によると「約7割が160グラム以上で、大ぶりな魚体が目立つ」。
  港の加工場では、従業員らが贈答用の箱詰め作業に大忙しだ。

  【宮古市】みやこ
   岩手県東部の市。閉伊へい川の河口、宮古湾に臨み、三陸の主要漁港の一つ。水産加工業も盛ん。人口6万。


  日本テレビ スッキリ !! 『3連休の行列 ①絶品さんまに4時間待ち』 14.09.15 放送

  ≪ 無料サンマを1匹食べる為だけに4時間以上も並ぶ都民、恐るべし ≫

  9月14日に開かれたのは目黒の『SUNまつり』。こちらでは、宮城県気仙沼産の5000匹の秋刀魚が無料で振る舞
  われました。午前9時半スタートで10時頃には1㎞を超える行列ができたそうです。






  10時頃並んだ内藤さん一家がサンマを食べる事ができたのは、午後2時頃。内藤さんは「来年も頑張りたい」そう
  です。


  ≪ 無料のジェラート食べ放題に受付終了後も5時間近く行列が出来る都民、恐るべし ≫

  2015年5月28日(木)に表参道ヒルズで開催されたジェラート博において4時間半から5時間の行列ができ、警察に
  行列を解散するように言われたという情報もあります。

  東洋経済オンラインによると、情報リリースは協会HPとマスコミへの配布程度だったにも関わらずネットの口コミで
  広まり、問い合わせが殺到。
  「本当に無料なんですか」「十分に食べられるのか」などと、確実にジェラートを食べられるかどうかを問い合わせる
  ものが多かったという。

  上記ニュースでは「めったに食べられない貴重な機会だったのだ。」とフォローを入れていますが、東京に出店した
  海外の有名アイスチェーン店の閉鎖が多い事。携帯会社の吉野家やミスドの無料券での飲食日でも行列ができて
  いたなどから考えても、『無料』という理由が最も大きいとしか思えませんけど…。

  こういう東京の現状があるにも関わらず、「大阪はケチ」と言い続けていたり、地方の新規初出店の行列を嘲笑う
  都民の思考回路が理解できません。

  ≪ 東京のグルメは異様 ≫

  東京では世界の130ヶ国以上の料理が食べられるそうです。また地価が異様に高いので、飲食店での価格は
  高い割に内容は残念な事が多い。地方の方が安くて美味しい物が食べられます。『高価=良い物』とは限らない。

  世界最大の東京・築地市場には、高値が付くため日本各地からも高級食材が集まりやすいのは確かですが、
  少量しか採取できないもの、鮮度が保たれないものなどは産地で消費されます。
  また、古くから物流の拠点や消費が多かった大阪の市場にしか入荷しない食材も多いようです。(高級な白身魚に
  多い)。






  色んな食の情報を総合すると、東京では超一流店も多くあり、一見『世界一のグルメの街』に見えますが、日常の
  庶民の食生活のレベルはさほど高くないようです。

  関東が豚肉文化になった理由 ← 東京目線の理由は完全に嘘でした
  東京にう○こ味のカレー専門店 14.5%が行きたい  東京 カエルの活造り  東京 男性器を食べるイベント
  東京湾の実態 東京・関東の水は安全? 千葉県の江戸川水系ヤバすぎ。


  ≪ 行列マーケティング ≫   NHK Eテレ すイエんさー 『どうして行列があると ついつい並んじゃうわけ~』 13.06.04 放送

  東京と違って、大阪や京都は仕掛けられた行列には並びません。
  大阪文化研究家 前垣和義さんによると、『東京は、武士の町 江戸「権威付け」。
  食い倒れの街 大阪は「他にええもんありまっせ」』という分析。

  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん ← 思考の違いに影響 (重要)






  東京福祉大学心理学部の太田信夫 教授によると、
  社会生活をおこなうにあたって、人間関係を良好に保つため、本能的に他の人との同調行動をとりやすいそうです。
  右端の画像は『2枚の写真を比べて、どちらのほうが素敵に見えますか?』という同じ質問を2チームに分かれアン
  ケートを取った結果ですが正反対になっています。
  左のチームはB、右のチームはAのほうにあらかじめシールを数枚だけ貼っておいた事から生じた差です。

  いわゆる印象操作の実験です。
  行列の場合は『並ばないと損をする』『多くの人が並んでいるから、きっと何かいい事がある』
  という損得勘定も働くようです。

  テレビ朝日のくりーむしちゅーのハナタカ!優越感 日本人の3割しか知らないこと 2時間SP
  15年10月18日放送で、くりーむしちゅーの有田さんが、若い頃にやったバイトの話で、
  六本木のホットドッグ店の並ぶサクラのバイトをしていた事を話していました。

  マクドナルドなんかも行列のバイトを雇っていた事がバレた記事も以前にありました。
  


  テレビで紹介されると、どんな物にでも行列ができたり、特定の商品が売り切れる。テレビや雑誌、ネットのステマ
  記事でも鵜呑みにしてしまうなど、情報に操られやすい人が多いのが東京の特徴と言えます。
 
 神奈川県
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『栃木県 県民の日が休みにならない問題』 13.12.23 放送
  読売テレビ 大阪ほんかわテレビ 『日本全国47都道府県 地元で愛される美味しいおやつ博覧会』  14.07.20 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『神奈川県 由比ヶ浜にイイ話があった問題』 14.08.25 放送
  関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 『関西vs全国 色んな小競り合いに決着つけるで! 2時間SP』 16.10.11 放送

  【神奈川県】かながわ
   関東地方の県。武蔵国の一部及び相模国全部を管轄。
   県庁所在地は横浜市。面積2416平方㎞。人口879万
   2千。全19市。

  【横浜市】よこはま
   神奈川県東部の重工業都市。県庁所在地。政令指定
   都市の一つ。東京湾に面し、1859年(安政6)の開港
   以来生糸の輸出港として急激に発展。
   現在、全国一の国際貿易港。人口358万。




  横浜の歴史

  1869年 横浜に日本初のアイスクリーム店
 

  1908(明治41)年刊『明治事物起源』第十類「飲食」牛乳の始の全原文
  横浜のハワイアンタウンにホノルルで人気のマラサダ (揚げパン) 日本初出店
  横浜のラーメン博物館に米国ハリウッドの人気ラーメン店が初出店
  沖縄からの移住者が多い大阪と横浜 知っておきたい沖縄の歴史

  OldPhotosJapan.com 『明治・大正・昭和の古い写真・横浜』 http://www.oldphotosjapan.com/ja/
   http://www.oldphotosjapan.com/ja/location/%E6%A8%AA%E6%B5%9C ↑ 日本各地で撮られた絵葉書用写真と解説


  テレビ東京 たけしのニッポンのミカタ! 『消えてからでは遅い! ニッポンの絶滅危惧を追え! SP 』 14.11.28 放送

  ≪ 横浜名物 崎陽軒の「シウマイ」 ≫

  名物と呼ばれるものが無かった横浜に、昭和3年に崎陽軒が『横浜名物』として開発し売り出したのがシウマイ。






  シウマイの上にはグリーンピース (実えんどう、うすいえんどう) は乗っていませんが、中に練り込んで作られています。
  機械での大量生産の為、グリーンピースが入っていない物や、1つの中に2~3コのグリーンピースが入っている物などが
  あるそうです。






  ショートケーキのイチゴを模して、彩りを添える為にシウマイの上にグリーンピースが1つ乗せているのが定番でしたが、
  近年は好まれず洋食の彩に添えられていたグリーンピースは無くなる傾向にあります。

  【焼売】シューマイ       Wiki 焼売 (しゅうまい)   Wiki 崎陽軒
   (広東音)中国料理。鶏・豚などの挽肉に野菜のみじん切りをまぜて塩・胡椒・砂糖で味をつけ、小麦粉をこねて薄く
   のばした皮に包んで蒸したもの。






  子供の嫌いな野菜ランキング上位のグリーンピースは、大人も嫌いな人が多く消費が減少し国内生産量も輸入量も
  右肩下がり。
  日本一の生産量を誇る和歌山県印南いなみ町でも高齢化が進み後継者不足で栽培する農家が減っています。

  ソースカツ丼と関東絹の道  箱根の黒たまご 1コ食べると7年も寿命が延びる? ゆで卵


  ≪ 横浜市と主要都市の比較 ≫ 

  横浜は市として日本最大の人口を誇りますが、市の面積も広いので、人口密度でみると都会度はずいぶん後退
  します。人口密度が高い横浜市より政令指定都市・中核都市はたくさんあります。

市面積  人 口  人口密度   GDP    Wiki 域内総生産順リスト
 東京23区 623.0 km² 895 万人 14,818 人/km² 92兆 4000億 円 世界 1位
 横浜市 437.5 km² 369 万人 8,500 人/km² 12兆 6000億 円  (東京域内に含む)
 大阪市 225.2 km² 227 万人 11,960 人/km² 18兆 7000億 円 世界 7位
 名古屋市 326.4 km² 200 万人 6,990 人/km² 11兆 8000億 円 世界 18位
 福岡市 343.4 km² 150 万人 4,450 人/km² 6兆 8000億 円 世界 51位
 上海市 5,299 km² 1870 万人 世界 10位
 北京市 1,368.3 km² 2019 万人 世界 13位
 ロンドン 1,577.3 km² 979 万人 世界 5位
 ニューヨーク 789.4 km² 818 万人 50兆円(世界2位) 世界 2位


   ※日本の都市の人口とGDPは 日本テレビ 月曜から夜ふかし 14.10.13 放送 より、他はウィキペディア各都市の記述 より

  明治2年 横浜の馬車道通りで、日本初のアイスクリームを製造販売。
  明治22年、横浜のグランドホテルの支配人兼バーテンダーが日本初のオリジナルカクテル『バンブー』を考案。
  明治43年、11月に横浜で不二家が創業し、その年にクリスマスケーキを発売開始。






  1932~1934 (昭和7~9) 年に東京の有恒社が出版した『明治・大正・昭和歴史資料全集 災害編』P.288~315
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920427/150

  横浜も鎌倉も小田原も関東大震災で壊滅的な被害に遭いますが、当時の大阪朝日新聞の記事によれば、
  横浜港に停泊中だった大阪商船の3隻 (伊太利丸・ぱりい丸・はるびん丸) が、約5000人の横浜市民を救助。
  この際に乗組員1人が波にさらわれ行方不明に。
  横浜から「…飲料水なく危機に瀕しつつあり」との救助要請の無線電報を受け取った九月二日に大阪府知事が
  即時に救援艦の派遣を指示しています。
  九月三日には政府の内務次官から大阪と兵庫に被災者救援の非常徴発令の発布の無線電信を送っています。
  軍では佐世保・呉などの西日本の海軍鎮守府などから救援物資を積んで横須賀へ軍艦が出向しています。


  【川崎市】かわさき
   神奈川県北東部の市。政令指定都市の一つ。北は六郷川(多摩川)を隔てて東京都に、南西は横浜市に隣接。
   海岸に近い地区は京浜工業地帯の一部、内陸地区は住宅地。昔は東海道の宿駅。人口132万7千。






  【鎌倉市】かまくら
   神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・
   長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。

  明治30年に豊島屋が『鳩サブレー』を発売。

  読売テレビ かんさい情ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「高級弁当の代名詞 松花堂弁当の誕生秘話」』 14.04.02 放送

  ≪ 本膳料理の起源は鎌倉ですが、確立したのは京都 ≫  Wiki 本膳料理  大仏と古都鎌倉 3つあった? 鎌倉大仏の謎

  幕の内弁当は、本膳料理の流を汲む弁当れ

  【本膳料理】ほんぜん-りょうり

   正式な日本料理の献立て。室町時代に武家の礼法と
   ともに確立し、江戸時代に内容・形式ともに発達した。

   本膳(一の膳)・二の膳。三の膳から成り、最も鄭重ていちょう
   (礼儀正しく丁寧) な場合には、さらに与の膳・五の膳
   を供する。
 
   一汁三菜 ・ 一汁五菜 ・ 二汁五菜 ・ 二汁七菜 ・ 三汁七菜 ・ 三汁九菜 ・ 三汁一一菜 などの種類がある。

  鎌倉時代の武家の「椀飯」という正月に御家人から将軍に料理を献上する儀式的な料理が本膳料理の起源。
  当初は鯉一匹など簡単な物でした。

  神戸松陰女子学院大学 1975年紀要論文 『家政学よりみた江戸時代 (八)』 下はURLは長いので略、PDFをダウンロードする必要があります。
   https://shoin.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&

 鎌倉時代北條氏は質素な食生活にあまんじ,京都の風に染まなかった。饗応にも,執権が味噌をなめて客にすす
  めた話があるように,極めて簡素なものであった。世俗立要集に「武家肴ノスエヤウ」に,うちあはび,うめぼし,くらげ
  をすえて「承久以後武家ノ肴ノスエヤウヲミルニ如此」とある。

  この話は、吉田兼好の著書 1310~1311年の『徒然草』第215段に書かれた五代執権・北条時頼 (1227~1263)の
  逸話。

  コトバンク 『世俗立要集』    承久は順徳・仲恭・後堀河天皇朝の年号で1219~1222年
  Wiki 北条宣時  ヤフー知恵袋 『鎌倉幕府五代執権・北条時頼には多くの伝説・逸話があると聞きます。教えてください』 より抜粋

 ある夜、一門の若者(北条宣時)が訪ねて来た時、酒を飲もうということになりましたが、「召使いを起こしてはかわい
  そうだ」と言って、若者に「台所に行って、食後の食器に味噌のついているのがあるはずだから取っておいで」と
  いいつけ、その味噌を肴に二人で酒を飲んだという話が徒然草に書かれています(昔は食器は洗わずに次の食事
  のときにまた使ったので、味噌が残っていた)。

  上記の様に、鎌倉幕府では質素倹約を旨としていたので、鎌倉時代の関東において食文化は発達しなかったようです。
  室町時代になり京都に幕府が開かれると、公家文化も融合し料理の品数も増え、料理自体にも派手な工夫が凝らされ
  るようになりました。つまり、本膳料理の起源は鎌倉。発祥は京都という事になります。

  【椀飯・埦飯】おうばん  「椀に盛ってすすめる飯」の事。→ 「饗宴」という意味に。
   ① 平安時代、公卿が殿上に集会した時、一人または数人に命じて衆人を饗応させたこと。
   ② 鎌倉・室町時代、宿将・老臣が毎年正月元日・2日・3日・7日・15日などに、将軍を自分の営中に招いて盛宴を
    張ったこと。

  【椀飯振舞】おうばん‐ぶるまい
   (「大盤振舞」は当て字)江戸時代、民間で、一家の主人が正月などに親類縁者を招き御馳走をふるまったこと。
   転じて一般に、盛大な饗応。

  室町時代、京都に幕府が開かれた事により、公家文化も融合し、料理の品数も増え、料理自体にも派手な工夫が
  凝らされるようになりました。

  室町時代中期頃になると、複雑に発展した本膳料理を専門に調理する「大草流」「進士流」などの流派が確立。

  江戸時代中期になり、さらに料理の内容や形式が発展。
  芝居見物が盛んになり、芝居の幕間に食べる弁当として本膳料理を簡素化し考案されたのが幕の内弁当という説が
  一般的ですが、その他の説も多数あります。 Wiki 幕の内弁当


  ≪ ういろう ≫  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『全国のお土産を調査した件』 13.07.08 放送 

  名古屋名物として知られる『ういろう』の発祥の店は小田原市にあります。
  広辞苑によると、中国からの渡来人の外郎家は博多に住み薬を製造。京都に移住。
  外郎武さんの証言からすると、室町時代に中国からの賓客をもてなす為に作られたので、都があった京都発祥だと
  考えられます。のちに小田原に移り、江戸時代に評判になって全国に知られた菓子。

  しかし、『本朝世事談綺』の記述を発見。草書体なので全て訳せませんが、菓子のういろうは小田原発祥と書かれ
  ているように思います。 くわしくは、中部地方の食文化のページ







 幕末の『守貞謾稿』 上巻 第五編 生業下 「鹽辛賣」 鹽=塩

  網海老 烏賊等の鹽辛漬及び以下 蚫等の粕漬の類を賣る 蓋 此類は相 小田原の名産とす
  又 京坂 鹽魚店にては網鹽辛のみ賣之歟 其他 鹽辛 粕漬等 稀也
  網鹽辛は備前の名産とす 極めて小細の鰕を網と云 網えびの上略也

  「●網海老=あみ? (は「魚」へんに「座」に似た字、IMEには未登録)」「=あみ」「あわび=鮑」「=か?」「=相模」
  「備前=岡山県南東部」「=蝦=海老」

  【醤蝦】あみ
   アミ目の甲殻類の総称。形はエビに似るが小形で、鋏はさみをもたない。体長1㎝内外。海産種が多く、沿岸から
   深海まで約1000種が知られている。釣りのまき餌にするほか、佃煮として食用。コマセアミ、イサザアミなど。
   新撰字鏡[9]「魚へんに「義」、阿弥」

  【上略】じょう-りゃく … 前の文字または字句をはぶくこと。

 
 山梨県
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 13.07.18 放送
  読売テレビ 大阪ほんかわテレビ 『日本全国47都道府県 地元で愛される美味しいおやつ博覧会』  14.07.20 放送
  テレビ東京 歴史の道 歩き旅 『秋の甲州の味覚を満喫する旅「勝沼」』 16.10.27 放送

  日本國誌資料叢書 甲斐 大正15年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←山梨県の歴史資料
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982143

  【山梨県】やまなし
   中部地方南東部、内陸の県。甲斐国を管轄。県庁所在地は甲府市。面積4465平方キロメートル。人口88万5千。全13市。






  【甲府市】
   山梨県中部、甲府盆地北部の市。県庁所在地。戦国時代、武田氏の城下町。のち江戸幕府の幕領。
   水晶細工・葡萄酒などを産する。人口20万。

  1935 (昭和10) 年の国勢調査では、甲府市の人口は82664人と少ないですが人口密度では東京市 (人口1位587.6万人・
  人口密度では6位) に次いで全国7位。

  【甲府勤番】こうふ‐きんばん
   江戸幕府の職名。1724年(享保9)設置。老中の支配に属し、甲府城の守備にあたった。
   これに編入されるのは左遷の意味が強かった。

  【山梨市】 … 山梨県中北部の市。笛吹川上流域にあり、ブドウ栽培が盛ん。人口3万9千。

  【甲斐市】かい 旧国名。いまの山梨県。甲州。
   山梨県中西部の市。釜無川東岸に位置し、信玄堤の遺構がある。ブドウなどの栽培のほか、近年は住宅地化も進行。
   人口7万4千。






  【餺飥】ほうとう(ハクタクの音便)
   生のうどんとカボチャなどの野菜を味噌で煮込んだ料理。また、この料理に使う生のうどんのこと。
   山梨県の郷土料理。古くは唐菓子の一種。

  【月の雫】つき-の-しずく 百菓辞典
   山梨県の名物果実菓子。甲州ぶどうに糖衣を着せたもの。
   ザラメを溶かして練り、加熱して柔らかくした中に生のぶどうを入れ、糖衣をつける。
   生のぶどうを用いるため、販売期間が、9月頃から翌年2~3月頃までに限定される。
   起源には2説ある。
   ① 元禄年間 (1688~1704) から甲府八日町に店を構えた牡丹亭金升が、享保8年
    (1723) 秋、砂糖の蜜煮をしていたところ、棚のぶどうが蜜の中に落ち、拾いあげると

   砂糖の衣は乾いて、珍味だったため、城主 柳沢吉里 (吉保の子) に献じたところ喜ばれ、「月の雫」の銘を賜った。

   ② 甲府の松林軒、3代目音兵衛が、明治10年 (1877) 秋、庭先で砂糖蜜を練っていると、ぶどう棚からぶどうが
    落ちて蜜の中に入ってしまったので、拾いあげておいたところ、砂糖が白く固まり、「月の雫」のように見え、
    おいしくなっていたという。


  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『山梨県民の真実 海無し県 禁断のまぐろ愛』 15.07.30 放送

  ≪ 甲府市はマグロ支出金額2位 ≫

  総務省の家計調査「まぐろの支出金額」では、1位は静岡市、2位は甲府市、3位は年によって横浜市、東京区部、
  前橋市、宇都宮市、浜松市になっています。






  スーパーの刺身陳列ケースの約半分がマグロで、ほぼ毎日食べるので赤身の消費がほとんど。

  山梨県教育庁 文化財指導監の中山誠二さんによると、
   江戸時代に甲府盆地は"魚尻線"と言い、海岸で獲れた鮮魚を運んで販売出来る範囲のちょうど限界点にあった。
   甲州商人が駿河湾で揚がる魚を中道往還を使い馬で運んだ。1匹運べば、たくさん配分出来る大きい魚という事で、
   まぐろの買い付けを行ったので、山梨の内陸地域の中でもマグロが親しまれるようになったそうです。

  補足すると、江戸時代の鮮魚の流通は、生魚が腐るので沿岸部でしか消費できません。
  サバや小魚、マグロのトロの部分も腐りやすい。大きなマグロであれば中心部分は生食が可能だったと推測できます。

  「刺身に醤油をべったり付ける」という習慣も、腐りやすいという事がおおいに関係していると思われます。
  群馬県あたりの内陸ド真ん中になると、海魚の流通がほぼ無かったので、現在でも魚の消費量が少ないそうです。
北海道・東北の食文化 関東・山梨の食文化 中部の食文化 近畿の食文化
中国・四国の食文化 九州・沖縄の食文化 お取り寄せ order
東京付近の歴史 沖縄の歴史 各地の食文化  INDEX
おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
2009.02.17発売
Link Free http://marco4321ice.web.fc2.com/ 
OSAKA HABIKINO IGA 5-9-6  MARCO POLO 取り扱い商品 : アイスクリーム / シャーベット / ザーネアイス / 生チョコアイス / スイートポテト / コーヒーなど
inserted by FC2 system