「柳川鍋」の創始説は
日本橋箔屋町・柳川屋であるとする説
日本橋横山町にあった店であるとする説
浅草千束村の小料理屋であるとする説
本所の鰻屋であるとする説
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「柳川鍋」の名前の由来説は
創始した店の屋号が「柳川」であったことに由来する説
骨抜き泥鰌を売っていた人物が屋号を「柳川」とし、始めた
料理という説
使われた鍋が福岡の柳川焼であったからとする説
鍋にドジョウを並べた姿が柳の葉に似ているからという説
柳川で作られたからという説
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1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)、色んな聞き書きを集めた料理本。
下記リンクPDFでは現代訳されています。
「鯲汁 どぜふを小桶へ入 わらを入て つかめば ぬめり取れる也 扨 白水を能こして 白水にて味噌をたて
白水は余り濃くなき二番ときの水よし 扨 鯲を右の味噌へ水より入て煮 一あわ煮て 牛房を入 又 一あわ煮て 茄子を入煮へ候へば 鯲も煮る也 又 白水にて鯲を湯煮して味噌汁へ うつす法も有 中味味噌 赤味噌 玉味噌の
類よし 山升粉入也」
【白水】しろ-みず … 米をといで白く濁った水。とぎじる。
千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf
1785年(天明5)刊の『萬宝料理秘密箱』前編 (いわゆる「卵百珍」) 著者は京都の器土堂主人。
「卵鰌魚の仕方 一たまごを丼にわりこみ よくよくとき 古酒一合いれ 是をよく合セて 扨 どじやうを二三合
はやく入レ すぐにふたをして 半時ばかりして 右の器ともに せいろうに入レて むすへし
又 外の鍋に うす味噌汁をこしらへ よく煎立して 右のどじやうを小さじにて すくひ椀にいれて 右の汁を
かけ さんせうを そへ出すべし 吸ものに一たんとよし 但し ひえの薬なり」
【冷え】ひ-え 『卵百珍』のレシピ 浅草海苔の記述も複数あり
①ひえること。また、その程度。 ②腰から下の冷える病。
③風疿かざほろしの類 (=発熱のあとに生じる皮膚の発疹。風邪によるものとされた)。瘡毒 (=梅毒)。
人文学オープンデータ共同利用センター 『「万宝料理秘密箱 卵百珍」レシピ一覧』
http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C
『東京年中行事』上の巻 P.311の「駒形のどぜう汁」の記述 1911 (明治44) 年に執筆&出版。
「雷門から南へ次の電車停留場が駒形である。其処の四辻の北の角が、音に名高い駒形のどぜう汁で
薬研堀のそれと盛名を競ふもので有る。
其昔 江戸時代にどぜう屋と云ふ看板を掲げたのは、上の二つと埋堀と中橋のそれとたった四つで有つた。
が後の二つは今では廃業して了(しま)つて、残つた二つの中でも殊に駒形のが知られて居る。
暖簾をくゞつて座敷に上がると、百年紀念 明治四十年十一月と云ふ額が先づ眼につく。
お客はどちかと云へば 勿論 中流以下が多いので有るが 生粋の江戸ッ子や、その道の通人などの間にも なかなか お馴染が少なくない。何はさて置き 値段の安いのが目つけもので、鰌鍋六銭、鰌汁一銭五厘、
お酒七銭 御飯一人前四銭 半人前三銭と云ふ外に、鯨汁二千五厘、鯰鍋汁五銭、鯰汁五銭と云ふのもある。
従つて 鍋と汁とに飯と酒までつけた處(ところ) が二十銭足らず、飯と汁丈(だけ) で すませば高が六七銭で 事が足るので、飯時分前後になると、朝から車夫 行商人を始めとして、色んな種類の人がエンヤエンヤと
詰めかける。
なかには三度が三度此処で一日のお腹をこしらへてる連中も少なくないと云ふのも、満更 嘘では なささうに
思はれる。それにつけても『君は今 駒形あたり どぜう汁』とか何とか、今蜀山人(いましょくさんじん)の
駄洒落れたのは、吉原帰りの通人の立寄るものも少なくないことを示すものでは なからうか。」
「百年紀念」「先づ」「どちかと」などは原文のままですが、旧漢字は面倒なので新漢字にして書き変えました。
【東京年中行事の著者】
若月紫蘭 (本名は若月保治、1879~1962年、山口出身、東京帝大卒)
教育者・記者・劇作家・演劇研究家・浄瑠璃研究家・翻訳家など多方面で活躍しました。
東京は人口の急増した結果、江戸時代末期より、食文化が貧しくなっていったようです。
明治時代の東京は華やかな首都としての歴史が語られますが、一方で二極化が進んでいました。
明治20年代半ばの東京の下層社会の探訪記である『最暗黒の東京』(松原岩五郎 著、岩波文庫)という本が
明治26年に出版されています。 明治時代、残飯屋というのがあった Wiki 松原岩五郎
明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文
「納豆の味が分からないと江戸ッ子ではない」「おかずが要らない」という事なので、明治時代は納豆を非常に
多く食べていた事が分かります。(その分、食文化の発展が遅れるという事にも繋がります)
立派な商家も役人の家でも、汚い身なりの納豆売りを邸内に招き入れ、「腐った豆を旨い」と言う。また「鯛より
マグロの刺し身の方が美しい」と言う江戸ッ子の感覚は理解できない。というような事が書かれてあります。
東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
『東京年中行事』の記述による『初鰹』の由来
1904 (明治34) 年に大阪で出版された『即席料理法 仕出しいらず』(松雲堂編輯所 編、石塚書店 出版) でも
「鰌汁」と「鰌鍋」が載っています。ナマズはカマボコにする方法、鮒フナも7種の料理があります。
≪ 大正時代でも鰌は普通に食べられている食材 ≫
1915 (大正4) 年出版の『三食献立及料理法』(秋穂益実 著、東京割烹女学校出版部) や
1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版) にも 「鰌どじょう汁」が一般的な献立として載っています。
1918 (大正7) 年の『美味くて徳用御飯の炊き方百種』(慶應大学医学部内 食養研究会 編&出版) には
「鰌どじょう飯」「鰌の卵飯」の炊き方が載っています。また「焼鳥飯」は雀やウズラ、ヒバリなどに砂糖醤油を付け
炙った後、包丁でよく叩いて御飯の上に振り掛けたもの。
1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
第三章 浅草食堂経済組織の変遷 第九、特殊な料理を看板とする店 (二) ドジョウ屋老舗しらべ P.237
江戸時代からの駒形のどじょう屋は超有名で宣伝しなくとも1日に5、600人の客がある。
千束町が発展した明治中期頃に開業した富重は、この辺りでは老舗として知られている。
芝崎町の飯田屋は餅屋だったが、明治末期頃にどじょう屋になった。
「此の外にも昔どじょう屋として売り出した店は、決して少なくないが、しかし、今では殆どどじょう専門店の店は
なく、多くは大衆食堂となり、ただ昔を偲ぶ為に、どじょうを売っているに過ぎないと言ったような店が多いのである。」
ドジョウ・ナマズ・鯉・フナなどの川魚は、大正時代に遠洋漁業が発達し、昭和40年代に鮮魚の流通技術が進歩して
いく中で次第に食べられなくなっていったと考えていいでしょう。
同書 (四) 浅草での特種料理の様々 P.238~241では、この本が書かれた昭和の初めに浅草には
「ふぐ料理」「大阪寿司」「釜飯屋」「八ッ目鰻の特売店」などが近年出来た店とあります。 また浅草にはスッポン専門店は無いが看板料理とする店は少なくない、鯛飯を売る店は1軒で需要が少ない。など
と書かれてあります。 同書「大阪寿司は浅草区内にかなりあった」との記述文
即席料理法 仕出しいらず http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849089 三食献立及料理法 家庭和洋保険食料 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954876
三百六十五日毎日のお惣菜 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955371 應用 家事教育書 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926686
應用 家事教育書 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926687
美味くて徳用御飯の炊き方百種 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933202
四五日の旅 名所囘遊 1922(大正11)年 裳文閣 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964429 ※1925年の有精堂書店 版もあり
1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949
東西の丼の違い 牛肉の卵とじ丼は関西では「他人丼」、東京では明治時代「開花丼」ですが大正時代は別の名前で呼ばれていた
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【江戸前】えど‐まえ
①(芝・品川など「江戸前面の海」の意で、ここで捕れる魚を江戸前産として賞味したのに始まる。
鰻
うなぎでは浅草川(隅田川の河口近く)・深川産のものをさす)
②東京湾付近で捕れる魚介類の称。東海道中膝栗毛[発端]「―の魚のうまみに」
③江戸風
ふう。梅暦「―の市隠」
【深川飯】ふかがわ-めし
アサリのむき身とネギを味噌で煮込んだものを、汁とともにかけたどんぶり飯。
また、アサリのむき身を炊き込んだ飯。東京下町の家庭料理。深川は東京都江東区の一地区。もと東京35区の一つ。
1918 (大正7) 年の『美味くて徳用御飯の炊き方百種』 (慶應大学医学部内 食養研究会 編&出版)
P.158には「櫻さくら飯」
「東京邊へんでは茶飯と云ふと、櫻飯を炊く。併しかし他の地方では茶飯と云ふと、茶粥のやうに茶を煎じた汁で
御飯を炊くのである。櫻飯の炊き方は、米一升について、上等の醤油四勺と上酒八勺と、水一升との割合で
炊くのである。」
【茶飯】ちゃ-めし
① 茶葉の煎じ汁で炊いた飯。塩で味をつける。
② 醤油と酒とをまぜて炊いた飯。きがらちゃめし。さくらめし。味付飯。「おでん―」。
1919 (大正8) 年 『家庭経済米の調理法百種 一名・節米の仕方』 (食料研究会 編、東京・協文社出版部)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961509
P.21 年中あるもの 「櫻飯の仕よう」
「是は中位なる蛸魚たこをば、さつと湯煮して足を一本づつ小口より薄く切り、前の飯の仕方のやうに飯の
出来る前、上に置き其後よく混ぜ合はし、鰹節の煮汁だしをかけて、食するものにて、加料やくみは、
前同様にして出すべし。」
P.51 秋の部 「茶飯の炊き方」
「上白米をよくよくとぎ、通常より水を少し減らしてこわめに炊きあげ、釜より飯櫃めしびつに移しながら挽茶を
むらなく散布するなり、而しかし茶は余り多からぬをよしとす、汁は薄醤油にて按排あんばいすべし」
この本は「鱧飯」「かゆ」各種などもあり、関西での飯類を多く参考にしたものと思います。
1764 (宝暦14・明和元年) 刊の『料理珍味集』(著者は博望子はくぼうし、出版地は京都)
書の冒頭には、宝暦13年末、華文軒主人の文字が書かれてあります。1749年の『料理山海郷』の続編で、
料理山海郷では園趣堂主人のペンネームを使っています。
巻之三には「酒飯」と「醤油飯」が載っています。この時代の醤油の普及からすれば上方の料理です。
「酒飯」には醤油も使われており、この「酒飯」から酒を抜いたものが「醤油飯」で「茶飯むと言う事が書かれて
あります。
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佃煮、築地は、大坂の佃村の森一族が江戸に移り住んだ事から
江戸や関東の魚の流通システムを確立したのは大坂商人。魚河岸の問屋は大坂の摂津系問屋が牛耳っていました。
江戸の天ぷら 「天ぷら」と名付けたのは山東京伝? 江戸の天ぷらは大坂人が始めた? ウナギの蒲焼き 関西風と関東風の境界線 関東の鰻は泥臭いので蒸すようになった
鴨南蛮そば 葱の歴史 京都の「九条ねぎ」も江戸のねぎも大坂がルーツ と 鴨なんばの謎 大阪がうどん文化になったのは、うどん入り茶碗蒸しが原因?
大坂の苧環蒸し (うどん) → 江戸の小田巻蒸し (うどん・蕎麦) へと変化、鍋焼きうどんも大坂→江戸
東京 『有楽町で逢いましょう』 町名の由来は、信長の弟 織田有楽斎から
大阪のお笑い文化 上方落語 大坂の落語家が江戸へ落語を伝えた。
明治時代のアイドルとミスコン 竹本綾之助、洗い髪のお妻 、松旭斎天勝、末弘ヒロ子 東京の凌雲閣で日本初のミスコン開催。 近年まで、堺・泉州のアナゴが名産地として全国的有名だった 養殖で復活へ
≪ 佃煮 ≫ つくだに
海産物を砂糖と醤油で甘辛く煮付けた食べ物の事。
保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには
参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰った
ため、全国に広まったとされます。
現在のような醤油を使用した「佃煮」が江戸時代のいつ頃から
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食べられていたかは不明。通説では森一族の保存食ですが最初。上方では江戸時代以前から醤油はありましたが、
広く普及するのは元禄期。
醤油使用の佃煮は江戸で始まったとみるのが正しいようですが、江戸で醤油が広く普及するのは、文化・文政期。
とはいえ、将軍家に献上していた物なので、江戸初期からあったとも考えられます。諸説は
Wiki 佃煮をご覧下さい。
【葱鮪】ねぎ‐ま
葱と鮪
まぐろの肉とを鍋で煮ながら食べる料理。ねぎまなべ。季語は冬。
三遊亭円朝、真景累ヶ淵「寒い時分の事だから―抔などは上等で」
≪ 江戸の味は甘辛い濃ゆい味 ≫ 画像 テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『美味しい日本橋SP』 13.10.19 放送 などより
有史以来、最も繁栄してきた近畿地方。特に江戸時代には、『天下の台所』と呼ばれた大坂には日本中の食材が
集まってきました。
一方、関東は、近畿と比べると歴史も浅いし、寒い。保存食が発達。納豆に代表される発酵食品、塩蔵食品(塩辛い)を
食べることが多いので当然、塩分を多く摂る食事内容になります。
昭和70年代半ば頃、冷蔵庫が普及するまでは濃い味付けでした。
東京日本橋には、そんな江戸時代の味を現在にも残す店がたくさんあります。
1924(大正13)年創業の お多幸本店には、真っ黒な汁の「純関東風おでん」。
江戸末期の1850(嘉永3)年創業の弁松総本店など。
「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件
カップ麺、おでんの味つけレシピ、食文化の歴史背景、日本人の平均塩分摂取量の推移、都道府県別 塩分摂取量で
多角的に検証しました。
ついでに、NHKのタイムスクープハンターの内容 「鰻の蒲焼き と タレのしょうゆ」の内容についても検証しておきました。
東京は味覚音痴が2~3割いる? 塩分味覚チェック 東京VS青森 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人 (東京で調査)
月曜から夜ふかし 歴史も恥も知らない日テレ・スタッフ、またも嘘報道
こちらのページでは東京の偏向報道や嘘、パクリの実体がわかるページへのリンクがあります。
東征伐、熊襲征伐と三韓征伐 古墳時代の大和政権から見た蝦夷人の性質、この時代の蝦夷は関東も含む。
仕出し弁当 日本橋 弁松総本店 HP http://www.benmatsu.com/namirokulp/
『薄口がもてはやされる時代の中で、異彩を放つ弁松の濃ゆい味。これは、創業当時から
変わらぬ味です。
この味の理由は、「もともと日持ちさせるために濃くした」「肉体労働に耐えられるようカロリーを
高くするために濃くした」「砂糖が高価な時代に江戸っ子は見栄を張って沢山入れた」
「江戸っ子は中途半端な味ではなくはっきりとした味を好んだ」などと言われています。
江戸庶民が舌鼓を打った味を、現代でどうぞお楽しみください。
創業約160年、甘辛く・濃ゆい江戸日本橋の味を守り続ける、知る人ぞ知る日本初の仕出し
弁当専門店です。』
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家康が作らせた江戸甘味噌 寿司の歴史と雑学 江戸前ちらし寿司は明治以降につくられたもの
江戸時代の肉食事情 江戸では犬が居ないと言われた。 明治時代初期の東京府のウサギ・バブル
江戸中期 江戸の蕎麦は味噌つゆ 大阪発祥の紅ショウガの天ぷら 東京では『都電名物』として販売。 大阪がうどん文化になったのは、うどん入り茶碗蒸しが原因?
大坂の苧環蒸し (うどん) → 江戸の小田巻蒸し (うどん・蕎麦) へと変化、鍋焼きうどんも大坂→江戸 江戸発祥の今川焼 全国の呼び名の由来
カマボコ・天ぷらの歴史・雑学のページ 昭和初期の東京での野菜の天ぷらの呼び方 キャベツも胡麻油で揚げ物に お好み焼きは戦前から日本中に広まっていた 発祥は東京の可能性あり (但しネーミングのみ?)
【米饅頭】よね-まんじゅう 百菓辞典
米粉で作った皮であんを包んだもので、大福餅に近い。江戸時代の慶安門館(1648~52)に、浅草待乳山聖天
宮門前の鶴屋という菓子店が売り出したのが始まりとされる。江戸の人気菓子。
【幾代餅・幾世餅】いくよもち 百菓辞典 元禄時代に売り出された江戸名物菓子のひとつ。切り餅を焼いて小豆あんをまぶしたもの。
吉原の遊女の幾代が、車力頭だった喜兵衛に身請けされて夫婦となり、元禄17年(1704)、両国橋に小松屋という
菓子屋を開き、幾代の名をつけた餅を、自ら焼いて1つ5文で売り出したところ評判となり、店が繁盛した。
この話は、落語や滑稽本の題材になっている。
【ちちらあと】 百菓辞典
南蛮菓子。ゴマ入りの有平糖。氷砂糖を煮詰めて、黒ゴマを入れ、冷やしてから板の上で延ばし、さまざまな形に
小さく切ったもの。「ちちらと」「ししらと」「ちぢら糖」「しじら糖」などの異称がある。
延宝年間 (1673~81) に「ちぢら糖」は両国名物になった。
【雷おこし】かみなり-おこし 百菓辞典 おこし
浅草雷門で売っているおこし。内容は普通のおこしと変わらないが、食べてももたれないのが特徴という。
もたれないのは、磯部鉱泉の水を使っているためと伝えられている。
【紅梅焼き】こうばい-やき 百菓辞典
小麦粉に米の粉を混ぜ、卵、砂糖を加え、こねて固め、薄く延ばして、梅の花形に抜き、油を引いた鉄板の上で
焼いたせんべい。安政時代、浅草寺の境内にあった梅林堂が焼いて売り出したものと言われている。
【式菓子】しき-がし 引菓子のこと。
百菓辞典
慶事・仏事などの儀式に用いる菓子の意。「ひきがし」の発音が、東京方言のなまりで「しきがし」となり、
定着してしまったのではないかという説もある。
【人形焼き】にんぎょう-やき 百菓辞典
浅草名物の焼き菓子。小麦粉に、砂糖、卵、牛乳を入れて練った種を、型に流し、中にあんを入れて、焼いたもの。
人形の顔の形や、花などさまざまな型がある。同種のものに、広島の「もみじまんじゅう」がある。
江戸の
長命寺の桜餅は元々は糯米で作っていたが、しだいに製法を変えた事が『
嬉遊笑覧』に書かれてあります。
1717年の誕生説は怪しい。『
嬉遊笑覧』の記述を普通に解釈すると1817年頃の誕生と推測できます。
長命寺桜餅の発祥年が怪しい 嬉遊笑覧によると1800年代か100年のサバ読み?
浅草名物の登場年数も通説と違う記述を発見 紅梅焼き・雷おこしも明治初期の登場か? 江戸の淡雪豆腐ができたのは享保年間 発祥年代の誤魔化しが判明
『東京年中行事』上の巻 P.307の「桃太郎團子」の記述原文 漢字、ふりがな ほぼ原文通り。
「市内の方々に、暖簾の印に桃太郎の繪をかいて昔團子とか桃太郎團子と記した團子屋が有る。
女子供や下戸通の間には至って有名なもので、本店は向島の言問團子ことゝひだんごと共に有名な團子屋
淺草藏前の桃太郎で有る。方々に在るのは皆 其 支店分店で有つて、丁度十二軒ある。
本店は屋號やごうを美濃屋と云つて、開業以来百年以上を經過し、朝から晩まで殆ど客足の絶えたことの
ないと云ふ位。
團子には餡を塗つたのと附け燒やけとの二種が有り、今は傍ら お汁粉と雑煮と餅菓子を商つて居る。」
「團子=団子」「繪=絵」
『東京年中行事』上の巻 P.308の「おしる粉」の記述内容の抜粋要約
男女とも外出すると何処かに立ち寄り、外食しないと外出したような気にならないと言う。
お汁粉屋では馬車も立ち寄り、女性が1~2時間居るのは珍しい事ではない。
市内で有名なお汁粉屋を挙げてみると、新橋では、萩の餅で名高い大坂屋、十二ヶ月と名を付けた十二色の
お汁粉がある時雨庵。
浅草では団子が有名な福ぼたん、公園裏の松邑まつむら、仲見世の梅園、茅町の大和屋、下谷では常盤屋と、
不忍餅と蓮の粉で名のある氷月庵。粟善哉の元祖である日本橋の梅園、竃河岸へっついがしの甘泉堂かんせんどう
が、甘党の間には広く知られている。
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NHK Eテレ グレーテルのかまど 『幸田文の花見だんご』 14.03.14 放送
小説家 幸田露伴の次女で、随筆家・小説家の幸田
文あや(1904~1990、明治37年の東京向島生まれ育ち)。
右は江戸時代からの味を続けている日暮里にある
老舗の団子。
幸田文が64才の時に書いた随筆『花見だんご』は
幼少期の思い出を書いたもの。
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「お団子は、その堤に花どきだけ店を出す、よしず張りの掛茶屋さんがどこでも置いていた。田舎風な大振りな串団子で
あまり甘くない餡だった。焼団子のほうは、(中略) 少し焦げて醤油の染みた旨さは無類、子供達は大好きだった。(中略)
私は、その甘さで育ったのである。」
明治時代は砂糖がまだ高価な時代なので、砂糖を多く使えず甘さが少なかったと考えられます。
現在、江戸時代に砂糖が潤沢に入手できた大阪は甘さ控えめ、~昭和初期にかけて砂糖が入手しづらかった東日本
ほど甘さが強い味付けを好む傾向になっています。
これは砂糖 (甘い) 物への憧れが長い期間あり、戦後に砂糖が潤沢に使えるようになった時に、その反動から甘い
味付けをした食文化が現在でも残っているからです。
≪ 千歳飴ちとせ-あめは江戸発祥 ≫
江戸や日本各地に伝わった飴は、庶民の甘味料として定着するとともに、それぞれ独自の発展を遂げました。
【千年飴】せんねん-あめ
現今の千歳飴。江戸の風俗として、子供が初めて宮参りする時、必ずこれを買い、親戚・知己
ちき (親友や知人) に
配った。元禄・宝永 (1688~1744) の頃、浅草の飴売七兵衛の命名に基づくという。
飴の種類も増え、縁日などでも細工飴が売られるようになりました。
また江戸だけではなく、大坂・京都から日本各地に飴が伝わり、それぞれ独自な飴が作られました。
不思議草紙~【怪しいおやぢ】の江戸奇譚+α『おまんが飴』 ~江戸の菓子事情(その68)『近世商売尽狂歌合』
http://ameblo.jp/fushigisoshi/entry-10879897116.html
≪おまんが飴 ≫ 詳しくは上記サイトを参照してください。
1852年の近世商売尽狂歌合きんせ-しょうばいづくし-きょうかあわせ(石塚豊芥子 著)などに記述が
あるようです。
もとは屋根職人で、当時は四谷鮫ヶ淵に住んでいたという。 当時はやった物の中では随一である。
その音声(売り声)、嫌みったらしい身振りはほかに例がない。 芸人、素人、子どもに至るまで、
これをまねる者が多かった。
【阿万が飴】おまん-が-あめ 広辞苑
天保 (1830~1844) の頃、江戸市中に流行した飴売りで、女の身ぶり声色こわいろをつかって
呼び売りをしたもの。
コトバンク 『世界大百科事典内のおまんがあめの言及』
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阿万が飴 売り
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『【あめ売(飴売)】より
…
〈ほにほろほにほろ〉とうたったことからの名で,のちに歌舞伎で騎馬武者に扮する役者が肩からつりさげて腰に
つけた馬のつくり物をこの名で呼ぶようになった。
文政(1818‐30)初期には〈あんなんこんなん〉と,これもわけのわからぬ文句を節おもしろくうたう唐人あめ売があり,
〈其音声いやみな身ぶり,また外に類ひなし〉といわれた女装の〈おまんがあめ〉ともども,歌舞伎の所作事にとり入
れられるほどはやったものであった。
〈とっかえべえ〉といわれたのは,そう呼び歩いてこわれたなべ釜などとあめを取り替えたもので,正徳年間(1711‐
16)に紀州道成寺の鐘を造立するために浅草田原町の善右衛門なる者がはじめたといい,のちには古銅や古ぎ
せるなどと交換して歩く者もあった。… ※「おまんがあめ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
』
【唐人飴】とうじん-あめ
① もち米に大麦の萌芽を入れて作った飴。
② 文政 (1818~1830) の頃、唐人の衣裳をつけ、唐人笛を吹いて唄ったり踊ったりして商売した飴売り。
【伊豆七島】いず‐しちとう
伊豆半島南東方にある大島
おおしま・利島
としま・新島
にいじま・神津島
こうづじま・三宅島
みやけじま・御蔵島
みくらじま・
八丈島
はちじょうじまの7島。東京都に属する。
各島黒潮につつまれ、近海は好漁場。椿油を産出。地下水に乏しく天水を利用する所もある。
【くさや】
ムロアジなどを腹開きにし、はらわたなどを入れて熟成させた塩辛い漬け汁に数回つけては日乾しにしたもの。
独特の強い臭気がある。伊豆諸島産。
日本テレビ 月曜から夜ふかし 『この春上京する人に東京を紹介したい件 「もんじゃ焼きをたべてほしい」』 15.03.02 放送 / Wiki もんじゃ焼き
≪ 「もんじゃ焼き」 が、中央区月島に集中している理由 ≫
大正12年(1923年)の関東大震災以降に、東京下町の駄菓子屋に根付いた別名「水焼き」と呼ばれる「もんじゃ焼」。
東京の開発と共に駄菓子屋が姿を消していきました。月島一帯は交通の利便性が悪かった為、街の発展が遅く
駄菓子屋が残ったそうです。
1988年に地下鉄の有楽町線が開通した事で、もんじゃ焼きブームが起こり、他の商店ももんじゃ焼き屋に商売替え
した結果、現在80軒以上で提供しているそうです。現在、月島で最も古いもんじゃ店は、1954 (昭和29) 年頃創業の
月島「好美家」。
① 具だけを鉄板にのせて、中央を丸くあけてドーナツ状の土手をつくる。
② 土手の中に雉をかき混ぜながら、数回に分けて流し入れる。
③ 生地が煮立ったら、全体をザッと混ぜる。 ④ 青のりをふって、約1分間待つと完成。
※ もんじゃ焼きの別称は「水焼き」。
ほぼ水状の生地を具と同時に鉄板の上に流し込むと、生地が飛び散り火傷する可能性が高いので大変危険。
干したイカの耳の部分を薄くスライスした「きりいか」が具材としてよく使われるようです。
(和風総本家 17.04.06放送より)
【月島】つきしま
東京都中央区南部、隅田川河口部の埋立地。北端部は江戸時代に、他は明治中期以降に埋立。
中小の工場・倉庫が多い。近年住宅地化が進行。
【もんじゃ焼き】 百菓辞典
元来は、水で溶いた小麦粉を焼いただけの素朴なもの。後、小麦粉を水で溶いたベースで鉄板の上に土手を
つくり、キャベツや牛肉、イカ、その他の具、ソースを混ぜ、焼いて食べるように変化した。
お好み焼きに似ているが、お好み焼きのように、小麦粉と具を混ぜ合わせてから、鉄板の上に広げて焼き、
ソースを後で塗って更に焼くのとは、作り方も異なる。
原形は説いた小麦粉で文字を書き、これを焼いた文字焼とも推測され、もんじやき (文字焼) のなまったものと
いわれている。お好み焼きより水分が多い (水6対小麦粉1) ので粘り気がなく、まとまりにくいため、かえし
(はがし) で一文字を書くようにかき取って食べることから、この名がついたと伝えられる。
また、これを焼ながら子供に文字を書いて教えたことによるともいわれている。
水に近いくらい小麦粉が薄いため、水焼きの別称もある。
東京の下町、庶民の味として、大阪のお好み焼きに対比されることが多い。
※ もんじゃ焼の名前に由来「文字焼」の内容に関しては、ほぼデタラメだと思って間違いないでしょう。
江戸時代から、寺子屋などが多数存在して識字率が非常に高かった日本で、こんな事で文字を教える必要性は
全くないと思われますから。
日本製粉(株)HP 『こうして生まれた小麦粉料理 「第12回 たこ焼きともんじゃ焼き」』
http://www.nippn.co.jp/entertainment/know/flour_cooking/detail/1198176_2566.html
≪ 駄菓子屋が下町に多かった理由 ≫
1939 (昭和14) 年出版 小資本開業案内 商店界編輯部 編 誠文堂新光社 (東京・神田) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1262951
P.366~370 「駄菓子店の開業案内」
「騒然とした下町のしかも裏街である。そこには、よくもまぁ、こんなにも沢山の子供がどこに住まわっている
のであらうか! と思われるほど大勢の子供が遊んでいる。こうしたプロ住宅の付近や労働者街には、この子供を
お得意とする駄菓子屋が、此処かしこに幾多散見するのである。
両親はいかに節約をしても、子供だけには欲しがるものを与えてやりたいのが、子を持つ親の人情であろう。
まして、下層階級の子供達の唯一の慰楽は食欲を満足させることである。発育盛りの頑童が、糖分を含んだ
子には餡駄菓子に対していかに旺盛なる欲念と活発なる情景をもつであろうかは、決して想像に難くはない。
下町の子供は、山の手の子供と比較して遥かにその購買力が勝っている。だから、古くからの同業者がどれほど
あろうとも、新しく割り込んでゆける余地は幾らでもある筈だ。…」
東京では、お好み焼き屋は大人向けの店であり、子供向けの駄菓子屋で売っている事は少なかったようです。
お好み焼きは戦前から日本中に広まっていた 発祥は東京の可能性あり (但しネーミングのみ?)
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≪ 東京は飯がマズい所で有名だった ≫
四五日の旅 名所囘遊 1922(大正11)年 裳文閣 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964429 ※1925年の有精堂書店 版もあり
1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949
1922 (大正11) 年の『四五日の旅 名所囘遊』(福井県出身・東京在住で日本初のプロ旅行作家とも言われる松川
二郎 著、東京市の裳文閣 出版、日本各地の旅行記) ※ 原文の旧字はできるだけ現代字に換えてあります。↓
「東京見物」P.9 「…又 宿屋の飯ばかりを食って東京は食物くいもののまずい所だなどと利いた風なことを言うと、
此方はかまはないが言う者が笑われます。食物の中で東京名物として、普遍的なものは鰻と天ぷらと寿司であろう。」
「大阪見物」p.325「食倒れと言われるだけに、大阪には矢張り甘うまいものが多い。料理法にすぐれているのも一つ
だが、海に臨み川に枕のぞみ山に近くて、一つは材料の豊富なことも興あずかっていよう。
東京者が羨ましがる第一は川魚料理である。川魚料理は東京にもあるけれど、大阪ほど盛んでなく甘うまくもない、
殊に橋下ましたに纜ちゃっ船へ行って食う所に一種特別の趣もある。…」
鰻は江戸時代から、滋賀県の瀬田鰻、京都の宇治丸など琵琶湖水系が最も評価が高く、江戸の鰻は江戸ッ子が
勝手に自慢しているだけで他所からの評価は無いようです。品質が悪いので蒸したのです。浅草経済学にも記述あり。
天ぷらは山東京伝によると大坂から来たものが始めた。握り鮨は堺出身の堺屋松五郎が江戸で超高級寿司を始めた。
ウナギの蒲焼き 関西風と関東風の境界線 関東の鰻は泥臭いので蒸すようになった 江戸中期 江戸の蕎麦は味噌つゆ 蕎麦の歴史雑学のページ
カマボコ・天ぷらの歴史・雑学のページ 昭和初期の東京での野菜の天ぷらの呼び方 キャベツも胡麻油で揚げ物に
東京の蕎麦屋の「生そば」と書かれた暖簾には意味はない 実はほとんどが二八蕎麦だった 大阪がうどん文化になったのは、うどん入り茶碗蒸しが原因?
大坂の苧環蒸し (うどん) → 江戸の小田巻蒸し (うどん・蕎麦) へと変化、鍋焼きうどんも大坂→江戸
1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
この本によると、浅草の食文化は明治10年頃から発達し明治末期までどんどん高級化が進み、大正期に
かけてアメリカニズムが流行しカフェーなどができ、さらに支那料理が増え一種の革命期があって、見世物・
食道楽・女の三拍子そろった大衆娯楽の中心地でした。
第三章 浅草食堂経済組織の変遷 第二、鰻料理の変遷 (二) 浅草鰻料理の経済観 P.150
「浅草に於ける食べ物は、一般に低級でまずいと言われてはいる。又そうした非難をよく聞かされる。が、
私はその度毎に、不愉快さを感ぜざるを得ない。何故なら、それは皮相の見解で、一面を見て他の一面を見る
ことを知らないからである。…そう言う連中に限り一山五銭均一ないし十銭均一の大衆食堂にしか這入ったことの
ない連中である…腹立たしいと言うより、むしろ滑稽である。」
「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件
幕末の守貞幔稿による京坂は薄味で素材の味を大切にする。江戸は甘辛く濃い味で素材の味が損なわれる記述
東京は味覚音痴が2~3割いる? 塩分味覚チェック 東京VS青森 甘味や苦み認識できない日本人が3人に1人 (東京で調査)
上記の2冊でも東京人は認めたくない事が分かりますが、全く反論にはなっておらず、名物として紹介されてはいる
ものの、世間一般の評価では「東京の食べ物は不味い」が定説だったのです。
当時書かれた小説などにも「食べ物の旨いのは大阪。不味い所は東京。」といった作品があります。
東京の食べ物が良くなるのは、大阪の多くの企業が本社を東京に移すようになった事、大阪の飲食店が進出
した事、イタリアンなどが流行った事など、だいたい昭和末期のバブル以降の事です。
この頃の雑誌やテレビなどによって作られた美食ブームと東京を持ち上げる情報の賜物にすぎません。
現在では世界各国の料理が集まり、超高級料理店や超高級レストランも多数存在し超一流の料理が味わえますが、
庶民が普段通えるような飲食店では、地方と比べ高い割に味は普通または普通以下との評判が多いようです。
東京はやや硬水であり昆布などのダシが出にくいため、ダシの旨味を感じる味覚を持ち、重視できる日本人から
すると軟水地域の料理の方が美味いと感じるのは当然の事でしょう。
また料理の技術も劣っていましたので、近年になるまで一流の和食職人になるには京都や大阪の一流料亭で修業
するのが普通でした。
朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん ← 重要
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TBS ひるおび 『五輪は第2の開国 1964年の東京五輪で生活に変化』 13.09.16 放送 Wiki ひよ子
Jタウンネット 『ローカルテレビウォッチ 「東京都」』 14.04.08 配信 http://j-town.net/tokyo/gourmet/bbs/123099.html
≪ 「ひよ子」は本当に「東京名菓」なのか!? ルーツは福岡で工場は埼玉県 ≫ 福岡で100年、東京では50年の歴史
関東生まれの和菓子と信じている人も大勢いるだろうが、実は福岡市南区に本社がある「ひよ子本舗吉野堂」が
開発した商品だ。
東京デビューしたのは今から50年前の1964年。新宿駅のステーションビルで発売を開始したのを皮切りに、
2年後には東京駅へ進出した。1988年に分社化したが、同じグループ会社で社長も同一人物が務めている。
大正1年から販売されている福岡県の博多銘菓「ひよ子」が進出し、1964年の東京五輪を
機に「東京ひよ子」として販売開始。
九州工場(福岡県飯塚市)と東京工場 (埼玉県草加市) とで材料も型も全て同じように
作り出来上がった時は同じ形をしていますが、出荷する2~3日後になると「東京ひよ子」の
方がずんぐりとした形に変化。
メーカーでも「気温と湿度の違いだと思いますが、なぜ形が福岡と東京で違うのか分からない。
不思議ですね。」と答えています。
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ひよ子本舗吉野堂 HP 「会社 沿革」 http://www.hiyoko.co.jp/company/history.html
≪ すあま ≫ 素甘、
寿甘 『百菓辞典』
蒸した上新粉に砂糖を混ぜた後、軽くついて作った餅状の菓子。しん粉餅。
鳥の子餅として長方形または半卵形に作られる場合と、荒めの竹のすだれで巻き、縦目に筋をつけ、適宜の
大きさに小口切りしたものとがある。紅白にして祝い事に多く用いられる。
弘安年間 (1278~1288) に京都の松寿県が創製した「州浜
すはま」という豆飴とは別の菓子。
駄菓子メーカーは東京と大阪に多いようです。
【甘食】あましょく … 菓子パンの一種、やや甘味のある円錐形のパン。
『百菓辞典』
関西ではマイナーで、地域や時代によってほぼ同じようなパン (『甘食』という名前ではない事もある。) が売られ
ているようです。
新宿 中村屋パン 日本初のクリームパン、日本初の純印度式カリーの発売
※ 東日本最大の繁華街の新宿がターミナルとして発展し始めるのは昭和2年頃。
2015年現在 日本最大の繁華街は、高層ビルの数・地下街の面積・市場規模などで新宿を上回る大阪の
梅田と言われています。そのため新宿は日本一の歓楽街という事が多い。
≪ ホッピー ≫
1948年の東京・赤坂生まれのビール風のノンアルコールの麦芽発酵飲料 (アルコール分は約0.8%)。
主に新橋の大衆居酒屋で、焼酎を割る飲料として飲まれたそうです。
現在も東京を中心とした関東地域の飲食店で飲まれています。
東京都目黒区HP 『めぐろのさんま』 http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/sanma/
≪目黒のさんま ≫ Wiki 目黒のさんま
江戸各地に魚市場が出来たのは、江戸時代中期1721 (享保6) 年頃
動画 落語 「目黒の秋刀魚」 三遊亭円楽(五代目) http://www.youtube.com/watch?v=od1f5RxUOvE
東京の落語で有名な噺 『目黒のさんま』を得意としていたのは、3代目三遊亭金馬 (東京本所 生まれ、1894~
1964)。落語界の中では秋の噺としてよく知られている噺ですが、成立時期は不明。
【目黒の秋刀魚】めぐろ‐の‐さんま 落語。
殿様が鷹狩りの途中、目黒の農家で供せられたさんまの美味が忘れられず、後日家臣に所望したところ、蒸して
脂を抜いたためすこぶるまずく、「さんまは目黒にかぎる」という話。
殿様が、海と無縁な場所(目黒)でとれた魚の方が美味いと信じ込んでそのように断言する、というくだりが落ちで
ある。世俗に無知な殿様を風刺する話でもある。
この話は創作であって実話でありません。
朝日新聞デジタル 14.09.07 配信 http://www.asahi.com/articles/ASG9631PKG96UJUB003.html
≪ 岩手県宮古産のサンマ7千匹、東京・目黒へ ≫
『JR目黒駅前の目黒駅前商店街(東京都品川区)で7日開かれる秋恒例の「目黒のさんま祭り」に、今年も宮古市の
宮古港に水揚げされたサンマが贈られる。6日午後、146箱計7千匹を積んだトラック便が東京に向け出発した。
古典落語の「目黒のさんま」にちなんで始まった祭りは今年で19回目。市は1999年の4回目からサンマを届けて
いる。旬の炭火焼きサンマが無料で味わえるとあって、毎年大勢の都民が詰めかける。
宮古港では、昨年より1週間早い3日にサンマの初水揚げがあり、6日朝までで計209トンに。北海道根室沖でとれ
るものがほとんどだが、市水産課の担当者によると「約7割が160グラム以上で、大ぶりな魚体が目立つ」。
港の加工場では、従業員らが贈答用の箱詰め作業に大忙しだ。
』
【宮古市】みやこ
岩手県東部の市。閉伊
へい川の河口、宮古湾に臨み、三陸の主要漁港の一つ。水産加工業も盛ん。人口6万。
日本テレビ スッキリ !! 『3連休の行列 ①絶品さんまに4時間待ち』 14.09.15 放送
≪ 無料サンマを1匹食べる為だけに4時間以上も並ぶ都民、恐るべし ≫
9月14日に開かれたのは目黒の『SUNまつり』。こちらでは、宮城県気仙沼産の5000匹の秋刀魚が無料で振る舞
われました。午前9時半スタートで10時頃には1㎞を超える行列ができたそうです。
10時頃並んだ内藤さん一家がサンマを食べる事ができたのは、午後2時頃。内藤さんは「来年も頑張りたい」そう
です。
≪ 無料のジェラート食べ放題に受付終了後も5時間近く行列が出来る都民、恐るべし ≫
2015年5月28日(木)に表参道ヒルズで開催されたジェラート博において4時間半から5時間の行列ができ、警察に
行列を解散するように言われたという情報もあります。
東洋経済オンラインによると、
『情報リリースは協会HPとマスコミへの配布程度だったにも関わらずネットの口コミで
広まり、問い合わせが殺到。
「本当に無料なんですか」「十分に食べられるのか」などと、確実にジェラートを食べられるかどうかを問い合わせる
ものが多かったという。
』
上記ニュースでは「めったに食べられない貴重な機会だったのだ。」とフォローを入れていますが、東京に出店した
海外の有名アイスチェーン店の閉鎖が多い事。携帯会社の吉野家やミスドの無料券での飲食日でも行列ができて
いたなどから考えても、
『無料』という理由が最も大きいとしか思えませんけど…。
こういう東京の現状があるにも関わらず、「大阪はケチ」と言い続けていたり、地方の新規初出店の行列を嘲笑う
都民の思考回路が理解できません。
≪ 東京のグルメは異様 ≫
東京では世界の130ヶ国以上の料理が食べられるそうです。また地価が異様に高いので、飲食店での価格は
高い割に内容は残念な事が多い。地方の方が安くて美味しい物が食べられます。『高価=良い物』とは限らない。
世界最大の東京・築地市場には、高値が付くため日本各地からも高級食材が集まりやすいのは確かですが、
少量しか採取できないもの、鮮度が保たれないものなどは産地で消費されます。
また、古くから物流の拠点や消費が多かった大阪の市場にしか入荷しない食材も多いようです。(高級な白身魚に
多い)。
色んな食の情報を総合すると、東京では超一流店も多くあり、一見『世界一のグルメの街』に見えますが、日常の
庶民の食生活のレベルはさほど高くないようです。
関東が豚肉文化になった理由 ← 東京目線の理由は完全に嘘でした
東京にう○こ味のカレー専門店 14.5%が行きたい 東京 カエルの活造り 東京 男性器を食べるイベント
東京湾の実態 東京・関東の水は安全? 千葉県の江戸川水系ヤバすぎ。
≪ 行列マーケティング ≫ NHK Eテレ すイエんさー 『どうして行列があると ついつい並んじゃうわけ~』 13.06.04 放送
東京と違って、大阪や京都は仕掛けられた行列には並びません。
大阪文化研究家 前垣和義さんによると、『東京は、武士の町 江戸「権威付け」。
食い倒れの街 大阪は「他にええもんありまっせ」』という分析。
朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん ←
思考の違いに影響 (
重要)
東京福祉大学心理学部の太田信夫 教授によると、
社会生活をおこなうにあたって、人間関係を良好に保つため、本能的に他の人との同調行動をとりやすいそうです。
右端の画像は『2枚の写真を比べて、どちらのほうが素敵に見えますか?』という同じ質問を2チームに分かれアン
ケートを取った結果ですが正反対になっています。
左のチームはB、右のチームはAのほうにあらかじめシールを数枚だけ貼っておいた事から生じた差です。
いわゆる印象操作の実験です。
行列の場合は『並ばないと損をする』『多くの人が並んでいるから、きっと何かいい事がある』
という損得勘定も働くようです。
テレビ朝日のくりーむしちゅーのハナタカ!優越感 日本人の3割しか知らないこと 2時間SP
15年10月18日放送で、くりーむしちゅーの有田さんが、若い頃にやったバイトの話で、
六本木のホットドッグ店の並ぶサクラのバイトをしていた事を話していました。
マクドナルドなんかも行列のバイトを雇っていた事がバレた記事も以前にありました。
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テレビで紹介されると、どんな物にでも行列ができたり、特定の商品が売り切れる。テレビや雑誌、ネットのステマ
記事でも鵜呑みにしてしまうなど、情報に操られやすい人が多いのが東京の特徴と言えます。