手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本の歴史雑学 5 鎌倉~室町時代
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

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このページの最終更新日:   19.10.10
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  Page Contents



 日野富子 私利私欲で蓄財する悪女ではなかった?  7/3情報追加。

 建武・南北朝時代 と 管領と四職 など、各所に加筆

 足利尊氏の3人の息子たち 長門探題 直冬、 第2代将軍 義詮、 初代の鎌倉公方 基氏

 室町幕府 細川 管領家 父 勝元は超グルメ、 弟 政元は本気で天狗になろうと禁欲した。 姉 洞松院はブサイクという理由で・・・


 清和源氏ゆかりの多田神社 と 満願寺

 清和源氏の略系図

 源頼朝と鎌倉幕府の成立
  頼朝・政子夫妻と長女 大姫、
  頼朝の墓は江戸時代に薩摩藩主 島津重豪が建てた。

 北条政子
  悪女扱いされたのは江戸時代になってから、それまでは高評価
  されていた。

 義経の妾 静御前

 大仏と古都 鎌倉 
  鎌倉大仏は3つあった? 鶴岡八幡宮の池の意味。
  北鎌倉の寺と禅宗。 一遍上人と「おしゃぶき様」。

 2代将軍 源頼家と比企一族 北条氏の陰謀

 藤原頼経 鎌倉幕府 第4代将軍

 北条氏 (鎌倉幕府執権) の略系図 桓武平氏系?

 吉田兼好の徒然草から学ぶ人生訓

 鎌倉幕府滅亡 北条仲時 430人が切腹し、14才の武者もいた。


 建武・南北朝時代

 足利氏 (室町幕府) の略系図 清和源氏系
  お風呂でお尻を掻き過ぎて死んだ将軍がいた。

 足利尊氏の意外な素顔
  尊氏は、事あるごとに切腹したがった
  美男子を大将とした着飾ったイケメン部隊を敵陣に送り込んだ

 日本史上 最高の権力者と言われる 足利義満
  日本の芸能を広げた。

 一休宗純 ドスケベなポエムを多く残した一休さん
  ♪ 好き 好き 好き 好き エロ好き、一休さん ♫ いっ きゅう さん ♪
  18.02.24追記

 奈良絵本と御伽草子
  室町~江戸時代初期が中心、昔話が絵本となる。

  おすすめサイト 歴史の雑学が色々と載っています。
  株式会社まぼろし 歴史雑談録 http://rekishi.maboroshi.biz/about/
  歴史研究所 『日本史』 http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
  こはにわ歴史堂のブログ http://ameblo.jp/kohaniwa/  ← 朝日放送 コヤブ歴史堂「こはにわ先生」の浮世博史さんのブログです。

  ≪ 公家の官位 くわしいサイト ≫
  ヤフー知恵袋 公家の官位 08.12.28 配信 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1221768252
  信長研究所 『集会室6付録 「官位相当表」』  http://www.nobunaga-lab.com/hall/furoku/kanisoutouhyou.html

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

  
 清和源氏 ゆかりの 多田神社 と 満願寺
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 西国三十三所めぐり 奮闘編⑧』 14.01.23 放送

  ≪ 多田神社 ≫

  平安時代の970年、摂津国 (兵庫県川西市) に清和天皇系 (多田) 源氏の祖である源満仲が創建。清和源氏発祥の地。





  多田神社の宝物殿には、満仲の長男 源頼光が鬼退治に使用したという「鬼切丸」という宝刀などがあります。
   ※ 江戸幕府の徳川氏は源氏の新田氏系を名乗っただけで、実際には関係ない説が有力です。







  ≪ 満願寺 ≫

  奈良時代の724年、聖武天皇の命により建立。清和源氏の祈願寺とされていました。
  下の珍しい中国風の仁王門は明治14年に建てられ廃仏毀釈の折に、多田神社から仁王像が移されました。
  満願寺には、桃山時代に描かれた大江山鬼退治絵巻10m×4巻があります。
  また源氏縁の寺なので、坂田金時の墓所もあります。






  【酒呑童子・酒顛童子】しゅてん‐どうじ
   鬼のすがたをまねて財を掠かすめ婦女子を掠奪した盗賊。丹波国大江山や近江国伊吹山に住んだといい、大江山のは
   源頼光が四天王と共に退治したという。絵巻・御伽草子・草双紙・浄瑠璃・歌舞伎などの題材となる。

  【坂田公時】さかた‐の‐きんとき 
   (俗に金時とも書く)平安後期の武士。源頼光四天王の一人とされる。幼名、金太郎。相模国足柄山の山姥と赤竜との
   子と伝える。21歳の時、頼光に見出され、頼光の没後、行方不明という。
   その童姿は強健と武勇の象徴。五月人形に作られ、歌舞伎では怪童丸の名で登場。

  【渡辺綱】わたなべ‐の‐つな (953~1025) 日本全国の渡辺さんの発祥地
   平安中期の武人。源頼光の四天王の一人。嵯峨源氏から出て、摂津渡辺に住んだ。頼光に従い、洛北の
   市原野いちはらので鬼同丸を、大江山で酒呑童子を殺し、また羅生門の鬼を退治したという伝説がある。

  【碓井貞光】うすい‐さだみつ (954~1021)
    平安中期の武士。源頼光の四天王の一人。

  【卜部季武】うらべ‐の‐すえたけ (950~1022)
    源頼光四天王の一人。六郎また勘解由かげゆと称する。酒顛童子討伐で有名。
  
 清和天皇の流れを汲む源氏 源氏の本流 武家の棟梁 である 清和源氏の略系図


  【赤糸縅大鎧】 
   八幡太郎 義家が春日大社に奉納した飾鎧 (国宝)
     詳しくは、飛鳥・奈良時代 春日大社


  【源氏八領鎧】げんじ‐はちりょう‐の‐よろい
   源頼義・義家の頃より源氏に代々伝えられた八種の鎧。源氏の八甲はちこう
   産衣うぶぎぬ・薄金うすかね・楯無たてなし・膝丸ひざまる・八竜・沢瀉おもだか・月数つきかず・日数ひかずの総称。

   清和天皇】せいわ‐てんのう 名は惟仁これひと。水尾帝。(850~880)。 第55代 文徳天皇の第4皇子。母は藤原明子。
   平安前期の第56代天皇(在位858~876)。幼少のため外祖父藤原良房が摂政となる。仏道に帰依し、
   879年(元慶3)落飾。法諱は素真。

  【源経基】みなもと-の-つねもと(~961) 清和天皇の第6皇子 貞純親王の長子。
   平安中期の貴族・武人。はじめ経基王。六孫王と称されたが、源姓を賜り清和源氏の祖となる。
   和歌をよくした。平将門の反乱を通報、のち小野好古おののよしふるに従って藤原純友を滅ぼした。

  【源満仲】みつなか(912~997) 摂津多田源氏の祖。 経基の長子。
   平安中期の武将。鎮守府将軍。武略に富み、摂津多田に住んで多田氏と称し、
   多数の郎党を養い、清和源氏の基礎を固めた。

  【源頼光】よりみつ(948~1021) 摂津多田源氏 満仲の長男。
   摂津などの国司を歴任。左馬権頭。
   勇猛で、大江山の酒呑童子征伐の伝説や土蜘蛛伝説で知られる。
    四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井うすい貞光・卜部うらべ季武)。


  【源頼信】よりのぶ(968~1048) 摂津多田源氏 満仲の3男。
   鎮守府将軍。兵法に通じ武勇で名高く、平忠常の乱を平定し、美濃守。晩年、河内守となり、河内源氏の祖

  【源頼義】よりよし(988~1075) 河内源氏 頼信の長男。
   平安中期の武将。父と共に平忠常を討ち、相模守。後に陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子を討ち、伊予守。
   東国地方に源氏の地歩を確立。晩年剃髪して世に伊予入道という。

  【源義家】よしいえ(1039~1106) 河内源氏 頼義の長男。京都の石清水八幡で元服したことから八幡太郎と号す。
   幼名、不動丸・源太丸。
   平安後期の武将。武勇にすぐれ、和歌も巧みであった。前九年の役には父とともに陸奥の安倍貞任を討ち、
   陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定。東国に源氏勢力の根拠を固めた。「武家の棟梁」と呼ばれた。

  【源義光】よしみつ (1045~1127)河内源氏 頼義の3男。
   平安後期の武将。新羅しんら明神の社前で元服し新羅三郎という。知謀に富み弓をよくし、笙しょうに長じた。
   後三年の役に兄 義家が出征すると、官を辞してその後を追い武功をたて、のち刑部少輔。
   佐竹氏・武田氏・小笠原氏などの祖

  【源為義】ためよし(1096~1156) 河内源氏 義親の子。
   平安末期の武将。検非違使となって六条判官と称される。保元の乱に崇徳上皇の白河殿を守ったが、敗れて斬られた。

  【源頼政】よりまさ(1104~1180) 摂津源氏の源仲政の長男。
   白河法皇に抜擢され兵庫つわもの‐ぐら(武器庫)の頭。保元・平治の乱に功をたてた。
   剃髪して世に源三位げんさんみ入道と称す。
   後に以仁王を奉じて平氏追討を図ったが、敗れて宇治平等院で自殺。
   歌に秀で、家集「源三位頼政集」がある。宮中で鵺ぬえを退治した話は有名。

  【源義朝】よしとも(1123~1160) 河内源氏 為義の長男。 頼朝の父
   下野守。保元の乱に後白河天皇方に参加し、白河殿を陥れ、左馬頭となったが、
   清盛と不和となり、藤原信頼と結んで平治の乱を起こし、敗れて尾張に逃れ、
   家人の長田忠致おさだただむねに殺された。


  【常盤御前】ときわ-ごぜん (生没年未詳) 義経の母
   平安末期の女性。もと近衛天皇の皇后九条院の雑仕。源義朝の妾となり、今若・乙若・牛若を生む。
   平治の乱に義朝敗死後、大和に隠れたが、六波羅に自訴、子供の命乞いのため平清盛の妾となり、
   のち藤原長成に嫁した。

  【後白河天皇】ごしらかわ‐てんのう(1127~1192)名は雅仁まさひと。 鳥羽天皇の第4皇子。
   平安後期の天皇(在位1155~1158)。即位の翌年、保元の乱が起こる。二条天皇に譲位後、5代34年にわたって院政。
   1169年(嘉応1)法皇となり、造寺・造仏を盛んに行い、今様を好んで「梁塵秘抄」を撰す。

  【源為朝】ためとも(1139~1170) 河内源氏 為義の8男。
   豪勇で、強弓をもって名高い。九州に勢力を張り、鎮西八郎と称す。
   保元の乱には崇徳上皇方につき、敗れて伊豆大島に流罪。のち、工藤茂光の討伐軍と戦って自殺。

  【源行家】ゆきいえ (~1186) 河内源氏 為義の10男。
   平安末期の武将。熊野新宮に住み新宮十郎と称し、のち十郎蔵人。
   以仁王の令旨を奉じて義仲と共に平氏と戦い、のち義経と共に頼朝追討を図ったが、和泉で殺された。

  【保元の乱】ほうげん‐の‐らん 保元元年(1156)7月に起こった内乱。
   皇室内部では崇徳上皇と後白河天皇と、摂関家では藤原頼長と忠通との対立が激化し、崇徳・頼長側は源為義、
   後白河・忠通側は平清盛・源義朝の軍を主力として戦ったが、崇徳側は敗れ、上皇は讃岐に流された。
   この乱は武士の政界進出の大きな契機となったといわれる。

  【平治の乱】へいじ‐の‐らん 平治元年(1159)12月に起こった内乱。
   藤原通憲(信西)対藤原信頼、平清盛源義朝の勢力争いが原因で、信頼は義朝と、通憲は清盛と組んで
   戦ったが、源氏は平氏に破れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で長田忠致ただむねに殺された。


  【源頼朝】よりとも(1147~1199) 河内源氏 鎌倉幕府初代将軍(在職1192~1199)。武家政治の創始者
   義朝の第3子。母は由良御前。
   平治の乱に伊豆に流されたが、1180年(治承4)以仁王の令旨を奉じて平氏追討の兵を挙げ、石橋山に敗れた後、
   富士川の戦に大勝。鎌倉にあって東国を固め、幕府を開いた。
   弟 範頼・義経をして源義仲、続いて平氏を滅亡させた。その後守護・地頭の制を定め、右近衛大将、
   92年(建久3)征夷大将軍となった。






  【以仁王】もちひと‐おう (1151~1180) 後白河天皇の第3皇子。三条宮。高倉宮。
   1180年(治承4)源頼政と謀り、諸国の源氏を誘って平氏討伐を企てたが発覚し園城寺に逃れ、奈良への途中、
   山城国の光明山鳥居前で戦死。


  【源義仲】よしなか(1154~1184)朝日将軍木曽義仲。 為義の孫。 頼朝の従兄弟
   2歳の時、父 義賢よしかたが義平に討たれた後、木曾山中で育てられ、木曾次郎
   (義仲)という。
   1180年(治承4)以仁王もちひとおうの令旨を奉じて挙兵。平通盛らを越前に破り、
   平維盛を礪波山となみやまに夜襲し、平氏を西海に走らせて京都に入り、1184年
   (寿永3)征夷大将軍に任ぜられたが、範頼・義経の軍と戦って敗れ、近江粟津で戦死。

  木曽義仲の墓は滋賀県大津市の義仲ぎちゅう寺にあります。すぐ隣に松尾芭蕉の墓。
  江戸時代の俳諧の神様とも言われる松尾芭蕉は木曽義仲と西行を敬愛していました。
  芭蕉は大阪の本町辺りで亡くなりますが、遺言により義仲寺に埋葬されました。
  芭蕉が生前によく訪れていた義仲寺は、現在では俳句ファンの聖地になっているそうです。

  【巴御前】ともえ-ごぜん (生没年未詳) 木曾の豪族 中原兼遠の女むすめ。今井兼平の妹。
   平安末期・鎌倉初期の女性。武勇すぐれた美女で、源義仲の愛妾、また武将として最後
   まで随従。義仲の戦死後は和田義盛に嫁し、その敗死後、尼となって越中に赴いたという。

  むかしばなし あさひ将軍木曽義仲 http://www.youtube.com/watch?v=V7Tl9EcyBfU




  Wiki 木曽義仲  Wiki 巴御前
  富山県県庁HP 『「まんがでわかる 義仲・巴と越中武士団』 http://www.pref.toyama.jp/cms_sec/1002/kj00010314.html






  【源範頼】みなもと‐の‐のりより (生没年未詳) 義朝の6男。頼朝の弟。
   遠江の蒲御厨かばのみくりやに生まれ、蒲の冠者蒲殿という。
   兄 頼朝の挙兵を助け、弟 義経と協力して義仲を討ち、平家を一谷・壇ノ浦に破った。
   のち頼朝に疑われ、伊豆の修禅寺に流された。

  【源義経】よしつね(1159~1189)幼名は牛若。 義朝の9男。頼朝の異母兄弟
   九郎判官義経
   7歳で鞍馬寺に入り、次いで陸奥の藤原秀衡ひでひら の許に身を寄せたが、
   1180年(治承4)兄頼朝の挙兵に応じて源義仲を討ち、さらに平氏を一谷・屋島・
   壇ノ浦に破った。
   しかし頼朝の許可なく検非違使・左衛門尉に任官したことから不和となり、再び
   秀衡に身を寄せ、秀衡の死後、その子 泰衡に急襲され、衣川の館に自殺。
   薄命の英雄として伝説化される。
    義経の四天王(鎌田盛政・鎌田光政・佐藤継信・佐藤忠信)。


  【源頼家】よりいえ (1182~1204) 頼朝の長子母は北条政子
   鎌倉幕府第2代将軍(在職1202~1203)。北条氏に強請されて将軍職を弟実朝に譲り、舅の比企能員と結んで
   北条氏を除こうとして、伊豆修禅寺に幽閉され、やがて北条時政らに殺された。

  【源実朝】さねとも(1192~1219) 頼朝の次子母は北条政子。幼名、千幡。
   鎌倉幕府第3代将軍(在職1203~1219)。歌人。後に右大臣。作歌には万葉調の佳作が多い。家集「金槐和歌集」。
   鶴岡八幡宮の境内で兄 頼家の子 公暁に殺された。

  【公暁】くぎょう(1200~1219) 2代将軍 源頼家の子。頼朝の孫
   父の死後、鶴岡八幡宮別当。
   父の仇を報いると称して、伯父の源実朝を八幡宮の社前に斬り、三浦義村を頼ったが殺された。


  【惣領制】そうりょう‐せい
   鎌倉時代、分割相続で分立した一族が惣領(嫡子)の統制のもとに結集する在地領主の同族結合形態。
     財産は、分割相続して集団で統治
   室町期には、くずれてしだいに嫡子ちゃくし(跡継ぎ)の単独相続制に移行した。 財産は、跡継ぎ一人が多く相続する。


  ≪ 名馬「いけずき」 ≫ Wiki 生食 (ウマ)

  「いけずき」誕生地の伝承地は北海道~鹿児島まで40ヵ所くらいにあるようです。

  【宇治川の先陣】うじがわ‐の‐せんじん
   1184年(寿永3)木曾義仲が源義経を防いだ宇治川の合戦で、義経勢の佐々木高綱・
   梶原景季がそれぞれ源頼朝から与えられた名馬生唼いけずき(「生食」「池月」などとも書く)・
   磨墨するすみに乗って先陣を争ったこと。「平家物語」などに描かれる。

  詳しくは、下記のサイトなどでご覧ください。


  公益法人 大倉精神文化研究所 『横浜市港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)「第91回 神様になった名馬「いけずき」』
   http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/kouhoku_rekishi_bunka/kouhoku91/

  馬込文学マラソン 『信濃前司行長らの『平家物語』を読む 「獰猛さの勝利(池月vs磨墨)」』
   http://www.designroomrune.com/magome/s/shinanozenji/shinanozenji.html

  【佐々木高綱】ささき‐たかつな(近江源氏の一族、~1214)四郎と称。
   鎌倉初期の武士。源頼朝の家人。1180年(治承4)石橋山の戦に殊功を立て、宇治川の戦に梶原景季と先陣を争い、
   名馬いけずきに乗り第一となる。のち剃髪して高野に入り、西入と号したという。

  【村上天皇】むらかみ‐てんのう名は成明なりあきら。(926~967) 第60代 醍醐天皇の第14皇子。
   平安中期の第62代の天皇(在位946~967)。親政を志向、後世、天暦の治と称される。日記「天暦御記」。

  【村上源氏】
   村上天皇の子孫から出た源氏。源師房もろふさ に始まる。清和源氏とともに著名で、院政期以後の朝廷に活躍。
   久我こが・土御門つちみかど・六条・岩倉・北畠などの諸家に分かれる。

  【源師房】もろふさ 初名は資定。(1008~1077)。 具平ともひら親王(村上天皇の皇子)の長子。
   平安中期の貴族。文をよくし、和歌に長じた。源姓を賜り(村上源氏)、藤原頼通の猶子ゆう‐し(養子)となり、
   累進して内大臣・右大臣。日記「土右記」、土御門右大臣。
 
 源頼朝 と 鎌倉幕府 成立
  NHK 大阪・横浜  歴史秘話ヒストリア 『愛と哀しみの鎌倉!武家の古都はこうして生まれた』 12.11.28 放送
   動画 → http://v.youku.com/v_show/id_XNDgxNDYyODE2.html?from=y1.2-1-87.3.4-2.1-1-1-3 中国のYOUKUという動画サイトです。
  テレビ朝日 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『木曽義仲』 13.12.08 放送
  朝日放送 ビーバップ ハイヒール 『衝撃の歴史ミステリー ! ~アノ偉人たちの別人伝説~』 14.02.20 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『鎌倉幕府の誕生』 14.06.27 放送

  【鎌倉時代】かまくら‐じだい
   源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、1333年(元弘3)北条高時の滅亡に至るまで約150年間の称。


  ≪ 源頼朝 と 北条政子 ≫  Wiki 源頼朝

  源頼朝は、河内源氏直系の源義朝の三男として、1147(久安3)年に尾張国熱田(現在の
  名古屋市熱田区)に生まれます。母は熱田神宮大宮司 藤原季範の娘の由良御前。

  平安時代の1159(平治元)年に起こった平治の乱により、平清盛に敗れた父や兄たちは
  殺されますが、まだ13才だった頼朝は、清盛の継母 池禅尼の嘆願などにより死罪を免れ
  伊豆の流刑となりました。


  【平治の乱】へいじ‐の‐らん
   平治元年(1159)12月に起こった内乱。
   藤原通憲(信西)対 藤原信頼、平清盛 対 源義朝の勢力争いが原因で、信頼は義朝と、通憲は清盛と組んで戦ったが、
   源氏は平氏に破れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で長田忠致ただむねに殺された。

  頼朝は流刑となりましたが、頼朝が挙兵するまでの間、
  頼朝の乳母であった比企尼 (武蔵国比企郡の代官で、
  藤原秀郷の流れを汲む一族である比企掃部允の妻)
  などの比企一族と、母 (由良御) の弟の僧侶の祐範
  (ゆうはん / すけのり、生没年未詳)の仕送りを受け
  比較的不自由なく生活できていたらしいです。


  31歳の時、頼朝監視の任に当たっていた北条時政の長女である21歳の政子と出会います。

  北条時政は山木兼隆に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送りますが、政子はその夜の内に抜け出し、駆け落ちのような
  かんじで、頼朝の妻となりました。

  1180年(治承4)年4月、後白河法皇の皇子である以仁王が
  平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発しました。

  しばらく様子を見ていた頼朝ですが、8月に挙兵し、北条
  時政ら共に伊豆国韮山にある山木兼隆 (桓武平氏大掾
  氏の庶流和泉守・平信兼の子)の目代屋敷を襲撃して
  兼隆を討ち取り伊豆を制圧しました。


  この時、元婚約者の山木兼隆を討つ事に政子も賛成したそうです。

  【目代】もく‐だいめ‐しろ
   平安・鎌倉時代、国守の代理となって任国に赴き、事務を取り扱った役人。代官。

  わずか数十人の北条氏と共に挙兵した頼朝は関東各地を転戦。2ヶ月足らずのうちに数万の関東武士を従え、
  鎌倉に入ります。鎌倉は周囲を山と海に囲まれ防御に優れた土地なので、ここを本拠地と定めました。

  【伊東祐親】いとう‐すけちか(~1182)
   平安後期の武士。工藤の一族。河津二郎と称した。曾我兄弟の祖父。
   平氏に仕え、伊豆に流された源頼朝を監視、石橋山の戦にこれを追撃。のち頼朝に捕らえられ自刃。

  【曾我物語】そがものがたり
   軍記物語。12巻(真字本10巻)。作者は僧か。原作は鎌倉時代に成るか。曾我兄弟の生い立ちから敵討に至る
   次第を叙したもの。愛読され後代に大きな影響を与えた。


  ≪ 夫妻の長女 大姫 ≫ Wiki 大姫

  1178(治承2)年(頼朝32才、政子22才)の頃、夫妻に長女の
  大姫が生まれます。
   ※ 大姫とは「長女」の意味で、名前ははっきり分からないらしいです。
     二女は「三幡」とされてます。



  



  一家が鎌倉に移り住んですぐの頃、大姫の婚約者として木曽義高がやってきます。義高は、頼朝の従兄弟である
  木曽(源) 義仲の子で、実際には鎌倉側に差し出された人質でした。






  1183 (寿永2) 年7月、木曽義仲が各地で平氏を破り京都まで攻め上りました。

  平家物語によると、
  義仲は田舎武士の恰好で宮中に行くわけにもいかないので、公家スタイルに着替えましたが、烏帽子のかぶり方から
   紐の結び方まで限りなくダサい。牛車に乗り込むと牛が暴走し、牛車の中で仰向けになり蝶のように手足をバタバタして
   起き上がれなかったなど、「乱暴で粗雑な田舎もん」と書かれてあります。






  【源義仲】よしなか(1154~1184)朝日将軍木曽義仲。 為義の孫。 頼朝の従兄弟
   2歳の時、父 義賢よしかたが義平に討たれた後、木曾山中で育てられ、木曾次郎(義仲)という。
   1180年(治承4)以仁王もちひとおうの令旨を奉じて挙兵。平通盛らを越前に破り、平維盛を礪波山となみやまに夜襲し、
   平氏を西海に走らせて京都に入り、1184年(寿永3)征夷大将軍に任ぜられたが、範頼・義経の軍と戦って敗れ、
   近江粟津で戦死。

  どこまで事実か分かりませんが、義仲の事を非常に悪く書かれてあるそうです。というのも、
  京の治安を守るべき義仲の兵たちが都で乱暴な振舞いをしており、貴族からかなり嫌われていたからのようです。

  詳しくはの津幡町 製作のフラッシュアニメ動画 (30分) をご覧ください。
  むかしばなし あさひ将軍木曽義仲 http://www.youtube.com/watch?v=V7Tl9EcyBfU  Wiki 木曽義仲  Wiki 巴御前




  やがて朝廷と義仲は対立関係になり、朝廷は頼朝に義仲追討を命じます
  1184年、義仲が征夷大将軍に任命されますが、同年1月、義経の活躍した鎌倉軍が義仲軍に圧勝します。
  父親の義仲が負戦死した事で、鎌倉に居た大姫の婚約者の木曽義高は人質としての価値を失い難しい立場に追い
  込まれました。






  義高を生かしておくと、後に敵となる可能性が高い。しかし、愛娘が未来の夫として義高を慕っている。
  頼朝は2ヶ月以上処分を決めかねていたそうです。

  1184年4月、義高の身を案じた大姫が、義高に女性の姿をさせ密かに鎌倉から信濃へ逃がす段取りをしました。
  義高が地元に戻ると、やがて信濃の武士を結集し、父の仇討を名分に鎌倉に攻め込んでくる可能性が高くなります。
  数日後、鎌倉の追手に捕まった義高は斬首。頼朝は義仲の領地まで勢力を拡大することが出来ました。

  しかし、義高の死を知った大姫はショックのあまり体調を崩し、飲食を絶ち寝込みます。
  その後、何年経っても大姫の体調は回復しません。縁談を持ちかけますが、大姫は「そのような事をすれば、深い淵に
  身を沈めて命を絶ちます」と言います。

  そこで、頼朝は究極の結婚相手なら申し分ないだろうと、武士の娘が天皇に嫁いだ例はほとんどありませんが、
  後鳥羽天皇との結婚を強引に推し進めようとしました。
  1197 (建久8) 年、大姫の体調が悪化し、20才前後の若さで亡くなります。






  鎌倉市北部の常楽寺の境内の裏山に、大姫の墓と伝わる姫塚と義高の墓と伝わる木曽塚があるそうです。


  ≪ 鎌倉幕府の成立は1185年? ≫ 守護・地頭を置いた時が鎌倉幕府の成立か?

  【鎌倉幕府】
   鎌倉に開いた日本最初の武家政権。始期については1183年(寿永2)、1185年(文治1)など
   諸説がある。源氏将軍は3代で絶え、その後北条氏が権を握ったが、1333年(元弘3)滅ぶ。

  近年の教科書では、鎌倉幕府の成立は、頼朝が征夷大将軍に任命された1192年ではなく、
  守護・地頭を設置した1185年「いい箱つくろう鎌倉幕府」と教えているそうです。

  【守護】しゅ‐ご
   鎌倉・室町幕府の職名。1185年(文治1)源頼朝が勅許を得て国々に設置し、大番の催促、
   謀叛人・殺害人の追捕などに当たらせたもの。
   もとは国司の公事、地頭の所務などに干渉することを禁じられていたが、権力拡張の結果、
   次第に任国を領国化していった。守護職。

  【大番役】おおばん‐やく
   平安・鎌倉時代、宮廷や幕府の警護をつとめた役。鎌倉幕府のもとでは、守護を指揮者
   として国ごとに御家人に賦課した。




  【地頭】じ‐とう
   ① 平安時代、荘園の領主が土地管理のために現地に置いた荘官。

   ② 鎌倉・室町幕府の職名。1185年(文治1)源頼朝が、行家・義経を
    捕らえる名目で、勅許を得て各地の荘園・公領に置いた職。
    御家人が任命され、荘園・公領内の警察・刑事裁判権をもち、
    次第に在地領主として成長した。
    承久の乱(1221年)以前に任命されたものを本補ほんぽ地頭、
    以後のものを新補しんぽ地頭という。

   ③ 江戸時代、知行所を持つ領主。旗本や、各藩で知行地に
    徴租の権をもった家臣などをいう。
    また、主として東北地方で、名子なご (一般農民より下位に置か
    れ、主家に隷属して労役を提供した農民) を使役した地主。
   

  【関東御分国】かんとう‐ごぶんこくかんとうごぶんのくに
   ① 鎌倉将軍家の知行国。時期により多少の異同があるが、武蔵・上総・下総など9カ国のことが多い。
   ② 幕府が特殊な行政権を行使できた政治領域。東国。

  【関東御領】かんとう‐ごりょう
   鎌倉将軍家の所領。平家没官領もっかんりょうや承久の乱による没収地を中核として形成された荘園群。


  ≪ 源頼朝が近衛大将に命じられた年を幕府の始まりにする説には説得力がない ≫

  当時は左近衛府と右近衛府の2つがあり、それぞれの長官が大将なので2人いました。
  また下記にあるように、左右の近衛府を含む六衛府の長官もおり、近衛大将だけが飛びぬけた役職では
  ないようです。そもそも近衛大将は朝廷の警備職であり政治には関わりません。

  【衛府】えふ
   近衛府・衛門府など、奈良・平安時代に禁裏 (宮中。皇居。御所の事) の警備を
   つかさどった役所の総称。

  【六衛府】ろくえ-ふ (リクエフとも)
   平安初期以降、左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六つの衛府。
   811年(弘仁2)以前は衛門・左右衛士・左右兵衛・中衛府の六府。六府。六衛。
   諸衛しょえい

  【幕府】ばくふ
   ① (もと将軍が戦場にあって幕中で事を治めたからいう) 将軍の居所または陣営。
   柳営りゅうえい
   ② 近衛府の唐名。転じて、近衛大将の居館の称。
   ③ 武家政治の政庁。また、武家政権そのものをいう。

  【令外官】りょうげ-の-かん … 律令制下、令に規定された以外の官。



  【征夷大将軍】せいい‐たいしょうぐん
   ① 平安初期、蝦夷えぞ征討のために派遣された将軍。797年(延暦16)坂上田村麻呂が任命されたのが初の確かな例。
   ② 源頼朝以後、鎌倉・室町・江戸幕府にいたる武家政権の首長の称号。

  守護・地頭は義経を捕える事を名目として置かれたものであり、それを管理する幕府はまだ政治全般を朝廷の
  代理で行うものではないと思います。武家政治の政庁としての意味を持つ幕府の準備期間とも解釈できますので、
  個人的には令外官である征夷大将軍に任命され、衛府とは別の役割を認められた1192年が鎌倉幕府成立年とすべき
  だと思います。鎌倉幕府が全国的に影響力を及ぼすのは承久の乱以降のようです。

  【承久の乱】じょうきゅう‐の‐らん
   承久3年(1221)後鳥羽上皇(1180~1239) が鎌倉幕府の討滅を図って敗れ、かえって公家勢力の衰微、武家勢力の
   強盛を招いた戦乱。後鳥羽上皇は、隠岐に配流され、隠岐院と称される。その地で没し、顕徳院と追号。
   その後、種々の怪異が生じ、怨霊のたたりとされ、改めて後鳥羽院と追号された。


  【東百官】あずま‐ひゃっかん
   ① 室町末期から、関東武士が京都朝廷の官名に擬して用いた私称。伊織・多門・左膳・頼母・求馬・左内・兵馬の類。
   ② 江戸時代に行われた子供の手習い本で、①の名などを集めたもの。


  ≪ 鎌倉武士は漢字が読めなかった? ≫  雑学ポータル 雑学WeB! http://takech.fc2web.com/history/jp-02.html

  鎌倉武士は武力のみで幕府を樹立させた。よって学問教養は全くなかった。それを知らしめるエピソードがある。
  これは鎌倉幕府が成立して39年後。後鳥羽上皇が幕府征伐を企てた、承久の乱の時のことである。

  この時北条泰時が鎌倉から武士を率いて京都に攻め入ったが、この時朝廷から講和文書が下された。
  漢文で書かれていたが、大将の泰時は読めない。そこで家来を集めて言った。

  「誰かこの文書を読める者はおらぬか」
  すると部下の岡崎兵衛尉が「武蔵国(今の東京・埼玉)の藤田三郎なら、読めると思います」と 返事をした。
  5000人の兵の中で、漢字を読めたのはたったの1人!武士の大半は平仮名しか読めなかったようである。

  ※ この説のタイトルが「漢字が読めなかった」とありますが、正確には「漢詩」だろうと推測されます。

  YAHOO! 知恵袋 に下記のような回答があり、個人的には、こちらが正しいと思います。
   http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q119730936

  京の公家の揶揄で手紙や公文書などは御家人クラスなら当然読めました。

  ただ、公家と同等の教養までは鎌倉でも主要な家柄でなければ積めないため無学と陰口を叩かれたのが
  後世に曲解して伝わったのです。
  平民と言っても農民には田畑の耕作を請け負う名主のようなクラスから奴婢まで幅広くあり、荘園関連の文書には
  農民が書いたものも残っています。遠隔地を跨ぐ商人も商売の必要から読み書きは出来たと思われます。

  武士や平民のすべてが文盲のように言ったのは公家らが朝廷の儀礼や芸能に通じていない他の身分の人を馬鹿に
  していったことから来ています。


  ≪ 現在の鎌倉にある頼朝の墓は江戸時代の薩摩藩主 島津重豪が建てた ≫

  頼朝には政子との間に4人の子、2人の浮気相手 (側室) にそれぞれ男の子がいた事が確認されています。
  他にも頼朝の浮気癖が酷く (当時では珍しくない事)、怒った政子が浮気相手の一人「亀の前」の屋敷を打ち壊したなどの
  記録もあります。


島津家の記録によると、頼朝の隠し子の一人が島津家の
創始になったと残されているそうです。

【島津重豪】しまづ‐しげひで (1745~1833)
 江戸後期の薩摩藩主。積極開化の政治方針をとり、
 造士館・演武館・医学館を創設、農書「成形図説」など
 を編纂させた。財政破綻を招き、調所広郷ずしょひろさと
 登用して改革を行う。

 
 北条政子
  TBS 世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリー 『日本の歴史悪役10人』 12.06.13 再放送
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『尼将軍 北条政子』 13.11.10 放送 など より 

  【北条政子】ほうじょう‐まさこ(1157~1225) 時政の長女。 源頼朝の妻。頼家・実朝の実母。
   頼朝の側室の「亀の前」の屋敷を打ち壊し放火焼失させる。
   頼朝の死後は剃髪し、時政・義時父子とともに2子の後見となり、実朝の死後は京都から後継者として九条 (藤原)
   頼経を迎えて、自ら政務を行い、父 時政も追放し出家させるなど、尼将軍と称された。






  また、2代将軍の頼家を北条氏討伐計画で幽閉し、のちに時政により殺害。弟の実朝を3代将軍に付けたが、頼家の子で
  ある公暁が殺害。
  公暁も殺害され、頼朝の血脈は途絶える。政子の実子二人と孫の公暁の殺害の黒幕は、その政子であると言われています。


  ≪ 頼朝の浮気相手の家を襲撃しメチャクチャにした ≫  元妻の復讐 『うわなり打ち』という風習、最古の記録は平安中期。

  浮気相手の(側室)である「亀の前」の家を打ち壊し燃やしたという事が語られていますが、平安中期には似たような「後妻打ち」
  という風習があり、この風習は室町~江戸時代には珍しくない事だったようです。


  ≪ よく語られている「政子のイメージ」とは違う一面 ≫ 全て吾妻鏡より

   長男の頼家が蹴鞠にいくのをたしなめた。
   奈良時代から蹴鞠は行われていましたが、鎌倉時代にかなり流行ったらしいです。
   頼家は「鎌倉殿」という役職。
   「武家の棟梁」という立場で、間もなく将軍になる18才頃の話。

   領地内の女性が三つ子を産んだので、幕府の予算を使って育てるように命令した。
   日本では諸外国と比べ、時代に関係なく子供を大切にする風習があった。


   亡くなる前、危篤状態から息を吹き返し「引っ越したい」と言ったが、「日にちが悪い」と返され延期した。
   引っ越し先は、時期将軍になる藤原頼経のための屋敷の事。幼い頼経の事を心配していた事が伺われる
   エピソードのようです。

  
  
  








  ≪ 北条政子の評価は高かった ≫ Wiki 北条政子 より

  『吾妻鏡』は「前漢の呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が再生して我が国の皇基を擁護させ給わった」と
  政子を称賛している。慈円は『愚管抄』で政子の権勢をして「女人入眼の日本国」と評した。
  『承久記』では「女房(女性)の目出度い例である」と評しているが、
  この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません」と述懐させている。

  室町時代の一条兼良は「この日本国は姫氏国という。女が治めるべき国と言えよう」と政子をはじめ卑弥呼、奈良時代の
  女帝(元正天皇や孝謙天皇)の故事をひいている。
  北畠親房の「神皇正統記」や今川了俊の「難太平記」でも鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。


  ≪ イメージが悪くなったのは、江戸時代 ≫

  江戸時代になると儒学の影響で人倫道徳観に重きを置かれるようになり、『大日本史』や新井白石、頼山陽などが
  政子を評しているが、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことは評価しつつも、子(頼家、実朝)が変死して婚家(源氏)が
  滅びて、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判を加えている。
  また この頃から政子の嫉妬深さも批判の対象となる。政子を日野富子淀殿と並ぶ悪女とする評価も出るようになった。

  ※ コヤブ歴史堂によると、日本では本来、女性の地位は高く、男性は外で仕事、女性は(家の)内側の仕事と
    役割分担されており地位や年齢に関係なく、家の中の事は母親が絶対な権力を握っていた。
    女性の地位が低下したのは江戸時代だそうです。

  【儒教】じゅ‐きょう ・・・ 孔子を祖とする教学。儒学の教え。四書・五経を経典とする。

  【儒学】じゅ‐がく ・・・ 孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。諸子百家の一つ。
   後漢に五経などの経典が権威をもち儒家が重用されるに及んで、他から抜きんでた。南北朝・隋・唐では経典の解釈
   学が進み、また礼制の普及・実践が見られた反面、哲理面で老荘の学や仏教に一時おくれをとった。
   宋代に宋学が興って哲理面で深化し、特に朱子学による集大成がなされた。やがて朱子学が体制教学化するにつれ、
   明代中葉以降、王陽明を始め朱子学の批判・修正を通じて多くの儒家による学理上の革新が続き、清末の共和思想に
   及ぶ。日本には応神天皇の時に「論語」が伝来したと称されるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降

  儒教の朱子学を推奨したのは徳川光圀で、特に上下関係を重んじる学問のため、水戸では朱子学を突き詰めた結果
  「水戸学」と呼ばれる尊王思考 (将軍より天皇を敬うべき) になっていきました。

  朱子学の考え方は現在も関東を中心として東日本に残っていると思います。
  朱子学と陽明学 東日本は朱子学の影響が強く、西日本は陽明学や蘭学も盛ん ← 超重要

  
 静御前と関東武士
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙ファイル~ 『こんなナデシコもおったのにゃ~』 14.03.02 放送 より




  ≪ 調子に乗った関東武士が静御前を口説こうして、静御前にブチギレられた ≫

  工藤、梶原、千葉、八田、藤原の御家人が酒を持って御前の宿舎へ押しかけてました。
  静御前の舞、御前の母の磯禅師にも芸を披露させます。
  そんな中、呑み過ぎた梶原が御前に言い寄り始めました。

  御前は涙ながらに

  「私は、頼朝さんの兄弟の義経さんの妾です。家来の分際で、普通の女相手のように言いよるとは。義経さんが
  反逆者扱いされてなければ貴方達と酒の席で一緒になることすらない。まして、口説こうとするのは無理な事」
  と言ったそうです。

  吾妻鏡には、御家人の関東武士には、礼節知らずの下品な武士が居たことも書いてあるそうです。

  【吾妻鏡・東鑑】あずまかがみ
   鎌倉後期成立の史書。52巻。鎌倉幕府の事跡を変体漢文で日記体に編述。
   源頼政の挙兵(1180年)から前将軍宗尊親王の帰京(1266年)に至る87年間の
   重要史料。 宗尊親王=鎌倉幕府6代目の将軍

  【梶原景時】かじわら‐かげとき(~1200)
   鎌倉初期の武将。源頼朝の家人。平三と称。平家追討に功があった。源義経を頼朝に
   讒訴ざんそ (陰口) し、また結城朝光を頼家に讒訴したが、朝光は諸将と連署してその
   誣告ぶこく (わざと嘘を吐くこと) を訴え、鎌倉から追放。駿河国狐崎に一族とともに討死。


  【梶原景季】かじわら‐かげすえ (1162~1200)
   鎌倉初期の武将。源頼朝の臣。景時の子。源太と称。騎射および和歌に長じた。宇治川の戦に先陣の功を佐々木高綱に
   奪われた。また、一谷・生田の森の合戦に箙えびら(矢を入れて携帯する容器)に梅花の枝をさして奮戦。


  ≪ 静御前を保護したのは、北条政子 ≫  源義経の鎧 と 静御前の着物

  義経の側室である静御前 (白拍子しら-びょうし=歌い舞う遊女) を捕え、舞を躍らせるが、その時に北条政子が静御前の
  妊娠に気付きます。その時に、御前が義経を慕う歌を詠んだので、頼朝は処分を下そうとしますが、政子が庇い保護。

  生まれてきた子が男の子であった為、御前を預かっていた御家人が頼朝の申し付け通り、鎌倉の由比ヶ浜へ投げ落した。
  とされます。  ※ 政子がその子を救う為、身代わりの赤ん坊と取り替えたという説などもあります。

  のちに、北条政子が静御前の身の安全を保証し京都に送り届けた。と伝えられています。
  ちなみに、ドラえもんの「しずかちゃん」は、静御前から命名されたそうです。
 
 大仏 と古都 鎌倉
  NHK 大阪・横浜  歴史秘話ヒストリア 『愛と哀しみの鎌倉!武家の古都はこうして生まれた』 12.11.28 放送

  ≪ 3つあった? 謎多き鎌倉の大仏 ≫

  【鎌倉の大仏】 長谷はせの大仏
   鎌倉市長谷の高徳院(浄土宗)の庭に露座する金銅の阿弥陀如来像。坐像で像高11.39m。
   1252年(建長4)鋳造を始めたといわれる。





  吾妻鏡には「浄光という僧が大仏堂を建立する為の寄付を集めた」という記述はあるが、それ以上の詳しい事は書かれて
  いないそうです。鎌倉時代に書かれた紀行文には「大仏は木像」と書かれています。
  吾妻鏡には、その紀行文から約10年後、「金銅の釈迦如来像の建造を始めた」とあるそうです。

  吾妻鏡の「× 釈迦如来像」←「 阿弥陀如来像」の書き間違いで、元は木像だった物を、鎌倉幕府が京都や奈良の朝廷・
  公家文化に負けないような「武家文化の象徴」としてのモニュメントを造立した物とされています。
  現在、微かに右頬に金箔の跡が残っていることから、造立当時は金色に輝いていたと想像されます。


  ≪ 鶴岡八幡宮 と 頼朝の「平家滅亡」の願かけ ≫

  【鶴岡八幡宮】つるがおか‐はちまんぐう 鎌倉八幡宮
   鎌倉市雪ノ下にある元国幣中社。祭神は応神天皇・比売神 ・神功皇后。
   1063年(康平6)源頼義が石清水八幡宮の分霊を鎌倉の由比郷 鶴岡に勧請かんじょうし(神仏の分霊を請じ迎えてまつること)
   1180年(治承4)源頼朝が今の地に移して旧名をうけついだ。源氏の氏神として尊崇された。

  【石清水八幡宮】いわしみず‐はちまんぐう 男山八幡宮
   京都府八幡やわた市にある元官幣大社。祭神は誉田別尊(応神天皇)・息長帯姫尊(神功皇后)・比売神の三座。
   859年(貞観1)、大分県宇佐市の宇佐神宮 (宇佐八幡) を勧請。歴代朝廷の崇敬篤く、鎌倉時代以降、源氏の氏神
   として武家の崇敬も深かった。例祭は9月15日。伊勢神宮・賀茂神社とともに三社の称がある。二十二社の一つ。





  鎌倉に入った頼朝が自分の館を建設もそこそこに、八幡宮の造営に取りかかりました。鳩は八幡神宮の神使しんし
  八幡宮には池が東西に分かれており、西は平家池で4つの島 (ピンクの) =死。大きい方の東は源氏池で3つ=産の島
  があり、「平家は滅亡し、源氏は子々孫々まで繁栄するように」という祈願がかけられたものだそうです。


  ≪ 北鎌倉 建長寺 と 禅宗 ≫ 

  現在の北鎌倉駅付近に関所が設けられており、鎌倉が攻められた時に軍事拠点として活用する為に、この辺りに大きな寺が
  いくつも建てられたそうです。鎌倉幕府滅亡時には、この北鎌倉付近で相当な抵抗をしました。
  建長寺は日本で初めの本格的な禅の道場でした。

  【建長寺】けんちょう‐じ
   鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の本山。山号は巨福山。1249(建長1)年、5代目の執権 北条時頼が蘭渓道隆を
   開山として創建。鎌倉五山の第一。創建以来、数度の火災に見舞われたが、江戸時代に再建されて今日に至る。

  【建長寺船】
   鎌倉末期、炎上した建長寺の再建費用を得るために1325年(正中2)から翌年にかけて元に派遣した幕府公認の貿易船。
   建長寺造営料唐船。

  【禅宗】ぜん‐しゅう 禅門。仏心宗。
   仏教の一派。その教旨は、仏教の真髄は坐禅によって直接に体得されるとし、教外きょうげ別伝・不立文字ふりゅうもんじ
   直指人心じきしにんしん・見性成仏けんしょうじょうぶつを主張する。
   6世紀前半、達磨だるまが中国に伝え、のち5世弘忍に至り、その門下二派に分かれ、
   6世 慧能えのうは南宗を、神秀は北宗を開いたと伝える。
   慧能の門下南岳の門から臨済・潙仰いぎょうの二宗を出し、青原の門から曹洞・雲門・
   法眼ほうげんの三宗を出し、合して五家ごけと称する。
   また、臨済の門から楊岐・黄竜の二派を出し、合して七宗という。

   日本では、1187年(文治3)栄西が入宋して臨済宗を伝え、1223年(貞応2)道元が入宋して
   曹洞宗を伝え、1654年(承応3)明の黄檗山の隠元が渡来して黄檗宗を開いた。



  ≪ 一遍上人 と 光照寺の「おしゃぶき様」 ≫ Wiki 一遍

  鎌倉時代の中期、一遍上人が説法の為、鎌倉を訪れますが、関所で武士に殴られ追い返させられます。
  のちに一遍が野宿した場所に建てられたというのが、光照寺。






  光照寺にある小さな祠の「おしゃぶき様」は「しわぶく」=「咳をする」に由来し、「咳を直す神様」として信仰を集めて
  きましたが、「咳=関 (関所)」として、鎌倉を守る「関の神様」だったのでないか? と言われているそうです。

  【一遍】いっぺん (伊予の人、1239~1289)諱いみなは智真。諡号しごうは円照大師・証誠大師。
   鎌倉中期の僧。時宗じ‐しゅう開祖。法然の門弟証空の弟子聖達を師としたが、のち熊野に参籠し、衆生往生は
   決定しているとの霊告を得、以後踊念仏を民衆に勧め「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と書かれた算ふだを配っ
   て諸国を遊行ゆぎょうしたので、世に遊行上人・捨聖すてひじりと称した。その教えは「語録」「播州問答集」等に見える。

  【一遍上人絵伝】いっぺんしょうにん‐えでん
   一遍の遍歴の生涯を描いた絵巻。門弟 聖戒の詞、法眼 円伊の絵で1299年(正安1)完成した京都 歓喜光寺ほか
   所蔵の「一遍聖絵ひじりえ」12巻が芸術作品としても極めて価値が高い。
   別に宗俊が編述した系統のもの(「一遍上人縁起絵」などと称)も伝存。


  ≪ 1966 (昭和41) 年公布 古都保存法と鎌倉市民 ≫

  【鎌倉】
   神奈川県南東部の市。横浜市の南に隣接。鎌倉幕府跡・源頼朝屋敷址・鎌倉宮・鶴岡
   八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷の大仏・長谷観音などの史跡・社寺に富む。
   風致にすぐれ、京浜の住宅地。人口17万1千。

  大正12年の関東大震災では鶴岡八幡宮の社殿が倒壊。昭和の高度経済成長期には、
  宅地開発の波が鎌倉にも押し寄せ、鎌倉は事の風情を無くし変貌しようとしていました。

  鎌倉市民の宅地開発に反対する請願署名など、日本各地で歴史物の保存運動があり、のちに歴史的風土を守る為の、
  古都保存法の制定に繋がりました。

  ※ 古都保存法は1965年の京都タワー建設計画、奈良公園の一角における奈良県庁舎建設計画、鎌倉市の八幡宮の
   裏山を削る宅地造成計画。1966年には京都市のホテル建設計画など、各地で歴史的環境の破壊が社会問題となった。
 
 2代将軍 源頼家 と 比企一族
  NHK 大阪・横浜  歴史秘話ヒストリア 『愛と哀しみの鎌倉!武家の古都はこうして生まれた』 12.11.28 放送

  ≪ 頼朝の「親バカ」ぶりと 比企一族 ≫

  1182 (寿永1) 年、頼朝が鎌倉に入って2年目に長男の頼家が誕生します。
  36才にして授かった世継ぎの誕生に鎌倉は大いにわき立ちます。祝いに届けられた馬は
  200頭以上だったそうです。

  頼家は幼い頃から武芸の才能を発揮します。12才の時に参加した富士山の裾野の狩で
  鹿を射止めると、頼朝は大喜び。
  大急ぎで鎌倉に使者を送り政子に伝えますが、政子に「はしゃすぎ」と叱られました。

  【源頼家】よりいえ (1182~1204) 頼朝の長子母は北条政子
   鎌倉幕府第2代将軍(在職1202~1203)。北条氏に強請されて将軍職を弟 実朝に譲り、舅の比企能員と結んで
   北条氏を除こうとして、伊豆修禅寺に幽閉され、やがて北条時政らに殺された。

  頼朝は頼家に跡を継がせる為、有力な源氏一族を排除します。弟の範頼を伊豆へ配流し、異母弟の義経も奥州で
  自害に追い込む。代わりに、自分の乳母であり流刑中に仕送りをしてくれた比企一族を頼家の側近にします。
  比企能員の娘である若狭局を頼家の妻に迎え、跡取りも誕生します。

  【比企能員】ひき‐よしかず(~1203)藤四郎と称。 妻は源頼家の乳母。 娘の若狭局わかさのつぼねは頼家に愛されて
   一幡いちまんを生む。鎌倉初期の御家人。頼朝の乳母 比企禅尼の養子となる。北条時政・大江広元らとともに
   幕政に参与。のち頼家と謀って北条氏の討伐を企てたが事前に発覚し殺された。


  ≪ 北条一族の陰謀 ≫

  頼朝の妻を出した北条一族は鎌倉で確たる地位を築きつつありましたが、頼家の代になると、頼家の妻を出した比企
  一族に取って変わられるととの危機感を持ちます。

  1199 (建久9) 年1月13日、53才で頼朝が死去。色んな説がありますが、一般的には 前年12月27日、御家人の稲毛
  重成の妻の追善供養のため、相模川に架橋した落成式に出席した際、落馬したのが原因とされています。
   ※ 吾妻鏡には前後が書かれていないので、北条氏の陰謀説もあります。






  1199 (建久9) 年4月、18才で2代将軍になりましたが、北条氏を中心とする有力御家人たちによって、領地争いなどを裁く
  権限を奪われます。

  1203 (建仁3) 年、比企一族の館が北条一族に襲撃されます。館に居た頼家の妻と息子の一幡も殺され比企一族は滅亡。
  頼家は将軍の座を追われ、静岡県伊豆市の修善寺に幽閉。1204 (元久1) 年、入浴中を襲われ23才で、暗殺されました。


  ≪ 3代で絶えた頼朝の血脈 ≫

  【源実朝】さねとも(1192~1219) 頼朝の次子母は北条政子。幼名、千幡。
   鎌倉幕府第3代将軍(在職1203~1219)。歌人。後に右大臣。作歌には万葉調の佳作
   が多い。家集「金槐和歌集」。鶴岡八幡宮の境内で兄 頼家の子 公暁に殺された。

  【公暁】くぎょう(1200~1219) 2代将軍 源頼家の子。頼朝の孫
   父の死後、鶴岡八幡宮別当。父の仇を報いると称して、伯父の源実朝を八幡宮の社前
   に斬り、三浦義村を頼ったが殺された。


  【三浦氏】
   源頼朝の石橋山の挙兵に三浦義明 (1092~1180、平氏の追討軍 畠山重忠と戦って衣笠山で敗死) が三浦氏一族を
   参加させ、子の義澄は、壇ノ浦の戦・奥州合戦に従い、頼朝に優遇された。

  【石橋山】 ・・・ 神奈川県小田原市南西部にある山。1180年(治承4)源頼朝が大庭景親に敗れた所。

  【和田義盛】わだ‐よしもり (1147~1213)
   鎌倉初期の武将。幕府初代の侍所別当。三浦義明の孫。源頼朝挙兵以後、常に従って功を立てた。
   代表的な鎌倉武士であったが、北条氏の挑発に乗り挙兵して敗死、一族がほとんど滅亡。

  【三浦義村】みうら‐よしむら(~1239)
   鎌倉初期の武将。義澄の子。源頼朝に仕えて戦功をたて、将軍 実朝の時、幕府の元老。
   和田義盛の挙兵に際して北条方に味方し、北条氏の信任が厚かった。

  【宝治】ほうじ-かっせん
   宝治元年 (1247年)、三浦泰村 (~1247、義村の子) が執権 北条時頼と鎌倉で行った合戦。
   三浦氏が敗北して北条氏の独裁体制が成立。

  【北条時頼】ほうじょう-ときより (1227~1263) 時氏の次子。母は松下禅尼。
   鎌倉幕府の第5代執権。北条氏の独裁体制 (得宗専制) は彼の時代にほぼ確立。出家して道祟、世に最明寺殿
   という。出家後、ひそかに諸国を遍歴して治政民情を視察したと伝える。
 
 藤原頼経 鎌倉幕府 第4代将軍
  ≪ アンラッキーな将軍 ≫  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙ファイル~ 『将軍スペシャル』 13.11.03 放送 より

  【藤原頼経】よりつね 九条頼経。(1218~1256)道家の子。
   鎌倉幕府の第4代将軍(在職1226~1244)。
   2歳で鎌倉に迎えられ、9歳で将軍となったが、北条氏に
   より職を子の頼嗣に譲らされた。
   妻は第2代将軍 源頼家の娘で15歳も年上の竹御前。

  吾妻鏡によると、


  1223年4月11日 (5歳頃) 若君の頼経さまの着物がネズミに喰い破られました。今日午前10時頃に石山禅尼が
  見つけました。

  4月16日 今朝夜明けに、若君の寿命延長の儀式を行いました。これは「ネズミにお着物を食べられる」という
  出来事を占ったら、病気に気をつけるようにと出たからです。

  4月28日 若君は、西の庭へ出て、手毬の会に出場されました。その最中、カラスにフンをかけられました。
  驚いて占ったところ、病気の予告でした。

  普段ありがちな事をわざわざ書いているのは、後に将軍を辞めさせため。「幼少の頃よりツイてない人だった」と
  強調する為らしいです。

  第5代将軍 藤原頼嗣 (頼経の子) も5歳で将軍となり、13歳で罷免・追放され帰京。
  
 桓武平氏の流れを汲む関東の豪族? 平貞盛の子孫?  北条氏の略系図 
  本姓は平氏。平貞盛の後裔の時方が伊豆介となり、子孫が
  伊豆北条に住んで苗字とした。

  時政・義時以来、鎌倉幕府最高の実力者となり、歴代執権
  となる。

  北条氏は平氏の子孫を名乗っていますが、単に関東の豪族
  にすぎないという説もあります。

  戦国時代の武将である北条早雲は、関東の支配者という事
  を目指して「北条」を名乗っただけで、鎌倉時代の北条氏と
  は全く関係がありません。


  その為、早雲からの5代続く北条氏は「後北条」と書き分ける事があります。


  北条時政】ほうじょう‐ときまさ(1138~1215)通称、四郎。 源頼朝の妻 政子の父。
   頼朝の挙兵以来これを助ける。頼朝の没後、鎌倉幕府の初代執権となり、頼家を廃して政子と共に幕府の実権を
   握ったが、のち出家。







  【北条政子】ほうじょう‐まさこ(1157~1225) 時政の長女。 源頼朝の妻。頼家・実朝の実母。
   頼朝の死後は剃髪し、時政・義時父子とともに2子の後見となり、実朝の死後は京都から後継者として九条 (藤原) 頼経を
   迎えて、自ら政務を行い、父 時政も追放し出家させるなど、尼将軍と称された。

  【吾妻鏡・東鑑】あずまかがみ 鎌倉後期成立の史書。52巻。編纂は北条氏。
   鎌倉幕府の事跡を変体漢文で日記体に編述。源頼政の挙兵(1180年)から前将軍 宗尊親王の帰京(1266年)に至る
   87年間の重要史料。

  【北条義時】よしとき(1163~1224) 時政の次子。
   鎌倉幕府の2代執権。北条氏の政敵 和田氏を倒し、実朝が暗殺された後は九条頼経を
   将軍に迎えて、政子と共に幕政を専断。
   承久の乱に勝って武家政権の優位を確立すると同時に執権政治の基礎を築いた。

  【承久の乱】じょうきゅう‐の‐らん
   承久3年(1221)後鳥羽上皇(1180~1239) が鎌倉幕府の討滅を図って敗れ、かえって
   公家勢力の衰微、武家勢力の強盛を招いた戦乱。
   後鳥羽上皇は、隠岐に配流され、隠岐院と称される。その地で没し、顕徳院と追号。
   その後、種々の怪異が生じ、怨霊のたたりとされ、改めて後鳥羽院と追号された。

京都の城南宮

  【城南宮じょうなん‐ぐう
   京都市伏見区にある神社。祭神は神功皇后・大国主命・国常立尊。
   その祭礼に行われた流鏑馬やぶさめは有名で、承久の乱に、後鳥羽上皇はこの行事に託して関東追討の兵を徴集した。
   7月20日に例祭、10月に神幸祭(餅祭)がある。

  【後鳥羽天皇】ごとば‐てんのう(1180~1239)名は尊成たかひら。 高倉天皇の第4皇子。
   鎌倉前期の天皇(在位1183~1198)。1198年(建久9)譲位して院政。1221年(承久3)北条義時追討の院宣を下したが
   失敗して隠岐に配流(承久の乱)され、隠岐院と称される。その地で没し、顕徳院と追号。
   その後、種々の怪異が生じ、怨霊のたたりとされ、改めて後鳥羽院と追号された。
   歌道に秀で、新古今和歌集を勅撰、配流の後も業を続けて隠岐本新古今集が成った。

  【北条泰時】やすとき(1183~1242)義時の長子。
   鎌倉幕府の3代執権。承久の乱が起こると叔父時房とともに京都に攻め上り、鎮撫の後、六波羅探題。
   父の没後、執権となり、連署・評定衆の設置、御成敗式目の制定など執権政治の確立に努めた。

  【御成敗式目】ごせいばい‐しきもく 貞永じょうえい式目
   鎌倉幕府の基本的法典。1232年(貞永1)北条泰時が承久の乱後の当面する政治・法制の諸問題に対処するために
   編纂。51カ条から成り、室町幕府も武家の根本法として継承。江戸時代には手習手本として民間に普及。

  【北条重時】しげとき(1198~1261) 義時の子。
   鎌倉時代の武将。六波羅探題・連署などを歴任。「重時家訓」は鎌倉武士の思想を伝えるものとして著名。

  【六波羅探題】ろくはら‐たんだい 鎌倉幕府が京都守護に代わって六波羅に置いた機関。 

  【連署】 鎌倉幕府の職名。執権の補佐。






  【北条経時】つねとき(1224~1246)
   鎌倉中期の4代目の執権。執権泰時の死後、1242年(仁治3)嫡孫としてあとをつぐ。
   将軍は九条 (藤原) 頼経を廃して、九条頼嗣に代える。

  【北条実時】さねとき(1224~1276)金沢かねざわ 実時とも。 義時の孫。
   鎌倉中期の武将。金沢文庫の創立者。京都から下向した清原教隆に学び、篤学と典籍の蒐集とで著名。

  【金沢文庫】かなざわ‐ぶんこ (カネザワブンコとも)
   鎌倉中期、北条実時が金沢の称名寺しょうみょうじ境内に基礎を築いた文庫。
   和漢の貴重書を多数蒐集・保存した。足利学校と並んで中世教育史上の重要な存在で、学校としての活動もしたという。
   のち蔵書は多く散逸し衰微したが、1930年神奈川県立金沢文庫として再興。称名寺文庫。

  【北条時頼】 ときより(1227~1263) 時氏の次子。3代執権 泰時の孫
   鎌倉幕府の5代目の執権。母は松下禅尼。北条氏の独裁制(得宗専制)は彼の時代にほぼ確立。
   出家して道崇、世に最明寺殿という。出家後、ひそかに諸国を遍歴して治政民情を視察したと伝える。

  【北条時宗】ときむね(1251~1284)通称、相模太郎。 5代執権の時頼の子。
   鎌倉幕府の8代執権。1274年(文永11)元寇を撃退し、北九州沿岸に防塁を築き、1281年(弘安4)の再度の元寇も
   よく防御。円覚寺を建て、宋より無学祖元を招いて開山とする。






  【北条高時】たかとき(1303~1333) 9代執権の貞時の子。
   鎌倉幕府の14代執権。元弘の乱で、新田義貞らに攻められて鎌倉で自刃。

  【北条時行】ときゆき(~1353) 14代執権の高時の子。
   鎌倉末・南北朝時代の武将。鎌倉幕府滅亡後、信濃の諏訪頼重のもとに潜んでいたが、1335年(建武2)西園寺公宗と
   はかって建武政権に叛し、鎌倉を攻め陥したが、足利尊氏の反撃に敗れ(中先代の乱)、のち捕らわれて斬。

  【中先代】なか‐せんだい  二十日先代 北条執権時代(先代)と足利幕府時代(後代)との間の意。
   建武2年(1335)7月北条高時の遺子時行が挙兵して鎌倉幕府を復活し(中先代の乱)、
   8月足利尊氏に滅ぼされるまでの約20日間の治世の称。また、北条時行の事をいう。

  【北条九代記 】
   1183~1332年(寿永2~正慶1)の鎌倉幕府関係の重要事件を漢文で記した史書。「鎌倉年代記」の異本。
   上下2巻。著者未詳。戦記物語。12巻12冊。1675年(延宝3)刊。伝浅井了意作。
   北条時政から高時に至る鎌倉時代の歴史を物語風に述べた書。
  
 徒然草
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『時空を超えた古典文学』 14.01.23 放送
  NHK Eテレ おはなしのくにクラシック 『徒然草』 16.05.23 放送

  【吉田兼好】よしだ‐けんこう(1283頃 ~1352以後)
   鎌倉末期の歌人。俗名、卜部兼好うらべのかねよし。先祖が京都吉田神社の社家であったから、後世、吉田兼好という。
   初め堀川家の家司、のち後二条天皇に仕えて左兵衛佐に至る。天皇崩後、出家・遁世。
   歌道に志して二条為世の門に入り、その四天王の一人とされた。「徒然草」のほか自撰家集がある。






  【徒然草】つれづれぐさ
   鎌倉時代の随筆。2巻。作者は兼好法師。出家前の1310年(延慶3)頃から31年(元弘1)にかけて断続的に書いたものか。
   「つれづれなるままに」と筆を起こす序段のほか、種々の思索的随想や見聞など243段より成る。
   名文の誉れ高く、枕草子と共に日本の随筆文学の双璧。


  ≪ 徒然草に学ぶ人生訓 ≫

  第 38段  名誉や利益に あくせくさせられ 一生 わが身を苦しめるのは 愚かなことである。
  第 38段  あり余る財産は 不幸せの種である。
  第 56段  無教養で でしゃばりな人は喋りまくる 上品か下品かは 会話ひとつにも表れる。
  第137段 男女の恋愛 出会いと終わりが一番よい。 逢わずに昔を懐かしむ時こそ 本当の恋なのだ。
  第164段 世間の噂や人の悪口は 自分の品格を下げるだけで 何の足しにもならない。
  第193段 責任を転嫁して 相手を非難しているうちは 一流になれない。
 
 鎌倉幕府滅亡 北条仲時
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ニッポン城下町めぐり 国宝 犬山城の桜をめざして①』 14.03.06 放送 
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『モンゴル襲来』 14.07.11 放送 / 同 『室町幕府の創設』 14.07.18 放送

  2度に渡るモンゴル(元寇)襲来は、日本側が勝利を収めたものの防備戦であったため、活躍した武士たちに恩賞を十分
  与えることが出来ません。幕府は元寇を撃退したのは神風による神仏の力が大きかったとして、寺社へ恩賞を与えました。

  得宗とくそう(北条氏の本家・嫡流)と北条氏一門とが多くの守護を占め、御家人たちの不満が高まり、倒幕へと繋がります。





  【北条高時】たかとき(1303~1333) 9代執権の貞時の子。
   鎌倉幕府の14代執権。元弘の乱で、新田義貞らに攻められて鎌倉で自刃。

  【北条時行】ときゆき(~1353) 14代執権の高時の子。
   鎌倉末・南北朝時代の武将。鎌倉幕府滅亡後、信濃の諏訪頼重のもとに潜んでいたが、1335年(建武2)西園寺
   公宗とはかって建武政権に叛し、鎌倉を攻め陥したが、足利尊氏の反撃に敗れ(中先代の乱)、のち捕らわれて斬。


  ≪ 鎌倉幕府滅亡の象徴 ≫

  1333年5月9日、現在の滋賀県米原市番場にある飛鳥時代に聖徳太子によって創建された蓮華寺で、北条仲時と
  御家人432人が自害しました。鎌倉幕府滅亡を象徴する事件の一つとされています。

  【北条仲時】ほうじょう-なかとき (1306~1333、享年28才)。
   1330年に京に上洛し六波羅探題に就く。第13代執権である北条基時の子。Wiki 北条仲時

  足利尊氏に攻められた北条仲時は鎌倉へと逃げ落ちる最中、蓮華寺で覚悟を決めます。
  「ここまで、よく付いてきてくれた。最後はその恩に報いたい。私の首を差し出し降伏すれば、生き延び褒美も貰える
  であろう」






  御家人たちは「一緒に三途の川を渡りましょう」と、ここで切腹をしました。
  蓮華寺には『陸波羅南北過去帳』が残されており、ここで切腹した北条軍の氏名と年齢が書かれた名簿が記載されて
  います。その中には14才の武者もいました。

  【六波羅】 六原
   (六波羅蜜寺の所在地だからいう)京都鴨川の東、五条と七条との間の地。
   平家一門の居宅六波羅殿があった。

  【六波羅探題】ろくはら‐たんだい 六波羅殿。初名、六波羅守護
   鎌倉幕府が京都守護に代わって六波羅に置いた機関。また、その長の職名。
   朝廷の監視および尾張・加賀以西の諸国の政務・裁判を総轄するため、北・南に分かれて
   駐在。1221年の承久の乱後、北条氏一門から選任され、大事は鎌倉の指揮を受け、
   小事は専断した。


  【元弘の乱】げんこう‐の‐らん
   後醍醐天皇による、鎌倉幕府を倒し公家政権の回復を企てた元弘元年(1331)の政変。
   計画は幕府に察知され、8月天皇は京都府南端部の笠置かさぎ山 標高324mに逃れた(笠置落ち)。
   北条氏は大軍を発して攻め、天皇を隠岐に流し、日野俊基らを処分したが、同3年天皇は隠岐を脱し、
   足利尊氏・新田義貞らにより幕府は倒壊した。

  【元】げん
   中国の王朝の一つ。モンゴル帝国第5代の世祖フビライが建てた国。南宋を滅ぼし、高麗・吐蕃とばんを降し、
   安南・ビルマ・タイなどを服属させ、東アジアの大帝国を建設。都は大都(北京)。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。
   大元。(1271~1368)

  
 朝廷の分立  建武・南北朝時代
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『室町幕府の創設』 14.07.18 放送

  ≪ 両統迭立 ≫ りょうとう‐てつりつ

  【後嵯峨天皇】ごさが‐てんのう(1220~1272)名は邦仁くにひと。 
   第83代の土御門つちみかど天皇の皇子。
   鎌倉中期の第88代(在位1242~1246)天皇。後深草天皇に譲位後、院政。

  鎌倉時代中期、後嵯峨天皇が崩御ほうぎょ (天皇・太皇太后・皇太后・皇后・上皇・
  法皇の死去を敬っていう語) すると、皇子同士が跡継ぎ争いし、(それぞれ本拠
  とした寺の名をとって持明院統大覚寺統という) その裁定が鎌倉幕府に
  託されました。

  幕府は交互に天皇を出す事を提案します。これが両統迭立。


  両統迭立 … 鎌倉後期、大覚寺統(亀山天皇の血統)と持明院統(後深草天皇の血統)との両統がかわる
            がわる皇位に即いたこと。


  ≪ 持明院統 ≫じみょういん‐とう

   鎌倉後期・南北朝時代、大覚寺統と皇位を争った後深草天皇の血統。五十余年間の南朝との対立を経て、
   歴代皇位を継ぐ。後深草天皇が譲位後、京都の持明院 (上京区上立売付近にあった寺) を御所としたからいう。

   【後深草天皇】ごふかくさ‐てんのう(1243~1304)名は久仁ひさひと。 後嵯峨天皇の皇子
    鎌倉中期の第89代(在位1246~1259)天皇。日記「後深草院宸記」。

   【伏見天皇】ふしみ‐てんのう(1265~1317) 名は仁ひろひと。 後深草天皇の第2皇子。
    鎌倉後期の第92代(在位1287~1298)天皇。持明院じみょういん殿とも称す。譲位後、院政。日記「伏見院宸記」。

   【後伏見天皇】ごふしみ‐てんのう (1288~1336)名は胤仁たねひと。 伏見天皇の第1皇子。
    鎌倉後期の第93代(在位1298~1301)天皇。日記「後伏見院宸記」。

   【花園天皇】はなぞの‐てんのう(1297~1348)名は富仁とみひと 。 伏見天皇の皇子。
    鎌倉後期の第95代(在位1308~1318)天皇。後醍醐天皇に譲位。風雅和歌集を監修。日記「花園院宸記」。


   第89代 後深草天皇第90代 亀山天皇第91代 後宇多天皇第92代 伏見天皇 - 

   第93代 後伏見天皇第94代 後二条天皇第95代 花園天皇第96代 後醍醐天皇


  ≪ 大覚寺統 ≫ だいかくじ‐とう

   亀山天皇の血統。持明院統(兄の後深草天皇の血統)と交替で皇位を継ぎ、吉野の南朝4代はこの子孫。
   後宇多法皇が大覚寺を仙洞せんとう (院 「=上皇・法皇」の御所) としたことからこの名称が起こる。

   【大覚寺】だいかく‐じ 嵯峨御所
    京都市右京区嵯峨にある古義真言宗の大本山。もと嵯峨天皇の離宮であったが、876年(貞観18)淳和天皇の
    皇后正子が寺とし、恒寂入道親王を開山とする。以後、親王が入寺して門跡寺となる。
    後宇多法皇以後 南北朝時代には南朝の皇統が入寺。

   【亀山天皇】かめやま‐てんのう(1249~1305)名は恒仁つねひと。 後嵯峨天皇の皇子
    鎌倉中期の第90代(在位1259~1274)天皇。蒙古襲来時の天皇。後宇多天皇に譲位後、1287年(弘安10)まで院政。

   【後宇多天皇】ごうだ‐てんのう(1267~1324)名は世仁よひと。亀山天皇の第2皇子。 
    鎌倉中期の第91代(在位1274~1287)天皇。大覚寺殿とも。伏見天皇に譲位。後二条天皇・後醍醐天皇のとき院政。
    日記「後宇多天皇宸記」。

   【後二条天皇】ごにじょう‐てんのう(1285~1308)名は邦治くにはる。 後宇多天皇の第1皇子。
    鎌倉後期の第94代(在位1301~1308)天皇。父上皇が院政。

  【後醍醐天皇】ごだいご‐てんのう(1288~1339)  後宇多天皇の第2皇子。名は尊治たかはる。 Wiki 後醍醐天皇
   鎌倉末期・南北朝時代の第96代天皇(在位1318~1339)。
   親政を志し、北条氏を滅ぼして建武新政を成就。まもなく足利尊氏の離反により吉野入りし、南朝を樹立したが、
   失意のうちに没す。


  1318年、後醍醐天皇が即位すると、朝廷の内外に呼びかけ討幕を目指します。しかし計画が幕府に漏れたため、
  御所を抜け出し20㎞ほど離れた笠置山 (京都府南端部、標高324m) に身を隠し討幕に賛同する武士の集結を待ちます。
  これに逸早く賛同したのが、河内 (大阪の南河内) の豪族である楠木正成でした。   楠木正成と千早赤阪村

  【楠木正成】くすのき‐まさしげ (1294~1336) 大楠公だいなんこう。  Wiki 楠木正成
   南北朝時代の武将。河内の豪族。1331年(元弘1)後醍醐天皇に応じて兵を挙げ、千早城に
   こもって幕府の大軍と戦い、建武政権下で河内の国司と守護を兼ね、和泉の守護ともなった。
   のち九州から東上した足利尊氏の軍と戦い湊川に敗死。

  楠木正成らは、わずか500騎ほどで赤坂城 (大阪府南河内郡千早赤阪村に上赤坂城・
  下赤坂城の2城があった) で挙兵し元弘の変を起します。
  しかし、10倍以上の幕府軍により1ヵ月ほどで赤坂城は陥落。
  楠木正成は逃げ延びますが、後醍醐天皇は捕えられ隠岐 (島根県の島) に島流しされます。







  【元弘の乱】げんこう‐の‐らん
   後醍醐天皇による、鎌倉幕府を倒し公家政権の回復を企てた元弘元年(1331)の政変。
   計画は幕府に察知され、8月天皇は笠置かさぎ山に逃れた(笠置落ち)。
   北条氏は大軍を発して攻め、天皇を隠岐に流し、日野俊基らを処分したが、同3年天皇は隠岐を脱し、
   足利尊氏・新田義貞らにより幕府は倒壊した。

  【日野俊基】ひの‐としもと(~1332) Wiki 日野俊基
   鎌倉末期の公家。大学頭種範の子。後醍醐天皇に抜擢され、蔵人頭くろうどのとうに任。日野資朝としもとと討幕の計画に
   あずかり、正中の変に捕らえられたが、のち京都に帰り、再び討幕を図って捕らえられ、翌年斬られた。

  1332年11月、元弘の変からほぼ1年ぶりに出現し、和泉と河内の守護を攻め落とし、摂津の天王寺を占拠。その後、
   京へと攻め上りました。
  1333年、後醍醐天皇も隠岐を抜け出し、地元豪族 名和長年の協力を得て、船上山せんじょうさん (鳥取県西部) で挙兵。

  【名和長年】なわ‐ながとし(~1336)通称、又太郎。 Wiki 名和長年
   南北朝時代の武将。伯耆ほうき国 名和の豪族。後醍醐天皇が隠岐を脱出した時に兵を挙げ、天皇を船上山に迎えて
   敵軍を破り、建武政権に重用されたが、足利尊氏と戦って敗死。

  鎌倉幕府軍は20倍の軍勢で、名和長年らの軍を攻めますが、粘り強く抵抗。
  そこに源氏の直系で幕府の有力御家人の足利尊氏が現れます。

  尊氏は後醍醐天皇側に付きます。すると、戦乱の状況を伺っていた豪族や武士も後醍醐
  天皇側に付き参戦し、一気に形勢が逆転。幕府側の拠点となっていた京都・鎌倉を
  攻め落とします。

  【足利尊氏】あしかが‐たかうじ (1305~1358)初め足利高氏。 室町幕府の初代将軍
   後醍醐天皇の諱いみな尊治の1字を賜って尊氏と称した。元弘の乱に六波羅を陥れて
   建武新政のきっかけをつくったが、のち叛いて光明天皇を擁立し、征夷大将軍となり、
   室町幕府を開いた。

足利尊氏

  【新田義貞】にった‐よしさだ(1301~1338) 河内源氏 義国系 新田氏本宗家の8代目   Wiki 新田義貞
   南北朝時代の武将。1333年(元弘3)鎌倉に入って北条氏を滅ぼし、上野・越後・播磨の国司。
   1336年足利尊氏を九州に追い落としたが、東上した尊氏を兵庫に防いで敗れる。恒良親王・尊良親王を奉じて越前
   金崎城に拠るが、陥落。
   再挙をはかったが、斯波高経しば-たかつね (のち、斯波氏は室町幕府の管領の家系となる) の軍と戦って
   藤島(現、福井市新田塚町)に戦死。


  ≪ 建武新政 ≫ けんむ‐の‐しんせい 建武の中興。  Wiki 建武の新政

  後醍醐天皇による新政。元弘3年(1333)6月、鎌倉幕府を倒して京都に還幸し、強力な天皇親政をめざして記録所を
  再興し、雑訴決断所を置き 翌年、建武と改元。足利尊氏と対立し、わずか2年半で崩壊。南北朝時代を迎える。

  鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は京都に戻り、天皇中心の政治を行います。
  土地の保証など綸旨りんじ (天皇自身の勅令によって蔵人が書いた文章) で采配することになりましたが、権力が天皇
  一人に集中しすぎた為、各種の行政が停滞し、幕府打倒に貢献した武士たちにも十分な恩賞が与えられませんでした。

  公家中心の政治に対し、武士たちの不満がしだいに高まり始めました。
  また夜討・強盗などが流行り治安も悪化して民衆の不満強かったそうで、御所近くの二条河原に
  政治の在り方を皮肉った立札が建てられました。

  【二条河原の落書】にじょうがわら‐の‐らくしょ
   建武元年(1334)8月頃、京都二条河原に立てられたといわれる落書。
   「此比このごろ 都ニハヤル物、夜討 強盗 謀綸旨にせりんじ」の句で始まり、当時の政府や
   世情を鋭く諷刺した好史料。口遊くちずさみと題し「建武年間記」に収める。

  【建武年間記】けんむ‐ねんかんき
   建武政権の発した法令類を編集した記録。1巻。著者・成立年未詳。建武政権の根本史料。建武記。

  【建武年中行事】けんむ‐ねんじゅうぎょうじ
   朝廷・官府の年間恒例の儀式の故事・典例を和文で記した書。後醍醐天皇撰。3巻。建武年間成立。


  ≪ 南北朝時代 ≫

  1336年(延元1・建武3)後醍醐天皇が大和国吉野に入ってより、1392年(元中9・
  明徳3)後亀山天皇が京都に帰るまでの57年間。
  南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)とが対立抗争した。
  それ以前の建武政権期を含めていうことも多い。

  1336年 建武の新政が始まって2年後、足利尊氏が後醍醐天皇の命に背き独断
  で武士たちに恩賞を与えた事から、後醍醐天皇は尊氏追討の命を出します。


  尊氏は鎌倉から京に向け挙兵し一時的に京都を占拠しますが、楠木正成に追いやられ九州へ敗走します。
  しかし、勝った朝廷軍の多くの武士も尊氏について行きます。

  尊氏は九州で態勢を立て直し3万以上の勢力となり、再び京都を目指します。湊川 (神戸市の中央部を流れる川) で、
  楠木正成・新田義貞と激突し、圧勝。持明院統系の光明天皇を即位させ、建武式目で政治方針を発表。

  1338年に征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。

  【湊川の戦】みなとがわ‐の‐たたかい
   1336年(建武3)、九州から東上した足利尊氏の軍が兵庫湊川で新田義貞・
   楠木正成らを破った戦い。正成は戦死。

  【建武式目】けんむ‐しきもく
   建武3年(1336)足利尊氏が幕政の参考のために諮問し、これに中原是円・
   同真恵らが答申する形式をとった法令。
   幕府の所在地に関する1項目と政道17条とから成る。


  後醍醐天皇は奈良の吉野に逃亡し、朝廷 (南朝) を開きます。

  長期的には幕府側の北朝の方が優勢でしたが、尊氏が南朝に降伏することもありました。また国内各地で
  内乱があり、南北の2つの朝廷が並立していた方が武士たちにとっても都合が良かった。
  時に 北朝側、次は南朝側についたりして、敵味方がその都度違っていた混乱の時代。


  【楠木正行】くすのき‐まさつら(1326~1348) 小楠公しょうなんこう正成の長子。 Wiki 楠木正行
   南北朝時代の河内の豪族。高師直・師泰と河内四条畷しじょうなわてに戦って敗れ、弟 正時と刺しちがえて死。 

  【高師直】こう‐の‐もろなお(~1351)  Wiki 高師直
   南北朝時代の武将。足利尊氏の執事。武蔵守。尊氏に従って南朝方と戦い軍功が多かったが、のちに尊氏の弟
   直義らと対立し、上杉能憲の一党のため弟 師泰とともに殺された。
   「仮名手本忠臣蔵」では浅野長矩を苦しめる吉良上野介に擬する。


  ≪ 持明院統 ≫じみょういん‐とう  【北朝】 京都

  足利氏が擁立した持明院統系(後深草天皇の血統)の
   光厳光明崇光後光厳後円融後小松天皇の朝廷。

  【光厳天皇】こうごん‐てんのう(1313~1364)名は量仁かずひと。 後伏見天皇の皇子。
   鎌倉末期の北朝1代(在位1331~1333)天皇。元弘の乱で後醍醐天皇の笠置落ち後、鎌倉幕府の申入れをうけ、
   後伏見上皇の院宣により践祚。
   建武新政で廃されたが、1336年(建武3)足利尊氏の奏請で弟の光明天皇を即位させ、院政を開始。のち出家。

  【光明天皇】こうみょう‐てんのう(1321~1380)名は豊仁ゆたひと。 後伏見天皇の皇子。
   南北朝時代の北朝2代(在位1336~1348)天皇。後醍醐天皇が吉野に遷った後、足利尊氏が擁立。

  【崇光天皇】すこう‐てんのう(1334~1398)名は興仁おきひと、初め 益仁ますひと。 光厳天皇の第1皇子。
   南北朝時代の北朝3代(在位1348~1351)天皇。観応の擾乱の際、南朝により廃され、一時 賀名生あのうに幽居。

  【後光厳天皇】ごこうごん‐てんのう(1338~1374)名は弥仁いやひと。 光厳天皇の第2皇子。
   南北朝時代の北朝4代(在位1352~1371)天皇。1352年(文和1)足利尊氏に擁立されて践祚。後円融天皇に譲位。

  【後円融天皇】ごえんゆう‐てんのう(1358~1393)名は緒仁おひと。 後光厳天皇の第2皇子。
   南北朝時代の北朝5代(在位1371~1382)の天皇。幹仁親王(後小松天皇)に譲位後、院政。

  【後小松天皇】ごこまつ‐てんのう(1377~1433)名は幹仁もとひと。 後円融天皇の第1皇子。
   南北朝末期・室町初期の第100代(在位1382~1412)天皇。1392年(明徳3)南北朝が合一。譲位後、院政。


  ≪ 大覚寺統 ≫だいかくじ‐とう  【南朝】 奈良の吉野

  大覚寺統系(亀山天皇の血統)の 後醍醐後村上長慶後亀山天皇の朝廷。吉野朝。

  【後村上天皇】ごむらかみ‐てんのう(1328~1368)名は義良のりよし・憲良。 後醍醐天皇の第7皇子。母は阿野廉子。
   南北朝時代の第97代 南朝2代(在位1339~1368)の天皇。
   1339年(延元4)吉野の行宮で即位後、賀名生あのう・男山・河内観心寺などに移り、住吉行宮に没す

  【長慶天皇】ちょうけい‐てんのう(1343~1394)名は寛成ゆたなり。 後村上天皇の第1皇子。
   南北朝時代の第98代 南朝3代(在位1368~1383)の天皇。皇弟の後亀山天皇に譲位。

  【後亀山天皇】ごかめやま‐てんのう(~1424)名は成ひろなり。 後村上天皇の第2皇子。
   南北朝時代の第99代 南朝4代(在位1383~1392) の最後の天皇。
   1392年(元中9・明徳3)南北両朝合一により北朝の後小松天皇に譲位、帰京。

   【南北朝正閏問題】なんぼくちょう‐せいじゅん‐もんだい
   1911年(明治44)に起きた学問の自由への圧迫事件。
   国定教科書「尋常小学日本歴史」の南北朝並立の記述が南朝正統論の立場から議会で非難され、教科書は
   使用中止・改訂、教科書編修官 喜田貞吉は休職とされた。その後 敗戦まで教科書では吉野時代と称した。


  ≪ 南北朝合一 ≫

  1392年 第3代将軍の足利義満の呼びかけにより、南北両朝の天皇が大覚寺で対面。
  南朝の後亀山天皇が後小松天皇に皇位を譲ることが成立。

  【足利義満】よしみつ(1358~1408) 第2代将軍 義詮の子。尊氏の孫
   室町幕府 第3代将軍(在職1368~1394)南北朝内乱を統一し幕府の全盛期を築く
   明に入貢、勘合貿易をひらく。
   北山に山荘を営み、金閣をつくる。法名、道有、のち道義。北山殿。

 室町時代
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『室町幕府の創設』 14.07.18 放送 / 同 『室町時代の交易と文化』 14.07.25 放送





  【室町時代】むろまち‐じだい
   足利氏が政権を握り京都室町に幕府を開いた時代。1392年(明徳3)南北朝の合一から、1573年(天正1)第15代将軍義昭が
   織田信長に追われるまでの約180年間を指す。その後期すなわち応仁の乱後を戦国時代とも称する。
   また、南北朝時代(1336~1392)を室町時代前期に含める説もある。
  
 足利氏 河内源氏 源義重が、下野国 (栃木県) 足利荘に本拠地を置いたことから、藤姓足利氏と名乗った事から。


【源義国】よしくに (1091~1155年) 河内源氏 義家の3男
 新田・足利両氏の祖にあたる

【源義重よししげ /新田義重にった よししげ (1114~1135年)
 平安時代末期から鎌倉時代初期の河内源氏の武将。
 河内源氏の源義国の長男。 源義家の孫
 上野国 (群馬) 新田荘を父と共に開拓。
 上野源氏、新田氏の祖

【源義康】よしやす /足利義康あしかが よしやす(1127~1157年)
 平安時代末期の河内源氏の源義国の次男(または三男とも)。
 武家の棟梁として名を馳せた源義家の孫に当たる。
 父の知行地の一つ下野国 (栃木) 足利荘を相続し、
 足利氏の祖となる。兄 義重とは異母兄弟。

  【足利尊氏】あしかが‐たかうじ(1305~1358)   Wiki 足利尊氏
   室町幕府初代将軍(在職1338~1358)。初め高氏。後醍醐天皇の諱いみな尊治の1字を賜って尊氏と称した。
   元弘の乱に六波羅を陥れて建武新政のきっかけをつくったが、のち叛いて光明天皇を擁立し、征夷大将軍となり、
   室町幕府を開いた

  【足利直義】ただよし(1306~1352) 尊氏の弟。三条殿。錦小路殿。
   南北朝時代の武将。兄と共に建武政権に叛き、幕府を開いてその実権を握ったが、尊氏の執事 高師直と争い、
   尊氏と不和を生じた。観応の擾乱じょうらんで武家方の分裂をひき起こし関東に下ったが、鎌倉で毒殺された。

  【足利義詮】よしあきら(1330~1367) 尊氏の子。 室町幕府 第2代将軍(在職1358~1367)。

  【足利直冬】ただふゆ (生没年未詳) 尊氏の子。のち直義の養子となる。
   南北朝時代の武将。長門探題として下向の途中、高師直の命を受けた配下に襲われて肥後に落ちのび、
   勢力を蓄えて上京。いったん入京するが奪回され、以後中国地方を転々とする。

  【足利基氏】もとうじ(1340~1367) 尊氏の第4子。1349年(貞和5)鎌倉に入り、初代の鎌倉公方となり関東を支配。

  【足利義満】よしみつ(1358~1408) 第2代将軍 義詮の子。尊氏の孫
   室町幕府 第3代将軍(在職1368~1394)。南北朝内乱を統一し幕府の全盛期を築く。明に入貢、勘合貿易をひらく。
   北山に山荘を営み、金閣をつくる。法名、道有、のち道義。北山殿。

  【足利義持】よしもち(1386~1428) 第3代将軍 義満の長子。
   室町幕府 第4代将軍(在職1394~1423)。父 義満に将軍職を譲られたが実権はなく、その死後 自ら政務をとる。

   満済准后日記 (藤原師冬の子である僧の満済1378~1435年は、義満の政治顧問として幕政に参与し権勢を振るった。)によると
    1428年1月7日、義持はお尻に腫れ物が出来ていて、お風呂で掻きむしったので傷になってしまった。
    1月17日、各大名が集まって、義持さまの治療法や御祈祷の事を相談したが、成す術がないそうだ。
    1月18日、午前11時頃、義持さまが亡くなられた。享年43だった。

   死因は傷口からバイ菌が入った敗血症だったと見られています。義持の息子は酒の飲み過ぎで早くに亡くなっていた
   ので、次期将軍は弟の中から選ぶ事になりましたが、適任者がいないのでクジ引きで決めたそうです。






  【足利義量】よしかず(1407~1425) 4代将軍 義持の子。
   室町幕府 第5代将軍(在職1423~1425)。将軍となったが若くして死去。

  若くして亡くなった5代将軍の義量の死後も、父である4代将軍の義持は存命でしたが、次の将軍を自ら決める
  事を拒み、管領たちの合議で決定する事を望みました。
  将軍候補は義持の弟4人ですが全て僧になっており、誰が政治に向いているか判断できずクジ引き決定と
  なりました。義教 (青蓮院) ・ 栄隆 (相国寺) ・ 義昭 (大覚寺) ・ 義承 (三千院)。
  クジは石清水八幡宮で行われ、天台宗青蓮院の僧であった義教が将軍に決定。


  NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉・選 『ヒールの言い分! 神に選ばれた恐怖の将軍 足利義教』 19.10.08 放送

  ≪ 史上最悪の将軍 足利義教 ≫ 書きかけ

  【足利義教】よしのり(1394~1441) 第3代将軍 義満の子。
   室町幕府 第6代将軍(在職1429~1441)。初め義円と称し、天台座主。兄 義持の死後、還俗して将軍。
   権力強化につとめ、持氏の野心を抑えて鎌倉の足利家を滅ぼしたが、嘉吉の乱で赤松満祐に殺された。

  近年の研究では、義教の時代が最も室町将軍の権力が強かったと考えられているようです。

  この時代、畿内では庶民による一揆が多発、九州では地侍同士の争いが多発、関東では鎌倉公方が政敵となり
  幕府政治が揺らぎ始めていました。

  クジで選ばれて将軍に就任してから、将軍の権力を高める改革を独断で断行してきました。
  将軍の直属の軍隊である奉公衆を軍力を強化。合議制から将軍独断の決定を断行。
  日明貿易を復活させ財政再建なども行いました。南朝の皇族の皇籍剥奪を行い南北朝問題を最終決着します。

  1433 (永享5) 年、先代から管領を務めており、義教の暴発を命がけで食い止めてきた斯波義敦が病死します。
  他の重臣たちも2年の間に次々と亡くなり、義教に意見できる存在が居なくなりました。

  有力大名である管領家や四職家などの家督に介入します。斯波家では介入を受け跡取り問題が発生し、内紛が
  おこり、その結果、管領家筆頭の斯波家は衰退していきます。

  【三管領】さん‐かんれいさん‐かんりょう
   管領は、室町時代の職名。将軍を補佐して幕府の政務を総轄した。鎌倉幕府の執権に当たる役職。初めは
   執事と称した。管領に補せられる家柄は、足利氏一門の斯波しば 細川畠山の三家。三管。三職。

  【四職】し‐しき
   室町幕府四職は、侍所さむらいどころの所司に補せられた山名・一色・京極・赤松の四家をいう。
   四殿衆。四職衆。の一家

  1434 (永享6) 年、多くの僧兵を抱え、かつ神仏の威光を持ち出して、何かと幕府に注文を付けてくる天台宗比叡山を
  攻撃。大名の家督介入や寺への攻撃など、これまでの将軍がしなかった領域まで直接手を下しました。
  政敵であった鎌倉公方の持氏を滅ぼした後、持氏の3人の子も処刑。鎌倉の残党を匿ったと噂がたった一色義貫を
  暗殺。これによって四職の一つ一色家も衰退しました。

  些細な事で公家の領地を没収したり、能の世阿弥を佐渡へ島流し。皇族・大名・僧・庶民までの各階層に対して
  容赦なく斬殺・暗殺・切腹命令・領地没収などを行いました。
  『看聞日記』には「万人恐怖」「薄氷之儀 恐怖千万」などと書かれています。

  【看聞日記】かんもんにっき
   後崇光院(貞成さだふ親王)著。1416(応永23)から48年(文安5)にわたる日記と1408年(応永15)の御幸記など別記13巻、
   計55巻。当時の行事並びに世相が詳記されている好史料。看聞御記かんもんぎょき


  【足利持氏】もちうじ(1398~1439) 4代 鎌倉公方。3代目 鎌倉公方 満兼の子。
   室町前期の武将。上杉禅秀の乱を平定。のち将軍 義教と対立、永享の乱を起こしたが、敗れて自刃。

  【足利義勝】よしかつ(1434~1443) 6代将軍 義教の子。
   室町幕府 第7代将軍(在職1442~1443)。8歳で将軍、翌年病死。

  【足利政知】まさとも(1435~1491) 6代将軍 義教の子。
   室町中期の武将。成氏を抑えるため東下させられたが、伊豆にとどまり堀越公方と呼ばれた。

  【足利義政】よしまさ(1436~1490)初め 義成よししげ。 6代将軍 義教の子。
   室町幕府第8代将軍(在職1449~1473)。弟 義視を養子としたが、義尚が生まれるに及んで義視を疎んじ、
   応仁の乱の因をつくる慈照寺(銀閣)を建て、芸術を愛好・保護し、いわゆる東山文化を生んだ。東山殿。






  【足利義視】よしみ(1439~1491) 6代将軍 義教の子。
   室町中期の武将。僧となり義尋と称す。還俗して兄 義政の跡継ぎとされたが義尚の出生後廃され、東軍の細川
   勝元に擁せられて応仁の乱となった。のち西軍に走る。今出川殿。

  【日野富子】ひの‐とみこ(1440~1496) 室町幕府8代将軍 足利義政の夫人。日野重政(裏松政光)の娘。
   実子の義尚を将軍継嗣に立てようとして応仁の乱の端緒をつくる。
   また関所を設けて課税し、米相場・賄賂・高利貸などで蓄財した。 Wiki 日野富子






  【足利義尚】よしひさ(1465~1489)のち義熙よしひろと称す。 第8代将軍 義政の子。 母は日野富子。
   室町幕府第9代将軍(在職1473~1489)。近江の六角(佐々木)高頼 討伐の陣中に没。

  【応仁の乱】おうにん‐の‐らん 応仁文明の乱
   応仁元~文明9年(1467~77)足利将軍家および管領 畠山・斯波両家の相続問題をきっかけとして、東軍 細川勝元と
   西軍 山名宗全とがそれぞれ諸大名をひきいれて京都を中心に対抗した大乱。
   京都は戦乱の巷となり、幕府の権威は全く地におち、社会・文化を含めて大きな時代の画期となった。






  【足利義稙】よしたね(1466~1523)初め 義材よしき・義尹よしただ。 義政の弟 義視の子で 第8代将軍 義政の養子となる。
   室町幕府 第10代将軍(在職1490~1493 / 1508~1521)。1490年(延徳2)将軍。
   1493年(明応2)細川政元に廃され、1508年(永正5)再び将軍となる。
   1521年(大永1)管領 細川高国の乱によって淡路に逃れ、のち阿波に没。島公方。

  【足利義澄】よしずみ(1480~1511)初め 出家して清晃、のち細川政元に擁せられて還俗し、義遐よしとお・義高と改名。 
   堀越公方 足利政知の子。第8代将軍 義政の孫
   室町幕府 第11代将軍(在職1494~1508)。1508年(永正5)前将軍 義稙に追われ、近江に没。

  【足利義晴】よしはる(1511~1550) 第11代将軍 義澄の子。
   室町幕府 第12代将軍(在職1521~1546)。畿内の政情が不安定なため、しばしば京都を逃れ、
   1546年(天文15)将軍職を子義輝に譲る。

  【足利義輝】よしてる(1536~1565)初め 義藤と称す。 第12代将軍 義晴の子。
   室町幕府 第13代将軍(在職1546~1565)。三好・松永氏に圧迫され、松永久秀らに攻められて殺された。

  【足利義栄】よしひで(1538~1568) 堀越公方 足利義維よしつなの子。 第11代将軍 義澄の孫
   室町幕府 第14代将軍(在職1568~1568)
   阿波より摂津に入り、永禄11年(1568)2月将軍となったが、9月織田信長が義昭を奉じて入京して追われ、病没。

  【足利義昭】よしあき(1537~1597) 第12代将軍 義晴の子。
   室町幕府 第15代将軍(在職1568~1573)。興福寺一乗院門跡となり覚慶。還俗して初め義秋。
   織田信長に擁立されて将軍となったが、のち不和を生じ、1573年(天正1)京都を追われる。
   諸国を流浪、豊臣秀吉に保護され、大坂に没。
 
 足利尊氏
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『足利尊氏』 13.09.29 放送 / 広辞苑
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『室町幕府の創設』 14.07.18 放送   Wiki 足利尊氏

  【足利尊氏】あしかが‐たかうじ(1305~1358)
   室町幕府初代将軍(在職1338~1358)。初め高氏。後醍醐天皇の諱いみな尊治の1字を賜って尊氏と称した。
   元弘の乱に六波羅を陥れて建武新政のきっかけをつくったが、のち叛いて光明天皇を擁立し、
   征夷大将軍となり、室町幕府を開いた。






  【室町幕府】むろまち‐ばくふ 足利氏が京都に開いた幕府。

   尊氏が1336年(建武3)建武政府を京都から逐って1338年に創始。
   3代将軍義満の頃には実質的に朝廷の権力をも吸収して最盛期を迎えたが、
   やがて無力化し、群雄割拠の戦国時代を招き、第15代義昭に至って
   織田信長に滅ぼされた。足利幕府。


  ≪ 尊氏は、事あるごとに切腹したがった ≫

   太平記には、尊氏が切腹しようとした事が記述されています。(15巻、16巻、31巻)
   コヤブ歴史堂の番組解説によると、まだ儒学が浸透していない時代で、

   当時の武士というのは現在イメージされる「サムライ」「武士道」といった規律正しく潔い。とは違っていたようです。
   そんな中にあって、尊氏は潔く?(諦めが早く)切腹しようとするのは、珍しいそうです。

  【儒学】じゅ‐がく  孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。諸子百家の一つ。
   後漢に五経などの経典が権威をもち儒家が重用されるに及んで、他から抜きんでた。南北朝・隋・唐では経典の
   解釈学が進み、また礼制の普及・実践が見られた反面、哲理面で老荘の学や仏教に一時おくれをとった。
   宋代に宋学が興って哲理面で深化し、特に朱子学による集大成がなされた。やがて朱子学が体制教学化する
   につれ、明代中葉以降、王陽明を始め朱子学の批判・修正を通じて多くの儒家による学理上の革新が続き、
   清末の共和思想に及ぶ。
   日本には応神天皇の時に「論語」が伝来したと称されるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降

  【武士道】ぶし‐どう
   日本の武士階層に発達した道徳。
   鎌倉時代から「弓矢の道」としてあり、江戸時代に儒教とくに朱子学に裏づけられて確立、封建体制の精神的な
   柱となり、明治以降国民道徳の中心とされた。主君への絶対的な忠誠のほか、信義・尚武・名誉などを重んずる。


  ≪ 18歳の美男子を大将とした、着飾ったイケメン部隊を敵陣に送り込んだ ≫  Wiki 饗庭氏直  / Wiki 武蔵野合戦

  文和元年/正平7年(1352)の武蔵野合戦において、尊氏は装束を統一した部隊を
  編成し投入した。

   先陣の 3万 「平一揆」は、手袋、袴、笠印までが真っ赤で統一。
   第二陣 2万 「白旗一揆」は、白馬に乗り白い旗印に白い旗
   第三陣 6千 「花一揆」は、18才の美男子と呼ばれた命鶴(饗庭氏直)を大将とし、
   美しく飾り立てた鎧をまとい、梅の花を兜の真っ向に指していた。

  この時代は、武士は自前の装束と鎧が普通だった為、大半の武士の恰好は
  みすぼらしかった。特に、関東武士は華やかな物を見る機会が少なかった事もあり、
  自分たちの恰好と比べると
  「天から兵が舞い降りた」と感じ戦意を失う効果があったそうです。

  その後、(武田の赤甲冑部隊などが有名)戦国大名たちが、この作戦を採用する
  ことになります。




  【饗庭 氏直】あえば うじなお(1335年 - 没年不詳)号は命鶴丸みょうづるまる、命鶴。名は最初直宣、のちに尊宣。
   南北朝時代の武将で、足利尊氏の近臣。歌人でもあり、『新後拾遺和歌集』にその作品が残る。
   尊氏の側近く使えた寵童として知られ、『太平記』の「武蔵野合戦事」段では「容貌当代無双の児」と評されている。
   観応2年/正平6年(1351年)1月には尊氏と争っていた足利直義との和平交渉に当たっている。


  ≪ 田楽の屋外のフェスでノリノリになった尊氏の女房が扇を手にはしゃいだ為、席が崩れ大惨事になった ≫

  ある僧が、京都四条に橋を建設する為の資金集めとして田楽の屋外イベントを企画した。
  公家や僧侶たちは、出来るだけ良い場所で見ようとして、なるべく高く巨大な席を設ける事を競った。
  ひときは高段だった尊氏の席に居た女房が、手にした扇を煽った(バブル期のディスコのお立ち台のイメージ)時、
  席が傾き450mに渡り他の席も巻き込み総崩れになった。たくさんの死傷者が出たそうです。







  【太平記】たいへいき
   軍記物語。40巻。作者は小島法師説が最も有力。いくつかの段階を経て応安(1368~1375)~ 永和(1375~1379)の
   頃までに成る。
   北条高時失政・建武中興を始め、南北朝時代五十余年間の争乱の様を華麗な和漢混淆こんこう文によって描き出す。

  【田楽】でん‐がく
   日本芸能の一つ。平安時代から行われた。
   もと、田植などの農耕儀礼に笛・鼓を鳴らして歌い舞ったものに始まるというが、やがて専門の田楽法師が生まれた。
   笛吹きを伴い腰鼓・銅子どびょうし ・簓ささらなどを鳴らしながら踊る田楽躍おどりと、高足こうそくに乗り品玉しなだまをつかい
   刀剣を投げなどする曲技とを本芸としたが、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、猿楽と同様に歌舞劇である能をも
   演ずるようになった。後に衰え、寺社の行事だけに伝えられて今にいたる。

  【足利直義】あしかが‐ただよし (1306~1352) 尊氏の弟
   南北朝時代の武将。兄と共に建武政権に叛き、幕府を開いてその実権を握ったが、尊氏の執事 高師直と争い、尊氏と
   不和を生じた。観応の擾乱で武家方の分裂をひき起こし関東に下ったが、鎌倉で毒殺された。三条殿。錦小路殿。

  【観応の擾乱】かんおう‐の‐じょうらん
   観応元~3年(1350~52)に起こった足利尊氏・直義両派間の全国的内乱。
   尊氏派の首領 高師直一族の滅亡など一進一退し、直義の毒殺によっていちおう終結。

  【高師直】こう‐の‐もろなお (~1351)
   南北朝時代の武将。足利尊氏の執事。武蔵守。
   尊氏に従って南朝方と戦い軍功が多かったが、のちに尊氏の弟 直義らと対立し、上杉能憲の一党のため弟 師泰と
   ともに殺された。

  【東百官】あずま-ひゃっかん
   室町末期から、関東武士が京都の朝廷の官名に擬して用いた私称。
   伊織・多門・左膳・頼母・求馬・左内・兵馬の類。
 
 足利尊氏の三人の息子たち
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『日本史上最大の親子喧嘩 ! 謎の足利一族』 14.05.04 放送

  ≪ 足利直冬 ≫

  直冬は、父・尊氏にせっかくの手柄を褒めてもらえなかったので、帝に「オヤジ、殺っていいッスか?」と訴えた !




  【足利直冬】あしかが‐ただふゆ (生没年未詳) 尊氏第2子
   南北朝時代の武将。のち直義 (尊氏の弟) の養子となる。長門探題として下向の
   途中、高師直の命を受けた配下に襲われて肥後に落ちのび、勢力を蓄えて上京。
   いったん入京するが奪回され、以後中国地方を転々。

  直冬は妾の子ですが、当時は正妻の子でなくとも跡継ぎになれた時代。
『太平記』

  直冬は父親に好かれようと、一生懸命活躍し成果を上げますが、尊氏に冷遇され、尊氏を討とうとします。
  番組の解説のコハニワ先生によると「父親 (尊氏) から、不当な (家臣と同じ) 扱いを受けているのか? は歴史上の謎」。

  【後村上天皇】ごむらかみ‐てんのう (1328~1368)
   南北朝時代の南朝の天皇(在位1339~1368)。後醍醐天皇の第7皇子。母は阿野廉子。名は義良のりよし ・憲良。
   1339年(延元4)吉野の行宮で即位後、賀名生あのう・男山・河内観心寺などに移り、住吉行宮に没す。

  南北朝の混乱は北朝の足利尊氏と南朝の楠木正成との争いから始まりますが、実際は60年に渡る足利家の親子ゲンカ、
  兄弟ゲンカの意味合いも強かったようです。南朝側として戦った後、北朝に戻ったり、尊氏と直義の兄弟ゲンカなどの内戦など。
  また南朝の楠木正成の3子である楠木正儀まさのりも一時期は北朝側につき、のちに南朝側に戻ったりしています。


  ≪ 第2代将軍 足利義詮 ≫

  義詮は自分の似顔絵がお弁当のフタに描かれたのを見て激怒した。




  【足利義詮】あしかが‐よしあきら (1330~1367)
   室町幕府第2代将軍(在職1358~1367)。尊氏の第3子

  【世尊寺行忠】せそんじ‐ゆきただ (1312~1381)  Wiki 世尊寺行尹
   世尊寺家は、藤原北家から出た公家。九条流の嫡流であった摂政 藤原伊尹の孫
    行成を祖とする。
   藤原行成を祖とする和様書道の一派で、和様の書法を大成し「世尊寺流」といった。
   世尊寺家の第14代目の当主。

『師守記』

  当時の武士は似顔絵を描かれる事はステイタスになり嬉しい事でした。
  世尊寺行忠も義詮に喜んでもらえると思い用意した似顔絵入りの巨大な弁当箱でしたが、そのおもてなしに対し
  義詮はクレーム。この話の本質は、義詮が「貴族より自分の方が上なんだぞ」という事を誇示するために、わざと
  クレームを入れたもののようです。

  【師守記】もろもり‐き Wiki 師守記
   南北朝時代の日記。筆者は公家の中原師守。
   記述は暦応2年(1339年)から応安7年(1374年)にまで及んでいるが、所々に欠落があり、貞和5年(1349年)以降は
   顕著となる。また筆者の師守は応安3年(1370年)前後に没したと言われており、文脈や筆跡もその前後で相違が
   見られるので、応安以降の記述は別人の手によるものである可能性がある。
   中原氏は代々外記を世襲した家柄で、筆者の師守も北朝で権少外記の役職にあったため、北朝の朝議や記録所
   関係の記述が精細である。
   師守は外記に就任する前は大炊頭にあり、役職の関係から大炊寮領を統治しており、大炊寮を中心に、公領の
   経営やそこで起こった出来事に関する記述も多々ある。
   師守の兄中原師茂は権大外記の役職にあり、師守は兄師茂を「家君」と称し、師茂の視点から書かれたような記述が
   多く散見される。そのため「師茂記」とも呼ばれることがある。


  ≪ 初代 鎌倉公方 足利基氏 ≫

  基氏は「この魚生焼けや! 焼いたヤツ出てこい !」と、いきなり料理人をブチ殺そうとしたことがある !




  【足利基氏】あしかが‐もとうじ (1340~1367) 尊氏の第4子
   南北朝時代の武将。1349年(貞和5)鎌倉に入り、初代の鎌倉公方となり
   関東を支配。

  【関東管領】かんとう‐かんれい 鎌倉管領。
   室町幕府の職名。関東の政務を総管させるために鎌倉に設置。
   1363年(貞治2)足利基氏が執事上杉憲顕(1306~1368)を任じたのに始まる。
   上杉氏の世襲。
『塵塚物語』


  フナが生焼けだったのは料理人にミスで、基氏の命令に違反しことになります。武士が命令した事が実行されないと死罪に
  当たり殺されても仕方がないことでした。しかし、基氏は料理人を殺さず「寛容で優しい人」でした。という意味で書かれた話。

  この話の冒頭に「足利基氏さんは武勇もあり、慈悲もあり、生まれつきの正直者で歌を愛する優しい方で美食にもこだわりを
  お持ちでした。」とあるように、全編にわたって基氏を賛美しています。

  【塵塚物語】ちりづか‐ものがたり Kotobank 塵塚物語
   室町時代の説話集。奥書には1552年(天文21)成立,藤原某の作とあり,また69年(永禄12)の序文があるので
   このころの成立と考えられる。
   上代以降,おもに鎌倉・室町時代の重要人物の人格・逸話や,徳政などの歴史的な事柄に関する話65編を収録する。
   記載内容は厳密性を欠き,近世的な感覚による叙述もみられ,その信憑性は低いが,中世の風俗や慣習を多く伝える。
 
 足利義満
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『足利義満』 14.02.23 放送
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『足利義満・義政 ~室町文化の発展~』 14.07.16 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『室町幕府の創設』 14.07.18 放送 / 同 『室町時代の交易と文化』 14.07.28 放送





  【足利義満】あしかが‐よしみつ (1358~1408)法名、道有、のち道義。北山殿。 義詮の子。
   室町幕府第3代将軍(在職1368~1394)。南北朝内乱を統一し幕府の全盛期を築く。
   明に貢物を贈って入朝し、勘合貿易をひらく。北山に山荘を営み、金閣をつくる。

  【金閣寺】きんかく‐じ 京都北山にある臨済宗の鹿苑寺の別称。
   足利義満が藤原氏北家の支族の西園寺さいおんじ家の邸宅を譲り受け、別荘として造営
   した北山殿を遺命により寺とした。

  室町幕府の全盛期を作った義満は文化の繁栄だけでなく、逆らった大名を自ら合戦で
  倒すなど武将としても有能だったそうです。
  歴史家の中では日本史上、最強の権力者とも評されることがあるそうです。


  ≪ 上皇よりも遥に権力を持っていた義満 ≫ 1392年 南北朝を合一させた

  『後愚昧記ごぐまいき』という記録によると、
  後円融上皇は、寵愛する上臈の局を斬りました。義満と密通していた事を知り怒った
  からとの噂。按察の局も義満と密通しているのと疑いが出て、彼女を出家させました。

  また、義満が「上皇を島流しにする」と言っていたという噂まで出て、上皇は御堂に籠り
  「切腹する」とまで言い出しました。


 

  【後円融天皇】ごえんゆう‐てんのう (1358~1393)名は緒仁おひと。(在位1371~1382)
   南北朝時代の北朝の天皇。後光厳天皇の第2皇子。幹仁もとひと親王(後小松天皇)に譲位後、院政。

  【上臈女房】じょうろう‐にょうぼう
   身分の高い女官。
   御匣殿みくしげどの、尚侍ないしのかみ、二位・三位の典侍ないしのすけ、禁色きんじきを許された大臣の娘や孫など。

  【按察使・按察】あぜち
   奈良時代、諸国の行政を監察した官。719年(養老3)創設。特定の国司の兼任。
   後には陸奥・出羽だけ実態を残し、他は大中納言の兼ねる名義だけの官となる。

  1378年、室町に邸宅を建設し幕府を移します。 この室町殿は、庭園に花を多く植えた事から『花の御所』と呼ばれました。







  ≪ 周りの公家が引くぐらい若手芸人の面倒をみており、日本の芸能を広めることになった ≫  日本の伝統芸能

  祇園の神輿見物の際、加賀の守護大名 富樫とがし氏に用意させたVIP席に、庶民の芸能一座である大和猿楽の子供たちを
  同席させました。当時の最高権力者の隣に庶民が同席するなんて事は前代未聞。

  この猿楽の子供たちが売れっ子になった話を聞くと、義満がたいそう喜ぶので、大名たちはこぞって、彼らを呼ぶようになります。
  そして猿楽の子供たちは超人気者になり、ギャラも高額になりました。

  【猿楽・申楽】さる‐がく (「散楽さんがく」の転訛という) 能楽の旧称
   平安時代の芸能。滑稽な物まねや言葉芸が中心で、相撲の節会や内侍所御神楽の夜などに演じた。
   後には一時の座興の滑稽な動作をも猿楽と呼んだ。広義には呪師じゅし・田楽でんがくなどをも含む。
   鎌倉時代に入って演劇化し、能と狂言となる。「さるごう」とも。
   中世、猿楽師の結成した団体で多くは寺社に属し、大和四座やまと‐よざが有名





  【大和猿楽】やまと‐さるがく  Wiki 大和猿楽
   室町時代、大和国に住し、春日神社の神事に従事した結崎ゆうざき ・外山とび・円満井えんまい・坂戸さかどの4座の猿楽。
   後にそれぞれ観世・宝生・金春こんぱる・金剛の4座となった。








  ≪109mの七重の塔を建てようとしたが、2回ともほぼ完成間近に雷で焼失した ≫

  1416年1月9日の夜、豪雨と落雷で北山の七重の塔が炎上しました。雷が3回も落ちて焼失。
  16年前にも相国寺に作った大きな塔も雷で炎上。その後、わざわざ場所を北山に移して義満さまが再建していた塔でしたが、
  完成前に燃えてしまい…つくづく残念です。「もう1回、相国寺に建てる」とおっしゃっているという話もあるそうですが…。

  【看聞日記】かんもんにっき 看聞御記かんもんぎょき
   後崇光院(貞成さだふ親王)著。1416(応永23)から1448年(文安5)にわたる日記と1408年(応永15)の御幸記などの
   別記13巻、計55巻。当時の行事並びに世相が詳記されている好史料。

  【相国寺】しょうこく‐じ
   京都市上京区にある臨済宗相国寺派の本山。山号は万年山。京都五山の第2。1382年(永徳2)足利義満の建立。
   開山は春屋妙葩(夢窓疎石は勧請開山)で、以後 夢窓派が相承。足利歴代将軍の帰依を受け、五山の中心として
   威勢を誇った。

  【夢窓疎石】むそう‐そせき(伊勢の人、1275~1351)
   鎌倉後期~南北朝時代の臨済宗の僧。初め天台・真言を学んだが、のち禅門に入り、後醍醐天皇・足利尊氏らの
   帰依を受け、7代の天皇から国師号を贈られた。天竜寺船の派遣を建議し、天竜寺開山となる。門下を夢窓派といい、
   五山文学の中心。著「夢中問答集」「夢窓国師語録」など。諡号しごうは仏統国師など。

  【勧請開山】かんじょう‐かいさん
   寺院建立の際、実際の開山ではなく、信仰上 過去の人を開山とした時の、その人。金閣寺・銀閣寺の夢窓疎石など。

  【春屋妙葩】しゅんおく‐みょうは (甲斐の人、1311~1388)諡号は普明国師。
   南北朝時代の臨済宗の僧。号は不軽子。叔父の夢窓疎石に師事。等持寺・天竜寺・南禅寺に歴住し、足利義満の
   帰依を受けて僧録となる。相国寺開創に際しては疎石を勧請開山として自らは第2世となり、ほかに多く寺を開く。
   五山文学代表者の一人。

  【五山文学】ござん‐ぶんがく
   鎌倉末・南北朝時代を中心に行われた、鎌倉および京都の五山の禅僧の漢詩文。広義には同時代の禅林文学を総称。
   日記・語録・漢文・漢詩があり、虎関師錬・義堂周信ら多数の作家が出、江戸時代の儒学勃興の基をなした。

  【五山十刹】ござん‐じっせつ ・・ (「十刹」はジッサツとも)禅宗で、最高寺格の5寺と、それに次ぐ10の大寺をいう。

  【京都五山】
   京都にある臨済宗の五大寺。1386年(至徳3)足利義満により天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の位次が
   決定され、南禅寺を五山の上とした。

  【鎌倉五山】
   足利義満のとき定めた鎌倉の臨済宗の五大寺、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の総称。(関東五山)
  
 一休宗純
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『僧侶スペシャル』 13.09.22 放送 / 広辞苑  Wiki 一休宗純

  一休さんは第100代の後小松天皇の正妻の子供ではありませんが、跡目争いに巻き込まれないようにと出家させる為
  1399年に母親が6才の一休を安国寺へ預けます。
  各地の寺を転々と布教して回りますが、当時の禅宗の僧侶では考えられない奇行を行った人としても知られています。

  【一休】いっきゅう  諱いみなは宗純、号は狂雲。一休は字あざな。(1394~1481)
   室町中期の臨済宗の僧。後小松天皇の落胤といわれる。京都大徳寺の住持。
   詩・狂詩に巧みで書画をよくする。禅宗の腐敗に抗し、奇行が多かった。
   詩集「狂雲集」。一休諸国咄などに伝説化され、小説・戯曲に描かれる。





  破戒僧はかい-そう(仏教の戒めを守らない僧侶)と呼ばれた一休さんは、髑髏が付いた杖を持って
  いたなど、奇行伝説が多く残されていますが、堅苦しい禅宗の仏教の僧と異なり、人間味に
  溢れていたので民衆には親しみやすく慕われていたようです。

詩集「狂雲集」


  【臨済宗】りんざい‐しゅう 禅宗の一派。唐の臨済を祖とする。現在15派に分かれる。
   日本では鎌倉時代に栄西が伝えたのに始まり、室町幕府は京都・鎌倉に五山を定めて保護した。
   公案 (課題や難問を与え、考えさせる事) によって、弟子を教化する看話禅かんなぜんの立場をとる。

  看話禅黙照禅もくしょう‐ぜん ・・・ 公案を用いず、ひたすら坐禅によって修行する禅法。

  【頓知・頓智】とんち…機に応じてはたらく知恵。機知。 一休のとんち話は江戸時代に作られたそうです。





  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 近畿国宝めぐり ~高野山の紅葉をめざせ10~』 13.11.07 放送

  室町時代、現在の奈良県の五條市を訪れた一休さんが創建した佛心寺にも、一休さんに纏わる話が残っています。

  当時の平均寿命と比べると、非常に長生きだった一休さんは87才で亡くなります。
  病床で、「もしも手に負えない問題が起きたらこの手紙を開けなさい」と、弟子たちに一通の手紙を残しました。

  数年後、寺に存続の危機が訪れます。弟子たちは大切に保管してきた一休さんの手紙を開封。
  そこに書かれてあったのは「大丈夫、心配するな 何とかなる」だけだったそうです。

奈良 佛心寺

奈良 佛心寺

京都 酬恩庵 一休寺

京都 酬恩庵 一休寺


  読売テレビ ten. 『"とんち"で有名な一休さん 一休寺で歴史散策』 18.02.07 放送

  一休さんが晩年過ごしたのは京都府京田辺市にある酬恩庵しゅうおんあん。通称、一休寺。
  元々は、鎌倉時代に禅の道場として建てられ妙勝寺みょうしょうじと呼ばれていました。
  こちらには、建物のほか、一休禅師木像など国の重要文化財指定が7つあります。大徳寺への通勤に使われた輿も現存。

  1459年に一休が復興し、74才の時に東山から虎丘庵こきゅうあんというを狭い庵を移築し40~50才も歳の離れた盲目の
  「森女しんじょ」と呼ばれた女性と暮らしていました。

  81才で大徳寺の住職になった後もここから通っていたそうです。
  82才で虎丘庵から見える場所に自身の墓を建て、亡くなるまでの晩年を過ごしました。

  現在、一休宗純の墓は宮内庁が管轄しており、墓のある場所の囲んだ門を開くのにも宮内庁の許可が必要で、虎丘庵も
  一般公開されていません。

  島根県出雲の神在餅じんざいもちが伝わり、「善き哉この汁」と言った事から善哉ぜんざいと呼ばれるようになったともされています。
  また侘茶の祖いわれる村田珠光は大徳寺の一休 (1394~1481) に教えを乞い、禅味を加えた点茶てんちゃ (抹茶をたてる事)
  法を始めたと言われています。

   日本最古の形式の茶会 臨済宗 建仁寺 四頭茶礼
 
 奈良絵本 と 御伽草子
  ≪ 奈良絵本 ≫    テレビ東京 開運! なんでも鑑定団 13.12.03 放送

  【奈良絵】なら‐え
   室町末期から江戸時代にかけて、奈良の東大寺・興福寺などの絵仏師が、
   注文や売品として大量に描いた絵画。後には京の町絵師も作画。
   御伽草子などに取材し、明るい彩色の絵巻物や冊子本(奈良絵本)が作られた。

  【奈良絵本】ならえ‐ほん
   奈良絵を挿絵とした一種の絵本。
   室町末期から江戸中期にかけて作られ、内容は「源氏物語」「住吉物語」
   などもあるが、御伽草子、舞の本を主とし、横本が多い。金泥・銀泥を
   用いた豪華な大形美本もあり、棚飾り本・嫁入り本とされた。

  東大寺・興福寺・絵巻は、飛鳥・奈良時代の雑学のページ



  ≪ 御伽草子 ≫おとぎ‐ぞうし

  広義には、室町時代を中心に行われた同類の短編小説の総称。作者は多く未詳。
  空想的・教訓的・童話的な作品群。よく時代思想と世相を反映。
  狭義には、享保(1716~1736)頃の大坂の書肆しょ‐し(本屋)渋川清右衛門の刊行した「文正草子」「鉢かづき」以下23編の称。





  一寸法師、浦島太郎、酒.呑童子、雪女、猿源氏などの物語が御伽草子の絵本として描かれる。

  【御伽】お‐とぎ
   ① 非現実的な話。夢物語。のちに子供に聞かせる昔話や童話の意味で、御伽話。
     1903年(明治36)に御伽話を組み込んだ児童劇の御伽芝居が上演される。
   ② 室町時代以後、大名の夜の話相手をする僧体の人を御伽坊主。元々、お通夜で夜通し経を読む僧侶の事。
     戦国・江戸時代、主君の側にいて話相手をつとめること。また、寝室にはべること女性のこと。
 
 室町幕府 細川管領家
  朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『藤原ファミリー』 14.02.16 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『室町幕府の創設』 14.07.18 放送






  細川氏は清和源氏の流れを汲む足利家の支族の一つで、義季が三河国 額田郡 細川に住んで氏とした。
  室町幕府の三管領の一つを務めた名門の家柄。室町時代は足利家に次ぐ権力を誇った。

  【三管領】さん‐かんれいさん‐かんりょう
   管領は、室町時代の職名。将軍を補佐して幕府の政務を総轄した。鎌倉幕府の執権に当たる役職。初めは執事と称した。
   管領に補せられる家柄は、足利氏一門の斯波しば 細川畠山の三家。三管。三職。

  【細川勝元】ほそかわ‐かつもと(1430~1473)
   室町時代の武将。3回にわたって管領となり、第8代将軍 足利義政の継嗣、畠山家の内紛にからんで応仁の乱を起こし、
   東軍の主将として西軍の山名宗全と争った。竜安寺を創建。  細川勝元は的確なグルメ コメントで周囲を圧倒した。


  ≪ 細川政元は、禁欲を貫き 本気で天狗になろうとした ≫  Wiki 細川政元

  【細川政元】ほそかわ‐まさもと(1466~1507) 勝元の子。
   室町幕府の管領。応仁の乱後、第11代将軍足利義澄を擁して実権を握る。女を近づけず、澄之・澄元・高国を養子
   としたが、その家督争いに巻き込まれ、澄之を擁した香西元長らに暗殺された。

  父親の後を継ぎ管領になり幕府を仕切った。細川家の最盛期を築き「半将軍」とも呼ばれ、政治力や戦にも長けた才能の
  ある人でしたが、修験道に励み、跡取りを残す事を行わなかった変わり者。


   『足利季世記』

『赤松盛衰記』   







  ≪ 洞松院はブサイクという理由で、父 勝元に寺に預けられた ≫  Wiki 洞松院

  洞松院は、父親の勝元が創建した竜安寺にブサイクという理由で幼少期に預けられ尼になっていました。
  名は「めし」。「めし殿」「局つぼね殿」「赤松うばの局」などと呼ばれた。

  政元は、幕府の四職の家系の一つ赤松家から「細川家から どなたかお嫁さんを下さい」と申し入れられます。
  しかし、天狗になろうとしていた政元には子供がいません。そこで出家していた異母姉の洞松院を俗世間に戻し、
  赤松政則の元に嫁がせます。

  赤松家の家臣からは「鬼瓦が来たぞ」などと陰口を叩かれた洞松院ですが、夫の政則の死後は赤松家の取り仕切り、
  約20年に渡り事実上の赤松家の当主として播磨・備前・美作の3ヶ国を収め、戦いの指導も行うなど「女戦国大名」と
  言っても良いほどの非常に高い政治力も発揮。

  【竜安寺】りょうあん‐じ、りゅうあん‐じ 鴛鴦おしどり
   京都市右京区にある臨済宗の寺。1450年(宝徳2)細川勝元の創建で開山は宗舜。細川氏代々の墓所。
   室町末期作の石庭は一面に白砂を敷き、大小15個の石のほかに一木一草もない枯山水で、「虎の子渡しの庭」ともいう。
 
 三管領と四職
  ≪ 三管領と四職 ≫

  【管領】

  【細川澄元】ほそかわ‐すみもと(1489~1520) 管領 細川政元の養子。
   室町後期の武将。同じ養子で前将軍 足利義稙を擁する高国と家督をめぐって争い、
   将軍 義澄を奉じて戦ったが、敗れて阿波に下り病死。

  【細川高国】ほそかわ‐たかくに(1484~1531) 管領 細川政元の養子。
   室町後期の武将。同じ養子の澄之・澄元と家督をめぐって争い、前将軍足利義稙を
   復位させ、管領となる。のち三好氏の下剋上にあい自刃。


  【細川晴元】ほそかわ‐はるもと(1514~1563)
   室町時代の武将。澄元の子。阿波から迎えられて管領となったが、家臣の三好長慶に京都を追われ、細川家の管領は事実上終わる

  【三好長慶】みよし‐ながよし(1522~1564)
   戦国時代の武将。管領 細川晴元の臣。1549年(天文18)晴元らと戦って勝ち、第13代将軍 足利義輝をいただいて権勢を
   ふるった。晩年は、その臣 松永久秀に圧倒された。


  【斯波】しば  
   室町時代の守護大名、管領家。清和源氏足利の流。足利泰氏の子 家氏が陸奥斯波(志和・紫波)郡を領有。
   高経の代、越前守護、その子、義将は管領となり、その後、尾張・遠江などの守護職も併せ三管領家の一家となる。
   応仁の乱で分裂、衰退。

  【斯波高経】しば‐たかつね(1305~1367)
   南北朝時代の武将。越前金崎城を攻め、藤島で新田義貞を倒す。越前・若狭の守護。のち子の義将を管領としてこれを後見。

  【斯波義将】しば‐よしまさ (1350~1410) 高経の4子。
   南北朝・室町初期の武将。越前等の守護で管領となり、幕政の安定に努めた。

  【斯波義敏】しば‐よしとし (1435?~1508)
   室町中期の武将。義健の死後その家督を継いだが、家臣の圧力により退けられた。再び家督を回復した後もその地位を
   めぐって義廉と争い、応仁の乱の原因をつくる。

  【斯波義廉】しば‐よしかど(生没年未詳)
   室町中期の武将。室町幕府の管領。斯波氏の家督を義敏と争い、応仁の乱の原因
   つくる。

  【畠山】はたけやま … 足利氏の支族。三管領の一家。

  【畠山政長】はたけやま‐まさなが(1442?~1493)
   室町中期の武将。畠山持国の養子となったが、持国に実子義就が生まれたため、
   家督を争い、細川勝元の助けを得、応仁の乱の発端を作った。
   のち幕府の管領となったが敗死。


  【畠山義就】はたけやま‐よしなり(~1490) 持国の子。
   室町中期の武将。持国の養子 政長と対立し、山名宗全に頼って応仁の乱の発端を作った。

    Wiki 細川氏  Wiki 斯波氏  Wiki 畠山氏    Wiki 山名氏  Wiki 一色氏  Wiki 京極  Wiki 赤松氏


  【四職】し‐しき
   室町幕府四職は、侍所さむらいどころの所司に補せられた山名・一色・京極・赤松の四家をいう。
   四殿衆。四職衆。の一家

  【山名】やまな … 新田氏の支族。室町幕府四職の一家。

  【山名氏清】やまな‐うじきよ(1344~1391)
   南北朝時代の武将。陸奥守。足利義満に仕えて戦功をたて、和泉・丹波などの守護となるが、
   山名一族の強大化を恐れた義満の計略により反乱、敗北して討たれる(明徳の乱)。

  【山名宗全】やまな‐そうぜん(1404~1473)名は持豊
   室町中期の武将。嘉吉かきつの乱に播磨の豪族の赤松満祐を討ち、その旧領を得て一族で
   山陰・山陽9カ国の守護職を併す。
   後に細川勝元と結託して畠山氏に当たったが、将軍義政の妻 富子がその子 義尚を託した
   ことから、足利義視を擁する勝元と対抗し応仁の乱を起こした西軍の主将
   戦乱半ばにして陣中に没。


  【一色】いっしき … 足利氏の支族。室町時代の守護大名。丹後・若狭の守護職を世襲し、四職の一家。

  【京極】きょうごく … 宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家。四職の一家。

  【佐々木高氏】ささき‐たかうじ(1296~1373)京極氏。法名、導誉。
   南北朝時代の武将。近江半国守護。足利尊氏に従い初期の室町幕府に重きをなし、出雲・飛騨の守護をも兼ねる。
   太平記にはバサラ大名として描かれているが、和歌・連歌に秀で、また近江猿楽を保護した。

   【婆娑羅・時勢粧】ばさら … (「跋折羅ばざら」から。室町時代の流行語)
    派手にみえを張ること。だて。 太平記「例のバサラに風流をつくして」

  ※ 藤原定家の孫の為教を祖とする和歌の家筋とは別。藤原の京極は鎌倉末期、為兼の猶子忠兼に至って絶家。
    和歌の京極派は南北朝時代中期まで存続。玉葉集・風雅集はその代表的撰集。

  【赤松】あかまつ … 播磨の豪族。鎌倉時代佐用荘を本拠として興り、南北朝時代以降同国守護。室町幕府四職の一家。

  【赤松則村】あかまつ‐のりむら (1277~1350)法名、円心。
   南北朝初期の武将。播磨の守護。元弘の乱に六波羅を攻めたが、のち足利尊氏に従い、白旗城に拠って新田義貞の
   追撃を阻止。

  【赤松則祐】あかまつ‐そくゆう 、(名はノリスケとも)(1311~1371) 則村の子。
   南北朝時代の武将、はじめ出家。後醍醐天皇の倒幕挙兵に加わり、のち足利尊氏に従って、播磨・備前の守護。

  【赤松義則】あかまつ‐よしのり (1358~1427) 則祐の子。
   南北朝・室町初期の武将。明徳の乱に功あり、播磨・備前・美作守護、幕府の侍所所司。

   【明徳の乱】めいとく‐の‐らん
    明徳2年(1391)山名氏清・満幸らが起こした反乱。足利義満が山名家の内紛に乗じて挑発したもので、氏清は京都
    内野で戦死、満幸は出雲に逃れたが応永2年(1395)捕らえられ斬られた。

  【赤松満祐】あかまつ‐みつすけ (1373~1441一説に1381~1441)
   室町中期の武将。播磨・備前・美作の守護。足利義教を自邸に招いて殺し播磨に走ったが、山名持豊(宗全)らに
   攻められて自刃。

   【嘉吉の乱】かきつ‐の‐らん
    嘉吉元年(1441)赤松満祐が将軍足利義教を殺害し、自らも領国播磨で、幕府の派遣した山名持豊(宗全)らに
    攻められて自刃した戦乱。
 
 日野富子
  TBS 世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリー 『日本の歴史 悪役10人』 12.06.13 放送
  NHK Eテレ 知恵泉 『悪女、国を動かす 「中世の女性管理職 北条政子・日野富子」』 15.03.17 放送
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『悪女たちの処世術 激動の時代を渡りぬいた悪女の生き様に学ぶ』 15.06.25 放送Wiki 日野富子

  『日本三大悪女』と言われる中でも最もイメージが悪い日野富子ですが、事実はそうでもないようです。
  公家のトップの家柄である摂政関白を輩出できる (五摂関家の一つ) 一条家出身の僧・尋尊が日記の中で富子の
  悪い噂を書いた事が原因?

  【日野】ひの
   藤原北家の一流← 一つの支流のこと)。室町時代、義満以後、歴代足利将軍と縁を結び権力を振るった。

  【日野富子】ひの‐とみこ(1440~1496) 室町幕府8代将軍 足利義政の夫人。日野重政(裏松政光)の娘。
   実子の義尚を将軍継嗣に立てようとして応仁の乱の端緒をつくる。また関所を設けて課税し、米相場・賄賂・
   高利貸などで蓄財した。






  【足利義政】よしまさ(1436~1490)初め 義成よししげ。 6代将軍 義教の子。
   室町幕府第8代将軍(在職1449~1473)。弟 義視を養子としたが、義尚が生まれるに及んで義視を疎んじ、
   応仁の乱の因をつくる慈照寺(銀閣)を建て、芸術を愛好・保護し、いわゆる東山文化を生んだ。東山殿。


  ≪ 家督争いから始まる応仁の乱の真の原因は足利義政にあった ≫

  中級貴族の日野家に生まれた富子は16才で足利義政の正室として嫁ぎます。

  義政はかつて乳母だった今参局いままいりのつぼねを側室にしており、今参局が幕府の重要な
  人事にまで口出しできるほどの寵愛を受けていました。

  他の側室も含め義政の子は女の子ばかり、嫁いで4年後に富子は跡継ぎとなる男の子を
  産みます。しかし、男の子は体が弱く生後まもなく死亡。


  富子は「息子が死んだのは、今参局が呪いをかけたから」と義政に告げ、今参局と側室4人を島流しにさせました。
  その後、富子にもしばらく男の子は授かりませんでした。






  義政は政治に関心が無く、趣味の庭園や建築造りばかりの毎日。
  飢饉が発生しても手を打つことはなく、当時の後花園天皇にも諌められます。

  そんな義政は趣味の時間を作りたかったので、妊娠中だった富子に相談もなく、勝手に弟の足利義視に家督を譲る事を
  決定し、後見人に管領の細川勝元を指名します。

  その直後 生まれたのが男の子であった為、富子は我が子に跡を継がせようとして、四職の山名持豊 (山名宗全) を頼ります。

  【足利義視】よしみ(1439~1491) 6代将軍 義教の子。
   室町中期の武将。僧となり義尋と称す。還俗して兄 義政の跡継ぎとされたが義尚の出生後廃され、東軍の細川勝元に
   擁せられて応仁の乱となった。のち西軍に走る。今出川殿。

  【足利義尚】よしひさ(1465~1489)のち義熙よしひろと称す。 第8代将軍 義政の子。 母は日野富子。
   室町幕府第9代将軍(在職1473~1489)。近江の六角(佐々木)高頼 討伐の陣中に没。







  ≪ 応仁の乱 ≫  Wiki 応仁の乱

  将軍家と各守護大名の家督争いがきっかけとなり約10年に渡った中世における最大の内乱。
  敵味方が入り混じるなど複雑で理解しがたい乱とも言われます。この後、力で台頭する下剋上の戦国時代へと突入します。
  応仁の乱勃発から豊臣秀吉が朝廷を支援するまでの100年ほどの間、京都はボロボロで時の天皇たちは食事にも困るような
  状態になりました。


【応仁の乱】おうにん‐の‐らん 応仁文明の乱

 応仁元~文明9年(1467~77)足利将軍家 および
 管領 畠山・斯波 両家の相続問題をきっかけとして、
 東軍 細川勝元と西軍 山名宗全とが、それぞれ諸
 大名をひきいれて京都を中心に対抗した大乱。
 京都は戦乱の巷となり、幕府の権威は全く地におち、
 社会・文化を含めて大きな時代の画期となった。

  【細川勝元】ほそかわ‐かつもと(1430~1473)
   室町時代の武将。3回にわたって管領となり、第8代将軍 足利義政の継嗣、畠山家の内紛にからんで応仁の乱を起こし
   東軍の主将として西軍の山名宗全と争った。竜安寺を創建。  細川勝元は的確なグルメ コメントで周囲を圧倒した。

  【山名宗全】やまな‐そうぜん(1404~1473)名は持豊
   室町中期の武将。嘉吉かきつの乱に播磨の豪族の赤松満祐を討ち、その旧領を得て一族で山陰・山陽9カ国の
   守護職を併す。後に細川勝元と結託して畠山氏に当たったが、将軍義政の妻 富子がその子 義尚を託したことから、
   足利義視を擁する勝元と対抗し応仁の乱を起こした西軍の主将。戦乱半ばにして陣中に没。


  ≪ 富子の蓄財 ≫

  戦乱が長引き人々が食糧難にあえぐ中、富子は米を全国から買い占め高値で売りさばいたり、資金不足に悩む
  武将 (両陣営問わず) たちに金を貸し利息を取っていました。

  1477 (文明9) 年 応仁の乱が終結に向かうと、富子は都の入り口に関所を設置し通行税を徴収していました。
  現在に換算すると60億円ほど蓄財していたそうです。これらの事から『ケチ』や『強欲』といった富子が悪女としての
  世間の評判がつきました。


  ≪ 富子の蓄財は私利私欲の為ではなかった? ≫

  稼いだ金は、応仁の乱の中心となっていた畠山義統に大金を貸し付けます。畠山義統が手を引くことで長らく続いた
  応仁の乱は収束に向かっていき、富子が和平工作の為に渡したものと言われています。

  富子は御所の修復や途絶えていた儀式の復活・公家たちへの酒食の差し入れなどを行っています。
  この事も大乗院寺社雑事記に記されています。






  文明9年の7月 天皇が主催する七夕歌会に富子も出席します。お題は『山・家・雨』でした。
  その時に富子が詠んだ歌は 「さびしかれと 世をのがれこし 柴の庵に なを袖ぬらす 夕暮の雨」。

  「いかに寂しかろうと、世を逃れ一人柴の庵 (粗末な屋敷) に住むことを決めた私。
   そんな私がどうして今更雨が降る夕暮れを流すことがあろうか。

  京都や幕府再建の為に奔走する事を決めたからには、たとえ雨が降ろうと日が暮れようと (世間でなんと言われようと) 孤独
  でも寂しい事はない。ボロボロになった京都や幕府の再興の為に必要だから、金を蓄えていたという見方が増えているようです。

  京都橘大学 日本中世史の田端泰子 名誉教授によると
   日野富子の悪い噂の出所は最も家柄が高い一条家の僧の記録。公家にも階層があって
    日野家は五階級の最も下なんですね。 上から見ると『けしからん』みたいなやっかみも
    あったと思うんです。

  【一条】いちじょう
   本姓は藤原。九条道家の子 実経(1223~1284)が京都一条に住んで称した。
   藤原氏北家の中の五摂家の一つ。桃華。


  【尋尊】じんそん(1430~1508)
   室町時代、法相宗の学僧。興福寺大乗院の門跡。一条兼良の子。
   興福寺の経営や教学振興に努めると共に、「大乗院寺社雑事記」「大乗院日記目録」などの記録を残す。

  【大乗院寺社雑事記】だいじょういん‐じしゃぞうじき
   大乗院門跡 尋尊 ・ 政覚 ・ 経尋の3代の日記。1450年(宝徳2)より1527年(大永7)に至る。
   応仁の乱前後の史料として重要。自筆本が現存。
 
 
 
 
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