手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本歴史の雑学 1 ~弥生時代
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

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このページの最終更新日:   20.06.05
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  Page Contents



 最新の研究結果、ほとんどの弥生系渡来人は朝鮮半島に渡った縄文人 (日本人) だった

 日本人の祖先が日本列島に来たのは? 台湾→沖縄ルートへの渡来 検証実験が成功

 5世頃の天皇陵の9基が別人のお墓?   天孫降臨~神武天皇 神話

 東征伐、熊襲征伐と三韓征伐 大和政権から見た蝦夷人の性質

 絹の生産と古墳~奈良時代の他の布の素材  奈良県の天香山神社と天の蚕の生原旧跡

 三重県の機織神社

 纏向遺跡と伊勢神宮、出雲大社の共通点 纏向遺跡の建物は、伊勢型と出雲型が並んで建っていた。

 銅鏡の魔鏡現象と太陽信仰との関係 伊都国の銅鏡『内行花文鏡』と三種の神器の一つ『八咫の鏡』は同じ文様かも?

 中国の正史と古代王朝 うち倭人伝・倭国伝 一覧 原文&和訳 サイトへリンクあり

 朝鮮半島と中国北東部

 弥生時代 稲作の始まりと国家形成  

 弥生時代の九州 倭奴国の金印、2世紀最有力国の伊都国

 呉服の発祥とされる呉服くれは神社 中国の姉妹が渡来し技術を伝えた

 日本人のルーツの一つ 弥生系渡来人  中国の「斉」から。


 邪馬台国 纏向遺跡などの最新研究 卑弥呼は殺された? など

 日本神話 日本発祥の地 自凝島神社

 日本最古の神社 大神神社 と 纏わる神話

 歴代天皇表 歴代の都 (皇居)

 古墳時代 2017年世界遺産を目指す大阪の古墳群

 倭の五王


 西宮戎神社 戎神社の総本社

 装飾古墳とは

 熊本県 江田船山古墳 と 謎の地下遺跡 トンカラリン
  近くで変形頭蓋骨も出土



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  歴史に関しては、大阪の歴史と雑学ページ、日本の食の歴史のページも参照して下さい。

  おすすめサイト 歴史の雑学が色々と載っています。
  株式会社まぼろし 歴史雑談録 http://rekishi.maboroshi.biz/about/
  歴史研究所 『日本史』 http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
  倭人伝・倭国伝 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun-mokuji.htm
   ↑中国の各古文書の倭人伝の原文と和訳があります。
  日本神話・神社まとめ http://nihonsinwa.com/
  こはにわ歴史堂のブログ http://ameblo.jp/kohaniwa/  ← 朝日放送 コヤブ歴史堂「こはにわ先生」の浮世博史さんのブログです。

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 ~縄文時代 書きかけ    日本の食の歴史1のページで
  朝日放送 キャスト 『日本人の祖先はとごから来た?』 19.07.09 放送
  関西テレビ NMBとまなぶくん 『なぜ我々だけが生き残ったのか? 進化した人類 ホモ・サピエンス』 19.10.11 放送 など

  ≪ 人類の進化 ≫

  およそ700万年前のアフリカで発祥したサヘラントロプス・チャテンシスから始まり、猿人・原人・旧人 (ネアンデル
  タール人) ・新人 (ホモ・サピエンス) まで、約20種以上の人類が現時点で確認されているようです。




  10万年前頃には台湾原人・フローレンス原人・ジャワ原人、中国の旧人・インドの旧人・デニソワ人・ネアンデルタール
  人と現在の人類にあたるホモ・サピエスと、複数の人類が異なる地域で同時期に存在していました。
  自然界では同系の複数の種類が存在している事の方が普通で、人類がホモ・サピエス1種だけになった事の方が
  不思議だそうです。






  旧人に属するネアンデルタール人はヨーロッパあたりの先住者。そこへアフリカにいたホモ・サピエンスが4万7000年
  前頃から進出していきます。現在、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの交戦の形跡は発見されていません。

  国立科学博物館の人類研究部 人類進化学者である海部陽介さんによると、
  自然界では戦わずに種が交代する事があり、知能が高いホモ・サピエンスよりもネアンデルタール人の方が狩猟
  効率が低かったため食料を得られずに滅んでしまった可能性がある。

  ホモ・サピエンスの遺伝子にはネアンデルタール人の遺伝子が2%ほど含まれており交雑した可能性もあるようです。
  ホモ・サピエンスが他の人類と異なるのは、言葉を話すことで仲間との協力や情報伝達共有と未来の約束が可能。
  道具の発明。自然界に存在しない物を想像して作り出すことができた。これらの事により食料の確保や人類が住めない
  極寒のシベリアにも進出できました。シベリアはマンモスやバイソンなど狩猟対象となる動物が多く生息しており、
  病原菌なども少ないなどのメリットがあったようです。

  ホモ・サピエンスと同属のクロマニョン人は、現在とほぼ変わらない縫い針を作り裁縫ができる技術を有しており、
  アクセサリーを多く付けていた事などが分かっています。


  ≪ 日本人の祖先が日本列島に来たのは ≫ 台湾→沖縄ルートへの渡来 検証実験

  現在の人類はホモ・サピエンスと呼ばれる知能が高い人類の一種でアフリカ発祥と言われています。
  北部アジアのモンゴロイドは最も新しい時期に誕生したDNA群とも言われています。





  国立科学博物館の人類史研究グループ長の海部陽介さんによると、日本列島への渡来ルートは3つ。
   朝鮮・対馬ルート 3万8000年前。 台湾・沖縄ルート 3万5000年前。 樺太・北海道ルート 2万5000年前。
   最新の研究によると、対馬も沖縄の与那国島なども現在と同じく大陸とは陸続きでは無かった事が判明。
   北海道は氷河期に樺太と陸続きでした。

  沖縄各島では約3万年前の遺跡が多数発見されています。
  山下町 3万6500年前?、サキタリ洞 3万5000年前、ガラ竿 3万年前、ピンザアブ 3万年前?、白保竿根田原 2万7500
  年前? 頃の各遺跡。






  国立科学博物館などによる『3万年前の航海 徹底再現プロジェクト』という航海実験が行われていました。
  台湾→与那国島間225㎞ほどを、古代に使われていただろうと思われる船を再現し、人力だけで到着できるのか?
  台湾と与那国島の間には黒潮が流れており、漂流など偶然では与那国島には辿り着けず、意志を持って舟を漕が
  なければ与那国島へ行くのは困難なので、この実験が行われました。

  2016年は草束くさたば舟で挑戦する物の浸水で失敗。2017年は竹筏たけいかだ舟で挑戦し途中でバラけるなどで失敗。
  2019年は古代のように、石器で木を切り倒しくり抜いて作った丸木舟で挑戦。他の舟と比べ安定は悪いがスピードが
  出るそうです。
  7月7日に台湾の東海岸を出発、約46時間かけて7月9日に与那国島に無事到着し、古代の渡来実験検証は成功。

  地図やコンパスなどの文明の機械は使用せず、天体などの目視と経験だけで進む方角を決める。
  船の漕ぎ手は5人 (うち女性1人、種の保存の観点から男女両性が同乗している必要がある) で、到着まで乗船者は
  交代しない条件のため、シーカヤックなど経験豊富な5人が選ばれていました。
  針路は風や太陽・星などを見て決める為、出発まで台湾の海岸でキャンプして現地の様子を確認したりしていたそう
  です。

  このプロジェクトの費用は、クラウドファンディング+協賛+募金など約8400万円の寄付によって賄われました。

 【旧石器時代】きゅうせっき‐じだい 人類史上で最古の時代
  ほぼ地質学上の更新世にあたり、人類は、今日絶滅し、もしくは生息地をかえた動物とともに住み、打製石器や
  骨角器を用いたが、まだ土器を作らず、採集・狩猟・漁労だけによって食糧をえていた。
  通常、前・中・後期に3区分される。日本では、縄文時代の前の時代がほぼこれにあたる。

 旧石器時代
  黒曜石の分布、狩猟生活の獲物は大型哺乳類。 日本最古の住居跡は大阪の藤井寺市で発見。
  北海道や福井で、世界最古となる加熱調理跡が発見される。

 【はさみ(はざみ)山遺跡】 Wiki はさみ山遺跡 
  1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に、大阪府藤井寺市で発見された遺跡。
  旧石器時代から近世までの各時代の遺構や遺物が見つかった複合遺跡。
  1986年(昭和61年)の発掘調査で、現在発見されている内では、日本最古の住居跡だと知られています。
  後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになったそうです。

 【新石器時代】しんせっき‐じだい
  石器時代中、新しい時代。打製石器とともに磨製石器が普及し、土器も作られる。
  生活は農耕・牧畜が主となり、定着化が進み、集落や墓地が形成される。
  土器・磨製石器をもちながら、採集狩猟社会にとどまる地域もあり、日本の縄文時代はこれに当たる。

 縄文時代  縄文人=先住日本人
  土器の出現。東北の亀ヶ岡式土器文化圏。縄文時代後期の最先端は奈良県橿原市だった。
  東京の大森貝塚では食人をした痕跡。 日本での食人の記録

  日本経済新聞 17.01.24  『沖縄に東北の縄文土器初発見 広域な交流の証し』 より抜粋
   https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24HC1_U7A120C1CR8000/

  縄文時代晩期(三千~二千数百年前)の東北地方を代表する「亀ケ岡式土器」とみられる土器片が、沖縄県
  北谷町の米軍返還地にある平安山原B遺跡で出土したと24日、同町教育委員会が明らかにした。
  沖縄での発見は初めてで、西日本でも出土は限られている。製作地や沖縄に運ばれた背景を巡り、大きな議論を
  呼びそうだ。
  北谷町では、縄文時代にアクセサリーとして重宝された、新潟県の糸魚川産の縄文時代晩期の翡翠も別の遺跡
  から出土。
  2009~10年の発掘調査で、沖縄のグスク時代(11~15世紀ごろ)の耕作土の地層から出土。同じ層からは、縄文
  時代晩期に相当する約2500年前の沖縄の土器も多く見つかっている。見つかった土器片はこの頃に持ち込まれ、
  沖縄の土器と一緒に埋まっていたとみられる。グスク時代の耕作の際に沖縄の土器と一緒に入った可能性が
  高いという。

  縄文時代は東日本の方が人口が多かった? サケ・マス論


  ≪ 日本人の成立過程 ≫  Wiki 日本人

  日本人を形成したのは、ウルム氷期の狩猟民と弥生時代の農耕民といった、日本列島へ渡来した人々である。

  まずウルム氷期にアジア大陸から日本列島に移った後期旧石器時代人は、縄文人の根幹を成した。

  そして縄文時代終末から弥生時代にかけて、再びアジア大陸から新石器時代人が西日本の一角に渡来した。
  その地域では急激に新石器時代的身体形質が生じたが、彼らが直接及ばなかった地域は縄文人的形質をとど
  めていた。

  その後、古墳時代から奈良時代にかけて徐々に均一化されていった

  地理的に隔離された北海道や南西諸島の人々の形態は、文化による変化はあっても、現在なお縄文人的形態を
  とどめている。

  近年、最初に日本列島に住んだ後期旧石器時代人(縄文人)は古モンゴロイドであり、新石器時代人(終末期の
  縄文人~弥生人)は新モンゴロイドであると研究結果が出ている。

  新モンゴロイドの影響が及ばなかったアイヌや南西諸島住民は、古モンゴロイド的特徴を残していると解されている。
  これらの分析では、埴原和郎や尾本恵市などが、W・W・ハウエルズの分類によるモンゴロイドの二型(古モンゴロイド
  と新モンゴロイド)を用いている。


  NHK Eテレ ジュニアスペシャル 『日本人はるかな旅 君の顔のルーツを探れ ! 縄文VS弥生』 04.10.17 放送 (14.05.11 再放送)
  関西テレビ アンカー 『直木賞作家 黒川博行さんの魅力に迫る』 14.08.28 放送
  読売テレビ ten. 『山口SP後編 日本人のルーツを大調査! 日本人なら知っておきたい土井ヶ浜遺跡を調査』 19.04.03 放送

  ≪ 日本人のルーツの一つ 渡来弥生系人 ≫

  福岡空港で縄文系とは違う縦長の頭蓋骨が見つかります。眉間から鼻にかけての盛り上がりが低く、平たい顔立で
  あった事が分かりました。
  その後、日本各地で平らな顔の人骨が見つかっており、弥生系の渡来人である事が判明しました。

  ※ 縄文人を復元した顔が、2014年に直木賞を受賞した黒川博行さん (愛媛県生まれ、3才から大阪育ち羽曳野市在住、65才) と完全に一致 !!







  山口県下関市豊北ほうほく町の海岸の土井ケ浜では江戸時代から人骨が海岸に埋まっている事が分かっていた
  ようですが、鎌倉時代の元寇襲来 (1274年と1281年) の時の墓地跡だと思われていました。
  1930年に九州大学が調査した結果、発掘された6体の人骨は(弥生時代前期から中期の墓地遺跡、紀元前300年~
  紀元後20年頃) 、約2300年前の弥生時代のものと判明。

  この砂浜の貝やサンゴに含まれる炭酸カルシウムによって、人骨が風化する事無く保存されていたようです。






  1956年から19回に渡り大規模な発掘調査が行われ、300体ほどの人骨と土器や装飾品なども多数出土しました。

  沖縄あたりの南西諸島でしか獲れないゴボウラ貝で作られた腕輪などからシャーマンとも思われる人骨もあり、
  人骨の埋められ方などから先祖崇拝の儀式を行った可能性も高いようです。
  無数の矢を射られ頭蓋骨が無い人骨も発見、上記の腕輪をしている事からシャーマンが祈祷や占いの失敗した
  ため殺害され、祟って出てきたら怖いので顔面を潰して埋めたと、人類学ミュージアム感知用の真下孝幸さんらは
  考えているようです。

  日本人類学史上、大発見となったため、国の史跡に指定され、日本で唯一となる人類学博物館などが建てられました。






  また全ての人骨が西から20度北を向けて埋葬されており、復元した顔や体格が縄文人や在来系弥生人とは異なる
  事から土着の日本人ではないと松下館長は考えました。顔が向いた方向を辿ると中国大陸の山東省あたり。

  1994年に山東省と共同調査を行った結果、山東省の臨淄りんしの高層マンションの建設地から多数発見された人骨は
  土井ヶ浜とほぼ同時代であり似た形である事も判明しました。山東省の臨淄は春秋時代に「斉」があった所。







  この結果、中国の春秋戦国時代、500年に渡る戦乱があり、それを逃れ海を渡ってきた人たちが、日本人の主な
  ルーツの一つ弥生時代の渡来人と考えられます。この時代の後、秦が統一し、中国で初めての統一国家と始皇帝が
  誕生します。

  【土井ヶ浜遺跡】どいがはま‐いせき    Wiki 土井ケ浜遺跡
   山口県下関市にある弥生時代前期・中期の墓地遺跡。
   多数の弥生人骨が発見され、特に男性人骨は面長・高身長など朝鮮渡来系の特徴を残す。

  広辞苑第六版では、昔言われてきた「朝鮮系」の記述のままですが、最新では上記の通り正しくは「中国系」です。


  ≪ 弥生系が全て渡来人ではない。縄文系を受け継いだ在来系弥生人と、渡来系弥生人がいた ≫

  沖縄も含め日本全国で発見されている縄文人の特徴は全て一致するそうです。
  違いが現れてくるのは弥生時代に入ってからのようですが、土井ヶ浜遺跡が発掘されるまで弥生系の人骨が見つ
  かる事は少なかったので、まだ解明されていている事は少ないようです。






  縄文人 … 鼻が高くホリが深い。身長が低い。顔が大きい。
  在来系の西九州の弥生人 … 身長が低い。中頭型で顔幅が広い。
  在来系の南九州・離島の弥生人 … 身長が低い。短頭型で顔幅が広い。
  渡来系の北部九州・山口の弥生人 … 鼻が低くホリが浅い。身長が高い。中頭型で面長。


  ≪ 最新の研究では、弥生系渡来人は朝鮮半島は渡った縄文人 ≫

  渡来人とは=中国や朝鮮半島などの大陸や半島から日本列島に渡って来た人たち。

  核ゲノムの主成分を分析した結果
  日本の縄文系グループと中国系グループの2つ大別できる事が分かりました。
  縄文人-従来系弥生人-渡来系弥生人-現在日本人が同一線上に並ぶ日本ライン。
  中国・グイ族-ベトナム・キン族-中国南部の漢民族-中国北部の北京が大陸ライン。

  在来系弥生人とは=以前より日本列島に定住していた縄文人の事。
  渡来系弥生人=ほとんどは昔朝鮮半島に渡った縄文人(つまり日本人)。

  およそ7000年前、無人だった朝鮮半島に渡った縄文人は、その後4000年くらいの間で徐々に大陸人との混血が
  進み大陸ラインに少し近づきますが、核ゲノムでは日本ライン上に位置し現代日本人と同じグループでした。

  縄文人と弥生人では骨格が違うではないか? などの疑問が残りますが、これは生活様式による変化らしいです。

  朝鮮・韓国人 (特に半島南部) も先祖もDNAの母体は半島に渡った縄文人ですが、特に弥生時代以降に大陸の
  北方の色んな民族に蹂躙され続け、現代朝鮮・韓国人は日本系ライン上にあるものの、かなり大陸系に近づき
  日本人とも大陸系の中国などとも掛け離れた独自の存在となっています。

  詳しくは【竹田学校】歴史・弥生時代編⓾~弥生人は「渡来人」?「在来人」?~|竹田恒泰チャンネル2
   https://www.youtube.com/watch?v=KNUJ6wvPxs0

  【竹田学校】歴史・岩宿時代編①~世界最古の磨製石器は日本製~|竹田恒泰チャンネル2
   https://www.youtube.com/watch?v=GyLwODomZmY

  【竹田学校】歴史・縄文時代編⑲~琉球人はどこから来たか?~|竹田恒泰チャンネル2
   https://www.youtube.com/watch?v=E9VeQADQOwM

  【竹田学校】全リスト
   https://www.youtube.com/playlist?list=PLlZKROf1QRyFB-IgASo_KSopzH5j6BxYq

  上記の竹田恒泰さん解説の『竹田学校』のシリーズでは、分子生物学でのDNA解析などによって分かった
  日本人の起源や稲作について分かり易く解説されています。← 超オススメ

  これまで言われてきた通説とは異なる真実が色々判明していますので、最新の科学的検証を知って情報を更新して
  おきましょう。


  【殷】いん
   中国の古代王朝の一つ。「商」と自称。前16世紀から前1023年まで続く。史記の殷本紀によれば、湯王が夏
   滅ぼして始めた。30代、紂ちゅう王に至って周の武王に滅ぼされた。高度の青銅器と文字(甲骨文字)を持つ。

  【元】げん
   中国の王朝の一つ。モンゴル帝国第5代の世祖フビライが建てた国。南宋を滅ぼし、高麗・吐蕃とばんを降し、
   安南・ビルマ・タイなどを服属させ、東アジアの大帝国を建設。都は大都(北京)。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。
   大元。(1271~1368)


  ≪ 中国の春秋時代 ≫  Wiki 春秋時代   Wiki 春秋戦国時代   Wiki 斉(春秋)


【春秋時代】しゅんじゅう‐じだい
 (「春秋」に記載された時代の意)中国で、前770年
 周の東遷から前403年晋の大夫韓・魏・趙の三氏の
 独立に至る約360年間。
 周室は次第に衰えてその権威を失い、諸侯は互い
 に併呑を事として戦争が絶えず、弱肉強食の状を
 呈した。「春秋」の記事は前722~前481年に限られ
 るが、その前後を含めていう。

【春秋十二諸侯】しゅんじゅう‐じゅうにしょこう
  春秋十二列国
 「史記」十二諸侯年表に扱う春秋時代の呉・衛・晋・
 鄭・曹・蔡・燕・・陳・宋・楚・秦の12の国。
 同年表が別格に位置づける周・魯を合わせた
 14国から12国を選ぶ場合もある。

【斉】せい (前1122~前379)
 春秋時代の一国。周の武王が呂尚(太公望)を
 封じた国。今の山東省の地。田氏のもとで名目的な
 存在となった。都は営丘(淄博しはく市臨淄)。姜斉

【春秋戦国】しゅんじゅう‐せんごく (前770~前221) 
 春秋時代と、その次の戦国時代。春秋戦国時代。
 秦が統一

  【太公望】たいこう‐ぼう 姓は姜。呂尚・師尚父とも称される。
   周代の斉国の始祖。初め渭水の浜に釣糸を垂れて世を避けていたが、文王に用いられ、武王を助けて殷を滅ぼした
   という。兵書「六韜りくとう」は彼に仮託した後世の書。(この故事から)釣師の異称。

  【周】しゅう(前1023~前255) 
   中国の古代王朝の一つ。姓は姫。殷いんに服属していたが、西伯(文王)の子発(武王)がこれを滅ぼして建てた。
   幽王の子の携王までは鎬京こうけいに都したが、前770年平王が成周(今の洛陽付近)に即位し、いったん周は東西に
   分裂。西の周はまもなく滅亡。以上を東遷といい、東遷以前を西周、それ以後を東周(春秋戦国時代にあたる)
   という。

  【秦】しん(~前206)
   中国古代、春秋戦国時代の大国。始祖非子の時、周の孝王に秦(甘粛)を与えられ、
   前771年、襄公の時、初めて諸侯に列せられ、秦王政(始皇帝)に至って六国を
   滅ぼして天下を統一(前221年)。中国史上最初の中央集権国家
   3世16年で漢の高祖に滅ぼされた。


  【前漢】ぜん‐かん(前202~後8)
   中国の王朝の一つ。秦の崩壊後、項羽を倒して、漢王劉邦(高祖)が建て、武帝の治世を経て、平帝の時、
   王莽おうもうの簒奪により滅亡。都 長安が後漢(東漢)の都 洛陽よりも西にあったから西漢ともいう。


  ≪ 日本人のルーツ説 ≫

  ・日本人バイカル湖畔起源説  Wiki 日本人バイカル湖畔起源説

   遺伝学や考古学の観点から日本人の起源がブリアートのバイカル湖あたりであるとする説

   原日本人の起源に関しては、埴原和郎が骨計測の観点から日本人のルーツに関して、南方モンゴロイド系の人々(縄文人)が
   最初に日本に定住し、その後、かなりの数の北方モンゴロイド系の人々(弥生人)の渡来が続き、それらが混血して現代の
   日本人が形成されたとし、特にアイヌは、北方モンゴロイド系の人々(弥生人)とはほとんど混血せずに進化した南方モンゴ
   ロイド系(縄文人)であると仮定し、それが定説となっていた。

   しかし遺伝子研究の発達や、また考古学の観点から、弥生人と同じく縄文人も北方起源であるという仮説が提唱された。
   「日本人バイカル湖畔起源説」は特に日本人の起源をブリアートのバイカル湖周辺と特定した説である。

   なお、21世紀に入って、ミトコンドリアDNAやY染色体の分析にかかる知見が一段と蓄積され、日本列島のヒト集団のDNAが
   明らかになったこともあり異論も多い。

   特に弥生人の総数については当初よりかなり少ない数であったことや、稲作の伝播・Y染色体中のO2b1(O-47z)が中国北部・
   朝鮮には存在しないことから、弥生人の渡来自体が中国南部・東南アジアからであった可能性が高まっている
   日本人の遺伝子プールに与えた影響は弥生時代が最後であり、その後の帰化人については日本人の遺伝子プールに殆ど
   影響を与えていない。

  「下戸」は水田耕作地帯に多い病原体に対抗ために進化した結果か!? 理化学研究所が発表


  ≪ 日本の古代ガラスの伝来 ≫  詳しくは、日本の食の歴史1のページ 弥生時代 『化学する古代ロマン 進む「文理融合型」の考古学』

  渡来したガラス玉のDNA解析をした結果、東日本は陸路 中国・朝鮮経由。
  西日本は海路 インド・東南アジア から伝わった事が判明。




  古墳時代、関東と九州の隠岐の古墳からは550年頃にあった騎馬民族の中国の北斉の陶磁器が出土。
  群馬県・三重県・福岡県からは朝鮮の新羅の馬具が出土。
  奈良時代、朝鮮半島からの新羅・高麗の移民は関東に集められています。『日本書紀』や『延喜式』。
  平安時代、静岡あたりにも新羅人が多く居ました。『日本後記』
  江戸時代、初期に大坂の佃村から江戸に移住するまで関東では原始的な漁業しか行われておらず、
  静岡~関東では中期に西日本の漁師が移り住んでから漁業が活発に行われました。

  これらの事から、西日本は海洋民族。関東は騎馬民族・遊牧民族系ルーツの可能性が高いようです。
 
 弥生時代 稲作の始まりと国家形成   
  弥生時代から世界一の農業技術を持っていた  2~3世紀頃の卑弥呼などの豪族の食事の再現。日本の食の歴史1のページ

  NHK Eテレ ETV特集 『人間国宝 弥生の謎に挑む』 08.02.17 放送 (14.05.11 再放送)
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『縄文時代と弥生時代』 14.04.09 放送
  NHK Eテレ 高校講座日本史 『縄文時代の終わりから弥生時代』 14.05.02 放送

  【弥生時代】 やよい‐じだい
   縄文時代の後、古墳時代の前の時代。その開始の指標を弥生土器の出現とする考え方と、稲作の開始とする
   考え方とがある。紀元前8~7世紀前後から後2~3世紀頃まで。
   大陸文化の影響を受けて水稲耕作や金属器の使用が始まり、銅剣・銅矛・銅鐸どうたくなどの青銅器と共に鉄器も
   用いられる。普通、前・中・後の3期ないしⅠ~Ⅴの5期に分ける。






  弥生式土器は、縄文式土器と比べ、厚みが薄く丈夫なのが特徴。

  【弥生土器】
   1884年(明治17)東京、本郷弥生町の貝塚で発見されたからこう名づける。弥生時代の土器。弥生文化の指標と
   される。煮炊き・貯蔵・食事に使用。

  「下戸」は水田耕作地帯に多い病原体に対抗ために進化した結果か!? 理化学研究所が発表


  ≪ 稲作の始まり ≫

  縄文時代との大きな変化は、大陸から稲作が伝わった事。およそ2500年前頃、中国大陸から渡ってきた人々が稲作を
  九州北部に伝えます。
  弥生時代は縄文時代と比べて平均気温が1.5℃下がった事で樹木の種類が変化し、これまで受けてきた自然の恵みが
  得られにくくなりました。その為、大陸から伝わった稲作を受け入れたと考えられています。

  人々は山野から平野の方に移動。一年を通じ集団で作業する事が増えるため指導者が
  必要になり、環濠集落ができ国へと発展していきます。
  住居は竪穴式住居になり、米を蓄える高床式倉庫なども作られました。

  【環濠集落】かんごう-しゅうらく 環溝集落 (集落は聚落とも書く)
   周囲に濠ほりをめぐらした集落。弥生時代のものは稲作文化の一環として大陸から伝来。
   南北朝。室町時代にも自衛の目的から発達。大和地方に多い。


  【竪穴住居】たてあな‐じゅうきょ
   地面を掘り、その上方に屋根をかけた半地下式の住居。深さ50~100㎝前後。平面は直径3~10m程度の円形、または
   隅丸の長方形を基本とする。炉やかまどを備え、柱穴を掘り、周囲に排水溝のあるものが多い。
   日本では縄文・弥生・古墳時代に広く行われた。

  【高床】たか‐ゆか … 地面に柱を立て、高く張った床。弥生時代には倉庫にこの床が多く、この形式の建物を高床式と呼ぶ。






  佐賀県の菜畑遺跡は現在発見されている中では、日本で最も古く水稲耕作が行われた痕跡が出土しています。
  この頃は、磨製石器で木材を削って作った木製の農具で農作業を行っていました。

  【菜畑遺跡】なばたけ-いせき
   佐賀県唐津市にある縄文時代から弥生時代の遺跡。
   縄文晩期後半の水田跡・炭化米・農耕具などが1980年代に発見され。水田稲作開始の論議をよんだ。

  福岡県の板付遺跡 (縄文時代晩期から弥生時代後期) からは縄文時代になかった水田の跡が発見され、大陸からの
  渡来人が稲作文化を持ち込んだと推測されています。
  弥生土器や農機具だけではなく、当時の水田の中の足跡も残っており、裸足で農作業していた事が分かります。

  【板付遺跡】いたづけ‐いせき    Wiki 板付遺跡
   板付にある弥生時代の遺跡。日本で最初に発見された環濠集落遺跡。住居跡・墳墓とともに水田跡を発見。
   初期稲作文化の解明に重要。

  【打製石器】だせい-せっき … 石を打ち欠いてつくった石器。主に石器時代の遺物。
     
  【磨製石器】ませい-せっき
   研磨して作った石器。新石器時代以降に使われる。ただし、磨製石器の技術は旧石器時代後期にすでに出現。
   日本では上門・弥生時代に盛行。

  斧の形をした石斧せきふは、新石器時代には世界各地で普及していました。






  やがて鉄製の道具も伝わり、農作業が効率的になった事で稲作が広まります。
  同じ頃、青銅器も伝わりますが、こちらは農具には使われず、剣や鉾・銅鐸が作られ、銅鐸は主に祭祀に利用されたと
  考えられています。

  【青銅】せいどう ブロンズ、唐架ねからかね、錫すず青銅。
   銅と錫との合金。各種あり、鋳造用のほか、鍛練材・圧延材にも用いられ、亜鉛・鉛などを加えて古来美術・貨幣に
   つくられた。機械の部品にもしばしば用いられ(砲金)、さらに燐りんを加えた燐青銅、金銀を加えた鐘青銅、特殊な
   鏡青銅などがある。真鍮に次ぐ日常に関係深い銅合金。

  【青銅器時代】せいどうき-じだい
   考古学上の時代区分の一つ。青銅器を使用し始めた時代で、石器時代についで出現し、鉄器時代に先行。
   日本では弥生時代に大陸から鉄器・青銅器をほぼ同時に学んだため、独立した青銅器時代はなかった。

  【銅鐸】どう‐たく
   弥生時代の青銅器の一種。釣鐘を扁平にした形で、上方に半円形の鈕ちゅうがある。本来内部に舌ぜつを吊るし、
   ゆり動かして音を出したもの。次第に大形化し、装飾が多くなり、鳴りものの機能を失う。
   高さ十数㎝前後から130㎝以上のものまであり、装飾には原始絵画のあるものがあって有名。
   西日本で製作され、祭器として用いた。


  ≪ 水田稲作の広まり ≫

  近年の研究では今まで出土した土器の種類で縄文と弥生の時代区分されてきましたが、平成25年に、国立歴史
  民俗博物館が福岡雀居遺跡の土器を放射性炭素年代測定法(炭素14)で調べたところ、弥生時代は500年早まり
  約3000年前からとなったようです。そして水田稲作の始まりから弥生時代に区分されるようになったようです。

  九州に伝わった稲作は250年間ほど九州だけで行われました。起源前となるB.C.5世紀に稲作は西日本に全域に
  広まり、B.C.4世紀に東北、B.C.3世紀になって関東・甲信越・北陸へと広まったようです。

  詳しくは【竹田学校】歴史・弥生時代編⓾~弥生人は「渡来人」?「在来人」?~|竹田恒泰チャンネル2
   https://www.youtube.com/watch?v=KNUJ6wvPxs0


  ≪ 国の形成 ≫

  その後、渡来人は大阪平野にも進出。時代が下ると共に人口が増え、渡来系と縄文系との
  争い発生したと思われる形跡も兵庫県神戸市の新方しんぽう遺跡から発見されました。
  17ヵ所の石じりが刺さった縄文系の人の骨が発掘されたのです。

  ※ 縄文時代には見られなかった争いが、稲作の普及と共に始まりますが、上記の発掘だけで
    弥生系と縄文系の争いがあったとは限りません。


  鳥取県の青谷上寺地遺跡2~3世紀からも100体のほどの人骨が発見され、刀や弓などの傷が見られました。
  土地や水を巡って縄文人・弥生人関係なく、集落同士の争いが発生していた考えられます。
  紀元前1世紀頃までには、争いに勝った集落が負けた集落を従え、国という形が成立していました。

  だだ日本全体でみると、この頃争った形跡が発見されたケースは少ないようです。






  【吉野ヶ里遺跡】よしのがり‐いせき
   佐賀県神埼かんざき郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる、旧石器時代から中世に至る遺跡。
   1986年以来の発掘で弥生時代の大規模な環濠集落跡や墳丘墓などを発見。魏志倭人伝の記述との関係でも
   注目された。

 
 中国の正史と古代王朝
  National Diet Library リサーチナビ 『中国の「正史」の日本語訳』 
   https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-asia-73.php ←和訳した本の紹介

  ≪ 中国の正史 ≫  倭人伝・倭国伝 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun-mokuji.htm



  【後漢】ごかん(25~220)
   前漢(前202~後8)の景帝の6世の孫 劉秀が王莽おうもうの新朝(国を奪い
   「新」と号した。8~23頃)を滅ぼして漢室を再興。
   洛陽を都にして光武帝と称してから、献帝に至るまで14世。
   前漢を西漢というのに対して東漢ともいう。


  ≪ 三国時代 ≫ 魏・呉・蜀

  【魏】 曹魏 220~265
   中国、三国時代の国名。後漢の末、198年曹操が献帝を奉じて天下の
   実権を握って魏王となり、その子 丕に至って帝位についた。
   都は洛陽。江北の地を領有。5世紀でに禅ゆずる。

  【呉】 222~280
   中国、三国時代の三国の一つ。孫権が江南に建てた国。222年独立、
   229年国号を定めた。都は建業。4世紀で西晋に滅ぼされた。

  【蜀漢】しょく-かん 221~263
   中国、三国の一つ。後漢ごかんの滅亡後、蜀地方を中心に劉備の建てた国。
   新たな王朝創建ではなく後漢をひきついだので国号を漢と称した。


  ≪ 晋による統一 ≫  西晋265~316、東晋317~420

  【晋】しん 265~420
   中国、三国の魏に代わって、その権臣 司馬炎が建てた王朝。都は洛陽。
   280年呉を滅ぼして天下を統一。のち五胡の乱のため、316年、4世で滅亡(西晋)。
   翌年 皇族 司馬睿(元帝)が建康(南京)に再興したが、混乱が続き、
   ついに将軍 劉裕によって滅ぼされた(東晋)。


  ≪ 五胡十六国 時代≫ ごこ‐じゅうろっこく 4世紀頃 晋末期~南北朝の興るまで。

   後漢・晋の頃、北西方から中国本土に侵入移住した五種の異民族。
   匈奴きょうど・羯けつ・鮮卑せんぴ・氐てい・羌きょうの総称。
   匈奴・羯・鮮卑はモンゴルもしくはトルコ・ツングース系、・羌はチベット系。が
   中国で16の国をつくった。
                 Wiki 五胡十六国時代   Wiki 鮮卑
  【鮮卑】せんぴ
   古代アジアのモンゴル系(トルコ系とも)に属する遊牧民族。
   中国戦国時代から興安嶺の東に拠った。2世紀中葉、遼東から内外モンゴルを
   含んで大統一したが、三国時代、慕容・宇文・拓跋たくばつなどの集団に分裂。
   晋代に、前燕・後燕・西秦・南涼・南燕の国を建て、拓跋氏は南北朝時代に北魏を
   建てた。


  ≪ 南北朝時代 ≫ 鮮卑族の北朝と 漢人の南朝が対立した約150年間。

   439年北魏が華北を統一、江南の宋と対立してから、589年隋が陳を滅ぼすまでの時代。

  【北朝】ほくちょう
   中国で南北朝時代、華北に拠った諸王朝。
   北魏(386~534で東魏と西魏に分裂)・東魏(534~550)・西魏(534~556)・
   北斉(550~577)・北周(557~581)・隋(581~619)と伝え、
   隋が南朝の陳を滅ぼして南北を統一。

   【北魏】ほく‐ぎ 386~534年  東魏 534~550年、西魏 534~556年
   中国、南北朝時代の北朝の最初の国。
   鮮卑族の拓跋たくばつ珪(道武帝)が386年魏王を称し、
   398年平城(今の山西省大同)に都し、建てた国。494年洛陽に遷都。
   534年東魏・西魏に分裂、東魏は550年、西魏は556年滅亡。魏。
   拓跋魏・後魏・元魏などとも称。

  【北斉】ほく‐せい 550~557年
   中国、南北朝時代の北朝の一国。東魏の大丞相 高洋が孝静帝に迫り、帝位を
   奪って建国。6世で北周ほくしゅうの武帝に滅ぼされた。南朝の斉に対し
   北斉と呼ぶ。都は鄴ぎょう

  【北周】ほく‐しゅう  557~581年
   中国、南北朝時代の北朝の一つ。北魏の東西分裂後、西魏の実力者宇文覚が
   恭帝に迫って帝位を譲らせて建てた国。都は長安。
   第3代武帝は北斉を併せたが、5世で隋に滅ぼされた。


  【南朝】なんちょう
   中国で南北朝時代、華南に拠った諸王朝。420~589年にわたり、漢族の建てた
   宋・斉(南斉479~502)・梁(502~557)・陳の4朝をいう。
   呉(222~280)および東晋(265~420)の2朝を合して六朝りくちょうともいう。

  【宋】そう 南宋、劉宋 420~479年
   中国、南朝の一国。東晋の将軍 劉裕(武帝)が建てた。都は建康(南京)。
   8世の順帝が斉王 蕭道成に帝位を譲った。斉王 蕭道成しょうどうせいが南斉を建国。

    【南斉】なん‐せい 479~502年
    (北斉に対していう)中国、南北朝時代の南朝の一国。宋末、蕭道成が順帝の禅譲を
   受けて建てた国。都は建康。7世で一族の蕭衍しょうえん(梁の武帝)に滅ぼされた。

  【梁】りょう 502~557年
   南朝の一国。502年、蕭衍しょうえんが南斉の帝位を奪って創設した国。
   6代で陳に滅ぼされた。

  【陳】ちん 557~589年
   南北朝時代の南朝最後の国。陳覇先(武帝)が梁の敬帝の禅譲を受けて創建。
   建康(南京)に都した。五代で隋の文帝に滅ぼされた。


  ≪ 統一国家 ≫

  【隋】ずい 581~619年
   中国の王朝の一つ。北周の武将の楊堅(文帝)が静帝の禅譲を受けて建てた。
   都は大興(長安)。
   陳を併せて南北を統一(589年)、中央集権的帝国を樹立したが、2世煬帝ようだいの末
   から乱れ、3世で滅んだ。
   律令・科挙などその諸制度は唐制の基礎となり、また、日本と国交を結んだ。

  【唐】とう 李唐。 618~907年 
   隋の次にできた王朝。唐国公の李淵(高祖)が隋の3世恭帝の禅譲を受けて建てた
   統一王朝。都は長安。
   均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令制度が整備され、政治・文化が一大発展を
   遂げ、世界的な文明国となった。20世哀帝の時、朱全忠に滅ぼされた。
 

 ≪ 倭人伝・倭国伝がある中国史 ≫

 三国志 魏志・倭人伝 3世紀末成立
  Wiki 魏志倭人伝 原文&和訳サイトへ

 後漢書・倭人伝 432年
  Wiki 後漢書 原文&和訳サイトへ

 宋書・倭国伝 488年
  Wiki 宋書 原文&和訳サイトへ

 南斉書・倭国伝 6世紀前半
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 梁書・倭国伝 636年
  Wiki 梁書 原文&和訳サイトへ

 晋書・倭人伝 648年
  Wiki 晋書 原文&和訳サイトへ

 北史・倭国伝 659年
  Wiki 北史 原文&和訳サイトへ

 南史・倭国伝 659年
  Wiki 南史 原文&和訳サイトへ

 隋書・倭国伝 636年と656年
  Wiki 隋書 原文&和訳サイトへ

 旧唐書・倭国・日本伝 945年 
  Wiki 旧唐書 原文&和訳サイトへ

 唐会要・倭国伝 961年 
  Wiki 唐会要 原文&和訳サイトへ

 新唐書・日本伝 1060年
  Wiki 新唐書 原文&和訳サイトへ
















  ≪ 五代十国 時代 ≫  Wiki 五代十国時代

  唐の滅亡から宋の統一に至る間に、華北に興亡した五代王朝と、華北以外の諸地方に割拠・興亡した十国
  との併称。

  【五代】
   後梁 907~923年、 後唐 923~936年、 後晋 936~946年、 後漢 947~950年、 後周 951~960年 

  【十国】
   呉 902~937年、 南唐 937~975年、 前蜀 907~925年、 後蜀 934~965年、 荊南 907~963年
   楚 907~963年、 呉越 907~963年、 閩びん 909~945年、 南漢 917~971年、 北漢 951~979年


  ≪ 中国の二十四史 ≫  以下、この色で示した書は唐 (618~907) の時代に編纂されたもの。

  【北史】ほくし
   北朝の魏・斉・周・隋の歴史を一つにまとめたもの。本紀12巻、列伝88巻。の李延寿撰。659年成立

  【南史】なんし
   宋・南斉・梁・陳の4史を要約し、南朝4代170年間の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝70巻。の李延寿撰。
   659年成立

  後漢25~220年、 魏220~265年、 (西晋、東晋)265~420年、 宋420~479年、 南斉479~502年、 502~557年、
  557~589年、  (中国統一)581~619年  唐(中国統一)618~907年     北斉550~577年、 北周557~581年

  ※ 後漢の方が魏より先にあった国ですが、国史が編纂されたのは魏より後の事です。

  梁書陳書北斉書周書隋書 は、636年の唐で編纂。 晋書は648年、北史南史は659年で全て唐で編纂されています。
  倭人伝のある書の内容は非常に似通っており、三国志の魏志倭人伝、後漢書、宋書、隋書、旧唐書、新唐書の6史が
  特に重要になります。


  【魏志倭人伝】ぎし‐わじんでん 3世紀末頃の成立  Wiki 魏志倭人伝

   中国の魏の史書「魏志」(「三国志」(魏・呉・蜀)の中の魏書の通称。本紀4巻、列伝26巻。)
   の「東夷伝倭人の条」に収められている、日本古代史に関する最古の史料。
   「倭」の記述は2000文字程度。

   著者は西晋(三国の魏に代わって、その権臣 司馬炎が建てた王朝。都は洛陽。
   280年呉を滅ぼして天下を統一。のち、五胡の乱のため、316年、4世で滅亡)の陳寿で、
   3世紀末(呉が滅亡した280年~陳寿の没年297年)の間に書かれ、陳寿の死後、
   中国では正史として重んじられた。


  【後漢書】ごかん‐じょ
   二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝の宋の范曄はんよう(398~445)の撰。
   432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭に関する記事
   がある。

  【宋書】そう-しょ
   二十四史の一つ。南朝の宋の正史。帝紀10巻、志30巻、列伝60巻。
   487年、南朝の梁の沈約しんやくかせ斉の武帝の勅を受けて撰、488年成る。

  【隋書】ずい-しょ
    二十四史の一つ。隋代を扱った史書。本紀5巻、志30巻、列伝50巻。
   特に「経籍志」は魏晋南北朝時代の図書目録として貴重。の魏徴らが太宗の勅を奉じて撰。636年成る
   志30巻は656年に成り、後に編入。

  【旧唐書】くとう-じょ 
   二十四史の一つ。唐代の正史の一つ。本紀20巻、志30巻、列伝150巻。五代の一国 後晋の劉昫りゅうくらの奉勅撰。
   945年成る。

  【新唐書】しんとう-じょ 単に「唐書」とも呼ぶ。
   二十四史の一つ。唐代の正史。旧唐書の欠を補い補修したもの。本紀10巻、志50巻、表15巻、列伝150巻。
   1060年、宋(960~1276)の仁宗の時、欧陽修・宋祁そうきらの奉勅撰。
 
 徐福伝説
  Wiki 徐福

  徐福の見た夢 日本語版 https://www.youtube.com/watch?v=hQ_6Yagi5a4







  後漢書・倭人伝 432年頃 南朝の宋が編纂。  Wiki 後漢書  原文&和訳サイトへ

  後漢書・倭人伝
  會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、
   求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。
   會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

  会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。
  伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。
  蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。
  代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。
  会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきで
  はない。

  【後漢】ごかん(25~220)
   前漢(前202~後8)の景帝の6世の孫 劉秀が王莽おうもうの新朝(国を奪い「新」と号した。8~23頃)
   を滅ぼして漢室を再興。洛陽を都にして光武帝と称してから、献帝に至るまで14世。前漢を西漢というのに対して
   東漢ともいう。
 
 弥生時代 1~2世紀頃の九州
  ≪ 漢委奴国王印 かん-の-わ-の-な-の-こくおういん Wiki 漢委奴国王印

  後漢書の倭人伝によれば、1世紀の半ば、西暦52年に奴国の王が、漢王朝 (前漢 紀元前202~紀元後8、
  後漢 25~220) から「奴国王」に任命され、金印を貰った事が記述されています。

  【奴国・儺国】な‐の‐くになこく
   弥生時代の北九州にあった小国。のち儺県なのあがた、また那珂郡となる。今の福岡県の筑紫郡・福岡市・
   糟屋郡にわたる地域。

  後漢書 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm

  建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。
   安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

  建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。
  光武帝は印綬を賜る。安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に
  拝謁する)を請い願う。

  【後漢書】ごかん‐じょ
   二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝の宋の范曄はんよう(398~445)の撰。
   432年頃成立。
   志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭に関する記事がある。

  【後漢】ごかん(25~220)
   中国の王朝の一つ。前漢(前202~後8)の景帝の6世の孫 劉秀が王莽おうもうの新朝(国を奪い「新」と号した。
   8~23頃)を滅ぼして漢室を再興。
   洛陽を都にして光武帝と称してから、献帝に至るまで14世。前漢を西漢というのに対して東漢ともいう。

  【倭奴国王印】わのな‐の‐こくおう‐の‐いん
   1784年(天明4)筑前国(福岡県)糟屋郡志賀島しかのしま(現、福岡市東区)から出土した
   金印。印面は2.3㎝平方で「漢委奴国王」の文字がある。
   後漢の光武帝が57年、同地方にあった小国家の君主に与えたものと見られている。

  江戸時代の1784年に甚兵衛という本百姓が発見し、福岡の黒田藩が白銀5枚という少ない謝礼で
  金印を召し上げました。
  この金印は、発見当初から偽造説が囁かれ、近代に国宝の選定の際にも偽印説が議論された
  ようです。

  「之璽」「之章」という辞句が無い。鋳物でない。「漢」という字がない。発見事情や発見者の消息なども曖昧など
  怪しい点が多過ぎたようですが、歴史専門家の有力委員によって議論は押し切られ、国宝に指定されたと言われ
  ているそうです。


  NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『女王・卑弥呼は どこから来た ~最新研究から読み解く 二つの都の物語~』 14.06.04  放送

  ≪ 2世紀最有力国 伊都国 ≫   Wiki 伊都国






  魏志倭人伝 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm

  自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。
   王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

  女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏おそれ憚はばかっている
  常に伊都国で治め、国の中では刺史の如くある。
  王が使者を京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国に派遣したり、郡使が倭国に及ぶときは、皆、港に臨んで点検照合し、文書、
  賜物を女王に詣でて伝送するが、間違いはあり得ない。






  【伊都国・怡土国】いと-の-くに
   弥生時代の北九州、今の福岡市西方の半島にあった小国。後世 怡土いと郡となり、また志摩郡と合併して糸島郡となる。

  【平原遺跡】ひらばる‐いせき
   福岡県前原まえばる市にある遺跡。溝で囲まれた長方形の区画中に木棺墓があり、漢鏡37面、仿製ぼうせい鏡5面など多くの
   副葬品が出土。弥生時代の遺跡か古墳時代の遺跡か論が分かれる。

  【三雲遺跡】みくも‐いせき
   福岡県前原市三雲にある弥生時代を中心とする大複合遺跡。伊都国の中枢部と考えられる。
   弥生中期の甕棺かめかん墓から前漢鏡・ガラス璧・銅剣・銅戈どうか・銅矛などが出土。
 
 邪馬台国
  NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『女王さま振り向いて!最新研究!邪馬台国・卑弥呼のヒミツ』 11.10.26  放送
  NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『女王・卑弥呼は どこから来た ~最新研究から読み解く 二つの都の物語~』 14.06.04  放送
  【雑学】古代の日本の謎と不思議 ㈱日東書院 1991年7月10日発行 佐治芳彦 著 などより
  NHK Eテレ 歴史にドキリ 『卑弥呼 ~むらからくにへ~』 14.04.16 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『弥生文化と小国家の形成』 14.05.02 放送                 Wiki 魏志倭人伝

  【魏志倭人伝】ぎし‐わじんでん

   中国の魏の史書「魏志」(「三国志」(魏・呉・蜀)の中の魏書の通称。本紀4巻、列伝26巻。)
   の「東夷伝倭人の条」に収められている、日本古代史に関する最古の史料。
   「倭」の記述は2000文字程度。

   著者は西晋(三国の魏に代わって、その権臣 司馬炎が建てた王朝。都は洛陽。
   280年呉を滅ぼして天下を統一。のち、五胡の乱のため、316年、4世で滅亡)の陳寿で、
   3世紀末(呉が滅亡した280年~陳寿の没年297年)の間に書かれ、陳寿の死後、
   中国では正史として重んじられた。


  【魏】 曹魏 220~265
   中国、三国時代の国名。後漢の末、198年曹操が献帝を奉じて天下の実権を握って魏王となり、その子 丕
   至って帝位についた。都は洛陽。江北の地を領有。5世紀で晋に禅ゆずる。


【呉】 222~280
 中国、三国時代の三国の一つ。孫権が江南に
 建てた国。
 222年独立、229年国号を定めた。都は建業。
 4世紀で西晋に滅ぼされた。

【蜀漢】しょく-かん 221~263
 中国、三国の一つ。
 後漢ごかんの滅亡後、蜀地方を中心に劉備の
 建てた国。新たな王朝創建ではなく後漢をひき
 ついだので国号を漢と称した。

  【晋】しん 265~420
   中国、三国の魏に代わって、その権臣 司馬炎が建てた王朝。都は洛陽。280年呉を滅ぼして天下を統一。
   のち五胡の乱のため、316年、4世で滅亡(西晋)。翌年 皇族 司馬睿(元帝)が建康(南京)に再興したが、
   混乱が続き、ついに将軍 劉裕によって滅ぼされた(東晋)。


  ≪ 邪馬台国と卑弥呼 ≫  Wiki 邪馬台国  Wiki 卑弥呼

  【邪馬台国・耶馬台国】やまたい‐こく
   「三国志」の魏志倭人伝に記された、2世紀後半から3世紀前半頃のにあった最も強大な国。女王卑弥呼が
   支配。魏と交通した。その所在地については、九州地方畿内地方との両説がある。

  【卑弥呼】ひみこひめこ
   3世紀半ば頃の邪馬台国の女王。
   「魏志倭人伝」によれば約30国が女王の統治下にあり、239年魏に使者 難升米を遣わして、明帝より親魏倭王の
   称号を与えられた。






  魏志倭人伝よると、2世紀末の日本には30ヶ国が乱立していました。気候の変動で食糧が激減し国同士の争いが
  絶えなかった。戦争を収めるため、話し合いの結果、卑弥呼という巫女を擁立することが決まりました。
  まだ十代だったと推測される卑弥呼は鬼道きどう (まじない) を行うことで国々をまとめ50年間の平和を保ったと
  あります。

  倭人伝・倭国伝 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun-mokuji.htm
   ↑中国の各古文書の倭人伝の原文と和訳があります。

  魏志倭人伝
   倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

   倭人は帯方郡の東南の大海中に在り、山島に拠って邑落国家を為している。
   昔は百余国、漢代(後漢25~220)には朝見する者がおり、今は使訳(通訳を連れた使節)が通じるのは三十国。

   自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、
    次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、
    次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
    其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

   自女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載しえたが、その余の国は遠くて険しく、詳細を得ることが出来なかった。
   次に斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、
   為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、これが女王の領域内の全部である。
   その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、不属女王に従属していない。
   郡より女王国に至るには一万二千余里である。


  ≪ 邪馬台国時代の倭人の様子 ≫ 魏志倭人伝の記より

  男たちは、顔と全身に入れ墨をしており、特徴的なのは大魚たいぎょ (サメ)、水禽すいきん (みずどり)、蚊龍こうりゅう
  (リュウ) など水に纏わるイレズミをしていた事。(入れ墨は東南アジアにも多く見られる風習と同じ)。

  京都橘大学の猪熊 名誉教授によると、
   怖いものを体につける事で、そういうものが体に入っている。水害を避ける意味合いがあったと思う






  倭人は潜って魚や貝を捕る事を好む。寿命が長く ある人は100歳まで、ある人は80、90歳まで生きた。
  酒を好み、宴会の席順には父子男女の区別なし。気候が温暖なので冬でも生野菜を食べることが出来る。


  ≪ 邪馬台国の候補地 ≫ Wiki 吉野ケ里遺跡 / Wiki 纏向遺跡 

  どう考えても邪馬台国の候補地としてあり得ない関東を含めて、「我が町こそ邪馬台国」と主張している地域は80ヶ所
  以上あるそうです。その背景には、経済効果が147億円ほど見込まれるからのようです。






  2004年、沖縄本島の沖合の海中で発見された古代遺跡と思われるもの。

   特命リサーチ200X年 『古代遺跡か!?沖縄・謎の海底地形を調査せよ!』 http://youtu.be/1npfCAypKek
   歴史ミステリー 『青森の海底遺跡』  http://youtu.be/K_YhbsTWq7k
   歴史ミステリー 『和歌山の海底遺跡は桃太郎の鬼ヶ島だった!?』 http://youtu.be/VwaFWLhoAIg
   歴史ミステリー 邪馬台国は四国にあった?1  http://youtu.be/K9ZeTIIT-qs
   【古墳時代】古墳のなぞ (講習動画) http://youtu.be/7dxw5hVQYCs


  新潟県長岡市では、倭人伝の邪馬台国の記述は「邪馬壹国=ヤマイツ国」であり、台で
  あれば「臺」の字が当てられるはず。

  一般的には書き間違えと認識されてきた文字の一つですが、新潟の郷土史家の桐生
  源一さんは書き間違えではないと考えています。

  新潟県民は「ヤマエツ」と書いて「ヤマイツ」と発音するので、中国の使者が方言をその
  まま書いたため。つまりヤマエツ国があった新潟が邪馬台国の地であるという説です。


  最も有力なのは、九州説(佐賀県神埼郡の吉野ケ里遺跡)畿内説(奈良県桜井市の纏向遺跡)





  自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國、人長三四尺。
  自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。

  女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。いずれも倭種とはいえども女王には属していない。
  女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三~四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と
  黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。

  ※ この記述の方角からすると、邪馬台国が北九州で、拘奴国が大阪湾周辺もしくは伊勢湾周辺、朱儒国が
   南九州と解釈できますが、次の裸国と黒歯国が存在しません。ただ、航行日数が一年以内であれば、鹿児島県
   の種子島と大島もしくは沖縄付近とも考えられますが。邪馬台国が畿内だとしても、方角的には裸国と黒歯国は
   存在しません。1里は距離の単位ではなく集落の単位のようなので、正確な位置は分かりません。


  ≪ 九州説 ≫

  東京大学の白鳥庫吉 教授 (1865~1942) は倭人伝はたくさんの書き間違いがあり、文字通り進むと沖縄の備菓子
  の海中になります。そこで『南水行十日陸行一』は『陸行一』が正しいとして、熊本県辺りにあったと主張。






  1989年から吉野ケ里は本格的調査がなされ、その結果として 王の住まい、寄り合い場所、物見やぐら、バリ
  ケード(柵)が再現。倭人伝の記述と矛盾しないものです。
  近年、再現された建物の周囲から15000個以上の棺が発見。

  【吉野ヶ里遺跡】よしのがり‐いせき
   佐賀県神埼かんざき郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる、旧石器時代から中世に至る遺跡。
   1986年以来の発掘で弥生時代の大規模な環濠集落跡や墳丘墓などを発見。魏志倭人伝の記述との関係でも
   注目された。


  ≪ 邪馬台国ブームを起こした長崎県の夫婦 ≫

  現在から50年前、一般国民の大半は邪馬台国には関心がなかったそうです。そのブームの火付け役になった
  のが、「まぼろしの邪馬台国」という本を出版した一組の夫婦。

  終戦直後の長崎県の南東部の島原、父親が経営する鉄道会社に宮崎康平 (1917~1981) は勤務し将来を約束
  された身の上でした。
  1949 (昭和24) 年、32歳の康平は過労が原因で失明してしまいます。妻にも去られ、会社の経営からも外されて
  しまいます。

  希望を失いかけた康平が見つけた生きがいは、学生時代から好きだった古代史でした。郷土史家として身を立てる
  事を決意します。
  専門家の間でも所在地について説が分かれている邪馬台国の在処について興味を惹かれました。






  1956 (昭和31) 年、放送局で声優をしていた和子さんと出会い結婚。和子夫人は、盲目の夫のため倭人伝をテープ
  に吹き込む事にしました。康平は500も繰り返し聞いたそうですが、わずか2000字しかない倭人伝だけでは矛盾を
  解く手掛かりが見つかりません。

  和子夫人の提案で、倭人伝の記述通りの道を忠実に二人で歩くことにしました。その旅は韓国、対馬、九州へと
  及びました。和子夫人は、紙で二人で歩いた九州の立体地図を作りました。その地図を指で何度も辿るうち、
  康平は一つの大きな疑問に直面しました。

  それは倭人伝の「水行すいこう」という記述。奴国なこくの次の不弥国 (現在の福岡県) から 「南水行十日 陸行
  一月」と書かれてありますが、この地からは川も海もありませんでした。「南に船で10日 陸路1ヶ月」の部分は
  書き間違いとされていた部分です。

  福岡市の近郊の山に立った時、「ここには運河があったに違いない」という事が閃きました。

  宮崎康平 著『まぼろしの邪馬台国』より
   博多湾と有明海はつながっていて この時代には自由に航行できたのである。だから水行二十日 水行十日と
   投馬つま国や邪馬台国へ直接博多湾から達することができたのである


 
 

  有明海沿岸を調べてみると、弥奴みぬ国=三根郡(佐賀県)。巴利はり国=原田 原鶴 (福岡県朝倉市) など、倭人
  伝に記述された国の名前と似た地名が次々と見つかりました。
  25年かかって、その仮説で最終的に辿りついたのは、康平の郷土である長崎県雲仙市の島原の「也萬多やまた
  邪馬台国でした。

  著書『まぼろしの邪馬台国』が発表されると、反響を呼び50万部のベストセラーになりました。邪馬台国探し
  ブームが起こり、各地で本格的な発掘調査が開始されました。二人が歩いた道筋からは、次々と弥生時代の集落
  が発見されました。
  この本は、地域文化への貢献が評価され、宮崎康平・和子夫妻に対し、第一回吉川英治文化賞が贈られました。


  ≪ 畿内説 ≫  大阪高槻市で日本最大の埴輪群出土 別の古墳からは年号(青龍3年、西暦235)入りとしては日本最古の銅鏡が5枚発見。

  京都大学の内藤湖南 教授 (1866~1934) は、倭人伝の書き間違いは 距離ではなく方角である。
  『水行』ではなく『水行』で近畿にあった。

   ※ 「南」が「東」の書き間違いだとすると、邪馬台国に対する狗奴国の位置も発掘結果と合致するようです。






  奈良県桜井市にある纏向遺跡で1971年から180回に及ぶ発掘調査を行った結果。
  その遺跡規模から近年は畿内説が最有力になります。

  2009年、奈良県桜井市の纏向遺跡で古代史を揺るがす大発見がありました。
  それは南北19.2m、東西12.4m、柱の数45本。3世紀 (現在発見されている中では) では日本最大の床面積を持つ
  建物跡です。規模から、当時最大の権力者の住居と考えられ、それは卑弥呼ではないか? と推測されています。

  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『邪馬台国は佐賀じゃなく奈良にあったのでは説』 13.12.23 放送




 2013年6月22日の奈良新聞

 邪馬台国の有力候補地として
 国が纏向遺跡を史跡に指定。


  古代の日本の別名各種および、大和=倭國=邪馬台の解説 (和漢才図会)  原文あり


  ≪ 纏向遺跡 新たな建物跡 ≫   朝日新聞 14.02.07 朝刊 より抜粋 / Wiki 纏向遺跡

  2014年の最新研究では、1月に纏向遺跡から新たな発掘があり、「邪馬台国=纏向遺跡」である
  可能性が圧倒的に強くなりました。

  卑弥呼が治めた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纏向遺跡 (3世紀初~4世紀初) で、2009年に
  確認された3世紀前半 (弥生時代末~古墳時代初) の大型建物跡の東側から、建物跡1棟が見つかった。

  大型建物群と同じ東西の同一線上に中心軸が並ぶ事から同時期の建物とみられ、「この時代では異例の広さ。
  邪馬台国の中枢施設」との見方が強まった。

  一帯では6世紀ごろまで連綿と続く遺構が確認されており、専門家は「邪馬台国から初期ヤマト王権まで、重要な
  建物が継続して造営され続けてきた可能性がある」とみる。

  【纏向遺跡】まきむく‐いせき
   奈良盆地南東部、桜井市にある3~4世紀の集落・墳墓遺跡。
   出土した多くの土器から関東・東海・山陰・山陽・九州地方と広く交流があったと推定される。
   自然集落ではなく、人工的に造られた「日本初の都市」と言われる。

  日本経済新聞 18.09.05  『邪馬台国を見晴らす楼閣 唐古・鍵遺跡』
   https://www.nikkei.com/article/DGXMZO34967850U8A900C1AA2P00/?n_cid=SPTMG002
  弥生時代の環濠(かんごう)集落跡では近畿最大級の唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡(奈良県田原本町、国史跡、
  紀元前6世紀~紀元3世紀)が4月、史跡公園として装いを新たにした。近くには邪馬台国の有力候補地、纒向
  (まきむく)遺跡(同桜井市、国史跡、3世紀)があり両遺跡の関係が注目を集める。


  宇都宮市 『世界と日本の水道・下水道の起源』
   http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/013/818/kinensi06.pdf

  ≪ 日本の下水道の起源 ≫

  大阪府の泉州地域にある弥生時代中期の大規模な池上曾根遺跡ではし尿や下水を流す環濠システムが確立
  されていたそうです。これが現在発見されている下水道の起源のようです。纏向遺跡では水を使用したトイレ
  作られていました。

  【池上曾根遺跡】いけがみそね-いせき
   大阪府和泉市・泉大津市にある弥生時代の大集落遺跡。濠を巡らす住居域と、その周囲の墳墓などから成る
   付帯施設域とがある。


  魏志倭人伝 「卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
   「卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。

  【箸墓古墳】はしはか‐こふん
   奈良県桜井市箸中にある最古の前方後円墳の一つ。墳長約280メートル。後円部の直径約160メートル。
   葺石や最古の埴輪があり、3世紀中葉から後半の築造とされる。
   崇神紀に倭迹迹日百襲姫命やまとととびももそひめのみことの墓とする伝説があり、卑弥呼の墓とする説もある。


  ≪ 伊都国から遷都して奈良に邪馬台国ができた説 ≫

  2世紀の伊都国遺跡と纏向遺跡には多数の共通点がある事も発見されました。
  高床式住居、地方からの土器が集まっている(纏向遺跡では関東からも)。運河の工法が似ている。太陽信仰が
  あった。など。






  福岡県の平原王墓は2世紀終わり頃の伊都国の女王の墓と考えられ、約50年後に邪馬台国があった時代になります。
  九州説を説いていた学者も「福岡の伊都国から、奈良へ遷都した」と考える人が増えているようです。


  ≪ 卑弥呼の生活 ≫

  魏志倭人伝
   其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、
    年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。
    以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。

   その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王
   として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(五斗米道の教え)に従い、(呪術で)よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、
   弟がいて国の統治を補佐した。王位に就いて以来、会えるものは少なく。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の
   男性が食事を給仕し、伝辞のため出入する。居住する宮殿や楼観、城柵は厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいる。






  発掘結果と倭人伝から推測し番組がCGによると、建物を入ってすぐは64畳ほどの広い空間。ここにはと呼ばれる
  お付きの女性が控えていました。続いて奥の左側には卑弥呼を補佐した弟が控えている部屋。






  左から2番目の部屋は卑弥呼が昼間に場所で、ここは補佐役の弟の入室も禁じられ、食事を運んだり取り次ぎを
  するのは少年でした。その奥の16畳の部屋が寝室。右端の部屋は、番組では解説が無かったものの、映像から
  考えるに、祭祀を執り行った部屋のようです。






  倭人伝によると、
   1000人の婢が居たようですが、女王の姿を見た者は極一部だったので、卑弥呼は生涯ほとんど外には出なかったと
   考えられています。






  纏向遺跡からはサバの骨やアジのウロコなども出土していますが、研究者たちが注目したのは大量に出てきた桃の
  種でした。2769個(番組放送後増加)という数は日本の他の遺跡からは発掘されたことのない数で、未成熟な桃の
  種だった為、食用ではなく儀式で使われたものと考えられています。燃やすと幻覚作用を持つ麻の種も、異例の
  535個出土。

  中国 (画像は湖北省の武当山) には、神仙思想という古代からの宗教の一つ。神や仙人に対する信仰で神通力を
  得るため、桃は不老長寿の象徴として儀式で祀っていました。この影響があったのではないかと思われています。

  【神仙思想】しんせん‐しそう
   中国古代の神秘思想。山東省の神山信仰に端を発し、不老長寿の薬を求め、煉丹術を生んだ。
   太平道・五斗米道ごとべいどうなどにも影響を与え、道教の中にとりこまれた。


  山陽放送 『開局60周年記念特別番組 「古代ロマン 歴史の源流・出雲 目には見えない宝もの」』 13.08.31 放送
  NHK スペシャル 『二つの遷宮  ~伊勢と出雲のミステリー』 14.01.04 放送 など

  ≪ 纏向遺跡と伊勢神宮、出雲大社の共通点が発見される ≫

  神戸大学の建築学 黒田龍二 教授によると、上記の建物群で二番目に大きなものは伊勢神宮の正宮のとそっくり
  で、唯一神明造。そして卑弥呼が居たと推測される一番大きな建物は、特殊な柱跡から出雲大社の本殿の大社造
  と同じだと思われるようです。






  国譲り神話で、出雲の大国主命が天照大神の孫の瓊瓊杵尊に地上の土地を譲ります。そして他の対価として、
  大国主命は神事かみごとの世界の中心を受け持ち、天にそびえるほどの社を得ます。
  2009年には、この神話に出てくるこの社の大きな柱束が出土。

  各柱跡は『金輪御造営差図』という史料との位置とぴったり合い、古代には実際に高さ48mほどの社が実在して
  いた事が分かりました。
  東大寺の大仏殿よりも高かったそうです。現在の出雲大社の本殿は、現存する社殿の中でも日本一の高さがある
  そうです。
  そしての建築は纏向遺跡に見られる大和政権の建築技術が使われたのではないか? と推測されているようです。






  2世紀に出雲型の『四隅突出型』古墳は北陸地方にもありましたが、3世紀以降では大和政権側の『前方後円墳』
  などが、出雲や北陸を含めた日本各地に広まります。




  また、纏向遺跡がある奈良県桜井市には三輪山を御神体とする大神神社があり、この日本最古と言われる神社の
  祭神は大物主おおものぬしで、『大物主=大国主』とされています。大和国の一宮で、重要二十二社。
  大国主命を大和政権の守り神として、現在まで大切に扱われてきました。

  日本最古の神社 大神神社 と 纏わる神話

  これらの事から、「出雲勢力と大和勢力は対立関係で争いはあったものの、最終的には共存関係に移行した」と
  する見方が非常に強まりました。


  ≪ 愛知県一宮市 (萩原遺跡群) にあったと思われる邪馬台国のライバル狗奴国 ≫

  3世紀半ば、卑弥弓呼ひみここという男の王が治める狗奴国と邪馬台国が戦争になりました。
  狗奴国の存在は長年謎でしたがは、近年、一宮市で発見された萩原遺跡群は、吉野ヶ里遺跡や纏向遺跡に匹敵
  するほどの規模だった為、この遺跡が狗奴国の最有力候補地ではないかと注目されています。

  【狗奴国】くな‐の‐くにくぬこくくなこく
   魏志倭人伝にみえる弥生時代の倭の強国。邪馬台国の南にあって男王が支配し、女王をいただく邪馬台国と
   対立していた。





  卑弥呼は『姫尊ひめみこと=女王』という意味以外に、太陽信仰から『日巫女』の意味という説もあります。


   Wiki 狗奴国 より 抜粋

 邪馬台国についてヤマト王権との関係に諸説あるように、狗奴国についても、その後どうなったのかを巡る諸説が
  対立している。主なものは、消滅説(邪馬台国に敗れ滅んだ)、東遷説(邪馬台国を滅ぼし東征しヤマト王権の
  母体となった)、継承説(熊襲になった)、神武天皇による九州の日向から近畿の奈良方面への東征伝承を邪馬
  台国連合の圧迫からの逃亡でありヤマト王権になったとする説などがある。

  更に近年、考古学の分野において古墳時代 前期の前半に前方後方墳を造営していた濃尾平野以東の東日本の
  諸勢力の前身で大型の前方後方形墳丘墓を営んでいた濃尾平野の勢力を狗奴国と見て、卑弥呼没後まもなく
  邪馬台国連合に統合され、徐々に吸収されたとする見解が出されている。






  縁の部分が「S」(上の画像の赤い部分) が特徴的な土器なので「S字ガメ」と呼ばれています。
  このS字ガメは、濃尾平野を中心に滋賀県、三重県、東日本各地でも出土しています。

  愛知県埋蔵文化財センターの赤塚 調査課長の考えでは
  大阪湾沿岸と、伊勢湾沿岸のまとまりが2世紀末~3世紀前半に明確化してくる。
   一つが邪馬台国とすれば、もう一つが狗奴国である可能性は高い。狗奴国との抗争を契機に日本で初めて
   広域王権ができる。日本の礎ができたと思います。としています。


  ≪ 卑弥呼は他殺?説 ≫

  卑弥呼の他殺説を初めて唱えたのは、ミステリー作家の文豪 松本清張でした。

  【松本清張】まつもと‐せいちょう (福岡県生れ、1909~1992)
   小説家。本名、清張きよはる。不遇な人間の怨念や過去を動機として、社会派推理小説の道を拓く。
   作「点と線」「砂の器」など多数。ほかに歴史の裏面を暴く「日本の黒い霧」「昭和史発掘」「古代史疑」など。

  狗奴国との争いで劣勢だった邪馬台国は魏に援軍を求めます。しかし援軍はなく、女王を支持する黄色い旗が
  贈られてきただけだった。この直後、「卑彌呼以死」と書かれており、文脈から自然死ではない可能性も指摘
  されています。






  清張が付けたのは、倭人伝の『卑彌呼以死 (卑弥呼 以って死す)』の記述。同時代の中国などの王の死に関わる
  「以死」を調べ尽くした結果。『以死』は、殺害されたり自殺などの異例の死の時に用いられる表現である事を
  見つけたのです。
  三国志 夫余伝 の『五穀が実らないときは王に罪をきせ、代えたり殺したりした』という記述を発見。

  【夫余・扶余】ふよ
    前1世紀から5世紀まで、中国東北地方・朝鮮北部に活動した民族。また、その建てた国。ツングース族の
    一族と見られる。1~3世紀中頃が全盛期で、494年、高句麗に滅ぼされた。

   ② (扶余)(Puy)韓国忠清南道南部の錦江左岸に位置する町。
    百済後期の都泗しひが置かれた地で、扶蘇山城・百済王陵など古跡が多い。もと百済の別称。プヨ。

  松本清張 著 『邪馬台国』より
   古代の王は 祭司をかね 霊力があると信じられていたから 天候の調節に失敗したり 戦争にまけたりすると
   その責めを長老たちにおわされて 殺される運命にあった (中略) 卑弥呼の死の内容は これからも推定できる

  清張は、「卑弥呼も敗戦の責任を取って殺された」と考えました。






  この推理を補強できる証拠が、長崎県平戸市から発掘された弥生時代の女性の人骨。巫女だったと考えられて
  おり、頭の真上から突き刺されたと思われる剣が頭蓋骨に残っていました。
  これが致命傷になり数日後に亡くなったと鑑定されているそうです。
  当時、女性が戦場で殺される事は考えにくいので、何らかの責任を負わされ身内に殺された可能性があるのでは
  ないか? と考えられています。

  纏向遺跡では、東海系 (狗奴国の土器と思われる) S字ガメが出土。卑弥呼が死んだと思われる3世紀半ば以降の
  ものの出土数が急増。
  狗奴国が抗争に勝利し、邪馬台国を支配下に置いた可能性が指摘されています。(邪馬台国=畿内説だとすれば)






  倭人伝によると
  卑弥呼の死後、男の王 (狗奴国のヒミココ?) が建ったが国中が服さず、再び争いがおこり1000人余りが殺し合い
  で死んだ。男の王は失脚し、卑弥呼の一族の娘である臺與とよ (壱与いよ) が王として建てられ、戦乱は収まり
  平和を取り戻した。

  【壱与】いよ  Wiki 台与
   邪馬台国の女王。卑弥呼の死後、男王が立ったが国中服せず、13歳の壱与が
   女王となって治まったという。魏に使者を派遣。「壹(壱)」は「臺」の誤写とし、
   臺與とよとよむ説がある。

  明治時代の東大教授 白鳥庫吉 1910年著『倭女王卑弥呼考』では
   「卑弥呼=アマテラス」で、邪馬台国と狗奴国との争いが、天照大神が弟のスサ
   ノオとの争いに敗れ天の岩戸に隠れたという神話にしたもの。と推理している
   そうです。

  壱与は3世紀半ばの266年、魏の後に建国された晋に遣使したことが、『晋書』の
  『四夷伝、倭国条』に記載されています。

  それ以後、5世紀の『宋書』の『夷蛮伝の倭国条』に、南宋が成立した翌年の421年に
  「倭王の賛が遣使した」という記述になり、日本の古代王朝成立に関して最も重要な
  4世紀の記録が空白になっています。

  4世紀の中国は晋が崩壊し、五胡十六国が乱立していた為、倭国の事情を考察
  する余裕がなかったと考えられています。

  【五胡十六国】ごこ‐じゅうろっこく
   後漢・晋の頃、北西方から中国本土に侵入移住した五種の異民族。
   匈奴きょうど・羯けつ・鮮卑せんぴ・氐てい・羌きょうの総称。
   匈奴・羯・鮮卑はモンゴルもしくはトルコ・ツングース系、・羌はチベット系。が
   中国で16の国をつくった。

 
 銅鏡の魔鏡現象と太陽信仰との関係 3Dプリンターによる復元で分かった銅鏡の仕組み
  読売テレビ かんさい情ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「太古の鏡が映し出す衝撃の映像とは」』 14.04.30 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『弥生文化と小国家の形成』 14.05.02 放送

  【銅鏡】どう-きょう … 青銅製の鏡。古代中国・朝鮮、日本の弥生・古墳時代に主に製作された。

  【神獣鏡】しんじゅう-きょう
   神仙と霊獣の像を組み合わせた文様をもつ中国の鏡。後漢から三国時代・六朝時代(後漢滅亡から隋統一前
   までの220~589頃)に作られた。日本の古墳からも発見され、仿製ほうせい鏡もある。平縁式と三角縁式とに大別。

  【三角縁神獣鏡】さんかくぶち-しんじゅうきょう
   神獣鏡の一種。縁の断面が三角形で、直径20㎝をこえる大型が多い。日本の古墳から多数出土するが、中国や
   朝鮮半島からは1面も出土していない。
   魏帝が卑弥呼に下賜した銅鏡百枚にあてる説があり、また、すべて日本製とする説がある。

  三角縁神獣鏡は、魏志倭人伝に「239 (景初3) 年に魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡を100枚下賜かしした」という記述から、
  邪馬台国の手掛かりとして重要視されてきました。
  しかし、これまで400面以上見つかった事から、「魏から卑弥呼が授かったものではなく、日本で作られたもの」と
  みられています。


  ≪ 魔鏡現象 ≫  Wiki 魔鏡

  愛知県犬山市の東之宮古墳から出土した三角縁神獣鏡を、京都国立博物館の元 学芸部長で、現在は京都美術工芸
  大学 工芸部の教授を務めている村上隆さんが2014年1月に大阪府高槻市の㈱JMPにある最新の工業用3Dプリンター
  約40時間かけて再現。金属粉にレーダーを照射し1/1000㎜ずつ固めて作ったそうです。






  出土した三角縁神獣鏡は重要文化財に指定される為、詳しい研究ができませんでしたが、作られた当初の状態の
  鏡のレプリカを再現できた事で新しい発見がありました。

  江戸時代に隠れキリシタンが切支丹鏡というのを製造し信仰に利用していた事が知られており、銅鏡の魔境現象の
  技術の確立は江戸時代中期頃と思われていましたが、古墳時代に作られた銅鏡でも魔境技術があった事が分かり、
  歴史的大発見となりました。






  金属製の鏡は磨きあげると普通の鏡として利用できますが、鏡に光を当てると、反射した光に裏側の彫刻の文様が
  映し出される現象 (魔境現象) が起こります。現在の鏡はガラス製なので、磨いても魔鏡現象は起きません。






  魔鏡は彫刻によって2㎝~1㎜以下と厚みの差があります。裏の鏡面を研磨する工程で、薄い部分はたわんであまり
  削られないのに対し、厚い部分は普通に削られる事になります。その結果、鏡面には見ただけでは分からない程度
  の凹凸ができるのです。
  この凹凸により光の反射に強弱ができ、彫刻部分と同じ文様を映し出す魔鏡現象が生じるのだそうです。

  京都市下京区にある山本合金製作所の山本晃久さんは 神社仏閣に納める神鏡を作る傍ら魔鏡も作る鏡師で、
  現在の日本で手業で魔鏡を作れる唯一の人だそうです。


  NHK大阪 歴史秘話ヒストリア 『女王・卑弥呼は どこから来た ~最新研究から読み解く 二つの都の物語~』 14.06.04  放送

  ≪ 太陽信仰と鏡の役割 ≫

  中国浙江省紹興で出土したと伝わる後漢時代の銅鏡の文様には、女性が鏡を持って踊り周りに人が控えている
  様子があります。
  伊都国の2世紀末頃の平原古墳では、頭を西向きに埋葬された女王の周りにはスペースがあり、建物があったで
  あろうと思われる柱跡があります。






  これらの事から、女王の枕元に大きな銅鏡を置き、日の出の太陽光を受けさせ、遺体の横に新たな女王を寝かせて、
  引き継ぎの儀式が行われたのではないか? と考える事ができるようです。






  古代では太陽信仰があったので、卑弥呼の鬼道でも魔鏡現象を利用したと考えられています。


  ≪ 伊都国の銅鏡と伊勢神宮の八咫の鏡の模様が似ている? ≫  Wiki 八咫鏡

  伊都国の遺跡から出土した5面の『内行花文鏡』は、他の鏡より大きく花のような文様があります。
  中央の突起部分は太陽と考えられています。
  この鏡のうち4面は伊都国歴史博物館で、また1面は九州国立博物館で常時展示されており、実物を見ることが
  できるそうです。






  伊勢神宮に残る『伊勢二所皇太神御鎮座傅記いせ-にしょ-こうたいしん-ごちんざ-ふき(伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記)』に
  よると、八咫の鏡は「八つの花弁・八つの葉」の文様がある事が書かれています。

  Wiki 神道五部書 によると、
  神道五部書(伊勢二所皇太神御鎮座傅記など)いずれも奥付には奈良時代以前の成立となっているが、実際
   には鎌倉時代に度会行忠ら外宮祀官が、伊勢神宮に伝わる古伝を加味しつつ執筆したものとみられている。
   は、江戸時代中期に、尾張の神官である吉見幸和によって、偽書であると指摘されたそうです。

  ※ 偽書という内容の指摘は、外宮の方が内宮より正当性があるとされる記述などのようです。八咫の鏡の真偽。
  については不明です

  特定非営利活動法人 にっぽん文明研究所 『【31】 元伊勢伝承の源流(一) -伊勢神道と神道五部書-』 偽書である事の解説がされています。
   http://www.nippon-bunmei.jp/topics/turedure/  ← リンクは長いので省略 

  【八咫鏡】やた‐の‐かがみ まふつのかがみ。やたかがみ。
   (巨大な鏡の意三種の神器の一つ。記紀神話で天照大神が天の岩戸に隠れた時、石凝姥命いしこりどめのみこと
   が作ったという鏡。天照大神が瓊瓊杵尊ににぎのみことに授けたといわれる。
   伊勢神宮の内宮に天照大神の御魂代として奉斎され、その模造の神鏡は宮中の賢所かしこどころに奉安される。
   神代紀[上]「中つ枝には八咫鏡を懸とりかけ

  【八咫】や-た
   ヤアタの約。あたは上代じょうだい (昔、太古などの意味で主に奈良時代まで、平安時代にも用いる) の長さの
   単位で、手のひらの下端から中指の先端までの長さ。一説に親指と中指とを開いた長さ
   長いこと。また巨大なこと。八咫の鏡、八咫烏。
 
 日本神話
  日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著 / 広辞苑
  NHK Eテレ 100分de名著 『古事記』 全4回、(解説 三浦佑之 立正大学教授) 13.09.04、09.11 放送
  テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『伊勢神宮 ~20年に1度の大祭~』 13.09.21  放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった にっぽん城下町めぐり6 兵庫県洲本』 14.01.09 放送 より

  天之御中主神】
   古事記で、天地開闢かいびゃく(世界の初め)に出現したとされる別天神こと‐あまつかみ
   別天神は、天之御中主神 ・ 高御産巣日神 ・ 神産巣日神 ・ 宇摩志阿斯訶備比古
   遅神うましあしかびひこじのかみ・ 天之常立神あまのとこたちのかみの称。
   日本書紀には一行しか記されていないそうです。高天原の主宰神で、最初の神

  【高皇産霊神・高御産巣日神・高御産日神・高御魂神】別名、高木神たかぎのかみ
   古事記で、天地開闢の時、高天原に出現したという神。天御中主神 ・ 神皇産霊神と
   共に造化三神の一神。天孫降臨の神勅を下す。鎮魂神として神祇官八神の一神。

  【神産巣日神・神皇産霊神】 
   記紀神話で天地開闢の際、天御中主神・高皇産霊神たと共に高天原に出現したと
   伝える神。造化三神の一神。女神ともいう。

    日本神話・神社まとめ http://nihonsinwa.com/

  【伊弉諾尊・伊邪那岐命】いざなぎ‐の‐みこと(古くはイザナキノミコト
   日本神話で、天つ神の命を受け伊弉冉尊と共に日本の国土や多くの神を生み、
   山海・草木をつかさどった。

  【伊弉冉尊・伊邪那美命】いざなみ‐の‐みこと
   伊弉諾尊の配偶女神。
   火の神を生んだために死に、夫神と別れて黄泉国よみのくにに住むようになる。


  ≪ 日本発祥の地 自凝島おのころじま神社 ≫  Wiki 自凝島神社

  兵庫県の淡路島 南あわじ市にある自凝島神社の場所が日本発祥の地となっています。
  天の矛先から落ちた滴が固まり島となったのが自凝島 (淡路島) です。








  【磤馭慮島淤能碁呂島自凝島】おのころ‐じま
   日本神話で、伊弉諾・伊弉冉の二尊が天の浮橋に立って、天瓊矛あまのぬほこで滄海そう‐かい (あおうなばら、大海) を
   探って引き上げた時、矛先からしたたり落ちる潮の凝って成った島。転じて、日本の国を指す。

   この島に降臨されて、八尋殿やひろどの (幾尋もある広い御殿) を建て夫婦の契りを結びます。
   その交合の行為 (SEX) が解らず、鶺鴒せきれいの尾を振る特徴から教えられたといい、セキレイを「教え鳥」とも言う。






  自凝島神社の入り口にある高さ21.7mある大鳥居は地元の人々の寄付 (約1億円) で造られたそうです。縁結び・安産
  祈願で年間10万人ほどが参拝に訪れるそうです。


  ≪ 和歌山市の淡嶋神社 ≫  雛祭りの起源 女性のための古社 和歌山市 淡嶋神社

  和歌山市加太にある淡嶋神社が雛祭りの起源の地だそうです。起源を含めると1700年の歴史になるようです。
  友ヶ島にゆかりがある神功皇后が島の御祭神であった少彦名神を崇めていました。
  およそ1600年前の古墳時代、孫にあたる仁徳天皇が友ヶ島の対岸に少彦名神を祀る社を移し、淡嶋神社を創建。

  友ヶ島は4つの島 (沖ノ島・神島・虎島・地ノ島) からなり、淡路島と紀伊半島の間にあって、太平洋から大阪湾へ入る
  航海の要所。明治~昭和時代、外国船の大阪湾への侵入を阻止するため、淡路島の由良・和歌山県友ヶ島・加太に
  多くの砲台が置かれました。特に由良と友ヶ島には国内一級の軍事要塞が作られ紀淡海峡防衛が行われていました。
  これらの施設跡は観光スポットになっています。

  【淡島】あわしま
   ① 日本神話で伊弉諾尊いざなぎのみこと・伊弉冉尊いざなみのみことが生んだという島。(← 淡路島の事だと言われています)
   ② 日本神話で少彦名神がそこから常世に渡ったという島。
   ③ 和歌山市にある淡島神社。祭神は少彦名神。各地に分祀。婦人病に霊験があるとされる。また神の名を針才
    天女とも伝え針供養が行われる。加太かだ神社。淡島 (粟島) 明神。あわしまがみ。
   ④ ③のお札や神像を入れた厨子を負って、その由来を語りながら門付けをした遊行者。淡島願人。淡島殿。







  イザナミが最初に「いい男よ」と言って結ばれたて生まれたのが、身体の不自由な蛭子 (骨の無い子) 神=恵比寿
   (えべっさん)。で、船に乗せて流したとされます。そして辿りついたのが、戎神社の総本社である兵庫県の西宮神社。

  天神に問うたところ「女より先に言うのはよくない」と教えられ、イザナギから「いい女よ」と言って誘い、四国、九州、
  本州の順に産み、その他の島々、多くの神々を産んでいった。











  【天鈿女命(日本書紀) ・ 天宇受売命(古事記)あまのうずめ‐の‐みこと 鈿女命。 
   猿女君さるめのきみの祖つおやとする。神楽・伎芸など芸能の神
   日本神話で、天岩屋戸あまのいわやとの前で踊って天照大神を慰めた。
   日本書紀では、「天鈿女命は天の石窟戸の前に立ちて巧に俳優わざおぎ (面白い仕草で歌舞し、神人を楽しませる事) を
   作し・・・」と記されている。
   また天孫降臨に随従した五部神の一柱の女神で、天の八衢で出迎えた国津神の猿田彦神と談合し、道案内させた。
   のちに二人は結婚し、子孫も「猿女」と称し 、芸道の家系とされる。






  【猿田彦】さるたひこ (古くはサルダビコ) 俳優の神ちまた(分かれ道)の神ともいう。
   日本神話で、瓊瓊杵尊ににぎのみことの天孫降臨の際、先頭に立って道案内し、のち伊勢国五十鈴川上に鎮座した
   という神。容貌魁偉ようぼう‐かいい (がっしりとした立派な体つき) で鼻長7咫あた(手のひらの下端から中指の先端
   までの長さ)、身長7尺余と伝える。中世に至り、庚申の日にこの神を祀り、また、道祖神と結びつけた。

  【天の八衢】あまの‐やちまた …(「八衢」は数多くの道が分かれる所の意) 高天原と葦原の中つ国との間にあったという辻。

  ※ 記紀の神話には、多くの矛盾や古事記、日本書紀での食い違いもたくさんあります。
    また同じ神様 (と、推測される) でも名前が違っていたり、漢字表記が微妙に異なっていたりします。

  ※ 伊勢神宮、出雲大社、古事記 関連などは 日本の食の歴史1のページをご覧ください、
 
 
 天孫降臨~神武天皇 神話
  天孫降臨】てんそん‐こうりん
   記紀の神話で、瓊瓊杵尊が高御産巣日神(高皇産霊尊)たかみむすひのみこと・天照大神の命を受けて高天原から
   日向国 (宮崎県)の高千穂に天降ったこと。

  【瓊瓊杵尊・邇邇芸命】ににぎ‐の‐みこと 天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎのみこと  Wiki 天孫降臨
   日本神話で天照大神の孫。天忍穂耳尊あまのおしほみみのみことの子。
   天照大神の命によってこの国土を統治するために、高天原から日向国の高千穂峰に降り、大山祇神おおやまつみのかみ
   女むすめ木花之開耶姫このはなのさくやびめを娶めとり、火闌降命ほすそりのみこと ・火明尊ほあかりのみこと
   彦火火出見尊ひこほほでみのみことを生んだ。

  【高千穂峰】たかちほ‐の‐みね
   宮崎県南部、鹿児島県境に近くそびえる火山。霧島火山群に属する。天孫降臨の
   伝説の地。標高1574メートル。頂上に「天あまの逆鉾」がある。

  【天壌無窮の詔勅】てんじょうむきゅう‐の‐しょうちょく
   (日本書紀神代紀一書による)天孫降臨の時、天照大神が皇孫、瓊瓊杵尊に賜った
   という神勅。

  邇邇芸命が吾田あたの笠紗かささの岬で、絶世の美女 木花之開耶姫(木花之
  佐久夜比売)と出会いナンパし、姉が居る事も知り求婚。

  宮崎県 高千穂 高天原

  大山祇神(大山津見神)は、喜び二人の娘を多くの献上品とともに邇邇芸命の元へと送りだした。
  しかし、姉の尊磐姫(石長比売命)いわながひめは容姿が醜かったので親元に送り返され、木花之開耶姫とだけ婚姻した。

  火闌降命(火照命ほでりのみこと)… 海幸彦うみさちびこ

  彦火火出見尊(火遠理命ほおりのみこと)…山幸彦やまさちびこ
   海幸山幸神話で海宮に赴き海神の娘と結婚。鵜葦草葺不合尊が生まれ、鵜葦草葺不合尊うがやふきあえず-の-みこと
   子の神日本磐余彦天皇かんやまといわれびこ‐の‐すめらみこと神武天皇になる。




 古事記によると、大山祇神

  「娘二人を奉ったのは理由がある。石長比売を奉ったのは、二人の
   間に生まれた御子は雨が降っても風が吹いても石のように永久に
   生命があるようにと考え、また木花之佐久夜比売を奉ったのは、
   木の花(桜と解釈される)の栄ゆるが如く御子も栄えるようにという
   理由からである。
   だが、今、石長比売を返され、木花之佐久夜比売 一人を止められた。
   だから、天つ神の御子の寿命は木の花のように はかないものになる
   であろう」と申された。
   今でも天皇の御寿命が短いのはその為である・・・・・・・・。




  【海幸 山幸 神話】
   日本神話の一つ。彦火火出見尊(山幸彦)が兄の火照命(海幸彦)と
   猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求めるため
   塩椎神しおつちのかみの教えにより海宮に赴き、海神 豊玉彦神の娘
   豊玉毘売とよたま‐ひめと結婚。
   釣針と潮盈珠しおみちのたま・潮乾珠しおひのたまを得て兄を降伏
   させたという話。

   天孫民族と九州南部の隼人はやと族との闘争の神話化とも見られる。
   また仙郷滞留説話・神婚説話・浦島伝説の先駆をなすもの。





  天界の子孫山の神の娘と結婚した事で、 山の神の力を得た子彦火火出見尊が生まれる。
  次に彦火火出見尊海の神の娘と結婚した事で海の神の力を得た子鵜葦草葺不合尊が生まれる。

  天と、地上の山と海の両方の力を得た事により、万物の力を獲得した天皇が誕生する。というのが神話の流れです。

  【大山祇神社】おおやまつみ‐じんじゃ
   愛媛県今治市大三島町宮浦にある元国幣大社。祭神は大山祇神。全国にある重要文化財の甲冑のうち約7割
   強を所蔵。伊予国一の宮。大三島神社。三島大明神。


  阿波と古事記 第一篇「はじめ国生み」(阿波古事記研究会) http://youtu.be/C8PzQFQX6Jc
  古事記に記された日本が出来るまでの神話 http://youtu.be/9sNf1ZPtPv4 / 神武天皇のお話1 http://youtu.be/aQ1YjnNODYo


  【高千穂宮】たかちほ‐の‐みや
   彦火火出見尊ひこほほでみのみことから神武天皇に至る3代の皇居。
   宮崎県西臼杵郡高千穂町・同県西諸県にしもろかた郡の東霧島山などの諸説がある。   Wiki 神武東征


  【神武天皇】じんむ‐てんのう 名は神日本磐余彦かんやまといわれびこ
   記紀伝承上の天皇。伝承では、高天原たかまがはらから降臨した瓊瓊杵尊ににぎのみことの曾孫。
   彦波瀲武草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことの第4子で、母は玉依姫。
   日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦ながすねびこらを平定して、
   辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮かしはらのみやで即位したという。
   日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵うねびやまのうしとらのすみのみささぎ
   その陵墓とする。

  【畝傍山】うねび‐やま
   橿原市の南西部にある小山。標高199メートル。耳成みみなし山・香具かぐ山と共に大和三山と称する。
   畝傍をめぐって耳成・香具の2山が争う山争い伝説は万葉集に歌われる。畝火山。雲飛山。(歌枕)

  【長髄彦】ながすねびこ
   神話上の人物。神武天皇東征のとき、大和国生駒郡鳥見とみ地方に割拠した土豪。
   孔舎衛坂くさえのさかで天皇に抵抗、饒速日命にぎはやひのみことに討たれた。

  【饒速日命】にぎはやひ‐の‐みこと
   記紀神話で、天孫降臨に先だち天より降り、長髄彦の妹三炊屋姫みかしきやひめを妃としたが、神武天皇東征の時、
   長髄彦を誅して天皇に帰順したという。物部氏の始祖と伝える。


  ≪ 管理人の個人的な妄想 ≫

  昔は百余国、漢代(後漢25~220)には朝見する者がおり、今は使訳(通訳を連れた使節)が通じるのは三十国。

  女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏おそれ憚はばかっている。常に
   伊都国で治め、国の中では刺史の如くある

  その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の
   女性を王として共立した。

  【一大率】いちだいそつ
 コトバンク『日本大百科全書(ニッポニカ)の解説』
   3世紀後半の北九州の伊都(いと)国に置かれた官名。『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)にみえる。一大率の
   官名は、『晋書(しんじょ)』にみえ、中国の剌史(しし)に比定されるが、常駐して女王国(邪馬台国(やまたいこく)
   以北の周辺諸国の検察を行い諸国に畏憚(いたん)されたという。
   女王より京都(魏)・帯方郡(たいほうぐん)・韓(かん)諸国への使者、および帯方郡より倭国への使者を取り調べ、
   その文書・賜物(たまもの)を錯(あやま)りなく女王に伝送する機能も果たした。
   一大率の設置主体が、魏か女王国かいずれであったかについては説が分かれる。


  【刺史】し‐し
   ① 中国の地方官。漢では地方監察官。魏・晋・南北朝・隋・唐では州の施政官。宋以後廃止。
   ② 国守こくしゅの唐名。

  魏志倭人伝というのは、そこそこの長い年月をまとめたもの。後漢時代の内容も交じっている可能性は
  ないのでしょうか? と。

  伊都国の女王の墓から邪馬台国まで約50年あります。
  その間に九州から畿内に遷都したと考えられるなら、九州内での移動も可能。
  日本書紀の天孫降臨が宮崎県高千穂 (北部、西臼杵郡の町)。

  女王国は伊都国より南にあるはずなので、2世紀頃に宮崎に女王国があったと考えてみると。

  中国南部あたりからの渡来人が宮崎に辿り着き、先進技術を持っていたので要職で迎えられ、女王国を乗っ
  取り支配した事で倭国は乱れた。

  渡来系勢力の子孫である神武天皇たちは伊都国を中心とする旧女王国の軍に反撃され、奈良へと逃れた。
  先に奈良へ移動していた饒速日命が長髄彦を倒す。

  女王国の王の血縁である卑弥呼を擁立する事で九州勢力と和睦し、邪馬台国 (纏向遺跡) を建国。

  狗奴国に負けて支配されたが、渡来系 (大和政権) は壱与を立てて側近となって勢力を盛り返した。
  壱与の死後、八咫の鏡を継承し権力を握った。壱与を天照大神とし、崇神天皇 (第10代) が、その子孫を
  名乗る事で正統性を示す為の日本神話も作った。

  【始馭天下之天皇・御肇国天皇】はつくにしらす‐すめらみこと
   はじめて造った国を統治される天皇の意。すなわち神武天皇、また崇神天皇をいう。神武紀「始馭天下之
   天皇」。崇神紀「御肇国天皇」

  もし宮崎県から新たな大きな遺跡が出てきたら、2世紀の伊都国~天孫降臨神話~邪馬台国 (纏向遺跡) が
  繋がるような気がします。

  一大率を置き、常に伊都国で治め ← 宮崎から伊都国へ多くの軍を移動していたので、宮崎 (もしくは、他の
  九州地区) にあった本拠地の国が渡来系 (神武天皇) に奪われた。

  魏が一大率を置いていたとすれば、もっと詳しい倭人伝になっていたと思われますが。

  もしくは、伊都国は女王国の重要な有力国だったので、その女王の親族が治めていたとすれば、古墳が
  作られてもおかしくないでしょう。

  宮崎県の遺跡,古墳リスト,金銀宝飾の出土品一覧 http://www.netpia.jp/history/kofun_miyazaki.htm
 
 日本最古の神社 大神神社 と 纏わる神話
  日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著 / 広辞苑
  朝日放送 ビーバップハイヒール 『関西山岳ミステリー』 13.08.08 放送

   ≪ 大物主神 おおものぬしのおおかみ   Wiki 大物主

  大神神社おおみわ‐じんじゃの祭神の三輪明神は大物主神おおものぬしのかみの事。(日本書紀では大国主命の別名ともされる)
  大物の「物」=「精霊」の意味で、精霊の首領とされ、蛇体の神と言われています。

  三島溝咋みしま-みぞくい (967年に施行された延喜式に摂津国にあった溝咋神社が記されている) という人に、勢夜陀多良
  比売せやだたら-ひめという大変美しい娘がいました。

  その比売を見染めた大物主神は丹塗にぬり矢 (赤土で色をつけた矢)に化して、比売がトイレで用を足している途中にほと
  (女陰部)を突いた。
  びっくりした比売だったが、その矢を持って床の間に置きました。すると、矢は立派な美男子に変わったそうです。
  そして、この二人は結婚し、富登多多良伊須須岐比売ほとたたらいすすぎ-ひめが生まれました。

  古事記では、富登多多良伊須須岐比売の「富登ほと」は、母が「ほと」を突かれた事に由来している名だったので、
  その事を嫌い後に、比売多多良伊須気余理比売命ひめたたらいすけより-ひめ-の-みこと と、改名したそうです。

  日本書紀での名は媛蹈韛五十鈴媛命ひめたたらいすずひめ-の-みことで、「たたら」は母の名から、「五十鈴」は手足に
  小鈴を付けて装ったという意味だそうです。

  【大物主神】おおものぬし‐の‐かみ
   奈良県大神おおみわ神社の祭神。蛇体で人間の女に通じ、また祟り神としても現れる。
   一説に大己貴神おおなむちのかみ(大国主命)と同神。


  ≪ 大物主神の娘は、初代の天皇である神武天皇の妃 ≫

  神武天皇が日向 (宮崎県) に居た時、阿比良比売あひら-ひめを娶り、多芸志美美命
  たぎしみみ-の-みこと岐須美美命きすみみ-の-みこと の二神をもうけていたいたが、
  東征が終わり、橿原宮 (畝傍山の南東にあったとされる) で即位された後、
  新たに皇后とする娘を探した。

  東征のお伴をした大久米命おおくめ-の-みこと比売多多良伊須気余理比売命
  (富登多多良伊須須岐比売)を勧めた。
  皇后となり、日子八井命ひこやい-の-みこと神八井耳命かみやいみみ-の-みこと
  神沼河耳命かみぬなかわみみ-の-みことの三神をもうけた。



  ≪ 大物主神の孫が、第2代の天皇である綏靖天皇 ≫

  神武天皇が崩御すると、多芸志美美命は天皇の位を継ぐため、異母弟の三人を殺そうとしました。
  これを知った皇后の比売多多良伊須気余理比売命は息子たちに歌で伝えると、逆に三人の皇子たちは多芸志美
  美命を殺そうと謀った。

  末弟の神沼河耳命は、兄の神八井耳命に武器を渡し多芸志美美命を殺すように促したが、神八井耳命は手足が
  震えてできなかった。そこで神沼河耳命が武器を取り返し、多芸志美美命を殺しました。
  この事があり、神沼河耳命が第2代の綏靖すいぜい天皇になりました。

  【橿原神宮】かしはら‐じんぐう
   奈良県橿原市、畝傍うねび山の南東の麓ふもとにある1889年(明治22)に創建された元官幣大社。
   記紀伝承の橿原宮の旧址という。祭神は神武天皇と、媛踏鞴五十鈴媛 (比売多多良伊須気余理比売命) 皇后


  ≪ 蛇の神 三輪山神話 ≫

  第7代の孝霊天皇と3人目の夫人との第1子として、夜麻登登母母曾毘売命やまととももそ-ひめ-の-みことという皇女が
  生まれました。日本書紀の倭迹迹日百襲姫命やまとととびももそ-ひめの-みこと と同一と見られています。

  倭迹迹日百襲姫は大物主神に仕える神女となりましたが、やがて妻となります。
  姫が神の姿を見たいと言うと、「櫛筐くしばこの中に入っている」と答えたので、箱を開けてみると奇麗な小蛇がいました。
  姫は驚き、神に恥をかかせたと思い、自ら陰部ほとを箸で突いて亡くなった。その墓が箸墓古墳とも言われています。

  【箸墓古墳】はしはか‐こふん
   奈良県 桜井市 箸中にある最古の前方後円墳の一つ。墳長約280メートル。後円部の直径約160メートル。
   葺石や最古の埴輪があり、3世紀中葉から後半の築造とされる。崇神紀に倭迹迹日百襲姫命の墓とする伝説があり、
   卑弥呼の墓とする説もある。


  ≪ 日本最古の神社 大神神社 ≫  Wiki 大神神社

  高さ32mの大鳥居 (下の画像は別の鳥居) があり、美輪山が丸ごと御神体なので神殿はありません。
  かつては、神官と僧侶以外は立ち入れない『禁足の山』とされ、今日でも入山しての撮影は厳禁となっているそうです。
  酒の神でもあるので酒、蛇の神でもあるので、生卵をお供えするらしいです。






  第10代の崇人天皇の時、疫病が流行し多くの民人が亡くなった。大いに憂いていた時、天皇の夢枕に大物主神が現れた。
  意富多多泥古命おおたたねこ-の-みこと (建御雷命たけみかづち) の子を神主として三輪の大神 (大物主神) を祀ったところ、
  疫病は収まり天下泰平になった。

  また伊迦賀色許男命いかがしこお-の-みこと (物部氏の祖) に命じ、天津神、国津神のそれぞれの社を定め祀ったところ
  天下泰平になった。大物主神が三輪山に鎮座された。ともあります。

  日本書紀では大田田根子おおたたねこ (意富多多泥古命) と記されており、大物主神を祀る大神氏の祖とされています。

  【大神神社】おおみわ‐じんじゃ すぎのみやしろ。三輪明神。
   奈良県 桜井市 三輪にある元官幣大社。祭神は大物主大神おおものぬしのおおかみ
   大己貴神おおなむちのかみ・少彦名神すくなびこなのかみを配祀。
   日本最古の神社で、三輪山が神体。本殿はない。酒の神として尊崇される。二十二社の一つ。
   大和国一の宮。

  【大己貴神 ・ 大穴牟遅神 ・ 大汝神】おおなむち‐の‐かみ
   大国主命おおくにぬしのみことの別名。大名持神おおなもちのかみとも言われます。

  【酒林】さか‐ばやし
   (酒壺を「みわ」といい、酒の神を祭る三輪神社で、杉を神木とする縁によるという)酒屋で、
   杉の葉を束ねて球状にし、軒先にかけて看板とするもの。さかぼうき。さかばた。杉玉。杉林。
酒林 (杉玉)

 
 歴代 天皇表
  日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著

  ≪ 天孫降臨からの記紀神話の神々の系図 ≫   Wiki 神武東征

  邇邇芸命 ににぎのみこと 火遠理命 ほおりのみこと (山幸彦) 鵜葦草葺不合尊 うがやふきあえず‐の‐みこと
  神武天皇初代天皇綏靖すいぜい天皇(2代) 安寧あんねい天皇(3代) 懿徳いとく天皇(4代)
  孝昭こうしょう天皇(5代) 孝安こうあん天皇(6代) 孝霊こうれい天皇(7代) 孝元こうげん天皇(8代)
  開化かいか天皇(9代) 崇神すじん天皇(10代) 垂仁すいにん天皇(11代) 景行けいこう天皇(12代)
  成務せいむ天皇(13代) 仲哀ちゅうあい天皇(14代)  以上、記紀伝承上の天皇広辞苑では) 

  応神おうじん天皇(15代) 仁徳にんとく天皇(16代) 履中りちゅう天皇(17代) 反正はんぜい天皇(18代)  
  允恭いんきょう天皇(19代) 安康あんこう天皇(20代) 雄略ゆうりゃく天皇(21代)
   (略)今上きんじょう天皇当代の天皇、125代)

  ※ 南北朝時代の北朝5代の天皇は、南朝が継承したと考えるので、「第○代」の数に入っていません。

  【始馭天下之天皇・御肇国天皇】はつくにしらす‐すめらみこと
   はじめて造った国を統治される天皇の意。すなわち神武天皇、また崇神天皇 (第10代) をいう。
   神武紀「始馭天下之天皇」。崇神紀「御肇国天皇」

 

  飛鳥京・平城京・平安京などは、伊勢神宮・元伊勢皇神社・熊野本宮大社・
  伊弉諾神社・伊吹山・伊弉諾神宮を結ぶ一辺170㎞の五芒星の結界の中に
  あります。

  出雲大社、元伊勢神社、伊吹山、富士山、玉前神社が一直線上に
  位置しています。



京都御所


  【京都御苑】きょうと‐ぎょえん
   京都市上京区にある公園。京都御所・仙洞御所・京都迎賓館などを囲む。京都御所周辺の公家屋敷などを撤去・
   整備し、1883年(明治16)より宮内省所管。1949年(昭和24)開放され、現在は環境省所管。

  【京都御所】きょうと‐ごしょ 京都皇宮
   京都市上京区にある旧皇居。 後小松天皇(南北朝末期・室町初期の第100代天皇。
   在位1382~1412)以来、明治天皇の東京遷都までの内裏。
   現在の建物は、1790年(寛政2)に江戸幕府老中の松平定信が古式によって造営、炎上後、1855年(安政2)再建。
   東に建春、西に宜秋、南に建礼、北に朔平の4門があり、紫宸殿・清涼殿など古式のまま現存。

  【土御門殿】つちみかど‐どの 
   ① 京都の土御門京極の西にあった藤原道長の邸。京極殿・御堂殿ともいった。しばしば里内裏となった。
   ② 京都の土御門北、東洞院東にあった邸。伏見・花園天皇以後、里内裏となり、北朝の光厳天皇が御所としてから
     長く皇居となった。今の京都御所の地。高倉殿。土御門東洞院殿。

  【里内裏】さと‐だいり 里内さとだい・りだい 。今内裏。
   平安京の内裏の外に、臨時に設けられた皇居。多くは、摂政・関白などの外戚がいせきの家をあてた。


  古代の皇居

 ≪ 高千穂宮≫ たかちほ‐の‐みや     Wiki 高千穂神社
   彦火火出見尊ひこほほでみのみことから神武天皇に至る3代の皇居。
   宮崎県西臼杵郡高千穂町・同県西諸県にしもろかた郡の東霧島山などの諸説がある。

 ≪ 畝傍 橿原宮 ≫ うねび‐の‐かしはら‐の‐みや 橿原宮。      Wiki 橿原神宮
   記紀に神武天皇の皇居と伝える宮。奈良県 畝傍山の南東。
   橿原神宮はその宮址を推定して1890年(明治23年)に創建された。

 ≪ 葛城高丘宮 ≫ かづらきのたかおかのみや
   第2代 綏靖天皇 伝承地は、奈良県 御所市 森脇

 ≪ 掖上 池心宮 ≫ わきがみ-の-いけごころ-の-みや
   第5代 孝昭天皇 伝承地は、奈良県 御所市 池之内。

 ≪ 秋津島宮 /  蜻蛉洲宮 ≫ あきずしま-の-みや
   第6代孝安天皇 奈良県西部、(大阪府に接する御所ごぜ市付近の地名)

 ≪ 廬戸宮 ≫  いおど-の-みや
   第7代 孝霊天皇 伝承地は、奈良県 磯城郡 田原本町 黒田周辺。

 ≪ 軽境原宮 / 軽堺原宮 ≫ かるの-さかいはら-の-みや
   第8代 孝元天皇 伝承地は、奈良県 橿原市 見瀬町 (現在、牟佐坐むさにます神社)

 ≪ 纏向日代宮 ≫ まきむく-の-ひしろ-の-みや 【纏向遺跡】・・・3~4世紀の集落・墳墓遺跡。  Wiki 纏向遺跡
   第12代 景行天皇の皇居。 伝承地は、奈良盆地の南東部の桜井市。


 ≪ 前期 難波宮 ≫ なにわ‐の‐みや   Wiki 難波宮

 【 難波大隅宮 】 なにわ-の-おおすみ-の-みや 
  第15代 応神天皇。 伝承地は、大阪市東淀川区大桐5

 【 難波高津宮 】 なにわ-の-たかつ-の-みや
  第16代 仁徳天皇が難波に都を移した最初の天皇とされている。 伝承地は、大阪市天王寺区餌差町

 【法円坂遺跡】ほうえんざか‐いせき
  大阪市中央区法円坂に、7~8世紀の難波宮跡と重複して存在する5世紀の大型倉庫群の遺跡。
  難波津 (海) と関連する施設と考えられる。

  ※ 後期 難波宮は奈良時代7~8世紀に数人の天皇の皇居などが置かれました。


 ≪ 磐余 稚桜宮 ≫ いわれ‐の‐わかざくら‐の‐みや
   第17代 履中天皇の皇居。 伝承地は奈良県桜井市池之内 の辺。

 ≪ 弟国宮 ≫ おとくに‐の‐みや
   第26代 継体天皇が越前から大和に入るまでの仮の皇居の一つ。 
   所在は、山城国 乙訓おとくに郡。一説に今の京都府長岡京市今里 の辺。
   継体天皇は皇居を何度も転居しているようです。

 ≪ 磐余 玉穂宮 ≫ いわれ‐の‐たまほ‐の‐みや
   第26代 継体天皇の皇居。山城の弟国宮から都をここに遷したという。 伝承地は、奈良県桜井市池之内 の辺。

 ≪ 百済大井宮 ≫ くだら‐の‐おおい‐の‐みや
   第30代 敏達天皇の初めの皇居。
   伝承地には奈良県北葛城郡広陵町百済・大阪府河内長野市太井などの説がある。

 ≪ 磐余 池辺双槻宮 ≫ いわれ-の-いけのべ-の-なみつき-の-みや
   第33代 用明天皇の皇居 奈良県桜井市南西部、香具山東麓一帯の古地名。
   神武天皇伝説では、八十梟帥やそたける征討軍の集結地。

 ≪ 倉梯 柴垣宮≫ くらはし-の-しばがき-の-みや
   第33代 崇峻天皇の皇居。奈良県。


   ※ いくつもの皇居を移転したり、持っていたりする古代の天皇は何人もいますので、くわしくは下のリンクサイトでご覧ください。

  おすすめサイト 陵墓探訪記 http://ryobo.fromnara.com/index.html ←  陵墓およびその史跡の画像など多数あります。
 
 古墳時代 3世紀後半~6世紀頃 
  関西テレビ スーパーアンカー 『あんたがアンカー 静かなブーム古墳グッズ』 13.08.23 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『大和王権と古墳文化』 14.05.09 放送
  NHK・福岡 Eテレ ETV特集 『発見 ! 謎の金銅製馬具 ~古代日本と朝鮮半島の交流史~』 14.05.10 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ゜近畿縦断500㎞の旅㉒ 大阪府松原市 屯倉神社へ」』 14.10.02 放送

  ≪ 古墳時代 ≫

  【古墳時代】 弥生時代の次、3~7世紀 
   北海道・沖縄を除く日本列島で壮大な古墳の多く造られた時代。
   ただし、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。
   古墳は豪族ら有力者が盛んに造営した高く土盛りした古代の墳墓。その形状により円墳・方墳・前方後円墳・前方
   後方墳・上円下方墳などがある。畿内を中心として文化が発達した時期で、大和政権の成立・発展と密接な関係がある。





  名字の始まり 姓かばね とは? 古代の姓の種類 と 飛鳥時代の八色姓

  文化庁HP 『「発掘された日本列島2014」展開催のお知らせ』 http://www.bunka.go.jp/oshirase_event/2014/hakkutsu_2014.html
  日刊SPA 最初で最後!キトラ古墳一般公開に突撃リポート 13.09.16 http://nikkan-spa.jp/503690 (← 他、古墳関連記事あり)

  【前方後円墳】ぜんぽう‐こうえん‐ふん
   日本の古墳の一形式。平面が円形と長方形ないし台形とを連結した形の墳丘で、江戸後期の蒲生がもう君平(下野
   宇都宮に生まれ、1768~1813寛政の三奇人の一人)が著の「山陵志」に始まる名称。
   中心的な埋葬施設は後円部に営まれるが、前方部に埋葬が行われる例も少なくない。
   大仙陵古墳(仁徳天皇陵)・誉田御廟山こんだごびょうやま古墳(応神天皇陵)など日本列島の巨大な古墳はほとんど
   この形をとる。朝鮮半島南部にもある。俗称、車塚・ひさご塚・銚子塚・茶臼山など。





  【箸墓古墳】はしはか‐こふん
   奈良県桜井市箸中にある最古の前方後円墳の一つ。墳長約280メートル。後円部の直径約160メートル。葺石や
   最古の埴輪があり、3世紀中葉から後半の築造とされる。
   崇神紀に倭迹迹日百襲姫命やまとととびももそひめのみことの墓とする伝説があり、卑弥呼の墓とする説もある。

  魏志倭人伝 「卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
   「卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。

  【キトラ古墳】きとら‐こふん
   奈良県高市郡明日香村阿部山にある7世紀末ないし8世紀初頭の壁画古墳。二段式の円墳で下部の直径は14
   メートル。横口式石槨せっかく内に極彩色で日・月・天文図・四神図および人身獣頭の十二支像が描かれている。

  堺市HP 『古墳大きさランキング(日本全国版)』 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/dkofun/ranking/zenkoku.html


  ≪古墳ブーム?≫   関西テレビ スーパーアンカー 『あんたがアンカー 静かなブーム古墳グッズ』 13.08.23 放送

  奈良明日香村のキトラ古墳では、整備のため埋め戻されるのを前に、最初で最後となる石室の一般公開が8月
  18~25日に行われました。3600人の枠に、約1万6000人からの応募が寄せられたそうです。

  Wiki 金山古墳 / 大阪府立 近つ飛鳥博物館(大阪府 河南町)

  古墳にも年代により微妙に形が変わっていき、流行があったのではないか?とも言われています。
  大阪府立 近つ飛鳥博物館・森本学芸課長のオススメは、6世紀末頃に作られた双円墳(大阪府河南町の金山
  古墳)で、全国的に珍しい古墳。

  学生時代に考古学を学び古墳が好きで「横穴式 石室誕生」という本を出版した主婦(現在、近つ飛鳥博物館の
  学芸委員)の小栗梓さんは西宮古墳(奈良県生駒郡平群町)がオススメだそうです。

  宮内庁管轄以外の古墳は自由に入れる所も多く、古墳内に入って石棺を見る事が出来るそうです。






  考古学を学びデザイナーを目指した金田あおいさんは、デザインした古墳型のピアスや鍋つかみ、クッションを
  紹介しました。奈良県にある「玉手箱フルコト」で販売されているようです。

  古墳クッション4900円は口コミで広がり、月に20~30基の注文が入るという。クッションは現在1か月待ち。
  古墳クッションの製造は宇宙椅子の福徳有男さんの手づくり。

  ≪ 大阪 百舌鳥・古市古墳群 ≫

  日本全国に現存する古墳の数は16万基以上ありますが、その数と全長200m以上の巨大古墳の数は大阪・奈良を
  中心に多数存在しています。
  日本最大(世界最大)の墓は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)で、二番目に大きいのは誉田御廟山古墳(応神天皇陵)で
  どちらも大阪南部にあります。歴代の天皇陵は奈良・大阪・京都に集中しており、それ以外にあるのは数えられるほど
  珍しい。

  古墳を破壊して、その上に建物を建てるなどの行為は古墳時代からあるそうで、「古墳を破壊するのは別民族が
  やってきた証拠ではないか?」という説を書いてある本もありますが、戦国時代などの石垣などには墓石や灯篭石が
  使われるのは普通の事ですし、明治以降、墓地の上に学校や駅・病院が建てられているのも珍しくありません。





 産経新聞 WEST 19.05.14 配信 https://www.sankei.com/west/news/190514/wst1905140014-n1.html

  ≪「百舌鳥・古市古墳群」世界遺産へ 全49基、ユネスコに登録勧告 ≫

  政府は14日未明、国連教育科学文化機関(ユネスコ)諮問機関のイコモスが、世界文化遺産に「百舌鳥(もず)・
  古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)を登録するよう勧告したと明らかにした。
  6月30日から7月10日にアゼルバイジャンの首都、バクーで開かれるユネスコ世界遺産委員会の審査で、登録
  可否が決定される。登録勧告は尊重されるのが通例で、登録はほぼ確実となった。陵墓が世界遺産になるのは
  初めて。 
  登録が正式に決まれば、国内の世界文化遺産は昨年の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県、
  熊本県)に続き19件、自然遺産を含めた世界遺産は計23件となる。大阪府では初めて。
  百舌鳥・古市古墳群は、百舌鳥エリア(堺市)と古市エリア(羽曳野市、藤井寺市)の計49基で構成。
  古墳時代最盛期の4世紀後半から5世紀後半、大陸と行き来する航路の発着点だった大阪湾を望む場所に築造され、
  航路からの眺望を意識したとみられる。
  両エリアには墳丘の長さが486メートルもある国内最大の仁徳天皇陵古墳をはじめ、大規模な前方後円墳が集中。
  巨大古墳の周りを中小古墳が取り囲み、被葬者の権力や身分の階層を示している。
  帆立て貝形や方形など幾何学的にデザインされており、築造技術の高さを示す。多様な規模と形状を持つ墳墓群は
  世界でもまれで、墳墓によって権勢を誇示した歴史を物語る。


  ≪長山古墳、百舌鳥古墳群で最古?≫  朝日新聞 13.07.31 朝刊 より

 堺市堺区の百舌鳥古墳群にある前方後円墳、長山古墳で、斜面を覆う葺き石や多数の
  埴輪片などが見つかった。堺市が30日発表した。
  出土品から、築造の時期は、同古墳群で最古とされる乳岡古墳(国史跡)と同じ4世紀
  後半と判明。
  古市古墳群とともにユネスコの世界文化遺産登録を目指す古墳群の成立過程を知る
  貴重な資料という。

  市によると、長山古墳は江戸時代の水田開発や昭和初期の区画整理事業などで墳丘の
  大部分が削られたが、江戸時代の絵図などから墳長100㍍級と推定されている。

  市営住宅の建て替え工事に伴う発掘で、東側の前方部すそ部分から墳丘の輪郭に沿って
  並べられたとみられる基底石(最大で長辺約60㌢)と敷き詰められた大小様々な葺き石が
  幅約1.4㍍、長さ約16㍍にわたって出土。
  円筒や蓋 きぬがさ 形、家形、盾形などの埴輪片、副葬品とみられる石製腕輪や車輪石 (腕飾り)
   の破片も見つかった。

  百舌鳥古墳群は古い古墳ほど海岸に近い場所に造られ、次第に内陸部に広がったとされる。
  高橋克寿・花園大学教授 (考古学) は「4世紀後半、水上交通の要所を押さえたとみられる
  勢力の巨大古墳が各地の海岸沿いに造られた。大阪平野でもその時期に長山や乳岡が
  築かれたのだろう」とみる。


  古市古墳群 Vol.1 古市古墳群とは何か? (藤井寺市 文化財保護課 製作) http://youtu.be/D5rD6SWWvpI  Wiki 金山古墳

  【古墳時代】 弥生時代の次、3~7世紀 
   北海道・沖縄を除く日本列島で壮大な古墳の多く造られた時代。ただし、土盛りした墓は弥生時代に始まり、
   古墳時代以降も存続。畿内を中心として文化が発達した時期で、大和政権の成立・発展と密接な関係がある。

  【百舌鳥古墳群】 もず‐こふんぐん
   大阪府堺市にある大古墳群。
   墳長480メートル余で、日本最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を含む前方後円墳二十数基を
   はじめとする100基以上の古墳から成る。

  【大仙陵古墳】だいせんりょう‐こふん
   大阪府堺市にある5世紀前半の前方後円墳。墳長約486メートルで日本最大。仁徳天皇陵
   に比定。大山古墳・百舌鳥耳原中陵もずのみみはらのなかのみささぎともいう。

  【古市古墳群】 ふるいち‐こふんぐん
   大阪府羽曳野市と藤井寺市にまたがる大古墳群。
   墳長約420メートルの誉田御廟山こんだごびょうやま古墳(応神天皇陵)などの前方後円墳の
   ほか、円墳や方墳など約100基から成る。

 
2013年 奈良国立博物館で開催していた
正倉院展限定の「ミニ古墳ケーキ」

  【誉田御廟山古墳】こんだごびょうやま‐こふん
   大阪府羽曳野市にある5世紀の前方後円墳。墳長約420メートルで、日本で2番目の大きさをもつ。
   応神天皇陵に比定されている。誉田山古墳。


  【黒姫山古墳】くろひめやま‐こふん

  堺市(旧 三原町、堺市に吸収合併)にある黒姫山古墳は5世紀頃に作られた全長114mの前方後円墳で、昭和22年に
  発掘調査が行われた時、国内最多となる24領の鎧や兜が発見されました。






  これだけ重要な古墳であるにも関わらず、百舌鳥古墳群と古市古墳群のほぼ中央に位置するためか、世界遺産
  登録をめざす対象から外されているそうです。(2014年10月現在)

  (羽曳野市観光課との別件での会話の中に、ちょっと聞いただけで詳しく調べてもらったわけではありませんが) 
  羽曳野市の古墳でも国の基準 (世界遺産を目指す戦略?) によって、作られた年代など、何らかの理由で候補から
  外される古墳がいくつかあったそうです。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「学問の神様めぐり 桜満開の姫路城を目指せ! 3 大阪高槻市~箕面市」』 15.03.05 放送
  関西テレビ ゆうがたLIVEワンダー 『神崎デスクのニュース なんでや? 「天皇のお墓の謎」』 15.07.31 放送

  ≪ 大仙陵古墳は仁徳天皇陵ではない? 継体天皇陵も別の場所に ≫

  考古学という考え方が始まったのは江戸時代。本居宣長が研究翻訳するまで、古事記はほとんど知られていない
  存在でした。
  荒れ放題だった古墳を見直すようになったのも江戸時代で、当時、不確定な情報も含む古文書を基に天皇陵を選定。

  明治以降、天皇陵関係の古墳は宮内省 (または宮内庁) が管理することになり、立ち入りが禁止され、学術調査が
  不可能になりました。






  大阪市立大学 日本考古学の岸本直文 准教授によると、
  5世頃に在位した天皇陵 (第15代 応神天皇~第25代 武烈天皇) の11基のうち、9基が別人か、古墳ではないと
  考えられるそうです。

  【継体天皇】けいたい‐てんのう 名は男大迹おおど。 彦主人王ひこうしのおおきみの第1王子。
   第15代 応神天皇の5代の孫という。 記紀に記された6世紀前半の第26代の天皇。

  高槻市の今城塚古墳 2003年、日本最大規模の埴輪群が発掘されました。継体天皇陵説が有力。
  埼玉のさきたま古墳群代 埼玉県 吉見の百穴古墳

  文化庁HP 『「発掘された日本列島2014」展開催のお知らせ』 http://www.bunka.go.jp/oshirase_event/2014/hakkutsu_2014.html
 
 倭の五王
  石井正敏 中央大学教授 『5世紀の日韓関係-倭の五王と高句麗・百済-』 http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-03-ishii_j.pdf
  によると、

  1978年に埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘文の解読から、倭の五王のうち『武=雄略天皇』という事がほぼ
  確実になったそうです。

  【倭の五王】
   中国の文献 487年成立の『宋書倭国伝』に見える、5世紀に南朝の宋に朝貢した5人の倭国王。
   讃(賛)・珍(弥)・済・興・武で、仁徳反正允恭安康雄略天皇に比定されるが、讃を応神または履中、
   珍を仁徳にあてる説もある。






  【応神天皇】おうじん-てんのう 名は誉田別ほむたわけ。第15代天皇。  第14代の仲哀天皇の第4皇子。
   記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。
   倭の五王のうち「讃」にあてる説がある。

  【仁徳天皇】にんとく-てんのう 名は大鷦鷯おおさざき。第16代天皇。  応神天皇の第4皇子。
   記紀に記された5世紀前半の天皇。難波に都を移した最初の天皇。租税を3年間免除したなどの聖帝伝承がある。
   倭の五王のうちの「讃」または「珍」とする説がある。

  【履中天皇】りちゅう-てんのう 名は大兄去来穂別おおえのいざほわけ。第17代天皇。  第16代天皇の仁徳天皇の第1皇子。
   記紀に記された5世紀中頃の天皇。

  【反正天皇】はんぜい-てんのう 名は多遅比瑞歯別たじひのみずはわけ。第18代天皇  第16代天皇の仁徳天皇の第3皇子。
   記紀に記された5世紀中頃の天皇。倭の五王のうちの「珍」される。

  【允恭天皇】いんぎょう‐てんのう 名は雄朝津間稚子宿祢おあさずまわくごのすくね。第19代天皇。  第16代天皇の仁徳天皇
   第4皇子。記紀に記された5世紀中頃の天皇。盟神探湯くかたちで姓氏の混乱を正したという。倭の五王のうち「済」に
   比定される。

  【安康天皇】あんこう‐てんのう 名は穴穂あなほ。第20代天皇。  第19代の允恭天皇の皇子。
   記紀に記された5世紀中頃の天皇。大草香皇子の王子 眉輪まよわ王に暗殺された。倭の五王のうち「興」に比定される。

  【雄略天皇】ゆうりゃく‐てんのう 名は大泊瀬幼武おおはつせわかたける。  第19代の允恭天皇の第5皇子。
   記紀に記された5世紀後半の第21代の天皇。対立する皇位継承候補を一掃して即位。
   478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「わかたける
   大王」に比定される。

  【日本書紀】にほん‐しょき 日本紀。30巻。
   六国史りっこくしの一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。
   神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。
   720年(養老4)舎人とねり 親王らの撰。

  堺市HP 『古墳大きさランキング(日本全国版)』 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/dkofun/ranking/zenkoku.html


  ≪ 宋書 倭国伝 487年 ≫

  倭國在高驪東南大海中、世修貢職。  高祖永初二年、詔曰:「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」
   太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。  讚死、弟珍立、遣使貢獻。
   
自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。
   珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。

   倭国は高句麗の東南の大海中に在り、代々貢職を修める。  高祖の永初二年(421年)、詔に曰く「倭の讃、万里を
   越えて貢献を修める、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべきなり」。
   太祖の元嘉二年(425年)、がまた司馬の曹達を遣わし、奉表して方物を貢献した。
   讃が死に、弟のが立つと、遣使を以て貢献した。
   使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する。
   上表して正式な除爵を求め、詔を以て安東将軍、倭国王に叙爵した。珍はまた倭隋ら十三人に平西、征虜、冠軍、
   輔国将軍号の正式な除爵を求め、詔を以てすべて聞き届けた。

   この宋書の続きでも、「」「」「」と天皇が変わるたび宋に使者を送り、倭国王である事を認めさせています。

   「使持節」や「安将軍」などの意味は ヤフー知恵袋で解説されています。この下↓にリンクあり。

  順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、
   西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、
   驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。
   雖曰進路、或通或不。

   順帝昇明二年(478)、遣使が上表して曰く「封国は残念ながら遠く、藩を外に作り、昔より祖先は自ら甲冑を着け、
   山川を跋渉し、安らかに暮らす暇なし。東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、
   (海を)渡り海北を平定すること九十五国。王道は安泰に調和し、国土を拡げ、京畿を遠く離れる。
   累代に亘って朝廷を尊び、歳を誤らず。臣は下愚といえども、忝くも後裔を先に残し、統べる所を率いて駆け、
   崇め帰すこと天を極め、道を百済に直行し、船舶を装備する。
   然るに高句麗は非道にも併呑を欲して謀り、辺境を略奪し隷属させ、(南朝宋の)劉氏を尊重して已まず、(そのために)
   いつも延滞させられ、(航行の)良風を失する。道を進むといえども、あるいは通じ、あるいは不通。

  臣亡考濟實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣
   居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。
   若以帝德覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節。」
   詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。

   臣の亡き済は、仇敵が天路を塞ぐことを実に憤り、百万の弦を鳴らして訴え、正義の声に感激し、まさに大挙せんと欲するも、
   突然に父兄が亡くなり、垂成の功をして一簣(モッコ一杯分)も獲れず。諒闇(一年の服喪)に在り、軍装の兵を動かさず、
   ここに休息するを以て未だ戦勝を得られず。
   今に至り、甲を練り、兵を治め、父兄の志を述べんと欲し、義士と勇士、文武に功を尽くし、白刃を前に交えるも、
   また顧みることなし。もし帝德の覆戴を以てこの強敵を挫き、勝って方難を鎮めるも、前功に替えることなし。
   密かに開府儀同三司を自ら仮称し、その余も皆、各々に仮授(して頂ければ)、以て忠節を勧める」。  
   詔を以てを使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。

  和訳してあっても難しいので、要約してみました。↓(私的解釈につき、正確ではないので大体こんな感じ程度に理解してください

   日本各地と朝鮮半島の諸国を平定してきました。代々に渡って宋の朝廷を尊び、支配地から兵を率いて駆けつける事ができます。
   百済にも駆けつける為の船を用意してあります。しかし、高句麗は宋の朝廷を尊ばず、近隣諸国を略奪し隷属させています。

   その為に順調に宋に来ることができない。亡くなった済(允恭天皇)は高句麗が行く手を阻むので憤り大軍を率いて
   攻めようとしたが、突然に父兄が亡くなったので派兵でなかった。
   しかし、今は順帝の力を借りれれば(雄略天皇を慕韓六国諸軍事、安東大将軍などに任命してくれれば)高句麗を倒し、
   以後も忠節に努めます。

  大和政権は宋の属国ではあったが、421年~、日本列島と朝鮮半島南部などの多くの国を支配下に治めていたという事が分かります。
  ただ、中国と高句麗の勢力や拡大など、倭国も含め覇権を争っていた時代なので、時期によって変わる流動的な要素が多いようです。


  ≪ 使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍とは ≫

  ヤフー知恵袋 「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍」 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q

  使持節は、将軍が皇帝から節刀を預かり、一定の権限を委譲される時に、その権限の大小に応じて使持節、持節、仮節
   という差をつけたもののうちの最上位です。

   都督は、元々は軍の司令官という意味です。(南朝宋では単なる称号になっていたようですが、この場合は、元の意味と
   考えてよいと思います。)ですから、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓という地域の軍の司令官という意味ですね。

   安東大将軍の「安東」は、南朝宋の、将軍と付く称号の内、大将軍→驃騎将軍→車騎将軍→衛将軍の、更にその下の四征
   (征北、征東、征西、征南)、四鎮、四安のうち、序列が最下位の称号です。

  知恵袋の回答では、まだ続きはありますが、結論としては、宋から与えられる称号は適当なので、高句麗や百済との優劣はない
  そうです。

  石井正敏 中央大学教授 『5世紀の日韓関係-倭の五王と高句麗・百済-』 http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-03-ishii_j.pdf 
   ↑さらに詳しいサイト

  【宋】そう 南宋、劉宋 (420~479
   中国、南朝の一国。東晋の将軍劉裕(武帝)かせ建てた。都は建康(南京)。8世の順帝が斉王蕭道成に帝位を譲った。
   斉王蕭道成が南斉を建国。

  【南朝】なんちょう
   中国で南北朝時代、華南に拠った諸王朝。
   420~589年にわたり、漢族の建てた宋・斉(南斉479~502)・梁(502~557)・陳の4朝をいう。
   呉(222~280)および東晋(265~420)の2朝を合して六朝りくちょうともいう。

  【北朝】ほくちょう
   中国で南北朝時代、華北に拠った諸王朝。
   北魏(386~534で東魏と西魏に分裂)・東魏(534~550)・西魏(534~556)・北斉(550~577)・北周(557~581)・
   隋(581~619)と伝え、隋が南朝の陳を滅ぼして南北を統一。
 
 熊本県 江田船山古墳 と 謎の地下遺跡 トンカラリン
  読売テレビ かんさい情ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「卑弥呼も関与か? 日本最大級 謎の巨大地下遺跡の正体は?」』 13.08.21 放送

  ≪ 江田船山古墳 ≫  Wiki 江田船山古墳

  熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳からは200を超える国宝が出土し、和水町歴史資料館で模造品が展示
  されています。
   埼玉稲荷山古墳と同じく、第21代の雄略天皇と推定される文字が入った剣が出土しており、5世紀後半の古墳と
  推定されています。この古墳の近くに「トンカラリン」という謎の地下遺跡があります。






  【江田船山古墳】えたふなやま‐こふん
   熊本県玉名郡和水町なごみまち江田にある5世紀後半の前方後円墳。
   1873年(明治6)出土した鉄刀の75文字の銀象嵌ぎんぞうがん銘に雄略天皇と推定できる人名(わかたける大王)が
   ある。

  【埼玉稲荷山古墳】さきたま‐いなりやま‐こふん
   埼玉県行田市の埼玉古墳群中の前方後円墳。
   雄略天皇と推定される人名(わかたける 大王)を含む115文字から成る金象嵌による銘文のある鉄剣が出土。

  【雄略天皇】ゆうりゃく‐てんのう
   記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。名は大泊瀬幼武おおはつせわかたける
   対立する皇位継承候補を一掃して即位。
   478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「わか
   たける大王」に比定される。


  ≪ 弥生時代後期の変形頭蓋骨 ≫

  この江田船山古墳の周辺からは、弥生時代後期の40~50代女性の顎が異様に突き出た変形頭蓋骨が出土。
  幼少の頃から額に板を当てて顔を変形させ、卑弥呼のようなシャーマンを育てと考えられており、それだけ安定
  した権力社会が、この地にあったと推測されています。





  【弥生時代】
   縄文時代の後、古墳時代の前の時代。その開始の指標を弥生土器の出現とする考え方と、稲作の開始とする
   考え方とがある。
   紀元前8~7世紀前後から後2~3世紀頃まで。大陸文化の影響を受けて水稲耕作や金属器の使用が始まり、
   銅剣・銅矛・銅鐸どうたくなどの青銅器と共に鉄器も用いられる。普通、前・中・後の3期ないしⅠ~Ⅴの5期に
   分ける。

  【シャーマン】 shaman
   自らをトランス状態(忘我・恍惚)に導き、神・精霊・死者の霊などと直接に交渉し、その力を借りて託宣・予言・
   治病などを行う宗教的職能者。シベリアのツングース系諸族の例が早くから注目された。

  【巫・覡】かんなぎ(古くはカムナキ。神なぎの意)
   神に仕え、神楽を奏して神慮をなだめ、また、神意を伺い、神おろしを行いなどする人。
   男を「おかんなぎ(覡)」、女を「めかんなぎ(巫)」という。かみなぎ。こうなぎ。
   鎌倉時代の1254年成立の説話集 古今著聞集 「かんなぎに御託宣ありて」

  【巫覡】ふげき (ブゲキとも)
   神と人との感応を媒介する者。神に仕えて人の吉凶を予言する者。女を巫、男を覡という。
   1368~1379年の太平記「巫覡祈れども験しるし無し」

  【巫女・神子】みこ
   神に仕えて神楽・祈祷を行い、または神意をうかがって神託を告げる者。未婚の少女が多い。かんなぎ。


  ≪ 謎のトンカラリン ≫  Wiki トンカラリン

  石組の狭い通路は最も狭い出口付近の場所で70㎝四方の穴で傾斜が出口に向って上方へ10度ほどある。
  地割れの部分も一人が通れるほどの狭さしかなく、これらが普通の道と組み合わさって、全長約450mの距離が
  あります。
  「トンカラリン」は、穴に石を投げ込むと「とんからりん」と音が聞こえた事から。朝鮮語に由来しているのでは?
  など諸説あるそうです。





  この遺跡は田んぼだった所を発掘調査している時に偶然発見されたもので、トンカラリンの研究は1974年から
  始まりました。作家の松本清張(1909~1992)もここを訪れ調査。
  「邪馬台国の卑弥呼が祭祀に利用した鬼道きどう (シャーマン使う幻術、妖術などの事) に まつわるものではないか?」
  と記しています。






  ①水路説 ②抜け道説 ③宗教遺跡説などがありますが、①と②は考えにくい。作られた年代も不明ですが、16世紀の
  灯火具が発見されている事から、それ以前に作られたものと推測されています。
  20年以上トンカラリンを研究している 和水町教育委員会の益永浩仁さんによると、「胎内潜りの再生儀礼の一つとして
  利用されたのでは?」

  【胎内潜り】たいない‐くぐり
   ① やっと潜れるほどの洞穴。名勝や霊地に多い。  ② 大仏などの胎内に潜り入ること。






  ※ 個人的な感想ですが、石組の形に注目。入口T階段付近と石組通路の石の積み方が違うような気がします。
    城の石垣に詳しい人が調査すれば、それぞれ作られた年代がはっきりするのではないでしょうか?
    日本の石工技術からすると、弥生時代には無理な石組。
    (古代にそういう技術を持った民族が渡来していたという事は否定できませんが)

  詳しいサイト 吉崎真美 卑弥呼を踊る 邪馬台国大研究HP 『トンカラリン』  http://inoues.net/ruins/tonkararin.html
 
 東征伐、熊襲征伐と三韓征伐
  ≪ 熊襲と東国征伐 ≫  Wiki 景行天皇   Wiki ヤマトタケル

  【景行天皇】けいこう-てんのう 名は大足彦忍代別おおたらしひこおしろわけ  第11代の垂仁天皇の第3皇子。
   記紀伝説上の第12代の天皇。熊襲を親征、後に皇子 日本武尊を派遣して、東国の蝦夷を平定させたと伝える。

  【熊襲】くまそ  
   記紀伝説に見える九州南部の地名、またそこに居住した種族。肥後(熊本県)の球磨くまと大隅(鹿児島県)の贈於そおか
   日本武尊の征討伝説で著名。 景行紀(日本書紀の景行天皇時代)「熊襲反そむきて朝貢みつきたてまつらず

  【日本武尊・倭建命】やまとたける‐の‐みこと 本名は小碓命おうすのみこと。 別名、日本童男やまとおぐな。 景行天皇の皇子
   古代伝説上の英雄。天皇の命を奉じて熊襲くまそを討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣くさなぎのつるぎによって
   野火の難を払い、走水はしりみずの海では妃弟橘媛おとたちばなひめの犠牲によって海上の難を免れた。
   帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野のぼので没したという。

  宮崎県 ひむか神話街道 『50の物語集 伝説編 「第三十八話 こぼれ話 景行天皇のクマソ征伐」』  ← 景行天皇の熊襲討伐の話はこちらのサイトで
   http://www.kanko-miyazaki.jp/kaido/50story/densetsu/038/


  日本神話・神社まとめ 『景行天皇(二十九)蝦夷の性質、日本武尊は神人』 http://nihonsinwa.com/page/1143.html

  ≪ 大和政権から見た蝦夷 ≫

  奈良時代の720年に編纂された日本最古の勅撰の正史である『日本書紀』の景行天皇記二十九条によると、

 於是日本武尊、雄誥之曰「熊襲既平、未經幾年、今更東夷叛之。何日逮于大平矣。臣雖勞之、頓平其亂。」
  則天皇持斧鉞、以授日本武尊曰

  「朕聞、其東夷也、識性暴强、凌犯爲宗、村之無長、邑之勿首、各貪封堺、並相盜略。亦山有邪神、郊有姦鬼、
  遮衢塞俓、多令苦人。其東夷之中、蝦夷是尤强焉、男女交居、父子無別、冬則宿穴、夏則住樔、衣毛飲血、
  昆弟相疑、登山如飛禽、行草如走獸。承恩則忘、見怨必報、是以、箭藏頭髻、刀佩衣中。
  或聚黨類、而犯邊堺、或伺農桑、以略人民。擊則隱草、追則入山、故往古以來、未染王化。

  今朕察汝人也、身體長大、容姿端正、力能扛鼎、猛如雷電、所向無前、所攻必勝。卽知之、形則我子、實則神人。
  寔是、天愍朕不叡・且國不平、令經綸天業、不絶宗廟乎。亦是天下則汝天下也、是位則汝位也。願深謀遠慮、
  探姦伺變、示之以威、懷之以德、不煩兵甲、自令臣隸。卽巧言而調暴神、振武以攘姦鬼。」

 それで日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は雄叫びして言いました。
  「熊襲はすでに平定し、まだ幾ばくかの年も経っていないというのに、今また東の夷(ヒナ=異民族)が叛ました。いつの日にか
  平定いたしましょう。臣(ヤツカレ=部下である自分のこと)は(異民族を平定するのは)苦労といっても、ひたすらにその乱れを
  平定しましょう」

  それで天皇はすぐに斧(オノ)・鉞(マサカリ)を持ち、日本武尊に授けて言いました。

  「わたしが聞くところによると、その東の夷(ヒナ)は識性(タマシイ=心の性質)が荒々しく強い。殺人レイプは日常のこと。
  それぞれの封堺(サカイ=境界)を貪り合い、略奪しあう。村(フレ)には長がいない、邑(ムラ)には首(オビト)がいない。
  また、山に悪い神がいる。

  郊(ノラ=野)には姦しい鬼がいて、交叉路で遮って道を塞ぐ。たくさんの人が苦しんでいる。その東の夷(ヒナ)の中に
  蝦夷はとくに強い。男女は一緒に住み、父と子に別が無い。冬は穴に寝て、夏は巣に住む。
  毛皮を着て、血を飲み、兄弟で疑いあう。山に登ると飛ぶ鳥のよう。

  草原を行くと走る獣のよう。恩恵を受けても忘れてしまう。恨みは必ず復讐する。矢を頭髻(タキフサ=髪を束ねたもの)の
  中に隠し、刀を衣の中に帯刀する。あるときは党類(トモガラ)を集めて、辺境を犯す。
  あるときは農作業中をうかがって人民から略奪する。弓を射つと草に隠れる。追いかけると山に入る。
  古(イニシエ)から現在まで、王化(オモブケ)に従ったことがない(王や氏族の配下になったことが無い)。

  今、わたしがお前を見ると、その人となりは、身長は高く大きく、容姿は端正。力が強くて鼎(カナエ=鉄の鍋の一種で
  重いものの代表)を持ち上げることもできる。勇猛さは雷電(イナツルビ)のよう。向かうところに敵無し。攻めれば必ず勝つ。
  だから分かった。

  形は我が子ではあるが、その実は神人なのだ。まことに天が、わたしが未熟で、国が乱れているのを悲しんで、天業
  (アマツヒツギ=天子の仕事、天皇の業務)を正しく成し、宗廟(クニイエ=天皇の家系)が絶えないようにとのことだろう。

  この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。願わくは深謀遠慮し、悪い心を探り、叛く意思をうかがって、
  時には武力を示して、懐(ナツ)くものには徳をもって対処し、兵甲(ツワモノ=武力=武器)を使わずとも自然と従わせる
  ようにしろ。言葉を巧みに扱い、荒々しい神を鎮め、武を振るって悪い鬼を追い払え」

   ※ この記述には様々な見方があるでしょうが、内容の記述が事実かどうか別として、蝦夷 (この頃は関東一帯も含むようです) に対して
     かなりの侮蔑感を持っていたと伺えます。↓の内容などと考え合わせると、ある程度正しいとも思えます。事実は分かりませんけど…。

  日本人の名字のルーツ 東北に「安陪」さんが多い理由は?


  ≪ 三韓征伐 ≫   Wiki 三韓征伐  Wiki 仲哀天皇  Wiki 神功皇后  大阪泉州『和泉』の由来   神戸市東灘区の『御影』も神功皇后に由来

  三韓征伐と言われていますが、百済は倭国に従い、高句麗には押し返されたようなので、新羅征伐とみるのが正しいようです。

  【仲哀天皇】ちゅうあい‐てんのう 名は足仲彦たらしなかつひこ。 日本武尊の第2王子
   記紀伝承上の第14代の天皇。皇后は神功皇后。熊襲征討の途中、筑前国の香椎かしい宮で没したという。

  【神功皇后】じんぐう‐こうごう 名は息長足媛おきながたらしひめ。  第9代の開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女むすめ
   仲哀天皇の皇后。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子
   (応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による)

  【香椎宮】かしい-ぐう
   福岡県香椎にある元官幣大社。仲哀天皇・神功皇后を祀る。記紀伝承の橿日かしい宮 (伝承地は福岡市東区香椎)の
   旧址に当るという。香椎廟。


  ≪ 百済から贈られた七支刀 しちし-とう

  奈良県天理市にある石上神宮 (二十二社の一つ) の物部氏の武器庫に収蔵されている国宝『七支刀』。全長74.8㎝。
  369年? という年紀に始まる計61文字が金で象眼され、朝鮮半島の百済が倭に贈ったものとされます。

  両刃の剣の左右に計6本の枝刃が互い違いにつけられており、中央先端と合わせ7本の刃になり、日本書紀に記述がある
  七枝刀ななつさやのたちに当るとされています。

  【広開土王】こうかいど‐おう 永楽太王。好太王。(374~412)
   高句麗 第19代の王(在位391~412)。名は談徳。南北に領土を広め、また仏教を篤信、高句麗の最盛期を築く。
   その旧都(鴨緑江西岸の輯安、今の中国吉林省集安市)にある同王の事跡を記した碑(広開土王碑・好太王碑)は414年
   建立。高さ6.39メートル。四面に漢隷体の漢文1700字余を刻す。その頃の新羅や倭との交渉も記し貴重な史料。
   国岡上広開土境平安好太王。







  ≪ 広開土王 碑文 倭に関する部分 ≫  Wiki 好太王碑  Wiki 岡ミサンザイ古墳

 399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの
  使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、
  大王は救援することにした。

  400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に
  迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

  404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

  韓国では三韓征伐は無かったという意見もありますが、日本書紀や七支刀、広開土王碑の文などを合せると、記紀にある
  神功皇后の神話は実際の出来事だと思われます。

  また大阪府藤井寺市には、古市古墳群に属する仲哀天皇陵と言われる岡ミサンザイ古墳(惠我長野西陵えがの-ながの-の-にし-
  の-みささぎ)があります。

  石井正敏 中央大学教授 『5世紀の日韓関係-倭の五王と高句麗・百済-』 http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-03-ishii_j.pdf
 
 朝鮮半島と中国東北部
  【朝鮮】ちょうせん

   アジア大陸東部の大半島。南北に細長く突出し、南は朝鮮海峡を挟んで日本に対し、北は鴨緑江・豆満江を隔てて
   中国東北部およびシベリアに接している。面積22万平方キロメートル。ほぼ単一の朝鮮民族が住む。

   檀君・箕氏きし神話に反映される古朝鮮の時代の後、前2世紀初め衛氏朝鮮となったが、前108年 漢の武帝は
   これを滅ぼし、楽浪・臨屯・真番・玄の四郡をおいた。
   南部には韓族がおり馬韓・弁韓・辰韓(いわゆる三韓)の三部 数十国に分かれていた。

   4世紀中ごろ高句麗・新羅・百済・伽耶が対立、7世紀に至り新羅が統一、10~14世紀は高麗、14世紀以降は
   李氏朝鮮がこれをつぎ、いずれも中国に朝貢。
   のち日清・日露戦争によって日本が植民地化を進め、1910年日本に併合された(韓国併合)が、日本の敗戦
   により解放。

   北緯38度線を境に、48年8月南部に大韓民国が、9月北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立。
   朝鮮の異称・雅号として青丘・鶏林・海東・槿域などがある。


  ≪ 起源前の朝鮮 ≫  Wiki 檀君  Wiki 箕子朝鮮  Wiki 衛氏朝鮮  Wiki 燕(春秋)

  【檀君】だん‐くん
   朝鮮の開国神話で、天命によって降臨した、古朝鮮の開祖。名は王倹。
   檀樹の下に降臨した天帝の子 恒雄と熊女との子。
   平壌に都し、1500年間統治したという。朝鮮民族の始祖・象徴とされ、檀君を崇拝する民間宗教もある。
   韓国で一時使用された檀君紀元の元年は西暦紀元前2333年。

  【箕子朝鮮】きし‐ちょうせん
   古朝鮮の一つ。中国の古代王朝の一つ殷いんの箕子が、紂王ちゅうおうの末年に開いたとされる朝鮮の伝説上の王朝
   首都は王倹城(現、平壌)。前195年頃、衛満に滅ぼされた。

  【燕】えん(~前222)
   中国古代、戦国七雄の一つ。始祖は周の武王の弟、召公奭せき。今の河北・東北南部・朝鮮北部を領し、薊けい(北京)に都し、
   43世で秦の始皇帝に滅ぼされた。

  【衛氏朝鮮】えいし‐ちょうせん(前195頃~前108)
   古朝鮮の一つ。華北の燕から朝鮮北西部に逃れた衛満が建て、その孫 右渠が漢の武帝に滅ぼされるまで存続した朝鮮の王朝。
   都は王険城(現、平壌)。

  【衛満】えい‐まん
   衛氏朝鮮の祖。もと燕の人。漢の高祖の末年、朝鮮の大同江流域に至り、前195年頃、箕子きし朝鮮を滅ぼして王となった。
   朝鮮出身者とする説もある。


  ≪ 古代朝鮮半島の三韓 ≫  Wiki 三韓  Wiki 馬韓  Wiki 辰韓  Wiki 弁韓

  【三韓】さん‐かん
   古代朝鮮南半部に拠った馬韓・辰韓・弁韓の総称。それぞれが数十の部族国家に分かれていた。

  【馬韓】ばかん
   古代朝鮮の三韓の一つ。五十余の部族国家から成り、朝鮮半島南西部(今の全羅・忠清二道および京畿道の一部)を占めた。
   4世紀半ば、その一国 伯済国を中核とした百済によって統一。

  【辰韓】しんかん
   古代朝鮮の三韓の一つ。漢江以南、今の慶尚北道東北部にあった部族国家(3世紀ごろ12国に分立)の総称。
   この中の斯盧しら (現在の韓国慶州市付近に位置した) によって統合され、356年、新羅となった。

  【弁韓】べんかん 弁辰べんしん
   三韓の一つ。古代、朝鮮南部にあった部族国家(十二国)の総称。今の慶尚南道の南西部にあたる。
   後に伽耶諸国となり、やがて新羅に併合。


  ≪ 4世紀頃~9世紀の朝鮮半島 ≫   Wiki ツングース系民族  Wiki ツングース諸語   Wiki エヴェンキ

  【三韓】さん‐かん
   4~7世紀、新羅・百済・高句麗の総称。 三国時代ともいう。  Wiki 高句麗  Wiki 百済  Wiki 新羅

  【高句麗・高勾麗】こうくり 高麗こま。(~668)
   古代朝鮮の国名。三国の一つ。紀元前後、ツングース系の朱蒙の建国という。
   中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、4~5世紀 広開土王・長寿王の時に全盛。
   都は209年頃より国内城(丸都城)、427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。
   内部に壁画を描いた多くの古墳を残す。

  中国の宋書によると、「朝鮮半島三国のうち、新羅だけ言葉が通じない」と書かれている
  そうです。
  現在の韓国には、ツングース系エヴェンキ人のワイ族の文化がいくつか残っています。


  【通古斯】ツングース Tungus
   シベリアのエニセイ川からレナ川・アムール川流域やサハリン島、中国東北部にかけて広く分布する
   ツングース諸語を話す民族の総称
   漢代以降の鮮卑せんぴ、唐代の靺鞨まっかつ・契丹きったん、宋代の女真じょしん、満州族などを含む。
   狭義にはそのうち北部のエヴェンキ人を指し、生業は狩猟・漁労・採集、トナカイ・馬・牛の飼育等を主とする。

  【ツングース諸語】(Tungusic)
   シベリア東部・サハリン・中国東北部にかけての地域で話される諸言語。アルタイ語族に属する。
   エヴェンキ語・エヴェン語・ソロン語・ウデヘ語・ウイルタ語・満州語など。膠着こうちゃく語的特徴を示す。


  【百済】 くだら。 ひゃくさい。はくさい。(~660)
   古代朝鮮の国名。三国の一つ。4~7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。
   4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年 漢山城に都した。
   後、泗しひ城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余ふよ族といわれる。
   高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。
   唐・新羅の連合軍に破れ、66031代で滅亡。

  【夫余・扶余】ふよ
   前1世紀から5世紀まで、中国東北地方・朝鮮北部に活動した民族。また、その建てた国。
   ツングース族の一族と見られる。1~3世紀中頃が全盛期で、494年、高句麗に滅ぼされた。


  【新羅】しらぎ (古くはシラキ) しんら。(356~935)
   古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して
   新羅と号した。6世紀以降伽耶(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一
   さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・
   律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。

  【赫居世】かく‐きょせい
   伝説上の新羅の始祖。前漢の宣帝の時、前57年、辰韓六部の君長に推戴されたと伝える。朴ぼく赫居世。


  【伽耶・伽倻】かや 加羅。/ 【任那】みまな、にんな (日本での呼称) (~562)
   4~6世紀頃に朝鮮半島南東部にあった国々。諸小国全体をいう場合もあり、特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)を
   指す場合もある。
   日本書紀では4世紀後半に大和政権の支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。この任那日本府に
   ついては定説がないが、伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和政権の使節団を指すものと考えられる。
   562年新羅により併合。

  日本が鉄の供給を頼っていた任那を新羅が併合した事で、日本は聖徳太子の弟の来目皇子くめのみこを指揮官とする
  2万5000人を福岡北部の糸島市に送り込み、新羅出兵の準備を進めました。
  しかし、来目皇子が病死したため派兵計画は中止になりました。

  Wiki 任那  Wiki 任那日本府   6~7世紀の朝鮮半島との関係 磐井の乱と新羅の金属馬具、 白村江の戦い

  リンクサイトでは、前12世頃からの地図があり、前1世紀以降は1年ごとの地図があります。
  5年か10年ごとに見ていくと、東アジアの国の勢力範囲が変わる様子をご覧いただけます。

  ≪ 8世紀頃~中国東北部 ≫   Wiki 渤海   中国東アジア歴史地図 『~前12世紀 16世紀 「730年」』 http://www.geocities.jp/mapqin/

  【渤海】ぼっかい(698~926)
   8~10世紀、中国東北地方の東部に起こった国。
   高句麗の遺民ともいわれる大祚栄が靺鞨族を支配して建国。
   唐から渤海郡王に封ぜられ、その文化を模倣し、高句麗の旧領地を併せて
   栄え、727年以来しばしば日本と通交。15代で契丹に滅ぼされた
   都は上京竜泉府(黒竜江省寧安市)以下の5京があった。

  【大祚栄】い‐そえい(~719)
   渤海国の建国者。高王(在位698~719)。高句麗人説と靺鞨人説とがある。
   唐の則天武后の時、松花江上流の粟末靺鞨族の支配者となり、698年
   自立して震国王と称。713年唐より渤海郡王に封ぜられ、国号を渤海と改めた。

730年頃のアジア

    【靺鞨】まっかつ
   ツングース族の呼称の一つ。周の粛慎、漢・魏の婁ゆうろう、南北朝の勿吉もっきつなどはみな旧称で、この名称が
   起こったのは6世紀後半。
   有力な部族が7部族あり、その一つである粟末ぞくまつ靺鞨族の支配者、大祚栄が中心になって渤海国が起こり、
   また、黒水靺鞨はのちに女真と称した。

    【女真】じょしん
    中国東北地方から沿海州方面に居住したツングース系の民族。隋・唐代には靺鞨といい、黒竜江地方に散在。
   五代の頃より女真と称し、のち女直ともいう。1115年完顔ワンヤン部の首長 阿骨打アクダが金を建国し、宋に対抗。
   後に朝を興した満州族も同一民族である。

  【金】きん(1115~1234)
   中国東北部の女真族 完顔部の首長 阿骨打 (1068~1123、在位1115~1123) の建てた国。遼・北宋を滅ぼし、
   東北・内モンゴル・華北を支配。都は初め会寧(黒竜江省阿城市)、後に燕京・汴べん京。女真文字を作った。


  【遼】りょう(916~1125)
   契丹族が中国東北部を中心に建てた国。始祖 耶律阿保機が契丹族を統一、さらに党項タングート ・吐谷渾とよくこん
   征し、渤海を滅ぼし、太宗の時に後晋から燕雲十六州をとりあげ、947年国を遼と号した。 金国に滅ぼされた

  【契丹】きったん キタイ。                                           
   4世紀以来、内蒙古河シラムレン流域にいた、モンゴル系にツングース系の混血した遊牧民族。
   10世紀に耶律阿保機が諸部族を統一、その子 太宗の時に国号を遼と称した。

    【耶律阿保機】やりつ‐あぼき (872~926)
    遼(契丹)の太祖。汗位につき、契丹の八部を統一、東西の諸部族を従え、大聖大明天 皇帝(在位916~926)を
   称し、中国本土に侵入。また、渤海国を滅ぼす。漢人を登用し、国力をたくわえた。

  【黒契丹】カラ-キタイ 西遼 (1132~1211)
   遼の王族 耶津大石やりつ-たいせきが、遼 滅亡の際に中央アジアに建てた国。トルコ系のナイマン部に滅ぼされた。

    Wiki 金(王朝)  Wiki 遼  Wiki 契丹  Wiki モンゴル帝国  Wiki 元(王朝)

  【元】げん 大元。(1271~1368)
   中国の王朝の一つ。モンゴル帝国第5代の世祖フビライが建てた国。南宋を滅ぼし、高麗・吐蕃とばんを降し、安南・
   ビルマ・タイなどを服属させ、東アジアの大帝国を建設。都は大都(北京)。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。






  【成吉思汗】ジンギス‐かん。チンギス汗。チンギス=ハン。名は鉄木真テムジン。(1162~1227一説に1167~1227)
   モンゴル帝国の創設者。元の太祖(在位1206~1227)。モンゴル高原のモンゴル族を統一、1206年ハンの位につき
   成吉思汗と号した。
   ついで、金を攻略する一方、西夏に侵入、1219年以降、西征の大軍を発し、ホラズムを滅ぼし、1227年西夏を
   滅ぼしたが、負傷がもとで病没。征服した地を諸子に分封、諸ハン国の基礎を築いた。

  【忽必烈・忽比烈】フビライクビライ。(1215~1294)  ジンギス汗の孫。
   元朝の初代皇帝。世祖。モンゴル帝国第5代の皇帝(在位1260~1294)。金を滅ぼし、宋を併合し、都を大都(北京)に移し、
   1271年国号を元と定めた。越南・占城・ジャワまで併呑を企図、高麗を服属させた。日本にも2度遠征軍を派遣したが失敗。

    Wiki 高麗  Wiki 李氏朝鮮  Wiki 倭寇  Wiki 朝鮮通信使  Wiki 日本統治時代の朝鮮  Wiki 朝鮮戦争

  ≪ 10世紀頃~朝鮮半島 ≫

  【高麗】こうらい 高麗こま。(918~1392)
   朝鮮の王朝の一つ。王建が918年王位につき建国、936年半島を統一。都は開城(旧名、松岳・松都)。
   仏教を国教とし、建築・美術も栄え、後期には元に服属、34代で李成桂に滅ぼされた。

  【王建】おう‐けん (877~943)
   高麗の太祖(在位918~943)。松岳(開城ケソン)の人。
   高麗を建国、935年新羅を併合、翌年、後百済を従えて半島を統一。仏教を崇信。

  【李朝】り‐ちょう 朝鮮王朝。李氏朝鮮。(1392~1910)
   朝鮮の最後の王朝。1392年李成桂が高麗に代わって建て、対外的には朝鮮国と称す。1897年に国号を大韓帝国と改め、
   1910年(明治43)日本に併合されて、27代519年で滅んだ。国教は朱子学(儒学)。都は漢城(現ソウル)。

  【李成桂】り‐せいけい イ=ソンゲ。(1335~1408)
   李氏朝鮮の初代国王(在位1392~1398)。太祖。高麗の恭愍王の知遇を得、倭寇などを討伐。
   恭譲王の時、政権・兵権を掌握、朝鮮王朝(李朝)を建てた。

  【倭寇】わ‐こう (「倭」は日本・日本人、「寇」は賊・外敵の意) 豊臣秀吉の禁止で消滅
   13~16世紀、朝鮮・中国の沿岸を掠奪した海賊集団に対する、朝鮮・中国側の呼称。
   14~15世紀には北九州周辺の海民と朝鮮人が中心。明の嘉靖(1522~1566)の頃 頂点に達する。
   16世紀の倭寇では、中国人の密貿易者が主だった。
 
 絹の生産
  ≪ 絹の生産は弥生時代からあった ≫ 戦国時代になるまで、綿わたは絹の事。

  三国志魏書 倭人伝(通称:魏志倭人伝) 日本古代史に関する最古の史料 には、
   水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する。
   とあります。

  【魏書】ぎしょ
   二十四史の一つ。北斉(550~577)の魏収撰。北魏の史書。554年成る。曲筆が多く穢史と非難された。
   本紀14巻、列伝96巻、志20巻、計130巻。北魏書。後魏書。

  【北魏】ほく‐ぎ
   中国、南北朝時代の北朝の最初の国。鮮卑せんぴ族の拓跋たくばつ珪(道武帝)が386年魏王を称し、398年平城
   (今の山西省大同)に都し、建てた国。
   494年洛陽に遷都。534年東魏・西魏に分裂、東魏は550年、西魏は556年滅亡。魏。拓跋魏・後魏・元魏などとも称。

  Wiki 絹
  日本にはすでに弥生時代に絹の製法は伝わっており、律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたが、
  品質は中国絹にはるかに及ばず、また戦乱のために生産そのものが衰退した(室町時代前期には21ヶ国でしか
  生産されていなかったとする記録がある)。

  このため日本の上流階級は常に中国絹を珍重し、これが日中貿易の原動力となっていた。明代に日本との貿易が
  禁止されたため、倭寇などが中国沿岸を荒らしまわり、この頃東アジアに来航したポルトガル人は日中間で絹貿易を
  仲介して巨利を博した。鎖国後も中国絹が必要だったため、長崎には中国商船の来航が認められており、国内商人
  には糸割符が導入されていた。

  Wiki 綿
  戦国時代に木綿綿が普及する以前の古代や中世では、蚕の繭から作られた絹の真綿まわたを意味するのが普通で
  ある。


  ≪ 絹以外の布の素材とは ≫   Wiki 木綿

  奈良時代でも絹は高価なもので金と同じくらいの価値があったと言われています。木綿は戦国時代以降です。
  では、庶民は何を原材料にした布を着ていたのでしょうか?

  木の樹皮 … 藤 (フジ) ・ シナ ・ 穀 (カジ) ・ 楮 (コウゾ) ・ 桑 (クワ) ・ オヒョウ ・ 棕櫚 (シュロ)
  草の繊維 … 麻 (アサ) ・ 蕁麻 (イラクサ) ・ 葛 (クズ) ・ 赤苧 (アカソ) ・ 青苧( アオソ) ・ 藪苧麻 (ヤブマオ) ・ 野苧麻 (ノガラムシ) ・
          芭蕉 (バショウ) など。

  古墳時代は、麻類の繊維で出来た布から作った衣服を着ており、奈良時代は、楮こうぞや科しなの繊維で作った衣服の
  ようです。
   詳しくは↓下のリンクサイトでご覧ください。

  服育 『服育コラム 「衣服の素材について」 古墳時代・奈良時代』 http://www.fukuiku.net/column/column_fuku/fuku_06.html

  【麻】あさ 
   ① 大麻たいま・苧麻からむし・黄麻・亜麻・マニラ麻などの総称。また、これらの原料から製した繊維。
    糸・綱・網・帆布・衣服用麻布・ズックなどに作る。お。
   ② アサ科の一年草。中央アジア原産とされる繊維作物。茎は四角く高さ1~3メートル。雌雄異株。
    夏、葉腋に単性花を生じ、花後、痩果(おのみ)を結ぶ。夏秋の間に茎を刈り、皮から繊維を採る。
    実は鳥の飼料とするほか、緩下剤として摩子仁丸の主薬とされる。紅花・藍とともに三草と呼ばれ、古くから全国に
    栽培された。ハシシュ・マリファナの原料。大麻。タイマソウ。あさお。お。

  【楮】こうぞ (カミソ(紙麻)の音便)クワ科の落葉低木。
   西日本の山地に自生し、繊維作物として各地で栽培。高さ約3メートルに達する。葉は桑に似て質はやや薄く粗い。
   雌雄同株。6月頃、淡黄緑色の花を開く。果実は赤熟、桑の実に似る。樹皮は和紙の原料。かぞ。かんず。

  【科木】しな‐の‐き シナノキ科の落葉高木。
   山地に自生、高さ10メートルに達する。初夏、葉のつけ根に帯黄色で香りの高い小花を房状につけ、花柄の中部に
   箆へら状の苞がある。材は器材や経木、マッチの軸に供し、花や果実は薬用。皮は布・紙の原料。ヘラノキ。


  石井正敏 中央大学教授 『5世紀の日韓関係-倭の五王と高句麗・百済-』 http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-03-ishii_j.pdf
  日本神話・神社まとめ 『応神天皇(二十一)阿知使主・都加使主を呉へと派遣して縫工女を求める』 http://nihonsinwa.com/page/1241.html

  ≪ 応神天皇が呉に機織りの技術者を求めた ≫    ↑ 現代語訳はこちらのサイトから、上記の両サイトはオススメです。

  日本書紀 応神天皇 37年(丙寅)条  西暦426年頃

   卅七年春二月戊午朔、遣阿知使主・都加使主於吳、令求縫工女。爰阿知使主等、渡高麗國、欲達于吳。則至高麗、
   更不知道路、乞知道者於高麗。高麗王、乃副久禮波・久禮志二人爲導者、由是得通吳。吳王於是、與工女兄媛・弟媛・
   吳織・穴織四婦女。

   即位37年春2月1日。阿知使主(アチノオミ)・都加使主(ツカノオミ)を呉(クレ=中国江南地方)へと派遣して縫工女
   (キヌヌイメ)を求めました。阿知使主(アチノオミ)たちは高麗国(コマノクニ)に渡って呉に向かおうと思っていました。
   高麗に到着しましたが、この先の道路(ミチ)がわかりませんでした。道を知る人を高麗に請いました。高麗の王は久禮波
   (クレハ)・久禮志(クレシ)の二人を添えて導者(シルベ)としました。それで呉に至ることが出来ました。
   呉の王は工女(ヌイメ)の兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ)・吳織(クレハトリ)・穴織(アナハトリ)の4人の婦女を与えました。

   名字の始まり 姓かばね とは? 古代の姓の種類 と 飛鳥時代の八色姓

  【阿知使主】あち‐の‐おみ
   5世紀 応神天皇の時の渡来人。後漢の霊帝の曾孫ともいう。のち呉に使して織女・縫女を連れ帰ったと伝えられる。
   古代の最も有力な渡来人の一族 (7世紀に姓かばねが 「直」から「宿祢すくね」に昇格)、東漢直やまとのあやのあたいの祖という。

  【漢人】あや-ひと
   古代の渡来系氏族。東漢直 (朝廷の記録や外交文書を司った) の祖 阿知使主に率いられて渡来したと称する。
   東漢氏の支配にあって、錦・綾の生産、武具・革具などの手工業を職とした。


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿縦断500㎞の旅25 大阪1・池田市の久安寺へ」』 14.10.30 放送

  ≪ 呉服の発祥地とされる呉服くれは神社 ≫  Wiki 呉服神社  Wiki 和服

  大阪府池田市にある4世紀頃に創建されたとみられる呉服くれは神社。こちらの言い伝えでは、 

  昔(古墳時代)、中国の呉という国から、織物の技術を日本に伝える為にお姫様の姉妹が池田にやってきました。
   姉の呉服くれはとりと、妹の綾織あやはとりは、日本にやって来てからも大変よく働き多くの技術を日本人に伝えました。
   二人の死後、第16代の仁徳天皇が功績をたたえ、祠を建てたのが呉服神社の始まりとされるそうです。






  姉の「呉服くれはとり」の名前をとって、この技術で織られた織物は「呉服」と呼ばれるようになりました。
  現在も服飾関係者らが多く参拝しています。

  【呉織】くれ-はとり (ハトリ」はハタオリの約)
   ① 大和政権に仕えた渡来系の機織はたおり技術者。雄略天皇(5世紀後半の第21代)の時代に中国の呉から渡来した
   という。
   ② 呉の国の法を伝えて織った綾などの織物。 
   後撰和歌集呉織という綾を」 〔枕〕(呉織は綾があるからいう)「あや(綾)」にかかる。

  【漢織】あや-はとり (アヤハタオリ(漢織)の約)
   大和政権に仕えた渡来系の機織技術者。雄略朝(第21代)に漢土から来たという。
   日本書紀の雄略紀漢織・呉織…を将」。

  広辞苑の記述と合わせると、古墳時代には呉から多くの機織技術者が日本に渡来していたと推測できます。

  株式会社 井筒 企画 お祭り大好き 『各種時代風俗行列 -時代衣装あれこれ-』 http://www.iz2.co.jp/jidai/fuzoku.html

  【呉】
   ① 中国古代、春秋時代の列国の一つ。周の文王の伯父太伯の建国と称する。
     長江河口地方を領有。楚を破り勢を張ったが、夫差の時、越王勾践に滅ぼされた。(~前473)
    中国、三国時代の三国の一つ。孫権が江南に建てた国。222年独立、229年国号を定めた。都は建業。
     4世で西晋に滅ぼされた。(222~280)
   ③ 中国、五代十国の一つ。楊行密が淮南・江東に建てた国。都は揚州。4世で南唐に滅ぼされた。(902~937)
   ④ 中国江蘇省の別称。

  大阪府立 近つ飛鳥博物館 『古墳時代のくらし』 http://www.chikatsu-asuka.jp/?s=child/14life


  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「百人一首の旅9 奈良・吉野~藤原宮跡へ」』 15.06.18 放送

  ≪ 天香山あまのかぐやま神社と 「天の蚕の生原あめのかいこせいげん旧跡」 ≫

  奈良県橿原市にある大和三山の一つ標高152mの香具山は、元々天上界の高天原にあったが、何んらかの拍子に
  下界に落ちてきた。という伝説から、「天あまの」という枕詞をつけて呼ばれます。

  【天香山・天香具山】あまの‐かぐやま … 高天原たかまのはらにあったという山。 

  【香具山・香久山】かぐ‐やま
   奈良県橿原市の南東部にある山。標高152メートル。耳成山みみなしやま・畝傍山うねびやまと共に大和三山と称する。
   樹木が繁茂して美しい。麓に埴安池はにやすのいけの跡がある。天あまの香具山。(歌枕)






  香具山を御神体として祀る天香山神社の正式名称は「天香山坐櫛真智命神社あまのかぐやまにいます-くしまちのみことじんじゃ
  といい、この香具山は絹衣と深い縁があります。  Wiki 天岩戸

  平安初期の『古語拾遺』では、神話時代の天照大神の岩戸隠れの際、天の岩戸から誘い出す為に神衣を織ったと
  されるのが天棚機姫神。
  その天棚機姫神あめのたなばたひめのかみの孫である天八千千姫あまやちよひめが、天香具山に桑の木を植えて蚕を飼い、
  機織りに励んだ女神として伝えられています。 この伝承は下記の三重県の機織神社にもあるようです。

  【古語拾遺】こごしゅうい
   歴史書。斎部広成いんべのひろなり著。1巻。807年(大同2)成る。古来 中臣なかとみ氏と並んで祭政にあずかってきた
   斎部氏が衰微したのを嘆き、その氏族の伝承を記して朝廷に献じた書。記紀にみえない伝承も少なくない。

  これらを検証した結果、この地が日本で初めて蚕が生息した地とされ、香久山の東麓・万葉の森の外れに「天蚕生原
  あめの-かいこせいげん旧跡」の碑が建てられました。

  奈良県磯城郡川西町にある比売久波ひめくわ神社の御祭神は、久波御魂神、天八千千姫命。
  比売久波とは蚕桑を意味しており桑葉を神体としたと伝えがあり、結崎の糸井神社と関連する社ともみられるそうです。


  ≪ 飛鳥時代に持統天皇が詠んだ歌 ≫

  百人一首の2番目の持統天皇の歌 春過て 夏来にけらし白妙しろたへの 衣ほすてふ
  天の香具山

  飛鳥時代、この地域一帯は養蚕が盛んだったので、夏になると香具山にたくさんの白い
  衣が干されていたとも言われているそうでです。

  【持統天皇】じとう‐てんのう(645~702)名は高天原広野姫たかまのはらひろのひめ
   また野讃良うののさらら。 第38代の天智天皇の第2皇女。
   7世紀末の女帝、第41代天皇(在位690~697)。第40代の天武天皇の皇后。

   天武天皇の没後、称制。 草壁皇子没後、即位。皇居は大和国の藤原宮。文武天皇に譲位後、太上天皇と称す。



  ≪ 三重県の機織神社 ≫  Wiki 機殿神社

  神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)・神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)はいずれも三重県
  松阪市にある神社。元々は同じ場所に鎮座していたが、大垣内町の神服織機殿神社と井口中町の神麻続機殿神社
  の2社に分かれたと考えられている。

  いずれも皇大神宮(内宮)所管社で、両社を合わせて両機殿と呼ぶ。両機殿の所在地は旧機殿村で、松阪市立機殿
  小学校に「機殿」の地名を残している。両機殿で行なわれる御衣奉織行事は松阪市の無形民俗文化財に指定されて
  いる。

  『倭姫命世記』では垂仁天皇25年、倭姫命が天照大神を伊勢の百船(ももふね)度会国玉掇(たまひろう)伊蘇国に
  一時的に祀られたときに建てられた神服部社(はとりのやしろ)がのちの麻績機殿神服社で、内宮が現在地に定まった
  ときに内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に
  神の教えに従って和妙を織らせた。

  倭姫命は翌垂仁天皇26年、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。
  そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた。

  天智天皇7年(668年)8月3日に両機殿が火災で失われたため、この年の9月の神御衣祭のための作業は仮屋で
  行ない、その後30丈離して両機殿を別々に建てたと記されている。

  ただし、『倭姫命世記』は鎌倉時代に荒木田氏あるいは度会行忠が記した伝承・説話であり史実ではないとするのが
  一般的である

  【天智天皇】てんじ‐てんのう(626~671)名は天命開別あめみことひらかすわけ、また葛城かずらき・中大兄なかのおおえ
   舒明天皇の第2皇子
   7世紀中頃の天皇(在位668~671)。中臣鎌足と図って蘇我氏を滅ぼし、ついで皇太子として大化改新を断行。
   661年、母斉明天皇の没後、称制。667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位。
   庚午年籍を作り、近江令を制定して内政を整えた。

  【壬申の乱】じんしん‐の‐らん
   天智天皇死後、長子の大友皇子(弘文天皇)を擁する近江朝廷に対し、吉野にこもっていた皇弟の大海人おおあま
   皇子(天武天皇)が672年(壬申の年)の夏に起こした反乱。
   1カ月余の激戦の後、大友は自殺、大海人は飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやに即位し、律令制が確立する端緒と
   なった。

  【大友皇子】おおとも‐の‐おうじ(648~672)名は伊賀とも。諡号 弘文天皇。 天智天皇の第1皇子
   671年天皇没後、近江朝廷の中心となったが、翌年壬申の乱に敗れて自殺。
   1870年(明治3)に弘文天皇と追諡ついしした(在位671~672)。
   「懐風藻」所収の作品は堂々としていて、日本における漢詩の起りとされる。

  【天武天皇】てんむ‐てんのう(~686)名は天渟中原瀛真人あまのぬなはらおきのまひと、また大海人おおあま
   舒明天皇の第3皇子
   7世紀後半の天皇(在位673~686)。671年出家して吉野に隠棲、天智天皇の没後、壬申の乱(672年)に勝利し、
   翌年、飛鳥の浄御原宮きよみはらのみやに即位する。
   新たに八色姓やくさのかばねを制定、位階を改定、律令を制定、また国史の編修に着手。

  【持統天皇】じとう‐てんのう(645~702)名は高天原広野姫たかまのはらひろのひめ、また野讃良うののさらら
   第38代の天智天皇の第2皇女。7世紀末の女帝、第41代天皇(在位690~697)。第40代の天武天皇の皇后。
   天武天皇の没後、称制。草壁皇子没後、即位。皇居は大和国の藤原宮。文武天皇に譲位後、太上天皇と称す。

  【草壁皇子】くさかべ‐の‐おうじ(662~689)日並知皇子ひなみしのみこともいう。 天武天皇の皇子母は持統天皇
   文武・元正天皇の父。681年皇太子に立ったが、天武天皇死後は母の持統天皇が継ぎ、皇子はまもなく没。
   後に岡宮御宇天皇おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみことと追尊。

  【元明天皇】げんめい‐てんのう(661~721)名は阿閉あべ。 天智天皇の第4皇女草壁皇子の妃
   奈良前期の女帝(在位707~715)。文武・元正天皇の母。
   都を大和国の平城(奈良)に遷し、太安万侶おおのやすまろらに古事記を撰ばせ、諸国に風土記を奉らせた。

  【文武天皇】もんむ‐てんのう(683~707)名は珂瑠かる。 草壁皇子の第1王子母は元明天皇
   律令国家確立期の天皇(在位697~707)。大宝律令を制定。
 
 戎 神社
  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『酒どころ西宮の旅』 13.12.28 放送

  ≪ 戎神社の総本社 西宮神社 ≫  Wiki 西宮神社   関西の文化 十日戎と大阪締め

  元々、漁民の豊漁祈願の神様でしたが、いつの間にか「商売繁盛」の神様になりました。
  関西では1月の9日を「宵戎」、10日を「本戎」、11日を「残り福」 として、3日間戎祭りが行われます。
  西宮戎神社では大きなマグロを奉納しお金を貼りつける事で有名。また開門神事が行われ、表大門から本殿までの
  約230mを走り、1~3着までが、その年の「福男」に認定されます。
  福男は本人が幸福になるというよりも、周りの人に福を与える存在です。

  【恵比須講・夷講】えびす‐こう
   商家で商売繁昌を祝福して恵比須を祭ること。親類・知人を招いて祝宴を開く。
   旧暦11月20日に行う地方が多いが、1月10日・1月20日・10月20日に行うところもある。中世末に始まり、江戸時代に盛行。





  【蛭子】ひる‐こ、ひるのこ 
   日本神話で、伊弉諾 ・伊弉冉の二神の間に最初に生まれた子。3歳になっても脚が立たず、流し捨てられたと伝える。
   中世以後、これを恵比として尊崇。

  【恵比須・恵比寿・夷・戎・蛭子】えびす。(エビス(夷)と同源)
   七福神の一つ。もと兵庫県西宮神社の祭神 蛭子命ひるこのみこと
   海上・漁業の神、また商売繁昌の神として信仰される。
   風折烏帽子かざおりえぼしをかぶり、鯛を釣り上げる姿に描く。3歳まで足が立たなかったと
   伝えられ、歪んだ形や不正常なさまの形容に用い、また、福の神にあやかることを願って
   或る語に冠し用いたともいう。

  【恵比須舁き】えびす‐かき。えびすまわし。  Wiki 傀儡子
   室町時代頃、兵庫県西宮から出た人形つかい、人形芝居。人形浄瑠璃の元とも言われ
   ています。もと恵比須が鯛を釣るまねをし、正月に豊漁を予祝したもの。



  【傀儡子記】くぐつき コトバンク より
   大江匡房(まさふさ)が芸能を記録した晩年の著。1巻。成立年不詳だが,寛治年間(1087‐94)以降の成立であろう。
   平安時代の人形回し傀儡(くぐつ)の生活,風俗等を記したもので,風俗史,芸能史の貴重な資料。
   傀儡子(傀儡)は,元来は人形を操って生計を立てる芸人を指していたようだが,日本では同時に歌舞,売媚などもする
   遊女のようなものであった。
   本書によれば,彼らは水草を追って移動する流浪の徒であり,男は弓馬を使って狩猟し,弄剣の伎を見せ人形を
   舞わせ手品めいたこともする。
   女は厚化粧を凝らし倡歌淫楽して媚を売る。生活は不安定であるが,流浪生活ゆえ課役徴税は受けない。

  【大江匡房】おおえ‐の‐まさふさ (1041~1111)
   平安後期の貴族・学者。匡衡の曾孫。江帥ごうのそちと称。後冷泉以下5代の天皇に仕え、正二位権中納言。
   また白河院の別当として白河院政を支えた。著「江家次第」「本朝神仙伝」「続本朝往生伝」など。
   その談話を録した「江談抄」がある。
 
 装飾古墳とは
  朝日新聞 13.01.28 朝刊 『文化の扉』  / Wiki 装飾古墳



 
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