手づくり アイスの店 マルコポーロ
日本歴史の雑学 4 平安時代2
 大阪府 羽曳野市伊賀5丁目9-6

 Tel  072-953-4321

Mail marcoice4321@yahoo.co.jp
このページの最終更新日:   19.12.12
T O P S h o p アイスの知識 アイスの歴史  フルーツ&ナッツ 飲料・食材 お取り寄せ
食の歴史と雑学 料理の歴史と雑学 日本各地の食文化 大阪の歴史と雑学 日本文化の雑学 日本の歴史・雑学
・・お知らせ・・
 ザーネアイスはドイツ規格の「生クリーム・アイス」、世界一濃厚なアイスクリームです。

  ≪ ザーネアイス お取り寄せ  アイスの基礎知識

   ザーネアイス3種類のセットが基本のセットです。

   ご注文の確認より4日以降の御届けになります。

  1セット 4900 円 (保冷梱包、代引き手数料、クール便送料、税など全て込み価格)
   関東・信越・九州は1セット5010円になります。 お取り寄せのページ



  ≪ 天然100%シャーベットもお取り寄せ (季節によって変わります) ≫

   抹茶、ココナッツ、ブラックベリーなど

 お取り寄せ&地方発送はヤマト運輸の送料などが大幅にアップしたので、4月2日から価格変更に
 なりました。

ザーネアイス
(ドイツ規格の「生クリームのアイス」)


シャーベット (ソルベ)

ガナッシュ
(高級な生チョコの極上アイス)


LINEで送る

~弥生・古墳時代 飛鳥・奈良時代 平安時代の雑学1 平安時代の雑学2 お取り寄せ order
鎌倉~室町時代 戦国~桃山時代 江戸時代の雑学1 江戸時代の雑学2 日本の歴史・雑学  INDEX
江戸時代の雑学3 江戸時代の雑学4 明治・大正時代1 明治・大正時代2
昭和時代の雑学1 昭和時代の雑学2 江戸時代の文献記述 東京付近の歴史 沖縄の歴史
 
  Page Contents  



 東北の古代文明

 東北が日本だった? テレビ東京の主張を検証

 東北は金の一大産出地だった 奈良の大仏にも使われた

 東北38年戦争 蝦狄の族長 アテルイ と、 最初の征夷大将軍 坂上田村麻呂

 奥州 藤原氏 と 平泉文化

 熊野三社と熊野古道 八咫烏、南北朝時代の神様の化粧道具、日本最古級の神輿など

 日本の重要神社 二十二社とは

 神社の雑学 
  イチョウの木が多いわけ 本職とアルバイトの巫女さんの見分け方

 おみくじの雑学 住吉大社のおみくじはネパールで作られている。 国内では山口県がトップシェア
            日本で使われる棺桶の9割は中国の一つの町で作られています。


 桓武平氏の略系図

 お宝満載 奈良吉野の吉水神社
  義経、後醍醐天皇、蝉丸、豊臣秀吉の遺物が残る神社

 義経一行の縁の物
  大津市の弁慶の引き摺り鐘、大和郡山市の源九郎神社

  おすすめサイト 歴史の雑学が色々と載っています。
  株式会社まぼろし 歴史雑談録 http://rekishi.maboroshi.biz/about/
  歴史研究所 『日本史』 http://www.uraken.net/rekishi/rekijap.html
  NAVER まとめ 『再現された江戸時代の日本人の食事』 http://matome.naver.jp/odai/2134329123090279301
  倭人伝・倭国伝 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun-mokuji.htm
    ↑ 中国の各古文書の倭人伝の原文と和訳があります。
  こはにわ歴史堂のブログ http://ameblo.jp/kohaniwa/  ← 朝日放送 コヤブ歴史堂「こはにわ先生」の浮世博史さんのブログです。

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  嬉遊笑覧 上巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123091
  嬉遊笑覧 下巻 喜多村信節 著 昭和7年版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名 守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

  
 桓武平氏

  平氏とは?  皇族賜姓の豪族で、源と平があり、平氏は平安時代の4つの系統だけ。

  以前読んだ事がある本によると、平安遷都で一時的に「平」姓を付けたようです。

  桓武かんむ平氏。桓武天皇(在位781~806)の皇子、葛原・万多・仲野・賀陽かや 4親王の子孫。
   このうち最も繁栄したのは葛原親王の孫 平高望の子孫。
   その一族のうち伊勢・伊賀に根拠地を置いたものを伊勢平氏といい、
   忠盛・清盛などが出た。
   (一般的に「平氏」といえば伊勢平氏を指す)

  仁明にんみょう平氏。仁明天皇(在位833~850)の皇子、本康親王の子孫。

  文徳もんとく平氏。文徳天皇(在位850~858)の皇子、惟彦親王の子孫。

  光孝こうこう平氏。光孝天皇(在位884~887)の皇子、是忠親王の子孫。


                 桓武 平氏の略系図
 
【桓武天皇】(737~806) 柏原天皇とも。
 奈良後期~平安初期の天皇。光仁天皇の第1皇子。
 母は高野新笠。名は山部やまのべ
 坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣、
 794年(延暦13)都を山城国宇太に遷した(平安京)。
 (在位781~806)

【平高望】たかもち 。高望王。生没年未詳。桓武平氏の祖
 桓武天皇の皇子 葛原親王の孫。高見王の子。
 889年(寛平1)平の姓を賜り、従五位下上総介に任ぜられた。

【平国香】( ~935) 高望の子。
 平安中期の武将。常陸大掾。甥の将門に殺された。

  【平貞盛】さだもり (生没年未詳)。 国香の子
   平安中期の武将。。父が将門に殺されたとき、ただちに官を捨てて京都から国に帰り、常陸大掾だいじょうとなり、
   940年(天慶3)、下野の押領使 藤原秀郷と力を合わせて将門を下総猿島に討った。のち鎮守府将軍に任ぜられ、
   世に平将軍という。


  【平維衡】これひら (生没年未詳)。 貞盛の子。
   平安後期の武将。平致頼むねより・源頼信・藤原保昌と共に四天王と称。子孫は伊勢国で、伊勢平氏
   として繁栄。

  【平正盛】まさもり (生没年未詳)。 清盛の祖父
   白河法皇に信頼され、検非違使・追捕使として諸国の反乱を討ち、伊勢平氏興隆の道を開いた

  【平忠盛】ただもり (1096~1153) 正盛の子。 清盛の父
   白河・鳥羽両上皇に信頼され、1129年(大治4)に山陽・南海2道の海賊を追捕し、35年(保延1)
   再度西海の海賊を平らげ、累進して刑部卿に進み内昇殿を許された。また日宋貿易に尽力。

平忠盛
  【平清盛】きよもり (1118~1181) 忠盛の長子。
   平相国・浄海入道・六波羅殿などとも。保元・平治の乱後、源氏に代わって勢力を得、累進して従一位太政大臣。
   娘徳子を高倉天皇の皇后とし、その子安徳天皇を位につけ、皇室の外戚として勢力を誇った。子弟はみな顕官と
   なり専横な振舞が多く、その勢力を除こうとする企てもしばしば行われた。 
   熱病のため死去し、のち数年にして平氏の嫡流は滅亡。






  【平時忠】ときただ (1128~1189) 時信の子。
   平安末期の貴族。異母妹 滋子は後白河天皇の女御となり、姉の時子は平清盛に嫁したので権勢を得、累進して
   権大納言。「平氏にあらざれば人にあらず」 と うそぶいたことは有名。壇ノ浦の戦後、能登に流されて没。






  【平教盛】のりもり (1128~1185) 忠盛の子。清盛の弟
   平安末期の武将。清盛の六波羅邸の門脇に邸宅を構え、門脇かどわき 殿と称された。平治の乱の功により越中守、
   ついで正三位権中納言。源行家を播磨に破ったが、壇ノ浦の戦に兄の経盛と入水。
    ※ 門脇の姓を持つ人は教盛の子孫と言われています

  【平重盛】しげもり (1138~1179) 清盛の長子
   平安末期の武将。世に小松殿・小松内府または灯籠大臣という。保元・平治の乱に功あり、累進して左近衛大将、
   内大臣を兼ねた。性謹直・温厚で、武勇人に勝れ、忠孝の心が深かったと伝えられる。

  【平宗盛】むねもり (1147~1185) 清盛の3男
   従一位内大臣。源義仲の入京を前にし、一族を統率して西走、壇ノ浦で捕らえられ、のち近江で斬。

  【平知盛】とももり (1152~1185) 清盛の4男
   権中納言。1180年(治承4)源頼政を宇治に滅ぼし、1181年(養和1)源行家を美濃に破った。壇ノ浦の戦で
   「見るべき程の事は見つ」と入水。謡曲・浄瑠璃などに戯曲化。

  【平重衡】しげひら (1157~1185) 清盛の5男
   従三位左近衛中将。治承4年(1180)5月源頼政を宇治に破り、12月東大寺・興福寺を攻めてこれを焼いた。
   一谷の戦に敗れ、須磨の浦で捕らえられて鎌倉に送られたが、奈良僧徒の要求で奈良に送られ木津川の辺で斬。

  【平維盛】これもり (1157~1184?) 重盛の長子。清盛の孫
   左近衛少将。その姿が美しかったので桜梅少将と通称。源頼朝と富士川に対陣して水鳥の羽音に驚いて敗走。
   1183年(寿永2)源義仲を討とうとして礪波山となみやまに敗戦。屋島の戦後出家し、那智で入水したとも病死したと
   もいう。

  【平教経】のりつね (1160~1185) 教盛の子。清盛の甥
   正五位下 能登守。勇敢で、たびたび木曾義仲の手勢を破り、屋島の戦には佐藤継信を一矢で射止め、
   壇ノ浦では義経を追い、ついに入水(吾妻鏡では1184年(元暦1)一谷で捕殺)。

  【平家】 ・・・ 平たいら の姓を名乗る一族=平氏。と、その部下。平家一門。

  【坂東八平氏】ばんどう‐はちへいし
   桓武平氏の末流で、平安後期以降、関東地方に根を張った武士団の総称。
   八氏の数え方については、中村・秩父・千葉・上総・三浦・大庭おおば ・梶原・長尾の諸流とするものを始め、諸説がある。

  清和源氏の八幡太郎義家は武家の棟梁と目された河内源氏の3代目で、その末裔が鎌倉幕府を開いた源頼朝。
  畿内などに本拠地を持ち影響力が強い河内源氏は、関東の田舎に下った平氏の末流の一族からすれば、遥かに高貴な
  存在だったようです。

  【平家没官領】へいけ‐もっかんりょう
   平氏滅亡によって官に没収された同氏一族の所領群。全国五百余カ所といわれ、その大部分は源頼朝の手に移った。

  【平家谷】
   平家の残党が隠れ住んだという伝説のある山間の集落。新潟県 村上市三面 ・ 長野県 下水内郡秋山 ・ 静岡県 浜松市
   京丸・福井県 大野市五箇 ・ 和歌山県 東牟婁郡那智谷 ・ 徳島県 三好市祖谷 ・ 熊本県 八代市五家など。

  【平家物語】
   治承物語。平語。原本の成立は承久(1219~1222)~ 仁治(1240~1243)の間という。
   平家一門の栄華とその没落・滅亡を描き、仏教の因果観・無常観を基調とし、調子のよい
   和漢混淆文わかん-こんこうぶんに対話を交えた散文体の一種の叙事詩。
   平曲として琵琶法師によって語られ、軍記物語・謡曲・浄瑠璃以下後代文学に多大の影響を
   及ぼした。
   成立過程には諸説あるが、早くから読み本・語り本の系統に分かれて異本を派生したと考えられ、
   前者には6巻本(延慶本)・20巻本(長門本)・48巻本(源平盛衰記)など、
   後者には12巻本に灌頂巻かんじょうのまき(雅楽や和歌) を加えた覚一本・流布本などがある。


  【吾妻鏡・東鑑】あずまかがみ  鎌倉後期成立の史書。52巻。
   鎌倉幕府の事跡を変体漢文で日記体に編述。源頼政の挙兵(1180年)から前将軍 宗尊親王の帰京(1266年)に至る
   87年間の重要史料。

  私、当サイト管理人の父の一族の祖は、平家に組した中流以下の貴族だったようで、奈良県吉野に落ち延びました。
  名前から察するに刑部省の役人であったので源平合戦に参加しなかたので、畿内で居られたと推測しています。
  吉野で「一つたたら」を成敗した狩場刑部左衛門の話が残っています。
 
 広島県 巌島神社
  【厳島】いつくしま
   広島湾南西部の島。日本三景の一つ。面積約30平方キロメートル。その最高所は、標高535メートルの弥山みせん
   廿日市はつかいち市に属し島全体が原始林で覆われる。北岸に厳島神社と門前町がある。伊都岐いつき島。宮島。






  【厳島神社】いつくしま‐じんじゃ  Wiki 厳島神社
   厳島にある元官幣中社。市杵島姫命いちきしまひめのみことを主神とし、田心姫命たごりひめのみこと・湍津姫命たぎつひめの
   みことを合祀。社殿は海中に立ち、宝物類には平家寄進のものが多く、大鳥居・朱塗の殿堂・五重塔・千畳閣・
   能舞台など、国宝・史跡に富む。世界遺産。安芸国一の宮。

  【厳島延年】いつくしま‐えんねん … 旧暦7月14日、厳島神社で行う延年舞の神事。現在は玉取祭として8月に行う。












  ≪ 四天王寺との関係・抜頭ばとう

  広島県の厳島神社も593年に聖徳太子により創建されましたが、現在のような社殿になったのは、1168年の平清盛に
  よる造営。厳島神社の神職に伝わり、元日の日の出から約3時間だけ舞われる一子相伝の舞楽「抜頭ばとう」は、
  平清盛が大阪の四天王寺から伝えたもの。

  四天王寺では、聖徳太子の命日に御霊を慰める聖霊会しょうりょうえという法要を行っており、昔の記録では必ず「抜頭」を
  舞っていたそうです。
  この舞楽は、聖徳太子の側近であった秦河勝はた-の-かわかつ (京都の太秦うずまさの本拠地とした) の子孫が行っていました。






  日本三舞台と呼ばれるのは、広島の厳島神社の平舞台、大阪の四天王寺の石舞台、大阪の住吉大社の石舞台。
  雅楽の三方楽所と呼ばれたのは、京都の宮廷 (御所) 雅楽、大阪の四天王寺雅楽、奈良の南都 (春日大社・興福寺)
  雅楽です。

  【四天王寺】 山号は荒陵山こうりょうさん 。荒陵あらはか寺。難波寺。御津寺。堀江寺。天王寺。
   大阪市天王寺区にある和宗の総本山。聖徳太子の建立と伝え、623年頃までに成立。奈良時代には五大寺に
   次ぐ地位にあり、平安時代には極楽の東門とされて信仰を集めた。
   伽藍配置は塔・金堂・講堂を中心線上に並べた、四天王寺式と称する古制を示す。
   堂宇は幾度も焼失したが、第二次大戦後、飛鳥様式に復原建造。扇面法華経冊子せんめんほけきょうさっしなどを所蔵。

  【抜頭・撥頭・髪頭】ばとう
   雅楽の唐楽、太食調たいしきちょう (雅楽の唐楽の六調子の一つ) の林邑楽系の曲。管弦にも舞楽にも用いる。
   4分の6拍子と4分の5拍子の演奏法がある。長髪のある仮面をつけ、桴ばちを持ち髪を振り乱して舞う。一人舞。

  【林邑楽】りんゆう‐がく
   天平時代に南インド出身の菩提僊那ぼだいせんなと林邑出身の仏哲とが渡来して伝えた楽舞。
   インド起源の天竺楽てんじくがくの系統と見なされる。平安初期以降、唐楽に編入。


  ≪ 地御前神社じごぜん-じんじゃ  飛鳥時代、厳島神社の外宮として創建。

  一般社団法人はつかいち観光協会 『地御前神社』 http://www.hatsu-navi.jp/node/321

  宮島の対岸、かつて波打ち際の松林があった場所に、老松に囲まれるようにひときわ大きな社殿。
   国道2号線、広電宮島線とJR山陽本線に挟まれて建つ地御前神社。古くは厳島神社の外宮と称された大社である。
   本来厳島は島全体が聖地と見なされ、人が住むことは禁じられていたので、対岸に遥拝のために建築物が造られ、
   そこから発展したともいわれているのが今日の地御前神社である。







  ≪ 大願寺 ≫  Wiki 大願寺 (廿日市市)







  ≪ 平家納経 ≫  Wiki 平家納経






  【平家納経】へいけ‐のうきょう 国宝。厳島経巻とも。
   厳島神社に伝来する装飾経。法華経28巻に開結の無量義経・観普賢経、さらに阿弥陀経と般若心経を加え、願文を
   添えた33巻。銅製の経箱に納める。平清盛の署名した願文には長寛2年(1164)9月厳島神社に奉納したことが記される。
   各巻とも表紙・見返しから本文の料紙まで、美しい染紙を用い、金銀の箔を散らし、濃彩の絵画などで飾り立て、
   精巧な金銀の金具をつける。

  【厳島の戦】いつくしま‐の‐たたかい
   1555年(弘治1)毛利元就もうりもとなりが、大内義隆を滅ぼした陶晴賢すえはるかたを敗死させた戦い。
   以後、毛利氏は中国地方に威を振るうようになった。
 
 東北の古代文明
  テレビ東京 『世界遺産 “三大迷宮”ミステリーⅡ』 13.09.20 放送 
  PANDORA (韓国の無料動画サイト) 世界遺産 “三大迷宮”ミステリー 『奈良の大仏 造立の謎』  82分20秒頃~115分08秒まで
   http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ref=em_over&ch_userid=codeno001&prgid=49087252&linkskip=

  NHK大阪 歴史ヒストリア 『春はすぐそこ ! 世界遺産SP ~秘められた日本人のドラマ~』 14.03.12 放送
  NHK 高校講座 日本史 『武士の登場』 14.06.13 放送


  テレビ東京の『歴史ミステリー系』の番組は、毎回 非常に面白い切り口を持ってきますが、いわゆる『とんでも史料』を
  メインにしてストーリーを組み立てている事がありますので、全てを鵜呑みにしてはいけません。

  年代順に書いた方が矛盾点が見つけやすいので、できるだけ年代順に構成して書く事にしますので、番組の構成とは異なります。


  ≪ 亀ヶ岡式土器かめがおかしき‐どき  Wiki 亀ヶ岡石器時代遺跡 / Wiki 遮光器土偶

  縄文時代晩期の東北地方の土器の総称。精緻な美しい文様と変化に富む器形で著名。
  青森県つがる市木造きづくりの亀ヶ岡遺跡による命名。

  このうち、目が大きく手が小さい人間型の土器は女性を表したものとされ「遮光器土偶」と呼ばれています。
  普通の人間の形を逸脱した極めて特徴的な形態から、一部では宇宙服を着用した宇宙人の姿を模ったものである
  という説(古代宇宙飛行士説)、東北地方で広く信仰されたアラハバキ神であるという説、古代シュメールの女神
  イシュタル説も提唱されているそうです。


  青森県 三内丸山遺跡では、漆塗りの皿(写真のは復元した物)が出土した事から、盛付けや見た目を楽しみ、縄文時代から、
  現代の和食に繋がる食文化を持っていたと考えられる。縄文土器は出土した現物。






   歴史ミステリー 『青森の海底遺跡』  http://youtu.be/K_YhbsTWq7k

  宮城県 東松島の里浜貝塚では6000年前の地層から、頭を落としたフグの骨が大量に見つかり、調理していた事が伺える。
  当時の集落では一つの季節では食べきれないほどのアサリの貝殻も出てきた事から、むき身にして保存していた。
  保存食、出汁、他の村との交易品に使用されたと推測できる。






  ≪ 縄文時代も先進だった奈良県 ≫

  近年まで、縄文時代の遺跡が多く発掘されていたのは東北で、縄文時代は東日本が進んでいたと考えられていましたが、奈良県の
  橿原市の橿原神宮付近から縄文時代の土器が多く発見され、その中には亀ヶ岡式土器と同じ形のものや遮光器土偶の一部も発見。
  東北の土器を真似て橿原で作られたものと推測されています。






  さらに、新潟県などの限られた場所でしか採れないヒスイを使った装飾品も出土しました。
  この事から、この橿原一帯は、日本の東西の文化が集まってきた地域と考えられるようになっています。

  【橿原遺跡】かしはら‐いせき
   奈良県中部、奈良盆地南部の橿原市にある、近畿の縄文時代晩期を代表する遺跡。多数の土器・土製品・石器・
   動物遺体などが出土。また橿原市には歴代御陵・橿原神宮・藤原宮址など史跡が多い。

  奈良県橿原市HP 『かしはら探訪ナビ 橿原市の縄文時代の詳細』
   http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/mukashi_iseki/joumon_shousai.html
  橿原公苑の陸上競技場前に設置された橿原遺跡の案内板 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-4/2010_0809.htm


  ≪ 東北の古代文明 ≫

  テレビ東京の『世界遺産 “三大迷宮”ミステリーⅡ』では、縄文時代から高い技術を持ち、「超先進国家」とされている
  東北ですが、この番組は非常に怪しい内容も多いのでネットで調べてみました。

  宮城県多賀城市にある宮城県立の東北歴史博物館には、東北で出土したものが展示されています。

   〈 アスファルト 〉 Wiki アスファルト

 日本では縄文時代後期後半から晩期にかけて、日本海側の秋田県や山形県、新潟県などで
  産出した天然アスファルトを熱して石鏃(せきぞく:石の矢じり)や骨銛(こつせん:骨のモリ)
  など漁具の接着、縄文後期の秋田県横手市・八木遺跡の事例として網漁に用いる石錘と
  漁網の接着、破損した土器や土偶の補修、漆器の下塗りなどに利用された。

  産出地のほか関東地方でもアスファルトの付着した遺物が出土し、黒曜石やヒスイなどと
  ともに縄文時代の交易を示す史料になっている。
  これらは明治期に佐藤伝蔵による東京大学人類学教室の資料調査において発見され、
  佐藤初太郎によってアスファルトである事が確認された。

  藤森峯三は秋田県昭和町(現潟上市昭和)において縄文時代のアスファルト産出地を
  確認し、現在では原産地を特定する技術により広域に流通していたことが判明している

  日本書紀には、668年に「燃ゆる土」が越の国(福井~山形)から天智天皇に献上された
  との記録があるが、これはアスファルトであるとも言われる。


   〈 漆器 〉 Wiki 漆器 によると  漆器は日本発祥の技術です。

 福井県(鳥浜貝塚)で出土した漆の枝は、放射性炭素(C14)年代測定法による分析の結果、
  世界最古の約12600年前のものであると確認され、漆木のDNA分析で日本の漆は
  日本固有種であることが判明した。

   漆器に関しては東北よりも北陸地域(福井~新潟)の方がはるかに古いものが
   見つかっているという事です。


  〈 東北には都にない絹の生産技術があった!? 〉

   日本には弥生時代から養蚕して絹織物を作る技術があったようです。
   詳しくは、日本歴史雑学 1 『~弥生時代』のページ








  呉服の発祥とされる大阪の呉服くれは神社 古墳時代・奈良時代の服の素材など をご覧ください。

   また中国の『三国志魏書』倭人伝 (通称:魏志倭人伝) の記述には、

  種禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。
  木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、朱崖同。

  水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する。
  その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない。矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い、竹の箭(矢柄)
  あるいは鉄、あるいは骨の鏃、有無するところが儋耳(ダンジ)や朱崖(シュガイ。ともに海南島の地名)に同じである。

  東北が高度な技術を有していたのは確かですが、それ以外の日本各地も高い技術を持ち、東北より早い時期から技術を
  有していた地域もあるので、東北だけが超先進国家だったという印象を与えるテレビ東京の歴史ミステリーの番組構成は
  非常に問題があります。
 
 東北こそが日本だった?
  テレビ東京 『世界遺産 “三大迷宮”ミステリーⅡ』 13.09.20 放送 
  PANDORA (韓国の無料動画サイト) 世界遺産 “三大迷宮”ミステリー 『奈良の大仏 造立の謎』  82分20秒頃~115分08秒まで
   http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ref=em_over&ch_userid=codeno001&prgid=49087252&linkskip=

  「日本」と呼ばれるルーツは東大阪市にあった
  東征伐、熊襲征伐と三韓征伐 古墳時代の大和政権から見た蝦夷人の性質


  ≪ 旧唐書と新唐書の「倭国と日本は別」という記述は正しいか? ≫  Wiki 旧唐書  Wiki 新唐書

  テレビ東京の『世界遺産 “三大迷宮”ミステリーⅡ』では、旧唐書と新唐書の「日本国は倭国の別種なり」との記述を取り上げ、
  「倭国やまと日本の朝廷日本=東北の国家」としています。

  東北大学の高橋富雄 名誉教授の研究チームの みちのく市民博物館の伊藤良治 事務局長の意見としても(奈良時代に)
  日本の「東」というのは、今の東北地方。新唐書にも旧唐書にも、間違いなく「日本」というのは東北のことを指すのだという
  風な事で、私たちは受け止めておりますという意見を取り上げていました。






  ところが、同局で以前(2009年頃?)放送した同シリーズの『歴史ミステリー』では、旧唐書の「日本国は倭国の別種なり」との
  記述を取り上げ、「日本=関東日本王国」と主張していました。詳しくは↓のリンクで動画をご覧ください。

  テレビ東京 歴史ミステリー 関東に謎の日本王国があった? http://youtu.be/eX2--1T383g

  番組では旧唐書(後晋936~946時代の945年に成立した唐618~907時代の正史の一つ)、新唐書(宋960~1276時代の
  1060年に成立した唐の正史の一つ)を取り上げていますが、何故か、それ以前に書かれた隋書(唐時代の636年に成立した
  隋の歴史書)には触れていません。

  では、広辞苑の記述などから検証していきましょう。


  日本 飛鳥時代 6世紀末~7世紀前(推古天皇の在位592~628年頃から)、飛鳥京(6世紀末~7世紀末)と
           藤原京(694~710年)時代。
      奈良時代 710~784年(平城京、784年に長岡京に遷都するまで)。
      平安時代 平安京へ遷都した794年~鎌倉幕府成立(1185 or 1192年)頃までの約400年間。

       遣隋使 607年、608年、614年  遣唐使 630~894年

  中国 隋 581~619年、 唐 618~907年、 後梁こうりょう 907~923年、 後唐 923~936年、 
      後晋こうしん 936~946年、 南唐 937~975年

  【北斉】ほく‐せい 550~557年
   中国、南北朝時代の北朝の一国。東魏の大丞相 高洋が孝静帝に迫り、帝位を奪って建国。
   6世で北周ほくしゅうの武帝に滅ぼされた。南朝の斉に対し北斉と呼ぶ。都は鄴ぎょう

  【隋】ずい 581~619年
   中国の王朝の一つ。北周の武将の楊堅(文帝)が静帝の禅譲を受けて建てた。都は大興
   (長安)。陳を併せて南北を統一(589年)、中央集権的帝国を樹立したが、2世煬帝ようだい
   の末から乱れ、3世で滅んだ。
   律令・科挙などその諸制度は唐制の基礎となり、また、日本と国交を結んだ。

  【唐】とう(618~907) 中国の王朝李唐
   隋の次にできた王朝。唐国公の李淵(高祖)が隋の3世恭帝の禅譲を受けて建てた統一王朝。
   都は長安。均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令制度が整備され、政治・文化が
   一大発展を遂げ、世界的な文明国となった。20世哀帝の時、朱全忠に滅ぼされた。

  【北斉書】ほくせい‐しょ
   二十四史の一つ。北斉一代の史書。本紀8巻、列伝42巻。唐の太宗の命により李百薬の撰。
   636年成る。

  【隋書】ずいしょ
    二十四史の一つ。隋代を扱った史書。本紀5巻、志30巻、列伝50巻。
   特に「経籍志」は魏晋南北朝時代の図書目録として貴重。の魏徴らが太宗の勅を奉じて撰。
   636年成る。志30巻は656年に成り、後に編入。

  【隋書倭人伝】〈岩波文庫〉
  新羅・百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒(つね)に通使・
   往来す。大業三年、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す。
   使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、
   兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。
   その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)
   なきや、云云」と。
   帝、これを覧(み)て悦ばず、鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、
   復た以て聞するなかれ」と。

  【後唐】・・・中国五代の一国。都は洛陽。(923~936)

  【後晋】こう-しん、ご-しん (936~946)
   中国、五代の一国。石敬瑭せきけいとうが後唐を滅ぼして建てた国。
   都は東京とうけい(河南開封かなん-かいほう)。2世で遼(916~1125年 契丹族)に滅ぼされた。

  【旧唐書】くとうじょ 
   二十四史の一つ。唐代の正史の一つ。本紀20巻、志30巻、列伝150巻。
   五代の一国 後晋の劉昫りゅうくらの奉勅撰。945年成る。

  【南唐】・・・中国五代十国の一つ。都は金陵(南京)。(937~975)










  【新唐書】しんとうじょ 単に「唐書」とも呼ぶ。
   二十四史の一つ。唐代の正史。旧唐書の欠を補い補修したもの。本紀10巻、志50巻、表15巻、列伝150巻。
   1060年、宋(960~1276)の仁宗の時、欧陽修・宋祁そうきらの奉勅撰。

  実は、『世界遺産 “三大迷宮”ミステリーⅡ』の「日本国は倭国の別種なり」との記述を取り上げている同ヵ所で、
  すでに矛盾があります。

  日中歴史共同研究委員会の王わん教授が、新唐書に「使者、與 蝦夷人 偕朝」と指摘している。
  東北の使者が唐の都に謁見しにやってきた」 なんと、倭国やまととは別に、東北の人々が唐に謁見に来ていたというのだ。

  東北が日本国であれば、「蝦夷人」と書いているのは何故なんでしょうか? 蝦夷=日本という記述も無いようですが…。






  また新唐書の日本国は倭国の別種なり」の続きで「その国は日の出の場所に在るのを以て、故に日本と名づけた
  とも紹介しています。

  そして、新唐書の日本は小国で、倭に併合された故に、その號(ごう、よびな)を冒すを紹介し、東北が「日本」という
  呼び名を倭国に奪われたとしていました。

  新唐書より424年前に書かれた【隋書の倭人伝】での「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」(飛鳥時代に
  聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣した時に隋の皇帝に送った手紙の内容です)の記述を新唐書にも書いたものだと
  思われます。

  隋書が書かれたのは、日本の遣唐使によって交流があった唐時代。
  新唐書が書かれたのは1060年で日本とは交流が無い時代。平安中期の日宋貿易は、平清盛(1118~1181)が大輪田の泊とまり
  (神戸港)を開いて瀬戸内海航路を整備してからの事です。 隋書の方が正しい可能性が圧倒的に高いと言えます。

  旧唐書「日本国は倭国の別種なり」の記述は隋書の記述との矛盾が生じ、「日本国=東北」「日本国=関東」と断定するのは
  無理があります。

  日本国は対等な外交を要求してきた、しかし中国にとっては日本列島にあった倭国は朝貢していた属国のイメージの思い込み
  しかなかったので、混乱が生じ別だと感じたのでしょう。
  だから、旧唐書に「…あるいは、…あるいは」という複数説が書かれてあるのだととも思えます。

  もしくは、「倭国=九州」「日本=畿内の大和政権」という考え方もできます。

  古代の日本の別名各種および、大和=倭國=邪馬台の解説 (和漢才図会)  原文あり

  江戸時代中期1712年刊の『和漢三才図会』(大坂の医師 寺島良安 著) の六十四巻「地の部」の『大日本國』には、
  大和国は神武天皇が王業を以て号した。その後、後世の本名は唯「大和」と総じて呼ぶ。
  大倭国と言うのは漢人が誤って呼んだか、「倭」と同音だった為。「邪馬壹」あるいは「邪馬堆」共に唐の音である。
  然るに後漢書光武の下に「倭奴國」とあり、その「奴」の一字を加えたのは者何耶 (←訳せない)
  東国通鑑(朝鮮国の史なり)によると、倭国は改めて日本と称した。日の出る所が近いので自ら名とした。
  この事は唐書(広辞苑によると一般的に新唐書を指すそうです。)にも書いてあるが如し。






  【遣隋使】けんずい‐し
   大和政権から隋へ派遣された使節。日本側の記録では推古天皇時代の607年・608年に小野妹子ら、614年に犬上御田鍬ら
   と計3回だが、中国側の記録では600年にも派遣されている。6回派遣されたとする説もある。

  【小野妹子】おの‐の‐いもこ (生没年未詳)
   飛鳥時代の官人。遣隋使となり607年隋に渡り、608年 隋使の裴世清はいせいせい (隋末・唐初の官人) とともに帰国。
   608年 隋使・留学僧らとともに再び隋に赴く。隋では蘇因高そいんこうと称した。609年帰国。 墓誌の出土した毛人えみしの父。

  【犬上御田鍬】いぬかみ‐の‐みたすき (生没年未詳)
   飛鳥時代の官人、最初の遣唐使。614年隋に使し、630年唐に赴き632年帰国。


  ≪ 旧唐書などの原文を確認 ≫  下のリンクのサイトには、中国の各歴史書の日本に関する記述の原文と訳文が載っています。

  そのサイトの『隋書』『唐会要』『 旧唐書』『新唐書』 倭国・日本国伝の各ページをご覧下さい。
  番組では主張にそぐわない記述をカットしている事が確認できます。その検証部分に必要な記述のみ抜粋しました。
  他にも日本の様子が書かれてあるので、全文を読むことをオススメします。  緑の文字が番組が取り上げていた記述の文章。

  中国の正史と言われる二十四史の一覧で成立した年代と関連する国の成立年間を確認してみましょう。



  【北史】ほくし
   北朝の魏・斉・周・隋の歴史を一つにまとめたもの。本紀12巻、列伝88巻。唐の李延寿撰。

  【南史】なんし
   宋・南斉・梁・陳の4史を要約し、南朝4代170年間の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝70巻。唐の李延寿撰。

   後漢25~220年、 魏220~265年、 (西晋、東晋)265~420年、 宋420~479年、 南斉479~502年、 502~557年、
   557~589年、 (中国統一)581~619年、 唐(中国統一)618~907年、 北斉550~577年、 北周557~581年

  後漢の方が魏より先にあった国ですが、国史が編纂されたのは魏より後の事です。
  梁書陳書北斉書周書隋書 は、636年の唐で編纂。 晋書は648年、北史南史は659年で全て唐で編纂されています。
  倭人伝のある書の内容は非常に似通っており、三国志の魏志倭人伝、宋書、隋書、旧唐書、新唐書の5史が重要になります。


   倭 人 伝 ・ 倭 国 伝 http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun-mokuji.htm

  ≪ 『宋書』倭国伝 ≫ 488年

   倭國在高驪東南大海中、世修貢職。  高祖永初二年、詔曰:「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」
   太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。  讚死、弟珍立、遣使貢獻。
   自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。
   珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。

   倭国は高句麗の東南の大海中に在り、代々貢職を修める。  高祖の永初二年(421年)、詔に曰く「倭の讃、万里を越えて
   貢献を修める、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべきなり」。
   太祖の元嘉二年(425年)、がまた司馬の曹達を遣わし、奉表して方物を貢献した。
   讃が死に、弟のが立つと、遣使を以て貢献した。
   使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する。
   上表して正式な除爵を求め、詔を以て安東将軍、倭国王に叙爵した。珍はまた倭隋ら十三人に平西、征虜、冠軍、
   輔国将軍号の正式な除爵を求め、詔を以てすべて聞き届けた。

  421~478年にかけて「讃」「珍」「済」「興」「武」が宋に遣使しています。
  この倭の五王が通説通り天皇だとすれば、この時点で『倭=大和政権』なので、旧唐書の『倭国と日本国は別種なり』の
  記述を以て「倭国と日本国の2つが並立していたとは解釈できなくなるはずです。

  ヤフー知恵袋 「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍」
   http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q

  使持節は、将軍が皇帝から節刀を預かり、一定の権限を委譲される時に、その権限の大小に応じて使持節、持節、仮節
   という差をつけたもののうちの最上位です。
   都督は、元々は軍の司令官という意味です。(南朝宋では単なる称号になっていたようですが、この場合は、元の意味と
   考えてよいと思います。)ですから、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓という地域の軍の司令官という意味ですね。

   安東大将軍の「安東」は、南朝宋の、将軍と付く称号の内、大将軍→驃騎将軍→車騎将軍→衛将軍の、更にその下の
   四征 (征北、征東、征西、征南)、四鎮、四安のうち、序列が最下位の称号です。

  知恵袋の回答では、まだ続きはありますが、結論としては、宋から与えられる称号は適当なので、高句麗や百済との
  優劣はないそうです。

  石井正敏 中央大学教授 『5世紀の日韓関係-倭の五王と高句麗・百済-』
   http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-03-ishii_j.pdf


  ≪ 『倭国=九州』『日本=大和政権』 並立説 ≫   「日本」と呼ばれるルーツは東大阪市にあった

  いくつかのサイトで、別種説を見ましたが、663年の白村江の戦いにおいて、日本(大和政権)は参加せず、倭国(九州)
  だけが戦い敗戦した結果、力を失い大和政権にとって代わられたのではないか? と、推理していました。
  倭国=九州説であるなら、倭の五王も九州の王の可能性も出てきます。

  ちなみに、この説を裏付けるような 『法隆寺の五重塔移築説』というのがあります。

   法隆寺は607年に創建されますが670年に焼失。2001のX線検査で五重塔の心柱には594年に伐採された木が使用されて
   いる事が分かりました。
   福岡の大宰府にある観世音寺はかつて本堂と五重塔があり、その五重塔跡と法隆寺の五重塔の大きさが酷似。
   さらに瓦の模様も酷似している事から、大和政権が九州を制圧した時に戦利品の一つとして移築したのではないか?
   というものです。

  石井正敏 中央大学教授 『5世紀の日韓関係-倭の五王と高句麗・百済-』
   http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-03-ishii_j.pdf によると、

   1978年に埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘文の解読から、倭の五王のうち『武=雄略天皇』という事がほぼ確実に
   なったようです。






  しかし、そうなると 『神功皇后の熊襲(熊本&鹿児島)征服と三韓征伐』や『大和政権の物部氏が平定したといわれる
  6世紀前半の磐井の乱』の解釈も変えなければならなくなります。

  また、奈良県の3~4世紀の纏向遺跡では、出土した多くの土器は関東~九州北部や北陸・四国などの広い地域のものです。
  遺跡全体が東西2㎞、南北1.5㎞の都市のような姿で、3世紀(今まで発掘されている中では)では最大の建物があった事が
  分かっています。それは卑弥呼がいた3世紀前半と一致します。

  九州が倭国(邪馬台国)だとすれば、纏向遺跡は邪馬台国と争って勝利した狗奴国しか考えられません。
  そうなると、狗奴国とされている愛知県一宮市の萩原遺跡群は? という疑問が出てきます。

  九州で力を持っていた伊都国(福岡県糸島市の潤地頭給遺跡)は他の住居と違い高床式住居で纏向遺跡と同じ。
  また水路の工法や日本各地から土器が集まっているのも同じそうです。
  最新の発掘研究では、2世紀の伊都国(倭国の有力国)が3世紀に奈良へ遷都(邪馬台国)したと考えられています。


  http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm  Wiki 隋書

  ≪ 『隋書』倭国・日本国伝 ≫ 636年

   有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。
   新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。

   阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異なことだとし、因って祭祀を執り行う。
   如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。
   新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。

   大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」
   其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」

   大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、
   故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
   その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。
   鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。

   明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、
   又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、
   皆附庸於倭。

   翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した百済を渡り、竹島に行き着き、南に羅国を望み、
   都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。
   そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。
   竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。


  【阿蘇】あそ
   熊本県北東部、阿蘇山の北麓に位置する市。稲作と高原野菜栽培、牛の放牧が盛ん。観光資源にも富む。人口3万。

  まず、阿蘇山がある九州は、大国である倭国の範囲である事が分かります。
  607年に中国は、遣隋使を送ってきた倭国(大和政権)が「日本」という国号を名乗った事を認識しています。
  608年に隋の使者が倭国を訪れていますが、隋書と魏志倭人伝に記載されている国々の名前で一致するものは一つも
  ありません。
  まとめが書かれた北史の邪馬台国への道程記述には、隋書の一支国(魏志では一大国)が登場しています。


  http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun10-kyutosho.htm  Wiki 旧唐書

  ≪ 『旧唐書』倭国・日本国伝 ≫ 945年

   日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、
   併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
   又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。

    日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自ら
   その名の雅ならざるを憎み改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
   そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
   また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、
   山の外は、すなわち毛人の国だという。

  毛人=蝦夷の事です。 【毛人】もう‐じん … (毛深い人の意)蝦夷えぞの古称。


  http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun12-tokaiyo.htm  Wiki 唐会要

  ≪ 『唐会要』倭国伝 ≫ 961年

   日本。倭國之別種。以其國在日邊。故以日本國為名。或以倭國自惡其名不雅。改為日本。或云日本舊小國。
   呑併倭國之地。其人入朝者。多自矜大。不以實對。故中國疑焉。

   日本。倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではない
   ことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、
   多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。

   蝦夷。海島中小國也。其使至鬚長四尺。尤善弓箭。插箭於首。令人戴瓠而立。數十歩射之。無不中者。顯慶四年十月。
   隨倭國使至入朝

   蝦夷。海の島の中の小国である。そこの使者は鬚の長さ四尺。最も弓射に練達している。首の後ろに矢を挿し、
   人に戴瓠を載せて立たせ、数十歩の先からこれを射る。的中さぜるはなし。 顕慶四年(659年)十月。
   倭国の使者に随伴して入朝した。


  http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm  Wiki 新唐書

  ≪ 『新唐書』倭国・日本国伝 ≫ 1060年

   日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木為柵落、
   以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部。

   日本は、古の倭奴なり。京師から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島に暮らしている。東西には五カ月の
   行程、南北には三カ月の行程。国に城郭はなく、連ねた逆木で柵落と為し、草茨で屋根とする。左右の小島は五十余り、
   皆、自ら国と呼んでおり、これに臣下が付随している。本率を一人置き、諸部を検察させている。

   明年、使者與蝦蛦 人偕朝。蝦蛦亦居海島中、其使者鬚長四尺許、珥箭於首、令人戴瓠立數十歩、射無不中。
   天智死、子天武立。死、子總持立。

   翌年、使者が蝦夷人とともに来朝。蝦夷もまた島の中で暮らしており、その使者は鬚の長さ四尺ばかり、箭を首の耳輪の
   辺りに構え、人に瓠を載せて数十歩先に立たせ、射って的中せざるはない。天智が死に、子の天武が立った。
   死に、子の総持が立った。

   咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、
   為倭所并、故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。

   咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。
   使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、
   その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。
   またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。


  ≪ 毛人とは? ≫  Wiki 毛野

  縄文と古代文明を探求しよう! 『「毛人」とは何者なの?』 http://web.joumon.jp.net/blog/2009/01/716.html
   ↑ 詳しくはリンク先で全文をご覧ください。

  利根川、太日川、毛野川の流域一帯は一体となった文化圏を形成しており、これを毛野国といいました。
  「毛野国」は「毛の国」であり、もともとは「毛人国」で、この名を名づけたのは3世紀に進出してきた大和王権で、
  その名の由来は「毛人の住む国」です。
  糸静線より東の東北日本の住民のことを大和王権の人間は「蝦夷(えみし)」と呼んだわけですが、「えみし」を
  「蝦夷」という漢字で表記するようになったのは7世紀以降のことであり、それ以前は「毛人」と書いて「えみし」と
  読んでいました。
  そもそも大和王権の人間が最初に東北日本の住民と接触したのがおそらく3世紀のことであったので、
  この時に彼らを「えみし」と呼び、それに「毛人」という漢字をあてるようになったのでしょう。

  【毛人】もう‐じん … (毛深い人の意)蝦夷えぞの古称。


   番組を面白くする為なら、こういった都合の良い部分だけを抜き出して紹介するメディアの手法は、各局で日常的に
   行われています。
   特に、歴史ねつ造や偏向報道のような実際とは異なり過ぎる印象を持たせる内容は『演出』では済まされません。
 
 日本の金の一大産地だった 東北の金は奈良の大仏に使われた
  テレビ東京 『世界遺産 “三大迷宮”ミステリーⅡ』 13.09.20 放送 
   PANDORA (韓国の無料動画サイト) 世界遺産 “三大迷宮”ミステリー 『奈良の大仏 造立の謎』  82分20秒頃~115分08秒まで
    http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ref=em_over&ch_userid=codeno001&prgid=49087252&linkskip=

  ≪ 藤原氏と東北 ≫  Wiki 藤原宇合  Wiki 藤原麻呂  Wiki 大野東人

  719 (養老3) 年7月の按察使設置時に常陸守として安房、上総及び下総3国の按察使に任命されます。
  737 (天平9) 年 藤原の麻呂が、持節大使に任ぜられ、陸奥按察使兼鎮守将軍の大野東人とともに多賀柵より雄勝村を
  経由する陸奥国から出羽国への直通路の開削事業を行いました。

  【藤原宇合】うまかい(694~737) 不比等の第3子式家の祖
   遣唐副使・常陸守・西海道節度使より参議・式部卿兼大宰帥に至る。万葉集・懐風藻等に作品がある。
   常陸風土記完成に関係したか?

  【藤原麻呂】まろ(695~737) 不比等の第4子京家の祖
   参議。持節大使として陸奥の蝦夷征討に尽力したが、疫病で没。

  【大野東人】おおの‐の‐あずまひと(~742)
   奈良時代の武人。陸奥鎮守府将軍・按察使となり、蝦夷を討ち、多賀城を築く。740年(天平12)藤原広嗣を討伐。

  【多賀城】たが‐じょう
   奈良時代、蝦夷に備えて、現在の宮城県多賀城市市川に築かれた城柵。東北地方経営の拠点として国府・鎮守府を置く。
   政庁を中心とした内郭や方1キロメートル余の外郭の土塁が残る。城跡は国の特別史跡。

  1712 (正徳2) 年の『和漢三才図絵』(著者は大坂の医師 寺島良安、羽後生まれ) の巻第六十五 「陸奥・出羽」の「多賀城
  では、神亀元年(聖武天皇時代の724年)に大野朝臣東人(按察使兼鎮守将軍、従四位上・勲四等)が設置し、天平宝字六年
  (762年)に、藤原恵美朝臣朝〔亻+葛〕(参議・按察使鎮守将軍、従四位上)が修造したと書いてあります。

  参議は朝廷の議会に参加できる身分で官位が四位以上の者が任じられ通常8人。大納言や中納言に次ぐ役職。

  【按察使・按察】あぜち(アンセチシの約)
   奈良時代、諸国の行政を監察した官。719年(養老3)創設。
   特定の国司の兼任。後には陸奥・出羽だけ実態を残し、他は大中納言の兼ねる名義だけの官となる。

  万葉古代研究所の元副所長で早稲田大学の講師 松尾光さんによると
   藤原氏は東北の発展に寄与し、つながる事で高い技術と豊富な資源、労働力を得る事ができ、都で大きな力を持つことが
   できたそうです。






  しかし、Wiki大野東人や広辞苑の記述からすると、友好と言うより武力で蝦夷を帰順させたようです。

   720(養老4)年に発生した蝦夷の反乱(征夷将軍・多治比縣守により鎮圧)後、大野東人は、蝦夷開拓の本拠として
    多賀柵を築きます。

   737(天平9)年1月 陸奥按察使兼鎮守将軍の任にあった東人は、多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させるために、
    その経路にある男勝村の征討許可を朝廷に申請した。これに応じて兵部卿藤原麻呂が持節大使に任じられ、2月に関東
    6カ国の騎兵1000騎を率いて多賀柵へ到着した。
    3月から4月にかけて、東人は騎兵のうち精鋭196騎、鎮兵499人、陸奥国兵5000人、帰順した蝦夷249人を率いて遠征に
    出発、奥羽山脈を横断し、男勝村の蝦夷を帰順させて奥羽連絡通路を開通した。

  【藤原広嗣】ふじわら‐の‐ひろつぐ(~740) 宇合の子。
   奈良時代の貴族。大宰少弐。不比等の4子の没後、吉備真備・僧玄げんぼうを除き藤原氏の勢力を挽回しようとして、
   大宰府で挙兵したが敗れ、肥前で斬。


  蝦夷史 北方民族(アイヌ民族) http://www.geocities.jp/yasunobuogawa/rekisi.htm
  大伴家持の世界 「対蝦夷政策史略年表 811(弘仁2)年まで」 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/emisi.html


  ≪ 奈良時代の8世紀から黄金の国だった奥州 日本初の黄金産出地 ≫   Wiki 黄金山神社 (涌谷町)

  黄金山神社(こがねやまじんじゃ)は宮城県遠田郡涌谷町黄金迫(こがねはざま)に鎮座する神社。

   740年代、平城京で聖武天皇が大仏塗金のための黄金を切望していた。当時、日本国内では金は採れないとされ、
   全て輸入に頼っていた。

   まさにその時、陸奥国守百済王敬福が管内の小田郡で産出した黄金900両を貢上した。天平21年(749年)正月4日の
   ことであった。
   900両もの砂金を収集し、奈良の都まで運ぶためには1年から2年の歳月が必要であり、実際に砂金が発見されたのは
   747年頃と考えられる。
   この黄金発見によって東大寺大仏は無事完成し、小田郡は永年、陸奥国は3年間免税とされた。

   産金関係者に位が授けられたとき、日下部深淵は外少初位下に叙された。これより後、天平神護年間まで(767年)に、
   現在の黄金山神社の場所に瓦葺の仏堂が造られた。神社は黄金山神社と名を改め、延喜式に小座として記載された。




『日下部』とは、もともと仁徳の皇子 大日下王おほくさかのみこ
若日下王わかくさかのみこのために設けられた御名代部みなしろべ
後には天下の大姓たいせい(その土地で勢力ある家柄)と
なります。

  【名代】な‐しろ
   大化(645~650)前代の皇室の私有民。諸国の国造くにのみやつこの民の一部を割さいて、皇族名をつけ、その租税を
   皇室関係の経費とする。子代こしろとの別は未詳。みなしろ。


  ≪ 奈良の大仏に使われた東北の金 ≫

  749年、宮城県涌谷町で日本初の金が産出され、奈良の大仏に約440㎏の金が使用されます。1105年に創立された
  中尊寺の金色堂も同じ東北で産出された金が使用されています。

  8世紀頃の日本で産出される金のほとんどが、宮城県北部の涌谷町一帯、気仙沼地域と、岩手県南部の平泉一帯で採れる金で
  占められました。






  源平の争乱で1180年に大仏は火災に遭い再建されますが、金が足りず頭の部分しか金が施されませんでした。
  東北の金の調達を依頼されたのが西行法師でした。奥州藤原氏は藤原秀郷の子 千晴の末裔、西行は秀郷の子 千常の
  末裔で、遠縁関係にあたります。また西行が東北を旅をした時に顔見知りになっていたらしいです。

  【奈良の大仏】
   東大寺大仏殿にある同寺の本尊。華厳経の教主 毘盧舎那仏びるしゃなぶつの金銅坐像で、高さ14.85メートル。
   聖武天皇の発願により749年(天平勝宝1)鋳造完了。752年開眼供養。
   その後1180年(治承4)・1567年(永禄10)兵火にあい改鋳され、台座蓮弁の一部などだけが当初のもので、胴身の一部は
   鎌倉、頭首は元禄時代のもの。 奈良時代から残る台座の部分には、使用された金の部分が現在も残っているそうです。


  ≪ 大仏造立に使われた高度な金箔技術 アマルガムとは ≫  Wiki アマルガム

  金と水銀を混ぜたものを大仏の表面に塗り、熱して水銀を蒸発させて金だけを残すメッキ技術で、非常に高い防錆効果が
  あります。この技術が価格的に解明されたのは近年になってからの事だそうです。

  【アマルガム】amalgam 汞和金こうわきん
   (ギリシア語の「やわらかい物質」に由来)水銀と他の金属との合金。鉄・白金・タングステン・ニッケル・マンガンなどの
   高融点金属との間にはできにくい。

  【アマルガム法】混汞こんこう法。
   金・銀の精錬法の一つ。金銀鉱石を水銀に接触させてアマルガムをつくり、これを蒸留して金または銀を
   回収する。古くから用いられ、比較的粗粒の鉱石に適する。






  岩手県立博物館にある国の重要文化財に指定されている銅造観音菩薩立像は、県内の寺で発見された高さ27.3㎝の古代の
  金銅仏像。奈良の大仏と同じアマルガム技術によって金メッキが施されていました。

  その特徴は、銅造鍍金、着衣形式や装身具の意匠など、7世紀末頃の法隆寺金堂壁画の菩薩像と共通し、中国の初唐から
  盛唐にかけての仏像様式。作られた詳細な年などは不明ですが、これらの事から奈良の大仏より約60年早い690年代頃と
  推測しているようです。

  ※ 690年代だとすれば、日本最初の金の産出以前になるので、輸入された金を使用したか、外国から持ち込まれたかの
    どちらかになります。

  発祥の地コレクション 『舞草古鍛冶発祥之地』 http://hamadayori.com/hass-col/art0/MokusaKokaji.htm

  ≪ 日本刀の発祥地 舞草もくさ神社 ≫  Wiki 鍛冶

  平安時代に創建された岩手県一関市舞川にある舞草もくさ神社は日本刀をつくる鍛冶
  発祥地とされています。

  奈良時代初期に刀鍛冶の集団がこの辺りに存在し、日本刀の原型が作られていたと
  言います。

  延喜式にも記述があり、源義家らの武士団や京都の近衛兵などが実戦型の反りがある
  舞草刀を「奥州刀」として愛用していたとされています。
  藤原氏滅亡とともに 技術が分散していったとされるそうです。

 
 東北38年戦争とアテルイ
  NHK大阪 歴史ヒストリア 『春はすぐそこ ! 世界遺産SP ~秘められた日本人のドラマ~』 14.03.12 放送
  NHK Eテレ 高校講座 日本史 『平安京の時代』 14.05.30 放送 / NHK 高校講座 日本史 『武士の登場』 14.06.13 放送

  ≪ 「蝦夷」と呼ばれた東北の先住民 ≫  Wiki 蝦夷 

  岩手県奥州市の埋蔵文化財調査センターに蝦夷えみし」と、
  律令政府から呼ばれた人たちの資料が展示されています。

  出土品から、蝦夷も野蛮とか未開ではなく、律令社会の
  人々と変わらない生活をしていたと推測されるそうです。


  【蝦夷】 えみし → 後に「えぞ
   「えみし」と言われるのは、古代の奥羽から北海道にかけて住み、言語や風俗を異にして中央政権に服従しなかった人びと。
   「えぞ」は、北海道の古称。蝦夷地。

  【大野東人】おおの‐の‐あずまひと(~742) Wiki 大野東人
   奈良時代の武人。陸奥鎮守府将軍・按察使となり、蝦夷を討ち、多賀城を築く。740年(天平12)藤原広嗣を討伐。

  【多賀城】たが‐じょう
   奈良時代、蝦夷に備えて、現在の宮城県多賀城市市川に築かれた城柵。東北地方経営の拠点として国府・鎮守府を置く。
   政庁を中心とした内郭や方1キロメートル余の外郭の土塁が残る。城跡は国の特別史跡。

  【壺の碑】つぼ-の-いしぶみ
   ① 宮城県にある多賀城碑の古称。
   ② 青森県上北郡天間林村(現、七戸町)にあったと伝える古碑。坂上田村麻呂が蝦夷征討に際して建てたという。

  Wiki 日本中央の碑
  1949年(昭和24年)6月21日、当時甲地村であった石文集落近くの赤川上流で千曳在住の川村種吉により発見された、
  高さ1.5mほどの自然石に「日本中央」と刻まれた碑である。発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物のつぼのいしぶみで
  あるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。
  これは、袖中抄の記述とは一致するが常識とは違う「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、坂上田村麻呂が現地に到達
  した伝承がないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形も鑑定に影響を及ぼしている。

  近代では「中央」という固有名詞が多数存在しますが、呼んだ事がある江戸時代の各文献では無かったような気がしますので、
  「中央」という熟語は、たぶん明治時代に造られたものではないか? と思います。
  明治以前に「中央」という言葉が見つからなければ、ニセ物と断定できそうです。

  蝦夷史 北方民族(アイヌ民族) http://www.geocities.jp/yasunobuogawa/rekisi.htm
  大伴家持の世界 「対蝦夷政策史略年表 811(弘仁2)年まで」 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/emisi.html

  【孝謙天皇】こうけん‐てんのう(718~770)名は阿倍あべ。 聖武天皇の第2皇女。母は光明皇后。
   奈良後期の女帝(在位749~758)。高野天皇とも。藤原仲麻呂・道鏡を重用。淳仁じゅんにん天皇に譲位。
   のち重祚ちょうそ(天皇に復帰する事)して称徳天皇(在位764~770)。

  【光仁天皇】こうにん‐てんのう(709~781)名は白壁しらかべ。 天智天皇の皇孫。施基しき親王の第6王子。
   奈良後期の天皇(在位770~781)。藤原百川らにより擁立され、和気清麻呂を召還して改革を行う。


  ≪ 東北38年(774~811年)戦争 ≫  Wiki アテルイ  Wiki 蝦夷征討

  宝亀元年(770年)には蝦夷の首長が賊地に逃げ帰り、翌2年の渤海使が出羽野代(現在の秋田県能代市)に来着したとき
   野代が賊地であったことなどから、宝亀年代初期には奥羽北部の蝦夷が蜂起していたとうかがえるとする研究者もいるが
   光仁天皇以降、蝦夷に対する敵視政策が始まっている。

   宝亀5年(774年)には按察使 大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争とも呼ばれる
   蝦夷征討の時代となる。一般的には4期に分けられる。

  【按察使・按察】あぜち(アンセチシの約)
   奈良時代、諸国の行政を監察した官。719年(養老3)創設。
   特定の国司の兼任。後には陸奥・出羽だけ実態を残し、他は大中納言の兼ねる名義だけの官となる。
 

 

 

789年の巣伏の古戦場跡


  【阿弖流為・阿弖利為】アテルイ (~802)
   平安初期、北上川流域を支配した蝦夷の族長。789年大和朝廷軍を破る。802年征夷大将軍 坂上田村麻呂に降り、
   河内国杜山で斬殺された。

  【蝦狄】えみし 用例.JP http://yourei.jp/%E8%9D%A6%E7%8B%84
   この区別は後に出羽国と陸奥国の管轄になって平安時代まで踏襲されたが、字は北の異民族を指す「狄」に変わり
   「蝦狄」とも書かれるようになった。
   平安時代初期までは、蝦夷を出羽側の「蝦狄」と陸奥側の「蝦夷」に分けて記録されており、後に陸奥国となる紫波郡が
   出羽国管轄の「志波村」とされているなど陸奥との境界は不分明であったが、平安時代末期には奥州藤原氏の支配を
   通じて出羽国府の直接管轄地以北が陸奥国として整理されたと見られている。
   これは管轄する国による人工的区分で、越後国所轄の日本海側と北海道のえみしを蝦狄・狄、陸奥国所轄の太平洋側
   のえみしを蝦夷・夷としたのである。


  ≪ 日本最初の征夷大将軍 坂上田村麻呂 ≫  Wiki 坂上田村麿

  律令政府は東北へと支配地域を広げますが、それに抵抗した最も有力な部族長がアテルイでした。
  3回にわたり蝦夷と律令政府軍との戦いが行われました。

  789年、岩手県奥州市の巣伏すぶせで、アテルイの蝦夷軍と、朝廷軍の最初の戦いが行われます。
   朝廷軍は1000人以上の死者を出し大敗北。
  801年、律令政府の桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍として3度目の蝦夷討伐遠征を行います。

 

 胆沢城の中心部の1/100模型

志波城跡

 


  田村麻呂は胆沢地域の蝦夷を制圧し、支配の拠点となる城柵じょうさくを築きました。塀と溝で囲まれた胆沢城は46万㎡
  (東京ドーム9つ分)の広さ。中心部の政庁では儀式なども行われ、役所では税の徴収も行われました。

  アテルイは、何度か朝廷軍を追い返すものの、巨大な胆沢城を目にし降伏する事になります。都に連れて行かれた
  アテルイは大阪で処刑されることになりました。

  【坂上田村麻呂】さかのうえ‐の‐たむらまろ (758~811)
   平安初期の武人。征夷大将軍となり、蝦夷征討に大功があった。正三位大納言に昇る。また、京都の清水寺を建立。

  木接太夫 桃山時代に接ぎ木の技術を確立した坂上頼泰 (坂上田村麻呂の子孫で秀吉に仕えた武将)

  【征夷大将軍】せいい‐たいしょうぐん
   ① 平安初期、蝦夷えぞ征討のために派遣された将軍。797年(延暦16)坂上田村麻呂が任命されたのが初の確かな例。
   ② 源頼朝以後、鎌倉・室町・江戸幕府にいたる武家政権の首長の称号。

  【胆沢城】いさわ‐じょう
   802年(延暦21)陸奥鎮定のために坂上田村麻呂の築いた城。のち鎮守府を置く。岩手県奥州市水沢区に城跡がある。

  更に田村麻呂は、803年に盛岡市に志波城の城柵を築きます。広さは東西、南北とも800m以上あり、胆沢城を凌ぐ
  東北最大級の城柵でした。こうして、蝦夷も律令国家に組み込まれていきました。

  【志波城】しわ‐じょう
   蝦夷鎮定のため坂上田村麻呂により803年(延暦22)に築かれた城柵。遺跡は盛岡市の太田方八丁遺跡といわれる。
   のち徳丹城(岩手県紫波郡矢巾やはば町徳田)に移る。


  ≪ なぜ38年間も戦う事ができたのか? ≫

  東北語版ブログ 『アテルイと38年戦争』 http://blogs.yahoo.co.jp/abe_sadato/62467234.html

  下の広辞苑の解説は、上記リンク先のブログをご覧になられた時の参考です。

  【靺鞨】まっかつ
   ツングース族の呼称の一つ。周の粛慎、漢・魏の唈婁ゆうろう、南北朝の勿吉もっきつなどはみな旧称で、この名称が
   起こったのは6世紀後半。
   有力な部族が7部族あり、その一つである粟末ぞくまつ靺鞨族の支配者、大祚栄が中心になって渤海国が起こり、
   また、黒水靺鞨はのちに女真と称した。

  【渤海】ぼっかい(698~926)
   8~10世紀、中国東北地方の東部に起こった国。高句麗こうくりの遺民ともいわれる大祚栄だいそえいが靺鞨族を
   支配して建国。
   唐から渤海郡王に封ぜられ、その文化を模倣し、高句麗の旧領地を併せて栄え、727年以来しばしば日本と通交。
   15代で契丹に滅ぼされた。都は上京竜泉府(黒竜江省寧安市)以下の5京があった。

  【女真】じょしん
   中国東北地方から沿海州方面に居住したツングース系の民族。隋・唐代には靺鞨といい、黒竜江地方に散在。
   五代の頃より女真と称し、のち女直ともいう。1115年完顔ワンヤン部の首長阿骨打アクダが金を建国し、宋に対抗。
   後に清朝を興した満州族も同一民族である。
   
 奥州 藤原氏 と 平泉文化
  テレビ東京 『世界遺産 “三大迷宮”ミステリーⅡ』 13.09.20 放送 
   PANDORA (韓国の無料動画サイト) 世界遺産 “三大迷宮”ミステリー 『奈良の大仏 造立の謎』  82分20秒頃~115分08秒まで
    http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ref=em_over&ch_userid=codeno001&prgid=49087252&linkskip=

  NHK 高校講座 日本史 『武士の登場』 14.06.13 放送 など Wiki 前九年の役  Wiki 後三年の役 Wiki 安倍氏 (奥州)

  ≪ 平安時代後期の奥州 ≫ 奥州 … 今の福島・宮城・岩手・青森の4県と秋田県の一部に当たる。

  前九年の役・後三年の役の後の奥州の平泉 (岩手県の南部) では、東北の豪族である清原氏が「藤原」姓を名乗り、
  3代に渡って京風の貴族文化を取り入れて繁栄。






  【前九年の役】ぜんくねん‐の‐えき 前九年合戦。
   源頼義・義家 父子が奥羽地方の豪族 安倍頼時とその子 貞任さだとう・宗任むねとう らを討伐した戦役。
   平定した1062年(康平5)まで、実際は12年にわたって断続。後三年の役と共に源氏が東国に勢力を築く契機となる。

  【安倍頼時】あべ‐の‐よりとき(~1057)  初名、頼良。貞任・宗任の父。
   平安中期、陸奥の豪族奥六郡の俘囚長として蝦夷を統率。陸奥守 源頼義に攻められ、敗れて流矢に当たり
   鳥海柵とりのみのきに没。

  【安倍貞任】あべ‐の‐さだとう(1019~1062)  頼時の子。宗任の兄。厨川くりやがわ次郎と称す。
   平安中期の豪族。前九年の役で源頼義・義家と戦い、厨川柵で敗死。

  【安倍宗任】あべ‐の‐むねとう (生没年未詳) 頼時の子。貞任の弟。鳥海とりうみ三郎。
   平安中期の豪族。前九年の役で源頼義と戦って敗れ、いったん京都に連行されたが、のち大宰府に移され、
   出家。松浦党はその後裔という。

  【源頼義】みなもと‐の‐よりよし(988~1075) 頼信の長男。
   平安中期の武将。父と共に平忠常を討ち、相模守。後に陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子を討ち、伊予守。
   東国地方に源氏の地歩を確立。晩年剃髪して世に伊予入道という。






  【後三年の役】ごさんねん‐の‐えき
   奥羽の清原家衡いえひら・武衡と一族の真衡らとの間の戦乱。
   前九年の役に続いて1083年(永保3)より87年(寛治1)の間に起こり、陸奥守 源義家が家衡らを金沢柵かねざわのき
   に攻めて平定。後三年合戦。

  【金沢柵】かねざわ-の-き
   秋田県横手市金沢にあった城柵じょうさく。後三年の役に清原武衡・家衡がこれに拠り、源義家に攻め滅ぼされた。

  【清原武衡】きよはら‐の‐たけひら(~1087) 武則の子。
   平安後期の豪族。兄の子 家衡を助けて金沢柵かねざわのきに拠り、源義家の大軍に囲まれ兵粮攻めにあい、
   柵は陥落し、捕殺。

  【清原家衡】きよはら‐の‐いえひら(~1087) 清衡の異父弟。
   平安後期の豪族。1083年(永保3)清衡と共に兄 真衡さねひらの館を焼く。
   源義家が陸奥守となって来たが、これに従わず、金沢柵に拠って防ぎ、討死。

  【源義家】みなもと‐の‐よしいえ(1039~1106)八幡太郎と号す。幼名、不動丸・源太丸。 頼義の長男。
   平安後期の武将。武勇にすぐれ、和歌も巧みであった。前九年の役には父とともに陸奥の安倍貞任を討ち、
   陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定。東国に源氏勢力の根拠を固めた。


  ≪ 奥州藤原氏 平泉文化 ≫  Wiki 出羽清原氏  Wiki 藤原秀郷  Wiki 藤原千晴  wiki 藤原経清  Wiki 奥州藤原氏

  【平泉】ひらいずみ
   岩手県南部、北上川と衣川との間の町。奥州藤原氏3代(清衡・基衡・秀衡)および源義経の遺跡があり、
   今も中尊寺に光堂ひかりどう・経堂などが残る。

  奥州の藤原氏は藤原秀郷の子 千晴の末裔に当ります。

  【藤原秀郷】ふじわら‐の‐ひでさと (生没年未詳)
   平安中期の下野しもつけの豪族。左大臣魚名の子孫といわれる。俵(田原)藤太とも。
   下野掾・押領使。940年(天慶3)平将門の乱を平らげ、功によって下野守。弓術に秀で、三上山の百足むかで退治などの
   伝説が多い。






  【奥州藤原氏】おうしゅう‐ふじわらし
   平安後期、平泉を拠点として睦奥・出羽を支配した豪族。もと亘理わたり氏。
   初代清衡以降、1189年に4代泰衡が源頼朝に滅ぼされるまで続いた。

  【藤原清衡】ふじわら‐の‐きよひら(1056~1128)
   清原清衡 (父 藤原経清の死後、母が清原氏に再嫁したのでいう)。 藤原経清(藤原秀郷の6代後)の子。
   平安後期、奥州の豪族。源義家の支援によって清原家衡・武衡らを滅ぼし、奥羽両国の押領使となり、
   鎮守府将軍を兼ね、平泉に中尊寺を建立、奥州藤原氏の祖となった。

  【藤原基衡】ふじわら‐の‐もとひら (生没年未詳)
   平安末期の奥州の豪族。清衡の子。陸奥・出羽の押領使。京都の文化を移入し、毛越寺もうつじを建立。

  【藤原秀衡】ふじわら‐の‐ひでひら(~1187) 基衡の子。
   平安末期の武将。出羽押領使・鎮守府将軍・陸奥守。平泉を拠点に、奥州藤原氏の最盛期を築く。
   源頼朝と対立し、源義経を庇護。また宇治平等院を模して無量光院を建立。

  【藤原泰衡】ふじわら‐の‐やすひら(~1189) 秀衡の子。
   平安末期の奥州の豪族。陸奥・出羽の押領使。父の遺命によって源義経を衣川館ころもがわのたてに庇護したが、
   頼朝の圧迫を受けてこれを殺害、かえって頼朝から攻撃されて殺された。


  ≪ 藤原まつり ≫  Wiki 藤原まつり

  藤原まつりは、岩手県西磐井郡平泉町で毎年5月(春の藤原まつり)と 11月(秋の藤原まつり)
  に開催される奥州藤原氏の祭り。

  一般法人 平泉観光協会 『平泉イベント情報 「春の藤原まつり」』 
   http://hiraizumi.or.jp/event/haru_fujiwara/



  ≪ 中尊寺・毛越寺・無量光院≫ Wiki 中尊寺金色堂  Wiki 毛越寺  Wiki 無量光院跡

  初代 清衡が中尊寺、二代 基衡が毛越寺、三代 秀衡が無量光院を建立。
 

 

本尊と須弥壇

 


  【中尊寺】ちゅうそん‐じ 
   岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺。1105年(長治2)藤原清衡が創立し、基衡・秀衡3代にわたって貴族文化が
   栄える。金色こんじき堂・経蔵のみ残存。

  【金色堂】こんじき‐どう
   ① 浄土教寺院の阿弥陀堂の内部を金箔などで荘厳しょうごんして極楽世界を象徴したもの。
   ② 岩手県西磐井郡平泉町の中尊寺にある藤原清衡・基衡・秀衡三代の廟堂。1124年(天治1)藤原清衡が建立。
     藤原時代建築の代表作。3間四方の単層、屋根は宝形造ほうぎょうづくり。内外上下4面黒漆の上に金箔を張り、
     柱梁はすべて螺鈿。通称、光堂ひかりどう。金色院。

  金色堂の高さは約8m、幅・奥行きは5.48mほどで、全て金で覆われており、現在の3倍以上の厚さがある金箔が
  6万4000枚使用されているそうです。仏の住む世界は金色だと考えられており、それを再現したもの。

  本尊が鎮座する須弥壇しゅみだん(仏教の世界説で世界の中心にそびえ立つ高山『須弥山』を模った仏像を安置する壇)
  には、工芸技術の極致とも言われる細かな装飾が施されています。
  非常に手間がかかる螺鈿細工や紫檀、アフリカゾウの象牙など高価な海外の素材も使用されています。

  弘前大学の斎藤利男 教授
   北上川流域、東北全体にそう言った技術があるんですね。自分たちの在来の技術を土台にしながら、
    最高の技術で金色堂を作り上げた。これが平泉文化の特徴だろうと。

  【螺鈿】ら‐でん
   夜光貝・鮑貝あわびがいなどの貝殻を板状に成形し、文様に切って木地・漆地の面に
   はめ込み、または貼り付け、漆を塗り研ぎ出す技法。
   中国唐代に盛行し、日本にも伝えられ、とくに平安時代以降に多様な発展を遂げる
   一般に厚貝を用いたものを螺鈿、薄貝を用いたものを青貝という。また貝殻で飾ること
   を貝摺かいすりともいう。摺貝。

  【毛越寺】もうつ‐じ (モウツウジとも)
   岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の別格本山。850年(嘉祥3)円仁の開創と伝える。
   1105年(長治2)藤原清衡・同基衡が再興し、中尊寺をしのぐ大寺となった。
   平安時代末様式の庭園を残す。

  毛越寺には、かつて堂や塔、僧侶が生活する建物などが40以上あったそうです。
  火災で焼失。




  京都の宇治市にある平等院を手本にして、それより一回り大きく作られた無量光院もありました。

  【無量光】むりょう‐こう  〔仏〕(梵語 Amitbha 「無限の光明を持つもの」の意)
   ① 阿弥陀の漢訳名の一つ。無量光仏。
   ② 十二光の一つ。衆生しゅじょうに与える利益に限りがない阿弥陀の光明。

 

 無量光院 跡

無量光院 CG

京都・平等院鳳凰堂


  【平等院】びょうどう‐いん
   京都府宇治市にある天台・浄土系の単立寺院。1052年(永承7)藤原頼通が宇治川畔にある別荘を寺として創建。
   翌年造立供養された鳳凰堂は平安時代に建造の阿弥陀堂の代表的遺構で、定朝じょうちょう作の阿弥陀如来坐像を安置。
   四壁および扉の絵は平安時代絵画の基準作。

  【藤原頼通】ふじわら‐の‐よりみち(992~1074) 道長の長子。
   平安中期の貴族。宇治関白。後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇52年間の摂政・関白。のち太政大臣、准三宮。
   宇治に平等院を建てて閑居。

  【定朝】じょうちょう(~1057) 康尚の子(または弟子)。
   平安中期の仏師。1022年(治安2)法成寺金堂の諸像造立の功により仏師として初めて法橋ほっきょうに叙せられ、その後、
   興福寺の造仏で法眼ほうげんに進んだ。
   平等院鳳凰堂本尊阿弥陀像は現存する唯一の作例。王朝貴族の好みにかなった豊麗な日本的様式を創造、定朝様として
   長く日本の仏像の典型となった。
 
 平安末期のキーマン 西行  書きかけ
  朝日放送 にゃんたの㊙ファイル コヤブ歴史堂 『お盆SP! 僧侶の競演 STAR-坊主-BOWS 「西行」』  14.08.17 放送
  NHK奈良 Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『人脈力~西行 派閥を超えたネットワーク』 14.10.21 放送
  NHK NHKニュース おはよう関西 『知る人ぞ知る桜の名所  中継 関西の春 「弘川寺~西行法師ゆかりの"桜"~」』 15.04.08 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅6 「京都御所~西京区花の寺へへ」』 15.05.28 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅8 「香川県・丸亀城~坂出市・白峯寺へ」』 15.06.11 放送

  ≪ 西行 ≫  Wiki 西行

  【西行】さいぎょう (1118~1190 俗名、佐藤義清のりきよ。法名、円位。 藤原秀郷の9世孫。
   平安末・鎌倉初期の歌僧。鳥羽上皇(74代天皇1103~1156)に仕えて北面の武士。23歳の時、無常を感じて僧となり、高野山、
   晩年は伊勢を本拠に、 陸奥・四国にも旅し、河内国の弘川寺で没。述懐歌にすぐれ、新古今集には94首の最多歌数採録
   家集「山家さんか集」。






  【北面の武士】 ほくめん‐の‐ぶし 北面の侍。北面。きたおもて。
   院の御所の北面きたおもてにあって、院中を警護した武士。官位により四位・五位の者を上北面、六位の者を下げ
   北面または北面の下臈げろうという。白河法皇(72代天皇、院政を始める。1053~1129)の時に始まる。


  ≪ エリートの身分を捨てて出家した理由 ≫

  『嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな






  天皇家 (鳥羽院とその子 崇徳院・後白河院)・貴族 (藤原定家など)・武士 (平清盛とは同僚、藤原秀衡とは遠縁) ・僧侶・
  庶民にも人脈を持ち弱い者や敗者に寄り添う『しるべ』(亡くなる時に、西方の極楽浄土へ導く法師) として人々に慕われました。

 





  ≪ 崇徳上皇との関係 ≫


  ≪ 人造人間を造ろうとした事がある ≫

  平安末期頃、死者を蘇らせる反魂法というのが、一部の貴族や僧侶の間で流行っていた
  そうです。

  『選集抄』の第5巻 「高野山で人形を作る事」によると
  高野山の山奥で生活してた西行が60才くらいの頃、友達が「京都に行く」と言って山を
  出ていきました。





  西行が寂しい思いをしている時、「人を造った事がある」という人に出会い、教えてもらった通りにしましたが、
  人間とは違うモノが出来てしまい、人を造るのを諦めたそうです。

  この話は、『未熟な自分が人を造っても仕方がない』という悟りの話だそうです。


  ≪ 大仏再興と鎌倉武士 西行が教えた流鏑馬の術 ≫

  大仏復興に必要な金を調達する役割を任された西行ですが、奥州から金を運ぶには、奥州と対立する源頼朝が率いる
  鎌倉を無視するわけにはいきませんでした。しかし、西行は頼朝とは面識がありません。

  頼朝が欲しがっていた弓馬の術 (流鏑馬) を伝える事と引き換えに、金を運ぶ協力を得る事になりました。
  実戦に長けていた関東武士団ですが、洗練されておらず、宮廷や貴族の前で優美に振る舞える事が必要でした。

  【流鏑馬】やぶさ‐め
   騎射の一種。馬上で矢継ぎ早に射る練習として、馳せながら鏑矢かぶらやで的を射る射技。的は方板を串に挿んで
   3カ所に立て、一人おのおの三的みつまとを射る。平安末期から鎌倉時代に武士の間で盛行。
   現在は、神社などで儀式として行う。三的。


  ≪ 西行の墓がある大阪府河南町 弘川寺 ≫  Wiki ハナカイドウ






  弘川寺は、桜を愛した歌人としても有名な西行法師が没年を過ごし、お墓もあります。
  見ると美人になれるという『海棠かいどう』という花もあります。

  大阪府HP 『大阪府指定天然記念物弘川寺のカイドウ』 
   http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/hirokawadera_kaiou.html

  【西行忌】さいぎょう‐き
 
  西行の忌日。西行は文治6年(1190)216日に没したが、「願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」の
   歌にちなんで、一般には前日の涅槃ねはんの日(陰暦215日)を忌日とする。円位忌えんいきともいう。

  【西行桜】さいぎょう‐ざくら 
   ① 能。世阿弥作。西行の庵にある老木の桜の精の翁が、京都の春景色を語り舞う。
   ② 地歌。手事物。菊崎検校作曲。江戸時代の天明年間(1781~1789)頃の作。①の能に取材して京都の桜の名所尽しを歌う。

  【西行被き】さいぎょう‐かずき
   富士見西行の絵姿のように笠をあみだにかぶること。
   西鶴織留さいかくおりどめ (井原西鶴の未完成の「本朝町人鑑」と「世の人心」を合わせて、その没後1694年(元禄7)に
   刊行された浮世草子) 「五十ばかりの法師、麻の衣の袖まくり手して、竹笠を西行被きに


  ≪ 江口の君 ≫  遊女の歴史と吉原遊郭  江戸時代に流行した野崎参り

  【江口の君】えぐち-の-きみ
   江口にいた遊女。特に、西行と歌を詠み交わしたとされる遊女 妙たえ (鎌倉時代の説話集『撰集抄せんじゅうしょう』)、
   普賢菩薩と化現したところを性空上人が見たという遊女 (1252年成立の『十訓抄じっきんしょう』・1212~15年の『古事談』) を
   指す。この説話によって白象に乗る遊女の姿を普賢の図とする。

  【江口】
   ① 大阪市東淀川区の地名。神崎川が淀川の本流から分かれる所。
   昔は、西海と京都との航路上の河港で、遊女もいて繁昌した。
   ② 能。観阿弥 作の原曲を世阿弥が改作した鬘物。江口の遊女が西行と歌を詠み交わしたこと、遊女が普賢菩薩の
   化身であったという伝説などを脚色する。

  神奈備 『江口の君堂(寂光寺)』 http://kamnavi.jp/dk/egutinokimi.htm ←『遊女記』などが載っています。
  十三のいま昔を歩こうブログ 『西行と江口の君堂』 09.11.05 配信 http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-347.html
 崇徳上皇 日本三大怨霊の一人 → 日本の守護神へ
  NHK奈良 Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『人脈力~西行 派閥を超えたネットワーク』 14.10.21 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 百人一首の旅8 香川県・丸亀城~坂出市・白峯寺へ』 15.06.11 放送






  Wiki 崇徳天皇  Wiki 後白河天皇

  『瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ

  【崇徳天皇】すとく‐てんのう(1119~1164)名は顕仁あきひと。崇徳院は諡号。 鳥羽天皇の第1皇子。
   平安後期の天皇(在位1123~1141)。父上皇より譲位させられ、新院と呼ばれる。保元の乱に敗れ、讃岐国に流され、
   同地で没す。

  【保元の乱】ほうげん‐の‐らん
   保元元年(1156)7月に起こった内乱。皇室内部では崇徳上皇と後白河天皇と、摂関家では藤原頼長と忠通との対立が激化し、
   崇徳・頼長側は源為義、後白河・忠通側は平清盛・源義朝の軍を主力として戦ったが、崇徳側は敗れ、上皇は讃岐に流された。
   この乱は武士の政界進出の大きな契機となったといわれる。

  【後白河天皇】ごしらかわ‐てんのう(1127~1192)名は雅仁まさひと。鳥羽天皇の第4皇子。
   平安後期の天皇(在位1155~1158)。即位の翌年、保元の乱が起こる。二条天皇に譲位後、5代34年にわたって院政。
   1169年(嘉応1)法皇となり、造寺・造仏を盛んに行い、今様を好んで「梁塵秘抄」を撰す。

  フジTV 竹田常泰の皇室の教科書 『島流しになった天皇②―鬼になった崇徳天皇』 
   http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu57.html
  黄昏怪奇譚 『日本の三代怨霊その3〜崇徳天皇』 http://tasogarekowai.blog.so-net.ne.jp/2014-07-07

  画像検索をしていたら、右のようなテレビキャプチャーが見つかりました。
  日本テレビ ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎 10.01.02 放送という事が分かりました。

  ご覧のようにテロップには「明治以降の東京や国を護るキーマン」と書かれてありますが、
  東京と崇徳天皇との関係は「宮尾神社」と「虎ノ門金毘羅宮」「荏原金毘羅神社」だけ。

  虎ノ門金毘羅宮は1660年に丸亀藩が金刀比羅宮から勧請して江戸屋敷に祀った。
  荏原金毘羅神社は1772年に香川県の金刀比羅宮から勧請して祀った。
  宮尾神社は明治に琴平神社を合祀したという事なので、東京と崇徳帝との関係は非常に
  薄いです。

  崇徳帝が戻りたかったのは京、または畿内まで。

  1868 (慶応4) 年9月6日、明治政府によって、崇徳帝の御霊は京都に戻され上京区の白峯神宮に祀られました。
  同年9月8日に明治に改元。
  テロップで入れるとすれば「京都や国」「畿内や国」とするのが妥当です。
  
 【神社の雑学】  「君が代」のルーツと「さざれ石」 
  日本の神様 読み解き 辞典 柏書房㈱ 1999年10月30日初版 川口謙二 編著 / 広辞苑

  読売テレビ かんさい情報ネットten. 『ゲキ追 新春SP 生田神社の巫女2人はじめての年越し』 13.01.04 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『密着まるまる1日 大阪天満宮のお仕事』 13.07.12 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびだせ! えほん 京都出町柳』 13.10.10 放送
  テレビ東京 所さんのそこんトコロ! 『神社にる鳥居の鳥は』13.10.06 放送
  読売テレビ かんさい情ネットten. 『若一光司のミステリーファイル 「梅田の と真中に鎮座する2尊のお地蔵様の謎とは…?」』 14.02.19 放送
  日本テレビ 月曜から夜ふかし 『京都にまつわる問題を調査した件』 14.10.20 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「百人一首の旅9 奈良・吉野~藤原宮跡へ」』 15.06.18 放送
  朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『神様になった動物たち ~知られざる霊獣の正体~』 15.09.17 放送
  中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』2 15.12.27 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『きょうの★印 「おみくじも多様化 大吉の上!"大大吉"って!?」』 16.01.05 放送
  日本テレビ 超難問クイズ 真実か?ウソか? 『おみくじには大大吉がある!』 16.01.08 放送

  【国家神道】こっか‐しんとう
   明治維新後、神道国教化政策により、神社神道を皇室神道の下に再編成してつくられた国家宗教。軍国主義・国家主義と
   結びついて推進され、天皇を現人神あらひとがみとし、天皇制支配の思想的支柱となった。
   第二次大戦後、神道指令によって解体された。

  【廃仏毀釈・排仏棄釈】はいぶつ‐きしゃく
   (「毀釈」は、釈迦の教えをすてる意)明治初年の仏教排撃運動。
   1868年(慶応4)の神仏分離令などの神道国教化政策の下で、神道家などを中心に各地で寺院・仏像・仏具・仏典の破壊や
   僧侶の還俗強制などがおきた。

  【神社局】じんじゃ‐きょく
   旧制で、神社行政をつかさどった内務省の一局。1877年(明治10)設置の社寺局を廃止し、宗教局とともに1900年創設。
   1940年に神祇院の設置により廃止

  【神社本庁】じんじゃ‐ほんちょう
   1946年国家神道廃止に伴い設立された、神社神道の宗教団体。全国の神社の大半を組織する。

  【神社神道】じんじゃ‐しんとう
   国の神社や神の祭祀組織の信仰を中心とする宗教。明治以後、特に教派神道と区別するために用いられた語。

  【神社建築】じんじゃ‐けんちく
   神社の社殿および付属建築。普通は入口に鳥居を設け、周囲に玉垣をめぐらし、境内に本殿・拝殿があって、必要な付属
   建築を設ける。本殿の形式によって大社造・住吉造・神明造・春日造・流ながれ造・八幡造などに分ける。

  【教派神道】きょうは‐しんとう
   戦前に国家の祭祀とされた神社神道(国家神道)に対し、宗教としての神道の教派の総称で、14教(のち13教)あり、
   教派神道十三派と呼ばれた。
   すなわち神道大教・黒住教・神道修成派・大社教・扶桑教・実行教・神道大成教・神習教・御岳教・禊教・神理教・金光教・
   天理教・神宮教で、神宮教は1899年(明治32)解散し、神宮奉斎会となった。


  ≪神像は奈良時代から造られた ≫  NHK Eテレ 日曜美術館 『神々を彩る美 神社の宝』 13.04.28 放送

  仏像との違いは、現存した人をそのまま生き写しにしたような像が多い事。『八百万やおよろずの神々』と言うように、
  神様は何処にでもいらっしゃり、人間に身近な存在でもあるという感覚だったからのようです。







  ≪神社にイチョウの木が多い理由≫

  一般的に街路樹などに多く使われているケヤキと比べると、
  イチョウは水分を多く含む木。

  つまり、火災に備え燃えにくいイチョウの木を神社の周りに
  植える事が多いという事らしいです。


  ≪ 日本で最も長い名称の神社 ≫

  奈良県の明日香村にある 飛鳥川上 坐 宇須 多岐比売命 神社
  あすか-かわかみに-います-うす-たきひめのみこと-じんじゃ

  飛鳥川上 (←地名)、 坐 (←居ます)、宇須 (←偉い)、
  水の神様の名前。




  日本書紀によると、飛鳥時代に皇極天皇が日本で初めて雨乞いの儀式を行ったと記述がある神社だそうです。

  江戸時代に奉納された絵馬をもとに再現された『南無天なもで踊り』という雨乞いの踊りが、現在も受け継がれているそうです。

  【皇極天皇】こうぎょく‐てんのう (594~661)名は天豊財重日足姫あめとよたからいかしひたらしひめ、また宝皇女。 茅渟王の第1王女
   7世紀前半の女帝(第35代、在位642~645)。舒明天皇の皇后。天智・天武天皇の母。皇居は飛鳥の板蓋宮いたぶきのみや
   弟の孝徳天皇に譲位。のち重祚して斉明天皇(第37代、在位655~661)。
   656年飛鳥の岡本宮に移る。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、その地に没す。


  関西テレビ NMBとまなぶくん 『お寺と神社って 何が違うの ?』 14.07.04 放送 https://www.youtube.com/watch?v=tQ8T-bGGdOI

  ≪ 寺と神社の違い、神職の階級など ≫

  は仏教でお釈迦様を祀っている。色んな宗派がある。寺では手を叩かず合掌して頭を下げる。 日本全国のコンビニは5万店くらい。
  初詣、七五三、結婚式、お葬式、厄除け などの行事は、神社・寺どちらでも可能。

  1712 (正徳2) 年の『和漢三才図会』(著者は大坂の医師 寺島良安、羽後生まれ?) は江戸時代の百科事典。
  「地の部」の各巻では諸国の代表的な寺社の場所と社領の石高が多く書かれており、有名寺社は由来などの詳細の記述も
  あります。地の部には中国の地理も詳しく書かれてあり、天竺(インド)の記述でも仏教の尊者の解説も多数あります。
  巻十九には神祭・佛供器が書かれてあります。






  中国の価値観の影響を受け「位の高い人は南を向き、下々の者は北を向く」とされてきました。
   ※ 平城京、平安京なども、この考えに沿って造られています。たぶん、太陽や天体の動きによる風水的な考えから。

  ほとんどの仏像は南向きか、極楽浄土があるとされる西向きに安置されています。
  仏の世界において、菩薩は如来の次に高い地位にありますが、地蔵菩薩は民衆の中にあって苦楽を共にし、人々を
  悟りの世界に導く存在。その為、寺の多くが南向き、または西向きに建てられています。

  都道府県別統計とランキングで見る県民性 『神社の数 2009』 http://todo-ran.com/t/kiji/14357
  都道府県別統計とランキングで見る県民性 『寺院の数 2009』 http://todo-ran.com/t/kiji/14362

  寺が多い都道府県 1位 愛知県、2位 大阪府、3位 兵庫県、4位 滋賀県、5位 京都府
  神社が多い都道府県 1位 新潟県、2位 兵庫県、3位 福岡県、4位 愛知県、5位 岐阜県、、大阪府は44位

  仏教が伝来した頃の飛鳥奈良時代に都と同等以上に繁栄していたのが河内国。その国府があった藤井寺市の道明寺
  辺り (古墳時代の古墳・埴輪造りの土師氏が住んでいた事などでも有名) には、多数の古代寺があったようです。

  京都は国家にとって最重要とされた1つ1つが大きい神社が多数あります。
  それなりの規模の神社内には、複数の摂社と呼ばれる神社が存在しますが、これらが上記のランキングをつくる際に
  数えられているかは不明です。

  天王寺区夕陽丘下寺町近辺 日本で最も寺が密集している場所






  神社は空気・水など自然な物、動物、日本人の祖先や天皇など様々な神様を祀っている。
   一礼をして鳥居をくぐります。(鳥居の中央は神様が通られる道なので、ど真ん中を避けて通るのが普通)。
   創価学会など神社の鳥居をくぐれない決まりがある宗教もある。女性は生理の時はくぐれないなど。
   神社内の井戸水で手水 (手と口を清めます、作法があります)。
   二拝 (90度に頭を下げ、二礼する)、二拍手 (手を叩く)、一拝。  出雲大社は二拝・四拍手・一拝。







  ≪ 本職の巫女さん と アルバイトの巫女さんの見分け方≫

  髪を神聖な白い紙(奉書など)で束ねることで、身を清める意味があるそうです。下側の左3枚の画像が、各神社の本職の巫女さん。
  右側の1枚は生田神社の正月のアルバイトの巫女さんたち。髪の毛を束ねている範囲が長い人たちが本職の巫女さんです。

京都・下鴨神社
大阪・天満宮
神戸・生田神社









  【奉書紙】ほうしょ‐がみ 
   (奉書・・・上意を奉じて侍臣・右筆ゆうひつらが下す命令の文書。)
   楮紙こうぞがみ の一種。皺がなく純白で、きめの美しい和紙。大きさで大・中・小の
   別があり、着色・有紋のものもある。福井県越前市今立の産は有名。
    ※ 昔、きっちりとした命令である事や権威を示す為に上質な紙(和紙)を用いた。

  【襅】ちはや千早
   ① 日本の原始衣。貫頭衣(一枚の布に頭を通す穴をあけただけで、袖のないもの)
     の類。
    小忌衣の類。身二幅・袖一幅の、衽おくみのない白布の単衣で、打掛けの形をし、
     袖を縫わずに、紙捻こよりでくくったもの。


  【小忌衣】おみ‐ごろも ※ 右上の生田神社の画像を参照。
   袍ほう(束帯の上着)の上に着る小忌 (大嘗祭・新嘗祭などの神事)の斎服。
   白布に春の草木・小鳥などを藍摺あいずりにし、右の肩に2条の赤紐をつける。おみ。

  【衽・袵】お‐くみ
   (オオクビ(大領)の約転)和服で、前の左右にあって、上は襟えりにつづき下は褄つまに至る半幅の布。上交うわがい


  ≪ 300種類のお守りがある福井県の賀茂神社 ≫

  お守り 通常効力は1年。正月~節分までの間に参拝して、新しいお守りを貰うのが一般的。






  【賀茂神社】かも-じんじゃ
   賀茂別雷かもわけいかずち神社および賀茂御祖かもみおや神社 (下賀茂神社の正式名称) の総称。


  ≪ 神社と神使の動物 ≫

  神社のほとんどが何らかの動物と関係しています。人間とは違う動物の能力を敬い自然崇拝の結果。

  伊勢神宮や熱田神宮などでは、天照大神が岩戸に隠れた時、ニワトリの鳴き声によって天照大神が再び現れた事から
  「神鶏」として扱っています。鳥居はニワトリの止まり木とも言われています。




  稲荷神社は元々「稲作・農耕の神様」で「稲生いねなり」が語源。稲を食い荒らすネズミを退治する狐が神使になりました。
  狛犬は、古代に王様の象徴だったライオンがインド・中国を経て日本へ伝わったのが始まり。
  天満宮は菅原道真が丑年生まれで、農耕に牛が使われたことから「撫で牛」が境内に多く存在。

  餅の原型「しとぎ」 餅の神様を祀る小野神社、豊前・豊後の名の由来、伏見稲荷大社縁起など

  戎神社の鯛は戎様が釣ったタイという意味ではなく、鯛の赤い色は邪気を払うとされ、大漁の象徴でもありました。
  これが後に海の神様である戎様と結合し、大漁の神様として信仰の対象になったもの。

  松尾大社の神が丹波地方を視察した時、水の流れが穏やかな所は亀に乗り、急な所は鯉に乗った事から、
  亀と鯉が神使になりました。井戸「亀の井」の水は酒造りに適しているので、松尾大社は酒の神様としても信仰を集める
  ようになりました。


  ≪ おみくじ ≫

  【御御鬮・御神籤】おみ‐くじ
   神仏に祈願して、事の吉凶をうらなうくじ。吉凶をしるした多くの串を匣はこまたは筒に入れておき、小孔から振り出してとる。

  起源は、明治神宮HPによると、
   明治神宮HP 『明治神宮のおみくじ「大御心」について』 http://www.meijijingu.or.jp/sanpai/7.html

   神代の昔より神事として盛んに行われていました。『日本書紀』に天智天皇が皇太子の時、部下が反逆者であるか
    どうかを「ひねりぶみ」といって、何枚かの紙に文字を書いて折りひねり、この一つを選んでくじ占いをして
    判断したことが出ています。

  現在のような おみくじ の原型は、 Wiki おみくじ より

   多くの神社仏閣でみられる現在のおみくじの原型は元三慈恵大師良源上人(912~985)の創始とされている。
    現在の神籤は参詣者が個人の吉凶を佔うために行われるもので、これは鎌倉時代初期から行われるようになった。
    当時は自分で籤を用意するのが一般的であった

  おみくじ 引いたおみくじを木に結び付けるのは根拠のない迷信なので、木に結び付ける必要はない。

  【良源】りょうげん(近江の人、912~985) 諡号は慈恵大師。   Wiki 良源
   平安中期の天台宗の僧。元三がんざん大師・角つの大師と称される。
   横川よかわで修行し、天台座主となり、藤原師輔らの援助を受けて比叡山の復興に努め、天台宗中興の祖

   ※ 広辞苑によると、大師の称号を持つ日本の高僧は24人いるそうです。 )

  Wiki 大師(僧) / 仏教 『大師号について』 http://www.bukkyo.net/tisiki/daisigo.htm ←こちらのサイトでは30人以上書かれてあります。

  【大師】だい‐し … 偉大なる師の意で、仏などの尊称。また、高徳の僧の敬称。特に弘法大師(空海)を指す。

  日本では866年(貞観8)に始まり、

   天台宗の 伝教(最澄) ・ 慈覚(円仁) ・ 智証(円珍) ・ 慈摂(真盛) ・ 慈眼(天海)、
   真言宗の 弘法(空海) ・ 道興(実慧) ・ 法光(真雅) ・ 本覚(益信) ・ 理源(聖宝) ・ 興教(覚鑁) ・ 月輪(俊芿)、
   浄土真宗の 見真(親鸞) ・ 慧灯(蓮如)、  曹洞宗の承陽(道元) ・ 常済(瑩山)、
   臨済宗の 無相(関山) ・ 微妙(宗弼) ・ 円明(元選)、  浄土宗の 円光(法然)、
   融通念仏宗の 聖応(良忍)、  時宗の 円照(一遍)、
   黄檗宗の 真空(隠元)、  日蓮宗の 立正(日蓮)に勅賜。

  日本人で唯一の三蔵法師 霊仙三蔵法師    道昭 と 行基 (日本初の大僧正


  知っ得!しゅうなん再発見 第1回 『おみくじの故郷・周南市から』 
   http://www.kanko-shunan.com/saihakken/josidousha.html より抜粋全文はリンクサイトで

  ≪ 国内でおみくじの大半を作っているのは山口県周南市の『女子道社』という所 ≫

 実は全国の神社仏閣においてあるおみくじの大半はここ女子道社で作られています。さらに驚くことに作業は全て手作業で
  行われているのです!

  主に近隣の農村の主婦たちによって、ひとつひとつ手折りで丁寧に仕上げられ、紙折り機など一切使わないその作業風景
  からは、創業当時の趣がそのまま伝わってきます。繁忙期には60~100人もの方が交代で作業し、ベテランの方になると
  1日に5,000~6,000枚のおみくじを折られるそうです。

  女子道社の歴史は明治時代までさかのぼります。男尊女卑の風潮強い当時の世相にあって、先々代の二所山田神社の
  宮司宮本重胤さんは、神道には本来女性をけがれとみなす思想はなかったことから、女性神主の登用を提言し、
  女性参政権をいち早く訴えました。

  女性を対象とした全国組織『敬神婦人会』を設立し、女性の自立を主張、その教化の一環として明治39年機関誌『女子道』を
  発刊しました。そしてその資金源として考えられたのがおみくじであり、女子道社が創業されました。

  心を込めて折られたおみくじは神社に祀られ、清めの儀式の後、日本全国だけでなく、遠くはハワイまで発送されます。
  おみくじの種類は全部で18種類。先々代が明星派、先代がアララギ派の歌人であったこともあり、和歌を織り込んだ
  みくじをはじめ、金みくじ、赤みくじ、振り出し用みくじなどの他、外国人観光客や学生向けの和英文みくじ、催事・イベント用の
  開運みくじなど、時代の変化や人々のニーズに応じたおみくじを発案しています。
  また、羽車式みくじ機、電動式みくじ機などのおみくじ販売機の製造も行い、現在まで多くの神社仏閣へ納品しています。

  【周南市】しゅうなん
   山口県東南部、周防灘すおうなだに臨む市。徳山市・新南陽市などが合併。石油化学コンビナートを形成。人口15万2千。


  ≪ 大大吉 ≫

  近年は神社に来てもらえるように、興味を引くような珍しいおみくじ、外国語も記載したおみくじなどの工夫がされています。
  「大大吉」がある神社は、公表しているだけで10ヵ社以上あり、内緒にしている神社も含めると日本各地にかなり存在。

  大阪府吹田市の泉殿宮いずどの-ぐうでは、50年以上前から「大大吉」が存在しており、全体の約5%の確立。
  水の神様を祀っているので、飲料水メーカーなどの関係者が多く訪れるそうです。






  京都市中京区にある御金みかね神社は、平安時代以前からあった祠 (金属の神様 金山毘古神) を祀り明治16年に創建。
  2003年に仏壇仏具を扱う会社が金色の鳥居を奉納。それ以降、「お金」と縁を結び付けたい参拝客が急増しました。
  こちらでは、数千人に2~3枚程度の確率で大大吉が出ているそうです。


  フジテレビ 超潜入 ! リアルスコープハイパー 『世界の皆さんありがとう ! 日本を支えるすごい㊙工場』 12.12.15 放送

  ≪ 住吉大社の「おみくじ」はネパールで作られている ≫  住吉大社 一寸法師伝説、遣隋使・遣唐使の出発地

  【住吉神社】すみよし‐じんじゃ 全国に約2,300社ある住吉神社の総本社
   大阪市住吉区住吉にある元官幣大社。住吉神すみのえのかみの三神と神功皇后とを祀る。二十二社の一つ。摂津国一の宮。
   今は住吉大社と称す。下関市一の宮住吉(長門国一の宮)や福岡市博多区住吉(筑前国一の宮)が日本三大住吉神社。






  【ネパール】Nepal
   インドの北に接する王国。ヒマラヤ山脈の中央部南斜面にあり、エヴェレストなど高峰がそびえる。
   インド系・チベット系・ビルマ系などの多民族国家。ヒンドゥー教・仏教を信奉。18世紀後半よりグルカ王朝が続き、
   1990年より立憲君主制。面積14万7000平方キロメートル。人口2191万(1995)。首都カトマンズ。

  ネパールは和紙の材料となるミツマタの原産地で、標高2000mの山に自生しています。
  日本では四国・中国地方の限られた場所でしかミツマタを生産していない事もあり希少品。ネパールだと1㎏400円と
  日本の1/5のコストで和紙が作れるからです。ネパールの農家は年間20万円の貴重な現金収入を得ています。

  ミツマタで作った紙は独特の光沢があり、丈夫で破れにくく虫喰いの被害もない為、1万円札など日本の紙幣にも使用されています。






  首都カトマンズの一角に4階建てのおみくじ工場があります。「㈱かんぽう」という所で、年間50万枚のおみくじを製造。
  おみくじの原稿は日本からPCメールでデータ送信されたものをプリントアウトしてチェック。シルクスクリーン版を作り、
  版の上から赤と緑の2色を刷ります。中国製の裁断機でカットし完成。
  6人の工員が手作業で作っています。年末は休みなしだそうです。






  公務員の初任給 約1万2000円に対し、おみくじ工員の給与は約1万8000円と高給。勤務時間は朝9時半から夕方5時まで。

  【三椏・三叉】みつ‐また 結香むすびき。漢名、黄瑞香。
   ジンチョウゲ科の落葉低木。中国原産。繊維植物として日本の暖地に栽培。庭樹にもする。高さ約2メートル。枝は三つに分かれる
   葉は長楕円形。晩秋、落葉して枝ごとに一団の蕾つぼみをつけ、春、葉に先だって匂いのある黄色の筒形小花を総状につける。
   樹の靱皮じんぴ繊維をとって和紙の原料とする。

  ネパールで印刷されたおみくじが住吉大社に送られてくると、御神前に置きお祓いをして、祝詞を読み上げて神様の御霊 (魂) を
  降ろしてから神様からのメッセージとして、おみくじ売り場に並べられます。







  ≪ おみくじを引く時の注意点 ≫ 住吉大社の場合。

   本殿に参拝する。  神様に聞きたい事を念じながらおみくじを引く。  吉凶に捉われず内容をじっくりと読む。
   結果に関わらず、財布などに入れて持ち歩き、たまに読み返して戒めとすると良い。
  次に新しいおみくじを引いたら、前回に引いた古いおみくじを神社の専用のおみくじ結び場に結ぶ。
    境内の木の枝に結んではいけない。
   結果が悪かった場合、おみくじは引き直しても良いそうです。

  ※ 木の枝に結ぶ事の有り無し、おみくじの引き直しなどは、神社によって作法は様々だそうです。

  【和紙】わ‐し
   日本特有の紙。古来の手漉すきによるものと、機械漉きによるものとがある。
   前者は、コウゾ・ミツマタ・ガンピなどの靱皮繊維を主原料とするもので、半紙・美濃紙・杉原紙・吉野紙・奉書・
   鳥の子など種類が多い。後者は、古紙・木材パルプ・ぼろ・マニラ麻などの繊維を主原料とするもので、ちり紙
   などの家庭用薄葉うすよう紙のほか、障子紙・書道用紙・仙花紙などの種類がある。

  日本経済新聞 『和紙、世界の宝に ユネスコ無形遺産に決定』 14.11.27 配信
   http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27H1S_X21C14A1AM1000/

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は26日(日本時間27日)、フランス・パリで政府間委員会を開き、日本政府が推薦した
  「和紙 日本の手漉(てすき)和紙技術」を無形文化遺産に登録した。
  伝統技術が国際的に評価され、和紙の生産や輸出に弾みがつきそうだ。
  登録対象は国の重要無形文化財に指定されている細川紙(埼玉県小川町、東秩父村)、本美濃紙(岐阜県美濃市)、
  石州半紙(島根県浜田市)。ユネスコ政府間委員会は「産地に暮らすすべての人々が和紙作りの伝統に誇りを
  持っている」と評価した。

  huffingtonpost 『和紙が無形文化遺産に 登録された3つの和紙は他と何が違う?』14.11.27 配信 
   http://www.huffingtonpost.jp/2014/11/26/japanese-paper-washi-unesco-heritage-list_n_6228190.html 
    ↑ 和紙を作っている工程の画像あり

   今回登録された3つの和紙は全て、原料に「楮(こうぞ)」のみが使用されており、伝統的な技法を用いて作成されるもの。


  ≪ 日本で使用される棺桶の9割が中国の1つの町で製造されています ≫

  日本で使われる棺桶の9割は、中国の山東省荷澤市で作られています。100年前から続く木材業の町として有名で町に200社
  以上の木材工場があるそうです。番組が取材した町最大の工場荷澤宏生国際貿易有限公司で作られる棺桶は年間12万本。
  この会社だけで、日本で使用される1割の棺桶を製造。






  この町では上質な桐が大量に安く入手できるからだそうです。と言っても、棺桶の表面にだけスライスした桐の皮を貼り付けるだけ。
  これで約8万円。総天然木の桐の棺桶だと50万円ほどの価格になるようです。全て手作業で作られています。






  女性向けに人気な布張棺は画像ので約7万円。悪霊から死者を守ると言われている蓮の花の刺繍がされています。
 
 熊野三社
  読売テレビ かんさい情報ネットten ! 『蓬莱さんのお天気 「Live 和歌山・湯の峰温泉 世界遺産の温泉 癒しとよみがえりの聖地」』 13.01.10 放送
  NHK Eテレ 日曜美術館 『神々を彩る美 神社の宝』 13.04.28 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「熊野古道・伊勢路192.5㎞⑥」』 10.11.18 放送
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「近畿縦断500㎞の旅3」』 14.05.15 放送


  ≪ 熊野古道 ≫  Wiki 熊野古道

  【熊野街道】くまの‐かいどう
    熊野三社への参詣道。東の伊勢からと、西の紀伊からの二つがある。京都方面からの熊野参詣はふつう紀伊経由。

  世界遺産熊野古道伊勢路 http://www.pref.mie.lg.jp/KODO/
  熊野本宮観光協会 『ようこそ!世界遺産「熊野古道」へ!』 http://www.hongu.jp/kumanokodo/


  【熊野三社】くまの‐さんしゃ 熊野三山。三熊野みくまの
   熊野坐神社・熊野速玉神社・熊野那智神社の総称。
   熊野別当が現地で統率した。

  【熊野三所権現】くまの‐さんしょ‐ごんげん 熊野ゆや権現。
   熊野三社の主祭神として祀られる本宮の家都御子神けつみこのかみ
   新宮の熊野速玉神、那智の夫須美ふすみ神の三所。

  【熊野牛王】くまの‐ごおう
   熊野三社で配布した牛王宝印。烏の絵を図案化して「熊野牛王宝印」と
   記したもの。烏は、古来、熊野の神使という。 Wiki 熊野牛王符

  【熊野比丘尼】くまの‐びくに
   近世、熊野三所権現の縁起を語り諸国を勧進かんじんした尼僧。
   のちには歌をうたい、また色を売る者ともなった。歌比丘尼。





熊野三山への参詣ルートは、平安時代
から中辺路なかへちが最も頻繁に通ら
れました。

室町時代には庶民にも熊野詣が流行し、
『蟻の熊野詣』と呼ばれるほど参詣者が
絶えず、この街道を行列するように
歩いていたそうです。

  熊野詣では平安時代中期に貴族の間で参拝ブームがありました。
  京都の城南宮 (方角の神様) で身を清め、熊野詣の道中安全を祈願し出発したそうです。

  【城南宮じょうなん‐ぐう
   京都市伏見区にある神社。祭神は神功皇后・大国主命・国常立尊。その祭礼に行われた流鏑馬やぶさめは有名で、
   承久の乱に、後鳥羽上皇はこの行事に託して関東追討の兵を徴集した。7月20日に例祭、10月に神幸祭(餅祭)がある。

  江戸時代はお伊勢参りに行く際も立ち寄る人が多かったようです。
  伊勢神宮~那智の滝までは、日の出から日の入りまで1日40㎞を歩くと5日間で到達する距離。
  街道を人が連なってる姿をさして『アリの熊野詣』という言葉できるくらい参拝者が多かったようです。

  【熊野詣で】くまの-もうで
   熊野三所権現に参拝すること。愚管抄[4]「白河院 (平安中期の天皇・在位1072~1086、上皇1086~1129) の御時、
   御―といふこと始まりて、度々まゐらせおはしましける

  【愚管抄】ぐかんしょう
   鎌倉初期、日本初の史論書。慈円 (僧・天台座主、四天王寺別当。藤原忠通の子、1155~1225) の著。7巻。
   神武天皇 (記紀上の初代の天皇) から順徳天皇 (在位1210~1221) までの歴史を仏教的世界観で解釈し、
   日本の政治の変遷を道理の展開として説明。


  ≪ 熊野本宮大社 ≫  Wiki 熊野本宮大社  Wiki 熊野神社

  熊野本宮大社HP 『5分で分かる熊野本宮大社』 http://www.hongutaisha.jp/digest/

  当社の主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)です。歴史を遡ると、古代本宮の地に
  神が降臨したと伝えられています。
  三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿が建てられたのは、飛鳥時代(615年)の
  ことでした。

  奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。

  平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や
  女院の一行が何度も参拝に訪れました。

  室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、
  全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は
  「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。




  明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けました。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇って
  いましたが、明治24年に上四社が現在地へ移されました。
  今、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がおまつりされています。

  平成23年9月、紀伊半島大水害により、当社は再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けました。
  しかし、平成26年には瑞鳳殿が再建されるなど以前にも増した復興を遂げ、現在に至ります。

  【熊野坐神社】くまのにます‐じんじゃ
   和歌山県田辺市本宮町にある元官幣大社。祭神は家都御子神。本宮。今は熊野本宮大社と称。熊野三社の一つ。

  【熊野曼荼羅】くまの‐まんだら
    熊野三山を描いた垂迹すいじゃく(仏・菩薩が、衆生しゅじょう済度のために仮の姿をとって現れること)画の一種。


  ≪ 田辺市 熊野本宮温泉郷 湯の峰温泉 つぼ湯 ≫

  熊野本宮大社まで3.4㎞にある世界遺産に登録された温泉で、卑弥呼の時代の約1800年の歴史があります。
  熊野古道巡礼で立ち寄った温泉。1人しか浸かれない「つぼ湯」は「よみがえりの湯」とも言われているそうです。






  熊野本宮観光協会 『熊野信仰と小栗判官伝説』 http://www.hongu.jp/kumanokodo/shinkou/ogurihangan/

  およそ600年の昔、戦に敗れ常陸の国(茨城県)に逃れた小栗判官は、相模の大富豪、横山家の長女 照手姫と
   出会い恋におちます。しかし二人の関係に立腹した横山家は、小栗判官に毒を飲ませ殺してしまいます。
   地獄に落ちた小栗判官は閻魔大王の同情をかい、蘇生への道として餓鬼阿弥の姿に変えられ現世に送り返されました。
   哀れな姿で倒れていた小栗判官は通りかかった高僧に助けられ、木の車に乗せられて熊野の湯の峰を目指します。

   小栗の首には高僧により「一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」と書かれた札が下げられました。
   一方、照手姫は恋人を失った上、兄弟の策略により流浪の身となっておりました。
   ある時、首から札を下げた餓鬼阿弥を見て、亡き小栗判官の供養になればと湯の峰へ参詣の旅に旅立ちました。
   長い旅路の果て、ついに湯の峰に辿りついた照手は餓鬼を四十九日の間つぼ湯に浸けて湯治させたところ、
   なんと元の小栗判官の姿に戻ったというお話です。

   湯の峰には今も、照手姫が引き続けた木の車を埋めたと云われる「車塚」や、見事蘇生を果たした小栗判官が
   力試しに持ち上げたとされる力石が残されています。


  ≪ 熊野速玉大社 ≫ Wiki 熊野速玉大社

  【熊野速玉神社】くまの-はやたま-じんじゃ
   和歌山県新宮市にある元官幣大社。祭神は熊野速玉神。新宮。今は熊野速玉大社と称。熊野三社の一つ。






  南北朝時代 (1336~1392年) に、当時の最高技術と装飾を多用して、神様の化粧道具として奉納された国宝があります。
  上の金色の着物は『表着萌黄地小葵浮線綾模様二陪織物』(南北朝時代)。





  『梛なぎ蒔絵手箱』には、銀で作られ装飾された化粧道具が入っています。左の画像は鏡・ハサミ・毛抜き・眉作まゆづくり
  歯黒筆。真ん中画像の右側の蓋付きの小箱は白粉おしろい箱で中に白粉が入っています。
  右の画像の蒔絵櫛は、1つの櫛に0.1㎜間隔で150の歯が刻まれており、手作業で作ったとは思えないほどの精密さです。


  ≪ 八咫烏 ≫  銅鏡の魔鏡現象と太陽信仰との関係 伊都国の銅鏡『内行花文鏡』と三種の神器の一つ『八咫の鏡』は同じ文様かも?

  世界最古の油絵である玉虫厨子(法隆寺蔵) の台座にも見ることができます。3本の足は、人・地・天をあらわしています。
  三種の神器の一つ、『八咫の鏡』にも付けられている『八咫』は大きいという意味。

  【八咫烏】やた‐がらす (ヤタはヤアタの約。咫あたは上代の長さの単位) Wiki 八咫烏
   記紀伝承で神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという大烏。
   姓氏録によれば、賀茂建角身命かもたけつのみのみことの化身と伝えられる。古事記[中]「今、天より八咫烏をつかはさむ

  【賀茂建角身命・鴨武津身命】かもたけつのみ‐の‐みこと
   京都の賀茂御祖かもみおや神社の祭神。神魂命かみむすびのみことの孫で賀茂別雷命かもわけいかずちのみことの外祖父。
   玉依姫たまよりびめの父。玉依姫は神武天皇の母
   はじめ日向に降臨し、神武天皇東征の際、八咫烏に化して天皇を導いた。のち、山城の賀茂川上流に移住したという。

  八咫烏は陸上自衛隊 Japan Ground Self-Defense Force や 日本サッカー協会 Japan Football Association の
  マークにも使用されています。






  Don Pancho 『大和国の宇陀の里に鎮座する八咫烏神社』  http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2009_04_07.htm

  明治時代、日本にサッカーを持ち込んだとされる中村覚之助が那智勝浦出身だった事もあり、八咫烏が採用されたそうです。
  日本代表に選ばれた多くのサッカー選手が熊野速玉大社を参拝しています。







  ≪ 熊野那智大社 ≫ Wiki 熊野那智大社

  熊野那智大社は熊野三山の中でも熊野坐神社(本宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは異なり、山中の那智滝を
  神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後で平安時代後期~末期頃と推測されて
  いるようです。

  【熊野那智神社】くまの‐なち‐じんじゃ
   和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある元官幣中社。祭神は家都御子けつみこ神・熊野速玉神・熊野夫須美ふすみ神。
   今は熊野那智大社と称。熊野三社の一つ。


室町時代に熊野詣の様子を描いた『那智山宮曼荼羅』





  熊野詣で 熊野那智山宮曼荼羅
   http://homepage2.nifty.com/k_odagiri/topics09/kumano/kumano-hudaraku-07a.html ← 全体の大きな画像が見れます。

  【那智の滝】なち‐の‐たき
   和歌山県東牟婁むろ郡那智勝浦町、那智山南腹にある滝。那智四十八滝中の最大の滝で、那智の信仰・修行と
   観光の中心。那智川の上流、標高約300メートルの絶壁にかかり、落差約130メートル、幅9~13メートル。


  ≪ 平安時代の神輿 ≫ Wiki 鞆淵八幡神社

  和歌山県紀ノ川市にある鞆淵ともぶち八幡神社にある保存されている現存最古級の国宝 沃懸地螺鈿金銅装神輿
  いかけじ-らでん-こんどうそう-しんよ
  平安後期の作で、後堀河天皇(鎌倉前期 在位1221~1232)の勅により1228(安貞2)年に石清水八幡宮の勧請の際に
  奉送されたと伝えられているそうです。






  【神輿】しん-よ、み‐こし
   神幸の際、神体または御霊代みたましろが乗るとされる輿。形状は四角形・六角形・八角形などで、多くは木製黒漆、
   金銅金具付。屋蓋の中央には鳳凰または葱花そうかを置き、台には2本の棒を貫いて轅ながえとし、舁かく便に供する。

  紀の川市HP 『きのかわ観光ガイド 「沃懸地螺鈿金銅装神輿」』
   http://www.city.kinokawa.lg.jp/kanko/temples_shrines/ikakejiradenkondousousinyo.html
  公益社団法人 和歌山県観光連盟 『わかやま観光情報 「紀の川市(粉河)」』
   https://www.wakayama-kanko.or.jp/kataribe/06/detail_06.html


  ≪ 熊野五か寺 ≫

   長徳寺・安楽寺・極楽寺・仏光寺・護国山金剛寺
   
 日本の重要 二十二社
  【十六社】じゅうろく-しゃ
   平安時代、奉幣のために定められた畿内の名社、すなわち伊勢・石清水・賀茂・松尾まつのお・平野・稲荷・春日・
   大野原・大神おおみわ・石上いそのかみ・大和おおやまと・広瀬・竜田・住吉・丹生にう・貴船 (貴布祢) をいう。
   のち、吉田・北野・広田の3社を加えて19社に拡大。

  【二十二社】にじゅうに‐しゃ
   大小神社の首班に列し、国家の重大事、天変地異に天皇の勅命によって神様にお供え物をする神社。
   1039年(長暦3)後朱雀天皇のときに固定化。

  広辞苑の二十二社に載っている順番。(内容はすべて広辞苑より  Wiki 神宮 / Wiki 大社 / Wiki 二十二社

  【伊勢神宮】いせ-じんぐう 伊勢大廟。大神宮。
   三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称、神宮。皇大神宮(内宮ないくう)と豊受とようけ大神宮(外宮げくう
   との総称。三社の一つ。
   皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代みたましろは八咫鏡やたのかがみ 。豊受大神宮の祭神は豊受大神。
   20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造ゆいつしんめいづくりと称。

伊勢神宮


  【石清水八幡宮】いししみず-はちまんぐう 
   京都府八幡やわた市にある元官幣大社。
   祭神は誉田別尊ほんだわけのみこと(応神天皇)・息長帯姫尊おきながたらしひめのみこと(神功皇后)・
   比売神ひめがみの三座。
   859年(貞観1)、宇佐八幡を勧請かんじょう。歴代朝廷の崇敬篤く、鎌倉時代以降、源氏の氏神として
   武家の崇敬も深かった。例祭は9月15日。伊勢神宮・賀茂神社とともに三社の称がある。



  【賀茂御祖神社】かもみおや‐じんじゃ 通称、下鴨神社
   京都市左京区下鴨にある元官幣大社。
   祭神は賀茂別雷命かもわけいかずちのみことの母の玉依姫命たまよりびめのみことと外祖父の賀茂建角身命かも
   たけつのみのみこと。本殿は流造ながれづくりの代表。葵祭あおいまつりは名高い。山城国一の宮。

下鴨大社


  【松尾大社】まつのお‐たいしゃ
   京都市西京区嵐山にある元官幣大社。祭神は大山咋命おおやまくいのみこと・中津島(市杵島)姫命。
   もと松尾山に祭られた。

松尾大社


  【平野神社】ひらの‐じんじゃ
   京都市北区にある元官幣大社。
   平安遷都の時、大和国より遷座。祭神は今木神・久度神くどのかみ・古開神ふるあきのかみ・比咩神ひめがみ



  【稲荷神社】いなり‐じんじゃ
   京都市伏見区稲荷山の西麓にある元官幣大社。
   倉稲魂神うかのみたまのかみ・佐田彦神・大宮女命おおみやのめのみことを祀る。
   711年(和銅4)秦公伊呂具はたのきみいろくが鎮守神として創始。全国稲荷神社の総本社。
   近世以来、各種産業の守護神として一般の信仰を集めた。今は伏見稲荷大社と称す。

  餅の原型「しとぎ」 餅の神様を祀る小野神社、豊前・豊後の名の由来、伏見稲荷大社縁起など

伏見稲荷大社


  【春日神社】かすが‐じんじゃ
   奈良市春日野町にある元官幣大社。
   祭神は武甕槌命たけみかずちのみこと ・斎主命いわいぬしのみこと(経津主命)・天児屋根命あまのこやねのみこと
   比売神ひめがみ
   平城遷都後まもなく藤原氏により現在の地に創建され、以後ながくその氏神として尊崇された。
   三社の一つとも称す。今は春日大社と称。

春日大社


  【大原野神社】おおはらの‐じんじゃ
   京都市西京区大原野南春日町にある元官幣中社。
   藤原氏が氏神の春日明神を奈良から勧請かんじょうしたもので、朝廷の尊崇が厚かった。



  【大神神社】おおみわ‐じんじゃ すぎのみやしろ。三輪明神
   奈良県桜井市三輪にある元官幣大社。祭神は大物主大神おおものぬしのおおかみ
   大己貴神おおなむちのかみ・少彦名神すくなびこなのかみを配祀。
   日本最古の神社で、三輪山が神体。本殿はない。酒の神として尊崇される。大和国一の宮。

大神大社


  【石上神宮】いそのかみ‐じんぐう 日本書紀では伊勢神宮と石上神宮だけが神宮と記載。
   奈良県天理市布留町にある元官幣大社。
   祭神は布都御魂大神ふつのみたまのおおかみ。布留社ふるのやしろ。所蔵の七支刀が著名。

石上神宮


  【大和神社】おおやまと‐じんじゃ
   奈良県天理市新泉町にある元官幣大社。
   祭神は倭大国魂神やまとおおくにたまのかみ・八千戈神やちほこのかみ・御年神みとしのかみ



  【広瀬神社】ひろせ‐じんじゃ
   奈良県北葛城郡河合町にある元官幣大社。
   祭神は若宇迦能売命わかうかのめのみこと(大忌神・広瀬河合神ともいう)。
   櫛玉命・穂雷命を配祀。穀物の豊熟をつかさどる神として、竜田の風神に対し広瀬の水神と称され、
   尊崇された。



  【竜田神社】たつた‐じんじゃ
   奈良県生駒郡三郷町立野にある元官幣大社。
   祭神は天御柱命・国御柱命。風をつかさどる神で、古来五穀の豊熟を祈願する神として有名。
   今は竜田大社と称す。



  【住吉神社】すみよし‐じんじゃ
   大阪市住吉区住吉にある元官幣大社。
   住吉神すみのえのかみの三神と神功皇后とを祀る。摂津国一の宮。今は住吉大社と称す。
   同名の神社は、下関市一の宮住吉(長門国一の宮)や福岡市博多区住吉(筑前国一の宮)など
   各地にある。

  八尾市の心合寺山古墳から出土した住吉造似た家型の埴輪 家の中に水路がある

住吉大社


  【日吉神社】ひえ‐じんじゃ
   滋賀県大津市坂本(比叡山東麓)にある元官幣大社。
   東本宮に大山咋神おおやまくいのかみ、西本宮に大己貴神おおなむちのかみをまつる。
   古来、山王さんのう ・山王権現または山王二十一社と称し、朝廷の尊崇が厚かった。
   例祭は4月14日で日吉祭・山王祭と呼び著名。日吉山王。ひよし。今は日吉大社と称。

日吉大社


  【梅宮大社】うめのみや‐たいしゃ
   京都市右京区梅津にある元官幣中社。
   祭神は酒解神さかどけのかみ・大若子神おおわくごのかみ・小若子神こわくごのかみ・酒解子神さかどけごのかみ
   橘氏の祖神で、諸兄もろえの母が初めて祭った。



  【吉田神社】よしだ‐じんじゃ
   京都市左京区吉田神楽岡町にある元官幣中社。奈良の春日神社を藤原氏が勧請かんじょうしたもの。
   吉田神道の本拠地となり、大元宮が設けられた。

吉田神社


  【広田神社】ひろた‐じんじゃ
   兵庫県西宮市大社町にある元官幣大社。
   祭神は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと(天照大神の荒魂)。
   脇殿に住吉大神・八幡大神・建御名方神・高皇産霊神を祀る。和歌に霊験ある神として崇敬された。



  【祇園社】ぎおん-の-やしろ / 【八坂神社】やさか‐じんじゃ(1868年(慶応4)改称)
   京都市東山区祇園町北側にある元官幣大社。
   876年(貞観18)、藤原基経が自邸を壊して牛頭ごず天王のために精舎を造営寄付し、祇園精舎に
   因んで称したもの)で祇園社は、京都の八坂神社の旧称。
   祭神は素戔嗚命すさのおのみこと ・奇稲田姫命くしなだひめのみこと・八柱御子神。例祭の祇園会のほか、
   特殊神事に白朮おけら祭がある。

八坂大社


  【北野天満宮】きたの‐てんまんぐう 北野天神北野神社
   京都市上京区馬喰町にある元官幣中社。主祭神は菅原道真。10世紀中頃の創建。
   例祭8月4日(11世紀半ばまでは5日)。
   八棟造やつむねづくりの現社殿は、慶長年中、豊臣秀頼の造営で、最古の権現造。

北野天満宮


  【丹生川上神社】にうかわかみ‐じんじゃ
   奈良県吉野郡にある元官幣大社。3社に分かれ、上社は川上村、祭神は高龗たかおかみ神。
   中社は東吉野村、罔象女みずはのめ神。
   下社は下市町、闇龗くらおかみ神。水神・雨乞いの神として信仰された。雨師あめし明神。



  【貴船神社】きぶね‐じんじゃ
   貴船町にある元官幣中社。
   祭神は闇龗神、また高龗神・罔象女神ともいう。古来、祈雨・止雨の神として尊崇される。

貴船神社




  ※ 明治政府が神社関係を色々変えたようで、日本の神社の系列や社格などがややこしくなっているようです。

  【廃仏毀釈・排仏棄釈】はいぶつ‐きしゃく
   (「毀釈」は、釈迦の教えをすてる意)明治初年の仏教排撃運動。
   1868年(慶応4)の神仏分離令などの神道国教化政策の下で、神道家などを中心に各地で寺院・仏像・仏具・仏典の
   破壊や僧侶の還俗強制などがおきた。

  【官幣社】かんぺい‐しゃ
   旧社格の一つ。古くは神祇官から幣帛を捧げた神社であったが、明治以後は宮内省から幣帛を供進した神社をいう。
   大社・中社・小社・別格官幣社の別があった。主として皇室尊崇の神社および天皇・皇親・功臣を祀る神社。
   第二次大戦後、この制度は廃止。

  【一の宮】いち‐の‐みや
   各国の由緒あり信仰の篤あつい神社で、その国の第1位のもの。
   大宮市の氷川神社を武蔵国の一の宮とした類。今、各地に地名としても存続している。(「うつのみや」もその転訛)

  【牛頭天王】ごず‐てんのう
   〔仏〕もとインドの祇園精舎の守護神で、薬師如来の垂迹すいじゃく(神や仏が救済の為に仮の姿をとって現れること)とされる。
   除疫神として、京都祇園社(八坂神社)などに祀られる。頭上に牛の頭を持つ忿怒相に表される。

  ※ 牛頭大王などともいい、インド~東南アジア~東アジアまで色んな伝説が残り、上記のは日本の仏教などでの解釈のようです。

  【祇園精舎】ぎおん‐しょうじゃ
   (梵語 Jetavanavihra)須達しゅだつ長者(須達多。スダッタ というインドの城主)が、中インドのコーサラ国舎衛城の南、
   祇園に釈尊およびその弟子のために建てた僧坊。釈尊の説法の多くがここでなされ、竹林精舎と共に二大精舎という。

  ※ その昔、インドの金持ちであるスダッタさんが、お釈迦様の為に祇園という場所に建て物を建てた。その建物の事。
 
 お宝満載 奈良吉野の吉水神社
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 近畿国宝めぐり ~高野山の紅葉を目指せ7 秋の高野詣 最終回~』 13.10.17 放送 / Wiki 吉水神社

  世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つ、旧社格は村社。
  飛鳥時代の白鳳期(650~680年?)頃に役行者によって創建されたといわれる由緒ある神社で、明治時代まで
  入山許可書を発行していました。






  【吉水院】よしみず‐いん
   奈良県金峯山寺きんぷせんじの僧坊。大宝(701~704)年中、役小角えんのおづのの創始といい、源義経の潜居、
   また後醍醐天皇の行宮あんぐうとして有名。1875年(明治8)吉水神社と改める。


  ≪ 源義経の鎧 と 静御前の着物 ≫ Wiki 静御前  静御前が関東武士にキレたエピソード

  『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、
  義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻されます。
  吉野の吉水神社で5日間匿われました。その書院は重要文化財に指定。ここで、義経と静御前が分かれる事になります。
  静御前は京へ戻りますが、途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に
  引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる事になります。






  ≪ 後醍醐天皇の硯すずり

  南北朝時代には、後醍醐天皇が吉水神社を一時期、御座場所としました。
  後醍醐天皇の崩御の後、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に奉安しました。






  ≪ 豊臣秀吉が被った能面 ≫

  桃山時代の1594年には、豊臣秀吉が吉野山の花見を楽しむ時に、吉水神社を本陣としました。
  その際、秀吉が余興の仮装行列で被ったとされる能面が残っています。





  【蝉丸】せみまる Wiki 蝉丸
   平安前期の人。宇多天皇の皇子 敦実親王の雑色ぞうしき(無位の職、雑役に従う召使)という説、醍醐天皇の
   第4皇子という説などがある。盲目で和歌・琵琶をよくし、逢坂山に住み、博雅三位に秘曲を授けたという。
   「小倉百人一首」「新古今和歌集」などに歌が収録されている。

  その他、徳川光圀の直筆の書など、およそ120点の歴史的資料があるそうです。

  【医王寺】いおう-じ
   福島市飯坂町にある真言宗の寺。826年 (天長3) 空海の開創と伝える。
   源義経の臣 佐藤継信・忠信兄弟の墓があり、源氏ゆかりの品を所蔵。
 
 源義経一行の縁の物
  毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびだせ! えほん 「滋賀県大津市」』 13.11.21 放送 

  ≪ 日本三名鐘の一つ 滋賀県三井寺の晩鐘 ≫

  京都市右京区高雄の神護寺鐘。京都府宇治市の平等院鐘。滋賀県大津市の三井寺の晩鐘。
  「銘の神護寺」「姿の平等院」「音の三井寺」。






  ≪ 弁慶の引き摺り鐘 ≫

  弁慶が三井寺の鐘を比叡山まで引き摺り上げたという伝説の鐘が、三井寺の金堂西方の霊鐘堂にあります。
  この古鐘は奈良時代に作られたもので、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に
  琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したとも伝えられています。

  詳しくは、三井寺HP 『伝説「弁慶の引き摺り鐘」』 http://www.shiga-miidera.or.jp/about/legend01.htm

  毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「にっぽん城下町めぐり2 奈良大和郡山市」』 13.11.28 放送

  ≪ 源九郎げんくろう稲荷神社 ≫ Wiki 源九郎稲荷神社 / Wiki 佐藤忠信  / Wiki 義経千本桜 / Wiki 豊臣秀長

  奈良県の大和郡山城は、1580年に筒井順慶が築城、のちに3代目 郡山城主になった豊臣秀長(秀吉の異父弟)が
  城下町を整備し、源九郎稲荷神社を吉野から移し城内に創建。1719年(享保4)、現在地に遷座。
  かつては、伏見稲荷(京都府)・豊川稲荷(愛知県)と並び、日本三社稲荷の一つとされていました。






  祀られる源九郎狐は、義経の四天王(鎌田盛政・鎌田光政・佐藤継信・佐藤忠信)とも言われる佐藤忠信がモデル。
  忠信は、藤原秀衡の命により兄・継信と共に義経に随行。義経の郎党として平家追討軍に加わった。

  1185年、義経は頼朝に追われて吉野に逃げます。合流するまで、静御前の警護をしていたのが佐藤忠信。
  歌舞伎などの演目で有名な「義経千本桜」では、佐藤忠信は本物ではなく白狐が化けたもので、頼朝軍を妖術で
  蹴散らした。白狐の目的は自分の親の皮で作られたという鼓を取り戻す事。

  義経はそれを知ると、狐に自らの名前「源九郎義経」からとった「源九郎げんくろう」と名付け、鼓も与えます。

  【佐藤四郎忠信】さとう‐ただのぶ (陸奥の人、1161~1186)  継信の弟。
   平安末期の武士。義経が吉野山に隠れ、山僧に攻められた時、自ら義経と称して奮戦。翌年京都に入り、
   糟屋有季に囲まれて自刃。能・浄瑠璃に脚色される。

  【佐藤三郎継信】さとう‐つぐのぶ (陸奥の人、1158~1185) 忠信の兄。
   平安末期の武士。屋島の戦に義経の身代りとなり、平教経の矢に射られて戦死。

  【義経千本桜】よしつね-せんぼんざくら
   人形浄瑠璃や歌舞伎の演目で二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作の時代物。1747年(延享4)大坂
   竹本座で初演。
   義経伝説と平家没落の哀史とに取材。義経と静御前との愛に、平家の落人知盛・維盛・教経を主要人物として
   あしらい、佐藤忠信をもからませ源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、実は生き延びていた平家の武将
   たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描く。

  ≪ 「元の木阿弥もくあみ」の語源 ≫

  戦国時代の大和国の大名である筒井順昭は病に倒れました。その時、息子の順慶はまだ2才。
  順昭は、声などが似ていた近くの寺の僧侶である木阿弥を影武者に仕立てた。

  順昭の死後、3年間影武者を無事に勤めた木阿弥は、元の寺の僧侶に戻りました。

  「いったん良い状態になったものが、再びもとのつまらないさまにかえること。苦心や努力も
  水泡に帰して、もとの状態にもどってしまうこと。」という意味で使われる「元の木阿弥」という
  言葉ですが、本来は悪い意味では無かったそうです。


  【筒井順慶】つつい‐じゅんけい (1549~1584)
   戦国末期の武将。大和生駒郡筒井城主。1571年(元亀2)松永久秀が織田信長に叛いた時、明智光秀と共に久秀を
   攻め、郡山城に拠って大和全国を支配した。
   1582年(天正10)本能寺の変ののち、一時 光秀にくみしたが、形勢の変化に態度を変え、山崎の合戦では豊臣秀吉に通じた。
 
 
~弥生・古墳時代 飛鳥・奈良時代 平安時代の雑学1 平安時代の雑学2 お取り寄せ order
鎌倉~室町時代 戦国~桃山時代 江戸時代の雑学1 江戸時代の雑学2 日本の歴史・雑学  INDEX
江戸時代の雑学3 江戸時代の雑学4 明治・大正時代1 明治・大正時代2
昭和時代の雑学1 昭和時代の雑学2 江戸時代の文献記述 東京付近の歴史 沖縄の歴史
おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
2009.02.17発売
Link Free http://marco4321ice.web.fc2.com/ 
OSAKA HABIKINO IGA 5-9-6  MARCO POLO 取り扱い商品 : アイスクリーム / シャーベット / ザーネアイス / 生チョコアイス / スイートポテト / コーヒーなど
inserted by FC2 system