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7月 七夕 |
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テレビ大阪 ニュースリアル 『"愛染まつり"始まる』 16.06.30 放送
テレビ大阪 ニュースリアルKANSAI 『半夏生 知っていますか?』 17.06.28 放送
≪ 浴衣を着始める日は? ≫
『日本最古の祭』とも称される大阪の愛染まつり 愛染祭りの日から浴衣を着る風習がありました。別名「浴衣まつり」。
【勝鬘愛染会】しょうまん‐あいぜんえ 勝鬘祭。
大阪市天王寺区夕陽丘町の勝鬘院で、毎年6月30日から7月2日まで(もと陰暦6月1日)行われる、本尊愛染明王の開帳。
2017年は7月2日は夏至から数えて11日目の『半夏生はんげしょう』。
田植えが終わって、稲がタコの足のように根を張ることを願って、関西ではタコを食べる習慣があります。
植物の半夏生はこの時期に葉の半分が化粧したようになります。
【半夏生】はんげしょう
①[礼記[月令]]七十二候の一つ。夏至から11日目に当る日。太陽暦では7月1日頃。梅雨が明け田植の終期とされる。
②〔植〕ドクダミ科の多年草。水辺に生ずる。高さ約60㎝。夏、茎頂にある葉の下半部が白色に変じ、その葉腋に白色の
穂状すいじょう花を綴る。片白草かたしろぐさ 季語は夏。
≪ 七夕 ≫
テレビ大阪 夕刊7ch 14.07.07 放送 / 毎日放送 美の京都遺産 15.07.26 放送
朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポン・植物ミステリー』 15.09.10 放送
【棚機・七夕】たな‐ばた (棚すなわち横板のついた織機の意)
① 「たなばたつめ」の略。古事記[上]「あめなるやおと―のうながせる」
② 五節句の一つ。天の川の両岸にある牽牛星と織女星とが年に一度相会するという、
7月7日の夜、 星を祭る年中行事。
中国伝来の乞巧奠の風習と日本の神を待つ「たなばたつめ」の信仰とが習合した
ものであろう。
奈良時代から行われ、江戸時代には民間にも広がった。
庭前に供物をし、葉竹を立て、五色の短冊に歌や字を書いて飾りつけ、書道や裁縫
の上達を祈る。七夕祭。銀河祭。星祭。秋。
【天の川・天の河】あま‐の‐がわ 天の戸河。
(中国の伝説に、牽牛けんぎゅう星と織女星とがこの河を渡って、7月7日に出逢うという)
銀河系の円板部の恒星が天球に投影されたもの。
数億以上の恒星から成り、天球の大円に沿って淡く帯状に見える。
銀漢。漢。天漢。河漢かかん。
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【棚機つ女】たなばた‐つ‐め
① はたを織る女。秋さり姫。万葉集[10]「わがためと―のそのやどに織る白たへは織りてけむかも」
② 織女星しょくじょせい 。棚機姫とも。秋。万葉集[8]「ひこぼしは―と…いなうしろ川に向き立ち」
呉服の発祥とされる呉服くれは神社 大阪府池田市 古墳時代、中国の姉妹が渡来し技術を伝えた 三重県の機織神社
【乞巧奠】きこう‐でん、きっこう-でん
(女子が手芸に巧みになることを祈る祭事の意)陰暦7月7日の夜、供え物をして牽牛・織女星をまつる行事。
中国の風習が伝わって、日本では宮中の儀式として奈良時代に始まり、後に民間でも行われた。
【秋さり衣】あきさり-ごろも … 秋になって着る着物。秋衣。
【細蟹姫】ささがに‐ひめ
(平安時代以降、形が小さいカニに似ているところからいう)蜘蛛くもの異称。また、蜘蛛の網い。で、
(蜘蛛はよく糸をかけるからいう)たなばたひめ。織女星。の事。
現代の七夕は上記のように中国の伝説と日本の棚機津女への信仰がベースとなり、後に様々な風習と結びついた行事
として発展しました。
京都 地主神社 『七夕の歴史・由来』 http://www.jishujinja.or.jp/tanabata/yurai/
≪ 京都・貴船神社の「水まつり」 ≫
京都市左京区の鞍馬にある貴船神社。能の「金輪かなわ」夫に捨てられた女が貴船神社の神託を得て、ローソクを立てた
鉄輪を頭に頂き、生霊となり夫を襲う。(丑の刻参り)。安部晴明によって呪いを断たれるという話の舞台としても有名。
黄色い船に乗った玉依姫が淀川・鴨川を遡り貴船川に辿り着き、ほとりに祠を建て水神を祀ったのが貴船神社の始まりと
されています。
祭神の高龗神たかおかのかみは雨を司るので、7月7日に雨乞い神事に由来する『水まつり』が執り行われます。
貴船神社の高井和大 宮司によると
「旧暦(およそ1ヶ月後)の七夕の時期は、中国では水が少なく、豊作を願して雨乞いの儀式を行いました。星が水を司る神
として考えられるようになり、彦星と織姫のロマンスが生まれてくる訳ですね。日本にも似たような棚機津女という風習が
あったんですよ。7月7日に川辺に機はたを織る小屋を建てて、そこに乙女が籠って豊作の神様を待っているというような
風習だったんですね。これらが合体して今日こんにちのようになった。」
貴船神社では、七夕の日に素麺を織糸になぞらえるなど山海の幸の特別な神饌を用意、水に纏わる様々な儀式が営まれます。
魚に手を触れず包丁と箸を使って捌く『式庖丁の儀』、茶道の『献茶式』、『舞楽奉納の儀』などが行われます。
【貴船神社】きぶね‐じんじゃ
貴船町にある元官幣中社。祭神は闇龗神くらおかみのかみ、また高龗神・罔象女神みずはのめのかみともいう。
古来、祈雨・止雨の神として尊崇される。二十二社の一つ。
貴船神社 『年中行事』 http://kifunejinja.jp/event.html
≪ 冷泉家で行われる棚機の歌会 ≫ 京都 冷泉家の儀式に使われる井戸が復活 Wiki 冷泉家
藤原俊成しゅんぜい筆 「古来風躰抄」、藤原定家ていか筆の古今和歌集や日記「明月記」など国宝の古典籍や史料をまもり
伝える京都市上京区にある冷泉家は、御所の北側にあり現存する唯一の公家屋敷と言われています。
【冷泉】れいぜい
御子左みこひだり家の藤原定家の流れを伝えた和歌の師範家の一つ。藤原為家の子の為相ためすけを祖とする。
鎌倉末~南北朝期に保守的な二条家、革新的な京極家に対して、比較的自由な歌風を主唱。
のち、上冷泉・下冷泉の両流に分かれ、現在まで続く。
冷泉家では、和歌の伝統とともに平安時代からの四季折々の宮廷儀式が受け継がれています。
旧暦の七夕に当る八月七日前後、1年で最も華やかな乞巧奠が行われます。
乞巧奠は彦星と織姫の棚機たなばた(七夕)伝説に秋の訪れを祝う風習が結び付いた中国伝来の儀式。
果物や野菜などと絹糸と布を供え、技芸に長じたと言われる織姫にあやかる為、星空に向かって和歌や雅楽などを捧げ、
その上達を願いました。
開かれる歌会「流れの座」は、天の川に見立てた白い絹の布を挟んで、男女が向かい合い即興の恋の歌を詠み交わします。
(歌を交換します。)
Club Fame & 京都CF! 『七夕の行事★冷泉家の乞巧奠(きっこうてん)」』 14.07.07 配信
http://kyotocf.com/matsuri/%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%B9%9E%E5%B7%A7%E5%A5%A0/
≪ 江戸時代になって庶民にも七夕祭りが広まる ≫
『拾遺都名所図会』に京都での七夕の様子が描かれています。
京都では、梶葉型の灯篭や短冊、ホウズキ提灯を結び付けた笹飾りを鴨川に流し、子供たちが学芸の上達を願いました。
国際日本文化研究センター 『拾遺都名所図会データベース』 http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/c-pg2.html
『『拾遺都名所図会』は『都名所図会』の後編として天明七 (1787) 年秋に刊行されたもので、前編と同じく本文は
京都の俳諧師 秋里籬島が著し、図版は大坂の絵師 竹原春朝斎が描いた墨摺五冊本である。
なお、本データベースに用いた『拾遺都名所図会』は大坂の書林河内屋から天明七年秋に板行された新版で、
江戸でも同時に刊行されたものである。』
白峰神宮では、元禄年間に七夕の日に西陣の少女たちが手芸など芸事の上達を願って踊り歩いた事を由来とする
『小町をどり』の風習が行われます。
【白峰神宮】しらみね-じんぐう … 京都市上京区飛鳥井町にある元官幣大社。祭神は崇徳天皇・淳仁天皇。
白峰神宮 『年中行事 精大明神例祭「七夕祭」』 http://shiraminejingu.or.jp/event/tanabata/#komachi
八坂神社では旧暦の七夕である八月七日頃に七夕祭が行われます。
『全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の
大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。』
【七夕送り】たなばた‐おくり … 七夕の飾り竹を海や川に流すこと。
【短冊・短籍・短尺】たん‐ざく、たんじゃく
① 標目・数量などを書いた細長い紙。特に、官庁で給付する物資の品目・数量を書いたもの。
西宮記せいゆうき(源高明著、村上天皇926~967の頃)「便所を定めて米塩を分け行ひ、或は且つ―を給ひ、
且つ物を散ず」。枕草子[314]「これはなにの御―にか侍らん。物いくらばかりにか」
② 和歌を書くのに用いる料紙。普通は縦36㎝余、幅6㎝位で、金銀箔を置いたもの、下絵や模様のあるもの、
絹張りのものなどがある。鎌倉末期にすでに行われていたらしい。今も和歌・俳句や絵などを書くのに用いる。
【七夕馬】たなばた‐うま … 東日本で、7月7日に藁でつくる馬。朝、草刈につれて行く習俗のある地方もある。
【天之川】あま‐の‐がわ … 大阪府枚方市禁野きんやの地名。あたりを同名の川が流れる。(歌枕)
≪ 竹に短冊を吊るす理由 ≫ 竹の花は不吉とされた
繁殖力が強く、風雪にも耐えるなどの特性を持つ竹はアジアにしかない植物で、アジア各国では昔から竹を様々な
事に利用してきました。
日本では竹の特性から神秘な植物と考えられており、笹の葉がすれ合う音には神様が宿ると考えられ、神事で利用
されてきました。七夕での願い事は神聖な笹に託すようになりました。
【竹】たけ
イネ科タケ亜科の多年生常緑木本の総称。タケ群とササ群に大別。また、独立のタケ科とする場合もある。
茎は木質化、隆起した節があり、地上茎・地下茎に分かれる。地上茎は直立し、多くは中空で、地下茎は節部から根
および地上茎(筍たけのこ)を生ずる。葉は狭長扁平で先端がとがり、短柄。
稀に稲穂状の黄緑花をつけるが、開花後は多く枯死。東南アジアを中心に、世界に約40属600種、日本ではおよそ
12属150種を産する。タケ群はマダケ・ナリヒラダケ・ホウライチク・オカメザサなどの各属を含む。
建築・器具製作・細工物・竿などに重用し、筍は食用。万葉集[5]「わが園の―の林に鶯鳴くも」
【真竹】ま‐だけ
(マタケとも)竹の一種。最も普通の竹で関東以南の各地に、竹やぶを作る。地下に太い根茎が走る。
高さ約15メートル、径10センチメートル。各節には2輪の環状隆起がある。時に枝端に花をつけるが、その後に枯れる。
茎および竹の皮は有用、たけのこは食用。呉竹くれたけ。苦竹にがたけ・くちく。〈日葡辞書〉
縁起が良い竹ですが、『竹の花』は不吉とされています。実を付けてから開花するまでが非常に長く、真竹では120年かかると
考えられています。花は一斉に咲き、一斉に枯れます。
多くの竹が生えているように見える竹林でも、全てが地下茎で繋がった1つの生命体だからです。
一斉に実がなり種が落とされるので、それを餌とするネズミやモグラが大量発生。竹林の種を食べ尽くすと、田畑の穀物を
食べ尽くし飢饉に至るようになるので、人々は「竹の花が咲くと天変地異が起こる」と考えていました。
1970年頃、日本や中国で真竹が一斉に開花し、その後一斉に枯れました。その結果、中国ではパンダが餓死する事も
あったそうです。次に咲くのは2090年頃だそうです。
【笹・篠・小竹】ささ (「ささ」は小さい意)
イネ科の常緑多年生植物。タケの類で形の小さく、皮の落ちないものの便宜的な総称。
種類はきわめて多く、北海道から九州までの山地に群生する。花が咲けば普通枯死。葉茎を細工物・垣などにし、
また観賞用。実は食用。万葉集[2]「―の葉はみ山もさやにさやげども」
【湯立】ゆ‐だて、ゆだち。
神前で湯を沸かし、巫女みこ・神職などがその熱湯に笹の葉を浸して自分の身や参詣人にふりかける神事。
もと禊みそぎの一種で、のちには誓うけいともなり、湯の音で占いもする。古代の探湯と関係があるとされる。
現在では無病息災を祈る行事。問い湯。湯の花。康富記[宝徳3年9月29日]「粟田口神明有―、参詣拝見了」
【盟神探湯・探湯・誓湯】くか‐たち、くか。
神明裁判の一種。古代、裁判上、真偽正邪を裁くのに神に誓って手で熱湯を探らせたこと。
正しい者はただれず、邪よこしまな者はただれるとする。日本書紀 允恭紀。
テレビ東京 世界! ニッポン行きたい人応援団SP 『ニッポンを愛してやまない双子の少女 米国からご招待』 17.09.28 放送 日本七夕文化研究会 『-『日本民俗地図』に見る20世紀前半の七夕行事-』
http://www.geocities.jp/seijiishizawa/NewFiles/japanese-to-tanaabta.html
≪ 北海道の七夕は変わっている 8月に行いハロウィーンのような風習がある ≫ Wiki ローソクもらい
元々は7月7日に行っていたそうですが、新暦に変わった時に、そのまま昔の旧暦の
日に行う事が残った為、8月に行います。
旧暦だと日にちが年によってずれるので、8月7日に固定されたそうです。
北海道全体が8月7日に行うのではなく、函館など道南では7月に行う所が多いようです。
秋田県にも同様の『七夕絵どうろう祭り』というのがあるそうです。
宮城県など東北でも8月に七夕を行うところがあります。
右の画像は、東北三大祭りの一つ『仙台七夕祭り』8月6~8日に開催。
短冊のほかに、吹き流し・紙衣・折鶴・投網・巾着・屑篭の七つ飾りを折紙で作って
飾るようです。
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北海道ファン マガジン 『北海道の七夕はなぜ8月?「ローソクもらい」の風習の起源とは?』
https://pucchi.net/hokkaido/knowledge/tanabata.php
≪ 各地の七夕行事 ≫ Wiki 洗骨
西日本では牛を洗う地域が多かったそうです。他に仏壇・仏具を洗う。沖縄では埋葬者の骨を洗う儀式などもあったようです。
【七夕馬】たなばた‐うま
東日本で、7月7日に藁でつくる馬。朝、草刈につれて行く習俗のある地方もある。
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7~8月 花火 |
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朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポンの花火! 世界一と言われる「日本の花火」誕生の裏側』 15.07.23 放送
朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『~本当は怖い日本の風習~ 謎多き迷信の正体!』 16.11.17 放送
【花火・煙火】はな‐び
黒色火薬に発色剤をまぜて筒につめ、または玉としたもの。点火して破裂・燃焼させ、光・色・爆音などを楽しむ。
通信にも用いた。張筒から空中に放つ打上花火、装置して物の形を見せる仕掛花火、子供の玩具とする線香花火など
種類が多い。御湯殿上日記「一条殿よりはなび参る」
【御湯殿の上の日記】おゆどの-の-うえ-の-にっき
清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。禁中の日常や女房詞などを知る好史料。
1477(文明9)から1826年(文政9)までのものが現存。
≪ 夏に花火大会が行われるようになった理由 ≫ Wiki 花火
Hanabistore.com 『花火豆知識 「花火の歴史」』 http://www.hanabistore.com/hanabi-his.htm
『日本の夏の風物詩、花火。
そのルーツは古く、紀元前3世紀の古代中国、火薬の基本となる硝石が発見されてからと言われていますが、日本での
歴史上の記録に残る花火の第1号は、それから約2000年後の天正17年(1589年)7月、伊達正宗が観賞したのが
最初であるとも云われ、それに慶長18年(1613年)8月駿府で、徳川家康に、英国人ジョン・セリーヌが、同行の中国人の
手で花火を見せたという記録もあります。
日本でのおもちゃ花火は、いつ頃から作られ売られたかはっきりとした記録はありませんが、万治2年(1659年)、
大和の国(現・奈良県)から江戸へでてきた弥兵衛(初代鍵屋)が葦の管の中に火薬を入れた初歩的なおもちゃ花火を考案し
売り出し、江戸庶民に爆発的な人気を得たと言われます。
当時江戸に興隆してきた町人文化に支えられてきた花火人気は衰えることがありませんでした。
江戸のほか、花火が相当盛んであった地方は、三河・近畿・信州・越後・九州と言われています。
花火の人気と共に江戸幕府は花火の種類や火薬の量、使用場所や製造業者を指定したりして、安全対策を指示したようです。
当時の江戸では、防火対策として広小路をもうけたり、川の両岸に火除地をつくって、今日でいう防火ベルトをもうけていました。
明治のはじめ頃、西洋からの輸入により、塩素酸カリウムやストロンチウム、バリウムなどの彩色光剤を得て、日本花火の
歴史上最大の躍進の時期を迎え、今日の世界一といわれる日本花火の基礎がつくられました。(出典:(社)日本煙火協会 』
近年、花火大会の数が増加し規模も大きくなっており、最近の日本各地で開催される夏の花火イベントは約4500件。
【鍵屋弥兵衛】かぎや-やへえ (大和出身、生没年不詳) コトバンク
江戸時代中期の花火製造業者。江戸で幕府の狼煙(のろし)方の打ち上げにヒントをえて玩具花火を考案したという。
享保(きょうほう) 2年(1717) 水神祭の夜に納涼花火の始まりとされる献上花火をうちあげた。
【水神祭】すいじんさい コトバンク
水神の祭りは,6月と12月に集中しているが,とくに夏に中心が置かれている。夏の水神祭の中心は,祇園や津島の
天王信仰にもとづいている。
これは都市社会にあって,水害や流行病の発生しやすい時期に,災厄を追い払い浄化する意図で営まれたものである。
江戸時代中期、大飢饉やコレラの流行で多くの人が亡くなりました。江戸幕府8代将軍の徳川吉宗が、その供養と悪霊
退散の意味を込めて、1733(享保18)年に江戸の「両国の川開き」、隅田川で花火大会を開催したのがきっかけ。
鍵屋6代目は、この成功で幕府御用の花火師となりました。
【享保の飢饉】きょうほう‐の‐ききん
享保17年(1732)、イナゴなどによる害で近畿以西をおそった大飢饉。餓死は1万人以上と推定される。
幕府は被害のない地方から救援米を送らせたので江戸でも米価が高騰、翌正月に江戸で最初の打ちこわしが起きた。
7月に開催され、夏の恒例行事となり、庶民の娯楽と花火師たちが腕を競い合う場へと変化していきました。
当時の花火は赤橙色の一色しかなかったそうです。明治維新後に、海外から青や緑などの色花火が伝わり、ここから
日本の花火の進化します。
江戸時代末期、鍵屋から独立した玉屋が両国の吉川町で開業し、たちまち鍵屋・玉屋の二大花火師の時代を迎え、
両国の川開きは両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋落語の「たが屋」の枕で
「橋の上、玉屋、玉屋の掛け声ばかり、何故に鍵屋と言わぬ情(錠)なし」と詠まれるほど、玉屋は鍵屋を凌ぐ人気を
集めていきました。
【玉屋】たま-や
玉屋が暖簾を上げたのは文化の頃(1804~1817年)で鍵屋7代目の時代である。7代目鍵屋の番頭に清吉という
名前の男がいて、大変な働き者であったため当主から独立のお許しが出る。その清吉が市兵衛と名乗って始めた
店の屋号が「玉屋」である。
鍵屋の庭に祀ってあったお稲荷さんが、鍵と玉を持っていたことから玉屋という屋号をもらったのだとという。
玉屋は両国の吉川町で開業。
しかし、玉屋は1843 (天保14) 年4月17日、将軍家慶が日光参拝のために江戸を立つという前日に火事を出し、
自分の店のみならず周囲半町ほどの町並みを焼失させる事態を起こしました。
当時は、失火は重罪と定められていたため市兵衛は「闕所けっしょ」処分を受け、財産没収の上、「江戸お構い(追放)」と
なってしまいました。
山縣商店 『花火の歴史』 http://hanabiya.co.jp/column/index.html
≪ 花火師の街 新潟 ≫
江戸時代、関ヶ原の戦いで徳川に味方し譜代大名になった藩だけに火薬などの扱いが許されていたので、新潟など一部の
地域に花火師が集中。東日本に多く、西日本には少ない傾向があるそうです。
【長岡】ながおか … 新潟県中部、信濃川の中流右岸の商工業都市。もと牧野氏7万石の城下町。人口28万3千。
朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『関西と関東でナゼ違う? 意外な歴史を解き明かす!』 16.11.10 放送
≪ 線香花火 ≫ 関西発祥 16.11.12
江戸時代、稲作が盛んだった関西では藁が入手しやすく、その藁の先に火薬をつけ、
線香のように立てて遊ばれた事から。
その名残から、火先を上に向けて楽しむ物となっています。
東京では浅草などで紙漉きが行われていたので、紙で包んだタイプの線香花火が広まり
ました。現在は、東京タイプの線香花火が日本全国の主流となっています。
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8月 お盆 |
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朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『~本当は怖い日本の風習~ 謎多き迷信の正体!』 16.11.17 放送
以下の風習のルーツを解説していたのは、駒沢女子大学で人文学部教授も務める曹洞宗宝林寺の千葉公慈 住職。
≪ 盆踊りのルーツ1 約2500年前 ≫
ある日、釈迦の十大弟子の1人である目犍連が神通力で母親の死後の世界を覗き見しました。
すると、母親は地獄で逆さ吊りにされ拷問を受けていました。
何とか救い出したいと思った目犍連は釈迦に相談。
多くの僧侶たちと力を合わせてお経をあげる事で、母親は地獄から脱出できました。
お盆は『盂蘭盆会うらぼんえ』というのが正式名称で、助かった日が現在のお盆の日。
その語源はサンスクリット語で『ウラバンナullambana』=「逆さ吊り」の意味。
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弟子の母親が助かった際、他の大勢の亡者たちも一緒に地獄から脱出します。その時の様子を表したのが盆踊りだそうです。
【目犍連】もくけんれん 目連。大目犍連。(梵語 Mahāmaudgalyāyana 摩訶まか目犍連)
釈尊十大弟子の一人。神通第一と称された。
餓鬼道に苦しむ母を救うために僧に供養したと伝え、これが盂蘭盆会うらぼんえの起源という。
【盂蘭盆】うらぼん 盆。うらんぼん。盂蘭盆会うらぼんえ。精霊会しょうりょうえ。
(梵語 ullambana 倒懸と訳され、逆さ吊りの苦しみの意とされるが、イランの語系で霊魂の意の urvan とする説もある)
盂蘭盆経の目連もくれん説話に基づき、祖霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事。陰暦7月13日~15日を
中心に行われ、種々の供物を祖先の霊・新仏・無縁仏(餓鬼仏)に供えて冥福を祈る。
一般には墓参・霊祭たままつりを行い、僧侶が棚経たなぎょうにまわる。地方により新暦7月・8月など日が異なる。
【盂蘭盆経】うらぼん‐きょう
仏書。竺法護じくほうごの訳と伝えるが、おそらく中国で作られた偽経。1巻。
目連が餓鬼となった亡母を救う物語が説かれ、盂蘭盆会の典拠となる。
テレビ東京 世界! ニッポン行きたい人応援団2時間SP 『南米最大の盆踊りに15000人inアルゼンチン』 17.02.16 放送
≪ 盆踊りのルーツ2 空也の踊念仏説 ≫
【踊念仏】おどり-ねんぶつ
空也くうや念仏のこと。太鼓や鉦を打ち念仏・和讃を高唱する所作が踊るのに似るからいう。時宗の一遍により広まる。
また、京都の六斎念仏、大阪四天王寺の念仏会などの称。踊躍ゆやく念仏・大念仏・念仏踊などともいう。
【空也念仏】くうや‐ねんぶつ
空也が弟子定盛に伝えたという念仏。瓢箪ひょうたんまたは鉢を叩き鉦かねを鳴らし、和讃・念仏を唱えて歓喜の情を
あらわして踊る。空也踊。踊念仏。鉢たたき。
【空也】くうや コウヤとも(出自未詳、903~972) Wiki 空也
平安中期の僧。空也念仏の祖。尾張国分寺で出家後諸国を遍歴し、道路・橋梁・灌漑等の社会事業を行うとともに、
京都を中心に貴賤を問わない口称くしょう念仏の布教を展開、市聖いちのひじり・阿弥陀聖あみだひじりと称せられた。
948年(天暦2)比叡山で受戒しているが、戒名光勝は受戒後も用いていない。京都東山に六波羅蜜寺を建立。
同寺蔵の空也上人木像は鎌倉時代の康勝の作。
【一遍】いっぺん (伊予の人、1239~1289) Wiki 一遍
鎌倉中期の僧。時宗の開祖。諱いみなは智真。法然の門弟証空の弟子聖達を師としたが、のち熊野に参籠し、衆生
往生は決定しているとの霊告を得、以後踊念仏を民衆に勧め、阿弥陀名号の算ふだを配って諸国を遊行ゆぎょうした
ので、世に遊行上人・捨聖すてひじりと称した。その教えは「語録」「播州問答集」等に見える。諡号しごうは円照大師・証誠大師。
【時宗】じ‐しゅう
(一遍が門下の僧尼を唐の善導にならって時衆と称したのに始まる)日本浄土教の一門。1274年(文永11)一遍の開宗。
浄土三部経のうち、特に阿弥陀経を所依とし、平生へいぜいを臨終と心得て念仏することを旨とする。遊行ゆぎょうと
賦算ふさん・踊念仏を行う。本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺しょうじょうこうじ(遊行寺ゆぎょうじ)。時衆。遊行宗。
【盆踊】ぼん‐おどり
盂蘭盆うらぼんの7月13日から16日にかけて、精霊しょうりょうを迎え慰めるために音頭または歌謡に合わせてする踊り。
原始舞踊に発し、仏教渡来後は盆の儀式として行われたが、室町末期から民衆娯楽として発達、その形式は円舞式と
行進式との2種がある。秋
【盆踊唄】ぼんおどり‐うた
盆踊に合わせて歌う唄。室町末期から、盆踊が隆盛に赴くと共に伊勢踊・念仏踊などの歌の系統を引いた歌詞が作られ、
その後諸種の変化を経て今日に至る。盆唄。
関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 『ど~なってんねん! 日本の夏SP 「変わり種! イマドキの夏祭り」』 14.08.11 放送
NHK・大阪 松江 歴史秘話ヒストリア 『すごいぞ! 国宝 松江城』 15.10.28 放送 テレビ大阪 やさしいニュース2 『"日本のソウルダンス"盆踊りって?』 19.08.08 放送
≪ 全国各地の盆踊り ≫ 書きかけ
読売テレビ かんさい情報ネット ten. 『街かど★トレジャー 「ハワイ島 ヒロの街」』 14.08.20 放送
テレビ大阪 やさしいニュース2 『"日本のソウルダンス"盆踊りって?』 19.08.08 放送 など
≪ アルゼンチンで行われている盆踊り ≫ 日本人移民が多い国の地域では行っている所があります。
1908年に約160人の日本人が出航し、1909年に到着したのが、南米のアルゼンチンへの本格的な移民の始まり。
1965年、日系人交流の為、の農場で行われた盆踊りがアルゼンチンでの最初。
1999年に日本語学校の主催で毎年行われているラプラタでの盆踊り。
2017年で18回目になり、来場者は3日間で1万5000人以上になる南米最大の盆踊り大会になっています。
アルゼンチンには日系移民とその子孫を合せると約6万5000人だそうです。約7割が沖縄出身者とその末裔。
沖縄に因んだものや、太鼓や空手の出し物。お好み焼や焼き鳥、金魚すくい・お土産など100のブース屋台が出店。
盆踊りは花火を挟んで1夜で2回。炭坑節をはじめ10曲ほど1曲を3回で計2時間踊ります。
浴衣を着ている人もチラホラ見られ、日本と同じく老若男女で踊れ一体感を味わえる事が人気の理由のようです。
1位ジンギスカン(♪ジン、ジン、ジンギスカ~ン)、 2位河内おとこ節、
3位あられちゃん音頭 (アニメのDrスランプあられちゃんが放送されていた為)
ハワイ島のヒロの街には明治時代から移民が始まり、移民の数が増えるにつれ「ボン・ダンス」が行われるようになった
そうです。100年以上前から行っているそうで、現在は500人ほどが集まって行われています。
明治31年にはヒロ大神宮を創建。ケン玉も人気の遊びになっており、他の日本の風習も受け継がれています。
≪ 日本での盂蘭盆会 ≫ Wiki お盆
Wiki 盂蘭盆会
『日本では、この「盂蘭盆会」を「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などとよんで、今日も
広く行なわれている。この時に祖霊に供物を捧げる習俗が、いわゆる現代に伝わる「お中元」である。
古くは推古天皇14年(606年)4月に、毎年4月8日と7月15日に斎を設けるとあるが、これが盂蘭盆会を指すものかは
確証がない。
斉明天皇3年(657年)には、須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記され、同5年7月15日(659年8月
8日)には京内諸寺で『盂蘭盆経』を講じ七世の父母を報謝させたと記録されている。
後に聖武天皇の天平5年(733年)7月には、大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中の恒例の仏事となって毎年
7月14日に開催し、孟蘭盆供養、盂蘭盆供とよんだ。
奈良、平安時代には毎年7月15日に公事として行なわれ、鎌倉時代からは「施餓鬼会」(せがきえ)をあわせ行なった。
また、明治5年(1872年)7月に京都府は盂蘭盆会の習俗いっさいを風紀上よくないと停止を命じたこともあった。
現在でも長崎市の崇福寺などでは中国式の盂蘭盆行事である「(普度)蘭盆勝会」が行われる。』
AllAbout 暮らし 『地蔵盆とはどんな行事?いつ・どの地域で行うもの?』 https://allabout.co.jp/gm/gc/71874/
コトバンク 『地蔵盆』
テレビ大阪 やさしいニュース2 『主に近畿圏で行われている地蔵盆とは』 19.08.22 放送
≪ 地蔵盆 ≫
江戸時代 (室町時代説もあります) の京都が発祥と考えられており、主に近畿地方と京都と交流が深かった地域(北陸や
長野市など)で、行われています。東海や関東では行われていないようです。
平安時代中期以降から地蔵菩薩の縁日と考えられている8月24日 (旧暦7月24日) の前後の週末に行われる事が多い
子供の為の行事です。
江戸時代の初め頃、京都の町と町との境に木の扉があり、その木の扉付近に地蔵菩薩が祀られており、町民らが毎日
安全などを祈っていた事が地蔵盆の起源だと言われているそうです。
町内の小さな祭り行事となり、時代の変化と共に子供の為の行事へと変化していきました。
京都中京区の地蔵盆を体験できるイベントでは、白く化粧を施した地蔵像を安置した祭壇を飾って祀ります。
数珠回しという子供たちの健康や幸せを願う事などが行われます。一般的には参加者でお経をよみ、子供達がお菓子を
貰うのが定番になっていますが、町内によっては子供たちの為の出し物をして楽しませています。
近年は子供が減った町内では止める所も増えていますが、逆に地蔵盆を復活させようとする町内もあり、京都の壬生寺
では1体3000円~のお布施で地蔵菩薩の貸し出しを行っており2019年8月は50体ほど貸し出したようです。
当店がある大阪南河内でも地蔵尊を祀っている場所が多くあり、毎年地蔵盆が行われています。
【地蔵菩薩】じぞう‐ぼさつ
釈尊の入滅後、弥勒みろく仏の出生するまでの間、無仏の世界に住して六道の衆生しゅじょうを教化・救済するという菩薩。
像は、胎蔵界曼荼羅地蔵院の主尊は菩薩形に表されるが、一般には左手に宝珠、右手に錫杖しゃくじょうを持つ比丘びく
形で表される。中国では唐代、日本では平安時代より盛んに信仰される。子安地蔵・六地蔵・延命地蔵・勝軍地蔵などもある。
地蔵。地蔵尊。
【地蔵盆】じぞう‐ぼん
京都で、8月(古くは陰暦7月)23・24日の地蔵菩薩の縁日に行う会式えしき。
各地にも、この日、児童が石地蔵に香花を供えてまつる風習がある。地蔵会。地蔵祭。
朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『~本当は怖い日本の風習~ 謎多き迷信の正体!』 16.11.17 放送
≪ 科学的根拠がない迷信 諸説あり ≫ 大阪市が初の自動車関連 消防車の導入、霊柩車の発祥、自動車教習所
「北枕は縁起が悪い」「着物を左前に着てはにらない」「靴下を履いたまま寝てはいけない」
仏陀 (釈迦) が亡くなった時に頭が北向きだった事が由来で、「故人が極楽に行けるように」という
願いから始まったものが、いつしか「死者と同じで不吉」となりました。
他も死者の装束と同じにならないようにという事から。
これらは日本独自の習慣で、他の仏教国にはありません。
「3人で写真を撮ったら、真ん中の人が早死にする」
日本では「あらゆる物に魂が宿る」と思われ、特に人形や人の絵は魂が乗り移りやすいと思われて
います。(雛人形も)
江戸時代の浮世絵が人物をデフォルメして描いたのは、元々「生き写し」にしない為。
幕末なって写真が撮られるようになりましたが、当時は「生き写しになる写真は魂を抜かれる」と
恐れられていました。
写真撮影の場合、年長者を敬って中央に立たせる事が多かった。年長者ほど早く亡くなるのが
一般的。このような慣習と自然の摂理から、オカルト思想で言われ始めただけの事です。
「靴紐が切れると縁起が悪い」←「鼻緒が切れると縁起が悪い」
昭和初期頃までの葬式では、死者を墓地まで運ぶ際に親族らが葬列をなす『野辺のべ送り』という
ものが行われていました。
葬列に参加した者は、遺体を墓地に埋葬した後に履いていた草鞋わらじを墓地に捨てていくのが
習わしとなっていました。「死者が草鞋を履いて戻って来ないように」と鼻緒を切っていました。
「新品の靴を汚す」
通夜の時に新品の草鞋を使者に履かせる風習があったため。
「カラスが啼くと死人が出る」「カラスは不吉」
日本では死後も「故人が飢えないように」と墓や仏壇に食べ物を供える習慣があります。
食べ物がある事を知ったカラスが墓場に集まる事で、人の死に群がる不吉な鳥として認識されました。
色が真っ黒であったり、雑食なので動物の死骸を食べたりする姿などの影響も強いと思われます。
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「霊柩車を見たら親指を隠せ」
「親指を隠さないと親が早くなくなる」「親の死に目に会えない」などという迷信。
※ 個人的には、70年代頃のオカルトブームで流行ったものと推測しています。
大正6年に現在の公益社 (本社 大阪市) の前身である駕友の社長が宮型霊柩車を考えだし、
列車や自動車の普及により、葬列が途切れる事が増え、霊柩車の利用が普及し、野辺送りの風習は
しだいに無くなっていきました。
「夜に口笛を吹くと蛇 (幽霊) が来る」
古来、霊魂は風や空気のような存在と思われてきました。口から吹き出す「口笛は神や精霊を招く
力がある」と思われてきました。
現在でも仏教の宗派によっては、墓を移動したりする神聖な儀式では口笛を吹くそうです。
「夜は生と死の境界線の時間帯」と思われてきたので、夜に口笛を吹くと霊的な存在を呼び寄せる
行為とされました。蛇が来ると言うのは、そのバリエーションの一つのようです。
「くしゃみをすると短命になる」
嚏くさめ、くっさめは「くしゃみ」の事。また、くしゃみが出た時に唱えるまじないの語。
鎌倉時代の吉田兼好の随筆 徒然草「道すがら くさめ、くさめ と言ひもて行きければ」と、くしゃみに
書かれた部分があります。
昔の人は、くしゃみをすると魂が体外に飛び出すと考えていた為、「嚏くさめ」⇒「休息命くっさめ」と呼び、
くしゃみではない事にしたそうです。「くっさめ」は「くさめ」を促音化したもの。
くしゃみの後に「ちくしょうめ」など何か雑言を言う風習も厄落としのようなまじない。
また、平安時代に扇子や団扇で顔を隠しているのは、咳やくしゃみをする際に魂が抜けないように
口に当てていた事が始まりらしいです。
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「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」
山や刀、爪のように先が尖った物は霊的な力が宿るとして神聖な物とされていました。
日本書紀に「爪を粗末に扱うものは村から追放する」という事が書かれてあるそうです。
人を呪い殺す時に「相手の爪を燃やし霊魂を抹殺する」という儀式を行っていました。
また、電灯がない時代、夜の室内で明るい場所は囲炉裏など火の側でした。
その場所で爪を切ると、切って飛んだ爪が火の中に入り、焼ける臭いが遺体と同じ臭いなので、
夜の爪切りは不吉なものとされました。その行為を止めさせるためにできた迷信です。
「落ちている櫛くしを拾うと魔物が取りつく」
髪の毛は爪と同様に伸び続ける『生命の象徴』として神聖な体の一部とされてきました。
「クシ」は「苦しむ」などに繋がり、拾ったクシを使うと、元の持ち主の苦しみや災いまで拾うとされました。
「寝言に返事をすると、その人の魂が抜ける」
『枕=魂倉たまくら (霊魂が宿る場所)』とも言われ、寝ている時は身体と魂が別になっているとされ、
そのような時に返事 (会話) すると、寝ている人の魂が身体に戻れなくなると思われていました。
「山の中でスイカを見ても振り返るな」
山での遭難死の多くは滑落した転落死。登山者への警告の一つ。
頭が割れて血が流れている=割れて赤い実が見えているスイカに例えられた事から。
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9月 月見 月の都・京都 |
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【月見】つきみ 百菓辞典
月を眺めて楽しむこと。特に陰暦(旧暦)八月十五夜や、九月十三夜の名月に、月見団子、その年に収穫したイモ類、
クリなどを供え、ススキを飾る。ススキだけでなく秋の七草などを飾る地方もある。観月。
十五夜=陰暦の八月十五日の月を、中秋の名月として観月する習慣は、古くから中国で行われていた。
この日には、祭壇を設けて、果物や月餅を供え、その後、各家庭で分けて食べる習わしで、日本へも9世紀頃伝わった。
サトイモ、クリ、その他果実などと共に、日本では月餅のかわりに、月見だんごを供えるようになって行った。
日本で十五夜を「芋名月」という。
十三夜=陰暦の九月十三日の月を、中秋の名月に対して「後 (のち) の月」と呼ぶ。
十三夜の月見をする風習は、中国にはなく、日本独自のもの。別名「豆名月」「栗名月」。
十日夜 (とおかんや) =陰暦の十月十日の月を、十日夜と呼び、月見をする地方がある。
日本独自のもので、別名「稲の月見」ともいう。
FOOD LIBRARY 『重陽の節句(旧暦9月9日) 「江戸時代文政期の大坂船場安土町の水落家の9月節句の料理献立」
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/10913_1.html ← 大阪の食文化について書かれたサイトです。
『重陽の節句(旧暦9月9日)
旧暦9月9日の節句を重陽の節句といいます。9は陽数(奇数)の極で、それが重なるところから、重陽といい、
吉日とされました。
1月7日(人日)・3月3日(上巳)・5月5日(端午)・7月7日(七夕)・9月9日(重陽)の節句が五節句(節供)です。
江戸時代、幕府は五節供を式日と定めました。五節供の制は、明治6年1月に廃止されましたが、民間行事として
しっかり定着しました。重陽の節句はまた、菊の節句とよばれ、親しまれました。
古くは、この日に邪気を祓い長寿を願って、菊花を杯に浮かべて飲むしきたりがありました。
豆名月(旧暦9月13日)
旧暦9月13日(十三夜)の月は、旧暦8月15日(十五夜)の月に対して、「後(のち)の月」と呼びます。
また、「豆名月」とも「栗名月」ともいい、月見の行事が行われ ました。ただ、十三夜の月を賞する風習は、
中国にはなく、わが国固有のものと言われています。
水落家の文政6年の「行事帳」には、次のように書かれています。』
【芋名月・芋明月】いも‐めいげつ 芋を月に供えるからいう。 旧暦八月十五夜の月。
秋(旧暦7・8・9月)の最中もなかに当たるから仲秋ちゅうしゅうといい、また、月に芋を供えるので芋名月という。
平安時代に民間にも広まった。
古来、観月の好時節とされ、月下に宴を張り、詩歌を詠じ、民間では月見団子・芋・枝豆・栗などを盛り、神酒を供え、
芒すすき・秋草の花を盛って月を祭った。
【豆名月】まめ‐めいげつ 枝豆を供えるからいう。栗名月。のちの月。十三夜。 旧暦九月十三夜の月。
8月の十五夜の月に対して「後のち の月」と呼び、また、芋名月に対して豆名月・栗名月といって、月見の行事を行う。
919年(延喜19)の醍醐天皇の月の宴に始まるとも、宇多法皇がこの夜の月を無双と賞したのによるともいうが、
日本固有のものらしい。
読売テレビ かんさい情報ネット ten. 『京都と「月」・・・深い関係』 13.09.19 放送
京都には「月」が付く地名が多くあり、祇園祭にも月鉾、有名な嵐山の渡月橋など。お月見をした貴族の邸宅の名残が「○月」
として地名に残った。
源氏物語でも光源氏が『…めぐりあはむ月の都ははるかなれども』という表現している記述があるそうです。
中央区にある京都文化博物館の学芸員 長村祥知さんによると、
「中国で秋に月を見るという習慣があり、1200年以上前の平安時代に日本に
伝わり、その風習が貴族社会に受け入れられた。
貴族の邸宅には池があって、そこに月を映したり、宴会をする時に杯さかずきに
映して秋の月を愉しんだと言われております。
やがて消えていく一瞬の輝きを美しいと思ったのが(平安時代の)彼らの完成
だった。
そういった(月を愛でる)感性が、現代の我々にもあるのではないでしょうか」
【寝殿造】しんでん‐づくり
平安時代の貴族住宅の形式。中央に南面して寝殿を建て、その左右背後に
対屋たいのやを設け、寝殿と対屋は廊(渡殿)で連絡し、寝殿の南庭を隔てて
池を作り中島を築き、池に臨んで釣殿を設ける。
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邸の四方に築垣を設け、東西に門を開く。南庭と門との間に中門を設けて出入の用に供する。寝殿・対屋は
周囲に蔀戸しとみどを釣り、妻戸を設け、室内は板敷とし、簾すだれ・壁代かべしろ・几帳きちょう・帳台などを用いた。
【仲秋】ちゅう‐しゅう ・・・ (秋の3カ月の真ん中の意。チュウジュウとも)陰暦8月の異称。
平安時代、貴族の家は寝殿造りという構造で池があるのが普通。自然を愛でる事も教養とされていたので、仲秋になると
月見を盛んに行っていました。
その様子を現在に伝える場所が、右京区にある大覚寺で、元々は嵯峨天皇の別荘として建てられました。
舞台のようなデッキは観月台かんげつ-だいといい、東山から登る仲秋の名月を真正面から見る為に作られたもの。
【嵯峨天皇】さが‐てんのう(786~842) 桓武天皇の皇子。名は神野かみの。
平安初期の天皇。(在位809~823)「弘仁格式」「新撰姓氏録しょうじろく」を編纂させ、漢詩文に長じ、
「文華秀麗集」「凌雲集」を撰進させた。 書道に堪能で、三筆の一人。
観月台の下にある大沢の池で、舟遊びをされていた。当時の天皇は何よりも上の身分という事で、上を見上げて月を愛でる
という事はなかった。その為、水面に映った月を見て「お月見」とされたそうです。
たぶん関西一円などには中秋の名月の時に、里芋を備えて収獲を祝う風習があると思いますが、それを最も色濃く残して
いるのが京都。
「名代 豆餅」が人気で行列が出来る上京区で100年以上続く、「出町ふたば」という和菓子の老舗では、上の画像のように
里芋を模した月見だんごを、この月見の時期限定で販売しています。
東山区にあるミシュランの三ツ星を獲得した料亭「菊乃井 本店」では、名物の「時雨めし」を始め、他の料理や器に月や
季節をあしらっています。店主の村田吉広さん曰く
「伝えたい風情をお膳の中に映しこむのは、日本の料理人が得意な技」 ← 京料理の美意識であり、日本料理の本質です。
【月見団子】つきみ-だんご 百菓辞典
陰暦 (旧暦) 八月十五夜および九月十三夜の名月に供えるだんご。もち米で丸く作り、蒸したもの。
普通は中にあんを入れない。十五夜には15個、十三夜には13個を、三方などに盛って飾る。
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9月 与謝野晶子 と 月見だんご |
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NHK Eテレ グレーテルのかまど 『与謝野晶子の月見だんご』 13.09.13 放送 / Wiki 与謝野 晶子
【与謝野晶子】よさの‐あきこ 旧姓、鳳ほう。堺市生れ(明治・大正・昭和 1878~1942)。堺女学校卒。 寛の妻。
歌人。新詩社に加わり、雑誌「明星」で活躍。格調清新、内容は大胆奔放。歌集「みだれ髪」「佐保姫」「春泥集」の
ほか、「新訳源氏物語」など。20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。
1901年(明治34)、東京に移り、歌集「みだれ髪」を創刊、奔放自由な歌風で本能の解放をめざし、大きな反響を
よびおこした。
1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。
1921年(大正10年)、夫・鉄幹と共に文化学院創設。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させる。
【与謝野寛】よさの‐ひろし 初め 鉄幹と号す。京都生れ(1873~1935) 晶子の夫。
詩人・歌人。落合直文に学び、浅香社・新詩社の創立、「明星」の刊行に尽力、新派和歌運動に貢献。自我の詩を主張。
詩歌集「東西南北」「天地玄黄」、歌集「相聞あいぎこえ」など。
≪ 与謝野晶子の長男 与謝野 光 著の手記「晶子と寛の思い出」 より探る素顔≫
洋羹が評判の和菓子店 堺駿河屋に生まれた晶子は、小さい時から帳簿をつけたり、菓子づくりなど家業を手伝って
いました。
『 叔母達と小豆を選りしかたはらに しら菊咲きし家のおもひで 』
歌の師であり、憧れの人である鉄幹 (妻子ある) に思いを寄せ、代表作である歌集「みだれ髪」に多くの歌を残しました。
のちに鉄幹は妻と別れ、22才の晶子と結婚。二人は11人の子供に恵まれました。
『母はやっぱり お菓子屋さんの子だから、お菓子の作り方はよく知っておりました。(中略)
お汁粉なんかは わりあいよく作ってくれました。 よその家では、ぜんざいって、ほら、潰さない小豆のままのでしょ。(中略)
ぜんざい みたいなものは未完成だって馬鹿にして 作りませんでした。 いつもお汁粉。』 与謝野光「晶子と寛の思い出」より
「汁粉」と「善哉」 関西のぜんざい、関東ではおしるこ 呼び方なぜ違う、汁粉の江戸発祥説は嘘
≪ 与謝野晶子が作っていた月見だんご とは? ≫
大家族の一家を支える為、晶子は色々な仕事を掛け持ちしていたそうです。そんな中でも生涯詠んだ歌は3~5万首とも
言われているそうです。
いつも多忙の中、親子が触れ合えるのは、十五夜の時。毎年、月見を楽しみにし、朝早くから台所に立ち、月見だんごを
作っていたそうです。
『もち米じゃなくて、ご飯を蒸して潰してね、それに芋の茹でたのか何か混ぜて、とんがり帽子みたいなのを作って (笑)
まわりに黄粉をつける。そうすると、里芋の形になるんです、感じがね。 あの十五夜のお団子っていうのは
里芋の形をまねるんです。』
会員数およそ300名の与謝野晶子倶楽部の方々が、その月見だんごを再現するにあたって、芋は里芋を使ったのでは
ないか? という結論。
晶子の祖父が修行し、暖簾分けをしてもらった大阪市内の駿河屋では、上新粉を使い里芋などは使用していません。
「暖簾分けした堺の駿河屋でも、同じように作っていたはずなので、里芋入りの月見だんごは晶子さんのオリジナルだった
のではないでしょうか」
≪ みだれ髪 ≫
その子二十(はたち)櫛に流るる黒髪のおごりの春の美くしきかな
清水(きよみず)へ祇園をよぎる花月夜こよひ逢ふ人みな美くしき
経(きよう) は苦(にが)し春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌受けたまへ
汀(みぎわ)来る牛かひ男歌あれな秋の湖(みずうみ)あまりさびしき
やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君
くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪 かつおもひみだれ おもひみだるる
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昭和8年の中秋の名月。数日前から夫婦で歌会に
出かけていました。家路についた時間は夕刻。
「月見だんごも用意できないな」と、申し訳ない気持ちで
家に帰ると、子供たちが月見だんごを作っていたの
でした。 その夜、晶子は詩を詠みました。↑
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朝日放送 せのぶら 『堺をぶらぶら』 13.01.14 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『とびたせ ! えほん 「ちんちん電車が走る街 大阪府堺市でえほん旅」』 14.07.24 放送
≪ 与謝野晶子の生家跡 堺市 ≫ さかい利晶の杜 2015年、千利休と与謝野晶子のテーマ館が堺市にオープン
現在、与謝野晶子の生家の跡には碑が建っています。山之口商店街には約40首の晶子の詩の垂れ幕が掛っています。
ちなみに、この商店街の海鮮卸「秀 ギョ魚ぎょ」店は、横綱 白鵬関が来店されるそうで、大阪場所で優勝した時に掲げて
いる鯛はこの店から。
晶子が作ったであろう月見だんごのレシピは、番組のHPに掲載されているようです。
但し、NHK番組内では上新粉を使って作っていました。
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9月 菊文化 |
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【重陽】ちょうよう
(陽の数である九が重なる意)五節句の一つ。陰暦9月9日で、中国では登高という丘に登る行楽の行事がある。
日本では奈良時代より宮中で観菊の宴が催された。菊の節句。9月の節句。重九。
NHK Eテレ にっぽんの芸能 『古典芸能玉手箱 菊』 15.12.04 放送
国士舘大学 景観研究室 大学院 グローバルアジア研究科 劉洋 論説 『日本における菊栽培の伝統と菊細工』
https://kiss.kokushikan.ac.jp/contents/0/data/1004628/0000/registfile/2186_3709_011_06.pdf
≪菊 ≫
① キク科キク属の多年草。自生種のハマギク・ノジギクなどの総称。また、特に観賞用につくられた園芸品種の総称。
原産は中国大陸、日本には奈良時代以後に渡来、江戸時代に改良が進む。梅・竹・蘭とともに四君子の一つ。
品種が非常に多く、花色は白・黄・桃・紅など。
園芸上は大菊・中菊・小菊に、花の形状により管物・厚物・平物などに分け、嵯峨菊・伊勢菊・肥後菊・美濃菊・江戸菊・
奥州菊などの系統がある。また花を食用とする品種もある。観賞用に世界各国で栽培。秋
② 襲かさねの色目。表は白、裏は紫・白または蘇芳すおう。
③ 紋所・文様の名。キクの花や葉を描いたもの。皇室の紋章(16の重弁)、宮家共通の「裏菊」、ほかに「菊水」「乱菊」など。
≪菊の鑑賞は奈良時代、菊栽培の文化は平安時代から ≫ Wiki キク Wiki 凌雲集
奈良時代頃に中国から伝来した菊は、菊は8~9世紀ごろ中国より日本に伝えられたされています。
平安時代、「菊は長寿をもたらす」とされ、宮中を中心とした貴族階級の間で観賞用および薬用として用いられていました。
平安時代初期に編纂された勅撰漢詩集、勅撰和歌集や漢詩集などにも歌が残ります。
814年に嵯峨天皇 (在位809~823)の命により編纂された日本初の勅撰漢詩集『凌雲集りょううんしゅう)』には
『摘入金杯辨色難』(菊を摘んで金色の盃に浮かべさせたら,その色がわからなくなったという内容) などから、白色と黄色の花が
あったと考えられるそうです。
在原業平 (825~880) や紀貫之 (868頃~945頃) らも菊を歌に詠んでいます。
【凡河内躬恒】おおしこうち‐の‐みつね (生没年未詳)
平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。宇多天皇(在位887~897)・醍醐天皇(在位897~930)に仕え、古今集撰者の一人で、
紀貫之・壬生忠岑と並称。家集「躬恒集」。
小倉百人一首 『心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花』
【菊合】きく‐あわせ 寛平 (平安時代前期 889~898)
物合ものあわせの一種。人数を左右に分け、双方から菊の花を持ち寄ってその優劣を争う遊戯。
「寛平御時かんぴょうのおおんとき菊合」は現存最古の史料。 ※寛平御時菊合は889年頃、作者は菅原道真のようです。
平安中期の『紫式部日記』1008 (寛弘5) 年10月条には
「行幸近くなりぬとて、殿のうちを、いよいよつくりみがかせたまふ。よにおもしろき菊の根を、たづねつつ掘りてまゐる。」
とあり、藤原道長の土御門邸では、一条天皇の行幸を迎えるために入念な手入れがなされた。
整備された庭にあちこちから集めてきた各種の美しい菊が栽培されていた情景が想像されるそうです。
鎌倉時代、後鳥羽上皇(1180~1239)が身の回りのものに施したことにより天皇および皇室の紋となったといわれ、
蒔絵や衣装の文様として流行しました。
日本の南北朝時代以降には天皇より下賜されることにより公家や武家の間で家紋として使用されるようになったそうです。
室町時代、京都相国寺鹿苑院内の蔭凉軒主が記録した公用日記『蔭凉軒日録いんりょうけん-にちろく』中の季瓊真蘂
きけいしんずいが1463年に「開小徑栽雑菊数百莖。為墻垣雑花盛開為観也」と筆録しており、今是庵の小道に、さまざまな
菊を数百株ほど植えて垣にした事が分かるそうです。
また1485年には、蔭凉軒主であった亀泉集証きせんしゅうしょうが「午後黄菊数莖献西府」や「夏菊数莖」と筆録しおり、
品種改良を行い夏に咲く菊をつくっていたと見られます。
国立歴史民俗博物館 歴博 くらしの植物苑だより 菊の栽培書 平野恵 明治大学兼任講師 09.11.28
https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/plant/column/2009/277.pdf
大阪府立中之島図書館 『おおさかページ「江戸の園芸」』 https://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/37_engei.html 国士舘大学 景観研究室 大学院 グローバルアジア研究科 劉洋 論説 『日本における菊栽培の伝統と菊細工』
https://kiss.kokushikan.ac.jp/contents/0/data/1004628/0000/registfile/2186_3709_011_06.pdf
≪ 江戸時代の菊栽培ブーム ≫
コトバンク 『花壇地錦抄』
『…水野元勝の《花壇綱目》(1681)は180あまりの花を取りあげる。以降,貝原益軒の《花譜》(1698),伊藤三之丞
(伊兵衛)の《花壇地錦抄》(1695)と続き,江戸時代を通じ70におよぶ園芸書が書かれる。安楽庵策伝の《百椿集》
(1630)をはじめ,ツツジ,キク,サクラ,ボタン,ウメ,アサガオ,ハナショウブ,ナデシコなど花の専門書が出版され,
さらにモミジ,カラタチバナ,オモト,マツバラン,セッコクなど葉を観賞の対象とした多数の品種を成立させた。…』
1630年刊の『百椿集ひゃくちんしゅう』 京都誓願寺竹林院の住持である安楽庵策伝あんらくあん‐さくでん(1554~1642)著。
収集した椿を記したもの。安楽庵策伝は浄土僧・茶人・笑話作者。落語の祖ともいわれる。
1681年刊の『花壇綱目かだんこうもく』 園芸家の水野元勝みずの-もとかつ著
日本最初の園芸書。花卉かき 200余種についてその形状や栽培法を記述したもの。
※ 水野元勝の詳細は不明ですが、東京学芸大学大学院 教育学研究科の君塚仁彦 教授によれば、
「著者の水野元勝は大阪の住人であるが、『花壇綱目』刊行の背景には、上方における園芸文化の伝統と
商業都市大坂の繁栄とがあったものと考えられる」と指摘しています。
江戸時代の元禄年間 (1688~1704) に菊は広く庶民の間に普及し、今日に見られる日本独自の多くの品種が
生まれてきます。
1695年刊の『花壇地錦抄かだんちきんしょう』 江戸染井村で数代にわたって園芸を営む3代目伊藤伊兵衛いとう-いへい 著。
一家は造園,花卉(かき)栽培についての見識技量にすぐれ、当時流行した園芸植物の種類を図説記載した多くの
著作を残した。250種あまりの菊が紹介されています。
1692年には、日本最初の園芸植物の図説書『繍枕きんしゅうまくら』を松会まつえ三四郎の店から刊行しています。
1697年刊の『花譜かふ』 筑前福岡藩の儒学者・本草学者 貝原益軒かいばら-えきけん(1630~1714)著。
花の咲く植物だけ集めた書籍。
菊の記述は、18ページに渡って、培養土・苗分け・鉢への植え替え・わき芽切り・篠竹結付・防虫・花壇の耕し方・
肥やしの与え方・花壇設置場所・日照・水やりなどを、中国の書物からの引用と、日本の慣習の両方から記しています。
また貝原益軒は日本最初の農業書と言われる宮崎安貞(筑前国糸島郡女原村)の「農業全書」(1697)の完成にも
大きく関わっています。
正徳~享保年間(1711~36)にかけて、京都では菊の栽培方法などを記す専門誌が多数刊行されています。
1713年刊の『当世後の花とうせいのち-の-はな』は霽月堂丈竹 著。
1715年刊の『花壇養菊集きくかだん-やしないぐさ』は志水閑事 著などに菊の種類や栽培方法などが詳細に書かれています。
1717年刊の『花壇菊花大全かだん-きっか-たいぜん』は養寿軒雲峰ようじゅけんうんぽう が著したもので、菊の専門書の
集大成とする意図で書かれたもの。
1717年の『花壇菊花大全かだん-きっか-たいぜん』によれば、上方では元禄時代から菊の品評会が始まっており、書かれた
享保年間 (1716~1736) 当時は京都で菊の品評会が非常に流行していました。
幅2尺5寸(約76㎝)×高さ1尺8寸(約55㎝)の決められた箱の中に菊を展示ような事も競われたようです。
初期の菊の品評会は、かなり小規模なもので菊の栽培技術自体を競い合うだけではなく、料理も含めて経済力のある
新興町人たちの楽しみとして行われた催しと考えられるようです。
1717 (享保2) 年刊の『丸山菊大会』(出版者 京都の上村四郎兵衛) には、丸山正阿弥亭 (東山区に位置する安養寺の
中にある六阿弥坊の一つ) にて143人が参加し、合計380種の菊を展示した菊会が記録されています。
元禄時代と比べて、参加人数や菊の種類が増え、純粋に菊を品評する会になったと考えられます。
1718(享保3)年刊の『江戸菊会』(出版者 江戸の平野屋吉兵衛)がある事から、江戸でも菊の品評会が行われていました。
1723 (享保8) 年刊の『新菊苗割代附帳』(大坂の樹木屋治兵衛、野田屋四郎兵衛など)は、植木屋が菊の花形・色・値段を
記した販売カタログ。この本では全114種の菊が紹介されて「北極山」という品種が3両2分の値段が付けられていました。
江戸時代の園芸書は200以上も作成されたといわれるそうです。江戸時代後期になると、一つの花種の栽培書が増えます。
1755 (宝暦5) 年刊の『菊経』は陸奥守山藩の第2代藩主 松平頼寛まつだいら よりひろ著の菊栽培の手引書。
大名自ら、栽培経験及び菊の性状などを漢文で記したもの。
1819 (文政2) 年刊の『養菊指南車ようぎく-しなんぐるま』は菊の栽培や飾り方などを肥後藩士の秀島英露がまとめたもの。
上記の本から、菊の栽培は畿内や江戸だけではなく、地方の大名や武士階級にも広まっていた事がわかります。
1818年刊の草木育種そうもく-そだてぐさは、岩崎灌園いわさき-かんえん(江戸下谷生まれの本草学者、1786年~1842年)の著。
1846年刊の、菊花檀養種きくか-だん-やしない-ぐさは、菅井菊叟すがい-きくそう (江戸生まれの浮世絵師 池田英泉?) の著。
菊専門の栽培書として信頼のおける書物だそうですが、実は、草木育種を盗作したものも含むそうです。
池田英泉は、天保の改革以後に取り締まりの強化された画業から文筆業へと方向転換し、洒落本や滑稽本を執筆。
江戸食文化紀行 『江戸の美味探訪 No.142 菊見と菊の花のさしみ』 http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no142.html
『『江戸名所花暦』(1826)には、「巣鴨には植木屋所々にあり。文化のはじめころ、菊にて作り物を工夫せしなり。
植木屋ならでも作りたるなり。」』
※江戸名所花暦は岡山鳥〔著〕、長谷川雪旦〔画〕で、1827(文政10)年に刊行された江戸のお花見スポット行楽案内記。
国立国会図書館 『近代デジタルライブラリー 「江戸名所花暦. 巻之2」』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763656/13
↑本の内容、各ページがご覧になれます。
SUUMOジャーナル 『江戸時代に生まれた秋の菊ブーム。それに便乗する歌舞伎も登場』 14.10.28 配信
http://suumo.jp/journal/2014/10/28/71817/
『江戸時代の菊ブームは近郊の農村だった駒込・巣鴨の植木屋によるもの
平成26年9月の歌舞伎座「秀山祭九月大歌舞伎」の幕開きは、「鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)」
だった。
通称「菊畑」と呼ばれるように、幕が開くと観賞用の花壇の菊が立ち並ぶ美しい舞台が現れる。
実は、この満開の菊畑の演目は、当時の菊ブームに便乗してつくられたものだ。
旧歴の九月九日は「重陽(ちょうよう)の節句」。菊酒を飲み、菊の花を供えたため「菊の節句」ともいわれる。
このように菊は秋に人気の花だったが、その人気に火がついたのは、江戸時代の中期から後期にかけてだという。
当時は近郊の農村だった今の駒込・巣鴨周辺は園芸用植物の生産地で、植木屋が多数あった。
江戸時代は園芸ブームで、植木職人は盛んに品種改良を行い、菊の種類もさまざまなものが生まれた。
花壇への寄せ植えである「花壇菊」がつくられるようになると、大名から庶民まで菊づくりを楽しむようになり、菊人気に
あやかった先の歌舞伎も誕生した。
一本の台木に百種類の菊をつなぎ、同時に花を咲かせる「百種接分菊」の技術や多数の菊を集めて富士山や象など
さまざまな形に似せてつくる技巧を凝らした「形づくり」の技術が登場すると、派手なものが好きな江戸っ子の熱狂的な
支持を受け、こうした「菊細工」をひとめ見ようと駒込・巣鴨の植木屋に大勢が集まるようになった。
菊ブームはその後、流行り廃りを繰り返し、明治時代においても千駄木の団子坂の菊人形が人気を集めるなどした。
現代でも各地で「菊まつり」が開催され、われわれの目を楽しませてくれる。』
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9月 秋分 |
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朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『摩訶不思議な関西遷都ミステリー』 14.10.16 放送
NHK Eテレ 美の壺・撰 『棚田』 15.05.24 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『百人一首の旅18 大和郡山市~奈良市内へ』 15.08.20 放送 朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『ニッポン・植物ミステリー』 15.09.10 放送
≪ 彼岸の始まりは、早良親王の御霊を慰めた事から ≫
【秋分】しゅう‐ぶん
二十四節気の一つ。太陽が秋分点上に来た時の称。秋分を含む日を秋分の日といい、太陽暦では9月23日頃。
秋の彼岸の中日に当たる。昼夜の長さがほぼ等しくなる。9月23日は国民の祝日(もとの秋季皇霊祭)。
【秋彼岸】あき‐ひがん
秋の彼岸会。秋分の前後1週間。この頃から涼しくなる。俳諧では、単に「彼岸」というと多く春の彼岸を指す。
【彼岸会】ひがん‐え
彼岸の7日間に行う仏事。平安初期から朝廷で行われ、江戸時代には庶民の間に年中行事化した。
桓武天皇の右腕として活躍した藤原種継が暗殺された事件で、桓武天皇の弟である早良親王に疑いがかけられます。
淡路島に島流しとされますが、早良親王は無実を訴えて絶食。淡路島に着く前に船内で亡くなりました。
その後、桓武天皇の身辺で不幸や天変地異などの不吉な事が相次ぎます。
陰陽師に占わせた結果、早良親王の祟りであると出ました。
皇太子の地位にあった早良親王は非常に優れた才能を発揮していた人物でした。桓武天皇がその才能を疎み、
自分の皇子を皇太子にする為の策略だったと推測されています。
桓武天皇の次に即位したのは、平城天皇で、桓武天皇の第1皇子。 平安遷都
早良親王を位を上げた崇道天皇と追号し、806年に崇道天皇社を創建し祀ることにしました。
崇道天皇社の宮司さんによると、春秋の彼岸参りは、早良親王の御霊を慰める為に始まったと言われているそうです。
【早良親王】さわら‐しんのう(750~785) 光仁天皇の皇子。
同母兄 桓武天皇の即位とともに皇太子となる。785年(延暦4)藤原種継暗殺事件に連座して廃され、淡路に配流
される途中で死亡。怨霊として祟ったとされ、800年、崇道すどう天皇の尊号が追贈された。
≪ 墓地やあぜ道に彼岸花が多く咲いている理由 ≫
彼岸花は毒があるので、田畑の作物や土葬の墓地を荒らす、ネズミやモグラなどの
害獣除けとして植えられました。
下記の広辞苑では『自生』とありますが、ヒガンバナは球根なので、種が飛んで
行って自生する植物ではありません。
植物と日本文化の関わりについて研究している静岡大学大学院の稲垣栄洋 教授に
よると、人が長年に渡って土壌を守る為に植えたもの。
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【彼岸花・石蒜】ひがん‐ばな
ヒガンバナ科の多年草。田のあぜ・墓地など人家近くに自生。秋の彼岸頃、30センチメートル内外の一茎を出し、
頂端に赤色の花を多数開く。花被は6片で外側に反り、雌しべ・雄しべは長く突出。冬の初め頃から線状の葉を出し、
翌年の春枯れる。有毒植物だが、鱗茎は石蒜せきさん
といい薬用・糊料とする。カミソリバナ。シビトバナ。トウロウバナ。マンジュシャゲ。捨子花。天蓋花。
朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『~本当は怖い日本の風習~ 謎多き迷信の正体!』 16.11.17 放送
≪ 彼岸に「おはぎ」「ぼたもち」を供える理由 ≫ 16.11.19
『彼岸』は春分の日と秋分の日を中日とした前後7日間で、その期間中に墓を参るなどの先祖供養を行います。
彼岸=河の向う岸、生死の海を渡って到達する終局・理想・悟りの世界とされる仏教用語。
古来より、丸い形は神聖な形とされ、魂の形も丸い物とされていました。
※ おにぎりのルーツは、平安時代の強飯 (もち米を蒸したもの=おこわ) を丸く握り固めた『屯食とんじき』ですが、
丸く固めたのは最も表面積が少ないので雑菌が付きにくい (腐りにくい) 形だったから。
現在と同じ うるち米の御飯 (姫飯) は室町時代以降に主食となりました。
『神かみ』『祠ほこら』『榊さかき』『祓はらう』など神事に関係する漢字は『示』へんがよく使われています。
これは神様に捧げた『生贄の血が台から滴っている様子』を表したものだそうです。
本来はモチの中に入れる餡をあえて表面に付ける事で、小豆の赤い色を生贄の血に見立てて作られたお供え餅だ
そうです。この番組は駒沢女子大学の教授で曹洞宗宝林寺の住職である千葉公慈さんの解説によるもの。
テレビ大阪 大阪人の新常識OSAKA・LOVER 18.09.15 放送
≪ 何故、小豆が肉の代わりに使われたのか ≫ 書きかけ
大阪学院大学短期大学部の土井茂桂子 准教授によると、赤は魔除けの色だったから。
≪ 「おはぎ」「ぼたもち」の違いは? 諸説あり ≫ 百菓辞典と広辞苑などの記述より 16.11.19
① 作った季節による違い。
春に作れば牡丹の花になぞらえた『牡丹餅ぼたもち』、秋に作れば萩の花になぞらえた『萩の餅』。
現在では「一般的な餅とは違う」という説もあり、季節に関係なく『お萩』と呼ばれる事が多い。
② 材料配合による違い。
もち米が主体であれば『ぼた餅』、うるち米主体であれば『お萩』。
③ 小豆の形状による違い。
表面の餡が漉し餡であれば『ぼた餅』、粒が残った小倉餡であれば『お萩』。
【萩の餅】はき-の-もち おはぎ。はぎのはな。きたまど。隣知らず。萩の強飯こわいい。
糯米もちごめや粳米うるちまいなどを炊き、軽くついて小さく丸め、餡・きな粉・胡麻などをつけた餅。
煮た小豆を粒のまま散らしかけたのが、萩の花の咲き乱れるさまに似るのでいう。
※ 「萩の餅」が室町時代に宮中の女房言葉で「お萩」と呼ばれ一般化しました。
また牡丹に似るから牡丹餅ぼたもちともいう。
※ ぼたん雪が語源とも言われる説もあります。また、ぼたもちは『母多餅』と書かれる事もあります。
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