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世界最古の貯金箱 |
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テレビ大阪 かがくdeムチャミタス! 『お金deクイズ!』 19.06.09 放送
≪ 現存する世界最古の貯金箱 ≫
約2100年前、中国の前漢時代では丈夫で珍しい子安貝がお金として使用されていました。お金にまつわる漢字に「貝」が
使われているのはその為です。そして「貯貝器ちょばいき」という貯金箱も使われていました。
【前漢】ぜん‐かん(前202~後8) 中国の王朝の一つ。秦の崩壊後、項羽を倒して、漢王劉邦(高祖)が建て、武帝の治世を経て、平帝の時、王莽おうもうの 簒奪により滅亡。都 長安が後漢(東漢)の都 洛陽よりも西にあったから西漢ともいう。
兵庫県尼崎市にある「世界の貯金箱博物館」は、尼崎信用金庫の本店として使用されていた建物を改装しているので、
金庫室の分厚いドアがそのままあります。世界の貯金箱が1万3000点以上展示されており、2019年現在は入場料無料。
吉田哲也 館長によると、世界的にブタの貯金箱が人気があるそうで、その発祥は英国。
ビッグ「PYygg (赤い粘土)」の貯金箱を発注したところ、職人が「Pig (ブタ)」と聞き間違えて作ったのが始まりで、それが
カワイイと評判になり世界中に広まったそうです。
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【富本銭】ふほん‐せん
古代の銅貨。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から大量に出土。
「日本書紀」天武天皇12年(683年)の記事に見える、日本で初めて鋳造された銅銭に
当たるとする説がある。
【和同開珎】わどう‐かいちん、わどう‐かいほう
(「珎」は「珍」の異体字)和銅元年(708)に発行したという、皇朝十二銭のうち最初の銅銭
および銀銭。全国数カ所で鋳造されたらしく、長門(山口県)などで遺物が発見された。
和銅2年、銀銭は廃止。奈良時代を通じて畿内地方に流通。形は唐の開元通宝を模倣。
【万年通宝】まんねん‐つうほう
760年(天平宝字4)、開基勝宝(金銭)・大平元宝(銀銭)とともに発行された銅銭。
皇朝十二銭の一つ。
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【宋銭】そう‐せん
中国の宋代(960~1279)に鋳造された銅銭。日本には平安末期から鎌倉時代にかけて日宋貿易と共に多数輸入され、
国内に流通した。
【明銭】みん‐せん
中国の明朝が鋳造した銅銭。洪武通宝・永楽通宝・宣徳通宝など。日本にも多数輸入され、流通した。
【京銭】きん‐せん、きょう-せん
中世末から近世初頭に通用した銭貨の一種。明代に南京ナンキン付近で通用した私鋳銭が輸入され、南京銭と称されたものの
略称といわれる。悪銭として嫌われ、近世に入っては鐚銭びたせんと同様に使用された。
≪ 安土・桃山時代 ≫
【竹流し】
縦割りにした竹筒に金銀を鋳込んで固めた称量貨幣の一種。必要に応じて切り遣いもされた。竹流金。竿金。
【大坂一分金】おおさか‐いちぶきん
豊臣秀頼が発行したといわれる一分金。長方形で、重さ1匁1分8厘。表面に「一分」、背に「後藤光次」の花押極印がある。
金箔より銀箔の方が高価だった
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朝日放送 コヤブ歴史堂 ~にゃんたの㊙歴史ファイル~ 『新年度特別企画 歴史に残る名言スペシャルにゃ~』 14.04.06 放送 毎日放送 ちちんぷいぷい 『旧家から小判ザクザク 85点で1800万円相当』 14.01.16 放送
NHK Eテレ 高校講座 日本史 『江戸時代の経済と産業の発達』 19.09.27 放送 読売テレビ ten. 『1200年の歴史 日本遺産・生野銀山の歴史と見所を徹底調査』 19.12.11 放送
江戸時代は貨幣価値が時期によって変化しています。 江戸時代の貨幣価値と物価表 http://www.teiocollection.com/kakaku.htm
江戸時代に幕府が発行した小判は10種類 詳しくは Wiki 小判
≪ 「銀座」の名前の由来は堺が有力 ≫
「銀座」の発祥地は各説があるようですが、堺 (現在の堺東商店街あたり?) が最も有力なようです。
徳川家康が1612(慶長12)年に江戸に銀座を開設しますが、この差配を任されたのは摂津国の豪商 末吉勘兵衛で、
鋳造と検査の責任者は大黒定是じょうぜでした。2人とも堺の銀座で活躍していた実績によって抜擢されたようです。
Wiki 大黒定是 では
『慶長6年(1601年)、徳川家康が和泉堺の銀吹き職人である南鐐座の湯浅作兵衛に大黒常是を名乗らせたのが
始まりであった。常是という名称は豊臣秀吉により堺の南鐐座の銀細工師に与えられたものであった。
家康の命により摂津の豪商末吉勘兵衛と後藤庄右衛門は、慶長6年5月(1601年)の大黒作兵衛常是の伏見銀座
取立てを建議した。後藤庄右衛門は後藤庄三郎光次の隠居後の名称であるとする説と別人とする説がある。』と
書かれています。
【江戸金】えど‐がね
江戸から大坂・京都の商店に送って来る為替かわせの金。江戸銀えどぎん。
浄瑠璃、冥途飛脚「そなたへ渡る―がふらりと上るを」
【江戸為替】えど‐がわせ … 大坂など上方から江戸に送って来た為替手形。
江戸ガイド 『江戸時代には3種類のお金があった!? 今とは違う意外なお金事情とは【円にも換算】』 16.08.12 配信
http://edo-g.com/blog/2016/08/money.html
【銀座】ぎん‐ざ
江戸幕府直轄の、銀貨の鋳造・発行所。初め伏見・駿府に設置したが、まもなく京都・江戸に移し、また大坂・長崎にも
設置。1800年(寛政12)不正事件のため四座ともに廃止し、江戸1カ所のみ再興。銀貨の極印・包装は大黒常是だいこく
じょうぜ家が世襲。68年(明治1)封鎖され廃止。
【丁銀】ちょう‐ぎん
江戸時代の銀貨の一種。秤量しょうりょうして流通した銀塊で海鼠なまこ形をし、目方43匁内外。銀座で鋳造・発行した。
「大黒」「常是」「宝」の字および大黒像の極印がある。大黒常是だいこくじょうぜは銀座の世襲銀吹人の名。銀丁。銀錠ぎんじょう。
【銀目】ぎん‐め … 江戸時代の銀貨の秤量単位。貫・匁・分などの名目。
【匁・文目】もん‐め
江戸時代、銀目ぎんめの名。小判1両の60分の1。(「文目」と書く)銭ぜにを数える単位。銭1枚を1文とした。
銀の溶ける温度=961.8℃、金の溶ける温度=1064℃ 銅の溶ける温度=1085℃と、銀より金の方が溶にくいのですが、
金は伸び易いので、きれいな形にできます。銀は金より伸びにくい。戦国時代は金箔より銀箔の方が高価だったようです。
戦国時代は金箔より銀箔の方が高級品だった
【金座】きん‐ざ
江戸幕府直轄の、金貨の鋳造・鑑定・発行所。初め江戸・駿府・佐渡・京都の4カ所にあったが、江戸常磐橋門外(中央区
本石町二丁目、今の日本銀行の地)の江戸座以外は、中期までに廃止または縮小された。勘定奉行の支配。
長を金改役といい、後藤家が世襲。狭義の金座は座人の事務所で、勘定場・天秤前・出来方色改場に分かれ、別に吹所
ふきしょと呼ばれた鋳造工場が付属していた。1868年(明治1)封鎖され廃止。
【大判】おお‐ばん
室町末期から江戸末期に造られた金貨・銀貨の一種。大形の楕円形で、拾両と表記されているが、小判との比価は10枚
とは限らず、時代により変動がある。天正大判金・慶長大判金・元禄大判金・享保大判金・南鐐大判銀・桐大判銀などの
種類がある。
【大判座】おおばん‐ざ
江戸時代、大判の鋳造所。鋳造の特権は金座の本家 後藤四郎兵衛家にあった。
前期 慶長小判 1両 (銀50匁)=10万円 中期 享保小判 1両 (銀60匁) =8万円 後期 万延小判 1両 (150匁) =5万円
【小判】こ‐ばん
天正(1573~1592)頃から江戸末期まで行われた、薄い楕円形の金貨。その1枚は1両に相当。一両判。
小判金。小判銀。
【慶長小判金】けいちょう‐こばんきん Wiki 慶長小判
1601年(慶長6)~95年徳川政権が発行した小判金。縦2寸3分5厘、横1寸3分、重量4匁7分6厘、千分中純金846.1。
円内に桐紋、上部に「壱両」、下部に「光次」(花押)の極印がある。
【元禄金銀】げんろく‐きんぎん
元禄8年(1695)以降に江戸幕府の改鋳した金貨(大判金・小判金・一分判金・二朱判金)・銀貨(元禄丁銀・元禄豆板銀)。
極印ごくいんに「元」字を表しているので元字金・元字銀という。
【享保金】きょうほう‐きん Wiki 享保小判
江戸幕府が享保10年(1725)以後に鋳造した大判金・小判金。金位は慶長金と同じく、「久竹」の極印ごくいんあるもの。
【万延金】まんえん‐きん Wiki 万延小判
江戸幕府が万延元年(1860)以降鋳造した金貨。大判・小判・二分金・一分金・二朱金がある。
ヤフー知恵袋 『江戸時代で言う、1両、銀1匁、1銭、1円、1文は、今で言う何円ぐらいですか?』 のベストアンサーによると
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1050832160
江戸時代の金銭の価値を現在に換算するのは説によって大きく変わる。
江戸時代初期~中期1772年頃 金1両=10万円 銀1匁=1800~2000円 銭1文=25円
江戸時代中期~後期1854年頃 金1両=8万円 銀1匁=1400円 銭1文=20円
【銭座】ぜに‐ざ
江戸時代、銭貨の鋳造・発行所。1636年(寛永13)幕府が江戸芝と近江坂本とに設置したのに始まり、のち民間の鋳銭
請負を許可し、各地に設置された。鋳銭座。
【新銭座】しんせん‐ざ
1636年(寛永13)江戸芝縄手の地に設けて寛永通宝を初めて鋳造した銭座ぜにざ。40年廃座。後、その地を新銭座町という。
【寛永通宝】かんえい‐つうほう
江戸時代の代表的銭貨。表に「寛永通宝」の4字を記した銭。1636年(寛永13)~1860年(万延1)鋳造。近江坂本・仙台・
長門等全国各地で造られ、銭質や大小軽重に差がある。青銅・真鍮・鉄の3種がある。
1枚1文に当たる一文銭(明治維新直後は1厘に通用)のほか四文銭しもんせんも発行。
【芝銭】しば‐せん
江戸の芝で、1636~40年(寛永13~17)に鋳造した銅銭。寛永通宝の最初。
【青銭】あお‐せん
1768年(明和5)初鋳の真鍮製の寛永通宝。寛永真鍮銭。真鍮四文銭。青四文銭。青波あおなみ銭。
【鉄銭】てっ‐せん
銑鉄で鋳造した銭。寛永通宝の鉄一文銭・精鉄四文銭のほか、仙台通宝・箱館通宝・南部銭などの地方通用銭がある。
【天保銭】てんぽう‐せん Wiki 天保通宝
① 天保通宝の俗称。天保6年(1835)以降鋳造した楕円形の銅銭。裏面には「当百」の文字を記す。
1枚を100文(実際には80文)に通用したが、明治以後は8厘となり、明治24年(1891)廃止。当百銭。百文銭。
田山花袋、東京の三十年「あの小僧、寒いのに可哀相だ。―でも呉れてやれ」
② (1銭に満たない意から)時勢におくれた人や知恵の足りない人をあざけっていう語。
③ 旧陸軍大学校卒業の軍人が胸につけた徽章の俗称。形が天保銭に似るからいう。
NHK Eテレ 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第4回 江戸のそば』 16.04.26 放送
≪ 屋台の御代が四文・八文と4の倍数の理由 ≫ 1コイン・システム。
寛永通宝は、1636 (寛永13) 年~幕末の1860 (万延1) 年まで鋳造されていた代表的な
銭貨。1768 (明和5) 年以降に四文銭が作られます。
【四文銭】しもん-せん
寛永通宝のうち、1768年 (明和5) 以降鋳造の真鍮銭と、1860年 (万延1) 以降鋳造の
精鉄銭、および63年 (文久3) 以降鋳造の文久永宝の称。いずれも1枚が4文 (明治
維新直後には2厘) に通用した。
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四当銭しとうせん・当四銭とうしせんともいい、また、普通の寛永通宝より大きく裏に波紋があるので波銭 (浪銭)
なみせんともいった。
『皇都午睡』三編上によれば、江戸では四文銭を大銭、一文銭を小銭と呼んでいたようです。
『守貞漫稿』下巻 第二十八編食類「饅頭」によると、江戸ではほとんどの店で饅頭1つ四文。
【四文屋】しもん-や
江戸後期、4文均一の品物を商った大道だいどう商人。屋台で食物を売るのが多かった。
1文=20円くらいの価値。四文銭が広く普及していたので、屋台では四文銭の倍数の価格が付いていました。
幕末頃に価値が上がって、4文=100円くらい。
かけそば16文=320~400円くらい。タネもの (きつね蕎麦など具入り) 24文=480~600円くらい、
天ぷらそば32文=640~800円くらい。
団子は1串5コだったそうですが、四文銭が広く使われるようになった事から1串4コが一般的になったとも言われて
います。元々1串5コだったのは、京都の御手洗団子に由来があります。
ちなみに東日本では雑煮の餅が角餅ですが、元日から刃物を使って切った餅は縁起が悪いって知っていますか?
室町時代 団子が普及し、茶店が登場 みたらし団子、十だんご
日本の伝統行事 正月 鏡餅、門松なのに中央に竹が飾られている理由、元日から角餅は縁起が悪い?
【十九文屋】じゅうくもん-や 十九文見世
江戸で玩具・櫛・香箱などを19文均一で売った露店。安物屋。
十九日じゅうくにち=江戸の俗語で「愚か者」。(十九文屋で売られる値打ちが無い物の意から)。
テレビ東京 137億年の物語 『南蛮貿易と出島物語』 14.08.16 放送
朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『関西人も知らない大阪 ~街に埋もれたミステリー~』 16.01.21 放送
関西テレビ みんなのニュース ワンダー 『関西今昔ウォーカー 「大阪・松屋町の今昔歩き」』 16.09.23 放送
読売テレビ ten. 『1200年の歴史 日本遺産・生野銀山の歴史と見所を徹底調査』 19.12.11 放送
≪江戸時代中期、日本の銀産出量は世界の1/3、大坂で銀を精錬、銅の生産量は日本一 ≫
奈良・平安時代の大坂は遣隋使・遣唐使の出発港で、室町時代は堺商人が海外貿易で栄え、幕末に横浜が開港
するまで、古代から日本の玄関であり最大の港だったのが大阪湾。
堺・大坂は国内外の貿易・交易で栄え、歴史の大半において経済と庶民文化の中心地でした。
江戸時代、日本の最重要輸出品は世界の1/3の産出量を誇っていた銀でした。
兵庫県朝来市の生野銀山 (平安時代807年から採掘、室町時代以降に本格的に採掘、歴代の政府の直轄地) や、
島根県大田市大森の石見いわみ銀山 (または大森銀山、2007年世界遺産に登録) をはじめ西日本中心に産出され、
大坂で精錬されていました。
大阪・長堀川沿いの住友鰻谷邸に銅吹所を作り、船で銅鉱石を運び込み、銅を製錬していました。 Wiki 大坂銅吹屋
最盛期の1700年頃には銅の生産量で世界一を誇りました。 長堀通り 日本最大の床面積地下街など
オランダ商館の江戸参府の帰途には、大坂の製錬所を見学するのが恒例で、大坂ではカラクリ人形芝居も見物して
いました。江戸参府の全工程は約3ヵ月かかったそうです。
その他の日本から輸出品は有田焼、九谷焼など日本の工芸品でした。
カラクリ人形芝居も大坂の名物だった (文楽とは異なる)
明治元年に生野銀山は鉱山として日本初で国営化され、フランス人鉱山師ジャン=フランソワ=コワニエを招き、先進
技術を取り入れ近代化。明治9年に姫路市飾麿港までほぼ直線で約49㎞の馬車専用道路 (銀の馬車道) が作られ
ました。これが日本初の高速産業道路とも言われいるそうです。
鉱山で働く冶金技師ら上級官吏の職員宿舎も建てられ、こちらも日本初の社宅とも言われています。
明治29年に三菱合資会社へ払い下げられ、昭和48年に鉱石類が枯渇したため閉山。翌年から観光施設として公開。
1200年間で掘られた坑道の総距離は350㎞、深さは最大880m。
≪ 江戸時代は大坂マネーで回っていた 圧倒的な経済都市だった大坂 ≫
江戸時代は海外では銀本位制、国内では米本位制。高価なのが薬や砂糖、舶来品、各地の特産物。
これらの大半は大坂に集まっていました。
西の銀 (商業が盛んで銀鉱山が西日本に多い) と、東の金 (ツケ払いが多く、金鉱山が多い) を両替していたのも
大坂の商人でした。
【十人両替】じゅうにん‐りょうがえ
江戸時代、幕府の為替用達、幕府公金の出納、諸大名の資金融通を勤めた、大坂における大両替商10名の称。
実人員は変動した。十人組。 日本史上最大の豪商とも言われる淀屋
【銀替】かね‐がえ … 両替屋。1688年刊日本永代蔵[1]「―の手代」
【掛屋・懸屋】かけ‐や
江戸時代の金融業者。幕府の掛屋と諸藩の掛屋とがあった。前者は淀川治水費割賦銀の徴収を請け負った鴻池善右衛門・
白山安兵衛両名。後者は諸藩の大坂蔵屋敷の蔵物売却代銀を預かり、諸藩の金融にも応じた。銀掛屋。御掛屋。
【鴻池】こうのいけ
江戸時代、大坂の富商。山中鹿介の子とされる新六(1570~1650)が始祖。
自醸の上酒を江戸へ輸送、のち海陸運送業を創め、大名貸・両替業にも従事し、大坂随一の豪商となった。
大坂・堺 江戸時代は圧倒的な経済都市
室町時代には明 (中国) との貿易で栄え、その中心は堺で、自治都市(「黄金の都市」とも
呼ばれていた)でした。
織田信長や豊臣秀吉の軍使資金も堺商人が多く提供していたようです。
現在の堺区は江戸時代には幕府の直轄領であり、堺主要貿易港のため堺奉行が
設置されていました。
大坂は「天下の台所」と呼ばれ、各藩の蔵屋敷がおかれ、日本中から米や農産物・
魚介類などが集まり、銀・銅の製錬所 (「銀座」の名称の発祥は堺)、砂糖や薬などの
輸入品取扱いの独占権、両替商など豪商が集まった圧倒的な経済・商業の中心。
1620年代、全国の米の収穫は約2700万石有り、自家消費や年貢で消費される分を除く約 500万石が市場で取引きされおり、その4割の約200万石が大坂で取引きされていたと 言われています。
京都も含め、日本各地の文化が集まり、物資と共に言葉や文化は大阪から全国に
伝わりました。当時の物流の中心は船。
江戸時代初期には、日本史上最も金持ちと言われる淀屋がありました。
江戸時代のほぼ全ての諸藩は、大坂商人から借金する事で藩政を賄っていました。
幕末にも新政府、徳川方ともに大坂商人から多額の金を借りていましたが、動乱で
返済せず踏み倒したので、多くの大坂の豪商が潰れました。
明治期になると薩摩藩士の五代友厚らが大阪経済の復興に尽力しました。
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大陸書房 「お金」おもしろ雑学 中江克己 著 1992.05.04 初版
御用金は幕府などが米価の安定を計ったりする名目で、半ば強制的に豪商や町人に金銀を差し出させたもの
(幕府らの借金)。1761(宝暦10)年12月16日に最初の幕府の御用金調達がありました。
大坂の米相場を操作する目的で、大坂の富豪ら205人に170万3000両を割り当てました。集まったのは70万両しか
なかったので、幕府の米価の引き上げは一時的に高騰したものの、すぐ元に戻り失敗だったそうです。
1806 (文化3) 年3月に江戸町民と幕府直轄領各地の農民らに初めて御用金を命じます。集まったのは42万5876両。
1813 (文化10) 年7月に大坂の富裕町民から56万両、9月に江戸富裕町民から17万両を御用金として集めました。
大坂の2倍以上の人口があった江戸ですが、大坂の方が3倍以上の金を出すだけの財力があった事が分かります。
【御用金】ごよう‐きん … 江戸時代、幕府・諸藩が財政窮乏を補うため臨時に御用商人などに賦課した金銭。
幕末の考証随筆『皇都午睡』三編上之巻
「東都の婦人は京摂かみがたより見れば、遙に威勢強く中分以下の暮しを見るに、京摂に云う…」
江戸時代、米、砂糖・薬などの輸入品・銀・銅の輸出品 (当時は米本位制・銀本位制) が集まった大坂が最も豊か。
諸国の各大名も大坂商人からの借金で藩政を賄っており、日本は大坂マネーで回っていました。
テレビなどでは「江戸は治安がよく、世界で最も清潔」という事が常な流布されていますが、文献などによると、
最も生活水準が高く、また治安が良かったのは大坂で、清潔さでも大坂の方が遥に上でした。
幕末の『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「京師商賈」「三都生業不同の事 京の盛なる者」
「京師は海遠く船便ならざるが故に自ら商賈は坂江に及ばず 唯 呉服賈のみ江坂に肩を比する歟
又 工にも西陣を第一とす 蓋 諸賈に組合仲間ありといへども余不レ詳レ之 聞レ之ことあらば追書すべし」
「西陣織殿 第一は呉服所と號け 官家 武家の諸服調進を職とする者 數戸 各巨家にして也る
同 業の精及妙ある者 染物 紅」
幕末の『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「大坂商賈」「三都生業不同の事 大坂の盛なる者」
上巻 第七編 貨幣
「諸國の産物を始め來舶の諸物も一たび當虡に漕せざれば速に金銀と換え難く 小價の物は他國にても金に換えれ
ども大價に至りては 必ず當地を速也とす 又 當時諸國の多少を知ること當所を一とす故に元價を定むるも當所にあり」
日本各地の産物および輸入した全ての物も大坂に持って来なければ、速やかに金銭に換える事は難しい。
少額の物なら各地で換金できるが、多額になる大商いでは必ず大坂に来なければ素早く換金できない。
また、各地の情報を知るのも大坂が一番である。それは、大坂には相場の価値基準を決定する場所があるから。
「豪富子錢家 巨賈元商 子錢家 俗に金貸と云 かねかしと訓ず 元商を問屋と云 同 業に妙ある者」
「兩替屋 …三都中行 大坂を盛也とす 京師 及 江戸次レ之…」 ※両替屋は現在の銀行に当ります。
「京坂今世兩替屋敷 大坂 今世 兩替屋の戸數 大略 二百餘戸 定數無レ之…」
「子錢家 俗に金貸と云 息を取て金銀をかす業とする者 三都とも多しと雖ども 大坂は特に豪富多きが故に 諸國の
大名當所の富民に借用せざる家 甚だ稀也 亦 京都及び江戸にもあれども大坂には及ばす」
大坂には富豪が多く、日本各地の大名で大坂の富豪商人から借金をしない大名は非常に珍しい。
利息を取って金を貸す商人は京都や江戸に多くあるといっても、大坂には及ばない。
幕末の『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「江戸商賈」「三都生業不同の事 江戸の盛なる者」
「工商ともに京坂より多しと雖も 商法大坂の如く大行なる者少し 唯 酒問屋のみ大坂に無き所也」
「都ての小賣店 食店 武家調用之商人 及 雇夫の長 酒問屋」
【大行・大形】おお-ぎょう … ① 規模が大きいこと。大じかけ。 ②誇大。
江戸っ子とは? その実態、3都の気質など 江戸の嫁事情 江戸の治安システム 江戸の治安は良かったのか?
江戸の呑み倒れ江戸時代中期以降 酒が貧乏徳利で大量。 大坂に1万人以上のスリがいたというのは本当か? 江戸時代の化粧 江戸時代後期のファッション雑誌 『都風俗化粧伝』の内容、最も化粧するのは大坂
言葉の伝播 日本列島アホ・バカ分布図 天下の豪商 淀屋 大阪市と東京市の区の変遷 江戸時代の出版事情 京・大坂・江戸
東京近郊の関東の歴史 東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
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滋賀県長浜市の四居家のからくり箪笥から発見された小判 |
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毎日放送 ちちんぷいぷい 『旧家から小判ザクザク 85点で1800万円相当』 14.01.16 放送
テレビ東京 47都道府県 人気急上昇ウォッチ 『滋賀県』 14.08.15 放送
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日清戦争と金本位制への移行 |
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NHK Eテレ 高校講座 日本史 『日清戦争』 13.12.06 放送 / NHK Eテレ 高校講座 日本史 『日清戦争』 14.12.12 放送
≪ 日清戦争 ≫
1894年、朝鮮南部で農民たちの大規模な反乱、甲午こうご農民戦争が起こります。
東学という民族宗教を信仰する団体を中心に減税と西学 (=キリスト教) および外国人排斥を求めた武力蜂起で、
全土に広まりました。
【甲午農民戦争】こうご‐のうみん‐せんそう 東学党の乱。
1894年(甲午の年)、朝鮮南部を中心に全土に起こった農民戦争。東学の信徒を主体とし、反侵略・反封建の性格を持った。
日清両国がその鎮圧を名目として出兵し、日清戦争を誘発。
朝鮮は清に出兵を要請、天津条約により伝えられ、日本も朝鮮に出兵します。その結果、農民軍 (東学党) は急ぎ朝鮮
政府と和解。日清両国は朝鮮の内政改革で対立を深め、7月に朝鮮半島で交戦状態になりました。8月に日本は清に対し
宣戦を布告します。
日本国内では開戦と同時に、政党は政府批判を中止し戦争を支持し、議会は戦争関係の予算・法律案を承認。
日本軍は清軍を朝鮮半島から追い払い遼東りょうとう半島を占領。続いて黄海海戦で清の北洋艦隊を撃破し、圧倒的な勝利を
収めました。
【日清戦争】にっしん-せんそう
1894~95年 (明治27~28) 日本と清国との間に行われた戦争。
朝鮮の甲午農民戦争 (東学党の乱) をきっかけに94年6月日本は朝鮮に出兵し、同じく出兵した清軍と7月豊島沖海戦で
戦闘を開始、同8月2日宣戦布告。日本は平壌・黄海・旅順などで勝利し、翌95年4月、講和条約を締結。
開戦から半年後、下関で伊藤博文 (総理大臣) & 陸奥宗光 (外務大臣) と清の李鴻章とで下関条約を締結し講和が成立。
清の敗北によって華夷秩序は崩壊。朝鮮は1897年に大韓帝国 (~1910の日本併合まで) と国名を改め独立国になりました。
台湾 (台湾本島と澎湖列島) は1895~1945年の間、日本領となります。
【陸奥宗光】むつ‐むねみつ(和歌山藩士伊達宗広(千広)の子、1844~1897)
幕末・明治期の政治家。脱藩して海援隊で活躍。新政府に入る。1878年(明治11)国事犯として下獄するが、復活。
第2次伊藤内閣の外相として、条約改正や日清開戦・下関条約締結にあたる。伯爵。著「蹇蹇録けんけんろく」。
【下関条約】しものせき‐じょうやく 馬関条約。
日清戦争の講和条約。1895年(明治28)4月、清国講和全権大使李鴻章と日本の全権大使伊藤博文・陸奥宗光とが
下関春帆楼で締結。内容は、清国は朝鮮の独立を確認し、軍費2億テールを賠償、遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲、
沙市・重慶・蘇州・杭州を交易市場とすることなど。
Wiki 日清戦争 Wiki 下関条約 Wiki 陸奥宗光 Wiki 伊藤博文 Wiki 李鴻章 Wiki 台湾の歴史 Wiki 三国干渉
日本が朝鮮の遼東半島を領有することはロシアにとっては権益を脅かされる事態になりかねません。下関の講和交渉時から、
ロシアを中心に領土を獲得する内容であれば干渉する事を事前に通達してきていました。
しかし、干渉を受け入れた講和条約を結ぶ事は、日本国内から政府の批判が強まり、国際的には日本の主体性の無さを示して
しまう事から、干渉を受ける事を知りながらも、あえて遼東半島を獲得する条約を締結しました。
下関条約締結から6日後、ロシア・ドイツ・フランスが、「遼東本島が日本領になると、朝鮮の独立は実態を伴わないものになる。」
として返還を日本に要求する三国干渉が行われました。
【三国干渉】さんごく‐かんしょう
1895年(明治28)日清講和条約(下関条約)締結後、ロシア・フランス・ドイツの3国が日本に干渉を加え、
条約によって得た遼東半島を清国に還付させた事件。
日本の国力では三国と対峙するのは無理なので、これを受け入れ新たな条約を結び、遼東半島の領有を放棄しました。
講和条約を外国干渉によって修整して結ぶと、日本は諸外国から「簡単に要求に屈する国だと」なめられます。
また、新たな条約を結ぶプロセスを残す事で、「三国干渉は不当な要求」である事を世間に示す必要もありました。
この結果、日本国民の間でロシアに対する不満が生じます。
『臥薪嘗胆』を合言葉にしてロシアへの対抗心が広まり、政府は軍備の拡張を進める事ができました。
【臥薪嘗胆】がしん‐しょうたん
(春秋時代、呉王 夫差ふさが越王 勾践こうせんを討って父の仇を報じようと志し、常に薪の中に臥して身を苦しめ、
また、勾践が呉を討って会稽かいけいの恥をすすごうと期し、にがい胆を時々なめて報復を忘れまいとした故事から)
仇をはらそうと長い間苦心・苦労を重ねること。転じて、将来の成功を期して長い間辛苦艱難すること。
≪ 日本の鉄生産・重工業の拠点 八幡製鉄所 ≫
清からの賠償金 約3億1000万円は、当時の日本の国家歳入の2倍強という膨大な額でした。
日本は下関の講和条約に異議を唱えた諸国に備えるために、賠償金の8割以上を軍事関連費に費やしました。
軍事設備を作るための鉄は英国などに頼っていた為、八幡製鉄所を建設しドイツの技術を導入し国内で鉄を作れるように
したのです。
1901年に操業を開始し、15年後には鉄の国内生産の80%を占めるまでになり、日本の重工業の中心となっていきました。
【八幡製鉄所】やわた‐せいてつじょ
軍需産業の中心として日本鉄鋼業の発達を主導した国営製鉄所。1901年(明治34)福岡県遠賀郡八幡町(現、北九州市
八幡東区)で操業開始。日本最初の銑鋼一貫製鉄所。34年民間鉄鋼企業の一部と合同して半官半民の日本製鉄
株式会社となる。第二次大戦後、富士製鉄・八幡製鉄の2社に分割解体。70年再合併して新日本製鉄となる。
≪ 銀本位制から金本位制 ≫ 大陸書房 「お金」おもしろ雑学 中江克己 著 1992.05.04 初版
1871 (明治4) 年4月4日大阪に造幣局を設立し、5月10日に通貨の単位を「両」から「円」に改め、貿易用の1円銀貨を鋳造発行。
政府は世界的に主流となっていた銀本位制を採用。しかし欧米では金本位制に移行しつつあり、伊藤博文が金本位制を主張。
金銀両本位制という混乱期になります。欧米が金本位制になった事で金が値上がり、金を多く含む日本発行の金貨は
買い占められ、1884年までに製造した金貨5500万円分の78%が諸外国に流出。
1871年、江戸時代に流通していた各藩札や色んな貨幣を7月14日の相場で明治政府発行の貨幣に引き換える通達を出しますが、
旧貨幣の種類の多さや価値の違いから作業は進まず、1979 (明治12) 年6月までかかりました。
1882(明治15)年10月10日東京に日本銀行を開業。
≪ 「両」から「円」へ ≫ 永岡書店 『おもしろ雑学百科』 1986.07.05 発行
『徳川期の通貨単位は「両」、明治維新にあたっての太政官札も「両」でした。
これが「円」にかわったのは、親指と人差し指でつくる形がお金とわからない者はいない。
だから、新しい貨幣は円形がよい、となり、ここから「円」が通貨単位となったというのがウソのような本当のはなしです。
両から円に移行する「新貨条令」は、明治四年五月に交付され、同年二月十二日から実施になりましたが、
造幣所は明治三年十月には完成しています。
ちなみに、当時の通貨は金貨は二十円、十円、五円、二円、一円の五種類。銀貨は五十銭、二十銭、十銭、五銭の四種類。
銅貨は一銭、半銭、一厘の三種類で、いずれも円形のものでした。』
1895(明治28)年、清からの多額の賠償金を英貨274万ポンドを金塊で受け取ったので、金貨を大量に製造できる事になり
金本位制度に完全に移行できるようになりました。
それまで1円金貨には純金1.5g (米国の1$金貨と同じ) が使用されていましたが、半分の0.75gで鋳造するようになりました。
当時、日本銀行が発行した拾圓 (十円) 紙幣には、「此券引換に金貨拾圓相渡可申候」と印刷してあり、いつでも十円金貨と
交換できる保証があるので、国内においては金貨ではなく紙幣が使用されました。
欧米と同じ金本位制度に完全移行した事で貿易が円滑に進み、日本は経済発展を遂げる事になります。
アジア諸国は、成功した日本をモデルに近代化しようとする機運が高まりました。
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造幣局 |
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毎日放送 パテナの神様 『お金SP』 13.07.10 放送 / テレビ東京 所でナンじゃ!? こりゃ 『日本古来のナンじゃこりゃ!?』 14.01.31 放送 NHK・大阪 歴史秘話ヒストリア 『大坂城落城 その時おんなたちは !? ~侍女・おきく 知られざる証言録~ 』 14.01.15 放送
読売テレビ かんさい情報ネットten. 『Go!Go! 若一調査隊 「1円玉をめぐるハテナと廃止論を調査!」』 14.12.10 放送
テレビ大阪 ニュースリアル 15.11.16 放送 / 朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『正式名称物語』 15.09.24 放送
テレビ大阪 かがくdeムチャミタス! 『マネーできない技術! 造幣局&日本銀行へおでかけ』 18.11.25 放送 テレビ大阪 がくやdeムチャミタス! 『マネーできない技術! 造幣局&日本銀行へおでかけ』 18.11.25 公開
テレビ大阪 かがくdeムチャミタス! 『お金deクイズ!』 19.06.09 放送
関西テレビ 報道ランナー 『今昔さんぽ 「大阪市北区を再発見」』 20.01.31 放送
造幣局
1871年4月4日 (明治4年) 設立。財務省管轄の独立行政法人で、政府貨幣(硬貨)の製造。本局は大阪北区天満。
東京支局と広島支局があります。 (ちなみに、造幣局の東京支局は埼玉に移される計画があるようです。)
≪造幣局≫ 本局 大阪市北区天満。
当初は造幣寮と呼ばれていたそうです。門の部分は明治時代の創業当時の建築のまま。
昭和3年建て替え工事が始まり、正面玄関の建物は泉布観せんぷかん (明治4年築。国の指定重要文化財) 横に移築。
泉布観は造幣局の応接室として使われていました。現在は造幣局と泉布観の間に国道1号線があります。
この造幣局の正面玄関の建物は昭和10年に明治天皇記念館として使われ、その後は桜宮公会堂として使用。
現在は結婚式場として使われています。
明治4年創業
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当初は造幣寮
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創業時からの門
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泉布観
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1日に製造している硬貨は8億円分。近年は海外の貨幣も製造。造幣博物館は入館料無料。
旧桜宮公会堂
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旧桜宮公会堂の内部
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造幣博物館
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明治3年の20円金貨
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【造幣局】ぞうへい‐きょく
貨幣の鋳造・鋳潰、勲章などの製造、地金銀の精製分析、合金の製造、貴金属製品の品位証明、および諸鉱石の
試験などを行う独立行政法人。
工場内に入れるのは造幣局員のみ。(TVでは局員にカメラを渡して撮影してもらっていました)
様々なハイテクマシーンを導入しているので、工場内にはほとんど人がいないそうです。
平成6年に不合格品の50円玉が流通したらしく、古銭屋では15万円で売られているそうです。
500円玉を斜めにすると「500円」の文字が浮かぶのは潜像せんぞう加工という技術。
硬貨の横に斜めのギザギザが入っているのは世界初だそうです。日本の貨幣や硬貨の偽造防止技術は世界一。
≪ 現在流通している硬貨の雑学 ≫
硬貨の表裏は特に決まっていないそうですが、造幣局では表裏が決まっていないと作業に支障をきたすため、
年号がある方を裏としています。
現在使用されている1円は昭和30年から発行されています。
昭和29年に国民に貨幣への関心を持ってもらおうと、1円硬貨の表と裏、それぞれのデザインを一般公募しました。
1円玉の (造幣局での表の) デザインは『若木』で、『大きく伸びる若い木のイメージ』で日本の発展を願ったもので、
京都の人のデザインが採用されました。「1」がある裏面は大阪の高島という人のデザインが採用されたそうです。
賞金は7万5000円 (現在価値換算で約150万円)。
1円アルミニウム貨幣、5円黄銅貨幣、10円青銅貨幣、50円白銅貨幣、100園白銅貨幣、500円ニッケル黄銅貨幣が
それぞれ硬貨の正式名称です。素材は銅と亜鉛で穴をあける事で0.25g軽くなりました。
昭和23年に初めて発行された5年硬貨には穴が有りません。翌年に戦後の急激なインフレで材料費を節約する為などの
理由によって穴有りのデザインに変更されました。
右は1994年にバハマで発行された珍しいコイン。この5ドル銀貨の穴は真ん中ではなく、絵柄の下のゴルフのカップの部分。
≪ お金の原価 ≫ 造幣局等では教えて貰えないそうです。
旧大蔵省のOBで経済コラムニストの小笠原誠治さんによると、年によっても変わるが、原材料費+加工費が基準。
1円玉=11円。5円玉=12円。10円玉と50円玉=14円。100円玉と500円玉=15円。
千円札=15円。5千円札=20円。1万円札=22円で、偽造防止のホログラム加工などの技術費により5千円や1万円は
コストがかかるそうです。
クレジットカード、電子マネーの普及により、1円玉の使用は減り近年は貨幣セット用の1円玉だけを製造していましたが、
2014年4月に消費税が8%になり、4年ぶりに一般流通向けを製造。しかし流通量はほとんど増えなかったそうです。
1円玉製造は1円以上のコストがかかると言われており、廃止論も出ていますが、スーパーマーケットなど1円、1銭単位で
商売している業種にとっては欠かせない単位なので廃止される事はないようです。
そのコストと製造枚数も少ない事から刻印前の円形打ち抜きだけを外注しています。1964~1966年には大阪刑務所でも製造。
東京のアカオアルミでは1964 (昭和39) 年から、円形を製造し1枚60~80銭で納品しています。
消費税が3%の時は1ヵ月で3億枚を納品。現在では年間1000t、10億円分を納品しているそうです。
≪ プレミアム硬貨 ≫
「発行枚数が少ない」「デザインが違う」というだけで価値が出る硬貨。
昭和32年の5円玉・・・400円の価値。 昭和35年の50円玉・・・700円の価値。
昭和61年後期に発行された10円玉は「手変わり」と呼ばれ、微妙にデザインが違うため・・・5万円の価値。
デザインを確認する必要があります。
≪ エラー硬貨 ≫ 滅多に出回らないので、珍しいほどオークションで高値が付くそうです。
左画像の穴ズレ50円玉は5万円の価値。穴なしの50円玉は20万円の価値。
「刻印ズレ」の5円玉は52万円の価値。表裏の刻印の角度がズレている「傾打」は3万円の価値。ズレた角度が大きいほど
高値が付くそうです。右端画像の10円玉は、「陰打ち」と呼ばれるもので、重なってプレスされたため、普通のと鏡のような
刻印になっており50万円の価値。
自販機にはコインメックという硬貨を判別する機械が内蔵されており、使いこまれた硬貨が基準になるので、新品の硬貨は
認識されず使用不可の場合があるそうです。その場合、少し汚すと使える可能性もあるらしいです。
≪ 記念硬貨の製造 ≫
都道府県記念貨幣の500円玉は、大手都市銀行で1人2枚まで通常の500円玉と交換可能。
地方自治60年を記念して造られた千円の銀貨幣はカラフルな硬貨。1枚6000円で販売されているそうです。
造幣局が発行している都道府県の記念コインシリーズ。
各1000円。(平成20年~)
山口県・福岡県・徳島県・和歌山県・大阪府・長崎県・
千葉県がようやく発売されました。
2016年に福島県と東京都が発行されると全ての都道府県
が揃うようです。
東日本大震災復興事業や新幹線50周年の記念コインも
発売。
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2002FIFAワールドカップ記念貨幣として発行された金貨は1万円の硬貨。
2018年11月現在、新天皇の御即位記念のプルーフ金貨の発行デザインが決定しており、10万円の価値があるようです。
≪ 同じ硬貨で支払っていいのは20枚まで ≫
日本の法律では、同一の硬貨で21枚以上の支払いは店などが受け取りを拒否する権利があります。
紙幣での支払いには制限がないので、1000円札のみで1億円の支払いをする事も可能です。
独立行政法人 造幣局 『地方自治法施行60周年記念貨幣』 http://www.mint.go.jp/coin/prefecture/prefecture_index.html
テレビ大阪 ニュースリアル関西 16.10.24 放送
≪ 造幣局で貨幣大試験 ≫
1年間に製造された硬貨が規定どおり造られているか? 質を試す貨幣大試験が24日に
公開開催されました。明治5年から始まり今年で145回目。
東日本大震災の復興記念硬貨や新幹線開業50周年硬貨なども発表されました。
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≪ 造幣博物館 ≫
日本の貨幣の歴史や造幣局の仕事内容、世界の貨幣や勲章など約4000点を展示しています。
展示されている竹流金は1580年代の桃山時代の物で98.6g。昭和10年に造幣局の横を流れる大川でシジミを獲っていた
おじいさんが拾い上げた物。当時の約7両相当、現在換算で70万円以上の価値になるそうです。
【大坂一分金】おおさか‐いちぶきん
豊臣秀頼が発行したといわれる一分金。長方形で、重さ1匁1分8厘。表面に「一分」、背に「後藤光次」の花押極印がある。
【竹流し】
縦割りにした竹筒に金銀を鋳込んで固めた称量貨幣の一種。必要に応じて切り遣いもされた。竹流金。竿金。
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ~小京都めぐり10 三重「伊賀上野の城下町」~』 2014.01.02 総集編放送 などより
≪ 大阪造幣局 桜の通り抜け 伊賀上野城主 藤堂高虎の桜が始まり ≫
【 桜の通り抜け 】
大阪市北区の大川(旧淀川)沿いにある本局には、約120品種、約400本の桜が植えられている。
本局のあった中之島の土地はもともと藤堂家の大坂屋敷があり、同家の植栽していたサクラの樹木が造幣局にも引き継がれた。
造幣局長であった遠藤謹助が「役人だけが花見をしていてはいけない」と1883年(明治16年)から一般にも開花したサクラを
公開することになったのが始まり。
同じく、藤堂家に屋敷の守り神としてあったお稲荷さんは、伊賀上野住民の強い要望で、伊賀に移築され「万吉神社」
として祀られています。
毎年4月中旬から下旬にかけての開花時期には一般開放され、多くの人で賑わい、日本各地で行われる「桜祭り」と呼ばれる
観桜会で、もっとも著名なものとされる。広島支局にも桜の通り抜けがあるそうです。
【 ガス灯 】
創設された1871年から工場内および近隣周辺にガス灯を点灯している。これは貨幣を鋳造するために発生させたガスの
余剰分を利用したものであり、特に屋外に設置されたものは日本で初めてのガス灯による街灯でもあったため、
その明るさに見物人が押し寄せた。
【藤堂高虎】とうどう‐たかとら (近江の人、1556~1630)
安土桃山・江戸前期の武将。浅井長政・羽柴秀長らに仕え、秀吉に召され宇和島城主となり、文禄・慶長の役に従う。
秀吉没後は徳川氏に属し、関ヶ原・大坂の戦功により伊勢・伊賀32万石に封。築城にすぐれる。
【「出世払い」の語源となったエピソード】
藤堂高虎が若くて貧乏だった頃、全国各地を放浪していました。旅費も尽き食べる物が無くなった高虎は悪い事と
知りながら無銭飲食を決意。餅屋に入り、豪快な勢いで餅を食べ始めました。
その食べっぷり感心した餅屋の店主は無銭飲食を許し、旅費まで工面。
その後、出世した高虎は江戸へ向かう参勤交代の道中で餅屋の前を通りかかった。その餅屋に礼を言い金銀を渡した。
という事から。恩を忘れないように藤堂家の旗印は三ツ餅としました。
≪ 造幣局の桜の通り抜け ≫
平成27年4月9日(木曜日)~4月15日(水曜日)までの7日間。
平日は午前10時から午後9時まで。 土曜日・日曜日は午前9時から午後9時まで
独立行政法人 造幣局 HP 『桜の通り抜けの最新ニュース』 http://www.mint.go.jp/enjoy/toorinuke/sakura-news.html
造幣局広島支局でも桜の通り抜けが開催されているようです。
大阪の花見の新名所 安藤忠雄さんによる緑化プロジェクトと花を植える理由など
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日本銀行 |
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テレビ大阪 かがくdeムチャミタス! 『マネーできない技術! 造幣局&日本銀行へおでかけ』 18.11.25 放送 テレビ大阪 がくやdeムチャミタス! 『マネーできない技術! 造幣局&日本銀行へおでかけ』 18.11.25 公開
日本銀行
1882年(明治15年)10月10日 開業。独立法人、国の中央銀行、日本銀行券(紙幣)の発行。東京中央区日本橋が本店。
民間銀行との取引、政府の口座の管理(税金など)
国立印刷局
1869年(大正15年、明治元年)に長崎製鉄所に本木昌造の活版伝習所が作られた。
1872年に創設された大蔵省紙幣司などと合併。
1875年、正院印書局が廃止されて大蔵省紙幣寮活版局。
1877年に紙幣局、1878年印刷局に改称。
2003年4月、大蔵省から替わった財務省印刷局を改組し現在に至る。
日本銀行の外局で特定独立行政法人、日本銀行券(紙幣)・切手・旅券・郵便貯金通帳・
証券類・政府刊行物等を印刷。
全国に7工場(虎の門、滝野川、王子、小田原、静岡、彦根、岡山)
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毎日放送 パテナの神様 『お金SP』 13.07.10 放送 / TBS はなまるマーケット 『日本銀行へ!』 13.07.11 放送
≪ 日本銀行 ≫ 本店 東京都中央区日本橋
【日本銀行】にほん‐ぎんこう 広辞苑
日本の中央銀行。1882年(明治15)日本銀行条例に基づいて創立。
国庫金の取扱、銀行券の発行などを行うのみならず、経済・金融の中枢機関として種々の活動を営む。
1942年日本銀行法により改組、1949年運営・機能・金融政策の最高意思決定機関として政策委員会を設置。
1997年同法改正により政府からの独立性を強化。日銀。
【日本】にっぽん
(古来ニッポン・ニホンと両様によまれる。ニッポンの方が古いが、本辞典=広辞苑では、特にニッポンとのみよむもの
以外は、便宜上、ニホンとよむことにした)
① わが国の国号。
② (江戸時代の流行語)日本一。最上。1785年(天明5)刊の黄表紙 莫切自根金生木きるなのねからかねのなるき「この景色
は―だ」
日本銀行は正確には「にっぽんぎんこう」です。紙幣をご覧ください。「NIPPON GINKO」の文字が印刷されているはずです。
「にっぽん」と「にほん」という呼び方は、いつ生まれたのか? 「日本」と呼ばれるルーツは東大阪市にあった
日本銀行の建物は1896年(明治29)に竣工、設計者は辰野金吾(代表作は東京駅、東京駅の十二支ミステリーは、南海電鉄の項目で)
関東大震災や東京大空襲なども潜り抜け、ほぼ当時のまま現存しており、国の重要文化財に指定されています。
旧地下金庫は明治29~平成16年まで使用されてきました。扉の幅は90㎝もあり重さは約15t。枠の部分も約10tあり、
使用されていた頃は複数の職員により手動で開閉していたそうです。
旧金庫で一般人が立ち入れない柵の奥の部屋(見るのは可能)には模擬紙幣が1000円億円分展示されています。
1億円分の1万円札束が10㎏。当時、紙幣の他、硬貨、金塊、証券なども保管されていました。
営業場は昭和44年に新館へ移転。拍子木を(は・じ・め)の意味で3回叩き営業開始、営業終了は(お・し・ま・い)の意味で
4回叩いていました。資料展示室では録音された拍子木の音が聞けるようです。
日本銀行の大阪支店にも金を計った天秤の大型秤量器ひょうりょうきや、明治時代の貴賓室を再現した部屋などが
あり見学可能です。
口座などは作れませんが、一般人でも日本銀行を利用できるそうです。
・税金、社会保険料、交通違反金の払い込み。
・破損したお札の交換。2/3あれば全額、2/5以上なら半額、2/5未満は交換できず失効。
現在流通している紙幣は1万円札・・・79兆円分(79億枚)、5千円札・・・3兆円分(6億枚)、
千円札・・・4兆円分(40億枚)。12年末、計86兆円分。
1万円札は平均4~5年間流通、5千円と千円札は使用頻度が高いので1~2年で破棄し新しい札に入れ替わるサイクル。
破棄したお札は、細かく裁断された後、住宅建材やトイレットペーパーとして再利用され、リサイクル率は約7割。
平成30年度の1万円札の発行枚数は12億枚=12兆円分。
日本銀行のお土産には1万円札の脂取り紙があり、使用後は透かし部分に「福」の文字が現れるそうです。
パラジウムカード 使用制限なしのクレジットカードの最高峰であるブラックカードを超えるセレブだけが所有可能なカード。
所有条件は資産30億円以上の人だけで、米国の大手金融会社JPモルガンが発行しているそうです。
テレビ東京 137億年の物語 ~宇宙が始まってから 今日までの全歴史~ 『日本人気質をつくった偉人 聖徳太子』 13.11.16 放送 より
≪ 聖徳太子の肖像画が描かれた紙幣 ≫
百圓札・・・昭和5年以降 4回発行
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千円札・・・昭和25年発行
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五千円札・・・昭和32年発行
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一万円札・・・昭和33年発行
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毎日放送 特番 『道頓堀角座オープン記念! 角座をフライングゲット! 松竹芸人 船上クイズバトル』 13.07.27 放送 など より
日本銀行 大阪支店は、1903年(明治36)、島原藩の蔵屋敷跡で、1871年(明治4)に駅逓司大阪郵便役所が置かれて
いた場所に、最初の支店として建てられました。
この場所が選ばれたのは、堂島に米取引所があり、中之島が大阪経済の中心地であった事から。
設計は本店や旧小樽支店なども設計した辰野金吾。施工は大林組。
中之島は川沿いに西から、日本銀行大阪支店、大阪市役所、大阪市中央公会堂の順に並んでいます。
御堂筋の淀屋橋 (南側) を挟んで、西側に日本銀行、東側に大阪市役所。裁判所 (大阪高裁、地裁、簡易裁判所) も
中央公会堂の北向かい。
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令和時代の新紙幣と新500円硬貨 |
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テレビ大阪 かがくdeムチャミタス! 『お金deクイズ!』 19.06.09 放送
日本銀行券 (紙幣) で、女性の肖像画が採用されたのは、現在使用されている
5000円札の樋口一葉が初めて。
それまでは偽造防止の観点から、髭があるか、シワが多い男性が選ばれて
いました。
現在の技術では陰影や表情など細かい部分まで反映でき、簡単に偽造され
ないように作ることができるようになった為、女性の偉人も選ばれるように
なったのだとか。
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一説によると、現在の政府は尊王派である明治政府から引き継いでいるので、鎌倉・室町・江戸の幕府政権で活躍した
将軍や幕臣は肖像画に選ばれる事はないとも言われています。
2011に発行予定の新500円硬貨は「バイカラークラッド」という技術を使った内円 (白銅) と外円(ニッケル黄銅) という2層
2色の外観。そして内円の部分は中央の銅を表裏両面を白銅で挟んだ3層構造。全部で4つの金属部品を合わせて
1枚の硬貨を作っている事になります。
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宝くじ 発祥は大阪箕面市 |
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読売テレビ かんさい情報ネットten. 『知られざる宝くじの歴史』 15.11.25 放送 Wiki 瀧安寺 Wiki 宝くじ
宝くじ公式サイト 『宝くじの歴史』 http://www.takarakuji-official.jp/educate/about/history/enkaku/index.html
江戸時代初期の1624年頃 (桃山時代の1575年説もある)、現在の大阪府北部の箕面市にある瀧安寺りゅうあんじが始めた
箕面富みのおとみがクジの発祥とされます。
正月の元旦から7日までに参詣した善男善女が、自分の名前を書いた木札を唐びつの中に入れ、7日の日に寺僧がキリで
3回突き、3人の“当せん者”を選びだし、福運の“お守り”を授けたのが起こりとされています。
2009年から古式にのっとっり、復活。
お守りが当たるものだったが、しだいに金銭と結びつき、「富くじ」として町中に氾濫。
1692 (元禄5) 年、幕府の禁止令がでます。
寺社にだけは、修復費用調達の一方法として、「富くじ」の発売を許可。天下御免の富くじ「御免富ごめんとみ」と呼びました。
“江戸の三富”として有名だったのは、谷中の感応寺、目黒の瀧泉寺、それに湯島天神の富くじでした。
その御免富も、1842 (天保13) 年の天保の改革によって禁止。
幕末の『守貞謾稿』上巻 第七編 貨幣 「冨」
「昔も行レ之歟 三都とも文政中專ら行レ之 其後 廢止して 今は三都とも無レ之 此行 官許に非れば行ふことを許さず
多く 大寺大社修理の費に備んことを欲すを表し官に請て行レ之
大行は千兩なるあり 或は三五百金 或は 百金を小とす 其制 種々無レ定也…
…催主より出す値段は官に告て定價あり 札屋より諸人に賣るは定なし…
京坂にては當り富の番を大幟に記し 札店の軒前に栽る 當り札無レ之店にも摸二造之一て建てる」
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明治になってからも、明治元年(1868年)の「太政官布告」によって、厳しく禁じられました。
天保の禁令以来、103年もの長い間、日本では“富くじ”は発売されませんでした。
江戸時代頃
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1958 (昭和33) 年
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1976 (昭和51) 年
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みずほ銀行によると、宝くじの法律(当せん金付証票法)では、1等の当せん金の最高額は宝くじ1枚の単価の250倍以内に
定められており、宝くじの発売元(各都道府県及び、20の政令指定都市)が、ニーズや社会情勢を考慮し、総務大臣の許可を
得た上で賞金体系を決定している。との事です。(2015年現在)
販売金額は、当せん金に当てられるのは46.5%、自治体の収入になるのは40.3%、残りは広告・手数料など運営費に充当。
1945年7月 政府は浮動購買力を吸収して軍事費の調達をはかるため、1枚10円で1等10万円が当たる富くじ“勝札”を発売。
1945年10月 戦後の激しいインフレ防止のため浮動購買力吸収の必要性が大きくなったので、“宝くじ”という名前で
「政府第1回宝籤」を発売。
1946年 震災復興の為、各自治体が販売できることとなり、12月に地方くじ第1号「福井県復興宝籤」(別名ふくふく籤)が登場。
1954年12月 全国自治宝くじが誕生。
1958年 東京タワーが完成した高度経済成長期 当時の1等は100万円。木の机の上に宝くじを置いて販売。
1968年 第76回全国自治宝くじ 1等1000万円になり、売り場には長蛇の行列が出来ました。当選後の夢は海外旅行。
1974年 インフレ不況と物価高。前後賞が始まる。1等と前後賞で2000万円。発売日前夜から泊まり込む人が出る。
1976年 色々な事件や闘争・騒乱など荒れた70年代、12月21日に発売された宝くじは1等1000万円が40本当る事もあり、
日本各地で大行列。大阪市の扇町公園の特設売り場では、前日の朝から並び4万人の行列ができました。
発売時刻を午前3時10分に繰り上げましたが、混乱が続き午前6時10分に販売中止。夜明けまで購入者と機動隊が
小競り合いを続ける「宝くじ騒動」がありました。各地でも同様で、全国で死者2名、負傷者45名を出しました。
1980年 ドリームジャンボで1等が3000万円になりジャンボ宝くじ時代に。当選後の夢は家を購入する事が多かった。
1989年 消費税3%が導入。年末ジャンボ宝くじで、1等と前後賞で1億円。
1999年 ドリームジャンボで1等と前後賞で3億円。
2012年 年末ジャンボ宝くじで、1等と前後賞で6億円。
2015年 年末ジャンボ宝くじで、1等と前後賞で10億円。
江戸ガイド 『宝くじのルーツ、江戸時代の禁止ギャンブル「富くじ」とは【1等いくら?】』 16.11.19 配信
http://edo-g.com/blog/2016/11/tomikuji.html
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