手づくり アイスの店 マルコポーロ
料理の歴史雑学 田楽・おでんの歴史
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このページの最終更新日:   20.02.19
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  Page Contents



 1764年に京都に煮田楽という料理があった事を発見

 静岡おでん 実は、つい最近まで市民に忘れ去られようとしている存在だった。


 田楽 おでんのルーツ
  料理で言う「田楽」は元々は豆腐田楽の略、おでんの「お」。江戸時代中期の『黒白精味集』『豆腐百珍』などの記述

 煮込みおでんが出来た頃 江戸時代後期~幕末
  関東煮 (関東風の煮込みおでん) は江戸時代後期には大坂に伝わっていた

 関西の「関東煮かんとうだき (おでん)」  大正時代以前から大阪にたくさんあった事が判明

 ちくわ…ぶ ?  東京発祥と言われる「ちくわぶ」とは? いつ出来たのか?
  関東大震災の時に江戸っ子がおでんを振る舞ったのが全国に広まったきっかけ ← 東京の願望説 19.02.20追記
  明治末~大正期の東京のおでん屋 『東京年中行事』などの記述

 関東風と関西風のおでんレシピ

 日本全国 おでんの定番5品MAP 北海道の「マフラー」とは?

 関西と関東で全く違うおでん種「スジ」 大阪発祥の牛すじは何処まで定番として広まっているのか?

 金沢おでん 金沢市は人口1人当りのおでん店の軒数は日本一

 静岡おでん 静岡市では日常に食べるほど定着  名古屋の味噌おでん  姫路おでん


  江戸時代を知る上での注意点 ← 超重要 嘘だらけの関東発信の情報は疑え!!

  国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   上之巻 『大目録 ~ 36女工具』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898160
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161
    65上野・下野・常陸・上総・下総・安房、67武蔵・相模・伊豆、69甲斐・駿河・遠江・三河
   下之巻 『72山城~105醸造類』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444386
  類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿. 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1053412
  皇都午睡 : 三編 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763829/9
  東京年中行事. 上の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991464/32
  東京年中行事. 下の巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991465
  江戸時代のさまざま 三田村鳶魚 昭和4年刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187205
  明治事物起原 石井研堂 1908年(明治41年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/1

  人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

  人文学オープンデータ共同利用センター 「源氏物語」「豆腐百珍」など多くの古典文献 (原文のまま) が無料公開されているサイトです。
  http://codh.rois.ac.jp/pmjt/

 
 田楽 おでんのルーツ
  株式会社いとふ|麩の歴史 http://www.itofu.jp/history/index.html / Wiki おでん
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『江戸に咲かせた食文化』 12.02.02 放送
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『県民熱愛グルメ「愛知県民 味噌おでん」』 15.02.05 放送
  TBS いっぷく ! 『このままじゃ もったいない遺産 「 豆腐の知っておくべき事実」』 15.02.11 放送
  NHK チコちゃんに叱られる 『おでんの「でん」は豆腐』 20.02.07 放送







  ≪ 田楽とは ≫

  平安時代に始まった農業儀式を祝う音楽と踊りが「田楽」。田楽を踊る専門の田楽法師の衣裳は、上は色が付いた服
  ですが、下は白と決まっていました。

  【田楽】でんがく 日本芸能の一つ。平安時代から行われた。
   もと、田植などの農耕儀礼に笛・鼓を鳴らして歌い舞ったものに始まるというが、やがて専門の田楽法師が生まれた。
   笛吹きを伴い腰鼓・銅子どびょうし ・簓ささらなどを鳴らしながら踊る田楽躍おどりと、高足こうそくに乗り品玉しなだまをつかい
   刀剣を投げなどする曲技とを本芸としたが、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、猿楽と同様に歌舞劇である能をも
   演ずるようになった。後に衰え、寺社の行事だけに伝えられて今にいたる。
   栄華物語[御裳着]「田楽といひて、あやしきやうなる鼓、腰に結ひつけて、笛吹き、ささらといふ物突き…

  鎌倉時代以降に日本各地に大豆の栽培が広まり、仏教の肉食禁止の影響を受け大豆からタンパク質を得る為、
  大豆製品が重要になってきました。






  南北朝時代の1351 (観応2) 年に政策された『慕帰絵』は本願寺の僧・覚如の伝記を描いた絵巻ですが、僧房の生活での
  台所・調理・食事の様子が詳細に描かれおり、素麺豆腐田楽と思われる絵があるそうです。

  【慕帰絵】ぼき-え
   本願寺3世の覚如の伝記を描いた絵巻。10巻。1351(観応2)の制作。覚如の子、慈俊 (従覚) の撰。
   絵は藤原隆昌・隆章 筆。巻1・7は1482(文明14)の補作。西本願寺蔵。


  室町時代 (1392~1573年) になると、庶民も豆腐を食べる事が可能になり、主な食べ方は汁物の具と焼き豆腐。
  白い豆腐の上に味噌などを付けて焼いた料理が、田楽法師の衣裳と似ている事から「豆腐田楽」と呼ばれるように
  なったようです。


  室町時代の『蔭涼軒日録』の1437 (永享9) 年7月5日に今月より毎精進日に田楽豆腐を献ずるように命じられる
  との記述が「田楽豆腐」の文献上の初見のようです。

  【蔭涼軒日録】いんりょうけんにちろく
   相国寺(京都上京区にある臨済宗相国派の総本山、足利義満の建立。歴代の足利将軍の帰依を受け五山の中心として
   威勢を誇った) 鹿苑の蔭涼軒主の公用日記。1435~66年(永享7~文正1)は気瓊蘂きけいしんずい、1484~93 (文明16~
   明応2) は亀泉集証の筆録。京都五山を中心とする政治・美術に関する記事が多い。






  【田楽豆腐】でんがく‐どうふ
   形が、田楽法師 (田楽を演ずる芸能者。多くは僧形であった為、法師という) の高足こうそくに乗って踊るさまに似るから。
   豆腐を長方形に切って串にさし、味噌を塗って火にあぶった料理。

  【田楽焼】
   魚・野菜などを串にさし、味噌を塗って焼いた料理で、魚は魚田ぎょでんと略す事もある。


  ≪ 「おでん」という言葉ができたのは ≫

  室町時代に言葉に「御」を付けて、丁寧に言い換える事が宮中女官の間で始まりました。
  豆腐は「しろ物」や「おかべ」と呼ばれ、「おかべ」は宮中女官の女房言葉で『御壁』と書きます。
  室町時代に焼き田楽、江戸時代の煮込み田楽から「お」がついて「おでん」となったようです。

  【御田】お‐でん (「でん」は田楽でんがくの略)
   ① 田楽豆腐。
   ② (煮込田楽の略)蒟蒻こんにゃく・豆腐・里芋・はんぺん・つみれなどを醤油味で煮込んだ料理。関東焚き。関東煮。
    季語は冬。「―屋」

  1420 (応永27) 年成立の有職故実書『海人藻芥あまのもずく』恵命院宣守 著に、内裏では食物に異名を付ける事などが
  書かれてあるようです。これが女房詞が使われていた事を示した書のようです。

  1474 (文明6) 年頃に成立したと考えられる室町時代の日常語の国語辞書『節用集』に「白壁 豆腐の異名」という事が
  記載されています。

  【女房詞】にょうぼう-ことば
   室町初期ごろから、宮中奉仕の女官たちが主に衣食住に関する事物について用いた一種の隠語的なことば。
   のち将軍家に仕える女性から、町家の女性まで広がった。飯を「おだい」、肴を「こん」、鯉を「こもじ」、
   団子を「いしいし」、浴衣を「ゆもじ」という類。

  【御湯殿の上の日記】おゆどののうえのにっき
   清涼殿内の御湯殿の上に侍した女官の日記。禁中の日常や女房詞などを知る好史料。
   1477(文明9)から1826年(文政9)までのものが現存。

女房詞

利休百会記

麩の焼き
料理物語


  文献による「おでん」が登場する最古の記録は1587年の千利休の『利休百会』で100回ほどの茶会の詳細を記録した書。
  100回の内、80回ほどは竹串に刺した麩にゴマ味噌を乗せた麩の焼きを茶菓子として出していたそうで、豆腐も同様に
  味噌を付けて焼いた食べていました。


  ≪ 江戸時代は料理屋でも食べる事が可能になった ≫


 1830年刊の『嬉遊笑覧』 (撰著は喜多村信節 1783~1856、江戸の人で国学者・考証家)
  巻之十 (飲食)「田楽~菜飯」P.399には  嬉遊笑覧 下 昭和7版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123104
  【后の千句】にたりやきたり豆腐をそくふゆるゆると祇園の前にやすらひて 田楽かならず菜飯に添こくふは
  寛永ころよりなるべしとあります。

  京都の祇園では寛永 (1624~1645年) 頃には田楽豆腐と菜飯がセットで売られていた事が書かれてあります。
  また『嬉遊笑覧』には他に上方には室町時代末期には料理屋があったような事も書かれてあります。
  詳しくは↓でご覧ください。
  料理茶屋 (飲食店) は江戸より先にあった事が判明 江戸の奈良茶屋が日本の飲食店の始まりではない


  江戸時代に庶民の食事を記した日本最古の料理専門書と言われる『料理物語』が出版され、江戸時代はこの本をベース
  として多くの料理本が書かれます。


 1643年刊『料理物語』 「第七 青物之部」の豆腐の料理法として下記の記述があります。

  たうふ〕 汁、でんがく、うどん、ふはふは、こほり、いせだうふ、ろくじょう、茶や、きじやき

  料理物語の著者は不明ですが、当時の商業出版は京都のみ。上方言葉が使われており、料理内容と言葉の使い方
  などから、大坂人が東海道を旅して情報を収集し武蔵国で書いた物と推測できます。


  江戸時代中期の料理書では、まだ焼き田楽であり、煮込み田楽ではないことが分かります。
  しかし、煮田楽という料理が珍味として京都にあったと思われる記述の文献を発見しました。


  1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) 見聞きしたものを集めた書。

  中巻 五「炙物」には
  「魚田楽」「あわび田楽」「海老田楽」「赤ゑい田楽」のレシピがあり、「炙物」とあるように、醤油か味噌類を
  付けて焼くレシピが書かれてあります。

  中巻 六「吸物 肴 鮓
  田楽類 上でんがくとうふ常のでんのごとく切 あぶらかけにして 醤油を付 やきて出す また 湯煮して敷かつをして
  醤油 酒水煮て あぶり 小串にて 山升のこ 唐辛子 胡升の粉かけてもよし…

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf


  1764 (宝暦14・明和元年) 刊の『料理珍味集』(著者は博望子はくぼうし、出版地は京都)
   書の冒頭には、宝暦13年末、華文軒主人の文字が書かれてあります。1749年の『料理山海郷』の続編で、
   料理山海郷では園趣堂主人のペンネームを使っています。

  くずし文字なので、全文を訳さないとはっきりとは分かりませんが、巻乃一には「白田楽 胡麻と味噌」「唐田楽
  田楽のように油を引いて味噌を付けて焼いたもの」「小倉田楽 揚げ豆腐を切って煮た粒小豆を付け串に刺して
  醤油を付けて炙ったもの」が書かれてあります。

  巻之二に「煮田楽」があり「・・・田楽 小切 串にさし 油をひいて 白みそ付 やき・・・ 湯・・・串ともに入・・・」の
  ような事が書かれてあります。時間がある時にちゃんと旧字と一字ずつ対比させて訳したいと思います。

  この本は各地の珍味を集めたものですが、白味噌が使われているので京都周辺で食べられていた料理と断定
  できます。まだ現在のような煮込み田楽とは異なる物のような気がします。

  巻乃一 「雲掛豆腐」「恵駒豆腐」、巻乃二 「茶屋豆腐」「合湯豆腐」「蒲鉾豆腐」「汾豆腐」「安倍豆腐」
  巻乃三 「青海豆腐」「松笠豆腐」「冷湯豆腐」「芋豆腐」「伊勢豆腐」「異国湯葉」、巻乃四 「玉子湯葉」
  「松木豆腐」の豆腐関連の料理名があります。

  


 1782年の『豆腐百珍』と1783(天明3) 年初出版の『豆腐百珍続編』(著者は大坂の曽谷学川と推測されている)
 その写本出版 (著者ペンネームは浪華 酔狂道人、年代不明ですが江戸時代に出版された版) には、
 下の図と説明文があります。一 木の芽田楽近来 田楽爐の新製あり…」とあり、初版からあるのか?
 写本で追加されたものか? は不明です。

 『豆腐百珍

  尋常品 「一.・木の芽田楽」、「二・雉子ゆき田楽」、「十一.・再炙ふささび田楽」、
   「卅一・油煠あげ田楽」、
  通品 「卅五・葛田楽 (祇園とうふより)
  佳品 「四十二・浅茅田楽」、「四十三・海膽うに田楽」、「四十四・雲かけ田楽」
  竒品 「五十九・淨饌の海膽うに田楽」、「六十・繭田楽」、「六十一・蓑田楽」
  妙品 「七十八・交趾こうち田楽」、「七十九・阿漕あとぎ田楽」、「八十・鷄卵田楽」
  絶品 「九十六・礫つぶて田楽」


 『豆腐百珍続編

  尋常品 「五.・目川田楽」、「六・今宮の沙田楽」、「十.・衛士田楽」
  通品 「十四・青○○田楽」
  佳品 「廾二・御手洗田楽」、「四十七・吾妻田楽」、「五十・西洋田楽」 
  竒品 「五十五、小野田楽」、「五十六、煮取田楽」、「六十一・女郎花田楽」
  妙品 「九十一・東雲田楽」

  附録 「卅八・太平田楽」

  [吾妻でんがく] つゆの田楽の如く炙やきて芥子と水にて和とき いっべんひき 炙やき干して
   すぐに葛つけ田楽にするなり芥子の○りに観心寺 寒晒の粉と水にそそとき ぬりて 炙やきふくれると
  (ほ)ど○○ さん椒未醤みそ 亦一種の製なり

  △糯米と水に浸つけとて さよく すりて田楽につけ炙やくに○ 生の煮沸 豆油しょうゆに檫おろし山葵わさびにて
  用るを 極楽豆腐という

  この時点では、現在の煮込み「おでん」ではない事が分かります。 醤油の歴史

  『(江州) 目川でんがく』には、「葛湯で始終煮た後に取り出して、常の田楽の如く焼き、水気を除けて味噌をつける」
  というような事が書かれています。

  【江州】ごうしゅう … 近江国の別称。(滋賀県)


  「とうふ」「豆腐」「菽腐」「豆乳」「菽乳」「」「」と書いて全て「とうふ」のフリガナがあります。 // 「菽=まめ」

  豆腐 (色々な種類のものがありますが) の場合は、商品名や料理名として出てくるので気にしなくてもいいですが、
  しょうゆは、レシピ内に書かれたもので、下記のように色々な文字で書かれてあります。
  1730年代頃、醤油の原料配合 (大麦麹→小麦麹) が変わっていますので、記述文字の違いに意味があれば、
  下記のような醤油の種類の違いがあったのかも知れません。

  「醤油」、「うす醤油=淡口醤油?」、「豆油しょうゆ=たまり醤油?」、「うす豆油=薄いたまり醤油?」

  「濃醤こくしょう」は尋常品の二十にレシピ↓があり、花かつおや山椒を使った豆腐料理名 (冷奴?) のようです。(未確定)
  壱挺 四ッ切ほどにして 壱碗へ壱切入 花がつほの後入○るり 初より入○ 烹るハ よろしからず 出しさたに
  すり山椒をき 其ト一へつんほりと 花かつほ をくべし

 1785年(天明5)の『萬宝料理秘密箱』(通称「卵百珍」、著者は京都の器土堂の主人)には
  巻之一 鳥の部 「長﨑鳥田かくの仕方 (田楽)」、巻之三 卵の部 「たまご田楽」、
  巻之四 卵の部 「たまごうに田楽」のレシピがあります。

  卵百珍に見える「長崎」の付く料理 醤油の普及は江戸より長崎の方が早かったと思われます。

  人文学オープンデータ共同利用センター 『「万宝料理秘密箱 卵百珍」レシピ一覧』  このサイトは豆腐百珍などの多く古文献データがあります。
   http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下 「湯出鷄卵賣

  鷄卵の水煮を賣る 價 大 約廿文 詞に「たまごたまご」と云 必ず二聲のみ 一聲も 亦 三聲も云ず
  因云 四月八日には鷄とあひるの玉子を賣る 江俗言 傅ふ今日 家鴨の卵を食する者は中風を不病の呪と
  京坂無此事

  鶏卵の水煮は大きい物で約20文の価格。売り言葉は「たまご、たまご」に2回繰り返すだけで、1回でも3回でも無い。
  四月八日にはニワトリとアヒルの卵を売る。江戸の俗言に「アヒルの卵を食べる物は、体の一部が麻痺する病気に
  かかるという呪いがある」とされるが、京都・大阪には、そういう俗言はない。

  「=声」


 
 江戸時代後期~幕末  Wiki おでん
  醤油の普及は、上方では元禄 (1688~1704年) 以前、江戸では文化・文政年間(1804~1831年)。約100年の差があります。
  文化文政時代になると、安い千葉の醤油が江戸で普及します。同様に砂糖も入手しやすくなったので、醤油と砂糖を
  たっぷり使用した江戸ッ子が好むとされる甘辛い味が誕生したと思われますが、幕末頃には砂糖を使う量が減った
  事が書かれてあります。

  この江戸後期頃の1800年より少し前に江戸で醤油ベースの煮込みおでんが出来たと思われています。
  現在コンビニなどで売られているおでんの主流は、関東発祥の醤油おでんを関西風のダシを重視にしたもののようです。
  つまり、昭和時代に関西で言っていた「関東煮かんとうだき」が全国チェーン販売されているおでんのベース。

  【文化・文政時代】ぶんか‐ぶんせい‐じだい(1804~1818~1831)
   徳川第11代将軍 家斉の治下の後半期、文化・文政年間を中心とした時代。化政期
   綱紀こうき弛み風俗頽廃たいはい(規律がゆるみ、不健全な気風になった)
   江戸市民は遊楽を事としたが、町人芸術は爛熟の極に達し、小説(山東京伝・式亭三馬・曲亭馬琴)、戯曲(鶴屋南北)、
   俳諧(小林一茶)、浮世絵(喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎)、西洋画(司馬江漢)、文人画(谷文晁)などに
   すぐれた作家を輩出した。また地方文化も盛んとなった。


  ≪ 関東煮は江戸時代後期には大坂に伝わっていた ≫

  1803 (享和3) 年に初編、1805 (文化2) 年に二編、1820 (文政3) 年に三編の計3冊、大坂で
  刊行された『即席料理素人庖丁』著者は浅野高造。通称は『素人庖丁』。

  この第一巻 (初編) に「関東煮かんとうだき」を発見。下記の明治版では上巻のP.64に載って
  います。

  江戸時代の後期1800年頃には関東煮が大坂に伝わっていた事が判明しました。

  素人包丁 即席料理 上 1893 (明治26) 年版 出版は大阪の赤志忠雅堂
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849059
  素人包丁 即席料理 下 1893 (明治26) 年版 出版は大阪の赤志忠雅堂
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849060


  明治時代になると日本全国で刊行本は入手しやすかったと思われますので、明治中期には関東煮が全国に知られて
  いた事になります。大正期には「おでん」という言葉が登場する本が東京多数出版されています。


 京坂は薄味で素材の味を大切にする。江戸は甘辛く濃い味で素材の味が損なわれる。
 江戸では醤油で塩味を付けていた という事が記されています。

  【守貞謾稿】もりさだまんこう (「守貞漫稿」とも)   コトバンク 『喜田川守貞』 Wiki 守貞謾稿
   随筆。喜田川守貞 (砂糖商北川家。大坂の人、1810~?。1840年に江戸深川に定住) 著。30巻、後編4巻。
   1853年(嘉永6)頃一応完成、以後加筆。自ら見聞した風俗を整理分類し、図を加えて詳説。近世風俗研究に
   不可欠の書。明治末年「類聚近世風俗志」の書名で刊行

 幕末の『守貞謾稿』上巻 第四編 生業上 「料理茶屋」   守貞謾稿『漬物賣』の記述

  割烹店を云 料理と云は萬事を計り調ふを云也 今俗は唯 食類を製するの名とす
  今世 三都ともに士民奢侈を旨とし 特に食類に至りては衣服等と異にして 貴賤貧福の差別なきが如し 而て
  三都自ら異なる所あり

  京坂は美食と雖ども 鰹節の煮だしにて 是に諸白酒を加へ醤油の鹽味を加減する也 故に淡薄の中に其物の
  味ありて是を好とす

  江戸は專ら 鰹節だしに味琳酒を加へ 或は砂糖を以て代醤油を以て鹽味を付る故に 口に甘く旨しと
  雖ども 其物の味を損すに似たり
  然れども 従來の習風となり 今は味りん 或は さとうの味を加へざるを好まず 用之て 京坂の食類 更に美味
  ならずと云

  又 京坂の人は 江戸にて甘味を用ふを たるしと云て 忌之て 美食とせず
  各互 己れが馴れたるを善とし 馴ざるを不善とする

  而巳 余 大坂に生まれ 三十歳にて江戸に下り住み 今年 四十四 既に十五年を江戸に住す故に 兩地の可否を
  辦ずることを得る 必ず自己の口に合ずと云て 強て論ずること勿れ

  【諸白】もろ-はく
   掛米かけまいと麹こうじの両方に精白米を用いて醸かもした酒。江戸時代は上質の酒の総称であった。

  現在の食類は衣服と違って、身分や貧富によって差別はない。しかし、三都で異なる部分もある。
  京都と大阪は美食といえども、カツオ出汁に上質の酒を加えて塩加減を整える。ゆえに薄味で食材の味があり
  これを好む。
  江戸はカツオ出汁に味醂か砂糖を加える。醤油で塩味を付けるので、甘くて美味しい。
  とはいえ、それは食材の味を損なうのと同じ事。
  しかし、昔と違って、現在は味醂や砂糖を加える事を好まなくなった。その事で上方の味は美味しくないと言う。
  上方の人は、江戸が甘味を入れるのは甘ったるくて食べられないと言う。
  お互いに馴れた味を良いとし、馴れない味を悪いとする。
  私は大阪に30年、江戸で15年近く住むので両地の比較を論ずる資格がある。
  自分の口に合わないからと言って、偉そうに論ずる事はあってはならない。


 1803 (享和3) 年刊の滝沢馬琴の京坂旅行記『羇旅漫録きりょまんろく』巻之中には、(名古屋は巻之上、大坂は巻之下)
  京都では塩気が薄く甘い白味噌を田楽にも使っているので、江戸人の口には合わない。という事が書かれて
  あります。

  【曲亭馬琴】きょくてい‐ばきん (江戸深川の生れ、1767~1848)本名、滝沢興邦、のち解とく
   別号は蓑笠さりつ漁隠・著作堂主人など。
   江戸後期の戯作者。山東京伝に師事し、1791年(寛政3)黄表紙「尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん」を発表。
   以後、勧善懲悪を標榜、雅俗折衷の文をもって合巻ごうかん・読本よみほんを続々発表。
   代表作「椿説ちんせつ弓張月」「俊寛僧都島物語」「南総里見八犬伝」「近世説美少年録」など。

  滝沢馬琴は悪口を言う江戸ッ子気質なので、羈旅漫録で京坂の悪口を書き、西沢一鳳から大いに叱られていた。 悪口は江戸名物だった

  千葉大学 教育学部 研究紀要 古典料理の研究 黒白精味集
   上巻 http://ci.nii.ac.jp/els/contents110004715357.pdf?id=ART0007458868
   中・下巻 http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900025176/KJ00004299489.pdf


 幕末の『守貞謾稿』上巻 第五編 生業下「上燗おでん

  燗酒と菎蒻の田樂を賣る 江戸は芋の田樂も賣る也 此賈亦 大に異なるの扮なし故に略して圖せず

  熱燗とコンニャクの田楽を売る。江戸は芋の田楽も売っている。また、商売は販売スタイルが大きく
  違うので、その絵は略して描きません。

  「菎蒻=蒟蒻こんにゃく」「賣る=売る」「=商あきない」「=装よそおい」「=図」

  【上燗】じょう‐かん … ほどよくできた酒の燗。


  ≪ 関東風のおでん ≫

  1924(大正13)年創業の東京日本橋 お多幸本店では、真っ黒な汁の濃い味の「純関東風おでん」が売られています。



 
 関西の関東煮
  【関東縞】かんとん‐じま広東縞に学んだ縞柄の織物。間道かんとう。  明治時代には、残飯屋というのがあった。

  【関東焚】かんとう‐だき関東煮 かんとう‐に。 関西で、関東地方の煮込み おでんのこと。

  「かんとうだき」が促音化で略された「かんとだき」と言う人もいます。

  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『県民熱愛グルメ「愛知県民 味噌おでん」』 15.02.05 放送
  関西テレビ 胸いっぱいサミット! 『大阪の下町 各店グルメ巡り』 16.12.17  放送

  日本経済新聞 13.02.02 http://www.nikkei.com/article/DGXNASJB24041_V20C13A1AA2P00/

  関西では なぜ おでんを「関東煮」と呼ぶのか? (大阪経済部 山田和馬)

 寒風が吹くと恋しくなるのが熱々のおでん。関西では「関東煮(かんとだき)」の呼び方がなじみ深いが、おでんダネや
  味付けは関東のそれとは ちょっと違う。なぜ関東煮と呼ぶのかルーツを探り、おでんにみる食文化の違いを調べてみた。

  ≪ 関東煮の起源については、主に3つの説がある ≫

  1つは文字通り、関東地方から伝わったという説。

  辻調理師専門学校(大阪市)の日本料理研究室長、杉浦孝王さんによると、煮たり焼いたりした具にみそを塗る
  「みそ田楽」がおでんの始まり。
  今のような しょうゆで煮込む おでんになったのは、野田や銚子など関東近郊で しょうゆづくりが盛んになった
  江戸末期からという。

  具材の温めと味付けが別で手のかかる みそ田楽に比べ、おでんは煮込むだけで済む。屋台で手軽に食べられる
  軽食としてまず関東で広まり、関西にも伝わった。
  その時に「みそ田楽と区別するために関東煮と名付けたのでは」と杉浦さんはみる。






  同じ関東由来でも、伝わった時期がもっと後だったというのが2つ目の説。

  きっかけは1923年に起きた関東大震災で、関東の料理人が関西に避難したり、逆に関西の料理人が復興需要を
  当て込んで関東に進出したりした。東西料理人が行き来したおかげで割り下を使う関東風のすき焼きなども
  この時期に関西に伝わったとされる。関東煮もその1つだったというわけだ。

  だが、関西の食文化に詳しい編集プロダクション140B(大阪市)の編集責任者、江弘毅さんは「それはあり得ない」と
  真っ向から否定する。1844年創業の老舗、たこ梅が震災前から関東煮を看板に掲げていたからだ。

  最後が江戸時代に堺を訪れた中国人が食べていた煮物を起源とする説

  広東料理をもじって「広東煮」と呼ばれ、それが関東煮へと変わったとされる。
  たこ梅の5代目社長、岡田哲生さんは「堺の浜で中国人の食べていたごった煮をヒントにして、初代が作ったと
  伝わっています」と有力な手掛かりを教えてくれた。

  しかし、たこ梅開店当時の日本は鎖国で、堺への外国船入港は禁じられていたはず。
  このため岡田さんは、当時の料理本である1714年の文書「節用料理大全」に記されたタコの煮物「たこくわんとうに
  (かんとうに)」が名前の由来と考えている。

  これだけ諸説あるのは、関東煮が広く親しまれている裏返しともいえる。
  由来が何であれ、関西に根差した食文化として独自の発展を遂げた点は確かだ。

  関東のおでんとの違いは、まず味付け。

  関東が濃い口しょうゆによる やや塩辛い味付けなのに対し、関東煮は薄口しょうゆがベースで
  少し甘め。大阪や京都の料理人が上方料理の技法を持ち込み、関西人が好む味付けにしたとされる。

  鯨食が盛んだった土地柄を反映し、クジラの舌「さえずり」や皮の「コロ」をおでんダネに使うのも関東煮ならでは。
  いい味が出るとされるクジラと練り物を組み合わせ、独特の複雑な味わいのダシを生み出した。
  一般におでんはダシを沸騰させないが、うまみのしみ出たダシを次の日も使う関東煮は泡立つほど ぐつぐつ煮る。

  牛すじやタコも関東煮の主役。ダシに さっと くぐらせて食べるワカメや春菊、近年は下ごしらえしたトマトなどの
  変わり種も鍋に入る。逆に関東では人気のあるちくわぶ、はんぺんは あまり見かけない。

  俳優の森繁久弥は生前、大阪市北区の老舗「常夜燈」をひいきにし、同店の関東煮を「かんさいだき」と名付けた。
  「これはもう関西のものだとして、命名されました」と現店主の池永伸さん。コンビニ各社が全国で関西風のダシ
  使うなど、関西で育った関東煮は各地のおでん文化に影響を与えている。

  ※上記の文中に「春菊」とありますが、関西では「菊菜」と言い「春菊」より古くから使用されてきた言葉・名称です。


  テレビ朝日 食彩の王国 『焼いて揚げて"食いだおれ" ナニワのかまぼこ物語』 16.05.28 放送

  関東煮 (かんとうだき) の美味しさの秘密は、関西の天ぷら (揚げカマボコ=さつま揚げ) にもあります。
  現在のカマボコの主原料は、スケトウダラが基本。大阪の高級カマボコは鱧が主原料。
  常夜燈では、おでんに使う天ぷらは昔から鱧のみを使用し店で手づくりしています。






  「ころ」は、クジラの皮を煎り (または熱湯をかけて) 脂肪を抜いて乾燥させた加工品。関西でおでんの具として昔は
  一般的でした。近年は手に入りにくくなり、高価となったのでスーパーなどでは滅多に見かけなくなりました。
  これを薄くスライスして冷水にさらしたのが「さらし鯨」で、カラシ酢味噌か梅肉などで食べます。

  大阪市東成区の「関東煮かんとだき きくや」では2016年現在でコロは730円と超高価な一品となっています。

  番組では関東大震災後に東京の料理人がおでんを関西へ広めた。(諸説あり)としており、これが一般的に最も
  知られている説ですが、下記の本によってこの説は間違いである事を当サイトが発見しました。







  江戸の天ぷら、揚げカマボコ 関東さつま揚げ、関西天ぷらなどは、カマボコ・天ぷらのページ

  FOOD LIBRARY  OSAKA FOOD CULTURE  『おでん』と「関東煮(かんとだき)」は違うのです!』
   http://www.kuidaore-osaka.com/jp/essay/rakugo/post_15.html

  おでん屋「たこ梅」 『関東煮(かんとだき) と おでん の歴史について』  http://www.takoume.co.jp/rekishi.html

  弘化元年(1844年)、大阪 日本橋(にっぽんばし)は道頓堀筋に、岡田梅次郎が、「たこ甘露煮」と「関東煮(おでん)」
   の店を創業しました。


  ≪ 関東煮は大正時代以前から大阪にたくさんあった事が判明 ≫


 1914 (大正3) 年5月出版の『5圓までゞ出来る営業開始案内』 (社会救済会本部 編 大阪 営業紹介社 発行)
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908522

  八 「軽便西洋料理」には  ※軽便けいべん=簡単で手軽な。  原文の旧字は現代の字などに訳してあります。
  関東煮かんとうだきや すし店ではハイカレない兄連が、黒くなって白金巾の暖簾をくぐって、おいカッレッだ、
  と云う調子の要求をなすのが、新しい意味での関東煮。即ち軽便西洋料理の屋台店である。

  十一 「関東煮屋かんとうだきや
  これも多い稼業であるが、夜鳴きうどんと同じく顧客の範囲も広くて有望だ。
  …この汁は古ければ古いほど良いのだ、ナニ腐りはしないかと心配する人もあるだろうが、毎日煮ているのだが
  その心配は要らぬ、天神橋のたこ梅の鍋は もう三・四十年になるという事である。…


 すき焼きは関東大震災で関西に避難してきた関東人が持ち帰って広まったという説がありますが、 すき焼きも関西発祥

 1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)には
  P.166 「牛肉のすき焼き
  玉葱を輪切にし、ヘット (牛脂) 又はバタで炒ります。火が通ったらば取り出し、普通よりは少し厚目に切った牛肉を
  その鍋に一枚ずつ並べて入れ、ざっと炒ったらば取り出して前の玉葱と盛り合わせます。
  醤油又はソースをかけて熱いところを食べるのです。

  とあり、関西風とも微妙に違いますが、関東風の割り下を使ったものではないものが知られていたようです。
  鍋で焼きながら砂糖と醤油で味付けする方法と卵をつけて食べる事が関東大震災を機に伝わったと思われます。
  明治時代に東京で流行った牛鍋は味噌味です。

 
 ちくわぶ
  【竹輪麩】ちくわ‐ぶ
   小麦粉・水・塩を合わせて練ったものを棒などに巻きつけて加熱し、
   竹輪の形に似せて作った食品。関東などでおでん種として用いる。

  ちくわ麩は東京発祥の麩。作られた時期は明治時代以降で諸説あり。

  竹輪の代用品として、具材の増量の為に作られた物のようです。

  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文
  明治44年出版の『東京年中行事』上の巻 「納豆賣」の記述全文


  OldPhotosJapan.com 『明治・大正・昭和の古い写真・東京』 http://www.oldphotosjapan.com/ja/
   http://www.oldphotosjapan.com/ja/location/%E6%9D%B1%E4%BA%AC ↑ 日本各地で撮られた絵葉書用写真と解説

  1932~1934 (昭和7~9) 年に東京の有恒社が出版した『明治・大正・昭和歴史資料全集 災害編』P.288~315
  NHKスペシャル 『カラーでよみがえる東京 - 不死鳥都市の100年 -』 14.10.09 放送  Wiki 関東大震災

  ≪ 関東大震災 ≫

  1923年(大正12)9月1日午前11時58分に関東大震災が発生
   死者・行方不明10万5000人余、住家全半壊21万余、焼失21万余に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。
   また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生。 東京は4割が焼失する大参事。
   一説に1/4の人口が流出。

  ちなみ横浜も鎌倉も小田原も関東大震災で壊滅的な被害に遭いますが、当時の大阪朝日新聞の記事によれば、
  横浜港に停泊中だった大阪商船の3隻 (伊太利丸・ぱりい丸・はるびん丸) が、約5000人の横浜市民を救助。
  この際に乗組員1人が波にさらわれ行方不明に。
  横浜から「…飲料水なく危機に瀕しつつあり」との救助要請の無線電報を受け取った九月二日に大阪府知事が即時に
  救援艦の派遣を指示しています。
  九月三日には政府の内務次官から大阪と兵庫に被災者救援の非常徴発令の発布の無線電信を送っています。
  軍では佐世保・呉などの西日本の海軍鎮守府などから救援物資を積んで横須賀へ軍艦が出向しています。






  明治時代に東京に滞在したフランス人画家フェリックス・レガメ
   日本人のほほえみは無償で与えられるものなのだ。それは全ての礼儀の基本になっていて、どんなに耐え難く悲しい
    状況であってもほほえみを浮かべるのである。






  駐日フランス大使ポール・クローデルが書き残した東京の様子
   被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした期間。私は不平の声一つ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける
    感情の爆発で、周りの人を煩わせたり、迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように、
    人々は皆じっと静かにしているようだった。

  この年、流行した復興節
   う~ちは焼けても江戸っ子の~ 意気は消え~ない見ておくれ アラま~ コリャま~ たちまち並んだバラ~ックに~
     夜よ~るは寝~ながら お月さま 眺な~がめて エーゾ エーゾ 帝都て~いと復興 エーゾ エーゾ

  東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活と後藤新平  2005~2014年 10年間の企業転出超過ワースト1は東京都


  おでん研究家のつれづれ ちくわぶの由来、ちくわぶ擁護論 http://www.odengaku.net/blog/archives/2012/11/post_154.html
  フォトグラファー&ライター 比較食文化研究家 新井由己(あらい よしみ)さん のブログ より

  ≪ 東京のローカルフード ちくわぶ ≫

 『散歩の達人』11月号にちくわぶ特集があるのを知り、ようやく買ってきました。「東京下町のソウルフード ちくわぶ、
  好き?」という6Pの特集で、最初の見開きでちくわぶに対するいろんな人のコメントが出ていて、なかなか楽しめました。

  「おでんはご飯のおかずになる?ならない?」と同じく、「ちくわぶ、好き?嫌い?」というのは、数少ないおでんの論争
  ネタなのです。

   お店紹介は、浅草「大多福」、神田「尾張家」、砂町「増英蒲鉾店」、蒲田「勘蔵」で、セブン-イレブンにもちくわぶの
  取り扱いをインタビューしています。
  そして、ちくわぶ製造では知る人ぞ知る赤羽の「川口屋」に赴き、製造工程も紹介しています。
  そういえば、『食楽』(徳間書店)の創刊準備号でも、川口屋さんを取材していました。

  関西の生麩は関東煮には入れません

  関東大震災のときに関西から来た人たちの炊きだしで「関東煮」が提供されました。そのときに「あちらでは欠かせない
  生麩がなかったため、小麦粉で代用したものが後にちくわぶになった」とのこと。






  最近の薄味おでんに入れるお店を見たことがありますが、当時の甘辛の関東煮に生麩を入れたという話は聞いた
  ことがありませんし、生麩は高級食材ですから、おでんに使われていたという説も一般的ではありません。

 
  ちくわぶと白竹輪の関係

  落語の「時そば」の中に「チクワではなく『まがい物の麩』が登場する」とありますが、微妙に違っています。
  実際は蕎麦屋を褒めちぎる一節の中で「他のところではちくわぶを使っているのに、ここのそばはちゃんと竹輪を
  使っているねぇ」とあるのです。
  「ちくわぶではなく『本物の竹輪』が登場する」というのが正しいですね。

  この話を受けて、浅草の「大多福」五代目・船大工栄さんが、その竹輪は「白竹輪」だと説明しています。
  さて、ここで登場した「本物の竹輪(白竹輪)」とは何でしょうか?

  江戸時代の練り製品は、蒲鉾と白竹輪、はんぺんすじ4種類でした。
  蒲鉾の二番肉で白竹輪を作り、はんぺんの残り肉(サメの軟骨等)ですじを作りました。つまり、ちくわぶの元になった
  のは「白竹輪」なのです。白竹輪はちくわぶと同じようにギザギザの形をしており、おそらく明治時代から大正時代に
  かけて、白竹輪の代用品として小麦粉を使って作ったのでしょう。
  落語にあるように、蕎麦にも入っていたようですし、すき焼きや煮物など、家庭料理でも欠かせない具材(主に増量のため)
  だったようです。

   その後、記事では本郷の「呑喜」にも足を運び、「ちくわぶ」がなかったと書いています。でも、呑喜には「ちくわぶ」の
  元になった「白竹輪」があったはずです。
  呑喜さんは基本的にマスコミ取材はNGなので、きっとあまり詳しい話は聞けなかったのでしょう。
  ところで、たまたま検索して見つけた以下の記事で、マッキー牧元さんが呑喜で食べた「ちくわぶ」は、本物の白竹輪
  だったように思います。

   ちくわぶ擁護論

  ちくわぶは、東京を中心に、埼玉と神奈川と千葉の一部でしか普及していないものですが、東京の人でも好き嫌いが
  はっきりして、論争になります。
  以前、僕はちくわぶ嫌いでしたが、「お多幸本店」で下ごしらえの方法を教わってから好きになり、「ちくわぶ擁護派」に
  転向しました (笑。嫌いな人は、本当のちくわぶを食べたことがないんだと思います。)

  ちくわぶは、下ゆでして使わない人がほとんどなので、そのポテンシャルが発揮されてなく、誤解されたまま目の敵に
  されている不遇なおでん種です。これは、声を大にして言いたい!
  沸騰したお湯でぷくっとふくらむまで茹でると、粉っぽさが抜けてもちもち感がアップするんです。

  おでんはつゆを煮立たせてはいけないという鉄則があり、コトコトした鍋に下ゆでしないちくわぶを入れると、中心に
  芯が残って粉っぽくもさもさになります(それが好きという人もいる)。

  ちなみに、すき焼きにちくわぶを入れるとうまいです。そのほか様々な具の替わりとしてとして使われてきました。
  おでんに限らず、もっと活用されていい食材だと思います。特に濃いめの味付けには合います。

  先日、「ちくわぶ料理研究家」がいるのを知り、「関西人にちくわぶをうまいと言わせる会」(いま作った)会長を名のる
  ことにしました。
  大阪のテレビに出ると「ちくわぶなんて、人間の喰うモンやないでっ!」と生放送で言われて完全にアウェイになります。
  でも吉本芸人を「お多幸本店」に連れて行って「うまい」と言わせた実績があります。

   みなさん「ちくわぶ」は必ず下ゆでしてから使いましょう!


  ※ 関東大震災の真実 横浜で日本軍 と 不逞 在日朝鮮人集団 との戦闘があった。詳しくは下記リンク先で。(必見)
    日本の現在(危ない日本) 『関東大震災の朝鮮人』 http://ccce.web.fc2.com/sinnsai.html  / Wiki 関東大震災


  フジテレビ 林修の日本ドリル 『寒い冬に食べたいお鍋の名店 「おでんは関東大震災で全国に広まった!?』 19.02.06 放送

  ≪ 東京のおでんが全国に広まったきっかけ ≫ ← 東京人の願望だっぷりの妄想説

  フジテレビの番組ナレーションによると、
  「…江戸時代中期に濃口醤油が登場した事で格段に進化。こうしておでんは江戸っ子たちにたちまち人気になっていった
  と言われています。しかし全国的に今の煮込みおでんが食べられるようになったのは広がったのは実は大正以降なんです」

  林修さんおでんが全国に広まったきっかけとされるある出来事とは大正12年1923年に起きた関東大震災。
  震災後、全国各地から全国各地から復興支援のために人々が東京に集まってきました。その人々に対して江戸っ子は
  ですね、当時自分たちが食糧難だったにも関わらず、みんなに感謝の気持ちを伝えたいという事でおでんを振る舞ったと
  言われております。その美味しさと手軽さに感動した復興支援者が各地の地元に持ち帰ったと。
  それで全国にこの煮込むタイプのおでんが一気に広まったと言われております。

  江戸っ子の気っ風ぷの良さって言うんですか、自分たちが災害に遭っているいるのに、それでもお返しする気持ちが
  なかったら、今のおでんはどうなっていたんでしょうね

  勿論、江戸ッ子が振る舞ったという証拠などは一切示さない、いつもの東京を良く見せたい願望の御都合解釈です。
  江戸ッ子の実態を記した文献では広く流布されてきた良いイメージとは全く異なっています。

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?






  1932~1934 (昭和7~9) 年に東京の有恒社が出版した『明治・大正・昭和歴史資料全集 災害編』P.288~315
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920427/150

  9月3日、東京・横浜で第一に困難になっているのは糧食と飲料水の欠如。

  9月2日午前に食料品を携帯しないも者の入京させないとする厳戒令が東京市に発布。
  3日には食料携帯の有無に関わらず何人たりとも入京させないという厳戒令を発布する事を決定し、駆けつけた数万人の
  人は涙を呑んで引き返した。とあります。
  食料品と飲料水は徴発令により、隣村・東北。大阪・名古屋方面より軍艦及び商船で輸送し3日に到着予定
  3日に佐世保海軍鎮守府より横須賀へ向けて食料や毛布などを積んだ救援艦の利根が出航。
  4日には練習艦隊の磐手・浅間・八雲・吾妻・出雲の5隻が東京へ向けて出航しています。
  呉鎮守府からは駆逐艦の扶桑・平戸などが糧食や医薬品を積んで出航。
  駆逐艦の谷風・江風は大阪経由で食料・医療品と救護隊を積んで関東へ向かっています。
  神奈川では横浜・横須賀・鎌倉・小田原までがほぼ全滅に近い状態であった事も記録されています。

  東京・神奈川の被災地では、現地の被災者の人たちが食料や飲料水を自由にできる事はありません。
  被災者である江戸っ子がおでんを振る舞うなんて事は物理的に無理なのです。

  上記大正時代以前から大阪にたくさんあった事が判明で示しているように、明治時代の大阪には関東煮の店が
  多数ありました。

  これらを踏まえると、関西から炊き出しに行って振る舞った「関東煮」(東京の人たちの味覚に合わせるように
  「関東風おでん」を提供した可能性も高いと考えられます。) が、全国的に広まるきっかけとなったと考えるのが普通です。

  この番組の林修さんの解説には他にもツッコミ所がいくつかありました。東京発信の情報には必ずと言ってよいほど
  関東人の願望妄想による歴史や事実歪曲・ステマなどが含まれていますので、鵜呑みにしないようにしましょう。


  NHK チコちゃんに叱られる 『おでんの「でん」は豆腐』 20.02.07 放送

  この番組では郷土料理に詳しい料理研究家の渡辺あきこ (東京在住) さんが「おでん」の歴史を解説。
  東京の煮込みおでんが大正時代に大阪に伝わったとしていますが、大正時代以前から大阪にたくさんあった事が判明
  しています。






  関西では焼き田楽と区別するために、東京の煮込みおでん=関東煮かんとうだきと呼ばれるようになりました。
  関東煮は、大阪で昆布ダシを使った薄めの味と、タコや牛筋、クジラの舌などが加わり関西で大人気に。
  関東大震災で関東の料理店も大きなダメージを受けました。関西の料理人が関東に集まり炊き出しのボランティアで
  ふるまったのが、関西風にアレンジされた関東煮。つまり私たちがイメージするダシベースのおでんだったのです。
  震災によって疲弊しきった人たちの心と体を温めたのです。






  この事によってダシベースのおでんが関東に広まり、おでんは全国へと広まりました。

  クジラの舌は「さえずり」と呼ばれますが、肉量が多くないので当時もあまり出回っていないと思います。
  一般的に使われているのは「コロ」(油を搾った皮の部分です。この部分は薄くスライスされ「さらしクジラ」として酢味噌
  で食べます。) 牛筋が大正時代におでん使われるようになったかは微妙。


  テレビ大阪 和風総本家 『密着! 東京下町24時 2017年春』 17.04.06 放送

  和風総本家によると、「諸説あり」とのテロップがありますが、ナレーションでは『戦後すぐ、魚の摺り身が高価だった頃、
  昭和20年の東京の闇市で竹輪の代用品として作られたのが始まり』と言っていました。






  昭和7年創業の川口屋では50年前から竹輪麩作りを始め、昔ながらの小麦粉と塩水のみの原料で作っています。
  ローラーで何度も生地を伸ばす行程を繰り返す事でグルテンが結合し生地のコシ生まれ、食感を大切にする為に、
  伸ばしても切れない状態に仕上げるのが大切。
  鉄の棒に2回転半ほど生地を巻き付け、型に入れ熱湯で25分茹で上げます。

  竹輪麩の形は、すだれを使用して作っていた時の名残り。


  ≪ ちくわ麩が作られたのは明治時代初期~中期の可能性 ≫ ←当サイト管理人の個人的な推測です。

  明治初期~30年代、東京へ鮮魚を供給していた静岡・神奈川・千葉の漁獲量が激減しているデータが残っているそう
  なので、「ちくわぶ」はこの頃に作られた可能性もあります。しかし明治後期には漁獲量が豊富になるので普及しなかった。


  明治44年に執筆&出版された『東京年中行事上の巻 P.309~311の「おでん屋」の記述原文

  日が暮れると、方々の辻々の隅の方に小さくなつて、汚い暖簾を垂れたおでん屋が店を張る。幾ら少ちいさ
  つても一區の中うちに七つ八つはあり、多い區となると三十臺だい四十臺は受合つて陣を張り、少しく立込んだ
  淺草藏前の桃太郎で有る。方々に在るのは皆 其 支店分店で有つて、丁度十二軒ある。
  ところになると、四五臺の店がズラリと列をなして、而しかも相應そうおうのお客を呼んで居る。お客と云つても
  必ずしも車夫や職人の連中ばかりでなく、中には本當ほんとうの燗酒の味は立食いでなければ分からぬとあつて、
  ひげの生へた連中や尻端折つた書生連にみ歡迎かんげいされて居る。

  處でこの硝子行燈に朱字でおでん燗酒と記して有る屋臺やたい店の食ひものと云へば、大概茶飯と燗酒で有るが、
  中には看板のおでんの外ほかに菜びたし、奈良漬、酢章魚すだこ、はしらの三杯酢、しやこや、烏賊いかの煮付と
  云ふやうなものまで備へてるものも有るが、それでも値段は、一皿二三錢から六七錢位の代物が多い。
  おでんと云ふのは勿論大きな鍋の中に、すぢ、蒲鉾、燒豆腐、蒟蒻、はんぺん、竹輪、がんもどき、里芋と云ふ
  やうなものが、古いほどがいゝと云ふ甘さうな露の中に熱々と煮しめて有るのを云ふので有つて、側を通つても
  いつも一寸ちょっと人を引つけるやうな香が鼻を襲ふ。小僧なんどが熱い熱い火氣ほけの立つのを、フゥフゥと
  吹きながら囓つて居る處などを見ると、本當に甘さうな心地がするもので有る。

  此麼こんな屋臺店は夕暮から大抵は夜半よなかの一時二時頃まで店を張り居るので有るが、あれで少くとも六七
  十錢多きは二圓内外は實入みいりが有ると云ひ、廓くるわの中なんどに店を張つたものになると、大抵が一晩に
  少くも三四圓の収入はあること疑ないと云ふことで有る。尤もっとも廓の中に店を張らうとするには、規定として
  最初に五六圓乃至ないしは百圓餘あまりの金を出して其権利を買はねばならぬことになつて居るので、資本のない
  ものには一寸六ヶ゚敷い仕事で有る。それは兎に角に此商賣にも勿論季節と云ふことが大おおいに關係かんけいする
  もので有つて、本當に實入のあるものは矢張寒い内のことで有ると云ふ。

  「一寸六ヶ゚敷い=ちょっと難しい」

  明治末期の安い屋台のおでん屋にも竹輪が使われていた事が分かります。
  ただ、下記リンクサイトによると、明治になると末期になるまで、関東での魚の入荷事情は良くなかったみたいです。

  日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県)  芝恒男 名誉教授・農学博士
   http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf

  明治初期には製氷会社が作られており、鮮魚の流通事情は格段に良くなりますが、静岡・神奈川・千葉の3県の
  漁獲量が減ります。逆に東京の人口は急増していった為、東京では鮮魚が入手しづらくなったようです。
  1905 (明治38) 年に石油発動機付き鮮魚運搬船が初めて建造されたりして、1909年以降に漁獲量が増加します。
  農水省統計の明治大正期の漁獲量(日本全体か関東だけかは不明)の表では、1910年から右肩上がりで急増して
  います。


  クラーク日記 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948265

  1916 (大正5) 年出版の『クラーク日記』(実業山人 著、東京神田 佐藤出版部)
   この本は前書きの内容から、佐藤出版部というビジネス書の出版を手掛ける会社が架空で「数人のクラーク clerk
   (店員) の日記」の体裁で社会風刺をした本のようです。

  第八 内々日記 H敷物商店小僧 銀蔵 十一月一日 P.104~105
   ≪一≫ 日本式おでんの立食い
  …夜十一時店を了しもうてから、松どんと湯に行き、帰りに菊屋の横で、おでんの立ち食いと言うと下品だが、日本式
  立食の饗応に預かる。芋、雁擬、筋、蒟蒻、竹輪と一通やってみたが、雁擬に竹輪が一番旨かった。…

  大正5年の安い立ち食いの店 (屋台?) でも竹輪がある事が分かります。


 テレビ東京 所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ ! 14.01.12 放送

  ≪ 「ちくわぶ」が関西では受け入れられない理由 ≫  日本各地の水の硬度

  番組によると、「ちくわぶ」は東京、神奈川、埼玉、千葉、栃木、茨城でも おでんの定番5品に入っているそうです。
  (上のブログと異なるけど?)
  関東はカツオ節で、旨味成分はイノシン酸。関西は昆布だしで旨味成分はグルタミン酸。
  グルタミン酸はちくわぶには浸透しにくいから。との事。






  【グルタミン酸】
   蛋白質を構成するアミノ酸の一つ。白色結晶。水に溶け、旨みがある。
   グルタミン酸のナトリウム塩は昆布の旨みを形成するもので、調味料としても製造される。

  【イノシン酸】(inosinic acid)
   ヌクレオチドの一種。
   イノシン酸ナトリウム(ナトリウム塩)は、鰹節に似た独特な味の、無色または白色の結晶で、調味料として製造もされる。


  では、関西以外の地方、東北や同じダシである関東の群馬県でも受け入れられて
  いないのは、何故なのでしょう ?という所も調査すべきです。

  出汁文化を完成させたのは、江戸時代の大坂。関西 (特に大阪と京都) はカツオと
  昆布の合せ出汁が基本となっています。

  日本各地に様々な麩があります。
  株式会社いとふ|麩の歴史 http://www.itofu.jp/history/index.html

  現在では、金沢の麩が有名ですが、江戸時代中期から関西では様々な麩があり、
  関西では京都で生産する麩が最良とされており竹輪の代用品として造られた
  ような麩を、また関西は昔から食材が豊富なので、わざわざ用いる必要はありません。
  



 1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著は、内容などから大坂で書かれた物と推測します。
  麩部には「ちまきふ」「酒麩」「味噌煮麩方」「油上麩」「常の麩」の記述があります。

  「常の麩」には「金地院油上げ」の記述があります。

  【金地院】こんちいん ① 京都南禅寺の塔頭。 ② 駿府の寺。


 1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』(著者は大坂の御城入り医師 寺島良安、出版地は大坂)
  巻の百五 「造醸」の「」では、「京都でつくるものが最良」と書かれてあります。


  東京がちくわぶを持ち上げるのは何故でしょうか? 「関西人に関東の食文化を見下されるのが嫌だから」という理由
  なら止めた方がいいでしょう。東京でも好き嫌いがあると言われる「ちくわ麩」が全国的に普及する可能性は低いです。

  「関東の歴史が浅いから」「関東の文化が劣っているから」という事より、「関東は歴史やデータを歪曲したりねつ造
  したりして、他県を悪く言ったりする」事こそが見下される原因であることに気付くべきでしょう。

  江戸の名物は悪口 三田村鳶魚の江戸ッ子評の記述文。 西沢一鳳『皇都午睡』などの三都の気質記述文など、 江戸時代から現在も変わらない?
  「関西は薄味というが、関東より塩分とってるだろ !! 」という 日テレの主張を検証してみた件
  月曜から夜ふかし 歴史も恥も知らない日テレ・スタッフ、またも嘘報道    東京近郊の関東の歴史
   こちらのページでは東京の偏向報道や嘘、パクリの実体がわかるページへのリンクがあります。
  江戸の火事の真実  江戸の歴史は 大正時代にねじ曲げられた ~ 時代劇で見る 江戸の町は嘘ばっかり!~
  お江戸の恋愛事情 大坂の文化が江戸文化のように扱われている証拠。「月曜から夜ふかし」の大阪下げの嘘。
  江戸は屍臭と小便臭が漂う日本一の激臭Cityだった 糞尿処理、文献による考察から、京・大坂が最も清潔だった
  東京名物の塵土(ほこり) 明治44年出版の東京年中行事の原文、埃にまみれた屋台で飲食するので、衛生観念がない事が記述されています。
  東京 大正時代の関東大震災後の帝都復活、それまでは欠陥都市と言われた
  1950年代の東京 川にゴミを捨て、汚れた川で食器や野菜を洗っていました。
  整列乗車は東京の地下鉄が最初 その自慢できない背景とは。
  東京メディアの偏向報道 今や関東発信の情報は疑えというのが常識。嘘、ねつ造、紛らわしい東京発信情報。
  還付金詐欺に弱いのは本当に大阪だけ ? 実は平成24年度のデータだと、東京の「還付金詐欺」の被害件数は大阪の4倍という事実。
  東京湾の実態 千葉県の江戸川水系ヤバすぎ。日本一汚いのは綾瀬川。セシウムだけじゃなく、韓国と同じような糞尿性大腸菌だらけの海だった。
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  東京の蕎麦屋の衝撃的?な真実が判明 「生そば」の文字に意味はない?

  ウィキペディアなどネットでも嘘やねつ造を平気で書き込む東京人 韓国人のような事は止めましょう!!
  刺身・お造りの歴史 刺身は室町時代 「指身」「差身」「打ち身」など違いウィキペディアの「刺身」での記述の間違いを発見
  野沢菜・広島菜のルーツは天王寺蕪 ウィキペディアの否定説を検証
  蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見!! カマボコの歴史。紀文のサイトにも嘘
  東京都台東区浅草の鷲神社の由来 他の歴史を自社の歴史のように思わせている件、堺の大鳥神社との関係
  関東の藤原氏の重要神宮 中臣 (藤原) 氏の関東発祥説は嘘、中臣氏の先祖神を最初に祀ったのは東大阪の牧岡大社
  浅草寺の創建 創建年と創建者が判明 (文献記述発見)
  長命寺桜餅の発祥年が怪しい 嬉遊笑覧によると1800年代か100年のサバ読み?
  浅草名物の登場年数も通説と違う記述を発見 紅梅焼き・雷おこしも明治初期の登場か?


  ≪ 昭和初期の東京・浅草のおでん屋 ≫  東京は飯がマズい所で有名だった 特に浅草


 1933 (昭和) 8年に出版の『浅草経済学』 石角春之助 著 (浅草通を自称)、文人社 (東京市浅草区) 出版
   http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463949
  この書を読めば、当時の東京の有数の繁華街であり、江戸の伝統を残す浅草の食文化などを知ることができます。
  「東京ッ子」を自称する人は、読んでおくべき一冊でしょう。

  第三章 浅草食堂経済組織の変遷 第八、浅草におけるおでん屋と焼鳥屋
   (二) 浅草で定評のあるおでん屋 P.220~

  浅草におけるおでん屋は、吉原界隈まで入れると、無量、百軒近くになるであろう。…
  これを大別すると、第一が料理本位であり、第二が特徴を有する店で、第三がエロサービス本位の店となる。
  ここでは料理本位を持って立つ評判のある店を選んで、其の一二を紹介する事にする。

  ・大阪に本店を有する「お多ふく」は千束に支店を数十年前に開業 (つまり大正時代)、狭い店だが満員続きで、
  昔から文士や書家などのインテリや下町讃美者など食通の常連が多い。
  ・馬道五丁目にある「丸太ごうし」は震災直後にできた店で、浅草のおでん屋としてはかなり古い方。
  ・雷門の「多古中」は定評のある店だが騒がしく落ち着きがない。赤い小田原提灯がある。浅草に来るとここに
  来ないと帰れないという信者のような者もいる。浅草では一流のおでん。

 
 関東風と関西風のおでんレシピ
   味の素 「おでんレシピ」 
   http://park.ajinomoto.co.jp/recipe/corner/standard/oden?search_word=%E3%81%8A%E3%81%A7%E3%82%93#special11800



  味の素(東京の企業)のレシピだと、関東風おでんの方が、塩分が0.1g 多い

  ニッスイHP 「おでん レシピ」 http://www.nissui.co.jp/recipe/item/00195.html




 キッコーマンや紀文などもニッスイのレシピと
 似ていますので
 ニッスイのレシピで見てみましょう。

 関東風おでん】
 エネルギー 551Kcal 塩分 5.2g

 関西風おでん】
 エネルギー 549Kcal 塩分 5.4g

 このレシピでは
 関西の方が塩分0.2g多い

 しかし、レシピ画像左下の塩の量を確認。

 関東は適宜てきぎ・・・適当、お好みで。
 関西は小さじ1/3 (2g) と明記。


 【スプーン1杯の塩の重さ】



 関東風のおでんのレシピの塩分5.2g の中に
 塩 (適宜) は含まれているのでしょうか?
 含まれているなら、何gを想定しているのか?
 という疑問が出てきます。

 東西の差は、わずか 0.2g
 関西の塩小さじ1/3は 2.0g
 1人当り
 全体が5.4g中、塩1.0gの割合は大きい。

 関東レシピだと、塩を少量加えたら、
 関西より塩分が増える可能性
 が高い。

  キッコーマン HP 「ホーム・クッキング レシピ おでん」
   http://www.kikkoman.co.jp/homecook/search/select_search.html? (URL略)
  紀文 HP 「おでん教室 基礎」 http://www.kibun.co.jp/knowledge/oden/basics/howto/

  具は現在は日本各地で様々な物が入手可能であり、上記の具はそれぞれ伝統的または一般的に食べられている物
  ばかりではありません。
  いずれも顆粒だしを使用していますので、関東と関西の本来の味の違いではありません。
  上記は全て関東企業による「おでんレシピ」であり、関東人が想像する「関西おでん」は多分こんな感じという程度のレシピ。


  NHK Eテレ すイエんサー 『寒~い頃には やっぱり焼きいもとおでん スペシャル』 13.11.30 放送

  ≪ 簡単 味が浸み込んだ おでん大根の作り方 ~ NHKすイエんサー流 ~ ≫

  ① 皮をむいた大根を厚さ2㎝の輪切りにする。角を薄くそぐ面取りをする事で煮崩れを防ぐ。
    両面に十字の切れ込みを入れる (隠し包丁)。

  ② 水600mlに、塩15gを入れた塩水に大根を入れて30分煮る。(根菜は水の状態から、葉野菜は沸騰させた状態から
    煮るのが基本) ポイント・・・落とし蓋をする。落とし蓋が無い時はアルミホイルで代用できます。






  ③ ダシ汁にしょうゆ、みりんなどで味付けした汁で30分煮る。






  ④ 煮込んだ後、いったん冷ます事で、大根に味が滲みる。常温で1時間ほど冷ます。食べる時に温めなおす。
    ポイント・・・凍り水を用意し、煮込んだ鍋ごと10分ほど冷ます方法の方が、常温の時より味がよく浸み込んだ。
    ↑ 番組の実験による。






  ※ 下茹では 塩水ではなく、米の研ぎ汁などを入れて臭味を取るのが一般的なようです。

   白ごはん.com 『おでんの具の下ごしらえと、おでんのだし(つゆ)のレシピ/作り方』 http://www.sirogohan.com/odengu.html
 
 全国のおでんMAP
  ロケットニュース24 2011.12.28  http://rocketnews24.com/2011/12/28/166982/

  ≪ 日本全国おでんマップが面白い / 北海道には「マフラー」が入ってる ≫



   おでんマップは、1999年 練り物食品メーカーの「紀文」が紀文鍋白書で公開。
  北海道の「マフラー」と呼ばれる食材はさつま揚げの事。

  ※ ロケットニュース24のサイトには、雑煮の全国分布をわかり易く紹介している地図 などの記事もあります。

  テレビ東京 所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ ! 『冬限定の激ウマおでん !』 14.01.12 放送
  TBC東北放送 サンドのこれが東北魂だ『 ニッポン全国! アツいぜ! おでん 三陸 石巻より愛をこめて』 19.01.27 放送
  NHK チコちゃんに叱られる 『おでんの「でん」は豆腐』 20.02.07 放送








  各県庁所在地にあるおでん店を10軒ランダムに選び「定番の5品」を調査した結果。(番組によると)
  47都道府県全てで「大根」は定番。 46都道府県で「たまご」。 44都道府県で「こんにゃく」の順。
  残りの定番2品は各地方により異なるという結果。

  関東 (ブルーの地域) では、「白はんぺん」と「ちくわぶ」。 西日本 (ピンクの地域) では、「牛すじ」と「厚揚げ」が定番。

  北海道 「じゃがいも」と「がんも」、秋田県 「豆腐」「がんも」、岩手県 「豆腐」「つくね」、山形県 「牛すじ」「つみれ」

  青森県 「ツブ貝」「大角天」・・・生姜みそを付けて食べる ねっとりとした甘い さつま揚げ風天ぷら だそうです。

  宮城県 「牛すじ」「がんも」、福島県 「豆腐」「しらたき」、新潟県 「豆腐」「里芋」、群馬県 「白はんぺん」「しらたき」

  富山県 「すすたけ」「豆腐」、長野県 「白はんぺん」「がんも」、山梨県 「がんも」「厚揚げ」、岐阜県 「牛すじ」「ちくわ」

  静岡県 「信田巻き」「黒はんぺん」、石川県の金沢おでん

青森県 大角天

福島県のみそ田楽

博多おでん 餃子巻

長崎の餃子巻き


  愛知県 「はんぺん」「豆腐」、名古屋おでん兵庫県の姫路おでん

  滋賀県 「牛すじ」「ごぼう天」、奈良県 「ごぼう天」「厚揚げ」、徳島県 「じゃがいも」「厚揚げ」

  愛媛県 「牛すじ」「豆腐」、鳥取県 「牛すじ」「豆腐」、島根県 「春菊」「豆腐」、山口県 「ごぼう天」「厚揚げ」

  長崎県 「餃子巻き」・・・魚のすり身の天ぷらの中にギョーザが入ったもの。「厚揚げ」

  熊本県 「馬すじ」「厚揚げ」、沖縄県 「豚足」「昆布」

  「餃子巻」は福岡県の平和蒲鉾店の御手洗政信さんによると、お弁当のオカズとして考えた物。いつの間にかおでんに
  使われてるようになって広まったのだそうです。







  ≪ コンビニおでんが最も売れているのは沖縄県 ≫

  全国47都道府県に展開するファミリーマートでは、最もおでんが売れているのは沖縄県だそうです。
  沖縄ファミリーマートの岸本国也さんによると、「沖縄という地域は汁が好きで、汁を飲む感覚でおでんを買う方もいらっ
  しゃいます。」
  カツオ出汁(沖縄がカツオ節の消費量日本一)で、てびち(豚足)や豚のソーキ(あばら肉)が定番。※ 沖縄は硬水地域です。
  またソーセージが欠かせない具になっているそうです。

静岡の黒はんぺん

熊本の馬すじ

沖縄おでん

沖縄のてびち (豚足)


  【薩摩揚げ】さつま‐あげ
   (江戸で初め、「薩摩のつけ揚げ」と称し、上方では「てんぷら」と呼んだ)
   すり身にした魚肉に、食塩・砂糖・小麦粉などを加え、適当な形にして油で揚げたもの。
   野菜や銀杏・うずら卵などを混ぜ込んだり、芯にして巻いたり包んだりすることもある。

  【半片】はん‐ぺん 「半平」とも書く。 はんぺい。半弁はんべんはべん
   一説に、駿河国 (静岡県の中央部) の料理人半平の創製による名という。
   魚のすり身にヤマノイモなどを加え、半月形・方形などに作ってゆでたもの。

  ハンペンの静岡発祥説は疑問 ハンペンは鶏肉などでも作られていました
 


  『守貞漫稿下巻 【第二十八編食類】の「半平」の記述

  はんぺいは蒲鉾と同く 磨肉也 椀の葢等を以て製之 葢半分に肉を量り 故に半圓形なるを以て名とす
  京坂にては半平を胡麻油揚げとなし號けて てんぷらと云 油を用ひざるを半平と云也

  江戸には此 天麩羅なし 他の魚肉海老等に小麥粉をねり ころも とし 油揚げにしたるを 天ぷらと云也
  此 天麩羅 京坂になし 有之は つけあげと云

  江戸の半平は半圓と方形とに種あり 半圓を半月と云 昔は半げつを專とし 近年は角形を專とす 蒲鉾よりは
  米粉等 多く加へて粗制多し

  「=ふた」「=円」「=麦」「=号、ごう、よびな → この場合は「名付けて」の意味」
  「粗製・粗制=簡単に作った粗末な製品」 精製=手間をかけた良い製品」


  『守貞漫稿下巻 【第二十八編食類】の「摘入」の記述

  つみいれ 京坂に無之 或人云 昔は「うけいれ」と云 鯛肉をすりて小梅實の形に製す 冬は味噌汁に入之て
  みぞれの吸物と云と也

  今製 江戸にては半平と同品の魚肉也 四季ともに味噌汁に用之 粗製の膳に用ふる也
  大坂にては鱧肉をすりて製之 多くは自制也 號けて「はものすりみ」と云 味噌汁及び小芋と醤油煮にすることあり

  「=実」


  また『守貞漫稿下巻 【第二十八編食類】の「天麩羅」の記述

  京坂の天ぷらは前に云る如く半平の油揚を云 江戸の天麩羅は あなご 芝ゑび こはだ 貝の柱 するめ
  右の類 惣て魚類に温飩粉をゆるくときて ころもとなし而 後に油揚にしたるを云 菜疏の油揚は江戸にても
  てんぷらと云ず あげものと云也

  「=うとんじる」「=しょ、そ、あおもの」なので、守貞又は出版での文字間違いと思います。
  他の記述文では「菜蔬」と出てきます。

  「魚介類を油で揚げたもの=天麩羅」、「野菜類を油で揚げたもの=揚げ物」。

  蒸しカマボコ 蒸し蒲鉾の歴史が100年以上早まった。(大坂発祥の可能性が高い) 当サイトが文献レシピを発見!!


 1917 (大正6) 年出版の『三百六十五日のお惣菜』(櫻井女塾長 櫻井ちか子 著、東京 正教社 出版)には
  「はんぺんの薄葛」の作り方が載っています。

 
 おでんの「スジ」と言えば
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『食の方言は語る ! 関西食べ物ミステリー』 14.06.05 放送
  関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 『関西の境界線を大調査SP』 17.12.05 放送

  ≪ 「スジ」は関西と関東では全く違う。 「牛スジ」派が多数派 ≫

  Jタウンネット 大阪府 『「関東流」は地元でも絶滅寸前? おでんの「スジ」といえば牛か魚か』
  15.02.26 配信 http://j-town.net/osaka/research/results/201209.html

 Jタウン研究所では、「おでんの「スジ」といえば...牛、魚、どっち?」という、
  アンケート調査を都道府県別で行った(総投票数867票、2015年2月4日~2月25日)。

  その結果は驚くべきものだった。牛が766票、88.4%、魚は94票、10.8%、
  その他が7票、0.8%。結果が、この円グラフだ。
  「牛」派が圧倒的多数で、「魚」派はわずか1割ほどを占めているにすぎない。
  スジといえば「魚」だった筆者にとっては、正直予想外の結果だった。
  「魚」派率が高いのは、関東。全国を制覇した「牛」勢力圏。








 【筋蒲鉾】すじ-かまぼこ
  魚の筋・皮などを身に混ぜて作った粗製そせい (粗末な作り方) をしたカマボコ。
  江戸時代の魚の練り物は一番良い所をカマボコに、二番目が竹輪、次にはんぺん、最後の余り物でスジを作ります。

 【牛スジ】
  筋肉きんにくと骨をつないでいる部分で、主にアキレス腱をさす筋肉すじにくの事。
  元々は日本では食用にはされなかった部分。





  大阪樟蔭女子大学の田中愛子 教授によると、
  牛すじを食べる文化が日本にはなくて、韓国では昔から牛肉をいろんな風に食べており、在日朝鮮人らが大阪市
  生野区のコリアンタウンなどで、おでんに牛すじを入れたのが始まり。だそうです。

  ホルモン焼きなども生野区のコリアンタウンが発祥とも言われていますが、どちらも第二次大戦後の事です。
  ただし「韓国では昔から牛肉をいろんな風に食べる」という部分には疑問が残ります。
  日本併合前の朝鮮では非常に文化レベルが低く、日常で現在のような牛肉の食べ方はしていなかった。
  江戸時代の『和漢三才図会』では、中国人と朝鮮人は豚肉を好むような事が書かれてあります。に原文。

  貧しかった在日朝鮮人らが日本人が食べない部分を工夫して食べるようにしており、戦後の食糧難で日本人も
  食べるようになったが、安くて美味しかったので牛肉文化の西日本を中心として日本全体に広まったと思われます。






  大阪発祥の牛スジ。関西テレビ ちゃちゃ入れマンデー 17.12.05放送でJR主要各駅付近のおでん屋で調査した結果。
  愛知県の三河安城駅~静岡県掛川駅の区間では、置いていた事もあるが現在置いていない店が多いようです。
  西日本 (山陽線、博多駅、熊本駅、鹿児島中央駅) と静岡駅~東京駅ではメニューに入れている店がある事を確認。
  東日本では関西人の客の要望で置くようになった店が多いようです。


 国立国会デジタル図書館 で下記の文献 (原文のまま) などが無料公開されています。PDFで一括ダウンロード可能になりました。
  和漢三才図会 105巻 明治17~21年版 中近堂
   中之巻 『37畜類~71伊賀』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161

 人文学オープンデータ共同利用センター 「日本古典籍データ」 無料で一括ダウンロード可能ですが 7Gほど必要です。
  和漢三才図会 105巻 1712年初版の大坂杏林堂版 (味の素所蔵品) http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/100249312/

 明治版と江戸時代初版とは微妙に送り仮名などが違います。当サイトは初版の1712年版を参照しています。

 1712 (正徳2) 年の百科事典『和漢三才図会』編者は大坂の御城入り医師の寺島良安、版元および出版地は大坂。
 第37畜類」の「豕」

  桉 豕畜長崎及江戸處處多有之然本朝不肉食 又非愛翫
  近年畜之者稀也 且豕猪共小毒アラ千人カモ華人及朝鮮人以雞豕常食

  豚は畜場をもって長崎及び江戸所々に これ(畜場)が多くある。しかるも日本では肉食を好まない。
  また愛玩用にする者はいないので、近年は豚を養うものは稀である。
  そして豚とイノシシはどちらも毒が少しあるので、(食べても) 千人に益は無い。
  中華人と朝鮮人はニワトリと豚を常に食べる為に飼っている。

 
 金沢おでん 金沢市は人口1人当りのおでん店の軒数は日本一
  テレビ東京 所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ ! 14.01.12 放送

  ≪ 石川県のおでんダネ ≫

  テレビ東京の番組調査による 定番おでんダネ 1位は「大根」 2位「たまご」 3位「かにめん」 4位「くるま麩」 
  5位「バイ貝」。 ※ (「おでん激戦区」と言えば静岡も有名です)






  大きく食べごたえがあるバイ貝は殻ごと煮ることで、肝の部分まで身が崩れず、殻から旨いダシがでるそうです。

  【ばい貝】 エゾバイ科の巻貝。殻は堅牢で、殻高7センチメートルに達する。
   日本各地の浅海に産し、肉は食用となる。殻は、ばいごま(べいごま)・貝笛などの玩具とする。
   また、広義にはエゾバイ科の巻貝のうち、漁業の対象となる中形・大形の種の総称。「つぶ」とほぼ同じ語。

  寺院が多く仏教が浸透した北陸地方では精進料理が多く食べられ、金沢では独自の「麩」があり車麩もその一つ。






  魚麺ぎょ-めん … 麺状にしたカマボコ (魚のすり身製品)

  かにめん
   金沢港で11~1月下旬までに獲れるズワイガニのメスの甲羅に足の身なども詰めて煮たおでんダネ。12月末まで。
   メスなので卵 (内子、外子) の味と食感も楽しめます。1杯1300~1500円が相場だそうです。(2014年現在)
 
 静岡おでん
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『県民熱愛グルメ 「静岡おでん」』 13.03.14 放送
  TBC東北放送 サンドのこれが東北魂だ『 ニッポン全国! アツいぜ! おでん 三陸 石巻より愛をこめて』 19.01.27 放送

  ≪ 静岡市のおでん ≫

  静岡市には、おでん専門店が21軒集まる『青葉おでん街』、すぐ近くには17軒集まる『青葉横丁』があり、駄菓子屋、
  弁当店でも販売。学生が学校帰りに駄菓子屋でおでんを食べるのも普通だそうです。
  全てのおでんダネが串に刺さっているので、1串、2串と気軽に買いやすいので、毎日のように食べる人も。
  おでんを販売しているパン屋まであり、市内に600店舗以上が提供するほど消費され静岡市民のソウルフードになっています。






  静岡市におでん街が出来たのは昭和15年に発生した静岡大火がきっかけ。焼野原になった場所におでんの屋台が
  立ち並ぶようになり、その後の区画整理によって横丁などで営業するようになり『青葉横丁』などが誕生したようです。

  静岡おでんの会の発起人である一級建築士の大石正則さんによると、"静岡おでん"は市民から忘れられようとして
  いた存在だったそうです。そこで平成14年におでん好きの人たちを集め会を結成。
  市民にPRしたり、観光客のために「静岡おでんまっぷ」を作るなど"静岡おでん"のPR活動をしてきました。
  行政にも働きかけ、小中学校の給食で静岡おでんを出してもらう事しました。現在では年に6回ほど給食で出されています。






  静岡おでんの会 笠原直人さんによると、
  静岡おでんは、大正時代に廃棄処分されていた牛スジや豚モツなどを捨てずに煮込みにしたのが始まりと言われています。
   その後、駿河湾近海で獲れた魚介類等を加えた物が『静岡おでん』となって広まっていったと考えられています。






  牛スジで出汁をとり、砂糖と醤油でおでんダシを作り、継ぎ足し継ぎ足しで使うため色が黒く濃い味になります。
  その為、辛すぎてダシを飲まないのが基本だそうです。

  フワ … 牛の肺。レバー (肝臓) と ハツ (心臓) を足したような感じで、レバーのような臭みもなく、フワっとした食感だそうです。
  白焼き … スケトウダラのすり身を素焼きにしたもの。  すじ鉾 … 白身魚の骨と皮が入ったすり身。






  浜名湖は青のり養殖が盛ん。静岡県内には削り節業者が多い事もあって、青のりと、だし粉 (鰹や鰯の削り節の粉末を
  ミックスしたもの) をおでんに振りかけて食べるのが定番。

  ※ 静岡県は東西に長く地域によって文化が異なるので、関西風おでん・関東風おでんが主流の地域もあるようです。


  イワシなど青魚を使用した黒はんぺんは、白ぱんぺんよりも濃い味わい。
  静岡おでん店では、メニューには載せていないものの、オーダーすれば生の黒はんぺんを食べる事ができます。
  わさび醤油で。


  1746年成立と言われる『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎)
  この書は昔の文献や見聞きしたものを集めた部分と、独自の部分があります。

  上巻 四 「飯・汁・膾・差躬

  鰯半弁汁 きらずを細に摺こして 鰯の摺身 等分より いわしの少き方よし 板に付 かまぼこ形 又 角にしても
  紙か布に包 湯煮して 切 形して 中みそ薄き方よし さいのめ おろし大こん あられ豆腐 杯取合よし 又 おろし
  大根 蛎かき汁の妻もよし 此 半弁 吸物にもよし

  「差躬は「さしみ」と読むようです。レシピなどから「湯引き」や「タタキ」なども含むようです。

  コトバンク 作り身 『世界大百科事典内の作り身の言及』
  【刺身】より 
…生の魚貝類などを薄く,あるいは小さく切り,しょうゆ,煎酒(いりざけ)などをつけて食べる料理。
   作り身,お作りなどともいい,日本料理を代表する品目である。
   古く〈指身〉〈指味〉〈味〉〈刺〉などと書き,〈打身(うちみ)〉とも呼んだ。



  「きらず」は「おから」の事です。主に大坂で言われていたようです。  おから 大坂では「雪花菜きらず」 京都では「卯の花」?
  カマボコの歴史 ハンペンは室町時代末期に静岡県で誕生?

  【半片】はん‐ぺん(「半平」とも書く) はんぺい。半弁はんべん。はべん。
   (一説に、駿河国の料理人半平の創製による名という)
   魚のすり身にヤマノイモなどを加え、半月形・方形などに作ってゆでたもの。

  【糝薯・真薯】しん‐じょ
   魚・鳥・蝦などの肉のすりみに、すった山の芋・粉類を加えて調味したもの。蒸しまたは茹でて使う。

 
 愛知県のおでん
  読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『県民熱愛グルメ「愛知県民 味噌おでん」』 15.02.05 放送

  ≪ 名古屋の味噌おでん ≫

  名古屋文理大学 短期大学部 食物栄養学科の佐藤生一 教授によると
   江戸時代の関西の『煮込み田楽』、関東の醤油で煮込んだ『おでん』が、恐らく戦後頃にミックスして愛知県は
   『味噌おでん』になった。






  戦後に屋台として始まったおでん屋は、食べた後の串の本数で勘定したので全てのおでんダネに串が刺さっているの
  だとか。味噌おでんは愛知県内の居酒屋100軒以上で提供。味噌おでん専門店というのはほぼ無いので種類は少ない。






  おでんは6~8種類ほどが平均で、芋類はジャガイモよりサトイモが定番だそうです。また「はんぺん」と呼ばれるのは
  「さつま揚げ」の事。
  ダシは魚介系では八丁味噌に負けるので牛スジだけでダシをとる店もあり、洋カラシまたは唐辛子を付けて食べる。






  家庭で作る時は魚介系の出汁で煮込んだ一般的なおでん。
  しかし、食べる時は、みりん・酒・砂糖・味噌を溶かした『味噌ダレ』をたっぷりかけるスタイル。
  愛知県東部の旧三河国では、一般的なおでんで食べる時に味噌をつける程度だそうです。

  幕末の『守貞謾稿』には、尾張国では醤油を使わず、タマリ (垂味噌か?) ばかり を使っていた事が記されています。
  守貞謾稿下巻 第二十八編食類 「醬油」の記述原文  各地方の醤油消費割合など醤油の知識
 
 兵庫県のおでん
  テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『地元の人しか知らない姫路ぶらり旅』 14.02.22 放送
  朝日放送 ビーバップ ! ハイヒール 『食の方言は語る ! 関西食べ物ミステリー』 14.06.05 放送

  兵庫県も江戸時代は多くの藩に分かれていたので、地域によって文化が異なります。

  ≪ 姫路おでん ≫

  2014年、大河ドラマ『黒田官兵衛』と姫路城の改修で盛り
  上がっている姫路市。

  ビーバップハイヒールによると、
  昭和初期、甘辛い関東煮に生姜醤油をかけて、
  味を調整して食べたのが始まりだと言われている
  そうです。


  練り洋辛子をつけるよりも、さっぱりした味わい。
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おはようコール
朝日放送 2011.06.23
ほんわかテレビ
読売TV 2011.06.19
プチっとく !
関西TV 2009.07.01
よーいドン !
関西TV
 2010.08.05
KANSAI 1週間 259号
2009.02.17発売
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OSAKA HABIKINO IGA 5-9-6  MARCO POLO 取り扱い商品 : アイスクリーム / シャーベット / ザーネアイス / 生チョコアイス / スイートポテト / コーヒーなど
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