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広辞苑による中部地方の分け方と定義 |
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【北陸道】ほくりく‐どう
五畿七道の一つ。若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡の7国。また、そこを通ずる街道。
くぬがのみち。こしのみち。ほくろくどう。
【東山道】とうさん‐どう。とうせんどう。
五畿七道の一つ。畿内の東方の山地を中心とする地。近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の8カ国に
分ける。また、これらの諸国を通ずる街道。
【東海道】とうかい‐どう
五畿七道の一つ。畿内の東、東山道の南で、主として海に沿う地。
伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の15カ国の称。
【中部地方】ちゅうぶ‐ちほう 中部日本。
日本の本州中央部の地方。
行政上、新潟・富山・石川・福井・山梨・長野・岐阜・静岡・愛知の9県に分ける。
また北陸・中央高地・東海の3地方にも区分される。
【甲信越】こう‐しん‐えつ
山梨(甲斐)・長野(信濃)・新潟(越後)の3県の総称。中部地方のうちの東半分。
【北陸】ほく‐りく 北陸地方。
福井・石川・富山・新潟4県の総称。 狭義には、新潟県を除く3県をいう。
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【東海地方】とうかい‐ちほう … 中部日本南部の太平洋沿岸地方の称。普通、静岡・愛知・三重と岐阜の一部を指す。
【方言区画論】ほうげん‐くかく‐ろん
方言の差をもとに地域を区分する研究法。1927年に東条操の提唱したのが最初で、本土・沖縄に2大別し、
本土は東北・関東・中部を含む東部方言、北陸・近畿から西の西部方言、九州方言の3地域に分ける。
縄文時代は東日本の方が人口が多かった? サケ・マス論
≪ 北海道や東北・北陸も北前船によって発展 ≫ 江戸時代の海上物流 北前船
江戸時代中期、北前船の瀬戸内海での積荷は色々とありますが、塩が最も主要品でした。
この瀬戸内海の塩が大量に供給されるようになって、特に北陸や東北の日本海側で塩蔵品が発達する事になります。
江戸時代の北前船の寄港地が多い北陸地方は関西文化圏の影響を強く受けています。
新潟市あたりは、大阪と東京からの移民も多くいるようです。
愛知県も樽廻船などの影響で大阪から色んな物が伝わり、岐阜・長野も大阪・関西との文化的繋がりが大きい。
静岡は江戸時代に和歌山・四国などからの漁民の移民も多いようです。
≪ 明治時代は中部地方に人口No.1の県が多かった ≫ 出典は『日本帝国統計年鑑』
1872年 広島県、1873年 愛知県、1874~76年、新潟県、1877~1881年 石川県 (現在の富山・福井の両県含む)
1882~1883 新潟県、1884~86大阪府 (堺県を吸収し、現在の大阪府と奈良県含む、1887年に奈良県復活)
1887~1896年 新潟県、1897~1944年 東京府 (1643年から東京都)、1945年 北海道、1946年~ 東京都
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北陸地方 新潟県 |
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日本テレビ 月曜から夜ふかし 『何地方か分からない県がまだあった件』 13.09.10 放送
フジテレビ 珍日本セキララMAP 『珍納豆に砂糖をかける新潟人』 13.12.26 放送
日本テレビ 月曜から夜ふかし 『日本にも戦場がある問題 新潟県 燕VS三条』 14.04.14 放送
読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『日本全国47都道府県 地元で愛される美味しいおやつ博覧会』 14.07.20 放送
テレビ東京 元祖 ! 大食い王決定戦 ~新世代最強戦~ 14.09.28 放送
TBS ジョブチューン 『現役知事大集合SP 知事同士のバトル勃発 ! ○○王国は我が県』 14.10.25 放送
テレビ大阪 おとな旅あるき旅 『ふるさと (三田村邦彦の) ぶらり新潟の旅』 15.10.24 放送
中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』2 15.12.27 放送
テレビ朝日 羽鳥真一のモーニングショー 『顔より大きい!長さ50㎝超ギネス認定「柿の種」』 16.11.03 放送 中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』3 16.12.11 放送
テレビ東京 歴史の道 歩き旅 新潟~上越の旅 16.12.19~ 放送
読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『県民熱愛グルメ 栃尾の油揚げ 仰天の常識』 17.03.16 放送
テレビ大阪 ニュースリアル関西 『6年めのピーチ 新たに新潟就航 なぜ?』 18.03.01 放送
一時期ですが、日本で最も人口が多い時期が3回もあった新潟県。
魚沼産のコシヒカリが有名な米処ですが、米処になったのは近代の事。
コシヒカリ 1956年、福井県農林試験場で誕生。西日本で栽培、後に全国に広まり1979年に作付1位。
酒処になったのは同様の事で、軟水で清酒造が可能になったのは、明治30年に広島県の西条で軟水による醸造法が
確立された以降の事です。 日本三大酒処の一つ 広島県西条町 日本三大酒処は、京都の伏見と神戸の灘
2018年3月1日、ピーチが大阪・関空-新潟 片道4190円~という格安航空便を就航しました。
ピーチでは、来日する外国人観光客があまり有名ではない観光スポットに行き始めているので、地方活性化も狙い
まず新潟を大きくPRしていくようです。
日本國誌資料叢書 越後・佐渡 大正13年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←新潟県の歴史資料
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982135
【新潟県】にいがた
中部地方北東部、日本海側の県。越後・佐渡2国を管轄。面積1万2583平方キロメートル。人口243万1千。全20市。
10万人当たりの漫画家輩出数は3位。1位は高知県だそうです。赤塚不二夫さんは満州生まれですが、父親が新潟出身。
「かんずり」という調味料は、塩漬け唐辛子を雪の上でさらし、柚子や麹を混ぜて発酵させたもの。
カルビーの都道府県別ご当地ポテチでは、新潟の味として「かんずり」味を発売しました。
【新潟県市】
県庁所在地。政令指定都市の一つ。信濃川河口に位する港湾都市で、寛文(1661~1673)年間に河村瑞軒により西廻り
航路の寄港地と定められて以来発展、1843年(天保14)新潟を港町として重視し、初代 新潟奉行に川村修就ながたかを派遣。
1858年(安政5)の日米修好通商条約により日本海沿岸唯一の開港場となった。天然ガスを産し、化学・機械工業が盛ん。
人口81万4千。
【奥羽廻船】おうう‐かいせん 東廻り
東北地方の日本海沿岸より北上し、津軽海峡を経由して太平洋岸を南下し、銚子 (千葉県
東端の市。利根川河口の南岸)に至る海路を通った廻船。銚子から江戸までは積荷は
川舟で運ばれた。
寛永(1624~1644)年中から仙台藩が蔵米の江戸回漕を行なっていたが、寛文(1661~
1673)年中、河村瑞賢が幕府米回漕に成功してから東北諸藩が盛んに利用した。
【奥羽廻船】 西廻り
東北・北陸の諸港から日本海・下関海峡・瀬戸内海を廻って大坂にいたる海路を通った廻船。
1638年(寛永15)鳥取藩・加賀藩がこの海路で船を大坂に送って以来次第に開け、
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1672年(寛文12)河村瑞賢ずいけん (伊勢の人、1618~1699。材木商・土木家で安治川・淀川・阿武隈川の治水工事、
また東回り・西回り航路を確立) が海路に改良を加えてから盛んとなった 江戸時代の海上物流 北前船
新潟で最も有名な観光スポットの一つである通称「魚のあめ横」と呼ばれる寺泊の「魚の市場通り」は、獲れたばかりの
新鮮な魚介類が食べられる事で知られるようになりました。寺泊も北前船の寄港地の一つだったようです。
≪ 東京大好きの新潟県民 ≫
新潟県も三重県と同じようにどこの区分けかはっきりしない県とされており、県民は「関東」または「関東・甲信越 地方」と
思っている人がいるそうです。
女子高生のスカート丈が一番短い事でも有名。地方出身の都民で最も多いのが新潟県からというデータもあります。
奈良時代の五畿七道では「北陸道」に分類されています。また、広辞苑では上記のように「中部地方」に分類。
「甲信越」は旧国名を採ってつけた区分けですが、「東北」「関東」「近畿」などとは別の区分けの仕方です。
関東甲信越は、関東+甲信越という言い方であって、関東とは別です。
新潟県は「中部地方」または「北陸地方」というのが正しいようです。 日本最古のセーラー服 大正時代の 平安女学院 と 福岡女学院
新潟市は大阪移住した人も多いようです。新潟の芸者の踊りは大阪から伝わったそうです。
江戸時代~昭和初期くらいまでは北前船で大阪と、関東大震災および戦時中の疎開、戦後の一極集中化で東京と
関係が深いようです。
≪ カレー味が大好き ≫ カレーの歴史雑学
1903 (明治36) 年、大阪のハチ食品が日本初の国産カレー粉を販売。
1930年、東京の日賀志屋 (ヱスビー食品) が、瓶入りのカレー粉を発売。
1923年の関東大震災や、1941年の太平洋戦争による都市住民の疎開と食糧統制などにより、日本各地にカレー
粉が広まる。
新潟にカレー粉が広まったのは、東京からの疎開民によるものだと考えられます。当時はカレー粉黄色い。
茶色いルーは大阪で完成したもの。
簡単に調味できるとして主婦に人気が高かったので、カレー粉を持って疎開する人が多かったそうです。
新潟県で『イタリアン』と言えば、三日月が50年前に考案した『ミートソースをかけた焼きそば』だそうです。
「当時高価だったスパゲティを真似て、洋風のソース焼きそばを販売しよう」というのが始まり。
現在ではソース焼きそばに、麻婆豆腐やホワイトソースなどをかけたものなど40種類以上ありますが、期待した
ほどの味ではないらしいです。県北は三日月、長岡市以南はフレンドというチェーン店で別れているようです。
新潟・食品名産図鑑 新潟の食文化 http://nigata.japanfoods.net/nigata-foods-culture.html Wiki ぽっぽ焼き Wiki へぎそば
上記サイトによると、新潟 (特に長岡・中越地区) では、小豆の赤飯ではなく、金時豆を利用した『醤油おこわ』を
食べるそうです。
関東の赤飯は大角豆ささげを用いたもの。(豆を煮た時に型崩れしにくい為、「腹が割れない」と武家に好まれた
ようです)
「へぎそば」は新潟県でよく採れる海藻「フノリ」をつなぎに使用したできないかと考案された蕎麦。つるつるとした
食感が特徴。「折ぎ・剥ぎへ・ぎ」という杉または桧の材を薄く剥いだ板で作った折り箱に、手振りと呼ばれる一口
サイズにまとめた束を四角い大きな数人分へぎ折りに盛ったもの。何人かでつつきながら食べる習慣があるそうです。
関西テレビ 新説所JAPAN 「サケが日本を作ったサケ愛する新潟村上でご当地グルメ調査』 19.12.02 放送
日本で最初の鮭の博物館 イヨボヤ会館 https://www.iyoboya.jp/aotobuheiji/
青砥武平治 あおとぶへいじ 鮭 Buheiji Aoto and salmon 村上市 http://park2.wakwak.com/~fivesprings/toti/bussan/data/sake.html
≪ 江戸時代から鮭が有名な村上 世界初の鮭の自然孵化増殖 ≫
1689 (元禄2) 年の『合類日用料理指南書抄ごうるいにちよう-りょうりしょう』(中川茂兵衛、出版地は京都)は秘伝や口伝・
聞書などから、料理に関する事を丹念に集めた江戸時代の料理百科とも言われています。
『第四巻の魚類』の「塩漬の類」に「越後子籠」「越後鮭開」「越後甘子漬」「越後の筋子」という項目があるようです。
(原文は読んでいないので未確認ですが)
新潟県北部の村上市では、江戸時代から鮭漁が盛んだったので、鮭料理が豊富で消費量もトップレベル。 この塩引鮭など塩を用いた製品は、江戸時代中期に北前船によって瀬戸内海の塩が大量にもたらされてから
発達したものです。 江戸時代の海上物流 北前船 縄文時代は東日本の方が人口が多かった? サケ・マス論
1712~1717年の松平氏が藩主だった頃、運上金 (鮭漁に対して村上町の大年寄に入札させたもの=鮭漁の
権利金) が250両以上あったものが年々減り、内藤氏が藩主になった1736年には5両となって、1738年には
鮭漁の停止が命じられました。塩が豊富に入手できるようなったので乱獲した結果と思われます。
村上藩士の青砥武平治(1713-1788)が、サケの母川回帰の習性に気付き、三面川を3つに分流しその1つを
「種川たねかわ」として、産卵に適した場所を作って稚魚を保護しました。1736年から1794年まで種川は拡張され
年々漁獲漁は増加し幕末には運上金が2000両を超えるに至りました。
種川の方法は、1806年に庄内藩が、明治時代には北海道石狩川などでも取り入れられました。
明治になり職を失った藩士たちは、1878 (明治11年) に米国の人工孵化技術を導入し、村上鮭産育所を設立。
鮭漁業で儲かった利益から子弟の教育援助を行いました。
「のっぺ」にも鮭を使い、鮭を余すことなく食べきる事ができるように100種以上の鮭料理が発展しました。
塩漬けにして乾した「塩引鮭」は正月の料理には欠かせないものだそうです。
捕鴨の様子と捕熊の様子 1799年刊『日本山海名産図会』より、鴨は大坂・河内が上品、熊の胆は加賀・新潟・出羽が上品
【能平・濃餅】のっ-ぺい のっぺい汁、のっぺ、ぬっぺい
油揚・大根・椎茸・人参・里芋・こんにゃく・豆腐などをすまし汁に仕立て、葛粉を加えてとろみをつけた料理。
1950 (昭和25) 年、佐藤勘作が白玉粉を製造するサトウ食品工業を創業。のち正月用の餅を製造し、1965年に
板餅を発売。
≪ 新潟県中部 ≫
寒さが厳しい内陸部では色々な料理に砂糖を大量に入れる事が多いそうで、納豆にも砂糖を入れるそうです。
気温が低いので納豆の発酵が進みにくく粘りが少ない。砂糖を入れると粘りが増すらしいです。
江戸時代、燕市が金物を作り、商業の町であった三条市が販売。
三条市の商人が買い叩いたことで、現在も両市では対立意識があるそうです。
【燕市】つばめ
新潟県中部の市。信濃川三角州の頂部に位置し、金属洋食器の生産が盛ん。人口8万3千。
【三条市】さんじょう
新潟県中部の市。信濃川の河港。洋食器・工具・家庭金物など金物産地として発展。越後における浄土真宗の
中心地。人口10万5千。
【長岡】ながおか … 新潟県中部、信濃川の中流右岸の商工業都市。もと牧野氏7万石の城下町。人口28万3千。
浪花屋製菓HP 『元祖 柿の種』 http://www.naniwayaseika.co.jp/kakinotane/
『現在の柿の種を最初に作り出したのは、当社の創業者「故、今井與三郎」でした。
大正12年、創業当初はウルチ米の煎餅作りでしたが、後に大阪のあられ作りを取り入れ、モチ米を使ったあら
れを作るようになりました。これが社名「浪花屋」の由来です。
当時はすべて手作業で薄くスライスした餅を何枚かに重ね、小判型の金型で切り抜いて作っていました。
ある日、その金型をうっかり踏み潰してしまい、元に直らずそのまま使用したら、歪んだ小判型のあられになって
しまいました。そんなあられを持って商いをしていたところ、ある主人が「こんな歪んだ小判型はない。
形は柿の種に似ている」といわれ、そのヒントから大正13年「柿の種」が誕生しました。』
【柿の種】かき-の-たね 百菓辞典
柿の種の形をしていることから付けられた名前。少々辛味をつけた醤油味のかきもち。
一説によると、新潟県中部の長岡市 浪花屋製菓の創製で、もともとは小判型だったが、
型の筒を踏んでしまって、いびつになったのがヒントで生まれたという。
2016年11月2日、亀田製菓が発売50周年を記念してつくった柿の種が『世界一大きい
柿の種』としてギネスに認定されました。通常の20倍の55.4㎝の長さ。
中が空洞になっている事が条件なので100回ほど作りなおしたそうです。 食感は通常のと違い固めで煎餅のようだそうです。
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新潟県三条市の洋梨「貴婦人」と呼ばれるル・レクチェ
酒の購入額日本一 高知県の可杯というおちょこ 新潟県は日本酒消費量&酒蔵の数が日本一 新潟県三条市で「牛乳なし給食」の試み
粒々辛苦錄 上 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555373 粒々辛苦錄 下 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555374
↑はリンクは上下巻で全文ありますが、草書体の読める方のみ。
郷土読本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109335
≪ 農民でも土地を持つものと持たない物では、大きな生活の差があった ≫
『粒々辛苦錄』の「越後の農村生活」(年代および著者不明、越後長岡藩での農民の生活の記録)
1928 (昭和3) 年に出版された『郷土読本』(信濃教育会 編、柳田國男 監修、出版 長野県 大日方利雄) は
日本人の民族性と郷土研究を目的として古書古記録から一部ずつを収集した本。
この本のP.349~362に、『粒々辛苦錄』の「越後の農村生活」の農民の正月行事の部分だけが収録されて
います。
『粒々辛苦錄』が書かれた時期は、「木綿の糸」(江戸時代中期の北前船で河内の木綿が伝わったが、当初は
製品である布だけ。その後、綿花栽培が畿内や瀬戸内海に伝わりますので、木綿の糸が新潟に届くのはのもっと
後と思われます) などの記述内容から江戸時代後期と思われます。
元日の食事を上中下の3段階に分けて書かれてあるので、下記のように簡単にまとめました。
上農夫 (庄屋組頭長百姓など土地を多く持つ者)
餅雑煮。清酒を飲む者もいる。夕食は鮭塩引・ブリ等の焼物、削り大根・するめ・鱠なます・芋・ゴボウの煮物など。
夜食は祝儀に関わらず昼の煮物などの残り物を食べるので、別に用意する物はない。
2日目・3日目も元日と同じ、4日から平日の食事になる。庄屋組頭は城下へ行って待ち、5日目に役人に挨拶する。
近い所は日帰りだが、遠方からは馬または徒歩でも1~2泊するので飯米を持ち歩く。
村長が三ヶ日分の米の飯を用いるなどがあれば貧民の子供たちに「大白食」と言われる。
村里で豊かな者は米の餅を搗いて村内に配る。
他の村の庄屋組頭へ年始の挨拶に行き、年玉として餅・茶米・大豆・小豆・麦粉・蕎麦粉・ゴボウ・山の芋を贈り合う
事もある。山中の村においては山折敷に塩を一升・二升ずつ持参すると喜ばれる。
市場町家などにはオヒネリとして2、30文ずつ紙に包んで持ち歩くのが、昔からの法とする所もある。
7日に七草粥を祝って休む。関東筋ではする所が稀であると云う。
11日は蔵開の祝儀で休み、家内の松飾を下し田んぼに立てて祝う。
14日は米か稗の粉で団子を練り芋形にして木の枝に刺して餅花 (「マイ玉」と言う) を作り家内に飾って祝う。
15日は小正月で皆が休む。小豆粥を食う。
16日は「サイ日」と言って貧民などに米などを少しずつ施す。
中農夫
ユリコ餅 (籾もみを磨臼にて磨る時、米と籾の混じりたる粉をいう) を祝う。
貧民以外は節酒という濁り酒を家ごとで造って春酒とする。
塩マス・塩タラ・塩イワシ。ごまめなどに、大根・ゴボウなどの煮物で祝う。膳は山折敷。
小百姓は3日目から家業にかかる。
下農夫 (土地を持たない水呑百姓、田畑の無い山中暮らし、年寄又は女だけの世帯)
田畑を借りて稲麦粟稗などを作る。人に雇われて働く、山菜を取って売る。落穂広いをする者など。
団子雑水を食べる。田畑の無い山中では歳神様へも栗の餅を供える。
塩肴・干肴も無く大根とゴボウだけで祝う事もある。飯も所によって粟稗麦の類を食とし、菜・カブ・大根当の糧が
入らない事を美食とする。米が少し混じるのが稀な所もある。
2日目から通常の食事に戻る。
「但し今の民の衣食住も上りたるにや」とも書かれてあります。
江戸時代後期の江戸庶民の正月 日本各地の雑煮 雑煮の歴史など
≪ 長岡市 洋風かつ丼、栃尾の油揚げ ≫
昭和6年に長岡市殿町で創業した小松パーラーが、カツ丼を洋風にアレンジしたのが始まり。2006年に閉店。
ケチャップベースに醤油や砂糖を合せたソースが特徴。現在では、長岡市内30店舗弱で提供されています。
栃尾の巨大油揚げ
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洋風かつ丼
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高橋孫左衛門商店
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粟飴
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長岡市の栃尾地区発祥の「栃尾の油揚げ」は、固めの木綿豆腐をプレスして余分な水を切り、弾力がある豆腐
生地にします。それを低温120℃で膨らませ→高温150℃に入れて表面をカリっと揚げる。長時間揚げる事で中身
がスポンジ状になります。乾燥させて余分な油を落として完成。
栃尾豆腐油揚組合 組合長で豆腐店店主の大竹真さんによると、
「江戸時代中頃、栃尾の秋葉神社に多くの参拝者が訪れており、遠方からの参拝者の為に特別なお土産として
考案されたのが、栃尾の油揚げの始まりと言われているそうです。その後、栃尾の馬市の仲買人達の間で酒の
肴として好まれ、満腹になるようにとだんだん大きくなっていった。」
豪雪地帯で盆地でもある栃尾地区ではタンパク源や脂肪分として油揚げが重宝されました。
現在長さ20㎝で、一般的な油揚げの7~8倍の重量があり、厚揚げとの違いは中がスポンジ状になっている事。
普通の油揚げより、厚揚げと同じような使い方がされており、更に色々とアレンジ料理があるようです。
≪ 現存する日本一古い? 飴屋 ≫
上越市高田地区にある高橋孫左衛門商店は江戸時代の寛永 (1624~1645) 年間の創業で、2015年で391年続い
ているそうです。粟飴という水飴が名物。こちらでは、笹飴、粟飴の冷やし飴、暖かい飴湯などもあるようです。
テレビ大阪の番組では『高橋孫左衛門商店』を「日本一古い飴屋」と紹介されていましたが、京都市東山区の「みな
とや幽霊子育飴本舗」は創業から約500年だそうです。 現存する最古の飴屋 京都の「幽霊 子育飴
江戸時代の幕末『守貞謾稿』下巻 第二十八編食類 「水飴」
「みづあめ 滑飴也 世事談云 南都春日の社家 正月糕を練り堂 上方又は地下に送る 是滑飴と云 水飴也
今世 水飴堅飴とも越の高田に精製し、又相の浦賀の製 之に次ぐ ともに往々江戸に送る」
【地下】じ-げ
① 清涼殿に昇殿を許されない官人、または家格。一般には六位以下。
② 宮中に仕える者以外の人々の称。一般農民や庶民を差す。
③ 土着の人。〈日葡辞書〉
【地下町】じげ-ちょう … 各神社の、氏子の住んでいる町。
世事談によると、正月に奈良の春日神社のお堂で作った水飴は「滑飴」と言い、上方と地元の氏子に送られた。
現在は、水飴も固形飴も新潟件南西部の上越市南部の旧高田市で作り、神奈川県浦賀市で作った物が時々
江戸に送られてくる。
「世事談=1734 (享保19) 年刊 『本朝世事談綺』菊岡沾凉 (表具師・俳人、伊賀上野生まれ、江戸神田在住)」
Wiki 菊岡沾凉 コトバンク 「菊岡沾凉」
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【上越市】じょうえつ-し
新潟県南西部の市。陸・海の交通の要衝。金属・化学工業が発達。人口20万8千。
【粟飴】あわ-あめ 百菓辞典
もち粟を原料にした黄金色の清澄な水飴。新潟県上越市の名物飴。
元来粟もやしから作っていたが、もち米と麦から作るようになった現在でも名前は伝統のまま、粟飴と呼ばれている。
【笹飴】ささ-あめ 百菓辞典
水あめをとろ火にかけ、攪拌して煮詰め、親指大にし熊笹の葉ではさんだもの。笹の移り香が特徴。
新潟県 旧高田市 (南西部、中世 上杉氏の本拠地、日本におけるスキーの発祥地) の名物。
【翁飴】おきな-あめ
晒さらし水飴に寒天などを加えて煮つめ、固めた後、切ってみじん粉をまぶし乾燥させた飴。新潟県高田地方の名産。
【茶の粉飴】ちゃ-の-こ-あめ 百菓辞典
茶どころの北限、新潟県村上市 (北部) の名物飴。村上茶の抹茶風味で、翁飴風のもの。
【笹団子】ささ-だんご 百菓辞典
米粉にヨモギをつき砕いて入れ、蒸してから小豆あんを入れて団子にし、熊笹の葉で包み、
両端をイグサでくくる。俵型。
新潟名物で、福島にも見られる。福島では「ほいど巻」と呼ばれている。
笹には殺菌作用があるので、上杉謙信が戦の携帯食にしていたとも言われているそうです。
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本来は粒あんですが、大阪梅田のアンテナショップでは関西向けとして特別に、こしあんの笹団子も売られています。
1643年(寛永20)刊『料理物語』の1665 (寛文4) 年版 「第十八 菓子之部」
〔さゝもち〕 うるの米を上白にして、よく こにはたき、三段に こをとる也、一ばんは さつと はたき、まづ ふるひ、
其こは のけ候、二番めに よくはたき、こまかにふるひ候、扨水にてこね、ちいさく玉にして なべに入 にる、 ふきふがりて 又 しづむまで ゆで候、あげて うすにて よくつきて色々にちぎる、黄にはくちなし、靑はよもぎの汁
入よし、靑まめのこ、くでん有レ之、ゆのこと
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江戸時代のペットブーム 大坂(上方)から、江戸へ そして全国に広まった。 現在、錦鯉が日本より海外でブーム。錦鯉発祥は旧山古志村
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富山県 |
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フジテレビ 珍日本セキララMAP 『珍ブラックグルメを愛する富山人』 13.12.26 放送 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『県民 秘密の粉もの 「富山県」』 14.02.14 放送
読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『日本全国47都道府県 絶品おやつ博覧会 !』 14.07.20 放送
フジテレビ 報道2001 『地方創生への逸品』 14.09.11 放送
TBS ジョブチューン 『現役知事大集合SP 知事同士のバトル勃発 ! ○○王国は我が県』 14.10.25 放送 中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』2 15.12.27 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『朝ごはん食べよッ! 「富山県 ほたるいか黒作り」』 16.05.02 放送 テレビ東京 世界!ニッポン行きたい人応援団 『ニッポンの「からくり人形」の伝統的な技術について学びたいカナダの男性をご招待!』 17.07.20 放送 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『県民熱愛グルメ 昆布締め 仰天の常識』 17.07.27 放送 テレビ東京 世界!ニッポン行きたい人応援団SP 『ニッポンを愛してやまない双子の少女 米国からご招待』 17.09.28 放送
【富山県】とやま … 中部地方日本海側の県。越中国を管轄。面積4247平方㎞。人口111万2千。全10市。
【富山市】
富山県中央部の市。県庁所在地。もと前田氏10万石の城下町。
神通川の流域に位置し、臨海部は重化学工業が盛ん。人口42万1千。
【芋お萩】いも-おはき 百菓辞典
富山県の郷土料理。うるち米の屑米とさといもを一緒に炊き。潰して丸め、小豆あんや黄な粉を付けて、おはぎに
仕上げる。秋の彼岸に各家庭で作るもの。
【薄氷】うす-ごおり 百菓辞典
薄い氷のかけらを表現した富山の名物菓子。越中米で焼いたごく薄いせんべいに、卵白と和三盆入りの糖蜜を
塗ったもの。
≪ 昆布消費量日本一の富山県 ≫ 江戸時代の海上物流 北前船
江戸時代の主要海路であった北前船。北海道から大阪へ物資を運ぶ中継点の一つであったので、昆布料理が多く
食べられるようになったそうです。
≪ 北方領土に近い羅臼には富山県民が多く移り住んだ ≫
富山県黒部市にある『四十物あいものこんぶ』の社長 四十物直之さんによると、
黒部市生地は貧しい漁村だった事から、明治維新前後から、北海道の一番厳しい環境
である根室や北方領土、羅臼、利尻などに移り住んだそうです。
現在でも羅臼町の約70%の町民が富山に所縁があります。
富山では江戸時代から北前船寄港地として昆布が食べられてきたようですが、テレビ東京
の番組によると、羅臼から富山に昆布を持ち帰った事が、昆布文化が根付いた最も大きな
要因らしいです。
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富山短期大学 食物栄養学科の深井康子 教授によると、富山で昆布締めが食べられるようになったのは江戸時代
中期頃。北前船によって、米や薬を富山から送り出す代わりに、北海道から上質な昆布が富山に運び込まれました。
富山湾近郊は豊富な漁場としても栄えており、冷蔵庫の無い時代に生魚などを昆布で締めたのではないか。
テレビ東京の番組によると、昆布締めは、富山の漁師が余った魚を昆布に包み、雪の中に保存した事からのようです。
家庭で昆布締めを作るのも普通で、近年では一定で均一の厚さを保ったシート状の「こんぶじめ専用昆布」を使う人も
多いそうです。マグロやエビ・イカ類も昆布締めするそうです。飲食店では牛肉や野菜や豆腐の昆布締めを出す店も。
羅臼昆布のおぼろ昆布は、一般的なとろろ昆布の約3倍の価格。
≪ 昆布のお好み焼き ≫
富山市では、お好み焼きの具が昆布だけの「昆布玉」があり、市内の約50店舗のお好み焼店の半数の店で提供
されています。
現存する最も古いお好み焼店の「みやこ」は昭和27年の創業で、50年ほどの写真には「こんぶ焼き 40円」のメニュ
ー文字がありコーラと同価格。
刻み昆布が入ったお好み焼は歯ごたえが良く、磯の香と柔らかい味わいになるので、人気だそうです。
とろろ昆布をトッピングしたものも。
高級な昆布を使用しているので、ブタ玉やエビ玉と同価格で、昆布だけの具でも「豪華」「満足」という感覚。
大阪から進出したチェーン店の「千房」の富山店では、更に豪華な牡蠣やイカ入りの昆布玉のお好み焼を提供。
【細工昆布】さいく-こんぶ … 昆布を加工した食品。とろろこんぶ・おぼろこんぶの類。大阪の名産。
北前船の主要中継点であった敦賀市がある福井県。
昆布ダシを使う和食の本場、大阪・京都にも昆布を入れるお好み焼きは無いです。
氷見地方では、寒ブリを1本買いし、家庭で捌き、皮から骨まで余すところなく色んな料理で食べ尽くします。
『嫁ブリ』という習慣は、嫁いだ年にお歳暮として、妻の実家から嫁ぎ先の夫の家にブリを丸ごと1本贈るそうです。
大トロの部分を味わう為にブリを1本買いする家庭も多く、1本30万円の値がつく事もあります。
≪ブラックグルメを愛する富山県民 ≫
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石川県 |
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毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ~小京都めぐり12 石川「金沢城下町」~』 2013.07.11 放送
日本テレビ 月曜から夜ふかし 『全国の大問題 年末総決算スペシャル 「石川県 忘れられちゃう問題」』 2013.12.24 放送 日本テレビ 月曜から夜ふかし 『北陸新幹線が開業する件 小京都問題』 15.02.16 放送 中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』2 15.12.27 放送
中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』3 16.12.11 放送
【石川県】
中部地方日本海側の県。加賀・能登2国を管轄。県庁所在地は金沢市。面積4185平方キロメートル。
人口117万4千。全10市。
江戸時代初め、前田利家が藩主となり金沢に城下町を整備。江戸時代は江戸に次ぐ (特殊な京都・大坂は除く)
城下町として発展。加賀100万石 (100万人を養えるだけの経済力がある) と言われるほど繁栄。
加賀藩の参勤交代は2000~3000人と最大規模で、現在の価値に換算すると1度で2億円の経費がかかったそうです。
廃藩置県で加賀と能登は金沢県となりましたが、明治5年に県庁が石川郡に移され石川県に。
その後、県庁は金沢市へ戻ります。
【金沢市】
石川県中部、金沢平野中央の市。県庁所在地。もと加賀(前田氏)百万石の城下町。兼六園・金沢城址などがある。
九谷焼・蒔絵・友禅などの伝統工業が盛ん。人口45万5千。
平安時代、藤五郎という男が、金持ちの家の娘と結婚しました。娘の両親から砂金の入った袋を貰いますが、ある日、
鳥を捕まえようとして砂金袋を投げつけますが、鳥にも逃げられ砂金も無くしてしまいます。
その事を知った妻は激怒しますが、藤五郎は妻が何故そんなに怒っているのか理解できません。
砂金の価値を知らなかったからです。
籐五郎が耕している芋畑の下には砂金がたくさん埋まっており、彼にとって金は珍しいものでは無かった。
その後、収獲した芋に付着している金を沢で洗い、砂金を集め大金持ちになったそうです。
兼六園内の金城霊沢が、金沢の地名の由来になった場所とされています。
江戸時代は、江戸、大坂、京都、の次、名古屋と並ぶ都市でした。
京都のような趣をもった都市を「小京都」と言いますが、最も有名なのが石川県の金沢市。
昭和60年に全国京都会議、1京都と似た自然と景観。2.京都との歴史的な繋がりがある事。
3.伝統的な産業と芸能がある事の条件のうち、1つ以上合致すれば加盟でき、『小京都』を
名乗れます。2015年現在、東北から九州まで49ヵ所あります。
2009年、金沢が京都会議を脱退。北陸新幹線 (2015年3月開通) 1本で東京と繋がります。
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金沢の朝茶事 三茶屋街 金沢の烏骨鶏のカステラ 金沢の麩 年末に蕎麦が食べられるわけは、金沢の金職人から説
北前船の豪商 金沢を代表する銭屋五兵衛 加賀地方では『ナスの煮浸し』を『オランダ煮』と呼ぶ
捕鴨の様子と捕熊の様子 1799年刊『日本山海名産図会』より、鴨は大坂・河内が上品、熊の胆は加賀・新潟・出羽が上品
【魚汁】い‐しる
石川県 能登特産の魚醤油うおじょうゆ。魚(イワシやサバ)またはイカを塩漬けし、発酵させて作る。よしる。いしり。
よしり。
田楽とおでんの歴史 日本全国 おでんの定番5品、金沢おでん
1783(天明3) 年初出版の『豆腐百珍続編』の豆腐百珍附録には、能登田鶴濱という地の名産として「能登擂
豆腐」が紹介されています。
TBS ニッポンの出番 『外国人が発見! 驚きのニッポンin金沢』 15.03.24 放送
金沢は気候から発酵食品が進んだ地域と言われています。また加賀伝統野菜15種類がブランド化されています。
複数の伝統野菜を認定しているのは、飛騨・美濃伝統野菜、江戸東京野菜、京野菜、なにわ伝統野菜、大和伝統
野菜があります。
NHK Eテレ 美の壺・撰 『File264 金沢の和菓子』 13.01.16 放送
読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『日本全国47都道府県 絶品おやつ博覧会 !』 14.07.20 放送
福梅は金沢の正月に欠かせない和菓子になっています。
【福梅】ふくうめ 百菓辞典
金沢で正月に作られる生菓子。加賀藩主前田家の家紋剣梅鉢に由来し、梅の花をお多福の面に似せて作ったもの。
九代目藩主の新春の茶席に献じたものが正月の菓子として伝えられたといわれている。
長生殿は唐の宮殿の名前をとった落雁。江戸時代、中国文化は武士の教養の一つでした。
古代中国の篆書体という文字は、神様を祀る際にも用いられた格調高い文字。加賀藩は武家文化を振興した事で、
重さ・強さを強調した篆書体の紅白の落雁が作られました。
落雁を重ねても文字が潰れないように、茶室の窓から入り込む光により、陰影で文字が鋭く浮かび上がるような工夫も
施されています。
【長生殿】ちょうせい-でん 広辞苑
① 唐代の宮殿の名。華清宮のひとつで、太宗が驪山りざんに設けた離宮。玄宗が楊貴妃を伴って来訪したことで有名。
② 清代の有名な戯曲。洪昇作。50幕。玄宗と楊貴妃の愛情を主題とする。
③ 干菓子の一つ。長方形の紅白の落雁で、金沢市の名物。
【篆書】てん‐しょ … 漢字の一体。大篆と小篆とがある。
【大篆】だい‐てん
周(前1023~前255年)の宣王 (前828~前782年) の時、史籀しちゅうが造ったとされる
漢字の書体。古文から出て、篆文(小篆)の前身をなす。籀書ちゅうしょ。籀文ちゅうぶん。
【小篆】しょう‐てん
漢字の書体の一つ。大篆から脱化した字形で、筆写に便にしたもの。
秦の李斯りし(? - 紀元前208年)の創始という。さらに簡便な隷書・楷書の創始以来、
鐘鼎しょうてい・碑銘・印章などだけに用いる。
説文解字の正文はこの字体に属し、漢字の原義を知るに便利。篆文。秦篆。篆書。
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【説文解字】せつもんかいじ
中国最古の部首別字書。中国文字学の基本的古典。15巻。後漢の許慎撰。西暦100年頃成る。
漢字9000字余を540の部首により分類し、六書りくしょの説により字形の成り立ちと、それぞれの漢字本来の意味を解釈した。
説文。
【落雁】らく‐がん 広辞苑
① 空から舞い下りる雁。秋
② 打物うちものの一種。米・麦・大豆・小豆などの粉を主材料とし、砂糖・水飴・微塵粉みじんこでねり、型に押し
込んで焙炉ほいろで、また自然に乾かしたもの。
福徳せんべいは辻占菓子の一つ。中に動物などを模った金花糖が入っています。
【福徳せんべい】 百菓辞典
1809 (文化6) 年、金沢城 二の丸御殿が新造された折、12代目の加賀藩主 前田斉広なりながが、祝賀用に加賀藩
御用菓子商「樫田屋」に命じて考案させた菓子。最中もなか皮の中に金華糖(砂糖菓子)などの縁起物が入っている
もの。
金花糖は白さを重視するのが基本。白ザラメ糖を使用し、煮溶かしながら素早く混ぜて空気を含ませ白くします。
木型に流し込み、中を空洞にする為、すぐに型を裏返し余分な糖液を流し出します。
金沢も東北などと同じで、雪国では白さをベースに赤色にこだわるようです。
金花糖菓子は雛祭りの雛段の下にも飾られるのが定番になっているそうです。
【金花糖・金華糖】 きんか‐とう 百菓辞典
砂糖に水を加えて煮詰め、白っぽくなるまですり、魚や動物をかたどった木型に流して固めた菓子。
雲平糖うんぺい-とう (粉砂糖に微塵みじん粉をまぜ、水・湯でこねつけたもの) の応用菓子の一種。
煎餅と占い菓子の普及 辻占い煎餅とフォーチュン・クッキー 有名シェフが絶賛する石川県の希少な「能登ミルク」 消えゆく花街
オムライス発祥 大阪の北極星 石川県出身者 東京・大阪の銭湯業者の約9割は北陸出身、大阪には石川出身者が多い
【柴舟】しばふね 百菓辞典
金沢市の銘菓。水に浮かぶ柴舟 (柴を積む船) になぞらえて作られたものといわれる。楕円形で、樋といのような
曲りのある形をしている。小麦粉と砂糖で軽く焼き上げた、やや固めのせんべいに、白い生姜糖が塗ってある。
ショウガ風味が特徴。
【舞づる】まいづる 百菓辞典
金沢に多く見られる干菓子。鶴の舞う姿に似せた形で、通常紅白の2色を作る。もち米粉を水でこね、薄く延ばし
て焼く。生焼けの柔らかいうちに、ショウガ風味のきめ細かい砂糖を三角形に包む。
【吸坂飴】すいさか-あめ 百菓辞典
石川県加賀市の名物菓子。北陸本線大聖寺駅から山中温泉に向かう途中の吸坂山で売られている。
麦芽と蒸し米を混ぜて、発酵させ、絞り取って煮詰め、飴にしたもの。桶に入れてあり、小さな槌で割って売る。
桶飴 (赤飴) と、これを白く晒した板(白飴)がある。
【大豆飴】だいず-あめ 百菓辞典
石川県能登半島の七尾地方の名物飴。きな粉、砂糖、水飴を原料に、板状に固めたもので、竹皮で包んだ素朴
なもの。大豆や竹は能登半島の特産。
【べろ‐べろ】 えびす。
寒天を溶かして砂糖や醤油で味つけし、溶き卵を流し込んで固めたもの。金沢の郷土料理。
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福井県 |
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読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『坂井市に住む福井県民は「油揚げ1枚定食」!?が大好き』 12.08.16 放送
NHK 大阪 歴史ヒストリア 『宮廷料理の舞台裏にようこそ ~天皇の料理番 秋山徳蔵~』 13.10.23
東海テレビ おしろツアーズ5 『絶対生きたくなる ! おもしろ名城旅』 13.12.01 放送
読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『日本全国47都道府県 絶品おやつ博覧会 !』 14.07.20 放送
読売テレビ クチコミ新発見 ! 旅ぷら 『パパイヤ鈴木&角田信朗 旅先 : 福井市・あわら温泉』 13.08.11 放送 中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』3 16.12.11 放送
【福井県】ふくい … 中部地方西部、日本海岸の県。越前・若狭2国を管轄。面積4189平方㎞。人口82万2千。全9市。
ソースカツ丼(100周年)と、関東絹の道 天皇の料理番 秋山徳蔵 江戸時代の海上物流 北前船
【福井市】
福井県北東部にある市。県庁所在地。もと松平氏の城下町。
羽二重・人絹の産地。南東部に特別史跡の一乗谷がある。人口26万9千。旧称、北ノ庄。
昭和10年/1935年の市 人口ランキング Source: 国勢調査 http://demography.blog.fc2.com/blog-entry-6687.html
1935 (昭和10) 年の国勢調査では、福井市の人口は75273人と少ないですが人口密度では大阪市に次いで全国2位。
【あわら市】 … 福井県最北端の市。芦原温泉を中心とする観光と農業を基幹とする。人口3万1千。
【東尋坊】とうじんぼう … 福井県北部、九頭竜川河口北側にある景勝地。安山岩の柱状節理から成る険しい海食崖。
旧越前国 → 嶺北 福井市中心 蕎麦文化。関西文化の影響も割と残る。
旧若狭国 → 嶺南 敦賀市中心 うどん文化 「関西の奥座敷」とも言われます。京都・滋賀に接し関西文化圏。
テレビ東京 所さんの学校では教えてくれない そこんトコロ! 『東京の街はナゼこうなった?』 19.02.15 放送
≪ 日本で圧倒的なシェアを誇る眼鏡の街 ≫
【鯖江市】さばえ
福井県中部の市。間部まなべ氏5万石の城下町として発達。羽二重・人絹・眼鏡枠・
漆器の生産が盛ん。人口6万7千。 眼鏡の生産地で有名、国内シェア95%。
鯖江は豪雪地帯で12~3月の期間は農家は農業を出来ず仕事が無い状況でした。
議員であった増永五左エ門が大阪から眼鏡職人を呼び寄せ、農家の人たちに眼鏡
作りを学ばせました。
眼鏡作りは細かい精密な作業が必要ですが、雪国育ちで我慢強い村人たちは
他にやる事もないという事もあり、どんどんと技術を上達させ、眼鏡産業が普及して
いったそうです。
明治時代初期に多くの新聞社が誕生します。 大阪発祥の大手新聞 毎日・朝日・産経
日清戦争 (1894~95年) 、日露戦争 (1904~05年) があり、戦況を知るために
新聞が普及しました。
新聞を読むために眼鏡の需要も多かった事から、増永五左エ門は眼鏡製造に着目
したそうです。
伊能忠敬愛用の望遠鏡 (国宝) を作った岩橋善兵衛 大阪府貝塚市の眼鏡職人
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【敦賀市】つるが
福井県の南部、敦賀湾に面する港湾都市。古代から日本海側における大陸交通の要地。奈良時代には角鹿
つぬがと称。原子力発電所が立地。人口6万8千。
【へしこ】
鯖さば・鰯いわし・烏賊いかなどを塩漬けにした後に糠ぬか漬けにした食品。福井県の郷土料理。
福井県 坂井市の巨大油揚げ 福井市の羽二重餅発祥店のカンナで削るかき氷
和食に革命をもたらした道元と永平寺の精進料理 様々な調理技術と味付けが始まった。食事の心得と作法も説いた。 小浜市~京都への鯖街道 1200年以上の歴史、2015年に日本遺産に認定。鯖漁獲量激減の福井県、『鯖街道』復活への取り組み開始
【羽二重餅】 はぶたえ-もち 広辞苑
1897年 (明治30) 頃に考案された福井市の名物菓子。求肥菓子の一種。
羽二重 (純白の肌触りのよい絹布) のように、白く滑らかについた餅。
もち米粉を水でこねて蒸し、水あめ、砂糖を加えて練り、片栗粉をまぶしながら延ばし、長方形に切った菓子。
【けんけら】 百菓辞典
福井県大野市の名物菓子。地場ものの大豆の粉と白ゴマをひき、水あめを加えて加熱し、短冊形に切って、
少しひねった形の干菓子。固い菓子で、しゃぶって溶かしながら食べる。
大野では700年前から作られていたと伝えられている。
≪ 福井県のコタツのお伴 『水ようかん』の謎 ≫ 朝日新聞 14.11.22 夕刊 『関西食百景 「冬を潤す おこたの友』 より抜粋編集
『「冬はこたつで水ようかんでしょ !」福井の人たちは口をそろえる。11月初旬から県内の
和菓子屋では水ようかん作りに追われている。なぜ、福井県では冬の定番なのだろう?
福井県内で水ようかんを販売する和菓子屋は約200軒あり、箱も各店で特徴がある。
県内シェア7割を誇る「えがわ」だが、江川社長は「ずっと冬に食べるものだと思っている
から不思議に思わなかった」と首をひねる。
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「添加物を使わず水分も多いので暑い時期には出せない」「寒い方が寒天が固まりやすい」と理由を挙げてくれたが、
それ以上はわからないという。
関西北部では、同じものを「丁稚でっちようかん」と呼んで冬に食べる習慣がある。
福井県内でも、関西圏に近い小浜市や敦賀市は丁稚ようかん派だ。
大阪府能勢町のお菓子司「くれべ」を訪ねた。1872 (明治5) 年の創業以来、11月から春先まで丁稚ようかんを販売する。
能勢町は昔から寒天や小豆栽培が盛んで、どの家でも丁稚ようかんが作られていたという。
6代目店主の暮部克彦さんによると、能勢から京阪神へ丁稚奉公に出て、正月だけ帰省したという。
「正月明けに、奉公先へ自家製ようかんを手土産に持って行ったのが『丁稚ようかん』のいわれかも」
一方で、奉公先から帰省の土産にもらった練ようかんを、大家族で楽しむために水に溶かしたのが始まりという説もある。』
【水羊羹】みず-ようかん 百菓辞典
ようかんの一種。寒天を煮溶かした中に小豆あんを加えてまぜ、器に流して冷却、凝固させたもの。
練り羊羹とほぼ同じであるが、食塩も使用し、水分を多く含んでいるのが特徴。
夏向きの菓子で冷やして食べる。冷たく淡泊な食味が好まれる。
【丁稚羊羹】でっち-ようかん 百菓辞典
蒸し羊羹の一種で、大衆的な菓子。作り方はさまざまな方法があり、小豆あんに葛粉を入れたりして蒸したもの。
甘く、とろりと溶けるのが特徴。京都、神戸に多い。丁稚は、商人や職人に奉公する雑役に使われた少年のことを
意味するが、この羊羹の名前の由来は、① 丁稚でも買える安いもの。 ② 丁稚奉公に出た子供が、盆暮れに親元に
持ち帰り、奉公先に戻る折りに、親が奉公先へ持たせた羊羹。 ③ 羊羹をよくでっちる (こねる) ためなどの説がある。
関西テレビ ゆうがたLIVEワンダー 『今昔ウォーカー 淀屋橋の今昔歩き』 16.04.08 放送
≪ 丁稚に○吉が多い理由 ≫
地下に京阪電車淀屋橋駅がある大阪市中央区の石原ビルディングの石原時計店は江戸時代末期1846 (弘化3) 年に創業。
2016年で87歳の石原実 社長は小学校時代に手塚治虫の同級生。
石原社長によると、丁稚はみな名前に「吉」を付けて呼ぶ習慣があったから。番頭に出世すると「助」に変わるそうです。
【丁稚】でっち
(弟子でし) の転。一説に双六すごろくの重一・畳一 (字音の「デフイチ」→「でっち」。二つの采さいに共に一の目が出ること)。
① 職人または商人の家に年季奉公する年少者。雑役に従事した。
② 年少者を卑しめていう語。
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中部地方 長野県 |
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朝日放送 ニッポン感動体験 ! ざこば親子の田舎へいこう3 『~長寿の國・長野の旅~』 13.06.15 放送
読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 13.12.19 放送 / 13.07.25 放送 / 14.06.12 放送
日本テレビ 月曜から夜ふかし 『マツコにとれたてを食べさせてあげたい件PART9「茅野市の寒天』 14.02.28 放送
東海テレビ おしろツアーズ3 『絶対生きたくなる ! おもしろ名城旅』 11年12月放送 / 14.01.19 再放送
読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『日本全国47都道府県 絶品おやつ博覧会 !』 14.07.20 放送
中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』2 15.12.27 放送
読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『連続転勤ドラマ 長野県』 16.09.15 放送 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『ケンミン熱愛グルメ 長野県ローメン』 16.11.10 放送
中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』3 16.12.11 放送
日本國誌資料叢書 信濃 大正13年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←長野県の歴史資料
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982145
【長野県】ながの
中部地方の中央部、内陸の県。信濃国を管轄。面積1万3562平方キロメートル。人口219万6千。全19市。
長野市と松本市では別の国だった為、対抗意識が強いそうです。
1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) 見聞きしたものを集めた書。
中巻 七「麺類」には「蕎麦切 そばは粉第一なり 一番に信州よし…」とあります。
ソースカツ丼(100周年)と、関東絹の道
【長野市】
長野県北部、長野盆地にある市。県庁所在地。善光寺を中心に発達した門前町。旧松代藩、長野県。
リンゴ栽培が盛ん。食品・電子機器工業が立地。人口37万9千。
【飴市】あめいち 百菓辞典
長野県 (北西部の) 大町市で毎年2月に実施される祭。
戦国時代、竹田信玄と上杉謙信が、信越地方を舞台に戦っていたころ、駿河・相模方面の塩の道が、北条氏などの
手で断たれた。塩の少ない甲斐 (山梨) の人々が塩不足に苦しんでいたところ、これを見かねた上杉謙信が、糸魚川
ルートで武田方に塩を送った。これを記念し、武将の義侠心をたたえ、当時の街道筋である大町に位置に開いたのが
始まりで、当初は塩市だったが、塩の販売をあめ屋にさせたことから、あめ市に変わっていったもの。
【諏訪】すわ
長野県中部の市。諏訪湖に臨み、もと諏訪氏3万石の城下町(高島城)。
時計など精密機械工業が盛ん。近くに上諏訪温泉や霧ヶ峰がある。人口5万3千
信濃国一宮の諏訪大社があり、御柱祭が有名。武事の守護神として崇敬され、戦国時代頃まで不可侵の聖地
だったようです。
【諏訪湖】
長野県諏訪盆地の中央にある断層湖。天竜川の水源。湖面標高759m。最大深度7.6m。周囲8キロm。面積12.9平方㎞。
冬季は結氷しスケート場となり、氷が割れ目に沿って盛り上がる御神渡おみわたりの現象が見られる。代表的な富栄養湖。
長野県中部の真田幸村の根拠地であった上田市では、牛肉や豚肉より馬肉を食べる事の方が古いらしいです。
創業から120年以上の中村屋の肉うどんは馬肉で、馬肉からのみ出たダシを使ったうどん汁を使用。
【松本市】
長野県の中西部、松本盆地から岐阜県境にある市。もと戸田氏6万石の城下町。松本城(深志城)天守閣は国宝。
もと信濃国府の地で、信府と称した。上高地・乗鞍高原・美ヶ原などの観光地への基地。人口22万8千。
旧松本藩、もと筑摩県 (明治時代)。長野県松本市と言うより、信州松本市と言うそうです。
松本市の稲荷寿司には洋カラシが入ったものが普通に売られているそうです。間違えないようにアゲを裏返しています。
北海道に次ぎ、羊肉のジンギスカン料理が家庭料理の定番。
伊那市の名物ローメンは市内90店舗ほどで提供されていますが、焼きそば風とスープ風の2種類があって別々に誕生した
経緯があるそうです。
元々、羊毛の生産が盛んな地域だったので、羊肉を食べる習慣があり、またキャベツ栽培も盛んだった事から具材として
使われました。
『萬理』という店が考案したスープ風ローメンが元祖と言われています。ブタと鶏ガラスープに醤油ベースの味。
同時期に『うしお』の初代店主が満州の家庭料理である「炒肉菜チャーローサイ」という料理に麺を加えて作ったのが、
焼きそば風の始まりで、「炒チャー肉ロー麺メン」や「ローメン」と呼ばれ人気になっていきました。
蒸した太めの中華麺を茹でウスターソースベースの味をつけているので、焼きそばとは違ったモチモチ食感になります。
給食にも出るそうです。
どちらも、食べる際に、ごま油やソース・一味など調味料を加えて自分好みにするので、味は薄めに付けられているそうです。
【氷蕎麦】こおり-そば
① 生の蕎麦をゆでて冷水にさらし、寒気で凍結させ、乾燥させたもの。長野県柏原地方の名産。
② もりそばの上に氷をかけたもの。
【凍り餅・氷餅】こおり-もち … 寒中にさらして凍らせた餅。多く、信州・東北地方で作る。
【飯田市】いいだ
長野県南部の市。天竜川に沿い、伊那盆地南部の商業の中心。
もと堀氏2万石の城下町で、宿駅として発展。最近は電子部品・精密機械工業が盛ん。人口10万9千。
【佐久市】さく
長野県東部、佐久盆地にある市。もと陣屋町・宿場町。岩村田・中込・野沢などの集落がある。
農産物集散地で水田養鯉は有名。電子工業が立地。人口10万。
【御幣餅】ごへい‐もち 五平餅。
飯を軽く搗つきつぶし、楕円形か団子形にして味噌や醤油のたれをつけながらあぶり焼いたもの。
長野・岐阜などの郷土料理。薩摩の「ごんめもち(五匁餅)」に似ているといわれる。
江戸時代、野沢温泉村にあった寺の住職が四天王寺を訪れた時、天王寺蕪の種を持ち帰ってた事から野沢菜が誕生。
佐久の鯉も大阪の淀川 (室町~江戸時代、淀川の鯉が一番旨いとされた) から伝わったという伝承があるそうです。
【朴葉巻き】ほおばまき 百菓辞典
長野県木曽地方の郷土菓子。
うるち米粉を水でこね、小豆あんをくるんで団子を作り、青い朴葉に包んでわらでしばり、せいろで蒸す。
寒天 作り方は大阪・高槻から各地に広まった。(産業化の発祥) 野沢菜・広島菜のルーツは天王寺蕪 ウィキペディアの否定説を検証
江戸で浅草海苔を売っていたのは信州人 江戸時代は花類は普通に食べられていたようです。天麩羅なども寿司の雑学のページで
【おやき・お焼き】 百菓辞典
① 焼いたおやつの総称。焼き餅や、小麦粉を水で溶き、刻んだ野菜類を混ぜ、練って焼いたものなど。
② 長野県、北信地方のおやつ。炒めたり煮た野菜類を、小麦粉を練った薄い皮で包み、一度焼き上げた後、灰に埋めて
じっくり火を通す。円形で平たい。具は野沢菜漬けを細かく刻み、油で炒めてみそで味付けてしたものや、善光寺平特有の
野球ボール大の丸いナスを薄く切り、砂糖やスリゴマを加えた油みそをはさんだものなど、手近な季節の素材を使用する。
③ 山梨県、富士山麓地方のおやつ。とうもろこしの粉を熱湯でこねて皮を作り、いろいろな野菜や味噌あんなどを入れ、
平たい団子状にして焼いたもの。
現在、「おやき」は、松本市では焼いたもの、他の地域では蒸かしたものが多いそうです。
≪ 関西での御焼 ≫ 室町時代 宮中の女性が「お」を付ける言い方を始めた
【御焼】おやき … (女房詞)焼豆腐・今川焼・焼餅など。
【御焼餅】おやき‐かちん
(女房詞)宮廷で、正月の祝いに用いた餅。
白く円い餅に菱形の赤い餅をはさみ、その中に白味噌のついたゴボウの小片を入れて包み、
半円形として焼いたもの。
【花弁餅・葩餅】はなびら‐もち
餅または団子の一種で花弁の形をしたもの。特に、薄い円形の求肥ぎゅうひを二つ折り
にした間に、牛蒡ごぼうの蜜漬、白味噌、小豆の汁で染めた菱形の求肥を挟んだものが
著名で、茶道の初釜はつがまに用いる。
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京都の葩餅
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岐阜県 |
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毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった 「にっぽん城下町めぐり ⑩ 岐阜」』 14.02.06 放送
読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『日本全国47都道府県 絶品おやつ博覧会 !』 14.07.20 放送
日本テレビ 月曜から夜ふかし 『ある県から取り上げて欲しいとメールがきた件』 14.09.01 放送
【岐阜県】ぎふ
中部地方西部、内陸の県。美濃・飛騨2国の全域。面積1万621平方㎞。人口210万7千。全21市。
【岐阜市】ぎふ
岐阜県南部の市。県庁所在地。濃尾平野北部、長良川に臨む商業・交通の要地。織田信長が中国の岐山と曲阜から命名。
産業は紡織業など。長良川は鵜飼で名高い。人口41万3千。
1746年成立の『黒白精味集こくびゃくせいみしゅう』 (編者は江戸川散人 孤松庵養五郎) 見聞きしたものを集めた書。
中巻 六「肴 鮓」には「岐阜鮎鮓の法」「岐阜の塩鮎の鮓」のレシピが載っています。
日本人と刺身 2011年論文 水産大学校 (山口県) 芝恒男 名誉教授・農学博士
http://www.fish-u.ac.jp/kenkyu/sangakukou/kenkyuhoukoku/60/03_4.pdf
『1873 (明治6) 年刊『斐太後風土記』によると、415村、92,600人からなる飛騨地方の当時の人々は、タンパク質を
穀類から75.7%、魚介類から2.5%摂っていたものの、肉類は0.8%しかなく、鳥類に至っては0.1% 以下であることが
報告されている。日本の山間部はイノシシやシカが多く見られるにも関わらず、これらを余り食べていない。
鳥類にいたっては、雑穀で飼育可能な鶏があるにも関わらず、やはり食べていない。タンパク質は一に穀類、二に
魚類から摂っていたことになる。』
【稲葉山城】いなばやま‐じょう 岐阜城の旧称。
戦国時代、斎藤道三が土岐氏を滅ぼして後、改修して美濃支配の拠点とした。
ついで信長が美濃に進出、さらに大改修して岐阜城と改名。
【大垣市】おおがき
岐阜県南西部、濃尾平野西部にある市。もと戸田氏10万石の城下町。産業は化学・機械工業など。大垣城址がある。
人口16万2千。
【柿羊羹】かき-ようかん 百菓辞典
干し柿をジャム状にして作る羊羹。生柿をこして同量の砂糖を加え、寒天を混ぜ合わせてよく練って作る場合もある。
太い竹を2つに割って、柿ようかんを流し込んである大垣のものが、よく知られている。
岐阜県大垣市の名物だが、他の柿の産地にも、柿羊羹がある。
≪ 溶けないアイス? 「くずシャリ」 ≫
【水饅頭】みず-まんじゅう 百菓辞典
吉野葛にわらび粉、砂糖を混ぜ、水に溶かし、強火で半透明になるまでじっくり炊く。これをちょこほどの小さな型に
流し込み、十円玉くらいの大きさに丸めた餡を入れ、5~6分せいろで蒸し、冷たい水で冷やす。
明治時代に岐阜県大垣市で、菓子屋の夏場対策として創製されたという。
冷たい井戸水で冷やして食べるため、この名がついた。
【栗きんとん】 百菓辞典
岐阜県中津川市周辺の名物菓子。生栗を蒸して、縦に2つに割り、竹ベラで実を取りだし、ふるいにかけて砂糖を
加え、ゆっくり炊きあげて茶巾で絞った淡黄色で、香り豊かな菓子。9~11月の3ヵ月しか作らない。
安土桃山時代1 岐阜城で信長が振舞った料理
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静岡県 |
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毎日放送 知っとこ ! 『食のテーマパーク』 13.05.04 放送
読売テレビ 大阪ほんかわテレビ 『日本全国47都道府県 地元で愛される美味しいおやつ博覧会』 14.07.20 放送 中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』2 15.12.27 放送 中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』3 16.12.11 放送
読売テレビ ten. 『懐古 誕生から55年の即席麺 製造販売は静岡のみ』 17.10.01 放送
日本國誌資料叢書 遠江 昭和2年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←静岡県の歴史資料
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176478
【静岡県】しずおか
中部地方太平洋側の県。駿河するが・遠江とおとうみ ・伊豆(七島を除く)3国を管轄。面積8000平方㎞。人口379万2千。
全23市。
江戸時代末期1860 (安政7) 年に書かれた紀州藩の参勤交代の時のガイドブック『御道中御道割川河』の著者は
人見宗覚。この書には各地のオススメの名物名所が書かれてあり、静岡県浜名郡の新居では、名物に焼き鰻が書かれて
あります。
【新居の関・荒井の関】あらい-の-せき
1601年(慶長6)徳川氏が浜名湖の湖口の西(今の静岡県浜名郡新居町)に置いた関。
この関所では箱根などと同じく、特に女人の往来を取り調べていました。(『入鉄砲出女』)
世界最優秀フロマジュ コンクール2013で日本人初 ! 女性初 ! の世界一
江戸の運河と、日本初の鰻とスッポンの養殖 大阪の黒門市場の魚屋さんと近大が開発した焼津高校産スッポンの保湿美容液 ウナギの蒲焼き 関西風と関東風の境界線 関東の鰻は泥臭いので蒸すようになった 田楽とおでんの歴史 日本全国 おでんの定番5品、はんぺん
静岡おでん 実は、つい最近まで市民に忘れ去られようとしている存在だった。
≪ 甘い雁もどき ≫ 読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『ヒミツのごちそう 「静岡県富士市の甘い味付がんも」』 13.04.11 放送
静岡県東部の富士市周辺では、大量の砂糖を入れた甘い雁もどきが、「おやつ」として、「おかず」として両用途で
食べられています。
富士市内では6社が味付けがんもを製造販売。近年では味付けがんもをパンに挟んだ「がんもイッチ」も発売して
いるそうです。
水分を抜いた木綿豆腐を潰して、ニンジンやゴマなどを入れ、大量の砂糖を加えて成形。
低温で揚げた後、高温で外側をキツネ色に揚げる。
静岡県豆腐油揚商工組合の理事 佐野由久さんによると
「いつ誰がどういう形で、作られたかは分かりません。仏事でお葬式とか法事とかで精進料理の一環として100年ほど前から
食べられていた記録が残っています。昭和40年頃からは、仏事だけでなく日常的に食べられるようになりました。」
「ひろうす」と「がんもどき」
どちらも、豆腐で作られたものではなかった。関西の「ひろうす」は糯米を使う甘い南蛮菓子がルーツ、「がんもどき」は麩を揚げたものがルーツ。 田楽とおでんの歴史 日本全国 おでんの定番5品、静岡おでん
【静岡市】
静岡県中央部の市。県庁所在地。政令指定都市の一つ。古代、駿河の国府で府中または駿府すんぷと称した。
徳川家康 隠棲の地。登呂とろ遺跡がある。茶・ミカンの集散地で商工業都市。人口71万4千。
【麩菓子】ふがし 百菓辞典
駄菓子のひとつ。小麦タンパク食品の代表ともいえる焼きふ(棒状)に、黒糖と蜂蜜を塗ったもの。
産経新聞 『家康の駿府城跡から“因縁”秀吉の天守台が出土、金箔瓦約330点も』 18.10.16 配信
https://www.sankei.com/life/news/181016/lif1810160024-n1.html
『将軍を退き大御所となった徳川家康が晩年を過ごしたことで知られる駿府城(静岡市葵区)の跡地から豊臣秀吉が
築かせたとみられる天守台が新たに発掘された。
16日の定例会見で田辺信宏市長が発表した。 市が平成28年度から駿府城跡で実施している発掘調査で発見された。
今年5月から開始した調査の過程で、これまでに発見されていた天守台とは異なる自然石を積み上げた野面積みと
呼ばれる方式で作られた石垣が出土。周辺からは豊臣政権の特長を備えた金箔(きんぱく)瓦約330点が発見された。
新たに発見された天守台は専門家の調査の結果、天正18(1590)年の秀吉による小田原攻めの後、江戸に移った
家康に代わって、駿府に入城した中村一氏が秀吉の支援を受けて築城したものと認められた。これまで、太閤軍記や
家忠日記の文面に一氏が駿府に入城したという記録はあったが、どこに城を構えていたかなど実態は分かっていなかった。
調査に関わった静岡大の小和田哲男名誉教授は「大御所家康の駿府城の下に豊臣政権下の中村一氏の駿府城があった
ことが分かったのは大発見だ。
さらに下には天正13年着工の家康による5カ国時代の駿府城が埋まっている可能性がある」と期待を膨らませている。』
≪ 鞠子のとろろ汁 ≫
江戸から見て、府中宿の次20番目が丸子 (鞠子) 宿。松尾芭蕉 (1644~1694) が「梅若葉 丸子の宿の とろろ汁」と
詠んでおり、遅くとも元禄頃には名物になっていました。
現在のレシピは、自然薯のひげ根を焼いた後、皮ごと擦りおろし、ダシ汁+生卵+自家製の味噌汁を加えてのばします。
歌川広重 1833年の『東海道五拾三次之内 鞠子 名物茶屋』に描かれているとろろ汁を出していた店が現存。
描かれた とろろ汁専門店の丁子屋は、桃山時代の慶長元年 (1596年) 創業で、現在は14代目だそうです。
とろろ汁は季節限定だったので、他の季節は酒やお茶漬けなどを食べさせる茶屋でした。
『東海道中膝栗毛』の主人公の弥次郎兵衛・喜多八の二人。とろろ汁を食べようと訪れたものの、店の夫婦がケンカ
していたので食べられなかった。その話を知っていた広重は絵の中で弥次喜多の二人に食べさせあげたそうです。
歌川広重 1855年の『浮世道中膝栗毛滑稽双六』に、弥次喜多と夫婦喧嘩の様子が描かれています。
【丸子】まりこ … 静岡市駿河区の地名。もと東海道の宿駅。とろろ汁が有名。鞠子。
【薯蕷汁】とろろ-じる
ヤマノイモ (自然薯) やツクネイモをすり、調味した汁を加えまぜたもの。東海道丸子宿のものが古来有名。季語は秋。
【山葵漬】わさび‐づけ
山葵の葉・根・茎を細かに刻んで塩漬けにし、砂糖などを加えて練った酒粕に漬けた食品。静岡の名産。
【大井川】おおい‐がわ
静岡県中部、駿河・遠江の境を流れる川。赤石山脈に発源し、駿河湾に注ぐ。長さ168キロメートル。
江戸時代には、架橋・渡船が禁じられ、旅人は必ず人足を雇って肩車または輦台れんだいで渡った。「越すに越されぬ―」
【菜飯】な‐めし
菜の類を炊き込んだ飯。東海道の菊川の宿 (現在の島田市菊川) は、これを名物とした。季語は春。
【島田】しまだ
静岡県中部、大井川下流にある市。東海道五十三次の一つ。大井川の渡わたしで有名。製紙・製茶が盛ん。人口9万6千。
→金谷かなや。
NHK 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第6回「東海道名物」』 16.05.10 放送
テレビ東京 歴史の道 歩き旅 『東海道 家康が愛した料理を食べる旅5 府中宿』 16.05.13 放送
≪ 江戸時代以前、安倍川餅は『金きんな粉餅』と呼ばれていた ≫ 安倍川餅系菓子
上記の土御門泰邦は、静岡県湖西市の柏餅は酷評していますが、静岡市の安倍川餅は歌を詠むほどに
ご満悦だったそうです。
安倍川は東海道の難所の一つ。江戸幕府は戦略上の理由で橋をかける事も船で渡る事も禁止していました。
その為、旅人は人足の手を借りて徒歩で川を渡る『徒かち渡り』という方法しかありませんでした。
江戸時代の後期、駿府城からほど近い静岡市の繁華街の葵区呉服町は府中宿の中心で43軒の旅籠が並び東海道でも
最大規模の宿場町でした。
この近くには、戦国時代から江戸時代にかけて大量の金を産出した梅ヶ島金山がありました。
静岡市葵区にある安倍川餅専門店の石部屋 (創業は江戸時代1804、文化1年) の15代目店主 長田満さんによる説では、
「最初は金の粉に見立てて金な粉餅と言った。安倍川の奥に金山があるんですよ。金に見立てて『金な粉餅』。
(家康が金山に) 来た時に「召し上がってください」と献上した。」
それを家康が気に入り、この辺りの地名をとって『安倍川餅』と命名しなおしたそうです。 諸説あり。
江戸時代末期の歌川広重 作『東海道五十三次之内 府中 あへ川遠景』(1843~1847年。通称:『行書東海道』)には、
2軒の店が描かれており、『名物 あへ川のもち』『名物 安倍川餅』の看板があります。
左の店では女性が餅つきをしていますが、長田満さんによると、「この辺りの旦那衆はあまり商売熱心じゃないもんでね」。
歌川広重 (安東広重) は、36才で『東海道五十三次』を初めて描き、人気を博したので、生涯で20種類以上の東海道の
シリーズを描いています。
【安倍川餅】 『百菓辞典』、広辞苑
静岡市西部を流れる安倍川のほとりの名物。つきたての餅に黄な粉や餡をまぶしたもの。焼き餅を湯や蜜につけ
砂糖入り黄な粉をまぶしたもの。十返舎一九1802~09刊の『東海道中膝栗毛』に「名におふあべ川もちの名物にて」
1797年刊の『東海道名所図会』 巻四 駿河 駿府 「名産 阿部茶」 (京都の秋里籬島 編)
「名産 阿部茶 府中の北二里許 足久保より出る多くは 江戸にて用ゆ 上方 宇治信楽に類す」
【東海道名所図会】とうかいどうめいしょずえ
京都から江戸に至る東海道の名所・旧跡の図解説明書。秋里籬島編。6巻。1797年(寛政9)刊。 挿絵は主として竹原春泉斎・北尾政美。
【足久保茶・蘆窪茶】あしくぼーちゃ
駿河の足久保 (いまの静岡市) から産する茶。足久保。曲亭馬琴 作、1814~42年刊 南総里見八犬伝 [133]
「盹覚ねむりさましの―、助飲くちとりには団子の醤炙つけやき」 ※助飲=お茶請け
【伊豆市】いず
静岡県東部、伊豆半島中部の市。温泉が多く、保養地
として首都圏からの観光客が多く訪れる。人口3万7千。
【焼津市】やいづ
静岡県中部の市。駿河湾西岸に位置する遠洋漁業の
根拠地で、缶詰など水産加工業が盛ん。
日本武尊東征の際に、草を薙ないで火難を鎮めた
所という。人口12万。
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1643年刊『料理物語』 「第十二 煮物之部」
「〔たいするがに〕 は たいを 白やきにして、だし たまりに すを少くわへ、よくよく にて 出し候、又 やきて ぶたの
あぶらにて あげ、さてに候へば いよいよ よし、 是は なんばん れうり 其伝
〔たこのするがに〕たこを よくあらひ、そのまゝ だし たまりに すをくわへ、いほのぬくるまで よく に 申し候、
くろに とも云也」
「なんばん れうり=南蛮料理」「いほのぬくるまで=魚 (この料理では「タコ」) が温まるまで」「に=煮」
【駿河煮】するが-に 駿河=静岡県の中央部
白焼きした鯛またはタコを出し汁に醤油・酢を加えて煮た料理。 たまり醤油は静岡~愛知の東海で消費量が多い
駿河煮とは、出汁+酢+たまり醤油 を使ったもの言うようです。
料理物語には〔さくらいり〕〔ございに〕〔ぞろりこ〕〔煮あへ〕などの料理には「出汁 たまり」で調味する記述があります。
鯛の駿河煮は南蛮料理から伝わったもの。蛸の駿河煮は別名「黒煮」があるので、駿河発祥の料理ではない
可能性が高いです。
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≪ 静岡県限定のインスタントラーメン ≫
日本の各種データの平均値が多い県として、企業の多くが全国展開の前に静岡県でパイロット販売する事が多いとされて
います。近年、食品においては地域向けの味付商品を販売する事が増え、静岡でテスト販売を行う事も減っているようです。
逆に『東洋水産のマルちゃんハイラーメン』は、全国的に販売されていましたが静岡だけに残っています。
1962 (昭和34) 年、1袋30円で全国的に販売され人気となりましたが、10年後には主力
商品が別の物に移り、生産中止となりました。
静岡県民から販売を望む声が上がり、東洋水産の創業者が静岡出身だった事もあり、
焼津工場だけで、昔からの製法のまま製造されているそうです。
他のインスタント・ラーメンと比べ、醤油系でサッパリとした味わいが支持されています。
スープの原料は、昆布・カツオ・豚骨・ニンニク・ネギ・生姜・しょうゆ・白コショウ・塩。
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≪ 栃木県宇都宮市と競っている餃子消費量が多いの街 浜松市 ≫
2013年は栃木県宇都宮市が消費量日本一を奪還しニュースになりましたが、2014年は浜松が日本一を奪い返したそうです。
【浜松市】はままつ-し
静岡県西部の市。政令指定都市の一つ。もと德川家康の居城で、水野・井上氏6万石の城下町。綿織物業、楽器・オートバイ
製造業が盛ん。人口80万4千。
1935 (昭和10) 年の国勢調査では、浜松市の人口は133338人ですが人口密度では全国11位で県内1位。
端午の節句の柏餅 ルーツなど、江戸時代は、湖西市にあった猿馬場の茶屋の柏餅は名物品。浜松市の大かしわ餅。
とらやHP 『歴史上の人物と和菓子 「土御門泰邦と安倍川餅」』 https://www.toraya-group.co.jp/gallery/dat02/dat02_056.html
≪ 静岡県 湖西市 白須賀宿の名物の柏餅 ≫
江戸時代、白須賀宿より西にある加宿境宿で売られていた柏餅は名物とされていた
ようです。
1660(万治3)年頃刊された浅井了意 (京都の本性寺の住職)の仮名草子『東海道
名所記』には、「猿が馬場、桜餅こゝの名物なり。あづきをつゝみし餅、うらおもて
柏葉にて、つゝみたる物也」と記されています。
※ この猿馬場さるがはばの茶店で売られていた名物の餅は、小豆餡が入り柏の葉で
包んでいたものなので現在の柏餅とほぼ同じと思われますが、味の素のサイトが
誤字でなければ(ネットでは、情報が得られませんでした。)
1660年頃は『桜餅』という名前で売っていたのかも知れません?
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1804 (文化1) 年の葛飾北斎が、
猿馬場の茶店で描いた錦絵
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1760(宝暦10)年に、京都の公家の土御門泰邦が東下した折りに書いた紀行『東行話説』では道中名物を試食した作
として知られますが、この柏餅は口には合わなかったらしく酷評されているそうです。
安倍晴明の末裔として陰陽頭などをしていた土御門泰邦が、50才の時に天皇から将軍家に下った宣旨せんじを届ける
際の旅行で、名物を片端から食べ感想を細かに書いています。あまりのまずさに一口で捨ててしまったり、気分が
悪くなって薬を飲む事も少なくなかったようです。
【湖西市】こさい-し
静岡県南西端、浜名湖西岸の市。白須賀しらすか地区はもと東海道の宿駅。ウナギ養殖や電気機械工業が盛ん。
人口4万4千。
京都vs静岡 おいしい茶はどっちだ対決 大阪VS東京 味オンチ調査 熊本県民と静岡県民が東京の水道水とを飲み比べた調査
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愛知県 名古屋の食文化 |
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テレビ東京 美の巨人たち 『建築シリーズ 徳川家康 「名古屋城」』 13.08.10 放送 テレビ東京 美の巨人たち 『建築シリーズ 「東京・浅草寺」』 13.08.17 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『石田ジャーナル 「全国の名城が建て替え時期」』 16.01.05 放送 中京テレビ 宮根誠司VS中部10県 「地元じゃ当たり前! えっ!○○知らないの!?』3 16.12.11 放送
日本國誌資料叢書 尾張 大正15年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮) ←愛知県の歴史資料
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982144 日本國誌資料叢書 三河 大正15年刊 (著者は奈良県出身で立命館大学教授 太田亮)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982139
【愛知県】あいち
中部地方、太平洋側西部の県。尾張・三河2国を管轄。県庁所在地は名古屋市。面積5162平方㎞。人口725万5千。全35市。
織田信長・豊臣秀吉は尾張出身。
德川家康は三河出身の為、愛知県東部の人たちは織田信長・豊臣秀吉はあまり好きではないとか?
【三河国一向一揆】みかわのくに-いっこういっき
三河の本願寺門徒が1563(永禄6)年蜂起し、松平(徳川)家康と戦った一揆。
佐々木上宮寺・土呂本宗寺・針崎勝鬘寺・野寺本証寺を中心に勢力強く、家康を悩ましたが、翌年鎮圧された。
東京近郊の関東の歴史
戦国時代の三大ヒーローを輩出した愛知県の県庁所在地で、日本の三大都市の一つ名古屋。関西とも関東とも違う、
独特な食文化を構築。
濃尾平野の南東端に位置し、古くは那古野、ついで名児屋・名護屋と書いた。もと御三家の筆頭 尾張徳川氏62万石の城下町。
≪ 名古屋城 ≫ 名古屋市中区にある城。 Wiki 名古屋城 Wiki 清洲城
1600年(慶長5) 9月15日、西軍の主将 毛利輝元 (実質 石田三成)と、東軍の徳川家康が関ヶ原 (岐阜県南部)の合戦で
天下を争い東軍が勝利。
1601年~1611年にかけて、豊臣家 (1583年築城の大阪城)及び西国大名を警戒する為に名古屋城を含め15の城を築城。
1609年(慶長14) 徳川家康が天下普請として、豊臣家恩顧の20の西国大名に名古屋城の築城を命じた。
清州城下は五条川の氾濫が多く災害の少ない城下町が造りにくかった。名古屋城下は碁盤の目のように街造りし、
現在もそのまま繁栄。
天下普請を断ると御家断絶、徳川家への忠臣の確認と西国大名の財力を削ぐ為。
熊本城など城造りの名手としても有名な加藤清正は本丸の石垣構築に従事。石垣には諸大名の刻印が残っています。
石垣を造るのに延べ558万人を動員し1年足らずで完成。
1610年 織田信長の根拠地であった清洲城下 (現 愛知県北西部に位置する清須市)から寺などが移築され2000人ほどが
名古屋城下に引っ越す『清須越え』が行われた。
【清洲城】
応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。当初は、尾張守護所である下津城の別郭として
建てられたが、文明8年(1476年)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が
清須(=清洲)に移転することで尾張国の中心地となった。
1612年(慶長17) 名古屋城の天守が完成。
【天下普請】てんか-ぶしん
江戸初期に、江戸城・大坂城・名古屋城とそれらの城下町建設など、天下様(将軍)の命令で諸大名に分担させて
行われた普請。
【普請】ふしん
元は、禅寺で大衆 (多くの人) を集めること。また、人を集め堂塔の建築などの労役に従事してもらうこと。
転じて一般に、建築・土木の工事。
1614年 名古屋城が完成。 Wiki 大坂陣
(慶長19年11月) 『大坂 冬の陣』
家康は豊臣氏を滅ぼそうと謀り、方広寺の鐘銘事件を口実として大坂城を攻めたが、城が堅固で落ちず、
翌月いったん和議を結んだ。
1615年夏(慶長20年5月) 『大坂 夏の陣』 徳川家康が豊臣氏を滅ぼした戦い。
徳川方が冬の陣の和議条約を守らず大坂城の内濠をも埋めたので、大坂方の将士は憤激のあまり豊臣秀頼を擁して
再び兵を挙げたが、家康・秀忠の大軍に破られて、秀頼・淀君以下自刃した。
1616年 家康の第9子 義直が名古屋城に入城し、御三家筆頭の尾張 初代藩主となる。
1870年、廃城令で取り壊しの話が持ち上がりますが、軍が使う事になり姫路城と共に保存する事が決定。
1872年、陸軍省の管轄になり、軍事施設として使用されます。
1945年5月14日の名古屋大空襲で天守が焼失。
1950~60年代に日本各地で復興のシンボルとして、天守閣を復元するブームがありました。
1954年、名古屋城再建の募金開始。 1959年、鉄筋コンクリートで名古屋城天守が復元されました。
当時は建築基準法により木造での再建が難しく、松前城・若松城・大垣城・福知山城・和歌山城・岡山城・広島城・
熊本城は鉄筋コンクリートで復元されました。
これらは写真や設計図が残っており、それに近い形で復元したので『復元天守』と言います。
1931年(昭和6)に天守が再建された大阪城の場合は、史料がわずかしか残っておらず、推測で建てられので
『復興天守』と言います。ちなみに浅草寺の本堂も鉄筋コンクリート製で1958年に建てられたものです。
名古屋城でも老朽化と耐震基準を満たさない為、建て替え時期に差掛っています。
空襲での焼失前に撮影された詳細な写真が700点以上あり、精密な図面も残っている事から木造建築を検討しています。
2016年現在は本丸御殿を再建中だそうです。
【尾張国郡司百姓等解文】 おわりのくに‐ぐんじ‐ひゃくしょうら‐の‐げぶみ 尾張国解文。
988年(永延2)尾張国の郡司・百姓らが国司 藤原元命もとなが の横暴を朝廷に訴えた時の31カ条の上申文書。
国司の非法を伝える史料として有名。
≪ 尾張名古屋は城で持つ ≫
伊勢音頭 (三重県の民謡の総称)。伊勢参宮の流行に伴い全国にひろがった。
「ヤートコセーノヨイヤナ…」の囃子詞はやしことばをもち、歌詞は「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は
城で持つ」など。(伊勢は津の港があることで参拝者が集まる、津は伊勢神宮への参拝者が多いことで栄える、
尾張の名古屋は城が出来たことで栄える。)
≪ 大正時代頃の名古屋は5番目くらいの人口の都市 ≫
江戸時代の人口では1位が江戸、2位大坂、3位京都で、文化的にも他とはレベルが違う三大都市。
金沢と名古屋が拮抗して4~5番手だったと言われていますが、文化的には長崎などの方が先進都市のようです。
下記の本P.273「名古屋の二三日」によると、大阪市・東京市、神戸市、京都市の次で人口43万人だったようです。
「人口に於いて京都に譲るが商況に於いては之を凌ぎ、外国貿易おいて神戸 (当時は日本一です) に及ばぬが、内地の
勢力としては之を凌いでいる。」とも書かれてあります。
P.279では、八勝館という立派な料理店があって室内の設備や庖丁は兎に角も、これだけの庭園と眺望を持った料理屋は
東京にも大阪にも無いので風呂にでも入って晩飯を食ってくるとよい。と勧めています。
※庖丁は料理の比喩なので、福井県出身で日本初のプロ旅行ライターとされる松川二郎には満足できなかったようです。
四五日の旅 名所囘遊 1922(大正11)年 裳文閣 版 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964429 ※1925年の有精堂書店 版もあり
昭和10年/1935年の市 人口ランキング Source: 国勢調査 http://demography.blog.fc2.com/blog-entry-6687.html
国勢調査によると、
1925 (大正14) 年の人口トップ4では 大阪市 211.5万人、東京市 199.6万人、名古屋市 76.9万人、京都市 68.0万人。
1935 (昭和10) 年では東京市が面積を7倍近くに拡大し58736万人で1位になりますが人口密度では6位。
大阪市が299万人ですが人口密度では東京と比べても大差で1位。名古屋市は108.3万人ですが人口密度では21位。
神戸市は91.2万人ですが人口密度では4位となっています。
【犬山厳骨】いぬやまげんこつ 百菓辞典
愛知県北西部の犬山市の名物飴。黒砂糖、水飴、白砂糖を煮溶かし、黄な粉を混ぜながら手で練り、これを
三角錐にぶつ切にした素朴な飴。妙心寺19代管長 山本玄峰が名付けた。
≪ 瀬戸の染飯そめいひ ≫
1797年刊の『東海道名所図会』 巻四 駿河 嶋田 「瀬戸 名産」 「和名抄に西刀せと」
「名物染飯 瀬戸村の茶店に売る也 強飯こはいひを山梔子くちなしにて染て それを摺りつぶし小判形なりに
薄く干乾して うる也」
【東海道名所図会】とうかいどうめいしょずえ 京都から江戸に至る東海道の名所・旧跡の図解説明書。秋里籬島編。6巻。1797年(寛政9)刊。 挿絵は主として竹原春泉斎・北尾政美。
【瀬戸】せと
① 愛知県北西部の市。付近の丘陵に陶土を産し、燃料の黒松が多いので、陶祖 加藤景正以来 瀬戸焼の名を
全国に馳せた。日本最大の陶磁器工業地として陶都の称がある。人口13万2千。
毎日放送 水野真紀の魔法のレストラン 『ドB級グルメ対決 ! 名古屋 VS 広島 ㊙発見』 13.05.13 放送
テレビ朝日 お願い ! ランキングGOLD 『名古屋めし総選挙』 13.06.29 放送
テレビ大阪 やすとものどこいこ !? 『麒麟・川島と名古屋をブーラブラ !』 13.08.11 放送 などより 毎日放送 せやねん! 『現役復帰! 浅田真央 (24) 選手「土手煮」が好きマネー』 15.05.23 放送
【名古屋市】
愛知県西部の市。濃尾平野の南東端に位置する。県庁所在地。政令指定都市の一つ。古くは那古野、ついで名児屋・
名護屋と書いた。もと御三家の筆頭 尾張徳川氏62万石の城下町。
中部日本の商業・交通・行政の中心で、中京工業地帯の中核。人口221万5千。中京。
なごやめし http://www.tsuganature.com/ ← こちらの地元サイトが詳しいので、オススメです。
『名古屋めし 茶色でこってり濃厚甘辛い味。名古屋観光・旅行・食事の際は楽しんで♪
ひつまぶし、味噌カツ、味噌煮込みうどん、手羽先、きしめん、あんスパ・・・
名古屋人はこってり濃厚こげ茶色が大好き。ランチ・居酒屋・人気店・ランキング・レシピなど~♪』
名古屋名物 きしめん 由来と、ころきしめんの「コロ」って何 ? 愛知県民が食べなくなった「きしめん」を復権を目指す。 ウナギの蒲焼き 関西風と関東風の境界線 関東の鰻は泥臭いので蒸すようになった
≪ 赤味噌文化 ≫
尾張の織田信長は焼き味噌が大好物で戦の時には必ず食べていた。愛知県三河地方出身の徳川家康も八丁味噌を愛し、
名古屋に味噌文化が根付いた。らしいです。名古屋名物の一つ「ミソカツ」のルーツは、豚の串カツに味噌だれをつけた事から。
江戸時代の尾張名古屋での出版では、永楽屋東四郎 (初代は1772~81) という版元 「東壁堂」 が有名のようです。
幕末の1836 (天保7) 年刊の『四季献立集』という割烹の書 (料理本) が、尾張と江戸で出版されています。
「秋山子 編」とあるので、他の文献の記述から編集したものと思われますが、幕末頃なので書かれている料理は名古屋でも
食されている可能性が高いです。
コトバンク 『永楽屋東四郎(初代)』 『永楽屋東四郎(2代)』
原文は草書体ですが、公開されているおり、無料ダウンロードが可能なようなので、興味ある方はご覧ください。 人文学オープンデータ共同利用センター
http://codh.rois.ac.jp/edo-cooking/tamago-hyakuchin/recipe/?%E9%87%8E%E8%8F%9C
≪ 赤味噌 ≫
赤褐色に仕上げた味噌。辛口と甘口とがある。
田舎味噌(麦麹むぎこうじで製した、色の赤黒く辛い味噌。)・仙台味噌・江戸味噌の類。
【八丁味噌】はっちょう‐みそ。 岡崎味噌。三州味噌。
愛知県岡崎市八丁(現、八帖町)から産出されはじめた味噌。大豆と塩を原料とした暗褐色の堅い辛口味噌で、
旨味と渋味に特徴がある。※ 岡崎城から八丁離れた味噌蔵で作っていた事から。
【岡崎市】おかざき-し
愛知県中部にある市。德川家発祥の地で、江戸時代は本多氏5万石の城下町。東海道五十三次の一つ。
産業は紡織・自動車工業など。人口36万4千。
幕末の守貞謾稿には、尾張国では醤油を使わず、タマリ (垂味噌か?)ばかり を使っていた事が記されています。
守貞謾稿下巻 第二十八編食類 「醬油」の記述原文 カレーの歴史雑学
【名古屋コーチン】 鶏の一品種。
コーチン種と在来種の地鶏との雑種を名古屋地方で改良したもの。現在は名古屋種として固定。体丸く、羽は褐色。卵肉兼用。
≪ 味噌煮込みうどん ≫
『塩 なしの真水で打った生うどんを、八丁味噌をベースに数種の味噌をミックスしてだしに入れ、土鍋で煮込むものです。
生うどんをそのまま入れるので独特のトロ ミがつくのが特色。煮込み時間が3~4分程度と短かめで沸騰しているうちに
出されますが、生煮えのような固めの食感と八丁味噌の風味が独特で、郷愁をそそられる味となっています。
鶏肉、油揚げ、ねぎ、かまぼこ、干しいたけ、玉子などの具を入れて煮込むので栄養バランスも
よく、名古屋の人は味噌煮込みうどんをおかずに御飯を食べる人も多いのです。
ところで、どうして煮込麺は真水で練るのかというと、生のまま八丁味噌で煮込むことで、
味噌の塩分が小麦粉のたんぱく質を変化させるからです。
さらに煮込 むことで、独特の歯ざわりが生まれます。
≪ 味噌煮込みうどんのふたにはなぜ穴がないの? ≫
鍋物や鍋焼きうどんのふたには普通、蒸気を逃がす穴が一つ開いていますが、名古屋名物
みそ煮込みうどんのふたには穴がありません。
これは、ふたなしで煮込ん でおいて、火から下ろす直前に生卵を落として、ふたをして蒸らす
ためです。土鍋はアツアツですが、ふたは熱くはないのです。
そして実はこのふたそのものが、取り皿を兼ねているのです。
フランス料理を食べる時にテーブルマナーがありますが、味噌煮込みうどんを食べる時にも
正式な食べ方があります。
熱いうどんをふたにのせてフーフーと冷ま しながら食べるのが、みそ煮込みうどんの
正しい食べ方。
卵をふたにのせて麺と絡めて食べるのも、味にまろやかさが出てまたGoodですね。
何でも味噌味にしたがる名古屋人ならではの料理、味噌煮込みうどん。こってりとしたスープと、
独特の歯ごたえのある麺のおいしさはこたえられませんよ。
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ついでに言うと、味噌が染み込んで古くなったりひびが入ったりした鍋も、針金で固定して大事に使うのが、
合理的なことを好む名古屋人流です。 』
明治天皇の東京行幸中、名古屋で配られた酒饅頭 田楽とおでんの歴史 日本全国 おでんの定番5品、名古屋おでん
≪ 土手煮 ≫ Wiki どて焼き
赤味噌でホルモンを煮込んだ土手煮は愛知県内の居酒屋3000軒以上で提供されいます。豚モツと牛スジの2種類が定番。
名古屋文理大学の食物栄養学科の佐藤生一 教授によると、戦後すぐに、大阪の土手焼きが名古屋に入ってきたのが始まり。
土手焼きは、鍋の縁にに合わせ味噌を土手のように盛って、焼いて味噌を溶かしながら中にホルモンを入れて焼いて
つくった料理。
※ 現在の大阪では滅多に目にしませんが、土手焼きは元々居酒屋系などの料理を提供する店で出されていた料理の
ようです。浪速区新世界の通天閣下にある串カツ発祥の店とされる「串かつ だるま」には土手焼があります。
現在、新世界界隈には、60店舗以上の串かつ店があり、土手焼を出す店が増えているようです。
また、十三などの下町の呑み屋・居酒屋にもあるようです。
愛知県の八丁味噌では味が濃くて非常に辛くなってしまうので、出し汁と一緒に煮込んだので土手煮になりました。
名古屋市中央区にある「どて焼き島正」では、どて焼きという名前で味噌おでんのようなものが提供されています。
味噌おでんは土手煮から発達したもので、店によっては区別していないそうです。
【土手鍋】どて-なべ Wiki 牡蠣の土手鍋
鍋料理の一種。鍋の内側の縁に味噌を塗りつけ蠣や蛤はまぐりと、豆腐・野菜などを煮ながら食べる。
※ 牡蠣の土手鍋は広島県の郷土料理らしいです。大阪発祥説というのもあるようです。
読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『日本全国47都道府県 絶品おやつ博覧会 !』 14.07.20 放送
TBS あさチャン! 『名古屋名物食材 地元のツウな食べ方は?』 16.11.02 放送
ビスケットに餡子を挟んだ菓子『しるこサンド』は、名古屋名物の小倉トーストをヒントにして、昭和41年に松永製菓
が販売。
「月の庭」という割烹系の料理店では、しるこサンドを天ぷらにして、デザートで出しており好評だそうです。
長野県などでもビスケットを天ぷらにして食べる地域があり、ドーナッツのような感じに仕上がるそうです。
【上り羊羹】あがり-ようかん 百菓辞典
名古屋の名物菓子。蒸し羊羹。小豆こしあん、砂糖、小麦粉などを合せ蒸したもの。寒天を使っていないため、
味は淡泊で、口溶けのいいのが特徴。
元、尾張徳川家の御用菓子司、桔梗屋が創製し、納めていたため「江戸に上がる」意で、この名がある。
【筑羽根】つく-はね 百菓辞典
熱田神宮 (愛知県) の参拝土産として知られる米菓。うるち米粉に砂糖、香料を入れて蒸し、正三角形に切り、
三弁に折って巻き、衝羽根 (つくばね=正月の遊びの羽根つきに使う羽根) の形に作った縁起の良い菓子。
材料、味ともに京都の八ッ橋に似ている。1月の菓子「つくばね」に似る。
【藤団子】とう-だんご 百菓辞典
愛知県、熱田神宮の神饌菓子が変化したもので有平糖。赤・黄・青の3色の小さな輪(4㎝くらい)にした有平糖を
5つずつワラに通したもの。
熱田神宮の大宮司は代々 尾張氏だったが、鳥羽天皇の御代に「桜花ちりなむ後の かたみには松にかゝれる
藤をたのまむ」という神託によって、大宮司職を外孫の藤原季範にゆずった。
この時、それを祝って藤団子を作り、社家から売ったという。
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日本テレビ 月曜から夜ふかし 『あの甲州弁に負けない方言があった』 13.01.05 放送 より 日本の言葉の伝播
NHK Eテレ Rの法則 『全国女子高生マップ 名古屋』 17.07.11 放送
広島 「じゃけん」 ← 近畿 「~やん」 → 三河地域 「~じゃん」 → 横浜 「~じゃん」。京都・大阪発で円を描くように
言葉が伝わり変化し各地の方言に。
上記の番組では、甲州弁のような独特な方言を残すのは、富山県の越中弁と紹介されていました。
「びたびた」は大阪人もたまに使う事があります。「ときんときん」の最上級は「とっきんとっきん」。
名古屋弁も近年では変化しているそうで、河村たかし名古屋市長の言葉は若い世代ではほとんど使わないそうです。
高齢世代 「名古屋は どえりゃあ ええとこ だぎゃあ、みんな いっぺん来て ちょーょ」
10代世代 「名古屋は でら いいとこ だがーん、みんな一度来てみやー」と変化しているそうです。
読売テレビ 秘密のケンミンショー 『東海3県SP』 13.09.19 放送
喫茶代 1位 岐阜県、2位 愛知県、8位 三重県 日本のコーヒー・喫茶店の歴史
≪ 実は他県発祥だぎゃ~ な、名古屋メシ ≫
天むす ・・・ 三重県の津市の発祥
とんてき ・・・ 三重県四日市市の発祥 店舗数 三重県 約 56軒 愛知県 約 90軒
鶏ちゃん (ケイちゃん)・・・ 岐阜県中部(郡上市・下呂市)の名物 店舗数 岐阜県 約 100軒 愛知県 約 90軒
他県発祥の名古屋めし はまだあるようです。
【守口漬】もりぐち‐づけ ・・・ 守口大根の粕漬かすづけ。名古屋名産。もとは大阪の守口で作った。
【赤出し】あか‐だし ・・・赤味噌仕立ての汁物。
もと、桜味噌(牛蒡ごぼう・生薑しょうがなどを切り込んでまぜ、甘味を加えた なめ味噌)をすって魚肉などを入れた
大阪天満の味噌汁のこと。
稲荷寿司 大坂発祥の可能性が高い、その根拠と解説、豊川稲荷の変わった稲荷寿司
Jタウンネット 『ローカルテレビウォッチ 「東京都」』 13.09.20 配信 http://j-town.net/tokyo/gourmet/bbs/009704.html
≪ 大評判の名古屋メシ、実はパクリだらけ!? 岐阜と三重が「爆ギレしますよ!」 ≫
全国的には知られていないローカルな魅力を紹介する「秘密のケンミンSHOW」(日本テレビ系)。
9月19日の放送では、隣の県のご当地グルメを取り込みながら、勢力を強めている「名古屋メシ」を取り上げた。
日本テレビ 月曜から夜ふかし 『ある県から取り上げて欲しいとメールがきた件』 14.09.01 放送
≪ 岐阜県は名古屋の植民地? と言われながらも、実は名古屋が大好きな岐阜県民 ≫
岐阜県民 「モーニングは岐阜のモノ。モーニングは岐阜発祥なのに、名古屋発祥です。みたいな」
↑ 喫茶店のモーニングは広島県の発祥
大きくユルめのカールが特徴な名古屋嬢のヘアスタイルの発祥は岐阜市にある美容室。
ヘアスタイル開発スタッフの一人 山崎俊之さんによると、
「『名古屋巻き』と雑誌で紹介された時は違和感はあったが、全国に知れ渡ったのも『名古屋巻き』だったから…」
県民性研究の矢野新一さんによると、
「昔から岐阜は戦場になる事が多かった。殿様がとっかえひっかえだったんで、権威に弱いという構造が生まれました。」
アピールがヘタな岐阜県民。遊びに行くのは名古屋。出身地を聞かれると、名古屋出身という人も。名古屋が嫌いという人も
いるようです。
日本テレビ 月曜から夜ふかし 『全国のお土産を調査した件』 13.07.08 放送
NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉 『戦国のベンチャー企業 北条早雲 組織を成長させろ』 15.03.10 放送
≪外郎ういろう 名古屋発祥ではない問題 ≫
現在の25代目社長の外郎武さんによると、室町時代に中国からの賓客をもてなす為に作られたそうなので、都も幕府も
あった京都が発祥だと考えられます。
しかし 『本朝世事談綺』の記述によると、小田原に移った後に中国からの賓客があったと思われます。
別府大学短期大学部紀要 1994年 『南蛮料理書についての一考察』 江後迪子 著
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/tk01302.pdf?file_id=4199
江戸時代初期に刊されたと推測されている『南蛮料理書(著者、成立年不明)』には菓子類33種・料理11種類・
その他2種の計45種が紹介されており、「たまごそうめん」「ひりょうす」などとともに「ういろうもち」の記述があるようです。
「まず砂糖について述べる。わが国では砂糖は輸入された時代を経た後,慶長年間になって製糖法が伝えられたと
されている。しかし,『南蛮料理書』の当時はまだ輸入砂糖の時代で,貴重な砂糖を使う調理法は,一般にはまだ
受入れられなかったと考えられる。砂糖,甘酒,飴などの入らない甘味のない菓子は「あさいなちまき」「ういろう餅」
「かうれん」[からすみ][よりみつ]の5種である。『古今名物御前菓子秘伝抄』(1761)にある「ういろう餅」は砂糖が
用いられているが「あさいなちまき」および「よりみつ」には砂糖が用いられていない。
『南蛮料理書』の当時は砂糖を用いない「ういろう餅」であったものが,次第に砂糖を用いるようになったのかも
しれない。」
1668 (寛文8) 年の『料理塩梅集りょうりあんばいしゅう』塩見坂梅庵 著の「地」には、『兵部様の外郎餅仕様』のレシピがあり、
原材料は「寒ざらし粉・うる米の粉・葛の粉・さとう・くちなし」の記述があります。
『藤林左○相傅 外郎もち仕やう』のレシピにも「うる米の粉・餅米の粉・うどんの粉」に砂糖 (白と黒) を加えて捏ねる事が
書かれてあります。
1689(元禄2)年の料理百科である『合類日用料理抄ごうるいにちようりょうりしょう』中川茂兵衛 著 出版地は京都にも
二の巻に『外郎餅の方』のレシピが書かれており、白砂糖が使われています。
【外郎】うい‐ろう (ウイは唐音)
① 元げん(中国) の人、礼部れいぶ (礼楽・祀祭・貢挙などを総轄した官庁) 員の外郎陳宗敬が、応安(1368~1375)年中、
日本に渡来し、博多に住んで創製した薬。
その子 陳宗奇は京都に移って外郎家と称し、のち、小田原に伝えられ、江戸時代に評判を取る。痰たんの妙薬で、
口臭を消すのにも用いる。透頂香とうちんこう。
② 菓子の名。米の粉・砂糖・葛粉などを混ぜて蒸したもの。もとは黒砂糖を使っており、色が透頂香に似る。
山口・名古屋・伊勢の名物。ういろうもち。
【外郎】うい‐ろう 百菓辞典
蒸し菓子の一種。外郎餅ともいう。うるち米の粉をよくふるって砂糖、水を加えて練り、箱に入れて蒸篭で蒸したもの。
名古屋、京都、小田原などの名物として知られる。
鎌倉時代初期に、陳宗敬(ちんそうけい)という人が、中国の元から渡来し、「透頂香(とうちんこう)」という黒色丸形の
薬を伝えた。この名称がむずかしかったため、陳宗敬の元国での職名だった職部員外郎(しきぶいんういろう)から
「外郎」と名付けて販売した。これがたいへんおいしいと評判になり、名前も「外郎」として伝えられたと言われている。
別な説によると、透頂香は苦味の強い薬であったため、その口直しに、この菓子を店頭で供したのが始まりである
とも言われている。また、黒砂糖を使っていたため、外郎の色が透頂香に似ていたためという説もある。
陳宗敬は帰化して博多に住み、足利義満に招かれた子の宗奇は京都で透頂香を販売、評判となった。
その後、子孫が北条早雲に招かれ、小田原に移り住んだという。
現在、神奈川県小田原市にあるウイロウ発祥の店は室町時代から創業約600年。博多→京都→小田原へと移転してきました。
小田原に移転したきっかけは、京都で北条早雲と親しくなり、早雲に誘われた事からだそうです。
店ではウイロウ以外に薬の販売も行っており、店の裏の蔵は外郎家の歴史が詰まった博物館にしてあり、後北条家ゆかりの
皿などもあります。
25代目社長の外郎武さんによると
「元々は私どもは500年前 京都在住の時は薬種業をしておりました。一方で外国使節団の接待役を仰せつかりまして、日本で
思い出になるもてなしの菓子を何か作ろうと思いまして、薬の原料の一部だった黒糖を転用いたしましてお菓子として創作した。
それがウイロウの始まりです。」
「外郎家はですね、京都の朝廷に出入する身分でありました。その時に北条早雲 (当時、伊勢新九郎) も毛筆履修もうひつ-りしゅう
として朝廷に出入しており、その時に懇意になりまして、早雲が東国で良い国作りをと考えた時に『良薬をもって皆さんの
健康を守りたい』と思ったんだと思います。
それで我々にも声がかかったと。我々も未開の地であるけれども、多くの人の健康を守ったり、文化的な知識を持って
おりましたので、広めたい。という意識があったと思います。」
北条早雲は、税を免除してたり田畑を与えるなどで、各地から職人などを集めていました。
1734 (享保19) 年刊 『本朝世事談綺』菊岡沾凉 (表具師・俳人、伊賀上野生まれ、江戸神田在住) の天保7年版が公開されて
おり、その1巻に「外郎」の事が書かれてある事を確認しました。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557384
第1巻の巻末にあります。
「応安 の始め大元の…外郎陳宗敬というもの…」草書体および一部の文字が薄くなっているなので全てを訳せませんが、
足利義満の文字がが読めます。「西洞院 (京都市の地名)で透頂香を製し…小田原の透頂香…大○禅師来朝あり…小田原
外郎…」とあります。
大○禅師が日本に訪ねてきた時に菓子として作ったのであれば、外郎は小田原かも知れません。
江戸時代には各地に製法が伝わり作られていたようです。 他の説は Wiki ういろう(菓子)で。 ネットで拾った漫画につき、詳細不明↓
②
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①
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④
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③
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↑京都が抜けています。 宮崎、山口、徳島、神戸、京都、伊勢、名古屋、小田原。
【外郎売】ういろう‐うり
歌舞伎十八番の一つ。1718年(享保3)森田座の「若緑勢曾我わかみどりいきおいそが」で2代市川団十郎が初演。
外郎売りの物真似や効能のせりふを雄弁に演ずる。
【がんづき】 … 小麦粉にごまやくるみを混ぜ込んで作る蒸し菓子。宮城県の郷土料理。(ういろうと同じ製法)
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三重県 |
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日本テレビ 月曜から夜ふかし 『三重県は東日本か西日本か わからない問題を さらに調査した件』 13.02.04 放送
毎日放送 ちちんぷいぷい 『昔の人は偉かった ニッポン城下町めぐり⑧ 三重松坂』 14.01.23 放送
読売テレビ 秘密のケンミンSHOW 『連続転勤ドラマ 辞令は突然に… 三重』 14.01.23 / 14.01.30 放送 NHK 趣味どきっ! 旅したい! おいしい浮世絵 『第6回「東海道名物」』 16.05.10 放送 朝日放送 ビーバップ!ハイヒール 『大人の社会科 再発見! ニッポンの地理』 16.06.02 放送
【三重県】みえ
近畿地方東部の県。伊賀・伊勢・志摩3国の全域と紀伊国の東部を管轄。
県庁所在地は津市。面積5760平方㎞。人口186万7千。全14市。
【津市】
県庁所在地。古く伊勢海に臨む安濃津あのつの港で、もと藤堂氏32万石の城下町。
津綟子つもじ・阿漕焼あこぎやきを産する。人口28万9千。
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三重県の由来は三重郡からですが、戊辰戦争で幕府の中心となった会津藩主の弟が桑名藩主だった為、
県庁は桑名市ではなく津市に置くことになったそうです。現在の三重県内では四日市市が最も人口が多い市。
【四日市】よっかいち
三重県北部、伊勢湾の西岸に面する市。東海道五十三次の一つ。港湾都市。第二次大戦後、石油化学のコンビナートを
形成。人口30万4千。
ガスコンロの普及と四日市市の土鍋の関係 四日市市の「萬古焼」の土鍋が国内生産約8割
一般的には、明日、あさって、しあさって。 三重県では 明日、あさって、ささって、しあさって。と、3日後の言い方が違う。
「そうだから」(そうなので)という接続詞は、関西「せやから」(そやから)と、中部地方の「だもんで」で交り、「せやもんで」。
【明明後日】し‐あさって … ① (西日本や東京で)あさっての翌日。 ② (東日本で)あさっての翌々日。
うどんは、カツオ出汁+淡口しょうゆ。 ※ 関西は昆布とカツオ (うどんにはサバ節なども使います) の合わせ出汁+淡口しょうゆです。
カレーは、愛知県に接する桑名市の木曽三川の東西ではっきり分かれ、中州地帯では牛肉派と豚肉派がほぼ半数
(ケンミンSHOW調べ)。
おにぎり (おむすび) に巻く海苔は、味付け海苔 (関西)、焼海苔 (関東) の両方を使う。
≪ 三重県の文化圏は地域によって大きく違う ≫ 東西の文化が交り合った県。
主に京都と5つの県に囲まれており、近年は鉄道の発達により5つの文化圏に分かれているようです。
北部は愛知や岐阜の文化圏の影響が強い。伊賀あたりは大阪のベットタウンで関西文化圏。
東紀伊地域は和歌山南部の文化圏。
月曜から夜ふかしの調査では、北勢地域の桑名市 → 四日市市 → 鈴鹿市 → 亀山市 → 伊賀市へと東から西へ
雑煮の餅の形を調査。
伊賀市の鈴鹿峠にある分水嶺ぶんすい‐れい (水が分かれて別の川に流れる起点)を境に東側は角餅(東日本)、
西側は丸餅(西日本)となりました。
【桑名】くわな
三重県北東部の市。もと松平氏10万石の城下町。旧東海道の宮(熱田)からの渡し場。
焼き蛤・時雨蛤で有名。人口13万9千。
葛飾北斎の『東海道五十三次 「桑名」』に白い蛤が描かれています。
黒いのは松ぼっくりで、これを燃料にして蛤を焼いていたようです。
昭和40年代以降に水質が悪くなって採れなくなったので、水質改善と養殖を開始。
近年は漁協が浜にまいて育てている蛤を勝手に獲っていく、一般人の密猟が問題に
なっているようです。(TBS ビビット 2016年5月放送より)
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葛飾北斎 東海道五十三次
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【たがね】 百菓辞典
三重県桑名市の名物煎餅。手焼きの醤油煎餅で、小判形厚焼きと、櫛形薄焼きとがある。もち米とうるち米を蒸し、
厚焼きは機械で、薄焼きは臼でつく。これを生子形の餅にし、乾燥させた後に切り、時雨溜りを付けて焼く。
淡泊な風味が特徴。「たがね」とは、「しとぎ、しんこもち」のこと。
【時雨蛤】しぐれ-はまぐり … 時雨煮にしたハマグリ。三重県桑名の名産。
1749年刊の『料理山海郷』(著者は園趣堂主人=博望子、出版地は京都) と、1799年刊の『日本山海名産図会』
(著者は木村蒹葭堂・画は蔀関月 どちらも大阪の人、出版地も大坂) で「焼き蛤」と「時雨蛤」が名物と紹介されています。
『日本山海名産図会』巻の四の記述をみると、醤油の代わりに溜り味噌を仕込んでできる汁と蛤を煮た汁を合わせ
山椒・きくらげ・生姜などを加えて、蛤のむき身を煮詰めたもの。
【糝粉・新粉餅】しんこもち 百菓辞典
うると米の粉。白米を水につけた後、日光で十分に乾かし、挽いて粉にしたものが新粉。
新粉を水でこね、蒸してついたもの。
新粉餅で花・鳥・人物などを作った新粉細工菓子は平安時代の祝儀の供え物として見られ、江戸時代には縁日の屋台や
行商などで盛んにつくられた。昭和初期まで姿が見られた。「型抜」「練りもの」、木綿糸で竹につりさげる「つりもの」がある。
【鈴鹿峠】
三重県亀山市と滋賀県甲賀こうか市の境にある、鈴鹿山脈南端の峠。
標高357m(旧峠は378m)。古来、箱根と共に東海道の難所。
【かたやき】 百菓辞典
三重県伊賀の名物菓子。伊賀忍者の食糧から考えられたといわれる甘味を抑えた堅い焼き菓子。
表面にゴマを散らしたものもある。一枚を手に持ち、もう一枚を直角に当てると簡単に割れる。
別名「忍者せんべい」。
≪ 津市・松阪市など県中央部 ≫ 明治時代、関東の牛肉不足から誕生したブランド牛 松阪牛 (松阪の城下町と蒲生氏郷)
津市では忘年会や新年会を鰻屋で行うのが一般的で、鰻屋には大広間が宴会ができる店も多いんだそうです。
焼き肉は味噌ダレがかかっており、焼いた後も味噌ダレをつけて食べる。元々ホルモンの臭みを取るために味噌ダレを
付けたものだった。
蒲生氏郷 本居宣長 古事記を広め、日本の五十音図を整理した偉人 伊勢うどん
≪ 蒲生氏郷が作らせた茶菓子 ≫
松阪城下町を整備した安土桃山時代の蒲生氏郷が出身の
滋賀県の近江から連れてきた菓子屋があります。
1575年創業の柳屋奉善やなぎや-ほうぜんは現在で17代目
だそうです。
氏郷が、茶会に織田信長を招待した時に造られたのが、
老伴おいともという茶菓子。
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最中もなかに羊かんを詰めたもので、フタ無しの片面だけ最中。
縁起が良いコウノトリをデザインし、幸せを運ぶ鳥を全国に分け与えるという意味を込め、洋かんは日の丸に見立てたもの
なんだそうです。
福引煎餅 伊勢神宮 近鉄の鮮魚列車 (伊勢湾で獲れた鮮魚を大阪に運ぶ専用電車) 伊勢えび (最も獲れるのは千葉県)
≪伊勢市など県東部 ≫
車を買うと、猿田彦神社 (道開きの神様) でお祓いを受け、交通安全のお守りステッカーを貰う習慣があるそうです。
また伊勢市周辺では、一年中「しめ縄」を飾る習慣があります。神話の時代、この地を訪れた素戔嗚尊すさのおのみことが
蘇民将来という人の家に泊めてもらい、お礼として「玄関にしめ縄を飾っておけば、子孫の代までご利益を授けよう」
と言ったという伝説から。
【猿田彦】さるたひこ
(古くはサルダビコ)日本神話で、瓊瓊杵尊ににぎのみこと降臨の際、先頭に立って道案内し、のち伊勢国五十鈴いすず川上に
鎮座したという神。容貌魁偉で鼻長7咫あた、身長7尺余と伝える。俳優・衢ちまたの神ともいう。
中世に至り、庚申の日にこの神を祀り、また、道祖神と結びつけた。
【標縄・注連縄・七五三縄】しめ‐なわ。 しめ。章断しとだち。
(シメは占めるの意)神前または神事の場に不浄なものの侵入を禁ずる印として張る縄。
一般には、新年に門戸に、また、神棚に張る。
左捻よりを定式とし、三筋・五筋・七筋と、順次に藁の茎を捻り放して垂れ、その間々に紙垂かみしで
を下げる。輪じめ(輪飾り)は、これを結んだ形である。
【蘇民将来】そみん‐しょうらい
① 疫病除けの神の名。備後 (広島県の東部) 風土記に、茅ちの輪を腰に着けて疫病を免れた
説話を伝える。
② 護符の一種。木製の六角または八角で塔状をなすものや守札があり、「大福長者蘇民将来
子孫人也」などと記す。
小正月などに八坂神社末社や長野県上田市国分寺の八日堂をはじめ諸国寺院から出す。
≪ 毎月1日の早朝に餅を買う為の行列ができる ≫
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赤福のHPによると。1707 (宝永4) 年に創業し、餅を漉し餡でくるんだ「赤福」を発売したそうです。
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【朔日餅】ついたちもち
月の初めの日に早く起きて神宮を参拝する「ついたち参り」
という習慣があり、赤福餅で有名な赤福が36年前から
早朝に餅を売り出しました。
12ヶ月それぞれ種類の餅であり、年に一度しか買えない
ものもあるので早朝から長い行列をつくり買い求めるのだ
そうです。
【赤福餅】あかふく‐もち
伊勢名物のあんころ餅。
小豆漉餡こしあんを使用、上部に指で押さえた型がある。
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鯨猟は江戸時代から盛んになった 桃山時代は伊勢で突取り漁法、江戸時代は紀州の網取り漁法 鯨肉などの利用
フジTV 金曜プレステージ 『池上彰の緊急スペシャル』 13.10.04 放送
テレビ東京 出没 ! アド街ック天国 『 20年に一度の大祭 伊勢神宮』 13.09.21 放送
読売テレビ 大阪ほんわかテレビ 『日本全国47都道府県 絶品おやつ博覧会 !』 14.07.20 放送
高校生 国際料理コンクール2013で、日本が初優勝 !! 三重県立 相可高等学校
伊勢神宮 日本人の総氏神様 三重県の高校生レストラン「まごの店」が開発に協力したご飯釜が人気
生姜糖は、神様への供物の一つに生姜があり、軽くて日持ちもする事から良く売れました。伊勢名物で各地に広まりました。
【生姜糖】しょうがとう 百菓辞典
砂糖を板状に固めた素朴な菓子。しょうが風味。 江戸時代のお伊勢参りブーム
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